リッダ
由布木 秀
つよい日差しが眩しい、初夏の日の午後のことだった。
近所のスーパーマーケットから帰ってきた夏川加奈がマンションにもどると、入り口のすぐ手前に置かれたエレベーターの扉がひらいているのに気がついた。押しボタンの脇に立っている青い背広姿の男と目があい、加奈はそのまますすんだ。入り口をぬけようとすると、とつぜん、扉がしまってきて彼女の肩にふれた。
加奈は、すこし驚いた。ドアは機械的にふたたびひらいて、彼女はエレベーターに入った。最上階の五階のボタンが黄色く点灯する入り口のちかくには、沢木一郎が立っていた。彼女の見間違いではなかった。
夏川加奈は、一郎と、四年間くらい、このマンションのおなじ階で暮らしていた。
沢木一郎は、二〇代後半にみえた。髪はみじかく背は高く、眼鏡はかけていなかった。ちかごろは、いつもマスクをしていたから顔の全体をみたことはなかった。加奈は、端整な顔立ちで知的な印象をあたえる沢木一郎に好感をもっていた。彼が、どんな職業についているのか、きいたことはなかった。いつでも背広姿で、身なりからは、きちんとした企業につとめるサラリーマンだろうと考えていた。
ひとつの階に一LDKの家屋が六つ連なるマンションは、子供のいない夫婦か独身者向けの住宅だった。加奈の住まいは、エレベーターにちかい西側で、一郎はいちばん東側だった。ふたりは、ときどき昇降機にいっしょに乗るだけの関係だった。だれもいなければ、天気についての会話くらいは交わすが、それ以上は、話したことはなかった。加奈はとくに仕事をしていなかったので、外出は買い物か散歩くらいにかぎられた。それでも一郎とは、ふたり切りでエレベーターに乗ることがあった。彼の職種は、フレキシブルな設定ができる頭脳職で、リモートワークが中心だろうと考えていた。
昇降機の扉ちかくで、左の手掌で右腕を押さえる沢木一郎は、真っ青な顔をしていた。唇をとじ、額に汗を浮かべ、眉間に皺を寄せる表情は、苦痛に耐えているようにみえた。青い背広の右肩部分はひどく泥がついて汚れ、右腕は奇妙な形に垂れさがっていた。転倒して、はげしくぶつけたのだろうか。右肩は異様に変形し、骨折でも起こしているに違いなかった。なぜ、病院にいかないのだろう。五階にのぼるエレベーターのなかは、無気味な沈黙が支配していた。
「追われているのですか」と加奈はきいた。
一郎は、深刻な表情で彼女をみつめてから、黙って目をそらした。
「事情をうかがうつもりはありません。私の部屋にいらしたほうが、都合がよろしいのではありませんか」
加奈は、もう一度、声をかけた。
沢木一郎は、その言葉にじっと彼女をみつめた。額には、汗が浮かんでいた。不思議な沈黙の時間がながれた。
「よろしいのですか」と一郎は低い声できいた。
エレベーターが五階にとまると、加奈はうなずいて先におりた。彼女は、自分の部屋の鍵をあけ、一郎が入ると、しっかりとロックした。食卓の椅子にすわって、彼が背広をぬぐのを手伝った。右肩は異様な形でまがり、骨折しているのは素人目にも分かった。
「ベッドで横になりますか」と加奈はきいた。
「そうさせてください」と一郎は答えた。
加奈は、自分のベッドにつれていき、彼が横臥するのを手伝った。
「痛み止めがありますが、必要ですか」と彼女はきいた。
一郎が黙ったままうなずくのをみて、加奈は薬と水をもってきた。横臥していた彼は、ひとりでは身体を起こすこともできなかった。一郎は、薬剤を服用すると、ふたたび身を横たえ、「ありがとう」といった。
「必要なことがあったら、教えてください。鈴を置いておきます」
加奈は、小さい呼び鈴を一郎の枕元にのこして部屋をでていき、扉をしめた。
二時間ほどたって、ベルの音がきこえた。加奈がそばにいくと、一郎は、排尿したいといった。彼女は、ズボンをぬぐのを手伝い、洗面所につれていった。部屋にもどると、バスローブに着替えたらどうかと、加奈は提案した。一郎が同意したので、彼女はシャツをぬがせた。右の肩と思われる場所はひどく腫れ、あきらかに変形していた。そこを中心に、はげしい内出血を起こし、真っ青になっていた。範囲は、腕や胸部までひろがっていた。一郎は自分の右の肩をみて、出血していないのを確認した。彼は、バスローブに左腕だけを通し、右肩にかけた。とはいっても、右は肩がなかったので、ゆったりとしたタオル地の布はずり落ちていた。咽が渇いたといって、一郎はあたえられたコップ一杯の水を飲んで、ふたたび横臥した。
いまはこのまま横になるといったので、加奈は寝室の扉をしめて居間にもどった。
沢木一郎が自分の容体について理解しているのは、間違いなかった。理由は不明だったが、病院にいくのは不都合なのだとしか、加奈には分からなかった。あきらかに右肩は不自然な形状にかわり、鎖骨も肩関節も、骨折しているのだろうと思った。ひどい内出血は、単に転倒したのではなく、なにかと衝突したのだろう。横臥しているだけで、骨折が回復するとは思えなかった。それほどのはげしい衝突ならば、他の部位にも内出血がひろがっている可能性もあるに違いなかった。容体が急変し、死ぬことはなくても、意識が消失したら、どうしたらいいのだろうか。なぜ、こんな不可解なものに手を貸してしまったのだろうか。どうして、声をかけたのだろう。
加奈は、ひどく困惑した。
二時間くらいして、呼び鈴が鳴った。加奈がそばにいくと、一郎は、もう一度、鎮痛剤を飲みたいといった。それで、彼女は彼の上体を起こして薬を服用させた。咽が渇いたというので、水をあたえた。ひどく汗をかいていたので、冷たいタオルで顔を拭いてやった。
食事はどうするかときくと、一郎はいらないといった。お粥くらいはつくれると話すと、水だけは飲みたいと彼は答えた。
日が暮れて、七時ちかくになって、インターフォンが鳴った。警察官と名乗るふたりつれの男たちがやってきた。チェーンをつけたまま扉をすこしあけると、警官の制服に身をつつんだ男が、黒い警察手帳をみせて、ききたいことがあるといった。
警察官は、加奈に不思議な話をした。
今日の昼下がり、交通事故で負傷した、若い男性が行方不明になっているといった。男は、青い背広をきていた。事件を起こした犯罪者として、追っているのではない。幼児がひかれるのを助けたが、本人も負傷した。事故現場からタクシーに乗って、このマンションのちかくでおりたらしい。男性をはこんだ、タクシードライバーの証言が得られている。署員は、助かった幼児の母親からの依頼をうけ、男の行方を捜している。みつけて、警察署長から感謝状をわたしたい。得られた情報を整理すると、男はこのマンションの五階に住んでいるのではないかと思われる。該当する部屋には人の気配がないので、なにか知らないかと、きいた。加奈は、まったく思いあたらないと答えた。
警察官は、彼女をじっとみつめて、もし該当すると思われる人物を目にしたら署に一報して欲しい。この話は、地方ニュースでもやっているが、みたかときいた。加奈は、首をふった。警察官は、彼女の肩ごしに部屋のなかをのぞきこみ、去っていった。
八時すぎに、またベルが鳴った。加奈がそばにいくと、一郎は排尿したいといった。それで、起きるのを手伝い、洗面所までつれていった。排尿をすませると、部屋につきそった。ベッドに腰をおろすと、もう一度、痛み止めを飲みたいといった。加奈がわたすと、彼は水といっしょに服用した。
一郎は、痛み止めは、何錠くらいのこっているのかたずねた。加奈は、鎮痛剤をもってきて目のまえにひろげ、全部で五回分だと答えた。
一郎は、薬をすべてもらいたい。世話になったが、自分の部屋に帰るといった。
加奈は、一時間くらいまえに、この家のインターフォンが鳴ったのを知っているかとたずねた。一郎が首をふると、警察官がやってきた話をした。署員は、青い背広の若い男性をさがしている。タクシードライバーが、このマンションのちかくでおろしたと証言している。窓からみると、表通りに先ほどまで署員がいた。いまは警察官の服装ではないが、男が立っている。五階の住人だといったから、部屋のあかりがつくのを待っているのだろうとつたえた。
加奈は、明日になったら、鎮痛剤は購入してくることができる。それに、男性用の下着を何組か買ってくる。もし、飲み物しかとれないのなら、カロリーメイトのような補助食品を調達することも可能だといった。
一郎は、申し出について考えていたが、何日か厄介になりたいと答えた。食事については、お粥みたいな柔らかいものを食べてみたい。時間を決めて、自分で鎮痛剤を服用したいといった。そのために、上体をすこし起こしたまま横臥したい。枕元に、水と薬剤を置いておいて欲しいと希望した。
加奈は、それに応えて食卓テーブルの椅子をはこんで、望みの品をならべた。背広の胸ポケットに入っていたスマホも、そこに置いた。毛布をつかって、一郎の上半身をやや起こしたまま横臥できるようにした。それから、彼女は、その部屋の押し入れにあった寝具をリビングにはこんだ。
一〇時ころ、加奈は地域のニュースをみた。
今日の昼すぎ、ある交差点で交通事故が起こった。若い母と三歳の男の子供が、手をつなぎ、赤信号で待っていた。ふいに動悸を感じた母親が、息子の左手をつかんでいた右手を放し、自分の胸にあてた。そのとき子供は、黒いアゲハ蝶が目前を車道にむかって飛んでいくのをみた。それを追った男の子は、直進してくる軽自動車のまえに飛びでた。女性の運転手は、急ブレーキをかけたが間にあわなかった。車は物体に衝突し、ドライバーは子供にぶつかったと確信した。母親も、目のまえで息子がひかれたと思った。しかし、実際には、青い背広をきた男性が身を挺してあいだに入り、子供に怪我はなかった。
若い男は、あきらかに軽自動車と衝突し負傷した。しかし、現場から忽然といなくなった。母親も、運転手も、男が右肩を負傷したのを確認している。救急車がくるというのを、男性は知りあいの医者に診てもらうといって立ち去った。車のフロント部分がくぼみ、運転席のエアバッグが作動したから、客観的にもそれなりの衝撃があったと考えられた。母親も、背広の男が飛ばされるのを目撃した。それにも関わらず、男性はタクシーに乗って現場から立ち去ったらしい。理由は分からないと、アナウンサーはつげていた。
加奈が一郎とエレベーターで出会ったのは、事故から三〇分とたっていなかった。
沢木一郎が、どんな形であれ注目されるのが不都合だと考える者であるのは、はっきりしていた。ごく普通のサラリーマンにみえたが、そうではなかったのだ。なぜ、ひとりで逃げているのだろうか。仲間は遠方で、すぐには助けにこられないのだろうか。知りあいはいないのだろうか。恋人は、よばないのだろうか。だいいち何日か鎮痛剤で痛みをとって、右肩はなおるのだろうか。軽自動車とぶつかり、骨折以上のことが起こったのは、彼も充分に理解しているはずだ。加奈は、医学に特別な知識をもっていなかったが、外科的な処置が必要なのは分かった。彼には、なにかの目論見があるのだろうか。
一一時すぎにベルが鳴った。一郎は、ひとりでは起きあがれず、加奈は力を貸してやった。彼は排尿を終えると、夜間は扉をすこしあけておいて欲しい。それならひとりでも、洗面所にいけるといった。加奈は、希望に添った。
一二時すぎに寝室をのぞくと、一郎は眠っていた。ちかづいてみると、規則正しい呼吸音がきこえた。天井につけられた常夜灯になった豆電球が、苦痛に満ちた男の顔を朧に照らしていた。額には汗が浮かび、彼はくりかえし呟いていた。なんだか分からないが、みじかい言葉で、「リッタ」、「リッダ」ときこえた。人の名前なのか、場所の名称なのか、一郎は、幾度もおなじ呟きをくりかえしていた。
居間にしいた寝具に横になりながら、加奈は考えていた。
警察署員は、一郎が事故現場でつげた通り、知りあいの施設に入院したと思ったのだろうか。衝突イベントは、ドライブレコーダーにも記録されているだろう。表通りの防犯カメラには、青い背広の男がマンションに消えていく映像がのこっているはずだ。男性が、ここの五階に住む、沢木一郎とまで判明しているに違いない。もしかすると、加奈がおなじ時刻にマンションに帰ってくる姿もうつっているのかも知れない。防犯カメラでは、男がでていく映像がみつからなくても、緊急の手術を必要とする者が、どんな形であれ世間に知られることを拒否して、痛みをこらえて彼女の部屋にかくまわれているとは考えないだろう。状況から、加奈は不審をもたれているのかも知れない。彼女は、動揺した。
一郎は、どうするつもりなのだろう。なぜ、自宅に帰ってきたのだろう。なおす目途でも、もっていたのだろうか。特別な機械などないだろうから、部屋で鎮痛剤を服用して、横臥するつもりだったのではないか。彼女の住まいにきたのは、タクシー運転手となにかの問答をして、顔をみられ、不審に思われたからなのだろう。自室でじっと籠もっているのも不可能と判断して、加奈の言葉にしたがったのではないか。負傷の程度を考えあわすなら、秘密はかなり重いものだろう。一郎は、非合法的な組織に属し、警察が注視する状況では、仲間も救出できないのだろうか。右腕一本と交換しても隠さねばならない秘密なら、手助けしても、彼女は不必要な者だろう。
沢木一郎は、なにかの事件を起こして追われているのだろうか。重大な犯罪人で、逮捕状がでているのかも知れない。それがなにかの拍子で、人命救出に関与してしまったのだろうか。もしそうなら、警察官は重大犯罪人の可能性をつげただろう。
加奈は、一郎とマンションのおなじ階に、コロナ禍が発生する以前から暮らしていた。きちっとした身だしなみだったので、一度も不審人物と考えたことはなかった。特殊な人間が社会にまぎれて暮らすのだから、一般人として溶けこんでいるのだろう。不審人物が、妙な行動をとるほうが不自然なのだ。いつも背広で身なりをととのえて、素性を隠そうとしていたのだ。通常のつとめ人とは出会わない、昼前後とか、夕方まえに行動していたのだろう。だから、彼女とふたり切りでエレベーターに乗ることになったのだ。四年まえから、そうだったのだ。
効き腕を一本うしなっても我慢する犯罪とは、具体的にはなんだろうか。大がかりなコロナの不正請求詐欺にでも、関与していたのだろうか。高齢者をねらった詐欺事件なども頭脳犯罪だから、彼のような男が関係しているのだろうか。こうした不審な行動をとったことで、警察も背景を考えているのではないだろうか。犯罪人名簿と照らしあわされ、彼の名前があがってきたのだろうか。相当な、大物なのだろうか。
加奈は、彼がしきりに呟いている「リッタ」あるいは「リッダ」という言葉を検索した。
そういう名前の電子マネーが存在している。仮想通貨なら、犯罪と結びつくばあいもありそうな気がした。
「リッタの聖母」という、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品についても記述をみつけた。絵画の写真が並置され、幼児キリストに右の母乳をあたえる、青い外套をまとった聖母マリアが描かれていた。
「リッダ」は、中東のパレスチナにある飛行場の名前らしかった。
「リッダ戦争」という記述もみつけた。
イスラム教の開祖ムハンマドは、アラビア半島内の諸部族と、アッラーの預言者である彼にしたがうという盟約を結んだ。しかし、六三二年、ムハンマドが死ぬと、イスラム世界は動揺した。初代カリ、アブー・バクルが後継者となると、諸部族は権威をみとめずに、契約を一方的に破棄した。彼は、カリにしたがわない部族は、イスラムの教えをすて、背いたとして討伐軍を派遣した。この戦いを「リッダ戦争」とよぶとかかれていた。
つまり、リッダは、「棄教」、「背教」を意味する言葉になるらしい。
翌朝も一郎の痛みはつづいていた。洗面所だけには立ったが、食事はできなかった。
加奈は、一郎にことわって、午前中に買い物にでた。マーケットで、男性用の下着を三組と、二週間分の鎮痛剤を購入した。水分は飲めるらしいので、補助食品のカロリーメイトやゼリー食品を買った。
帰宅して、一郎の排尿時に下着を交換した。彼は、冷えた高カロリーゼリーを食べて、うまいといった。
マンションのそばには、張りこんでいる警察官はいなかった。しかし夕方になると、警官が巡回していた。以前はみかけなかった光景だったので、昨日の事件と関係しているのだろうと加奈は思った。今後どうなるのかは分からなかったが、一郎が重大犯罪人だとすれば、この程度ではすまないだろう。疑わしいものの、直接的な犯罪とは結びついていないのだろうか。地方ニュースでも、この不審な事件のあらたな展開をつげる話はなかった。
加奈は、考えても分からない以上、なるたけ彼がいることを忘れよう。いつもとおなじように暮らそうと思い、時間があれば、趣味の刺繍をしてすごした。
三日目には、一郎の痛みはやや軽減したらしかった。鎮痛剤は、四時間おきに服用していたが、洗面所はひとりでいけるようになり、お粥も食べはじめた。加奈は、彼の希望にしたがって果物を買い、消化のよさそうな食事を用意した。とくに、一郎と話しあうこともなかったので、ふたりは別々の部屋で時間がたつのを待っていた。
加奈は、買い物にいき、食事をつくり、洗濯し、入浴する、普段の生活をつづけた。朝と夕方と夜は、テレビのニュースをみて、時間があれば刺繍をしてすごした。
一週間経過すると、一郎はいちじるしく元気になった。腕の腫れもかなりひいたらしく、鎮痛剤の服用回数もへった。加奈には、よく分からないが、一週まえとは違って右肩は元通りになっているようにみえた。手術もしないで、平常に服するとは考えられなかった。近代医学が創設され、外科療法が一般化する以前は、みんな保存的に様子をみるしかなかったのだろうから、なにかしらの形で落ちつくのだろう。それが、好ましいのかどうかは、彼女には不明だった。相変わらず、ふたりが会話する状況はうまれなかった。
加奈は、一郎がどうするつもりなのだろうと思った。とくにだれかと、連絡を取りあっているようにもみえなかった。右肩の状態が落ちつけば、でていくのだろうが、どこへいくのだろうか。彼の部屋は、どうなっているのだろうか。エレベーターに乗りおりするときに、いちばん東側の扉をみても、異変を察知はできなかった。なにか、ものをとりに帰る事態はあり得ても、もう住むわけにはいかないのだろう。
警察としては、あまりにも疑義の多い事件だから、一郎が部屋にもどれば事情を聴取するつもりなのかも知れない。彼がどう答えても疑惑が晴れないなら、裏付けをとろうとするだろう。重傷を負った一郎が加奈の家に泊まった事実があるかぎり、不審を排除することはできない。住居を捜索されるなら、整理しなければならないものがのこっているのではないか。四年間住んでいて、とつぜん生じた事件に備えがあったとは考えられなかった。
なにかを、依頼されるのだろうかと加奈は思った。どんなことであれ、一郎の望みは拒絶するしかないだろう。このマンションは、入り口にも、エレベーター内にも、五階にも、防犯カメラは備えられていなかった。だから今回、一郎といっしょだったという証拠は、ないのだろう。しかし、こんな事件があって、入り口にはカメラがつけられた可能性は否定できなかった。なんらかの関係から一郎をかくまっていたのが判明すれば、加奈は事実を話すしかなかった。人がどう思おうと、生じた出来事をたんたんと述べるしかできないだろう。
一〇日たつと、一郎はすっかり元気を回復した。どういう仕組みかは分からなかったが、加奈には、右肩も元通りになっているようにみえた。彼は、風呂に入りたいと希望して、一〇日ぶりに入浴した。
翌朝、起きると、加奈は一郎にいった。
「午前中に、買い物をしてきます。昼食もすませてきますから、帰るのは、夕方だろうと思います。お結びをつくっておきますので、お腹がすいたら食べてください」
しばらくして彼女は、言葉通り外出した。
加奈は、なぜ今日でかけたのだろうと、一郎は思った。食卓テーブルのうえには、財布が置かれ、なかには三〇万円が入っていた。当座の資金として、その金をもって、黙ってでていっていいと彼女はつげていた。いったい、なんなのだろう。
沢木一郎は、夏川加奈について考えていた。
一郎は、四年まえにエレベーターで彼女とはじめて出会った。そのころは、まだコロナも流行っていなかった。ながい黒髪が綺麗な加奈は、マスクもしていなかった。一郎は、目鼻立ちもととのった、美人といってもいい彼女に好意以上の感情をいだいた。加奈は、いつでもながいスカートをはいて、シャツをきていた。そのうえに、セーターをつけたり、カーディガンを羽織ったりしていた。色彩は地味なものばかりで、もっとあかるく華やかでも、彼女には似あうだろうと思っていた。エレベーターで会ったときに浮かべる笑みは、とても素敵だった。憂鬱な梅雨や、蒸し暑くて仕方がない真夏の天気について話したことはあったが、かぎられた話題だった。
一郎は、会うたびに加奈の仕事は、なんだろうと考えていた。肌が綺麗な彼女は、モデルになってもいいほど、スタイルもよかった。会社つとめをしている雰囲気はなかった。表札も、彼女の名前だったから結婚しているわけでもなかった。優雅な独身女性だが、どんな職業なのだろうか。素敵な女性だったが、夜の仕事には思えなかった。財産家で、はたらかないでも暮らしていけるのだろうか。派手さがない彼女は、不思議な清楚さもふくめて、いつでも謎だった。
社会と関係してはいけないという義務をやぶって負傷した一郎は、これから生じる事態についてひどく心配した。あらゆる出来事にたいして、つねにさまざまなことを考えてきたが、今回の状況は、まったく想定外だった。
乗ったタクシードライバーは、事件を目撃していた。このマンションでおりるとつげると、はげしい痛みに顔をゆがめ、右腕をかかえる一郎に、病院でなくていいのかときいた。ドライバーは、警察のもとめに応じ、彼の降車を証言したに違いなかった。
これ以上、だれにも会わないで自室にもどりたいとだけ思っていると、夏川加奈がエレベーターに乗りこんできた。微妙な雰囲気のなかで、ふたりは昇降機に乗っていた。
加奈は、「追われているのか」と、とつぜん、一郎にきいた。黙っていると、彼女の住まいのほうが安全ではないかと、さらにいった。なぜ、加奈は追われていると考えたのだろう。
一郎は、彼女の言葉にしたがって住居に入った。加奈は、寝室に横にさせ、着替えさせた。彼の右肩が、複雑に折れているのも確認しただろう。手術するしかないに違いなかったが、彼女はなにもいわなかった。ただもとめに応じて、鎮痛薬をあたえただけだった。こんな不審な出来事に、加奈はなにもたずねなかった。ただ、警官がやってきたことを教えてくれた。不思議な事件に、注目があつまっているといった。もし、だれにも居所を知られたくないのなら、ここにいるしかないと彼女は示唆した。一〇日間、一郎は加奈といっしょの家で暮らした。そのなかで、いくつか分かったことがあった。
加奈は、特別な仕事をもっていなかった。時間があまれば、刺繍をして暮らしているらしい。こうした手芸にたいして、一郎はいままで興味もなかった。素晴らしい出来映えの作品をみると、なにかのコンクールにでも提出すれば、それなりの評価が得られるのではないかと思った。趣味の世界だから、購入したい人だっているに違いなかった。彼女の日常とはまったく違う、あざやかに室内を彩る刺繍は、売り物ではなかった。加奈の住まいは、どこも縫い取られた作品だらけだった。テーブルにも、椅子にも、壁にも、あらゆる場所が、繊細で華美な刺繍で飾られていた。
彼女の一日は、買い物にでて、食事をつくり、風呂に入って寝るだけだ。時間があれば、刺繍をする。家のなかには、どの部屋にも過去を連想させるものは置かれていなかった。一枚の、写真もなかった。一〇日間、ともに暮らしたが、電話をかける姿もみなかった。だれからも、連絡はなかった。恋人はもちろん、知りあいだって、いないのかも知れない。
加奈は、なぜ今日でかけたのだろうか。夕方まで帰ってこないと、宣言したのだろうか。
一郎にとって、彼女の謎はいっそうふかまり、混迷していった。
三時すぎに、加奈は帰ってきた。一郎がいるのをみて、しばらくして夕方の食事の用意をはじめた。ふたりは、夕食を食卓でいっしょに食べ、順に入浴した。八時をまわったころ、一郎は「すこし、話がしたい」といった。
食卓にすわると、加奈はお茶を入れた。
一郎は、今回予測不能な事件が起きて、助けてもらい、ふかく感謝しているといった。四年まえ、エレベーターではじめて会ってから、ずっと加奈がどんな女性なのか考えてきた。今回、こんな出来事から知りあえたのは、たいへん嬉しいことだった。自分の至らなさから事件に巻きこまれ、もうここに住めなくなった。こうした出来事が起こらなければ、まだ住んでいただろう。それでも、一〇年暮らすことにはならなかった。加奈と、もう五年おなじ階で生活し、たとえ週に二度ずついっしょにエレベーターに乗っても、天気について会話するだけだったといった。
そこで一郎は考え、一口お茶を飲んだ。彼は、ゆっくりと椅子をひき、立ちあがった。加奈の目のまえでシャツをぬぎ、負傷した右肩をみせた。内出血は、すっかりなくなっていた。右肩関節は、外見は普通だった。一郎は、破壊されたはずの右の肩をまわした。彼女をみて、ふたたびシャツを身につけた。
一郎は、どんな事態が生じても、病院にはいけないのだといった。この秘密を知られたら、普通に生活はできない。過去も、徹底的に暴かれるだろう。おなじ場所に暮らせるのは、一〇年までと決めている。こうした生活をつづける彼は、特別な状況になったときに、もどる住み処をもっている。そこに帰って、つぎに暮らす場所を決めなければならない。
一郎は、死ねないのだといった。決められた年限を地上ですごせれば、うまれ故郷にもどることができる。帰るためには、この世で耐えねばならないが、いつまでつづくのか、もう分からない。自分の年齢がいくつなのかも、はっきりしない。どんな些細な問題であっても、世の中に関わるのは、悲しいことにつながる。人びとと違う以上、だれにも真実をつげられない。どんなにはげしく人を愛しても、みんな自分をのこして去っていく。
一郎は、幼児を救うべきではなかったといった。母親は、どんな理由であっても、愛児の手を放してはいけなかった。軽自動車の運転手は、交差点に子供の姿をみつけたら、飛びだすのを念頭に運転しなければならなかった。それが叶わなかった驚きや悲しみを、みんなにつたえる必要があった。
この出来事を見すごせば、多くの不幸を未然に防ぐことができた。それが、彼の教えであり、義務だった。
一郎は、棄教した。そして、決して漏らしてはならない秘密を口にした。教えに背いた一郎は、罰をうけるだろうといった。
「どうして私に、そんな秘密を話す気になったのですか」
加奈は、しばらくたってきいた。
「あなたをみていると、不思議な気持ちに落ち入るのです。この家には、写真の一枚もみつけられません。まるで過去につながるものは、みたくない。昔にあったことを、すべて忘れてしまいたいと思えるほどです」
一郎は、もうひとつ言葉を重ねた。
「私の部屋と、そっくりなのです」
加奈は、お茶を一口飲んだ。それから、囁くようにいった。
「やっぱり、あなたも天使だったのね」
加奈が言葉を発したとき、金色の輝きがふたりをつつみはじめた。
リッダ、三〇枚、了