鯤とはなにか



 由布木 秀

 北の果ての大海に、鯤という青色の魚が棲んでいる。
 …(本文が続く)…

(二)荘子、逍遙遊篇

一、蛟竜

 深山のまた奥の人跡未踏の地に満々と水をたたえた巨大な湖があり、一匹の竜が棲んでいた。彼は、蒼天にのぼりたいと考えていた。天界が、自分の故郷だと思えたからだった。天にのぼるためには、つよい雨が降らねばならなかった。竜は、無量の森にかこまれた至大な湖に臥しながら、はげしい降雨を待ちつづけた。
 数十年がたって、天から猛烈な雨が降ってきた。森の木々は、激烈な降雨に声をあげて泣いていた。湖に棲んでいたものたちは、彼が天にあがるときが到来したと信じた。
 しかし、竜は考えていた。自分は、まだ充分に大きくなってはいない。この程度の雨に乗じて天にのぼったとしても、最上天までは辿りつけないのではあるまいか。いまは我慢して年をかさね、さらに大きくなるのを待つべきではないのだろうか。
 日ごろから竜をみてきたものたちは、だれもが失望した。あんなに天にのぼりたいと願っていたのに、天界が呼んだとしか考えられないこの日に、飛翔しないとはどうしたことだろうか。彼は竜ではなく、ただの馬鹿でかい蛇だったのではないか。
 萬年を生きている、湖の主の大亀は思った。彼は、巨大な湖水に臥すのが竜王だと、ずっと考えていた。大亀は、このはげしい降雨とともに、竜が天界にもどると確信してきた。しかし、実際には天にのぼらなかったので、みんなと同じように彼の本質を疑った。
 それからまた、ときがながれて百年たったころ、大地を震わす大雨が降った。かつて、だれも考えてみたこともない大降雨で、あふれる場所をもたない湖水は、さらに巨大になり満々と水をたたえていた。竜は、熟慮していた。天が、自分を呼んでいるかも知れないと思った。この雨で、のぼっていいのだろうか。自分は、相応しい大きさになっているのだろうか。百年のあいだに、たしかに彼は、以前の数倍も大きくなった。しかし、これでいいのだろうか。
 大亀は、竜にいった。
「百年がたって、百年まえのことを知っているのは、ついに私だけになった。当時の魚たちも、獣たちも、みんな死んでしまった。おまえを大きな蛇だと考えていたものたちは、もういない。だれもが、竜王に違いないと信じている。そうであるならば、この雨に乗じて天にのぼるべきだ」
 竜は、考えていた。この大雨は、本当に自分を呼んでいるのだろうか。 いままで記憶するなかで、もっとも猛烈な雨だとは分かる。しかし、自分は、それに応えるほど充分な大きさになっているのだろうか。果たして、これで、最上天にまでのぼれるのだろうか。そのためには、さらに大きくなる必要があるのではないか。そう思って、彼は、雨にうたれていた。
 竜を知る、すべてのものたちは失望した。魚も獣も、彼が竜王でなかったのだと理解した。ただの大蛇で、図体だけで、地を這うことしかできないのだ。
 大亀は、「百年まえにも、おなじ出来事があったのだ」と、みんなに話した。
「そのときも、彼を信じていたものたちは失望したのだ。当時のものは、すべて死んでしまったが、私は、それでも竜王に違いないと考えてきたのだ。今日こそ、はっきりと分かった。この湖には、竜など棲んではいなかったのだ」と。
 みんなは、その話に納得し、すべての生きものは、彼を大蛇だと信じた。
 百年後にはげしい雨が降ったときも、だれもが、この湖には大きな蛇しか棲まないという言い伝えを知っていた。全員が、大蛇が天にのぼらないのは当然だと考えた。百年ごとに、大雨が降った。しかし、なにも変化せず、さらに大きさを増した湖水は、海のようになって深山の雨水をあつめていた。
 それから五百年がすぎたとき、萬年を経てきた大亀が、いままで考えてもみたこともない猛烈な雨が降った。まるで、天から川がながれてきているようだった。周囲を取りまくすべてが、滝になり、大河に変わった。はげしい降雨によって、全世界が霞んでいた。天からつらなる大瀑布が、地上に落ちてくる耳をつんざく轟音だけが、未踏の山々に木霊していた。
 そのとき、大亀は奇妙な感覚を覚えた。湖にいる自分が、あふれた水で押しながされているのではなかった。湖水を取りまく周囲の木々とともに、空中にもちあげられていたのだった。すでに雨はやみ、下をみると湖だったはずところに、ぽっかりと巨大な穴があいていた。妙だと思っていると、地面にむかって無数の樹木が落下していくのがみえた。そして、この事態に気がついた大亀も落ちていた。みあげると、至大な雲が視界を遮っていた。
 やがて大亀は、周囲に木もない小さな湖に落ちた。みあげると、両翼をきらきらと輝かせながら、巨大な翼竜が、天にむかってどこまでも飛翔していた。

 竜が真っ青な空をのぼっていくと、天界がみえた。そこには、竜たちが暮らしていた。大きさはまちまちだったが、どちらかというと小型で、翼が充分に伸びていないものもいた。彼は、竜たちが自分よりもずっと小さいのに驚いていた。さらに天界をのぼると、姿をみた彼らは、道をあけてくれた。それで竜は、真っ青な天空をどこまでもすすみ、至上天にむかって飛翔していった。すると、きらきらと光る空に、巨大な宮殿があった。
 竜が九重になった天の中心にむかってのぼっていくと、中央に壮麗な玉座がおかれ、空席のままに輝いていた。彼の姿をみると、周囲にいた巨大な竜たちは全員が立ちあがり、敬礼をした。彼らにうながされて、竜は、中央の玉座に腰をおろした。
 竜たちは、いった。
「みんなで、あなたの到来を待っていたのです。最後に九天にのぼってくるのが、竜王なのだと知っていました。私たちは、天では成長できないのです。大きくなれるのは、泥にまみれた地上なのです。最後まで、そこで我慢することができたのです。ですから、あなたは、竜王に相応しいのです」
 竜は、その言葉を聞いて、満足した。

                        蛟竜、七枚、了

 二、豚飼い

 ある日、青々としたひろい草原に横臥していた青年は、爽快に目覚めた。目をあけると、雲ひとつない青い空から金色の光線が、天上から垂れる織物になりながら、地上にさんさんとふり注いでいた。豚飼いは、ラメに変わって、きらきらと輝く光点をしばらく眺めていた。やがて起きあがると、天にのぼりたいと思った。きっとそこには、この光があふれているに違いないと考えたからだった。
 豚飼いが草原を歩いていくと、大きな木が一本、立っているのがみえた。見事な枝振りの樹木は、天にむかって真っ直ぐに伸びていた。てっぺんは雲に隠れてみえなかったが、天上までとどいているのではないかと思えた。
「もしかしたら、あの木をのぼっていけば、金色の光線があふれてくる場所までのぼれるのではないのか」と青年は感じた。
 ちかづいてみると、猛烈に大きな樹木だった。樹齢は、数千年にも達するのかとも思えた。みあげても、木の葉しかみえなかった。高いところに、最初の枝がついているのが分かった。まず、そこまでいってみようと青年は考え、のぼりはじめた。木の幹には、ごつごつとしたコブがあり、それを手がかりとして苦労しながらよじのぼった。ようやく、最初にみつけた枝葉のところまでいくと、葉につつまれて、ひんやりとしていた。枝に立ってみおろすと、自分が猛烈に高い場所までのぼったのが分かった。
 しかし、豚飼いは、もっとうえにいきたいと思った。
 青年は、木の実をとって食物とした。樹幹からでている太い枝で横臥しながら、頂上を目指してすすんでいった。幾週もかかってのぼると、雛鳥がさかんに鳴いている声に気がついた。豚飼いが囀りが聞こえてくるほうをみると、枝の先に鳥の巣があり、一匹の雛がいた。それを、黒い大きなカラスが狙っていた。たくさんの雛たちがいたらしいが、みんな食べられてしまったようにみえた。巣がある場所は、枝葉の先端部で危険だったが、豚飼いは手ごろな枝を折って棍棒にして、大ガラスを待った。雛を食べようと寄ってきたところを、カラスの頭部に狙いをすませて棒をぶちあてた。黒色の大ガラスは、血をながして墜落していった。
 樹木には、大きな蛇も棲んでいた。大蛇は夜になると、豚飼いを食い殺そうと襲ってきた。青年は、武器の棍棒をつかって戦った。ついに、大蛇も打ち殺した。こうして豚飼いは、何年もかかって頂上を目指してすすんだ。
 雲をぬけてのぼっていくと、やがて巨大な宮殿が目に飛びこんできた。
 豚飼いがちかづくと、門はあいていた。宮殿は、ひっそりとし、だれも住んでいないように思えた。どこから、あの光がでてくるのか分からなかったが、彼はいちばん高いところへいこうと思った。宮殿の中央には、尖塔がつくられていた。青年が螺旋状の階段をのぼっていくと、大きな部屋があった。なかから、女性がしくしくと泣く声が聞こえた。豚飼いは、もっていた棍棒で部屋の鍵をこわして、室内に入った。なかには、綺麗なお姫さまがいた。姫は、豚飼いの姿をみると喜んだ。
「階段をさらにあがった部屋に、黒い魔法使いが住んでいる。その男が、私を捕らえ、宮殿を廃墟にしている。結婚をせまって、苦しめている。退治して欲しい」といった。
 豚飼いは、棍棒をもってさらに階をあがり、黒い魔法使いと対峙した。
 男は、青年をみると、「おまえがくるのは、分かっていた」といった。
 そして、魔法をつかって豚飼いをうごけなくさせた。棍棒を取りあげ、青竜刀で青年の首を切り離そうとした。そのとき、あいていた窓から一羽の大鷹が飛びこんできて、魔法使いの目を食い千切った。魔法がとけ、豚飼いは棍棒をひろいあげた。そして、魔法使いを打ちすえ、窓から外に放り落として殺した。
 魔法がとけると、宮殿は金色に輝きだした。光はあふれて、染みだしていった。
 豚飼いが棍棒をもって王女の部屋にいくと、立派な姿の王さまと妃がいた。
 王は、青年をみると、「娘と結婚して、この国をついで欲しい」といった。気品を漂わせる王妃も賛成した。青年が戸惑っていると、美しく着飾った王女がでてきて、「あなたと結婚したい」といった。
「私は、この世でもっとも卑しい、ただの豚飼いにすぎません。身分違いの王女さまと結婚すれば、きっと不幸が待ちかまえているでしょう」と青年はいった。
「そんなことはない」と王は答えた。
「ただの豚飼いが、地上から、これほど高い天までのぼってはこれない。王女のために、魔法使いと勇敢に戦い、打ち殺すなど不可能だ。あなたは、本当は王子だったのだ。魔法使いによって、姿を、豚飼いに変えられていたにすぎない」
 王妃も、その言葉に賛成した。王女も、そうに違いないといった。
 豚飼いも、納得した。青年は、王女と結婚し、天上の王国の主人となった。

                              豚飼い、六枚、了

 三、青色

 海岸線を左にみながら汽車に揺れていると、空色のズボンとあわい青のカーディガンを羽織って筆をはしらせる彼の姿が目に入った。気がのらない仕事をさぼることにして、つぎの駅でおりた。駅舎の階段をのぼり切ると、正面にすきとおる青い海がみえた。風もない絶好の写生日和で、うすく靄がかかる春の空から日の光が惜しみなくふり注いでいた。私は、しばらく頬杖をついて海面に影絵をつくりながら浮かぶ、白い海鳥の舞を眺めていた。潮の芳醇な香りにつつまれて、白昼夢のなかで静かにさっていく、彼の後ろ姿をみた気分に落ち入った。
 改札をぬけ、すこしばかりすすむと浜になった。くりかえされる波の音を聞きながら、漁師の小屋をいくつもすぎていくと線路わきにでて、そこから防波堤のうえを一〇分ばかり歩くと彼の姿がみえた。突堤に腰をおろしたまま、写生する様子をみていた。男のながい髪を揺らした風が、私の頬をうった。ナイフで海をつくっていた彼は、ふいに頭をまわし、すこし驚いて「君か」といった。海辺におりてそばまでいくと、にこっと笑った。
「邪魔をしたね」と私はいった。
「今日は駄目だ。こんなに主張しない海は、贋物だ」と彼は口をひらいた。私は、絵のできばえをほめた。彼は、すこし微笑んで、「かきたいのは、本当の海の姿なんだ」といった。その言葉の意味をたずねると、自分の作品を指しながら、どうしようもないという風情で頭を小さくふりながら答えた。
「今日のぼくには、海しかかけない。これではまるで、海原と天空とが喧嘩しているみたいだ。かいていると、海のほうが大きいといって、青空が怒る。ここいらまでは、自分の領分だってね。みてご覧。あんなぐあいに大海の果てはもりあがり、空はそこに覆いかぶさっている。海は皿にかあわって、潮をたたえている。空もまるい半球になり、青い大気でつつみこんでいる。だから本当はひとつで、領分争いなどしていない。太古から海と空は、愛しあっている。そこには、憎しみなどない。じっとみつめていると、海と空との接合部に、うすいぼんやりとした白い交錯部分がみえてくる。かきたいのは、あの果てで一塊になっている、繊細で優美なロココ様式の皿の縁飾りだ。海でも空でもあり、しかも融合してひとつに変化する不可分の表象だ。それを描出したい。しかし、今日は海ばかりかいてしまう。丹念に描写しつづけると、縁飾りは消えてなくなる。昨日は、空ばかりをかいていた。あるものを、あるがままに描写できないなんて、絵描きにとっては致命的だ。どうしてかと、いつでも考える。それが、ぼくをかけない絵描きにしていると、しみじみと分かる。みえる世界を、そのままかくのが仕事なのだ。詩人だったら違うかも知れないけど、どうして、ふたつの部分として考えてしまうのだろう。嫌らしい、憎むべきエゴイズムなのだ」
 そう喋るうちに、彼は、絶望的な表情になった。なんと答えたらいいのか、さっぱり分からないので私はだまっていた。
「今日は、帰ろう」
 彼は、画具を片づけはじめ、私たちは防波堤を歩いた。
「詩は、やはり絵なのだろうか」
「分からない。でも、君がみている縁飾りは、みえるよ。ぼくもおなじで、海と名づけて切りとっている。空と名前をつけて、分節している。でも、両者がむすびついた意味と象がひとつになった、あの美しい縁飾りを、なんと名づけていいのか分からない。詩は、ひびきで情景でもあるから、歌という気もするし、絵かも知れない。もしかすると、なんでもないのかも知れない」
 私は、彼の疑問にうまく答えられなかった。言葉は、線状に配列されるから、平面的な絵とは手法が違うのはすぐに分かった。しかし、ひとつの表現が曖昧ならば、ならべても論理的にはならない。だから、言葉のひびきと、論理の欠如が同調できれば、平面的なムードをもちながら世界を分節して、絵に似せることもできるかも知れないと思った。しかしどうせなら、森を、山を、海を、ただそのために謳う詩をかきたかった。そう考えた途端、絶対にかけない気がした。私は、相互に関連しあった言葉しか知らなかったし、あまりにも、たくさんの定規をもちすぎているのに気がついて、すこしばかし自分が嫌になった。
 彼は、函館本線の踏切をわたると、小だかい丘にむかって歩き、つづら折りの道をどんどんあがり、頂上で待っていた。私がそこにつくと、ここがいちばん好きな場所だといった。左手には、彼の海がひろがり、大きな岬がつきでていた。右手には、マッチ箱にもみえる小さな家並みがつづき、その果ては原野で、あとは砂浜。裏手には山並みがかさなり、街は、わずかばかりの平地に密集している。開拓の時代に鰊漁によって発展をとげた村も、いまでは赤い旗をたてた小船が、わびしく聞こえる焼き玉の音をひびかせながら、でていくのがみえるだけだった。青い海だけが、この街の盛衰を永遠に語りつぐに違いない。とおくの虚空に、白い海鳥が浮かんでいた。
「はじめてこの町にきたとき、まるで夢をみている気分だった」
 彼は、いった。
「街中を歩きまわって、ここへのぼった瞬間、ふいに涙がでてきて、生きていてよかったと思った。その感激を一枚の画布にのこしたいと考えただけなのに、それがむずかしい」
 彼は、私にふりかえった。そして、また海をみた。その後、部屋で珈琲を飲みながら、色々な話をした。彼は、結構陽気になった。まだ私がみていない最近の作品や、お気に入りの作家の絵に解説をくわえてくれた。

 車窓から彼の姿をみかけられない日々がつづいて、数日して、また家をたずねた。駅でおりて山へむかってすこし歩くと、住居があった。彼が借りたときには一階に大家が住んでいたが、あまりに不便で都会にうつりすみ、月末に家賃をとりにくるだけらしい。こんな不便利な場所で暮らすのは、よほどの変わり者しかいないから、いまは家全体の使用を許可されていた。しかし、彼は、最初に借りた部屋以上に領分をひろげる気持ちはなかったらしい。
「ちかごろは、あまりかいていないね」と私はいった。
「そうだ」と彼は答えた。ずいぶん喜んでむかえてくれたのだったが、なにかとても疲れていた。私が、それを指摘すると、よく眠れないといった。彼の手料理を食べ終えるころ、日が暮れてきた。
「昨日、夢をみた」と絵描きはいった。

 ふと気づくと、自分が根になっているのが分かった。巨木の根っこで、大きな岩をだきかかえて暗い地中に這いつくばっていた。彼は、根でしかない自分がとてもみじめに思えた。光明にあふれる大気に接してみたいと思い、幹の奴隷なのだという絶望的な考えに襲われた。
「なぜ、君だけが光をあびる権利があるのだろう」と彼は聞いた。
 すると幹は答えた。
「可笑しいよ。君もぼくもひとつではないか。根っこが養分を吸収し、それでふたりの未来の糧をつくっている。とても自然なことなのに、敵みたいに思うなんて馬鹿げているよ」
 いわれてみると、彼もそう感じた。根も幹もひとつだという気がした。しかし、やはり腑に落ちなかった。おなじものでありながら、自分だけが冷たい地中にいることに奇妙な憤りを覚えた。彼は、幹とひとつではないのだと思った。もともとは、いっしょだったのかも知れない。すくなくとも、自分について考えはじめたいまは、樹幹と思考が違っているから、ひとつだとするのは不可能と思った。
 それを察した幹はいった。
「君が死ねば、ぼくも生きてはいられない。樹幹が枯れれば、根っこもおなじになる。しかし、君とぼくはひとつではないのかも知れない。共同体で不可分のものだけれど、べつべつなのかも知れない。君は、自分の言葉をもった。ぼくも、自身の考えをいだいている。いまは、ぼくらは生死をともにする運命であっても、ひとつではないのかも知れない」

「それで、どうなったの」
 だまったのでたずねると、「そこで目覚めた」と彼はいった。
「ぼくは、どこかへいこうと思っている。必要なのは、男らしく生きることだ。ここでの生活は、あてどもなくさ迷う感情や、芸術家である尊厳、そんな女々しいものを要求している。ぼくは、この地を離れてやりなおす。もう、絵描きではない。ただの男なのだ」
「君は、ここを気に入っているといった。この場所を、理想の土地と呼んでいた」
「そうだ、ぼくはここを愛し、同時に憎んでいる」
「君は、さ迷うのが芸術家だ。とどまれば、もう絵はかけないともいっていたね」
「ぼくは、根でも幹でもありたくないだけだ」
「それでは、なんになる」
「なにかべつのもの。まったく違う形態だ」
「ぼくらは、わかれるときがきたらしいね。もともとはひとつだったけれど、べつべつの言葉をもったのだから、仕方がないね。ひっこしを手伝うよ」と私はいった。
「でも、どこにいくか、だけは教えて欲しい。きっとまた会いたくなるから、手紙をかいてもらいたい」
「そんな必要はない」と彼はいった。
「君は海で、ぼくは空だったのだから」

     青色、十枚、了

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