神の住むちかくで                       由布木 秀  一、シークの男  茂が歩いていたのは、片がわ四車線もある舗装された幹線にそってしかれた石畳のひろい歩道だった。いつもならパラソルをひらいて、ささやかな陰と潤いをあたえてくれるサトウキビのジュースを売る者も、肌の温度さえ感じるほどにちかづき、まとわりつく闇ドル買いの男もいなかった。 「若いの。異国の者よ。わざわざここまできたのだろう。旅が目的などと、馬鹿げた話をする者よ。おまえは憐憫を知らないのか。そんな無意味な金をもっているのに、どうして喜捨を考えない。金銭でなくてもいい。あたえるものは、気持ち以外ならなんでもかまわない。背負ったリュックには、荷物がいっぱいつまっているではないか。全部とはいわない。ひとつでもいい。それが旅をつづけるのに、どうしても必要だというのなら、きている青いシャツの一枚でもかまわない。どうしてなにも施さずに、この貧しい私のまえを歩いていけるのか」  茂の瞳を食い入るほどに直視しつづける、乞食たちもいなかった。ただ南中時の太陽が輝いていた。 茂はこのときインドの首都、デリーの中心にあるコンノート広場を目指していたが、いい選択とはいえなかった。街は死の静けさにつつまれ、すべては休業状態だった。そこには、風もふくまれていた。もちろんこのとき、わずかながらの気流が吹いていたとしても、状況はなにも変わらなかったに違いない。おきかえられるはずの大気も、やはり熱く乾いていた。  この強烈な日盛りのなかを休むことも知らずに、うろうろ歩きまわっていたのは、日本人しかいなかった。欧米の旅人たちは、先祖からの知識のたくわえをもっていた。イギリス人はもちろん、ドイツ人でもアメリカ人でも、父や祖父がインドを旅し、夜のお祈りが終わった寝床のなかで、不思議な国の冒険談を聞きながら育ったのだ。だから若いカップルが荷物をかついで、新婚旅行としてまわっている。それが日本人ときたら、すべて一世代でやらねばならなかった。有益な情報をもちあわせないのだから、情念の赴くままにこの国をさ迷っていた。どんなに人里から離れた、英語も通じない田舎にいっても、日本人と巡りあうのは、わが民族がとくに好奇心がつよいのではなく、わけが分からず無鉄砲だったにすぎなかった。  わが国にとってインドはまったくの異国で、大英帝国の支配とガンジーくらいしか知らない。ここに世界に伍す文明圏があるとは、歴史でもしっかりとは習わない。ただインダス文明という名を、とうとつに知っているだけなのだ。  世界には、四つの文明圏がある。  まずは、欧米。ゼウスがうまれ、墓もあるクレタ島の文明を始原とし、真理を目指したギリシア哲学を礎に、ローマ帝国が輝かしい歴史をきざみ、そのうえをキリスト教が覆っていった。ルネサンス、マニエリスム、バロック、ロココ。フランス革命と、産業革命に彩られた絢爛とした世界、西洋。  それにたいするは、東洋。黄河文明に発し、漢帝国によって完成する史記にかかれた中華の世界。儒教、道教、仏教が混交し、漢民族と夷狄が辺境をめぐって敵対と和合をくりかえした東アジア世界。  いっぽう西アジアからアラブをふくむ、アフロユーラシアにことなる文明が存在する。アフリカでうまれたヒトは、大地溝帯をぬけて紅海に辿りつき、そこから分かれて独自にふたつのカルチャーをきずいた。エデンの園からながれでた、チグリス・ユーフラテスとナイルは、肥沃な三角地帯とナイルデルタをつくり、それぞれに繁栄した。ふたつの文明は、アレクサンドロス大王によって混交され、サラセン帝国によって統一された。沙漠からうまれたイスラムの世界、中洋。  しかし、これらがすべてではない。ヒンドゥーの世界は、どこにも属していない。古代インダス文明をつくったドラヴィダとインド・アーリアが混交し、輪廻とカーストが、ヴェーダとともにたえることなくつづいてきた。ヒマラヤによってとじこめられ、重層的に構成された南アジア世界。あらゆる民族、思想、宗教をひたすら飲みこんできたブラックホール。その文明は、深洋とよぶにふさわしかった。  この小説は、深洋世界と、そこをとりまく中央ユーラシアの物語である。  茂が自分の無思慮を後悔しながら、公園の入り口ちかくまで辿りつくと、ひとりの男性が立っているのがみえた。白いリュックを背負い、ながい髪を肩までたらし、口ひげをたくわえた若い男だった。背丈は茂とおなじ一七〇センチくらいで、とくに太っても痩せてもいなかった。襟首のボタンをいくつかはずしたチェックの長袖のシャツをきて、ゆったりとした白いズボンをはいた男は、太陽に背をむけ腕をくみ、宙をみつめていた。彼のまえには、八車線の道路がひろがっているだけだった。風も欠如した静寂が支配する炎天のなか、身動きもせず、ただじっと立ちどまる様子は苦行僧にも似ていた。太陽の熱も光も男には一切関係がなく、自分の肌が焼かれ干からびるのは、生存するかぎりとうぜん出会うはずの、通りすぎるひとつの瞬間だと信じているようにみえた。その姿は、あらゆる生物を排除する灼熱の路上と、緑のしげった木々、褐色の土の匂いをもって、微かな命がまだあると感知させる、公園とをつなぐにふさわしいモニュメントといえたかも知れない。荷物を背負う像は、日本国民の勤勉の証しとして小学校の運動場などにつくられているポピュラーな作品で、モチーフとしては違和感を覚えなかったが、この場面ではいかにも不適切に思えた。さえぎるもののない日盛りのなかで、帽子ひとつかぶらずに無分別にも立ちどまり、成り行きにまかせようと試みているのは、あきらかに日本人だった。男はぼうぜん自失とし、立ったまま失神しているようにみえた。 「おい、大丈夫かい」と茂は声をかけた。そのひびきに、男はゆっくりと首をまわし、「よう」と答えた。それが裕明だった。額からは汗が吹きでて、こぼれていた。 「なにをしているのか」と茂は聞いた。  裕明は、「考えている」と答えた。  茂は、はっとした。その言葉は、思いもつかないものだった。 「なにか飲まないか。冷たいものでも」と茂はさそった。 「それは、いい考えだ」  裕明は、熱と喉の渇きに、いまはじめて気がついたという表情をくずすこともなく、うんうんとうなずいた。  ふたりは、ひろい車道をわたった。かんかんに焼かれたコンクリートが、靴のゴム底をこがす臭いを感じて、最初に目についた店舗に入った。  店は、石畳の歩道に面したところにあった。直射の日光をよける軒が、道にむかってながくつきでていた。庇といっても金属で固定されたテントみたいなもので、赤と黄色のストライプの派手な色をしていた。店には特別ドアはなく、石畳の歩道に面したところに、二メートルくらいの白っぽい木製のカウンターがちょうど腰の高さまであった。そのうえにミキサーがのり、となりにはバナナとオレンジがおかれていた。店舗はブロックででき、右がわは灰色の壁になり、カウンターとのあいだの、なにもないところが入り口だった。鰻の寝床に似た、ほそながい小さな店で、手前と奥に白いテーブルがふたつならんでおいてあり、かるそうな椅子が三脚ずつあった。客のいない薄暗い店屋の天井には、三枚のグレーの羽からできたプロペラ式の扇風機が、自分の存在が無意味であるのを知らせながら、ゆっくりとまわっていた。店は外の熱気がそのまま入ってきたが、なんといっても日陰の力は絶大で、裕明と茂は歩道がわのテーブルにすわった。 「バナナか、オレンジか」  ターバンを巻いた、黒い男が大声で聞いた。店主は四〇歳をすぎたくらいの、いかにも挑発的な、目つきがするどい背丈が二メートルもあるかと思われる大男で、胸の厚みは相当なものにみえたし、ひきしまった腹をしていた。半袖のティーシャツからはみでた腕は毛だらけで、右の手首には、どんな人にもみ落とすことができない、ぎらぎらと銀色に輝く、ぶ厚いブレスレットが嵌められていた。襟のない木綿のシャツをきて、襟首から飛びでた胸毛もながく、もじゃもじゃして、この男がいったいどのくらいの体毛で覆われているのか、見当もつかなかった。浅黒い太い首には、金属製のネックレスがかけられ、先になにかが吊されていたが、服で隠され、みぞおちの部分がふくらんでみえた。白い上着の胸ポケットに、ほそながい棒が刺さっていた。それが、「自然に生えてくるものは、切ってはいけない」というシーク教徒の厳格な戒律によって、伸ばし放題になった毛をとかす櫛なのだろうと思われた。顔には部分といえるところはなく、一面の毛だらけで、眉はこく、目は爛々とふたりをみつめていた。うすくて白い木綿の半ズボンをはき、露出した膝からサンダルばきの素足にいたるまで剛毛が支配していた。ふたりがバナナジュースを頼むと、黄ばんだターバンを巻いた男は、飲み水が入ったプラスチックの容器とジュースをはこんできた。テーブルのうえの金を鷲掴みにし、水と果汁をのこしてカウンターにもどっていった。  裕明と茂は、冷たいジュースを飲んだ。タオルをだしてぬぐったが、汗は止め処もなく吹きでていた。ふたりはこの異様な暑さについて話しあい、それから身の上話をした。茂は三ヵ月インドを旅行して、今回はカシミールから南におりてきたといった。裕明は、六年間旅をつづけていると話した。バクダッドから、陸路でカイバルをぬけてデリーにきたとつげた。  この話は、茂には意外だった。もともとボンベイからまわりはじめた彼は、パキスタンからイランにぬけてみたかったが、銃撃戦が起こっていけないとつげられ、断念したからだった。すこし考えてから、 「アフガンは、内戦が勃発していて入れないといわれた。大丈夫だったのか」と聞いた。  すると裕明は、「たしかにそうだが、茂。それは、普通は許可しないということで、絶対に通れないわけではない」と平然と答えた。  茂は、「あっ」と思った。考えもしない答えにとまどい、ややあってから裕明に聞いた。 「普通ではない、のか。それは、具体的には、なにを指すのか」 「茂。アフガンで一〇ドルだしたら、絶対に普通ではないんだ」  彼は、平然と答えた。  はなたれた端的な言葉は、茂のまえできらきらと光っていた。その瞬間、もう裕明は、尊敬すべき偉大な男だった。なぜなら、出会って小一時間もたたないあいだに、二度も彼を驚かせたのだった。  裕明は、茂よりもふたつ年うえで、すでに六年間世界をさ迷っていた。もちろん家族の者は、あきらめていた。原因のなすりあいも一巡し、末っ子として甘やかした父親の責任がもっとも重いとされていた。裕明本人も、なぜこうなったのかすっかり分からなくなり、さらなる思考は放棄され、当て処もなく旅の生活をおくっていた。ふたりは、いっしょにインドの大地を周遊する定めにあったが、裕明はずっと兄貴分だった。この関係が成立したのは、年齢でも旅の経験でもなく、ただ邂逅の出鼻で彼が驚かせたためだった。もっと正確には、驚かされたと茂が勝手に感じたことによったのだった。 「ひどくあれた、すさまじいところだった」  裕明は、カイバル峠の話をはじめた。  その峠は、インドと外部世界をつなぐ、唯一の道だといっても過言ではなかった。もちろん、追われれば人はどこへでも逃げていく。チベット動乱では、ダライラマをはじめとするチベット難民は、すべてヒマラヤをぬける道ともよべない場所をこえてきた。それは、死を覚悟しての緊急避難路で、通常のルートではなかった。三〇〇〇メートル級の山並みが脈々とつらなるアフガン国境には、カイバルのほかにも、いくつかの名高い峠は存在する。なかでも、ポーラーン峠はふるくから有名だった。南部のバローチスターン丘陵には、南北につらなるスライマーン山脈と中央ブラーフイ山脈との鞍部に、全長九〇キロにわたる回廊状の隘路が存在する。そこは、インダス文明の主都モヘンジョ・ダーロと、メソポタミア文明とをつないだ歴史上かけがえのない峠だった。しかし、それは紀元前三〇〇〇年紀の話だった。  カイバル峠は、アフガンの首都カーブルと、ムガル帝国の都デリーをむすぶ、たったひとつの道路だった。この店の主人、つねに戦いに備えるシーク教徒の国カリスタンは、道の真ん中、パンジャブ地方にあり、外部世界からの侵入勢力の通過点にあたっていた。さらにパンジャブは、イギリスからの独立にともないパキスタンとインドに分割された。だからヒンドゥー教の改革運動であるシーク教徒の歴史は、戦いの連続だった。彼らは生活の細部にいたるまで、戒律によって暮らしている。神にそむいて生きるよりも、戦って死ぬほうをえらぶ戦闘民族である。第一次世界大戦時、イギリス領インド帝国陸軍の主力部隊は、シーク族とネパールのグルカ族によって構成された。  インドについて考えるには、地球上の陸地がどうやって生成したのか知らねばならなかった。われわれの住む大地は、地殻としてどろどろしたマグマのうえに浮かんでいる。地球のコアから高温のマントルが、さかんに吹きでてくる。この熱い柱、ホットプルームがアフリカとハワイ沖にある。もちあがってきた大量のマントルは、対流を起こしてどこかで冷えてしずみこまねばならない。そこがユーラシア大陸の真ん中、パミール高原に位置する、コールドプルームになる。  超大陸パンゲアの中央にホットプルームがうまれ、陸地はさけはじめる。ほぼ一〇に分かれた大地、シベリアも、中国も、インドシナも、がんらいべつべつの大陸だったが、パミールにむかって移動し、衝突をくりかえして、約二億年まえユーラシア大陸の原型ができた。さらに四五〇〇万年まえ、インド大陸がコールドプルームにひきよせられ、ぶちあたった。もともとあった地殻の下にもぐりこむというより、インドはほとんど突き刺さってユーラシアが完成した。この力がヒマラヤをうみ、ヒンドゥークシ、カラコルムの山塊をうみだした。こうしてインドは、図面上大陸と地続きになったが、実際には生成した山脈によって中央ユーラシアから切り離され、孤立したのだった。  インド大陸はインドシナにもぶつかり、ミャンマーとのあいだにはアラカン山脈とパトカン山脈をつくった。夏のモンスーンの時期に、ベンガル湾から吹く湿潤な大気が、東西に聳える高いヒマラヤ山脈の南に雨をもたらす。熱と大量の降雨、そこに大密林地帯がうまれる。歴代中国のどんな強力な王朝も、インドシナ半島をぬけるルートで、この国に侵入することはできなかった。  衝突は、アフガンとのあいだにもスライマーン山脈を形成し、さらに偏西風のながれは、ここを山岳地帯に変えたのだった。決して楽ではない荒地に、ただひとつの道がつくられた。これがカイバル、インドと外部の世界をむすぶ唯一の通路だった。すべてが、「よいものも悪いことも」、この峠によってもたらされた。これを通って、中央アジアに暮らしていた遊牧民、アーリア人たちが何度もくりかえし南下した。マケドニアの王、アレクサンドロスもここからきた。そして、シャカ族、フン族、トルコ人、モンゴル人。だれもが、ここを通過しインドに入りこんできたのだ。玄奘三蔵もヒマラヤを迂回し、カイバルからインド大陸に入り、仏典をたずさえてこの峠を通ってアフガンにでて唐にもどった。  勢いがある異民族がカイバル峠をこえてやってくると、戦に負けた民族は逃げていく。しかし出口がないのだから、奴隷になるしか生きのこれない。女をうばわれ、牛馬どうぜんにあつかわれ支配されても、心までは家畜になれない。人であるかぎり恨みは消えない。この国は、いつでも内部に不和をかかえている。カースト制度では、あらゆる部門が専門性をもち、分をこえた仕事はできない。この国には、社会に普遍的な義務はなく、なによりも「身分」としてのダルマが存在している。祭儀がバラモンの専権事項であるのとおなじく、戦いはクシャトリア独自の仕事で、ほかのヴァルナが立ちいる問題ではない。世の中がどうなろうと、みずからのカーストは固定され変化しないのだから、主人はだれでも、おなじだったのだろう。だから、カイバルをぬけてくるあたらしい力、勢いのある民族と戦えば、つねに負けやすい構造ができていたに違いない。現代にいたる四〇〇〇年を通して、この大陸を統一できた者は、ひとりもいなかったのだ。史書のない国にながい時間がすぎて、多民族、多言語、多宗教の複雑で重層的な社会がうまれたのだった。 「つぎも、バナナでいいのか」  とつぜん、男は聞いた。 「そうだな、冷たい奴をな」と茂が答えると、裕明も、もう一杯もらうといった。  大柄なターバンの店主が、右の手首につけたぎらぎらと銀色に光る、ど派手なブレスレットを誇示しながら、バナナと氷を入れてミキサーをまわすと、ふるいモーターは、いまにも壊れそうな叫びをあげた。店のなかは蒸し暑く、汗がじっとりと吹きでていた。悲鳴がやむと、男はバナナジュースを黄色っぽい金属のお盆にのせて、もってきてテーブルのうえにおき、太い毛だらけの腕をくみ、するどい目でふたりをじっとみおろした。彼らは、だまって財布から各々二ルピーを机にとりだした。男は、まずその金を左手で鷲掴みにしてポケットにねじこんでから、銀色のブレスレットが輝く右の手で氷の入ったバナナジュースをふたりのまえにおいた。  二杯目のジュースも、冷たくてうまかった。 「武器を、もっている」  茂が、裕明をみつめていった。 「あの腕輪のことか」  裕明は、意味が分からずに聞いた。  茂は、この店の主人がシーク兵士として正装していると話しだした。  シーク教徒の戦闘員は、「カルサ」、清浄なるものとよばれ、五つのKをつねに身につけている。シークの男は、生涯、毛髪、Kesを切らないといわれ、ターバンは、ながい頭髪をまとめる格好な小道具となる。伸ばし放題の髪をととのえる、櫛、Kanghaも、つねに装備しなければならない。兵士は、専用の半ズボン、Kachを着用する。そして、カルサであるのを誇示する最良のものは、鉄製の腕輪、Karaになる。さらに、短剣、Kirpanを携帯するのも義務だから、男のみぞおち部分がふくらんでいるのはそのせいなのだ。  もともと、シークという言葉は、「規律」を意味する。禁酒、禁煙も、名前の最後にライオンを表現する「シン」という単語をつけるのも戒律で、彼らはつねに臨戦態勢をとっている。一八世紀なかば、ムガル帝国の衰退にともない、さまざまなアフガンの勢力がカイバル峠をこえ、くりかえしデリーに侵入した。通過点のパンジャブ地方は、その都度、激しい混乱に落ち入り、聖地アムリツァルにつくられた神の寺ハリ・マンデルは、くりかえし破壊され略奪をうけた。騒乱のなかで、シーク教徒は特徴的な外見から攻撃の好対象となった。ターバンをとり、ひげをそってしまえばヒンドゥーと見分けられないにもかかわらず、彼らは殉教した。巻き布をすてて逃れたものは、非難されたという。不屈のシーク教徒は、ハリ・マンデルを再建し、一八〇一年、カリスタンを建国した。  シークは、ヒンドゥーの改革運動で、カースト制度を否定してうまれた。しかし、今日のシーク族には、カーストが存在している。この点は、ジャイナ教でもまったくおなじなのだ。聖ユダ・トマスの伝道で名高いインドのシリア系キリスト教会は、いくつかの宗派に分離している。起源のあたらしいカソリックでさえも四つの集団に分かれ、さらに不可触民出身のキリスト教徒は、独自の教会をもっている。ただ仏教だけが、こうした考えに馴染まず、その結果、インドでは衰退した。  団体旅行で管理されていれば分からないかも知れないが、この国を自分の足でうろついていみれば、どうしたってカーストは目に飛びこんでくる。インドは、さまざまな点で不合理で納得できないが、なかでも氏姓(ジヤート)の実在は群をぬいている。茂だって、自分がどのジャートに属するのか考えはじめる。日本にはカーストがないなどと主張すれば、馬鹿にされ、もっとしっかり現実をみろといわれるだけだ。日本人のほとんどは、この事態に自分が仏教徒であると気がつく。明治になるまで「ゑた」と呼称された差別民がいて、今日でも部落問題につながってきるとは聞いても、だれもカーストなんて考えない。日本人は。親切で優しい。だいいち公平だしと考えだすと、じつは、それが釈迦のふかい教えなのだと思いあたり、痛く感動して頭をまるめて出家にいたる者もいる。そうした剃髪の青年は、首から数珠をかけて、この国を行脚している。念珠は、例外なく大粒の立派なもので、するどい眼光とよく似あっている。こうした行動も理解できるほど、神がちかくにいると茂は感じた。  この国は、宗教の坩堝といわれる。ボンベイの街角の寺院で、火を焚き、銅鑼を鳴らし、拝む光景をみた。沈黙の塔で有名な拝火教は、ペルシアで禁教となり、ながい歴史のなかでこの街に辿りつき、不動産の過半数をしめると聞いた。ボンベイの顔、素晴らしいタージマハル・ホテルは、一族の繁栄の象徴だといわれる。  あまり興味もなさそうに聞いていた裕明は、そこで話をやめると意味ありげにうなずいた。それから、「金にならなきゃ、宗教なんてやらないよな」といった。バナナジュースを飲みほすと、この問題についてコメントひとつしないで、天井のプロペラが無意味にのろのろとまわるのをぼうっとながめる彼を、無神論者に違いないと茂は確信した。 「つぎも、バナナでいいのか」  とつぜん、大男が話に割りこんできた。 「いやに、なるよな」  裕明は、両手でながい髪をかきあげながら、うんざりとした調子で、溜め息まじりにいった。日本語だった。  顔中にひげを生やし、ターバンを巻いた男の胸の部分には、ふくらみがあった。肌は浅黒く、充血した目でふたりをじっとみおろしていた。 「たしかに、なにかをもっているな」  裕明は、男をみながらいった。  茂は、「いいよ、ふたつな」と右の指を二本立てた。  それで店主がバナナをむき、右手ですくいあげた氷をまぜてミキサーをまわすと、機械はまた悲鳴をあげた。果物は、氷塊といっしょになって粉々にくだけ、泡が立った。男は三杯目のバナナジュースをもってきて、テーブルのうえの四ルピーをポケットにねじこみ、ジュースをふたりのまえにおいた。この国は、なんでも金と交換だった。 「鉄道は、やられたみたいだな」と裕明は今朝の新聞を話題にした。  そこには、先週カシミールにふった雨がカルカッタに大洪水をもたらし、五〇〇人以上が死んだとかかれていた。 「どこへ、いくつもりか」と茂は聞いた。 「タージを、みてみたい」 「そうだろうな。エローラもよかった。フラッドで、どちらもいけないだろうな」 「だいぶ、死亡したらしいな」 「いっぱい、死ぬのだろうな」 「だれも、数えはしない」 「こんな、どん晴れの暑いなかで、洪水で死ぬのは、どんな気持ちなのだろうな」 「天気のことなど、考えないのだろう」 「そうか。死ぬときには、なにを思うのだろうな」 「なにも、考えられなくなるのじゃないのか」と裕明は答えた。  外はまだ日盛りで、ときおり黒塗りのセダンが猛スピードで走りぬけると、街はまた死の静寂に支配された。バナナジュースの氷は、こまかく粉砕されていたのでどんどんとけだし、三杯目のジュースは水っぽかった。三杯飲むと、でた汗の半分くらいは回復した気がした。 「つぎも、バナナでいいのか」  とつぜん、男が会話に割りこんできた。  その言葉を聞くと、両肘をテーブルのうえにつけて手をくんでいた裕明は、眉間に皺をよせて目をつむり、口を真一文字にむすんだ。静かな時間があった。やがて目をひらくと、テーブルにおかれた空のコップをみつめ、首をあげてシークの男をみあげ、どすの利いたひくい声で、ぼそっといった。 「ふざけんな」  日本語だった。意味は分からなかっただろうが、雰囲気はつたわったはずだった。 「もう、いいのか」  ターバンの男は、ふたりをするどい目でみおろしながら、また聞いた。 「もう、用はないのか」  ふたりがだまっていると、太いひくい声でいった。 「飲み終わったなら、おしまいだ。ここは、飲用者、専用の場所だ。用がないのなら、もう帰れ」  ふたりは、無言でじっとみかえした。  ゴリラにみえる大柄の店主は、毛むくじゃらの太い腕を厚いたくましい胸でくみ、彼らがすわったテーブルのまえで背筋を伸ばし、大きな目をむき、仁王立ちになって裕明を傲然とみおろしていた。右の手首には、銀色のカラーがぎらぎらと輝いていた。さらに太い腕をくみなおすと、右手の人差し指を裕明にむかって立て、目をみすえて大声でわめいた。 「ここは、休憩所だ。バナナジュースは、サービスだ。水を飲んでも、三〇分で二ルピーだ。分かったか」  ゴリラの咆哮は、蒸した室内に木霊した。裕明がだまって、じっと自分を睨みかえしているのをみると、大男は口をあけて大きく息をすいこんだ。さらに、かみつかんばかりの勢いで、なにかを唸ろうとした。  そのとき、裕明はとつぜん床のリュックをとりあげた。不意をつかれて、シークの男は身体をすこしのけ反らせた。彼は、紐をといて荷物の中身をごそごそ整理すると、茂をみて、立ちあがっていった。 「帰ろうぜ。長居しすぎたらしい」  その言葉で、茂も立ちあがった。彼は、かなり不愉快だったが、この場面では仕方がないと思い、床のバッグをもちあげた。  裕明は、リュックを背負うと、なおも腕ぐみして傲然とふたりをみおろしている店主にむかって、「せっかくの昼休みの時間、仕事をさせて悪かったな」と英語でいった。その言葉を、シークの大男は満足そうに聞き、ゆっくりと何度かうなずいてみせた。 「おわびに、これをやるよ。手をだしてくれ」  そういって、裕明は右手でズボンのポケットをさぐった。ずいぶん寛容な奴なのだなと、茂は思った。 「手を、だしてくれ」  そういって、裕明はにぎりしめた右手をさしだした。  シークの男は、日本人の異質な感覚に驚いていた。この場面で、まさかチップがでてくるとは考えてもいなかった。男は、くんでいた腕をひらいて、ふたつの大きな手のひらをさしだした。  裕明は、かるくにぎった右の拳を、あわい黄色の大男の手掌においた。左手をつかって自分の右手を、大きな男の手のひらでつつませながら目をみつめ、「充分に冷えた、素晴らしいバナナジュースだった。こんなにうまいジュースを飲んだのは、うまれてはじめてだ」といった。  その感謝の言葉に、大男はやや表情をくずして大きくうなずいた。ぬいた右手もそえて男の両手を裕明が左右の手のひらで優しくつつみこみ、「邪魔したな、それじゃおれたちは、これでいくから」とつげた。  大男は、彼の目をしっかりとみて、「サンキュー、サー」といった。  ふたりが白いカウンターとブロックのあいだのせまい通路をぬけたとき、後ろで悲鳴が聞こえた。なにかが、茂の足元に飛んできた。小さな、緑のカエルだった。  裕明は振りかえり、両手を胸のまえにひろげてあきらかに驚いているシークにむかって、「これもチップだ、とっておけ」といってポケットから、なにかを投げた。それは、縄みたいなものだった。また、悲鳴が聞こえた。 「これもチップだ、遠慮するな」  裕明は、さらにポケットから縄状のものをいくつかとりだして男に投げた。茂にはよく分からなかったが、たぶん、「蛇」なのだろうと思った。  裕明は店をでると、右手をあげて「またな」と挨拶し、駅にむかって歩いていった。  二、神の御つかい、先触れ  茂は、裕明の後ろ姿をみていたが、やがて車道をわたりはじめた。そのとき、ふっと頬になにかがあたった。触れてみると滴だった。みあげると、空はとつぜん怪しく変わり、ぽつりぽつりとふりだした。「雨だな」と茂が思ったときには、その脚は急にはやくなりはじめた。入り口をぬけて広場に入ると、猛烈なスコールがはじまっていた。大きな木が立っていたので、幹の根元で雨宿りをした。生いしげった葉に、雨滴があたる音がひびいた。木の葉は、つよい緑で密生していたが、しだいにふってくる雨をさえぎることができなくなり、滴は大きな塊となり、ぼたりぼたりと落ちはじめた。茂は、リュックから傘をとりだして荷物を背負いなおすと、ぼんやりと立ったまま水浸しの光景をながめていた。  雨が、激しい勢いで地面にたたきつけられ、大音響がしていた。滝といってもいいくらいの厚いベールになった水の壁が四方をとりかこみ、みえるかぎりの世界はけぶっていた。干あがった地面と乾き切った木が、天の恵みを一滴ものこさず飲みほしていく。聴覚も視覚も、水だけにしめられている。  二〇分も、つづいただろうか。ふっと、小鳥のさえずる高い声が聞こえてきた。もう、雨はすっかりやんで、真っ青な空がみえ、大気は湿るというよりしっとりとしていた。  茂は傘をたたみ、リュックをかついで広場を歩きだした。水溜まりをよけながら中央にむかっていくと、マッサージ士が店をだしはじめていた。 「ねえ旦那、雨があがったばっかりだ。これから、風が吹くよ。気持ちがいいから、一ルピーにしておくよ。どうだい、旦那」  マッサージの痩せた男が、声をかけてきた。水が、風をよんできた。大気が、よみがえりはじめていた。彼は、揉んでもらうことにした。  すこし湿った感じの麻紐でできた、背のひくいベッドのうえに腹ばいになると土がみえる。小さな水溜まりがいくつもあり、先ほどまでの熱気をどんどんすいこんでいた。いままで気がつかなかったが、草が生えているのが目に入った。丈のひくい緑は地面をずうっと覆い、雨に濡れ、輝きを増していた。光る草の滴を揺らす柔らかな風は、遠慮がちに茂の頬も撫でていった。 「いいところに、きたねえ。みんな、この雨を待っていたのだよ。これから、ちょっと涼しくなる。旦那は、ずいぶん遠くからきたのだね。国も、こんなに暑いのかい。毎日、こんな天気だよ。慣れてはいるけど、閉口もするよ。だれのせいでもないのだから、仕方がないわな。ひどいふりだったが、濡れていないのはうまいぐあいにやりすごしたのだね。ついているよ、旦那は。気分は、どうだい」と男が揉みながら聞いた。 「やあ、いい気持ちだ。最高だ」と茂は答えた。  すると、とつぜん肩に入っていた力がぬけていくのを感じたので、「どうした」と彼は聞いた。 「一ルピーはここまでだ。もうすこしやれば、ずっと身体が楽になるのだが」と男はいった。  茂は、すこし考えたが、目の前においてあったリュックから財布をとり、紙幣をだした。「もうすこし、やって欲しい」といって男に手渡した。  肩の筋肉が、ほぐれてきた。雨上がりの気持ちのいいそよ風をうけて、背中にまわりはじめた男の指先を感じ、穏やかで静かなときに気づいた。まわりで、すこしずつ人がうごきまわる気配がしてきた。ああ、そうか。ここに人がいたのだ。だから今日、この広場を目指したのだ。茂は幾分か夢見心地になり、昼のわけの分からなかった自分の行動を思いかえしはじめていた。みあげると、空は真っ青だった。小鳥のさえずりが聞こえ、ゆっくりと時間が、ながれはじめていた。 「そうか、旦那は日本人かい。小さい島だって、聞いているよ。世界の端っこらしいけれど、凄い国なのだってな。インドにあるのは、国産の粗悪品ばかりだけれど、いい品物は、みんな日本がつくるのだってな。どんなものでも、製造するって聞いているよ。それも、いっぱいつくるのだってな。それでみんなが大金持ちで、金をばらまきながら世界中を歩いているのだってな。日本にうまれて幸せだ。運がいいよ、旦那は。気分は、どうだい」と男はいった。 「最高だ」と茂は答えた。そのとき、男が揉むのをやめた。 「どうしたのか」と茂はたずねた。 「なにさ。腰までいくと、もっと気持ちがいいのだが、そこまで揉んでみたいのだが、残念だがここでおしまいだ。最後までやりたければ、もう一ルピーが必要だ」と男はいった。  夢の世界に、あとひと押しのところだった。最後までやりたいと茂は思った。彼は、もう一ルピーを支払った。  腰が揉まれている、気持ちがいい。緊張した筋肉がときほぐされ、こりかたまった部分が柔らかくなり、とどこおった血液が、ふたたびながれはじめる。指は腰からまた背中にもどってくる。気持ちがいい、押しこまれた心が解放されていく。たまった乳酸が、押され、不要物と認定され、血管に排出される。いい気持ちだ。そう、そこ。もうすこし下だ。その腰の部分。いや、下をやってもらいたい。木々の葉の甘い匂いを感じる、いい気持ちだ。ずっと、つづけてもらいたい、そのまま。茂がそう思っていると、男が揉むのをやめた。 「ここまでは、触りみたいな、ものなのですよ。旦那、これからが本番なのだが、気持ちがいいですよ。保証つきです。揉んでみたいのですがね。旦那、やりませんか。もう、三ルピーでどうですか」と男が聞いた。  茂はむっくりと起き、じっとマッサージ士をみつめた。真っ黒く、痩せた小柄な男で、よれよれの褪せた色の服をきていた。不揃いの、ひげが生えていた。 「おまえ、さっき最後までやるっていったじゃないか」 「旦那。いままでのが、最初のマッサージの終わりだよ。これから本格的なものがはじまるわけで。これが、気持ちがいいのですよ」 「それだって最高のマッサージの第一段階で、もっとうえがあるのだろう」  茂はいった。 「そりゃあ、そうで。なんだって、うえをみたら切りがありません。下だってかぎりがないのですから。はっきりしているのは、ここでやめるのは損です。つぎが、いちばんいいところなのです。なんていったって、本番なのですよ。つぎが、そうなのです。こういう話になって誤解もあったのですから、二ルピーでいいですよ」  茂がじっとみつめると、男はにやりと笑った。 「分かった、もういい」  茂は、そういって起きあがった。  「もうすこし、つづけてもらいたかった」  公園の土の道を歩きながら、揉まれたあとの心地よい余韻を覚え、茂は残念で不愉快にも思った。そう感じるのは、あのマッサージ士の腕がたしかなもので、金を払う価値がある技術だとみとめたことにほかならなかった。技量と報酬のつりあいが、どこでとれるかという問題で、両者はつねにせめぎあいながら妥当な決着点をさがしている。あの時点でマッサージを終了させた原因は、マッサージ士のせいではないと理解できた。なぜなら茂は、提示された額を払える金をもち、選択権はずっとあたえられていた。それに、もうすこしという気持ちは一瞬ではなく、けっこうながくつづいてくりかえすもなのだ。この、「いま、すこし」の状態こそがお金をうみだす瞬間で、ここで交渉しなかったら、彼は懸命にやる理由もうしなってしまうのではないかと茂は思った。  歩いていると、雨上がりの公園は特別に気持ちのいいものだと分かってきた。爽やかな風が吹き、のこった滴が木の葉からこぼれ落ちていく様子に、そっと心に触れてくる風雅を感じた。なにもかも、公園に入ったときとは違ってみえた。世界は、鮮やかによみがえっていた。みた風景だと思うと、先ほど駆けこんできた公園の入り口についた。炎天のなかで裕明が立ちながら考えこんでいたひろい石畳があり、八車線の舗装された幹線が目に入った。茂は、きた道をもどりはじめた。四時ころだった。  どこからやってきたのだろうか、歩道は人びとであふれていた。すこし湿った道を駅にむかって歩きはじめると、大きな日傘の陰で、サトウキビのジュースを売る店がでていた。「買うよ」、「購うよ」。闇ドル買いの男が、ねっとりとした不快な大気をまきちらし、茂の行く手を何度もさえぎった。「お恵みを(バクシーシ)」という乞食の声。きりきりと全身を刺す、するどい視線。世界は、ひとときも落ちついておらず、また変わりはじめていた。よい物と悪いものが、つみかさなる。重みで下から消えていく。うえには、さらによい物と悪いものがなんの脈絡も不明にかさなり、それは、いつまでもくりかえされる。時間も空間も、果ても終わりもなく。  そのときだった。不意にタンバリンの音が聞こえてきた。高いすんだ音色だった。なつかしい、激しい、震えるリズム。それが、嬌声を押しのけていく。 「この男は、いったい、どこからやってきたのだろう」  茂はまず思った。こんなに神々しいタンバリンの音色を聞いたのははじめてだった。  五〇歳ちかくにみえる額にふかい皺がきざまれた男は、両脚が根元からなかった。太ももにあたるところに、凸凹とした爛れた肉芽が目に入り、褌がわずかに部分を覆うだけだった。黒い肌の男は、スコールによってすっかり癒やされた石畳の歩道のうえを、体躯を右に左にとくねらせながらすすんでいた。真っ青な空にむかって、右手にもったタンバリンを高々とかかげた。それを激しくうちならし、ひびきとともに背中で前進していた。  タンバリン。すんだ音色。浮き浮きしてくる、タンバリン。情熱的で、つよく激しい、どこか荘厳ですらある、素晴らしい太鼓。 「どこから、きた」  茂は、歩みよるとたずねた。言葉は通じず、男は、その代わりに、彼の瞳をみいって懸命にタンバリンを鳴らした。 「アッチャ(good)」と茂はいい、一〇ルピーをさしだした。  黒い瞳だった。男は満面の笑みになり、左手でその紙幣を鷲掴みにすると、いっそう高々とタンバリンをかかげた。真っ青な空の下で、たくましい黒い肌の男性は眩めいてみえた。生きていることに、思わず感謝したくなる、満たされた思いが茂を激しく揺すった。目の前にいるのは、みるだけで穢れる不可触民。その最下層ともいえる太鼓のカースト、パライの男。虫けらにも等しい、大道芸人。その魂が、おなじアウトカーストの仏教徒、茂の心をつきうごかしていた。  この男性が、どこで、どんな風に日々をすごしているのかなにも知らなかった。すくなくともいま、ヒンドゥーの神にも見すてられたはずの男は、みずからの生を高らかに歌いあげ、誇っていた。  やがてタンバリンの音はさらに高まり、腕、肩、背、腰を振るうごきも、いっそう激しさを増していった。世界は、恍惚のときにつつまれた。神は、この男性より高い玉座にいるのだろうか。男の巨大なリンガは、揺れうごいていた。いまここに、シヴァ神が降臨していた。最高神のナタラージャが、舞っている。この瞬間、茂は神と触れあい、まじりあって、愛しく潤う巨大な宇宙のリビドーのながれに身をまかせていた。生きているって、なんて躍動的で迫力があるものなのだろうか。いつだって、考えていた。生きるって、なんなのだろう。自分は、どの場所からきて、どこへいこうとしているのだろう。なんだ、それは。悩みなのか、嘆きなのか。そんな問いなど、ふっ飛んでしまう。なんて、つまらないことを考えているのだ。せっかく、生きているのに。どうだっていい、思いのままにすすんでいこう。この男に会うために、暑い日盛りをさ迷っていたのだ。巡りあい、教えてもらおうとインドにきたのだ。茂は、そう思った。  その姿にみいっていると、路上の人びとが一斉にあわただしくうごきはじめた。一瞬で雰囲気が変わり、はりつめた空気が支配した。旅行者以外の、そこにいたすべての者が、コンノート広場にむかって一目散に走りはじめた。遠くから大きなエンジン音が聞こえ、やがて灰色のトラックがみえた。貨物自動車は、茂の目の前にとまると、なかから白い制服をきた幾人かの警察官が飛びだして、タンバリンの男をかかえあげ、車の荷台にほうり投げた。そこには、汚れたながい髪の女の子、腕や脚のない男たちが何人かのっていた。そしてまた、四輪車は走り去っていった。  轟音だけが、のこった。  だれもいなくなったひろい通りに、茂はひとり、とりのこされていた。  インドの首都デリーは、ムガルの帝都だったオールドデリーと、その南につくられたニューデリーからできている。もともとの人口は三〇万くらいだったが、一九四七年のパキスタンの分離独立後、難民がつぎつぎに押しよせ、一挙に七〇〇万の大都市になったといわれる。しかし政府が発表する「七〇〇万」という数字が、なにをさすのか、だれにも分からないのだ。行政府は、街の中心になるコンノート広場に通じる道をつねに整備し、くりかえし「清掃」が行われた。脇道に入ると、建物の壁にはペンキで抗議文がかかれているのを幾度も目にした。 「思いだして欲しい。あのころの貧困と飢えを」(Remember Poverty And Hungry)  インドの魅力は、だれにも管理できない素顔だった。この国の根本をなおすのは、神さまでも無理だと感じた。だからといって、道の乞食をいくら排除しても、一時的にいなくなるだけだった。つぎの者にとって代わられるだけなのは、だれでも知っていた。無尽蔵にいる乞食を、ほんとうになくせられれば、たしかにこの国は変化するだろう。 「なんでインドが、みてくれを気にするのだ」  茂は、だれもいなくなったひろい通りで、大声で叫びたかった。 「どこへでもいいから、汽車にのろう」と彼は思った。  ところが、折からのフラッド、大洪水だった。鉄道はずたずたで、どこへいけるのかも分からなかった。日はとっぷりと暮れ、宿をさがすのにはおそすぎた。それでも茂は、数軒のホテルをまわってみた。どこも満室で、あいている宿屋は、彼が東洋の若者であるのをみると、飛んでもない値段を要求した。払えない金額ではなかったが馬鹿ばかしく感じて、道の真ん中で立ちどまっていた。  すこしまえからまとわりついてきた痩せた男が、宿を紹介するから、ついてこいといった。インド人が茂を心配してくれるはずはないので、いつもなら絶対についていかないところだったが、彼はひどく疲れ、すべてがどうでもいい気がした。ほそい路地を入ってすこし歩くとながぼそい建物があり、玄関をぬけるとたしかに宿泊施設らしく、廊下いっぱいにビーチでつかう折り畳み式の簡易ベッドがならび、かなりの人が横臥していた。薄暗い廊下で思案しながら茂が立ちどまると、男が部屋はもっと奥だといった。すえた臭いを感じて、彼は気が変わった。 「帰る」といって出口にむかうと、男は追ってきて心変わりをしつこく責めた。ながくつづいた押し問答のあとで、一ルピーだけやってそいつと別れた。それから、もうすっかり暗くなった道を迷いながらとぼとぼと歩いて、夜陰のなかであかるく光るニューデリーの駅にもどってきた。  そこは、人びとでごったかえし、喧騒が支配していた。なにもない空間は、ひとつもみつけられなかった。あらゆる間隙はうめつくされ、どんなにわずかな場所でも見逃されず、人びとは思いのまま布をひろげ横たわっていた。構内の照明はぎらぎらと脂ぎった光を発し、その眩しさのなかで数多の人たちが蠢いていた。大きな話し声や甲高い笑い声、喧嘩の叫び声。ひとりで大騒ぎしているラジオ。だれも、味わうことなんてできやしない。気が狂ったラジオからながれでて駅舎のなかにひびきわたり、津波状に反復するヒンドゥーの音楽。一〇〇〇万都市、デリー。まるで、この街のすべてが、小さな構内の一点に押しこめられ、それでいてどの人も自分の権利を声高に主張していた。そこは、人びとであふれていた。  茂は、わずかな間隙をみつけ、背負っていた荷物をまえにおくと、自分を見失ってしまいそうな人の大洪水のなかで、「どの列車ならのれるのだろうか」と思案しながら、時刻表のはられた壁をながめた。そこには、「CANCEL」の文字が、くりかえし大きくかかれていた。みると、構内に林立する多数の柱は、意味不明の紙に覆われていた。さらにみまわしてみると、目にできるあらゆる壁は、わけの分からない「なにか」にしめられていた。それは、ちょうどバザールで売られるインド木綿のプリント文様とおなじで、必ずなんらかの図柄でうめつくされていた。たしかに、インド人はゼロを発見したに違いない。ぐるりと構内をみまわしたとき、ふっと自分の荷物がうごくのが目に入った。たおれながら、茂はリュックにしがみついた。  もちさろうとした男は、必死になって阻む持ち主をみて黒い手をはなした。彼はじっと茂をみつめると、「なんだ、おまえのか、落ちているのかと思った」そんな感じで、両手をひろげ、首をすくめた。どこでも手のとどく範囲、距離にすれば、だいたい一メートルなら所有権を主張できるのが普通だった。それが今日の混雑した構内では、間隔は半分にちぢまっているらしかった。  必死にまもった大事なリュックを脚のあいだにはさんで、ぎらぎらとした光、気違いじみた騒音に両手で頭を押さえてぼうぜんと立っていると、「どこからきたの」という優美なソプラノが背後で聞こえた。驚いて振りかえり、そこにひとりの女性の姿をみとめて茂は息を飲んだ。こうこうとした光線と狂騒のなかに、白いベールにつつまれた天使が立っていた。  ふかくすんだ大きな黒い瞳で、じっと茂をみつめる、シースルーのうすい布で髪を覆った乙女は、かつて出会ったこともない美貌で魅力的だった。背中には、神の寵愛をうけた者だけがもつ、一点の曇りもない清らかな翼がみえた。若い修道女だった。 「日本人です。東洋の果ての、小さな島からやってきました」  茂が答えると、健康そうに揃った白い歯並びをみせて、天使は笑った。なにか、とても面白いことを発見したらしく、ほんとうにおかしそうに肢体をくねらせた。 「どう、したのです」  彫りのふかいととのった顔立ち、それでいて、ふっくらとした頬の修道女をみつめながら、茂は聞いた。一七、八歳にみえた。背丈は、一六〇くらいの均整のとれた身体つきをしていた。電灯に照らしだされた白い僧衣が、茂のまえできらきらと眩しく光っていた。その心も、衣服とおなじく一点の汚れもなく、純白にみえた。 「両替して、もらいたいのだけれど」  ベールの美女は、右の手のひらをだして一ルピーの硬貨をみせた。 「簡単なことです。喜んで」  なんだか分からないことだったが、茂はポケットをさぐり、急いで小銭をとりだすと一〇〇パイサを勘定した。手のひらにのせ、 「これでいいの」と聞いた。  さまざまな種類の硬貨がならぶ、茂の手掌をじっとみつめて、天使は、首を右にかたむけ、なにかを考えていた。やがて、こまった顔になって彼をみていった。 「五〇パイサが、二枚欲しいのよ。私」  すき通る清らかな声だった。声音は吹きぬけの高い石づくりのうえのほうから、まるで天界に住む乙女が奏でる琴の音となって、周囲の騒音とは、まったくべつなルートでとどいてきた。ひとつひとつの単語が、はっきりと聞こえた。茂の手掌にのっていた五〇パイサは、一枚だけだった。どういう意味があるのか、さっぱり分からないことだった。からかっているのだろうか。しかし、茂には、すんだ瞳にみえた。 「ちょっと待っていてね。すぐに替えてきます。手持ちはありませんが、あなたのご希望にそうことができます。そのあいだ、ぼくのリュックをみていてくれますか」  茂は、脚にはさみこんだ全財産が入る荷物をさして、若いシスターにいった。  天使は一瞬きょとんとし、両脚にはさまれたリュック確認した。もう一度、彼をみて、「もちろん、いいわよ」と答えた。  茂は、天使の瞳をみつめ、うなずいた。売店にいき、一ルピーで新聞を買い五〇パイサを手にいれた。それは、すこしのあいだだったが、もどってきたとき、美貌のシスターがリュックに腰をおろして待っていてくれたのをみて嬉しかった。天使に五〇パイサを二枚わたし、一ルピー硬貨と交換した。 「ありがとう」  若い尼僧は、嬉しそうに微笑んでいった。 「ずいぶん綺麗な、素敵なものですね」  尼僧の手首に嵌められたブレスレットをみて、茂はいった。すき通った薄紅色のビーズがつながった腕輪は、天使にマッチしていた。 「カーネリアンよ。祖母から母がもらい、そして私がうけついだ先祖からの宝物なの」 「宝だったのですか。なにかもっと、ぼくができることはないのですか」  その言葉を聞くと、尼僧は茂の瞳をみいって微笑みを浮かべた。 「親切にしてくれたから、大切なことを教えてあげるわ」 「大事な情報ですか」  茂は、いぶかしげに聞いた。 「そうよ。あなたにとって、世の中にとってよ」 「この世界、ですか」  その言葉に、天使は大きくうなずくと口をひらいた。 「どこへいったらいいのか、分からないのね。教えてあげるわ。ガンガーのちかくにいきなさい。たくさんの素敵なことが、あなたを待っているわ。さがしているものは、きっとそのちかくにあるはずよ。そこから神さまに出会い、あなたが望み、待っている人を、みつけることができるわ。神が、そういっているわ」 「神さま、ですか」  思いがけない言葉に、茂はくりかえしていった。 「分かりましたか」 「はい」 「だめよ。しっかりしなくては。こんなところで、へばっていてはだめ。あなたは、これから、たくさんの楽しいことに出会うのだから。元気をださなければ。分かりましたか。それじゃあね、いい旅をね」  燦然とした羽につつまれた天使は、真面目な表情でいった。  茂は、そうすると答え、右手をさしだした。シスターは、その手をにぎりしめた。右の手首の二連につながったカーネリアンのブレスレットは、握手に揺れてリズミカルな音を奏でた。天使は、一〇メートルほど離れたところで布をしいてすわっていた尼僧仲間の輪にもどり、なにかを喋ると、みんなが笑って茂をみた。七、八人いたが、彼も笑いをかえした。どの娘も綺麗で、天使にみえた。  そこにすわっていた彼女は、すっかり混乱した茂に気がついて、助けてくれたのだった。異国で困難に出会い、綿どうぜんに疲れ果てている彼をみて、かわいそうに思い、心配したのだ。そして、一ルピーが五〇パイサ二枚だということを、教えてくれたのだった。  茂の気持ちは、すっかり変わってあかるくなった。この街であったいやなことも、くたくたに疲れているのも、みんな忘れてしまった。自分の身のまわりに起こった、さまざまな出来事のすべてが、充分に理解できたわけではない。はっきりしているのは、若い尼僧が、茂にあたらしい力をあたえてくれたことだった。赫々とした光と喧騒の支配するニューデリー駅の構内で、布を一枚しいて横になり、そこで彼は一夜をすごした。  三、バスのなかで    茂は、橋のうえからガンガーの下流をみていた。  ガンガス河は、もの凄くひろくて、まるでとまってみえるほど穏やかにながれていた。西にはベナレスの街があり、東にはなにもない砂丘と灰色の原野が、みわたすかぎり延々とひろがっていた。マルカルニカーの焼き場から、ヒンドゥーが天に召されていく煙がみえた。ベナレスは、世界でたったひとつの死ぬためにつくられた街で、ヒンドゥー教徒の墓場だ。あらゆる罪は、ガンガーによって清められ、魂は川面を緩やかに吹きぬける風により神々の住む月世界へとはこばれていく。  東がわの砂丘に人工物をつくってはいけないと、法律で決められているらしい。ガンガーの日の出は、なにもない地平からあがってはじめて価値があり、人間の手が触れられない場所が身近に存在するということ、それが聖であっても賤であっても、神と人とがともに暮らすという特別な配慮によってできる発想で、つねに分相応から物事をはじめるヒンドゥーの基本的な思想だ。  ベナレスは、シヴァ神の街だ。破壊神、シヴァはヒマラヤのカイラーサという山に住んでいる。人跡未踏の極寒の地で、雪豹の皮一枚を腰に巻いて裸形で瞑想する苦行する偉大なる神、マハーデーヴァである。そしてまた、ヒマラヤの神さまの娘、妃パールヴァティーのシャクティーをえて、宇宙をダイナミックに踊る舞踏神、ナタラージャでもある。  よく晴れた日、パンジャブでは、朝日とともに白く照り輝くカイラーサ山がみえたに違いない。インド・アーリアは、インダス河の流域パンジャブ一帯で、かつて古代文明をきずいた人びとの末裔ドラヴィダ民族のつよい抵抗にあい、この地方を制圧してガンジス河に進出するために数世代もかかったと考えられている。ヴェーダのなかに、そうした記述をみつけることができる。もちろん、すべてのドラヴィダが制圧されたわけではなく、対等な関係をきずいた首長もいて、このあいだに両者は融合をふかめたのだ。  パールヴァティーの妹、ガンジス河の女神、清浄なるガンガーは、シヴァの頭からながれだす。だから、ガンジスをささえる神、ガンガーダラでもある。シヴァが怒ると、ガンガーは氾濫して人びとに不幸をあたえる。その激しさは際限がなく、川幅を数倍にひろげ、ベナレスの街を海にしてしまうことができる。だから、シヴァは恐怖すべき神、バイラヴァでもある。しかし、なんで怒ったのかは、人間には分からない。だから神さまで、今日は気持ちも和んで、優しくしてくれていたわけだった。河は、ゆっくりとながれていた。  幅が一〇メートル以上もある石づくりの橋の欄干にもたれて、ゆったりとうごくガンガーをながめていると、物乞いをする者もなく、静かで神を身近に感じることができた。 「茂、じゃないか」  背後で、男の声がした。  それは、なつかしい声音で、デリーで別れてからひと月くらいがたっていた。その橋のうえで、裕明と茂はならんで灰色の欄干に肘をついて、ゆったりとながれるガンガーをみながら立ち話をした。  夕方で、清々しい風が吹いて、すみ切った空にさまざまな鳥が飛んでいた。ふたりで、ベナレスについて話しあっていた。そのうちに、どちらからというのではなかったが、「いっしょに旅をしてみようか」と話になった。 「どこが、いいかな」と裕明はいった。  ふたりは考えてみたが、とくにいきたいところはなかったし、どちらにむかってもおなじだと思った。時間もあったし、なにをするのも自由だった。だれかに指図される、筋あいも義理もなかった。 「どこでも、いいな」と裕明がいった。 「それじゃあ、神さまに聞いてみるか」と茂が答えた。 「そうだな。神さまなら、きっと正しい選択をしてくれる」  裕明も、賛成した。  茂は、コンクリートの橋のうえに、一ルピーのコインで大きく十字に線をひっぱって、いっぽうにNと、もう片方にSとかいた。それで硬貨を、すみ切った真っ青な空にむかって思い切りほうりあげてみた。投げられたコインは、魂を神の国にはこぶガンガーの川面を吹く柔らかな風をうけて、裏に表になりながらゆっくりと落ちてきて、ふたりがみているまえで橋の石にぶつかって、固い音を立てて跳ねかえった。さらに、もう一度落下し、今度はくるくるとまわり、おもむろにたおれた。みてみると、コインはNの真うえにあった。 「真北だな」と茂がいった。 「そうか」  裕明は、しゃがみこみ、ながい髪を両手でかきあげた。腕をくんで、橋のうえに表になって落ちた一ルピーのコインをじっとみつめていた。やがて「うーん」と唸って大きくうなずき、「ヒマラヤだ」とぼそりと呟いた。  こうして話がまとまって、真っすぐ北を目指すことになった。ふたりは、その足でバスのステーションにいき、国境いきのチケットを買った。 「じゃ、明日、ここで」  茂は、裕明にそういい、それで別れた。  翌朝ふたりは、ネパール国境へとむかうバスにのった。  先頭部分がつきでてボンネットになった車体は、薄黄色だったが、土ぼこりでひどく汚れ、過去に起こったさまざまな困難に耐えたことを証明する夥しい数の傷や凹みがついていた。バスは、いつでも引退の覚悟ができ、じっとみると自然とノスタルジーを感じた。  車内には、前方の運転席の脇に二段のステップと、ただひとつの手動の扉があり、ふたりがけの座席がせまい通路をはさんで一〇ほどもつらなっていた。彼らの席は運転手のすぐ後ろで、裕明は通路がわ、茂は窓がわだった。固い座席はビロードだったが、毛羽は昔の半分ほどにすりへり、いまは灰色にみえた。手のひらをつかって、なつかしむ感じでそっと触れて糸を起こしてみると、根元の色調は、ほんらいが鮮烈な青であったことを主張していた。  八時にベナレスをでたバスは、昼まえに食事のためにとまり、一時すぎにも休憩所に立ちより、昼さがりのインドの大地を北にむかって走っていた。朝からの快晴だったが、日はますます勢いをえて、力のかぎりに不毛の荒地を照らしていた。窓は、全部しっかりとしめられていた。もしあければ、熱風が吹きこんでくるに違いなかった。クーラーなど、設備されているはずはなかった。炎天の車内は、煉獄どうぜんで、たらたらと滴り落ちる汗をタオルでぬぐい、窮屈な椅子にすわったまま、水を飲むしかできなかった。しかし、さらに大問題があった。  バスのなかは、目茶苦茶にうるさかった。  わけの分からない音楽が、鳴りひびいていた。乗客全員は、それが音をだすだけと充分に知っていた。締め切ったバスのなかで、鼓膜をやぶってやろうという意志が感じられるほどにボリュームを最大限にしたラジオは、とうぜんのことだが、だれも聞いてはいなかった。いちばん後ろの席の男が、自分の所有物を自慢していただけだった。彼は、思っていたはずだ。 「おれのトランジスタラジオは、最高級品だ。音量を最大限に調節しても、電池は長持ちするし、壊れもしない。こんないいものを、もっているのは、おれだけだ」と。  その持ち主の気持ちを、小さな器械は力のかぎり代弁していた。  しかし、もたない連中だって、だまってはいなかった。そんな道具がない分だけ、ラジオの音に負けまいと、声を振りしぼってさかんに話をしていた。彼らにとっても、不愉快だったに違いなかった。しかし、自分たちの声のほうが最高級品のラジオの音量よりも大きいことを示して、持ち主に恥をかかせようとしていた。だから後ろの男は、ボリュームを最大限にあげたのだ。  みんなが力のかぎりに声を振りしぼれば、ラジオの音だって小さく聞こえる。これは、たんなる相対的な問題だった。しかし、そうすることによって、ラジオなんて所詮はつまらないもので、自慢するほどの道具ではないと後ろの男に証明できると信じていた。  こうした信念が、たがいに限度をこえてきていた。棒でバケツを思い切りたたくとしか表現できない、意味も不明で終わりも分からない大騒音は、締め切られた空間で行き場をうしない、車内に停留していた。  バスは真っすぐ、北を目指して走っていた。つよい光にさらされた大地は荒涼とし、行く手には地平線にそって山がつらなり、その先にはあわい雲がかかり、果ては分からなかった。土でできた道は充分な舗装ではなく、行き交う車もなく、周囲は右も左も背のひくい灌木が、ぽつりぽつりと申しわけなさそうに生えているだけだった。上空からみれば、日があふれるばかりにふり注ぐ、みえるかぎりの大地に、芥子粒ほどのバスがひとつ北にむかっていた。うごきのあるものは、これひとつだった。静寂が世界を支配し、さまたげる物体は、なにもなかった。しいてあげるとすれば、じりじりという日差しと乾いたわずかな風くらいか。だが、そのうごく芥子粒にちかよってみれば、激烈な音響が虚空にむかってはなたれていた。  まさにサウナと化した車内は、ぎらぎらとした外の日差しとは対照的に薄暗く、思いのほか、せまく息ぐるしい。汗が、止め処もなくでてきていた。原因を考えながら、よくみまわしてみると、座席にそって両がわに奥までつづく天井ちかくの網棚に、およそのせられるかぎりの小荷物がつめこまれていた。そのうえ、それでも積載できなかった手回り品が床に配置され、あきらかに通路をせまくしていた。また最後尾の座席は、通り路より一段高くなったロングシートだったが、席のうえにも、ほんらい足がおかれるはずの部分にも、けっこうな大荷物がうずたかくつまれ、背後の窓ガラスをほとんど覆い隠していた。  そもそもが、なぜ、これほどの荷物が必要なのか、リュックひとつで旅をする茂には、かいもく分からないが、彼らは実際にもってともに移動しているらしい。この人工物が外の風景をさえぎり、あかりが入ってくるのをふせいでいた。日盛りをもろにあびたいとはだれも思わないが、こうした圧倒的な壁も考えもので、陰鬱な気分をさらに増長させていた。  せまいというのは気持ちだけではなく、実際に物理的な問題でもあった。汗がこぼれ落ち、すえた臭いが蔓延していた。熱、湿気、騒音、窮屈、臭気。このなかにプラスのイメージは、ひとつもなかった。ただただ一刻もはやく、ここから逃げのびたいと思うだけだった。ダメージは、じょじょに身体に内包されていった。 「なんとか、ならないものかな」  茂は、深刻そうに裕明にいった。 「なにか、もっていないのか。このまえは、みょうなものをだしていたよな。仕事で、マジックでもしていたのか」 「あれは、うまく決まったよな。あのシークの顔は、忘れられないよ。ああいうものは、タイミングがすべてだな。最高傑作だった」  裕明は、思いだし笑いをした。 「人間は、ずっと蛇に悩まされてきたのだな。どの国にいったって、民族を問わず蛇類は嫌われている。蛇と縄との違いはすぐに分かるし、サルもおなじだって聞いたことがあるよ。経験では、最初にカエルをみせておくとロープでも間違えるな。あのシークは尋常でなかったが、これも耐え切れないな。この国は、普通でないよ。しかしこれは、どうにもならないよ。学生時代の宴会芸でさ。蛇の在庫はもうないが、いまここで薔薇の花束をだしたところで、なにも変わらないだろうな」  宴会芸だったのか、と茂は思った。騒いでいるラジオも、一回は電源を切られるかも知れないが、気がついたつぎの瞬間は、またこの状況だろう。薔薇の花束では、いかにも力不足だった。  振りむいて観察してみると、張本人は、いちばん後ろにすわる若い男だった。たぶんベナレスで大学にでも通っていて、用事があってネパール国境の親戚の家へでも、たずねるつもりなのだろう。足をくんでリズムをとっているが、自慢のラジオをイヤホンで聞くという発想はないのだろう。とはいっても、大声で話をしている一群も異様だった。対抗手段は、拡声器をつかっているかとも思える、すさまじい音響だった。あきらかにラジオを意識、もうすこし正確にいうなら敵視していた。この一群は、男三名と、女六、七人、それに幾人かの子供もくわわった大所帯だった。  午後の休憩で下車したときに、茂は確認したのだが、国境の村に住む田舎の者たちではないか。都会のベナレスで身内の結婚式にでも、出席した帰りではないか。つまれている大量の荷物も、そうしたことと関係があるのだろう。女たちは、黒装束のサリーをきていた。それがバスの車内をいっそう暗くさせ、息ぐるしいものに変えていた。夜の荒野に、目を光らせた山犬がひそんでいる感じだった。あきらかに車内を、外界から切り離していた。問題は、ひとつではなかった。どちらが先で、どれが後ろなのかは、もう分からなかった。汗がでて、頭痛がしていた。 「説得してみたら、どうだろうか」  とつぜん茂はいった。 「ほう」  裕明は、感慨ぶかい表情で茂をみた。彼が思いのほか真面目そうだったので、さらに驚いた。想像もつかない、かなり大それた意見に思えた。間違いなく、もう、へとへとだった。応酬は、さらに激しさを増すと感じられても、収まる気配はなかった。ここでありうる問いは、この荒野でバスをおりるかという究極の選択だけだと考えていた。いやしくも道は、古都ベナレスと北部国境をむすぶ大幹線だった。この国の生命線といっても過言ではなかった。周囲は、木もほとんど生えていない大平原だから、遠くからでもみわたすことができた。この道を歩いていれば、必ずやトラックが通り、いくらかだせば、ひろいあげてくれるに違いなかった。そう思いたかった。しかし実際には、ずっとみてきたが歩く者などいなかった。対向車線を走る車も、みあたらなかった。思いは、乾いた地面にすいこまれていった。  裕明は、この路線についてそもそも知識がなかった。これは、茂もおなじはずで、昨日駅で券を買ったさい、職員から「バスの終点から、徒歩でネパールに入れる」という話を聞いただけだった。そのときには、それが必要な情報のすべてだった。しかしいまは、最低、到着予定の時刻くらいは聞いておくべきだったと考えていた。  とつぜん、茂が立ちあがった。不審に思う裕明をのりこえ、通路の中央にいき、後方をむいて、「みなさん」と大きな声をだした。  しかし、気がついたのは、彼ひとりだった。四〇人ちかくもいるバスのなかのだれひとり、自分たちの行為に不服申し立てがあるとは考えもつかないことだった。それも、増してや他国の若い男が、などとはありえない事態だった。 「みなさん、聞いてください」  茂は後方をむき、もう一度大声で叫んだ。通路のほぼ中央にある発信源から生じ、幾重にもわたり層をつくっている音の壁に、辺境の声が入りこむ隙はなかった。それでも茂は、もう一度大声で叫んだ。その努力を知っていたのは、裕明ひとりだった。残念だったが、挑戦はそこにとどまり、ひろがることなく消えうせていた。茂は、音が幾重にもバリアーをつくる手がとどかない暗黒の中心部をみつめていたが、やがて裕明をみた。  そのとき、彼が視線をそらした。  茂は、激しい衝撃を感じた。なんと全幅の信頼をおいていた唯一の仲間が、「他人の振り」をしたのだった。気をとりもどして茂は席にもどり、車窓から、神があきらかに手をぬいた荒涼とした風景を力なくながめた。 「おりるのも、ひとつの方法だと思う。間違いなく普通の手段ではないが、みた目がどうであれ幹線だ。ここに日本人をふたりおいていくとなれば、運転手も心配だと思う。普通は、眠れないのではないか。かなりのっていたから、終点まで歩ける可能性もあるはずだ。この平原には、狼なんかがいるとは思えない。たぶん、生き死ににはいたらない。つまりだ、おりることは確実に普通ではないが、絶対ありえない選択でもないのかも知れない」  裕明は、茂をみながら切々といった。先ほど思いもかけず姿をみせた綻びが、ぬいなおされ、ふたたびふたりに連帯感がうまれていた。  茂の額からは、汗がだらだらながれ落ち、ぬぐうタオルもぐしょぐしょになっていた。頭ががんがんし、耐え切れないと感じた。逃れる方法を選択しなければならなかった。  茂は、振りかえって後部座席をみた。四〇歳すぎにみえる女が通路がわにすわり、となりに一〇歳くらいの男の子がいた。子供は母の腿に頭をのせ、ぐあい悪そうにぐたっとしていた。彼と目があうと、すくいをもとめる目差しをおくった。  裕明は、なにかが聞こえたと思った。茂をみると、唇をつよくとじ、眉間に皺をよせて押しだまっていた。どうしたのかと思っていると、彼はもう一度、立ちあがった。だまったまま通路にでて運転席の脇に立ち、運転する男となにやら話をはじめた。  これは、名案かも知れないと裕明は思った。この国では、バスの運転手はかなり偉かった。たとえば大通りで車が立ち往生し、ぶうぶうというクラクションの苛立つ音が右からも左からも聞こえる。なにが起こったのかとみると、自転車をこぐリクシャーと、タクシーが道の真ん中にとまっていた。運転手同士が話をしていて、たぶん接触事故なのだろうが、まわりの状況にはおかまいなしだった。当人たちは事故のことで頭がいっぱいで、交通渋滞は彼らの関心ではなく、平然と道の真ん中でわめきあっていた。そこに、バスがやってくる。運転手は、道の脇にとめると、おりて喧騒の真ん中に入った。なにを話しているのかは分からないが、だいたい二〇分から三〇分もすると、当事者たちはだまって立ち去っていく。つまりバスの運転手は、警察官であり、簡易裁判所の長でもあるらしい。かなり、カーストが高いと想像できた。しかし、裕明がほんとうに感心するのは、つぎの場面だった。バスは通常の街の交通機関で、出入り口には人がたわわにぶらさがり、定員の倍、おそらく一〇〇人ちかくがのりあわせていた。乗客は、いつ果てるとも知れない調停をずっとみているだけだった。街の普通の人たちで、用事だってあってバスにのっていると思うが、だれひとり運転手の行為に異議を申し立てなかった。席にもどると、さすがに拍手は起こらないが、とくに文句をいう者もいなかった。  茂が、財布からお金をとりだすのがみえた。なにをするつもりなのか分からないが、一〇ルピー紙幣を二枚みせていた。これは、また根性の入ったことだと裕明は思った。道は、真っすぐで対向車もいなかった。運転手も、茂の話をじっと聞いていた。そうだろう、二〇ルピーも目の前にだされたら、運ちゃんだって真剣になる。だまっていても、靴くらい磨くだろう。肩がこった仕草をみせれば、マッサージだってするだろう。頼めば、運転席だって代わってくれる。  運転手は、四〇歳くらいの大柄な男で、でっぷりしていた。ウエストは、優に一メートルをこえていた。腹がでていることは、朝昼晩、欠かさず食べられる証明書みたいなものだから、この国の人びとにとっては憧れではあっても忌避すべき事項ではなかった。だいたい、こんな太った男が運転するだけでも、かなりあぶない事態だった。椅子にすわると、ハンドルが腹につかえて思う方向に回転できなかったからだが、本人はそんなささいなことで、ようやく手にいれた体格を問題視する気持ちはどこにもなかった。  自慢のウエストのせいで事故が起きたとしても、専用の車両を用意しなかった会社が悪いので、彼の責任ではなかった。乗客も特別な者たちではなく、どんなことがあっても文句がつけられる筋あいのない、ひくいカーストだった。極端にいえば人でなくてもおなじで、犬や豚でも変わらなかったから、そんなくだらない連中が、バスのなかでなにをしようと、問題にもならなかった。  こんな馬鹿騒ぎも毎度のことだったから、耳栓でもつけていたのかも知れなかった。髪の毛は、みじかく切って揃えてあったし、櫛も入っていた。ワイシャツは制服だったのだろうが、糊までついてパリッとしていた。運転手が自分をどのくらいエリートだと思っているのか、はっきり分かった。  公務員のカーストは、この国ではかなり高かった。他人からみてもそうなのだから、本人からすれば、もうひと押しで神さまのところへ辿りつけると思っていたのだろうか。肌は、浅黒くて、丸顔だった。半袖のシャツからみえる腕も、太くて毛むくじゃらだった。熱と湿気が充満する車内で、汗をだらだらながしながら庇のついた帽子をはずさなかったのも、自分のカーストを誇らしげに思っていたからに違いなかった。こうしたことをふくめて、彼は、ごく普通の、この国のヒンドゥーだった。 「ここに、二〇ルピーある」  そういって茂は一〇ルピー紙幣を二枚とりだして、魅力的な腹をした男にみせた。道は真っすぐだったし対向車もなかったから、運転手はハンドルをにぎったまま、ちらりと彼をみた。 「なにを、すればいい」  ぶっきら棒だったが、でぶは、すぐに反応した。 「五分だけ、車をとめてもらいたい」 「聞いてやっても、いいよ」  でぶは、丸顔の眉を緩めて、にっこりと微笑んでいった。  なにもない大平原が、ひろがっていた。弱々しい体躯で黄色い顔をした男が、深刻な表情で頼んでいた。五分とめろか。腹でも壊したのか。身体つきをみると、もともと弱いのだろう。ひげさえ、満足に生えていなかった。貧相だ。希望することは、おおむね分かった。おそらく車内でされては、たいへん迷惑な行為だろう。こうしたばあいは、こちらから停車して命じることもあった。しかし、なぜ二〇ルピーもだすというのか。やはり日本人は内気で、身も心も弱くできているのだろう。でぶは、こんなことを考えていた。 「五分で、すむのか」 「大丈夫だ、だまって見逃して欲しい。そのために、金をわたすのだよ」  裕明は、様子をじっとみていた。バスの乗客は、なにも分かっていなかった。茂がでぶに話しかけていることも、ぜんぜん気がつかなかった。なにが、はじまるのかは分からなかった。しかし、その金は、口止め料で賄賂だ。きっと、意味のあるものだ。でぶがなにを考えたのか不明だが、茂は相当の覚悟をもって下手にでていた。 「日本人を、なめるなよ」と彼は思った。 「勝手にしていい。五分だけ、待っていてやる」  でぶは、いった。  車は停止し、運転手はエンジンを切った。乗客は、だれひとりとまったことにも気がついていなくて、エンジン音がなくなっても、車内は変わらずうるさかった。 「五分だ。いいよな」   茂は、もう一度、念を押した。 「いい。やれ」  でぶは、力強く答えた。  とつぜん、もの凄い雄叫びがした。耳が千切れるほどで、バスのなかはそれだけで、もう「シーン」となり、最後尾の男もラジオを消した。車がとまっているのに乗客全員が気がつき、最初にざわめきが起こった。異常な事態が生じていることを、みんながはじめて認識した。  だれがみても、騒いでいるのはこの国の人間ではなかった。その男が、運転手にむかって雄叫びをあげていた。それも普通なんてものではなく、限界を知らない声だった。  でぶは、ぎょっとして身をそらし、すこしでも茂から離れようと座席の窓がわにはりついた。なにせ、あれだけの図体だった。汗をだらだらながしている運転手は、一生懸命小さくなって隠れようとしたが、それは土台、無理というものだった。バスの壁に背中と両手両腕をはりつけて、飛んでもないという顔で茂を凝視していた。 「おまえが、いいといったんだ」  裕明は、その様子をみて思った。  でぶは、顔面蒼白で完全にびびっていた。あまりの茂の豹変に、ぼうぜんとして口をあけて言葉をうしなっていた。それにしても、飛んでもない声だった。 「いえいー。いえ。いえいえ。いえ。いえいー」  もの凄い、奇声だった。痩せた茂の身体からは想像もできないエネルギーが、塊になって飛びでていた。手を後ろにくみ、背筋をぴしっと伸ばして天井にむかって吼えていた。こうなればだれひとり、普通だとは思わなかった。だいたいが分からないのだし、気味が悪い。それが耳をつんざくほど、恐ろしい声でわめいているのだ。バスにのっているのが何者であっても、まずは「どうしよう」と思うのが普通だ。  茂は、振りかえると上着をぬいで裸になり、今度は、乗客にむかって大声で歌いだした。指をいっぱいにひらいた両手を高くあげ、懸命に踊りはじめた。   ぎんぎん、ぎらぎら。夕日がしずむ。   ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。   まっかっかっか、空の雲、   みんなのお顔も、まっかっか、   ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。 「ひどい宴会芸だ」と裕明は思った。大学のクラブに入るとき、先輩のまえでさせられる新入生の儀式だ。最後は、すっぽんぽんの裸になるまで許してはもらえない、とても芸とはよべない代物だ。その点、おれのマジックはずっと洗練されている。ようするに、そこには、インドとカリフォルニアほどの歴然とした違いがある。そうした意味あいからも、この場面では、それなりに適切というべきだった。    ぎんぎん、ぎらぎら。夕日がしずむ。   ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。   カラスよ、お日をおっ駆けて、   真っ赤に染まって、舞ってこい、   ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。  茂は、この状況を打開するには、いちばんだけでは不充分だと考えたらしかった。  でぶは、蒼白状態でその不思議な踊りを凝視し、額の汗はバスの床に滴り落ちていた。乗客全員は、唖然として茂の奇行をみつめていた。踊りを終えると、彼は大声で叫びながらバスの後ろにむかって歩きはじめた。 「みなさん、聞いてください。これでは、耐えられません。この暑さと、異常な湿気です。騒音くらいは、やめてもいいのではないでしょうか。はりあっていても、解決にはなりません。なんの利益もありません。こんなつまらないことで、かぎられた体力をつかうのは愚かだとは思いませんか。すこしでも、いい環境にするべきです。なににでも、限度があります。そう、思いませんか」  茂が叫んでいるのは日本語だった。たしかに、この国には言葉が多いと裕明は思った。さまざまな民族が、混在していた。ふたつや三つの言葉は、だれでも話した。四つ五つの言語を知っている者も、なかにはいた。なにしろ一ルピーの紙幣には、一五の公用語がしるされていた。そのうえご丁寧なことには、裏面の右下には、「ONE」という準公用語までかかれていた。とはいえ、どんなに博学な者でも日本語までは知らなかっただろう。とつぜん裸になった黄色い顔の男が、大声でうったえていた。乗客は、うまれてはじめて聞く言葉で、なにをいわれているのか、かいもく見当もつかなかった。 「限度があります。こんな締め切ったなかで、この暑さ、蒸し風呂状態です。だれもが、不愉快です。なにが大切なのか、考えてみてください」  言葉の、はしばしが聞こえた。ひとりひとりの顔をみて叫んでいた。両手をあげたり、さげたり、ひろげたりしながら、懸命にうったえていた。乗客全員が茂のうごきに釘づけで、ぼうぜんとしてじっとみつめていた。みんなが、おなじことを思っていた。 「変だ。おかしな奴がいる。かかわりたくない。なにをしでかすか見当がつかない」  裕明がみていると、ついに、いちばん後ろのラジオをもつ男の席までいった。茂は、トランジスタラジオをとりあげると、もの凄くけわしい表情になり、持ち主の小柄なヒンドゥーを右手で指さし、瞳を凝視しながらさらに大声をだして叫んだ。 「あなたが、問題です。相当に悪い。こんなものを自慢して、なにが面白いのですか。ラジオは、楽しむためにあるのです。自慢するのに、買うものではありません。人に迷惑をかけて、なにが面白いのですか。一度自慢すれば、充分ではありませんか。いいラジオをもっているのは、みんなが分かりました。それ以上、なにが希望なのです。あなたのしていることは、ただの迷惑です。それも、もう充分に限度をこえています」  とりあげたラジオを高くかかげて、持ち主の耳元で叫んでいた。凄い声だった。これは、ちぢみあがるだろう。だれにも、なんにも分からなかった。しかし、ちかづくのはよそうと、みんなが思うし、考えるだろう。これだけは、はっきりしていた。裕明だって相棒でなければ考えるほどで、乗客にはなんだかさっぱり分からなかっただろう。でぶにだって不明だったろうが、彼には責任があった。自分が許可したのだし、それも金をもらっていた。いってみれば、でぶは共同責任者だった。  茂の叫びが、聞こえてきた。 「おかしいです。なんでこんなに騒がしくしなければ、どうして主張ができていないと思うのですか。なぜ、この音楽を注意しないのですか」  叫んでいるのは日本語で、だれにも、なんにも分からなかった。ただ状況は、こうなっていて、仕方がなかった。事情は、こういうわけだった。  裕明は、立ちあがり、ゆっくりと中央の通路にむかった。まえの席の人たちは、注目してくれた。目があったが、すくいをもとめていた。でぶをみると、彼も、間違いなく援助を希望していた。大きく目をみひらき、真剣な表情でじっと裕明をみつめて、わけもなくうんうんとうなずいた。 「なにを、やっているんだ」  裕明は、でぶの意味不明な仕草に不快感をもった。  車の前方にすわる人たちと、運転手は、彼が茂とおなじ日本人だと確認した。裕明は乗客のがわをむき、ゆっくり全体をみまわしてみた。彼に気がついたのは、まだ幾人もいなかった。  茂は、バスのいちばん後ろでラジオの男にむかって大声をはりあげていた。小柄なヒンドゥーだったが、でぶ同様、窓にはりついて目をむき、だまって眉間に皺をよせ、猛烈に深刻な表情で彼をみつめていた。  裕明は、最初に茂が叫んだ場所にいた。でぶのとなり、中央の通路で乗客がわをむいていた。 「うどおおおおおお」  とつぜん、裕明は天井をみて雄叫びをあげた。両手を、天にむかって大きくひろげ、ありったけの声をだして絶叫した。うえの服をぬいで裸になり、上着をもともとの自分の席にほうり投げ、バスのちょうど真ん中あたりにすわっていた、ヒンドゥーの痩せた大柄な男を、じっとみつめて大声で吼えた。 「うどおおおおおお」  わずかにすすんで、通路の真ん中で天井にむかってあげていた両手をさげ、いちばんまえの列の左右にならんでいる鉄製の座席の背もたれを手でつかんだ。それを力いっぱいがんがん揺すって、雄叫びをあげた。 「うどおおおおおお」  天井にむかって三回くらい叫んだ。それを、三箇所でやってみた。  乗客も、今度は裕明に注目してくれた。はっきりいって、「びびって」いた。みんながなにを感じたか分からなかったが、ひとりよりふたりのほうがは迫力があった。だって、相棒が変なんだ。どう考えても裕明はとめる役で、だれもがそう思った。それが普通だったろう。現実は違い、想像しない、ぜんぜん逆の方向へむかっていた。理解しがたい者が、いままでのひとりでも充分だったのに、それがとつぜん倍のふたりに増殖した。こういうばあいを相乗的とよぶのだろうか。裕明がとめに入らなかったのは、だれもこの状態からすくってくれないことを意味していた。でぶも、制止にこなかった。つぎになにが待ち、どんな事態が起こるのか、だれにもさっぱり分からなかった。 「この不幸な状況が、去っていくのをみまもる」という感じで、バスの乗客全員が息をひそめて、ふたりの理解しがたいカーストを交互にただみつめていた。すべての人がびりびりと緊張しているのが、裕明には分かった。茂が帰ってきたので、彼はもう一度叫んでみた。 「うどおおおおおお」  天井にむかって、三回くらいやってみた。みんな、充分に注目してくれた。茂が自分でぬぎすてた上着をひろいあげ、でぶのとなりで、ゆっくりと身につけるのをみて、裕明も席にもどって服をきた。だれも、なんにもいわなかった。 「じゃあ、約束の二〇ルピーだ」  茂はそういって、バスの乗客全員がみているまえで、ぼうぜんとするでぶの胸ポケットに一〇ルピー紙幣を二枚ねじこんだ。 「安全に運転してくれよな。親父。分かったのかい」  茂は、そういうと、でぶの肩をぽんとたたいた。日本語だった。でぶは、それで我にかえったみたいだった。 「イエス、サー」  やや間があってから、でぶは真剣な表情でいって茂をみた。玉になった汗が額に吹きでて、一部は床に落ちていた。でぶは生唾を「ごくり」と飲みこみ、一度帽子をぬぎ、ハンカチで汗水をぬぐった。それから、大きな溜め息をもらした。ハンドルに両肘をつくと、頭をかかえた状態でじっと目をつむっていた。意を決して首をあげ、バックミラーをかたむけて己の姿をみいり、もう一度、自分のカーストを確認した。そして、帽子をかぶりなおした。  バスは、また走りはじめた。まえとおなじ大きな音を立てて走行したが、もう、すべてが変わっていた。ずっと静かでラジオもならなかったし、話し声も聞こえなかった。常識の範囲内だった。なにが、普通なのか。これは、むずかしい問題だった。はっきりしているのは、それが許せる範囲ということだった。  バスは、八時にベナレスをでて国境の村についたのは夕方の四時だった。八時間、のっていたわけだった。到着地は、平屋の住居がつづく小さな村のステーションで、バスが一台とまっていた。  駅につくと、乗客はだれもおりなかった。当たり前だろう。  この不愉快な事態は、どう考えてもふたつのカーストが仕組んだものに違いなかった。ほんらい乗客は車内で好きにしていい権利をもち、バス料金にふくまれていた。いっぽう序列の高い運転手は、彼らを騒がしておく特権を保有し、それでつりあっていた。ところが国籍はともかく、あきらかに序列が最下位のふたりづれが、あれだけ好き勝手をやったということは、でぶが車内を自由にする権利を売ったに違いなかった。  茂が騒いだあいだじゅう、乗客全員はそう考えていた。そうしたら最後に、運転手が二〇ルピーをもらう現場を目撃したのだった。こんなにあきらかな欲得ずくのやりとりがあった以上、このふたつのカーストがさらになにかを企んでいる可能性は、もうだれにも否定できなかった。だから、バスはずっと静かだったのだ。  つるんだふたつのカーストが、通路のいちばん先頭にならんで陣取っていた。この事態は、どう考えても偶然とは思えなかった。もう一回、なにかをやらかす可能性があった。 「様子を、みたほうがいい」  だれもがそう思って、ひとりもうごこうとしなかった。  しかし、やはりエリートは違っていた。すぐに異変を察知したでぶの運転手は、驚くほどの身軽さで、すくっと立ちあがると前方のドアをあけた。ハンカチをとりだし、したたる汗をぬぐってから帽子をかぶりなおした。 「サー、プリーズ」  でぶは、茂をみて頭をさげた。太い毛むくじゃらの左腕を背後にまわし、右腕を彼にむかってさしだし、ひくい声ではっきりといった。運転手は、茂に降車をうながした。それで、ふたりがバスをおりた。  でぶは、激しい緊張から解放されたらしかった。バスの車体に両腕をつっぱって、深呼吸をくりかえしながら、じっともたれて立っていた。肩で大きく息をすうと巨体を反転させ、車のボディーに背中をつけて全体重をあずけた。湿ったハンカチをとりだし、深刻な表情で何度も額の汗をぬぐった。なにを思ったのか、ながいこと空をみあげていた。それから精も根もつかい果たしたという雰囲気で、力なくその場にしゃがみこんだ。呆けた感じで、いまやってきた真っすぐな土くれだった道路をじっとみつめていた。そこは、彼が一日かけて運転してきた手つかずの荒野だった。地平線とのあいだに、ひくい灌木だけが、ぼそぼそっと生えているのがみえた。  ふたりがバスをおりるのを確認すると、そのあとで乗客がぞろぞろ降車してきた。彼らは、一様に裕明と茂をじっとみつめていた。 「このカーストは、いったい何者で、どこがどう変なのか」  彼らは、しっかりと観察していた。いってみれば、この視線に慣れるかどうかが、インドを、どう感じるかの分かれ目みたいなものだった。こうしてじっとみつめている者を、しっかりとみかえすことができれば面白くなるし、目線に耐えられなければ不愉快だけのいやな国だった。しかし不明な対象を、じっくり観察するのは理に適っていた。分からないものを知ろうとする最初の行為なのだから、どこも間違ってはいなかった。  よくみなければ、不明な状況は山ほどあった。  空は、青かった。インド人の視線を、痛いほど感じた。  それから、国境をぬけた。ふたつの踏切と検問所で分けられた、だだっぴろいところだった。インドがわを仕切る横棒があがり、取調室に入った。そこをでて、三〇メートルくらいの緩衝地帯を通ってネパールがわの検問所にいった。どちらでも、入念なチェックをうけ、荷物は全部しらべられた。二回とも、リュックの中身をすべて机のうえにださせられた。頭から足まで身体を、手で触られた。おなじことを、二回させられた。それから、仕切りがあいた踏切をぬけた。  みじかい距離だったが、三〇メートルは大きな違いだった。この線は、あらゆるものを分けていた。緩衝地帯の入り口と出口には、まったく違うふたつの世界があった。喧騒のインドにたいして、ネパールは静寂で、入った途端にすぐに分かった。とりまく大気の匂いが違ったし、空の輝きも、風の色も変化していた。  ノータンワという、小さな国境の村で一泊した。平屋の石づくりの宿屋だった。泊まり客は裕明と茂のふたりだけで、宿には年寄りと子供が住んでいた。  一五歳くらいの、ネパーリの娘がいた。白地のプリント模様の布を腰に巻き、色褪せた赤いシャツをきていた。つかいこんで、ぼけた黒色の廊下にしゃがみこみ、竹であんだ花瓶がのる小さなテーブルの横で、娘は米の入った大きなざるをもって、ゆっくりとした動作で選別していた。小柄で、丸顔の少女は痩せて、皮膚の色は幾分か黒くて、ほそい右の手首には、ふたつの輪がクロスして二連になった銀色の腕輪を嵌めていた。右腕を緩やかにうごかして米を選別すると、ブレスレットがぶつかって起きる、心地よい微かな音が聞こえた。可愛いので写真をとると、とても恥ずかしそうにした。異国の若い男たちにみつめられて、心が落ちつかない素振りにみえた。しかし、金属が触れあう微かな音だけはやむことがなく、リズミカルにずっと世界に木霊していた。 「ネパーリは、いいな」  茂は、その様子をみながら裕明にいった。 「そうだな」  そういって、裕明は大きな溜め息をついて首をかしげた。両腕で、髪をかきあげて腕をくみ、ぼんやりと少女をながめていた。  四、ラマ僧  爽やかに目覚めた、ノータンワの朝だった。雲ひとつない素晴らしい天気で、ふたりは静かな、ゆっくりとした時間のなかにいた。うるさくもなく、人もよってこない、だれにも邪魔をされない気持ちのいい朝だった。  そこからまた、バスにのりついだ。ネパールの路線バスには、かぎりないエレジーを感じた。なぜならこの国のバスは、隣国で引退を表明した車だった。なかには、ネパーリが二〇人くらいのっていた。未舗装の道は、のぼりが多く、バスはときどきエンストした。エンジンは、断末魔の唸り声をあげつづけていたし、土をこするタイヤの音もうるさかったが、なかは静かで許すことができた。二時間くらい走るとバスはとまり、休憩のたびに運転手は車体のまえのボンネットをあけて水をさしていた。山道には、棚田がみえた。ずっとつづく階段状の農地は、ネパールの貧しさと勤勉な国民性をあらわしていた。  そんな道を一日かけてついたところは、ビルが立ちならぶ立派な都会で、ステーションにはバスが何台もとまっていた。道路には、多くの車が走っていた。ふかい緑をまとった、うっそうとした森が果てしもなくつづく、つらなる山々にかこまれた小さな盆地は立派な観光地だった。  裕明と茂は観光案内にいって街はずれの一軒家のコテージを借りる契約をし、リクシャーにのっておくってもらった。軒がながくつきでた木製のひろいベランダがある、ふるい丸太づくりの洒落たログハウスだった。雪がふったら寒そうだったが、まだ、いい季節で空は素晴らしくすみわたり、みあげるとちかくに高い山々がつらなり、さらにうえには、あわいやや青みがかった雲が浮かんでいた。  茂がベッドに身体を伸ばして横たわったときには、もう夕方ちかくになっていた。暑くは、なかった。そんなに寒くもなく、ログハウスのベッドのうすい毛布が、ちょうどよかった。茂はかなり疲れて、ゆっくりとしたかった。 「ずいぶん、バスにのったな」と思った。  窮屈な路線バスの旅がつづいたので、茂はベッドのうえで思い切り手足を伸ばして横になっていた。乾いた森の空気を胸いっぱいにすいこむと頭がぼうっとし、ベナレスの欄干からみた穏やかなガンガーのながれを思いだした。ゆっくりとした時間が、ながれていた。裕明もベッドに大の字になり、おなじことを思っているらしかった。  部屋は二〇畳くらいで、足がわに黒くてまるいテーブルと二脚の椅子がおかれていた。左右に大きな窓があり、木の格子で四つに仕切られていた。右窓は、カーテンが両端にとめられ、いくらか汚れたガラスが嵌まっていた。窓からベランダの木の柵と、その先に、かなりふかそうな森がみえた。ふたつならんだベッドはやや大きめで、頭がわは丸太の壁に接し、そこが間仕切りになって、台所がつくられた部屋につづいていた。小さなキッチンにはプロパンのコンロと、奥にシャワー室とトイレがあった。落ちついた感じのするシンプルな一軒家のログハウスだった。 「腹が、へったな」  茂は、いった。 「この街には、なんでもあるよ」  裕明は、答えた。  ロッジは、避暑地の中心から幾分か離れ、飲食街まで一〇分くらい歩いた。せまくはない土の道で、まわりは静かなふかい緑の森にかこまれ、高い山々が視界に入り、頂上に雲がかかっていた。つよさをうしなった日差しが、まだ新緑にみえる木々の葉を照らしていた。木の葉はきらきらと光りながら、いつまでも暖かい日がつづくと信じ、力をたくわえる必要も、のこす必然性も、感じていないように思えた。いつでも全力で輝くのが、生きていることだったのだろう。風は爽やかで、どこかに秋の香りもふくんでいたが、まだほんのわずかで、ずっと先に思えた。日は、黄道をややさがったところをさ迷っていた。まだまだあかるかったが、小一時間もすれば、やはり太陽はしずんでいくはずだった。素敵な、夕暮れにむかう時間だった。  食堂街は賑わい、道にそって一〇軒くらいの店がでていた。路上にテーブルと椅子がけっこう奥まであり、客は外国人、たぶんヨーロピアンがほとんどで、新婚旅行らしいふたりづれが多かった。いいムードでワインを飲んでいた。  子供が水をはこんできたので、「あれが欲しい」と裕明はふたつとなりのテーブルを指さしていった。オーストラリアンらしいカップルが食べていた、牛のステーキだった。 「酒も、いいのだな、ここは。なんでも、ありなのだな」  茂は、いった。 「飲むかい。つきあってもいいよ」と裕明が答えた。 「特別、欲しくもないな。それにしても、ここはなにかが違うな」  静かな時間がゆったりとながれ、夕暮れになりはじめていた。違和を感じて周囲をみまわすと、働いているのは、せいぜい一〇歳くらいまでの子供だけだった。大人は、なかで調理しているのだろうか、どこにもみあたらない不思議な場所だった。  ここの子は、上下とも服をきていた。インドでは、だいたい子供はシャツかズボンかのどちらかで、うえも下もつけているのは金持ちだってすぐに分かった。ここは寒いから両方とも必要なのだろうが、その分だけ判断はつきにくいと茂は思った。  ふとみると、路上のテーブルがなくなってつぎの店がはじまる、道からすこし離れたところで一〇歳くらいの子供がぼうっと立っていた。その姿は、まるで彫金された銅像にも思えた。特別な感情もなく、周囲とまったく無関係で、離れ小島にある無人の灯台になって、とうとつにただ立っていた。だれもいないし、とくになにもない、踝くらいまでの雑草がぼそぼそっと生えた場所だった。 「あれ、なにをしているのだろうね」  茂は、聞いた。 「ああ、ストーンだ」  茂が意味を飲みこめずに、ぼんやりと少年の姿をながめているのをみて、裕明はつけたした。 「石になっているんだよ。飛んでいる。グラスだ。つまり、マリファナのなかに入っているんだ。ダウン系のドラッグだから、一時間でも二時間でも、自分の世界にぼうぜんと立っているのさ」 「なるほどね。危害はないんだな」  ほどなく、牛肉がでてきた。たぶん、どこにでもいるほとんど人と共生している水牛なのだろうが、久しぶりの肉は柔らかくて絶品といってもいいほど、おいしかった。でてきたポテトを食べて、コーヒーを飲んだ。客は、そこそこだった。とはいっても、ラジオの音楽もなかったし、声高に話す連中もいなかった。静かで、ゆったりとした時間を感じ、落ちついた気持ちが心を支配した。存分に、牛を味わった気がした。 「ここだって、ヒンドゥー教なのだろうに」 「いろんなヒンドゥーが、あるのじゃないか。こんなに、馬鹿でかいのだから」 「規範が、ないのだな」 「王国なんて、こんなものだ。根から、腐っているからな。国民は臭いに慣れて、なにが腐食しているのか分からなくなる。なかでもいちばん腐っているのは、王さまなんだ。自分が腐敗してもいいように、身のまわりを腐らしているんだ。そうしないと、ひとりで変な臭いをだしているのがばれてしまう。それを気づかせないのが、統治なんだ」  裕明は、演説した。 「凄い、みぬいているんだ」  茂は、賞賛した。 「尊敬したか」 「いつだって、そういっているだろう」 「やったな」  裕明は、立ちあがり、両手でピースサインを空にかかげた。 「やあ、おふたりさん」  若い男が話しかけてきた。二〇歳くらいの見知らぬ者で、白い長袖とゆったりとしたズボンをはき、灰色がかったながい布を首からかけていた。マフラーにしていたが、寒くもないので理由は分からなかった。背は一六〇くらいで痩せ、髪がみじかく、とろんとした目が印象的だった。それがヒッピーだった。  食事が終わってコーヒーを飲んでいたとき、あいたテーブルの椅子をひいて、ふたりのあいだに勝手に割りこんできた。 「新顔だね」  ヒッピーは、いった。ふるくからの知りあいにする仕草だった。  裕明も茂も、満たされていた。しばらくぶりの肉食を味わい、優しい気持ちになっていた。ヒッピーはウエイターの子供に水を頼み、ストーンの少年をみて「あれがいいんだ」と小さくうなずきながらいった。それから茶色っぽいタバコ入れをポケットからだし、なかから一本をとりだして吹かしはじめた。 「今日、きたの」  ヒッピーは、口をひらいた。 「それ、グラスじゃないのか」  裕明が、聞いた。 「やるかい」 「いや。おれは、いらない」 「そうか、もったいないな」  ヒッピーは、口を平たくひらいて、胸の奥まで煙をすいこんだ。それが、会話のはじまりだった。 「あれは、一回、試してみたら」  ヒッピーは、とろんとした目つきになっていった。 「夕方さっと雨がふったから、明日はいいのが手に入る。きっと絶品だよ」 「面白いのかい」  裕明は聞いた。 「けっこう、いいと思うよ」  ゆっくりと答え、それから裕明にむかっていった。 「やるのだったら、入れて欲しいよ。あれは、多いほうが面白いんだ」  ヒッピーは、ゆっくりとした調子で解説をはじめた。 「馬の糞に、生えるんだよ。乾いちゃうとだめなのだけど、雨がふるといいのができる。でも、ぼくにはさがせない。ずいぶん、やってみたけれどね。やっぱり、モイルのもってくるのが最高だ。どこでとるのか、朝つけてみたんだ。みうしなっちゃったよ。あいつ、よく知っているんだ」 「馬の糞に、生えるのか」 「普通のでは、だめなんだ。やっぱりなあ、働いているのは難があるね。なにもしない馬じゃないと。それに、メスのほうがいいみたいだ。あまり若すぎるのも、だめだし。明日は、楽しみだ。モイルに最高のものを、手配させるよ」  ヒッピーは、うっとりとした「恍惚」の表情になってグラスを吹かしていた。ゆっくりとした口調で、プロに極上品をとどけさせるとまたいった。 「朝、いちばんに、とどけさせるよ。今日、これから、話を、しておく」  ヒッピーが、落ちついた、しっとりと濡れた声で語りながら、裕明をみつめる様子は、まるで、いま情を交わした女性をみる恍惚の顔つきだと、茂は思った。  その表情を、正確にたとえようと試みるならば。  二〇歳のクレオパトラと床をともにし、たがいに精も根もつき果てるまで愛しあったあとで、横に眠る彼女の熱い身体を感じながら、ようよう目をみひらいたときのような。  火照る、やや湿った体躯に冷たいシャワーをさっとあびて、石づくりの吹きぬけになった高い天井がある大きな部屋で、潤んだ瞳をのぞいてみると、薄紅に頬を染めた、二〇歳のクレオパトラをみたときのような。  暑くも寒くもない大気のなかで、彼女の芳醇な甘い吐息につつまれ、ゆったりとすぎてゆく時間のながれに身をまかせながら、緋色ではあまりにも鮮やかすぎるので、くすんだ茶の糸を丹念に織りこんで殺した、薔薇の文様が折りかさなる、ぶ厚いペルシア絨毯のうえで、柔らかい純白の羽毛がいっぱいにつまって、背には伸ばされた金で丁寧に刺繍が施された、腹子牛をバケッタで手染めした、ロココ様式の青いソファーに腰をおろして、しっとりとした、すき通る白い肌をして、アイロンで細心に仕上げた、ながい黒髪が輝く、先ほどまで喘いでいたはずの、あでやかな二〇歳のクレオパトラと、たったふたり切りで、一九四五年ものの、適度に冷えた五つ星のボルドー産の白ワインを飲みはじめた、ときのような。  その瞬間はじめて人が浮かべるかも知れない「恍惚」、そんな表情に思えた。 「どこに、泊まっているの」  ヒッピーは、ふたりの宿をたずねた。 「一〇分くらい先の、コテージだよ」  裕明が答えると、「いっしょにいきたい」とヒッピーはいった。  それで、帰りは三人になった。 「やっぱり、お風呂に浸かるんだよね」  ヒッピーは、勝手に話をしていた。興奮するでもなく、完全なマイペースで焦点が定まらない目は、どこか遠くをみて、なにを話していても実感がなかった。すべてが虚ろだった。裕明は、左のベッドの端にすわって絵をかいていた。茂とヒッピーは、部屋のすみの椅子に腰かけ、テーブルには文庫本がおかれていた。もう完全な夕暮れで、闇が忍びこもうとし、天井には裸の電球がきらきらとあかるく輝いていた。静かなネパールの時間が、そっとながれていく。こうした設定がすべてマッチしていて、ロマンチックないいムードだった。 「どうしてだろうって考えたんだ。コデインなんだ。でも、ちょびっとしか入っていないから、最低五本は飲まないとね。どれでもいい、というわけにもいかない。おなじ量のコデインなのに、きくのとそうでないのがあるって気がついたんだ。やっぱり、アナトンなんだ。それを、さがしに旅にでるんだ。店の人は、みんな冷たい目でぼくをみるんだ。さがしていくうちに、とうとう恐山のちかくまでいったんだ。そこでね、アナトンがいっぱいある店にでっくわしたんだ。あのときの興奮は、忘れられないよ。最初の日に五本買って、一気に飲んで、ぬるいお風呂に入ったんだ。三時間くらい、浸かっていたよ。いままでで、最高の気持ちだった。なんだか、すべてがよくなっちゃう。雨がふっていても、店の親父さんがいやな顔をしても」  ヒッピーは、完全に自分の世界に入っていた。ふたりが泊まるコテージで、裕明は部屋のスケッチをして、茂は足の爪を切っていた。 「つぎの日にさ、もう一度その店にいったんだ。おなじ、おばさんがいてね。あんたにはもう売らないっていわれると思って、恐る恐るアナトン五本って頼んでみたんだ。そしたら、じっとぼくをみてね。兄さん、若いのに飲みっぷりがいいねって。東北のおばさんって、ユーモアがあるよね。優しいよね。それで一〇本売ってもらって、二日間楽しめたんだ。三時間ずつ、お湯に浸かってね。飲んで、すぐに入ると効くんだ。でも悩んだんだ。もし一〇本いっぺんに飲んだら、どのくらい、いい気持ちなれるのだろうってね。きっと、倍以上じゃないのかって。でもね、ぼくには理性があるからね。二度に分けて、楽しもうと思ったんだ。それが、幻のアナトンだったんだ」  ヒッピーは、グラスをゆっくりと吹かしながら遠くをみる感じで話していた。遠いものをながめる目は、過去と現在が入りくみ、いまと未来もまじりあっていた。もしかするとヒッピーの頭のなかでは、すべてが同時に進行していたのかも知れなかった。そもそもこの連中は、どこまでが本気で、どの辺から冗談なのかも見当がつかなかった。  アナトンというのは咳止めドリンクで、鎮咳剤のコデインがふくまれている。数あるシロップのなかでも、いちばん効く銘柄があり、それをもとめて日本中をさ迷うらしい。茂が理解できたのは、そこまでだった。 「ヒッピーは、ひとりできたのかい」 「そうだよ。仲間がいっていた。ここには、世界で最高級のグラスがあるって。ムスタンにいこうと思っていたんだ。あのちかくのグラスが、世界で最高だってね。だから、きたんだよ」 「ここにも、仲間はいるのかい」 「そうだね。どこにでもいるよ。ここでも出会って、いっしょにムスタンにむかうことになっていたんだ」 「いかなかったのかい」 「病気に、なったんだよ。なんだか、ぐあいが悪いんだ。二週間くらいまえから、身体が黄色くなりはじめてさ。いまじゃ真っ黄色でさ。食事も、ぜんぜんとらないし、黄疸とかいうらしいね」 「A型の肝炎では、ないのかな。この地方の風土病だよ」 「ここの病気なんだ。でも、どうなるのかな」  ヒッピーに、悲壮感はない。 「普通は、なおるのじゃないの。一%くらいは劇症化して、死ぬこともあるらしいけどね」 「それじゃ。それだよ」 「どうして」 「もう、お化けみたいでさ。がりがりに痩せちゃって、水も飲まないのだから。ホテルの親父さんが、うるさくってさ。お医者にみせなきゃ、もう泊めてやらないとかって。面倒をかけるんだよな。仕方がないから、お医者をよんでさ」 「ヒッピー。友だちとは、いつからいっしょにいるの」 「もう一ヵ月くらいかな。ぐあいの悪いのといっしょにいると、疲れるよね。あきあきしたよ。黄色くなるすこしまえに、ムスタンにいく話になっていたんだ。ひとりでもかまわなかったんだ。失敗したよ。どっちでもいいから、はやく別れたいんだ。帰ったら、なにをしにここまできたのかって、みんなに笑われちゃうよね。ぼくって、根っからのお人好しなんだよね」 「ヒッピー。友だちの家族には、連絡しなかったのかい」 「しょうがないから三日まえに電話をしたよ。お医者が、うるさいんだ。すぐに連絡をとれって。関係ないのにさ。確実に、死ぬんだって。点滴をもってきて、やっていたよ。終わったら針をぬけとか、手袋しろとか。ぼくは、関係ないんだよな。ちょっと、いっしょにいただけなんだ。迷惑だよね。ここのお医者って、ぜんぜん怖くないね。そばでグラスをすってもさ、だまってみているだけなんだよ」  茂は、しだいに頭が痛くなってきた。 「入院しなけりゃだめだって、うるさいんだ。死ぬんだって。もう、なにをいっても分からないんだ。疲れるよね。迷惑だよね。人に面倒をかけるくらいなら、ぼくは生きていたくないよ。ひと月、いっしょにいただけなんだ。でも、日本の警察って面白いよね。はりこみに、きているんだよ。こんな、ところまで」  ヒッピーの話は、とりとめがなかった。裕明はスケッチをして、茂は文庫本を読んでいた。 「死んだら、どうやって、はこぶのかなあ。家族は、くるっていっていたけど。面白いよね。親は、ネパールにくるのに反対していたんだ。明日の朝、つくんだって。なにが、どうしたって、うるさくってさ。聞かれたって、分からないよね。よく知っているわけじゃないし、面倒をかけるんだよ。変なのと、いっしょになっちゃったんだ。せっかくきたのにさ」  茂は本を読み、裕明はだまってスケッチをつづけていた。ヒッピーが話すのをやめると静寂が支配し、裸電球のあかりをうけて輝く窓をほとほととたたく風の音が聞こえた。そんな時間があって、マイペースの彼も、さすがになにかを感じたらしかった。 「明日さ、二時ごろくるからさ。朝、とり立てをとどけろって、モイルにいっておくから。それじゃ、またね」 「ヒッピー。友だちが、死んじゃうのだろ。マッシュルームどころじゃ、ないだろう」 「ぼくがいたって、関係ないもの。面白いんだよ、あれが。じゃ、二時にくるから」  ヒッピーは、そういうと、扉をあけてでていった。外は、もう完全に闇が支配していた。 「あいつも、死んじまったほうが、いいのじゃないのか」  裕明は、ヒッピーが扉をしめて、でていくといった。 「ちかごろは、どこにでも、ああいう連中がいるな。でも、茂はいい奴かも知れないと思ったよ。あんな、くだらない話を、真面目に聞くのだから」  ベッドに腰をかけていた裕明は、むきなおって正面にみすえながらいった。  ヒッピーのリアリティーとは、なんだろうと茂は思った。裕明は現実的だったが、それとは、まったく違う得体の知れないものに思えた。 「ごんごん」とドアがたたかれる音がした。  朝の七時ごろで、茂が扉をあけると、七、八歳の少年が大きな紙袋をもって立っていた。痩せて浅黒い肌をした坊主頭の子供は、鼻の下に二本の筋があり、半ズボンに汚れたシャツをきていた。サンダルをはく、黒くてほそい素足がみえた。左の手によれよれになった茶色の紙袋をぶらさげ、右の人差し指で鼻の下をうえにむけてこすりながら、青い汁を顔中に懸命にひろげていた。察するに、モイルらしかった。だまってぼんやりと立つ少年は、意思も不明にみえた。ヒマラヤにちかい奥ぶかい森のなかで、清々しく目覚めた神聖な朝の雰囲気を一気に俗界にひきもどしていく、そんな子供だった。 「どうする」  茂は、聞いた。 「どんな、ものなのかな」  裕明はいい、ベッドから起きて、モイルのもっている袋をみた。紙袋は、まるまるとふくらんでいた。 「ずいぶんあるな」といいながら、うえからなかをのぞいた。新聞紙をとってきて、中身を逆さにしてふるい落としてみると、小さい山をつくった。 「こんなに食べたら、死んじゃうのじゃないのか」  裕明が新聞紙のうえに平らに伸ばしてみると、けっこうな量だった。その山をみて彼は、ながい髪の毛をかきあげてから腕をくんだ。 「どうする」  そういって、右手をかるくあげ、茂をみあげた。 「やった、ことは」 「ないなあ」  裕明は、すこし考え、「やってみるか。ヒッピーもいるしな」と、うなずきながらつづけた。彼、新聞紙をはさんでモイルとむかいあった。平たく伸ばされた真ん中に、右の人差し指でゆっくりと横線を入れ、目をみつめながら、「ハーフ」といった。  モイルは、だまっていた。裕明は、また指先をつかって、今度は縦線をゆっくり入れ、「ハーフ」といい、じっと彼をみつめた。モイルは、なにも声をださなかった。さらにもう一度ゆっくりと横線を入れた。「ハーフ」といって、少年をみつめた。  そのときはじめて、モイルは腕ぐみをして考えはじめた。  それで、交渉になった。少年は、左下にできた八分の一の部分を瞬きも忘れてみつめていた。眉間に皺をよせて、真剣に考えていた。右指は、ひとときも休むことなく鼻汁を満遍なく顔中に押しひろげていた。しばらくすると今度は顔をあげて、裕明をじっとみつめた。交渉相手を再確認すると目を落とし、また八分の一の部分を凝視した。指は、鼻に押しあてたままうごかなくなり、両腕を胸のところでくんで、ほとんど深刻といってもいい表情になった。少年は、その状態で立ちつづけていた。 「どうする、つもりなのだろう。もち帰るのかな」と茂が考える時間が充分にあり、それでもモイルは、ぼうっと立ちつづけていた。 「様子が変だ」と思ったとき、少年はいった。 「五〇パイサ」 「いや、三〇だな」  少年は、ぶんぶんと大きく首を振った。 「いいか、四〇で」  裕明がそういうと、少年も仕方がないという風に両手をひろげ、それで交渉は成立した。モイルがのこりをもって帰ったので、新聞紙の右端に白っぽい塊があった。  とり立ての「キノコ」だった。  少年が帰ったあとで、「たぶん、いいんだ」と裕明は腕ぐみをして納得したように呟いた。 「これじゃ、効かないとは、いわなかったものな。あいつ」 「なるほど。シャープだな」  茂は、賞賛した。 「あとは、ヒッピーにまかせよう」  裕明は、いった。  それから、ふたりで部屋をでた。天気はよかったが、ずっと高いところには昨日とおなじ雲がかかっていた。高山にかこまれた街は盆地だったが、一〇〇〇メートルくらいの標高は充分にあるように思えた。ベナレスからノータンワへの道も最後はのぼりで、ネパールに入ってからは、まがりくねり、ずっときつい勾配がつづいていた。 「かなり、のぼってきたはずだ」  茂は、思った。  まわりをふかい森にかこまれた幅、七、八メートルはある土の道は、清々しく空気がすきわたり、心が浮き浮きし、いいことが待っている気がした。レストランでパンとコーヒーの朝食をとり、ヒッピーがくるといった二時に、コテージで待ちあわせようと約束した。鍵は二本あったので、ちょうどよかった。 「街にいく」と裕明が話したので、そこでふたりは別れた。  茂は、一〇分くらい歩いて湖にいってみた。蒼い静かな、ペワ湖だった。とりかこむ高い山々は青く色づき、まだまださかりの緑にみえた。頂上に真っ白な雲が漂い、光にあかるく輝き、空気はすみ切っていた。湖のまわりは背のひくい草で覆われ、遠くからは一面の芝にもみえたが、実際には膝くらいまでの雑草だった。ところどころに、灌木が生育していた。一本ずつ、ぽつぽつと生えるのではなく、何本かがまとまっていた。美しい避暑地だった。  湖面には、カヌーやカヤックが漂っていた。湖は、波もなく静かで幽玄なときを感じた。青くすんで、泳ぐ魚やふかい底までもみえるほどだった。若いヨーロピアンが簡易の組み立て式のベッドに寝そべり、身体中にオイルを塗りあいながら日光浴をしていた。女は全裸でサングラスをかけ、口づけしながらだきあい、からみあうカップルもいた。裸の男女が水しぶきをあげて、じゃれあっていた。水は冷たいはずだったが、彼らにとっては関係がなかったのだろう。茂には、すべてが美しくみえた。 「王国は、腐っているから」  裕明なら、そういうだろう。  みえる部分だけが美しく、数多くの汚れた夾雑物が隔離されていた。貧しく、みすぼらしい真実は覆いをかけられ、世界は綺麗なものだけで構成されていた。子供しか働いていないのは、とうぜんかも知れない。大人には、正視に耐えられないだろうと茂は思った。  ゆっくりと半周ほど湖を歩いたとき、とつぜんヒッピーがあらわれた。 「いっしょに、病院にいってもらいたいんだ」 「なんで」 「ひとりで、いきたくないんだ。今日は、家族とも会うかも知れないし。昼ごはんをご馳走するよ。さっき、街で裕明さんに会ったんだ。茂さんが、ペワ湖にいっているって聞いたんだ。つきあって、くれるのじゃないかと思って」  あわい灰色のながい布を首からかけたヒッピーは、そのときはじめて真剣な表情になった。 「どうやって、いくの」 「タクシーを、待たせてあるんだ。ほら、あそこに。なあ、茂さん、つきあってよ。お願いだ」  ヒッピーは、そういって両手をあわせた。  コンクリートで舗装されたひろい道には、近代的なビルがならんでいた。牧歌的で、すべてが大自然ととけあいひとつになった、美しさあふれるペワ湖から車で一〇分ほど走ると、とつぜん都会があらわれた。  ガンダキ中央病院は、官庁街の真ん中にある、コンクリートづくりの六階だての立派な施設で、三〇〇床は備わっていた。石の階段をあがると一階に大きなホールがつくられ、老人や子供がいっぱいいて、みんなぐあいが悪そうだった。年寄りといっても、まだ五〇歳か六〇歳くらいだと思うが、だれもが浅黒く、ふかい皺が額にも頬にも、きざまれていた。ホールのむかいがわには、ながいカウンターの受付があった。中央に位置する広間から、通路がいろいろな方向に伸び、さまざまな案内板や、レントゲン室やCTの撮影室への標識もみえた。ネパーリのあいだをぬけて奥へいくと、エレベーターが四台あり、ヒッピーはボタンを押し四階にのぼった。内科病棟らしく、白衣をきた看護スタッフがひろい廊下をきびきびとうごきまわって、日本の病院と変わらなかった。  つれられていったのは病棟のいちばん奥のひとり部屋で、大きな窓がありポカラが一望できた。小さな街だったが、まわりは緑がどこまでもつづく綺麗な高い山々にかこまれていた。四階の病室からの風景は、そのつらなる山塊がとてもちかくにみえ、写真にでもとってのこしておきたいほどだった。  真っ黄色の青年は、もう呼吸をしていなかった。そばに、剃髪で地味な茶色の上着を羽織り、色褪せた赤いスカートみたいな腰巻きをつけたラマ僧がいた。浅黒く、とても痩せ、年は五〇歳なかばにみえた。家族は、まだきていないらしかった。僧は、呼吸をやめた青年にむかい、両手で印をむすんで一心不乱に呪文をとなえていた。ラマ僧の右の手首には、金色のブレスレットが輝いていた。ぶつぶつと耳に入る文句は、はじめて聞くもので、なんだか分からなかったが、チベット仏教の僧が呟くのだから、マントラをとなえているに違いないと茂は思った。 「オム、マニ、パドメー、フーム」と聞こえた。  茂が知っているのは、この四つしかなかったので、そう感じただけだったのかも知れなかった。慈悲の化身である観音菩薩の真言をとなえれば、悪業とくるしみの大海から逃れることができ、悟りをひらく助けになると聞いていた。近代的な病院とラマ僧のくみあわせは、茂にはとても不思議な光景に思えた。  病棟のなかは塵ひとつなく、どこも綺麗に掃除がいきとどき、清潔で静的で、壁も白くて冷たく無機的にみえた。ひとつぽつんとおかれた金属製のベッドのうえで、黄色くなり息をしない青年は、もう神に召され、いまは現世での仮の姿があるだけで、ひどく殺風景に思われた。しかし、かたわらに赤い布を巻いた痩せたラマ僧がひとりいるだけで、暖かい世界がとなりあい、違う領域のものをうけいれられる、そんな雰囲気をかもしだしていた。  ヒッピーとふたりでだまって様子をみていると、背の高い大柄のナースが入室してきた。白衣に帽子をかぶっていたので、看護師だろうと茂は勝手に思った。 「カゾクワマダナノ」  ナースは、いった。アクセントはおかしかったが、間違いなく日本語だった。 「分からない」  ヒッピーは、答えた。 「アンタトモダチナンデシヨウ」 「いっしょに、いただけだよ。連絡はとったよ。もう、つくって話だったよ」  ラマ僧が、ナースに小声でなにかをいった。  そうこうするうちに、年配の男女が病室に入ってきた。青年の両親と思われるふたりは、とり乱していた。ラマ僧が外にでたので、茂もヒッピーといっしょに退出した。日本語を話せるナースが、事情を説明しているらしかった。 「いこうよ」  ヒッピーは、茂にいって帰ろうとした。 「待て」  ラマ僧が、とつぜんいった。 「君には、ご両親に説明する義務がある」  完全な日本語だった。 「日本人だったのですか」 茂は、驚いて聞いた。 「そうだ」  ラマ僧は、彼にヒッピーとどんな関係かを聞いた。  茂は、ありのままを話し、一〇分くらい待った。ヒッピーは、あきあきして面倒くさそうで、廊下の壁によりかかりグラスをすおうとして、ラマ僧から注意をうけた。僧は、じっと立っていた。茂も、おなじように起立していた。 「だから、きたくなかったんだよ。昨日、話した通りでしょ」  ヒッピーは、同意をもとめた。 「だまっていろ」  茂が小声でいうと、彼は沈黙した。  ほどなく日本語を話すナースがでてきて、ヒッピーはよばれ、ひとりで部屋に入っていった。  病棟の奥で、廊下は静かだった。入院患者は多くないらしく、リネンをつんだ台車やナースが部屋を出入りするのがみえた。廊下には、僧と茂のふたりしかいなかった。 「話しても、よろしいですか」  彼は、ラマ僧をみつめて聞いた。 「いい」 「日本人は、よく入院するのですか」 「年に何人も死ぬ。日本の若者が、ここで黄色くなって他界してしまう。なにも分からずにやってきて、そのまま死んでいく」  ラマ僧は、重ぐるしい表情でそういった。目をつむっていたが、「人に説教する資格はない。そうした筋あいの者ではない。自分もまたおなじだ」と静かにいった。  ひくい押し殺した、遠い昔を思い起こす声だった。 「こうした死は、よくない」 「死に方に、善悪があるのですか」 「好ましい死は、ありえる。それは、死すべくして死ぬことだ」 「ときと場所を知るべきだ。ということですか」 「そうだ」 「そうした死とは、えらべるものなのでしょうか」 「そのためには、よりよく生きることが必要だ。日々、死について考えねばならない」 「よりよく生きた、その先にあるのでしょうか」 「この世は、すべてがつながっている。まるで両極にあるようにみえるものでも、関係なくして存在することはできない」 「曼荼羅なのですね」 「ほう」  ラマ僧は、じっと茂をみた。痩せた頬だったが、眉はこく瞳はすき通って、つよい意志とふかい知性を感じさせた。茂の胸中を射抜く視線は、おごそかで暖かく、遠い昔を思いだそうとする感じにもみえた。 「そうしたものに、興味をもっているのかね」 「父の部屋には、曼荼羅が飾られています」 「どんな、ものなのかい」 「ごく普通の、両界曼荼羅です。金剛界は九会(くえ)曼荼羅で、中心に大日如来がいました」 「面白いことだ」 「なにがでしょうか」  茂が聞くと、ラマ僧はその問いには答えず、 「根本会(こんぽんね)を知っているか」と質問した。 「はい。根本会は、金剛界曼荼羅の九つに分かれた小曼荼羅の中心部分です。羯磨会(かつまえ)とも成身会(じようじんえ)とも、よばれるところです」  ラマ僧は、驚いた表情になって茂をじっとみつめると話しはじめた。 「羯磨というのは、カルマ、業ということだ。すべては中心から発する。そして、真ん中にもどっていく。同時に、中央も周辺もおなじであり、はじまりも終わりもない。九つの小曼荼羅は、ひとつひとつがそれだけで完結し、しかもたがいに影響をおよぼしあって、部分でも中心でもある大曼荼羅を形づくっている。そうしたダイナミズムのなかに、私たちの生命はある」  ラマ僧はいい、じっと茂をみて、 「しかし、奇遇ではあるな」と呟いてだまった。  その様子は、ふかい物思いにふけるようにみえた。  やがてヒッピーがでてきて、茂は黄色い青年の父親と目があい、なんとなく頭をさげた。とくに、なにも聞かれなかったので帰路についた。  ヒッピーは肩の荷がおりて、すっきりしたようだった。それから、レストランでいっしょに昼食を食べた。 「あのお坊さん、ほんとうに日本人らしいよ。面白い人がいるのだねえ。看護師さんたちに、日本語を教えているらしいよ。日本人が入院すると、あの坊さんが連絡をとってくれるんだって。いろんな人がいるね」  ヒッピーは、グラスをすいながら、とろんとした目でいった。  茂は、だまっていた。  スーパーによって生野菜、レタスとトマト、それによく分からない野菜を買った。それから小一時間、コテージまで歩いた。清々しい気持ちのいい空気に満たされ、周囲の山々は日の光をあびて輝いてみえた。  痩せたラマ僧の苦悩に満ちた顔が、ふと頭に浮かんだ。 「こうした死は、よくない」 「死すべくして死ぬことだ」 「奇遇」  ラマ僧の言葉は、どこまでも果てしがなくみえる爽やかな青い空の彼方から、静かにやってきて、まわりのふかい緑色の木々の葉を戦がせる緩やかな風となり、茂にまとわりつきながら心を揺すっていった。そして、吹きぬけた厚い緑のほんの先には、もうちかよることもできない深淵があった。  五、神が住むちかくで  泊まったコテージのまわりには、野原があった。踝くらいの雑草がところどころに生え、ふかい森にむかって小径がつづいていた。三段のステップで土の道からすこし高くなっているベランダは、幅がひろくて二メートル以上あり、周囲に腰の高さほどの柵がつき、ドアにつらなっている。ながくつきでた軒に覆われ、普通の雨では濡れない洒落たつくりになっていた。裕明は、部屋の椅子をベランダにもちだして、ちかくにみえる蒼くて高い山々をスケッチしていた。茂の姿をみとめると、病院はどうだったのかと聞いた。 「ヒッピーと、亡くなった友だちをみてきたよ」 「やっぱり、死んだのか」 「亡くなっていた。ヒッピーのいう通り、真っ黄色だった。家族と、日本人のラマ僧に会った」 「ふうん。そうか」  裕明は、手を休めずにいった。 「なあ、パーティーをやろうよ」  ヒッピーは、買ってきた野菜とキノコをよくあらった。 「ちょうどいい量だ」といった。  木の皿に、スーパーで買ってきた野菜とキノコをもりつけると、ヒッピーは嬉しそうに叫んだ。 「これが、マジック・マッシュルームだ」  腰をおろしたふたつのベッドのあいだに、褪せた黒色のまるいテーブルをもってきて、うえに皿をのせると、それなりの雰囲気ができた。 「じゃ、いってみるか」  裕明が、口をひらいた。 「きっと、驚くと思うよ」  ヒッピーは、浮き浮きしていった。  それで三人で、キノコを食べた。とくにうまいとか、まずいとかはなく、別段変わったことは、なにも起こらなかった。  ヒッピーだけが、浮き浮きしていた。一〇分くらいたったが、とくに変化は起こらなかった。何ひとつ、変わらなかった。それで、「なんにも、起こらないじゃないか」と茂はヒッピーにいった。 「ほんとうだよな」  裕明が、げらげら笑いながらいった。 「あんなに、緊張して食べたのに」  茂も、そう思うとげらげらと笑えた。おかしいと感じて笑いはじめると、笑いはとまらなくなった。 「面白いだろう」  ヒッピーが、ころげまわりながらいった。 「それで、そいつ。死んじまったのか」  裕明は、げらげら笑いながら言葉を発した。 「真っ黄色でさ」  茂の腹の底から、また笑いがこみあげてきた。 「ラマ僧の坊さんが」  ヒッピーが、笑った。 「しかし」、「奇遇」、「はある」、「て」  途切れとぎれになりながら、茂は、必死にいって腹をよじって笑っていた。もう、どんな言葉も、動作もおかしく、理由もなく、ただただ面白かった。 「モイル」、「もって」、「よ」  茂は、息ができないほど笑っていた。 「あんなの」、「みんな」、「食べ」、「どう」  裕明が、いった。  それは、死にそうになるほど、面白いことだった。 「死」、「じゃ」、「うよ」  ヒッピーは、笑いつづけていた。 「どう」、「るんだ」  裕明は、ベッドのうえで身をよじり、もだえながら聞いた。 「顔」、「腫れる」  ヒッピーも、床にころがり、笑いながらいった。 「腫れ」、「どう」  裕明は、もう言葉にならなかった。 「そのま」、「息」、「なくな」、「って」  ヒッピーは、気が狂ったみたいに抱腹絶倒していた。  笑いが爆笑の渦をよび、げらげらと笑いつづけた。どんな言葉でも、なんの話でも、よかった。ヒッピーの白い顔も、裕明の不精ひげも、茂の身のよじり方も、おかしかった。  テーブルがある。それが、ベッドの真ん中に。しかも、表面には傷がある。  電球が真ん中からぶらぶらと、たれさがっている。それが裸のガラスだなんて。  屋根がある。木ででき、しかも丸太がまるみえ。まるい傷がある。それに、円形の隙間がみえるだなんて。  三人は、笑いつづけていた。自分が身をよじっているのを知って爆笑した。相手をみては笑い、床にころがり這いつくばっては、腹をかかえた。  どのくらい、つづいたのだろうか。気がつくと、三人とも床にころがっていた。足がしびれてきて、「ケミカルな反応だ」と茂は思った。みんなが、おなじ気持ちに変わり、ひとつになる。違っているはずの人びとがまとめられ、「個」がなくなり、「私」がいなくなる。すべてがみんなになり、分割ができず、一切がごちゃまぜにされる。頭がぼやけてきて、あらゆることがどうでもいいと思った。  しとしとと、雨のふる音が聞こえる。ゆっくりと、時間がながれている。気持ちがいいとか悪いとか、そういう次元の問題とは違って、たとえるなら、ながい距離を走れるだけ走ったあと、そのままたおれこんでしまった感じだった。もう手も足もうごかない。息をするのも面倒で、世界の終わりがくるなら、それでもかまわない。一歩うごくのも、ご遠慮したい。 「もう、どうでもいいや。好きに、してくれ」  洪水が襲ってきて、逃げまどい、逃げつづけて、もう一歩もうごけなくなったら、きっとこんな感じなのだろう。  雨が、しとしとと天井をたたく音がする。しっとりとしたひびきとともに屋根を撫でながら、雨粒は落ちてくる。 「くすくす」という少女の声が窓のほうから聞こえてきた。  振りむくのも面倒だ、どうでもいい。押し殺すひくい声音で、ネパーリの女の子だろうか。可愛い話し声が、耳にとどいてくる。窓から、三人の男が床にころがっているのをみて、笑う声が聞こえる。 「マッシュルームを、やったのね」と囁いているのだろう。  どうでもいい。満たされた時間で、なんにもいらない。雨の音が素敵で、雰囲気がいい。湿った空気が、たまらない。このまま世界が、とまるなら、それでもかまわない。  静かな、雨の音が聞こえる。ネパーリのふたりの女の子が、コテージの軒先で雨宿りをしているらしく、かなりの時間がたったのか、童謡みたいな歌を歌いはじめる。高い綺麗な声だ。迷惑になるのに気をつけて、そっと静かに歌っている。 「雨宿りの歌なの、だろうか」  それがまた素敵で、マッチしている。柔らかな雨の伴奏みたいで、もうどうなってもいい。こんな極上の時間が、すぎていくなら。味わったことのない華麗で、洗練された、落ちついたときだった。  もう、どのくらいそうしていたのだろう。だれにも分からなかったし、とり立てて知る必要もなく、三人とも床にころがっていた。頭が、いくらかはっきりとしてきたときには、日はしずみ、雨もやんでいた。ネパーリの女の子たちも、いなくなっていた。  茂は立ちあがり、トイレにいこうとした。あいにく裕明が先に用をたしていて、ベランダにでて木製の階段をおりた。外は月の光に照らされ、ちかくの草むらにむかって小用をした。尿が草にかかる音がひびき、勢いでゆらゆらと揺れていた。その一筋のながれは、シヴァ神を思い起こさせた。  シヴァは、ヒンドゥーの神で、すべてに破壊をもたらす。命のある者もないものも、およそこの世の一切は、その撃滅から逃れることはできない。さまざまな絵をみた。シヴァ神はいつでも、頭のてっぺんから一筋の水をながしていた。それがガンジスで、シヴァは、ガンガーダラともよばれる神でもある。そんなことを、思いだした。尿をだし切ってすっきりとし、ほっと溜め息をついてあかるい天をみた。  そのとき、茂は真っ白になった。  満月だった。照らされて山がみえた。  空は、晴れわたり、いつもの雲がなかった。高山だと思っていたのは、じつはひくい山だった。そのさらにずっとうえに、いままで高いと考えていた山々に覆いかぶさって巨大な山岳がみえた。山はせまり、襲いかかっていた。  それが、ヒマラヤだった。   真っ白の雪に覆われた、アンナプルナだった。  その、鋭角に切れたカミソリ状の白い尾根がみえた。  豊穣の女神は、飛んでもなく高くて、峰は月の高さまであった。事実、あかるい満月の一部まで、尾根の端は到達していた。いつも高いと思ってみていた山々は、まるでお話にならなかった。  峰は、もう、ほとんど青白いといってもいい月の光に白く輝いていた。そこは、疑う余地もない、あきらかな神の領域だった。喜びや悲しみ、愛や憎しみ、この世に起こりうるあらゆる感情は、すべて綺麗に切りとられ、忽然とアンナプルナは存在していた。  生や死などという、俗界の事象にむすびつくものはひとつとしてなく、かぎりなく神聖で命ある何者もよせつけなようにみえた。穢れがちかづくことも忘れられ、時空をこえ、目の前にアンナプルナは聳えていた。  地面に突き刺さった、一枚のカミソリの刃だった。  遠い昔、中央ユーラシアの草原地帯を自在に駆けまわっていた、白い肌の遊牧民がいた。そのなかで戦いが起こり、負けた人びとが南下をはじめた。部族は、西アジアまできて、さらに仲間割れをして二手に分かれた。その片割れが、カイバルをこえ、西からこの大陸に侵入してきた。  もともとここで暮らしていた、かつて世界の四大文明の一翼を担った黒い肌の人びとの末裔たちは、安穏で平和な日々をおくる農耕民族だった。はるかな北に、白い縁飾りがみえる。その雪と氷河からながれでた、五つの河が潤す肥沃な大地に異民族はなだれこんできた。  平和に暮らす人びとのなかにも、勇者はいた。妻や娘をまもるため、雄々しく立ちむかった兵(つはもの)は住んでいた。しかし、どんな猛者も長老も、あんな車はみたことがなかった。二頭の黒い馬にひかれた、あれはいったいなんなのだろう。獲物をみつけた、ひげ鷲のはやさで、疲れることもなく縦横無尽に走りまわって、ぐるぐる回転しているふたつの大きな輪はたおれた仲間をのりこえていく。象よりもつよく大きく、恐ろしい。車のうえには、白い人が金色の冠をかぶって立っている。その刀は、なぜ、あんなにもきらきらと輝き、どんな武器でも切ってしまうのだろうか。  何度も、くりかえしやぶれて、南に、東に、北に、女をつれ、脱出せざるをえなかった。  逃げて。どこまでも。逃げつづけて。逃げのびて。  南には、世界最大級の激しい火山活動によって排出された「洪水玄武岩」が幾層にもつみかさなり、植物も生えることができない、デカントラップがひろがっていた。東は、熱帯雨林が生いしげり、猛獣とマラリアが支配する未踏の森にふさがれていた。そして北に逃げた黒い肌の人たちが、遭遇した光景とは、月に照らしだされた、神聖で侵すことのできないカミソリの刃だった。垂直に切り立った、こえられない壁をみたとき、人びとは神の意志を知った。  白い肌の人たちの奴隷となり、教えにしたがい、彼らの神さまをみとめなければならなかった。  この文明をつくったのは、ヒマラヤだった。  雪と氷河に覆われたアンナプルナの峰は、あかるい月の下の部分を切りさいていた。満月は、さらに天へと一目散に駆けあがろうとしていた。千丈のカミソリの壁をこえることは、月にとっても、決して容易ではなかった。 アンナプルナの白く光る刃状の尾根が切りさけないものは、この世にひとつもなかった。たぶん峰につもる雪さえも、結晶のひとつひとつが、綺麗にふたつに分割されていたはずだった。人の手がとどかない、穢れるのも、穢すこともできない、あきらかに神の領域に属していた。  青白い月の象をみいったとき、茂に「平安」が襲ってきた。  不意に、風が起こった。そよ風が吹いた。柔らかく撫でながら、くりかえしくりかえし、ゆっくりと弱い気流がながれている。まるで神の吐息にも似て優しく、そよ風が吹く。何回目の気流だったろうか。ふと、風は体躯をつきぬけた。魂をのせると身体だけをのこして大気とひとつにとけあい、希薄になって拡散をはじめ、宇宙そのものへと、ひろがっていった。  茂には、コテージのちかくでぼうぜんと突っ立つ、自分の姿が目に入った。それから、あかるく光る小屋をとりまく、ふかい森がみえた。魂は、ほんらいの住み処である空にむかって、どんどんとのぼってゆき、同時に止め処もなくひろがってもいき、しだいに「宇宙への拡散」は猛烈なはやさになった。アンナプルナの尾根が、背後の氷河がみえた。垂直に切り立ち、真っ白な雪で覆われた、弧をかいてつらなる激烈に大きな山塊が、チベットの高原が、目に映じてきた。日本列島が分かり、さらに、まるくて青い地球がみえた。それでも魂は宇宙をすべっていき、月をあっという間に通りこすと、太陽系をぬけ、銀河の彼方まで辿りついていた。  もっと正確には、いきつくというよりはひろがり、アンナプルナをみつめる自分は、その島宇宙の果てと、すぐとなりあわせにいた。  満たされていた。  ヒマラヤは、「雪の蔵」だと聞いたことがあった。   なん劫という、限界は存在するが、とても人が想像も体験もできないながい年月、そうした永劫の過去から現代までの果てしない時間をかけて、ふった白雪のいちばん底までがみえる、そんな感じだった。識別できうるかぎりの、ひとコマにふりつづき、そのうえにさらにふりつもり、かさなり圧縮されては凍り、しかし、それはまぎれもなくおなじ雪で、累々としたつみかさなりが、ヒマラヤをみせていた。  アンナプルナの鋭角の尾根は、つもりつづけた、積雪の余力からできていた。  茂の目から、自然に涙がながれでていた。嬉しいとか悲しいとか、そういう感情とは関係なく、ぼろぼろと頬をつたって落ちていた。 「悪い。わるい」  そういいながら、裕明がでてきた。茂のちかくまでいき、異変に気がついた。 「どうした」  裕明は驚いていい、茂の視線を追ってみた。 「なんだ、こりゃあ」  裕明は、大声で叫んだ。絶句して、そのまま立ちつくした。裕明も泣いているみたいだった。  静かな時間が、たっていった。どのくらい、だったのだろうか。三〇秒か、三分か、三〇分か、三時間か分からない。ふたりが立っているのを、さまたげるものは、なにもなかった。鳥の声も、虫の音も、聞こえなかった。木々の香りも、風の踊りもなかった。存在していたものは、ただひとつ、  アンナプルナ、だけだった。   ほかには、なにもなかった。  茂の魂はしだいに収縮をはじめ、一瞬ずつ、まったくべつな風景がみえるはやさで、ひとときに万の銀河を、さらに、億、兆の星間をぬけた。太陽系にもどり、青い地球が、ヒマラヤが視界に入った。青白い月が輝くアンナプルナの尾根、全体がみえた。コテージのあかりと、ぼうぜんと突っ立つ、茂と裕明が目に映った。  ふたりは昨日、ピッピーがみせた、あの「恍惚」とした表情で立ちつづけていた。止め処もなくあふれた涙は、頬をつたい、音もなく草むらに落ちていた。それから魂は、茂の身体にもどっていった。  空をみあげていた。そこは、天の川銀河。  風を感じる。  しかし、ふかれ、戦ぐのではなく、  そよ風と、大気とひとつになり、ながれ、うごいている。  雲ではなく、風が、光が、棚引いてみえる。  月が、あかるく照らしている。  光はアンナプルナに差しこみ、輝かせ、そして影をつくり、しずみこむことによって、山をもちあげている。  しかし、月だけではなかった。  天の川銀河は、照らし、差しこみ、輝かせ、影をつくりしずみこんでいる。そして、アンナプルナをもちあげている。よくみると、さらに天の川銀河を形成する、億にものぼる星々の光、そのひとつひとつが、各々、照らし、差しこみ、輝かせ、影をつくりしずみこんでいる。そして、アンナプルナをもちあげていた。さらに天の川銀河からこぼれる、兆にもなる星々のひとつひとつの光が、それぞれに照らし、差しこみ、輝かせる。影をつくりしずみこんでいる。  そして、もちあげていた。  アンナプルナ、月、天の川銀河、天の川をとりまく満天を彩る銀河、億、兆の星々。  輝く光明。照らし、影をつくって、映えさせる暗闇。  銀河は、巨大なミラーボール。  全一の闇に、光が棚引く。  風を、感じる。  ながれ星がみえる。いくつも。何個も。ながれ星がみえる。先ほどまでのっていた星が、ながれていく。  分かる。判る。この関係。  神々の交信。  アンナプルナ、光、雪、月、星、影、そして風。  変わらなかった、宇宙。  ヴェーダがうまれてから、ずっと、  この大陸の、原風景。  風を、感じる。  アンナプルナの白い尾根は、世界の果てを示していた。                    神の住むちかくで、一六〇枚、了