カトマンズ      由布木 秀  一、ストーンロッジ 「あれは、気持ちがいい」  朝までつづいた微睡みの、夢の余韻に酔いしれながら、茂は熱く語りはじめた。  全裸の女が横たわっている。  漆黒の肌、むけられた背中に光があたっている。狂おしくくびれた、ほそい胴。やがてつながる、まるくて大きな部分。それは、熟れた甘い香りをはなつ、みずみずしい厚い果肉。薄皮につつまれながら、奥に眠る熱いマグマを隠している。それは、神がおくったもの。古代より、はるかにつづく光る砂丘か。なめらかにひろがり、そっと吹く風が、肌理のこまかい縞の文様をつくりだす。やがて凹んだオアシスにゆきつき、さらなる砂へと旅にでる。真砂は、草の緑を輝かせる。理性から遠く離れて、不思議な磁場をもつところ。やがてつけ根になり、贅をつくした露わな肉づきの脚へとつづく部分。  ああ。溜め息がでる。  右の膝は、左の踝にのっている。まるでうまれたばかりの子供とおなじ、柔らかそうな白い足の裏がふたつならんでみえる。肩越しに振りむいて、こちらをみているのはまぎれもないアーリアの女。ととのった彫りのふかい顔立ち。しかし、むけられた瞳は物憂げで、焦点は定まらずぼんやりとしている。頭部には布が巻かれ、ながい黒髪が隠されている。ターバンは、薄茶色の地に、いくつもの赤っぽい刺繍が縞状に施され、最後は四つか五つの金色の房になってまとめられ、たれさがっている。右の腕は、お椀をふせたような、まるくはり切った乳房のいちばん先にあるものを巧みに隠しながら、すこし湿ったわき腹と腰をつたって緩やかに伸ばされている。その手は右膝のうえにおかれ、手のひらで大鷲の青い羽でつくられた刷毛をかるくつかんでいる。それにしても、なんと悩ましいものを女はもっているのだろうか。その手首を飾る、二本のブレスレット。ラピスラズリがつらなったビーズは群青の空色で、ウルトラマリンの神秘の海に、茂の魂をひきずりこもうとしている。  吹きぬけの高い天井から、量感のあるながいカーテンが床までとどいている。光沢に満ちた藍色の布には、白い縁取りがされ、紅い糸の鳥の刺繍が折りかさなり文様となっている。カーテンがたれる右のすみには、銀製の蒸し器がおかれている。そこから、ゆらゆらと立ちあがる煙は、妖しい。はじめは、ほのかに青白いが、やがてカーテンの布地の色とかさなり白っぽくなり、中央にむかって棚引いている。蒸し器のとなりに、茶色のながい陶器製のパイプが立てかけられている。なるほど、煙は阿片なのだ。この女のぼんやりとした瞳や、気だるい表情。全体をつつむ、妖艶でいずれ背徳的な雰囲気。そうか、あの煙がひきだしているのだ。  左うえのわずかなカーテンの隙間から日が差しこみ、斜めになる光線の角度と力のにぶさから、季節は春の午後だと分かってくる。柔らかい光は、部屋の中央までやってきて、そこに漂う煙とたわむれ、隠れたりあらわれたりしながら、時間をかけ、やがて女の黒い背を輝かせる。そうして、かぎりのないときを封じこめる。  どっしりとした厚手のカーテン、その一部は女の足にもたれている。弱い光に輝く藍の布は絹製で、あくまでまるく緩やかに折れまがり、つらなり、柔らかい襞になって、すこしずつ力がぬけて、かさなっている。女が横たわる大きなベッドにかけられたシーツも、めくれて撚れて折り目をつくり、つみかさなっている。  なめらかで、柔らかい二枚の絹布が、かさなり、こすれあいながら反復する、襞。ひだ。襞。  やがて、それは、鋭敏な官能をかもしだす。 「そうか」  裕明は、茂の話をだまって聞いていた。やがて言葉をついだ。 「すると、それがすべて、岸川のくれたオピウムのせいだというわけなのだな」  石づくりの部屋はすこしひんやりとし、窓からは光が静かに差しこんでいた。カトマンズの朝は、清々しい大気に満ちて、ふたりをとりまいていた。 「ほかに考えられない。グラスもアシドもだめだったが、あれは違う。お金をかける、価値があるのではないか」  茂が結論を話すと、裕明は髪をかきあげ、腕ぐみしてながいことじっとしていたが、うなずきながらいった。 「よく分かった。今日、なんとかして手にいれよう。今晩は、思い切りぶっ飛んでみよう」  それで、今夜はパーティーとなった。  九月のなかばもすぎるころ、カトマンズはとても天候の安定した日々がつづいていた。秋分の日は、ちょうど茂の誕生日だったので、みんなで祝ってやることにした。顔見知りに声をかけると、あつまったのは裕明と岸川、それに今岡とローラだった。夕食後、泊まっていたホテルから三〇分くらい歩いたところにあるレストランに集合し、一角を間仕切りにしてもらった。綺麗なあかるい店で外国人ばかりだったが、客はそこそこ入り、鮮やかではないふかい赤色の絨毯が床一面にずっとしかれていた。注文したまるいケーキに蝋燭をともしてバースデーソングを歌うと、茂はなにやら神妙にお祈りし、風もないのに揺らめく、妖しい炎を一気に吹き消した。五等分にして、紅茶を飲んだ。甘くて柔らかいケーキは特別製で、ダージリンも最高だった。  ローラが笑いかけてきて、茂にいった。 「ねえ。明日、いっしょに国立博物館にいきましょうよ」 「いいよ。きっと、明日も元気だと思う」 「なにを、お祈りしたの」 「これから起こるはずの、いろんな楽しいことをさ」 「いいわね。ぜひ仲間に、まぜてもらいたいわ」  ローラは、浮き浮きした声でいった。 「いまのお祈りのほとんどすべては、できれば君とふたりでやりたいものばかりだよ」 「全部じゃないの」 「分からない。それは、なんでもいっしょがいいけれど、おたがいべつべつの人間だから、すべて、というわけにはいかないだろう」 「ちょっぴり寂しいわね」  ローラは、すこし悲しそうな顔をした。 「そうだね。でもローラ、おまえ、綺麗だよ。今夜は、また一段と素敵だよ」  茂は、彼女を直視し、微笑みながらいった。 「みつめないでよ。今日は、まだ目が腫れているのだから。でも、思い出にのこる夜にしてもいいのよ」  ローラは、小さく笑って答えた。 「おれも、心からそう思う。とても残念だけれども、今晩は、やることがもう決まっているんだ」 「そんなもの、やめてしまったらいいのに」 「約束して、しまったんだ」  茂は、ローラのブルーの瞳をみた。彼女の白い肌に、うすい藍色のシャツがよく似あい、とき折り、うっとりする匂いが、仕草にあわせてほんのりと鼻をかすめていく。二、三滴、振りかけられた香水なのだろうが、そばにいるのはいい気持ちだ。彼女に真剣な表情でみつめられると、自分の心は筒ぬけになっているに違いなかった。気取っても、すべてが無意味に、茂には思えた。瞳から目をそらして、ローラの表情をみた。微笑む白い頬はふっくらとし、だきしめたくなるほど可愛かった。それは、約諾と天秤にかけたいほどだった。 「約束なんて、やぶるためにあるのよ。あたしなんか、決まっていたこと全部、破棄しちゃったのだから」  ローラは茂をみつめながら、ほとんど深刻ともいっていい表情で語気をつよめていった。 「そうだね。普通は、そうだろうね。でも、裕明との約束なんだ」 「それ、今夜の話なの。重大なことなの。延期できないほどの」  ローラは、とても信じられないという表情で驚いて聞いた。 「そうなんだ。とても重要なことなんだ」 「あんた。女に興味がないと思っていたら、裕明とは、そういう関係だったの」  ローラは、憤慨していった。 「それは誤解だ。おれは、平凡な男だ」  茂は、反応に驚いて真顔になり、必死に説明した。 「そうかしら。普通の男性は、男より女をとるわ」 「裕明とは、そういう関係じゃない。信じて欲しい。そういう趣味はない。おれは、普通の男だ。どちらかというと、平凡すぎてつまらないくらいだ」 「信じてあげるわ。その代わり、明日、いっしょに国立博物館にいきましょうね」 「分かったよ」 「これは、重要な約束よ」 「分かったよ。重大だし、大切な約束だよ」 「先約よ。変更はできないわよ」 「おれも、変えたくない。どんなことがあってもね。でもローラ、おまえ、ほんとうに綺麗だよ」  彼は、ブロンドをみつめて答えた。  裕明と茂は、いっしょに旅をしていた。  ポカラからカトマンズまでの二〇〇キロ、バスで移動した。暑くも寒くもなく、天候は落ちついていた。空は晴れわたって、どこまでも果てしなくつらなる山と森だけがみえる、奥ぶかくて美しいところだった。とくにふたつの峠のあいだで、岩をはさんでゆったりとながれる二本の河には心を魅了された。その川面は、いっぽうは緑、もう片方は碧とよんでもいいふかい青で、この世のものとは思えない神秘的な色をしていた。ただひとつ残念なことは、そこに通じる峠の道も現実とは考えられなかった。  山際にそってつくられた延々と石ころがつづく、せまい道路だった。幅が一台分しかないと思われる山道を走っていると、むこうからもバスがやってくる。自分が山がわにいれば、交差する路線バスがどのくらいあぶないのか分かる。バスがそうした道から落ちることも、きっと幾年かに一度くらいはあるだろう。すこし考えただけでも、かなり悲惨な事故に思えた。谷がわを走るバスの車輪が、道の端にかかるのがみえた。石がざらざらと音を立て、地面だったはずの一部が欠けていく。谷にむかって、落下している怖い音響が聞こえてくる。  しかし、ほんとうに恐ろしいのはこれからだった。すれ違うのは、いつでも自分が山がわではなく、対向する路線バスが、そちらにいるばあいもあった。これをよく考えると、のっているバスは崖っぷちだ。タイヤが、石を落とす音が聞こえる。ざら、ざらっという不気味な音響だ。 「こんなところで、裕明と死ぬのは真っ平だ、洒落にもならない」  そう思ってとなりをみると、彼は眠っている。 「凄い奴だ。六年間も世界をさ迷うとは、こういうことなのだろうな。うらやましいほどの図太い神経だ。おなじ人間だと、いえるのだろうか。それだって状況が分かれば、ちぢみあがる部分あるはずだ。たたき起こして、みせてやりたい。地面が、欠けていくところを」  カトマンズについたのは、ポカラを朝七時にでて、一二時間ちかくバスにのっていたから、夕方の六時半だった。それから、ふたりでホテルをさがした。窮屈なバスに揺られてついたカトマンズは、もういくらか肌寒く感じ、温かいシャワーがでる部屋は高そうだった。温水がどうしても必要というほど寒くもなかったし、たとえ水であっても冷たいのはひとときで、時間が解決してくれる問題のひとつだった。生きているのは凄いことで、じっと我慢すれば、あとはどうにかなってしまう。なんでも、そうだ。問題は、我慢できるかどうかだけだった。だいいち気にいらなければ、翌日なんとでもできた。考えるのは今日の寝床で、それが必要なことであり、すべてだった。  ホテルをさがす途中で、パン屋があったのでパンを買った。もう身も心もくたくたに疲れ、宿屋をみつけたあとでレストランにいく余力がないのは分かっていた。部屋について、ホテルで紅茶を入れてもらった。お茶は熱くてとてもおいしく、腹に染みいり、生きているのを確認させてくれた。それで買ってきたパンを食べて、夕食の代わりにした。  みつけたホテルは石づくりの二階だてで、入り口をぬけると、客がのんびりできるソファーがおかれたロビーと正面に受付があった。カウンターには、店の主人がいた。年は五〇歳前後で、痩せていて肌は浅黒く、みじかいカールした髪は真っ黒だった。色のついた長袖のワイシャツをきて、黒っぽいズボンをはいた実直そうなネパーリだった。リュックを背負い、パンをかかえ、げっそりとしたふたりをみてマスターはいった。 「温水がでる部屋と、水だけのがある」 「冷水をお湯にするには、お金がかかるのだろう」  裕明は、交渉をはじめた。  それで、マスターは理解したらしい。このふたりを説得するには、時間がかかる、それならば、あの空き部屋にでも。そういうことだったらしい。 「ながしは外だ。シャワーもだ。すこし、変わった部屋ならある」  マスターは、じっとふたりをみつめた。それから、ついてこいといって奥の階段をのぼりはじめた。  パンの紙袋を両手でかかえる茂には、もう思考能力はなく、ただマスターの後ろについて二階の踊り場にあがった。左にむかう廊下は奥までつづき、両がわに部屋の入り口がみえた。右にまがったマスターを追って通路を歩き、あけてくれたドアをぬけて室内に入った。とてもあかるく感じた。ベッドがふたつならび、枕がわのあいだにテーブルがおかれていた。石でできた灰色の壁は、いくらか汚れ、黒ずんだところがあったが、そんなに変わった部屋ではないと思った。入り口から遠いほうに腰をおろして、パンの袋をテーブルにのせ、リュックもおいてベッドに横臥した。すくわれた気になった。道とタイヤがわけもなく頭に浮かび、ほっとして一気に疲れがやってきた。  そのとき、みょうな気持ちに落ち入った。みまわすと裕明がいない。マスターが扉のところで廊下がわに立って、いま歩いてきたほうをじっとみつめている。なんだろう。奇妙な光景で、茂にはなんだかさっぱり分からなかった。裕明になにかあったのだろうか、廊下でたおれているのか。  茂は起きあがると扉にいき、マスターのまえをぬけて通路にでてみた。裕明が腕ぐみして、ぼうぜんと立っているのがみえた。彼は、天井を仰ぎみていた。どういうことだか分からないが、みょうな光景だなと思いながら茂も顔をあげると空がみえた。星が光っていた。なんだろう、これは。そう思って周囲をみまわしてみると壁がなく、頭上には雲がながれていた。整理ができないでいると、彼が目の前を歩いて部屋に入っていった。  裕明は、リュックをおろしてベッドに腰をかけた。茂もすわっていると、おもむろにマスターが入ってきて、なにやらじっと考えてからいった。 「分かった。一週間以上、泊まってくれれば、ひとり一〇ルピーでいい。これは、特別料金だ。今日一日というのなら二〇ルピーだ。交渉はしない」 「分かった。お茶だけ、ご馳走してもらいたい」 「そうか。レストランにとりにこい」 「ありがとう。感謝する」  裕明は、答えた。茂には不明な会話だったが、彼とマスターは通じているみたいだった。一〇ルピーが特別に安いのは、理解できた。  マスターが去ったあとで、部屋代が割り引かれた理由を裕明に聞いたが、彼にも分からないらしかった。廊下から空がみえるのは不思議だ、という点については一致した。そうこうするうちに、扉がノックされ、若い男がポットをもってきた。さらに、サービスをしてくれたのだった。紅茶は風味があり、熱くて適度に甘く、もの凄くうまかった。それで、パンを食べた。それから、顔をあらいに外にでた。部屋は独立してあり、周囲にはとくに建物がなかった。月が照り、涼しい風が吹いていた。はじめてのカトマンズの夜にふさわしい趣はあっても、文句はひとつもなかった。 「ひどい、バスだったな」と茂はいった。  晩飯も終わり、ベッドに横になったときだった。くたくたに疲れていたが、なんとかホテルもみつけたし、代金も決まった。夕食にもありついたし、熱い紅茶も飲んだ。一日を振りかえっても、いい時間だった。 「あれなら、飛ぶ手もあったな」  裕明は、暗い天井をみつめながら答えた。ベッドに寝そべって横になってしまうと、もう二度と立ちあがれないように思えた。 「ほんとうに怖かったな。道の限界という奴だったな」 「そうだったな」 「でもな。裕明の図太さには、あきれたよ。みていたか。タイヤがすべりながら、崖の下にむかって、石をざらざらって落としていくところを」 「ああ、みていたとも。あれは、怖かったな」 「そうか。でも裕明、おまえ、眠っていた。それも、鼾までかいてた。熟睡していたんだな」 「ほんとうかよ」  裕明は、とつぜんむっくりと起きあがった。すわったまま両腕をくんだ。それから腕をといて、ながい髪を後ろにかき分けた。不精ひげを右の手のひらでさすって、寝転んでいる茂をまじまじとみた。目をつむり、なにかを考え、もう一度直視し、意を決していった。 「タイヤが落ちたの、知っているか」 「なんだ、それ」 「そうだよな」  感慨ぶかげに裕明はいうと、「ふう」とふかい溜め息をついた。それから不愉快そうな表情で、右手で額を押さえて目をつむった。 「右の後輪が半分くらい、落ちてよ。空まわりしていた」 「なんだよ、それ。夢でも、みたんじゃないのか」 「のりあわせた、みんなが知っているぞ。全員が、ぞっとしたんだ。でも、茂は寝ていた。おれは、おなじ人間だって。あのとき、信じられなくなったぞ」 「まさか」  茂は、興奮する裕明をみていった。 「ひとりだけだった。眠りこけていたのは。バスのなかは、騒然としたんだ。運転手をふくめて、のっていた全員が死ぬのじゃないかと思った。たったひとり、茂をのぞいてな。ひっぱたいても、起こしてやろうと思ったくらいだったぞ。無性に腹が立った」  裕明は、茂を真っすぐにみた。ふたりのあいだを、静かなときがながれていった。窓から、月の光が差しこんでくる。部屋のすみまでやってきて、闇と同化し消えていく。 「そうか。そんなことがあったのか。疲れていたのだな。おたがいにな」 「いいよ。そういうことにしておいてやる。疲れていたのは、間違いがないからな」  裕明は、いつもの優しい口調にもどっていい、ほどなく鼾が聞こえてきた。  茂には、とても信じられなかった。世の中には、不明な出来事がいっぱいある。だいたいは分かるが、すべてではない。裕明の言葉が真実だとはとても思えなかったが、彼がそういう以上、そうしたこともあったのだろう。  ホテルには、何人か日本人がいた。  岸川という男は、まるい縁の眼鏡をかけ、背丈は茂よりすこし高く痩せていた。髪はみじかく、頬はこけ、こくないひげを伸ばし、とくに顎髭をながくしようと頑張っていた。二週間まえに、ここにきたといっていた。ヒマラヤをポニーにのって、トレッキングをしたそうだ。ガイドが専用について、とても親切で昼飯までおごってくれたそうだ。 「気にいられたんだ」と岸川は話していた。  氷河のまえに小さなテントと洒落た店があり、彼ひとりのためにあけてくれ、ほかの客はいなかったそうだ。岸川は偉く気にいったらしく、その話をくりかえしていた。  茂は、ロビーで延々と聞いていた。  ついたばかりで、だれも知らなかったし、やることもなかった。どういう人間なのか分かっているほうが、あとあとのつきあいが楽だし、どこまでつきあうのか、だいたいを決めておくのは必要だった。  裕明は、いつもいっていた。 「なんでも、だいたいは分かる。もちろん、おおむねのことだ。それでも、不明な出来事はいっぱいある。だから、だいたいも分からないときは、やめといたほうがいい。裏切られる。このばあいは、決まって悪いほうへだ」と。  ヒマラヤは寒くて、特別にコートを貸してくれたそうだ。服は、ヤクの毛皮でつくられた最高級品だったそうだ。  それで、たいそう、とられたらしい。  岸川の言明には、腑に落ちないことが多かった。特別な美人なら、話は違うかも知れない。たとえ若くて綺麗な女性であっても、お高くとまっているだけなら、だれも親切にはしてやらないだろう。それが、ただの男が、特別な好意をもたれるなんて。どうして、そんなことが起こるのだろう。気にいられるためには、なにか理由が必要で、普通こうしたばあいでは、金払いがいいこと以外にありえない。本人がよいと思っているのだから、他人がとやかく口をはさむ話ではないが、その氷河は端から雪渓だった可能性だってある。だいたいも分からなければ、人間は簡単にだまされるわけだ。  親切な人はいるだろう。意地悪な者が、うろうろしているのとおなじで。しかし親切な人は、こちらが頼んだときに優しく接してくれる。頼みもしないのに、よってくるのは、「吸血鬼」みたいな者で、なにかを企んでいる。無償の愛も、世の中にはあるのだろう。しかし道で出会った人に、いちいち愛情は感じないだろう。そういう者がいたとしたら、一週間で死んでしまうに違いない。とても身体がついていけないはずで、人間はそんな風にできている。  岸川と話すうちに、「やってみないか」といって、だされたのがオピウムだった。ゴム状になった、真っ黒で精製されていない生阿片だった。 「最初は、こんなものだ」  すべてを熟知した感じで、岸川はいった。 「これをどうするのだい」と茂が聞くと、 「寝るまえに食べてみたらどうだ」と小指の先くらいに千切ったオピウムをさしだした。  夕飯がすんだころで、ロビーには何人かの宿泊客がいた。広間にすわっていると、だいたいを知ることができた。そのなかに、ローラもいた。  彼女は、茂が今朝、洗顔時に出会った可愛い子で、目鼻立ちがすっきりした、ひと口でいえば美人だった。オーストリアからきたという話だったが、岸川が宿泊したときにはいたらしいから、いつからホテルにいるのか分からなかった。背は一六〇くらいでグラマーで、いうことなしの理想的なタイプだった。ブルーの瞳で、みじかくした髪の毛は、ブロンドだった。  茂が、岸川といっしょにロビーのソファーで話しこんでいるのをみつけると、彼女はちかよってきて右の手のひらを小きざみに振った。 「やあ、ローラ。今日は朝から一日、幸せだったよ」  茂が、彼女をみつめていうと、 「私も、おなじよ。そのお礼を、つたえようと思っていたの」  ローラは、微笑んで答えた。頬は、やや紅に染まって、ふといい匂いが鼻先を通りすぎ、茂はくらっとなった。 「また、お話がしたいわね」 「喜んで。君のまえでは、いつだって予定表は真っ白だよ」  茂が答えると、綺麗にならんだ白い歯をみせて笑った。  ローラは、浮き浮きして可愛かった。ロビーを歩く姿も、かろやかで、純白の羽毛につつまれた天使にみえた。場違いで、「なんで、ひとりでいるのだろう」と茂は思った。 「可愛い子は、一人旅をしない」  裕明は、いっていた。 「そんなもの、男がほうっておかない。だから、したくてもできないのだ。可愛い子と一人旅は対立する概念で、そもそもが矛盾している」  ローラは違った。なんでも例外がある。きっと、それなりの事情をもっているのだろう。こんなに可愛い子が、ひとりで旅をつづけてきたなんて怖い話で、それだけで充分に魅力的だ。いろいろな物語があるはずで、一度ゆっくり拝聴してみたい。きっと泣ける話で、聞けば間違いなくローラは泣くだろう。あのブルーの瞳から涙があふれて、シーツまでぐしょぐしょになるだろう。どんな話でも聞いてやる時間を、茂はいくらでももっていた。ローラも、いっぱいあるらしかった。 「知りあいなのか」  岸川は、ぼうぜんとした表情で茂にたずねた。 「とても大事な、大切なものさ」  茂が答えると、岸川は真顔になって振りかえり、じっとローラをみた。ちょうど、今岡がやってきた。 「なんの、話なのだい」  今岡は、けげんな表情で聞いた。 「じゃあね。私は用があるから、いまは、いくわね。茂、またあとでね」  ローラは、右の手のひらを立てて左右に小きざみに振った。 「いま、いったこと忘れないでね」  茂が、まねて右の手のひらを振ると、ローラはおかしそうに微笑んだ。  岸川からオピウムをもらった、つぎの翌朝だった。カトマンズでむかえた三日目の朝、ロビーで会って、売っている場所をよく聞いてみた。ずいぶん、もったいぶって教えてくれた。 「非常に危険だ。買いにいくのには、勇気がいる。はんぱな気持ちは、命取りだ」  さんざん講釈を聞かされた。 「そうなのか」  茂は、いちおううなずいた。分からないのだから、仕方がなかった。 「暗いところに、つれていかれたんだぜ。真っ暗な廃屋だ。ひろいスペースで、たぶん、まえのボスがつかっていた酒場、縄張りの中心だな。映画にでてくるのを、みたことがないか。ドアをあけて男がぶらりと入っていくと、お立ち台をかこんで8の字型にカウンターがある。真ん中のすこし高くなっている白いステージには、三本くらいの金色のポールが天井から床に突き刺さり、棒みたいな柱に、女が股をこすりつけているんだ。暗い室内に、スポットライトが踊り子を浮かびあがらせる。女は、ほそい紐みたいな下着をつけているだけで、ほとんど裸。胸なんか、まるみえ。もちろん肌は黒い。それがさ、妖しく腰をくねらして、みょうなうごきをしているわけだ」 「ほう」 「分かるか、酒はだめなんだ。ここは、ヒンドゥーだからな。非合法の酒場で、ボスのいちばんの子分がやっている。酒は、一滴も許されない。法律がある、その」 「禁酒法か」 「それだ。シカゴと、おなじだ。暗黒時代のアメリカだ。だから、ガサ入れがある。そうなれば、でてくるのは、とうぜんFBI、ネスだ。ながい濃茶のコートを羽織って、無口でしぶい。エリオット・ネスと、その部下が機関銃をかかえてのりこんでくる。相手は、シカゴの闇の帝王。悪の塊。その、なんだ」 「カポネか」 「そう、それ。アル・カポネだ。ダイナマイトが炸裂する。まあ、半分くらいは死んだわけだ。その廃墟、廃屋だな」  喋る岸川の目は、すわっていた。 「それは、怖いな」  茂は、うんうんとうなずいた。 「むこうから、チャカでももっている感じの、背広をきたお兄さんがでてきてよ。びびるよな。怖いのは、とうぜんだ。で、どうする、オピウム。それでも、欲しいか。茂」  岸川の話を聞いていると、オピウムを買いたいのかどうか、分からなくなってきた。彼の世界は、想像をはるかにこえていた。 「たいへんだったな」と茂は答えた。しばらく考えてから、「それで、廃屋はどこにあるんだ」と聞いた。肝心な値段もたずねてみると、また延々と、どうしようもない話をはじめた。 「一単位は、トルっていうんだ。天然の阿片を粘性のある糊でまぜあわせて、板状にするんだ。なぜだか分かるか、茂。これを、手紙にはさんで日本におくってみたんだ。うすく伸ばしてな。税関なんて、チョロイもんよ。奴らは塊しか考えていないから、みんな通しよ。ここで、ひとつ商売をしようと思っているんだ。あの、お兄さんたちと、ルートをつくってな。アシドなら、便箋に浸せば区別はつけられないしな。ジュクにいって売れば、相当なものになる」  こうしていちおう、必要な情報はえた。岸川が買ったのは、ルピー紙幣の半分くらいの大きさで、五〇ルピーだったらしい。値段のことは分からないが、最初は一五〇といわれたブツを、チャカをもっている相手と、地下にある真っ暗な倉庫にも思えるところで交渉して、五〇までさげさせたのだそうだ。 「ここだけは、はっきり教えてもらいたい。一ルピー紙幣の半分が、一トルなのだな。それを、五〇ルピーで買ったのだな」 「これを、五〇で買える奴はほとんどいない。ここだけは、間違いない」と彼はいった。  もちろん、それは、相当あぶない感じのする岸川の話で、どこまでがほんとうで、どの辺から思いこみなのかは不明だったが、五〇ルピーの値段で買ったらしい。精製まえの阿片だから、純度のひくい粗悪品で、なにがまざっているのか分からない。手にくっつくほどではないが、粘土みたいな感じだった。前日の晩、千切って小指の先くらいを茂にくれたのだった。  あと、何人か日本人がいた。  今岡は、ボディービルダーみたいな筋肉質で、背も高く、丸顔で眼鏡をかけていた。髪はみじかく、三〇歳くらいにみえた。彼は、茂には冷淡な感じだった。ヨーロッパからバスで南下してきた、日本人の親子づれもいた。三歳くらいの少年と若い夫婦で、ふたりともジーンズをはいていた。男の子は可愛くて、茂にも話しかけてきた。日本語を話していたから、日本からいって帰ってきたのだろう。夫婦はずっとふたりでいたが、奥さんのほうはだるそうで、茂が子供と喋ると不愉快そうにした。日本人はこれくらいで、泊まり客のほとんどはヨーロピアンだった。  ホテルの経営者はごく普通のネパーリで、五〇歳くらいの男だった。痩せて眼鏡をかけて、薄手の長袖のシャツをきていた。天然パーマの髪の毛は黒色で、みじかかった。瞳も黒く肌も浅黒くて、幾分かかさかさした感じだった。体毛はすくなく眉なんかもうすかったが、頬がこけていたので、でぶのヒンドゥーの運転手よりずっと理知的にみえた。カーストはともかく、知性ではこのネパーリのほうが絶対にうえだと思われた。  日本人は、ここをよく利用するらしい。木製の受付カウンターには、日本語の色紙がいっぱい飾ってあった。旅行者用のごく普通のホテルで、受付のまえはひろいホールになり、黒いソファーが四つあった。長椅子の真ん中にテーブルがおかれ、まわりのスペースでたむろしていると、だいたいのことが分かった。おおむねを理解するのは、大切だった。  二、ローラ  どういう理由だったのか分からないが、裕明と茂の部屋だけが別館になっていた。  受付まえのホールの奥に、真っすぐにのぼる幅が四メートルくらいの石のひろい階段があった。みんなの部屋は、石段をのぼり切った左がわにつづいている。  右がわは構造的には簡単だが、内容を考えると幾分複雑ともいえた。事実だけを述べるなら、階段をのぼり切った右はすべて屋上ということもできた。奥につくった別館というか、ふたりの部屋はいちばん端の部分を改修したぐあいにみえた。だから扉をあけると、いきなりカトマンズの街が一望できる、直接屋上という設定だ。現在はまだいいが、冬の寒いときはどういう状況になるのか考えてみたが、「これだ」と思える解答はでてこなかった。特別な事情があるのだろうが、いまはとくにこまるわけではなかった。周囲には、しっかりとした鉄製の柵がけっこう高くまでつくられ、そこに肘をつくと、ちょうど背筋を伸ばす格好で街がみわたせた。  ふたりの部屋は、屋上のすみにあるたったひとつの別館になって、ホテルのなかで孤立していた。本館とむすぶ廊下のながさは一〇メートル以上だが、とくに天井はないから、通路というほうが妥当かも知れなかった。なぜ、ここがたんなる屋上ではないのか。この点にかんしては、もうすこしくわしく状況を観察する必要があった。  一〇メートル四方の屋上と階段をのぼり切った右のあいだは、幅が三メートル、ながさ五メートルくらいの場所が、本館とつながっていた。だから、この部分は構造的には通路だと断言できる気がした。どちらも天井がないから屋上の一部だと強硬に主張されれば、それもあながち否定はできなかった。  その通路部分に、洗面用のながしがひとつあった。これもまた、考え方によっては意味不明のもので、なぜこんな空がまるみえの場所に、洗面所が忽然と出現するのか不思議だった。反対がわの鉄柵とのあいだは、二メートルくらい距離があった。  ながしは、屋外だから天井もない。お湯がでるなんてありえないし、今日は晴れだからいいが、雨の日はどうやって顔をあらうのだろうか。霧雨なんかだったら、それなりの風情もあって、ひどいふりでなければ、雨中の洗顔も洒落ているのだろうか。ぼけた頭もはっきりとするだろうし、顔をあらうたびに衣服を着替えるのも、時間はかけられるから、やってみれば、おつなことかも知れなかった。  その気で考えると、この建物は、ロビーがある本館が最初につくられ、二階に宿泊施設ができたのだろう。なんらかの事情で、たぶんオーナーの息子が結婚し、住宅が手狭となり、庭の空き地に息子夫婦の新居をたてた。そのさい新築部分を別館とし、宿泊施設を増やす計画がもちあがったのだろう。実際にひとつできた時点でべつの事情から増築計画が頓挫して、結局一部屋だけがつくられ、あとは屋上として使用することになったのではないか。最初の構想では、「ながし」は本館と別館のちょうど中央部分に造設された。計画が中止され、周囲の構造物は放棄され、ただ鉄の柵がはり巡らされた。  これはひとつの仮説で、ほかの考えもあった。もっと単純だから、説得力は前者よりもつ気がした。話しあえば、裕明はシンプルなほうをえらぶから、この考えを支持するだろう。彼は、いつも「だいたい」くらいにしか物事が分からないらしいが、それでもやはり、伊達に六年も世界をぶらぶらしていたわけではない。みるべきところは、観察しているのではないか。  この問題で想起せねばならない点は、部屋を案内されたさいの理解できない裕明とマスターの会話だった。真意はさっぱり分からないと彼もいっていたから、主人のほうがなにかを考慮し、勝手に値引きをしてくれたわけだ。どうして、そんな親切な気持ちになったのだろうか。ふたりがくたくたに疲れていたから可愛そうに思い、愛情を感じたのか。まさか。ローラが優しく笑いかけたならともかく、だれも裕明を可愛いとは思わないだろう。これだけは、断言できた。  マスターが値引きを考えたのは、裕明が立ちどまったのと関係があるだろう。あのとき、彼はじっと空をみていた。  茂は、なにをしていたのかと聞いてみた。  裕明は「考えていた」といったが、それ以上は分からなかった。そもそも彼がいう「思考する」は、よく理解できない言葉だった。最初に出会った、炎天下のコンノート広場の出口がいい例だった。あのとき、裕明は「考えている」といった。よりにもよって、あんな卒倒してしまいそうなところでだ。一般に「考える」という言葉は、なにかを判断したり、結論を導いたりする行為をさすのだろうと思う。しかし、裕明は、たんに立ちどまるのを「思考」といっているらしい。外国生活がながかったから、欧米人はそうなのかも知れないが、すくなくとも日本語では違うのではないか。茂からみると、裕明はぼうっと突っ立っているだけだった。頭のなかで、問題が浮かんだり消えたりしているとは、とてもみえなかった。しかし、なにかを感じたのだろう。マスターの行動と、案内された部屋とをむすぶ漠然とした雰囲気。すぐについていくべきではないとする違和感。無意識のうちに身の危険を察知する心。その様子がマスターからは、なにかが分かっていると思えたのだろう。  そういう風に解釈すると、けっこうあれで裕明は頼りになり、茂がいまさまざまに思う事情を、ホテルに入った途端、動物的な勘で一瞬にして感じとったのではないだろうか。それがあのとき、じっと空をみあげている、彼の「考える」という行為だったのではないか。  結論からいえば、もしかすると、ここはたんなる物置で、夏場は人が泊まれるぐあいに改装しただけの代物ではないのだろうか。だからマスターは、変わった部屋と表現したのではないか。この考えも、多いにありうると茂には思えた。総合すれば、考えだすと疑問はつきない、暇をもて余し気味の気楽な旅人には、細部にいたるまで充分に配慮されたつくりになっていたというわけだった。  最初に親父がいった通り、お湯のでないシャワーが、ながしのちかくにあるだけだった。もう水は冷たい、そんな季節になっていた。  清々しい、すんだ空気に満たされた日だった。幾分かは冷気をふくみ、乾燥し、それだけで風情があるといえる、カトマンズではじめてむかえる朝だった。バスの長旅の疲れも、一晩寝たらすっきりした。裕明も、すっかり元気がもどったみたいだった。昨日の晩、ささいないい争いになったのは、ふたりとも思った以上に疲れたわけだ。あの道をぬけてきたのだから、無理もないことだった。  起きて部屋の扉をあけると、カトマンズの市内が一望できた。屋上で鉄柵に肘をつけて、すんだ清々しい空気を味わいながら街をみてみると、ここも盆地で、どの方角も高い山にかこまれているのが分かった。季節は冬にむかい、やや肌寒いくらいで、ジーンズが欲しいと思った。できれば薄手のセーターも、そんな時候になっていた。  カトマンズは、けっこう大きな街だが、高い建造物はほとんどなく、左の方角に白い塔がみえた。有名な建物なのだろうが、名前は知らなかった。鉄柵に肘をつきながら、じっと街をながめると、特別、風もなかった。屋上にでた直後は肌寒いとも感じられたが、寒いというよりは朝のひんやりとした冷気に満ちていた。じつは気持ちのいいものなのだと思いながら、神々が住む峰とつながる大気を胸いっぱいにすいこむと、頭のなかの血管がひろがり、酸素がどんどん染みわたり、ぼうっと脳がしびれる感覚がした。かるいめまいに似た気分となり、つかんでいた鉄柵をつよくにぎりしめた。  茂が起きたときには、裕明は外にでかけ、寝床は空だった。彼は、いつでも断りもなくどこかにいってしまうが、必要な場面では帰ってくる。よくは、分からない。なんでも、だいたいは理解できるらしい。だから、おおむねも分からないばあいは、手をださないほうがいいという。茂が考えていることを、裕明はだいたいは理解できるらしい。こんなに気持ちがいいのだから、彼は散歩にでもいったのだろう。思わず街を歩いてみたくなる、はればれとしてすんだ、色にたとえればライト・グリーンの朝で、茂は一日をはじめようと思った。  それから、外のながしで顔をあらった。水は、とても冷たかったが、そのおかげでしゃきっとした。茂は、青と白が縞柄になったながいスポーツタオルで顔をぬぐい、肩にかけて街をみていた。田舎町ばかりを歩いてきたので、今朝のカトマンズは都会だった。人口は、七、八〇万はいるらしかったが、思ったより小ぢんまりしていた。茂は左の肘をついて、ながしの後ろの鉄柵にもたれながら、ゆっくりと街をながめていた。  そうしていると、ブロンドの髪の娘が本館から歩いてきた。二二、三歳にみえる肌の綺麗な可愛い子で、ホテルに泊まっているらしく、洗顔にきたみたいだった。彼女は、街をみている茂の背後で、歯を磨きはじめた。それから顔をあらっていたが、水は冷たそうだった。茂は鉄柵を背にして、ブロンドの娘を後ろからなんとなくみていた。彼女は、肩にタオルをかけていた。かがみこんで洗顔し、終わって身体を起こしたときのはずみで、手拭いはひらひらと地面に落ちていった。娘は肩に手をやったが、そこにはないタオルをどうやってもつかむことができず、一瞬とまどい、水だらけの顔で目をあけた。  そのとき、ブロンドをながめていた茂と視線があった。彼は肩にかけてあった自分のタオルを、「ぽーん」とほうってやった。それは彼女の顔にあたって、ふんわりと両手のうえに落ちた。ブロンドは一瞬きょとんとし、それからタオルで顔面をふいた。終わって茂をみて、それが彼のものであるのをもう一度確認すると、「にこっと」笑ったのだった。その笑顔が、ひと言では語りつくせないほど素敵で、もの凄くよかった。  それは、つくられたものではなく、とても自然で、時間にしてみれば、柔らかい風が通りすぎて頬にあたったなと感じる、ほんの一瞬の出来事だった。ただの優しい微笑みだったのだが、じつはその「ひとコマ」にブロンドのすべてが凝縮されていた。彼女の育ちのよさや、豊かな感情。そういった、もろもろをふくめた気品。美貌や知性をふくむ自分自身にたいする、ゆるぎのない自信まで、およそありとあらゆる、すべてがちりばめられていた。  そこが映えると、彼女が朝ひとりで手に洗面道具をもって寝ぼけ眼でぶらぶらと、わけも分からない不思議な通路にある、ながしにやってくる風情も、過去の境遇や、いまおかれた状況をふくめて、物語がはじまる重要な伏線としてさりげなく、茂につたえることができる感じだった。ふたりとも映画のスターで、ながいロマンチックな話のはじまりを予感させる、いちばん大切なシーンで、監督やプロデューサーがこの場面をとるため一〇〇回もフィルムをまわし、アドバイスをくりかえし、何週間もかけなければならない、ひとコマに思えた。その挙げ句、仕方がないので妥協して、いくらかましと思われるショットを採用して最初のカットにするわけだが、それでも、こんなに素晴らしい笑顔は、どんな女優にもできなかっただろう。  茂がこのブロンドと出会った一コマは、絵になる最高のシーンで、ふたりとももの凄く素敵だった。こんなに自然に女の子と出会えたのは、うまれてはじめてだった。奇跡みたいな、ものだったろう。 「決まった」と茂は思った。自分が、もの凄く格好よく思えた。  ブロンドは、手拭いをひろい、それから茂のところまできて、「ありがとう、感謝するわ」といった。 「あんたのタオルは、温かかったわ」 「よかったな。おれも感謝するよ。君のタオルに、心から」  そういって、茂は微笑んだ。  ハイライトシーンで、お金では決して買えないもので、こんな格好いいのは、どんな映画でもみたことはないと彼は思った。そのブロンドが、ローラだった。 「カトマンズで、はじめてむかえる朝なんだが、こんなにいい匂いのする街だとは、どんなガイド・ブックにもかいてなかった」  茂は、彼女をみていった。  ブロンドは、彼の右がわで鉄柵に両肘をついていた。甘露で満たされ、しっとりと湿り、神々しいといっても過言ではない朝のカトマンズの風情をながめていた。横顔は、美しく理知的で、どこか遠い、時空をこえた両極にあるものが不意にむすびつく世界をみているようだと茂には思えた。敬虔な静けさにつつまれて、彼女の規則正しい鼓動の音までが、つたわってくる感じだった。  神の周囲からながれでてきた大気に満たされた世界を、だまってブロンドはながめていたが、やがて自分をみつめる茂にむきなおって口をひらいた。 「違うのよ。今朝のカトマンズは、昨日とはまるでべつだわ。今日は、いつもとは違う、特別な朝だわ。だから、きっとこのいい匂いは、あなたがいっしょにつれてきたのだわ」  ブロンドは、しっかりとした口調で答えた。あらったばかりの顔は化粧の必要もなく、みじかい髪は、気ままに生きることを望んでいた。  「おれは、カトマンズまでさ迷ってきて、いま、はじめて目をあけた気がする。今朝は、これまでとはぜんぜん違う。はじめて経験する、眠っていたすべてが目覚めた朝という気がする」  茂は、呟くようにいった。 「愛のない結婚なんて、耐えられないの」  ブロンドは、とつぜんそういった。そして、驚いている茂をみつめ、それから爽やかな冷気につつまれたカトマンズの街を、もう一度ゆっくりとみまわした。  彼は、言葉をうしなって、ぼうぜんと彼女をながめていた。 「きっと、あなたに目覚めた気持ちは、とても大切で、ほんのすこしまえまではどこにも存在しなかった。でも、いまは立派にあるって分かるものよ。それは、私がさがしつづけていた出来事と、おなじなのよ。必ず大切に育てていくべき感情で、思い違いではないって、いま感じているのよ」と言葉をついだ。  ブロンドは、カトマンズの街並みに目をうつし、静かな朝の景色をながめていた。やがて振りかえって茂をみつめ、「これは、女の直感だわ」といって、また「にこっと」と微笑んだ。  その微笑みは、先ほど一瞬、予期せぬ突風で吹き飛ばされた彼の心が、ようやくとどまるところをみつけかけたときに、さらにもう一度吹いた地震をともなう旋風(つむじかぜ)だった。茂には、もう自分の魂がどこにあって、辿りついたのがこの世なのか、あの世なのか、かいもく見当がつかない場所で、呼吸しているのかもふくめて、考えなおしてみる必要を感じた。目の前が真っ暗になり、めまいがした。みぞ落ちが痛くなり、胃がそこにあるのを主張していた。息ぐるしく感じ、茂は大きく息をすいこんだ。 「たぶん、君が話したことは、おれが、いま感じとった事柄を言葉にしてくれたのだと思う。ある、というのはひとつのつながりだ。それによって、ふたつのものが同時に存在を保証される。それは、なによりも大切な関係だという気がする」  茂は神妙な面持ちで、ひと言ずつ考える口調でいった。  柔らかい風が、ふたりの頬を撫でて通りすぎていった。そこは静かな世界で、時空から隔絶されたひとコマで、屋上にはだれもいなかった。そのとき、微かな風が吹いてふたりのタオルを揺らした。それで、目があった。  ふたりはみつめあっていたが、やがて唇がかさなった。うごきにあわせて二枚のタオルは、ゆっくりと螺旋を描きながら落ちていき、茂は柔らかなブロンドの肩をだいた。彼女のつよい抱擁を感じ、ときはなくなっていた。  いっしょに朝食を食べることにして、ふたりはいったん別れて各々の部屋にもどった。  茂は、階段をおりて、フロントの奥のレストランに入った。八時をまわったころで、客はすくなかった。夢のなかの感じで、窓際の席にすわって入り口をぼんやりとみていると、二二、三歳のブロンドの女性が入ってきた。  なんと、表現したらよいのだろうか。  暗黒の闇が、とうとうとひろがる拡散した宇宙のなかで、無意味にすてられた冷えた塵のあいだに微かな力が働きはじめ、永劫のときが経過してあつまっていく。さらにインド的ともいえる、ながく果てない時間がすぎて、集積した塵埃がみずからの重みによって、やがて内部で核融合をはじめ、原始の太陽が出現した瞬間、どんな色をしていたのだろうか。本で読んだこともないが、そのときうまれたものは、光っていたに違いない。無限のエネルギーで満たされ、つよく銀色に眩いていたのだろう。ただただ清浄に輝くとき、神さまは、必ずそばにいてくれたのだろう。神の臨在なしに、そうしたことが起こるはずがなかった。  そんな風に、輝いていた。光が無制限にはなたれ、その中心がブロンドだった。表情や仕草は、もう眩しすぎてみることができなかった。茂が感じるすべてが、彼女のオーラだった。  ブロンドは、彼の姿をみつけると、右の手のひらを立てて小きざみに左右に振って、にこやかに笑った。 「また、お会いできたわ。きっと、神さまっているのね。考えると、不思議で夢みたいなことって、ほんとうにあるのね」 「ほんとうだね。夢でないことを、ただ望むだけだ」 「夢物語でも、充分だわ。でも、私、小さいものが好きなの。そのほうが、現実になりやすいでしょう」 「君がいいなら、そうしよう。おなじ夢を、みていたいから」  彼女は、うすく化粧をし、ブロンドの髪も先ほど屋上にいたときの奔放さはうばわれていた。その代わりに、お行儀よくしつけられ、素敵で、いい匂いが漂っていた。  ベーコンエッグにトースト、それにダージリンの朝食をいっしょにとりながら話をした。この大陸にこなければならないと、何年も思いつづけてきた。ここを旅行すれば、自分がうまれ、生きる理由が分かるに違いないと考えた。デリーで裕明に出会い、ベナレスで再会し、いっしょにポカラ、カトマンズとあてもなく旅をつづけている。そんなことを話した。  ブロンドは、テーブルに両肘をついて指をくみ、両方の親指のうえに形のいい顎をのせて茂の話をだまって聞いていた。ひとしきり終わると、「うらやましいわ。あなたが」と囁いた。  その表情はとても可憐で美しく、それでいて、どこか寂しげで、茂は力になってやりたいと思った。彼女はだまって、彼をみつめるだけだった。  窓の外をさまざまな国の人びとが、思い思いの格好をして行き交っていた。世界のあらゆるものが、ゆっくりとうごき、時間だけが嵐のなかを飛ばされる真っ白な雲になって、つぎつぎにながれていった。話すことはなにもなく、たがいに、たがいを考えている、いまの瞬間が大切だった。今日までの自分の過去、うまれてから起こったさまざまな出来事。喜びや悲しみ。そんなものは不必要だった。みつめあう、この「ひととき」に比べれば、欲しい事物はなにもなかった。  宇宙のすべてのものが、かつてあり。いま、そしてつぎにある者が、ふたりを祝福していると感じた。言葉は足りない、むなしいものだった。  気がつくと、カウンターの柱時計が一二時の時報をつげていた。 「ああ、お昼に約束があったの」  ブロンドは、大事なことをとつぜん思いだした。 「まだ、このホテルにいてくれるのでしょう」  茂の顔をのぞきこんで、真剣な表情で聞いた。 「君の望みなら。それにしても、輝いているね、このホテルは」 「よかったわ。私も、もうすこし、このホテルにいることにするわ。ほんとうは今日、でていくつもりだったの。だから、マスターに変更すると話さなければ。まだまだ、ここにいると、いわなければならないわ。そうすれば、必ずまた会えるわよね」 「約束できる。君がここにいるのなら、朝がまたくるのとおなじだ」  茂が真面目な顔でいうと、ブロンドは嬉しそうに笑った。  ふたりでレストランをでると、ローラはカウンターへいき、ネパーリの主人に宿替えをキャンセルすると話し、後ろのソファーにすわっている彼を振りかえってみた。  青いジーンズにオレンジのチョッキをきたブロンドは、宿のマスターと話が終わると、「それじゃ、またね」といい、右の手のひらを立てて、先ほどとおなじに左右に小きざみに振りながら玄関から歩いていった。うつるはずだったホテルに、キャンセルをしにいくらしいと茂には映った。とくに予定はなにもなく、ついていきたいとも考えたが、今日はもう充分だと思った。すべてが夢みたいで、こうした素晴らしい喜びがほんとうにあるのなら、小だしにゆっくりと味わいたいと感じた。  そのつぎの日、カトマンズでむかえる三日目、裕明と茂は、昼食をいっしょに食べることにした。この街のレストランは、どこも綺麗で洒落ていた。入ったのはホテルのちかくだったが、一時をすぎた店に、客はほとんどいなかった。入り口の扉をあけるとフロアがあり、木製のカウンターがならんでいた。左には、奥にむかってボックス席がつらなっていた。街並みにそって、大きなガラス窓が張られたひろい空間に、通路をはさんで四つか五つの席が、壁がわと窓がわにならんでいた。  入り口ちかくのボックス席で、岸川と今岡とローラが食事をしていた。ふたりは、脇をぬけて、いちばん奥からひとつ手前の窓がわの席についた。入り口のフロアがみえる位置に腰をおろした茂は、壁がわで食事をする三人の様子をみた。そこは、よどんだ空気が満ちていた。  通路がわにすわったローラは両肘をテーブルについて指をくみ、そのうえに顎をのせ、もう食事は終わったらしかったが、皿には食べものがのこっていた。あきあきしているようにみえた。やがてローラは、茂の視線に気がついた。それで彼に微笑んだのだが、それが、またなんともいえないほど愛くるしかった。それから肘をつけたまま、左の手をわずかにずらして頬のちかくで、茂にむかって何度かゆっくりと振った。まねをして挨拶すると、ローラは、彼をみつめつづけた。  背をむけていた今岡は、ブロンドの変化に気づいて、振りかえり、不愉快そうに眉をひそめた。  裕明は、茂の視線が離れたテーブルにあることに気がついた。後ろを振りかえってローラをみつけ、それからもう一度、彼をみた。 「可愛い子じゃないか」  びっくりして、裕明はいった。 「気があるみたいじゃないか」 「どうも、そうらしいんだよ」 「手がはやいんだな」 「運がよかったんだ」 「ほう、それをつかんだのか」 「がっちりだ。つかむというより、ふってきたのだな。ちょうど、真下にいたのだな」 「それは凄い。間違いない。どこでみつけたんだ」 「おなじホテルに、泊まっているじゃないか」 「えええ」  裕明は、もう一度、三人のテーブルをみた。ローラは、今度は彼にむかって手を振った。それで裕明も、笑いながらゆっくりと両手を揺らして彼女に答えた。 「たしかにそうだ。あのふたりは、知っている。筋肉マンとヤギは、ロビーでみかけた」  裕明は、うなずきながらいった。 「でも、ブロンドは知らないな」  両腕をくみ、首をかしげていたが、分からないらしかった。 「一人旅らしい。筋肉マンが、追い駆けているみたいだ」 「不つりあいだ。だれがみたって分かる。それで、茂に助けをもとめているってわけか」 「まあ、そんなところかな。よくは分からないけど」  茂は前日の朝、ながしのところでローラと偶然出会い、そこでいい雰囲気になり、朝食をいっしょにしたこと。八時ころレストランに入り、気がつくと昼だった事件を話した。 「普通では、ないよな」 「まあそうだが、ブロンドもいっしょにぼうっとしていたなら、それでいいのではないか」  茂の表情も、普通ではないと裕明は思った。そう考えて振りかえりローラをみると、完全に三人の席では浮かんでみえた。もう一度茂をみやると、思考能力もなさそうにぼうっと彼女をみつめていた。オーダーした昼飯が、はこばれてきた。裕明は、ウエイターがもってきた昼食をそのまま奥においやり、それからもう一度、後ろを振りむくと、ローラがまた手を振った。彼は、それに答えて、にこやかに、おなじように挨拶した。この場面では、筋肉マンとヤギをさそって外につれだし、オピウムの話でもするしかないと裕明は思った。  そのとき、茂が立ちあがった。裕明のまえを通りすぎると三人がすわっている席までいき、「やあ、ローラ」と声をかけた。  彼女は、にっこりと微笑んだ。 「じゃあ約束通り、いまから食事にしよう。ぼくらの席においで」  彼は、ローラの手をとりいった。 「なんだよ、茂。いま、おれたちは食事をしているんだ」  今岡が、つよい語調でいった。 「それは、三〇秒まえに終わったんだ。いまはもう、ぼくとの約束が先着になっている。なあ、ローラ」  茂はいった。彼女は、大きくうなずいた。ローラの腕をとって立たせると、一歩さがって会釈をし、通路をあけ、左手を伸ばして、店の奥のほうにすすむよううながした。彼女は、ふたりがいたテーブルまでいくと茂をみた。 「奥にいって」という指示に応じて、裕明とむかいあわせの窓がわに腰をおろした。通路がわには、茂がすわった。  岸川と今岡が、三人の席にやってきた。 「ブツは、手に入ったのか」とヤギが聞いた。 「その件は、また話すよ。いまは、もっと大切な時間なんだ」 「茂。やり方が気に食わないな」と今岡がいった。  ふたりが、茂を睨みつけた。ローラは、下をむいた。  店のなかの客は、五人だけだった。いちばん奥の三人が腰かける席の通路に、背が高いふたりの男が立っている。岸川は両手をポケットにつっこみ、筋肉質の今岡は左手を腰にあて、右の手で拳をつくって、中指で自分の顎をくりかえし、かるくたたいている。ふたりは、じっと茂をみすえていた。  裕明は、ふとなにかが聞こえたと思った。みると、茂が押しだまっている。彼は唇をつよくとじ、眉間に皺をよせていた。裕明は、おやと思った。どこかでみた表情、バスのなかの風景が脳裏に浮かんだ。狂ったみたいにわめくラジオ。怒鳴り声が行き交う、車内の大騒ぎ。暑くて蒸した、とじられた空間。すえた臭い。窮屈で暗い。あっと思って、彼は立ちあがった。  背後でとつぜん起立した裕明に、岸川と今岡が身をひいた。意表をつかれて、茂がけげんな表情をした。不安げな面持ちで、ローラが裕明をみた。みんなが、それぞれの思いで凍りついた。  つぎの瞬間、ローラのまえに花があった。彼女はとつぜんあらわれた薔薇の花束に、しばし釘づけになった。そして裕明をみあげた。 「ほんの気持ちだ。ローラ。もちろん茂の」  裕明は、いった。  ローラは、うっとりとした。その表情は、天使にみえた。それは、やがて微笑みに、殺していた声が姿をあらわし、笑いに変わった。 「そうだ。パーティーをしよう」  裕明がとつぜん、思いついたみたいにいった。 「今日は、茂の誕生日なんだ」 「それは、いいわ。ケーキを食べましょう。おいしい、お店を知っているわ」  ローラがいった。 「君らも、どうだい」  裕明は、岸川と今岡にいった。 「どっちでもいいよ。最低、ふたりでお祝いをしてやろう」  そういうと、裕明は椅子に腰をおろした。 「分かったわ。私は、参加するわ」 「じゃ、君たちも考えておいてくれよ。この店は、入り口と出口がいっしょらしいよ。こっちからは、でられない」  裕明は、ぶっきら棒にいって、「用がすんだら、いくのはあっち」と肩越しに右手の親指を立てて後ろをさした。  岸川も今岡もその仕草をみて、一瞬むっとしたらしかった。 「ランチは、終わったのかい」  裕明は、ローラに聞いた。 「あなたがたこそ、食べないの」 「やあ、いま、揉めていたんだよ。ふたりだけで食事をするのは、もうすっかり、あきあきしたって。だれか、美人とでも昼食を食べたいってさ」 「あたしでよければ、さそってくれればいいのに」 「知らなかったんだよ、こんな美人がそばにいるなんて。おなじホテルなんだって。今日は、神に感謝のお祈りをしなけりゃ」 「裕明。いつ、神さまをみつけたんだ」 「美人がいれば、なんだってみつかる。世の中は、そういう風にできているんだ」  裕明は、確信に満ちた表情で、力をこめて答えた。  岸川と今岡は、三人の会話がはずむのを、立ったままぼうぜんとみていたが、ふたりで顔をみつめあい、やがて歩きはじめ、レストランをでていった。   「あんたたちは、面白いわ。あたしは、楽しいのが好きよ。つまんないのは、いやだわ」 「つまらないものは、イルカの骨盤だ」  裕明は、とつぜんいった。それで、ふたりはだまった。よどんだ空気が、覆いかぶさってきた。裕明は、ときどきわけの分からないことをいう。ふたりはすこしこまり、だまっていた。 「ごめん。つい教養がでてしまうのだな。イルカは知っているよな。海にすんでいるが、ありゃあ、じつは哺乳類で卵じゃないんだ。だから、骨盤をもっている。ちょっと考えてくれよ。あの骨盤、なんの価値もない。あるだけ無駄。そう考えるだけで、悲しい気持ちにならないか。ないほうが、絶対に分かりやすい。彼らの骨盤を考えると、おれは、そのたびに泣けてくる。そうは、思わないか」  裕明は、ブロンドをみつめて真剣にいった。  ローラは、笑いだした。茂が裕明を改めて紹介し、彼女もオーストリアからやってきたことを話した。自己紹介がすむと、脇においやられていたふたりが頼んだ昼食をさして、ブロンドがいった。 「食事が、すっかり冷めてしまうわ」 「ローラは、もういいのかい」と茂は聞いた。 「そうね、すこし食欲がでてきたわ。さっきは胸がいっぱいで」  ローラはサンドイッチを注文し、三人で食事になった。 「あのふたりね」  ローラが、話をはじめようとした。 「いいんだよ」と裕明が言葉を制した。 「だいたいは、分かっているんだ。おおむねだ。全部じゃない。でもな、ローラ。話してくれても、だいたいしか分からないんだ。全部はどうしたって不明なんだよ。仕方がないじゃないか、おれたちは、違う人間だ。だからローラ、可愛い子は、そんな話はしなくていい。あいつらのことなんか、忘れてしまいな。もう、おつきあいをする必要もない。もっと、楽しいことを話そうじゃないか」  それから裕明は、いろいろな話をはじめた。世界中のさまざまな出来事だった。ほとんど茂も聞いたこともない、にわかには信じがたい話ばかりだった。だいたいは、正しいのだろう。おおむねが間違っていなければ、いいのだろう。ローラは、身をよじって笑った。ときには、涙をながしながら聞いていた。  茂も、インドやランカの、飛んでもない話をした。こまったことや、迷った出来事で、ローラは声を立てて笑い、いろいろ質問をくりかえした。  裕明がオーストリアの話をはじめたとき、彼女は泣きそうになった。彼は、目茶苦茶にくわしくて、ローラの住む街もよく知っていた。観光地の話題からはじまり、名産品や橋の名称、道の名前ともりあがり、果ては通りの角にあるマクドナルドの話もした。その店舗は、ニューヨークの本店についで二番目に大きな店で、郷土料理の内臓をはさんだ、世界でこの店屋でしか提供していないハンバーガーが有名だそうで、ケチャップの味が独特で、すこし塩辛すぎるとか、話しはじめた。そうしているうち、ローラは涙ぐんできた。 「いや、悪かったな。ローラ、こんな話になっちゃって」  裕明は、こまった顔でいった。 「楽しそうにしてくれたので、話しただけなんだよ」 「裕明の、せいじゃないわ。とっても優しくされているって、久々に思ったから嬉しくなっただけなのよ」  ローラは、ゆっくりと首を振りながら彼に話した。  二時間もねばっていたが、ネパーリはなにもいわなかった。それで、ダージリンを頼んだ。 「ごめんなさいね」  ローラは、うつむいていった。 「知りあえて、よかったわ。裕明と茂に。もっと、いっぱい話がしたいわ」  ローラは、顔をあげると、ふたりにむかって真剣にいった。 「今晩は、茂の誕生日のパーティーを考えなくちゃね。もりあげるわ。この先を二〇分くらい歩いたところに、マンジュシュリというケーキ屋さんがあるわ。とても、おいしいのよ。そこで、パーティーをしましょう。夜の八時に。特別製のケーキを注文しておくわ。でも、ごめんなさい。いまは、もう、これで帰るわ。今日は、いろんなことを思いだしたの。あなたたちなら、分かってくれるわよね。だから、いまはこれで帰るわ、夜を楽しみにしているわ」  最後には、青い瞳に涙がいっぱいたまっていた。 「またあとで」といったときには、もう声にならなかった。  とても部屋まではもたないだろうと、茂は思った。可愛そうだった。聞いてあげられる話が、たくさんあるのだろう。力にはなれなくても、物語のひとつひとつを、彼女とおなじ気持ちになって話しあうことはできると思った。ローラがでていくと、茂は裕明をのこしてあとを追った。 「大丈夫かい」  追いつくと、茂はいった。  ローラは、ジーンズからとりだしたハンカチで目頭を押さえていたが、彼が追ってきて言葉をかけると、今度は声を立てて泣きはじめた。  茂は、こまった。いまは、あの幸運に満ちあふれた、スポーツタオルももっていなかった。ポケットには、ハンカチも、ちり紙もなかった。つかってもらえるのなら、喜んでシャツくらいはぬいだのだが、そんな状況ではなく、なにもすることができなかった。だまって、彼女と肩をならべてホテルにむかって歩いた。ローラは、なにも話さず、歩みながらひたすら泣いていた。行き交う人びとが、じっと彼女を、そして眉をひそめて茂をみた。やがて、ローラはホテルに辿りつき、ロビーをぬけ階段にむかった。フロントには、ネパーリのマスターがいた。ハンカチをぐしょぐしょにして嗚咽するローラと、そばの茂をじっとみつめていた。ロビーには、岸川と今岡もいた。彼らは、瞬きをするのも忘れ、この様子をみていた。  ローラは、自分の部屋のまえまでいくと、しぼれば涙がこぼれそうになったハンカチで鼻をかんだ。鍵をあけ、振りかえって茂をみて、「ありがとう」といった。 「大丈夫かい。なにかできることは、ないのかい」 「優しく、しないでよ」  彼女は、嗚咽しながらいった。 「あなたとは、昨日、はじめて会ったばかしなのよ。私は、そんなに軽はずみでは、ないのよ」 「そんなことは、分かっているよ」 「ありがとう。私も、あなたの気持ちは分かっているわ。でも、優しくしないで。私は、はしたなくは、ないの。今日の夜、八時に、マンジュシュリで」  ローラは、そういうと扉をしめた。鍵をかける音がした。そして、さらに大きな泣き声が聞こえた。  茂は、しばらくぼんやりと扉のまえで立っていたが、気をとりなおして階段をおりていった。フロントのマスターが、じっと彼を睨んだ。 「よう。パーティーは、あるのか」  今岡が、茂に声をかけた。 「やるなら、いくぞ」と岸川がいった。 「夜、八時、マンジュシュリだ。場所は、だれかに聞いてくれ」  茂は、答えた。  三、オピウム  裕明と茂は、相談していた。  ルピー紙幣の半分の大きさが一トル、これはいいだろう。岸川の一五〇ルピーが、なにを意味しているのかは分からなかったが、五〇ルピーでは買えるのではないか。しかし、彼のただならぬ世界は、不気味だと考えるべきだろう。  なんとなくふたりの話がまとまったので、午後の四時ごろ、茂は大通りの四つ角で、ぼうっと立っていた。片がわ三車線ほどの、幹線同士がぶつかる交通量もけっこうある交差点で、まだ紅葉しない立派な欅が並木として植わる、ひろい歩道がつくられていた。まわりには、石づくりの街並みがつづき、遠くには山がつらなっていた。信号機の手前で無意味に立っていると、ネパーリの若い男が声をかけてきた。 「欲しいもの、ありませんか」  ネパーリは、茂の顔をのぞきこんで聞いた。 「いい奴が、欲しい」  痩せた浅黒い青年の瞳をじっとみかえしながら、茂はぼそっといった。 「大丈夫だ。なんでもいっぱいある」 「いい奴でなければ、いやだ」 「ついてこい」 「ここで待てば、おまえよりいいものをもっているのが、くるって聞いた」 「そんなことはない。おれがあつかっているのが、いちばんいい」 「保証できるか」 「きてくれれば分かる」 「いってもいいが、みょうなものなら買わない。うえと相談してこい」 「ここで、待っていてくれ」  青年は、そういって路地に消えていった。茂よりやや背のひくい痩せた二〇歳くらいのネパーリで、肌は浅黒く、髪はみじかくして、とくにひげはなかった。汚れた青いシャツと、皺くちゃになったよれよれの灰色のズボンをはいていた。茂が四つ角でまわりの高い山々をみながら、ぼうっと立っていると、先ほどの青年がやってきた。 「特別なものを用意する。ついてこい」 「保証があるのか」 「いま、うえの者に聞いてきた」 「なんといった」 「ついてこい。ここでは話せない」 「この場で説明できなければ、違うのと話す。おまえ、みたいのは、いっぱいいる」 「そうかも知れないが、うえはおなじだ」 「トップがいっしょでも、もっとちゃんと話をする奴がいるはずだ」 「買う気がないのか。それなら、でてくるな」 「命令される筋あいはない。おまえが帰れ」 「欲しくは、ないのか」 「買うつもりで話している」 「それじゃ、ついてこい」 「具体的な話がなければ、ついていっても無意味だ」 「そうか、勝手にしろ」  青年は、ぶっきら棒にいって後ろをむき、でてきた路地に帰っていった。角をまがるとき、茂のほうをもう一度振りかえった。  彼が知らん顔をして、漠然と何者かを待つ感じで、まだ緑に色づく山々をながめていると、ほどなくおなじ青年がやってきた。 「ふだんあつかっているより、ずっといいものがある。それは、特別だ」  青年は、押し殺した声でいった。 「いくらだ」 「ついてこい」 「教えろ、いま、ここで考える」 「一五〇だ」  深刻な表情になり、意を決して青年は答えた。 でた、と茂は思った。順調だ。岸川のいう通りだ。このブツについて話しあい、五〇まで値切ればいいのだ。  「なるほど。いま、もっているのか」 「ここにはない」 「分かった」  それで、茂はついていった。建物の角からほそい路地に入り、青年はどんどん歩いていった。茂は、とつぜん立ちどまった。 「どうした」  青年は、振りかえって聞いた。 「ここへ、もってこい」  茂は、立ちどまったままいった。 「ここじゃ、だめだ」 「あそこは、人通りが多い。取り引きには、ふさわしくない。でも、この場所ならだれの目にもつかない。ここへ、もってこい」 「ついてこなければ、売れない」  青年は、語気をつよめた。 「それなら仕方がない。おれはあそこで、もうすこしまともな売人の話を聞く」  茂はそういい、振りかえって帰ろうとした。 「待て」  青年は困惑した表情になり、じっと考えていた。 「ここで、待っていろ」といった。  茂がうなずくのを確認すると、足早につぎのブロックの地下に消えていった。いくらの時間もたたないうち、青年はまた姿をみせた。ひとり切りだった。茂の立つ路地まで小走りでくると、息を切らせながらいった。 「特別だ。一五〇だ」  青年は、右の手のひらにのせたブツを、左の脇に隠しながら、ちらっとみせた。ルピー紙幣の半分くらいのものだった。岸川が話していたのとおなじ大きさで、基準があるらしかった。色は、まえのものより、やや白くみえた。 「触らせろ」  茂は、指先で触れてみた。よく分からない。岸川からもらったブツより乾いた感じだった。 「三〇だ」  茂は、いった。 「馬鹿いえ、これは特別だ。一五〇だ」  青年は、額に皺をよせて真剣に怒った。 「高すぎる」 「三〇。話にならない。おまえ、勘違いしているのじゃないのか」  頬のこけた青年は、本気で怒った。 「それじゃ、いくらにするんだ」 「一二〇だ。分かったか。一二〇が原価なんだ。もう譲れない」 「分かった。四〇払おう」 「おまえ、なにを聞いている。聞こえているのか。おまえ、どこか、おかしいのじゃないのか。話が、分かっているのか」  青年は、こめかみに青筋を立て、右の手のひらをうえにして、指を鷹の爪みたいにまげて震わせながらいった。額にふかい皺をよせ、目はつりあがり、唇は心なしか痙攣していた。青年の発する全体の雰囲気からは、余裕を感じることはできなかった。 「半分でいい」  茂は、いった。  青年は「ごくっと」唾を飲みこみ、ひとしきり考えた。 「分かった。半分は、七五だ」 「二分の一は、五〇だ。いやなら、話は決裂だ。おれは、帰る」 「待て」  青年は、苦虫をかみつぶした表情になり、目をつむった。それから、もっていたオピウムを、丁寧に半分に千切った。 「六〇だ。これが、原価だ」  青年は、もの凄く深刻な表情になって、するどい目で茂をじっと睨みつけていった。  それで、彼も男をみつめてから、ゆっくりと財布をとり、一〇ルピー紙幣を五枚だした。 「これで、やれ。いやなら帰る」  茂は、静かにいった。  その言葉で、青年はながい時間、じっとだまって、彼と五枚の一〇ルピー札を交互にみつめていた。雰囲気は、かつてみたこともない最悪な感じで、男がいまにもつかみかかってくる気がした。身体中がわなわなと震え、額からは湯気が立ちあがってみえた。茂は、もうこれ以上は無理らしいと判断して帰ろうとした。彼の仕草をみると、とつぜん「分かった、この」と青年はいい、それから口のなかでぶつぶつといった。 「どうするんだ」  茂は、青年の考えが理解できずに聞いた。 「この」  青年は、小さく呟いて目をつむった。それから、 「ぬすっと、野郎」と押し殺した声でいった。 「じゃあな、おれは帰るぜ」  茂はつげて、振りむいた。 「待て、五〇にする」  青年が、とつぜんいった。唇が怒りで震え、手にはいっぱい汗をかいていた。 「そうか。交換だ」  茂は、オピウム半分と五〇ルピーをとりかえた。  後ろで、「馬鹿野郎」という声が聞こえた。一歩でれば大通りで車も走っていたし、人通りもかなりあった。そんな気がしただけだった。はっきりとは、分からなかった。 「いやあ、半分で五〇だった。これが、限界みたいだったな」  茂は、いった。 「それなら、それなりのオピウムではないのか」  裕明は、黒っぽい半分に千切れたブツをみた。 「いったい、なにがまじっているのだろうな」  手にとり、部屋のあかりにかざして、ながめながらいった。 「分からない。でも、岸川のブツより、いいものだろう。きっと底値だったと思う。売人の雰囲気は異様だった。だから、すこしで、はじめてみよう」  それで、パーティーの用意がととのった。  茂の誕生日パーティーは、ローラがもりあげてくれた。彼女が予約したマンジュシュリは、ホテルから歩いて三〇分くらいの距離だった。有名な店らしく、ウエイターも感じがよかった。洒落て、よくこんな場所まで知っていると考えさせられたほどだった。 「SHIGERU」という名前入りのチョコレートがのった特製のケーキがでてきて、大きい蝋燭を二本、小さいのを七本、ローラは用意してくれた。  岸川と今岡は予想通りやってきた。ローラがまるいテーブルの奥まった壁がわに、裕明と茂が両脇にすわった。のこった席は、ふたつだった。選択はかぎられていたが、予想した通り、茂のとなりには岸川。裕明の横には、今岡がきた。  すべてが、予想通りの進行だった。  裕明の大演説会だった。世界中のさまざまな話題がつぎつぎにでてきて、ひとりでずっと話をしていた。ふたりは、ただだまって聞いていた。だれだって、いろいろなところへいきたいと思って外国旅行をするわけだが、ほんとうに全部、旅行した奴がいるのだ。どんな話題になっても、実際に「体験している」者に、なにを話したって勝てるはずがない。裕明のひとり舞台だった。  ローラと茂は、彼の話もまったく無関係で、勝手にふたりの世界に入りこんでいた。みつめあって、他人が話しかける隙もなかった。完全にすれ違い、テーブルをかこんでいたのが五人だったというだけの、茂の誕生日パーティーだった。  それでも、彼らは一時間、我慢した。 「お先に帰るよ」  ふたりは、げっそりとし、疲れ切った表情でいった。 「じゃあな」裕明はいい、「また、あとでな」と笑いながらつけくわえ、今岡にむかって手を振った。  彼は、いやな顔をした。  そのとき、「じゃあね」とローラは、右の手のひらをあげた。この晩、今岡にかけたはじめての言葉だったが、あかるくて可愛い、すき通る綺麗な声だった。それを聞いたときの彼の表情はなんとも複雑で、ひと言ではとても語りつくせない感じだった。それから、今岡は岸川と外にでていった。  ホテルまでの帰り道は、三〇分くらいで、爽やかなカトマンズの夜を、三人でぶらぶらと歩いた。ローラにはいわなかったが、そのとき、すでにふたりはパーティーをはじめていた。ホテルへの帰り道、買ってきたオピウムを、鼻くそにもならないくらいに小さく千切って食べた。もしかすると、かなり高い純度かも知れなかった。 「茂。こんなもので、効くのか」  裕明が、日本語でいった。 「分からない。純度が、まったく不明だ。岸川のくれたものより、いいはずだ。あのときは、小指の先くらい食べた。そこまでやったら、危険だと思う」  茂も、日本語で答えた。 「こんな鼻くそじゃ、効きゃーしないよ」 「分かった。それじゃ、もう、ひと欠けらだけ食べてみよう」  また、小さく千切ったオピウムをふたりでかじった。それから、五分くらい歩いた。もう、すこしすすめばホテルだった。 「ぜんぜん、効かないよ。これじゃパーティーには、ならないのじゃないのか。すくなすぎるんだよ。小指の先くらい、食べたのだろう。鼻くそふたつだ。いくらなんでも小指の半分くらいはいかないと、効かないのじゃないのか」  裕明は、またいった。 「それは、危険だ。すくなくとも岸川のものより、純度は五倍くらい高いと思う。彼だったら、どのくらいで買わされたのか、ほんとうに分からないよ。売人の雰囲気は、普通じゃなかった」 「食べたのは、小指の一〇分の一にもなっていないぜ」 「分かった。もうひとつだけ、食べてみよう。これが最後だ。効かなければ、明日、考えよう」  茂は、また鼻くそくらいに千切って、ふたりで食べた。ホテルに辿りついて、ベッドに横になった。 「だめだ、効かないな。やっぱり、足りないんだよ」  裕明は、いった。 「あとは、つぎの日にしよう。明日は、大切な約束がある」  茂は答えて、それで寝た。  分からない感覚だった。  表現のできない、うまれてはじめて味わう知覚で、名づけられていないものだった。気持ちが悪いといえば、そうかも知れなかった。すくなくとも、いい気分ではなかった。そうしたことをあわせて、まったく分からない感覚だった。「なにか」が生じているのかもふくめ、不明だった。やはり、「事件」は、起こっている気がした。だいたいも分からない、悪いパターンだった。    となりで、裕明の唸る声が聞こえた。鼾ではなく、それだけで重くるしい雰囲気がつたわってくる。まだ夜なのか、もう朝がきているのかも分からない。目覚めているのではなく、夢なのか。そうだとすれば、悪夢ではないのか。すくなくとも、昨日とは違う。  おぼろげながら浮かぶ、ひとつのイメージ。  大量のペンキが、部屋の石壁に投げつけられる。重力によって、天井のほうから床にむかって絵の具が一斉にたれはじめる。どろどろとした高い粘性の液体が、ゆっくりと壁をつたって落ちてくる。一部は直接、天井から床に滴り落ちている。問題はその色彩だが、しだいにはっきりしてくる。あかるい色ではない、赤でも、青でも、黄色でもない。暗い、しだいに分かってくる。そうか、黒だ。もしかすると、この一様にゆっくりと滴り落ちてくるのは、絵の具ではなく、黒蟻かも知れない。無数の蟻、黒い体。それが、うごいている。ぼとぼとと落ちてくるのは、小さい蟻の塊。 「変じゃないか」  裕明の声が聞こえたとき、絶対にみょうだと茂も思った。普通ではない、すべてがおかしい。 「焦点が、定まらない。目の前が、くらくらする。そんな感じなのだが」  裕明が、いった。  茂が目をあけてみると、天井がぐるぐるまわっていた。 「これって、気持ち悪いんじゃないのか」  裕明の声が、聞こえた。  ああそうだ、と茂は思った。これは、気持ちが悪いのだ。むかむかしているのだ。茂は、感覚のひとつに気がついた。その途端、吐きそうだった。目をあけると、天井がぐるぐるまわっていた。それに気づくと、回転は尋常ではなくなっていた。洗濯機みたいに、渦を巻いている。驚いて目をとじたが、もう感覚は分かってしまった。これは気持ちが悪いのだ。それに、気づいてしまった。もう目をとじても、むかむかしていた。 「ぐるぐる、まわっている」  茂は、いった。 「回転している。吐きそうだ」 「もしかして、これって薬のせいじゃないのか」 「おれも、そう思っているんだよ」  裕明の声が、遠くに聞こえた。とても、となりのベッドとは思えないほど距離があると感じ、また吐き気がした。薬のせいだったのだ、茂は思った。もしかすると、たいへんなことが起こったのではないか。薬は効き、ふたりとも、おなじ症状がでている。 「このままじゃ、だめだ。死んじまうんじゃないのか」 「どうしようか」  茂は、答えた。身体をうごかそうと思ったが、気持ちが悪い。しびれて、感覚が変だ。虫、そう、無数の蟻が皮膚を這っている、ぞっとする感触。目をあけてみると、どこもかしこも、ぐるぐるまわっていて絶対に吐くと思った。 「このまんまで、いいのかよ」 「よくは、ないんだろうな」 「茂、どうしたらいいと思う」 「分からないよ」 「こういうのは、だれかにつたえたほうが、いいんじゃないのか」 「そうだろうな。でも、身体がしびれている」 「どう、しようか」  裕明の言葉が、聞こえた。 「どうしたら、いいのだろう」 「このまんまじゃ、ぐあいが悪いのじゃないのか」 「そうだな」 「茂。これ、どう考えても、普通ではないよな」 「違うだろうな。普通でないことだけは、分かるよ。問題は、どの程度、違うかだ」 「吐きそうだ」 「吐ければ、そうしたい」 「効いて、いたんだな」  裕明は、いった。 「かなりだな」 「いいの、だったのだな」  ああ、そうか、と茂は思った。特別だといっていた、ネパーリの青年の姿が脳裏に浮かんだ。つかみかからんばかりに、本気で怒っていた。両手がわなわなと震え、眉間に皺をよせ、深刻に五〇ルピーをみつめていた。 「たぶん、凄い高級品だったんだ」 「そんないいものを、茂が買ってきたから悪いんだ」 「特別だといっていた。真剣だった。あいつ、最後は本気で怒っていた」 「怒らしちゃいけないよ」 「そう思う」 「値切りすぎたんだ。だから、分からなくなったんだ」 「いいものだって、いっていたもんな」 「儲けが、なかったのじゃないのか」 「そうだな。いまにして思うと泣きそうだった。かなり、恨んでいたみたいだ。うえに二回も相談したし、半分に千切っちゃったからな。あとに、ひけなくなっていたんだ。六〇が原価だって、いっていた。あれ、ほんとうだったんだ。あいつ、きっと、あとで一〇、自分で穴うめしたんだ。最後に、馬鹿野郎と叫んでいた。普通、いわないよな」  茂は、聞いた。頭ががんがんして話すのも辛く、吐きそうだった。 「いう、わけない」 「普通はよ、ああいう売人は、客を殺さないもんなのだろう」 「当たり前だ」 「だからよ、こんなにいいものなら、どのくらいが適当か教えてくれるよな」 「茂、怒らしたんだ。ひどいこと、したんだ。だから、客だと思われなかったんだ」 「ばちが、あたったんだ」 「茂のせいだ」 「どうしたら、いいのだろうな」 「ますます、ひどくなってこないか」 「なんだか、さっきより、もっとぐあいが悪い」 「ほんとうだ。もう、話すのもだるい」 「でも、裕明。量が、足りないといったよな。おれは、あぶないと話したよな」 「茂は、そんなこといっていたな。そうだったな。だいたいは、分かっていたのじゃないのか。その場にいれば、知ることができる雰囲気があったのじゃないのか」 「なんにも、分かんないよ。裕明こそ、くわしいはずじゃなかったのか。ずいぶん、やったんだろう」 「教えてくれる奴が、いるんだよ。どこにだって。プロという者がいるんだ。だいたいこういうことは、よく知っている奴といっしょにやるもんなんだ。このまえは、ヒッピーがいただろう」 「じゃ裕明。今回、あぶないのか」 「相当だ。はっきりいって、だめかも知れない」  茂にはその言葉が、ふだんの裕明のかるい話とは違い、充分な説得力をもっていると思えた。むかむかする、たまらない時間がすぎていった。頭は、さらにがんがんと痛み、寝ているのも辛く、どこにも力が入らなかった。身体中の皮膚を、小さな黒い蟻が這いまわっていた。意識がぼうっとし、ほんとうにあぶないと思った。このまま、いくのじゃないかと感じた。頭のなかでなにかが輝き、ポカラで会ったラマ僧の金色のブレスレットを思いだした。 「よい死に方、ではないな。しかし、奇遇ではある」  ラマ僧の言葉が、茂の脳裏をかすめた。 「よびに、いこう」  裕明がとつぜんいった。遠くで、そういう声がした。 「いって、くれるのか」  茂は、聞いた。 「買ってきたんだろう。これは、茂のせいだ」 「そうか、とことんやったからな。でもよ。もう、どっちって問題じゃないぞ。裕明も、悪い。それも、相当だ」 「なぜだ」  だるそうな声がした。 「最後に、もっと食べようといったぞ。おれは、あぶないと話したぞ」 「でも、値切りすぎたんだよ。やりすぎはだめだって、いつもいっていただろう」 「分かった。で、どうするんだ」 「じゃんけんだ。負けたほうが、よびにいくんだ。絶対にするんだ」 「死んでも、か」 「そうだ。死んでもだ。約束だ」 「分かった」  茂は、答えた。  部屋には悲壮感が、色濃く漂いはじめていた。暗くて、悪いムードだった。  それで、じゃんけんした。頭は、がんがんし、なにをだしたのか、覚えていなかった。とても手はうごかせなかったので、口でいった。なんてつげたのか、もう覚えていなかった。しかし、裕明は負けたのだった。  ながかった。いくらすすんでも辿りつかなかった。果てしない感じがした。這いつくばる手足は、鉛に変わったと思えるほど重く、四つん這いだったがすすんではいた。前進しなければ、ならなかった。状況をなんとしてでも、つたえる約束だった。階段にまで辿りつき、ロビーをみて、目の前がくらくらした。こんなにもながい石段を、おりていかなければならないのか。その高さは、裕明には絶望的にみえた。しなければならない、約束だった。裕明は、手すりにつかまり、死に物狂いで立ちあがった。目の前が真っ暗になり、気が遠くなり、たおれてしまいそうなのを必死でこらえた。そのとき、激しい吐き気が襲ってきて、絶対に吐くと思った。  ベッドからとても起きられそうもなかったので、裕明はころがって一回、床に落ちた。それから、なんとか四つん這いになったとき、ちょうどみあげたところに水差しがあり、思わず水を飲んだ。それが、悪かったらしい。裕明の口から水が吹きでてきて、下まで直接、落っこちていった。まるで、映画のゴジラだった。口から火を噴くシーンだ。ゴジラは、いま裕明で、吐いているのは水だった。しかし、あの場面だった。水は、落ちて雨の音が聞こえた。もっと正確にいえば、うち水をしたときのような、現実とはぜんぜんかけ離れたみょうに落ちついた音響だった。だれも、気がついてはくれなかった。映画のなかでは、ゴジラが火を噴くと、みんなが逃げまわっていた。それはつくりものの話で、現実とは違っていた。事実はもっと厳しく、ただ床が汚れただけだった。  裕明の絶望感は、さらにふかまっていった。おりられる自信はなかったが、落ちるのは簡単に思えた。このさい、いっそ落下するほうが適切にも思った。事態をはやく、的確に知らせることができる気がした。ふらふらする頭で、ぼうっと階段をながめていた。どう考えても、その選択は、あまりにも無謀に思えた。それは、とりかえしのつかないことが、さらに増える気がした。それで裕明はしゃがみこみ、やってきた廊下をむき、足のほうから階段をおりはじめ、中途までくだった。彼は、おりているつもりだった。人からみたら階段で、ごそごそしていただけだった。裕明は、石段で蠢いていた。そのとき、ローラがきた。 「裕明」と彼女は叫んだ。 「うごかないで」  ローラは大声で叫ぶと、カウンターに飛んでいった。 「裕明は、いけたのだろうか。彼は、わけの分からない、さまざまなドラッグをやってきたらしい。あいつには、耐性がある。それも、相当だ」  茂は、思った。彼には経験がなかったから、重大な違いだと感じた。 「吐きだせば、楽になるかも知れない」  いまにも、吐きそうなのに吐けない。これは辛くて、いっそ吐きだしたい。そういえば、裕明は水を飲んでいた。その光景が、ふと茂の脳裏に浮かんだ。じゃんけんのあと、「ごとん」と音が聞こえ、目をあけてみると裕明が床にころがっていた。なにを、どうするつもりなのかと思って、気持ちの悪いなかでじっとみていた。裕明は、四つん這いになると、ふたりのベッドのあいだのテーブルにおいてあった水差しをつかみ、水を飲んでいた。 「そうだ。水を飲めば、吐ける。裕明は、知っていたんだ。だから、水を飲んだんだ」  茂は、思った。目をあけると、周囲はぐるぐるまわって、速度はさらにはやくなっていた。水差しはみえた。力を振りしぼり、とると一気に飲んだ。飲めた。たしかに飲んだので、水差しをおいた。 「変だ」と茂は思った。  胃のあたりが飲んだ分、ぷっくりとふくらみ、気持ちはさらに悪くなっていた。横臥したままで、膨隆した腹を押してみると、「おええ」となり、口から水が、びゅうとでてきた。  映画のゴジラだった。あのシーンだった。しかし、いま、ゴジラは茂だったし、吐いているのは火でなく水だった。 「胃も腸も、うごいていない。完全に麻痺している」  茂は、事態の深刻さに改めて気づいた。 「オピウムだ」  ホテルの主人は、いった。 「ひどい中毒だ。医者が必要だ」  主人は、すぐに救急車をよんだ。  ローラは、茂の部屋に走った。扉をあけたとき、彼は口から水を吹きあげていた。ローラは、悲鳴をあげた。ホテルにいた宿泊者は、なにがあったのかと、ぞろぞろとでてきた。  だれかが入ってくるのは、なんとなく分かったが、茂の意識は遠くなっていった。  ローラの話では、レストランからの帰り道、ふたりは真っすぐには歩いていなかったそうだ。千鳥足で、なにかの薬をやっていたのは、分かったそうだ。あのとき、じつはもう充分に効いていたらしい。  目を覚ますと、世界はぼんやりとしていた。茂は寝ていて、となりで横になった裕明がいた。通常は六人くらいが入る大部屋の中央に、ベッドがふたつだけおかれた室内は、がらんとし、むやみにひろく感じられた。  とくに、頭痛もなかったし、気分も悪くはなかった。  茂は身体を起こし、床におかれていたスリッパをはき、そっと立ちあがった。裕明の寝息を確認すると、静かに部屋をぬけでた。常夜灯が、離ればなれに、にぶい光をはなっていた。薄暗くてながい廊下を歩いて、ひろくてすこし冷たい感じがする階段を、音に注意しながらあがっていくと、のぼり切ったところに踊り場と扉があり、そっとあけて屋上にでた。  爽やかな、秋の夜だった。緩い風が吹いて、すこし寒く感じた。欠けた月があかるく光り、闇のなかに浮かぶ銀色の塊がみえた。雪に覆われた山の峰は、月光を照りかえし、さえざえと輝いていた。エヴェレスト、だろうか。いずれヒマラヤには違いないが、名は分からない。雪ばかりとみえる中腹には雲をたたえて、もう、そのすぐ下は暗がり、なにも不明な曖昧な地平の線、たぶん、森をかかえた陸がつらなっているのだろう。 ヒマラヤは、ヒマ・アーラヤだと聞いたことがある。  himaは、雪をあらわし、a-layaは、落ちつく。定着するを意味する動詞。a-liからの派生語で、住居とか蔵を示している。  ネパール北部国境を覆いつくす未踏の山々は、各々に森をしたがえ、静かな海に起こり、消える波となってあり、そのすべてを背景として白雪は領域をもって、くっきりと浮かんでいた。そこには、もう空もなく、あるといえば映している月ばかりか。  雪の蔵だった。  屋上をとりまくフェンスを両手でつかみながら、白雪の山に釘づけになった瞳は、ひとときをえて、いまいる場所をむすぶ空間にうつった。  舗装された直線の道、街灯がならんでいる。夜も相当に更けて、行き交う人も車もない石づくりの街並みがみえる。柔らかい風が、吹いている。  ネパールの首都、カトマンズ。砲弾状のシカラが林立し、積層している。どの塔状部も、うえにアーマラカをのせ、カラシャをもっている。その上部に、デーウルが天を目指して伸びている、ヒンドゥーの寺院。まるいストゥーパをもつ仏教寺院の屋根には、相輪がみえる。露盤と伏鉢があり、そのうえに蓮華の形をした請花がのっている。そして胎蔵界、中台八葉院で大日如来をとりかこむ、四仏と四菩薩をあらわす九つの法輪がつらなり、水煙をへて竜舎につづいている。竜がひく車にのっているのは、この世でもっとも尊いもの。それは、仏舎利を納めた宝珠。これらが一本の尖塔となり、仏の世界にすこしでもちかづこうと、天を目指して伸びている。  夜があければ道には人があふれ、マーケットはまた喧騒につつまれる。古都、カトマンズ。二〇〇〇年にもわたって数多の人びとがうまれ死んでいった街。そこには歴史と温もりがある。神が人間を創造したとしても、この街をつくったのは人。  ローラの横顔が、脳裏に浮かんだ。  そのとき心をしめた感情は、愚かしいとか、恥ずかしいとかではなかった。こうして入院したのは、あまりにも考えが足りなかったとは、くりかえし思うが、それよりも死ななかったことに感謝した。  茂は、生きていてよかったと感じた。 「ローラと、結婚したい」と彼は思った。                              カトマンズ、一〇八枚、了