チャイニーズ・ボーダー       由布木 秀  一、宿の主人 「おれには、分かる気がする。出来心だったんだ。ちょっとなんだ。思わず、やっちゃったんだよ。でもさ、そこが純情で可愛いところなんだよ。ほんとうに、敬虔な仏教徒なんだよ」  裕明は、主張した。 「そういうものか」  茂は、広間のテーブルをじっとみつめていた。  そこには、のこったパンがおいてあった。  ふたりが泊まったネパール最北端の宿は、道路に面した三階だての木造建築だった。もう旅館というよりは民宿みたいなところで、痩せて五〇歳ちかくにみえる女が、ひとりで切りもりをしていた。とはいっても、姉妹と思われる一五歳くらいの娘がふたりいたから、女主人は、ほんとうはずっと若くて、四〇歳そこそこだったのだろう。痩せて色褪せたサリーをきた主人は、みかけよりは気丈で応対もしっかりしていた。  宿はひとつで選択の余地はなかったが、でてきた女主人にふたりが泊まることをつげると、彼女は先に立って階段をのぼりはじめた。主人のあとについて、せまい段をあがって二階にいくと、右のほうに道にそってほそながい部屋があり、中央に模造紙くらいの大きさの地図をひろげて話しあえる、大きな机が三つならんでおいてあった。テーブルの道路がわと、山がわに、男三人がすわれるくらいの木製のベンチが、やはり三脚ずつおいてあって、会議室にみえた。便宜的にふたりは、ここを広間とよぶことにした。ほそながいとはいっても、部屋は幅もあるかなりひろい空間だった。左右の壁にはガラス窓が嵌まり、左がわの道路に面して大きな窓がふたつ切られていた。そこからは道をはさんでいくつかの家屋がみえ、その先はふかい森になっていた。右がわには小さな窓が三つつくられ、林立する木々が視界をさえぎり、うっそうとした樹木がつらなっていた。  階段の踊り場が広間の入り口で、左にはべつの部屋があり、「ここが食堂だ」と女主人はいって扉をあけた。なかに入ると、木製の大きなテーブルがひとつおかれ、まわりにまるい木の椅子が六脚みえた。道路がわは窓から夕日があかるくさしていたが、日暮れには、まだかなり時間があった。光が充分に差しこまない奥に間仕切りがつくられ、後ろが厨房だった。  茂がそこをのぞくと、一四、五歳の中学生くらいの娘がふたりで縫い物をしていた。年子にみえる姉妹は、どちらも、ながい髪を無造作に伸ばし、飾り気がなかった。とくに美人ではなかったが、素直そうな、ごく普通のネパーリだった。茂は、家事をするふたりにむかって手を振ってみたが、どちらも気づかない素振りで、挨拶も愛想もなかったが、間違いなく純情で生粋のネパール人に思えた。  食堂をみたあとで踊り場にもどり、せまい階段をさらにあがって寝室に案内された。三階は宿泊施設で、かなりの客を泊めることもできそうだった。この階が宿泊客でいっぱいになったときには、広間が食堂に変わるのだろう。また一階は家族の居住部分なのだろうが、それでもひろすぎると思った。たぶん係累はさらにいて、主人のつれあいはカトマンズにでも出稼ぎにいっているのだろう。それに女主人と旦那の両親たちは、家のなかで隠れて暮らしているのだろう。  これだけ大きいのだから、いろいろな部屋があると想像されたが、案内されたのは山がわに窓が切られた三畳くらいの、二段ベッドがひとつおかれたところだった。客は裕明と茂しかいなかったから、女主人は分相応と思った小部屋につれていったのだろう。優しい心遣い以外に考えられなかったので、ふたりはとくに文句をつける理由もなかった。裕明は上段に、茂は下段に寝ることにした。  トイレは、広間にふたつ備わっていた。なかには、排泄物が落ちていく穴があった。穴隙をじっとのぞきこむと、下にはうっそうとした木々がしげっていた。トイレは、構造的には広間のつきでた部分で、重力によって落ちる穴があるだけだから、考え方によってはすこし怖い気もした。  部屋に通されたふたりが、ぼうぜんとした表情で二段ベッドの下段にすわっていると、かなり疲れてみえたのだろう。 「入浴してきたらどうだ」と女主人が提案した。  それでふたりは、風呂にいった。とはいっても、風呂場なんかありえなかった。トイレだって垂れ流しで、水がでる場所なんてない。風呂というのはじつは戸外で、ようするに河にいっただけだった。  事件は、そのあとに起こった。  河から帰ってぼうぜんとしていたが、ぼんやりとするにも、あたえられた部屋はせますぎた。広間までおりてきて、ふたりで放心状態になっていたのだった。  そのとき、パンがひとつ机のうえにおいてあるのに、茂は気がついた。カトマンズでバスにのるまえに買った菓子パンで、バラビセで食べてひとつだけのこしておいたものだった。それが、テーブルのうえにぽつんとおかれていた。いちいちパンをかかえて河へはいけないし、その価値もないから、リュックから下着をとりだしたときにいっしょに外にだされ、茂がえらんだ下段のベッドに、パン屋の袋に入った状態でのこされたものだった。それがむきだしになって、きちんとたたまれたカトマンズにある菓子店の色がついた紙袋のうえにおかれていた。 「変だな」と茂は思った。  その感情は、とうぜんだった。歩くためには、裕明がいう通り脚が二本必要だから、どう考えてもパンが自力で広間にでてくることは不可能だった。  問題は、もうひとつあった。第二の疑問はけっこう複雑で、パンがここにおかれた以上に謎につつまれていた。つまり、その端がひと口くらいかけて、人の歯型がついていた。みるほどに、不思議なものだった。 「知らん顔して、食べてしまうしかない。すてたら、ばれちゃうじゃないか。やるわけにはいかない。犯人さがしとおなじだからな。これは、みなかったことにしよう」  茂は、かじられたパンをみつめながら首をかしげていた。 「おれも、半分食べてやる」と裕明は真面目な表情でいった。  その通りだろうと、茂は思った。  入れてあった袋には色がつき、カトマンズの店の名前と、菓子パンの図柄がかかれていた。茂には、やぼったくみえたが、この国の紙袋は茶色が普通で、ぼろぼろになるまでつかいまわす。白くて綺麗な新品は、それだけで魅力的なのだろう。ロール状の菓子パンは砂糖がまぶしてあるだけだったが、うまれてはじめてみたのだろう。買ってから一日以上ほうっておいたので、ぱさぱさと乾燥していた。しかし、その気になってかげば、おいしそうな、はるかな都会の匂いが漂っていたのだろう。  歯型までつけてテーブルのうえにおいてあるのは、「かじりました」という宣言だった。間違いなく不思議なものだったが、とり立ててこまる事件でも騒ぎ立てる事態でもなかった。旅をすれば、よくあることかも知れない。それよりも考えていたのは、「今日はたいへんだったな」という思いで、遠かったというふかい感慨だった。 「これは、裕明の意見にしたがったからではないのか。やめることもできたのに、賛成したのは自分なのだ。自己の責任を、人のせいにしても仕方がない」と茂は考えていた。  今日は、体力の限界を試したわけで、くたくたに疲れていた。それで、二階の広間でぼうぜんとしていた。宿も決まり風呂もあびたから、一日を振りかえってもいい、静かな時間になっていた。二週間のうちに相ついで起こった、さまざまな事件が思い浮かんだ。振りかえる、いいころあいだった。  裕明は、肝炎になると信じていた。  六年間、さまざまな場所をわたり歩いて、他人がどう感じるかはべつにして、自分なりには気をつけていたのだった。分からないことが多い世界、危機は何度もおとずれて、くりかえし痛い目にあってすこしは学習したのだった。変だと思う場面では、立ちどまる習性もできていたのに、「あああ。やっちゃった」。そんな感じだった。自分らしくもなかった。原因は、うすうす分かった。今回は、状況に気持ちがながされていた。いっしょに旅をした茂が女性と恋仲になるなんて、予期もできなかった。相手がたいそうな美人で、現実離れしたロマンスをそばにみて、面食らった。思いもつかないことが、起こるのはいい。それを、楽しみにして生活しているのだから当たり前だった。魔だ。がらにもなく動揺したのだ。魔がさすとは、こういうことだと、裕明はしみじみ思った。初歩的なミスで、だから今回は、致命的だろうと考えていた。  ホテルの階段の場面が、脳裏に浮かんだ。ゴジラみたいに口から水を吹きあげて、石段をごそごそおりていくうちに、意識がだんだんなくなり、遠くでローラの叫ぶ声が聞こえた。つぎの瞬間、階段に寝そべる自分をみた。もそもそうごいているのが、うえからみえた。みている自分は、やはり裕明だったのだろう。  ローラがマスターをつれてきて、茂の部屋に飛んでいった。今度は、彼がゴジラになっていた。面白いとか悲しいとか、そんな感情とは違って、あああ、それなりに気をつけてきたはずだったのにと思っていた。救急車がきて、ふたりをのせて病院について、職員が懸命に助けようとしていた。裕明自身も茂も、ベッドのうえで、ぐたっとなったままうごかなかった。  一部始終をながめながら、これはだめだって覚悟した。こんなことははじめてだったし、魂がぬけでてしまっていたのだ。ああ、最後はこうやって死んでいくのだなと、裕明は納得した。茂は、どうなのだろう。バスが落ちそうになっても、知らん顔して眠っているのだから、今回もけろっと起きて、みんなが騒ぐのをみて、ほんとうかよ、なんてそんな感じなのかな。茂は、助かってもらいたいな。彼が量がすくないといいはったわけだし、責任はとらねば仕方がなかった。それでも茂と旅して、それなりに面白かったな。自分でも驚くほど、現実をうけとめていた。凄く冷めて、「どうしようか」とはすこしも感じなかった。そうこうしているうちに、天井を離れて身体がだんだん高いところに移動していった。ほんとうにおしまいなのだ、と裕明は思った。  そのとき、下のほうから声が聞こえてきた。みおろすと、痩せたラマ僧がいた。剃髪の浅黒い日本人で、色褪せた赤い腰巻きをして、右の手首に金色のブレスレットをつけていた。ラマ僧が、さかんに声をかけていた。  おれは、海源(かいげん)という僧侶だ。昔、おまえとおなじようにぐあいが悪くなって、ここで死の淵をさ迷った。死ぬはずだったのに、いろいろな人が助けてくれた。みず知らずの人たちに看病してもらい、元気になった。それで、人を助ける使命があると思った。おまえは、まだ寿命がきていない。だから、帰れ。いまなら、まだ帰れる。それ以上、いってはだめだ。こちらへ、帰ってこい。  そう、いっていた。振りかえると、病院の建物がみえた。こちらはだめで、あちらにいくのがいいのかな。裕明がそう考えてじっと病院をみていると、だんだん身体がそこにちかづいて、ベッドで眠る自分がみえた。あそこにいかなきゃと思った。ふっとして、あとは覚えていなかった。  裕明は、病室で考えていた。  ラマ僧は、ここでオピウムをやったのだろうか。それで肝炎になり、黄疸に進行し、死の淵をさ迷った。奇跡的な生還があって、人生を考えたのだろうか。それでなかったら、わざわざネパールで僧侶をしていることもないだろう。わけの分からない麻薬患者の、後始末をやりながら弔っていた。そうして自分の使命を知り、場所ができるのだろうか。もしかしたら、ここでラマ僧のあとをつぐのだろうか。剃髪して、色褪せた赤い色の腰巻きをつけ、合掌する裕明の姿。 「どうしよう」  そこへ、ローラがやってきた。裕明が目をあけているのをみつけると、微笑んで右手をあげた。まわりをみると、彼は点滴をしていた。ふたり部屋で、茂も補液をうけながら眠っていた。彼は、目をとじた。  ローラは、裕明がまた眠ったと判断したらしい。声をかけるでもなく、ふたりのベッドの足がわに、まるい椅子をもってきて腰をおろした。裕明がうす目をあけてみると、ローラは茂の寝台の下をみていた。じっとなにかを考えている、物思いにふける可愛い横顔がみえた。視線の方向には管と袋がさがり、よく分からないが液がたまり、ローラは思案していた。なんとなく、裕明にはそのチューブの意味が理解できた。彼は、なにかがはさまっていると感じた。たぶん、おなじ管が、裕明にもついているに違いなかった。ベッドにも、同様の袋がつりさがっていたのだろう。  ローラは、不思議そうにじっと考えていたが、なにかを理解したらしい。とつぜん、裕明を振りかえった。彼の目がとじられているのをみて、安堵したみたいだった。  裕明が眠っているのを確認すると、ローラは茂の管をすこしもちあげた。合成樹脂でできた透明なまるくてほそいチューブで、大腿部に固定されていた。管をみていたローラは、なにかを思いついたのか、すこしひっぱった。チューブは、しっかりと固定されていた。ローラはもう一度、先ほどよりつよくひっぱった。 「おおお」と茂がいって腰をうごかした。  ローラは、驚いて管をはなした。 「触らないほうがいい」と裕明はいった。  ローラは顔を赤らめ、ばつが悪そうにした。すると、茂の管が赤く染まってきた。ローラは思わず右手を口のちかくにもっていき、息を飲んだ。祈る目つきで、裕明をみた。かわいそうだった。 「触らないほうがいい。簡単そうにみえるが、きっと複雑にできているんだ。プロに、まかせたほうがいい」 「赤くなっちゃった」  ローラは、消え入りそうな声でいった。 「大丈夫だ。こうなったのは、ローラのせいではない。命の恩人だ。茂は、感謝している。すこしくらい、血がでたって怒らない」 「先生にいってくる。今日は帰るわ。明日、退院だって、いっていたわ」  ローラは、そそくさと部屋をでていった。  その言葉は、裕明には意外だった。 「二日後に再診しろ」とネパーリの医師からいわれた。  裕明は、なつかしい病院をでた。一生、思い出にのこるだろう。そう思うと、涙がでそうになった。カトマンズで、ゆっくり療養しよう。宿のマスターには、感謝しなければならないと彼は思った。 茂は、裕明の経験した不思議な体外離脱体験の話を聞いた。ポカラで会ったラマ僧の名前は知らなかったが、「海源」かも知れないと思った。せっかく話ができて、どう生きるべきか教えてくれたのに、馬鹿なことをした。名前はともかく、もう一度ラマ僧に会って、ただ無性に謝りたいと思った。  ポカラでみた、カミソリ状の尾根を思いだした。雲ひとつないすみ切った空に、月と満天の銀河に映しだされ、アンナプルナの切り立った峰は、雪につつまれ白く輝いていた。なんの欲も希望もなく、世界と触れあったときに、はじめてみえた神聖な山だった。切り立つ尾根につもった雪は、氷河となり天上の国として輝きながら、あらゆる生命を拒絶していた。まえからそこにあったのに、茂には気がつかなかっただけで、みようとしなかったから、分からなかっただけだった。ネパーリは、高い山々のずっとうえにヒマラヤが聳え、ふだんはみえないのを知っていた。  茂は、またべつなことも考えていた。問題は、さらにのこっていると思った。こうやって最悪の形になったのは、重大な失敗があったからで、茂は反省していた。なにかするときは、だいたいは分かっている人といっしょでなければならない。裕明に、頼りすぎていた。いつのまにか彼は、どんな問題でも分かっている気がした。 「間違いだ。あいつは、なんにも知らないのだ。それで、世界中を歩くことになったのだ。だいたい普通の人間は、類推が効く。オーストリアのマクドナルドまでいって、ニューヨークの店との違いを知って、どうするつもりなのだろう。ハンバーガーの味に差があるのに気づくのが偉いわけでもないし、そもそも必要がない。それは、プロの仕事で、マックの経営者がやるべきことだ」  裕明にも、欠点があったわけだ。これは、今回いちばん勉強したことだった。茂は、もうひとつ知りたい疑問があった。岸川が買ったというオピウムとは、いったいなんだったのだろう。 「一トル、五〇ルピー、一五〇ルピー」  これも、聞きたいと思った。  いずれにしても、ふたりはめでたくホテルに帰還できた。季節は、秋にむかっていた。この時期の天候はいちばん安定し、だいたいいつも晴れていた。昼さがりだった。なつかしい石づくりの二階だてのホテルは、三日まえ彼らが絶命しかけたなんて、すこしも感じさせない、まるで関係がないという雰囲気だった。もっと正確にいえば、こんな事件は毎日ある、ごく普通なことというたたずまいで、どうどうとして、人のひとりやふたり、死のうと生きようと、そんなささいな問題にはどうでもかまわない感じだった。やはり、石づくりはいい。迫力があって、凄いものだと茂は思った。 「裕明さん」  なつかしい声がした。ホテルの入り口をすぎ、ロビーに入ったときだ。男の声に振りむくと、ヒッピーがいた。 「よう」  裕明は、左の手を高くあげていった。 「どうか、したのかい」 「どうって。たいへんだったじゃない」  ヒッピーは、いった。灰色のズボンをはき、白っぽいゆったりとしたティーシャツ姿だった。首にはながいグレーの布を巻いて、ポカラで会ったときとおなじ格好だった。 「また、友だちでも死んだのかい」 「なに、いっているんだ。裕明さんたちのことは、すっかり有名だよ。三日まえここに救急車がきて、オピウムの急性中毒で、日本人が死にそうになっているって、旅行者のあいだでは評判だよ。ぼくは、ちかくの宿にいたんだけれど、中毒者が旅慣れたふたりって耳にしたから、もしかしたら裕明さんと茂さんじゃないかと思ってさ。昨日きてみたんだ。マスターに聞いたら、やっぱりふたりだった。今日の午後、退院だって話だったら、ここのホテルにうつってきたんだ」 「そうか、そんな話題になっているのか」 「もち切りだよ」 「まずいな。ずいぶんと派手だったからな。これには、いろいろ理由があってな。なにか用らしいけど、そのまえに親父さんにお礼をいっておかないとな」 「ちょうどいいところで会った。折りいって、聞きたいことがあるんだ」  茂は、ヒッピーにいった。 「どんな問題」 「つまらないことさ。でも、ここではな。よかったら、このあと部屋にでもきてくれないか。ヒッピー、なんでここで、待っていたんだよ」  茂は、けげんな表情で聞いた。 「いや、じつは、ぼくも知りたいことがあってさ」 「そうか。それじゃ、おたがいに、いいタイミングだったわけだ」 「そういうことかも、知れないね」  ヒッピーは、笑った。  受付のカウンターには、ホテルの主人がいた。五〇歳くらいの、浅黒い痩せたネパール人だった。ごくごく普通で、しつこくもないし詮索もしない、いってみれば生粋のネパーリだった。  裕明はカウンターにいき、主人にむかっていった。 「今回のことは、反省している。たいへんな迷惑をかけて、申しわけなかった。おかげで助かって、こうして元気になって宿に帰ってこれた。とても感謝している。親父さんのおかげだ。命の恩人だ。茂とふたりで、どうお礼をつたえるべきか、考えたんだ」  親父は、カウンターのなかで帳簿をみていた。まったく無表情で、どちらかといえば無視と感じられるほどで、間違いなく生粋のネパーリだった。ふたりを上目つかいで、ちらっとみると、「よかったな」と応じて、また帳簿に目をやった。 「迷惑をかけたよな。入院中、ずっと生死の淵をさ迷いながら、親父さんのことを考えていた。どうしたら、感謝の気持ちをあらわせるかって。さっきも、茂とレストランで、まずこの件について話しあったんだ」  親父は、帳簿をみるのを一瞬やめて、上目つかいにふたりをみつめた。また台帳に目をうつして、「ほんとうに、ありがたいと思っているのか」と裕明に聞いた。 「当たり前だよ。ほんとうの父親みたいに思っている。親父さんは、おれの父と、そっくりなんだよ」  主人は、仕事の手を休めて裕明をまじまじとみつめた。 「可愛そうな、親父だな。はじめから、おまえみたいな者がうまれてくると分かっていれば、考えなおしていただろう。父親を思うと、涙がでてくる。しかし、はっきりしておこう。宿賃はもらう。あそこの荷物を、そのままにしておいたことに感謝してもらいたい。おまえが汚した場所の、片づけ代を請求してもいいんだ。ローラが、綺麗に始末した。だから、勘弁してやる。ローラには、よく礼をしておくのだな」とぶっきら棒にいった。  沈黙の時間が支配した。 「そうかい。気にしてもらって、ほんとうにすまなかったよ。親子の問題にまで、わざわざ立ちいって考えてくれて。宿賃は払うし、迷惑料も請求されたほうがいい。けじめがあれば、おれもさっぱりとして、ここで療養できる」  その言葉は、親父の考えとは、ずいぶん違っていたらしかった。意外そうに、裕明をみた。彼が、じっとだまって主人を直視つづけるのを知ると、 「まんざら馬鹿でもないのだな。多少は、常識もある。あのまんまなら、死亡していた。うちで死なれるのはこまる。以後あんなことは、やらないでもらいたい」と親父はいった。 「もちろんだ。反省している。茂もだ。二度と、こんな馬鹿なことはしないよ。ほんとうに、ラッキーだった。親父さんが、あんなに素早く救急車をよんでくれなかったら、いまのおれたちは、ここにはいない。できることを、いってもらいたい」 「反省しているのならいい。金輪際あんなことをしないと誓ってくれれば、それでけっこうだ。入院にも、金がかかったのだろう」  親父は、静かにいった。 「もしも、ふたりがここで死んだら、ホテルの営業にも影響がでた。こうして元気で帰ってきた。これは、めでたい出来事だ。そもそも、こんな事件が起きるのは、この宿の住人が薬の素人だと、はっきりしたともいえる。だれがみたって、これはプロの仕業ではない。常習者がいないって、宣伝したのとおなじだ」  そういう見方もあるのだろう。全員がどう思ったかは不明だが、このホテルは親父が考えていた以上に、健全だって示したのだろう。注目度も高まったし、それによって客もまたくる可能性もあった。 「でも、裕明よ。こうした噂で、変な奴がくるのはこまる」  そういって親父はヒッピーを指さし、額に右の手をもっていくと、ゆっくりと首を左右に振った。 「あいつとは、どういう関係だ」 「ポカラで、ちょっと会っただけだ。あいつは、間違いなく常習だ。友だちではない。信じて欲しい。おれは、普通と、すこし違っているところがある。親父さんのいう通りだ。実の父親も、この件では後悔していた。相当にだ。親父さんが、考える以上だと思う。なんといっても肉親だし、いい逃れできない責任があったわけだし。でも、あんな風にはいかれていない」  裕明は、真面目な表情で答えた。 「そうか、それを聞いて安心した。部屋は、そのままにしてある。できれば、いい思い出だけをつくって、でていってくれ。大事にいたらないで、よかった。あの部屋で死人がでたとなれば、しばらく人を泊めることもできないだろう。警察だって、だまってはいられない。泊まっていた住人がすっかりなおって、元気に気持ちよくまた旅にでていければ、ラッキーな部屋ということになる。気にするな、若いときにはいろんな事件が起こる。そうこうして、なにをやっていいのか、だめなのかが分かる、そういうものだ。いろんな旅行者がいる。おまえは、思っていたよりいい奴だ。若いってことは、こうした馬鹿をやるものだ。でも二度するのは、ほんとうの阿呆だ」  親父は、ぶっきら棒にそういって、また帳簿をみた。 「ありがとうございます」  ふたりは、声を揃えていった。親父はだまっていた。ネパーリは、想像以上にナイーヴで、気持ちが分かりあえるとふたりは思った。  二、プロの話  茂は、裕明とヒッピーといっしょに部屋にいこうとした。そのとき二階から、彼の名前をよぶ、すき通った声が聞こえた。それは、待っていた声音だった。  ローラは、走って階段をおりてくると、茂に飛びついた。首に手をまわして、だきついてきた。柔らかい頬を感じ、いい匂いが漂い、触れることができる彼女の身体のどこもかしこも愛おしく、涙がでるほど可愛かった。ローラは、キスをしてくれた。  その様子を、ヒッピーはぼうぜんとみていた。 「寂しかったわ」  ローラは、茂をみつめていった。 「心配をかけたね」  茂は、みつめかえしていった。 「あとで、ゆっくり話がしたい」 「いまでも、いいのよ」  浮き浮きしながら、ローラは答えた。  茂は、だまった。すこしだった、ほんの一瞬。ヒッピーが、先着になっていた。もう約束があるなんていえないし、増してや相手が男だなんて話せなかった。 「疲れているんだ。三時間くらい寝るよ。よかったら、夕食をつきあってもらいたいんだよ。今日は、こうして生きてることを、心から感謝したいと思っているんだよ。できれば、君といっしょに」 「そうよね、たいへんだったものね」  ローラは、しんみりとした調子で答えた。 「三時間たったら、起こしにいってあげるわ」 「いやローラ、ロビーがいい。ここで、六時ごろはどうだろうか」 「いいわ、六時ね」 「それじゃ、楽しみにしているよ。ほんとうに心配をかけたね。ローラ、今日はまた一段と綺麗だよ」  茂は、彼女をもう一度だきしめた。ローラも、つよく抱擁してくれた。それから彼は、ヒッピーに首を振って合図をした。裕明がロビーでローラと話をはじめたので、二階の別棟の部屋にいき、ベッドに腰をおろして話しはじめた。 「聞いてみたいことが、増えちゃったよ」  思案して、ヒッピーはいった。 「おいおい教えてやるさ。いろんな出来事が起こったんだ。基本的には、いいことがあった。それから、悪い事件が起こった。早速だが、教えてもらいたいことがある。ほんとうは違う奴に聞こうと考えたのだけれど、ヒッピーのほうがいい。なんといっても、プロだからね」 「薬のことだね。どんなのをやったの」  身をのりだして、ヒッピーは聞いた。  テーブルのひきだしにあった、先端部がわずかに千切れたオピウムをみせてやった。ヒッピーは、端をすこしだけ摘まんで指にこすりつけ、舌でなめた。そのまま、じっとしていた。二、三分だったろうか、とろんとした目つきになり、それでいった。 「茂さん、凄いよこれ。こんなのはじめてだよ。いったい、どこで手にいれたの」  ヒッピーは、興奮して聞いた。  それで、このオピウムにまつわる、だいたいの経緯を茂は話した。 「これを、五〇ルピーで買ったの」  ヒッピーは、驚いていった。 「そうだよ」 「どのくらい、やったの」 「ほんのちょこっとさ。鼻くそ三つくらいさ」 「それは、いかれちゃうよ」 「これってそんなに、いいものなのかい」 「凄いよ。普通には手に入らないよ。よっぽどのことがなければ。これだったら、最初は鼻くそひとつで充分だよ。いままで、みたこともない。特別だよ」  ヒッピーの目つきは、いつもの「とろん」としたものではなく、いままでで、いちばん真剣な表情に、茂にはみえた。ポカラで仲間の両親に会ったときよりも確実に真面目で、興奮しているのがはっきり分かった。 「売人も特別だって、ずいぶんいっていたよ」 「そうでしょう。やっぱり、こんなものがあるんだ。ここへこれば。どうやったら、こんなもの買えるんだろうな」 「ヒッピー。もしかして、欲しいのかい、これ」 「当たり前だよ。こういうものが欲しくて、ここまできているんだ」 「ヒッピーの話っていうのは、このことだったのかい」 「そうだよ、決まっているじゃない。ふたりが中毒になったって聞いて、そんなに無茶をするとは、思えなかったものね。凄いのに、ぶちあたったのじゃないかって思ったのさ。ぼくらは、こうしてみつけていくんだよ。こういう情報は、大切なんだ。茂さん、売ってよ。いい値で買うからさ。もう、つかわないのでしょう」  ヒッピーは、真剣な表情でいった。 「そうか、そういう代物だったのか。ヒッピーがそんなに欲しいのなら、売ってやってもいい。もう、こりごりだしな」 「やった。じゃ、いくらで売るの」  ヒッピーは、嬉しそうにいった。  茂は、よく分かった。ヒッピーは、ふたりを心配していたわけではなかったのだ。彼の関心は、茂の生き死にではなかった。ただこれが欲しくて、ふたりの退院をじっと待っていたのだ。そう思うと、はっきりいって気分は悪かった。  相談の結果、ヒッピーは、のこりのオピウムを六〇ルピーで買いとることになった。ふたりの取り引きが成立したころ、扉がノックされて裕明が入ってきた。 「折りいって、聞きたい事柄があるのだけど」と茂は話しはじめた。 「ここについた翌日だった。ある男から、小指の第一関節くらいのオピウムをもらって、やってみろ、といわれた」 「茂さんの指くらいかい」 「そうだな。ちょうど、小指の先くらいだ」 「それは、粗悪品だ。そんなもの、ぼくらは買わない。ざらざらとした感じが、するはずだよ」 「これとは、違うものなんだな」 「月とスッポン、という奴だよ」 「それは、どのくらいするものなのかい」 「ぼくらだったら、どんなに安くても買わないな」 「一五〇だった、というのだよ。それを、五〇まで負けさせたって」 「無理な話だね。売人だって相場はあるし、そんな法外のことをいったら、お客はよりつかなくなる。値段をつけるのは勝手だけど、もしそういう話なら、売り手も買い手も、かなり問題だね。取り引きが成立するとしたら、二〇前後だよ。五〇というのは、売り手の最初のいい値だったと思うよ。街角で声をかけられたとき、よっぽど真っ青になっていれば、売人は、これかぎりの客とみなして、五〇くらいはいう可能性はあるよ。それでも、一五〇は無理だね」 「そうか、どうしても理解できなかったんだ。売人に、最初に一五〇といわれたんだ。それも、かなり頑張ってだよ」 「最初に、よく一五〇っていってきたね。茂さん、よっぽど厳しい相手だと思われたんだ。それで、やる量を間違えたわけだね。普通は、ちょこっとでしろって教えてくれるところだけど、茂さんは、プロにみられたんだ。原価割れまで値切られたから、売ったほうも、頭がそこまでまわらなかったんだね」 「途中で、聞かされたのと、おなじものでないのは分かったよ。だんだん、悪い雰囲気になってきたからな。最後は、売人も泣きそうだったし。でも、サイズも、いい値もおなじだった。だから、見当がつかなかった。どうするべきなのか、ぜんぜん分からなかったんだ」  裕明は、ロビーでたむろしていた。カウンターのまえの広間みたいなところだ。裕明がゴジラになって水を吐きだした階段は目の前で、ローラが綺麗にしてくれたと聞いては、もう聖域みたいな場所で、簡単には足も踏みこめない感じだった。こういうロビーでたむろしていると、いろいろな事情が分かった。もちろん、全部ではなかった。だいたいの状況で、たとえばいままで話もしたこともない者が、親しげに声をかけてくれた。なんにも知らない人たちが、まるで汚いものでもみる感じで、ロビーをさけてカウンターや壁際をつたっていくのは、いい気持ちではなかった。あんまりじゃないかって感じるけれど、どうであれ、すこしいづらいムードはあった。 「そろそろこの街とも、潮時かも知れない」と裕明は思った。  ローラがいるのに、でていくのは、茂との旅もここで終わりということだ。たがいに納得しているわけだし、なんの問題でもない。はっきりいって、ながすぎたくらいだ。それで緊張感がなくなって、あんな手のこんだことが起こってしまったわけだ。  いつでも、後悔はあとからやってくる。答えが分かってから問題をつくるのは簡単で、結果がでてから「けち」をつけるのは、はっきりいって汚いし、品性がからんでくる。  裕明は、ロビーでこんなことを考えていた。  そうこうするうちに、ヤギがあらわれた。みじかい髪の毛の一部が立って、小さな角が二本生えているようにみえた。頬がこけ、顔全体がなんとなく三角形で、見栄えしない顎髭が、しまり悪く伸びていた。岸川は、裕明がロビーにいるのをみつけると、知らん顔で壁がわを歩いてでていこうとした。 「冷たい。いままで知らなかった者でも、声をかけてくれるのに」  裕明は、思った。 「よう、元気そうだな」  裕明は、左手を高くあげて、でかい声でいってやった。ロビーやレストランのまえにいた何人かが、岸川をみた。彼も、どきっとしたみたいだった。 「やあ、裕明さん、たいへんだったのだってなあ」と岸川はいった。 「なんだろう。裕明さん。さんって、だれだ。おれのことか。だいぶ刺激したのだな」  裕明は、思った。  岸川はちかくにきた。まるで、いままでまったく気がつかなかったという感じだった。 「すわらないか。ちょっと、話しておいたほうがいいと思うことがあるんだ」 「話かい」  岸川は、けげんそうにいってソファーに腰をかけた。 「じつはな、おれの話ではないんだ。茂なんだよ。こまっているんだ。茂がさ、折りいって、岸川に、じっくり、ようく、聞いてみたいって、ずいぶんいっているんだ。なんだか知ってるかい」 「ぜんぜん、分からないよ」  岸川は、ぶっきら棒に答えた。 「思いつかないんだ。あいつ、具体的なことは、なんにも教えてくれないのだけどな。なんだか、おまえ、だいぶ恨みを買っているみたいだな」  裕明がそういうと、岸川は、その言葉に動揺したらしかった。 「なんの話だい」  岸川は、真剣な表情で聞いた。 「おれにも、教えてくれないんだ。分からない。だいたいも、不明なんだ。茂は、こまかいことを、まったくいわないんだな。それが、そもそも根がふかそうだよな。今回、病院に入った原因は、岸川のせいだと思っているみたいだよ。あいつよ、あれで怒らせると怖いんだよ。いっしょに旅していたからな。そんな場面も、何回かみたことがあるんだ。あいつ、興奮するとかなりあぶないな。なんてえかな。あいつ、そんな風にみえるか」  はっきりいって、岸川はかなりまじだった。彼が、生唾を飲みこむ音が聞こえた。 「おまえ。ほんとうに、思いあたることはないのか」 「知らないよ。おれは、なんにもしていないよ」 「インドでさ、こっちにくるときだった。バスに、のっていたんだよな。そしたら、乗客がうるさくてよ。分かるかい」 「そうだろうな。それで、どうしたのだい」 「そしたら、茂には、相当気にいらなかったらしい。あいつ、とつぜん怒りだしてな。それが、凄いんだよ。普通じゃなかったな。おれだって、相棒だって思われたくなかったくらいだったよ」 「それで、どうしたんだい」 「後ろの席のインド人が、ラジオをもっていたんだ。うるさかったんだ。でも、バスは走っていたんだ。達したのだろうな。怒りがというか、そういうものが。とつぜん、茂が奇声をあげたんだ。それが、普通じゃないんだ。おれは、やめろっていったんだ。バスも走っているのだし、事故でも起こしたらどうするのだとね。そうなったら、あいつは怖いな。後ろまでいって、ラジオをとりあげて、足で踏みつぶしたんだ。もの凄い奇声をあげながら。運転手も車をストップさせて、乗客は全員、真剣に茂をみているわけだ。あいつ、ラジオをもっていたインド人の首、しめたんだ。殺してやる、とかなんとかいって」  裕明は、岸川をみた。ヤギは、じっと彼を直視していた。もの凄く真剣な表情だった。 「この話、先があるのだけど、どうする」  裕明は、聞いた。 「裕明さん、つづけてくれ」  岸川は、真面目な表情でいった。 「運転手と、ふたりがかりだよ。なんとか、やめさせなけりゃと思ってさ。首をしめられたインド人は、若い男だったのだけれど、黒い顔が真っ白になって。焦った。まじにさ。ほんとうに、やっちぃまうのじゃないかと思ってさ。しめられたインド人も、驚いたんだな。もう、抵抗ができなかったんだ。ちびったのだな。ルンギが、染みだらけになって」  裕明は、そういって岸川をみた。ヤギは、真剣に聞いていた。 「それで」 「仕方がなかった。危険だった。茂は、あぶないぜ。驚いたぜ。そのときは仕方がないから、もっていたリュックで、あいつの頭を、力いっぱいひっぱたいたんだ。それで、ようやっと手をはなしたんだ。これはもう、警察だと思ったよ」 「いかないで、すんだのか」 「運転手が、仲裁に入ってな。あいつは、ラジオの弁償金と和解金を払わされた。首をしめられたインド人のほうが、金はいらないというんだ。怖かったのだろうな。日本人のおれがみたって、普通じゃない。ぎゃーぎゃー、叫びながら首をしめたんだ。それは、びびっていた。あいつ、日本でなにか起こしたのだと思う。いられなくなったのだな。それで、こんなところへきているのじゃないのか。普通じゃないぜ。運転手にも、仲裁料を払おうってことになった。おれが、すすめたんだ、あとでってばあいも、あるしな。茂も、反省はするんだ。いつでも、そうなんだ。興奮すると、自分でも分からなくなるらしいんだ。おまえのそばに、そういう奴、いないか」  裕明は、聞いた。岸川は、生唾を飲みこんだ。 「よく、テレビにでてくる。事件を起こして」 「ああ、それだよ。おまえ、よく分かっているじゃないか」 「つづけてくれ」  岸川は、そういったが、顔面が白くなっていた。 「運転手も、お金はいらないっていうんだ」 「ええっ。インド人がか」  岸川は裕明の目をみつめ、信じられないという表情で聞いた。 「そうだ、インド人がだ」  裕明は、岸川の目をみつめて、大きくうなずいてつづけた。  完全に、びびっていた。 「それで、インドにいられなくなったんだ。おれも、今回みたいな事件があるたび、いっしょにいるのは、やめようって思うんだ。ろくなことがないんだ。これで、もう、三度目だぜ」と裕明はいった。 「ほかにも、あるのか」  岸川は、身をのりだした。 「聞いてくれるか」  裕明は、いった。岸川は、だまってうなずいた。 「ポカラで、変なキノコを食べさせられた。顔が腫れちぃまってよ、息ができなくなってくるんだ」 「聞いたことがある。笑い茸の一種だって」 「そういうものらしい。茂が、やろうやろうって、いってよ。それで食べたんだ」 「そこでも、入院したのか」 「そうだ。そうしたらラマ僧に会って、日本人のな。おまえ、聞いたことないか。日本人が入院すると、ナースが電話するらしい。また、おかしなのがきたって。そうすると家族の手配とか連絡とか、ラマ僧がしてくれるらしいんだ。その僧っていうのは、昔ここでオピウムをやって、今回のおれたちみたいに、急性の中毒から肝炎も併発して、死にそうになったらしい。奇跡的に助かって、出家したのだな。岸川、この話、聞いてないか」  ヤギは、ただ、だまって首を振った。 「もう、いいか」 「いや最後まで、裕明さん、聞かしてくれ」  岸川は、裕明の顔をみて真剣にいった。 「それで、なんとか助かったのだけれど、ラマ僧にさんざん怒られて、おれは反省した。茂といるのは、かなり問題だと、そう思った。分かるだろう」 「そうか、茂が問題だったのか」  岸川は、何度もうなずきながら、ひくく呟いた。 「問題なんて、代物じゃない。危険そのものだ。反省なんか、ぜんぜんないんだ。今回もな。おれは、やりたくなかったんだ。岸川が、オピウムをわたしたのだって。すべては、それからはじまったことだって、茂はいうのだな。岸川、ほんとうにそうなのかい。オピウムをわたしたのは、おまえなのかい」  岸川は、生唾を飲みこんだ。 「わたした。でも、中毒になる量じゃない、裕明さんなら、分かってくれるよね。おれは、そんなにあぶなくみえないだろう」  岸川は、裕明をみつめながらいった。 「みかけじゃ、分かんないよ。茂だって、普通にみえるだろう」 「いや、はじめから、あいつは、おかしかった。裕明さんとは違う。これは、みれば分かる。はじめて会ったときから、変な、その、人というか、理解できない、あぶなそうな奴にみえた」 「みる人がみれば、分かるのだろうな。おれには不明だった。またさ、今度はおまえの首でもしめだしたらと考えると、ちょっと話しておいたほうがいいだろうと思ってさ。もう、おれは事件に巻きこまれたくないんだ。カトマンズにくるときに、別れたかったんだ。いっしょにいて、むかう方向がおなじでさ。べつべつにというわけにも、いかないだろう」 「そうだよな」  岸川はそういって、うんうんとうなずいた。 「茂のことだ。もう、いいだしたら聞かないから。おれがなんとか仲裁に入るから、用心にこしたことはないよ。なにか聞くと思うから、正直に答えたほうがいいよ。もう一回いっとくけど、危険だ。怒らせないほうがいい。あれは凶器だ。なにをするか分からない。これだけは、知らせておいたほうがいいと思ったんだ」  裕明は、いった。 「ありがとう。よく考えて話す。整理しておく。裕明さん、つきあってくれるよね」  岸川は、そういった。  ヤギの件は、つぎの日、すぐに終わった。部屋に入ってきた時点で、もうすっかりびびっていた。 「岸川さ。すべてが、おまえが話した通りだったんだ。四つ角で売人に会って、一五〇といわれて、五〇で買ったんだ。岸川みたいに交渉できなかったから、買えたのは半分だったけどな。それでよ。裕明とさ、鼻くそみたいなもの三つ食べたら救急車がきた。なぜ、なんだろうな。岸川、どうしてだ」  茂は、聞いた。岸川は、だまっていた。 「いいよ。いいたくないことも、あるだろうしな。ただ岸川さ、おれのオピウム、のこっていても仕方がないんだ」 「買うよ、それ。茂の言い値で。それでいいのか」  岸川は、即座にいった。 「そんなこと、話していないよ。売ろうなんて、思いもしない。すてるつもりだ。そのまえに、岸川にもらった分があったよな。かえしたいんだ。だからさ、いま、この場所でいいんだ。小指分をかえすから、ここで食ってくれよ」  茂は、そういった。ながい沈黙が支配した。 「借りたままじゃ、気がひけるんだ。口、あけるか」 「嘘なんだ」  とつぜん岸川は叫んだ。もう、我慢できなかったみたいだった。床に額を、こすりつけていた。 「全部、嘘なんだ。一五〇なんていわなかった。地下だったんだ。真っ暗だったんだ。五〇っていわれて、五〇、払ったんだ。びびったんだ」 「まだ、分からないこともあるんだ」 「ほかにも、かい」  岸川は、なんだかさっぱり分からない様子で、頭だけ起こした。顔には、汗がぐっしょりと染みでていた。 「そんな真っ暗でよ、五〇ルピーを、どうやって払えたんだ。なんにも、みえないのじゃないか」と茂は聞いた。  岸川は、言葉をうしなった。 「真っ暗だった気がした。財布をとりだして、五〇ルピーを数えた。すこしは、あかるかったのかな」 「分かったよ、もういいよ。帰ってくれ」 「なにもしなくっていいのか。入院代、払えっていうならだす」 「いいから帰れ」  その言葉を聞くと、岸川はあっという間に立ちあがり、走ってでていった。  扉がしまると、裕明とふたりで、腹をかかえて笑った。  三、曼荼羅がある部屋  茂が、六時まえにロビーにおりていくと、ローラは主人と話をしていた。その様子はとても親しげで、感情をみせることのない生粋のネパーリが、身をのりだして彼女と話し、笑い声さえ聞こえた。 「お目あてが、きたよ」  マスターは、ローラの背後に立った茂をみつけていった。 「じゃーね」  ローラは、マスターに挨拶した。茂と肩をならべてホテルの玄関をぬけると、彼女はたずねた。 「なにを食べようかしら」 「胸がいっぱいだ。おすすめでも、あるのかい」 「私は、この街にくわしいのよ。だいたい、なんでも知っているの。この街で育ったから。ストーン・ロッジのマスターとは、子供のころからの知りあいなの。あなたのお気に入りは、なにかしら」  ローラは立ちどまり、茂の瞳をみつめた。彼もとまって、だまってみかえすと、彼女は石畳の歩道を、三、四歩すすんで振りかえった。つま先で立つと、両手をあげて頭のうえで大きな輪をつくり、くるくるっとまわった。はいていたスカートがひらひらと宙に舞った。右足をひいて膝をまげ、両手をひらいて会釈をした。 「ご主人さま。なんなりと、お思しつけください」  茂がぼうぜんとみていると、ローラはにこっと微笑んだ。 「どうしたいか、いって」 「そうだね、静かなところでゆっくりと」 「かしこまりました。ご主人さまの御意のままに」  ローラはそうつげ、また膝をまげ両手をひらいて会釈をした。  何分か街を歩いて、王宮ちかくのホテルの洒落たステーキハウスにいった。六階の高さのレストランからは、ライトアップされた宮殿がみえた。静かな美しい夕べだった。 「ご主人さま。ワインは、いかがいたしましょう」  ローラは、聞いた。 「そうだね。ぼくは、ほとんど飲めないけれど、今日は特別な日だから、君さえよければ、ロゼをすこしだけ」 「分かったわ」  ローラは、ウエイターに銘柄をつげた。  美しかった。目は大きくて切れ長で、つよい意志を感じさせた。唇は、うすくて歯並びがよく、頬はふっくらしていた。最初に会ったときより、いくらかこけて茂にはみえた。 「乾杯をしましょう」  ローラは、いった。 「なににしたら、いいのだろうか」 「あなたの健康は、どうかしら」 「そうだね、ずいぶん心配をかけたからね。ぼくの希望を、話してもいいだろうか」 「今日の主役は、茂よ。乾杯の権利を、もっているわ」 「病院で、ずっと考えていたことがある。元気になったら、君にいおうと」 「なにかしら」  ローラはそういい、手にしたグラスを一度テーブルにもどした。机のうえに腕をおき、茂を正視した。  それをみて、彼もグラスをテーブルにもどし、両腕をくんでローラをじっとみつめた。その瞬間、彼女のきりりとした唇、すべすべとした頬、すんだ瞳、どの部分にも笑みはなかった。  ふたりは、じっとみつめあった。 「ひとりで歩いてきた、ぼくの人生。もしもできるのなら、これからは君とふたりで歩んでいきたい。それは、きっと素晴らしいこと。君を、世界でいちばん幸せな人にしたい。そう努力したい。それが、ぼくの望みのすべてだ。考えてもらいたい、時間がかかっても」  その言葉に、ローラはじっと茂をみつめた。 「とき」が、ゆっくりとながれていた。どのくらいだったのだろうか、ふたりには分からないことだった。それは、あきらかに神聖で厳粛で偽りがなく、正しいものに支配されていた。  ふたつのグラスのあいだには、蝋燭の小さな炎が妖しく輝き戦いでいたが、その刹那、すべてがとまり、あかりは揺らめきをやめた。ひとコマは、切られた断面となり、つぎのコマにいく道をうしなった。  刹那とは、人が識別できるもっともみじかい時間をさす。それでいて、瞬時にうまれ滅していく無限の瞬間には、場面であると感じさせる、「とき」をもったひとコマがある。刹那のなかに落ちこんでしまったひとつの意識で、通常、歓喜や恐怖というふかい印象とともに切りとられている。 「考えてみるわ。真剣に」  ローラは、答えた。  茂は、左手を伸ばし彼女の右腕に触れた。ローラの左の手が伸びてきて、彼の腕に触った。 「乾杯」  茂は、いった。 「乾杯」  ローラは、いった。  ふたつの薄紅色に染まった液体に満たされたグラスが、触れあい、微かな音を立てた。遠い天上で鳴らされた鐘の音のように、よどみがなく、穢れがまじることも忘れられ、落ちついた心に染みわたるひびきだった。その音は、ふたりの魂と共鳴し、あたらしい和音をつくった。世界がうまれてから、はじめてのハーモニーだった。身も心もとろけるひびきで、きっと、もう一生、聞くことがないと思われる音色だった。 うっとりとする、素晴らしい秀逸な「とき」がながれていった。なにを話したのか、茂は、もうなにも覚えてはいなかった。話しあったものはすべてほんとうに違いなかった。偽りは必要がなかったし、飾りも意味をうしなっていた。  食事が終わって、爽やかなカトマンズの夜道をふたりで歩いた。  空も大地も、夜も大気も、彼らのためにあった。こうもいえるだろう。ふたりがいなければ、空も大地も、夜も大気も、存在してはいなかったと。もちろん、宮殿のまえで不意におとずれたふたつのものがひとつに、とろけてしまう熱い口づけもなかった。  ストーン・ロッジに帰ってくると、ふたりは階段をあがり、踊り場を左にまがった。廊下には、弱い光をはなつ薄暗い常夜灯が、ぽつりぽつりとついていた。両がわに鉄製の重い扉がずっとならぶ色の石の壁には、ぼんやりとオレンジの影が照らしだされた。夜も更け、世界は眠りにつきはじめている。静かでどこか冷たい。  いちばん奥の扉のまえにくると、ローラは微笑んでいった。 「部屋に入って。茂のために、用意しておいたものがあるの」 「怖いね。不思議な気持ちなんだ。君に出会うまでは、怖いものなんて、この世の中に何ひとつなかったのに」  扉が、ひらかれた。  眩しい。きらめきが覆っている。輝きが無制限にはなたれている。その部屋は、暖かく蜜の匂いがする。  スイートルーム。  お湯がでるのはとうぜんのことだが、風呂が備えられ、洒落たソファーとテーブルがおかれた応接室があった。つぎの間には、寝台がふたつ配置されていた。ひとつはシングル、もうひとつは、白い色のひろくて大きなダブルベッド。  寝室の壁には、黒い額縁に入った曼荼羅図が飾ってあった。茂の家にあるものとおなじ絵柄で、西洋人が東洋に感じる不可思議な思いを象徴するのではなく、彼女のいるこの部屋にとてもマッチしていると思われた。オーストリア人のローラ。ヒマラヤの麓、カトマンズ。日本人の茂。まったくべつべつの存在が、ここにかけられた曼荼羅によってひとつにむすびついているように思えた。なぜあの日、ローラはわざわざ屋上のながしに洗顔にきたのだろうか。分からなかった。聞いてみようかと一瞬思ったが、やめておいた。きっと、そうしたすべてが運から構成され、一部分が分かったとしても、それだけで、この素晴らしい、いまがあるわけではない。次回に、役立つはずもない。だいいち、つぎは、不必要だった。  寝室の窓から、街灯に照らされた石づくりの舗道がみえる。甘い蜜の部屋からみる夜の闇に支配された街並みは、静かで冷たく、そして切なく哀愁に満ちていた。通る人も、ほとんどいない。窓辺でたたずむ茂に、背後からローラがそっとよりそってくる。彼女の柔らかい肌を、熱い身体を感じる。芳醇な甘い吐息につつまれ、耳元に囁きが聞こえる。 「白ワインが冷えているの。今夜のために、母におくってもらったの。ボルドー産の一九四五年ものが」 「両親も、許してくれる。私たちと、おなじ。力をあわせて、たいへんな時代をのりこえたのだから」  夜も、更けてきている。蜜の香りが漂う部屋には、ローラと茂の、たったふたり切り。  彼には、あらがう力はもうなかった。  舌が、唇が、項が、すべてのローラが茂をさそう。指を伸ばせば触るもの、あらゆる部分が愛おしい。震える肩をだき、やがて、はち切れんばかりの半球の、柔らかな胸に顔をうずめる。白い肌。どこまでも果てしもなくつらなる、蜜をたたえて輝く、すき通る藍色の湖面。投げられた小石の地点から、ときをかけ、ゆっくりと波紋がひろがる。また、べつのところから、あらたな、柔らかい波の文様がつくられる。小石の投げられる、場所に応じて。ときに答えて。つよさにしたがって。いくつもの、さまざまなうねりが起こっては、波動がうまれ、高まりと弱まりを無限にくりかえし、反復しながらかさなり、岸辺にうちよせてはひいていく。そして、ひいてはまたよせる。波跡がのこり、波音が木霊して、川藻の匂いに満たされる。狂おしくくびれた、ほそい胴。やがて、つながるまるい部分。しっとりと湿って、はじけてしまいそうだ。古代より、はるかにつづく光る砂丘か。なめらかにひろがり、そっと吹く風が肌理のこまかい縞の文様をつくりだす。オアシスは、ちかい。天を目指し、起きあがったその先。しびれる感覚が、全身を支配する。部屋のすみにある銀製の蒸し器からゆらゆらと、阿片の煙がたちのぼり、中心へとむかって棚引いていく。身体は、感覚だけになり、理性から遠く離れ、喘ぎが聞こえてくる。白いシーツが、めくれて撚れて襞に変わって、かさなっていく。あくまでまるく、緩やかに折れまがりつらなり、柔らかい折り目になってすこしずつ力がぬけ、つみかさなっている。はなさない、なにがあっても。幾重にもかさなる、襞。ひだ。襞。この舌も、はずむ感触も、押された魂の刻印。光があふれる、もうなにもみえない。脳髄は麻薬で満たされ、スパークし、閃光が噴出する。「ローラ」が、世界のすみずみにまでいきわたり、そして、目くるめく輝きのなかから、あらわれのは、ブロンド。白い肌、充分に湿ってすべる、潤った豊かなもの。その、すべてがひとつになった人。 ただただ、幸せな「恍惚のとき」がながれていく。  翌日は、約束通り国立博物館にいった。ビムセンタワー、ダルバール広場、スワヤンブナート寺院、ボダナート寺院。毎日が、夢のなかですぎていく。  一〇〇〇年が一日とおなじながさで、くりかえされるぐあいに。  ローラはカトマンズでうまれ、一〇歳をすぎるころまでこの街に住んでいた。土地勘があり、洒落た店を数多く知っていた。レストランやバーもよく覚えていたし、知りあいもいっぱいいるみたいだった。  この世でえられる、あらゆるものに満たされていた。  いつでも「全力」で輝くのが、生きているということで、「余力」をのこす必要も必然もないと思われた。  裕明は、肝炎にならないとほんとうに分かったみたいで、つぎの旅を考えていた。  茂とは、この辺でお別れだが、仕方がない。またどこかで会ったら、カトマンズの話をいっしょにできるだろう。茂がいるかぎり、オピウムやキノコを忘れられないだろうし、この地は思い出ぶかい土地になった。ホテルの親父さんは、いい人だったし、ネパーリのよさもよく分かった。 「もう一度、インドへもどるか」と裕明は思った。  ネパールは、日本にいるのとおなじだ。もう一度、厳しくきたえなおしてみたい。馬鹿なことは、これでやめにしよう。  そんな、ころだった。退院して、一〇日がすぎていた。裕明も茂も、独自の路線をいっていた。天候は晴れがつづいて、空はいつでも青く清々しかった。しかし、時間は確実にながれていた。茂には、そんなことさえ、だいたいも分からなかった。これは、悪いパターンだった。  朝の一〇時ころだった。レストランで朝食が終わり、今日の予定をローラの部屋の応接室で、ソファーにすわって考えていた。そのときとつぜん足音がして、扉がノックされた。茂が、裕明だとばかり思って戸をあけると、そこには六〇歳くらいの背広をきた紳士と、品のいい素敵な女性が立っていた。それが、彼女の両親だった。 「ローラ」  茂が、寝室の窓からカトマンズのあかるい街並みをながめていた彼女に大きな声をかけると、けげんな表情で応接室にやってきて、扉のまえのふたりをみた。 「パパ、ママ」  ローラは、大きく叫ぶと父親に飛びつき、母親と抱擁した。彼女の瞳からあふれでた涙が、頬をつたってぼろぼろとこぼれ落ちた。 「仕方がなかったのよ。パパ、ママ、ごめんなさい。愛のない生活なんて、私にはできない。無理なのよ」  ローラは、切れ切れにいうと、またぼろぼろと涙が頬をつたった。 「紹介させて、パパ、ママ。こちらが、茂よ。私は、彼と結婚するわ」 「ローラ」と母親はいった。 「かわいそうなことをさせたわ。あなたの決断を、私たちがとやかくいうつもりはないのよ。大丈夫よ、安心しなさい」  母親は、涕泣し、もう一度彼女をつよくだきしめながら答えた。  その言葉に、ローラはまたぼろぼろと涙をながしながら、「お母さん、心配をかけて、ごめんなさいね」と途切れとぎれにいった。 「茂さんね。娘が、お世話になったわね。私は、ジルヴィア。ローラの母です。こちらが夫のフリードリヒです」  ハンカチで目頭を押さえながら、ジルヴィアはいった。彼女は、ローラとおなじに髪をみじかくカットし、気品があり美しかった。年齢は、五〇歳代にみえた。となりには、父親のフリードリヒがいた。彼は、背広をきて山高帽子をかぶっていた。かなり太った貫禄も充分な紳士で、ボーラーハットをとると、てっぺんが禿げていた。  三人で話しあいたいことがあったらしく、お声がかかるまで、裕明の一室にいった。もともとは茂の部屋で、いまでもそうだが、彼はすっかり旅支度をしていた。 「これから、インドにもどる」  裕明は、いった。 「チケットは、買ったのか」  バスはこりごりしていたから、とうぜん、飛ぶつもりだろう。 「チケットはまだだ。これから空港にいく」 「そうか」  茂は裕明をじっとみて、押し殺したひくい声でいった。 「なにが、あったんだ」 「ローラの両親がきた。彼女は、オーストリアで結婚することになっていたが、相手が嫌いで、ここまで逃げてきたらしい」  茂は、考えながらいった。 「よくあるパターンだ。茂、逃げるといっても、はんぱでないところまできているな」 「ローラは、カトマンズにくわしすぎる。いっしょにいると、子供のころの話がでてくる。カトマンズでうまれたみたいだし、一〇歳をすぎるまで住んでいたみたいだ。ローラの部屋で、曼荼羅をみただろう。彼女は、仏教につよい興味をもっている。両親は、ふたりとも仏教徒らしい。カトマンズにやってきて二〇年間くらい生活し、そのあいだに改宗したのだと思う。だから、今回の逃避行についての情報は逐次、両親にながされていたみたいだ。おれとこうした事態になって、ご両親が登場したらしい。だいたいも分からない、これは悪いパターンだったよな」と茂は聞いた。 「例外はある。それにだ。茂は、今回、運を味方にしている。まず、ローラと出会って恋に落ちた。そのうえ、同情できる事件があった。共感は、愛の促進剤だ。茂、こうなったんだ。国際結婚しろ。オーストリアへいけ。親父の事業をつげ。そうしたら、たまには遊びにいってやる。ウィーンは、素晴らしい街だ、住めばどこも都だ。歴史も、面白いところも数々ある。あの街の名所は、」  裕明は、話しはじめた。  茂は、彼の話をさえぎった。 「そんな話題は、いま聞きたくない。ローラは、一人娘らしい。両親はオーストリアの名門で、たいへんな金持ちらしい。ハプスブルグ家とも姻戚関係があるって、ローラはなにかの折、話していた気がする。苗字だって凄い名前だ。バルデンシュタインとか、舌をかみそうだ」 「両親は、反対なのか」 「分からないが、お母さんは好意的に思えた。お父さんのほうは、だいぶ距離をおいてみられている気がした」 「結婚しろ。愛しているのだろう」 「もちろんだ。結婚したい」 「問題は、なにもないじゃないか」 「ご両親がどういおうと、ローラとは結婚したいと思ってきた。いやな予感がする」 「ご両親が、金持ちで元気。ローラが一人娘で、その愛娘がおまえにぞっこんなんだ。ハプスブルグか。神聖ローマ帝国だ。バルデンシュタインは、帝国の宰相の家系だ。皇帝とも、姻戚関係をもっていたに違いない。ローラは、帝国の王女だ。凄いじゃないか。なにが、問題があるんだ。茂、これ以上は贅沢で、神さまにだって、ここまでは望めないはずだぞ」  裕明は、いった。 「年貢の納めどきなんだ。親父さんは、動転しているのだろう。とうぜんだ。とつぜん違う民族があらわれて、娘をさらっていくわけだからな。すぐにはいい言葉ばかり、でてはこないさ」 「家柄がよすぎる」 「けっこうじゃないか。いいにこしたことは、ないだろう。やあ、ほんとうによかったなあ」  裕明は、茂をみて笑いながらいった。 「ひとりでは、暮らせまい。父親が了承したとしても、親族がいる。金持ちばかりだ。一族が立派すぎる。おれがもとめているのはローラで、周辺ではない」  茂は、考えながらいった。 「愛しているなら、仕方がない。そのくらいは、大目にみてやらなけりゃ、かわいそうじゃないか。家柄がいいのは、ローラのせいじゃない。ちょっとは目をつむって誠実にしていりゃ、そのうちみんなが一族としてみとめてくれるさ。そんなものだ。国際結婚というのは、文化が違うもの同士が、愛の力一筋で、世間常識一般を強引に捻じまげようとする企てだからな。その程度の摩擦は、とうぜん覚悟するべきだし、若干の軋轢があったほうが、どちらかというと茂の得意な領域じゃないのか。困難をのりこえてこそ、人に感動をあたえることができる。だから、愛は永遠に小説の主題になるし、映画がつくられるのだ」  裕明は、自信をもっていった。  茂は背広をきて、カトマンズ一の高級ホテルにいた。レストランには、正装していないと入れてもらえなかった。別室につれていかれ、身体にあったのをきせられ、フランス料理のコースを食べた。テーブルをかこんでいたのは、ローラとご両親、それに茂の四人だった。 「君は、法律家になるそうだな」  フリードリヒがいった。 「なれれば、ですが」  茂は、答えた。 「ドイツ語は、分かりますか」  ジルヴィアが聞いた。 「はい、二年間、習いました。でも、知っているのは、アイン、ツヴァイ、ドライだけです」 「何年生なのかね」とフリードリヒが聞いた。 「大学院は、卒業しました。日本の制度では、国家試験を通らなければ、司法職にはなれないのです。試験はたいへんむずかしくて、いまは浪人中です」 「国家試験は、幾度、うけられるのだね」 「何度でも、可能です。しかし、うけた回数によって、合格が決められるわけではありません」  フリードリヒは、茂の経歴や父親の仕事とか家系の話を聞いた。そのうち、方向がみえてきた。 「オーストリアでロースクールにいき、資格をとり、国際弁護士になったらどうか」  これがお母様、ジルヴィアの提案で、ローラと結婚してもいいとのことだ。 「チャンスかも知れない。とても素晴らしい話ではないか。ご両親もお許しで、家族の一員にしてもいいといっているのだ」  茂は、このときはじめて思った。 「法律を勉強していてよかった。いままでいいことなんて、なにもなかった。ついてきたのだろうか。あれは、やはり運だったのだ。ローラとの、出会いの場面が浮かんだ。絵になるワンカットで、そう滅多にでてくるものではなかった。年貢の納めどきなのだ。そういつまでもひとりではいられないし、ローラとふたりで暮らせるなら、南極でもかまわない。一族がどうであれ、多少の我慢は可能だろう。たぶん、きっとできる。頑張ってみよう。自信はないが、やらねばならないこともある。いつも、そうだった。そうして、やってきたのだ」  そう思いながらフリードリヒをみると、眉間に皺がよって、いかにも不満がありそうにみえた。 「お父さま、いいでしょう。そうだといってよ」  ローラは、真剣に話しかけた。しかし、父親は、だまってコースを食べ、ワインを飲んでいた。  翌朝、一〇時ころにホテルに電話があり、フリードリヒの部屋まで会いにこいとつげられた。茂は、悪い予感がしていた。食事のときの、不機嫌そうなフリードリヒの表情が目に浮かんだ。 「とつぜん自分の考えと違った民族が、最愛の一人娘をうばっていくのだ。耐えねばならないことだ。なにをいわれても、絶対に我慢しよう。結婚できればいい。どこがどう間違っても、フリードリヒといっしょになるわけではない。相手は、最高の伴侶、ローラなのだ」と茂は固く心に誓った。  部屋には、フリードリヒと、ジルヴィアがいた。 「君には、未来がある。法律家になれば、人の役に立つことができる。おなじ民族と、よく分かりあって結婚したほうがいい」  フリードリヒは、静かにいった。  どう考えてみても、否定の言葉だった。茂は、目をつむった。 「考えてみれば、うまくいきすぎていた。夢みたいな場面が連続して起こり、心地よくつづいてきた。いつかは、覚めていくはずだ。これは現実で、そのうえ、たぶん最悪だ」  なんだか分からないまま、フリードリヒを上目つかいにみると、真剣な表情で茂をみつめていた。 「なにが、問題なのでしょうか」  彼は、たずねた。 「難点は、数多くある。第一に、娘は、家柄のよい裕福な者と結婚させたい。聞いただろうが、そうした手はずはととのっていた。娘を気ままに育てすぎた。一人娘だったからね、あの子の笑顔のためには、あらゆることを我慢したのだ」とフリードリヒはいった。  沈黙が支配した。空気は凍っていて、身も心も完全に南極にいた。最悪なことには、茂はひとりだった。そばには、だれもいなかった。 「私は、ものをもっていないから、資格がないということなのでしょうか」  茂は、沈黙のあとで聞いた。 「そうだ。どこの馬の骨とも知れない者と、私の最愛の娘を結婚させるわけにはいかない。この老人から、ローラをうばわないでもらいたい。私の、たったひとつの望みなのだ。孫の顔がみたい。娘の子供といっしょに暮らしたい。それが、たったひとつの希望なのだ」  茂は、フリードリヒをみつめた。右にはジルヴィアが椅子に腰かけ、彼女はうなだれた姿で、両の手で肘掛けを力いっぱいつかんでいた。 「いまの私は、名誉も地位もお金も、およそあなたにあるものは、なにも所有していません。その代わりに、純真さや情熱をもっています」  考えながら、茂はいった。 「私は、名門の出身ではありません。敗戦の混乱のなかで、私たち兄弟三人に、大学へいくことを許可し、援助をしてくれた両親を誇りに思っても、家柄がない事実で、卑下する気持ちは、ひとつもありません。私は、父を尊敬しています」  茂は、とつとつとつづけた。 「それは、茂君の問題だ。君の考えを、変えるつもりはない。現実にバルデンシュタインの家は名門であり、私は父からうけつぎ、つぎの世代にうけわたしていかねばならない。分かってもらいたい。これが、私の使命なのだ。たったひとつの、義務なのだ。この家柄をささえるという責務を、妻は理解していないのだ」  また、沈黙が支配する時間が静かにながれていった。 「ローラとは、結婚したいと思います。なぜなら、あなたのいう家柄とか、歴史的な使命とか」  茂は、生唾を飲みこんだ。かすれて声がでなかった。そして、つづけた。 「そうしたものよりも、カトマンズで出会った現実のほうが、私には、ずっと意義のあることに思えるからです」 「金なら、欲しい額をいいなさい。いま、ここでサインしよう」  フリードリヒは、つげた。 「えっ」  茂は、言葉をうしなった。  フリードリヒの発言に、話しあっているカトマンズから、とつぜんタクラマカンの沙漠のなかに、ほっぽりだされたと感じた。よくみると、自分は南極にいた。フリードリヒは北極だった。このふたつの場所は、天と地以上に離れていた。なぜなら、天空と地上には地平線があり、たとえどんなに遊離していても、両者はどこかで接する地点が存在する。北極と南極では、たがいに出会うこともできない。完全に裏がわで、触れあう地点がどこにもなかった。 「そうしたお考えが、思わずでた言葉ではなく、本心からとするならば、あなたを軽蔑します。若い私が、純粋さと情熱以外のなにも所有していない事実こそが、自然で価値のあることだと思います。もし、それらをもっていると考えるなら、それは自分のものだと勘違いしただけです。私は、健康でローラを幸せにすることができます。彼女も、それを望んでいます」  茂は、そういうと、大きく息をすいこんだ。 「ローラが、私をすてることも望んでいると思うのかね。一人娘で気ままに育った。わがままで、お金のない生活を知らない。愛は美しいが、それだけでは暮らせない。ちょうど、ヒマラヤは神聖な場所だが、神に触れたいなどと思ってそこにのぼれば、死しか存在していない現実をみるのとおなじだ」  フリードリヒは、いった。 「人種を、差別するつもりはない。私は、純粋なゲルマン民族だが、妻はユダヤの血をうけついでいる。さまざまな問題がうまれ、ここで暮らした時代があった。ネパールは、いいところだと思った。ローラは、この地でうまれ、私たち夫婦は仏教に改宗した。ここの生活を、妻は気にいっていると信じた。しかし、アルプスのほうが、ヒマラヤより美しい。これは、感性の問題で、やむをえないことだ。東洋人を差別するつもりはない。しかし、日本人は嫌いなのだ。これは、仕方がないことのひとつだ。娘は、家柄がよく裕福な者と結婚させたい。すべてが揃った人がいないとしたら、金持ちでなくともいいし、家系がどうでもかまわない。それであっても、日本人とだけは結婚させたくないのだ」  フリードリヒは、つよい語調でいった。  ジルヴィアは、ずっとだまって、唇をかみしめていた。にぎりしめる肘掛けが震えているのがみえた。 「ローラとは、もう会わないでもらいたい」  フリードリヒは、いった。 「このままでは、別れられません」  茂は首を振りながら、ひくい声で答えた。 「会えば、別れの話しあいができるのか」 「無理だと思いますが、相談は可能です」 「別れる論議ができるのか」 「ローラの意思を、確認することが最初です。気持ちが変わり、どうしても別れたいというのなら、考えなければならないでしょう」 「その相談は、無意味だ」 「ローラをしばりつけておくことは、できないでしょう。彼女には、人格があります。基本的な、人間としての尊厳だと思います」  茂は、力強くいって両手をひろげた。 「ローラは、まだ子供でなにが必要なのか分かっていないだけだ。そうした心の隙間に、君があらわれただけだ。これは、時間が解決する問題だ」  フリードリヒはいい、それからジルヴィアにむかって、 「そうだね」といった。  母親は、だまって唇をかみしめていた。  ストーン・ロッジに帰ってローラの部屋をたずねてみると、もう彼女はいなかった。曼荼羅がベッドルームに寂しげに飾ってあった。ホテルのマスターに、ローラがいつ去ったのか聞くと、 「昨日は、帰ってこなかった。今朝、使用人がきて、荷物をはこんでいった。そのとき部屋代の清算もしたから、もう、もどってこないのではないか。おまえは、いっしょではなかったのか」と茂に聞いた。 「みんなで食事をしたが、どういうことなのだろう」  茂は、頭をかかえこんで、なにがなんだか分からないという表情で答えた。 「フリードリヒが、許さないといったのだな」 「なぜ、彼を知っているのか」 「フリードリヒとは、ふるいつきあいだ。おまえの、せいじゃない。これは、仕方のないことだ」 「なにが、どうして」 「民族が違う、ということだ。おまえが悪いのではない。さけられないことなのだ」とマスターは答えた。 夕方、ホテルの屋上から、ぼんやりとあてもなく、秋の気配が漂うカトマンズの街をながめていた。空気は爽やかだったが、冷えびえとし、穏やかに吹く風も、確実に北の匂いをはこんでいた。空も大気も、いっそうすみ切り、どこまでも青く、果てなくつらなる山々の木々のひとつひとつまでもがみえるように思った。その先には、もう人が踏みこむこともできない、凍てつく万年雪のヒマラヤが屹立としてそびえ立っていた。そうした冷たい風にあたりながら、ぼうっとたたずんでいると、背後にマスターがやってきた。 「ローラのお袋さんが、話をしたいといっている。おまえのところは、せますぎる。彼女がいた部屋があいているから、そこで待ってもらっている」  茂がついていくと、マスターは本館の奥までいき扉をたたいた。 「どうぞ」という綺麗なローラに似た高い声がして、ドアをあけるとジルヴィアが応接室のソファーに腰をおろしていた。  彼女は、シックな茶系のスーツをきて、髪はみじかくブロンドで、目鼻立ちのととのったスリムな素敵な女性だった。ジルヴィアの美貌を、ローラはうけついだわけだった。  茂は応接室の椅子に、彼女とむきあって腰をおろした。  マスターが、「飲み物はいりますか」とジルヴィアに聞いた。 「バスネット。熱い紅茶を」  彼女は、答えた。  マスターは、ドアをしめて部屋を去った。  ジルヴィアは、どう話を切りだすか、かなり思案していたが、不意に立ちあがり、となりのベッドルームへと歩いた。彼女は、その部屋の壁をみて立ちどまった。そこには、曼荼羅の絵がかけられていた。  この金剛界曼荼羅を、ジルヴィアはよく覚えていた。きっと胎蔵界曼荼羅は、ホテルの主人、バスネットの寝室にでもあるのだろう。ローラが、この部屋で、ひとりでひと月をすごしたことを思うと、ジルヴィアの胸ははりさけるばかりだった。三〇〇〇の仏があつまる、曼荼羅があらわす世界は、とうとうとしたひとつのドラマをつくっていた。  ジルヴィアは、シングルのベッドのすみに腰をおろした。部屋には、もうひとつ寝台がおかれていた。大きなダブルベッド。彼女は思わず両手を口のまえであわせ、息をとめた。胸がくるしくなり、心臓の音が聞こえてくる。立ちあがり、今度はその寝台にそっと腰をおろすと、柔らかい反発を感じた。触れてみる。自然となつかしさが滲み、あふれ、つたわってくる。端のシーツをそっとめくってみると、あらわれたスプリングを覆う厚い布。黒糸はすり切れ、痩せ、あわくなっている、色褪せた黒い縞の模様。 「そんな馬鹿な」  寝台のシーツをめくっていく。足元にはない。まわって、めくっていく。枕がわの中央にまるい印をみつける。そこに、かすれたほそい糸がのこっている。  MADE IN BUXORO   まぎれもないもの。思い出の地、ソグディアナ。河がながれている。広大なステップをぬけて、海と沙漠。南風。むかって立つとコートがふくらんで、風にだかれて。街のあかり。心が震え、脳裏が真っ白になる。 「このベッドでローラがひと月をすごし、このうえで、ふたりが愛をつむいだなんて。どんな因縁が、ここに導いたのか」  ジルヴィアの胸は、つぶれかけていた。息を吐くのも、すうのもできなくなって、思い出がくるしくのしかかり、めまいがした。 「三〇年にわたる歳月は、いったい、どこにむかい、どんなながれだったのだろうか」  ジルヴィアは、立ちあがり部屋から秋の風情をながめた。なにも変わらないカトマンズの大気は、芳しい神聖な香りに満ちていた。清々しい秋の柔らかい風が、窓を撫でながら通りすぎるのがみえる。外は美しい夕暮れとき。すみ切った高い空が、オレンジ色に変わりはじめる。立ちならぶまわりのホテルの窓に、ぽつぽつとあかりがともされ、しだいに増えていく。あふれた光は、石づくりの建物のあいだを走る石の道を照らしている。そこには、さまざまな国の人たちが、思い思いの格好をして行き交っている。ジルヴィアは、茂のいる応接室にもどってくると、今度はその窓から、また街並みをだまってながめた。そうしているうちに、ドアがノックされ、バスネットが紅茶をはこんできた。 「ありがとう」  ジルヴィアは、いった。 「おなつかしいことです」とバスネットは答え、 「あかるくしたほうがいいですか」と聞いた。 「そうね」  ジルヴィアが答えると、バスネットは部屋の電気をつけた。 「ありがとう。すべてが、なつかしいわね。昨日のことみたいだわ。バスネット、あなたも、ちっとも変わっていないわ」  ジルヴィアがいうと、 「年を、とりました。奥さまだけですよ。変わらず、お美しいのは。ミス・ローラは、若いころのあなたに、そっくりです」  バスネットはそういい、部屋をあとにした。  マスターがでていくと、ジルヴィアは茂にむきあってソファーにすわった。ほどなくして意を決し、彼をみつめて、一語ずつかみしめ、ゆっくりと話しはじめた。 「カトマンズは、愛がひらく街ね。美しいものにあふれ、神聖なヒマラヤのもとで、敬虔な人びとが住んでいる。爽やかで清々しい空気に満たされ、かたくなにとじられた魂が癒やされる。春になると自然に花がさくように、この街の大気に触れただけで心がひらいていく。あなたとローラのあいだに、愛が芽生えたとしても、なんの不思議もないところだわ。カトマンズは、昔からそうした街だったわ。こぼれ落ちるほどの、素敵な出来事がいつも身近にあって、神々の住む山とおなじ大気に満たされ、無意味な慣習やふるぼけた秩序から心を解放してくれる。そんな街だったわ。でもそれは、カトマンズという場所でしか、起こらないことなのよ。なぜなら、この山にかこまれ一〇〇万の人びとが暮らす盆地は、街がつくられたときからずっと、八人の女神さまにまもられているのよ。ちょうど寝室に飾られた、九つに分かれた曼荼羅とおなじ。結界をつくり、八方を守護する女神さまの真ん中には、それは綺麗な、優しいお姫さまが暮らしているのよ。この街ならどこへいっても、ちかくに女神がいて祝福してくれる。そんな場所は、世界中にカトマンズしかない。なにがほんとうで、どれが間違っているのか、この街はすべてを忘れさせてしまう。あなたとローラは、お似あいのふたりだと思うのよ。ほんとうに、素晴らしいカップルだわ。うらやましいほどに」  ジルヴィアは、すき通るブルーの瞳で茂をみつめた。それから不意に、右の手首に嵌めていた、金のブレスレットをはずすといった。 「どんなものでも、変わっていく。ときは、無慈悲にすべてを押しながしてしまう。たとえばこの腕輪、純金でできたブレスレット。磨けば、いつも輝くけれども、でも、そのためには、一部が必ず削りとられる。これは、だれにもとめることができないもので、ながい年月のあとでは、純金の腕輪でさえもすりへり、なくなってしまう。そうでは、ないのかしら」  ジルヴィアは、茂をみつめて押し殺した声でいった。 「ぼくのローラへの思いは、そうした月日をこえています」  彼は、彼女の視線から目をそらし、両手で額をかかえていった。 「将来は、分かりません。すべてを、約束することはできないでしょうし、そうした誓いを、羊皮紙に血をもってかいたとしても、意味がないでしょう。将来は分からないから、だからこそ、現在を大事にあつかわねばならないと思います。いまのローラへの気持ちを、大切にしたいと考えています」  茂は、ゆっくりといった。 ジルヴィアは、その言葉に大きくうなずいた。 「この金の腕輪は、フリードリヒが私にくれた。こうして文字をきざんで」  ジルヴィアは、ブレスレットの内がわに印字された部分を茂にみせた。そこにはドイツ語で、「 alle in Liebe, zu Silvia 」とかかれていた。 「こうした文字も毎日つけていれば、それだけで、こすれて消滅していく。愛も、命も、どんなものも、消えてしまうのよ。茂さん、許してください。これは、みんな私のせいなのです。あなたがたふたりが幸せになれない理由は、自分なのです」  ジルヴィアの瞳から、涙が止め処もなくあふれだした。 「ごめんなさい。謝っても、許してもらえない。謝罪してすむことではないのよ。分かっているの。でも、お願い謝らせて。どうか、フリードリヒを許してやって。あの人は、傷ついているのよ」  ジルヴィアは、泣きつづけていた。もうそれは、会話ではなかった。なんだか違う状況で、だいたいも分からないことだった。  四、チャイニーズ・ボーダー 「北にきたのだから、とことんすすんでみるか」  何日かすぎて、裕明は話してくれた。 「チベットにいこう」と彼はいった。  それで、カトマンズでパンを買って、またバスにのった。朝たった路線バスは、ぼろくて、終着駅はバラビセだった。バスは終わりで、そこに一泊した。シェルパの村だった。なにもなかったし、なにをみても気分が晴れなかった。平屋の木造だったと思うが、宿らしいところに泊まった。部屋では、なかった気がする。ながい廊下で、部落の者たちと雑魚寝したように思う。よく覚えていないが、裕明のいう通りにした。バラビセの宿でも、パンを焼いていた。まるくて大きなシホンケーキみたいなもので、食べたが、もの凄くまずくて、あとは寝ただけだった。  つぎの日の朝、国境の村、タトパニにむかった。中型のバンがでて、それにのれば二時間、約三〇キロとのことだった。朝は寒いくらいで、車代はひとり三〇ルピーだった。茂がのりこもうとした、そのときだった。 「脚は、二本ある。なぜだか、分かるか」 裕明が、とつぜん聞いた。 「考えたこともない」 「一本じゃ、歩けないからだ」 「それ、もしかして歩こうって話か」 「そういうことに、なるかな」  裕明は、両の手を胸のあたりでくんで、特別な考えがあるという雰囲気で、首をかしげて呟いた。  それで、歩きはじめたわけだった。天気は、快晴だった。この時期の天候は、山はともかく平地では、いつも安定していた。  発想は、新鮮だった。なにせ三〇キロで、バンでも二時間以上はかかる。それも、平地ではなくバスも通れない山道で、朝の九時ころだったから時速四キロでいけば、八時間あれば到着できるかも知れなかった。しかし、順調にいってもついたら夕方の五時で、夜のほうにちかい。ネパーリは人情があるから六時になっても泊めてはくれるだろうが、あきらかに無謀な提案に思えた。とはいえ、歩くという発想は、茂には思いもつかなかったことで新鮮だった。午前中は、それでもよかった。可能性は、のこっていそうにみえた。午後になると、裕明の発想が「ただ、目新しかっただけ」だと、はっきりしてきた。  天気は、よかった。歩いていたのは、ちょうどポカラからカトマンズにむかったバスのときとおなじ、山の一面を削った石ころだらけの道だった。山がわも、谷をこえたむかいがわも、みわたすかぎりのふかい森にかこまれ、静かだった。どちらかといえば、のどかすぎた。ほんとうのところは、だれもいない。それは、悲しいほどだった。山がわには高い木々が密生し、沢があり水がながれていた。水筒ひとつもっていないふたりは、喉の渇きをそこで潤した。沢水はすくってみると、きらきらと光って輝いていた。人が触れることもできない奥ぶかい氷河からながれでた水は、冷たく清らかで、眩めいていて、思わず見蕩れてしまうほどだった。それは、神さまが住んでいるちかくを、ながれてきたからではなかった。雲母がまじっているからで、これが身体に悪いという話はずいぶん聞いた。インドの水は、煮沸すれば飲める。ネパールのばあいは、さらに濾過しないと飲んではいけないといわれていた。この水が、肝炎の原因のひとつだと。雲母は、日の光にあたり、きらきらと輝いていた。仕方がないので飲んだ。だんだん選択肢がへってくる悪いパターンで、そのうえ問題なのは、歩いていても、なんの指標もみえないことだった。普通は万国共通の道路標識があって、あと何キロとかでてくるが、そんな洒落たものはない。自分がどの辺にいるのか、さっぱり分からなかった。 「どこまで歩けば、いいんだ」と茂は聞いた。 「そんなもん、つくまでに決まっているだろう」  裕明は、答えた。  はっきりいって、答えになっていなかった。でたとこ勝負で、一種の賭けみたいなものだった。なんで、こうなるのだ。たしかに、裕明の発想にはときどき驚く。しかし、ただ意外なだけだけだった。振りかえってもう一度、じっくり考えてみると、ぜんぜん合理性がなかった。これで世界中を歩いてきたのかと思うと、立派だ。尊敬してもいい。どこから考えても不安で、安心感がない。  裕明は、答えをもっていないと茂は思った。  彼は、思いついたまま行動するだけなのだ。考えるなんて、思ったこともないのだ。まえから、そうだった気がする。裕明の考えている姿。あれだ。ぼうっと空をみあげる、本人が考えているという、あの風情。事実は、ただ立ちどまっているだけだ。みんなが、あれに惑わされる。あの経験豊かな、ストーン・ロッジのネパーリさえも、だまされたのだ。おれが勘違いしたのも、仕方がないことだった。今日は、それさえみえない。きっと、犬や猫より始末が悪いのだ。じっと人の目をみて話し、即座に行動にうつるから、傍目には、よっぽど自信がありそうにみえる。そのうえ、よく考えてみると、裕明の話には疑問詞がつかないことが多い。たぶんとか、きっととか、おそらくとか、そういう言葉を、ほとんど聞いた覚えがなかった。かも知れないとか、むずかしそうだとか、判断を、留保なんてしないのだ。そう思って、いままでのことをよく振りかえってみると、裕明の言葉には、「分かるか」、「わからないか」のどちらかしかなく、それもどちらも、だいたいの話だった。彼の行動は、なんの根拠もないのだ。あいつについていくと、反省だけがのこるわけだ。  茂は、完全に後悔していた。 「なあ、車が通ったらのせてもらおうぜ」と彼はいった。 「もう、ちょっとだ」  裕明は、力強くいった。  その調子を聞くと、「もう、ちょっと」という確信があるに違いない。普通は、そう思う。それで歩くわけだった。  午後の一時ころだった。 「車が通ったら、のせてもらおうぜ」  茂は、もう一度いってみた。四時間、ほとんど休みなく歩いてきた。天気はよかったが、山道で時速四キロがせいぜいで、それだって怪しいものだった。時速、三キロかも知れなかった。 「もう、ちょっとだ」とまたいった。 「裕明。もうすこしだって、なんで分かるんだ」  茂は、聞いてみた。  その言葉で、裕明は立ちどまった。 「やっぱり、だめか」  真っ青な空をみあげて、彼は呟いた。 「あと何時間、歩けばいいんだ」 「茂。車が通ったらって。さっきから話しているよな」  裕明は、茂をじっとみつめていった。 「車なんて、通っていないじゃないか。朝でたバンは、一二時ころ、バラビセにもどっていったよな」  そうだった。タトパニで、乗客をおろしたのだろう。帰りも人がのっていて、そこからの客をのせたのだろう。 「それから、一台も通っていないじゃないか。茂。車もこないのに、どうやってのったらいいんだ」  裕明は、逆につよい語調になって質問した。  茂は、この発言に、奇妙な違和感を覚えた。話からすると、あきらかに無謀なタトパニへのトレッキングを選択したのが、まるで彼だという感じだった。 「おれが、なにも考えずに歩いていると思ったのだろう」  裕明は、聞いた。 「そう感じていた」  茂は、答えた。 「なにかを、考えていたのか」 「当たり前だ。ずっと、考えながら歩いていた」  裕明は、胸をはった。髪を両手でかき分けてから両腕をくみ、自分の判断に納得しているという風情で、うなずきながらいった。 「もどるべきか、どうかだ。最悪のパターンだ。半分まで、歩いてしまった。もう、どっちへいってもおなじだ」 「夜は、冷えるのじゃないのか」 「大丈夫だ。計算では、八時間あればつく」 「ペースが時速、四キロという根拠がない」 「それじゃ、時速三キロとして、もどったほうがいいと思うか」  裕明は、問いなおした。 「聞かなければ、よかった」  茂は、心から感じた。 「それじゃ、だいたいも分からないってことか」 「悪いパターンだ」  裕明は、うなずきながらいった。  ここで、はじめて意見があった。また、沢水がながれる場所にでた。雲母がきらきらと輝くのを確認して、ふたりはその水を飲んだ。 「一〇分でいい。とまって、考えてみよう」 「おなじことだ。もう、いくしかない。自動車が通ったら、のせてもらおう。でも、車がくる保証はない。バンの連中は、おれたちをみていた。だから、タトパニにむかって歩く奴がいるのは知っている。それでも、なにもいわなかった。充分につけると考えているからだ。最悪でも、連絡だけはとってくれるに違いない」  しっかりとした口調で、茂の瞳をじっとみつめながら、裕明は確信をもって、くりかえしうなずきながらいった。  一見、正解だ。裕明から瞳をみつめられ、じっくりと膝をつめていわれると、相当の根拠をもつように聞こえる。冷静に周囲をもう一度みまわしてみると、実際には、電柱なんかどこにあるのだ。電話なんかありえない。無線は、あるのかも知れないが、あくまで希望的な観測で、なんの確証もない。ほんとうのところは、すべて運まかせって奴だった。ここまでついてきてしまったのだから、仕方がないと茂は思った。それから、また歩いた。不安だが帰ることもできないし、標識なんてなにもない。自分がどこにいるのか、分からないが、方向が不明という道ではない。どちらかというと、迷うこともできないくらいで、歩けそうな場所はない。いっそ別れ道にでもでれば標識があって、どこにいるのか分かるのだろう。それが普通だが、道は一本でみえるかぎりつづいている。二時になったがなんにも変わらず、事態は好転していない。  二時半ころだった。遠くから音がした。トラックだ。タトパニへむかっている車の音だった。トラックはやってくると、ふたりのまえでとまった。そうせざるを、えなかった。道の真ん中に、ふたりが手を大きくひろげて立っていたのだから。一時間でタトパニについて、一〇ルピーずつ払った。  そこで、たったひとつの宿に泊まることになった。木造の三階だてで、三階はやや天井がひくかった。ここでネパールは終わりで、先はチベットだった。  女主人が、ひと通り宿を案内してくれた。紹介してもらった部屋は、三階の二段ベッドで、裕明が上段で茂が下段だった。女主人は、風呂をすすめた。それで、裕明と茂は、さらに道をのぼっていった。眼下に河がながれ、温泉が湧きでていた。ふたりがさらにのぼっていくと、国境にでた。道の最後は、終わっていた。木が生いしげり、果てしない森につらなっていた。ポテクシ河がながれ、ネパールとチベットに分けていた。ふたつの国を分割するのはふかい谷で、車が一台通れるくらいの橋梁がかかっていた。反対がわまでは三〇メートルくらいの距離があり、橋の終わりにふたりの兵士が銃をもって立っていた。脇には金属性の高いポールがおかれ、いちばんうえには、レッド・チャイナの大きな紅い旗が風ではためくのがみえた。  チベットは、ウ・ツァン、アムド、カム、の三つの地域から構成されている。一九〇八年、清は、宗主権をもつと主張して武力侵略し、ラサを占領した。このとき、ダライラマはインドに亡命した。一九一二年の清朝滅亡をうけて、チベットは域内の中国人を追放し、一九一三年二月一四日、独立を宣言した。  チベット仏教は、小乗、大乗につぐ第三の仏教の伝播で、元朝でも満州から起こった清朝でも国教になった。クビライ・カアンは、チベット高僧、パクパにより灌頂をうけて、菩薩王、転輪聖王に任じられ、康熙帝、乾隆帝は敬虔な仏教徒で、文殊菩薩王として東アジア世界に君臨した。さまざまな種族が興亡し、拡大と収縮をくりかえした悠久とした中央ユーラシアの大地で、国家や民族、言語をこえたもっとも中心的な宗教で、多くの文化を育んできた。この広大な地域の、思想の根幹だった。  一九五〇年、中国共産党はチベットに侵攻し、数多くの仏教寺院を破壊した。チベット人口の五分の一、一二〇万ともいわれる一般人と僧侶を虐殺した。ダライラマは、インドに亡命している。  共産主義は理想だが、現実は違う。人間がすることは、いつでもおなじだ。中国共産党は、「クジラの骨盤」だ。茂は、思わず石をひろっていた。 「どうするつもりだ」と裕明が聞いた。 「投げてみる」  茂は、いった。 「あぶないんじゃないのか」 「まさか、撃たないだろう。国際問題になる」 「そういうもんか」  茂が橋のたもとにいくと、兵士はふたりをみつめた。 「大嫌いだ」  茂は大声で叫んで、つかんでいた小石を思い切り投げた。  石は、橋にあたるとコーンという音がしてあきらかに中国領に入り、兵士の足元まで飛んでいった。兵隊は、びっくりして咄嗟に銃口をふたりにむけた。茂は、驚いた。殺してもいい、という指示をうけていた。 「ふせろ」と茂はいった。  ふたりは、道に腹ばいになって、五分くらいそうしていた。兵士は、ずっと銃口をむけていたが、ながい静寂のあとで銃を立てた。若い兵員で、ふたりとも二〇歳そこそこにみえた。  裕明と茂は、一目散に道をくだっていった。  アルカリで、触ると身体がべとべとした。  大きな石がごろごろと、思いつくままに投げだされ、ころがる、まるで賽の河原を思わせる景色をつつみこみながら、ポテクシ河は、ゆったりとした弧を描いてながれていた。河のなかには、いくつかの巨大な岩が無造作にでんでんとおかれ、河川敷によどんだ淵をつくっていた。ながれは削がれ、瀬をわたる「せせらぎ」だけがひびく、ネパールの果てだった。  そこは、神が手をくわえるのを完全に忘れていた、地球ができたころから、そのままにほうっておかれたインド大陸の最果てだった。ひろい河原をはさんだ左がわにあたる高い断崖には、大きなヒルがいっぱいぶらさがっているのがみえた。岩肌を露わにする崖に、ポテクシ河の「せせらぎ」だけが、幾度もくりかえし木霊していた。冷たい河音がひびく淵に、湯が湧きでていた。  とき折り、甲高い鳥のさえずりがとうとつに聞こえる静寂のなかで、ふたりは裸になって河に浸かっていた。みわたすかぎりの果てることも知らない奥ぶかい森にかこまれた世界には、彼らをのぞいて、息をする者はだれもいなかった。   「ひどい旅だったな」  茂は、いった。 「楽な旅はない」  裕明は、答えた。  河に首まで浸かっていた。身体がべとべとして、石鹸をつかおうと思ったが、あわだたず、さらにぬるぬるとしただけだった。  戦後、日本が分割されなかったのはよかった。わが国の人びとが、二手に分かれて争わなくて幸運だった。戦いにやぶれた日本人が、根絶やしにされなくてよかった。アメリカは、世界の警察で、秩序をまもり平和を実践してくれる。しかし、それはアメリカ合衆国に可能で、都合のいい体制であり、平安にすぎない。たくさんの過ちを犯している。それではあっても、アメリカのほうがいい。間違いを指摘することができる。不当なあつかいについては、抗議をする権利をみとめてくれる。  静寂だけが支配する、ふかい森だった。 「せせらぎ」だけが木霊して、ポテクシ河がゆっくりと大きな弧を描きながら、ときを忘れてながれていた。  大自然だった。  そこは、チャイニーズ・ボーダーのちかくで、ポテクシ河はチベット王国からながれていた。    チベットの悲しみを、河はながしつづけているようだった。           チャイニーズ・ボーダー、一一一枚、了