世界は曼荼羅のなかで 由布木 秀 一、海源 夕食がすんで、ぼうっとするにも三階の部屋はせますぎた。ふたりは、広間でぼうぜんとしながら煤けた天井をみていた。 「今日は、特別にもうひとり泊まり客がいる。あなたがたとおなじ日本人だ」と女主人はつげた。 その話を聞くと、「変わっているな」と裕明はいった。 「なんで、そう思うのだい」 「あの道だ。こんなところをトレッキングの拠点にするなんて、ただ者じゃない」 彼は、自信ありげに答えた。 「裕明が変わっているというのだから、そいつは普通からみたら、ほとんど異常者じゃないのか」 茂の発言は、自尊心をかなり傷つけたらしくて、憮然として、いつもよりずっとつよい調子で話しだした。 「人間には、さまざまがいるぞ。おれなんか、かなり普通のレベルだ。いいかよく聞け。オーストラリアをバスで旅したときに、リヤカーをひきながら、あの沙漠を横切る日本人に会ったぞ。あそこの砂漠は、異様にでかい。あの大陸の内部は、アフリカとおなじ暗黒大陸だ。ただ違うのは、さらに生き物がすくないことだ。中央ユーラシアの沙漠は、オアシスが点在する。ナイル沙漠にも、中央に河がながれている。だが、あそこの沙漠は、先にあるのはつぎの砂漠で、そのほかはなんにもない。どちらかといえば、なにもなさすぎるところだ。湖はあるが、西のバースにちかい五〇〇キロくらいまでだ。先は、沙漠ばかりで猛獣もいないから、野生化したロバとヒトコブラクダが大繁殖して、のろのろ歩いているだけだ。その砂漠を、男は、西海岸のバースから東海岸のケアンズにいく途中だった。痩せて背が異様に高い、ひょろながくみえる三〇歳すぎの男性で、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。当たり前だけれどよ。直線でも二五〇〇キロ以上の道もないところを、リヤカーに生活用品を全部つみこんで、ひっぱって横断するんだといっていた。ちょうどエアーズロックで偶然に出会って、しゃがみこんで話をしたんだ」 「サハラに死すって本、知っているか。二〇歳の青年が、七〇〇〇キロのサハラ沙漠を横断しようと試み、ラクダに逃げられて渇死する物語だ。リヤカーの男は、この若者にラゴスで会った話をした。どんな奴だったか聞くと、荷車男は、うーんと唸って眉間に皺をよせて考えてな。ちょっと変わっていたと、口にしたんだ。いいか、つまりおれは、どちらかといえば、まともなんだ。普通にちかいんだ。リヤカーの男に聞けば、はっきりする。おまえは、ごく普通だと、彼ならそういうはずだ」 茂から変人あつかいされるのは、気にいらないことだったらしく、裕明はとても興奮して話した。 そうこうしているうちに日が暮れて、世界が闇に支配されはじめる七時をまわったころ、階段がぎしぎしいう音がして、痩せたラマ僧がひとりあがってきた。男は、ちらりとふたりをみると、そのまま無言で食堂の扉をあけ、なかに入っていった。 「ラマ僧。日本人」 ふたりは、思わず目をみあわせた。 「間違いなく、普通ではない。とても、ただ者とは思えない。裕明のいっていたことは、正しい」と茂は思った。 いくらの時間もしないうちに、ラマ僧は、食堂をでてくるとふたりのまえにすわった。宿の女主人がチャイをはこび、ご馳走してくれた。 「こうしてまた会ったのも、因縁だろう」 ラマ僧は、話しはじめた。 剃髪の僧は、痩せて浅黒く、ポカラで出会ったときとおなじ茶色の上着に赤いスカートのようなズボンを巻いていた。右の手首には、金色のブレスレットが輝いていた。 「もしかして、とつぜんで恐縮ですが、あなたの名前は、海源さんというのではありませんか」 「今日宿。きようしゆく。恐縮」 不意に、裕明の言葉をくりかえした。 「そんな単語を、知っているんだ」 茂は、裕明の教養のふかさに、驚きを隠せなかった。 「ああ、覚えていてくれたのだね。君と会うのも二度目だ。そうだ、私は海源という。あのとき、君はあきらめようとしていた。耳は最後までのこる器官だから、それで声をかけた」 「私が、みえたのですか」 「いや、偶然だ。ふとみると、君がいた。あきらめた感じだったので、声をかけた」 「命の恩人だ」 裕明は、とつぜんそう叫ぶと椅子をおり、床に正座してふかぶかと頭をさげ、「ありがとうございました」といった。 「なんだか分からなかったが、危険な状態だったらしいね。でも、よかったな」 「今日は、どんな用事があったのですか」 茂が、聞いた。 「このあいだ死んだ、村の男と話をした。もう、もどってこないほうがいいと話したが、また帰ってきてしまった」 海源は、首を右にかたむけ、残念そうにいった。 「この世は、すべてがつながり、ひとつでは存在できない。それは原因を有するからで、多くのものがつらなり、仮の姿であっても目にみえる象(かたち)になる。物事には生起する出発点、素因が存在し、帰着する終着点、結果がある。ふたつはおなじもので、中央に位置する。この中心も、自分が存在する場所から仮に決められたにすぎない」 「たとえばガンガーは、気の遠くなる昔からヒマラヤにふりつもった雪に源を発し、ヒンドゥースタンの平原を悠々とすすみ、ベナレスをぬけ、ベンガル湾に注いでいく。これが、終わりではない。ベンガル湾に注がれたガンガーの流水は太陽の熱によって蒸発し、また雪になってヒマラヤにもどってくる。一見、違った水にも思えるだろう。ベンガル湾には、ガンガー以外の河も注ぐわけだし、潮のながれでインド洋ともつながっている。そう思うのは、いまという瞬間で考えるからだ。もっと期間のながい、ヒマラヤやガンガーが誕生してからの歳月を考慮しなければならない。地球を覆う水が、いまどこにあるのかは意味がない。すべては白雪となってヒマラヤにふり、融水に変わってガンガーをながれたに違いないのだ。なんの変わりもない、おなじ水であり、雪なのだ。違うと思うかどうかは、みる場所によっている」 「それが、曼荼羅の世界ということになる。物事には中心も周辺もない。全体と部分は、じつはおなじなのだ。構成要素がなければ総体とはいえず、逆もまたそうなのだ。あい補いながら、たがいに影響しあって、ある、ようにみえるわけだ。こうした調和のうえで、全体という部分、中心と周辺が決められているだけなのだ。曼荼羅とは、本質を示す、マンダ、mandaと、所有を意味する接尾語、ラ、laからできた言葉だ。真髄が図示された象を表現している。もっと正確には、あらわされたものなのだ。この言葉は、過去形の受動態だから、表顕する者の意思は存在せず、ありのままの姿がかかれているといってもいい。たとえば九会曼荼羅の九つの部分、それらは、ひとつひとつが完成された曼荼羅の世界で、それぞれが、そこで完結している。普通の生活者は、身のまわりに忙殺されているから、すぐそばにべつの領域があるのに気がつかない。この世は、自分の目に映るものだけでできているのではない。同時に数多の世界が進行し、一見どれもが無関係に完結している。みえないところで、たがいに影響しあうなどとは、想像してもいないだろう」 「君たちが出会って旅をしているのも、どこかに似た部分があったのだろう。いっしょにすごして、似通った構成要素は、さらにちかづいていったのだろう。旅行するとは、さまざまな出来事をともに経験することだ。いろいろな事件があったのだろうが、迷いと悟りは、べつべつではない。煩悩と菩提は、両極ではない。一見離れてみえる事物が、じつはそばにある。ちかいと思うものが、飛んでもなく遠くに位置している。見方の違いで、自分が考える形象にとらわれているから間違いが起きる。存在は、原因によってうみだされた関係のなかだけで、うまれたり消えたりするひとつの事象にすぎない。君たちが、元気で旅をつづけているのが分かって嬉しい」 「せっかく出会えたのですから、教えてください。海源さんは、なぜ、ここで僧になられたのですか」 「敬語を、知っている」 茂は、改めて裕明の懐のふかさに驚いた。 「あのとき、はじめてオピウムをして、急性中毒で死にそうになったのです。魂がすっと外にでて、気持ちが悪かったはずだったのですが、もうそんなことはなくて、感覚は普通で、どちらかというといつもよりいいくらいでした。なによりも心が平静で、あらゆる状態を素直にうけいれられる気がしたのです。それは死をふくめた全部なのですが、だんだん高いところにむかって、魂は飛び立っていくのです。おれも好き勝手に生きて、それなりに面白い人生だったほうじゃないかと、すべてをごく自然にうけいれる体制がととのっていて、抵抗しようとか、そんな気持ちは不思議なくらいにないのです。こんなものなのだな。失敗したから、もうだめなのだと観念したとき、海源さんの声が聞こえたのです。まだはやい、おまえには、やりのこしたことがいっぱいある。帰ってこい。その声に気がついて、聞こえるほうにむかってすすんでいくと、自分が気持ちよさそうに眠るのがみえて、あとは覚えていません」 裕明は、とつとつと話した。 「どこのホテルだったのかい」 「カトマンズの、ストーン・ロッジです」 静寂が、支配した。海源は、ゆっくりとチャイをひと口飲んだ。 「ホテルも、関係があるのですか」 裕明は、海源の沈黙が意味しているものにとまどいながら、驚いて聞いた。 「そうだ」 「どういうこと、なんでしょうか。それはつまり、あのホテルでやったから、おれ、いや私は、助けてもらえたというのですか」 裕明は、さらに真剣な表情で聞いた。 「そうだ」 「なんだか、さっぱり分かりません。できたら、ちょっと説明をしては、もらえないでしょうか」 「それほどのことではない。あのとき偶然、私は、ストーン・ロッジを考えていた。それだけだ」 「すると、あのとき、海源さんがストーン・ロッジを考えてくれなかったら、気がつかなかったのですね。私は、そのままいってしまったわけなのですね」 「そんなことは、話してはいない。あのとき、私は昔を思いだしていた。なぜ想起したのか、それは考えてみる価値はあるだろう。しかし、私以外にも、君が気がつかない関係から、みていた者がいたかも知れない」 「そんな人は、知りませんよ」 「それが分かれば、苦労はない。人のつながりは、事件があってはじめて判明するほうが、ずっと多い。どちらかといえば、ほとんどだれも、なんにも気がつかない。だから、こんなに多くの存在が、あるように思えるわけだ」 「ストーン・ロッジが、海源さんと私をむすびつけていたのですね。あのホテルによって、たとえ仮の姿であっても、現に存在をつづけられるのですね。やっぱり海源さんも、あそこでオピウムをやって、死にそうになったのですね」 「それは、君たちのことで、私とは違う」 裕明が真面目に話す言葉を聞くと、海源は小さく笑いながら答えた。茂は、彼が微笑むのをはじめてみた。 「ある女性を、僧の身でありながら愛してしまった。ダライラマ一四世の亡命のときに、心身とも疲れ果てていた。もともと高野山の僧侶の息子だった私は、大学でインド哲学を専攻していた。学徒動員がかかり、当時の仲間はみんな特攻隊になった。どうせなら、曼荼羅の世界で死にたいと願い、激しい戦火をさ迷いながら、チベットに辿りついた。思えばひとつの欲だったが、私は、いつも煩悩のなかにいた」 海源は、静かにゆっくりと話した。 「日本は、大陸を侵略していたが、チベットとは敵対関係ではなかった。恩師は、ダライラマと学問的なつながりがあり、面識はなかったが手紙のやりとりをしていた。その紹介状をもっていたために、猊下の側近としてお仕えすることができた」 「チベットは、欧米の華やかさはないが、広大な大地、豊かな森、命を育む水源を保持している。錦江の春色、天地にきたり。玉塁の浮雲、古今に変ず。とは、よくいったものだ。中国の王朝は、ほとんどすべてが夷狄によって立てられたのだし、漢時代の貴族階級は、ことごとく殺されている。漢の時代は、中国史上のエポックだろう。いまでも、漢字、漢文、漢族という言葉がのこっているのだから。とはいっても、あくまでも、漢は東アジアの盟主だ。歴代の中国王朝が君臨したのも、基本的にはそこにかぎられる。モンゴル族や満州族がつくった王朝の最大版図が東アジアを大きくこえてしまうのは、彼らが夷狄だったからだ。中央ユーラシアは、ずっと蛮族の領土だったのだ」 「ヒトラーは一〇〇万のユダヤ人を虐殺し、スターリンは二〇〇万の同胞を粛清した。毛沢東は、四〇〇〇万の自国民を餓死させ、一二〇万のチベット人を惨殺した。彼らが、国家、民族、人種、あるいは、解放という名をかかげて虐殺したものは、なんだったのだろう。その殺戮を手伝った者たちは、いったい、なにを殺したのだろう」 「思えば、チベットの政府は堕落していた。閣僚も、貴族も、無責任だった。自分たちの国を近代化する意志ももたず、自分が戦いさえしなければ、平和はたもたれると妄信していた。いつの時代だって、和平のためには、軍備と外交が必要不可欠だった。平和ぼけ、していたのだ。中国共産党員は、あらゆる仏教施設を破壊し、金目のものをすべて略奪した。それは、仕方がないと考えるべき範囲だったのだろう」 「広場に人をあつめ、おおぜいがみまもるなかで高僧たちを中央にひきだし、経典を焼き、踏みつけることを命じた。したがわない者の耳を、そして鼻を削いだ。なぐりつけ蹴りつけ、罵声をあびせ、たおれた僧侶に小便をかけ、仏陀にすくってもらえといって笑ったのだ。若い僧と尼僧をひきだし、目の前で交接を命じた。震える僧侶に、おまえには必要がないといって男根を切り落とし、その場で比丘尼を電気棒で強姦したのだ。子弟に、銃で両親をうち殺させた。親が強制労働に熱心に参加しないのは、子供がいるせいだといって、目の前で、いちばん弱い者たちを殺害したのだ」 海源は、そこまで話すと顔をしかめ、深刻な表情になった。チャイをひと口飲み、「もう、よそう」といって、腕をくみ首をかしげた。 「最後には、娘が包丁をもち、年寄りが先の尖った棒を手にして共産党に抵抗した。機関銃と戦車にむかって。それはもう、戦いともよべなかった。娘たちが死を覚悟してまもろうとしたものは、国家でも、民族でもなかった」 海源は目をつむり、両手で頭をかかえた。チャイをひと口飲み、また話しはじめた。 「ネパールまで命からがら逃げてきて、私は過労から黄疸になり、ある裕福な一家に助けられた。家には、一人娘がいて可愛かった。ご夫婦は、敬虔な仏教徒で私を大切にしてくれた。若い綺麗な奥さんがいた。その方は、優しかった。観音菩薩だと思った。身も心もぼろぼろになり、なにもかもが信じられなくなった私に、たくさんの親切をあたえてくれた。その優しさを、愛と誤解した。同情は愛情にかぎりなくちかく、そこに必ず煩悩は出現する。迷いがあるから、菩提心も起こってくる。いずれにしても、私は二重の過ちを犯し、傷つけた。そこでもまた、煩悩と菩提をくりかえしたのだ」 海源は、溜め息をついた。 「こんな昔話をしたのは、はじめてだが、今日こうして会ったのも因縁だろう。必要があって、私たちはあつまった。それ以外に、ここで会う理由はない。カトマンズではない。今日のタトパニには、泊まり客は三人しかいない。だから話したのだ」と海源はいった。 「ストーン・ロッジとは、なんなのでしょうか」 茂が、聞いた。 「君たちが知っている通り、ネパールは、ヒンドゥー教を国教とする世界でたったひとつの国だ。しかし、ホテルのご主人は、敬虔な仏教徒だ。あの方の計らいによって、私は静養する家を紹介していただいた。つまりストーン・ロッジのご主人にも、迷惑をかけたのだ。それから私は、もっぱらポカラで仏に仕えている。この村は、チベット仏教の信者が多い。ときどき、私はここにきている」 海源は、話すと口をつぐんだ。みんなが、さまざまに考える時間があって、裕明と茂は煤けた天井をみつめた。 チャイニーズ・ボーダーのひっそりとした夜は、果てしもなく暗く、その背後には、垣間みることもできない深淵が支配していた。いま三人がいる、この場所だけがあかるく、周囲はとうとうたる闇と黒い森につつまれていた。 「そういえば、君たちが買ってきたパンを、味見させてもらった。ここに、おいてあったのをみただろう」 とつぜん、海源はいった。 「あのパンをひと口、かじらせてもらった。君たちの承諾もなく、勝手に食べたことを、許していただきたい」といった。 また、時間があった。なんて答えるべきか、裕明も茂も必死に考えたが、「せりふ」が浮かんでこないのだった。そうするうちに、海源がもう一度いった。 「許して、いただきたい」 「いやあ、気がつかなかったよな。都合よく机のうえにあったから、半分こにして食べました。茂。なにか、気がついたか」 「そうだったのですか。ふたりで食べてしまったので、もう、はっきりしません。もし、そうであっても、なんとも思っていません」と茂はいった。 「これで安心した。どうしても、つたえねばならないと思っていた」 海源は、いった。 「夜も更けてきたし、語るべきことは話した。とくになければ、私はもうすこし、ここのご家族と話をしてから寝ようと思う」 「今日は、貴重なお話を、ありがとうございました」 裕明がいった。 「世の中のことを、いままでとは違って考えられる気がします。ありがとうございました」と茂もいった。 ふたりは顔をあらい、口をゆすいで三階のベッドにいき横たわった。 「ということは、おれと茂が会ったのも因縁というわけだな」 裕明が、うえから声をかけた。 「よく分からないが、今日こんなふかい山奥の一軒宿で、ふたりで横たわるのは、果になるのだろう。気がつかないもののなかには、じつは気づいてもいいことがいっぱいあって、それが理解できれば、おたがいに相手をみとめあって、争いもずっとすくなくなるのだろうな」 「でもさ。いま、こうしてせまいベッドに横になりながら振りかえってみると、なぜいっしょに旅をはじめたのか、もうはっきりとはしないけれど、海源さんと出会って凄く納得したんだ。茂と旅行して、よかった。旅をしたから、海源さんに会うこともできたのだものな」 「そうだな。いっしょにいて、いやな事件はなかったし、だからいれたのだけれど、海源さんと出会えたのは素晴らしい出来事だった。こうした気持ちは、かなり素直で、ふたりですごしてきたから、こんな感情になれたと思うよ。日本に帰っても、仲よくしたいよな」 「そういうことに、なるわけだ」 それで、ふたりはだまった。ながい静かな時間がすぎていった。 「裕明は、きっと起きている」 茂は、思った。眠れば、鼾が聞こえてくるからだ。それは許せる範囲のもので、寝ているのかを知るには有用な情報だった。 茂は、だまって考えていた。 なぜ、なのだろう。どうして海源さんは、今日、ここにきてくれたのだろう。ダライラマ一四世がインドに亡命したのは、一九五九年の春だったはずだ。その前後のチベット動乱では、夥しい数の僧侶や一般人が殺され、二〇万といわれるチベット難民が発生した。一九六〇年ならば、ローラは、七、八歳で、カトマンズに住んでいたはずだ。裕福な仏教徒。これは、オーストリア人の一家だったのだろうか。 「分からない。たずねれば、答えはえられる。だが、聞いてどうする」 どこまでも果てしなくつらなる、チベットちかくの森だった。ふかくて、静かで、神聖で、なにも聞かなくても、それでいい気がした。それでもたずねたいと思うのは、執着で、無意味だと茂には思えた。 二、青い大鷲 ガラス窓から、光が差しこんでいた。だから、ふかい森に面した窓は、東がわだと分かった。差しこむつよい朝の光は、束になり、塵やホコリを浮かびあがらせ、きらきらと輝いてみえた。茂が目を覚ましたときには、寝息が聞こえた。うえの人は、まだ夢のなかを、さ迷っているらしかった。 清々しい朝だった。空気はひんやりとし、昨日浸かった川上の温泉を思いだした。 「こんな日の朝風呂は、さぞかし気持ちがいいのではないか」 茂は、思った。裕明はよく眠っていたので、青と白が縦縞になった幸運のスポーツタオルをもって、そっと部屋をぬけだし、ぎしぎしと音のする階段を、なるたけ静かにおりていった。 もう、女主人は起きていて、 「おはよう、ずいぶんはやいのね」と茂に声をかけてくれた。 娘たちの声音につられて、台所に入ってみた。ふたりの娘は、森がわのバルコニー状につきでた場所から木にのぼって、トマトにみえる野菜を収穫していた。樹木になる蔬菜は知らないから、果実なのだろうか。竹であんだ小さな籠に、娘たちが朝日のなかで捥いでいるのは、外皮が赤くつるつるし、形はピーマンみたいに、ほそながく尻にあたる部分が尖っていた。トマトの一種にみえた。 ふたりの娘たちは、声をかけあいながら作業をし、笑い声が聞こえた。朝のカレーのためだろうが、ヒルが落ちてくるらしく、ときどき奇声をあげ、肌についた虫をとり払っていた。毎日くりかえされる作業で、日々おなじ具のご飯を食べているのだろう。こうした行為は、日課で必要だったから、女主人は台所といちばん離れた部屋を用意してくれたのだった。 茂がタオルを肩にかけているのをみると、「どうするつもりか」と主人は聞いた。 「気持ちよく目覚めたので、朝風呂をあびようと思う」と答えると、「ゆっくり入ってきても、朝食には充分な時間がある」と女主人はつげた。 茂は外にでて、もうかなり冷たいといっても過言ではない、清々しい空気を味わいながら山道をのぼっていった。 大きな弧を描きながらながれるポテクシ河は、血の通った世界から乖離し、孤立してみえた。大陸の果てにある瀬は、淡々とし、悟りすました孤高の禅僧が暮らす水墨画の天地をつくり、とき折り聞こえる高い鳥のさえずりは、秘境の静寂をいっそう強固にしていた。 衣類をぬぎすて、裸になって静謐な時空に対峙すると、水も岩も、森も大地も、すべては生きていて、風のながれにも河のよどみにも暖かな命が感じられた。それは、みわたすかぎりの仏種だった。いつもとは違うなにかを、茂は確実に感じた。温泉のでる河の縁に首だけをだして身を浸し、川岸の岩を枕にして空をみあげていた。そこにあったのは、雲ひとつない真っ青な天空だった。 折りしも、忽然とあらわれた一羽の大鷲が、群青にすき通る広々とした大空を舞いはじめた。かなり大きいと思われる瑠璃色の鷲は、ゆっくりと旋回しながら獲物をさがしていたが、やがて茂の姿をみとめると位置をただし、一直線にむかってきた。 大鷲は、青にきらめきながら羽をいっぱいにひろげた。象は、朝の日にあたるラピスラズリのウルトラマリンの天空と完全にひとつにとけあった。天に変わり、空になり、茂の視野を覆いつくした。ふたつの存在の距離は急速にちぢまり、大鷲はほんの手まえにいた。茂は、裸のまま立ちあがり両腕を天にかかげた。あらゆるものを射抜くするどい目がはっきりとみえたが、恐怖はなかった。大鷲は猛烈な勢いで一気に襲ってくると、彼の身体をすりぬけていった。 一瞬後、茂はその背中にのっていた。身に一切まとっていない彼は、背にのりこみながら暖かさを感じた。赤ん坊の豊潤とした肌、しなやかな羽毛につつまれた不思議な寛ぎに満たされ、芳しい匂いがした。なんの制限もなく、大鷲の考えが心によびかけていた。 「あなたは、私。くるしみ、望みは、私たちのもの。私は、ひとつ。全一につながる、ふたつのもの」 綺麗で柔らかい、母を思わせる女性の声がして、言葉は直接心に染みいってきた。美しい詩の旋律は、アムリツァル、ハリ・マンデルにながれるキールタン。コルドバ、カテドラルを満たす賛美歌に似た、清らかなものからできていた。 瀬と淵をもちながらながれるポテクシ河が分かり、大きな岩にかこまれた温かい湯が湧きでる川岸に、ぼうぜんとたたずむ茂の姿がみえた。そこは、ふかくて厚い森が支配していた。青にきらめく大鷲は、おなじ碧にすみ切った空をゆっくりと旋回し、チャイニーズ・ボーダーが分かり、橋のたもとで銃をもって直立する若いふたりの兵士がみえた。茂が泊まる宿が判別でき、遠くに輝くヒマラヤが望めた。鷲は、さらに虚空へとのぼってゆき、とどまることを知らず、パミール高原が分かり、インド大陸が、チベット高原の全体が、そしてアラル海やカスピ海が映しだされ、カザフの平原が。広大な大地、中央ユーラシア。その全貌が、目に入ってきた。 中央ユーラシアとは、地理的よりも文化的概念で、ウラル・アルタイ系の諸言語を話す人びとが暮らしてきたすべての地域をさし、拡大したり縮小したりしながら、歴史とともに変化してきたユーラシア大陸の中央部分を意味する言葉になる。 歴史的な領域は、北は北極海沿岸までのシベリア全域をふくんでいる。そこには、針葉樹林を中心とした、広大なタイガとよばれる森林地帯が横たわっている。 草原と沙漠、高原と山脈、森とオアシスにより構成される中央ユーラシアの中核をなすのは、万年雪と氷河からつくられるカシミールの果て、世界の屋根、パミール高原になる。パミールを中心として、北には天山、東には崑崙が、南東にはカラコルム、さらにヒマラヤ、また南西にはヒンドゥークシといった、世界最高峰級の山塊が集積している。ここを境として、中央ユーラシアは東西に分割することができる。 東方中央ユーラシアは、モンゴル帝国、清帝国を文化、宗教的にささえた、チベット仏教世界になる。雲南ではインドシナに、貴州では中国に接し、四川盆地の西端を北上し、匈奴の聖地、祁連山脈東端から黄河が黄土高原、オルドスをつつみ、陰山山脈の南にそって東進を終えるまでの地域が東端、南端をつくる。さらに、大行山脈の北縁から燕山山脈に並行して、満州の東北平原と華北平原のあいだが南縁となり渤海に終わる。鴨緑江、白頭山をふくむ長白山脈は、朝鮮との境を示している。 西方中央ユーラシアは、現在は、イスラム文化圏に変わっている。ヒンドゥークシ山脈の西は、カラクム沙漠が南限となってカスピ海につづき、さらに黒海とのあいだには、カフカス山脈が南端として存在する。そして西端を、ドナウ川にもとめることができる。 茂を背にのせた大鷲は、青にきらめきながら、雲ひとつない天空を悠々と舞っていた。みおろす大地は、輝いていた。 大興安嶺山脈がみえる。東には、広大な平原をかかえた満州がひろがっていた。その西がわには、モンゴリアの高原が盟主としての圧倒的な威厳をもって存在していた。アルタイ山脈の東がわから、南にゴビの沙漠があり、北にはバイカル湖をつつんで豊かな森林が延々とひろがっていた。森と湖、そこに大河アムールがまんまんと水をたたえている。オノンとケルレンの支流がみえ、さらにバイカルに注ぐ、トラ河がながれていた。ここは、中央ユーラシアを席巻した遊牧諸民族の揺籃の地。匈奴、鮮卑、高車、丁零、柔然、突厥、ウイグル、契丹、モンゴル、ジュンガル。世界史を彩った、いずれも勝るとも劣らぬ、錚々たる部族だった。彼らはここでうまれ、この森と河で育ち、中央ユーラシアの大草原を、騎馬にのり自在に駆けぬけたのだ。 その西、崑崙と天山、ふたつの山脈のあいだにタリムの盆地がみえている。点在する小さな緑は、オアシスなのだろう。 アラル海がみえた。北には、天山山脈からシルダリアがながれている。南には、アムダリアがヒンドゥークシからつづいている。ふたつの大河は、緑の平原と沙漠をつつみながら悠々とながれている。その西には、巨大なカスピ海、大河ヴォルガが注いでいる。さらに西方は、黒海がアゾフの海をかかえている。つらなる大海の北に、茫漠とひろがる世界最大のステップ、キプチャクの大平原が眺望できた。ここはまた、アーリア、キンメリア、スキタイ、サカ、サルマタイ、アラン、フン、エフタルが起こり、駆けまわった、西の遊牧民たちの故郷。 ドナウが、みえる。ドイツ南部の黒い森、シュヴァルツヴァルトに源を発してヨーロッパを悠々と東にながれ、やがては、その莫大な水量を黒海に注いでゆく、ドナウ河。この大河は、古来よりローマ帝国とバルバロイを南北に分けてきたのだ。 みおろす世界は、輝いていた。 累々とふりつもる、白い雪をかかえてつらなる高い山々。果てしもなくひろがり、青く戦ぐ大草原。莫大なこまかい粒子をたたえて光る、砂の海。躍動する生命の大地がみえる。 アフロ・ユーラシア、旧大陸でくりひろげられた圧倒的な戦闘力を示した騎馬民族の世界は、東洋と西洋、深洋とイラン、アラブから地中海南沿岸部までつづく、中洋世界の真ん中にあって、各洋をつなぎとめ、同時性と連続性を担保していた。 真っ白な雪に覆われた、パミール高原は、すべてをうみ、はじまり、終局でもある、根本会、九会曼荼羅の中心だった。南アジア、西アジア、カスピ海、黒海、ドナウ河、カザフから南ロシアの大草原地帯、シベリア、モンゴリア、東アジア、インドシナ、そしてチベット。その茫洋たる大地と海に、とりかこまれていた。 中央ユーラシアと四つの洋からなる、巨大な大陸は、パミールの下に眠るコールド・プルームによってひきよせられ、壮大な羯磨曼荼羅を形づくっていた。 ふと茂が気がつくと、白い雲が浮かぶ青い地球がみえた。もうこのとき、大鷲と彼はふたつのものではなく融合し、分けることができなかった。 気がつくと、茂は遠い宇宙の果てにとどまり、無数の銀河がみえた。ひとつひとつをよくみると、星の集積によってあかるい島宇宙と、まばらな暗い空間があった。耿然(こうぜん)とした小宇宙のなかに、濃淡に彩られる無数の銀河が輝いていた。 そのひとつひとつに須弥山を中心とする四大州があり、九山八海から構成される蓮華世界が存在していた。うえは四無色定から、下は風輪におよぶ、一須弥世界からなっていた。無数の星からできるひとつの島銀河は、世界が一〇〇〇あつまった小千世界だった。大きな銀河は、中千世界、そしていま、茂が目にする大宇宙、このすべては、三千大千世界という一〇億の須弥世界からなり、一仏が教化する範囲、そのものに思えた。さらに、すぐとなりには、まったくべつの宇宙がひしめきあい、際限なくずっとつづいていると感じられた。 「愛のない結婚なんて、耐えられないの」 とつぜんローラの叫び声が聞こえたと、茂は思った。 その声を聞くと、大鷲は、銀河をもどりはじめた。何億という島銀河を駆けぬけていくと太陽系が分かり、遠くに米粒の地球がみえた。大鷲はどんどんちかづき、月を通りすぎ、碧い海と白い雲が棚引く青い星が目に入った。巨大なユーラシア大陸が分かり、アルプスも、そして東西に弧状につらなるヒマラヤの褶曲した山塊が映じられた。ネパールが判別でき、カトマンズがみえた。ストーン・ロッジにローラがいた。彼女は、マスターと話をしていて、フリードリヒもジルヴィアもいっしょだった。 「茂に、会いたい」 ローラは、マスターと話していた。 「どこへいったかは分からないが、何日かして、ふたりで宿をでていった」 バスネットは、答えていた。 「仕方がない、今日の便で帰ろう。これ以上は、さがすことができない」 フリードリヒは、いった。 「ひどいわ。私は、もうだれとも結婚はしないわ」 彼女は、両手で顔を覆って泣きはじめた。 「いま、ローラがきているのだ。ぼくをさがしているのだ」と茂は思った。 それから、チャイニーズ・ボーダーが分かり、タトパニの宿がみえ、女主人が食事の支度をつづけていた。河の上流の温泉で、ぼうっと突っ立つ、茂が目に入った。 「ああ、あそこにいる」 そう思ったとき、大鷲ではなく茂だった。 ざわざわという、ポテクシ河の瀬のながれがひびき、鳥のさえずりが聞こえた。裸が寒く感じて、茂は岩でかこまれたアルカリ泉のなかに身体をうめた。風が、森の木々を震わす音がした。雲が足早にながれ、むかいの崖には多くのヒルがぶらさがっていた。静かで、おごそかな時間だった。この世のあらゆるものが生きていると感じられる、そんなときだった。 茂が、タオルを肩にかけて宿にもどってくると、「どうだった」と広間で寛いでいた裕明が聞いた。 「いい、湯加減だったよ」 彼は、なにかを考えながら答えた。 「食事がすんだら、おれも一風呂あびてみるか」 裕明は、いった。 「朝食の用意ができた」と女主人がつげた。 ラマ僧もきて、三人揃って食堂で食べた。チャパティーと、トマト入りのカレーがわずかについていた。チャイを飲んだあと、ラマ僧が席を立とうとしたとき、 「聞いてもらいたい話があります」と茂はいった。 「なんだい。それじゃ、あちらで話そうか」 「おれは、いてもいいのかな」と裕明がいった。 「かまわないよ」 それで三人で広間にいき、昨晩と同様、裕明と茂はならんですわり、テーブルをはさんで海源とむかいあった。 「今朝、風呂にいってみたのです」 「気持ちが、よかっただろう」 「ええ、とっても。裸になって温泉に浸かったとき、感じたのです。ぼくをとりかこむすべてが、優しく懐にいだく奥ぶかい山、香りをはなち密生する森、せせらぎをのこしながれる河、髪を揺らしていく風、それら全部が生きている感じで、清々しく広々とし、なんのわだかまりもなく、それで大空をみあげたのです。素晴らしい、雲ひとつみえない青空だったのです。そのとき、青にきらめく大鷲が、空のなかにとけこんでいるのに、とつぜん気がついたのです。眩しいほどに輝く、猛烈に大きな、真っ青な色の鷲でした。羽を思いのままにひろげ、悠々と大空を飛んでいたのです。こんな大きな鷲が、それも、空とおなじ色の大鷲がいるなんて、考えたこともありませんでした。いままで気がつかなかっただけで、まえからずっと飛んでいたのかも知れません。その鷲がとつぜん、ぼくにむかってきたのです。考えたこともない青い大鷲で、羽をいっぱいにひろげると空全体が覆いつくされました。鷲は、空でした。大空は、大鷲だったのです。空と鷲は、もうふたつに分けることができなくなり、おなじひとつのもので、それが猛烈な勢いで、ぼくに襲ってきたのです」 そう茂が話すと、「ほう」と海源は、興味ぶかそうにいった。 「大鷲はぶつかり、身体をすりぬけていったのです。そのとき、ぼくは鷲にのっていました。大鷲は、どんどん空にのぼり、ヒマラヤが、パミールの高原が、やがて地球がみえました。気がつくと、ぼくは鷲でした。銀河の果てまでいき、無数の蓮華世界をみた気がしました。そこには、数多くの仏がいると感じられました。それからもどってきたのですが、途中でストーン・ロッジにきたローラをみかけました。彼女は、ぼくをさがし、みつからないので、今日、帰るといっていました。会いにいかなければならないと思います」 茂は、話した。 「ローラとは」 海源が、聞いた。 「ストーン・ロッジで、ある女性と恋に落ちました。結婚を、誓いあいました。彼女はオーストリアからきて、親が決めた婚姻を拒否して、カトマンズまで逃げてきたのです」 「オーストリア人のローラか」 海源は、ゆっくりとくりかえした。静かな考える時間があって、「それでなぜ、君は結婚しなかったのか」と聞いた。 「父親が、つよく反対し、家柄もお金もない、どこの馬の骨とも分からない男に最愛の一人娘をやることはできないと。それに、日本人は生理的に嫌いなのだといっていました」 「うーん、なるほど」 その言葉を聞いて、海源は小さく唸った。 「そういうことか」 海源は呟くと腕ぐみをして、眉間に皺をよせて考えはじめた。やがて、「母親は、なんといっていたのか」と聞いた。 「母のジルヴィアは、好意的でした。最初はとても喜んで、祝福してくれました、最後にふたりで話をしたときには、彼女がなにを、どう考えているのか、よく分かりませんでした」 「ローラは」 「カトマンズでは、もう会えませんでした」 「なるほど、そういうことか。それで、チャイニーズ・ボーダーにまできたわけだ」 海源は、そう独りごちた。 「大鷲は、なんだったのでしょうか」 「菩薩だろう」 海源は、ぼそっと答えた。それからやや間があって、茂をみてゆっくりと話しはじめた。 「ひげ鷲は、観音菩薩の変化(へんげ)だろう。菩薩は、さまざまな形で私たちの目の前にあらわれることができる。観音は慈悲の心を起こし、そうした象をとられたのだろう。霊鷲山(りようじゆさん)は王舎城にある小だかい山で、般若の教えはここで説かれた。この山は、鷲峰ともよばれ、もともとの語意は、はげわしだ。君は、菩薩によって導かれたのだろう」 海源は、いった。 「夢では、ないのでしょうか」 「あらゆるものは、夢物語だ。すべては仮であり、因縁がうみだした仮有(けう)なのだ。因は、私にあるのだ。なぜ、そのことに気がつかなかったのだろうか。そうだったのか。それで、私たちは出会ったわけだ。ポカラで会い、曼荼羅の話をした。ストーン・ロッジでも遭った。そこで、気がつきべきだった。それで昨日、べつべつのふたりである君たちに出会って、菩薩はもう一度機会をくれたのだ。なぜ、私は、分からなかったのだろう。心をたたかれているのに、くりかえされたことに、どうして気がつかなかったのだろう。それでも分からない私に、観音は大慈悲をもって君のまえに大鷲としてあらわれ、つげさせたのだ」 ひと言ずつ、かみしめて海源は語り、左の手で右の手首にある金の腕輪をつかんでから、目をつむり首をかしげ、ながいこと考えていた。 なにをするのかと茂がみていると、彼は両手で印契(いんげい)をむすび、真言をとなえはじめた。やがて一心不乱に変わって、三摩地(さんまじ)に没入した。 その様子をみていた茂は、しだいに不安になってきた。 「海源が、徳の高い僧なのは分かった。仏教哲学も充分にもっていて、信心も並の僧以上であるのは間違いなかった」 しかし、こうひとりで「境地」に入られては、もういっしょにお祈りするしか手立てがないと思われた。 「なんとか、しなければならない。ローラは、ぼくをさがし、みつからなければ、今日にでも帰るつもりだ。また会うのは、きっと困難だ。なんとかしなければならない」 茂は、不安な面持ちで海源をみた。その気持ちは、裕明にも分かった。 「海源さんは、なにを考えているのだろうか。茂の話が、いま実際に起こっているのなら、なにもしないわけにもいかないだろう」 裕明も、思った。 ふたりの不安をよそに、海源のマントラは、延々とつづいていた。ただひたすら呟きが聞こえ、それでも待ったが、もうその真言は、いつ果てるともまったく分からなくなっていた。 「茂。カトマンズにいこう」 とつぜん、裕明がいった。 もうこれ以上、海源の世界につきあっていられそうもなかった。それでも真言をとなえつづける彼をみて、ふたりは立ちあがろうとした。 「待て」 そのとき、海源がいった。 「大丈夫だ。安心しろ。会うことができる。用意は、ととのった。ローラの真意をたしかめ、あとは菩薩のご指示にしたがえ。支度をしろ。バンがくる。それで、カトマンズにいこう。約一〇〇キロの道のりだ。四時間もあればつく」 「飛行機の出発の時間が、分かっているのですか」 茂は、たずねた。 「知らない」 海源は、眉間に皺をよせたままいい、首を振った。 「出発の時間がどうであっても、いまは、海源さんのいう通りにするしかない。いこう」 裕明が、うながした。 「できるかぎりのことを、してみよう。それでもだめなら、オーストリアにいけ。いっしょにいってやってもいい。それしかないよ」 「よい友だちをもったな」と海源は口にした。 「大丈夫だ。カトマンズで会える」呟いてうなずき、 「なぜなら、飛行機は飛べない」と静かにいった。 「えー」 ふたりは、顔をみあわせた。 「まさか。でも、やるかも知れない」と茂は思った。 「あの真言は、そういう意味だったのか」 信じられない気持ちでいっぱいだった。 バンは、順調に走りつづけていた。バラビセからの客をのせてきた運転手に、海源は、カトマンズにできるだけはやくいって欲しいとつたえた。ドライバーは快くひきうけ、バンは「カトマンズ特急」になり、一直線でトリブヴァン国際空港にむかっていた。 トリブヴァンにちかづくと、海源は「これを君にあげよう」ととつぜんいい、自分の右手首にあった金色のブレスレットをはずし、茂に手渡した。それは女物にもみえるほそくて小さな輪で、彼の手首にあつらえたように思えた。茂も痩せていたので、いわれるままにつけてみると、なんの抵抗もなく右手に収まった。 「それは、大切なものだ。私の青春の、すべてといっても過言ではない。しかし、いまは君がもつほうがいい。私は出家して必要もないのに、すてられずにこまっていたのだ。きっと、いつかどこかで、入り用になると確信していた。こういう形のものであるとは、知らなかった。だから、もっていてよかった。すべては、観音菩薩の慈悲によるものだ。そのときに必要な者が、それをもてばいいのだ。とくに、未練のあるものではない」 「そんな大切な腕輪を、いただいていいのでしょうか。高価そうなものだし、どこも剥げてもいません。ほんとうに、すべてが純金製ではないのでしょうか」 茂は、右の手首につけた腕輪を、まわしてみながらいった。 「価値は、人によっているのだ。この世にあるものは皆、おなじ値打ちをもっている。どの人も、仏性をうまれながらに備えているように。えるためには、うしなうものがなければならない。獲得と喪失は、おなじことだ。そこには調和がある。関与するみんなが、自分のもつ執着をすてなければ幸せにはなれない」と海源はいった。それからまた考え、 「こうした、否定の言葉ではない。執着がなくなれば、幸せになれる。それを知ることができる、というべきだろう」と訂正した。 「国際便だ」海源は運転手に話した。 「あの通路から、直接飛行場に入れ」 「ずいぶん、大胆なことをするな」と茂は思った。 飛行場への入り口には、警備員がいた。海源が何事かを話すと、ガードマンは、いくつかの飛行機のうちのひとつを指さした。 「あそこだ」と彼はいい、運転手にそこにむかって真っすぐにいく指示をだした。 警備員は、飛行場への不審車両の侵入にたいして警告どころか協力をしていた。なにを警備するつもりだったのか茂には分からなかったが、もう、世界にとって些末な問題に変わっていた。 三、イヴォー・マンデルハイム 「もう一度、考えて欲しい」 ジルヴィアが、切々とうったえて、泣いている。 「ふたりを割くことは、だれにもできない。あなたと私を、時代も、世間も、分けられなかったのとおなじ。私たちが想像もできないつよい糸で、あのふたりはむすばれているのよ。私は、それをみたのよ。お願い、考えなおして。ふたりを、べつべつにしてはいけない。それは摂理に、仏の教えに反すること」 「あなたがゲルマンで、私がユダヤ。そして、茂がジャパニーズ。それが、人のなにを規定しているの。あなたがアーリアで、私がセム、そして茂がモンゴロイド。人種も言語も違うというけれど、それは望んだのでもないし、えらんでうまれてきたわけでもない。イヴォーが話していた。思いだして。民族も、人種も、国家も、人同士を戦わせるためにつくられた考えだって、あんなに話してくれたじゃない」 「イヴォー。そうだ、どうしているのだろう」 フリードリヒは、彼を思いだした。ダラムサラで子供を教えるといって別れたときを。あの最後の日を。ああ思いだす。ながれていった月日、走馬灯がまわりだす。輝きながら、影をつくりながら。 ウィーン、ブハラ、カトマンズ。 ローラは、部屋にとじこもり、食事もとらずに泣きつづけている。 「これは、因縁なのだ」 フリードリヒは、回想していた。三〇年以上もまえに、おなじ若い美しい女。ローラにそっくりな女性が、嘆き悲しんでいたことを、ありありと思いだした。 ウィーン、WIEN フリードリヒがみたのは、怯えたジルヴィアだった。ひざまずき、真っ青になって震える彼女のまえに母のナタリーが横たわっている。石づくりの家が立ちならぶ石畳の道には、母親の頭からながれでた赤い血がしたたり、ガラスの破片が散乱している。 だれも、よっていかない。 ユダヤ人の住宅がある地域。街をつくる、その部分が破壊されていた。略奪され、傷つけられ、殺されている。夜空に煙と炎があがる。消防のサイレンが、くりかえし鳴っている。頭が割れる。騒音がひびきわたる。悲鳴が聞こえ、群衆がうごいている。若い男も、年寄りの女もいる。斧を手にして、鉈をもって、住居の扉をやぶり、商店のガラスを割っている。だれも、ジルヴィアのことなどかまっていない。傷つき横たわる女に、手を貸す者はひとりもいない。だれも助けようとしない。ユダヤの会堂が壊される。たくさんの血がながれ、サイレンの高い音がひびく。耳をつんざく悲鳴。ガラスが割れ、世界が壊れ、夜空に月が輝いている。 ふたりは、冷たい空間のなかで孤立している。まわりのうごきとは対照的に、ジルヴィアとナタリーのいる場所だけが切り離され、浮かび、凍りついている。 空が、赤く染まっている。どこも、かしこも。煙があがり、街中の消防のサイレンがひびきわたり、居住地の中心にあるシナゴーグのファザードがたたきやぶられ、椅子がひきずりだされ、壊されている。会堂のまわりの病院や、宿屋や、浴場が破壊され、さらにとりまく商店や住居が襲われている。昨日までいっしょに仲よく暮らした者たちが、斧をもってわめいている。割られたガラスが道をうめつくし、そこに月の光があたり、きらめく。炎が燃えさかり、鏡になって、また火炎を輝かせる。 クリスタル・ナイト。 病室にはこばれたジルヴィアの母、ナタリーは、ベッドのうえでタルムードを読みながら泣きつづけた。そして、そのまま死んだ。 父親は、もどってこなかった。 フリードリヒの父、カール・バルデンシュタインと、ジルヴィアの実父、デイヴィッド・ガールフィンケルは、どちらも、おなじ銀行業をしていた。第一次世界大戦の敗北と、うちつづく世界恐慌のなかで多くの金融機関が整理されていったが、彼らの銀行は幸運にものこっていた。ふたりはふるくからの知りあいで、両家はながく家族ぐるみのつきあいがあった。そうした環境は、いつしかフリードリヒと、ジルヴィアに、たがいを思いあう気持ちをいだかせた。 大戦後の不況とナチスの台頭は、裕福なポーランド系ユダヤ人の銀行家、ガールフィンケルとその家族に、暗い影を落としはじめていた。やがて隣国ドイツでは、ゲルマン民族とユダヤ人との婚姻を阻む法案が可決され、両家の行き来も途絶えがちになっていった。こうした社会のうごきは、かえってフリードリヒの気持ちをジルヴィアにむかわせた。 当時のウィーンには、一七万のユダヤ人が住み、人口の一割をしめていた。そのなかに、イヴォー・マンデルハイムがいた。彼は、ポーランド系ユダヤ人で、歴史学者であり宗教学者だった。もともとは、ベルリン大学で教鞭をとっていた。一九三〇年ころにウィーン大学に転籍し、インド哲学の講座をひらいていた。反ユダヤ主義の風潮がつよまるなか、彼は一般学生を対象に、「インドの仏教思想」という教養課程の授業をもっていた。 あるとき、ひとりの学生がイヴォーをたずねてきた。ブロンドの髪をして、細面で碧い瞳をもっていた。眉がこく意志的で、目の彫りはふかくて鼻は高く、あきらかにアーリアと思われる長身の青年は、イヴォーが講義で話した、 「キリスト教は、不都合な、あらゆる異端を排斥してきた。しかし、仏教は、すべての異説を許容する。西洋思想がどうやって切りすてるかを考えるのにたいし、インド思想ではどういうぐあいに容認するかを追求する。なぜならインドにおいては、不都合な現実こそが、カルマであり、自分がうまれた最大の原因とされたからだ。不合理をみとめることこそが、生をえた前提とみなされたからだ。受容こそが深洋の真髄である」という言葉についてたずねた。 そしてヒトラーの問い、偉大なゲルマン民族の問題、とりわけ、アーリア人とユダヤ人のあいだの感情について質問した。 「あまりにも非常識で、異様で、到底まともには考えられないこと。それだけに、民族とか人種、主義という言葉は恐ろしいものだ」とイヴォーは話し、注意ぶかく青年の話を聞いて、そのあとでいった。 「質問は、いわゆるアーリア人と、ユダヤ人の恋愛に関する問題なのだね。つまり、君の身に起こっていることなのだね」 青年は、大きくうなずいた。それがイヴォー教授とフリードリヒのはじめての会話だった。 彼は、その後もイヴォーをくりかえしたずねた。教授が三〇年代のなかば、ネパールのカトマンズにうつりすんだあとも、幾度も手紙をおくった。返信は清書され、丁寧な字でかかれていた。 「地上のどこにいっても、ユダヤ人は暮らしている。これほど、世界にまきちらされた民はいないだろう。くりかえし起こった大虐殺。十字軍、ペスト、反宗教改革。理由は、なんでもよかった。いずれにせよユダヤ人は追われ、目印として売春婦とおなじ黄色のスカーフをつけさせられ、家畜の税を払わされ、せまいゲットーにとじこめられたのだ。すこしでも迫害のない場所をさがし、ときとともに移動し、世界中にちらばったのだ。不動産の所有を禁じられた彼らが、逃げるのに都合がいい金融業や宝石商になり、手織り物の技術や医学の知識を身につけようとしたのは、とうぜんの成り行きだった。迫害のあいだのみじかい平和、ユダヤ人は高い能力によって財産をつくり地位をえた。それは、嫉妬をうみ、さらに虐げる原因となり、彼らの富の再分配が好ましいと思う人びとによって、その方針は、理由をつけられ実行されたのだ。だから、くりかえされた迫害の根はふかい。新大陸でも、おなじことが生じたから、ふたたび起こる可能性は否定できない。忌まわしい賤民、パリアであるユダヤ人への迫害は、主にユダヤ教という宗教が問題にされた。ところが今回は、人種をテーマにしている。もともとは、セムだとはいっても、ユダヤ人という種族は、ほんらい存在しないから勝手な線引きがされる。宗教が問題とされたから、彼らは二〇〇〇年にわたって改宗と混血をくりかえしてきた。いま、ユダヤ人種が争点と叫ぶ人びとは、いったいどういう最終的解決を、想定しているのだろうか。考えると、恐ろしいものだ」 「インド大陸には、紀元前よりユダヤ人が住みつき、信仰をつづけている。迫害の記録はまったくなく、おそらく今後もありえないだろう。ネパールは、ヒンドゥー教国だが、インドとおなじく宗教には寛容だ」 「日本軍がいかに強力で、どれほど兵を鍛錬しても、ビルマ国境の熱帯雨林の森をぬけて攻めてくる事態は考えられない。ボルシェビキが、たとえいっそうの勢力をきずき、さらなる狂気にナチスがとりつかれても、ヒマラヤを踏破するのは無理だろう。ネパールは、天然の要塞で、世界でもっとも安全な場所だ。それは、ユダヤ教徒にとっても、アーリア民族にとってもおなじことだ」 まんまんと水量をたたえて、大都会の真ん中をゆったりとながれるドナウ。両がわにはずっと堤防がつらなり、法面に生えた草も枯れている。石でできた冷たい人工的な街。もう、雪がちらついている。かけられた、ひろくてながい石の橋。夜も更けた舗道には、行き交う車もまばらで、歩く人影もほとんどない。みぞれがまじった風が吹いている。暗い街灯に照らされた欄干によりかかり、涙ながらに逃避行を決意した、ふたりの夜を思いだした。鬼がつながれる暗闇のなかで、目指そうとするのは絶望的に遠い場所。まわりにいる人びとの、ひそひそ話、せまってくる敵の足音。世界は、ふたりを押しつぶそうとしていた。 時計台の鐘が、ひびいている。街中にひろがっていく。上部の四面に時計がある、石づくりの塔。青白い月の光をあびる頂は、一本の尖塔となり天にむかってつきでている。すこしでも、神の恩寵に触れようとしている。高い時計台の鐘がなる。世界中にときを知らせながら、ふたりの決意を祝福しながら。 あの場には、世界にフリードリヒと、ジルヴィアしか存在していなかった。頂を万年雪に覆われたアルプスが、遠くからふたりをみていただけだった。 ブハラ、BUXORO ひろい草原をぬけてきた。大きな河をわたって、またステップと沙漠をこえてきた。風が通っていく。その日、はじめて南風が吹いた。馬糞を飛ばすつよい風で、ジルヴィアのコートはひらひらと舞っていた。気持ちがよくて、思わず襟をあけて、上着を思い切りひろげ、南風をかかえてふくらませたい。こんな開放感を味わうのは、はじめてだった。 交差点の赤信号で待っていると、ムスリムの若い男がフリードリヒにむかって会釈した。彼は振りかえり、だれもいないことを確認すると、つれだつジルヴィアをみた。不審げなフリードリヒの瞳に、彼女は囁いた。 「ベルボーイよ」 今朝、ホテルに入ったとき、不意に飛ばされた、洒落た紅い紐がついたジルヴィアのお気に入りの帽子をひろって手渡してくれた者だった。なるほど、そういわれれば。今朝、背の高いガラスの扉をあけ、重たいボストンバッグをはこんでくれたときは、赤色の制服をきていたと、フリードリヒは思った。 「やあ」と彼は、若い男にいった。 「すいません」 男は、申しわけなさそうな表情になった。 「食事をしようと思うのだが、どこか、おすすめはあるかい」 「ホテルがいちばん安全で、おいしいですよ」 「きっと、そうだな。夜は、そうしよう。でも、ようやっと町についたんだ。歩いてもみたいし。この街には、あるのじゃないのか、ホテル以外にも安全でうまい店が。どうだいいっしょに食べないか、通訳もして欲しい」 「ヨーロッパから、きたのですか」 「そうだ、バスにのってながいことね。気が滅入るほどね。でも、ほかにどこからくるっていうのかい」 「ここには、世界中から人が来訪します。トルコ人に中国人、インド人、それに、アフガン人も、タタール人も商売をしています。もちろん、ウズベク人が中心ですが、ロシア人もおおぜいいます」 「たしかに物騒だ」 「英語を話すものは、けっこういますよ。通じないところは、危険でしょう」 「君なら喋れる。言葉はトルコ語かい、それともアラビア語、いやペルシア語、もしかしてロシア語なのかい。これも縁だ。観光ガイドとして昼飯代は払うから、どこかでいっしょに食事をしよう。面白い話でもあれば、聞いてみたい。あたらしい土地についたんだ。新鮮な話を、聞いてみたい」 若い男は、ずいぶん考えていたが、やがて案内するといって歩きはじめた。大通りから路地にまわって、いくつか角をまがって、石畳の小路をだまってすすんでいく。ジルヴィアがフリードリヒの袖をひいた。心ぼそい表情で彼をみた。 つれられて入ったのは、大きな店ではなかった。食事時をすぎていたが、店内にはそれなりに客がいた。知らない言葉を、ベルボーイは店の主人にむかって話すと、ワインと羊の肉料理がでてきた。スパイスが利いた絶品だった。ウィーンを発ってからホテルをわたりついできたが、旅のなかでいちばんうまい料理だった。ふたりは、満足した。ベルボーイは幾度も注文をつげ、テーブルにはけっこうの量の皿がつみあがり、ワインの空き瓶が二本ならんだ。ながい昼食が終わって、勘定書きがでてきた。ベルボーイからわたされた紙切れをみて、フリードリヒは首をかしげて聞いた。 「単位は、なにかな。ポンドかい」 「いいえ。もし、その数字の一〇分の一のポンドでもだしてやったら、主人は大喜びするでしょう」 フリードリヒは、思案しながら一ポンド紙幣を三枚わたした。店主は、深刻な表情になって、じっとお札をみつめていた。ベルボーイが、なにかをいった。主人は、天井を仰いで叫び声をあげ、彼にだきついた。それから、なにかをいった。 「どうしたんだ」 「すこしだけ、待っていてもらいたいのだそうです」 ほどなく主人はやってきて、フリードリヒにワインのボトルをさしだした。ベルボーイが解説した。 「店で最高の、ボルドー産の白ワインだそうです。ぜひ今夜、ふたりで飲んで欲しいのだそうです」 フリードリヒが右手をさしだすと、主人は力いっぱいにぎり、店の外まで見送った。店主の家族も、ぞろぞろとあつまってきた。一〇数人はいたが、彼らは全員でふたりの旅の幸運を祈ってくれた。 「土産物でも、買いませんか」 店をでると、ベルボーイはいった。 フリードリヒは、考えた。今日の食事は、いい思い出になった。腹は満ちたし、小さく凍えていた心までが、つよい南風で柔らかく温められた。せっかくの楽しい思い出を、大切にしたい。いい記憶を、つくっておきたかったのだから。これでもう充分だし、ここで不愉快なことがあれば、もったいないだろう。 「荷物になるから、土産はいい」 「そういわずに、いきましょう。親父が、店をやっているのです。きっと、気にいるものがあります。記念になるから、買ったらいいですよ」 「また、旅にでるんだ」 「おくらせます。大丈夫です」 「遠くにいくんだ」 「大丈夫ですよ。みんな、そうなのですから」 フリードリヒは、困惑した。 「どうしよう」 「面白そうね」 ジルヴィアは、わくわくしながらいった。 どこを、どう歩いたのかは分からないが、石づくりの家並みがつづいていた。まわりとなにも変わらない家のまえでとまると、ベルボーイは、どんどんと木製の扉をたたいた。しばらくすると、黒いヒジャブを巻いた老女がでてきて、彼が何事か話すと、ふたりは招きいれられた。部屋は、薄暗くて静かだった。ベルボーイについて、せまい石の廊下を歩いてゆき、入り口とはべつの扉からでて、あきらかに違う建物に入った。冷たい感じのする石づくりの通路をすすみ、階段をおりた。静かで、自分たちの足音だけがひびく石段をのぼった。すると中庭にでた。横切ると、やはり石でできた平屋の建物があって、扉をあけてなかに入った。そこには家の主人と思われる、クーフィーヤをつけた年寄りがいた。 ベルボーイは、ちかくにあったテーブルのまえにおかれた椅子にふたりをすわらせると、家主と話しあっていた。 チャイが、はこばれてきた。 ふたりは、食後のうまいお茶を飲みながら、このわけの分からない状況をどう理解し、対処したらいいのか、と小声で話しあっていると、主人がやってきて、名刺をさしだしながら、にこやかな表情で話しだした。思いがけない、流暢な英語だった。 「話は、だいたい聞きました。ぜひ、みていってもらいたいのです。私の祖先は、この街で代々、家具を売ってきました。最高の品を、用意しましょう。ぜひ、気にいった商品をえらんで、買っていってください」 フリードリヒは、ジルヴィアとみつめあった。やや間があって、彼はいった。 「私たちは旅の途中で、この街に立ちよっただけなのです。遠くからきて、遠方へいくのです。明後日には、街を発つつもりです」 「ジェラールから、聞きました。いいでしょう。さあ、みてください」 主人はそういって、目の前にあったカーテンをさっとあけた。そこには、さまざまな家具がおかれていた。 「さあ、立ってください、若くて、美しい奥さん」 主人は、手をとってジルヴィアにうながし、なかにすすんだ。 「ジェラールは、今朝、あなたに会って、一目で夢中になってしまったのです。もう一度、そばでみてみたい。これは、普通の望みです。彼の希望を、アッラーは叶えてくれたのです。交差点で、あてもなくじっと待っていたら、また、そばでみることができ、なんと食事までご馳走になってしまいました。彼は、感激しています。アッラーに感謝しているのです。それで異国のヴィーナスに、この土地と彼のことを一生覚えていてもらうために、特別になにかを売れと、私にいうのです。シルダリアとアムダリアにはさまれた、聖なるソグディアナの地で、先祖代々、商売をやってきました。私だって、あなたになにかを気にいってもらって、必ず売ってみせます。どうです、みてください、この絨毯。素晴らしい。ペルシアの皇帝も、つかっていました。後宮の女たちが、このうえで腰をくねらせ、王を欲情させたのです。こちらの量感のあるのは、いかがですか。これも素晴らしい。明朝からの要請で、北京に一〇〇〇枚とどけたことがあります。ソグディアナのフタコブラクダがすべてあつめられ、街中の男が、キャラバンをくんだのです。その隊列は、延々と一昼夜もつづきました。半年をかけて、はるばると沙漠をわたった絨毯のうえには、紅、白粉で化粧をし、絹の衣で着飾った美しい女官たちが横たわったのです。彼女たちは、そうして食事を待ったのです。紫禁城は、たいへんな賑わいでした。ひとりの天子さまにお仕えするために、なにしろ宮女が九〇〇〇人、宦官が一〇万人、住んでいたといいます。ですから、綿密にくまれた食事の配給計画が、ちょっとした手違いでとどこおったりすると、もうたいへん。王宮のなかでは、飢えて死ぬ者が続出したのです。だから、すこしでも体力をつかわないことが、真剣にもとめられたのです」 「こちらは、最高のベッドです。すわってみてください。素晴らしいでしょう」 「凄くいい弾力だわ。固いし、大きいし」 ジルヴィアは、すわって腰を何度かうごかした。 「素晴らしい。その腰のうごき、ご主人を悩殺できる。ぜひ、ベッドで再現するべきです。このキングサイズのブハラの寝台は、ティムール陛下の息子、シャーブルの妃、ゴーハン・シャードが愛用したことで有名です。もともとは、アレクサンドロス大王の、お気に入りだったものなのです。大王は、マケドニアから起こって小アジアを平らげ、ペルシア帝国をやぶり、バクトリアまできて、バクトラで、あなたと瓜ふたつの輝く美しき娘、王女、ロクサネを手にいれました。人間の歴史とは、勇者と傾城の美女の物語です。大王は、そこからアムダリアのむこう、聖なるトランスオクシアナ、マーワラーアンナハルまできて、ロクサネと愛の日々をすごしたのです。そのときつかったのが、このベッドです。だから、これは、約束されているのです。ご主人に存分に可愛がられて、くりかえしおとずれるエクスタシーにつつまれることを」 「面白い話だ」 フリードリヒは、いった。 「その話がほんとうなら、ぜひとも買いたい。このベッドで、家内と大王の約束を果たしたい。心からそう思います。しかし、問題があるのです。先ほども申しあげましたが、私たちは旅の途中で、絨毯一枚だってもっていくことはできないのです」 「人もうらやむ、ヴィーナスのご主人よ。この女神のためなら、いったい、それがなんの問題になるというのでしょうか。ご主人、世の中の人は、だれもが誤解しています。ローマ帝国、ペルシア帝国、ムガル帝国、清帝国が、世界の中心だと信じています。そうではありません。世界の中心は、アムダリアの北、聖なるソグディアナにあるのです。みんなが辺境だと信じているこの地こそが、地球の文明のすべてをみてきたのです。私は、北京にもロンドンにも、いったことがありません。でも、そこがどういう町で、どんな政治が行われるのか分かっています。なにがよくて、どういった問題をかかえるのか、よく知っています。ここには、すべての情報がながれてくるのです。私たちは、時代も洋も問うことなく、たくさんの人をみてきました。だからあなたがたが、どういう方で、なんのために、ここにいるのかも分かります。エリザベス女王だって、ポルトガルからの船にのってアムステルダムを目指していた若くて美貌のマリアをみれば、すぐにすべてを理解したのです。うらやましい、傾城のご主人。あなたがこのベッドを欲しいと思えば、買えるのです。私たちは、世界のどの地にでも商品をおくれるのです。あなたがたの終着地は、どこですか」 「ネパール王国です」 「ネパールのどこですか」 「カトマンズです」 「それは、好都合だ。やはり大王は、約束を果たしたがっていると思われます。カトマンズには、妻の親族が住んでいます。必ず、おおくりしましょう。代金の半額を、前払いしてください。のこりは、商品をうけとったときに」 「ネパール人は、ヒンドゥー教徒ですよね」 「一般にはそうですが、家内の親族はチベット仏教徒です。妻も仏教徒でしたが、私と結婚したのでイスラム教徒になったのです。パミールより東は、チベット仏教を信仰している者が多く、西がわは回教徒がほとんどです。ここの地は、もともとはゾロアスター教徒の街でした。宗教は違っていても、いつでも敬虔な信徒です。それがいまは、つべこべいう奴がいて」 「そう、ここは、ソヴィエトですよね。以前してきた好き勝手な商売は、できないのではないですか」 「たしかに、やりにくいことはあります。ご心配なさるな。彼らがしたのは、ほうっておけばいいものを、さんざんにいじくりまわして、私たちが食べる分の牛と羊をへらしただけです。なんでも、マルクスの教科書には、遊牧民のことまでは、かいてなかったという話です」 「今日、ジェラールは、久々に腹いっぱい羊を食べたといって満足しています。世界がどう変わっても、私たちは約束をまもります。そうした信用がなかったら、東の果てからきた注文を、西の端までとどける商売が、どうしてできるでしょうか。ボルシェビキは、うまれてせいぜい五〇年ですよ。私たちは、ここで一三〇〇年間、商売をつづけてきたのです。イスラム商人のまえには、この地では、二〇〇〇年にもわたってソグドの商人たちが、おなじ商いをしてきたのです。運送料は、代金にふくまれています。大丈夫です。カトマンズには、妻の弟の子供で信用のおける男がいます。バスネットと、いうのですが」 カトマンズ、KATMANDU イヴォー・マンデルハイムは、ネパールの国際カトマンズ大学で、歴史学と宗教学の教鞭をとっていた。一九六〇年の夏にむかうころ、カトマンズには清々しい風が吹いて、山々は新緑に色づいていた。フリードリヒは、イヴォーを自宅にまねいて食事会をした。 「チベットは、なぜ、こんなに標高があるのかしら」 ローラは、地図をみながらいった。 「いい質問だ。ローラ。その話をしよう。さて地図帳で、チベットのページをみてみよう」 ローラは、地図をめくってイヴォーにみせた。 「これは、インドのものだ。だからチベットは、右のうえで切れている。こちらは、中国の地図だ。だから、西がわがない。ロシアのものもあるが、崑崙より南は切れている。ローラ、どうして、こんな地図しかないのだろう」 「チベットは、端っこにあるのかしら」 「そうだ。ローラ、その通りだよ。チベットは、端っこにある。では、地球儀をみてみよう。これではじめて、チベットを真ん中にすることができる。つまり、ローラの教科書をつくった人たちは、この国を端だと思っていたのだよ。ほんとうは、真ん中にすることもできたのに」 「チベットは、ウ・ツァン、アムド、カムの三つの地方からなる地球最大の高原だ。最大というのは、平均標高が五〇〇〇メートルで、地球上で標高四〇〇〇メートル以上の地域の実に八五%がここに集中する事実をさしている」 「うごいてきたインド大陸は、ユーラシア大陸とぶつかってひとつに融合した。超大陸パンゲアから分かれた九個の大陸が、つぎつぎに衝突し複合したユーラシアは、二億年まえにできた若い大地だった。辺縁部のプレートは柔らかく、インドがユーラシア大陸にぶちあたると、しずみこむ以上に突き刺さったのだ。その結果、衝突部分ではつよい褶曲が起こり、ヒマラヤ山脈が出現したが、北がわのチベットでは地殻が二重になった。崑崙山脈、祁連山脈にいたる、地球ではほかに例をみない通常の倍、七〇キロメートルの厚い大陸地殻をもつ、広大で平坦な高原が形成された。これがチベットだ。話は、まだまだつづく。この影響は、タクラマカン沙漠、ゴビ沙漠へとつらなっている。これらの盆地は、平均標高が一〇〇〇メートルを優にこえている。沙漠の北は、標高一〇〇〇メートルのモンゴルの草原がつらなっている。インド・プレートはユーラシア大陸を、北方に優に二〇〇〇キロ以上貫入し、バイカル湖でようやく大地の下にしずみこむ。近年、アラル海やカスピ海、黒海が、主に上流からながれてくる土砂のせいで浅くなり、消滅にむかうのとは違って、バイカルはいまも成長し、水深はさらに増しているのだ」 イヴォーは、ローラにチベットからひかれている、青く塗られた線を指さした。 「チベット高原からながれだす河は、アジアの全生命を育んできた。黄河、揚子江、メコン、サルウィン、イラワジ、ブラマプトラ、ガンジス、インダス、どれも名だたる大河だ。とりわけカムの地方には、南北に四つの河がながれている。この地の降雨量はすくないが、手つかずの森林があってアジアの水源は、まもられてきた」 「それで先生は、チベットにいってしまうの」 「もっと、若かったらね」 「ローラ、こちらにいらっしゃい。あとは大人の話だから」 ジルヴィアが、口をはさんだ。 ローラが自室にもどると、フリードリヒがいった。 「娘さんのことは、お聞きしました。残念です。なんと、申しあげたらいいのか」 「どういう最期だったのか、知っておくべきだと思ったのだ。それをしらべてやることが、のこされた私にできる、たったひとつの行為だと考えたのだ。はじめから、死んだと思っていた。戦前、ポーランドには、三三五万のユダヤ人がいた。そのうち、二五万人は、ロシアに脱出できた可能性がある。しかし戦争が終わったとき、ポーランドにのこっていたユダヤ人は、五万人あまりだったのだ。でも、しらべてよかった。一九四三年四月一八日から一九日にかけて、ワルシャワ・ゲットーに最後の狩りにきた、ドイツ警察、SS総督親衛隊の分遣隊、砲兵隊にたいし、ユダヤの人びとは、地下組織が調達した武器をとって戦ったのだ。決死隊が手榴弾をかかえて戦車の下にもぐりこみ、爆破させ、一度ばかりか二度までも、彼らを押しもどしたのだ。娘は、機関銃をもって戦った。一六歳だった。なんと、勇敢なことだったのだろう」 「たいへんな時代だったのですね。改めて、お悔やみを申しあげます。そうですか。先生は今年、定年なのですか」 「君たちが去ってしまうと、寂しくなる。すべての身よりをなくした私にとって、君の一家は、家族みたいなものだったから。でも、いい区切りになる。最良のときに海源さんに会うことができた」 「あの痩せた、黄色いチベット僧ですか」 その言葉で、イヴォーはだまった。額に皺をよせ、やがてフリードリヒをみていった。 「君のなかには、ぬけ切れない反ユダヤ主義がある。ときをかけて培われた考えは、簡単にはぬぐえない。ふだんは隠れているが、きっかけがあれば正体をあらわす。君がなにかにぶつかり、その衝突を理不尽だと思い、不合理だと感じたとき、怪物は頭をもたげる。正当化し、証明しようと、最新の学問がつかわれる。すべての知識が、動員される。今世紀は、文献学や人類遺伝学、比較言語学が用いられた。つぎの世紀は、遺伝子工学や機械知能、宇宙生物学が、人種や、民族、国家という言葉を正当化するために、使用されるだろう。つかわれる学問がどんなにあたらしく、方法がどれほど魅惑的にみえても、その根元は、ふるくて腐っている」 「私の、反ユダヤ主義ですか」 「そうだ、君のなかの。それが、ジルヴィアを傷つける。生きのこった者たちには、くるしみがある。ジルヴィアにも私にも、あのチベット僧にも。責任はないが、でも、なにかはできたのかも知れないという焼きごてが、夜中にいつも待っている。君には、またべつのものがあるのだろうが、それは分からない。ジルヴィア、海源さん、私のあいだには、おなじに感じる共通の部分をもち、すんなりと理解してしまう。だから、そのことで、彼女を責めるのは筋違いだ」 「私は、ダラムサラにいく。そこで、輪廻してうまれてきた子供たちに歴史を教えたい。この中央ユーラシアの大地。雪を頂く高い山々や、日がのぼり、しずんでいく果てなくひろがる青い草原。流沙が舞い、命をかけてわたらなければならない沙漠。そうして伝授されてきた、人間の歴史がある。それは、さらにつたえていかねばならない人類の遺産だ」 「観音菩薩のちかくで、生活できるのだよ。おなじものを食べ、いっしょのところに寝て、もしかしたら話だってできるかも知れない。仏教を終生の仕事としてきたのだ。そうしたものにとって、この機会をのがすことはできない。なんとしてでも、たとえそれが困難な道であったとしても、私は、いかなければならない」 「先生も、勇者だったのですね」 「なんだね、それは」 「ブハラの商人が、いっていたのです。人間の歴史とは、勇者と傾城の美女の物語だと」 「なるほど、そうだ。私は、勇者だ。そして、君も勇士だ。生きのこり、つぎの世をきずいていくものは、みんなつわものだ。それに、世界は、美女ばかりだ。だから、われわれには、未来がある」 フリードリヒは、思いだしていた。 「反ユダヤ主義」 「傷つけられる、ジルヴィア」 「責める」 あのときは、なんだか分からなかった。イヴォーがいいたかったのは、ほんとうは違う言葉ではなかったのか。 「すんなりと理解してしまう、共通の部分」 「なんだろう」 それは、悲しく惨めなものからできているはずなのに、好ましいところをひとつもみつけられないことなのに。きっと、激しい言葉や妥協のない拒絶、そうした「いま」をうんでいるに違いない感情。愛でも、憎悪でもないもの。 「ああ、なんということだろう。その感情をいま、言葉にできるのだ。ありありと」 「私が、悪かったのだ。恥ずかしい。そうだ、すべての原因は、私にあるのだ」 「もう、一度カトマンズにいこう。三人で、やりなおそう。なんとか、茂君をみつけよう。できるかぎりのことをしよう」 フリードリヒは、いった。 「ながらく、お待たせいたしました」 高いすき通る女性の声が、苛立ち気味の乗客たちが待つロビーに、アナウンスされてきた。 「計器不良のため、大幅に遅れていました、オーストリア航空、第一四便は、最終調整を終えました。ただいまより、みなさまを機内にご案内いたします」 故障で出発が遅延した飛行機が、ようやく飛ぶらしかった。 時間が無慈悲にたつのを感じながら、ローラは、二度と茂に会えないと覚悟した。ストーン・ロッジには、手紙をのこしてきた。もう彼は、あのホテルにはいかないだろうと、ローラは思った。 愛しい、茂に 父の許しがでて、両親と三人でカトマンズにきています。もう、かなり寒くなっています。 この地で、両親は二〇年暮らしていました。知りあいも多く、ネパールじゅうをさがしましたが、あなたをみつけられませんでした。あのヒッピーにも会えず、病院のカルテに本国の住所がのこっているかと思って、いってみました。自費診療あつかいで、手がかりはありませんでした。 結局、私は、茂のなにを知っていたのでしょう。いったい、あなたとは、なんだったのでしょうか。ふたりでいたときには、すべてが分かった気持ちになっていました。じつは、なにも知らないのです。また、インドにいったのでしょうか。帰国したのでしょうか。二度と会えないのでしょうか。私は、なにもつたえられずに、カトマンズを去ってしまったのです。あなたがストーン・ロッジにきて、マスターに聞いてもらう以外に、私たちが連絡をとる方法はありません。 あんな風にいっぽう的に、父は拒絶してしまったのですから、コンタクトをとっても意味がないと考えるのは自然だろうと思います。 あなたは、ジャパニーズで、法律家を目指している、茂。 そこには、一億の人びとが暮らしている。多くの法学部があり、無数の茂がいるのでしょう。さがせるだけはさがしてみようとは思いますが、いまはとても悲観的です。 私は、だれとも結婚しないでしょう。この手紙が、茂の目にとまることだけを、観音さまにお願いしています。 あなたの、ローラ・バルデンシュタイン 秋も終わるころ、カトマンズにて 「はやく、のぼってください」 そううながされて、最後に、ローラはタラップをあがっていた。その一段一段が、確実に茂との距離をひろげていくと彼女は感じた。とうとう、タラップは終わってしまった。 「ながらく、お待たせいたしました」 扉のまえで、端整な顔立ちの三〇歳をすぎた落ちついた感じの客室乗務員が、ローラに笑いかけた。 彼女は、すこしこまった顔になった。そのとき、車のドアがとじる音が耳にとどき、背後で大きな叫び声を聞いた気がした。ゆっくりと振りかえると、ひとりの男が立っていた。それは、みじかい髪の痩せた男性で、一生懸命、気狂いになって女の名前をよんでいた。 その瞬間の映像が現実のなかで切り離され、目の前にほうりだされた気がした。ローラは、一目散にタラップをおりていった。それは確実に、茂との距離をちぢめていた。 「ローラ」 茂は、大きく叫んで、彼女をだきしめた。 ローラの枯れてしまったはずの瞳から、また大粒の涙がつたいはじめた。それは、無尽蔵にあふれてきた。ひとつひとつが、ヒマラヤの尾根を形づくる雪の結晶に似て、純粋ですき通り、つきることがなかった。 「こまります、はやく、あがってきてください」 女性の客室乗務員は、大声で叫んだ。 「いいんだ。私たちもおりる。すぐに、出発してくれていい」 フリードリヒは、ジルヴィアとならんでふたりでタラップをくだってきた。 「ほんとうに、いってしまいますよ」 乗務員は、大きな声をかけた。 「とても、荷物はおろせません。これだけ遅れてしまっては、そうした時間をとることはできません」 客室乗務員は、タラップをおりていくふたりにむかって大きな声でまたいった。 「いいんだ。むこうの空港に、とめておいてくれ。それが無理なら、すててもかまわない」 フリードリヒは、振りかえっていった。 「これ以上、遅れることはできません」 今度は、機長がでてきてつげた。 「大丈夫だ。もうこれ以上、遅れるはずがない。安心して、飛んでいってくれ。遅れていた原因が、消滅したのだ」 フリードリヒは、いった。 タラップをおりてくると、茂にむかって右手をさしだした。彼は、その手をつよくにぎりしめた。フリードリヒは、さらに力強くにぎりかえした。握手が終わると、ジルヴィアは、茂を抱擁して彼の頬にキスをした。 飛行機の扉がしめられ、タラップが移動をはじめた。飛行場の真ん中に立つ四人をのこし、轟音を発しながら、ゆっくりとうごきはじめた。空港職員が、飛行機をぼうぜんと見送る彼らにむかって、走りよってきて案内をはじめた。 茂が気がつくと、海源をのせたバンは、もういなかった。 「三台も、のり変えたのよ。どの飛行機も、そのたびに計器がまったくうごかなくなっておろされたの。偶然でないって、信じていたわ。一〇時半の出発予定だったのよ。離陸するのに、五時間以上もかかったのよ」 フリードリヒが用意させた待合用のひろいレストルームで、ローラは真剣な表情で話した。 「君が、きてくれてよかった」 彼は、いった。 「娘に一生、恨まれるところだった。これで、孫の顔をみることができる。大きな希望がうまれた」 「ほんとうに、よくきてくれたわ」 ジルヴィアはそういって、茂の腕を優しくにぎった。そのとき、彼女は驚いた表情になり、顔をあげて彼をみつめた。 「このブレスレットは、どうしたの」 「ある人から、もらったのです。まるで、あなたのブレスレットとお揃いでつくられたみたいに、よく似ていますね」 彼が答えると、彼女はいっそうけげんな表情になり、 「みせてもらえますか」と聞いた。 フリードリヒも、ジルヴィアも、茂が腕輪をはずすのを、みつめていた。右の手首からとったブレスレットを、彼女は大切そうに手にし、じっとながめていた。 小物いれのなかから、柔らかなクロスをとりだし、腕輪の内がわの部分をこすっていたが、様子は、しだいに真剣に、最後は一生懸命になった。しばらくして布をおくと、ジルヴィアはフリードリヒをじっとみつめて、「あなた」といったが、その声は震え、瞳がうっすらと濡れて光ってみえた。 彼女からわたされた金のブレスレットを、彼は手にとり、眼鏡をはずし、内がわの部分を凝視した。 「なんて、ことだ」 フリードリヒは、胸奥からでた、押し殺したひくい声で絶句してジルヴィアをみつめた。ふたりは、だまったままブレスレットをみいっていた。 茂には、フリードリヒの目にも、なにかが光ってみえた。 そこには、ドイツ語で、「 alle in Liebe , zu Silvia 」とかかれていた。 そのとき、神々しいすんだ音が聞こえたと、茂は思った。激しく情熱的で、つよいひびきだった。高々とかかげられた、タンバリンのリズムが聞こえた。 デリーの駅の構内で出会った、ふっくらとした頬の、天使を思いだした。ガンガーのちかくにいきなさい、若い尼僧は教えてくれた。 アンナプルナをみた夜、天空にはこんでいってくれた風が、どこから吹き、だれが戦がせたのか、分かった気がした。 すべてが、輝いていた。 そして、思わず呟いた。 「そうか。一ルピーは、五〇パイサ、二枚」 世界は曼荼羅のなかで、九五枚、了