象は二度とぶ 由布木 秀 そこには、みたこともない花がさき。 思ったこともない、動物がすんでいる。 地平の果てまでつづく、幅一キロもある大通り。 無数の不可触賤民が、うめつくしている。 道の中央に、 かがやく白亜の大理石からなる、ひろい舞台がある。 彫りのふかい、アーリアの女。 かがやく、その漆黒の肢体。 背までしたたる、つややかな緑の黒髪、 はち切れんばかりの、半球の乳房、 狂おしくくびれた、ほそい胴。 折りしも、天空にあらわれた青にきらめく大鷲を、 みつめ、 ラピスラズリに飾られた、その両腕を高くかかげ、 うけいれようと、している。 ああ、彼女こそ、この国の王の娘。 千年が、一日とおなじながさで、くりかえされ、 指をのばせばいつでも、神の衣がたれてくる。 あでやかに虜にし、夜ごとにくるしめたインド。 いかなければ、ならなかった。 なぜなら、彼女のシャクティーとその世界は、 だれの、ものでもない。 ただ、私のものだったから。 神の住むちかくで 一、シークの男 茂が歩いていたのは、片がわ四車線もある舗装された幹線にそってしかれた石畳のひろい歩道だった。いつもならパラソルをひらいて、ささやかな陰と潤いをあたえてくれるサトウキビのジュースを売る者も、肌の温度さえ感じるほどにちかづき、まとわりつく闇ドル買いの男もいなかった。 「若いの。異国の者よ。わざわざここまできたのだろう。旅が目的などと、馬鹿げた話をする者よ。おまえは憐憫を知らないのか。そんな無意味な金をもっているのに、どうして喜捨を考えない。金銭でなくてもいい。あたえるものは、気持ち以外ならなんでもかまわない。背負ったリュックには、荷物がいっぱいつまっているではないか。全部とはいわない。ひとつでもいい。それが旅をつづけるのに、どうしても必要だというのなら、きている青いシャツの一枚でもかまわない。どうしてなにも施さずに、この貧しい私のまえを歩いていけるのか」 茂の瞳を食い入るほどに直視しつづける、乞食たちもいなかった。ただ南中時の太陽が輝いていた。 茂はこのときインドの首都、デリーの中心にあるコンノート広場を目指していたが、いい選択とはいえなかった。街は死の静けさにつつまれ、すべては休業状態だった。そこには、風もふくまれていた。もちろんこのとき、わずかながらの気流が吹いていたとしても、状況はなにも変わらなかったに違いない。おきかえられるはずの大気も、やはり熱く乾いていた。 この強烈な日盛りのなかを休むことも知らずに、うろうろ歩きまわっていたのは、日本人しかいなかった。欧米の旅人たちは、先祖からの知識のたくわえをもっていた。イギリス人はもちろん、ドイツ人でもアメリカ人でも、父や祖父がインドを旅し、夜のお祈りが終わった寝床のなかで、不思議な国の冒険談を聞きながら育ったのだ。だから若いカップルが荷物をかついで、新婚旅行としてまわっている。それが日本人ときたら、すべて一世代でやらねばならなかった。有益な情報をもちあわせないのだから、情念の赴くままにこの国をさ迷っていた。どんなに人里から離れた、英語も通じない田舎にいっても、日本人と巡りあうのは、わが民族がとくに好奇心がつよいのではなく、わけが分からず無鉄砲だったにすぎなかった。 わが国にとってインドはまったくの異国で、大英帝国の支配とガンジーくらいしか知らない。ここに世界に伍す文明圏があるとは、歴史でもしっかりとは習わない。ただインダス文明という名を、とうとつに知っているだけなのだ。 世界には、四つの文明圏がある。 まずは、欧米。ゼウスがうまれ、墓もあるクレタ島の文明を始原とし、真理を目指したギリシア哲学を礎に、ローマ帝国が輝かしい歴史をきざみ、そのうえをキリスト教が覆っていった。ルネサンス、マニエリスム、バロック、ロココ。フランス革命と、産業革命に彩られた絢爛とした世界、西洋。 それにたいするは、東洋。黄河文明に発し、漢帝国によって完成する史記にかかれた中華の世界。儒教、道教、仏教が混交し、漢民族と夷狄が辺境をめぐって敵対と和合をくりかえした東アジア世界。 いっぽう西アジアからアラブをふくむ、アフロユーラシアにことなる文明が存在する。アフリカでうまれたヒトは、大地溝帯をぬけて紅海に辿りつき、そこから分かれて独自にふたつのカルチャーをきずいた。エデンの園からながれでた、チグリス・ユーフラテスとナイルは、肥沃な三角地帯とナイルデルタをつくり、それぞれに繁栄した。ふたつの文明は、アレクサンドロス大王によって混交され、サラセン帝国によって統一された。沙漠からうまれたイスラムの世界、中洋。 しかし、これらがすべてではない。ヒンドゥーの世界は、どこにも属していない。古代インダス文明をつくったドラヴィダとインド・アーリアが混交し、輪廻とカーストが、ヴェーダとともにたえることなくつづいてきた。ヒマラヤによってとじこめられ、重層的に構成された南アジア世界。あらゆる民族、思想、宗教をひたすら飲みこんできたブラックホール。その文明は、深洋とよぶにふさわしかった。 この小説は、深洋世界と、そこをとりまく中央ユーラシアの物語である。 茂が自分の無思慮を後悔しながら、公園の入り口ちかくまで辿りつくと、ひとりの男性が立っているのがみえた。白いリュックを背負い、ながい髪を肩までたらし、口ひげをたくわえた若い男だった。背丈は茂とおなじ一七〇センチくらいで、とくに太っても痩せてもいなかった。襟首のボタンをいくつかはずしたチェックの長袖のシャツをきて、ゆったりとした白いズボンをはいた男は、太陽に背をむけ腕をくみ、宙をみつめていた。彼のまえには、八車線の道路がひろがっているだけだった。風も欠如した静寂が支配する炎天のなか、身動きもせず、ただじっと立ちどまる様子は苦行僧にも似ていた。太陽の熱も光も男には一切関係がなく、自分の肌が焼かれ干からびるのは、生存するかぎりとうぜん出会うはずの、通りすぎるひとつの瞬間だと信じているようにみえた。その姿は、あらゆる生物を排除する灼熱の路上と、緑のしげった木々、褐色の土の匂いをもって、微かな命がまだあると感知させる、公園とをつなぐにふさわしいモニュメントといえたかも知れない。荷物を背負う像は、日本国民の勤勉の証しとして小学校の運動場などにつくられているポピュラーな作品で、モチーフとしては違和感を覚えなかったが、この場面ではいかにも不適切に思えた。さえぎるもののない日盛りのなかで、帽子ひとつかぶらずに無分別にも立ちどまり、成り行きにまかせようと試みているのは、あきらかに日本人だった。男はぼうぜん自失とし、立ったまま失神しているようにみえた。 「おい、大丈夫かい」と茂は声をかけた。そのひびきに、男はゆっくりと首をまわし、「よう」と答えた。それが裕明だった。額からは汗が吹きでて、こぼれていた。 「なにをしているのか」と茂は聞いた。 裕明は、「考えている」と答えた。 茂は、はっとした。その言葉は、思いもつかないものだった。 「なにか飲まないか。冷たいものでも」と茂はさそった。 「それは、いい考えだ」 裕明は、熱と喉の渇きに、いまはじめて気がついたという表情をくずすこともなく、うんうんとうなずいた。 ふたりは、ひろい車道をわたった。かんかんに焼かれたコンクリートが、靴のゴム底をこがす臭いを感じて、最初に目についた店舗に入った。 店は、石畳の歩道に面したところにあった。直射の日光をよける軒が、道にむかってながくつきでていた。庇といっても金属で固定されたテントみたいなもので、赤と黄色のストライプの派手な色をしていた。店には特別ドアはなく、石畳の歩道に面したところに、二メートルくらいの白っぽい木製のカウンターがちょうど腰の高さまであった。そのうえにミキサーがのり、となりにはバナナとオレンジがおかれていた。店舗はブロックででき、右がわは灰色の壁になり、カウンターとのあいだの、なにもないところが入り口だった。鰻の寝床に似た、ほそながい小さな店で、手前と奥に白いテーブルがふたつならんでおいてあり、かるそうな椅子が三脚ずつあった。客のいない薄暗い店屋の天井には、三枚のグレーの羽からできたプロペラ式の扇風機が、自分の存在が無意味であるのを知らせながら、ゆっくりとまわっていた。店は外の熱気がそのまま入ってきたが、なんといっても日陰の力は絶大で、裕明と茂は歩道がわのテーブルにすわった。 「バナナか、オレンジか」 ターバンを巻いた、黒い男が大声で聞いた。店主は四〇歳をすぎたくらいの、いかにも挑発的な、目つきがするどい背丈が二メートルもあるかと思われる大男で、胸の厚みは相当なものにみえたし、ひきしまった腹をしていた。半袖のティーシャツからはみでた腕は毛だらけで、右の手首には、どんな人にもみ落とすことができない、ぎらぎらと銀色に輝く、ぶ厚いブレスレットが嵌められていた。襟のない木綿のシャツをきて、襟首から飛びでた胸毛もながく、もじゃもじゃして、この男がいったいどのくらいの体毛で覆われているのか、見当もつかなかった。浅黒い太い首には、金属製のネックレスがかけられ、先になにかが吊されていたが、服で隠され、みぞおちの部分がふくらんでみえた。白い上着の胸ポケットに、ほそながい棒が刺さっていた。それが、「自然に生えてくるものは、切ってはいけない」というシーク教徒の厳格な戒律によって、伸ばし放題になった毛をとかす櫛なのだろうと思われた。顔には部分といえるところはなく、一面の毛だらけで、眉はこく、目は爛々とふたりをみつめていた。うすくて白い木綿の半ズボンをはき、露出した膝からサンダルばきの素足にいたるまで剛毛が支配していた。ふたりがバナナジュースを頼むと、黄ばんだターバンを巻いた男は、飲み水が入ったプラスチックの容器とジュースをはこんできた。テーブルのうえの金を鷲掴みにし、水と果汁をのこしてカウンターにもどっていった。 裕明と茂は、冷たいジュースを飲んだ。タオルをだしてぬぐったが、汗は止め処もなく吹きでていた。ふたりはこの異様な暑さについて話しあい、それから身の上話をした。茂は三ヵ月インドを旅行して、今回はカシミールから南におりてきたといった。裕明は、六年間旅をつづけていると話した。バクダッドから、陸路でカイバルをぬけてデリーにきたとつげた。 この話は、茂には意外だった。もともとボンベイからまわりはじめた彼は、パキスタンからイランにぬけてみたかったが、銃撃戦が起こっていけないとつげられ、断念したからだった。すこし考えてから、 「アフガンは、内戦が勃発していて入れないといわれた。大丈夫だったのか」と聞いた。 すると裕明は、「たしかにそうだが、茂。それは、普通は許可しないということで、絶対に通れないわけではない」と平然と答えた。 茂は、「あっ」と思った。考えもしない答えにとまどい、ややあってから裕明に聞いた。 「普通ではない、のか。それは、具体的には、なにを指すのか」 「茂。アフガンで一〇ドルだしたら、絶対に普通ではないんだ」 彼は、平然と答えた。 はなたれた端的な言葉は、茂のまえできらきらと光っていた。その瞬間、もう裕明は、尊敬すべき偉大な男だった。なぜなら、出会って小一時間もたたないあいだに、二度も彼を驚かせたのだった。 裕明は、茂よりもふたつ年うえで、すでに六年間世界をさ迷っていた。もちろん家族の者は、あきらめていた。原因のなすりあいも一巡し、末っ子として甘やかした父親の責任がもっとも重いとされていた。裕明本人も、なぜこうなったのかすっかり分からなくなり、さらなる思考は放棄され、当て処もなく旅の生活をおくっていた。ふたりは、いっしょにインドの大地を周遊する定めにあったが、裕明はずっと兄貴分だった。この関係が成立したのは、年齢でも旅の経験でもなく、ただ邂逅の出鼻で彼が驚かせたためだった。もっと正確には、驚かされたと茂が勝手に感じたことによったのだった。 「ひどくあれた、すさまじいところだった」 裕明は、カイバル峠の話をはじめた。 その峠は、インドと外部世界をつなぐ、唯一の道だといっても過言ではなかった。もちろん、追われれば人はどこへでも逃げていく。チベット動乱では、ダライラマをはじめとするチベット難民は、すべてヒマラヤをぬける道ともよべない場所をこえてきた。それは、死を覚悟しての緊急避難路で、通常のルートではなかった。三〇〇〇メートル級の山並みが脈々とつらなるアフガン国境には、カイバルのほかにも、いくつかの名高い峠は存在する。なかでも、ポーラーン峠はふるくから有名だった。南部のバローチスターン丘陵には、南北につらなるスライマーン山脈と中央ブラーフイ山脈との鞍部に、全長九〇キロにわたる回廊状の隘路が存在する。そこは、インダス文明の主都モヘンジョ・ダーロと、メソポタミア文明とをつないだ歴史上かけがえのない峠だった。しかし、それは紀元前三〇〇〇年紀の話だった。 カイバル峠は、アフガンの首都カーブルと、ムガル帝国の都デリーをむすぶ、たったひとつの道路だった。この店の主人、つねに戦いに備えるシーク教徒の国カリスタンは、道の真ん中、パンジャブ地方にあり、外部世界からの侵入勢力の通過点にあたっていた。さらにパンジャブは、イギリスからの独立にともないパキスタンとインドに分割された。だからヒンドゥー教の改革運動であるシーク教徒の歴史は、戦いの連続だった。彼らは生活の細部にいたるまで、戒律によって暮らしている。神にそむいて生きるよりも、戦って死ぬほうをえらぶ戦闘民族である。第一次世界大戦時、イギリス領インド帝国陸軍の主力部隊は、シーク族とネパールのグルカ族によって構成された。 インドについて考えるには、地球上の陸地がどうやって生成したのか知らねばならなかった。われわれの住む大地は、地殻としてどろどろしたマグマのうえに浮かんでいる。地球のコアから高温のマントルが、さかんに吹きでてくる。この熱い柱、ホットプルームがアフリカとハワイ沖にある。もちあがってきた大量のマントルは、対流を起こしてどこかで冷えてしずみこまねばならない。そこがユーラシア大陸の真ん中、パミール高原に位置する、コールドプルームになる。 超大陸パンゲアの中央にホットプルームがうまれ、陸地はさけはじめる。ほぼ一〇に分かれた大地、シベリアも、中国も、インドシナも、がんらいべつべつの大陸だったが、パミールにむかって移動し、衝突をくりかえして、約二億年まえユーラシア大陸の原型ができた。さらに四五〇〇万年まえ、インド大陸がコールドプルームにひきよせられ、ぶちあたった。もともとあった地殻の下にもぐりこむというより、インドはほとんど突き刺さってユーラシアが完成した。この力がヒマラヤをうみ、ヒンドゥークシ、カラコルムの山塊をうみだした。こうしてインドは、図面上大陸と地続きになったが、実際には生成した山脈によって中央ユーラシアから切り離され、孤立したのだった。 インド大陸はインドシナにもぶつかり、ミャンマーとのあいだにはアラカン山脈とパトカン山脈をつくった。夏のモンスーンの時期に、ベンガル湾から吹く湿潤な大気が、東西に聳える高いヒマラヤ山脈の南に雨をもたらす。熱と大量の降雨、そこに大密林地帯がうまれる。歴代中国のどんな強力な王朝も、インドシナ半島をぬけるルートで、この国に侵入することはできなかった。 衝突は、アフガンとのあいだにもスライマーン山脈を形成し、さらに偏西風のながれは、ここを山岳地帯に変えたのだった。決して楽ではない荒地に、ただひとつの道がつくられた。これがカイバル、インドと外部の世界をむすぶ唯一の通路だった。すべてが、「よいものも悪いことも」、この峠によってもたらされた。これを通って、中央アジアに暮らしていた遊牧民、アーリア人たちが何度もくりかえし南下した。マケドニアの王、アレクサンドロスもここからきた。そして、シャカ族、フン族、トルコ人、モンゴル人。だれもが、ここを通過しインドに入りこんできたのだ。玄奘三蔵もヒマラヤを迂回し、カイバルからインド大陸に入り、仏典をたずさえてこの峠を通ってアフガンにでて唐にもどった。 勢いがある異民族がカイバル峠をこえてやってくると、戦に負けた民族は逃げていく。しかし出口がないのだから、奴隷になるしか生きのこれない。女をうばわれ、牛馬どうぜんにあつかわれ支配されても、心までは家畜になれない。人であるかぎり恨みは消えない。この国は、いつでも内部に不和をかかえている。カースト制度では、あらゆる部門が専門性をもち、分をこえた仕事はできない。この国には、社会に普遍的な義務はなく、なによりも「身分」としてのダルマが存在している。祭儀がバラモンの専権事項であるのとおなじく、戦いはクシャトリア独自の仕事で、ほかのヴァルナが立ちいる問題ではない。世の中がどうなろうと、みずからのカーストは固定され変化しないのだから、主人はだれでも、おなじだったのだろう。だから、カイバルをぬけてくるあたらしい力、勢いのある民族と戦えば、つねに負けやすい構造ができていたに違いない。現代にいたる四〇〇〇年を通して、この大陸を統一できた者は、ひとりもいなかったのだ。史書のない国にながい時間がすぎて、多民族、多言語、多宗教の複雑で重層的な社会がうまれたのだった。 「つぎも、バナナでいいのか」 とつぜん、男は聞いた。 「そうだな、冷たい奴をな」と茂が答えると、裕明も、もう一杯もらうといった。 大柄なターバンの店主が、右の手首につけたぎらぎらと銀色に光る、ど派手なブレスレットを誇示しながら、バナナと氷を入れてミキサーをまわすと、ふるいモーターは、いまにも壊れそうな叫びをあげた。店のなかは蒸し暑く、汗がじっとりと吹きでていた。悲鳴がやむと、男はバナナジュースを黄色っぽい金属のお盆にのせて、もってきてテーブルのうえにおき、太い毛だらけの腕をくみ、するどい目でふたりをじっとみおろした。彼らは、だまって財布から各々二ルピーを机にとりだした。男は、まずその金を左手で鷲掴みにしてポケットにねじこんでから、銀色のブレスレットが輝く右の手で氷の入ったバナナジュースをふたりのまえにおいた。 二杯目のジュースも、冷たくてうまかった。 「武器を、もっている」 茂が、裕明をみつめていった。 「あの腕輪のことか」 裕明は、意味が分からずに聞いた。 茂は、この店の主人がシーク兵士として正装していると話しだした。 シーク教徒の戦闘員は、「カルサ」、清浄なるものとよばれ、五つのKをつねに身につけている。シークの男は、生涯、毛髪、Kesを切らないといわれ、ターバンは、ながい頭髪をまとめる格好な小道具となる。伸ばし放題の髪をととのえる、櫛、Kanghaも、つねに装備しなければならない。兵士は、専用の半ズボン、Kachを着用する。そして、カルサであるのを誇示する最良のものは、鉄製の腕輪、Karaになる。さらに、短剣、Kirpanを携帯するのも義務だから、男のみぞおち部分がふくらんでいるのはそのせいなのだ。 もともと、シークという言葉は、「規律」を意味する。禁酒、禁煙も、名前の最後にライオンを表現する「シン」という単語をつけるのも戒律で、彼らはつねに臨戦態勢をとっている。一八世紀なかば、ムガル帝国の衰退にともない、さまざまなアフガンの勢力がカイバル峠をこえ、くりかえしデリーに侵入した。通過点のパンジャブ地方は、その都度、激しい混乱に落ち入り、聖地アムリツァルにつくられた神の寺ハリ・マンデルは、くりかえし破壊され略奪をうけた。騒乱のなかで、シーク教徒は特徴的な外見から攻撃の好対象となった。ターバンをとり、ひげをそってしまえばヒンドゥーと見分けられないにもかかわらず、彼らは殉教した。巻き布をすてて逃れたものは、非難されたという。不屈のシーク教徒は、ハリ・マンデルを再建し、一八〇一年、カリスタンを建国した。 シークは、ヒンドゥーの改革運動で、カースト制度を否定してうまれた。しかし、今日のシーク族には、カーストが存在している。この点は、ジャイナ教でもまったくおなじなのだ。聖ユダ・トマスの伝道で名高いインドのシリア系キリスト教会は、いくつかの宗派に分離している。起源のあたらしいカソリックでさえも四つの集団に分かれ、さらに不可触民出身のキリスト教徒は、独自の教会をもっている。ただ仏教だけが、こうした考えに馴染まず、その結果、インドでは衰退した。 団体旅行で管理されていれば分からないかも知れないが、この国を自分の足でうろついていみれば、どうしたってカーストは目に飛びこんでくる。インドは、さまざまな点で不合理で納得できないが、なかでも氏姓(ジヤート)の実在は群をぬいている。茂だって、自分がどのジャートに属するのか考えはじめる。日本にはカーストがないなどと主張すれば、馬鹿にされ、もっとしっかり現実をみろといわれるだけだ。日本人のほとんどは、この事態に自分が仏教徒であると気がつく。明治になるまで「ゑた」と呼称された差別民がいて、今日でも部落問題につながってきるとは聞いても、だれもカーストなんて考えない。日本人は。親切で優しい。だいいち公平だしと考えだすと、じつは、それが釈迦のふかい教えなのだと思いあたり、痛く感動して頭をまるめて出家にいたる者もいる。そうした剃髪の青年は、首から数珠をかけて、この国を行脚している。念珠は、例外なく大粒の立派なもので、するどい眼光とよく似あっている。こうした行動も理解できるほど、神がちかくにいると茂は感じた。 この国は、宗教の坩堝といわれる。ボンベイの街角の寺院で、火を焚き、銅鑼を鳴らし、拝む光景をみた。沈黙の塔で有名な拝火教は、ペルシアで禁教となり、ながい歴史のなかでこの街に辿りつき、不動産の過半数をしめると聞いた。ボンベイの顔、素晴らしいタージマハル・ホテルは、一族の繁栄の象徴だといわれる。 あまり興味もなさそうに聞いていた裕明は、そこで話をやめると意味ありげにうなずいた。それから、「金にならなきゃ、宗教なんてやらないよな」といった。バナナジュースを飲みほすと、この問題についてコメントひとつしないで、天井のプロペラが無意味にのろのろとまわるのをぼうっとながめる彼を、無神論者に違いないと茂は確信した。 「つぎも、バナナでいいのか」 とつぜん、大男が話に割りこんできた。 「いやに、なるよな」 裕明は、両手でながい髪をかきあげながら、うんざりとした調子で、溜め息まじりにいった。日本語だった。 顔中にひげを生やし、ターバンを巻いた男の胸の部分には、ふくらみがあった。肌は浅黒く、充血した目でふたりをじっとみおろしていた。 「たしかに、なにかをもっているな」 裕明は、男をみながらいった。 茂は、「いいよ、ふたつな」と右の指を二本立てた。 それで店主がバナナをむき、右手ですくいあげた氷をまぜてミキサーをまわすと、機械はまた悲鳴をあげた。果物は、氷塊といっしょになって粉々にくだけ、泡が立った。男は三杯目のバナナジュースをもってきて、テーブルのうえの四ルピーをポケットにねじこみ、ジュースをふたりのまえにおいた。この国は、なんでも金と交換だった。 「鉄道は、やられたみたいだな」と裕明は今朝の新聞を話題にした。 そこには、先週カシミールにふった雨がカルカッタに大洪水をもたらし、五〇〇人以上が死んだとかかれていた。 「どこへ、いくつもりか」と茂は聞いた。 「タージを、みてみたい」 「そうだろうな。エローラもよかった。フラッドで、どちらもいけないだろうな」 「だいぶ、死亡したらしいな」 「いっぱい、死ぬのだろうな」 「だれも、数えはしない」 「こんな、どん晴れの暑いなかで、洪水で死ぬのは、どんな気持ちなのだろうな」 「天気のことなど、考えないのだろう」 「そうか。死ぬときには、なにを思うのだろうな」 「なにも、考えられなくなるのじゃないのか」と裕明は答えた。 外はまだ日盛りで、ときおり黒塗りのセダンが猛スピードで走りぬけると、街はまた死の静寂に支配された。バナナジュースの氷は、こまかく粉砕されていたのでどんどんとけだし、三杯目のジュースは水っぽかった。三杯飲むと、でた汗の半分くらいは回復した気がした。 「つぎも、バナナでいいのか」 とつぜん、男が会話に割りこんできた。 その言葉を聞くと、両肘をテーブルのうえにつけて手をくんでいた裕明は、眉間に皺をよせて目をつむり、口を真一文字にむすんだ。静かな時間があった。やがて目をひらくと、テーブルにおかれた空のコップをみつめ、首をあげてシークの男をみあげ、どすの利いたひくい声で、ぼそっといった。 「ふざけんな」 日本語だった。意味は分からなかっただろうが、雰囲気はつたわったはずだった。 「もう、いいのか」 ターバンの男は、ふたりをするどい目でみおろしながら、また聞いた。 「もう、用はないのか」 ふたりがだまっていると、太いひくい声でいった。 「飲み終わったなら、おしまいだ。ここは、飲用者、専用の場所だ。用がないのなら、もう帰れ」 ふたりは、無言でじっとみかえした。 ゴリラにみえる大柄の店主は、毛むくじゃらの太い腕を厚いたくましい胸でくみ、彼らがすわったテーブルのまえで背筋を伸ばし、大きな目をむき、仁王立ちになって裕明を傲然とみおろしていた。右の手首には、銀色のカラーがぎらぎらと輝いていた。さらに太い腕をくみなおすと、右手の人差し指を裕明にむかって立て、目をみすえて大声でわめいた。 「ここは、休憩所だ。バナナジュースは、サービスだ。水を飲んでも、三〇分で二ルピーだ。分かったか」 ゴリラの咆哮は、蒸した室内に木霊した。裕明がだまって、じっと自分を睨みかえしているのをみると、大男は口をあけて大きく息をすいこんだ。さらに、かみつかんばかりの勢いで、なにかを唸ろうとした。 そのとき、裕明はとつぜん床のリュックをとりあげた。不意をつかれて、シークの男は身体をすこしのけ反らせた。彼は、紐をといて荷物の中身をごそごそ整理すると、茂をみて、立ちあがっていった。 「帰ろうぜ。長居しすぎたらしい」 その言葉で、茂も立ちあがった。彼は、かなり不愉快だったが、この場面では仕方がないと思い、床のバッグをもちあげた。 裕明は、リュックを背負うと、なおも腕ぐみして傲然とふたりをみおろしている店主にむかって、「せっかくの昼休みの時間、仕事をさせて悪かったな」と英語でいった。その言葉を、シークの大男は満足そうに聞き、ゆっくりと何度かうなずいてみせた。 「おわびに、これをやるよ。手をだしてくれ」 そういって、裕明は右手でズボンのポケットをさぐった。ずいぶん寛容な奴なのだなと、茂は思った。 「手を、だしてくれ」 そういって、裕明はにぎりしめた右手をさしだした。 シークの男は、日本人の異質な感覚に驚いていた。この場面で、まさかチップがでてくるとは考えてもいなかった。男は、くんでいた腕をひらいて、ふたつの大きな手のひらをさしだした。 裕明は、かるくにぎった右の拳を、あわい黄色の大男の手掌においた。左手をつかって自分の右手を、大きな男の手のひらでつつませながら目をみつめ、「充分に冷えた、素晴らしいバナナジュースだった。こんなにうまいジュースを飲んだのは、うまれてはじめてだ」といった。 その感謝の言葉に、大男はやや表情をくずして大きくうなずいた。ぬいた右手もそえて男の両手を裕明が左右の手のひらで優しくつつみこみ、「邪魔したな、それじゃおれたちは、これでいくから」とつげた。 大男は、彼の目をしっかりとみて、「サンキュー、サー」といった。 ふたりが白いカウンターとブロックのあいだのせまい通路をぬけたとき、後ろで悲鳴が聞こえた。なにかが、茂の足元に飛んできた。小さな、緑のカエルだった。 裕明は振りかえり、両手を胸のまえにひろげてあきらかに驚いているシークにむかって、「これもチップだ、とっておけ」といってポケットから、なにかを投げた。それは、縄みたいなものだった。また、悲鳴が聞こえた。 「これもチップだ、遠慮するな」 裕明は、さらにポケットから縄状のものをいくつかとりだして男に投げた。茂にはよく分からなかったが、たぶん、「蛇」なのだろうと思った。 裕明は店をでると、右手をあげて「またな」と挨拶し、駅にむかって歩いていった。 二、神の御つかい、先触れ 茂は、裕明の後ろ姿をみていたが、やがて車道をわたりはじめた。そのとき、ふっと頬になにかがあたった。触れてみると滴だった。みあげると、空はとつぜん怪しく変わり、ぽつりぽつりとふりだした。「雨だな」と茂が思ったときには、その脚は急にはやくなりはじめた。入り口をぬけて広場に入ると、猛烈なスコールがはじまっていた。大きな木が立っていたので、幹の根元で雨宿りをした。生いしげった葉に、雨滴があたる音がひびいた。木の葉は、つよい緑で密生していたが、しだいにふってくる雨をさえぎることができなくなり、滴は大きな塊となり、ぼたりぼたりと落ちはじめた。茂は、リュックから傘をとりだして荷物を背負いなおすと、ぼんやりと立ったまま水浸しの光景をながめていた。 雨が、激しい勢いで地面にたたきつけられ、大音響がしていた。滝といってもいいくらいの厚いベールになった水の壁が四方をとりかこみ、みえるかぎりの世界はけぶっていた。干あがった地面と乾き切った木が、天の恵みを一滴ものこさず飲みほしていく。聴覚も視覚も、水だけにしめられている。 二〇分も、つづいただろうか。ふっと、小鳥のさえずる高い声が聞こえてきた。もう、雨はすっかりやんで、真っ青な空がみえ、大気は湿るというよりしっとりとしていた。 茂は傘をたたみ、リュックをかついで広場を歩きだした。水溜まりをよけながら中央にむかっていくと、マッサージ士が店をだしはじめていた。 「ねえ旦那、雨があがったばっかりだ。これから、風が吹くよ。気持ちがいいから、一ルピーにしておくよ。どうだい、旦那」 マッサージの痩せた男が、声をかけてきた。水が、風をよんできた。大気が、よみがえりはじめていた。彼は、揉んでもらうことにした。 すこし湿った感じの麻紐でできた、背のひくいベッドのうえに腹ばいになると土がみえる。小さな水溜まりがいくつもあり、先ほどまでの熱気をどんどんすいこんでいた。いままで気がつかなかったが、草が生えているのが目に入った。丈のひくい緑は地面をずうっと覆い、雨に濡れ、輝きを増していた。光る草の滴を揺らす柔らかな風は、遠慮がちに茂の頬も撫でていった。 「いいところに、きたねえ。みんな、この雨を待っていたのだよ。これから、ちょっと涼しくなる。旦那は、ずいぶん遠くからきたのだね。国も、こんなに暑いのかい。毎日、こんな天気だよ。慣れてはいるけど、閉口もするよ。だれのせいでもないのだから、仕方がないわな。ひどいふりだったが、濡れていないのはうまいぐあいにやりすごしたのだね。ついているよ、旦那は。気分は、どうだい」と男が揉みながら聞いた。 「やあ、いい気持ちだ。最高だ」と茂は答えた。 すると、とつぜん肩に入っていた力がぬけていくのを感じたので、「どうした」と彼は聞いた。 「一ルピーはここまでだ。もうすこしやれば、ずっと身体が楽になるのだが」と男はいった。 茂は、すこし考えたが、目の前においてあったリュックから財布をとり、紙幣をだした。「もうすこし、やって欲しい」といって男に手渡した。 肩の筋肉が、ほぐれてきた。雨上がりの気持ちのいいそよ風をうけて、背中にまわりはじめた男の指先を感じ、穏やかで静かなときに気づいた。まわりで、すこしずつ人がうごきまわる気配がしてきた。ああ、そうか。ここに人がいたのだ。だから今日、この広場を目指したのだ。茂は幾分か夢見心地になり、昼のわけの分からなかった自分の行動を思いかえしはじめていた。みあげると、空は真っ青だった。小鳥のさえずりが聞こえ、ゆっくりと時間が、ながれはじめていた。 「そうか、旦那は日本人かい。小さい島だって、聞いているよ。世界の端っこらしいけれど、凄い国なのだってな。インドにあるのは、国産の粗悪品ばかりだけれど、いい品物は、みんな日本がつくるのだってな。どんなものでも、製造するって聞いているよ。それも、いっぱいつくるのだってな。それでみんなが大金持ちで、金をばらまきながら世界中を歩いているのだってな。日本にうまれて幸せだ。運がいいよ、旦那は。気分は、どうだい」と男はいった。 「最高だ」と茂は答えた。そのとき、男が揉むのをやめた。 「どうしたのか」と茂はたずねた。 「なにさ。腰までいくと、もっと気持ちがいいのだが、そこまで揉んでみたいのだが、残念だがここでおしまいだ。最後までやりたければ、もう一ルピーが必要だ」と男はいった。 夢の世界に、あとひと押しのところだった。最後までやりたいと茂は思った。彼は、もう一ルピーを支払った。 腰が揉まれている、気持ちがいい。緊張した筋肉がときほぐされ、こりかたまった部分が柔らかくなり、とどこおった血液が、ふたたびながれはじめる。指は腰からまた背中にもどってくる。気持ちがいい、押しこまれた心が解放されていく。たまった乳酸が、押され、不要物と認定され、血管に排出される。いい気持ちだ。そう、そこ。もうすこし下だ。その腰の部分。いや、下をやってもらいたい。木々の葉の甘い匂いを感じる、いい気持ちだ。ずっと、つづけてもらいたい、そのまま。茂がそう思っていると、男が揉むのをやめた。 「ここまでは、触りみたいな、ものなのですよ。旦那、これからが本番なのだが、気持ちがいいですよ。保証つきです。揉んでみたいのですがね。旦那、やりませんか。もう、三ルピーでどうですか」と男が聞いた。 茂はむっくりと起き、じっとマッサージ士をみつめた。真っ黒く、痩せた小柄な男で、よれよれの褪せた色の服をきていた。不揃いの、ひげが生えていた。 「おまえ、さっき最後までやるっていったじゃないか」 「旦那。いままでのが、最初のマッサージの終わりだよ。これから本格的なものがはじまるわけで。これが、気持ちがいいのですよ」 「それだって最高のマッサージの第一段階で、もっとうえがあるのだろう」 茂はいった。 「そりゃあ、そうで。なんだって、うえをみたら切りがありません。下だってかぎりがないのですから。はっきりしているのは、ここでやめるのは損です。つぎが、いちばんいいところなのです。なんていったって、本番なのですよ。つぎが、そうなのです。こういう話になって誤解もあったのですから、二ルピーでいいですよ」 茂がじっとみつめると、男はにやりと笑った。 「分かった、もういい」 茂は、そういって起きあがった。 「もうすこし、つづけてもらいたかった」 公園の土の道を歩きながら、揉まれたあとの心地よい余韻を覚え、茂は残念で不愉快にも思った。そう感じるのは、あのマッサージ士の腕がたしかなもので、金を払う価値がある技術だとみとめたことにほかならなかった。技量と報酬のつりあいが、どこでとれるかという問題で、両者はつねにせめぎあいながら妥当な決着点をさがしている。あの時点でマッサージを終了させた原因は、マッサージ士のせいではないと理解できた。なぜなら茂は、提示された額を払える金をもち、選択権はずっとあたえられていた。それに、もうすこしという気持ちは一瞬ではなく、けっこうながくつづいてくりかえすもなのだ。この、「いま、すこし」の状態こそがお金をうみだす瞬間で、ここで交渉しなかったら、彼は懸命にやる理由もうしなってしまうのではないかと茂は思った。 歩いていると、雨上がりの公園は特別に気持ちのいいものだと分かってきた。爽やかな風が吹き、のこった滴が木の葉からこぼれ落ちていく様子に、そっと心に触れてくる風雅を感じた。なにもかも、公園に入ったときとは違ってみえた。世界は、鮮やかによみがえっていた。みた風景だと思うと、先ほど駆けこんできた公園の入り口についた。炎天のなかで裕明が立ちながら考えこんでいたひろい石畳があり、八車線の舗装された幹線が目に入った。茂は、きた道をもどりはじめた。四時ころだった。 どこからやってきたのだろうか、歩道は人びとであふれていた。すこし湿った道を駅にむかって歩きはじめると、大きな日傘の陰で、サトウキビのジュースを売る店がでていた。「買うよ」、「購うよ」。闇ドル買いの男が、ねっとりとした不快な大気をまきちらし、茂の行く手を何度もさえぎった。「お恵みを(バクシーシ)」という乞食の声。きりきりと全身を刺す、するどい視線。世界は、ひとときも落ちついておらず、また変わりはじめていた。よい物と悪いものが、つみかさなる。重みで下から消えていく。うえには、さらによい物と悪いものがなんの脈絡も不明にかさなり、それは、いつまでもくりかえされる。時間も空間も、果ても終わりもなく。 そのときだった。不意にタンバリンの音が聞こえてきた。高いすんだ音色だった。なつかしい、激しい、震えるリズム。それが、嬌声を押しのけていく。 「この男は、いったい、どこからやってきたのだろう」 茂はまず思った。こんなに神々しいタンバリンの音色を聞いたのははじめてだった。 五〇歳ちかくにみえる額にふかい皺がきざまれた男は、両脚が根元からなかった。太ももにあたるところに、凸凹とした爛れた肉芽が目に入り、褌がわずかに部分を覆うだけだった。黒い肌の男は、スコールによってすっかり癒やされた石畳の歩道のうえを、体躯を右に左にとくねらせながらすすんでいた。真っ青な空にむかって、右手にもったタンバリンを高々とかかげた。それを激しくうちならし、ひびきとともに背中で前進していた。 タンバリン。すんだ音色。浮き浮きしてくる、タンバリン。情熱的で、つよく激しい、どこか荘厳ですらある、素晴らしい太鼓。 「どこから、きた」 茂は、歩みよるとたずねた。言葉は通じず、男は、その代わりに、彼の瞳をみいって懸命にタンバリンを鳴らした。 「アッチャ(good)」と茂はいい、一〇ルピーをさしだした。 黒い瞳だった。男は満面の笑みになり、左手でその紙幣を鷲掴みにすると、いっそう高々とタンバリンをかかげた。真っ青な空の下で、たくましい黒い肌の男性は眩めいてみえた。生きていることに、思わず感謝したくなる、満たされた思いが茂を激しく揺すった。目の前にいるのは、みるだけで穢れる不可触民。その最下層ともいえる太鼓のカースト、パライの男。虫けらにも等しい、大道芸人。その魂が、おなじアウトカーストの仏教徒、茂の心をつきうごかしていた。 この男性が、どこで、どんな風に日々をすごしているのかなにも知らなかった。すくなくともいま、ヒンドゥーの神にも見すてられたはずの男は、みずからの生を高らかに歌いあげ、誇っていた。 やがてタンバリンの音はさらに高まり、腕、肩、背、腰を振るうごきも、いっそう激しさを増していった。世界は、恍惚のときにつつまれた。神は、この男性より高い玉座にいるのだろうか。男の巨大なリンガは、揺れうごいていた。いまここに、シヴァ神が降臨していた。最高神のナタラージャが、舞っている。この瞬間、茂は神と触れあい、まじりあって、愛しく潤う巨大な宇宙のリビドーのながれに身をまかせていた。生きているって、なんて躍動的で迫力があるものなのだろうか。いつだって、考えていた。生きるって、なんなのだろう。自分は、どの場所からきて、どこへいこうとしているのだろう。なんだ、それは。悩みなのか、嘆きなのか。そんな問いなど、ふっ飛んでしまう。なんて、つまらないことを考えているのだ。せっかく、生きているのに。どうだっていい、思いのままにすすんでいこう。この男に会うために、暑い日盛りをさ迷っていたのだ。巡りあい、教えてもらおうとインドにきたのだ。茂は、そう思った。 その姿にみいっていると、路上の人びとが一斉にあわただしくうごきはじめた。一瞬で雰囲気が変わり、はりつめた空気が支配した。旅行者以外の、そこにいたすべての者が、コンノート広場にむかって一目散に走りはじめた。遠くから大きなエンジン音が聞こえ、やがて灰色のトラックがみえた。貨物自動車は、茂の目の前にとまると、なかから白い制服をきた幾人かの警察官が飛びだして、タンバリンの男をかかえあげ、車の荷台にほうり投げた。そこには、汚れたながい髪の女の子、腕や脚のない男たちが何人かのっていた。そしてまた、四輪車は走り去っていった。 轟音だけが、のこった。 だれもいなくなったひろい通りに、茂はひとり、とりのこされていた。 インドの首都デリーは、ムガルの帝都だったオールドデリーと、その南につくられたニューデリーからできている。もともとの人口は三〇万くらいだったが、一九四七年のパキスタンの分離独立後、難民がつぎつぎに押しよせ、一挙に七〇〇万の大都市になったといわれる。しかし政府が発表する「七〇〇万」という数字が、なにをさすのか、だれにも分からないのだ。行政府は、街の中心になるコンノート広場に通じる道をつねに整備し、くりかえし「清掃」が行われた。脇道に入ると、建物の壁にはペンキで抗議文がかかれているのを幾度も目にした。 「思いだして欲しい。あのころの貧困と飢えを」(Remember Poverty And Hungry) インドの魅力は、だれにも管理できない素顔だった。この国の根本をなおすのは、神さまでも無理だと感じた。だからといって、道の乞食をいくら排除しても、一時的にいなくなるだけだった。つぎの者にとって代わられるだけなのは、だれでも知っていた。無尽蔵にいる乞食を、ほんとうになくせられれば、たしかにこの国は変化するだろう。 「なんでインドが、みてくれを気にするのだ」 茂は、だれもいなくなったひろい通りで、大声で叫びたかった。 「どこへでもいいから、汽車にのろう」と彼は思った。 ところが、折からのフラッド、大洪水だった。鉄道はずたずたで、どこへいけるのかも分からなかった。日はとっぷりと暮れ、宿をさがすのにはおそすぎた。それでも茂は、数軒のホテルをまわってみた。どこも満室で、あいている宿屋は、彼が東洋の若者であるのをみると、飛んでもない値段を要求した。払えない金額ではなかったが馬鹿ばかしく感じて、道の真ん中で立ちどまっていた。 すこしまえからまとわりついてきた痩せた男が、宿を紹介するから、ついてこいといった。インド人が茂を心配してくれるはずはないので、いつもなら絶対についていかないところだったが、彼はひどく疲れ、すべてがどうでもいい気がした。ほそい路地を入ってすこし歩くとながぼそい建物があり、玄関をぬけるとたしかに宿泊施設らしく、廊下いっぱいにビーチでつかう折り畳み式の簡易ベッドがならび、かなりの人が横臥していた。薄暗い廊下で思案しながら茂が立ちどまると、男が部屋はもっと奥だといった。すえた臭いを感じて、彼は気が変わった。 「帰る」といって出口にむかうと、男は追ってきて心変わりをしつこく責めた。ながくつづいた押し問答のあとで、一ルピーだけやってそいつと別れた。それから、もうすっかり暗くなった道を迷いながらとぼとぼと歩いて、夜陰のなかであかるく光るニューデリーの駅にもどってきた。 そこは、人びとでごったかえし、喧騒が支配していた。なにもない空間は、ひとつもみつけられなかった。あらゆる間隙はうめつくされ、どんなにわずかな場所でも見逃されず、人びとは思いのまま布をひろげ横たわっていた。構内の照明はぎらぎらと脂ぎった光を発し、その眩しさのなかで数多の人たちが蠢いていた。大きな話し声や甲高い笑い声、喧嘩の叫び声。ひとりで大騒ぎしているラジオ。だれも、味わうことなんてできやしない。気が狂ったラジオからながれでて駅舎のなかにひびきわたり、津波状に反復するヒンドゥーの音楽。一〇〇〇万都市、デリー。まるで、この街のすべてが、小さな構内の一点に押しこめられ、それでいてどの人も自分の権利を声高に主張していた。そこは、人びとであふれていた。 茂は、わずかな間隙をみつけ、背負っていた荷物をまえにおくと、自分を見失ってしまいそうな人の大洪水のなかで、「どの列車ならのれるのだろうか」と思案しながら、時刻表のはられた壁をながめた。そこには、「CANCEL」の文字が、くりかえし大きくかかれていた。みると、構内に林立する多数の柱は、意味不明の紙に覆われていた。さらにみまわしてみると、目にできるあらゆる壁は、わけの分からない「なにか」にしめられていた。それは、ちょうどバザールで売られるインド木綿のプリント文様とおなじで、必ずなんらかの図柄でうめつくされていた。たしかに、インド人はゼロを発見したに違いない。ぐるりと構内をみまわしたとき、ふっと自分の荷物がうごくのが目に入った。たおれながら、茂はリュックにしがみついた。 もちさろうとした男は、必死になって阻む持ち主をみて黒い手をはなした。彼はじっと茂をみつめると、「なんだ、おまえのか、落ちているのかと思った」そんな感じで、両手をひろげ、首をすくめた。どこでも手のとどく範囲、距離にすれば、だいたい一メートルなら所有権を主張できるのが普通だった。それが今日の混雑した構内では、間隔は半分にちぢまっているらしかった。 必死にまもった大事なリュックを脚のあいだにはさんで、ぎらぎらとした光、気違いじみた騒音に両手で頭を押さえてぼうぜんと立っていると、「どこからきたの」という優美なソプラノが背後で聞こえた。驚いて振りかえり、そこにひとりの女性の姿をみとめて茂は息を飲んだ。こうこうとした光線と狂騒のなかに、白いベールにつつまれた天使が立っていた。 ふかくすんだ大きな黒い瞳で、じっと茂をみつめる、シースルーのうすい布で髪を覆った乙女は、かつて出会ったこともない美貌で魅力的だった。背中には、神の寵愛をうけた者だけがもつ、一点の曇りもない清らかな翼がみえた。若い修道女だった。 「日本人です。東洋の果ての、小さな島からやってきました」 茂が答えると、健康そうに揃った白い歯並びをみせて、天使は笑った。なにか、とても面白いことを発見したらしく、ほんとうにおかしそうに肢体をくねらせた。 「どう、したのです」 彫りのふかいととのった顔立ち、それでいて、ふっくらとした頬の修道女をみつめながら、茂は聞いた。一七、八歳にみえた。背丈は、一六〇くらいの均整のとれた身体つきをしていた。電灯に照らしだされた白い僧衣が、茂のまえできらきらと眩しく光っていた。その心も、衣服とおなじく一点の汚れもなく、純白にみえた。 「両替して、もらいたいのだけれど」 ベールの美女は、右の手のひらをだして一ルピーの硬貨をみせた。 「簡単なことです。喜んで」 なんだか分からないことだったが、茂はポケットをさぐり、急いで小銭をとりだすと一〇〇パイサを勘定した。手のひらにのせ、 「これでいいの」と聞いた。 さまざまな種類の硬貨がならぶ、茂の手掌をじっとみつめて、天使は、首を右にかたむけ、なにかを考えていた。やがて、こまった顔になって彼をみていった。 「五〇パイサが、二枚欲しいのよ。私」 すき通る清らかな声だった。声音は吹きぬけの高い石づくりのうえのほうから、まるで天界に住む乙女が奏でる琴の音となって、周囲の騒音とは、まったくべつなルートでとどいてきた。ひとつひとつの単語が、はっきりと聞こえた。茂の手掌にのっていた五〇パイサは、一枚だけだった。どういう意味があるのか、さっぱり分からないことだった。からかっているのだろうか。しかし、茂には、すんだ瞳にみえた。 「ちょっと待っていてね。すぐに替えてきます。手持ちはありませんが、あなたのご希望にそうことができます。そのあいだ、ぼくのリュックをみていてくれますか」 茂は、脚にはさみこんだ全財産が入る荷物をさして、若いシスターにいった。 天使は一瞬きょとんとし、両脚にはさまれたリュック確認した。もう一度、彼をみて、「もちろん、いいわよ」と答えた。 茂は、天使の瞳をみつめ、うなずいた。売店にいき、一ルピーで新聞を買い五〇パイサを手にいれた。それは、すこしのあいだだったが、もどってきたとき、美貌のシスターがリュックに腰をおろして待っていてくれたのをみて嬉しかった。天使に五〇パイサを二枚わたし、一ルピー硬貨と交換した。 「ありがとう」 若い尼僧は、嬉しそうに微笑んでいった。 「ずいぶん綺麗な、素敵なものですね」 尼僧の手首に嵌められたブレスレットをみて、茂はいった。すき通った薄紅色のビーズがつながった腕輪は、天使にマッチしていた。 「カーネリアンよ。祖母から母がもらい、そして私がうけついだ先祖からの宝物なの」 「宝だったのですか。なにかもっと、ぼくができることはないのですか」 その言葉を聞くと、尼僧は茂の瞳をみいって微笑みを浮かべた。 「親切にしてくれたから、大切なことを教えてあげるわ」 「大事な情報ですか」 茂は、いぶかしげに聞いた。 「そうよ。あなたにとって、世の中にとってよ」 「この世界、ですか」 その言葉に、天使は大きくうなずくと口をひらいた。 「どこへいったらいいのか、分からないのね。教えてあげるわ。ガンガーのちかくにいきなさい。たくさんの素敵なことが、あなたを待っているわ。さがしているものは、きっとそのちかくにあるはずよ。そこから神さまに出会い、あなたが望み、待っている人を、みつけることができるわ。神が、そういっているわ」 「神さま、ですか」 思いがけない言葉に、茂はくりかえしていった。 「分かりましたか」 「はい」 「だめよ。しっかりしなくては。こんなところで、へばっていてはだめ。あなたは、これから、たくさんの楽しいことに出会うのだから。元気をださなければ。分かりましたか。それじゃあね、いい旅をね」 燦然とした羽につつまれた天使は、真面目な表情でいった。 茂は、そうすると答え、右手をさしだした。シスターは、その手をにぎりしめた。右の手首の二連につながったカーネリアンのブレスレットは、握手に揺れてリズミカルな音を奏でた。天使は、一〇メートルほど離れたところで布をしいてすわっていた尼僧仲間の輪にもどり、なにかを喋ると、みんなが笑って茂をみた。七、八人いたが、彼も笑いをかえした。どの娘も綺麗で、天使にみえた。 そこにすわっていた彼女は、すっかり混乱した茂に気がついて、助けてくれたのだった。異国で困難に出会い、綿どうぜんに疲れ果てている彼をみて、かわいそうに思い、心配したのだ。そして、一ルピーが五〇パイサ二枚だということを、教えてくれたのだった。 茂の気持ちは、すっかり変わってあかるくなった。この街であったいやなことも、くたくたに疲れているのも、みんな忘れてしまった。自分の身のまわりに起こった、さまざまな出来事のすべてが、充分に理解できたわけではない。はっきりしているのは、若い尼僧が、茂にあたらしい力をあたえてくれたことだった。赫々とした光と喧騒の支配するニューデリー駅の構内で、布を一枚しいて横になり、そこで彼は一夜をすごした。 三、バスのなかで 茂は、橋のうえからガンガーの下流をみていた。 ガンガス河は、もの凄くひろくて、まるでとまってみえるほど穏やかにながれていた。西にはベナレスの街があり、東にはなにもない砂丘と灰色の原野が、みわたすかぎり延々とひろがっていた。マルカルニカーの焼き場から、ヒンドゥーが天に召されていく煙がみえた。ベナレスは、世界でたったひとつの死ぬためにつくられた街で、ヒンドゥー教徒の墓場だ。あらゆる罪は、ガンガーによって清められ、魂は川面を緩やかに吹きぬける風により神々の住む月世界へとはこばれていく。 東がわの砂丘に人工物をつくってはいけないと、法律で決められているらしい。ガンガーの日の出は、なにもない地平からあがってはじめて価値があり、人間の手が触れられない場所が身近に存在するということ、それが聖であっても賤であっても、神と人とがともに暮らすという特別な配慮によってできる発想で、つねに分相応から物事をはじめるヒンドゥーの基本的な思想だ。 ベナレスは、シヴァ神の街だ。破壊神、シヴァはヒマラヤのカイラーサという山に住んでいる。人跡未踏の極寒の地で、雪豹の皮一枚を腰に巻いて裸形で瞑想する苦行する偉大なる神、マハーデーヴァである。そしてまた、ヒマラヤの神さまの娘、妃パールヴァティーのシャクティーをえて、宇宙をダイナミックに踊る舞踏神、ナタラージャでもある。 よく晴れた日、パンジャブでは、朝日とともに白く照り輝くカイラーサ山がみえたに違いない。インド・アーリアは、インダス河の流域パンジャブ一帯で、かつて古代文明をきずいた人びとの末裔ドラヴィダ民族のつよい抵抗にあい、この地方を制圧してガンジス河に進出するために数世代もかかったと考えられている。ヴェーダのなかに、そうした記述をみつけることができる。もちろん、すべてのドラヴィダが制圧されたわけではなく、対等な関係をきずいた首長もいて、このあいだに両者は融合をふかめたのだ。 パールヴァティーの妹、ガンジス河の女神、清浄なるガンガーは、シヴァの頭からながれだす。だから、ガンジスをささえる神、ガンガーダラでもある。シヴァが怒ると、ガンガーは氾濫して人びとに不幸をあたえる。その激しさは際限がなく、川幅を数倍にひろげ、ベナレスの街を海にしてしまうことができる。だから、シヴァは恐怖すべき神、バイラヴァでもある。しかし、なんで怒ったのかは、人間には分からない。だから神さまで、今日は気持ちも和んで、優しくしてくれていたわけだった。河は、ゆっくりとながれていた。 幅が一〇メートル以上もある石づくりの橋の欄干にもたれて、ゆったりとうごくガンガーをながめていると、物乞いをする者もなく、静かで神を身近に感じることができた。 「茂、じゃないか」 背後で、男の声がした。 それは、なつかしい声音で、デリーで別れてからひと月くらいがたっていた。その橋のうえで、裕明と茂はならんで灰色の欄干に肘をついて、ゆったりとながれるガンガーをみながら立ち話をした。 夕方で、清々しい風が吹いて、すみ切った空にさまざまな鳥が飛んでいた。ふたりで、ベナレスについて話しあっていた。そのうちに、どちらからというのではなかったが、「いっしょに旅をしてみようか」と話になった。 「どこが、いいかな」と裕明はいった。 ふたりは考えてみたが、とくにいきたいところはなかったし、どちらにむかってもおなじだと思った。時間もあったし、なにをするのも自由だった。だれかに指図される、筋あいも義理もなかった。 「どこでも、いいな」と裕明がいった。 「それじゃあ、神さまに聞いてみるか」と茂が答えた。 「そうだな。神さまなら、きっと正しい選択をしてくれる」 裕明も、賛成した。 茂は、コンクリートの橋のうえに、一ルピーのコインで大きく十字に線をひっぱって、いっぽうにNと、もう片方にSとかいた。それで硬貨を、すみ切った真っ青な空にむかって思い切りほうりあげてみた。投げられたコインは、魂を神の国にはこぶガンガーの川面を吹く柔らかな風をうけて、裏に表になりながらゆっくりと落ちてきて、ふたりがみているまえで橋の石にぶつかって、固い音を立てて跳ねかえった。さらに、もう一度落下し、今度はくるくるとまわり、おもむろにたおれた。みてみると、コインはNの真うえにあった。 「真北だな」と茂がいった。 「そうか」 裕明は、しゃがみこみ、ながい髪を両手でかきあげた。腕をくんで、橋のうえに表になって落ちた一ルピーのコインをじっとみつめていた。やがて「うーん」と唸って大きくうなずき、「ヒマラヤだ」とぼそりと呟いた。 こうして話がまとまって、真っすぐ北を目指すことになった。ふたりは、その足でバスのステーションにいき、国境いきのチケットを買った。 「じゃ、明日、ここで」 茂は、裕明にそういい、それで別れた。 翌朝ふたりは、ネパール国境へとむかうバスにのった。 先頭部分がつきでてボンネットになった車体は、薄黄色だったが、土ぼこりでひどく汚れ、過去に起こったさまざまな困難に耐えたことを証明する夥しい数の傷や凹みがついていた。バスは、いつでも引退の覚悟ができ、じっとみると自然とノスタルジーを感じた。 車内には、前方の運転席の脇に二段のステップと、ただひとつの手動の扉があり、ふたりがけの座席がせまい通路をはさんで一〇ほどもつらなっていた。彼らの席は運転手のすぐ後ろで、裕明は通路がわ、茂は窓がわだった。固い座席はビロードだったが、毛羽は昔の半分ほどにすりへり、いまは灰色にみえた。手のひらをつかって、なつかしむ感じでそっと触れて糸を起こしてみると、根元の色調は、ほんらいが鮮烈な青であったことを主張していた。 八時にベナレスをでたバスは、昼まえに食事のためにとまり、一時すぎにも休憩所に立ちより、昼さがりのインドの大地を北にむかって走っていた。朝からの快晴だったが、日はますます勢いをえて、力のかぎりに不毛の荒地を照らしていた。窓は、全部しっかりとしめられていた。もしあければ、熱風が吹きこんでくるに違いなかった。クーラーなど、設備されているはずはなかった。炎天の車内は、煉獄どうぜんで、たらたらと滴り落ちる汗をタオルでぬぐい、窮屈な椅子にすわったまま、水を飲むしかできなかった。しかし、さらに大問題があった。 バスのなかは、目茶苦茶にうるさかった。 わけの分からない音楽が、鳴りひびいていた。乗客全員は、それが音をだすだけと充分に知っていた。締め切ったバスのなかで、鼓膜をやぶってやろうという意志が感じられるほどにボリュームを最大限にしたラジオは、とうぜんのことだが、だれも聞いてはいなかった。いちばん後ろの席の男が、自分の所有物を自慢していただけだった。彼は、思っていたはずだ。 「おれのトランジスタラジオは、最高級品だ。音量を最大限に調節しても、電池は長持ちするし、壊れもしない。こんないいものを、もっているのは、おれだけだ」と。 その持ち主の気持ちを、小さな器械は力のかぎり代弁していた。 しかし、もたない連中だって、だまってはいなかった。そんな道具がない分だけ、ラジオの音に負けまいと、声を振りしぼってさかんに話をしていた。彼らにとっても、不愉快だったに違いなかった。しかし、自分たちの声のほうが最高級品のラジオの音量よりも大きいことを示して、持ち主に恥をかかせようとしていた。だから後ろの男は、ボリュームを最大限にあげたのだ。 みんなが力のかぎりに声を振りしぼれば、ラジオの音だって小さく聞こえる。これは、たんなる相対的な問題だった。しかし、そうすることによって、ラジオなんて所詮はつまらないもので、自慢するほどの道具ではないと後ろの男に証明できると信じていた。 こうした信念が、たがいに限度をこえてきていた。棒でバケツを思い切りたたくとしか表現できない、意味も不明で終わりも分からない大騒音は、締め切られた空間で行き場をうしない、車内に停留していた。 バスは真っすぐ、北を目指して走っていた。つよい光にさらされた大地は荒涼とし、行く手には地平線にそって山がつらなり、その先にはあわい雲がかかり、果ては分からなかった。土でできた道は充分な舗装ではなく、行き交う車もなく、周囲は右も左も背のひくい灌木が、ぽつりぽつりと申しわけなさそうに生えているだけだった。上空からみれば、日があふれるばかりにふり注ぐ、みえるかぎりの大地に、芥子粒ほどのバスがひとつ北にむかっていた。うごきのあるものは、これひとつだった。静寂が世界を支配し、さまたげる物体は、なにもなかった。しいてあげるとすれば、じりじりという日差しと乾いたわずかな風くらいか。だが、そのうごく芥子粒にちかよってみれば、激烈な音響が虚空にむかってはなたれていた。 まさにサウナと化した車内は、ぎらぎらとした外の日差しとは対照的に薄暗く、思いのほか、せまく息ぐるしい。汗が、止め処もなくでてきていた。原因を考えながら、よくみまわしてみると、座席にそって両がわに奥までつづく天井ちかくの網棚に、およそのせられるかぎりの小荷物がつめこまれていた。そのうえ、それでも積載できなかった手回り品が床に配置され、あきらかに通路をせまくしていた。また最後尾の座席は、通り路より一段高くなったロングシートだったが、席のうえにも、ほんらい足がおかれるはずの部分にも、けっこうな大荷物がうずたかくつまれ、背後の窓ガラスをほとんど覆い隠していた。 そもそもが、なぜ、これほどの荷物が必要なのか、リュックひとつで旅をする茂には、かいもく分からないが、彼らは実際にもってともに移動しているらしい。この人工物が外の風景をさえぎり、あかりが入ってくるのをふせいでいた。日盛りをもろにあびたいとはだれも思わないが、こうした圧倒的な壁も考えもので、陰鬱な気分をさらに増長させていた。 せまいというのは気持ちだけではなく、実際に物理的な問題でもあった。汗がこぼれ落ち、すえた臭いが蔓延していた。熱、湿気、騒音、窮屈、臭気。このなかにプラスのイメージは、ひとつもなかった。ただただ一刻もはやく、ここから逃げのびたいと思うだけだった。ダメージは、じょじょに身体に内包されていった。 「なんとか、ならないものかな」 茂は、深刻そうに裕明にいった。 「なにか、もっていないのか。このまえは、みょうなものをだしていたよな。仕事で、マジックでもしていたのか」 「あれは、うまく決まったよな。あのシークの顔は、忘れられないよ。ああいうものは、タイミングがすべてだな。最高傑作だった」 裕明は、思いだし笑いをした。 「人間は、ずっと蛇に悩まされてきたのだな。どの国にいったって、民族を問わず蛇類は嫌われている。蛇と縄との違いはすぐに分かるし、サルもおなじだって聞いたことがあるよ。経験では、最初にカエルをみせておくとロープでも間違えるな。あのシークは尋常でなかったが、これも耐え切れないな。この国は、普通でないよ。しかしこれは、どうにもならないよ。学生時代の宴会芸でさ。蛇の在庫はもうないが、いまここで薔薇の花束をだしたところで、なにも変わらないだろうな」 宴会芸だったのか、と茂は思った。騒いでいるラジオも、一回は電源を切られるかも知れないが、気がついたつぎの瞬間は、またこの状況だろう。薔薇の花束では、いかにも力不足だった。 振りむいて観察してみると、張本人は、いちばん後ろにすわる若い男だった。たぶんベナレスで大学にでも通っていて、用事があってネパール国境の親戚の家へでも、たずねるつもりなのだろう。足をくんでリズムをとっているが、自慢のラジオをイヤホンで聞くという発想はないのだろう。とはいっても、大声で話をしている一群も異様だった。対抗手段は、拡声器をつかっているかとも思える、すさまじい音響だった。あきらかにラジオを意識、もうすこし正確にいうなら敵視していた。この一群は、男三名と、女六、七人、それに幾人かの子供もくわわった大所帯だった。 午後の休憩で下車したときに、茂は確認したのだが、国境の村に住む田舎の者たちではないか。都会のベナレスで身内の結婚式にでも、出席した帰りではないか。つまれている大量の荷物も、そうしたことと関係があるのだろう。女たちは、黒装束のサリーをきていた。それがバスの車内をいっそう暗くさせ、息ぐるしいものに変えていた。夜の荒野に、目を光らせた山犬がひそんでいる感じだった。あきらかに車内を、外界から切り離していた。問題は、ひとつではなかった。どちらが先で、どれが後ろなのかは、もう分からなかった。汗がでて、頭痛がしていた。 「説得してみたら、どうだろうか」 とつぜん茂はいった。 「ほう」 裕明は、感慨ぶかい表情で茂をみた。彼が思いのほか真面目そうだったので、さらに驚いた。想像もつかない、かなり大それた意見に思えた。間違いなく、もう、へとへとだった。応酬は、さらに激しさを増すと感じられても、収まる気配はなかった。ここでありうる問いは、この荒野でバスをおりるかという究極の選択だけだと考えていた。いやしくも道は、古都ベナレスと北部国境をむすぶ大幹線だった。この国の生命線といっても過言ではなかった。周囲は、木もほとんど生えていない大平原だから、遠くからでもみわたすことができた。この道を歩いていれば、必ずやトラックが通り、いくらかだせば、ひろいあげてくれるに違いなかった。そう思いたかった。しかし実際には、ずっとみてきたが歩く者などいなかった。対向車線を走る車も、みあたらなかった。思いは、乾いた地面にすいこまれていった。 裕明は、この路線についてそもそも知識がなかった。これは、茂もおなじはずで、昨日駅で券を買ったさい、職員から「バスの終点から、徒歩でネパールに入れる」という話を聞いただけだった。そのときには、それが必要な情報のすべてだった。しかしいまは、最低、到着予定の時刻くらいは聞いておくべきだったと考えていた。 とつぜん、茂が立ちあがった。不審に思う裕明をのりこえ、通路の中央にいき、後方をむいて、「みなさん」と大きな声をだした。 しかし、気がついたのは、彼ひとりだった。四〇人ちかくもいるバスのなかのだれひとり、自分たちの行為に不服申し立てがあるとは考えもつかないことだった。それも、増してや他国の若い男が、などとはありえない事態だった。 「みなさん、聞いてください」 茂は後方をむき、もう一度大声で叫んだ。通路のほぼ中央にある発信源から生じ、幾重にもわたり層をつくっている音の壁に、辺境の声が入りこむ隙はなかった。それでも茂は、もう一度大声で叫んだ。その努力を知っていたのは、裕明ひとりだった。残念だったが、挑戦はそこにとどまり、ひろがることなく消えうせていた。茂は、音が幾重にもバリアーをつくる手がとどかない暗黒の中心部をみつめていたが、やがて裕明をみた。 そのとき、彼が視線をそらした。 茂は、激しい衝撃を感じた。なんと全幅の信頼をおいていた唯一の仲間が、「他人の振り」をしたのだった。気をとりもどして茂は席にもどり、車窓から、神があきらかに手をぬいた荒涼とした風景を力なくながめた。 「おりるのも、ひとつの方法だと思う。間違いなく普通の手段ではないが、みた目がどうであれ幹線だ。ここに日本人をふたりおいていくとなれば、運転手も心配だと思う。普通は、眠れないのではないか。かなりのっていたから、終点まで歩ける可能性もあるはずだ。この平原には、狼なんかがいるとは思えない。たぶん、生き死ににはいたらない。つまりだ、おりることは確実に普通ではないが、絶対ありえない選択でもないのかも知れない」 裕明は、茂をみながら切々といった。先ほど思いもかけず姿をみせた綻びが、ぬいなおされ、ふたたびふたりに連帯感がうまれていた。 茂の額からは、汗がだらだらながれ落ち、ぬぐうタオルもぐしょぐしょになっていた。頭ががんがんし、耐え切れないと感じた。逃れる方法を選択しなければならなかった。 茂は、振りかえって後部座席をみた。四〇歳すぎにみえる女が通路がわにすわり、となりに一〇歳くらいの男の子がいた。子供は母の腿に頭をのせ、ぐあい悪そうにぐたっとしていた。彼と目があうと、すくいをもとめる目差しをおくった。 裕明は、なにかが聞こえたと思った。茂をみると、唇をつよくとじ、眉間に皺をよせて押しだまっていた。どうしたのかと思っていると、彼はもう一度、立ちあがった。だまったまま通路にでて運転席の脇に立ち、運転する男となにやら話をはじめた。 これは、名案かも知れないと裕明は思った。この国では、バスの運転手はかなり偉かった。たとえば大通りで車が立ち往生し、ぶうぶうというクラクションの苛立つ音が右からも左からも聞こえる。なにが起こったのかとみると、自転車をこぐリクシャーと、タクシーが道の真ん中にとまっていた。運転手同士が話をしていて、たぶん接触事故なのだろうが、まわりの状況にはおかまいなしだった。当人たちは事故のことで頭がいっぱいで、交通渋滞は彼らの関心ではなく、平然と道の真ん中でわめきあっていた。そこに、バスがやってくる。運転手は、道の脇にとめると、おりて喧騒の真ん中に入った。なにを話しているのかは分からないが、だいたい二〇分から三〇分もすると、当事者たちはだまって立ち去っていく。つまりバスの運転手は、警察官であり、簡易裁判所の長でもあるらしい。かなり、カーストが高いと想像できた。しかし、裕明がほんとうに感心するのは、つぎの場面だった。バスは通常の街の交通機関で、出入り口には人がたわわにぶらさがり、定員の倍、おそらく一〇〇人ちかくがのりあわせていた。乗客は、いつ果てるとも知れない調停をずっとみているだけだった。街の普通の人たちで、用事だってあってバスにのっていると思うが、だれひとり運転手の行為に異議を申し立てなかった。席にもどると、さすがに拍手は起こらないが、とくに文句をいう者もいなかった。 茂が、財布からお金をとりだすのがみえた。なにをするつもりなのか分からないが、一〇ルピー紙幣を二枚みせていた。これは、また根性の入ったことだと裕明は思った。道は、真っすぐで対向車もいなかった。運転手も、茂の話をじっと聞いていた。そうだろう、二〇ルピーも目の前にだされたら、運ちゃんだって真剣になる。だまっていても、靴くらい磨くだろう。肩がこった仕草をみせれば、マッサージだってするだろう。頼めば、運転席だって代わってくれる。 運転手は、四〇歳くらいの大柄な男で、でっぷりしていた。ウエストは、優に一メートルをこえていた。腹がでていることは、朝昼晩、欠かさず食べられる証明書みたいなものだから、この国の人びとにとっては憧れではあっても忌避すべき事項ではなかった。だいたい、こんな太った男が運転するだけでも、かなりあぶない事態だった。椅子にすわると、ハンドルが腹につかえて思う方向に回転できなかったからだが、本人はそんなささいなことで、ようやく手にいれた体格を問題視する気持ちはどこにもなかった。 自慢のウエストのせいで事故が起きたとしても、専用の車両を用意しなかった会社が悪いので、彼の責任ではなかった。乗客も特別な者たちではなく、どんなことがあっても文句がつけられる筋あいのない、ひくいカーストだった。極端にいえば人でなくてもおなじで、犬や豚でも変わらなかったから、そんなくだらない連中が、バスのなかでなにをしようと、問題にもならなかった。 こんな馬鹿騒ぎも毎度のことだったから、耳栓でもつけていたのかも知れなかった。髪の毛は、みじかく切って揃えてあったし、櫛も入っていた。ワイシャツは制服だったのだろうが、糊までついてパリッとしていた。運転手が自分をどのくらいエリートだと思っているのか、はっきり分かった。 公務員のカーストは、この国ではかなり高かった。他人からみてもそうなのだから、本人からすれば、もうひと押しで神さまのところへ辿りつけると思っていたのだろうか。肌は、浅黒くて、丸顔だった。半袖のシャツからみえる腕も、太くて毛むくじゃらだった。熱と湿気が充満する車内で、汗をだらだらながしながら庇のついた帽子をはずさなかったのも、自分のカーストを誇らしげに思っていたからに違いなかった。こうしたことをふくめて、彼は、ごく普通の、この国のヒンドゥーだった。 「ここに、二〇ルピーある」 そういって茂は一〇ルピー紙幣を二枚とりだして、魅力的な腹をした男にみせた。道は真っすぐだったし対向車もなかったから、運転手はハンドルをにぎったまま、ちらりと彼をみた。 「なにを、すればいい」 ぶっきら棒だったが、でぶは、すぐに反応した。 「五分だけ、車をとめてもらいたい」 「聞いてやっても、いいよ」 でぶは、丸顔の眉を緩めて、にっこりと微笑んでいった。 なにもない大平原が、ひろがっていた。弱々しい体躯で黄色い顔をした男が、深刻な表情で頼んでいた。五分とめろか。腹でも壊したのか。身体つきをみると、もともと弱いのだろう。ひげさえ、満足に生えていなかった。貧相だ。希望することは、おおむね分かった。おそらく車内でされては、たいへん迷惑な行為だろう。こうしたばあいは、こちらから停車して命じることもあった。しかし、なぜ二〇ルピーもだすというのか。やはり日本人は内気で、身も心も弱くできているのだろう。でぶは、こんなことを考えていた。 「五分で、すむのか」 「大丈夫だ、だまって見逃して欲しい。そのために、金をわたすのだよ」 裕明は、様子をじっとみていた。バスの乗客は、なにも分かっていなかった。茂がでぶに話しかけていることも、ぜんぜん気がつかなかった。なにが、はじまるのかは分からなかった。しかし、その金は、口止め料で賄賂だ。きっと、意味のあるものだ。でぶがなにを考えたのか不明だが、茂は相当の覚悟をもって下手にでていた。 「日本人を、なめるなよ」と彼は思った。 「勝手にしていい。五分だけ、待っていてやる」 でぶは、いった。 車は停止し、運転手はエンジンを切った。乗客は、だれひとりとまったことにも気がついていなくて、エンジン音がなくなっても、車内は変わらずうるさかった。 「五分だ。いいよな」 茂は、もう一度、念を押した。 「いい。やれ」 でぶは、力強く答えた。 とつぜん、もの凄い雄叫びがした。耳が千切れるほどで、バスのなかはそれだけで、もう「シーン」となり、最後尾の男もラジオを消した。車がとまっているのに乗客全員が気がつき、最初にざわめきが起こった。異常な事態が生じていることを、みんながはじめて認識した。 だれがみても、騒いでいるのはこの国の人間ではなかった。その男が、運転手にむかって雄叫びをあげていた。それも普通なんてものではなく、限界を知らない声だった。 でぶは、ぎょっとして身をそらし、すこしでも茂から離れようと座席の窓がわにはりついた。なにせ、あれだけの図体だった。汗をだらだらながしている運転手は、一生懸命小さくなって隠れようとしたが、それは土台、無理というものだった。バスの壁に背中と両手両腕をはりつけて、飛んでもないという顔で茂を凝視していた。 「おまえが、いいといったんだ」 裕明は、その様子をみて思った。 でぶは、顔面蒼白で完全にびびっていた。あまりの茂の豹変に、ぼうぜんとして口をあけて言葉をうしなっていた。それにしても、飛んでもない声だった。 「いえいー。いえ。いえいえ。いえ。いえいー」 もの凄い、奇声だった。痩せた茂の身体からは想像もできないエネルギーが、塊になって飛びでていた。手を後ろにくみ、背筋をぴしっと伸ばして天井にむかって吼えていた。こうなればだれひとり、普通だとは思わなかった。だいたいが分からないのだし、気味が悪い。それが耳をつんざくほど、恐ろしい声でわめいているのだ。バスにのっているのが何者であっても、まずは「どうしよう」と思うのが普通だ。 茂は、振りかえると上着をぬいで裸になり、今度は、乗客にむかって大声で歌いだした。指をいっぱいにひらいた両手を高くあげ、懸命に踊りはじめた。 ぎんぎん、ぎらぎら。夕日がしずむ。 ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。 まっかっかっか、空の雲、 みんなのお顔も、まっかっか、 ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。 「ひどい宴会芸だ」と裕明は思った。大学のクラブに入るとき、先輩のまえでさせられる新入生の儀式だ。最後は、すっぽんぽんの裸になるまで許してはもらえない、とても芸とはよべない代物だ。その点、おれのマジックはずっと洗練されている。ようするに、そこには、インドとカリフォルニアほどの歴然とした違いがある。そうした意味あいからも、この場面では、それなりに適切というべきだった。 ぎんぎん、ぎらぎら。夕日がしずむ。 ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。 カラスよ、お日をおっ駆けて、 真っ赤に染まって、舞ってこい、 ぎんぎん、ぎらぎら。日がしずむ。 茂は、この状況を打開するには、いちばんだけでは不充分だと考えたらしかった。 でぶは、蒼白状態でその不思議な踊りを凝視し、額の汗はバスの床に滴り落ちていた。乗客全員は、唖然として茂の奇行をみつめていた。踊りを終えると、彼は大声で叫びながらバスの後ろにむかって歩きはじめた。 「みなさん、聞いてください。これでは、耐えられません。この暑さと、異常な湿気です。騒音くらいは、やめてもいいのではないでしょうか。はりあっていても、解決にはなりません。なんの利益もありません。こんなつまらないことで、かぎられた体力をつかうのは愚かだとは思いませんか。すこしでも、いい環境にするべきです。なににでも、限度があります。そう、思いませんか」 茂が叫んでいるのは日本語だった。たしかに、この国には言葉が多いと裕明は思った。さまざまな民族が、混在していた。ふたつや三つの言葉は、だれでも話した。四つ五つの言語を知っている者も、なかにはいた。なにしろ一ルピーの紙幣には、一五の公用語がしるされていた。そのうえご丁寧なことには、裏面の右下には、「ONE」という準公用語までかかれていた。とはいえ、どんなに博学な者でも日本語までは知らなかっただろう。とつぜん裸になった黄色い顔の男が、大声でうったえていた。乗客は、うまれてはじめて聞く言葉で、なにをいわれているのか、かいもく見当もつかなかった。 「限度があります。こんな締め切ったなかで、この暑さ、蒸し風呂状態です。だれもが、不愉快です。なにが大切なのか、考えてみてください」 言葉の、はしばしが聞こえた。ひとりひとりの顔をみて叫んでいた。両手をあげたり、さげたり、ひろげたりしながら、懸命にうったえていた。乗客全員が茂のうごきに釘づけで、ぼうぜんとしてじっとみつめていた。みんなが、おなじことを思っていた。 「変だ。おかしな奴がいる。かかわりたくない。なにをしでかすか見当がつかない」 裕明がみていると、ついに、いちばん後ろのラジオをもつ男の席までいった。茂は、トランジスタラジオをとりあげると、もの凄くけわしい表情になり、持ち主の小柄なヒンドゥーを右手で指さし、瞳を凝視しながらさらに大声をだして叫んだ。 「あなたが、問題です。相当に悪い。こんなものを自慢して、なにが面白いのですか。ラジオは、楽しむためにあるのです。自慢するのに、買うものではありません。人に迷惑をかけて、なにが面白いのですか。一度自慢すれば、充分ではありませんか。いいラジオをもっているのは、みんなが分かりました。それ以上、なにが希望なのです。あなたのしていることは、ただの迷惑です。それも、もう充分に限度をこえています」 とりあげたラジオを高くかかげて、持ち主の耳元で叫んでいた。凄い声だった。これは、ちぢみあがるだろう。だれにも、なんにも分からなかった。しかし、ちかづくのはよそうと、みんなが思うし、考えるだろう。これだけは、はっきりしていた。裕明だって相棒でなければ考えるほどで、乗客にはなんだかさっぱり分からなかっただろう。でぶにだって不明だったろうが、彼には責任があった。自分が許可したのだし、それも金をもらっていた。いってみれば、でぶは共同責任者だった。 茂の叫びが、聞こえてきた。 「おかしいです。なんでこんなに騒がしくしなければ、どうして主張ができていないと思うのですか。なぜ、この音楽を注意しないのですか」 叫んでいるのは日本語で、だれにも、なんにも分からなかった。ただ状況は、こうなっていて、仕方がなかった。事情は、こういうわけだった。 裕明は、立ちあがり、ゆっくりと中央の通路にむかった。まえの席の人たちは、注目してくれた。目があったが、すくいをもとめていた。でぶをみると、彼も、間違いなく援助を希望していた。大きく目をみひらき、真剣な表情でじっと裕明をみつめて、わけもなくうんうんとうなずいた。 「なにを、やっているんだ」 裕明は、でぶの意味不明な仕草に不快感をもった。 車の前方にすわる人たちと、運転手は、彼が茂とおなじ日本人だと確認した。裕明は乗客のがわをむき、ゆっくり全体をみまわしてみた。彼に気がついたのは、まだ幾人もいなかった。 茂は、バスのいちばん後ろでラジオの男にむかって大声をはりあげていた。小柄なヒンドゥーだったが、でぶ同様、窓にはりついて目をむき、だまって眉間に皺をよせ、猛烈に深刻な表情で彼をみつめていた。 裕明は、最初に茂が叫んだ場所にいた。でぶのとなり、中央の通路で乗客がわをむいていた。 「うどおおおおおお」 とつぜん、裕明は天井をみて雄叫びをあげた。両手を、天にむかって大きくひろげ、ありったけの声をだして絶叫した。うえの服をぬいで裸になり、上着をもともとの自分の席にほうり投げ、バスのちょうど真ん中あたりにすわっていた、ヒンドゥーの痩せた大柄な男を、じっとみつめて大声で吼えた。 「うどおおおおおお」 わずかにすすんで、通路の真ん中で天井にむかってあげていた両手をさげ、いちばんまえの列の左右にならんでいる鉄製の座席の背もたれを手でつかんだ。それを力いっぱいがんがん揺すって、雄叫びをあげた。 「うどおおおおおお」 天井にむかって三回くらい叫んだ。それを、三箇所でやってみた。 乗客も、今度は裕明に注目してくれた。はっきりいって、「びびって」いた。みんながなにを感じたか分からなかったが、ひとりよりふたりのほうがは迫力があった。だって、相棒が変なんだ。どう考えても裕明はとめる役で、だれもがそう思った。それが普通だったろう。現実は違い、想像しない、ぜんぜん逆の方向へむかっていた。理解しがたい者が、いままでのひとりでも充分だったのに、それがとつぜん倍のふたりに増殖した。こういうばあいを相乗的とよぶのだろうか。裕明がとめに入らなかったのは、だれもこの状態からすくってくれないことを意味していた。でぶも、制止にこなかった。つぎになにが待ち、どんな事態が起こるのか、だれにもさっぱり分からなかった。 「この不幸な状況が、去っていくのをみまもる」という感じで、バスの乗客全員が息をひそめて、ふたりの理解しがたいカーストを交互にただみつめていた。すべての人がびりびりと緊張しているのが、裕明には分かった。茂が帰ってきたので、彼はもう一度叫んでみた。 「うどおおおおおお」 天井にむかって、三回くらいやってみた。みんな、充分に注目してくれた。茂が自分でぬぎすてた上着をひろいあげ、でぶのとなりで、ゆっくりと身につけるのをみて、裕明も席にもどって服をきた。だれも、なんにもいわなかった。 「じゃあ、約束の二〇ルピーだ」 茂はそういって、バスの乗客全員がみているまえで、ぼうぜんとするでぶの胸ポケットに一〇ルピー紙幣を二枚ねじこんだ。 「安全に運転してくれよな。親父。分かったのかい」 茂は、そういうと、でぶの肩をぽんとたたいた。日本語だった。でぶは、それで我にかえったみたいだった。 「イエス、サー」 やや間があってから、でぶは真剣な表情でいって茂をみた。玉になった汗が額に吹きでて、一部は床に落ちていた。でぶは生唾を「ごくり」と飲みこみ、一度帽子をぬぎ、ハンカチで汗水をぬぐった。それから、大きな溜め息をもらした。ハンドルに両肘をつくと、頭をかかえた状態でじっと目をつむっていた。意を決して首をあげ、バックミラーをかたむけて己の姿をみいり、もう一度、自分のカーストを確認した。そして、帽子をかぶりなおした。 バスは、また走りはじめた。まえとおなじ大きな音を立てて走行したが、もう、すべてが変わっていた。ずっと静かでラジオもならなかったし、話し声も聞こえなかった。常識の範囲内だった。なにが、普通なのか。これは、むずかしい問題だった。はっきりしているのは、それが許せる範囲ということだった。 バスは、八時にベナレスをでて国境の村についたのは夕方の四時だった。八時間、のっていたわけだった。到着地は、平屋の住居がつづく小さな村のステーションで、バスが一台とまっていた。 駅につくと、乗客はだれもおりなかった。当たり前だろう。 この不愉快な事態は、どう考えてもふたつのカーストが仕組んだものに違いなかった。ほんらい乗客は車内で好きにしていい権利をもち、バス料金にふくまれていた。いっぽう序列の高い運転手は、彼らを騒がしておく特権を保有し、それでつりあっていた。ところが国籍はともかく、あきらかに序列が最下位のふたりづれが、あれだけ好き勝手をやったということは、でぶが車内を自由にする権利を売ったに違いなかった。 茂が騒いだあいだじゅう、乗客全員はそう考えていた。そうしたら最後に、運転手が二〇ルピーをもらう現場を目撃したのだった。こんなにあきらかな欲得ずくのやりとりがあった以上、このふたつのカーストがさらになにかを企んでいる可能性は、もうだれにも否定できなかった。だから、バスはずっと静かだったのだ。 つるんだふたつのカーストが、通路のいちばん先頭にならんで陣取っていた。この事態は、どう考えても偶然とは思えなかった。もう一回、なにかをやらかす可能性があった。 「様子を、みたほうがいい」 だれもがそう思って、ひとりもうごこうとしなかった。 しかし、やはりエリートは違っていた。すぐに異変を察知したでぶの運転手は、驚くほどの身軽さで、すくっと立ちあがると前方のドアをあけた。ハンカチをとりだし、したたる汗をぬぐってから帽子をかぶりなおした。 「サー、プリーズ」 でぶは、茂をみて頭をさげた。太い毛むくじゃらの左腕を背後にまわし、右腕を彼にむかってさしだし、ひくい声ではっきりといった。運転手は、茂に降車をうながした。それで、ふたりがバスをおりた。 でぶは、激しい緊張から解放されたらしかった。バスの車体に両腕をつっぱって、深呼吸をくりかえしながら、じっともたれて立っていた。肩で大きく息をすうと巨体を反転させ、車のボディーに背中をつけて全体重をあずけた。湿ったハンカチをとりだし、深刻な表情で何度も額の汗をぬぐった。なにを思ったのか、ながいこと空をみあげていた。それから精も根もつかい果たしたという雰囲気で、力なくその場にしゃがみこんだ。呆けた感じで、いまやってきた真っすぐな土くれだった道路をじっとみつめていた。そこは、彼が一日かけて運転してきた手つかずの荒野だった。地平線とのあいだに、ひくい灌木だけが、ぼそぼそっと生えているのがみえた。 ふたりがバスをおりるのを確認すると、そのあとで乗客がぞろぞろ降車してきた。彼らは、一様に裕明と茂をじっとみつめていた。 「このカーストは、いったい何者で、どこがどう変なのか」 彼らは、しっかりと観察していた。いってみれば、この視線に慣れるかどうかが、インドを、どう感じるかの分かれ目みたいなものだった。こうしてじっとみつめている者を、しっかりとみかえすことができれば面白くなるし、目線に耐えられなければ不愉快だけのいやな国だった。しかし不明な対象を、じっくり観察するのは理に適っていた。分からないものを知ろうとする最初の行為なのだから、どこも間違ってはいなかった。 よくみなければ、不明な状況は山ほどあった。 空は、青かった。インド人の視線を、痛いほど感じた。 それから、国境をぬけた。ふたつの踏切と検問所で分けられた、だだっぴろいところだった。インドがわを仕切る横棒があがり、取調室に入った。そこをでて、三〇メートルくらいの緩衝地帯を通ってネパールがわの検問所にいった。どちらでも、入念なチェックをうけ、荷物は全部しらべられた。二回とも、リュックの中身をすべて机のうえにださせられた。頭から足まで身体を、手で触られた。おなじことを、二回させられた。それから、仕切りがあいた踏切をぬけた。 みじかい距離だったが、三〇メートルは大きな違いだった。この線は、あらゆるものを分けていた。緩衝地帯の入り口と出口には、まったく違うふたつの世界があった。喧騒のインドにたいして、ネパールは静寂で、入った途端にすぐに分かった。とりまく大気の匂いが違ったし、空の輝きも、風の色も変化していた。 ノータンワという、小さな国境の村で一泊した。平屋の石づくりの宿屋だった。泊まり客は裕明と茂のふたりだけで、宿には年寄りと子供が住んでいた。 一五歳くらいの、ネパーリの娘がいた。白地のプリント模様の布を腰に巻き、色褪せた赤いシャツをきていた。つかいこんで、ぼけた黒色の廊下にしゃがみこみ、竹であんだ花瓶がのる小さなテーブルの横で、娘は米の入った大きなざるをもって、ゆっくりとした動作で選別していた。小柄で、丸顔の少女は痩せて、皮膚の色は幾分か黒くて、ほそい右の手首には、ふたつの輪がクロスして二連になった銀色の腕輪を嵌めていた。右腕を緩やかにうごかして米を選別すると、ブレスレットがぶつかって起きる、心地よい微かな音が聞こえた。可愛いので写真をとると、とても恥ずかしそうにした。異国の若い男たちにみつめられて、心が落ちつかない素振りにみえた。しかし、金属が触れあう微かな音だけはやむことがなく、リズミカルにずっと世界に木霊していた。 「ネパーリは、いいな」 茂は、その様子をみながら裕明にいった。 「そうだな」 そういって、裕明は大きな溜め息をついて首をかしげた。両腕で、髪をかきあげて腕をくみ、ぼんやりと少女をながめていた。 四、ラマ僧 爽やかに目覚めた、ノータンワの朝だった。雲ひとつない素晴らしい天気で、ふたりは静かな、ゆっくりとした時間のなかにいた。うるさくもなく、人もよってこない、だれにも邪魔をされない気持ちのいい朝だった。 そこからまた、バスにのりついだ。ネパールの路線バスには、かぎりないエレジーを感じた。なぜならこの国のバスは、隣国で引退を表明した車だった。なかには、ネパーリが二〇人くらいのっていた。未舗装の道は、のぼりが多く、バスはときどきエンストした。エンジンは、断末魔の唸り声をあげつづけていたし、土をこするタイヤの音もうるさかったが、なかは静かで許すことができた。二時間くらい走るとバスはとまり、休憩のたびに運転手は車体のまえのボンネットをあけて水をさしていた。山道には、棚田がみえた。ずっとつづく階段状の農地は、ネパールの貧しさと勤勉な国民性をあらわしていた。 そんな道を一日かけてついたところは、ビルが立ちならぶ立派な都会で、ステーションにはバスが何台もとまっていた。道路には、多くの車が走っていた。ふかい緑をまとった、うっそうとした森が果てしもなくつづく、つらなる山々にかこまれた小さな盆地は立派な観光地だった。 裕明と茂は観光案内にいって街はずれの一軒家のコテージを借りる契約をし、リクシャーにのっておくってもらった。軒がながくつきでた木製のひろいベランダがある、ふるい丸太づくりの洒落たログハウスだった。雪がふったら寒そうだったが、まだ、いい季節で空は素晴らしくすみわたり、みあげるとちかくに高い山々がつらなり、さらにうえには、あわいやや青みがかった雲が浮かんでいた。 茂がベッドに身体を伸ばして横たわったときには、もう夕方ちかくになっていた。暑くは、なかった。そんなに寒くもなく、ログハウスのベッドのうすい毛布が、ちょうどよかった。茂はかなり疲れて、ゆっくりとしたかった。 「ずいぶん、バスにのったな」と思った。 窮屈な路線バスの旅がつづいたので、茂はベッドのうえで思い切り手足を伸ばして横になっていた。乾いた森の空気を胸いっぱいにすいこむと頭がぼうっとし、ベナレスの欄干からみた穏やかなガンガーのながれを思いだした。ゆっくりとした時間が、ながれていた。裕明もベッドに大の字になり、おなじことを思っているらしかった。 部屋は二〇畳くらいで、足がわに黒くてまるいテーブルと二脚の椅子がおかれていた。左右に大きな窓があり、木の格子で四つに仕切られていた。右窓は、カーテンが両端にとめられ、いくらか汚れたガラスが嵌まっていた。窓からベランダの木の柵と、その先に、かなりふかそうな森がみえた。ふたつならんだベッドはやや大きめで、頭がわは丸太の壁に接し、そこが間仕切りになって、台所がつくられた部屋につづいていた。小さなキッチンにはプロパンのコンロと、奥にシャワー室とトイレがあった。落ちついた感じのするシンプルな一軒家のログハウスだった。 「腹が、へったな」 茂は、いった。 「この街には、なんでもあるよ」 裕明は、答えた。 ロッジは、避暑地の中心から幾分か離れ、飲食街まで一〇分くらい歩いた。せまくはない土の道で、まわりは静かなふかい緑の森にかこまれ、高い山々が視界に入り、頂上に雲がかかっていた。つよさをうしなった日差しが、まだ新緑にみえる木々の葉を照らしていた。木の葉はきらきらと光りながら、いつまでも暖かい日がつづくと信じ、力をたくわえる必要も、のこす必然性も、感じていないように思えた。いつでも全力で輝くのが、生きていることだったのだろう。風は爽やかで、どこかに秋の香りもふくんでいたが、まだほんのわずかで、ずっと先に思えた。日は、黄道をややさがったところをさ迷っていた。まだまだあかるかったが、小一時間もすれば、やはり太陽はしずんでいくはずだった。素敵な、夕暮れにむかう時間だった。 食堂街は賑わい、道にそって一〇軒くらいの店がでていた。路上にテーブルと椅子がけっこう奥まであり、客は外国人、たぶんヨーロピアンがほとんどで、新婚旅行らしいふたりづれが多かった。いいムードでワインを飲んでいた。 子供が水をはこんできたので、「あれが欲しい」と裕明はふたつとなりのテーブルを指さしていった。オーストラリアンらしいカップルが食べていた、牛のステーキだった。 「酒も、いいのだな、ここは。なんでも、ありなのだな」 茂は、いった。 「飲むかい。つきあってもいいよ」と裕明が答えた。 「特別、欲しくもないな。それにしても、ここはなにかが違うな」 静かな時間がゆったりとながれ、夕暮れになりはじめていた。違和を感じて周囲をみまわすと、働いているのは、せいぜい一〇歳くらいまでの子供だけだった。大人は、なかで調理しているのだろうか、どこにもみあたらない不思議な場所だった。 ここの子は、上下とも服をきていた。インドでは、だいたい子供はシャツかズボンかのどちらかで、うえも下もつけているのは金持ちだってすぐに分かった。ここは寒いから両方とも必要なのだろうが、その分だけ判断はつきにくいと茂は思った。 ふとみると、路上のテーブルがなくなってつぎの店がはじまる、道からすこし離れたところで一〇歳くらいの子供がぼうっと立っていた。その姿は、まるで彫金された銅像にも思えた。特別な感情もなく、周囲とまったく無関係で、離れ小島にある無人の灯台になって、とうとつにただ立っていた。だれもいないし、とくになにもない、踝くらいまでの雑草がぼそぼそっと生えた場所だった。 「あれ、なにをしているのだろうね」 茂は、聞いた。 「ああ、ストーンだ」 茂が意味を飲みこめずに、ぼんやりと少年の姿をながめているのをみて、裕明はつけたした。 「石になっているんだよ。飛んでいる。グラスだ。つまり、マリファナのなかに入っているんだ。ダウン系のドラッグだから、一時間でも二時間でも、自分の世界にぼうぜんと立っているのさ」 「なるほどね。危害はないんだな」 ほどなく、牛肉がでてきた。たぶん、どこにでもいるほとんど人と共生している水牛なのだろうが、久しぶりの肉は柔らかくて絶品といってもいいほど、おいしかった。でてきたポテトを食べて、コーヒーを飲んだ。客は、そこそこだった。とはいっても、ラジオの音楽もなかったし、声高に話す連中もいなかった。静かで、ゆったりとした時間を感じ、落ちついた気持ちが心を支配した。存分に、牛を味わった気がした。 「ここだって、ヒンドゥー教なのだろうに」 「いろんなヒンドゥーが、あるのじゃないか。こんなに、馬鹿でかいのだから」 「規範が、ないのだな」 「王国なんて、こんなものだ。根から、腐っているからな。国民は臭いに慣れて、なにが腐食しているのか分からなくなる。なかでもいちばん腐っているのは、王さまなんだ。自分が腐敗してもいいように、身のまわりを腐らしているんだ。そうしないと、ひとりで変な臭いをだしているのがばれてしまう。それを気づかせないのが、統治なんだ」 裕明は、演説した。 「凄い、みぬいているんだ」 茂は、賞賛した。 「尊敬したか」 「いつだって、そういっているだろう」 「やったな」 裕明は、立ちあがり、両手でピースサインを空にかかげた。 「やあ、おふたりさん」 若い男が話しかけてきた。二〇歳くらいの見知らぬ者で、白い長袖とゆったりとしたズボンをはき、灰色がかったながい布を首からかけていた。マフラーにしていたが、寒くもないので理由は分からなかった。背は一六〇くらいで痩せ、髪がみじかく、とろんとした目が印象的だった。それがヒッピーだった。 食事が終わってコーヒーを飲んでいたとき、あいたテーブルの椅子をひいて、ふたりのあいだに勝手に割りこんできた。 「新顔だね」 ヒッピーは、いった。ふるくからの知りあいにする仕草だった。 裕明も茂も、満たされていた。しばらくぶりの肉食を味わい、優しい気持ちになっていた。ヒッピーはウエイターの子供に水を頼み、ストーンの少年をみて「あれがいいんだ」と小さくうなずきながらいった。それから茶色っぽいタバコ入れをポケットからだし、なかから一本をとりだして吹かしはじめた。 「今日、きたの」 ヒッピーは、口をひらいた。 「それ、グラスじゃないのか」 裕明が、聞いた。 「やるかい」 「いや。おれは、いらない」 「そうか、もったいないな」 ヒッピーは、口を平たくひらいて、胸の奥まで煙をすいこんだ。それが、会話のはじまりだった。 「あれは、一回、試してみたら」 ヒッピーは、とろんとした目つきになっていった。 「夕方さっと雨がふったから、明日はいいのが手に入る。きっと絶品だよ」 「面白いのかい」 裕明は聞いた。 「けっこう、いいと思うよ」 ゆっくりと答え、それから裕明にむかっていった。 「やるのだったら、入れて欲しいよ。あれは、多いほうが面白いんだ」 ヒッピーは、ゆっくりとした調子で解説をはじめた。 「馬の糞に、生えるんだよ。乾いちゃうとだめなのだけど、雨がふるといいのができる。でも、ぼくにはさがせない。ずいぶん、やってみたけれどね。やっぱり、モイルのもってくるのが最高だ。どこでとるのか、朝つけてみたんだ。みうしなっちゃったよ。あいつ、よく知っているんだ」 「馬の糞に、生えるのか」 「普通のでは、だめなんだ。やっぱりなあ、働いているのは難があるね。なにもしない馬じゃないと。それに、メスのほうがいいみたいだ。あまり若すぎるのも、だめだし。明日は、楽しみだ。モイルに最高のものを、手配させるよ」 ヒッピーは、うっとりとした「恍惚」の表情になってグラスを吹かしていた。ゆっくりとした口調で、プロに極上品をとどけさせるとまたいった。 「朝、いちばんに、とどけさせるよ。今日、これから、話を、しておく」 ヒッピーが、落ちついた、しっとりと濡れた声で語りながら、裕明をみつめる様子は、まるで、いま情を交わした女性をみる恍惚の顔つきだと、茂は思った。 その表情を、正確にたとえようと試みるならば。 二〇歳のクレオパトラと床をともにし、たがいに精も根もつき果てるまで愛しあったあとで、横に眠る彼女の熱い身体を感じながら、ようよう目をみひらいたときのような。 火照る、やや湿った体躯に冷たいシャワーをさっとあびて、石づくりの吹きぬけになった高い天井がある大きな部屋で、潤んだ瞳をのぞいてみると、薄紅に頬を染めた、二〇歳のクレオパトラをみたときのような。 暑くも寒くもない大気のなかで、彼女の芳醇な甘い吐息につつまれ、ゆったりとすぎてゆく時間のながれに身をまかせながら、緋色ではあまりにも鮮やかすぎるので、くすんだ茶の糸を丹念に織りこんで殺した、薔薇の文様が折りかさなる、ぶ厚いペルシア絨毯のうえで、柔らかい純白の羽毛がいっぱいにつまって、背には伸ばされた金で丁寧に刺繍が施された、腹子牛をバケッタで手染めした、ロココ様式の青いソファーに腰をおろして、しっとりとした、すき通る白い肌をして、アイロンで細心に仕上げた、ながい黒髪が輝く、先ほどまで喘いでいたはずの、あでやかな二〇歳のクレオパトラと、たったふたり切りで、一九四五年ものの、適度に冷えた五つ星のボルドー産の白ワインを飲みはじめた、ときのような。 その瞬間はじめて人が浮かべるかも知れない「恍惚」、そんな表情に思えた。 「どこに、泊まっているの」 ヒッピーは、ふたりの宿をたずねた。 「一〇分くらい先の、コテージだよ」 裕明が答えると、「いっしょにいきたい」とヒッピーはいった。 それで、帰りは三人になった。 「やっぱり、お風呂に浸かるんだよね」 ヒッピーは、勝手に話をしていた。興奮するでもなく、完全なマイペースで焦点が定まらない目は、どこか遠くをみて、なにを話していても実感がなかった。すべてが虚ろだった。裕明は、左のベッドの端にすわって絵をかいていた。茂とヒッピーは、部屋のすみの椅子に腰かけ、テーブルには文庫本がおかれていた。もう完全な夕暮れで、闇が忍びこもうとし、天井には裸の電球がきらきらとあかるく輝いていた。静かなネパールの時間が、そっとながれていく。こうした設定がすべてマッチしていて、ロマンチックないいムードだった。 「どうしてだろうって考えたんだ。コデインなんだ。でも、ちょびっとしか入っていないから、最低五本は飲まないとね。どれでもいい、というわけにもいかない。おなじ量のコデインなのに、きくのとそうでないのがあるって気がついたんだ。やっぱり、アナトンなんだ。それを、さがしに旅にでるんだ。店の人は、みんな冷たい目でぼくをみるんだ。さがしていくうちに、とうとう恐山のちかくまでいったんだ。そこでね、アナトンがいっぱいある店にでっくわしたんだ。あのときの興奮は、忘れられないよ。最初の日に五本買って、一気に飲んで、ぬるいお風呂に入ったんだ。三時間くらい、浸かっていたよ。いままでで、最高の気持ちだった。なんだか、すべてがよくなっちゃう。雨がふっていても、店の親父さんがいやな顔をしても」 ヒッピーは、完全に自分の世界に入っていた。ふたりが泊まるコテージで、裕明は部屋のスケッチをして、茂は足の爪を切っていた。 「つぎの日にさ、もう一度その店にいったんだ。おなじ、おばさんがいてね。あんたにはもう売らないっていわれると思って、恐る恐るアナトン五本って頼んでみたんだ。そしたら、じっとぼくをみてね。兄さん、若いのに飲みっぷりがいいねって。東北のおばさんって、ユーモアがあるよね。優しいよね。それで一〇本売ってもらって、二日間楽しめたんだ。三時間ずつ、お湯に浸かってね。飲んで、すぐに入ると効くんだ。でも悩んだんだ。もし一〇本いっぺんに飲んだら、どのくらい、いい気持ちなれるのだろうってね。きっと、倍以上じゃないのかって。でもね、ぼくには理性があるからね。二度に分けて、楽しもうと思ったんだ。それが、幻のアナトンだったんだ」 ヒッピーは、グラスをゆっくりと吹かしながら遠くをみる感じで話していた。遠いものをながめる目は、過去と現在が入りくみ、いまと未来もまじりあっていた。もしかするとヒッピーの頭のなかでは、すべてが同時に進行していたのかも知れなかった。そもそもこの連中は、どこまでが本気で、どの辺から冗談なのかも見当がつかなかった。 アナトンというのは咳止めドリンクで、鎮咳剤のコデインがふくまれている。数あるシロップのなかでも、いちばん効く銘柄があり、それをもとめて日本中をさ迷うらしい。茂が理解できたのは、そこまでだった。 「ヒッピーは、ひとりできたのかい」 「そうだよ。仲間がいっていた。ここには、世界で最高級のグラスがあるって。ムスタンにいこうと思っていたんだ。あのちかくのグラスが、世界で最高だってね。だから、きたんだよ」 「ここにも、仲間はいるのかい」 「そうだね。どこにでもいるよ。ここでも出会って、いっしょにムスタンにむかうことになっていたんだ」 「いかなかったのかい」 「病気に、なったんだよ。なんだか、ぐあいが悪いんだ。二週間くらいまえから、身体が黄色くなりはじめてさ。いまじゃ真っ黄色でさ。食事も、ぜんぜんとらないし、黄疸とかいうらしいね」 「A型の肝炎では、ないのかな。この地方の風土病だよ」 「ここの病気なんだ。でも、どうなるのかな」 ヒッピーに、悲壮感はない。 「普通は、なおるのじゃないの。一%くらいは劇症化して、死ぬこともあるらしいけどね」 「それじゃ。それだよ」 「どうして」 「もう、お化けみたいでさ。がりがりに痩せちゃって、水も飲まないのだから。ホテルの親父さんが、うるさくってさ。お医者にみせなきゃ、もう泊めてやらないとかって。面倒をかけるんだよな。仕方がないから、お医者をよんでさ」 「ヒッピー。友だちとは、いつからいっしょにいるの」 「もう一ヵ月くらいかな。ぐあいの悪いのといっしょにいると、疲れるよね。あきあきしたよ。黄色くなるすこしまえに、ムスタンにいく話になっていたんだ。ひとりでもかまわなかったんだ。失敗したよ。どっちでもいいから、はやく別れたいんだ。帰ったら、なにをしにここまできたのかって、みんなに笑われちゃうよね。ぼくって、根っからのお人好しなんだよね」 「ヒッピー。友だちの家族には、連絡しなかったのかい」 「しょうがないから三日まえに電話をしたよ。お医者が、うるさいんだ。すぐに連絡をとれって。関係ないのにさ。確実に、死ぬんだって。点滴をもってきて、やっていたよ。終わったら針をぬけとか、手袋しろとか。ぼくは、関係ないんだよな。ちょっと、いっしょにいただけなんだ。迷惑だよね。ここのお医者って、ぜんぜん怖くないね。そばでグラスをすってもさ、だまってみているだけなんだよ」 茂は、しだいに頭が痛くなってきた。 「入院しなけりゃだめだって、うるさいんだ。死ぬんだって。もう、なにをいっても分からないんだ。疲れるよね。迷惑だよね。人に面倒をかけるくらいなら、ぼくは生きていたくないよ。ひと月、いっしょにいただけなんだ。でも、日本の警察って面白いよね。はりこみに、きているんだよ。こんな、ところまで」 ヒッピーの話は、とりとめがなかった。裕明はスケッチをして、茂は文庫本を読んでいた。 「死んだら、どうやって、はこぶのかなあ。家族は、くるっていっていたけど。面白いよね。親は、ネパールにくるのに反対していたんだ。明日の朝、つくんだって。なにが、どうしたって、うるさくってさ。聞かれたって、分からないよね。よく知っているわけじゃないし、面倒をかけるんだよ。変なのと、いっしょになっちゃったんだ。せっかくきたのにさ」 茂は本を読み、裕明はだまってスケッチをつづけていた。ヒッピーが話すのをやめると静寂が支配し、裸電球のあかりをうけて輝く窓をほとほととたたく風の音が聞こえた。そんな時間があって、マイペースの彼も、さすがになにかを感じたらしかった。 「明日さ、二時ごろくるからさ。朝、とり立てをとどけろって、モイルにいっておくから。それじゃ、またね」 「ヒッピー。友だちが、死んじゃうのだろ。マッシュルームどころじゃ、ないだろう」 「ぼくがいたって、関係ないもの。面白いんだよ、あれが。じゃ、二時にくるから」 ヒッピーは、そういうと、扉をあけてでていった。外は、もう完全に闇が支配していた。 「あいつも、死んじまったほうが、いいのじゃないのか」 裕明は、ヒッピーが扉をしめて、でていくといった。 「ちかごろは、どこにでも、ああいう連中がいるな。でも、茂はいい奴かも知れないと思ったよ。あんな、くだらない話を、真面目に聞くのだから」 ベッドに腰をかけていた裕明は、むきなおって正面にみすえながらいった。 ヒッピーのリアリティーとは、なんだろうと茂は思った。裕明は現実的だったが、それとは、まったく違う得体の知れないものに思えた。 「ごんごん」とドアがたたかれる音がした。 朝の七時ごろで、茂が扉をあけると、七、八歳の少年が大きな紙袋をもって立っていた。痩せて浅黒い肌をした坊主頭の子供は、鼻の下に二本の筋があり、半ズボンに汚れたシャツをきていた。サンダルをはく、黒くてほそい素足がみえた。左の手によれよれになった茶色の紙袋をぶらさげ、右の人差し指で鼻の下をうえにむけてこすりながら、青い汁を顔中に懸命にひろげていた。察するに、モイルらしかった。だまってぼんやりと立つ少年は、意思も不明にみえた。ヒマラヤにちかい奥ぶかい森のなかで、清々しく目覚めた神聖な朝の雰囲気を一気に俗界にひきもどしていく、そんな子供だった。 「どうする」 茂は、聞いた。 「どんな、ものなのかな」 裕明はいい、ベッドから起きて、モイルのもっている袋をみた。紙袋は、まるまるとふくらんでいた。 「ずいぶんあるな」といいながら、うえからなかをのぞいた。新聞紙をとってきて、中身を逆さにしてふるい落としてみると、小さい山をつくった。 「こんなに食べたら、死んじゃうのじゃないのか」 裕明が新聞紙のうえに平らに伸ばしてみると、けっこうな量だった。その山をみて彼は、ながい髪の毛をかきあげてから腕をくんだ。 「どうする」 そういって、右手をかるくあげ、茂をみあげた。 「やった、ことは」 「ないなあ」 裕明は、すこし考え、「やってみるか。ヒッピーもいるしな」と、うなずきながらつづけた。彼、新聞紙をはさんでモイルとむかいあった。平たく伸ばされた真ん中に、右の人差し指でゆっくりと横線を入れ、目をみつめながら、「ハーフ」といった。 モイルは、だまっていた。裕明は、また指先をつかって、今度は縦線をゆっくり入れ、「ハーフ」といい、じっと彼をみつめた。モイルは、なにも声をださなかった。さらにもう一度ゆっくりと横線を入れた。「ハーフ」といって、少年をみつめた。 そのときはじめて、モイルは腕ぐみをして考えはじめた。 それで、交渉になった。少年は、左下にできた八分の一の部分を瞬きも忘れてみつめていた。眉間に皺をよせて、真剣に考えていた。右指は、ひとときも休むことなく鼻汁を満遍なく顔中に押しひろげていた。しばらくすると今度は顔をあげて、裕明をじっとみつめた。交渉相手を再確認すると目を落とし、また八分の一の部分を凝視した。指は、鼻に押しあてたままうごかなくなり、両腕を胸のところでくんで、ほとんど深刻といってもいい表情になった。少年は、その状態で立ちつづけていた。 「どうする、つもりなのだろう。もち帰るのかな」と茂が考える時間が充分にあり、それでもモイルは、ぼうっと立ちつづけていた。 「様子が変だ」と思ったとき、少年はいった。 「五〇パイサ」 「いや、三〇だな」 少年は、ぶんぶんと大きく首を振った。 「いいか、四〇で」 裕明がそういうと、少年も仕方がないという風に両手をひろげ、それで交渉は成立した。モイルがのこりをもって帰ったので、新聞紙の右端に白っぽい塊があった。 とり立ての「キノコ」だった。 少年が帰ったあとで、「たぶん、いいんだ」と裕明は腕ぐみをして納得したように呟いた。 「これじゃ、効かないとは、いわなかったものな。あいつ」 「なるほど。シャープだな」 茂は、賞賛した。 「あとは、ヒッピーにまかせよう」 裕明は、いった。 それから、ふたりで部屋をでた。天気はよかったが、ずっと高いところには昨日とおなじ雲がかかっていた。高山にかこまれた街は盆地だったが、一〇〇〇メートルくらいの標高は充分にあるように思えた。ベナレスからノータンワへの道も最後はのぼりで、ネパールに入ってからは、まがりくねり、ずっときつい勾配がつづいていた。 「かなり、のぼってきたはずだ」 茂は、思った。 まわりをふかい森にかこまれた幅、七、八メートルはある土の道は、清々しく空気がすきわたり、心が浮き浮きし、いいことが待っている気がした。レストランでパンとコーヒーの朝食をとり、ヒッピーがくるといった二時に、コテージで待ちあわせようと約束した。鍵は二本あったので、ちょうどよかった。 「街にいく」と裕明が話したので、そこでふたりは別れた。 茂は、一〇分くらい歩いて湖にいってみた。蒼い静かな、ペワ湖だった。とりかこむ高い山々は青く色づき、まだまださかりの緑にみえた。頂上に真っ白な雲が漂い、光にあかるく輝き、空気はすみ切っていた。湖のまわりは背のひくい草で覆われ、遠くからは一面の芝にもみえたが、実際には膝くらいまでの雑草だった。ところどころに、灌木が生育していた。一本ずつ、ぽつぽつと生えるのではなく、何本かがまとまっていた。美しい避暑地だった。 湖面には、カヌーやカヤックが漂っていた。湖は、波もなく静かで幽玄なときを感じた。青くすんで、泳ぐ魚やふかい底までもみえるほどだった。若いヨーロピアンが簡易の組み立て式のベッドに寝そべり、身体中にオイルを塗りあいながら日光浴をしていた。女は全裸でサングラスをかけ、口づけしながらだきあい、からみあうカップルもいた。裸の男女が水しぶきをあげて、じゃれあっていた。水は冷たいはずだったが、彼らにとっては関係がなかったのだろう。茂には、すべてが美しくみえた。 「王国は、腐っているから」 裕明なら、そういうだろう。 みえる部分だけが美しく、数多くの汚れた夾雑物が隔離されていた。貧しく、みすぼらしい真実は覆いをかけられ、世界は綺麗なものだけで構成されていた。子供しか働いていないのは、とうぜんかも知れない。大人には、正視に耐えられないだろうと茂は思った。 ゆっくりと半周ほど湖を歩いたとき、とつぜんヒッピーがあらわれた。 「いっしょに、病院にいってもらいたいんだ」 「なんで」 「ひとりで、いきたくないんだ。今日は、家族とも会うかも知れないし。昼ごはんをご馳走するよ。さっき、街で裕明さんに会ったんだ。茂さんが、ペワ湖にいっているって聞いたんだ。つきあって、くれるのじゃないかと思って」 あわい灰色のながい布を首からかけたヒッピーは、そのときはじめて真剣な表情になった。 「どうやって、いくの」 「タクシーを、待たせてあるんだ。ほら、あそこに。なあ、茂さん、つきあってよ。お願いだ」 ヒッピーは、そういって両手をあわせた。 コンクリートで舗装されたひろい道には、近代的なビルがならんでいた。牧歌的で、すべてが大自然ととけあいひとつになった、美しさあふれるペワ湖から車で一〇分ほど走ると、とつぜん都会があらわれた。 ガンダキ中央病院は、官庁街の真ん中にある、コンクリートづくりの六階だての立派な施設で、三〇〇床は備わっていた。石の階段をあがると一階に大きなホールがつくられ、老人や子供がいっぱいいて、みんなぐあいが悪そうだった。年寄りといっても、まだ五〇歳か六〇歳くらいだと思うが、だれもが浅黒く、ふかい皺が額にも頬にも、きざまれていた。ホールのむかいがわには、ながいカウンターの受付があった。中央に位置する広間から、通路がいろいろな方向に伸び、さまざまな案内板や、レントゲン室やCTの撮影室への標識もみえた。ネパーリのあいだをぬけて奥へいくと、エレベーターが四台あり、ヒッピーはボタンを押し四階にのぼった。内科病棟らしく、白衣をきた看護スタッフがひろい廊下をきびきびとうごきまわって、日本の病院と変わらなかった。 つれられていったのは病棟のいちばん奥のひとり部屋で、大きな窓がありポカラが一望できた。小さな街だったが、まわりは緑がどこまでもつづく綺麗な高い山々にかこまれていた。四階の病室からの風景は、そのつらなる山塊がとてもちかくにみえ、写真にでもとってのこしておきたいほどだった。 真っ黄色の青年は、もう呼吸をしていなかった。そばに、剃髪で地味な茶色の上着を羽織り、色褪せた赤いスカートみたいな腰巻きをつけたラマ僧がいた。浅黒く、とても痩せ、年は五〇歳なかばにみえた。家族は、まだきていないらしかった。僧は、呼吸をやめた青年にむかい、両手で印をむすんで一心不乱に呪文をとなえていた。ラマ僧の右の手首には、金色のブレスレットが輝いていた。ぶつぶつと耳に入る文句は、はじめて聞くもので、なんだか分からなかったが、チベット仏教の僧が呟くのだから、マントラをとなえているに違いないと茂は思った。 「オム、マニ、パドメー、フーム」と聞こえた。 茂が知っているのは、この四つしかなかったので、そう感じただけだったのかも知れなかった。慈悲の化身である観音菩薩の真言をとなえれば、悪業とくるしみの大海から逃れることができ、悟りをひらく助けになると聞いていた。近代的な病院とラマ僧のくみあわせは、茂にはとても不思議な光景に思えた。 病棟のなかは塵ひとつなく、どこも綺麗に掃除がいきとどき、清潔で静的で、壁も白くて冷たく無機的にみえた。ひとつぽつんとおかれた金属製のベッドのうえで、黄色くなり息をしない青年は、もう神に召され、いまは現世での仮の姿があるだけで、ひどく殺風景に思われた。しかし、かたわらに赤い布を巻いた痩せたラマ僧がひとりいるだけで、暖かい世界がとなりあい、違う領域のものをうけいれられる、そんな雰囲気をかもしだしていた。 ヒッピーとふたりでだまって様子をみていると、背の高い大柄のナースが入室してきた。白衣に帽子をかぶっていたので、看護師だろうと茂は勝手に思った。 「カゾクワマダナノ」 ナースは、いった。アクセントはおかしかったが、間違いなく日本語だった。 「分からない」 ヒッピーは、答えた。 「アンタトモダチナンデシヨウ」 「いっしょに、いただけだよ。連絡はとったよ。もう、つくって話だったよ」 ラマ僧が、ナースに小声でなにかをいった。 そうこうするうちに、年配の男女が病室に入ってきた。青年の両親と思われるふたりは、とり乱していた。ラマ僧が外にでたので、茂もヒッピーといっしょに退出した。日本語を話せるナースが、事情を説明しているらしかった。 「いこうよ」 ヒッピーは、茂にいって帰ろうとした。 「待て」 ラマ僧が、とつぜんいった。 「君には、ご両親に説明する義務がある」 完全な日本語だった。 「日本人だったのですか」 茂は、驚いて聞いた。 「そうだ」 ラマ僧は、彼にヒッピーとどんな関係かを聞いた。 茂は、ありのままを話し、一〇分くらい待った。ヒッピーは、あきあきして面倒くさそうで、廊下の壁によりかかりグラスをすおうとして、ラマ僧から注意をうけた。僧は、じっと立っていた。茂も、おなじように起立していた。 「だから、きたくなかったんだよ。昨日、話した通りでしょ」 ヒッピーは、同意をもとめた。 「だまっていろ」 茂が小声でいうと、彼は沈黙した。 ほどなく日本語を話すナースがでてきて、ヒッピーはよばれ、ひとりで部屋に入っていった。 病棟の奥で、廊下は静かだった。入院患者は多くないらしく、リネンをつんだ台車やナースが部屋を出入りするのがみえた。廊下には、僧と茂のふたりしかいなかった。 「話しても、よろしいですか」 彼は、ラマ僧をみつめて聞いた。 「いい」 「日本人は、よく入院するのですか」 「年に何人も死ぬ。日本の若者が、ここで黄色くなって他界してしまう。なにも分からずにやってきて、そのまま死んでいく」 ラマ僧は、重ぐるしい表情でそういった。目をつむっていたが、「人に説教する資格はない。そうした筋あいの者ではない。自分もまたおなじだ」と静かにいった。 ひくい押し殺した、遠い昔を思い起こす声だった。 「こうした死は、よくない」 「死に方に、善悪があるのですか」 「好ましい死は、ありえる。それは、死すべくして死ぬことだ」 「ときと場所を知るべきだ。ということですか」 「そうだ」 「そうした死とは、えらべるものなのでしょうか」 「そのためには、よりよく生きることが必要だ。日々、死について考えねばならない」 「よりよく生きた、その先にあるのでしょうか」 「この世は、すべてがつながっている。まるで両極にあるようにみえるものでも、関係なくして存在することはできない」 「曼荼羅なのですね」 「ほう」 ラマ僧は、じっと茂をみた。痩せた頬だったが、眉はこく瞳はすき通って、つよい意志とふかい知性を感じさせた。茂の胸中を射抜く視線は、おごそかで暖かく、遠い昔を思いだそうとする感じにもみえた。 「そうしたものに、興味をもっているのかね」 「父の部屋には、曼荼羅が飾られています」 「どんな、ものなのかい」 「ごく普通の、両界曼荼羅です。金剛界は九会(くえ)曼荼羅で、中心に大日如来がいました」 「面白いことだ」 「なにがでしょうか」 茂が聞くと、ラマ僧はその問いには答えず、 「根本会(こんぽんね)を知っているか」と質問した。 「はい。根本会は、金剛界曼荼羅の九つに分かれた小曼荼羅の中心部分です。羯磨会(かつまえ)とも成身会(じようじんえ)とも、よばれるところです」 ラマ僧は、驚いた表情になって茂をじっとみつめると話しはじめた。 「羯磨というのは、カルマ、業ということだ。すべては中心から発する。そして、真ん中にもどっていく。同時に、中央も周辺もおなじであり、はじまりも終わりもない。九つの小曼荼羅は、ひとつひとつがそれだけで完結し、しかもたがいに影響をおよぼしあって、部分でも中心でもある大曼荼羅を形づくっている。そうしたダイナミズムのなかに、私たちの生命はある」 ラマ僧はいい、じっと茂をみて、 「しかし、奇遇ではあるな」と呟いてだまった。 その様子は、ふかい物思いにふけるようにみえた。 やがてヒッピーがでてきて、茂は黄色い青年の父親と目があい、なんとなく頭をさげた。とくに、なにも聞かれなかったので帰路についた。 ヒッピーは肩の荷がおりて、すっきりしたようだった。それから、レストランでいっしょに昼食を食べた。 「あのお坊さん、ほんとうに日本人らしいよ。面白い人がいるのだねえ。看護師さんたちに、日本語を教えているらしいよ。日本人が入院すると、あの坊さんが連絡をとってくれるんだって。いろんな人がいるね」 ヒッピーは、グラスをすいながら、とろんとした目でいった。 茂は、だまっていた。 スーパーによって生野菜、レタスとトマト、それによく分からない野菜を買った。それから小一時間、コテージまで歩いた。清々しい気持ちのいい空気に満たされ、周囲の山々は日の光をあびて輝いてみえた。 痩せたラマ僧の苦悩に満ちた顔が、ふと頭に浮かんだ。 「こうした死は、よくない」 「死すべくして死ぬことだ」 「奇遇」 ラマ僧の言葉は、どこまでも果てしがなくみえる爽やかな青い空の彼方から、静かにやってきて、まわりのふかい緑色の木々の葉を戦がせる緩やかな風となり、茂にまとわりつきながら心を揺すっていった。そして、吹きぬけた厚い緑のほんの先には、もうちかよることもできない深淵があった。 五、神の住むちかくで 泊まったコテージのまわりには、野原があった。踝くらいの雑草がところどころに生え、ふかい森にむかって小径がつづいていた。三段のステップで土の道からすこし高くなっているベランダは、幅がひろくて二メートル以上あり、周囲に腰の高さほどの柵がつき、ドアにつらなっている。ながくつきでた軒に覆われ、普通の雨では濡れない洒落たつくりになっていた。裕明は、部屋の椅子をベランダにもちだして、ちかくにみえる蒼くて高い山々をスケッチしていた。茂の姿をみとめると、病院はどうだったのかと聞いた。 「ヒッピーと、亡くなった友だちをみてきたよ」 「やっぱり、死んだのか」 「亡くなっていた。ヒッピーのいう通り、真っ黄色だった。家族と、日本人のラマ僧に会った」 「ふうん。そうか」 裕明は、手を休めずにいった。 「なあ、パーティーをやろうよ」 ヒッピーは、買ってきた野菜とキノコをよくあらった。 「ちょうどいい量だ」といった。 木の皿に、スーパーで買ってきた野菜とキノコをもりつけると、ヒッピーは嬉しそうに叫んだ。 「これが、マジック・マッシュルームだ」 腰をおろしたふたつのベッドのあいだに、褪せた黒色のまるいテーブルをもってきて、うえに皿をのせると、それなりの雰囲気ができた。 「じゃ、いってみるか」 裕明が、口をひらいた。 「きっと、驚くと思うよ」 ヒッピーは、浮き浮きしていった。 それで三人で、キノコを食べた。とくにうまいとか、まずいとかはなく、別段変わったことは、なにも起こらなかった。 ヒッピーだけが、浮き浮きしていた。一〇分くらいたったが、とくに変化は起こらなかった。何ひとつ、変わらなかった。それで、「なんにも、起こらないじゃないか」と茂はヒッピーにいった。 「ほんとうだよな」 裕明が、げらげら笑いながらいった。 「あんなに、緊張して食べたのに」 茂も、そう思うとげらげらと笑えた。おかしいと感じて笑いはじめると、笑いはとまらなくなった。 「面白いだろう」 ヒッピーが、ころげまわりながらいった。 「それで、そいつ。死んじまったのか」 裕明は、げらげら笑いながら言葉を発した。 「真っ黄色でさ」 茂の腹の底から、また笑いがこみあげてきた。 「ラマ僧の坊さんが」 ヒッピーが、笑った。 「しかし」、「奇遇」、「はある」、「て」 途切れとぎれになりながら、茂は、必死にいって腹をよじって笑っていた。もう、どんな言葉も、動作もおかしく、理由もなく、ただただ面白かった。 「モイル」、「もって」、「よ」 茂は、息ができないほど笑っていた。 「あんなの」、「みんな」、「食べ」、「どう」 裕明が、いった。 それは、死にそうになるほど、面白いことだった。 「死」、「じゃ」、「うよ」 ヒッピーは、笑いつづけていた。 「どう」、「るんだ」 裕明は、ベッドのうえで身をよじり、もだえながら聞いた。 「顔」、「腫れる」 ヒッピーも、床にころがり、笑いながらいった。 「腫れ」、「どう」 裕明は、もう言葉にならなかった。 「そのま」、「息」、「なくな」、「って」 ヒッピーは、気が狂ったみたいに抱腹絶倒していた。 笑いが爆笑の渦をよび、げらげらと笑いつづけた。どんな言葉でも、なんの話でも、よかった。ヒッピーの白い顔も、裕明の不精ひげも、茂の身のよじり方も、おかしかった。 テーブルがある。それが、ベッドの真ん中に。しかも、表面には傷がある。 電球が真ん中からぶらぶらと、たれさがっている。それが裸のガラスだなんて。 屋根がある。木ででき、しかも丸太がまるみえ。まるい傷がある。それに、円形の隙間がみえるだなんて。 三人は、笑いつづけていた。自分が身をよじっているのを知って爆笑した。相手をみては笑い、床にころがり這いつくばっては、腹をかかえた。 どのくらい、つづいたのだろうか。気がつくと、三人とも床にころがっていた。足がしびれてきて、「ケミカルな反応だ」と茂は思った。みんなが、おなじ気持ちに変わり、ひとつになる。違っているはずの人びとがまとめられ、「個」がなくなり、「私」がいなくなる。すべてがみんなになり、分割ができず、一切がごちゃまぜにされる。頭がぼやけてきて、あらゆることがどうでもいいと思った。 しとしとと、雨のふる音が聞こえる。ゆっくりと、時間がながれている。気持ちがいいとか悪いとか、そういう次元の問題とは違って、たとえるなら、ながい距離を走れるだけ走ったあと、そのままたおれこんでしまった感じだった。もう手も足もうごかない。息をするのも面倒で、世界の終わりがくるなら、それでもかまわない。一歩うごくのも、ご遠慮したい。 「もう、どうでもいいや。好きに、してくれ」 洪水が襲ってきて、逃げまどい、逃げつづけて、もう一歩もうごけなくなったら、きっとこんな感じなのだろう。 雨が、しとしとと天井をたたく音がする。しっとりとしたひびきとともに屋根を撫でながら、雨粒は落ちてくる。 「くすくす」という少女の声が窓のほうから聞こえてきた。 振りむくのも面倒だ、どうでもいい。押し殺すひくい声音で、ネパーリの女の子だろうか。可愛い話し声が、耳にとどいてくる。窓から、三人の男が床にころがっているのをみて、笑う声が聞こえる。 「マッシュルームを、やったのね」と囁いているのだろう。 どうでもいい。満たされた時間で、なんにもいらない。雨の音が素敵で、雰囲気がいい。湿った空気が、たまらない。このまま世界が、とまるなら、それでもかまわない。 静かな、雨の音が聞こえる。ネパーリのふたりの女の子が、コテージの軒先で雨宿りをしているらしく、かなりの時間がたったのか、童謡みたいな歌を歌いはじめる。高い綺麗な声だ。迷惑になるのに気をつけて、そっと静かに歌っている。 「雨宿りの歌なの、だろうか」 それがまた素敵で、マッチしている。柔らかな雨の伴奏みたいで、もうどうなってもいい。こんな極上の時間が、すぎていくなら。味わったことのない華麗で、洗練された、落ちついたときだった。 もう、どのくらいそうしていたのだろう。だれにも分からなかったし、とり立てて知る必要もなく、三人とも床にころがっていた。頭が、いくらかはっきりとしてきたときには、日はしずみ、雨もやんでいた。ネパーリの女の子たちも、いなくなっていた。 茂は立ちあがり、トイレにいこうとした。あいにく裕明が先に用をたしていて、ベランダにでて木製の階段をおりた。外は月の光に照らされ、ちかくの草むらにむかって小用をした。尿が草にかかる音がひびき、勢いでゆらゆらと揺れていた。その一筋のながれは、シヴァ神を思い起こさせた。 シヴァは、ヒンドゥーの神で、すべてに破壊をもたらす。命のある者もないものも、およそこの世の一切は、その撃滅から逃れることはできない。さまざまな絵をみた。シヴァ神はいつでも、頭のてっぺんから一筋の水をながしていた。それがガンジスで、シヴァは、ガンガーダラともよばれる神でもある。そんなことを、思いだした。尿をだし切ってすっきりとし、ほっと溜め息をついてあかるい天をみた。 そのとき、茂は真っ白になった。 満月だった。照らされて山がみえた。 空は、晴れわたり、いつもの雲がなかった。高山だと思っていたのは、じつはひくい山だった。そのさらにずっとうえに、いままで高いと考えていた山々に覆いかぶさって巨大な山岳がみえた。山はせまり、襲いかかっていた。 それが、ヒマラヤだった。 真っ白の雪に覆われた、アンナプルナだった。 その、鋭角に切れたカミソリ状の白い尾根がみえた。 豊穣の女神は、飛んでもなく高くて、峰は月の高さまであった。事実、あかるい満月の一部まで、尾根の端は到達していた。いつも高いと思ってみていた山々は、まるでお話にならなかった。 峰は、もう、ほとんど青白いといってもいい月の光に白く輝いていた。そこは、疑う余地もない、あきらかな神の領域だった。喜びや悲しみ、愛や憎しみ、この世に起こりうるあらゆる感情は、すべて綺麗に切りとられ、忽然とアンナプルナは存在していた。 生や死などという、俗界の事象にむすびつくものはひとつとしてなく、かぎりなく神聖で命ある何者もよせつけなようにみえた。穢れがちかづくことも忘れられ、時空をこえ、目の前にアンナプルナは聳えていた。 地面に突き刺さった、一枚のカミソリの刃だった。 遠い昔、中央ユーラシアの草原地帯を自在に駆けまわっていた、白い肌の遊牧民がいた。そのなかで戦いが起こり、負けた人びとが南下をはじめた。部族は、西アジアまできて、さらに仲間割れをして二手に分かれた。その片割れが、カイバルをこえ、西からこの大陸に侵入してきた。 もともとここで暮らしていた、かつて世界の四大文明の一翼を担った黒い肌の人びとの末裔たちは、安穏で平和な日々をおくる農耕民族だった。はるかな北に、白い縁飾りがみえる。その雪と氷河からながれでた、五つの河が潤す肥沃な大地に異民族はなだれこんできた。 平和に暮らす人びとのなかにも、勇者はいた。妻や娘をまもるため、雄々しく立ちむかった兵(つはもの)は住んでいた。しかし、どんな猛者も長老も、あんな車はみたことがなかった。二頭の黒い馬にひかれた、あれはいったいなんなのだろう。獲物をみつけた、ひげ鷲のはやさで、疲れることもなく縦横無尽に走りまわって、ぐるぐる回転しているふたつの大きな輪はたおれた仲間をのりこえていく。象よりもつよく大きく、恐ろしい。車のうえには、白い人が金色の冠をかぶって立っている。その刀は、なぜ、あんなにもきらきらと輝き、どんな武器でも切ってしまうのだろうか。 何度も、くりかえしやぶれて、南に、東に、北に、女をつれ、脱出せざるをえなかった。 逃げて。どこまでも。逃げつづけて。逃げのびて。 南には、世界最大級の激しい火山活動によって排出された「洪水玄武岩」が幾層にもつみかさなり、植物も生えることができない、デカントラップがひろがっていた。東は、熱帯雨林が生いしげり、猛獣とマラリアが支配する未踏の森にふさがれていた。そして北に逃げた黒い肌の人たちが、遭遇した光景とは、月に照らしだされた、神聖で侵すことのできないカミソリの刃だった。垂直に切り立った、こえられない壁をみたとき、人びとは神の意志を知った。 白い肌の人たちの奴隷となり、教えにしたがい、彼らの神さまをみとめなければならなかった。 この文明をつくったのは、ヒマラヤだった。 雪と氷河に覆われたアンナプルナの峰は、あかるい月の下の部分を切りさいていた。満月は、さらに天へと一目散に駆けあがろうとしていた。千丈のカミソリの壁をこえることは、月にとっても、決して容易ではなかった。 アンナプルナの白く光る刃状の尾根が切りさけないものは、この世にひとつもなかった。たぶん峰につもる雪さえも、結晶のひとつひとつが、綺麗にふたつに分割されていたはずだった。人の手がとどかない、穢れるのも、穢すこともできない、あきらかに神の領域に属していた。 青白い月の象をみいったとき、茂に「平安」が襲ってきた。 不意に、風が起こった。そよ風が吹いた。柔らかく撫でながら、くりかえしくりかえし、ゆっくりと弱い気流がながれている。まるで神の吐息にも似て優しく、そよ風が吹く。何回目の気流だったろうか。ふと、風は体躯をつきぬけた。魂をのせると身体だけをのこして大気とひとつにとけあい、希薄になって拡散をはじめ、宇宙そのものへと、ひろがっていった。 茂には、コテージのちかくでぼうぜんと突っ立つ、自分の姿が目に入った。それから、あかるく光る小屋をとりまく、ふかい森がみえた。魂は、ほんらいの住み処である空にむかって、どんどんとのぼってゆき、同時に止め処もなくひろがってもいき、しだいに「宇宙への拡散」は猛烈なはやさになった。アンナプルナの尾根が、背後の氷河がみえた。垂直に切り立ち、真っ白な雪で覆われた、弧をかいてつらなる激烈に大きな山塊が、チベットの高原が、目に映じてきた。日本列島が分かり、さらに、まるくて青い地球がみえた。それでも魂は宇宙をすべっていき、月をあっという間に通りこすと、太陽系をぬけ、銀河の彼方まで辿りついていた。 もっと正確には、いきつくというよりはひろがり、アンナプルナをみつめる自分は、その島宇宙の果てと、すぐとなりあわせにいた。 満たされていた。 ヒマラヤは、「雪の蔵」だと聞いたことがあった。 なん劫という、限界は存在するが、とても人が想像も体験もできないながい年月、そうした永劫の過去から現代までの果てしない時間をかけて、ふった白雪のいちばん底までがみえる、そんな感じだった。識別できうるかぎりの、ひとコマにふりつづき、そのうえにさらにふりつもり、かさなり圧縮されては凍り、しかし、それはまぎれもなくおなじ雪で、累々としたつみかさなりが、ヒマラヤをみせていた。 アンナプルナの鋭角の尾根は、つもりつづけた、積雪の余力からできていた。 茂の目から、自然に涙がながれでていた。嬉しいとか悲しいとか、そういう感情とは関係なく、ぼろぼろと頬をつたって落ちていた。 「悪い。わるい」 そういいながら、裕明がでてきた。茂のちかくまでいき、異変に気がついた。 「どうした」 裕明は驚いていい、茂の視線を追ってみた。 「なんだ、こりゃあ」 裕明は、大声で叫んだ。絶句して、そのまま立ちつくした。裕明も泣いているみたいだった。 静かな時間が、たっていった。どのくらい、だったのだろうか。三〇秒か、三分か、三〇分か、三時間か分からない。ふたりが立っているのを、さまたげるものは、なにもなかった。鳥の声も、虫の音も、聞こえなかった。木々の香りも、風の踊りもなかった。存在していたものは、ただひとつ、 アンナプルナ、だけだった。 ほかには、なにもなかった。 茂の魂はしだいに収縮をはじめ、一瞬ずつ、まったくべつな風景がみえるはやさで、ひとときに万の銀河を、さらに、億、兆の星間をぬけた。太陽系にもどり、青い地球が、ヒマラヤが視界に入った。青白い月が輝くアンナプルナの尾根、全体がみえた。コテージのあかりと、ぼうぜんと突っ立つ、茂と裕明が目に映った。 ふたりは昨日、ピッピーがみせた、あの「恍惚」とした表情で立ちつづけていた。止め処もなくあふれた涙は、頬をつたい、音もなく草むらに落ちていた。それから魂は、茂の身体にもどっていった。 空をみあげていた。そこは、天の川銀河。 風を感じる。 しかし、ふかれ、戦ぐのではなく、 そよ風と、大気とひとつになり、ながれ、うごいている。 雲ではなく、風が、光が、棚引いてみえる。 月が、あかるく照らしている。 光はアンナプルナに差しこみ、輝かせ、そして影をつくり、しずみこむことによって、山をもちあげている。 しかし、月だけではなかった。 天の川銀河は、照らし、差しこみ、輝かせ、影をつくりしずみこんでいる。そして、アンナプルナをもちあげている。よくみると、さらに天の川銀河を形成する、億にものぼる星々の光、そのひとつひとつが、各々、照らし、差しこみ、輝かせ、影をつくりしずみこんでいる。そして、アンナプルナをもちあげていた。さらに天の川銀河からこぼれる、兆にもなる星々のひとつひとつの光が、それぞれに照らし、差しこみ、輝かせる。影をつくりしずみこんでいる。 そして、もちあげていた。 アンナプルナ、月、天の川銀河、天の川をとりまく満天を彩る銀河、億、兆の星々。 輝く光明。照らし、影をつくって、映えさせる暗闇。 銀河は、巨大なミラーボール。 全一の闇に、光が棚引く。 風を、感じる。 ながれ星がみえる。いくつも。何個も。ながれ星がみえる。先ほどまでのっていた星が、ながれていく。 分かる。判る。この関係。 神々の交信。 アンナプルナ、光、雪、月、星、影、そして風。 変わらなかった、宇宙。 ヴェーダがうまれてから、ずっと、 この大陸の、原風景。 風を、感じる。 アンナプルナの白い尾根は、世界の果てを示していた。 神の住むちかくで、一六〇枚、了 カトマンズ 一、ストーンロッジ 「あれは、気持ちがいい」 朝までつづいた微睡みの、夢の余韻に酔いしれながら、茂は熱く語りはじめた。 全裸の女が横たわっている。 漆黒の肌、むけられた背中に光があたっている。狂おしくくびれた、ほそい胴。やがてつながる、まるくて大きな部分。それは、熟れた甘い香りをはなつ、みずみずしい厚い果肉。薄皮につつまれながら、奥に眠る熱いマグマを隠している。それは、神がおくったもの。古代より、はるかにつづく光る砂丘か。なめらかにひろがり、そっと吹く風が、肌理のこまかい縞の文様をつくりだす。やがて凹んだオアシスにゆきつき、さらなる砂へと旅にでる。真砂は、草の緑を輝かせる。理性から遠く離れて、不思議な磁場をもつところ。やがてつけ根になり、贅をつくした露わな肉づきの脚へとつづく部分。 ああ。溜め息がでる。 右の膝は、左の踝にのっている。まるでうまれたばかりの子供とおなじ、柔らかそうな白い足の裏がふたつならんでみえる。肩越しに振りむいて、こちらをみているのはまぎれもないアーリアの女。ととのった彫りのふかい顔立ち。しかし、むけられた瞳は物憂げで、焦点は定まらずぼんやりとしている。頭部には布が巻かれ、ながい黒髪が隠されている。ターバンは、薄茶色の地に、いくつもの赤っぽい刺繍が縞状に施され、最後は四つか五つの金色の房になってまとめられ、たれさがっている。右の腕は、お椀をふせたような、まるくはり切った乳房のいちばん先にあるものを巧みに隠しながら、すこし湿ったわき腹と腰をつたって緩やかに伸ばされている。その手は右膝のうえにおかれ、手のひらで大鷲の青い羽でつくられた刷毛をかるくつかんでいる。それにしても、なんと悩ましいものを女はもっているのだろうか。その手首を飾る、二本のブレスレット。ラピスラズリがつらなったビーズは群青の空色で、ウルトラマリンの神秘の海に、茂の魂をひきずりこもうとしている。 吹きぬけの高い天井から、量感のあるながいカーテンが床までとどいている。光沢に満ちた藍色の布には、白い縁取りがされ、紅い糸の鳥の刺繍が折りかさなり文様となっている。カーテンがたれる右のすみには、銀製の蒸し器がおかれている。そこから、ゆらゆらと立ちあがる煙は、妖しい。はじめは、ほのかに青白いが、やがてカーテンの布地の色とかさなり白っぽくなり、中央にむかって棚引いている。蒸し器のとなりに、茶色のながい陶器製のパイプが立てかけられている。なるほど、煙は阿片なのだ。この女のぼんやりとした瞳や、気だるい表情。全体をつつむ、妖艶でいずれ背徳的な雰囲気。そうか、あの煙がひきだしているのだ。 左うえのわずかなカーテンの隙間から日が差しこみ、斜めになる光線の角度と力のにぶさから、季節は春の午後だと分かってくる。柔らかい光は、部屋の中央までやってきて、そこに漂う煙とたわむれ、隠れたりあらわれたりしながら、時間をかけ、やがて女の黒い背を輝かせる。そうして、かぎりのないときを封じこめる。 どっしりとした厚手のカーテン、その一部は女の足にもたれている。弱い光に輝く藍の布は絹製で、あくまでまるく緩やかに折れまがり、つらなり、柔らかい襞になって、すこしずつ力がぬけて、かさなっている。女が横たわる大きなベッドにかけられたシーツも、めくれて撚れて折り目をつくり、つみかさなっている。 なめらかで、柔らかい二枚の絹布が、かさなり、こすれあいながら反復する、襞。ひだ。襞。 やがて、それは、鋭敏な官能をかもしだす。 「そうか」 裕明は、茂の話をだまって聞いていた。やがて言葉をついだ。 「すると、それがすべて、岸川のくれたオピウムのせいだというわけなのだな」 石づくりの部屋はすこしひんやりとし、窓からは光が静かに差しこんでいた。カトマンズの朝は、清々しい大気に満ちて、ふたりをとりまいていた。 「ほかに考えられない。グラスもアシドもだめだったが、あれは違う。お金をかける、価値があるのではないか」 茂が結論を話すと、裕明は髪をかきあげ、腕ぐみしてながいことじっとしていたが、うなずきながらいった。 「よく分かった。今日、なんとかして手にいれよう。今晩は、思い切りぶっ飛んでみよう」 それで、今夜はパーティーとなった。 九月のなかばもすぎるころ、カトマンズはとても天候の安定した日々がつづいていた。秋分の日は、ちょうど茂の誕生日だったので、みんなで祝ってやることにした。顔見知りに声をかけると、あつまったのは裕明と岸川、それに今岡とローラだった。夕食後、泊まっていたホテルから三〇分くらい歩いたところにあるレストランに集合し、一角を間仕切りにしてもらった。綺麗なあかるい店で外国人ばかりだったが、客はそこそこ入り、鮮やかではないふかい赤色の絨毯が床一面にずっとしかれていた。注文したまるいケーキに蝋燭をともしてバースデーソングを歌うと、茂はなにやら神妙にお祈りし、風もないのに揺らめく、妖しい炎を一気に吹き消した。五等分にして、紅茶を飲んだ。甘くて柔らかいケーキは特別製で、ダージリンも最高だった。 ローラが笑いかけてきて、茂にいった。 「ねえ。明日、いっしょに国立博物館にいきましょうよ」 「いいよ。きっと、明日も元気だと思う」 「なにを、お祈りしたの」 「これから起こるはずの、いろんな楽しいことをさ」 「いいわね。ぜひ仲間に、まぜてもらいたいわ」 ローラは、浮き浮きした声でいった。 「いまのお祈りのほとんどすべては、できれば君とふたりでやりたいものばかりだよ」 「全部じゃないの」 「分からない。それは、なんでもいっしょがいいけれど、おたがいべつべつの人間だから、すべて、というわけにはいかないだろう」 「ちょっぴり寂しいわね」 ローラは、すこし悲しそうな顔をした。 「そうだね。でもローラ、おまえ、綺麗だよ。今夜は、また一段と素敵だよ」 茂は、彼女を直視し、微笑みながらいった。 「みつめないでよ。今日は、まだ目が腫れているのだから。でも、思い出にのこる夜にしてもいいのよ」 ローラは、小さく笑って答えた。 「おれも、心からそう思う。とても残念だけれども、今晩は、やることがもう決まっているんだ」 「そんなもの、やめてしまったらいいのに」 「約束して、しまったんだ」 茂は、ローラのブルーの瞳をみた。彼女の白い肌に、うすい藍色のシャツがよく似あい、とき折り、うっとりする匂いが、仕草にあわせてほんのりと鼻をかすめていく。二、三滴、振りかけられた香水なのだろうが、そばにいるのはいい気持ちだ。彼女に真剣な表情でみつめられると、自分の心は筒ぬけになっているに違いなかった。気取っても、すべてが無意味に、茂には思えた。瞳から目をそらして、ローラの表情をみた。微笑む白い頬はふっくらとし、だきしめたくなるほど可愛かった。それは、約諾と天秤にかけたいほどだった。 「約束なんて、やぶるためにあるのよ。あたしなんか、決まっていたこと全部、破棄しちゃったのだから」 ローラは茂をみつめながら、ほとんど深刻ともいっていい表情で語気をつよめていった。 「そうだね。普通は、そうだろうね。でも、裕明との約束なんだ」 「それ、今夜の話なの。重大なことなの。延期できないほどの」 ローラは、とても信じられないという表情で驚いて聞いた。 「そうなんだ。とても重要なことなんだ」 「あんた。女に興味がないと思っていたら、裕明とは、そういう関係だったの」 ローラは、憤慨していった。 「それは誤解だ。おれは、平凡な男だ」 茂は、反応に驚いて真顔になり、必死に説明した。 「そうかしら。普通の男性は、男より女をとるわ」 「裕明とは、そういう関係じゃない。信じて欲しい。そういう趣味はない。おれは、普通の男だ。どちらかというと、平凡すぎてつまらないくらいだ」 「信じてあげるわ。その代わり、明日、いっしょに国立博物館にいきましょうね」 「分かったよ」 「これは、重要な約束よ」 「分かったよ。重大だし、大切な約束だよ」 「先約よ。変更はできないわよ」 「おれも、変えたくない。どんなことがあってもね。でもローラ、おまえ、ほんとうに綺麗だよ」 彼は、ブロンドをみつめて答えた。 裕明と茂は、いっしょに旅をしていた。 ポカラからカトマンズまでの二〇〇キロ、バスで移動した。暑くも寒くもなく、天候は落ちついていた。空は晴れわたって、どこまでも果てしなくつらなる山と森だけがみえる、奥ぶかくて美しいところだった。とくにふたつの峠のあいだで、岩をはさんでゆったりとながれる二本の河には心を魅了された。その川面は、いっぽうは緑、もう片方は碧とよんでもいいふかい青で、この世のものとは思えない神秘的な色をしていた。ただひとつ残念なことは、そこに通じる峠の道も現実とは考えられなかった。 山際にそってつくられた延々と石ころがつづく、せまい道路だった。幅が一台分しかないと思われる山道を走っていると、むこうからもバスがやってくる。自分が山がわにいれば、交差する路線バスがどのくらいあぶないのか分かる。バスがそうした道から落ちることも、きっと幾年かに一度くらいはあるだろう。すこし考えただけでも、かなり悲惨な事故に思えた。谷がわを走るバスの車輪が、道の端にかかるのがみえた。石がざらざらと音を立て、地面だったはずの一部が欠けていく。谷にむかって、落下している怖い音響が聞こえてくる。 しかし、ほんとうに恐ろしいのはこれからだった。すれ違うのは、いつでも自分が山がわではなく、対向する路線バスが、そちらにいるばあいもあった。これをよく考えると、のっているバスは崖っぷちだ。タイヤが、石を落とす音が聞こえる。ざら、ざらっという不気味な音響だ。 「こんなところで、裕明と死ぬのは真っ平だ、洒落にもならない」 そう思ってとなりをみると、彼は眠っている。 「凄い奴だ。六年間も世界をさ迷うとは、こういうことなのだろうな。うらやましいほどの図太い神経だ。おなじ人間だと、いえるのだろうか。それだって状況が分かれば、ちぢみあがる部分あるはずだ。たたき起こして、みせてやりたい。地面が、欠けていくところを」 カトマンズについたのは、ポカラを朝七時にでて、一二時間ちかくバスにのっていたから、夕方の六時半だった。それから、ふたりでホテルをさがした。窮屈なバスに揺られてついたカトマンズは、もういくらか肌寒く感じ、温かいシャワーがでる部屋は高そうだった。温水がどうしても必要というほど寒くもなかったし、たとえ水であっても冷たいのはひとときで、時間が解決してくれる問題のひとつだった。生きているのは凄いことで、じっと我慢すれば、あとはどうにかなってしまう。なんでも、そうだ。問題は、我慢できるかどうかだけだった。だいいち気にいらなければ、翌日なんとでもできた。考えるのは今日の寝床で、それが必要なことであり、すべてだった。 ホテルをさがす途中で、パン屋があったのでパンを買った。もう身も心もくたくたに疲れ、宿屋をみつけたあとでレストランにいく余力がないのは分かっていた。部屋について、ホテルで紅茶を入れてもらった。お茶は熱くてとてもおいしく、腹に染みいり、生きているのを確認させてくれた。それで買ってきたパンを食べて、夕食の代わりにした。 みつけたホテルは石づくりの二階だてで、入り口をぬけると、客がのんびりできるソファーがおかれたロビーと正面に受付があった。カウンターには、店の主人がいた。年は五〇歳前後で、痩せていて肌は浅黒く、みじかいカールした髪は真っ黒だった。色のついた長袖のワイシャツをきて、黒っぽいズボンをはいた実直そうなネパーリだった。リュックを背負い、パンをかかえ、げっそりとしたふたりをみてマスターはいった。 「温水がでる部屋と、水だけのがある」 「冷水をお湯にするには、お金がかかるのだろう」 裕明は、交渉をはじめた。 それで、マスターは理解したらしい。このふたりを説得するには、時間がかかる、それならば、あの空き部屋にでも。そういうことだったらしい。 「ながしは外だ。シャワーもだ。すこし、変わった部屋ならある」 マスターは、じっとふたりをみつめた。それから、ついてこいといって奥の階段をのぼりはじめた。 パンの紙袋を両手でかかえる茂には、もう思考能力はなく、ただマスターの後ろについて二階の踊り場にあがった。左にむかう廊下は奥までつづき、両がわに部屋の入り口がみえた。右にまがったマスターを追って通路を歩き、あけてくれたドアをぬけて室内に入った。とてもあかるく感じた。ベッドがふたつならび、枕がわのあいだにテーブルがおかれていた。石でできた灰色の壁は、いくらか汚れ、黒ずんだところがあったが、そんなに変わった部屋ではないと思った。入り口から遠いほうに腰をおろして、パンの袋をテーブルにのせ、リュックもおいてベッドに横臥した。すくわれた気になった。道とタイヤがわけもなく頭に浮かび、ほっとして一気に疲れがやってきた。 そのとき、みょうな気持ちに落ち入った。みまわすと裕明がいない。マスターが扉のところで廊下がわに立って、いま歩いてきたほうをじっとみつめている。なんだろう。奇妙な光景で、茂にはなんだかさっぱり分からなかった。裕明になにかあったのだろうか、廊下でたおれているのか。 茂は起きあがると扉にいき、マスターのまえをぬけて通路にでてみた。裕明が腕ぐみして、ぼうぜんと立っているのがみえた。彼は、天井を仰ぎみていた。どういうことだか分からないが、みょうな光景だなと思いながら茂も顔をあげると空がみえた。星が光っていた。なんだろう、これは。そう思って周囲をみまわしてみると壁がなく、頭上には雲がながれていた。整理ができないでいると、彼が目の前を歩いて部屋に入っていった。 裕明は、リュックをおろしてベッドに腰をかけた。茂もすわっていると、おもむろにマスターが入ってきて、なにやらじっと考えてからいった。 「分かった。一週間以上、泊まってくれれば、ひとり一〇ルピーでいい。これは、特別料金だ。今日一日というのなら二〇ルピーだ。交渉はしない」 「分かった。お茶だけ、ご馳走してもらいたい」 「そうか。レストランにとりにこい」 「ありがとう。感謝する」 裕明は、答えた。茂には不明な会話だったが、彼とマスターは通じているみたいだった。一〇ルピーが特別に安いのは、理解できた。 マスターが去ったあとで、部屋代が割り引かれた理由を裕明に聞いたが、彼にも分からないらしかった。廊下から空がみえるのは不思議だ、という点については一致した。そうこうするうちに、扉がノックされ、若い男がポットをもってきた。さらに、サービスをしてくれたのだった。紅茶は風味があり、熱くて適度に甘く、もの凄くうまかった。それで、パンを食べた。それから、顔をあらいに外にでた。部屋は独立してあり、周囲にはとくに建物がなかった。月が照り、涼しい風が吹いていた。はじめてのカトマンズの夜にふさわしい趣はあっても、文句はひとつもなかった。 「ひどい、バスだったな」と茂はいった。 晩飯も終わり、ベッドに横になったときだった。くたくたに疲れていたが、なんとかホテルもみつけたし、代金も決まった。夕食にもありついたし、熱い紅茶も飲んだ。一日を振りかえっても、いい時間だった。 「あれなら、飛ぶ手もあったな」 裕明は、暗い天井をみつめながら答えた。ベッドに寝そべって横になってしまうと、もう二度と立ちあがれないように思えた。 「ほんとうに怖かったな。道の限界という奴だったな」 「そうだったな」 「でもな。裕明の図太さには、あきれたよ。みていたか。タイヤがすべりながら、崖の下にむかって、石をざらざらって落としていくところを」 「ああ、みていたとも。あれは、怖かったな」 「そうか。でも裕明、おまえ、眠っていた。それも、鼾までかいてた。熟睡していたんだな」 「ほんとうかよ」 裕明は、とつぜんむっくりと起きあがった。すわったまま両腕をくんだ。それから腕をといて、ながい髪を後ろにかき分けた。不精ひげを右の手のひらでさすって、寝転んでいる茂をまじまじとみた。目をつむり、なにかを考え、もう一度直視し、意を決していった。 「タイヤが落ちたの、知っているか」 「なんだ、それ」 「そうだよな」 感慨ぶかげに裕明はいうと、「ふう」とふかい溜め息をついた。それから不愉快そうな表情で、右手で額を押さえて目をつむった。 「右の後輪が半分くらい、落ちてよ。空まわりしていた」 「なんだよ、それ。夢でも、みたんじゃないのか」 「のりあわせた、みんなが知っているぞ。全員が、ぞっとしたんだ。でも、茂は寝ていた。おれは、おなじ人間だって。あのとき、信じられなくなったぞ」 「まさか」 茂は、興奮する裕明をみていった。 「ひとりだけだった。眠りこけていたのは。バスのなかは、騒然としたんだ。運転手をふくめて、のっていた全員が死ぬのじゃないかと思った。たったひとり、茂をのぞいてな。ひっぱたいても、起こしてやろうと思ったくらいだったぞ。無性に腹が立った」 裕明は、茂を真っすぐにみた。ふたりのあいだを、静かなときがながれていった。窓から、月の光が差しこんでくる。部屋のすみまでやってきて、闇と同化し消えていく。 「そうか。そんなことがあったのか。疲れていたのだな。おたがいにな」 「いいよ。そういうことにしておいてやる。疲れていたのは、間違いがないからな」 裕明は、いつもの優しい口調にもどっていい、ほどなく鼾が聞こえてきた。 茂には、とても信じられなかった。世の中には、不明な出来事がいっぱいある。だいたいは分かるが、すべてではない。裕明の言葉が真実だとはとても思えなかったが、彼がそういう以上、そうしたこともあったのだろう。 ホテルには、何人か日本人がいた。 岸川という男は、まるい縁の眼鏡をかけ、背丈は茂よりすこし高く痩せていた。髪はみじかく、頬はこけ、こくないひげを伸ばし、とくに顎髭をながくしようと頑張っていた。二週間まえに、ここにきたといっていた。ヒマラヤをポニーにのって、トレッキングをしたそうだ。ガイドが専用について、とても親切で昼飯までおごってくれたそうだ。 「気にいられたんだ」と岸川は話していた。 氷河のまえに小さなテントと洒落た店があり、彼ひとりのためにあけてくれ、ほかの客はいなかったそうだ。岸川は偉く気にいったらしく、その話をくりかえしていた。 茂は、ロビーで延々と聞いていた。 ついたばかりで、だれも知らなかったし、やることもなかった。どういう人間なのか分かっているほうが、あとあとのつきあいが楽だし、どこまでつきあうのか、だいたいを決めておくのは必要だった。 裕明は、いつもいっていた。 「なんでも、だいたいは分かる。もちろん、おおむねのことだ。それでも、不明な出来事はいっぱいある。だから、だいたいも分からないときは、やめといたほうがいい。裏切られる。このばあいは、決まって悪いほうへだ」と。 ヒマラヤは寒くて、特別にコートを貸してくれたそうだ。服は、ヤクの毛皮でつくられた最高級品だったそうだ。 それで、たいそう、とられたらしい。 岸川の言明には、腑に落ちないことが多かった。特別な美人なら、話は違うかも知れない。たとえ若くて綺麗な女性であっても、お高くとまっているだけなら、だれも親切にはしてやらないだろう。それが、ただの男が、特別な好意をもたれるなんて。どうして、そんなことが起こるのだろう。気にいられるためには、なにか理由が必要で、普通こうしたばあいでは、金払いがいいこと以外にありえない。本人がよいと思っているのだから、他人がとやかく口をはさむ話ではないが、その氷河は端から雪渓だった可能性だってある。だいたいも分からなければ、人間は簡単にだまされるわけだ。 親切な人はいるだろう。意地悪な者が、うろうろしているのとおなじで。しかし親切な人は、こちらが頼んだときに優しく接してくれる。頼みもしないのに、よってくるのは、「吸血鬼」みたいな者で、なにかを企んでいる。無償の愛も、世の中にはあるのだろう。しかし道で出会った人に、いちいち愛情は感じないだろう。そういう者がいたとしたら、一週間で死んでしまうに違いない。とても身体がついていけないはずで、人間はそんな風にできている。 岸川と話すうちに、「やってみないか」といって、だされたのがオピウムだった。ゴム状になった、真っ黒で精製されていない生阿片だった。 「最初は、こんなものだ」 すべてを熟知した感じで、岸川はいった。 「これをどうするのだい」と茂が聞くと、 「寝るまえに食べてみたらどうだ」と小指の先くらいに千切ったオピウムをさしだした。 夕飯がすんだころで、ロビーには何人かの宿泊客がいた。広間にすわっていると、だいたいを知ることができた。そのなかに、ローラもいた。 彼女は、茂が今朝、洗顔時に出会った可愛い子で、目鼻立ちがすっきりした、ひと口でいえば美人だった。オーストリアからきたという話だったが、岸川が宿泊したときにはいたらしいから、いつからホテルにいるのか分からなかった。背は一六〇くらいでグラマーで、いうことなしの理想的なタイプだった。ブルーの瞳で、みじかくした髪の毛は、ブロンドだった。 茂が、岸川といっしょにロビーのソファーで話しこんでいるのをみつけると、彼女はちかよってきて右の手のひらを小きざみに振った。 「やあ、ローラ。今日は朝から一日、幸せだったよ」 茂が、彼女をみつめていうと、 「私も、おなじよ。そのお礼を、つたえようと思っていたの」 ローラは、微笑んで答えた。頬は、やや紅に染まって、ふといい匂いが鼻先を通りすぎ、茂はくらっとなった。 「また、お話がしたいわね」 「喜んで。君のまえでは、いつだって予定表は真っ白だよ」 茂が答えると、綺麗にならんだ白い歯をみせて笑った。 ローラは、浮き浮きして可愛かった。ロビーを歩く姿も、かろやかで、純白の羽毛につつまれた天使にみえた。場違いで、「なんで、ひとりでいるのだろう」と茂は思った。 「可愛い子は、一人旅をしない」 裕明は、いっていた。 「そんなもの、男がほうっておかない。だから、したくてもできないのだ。可愛い子と一人旅は対立する概念で、そもそもが矛盾している」 ローラは違った。なんでも例外がある。きっと、それなりの事情をもっているのだろう。こんなに可愛い子が、ひとりで旅をつづけてきたなんて怖い話で、それだけで充分に魅力的だ。いろいろな物語があるはずで、一度ゆっくり拝聴してみたい。きっと泣ける話で、聞けば間違いなくローラは泣くだろう。あのブルーの瞳から涙があふれて、シーツまでぐしょぐしょになるだろう。どんな話でも聞いてやる時間を、茂はいくらでももっていた。ローラも、いっぱいあるらしかった。 「知りあいなのか」 岸川は、ぼうぜんとした表情で茂にたずねた。 「とても大事な、大切なものさ」 茂が答えると、岸川は真顔になって振りかえり、じっとローラをみた。ちょうど、今岡がやってきた。 「なんの、話なのだい」 今岡は、けげんな表情で聞いた。 「じゃあね。私は用があるから、いまは、いくわね。茂、またあとでね」 ローラは、右の手のひらを立てて左右に小きざみに振った。 「いま、いったこと忘れないでね」 茂が、まねて右の手のひらを振ると、ローラはおかしそうに微笑んだ。 岸川からオピウムをもらった、つぎの翌朝だった。カトマンズでむかえた三日目の朝、ロビーで会って、売っている場所をよく聞いてみた。ずいぶん、もったいぶって教えてくれた。 「非常に危険だ。買いにいくのには、勇気がいる。はんぱな気持ちは、命取りだ」 さんざん講釈を聞かされた。 「そうなのか」 茂は、いちおううなずいた。分からないのだから、仕方がなかった。 「暗いところに、つれていかれたんだぜ。真っ暗な廃屋だ。ひろいスペースで、たぶん、まえのボスがつかっていた酒場、縄張りの中心だな。映画にでてくるのを、みたことがないか。ドアをあけて男がぶらりと入っていくと、お立ち台をかこんで8の字型にカウンターがある。真ん中のすこし高くなっている白いステージには、三本くらいの金色のポールが天井から床に突き刺さり、棒みたいな柱に、女が股をこすりつけているんだ。暗い室内に、スポットライトが踊り子を浮かびあがらせる。女は、ほそい紐みたいな下着をつけているだけで、ほとんど裸。胸なんか、まるみえ。もちろん肌は黒い。それがさ、妖しく腰をくねらして、みょうなうごきをしているわけだ」 「ほう」 「分かるか、酒はだめなんだ。ここは、ヒンドゥーだからな。非合法の酒場で、ボスのいちばんの子分がやっている。酒は、一滴も許されない。法律がある、その」 「禁酒法か」 「それだ。シカゴと、おなじだ。暗黒時代のアメリカだ。だから、ガサ入れがある。そうなれば、でてくるのは、とうぜんFBI、ネスだ。ながい濃茶のコートを羽織って、無口でしぶい。エリオット・ネスと、その部下が機関銃をかかえてのりこんでくる。相手は、シカゴの闇の帝王。悪の塊。その、なんだ」 「カポネか」 「そう、それ。アル・カポネだ。ダイナマイトが炸裂する。まあ、半分くらいは死んだわけだ。その廃墟、廃屋だな」 喋る岸川の目は、すわっていた。 「それは、怖いな」 茂は、うんうんとうなずいた。 「むこうから、チャカでももっている感じの、背広をきたお兄さんがでてきてよ。びびるよな。怖いのは、とうぜんだ。で、どうする、オピウム。それでも、欲しいか。茂」 岸川の話を聞いていると、オピウムを買いたいのかどうか、分からなくなってきた。彼の世界は、想像をはるかにこえていた。 「たいへんだったな」と茂は答えた。しばらく考えてから、「それで、廃屋はどこにあるんだ」と聞いた。肝心な値段もたずねてみると、また延々と、どうしようもない話をはじめた。 「一単位は、トルっていうんだ。天然の阿片を粘性のある糊でまぜあわせて、板状にするんだ。なぜだか分かるか、茂。これを、手紙にはさんで日本におくってみたんだ。うすく伸ばしてな。税関なんて、チョロイもんよ。奴らは塊しか考えていないから、みんな通しよ。ここで、ひとつ商売をしようと思っているんだ。あの、お兄さんたちと、ルートをつくってな。アシドなら、便箋に浸せば区別はつけられないしな。ジュクにいって売れば、相当なものになる」 こうしていちおう、必要な情報はえた。岸川が買ったのは、ルピー紙幣の半分くらいの大きさで、五〇ルピーだったらしい。値段のことは分からないが、最初は一五〇といわれたブツを、チャカをもっている相手と、地下にある真っ暗な倉庫にも思えるところで交渉して、五〇までさげさせたのだそうだ。 「ここだけは、はっきり教えてもらいたい。一ルピー紙幣の半分が、一トルなのだな。それを、五〇ルピーで買ったのだな」 「これを、五〇で買える奴はほとんどいない。ここだけは、間違いない」と彼はいった。 もちろん、それは、相当あぶない感じのする岸川の話で、どこまでがほんとうで、どの辺から思いこみなのかは不明だったが、五〇ルピーの値段で買ったらしい。精製まえの阿片だから、純度のひくい粗悪品で、なにがまざっているのか分からない。手にくっつくほどではないが、粘土みたいな感じだった。前日の晩、千切って小指の先くらいを茂にくれたのだった。 あと、何人か日本人がいた。 今岡は、ボディービルダーみたいな筋肉質で、背も高く、丸顔で眼鏡をかけていた。髪はみじかく、三〇歳くらいにみえた。彼は、茂には冷淡な感じだった。ヨーロッパからバスで南下してきた、日本人の親子づれもいた。三歳くらいの少年と若い夫婦で、ふたりともジーンズをはいていた。男の子は可愛くて、茂にも話しかけてきた。日本語を話していたから、日本からいって帰ってきたのだろう。夫婦はずっとふたりでいたが、奥さんのほうはだるそうで、茂が子供と喋ると不愉快そうにした。日本人はこれくらいで、泊まり客のほとんどはヨーロピアンだった。 ホテルの経営者はごく普通のネパーリで、五〇歳くらいの男だった。痩せて眼鏡をかけて、薄手の長袖のシャツをきていた。天然パーマの髪の毛は黒色で、みじかかった。瞳も黒く肌も浅黒くて、幾分かかさかさした感じだった。体毛はすくなく眉なんかもうすかったが、頬がこけていたので、でぶのヒンドゥーの運転手よりずっと理知的にみえた。カーストはともかく、知性ではこのネパーリのほうが絶対にうえだと思われた。 日本人は、ここをよく利用するらしい。木製の受付カウンターには、日本語の色紙がいっぱい飾ってあった。旅行者用のごく普通のホテルで、受付のまえはひろいホールになり、黒いソファーが四つあった。長椅子の真ん中にテーブルがおかれ、まわりのスペースでたむろしていると、だいたいのことが分かった。おおむねを理解するのは、大切だった。 二、ローラ どういう理由だったのか分からないが、裕明と茂の部屋だけが別館になっていた。 受付まえのホールの奥に、真っすぐにのぼる幅が四メートルくらいの石のひろい階段があった。みんなの部屋は、石段をのぼり切った左がわにつづいている。 右がわは構造的には簡単だが、内容を考えると幾分複雑ともいえた。事実だけを述べるなら、階段をのぼり切った右はすべて屋上ということもできた。奥につくった別館というか、ふたりの部屋はいちばん端の部分を改修したぐあいにみえた。だから扉をあけると、いきなりカトマンズの街が一望できる、直接屋上という設定だ。現在はまだいいが、冬の寒いときはどういう状況になるのか考えてみたが、「これだ」と思える解答はでてこなかった。特別な事情があるのだろうが、いまはとくにこまるわけではなかった。周囲には、しっかりとした鉄製の柵がけっこう高くまでつくられ、そこに肘をつくと、ちょうど背筋を伸ばす格好で街がみわたせた。 ふたりの部屋は、屋上のすみにあるたったひとつの別館になって、ホテルのなかで孤立していた。本館とむすぶ廊下のながさは一〇メートル以上だが、とくに天井はないから、通路というほうが妥当かも知れなかった。なぜ、ここがたんなる屋上ではないのか。この点にかんしては、もうすこしくわしく状況を観察する必要があった。 一〇メートル四方の屋上と階段をのぼり切った右のあいだは、幅が三メートル、ながさ五メートルくらいの場所が、本館とつながっていた。だから、この部分は構造的には通路だと断言できる気がした。どちらも天井がないから屋上の一部だと強硬に主張されれば、それもあながち否定はできなかった。 その通路部分に、洗面用のながしがひとつあった。これもまた、考え方によっては意味不明のもので、なぜこんな空がまるみえの場所に、洗面所が忽然と出現するのか不思議だった。反対がわの鉄柵とのあいだは、二メートルくらい距離があった。 ながしは、屋外だから天井もない。お湯がでるなんてありえないし、今日は晴れだからいいが、雨の日はどうやって顔をあらうのだろうか。霧雨なんかだったら、それなりの風情もあって、ひどいふりでなければ、雨中の洗顔も洒落ているのだろうか。ぼけた頭もはっきりとするだろうし、顔をあらうたびに衣服を着替えるのも、時間はかけられるから、やってみれば、おつなことかも知れなかった。 その気で考えると、この建物は、ロビーがある本館が最初につくられ、二階に宿泊施設ができたのだろう。なんらかの事情で、たぶんオーナーの息子が結婚し、住宅が手狭となり、庭の空き地に息子夫婦の新居をたてた。そのさい新築部分を別館とし、宿泊施設を増やす計画がもちあがったのだろう。実際にひとつできた時点でべつの事情から増築計画が頓挫して、結局一部屋だけがつくられ、あとは屋上として使用することになったのではないか。最初の構想では、「ながし」は本館と別館のちょうど中央部分に造設された。計画が中止され、周囲の構造物は放棄され、ただ鉄の柵がはり巡らされた。 これはひとつの仮説で、ほかの考えもあった。もっと単純だから、説得力は前者よりもつ気がした。話しあえば、裕明はシンプルなほうをえらぶから、この考えを支持するだろう。彼は、いつも「だいたい」くらいにしか物事が分からないらしいが、それでもやはり、伊達に六年も世界をぶらぶらしていたわけではない。みるべきところは、観察しているのではないか。 この問題で想起せねばならない点は、部屋を案内されたさいの理解できない裕明とマスターの会話だった。真意はさっぱり分からないと彼もいっていたから、主人のほうがなにかを考慮し、勝手に値引きをしてくれたわけだ。どうして、そんな親切な気持ちになったのだろうか。ふたりがくたくたに疲れていたから可愛そうに思い、愛情を感じたのか。まさか。ローラが優しく笑いかけたならともかく、だれも裕明を可愛いとは思わないだろう。これだけは、断言できた。 マスターが値引きを考えたのは、裕明が立ちどまったのと関係があるだろう。あのとき、彼はじっと空をみていた。 茂は、なにをしていたのかと聞いてみた。 裕明は「考えていた」といったが、それ以上は分からなかった。そもそも彼がいう「思考する」は、よく理解できない言葉だった。最初に出会った、炎天下のコンノート広場の出口がいい例だった。あのとき、裕明は「考えている」といった。よりにもよって、あんな卒倒してしまいそうなところでだ。一般に「考える」という言葉は、なにかを判断したり、結論を導いたりする行為をさすのだろうと思う。しかし、裕明は、たんに立ちどまるのを「思考」といっているらしい。外国生活がながかったから、欧米人はそうなのかも知れないが、すくなくとも日本語では違うのではないか。茂からみると、裕明はぼうっと突っ立っているだけだった。頭のなかで、問題が浮かんだり消えたりしているとは、とてもみえなかった。しかし、なにかを感じたのだろう。マスターの行動と、案内された部屋とをむすぶ漠然とした雰囲気。すぐについていくべきではないとする違和感。無意識のうちに身の危険を察知する心。その様子がマスターからは、なにかが分かっていると思えたのだろう。 そういう風に解釈すると、けっこうあれで裕明は頼りになり、茂がいまさまざまに思う事情を、ホテルに入った途端、動物的な勘で一瞬にして感じとったのではないだろうか。それがあのとき、じっと空をみあげている、彼の「考える」という行為だったのではないか。 結論からいえば、もしかすると、ここはたんなる物置で、夏場は人が泊まれるぐあいに改装しただけの代物ではないのだろうか。だからマスターは、変わった部屋と表現したのではないか。この考えも、多いにありうると茂には思えた。総合すれば、考えだすと疑問はつきない、暇をもて余し気味の気楽な旅人には、細部にいたるまで充分に配慮されたつくりになっていたというわけだった。 最初に親父がいった通り、お湯のでないシャワーが、ながしのちかくにあるだけだった。もう水は冷たい、そんな季節になっていた。 清々しい、すんだ空気に満たされた日だった。幾分かは冷気をふくみ、乾燥し、それだけで風情があるといえる、カトマンズではじめてむかえる朝だった。バスの長旅の疲れも、一晩寝たらすっきりした。裕明も、すっかり元気がもどったみたいだった。昨日の晩、ささいないい争いになったのは、ふたりとも思った以上に疲れたわけだ。あの道をぬけてきたのだから、無理もないことだった。 起きて部屋の扉をあけると、カトマンズの市内が一望できた。屋上で鉄柵に肘をつけて、すんだ清々しい空気を味わいながら街をみてみると、ここも盆地で、どの方角も高い山にかこまれているのが分かった。季節は冬にむかい、やや肌寒いくらいで、ジーンズが欲しいと思った。できれば薄手のセーターも、そんな時候になっていた。 カトマンズは、けっこう大きな街だが、高い建造物はほとんどなく、左の方角に白い塔がみえた。有名な建物なのだろうが、名前は知らなかった。鉄柵に肘をつきながら、じっと街をながめると、特別、風もなかった。屋上にでた直後は肌寒いとも感じられたが、寒いというよりは朝のひんやりとした冷気に満ちていた。じつは気持ちのいいものなのだと思いながら、神々が住む峰とつながる大気を胸いっぱいにすいこむと、頭のなかの血管がひろがり、酸素がどんどん染みわたり、ぼうっと脳がしびれる感覚がした。かるいめまいに似た気分となり、つかんでいた鉄柵をつよくにぎりしめた。 茂が起きたときには、裕明は外にでかけ、寝床は空だった。彼は、いつでも断りもなくどこかにいってしまうが、必要な場面では帰ってくる。よくは、分からない。なんでも、だいたいは理解できるらしい。だから、おおむねも分からないばあいは、手をださないほうがいいという。茂が考えていることを、裕明はだいたいは理解できるらしい。こんなに気持ちがいいのだから、彼は散歩にでもいったのだろう。思わず街を歩いてみたくなる、はればれとしてすんだ、色にたとえればライト・グリーンの朝で、茂は一日をはじめようと思った。 それから、外のながしで顔をあらった。水は、とても冷たかったが、そのおかげでしゃきっとした。茂は、青と白が縞柄になったながいスポーツタオルで顔をぬぐい、肩にかけて街をみていた。田舎町ばかりを歩いてきたので、今朝のカトマンズは都会だった。人口は、七、八〇万はいるらしかったが、思ったより小ぢんまりしていた。茂は左の肘をついて、ながしの後ろの鉄柵にもたれながら、ゆっくりと街をながめていた。 そうしていると、ブロンドの髪の娘が本館から歩いてきた。二二、三歳にみえる肌の綺麗な可愛い子で、ホテルに泊まっているらしく、洗顔にきたみたいだった。彼女は、街をみている茂の背後で、歯を磨きはじめた。それから顔をあらっていたが、水は冷たそうだった。茂は鉄柵を背にして、ブロンドの娘を後ろからなんとなくみていた。彼女は、肩にタオルをかけていた。かがみこんで洗顔し、終わって身体を起こしたときのはずみで、手拭いはひらひらと地面に落ちていった。娘は肩に手をやったが、そこにはないタオルをどうやってもつかむことができず、一瞬とまどい、水だらけの顔で目をあけた。 そのとき、ブロンドをながめていた茂と視線があった。彼は肩にかけてあった自分のタオルを、「ぽーん」とほうってやった。それは彼女の顔にあたって、ふんわりと両手のうえに落ちた。ブロンドは一瞬きょとんとし、それからタオルで顔面をふいた。終わって茂をみて、それが彼のものであるのをもう一度確認すると、「にこっと」笑ったのだった。その笑顔が、ひと言では語りつくせないほど素敵で、もの凄くよかった。 それは、つくられたものではなく、とても自然で、時間にしてみれば、柔らかい風が通りすぎて頬にあたったなと感じる、ほんの一瞬の出来事だった。ただの優しい微笑みだったのだが、じつはその「ひとコマ」にブロンドのすべてが凝縮されていた。彼女の育ちのよさや、豊かな感情。そういった、もろもろをふくめた気品。美貌や知性をふくむ自分自身にたいする、ゆるぎのない自信まで、およそありとあらゆる、すべてがちりばめられていた。 そこが映えると、彼女が朝ひとりで手に洗面道具をもって寝ぼけ眼でぶらぶらと、わけも分からない不思議な通路にある、ながしにやってくる風情も、過去の境遇や、いまおかれた状況をふくめて、物語がはじまる重要な伏線としてさりげなく、茂につたえることができる感じだった。ふたりとも映画のスターで、ながいロマンチックな話のはじまりを予感させる、いちばん大切なシーンで、監督やプロデューサーがこの場面をとるため一〇〇回もフィルムをまわし、アドバイスをくりかえし、何週間もかけなければならない、ひとコマに思えた。その挙げ句、仕方がないので妥協して、いくらかましと思われるショットを採用して最初のカットにするわけだが、それでも、こんなに素晴らしい笑顔は、どんな女優にもできなかっただろう。 茂がこのブロンドと出会った一コマは、絵になる最高のシーンで、ふたりとももの凄く素敵だった。こんなに自然に女の子と出会えたのは、うまれてはじめてだった。奇跡みたいな、ものだったろう。 「決まった」と茂は思った。自分が、もの凄く格好よく思えた。 ブロンドは、手拭いをひろい、それから茂のところまできて、「ありがとう、感謝するわ」といった。 「あんたのタオルは、温かかったわ」 「よかったな。おれも感謝するよ。君のタオルに、心から」 そういって、茂は微笑んだ。 ハイライトシーンで、お金では決して買えないもので、こんな格好いいのは、どんな映画でもみたことはないと彼は思った。そのブロンドが、ローラだった。 「カトマンズで、はじめてむかえる朝なんだが、こんなにいい匂いのする街だとは、どんなガイド・ブックにもかいてなかった」 茂は、彼女をみていった。 ブロンドは、彼の右がわで鉄柵に両肘をついていた。甘露で満たされ、しっとりと湿り、神々しいといっても過言ではない朝のカトマンズの風情をながめていた。横顔は、美しく理知的で、どこか遠い、時空をこえた両極にあるものが不意にむすびつく世界をみているようだと茂には思えた。敬虔な静けさにつつまれて、彼女の規則正しい鼓動の音までが、つたわってくる感じだった。 神の周囲からながれでてきた大気に満たされた世界を、だまってブロンドはながめていたが、やがて自分をみつめる茂にむきなおって口をひらいた。 「違うのよ。今朝のカトマンズは、昨日とはまるでべつだわ。今日は、いつもとは違う、特別な朝だわ。だから、きっとこのいい匂いは、あなたがいっしょにつれてきたのだわ」 ブロンドは、しっかりとした口調で答えた。あらったばかりの顔は化粧の必要もなく、みじかい髪は、気ままに生きることを望んでいた。 「おれは、カトマンズまでさ迷ってきて、いま、はじめて目をあけた気がする。今朝は、これまでとはぜんぜん違う。はじめて経験する、眠っていたすべてが目覚めた朝という気がする」 茂は、呟くようにいった。 「愛のない結婚なんて、耐えられないの」 ブロンドは、とつぜんそういった。そして、驚いている茂をみつめ、それから爽やかな冷気につつまれたカトマンズの街を、もう一度ゆっくりとみまわした。 彼は、言葉をうしなって、ぼうぜんと彼女をながめていた。 「きっと、あなたに目覚めた気持ちは、とても大切で、ほんのすこしまえまではどこにも存在しなかった。でも、いまは立派にあるって分かるものよ。それは、私がさがしつづけていた出来事と、おなじなのよ。必ず大切に育てていくべき感情で、思い違いではないって、いま感じているのよ」と言葉をついだ。 ブロンドは、カトマンズの街並みに目をうつし、静かな朝の景色をながめていた。やがて振りかえって茂をみつめ、「これは、女の直感だわ」といって、また「にこっと」と微笑んだ。 その微笑みは、先ほど一瞬、予期せぬ突風で吹き飛ばされた彼の心が、ようやくとどまるところをみつけかけたときに、さらにもう一度吹いた地震をともなう旋風(つむじかぜ)だった。茂には、もう自分の魂がどこにあって、辿りついたのがこの世なのか、あの世なのか、かいもく見当がつかない場所で、呼吸しているのかもふくめて、考えなおしてみる必要を感じた。目の前が真っ暗になり、めまいがした。みぞ落ちが痛くなり、胃がそこにあるのを主張していた。息ぐるしく感じ、茂は大きく息をすいこんだ。 「たぶん、君が話したことは、おれが、いま感じとった事柄を言葉にしてくれたのだと思う。ある、というのはひとつのつながりだ。それによって、ふたつのものが同時に存在を保証される。それは、なによりも大切な関係だという気がする」 茂は神妙な面持ちで、ひと言ずつ考える口調でいった。 柔らかい風が、ふたりの頬を撫でて通りすぎていった。そこは静かな世界で、時空から隔絶されたひとコマで、屋上にはだれもいなかった。そのとき、微かな風が吹いてふたりのタオルを揺らした。それで、目があった。 ふたりはみつめあっていたが、やがて唇がかさなった。うごきにあわせて二枚のタオルは、ゆっくりと螺旋を描きながら落ちていき、茂は柔らかなブロンドの肩をだいた。彼女のつよい抱擁を感じ、ときはなくなっていた。 いっしょに朝食を食べることにして、ふたりはいったん別れて各々の部屋にもどった。 茂は、階段をおりて、フロントの奥のレストランに入った。八時をまわったころで、客はすくなかった。夢のなかの感じで、窓際の席にすわって入り口をぼんやりとみていると、二二、三歳のブロンドの女性が入ってきた。 なんと、表現したらよいのだろうか。 暗黒の闇が、とうとうとひろがる拡散した宇宙のなかで、無意味にすてられた冷えた塵のあいだに微かな力が働きはじめ、永劫のときが経過してあつまっていく。さらにインド的ともいえる、ながく果てない時間がすぎて、集積した塵埃がみずからの重みによって、やがて内部で核融合をはじめ、原始の太陽が出現した瞬間、どんな色をしていたのだろうか。本で読んだこともないが、そのときうまれたものは、光っていたに違いない。無限のエネルギーで満たされ、つよく銀色に眩いていたのだろう。ただただ清浄に輝くとき、神さまは、必ずそばにいてくれたのだろう。神の臨在なしに、そうしたことが起こるはずがなかった。 そんな風に、輝いていた。光が無制限にはなたれ、その中心がブロンドだった。表情や仕草は、もう眩しすぎてみることができなかった。茂が感じるすべてが、彼女のオーラだった。 ブロンドは、彼の姿をみつけると、右の手のひらを立てて小きざみに左右に振って、にこやかに笑った。 「また、お会いできたわ。きっと、神さまっているのね。考えると、不思議で夢みたいなことって、ほんとうにあるのね」 「ほんとうだね。夢でないことを、ただ望むだけだ」 「夢物語でも、充分だわ。でも、私、小さいものが好きなの。そのほうが、現実になりやすいでしょう」 「君がいいなら、そうしよう。おなじ夢を、みていたいから」 彼女は、うすく化粧をし、ブロンドの髪も先ほど屋上にいたときの奔放さはうばわれていた。その代わりに、お行儀よくしつけられ、素敵で、いい匂いが漂っていた。 ベーコンエッグにトースト、それにダージリンの朝食をいっしょにとりながら話をした。この大陸にこなければならないと、何年も思いつづけてきた。ここを旅行すれば、自分がうまれ、生きる理由が分かるに違いないと考えた。デリーで裕明に出会い、ベナレスで再会し、いっしょにポカラ、カトマンズとあてもなく旅をつづけている。そんなことを話した。 ブロンドは、テーブルに両肘をついて指をくみ、両方の親指のうえに形のいい顎をのせて茂の話をだまって聞いていた。ひとしきり終わると、「うらやましいわ。あなたが」と囁いた。 その表情はとても可憐で美しく、それでいて、どこか寂しげで、茂は力になってやりたいと思った。彼女はだまって、彼をみつめるだけだった。 窓の外をさまざまな国の人びとが、思い思いの格好をして行き交っていた。世界のあらゆるものが、ゆっくりとうごき、時間だけが嵐のなかを飛ばされる真っ白な雲になって、つぎつぎにながれていった。話すことはなにもなく、たがいに、たがいを考えている、いまの瞬間が大切だった。今日までの自分の過去、うまれてから起こったさまざまな出来事。喜びや悲しみ。そんなものは不必要だった。みつめあう、この「ひととき」に比べれば、欲しい事物はなにもなかった。 宇宙のすべてのものが、かつてあり。いま、そしてつぎにある者が、ふたりを祝福していると感じた。言葉は足りない、むなしいものだった。 気がつくと、カウンターの柱時計が一二時の時報をつげていた。 「ああ、お昼に約束があったの」 ブロンドは、大事なことをとつぜん思いだした。 「まだ、このホテルにいてくれるのでしょう」 茂の顔をのぞきこんで、真剣な表情で聞いた。 「君の望みなら。それにしても、輝いているね、このホテルは」 「よかったわ。私も、もうすこし、このホテルにいることにするわ。ほんとうは今日、でていくつもりだったの。だから、マスターに変更すると話さなければ。まだまだ、ここにいると、いわなければならないわ。そうすれば、必ずまた会えるわよね」 「約束できる。君がここにいるのなら、朝がまたくるのとおなじだ」 茂が真面目な顔でいうと、ブロンドは嬉しそうに笑った。 ふたりでレストランをでると、ローラはカウンターへいき、ネパーリの主人に宿替えをキャンセルすると話し、後ろのソファーにすわっている彼を振りかえってみた。 青いジーンズにオレンジのチョッキをきたブロンドは、宿のマスターと話が終わると、「それじゃ、またね」といい、右の手のひらを立てて、先ほどとおなじに左右に小きざみに振りながら玄関から歩いていった。うつるはずだったホテルに、キャンセルをしにいくらしいと茂には映った。とくに予定はなにもなく、ついていきたいとも考えたが、今日はもう充分だと思った。すべてが夢みたいで、こうした素晴らしい喜びがほんとうにあるのなら、小だしにゆっくりと味わいたいと感じた。 そのつぎの日、カトマンズでむかえる三日目、裕明と茂は、昼食をいっしょに食べることにした。この街のレストランは、どこも綺麗で洒落ていた。入ったのはホテルのちかくだったが、一時をすぎた店に、客はほとんどいなかった。入り口の扉をあけるとフロアがあり、木製のカウンターがならんでいた。左には、奥にむかってボックス席がつらなっていた。街並みにそって、大きなガラス窓が張られたひろい空間に、通路をはさんで四つか五つの席が、壁がわと窓がわにならんでいた。 入り口ちかくのボックス席で、岸川と今岡とローラが食事をしていた。ふたりは、脇をぬけて、いちばん奥からひとつ手前の窓がわの席についた。入り口のフロアがみえる位置に腰をおろした茂は、壁がわで食事をする三人の様子をみた。そこは、よどんだ空気が満ちていた。 通路がわにすわったローラは両肘をテーブルについて指をくみ、そのうえに顎をのせ、もう食事は終わったらしかったが、皿には食べものがのこっていた。あきあきしているようにみえた。やがてローラは、茂の視線に気がついた。それで彼に微笑んだのだが、それが、またなんともいえないほど愛くるしかった。それから肘をつけたまま、左の手をわずかにずらして頬のちかくで、茂にむかって何度かゆっくりと振った。まねをして挨拶すると、ローラは、彼をみつめつづけた。 背をむけていた今岡は、ブロンドの変化に気づいて、振りかえり、不愉快そうに眉をひそめた。 裕明は、茂の視線が離れたテーブルにあることに気がついた。後ろを振りかえってローラをみつけ、それからもう一度、彼をみた。 「可愛い子じゃないか」 びっくりして、裕明はいった。 「気があるみたいじゃないか」 「どうも、そうらしいんだよ」 「手がはやいんだな」 「運がよかったんだ」 「ほう、それをつかんだのか」 「がっちりだ。つかむというより、ふってきたのだな。ちょうど、真下にいたのだな」 「それは凄い。間違いない。どこでみつけたんだ」 「おなじホテルに、泊まっているじゃないか」 「えええ」 裕明は、もう一度、三人のテーブルをみた。ローラは、今度は彼にむかって手を振った。それで裕明も、笑いながらゆっくりと両手を揺らして彼女に答えた。 「たしかにそうだ。あのふたりは、知っている。筋肉マンとヤギは、ロビーでみかけた」 裕明は、うなずきながらいった。 「でも、ブロンドは知らないな」 両腕をくみ、首をかしげていたが、分からないらしかった。 「一人旅らしい。筋肉マンが、追い駆けているみたいだ」 「不つりあいだ。だれがみたって分かる。それで、茂に助けをもとめているってわけか」 「まあ、そんなところかな。よくは分からないけど」 茂は前日の朝、ながしのところでローラと偶然出会い、そこでいい雰囲気になり、朝食をいっしょにしたこと。八時ころレストランに入り、気がつくと昼だった事件を話した。 「普通では、ないよな」 「まあそうだが、ブロンドもいっしょにぼうっとしていたなら、それでいいのではないか」 茂の表情も、普通ではないと裕明は思った。そう考えて振りかえりローラをみると、完全に三人の席では浮かんでみえた。もう一度茂をみやると、思考能力もなさそうにぼうっと彼女をみつめていた。オーダーした昼飯が、はこばれてきた。裕明は、ウエイターがもってきた昼食をそのまま奥においやり、それからもう一度、後ろを振りむくと、ローラがまた手を振った。彼は、それに答えて、にこやかに、おなじように挨拶した。この場面では、筋肉マンとヤギをさそって外につれだし、オピウムの話でもするしかないと裕明は思った。 そのとき、茂が立ちあがった。裕明のまえを通りすぎると三人がすわっている席までいき、「やあ、ローラ」と声をかけた。 彼女は、にっこりと微笑んだ。 「じゃあ約束通り、いまから食事にしよう。ぼくらの席においで」 彼は、ローラの手をとりいった。 「なんだよ、茂。いま、おれたちは食事をしているんだ」 今岡が、つよい語調でいった。 「それは、三〇秒まえに終わったんだ。いまはもう、ぼくとの約束が先着になっている。なあ、ローラ」 茂はいった。彼女は、大きくうなずいた。ローラの腕をとって立たせると、一歩さがって会釈をし、通路をあけ、左手を伸ばして、店の奥のほうにすすむよううながした。彼女は、ふたりがいたテーブルまでいくと茂をみた。 「奥にいって」という指示に応じて、裕明とむかいあわせの窓がわに腰をおろした。通路がわには、茂がすわった。 岸川と今岡が、三人の席にやってきた。 「ブツは、手に入ったのか」とヤギが聞いた。 「その件は、また話すよ。いまは、もっと大切な時間なんだ」 「茂。やり方が気に食わないな」と今岡がいった。 ふたりが、茂を睨みつけた。ローラは、下をむいた。 店のなかの客は、五人だけだった。いちばん奥の三人が腰かける席の通路に、背が高いふたりの男が立っている。岸川は両手をポケットにつっこみ、筋肉質の今岡は左手を腰にあて、右の手で拳をつくって、中指で自分の顎をくりかえし、かるくたたいている。ふたりは、じっと茂をみすえていた。 裕明は、ふとなにかが聞こえたと思った。みると、茂が押しだまっている。彼は唇をつよくとじ、眉間に皺をよせていた。裕明は、おやと思った。どこかでみた表情、バスのなかの風景が脳裏に浮かんだ。狂ったみたいにわめくラジオ。怒鳴り声が行き交う、車内の大騒ぎ。暑くて蒸した、とじられた空間。すえた臭い。窮屈で暗い。あっと思って、彼は立ちあがった。 背後でとつぜん起立した裕明に、岸川と今岡が身をひいた。意表をつかれて、茂がけげんな表情をした。不安げな面持ちで、ローラが裕明をみた。みんなが、それぞれの思いで凍りついた。 つぎの瞬間、ローラのまえに花があった。彼女はとつぜんあらわれた薔薇の花束に、しばし釘づけになった。そして裕明をみあげた。 「ほんの気持ちだ。ローラ。もちろん茂の」 裕明は、いった。 ローラは、うっとりとした。その表情は、天使にみえた。それは、やがて微笑みに、殺していた声が姿をあらわし、笑いに変わった。 「そうだ。パーティーをしよう」 裕明がとつぜん、思いついたみたいにいった。 「今日は、茂の誕生日なんだ」 「それは、いいわ。ケーキを食べましょう。おいしい、お店を知っているわ」 ローラがいった。 「君らも、どうだい」 裕明は、岸川と今岡にいった。 「どっちでもいいよ。最低、ふたりでお祝いをしてやろう」 そういうと、裕明は椅子に腰をおろした。 「分かったわ。私は、参加するわ」 「じゃ、君たちも考えておいてくれよ。この店は、入り口と出口がいっしょらしいよ。こっちからは、でられない」 裕明は、ぶっきら棒にいって、「用がすんだら、いくのはあっち」と肩越しに右手の親指を立てて後ろをさした。 岸川も今岡もその仕草をみて、一瞬むっとしたらしかった。 「ランチは、終わったのかい」 裕明は、ローラに聞いた。 「あなたがたこそ、食べないの」 「やあ、いま、揉めていたんだよ。ふたりだけで食事をするのは、もうすっかり、あきあきしたって。だれか、美人とでも昼食を食べたいってさ」 「あたしでよければ、さそってくれればいいのに」 「知らなかったんだよ、こんな美人がそばにいるなんて。おなじホテルなんだって。今日は、神に感謝のお祈りをしなけりゃ」 「裕明。いつ、神さまをみつけたんだ」 「美人がいれば、なんだってみつかる。世の中は、そういう風にできているんだ」 裕明は、確信に満ちた表情で、力をこめて答えた。 岸川と今岡は、三人の会話がはずむのを、立ったままぼうぜんとみていたが、ふたりで顔をみつめあい、やがて歩きはじめ、レストランをでていった。 「あんたたちは、面白いわ。あたしは、楽しいのが好きよ。つまんないのは、いやだわ」 「つまらないものは、イルカの骨盤だ」 裕明は、とつぜんいった。それで、ふたりはだまった。よどんだ空気が、覆いかぶさってきた。裕明は、ときどきわけの分からないことをいう。ふたりはすこしこまり、だまっていた。 「ごめん。つい教養がでてしまうのだな。イルカは知っているよな。海にすんでいるが、ありゃあ、じつは哺乳類で卵じゃないんだ。だから、骨盤をもっている。ちょっと考えてくれよ。あの骨盤、なんの価値もない。あるだけ無駄。そう考えるだけで、悲しい気持ちにならないか。ないほうが、絶対に分かりやすい。彼らの骨盤を考えると、おれは、そのたびに泣けてくる。そうは、思わないか」 裕明は、ブロンドをみつめて真剣にいった。 ローラは、笑いだした。茂が裕明を改めて紹介し、彼女もオーストリアからやってきたことを話した。自己紹介がすむと、脇においやられていたふたりが頼んだ昼食をさして、ブロンドがいった。 「食事が、すっかり冷めてしまうわ」 「ローラは、もういいのかい」と茂は聞いた。 「そうね、すこし食欲がでてきたわ。さっきは胸がいっぱいで」 ローラはサンドイッチを注文し、三人で食事になった。 「あのふたりね」 ローラが、話をはじめようとした。 「いいんだよ」と裕明が言葉を制した。 「だいたいは、分かっているんだ。おおむねだ。全部じゃない。でもな、ローラ。話してくれても、だいたいしか分からないんだ。全部はどうしたって不明なんだよ。仕方がないじゃないか、おれたちは、違う人間だ。だからローラ、可愛い子は、そんな話はしなくていい。あいつらのことなんか、忘れてしまいな。もう、おつきあいをする必要もない。もっと、楽しいことを話そうじゃないか」 それから裕明は、いろいろな話をはじめた。世界中のさまざまな出来事だった。ほとんど茂も聞いたこともない、にわかには信じがたい話ばかりだった。だいたいは、正しいのだろう。おおむねが間違っていなければ、いいのだろう。ローラは、身をよじって笑った。ときには、涙をながしながら聞いていた。 茂も、インドやランカの、飛んでもない話をした。こまったことや、迷った出来事で、ローラは声を立てて笑い、いろいろ質問をくりかえした。 裕明がオーストリアの話をはじめたとき、彼女は泣きそうになった。彼は、目茶苦茶にくわしくて、ローラの住む街もよく知っていた。観光地の話題からはじまり、名産品や橋の名称、道の名前ともりあがり、果ては通りの角にあるマクドナルドの話もした。その店舗は、ニューヨークの本店についで二番目に大きな店で、郷土料理の内臓をはさんだ、世界でこの店屋でしか提供していないハンバーガーが有名だそうで、ケチャップの味が独特で、すこし塩辛すぎるとか、話しはじめた。そうしているうち、ローラは涙ぐんできた。 「いや、悪かったな。ローラ、こんな話になっちゃって」 裕明は、こまった顔でいった。 「楽しそうにしてくれたので、話しただけなんだよ」 「裕明の、せいじゃないわ。とっても優しくされているって、久々に思ったから嬉しくなっただけなのよ」 ローラは、ゆっくりと首を振りながら彼に話した。 二時間もねばっていたが、ネパーリはなにもいわなかった。それで、ダージリンを頼んだ。 「ごめんなさいね」 ローラは、うつむいていった。 「知りあえて、よかったわ。裕明と茂に。もっと、いっぱい話がしたいわ」 ローラは、顔をあげると、ふたりにむかって真剣にいった。 「今晩は、茂の誕生日のパーティーを考えなくちゃね。もりあげるわ。この先を二〇分くらい歩いたところに、マンジュシュリというケーキ屋さんがあるわ。とても、おいしいのよ。そこで、パーティーをしましょう。夜の八時に。特別製のケーキを注文しておくわ。でも、ごめんなさい。いまは、もう、これで帰るわ。今日は、いろんなことを思いだしたの。あなたたちなら、分かってくれるわよね。だから、いまはこれで帰るわ、夜を楽しみにしているわ」 最後には、青い瞳に涙がいっぱいたまっていた。 「またあとで」といったときには、もう声にならなかった。 とても部屋まではもたないだろうと、茂は思った。可愛そうだった。聞いてあげられる話が、たくさんあるのだろう。力にはなれなくても、物語のひとつひとつを、彼女とおなじ気持ちになって話しあうことはできると思った。ローラがでていくと、茂は裕明をのこしてあとを追った。 「大丈夫かい」 追いつくと、茂はいった。 ローラは、ジーンズからとりだしたハンカチで目頭を押さえていたが、彼が追ってきて言葉をかけると、今度は声を立てて泣きはじめた。 茂は、こまった。いまは、あの幸運に満ちあふれた、スポーツタオルももっていなかった。ポケットには、ハンカチも、ちり紙もなかった。つかってもらえるのなら、喜んでシャツくらいはぬいだのだが、そんな状況ではなく、なにもすることができなかった。だまって、彼女と肩をならべてホテルにむかって歩いた。ローラは、なにも話さず、歩みながらひたすら泣いていた。行き交う人びとが、じっと彼女を、そして眉をひそめて茂をみた。やがて、ローラはホテルに辿りつき、ロビーをぬけ階段にむかった。フロントには、ネパーリのマスターがいた。ハンカチをぐしょぐしょにして嗚咽するローラと、そばの茂をじっとみつめていた。ロビーには、岸川と今岡もいた。彼らは、瞬きをするのも忘れ、この様子をみていた。 ローラは、自分の部屋のまえまでいくと、しぼれば涙がこぼれそうになったハンカチで鼻をかんだ。鍵をあけ、振りかえって茂をみて、「ありがとう」といった。 「大丈夫かい。なにかできることは、ないのかい」 「優しく、しないでよ」 彼女は、嗚咽しながらいった。 「あなたとは、昨日、はじめて会ったばかしなのよ。私は、そんなに軽はずみでは、ないのよ」 「そんなことは、分かっているよ」 「ありがとう。私も、あなたの気持ちは分かっているわ。でも、優しくしないで。私は、はしたなくは、ないの。今日の夜、八時に、マンジュシュリで」 ローラは、そういうと扉をしめた。鍵をかける音がした。そして、さらに大きな泣き声が聞こえた。 茂は、しばらくぼんやりと扉のまえで立っていたが、気をとりなおして階段をおりていった。フロントのマスターが、じっと彼を睨んだ。 「よう。パーティーは、あるのか」 今岡が、茂に声をかけた。 「やるなら、いくぞ」と岸川がいった。 「夜、八時、マンジュシュリだ。場所は、だれかに聞いてくれ」 茂は、答えた。 三、オピウム 裕明と茂は、相談していた。 ルピー紙幣の半分の大きさが一トル、これはいいだろう。岸川の一五〇ルピーが、なにを意味しているのかは分からなかったが、五〇ルピーでは買えるのではないか。しかし、彼のただならぬ世界は、不気味だと考えるべきだろう。 なんとなくふたりの話がまとまったので、午後の四時ごろ、茂は大通りの四つ角で、ぼうっと立っていた。片がわ三車線ほどの、幹線同士がぶつかる交通量もけっこうある交差点で、まだ紅葉しない立派な欅が並木として植わる、ひろい歩道がつくられていた。まわりには、石づくりの街並みがつづき、遠くには山がつらなっていた。信号機の手前で無意味に立っていると、ネパーリの若い男が声をかけてきた。 「欲しいもの、ありませんか」 ネパーリは、茂の顔をのぞきこんで聞いた。 「いい奴が、欲しい」 痩せた浅黒い青年の瞳をじっとみかえしながら、茂はぼそっといった。 「大丈夫だ。なんでもいっぱいある」 「いい奴でなければ、いやだ」 「ついてこい」 「ここで待てば、おまえよりいいものをもっているのが、くるって聞いた」 「そんなことはない。おれがあつかっているのが、いちばんいい」 「保証できるか」 「きてくれれば分かる」 「いってもいいが、みょうなものなら買わない。うえと相談してこい」 「ここで、待っていてくれ」 青年は、そういって路地に消えていった。茂よりやや背のひくい痩せた二〇歳くらいのネパーリで、肌は浅黒く、髪はみじかくして、とくにひげはなかった。汚れた青いシャツと、皺くちゃになったよれよれの灰色のズボンをはいていた。茂が四つ角でまわりの高い山々をみながら、ぼうっと立っていると、先ほどの青年がやってきた。 「特別なものを用意する。ついてこい」 「保証があるのか」 「いま、うえの者に聞いてきた」 「なんといった」 「ついてこい。ここでは話せない」 「この場で説明できなければ、違うのと話す。おまえ、みたいのは、いっぱいいる」 「そうかも知れないが、うえはおなじだ」 「トップがいっしょでも、もっとちゃんと話をする奴がいるはずだ」 「買う気がないのか。それなら、でてくるな」 「命令される筋あいはない。おまえが帰れ」 「欲しくは、ないのか」 「買うつもりで話している」 「それじゃ、ついてこい」 「具体的な話がなければ、ついていっても無意味だ」 「そうか、勝手にしろ」 青年は、ぶっきら棒にいって後ろをむき、でてきた路地に帰っていった。角をまがるとき、茂のほうをもう一度振りかえった。 彼が知らん顔をして、漠然と何者かを待つ感じで、まだ緑に色づく山々をながめていると、ほどなくおなじ青年がやってきた。 「ふだんあつかっているより、ずっといいものがある。それは、特別だ」 青年は、押し殺した声でいった。 「いくらだ」 「ついてこい」 「教えろ、いま、ここで考える」 「一五〇だ」 深刻な表情になり、意を決して青年は答えた。 でた、と茂は思った。順調だ。岸川のいう通りだ。このブツについて話しあい、五〇まで値切ればいいのだ。 「なるほど。いま、もっているのか」 「ここにはない」 「分かった」 それで、茂はついていった。建物の角からほそい路地に入り、青年はどんどん歩いていった。茂は、とつぜん立ちどまった。 「どうした」 青年は、振りかえって聞いた。 「ここへ、もってこい」 茂は、立ちどまったままいった。 「ここじゃ、だめだ」 「あそこは、人通りが多い。取り引きには、ふさわしくない。でも、この場所ならだれの目にもつかない。ここへ、もってこい」 「ついてこなければ、売れない」 青年は、語気をつよめた。 「それなら仕方がない。おれはあそこで、もうすこしまともな売人の話を聞く」 茂はそういい、振りかえって帰ろうとした。 「待て」 青年は困惑した表情になり、じっと考えていた。 「ここで、待っていろ」といった。 茂がうなずくのを確認すると、足早につぎのブロックの地下に消えていった。いくらの時間もたたないうち、青年はまた姿をみせた。ひとり切りだった。茂の立つ路地まで小走りでくると、息を切らせながらいった。 「特別だ。一五〇だ」 青年は、右の手のひらにのせたブツを、左の脇に隠しながら、ちらっとみせた。ルピー紙幣の半分くらいのものだった。岸川が話していたのとおなじ大きさで、基準があるらしかった。色は、まえのものより、やや白くみえた。 「触らせろ」 茂は、指先で触れてみた。よく分からない。岸川からもらったブツより乾いた感じだった。 「三〇だ」 茂は、いった。 「馬鹿いえ、これは特別だ。一五〇だ」 青年は、額に皺をよせて真剣に怒った。 「高すぎる」 「三〇。話にならない。おまえ、勘違いしているのじゃないのか」 頬のこけた青年は、本気で怒った。 「それじゃ、いくらにするんだ」 「一二〇だ。分かったか。一二〇が原価なんだ。もう譲れない」 「分かった。四〇払おう」 「おまえ、なにを聞いている。聞こえているのか。おまえ、どこか、おかしいのじゃないのか。話が、分かっているのか」 青年は、こめかみに青筋を立て、右の手のひらをうえにして、指を鷹の爪みたいにまげて震わせながらいった。額にふかい皺をよせ、目はつりあがり、唇は心なしか痙攣していた。青年の発する全体の雰囲気からは、余裕を感じることはできなかった。 「半分でいい」 茂は、いった。 青年は「ごくっと」唾を飲みこみ、ひとしきり考えた。 「分かった。半分は、七五だ」 「二分の一は、五〇だ。いやなら、話は決裂だ。おれは、帰る」 「待て」 青年は、苦虫をかみつぶした表情になり、目をつむった。それから、もっていたオピウムを、丁寧に半分に千切った。 「六〇だ。これが、原価だ」 青年は、もの凄く深刻な表情になって、するどい目で茂をじっと睨みつけていった。 それで、彼も男をみつめてから、ゆっくりと財布をとり、一〇ルピー紙幣を五枚だした。 「これで、やれ。いやなら帰る」 茂は、静かにいった。 その言葉で、青年はながい時間、じっとだまって、彼と五枚の一〇ルピー札を交互にみつめていた。雰囲気は、かつてみたこともない最悪な感じで、男がいまにもつかみかかってくる気がした。身体中がわなわなと震え、額からは湯気が立ちあがってみえた。茂は、もうこれ以上は無理らしいと判断して帰ろうとした。彼の仕草をみると、とつぜん「分かった、この」と青年はいい、それから口のなかでぶつぶつといった。 「どうするんだ」 茂は、青年の考えが理解できずに聞いた。 「この」 青年は、小さく呟いて目をつむった。それから、 「ぬすっと、野郎」と押し殺した声でいった。 「じゃあな、おれは帰るぜ」 茂はつげて、振りむいた。 「待て、五〇にする」 青年が、とつぜんいった。唇が怒りで震え、手にはいっぱい汗をかいていた。 「そうか。交換だ」 茂は、オピウム半分と五〇ルピーをとりかえた。 後ろで、「馬鹿野郎」という声が聞こえた。一歩でれば大通りで車も走っていたし、人通りもかなりあった。そんな気がしただけだった。はっきりとは、分からなかった。 「いやあ、半分で五〇だった。これが、限界みたいだったな」 茂は、いった。 「それなら、それなりのオピウムではないのか」 裕明は、黒っぽい半分に千切れたブツをみた。 「いったい、なにがまじっているのだろうな」 手にとり、部屋のあかりにかざして、ながめながらいった。 「分からない。でも、岸川のブツより、いいものだろう。きっと底値だったと思う。売人の雰囲気は異様だった。だから、すこしで、はじめてみよう」 それで、パーティーの用意がととのった。 茂の誕生日パーティーは、ローラがもりあげてくれた。彼女が予約したマンジュシュリは、ホテルから歩いて三〇分くらいの距離だった。有名な店らしく、ウエイターも感じがよかった。洒落て、よくこんな場所まで知っていると考えさせられたほどだった。 「SHIGERU」という名前入りのチョコレートがのった特製のケーキがでてきて、大きい蝋燭を二本、小さいのを七本、ローラは用意してくれた。 岸川と今岡は予想通りやってきた。ローラがまるいテーブルの奥まった壁がわに、裕明と茂が両脇にすわった。のこった席は、ふたつだった。選択はかぎられていたが、予想した通り、茂のとなりには岸川。裕明の横には、今岡がきた。 すべてが、予想通りの進行だった。 裕明の大演説会だった。世界中のさまざまな話題がつぎつぎにでてきて、ひとりでずっと話をしていた。ふたりは、ただだまって聞いていた。だれだって、いろいろなところへいきたいと思って外国旅行をするわけだが、ほんとうに全部、旅行した奴がいるのだ。どんな話題になっても、実際に「体験している」者に、なにを話したって勝てるはずがない。裕明のひとり舞台だった。 ローラと茂は、彼の話もまったく無関係で、勝手にふたりの世界に入りこんでいた。みつめあって、他人が話しかける隙もなかった。完全にすれ違い、テーブルをかこんでいたのが五人だったというだけの、茂の誕生日パーティーだった。 それでも、彼らは一時間、我慢した。 「お先に帰るよ」 ふたりは、げっそりとし、疲れ切った表情でいった。 「じゃあな」裕明はいい、「また、あとでな」と笑いながらつけくわえ、今岡にむかって手を振った。 彼は、いやな顔をした。 そのとき、「じゃあね」とローラは、右の手のひらをあげた。この晩、今岡にかけたはじめての言葉だったが、あかるくて可愛い、すき通る綺麗な声だった。それを聞いたときの彼の表情はなんとも複雑で、ひと言ではとても語りつくせない感じだった。それから、今岡は岸川と外にでていった。 ホテルまでの帰り道は、三〇分くらいで、爽やかなカトマンズの夜を、三人でぶらぶらと歩いた。ローラにはいわなかったが、そのとき、すでにふたりはパーティーをはじめていた。ホテルへの帰り道、買ってきたオピウムを、鼻くそにもならないくらいに小さく千切って食べた。もしかすると、かなり高い純度かも知れなかった。 「茂。こんなもので、効くのか」 裕明が、日本語でいった。 「分からない。純度が、まったく不明だ。岸川のくれたものより、いいはずだ。あのときは、小指の先くらい食べた。そこまでやったら、危険だと思う」 茂も、日本語で答えた。 「こんな鼻くそじゃ、効きゃーしないよ」 「分かった。それじゃ、もう、ひと欠けらだけ食べてみよう」 また、小さく千切ったオピウムをふたりでかじった。それから、五分くらい歩いた。もう、すこしすすめばホテルだった。 「ぜんぜん、効かないよ。これじゃパーティーには、ならないのじゃないのか。すくなすぎるんだよ。小指の先くらい、食べたのだろう。鼻くそふたつだ。いくらなんでも小指の半分くらいはいかないと、効かないのじゃないのか」 裕明は、またいった。 「それは、危険だ。すくなくとも岸川のものより、純度は五倍くらい高いと思う。彼だったら、どのくらいで買わされたのか、ほんとうに分からないよ。売人の雰囲気は、普通じゃなかった」 「食べたのは、小指の一〇分の一にもなっていないぜ」 「分かった。もうひとつだけ、食べてみよう。これが最後だ。効かなければ、明日、考えよう」 茂は、また鼻くそくらいに千切って、ふたりで食べた。ホテルに辿りついて、ベッドに横になった。 「だめだ、効かないな。やっぱり、足りないんだよ」 裕明は、いった。 「あとは、つぎの日にしよう。明日は、大切な約束がある」 茂は答えて、それで寝た。 分からない感覚だった。 表現のできない、うまれてはじめて味わう知覚で、名づけられていないものだった。気持ちが悪いといえば、そうかも知れなかった。すくなくとも、いい気分ではなかった。そうしたことをあわせて、まったく分からない感覚だった。「なにか」が生じているのかもふくめ、不明だった。やはり、「事件」は、起こっている気がした。だいたいも分からない、悪いパターンだった。 となりで、裕明の唸る声が聞こえた。鼾ではなく、それだけで重くるしい雰囲気がつたわってくる。まだ夜なのか、もう朝がきているのかも分からない。目覚めているのではなく、夢なのか。そうだとすれば、悪夢ではないのか。すくなくとも、昨日とは違う。 おぼろげながら浮かぶ、ひとつのイメージ。 大量のペンキが、部屋の石壁に投げつけられる。重力によって、天井のほうから床にむかって絵の具が一斉にたれはじめる。どろどろとした高い粘性の液体が、ゆっくりと壁をつたって落ちてくる。一部は直接、天井から床に滴り落ちている。問題はその色彩だが、しだいにはっきりしてくる。あかるい色ではない、赤でも、青でも、黄色でもない。暗い、しだいに分かってくる。そうか、黒だ。もしかすると、この一様にゆっくりと滴り落ちてくるのは、絵の具ではなく、黒蟻かも知れない。無数の蟻、黒い体。それが、うごいている。ぼとぼとと落ちてくるのは、小さい蟻の塊。 「変じゃないか」 裕明の声が聞こえたとき、絶対にみょうだと茂も思った。普通ではない、すべてがおかしい。 「焦点が、定まらない。目の前が、くらくらする。そんな感じなのだが」 裕明が、いった。 茂が目をあけてみると、天井がぐるぐるまわっていた。 「これって、気持ち悪いんじゃないのか」 裕明の声が、聞こえた。 ああそうだ、と茂は思った。これは、気持ちが悪いのだ。むかむかしているのだ。茂は、感覚のひとつに気がついた。その途端、吐きそうだった。目をあけると、天井がぐるぐるまわっていた。それに気づくと、回転は尋常ではなくなっていた。洗濯機みたいに、渦を巻いている。驚いて目をとじたが、もう感覚は分かってしまった。これは気持ちが悪いのだ。それに、気づいてしまった。もう目をとじても、むかむかしていた。 「ぐるぐる、まわっている」 茂は、いった。 「回転している。吐きそうだ」 「もしかして、これって薬のせいじゃないのか」 「おれも、そう思っているんだよ」 裕明の声が、遠くに聞こえた。とても、となりのベッドとは思えないほど距離があると感じ、また吐き気がした。薬のせいだったのだ、茂は思った。もしかすると、たいへんなことが起こったのではないか。薬は効き、ふたりとも、おなじ症状がでている。 「このままじゃ、だめだ。死んじまうんじゃないのか」 「どうしようか」 茂は、答えた。身体をうごかそうと思ったが、気持ちが悪い。しびれて、感覚が変だ。虫、そう、無数の蟻が皮膚を這っている、ぞっとする感触。目をあけてみると、どこもかしこも、ぐるぐるまわっていて絶対に吐くと思った。 「このまんまで、いいのかよ」 「よくは、ないんだろうな」 「茂、どうしたらいいと思う」 「分からないよ」 「こういうのは、だれかにつたえたほうが、いいんじゃないのか」 「そうだろうな。でも、身体がしびれている」 「どう、しようか」 裕明の言葉が、聞こえた。 「どうしたら、いいのだろう」 「このまんまじゃ、ぐあいが悪いのじゃないのか」 「そうだな」 「茂。これ、どう考えても、普通ではないよな」 「違うだろうな。普通でないことだけは、分かるよ。問題は、どの程度、違うかだ」 「吐きそうだ」 「吐ければ、そうしたい」 「効いて、いたんだな」 裕明は、いった。 「かなりだな」 「いいの、だったのだな」 ああ、そうか、と茂は思った。特別だといっていた、ネパーリの青年の姿が脳裏に浮かんだ。つかみかからんばかりに、本気で怒っていた。両手がわなわなと震え、眉間に皺をよせ、深刻に五〇ルピーをみつめていた。 「たぶん、凄い高級品だったんだ」 「そんないいものを、茂が買ってきたから悪いんだ」 「特別だといっていた。真剣だった。あいつ、最後は本気で怒っていた」 「怒らしちゃいけないよ」 「そう思う」 「値切りすぎたんだ。だから、分からなくなったんだ」 「いいものだって、いっていたもんな」 「儲けが、なかったのじゃないのか」 「そうだな。いまにして思うと泣きそうだった。かなり、恨んでいたみたいだ。うえに二回も相談したし、半分に千切っちゃったからな。あとに、ひけなくなっていたんだ。六〇が原価だって、いっていた。あれ、ほんとうだったんだ。あいつ、きっと、あとで一〇、自分で穴うめしたんだ。最後に、馬鹿野郎と叫んでいた。普通、いわないよな」 茂は、聞いた。頭ががんがんして話すのも辛く、吐きそうだった。 「いう、わけない」 「普通はよ、ああいう売人は、客を殺さないもんなのだろう」 「当たり前だ」 「だからよ、こんなにいいものなら、どのくらいが適当か教えてくれるよな」 「茂、怒らしたんだ。ひどいこと、したんだ。だから、客だと思われなかったんだ」 「ばちが、あたったんだ」 「茂のせいだ」 「どうしたら、いいのだろうな」 「ますます、ひどくなってこないか」 「なんだか、さっきより、もっとぐあいが悪い」 「ほんとうだ。もう、話すのもだるい」 「でも、裕明。量が、足りないといったよな。おれは、あぶないと話したよな」 「茂は、そんなこといっていたな。そうだったな。だいたいは、分かっていたのじゃないのか。その場にいれば、知ることができる雰囲気があったのじゃないのか」 「なんにも、分かんないよ。裕明こそ、くわしいはずじゃなかったのか。ずいぶん、やったんだろう」 「教えてくれる奴が、いるんだよ。どこにだって。プロという者がいるんだ。だいたいこういうことは、よく知っている奴といっしょにやるもんなんだ。このまえは、ヒッピーがいただろう」 「じゃ裕明。今回、あぶないのか」 「相当だ。はっきりいって、だめかも知れない」 茂にはその言葉が、ふだんの裕明のかるい話とは違い、充分な説得力をもっていると思えた。むかむかする、たまらない時間がすぎていった。頭は、さらにがんがんと痛み、寝ているのも辛く、どこにも力が入らなかった。身体中の皮膚を、小さな黒い蟻が這いまわっていた。意識がぼうっとし、ほんとうにあぶないと思った。このまま、いくのじゃないかと感じた。頭のなかでなにかが輝き、ポカラで会ったラマ僧の金色のブレスレットを思いだした。 「よい死に方、ではないな。しかし、奇遇ではある」 ラマ僧の言葉が、茂の脳裏をかすめた。 「よびに、いこう」 裕明がとつぜんいった。遠くで、そういう声がした。 「いって、くれるのか」 茂は、聞いた。 「買ってきたんだろう。これは、茂のせいだ」 「そうか、とことんやったからな。でもよ。もう、どっちって問題じゃないぞ。裕明も、悪い。それも、相当だ」 「なぜだ」 だるそうな声がした。 「最後に、もっと食べようといったぞ。おれは、あぶないと話したぞ」 「でも、値切りすぎたんだよ。やりすぎはだめだって、いつもいっていただろう」 「分かった。で、どうするんだ」 「じゃんけんだ。負けたほうが、よびにいくんだ。絶対にするんだ」 「死んでも、か」 「そうだ。死んでもだ。約束だ」 「分かった」 茂は、答えた。 部屋には悲壮感が、色濃く漂いはじめていた。暗くて、悪いムードだった。 それで、じゃんけんした。頭は、がんがんし、なにをだしたのか、覚えていなかった。とても手はうごかせなかったので、口でいった。なんてつげたのか、もう覚えていなかった。しかし、裕明は負けたのだった。 ながかった。いくらすすんでも辿りつかなかった。果てしない感じがした。這いつくばる手足は、鉛に変わったと思えるほど重く、四つん這いだったがすすんではいた。前進しなければ、ならなかった。状況をなんとしてでも、つたえる約束だった。階段にまで辿りつき、ロビーをみて、目の前がくらくらした。こんなにもながい石段を、おりていかなければならないのか。その高さは、裕明には絶望的にみえた。しなければならない、約束だった。裕明は、手すりにつかまり、死に物狂いで立ちあがった。目の前が真っ暗になり、気が遠くなり、たおれてしまいそうなのを必死でこらえた。そのとき、激しい吐き気が襲ってきて、絶対に吐くと思った。 ベッドからとても起きられそうもなかったので、裕明はころがって一回、床に落ちた。それから、なんとか四つん這いになったとき、ちょうどみあげたところに水差しがあり、思わず水を飲んだ。それが、悪かったらしい。裕明の口から水が吹きでてきて、下まで直接、落っこちていった。まるで、映画のゴジラだった。口から火を噴くシーンだ。ゴジラは、いま裕明で、吐いているのは水だった。しかし、あの場面だった。水は、落ちて雨の音が聞こえた。もっと正確にいえば、うち水をしたときのような、現実とはぜんぜんかけ離れたみょうに落ちついた音響だった。だれも、気がついてはくれなかった。映画のなかでは、ゴジラが火を噴くと、みんなが逃げまわっていた。それはつくりものの話で、現実とは違っていた。事実はもっと厳しく、ただ床が汚れただけだった。 裕明の絶望感は、さらにふかまっていった。おりられる自信はなかったが、落ちるのは簡単に思えた。このさい、いっそ落下するほうが適切にも思った。事態をはやく、的確に知らせることができる気がした。ふらふらする頭で、ぼうっと階段をながめていた。どう考えても、その選択は、あまりにも無謀に思えた。それは、とりかえしのつかないことが、さらに増える気がした。それで裕明はしゃがみこみ、やってきた廊下をむき、足のほうから階段をおりはじめ、中途までくだった。彼は、おりているつもりだった。人からみたら階段で、ごそごそしていただけだった。裕明は、石段で蠢いていた。そのとき、ローラがきた。 「裕明」と彼女は叫んだ。 「うごかないで」 ローラは大声で叫ぶと、カウンターに飛んでいった。 「裕明は、いけたのだろうか。彼は、わけの分からない、さまざまなドラッグをやってきたらしい。あいつには、耐性がある。それも、相当だ」 茂は、思った。彼には経験がなかったから、重大な違いだと感じた。 「吐きだせば、楽になるかも知れない」 いまにも、吐きそうなのに吐けない。これは辛くて、いっそ吐きだしたい。そういえば、裕明は水を飲んでいた。その光景が、ふと茂の脳裏に浮かんだ。じゃんけんのあと、「ごとん」と音が聞こえ、目をあけてみると裕明が床にころがっていた。なにを、どうするつもりなのかと思って、気持ちの悪いなかでじっとみていた。裕明は、四つん這いになると、ふたりのベッドのあいだのテーブルにおいてあった水差しをつかみ、水を飲んでいた。 「そうだ。水を飲めば、吐ける。裕明は、知っていたんだ。だから、水を飲んだんだ」 茂は、思った。目をあけると、周囲はぐるぐるまわって、速度はさらにはやくなっていた。水差しはみえた。力を振りしぼり、とると一気に飲んだ。飲めた。たしかに飲んだので、水差しをおいた。 「変だ」と茂は思った。 胃のあたりが飲んだ分、ぷっくりとふくらみ、気持ちはさらに悪くなっていた。横臥したままで、膨隆した腹を押してみると、「おええ」となり、口から水が、びゅうとでてきた。 映画のゴジラだった。あのシーンだった。しかし、いま、ゴジラは茂だったし、吐いているのは火でなく水だった。 「胃も腸も、うごいていない。完全に麻痺している」 茂は、事態の深刻さに改めて気づいた。 「オピウムだ」 ホテルの主人は、いった。 「ひどい中毒だ。医者が必要だ」 主人は、すぐに救急車をよんだ。 ローラは、茂の部屋に走った。扉をあけたとき、彼は口から水を吹きあげていた。ローラは、悲鳴をあげた。ホテルにいた宿泊者は、なにがあったのかと、ぞろぞろとでてきた。 だれかが入ってくるのは、なんとなく分かったが、茂の意識は遠くなっていった。 ローラの話では、レストランからの帰り道、ふたりは真っすぐには歩いていなかったそうだ。千鳥足で、なにかの薬をやっていたのは、分かったそうだ。あのとき、じつはもう充分に効いていたらしい。 目を覚ますと、世界はぼんやりとしていた。茂は寝ていて、となりで横になった裕明がいた。通常は六人くらいが入る大部屋の中央に、ベッドがふたつだけおかれた室内は、がらんとし、むやみにひろく感じられた。 とくに、頭痛もなかったし、気分も悪くはなかった。 茂は身体を起こし、床におかれていたスリッパをはき、そっと立ちあがった。裕明の寝息を確認すると、静かに部屋をぬけでた。常夜灯が、離ればなれに、にぶい光をはなっていた。薄暗くてながい廊下を歩いて、ひろくてすこし冷たい感じがする階段を、音に注意しながらあがっていくと、のぼり切ったところに踊り場と扉があり、そっとあけて屋上にでた。 爽やかな、秋の夜だった。緩い風が吹いて、すこし寒く感じた。欠けた月があかるく光り、闇のなかに浮かぶ銀色の塊がみえた。雪に覆われた山の峰は、月光を照りかえし、さえざえと輝いていた。エヴェレスト、だろうか。いずれヒマラヤには違いないが、名は分からない。雪ばかりとみえる中腹には雲をたたえて、もう、そのすぐ下は暗がり、なにも不明な曖昧な地平の線、たぶん、森をかかえた陸がつらなっているのだろう。 ヒマラヤは、ヒマ・アーラヤだと聞いたことがある。 himaは、雪をあらわし、a-layaは、落ちつく。定着するを意味する動詞。a-liからの派生語で、住居とか蔵を示している。 ネパール北部国境を覆いつくす未踏の山々は、各々に森をしたがえ、静かな海に起こり、消える波となってあり、そのすべてを背景として白雪は領域をもって、くっきりと浮かんでいた。そこには、もう空もなく、あるといえば映している月ばかりか。 雪の蔵だった。 屋上をとりまくフェンスを両手でつかみながら、白雪の山に釘づけになった瞳は、ひとときをえて、いまいる場所をむすぶ空間にうつった。 舗装された直線の道、街灯がならんでいる。夜も相当に更けて、行き交う人も車もない石づくりの街並みがみえる。柔らかい風が、吹いている。 ネパールの首都、カトマンズ。砲弾状のシカラが林立し、積層している。どの塔状部も、うえにアーマラカをのせ、カラシャをもっている。その上部に、デーウルが天を目指して伸びている、ヒンドゥーの寺院。まるいストゥーパをもつ仏教寺院の屋根には、相輪がみえる。露盤と伏鉢があり、そのうえに蓮華の形をした請花がのっている。そして胎蔵界、中台八葉院で大日如来をとりかこむ、四仏と四菩薩をあらわす九つの法輪がつらなり、水煙をへて竜舎につづいている。竜がひく車にのっているのは、この世でもっとも尊いもの。それは、仏舎利を納めた宝珠。これらが一本の尖塔となり、仏の世界にすこしでもちかづこうと、天を目指して伸びている。 夜があければ道には人があふれ、マーケットはまた喧騒につつまれる。古都、カトマンズ。二〇〇〇年にもわたって数多の人びとがうまれ死んでいった街。そこには歴史と温もりがある。神が人間を創造したとしても、この街をつくったのは人。 ローラの横顔が、脳裏に浮かんだ。 そのとき心をしめた感情は、愚かしいとか、恥ずかしいとかではなかった。こうして入院したのは、あまりにも考えが足りなかったとは、くりかえし思うが、それよりも死ななかったことに感謝した。 茂は、生きていてよかったと感じた。 「ローラと、結婚したい」と彼は思った。 カトマンズ、一〇八枚、了 チャイニーズ・ボーダー 一、宿の主人 「おれには、分かる気がする。出来心だったんだ。ちょっとなんだ。思わず、やっちゃったんだよ。でもさ、そこが純情で可愛いところなんだよ。ほんとうに、敬虔な仏教徒なんだよ」 裕明は、主張した。 「そういうものか」 茂は、広間のテーブルをじっとみつめていた。 そこには、のこったパンがおいてあった。 ふたりが泊まったネパール最北端の宿は、道路に面した三階だての木造建築だった。もう旅館というよりは民宿みたいなところで、痩せて五〇歳ちかくにみえる女が、ひとりで切りもりをしていた。とはいっても、姉妹と思われる一五歳くらいの娘がふたりいたから、女主人は、ほんとうはずっと若くて、四〇歳そこそこだったのだろう。痩せて色褪せたサリーをきた主人は、みかけよりは気丈で応対もしっかりしていた。 宿はひとつで選択の余地はなかったが、でてきた女主人にふたりが泊まることをつげると、彼女は先に立って階段をのぼりはじめた。主人のあとについて、せまい段をあがって二階にいくと、右のほうに道にそってほそながい部屋があり、中央に模造紙くらいの大きさの地図をひろげて話しあえる、大きな机が三つならんでおいてあった。テーブルの道路がわと、山がわに、男三人がすわれるくらいの木製のベンチが、やはり三脚ずつおいてあって、会議室にみえた。便宜的にふたりは、ここを広間とよぶことにした。ほそながいとはいっても、部屋は幅もあるかなりひろい空間だった。左右の壁にはガラス窓が嵌まり、左がわの道路に面して大きな窓がふたつ切られていた。そこからは道をはさんでいくつかの家屋がみえ、その先はふかい森になっていた。右がわには小さな窓が三つつくられ、林立する木々が視界をさえぎり、うっそうとした樹木がつらなっていた。 階段の踊り場が広間の入り口で、左にはべつの部屋があり、「ここが食堂だ」と女主人はいって扉をあけた。なかに入ると、木製の大きなテーブルがひとつおかれ、まわりにまるい木の椅子が六脚みえた。道路がわは窓から夕日があかるくさしていたが、日暮れには、まだかなり時間があった。光が充分に差しこまない奥に間仕切りがつくられ、後ろが厨房だった。 茂がそこをのぞくと、一四、五歳の中学生くらいの娘がふたりで縫い物をしていた。年子にみえる姉妹は、どちらも、ながい髪を無造作に伸ばし、飾り気がなかった。とくに美人ではなかったが、素直そうな、ごく普通のネパーリだった。茂は、家事をするふたりにむかって手を振ってみたが、どちらも気づかない素振りで、挨拶も愛想もなかったが、間違いなく純情で生粋のネパール人に思えた。 食堂をみたあとで踊り場にもどり、せまい階段をさらにあがって寝室に案内された。三階は宿泊施設で、かなりの客を泊めることもできそうだった。この階が宿泊客でいっぱいになったときには、広間が食堂に変わるのだろう。また一階は家族の居住部分なのだろうが、それでもひろすぎると思った。たぶん係累はさらにいて、主人のつれあいはカトマンズにでも出稼ぎにいっているのだろう。それに女主人と旦那の両親たちは、家のなかで隠れて暮らしているのだろう。 これだけ大きいのだから、いろいろな部屋があると想像されたが、案内されたのは山がわに窓が切られた三畳くらいの、二段ベッドがひとつおかれたところだった。客は裕明と茂しかいなかったから、女主人は分相応と思った小部屋につれていったのだろう。優しい心遣い以外に考えられなかったので、ふたりはとくに文句をつける理由もなかった。裕明は上段に、茂は下段に寝ることにした。 トイレは、広間にふたつ備わっていた。なかには、排泄物が落ちていく穴があった。穴隙をじっとのぞきこむと、下にはうっそうとした木々がしげっていた。トイレは、構造的には広間のつきでた部分で、重力によって落ちる穴があるだけだから、考え方によってはすこし怖い気もした。 部屋に通されたふたりが、ぼうぜんとした表情で二段ベッドの下段にすわっていると、かなり疲れてみえたのだろう。 「入浴してきたらどうだ」と女主人が提案した。 それでふたりは、風呂にいった。とはいっても、風呂場なんかありえなかった。トイレだって垂れ流しで、水がでる場所なんてない。風呂というのはじつは戸外で、ようするに河にいっただけだった。 事件は、そのあとに起こった。 河から帰ってぼうぜんとしていたが、ぼんやりとするにも、あたえられた部屋はせますぎた。広間までおりてきて、ふたりで放心状態になっていたのだった。 そのとき、パンがひとつ机のうえにおいてあるのに、茂は気がついた。カトマンズでバスにのるまえに買った菓子パンで、バラビセで食べてひとつだけのこしておいたものだった。それが、テーブルのうえにぽつんとおかれていた。いちいちパンをかかえて河へはいけないし、その価値もないから、リュックから下着をとりだしたときにいっしょに外にだされ、茂がえらんだ下段のベッドに、パン屋の袋に入った状態でのこされたものだった。それがむきだしになって、きちんとたたまれたカトマンズにある菓子店の色がついた紙袋のうえにおかれていた。 「変だな」と茂は思った。 その感情は、とうぜんだった。歩くためには、裕明がいう通り脚が二本必要だから、どう考えてもパンが自力で広間にでてくることは不可能だった。 問題は、もうひとつあった。第二の疑問はけっこう複雑で、パンがここにおかれた以上に謎につつまれていた。つまり、その端がひと口くらいかけて、人の歯型がついていた。みるほどに、不思議なものだった。 「知らん顔して、食べてしまうしかない。すてたら、ばれちゃうじゃないか。やるわけにはいかない。犯人さがしとおなじだからな。これは、みなかったことにしよう」 茂は、かじられたパンをみつめながら首をかしげていた。 「おれも、半分食べてやる」と裕明は真面目な表情でいった。 その通りだろうと、茂は思った。 入れてあった袋には色がつき、カトマンズの店の名前と、菓子パンの図柄がかかれていた。茂には、やぼったくみえたが、この国の紙袋は茶色が普通で、ぼろぼろになるまでつかいまわす。白くて綺麗な新品は、それだけで魅力的なのだろう。ロール状の菓子パンは砂糖がまぶしてあるだけだったが、うまれてはじめてみたのだろう。買ってから一日以上ほうっておいたので、ぱさぱさと乾燥していた。しかし、その気になってかげば、おいしそうな、はるかな都会の匂いが漂っていたのだろう。 歯型までつけてテーブルのうえにおいてあるのは、「かじりました」という宣言だった。間違いなく不思議なものだったが、とり立ててこまる事件でも騒ぎ立てる事態でもなかった。旅をすれば、よくあることかも知れない。それよりも考えていたのは、「今日はたいへんだったな」という思いで、遠かったというふかい感慨だった。 「これは、裕明の意見にしたがったからではないのか。やめることもできたのに、賛成したのは自分なのだ。自己の責任を、人のせいにしても仕方がない」と茂は考えていた。 今日は、体力の限界を試したわけで、くたくたに疲れていた。それで、二階の広間でぼうぜんとしていた。宿も決まり風呂もあびたから、一日を振りかえってもいい、静かな時間になっていた。二週間のうちに相ついで起こった、さまざまな事件が思い浮かんだ。振りかえる、いいころあいだった。 裕明は、肝炎になると信じていた。 六年間、さまざまな場所をわたり歩いて、他人がどう感じるかはべつにして、自分なりには気をつけていたのだった。分からないことが多い世界、危機は何度もおとずれて、くりかえし痛い目にあってすこしは学習したのだった。変だと思う場面では、立ちどまる習性もできていたのに、「あああ。やっちゃった」。そんな感じだった。自分らしくもなかった。原因は、うすうす分かった。今回は、状況に気持ちがながされていた。いっしょに旅をした茂が女性と恋仲になるなんて、予期もできなかった。相手がたいそうな美人で、現実離れしたロマンスをそばにみて、面食らった。思いもつかないことが、起こるのはいい。それを、楽しみにして生活しているのだから当たり前だった。魔だ。がらにもなく動揺したのだ。魔がさすとは、こういうことだと、裕明はしみじみ思った。初歩的なミスで、だから今回は、致命的だろうと考えていた。 ホテルの階段の場面が、脳裏に浮かんだ。ゴジラみたいに口から水を吹きあげて、石段をごそごそおりていくうちに、意識がだんだんなくなり、遠くでローラの叫ぶ声が聞こえた。つぎの瞬間、階段に寝そべる自分をみた。もそもそうごいているのが、うえからみえた。みている自分は、やはり裕明だったのだろう。 ローラがマスターをつれてきて、茂の部屋に飛んでいった。今度は、彼がゴジラになっていた。面白いとか悲しいとか、そんな感情とは違って、あああ、それなりに気をつけてきたはずだったのにと思っていた。救急車がきて、ふたりをのせて病院について、職員が懸命に助けようとしていた。裕明自身も茂も、ベッドのうえで、ぐたっとなったままうごかなかった。 一部始終をながめながら、これはだめだって覚悟した。こんなことははじめてだったし、魂がぬけでてしまっていたのだ。ああ、最後はこうやって死んでいくのだなと、裕明は納得した。茂は、どうなのだろう。バスが落ちそうになっても、知らん顔して眠っているのだから、今回もけろっと起きて、みんなが騒ぐのをみて、ほんとうかよ、なんてそんな感じなのかな。茂は、助かってもらいたいな。彼が量がすくないといいはったわけだし、責任はとらねば仕方がなかった。それでも茂と旅して、それなりに面白かったな。自分でも驚くほど、現実をうけとめていた。凄く冷めて、「どうしようか」とはすこしも感じなかった。そうこうしているうちに、天井を離れて身体がだんだん高いところに移動していった。ほんとうにおしまいなのだ、と裕明は思った。 そのとき、下のほうから声が聞こえてきた。みおろすと、痩せたラマ僧がいた。剃髪の浅黒い日本人で、色褪せた赤い腰巻きをして、右の手首に金色のブレスレットをつけていた。ラマ僧が、さかんに声をかけていた。 おれは、海源(かいげん)という僧侶だ。昔、おまえとおなじようにぐあいが悪くなって、ここで死の淵をさ迷った。死ぬはずだったのに、いろいろな人が助けてくれた。みず知らずの人たちに看病してもらい、元気になった。それで、人を助ける使命があると思った。おまえは、まだ寿命がきていない。だから、帰れ。いまなら、まだ帰れる。それ以上、いってはだめだ。こちらへ、帰ってこい。 そう、いっていた。振りかえると、病院の建物がみえた。こちらはだめで、あちらにいくのがいいのかな。裕明がそう考えてじっと病院をみていると、だんだん身体がそこにちかづいて、ベッドで眠る自分がみえた。あそこにいかなきゃと思った。ふっとして、あとは覚えていなかった。 裕明は、病室で考えていた。 ラマ僧は、ここでオピウムをやったのだろうか。それで肝炎になり、黄疸に進行し、死の淵をさ迷った。奇跡的な生還があって、人生を考えたのだろうか。それでなかったら、わざわざネパールで僧侶をしていることもないだろう。わけの分からない麻薬患者の、後始末をやりながら弔っていた。そうして自分の使命を知り、場所ができるのだろうか。もしかしたら、ここでラマ僧のあとをつぐのだろうか。剃髪して、色褪せた赤い色の腰巻きをつけ、合掌する裕明の姿。 「どうしよう」 そこへ、ローラがやってきた。裕明が目をあけているのをみつけると、微笑んで右手をあげた。まわりをみると、彼は点滴をしていた。ふたり部屋で、茂も補液をうけながら眠っていた。彼は、目をとじた。 ローラは、裕明がまた眠ったと判断したらしい。声をかけるでもなく、ふたりのベッドの足がわに、まるい椅子をもってきて腰をおろした。裕明がうす目をあけてみると、ローラは茂の寝台の下をみていた。じっとなにかを考えている、物思いにふける可愛い横顔がみえた。視線の方向には管と袋がさがり、よく分からないが液がたまり、ローラは思案していた。なんとなく、裕明にはそのチューブの意味が理解できた。彼は、なにかがはさまっていると感じた。たぶん、おなじ管が、裕明にもついているに違いなかった。ベッドにも、同様の袋がつりさがっていたのだろう。 ローラは、不思議そうにじっと考えていたが、なにかを理解したらしい。とつぜん、裕明を振りかえった。彼の目がとじられているのをみて、安堵したみたいだった。 裕明が眠っているのを確認すると、ローラは茂の管をすこしもちあげた。合成樹脂でできた透明なまるくてほそいチューブで、大腿部に固定されていた。管をみていたローラは、なにかを思いついたのか、すこしひっぱった。チューブは、しっかりと固定されていた。ローラはもう一度、先ほどよりつよくひっぱった。 「おおお」と茂がいって腰をうごかした。 ローラは、驚いて管をはなした。 「触らないほうがいい」と裕明はいった。 ローラは顔を赤らめ、ばつが悪そうにした。すると、茂の管が赤く染まってきた。ローラは思わず右手を口のちかくにもっていき、息を飲んだ。祈る目つきで、裕明をみた。かわいそうだった。 「触らないほうがいい。簡単そうにみえるが、きっと複雑にできているんだ。プロに、まかせたほうがいい」 「赤くなっちゃった」 ローラは、消え入りそうな声でいった。 「大丈夫だ。こうなったのは、ローラのせいではない。命の恩人だ。茂は、感謝している。すこしくらい、血がでたって怒らない」 「先生にいってくる。今日は帰るわ。明日、退院だって、いっていたわ」 ローラは、そそくさと部屋をでていった。 その言葉は、裕明には意外だった。 「二日後に再診しろ」とネパーリの医師からいわれた。 裕明は、なつかしい病院をでた。一生、思い出にのこるだろう。そう思うと、涙がでそうになった。カトマンズで、ゆっくり療養しよう。宿のマスターには、感謝しなければならないと彼は思った。 茂は、裕明の経験した不思議な体外離脱体験の話を聞いた。ポカラで会ったラマ僧の名前は知らなかったが、「海源」かも知れないと思った。せっかく話ができて、どう生きるべきか教えてくれたのに、馬鹿なことをした。名前はともかく、もう一度ラマ僧に会って、ただ無性に謝りたいと思った。 ポカラでみた、カミソリ状の尾根を思いだした。雲ひとつないすみ切った空に、月と満天の銀河に映しだされ、アンナプルナの切り立った峰は、雪につつまれ白く輝いていた。なんの欲も希望もなく、世界と触れあったときに、はじめてみえた神聖な山だった。切り立つ尾根につもった雪は、氷河となり天上の国として輝きながら、あらゆる生命を拒絶していた。まえからそこにあったのに、茂には気がつかなかっただけで、みようとしなかったから、分からなかっただけだった。ネパーリは、高い山々のずっとうえにヒマラヤが聳え、ふだんはみえないのを知っていた。 茂は、またべつなことも考えていた。問題は、さらにのこっていると思った。こうやって最悪の形になったのは、重大な失敗があったからで、茂は反省していた。なにかするときは、だいたいは分かっている人といっしょでなければならない。裕明に、頼りすぎていた。いつのまにか彼は、どんな問題でも分かっている気がした。 「間違いだ。あいつは、なんにも知らないのだ。それで、世界中を歩くことになったのだ。だいたい普通の人間は、類推が効く。オーストリアのマクドナルドまでいって、ニューヨークの店との違いを知って、どうするつもりなのだろう。ハンバーガーの味に差があるのに気づくのが偉いわけでもないし、そもそも必要がない。それは、プロの仕事で、マックの経営者がやるべきことだ」 裕明にも、欠点があったわけだ。これは、今回いちばん勉強したことだった。茂は、もうひとつ知りたい疑問があった。岸川が買ったというオピウムとは、いったいなんだったのだろう。 「一トル、五〇ルピー、一五〇ルピー」 これも、聞きたいと思った。 いずれにしても、ふたりはめでたくホテルに帰還できた。季節は、秋にむかっていた。この時期の天候はいちばん安定し、だいたいいつも晴れていた。昼さがりだった。なつかしい石づくりの二階だてのホテルは、三日まえ彼らが絶命しかけたなんて、すこしも感じさせない、まるで関係がないという雰囲気だった。もっと正確にいえば、こんな事件は毎日ある、ごく普通なことというたたずまいで、どうどうとして、人のひとりやふたり、死のうと生きようと、そんなささいな問題にはどうでもかまわない感じだった。やはり、石づくりはいい。迫力があって、凄いものだと茂は思った。 「裕明さん」 なつかしい声がした。ホテルの入り口をすぎ、ロビーに入ったときだ。男の声に振りむくと、ヒッピーがいた。 「よう」 裕明は、左の手を高くあげていった。 「どうか、したのかい」 「どうって。たいへんだったじゃない」 ヒッピーは、いった。灰色のズボンをはき、白っぽいゆったりとしたティーシャツ姿だった。首にはながいグレーの布を巻いて、ポカラで会ったときとおなじ格好だった。 「また、友だちでも死んだのかい」 「なに、いっているんだ。裕明さんたちのことは、すっかり有名だよ。三日まえここに救急車がきて、オピウムの急性中毒で、日本人が死にそうになっているって、旅行者のあいだでは評判だよ。ぼくは、ちかくの宿にいたんだけれど、中毒者が旅慣れたふたりって耳にしたから、もしかしたら裕明さんと茂さんじゃないかと思ってさ。昨日きてみたんだ。マスターに聞いたら、やっぱりふたりだった。今日の午後、退院だって話だったら、ここのホテルにうつってきたんだ」 「そうか、そんな話題になっているのか」 「もち切りだよ」 「まずいな。ずいぶんと派手だったからな。これには、いろいろ理由があってな。なにか用らしいけど、そのまえに親父さんにお礼をいっておかないとな」 「ちょうどいいところで会った。折りいって、聞きたいことがあるんだ」 茂は、ヒッピーにいった。 「どんな問題」 「つまらないことさ。でも、ここではな。よかったら、このあと部屋にでもきてくれないか。ヒッピー、なんでここで、待っていたんだよ」 茂は、けげんな表情で聞いた。 「いや、じつは、ぼくも知りたいことがあってさ」 「そうか。それじゃ、おたがいに、いいタイミングだったわけだ」 「そういうことかも、知れないね」 ヒッピーは、笑った。 受付のカウンターには、ホテルの主人がいた。五〇歳くらいの、浅黒い痩せたネパール人だった。ごくごく普通で、しつこくもないし詮索もしない、いってみれば生粋のネパーリだった。 裕明はカウンターにいき、主人にむかっていった。 「今回のことは、反省している。たいへんな迷惑をかけて、申しわけなかった。おかげで助かって、こうして元気になって宿に帰ってこれた。とても感謝している。親父さんのおかげだ。命の恩人だ。茂とふたりで、どうお礼をつたえるべきか、考えたんだ」 親父は、カウンターのなかで帳簿をみていた。まったく無表情で、どちらかといえば無視と感じられるほどで、間違いなく生粋のネパーリだった。ふたりを上目つかいで、ちらっとみると、「よかったな」と応じて、また帳簿に目をやった。 「迷惑をかけたよな。入院中、ずっと生死の淵をさ迷いながら、親父さんのことを考えていた。どうしたら、感謝の気持ちをあらわせるかって。さっきも、茂とレストランで、まずこの件について話しあったんだ」 親父は、帳簿をみるのを一瞬やめて、上目つかいにふたりをみつめた。また台帳に目をうつして、「ほんとうに、ありがたいと思っているのか」と裕明に聞いた。 「当たり前だよ。ほんとうの父親みたいに思っている。親父さんは、おれの父と、そっくりなんだよ」 主人は、仕事の手を休めて裕明をまじまじとみつめた。 「可愛そうな、親父だな。はじめから、おまえみたいな者がうまれてくると分かっていれば、考えなおしていただろう。父親を思うと、涙がでてくる。しかし、はっきりしておこう。宿賃はもらう。あそこの荷物を、そのままにしておいたことに感謝してもらいたい。おまえが汚した場所の、片づけ代を請求してもいいんだ。ローラが、綺麗に始末した。だから、勘弁してやる。ローラには、よく礼をしておくのだな」とぶっきら棒にいった。 沈黙の時間が支配した。 「そうかい。気にしてもらって、ほんとうにすまなかったよ。親子の問題にまで、わざわざ立ちいって考えてくれて。宿賃は払うし、迷惑料も請求されたほうがいい。けじめがあれば、おれもさっぱりとして、ここで療養できる」 その言葉は、親父の考えとは、ずいぶん違っていたらしかった。意外そうに、裕明をみた。彼が、じっとだまって主人を直視つづけるのを知ると、 「まんざら馬鹿でもないのだな。多少は、常識もある。あのまんまなら、死亡していた。うちで死なれるのはこまる。以後あんなことは、やらないでもらいたい」と親父はいった。 「もちろんだ。反省している。茂もだ。二度と、こんな馬鹿なことはしないよ。ほんとうに、ラッキーだった。親父さんが、あんなに素早く救急車をよんでくれなかったら、いまのおれたちは、ここにはいない。できることを、いってもらいたい」 「反省しているのならいい。金輪際あんなことをしないと誓ってくれれば、それでけっこうだ。入院にも、金がかかったのだろう」 親父は、静かにいった。 「もしも、ふたりがここで死んだら、ホテルの営業にも影響がでた。こうして元気で帰ってきた。これは、めでたい出来事だ。そもそも、こんな事件が起きるのは、この宿の住人が薬の素人だと、はっきりしたともいえる。だれがみたって、これはプロの仕業ではない。常習者がいないって、宣伝したのとおなじだ」 そういう見方もあるのだろう。全員がどう思ったかは不明だが、このホテルは親父が考えていた以上に、健全だって示したのだろう。注目度も高まったし、それによって客もまたくる可能性もあった。 「でも、裕明よ。こうした噂で、変な奴がくるのはこまる」 そういって親父はヒッピーを指さし、額に右の手をもっていくと、ゆっくりと首を左右に振った。 「あいつとは、どういう関係だ」 「ポカラで、ちょっと会っただけだ。あいつは、間違いなく常習だ。友だちではない。信じて欲しい。おれは、普通と、すこし違っているところがある。親父さんのいう通りだ。実の父親も、この件では後悔していた。相当にだ。親父さんが、考える以上だと思う。なんといっても肉親だし、いい逃れできない責任があったわけだし。でも、あんな風にはいかれていない」 裕明は、真面目な表情で答えた。 「そうか、それを聞いて安心した。部屋は、そのままにしてある。できれば、いい思い出だけをつくって、でていってくれ。大事にいたらないで、よかった。あの部屋で死人がでたとなれば、しばらく人を泊めることもできないだろう。警察だって、だまってはいられない。泊まっていた住人がすっかりなおって、元気に気持ちよくまた旅にでていければ、ラッキーな部屋ということになる。気にするな、若いときにはいろんな事件が起こる。そうこうして、なにをやっていいのか、だめなのかが分かる、そういうものだ。いろんな旅行者がいる。おまえは、思っていたよりいい奴だ。若いってことは、こうした馬鹿をやるものだ。でも二度するのは、ほんとうの阿呆だ」 親父は、ぶっきら棒にそういって、また帳簿をみた。 「ありがとうございます」 ふたりは、声を揃えていった。親父はだまっていた。ネパーリは、想像以上にナイーヴで、気持ちが分かりあえるとふたりは思った。 二、プロの話 茂は、裕明とヒッピーといっしょに部屋にいこうとした。そのとき二階から、彼の名前をよぶ、すき通った声が聞こえた。それは、待っていた声音だった。 ローラは、走って階段をおりてくると、茂に飛びついた。首に手をまわして、だきついてきた。柔らかい頬を感じ、いい匂いが漂い、触れることができる彼女の身体のどこもかしこも愛おしく、涙がでるほど可愛かった。ローラは、キスをしてくれた。 その様子を、ヒッピーはぼうぜんとみていた。 「寂しかったわ」 ローラは、茂をみつめていった。 「心配をかけたね」 茂は、みつめかえしていった。 「あとで、ゆっくり話がしたい」 「いまでも、いいのよ」 浮き浮きしながら、ローラは答えた。 茂は、だまった。すこしだった、ほんの一瞬。ヒッピーが、先着になっていた。もう約束があるなんていえないし、増してや相手が男だなんて話せなかった。 「疲れているんだ。三時間くらい寝るよ。よかったら、夕食をつきあってもらいたいんだよ。今日は、こうして生きてることを、心から感謝したいと思っているんだよ。できれば、君といっしょに」 「そうよね、たいへんだったものね」 ローラは、しんみりとした調子で答えた。 「三時間たったら、起こしにいってあげるわ」 「いやローラ、ロビーがいい。ここで、六時ごろはどうだろうか」 「いいわ、六時ね」 「それじゃ、楽しみにしているよ。ほんとうに心配をかけたね。ローラ、今日はまた一段と綺麗だよ」 茂は、彼女をもう一度だきしめた。ローラも、つよく抱擁してくれた。それから彼は、ヒッピーに首を振って合図をした。裕明がロビーでローラと話をはじめたので、二階の別棟の部屋にいき、ベッドに腰をおろして話しはじめた。 「聞いてみたいことが、増えちゃったよ」 思案して、ヒッピーはいった。 「おいおい教えてやるさ。いろんな出来事が起こったんだ。基本的には、いいことがあった。それから、悪い事件が起こった。早速だが、教えてもらいたいことがある。ほんとうは違う奴に聞こうと考えたのだけれど、ヒッピーのほうがいい。なんといっても、プロだからね」 「薬のことだね。どんなのをやったの」 身をのりだして、ヒッピーは聞いた。 テーブルのひきだしにあった、先端部がわずかに千切れたオピウムをみせてやった。ヒッピーは、端をすこしだけ摘まんで指にこすりつけ、舌でなめた。そのまま、じっとしていた。二、三分だったろうか、とろんとした目つきになり、それでいった。 「茂さん、凄いよこれ。こんなのはじめてだよ。いったい、どこで手にいれたの」 ヒッピーは、興奮して聞いた。 それで、このオピウムにまつわる、だいたいの経緯を茂は話した。 「これを、五〇ルピーで買ったの」 ヒッピーは、驚いていった。 「そうだよ」 「どのくらい、やったの」 「ほんのちょこっとさ。鼻くそ三つくらいさ」 「それは、いかれちゃうよ」 「これってそんなに、いいものなのかい」 「凄いよ。普通には手に入らないよ。よっぽどのことがなければ。これだったら、最初は鼻くそひとつで充分だよ。いままで、みたこともない。特別だよ」 ヒッピーの目つきは、いつもの「とろん」としたものではなく、いままでで、いちばん真剣な表情に、茂にはみえた。ポカラで仲間の両親に会ったときよりも確実に真面目で、興奮しているのがはっきり分かった。 「売人も特別だって、ずいぶんいっていたよ」 「そうでしょう。やっぱり、こんなものがあるんだ。ここへこれば。どうやったら、こんなもの買えるんだろうな」 「ヒッピー。もしかして、欲しいのかい、これ」 「当たり前だよ。こういうものが欲しくて、ここまできているんだ」 「ヒッピーの話っていうのは、このことだったのかい」 「そうだよ、決まっているじゃない。ふたりが中毒になったって聞いて、そんなに無茶をするとは、思えなかったものね。凄いのに、ぶちあたったのじゃないかって思ったのさ。ぼくらは、こうしてみつけていくんだよ。こういう情報は、大切なんだ。茂さん、売ってよ。いい値で買うからさ。もう、つかわないのでしょう」 ヒッピーは、真剣な表情でいった。 「そうか、そういう代物だったのか。ヒッピーがそんなに欲しいのなら、売ってやってもいい。もう、こりごりだしな」 「やった。じゃ、いくらで売るの」 ヒッピーは、嬉しそうにいった。 茂は、よく分かった。ヒッピーは、ふたりを心配していたわけではなかったのだ。彼の関心は、茂の生き死にではなかった。ただこれが欲しくて、ふたりの退院をじっと待っていたのだ。そう思うと、はっきりいって気分は悪かった。 相談の結果、ヒッピーは、のこりのオピウムを六〇ルピーで買いとることになった。ふたりの取り引きが成立したころ、扉がノックされて裕明が入ってきた。 「折りいって、聞きたい事柄があるのだけど」と茂は話しはじめた。 「ここについた翌日だった。ある男から、小指の第一関節くらいのオピウムをもらって、やってみろ、といわれた」 「茂さんの指くらいかい」 「そうだな。ちょうど、小指の先くらいだ」 「それは、粗悪品だ。そんなもの、ぼくらは買わない。ざらざらとした感じが、するはずだよ」 「これとは、違うものなんだな」 「月とスッポン、という奴だよ」 「それは、どのくらいするものなのかい」 「ぼくらだったら、どんなに安くても買わないな」 「一五〇だった、というのだよ。それを、五〇まで負けさせたって」 「無理な話だね。売人だって相場はあるし、そんな法外のことをいったら、お客はよりつかなくなる。値段をつけるのは勝手だけど、もしそういう話なら、売り手も買い手も、かなり問題だね。取り引きが成立するとしたら、二〇前後だよ。五〇というのは、売り手の最初のいい値だったと思うよ。街角で声をかけられたとき、よっぽど真っ青になっていれば、売人は、これかぎりの客とみなして、五〇くらいはいう可能性はあるよ。それでも、一五〇は無理だね」 「そうか、どうしても理解できなかったんだ。売人に、最初に一五〇といわれたんだ。それも、かなり頑張ってだよ」 「最初に、よく一五〇っていってきたね。茂さん、よっぽど厳しい相手だと思われたんだ。それで、やる量を間違えたわけだね。普通は、ちょこっとでしろって教えてくれるところだけど、茂さんは、プロにみられたんだ。原価割れまで値切られたから、売ったほうも、頭がそこまでまわらなかったんだね」 「途中で、聞かされたのと、おなじものでないのは分かったよ。だんだん、悪い雰囲気になってきたからな。最後は、売人も泣きそうだったし。でも、サイズも、いい値もおなじだった。だから、見当がつかなかった。どうするべきなのか、ぜんぜん分からなかったんだ」 裕明は、ロビーでたむろしていた。カウンターのまえの広間みたいなところだ。裕明がゴジラになって水を吐きだした階段は目の前で、ローラが綺麗にしてくれたと聞いては、もう聖域みたいな場所で、簡単には足も踏みこめない感じだった。こういうロビーでたむろしていると、いろいろな事情が分かった。もちろん、全部ではなかった。だいたいの状況で、たとえばいままで話もしたこともない者が、親しげに声をかけてくれた。なんにも知らない人たちが、まるで汚いものでもみる感じで、ロビーをさけてカウンターや壁際をつたっていくのは、いい気持ちではなかった。あんまりじゃないかって感じるけれど、どうであれ、すこしいづらいムードはあった。 「そろそろこの街とも、潮時かも知れない」と裕明は思った。 ローラがいるのに、でていくのは、茂との旅もここで終わりということだ。たがいに納得しているわけだし、なんの問題でもない。はっきりいって、ながすぎたくらいだ。それで緊張感がなくなって、あんな手のこんだことが起こってしまったわけだ。 いつでも、後悔はあとからやってくる。答えが分かってから問題をつくるのは簡単で、結果がでてから「けち」をつけるのは、はっきりいって汚いし、品性がからんでくる。 裕明は、ロビーでこんなことを考えていた。 そうこうするうちに、ヤギがあらわれた。みじかい髪の毛の一部が立って、小さな角が二本生えているようにみえた。頬がこけ、顔全体がなんとなく三角形で、見栄えしない顎髭が、しまり悪く伸びていた。岸川は、裕明がロビーにいるのをみつけると、知らん顔で壁がわを歩いてでていこうとした。 「冷たい。いままで知らなかった者でも、声をかけてくれるのに」 裕明は、思った。 「よう、元気そうだな」 裕明は、左手を高くあげて、でかい声でいってやった。ロビーやレストランのまえにいた何人かが、岸川をみた。彼も、どきっとしたみたいだった。 「やあ、裕明さん、たいへんだったのだってなあ」と岸川はいった。 「なんだろう。裕明さん。さんって、だれだ。おれのことか。だいぶ刺激したのだな」 裕明は、思った。 岸川はちかくにきた。まるで、いままでまったく気がつかなかったという感じだった。 「すわらないか。ちょっと、話しておいたほうがいいと思うことがあるんだ」 「話かい」 岸川は、けげんそうにいってソファーに腰をかけた。 「じつはな、おれの話ではないんだ。茂なんだよ。こまっているんだ。茂がさ、折りいって、岸川に、じっくり、ようく、聞いてみたいって、ずいぶんいっているんだ。なんだか知ってるかい」 「ぜんぜん、分からないよ」 岸川は、ぶっきら棒に答えた。 「思いつかないんだ。あいつ、具体的なことは、なんにも教えてくれないのだけどな。なんだか、おまえ、だいぶ恨みを買っているみたいだな」 裕明がそういうと、岸川は、その言葉に動揺したらしかった。 「なんの話だい」 岸川は、真剣な表情で聞いた。 「おれにも、教えてくれないんだ。分からない。だいたいも、不明なんだ。茂は、こまかいことを、まったくいわないんだな。それが、そもそも根がふかそうだよな。今回、病院に入った原因は、岸川のせいだと思っているみたいだよ。あいつよ、あれで怒らせると怖いんだよ。いっしょに旅していたからな。そんな場面も、何回かみたことがあるんだ。あいつ、興奮するとかなりあぶないな。なんてえかな。あいつ、そんな風にみえるか」 はっきりいって、岸川はかなりまじだった。彼が、生唾を飲みこむ音が聞こえた。 「おまえ。ほんとうに、思いあたることはないのか」 「知らないよ。おれは、なんにもしていないよ」 「インドでさ、こっちにくるときだった。バスに、のっていたんだよな。そしたら、乗客がうるさくてよ。分かるかい」 「そうだろうな。それで、どうしたのだい」 「そしたら、茂には、相当気にいらなかったらしい。あいつ、とつぜん怒りだしてな。それが、凄いんだよ。普通じゃなかったな。おれだって、相棒だって思われたくなかったくらいだったよ」 「それで、どうしたんだい」 「後ろの席のインド人が、ラジオをもっていたんだ。うるさかったんだ。でも、バスは走っていたんだ。達したのだろうな。怒りがというか、そういうものが。とつぜん、茂が奇声をあげたんだ。それが、普通じゃないんだ。おれは、やめろっていったんだ。バスも走っているのだし、事故でも起こしたらどうするのだとね。そうなったら、あいつは怖いな。後ろまでいって、ラジオをとりあげて、足で踏みつぶしたんだ。もの凄い奇声をあげながら。運転手も車をストップさせて、乗客は全員、真剣に茂をみているわけだ。あいつ、ラジオをもっていたインド人の首、しめたんだ。殺してやる、とかなんとかいって」 裕明は、岸川をみた。ヤギは、じっと彼を直視していた。もの凄く真剣な表情だった。 「この話、先があるのだけど、どうする」 裕明は、聞いた。 「裕明さん、つづけてくれ」 岸川は、真面目な表情でいった。 「運転手と、ふたりがかりだよ。なんとか、やめさせなけりゃと思ってさ。首をしめられたインド人は、若い男だったのだけれど、黒い顔が真っ白になって。焦った。まじにさ。ほんとうに、やっちぃまうのじゃないかと思ってさ。しめられたインド人も、驚いたんだな。もう、抵抗ができなかったんだ。ちびったのだな。ルンギが、染みだらけになって」 裕明は、そういって岸川をみた。ヤギは、真剣に聞いていた。 「それで」 「仕方がなかった。危険だった。茂は、あぶないぜ。驚いたぜ。そのときは仕方がないから、もっていたリュックで、あいつの頭を、力いっぱいひっぱたいたんだ。それで、ようやっと手をはなしたんだ。これはもう、警察だと思ったよ」 「いかないで、すんだのか」 「運転手が、仲裁に入ってな。あいつは、ラジオの弁償金と和解金を払わされた。首をしめられたインド人のほうが、金はいらないというんだ。怖かったのだろうな。日本人のおれがみたって、普通じゃない。ぎゃーぎゃー、叫びながら首をしめたんだ。それは、びびっていた。あいつ、日本でなにか起こしたのだと思う。いられなくなったのだな。それで、こんなところへきているのじゃないのか。普通じゃないぜ。運転手にも、仲裁料を払おうってことになった。おれが、すすめたんだ、あとでってばあいも、あるしな。茂も、反省はするんだ。いつでも、そうなんだ。興奮すると、自分でも分からなくなるらしいんだ。おまえのそばに、そういう奴、いないか」 裕明は、聞いた。岸川は、生唾を飲みこんだ。 「よく、テレビにでてくる。事件を起こして」 「ああ、それだよ。おまえ、よく分かっているじゃないか」 「つづけてくれ」 岸川は、そういったが、顔面が白くなっていた。 「運転手も、お金はいらないっていうんだ」 「ええっ。インド人がか」 岸川は裕明の目をみつめ、信じられないという表情で聞いた。 「そうだ、インド人がだ」 裕明は、岸川の目をみつめて、大きくうなずいてつづけた。 完全に、びびっていた。 「それで、インドにいられなくなったんだ。おれも、今回みたいな事件があるたび、いっしょにいるのは、やめようって思うんだ。ろくなことがないんだ。これで、もう、三度目だぜ」と裕明はいった。 「ほかにも、あるのか」 岸川は、身をのりだした。 「聞いてくれるか」 裕明は、いった。岸川は、だまってうなずいた。 「ポカラで、変なキノコを食べさせられた。顔が腫れちぃまってよ、息ができなくなってくるんだ」 「聞いたことがある。笑い茸の一種だって」 「そういうものらしい。茂が、やろうやろうって、いってよ。それで食べたんだ」 「そこでも、入院したのか」 「そうだ。そうしたらラマ僧に会って、日本人のな。おまえ、聞いたことないか。日本人が入院すると、ナースが電話するらしい。また、おかしなのがきたって。そうすると家族の手配とか連絡とか、ラマ僧がしてくれるらしいんだ。その僧っていうのは、昔ここでオピウムをやって、今回のおれたちみたいに、急性の中毒から肝炎も併発して、死にそうになったらしい。奇跡的に助かって、出家したのだな。岸川、この話、聞いてないか」 ヤギは、ただ、だまって首を振った。 「もう、いいか」 「いや最後まで、裕明さん、聞かしてくれ」 岸川は、裕明の顔をみて真剣にいった。 「それで、なんとか助かったのだけれど、ラマ僧にさんざん怒られて、おれは反省した。茂といるのは、かなり問題だと、そう思った。分かるだろう」 「そうか、茂が問題だったのか」 岸川は、何度もうなずきながら、ひくく呟いた。 「問題なんて、代物じゃない。危険そのものだ。反省なんか、ぜんぜんないんだ。今回もな。おれは、やりたくなかったんだ。岸川が、オピウムをわたしたのだって。すべては、それからはじまったことだって、茂はいうのだな。岸川、ほんとうにそうなのかい。オピウムをわたしたのは、おまえなのかい」 岸川は、生唾を飲みこんだ。 「わたした。でも、中毒になる量じゃない、裕明さんなら、分かってくれるよね。おれは、そんなにあぶなくみえないだろう」 岸川は、裕明をみつめながらいった。 「みかけじゃ、分かんないよ。茂だって、普通にみえるだろう」 「いや、はじめから、あいつは、おかしかった。裕明さんとは違う。これは、みれば分かる。はじめて会ったときから、変な、その、人というか、理解できない、あぶなそうな奴にみえた」 「みる人がみれば、分かるのだろうな。おれには不明だった。またさ、今度はおまえの首でもしめだしたらと考えると、ちょっと話しておいたほうがいいだろうと思ってさ。もう、おれは事件に巻きこまれたくないんだ。カトマンズにくるときに、別れたかったんだ。いっしょにいて、むかう方向がおなじでさ。べつべつにというわけにも、いかないだろう」 「そうだよな」 岸川はそういって、うんうんとうなずいた。 「茂のことだ。もう、いいだしたら聞かないから。おれがなんとか仲裁に入るから、用心にこしたことはないよ。なにか聞くと思うから、正直に答えたほうがいいよ。もう一回いっとくけど、危険だ。怒らせないほうがいい。あれは凶器だ。なにをするか分からない。これだけは、知らせておいたほうがいいと思ったんだ」 裕明は、いった。 「ありがとう。よく考えて話す。整理しておく。裕明さん、つきあってくれるよね」 岸川は、そういった。 ヤギの件は、つぎの日、すぐに終わった。部屋に入ってきた時点で、もうすっかりびびっていた。 「岸川さ。すべてが、おまえが話した通りだったんだ。四つ角で売人に会って、一五〇といわれて、五〇で買ったんだ。岸川みたいに交渉できなかったから、買えたのは半分だったけどな。それでよ。裕明とさ、鼻くそみたいなもの三つ食べたら救急車がきた。なぜ、なんだろうな。岸川、どうしてだ」 茂は、聞いた。岸川は、だまっていた。 「いいよ。いいたくないことも、あるだろうしな。ただ岸川さ、おれのオピウム、のこっていても仕方がないんだ」 「買うよ、それ。茂の言い値で。それでいいのか」 岸川は、即座にいった。 「そんなこと、話していないよ。売ろうなんて、思いもしない。すてるつもりだ。そのまえに、岸川にもらった分があったよな。かえしたいんだ。だからさ、いま、この場所でいいんだ。小指分をかえすから、ここで食ってくれよ」 茂は、そういった。ながい沈黙が支配した。 「借りたままじゃ、気がひけるんだ。口、あけるか」 「嘘なんだ」 とつぜん岸川は叫んだ。もう、我慢できなかったみたいだった。床に額を、こすりつけていた。 「全部、嘘なんだ。一五〇なんていわなかった。地下だったんだ。真っ暗だったんだ。五〇っていわれて、五〇、払ったんだ。びびったんだ」 「まだ、分からないこともあるんだ」 「ほかにも、かい」 岸川は、なんだかさっぱり分からない様子で、頭だけ起こした。顔には、汗がぐっしょりと染みでていた。 「そんな真っ暗でよ、五〇ルピーを、どうやって払えたんだ。なんにも、みえないのじゃないか」と茂は聞いた。 岸川は、言葉をうしなった。 「真っ暗だった気がした。財布をとりだして、五〇ルピーを数えた。すこしは、あかるかったのかな」 「分かったよ、もういいよ。帰ってくれ」 「なにもしなくっていいのか。入院代、払えっていうならだす」 「いいから帰れ」 その言葉を聞くと、岸川はあっという間に立ちあがり、走ってでていった。 扉がしまると、裕明とふたりで、腹をかかえて笑った。 三、曼荼羅がある部屋 茂が、六時まえにロビーにおりていくと、ローラは主人と話をしていた。その様子はとても親しげで、感情をみせることのない生粋のネパーリが、身をのりだして彼女と話し、笑い声さえ聞こえた。 「お目あてが、きたよ」 マスターは、ローラの背後に立った茂をみつけていった。 「じゃーね」 ローラは、マスターに挨拶した。茂と肩をならべてホテルの玄関をぬけると、彼女はたずねた。 「なにを食べようかしら」 「胸がいっぱいだ。おすすめでも、あるのかい」 「私は、この街にくわしいのよ。だいたい、なんでも知っているの。この街で育ったから。ストーン・ロッジのマスターとは、子供のころからの知りあいなの。あなたのお気に入りは、なにかしら」 ローラは立ちどまり、茂の瞳をみつめた。彼もとまって、だまってみかえすと、彼女は石畳の歩道を、三、四歩すすんで振りかえった。つま先で立つと、両手をあげて頭のうえで大きな輪をつくり、くるくるっとまわった。はいていたスカートがひらひらと宙に舞った。右足をひいて膝をまげ、両手をひらいて会釈をした。 「ご主人さま。なんなりと、お思しつけください」 茂がぼうぜんとみていると、ローラはにこっと微笑んだ。 「どうしたいか、いって」 「そうだね、静かなところでゆっくりと」 「かしこまりました。ご主人さまの御意のままに」 ローラはそうつげ、また膝をまげ両手をひらいて会釈をした。 何分か街を歩いて、王宮ちかくのホテルの洒落たステーキハウスにいった。六階の高さのレストランからは、ライトアップされた宮殿がみえた。静かな美しい夕べだった。 「ご主人さま。ワインは、いかがいたしましょう」 ローラは、聞いた。 「そうだね。ぼくは、ほとんど飲めないけれど、今日は特別な日だから、君さえよければ、ロゼをすこしだけ」 「分かったわ」 ローラは、ウエイターに銘柄をつげた。 美しかった。目は大きくて切れ長で、つよい意志を感じさせた。唇は、うすくて歯並びがよく、頬はふっくらしていた。最初に会ったときより、いくらかこけて茂にはみえた。 「乾杯をしましょう」 ローラは、いった。 「なににしたら、いいのだろうか」 「あなたの健康は、どうかしら」 「そうだね、ずいぶん心配をかけたからね。ぼくの希望を、話してもいいだろうか」 「今日の主役は、茂よ。乾杯の権利を、もっているわ」 「病院で、ずっと考えていたことがある。元気になったら、君にいおうと」 「なにかしら」 ローラはそういい、手にしたグラスを一度テーブルにもどした。机のうえに腕をおき、茂を正視した。 それをみて、彼もグラスをテーブルにもどし、両腕をくんでローラをじっとみつめた。その瞬間、彼女のきりりとした唇、すべすべとした頬、すんだ瞳、どの部分にも笑みはなかった。 ふたりは、じっとみつめあった。 「ひとりで歩いてきた、ぼくの人生。もしもできるのなら、これからは君とふたりで歩んでいきたい。それは、きっと素晴らしいこと。君を、世界でいちばん幸せな人にしたい。そう努力したい。それが、ぼくの望みのすべてだ。考えてもらいたい、時間がかかっても」 その言葉に、ローラはじっと茂をみつめた。 「とき」が、ゆっくりとながれていた。どのくらいだったのだろうか、ふたりには分からないことだった。それは、あきらかに神聖で厳粛で偽りがなく、正しいものに支配されていた。 ふたつのグラスのあいだには、蝋燭の小さな炎が妖しく輝き戦いでいたが、その刹那、すべてがとまり、あかりは揺らめきをやめた。ひとコマは、切られた断面となり、つぎのコマにいく道をうしなった。 刹那とは、人が識別できるもっともみじかい時間をさす。それでいて、瞬時にうまれ滅していく無限の瞬間には、場面であると感じさせる、「とき」をもったひとコマがある。刹那のなかに落ちこんでしまったひとつの意識で、通常、歓喜や恐怖というふかい印象とともに切りとられている。 「考えてみるわ。真剣に」 ローラは、答えた。 茂は、左手を伸ばし彼女の右腕に触れた。ローラの左の手が伸びてきて、彼の腕に触った。 「乾杯」 茂は、いった。 「乾杯」 ローラは、いった。 ふたつの薄紅色に染まった液体に満たされたグラスが、触れあい、微かな音を立てた。遠い天上で鳴らされた鐘の音のように、よどみがなく、穢れがまじることも忘れられ、落ちついた心に染みわたるひびきだった。その音は、ふたりの魂と共鳴し、あたらしい和音をつくった。世界がうまれてから、はじめてのハーモニーだった。身も心もとろけるひびきで、きっと、もう一生、聞くことがないと思われる音色だった。 うっとりとする、素晴らしい秀逸な「とき」がながれていった。なにを話したのか、茂は、もうなにも覚えてはいなかった。話しあったものはすべてほんとうに違いなかった。偽りは必要がなかったし、飾りも意味をうしなっていた。 食事が終わって、爽やかなカトマンズの夜道をふたりで歩いた。 空も大地も、夜も大気も、彼らのためにあった。こうもいえるだろう。ふたりがいなければ、空も大地も、夜も大気も、存在してはいなかったと。もちろん、宮殿のまえで不意におとずれたふたつのものがひとつに、とろけてしまう熱い口づけもなかった。 ストーン・ロッジに帰ってくると、ふたりは階段をあがり、踊り場を左にまがった。廊下には、弱い光をはなつ薄暗い常夜灯が、ぽつりぽつりとついていた。両がわに鉄製の重い扉がずっとならぶ色の石の壁には、ぼんやりとオレンジの影が照らしだされた。夜も更け、世界は眠りにつきはじめている。静かでどこか冷たい。 いちばん奥の扉のまえにくると、ローラは微笑んでいった。 「部屋に入って。茂のために、用意しておいたものがあるの」 「怖いね。不思議な気持ちなんだ。君に出会うまでは、怖いものなんて、この世の中に何ひとつなかったのに」 扉が、ひらかれた。 眩しい。きらめきが覆っている。輝きが無制限にはなたれている。その部屋は、暖かく蜜の匂いがする。 スイートルーム。 お湯がでるのはとうぜんのことだが、風呂が備えられ、洒落たソファーとテーブルがおかれた応接室があった。つぎの間には、寝台がふたつ配置されていた。ひとつはシングル、もうひとつは、白い色のひろくて大きなダブルベッド。 寝室の壁には、黒い額縁に入った曼荼羅図が飾ってあった。茂の家にあるものとおなじ絵柄で、西洋人が東洋に感じる不可思議な思いを象徴するのではなく、彼女のいるこの部屋にとてもマッチしていると思われた。オーストリア人のローラ。ヒマラヤの麓、カトマンズ。日本人の茂。まったくべつべつの存在が、ここにかけられた曼荼羅によってひとつにむすびついているように思えた。なぜあの日、ローラはわざわざ屋上のながしに洗顔にきたのだろうか。分からなかった。聞いてみようかと一瞬思ったが、やめておいた。きっと、そうしたすべてが運から構成され、一部分が分かったとしても、それだけで、この素晴らしい、いまがあるわけではない。次回に、役立つはずもない。だいいち、つぎは、不必要だった。 寝室の窓から、街灯に照らされた石づくりの舗道がみえる。甘い蜜の部屋からみる夜の闇に支配された街並みは、静かで冷たく、そして切なく哀愁に満ちていた。通る人も、ほとんどいない。窓辺でたたずむ茂に、背後からローラがそっとよりそってくる。彼女の柔らかい肌を、熱い身体を感じる。芳醇な甘い吐息につつまれ、耳元に囁きが聞こえる。 「白ワインが冷えているの。今夜のために、母におくってもらったの。ボルドー産の一九四五年ものが」 「両親も、許してくれる。私たちと、おなじ。力をあわせて、たいへんな時代をのりこえたのだから」 夜も、更けてきている。蜜の香りが漂う部屋には、ローラと茂の、たったふたり切り。 彼には、あらがう力はもうなかった。 舌が、唇が、項が、すべてのローラが茂をさそう。指を伸ばせば触るもの、あらゆる部分が愛おしい。震える肩をだき、やがて、はち切れんばかりの半球の、柔らかな胸に顔をうずめる。白い肌。どこまでも果てしもなくつらなる、蜜をたたえて輝く、すき通る藍色の湖面。投げられた小石の地点から、ときをかけ、ゆっくりと波紋がひろがる。また、べつのところから、あらたな、柔らかい波の文様がつくられる。小石の投げられる、場所に応じて。ときに答えて。つよさにしたがって。いくつもの、さまざまなうねりが起こっては、波動がうまれ、高まりと弱まりを無限にくりかえし、反復しながらかさなり、岸辺にうちよせてはひいていく。そして、ひいてはまたよせる。波跡がのこり、波音が木霊して、川藻の匂いに満たされる。狂おしくくびれた、ほそい胴。やがて、つながるまるい部分。しっとりと湿って、はじけてしまいそうだ。古代より、はるかにつづく光る砂丘か。なめらかにひろがり、そっと吹く風が肌理のこまかい縞の文様をつくりだす。オアシスは、ちかい。天を目指し、起きあがったその先。しびれる感覚が、全身を支配する。部屋のすみにある銀製の蒸し器からゆらゆらと、阿片の煙がたちのぼり、中心へとむかって棚引いていく。身体は、感覚だけになり、理性から遠く離れ、喘ぎが聞こえてくる。白いシーツが、めくれて撚れて襞に変わって、かさなっていく。あくまでまるく、緩やかに折れまがりつらなり、柔らかい折り目になってすこしずつ力がぬけ、つみかさなっている。はなさない、なにがあっても。幾重にもかさなる、襞。ひだ。襞。この舌も、はずむ感触も、押された魂の刻印。光があふれる、もうなにもみえない。脳髄は麻薬で満たされ、スパークし、閃光が噴出する。「ローラ」が、世界のすみずみにまでいきわたり、そして、目くるめく輝きのなかから、あらわれのは、ブロンド。白い肌、充分に湿ってすべる、潤った豊かなもの。その、すべてがひとつになった人。 ただただ、幸せな「恍惚のとき」がながれていく。 翌日は、約束通り国立博物館にいった。ビムセンタワー、ダルバール広場、スワヤンブナート寺院、ボダナート寺院。毎日が、夢のなかですぎていく。 一〇〇〇年が一日とおなじながさで、くりかえされるぐあいに。 ローラはカトマンズでうまれ、一〇歳をすぎるころまでこの街に住んでいた。土地勘があり、洒落た店を数多く知っていた。レストランやバーもよく覚えていたし、知りあいもいっぱいいるみたいだった。 この世でえられる、あらゆるものに満たされていた。 いつでも「全力」で輝くのが、生きているということで、「余力」をのこす必要も必然もないと思われた。 裕明は、肝炎にならないとほんとうに分かったみたいで、つぎの旅を考えていた。 茂とは、この辺でお別れだが、仕方がない。またどこかで会ったら、カトマンズの話をいっしょにできるだろう。茂がいるかぎり、オピウムやキノコを忘れられないだろうし、この地は思い出ぶかい土地になった。ホテルの親父さんは、いい人だったし、ネパーリのよさもよく分かった。 「もう一度、インドへもどるか」と裕明は思った。 ネパールは、日本にいるのとおなじだ。もう一度、厳しくきたえなおしてみたい。馬鹿なことは、これでやめにしよう。 そんな、ころだった。退院して、一〇日がすぎていた。裕明も茂も、独自の路線をいっていた。天候は晴れがつづいて、空はいつでも青く清々しかった。しかし、時間は確実にながれていた。茂には、そんなことさえ、だいたいも分からなかった。これは、悪いパターンだった。 朝の一〇時ころだった。レストランで朝食が終わり、今日の予定をローラの部屋の応接室で、ソファーにすわって考えていた。そのときとつぜん足音がして、扉がノックされた。茂が、裕明だとばかり思って戸をあけると、そこには六〇歳くらいの背広をきた紳士と、品のいい素敵な女性が立っていた。それが、彼女の両親だった。 「ローラ」 茂が、寝室の窓からカトマンズのあかるい街並みをながめていた彼女に大きな声をかけると、けげんな表情で応接室にやってきて、扉のまえのふたりをみた。 「パパ、ママ」 ローラは、大きく叫ぶと父親に飛びつき、母親と抱擁した。彼女の瞳からあふれでた涙が、頬をつたってぼろぼろとこぼれ落ちた。 「仕方がなかったのよ。パパ、ママ、ごめんなさい。愛のない生活なんて、私にはできない。無理なのよ」 ローラは、切れ切れにいうと、またぼろぼろと涙が頬をつたった。 「紹介させて、パパ、ママ。こちらが、茂よ。私は、彼と結婚するわ」 「ローラ」と母親はいった。 「かわいそうなことをさせたわ。あなたの決断を、私たちがとやかくいうつもりはないのよ。大丈夫よ、安心しなさい」 母親は、涕泣し、もう一度彼女をつよくだきしめながら答えた。 その言葉に、ローラはまたぼろぼろと涙をながしながら、「お母さん、心配をかけて、ごめんなさいね」と途切れとぎれにいった。 「茂さんね。娘が、お世話になったわね。私は、ジルヴィア。ローラの母です。こちらが夫のフリードリヒです」 ハンカチで目頭を押さえながら、ジルヴィアはいった。彼女は、ローラとおなじに髪をみじかくカットし、気品があり美しかった。年齢は、五〇歳代にみえた。となりには、父親のフリードリヒがいた。彼は、背広をきて山高帽子をかぶっていた。かなり太った貫禄も充分な紳士で、ボーラーハットをとると、てっぺんが禿げていた。 三人で話しあいたいことがあったらしく、お声がかかるまで、裕明の一室にいった。もともとは茂の部屋で、いまでもそうだが、彼はすっかり旅支度をしていた。 「これから、インドにもどる」 裕明は、いった。 「チケットは、買ったのか」 バスはこりごりしていたから、とうぜん、飛ぶつもりだろう。 「チケットはまだだ。これから空港にいく」 「そうか」 茂は裕明をじっとみて、押し殺したひくい声でいった。 「なにが、あったんだ」 「ローラの両親がきた。彼女は、オーストリアで結婚することになっていたが、相手が嫌いで、ここまで逃げてきたらしい」 茂は、考えながらいった。 「よくあるパターンだ。茂、逃げるといっても、はんぱでないところまできているな」 「ローラは、カトマンズにくわしすぎる。いっしょにいると、子供のころの話がでてくる。カトマンズでうまれたみたいだし、一〇歳をすぎるまで住んでいたみたいだ。ローラの部屋で、曼荼羅をみただろう。彼女は、仏教につよい興味をもっている。両親は、ふたりとも仏教徒らしい。カトマンズにやってきて二〇年間くらい生活し、そのあいだに改宗したのだと思う。だから、今回の逃避行についての情報は逐次、両親にながされていたみたいだ。おれとこうした事態になって、ご両親が登場したらしい。だいたいも分からない、これは悪いパターンだったよな」と茂は聞いた。 「例外はある。それにだ。茂は、今回、運を味方にしている。まず、ローラと出会って恋に落ちた。そのうえ、同情できる事件があった。共感は、愛の促進剤だ。茂、こうなったんだ。国際結婚しろ。オーストリアへいけ。親父の事業をつげ。そうしたら、たまには遊びにいってやる。ウィーンは、素晴らしい街だ、住めばどこも都だ。歴史も、面白いところも数々ある。あの街の名所は、」 裕明は、話しはじめた。 茂は、彼の話をさえぎった。 「そんな話題は、いま聞きたくない。ローラは、一人娘らしい。両親はオーストリアの名門で、たいへんな金持ちらしい。ハプスブルグ家とも姻戚関係があるって、ローラはなにかの折、話していた気がする。苗字だって凄い名前だ。バルデンシュタインとか、舌をかみそうだ」 「両親は、反対なのか」 「分からないが、お母さんは好意的に思えた。お父さんのほうは、だいぶ距離をおいてみられている気がした」 「結婚しろ。愛しているのだろう」 「もちろんだ。結婚したい」 「問題は、なにもないじゃないか」 「ご両親がどういおうと、ローラとは結婚したいと思ってきた。いやな予感がする」 「ご両親が、金持ちで元気。ローラが一人娘で、その愛娘がおまえにぞっこんなんだ。ハプスブルグか。神聖ローマ帝国だ。バルデンシュタインは、帝国の宰相の家系だ。皇帝とも、姻戚関係をもっていたに違いない。ローラは、帝国の王女だ。凄いじゃないか。なにが、問題があるんだ。茂、これ以上は贅沢で、神さまにだって、ここまでは望めないはずだぞ」 裕明は、いった。 「年貢の納めどきなんだ。親父さんは、動転しているのだろう。とうぜんだ。とつぜん違う民族があらわれて、娘をさらっていくわけだからな。すぐにはいい言葉ばかり、でてはこないさ」 「家柄がよすぎる」 「けっこうじゃないか。いいにこしたことは、ないだろう。やあ、ほんとうによかったなあ」 裕明は、茂をみて笑いながらいった。 「ひとりでは、暮らせまい。父親が了承したとしても、親族がいる。金持ちばかりだ。一族が立派すぎる。おれがもとめているのはローラで、周辺ではない」 茂は、考えながらいった。 「愛しているなら、仕方がない。そのくらいは、大目にみてやらなけりゃ、かわいそうじゃないか。家柄がいいのは、ローラのせいじゃない。ちょっとは目をつむって誠実にしていりゃ、そのうちみんなが一族としてみとめてくれるさ。そんなものだ。国際結婚というのは、文化が違うもの同士が、愛の力一筋で、世間常識一般を強引に捻じまげようとする企てだからな。その程度の摩擦は、とうぜん覚悟するべきだし、若干の軋轢があったほうが、どちらかというと茂の得意な領域じゃないのか。困難をのりこえてこそ、人に感動をあたえることができる。だから、愛は永遠に小説の主題になるし、映画がつくられるのだ」 裕明は、自信をもっていった。 茂は背広をきて、カトマンズ一の高級ホテルにいた。レストランには、正装していないと入れてもらえなかった。別室につれていかれ、身体にあったのをきせられ、フランス料理のコースを食べた。テーブルをかこんでいたのは、ローラとご両親、それに茂の四人だった。 「君は、法律家になるそうだな」 フリードリヒがいった。 「なれれば、ですが」 茂は、答えた。 「ドイツ語は、分かりますか」 ジルヴィアが聞いた。 「はい、二年間、習いました。でも、知っているのは、アイン、ツヴァイ、ドライだけです」 「何年生なのかね」とフリードリヒが聞いた。 「大学院は、卒業しました。日本の制度では、国家試験を通らなければ、司法職にはなれないのです。試験はたいへんむずかしくて、いまは浪人中です」 「国家試験は、幾度、うけられるのだね」 「何度でも、可能です。しかし、うけた回数によって、合格が決められるわけではありません」 フリードリヒは、茂の経歴や父親の仕事とか家系の話を聞いた。そのうち、方向がみえてきた。 「オーストリアでロースクールにいき、資格をとり、国際弁護士になったらどうか」 これがお母様、ジルヴィアの提案で、ローラと結婚してもいいとのことだ。 「チャンスかも知れない。とても素晴らしい話ではないか。ご両親もお許しで、家族の一員にしてもいいといっているのだ」 茂は、このときはじめて思った。 「法律を勉強していてよかった。いままでいいことなんて、なにもなかった。ついてきたのだろうか。あれは、やはり運だったのだ。ローラとの、出会いの場面が浮かんだ。絵になるワンカットで、そう滅多にでてくるものではなかった。年貢の納めどきなのだ。そういつまでもひとりではいられないし、ローラとふたりで暮らせるなら、南極でもかまわない。一族がどうであれ、多少の我慢は可能だろう。たぶん、きっとできる。頑張ってみよう。自信はないが、やらねばならないこともある。いつも、そうだった。そうして、やってきたのだ」 そう思いながらフリードリヒをみると、眉間に皺がよって、いかにも不満がありそうにみえた。 「お父さま、いいでしょう。そうだといってよ」 ローラは、真剣に話しかけた。しかし、父親は、だまってコースを食べ、ワインを飲んでいた。 翌朝、一〇時ころにホテルに電話があり、フリードリヒの部屋まで会いにこいとつげられた。茂は、悪い予感がしていた。食事のときの、不機嫌そうなフリードリヒの表情が目に浮かんだ。 「とつぜん自分の考えと違った民族が、最愛の一人娘をうばっていくのだ。耐えねばならないことだ。なにをいわれても、絶対に我慢しよう。結婚できればいい。どこがどう間違っても、フリードリヒといっしょになるわけではない。相手は、最高の伴侶、ローラなのだ」と茂は固く心に誓った。 部屋には、フリードリヒと、ジルヴィアがいた。 「君には、未来がある。法律家になれば、人の役に立つことができる。おなじ民族と、よく分かりあって結婚したほうがいい」 フリードリヒは、静かにいった。 どう考えてみても、否定の言葉だった。茂は、目をつむった。 「考えてみれば、うまくいきすぎていた。夢みたいな場面が連続して起こり、心地よくつづいてきた。いつかは、覚めていくはずだ。これは現実で、そのうえ、たぶん最悪だ」 なんだか分からないまま、フリードリヒを上目つかいにみると、真剣な表情で茂をみつめていた。 「なにが、問題なのでしょうか」 彼は、たずねた。 「難点は、数多くある。第一に、娘は、家柄のよい裕福な者と結婚させたい。聞いただろうが、そうした手はずはととのっていた。娘を気ままに育てすぎた。一人娘だったからね、あの子の笑顔のためには、あらゆることを我慢したのだ」とフリードリヒはいった。 沈黙が支配した。空気は凍っていて、身も心も完全に南極にいた。最悪なことには、茂はひとりだった。そばには、だれもいなかった。 「私は、ものをもっていないから、資格がないということなのでしょうか」 茂は、沈黙のあとで聞いた。 「そうだ。どこの馬の骨とも知れない者と、私の最愛の娘を結婚させるわけにはいかない。この老人から、ローラをうばわないでもらいたい。私の、たったひとつの望みなのだ。孫の顔がみたい。娘の子供といっしょに暮らしたい。それが、たったひとつの希望なのだ」 茂は、フリードリヒをみつめた。右にはジルヴィアが椅子に腰かけ、彼女はうなだれた姿で、両の手で肘掛けを力いっぱいつかんでいた。 「いまの私は、名誉も地位もお金も、およそあなたにあるものは、なにも所有していません。その代わりに、純真さや情熱をもっています」 考えながら、茂はいった。 「私は、名門の出身ではありません。敗戦の混乱のなかで、私たち兄弟三人に、大学へいくことを許可し、援助をしてくれた両親を誇りに思っても、家柄がない事実で、卑下する気持ちは、ひとつもありません。私は、父を尊敬しています」 茂は、とつとつとつづけた。 「それは、茂君の問題だ。君の考えを、変えるつもりはない。現実にバルデンシュタインの家は名門であり、私は父からうけつぎ、つぎの世代にうけわたしていかねばならない。分かってもらいたい。これが、私の使命なのだ。たったひとつの、義務なのだ。この家柄をささえるという責務を、妻は理解していないのだ」 また、沈黙が支配する時間が静かにながれていった。 「ローラとは、結婚したいと思います。なぜなら、あなたのいう家柄とか、歴史的な使命とか」 茂は、生唾を飲みこんだ。かすれて声がでなかった。そして、つづけた。 「そうしたものよりも、カトマンズで出会った現実のほうが、私には、ずっと意義のあることに思えるからです」 「金なら、欲しい額をいいなさい。いま、ここでサインしよう」 フリードリヒは、つげた。 「えっ」 茂は、言葉をうしなった。 フリードリヒの発言に、話しあっているカトマンズから、とつぜんタクラマカンの沙漠のなかに、ほっぽりだされたと感じた。よくみると、自分は南極にいた。フリードリヒは北極だった。このふたつの場所は、天と地以上に離れていた。なぜなら、天空と地上には地平線があり、たとえどんなに遊離していても、両者はどこかで接する地点が存在する。北極と南極では、たがいに出会うこともできない。完全に裏がわで、触れあう地点がどこにもなかった。 「そうしたお考えが、思わずでた言葉ではなく、本心からとするならば、あなたを軽蔑します。若い私が、純粋さと情熱以外のなにも所有していない事実こそが、自然で価値のあることだと思います。もし、それらをもっていると考えるなら、それは自分のものだと勘違いしただけです。私は、健康でローラを幸せにすることができます。彼女も、それを望んでいます」 茂は、そういうと、大きく息をすいこんだ。 「ローラが、私をすてることも望んでいると思うのかね。一人娘で気ままに育った。わがままで、お金のない生活を知らない。愛は美しいが、それだけでは暮らせない。ちょうど、ヒマラヤは神聖な場所だが、神に触れたいなどと思ってそこにのぼれば、死しか存在していない現実をみるのとおなじだ」 フリードリヒは、いった。 「人種を、差別するつもりはない。私は、純粋なゲルマン民族だが、妻はユダヤの血をうけついでいる。さまざまな問題がうまれ、ここで暮らした時代があった。ネパールは、いいところだと思った。ローラは、この地でうまれ、私たち夫婦は仏教に改宗した。ここの生活を、妻は気にいっていると信じた。しかし、アルプスのほうが、ヒマラヤより美しい。これは、感性の問題で、やむをえないことだ。東洋人を差別するつもりはない。しかし、日本人は嫌いなのだ。これは、仕方がないことのひとつだ。娘は、家柄がよく裕福な者と結婚させたい。すべてが揃った人がいないとしたら、金持ちでなくともいいし、家系がどうでもかまわない。それであっても、日本人とだけは結婚させたくないのだ」 フリードリヒは、つよい語調でいった。 ジルヴィアは、ずっとだまって、唇をかみしめていた。にぎりしめる肘掛けが震えているのがみえた。 「ローラとは、もう会わないでもらいたい」 フリードリヒは、いった。 「このままでは、別れられません」 茂は首を振りながら、ひくい声で答えた。 「会えば、別れの話しあいができるのか」 「無理だと思いますが、相談は可能です」 「別れる論議ができるのか」 「ローラの意思を、確認することが最初です。気持ちが変わり、どうしても別れたいというのなら、考えなければならないでしょう」 「その相談は、無意味だ」 「ローラをしばりつけておくことは、できないでしょう。彼女には、人格があります。基本的な、人間としての尊厳だと思います」 茂は、力強くいって両手をひろげた。 「ローラは、まだ子供でなにが必要なのか分かっていないだけだ。そうした心の隙間に、君があらわれただけだ。これは、時間が解決する問題だ」 フリードリヒはいい、それからジルヴィアにむかって、 「そうだね」といった。 母親は、だまって唇をかみしめていた。 ストーン・ロッジに帰ってローラの部屋をたずねてみると、もう彼女はいなかった。曼荼羅がベッドルームに寂しげに飾ってあった。ホテルのマスターに、ローラがいつ去ったのか聞くと、 「昨日は、帰ってこなかった。今朝、使用人がきて、荷物をはこんでいった。そのとき部屋代の清算もしたから、もう、もどってこないのではないか。おまえは、いっしょではなかったのか」と茂に聞いた。 「みんなで食事をしたが、どういうことなのだろう」 茂は、頭をかかえこんで、なにがなんだか分からないという表情で答えた。 「フリードリヒが、許さないといったのだな」 「なぜ、彼を知っているのか」 「フリードリヒとは、ふるいつきあいだ。おまえの、せいじゃない。これは、仕方のないことだ」 「なにが、どうして」 「民族が違う、ということだ。おまえが悪いのではない。さけられないことなのだ」とマスターは答えた。 夕方、ホテルの屋上から、ぼんやりとあてもなく、秋の気配が漂うカトマンズの街をながめていた。空気は爽やかだったが、冷えびえとし、穏やかに吹く風も、確実に北の匂いをはこんでいた。空も大気も、いっそうすみ切り、どこまでも青く、果てなくつらなる山々の木々のひとつひとつまでもがみえるように思った。その先には、もう人が踏みこむこともできない、凍てつく万年雪のヒマラヤが屹立としてそびえ立っていた。そうした冷たい風にあたりながら、ぼうっとたたずんでいると、背後にマスターがやってきた。 「ローラのお袋さんが、話をしたいといっている。おまえのところは、せますぎる。彼女がいた部屋があいているから、そこで待ってもらっている」 茂がついていくと、マスターは本館の奥までいき扉をたたいた。 「どうぞ」という綺麗なローラに似た高い声がして、ドアをあけるとジルヴィアが応接室のソファーに腰をおろしていた。 彼女は、シックな茶系のスーツをきて、髪はみじかくブロンドで、目鼻立ちのととのったスリムな素敵な女性だった。ジルヴィアの美貌を、ローラはうけついだわけだった。 茂は応接室の椅子に、彼女とむきあって腰をおろした。 マスターが、「飲み物はいりますか」とジルヴィアに聞いた。 「バスネット。熱い紅茶を」 彼女は、答えた。 マスターは、ドアをしめて部屋を去った。 ジルヴィアは、どう話を切りだすか、かなり思案していたが、不意に立ちあがり、となりのベッドルームへと歩いた。彼女は、その部屋の壁をみて立ちどまった。そこには、曼荼羅の絵がかけられていた。 この金剛界曼荼羅を、ジルヴィアはよく覚えていた。きっと胎蔵界曼荼羅は、ホテルの主人、バスネットの寝室にでもあるのだろう。ローラが、この部屋で、ひとりでひと月をすごしたことを思うと、ジルヴィアの胸ははりさけるばかりだった。三〇〇〇の仏があつまる、曼荼羅があらわす世界は、とうとうとしたひとつのドラマをつくっていた。 ジルヴィアは、シングルのベッドのすみに腰をおろした。部屋には、もうひとつ寝台がおかれていた。大きなダブルベッド。彼女は思わず両手を口のまえであわせ、息をとめた。胸がくるしくなり、心臓の音が聞こえてくる。立ちあがり、今度はその寝台にそっと腰をおろすと、柔らかい反発を感じた。触れてみる。自然となつかしさが滲み、あふれ、つたわってくる。端のシーツをそっとめくってみると、あらわれたスプリングを覆う厚い布。黒糸はすり切れ、痩せ、あわくなっている、色褪せた黒い縞の模様。 「そんな馬鹿な」 寝台のシーツをめくっていく。足元にはない。まわって、めくっていく。枕がわの中央にまるい印をみつける。そこに、かすれたほそい糸がのこっている。 MADE IN BUXORO まぎれもないもの。思い出の地、ソグディアナ。河がながれている。広大なステップをぬけて、海と沙漠。南風。むかって立つとコートがふくらんで、風にだかれて。街のあかり。心が震え、脳裏が真っ白になる。 「このベッドでローラがひと月をすごし、このうえで、ふたりが愛をつむいだなんて。どんな因縁が、ここに導いたのか」 ジルヴィアの胸は、つぶれかけていた。息を吐くのも、すうのもできなくなって、思い出がくるしくのしかかり、めまいがした。 「三〇年にわたる歳月は、いったい、どこにむかい、どんなながれだったのだろうか」 ジルヴィアは、立ちあがり部屋から秋の風情をながめた。なにも変わらないカトマンズの大気は、芳しい神聖な香りに満ちていた。清々しい秋の柔らかい風が、窓を撫でながら通りすぎるのがみえる。外は美しい夕暮れとき。すみ切った高い空が、オレンジ色に変わりはじめる。立ちならぶまわりのホテルの窓に、ぽつぽつとあかりがともされ、しだいに増えていく。あふれた光は、石づくりの建物のあいだを走る石の道を照らしている。そこには、さまざまな国の人たちが、思い思いの格好をして行き交っている。ジルヴィアは、茂のいる応接室にもどってくると、今度はその窓から、また街並みをだまってながめた。そうしているうちに、ドアがノックされ、バスネットが紅茶をはこんできた。 「ありがとう」 ジルヴィアは、いった。 「おなつかしいことです」とバスネットは答え、 「あかるくしたほうがいいですか」と聞いた。 「そうね」 ジルヴィアが答えると、バスネットは部屋の電気をつけた。 「ありがとう。すべてが、なつかしいわね。昨日のことみたいだわ。バスネット、あなたも、ちっとも変わっていないわ」 ジルヴィアがいうと、 「年を、とりました。奥さまだけですよ。変わらず、お美しいのは。ミス・ローラは、若いころのあなたに、そっくりです」 バスネットはそういい、部屋をあとにした。 マスターがでていくと、ジルヴィアは茂にむきあってソファーにすわった。ほどなくして意を決し、彼をみつめて、一語ずつかみしめ、ゆっくりと話しはじめた。 「カトマンズは、愛がひらく街ね。美しいものにあふれ、神聖なヒマラヤのもとで、敬虔な人びとが住んでいる。爽やかで清々しい空気に満たされ、かたくなにとじられた魂が癒やされる。春になると自然に花がさくように、この街の大気に触れただけで心がひらいていく。あなたとローラのあいだに、愛が芽生えたとしても、なんの不思議もないところだわ。カトマンズは、昔からそうした街だったわ。こぼれ落ちるほどの、素敵な出来事がいつも身近にあって、神々の住む山とおなじ大気に満たされ、無意味な慣習やふるぼけた秩序から心を解放してくれる。そんな街だったわ。でもそれは、カトマンズという場所でしか、起こらないことなのよ。なぜなら、この山にかこまれ一〇〇万の人びとが暮らす盆地は、街がつくられたときからずっと、八人の女神さまにまもられているのよ。ちょうど寝室に飾られた、九つに分かれた曼荼羅とおなじ。結界をつくり、八方を守護する女神さまの真ん中には、それは綺麗な、優しいお姫さまが暮らしているのよ。この街ならどこへいっても、ちかくに女神がいて祝福してくれる。そんな場所は、世界中にカトマンズしかない。なにがほんとうで、どれが間違っているのか、この街はすべてを忘れさせてしまう。あなたとローラは、お似あいのふたりだと思うのよ。ほんとうに、素晴らしいカップルだわ。うらやましいほどに」 ジルヴィアは、すき通るブルーの瞳で茂をみつめた。それから不意に、右の手首に嵌めていた、金のブレスレットをはずすといった。 「どんなものでも、変わっていく。ときは、無慈悲にすべてを押しながしてしまう。たとえばこの腕輪、純金でできたブレスレット。磨けば、いつも輝くけれども、でも、そのためには、一部が必ず削りとられる。これは、だれにもとめることができないもので、ながい年月のあとでは、純金の腕輪でさえもすりへり、なくなってしまう。そうでは、ないのかしら」 ジルヴィアは、茂をみつめて押し殺した声でいった。 「ぼくのローラへの思いは、そうした月日をこえています」 彼は、彼女の視線から目をそらし、両手で額をかかえていった。 「将来は、分かりません。すべてを、約束することはできないでしょうし、そうした誓いを、羊皮紙に血をもってかいたとしても、意味がないでしょう。将来は分からないから、だからこそ、現在を大事にあつかわねばならないと思います。いまのローラへの気持ちを、大切にしたいと考えています」 茂は、ゆっくりといった。 ジルヴィアは、その言葉に大きくうなずいた。 「この金の腕輪は、フリードリヒが私にくれた。こうして文字をきざんで」 ジルヴィアは、ブレスレットの内がわに印字された部分を茂にみせた。そこにはドイツ語で、「 alle in Liebe, zu Silvia 」とかかれていた。 「こうした文字も毎日つけていれば、それだけで、こすれて消滅していく。愛も、命も、どんなものも、消えてしまうのよ。茂さん、許してください。これは、みんな私のせいなのです。あなたがたふたりが幸せになれない理由は、自分なのです」 ジルヴィアの瞳から、涙が止め処もなくあふれだした。 「ごめんなさい。謝っても、許してもらえない。謝罪してすむことではないのよ。分かっているの。でも、お願い謝らせて。どうか、フリードリヒを許してやって。あの人は、傷ついているのよ」 ジルヴィアは、泣きつづけていた。もうそれは、会話ではなかった。なんだか違う状況で、だいたいも分からないことだった。 四、チャイニーズ・ボーダー 「北にきたのだから、とことんすすんでみるか」 何日かすぎて、裕明は話してくれた。 「チベットにいこう」と彼はいった。 それで、カトマンズでパンを買って、またバスにのった。朝たった路線バスは、ぼろくて、終着駅はバラビセだった。バスは終わりで、そこに一泊した。シェルパの村だった。なにもなかったし、なにをみても気分が晴れなかった。平屋の木造だったと思うが、宿らしいところに泊まった。部屋では、なかった気がする。ながい廊下で、部落の者たちと雑魚寝したように思う。よく覚えていないが、裕明のいう通りにした。バラビセの宿でも、パンを焼いていた。まるくて大きなシホンケーキみたいなもので、食べたが、もの凄くまずくて、あとは寝ただけだった。 つぎの日の朝、国境の村、タトパニにむかった。中型のバンがでて、それにのれば二時間、約三〇キロとのことだった。朝は寒いくらいで、車代はひとり三〇ルピーだった。茂がのりこもうとした、そのときだった。 「脚は、二本ある。なぜだか、分かるか」 裕明が、とつぜん聞いた。 「考えたこともない」 「一本じゃ、歩けないからだ」 「それ、もしかして歩こうって話か」 「そういうことに、なるかな」 裕明は、両の手を胸のあたりでくんで、特別な考えがあるという雰囲気で、首をかしげて呟いた。 それで、歩きはじめたわけだった。天気は、快晴だった。この時期の天候は、山はともかく平地では、いつも安定していた。 発想は、新鮮だった。なにせ三〇キロで、バンでも二時間以上はかかる。それも、平地ではなくバスも通れない山道で、朝の九時ころだったから時速四キロでいけば、八時間あれば到着できるかも知れなかった。しかし、順調にいってもついたら夕方の五時で、夜のほうにちかい。ネパーリは人情があるから六時になっても泊めてはくれるだろうが、あきらかに無謀な提案に思えた。とはいえ、歩くという発想は、茂には思いもつかなかったことで新鮮だった。午前中は、それでもよかった。可能性は、のこっていそうにみえた。午後になると、裕明の発想が「ただ、目新しかっただけ」だと、はっきりしてきた。 天気は、よかった。歩いていたのは、ちょうどポカラからカトマンズにむかったバスのときとおなじ、山の一面を削った石ころだらけの道だった。山がわも、谷をこえたむかいがわも、みわたすかぎりのふかい森にかこまれ、静かだった。どちらかといえば、のどかすぎた。ほんとうのところは、だれもいない。それは、悲しいほどだった。山がわには高い木々が密生し、沢があり水がながれていた。水筒ひとつもっていないふたりは、喉の渇きをそこで潤した。沢水はすくってみると、きらきらと光って輝いていた。人が触れることもできない奥ぶかい氷河からながれでた水は、冷たく清らかで、眩めいていて、思わず見蕩れてしまうほどだった。それは、神さまが住んでいるちかくを、ながれてきたからではなかった。雲母がまじっているからで、これが身体に悪いという話はずいぶん聞いた。インドの水は、煮沸すれば飲める。ネパールのばあいは、さらに濾過しないと飲んではいけないといわれていた。この水が、肝炎の原因のひとつだと。雲母は、日の光にあたり、きらきらと輝いていた。仕方がないので飲んだ。だんだん選択肢がへってくる悪いパターンで、そのうえ問題なのは、歩いていても、なんの指標もみえないことだった。普通は万国共通の道路標識があって、あと何キロとかでてくるが、そんな洒落たものはない。自分がどの辺にいるのか、さっぱり分からなかった。 「どこまで歩けば、いいんだ」と茂は聞いた。 「そんなもん、つくまでに決まっているだろう」 裕明は、答えた。 はっきりいって、答えになっていなかった。でたとこ勝負で、一種の賭けみたいなものだった。なんで、こうなるのだ。たしかに、裕明の発想にはときどき驚く。しかし、ただ意外なだけだけだった。振りかえってもう一度、じっくり考えてみると、ぜんぜん合理性がなかった。これで世界中を歩いてきたのかと思うと、立派だ。尊敬してもいい。どこから考えても不安で、安心感がない。 裕明は、答えをもっていないと茂は思った。 彼は、思いついたまま行動するだけなのだ。考えるなんて、思ったこともないのだ。まえから、そうだった気がする。裕明の考えている姿。あれだ。ぼうっと空をみあげる、本人が考えているという、あの風情。事実は、ただ立ちどまっているだけだ。みんなが、あれに惑わされる。あの経験豊かな、ストーン・ロッジのネパーリさえも、だまされたのだ。おれが勘違いしたのも、仕方がないことだった。今日は、それさえみえない。きっと、犬や猫より始末が悪いのだ。じっと人の目をみて話し、即座に行動にうつるから、傍目には、よっぽど自信がありそうにみえる。そのうえ、よく考えてみると、裕明の話には疑問詞がつかないことが多い。たぶんとか、きっととか、おそらくとか、そういう言葉を、ほとんど聞いた覚えがなかった。かも知れないとか、むずかしそうだとか、判断を、留保なんてしないのだ。そう思って、いままでのことをよく振りかえってみると、裕明の言葉には、「分かるか」、「わからないか」のどちらかしかなく、それもどちらも、だいたいの話だった。彼の行動は、なんの根拠もないのだ。あいつについていくと、反省だけがのこるわけだ。 茂は、完全に後悔していた。 「なあ、車が通ったらのせてもらおうぜ」と彼はいった。 「もう、ちょっとだ」 裕明は、力強くいった。 その調子を聞くと、「もう、ちょっと」という確信があるに違いない。普通は、そう思う。それで歩くわけだった。 午後の一時ころだった。 「車が通ったら、のせてもらおうぜ」 茂は、もう一度いってみた。四時間、ほとんど休みなく歩いてきた。天気はよかったが、山道で時速四キロがせいぜいで、それだって怪しいものだった。時速、三キロかも知れなかった。 「もう、ちょっとだ」とまたいった。 「裕明。もうすこしだって、なんで分かるんだ」 茂は、聞いてみた。 その言葉で、裕明は立ちどまった。 「やっぱり、だめか」 真っ青な空をみあげて、彼は呟いた。 「あと何時間、歩けばいいんだ」 「茂。車が通ったらって。さっきから話しているよな」 裕明は、茂をじっとみつめていった。 「車なんて、通っていないじゃないか。朝でたバンは、一二時ころ、バラビセにもどっていったよな」 そうだった。タトパニで、乗客をおろしたのだろう。帰りも人がのっていて、そこからの客をのせたのだろう。 「それから、一台も通っていないじゃないか。茂。車もこないのに、どうやってのったらいいんだ」 裕明は、逆につよい語調になって質問した。 茂は、この発言に、奇妙な違和感を覚えた。話からすると、あきらかに無謀なタトパニへのトレッキングを選択したのが、まるで彼だという感じだった。 「おれが、なにも考えずに歩いていると思ったのだろう」 裕明は、聞いた。 「そう感じていた」 茂は、答えた。 「なにかを、考えていたのか」 「当たり前だ。ずっと、考えながら歩いていた」 裕明は、胸をはった。髪を両手でかき分けてから両腕をくみ、自分の判断に納得しているという風情で、うなずきながらいった。 「もどるべきか、どうかだ。最悪のパターンだ。半分まで、歩いてしまった。もう、どっちへいってもおなじだ」 「夜は、冷えるのじゃないのか」 「大丈夫だ。計算では、八時間あればつく」 「ペースが時速、四キロという根拠がない」 「それじゃ、時速三キロとして、もどったほうがいいと思うか」 裕明は、問いなおした。 「聞かなければ、よかった」 茂は、心から感じた。 「それじゃ、だいたいも分からないってことか」 「悪いパターンだ」 裕明は、うなずきながらいった。 ここで、はじめて意見があった。また、沢水がながれる場所にでた。雲母がきらきらと輝くのを確認して、ふたりはその水を飲んだ。 「一〇分でいい。とまって、考えてみよう」 「おなじことだ。もう、いくしかない。自動車が通ったら、のせてもらおう。でも、車がくる保証はない。バンの連中は、おれたちをみていた。だから、タトパニにむかって歩く奴がいるのは知っている。それでも、なにもいわなかった。充分につけると考えているからだ。最悪でも、連絡だけはとってくれるに違いない」 しっかりとした口調で、茂の瞳をじっとみつめながら、裕明は確信をもって、くりかえしうなずきながらいった。 一見、正解だ。裕明から瞳をみつめられ、じっくりと膝をつめていわれると、相当の根拠をもつように聞こえる。冷静に周囲をもう一度みまわしてみると、実際には、電柱なんかどこにあるのだ。電話なんかありえない。無線は、あるのかも知れないが、あくまで希望的な観測で、なんの確証もない。ほんとうのところは、すべて運まかせって奴だった。ここまでついてきてしまったのだから、仕方がないと茂は思った。それから、また歩いた。不安だが帰ることもできないし、標識なんてなにもない。自分がどこにいるのか、分からないが、方向が不明という道ではない。どちらかというと、迷うこともできないくらいで、歩けそうな場所はない。いっそ別れ道にでもでれば標識があって、どこにいるのか分かるのだろう。それが普通だが、道は一本でみえるかぎりつづいている。二時になったがなんにも変わらず、事態は好転していない。 二時半ころだった。遠くから音がした。トラックだ。タトパニへむかっている車の音だった。トラックはやってくると、ふたりのまえでとまった。そうせざるを、えなかった。道の真ん中に、ふたりが手を大きくひろげて立っていたのだから。一時間でタトパニについて、一〇ルピーずつ払った。 そこで、たったひとつの宿に泊まることになった。木造の三階だてで、三階はやや天井がひくかった。ここでネパールは終わりで、先はチベットだった。 女主人が、ひと通り宿を案内してくれた。紹介してもらった部屋は、三階の二段ベッドで、裕明が上段で茂が下段だった。女主人は、風呂をすすめた。それで、裕明と茂は、さらに道をのぼっていった。眼下に河がながれ、温泉が湧きでていた。ふたりがさらにのぼっていくと、国境にでた。道の最後は、終わっていた。木が生いしげり、果てしない森につらなっていた。ポテクシ河がながれ、ネパールとチベットに分けていた。ふたつの国を分割するのはふかい谷で、車が一台通れるくらいの橋梁がかかっていた。反対がわまでは三〇メートルくらいの距離があり、橋の終わりにふたりの兵士が銃をもって立っていた。脇には金属性の高いポールがおかれ、いちばんうえには、レッド・チャイナの大きな紅い旗が風ではためくのがみえた。 チベットは、ウ・ツァン、アムド、カム、の三つの地域から構成されている。一九〇八年、清は、宗主権をもつと主張して武力侵略し、ラサを占領した。このとき、ダライラマはインドに亡命した。一九一二年の清朝滅亡をうけて、チベットは域内の中国人を追放し、一九一三年二月一四日、独立を宣言した。 チベット仏教は、小乗、大乗につぐ第三の仏教の伝播で、元朝でも満州から起こった清朝でも国教になった。クビライ・カアンは、チベット高僧、パクパにより灌頂をうけて、菩薩王、転輪聖王に任じられ、康熙帝、乾隆帝は敬虔な仏教徒で、文殊菩薩王として東アジア世界に君臨した。さまざまな種族が興亡し、拡大と収縮をくりかえした悠久とした中央ユーラシアの大地で、国家や民族、言語をこえたもっとも中心的な宗教で、多くの文化を育んできた。この広大な地域の、思想の根幹だった。 一九五〇年、中国共産党はチベットに侵攻し、数多くの仏教寺院を破壊した。チベット人口の五分の一、一二〇万ともいわれる一般人と僧侶を虐殺した。ダライラマは、インドに亡命している。 共産主義は理想だが、現実は違う。人間がすることは、いつでもおなじだ。中国共産党は、「クジラの骨盤」だ。茂は、思わず石をひろっていた。 「どうするつもりだ」と裕明が聞いた。 「投げてみる」 茂は、いった。 「あぶないんじゃないのか」 「まさか、撃たないだろう。国際問題になる」 「そういうもんか」 茂が橋のたもとにいくと、兵士はふたりをみつめた。 「大嫌いだ」 茂は大声で叫んで、つかんでいた小石を思い切り投げた。 石は、橋にあたるとコーンという音がしてあきらかに中国領に入り、兵士の足元まで飛んでいった。兵隊は、びっくりして咄嗟に銃口をふたりにむけた。茂は、驚いた。殺してもいい、という指示をうけていた。 「ふせろ」と茂はいった。 ふたりは、道に腹ばいになって、五分くらいそうしていた。兵士は、ずっと銃口をむけていたが、ながい静寂のあとで銃を立てた。若い兵員で、ふたりとも二〇歳そこそこにみえた。 裕明と茂は、一目散に道をくだっていった。 アルカリで、触ると身体がべとべとした。 大きな石がごろごろと、思いつくままに投げだされ、ころがる、まるで賽の河原を思わせる景色をつつみこみながら、ポテクシ河は、ゆったりとした弧を描いてながれていた。河のなかには、いくつかの巨大な岩が無造作にでんでんとおかれ、河川敷によどんだ淵をつくっていた。ながれは削がれ、瀬をわたる「せせらぎ」だけがひびく、ネパールの果てだった。 そこは、神が手をくわえるのを完全に忘れていた、地球ができたころから、そのままにほうっておかれたインド大陸の最果てだった。ひろい河原をはさんだ左がわにあたる高い断崖には、大きなヒルがいっぱいぶらさがっているのがみえた。岩肌を露わにする崖に、ポテクシ河の「せせらぎ」だけが、幾度もくりかえし木霊していた。冷たい河音がひびく淵に、湯が湧きでていた。 とき折り、甲高い鳥のさえずりがとうとつに聞こえる静寂のなかで、ふたりは裸になって河に浸かっていた。みわたすかぎりの果てることも知らない奥ぶかい森にかこまれた世界には、彼らをのぞいて、息をする者はだれもいなかった。 「ひどい旅だったな」 茂は、いった。 「楽な旅はない」 裕明は、答えた。 河に首まで浸かっていた。身体がべとべとして、石鹸をつかおうと思ったが、あわだたず、さらにぬるぬるとしただけだった。 戦後、日本が分割されなかったのはよかった。わが国の人びとが、二手に分かれて争わなくて幸運だった。戦いにやぶれた日本人が、根絶やしにされなくてよかった。アメリカは、世界の警察で、秩序をまもり平和を実践してくれる。しかし、それはアメリカ合衆国に可能で、都合のいい体制であり、平安にすぎない。たくさんの過ちを犯している。それではあっても、アメリカのほうがいい。間違いを指摘することができる。不当なあつかいについては、抗議をする権利をみとめてくれる。 静寂だけが支配する、ふかい森だった。 「せせらぎ」だけが木霊して、ポテクシ河がゆっくりと大きな弧を描きながら、ときを忘れてながれていた。 大自然だった。 そこは、チャイニーズ・ボーダーのちかくで、ポテクシ河はチベット王国からながれていた。 チベットの悲しみを、河はながしつづけているようだった。 チャイニーズ・ボーダー、一一一枚、了 世界は曼荼羅のなかで 一、海源 夕食がすんで、ぼうっとするにも三階の部屋はせますぎた。ふたりは、広間でぼうぜんとしながら煤けた天井をみていた。 「今日は、特別にもうひとり泊まり客がいる。あなたがたとおなじ日本人だ」と女主人はつげた。 その話を聞くと、「変わっているな」と裕明はいった。 「なんで、そう思うのだい」 「あの道だ。こんなところをトレッキングの拠点にするなんて、ただ者じゃない」 彼は、自信ありげに答えた。 「裕明が変わっているというのだから、そいつは普通からみたら、ほとんど異常者じゃないのか」 茂の発言は、自尊心をかなり傷つけたらしくて、憮然として、いつもよりずっとつよい調子で話しだした。 「人間には、さまざまがいるぞ。おれなんか、かなり普通のレベルだ。いいかよく聞け。オーストラリアをバスで旅したときに、リヤカーをひきながら、あの沙漠を横切る日本人に会ったぞ。あそこの砂漠は、異様にでかい。あの大陸の内部は、アフリカとおなじ暗黒大陸だ。ただ違うのは、さらに生き物がすくないことだ。中央ユーラシアの沙漠は、オアシスが点在する。ナイル沙漠にも、中央に河がながれている。だが、あそこの沙漠は、先にあるのはつぎの砂漠で、そのほかはなんにもない。どちらかといえば、なにもなさすぎるところだ。湖はあるが、西のバースにちかい五〇〇キロくらいまでだ。先は、沙漠ばかりで猛獣もいないから、野生化したロバとヒトコブラクダが大繁殖して、のろのろ歩いているだけだ。その砂漠を、男は、西海岸のバースから東海岸のケアンズにいく途中だった。痩せて背が異様に高い、ひょろながくみえる三〇歳すぎの男性で、顔も腕も真っ黒に日焼けしていた。当たり前だけれどよ。直線でも二五〇〇キロ以上の道もないところを、リヤカーに生活用品を全部つみこんで、ひっぱって横断するんだといっていた。ちょうどエアーズロックで偶然に出会って、しゃがみこんで話をしたんだ」 「サハラに死すって本、知っているか。二〇歳の青年が、七〇〇〇キロのサハラ沙漠を横断しようと試み、ラクダに逃げられて渇死する物語だ。リヤカーの男は、この若者にラゴスで会った話をした。どんな奴だったか聞くと、荷車男は、うーんと唸って眉間に皺をよせて考えてな。ちょっと変わっていたと、口にしたんだ。いいか、つまりおれは、どちらかといえば、まともなんだ。普通にちかいんだ。リヤカーの男に聞けば、はっきりする。おまえは、ごく普通だと、彼ならそういうはずだ」 茂から変人あつかいされるのは、気にいらないことだったらしく、裕明はとても興奮して話した。 そうこうしているうちに日が暮れて、世界が闇に支配されはじめる七時をまわったころ、階段がぎしぎしいう音がして、痩せたラマ僧がひとりあがってきた。男は、ちらりとふたりをみると、そのまま無言で食堂の扉をあけ、なかに入っていった。 「ラマ僧。日本人」 ふたりは、思わず目をみあわせた。 「間違いなく、普通ではない。とても、ただ者とは思えない。裕明のいっていたことは、正しい」と茂は思った。 いくらの時間もしないうちに、ラマ僧は、食堂をでてくるとふたりのまえにすわった。宿の女主人がチャイをはこび、ご馳走してくれた。 「こうしてまた会ったのも、因縁だろう」 ラマ僧は、話しはじめた。 剃髪の僧は、痩せて浅黒く、ポカラで出会ったときとおなじ茶色の上着に赤いスカートのようなズボンを巻いていた。右の手首には、金色のブレスレットが輝いていた。 「もしかして、とつぜんで恐縮ですが、あなたの名前は、海源さんというのではありませんか」 「今日宿。きようしゆく。恐縮」 不意に、裕明の言葉をくりかえした。 「そんな単語を、知っているんだ」 茂は、裕明の教養のふかさに、驚きを隠せなかった。 「ああ、覚えていてくれたのだね。君と会うのも二度目だ。そうだ、私は海源という。あのとき、君はあきらめようとしていた。耳は最後までのこる器官だから、それで声をかけた」 「私が、みえたのですか」 「いや、偶然だ。ふとみると、君がいた。あきらめた感じだったので、声をかけた」 「命の恩人だ」 裕明は、とつぜんそう叫ぶと椅子をおり、床に正座してふかぶかと頭をさげ、「ありがとうございました」といった。 「なんだか分からなかったが、危険な状態だったらしいね。でも、よかったな」 「今日は、どんな用事があったのですか」 茂が、聞いた。 「このあいだ死んだ、村の男と話をした。もう、もどってこないほうがいいと話したが、また帰ってきてしまった」 海源は、首を右にかたむけ、残念そうにいった。 「この世は、すべてがつながり、ひとつでは存在できない。それは原因を有するからで、多くのものがつらなり、仮の姿であっても目にみえる象(かたち)になる。物事には生起する出発点、素因が存在し、帰着する終着点、結果がある。ふたつはおなじもので、中央に位置する。この中心も、自分が存在する場所から仮に決められたにすぎない」 「たとえばガンガーは、気の遠くなる昔からヒマラヤにふりつもった雪に源を発し、ヒンドゥースタンの平原を悠々とすすみ、ベナレスをぬけ、ベンガル湾に注いでいく。これが、終わりではない。ベンガル湾に注がれたガンガーの流水は太陽の熱によって蒸発し、また雪になってヒマラヤにもどってくる。一見、違った水にも思えるだろう。ベンガル湾には、ガンガー以外の河も注ぐわけだし、潮のながれでインド洋ともつながっている。そう思うのは、いまという瞬間で考えるからだ。もっと期間のながい、ヒマラヤやガンガーが誕生してからの歳月を考慮しなければならない。地球を覆う水が、いまどこにあるのかは意味がない。すべては白雪となってヒマラヤにふり、融水に変わってガンガーをながれたに違いないのだ。なんの変わりもない、おなじ水であり、雪なのだ。違うと思うかどうかは、みる場所によっている」 「それが、曼荼羅の世界ということになる。物事には中心も周辺もない。全体と部分は、じつはおなじなのだ。構成要素がなければ総体とはいえず、逆もまたそうなのだ。あい補いながら、たがいに影響しあって、ある、ようにみえるわけだ。こうした調和のうえで、全体という部分、中心と周辺が決められているだけなのだ。曼荼羅とは、本質を示す、マンダ、mandaと、所有を意味する接尾語、ラ、laからできた言葉だ。真髄が図示された象を表現している。もっと正確には、あらわされたものなのだ。この言葉は、過去形の受動態だから、表顕する者の意思は存在せず、ありのままの姿がかかれているといってもいい。たとえば九会曼荼羅の九つの部分、それらは、ひとつひとつが完成された曼荼羅の世界で、それぞれが、そこで完結している。普通の生活者は、身のまわりに忙殺されているから、すぐそばにべつの領域があるのに気がつかない。この世は、自分の目に映るものだけでできているのではない。同時に数多の世界が進行し、一見どれもが無関係に完結している。みえないところで、たがいに影響しあうなどとは、想像してもいないだろう」 「君たちが出会って旅をしているのも、どこかに似た部分があったのだろう。いっしょにすごして、似通った構成要素は、さらにちかづいていったのだろう。旅行するとは、さまざまな出来事をともに経験することだ。いろいろな事件があったのだろうが、迷いと悟りは、べつべつではない。煩悩と菩提は、両極ではない。一見離れてみえる事物が、じつはそばにある。ちかいと思うものが、飛んでもなく遠くに位置している。見方の違いで、自分が考える形象にとらわれているから間違いが起きる。存在は、原因によってうみだされた関係のなかだけで、うまれたり消えたりするひとつの事象にすぎない。君たちが、元気で旅をつづけているのが分かって嬉しい」 「せっかく出会えたのですから、教えてください。海源さんは、なぜ、ここで僧になられたのですか」 「敬語を、知っている」 茂は、改めて裕明の懐のふかさに驚いた。 「あのとき、はじめてオピウムをして、急性中毒で死にそうになったのです。魂がすっと外にでて、気持ちが悪かったはずだったのですが、もうそんなことはなくて、感覚は普通で、どちらかというといつもよりいいくらいでした。なによりも心が平静で、あらゆる状態を素直にうけいれられる気がしたのです。それは死をふくめた全部なのですが、だんだん高いところにむかって、魂は飛び立っていくのです。おれも好き勝手に生きて、それなりに面白い人生だったほうじゃないかと、すべてをごく自然にうけいれる体制がととのっていて、抵抗しようとか、そんな気持ちは不思議なくらいにないのです。こんなものなのだな。失敗したから、もうだめなのだと観念したとき、海源さんの声が聞こえたのです。まだはやい、おまえには、やりのこしたことがいっぱいある。帰ってこい。その声に気がついて、聞こえるほうにむかってすすんでいくと、自分が気持ちよさそうに眠るのがみえて、あとは覚えていません」 裕明は、とつとつと話した。 「どこのホテルだったのかい」 「カトマンズの、ストーン・ロッジです」 静寂が、支配した。海源は、ゆっくりとチャイをひと口飲んだ。 「ホテルも、関係があるのですか」 裕明は、海源の沈黙が意味しているものにとまどいながら、驚いて聞いた。 「そうだ」 「どういうこと、なんでしょうか。それはつまり、あのホテルでやったから、おれ、いや私は、助けてもらえたというのですか」 裕明は、さらに真剣な表情で聞いた。 「そうだ」 「なんだか、さっぱり分かりません。できたら、ちょっと説明をしては、もらえないでしょうか」 「それほどのことではない。あのとき偶然、私は、ストーン・ロッジを考えていた。それだけだ」 「すると、あのとき、海源さんがストーン・ロッジを考えてくれなかったら、気がつかなかったのですね。私は、そのままいってしまったわけなのですね」 「そんなことは、話してはいない。あのとき、私は昔を思いだしていた。なぜ想起したのか、それは考えてみる価値はあるだろう。しかし、私以外にも、君が気がつかない関係から、みていた者がいたかも知れない」 「そんな人は、知りませんよ」 「それが分かれば、苦労はない。人のつながりは、事件があってはじめて判明するほうが、ずっと多い。どちらかといえば、ほとんどだれも、なんにも気がつかない。だから、こんなに多くの存在が、あるように思えるわけだ」 「ストーン・ロッジが、海源さんと私をむすびつけていたのですね。あのホテルによって、たとえ仮の姿であっても、現に存在をつづけられるのですね。やっぱり海源さんも、あそこでオピウムをやって、死にそうになったのですね」 「それは、君たちのことで、私とは違う」 裕明が真面目に話す言葉を聞くと、海源は小さく笑いながら答えた。茂は、彼が微笑むのをはじめてみた。 「ある女性を、僧の身でありながら愛してしまった。ダライラマ一四世の亡命のときに、心身とも疲れ果てていた。もともと高野山の僧侶の息子だった私は、大学でインド哲学を専攻していた。学徒動員がかかり、当時の仲間はみんな特攻隊になった。どうせなら、曼荼羅の世界で死にたいと願い、激しい戦火をさ迷いながら、チベットに辿りついた。思えばひとつの欲だったが、私は、いつも煩悩のなかにいた」 海源は、静かにゆっくりと話した。 「日本は、大陸を侵略していたが、チベットとは敵対関係ではなかった。恩師は、ダライラマと学問的なつながりがあり、面識はなかったが手紙のやりとりをしていた。その紹介状をもっていたために、猊下の側近としてお仕えすることができた」 「チベットは、欧米の華やかさはないが、広大な大地、豊かな森、命を育む水源を保持している。錦江の春色、天地にきたり。玉塁の浮雲、古今に変ず。とは、よくいったものだ。中国の王朝は、ほとんどすべてが夷狄によって立てられたのだし、漢時代の貴族階級は、ことごとく殺されている。漢の時代は、中国史上のエポックだろう。いまでも、漢字、漢文、漢族という言葉がのこっているのだから。とはいっても、あくまでも、漢は東アジアの盟主だ。歴代の中国王朝が君臨したのも、基本的にはそこにかぎられる。モンゴル族や満州族がつくった王朝の最大版図が東アジアを大きくこえてしまうのは、彼らが夷狄だったからだ。中央ユーラシアは、ずっと蛮族の領土だったのだ」 「ヒトラーは一〇〇万のユダヤ人を虐殺し、スターリンは二〇〇万の同胞を粛清した。毛沢東は、四〇〇〇万の自国民を餓死させ、一二〇万のチベット人を惨殺した。彼らが、国家、民族、人種、あるいは、解放という名をかかげて虐殺したものは、なんだったのだろう。その殺戮を手伝った者たちは、いったい、なにを殺したのだろう」 「思えば、チベットの政府は堕落していた。閣僚も、貴族も、無責任だった。自分たちの国を近代化する意志ももたず、自分が戦いさえしなければ、平和はたもたれると妄信していた。いつの時代だって、和平のためには、軍備と外交が必要不可欠だった。平和ぼけ、していたのだ。中国共産党員は、あらゆる仏教施設を破壊し、金目のものをすべて略奪した。それは、仕方がないと考えるべき範囲だったのだろう」 「広場に人をあつめ、おおぜいがみまもるなかで高僧たちを中央にひきだし、経典を焼き、踏みつけることを命じた。したがわない者の耳を、そして鼻を削いだ。なぐりつけ蹴りつけ、罵声をあびせ、たおれた僧侶に小便をかけ、仏陀にすくってもらえといって笑ったのだ。若い僧と尼僧をひきだし、目の前で交接を命じた。震える僧侶に、おまえには必要がないといって男根を切り落とし、その場で比丘尼を電気棒で強姦したのだ。子弟に、銃で両親をうち殺させた。親が強制労働に熱心に参加しないのは、子供がいるせいだといって、目の前で、いちばん弱い者たちを殺害したのだ」 海源は、そこまで話すと顔をしかめ、深刻な表情になった。チャイをひと口飲み、「もう、よそう」といって、腕をくみ首をかしげた。 「最後には、娘が包丁をもち、年寄りが先の尖った棒を手にして共産党に抵抗した。機関銃と戦車にむかって。それはもう、戦いともよべなかった。娘たちが死を覚悟してまもろうとしたものは、国家でも、民族でもなかった」 海源は目をつむり、両手で頭をかかえた。チャイをひと口飲み、また話しはじめた。 「ネパールまで命からがら逃げてきて、私は過労から黄疸になり、ある裕福な一家に助けられた。家には、一人娘がいて可愛かった。ご夫婦は、敬虔な仏教徒で私を大切にしてくれた。若い綺麗な奥さんがいた。その方は、優しかった。観音菩薩だと思った。身も心もぼろぼろになり、なにもかもが信じられなくなった私に、たくさんの親切をあたえてくれた。その優しさを、愛と誤解した。同情は愛情にかぎりなくちかく、そこに必ず煩悩は出現する。迷いがあるから、菩提心も起こってくる。いずれにしても、私は二重の過ちを犯し、傷つけた。そこでもまた、煩悩と菩提をくりかえしたのだ」 海源は、溜め息をついた。 「こんな昔話をしたのは、はじめてだが、今日こうして会ったのも因縁だろう。必要があって、私たちはあつまった。それ以外に、ここで会う理由はない。カトマンズではない。今日のタトパニには、泊まり客は三人しかいない。だから話したのだ」と海源はいった。 「ストーン・ロッジとは、なんなのでしょうか」 茂が、聞いた。 「君たちが知っている通り、ネパールは、ヒンドゥー教を国教とする世界でたったひとつの国だ。しかし、ホテルのご主人は、敬虔な仏教徒だ。あの方の計らいによって、私は静養する家を紹介していただいた。つまりストーン・ロッジのご主人にも、迷惑をかけたのだ。それから私は、もっぱらポカラで仏に仕えている。この村は、チベット仏教の信者が多い。ときどき、私はここにきている」 海源は、話すと口をつぐんだ。みんなが、さまざまに考える時間があって、裕明と茂は煤けた天井をみつめた。 チャイニーズ・ボーダーのひっそりとした夜は、果てしもなく暗く、その背後には、垣間みることもできない深淵が支配していた。いま三人がいる、この場所だけがあかるく、周囲はとうとうたる闇と黒い森につつまれていた。 「そういえば、君たちが買ってきたパンを、味見させてもらった。ここに、おいてあったのをみただろう」 とつぜん、海源はいった。 「あのパンをひと口、かじらせてもらった。君たちの承諾もなく、勝手に食べたことを、許していただきたい」といった。 また、時間があった。なんて答えるべきか、裕明も茂も必死に考えたが、「せりふ」が浮かんでこないのだった。そうするうちに、海源がもう一度いった。 「許して、いただきたい」 「いやあ、気がつかなかったよな。都合よく机のうえにあったから、半分こにして食べました。茂。なにか、気がついたか」 「そうだったのですか。ふたりで食べてしまったので、もう、はっきりしません。もし、そうであっても、なんとも思っていません」と茂はいった。 「これで安心した。どうしても、つたえねばならないと思っていた」 海源は、いった。 「夜も更けてきたし、語るべきことは話した。とくになければ、私はもうすこし、ここのご家族と話をしてから寝ようと思う」 「今日は、貴重なお話を、ありがとうございました」 裕明がいった。 「世の中のことを、いままでとは違って考えられる気がします。ありがとうございました」と茂もいった。 ふたりは顔をあらい、口をゆすいで三階のベッドにいき横たわった。 「ということは、おれと茂が会ったのも因縁というわけだな」 裕明が、うえから声をかけた。 「よく分からないが、今日こんなふかい山奥の一軒宿で、ふたりで横たわるのは、果になるのだろう。気がつかないもののなかには、じつは気づいてもいいことがいっぱいあって、それが理解できれば、おたがいに相手をみとめあって、争いもずっとすくなくなるのだろうな」 「でもさ。いま、こうしてせまいベッドに横になりながら振りかえってみると、なぜいっしょに旅をはじめたのか、もうはっきりとはしないけれど、海源さんと出会って凄く納得したんだ。茂と旅行して、よかった。旅をしたから、海源さんに会うこともできたのだものな」 「そうだな。いっしょにいて、いやな事件はなかったし、だからいれたのだけれど、海源さんと出会えたのは素晴らしい出来事だった。こうした気持ちは、かなり素直で、ふたりですごしてきたから、こんな感情になれたと思うよ。日本に帰っても、仲よくしたいよな」 「そういうことに、なるわけだ」 それで、ふたりはだまった。ながい静かな時間がすぎていった。 「裕明は、きっと起きている」 茂は、思った。眠れば、鼾が聞こえてくるからだ。それは許せる範囲のもので、寝ているのかを知るには有用な情報だった。 茂は、だまって考えていた。 なぜ、なのだろう。どうして海源さんは、今日、ここにきてくれたのだろう。ダライラマ一四世がインドに亡命したのは、一九五九年の春だったはずだ。その前後のチベット動乱では、夥しい数の僧侶や一般人が殺され、二〇万といわれるチベット難民が発生した。一九六〇年ならば、ローラは、七、八歳で、カトマンズに住んでいたはずだ。裕福な仏教徒。これは、オーストリア人の一家だったのだろうか。 「分からない。たずねれば、答えはえられる。だが、聞いてどうする」 どこまでも果てしなくつらなる、チベットちかくの森だった。ふかくて、静かで、神聖で、なにも聞かなくても、それでいい気がした。それでもたずねたいと思うのは、執着で、無意味だと茂には思えた。 二、青い大鷲 ガラス窓から、光が差しこんでいた。だから、ふかい森に面した窓は、東がわだと分かった。差しこむつよい朝の光は、束になり、塵やホコリを浮かびあがらせ、きらきらと輝いてみえた。茂が目を覚ましたときには、寝息が聞こえた。うえの人は、まだ夢のなかを、さ迷っているらしかった。 清々しい朝だった。空気はひんやりとし、昨日浸かった川上の温泉を思いだした。 「こんな日の朝風呂は、さぞかし気持ちがいいのではないか」 茂は、思った。裕明はよく眠っていたので、青と白が縦縞になった幸運のスポーツタオルをもって、そっと部屋をぬけだし、ぎしぎしと音のする階段を、なるたけ静かにおりていった。 もう、女主人は起きていて、 「おはよう、ずいぶんはやいのね」と茂に声をかけてくれた。 娘たちの声音につられて、台所に入ってみた。ふたりの娘は、森がわのバルコニー状につきでた場所から木にのぼって、トマトにみえる野菜を収穫していた。樹木になる蔬菜は知らないから、果実なのだろうか。竹であんだ小さな籠に、娘たちが朝日のなかで捥いでいるのは、外皮が赤くつるつるし、形はピーマンみたいに、ほそながく尻にあたる部分が尖っていた。トマトの一種にみえた。 ふたりの娘たちは、声をかけあいながら作業をし、笑い声が聞こえた。朝のカレーのためだろうが、ヒルが落ちてくるらしく、ときどき奇声をあげ、肌についた虫をとり払っていた。毎日くりかえされる作業で、日々おなじ具のご飯を食べているのだろう。こうした行為は、日課で必要だったから、女主人は台所といちばん離れた部屋を用意してくれたのだった。 茂がタオルを肩にかけているのをみると、「どうするつもりか」と主人は聞いた。 「気持ちよく目覚めたので、朝風呂をあびようと思う」と答えると、「ゆっくり入ってきても、朝食には充分な時間がある」と女主人はつげた。 茂は外にでて、もうかなり冷たいといっても過言ではない、清々しい空気を味わいながら山道をのぼっていった。 大きな弧を描きながらながれるポテクシ河は、血の通った世界から乖離し、孤立してみえた。大陸の果てにある瀬は、淡々とし、悟りすました孤高の禅僧が暮らす水墨画の天地をつくり、とき折り聞こえる高い鳥のさえずりは、秘境の静寂をいっそう強固にしていた。 衣類をぬぎすて、裸になって静謐な時空に対峙すると、水も岩も、森も大地も、すべては生きていて、風のながれにも河のよどみにも暖かな命が感じられた。それは、みわたすかぎりの仏種だった。いつもとは違うなにかを、茂は確実に感じた。温泉のでる河の縁に首だけをだして身を浸し、川岸の岩を枕にして空をみあげていた。そこにあったのは、雲ひとつない真っ青な天空だった。 折りしも、忽然とあらわれた一羽の大鷲が、群青にすき通る広々とした大空を舞いはじめた。かなり大きいと思われる瑠璃色の鷲は、ゆっくりと旋回しながら獲物をさがしていたが、やがて茂の姿をみとめると位置をただし、一直線にむかってきた。 大鷲は、青にきらめきながら羽をいっぱいにひろげた。象は、朝の日にあたるラピスラズリのウルトラマリンの天空と完全にひとつにとけあった。天に変わり、空になり、茂の視野を覆いつくした。ふたつの存在の距離は急速にちぢまり、大鷲はほんの手まえにいた。茂は、裸のまま立ちあがり両腕を天にかかげた。あらゆるものを射抜くするどい目がはっきりとみえたが、恐怖はなかった。大鷲は猛烈な勢いで一気に襲ってくると、彼の身体をすりぬけていった。 一瞬後、茂はその背中にのっていた。身に一切まとっていない彼は、背にのりこみながら暖かさを感じた。赤ん坊の豊潤とした肌、しなやかな羽毛につつまれた不思議な寛ぎに満たされ、芳しい匂いがした。なんの制限もなく、大鷲の考えが心によびかけていた。 「あなたは、私。くるしみ、望みは、私たちのもの。私は、ひとつ。全一につながる、ふたつのもの」 綺麗で柔らかい、母を思わせる女性の声がして、言葉は直接心に染みいってきた。美しい詩の旋律は、アムリツァル、ハリ・マンデルにながれるキールタン。コルドバ、カテドラルを満たす賛美歌に似た、清らかなものからできていた。 瀬と淵をもちながらながれるポテクシ河が分かり、大きな岩にかこまれた温かい湯が湧きでる川岸に、ぼうぜんとたたずむ茂の姿がみえた。そこは、ふかくて厚い森が支配していた。青にきらめく大鷲は、おなじ碧にすみ切った空をゆっくりと旋回し、チャイニーズ・ボーダーが分かり、橋のたもとで銃をもって直立する若いふたりの兵士がみえた。茂が泊まる宿が判別でき、遠くに輝くヒマラヤが望めた。鷲は、さらに虚空へとのぼってゆき、とどまることを知らず、パミール高原が分かり、インド大陸が、チベット高原の全体が、そしてアラル海やカスピ海が映しだされ、カザフの平原が。広大な大地、中央ユーラシア。その全貌が、目に入ってきた。 中央ユーラシアとは、地理的よりも文化的概念で、ウラル・アルタイ系の諸言語を話す人びとが暮らしてきたすべての地域をさし、拡大したり縮小したりしながら、歴史とともに変化してきたユーラシア大陸の中央部分を意味する言葉になる。 歴史的な領域は、北は北極海沿岸までのシベリア全域をふくんでいる。そこには、針葉樹林を中心とした、広大なタイガとよばれる森林地帯が横たわっている。 草原と沙漠、高原と山脈、森とオアシスにより構成される中央ユーラシアの中核をなすのは、万年雪と氷河からつくられるカシミールの果て、世界の屋根、パミール高原になる。パミールを中心として、北には天山、東には崑崙が、南東にはカラコルム、さらにヒマラヤ、また南西にはヒンドゥークシといった、世界最高峰級の山塊が集積している。ここを境として、中央ユーラシアは東西に分割することができる。 東方中央ユーラシアは、モンゴル帝国、清帝国を文化、宗教的にささえた、チベット仏教世界になる。雲南ではインドシナに、貴州では中国に接し、四川盆地の西端を北上し、匈奴の聖地、祁連山脈東端から黄河が黄土高原、オルドスをつつみ、陰山山脈の南にそって東進を終えるまでの地域が東端、南端をつくる。さらに、大行山脈の北縁から燕山山脈に並行して、満州の東北平原と華北平原のあいだが南縁となり渤海に終わる。鴨緑江、白頭山をふくむ長白山脈は、朝鮮との境を示している。 西方中央ユーラシアは、現在は、イスラム文化圏に変わっている。ヒンドゥークシ山脈の西は、カラクム沙漠が南限となってカスピ海につづき、さらに黒海とのあいだには、カフカス山脈が南端として存在する。そして西端を、ドナウ川にもとめることができる。 茂を背にのせた大鷲は、青にきらめきながら、雲ひとつない天空を悠々と舞っていた。みおろす大地は、輝いていた。 大興安嶺山脈がみえる。東には、広大な平原をかかえた満州がひろがっていた。その西がわには、モンゴリアの高原が盟主としての圧倒的な威厳をもって存在していた。アルタイ山脈の東がわから、南にゴビの沙漠があり、北にはバイカル湖をつつんで豊かな森林が延々とひろがっていた。森と湖、そこに大河アムールがまんまんと水をたたえている。オノンとケルレンの支流がみえ、さらにバイカルに注ぐ、トラ河がながれていた。ここは、中央ユーラシアを席巻した遊牧諸民族の揺籃の地。匈奴、鮮卑、高車、丁零、柔然、突厥、ウイグル、契丹、モンゴル、ジュンガル。世界史を彩った、いずれも勝るとも劣らぬ、錚々たる部族だった。彼らはここでうまれ、この森と河で育ち、中央ユーラシアの大草原を、騎馬にのり自在に駆けぬけたのだ。 その西、崑崙と天山、ふたつの山脈のあいだにタリムの盆地がみえている。点在する小さな緑は、オアシスなのだろう。 アラル海がみえた。北には、天山山脈からシルダリアがながれている。南には、アムダリアがヒンドゥークシからつづいている。ふたつの大河は、緑の平原と沙漠をつつみながら悠々とながれている。その西には、巨大なカスピ海、大河ヴォルガが注いでいる。さらに西方は、黒海がアゾフの海をかかえている。つらなる大海の北に、茫漠とひろがる世界最大のステップ、キプチャクの大平原が眺望できた。ここはまた、アーリア、キンメリア、スキタイ、サカ、サルマタイ、アラン、フン、エフタルが起こり、駆けまわった、西の遊牧民たちの故郷。 ドナウが、みえる。ドイツ南部の黒い森、シュヴァルツヴァルトに源を発してヨーロッパを悠々と東にながれ、やがては、その莫大な水量を黒海に注いでゆく、ドナウ河。この大河は、古来よりローマ帝国とバルバロイを南北に分けてきたのだ。 みおろす世界は、輝いていた。 累々とふりつもる、白い雪をかかえてつらなる高い山々。果てしもなくひろがり、青く戦ぐ大草原。莫大なこまかい粒子をたたえて光る、砂の海。躍動する生命の大地がみえる。 アフロ・ユーラシア、旧大陸でくりひろげられた圧倒的な戦闘力を示した騎馬民族の世界は、東洋と西洋、深洋とイラン、アラブから地中海南沿岸部までつづく、中洋世界の真ん中にあって、各洋をつなぎとめ、同時性と連続性を担保していた。 真っ白な雪に覆われた、パミール高原は、すべてをうみ、はじまり、終局でもある、根本会、九会曼荼羅の中心だった。南アジア、西アジア、カスピ海、黒海、ドナウ河、カザフから南ロシアの大草原地帯、シベリア、モンゴリア、東アジア、インドシナ、そしてチベット。その茫洋たる大地と海に、とりかこまれていた。 中央ユーラシアと四つの洋からなる、巨大な大陸は、パミールの下に眠るコールド・プルームによってひきよせられ、壮大な羯磨曼荼羅を形づくっていた。 ふと茂が気がつくと、白い雲が浮かぶ青い地球がみえた。もうこのとき、大鷲と彼はふたつのものではなく融合し、分けることができなかった。 気がつくと、茂は遠い宇宙の果てにとどまり、無数の銀河がみえた。ひとつひとつをよくみると、星の集積によってあかるい島宇宙と、まばらな暗い空間があった。耿然(こうぜん)とした小宇宙のなかに、濃淡に彩られる無数の銀河が輝いていた。 そのひとつひとつに須弥山を中心とする四大州があり、九山八海から構成される蓮華世界が存在していた。うえは四無色定から、下は風輪におよぶ、一須弥世界からなっていた。無数の星からできるひとつの島銀河は、世界が一〇〇〇あつまった小千世界だった。大きな銀河は、中千世界、そしていま、茂が目にする大宇宙、このすべては、三千大千世界という一〇億の須弥世界からなり、一仏が教化する範囲、そのものに思えた。さらに、すぐとなりには、まったくべつの宇宙がひしめきあい、際限なくずっとつづいていると感じられた。 「愛のない結婚なんて、耐えられないの」 とつぜんローラの叫び声が聞こえたと、茂は思った。 その声を聞くと、大鷲は、銀河をもどりはじめた。何億という島銀河を駆けぬけていくと太陽系が分かり、遠くに米粒の地球がみえた。大鷲はどんどんちかづき、月を通りすぎ、碧い海と白い雲が棚引く青い星が目に入った。巨大なユーラシア大陸が分かり、アルプスも、そして東西に弧状につらなるヒマラヤの褶曲した山塊が映じられた。ネパールが判別でき、カトマンズがみえた。ストーン・ロッジにローラがいた。彼女は、マスターと話をしていて、フリードリヒもジルヴィアもいっしょだった。 「茂に、会いたい」 ローラは、マスターと話していた。 「どこへいったかは分からないが、何日かして、ふたりで宿をでていった」 バスネットは、答えていた。 「仕方がない、今日の便で帰ろう。これ以上は、さがすことができない」 フリードリヒは、いった。 「ひどいわ。私は、もうだれとも結婚はしないわ」 彼女は、両手で顔を覆って泣きはじめた。 「いま、ローラがきているのだ。ぼくをさがしているのだ」と茂は思った。 それから、チャイニーズ・ボーダーが分かり、タトパニの宿がみえ、女主人が食事の支度をつづけていた。河の上流の温泉で、ぼうっと突っ立つ、茂が目に入った。 「ああ、あそこにいる」 そう思ったとき、大鷲ではなく茂だった。 ざわざわという、ポテクシ河の瀬のながれがひびき、鳥のさえずりが聞こえた。裸が寒く感じて、茂は岩でかこまれたアルカリ泉のなかに身体をうめた。風が、森の木々を震わす音がした。雲が足早にながれ、むかいの崖には多くのヒルがぶらさがっていた。静かで、おごそかな時間だった。この世のあらゆるものが生きていると感じられる、そんなときだった。 茂が、タオルを肩にかけて宿にもどってくると、「どうだった」と広間で寛いでいた裕明が聞いた。 「いい、湯加減だったよ」 彼は、なにかを考えながら答えた。 「食事がすんだら、おれも一風呂あびてみるか」 裕明は、いった。 「朝食の用意ができた」と女主人がつげた。 ラマ僧もきて、三人揃って食堂で食べた。チャパティーと、トマト入りのカレーがわずかについていた。チャイを飲んだあと、ラマ僧が席を立とうとしたとき、 「聞いてもらいたい話があります」と茂はいった。 「なんだい。それじゃ、あちらで話そうか」 「おれは、いてもいいのかな」と裕明がいった。 「かまわないよ」 それで三人で広間にいき、昨晩と同様、裕明と茂はならんですわり、テーブルをはさんで海源とむかいあった。 「今朝、風呂にいってみたのです」 「気持ちが、よかっただろう」 「ええ、とっても。裸になって温泉に浸かったとき、感じたのです。ぼくをとりかこむすべてが、優しく懐にいだく奥ぶかい山、香りをはなち密生する森、せせらぎをのこしながれる河、髪を揺らしていく風、それら全部が生きている感じで、清々しく広々とし、なんのわだかまりもなく、それで大空をみあげたのです。素晴らしい、雲ひとつみえない青空だったのです。そのとき、青にきらめく大鷲が、空のなかにとけこんでいるのに、とつぜん気がついたのです。眩しいほどに輝く、猛烈に大きな、真っ青な色の鷲でした。羽を思いのままにひろげ、悠々と大空を飛んでいたのです。こんな大きな鷲が、それも、空とおなじ色の大鷲がいるなんて、考えたこともありませんでした。いままで気がつかなかっただけで、まえからずっと飛んでいたのかも知れません。その鷲がとつぜん、ぼくにむかってきたのです。考えたこともない青い大鷲で、羽をいっぱいにひろげると空全体が覆いつくされました。鷲は、空でした。大空は、大鷲だったのです。空と鷲は、もうふたつに分けることができなくなり、おなじひとつのもので、それが猛烈な勢いで、ぼくに襲ってきたのです」 そう茂が話すと、「ほう」と海源は、興味ぶかそうにいった。 「大鷲はぶつかり、身体をすりぬけていったのです。そのとき、ぼくは鷲にのっていました。大鷲は、どんどん空にのぼり、ヒマラヤが、パミールの高原が、やがて地球がみえました。気がつくと、ぼくは鷲でした。銀河の果てまでいき、無数の蓮華世界をみた気がしました。そこには、数多くの仏がいると感じられました。それからもどってきたのですが、途中でストーン・ロッジにきたローラをみかけました。彼女は、ぼくをさがし、みつからないので、今日、帰るといっていました。会いにいかなければならないと思います」 茂は、話した。 「ローラとは」 海源が、聞いた。 「ストーン・ロッジで、ある女性と恋に落ちました。結婚を、誓いあいました。彼女はオーストリアからきて、親が決めた婚姻を拒否して、カトマンズまで逃げてきたのです」 「オーストリア人のローラか」 海源は、ゆっくりとくりかえした。静かな考える時間があって、「それでなぜ、君は結婚しなかったのか」と聞いた。 「父親が、つよく反対し、家柄もお金もない、どこの馬の骨とも分からない男に最愛の一人娘をやることはできないと。それに、日本人は生理的に嫌いなのだといっていました」 「うーん、なるほど」 その言葉を聞いて、海源は小さく唸った。 「そういうことか」 海源は呟くと腕ぐみをして、眉間に皺をよせて考えはじめた。やがて、「母親は、なんといっていたのか」と聞いた。 「母のジルヴィアは、好意的でした。最初はとても喜んで、祝福してくれました、最後にふたりで話をしたときには、彼女がなにを、どう考えているのか、よく分かりませんでした」 「ローラは」 「カトマンズでは、もう会えませんでした」 「なるほど、そういうことか。それで、チャイニーズ・ボーダーにまできたわけだ」 海源は、そう独りごちた。 「大鷲は、なんだったのでしょうか」 「菩薩だろう」 海源は、ぼそっと答えた。それからやや間があって、茂をみてゆっくりと話しはじめた。 「ひげ鷲は、観音菩薩の変化(へんげ)だろう。菩薩は、さまざまな形で私たちの目の前にあらわれることができる。観音は慈悲の心を起こし、そうした象をとられたのだろう。霊鷲山(りようじゆさん)は王舎城にある小だかい山で、般若の教えはここで説かれた。この山は、鷲峰ともよばれ、もともとの語意は、はげわしだ。君は、菩薩によって導かれたのだろう」 海源は、いった。 「夢では、ないのでしょうか」 「あらゆるものは、夢物語だ。すべては仮であり、因縁がうみだした仮有(けう)なのだ。因は、私にあるのだ。なぜ、そのことに気がつかなかったのだろうか。そうだったのか。それで、私たちは出会ったわけだ。ポカラで会い、曼荼羅の話をした。ストーン・ロッジでも遭った。そこで、気がつきべきだった。それで昨日、べつべつのふたりである君たちに出会って、菩薩はもう一度機会をくれたのだ。なぜ、私は、分からなかったのだろう。心をたたかれているのに、くりかえされたことに、どうして気がつかなかったのだろう。それでも分からない私に、観音は大慈悲をもって君のまえに大鷲としてあらわれ、つげさせたのだ」 ひと言ずつ、かみしめて海源は語り、左の手で右の手首にある金の腕輪をつかんでから、目をつむり首をかしげ、ながいこと考えていた。 なにをするのかと茂がみていると、彼は両手で印契(いんげい)をむすび、真言をとなえはじめた。やがて一心不乱に変わって、三摩地(さんまじ)に没入した。 その様子をみていた茂は、しだいに不安になってきた。 「海源が、徳の高い僧なのは分かった。仏教哲学も充分にもっていて、信心も並の僧以上であるのは間違いなかった」 しかし、こうひとりで「境地」に入られては、もういっしょにお祈りするしか手立てがないと思われた。 「なんとか、しなければならない。ローラは、ぼくをさがし、みつからなければ、今日にでも帰るつもりだ。また会うのは、きっと困難だ。なんとかしなければならない」 茂は、不安な面持ちで海源をみた。その気持ちは、裕明にも分かった。 「海源さんは、なにを考えているのだろうか。茂の話が、いま実際に起こっているのなら、なにもしないわけにもいかないだろう」 裕明も、思った。 ふたりの不安をよそに、海源のマントラは、延々とつづいていた。ただひたすら呟きが聞こえ、それでも待ったが、もうその真言は、いつ果てるともまったく分からなくなっていた。 「茂。カトマンズにいこう」 とつぜん、裕明がいった。 もうこれ以上、海源の世界につきあっていられそうもなかった。それでも真言をとなえつづける彼をみて、ふたりは立ちあがろうとした。 「待て」 そのとき、海源がいった。 「大丈夫だ。安心しろ。会うことができる。用意は、ととのった。ローラの真意をたしかめ、あとは菩薩のご指示にしたがえ。支度をしろ。バンがくる。それで、カトマンズにいこう。約一〇〇キロの道のりだ。四時間もあればつく」 「飛行機の出発の時間が、分かっているのですか」 茂は、たずねた。 「知らない」 海源は、眉間に皺をよせたままいい、首を振った。 「出発の時間がどうであっても、いまは、海源さんのいう通りにするしかない。いこう」 裕明が、うながした。 「できるかぎりのことを、してみよう。それでもだめなら、オーストリアにいけ。いっしょにいってやってもいい。それしかないよ」 「よい友だちをもったな」と海源は口にした。 「大丈夫だ。カトマンズで会える」呟いてうなずき、 「なぜなら、飛行機は飛べない」と静かにいった。 「えー」 ふたりは、顔をみあわせた。 「まさか。でも、やるかも知れない」と茂は思った。 「あの真言は、そういう意味だったのか」 信じられない気持ちでいっぱいだった。 バンは、順調に走りつづけていた。バラビセからの客をのせてきた運転手に、海源は、カトマンズにできるだけはやくいって欲しいとつたえた。ドライバーは快くひきうけ、バンは「カトマンズ特急」になり、一直線でトリブヴァン国際空港にむかっていた。 トリブヴァンにちかづくと、海源は「これを君にあげよう」ととつぜんいい、自分の右手首にあった金色のブレスレットをはずし、茂に手渡した。それは女物にもみえるほそくて小さな輪で、彼の手首にあつらえたように思えた。茂も痩せていたので、いわれるままにつけてみると、なんの抵抗もなく右手に収まった。 「それは、大切なものだ。私の青春の、すべてといっても過言ではない。しかし、いまは君がもつほうがいい。私は出家して必要もないのに、すてられずにこまっていたのだ。きっと、いつかどこかで、入り用になると確信していた。こういう形のものであるとは、知らなかった。だから、もっていてよかった。すべては、観音菩薩の慈悲によるものだ。そのときに必要な者が、それをもてばいいのだ。とくに、未練のあるものではない」 「そんな大切な腕輪を、いただいていいのでしょうか。高価そうなものだし、どこも剥げてもいません。ほんとうに、すべてが純金製ではないのでしょうか」 茂は、右の手首につけた腕輪を、まわしてみながらいった。 「価値は、人によっているのだ。この世にあるものは皆、おなじ値打ちをもっている。どの人も、仏性をうまれながらに備えているように。えるためには、うしなうものがなければならない。獲得と喪失は、おなじことだ。そこには調和がある。関与するみんなが、自分のもつ執着をすてなければ幸せにはなれない」と海源はいった。それからまた考え、 「こうした、否定の言葉ではない。執着がなくなれば、幸せになれる。それを知ることができる、というべきだろう」と訂正した。 「国際便だ」海源は運転手に話した。 「あの通路から、直接飛行場に入れ」 「ずいぶん、大胆なことをするな」と茂は思った。 飛行場への入り口には、警備員がいた。海源が何事かを話すと、ガードマンは、いくつかの飛行機のうちのひとつを指さした。 「あそこだ」と彼はいい、運転手にそこにむかって真っすぐにいく指示をだした。 警備員は、飛行場への不審車両の侵入にたいして警告どころか協力をしていた。なにを警備するつもりだったのか茂には分からなかったが、もう、世界にとって些末な問題に変わっていた。 三、イヴォー・マンデルハイム 「もう一度、考えて欲しい」 ジルヴィアが、切々とうったえて、泣いている。 「ふたりを割くことは、だれにもできない。あなたと私を、時代も、世間も、分けられなかったのとおなじ。私たちが想像もできないつよい糸で、あのふたりはむすばれているのよ。私は、それをみたのよ。お願い、考えなおして。ふたりを、べつべつにしてはいけない。それは摂理に、仏の教えに反すること」 「あなたがゲルマンで、私がユダヤ。そして、茂がジャパニーズ。それが、人のなにを規定しているの。あなたがアーリアで、私がセム、そして茂がモンゴロイド。人種も言語も違うというけれど、それは望んだのでもないし、えらんでうまれてきたわけでもない。イヴォーが話していた。思いだして。民族も、人種も、国家も、人同士を戦わせるためにつくられた考えだって、あんなに話してくれたじゃない」 「イヴォー。そうだ、どうしているのだろう」 フリードリヒは、彼を思いだした。ダラムサラで子供を教えるといって別れたときを。あの最後の日を。ああ思いだす。ながれていった月日、走馬灯がまわりだす。輝きながら、影をつくりながら。 ウィーン、ブハラ、カトマンズ。 ローラは、部屋にとじこもり、食事もとらずに泣きつづけている。 「これは、因縁なのだ」 フリードリヒは、回想していた。三〇年以上もまえに、おなじ若い美しい女。ローラにそっくりな女性が、嘆き悲しんでいたことを、ありありと思いだした。 ウィーン、WIEN フリードリヒがみたのは、怯えたジルヴィアだった。ひざまずき、真っ青になって震える彼女のまえに母のナタリーが横たわっている。石づくりの家が立ちならぶ石畳の道には、母親の頭からながれでた赤い血がしたたり、ガラスの破片が散乱している。 だれも、よっていかない。 ユダヤ人の住宅がある地域。街をつくる、その部分が破壊されていた。略奪され、傷つけられ、殺されている。夜空に煙と炎があがる。消防のサイレンが、くりかえし鳴っている。頭が割れる。騒音がひびきわたる。悲鳴が聞こえ、群衆がうごいている。若い男も、年寄りの女もいる。斧を手にして、鉈をもって、住居の扉をやぶり、商店のガラスを割っている。だれも、ジルヴィアのことなどかまっていない。傷つき横たわる女に、手を貸す者はひとりもいない。だれも助けようとしない。ユダヤの会堂が壊される。たくさんの血がながれ、サイレンの高い音がひびく。耳をつんざく悲鳴。ガラスが割れ、世界が壊れ、夜空に月が輝いている。 ふたりは、冷たい空間のなかで孤立している。まわりのうごきとは対照的に、ジルヴィアとナタリーのいる場所だけが切り離され、浮かび、凍りついている。 空が、赤く染まっている。どこも、かしこも。煙があがり、街中の消防のサイレンがひびきわたり、居住地の中心にあるシナゴーグのファザードがたたきやぶられ、椅子がひきずりだされ、壊されている。会堂のまわりの病院や、宿屋や、浴場が破壊され、さらにとりまく商店や住居が襲われている。昨日までいっしょに仲よく暮らした者たちが、斧をもってわめいている。割られたガラスが道をうめつくし、そこに月の光があたり、きらめく。炎が燃えさかり、鏡になって、また火炎を輝かせる。 クリスタル・ナイト。 病室にはこばれたジルヴィアの母、ナタリーは、ベッドのうえでタルムードを読みながら泣きつづけた。そして、そのまま死んだ。 父親は、もどってこなかった。 フリードリヒの父、カール・バルデンシュタインと、ジルヴィアの実父、デイヴィッド・ガールフィンケルは、どちらも、おなじ銀行業をしていた。第一次世界大戦の敗北と、うちつづく世界恐慌のなかで多くの金融機関が整理されていったが、彼らの銀行は幸運にものこっていた。ふたりはふるくからの知りあいで、両家はながく家族ぐるみのつきあいがあった。そうした環境は、いつしかフリードリヒと、ジルヴィアに、たがいを思いあう気持ちをいだかせた。 大戦後の不況とナチスの台頭は、裕福なポーランド系ユダヤ人の銀行家、ガールフィンケルとその家族に、暗い影を落としはじめていた。やがて隣国ドイツでは、ゲルマン民族とユダヤ人との婚姻を阻む法案が可決され、両家の行き来も途絶えがちになっていった。こうした社会のうごきは、かえってフリードリヒの気持ちをジルヴィアにむかわせた。 当時のウィーンには、一七万のユダヤ人が住み、人口の一割をしめていた。そのなかに、イヴォー・マンデルハイムがいた。彼は、ポーランド系ユダヤ人で、歴史学者であり宗教学者だった。もともとは、ベルリン大学で教鞭をとっていた。一九三〇年ころにウィーン大学に転籍し、インド哲学の講座をひらいていた。反ユダヤ主義の風潮がつよまるなか、彼は一般学生を対象に、「インドの仏教思想」という教養課程の授業をもっていた。 あるとき、ひとりの学生がイヴォーをたずねてきた。ブロンドの髪をして、細面で碧い瞳をもっていた。眉がこく意志的で、目の彫りはふかくて鼻は高く、あきらかにアーリアと思われる長身の青年は、イヴォーが講義で話した、 「キリスト教は、不都合な、あらゆる異端を排斥してきた。しかし、仏教は、すべての異説を許容する。西洋思想がどうやって切りすてるかを考えるのにたいし、インド思想ではどういうぐあいに容認するかを追求する。なぜならインドにおいては、不都合な現実こそが、カルマであり、自分がうまれた最大の原因とされたからだ。不合理をみとめることこそが、生をえた前提とみなされたからだ。受容こそが深洋の真髄である」という言葉についてたずねた。 そしてヒトラーの問い、偉大なゲルマン民族の問題、とりわけ、アーリア人とユダヤ人のあいだの感情について質問した。 「あまりにも非常識で、異様で、到底まともには考えられないこと。それだけに、民族とか人種、主義という言葉は恐ろしいものだ」とイヴォーは話し、注意ぶかく青年の話を聞いて、そのあとでいった。 「質問は、いわゆるアーリア人と、ユダヤ人の恋愛に関する問題なのだね。つまり、君の身に起こっていることなのだね」 青年は、大きくうなずいた。それがイヴォー教授とフリードリヒのはじめての会話だった。 彼は、その後もイヴォーをくりかえしたずねた。教授が三〇年代のなかば、ネパールのカトマンズにうつりすんだあとも、幾度も手紙をおくった。返信は清書され、丁寧な字でかかれていた。 「地上のどこにいっても、ユダヤ人は暮らしている。これほど、世界にまきちらされた民はいないだろう。くりかえし起こった大虐殺。十字軍、ペスト、反宗教改革。理由は、なんでもよかった。いずれにせよユダヤ人は追われ、目印として売春婦とおなじ黄色のスカーフをつけさせられ、家畜の税を払わされ、せまいゲットーにとじこめられたのだ。すこしでも迫害のない場所をさがし、ときとともに移動し、世界中にちらばったのだ。不動産の所有を禁じられた彼らが、逃げるのに都合がいい金融業や宝石商になり、手織り物の技術や医学の知識を身につけようとしたのは、とうぜんの成り行きだった。迫害のあいだのみじかい平和、ユダヤ人は高い能力によって財産をつくり地位をえた。それは、嫉妬をうみ、さらに虐げる原因となり、彼らの富の再分配が好ましいと思う人びとによって、その方針は、理由をつけられ実行されたのだ。だから、くりかえされた迫害の根はふかい。新大陸でも、おなじことが生じたから、ふたたび起こる可能性は否定できない。忌まわしい賤民、パリアであるユダヤ人への迫害は、主にユダヤ教という宗教が問題にされた。ところが今回は、人種をテーマにしている。もともとは、セムだとはいっても、ユダヤ人という種族は、ほんらい存在しないから勝手な線引きがされる。宗教が問題とされたから、彼らは二〇〇〇年にわたって改宗と混血をくりかえしてきた。いま、ユダヤ人種が争点と叫ぶ人びとは、いったいどういう最終的解決を、想定しているのだろうか。考えると、恐ろしいものだ」 「インド大陸には、紀元前よりユダヤ人が住みつき、信仰をつづけている。迫害の記録はまったくなく、おそらく今後もありえないだろう。ネパールは、ヒンドゥー教国だが、インドとおなじく宗教には寛容だ」 「日本軍がいかに強力で、どれほど兵を鍛錬しても、ビルマ国境の熱帯雨林の森をぬけて攻めてくる事態は考えられない。ボルシェビキが、たとえいっそうの勢力をきずき、さらなる狂気にナチスがとりつかれても、ヒマラヤを踏破するのは無理だろう。ネパールは、天然の要塞で、世界でもっとも安全な場所だ。それは、ユダヤ教徒にとっても、アーリア民族にとってもおなじことだ」 まんまんと水量をたたえて、大都会の真ん中をゆったりとながれるドナウ。両がわにはずっと堤防がつらなり、法面に生えた草も枯れている。石でできた冷たい人工的な街。もう、雪がちらついている。かけられた、ひろくてながい石の橋。夜も更けた舗道には、行き交う車もまばらで、歩く人影もほとんどない。みぞれがまじった風が吹いている。暗い街灯に照らされた欄干によりかかり、涙ながらに逃避行を決意した、ふたりの夜を思いだした。鬼がつながれる暗闇のなかで、目指そうとするのは絶望的に遠い場所。まわりにいる人びとの、ひそひそ話、せまってくる敵の足音。世界は、ふたりを押しつぶそうとしていた。 時計台の鐘が、ひびいている。街中にひろがっていく。上部の四面に時計がある、石づくりの塔。青白い月の光をあびる頂は、一本の尖塔となり天にむかってつきでている。すこしでも、神の恩寵に触れようとしている。高い時計台の鐘がなる。世界中にときを知らせながら、ふたりの決意を祝福しながら。 あの場には、世界にフリードリヒと、ジルヴィアしか存在していなかった。頂を万年雪に覆われたアルプスが、遠くからふたりをみていただけだった。 ブハラ、BUXORO ひろい草原をぬけてきた。大きな河をわたって、またステップと沙漠をこえてきた。風が通っていく。その日、はじめて南風が吹いた。馬糞を飛ばすつよい風で、ジルヴィアのコートはひらひらと舞っていた。気持ちがよくて、思わず襟をあけて、上着を思い切りひろげ、南風をかかえてふくらませたい。こんな開放感を味わうのは、はじめてだった。 交差点の赤信号で待っていると、ムスリムの若い男がフリードリヒにむかって会釈した。彼は振りかえり、だれもいないことを確認すると、つれだつジルヴィアをみた。不審げなフリードリヒの瞳に、彼女は囁いた。 「ベルボーイよ」 今朝、ホテルに入ったとき、不意に飛ばされた、洒落た紅い紐がついたジルヴィアのお気に入りの帽子をひろって手渡してくれた者だった。なるほど、そういわれれば。今朝、背の高いガラスの扉をあけ、重たいボストンバッグをはこんでくれたときは、赤色の制服をきていたと、フリードリヒは思った。 「やあ」と彼は、若い男にいった。 「すいません」 男は、申しわけなさそうな表情になった。 「食事をしようと思うのだが、どこか、おすすめはあるかい」 「ホテルがいちばん安全で、おいしいですよ」 「きっと、そうだな。夜は、そうしよう。でも、ようやっと町についたんだ。歩いてもみたいし。この街には、あるのじゃないのか、ホテル以外にも安全でうまい店が。どうだいいっしょに食べないか、通訳もして欲しい」 「ヨーロッパから、きたのですか」 「そうだ、バスにのってながいことね。気が滅入るほどね。でも、ほかにどこからくるっていうのかい」 「ここには、世界中から人が来訪します。トルコ人に中国人、インド人、それに、アフガン人も、タタール人も商売をしています。もちろん、ウズベク人が中心ですが、ロシア人もおおぜいいます」 「たしかに物騒だ」 「英語を話すものは、けっこういますよ。通じないところは、危険でしょう」 「君なら喋れる。言葉はトルコ語かい、それともアラビア語、いやペルシア語、もしかしてロシア語なのかい。これも縁だ。観光ガイドとして昼飯代は払うから、どこかでいっしょに食事をしよう。面白い話でもあれば、聞いてみたい。あたらしい土地についたんだ。新鮮な話を、聞いてみたい」 若い男は、ずいぶん考えていたが、やがて案内するといって歩きはじめた。大通りから路地にまわって、いくつか角をまがって、石畳の小路をだまってすすんでいく。ジルヴィアがフリードリヒの袖をひいた。心ぼそい表情で彼をみた。 つれられて入ったのは、大きな店ではなかった。食事時をすぎていたが、店内にはそれなりに客がいた。知らない言葉を、ベルボーイは店の主人にむかって話すと、ワインと羊の肉料理がでてきた。スパイスが利いた絶品だった。ウィーンを発ってからホテルをわたりついできたが、旅のなかでいちばんうまい料理だった。ふたりは、満足した。ベルボーイは幾度も注文をつげ、テーブルにはけっこうの量の皿がつみあがり、ワインの空き瓶が二本ならんだ。ながい昼食が終わって、勘定書きがでてきた。ベルボーイからわたされた紙切れをみて、フリードリヒは首をかしげて聞いた。 「単位は、なにかな。ポンドかい」 「いいえ。もし、その数字の一〇分の一のポンドでもだしてやったら、主人は大喜びするでしょう」 フリードリヒは、思案しながら一ポンド紙幣を三枚わたした。店主は、深刻な表情になって、じっとお札をみつめていた。ベルボーイが、なにかをいった。主人は、天井を仰いで叫び声をあげ、彼にだきついた。それから、なにかをいった。 「どうしたんだ」 「すこしだけ、待っていてもらいたいのだそうです」 ほどなく主人はやってきて、フリードリヒにワインのボトルをさしだした。ベルボーイが解説した。 「店で最高の、ボルドー産の白ワインだそうです。ぜひ今夜、ふたりで飲んで欲しいのだそうです」 フリードリヒが右手をさしだすと、主人は力いっぱいにぎり、店の外まで見送った。店主の家族も、ぞろぞろとあつまってきた。一〇数人はいたが、彼らは全員でふたりの旅の幸運を祈ってくれた。 「土産物でも、買いませんか」 店をでると、ベルボーイはいった。 フリードリヒは、考えた。今日の食事は、いい思い出になった。腹は満ちたし、小さく凍えていた心までが、つよい南風で柔らかく温められた。せっかくの楽しい思い出を、大切にしたい。いい記憶を、つくっておきたかったのだから。これでもう充分だし、ここで不愉快なことがあれば、もったいないだろう。 「荷物になるから、土産はいい」 「そういわずに、いきましょう。親父が、店をやっているのです。きっと、気にいるものがあります。記念になるから、買ったらいいですよ」 「また、旅にでるんだ」 「おくらせます。大丈夫です」 「遠くにいくんだ」 「大丈夫ですよ。みんな、そうなのですから」 フリードリヒは、困惑した。 「どうしよう」 「面白そうね」 ジルヴィアは、わくわくしながらいった。 どこを、どう歩いたのかは分からないが、石づくりの家並みがつづいていた。まわりとなにも変わらない家のまえでとまると、ベルボーイは、どんどんと木製の扉をたたいた。しばらくすると、黒いヒジャブを巻いた老女がでてきて、彼が何事か話すと、ふたりは招きいれられた。部屋は、薄暗くて静かだった。ベルボーイについて、せまい石の廊下を歩いてゆき、入り口とはべつの扉からでて、あきらかに違う建物に入った。冷たい感じのする石づくりの通路をすすみ、階段をおりた。静かで、自分たちの足音だけがひびく石段をのぼった。すると中庭にでた。横切ると、やはり石でできた平屋の建物があって、扉をあけてなかに入った。そこには家の主人と思われる、クーフィーヤをつけた年寄りがいた。 ベルボーイは、ちかくにあったテーブルのまえにおかれた椅子にふたりをすわらせると、家主と話しあっていた。 チャイが、はこばれてきた。 ふたりは、食後のうまいお茶を飲みながら、このわけの分からない状況をどう理解し、対処したらいいのか、と小声で話しあっていると、主人がやってきて、名刺をさしだしながら、にこやかな表情で話しだした。思いがけない、流暢な英語だった。 「話は、だいたい聞きました。ぜひ、みていってもらいたいのです。私の祖先は、この街で代々、家具を売ってきました。最高の品を、用意しましょう。ぜひ、気にいった商品をえらんで、買っていってください」 フリードリヒは、ジルヴィアとみつめあった。やや間があって、彼はいった。 「私たちは旅の途中で、この街に立ちよっただけなのです。遠くからきて、遠方へいくのです。明後日には、街を発つつもりです」 「ジェラールから、聞きました。いいでしょう。さあ、みてください」 主人はそういって、目の前にあったカーテンをさっとあけた。そこには、さまざまな家具がおかれていた。 「さあ、立ってください、若くて、美しい奥さん」 主人は、手をとってジルヴィアにうながし、なかにすすんだ。 「ジェラールは、今朝、あなたに会って、一目で夢中になってしまったのです。もう一度、そばでみてみたい。これは、普通の望みです。彼の希望を、アッラーは叶えてくれたのです。交差点で、あてもなくじっと待っていたら、また、そばでみることができ、なんと食事までご馳走になってしまいました。彼は、感激しています。アッラーに感謝しているのです。それで異国のヴィーナスに、この土地と彼のことを一生覚えていてもらうために、特別になにかを売れと、私にいうのです。シルダリアとアムダリアにはさまれた、聖なるソグディアナの地で、先祖代々、商売をやってきました。私だって、あなたになにかを気にいってもらって、必ず売ってみせます。どうです、みてください、この絨毯。素晴らしい。ペルシアの皇帝も、つかっていました。後宮の女たちが、このうえで腰をくねらせ、王を欲情させたのです。こちらの量感のあるのは、いかがですか。これも素晴らしい。明朝からの要請で、北京に一〇〇〇枚とどけたことがあります。ソグディアナのフタコブラクダがすべてあつめられ、街中の男が、キャラバンをくんだのです。その隊列は、延々と一昼夜もつづきました。半年をかけて、はるばると沙漠をわたった絨毯のうえには、紅、白粉で化粧をし、絹の衣で着飾った美しい女官たちが横たわったのです。彼女たちは、そうして食事を待ったのです。紫禁城は、たいへんな賑わいでした。ひとりの天子さまにお仕えするために、なにしろ宮女が九〇〇〇人、宦官が一〇万人、住んでいたといいます。ですから、綿密にくまれた食事の配給計画が、ちょっとした手違いでとどこおったりすると、もうたいへん。王宮のなかでは、飢えて死ぬ者が続出したのです。だから、すこしでも体力をつかわないことが、真剣にもとめられたのです」 「こちらは、最高のベッドです。すわってみてください。素晴らしいでしょう」 「凄くいい弾力だわ。固いし、大きいし」 ジルヴィアは、すわって腰を何度かうごかした。 「素晴らしい。その腰のうごき、ご主人を悩殺できる。ぜひ、ベッドで再現するべきです。このキングサイズのブハラの寝台は、ティムール陛下の息子、シャーブルの妃、ゴーハン・シャードが愛用したことで有名です。もともとは、アレクサンドロス大王の、お気に入りだったものなのです。大王は、マケドニアから起こって小アジアを平らげ、ペルシア帝国をやぶり、バクトリアまできて、バクトラで、あなたと瓜ふたつの輝く美しき娘、王女、ロクサネを手にいれました。人間の歴史とは、勇者と傾城の美女の物語です。大王は、そこからアムダリアのむこう、聖なるトランスオクシアナ、マーワラーアンナハルまできて、ロクサネと愛の日々をすごしたのです。そのときつかったのが、このベッドです。だから、これは、約束されているのです。ご主人に存分に可愛がられて、くりかえしおとずれるエクスタシーにつつまれることを」 「面白い話だ」 フリードリヒは、いった。 「その話がほんとうなら、ぜひとも買いたい。このベッドで、家内と大王の約束を果たしたい。心からそう思います。しかし、問題があるのです。先ほども申しあげましたが、私たちは旅の途中で、絨毯一枚だってもっていくことはできないのです」 「人もうらやむ、ヴィーナスのご主人よ。この女神のためなら、いったい、それがなんの問題になるというのでしょうか。ご主人、世の中の人は、だれもが誤解しています。ローマ帝国、ペルシア帝国、ムガル帝国、清帝国が、世界の中心だと信じています。そうではありません。世界の中心は、アムダリアの北、聖なるソグディアナにあるのです。みんなが辺境だと信じているこの地こそが、地球の文明のすべてをみてきたのです。私は、北京にもロンドンにも、いったことがありません。でも、そこがどういう町で、どんな政治が行われるのか分かっています。なにがよくて、どういった問題をかかえるのか、よく知っています。ここには、すべての情報がながれてくるのです。私たちは、時代も洋も問うことなく、たくさんの人をみてきました。だからあなたがたが、どういう方で、なんのために、ここにいるのかも分かります。エリザベス女王だって、ポルトガルからの船にのってアムステルダムを目指していた若くて美貌のマリアをみれば、すぐにすべてを理解したのです。うらやましい、傾城のご主人。あなたがこのベッドを欲しいと思えば、買えるのです。私たちは、世界のどの地にでも商品をおくれるのです。あなたがたの終着地は、どこですか」 「ネパール王国です」 「ネパールのどこですか」 「カトマンズです」 「それは、好都合だ。やはり大王は、約束を果たしたがっていると思われます。カトマンズには、妻の親族が住んでいます。必ず、おおくりしましょう。代金の半額を、前払いしてください。のこりは、商品をうけとったときに」 「ネパール人は、ヒンドゥー教徒ですよね」 「一般にはそうですが、家内の親族はチベット仏教徒です。妻も仏教徒でしたが、私と結婚したのでイスラム教徒になったのです。パミールより東は、チベット仏教を信仰している者が多く、西がわは回教徒がほとんどです。ここの地は、もともとはゾロアスター教徒の街でした。宗教は違っていても、いつでも敬虔な信徒です。それがいまは、つべこべいう奴がいて」 「そう、ここは、ソヴィエトですよね。以前してきた好き勝手な商売は、できないのではないですか」 「たしかに、やりにくいことはあります。ご心配なさるな。彼らがしたのは、ほうっておけばいいものを、さんざんにいじくりまわして、私たちが食べる分の牛と羊をへらしただけです。なんでも、マルクスの教科書には、遊牧民のことまでは、かいてなかったという話です」 「今日、ジェラールは、久々に腹いっぱい羊を食べたといって満足しています。世界がどう変わっても、私たちは約束をまもります。そうした信用がなかったら、東の果てからきた注文を、西の端までとどける商売が、どうしてできるでしょうか。ボルシェビキは、うまれてせいぜい五〇年ですよ。私たちは、ここで一三〇〇年間、商売をつづけてきたのです。イスラム商人のまえには、この地では、二〇〇〇年にもわたってソグドの商人たちが、おなじ商いをしてきたのです。運送料は、代金にふくまれています。大丈夫です。カトマンズには、妻の弟の子供で信用のおける男がいます。バスネットと、いうのですが」 カトマンズ、KATMANDU イヴォー・マンデルハイムは、ネパールの国際カトマンズ大学で、歴史学と宗教学の教鞭をとっていた。一九六〇年の夏にむかうころ、カトマンズには清々しい風が吹いて、山々は新緑に色づいていた。フリードリヒは、イヴォーを自宅にまねいて食事会をした。 「チベットは、なぜ、こんなに標高があるのかしら」 ローラは、地図をみながらいった。 「いい質問だ。ローラ。その話をしよう。さて地図帳で、チベットのページをみてみよう」 ローラは、地図をめくってイヴォーにみせた。 「これは、インドのものだ。だからチベットは、右のうえで切れている。こちらは、中国の地図だ。だから、西がわがない。ロシアのものもあるが、崑崙より南は切れている。ローラ、どうして、こんな地図しかないのだろう」 「チベットは、端っこにあるのかしら」 「そうだ。ローラ、その通りだよ。チベットは、端っこにある。では、地球儀をみてみよう。これではじめて、チベットを真ん中にすることができる。つまり、ローラの教科書をつくった人たちは、この国を端だと思っていたのだよ。ほんとうは、真ん中にすることもできたのに」 「チベットは、ウ・ツァン、アムド、カムの三つの地方からなる地球最大の高原だ。最大というのは、平均標高が五〇〇〇メートルで、地球上で標高四〇〇〇メートル以上の地域の実に八五%がここに集中する事実をさしている」 「うごいてきたインド大陸は、ユーラシア大陸とぶつかってひとつに融合した。超大陸パンゲアから分かれた九個の大陸が、つぎつぎに衝突し複合したユーラシアは、二億年まえにできた若い大地だった。辺縁部のプレートは柔らかく、インドがユーラシア大陸にぶちあたると、しずみこむ以上に突き刺さったのだ。その結果、衝突部分ではつよい褶曲が起こり、ヒマラヤ山脈が出現したが、北がわのチベットでは地殻が二重になった。崑崙山脈、祁連山脈にいたる、地球ではほかに例をみない通常の倍、七〇キロメートルの厚い大陸地殻をもつ、広大で平坦な高原が形成された。これがチベットだ。話は、まだまだつづく。この影響は、タクラマカン沙漠、ゴビ沙漠へとつらなっている。これらの盆地は、平均標高が一〇〇〇メートルを優にこえている。沙漠の北は、標高一〇〇〇メートルのモンゴルの草原がつらなっている。インド・プレートはユーラシア大陸を、北方に優に二〇〇〇キロ以上貫入し、バイカル湖でようやく大地の下にしずみこむ。近年、アラル海やカスピ海、黒海が、主に上流からながれてくる土砂のせいで浅くなり、消滅にむかうのとは違って、バイカルはいまも成長し、水深はさらに増しているのだ」 イヴォーは、ローラにチベットからひかれている、青く塗られた線を指さした。 「チベット高原からながれだす河は、アジアの全生命を育んできた。黄河、揚子江、メコン、サルウィン、イラワジ、ブラマプトラ、ガンジス、インダス、どれも名だたる大河だ。とりわけカムの地方には、南北に四つの河がながれている。この地の降雨量はすくないが、手つかずの森林があってアジアの水源は、まもられてきた」 「それで先生は、チベットにいってしまうの」 「もっと、若かったらね」 「ローラ、こちらにいらっしゃい。あとは大人の話だから」 ジルヴィアが、口をはさんだ。 ローラが自室にもどると、フリードリヒがいった。 「娘さんのことは、お聞きしました。残念です。なんと、申しあげたらいいのか」 「どういう最期だったのか、知っておくべきだと思ったのだ。それをしらべてやることが、のこされた私にできる、たったひとつの行為だと考えたのだ。はじめから、死んだと思っていた。戦前、ポーランドには、三三五万のユダヤ人がいた。そのうち、二五万人は、ロシアに脱出できた可能性がある。しかし戦争が終わったとき、ポーランドにのこっていたユダヤ人は、五万人あまりだったのだ。でも、しらべてよかった。一九四三年四月一八日から一九日にかけて、ワルシャワ・ゲットーに最後の狩りにきた、ドイツ警察、SS総督親衛隊の分遣隊、砲兵隊にたいし、ユダヤの人びとは、地下組織が調達した武器をとって戦ったのだ。決死隊が手榴弾をかかえて戦車の下にもぐりこみ、爆破させ、一度ばかりか二度までも、彼らを押しもどしたのだ。娘は、機関銃をもって戦った。一六歳だった。なんと、勇敢なことだったのだろう」 「たいへんな時代だったのですね。改めて、お悔やみを申しあげます。そうですか。先生は今年、定年なのですか」 「君たちが去ってしまうと、寂しくなる。すべての身よりをなくした私にとって、君の一家は、家族みたいなものだったから。でも、いい区切りになる。最良のときに海源さんに会うことができた」 「あの痩せた、黄色いチベット僧ですか」 その言葉で、イヴォーはだまった。額に皺をよせ、やがてフリードリヒをみていった。 「君のなかには、ぬけ切れない反ユダヤ主義がある。ときをかけて培われた考えは、簡単にはぬぐえない。ふだんは隠れているが、きっかけがあれば正体をあらわす。君がなにかにぶつかり、その衝突を理不尽だと思い、不合理だと感じたとき、怪物は頭をもたげる。正当化し、証明しようと、最新の学問がつかわれる。すべての知識が、動員される。今世紀は、文献学や人類遺伝学、比較言語学が用いられた。つぎの世紀は、遺伝子工学や機械知能、宇宙生物学が、人種や、民族、国家という言葉を正当化するために、使用されるだろう。つかわれる学問がどんなにあたらしく、方法がどれほど魅惑的にみえても、その根元は、ふるくて腐っている」 「私の、反ユダヤ主義ですか」 「そうだ、君のなかの。それが、ジルヴィアを傷つける。生きのこった者たちには、くるしみがある。ジルヴィアにも私にも、あのチベット僧にも。責任はないが、でも、なにかはできたのかも知れないという焼きごてが、夜中にいつも待っている。君には、またべつのものがあるのだろうが、それは分からない。ジルヴィア、海源さん、私のあいだには、おなじに感じる共通の部分をもち、すんなりと理解してしまう。だから、そのことで、彼女を責めるのは筋違いだ」 「私は、ダラムサラにいく。そこで、輪廻してうまれてきた子供たちに歴史を教えたい。この中央ユーラシアの大地。雪を頂く高い山々や、日がのぼり、しずんでいく果てなくひろがる青い草原。流沙が舞い、命をかけてわたらなければならない沙漠。そうして伝授されてきた、人間の歴史がある。それは、さらにつたえていかねばならない人類の遺産だ」 「観音菩薩のちかくで、生活できるのだよ。おなじものを食べ、いっしょのところに寝て、もしかしたら話だってできるかも知れない。仏教を終生の仕事としてきたのだ。そうしたものにとって、この機会をのがすことはできない。なんとしてでも、たとえそれが困難な道であったとしても、私は、いかなければならない」 「先生も、勇者だったのですね」 「なんだね、それは」 「ブハラの商人が、いっていたのです。人間の歴史とは、勇者と傾城の美女の物語だと」 「なるほど、そうだ。私は、勇者だ。そして、君も勇士だ。生きのこり、つぎの世をきずいていくものは、みんなつわものだ。それに、世界は、美女ばかりだ。だから、われわれには、未来がある」 フリードリヒは、思いだしていた。 「反ユダヤ主義」 「傷つけられる、ジルヴィア」 「責める」 あのときは、なんだか分からなかった。イヴォーがいいたかったのは、ほんとうは違う言葉ではなかったのか。 「すんなりと理解してしまう、共通の部分」 「なんだろう」 それは、悲しく惨めなものからできているはずなのに、好ましいところをひとつもみつけられないことなのに。きっと、激しい言葉や妥協のない拒絶、そうした「いま」をうんでいるに違いない感情。愛でも、憎悪でもないもの。 「ああ、なんということだろう。その感情をいま、言葉にできるのだ。ありありと」 「私が、悪かったのだ。恥ずかしい。そうだ、すべての原因は、私にあるのだ」 「もう、一度カトマンズにいこう。三人で、やりなおそう。なんとか、茂君をみつけよう。できるかぎりのことをしよう」 フリードリヒは、いった。 「ながらく、お待たせいたしました」 高いすき通る女性の声が、苛立ち気味の乗客たちが待つロビーに、アナウンスされてきた。 「計器不良のため、大幅に遅れていました、オーストリア航空、第一四便は、最終調整を終えました。ただいまより、みなさまを機内にご案内いたします」 故障で出発が遅延した飛行機が、ようやく飛ぶらしかった。 時間が無慈悲にたつのを感じながら、ローラは、二度と茂に会えないと覚悟した。ストーン・ロッジには、手紙をのこしてきた。もう彼は、あのホテルにはいかないだろうと、ローラは思った。 愛しい、茂に 父の許しがでて、両親と三人でカトマンズにきています。もう、かなり寒くなっています。 この地で、両親は二〇年暮らしていました。知りあいも多く、ネパールじゅうをさがしましたが、あなたをみつけられませんでした。あのヒッピーにも会えず、病院のカルテに本国の住所がのこっているかと思って、いってみました。自費診療あつかいで、手がかりはありませんでした。 結局、私は、茂のなにを知っていたのでしょう。いったい、あなたとは、なんだったのでしょうか。ふたりでいたときには、すべてが分かった気持ちになっていました。じつは、なにも知らないのです。また、インドにいったのでしょうか。帰国したのでしょうか。二度と会えないのでしょうか。私は、なにもつたえられずに、カトマンズを去ってしまったのです。あなたがストーン・ロッジにきて、マスターに聞いてもらう以外に、私たちが連絡をとる方法はありません。 あんな風にいっぽう的に、父は拒絶してしまったのですから、コンタクトをとっても意味がないと考えるのは自然だろうと思います。 あなたは、ジャパニーズで、法律家を目指している、茂。 そこには、一億の人びとが暮らしている。多くの法学部があり、無数の茂がいるのでしょう。さがせるだけはさがしてみようとは思いますが、いまはとても悲観的です。 私は、だれとも結婚しないでしょう。この手紙が、茂の目にとまることだけを、観音さまにお願いしています。 あなたの、ローラ・バルデンシュタイン 秋も終わるころ、カトマンズにて 「はやく、のぼってください」 そううながされて、最後に、ローラはタラップをあがっていた。その一段一段が、確実に茂との距離をひろげていくと彼女は感じた。とうとう、タラップは終わってしまった。 「ながらく、お待たせいたしました」 扉のまえで、端整な顔立ちの三〇歳をすぎた落ちついた感じの客室乗務員が、ローラに笑いかけた。 彼女は、すこしこまった顔になった。そのとき、車のドアがとじる音が耳にとどき、背後で大きな叫び声を聞いた気がした。ゆっくりと振りかえると、ひとりの男が立っていた。それは、みじかい髪の痩せた男性で、一生懸命、気狂いになって女の名前をよんでいた。 その瞬間の映像が現実のなかで切り離され、目の前にほうりだされた気がした。ローラは、一目散にタラップをおりていった。それは確実に、茂との距離をちぢめていた。 「ローラ」 茂は、大きく叫んで、彼女をだきしめた。 ローラの枯れてしまったはずの瞳から、また大粒の涙がつたいはじめた。それは、無尽蔵にあふれてきた。ひとつひとつが、ヒマラヤの尾根を形づくる雪の結晶に似て、純粋ですき通り、つきることがなかった。 「こまります、はやく、あがってきてください」 女性の客室乗務員は、大声で叫んだ。 「いいんだ。私たちもおりる。すぐに、出発してくれていい」 フリードリヒは、ジルヴィアとならんでふたりでタラップをくだってきた。 「ほんとうに、いってしまいますよ」 乗務員は、大きな声をかけた。 「とても、荷物はおろせません。これだけ遅れてしまっては、そうした時間をとることはできません」 客室乗務員は、タラップをおりていくふたりにむかって大きな声でまたいった。 「いいんだ。むこうの空港に、とめておいてくれ。それが無理なら、すててもかまわない」 フリードリヒは、振りかえっていった。 「これ以上、遅れることはできません」 今度は、機長がでてきてつげた。 「大丈夫だ。もうこれ以上、遅れるはずがない。安心して、飛んでいってくれ。遅れていた原因が、消滅したのだ」 フリードリヒは、いった。 タラップをおりてくると、茂にむかって右手をさしだした。彼は、その手をつよくにぎりしめた。フリードリヒは、さらに力強くにぎりかえした。握手が終わると、ジルヴィアは、茂を抱擁して彼の頬にキスをした。 飛行機の扉がしめられ、タラップが移動をはじめた。飛行場の真ん中に立つ四人をのこし、轟音を発しながら、ゆっくりとうごきはじめた。空港職員が、飛行機をぼうぜんと見送る彼らにむかって、走りよってきて案内をはじめた。 茂が気がつくと、海源をのせたバンは、もういなかった。 「三台も、のり変えたのよ。どの飛行機も、そのたびに計器がまったくうごかなくなっておろされたの。偶然でないって、信じていたわ。一〇時半の出発予定だったのよ。離陸するのに、五時間以上もかかったのよ」 フリードリヒが用意させた待合用のひろいレストルームで、ローラは真剣な表情で話した。 「君が、きてくれてよかった」 彼は、いった。 「娘に一生、恨まれるところだった。これで、孫の顔をみることができる。大きな希望がうまれた」 「ほんとうに、よくきてくれたわ」 ジルヴィアはそういって、茂の腕を優しくにぎった。そのとき、彼女は驚いた表情になり、顔をあげて彼をみつめた。 「このブレスレットは、どうしたの」 「ある人から、もらったのです。まるで、あなたのブレスレットとお揃いでつくられたみたいに、よく似ていますね」 彼が答えると、彼女はいっそうけげんな表情になり、 「みせてもらえますか」と聞いた。 フリードリヒも、ジルヴィアも、茂が腕輪をはずすのを、みつめていた。右の手首からとったブレスレットを、彼女は大切そうに手にし、じっとながめていた。 小物いれのなかから、柔らかなクロスをとりだし、腕輪の内がわの部分をこすっていたが、様子は、しだいに真剣に、最後は一生懸命になった。しばらくして布をおくと、ジルヴィアはフリードリヒをじっとみつめて、「あなた」といったが、その声は震え、瞳がうっすらと濡れて光ってみえた。 彼女からわたされた金のブレスレットを、彼は手にとり、眼鏡をはずし、内がわの部分を凝視した。 「なんて、ことだ」 フリードリヒは、胸奥からでた、押し殺したひくい声で絶句してジルヴィアをみつめた。ふたりは、だまったままブレスレットをみいっていた。 茂には、フリードリヒの目にも、なにかが光ってみえた。 そこには、ドイツ語で、「 alle in Liebe , zu Silvia 」とかかれていた。 そのとき、神々しいすんだ音が聞こえたと、茂は思った。激しく情熱的で、つよいひびきだった。高々とかかげられた、タンバリンのリズムが聞こえた。 デリーの駅の構内で出会った、ふっくらとした頬の、天使を思いだした。ガンガーのちかくにいきなさい、若い尼僧は教えてくれた。 アンナプルナをみた夜、天空にはこんでいってくれた風が、どこから吹き、だれが戦がせたのか、分かった気がした。 すべてが、輝いていた。 そして、思わず呟いた。 「そうか。一ルピーは、五〇パイサ、二枚」 世界は曼荼羅のなかで、九五枚、了 象は二度とぶ、四七六枚、完