旅の終わり                                  由布木 秀  一  東南アジア最大の大都会。一〇〇〇万都市、バンコクは、黄昏のときをむかえていた。ゆるやかにふく秋の風が、日中の熱と湿気を取りはらおうとしていたが、充分とはいえなかった。  街の中心で威容をほこる二〇階だてのホテルの玄関まえに、大きなロータリーがみえる。幹線から環状交差点につづく幅のひろい私道はながくて、両がわはすべて駐車スペースになり、高層建築物がある一角は周囲から切り離されていた。照明がともると、薄闇のなかに浮かぶさまは、お伽の国の「白い不夜城」だった。  フロントまえの、赤い絨毯がしかれた階段をおりていくと、地下はあかるいホールだった。ふきぬけほどもある高い天井は真っ白で、眩しいくらいに照明が輝いていた。五、六人はゆったりとすわれる半円形をした灰色のソファーの席が、三本のひろい通路をへだててむきあい、つごう六列が奥まで一面になってつづくさまは壮観で、ざっと勘定しても二〇〇人以上の女がたむろしていた。  彼女たちの年は、一〇代なかばから二五、六歳までにみえた。服も髪の形もさまざまだったし、派手な化粧の子もなかにはいたが、みんな綺麗だった。冷房も除湿もいきとどいたあかるくて快適な大空間で、編み物をし、ファッション誌をめくり、顔見知りとしたしげに話しているのは、街の普通の女の子だ。ただこの国では、全体のレベルが日本よりひくい。武志は、さらに低水準の国々をまわってきたので、間違いなく「増し」なほうだった。女性たちの大部分は、貧困のなかに生まれ、ごく普通の初等教育をうけていた。国のレベルは為政者の責任で、彼女たちとは微塵の関係もない。武志が旅をして知ったのは、このことだけだった。  なかには家出娘もいると思うが、ほとんどは仕事をもつ、ごく普通の生活者で、ひとりで住むか、友だちと同居するか、あるいは普段はたがいに干渉しあわない家族といっしょに暮らしているのだろう。どこに起居しようと、その家は間違いなく、せまくて暑くるしく、暗いだろうから、ここで快適な夕べをすごしているのだ。  彼女たちは、まず例外なく優しくて親切だし、素直で嘘もつかない。これは、世界中で共通している驚くべき事実だ。そのうえ、ルールもまもる。たとえばこのホールには、いくつかの禁止事項がある。喧嘩はもってのほかだが、ひそやかな話声以上の音はご法度に違いない。もちこみの飲食は許可されないし、机や床をよごす行為は禁じられているはずだ。勝手にうえのフロアにのぼることはもちろん、フロントまえで、たむろをするのも許されていないだろう。だいいち地下のホールなら、どこへでもいけるわけではない。  たとえば大空間の左がわには、腰くらいの段差で分けられたフロアがつくられていた。そちらへは、とてもいけそうになかった。階段が五、六ついて、すこし高くなった場所は、構造的には太くてまるい支柱が間隔をあけて列をつくっている。段差の境界には、柱をつなぐひくいフェンスがつき、黒い革製のボックス席が奥までずっとつらなっている。カウンターが一直線につづく偉観ともいってもいい、いちばん左の端とのあいだには、ビリヤードのテーブルが縦に六台、真っすぐにならんでいる。暗いなかでうえから光の束がふってきて、緑のラシャをあざやかに浮き立たせる。撞球台が整然とおかれるひろくて無駄な場所には、BGMが静かにながれ、間接照明によってつくられた闇が、高級で洒落た雰囲気を演出していた。カウンターの後ろには、白い制服をきた数人のバーテンダーが適度な間隔をもってならび、パラパラとすわる幾人かの紳士たちにカクテルを提供している。シェーカーを振る、音が聞こえてくる。  いくらかの制限があっても、自分たちの、せまく暑くるしい部屋で夜をすごすより幾分かは「増し」だから、ここにきているのだ。どこで一日をおくっても、現実にたいした違いがないのを、彼女たちはよく理解している。  ここにいれば、幸運をつかむチャンスがあるかも知れない。宝くじに当選した人を、みたことはない。しかし、あたるのは、くじを買った者にかぎられる。彼女たちがここでたむろするのは、あまり積極的とはいえないが、抽選券を購入するのとおなじなのだ。  何年かに一度、左のスペースから白馬にまたがった王子さまがやってくる。彼女たちの都市伝説なのだ。出会った瞬間に理解する、運命の人。貧困からすくいあげ、待っているまったく違う新しい生活。庭にプールがある一軒家に住み、ふたりの可愛い子供に恵まれ、ガレージには大型車がとめられている。そこには芝刈り機がおかれ、さらに一匹の犬で完成される、幸福という構図。もちろんこれはアメリカ人の夢で、彼女たちの幸せとはすこし違うが、おおむねはおなじだろう。王子ではなかったが、ここで素敵な出会いがあったと教えてくれる。その人と一週とか二週、いっしょに旅行して、なかには一年ともに生活して毎日食事の用意をして待っていたという話も聞いた。いつか、むかえにきてくれるはず。そんな話をいっぱい聞いた。相手は、カナダ人やオーストラリア人だったり、オーサカの人だったりした。  白馬のナイトも思い人も、今日はこないことが分かったので、武志でも仕方がないと考えてくれる子をみつけた。グァイという一七歳の女の子で、いっしょに酒を飲んだ。彼女にはハカタのヤマザキという恋人がいるのだが、いまはきっと、すくいだすための費用を一生懸命かせいでいるのだろう。お金をためて日本へいきたいといったが、はっきりとした計画も目途もないらしい。  グァイは英語を話すが、抽象的な言葉はほとんど知らない。ここ以外で教えてもらえるはずはないし、ときどきまじるいくつかの日本語は、ヤマザキからならったものに違いない。髪をポニーテールにした、グラマーで間違いなくいい子だった。ホテルに帰ってシャワーをあびてバーボンを飲むと、彼女もすこし口にふくみ、今日は疲れたといって、そのまま寝てしまった。武志はバルコニーにでて、すがすがしい夜風にあたり、杯をかさね、煌びやかな夜景をながめながら日本のことを考えていた。  翌日、グァイはホテルから直接仕事場にむかった。朝食にさそったのだが、いそぐからとつげて、いそいそとでていった。「うめあわせはするから、夜になったらまたきなさい」と別れ際にいった。  武志は、一階の食堂におりていった。  カウンターに、黄色いシャツをきた、ながい髪の女がいた。背もたれがひくい椅子に、またがってすわっていた。黒いスリムのジーンズに、ハイヒールになった赤いサンダルをはいて、むきだしのくるぶしがみえた。椅子は回転式の背が高いもので、足元にはレンガが三、四段つみかさねられていた。つま先で軽くそこにふれ、落ちつきなく足をずっと揺すっていた。コインを立て、指ではじいて遊んでいるのが奥の鏡に映った。固いカウンターの表面に硬貨がはねかえる甲高い音が、静かな部屋にくりかえしひびいていた。ときおり背もたれに腹をつけたままの格好で椅子を半回転させ、ほとんど客のいない暗い室内を鋭い目でみまわした。そんなとき、ジュークボックスのちかくにすわる武志の視線とぶつかった。女は、背筋をぴんと伸ばし、挑む目つきで彼をみつめた。年は、二〇歳くらいにみえた。  武志は、昨晩、地下のホールでこの娘をみかけた。グァイと話をしているとき、女がそばを通りすぎた。それに気づくと、「あいつはキチガイだわ」と聞こえよがしにいった。その言葉に振りかえると、女は眉をつりあげグァイを睨みつけ、しばらくして多くの女たちのなかに消えていった。  姿がみえなくなってから、「なにがあったの」と武志はたずねた。 「あいつ、夕方、あたしが頼んだサンドイッチを横取りしたのよ」 「なんでなの」 「あたしが洗面所にたった隙にね、残りを食べたのよ。だから、半分はらいなって、いってやったの。そうしたら、金があったら、おまえのきたない残り物なんか、だれが食べるかって」  グァイは憤慨を思いだし、頬をすこし紅潮させながら、その女が鼻もちならない存在で、どれだけ根性がまがっているのか、懸命に説明しようとした。ときおり自分がつたえたいことを、母国語ではない言葉で正確に表現できるのか分からなくなり、眉間に皺をよせて上目づかいに武志をみた。それは、可愛い仕草だった。  カウンターの椅子に、またがってすわっていた黄色いシャツの女は、くるりと半回転させるとむきなおり、両手のあいだに小銭を入れてジャラジャラと音を立てた。それから席を立ち、ジュークボックスに歩いた。コインをほうりこんで選曲ボタンを押すと、振りかえって武志をみた。彼が目をあわせなかったので、女はツンとして、あらあらしい足取りで自分の席にもどっていった。  すこしたって、音楽がかかった。想像していたものとは違う静かな曲だった。シスコで聞いたなつかしいジャズが、よどんだ空間にゆっくりとながれていった。  ベーコンエッグにトースト、アメリカンコーヒーという朝食が日課になって、一週間がすぎていた。レストランのジュークボックスにちかい、入り口からすこし離れた席が武志の朝の場所だった。昨日の酒のせいではなく、頭のなかには暗い雲が立ちこめていた。フランスにいたころに、武志はそれに気がついた。はじめはすぐに消えてしまって、あまり気にもかからなかった。  ナイルを旅したころから、雲ははっきりとしてきた。  アレクサンドリアから船にのり、ナイルデルタをぬけてカイロに入る。街が終わると、過去この川を遡航した、すべての者がみてきたはずの建造物が視界に飛びこんでくる。つぎつぎに出現する巨大な石の墳墓は、不思議な感動をよび起こしながら、消えることなくつづいていく。日中ばかり、ではない。月に照らされ、満天の銀河に浮かびあがりながら、離れることなく、たたずむ厳かな四角錐は、王の権力と人民の呻吟を沈黙のなかで証言している。河岸には人家があり、黒い水牛が孤独のうちに水揚げの水車をまわし、ヤシやタマリスク、ユーカリがしげっている。みわたすかぎり一面につづく小麦とサトウキビの農園は、オシリスがそよがす風によって緑がくりかえし波打ち。うねり。エジプトは掌中におさめた国、まさにナイルの賜物だった。命に輝く海のむこうには、砂と礫の丘が世界の果てまでつづいている。行く手には、ほそながいふきながしをマストにむすんだフェラッカが、大きな白い帆に、風をいっぱいにはらみながら行き交っている。そして、つぎつぎにあらわれる壮大な神殿群。四〇〇〇年の歳月をへだてた古代王朝への憧憬が、空を飛び交う鳥や、芳しいトルコ・コーヒーの煙とともに心を満たしていく。  ローマ帝国最南端の前哨の地、アスワンをすぎ、スーダンに入り、ヌビア砂漠へむかうころから、あの雲がかかりはじめた。太陽の光線は、おなじようにつよかったが、もうアマゾンとは違っていた。さえぎるものもなく、岸辺以外は乾燥した黄色い砂と、切り立った花崗岩で構成され、ただただ物悲しかった。そこは、世界の飢餓地帯をぬける、ながい、はるかな船旅で、ようやく買った魚にはウジがわいていた。碇泊した港の市場で手に入れたスイカを食べると、ふたりの子供が武志をみつめていた。ここまでくる日本人は珍しいに違いないと思いながら、かすをすてると喧嘩をはじめた。彼らは、持ち主がいなくなった皮をあらそったのだ。  ハルツームにつき、ナイルは、エチオピア北部高地、タナ湖にむかう青ナイルと、ウガンダ、ヴィクトリア湖につながる、白ナイルに分かれる。  さらに、白ナイル河を遡航した。なにもない青空に、あの雲がかかってきた。はじめは入道雲で、はげしいスコールを残して消えていったが、マラカルにつくころには、空にはいつも浮雲が漂っていた。空路でナイロビにいき、さらにバグダッドに飛んだ。そこでは、いつも棚引いていた。ヒマラヤをかくす雲に似て、厚く垂れこめ、消えもしなかった。つよい風がふいても、飛びさることもなかった。しだいに重くるしい灰色になり、母国にちかづくにつれて、いよいよ厚みを増していった。  日本は、すぐそこだった。  一〇時をまわったレストランには、武志と黄色いシャツの女のほかには一組の男女がいるきりだった。彼らは、むかいあってコーヒーを飲みながらしたしげに話をしていた。男は、赤毛で背が高く、たぶんドイツ人だろうと、武志は勝手に思った。相手は、ここで何度かみたことのある二三、四歳の細面の美人で、黒い髪を肩まで垂らしていた。きていた紫のシャツは、シルクにみえた。  コーヒーを口にはこびながら、ぼんやりと入り口をながめていると、見覚えのない娘が入ってきた。二二、三歳の女で、洗いざらしの青いジーンズにグレーのティーシャツをきていた。肌は、小麦色にやけ、右肩にうすいハンドバッグをかけていた。好きなタイプに思った。胸は大きくなかったがウエストはひきしまり、肉づきのよさそうな腰のまわりから伸びた、すらりとした脚にストレートのジーンズが似合ってみえた。  入ってきた女は、すいたレストランをみまわし、武志の視線とぶつかると、なにかを思いだし、小さく笑った。彼も、笑いをかえした。  女は、ちかづいてきて目をみつめていった。 「すわっても、いいかしら」  武志は、一瞬、息を飲んだ。その言葉は流暢な日本語で、ホールで覚えたものではなかった。  女は、武志の驚きをみて、声を立てて笑った。椅子をひいて腰をおろすと、かすかに笑みを浮かべて、「やっぱり間違えていたのね」といった。それからボーイに、コーラを頼んだ。 「分からないのね」  女は、そういうと、はこばれてきたコーラを口にして微笑んだ。  ストレートの綺麗な髪の毛だった。真っ黒で、もりあがった胸の部分に終わっていた。 「いい髪だね。素敵だ。さわっても、いいかい」  女が軽くうなずくのをみて、武志は腕を伸ばし髪の毛にふれた。 「ながい髪が好きだ。真っ黒が、世界でいちばんいい」 「そう、だったの」  女は、すこし微笑み、それから両手をつかって、自分の胸のところまで髪をゆっくりとなでおろした。 「思いだせないのね」  女は、笑っていうのだった。  なにを話しているのか、武志には分からなかった。女は、小麦色の肌をしていた。ながい髪をなびかせ、軽そうなバッグを肩にかけただけで歩いてきた。むきだしの腕、ストレートの青いジーンズ、赤いサンダル、どこにでもいる、この国の女にみえた。じつは、日本の女性だったのだ。日にやけた健康そうな女は、なかなかの美人だった。日本の女性は、素晴らしい。ああ、ほんとうに日本人なのだ。化粧もこくなく、普通の旅人だったんだ。武志がそう思ったとき、とつぜん風がふいて雲がながれた。山の頂が、みえた気がした。 「ノスタルジーか」  武志は、ひどく驚いた表情で、女の瞳をみていった。 「あなたは、私の後ろで誘惑していた」  女は、すまし顔で答えた。  考えもしなかった。知らないものなら、どんなものでもみて、ふれてみよう、そう思ってこの女がまじっていたのだ。 「社会見学は、どうだったの」 「べつに、いやなものではないわ」 「心がひろいんだね。世界とおなじくらいに」 「きらいなものは、ないのよ」 「それは、すごいことだね」 「つまりは、好きなものもないのね」 「地球をまわって、気がついたんだ。想像しうる、どんなものでもありそうで、じつはなにもないのが世界だが、ふたつはいまでもあると思う。ひとつは、面白い事件。もうひとつは、退屈な出来事だ」  武志が真面目な表情で話すと、女は小さく笑った。それから小一時間、ふたりの会話ははずんだ。女は、旅の話をした。  ボンベイでの武勇伝を、彼女は面白おかしく話した。 「あやしかったのよ。目つきも、態度も。  護身用の折り畳み傘をもって、扉のそばに立っていたのよ。案の定、合い鍵をつかって、その男が入ってきたのよ。だから、あたし力いっぱいひっぱたいたわ。それから、すごい叫び声をだしてやったの。思い切りの金切り声よ。そいつ、驚いて逃げだしたの。それで、階段から落ちて骨折したのよ。  真夜中だったけど、泊まり客はみんなでてきて、警察がよばれたわ。状況は、一目瞭然だものね。でもオーナーの馬鹿息子は、過剰防衛を主張したわ。ずうずうしいったら、ありゃしない。  前科があったのよ。それに予備の鍵をもっていたから、いい逃れができなかったのね。  五つ星のタージに泊まったのよ。ボンベイにいるあいだは、オーナーがホテルの費用をすべて支払うことになったのよ。もちろん食事もしたわよ。二週間、泊まっていたわ」  女は、そこまで一気に話すと、快活そうに声をあげて笑った。 「最後に警察署長に、いわれたわ。あなたみたいな、若くて綺麗なお嬢さんは、これからは、こういうホテルに泊まりなさいってね」  笑う女の口のなかに、健康そうにならぶ白い歯がみえた。 「あんたの、面白い話も聞いてみたいわ」  女は、今度は武志に矛先をむけた。 「ひとり旅は、怖いよ。とくに女性は。南米では、すぐにナイフがでてくる。でも、こんな話は退屈だろう」  武志は、女の華やいだ横顔をみながらいった。 「昨日の子は、どうだったの」 「眠たがるいっぽうでね」 「バッグには、なにが入っていたの」  なるほど、それで女は興味をもったわけだと武志は思った。昨日はノスタルジーで、ハンドバッグのなかをのぞかせてもらった。どの子のバッグも、あまりにうすくて軽そうだったので、なにが入っているのか聞いてみると、みせてくれたのだった。中身は、人によりさまざまだったが、驚くほどなにももっていなかった。財布はべつにして、いちばん共通していたのは預金通帳で、それから歯ブラシ、胃薬だった。みんなが、化粧道具をもち歩いているわけではなかった。かえの下着をもつ子も、ナプキンを入れている娘もいた。しかし、だれもが全財産をもち歩いていた。 「特別なものはないよ。どこにいったって」 「あなたは、世界中でそんなことをしてきたわけね」  そのとき、あらそう声が聞こえた。顔をむけると、黄色いシャツの女が、ボーイと口論をしていた。とつぜん灰皿をつかむと、壁にむかって力いっぱい投げつけた。ガシャーンという凄まじい音がして、カウンターの奥の鏡がくだけちった。驚くボーイを残して、軽いバックを肩にかけると、一目散に外にかけだしていく彼女の後ろ姿がみえた。  しばらくして女は、武志のベッドに横になっていた。アフリカから中東に入り、陸づたいにこの国にやってきた彼には、小麦色にやけた肌がやけに白くみえた。それにきめがこまかく、やわらかく。日本人を知らなかっただけで、ほんとうは素敵なものだったのだ。 「いつになったの」女はたずねた。 「昼をすぎた」と彼は答えた。  ゆっくりと、時間がながれていた。  何年振りだろうか。こんなに、ときを、しみじみと感じられるのは。円筒形にとじられた、つきることのない時間を。たがいに分かりあえる、なにかがあると思った。  武志と女は、じっとだまっていた。話すことはいっぱいあると思った。しかし、言葉になるものはなかった。  二  旅のはじまりは、輝かしいものだ。  出会うのは異質な人、言葉をかわしたこともなく、なにを考えているのか分からない者。だから新鮮で、いつでもちかくに驚きをみつける。  二〇歳の若さで、マケドニアの支配者になったアレクサンドロス大王が、エジプトを制し、ペルシャ帝国を滅亡させ、だれもいこうとさえ考えなかった峠をこえ、インドにまで攻めいったとき、その果てに知らない世界があると信じたのだろう。希望だけを残して大王は祖国をあとにし、この世の未知なるものすべてに遭遇し、それを支配し、あらゆる困難に勝ち、伝説に、ついには神話に変わり、アキレウスの再来、アレクサンドロスとして吟遊詩人に歌われることを望んだのだろう。もともと半神だった彼は、英雄にも物足りず、ファラオになり、新しいディオニュソス神、ディオディオニュソスを目指した。その大王でさえ、最後はなにをもとめたのか分からなくなった。さらに東漸することができず、インドからバビロンにもどったのだ。  世界史をひもといても、大王ほど自分の夢を実現した人は、いないのではないか。死をも恐れぬ大胆さと、移り気な幸運の女神のかすかな笑みさえ見逃さない繊細さをあわせもっていた。この対立するふたつの感覚をもちつづけるのが、どんなにむずかしいのか、たくさんの英雄が教えてくれる。それが可能だったのは、大王が左右の瞳で異なる世界をみていたからだと、歴史家、ディオドロス・シクロスはいう。  武志が、母国をあとにしたのは二一歳の春だった。それから六年間、世界を歩いた。彼の旅は、みんなとおなじく西海岸からはじまった。シスコは、はじめての街だった。なにをもとめていたのだろう。どんな、顔をしていたのか。どうしていいか分からなくて途方にくれ、震えていただけだった。 「コマツテイルノデスカ」と声をかけられたとき、ほんとうにこまっていたのだった。  武志は、その声音に驚いた。アクセントは日本人のものではなかったし、異国の女性と話すのもはじめてだった。最初に出会ったのがブロンドのニーナでなかったら、どうなったのか分からない。父の思った通りそのまま帰国し、大学にもどったかも知れない。ひろい大通りに面した昼下がりのレストランで、武志はあてもなく、道をはしりぬける車をみていた。自分が日本をすて、家族と喧嘩し、なぜアメリカにきたのか、分からなくなりはじめていた。そのとき、彼女が声をかけたのだった。  ニーナは、武志にすべてを教えてくれた。優しかった。世界中の女は、みんな武志によくしてくれたが、彼女はいちばん親切だった。 「欲しいものは、なんにもないわ」 「すべては、どうでもいいのよ」  何度、この言葉を聞いただろうか。  ニーナは、ブロンドの髪をしていた。おせっかいやきだった。瞳は青くて美人だった。背は一七〇くらいで、すらりとした体つきだった。彼女の両親はどちらも弁護士で、街の高級住宅街に屋敷をもっていた。何度かつれていかれたが、映画でみるプールつきの大邸宅だった。両親は、ふたりとも忙しいらしくて会ったことはなかった。黒人の使用人がいたが、ニーナはきらいだった。だれも帰らないのに、こんな家は無意味だと彼女はいっていた。ひとり娘で、医学部の学生だった。ハイスクールでは、ずっといちばんだったらしく、容姿にも、頭脳にも、あらゆる資質に恵まれていた。  ニーナが、「欲しいものは、なにもない」というのは納得ができた。なぜ、すべてはどうでもいいと思ったのだろう。彼女はあたえられた環境については興味がなく、なんの満足もしていなかった。そのうえ、自分でえた能力は無意味だと考えていた。彼女は、財産のすべてを浪費していた。  ニーナは、いつもジーンズをはき、ブロンドの髪を無造作に束ねていた。ふたつ年うえで、いつでもだれかに恋をしていた。あるときは、映画のスターやミュージシャンだったが、ときには普通の男だった。寂しがり屋で、すぐにべたべたした。相手が男であっても、女であっても、おなじようにべとべとした。瞳の綺麗な可愛い子だった。アルバイトやアパートをさがしたのも、英語を教えてくれたのも、ニーナだ。みんな、彼女だった。  武志がベッドのヘッドボードにもたれて足を伸ばすと、ニーナはまたがってすわった椅子の背に両肘をつき、さまざまなことを話してくれた。大好きな小説だったり、音楽や、演劇だったりした。ときには両親のことで、ヒステリーを起こして泣いた。「あんたは好きよ」といってべたべたした。寂しがり屋だった。  ニーナには、いつでもだれかが優しくしてやらなければならなかった。どんな瞬間でも、寄り添う者が必要だった。だれでもよかったが、武志のことは、ほんとうに好きだったんだろう。彼が南米ではなく、ニーナを取っていたら、うまく暮らせたのかも知れない。シスコを去るときも、ヒステリーを起こした。 「あんたも、みんなと、おんなじだ」 「男なんて、だれでもそうだ」 「すべては、どうでもいいのよ」  最後も、彼女は、そういった。  武志の望みは、ニーナではなかった。毎晩、南米の夢をみた。そこには、知らない花がさき、想像もできない動物がすんでいると思った。まだ武志がふれていない、輝かしい世界のはずだった。  シスコは、働いた、お金をためた場所だった。日本から、ちょこっと伸びただけの岬に思えた。だから一年たってメキシコに入ったとき、武志ははじめて外国にいった気がした。そこは、光にあふれ輝いていた。いったい、なにが光っていたのだろう。  陸路で中南米へ入り、パナマ運河をわたり、コロンビアからペルーにぬけ、アンデスをみた。  悲しきインディアン。痩せこけて、ものも語らぬ者たち。  世界中にインドがある。インド人とは、ヨーロッパ人によって植民地化され、搾取された、よわい貧しい者たちの総称で、もとからその土地にいた先住民をさす言葉だ。  大航海時代。それは、聖トマスの東方布教伝説や、回教徒から聖地を奪還すると預言されたキリスト教を奉じる未知の帝国、プレスター・ジョンの不思議な国、「インド大陸」をみつけに、欧州人が世界にのりだした時代だった。だから彼らが辿りついたところは、どこもインドで、そこに住んでいた人は、すべてインディアンだった。  武志は、チリの港町で「沈没」した。  アントファガスタ。半年暮らした港町だった。中心部は高層ビルが林立し、近代的で大型車も走っていたが、それは一握りの金持ちのものだった。一%の大金持ちと九九%の貧しい人びとで、港町はできていた。  そこに、マリーサがいた。やわらかい白い肌をもった二〇歳の女で、いい匂いがした。ながい艶のある黒い髪を、いつも中央で分けていた。素晴らしい美貌だった。鼻は高く目は大きく切れながで、形のいい眉をしていた。瞳も黒く、なにをきても似合った。背は一六〇くらいで、声もすき通って綺麗で、歯並びもよかった。武志の出会ったなかで、もっとも美しい女性だった。  美貌の女は、大黒柱だった。武志の小金は、この国では二〇倍以上もの価値があり、マリーサの一家を養うのに充分だった。客人ではなく、主人として八人家族の一員となった。しかし、武志には、することがなかった。彼女は、パン屋で働いていた。父親と兄は、港で仕事をしていた。マリーサのいない日中、ながいあふれる時間、彼はひとりで帰りを待っていた。  武志は、毎日、波止場ちかくの海岸を歩いた。わずかにまるい曲線を描く、果てもない水平線をみて昼をすごした。振りかえると、背後にはアンデスの山並みがあり、みえるかぎりの奥まで、緑をうしなった赤茶けた露わな岩肌がつらなっていた。太平洋にそってほそながく伸びるアタカマの砂漠は、一〇〇〇メートルの断崖になって街にせまっていた。雲がどんどんながされる天空に、乾いた気流にのってはるか高くまでのぼってしまったコンドルが、ただ一羽、つよい風のなかを孤独に舞っているのがみえた。シスコでみた夢とは、まったく違い、ただただ物悲しかった。冷たいペルー海流にのってきたオタリアの群れが、波打ち際で遊んでいた。泳ぐこともできない浜辺で、武志は日がしずむのをみていた。  アントファガスタの夕日は、いつでも、ときのたつのを忘れさせた。さえぎるものもない彼方に真っ白な球体がひとつ浮かび、幅のある黄色い帯につつまれる。そのすぐ先からオレンジ色の光がグラデーションになり、暗さを増しながら世界の果てまでつづく。薄暗くなりはじめた青い空を、白い雲はところどころに黒い影をつくってながれている。目のまえに、輝く球体にむかう真っすぐな光の軌道が照りかえしながら漂い、風は相変わらずふいているが、海面は静かで白波も立たない。光線をうつす潮は彩色がなく、手前の灰色からじょじょに暗さをおびてきて、縁の黒い色にまで変わる。時間も目立たずにたっていき、やがて太陽は水平線に消える。 「マリーサ。おまえなら、きっとスターになれる」と武志はいった。  マリーサは、ベッドで手鏡を取って髪をなおしていた。うすい、ピンクのバスローブをきていた。二階の彼女の部屋だけに風呂場と洗面所、化粧台と洒落たソファーがおかれていた。 「そんなに甘くはないわ。世間は冷たいのよ。みんな、知っているわ。私が、生活のために武志を泊めているってこと」 「それじゃ、どこかへいけばいい。いっしょにカリフォルニアに。日本でもいい」  武志は、マリーサが髪をブラシでとかすのをみていた。彼女は、鏡台のまえで左手に小さな手鏡をもち、右の手で艶やかな甘い香りのするながい黒髪をくしけずっていた。 「男は、みんなそういうわ。母さんも、そうだった。おばあさんも、そうだった。でも、みんな、どこへもいけないのよ。武志のせいじゃない。アントファガスタに生まれて、死んでいくだけ。ここが故郷なのだから。そこに生まれたのだから、仕方がないわ。みんな、そうしてきたんだから」 「お金を、かせいでくるよ。おまえを、すくいだせるほどの」  マリーサは、首を振った。 「いいのよ、武志。その気持ちだけで。あんたが、またやってきたときには、私はほかの男と寝ているから、やっぱりいけないのよ。あたしも、いつかはおばあさんになるわ。そのときに男は思いだすわ。あたしが、娼婦だったってことをね。きっと、平和ではないわ。ここなら大丈夫。母さんは、父さんと結婚している。みんな、分かっている。ここなら年を取っても、平和に暮らせるわ。家族も、つくれる。居間で、ロッキングチェアーにゆられながら、安心して編み物もできるわ」  マリーサは、鏡に映る自分をみていた。 「年を取っても」  マリーサは、手鏡をポーンとソファーにすてた。 「いまが、幸せならば、いいじゃない。それで、充分だわ」  マリーサは、武志のそばにくると、キスをした。それから、また幸せな時間をつくってくれた。優しい子だった。  一階の居間で、ふたりの弟たち、マルコスとマリオと三人で凧をつくった。マリーサの祖母は、いつも居室で編み物をしていた。そのときは、彼のセーターを編んでくれていた。  武志は、安物のカーペットのうえで胡坐をくみ、弟たちにほそい竹とつよい紙を買ってこさせた。何度、話しても、ふたりの弟はこの意味が分からなかった。 「つよい紙だ」と武志はいった。 「それは、厚い用紙だ」とマルコスはゆずらなかった。  できそうな用品を揃えて、凧をつくった。弟たちのまえで、空にあげようと試みた。それはあがらず、ふたりは武志を馬鹿にした。何度かくりかえすうちに、バランスが取れて凧はのぼっていった。何ひとつない、すみ切った青い空に、どこまでも高くあがった。 「すごいよ」  弟たちは、尊敬してくれた。 「日本人は、違う」と口々にいった。それで、今度は大凧をつくろうと思った。弟たちは、協力的だった。何日も、かかった。 「精がでるね」と祖母はいった。腰がまがって顔も皺くちゃだったが、優しい人だった。 「さすがに、日本人は働き者だ」と武志のことを褒めてくれた。  さまざまな工夫をして安定させ、半畳もある大凧ができた。それは、たしかに宙を舞い、天にとどくまで高くあがった。あっというまに糸が切れ、つよい風にあおられ、乾き切った人も住めないアンデスの山のなかに飛ばされていった。そこには、茶色の岩山がつらなっていた。  放浪とは、そんなものだ。糸が切れて、もう帰れないはずではないか。  武志は、この大陸の最南端にもいったのだ。  しずむ夕日ばかりをみつめて暮らしすうちに、いちばん南をみてみたいと思いはじめた。端とは、陸が海のなかに終わる場所だから、最後はつきでた半島で、断崖の岬になるのだろう。そこでは東に大西洋、西に太平洋がみえ、目のまえには南氷洋がひろがり、日の出もみることができるはずだ。最南端はフロワード岬で、南緯五三度五三分五七秒だと聞いた。そこには、ふきさらしの丘があり、大きな十字架が立っている。クルス・デ・ロス・マレス。その海の十字架を、みたいと思った。  チリの最南端の州、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナの州都、プンタ・アレナスにつき、一日二往復しかないバスにのった。海岸線を六〇キロ南下した終着駅は、サンタ・アナという小さな村だった。南緯五三度三八分一五秒の終点で、目指したフロワード岬への道はなかった。目のまえには海があったが、とおくに陸がみえた。一五二〇年、フェルナンド・デ・マガリャネスが、ここを通ったのだ。太陽がのぼってくるのは、海からではなかった。  プンタ・アレナスにもどり、一日一往復の船でひろいマゼラン海峡を横切って、ディエラ・デル・フエゴ島のポルベニールについた。さらに島の南を目指すと、アルゼンチンに入らねばならなかった。ティエラ・デル・フエゴ州の最大の街、リオ・グランデは、大西洋に面した、南緯五三度四七分にあった。そこで武志は、アルゼンチン海からあがる朝日をはじめてみた。  ぼんやりと空があかるくなりはじめると、暗闇が灰色になり、大きな黒い海がみえてくる。夜明けは、ゆっくりやってきて、あかるさが増してくると、溟海の色は蒼く変わった。冷たい藍色の海に、世界を分けるはっきりとした線がみえてくる。それは、男と女、正義と虚偽、豊かさと貧しさを、さらには、神と悪魔さえも、明確に峻別しながら、やがて空が薄あかるくなってきて、最後まで残った曖昧な部分を、南極からの凍てつく風が追いはらっていった。  太平洋と大西洋が出会う、南の端があるはずだと信じて、朝から路線バスにのり、夏だというのに冷たい気流がふく最果ての大地をさらに移動した。九州より大きい島は、ただただひろくて、人も住めない荒地がずっとつづいて、トルウインという小さな町に、バスは立ちよった。そこには、世界の端にはまったく似合わない、驚くべき巨大な湖があり唖然としたのだ。  さらに南下して、アルゼンチン最南端の町、州都、ウシュアイア、南緯五四度四八分についた。ここにも、端のイメージはなかった。海がみえたが、先に陸があった。進化論を提唱したダーウィンが、世界一週航海のときに通ったビーグル水道だった。海峡をわたる船がでていたのでのったが、ついたナバリノ島は今度はチリで、再入国しなければならなかった。そこは南緯五五度で、プエルト・ウィリアムズという小さな港町だった。南がわには奥ぶかそうな山がつらなり、頂には雪が残っていた。南にいく方法を港の係員に聞くと、痩せた男はいった。 「セニョール、もう道なんかありません。この先は南極だけで、ここは世界の最南端なんです」 「そうか、南の端だったのだ」  武志は、納得した。  目のまえに、ビーグル海峡が東西にながれている。太平洋も、大西洋も、みることができない。背後には、ふかい山がある。よく、考えれば分かることだった。夏だというのに、なんという寒さだろう。始終つよい風がふき、バスにのって移動した数日まえには、雪もちらついていた。大洋からの猛烈な気流が、もろにふきぬける岬に、人が住めるはずなどなかった。  だれもいなくなった港で、ぼうぜんとして目のまえの海をみていたとき、「旅のお方」という男の声がした。 「もしよかったら、今日はうちに泊まってはくれないか」  そう声をかけられて振りむくと、痩せた四〇歳なかばの男性が立っていた。 「うちには、若い娘がいる」と男はいった。  それが、クララの父親だった。酒のためなら、なんでもした。  クララは、気がきく優しい娘だった。青いシャツをきて、白っぽいズボンをはいていた。一七歳で、やや赤い髪をみじかくしていた。大きな瞳は、やはり青くて寂しそうだった。痩せて小柄で可愛く、弱々しく、助けてやりたいと思える娘だった。  クララとは、マリーサからならった拙いスペイン語で話をした。  彼女は、昔からここに住むインディオ、セルクナム族の末裔だと話した。せいぜい三〇万の人しかいないティエラ・デル・フエゴ島は、もともとは流刑地で、本土からの凶悪犯がおくられ、夏でも暖を取らねばならない、この地で死んでいったと教えてくれた。  その日も寒くて、真っ赤に燃えるストーヴに薪をくべながら、クララは話していた。武志からアメリカや日本の話を聞くと、すき通る声で、「いってみたいわ」と彼女はつぶやいた。くたくたになった愛想のない母親と、アル中の父親のあいだで、クララは彼といるときだけ笑顔をみせた。ふたりの兄は、故郷をすてたと話していた。 武志は、クララの家に三日間いて、ビーグル水道にせまる氷河をみた。冷たいつよい風は、片時もやむことがなかったが、土地の人は慣れて、世界はこういうものだと信じていた。 「旅をつづける」と武志がいったとき、クララは泣いた。 「いかないで欲しい。また、お父さんになぐられる」 「どこかへいきたい。とおいところへ。どこへでもいい。家族のいないところなら。なぜなの。どうして、武志には許されているの」  彼女は、涙声でそういい、両手で目をおさえた。 「私が涙をだせるだなんて、だれも思っていないのよ」  ひとしきり泣いたあとで、クララは港までみおくりにくるといった。  船の最後尾から、彼女にむかって手を振った。プンタ・アレナスいきの定期便は、ゆっくりと港をでていった。千切れるほどに手を振りつづける、痩せたクララがみえた。身を切る、冷たい風がふきつけていた。  彼女の後ろには、古ぼけ、くずれかかった薄茶色の平屋の家がつづいていた。それは、草色をした一杯のアプサントのグラスに、命のほとんどを注ぎこんでしまったユトリロが、ハーブの残り香とともに描いた鉄格子が嵌まった、ひっそりとした白い町並みだった。先には、真っ白い雪がつもる山がつづいていた。その果ては、重く垂れこめた灰色の雲が覆い、つよい風にふき飛ばされていた。どんなに飛ばされても、巻雲はつぎつぎにあらわれ、なくなることは決してなかった。すべての感情をうしなった背景につつまれ、クララひとりだけが呼吸をしていた。  武志がのった船は、ビーグル海峡を通り、バレネロ海峡、コックバーン海峡、マゼラン海峡をぬけ、大洋にでることはなかった。陸のあいだを通過して、チリの州都、プンタ・アレナスにもどった。  それに、アマゾン。  そこは、間違いなく異文化で新鮮だった。途方もなく大きくて、あらゆる世界一がここにはある。世界地図のなかで、アマゾンだけは、べつのページに綴られてもいいと、いまでも思う。  河口から一五〇〇キロ、蒸気船でマナウスまで遡航した。  そこで武志は、黒い川、リオ・ネグロをみた。コロンビアに源をもつ、世界最大の支流は、大量の植物の腐食によって酸性度を増し、すむ魚もかぎられていた。熱帯をぬけてきた河は、さわると生暖かく、ゆっくりとながれていた。  いっぽう白い川、リオ・ソリモンエスは、インディオの住む、寂しいアンデスの山塊にふりつもった雪を源とする。泥をいっぱいふくんだ薄茶色の河には、無数の魚が泳ぎ、はるか河口からのぼってきたイルカが川面を飛びはねるのをみることもあった。適度に冷たく、リオ・ネグロの倍の速さでながれていた。  このふたつの川は、マナウスでひとつにあわさりアマゾン河になる。  ここには、人を驚かせずにはおかないものが満ちあふれている。  棘のついた巨木をみた。やわらかい樹皮をもつ木は、森の生き物たちに食べられるのを避けるために、円錐状の先が尖った突起物をつくって幹を隙間なく覆っていた。  緑色のジャングルのなかに地面がむきだしになった断崖があり、そこにインコがびっしりと群れている。黄色の群れが一斉に飛び立つと、今度はうすい緑をした小型のものがやってきて、おなじ崖の土にはりつく。土壌には、鳥に必要ななにかの栄養素があって、ついばんでいるのだ。鳥たちは、ひとときに飛び立つ。群れが、視界を覆いつくす。つぎの瞬間、崖には紅い胴体に紫の翼をもった、やや大型のインコがはりついている。  まるで、画集のページをめくるみたいに。  全長が、六メートル以上の大蛇をみた。胴体の太さが二〇センチもあり、真っ黒な鱗にはオレンジの縞が入っていた。二メートルの魚もみた。間違いなく漁類で、エラがあり、トラックの荷台からはみでていた。  だから、なんなのだろう。  アマゾンが世界の奇跡であるのは、黒と白の川が、まじっていなかった事実だ。いまでも、ありありと思いだすのは、ひとつのながれのなかを、ふたつの河がべつべつになって一〇キロ以上もずっとつづいていたことだ。  世界中を旅して、数え切れないほどの絶景をみた。そのはずだった。しかし、いまでもほんとうに覚えているのは、黒と白の川がひとつになって、べつべつにながれることだけだ。あとは、ニーナの泣き顔とか、マリーサの部屋の手鏡とか、クララの家の柱にかけてあった安物の気圧計だった。  もう、時間も場所も分からない。どこにでもあるものしか、覚えていない。  三  武志が「海を、みたい」とさそわれたのは、初七日がすぎ、安部智恵が登校して三日たったころだった。だれもが、どう接したらいいのか分からなかった。智恵は、そんなみんなの気配など知らない振りをしていた。美術部の部室で、彼女は、いつもと変わらず背筋をしっかりと伸ばし、だまってアリアスのデッサンをつづけていた。部員はだれも話さず、ときおり小声でなにかを囁き、やがてひとりずついなくなり、武志ひとりを残して帰っていった。  校舎の三階にあった部室には西日があたって、静かな晩秋の日差しがアリアスにながい影を落とした。塑像は、ひときわ美しく輝いた。カールしたながい髪、妥協を許さない高い鼻、皺ひとつないひきしまった頬、うすい唇。テセウスに恋し、親を裏切り、すべてをあたえた最愛の者にみすてられた、特別に清らかで尊い娘。  智恵は、アリアドネにそっくりにみえた。このひと月の心労は、頬をひとまわり小さくさせていた。みじかい髪の、きりりとひきしまった横顔に、おなじ日差しがあたった。眩しかった。寂しげで、虚ろで頼りなげで、それでいて、ゆるぎのない一筋の芯が彼女をつらぬき、神々しくさえあった。武志がずっとみてきたなかで、いちばん美しくみえた。  智恵は、清楚で美貌だった。痩せて弱々しくみえたが、状況に左右されないつよい意志をもっていた。先頭に立って人をひっぱるタイプではなかったが、智恵の行動にはつねに注目があつまり、無意識についていってしまう魅力があった。だれかをあてにして、助けてもらう性格ではなかった。  美術部の部屋でふたり切りになった武志は、どう声をかけ、なにを話すか考えあぐねていた。夢中に素描していた智恵は、とつぜん振りかえった。たったひとり残る武志をみて、小さく微笑んだ。 「武志くん」と彼女はいった。  武志が立てられたイーゼルのちかくへいくと、智恵は、上目づかいにみつめ、優しい表情で聞いた。 「海がみたいんだけれど、明日、忙しい」  つぎの日は土曜日で、一家で後楽園に野球観戦にいく予定だった。巨人が勝って、日本一になるはずの試合だった。 「どこへいくの」と彼は聞いた。 「ちかくでいいのよ」  智恵は、ぶっきらぼうに答えてすっと立ちあがり、西日が差しこむ部室の窓をあけた。すがすがしい風がふきこみ、部屋は新鮮で爽やかというより、すこし冷たい大気で満たされた。彼女がみあげる高い空には、小斑点状にあわくひろがった白い雲があった。オレンジがかった青い世界の鰯雲を無言でながめる智恵が、武志にはとても寂しげに映った。 「この海は、ずっと、つづいているんだわ」  彼女は、いった。  海岸線は、すべてコンクリートでまもられ、武志が目にできる果てまで、つらなっていた。浦波が、固い人工の壁にぶつかる音がした。海の波がひき起こす、はじめも終わりもなくくりかえされる、なつかしくゆったりとした反復運動は、ゆるやかに聞こえた。潮の香りはしたが、にごって真っ黒な、よごれた湾だった。敗戦から立ちあがり、先進国になるためにはらった代価が、この海だった。繁栄は、水と空気を犠牲にして達成された。日本人は住む世界をよごしたと、武志は思った。 「沖縄の海は、どうだったの」  智恵はとつぜん、武志に聞いた。その年の春、彼は一家で沖縄にいった。それを、彼女は覚えていた。 「綺麗だったよ。宝石みたいにね。さんご礁は、防波堤だった。どの島のまわりにも小さな堤防がつくられ、隔離されたふたつの海があった。青いすき通る大海のなかに、ルビーやサファイヤに輝く内海が造設されているみたいだった」  兄の亮二が、その年、東大の経済学部から通産省に入った。長兄は、東大法学部を卒業して外務省につとめていた。亮二の入省と武志の高校進学をいわって、家族で沖縄にいったのだった。 「なかに、もうひとつの海があったのね」  智恵は、つぶやいた。 「素敵な宝石の内海は、しっかりとまもられていたのね」  彼女は立ちどまり、にごった海をみつめていった。よごれた湾には、多くの小型の船が行き来し、さまざまな方向にうごいていた。 「綺麗な内海は、この黒い海とほんとうにつづいているのかしら。どこかで、はっきりと分かれていないのかしら」 「違うわよね。よごれた海は、じょじょにうすまり、だんだん黒い色が分からなくなり、ゆっくり青色が増して、最後に真っ青になるのよね」  秋も終わろうとしたころの、ながいコンクリートの防波堤だった。灰色で、無機的で、冷たくみえた。 「でも、それだけでは不充分なのね。宝石の海は、さんご礁でまもられるわけね」  智恵は、小型の船が汽笛を鳴らしながら、うごくのをみていた。  寂しげな横顔で、思わずだきしめたくなるほど弱々しくみえた。やつれていたが、つよい意志を感じた。それは、対立する黒と青の海が、おなじ場所と時間に存在するようだった。ふたつは、まじりあわずに、どこまでも別個につづいていた。 「すき通るエメラルドの内海には、黄色や青色をした素敵で愛らしい魚が泳いでいるのね。えらばれて、さんご礁にまもられる資格をもっている。この真っ黒でよごれた東京湾にすむ魚とは、違っているのね」  智恵は、むきなおって彼をみた。  彼女の黒い瞳に、武志はふと不安を感じた。どこか湿り気をおびた目は、光の加減だったのか、左の虹彩部分が右にくらべて、すこしぼんやりとしていた。左右まったくおなじはずの瞳が、背景をあわく感じさせる分だけ、左がわの瞳孔は、とくに鋭くみえて気にかかった。これでいいのかと、左目はいっていた。右と左の瞳は、武志を違ったべつべつの感情でみつめていた。  思い出のなかの智恵は、いつも白いセーターをきて、彼をじっと凝視していた。  灰色で、冷たいコンクリートの壁がつづいていた。秋も終わるころだった。腰の高さの、固い石の堤防だった。ひんやりとした午後の三時ころで、ふたりは黒い東京湾をみていた。かもめが鳴いて、汽笛の音が聞こえ、潮の匂いがした。 「なんの話があるの」と武志は聞いた。  智恵は、堤防に両の肘をつき、黒い海をみつめていた。どこか寂しげで、華奢で、きりりとひきしまった横顔だった。それは、この世でもっとも清浄なものを、すべてあつめてできていた。 「父はね、責任を取らされたのよ」  智恵は、とつぜんつぶやいた。ゆっくりと振りかえると、なにをいわれたのか分からずだまっている武志をみつめた。 「取るようにさせたのは、あなたのお父さんよ」  彼女は、視線をまたよごれた海にうつした。  武志は、智恵がなにをいっているのか分からなかった。 「さんご礁をまもる綺麗な内海。東京湾のよごれた黒い湾。ふたつの海が分かれているところを、みてみたい。武志くんは、そうは思わない」  智恵は、じっと武志をみつめた。 「正しいって、なにかしら。私、分かったのよ。なにが正しくて、どれが間違っているかってこと。武志くんには、分かる」  智恵は、海をみながら穏やかな口調でゆっくりといった。 「正しいっていうのは、多数ということよ。民主主義なんだから。でも、そのためには、多数意見をつくらなければならないわ。みんな、少数はいやだから、多いほうにつくんだわ。少数派は、間違っているのだから。そうでしょう」  智恵は、薄手の白いセーターをきていた。土曜の午後だった。小船の汽笛が、ひびいていた。 「あなたのお父さんのお仕事って、きっと沖縄のエメラルドに輝く海をまもる、さんご礁みたいなものなんだわ。いちばん美しい景色は、ほうっておいては、できないわ。まもってあげなければ、なんだってすぐによごれるのですから。そうしなければ、美しくみえるものが、なくなってしまうわけよね」  智恵は、にごった海をみながら、ゆっくりと話した。 「まもるためには、それが正当なものでなければならないわ。多数の意見にしなければ。その考えを、多数派にみちびかなくては。それが、武志くんのお父さんのお仕事だわ」  波音が、していた。防波堤にぶつかるやわらかい音は、規則的で穏やかだった。その情景は、地球が誕生してから、何ひとつ変わらないものだった。反復する、波の音も。青い空を飛ばされる、大きな雲も。やや湿り気をおびながら頬をなでる、ゆるやかな風も。麻痺することもなくつづく、潮の匂いも。  何ひとつ変わらずに、くりかえされるものに思えた。  それから、ふた月くらいして彼女は転校し、家は売りにだされた。  智恵の父親は、贈賄の罪に問われた。その事件は、大きく新聞に取りあげられ、連日ニュースで放映され、写真もでた。  安部智一。武志は、智恵の誕生日のパーティーによばれたとき、父親に会ったことがあった。四〇歳なかばの精力的な男性で、総合商社に勤務していた。伝統もある有名な大企業の部長で、ゆくゆくは社長になると聞いていた。若手のホープらしかったが、気さくな人だった。  日曜日だったので父親も家にいて、面白い冗談でみんなを笑わせていた。一六本のロウソクをともしたケーキのまえで、バースデーソングを歌い、写真を撮ったときにも智恵といっしょだった。  そのフィルムは武志の机にかざってあったが、ひとり娘だった彼女は両親と友だちにかこまれて幸せそうに微笑んでいた。  新聞やテレビの、連日の報道がおさまったころ、父親は首をつった。それを発見したのは、智恵だった。  この贈収賄事件にかんしてかかれた新聞や週刊誌を、武志はできるかぎり読んだ。収賄の疑惑がもたれた通産省の大臣は、彼の父親の管轄だった。名前は所轄の事務方の長として、ある週刊誌には取りあげられていた。 「大臣は人格、高潔であり、決してお金でうごく方ではない。この話は業者がわのいっぽう的な思いこみで、取りざたされること自体、大変遺憾だ」  父の言葉が、かかれていた。  智恵は、あのときじっと、彼をみつめただけだった。 「武志くんの家は、みんな官僚ですものね」 「あなたも、そうなるの」  武志は、智恵の目が、そんな風にいっていると思った。  父の亮介は、父権をもつ横暴な人だった。周囲をすべて納得できるようにしなければ、気がすまなかった。判断の基準がなんであったのかは分からない。ときには、正義だったり、幸福だったりしたのかも知れないが、絶対的なものではないと武志は思っていた。 「官僚は、きらいだ」と彼はいった。  父の亮介は、いちばん成績のよかった武志を、大蔵省に入れるつもりだった。 「絶対、東大にはいかない」 「権力はきらいだ。とくに官僚はいやだ」と武志はいった。  父親は、怒っていた。それで、祖父がふたりを取りなした。 「ひとりくらい、医者がいても、いいんじゃないのか」  それで、武志は地方都市の医学部に籍をおいた。 「旧帝大でなければ、だめだ」と父親は命じた。  それで、いちばんとおい地方にいった。  大学に入学した二年目の冬、武志は退学届をだし、とつぜん家に帰ってきた。 「なにが、不満なんだ」  祖父は、武志を自室によぶといった。  静かな、暑い夕べだった。すがすがしい風鈴の音だけが、日がかげって、幾分か命を取りもどしはじめた風にのってはこばれていた。祖父のまわりにあるものは、すべてが、すみ切ってみえた。 「方丈というわけにはいかないが」  祖父は、祖母が死ぬと庭に別棟をたてた。それは縁がわと六畳と八畳のつづきの和室、手洗いからできていた。奥の間を、祖父は寝室としてつかっていた。そこには床の間があり、日本刀がおかれていた。  祖父は、和服をきて奥の部屋で刀の手入れをしていた。あやしく鈍い光をはなつ刃の柄を左手にもち、右の手で椿の油をたんたんと塗布していた。祖父は、いつも正座で背筋がぴんと伸び、色無地をきてひどく孤独にみえた。もう八〇歳にちかくて、頬には黒ずんだ斑点がところどころに浮きでていた。  六畳間に正座した武志は、規則正しい隊列をくむ兵士にも思える畳の表面をみつめながら、「ひと言では、とてもいえません」とポツリといった。  もともと陸軍の将校だった祖父は、毎日、木刀を振っていた。  武志は、勲章をみせてもらったことがある。あざやかな色をした、さまざまな大きさの胸章が箱のなかにおさまっていた。武志が、だまってみていると、 「沢国の江山戦図に入る、生民なんの計あってか樵蘇を楽しまん、君によって話す莫れ封侯のこと、一将功なって万骨枯る」  祖父は、漢詩を口ずさんだ。痩せて、もう筋肉といえるものはなかったが、かくしゃくとし、食事のとき以外は本を読んだり経文をうつしたりしていた。 「官僚は、きらいだ。彼らは、どんなときでも保身をだいいちに考える。世の中の体制が、どうであっても、自分たちの機構だけは絶対に生き残ろうとする。人は、ふたつの立場を取ることはできない。どちらかに組し、負ければいっしょにたおれるべきものだ」  祖父は、日本刀を見入りながらいった。静かな時間がすぎていった。刀を鞘におさめると、祖父は正座のまま武志にむきなおり、 「おまえは、好きなことをしたのではないか」といった。  そうだった。 「好きに、させるのもいい」と祖父が取りなしてくれたので、武志は東大にいかないですんだ。父や兄たちとは、違う道を、えらぶことができた。 「自分の思う通りに、生きたい」 「医学がやりたかったのでは、なかったのか」 「医者になるより、いまは、もっとしたいことがある」 「いったい、おまえはなにをやりたいんだ。父親に、反抗したいだけではないのか。まるで中学生だ」  祖父は、静かにいって、武志をみた。 「自分の父親や母親を、悲しませたいだけではないのか」  風鈴の音色がして、静寂なときがながれていた。 「だれも、好きなことなんかできない。生きるとは、そういうものだ。自分だけは、好き勝手ができるなんて思うんじゃない。おまえは、特別な者ではない」 「どこへいっても、おなじだ。人が生活し、暮らすのだから。おまえが生きているのは、世の中だ。だから、どこへいってもおなじなんだ」  祖父は、じっと彼をみつめた。瞳はやや湿って、武志にはとても悲しげにみえた。祖父は、丁寧に椿油を塗布した日本刀を、入れた鞘からもう一度ぬき、波打つ文様をしげしげとながめた。 「官僚は、きらいだ。しかし、秩序は必要なのだ」  あやしく輝く刀をみながら、祖父は押し殺したひくい口調でいった。  すんだ、風鈴の音がした。  父は大学に問いあわせ、四方八方に手をまわし、退学届は休学届になった。いくつか武志をなぐり、「一年で帰ってこい」といった。ながい沈黙のあとで、亮介は聞いた。 「安部のことを、まだ忘れられないのか」  武志は、だまって口をつぐんでいた。 「一年だけだ。もし帰ってこなければ、親子の縁もこれまでだ」  それで、武志は家をでた。 「人には、いろいろな生き方がある」  家をでるとき、祖父は武志をよんで、なにかをこらえる表情でいった。電線や人工物でかざられた、東京の鈍色の空を、さだまらない視点でながめていた。 「青二才が」  ながいこと武志をまじまじとみつめて、祖父はいった。 「どうして、分からないのか。人は、それぞれ役割をもっている。おまえは、日本のいまという時代に生まれ、世のためにつくさねばならない部分があるはずだ。権利ばかりを主張しているが、どうして義務に気がつかない。最高の教育をうける機会をえたのは、おまえが勝ちとったのではない。たくさんの先人たちがはらった犠牲のうえに、あたえられたものだ。どこかで恩返しを考え、役に立たねばならない。おまえには、義務があるんだ」  祖父とは、出国してから一度だけ会った。シスコで皿洗いをしていたとき、とつぜんやってきたのだ。どこで、どうさがしたのか分からないが、働いていた料理店に姿をあらわした。なんの予期もなかったので、武志はひどく驚いた。 「仕事で、こちらにくる用があった」といった。しかし、そんな用事をもつはずがなかった。 「帰ってこい」と祖父はいった。 「もう、きっともどらない。南米にいく」と武志はいった。  祖父は、すこし悲しい顔をした。沈黙のときがながれた。 「たまには、手紙をかく」と武志はいった。 「そんなものは、みたくもない」と祖父はいい、大きな溜め息をついた。 「道子が、会いたがっている」 「母さんには、元気でいるとつたえて欲しい」 「分かった」  考える仕草をしたあとで、祖父はいった。 「好きなときに帰ってこい。元気にもどってこい。みんな、そう思っている。道子に、わたせといわれた」と小さな鞄を差しだした。 「おくってこなくていい。このまま帰る」  武志をみつめたあとで、タクシーにのって去っていった。  みじかい時間で、三〇分もなかった。  祖父は、年を取っていた。背広だったが、似合わなかった。  鞄のなかには、母の手紙があった。 「会いたい。帰ってきて欲しい。父さんのことは、どのようにでもするから」とかかれていた。封筒のなかに三〇万が入っていて、帰りの旅費につかえとかいてあった。  祖父が死んだのは、一年半くらいまえだった。知ったのはロンドンから北欧に入り、東欧をまわってフランスについた一年まえだった。パリにはすこしいたので、ちょっとした気まぐれから日本大使館にいってみた。アメリカの友人たちの手紙にまじって、母からの封書があった。それには、「祖父が、胃がんで三ヵ月の寿命だ」とかいてあった。 「帰ってきて、もらいたい。おじいさんは、おまえに会いたがっている」とあった。それで、すぐに家に電話をかけた。女の声がして、「祖父は、半年まえに死んだ」といった。  電話口の綺麗な高い声音が、武志にはすこし冷たく感じられた。その女性がだれなのか、彼は知らなかった。  母からの祖父の病を知らせる手紙は、それから幾度か出会った。マドリッドや、ナイロビの大使館にもあった。たぶん世界中の公館の片隅に、武志宛の永遠にあけられない封書が残っているはずだ。  四  プエルト・ウィリアムズをまわってアマゾンについた武志は、金がなくなるまでマナウスですごした。チケット代だけになるとニューヨークにいき、またアルバイトをした。日本をでてから、三年がたっていた。 「ニーナに会わねばならない」と思った。 「マリーサの顔をみたい」 「クララは、親父になぐられて、いないのだろうか」  そんなことを考えているとき、日本をなつかしく思う自分をみつけた。それは思いがけない発見で、すこし戸惑った。そうした心に気づいてしまうと、自分にはもういくところがなかった。  一年間働いて、ロンドンへ飛んだ。いちばん安かったニューヨークからのチケットは、機内で水もでなかった。  北欧の街は、素晴らしかった。しかし、メキシコに最初に入ったときの感動とは違っていた。二メートルもある魚が、トラックの荷台から、はみでているのをみた充足感はなかった。  東欧をへてフランスへ、ルーブルへもいってみた。そこは、武志の趣味とは、まるで違った意向であつめられたコレクションだった。辛くて、とてもすべてはみられなかった。  ヨーロッパはピレネーで終わり、ジブラルタルをわたりマラケシヘ。イスタンブールに飛んでから陸路でエジプトに入る。それから、ナイルを遡航した。もうその旅は、アマゾンとは違って物悲しく憂鬱だった。太陽の日差しはつよかったが、輝いてはいなかった。  ナイロビは寒かった。しかし、人ごみにほっとした。ほとんどは女で、大部分は娼婦だった。  武志は、いぶかしく思った。人間をすててはじまった旅が、結局は人にもどっているのではないか。しだいに、あの雲がかかってきた。はじめはうすかったが、バグダッドに飛び、カイバル峠をぬけてインドへ入り、ヒマラヤをみて、さまざまな街を歩いて、とうとうここまできてしまった。日本は、もうほんの手前だった。  こうして日本人の女性に出会って、故郷の匂いをかいでいる。それは、素敵な香りがして心を魅了するし、だいいちなつかしい。  いろいろな事件が、あったと思う。ひとつひとつは、特別に変わったものでも、楽しかったことでもない気がした。女とおなじように楽しんでいた旅は、どこから変貌したのだろうか。面白いことって、ほんとうに経験したのだろうか。  いま、はっきりあるのは、武志がいて、日本という国が存在し、そこが生まれたところだという事実。母国は、ほかとは違い、サケやウナギでさえ帰っていく場所だ。しかし魚たちは、たぶん目的地につく直前まで、祖国を目指していたなんて考えもしなかっただろう。  女は、なにかを飲みたいといった。それで、フロントにコーラを頼んだ。武志は、部屋のバーボンを口にした。窓際に、まるいテーブルと二脚の椅子がおかれていた。武志は、ひとりで飲んでいた。  起きあがった女に、「どうかい」と聞いた。 「いらないわ」と彼女は答えた。  しかし気が変わり、テーブルにきてバーボンを飲んだ。 「まずい」と女はいった。 「よく、こんなものが飲めるわね」 「たしかに、うまくない」  ニーナは、バーボン以外は飲まなかった。 「日本は、景気がいいのかい」 「おじさまたちに声をかければ、お金は好きなだけくれるわ」と女は答えた。  クルーザーにのりたいといえば、手配してくれる。スポーツカーで二〇〇キロをだしてと頼めば、だれもことわらない。一生懸命競争し、早稲田や慶応や有名な大学を卒業し、立派な会社に入っているが、すこし馬鹿だ。お金さえあれば、なんでもできると思っている。彼女が思いどおりにならないのは、贈り物や、金銭が足りないからだと考える。拒めばこばむほど、なんでもくれる。だれも彼もがおなじで、お金ですべてを解決できると思う。いっぱいもっているから、本人たちの基準ではなんでもできるのだろう。しかし、片輪だ。アジアをまわれば気がつくかも知れないが、四つ星のホテルに泊まって低開発国を旅行しても分からないだろう。 「お金で、できないことはいっぱいあるのに。こんな当たり前が、分からないのよ。病気にかかっているのね。日本中が。だから私は、世界をまわるの。ほんとうの基準が、どこにあるのか、教えてもらえるから」  女はいって、武志をみた。 「あなたは、なぜ世界をまわっているわけ。だいたいバッグをのぞく以外に、なにができるの」 「ハンバーガーを、やくことくらいかな」 「よかったわね。できるものがあって」 「さっき、レストランで話したことを覚えているかい。世界に、ふたつのものがあるって話。あれは、間違いだ。君にはとても残念だけれど、面白い出来事なんて世界中のどこにもない。あると思って、実際にちかづいてよくみると、これがさっぱりなんだ。悲しいくらいにね。もし面白いものをさがしたいなら、よくみないことだよ」 「あなたは、じっくりみつめたというわけね」と女は答えた。   二種類の人間はいると、武志はいった。だいいちは、なんでも自分でためさないと気がすまない徹底的にやるタイプ。もうひとつは、すこしみてすぐに分かったとするもの。社会をつくるのは後者だから、なにが起きても平然としていられる。なんでも、分かっているからだ。ふたつのタイプの溝はふかくて、違うと話ができない。そのうえ多数派だから敵わないと、武志はいった。 「おじさまたちは、君をだいぶ変わった人だと思っているわけだ」 「そうだわ、きっと。でもね、私はうまくまぎれて暮らしているのよ。おじさまたちとは同類で、おなじ価値の基準をもつって顔をしてね。あなたには、できないでしょう。たとえば、さっきのボンベイの話ね。おじさまたちに話したら、作り話だと思われるだけではなく、もう私は敬遠されちゃう」 「正しいね。やめて、おいたほうがいい」  女は、コーラを飲んで、「チェンマイにいく時間だ」といった。  それで、名前と住所を交換した。どちらも、ほんとうかどうかは分からない。  玄関までおりて女をみおくり、ひとりになって武志はレストランでコーラを注文した。その色は、ネグロ河にそっくりだ。みるたびに、リオ・ネグロの黒いながれを思いだした。 アマゾンだけは、違う。すべての者の想像を絶する。黒と白の川は、べつべつに存在している。アマゾンは、たったひとつの例外で、世界の奇跡だ。黒と白が、はっきりと分かれている。  それから、首にかけてあるパスポート入れからエアチケットを取りだしてながめた。明日の日付と、二三という数字がかかれていた。それから、部屋にもどってすこし寝た。  欧米の白人以外に世界を旅することができるのは、日本人だけだ。「爺」は、偉かったのだろうか。たぶん「親父」だって、そうだったのだろう。しかし、偉いってなんなのだろう。おれには、できないってことなのか。帰って、なにをしたらいいのだろうか。 「分からない」 「すべては、どうでもいい」  七時をすこしすぎたころ、武志はぶらりと外にでた。足は、自然とノスタルジーにむかった。三〇分くらい、ぶらぶらと歩いた。道で、何人かの女性に会った。だれもが、ながい髪をして、ジーンズをはいていた。サンダルと裸のくるぶしで、みんな綺麗だった。  ノスタルジーには、多くの女がたむろしていた。ソファーのあいだの通路を歩いているとグァイがとつぜんあらわれて、「やっときたのね」、「待ってたわ」といった。  それから、仲間があつまる座席に武志をつれていった。そこには姉貴分にあたる、ルアーという一九歳の女もいた。 「オソカツタワネ」と彼女は日本語でいった。  それで昨日のように、みんなにはコーラを、自分にはスコッチを注文した。グァイは特別な場所の入り口までいき、ボーイにお金をわたして飲み物と変えてテーブルで分けた。 「ワッシング。洗濯をしたのよ。朝早くに起きて、ずっと働いていたのよ。ごめんなさいね。今日は、彼女にしておきなさい」  グァイは、ルアーを指差していった。  綺麗なながい髪の女は、細面で色白の美人だった。武志が笑いかけると微笑んだので、話をした。すこし話すと、「私、あんたが好きよ」とルアーがいった。 「なぜだい」と武志はたずねた。 「あんた、グァイにも、優しくしてくれたし」  念のために、聞いてみた。 「どのくらい、好きなんだい」 「二番目よ」 「そうだと思ったよ」  ふたりは、笑った。 「彼氏も、きっと会いたがっているよ」  武志は、胸のポケットにあった一〇バーツをやった。 「手紙でも、かいてあげな」  ルアーは、笑ってそれをうけ取り、ちかくにいる女の話をした。 「あの子は、どうなんだい」と聞くと彼女は、ひとりひとりについてコメントをつけた。あれは、いいとか、やめろとか、そんな話だ。  そうしているうちに、武志の気をひいた子がいた。白い服をきた、痩せて小柄な、一六、七歳の娘で、すこし、上品そうにみえた。 「あの子は、どうなんだい」 「いい娘よ。とてもおとなしい。あの子、英語はぜんぜんしゃべれない。でも話せないのは、いいわよ。すれていないってことだから」とルアーはいった。  それで、武志はすこし躊躇した。 「あの子が、いいの」 「好きな、タイプだ」 「よんできてあげる」  ルアーは、とめるまもなく席を立った。みていると、その娘になにかをいった。彼女は武志のところにきて、となりに腰をおろした。エイモという名前だった。  武志は、コーラをもうひとつ注文した。 「アー、ユー、エイモ」と顔をのぞきこんで聞いてみた。  少女は、恥ずかしそうに笑った。それから自分をさし、「ミー、エイモ」といった。  そのとき、不思議な違和感を武志は覚えた。言葉にならないもので、じっとエイモの瞳をみつめていると、 「バイアイなのよ、この子。猫に生まれればよかったのに。この国では、バイアイの白猫は、カオマニー、白い宝石っていわれて珍重されるの。その目は、ダイアモンドの瞳ってよばれるわ。お金持ちにかわれて、大切に育ててもらえたのに」とルアーはいった。 「ああ、そうか」  武志は、もう一度、バイアイの瞳をみつめた。  右目の虹彩はダークブラウンだったが、左目は薄緑で、自転車のスポークに似た、瞳孔を中心として放射状に伸びる五本のブラウンの線状部があった。大きさに左右差はなかったが、背景色の違いによって左の瞳は強調され、みる相手の目を思わずその部分に釘づけにしてしまう。左目は、右とは違う特別な意志があると感じられた。エイモは穏やかにみかえす右目と、相手の心をすべて見通す、そんな不安をひき起こす左の瞳をもっていた。 「素敵だよ」と武志はいった。ルアーは、エイモに囁いた。その言葉を聞くと、彼女はとても恥ずかしそうにした。  それで、今日はエイモになった。  彼女は、まったく英語ができなかった。知っている単語は、三つくらいしかない。ミー、サンキュー、グッバーイで、おしまいだった。それで、身振りや手振りで話をした。気がつくと、ルアーとグァイはいなかった。  九時をまわったころ、ふたりでホールをでた。国道には焼き鳥を売る出店があって、ルアーとグァイはそこにいた。二〇歳くらいの日本の青年といっしょに、立ち食いしていた。 「グァイ」と武志はよんだ。  彼女は、彼の声に振りかえった。エイモといっしょにいるのをみると、人差し指で右の目の下をひっぱって、アカンベーをした。  武志は、「ははは」と笑って、「明日、帰るんだ」とふたりにむかっていった。  ルアーが、「残念だわ」と答えた。 「お別れを、いっておくよ」と声をかけた。  ルアーは、うなずいて、「シーユーアゲイン」とつげた。  武志も、手を振り、「またね」と答えた。  グァイもいったので、そうくりかえして別れた。離れてから、声が聞こえた。 「今夜は、昨日の分まで頑張るといいわ」とさけんでいた。  ホテルについてから、風呂場で武志は汗をながした。バーボンを飲んでいるとエイモもつきあうという身振りをしたので、グラスにそそいでやった。彼女は、匂いをかいで鼻をおさえた。白い服をきて、年は一六歳だといった。小柄の割には胸は大きく、髪はショートカットだった。  シャワーをあびる身振りを示すと、エイモは理解した。バスに消えると、武志は、そばに無造作においてあった彼女のバッグを取って、ベッドのうえで逆さにしてみた。口紅と白粉とハンカチーフ、それに預金通帳、胃薬、いろいろな小物にまじって、可愛い首飾りが入っていた。ネックレスは、十字架の形をしたペンダントだった。財布があったので中身をあけてみると、一〇バーツの紙幣が五枚入っていた。  エイモは、シャワーからでてくると、バスローブをきた。すべすべとした肌と形のいい乳房、尖った乳首がみえた。それから、彼女に三〇〇バーツをわたした。バッグのなかの財布を取りだし、お金をしまうのをみたとき、武志は首飾りをひとつもっているのを思いだした。アジャンタでとても気にいって、目的もなく買ったものだった。バッグをさがすと、奥に首飾りがあった。  取りだして、「プレゼント」と、いってだした。 「サンキュー」  エイモは、嬉しそうにいった。  アメジストでできた首飾りは、綺麗で、赤と青のふたつの石が交互にならんでいた。二色は決してまじりあうことなく、どちらもきらきらと輝いていた。首飾りは、白い隆起のあいだに垂れさがった。  武志がみていると、エイモは背筋を伸ばして笑った。 「綺麗だよ」と彼は、この国の言葉でいった。軽く乳房をもんで、乳首を口にふくんだ。  武志は、ベッドに腹ばいになった。エイモは、そばによってきた。 それから、絵で話をした。武志は、飛行機を描き、明日の二三時にこの国をたつとつたえた。エイモは、女の子の絵を描きだし、飛行場にむかって矢印をひいた。武志は首を振って、二三時が遅すぎることを、朝から晩までの生活を図にして、太陽にバツマークを描いて示した。彼女は、理解したみたいだったが、なぜ夜が悪いのか分からなかった。武志は、遅すぎて心配だということを、いろいろな絵を描いて表現しようとした。どうしても、思いはつたわらなかった。彼女は、下手糞な絵を一生懸命にみて、首をかしげた。そして、上目づかいに武志をみつめた。とても、悲しげにみえた。  綺麗で、可愛かった。ほそくて、はかなげで可憐だった。武志は、キスをした。エイモは、舌をはげしくすった。  武志は、ベッドから離れ、窓がわの椅子にいき腰をおろした。テーブルにバーボンをおき、杯をかさねた。ニーナを思いだした。マリーサを、クララを思い起こした。それで、バーボンを飲んだ。 「どうして、分からないのか」  爺の声が、聞こえた気がした。 「義務」  そのとき、閃光を感じた。なにかが、脳裏を俊足にかすめていった。それは爺ではなくて若い女で、白いセーターをきて、悲しげに、じっと武志をみつめていた。きりりとした横顔の智恵だった。酔ったのかな、そう思ったとき、はっとした。  バイアイ。  風がふいて、雲がながれる。  バイアイ。  武志を気がかりにさせた、あの目。智恵の左目は、すこし緑がかって、右にくらべて瞳が強調されていた。目をあわせたときに感じた、不思議な思い。左右の瞳が、べつべつな言葉をつたえている。  エイモほど、はっきりとしなかったけれど、智恵は、バイアイだったのだ。だから彼女にみつめられると、いつも不安になったのだ。 「でも、いまは、酒と女しかない」 「もう、どこを旅してもおなじ。ただ、このふたつを、くりかえしているだけ」  かなり酔いがまわって、眠くなった。 「すべては、どうでもいい」  ニーナの言葉を、思いだした。  自分は、無価値だと感じた。生きていても仕方がなく、考えられるなかで最悪で、神からみすてられた、この世から消えうせるべきものに違いないと思った。  ベッドにいき、スタンドの明かりをけし、ぼんやりと、よどんだ暗い闇をみた。しばらく、そうしていた。そのとき、寝たとばかり思ったエイモが、耳元で囁いた。  彼女は、もうひとつ、英語の単語を知っていた。 「トライミー」と小声でいった。  その声に振りかえった武志は、真っ暗な闇に光るものをみた。弱々しい少女は、銀色の閃光をはなちながら、あふれる輝きのなかで眩めいていた。  武志は、ベッドのうえで起きあがり、バイアイの瞳で、真剣にみつめるエイモをみた。  ダイアモンドの瞳孔は、この世で清浄なものを、すべてあつめてできていた。  武志は、じっとみかえした。    綺麗で、神々しかった。    昔むかし、会った気がした。    波が、ゆるやかな音をくりかえし、    海を、みているように思った。    白い防波堤が、ずっとつづき、    やわらかいオレンジ色に、世界は染まっていた。    夕日がつくる、ながい影がみえ、    湿った潮の匂いに、つつまれていた。    小船が、あてもなく浮かび、    汽笛の高い音が、ひびいていた。    ゆるやかに、頬をうつ潮風を感じ、    かもめが、頼りなく漂っている気がした。    そして、だいいちに悲しかった。  武志は、エイモを、きつくだきしめた。                            旅の終わり、(八八枚)、了