イットイズイット                                 由布木 秀 「いったい、私とは、なんなのだろうか」  男は、思わずひとりごちだ。  呟きを聞いた住職は、じっと彼をみつめた。  するどい視線を感じて、男は和尚をみた。  八〇歳を確実にすぎた住職は、ひどく醜かった。どす黒い顔の皮膚には脂分がまったくなく、右眼を中心に青黒い大きなあざがあった。周辺にむかって黒さを増しながら、老斑になって右の額から頬まで大きくひろがっていた。手入れもしない眉は、顔の真ん中にあり、全体のバランスをいちじるしく崩していた。粗雑に生えた白い毛がながくなり、さまざまな方向に伸びていた。目蓋が下垂するため、目はいっそう小さくみえた。その下の皮膚はひどく弛み、大きな隈になっていた。異様にひろい額も痩せた頬も、乾いたうすい唇のまわりも、皺は、ながい隆起と無数のこまかいひだをつくっていた。口の周囲と顎に生える白い毛も、まばらで見栄えのしないものだった。禿げた頭部はいびつで、そこにも幾本かの皺状の隆起があった。耳は不釣りあいに大きく、異常に痩せた首にはいくつもの縦筋がみえた。  住職は、経典としても疏釈としても文章としてはのこっていないが、二五〇〇年にわたって語りつがれた数多の仏典には、真理の手がかりがある。般若という言葉で結晶した知恵だといった。そこには、生きる意味、存在の理由、世界の法則、永遠に輝きつづけるイデアの実在が啓示されている。しかしながら、あくまで三昧のなかで、つまり脳裏で展開される境地なのだ。それを実感とよぶのは自由だが、夢という言葉でおきかえられるほど頼りがないものだろうといった。 ながく考えてきた男は、彼岸(ひがん)によせる波音を聞いたことがあった。浦波の音は、押しかえす岸が柔らかい土だと教えてくれた。潮騒は、なつかしく微かに耳にのこっていた。彼岸に咲く蓮の花の香りをかいだこともあった。そこをぬけてきた、風の匂いを覚えていた。あの優しい音色を、甘い香りを、はっきりとたしかめたかった。  男が彼岸について考えているのを知った住職は、秘儀があると話しはじめた。文章は自在に変えられても、儀式はのこる。それを執り行うのが、彼岸に辿りつく唯一の手段だといった。  興味を示したのを確認すると、住職は男を奥の院につれていった。すこし離れた場所に、土蔵がつくられていた。金属製の大きな扉に、頑丈そうな南京錠が三つついていた。住職が錠前をといて重い扉口をあけると、黴の臭いがした。男は、大切なものがここにあると直感した。ふたりがなかに入ると、ふるい木製の中扉が視界をさえぎっていた。住職はあかりをつけ、重い金属製の扉をしめ、鍵をおろした。  はりつめた時間を、男は感じた。ここにあるものは、ながいこと待ち望み、ずっとさがしていた真理に違いないと思った。男は、生唾を飲みこんだ。  住職は、中扉をあけた。  そこには、恐るべき祭具が揃えられていた。篝火を立てる、青銅の巨大な建篝座(けんこうざ)。威圧的に男をみおろす、神人像。いまにも飛びかかろうとする、神獣像。土蔵の天井からそそがれる弱い光のなかで、青い祭具はあざやかに浮かんでいた。それをみた男は、身体が小刻みに震えだした。  住職は、祭具をひとつひとつ説明し、すべて授けるといった。さらに、儀式の手順を記した冊子を男にあたえた。最後に、住職は烈士をさがせといった。 「この世のすべては、四つの要素からできている。人の四大は、道士と烈士と傾城。そして衆生だ。真理をえるには、烈士が必要だ。信念をつらぬく男子をみつけるのは、国色を妻にするよりむずかしい。真実を知りたいと思うのなら、みつけださねばならない」 「二度目を行うと、どうなるのか」と男は聞いた。 「それはできない。してみれば分かることだ」と住職はいった。    ある夜、男は書斎で刀子を取りだし眺めていた。  小刀は、緩やかな弧を描きながら反っていた。ながさはおよそ二五センチあり、磨かれ妖しく光っていた。柄の両端は厚く、中央部分に格子状の四角い文様がほどこされていた。取っ手から刀身にうつる、刃がわに突起がある。柄(つか)頭(がしら)にはむかいあう二匹の鳥がつき、するどい嘴と鶏冠をもち首がながい。頭部は鶏だが、羽をひろげて後ろ脚で立つ姿からみて、番(つが)いの鳳凰だろう。儀式用とはいえ、妖しいまでのふかみをもっていた。工芸品として、どれほどの価値があるのだろうか。  男は、ふと視線を感じてどきりとした。部屋の入り口で、妻が驚いた表情で、じっと彼をみつめていた。時計をみると八時まえだった。帰宅予定の一一時より、ずっとはやい時間だった。 「なにをしている」と男が聞くと、「それは、こっちのセリフだわ。怖い顔、声もかけられないほど」と妻はいった。  どんな表情をしていたのだろう。もしかすると、手にもった刃物をみつめながら恍惚とした笑みでも浮かべていたのだろうか。平静をよそおいながら刀子を机の上におき、男ははやい帰宅の理由をたずねた。妻はその問いには答えず、「お風呂に入るわ」といって、階段をおりていった。  一〇時ころだった。男は、食卓でお茶を飲みながら新聞を読んでいた。ふと顔をあげると、入浴を終えてさっぱりした妻が、ぼんやりと庭を眺めていた。ととのった横顔を上品だと思っていると、振りかえって男をみた。  妻は、書斎でなにをしていたのか、とたずねた。 「考えていることがある。協力してもらいたい」と男は切りだした。 「本にかいてあった妙な儀式なのだが、真相をみれるというのだ」 「真実」 「真理かもしれない」 「胡散臭いのね。さっきのが道具なの」 「そうだ。あのナイフはおもちゃの工芸品で、ほんとうは紙も切れない」  ふたりは、年も一七違うわけだし、男がおかしなことに興味をもつのは昔からだった。妻は、かなり妙だとは思いながらも言葉にしたがって、台所から包丁をもちだして書斎にいった。  男は、たがいが取るべき体勢を説明した。書斎で、彼は窓をむいて椅子に腰かけ外をみる。その背後で、妻はふだんつかう馴染みの包丁を右手にもち、時代劇で首切り役人が土壇場のまえですっかり覚悟した罪人にむかう姿勢を取る。 「気持ち悪いわね、そんなことするの」 「まあ、そういわずに」 「片手でもつの、それとも両手。おっかないわね」 「たしかに物騒だ」 「したくないわ」 「まあ、ちょっとだけやってみよう。ただ、ぜったいに声をださないで欲しい。ながくはかからないが、終わりというまで、だまってこのまま立っていて欲しい」  それで、部屋の電気を消した。  春の夜は、月がでて、虫の音もなく静寂が支配していた。観客もいない屋敷で、妻と男は、首切り役人と罪人の役を演じていた。  電気を切った直後は暗くてみえなかったが、やがて目がなれてきた。うすい靄のかかった空に月が朧にでて、雲がゆっくりとながれている。庭園灯が、あざやかに満開の桜を映しだす。おりしもふってきた柔らかい春の雨に、花びらは震えながら静かにちっていた。 「ひぃっく」。「ひくひく」というしゃくりあげる音声が、背後で聞こえてきた。妻の声だ。どうしたのかと振りかえると、彼女は鬼の顔つきに変わって涙をながしている。それが頬をつたい、滴になり床に落ちている。包丁を右の肩の上でかまえながら、にぎりしめた両手がわなわなと震えている。暗闇のなかで、妻は泣きながら、恐ろしい形相で立っていた。 「どうしたんだ」 「殺すつもりなのね。やられるのなら、いっそのこと」  男は、豹変した妻の様子をみて驚いた。  目のまえで包丁を大きく振りかざす彼女は、なんということか、いまにも切りかかる勢いなのだ。振りおろすのと、とめる筋肉が激しく拮抗し、一メートルほど離れた場所でわなわなと震えている。  大きなうごきはよくないと、男は思った。 「ぜんぶ、知っていたのね。それでこんな手のこんだことを、させて殺すつもりね。さっきの、切れそうなナイフをもっているのね。おそいかかったら、ひと思いにやってしまおうってわけなのね。凄いわ、あなたらしいわ。扉をあけたとき、殺す瞬間を想像していたのね。短剣をみつめて笑っていた。正当防衛で、私を殺すつもりなのね」  きれぎれに話す妻は、ひどく興奮していた。涙が光って頬をつたっている。はずみで、なにをしでかすか分からなかった。落ちつかせたいが、どうしたらいいのだろう。あかりをつけたいが、急に立ちあがるのは危険だろうと男は思った。  朝から胸騒ぎがして、今日は気分がのらなかったと妻はいった。はやく帰宅したのは、虫の知らせだった。やりかたが陰険で、興信所をつかってしらべたのは知っている。こんな始末まで、考えていたとは驚いたと妻はいった。  男がだまっていると、彼女はさらにつづけた。 「おそいかかられたとき、ナイフがちかくにあったというわけね。完全犯罪だわ。話だけでは気がつかなかったけれど、かまえさせられてはじめて、たいへんなことをしているって分かったわ。ここは二階の書斎で、ながしにあるはずの包丁には私の指紋しかない。完璧だわ。工芸品のナイフが、ほんとうに刺さるとは思わなかったって話すわけね」  妻は、大声でわめきだした。 「殺さないで。あなたのいう通りにするわ。お願い、殺さないで。私が悪かったわ」 「分かった。話しあおう」と男はいった。妻がなにを話しているのか分からなかったが、落ちつかせる必要があった。 「包丁をおきなさい。電気をつけるから」  男は静かにいった。妻が、へなへなと腰をおろし包丁を床においたのを確認し、「いいか、立ってあかりをつけるからな」とさらにつづけた。彼女をみながら静かに立ちあがり、部屋の電灯をともすと、まぶしい気がした。妻がよくみえた。視界に入ったまま、まえをゆっくりと歩いてちかづき、床におかれた包丁をひろいあげた。妻は涙をながしながら、ぶつぶつと繰り言を呟きつづけていた。  満開の桜が、はらはらとちっていた。雨をふくんで、ぬれて、震えて、ライトアップされて、静かに。  男には、入社以来ずっと目をかけてきた部下がいた。大学の後輩で、後継者にするつもりで育ててきた。  二〇年まえ、男は「懇意な娘がいるのか」と部下に聞いたことがある。彼はその言葉にとまどい、一瞬、顔を赤らめて、「自分は奥手なので」と答えた。男は好感をもち、見合いの相手として姪を紹介した。部下はひどく驚いていたが、一週間後には心の整理がついて、「ぜひ、お願いします」といってきた。それで、素晴らしいカップルが誕生した。この出来事は、男の自慢のひとつだった。部下の家族の出産や進学は、折りに触れて話題になった。授かった娘と息子は、どちらも有名な大学に通っていた。  住職から話をうけて烈士が必要だといわれたとき、すぐにこの部下を考えた。   そのころ、男の会社は大きなプロジェクトをひかえていた。中東の産油国のインフラ整備にかんする案件で、引退の花道にするつもりだった。部下の実績のひとつにさせ、ゆくゆくは辿りつくはずの役員、さらには社長への足がかりをつくってやりたいと思っていた。仮調印のために、男は会社のチームをひきつれて砂の国におもむいた。ふたりは、町からかなり離れた砂漠に面したホテルに泊まった。 「乾杯は、明日にのこそう」ということにして酒をひかえた夕食を取り、コーヒーを飲みながら部下の家庭の自慢話をすこし聞いた。そのとき、男はいった。 「寝るまえに、協力してもらいたいことがある」 「なんでもしますよ」  部下は、力強く答えた。男は、些細な儀式の練習に小一時間ほどつきあってもらいたいと話した。奇妙な申し出に、部下は怪訝そうな表情をしたが、「できることなら、やりましょう」と協力に応じた。それで地下の駐車場にとめてあった車から、大人の腕ほどもある大きなスパナを、もってこさせた。 「私がいいというまで、だまってそこに立っていてもらいたい。時代劇の介錯人みたいに」 「ただ立っていれば、いいのですね」 「そう。右手でスパナをしっかりとかかげて、じっと立っていて欲しい。私が終わりというまでかまえを崩さずに、それに声も立てないでもらいたい」  男は部屋のあかりを消すと、天井から厚い絨毯がしかれた床まで、壁一面を占める大きなガラス窓にむかって結跏趺坐し、スパナをにぎった部下を左背後に侍らせた。ゆっくりと手を伸ばし、もってきた刀子を右手にかまえ、左の手のひらを上にして腰の脇にあて真言を唱えはじめた。  暗い部屋から、一面の砂漠がみえた。そこは、三日月と満天の銀河に照らされ、静寂が支配していた。礫に覆われ、干からびた、固い大地の上を、こまかい砂がうごいている。波紋をひろげながら、ひそやかなときが、柔らかい風といっしょにながれていた。  ふいに、すすり泣きの声が背後で聞こえた。部下が、ひくひくと頻りに鼻をすする音だ。時計をみると、まだ五分もたってはいなかった。気がつくと光の加減か、正面のガラスに背後の部下がうつっていた。彼は、恐ろしい形相をして喘いでいた。右手でスパナをにぎりしめ、左手を右の肘にそえていた。重い鉄のレンチをもつ両手が、ぶるぶると震えている。汗なのか涙なのか、額からも目からも水滴がながれ、ぼろぼろと頬をつたい床に滴り落ちている。男がゆっくり振りかえると、部下は大きな声でわめきはじめた。 「殺したい。やってやりたい。しかし、できない。なんてことだ。ここでやったら、ぜったいに逃げられない。なんてことだ」  部下は、すっかり興奮していた。スパナを振りおろそうとした瞬間、脳裏にぱっとひらめいたといった。空港で、男は弁護士と駐在員の三人で空港警察によった。でてくると、ちょうど銃が入るくらいの手荷物をもっていた。ほかの荷物をポーターにまかせても、そのつつみだけを、妙に大切そうにしっかりとかかえていた。はじめは拳銃だとばかり思ったが、ナイフだったのだ。これ以上の正当防衛は考えられない。こんな大きなスパナを、わざわざ地下の駐車場からもってきて、フロントのまえもどうどうと通ったのだ。それも、ぜんぶ計算ずみなのだと部下はいった。  あまりの豹変に、男はとまどった。部下は、すっかり戦意をうしなっていた。男は、あかりをつけた。 「申しわけありません」  部下は、床に頭をこすりつけ、土下座していった。 「社長のお考えの通りです。今度のことは、ずっとおかしいと考えていました。みんなは市内のホテルなのに、わざわざふたり切りで、こんなに離れた辺鄙な砂漠の宿に泊まろうと提案されたとき、なにかがあると思っていたのです」  部下は、ぜんぶ副社長の陰謀だといった。贈賄のスキャンダルを起こし調印を失敗させ、責任をすべて男にすりつけ、社長を追い落とす計画だった。明日の仮調印さえ終われば、いい逃れができない状況だった。部下は、ずっと男を憎んでいた。社長の身内と強引にみあわされたとき、心の底から凄い人だと思った。直接責めるのではなく、こういう手段をつかうのかと感心した。秘書を孕ませたのは秘密のつもりだったが、じつはぜんぶ知っていたのだ。結婚しようとふたりで話しあったことまで把握している以上、逆らったら出世はないと覚悟した。泣く泣く部下は、秘書に因果をふくめた。それで、彼女は失踪した。この経緯も、みんな知っていたのだと部下はいった。  どの話もはじめて聞くもので、男は言葉をうしなっていた。昔、可愛がっていた秘書が失踪した事件があった。どうさがしても、杳として消息が知れなかった。なんとしてでもさがしだし、できることがあれば力になってやりたかった。  中学時代、母の弟の企業へ貸しつけた融資が焦げついた事件が起こった。不況がきて叔父の会社は倒産し、父の商社も危なくなった。それを引き金として両親は毎日喧嘩をくりかえし、挙げ句の果てに母は自殺未遂をした。ひとり息子だった男は家庭がすっかりいやになり、自暴自棄から道を踏みはずしつつあった。万引きをくりかえし、いま一歩で警察につきだされる寸前のところを、担任の先生が親身に話を聞き、自分の家に寝泊まりさせてくれた。教師は、息子夫婦を交通事故でなくし、幼い孫娘を男手ひとつで育てていた。そのとき男は、恩師と孫の三人で暮らしていた。やがて社長になり、今度は自分が助ける番だと思い、孫娘を秘書として採用した。 「私は、彼女のお爺さんによばれました。爺さんは、社長のことをよく知っていました。偉い人だと、さんざん私にいうんです。不正など、これっぽっちも考えていないと」  なぜ、これほど信奉するのかと部下は思った。それで、この不始末をどうするのだと迫られたとき、とっさに、ほんとうの親は自分ではなく社長だと話した。始末をつける命令をうけただけだとつげると、爺さんは真っ青になり、いまにも倒れるほど驚いていたが、まさか自殺するとは思わなかったと部下はいった。  秘書が失踪したあと、どうしてもみつけられず、理由も分からず、男は恩師をたずねた。 「なんとかさがしたい」という言葉に、 「娘が可哀そうだ。まったく気がつかなかった、私のせいなのだ。恩に報いなさいと、いつもいっていたから。君の教師であったのを、くりかえし自慢していたから。こんないい会社ではたらけるのは、特別によくしてくれるのは、私の善行があったからだと、うぬぼれていたからだ。君に感謝しろといったのは、了知をもとめたのとおなじだった。可愛そうなことをした」と涙ながらに話した。  たずねた翌日、大恩ある教師は首をつった。 「はじめて会ったときから、社長を妬ましく思い、憎んでいました」と部下はいった。  財産にあふれる名家にうまれ、何ひとつ努力する必要もなく、エスカレーター式に名門の大学に進学し、日本でも有数の大企業をつぐ。旧華族で絶世の美人を奥さんにし、当たり前のように優秀な子供に恵まれる。こんな、不公平は許せない。ひとつでもいいからうばい取って、男の幸運が幾重にもなって取りまく大勢の手によってまもられている、真実をみせてやりたかった。目をかけて特別に可愛がる秘書を自分の恋人にしたとき、どれだけ幸せに思ったか。社長には想像もつかないだろう。逆立ちしたって敵うものなど何ひとつない、いつもそんな風にみくだされ、くりかえしプライドをずたずたにされていた。そのとき、はじめて勝ち誇ったのだ。どれだけ踏みにじってやれたと思ったか、社長にはぜったいに分からないだろう。ところが知っていたのだ。妊娠が分かって結婚しようと話しあったつぎの日に、社長は縁談をもってきた。ささやかな幸せを嘲笑う顔が、くりかえし脳裏に浮かんだ。社長は、自分の幸運をきわ立たせるために、周囲を不幸な状態にしておくのだ。殺してやりたいと思った。秘書を取れば、一生飼い殺しにされる。彼女をすてれば、生涯の忠誠を誓わねばならない。眠ることもできず、一週間なやみつづけ決心した。番犬に変わるしかないと。幾重にも取りまく、社長をまもる一員になると。しかし、そのとき思った。番犬でいれば、いつか主人にかみつくこともできる。そのときがきたら、一発で喉笛をかみ切ってやろうとずっと思ってきた。すべて知った上で縁談をすすめてきたと、秘書にはつたえた。社長からは、堕ろせと命令されたと彼女にはつげたのだといった。 「許されるなら、いっしょに暮らしたかった。彼女だけを心から愛していました。たとえ飼い殺しにされても、結婚するべきでした。お願いです、殺さないでください。私が、悪かったのです」  ある日、男は渓谷にかかる橋のなかほどで、欄干から川底を覗きこんでいる大柄な若い男性の背後を通りすぎた。そのとき、「いったい、私とは、なんなのだろうか。もう、死んでしまうしかない」という呟きが聞こえた。深刻な表情で、はるか下方をみつめている若い男を一目みて、彼が烈士だと直感した。 秋も、ふかまったころだった。冷たい風は、露わになった岩肌で懸命に生きる木々を揺すっていた。滅ぶ寸前の葉は、錦色にもえ、日の光をうけて燦然と輝いていた。 「なやみ事が、あるようですね。じつは私も悲しい事件に出会い、ちかごろは毎日、死ぬことばかり考えているのです。そのまえに、やらねばならない仕事があると思って、日々をおくっているのです。あなたとは、分かりあえる気がします。ぜひ家にきて、死ぬことを決めてしまうまえに、ゆっくりと心行くまで話す機会をあたえてはくれませんか」  男は、真剣な表情で烈士にいった。彼がうなずいたので、自分の家につれていき、風呂をわかして入浴させ、衣服を取りかえてさっぱりとしてやり、暖かい、うまい料理をふるまった。  すると、烈士は話しだした。  彼は、いつも己に勝ちたいと考えてきた。それで、訓練をつづけてきた。烈士は、植木職人の息子だった。一目で好きになった相手は、父といっしょに雇ってくれた大きな屋敷のひとり娘だった。どう考えても、学問もない彼にふさわしくはなかった。声もかけられない、身分の違いがあった。妻にしたいといえば、世間から笑われるだけだった。そのとき、みんなとおなじに考えている自分を知って、己に勝ちたいと思った。なんとしてでも、娘を妻にしようと決心した。  烈士は、丹精をこめて植木を手入れした。娘の心に、染み入る庭をつくろうと思った。春には艶やかな牡丹の紅で、秋には楓の妖しい赤で庭園を埋めつくした。寝食を忘れ、全精力をついやしてつくった庭は、彼の心を表現し血の色に変わった。屋敷の主人も夫人も感激し、ほかで仕事をしなくてもいい給与をくれた。しかし彼は、娘の心をうばいたかった。五年の歳月がながれ、彼女は庭の植木に感激し、烈士を好きになった。そのときには、屋敷の両親も彼を愛してくれていた。そして、烈士は妻をえた。  幸せなときが、ながれた。可愛い子供がうまれ、妻はさらに美しくなった。烈士は、自分のすべてを捧げても足りないほど、ふかく彼女を愛している己をみた。彼は、妻と暮らすうちに分からなくなった。いっしょになれたのは、愛していたからなのか。烈士は、ぜったいに無理だと考える自分の気持ちに勝とうと思ったのだ。どちらが、強力だったのだろうか。愛する以上に、己に勝ちたい気持ちがつよかったのだろうか。これだけ身分が違うのに、ただ好きというだけで結婚ができるのだろうか。彼は、分からなくなった。そこで、愛しく思う気持ちと、自分の意志とを比べてみようと考えはじめた。いまが幸せだったから、ほんとうはどちらでもよかった。  烈士は、知りたかった。ふかく愛し、いつでも妻に触れたい自分がいた。彼女に、触らないことができるのだろうか。触れたい己がいる。そんな自分に勝てるのだろうか。愛らしい子供をだいた妻の姿をみるだけで、満たされていた。そばで、腕や髪に触れるだけで幸せだった。その妻に、触らずに暮らせるのだろうか。そんな、己に勝てるのだろうか。  妻は、すぐに気がついた。なぜ、だきしめてくれないのかと聞いた。まさか、きらいになったのではと、妻はいって泣いた。烈士はだきしめたいと心から思った。そういう己に、勝てるとは思えなかった。妻は泣いて、彼にすりよってきた。振りはらって逃げると、うまれた子供もほうりだし、彼女は烈士を追いかけた。彼は、触れなかった。妻は嘆き悲しみ、子供を道づれに死んでしまった。彼女の両親は、大いに悲しみ、病気になって他界したのだった。 「私は、自分に勝つことができました。この結果は、希望したのでしょうか。ああ、死んでしまいたい。いったい、私とは、なんなのでしょう」 「あなたの気持ちは、よく分かります」と男はいった。  烈士とおなじ形で、最愛の妻と信頼していた部下をうしなったと話した。すべて、自分のせいだった。しかし、死にたいと思う烈士が、その気持ちのまま亡くなるのは腑に落ちない。大切なものをうしなったのだから、まずは菩提を弔うべきではないか、と男は提案した。彼は賛成した。  男はいっしょに、かつての烈士の家にいった。屋敷は荒れ果て、売りにでていた。さがすと、庭の隅にある物置のなかに四つの骨壺がみつかった。ふたりは、それをもって寺にいき、読経してもらい、墓をつくって納骨した。 「たいへんな世話になってしまった。この恩を、どこかでかえしたい」と烈士はいった。  男は、真理の儀式について語り、「協力してもらいたい」と依頼した。 「できることがあればやりたいが、いまは、とてもそういう気持ちになれない」と烈士がいった。 「とうぜんだろう」と男はいい、彼がその気になるまで待つと話した。そして、「菩提を弔いながら、全国を行脚したらどうか」と提案した。彼は賛成し、旅にでた。  ある日、烈士が男の家にきていった。 「死のうと、決心しました。あなたには、大恩があります。それをかえしてから、死のうと思います」  旅にたってから、五年の歳月がながれていた。男は、海にのぞんだ崖の上に大きな屋敷をたて、高い塀でまわりをかこった。よく磨いた大理石で、高さ一メートル、直径二〇メートルの円形の祭壇をつくった。胎蔵界曼荼羅がかかれた大きな絨毯を床にしきつめ、その上に道具を配置した。  烈士は、祭具をみて驚嘆した。  建篝座(けんこうざ)は、ふかい緑の色をした縦横五メートルもある巨大な道具だった。中央に篝(かがり)を立てる筒がつくられ、正方形の台座の四隅に、うねうねとした大蛇が山の形につみかさなっている。ところどころに象嵌された碧色のトルコ石をよくみると、いまにもうごきだしそうな蛇にかくれ、一頭の龍王がとぐろを巻いているようにみえた。だから全体では、四頭の龍が潜んでいるのかもしれない。無気味な装飾だった。  神人は、非常に大きな立人像で、背丈は二メートルあり、五〇センチほどの台座にのり、頭上には花弁状の冠をかぶっているので、みおろしてくる迫力はすさまじかった。膝下までのながいガウンを羽織り、さらに上半身には、前後に分かれた袈裟を左肩から右脇下にかけている。どちらの衣服にも、龍や鳳凰の刺繍が、いたるところにほどこされている。背筋を真っすぐに伸ばした身体は痩せ、大きくつりあがった目、太い眉、うすくて大きな唇、巨大な耳、高い鼻がみえる。正面中央で右手を口、左手を胸の高さにし、両肘を思い切り外がわにはりだし、身の丈よりさらに背のある矛をにぎっている。比類ない、威圧感を漂わせている。  高さ四〇センチ、ながさ六〇センチほどの有翼の神獣は、牙をむき爪を立てている。四肢をふんばり体勢をひくくかがめ、いまにも飛びかかろうとしている。頭をもたげた首は異様にながく、バランスを欠き、小さくみえる脚部と体躯が、じつは究極まで縮められていることを暗示させる。さらに、強調された胸や尻の丸さはほとんど肉感的で、しなやかな肢体を印象づける。あざやかな銀の象嵌が、脇から左右に伸びる翼には、縦方向にほどこされてながさを、全身には渦巻き状になって柔らかい羽毛を表現している。躍動的で、力感的だ。  甕は、高さが五〇センチほどの容器だった。口はラッパ状にひらいて肩がはり、腹はつよく折れまがり、底の部分に下にむかってひろがる基台がある。腹部に、目が異様に巨大な獣三匹がならんでいる。ながく丸まった山羊に似た角をもち、肉食獣の牙とするどい前肢の爪が描かれている。住職からは、それが饕餮(とうてつ)文様だと教えられていた。  風もない静かな夏の日。新月の夜、一〇時になるころ儀式ははじめられた。磨かれた祭壇を水できよめ、篝をたき、牛脂を焼灌(しようかん)した。篝火は、いっそう激しくもえあがった。  男は右の手で刀子をかかげ、左は手のひらを上にして臍の下においた。広大な海に面して結跏趺坐し、真言を唱えながら、かつて辿りついたことのない境地に入りこんでいく。取りまくうすい絹の靄がなくなり、意識が鮮明になる。蛇が皮をぬぐように、あわいベールが消えていく。満たされた感情が、静かにあふれてくる。  左の後ろで、烈士が猛烈に怖い顔をしながら侍っている。右手で太刀の柄をにぎり、左手をそえてかまえている。両の腕にはいっぱいに力が入り、いまにも振りおろそうとしている。額に浮かんだ汗が、輝きながら首筋をつたって滴っている。  一心不乱に真言を唱え、同時にその呪(じゆ)を聞きながら、至福を感じる。炎と闇と、海と空と、我と梵と、すべてが、やがてもともとそうであったはずの、自分が自己とひとつになってもどっていく。自分みえ、円形の祭壇全体が視界に入ってくる。建篝座の火が赤くそよぎ、甕にたたえられた水が静かに揺れている。男は、曼荼羅にいる。そこは宇宙に通じる門で、背後に輝く銀河が映じてくる。  直下の崖にあたる波の音と、とおくにみえる入り江、その小さな埠頭に舫(もや)う漁舟によせる波音を識別できる。とおい南の内海で逆巻く潮の音響と、はるかな北から流氷をのせてくる、大河の轟きを聞き分けられる。そして聞こえる、あの音。彼岸にうちよせる、波のさざめきだ。  男の顔を、初夏の柔らかい海風が撫でていく。その風を構成する要素が分かる。つよい潮の香りのなかに、甕にそそがれた水の匂いや、建篝座で眩めき踊る魔火のにおい、三〇〇〇年まえの地上を無敵で闊歩する有翼神獣がはなつ圧倒的な獣の臭い。さんさんとした日の光をうけて輝き、北ユーラシアを覆いつくす草原の、そして鼻腔を震わせる、あの薫り。紅く、白く、一面に咲きほこる蓮池(れんち)のまわりを通りすぎてきた風。そして感じる、彼岸にひらく蓮の甘い匂いを。全身を覆いつくす平安。波の音も風のうごきも、すべては予定されたジグソーパズルのピースとおなじ、組みこまれ、計算された世界のなかで決まっていること。  やがて目のまえの大海は、割れたガラスの破片となり、暗い空を映して黒く輝きはじめる。漆黒の溟海が、闇のなかで隆起する。白波が立って大海は裂けはじめ、堅固と脆弱のふたつの部分に分かれてくる。固い海水はさらにしっかりとした海と、もろい潮に分離する。のこったつよい溟渤に、また峻厳とした選別が行われる。柔らかい海水は、どんどん落ちこんで谷になり、あらたに崖に変わった場所も、その弱さに応じ、さらに底なしの果てない虚空に落ちていく潮と、とどまる海とに分かれつづける。そして、千尋の峰と万丈の深淵があらわれる。もう自分はいないし、だれもみえない。真実も偽りも存在せず、知覚も認識も実体も不明なまま、ただ漂っている。顕在する物体は、やがて、そうであるべき物質にかぎられ、あたらしいものは何ひとつない。  三昧のなかで、周囲はあかるさを取りもどしていく。まだ夜明けではないが、三時をまわった世界はすべてがよくみえる。潮が、さらさらとながれている。ただ、うごくのではなく崩れ落ち、ふかい谷にむかってばらばらになり、海は姿をとどめることができなくなる。頂上に通じる一本の稜線をのこし、潮はうしなわれる。みわたすかぎりの海は、どこもかしこも雪崩れ、はるか先まで寥廓とした滝がつづく。一筋の尾根道が水平線の果てまであり、きわに白波が立ち、潮が落下している。  なるほど真理とは、こういうものか。三昧のなか、浄土に通じる二河白道(にがびやくどう)をみる。阿弥陀仏がこいとよび、釈迦仏がいけと叫ぶ、火の川と水の河、貪欲(とんよく)と怒り。ふたつの白波におびやかされる、涅槃に通じる唯一の道。ときがいたり夜があければ、三昧をやめてものこるのだろうか。潮の道はいっそうはっきりとし、祭壇のまえにあらわれている。二メートルほどの小径。潮からできた表面は、たえず、どうどうと谷にむかってながれ落ちている。もろく、柔らかすぎる。いままでの道もおなじだったと、仏はいっているのだろうか。まわりがみえず、状況を知らなかっただけで、こんなせまくてあやうい場所を人は歩いているのかもしれない。  そのとき、烈士が「ああっ」と大きな声をだし、背後で倒れるのが目にうつった。汗にまみれた顔面は蒼白で、気をうしなっていた。つぎの瞬間、すべてが暗くなり、潮の道は不明瞭になり、峰も谷も消えた。  夜が、あけはじめていた。海鳥が鳴いて、つよい潮の匂いがした。ぼんやりと世界があかるくなり、穏やかな風が吹いていた。石の祭壇の上では建篝座の篝火が消え、剣が壇上になげだされていた。息もたえだえの烈士がひとり、横たわっていた。   男は、彼をかかえあげ、水を口にふくませた。 「私のせいで、真理には到達できなかったのですね」  烈士は、くるしげにいった。 「もの凄いところまで辿りついた」と男は答えた。 「こんな約束さえ、まもれないのか。なんという、きびしい勤めなのか。これほどの行は、かつてしたことがない。これ以上はできないが、なんと情けない者なのだ。いままでの苦行は、なんの役にも立たないのか。死ぬことはたやすく、また希望もしているが、納得はできない」 「素晴らしく、頑張ったのではないか。もう一歩だった。その一足こそが、万里の道なのだ。この方法は、二度とできない。しかし、手立てがまったくなくなったわけではない。取る道がひとつだけある。やってくれるか」と男は聞いた。  その言葉に烈士は息を飲み、さらに真っ白な顔になり、うなずいた。そして、また意識をうしなった。男は、柔らかい潮風が吹きぬけているのを感じた。  つぎの新月の夜、ふたりは立場を変えて儀式を行うことにした。烈士は、壇の前方で結跏趺坐して真言を唱えた。男は、剣をもち左後方に立った。  真言を唱える、烈士がみえる。みているうちに、だんだんと首筋が輝いてきて、魂がすいこまれていく。真言がひびきわたる。まぎれもなく、おなじ言葉を呟いているのだが、そのはずだが、やがて「首を切れ」。「首根を斬れ」と聞こえてくる。そして、右手にもっている一太刀を輝く首にうちこめば、きっと見事なまでに、すっぱりと斬れてしまうだろう。それで、すべてが終わる。もう、それでいいのではないか。充分にやったのだし、そうするべきだと思えてくる。誘惑のなかで、男は太刀をかまえて烈士をみている。 「それでいい。思いにまかせて、すっぱり切断して欲しい」 「もういい。これ以上、くるしみはやめよう。殺されたい」 「ばっさりと、切ってもらいたい。ひと思いに、やって欲しい」  くりかえしひびいてくる烈士の声で、男の頭はいっぱいになる。  だまって我慢していると、妻が包丁をもってやってきた。 「あなたは、ひどい人よ。私の家が、華族と関係がないのも知っていたわね。家系図を、鑑定にだしていたわね。子供をみて、くりかえしいっていたわ。しつこく何度も。ぼくらに似ていない。私と違うと。子供のときの写真を、しらべていたわね。整形だって分かって、いやなら離婚すればいいのよ。お金は、腐るほどもっているのだから。慰謝料を、いっぱい払えばいいじゃないの。写真がないというたびに、子供の顔をじっとみるごとに、殺してやりたいと思ったわ。なんとか、いいなさい」  部下が、スパナをもってでてきた。 「なんのつもりで、私たちの夫婦を理想的だなんて、当て擦るのでしょうか。家内が依存症で入院したのを懸命に秘密にしていたけれど、あの院長は社長と同期でぜんぶばらしてしまったんですね。退院した翌週に、夫婦四人でパーティーをやろうと誘われて気がついたんです。あのとき、いいましたね。規制がきびしくなったパチンコよりも、いまはFXのほうが、うごきが激しく妙味があるって。社長はどっちもやらないのに、なんであんなことをいうんですか。パチンコ依存症で、入院したのを知っていたわけですね。あれは、励ましたつもりなんですか。あのあとは、地獄でした。鬼みたいな形相になって、パソコンにしがみついて。社長は、正しかったです。しかし、半年で借金が三〇〇〇万になったのを知って、感心するとでも思っているんですか。なにが、理想の家庭ですか。嫌味以外のなにものでもありません。息子は、一日中スマホです。だれかと通信しているならいいですよ。ずっとひとりでいじくりまわして、画面をみながら独り言を呟いて、ときどき無気味に笑うんです。家に帰ると、知らない男が風呂からでてくるんです。娘です。完全におかしい。おなじ男なら、対応も考えます。毎回違うのに、どうしたらいいんですか。家族で食卓をかこんだ記憶は、もう思いだせません。どこが、理想なんですか。嫌味で陰険で、許せない。なにか、いったらどうだ」 「この人は、そういう奴よ。なにもいわないのなら、殺してしまいましょう」 「そうしましょう。いっしょにやらせてください」  驚く男のまえで、妻と部下は相談がまとまった。  彼女は、包丁を腹につき刺した。とても妄想とは思えない、激しい、焼けるような痛みが全身にひろがった。血が、壇上に滴り落ちた。妻は、真っ赤な血のりのついた包丁をみて真っ青な顔になった。男は、死ぬのだと思った。  そこに、今年、大学を卒業したばかりの子供がでてきた。 「母さん、どうしたの」 「あんたも、刺してやりなさい。なにも喋らないのだから、滅多つきにしてやりなさい」 「ええっ、やってもいいの。母さん、まえから一度してみたかったんだ。でもこの人、父さんだよ」 「いいの。刺しなさい」  息子は、わたされた包丁で反対の腹をつらぬいた。驚いてみつめる男にむかって、妻がいった。 「無関係だから。お父さんじゃ、ないんだから、大丈夫。だからこの子は、あなたにも似ていないのよ。分かったら、なんとかいいなさい」  そのとき、猛烈な勢いでスパナが頭部にあたった。頭は割れて粉々に、身体も木っ端微塵になって吹き飛んだ。  男は、だまっていた。  屋内のプールにいた。高い天井も、大きく切られた窓もガラスばりで、青い空がみえ、柔らかな日がさしこんでいた。高級なリゾートホテルで、みるからに品のいい一五、六人の男女がくつろぎながら日光浴を楽しんでいた。彼らは、色とりどりのジュースを手に取りながら、のんびりと水辺でゆたかな時間をすごしていた。ふと気づくと、水が急に増えてきてプールからあふれはじめた。まさかと思っているうちに、みる間に水位はあがり、膝がつかり、腰にとどいてきた。驚いて、あかるい窓ガラスをたたくが、びくともしない。改めてみまわすと、どこにも出入り口がない。建物の外には、たくさんの人びとがいきかっている。みんな普通の人たちだ。プールにいた者たちはいっせいにガラスをたたくが、だれも気がつかない。目のまえを歩いているのに、気づいてくれない。水はどんどん増えつづけ、立っていては呼吸ができなくなり、ついに建物は満たされてしまった。ガラス製の天井は、頂部が外にむかってつきでていた。そこに空気がのこっていたので、みんながあつまった。せまい場所で、顔はひとりしかだせない。みんなを押しのけて空気をすうと、足をひっぱる者がいる。顔見知りの女が、むこうの仕切りをこえてみようという仕草をする。無理だと、手を横にふる。そうこうするうちに、知らない男に呼吸できる場所を占領された。生きのこった四人が、ここで戦っている。足をつかまれたので蹴とばすが、うまくあたらない。ひっぱられてだんだん沈んでいくが、しがみついていた女が死んだらしく、下肢が自由になる。今度は足がみえたので、はなすまいとだきかかえる。蹴とばされながら必死につかんでいると、しだいに意識がとおくなっていく。くるしい。みると、空気がのこる場所は、もうなくなっていた。水のなかでみつめあった女は、目が充血し、恐ろしい表情だった。きっと、おなじ顔をしているのだ。  傾いた場所で、小さなとっかかりを両手でつかんでこらえていた。灰色の表面はつるつるして、手をはなせばすべって五メートル先の縁から下に落ちるに違いない。みあげると軒状につきでた部分があり、その先端から人が落下してくる。二、三人の男女が、かたまって悲鳴とともに落ち、面をすべり、さらに転落していく。  この現象だけでは、なんだか分からなかった。視点を変えて右側をみると、高い塔が林立していた。どれも五重塔みたいに屋根が層状にかさなり、その上を人がころがりながら落ちていた。塔は、はるか天上からつづいているらしい。左側に目をむけても、おなじ光景がひろがっていた。たぶんここも、層塔につくられた大屋根なのだろう。  どこから落ちてきたのだろうか、身体中が痛い。みているあいだにも、絶叫とともに人同士がからみあいながらつぎつぎに転落してくる。屋根にぶつかる激しい衝撃で、手がすべりそうになる。落下してきた人は、そこで必死にバランスを取ってとどまっている者にしがみつこうとするが、だれもがこれ以上、落ちたくはない。屋根は、磨かれた大理石に似た固い物質だった。五メートル上から転落してぶつかると、打撲ばかりではなく骨折も起こる。だれもが絶叫をあげながら、つぎつぎと落っこちてくる。なかには、もう死んでいるらしく、衝突音だけをのこして猛烈な勢いで墜落していく者もいた。  ふと視線を感じて屋根の上部をみると、白い布をまとった白髪の男がすわっている。ほんの三メートルくらい先だった。中心と思われる部分には、五メートル以上ほどもありそうな太い柱が、そびえるように立っていた。おそらく心柱になるのだろう。柱と屋根のあいだには、空隙がつくられている。そこから覗きこめば、下方のかなたに心礎がみえるのかもしれない。その間隙と屋根との境は、平らな部分になっているらしい。ながい髭を生やした痩せた男は、楽な感じで腕をくみ胡坐をかいて、こちらをじっと眺めている。状況を教えてもらいたいと思うが、声はだせない。痩身の男は、じっとみつめている。神さま、なんだろうか。この状態がくるしいのは、分かっているのだろう。そこに辿りつきたいと思う気持ちは、知っているのだろう。なにか、してくれないのだろうか。助けるつもりは、ないのだろうか。男の目は、ここで繰りひろげられている構造のすべてを熟知しているようにみえる。どうやれば、そこまでよじ上れるのだろうか。教えて欲しい。とっかかりをみつけて、辿りつく手段があるのだろう。そちらにいきたい。助けて欲しい。  上部から、何人かの女性が絶叫とともに落ちてきた。髪を振り乱し、凄い形相で藁をもつかもうと伸ばされた手を必死にはらいのける。べつの女性が大声でわめきながら落ちてきて、今度は足にからみつき、蹴とばそうとするが力いっぱいしがみつかれた。顔を蹴るが、女は手をはなさない。そこに男がふってきて、女性の腰をつかんだ。一挙に倍の力がかかり、手がすべった。まきこまれ、今度は三人いっしょに落ちていく。空中で女を蹴とばした。落ちたところでは、べつの女性がなにかにつかまってとまっている。その足を必死でつかむ。顔と頭をくりかえし、激しく蹴とばされる。はなしたら終わりだと思って、必死につかまっている。あらたに落ちてきたべつの女が、足をひっぱる。蹴とばされながら、キックしている。上の女が手をはなし、今度は三人がからみあったまま、つぎの屋根に落ちていく。空中で、地の底までつづく大屋根をみた。絶叫がひびきわたる。どこまで落ちたら、いいのだろうか。 ひろい草原で、大勢の男たちとならんで歩いていた。手に槍をもち、鎧をきて隊をくんですすんでいた。まえから数えて一〇番目くらいの位置で、右も左も屈強な兵士、一〇〇人以上が整然とつらなっている。さらに背後には無数ともいえる男が、たぶんおなじ格好で、一糸乱れぬ方陣をしいている。  行く手の地平の果てから、勢いよく馬がはしってくる。裸馬にのってあらわれた弁髪の蒙古兵は、背が高く、黄色いTシャツをきて青いジーパンをはいている。筋肉は隆々とし、肌は真っ黒に焼けていた。ひらりと馬から飛びおりた男は、隊列の行く手におかれたコンクリート製の円形の台にのぼった。そこには機関銃が固定され、弁髪の蒙古兵はうちはじめた。  すすむしかなかった。後ろからおされ、まえにしかいけなかった。鎧をきて槍をもっていたが、なんの役にも立たなかった。機関銃が、ぶっぱなされていた。叫び声が、周囲にひびいている。まえの者が倒れ、それを踏みながらすすんでいく。血がでて、もうすすめなくなって倒れこむと、身体の上をだれかが歩いているのが分かった。その者も倒れ、さらに多くの人びとに五体を踏まれている気がした。なぜ、みんなは前進をやめないのだろう。大勢のうめき声のなかで、機関銃の音響がつづいている。音はしだいに小さくなったが、ずっと聞こえていた。  うまれたとき、ぴーぴーと声がした。目はみえず、音だけが聞こえた。うまれたことが分かったとき、猛烈に腹が減っていた。周囲の騒音は、数も激しさも増して、怒鳴ってやりたいほど苛々するし、空腹で死にそうだったが、我慢してだまっていた。上をむいてながいこと、ずっと口をあけていた。そうしたほうがいいと思ったが、なにも、もらえなかった。ちかくで、だれかが餌を配っている気がした。ぴーと叫べば、あたえられるみたいだった。だまって口をあけていると、なにかがそばをかすめていく。弱って立っていられなくなり、身体を踏まれた。何度もくりかえし踏みつけられ、すこしずつ全身の骨が折れていく。腹が減って、すいているのかどうかも分からなくなったが、すぐには死ねなかった。ふいに、ひきあげられ、頭が飲みこまれはじめた。 「痛い。お母さん、まだ生きているんだ」  叫びたいが、だまっていた。激しい痛みのなかで、ぴーぴーという鳴き声だけが、ずっと耳にひびいていた。  多くの輪廻をへた。ほとんどは、うまれてすぐに死んでいた。声をあげるあいだも、だまっていようと思う時間もなかった。うまれたなと気がついた瞬間、死んでいた。ながくつづく、生と死の循環を無意味にくりかえしていた。  ふと気づくと、もの凄い力がかかり、頭がつぶされ変形されていた。くるしい、痛い、息もできない。ひと言も口にすまいとだけ考えているが、身体じゅうが締めつけられ、顔はつぶされ、鼻や耳の位置も分からなくなっていた。そのとき、頭がひっぱられる。激痛に泣き叫びたい、やめろとわめきたい。首を、ひき千切るつもりなのか。やるなら、はやく殺して欲しい。いつもとおなじでいいから、すぐに死にたい。はやく、千切ってもらいたい。ただ、そう願いながら我慢していた。 「こりゃあ、駄目だ」と声が聞こえた。 「うごいとるか」 「もぞもぞしとるが、泣きもせん、こりゃ駄目だ」  泣きたいが、我慢している。 「うごけば、大丈夫だ」 「駄目だこりゃ。色も白いし、埋めちまおう」 「みせてみろ」 「みないほうがいい。埋めてくる。どうせ生きられん、泣きもせんのだ」 「みせてみろ。ほう、目をあけとるじゃないか」 「なんだか分からん。これは線かの、傷かの。鼻も、つぶれとるし、こりゃ、駄目だ。そのまま寝とれ。すててくるから」 「こりゃ、つよい子だ。自分で泣かんとよ」 「いや、そうじゃないって。頭もおかしいのさ。埋めてくる」 「いや、育てる」 「そうはいっても、食わすものもない」 「育てる。わしが食わす。心配しなくともいい。お父は、むこうへいけ」  それで、お母のそばに寝かされた。  全員が、共同ではたらくことに決まった。 「すべてが、みんなのものになった」とお父がいった。 「自分の持ち物が、なくなった」とお母が答えた。 「もっと、ふかく掘ろう」とお父がいった。 「そんなことをしたら、稲も麦も倒れてしまう」とお母が答えた。 「もっと、ぎっしり植えよう。そうすれば、いまの一〇倍の米が取れる」とお父がいった。 「そんなことをしたら、枯れてしまう」とお母が答えた。 「上に、この子がのれるくらいに、ぎっちりと苗を植えれば、米が二〇倍は取れる」とお父がいった。 「あほくさい」とお母が答えた。  それから、飢饉がきた。その二年目に、お母が死んだ。死にぎわに芋を半分くれた。 「礼をいえ」とお父が泣きながら話した。  だまっていた。 「お前が喋れるのは、分かっている。喋りたくなければ、話さなくてもいい。どちらだって、お前であるのはおなじだ」  お母は、そういって死んだ。つぎの年の飢饉で、お父が逝った。死ぬまえに、手のひらくらいの干飯をくれた。 「お母のいう通り、お前はつよい子だった。みんな、あいつが正しかった」  お父は、死ぬとき、泣きながら呟いた。  小学校の最後の年だった。学校はきらいだったが、ほとんどいけなかったから、好きでも意味がないことだった。同級には、ノッポのリュウとデブのヤンがいた。ふたりとも意地悪で、顔をみると喋れといった。声をださないでいると、殴ったり、蹴ったりした。彼らは、喋らない者「アシャ」ではなく、笑わないもの「ドゥルジ」とよんだ。  あるとき、学校にあたらしい教師がきた。女の先生だった。若くて綺麗で、ちかくにいくと、いい匂いがした。リュウとヤンに殴られているのをみると、おこってふたりに説教してくれた。そんな先生ははじめてで、涙がでるほど嬉しかった。しかし、口をつぐんでいた。 「偉いね。君は、つよいんだ。泣かない、負けない子なんだ」  先生は、身体についた泥を払ってくれた。そして、いっしょにおいでといって音楽教室に入った。 「つよい子は、好きだよ。先生は、君の味方」  それから、「なにか、ひこうか」と聞いた。  だまっていると、「特別な歌を、歌ってあげる」といった。  先生は、オルガンをひきながら透き通った高い声で歌唱しはじめた。晴れやかで、伸び伸びとした、まるで果てもなくひろがる大草原の上を、鷹が悠々と舞っている感じの曲だった。はじめて聞く歌は、きっと、とおいどこかの、もっと幸せな国でつくられたのだろうと思った。先生は、都会の大金持ちの子供なのだと耳にしたことがあった。歌唱が終わって教師をみた。もの凄く綺麗だった。とつぜんリュウが教室に入ってきて拍手をした。ヤンもきて、手をたたいた。かくれてみていた生徒がぞろぞろと入ってきて、みんなが拍手をした。先生は予期しない事態に驚いて緊張し、喝采の嵐につつまれて、にっこりと笑った。嬉しそうだった。  どきどきしていた。こんなに綺麗な人、はじめてみた。 「拍手せんかい」とリュウがいった。 「ドゥルジ。笑っとるんじゃないのか」  また、リュウがいった。 「そうだ。笑っとる。先生のこと、大好きだからな。おれは、みとった。ドゥルジが先生の靴箱から靴を取りだして、なにをするのかと思うてみたら、大事そうに胸にかかえていた。だきしめていたんよ。ドゥルジ。だれも、みていないと思ったんよ」  ヤンの言葉で、みんなが笑った。先生も、微笑んだ。全員が、大声で笑った。  そのとき、右手を大きく上にかかげた。先生が、不思議そうにみた。右手には、小さな赤い本がにぎられていた。みんながいっせいに静かになり、リュウが一歩さがった。それで、まえに踏みだして先生にちかづき、本をもった右手を大きくかかげた。すると、リュウが手をあげた。赤い小さな本をかかげていた。ヤンも、おなじ豆本をもって右手をあげた。生徒のみんなが、つぎつぎに本をかかげた。そこには、赤い小さな語録がにぎられていた。  先生は真っ青になり、泣きそうな表情に変わって、小走りに教室をでていった。  リュウが、拍手した。ヤンも、手をうち鳴らした。  みんなが両手をうってわいわい騒ぎ、取りかこまれた。 「寺にいこう」とリュウが誘った。それで、みんなで寺院にいった。  寺では、青年団の人たちが赤い旗をふりながら坊さんを取りまいていた。お経や仏像が地面にころがり、和尚さんは泣きながら、みんなに謝っていた。  その様子をみて、坊さんのちかくまで駆けより、語録をつかんで右手をかかげた。それからころがった仏像と経文に小便をかけると、みんなが大きな拍手をした。 「罰あたりだ」という和尚さんを、青年団の若い男が蹴とばした。  今度は、倒れた坊さんに小便をかけた。みんながそばによってきて、大きな歓声と拍手につつまれ、肩にかつぎあげられた。  すると、リュウが小便をかけた。みんながつぎつぎにおなじことをして、坊さんはぐしょぬれになって泣いていた。  それから、学校にもどった。音楽教室のまわりに大勢の人がいて、みると教室の梁に、先生がぶらさがっていた。綺麗な顔がくしゃくしゃになって、首をつっていた。 「おれも、やった」。「わしも、した」とみんなが興奮して叫んでいた。  さまざまな思いが、胸に去来した。  綺麗で、優しい先生。リュウとヤンに説教をしてくれた。そうだ。禁止されていた敵国の歌を歌って励ましてくれた。大好きな先生。話さなくてもいい、といって死んだ、お母。干飯をくれて逝った、お父。大声をあげて、泣きたかった。  みんなにむかって、床を踏みならした。一歩すすみでて語録をなげつけた。男が、「ひろえ」といって怒鳴った。睨んでいると殴られた。それでもみつめていると、くりかえしひっぱたかれた。倒れると、また「ひろえ」といわれた。今度は立ちあがり、赤い本を踏みつぶした。みんなが一瞬しんとし、大勢の者から殴られ、蹴とばされた。うごけなくなったのを、全員がじっとみていた。頑張って、頭を起こした。  リュウがそっと寄ってきて、小声でいった。 「ドゥルジ、うごくな。寝ていろ」  ヤンもきて、小さい声でささやいた。 「ドゥルジ。起きるな」と。  足が折れたらしく、とても立ちあがれなかった。それで、手で本に触った。語録をつかみ、仰向けになって上にかかげた。リュウが、拍手した。ヤンが、手をたたいた。そのとき、私は、力をいっぱいに振りしぼって、本を左右にひっぱった。ひきちぎれる大きな音がした。  それから、みんなに蹴とばされて、棒で力いっぱいたたかれた。大勢の足が頭の上にのり、顔がつぶされていった。痛く、くるしい。  お母は、なぜ助けてくれたのだろう。分からない。礼がいいたかった。先生に、お父に、お母に。    気づくと、一枚の葉だった。雲ひとつない快晴で、秋の日がさしていた。紅葉の真っ盛りで風が吹いて飛ばされ、錐もみ状にくるくるとまわって、地面にぶつかった。  それが、すべてだった。  恩師と、孫娘がいた。 「あなたを信じていたのに、ふと疑ってしまったのです。愚かなことでした」と先生がいった。  恩をほどこしたのは、すんでしまった過去の事件で、勝手にやった行為だった。社長がしてくれるのは現在で、報恩のためなら嬉しいだろうか。普通に考えれば、不愉快な過去など忘れたいのではないか。そもそも、なぜ、たんなる勝手が恩になるのか。独りよがりではないか。もしかすると、社長にはべつの魂胆があるのでは。孫にしてくれた、ずっと大きくて不釣りあいな行為を、どう説明するのか。疑惑は、ふくらんでいった。感謝するだけで、よかった。気ままな行為を徳と考えたり、権利だと思ったり、馬鹿なことだった。許して欲しいと、恩師はいった。 「私たちは、自殺したために中陰にとどまり、成仏ができません。あなたに弔らわれ、墓標を立ててもらいましたが、許すといわれないと、このくるしみから解きはなたれません。疑った私を、赦していただきたい。どうかひと言、許すといってください。あなたが死んで、赦される可能性がなくなれば、私たちは地獄に落ちます。二度とふたたび、はいでることはできないでしょう」  恩師のとなりに、大きな腹をした孫娘がいた。頬はげっそりとこけ、ながい髪が裸身に貼りついていた。可愛がっていた秘書は、異様につきでた腹をさすりながら男をみつめ、喘ぎながらいった。 「自業自得ですが、くるしいんです。あなたには非がなく、私が馬鹿だったのです。親切にしていただいたのに、申しわけない気持ちでいっぱいです。疑ってしまったことを、許してもらいたいんです。ひと言、赦すとおっしゃってください。くるしいんです」 「許します」と男はいった。  ふたりは、驚いて顔をみあわせ、ふかぶかと頭をさげた。 「感謝します。この輪廻の果てまで。これを、いままでにうけた最大の恩と思ってすごします。ありがとうございました」  そういうと、ふたりは消えていった。   男は、声をだしていた。我慢していたのに、思わず喋ってしまった。時計をみると、一一時だった。とたんにはりつめていた糸が切れ、男は壇上に倒れた。なげだされた剣が大理石にぶつかる大きな音がひびき、汗がながれ、心臓が高鳴っていた。うすれゆく意識のなかで、烈士の声が聞こえてきた。真言は途切れもしないで、ずっとつづいていた。  なんということだ。倒れて、こんなに大きな音がしたのに。なぜ唱えつづけているのだろうか。すべてが、みえているのではないのか。いや、違うのか。周囲がみえるのは、まだ自我がのこって、踏みこみが浅いのか。三昧のなかで梵我がひとつになってしまえば、まわりで起こる出来事など、どうでもいいのか。周囲はまったく無関係で、ひたすら真言に没入するのが、この行の奥義だったのか。儀式の形にとらわれすぎて、本質をあやまったのか。  男は、後ろ姿をみながら考えていた。  烈士とは、いったいなにものなのだろうか。明け方の三時まで、行に耐えた彼には、なにがみえたのだろう。真言が厳かにつづいていた。  分からない。  男は起きあがり、壇上の中心にすわりこんだ。真言を、ひたすら唱える烈士の背中がみえる。衣服をぬらす汗がべったりと肌に貼りつき、一部は滴り落ちて周囲に水溜まりをつくっていた。篝火はゆらゆらと揺れ、空気は重くよどんでいた。男は、なにかが、どこかが、おかしいと思いはじめた。  そして、気がついた。  前方に、海がみえない。振りかえると、後方に壁もない。上方には曼荼羅がひとつ浮かぶだけで、真っ暗な空がみえる。祭壇は虚空に、ただ漂っていた。  そのとき、建篝座の奥の空間に馬鹿でかい犬の銅像が出現した。奈良の大仏ほどもある途轍もなく巨大な狗が口をあけると、笛と太鼓が鳴りだし、山車(だし)がでてきた。片がわに四個、両がわであわせて八個の車輪がついた、さまざまな宝石で装飾されたもの凄く大きな屋台は赤くぬられ、ひろさが三、四畳の彩色した布が旗になり、いたるところに飾られていた。全長、二〇メートルで、中央に競技場の聖火ほどの巨大な篝火がたかれていた。それを中心に、大きな卒塔婆が八本立てられ、まわりに美しい女性ばかしが一〇〇人ちかくものっている。どの女も、素晴らしくととのった容姿で艶やかに化粧し、宝石をつけている。そうした大きくて異様な山車が、笛と太鼓にあわせてつぎつぎに、あけられた犬の口から闇のなかに出現してくる。祭壇の周囲をゆっくりと反時計まわりにすすみ、ついには一二台の屋台が輪になってまわっていた。どの山車にも、あざやかに彩色された、けばけばしい大漁旗に似た幟がたなびき、艶やかに着飾り、金、銀、瑠璃、水晶でつくられた、冠や簪(かんざし)、耳飾りや首飾り、腕輪などをつけた美しい女がこぼれ落ちるほどにのって、なまめかしい眼差しで男をみつめていた。真っ暗な虚空にひとつ存在する聖壇は、いまや一二の深紅の屋台が、ゆらゆらと赤く揺れる篝火をかかえながら取りかこみ、笛と太鼓が狂わんばかりに鳴りひびいていた。  祭壇に、風が吹いた。  どこからながれてくるのか、冷たく、身も心も凍りつく気流。走馬灯にも似た、まわる山車が、もえさかる篝火と心魂をうばう美女の群れをはこんでいる。そこは魅力的で、辿りつくための一切の異議が消滅している場所。  男は、一台の山車にちかづき、傾国がさしのべた華奢な手につかまり屋台にのぼる。ようやくあがった場所には、美女はいない。鉄の斧をかかえた牛頭(ごず)と馬頭(めず)が、とたんに彼の身体を切りきざみはじめる。    ふと寒さを覚えて、気づくと男は祭壇にいる。凍る、冷たい風が吹いている。まわりには、賑やかな音をだしながら篝火をたいてまわる巨大な一二台の山車がみえ、妖艶な女が群れている。そう目にうつるだけで、ほんとうは牛頭に違いないと思う。生身を切りきざむ、みごい仕打ちを、いま、されたばかし。しかし、何度みなおしても、赤くもえる篝火と絶世の美女が待つ、安逸と快楽の場所だった。そこには、膾(なます)にしようと待ちかまえる馬頭がいるのを、男は頭では知っている。いくべきか、やめるべきか、もう分からなくなっている。篝の暖かさと女の肌の柔らかさを考えはじめると、いても立ってもいられない。どうせ死ぬなら、おなじ殺されるのなら、冷たい祭壇ではなく、あの屋台の上、篝火と傾城のちかくがいい。男の頭は、目のまえをいきかう山車のことでいっぱいになる。  とつぜん、どうどうという流水の音が聞こえてきた。振りむくと、祭壇の右後方、建篝座と巨大な犬の銅像とのあいだに、ひろい川がながれている。その真ん中に土砂が堆積して、ひくい島状になった大きな洲があり、ながれをふたつに分けている。  場面が変わり、気づくと、ひろい川をへだてて篝が赤くもえる祭壇がみえる。振りかえった反対がわには、ながれのむこうに犬の銅像がある。どうやら今度は、中州にいるらしい。足元に黒っぽい二枚貝が折りかさなり、堆積して島状になった場所には草も生えていない。甲高い禽鳥の鳴き声が聞こえた。すこし離れたところに無彩色の孔雀に似た鳥がいて、ながくするどい嘴でなにかをつき刺し、高くかかげて飲みこんでいる。黒い貝が飛びはね、赤い色の蛇がでてきて飛禽を攻撃している。嘴をかわすと、長虫はすばやく安全な二枚貝のなかに身をかくす。そのうち、一匹の蛇が孔雀に飛びのった。すると、黒い貝からつぎつぎに長虫が飛びでてきて鳥を覆いつくした。覆い隠された孔雀だった塊は、しばらくもぞもぞうごいていたが、とつぜんボンと音がして破裂し残骸が周囲に飛びちった。  死骸の一部が、男のちかくに飛んできた。赤いべとべとした塊で、黒い二枚貝の上にのっている。驚いたことには、中州の表面は、どこもかしこも貝なのだ。肉塊が飛んできた、そばにある二枚貝がひらいて、なかから赤い蛇がでてくる。つぎつぎに口があき、長虫が何匹も出現し、残骸の肉片に群がり、しばらくして貝にもどったときには、もうなにもない。恐ろしい思いで自分の足元をみると、男は黒い二枚貝の上に立っている。  川にながして、貝を処分しなければ。その後のことは分からないが、水流にのせて投棄してしまえば、喫緊の課題は解決できる。恐ろしい気持ちでスコップを取り、折りかさなり、塊になった二枚貝を掘りだし、懸命に川にながしていた。赤い蛇が貝の蓋をすこしあけて、男をみつめていた。彼の意図を理解すれば、長虫はおそってくるだろう。  二枚貝の塊にのって、男がスコップで必死に集落を掘りおこし、川になげすてていた。地を這うものは生かしておけない。そのとき、足場が崩れて水のなかに落ちた。ながれはそれほど激しくないので急いで立ちあがると、貝から長虫がでてきた。身体に触れてきたのは、足があり、蛇というよりも大きなムカデにみえる。色が赤いからヤスデかもしれない。べとつきながら身体にはいあがってくる。払おうとすると川にながされ、口から侵入される。目から耳から、無数のヤスデに入りこまれながら、ながれにまきこまれた。  男は、走行用ベルトのついたクレーンにのっている。運転席は頑丈なユニットで、分厚いフロントガラスで密閉され、見通しもよい。パワーシャベルで中州の二枚貝の集落をざっくりとすくいあげ、アームを回転させて、川のながれにすてている。掘りかえしてはなげ、かきだしては廃棄している。地を這うものは生かしておけない。いくら掘りすすんでも、貝がどこまでもつみかさなっている。天則の川のながれを妨げる中州は、べとべとした白っぽい汁をだす二枚貝の集落だった。一匹が、窓ガラスに貼りついてきた。くっついた生き物は、赤っぽくぬれ、大きなミミズか蠕虫みたいにみえた。意を決してじっくりみると、虫は白い液にまみれ、身をくねらせす蛇だった。ユニットの窓に密着する大きな長虫をワイパーで払おうとうごかすが、無気味な音を立ててとまってしまった。フロントガラスには、つぎつぎと蛇が貼りついて、みるみる真っ赤になる。気づくと、一匹が部屋に入りこんでいる。密閉されていたはずなのに、通気口でもあるのだろうか。男は、あわてて踏み殺そうとするが、もういたるところから、どんどん入ってきて、ユニットはうごめく蛇で埋めつくされていった。白っぽい汁がでていて、気味が悪い。それが身体に侵入してくる。気持ちが悪い。くるしい。つぶされる。破裂する。  そのとき、男は目覚めた。  建篝座の、くねくねとした生き物が、いっせいにうごいている。ヤスデでもムカデでもなく、蛇でも蠕虫でもないもの。みたことのない、気味の悪い生き物。それが、なんだか分かった。建篝座の魔、卵からかえったばかりの龍の幼生、螭龍(ちりゆう)なのだ。それが宙を飛びかいはじめている。目覚めた龍は荒れ狂い、篝火が一段と高くもえあがる。  薄緑の螭龍は、祭壇を左まわりにうごく一二の山車を、反対方向からいっせいに攻撃しはじめた。屋台にのる総勢一二〇〇人もの美女は、幼生に身体をつらぬかれ、つぎつぎに倒れていった。巨大な山車も銅の犬も、みる間にぼろぼろになって力をうしない、虚空に落ちてみえなくなった。祭壇を取りまく光景が一変し、無数とも思われる螭龍だけが右まわりに飛び、もう河も中州もなく、ただ建篝座がもえさかっている。  そのとき、有翼神獣が復活した。金色の鷲の翼と虎の肢体をもつ、数メートルもある、解きはなたれた神獣は、祭壇の上でゆっくりと大きな伸びをした。後ろ脚をふんばり頭をさげ、あげた腰にむかって力いっぱい身体をひいた。伸びきった前肢に血液がそそがれ、肩と胸の筋肉がもりあがった。しなやかな体躯、強靭な爪、荘厳な翼。三〇〇〇年をへて感じる大気。篝火が映しだす、漆黒の闇。神獣は、建篝座にむかって咆哮をあげた。そして、虚空に飛びあがった。  そのとき、太刀の柄の鳥鬼、朱色をした二面四臂(ひ)の迦楼羅(かるら)が封印をとかれた。二メートルもある赤い羽と四本の腕をもつ金翅鳥(こんじちよう)は、両方の口腔から金色の火を噴き、甲高い奇声を発した。飛びあがると虚空を舞い、薄緑の螭龍をとらえて、ふたつの口で食べはじめた。  神獣も飛びながら、幼生を食らっている。  螭龍は、瞬く間に食べられていく。  篝火が、もえあがった。ついに、龍が目覚めたのだ。正方形をした座の四隅で、龍王がうごきだした。正体をあらわしたのは四つの頭部と胴体をもつ、全身のどこも緑色の巨大な一頭の龍だった。  神獣と龍王。迦楼羅と龍が、あらそいはじめた。神獣も二面四臂の金翅鳥も、同時に二頭の龍王を相手に戦うのはむずかしかった。しだいに劣勢になり、篝火はもえさかった。迦楼羅は、傷つき祭壇に落ちた。神獣も、壇に落下した。四頭の龍が四方から、最後の攻撃をかけようとしたとき、天地が揺らいで、三〇〇〇年の眠りから神人がよみがえった。  台を静かにおりた白銀色に輝く神は、青い大きな矛をもっていた。神人は、建篝座にむかって雄叫びをあげた。神が、左の腕を天に大きくかかげると、甕のなかの水が噴水になり、天空を青色に染めながら舞いあがった。やがて猛烈な滝に変わり、篝火に一挙にそそがれた。四頭の龍は篝の上にかさなり、天から落ちてくる水に火を噴きかけた。そのとき、銀色に輝く神人が、青い矛を力いっぱい振りまわした。銅矛は、四頭の龍の首根を、見事に切り落とした。建篝座を真っぷたつにし、真言を唱えつづける烈士の首を切った。そのとなりにいた金翅鳥のふたつの首根と、神獣の頸部も切断した。四頭の龍。烈士、迦楼羅、神獣の首筋から、真っ赤な血が天空にむかって噴きだし、厚いいベールになった。ふってきた血液は、篝火を完全に消し去った。  その様子をみて神人はうなずき、矛を立て、一呼吸おいて柄の尻の部分で祭壇をついた。激しい音がして、大理石の壇には、ひびが入った。神人は、男を一瞥すると、おもむろに台上にもどっていった。  空からは、おびただしい血の雨がふっていた。  気がつくと、男は祭壇に横たわっていた。夜があけ、海がみえ、潮の匂いがした。大きなひびが入った祭壇の上では、烈士が刀子をかまえて結跏趺坐していた。 「生きているのか」と男は聞いた。  水が欲しいと、烈士はいった。男がもっていくと、彼はそれを飲んだ。烈士の髪は、真っ白に変わっていた。 「行をはじめたときは、あらゆるものが素晴らしく爽やかでした。マントラを唱えるうちに意識が冴えわたっていき、海をつくるひとつひとつの成分が分かり、風を構成するすべての要素がみえました。この世界で生じているあらゆることが理解でき、安らかな気持ちにつつまれました」  烈士は、男に起こったすべての出来事を知っているといった。奥さんや部下が包丁で刺し殺したのも、鳥としてうまれ、少年として死ぬのもみた。彼のときにも、妻がでてきて、ずっと泣きつかれた。男が菩提を弔えといったのは、このためだと一心に信じて耐えたといった。烈士が剣をもって立っていたときの苦痛は、何千倍も激しいものだった。声をだして、刀剣を祭壇に落としてからは、考えたこともない異様な世界が出現した。男は、なにかに取りつかれて騒いでいたが、彼は約束をひたすらまもって、どんな事態になってもうごくまい、刀子を床につけまいと思って頑張った。なぜ、あんなつまらないことで声をあげたのかと責めた。  苦行は、加速されるものだと、烈士はいった。はやまり、つよまり、そしていきつき、累加が終わると、緩やかなときがうまれる。そこは限界のちかくで、焦燥が平穏に、恐怖が安堵に、災いが幸いに、すべての景色が一変する場所だ。苦行の目的は、限度を知ることだ。しかし、この行は違う。そこに、いきつこうとしている。だから苦のあとに待つのは、さらなる激しい苦痛で切りがない。男がさがしている真理とは、おそらく際限に似て、直接触れることができないものだろう。限界とは、辿りつけるそのすこし先に、かならず存在する。面紗一枚をへだてて、はじめて触れることができるものを際限とよぶからだ。  最後に、妻がでてきたと烈士はいった。 「はじめて会ったときに、身分違いのあなたとむすばれれば、不幸な結末をむかえることを知っていました。紐でくびれて、死のうと思いました。そのときには、すでにあなたを愛していて、できませんでした。触れてもらえないところに、勝手にいってしまったことを許してください。あなたがそばにきてくれるのを、いつまでもお待ちしています」と妻は泣きながらつげた。  それは、最初に会ったときのお嬢さまだった。その姿をみて、烈士はいっしょに声を立てて泣いたのだった。 「妻は、昔のまま何ひとつ変わらず、きらきらと輝いていました。だから妄想ではなく、真実に違いないと思ったのです。私が自分に勝ったのではなく、彼女が愛してくれていたのです。だから、結婚ができたのです。彼女は人形ではなかったのですから、とうぜんのことだったのです。しかし、こんな形で妻をうしなったときにも、心のどこかで己に勝った気がしていました。目にうつるすべてが悲しみであふれ、喪失したもののほうが、何千倍も大きくて比較の対象にもならないのに、まったくべつな次元で、勝者という場所にいました。その勝利者は、ときとともになにかの意味をもち、得体の知れない一種の喜びに変わったのです。今回の行は、勝ち負けでも、自分に勝ったのでもありません。約束を果たすことができました。いま、私は死にたいと思っています。逝くべきだと考えています。妻のそばにいきます。私は、自分にあたえられた仕事をやり終えたと思っています。しかし、それがなにだったのか分かりません。いったい、私とは、なんなのでしょうか」  烈士は、そのまま死んでしまった。 「みたぞ。みとどけたぞ」  大きな声がして、とつぜん住職があらわれた。  素晴らしい烈士だった。あんな驚くべき者は、かつてみたことがなかったと住職はいった。男が倒れ、剣が祭壇にあたったとき、すべては終わろうとした。そこで、烈士が耐えた。そのつよい意志に、闇が恐怖した。さまざまな魔が縦横に去来し、建篝座の魔獣がうごきだした。それに応えて、神獣が、そして迦楼羅が復活した。龍が秩序を飲みこみ、すべてを混沌にかえそうとした。そのとき神人がよみがえり、台から飛びおりた。雄叫びをあげた神は、甕の水で世界をくまなくひたし、建篝座の火を消そうとした。妨害されると、力のかぎり矛を振るった。建篝座に占めていた無数の螭龍と四頭の龍の首根が、いっぺんに飛んだ。烈士の首が切りはなされ、それでも銅矛はとどまることを知らず、迦楼羅と神獣の頸部まで斬ってしまった。鮮血が天にむかって吹きだし、己、自らを抱擁する龍の世界は、秩序の矛によって切り裂かれ、終止符をうたれたのだと住職はいった。 「もう忘れない。この興奮。目に焼きついた、その輝きは、ぜったいにくすむことがない。私は、五〇〇年も待ったのだ。しかし、待っていてよかった。これで死ねる。もう一度、輪廻にもどることができる。すべては、お前に託されたのだ。この道具をまもり、真理をもとめている者をさがせ。儀式を行わせ、真相を追究せよ。よく分かったはずだ。お前に、この行を完成させることはできない。もう一度しようとは、よもや思うまい。だから、さがせ。五〇〇年かかろうと、道士をもとめ、あらたな烈士をさがしだせ。それしかないのだ。行が完成できなくとも、あらたな道士が祭具をまもるなら、お前は私のように六道に帰れるのだ。ただ、神人が復活しなければ、役目をかわることはできない。神はよみがえり、お前をみとめたのだ。だから、ひとりがのこされた。行が完成していれば、神人はお前に仕えたのだ」 「身代わりをさがすことだ。ほかの方法はない。それが、お前の存在の理由なのだ。結果でもあり、すべてでもある。私の責務が終わり、お前の伺候がはじまった」 「イットイズイット。TAT TVAM ASI 。それが、お前なのだ」  いいのこすと、住職は消えた。  ただ波のよせる音だけが、聞こえていた。浦波は、三〇〇〇年まえとおなじひびきを、くりかえしていた。                           イットイズイット、八三枚、了