ダエーナ                                        由布木 秀  真っ青な海をまえに、たかい崖のうえに立っている。  情景は幾分か暗く、夜明けなのだろうか。太陽の位置は分からないが、おだやかな風が吹き、波はほとんど立っていない。海はガラスの破片にかわり、輝きながら揺れている。  黄昏時なのだろうか。  そのとき、とつぜん崖の頂上がくずれ、私は落ちていく。  踏みしめるべき、なにもない空間を感じながら。  どこまでも落下感につつまれながら。  いつごろまで、こんな感覚を味わえたのだろうか。  寝床で横臥していると、いつでもこうした状況を脳裏に描くことができた。そんな時代があった。いつごろまでだったのだろう。崖から一歩、踏みだすだけでよかった。  その刹那、私を覆いつくす落下感。  いつから、味わえなくなってしまったのだろう。大学生時代、海を写生していたころには、いつでもあれができた。地面がなくなる瞬間を思い浮かべ、空間にほうりだされ、自由に落下する感覚。すべてを、思いのままにあやつれた気がする。  いまは、どうしても味わうことができない。  山本亮司は、初老の男性をみつめていた。  男は、白っぽい地に、灰色の縦のストライプがついた袖のながいシャツを着ていた。生活に疲れた感じで、やせてやや猫背で、白くなったみじかい髪をしていた。着古した長袖シャツは、肩の形もくずれていた。大きく口のひらいた手提げの紙袋に商品を入れていた。  亮司がみまわすと、テレビ売り場にいた沢田利雄と目があった。手招きするとちかくにきたので「篠田」と小声でつげ、彼は顎を男のほうにむけた。  一目で状況を理解した沢田は、小走りでさっていった。  「あれですか」  亮司のそばにやってくると、篠田正和はひくい声でいった。 「知りあいか」 「残念ながら、初対面です。スマートな方ではありませんね」 「インクカートリッジのセットが、気に入ったらしい」 「カートリッジ、ですか。仲間にくばるのでしょうか。もうすこしきちんとした身なりで、来店して欲しいですよ。もっと値の張るものだっておいてあるのに。ペンチくらいは持参して、鎖でも切ってくれればいいのに。欲のない方ですね」  ふたりは、男がエスカレーターで一階におりていくとあとをつけ、ビルをでたところで声をかけた。 「お客さん、お話があります」  篠田がいうと男は振りかえり、ふたりをみてこまった顔をした。それから二階のバックヤードにある守衛室の隣の部屋によび入れた。紙袋をみせてもらうと、インクカートリッジのセットが六個でてきた。  亮司は、担当の村井がきたので、あとを頼んだ。  山本亮司は、もう一度、店内を巡回した。さわがしいマーチが聞こえ、客は増えはじめていた。彼は、バックヤードの副店長室に帰ると、椅子にすわってぼんやりとした。  亮司が考えていたのは、本部にもどって部長になることだった。ありえない現実逃避としかいえない思いに、自分がとらわれている理由もよく分からなかった。 「これから子供の結婚をひかえ、さきのみえない親の介護がつづいていく。マンションのローンも、まだのこっている。支出の減少には限度があるから、本部にいけなければ倉庫番になってものこしてもらおう。大幅に減給されても、六五歳までは働こう」  人事の発表まえに、亮司は妻の翔香と話しあった。  それで五〇歳の年に副店長という沙汰があって、「単身赴任にならないで、よかったじゃない」と彼女にいわれた。そのころから妄想にとりつかれた。 だれにも話したことはないが、思いはしだいにはげしくなる気がしていた。本部。部長。本社。そればかりが脳裏をしめ、半年後の最後の人事で、地方都市の店長という指示をうけるのだろうが、単身赴任を受諾する自分は考えたくもなかった。辞令を拒否して、どうするのか。会社をやめると話したら、妻はなんというのだろうか。どんなに説明しても、翔香の同意はえられないだろう。だいいち老後は不安だらけで、自分はいくつまで生きるのだろう。  最近は、そんなことばかりを考えていた。  亮司は、机のうえにおかれた在庫のノートをめくった。  そのとき、おなじことをくりかえす不思議な感覚にとらわれた。とはいっても、昨日もこのノートをみていたから間違いではなかった。在庫ノートを確認するのは、毎日の業務だった。なにを感じたのだろうと思ったとき、灰色の縦のストライプが入った似た柄のシャツをもっているのを、亮司はふと思いだした。生気のうせた影のうすい男だったと考えると、万引き犯がみょうに気になってきた。  亮司は、二階の通称「相談室」に隣あう守衛室にいった。ガラスごしになかをのぞくと、中央のテーブルをはさんですわる男と目があった。  篠田は、視線の変化に気がついて振りかえり、部屋をでてきていった。 「どうしましょう。初犯だと思いますが、肝心なことになると、なにもお話しいただけません。嫌われちゃったのでしょうか」  窓ガラス一枚をへだててみる男は、悪びれた感じもなく、ひどく落ちついているようにみえた。髪には半分くらい白髪が交じっていた。テーブルに両肘をつき、まったくべつなことを考えているようだった。  亮司は、篠田とともに相談室に入った。  同席していた村井が、「ちょっと、隣にいきます」とつげて部屋をでていった。 「さきほどから申しあげておりますが、住所、氏名を教えていただかないと、警察署に通報しなくてはなりません」と篠田がいった。 「警察は、すこし」 「万引きは、みとめているのだね」 「そうなのですが」篠田は答えて、「山本さん。私、ちょっとトイレに。腹の調子が悪くて」と小声でいい、亮司がうなずくのをみると足早に部屋をでていった。  相談室ががらんとすると、男がいった。 「妻の父親がアルツハイマーで、母親が介護していたのですが、疲労でたおれまして」 「はあ」  亮司は、思いがけない言葉にじっと男の顔をみた。疲れ切った表情で目の下はゆるみ、隈ができていた。 「さっきの方はお若くて、いっても分かってもらえません。あなたは同年代ですから、ご理解いただけると思って。こんなはずじゃなかったのですが」  男は、じっとみつめた。 「同年代」といわれて、亮司は動揺した。  その言葉は、半年まえの事件を思い起こさせた。気分転換でもしようと考え、思い切ってちかくのジムに入会したのだ。  はじめていった平日の午後、係員から教えてもらったウオーキングマシーンで三〇分ほど汗をかいた。壁ぎわのベンチに腰をおろし、タオルで額をぬぐいながら、中央にさまざまなマシーンがおかれ、周囲に歩道がつくられたひろい室内をぼんやりとながめていた。  そのとき、コースの端から灰色のトレーナーとロングパンツをはいた、かなりの年配の男性が歩いてきた。背のひくい男は、顔が不釣りあいに大きく五頭身くらいにみえた。頭頂部は禿げ、まわりに白い頭髪が生えていた。粗造ともいえる浅黒い顔の中央に巨大な鼻が胡座をかき、ぶつぶつとした黒い穴が無数に吹きでていた。白い眉毛はうすく、あるのかどうかも分からないほどで、下には大きな目がとびでていた。かさかさした顔のいたるところはゆるみ、皺がより、不揃いの髭が伸びる顎の部分は三重に垂れていた。上半身にくらべ下肢が極端にやせた、歩くのも覚束ない男をみて、いまさら鍛えてどうするのだろう。急に運動して、心臓でもとまったらたいへんだなと亮司は思った。  ぼんやりとながめていると、目があった。男性が隣に腰をおろしたのを知って、彼はボトルをとりあげて水を飲んだ。 「あんた新顔だね」と男はとつぜんしゃがれた声をかけた。  振りむくと、亮司をしっかりとみつめながらいった。 「トレーニングは、ひとりでつづけるのは難しいですよ。若い人と競いあうのは危険ですから、同年代の者といっしょにやるほうがいいですよ」  亮司は、不審な表情でだまっていた。  返事がないのをどう考えたのか分からないが、しばらくして男はのろのろと立ち、もとのコースにもどっていった。  男性が視界から消えると、亮司は帰ろうと思って立ちあがった。  コースの周囲の壁は、すべて鏡張りにつくられ、ロッカールームにもどる途中で何度も自分の容姿をみることになった。さきほどの男とは、かなり年格好が違うと思ったが、くりかえし目に入る姿のなかには、ひどく年とり、おなじくらいにみえる奇妙なときもあった。  一度いっただけで、ジムはやめてしまった。そのときの、なんとも形容しがたい不愉快さがよみがえってきた。 「はあ」と亮司はいった。 「あなたなら、分かるでしょう。ご両親は、健在なのでしょう。認知症が急速にすすんだのです。地方に住んでいるのです。若いときには、面倒をみてやろうと思いました。あなただって、身につまされることがあるでしょう」  男は、亮司をしっかりとみつめ、真剣な表情でいった。  なぜ、人道的ともいえる支援ばかりをしなければならないのか。人生は、卒業、就職、結婚、定年と切れ目がない。つとめているあいだは懸命に子供を養育し、定年後は親の介護に専念する。それが死ぬまでつづく。あたえられた仕事を、できるかぎり頑張ってきた。若いころはゴルフをする上司にもつきあい、朝四時にむかえにいき、たかいプレー代をはらい酒が入った上役を家までおくっていった。すすめられて練習もやり、立派なクラブもそろえた。とり入って出世しようと考えたのではない。上司はゴルフが趣味だったが、自分は仕事の一部だと思って努力しただけだ。子供にたいしても親にたいしても、決める権利を一切もたず、義務だけがある。貧乏くじばかし、ひいている。学生時代は余裕があり、周囲の些細な出来事にも配慮ができ、ずっと高貴だった。奈良の大学にいったが、茶道が趣味だった。紅葉が錦の織物になってそまる秋の夕暮れに毛氈をしき、畝傍の山をみながらお茶をたて、そよ風にうたれた葉がゆるやかに落ちていくのを愛でていたのだ。同年代のあなたなら、この気持ちが分かるのではないかと男はゆっくりといった。 「待ってください。関係のないお話ですよ。すくなくとも、いまとは」  亮司は、混乱の極みで答えた。 「なんで万引きなんかしたのか、分からないのです」  男は、右手で白くなった頭をおさえながらいった。 「私の両親は、ふたりともアルツハイマーになって老人ホームに入居しているのです。そのために、どのくらいお金がかかるのか分かるでしょう。妻の二親だって、入れてやりたいですよ。でも、そんなに無尽蔵にお金はもっていません。勝手にうんで、いまになって血がつながるのはおまえひとりといわれても、こちらが望んだことではありません。元気なうちはいいですが、妻とふたりで四人の親をみるのはとても無理です。子供は三人いますが、全員、なんとか大学までは入れました。ずいぶん苦労しました。だれも評価はしてくれませんが、私は頑張ったのです。でも、あなたなら分かるのではないのですか」  男はつづけていった。  亮司は、息子たちふたりが、どちらも不運だったと思った。  長男は、四年制の大学を卒業したのに正規の職がえられなかった。ずいぶん頑張っていたのに、面接試験で失敗した。不本意ながら、いまは非正規で働いている。別居しているが、嫁だってもらえないかも知れない。次男は、内定していた会社が経営不振に落ち入り、取り消しという知らせがきた。就職浪人となって、また四年生をやっている。真面目なのに、どうしてもうまくいかない。亮司の報われない部分が遺伝したのだ。可愛そうだ。 「これで私が警察につきだされたら、家族はどうしたらいいのでしょう」と男がいった。 「ちょっと待ってください」  亮司は、その話をさえぎった。 「こまりましたね。いや、なんと申しあげたらいいのか。世の中は、思い通りにはいきません。あなたがおっしゃるように、不本意なことは数多くあります。しかし、いまの問題とは違いますから」  寿命がながくなった歪みが、自分たちの世代にいっきょにきている、と亮司は思った。 「出来心はだれにでも起こりますから、今回の事件は警察沙汰にはなりませんよ。名前と住所を教えてもらい、間違いないと確認し、二度とこの店舗にはちかづかないと約束してくれるなら、これでお終いにしましょう」 「私は、ただあなたに分かって欲しいのです。悪魔は、実在するのです。信じられない出来事は、魔物の仕業です。きっとあなたなら、分かってくれると思います。昨日、娘が暴漢に襲われたのです。三人目でようやくできたひとり娘なのです。今年、二〇歳になったのです。大学をだし、結婚式をあげさせ、孫の顔をみたいと、それだけを思って頑張ってきたのです。もう、なんだか分からなくなって」  男は、食い入るような真剣な目つきだった。  しかし、なにをいっているのだろうか。この男は、なんのためにここにいるのだろうか。訴えて、どうしたいのだろうと亮司は思った。 「なんと申しあげたらいいのか。たいへんなことで、ほんとうに弱りました。ご家族のお話は、もうやめてください。私に話されても、どうしようもありません。あなたの話だけにして、はやく切りあげましょう」 「これで私が犯罪者になったら、家族全員、どうやって生きていけるのですか」 「教えてさえいただければ、罪には問われません」 「犯罪をみとめることになります」 「そういわれましても、もち帰ろうとしたのは事実です」 「私は、もちだすまえにつかまりました」 「その通りです。未遂だから、こうして話しあっているのです」 「きっとかえしたと思います。うちには、プリンターなんかないのです。だから、必ずかえしにきました」 「もち帰ろうとした事実は、くつがえりません」 「あなたが、みつけなければ。みてもほうっておいてくれたら、私は自分の過ちに気づき、そっとかえし、なんでもなかったはずです」 「こまりましたね。ここで、仮定の議論をしてもはじまりません。私どもの話に納得いただけなければ、警察しかありません」 「私、きっとあなたをうらみます」  男は、亮司をじっとみつめていった。 「脅迫されてもこまります。あなたが加害者で、私どもは被害者なのですから。すくなくとも、この件にかんしましては」 「被害は、でていないじゃありませんか」 「それは違います。私も係の者も、この事件で時間をつかっています。仕事はいっぱいあるのです」 「あなたは、私を犯罪者あつかいした」  男は、とつぜん泣きはじめた。  そのとき、篠田がドアをあけて入ってきた。 「どうしましたか」  泣いている男をみて、篠田がいった。 「もういい。帰ってもらおう」 「いいのですか。規則に反しても」と篠田がいった。  それは、おまえではないか、と亮司は思った。 「初犯だし、反省されているらしいからもういいだろう。村田はどうした。なぜ、いなくなった。どうして私が対応しなければならない。君たちの仕事じゃないか。規則ではふたりいなければならないのに、こんなにながく席をはずすのなら、なぜ君はだれかに代わりを頼まなかった」 「すみませんでした。私が店の出口までおおくりいたします」  篠田は、男をうながして部屋をでていった。  亮司は、すっかり不愉快になっていた。副店長室にもどってからも、男の言葉が脳裏からはなれなくなっていた。 「昨日、娘が暴漢に襲われたのです。三人目でようやくできたひとり娘なのです。今年、二〇歳になったのです。大学をだし、結婚式をあげさせ、孫の顔をみたいと、それだけを思って頑張ってきたのです。もう、なんだか分からなくなって」  亮司は、頭をかかえた。男の言葉がくりかえし脳裏にひびいていた。  翌日の朝、亮司は、また相談室にすわっていた。  彼のまえには、ノートがおかれたテーブルをはさみ、制服をきた男の警官がふたりならんで腰をおろしていた。どちらも若く、髪はみじかく、体躯はがっちりとしていた。ひとりは、眼鏡をかけていた。  朝はやくに、通行人が路上でたおれている男をみつけ、警察に通報した。死亡が確認され、状況からは明け方、石毛電機大宮店の屋上から投身自殺をはかったのだろうと考えられた。その男性が昨日の万引き犯だと判明し、彼は事情聴取をうけていた。  警察によれば、男は、氏名が特定できるものを所持していなかった。大宮店で万引きを確認しながら、名前、住所を把握しなかった経緯をとわれた。具体的に、できれば言葉のままに話すように亮司はもとめられた。  男の両親は、アルツハイマーでふたりとも老人ホームに入居している。妻の二親は地方に住み、最近父親が認知症にかかり急速に悪化した。介護する母親は、疲労でたおれてしまった。男と妻はふたりともひとりっ子で、両親四人の面倒をみなければならない。子供は、長男と次男、末の娘の三人で、みんな大学にいった。ひとり娘は今年二〇歳になったが、万引き事件の前日、暴漢に襲われたと亮司は話した。 「すごいですね。よく聞きだしましたね」  眼鏡をかけた警察官が、感心していった。  亮司は、男が状況にかかわりなく一方的に話した。かなり追いつめられ、混乱し、途中で急に泣きだした。それで、住所、氏名を聞きだせなかったと話した。 「これだけ情報がそろっていれば、すぐに特定できると思いますよ。娘さんのほうにだって、被害届がでている可能性がたかいです」  ふたりの署員は、うなずきながら帰っていった。  その日、亮司が帰宅したのは、夜の一〇時をすぎていた。  朝がはやかったので、ビールを飲んでぐっすりと眠りたかった。食卓にすわって今朝の警察官たちとの会話をぼうぜんと考えていると、妻がごそごそと荷物をつくるのが目に入った。声をかけると、翔香は手を休めることなく答えた。 「父が、アルツハイマーになったらしいの。症状が急にすすんで、看病していた母も、ぐあいが悪くなったらしいのよ」  亮司は、妻の言葉をぼうぜんと聞いた。  翔香は、彼の不審な表情をみると、実家のふたつ隣に住むアルツハイマーの男がプロパンのガスを切り忘れ、引火して大爆発になったと話した。その老夫婦は、重傷をおい入院した。火災が発生して消防車がきた。火事と放水で、近所は大混乱になった。実家に被害がなかったが、母親はすっかり参ってしまった。血がつながる者は彼女ひとりだから、明朝、新潟にむかう。いつ帰れるかは分からないといった。 「ちょっと、待ってくれ」  亮司は、頭をおさえた。 「大丈夫」  翔香は、心配そうに声をかけた。 「友美は、どうした」 「どうって、まだ帰ってこないわよ」 「なにをしているのだろう」 「ちかごろは、毎日おそいわね。なにをしているのかしら」 「知らないのか」 「ずっと監視するなんて、できませんよ」 「なにかあったら、たいへんじゃないか」 「どういう意味なの」 「無責任だろう」 「なにを、怒っているの。父のぐあいが悪くなったのは、だれのせいではないわ。私だって泣きたいくらいよ。どうしたらいいのかしら」  翔香は、ちかくにやってくると入浴をすすめた。  亮司は、混乱していた。風呂に入り寝間着にかえて食卓にもどると、つまみとビールがのっていた。彼は、ぼうぜんとしながら室内をみわたした。 「幸二は、またアルバイトか」 「コンビニで、夜のレジをつづけているらしいわ」 「亮太は、どうしているのだろう」 「しばらく会っていないわ。そう、あの子にも連絡したほうがいいわね。どうしているのかしらね、聞いておくわ」  なにをやっても報われないか。それにしても、なぜわざわざ男は、大宮店の屋上から飛びおりたのだろうか。午前中にさわぎを起こしながら。どういうつもりだったのだろう。悪魔がいるか。なんで、あんなことを話していたのだろうか。亮司は思った。 「そういえば、灰色の縦じまのシャツはあったかな。白っぽい、長袖のものだけれど」 「さあ、そんなのもあったんじゃない。それがどうしたの」 「どこにある」 「どうしたの」 「気になることがあった。みてみたいんだ」 「そういえば。あるかも知れないわ。さがしてみましょうか」 亮司が真剣な表情でうなずくのをみて、翔香は立ちあがった。しばらくして、クリーニングのビニールに入ったシャツをもってきた。 「これだと思うけれど、ふるくなって襟元のボタンもとれているから、もう、着ないでしょう。すてたほうがいいのに」  翔香は、不審そうにいった。 「なぜ、こんなものをもっているのだろう」  亮司は、呟いた。 「あなたが、すてるなっていったのよ。忘れたの」  シャツは、亮司の考えた通りのものだった。これで友美が暴漢に襲われたら、発狂してしまうかも知れないと彼は思った。  山本亮司が、銀座の画廊で自分の絵画が飾られているのをみつけたときの思いは、決して好ましい感情ではなかった。ひと口でいうなら、気恥ずかしさだった。不思議な思いにとらわれ、まったく整理がつかなかった。彼はその場をはなれ、ひろい部屋の中央におかれたクッションに身をしずめた。そこで最初に浮かんだ考えは、証拠たる絵画をもやしてしまいたいという衝動だった。その誘惑はとくに異様なものではなく、彼は過去におなじ構図の絵を何枚も描き、最後にのこった三枚は実際にやいたのだった。  午後の時間で、部屋にはだれひとりいなかった。背のたかい純白の壁にはさまざまな大きさの絵画がかけられ、豪華な額に入れられて、もっとも映えるぐあいに計算されつくしたやわらかい光に照らされていた。塵ひとつないしぶい赤系の絨毯がしかれたひろい室内は、直線的で格式ばった部分から構成されていた。  向井邦子の個展がひらかれた瀟洒な画廊は殷賑とした銀座の表通りにめんし、扉三枚をへだてた内部は気密性がたかく、つよいくらいに空調がきいていた。間接照明のモダンな光で満たされた部屋には静謐が演出され、中央に重量感のある黒い革のソファーがすえられ、亮司が混乱のなかですわっていた。目のまえには白い四角い机がおかれ、記名帳がのっていた。最初のページ以外は、名前がふたつ三つしかない帳面をめくりながら、彼がつとめる大宮の職場が脳裏に浮かんだ。戦いを鼓舞するマーチが鳴りひびき、人間の声量が音楽にはまけないことを証明しようと一列にならんで大声で叫ぶスマホブースのよびこみ、猛烈な音量のなかで説明をもとめ、交渉する客の声。彼が一命をかけて守備する、喧騒の家電量販店だった。  平日の午後、時間の流れがとまった異界に、亮司はひとりですわっていた。 「粗茶でございます。お召しあがりください」  中年の、四〇歳すぎの女性が盆をもってでてきて、テーブルに湯呑みをおき、「お寒いですか」と声をかけ、受付の名簿への記入を遠慮がちに依頼した。  いわれてはじめて、亮司は室内にただようかすかなエアコンの音に気がついた。  真珠のネックレスを首から垂らしている女は、普通の事務員にはみえなかった。ワンピースの腰に巻かれたほそいベルトは、アクセントでゆるく締められただけだったが、くびれたウエストと形のいい臀部を充分に表現していた。 「先生は、おでかけですか」と亮司が聞いた。  今日は急用ができてもどらないが、用件があればつたえる、と女はやや困惑した表情で答えた。  亮司は、彼女が邦子でないことだけを確認したのだ。 「とくべつな用はない」と答えると、女は大きくうなずいた。  案内状をもらって、なかには礼服でおとずれる客もいるかも知れない。しかし、わざわざ黒いネクタイをしてはこないだろう。社長のとつぜんの訃報を知ったのは、屋上からの身投げ事件があって三日ほどたった、昨日の朝で、おくれていた通夜が今日の夕方になった。はやめの昼食を終えて職場をでた亮司は、車中で店長の小坂から「五時まえにはいくな」というメールをうけとった。有楽町でおり、ホームで電話をしてたしかめると、「六時すぎにこいと指示がきた。また不審死らしい」と小坂はいった。  亮司は、あてもなく下りのエスカレーターにのった。  一段下にいた茶色の背広をきた男が振りかえり、「ここでは、右もつかうのか」と声をかけた。  亮司は、なにをいわれたのか分からなかった。彼は聞きかえすこともしないで、うえをみあげた。ホームの天井は一様に黒い斑点状の染みに覆われていた。こんな場所にも、なにかが棲んでいるのかも知れない、と彼は思った。やがて視界はせばめられ、だまっておりて通路にでて歩きはじめた。とつぜん、まえをいく茶色の背広が、両肘を外に思い切りひろげて立ちどまった。男の右肘が、亮司の鳩尾(みぞおち)をつよくついた。彼は不意をつかれ、両手で腹をおさえた。  茶色の背広男は、振りかえって亮司をみた。初老のやせた男性だった。幾分か白いものが混じる髪を角刈りにしていた。背のひくい男は、大きな目で亮司をみおろすと、ふんと鼻で笑った。うずくまっている彼を確認して、そのまま歩いていった。  亮司は混乱した。駅をでると、ちかくにあったベンチに腰をおろした。 「私は、ただあなたに分かって欲しいのです。悪魔は、実在するのです。信じられない出来事は、魔物の仕業です。きっとあなたなら、分かってくれると思います」  亮司は、幾度もくりかえしたフレーズを思いかえした。  男が理解して欲しいと訴えていたのは、悪魔の実在だった。 「昨日、娘が暴漢に襲われたのです。三人目でようやくできたひとり娘なのです。今年、二〇歳になったのです。大学をだし、結婚式をあげさせ、孫の顔をみたいと、それだけを思って頑張ってきたのです。もう、なんだか分からなくなって」  この文章は、直前の文とつながりがないように思ったが、やはり修飾されているのだろう。つまり娘さんを襲った暴漢は、人ではなくて悪魔だったというのだろうか。男は、なにをつたえたかったのだろう。亮司にも理解できるといったのは、おそらく悪魔的な人間ではなく、悪魔の実在なのだ。男は、そのことを懸命に訴えていたのだ。しかし、どうして彼に分かるといったのだろうか。  そのとき亮司が思いだしたのは、九月のはじめにおくられてきた向井邦子の案内状だった。三〇年ぶりの葉書は、なつかしさと謎に満ちていた。いくつもりがまったくなかったわけではないが、日常の些事によってどんどん遠くに流され、忘れさられていた。気にはなっていたのだ。あいた時間を絵画鑑賞ですごしたと聞いたら、店長の小坂はあやしむに違いなかった。弔問の装いでたずねてきた男がながながと居すわっているので、画廊のがわではお茶でもだしてみようと考えたのだろう。  そう思いながらも、亮司は帰ることができなかった。  もう一度奥にすすみ、かけられた海の絵をみた。一二号のなつかしい風景画で、不思議な気持ちに満たされながらぼうぜんとみつめていた。周囲の絵画とは構図もタッチも違い、格調たかい画廊のなかでひとつぽつんと浮かんでいた。売却ずみの札が張られた「海、秋がただよう」と題された絵は、まぎれもなく亮司の作品だった。  いまは面影もないが、学生時代、山本亮司は油絵を描いていた。大学に入ってからはじめた趣味だったが、下手なりに嵌まって、休日は道具をかかえて汽車にのり、お気に入りの浜辺で海を描画して一日をすごした。  秋の日、山本亮司が薄暗い駅の構内をぬけて改札をでると眩しい日差しにつつまれた。  汽車をおりたときに感じた潮の香りがいっそうはっきりとし、カンバスをもってやさしい音がくりかえす浜にむかって歩くと海がみえた。駅の待合で目をあわせた女性も絵を描くつもりらしく、道具をかかえてついてくるのが分かった。  夏が終わった海岸には、もうだれもいない。漁師の船具を入れたあれた建物と、ウインチがおかれた玉砂利の浜辺をぬけて歩いていく。振りかえると、さきほどの女がついてくる。浜辺には海鳥が浮かび、甲高い鳴き声が聞こえてくる。亮司が不思議な顔でみつめると、女はにこっと微笑んだ。浜は、終わろうとしていた。 「こんにちは」  亮司は、声をかけた。 「こんにちは」  綺麗な、たかい声が聞こえた。 「このさきで、浜は終わりですよ」 「そうですよね」  女は、笑顔をみせた。 「どこで、お描きになるのですか」 「このさきの浜辺で。でも、いき方が分からないの」  女は、じっと亮司をみつめた。  彼は、胸が高鳴るのを感じた。  目のまえで助けをもとめているのは、素敵な女性だった。たかい上背、くびれた腰、ロングのスカートをはき、肩も露わなシャツを着ていた。眩しい女は、快活そうで素晴らしい黒くてながい髪をしていた。いままで出会ったこともない洒落た女性は、美大生だった。  向井邦子は、小樽から札幌に汽車にのって通学していた。  都会にちかづくにつれ、陸は急激に日本海にせまってくる。函館本線は切りたった崖の下、海岸にそったわずかな間隙を走りぬけていく。邦子は通学の列車の窓から、若い男が線路づたいの浜で絵を描いているのをみた。そこは、素敵な構図だった。実際に駅でおりて目指してみると、道がなかった。断念してからも、浜に立つ男の姿をみとめた。 「いってみたい」と邦子は考え、亮司を待っていたのだった。 「やっぱり、線路を歩くんだ」  彼女は、はしゃいでいった。  さきをいく亮司は振りかえり、もっとそうしたい自分をおさえながら答えた。 「列車を一本やりすごさないと駄目なのです。このあいだは、ものすごい警笛を鳴らされました」  線路にそって一筋のコクリートが白くつづいている。内がわは列車の領域だと境界を示す、ひくい石段のうえを歩いていく。やがて軌道はいっそう海にのりだし、堰堤は断崖をつくる黒い壁とひとつになる。左がわには、列車が猛烈ないきおいで走りぬける線路があり、右がわには足元にうちよせる波がみえ、赤い海藻が揺れている。みつめなおすと、紫の海は、よせると青く、ひけば赤にかわる、ゆるやかな呼吸を絶え間なくくりかえしている。流れにただよう紅藻が大きな波音とともに伸びてきて、足に腰にまといつき、やがて魂まで鷲づかみにして海中にひきずりこむ怖い感覚に心がふるえる。断崖はふたつの世界の狭間で、辿りつくためには、わたらなければならない一本のほそい橋だった。大きな波音が頭のなかにいっぱいになって聞こえる静寂の海をさらに歩くと、はなれ小島の浜におりることができる。そこは、もうほんとうにだれもいない、ふたりだけの秘密の場所。その年の秋、ふたつのイーゼルが幾度もならんで立てられた、浦波の音と潮の匂いにつつまれた玉砂利の浜辺だった。 「女性を好きになったことは、なかったの」と邦子は聞いた。 「男子校だったから。もてるほうではなかったし、話す機会もなかった」 「なにをしていたの。スポーツは嫌いだったの」 「野球をすこし。中学校では、卓球部にもいたことがある。どれも中途半端だった。音楽も苦手だったし、なんの才能もなかった」  亮司は邦子の問いに答えながら、自分をつまらない男だと思った。  中学まではスポーツもやったが、高校時代はクラブ活動に入るまではしなかった。父親は、仕事の関係で日本各地を転勤していた。小学校時代はいっしょについていったが、言葉の違いから虐められた記憶しかなかった。中学校からは母とのふたり暮らしだった。母親は、新興宗教に夢中になっていた。父はそれなりに生活費をおくっていたのだろうが、母はみんな布施につかって、生活は裕福ではなかった。はなれて暮らしていたことが、行き違いをうんだのだろうと思った。母は寂しさをまぎらわしたのだろうが、そうしたものでは埋められないと知っていたに違いなかった。  亮司はひとりっ子だったから、夕食をひとりで食べることもたびたびだった。そんな家庭環境で、宗教書や哲学書をよく読んだ。いろいろな物事を考えたけれど、その対象は女生徒ではなかった。女性には憧れてをもっていたが、自分から言葉をかけることもできなかった。つまらない男だと、亮司は思った。  邦子にたいしても、なにを話していいのか分からなかった。  絵画の知識は、彼女からみればとるに足らないだろう。彼が詳しい宗教の話をしても、ここではなんの意味もなかった。そうではなかった。もっと違う話題を口にしたかった。たとえば夜、亮司の脳裏に彼女がどんな姿であらわれてくるのか。自分がそのとき寝床でどう思い、なにをするのか。正直に話してみたかった。宗教書にも哲学書にもかかれていない、ほんとうのことを口にしたかった。 「ほら、あれ、きっと石狩の浜ね」  邦子は、いった。  彼女がさし示す対岸には、右からつづく陸地が岬状にせばまり、そのうえを白い雲が覆っていた。やがて陰にかわり暗くなり、陸と海と筋雲が渾然として一体となっていた。天にむかって棚引く幾条かの白くあわい筋がみえ、あいまいな領域の一部が雲であると分かった。 「なにかの彫像みたいだ」  亮司が答えると、邦子はすこし考え、「あれは、青髭だわ」といった。「三つの上半身がねじれながら、やがてひとつにまとまる三頭蛇体のギリシャの怪物。あの奇妙にひきつっている口の部分は、アルカイックスマイル」  邦子は口元をゆるめ、不思議な笑顔をつくった。  亮司は小さく笑って、大声でいった。 「そうか。それじゃ、あの空と海の縁にある一塊の雲は、ゼウスの神殿、オリュンピュエイオンだ」 「ほお、よく分かったなあ。褒美に、サンドイッチをやろう。真っ赤なトマトも、いっぱいつけてやろう」  邦子は、ベジタブルサンドを亮司にわたした。 「熱い、紅茶も注いであげよう」  爽やかな秋の日だった。すき通った空から金の粉がキラキラと惜しげもなくふり注いでいた。大きな石に腰をおろして手作りの弁当を食べるふたりの頬に、心地よい潮風があたり、周囲には湿った波の匂いがただよっていた。 「では、あれはなんだろう」  邦子は、水平線の左にある白い雲を指さした。 「いいね、素敵だ。魅惑的な女性、きっと女神に違いない」 「ほう、お主、なかなかやるな。あれは、女神に違いない」 「たぶん、アプロディテの神殿だ」 「バッカモーン。分かっていないわね。だから、なんにも知らないのね。アプロディテの神殿など、アテナイにはないのよ。あれこそは、アテナ。アテネ・パルテノン」  そういうと、邦子は立ちあがった。そして海にむかって三、四歩すすんで、振りかえって亮司をみた。 「おお。われこそは、アテネ・パルテノス」  邦子は、天をみあげ、両手を空にむかってさしのべ、大声で叫んだ。亮司の視線とぶつかると、恥ずかしそうに顔を赤らめた。かたわらにもどってくると、彼女はなにやら支度をはじめた。ばつが悪くて紅茶を飲む亮司を尻目に、ながい髪をたばねてまとめると藍色のネッカチーフを巧みにつかって頭に巻きつけ、ターバンにした。それから立ちあがり、バッグから真っ青なほそい紐をとりだし、腰に巻いてかるく縛った。いちばんながい絵筆をつかみ、さきほどの場所にいった。 「さあ、これはなんだろう」  彼女は、そうつげると、ポーズをとった。  左足のつまさきを地につけ、右足を半歩踏みだして体重をのせ、背筋を伸ばして真っすぐに立った。右手を腰にあて、左の人差し指と、手のひらでつかんだながい筆の尻の部分を額に押しつけた。そして、右の足元よりすこしさきの地面をじっとみつめた。  そよ風が、女のながいスカートをゆすっていく。薄紫の布地は、はためきながら肉付きのいい臀部とすらりと伸びた下肢を浮きあがらせる。潮風は、胸の部分がえぐられた空色のシャツにも入りこむ。ゆるく巻かれた青い紐によって、やわらかい風はほそいウエストを通過できなくなり、上下のまるみが強調される。布地がふくらみ、大きな胸が垣間見られる。張り切った乳房を揺るがすこともできない潮風は、彼女にまとわりつき、はだけた肩から指先にいたる白い肌を、湿った匂いにつつみこみ、まとめあげた髪に巻かれたふかい藍色のターバンを波うたせる。  疎らな雲が浮かぶ、秋の日のすき通った空。静かに揺れる波が照りかえす紺色の海。青白い世界に、青い女神が立っていた。さんさんとふってくるやわらかい日の光は、金の粉をまぶしながら海面にあたって、まきちらされた金箔はしずむこともなくただよっていた。降臨した女神は、黄金の輝きのなかで青く煌めき光っていた。  こんなにゆっくりと女性をみつめることができたのは、はじめてだった。その後もなかったかも知れない。彼女は女神で、眩めきの世界にたたずんでいた。そこは、彼の手が絶対にとどかない至高の場所だった。 「分かった」彼女は、振りかえると聞いた。  亮司は、首を振った。 「そうか」  彼女は、残念そうな顔をした。  向井邦子は、美大を卒業すると、叔父の住むフランスに留学した。ギリシャの建築や彫像が大好きで、「エーゲの海がみたい」といつも話していた。情熱、才能、夢。亮司にはない、すべてをもったふたつ年うえの女性だった。  札幌をはなれるまえ、彼は邦子と会った。 「気に入ったといったから、もってきたんだ。大きくて邪魔だろうけど」 「そうね。正直、大きいわね。もっと小さいものでないと、もっていけないわね。でも、ありがとう。家においておくわ」  おくったのは、彼女が好きだといった、日本海。その秋、彼が懸命に描いた浜からみた海の絵、海景の一二号だった。  向井邦子がさってからは、亮司にはすべてがむなしいことに思えた。秋に青春は終わってしまった気がした。一度だけ、邦子から便りがおくられてきた。彼女が必ずいくといったデルフォイのアポロン神殿の絵葉書で、「エーゲ海は、素晴らしい」とかかれていた。 「その海は、日本海よりもずっと魅力的なのだろう」と思った。どう返事をしたらいいのかと考えているうちに、就職活動がはじまってかきそびれた。 「住む世界が違うから、仕方がない」と思った。「おなじことを、いつまでも考えるのは未練がましいんだ」と感じた。札幌をさるときには、絵の道具をみるのもすっかり嫌になって、カンバスもふくめてみんなすててしまった。  それ以後、亮司は絵筆を手にしたことはなかった。  社長の葬儀が終わって一週間たったころ、山本亮司は本社にくるよう連絡をうけた。秘書に案内されて会長室に入ると、営業部長の永沢一太はもういて、会長の野末吾郎と話をしていた。亮司は、うながされるままに大きな黒い革製のソファーに腰をおろした。しばらくすると、総務部長の問田浩輝がやってきた。  端整な顔立ちの秘書が、お茶をはこんできてテーブルにならべた。大学を卒業したばかりにみえる若い女性は、ファッショナブルな空色の制服がよく似合い、上品で聡明そうに思えた。彼女は緊張した面持ちの享司をみて、やわらかな素敵な笑みを浮かべた。 「大宮店、副店長の山本亮司さんだね」  亮司が「はい」と答えるのを聞いて、野末吾郎は「では、はじめようか。永沢さん、頼みます」といった。 「これは、公の会ではないですから山本さん気楽にしてください」  営業部長の永沢一太がいった。「さっそく本題に入りますが、大宮店では、最近みょうな事件があったみたいですね」と二週間まえに起こった不可解な投身自殺の話を亮司にうながした。 「話せといわれましても、まったく関係がないことで。店は、ただ迷惑をうけただけなのですが」 「なんでも、山本さんと関わりがあったと聞いていますが」 「関係ですか」 「相手の方を、よく知っていたとか」 「いえいえ、それは違います。事故の前日の朝、一〇時ころですが、万引きをする現場を、私がぐうぜんにみつけてしまっただけで」  亮司は話をやめたが、みんながだまっているのでつづけていった。 「それだけなのです。そのあと、自分の机で帳簿をみていたのです。なんだかちょっと気になって、事後処理をする部屋に、もう一回いきまして」 「相談室ですね」 「そうです。そうしたら成り行きで、私がひとりで、その方の話を聞く羽目になってしまって。相談室で対応するときには、会社がわは複数と決まっていたのですが。それだけです」 「なぜ規則に反して、ひとりになってしまったのですか」 「守衛が担当だったのですが、携帯に電話があったのです。それで、一時、席をはずしました。もうひとりは売り場の防犯担当なのですが、トイレにいきたいといいだして。急に腹が痛くなって、なにかにあたったといっていました」 「守衛さんは、相談室をほったらかしてしまったのですか」 「四階に自分のバッグを忘れたらしく、電話はそのことだったのです。走っていけば、すぐに帰れると思ったらしいのです」 「なぜ、もどれなかったのですか」 「四階で、トラブルがあって」 「どんな出来事ですか」 「喧嘩だったといっていました」 「それでひとり切りになったわけですね」 「そうです。予測できなくて、結果的に違反行為になったのですが、とくべつなことはなにもありませんでした。亡くなった方が一方的に話をはじめて、興奮して泣いただけで。たしかに規則違反だったのですが、なんだか可愛そうになってしまって。両親を介護しているらしいのですが、私も似た身のうえで。もう、いいかと思ってしまいまして」  亮司がだまると、だれもなにもいわなかった。 「それが、どうしたのですか」  沈黙に耐え切れず、彼はたずねた。 「では、べつのことをうかがいます。なぜ、その方は屋上にいけたのですか」  永沢一太が、また聞いた。  たしかに男が最上階のうえまであがれたのは、多くのぐうぜんがかさなったとしか考えられなかった。何年かまえに官邸でドローンの事件が起こってから、大宮の店でも週に一回、巡視をしていた。万引き事件の日、守衛が屋上をみて開き戸をしめると、鍵がこわれていた。扉の輪になった金属製の取っ手部分にチェーンを巻きつけ、南京錠をかけていたが、ふるいもので事前にとりかえるべきだった。守衛は四階の倉庫で、つかっていない鍵をさがし、その最中に万引きの件でよばれてバッグをおき忘れた。フロアのスタッフが鞄をみつけて、電話をかけてきたので相談室をぬけてとりにいき、客同士の些細な喧嘩にぶつかった。仲裁に入った守衛は、ざわざわするうちに鍵のことはすっかり忘れてしまった。彼は、倉庫におりるまえにチェーンを三重に巻いておいたが、昼になって奥さんが交通事故に巻きこまれたという連絡をうけ、あわてて早退した。日勤にはもうひとり守衛がいたが、鍵の件は知らなかった。当直のガードマンが夜間に巡視したときは、階段の下からチェーンが幾重にも巻かれているのを確認し、普段とかわらないと思った。状況からは、万引き犯は夕方ふたたび店内に入り、見回りを逃れながらかくれて移動し、明け方屋上にでて飛びおりたと考えられた。 「不思議ですが、事実はこうしたものと想像されます」 「よく分かりました。ところで最初の話ですが、山本さんは、万引きをみつけて防犯の係にひきわたして、なぜもう一度相談室にもどったのですか」  今度は、野末が聞いた。  たしかに、この件もよく分からないことだった。  その後の展開から振りかえって考えれば、男は亮司と接触をもつために、これみよがしに万引き行為をしたともいえる。盗んだものは安物のインクカートリッジで、計画性にとぼしい、ふらふらとした万引きに違いなかった。もしかすると、男はみつかろうと思ったのだろうか。 「その年配の男性は、よれよれのシャツを着ていたのです。私もよく似たものをもっていて、どうしたのかなって思ったのです。きっと」 「どんな、ものなのですか。その方が着ていた、よれよれのシャツって」 「とくべつなものではありません。白い地で縦に灰色のストライプが入って、袖がながくて襟がつき、ふるくて襟元のボタンがとれ、全体的に黄ばんで、だいぶつかって形もくずれ、とくに肩の部分は張りがなくて。どこにでもあるものです。特徴といわれても、そんなにかわったシャツではありません」  亮司が答えると、だれもがなにもしゃべらなかった。  みんながお茶をすする音が聞こえた。  亮司は、状況を説明しながら、この出来事には不自然で容易には納得できない部分があると思った。スタッフ全員が初老の男を可愛そうに考え、一方で店のマニュアルをまもろうと努力した結果、事件に巻きこまれている。よく分からないものだった。 「その方が店の屋上から飛びおりたのは、だれのせいでもありません」  同意をもとめて、亮司はだまった。 「もちろん、私の責任ではありませんよ」  話をやめると沈黙が支配し、部屋にかけられた大時計のカチカチという針の音が聞こえてきた。 「これ以上は、説明ができません。このうえ、みなさんはなにを知りたいのですか」  亮司は、もう一度いった。 「いやいや、だれも山本さんのせいだなんて思ってはいません。責めるつもりなど、微塵もありません。事件について、よく整理してあると思って感心したのです。山本さんは、この出来事が不可解で腑に落ちなかったのだろうと。みんな、そう思っただけですよ」  問田がいった。  その言葉に、野末も永沢も大きくうなずいた。  普段着る男の上着には、それほどかわった柄はないから、だれでも一枚くらいは似たシャツをもっているに違いない。亮司は、気になって実際にしらべたのだろうと、全員が思った。 「襟元のボタンとは、なにをさすのですか」と野末が聞いた。  家でしらべてみると、シャツの柄はおなじだった。ただ、襟首のボタンがなくなっていた。二度と着るはずもないものを、なぜすてずにのこしておいたのか分からなかったと亮司は答えた。 「それは、面白い、興味ある話ですね。ボタンがないのが気になって、相談室にもう一度いこうと思ったのですか」 「その件は、家でしらべてはじめて気がついたのです。店でみたとき、男の襟元がみょうな感じにふくらんでみえた理由が分かったのです。相談室で話した時点では、思いもつきませんでした」  野末は、享司の話に何度もうなずいていた。 「なぜ、男は大宮店から飛びおりたのでしょう。日中に万引きをし、わざわざ店の注意をひいて夕方にビルに侵入し、みつかるのも覚悟して夜まで待って屋上にのぼったのでしょう」  問田がいった。 「そうですね。たかいところから飛びおりるだけだったら、もっと簡単なビルもあると思います。相当しつこい感じですね。大宮店から飛びおりたのは、ぐうぜんとは思えません。ここまで頑張るのは、つよい怨恨からでしょう」  野末が無表情のままいうと、会長室はすっかり静かになった。  大時計がカチカチとときをきざみ、問田のもらす溜め息が聞こえた。 「お祓いでもしたら、どうでしょうか。山本さん、神主をよんで屋上と相談室をお祓いしてもらったらどうですか」  問田がいった。 「それはいい。山本さん、あなたもお祓いしてもらいなさい。はやいほうがいいですね。明日にでも神主をよんで、五万円もだせばきちっとやってくれるはずです。あなたは神社にいって、すみずみまでお祓いしてもらいなさい。三万円もつつめば充分です。ぜんぶ経費であげてください」  野末も賛成した。 「待ってください。なんなのですか。お祓いって、どういうことなのですか。私も守衛も部署の者も、男とは初対面だったのですよ」  亮司は、さっぱり分からずにいった。 「兆候が出現したのですよ。あなたには意味が分からないかも知れませんが、石毛電機は大宮店からはじまった会社です。私は、五年まえに総務部長になりました。そのまえは、大宮店の副店長でした」  問田がいった。 「私は、営業部長をしています。もとは、大宮店の副店長です」  永沢がいった。 「もう、だいぶまえになります。私も、大宮の副店長をやっていました。あなたも、聞いたことがあるでしょう。大宮店の副店長は、石毛電機の裏の出世街道だって。だれもが役員になれるわけではありませんが、現執行部の六人中、私たち三人は大宮の副店長出身です。それに亡くなった石毛社長、石毛康則は、大宮店の初代の副店長です」  野末がいった。 「今日は副店長会で、現役の話をもとの副店長たちが聞いた会ということです。まあ、みなさん、心しておきましょう」  永沢がいうと、おひらきになった。  翌朝、享司は電話帳をみてちかくの神社に電話し、事件の簡単な説明をして祓除を依頼した。  一一時ころに禰宜をつれた年配の宮司がやってきた。年老いた小柄な神主は、銀色に輝く豊かな白髪を肩までながく伸ばしていた。簡単な挨拶をすますと、最初に相談室を祓除した。それから屋上にのぼって磁石をつかって東西南北をたしかめ、ていねいに祓い、四隅にもおなじことをした。飛びおりたと考えられる場所を享司にたずね、時間をかけて念入りに祓除した。  お祓いをしていると、眼鏡をつけた担当の警察署員がきた。  様子をみていたが、終わると、「あの男についてなにも分からないのです。捜索願いもでてこないし、該当者がいないのです」といった。 「なにを着ていましたか。その男、路上でみつかったとき」  亮司が警察官に聞くと、署にくれば写真があるからみせることができるといった。 「夕方、四時にうかがいます」と享司が答えると、署員は「お待ちしています」とつげ、帰っていった。  神社で祓いを終えた亮司が約束の時間に警察署にいくと、眼鏡をかけた担当署員は写真をとりだし、「その後、なにか思いだしたことは、ありませんか」と聞いた。 「男は、左の手首に紐を巻きつけていた気がします。黄色みがかった、ミサンガというのでしょうか。素材は、金属でもビーズでもなかった気がします」  署員は、何枚かの写真をめくり、左の手首が映ったものを亮司にみせた。そこに腕輪はなかった。右の手首の写真もみせ、やはり巻きつけるものが映っていないのをいっしょに確認した。 「現場でも屋上でも、そうした腕輪は発見されていません。紐が自然に切れると、願いごとが叶うといわれるものですよね」 「よく知りません。若い人が、派手な色の腕輪を巻きつけているのをみたことがあります。その方のものは、地味だった気がします」 「着ていた服をみたいとおっしゃいましたね。ミサンガではなく」 「左手首のことは、とつぜん思いだしたのです」 「状況からは、他殺は考えられません。検死でも落下による損傷だけで、疑問はないのです。写真をみて、なにか分かりましたか」  亮司がうなずくと、署員はまたいった。 「どんなことが、はっきりしたのですか。われわれには、何ひとつ分からないのです。唯一判明しているのは、あなたの証言です。話が真実かは分かりませんが、男がなぜ、身上を細部まで話したのかも不明です。あなたは、不自然なほど詳しいです。私たちでも、あれだけの内容を聞きだすには、手順をおって頑張っても一時間はかかります。今回は、なにが知りたかったのですか。失礼ですが、あなたには動機は皆無です。もちろん、アリバイもしっかりあります」  亮司がだまっていると、署員はつづけていった。 「あなたは、ふたり切りになったわずか五分から一〇分のあいだに、これらを聞きだし、さらに、かなり大きな精神的なダメージを男にあたえたのではありませんか。私どもに話したものとは、べつの鍵をもっているのではありませんか。前後にいあわせた方たちは、男の激変に仰天したと証言されています。なにをいってもまったく無反応で動じなかった者が、子供みたいに号泣していたと。それに、あなたもとりつく島がないほど不機嫌になっていたと」 「疑われていたとは、知りませんでした。混乱しています。あなたの問いに正しく答えられないかも知れません。だんだん分からなくなってくるのです。あの方の話は、まるで私自身のことなのです。親の介護とか、三人の子供の問題とか、鏡で自分の姿をみているみたいなのです。分からなくなってくるのです。あの方がいった気がしただけで、じつはなにも話してはいなかったのではないかと。あまりに不自然ですよね。生活を話す場面では、なかったのです。しだいに、あれは私だったのではないかと、ひどく不安になってくるのです。そもそも、あの人はいたのか。すべて、私の妄想ではないのかと」  亮司は、両手で頭をかかえながら、ぼつぼつといった。  そんなことはないと、警察官は即座に否定した。  男は死亡し、荼毘にふされ、遺骨もある。たいへん不適切な発言だったと署員はいった。無関係な一般人がとつぜん事件に巻きこまれたら、ショックをうけて当然だ。身元がわれず、娘の件もふるい被害届までしらべたが一致するものはみつけられなかった。男は、ありもしないことを話したのかも知れない。もうすこし時間をかけて、しらべてみる。分かったら知らせると、署員は申しわけなさそうにいった。 「詳細は必要ありませんが、解決したことだけ教えていただければ、すこしは気が休まるかも知れません」と彼は答えた。  つぎの日、眼鏡をかけた若い担当署員とやや年長の上役と思われる者が、ふたりで亮司をたずねてきた。上司は、昨日の署員の発言をあらためて謝罪した。今回の事例については、署内で会合をひらいた。捜査に協力する市民に、不愉快な思いをあたえたことを反省しているといった。 「男の自殺は、思いつきではなく、充分な覚悟をしたうえでの綿密な行動だったと考えられます。服装をふくめ、身元が判明できるものを一切所持していないのです。午前中は、下見だったと考えています。大宮近辺に在住していたのでしょう」 「下見のつもりできて、なぜ万引きなんかするのでしょう。マニュアル通り、氏名、住所を聞きだし、警察に通報していれば、この方は自殺しなかったのでしょうか。私の両親も、アルツハイマーでふたりとも施設で暮らしています。都内で入居するには、かなりのお金が必要です。あの男が、いった通りなのです。その言葉ばかりを、考えてしまうのです。私にも、二〇歳の娘がいます。ずっとみているわけにはいきませんので、ちかごろは理由もなく不安です」  亮司は、ひと言ずつ、かみしめて話した。  その言葉に、上司は大きくうなずいた。  男が特定できれば、屋上から自殺をはかった理由が判明する可能性があるが、いまは見当もつかない。大宮店で事件を起こしたのは、本人も予期しなかったのかも知れない。下見で万引きするのはおかしいが、そうして心が揺れるのが人間の気持ちなのだろう。男が亮司に話したのは、真実だったと思う。矛盾した行動に思えるが、だれかに事情を説明したかったのではないか。万引きしたのも、無関係な人に話を聞かせるつもりだったかも知れないと上司はいった。 「娘さんの事件がでてこないのは、なぜだか分かりませんが、なんらかの事情があるのだろうと考えています。この暴行の話は、ずいぶんしらべたのですが、該当するものがみつかりません。関係があるのかどうか調査中ですが、レイプ事件で保護観察中の若い札付きがひとり、行方不明になっているらしいのです。暴行をうけた娘さんとおなじ二〇歳です。凶悪で、殺人事件に関与した可能性があり、追っていたのです。署内で全力をあげて捜査中ですが、この自殺についてなんらかの事情が分かれば、必ずご報告にきます」  そういって、警察官は帰っていった。 「なぜ、男は身投げをしたのだろう。娘が暴漢に襲われたら、そのためにも生きようとは思わないのだろうか」  享司は、疲れた男の顔を思いだした。ちかくの内科で眠剤の処方をうけた彼は、精神科への受診を考えていた。秋分にちかづき、日ははやくしずみはじめていた。自分の存在は急速に力をうしないつつある光がつくる弱々しい影で、薄暮にまぎれていっしょに消えいってしまうのではないかと思えた。帰宅すると、新潟に介護にでかけた翔香から、目鼻がつくのに、さらに一週程度、時間がかかるというメールがとどいていた。  妻は、自分にとってなんだったのだろうと亮司は思った。  翔香は、彼のパートナーで共同生活者だった。三人の子供をうんでくれ、育てて大学まで進学させたのは、亮司ひとりではまったくできないことだった。彼女は、一時期をのぞいてほとんど専業主婦だったが、仕事は無尽蔵にあった。三人の子供は、年ごとに大きくなり、小学校、中学、高校を終えると大学にすすんだ。亮司の父母は、相前後してアルツハイマーに罹患した。両親の持ち家を処分して施設に入れることを決心するまで、さんざん面倒をみてくれた。それは、気の休まるときのない猛烈な重労働だった。ふたりを入居させたころから、翔香の両親が健康をそこねだした。ぐあいが悪いという連絡を、ちかごろはたびたびつたえてきていた。両親は新潟に家屋をもっていたが、処分しても都会の施設に入居するには難しかった。 「妻の二親だって、入れてやりたいですよ。でも、そんなに無尽蔵にお金はもっていません。勝手にうんで、いまになって血がつながるのはおまえひとりといわれても、こちらが望んだことではありません。元気なうちはいいですが、妻とふたりで四人の親をみるのはとても無理です。子供は三人いますが、全員、なんとか大学までは入れました。ずいぶん苦労しました。だれも評価はしてくれませんが、私は頑張ったのです。でも、あなたなら分かるのではないのですか」  いったい、あの男はなんだったのだろう。どういう理由で、自分のまえにでてきたのだろう。くりかえし同意をもとめていたが、同い年くらいだったのかも知れない。とても切羽詰まった感じだったと、亮司は思った。  翔香がなにを考えているのかは、すべては分からなかった。  おなじように、報われないと感じているのだろうか。それとも、なにかの充足感をもっているのだろうか。状況はいっしょなのだが、女はすこし立場が違うのかも知れない。彼女は、まだ役目をもっている気がした。すくなくとも、子供たちは翔香の身体の一部なのだろう。とくに娘は、まだ未来がひろがっている彼女の一部分なのだろう。  亮司は、役割を完全に終えているのだ。カマキリとおなじで、雄は雌に食べられたほうがいいのだ。そうすれば、母親の一部にかわって、またうまれた子供たちの食料になれる。生きて干からびて死ぬよりも、ずっと摂理にかなっているのだろう。役割が終わっているのだと、彼はまた思った。  夜中に目がさめ、闇をみつめる享司の脳裏に、さまざまな思いが去来した。彼は、とまどいのあとで、仕方なくもう一錠眠剤を飲んだ。それでも眠りがおとずれない享司は、寝付くまでさらに服用したらそのまま死んで、翔香が帰ってくるまでだれにも気づかれないだろうと、ばくぜんと思った。  刑事がやってきた翌日、野末から電話があって山本亮司は夕方会長室をたずねた。  空色の似合う秘書に応対され、ソファーに案内された。お茶をはこんできた素敵な女性は、にこやかに微笑んで「山本さんはきっと、本社に栄転になるのね」といった。  享司が怪訝な表情でみつめると、「会長は、あなたを気に入っているから。女の直感よ。でも、余計なことだったわ」と若やいだ声でいって笑った。  しばらくしてあらわれた野末吾郎につれられ、小綺麗な料亭にいき、山本享司は静かな座敷でうまい酒と肴をふるまわれた。  今年八〇歳になる野末は、小柄でやせて浅黒い。いかにもたかそうな鼈甲の眼鏡をかけた彼の頭髪は、五〇歳のときにはもうすでになかった。  いっけん柔和に思える野末と話していると、しばらくしてだれもが不思議な感覚にとらわれる。最初は、それがなんだか分からないが、やがて右手も左手も第五指が第二関節からさきがないのに気がついて、そのとたん目のまえにいる彼の雰囲気がすっかりかわってしまうのだ。  野末は、会社の歴史について話しはじめた。  昭和四〇年、石毛電機は大宮で店をかまえた。もともとは、竹下電器系列の小さな販売店で、全国で二〇万あったといわれるこうした店舗が日本家庭の電化の普及に一役を担った。すべての店が量販を目指したわけではなかったが、五〇年以上たった現在、石毛は業界で三指に入っているから、結果的には一〇万分の一の生き残り競争に勝利したといえる。売上高を創業時と単純に比較しても、一〇万倍まで増加した。こうした倍率は、ほとんど宝くじなみだ。  デジタル家電の商品鮮度は半年だから、在庫はすぐに不良資産化する。差別化ができないから、競合する他店より一円でもやすく売るのが経営の基本となる。家電量販業界は、二、三年で企業環境が激変してしまうから未来を見通すことは不可能で、「さきはこう」などと慢心していたら会社は生き残れない。一〇年たつとあらゆるものが陳腐化するから、大宮店も三度、場所をかえてたてなおし、改装している。毎年、三〇は新規出店するが、一年様子をみて、駄目ならつぶすつもりではじめている。  ある期間、成長戦略がうまくいって飛びぬけて業績を伸ばした会社が、その戦略にこだわり、過去の成功がかえって徒になる形で失敗し、合併、吸収される事例は枚挙にいとまがない。最前線での戦いをずっとくりひろげるこの業種に、確立された最善の戦術は存在せず、ときどきの状況におうじた柔軟性がもとめられている。業界の三指に入っていなければ、変身もできず会社は生き残れないから、いつでも不具合に気をくばり、より目あたらしい企画で消費者にうけ入れられそうだと考えられれば、躊躇なく方針を転換していかねばならない。生き残るとは成長をつづけることで、そのためにはつねに脱皮をくりかえす必要がある。  石毛電機は、石毛康則が提供した資産を野末吾郎が運用するという形ではじまった。  経営コンサルタントだった彼を、石毛が三顧の礼でまねいたのだった。業界では石毛電機の経営は独創的だとよく評されるが、実際の決定は取締役会の合意というより野末の独断が多かった。彼の強引さは有名で、社長はお飾りとよばれていた。野末を、会社至上主義の非情な人間と考える者は数多い。いなくなれば会社はもっとよくなると、たくさんの社員が思っているのも事実で、成功者の彼には敵が多かった。  しかし、この厳しい業界を生き残るのに、野末の神懸かり的な経営手腕は必要だった。  昨年発行された石毛電機五〇年誌を読むと、節目の判断は素晴らしいものだとだれもが思う。バブルとその崩壊があり、金融破綻、ITバブル、リーマンショック、コロナ禍、どこを見誤っても会社の危機につながりかねない時期に、それらを察知するごとくに事前に方針が決定されている。日本経済や業界が転換点にきたとき、えらんだ道のすべてが正しかったといっても過言ではない。  会長室で暇さえあれば過去の日誌や月報をくりかえし読みふける野末吾郎は、自分でも怖くなるほどだった。その隘路は全知全能の神にみちびかれたと考えるほどで、わたらねばならない交差点では、安全な歩道橋の場所を知っていたようにみえた。後手にまわって急かされて車道を横断し、車にひかれた会社をみつづけてきたと思った。  過去を振りかえって考えてみると、野末は不思議なことに気がついた。  石毛電機が重大な選択をした時期、創業地の大宮店で事件が起きている。店長の急死とか、漏電による出火とか、水道本管がとつぜんに破裂し、水浸しになるとか、客から意味不明な訴訟を起こされた事例も存在する。大宮の副店長が役員に昇進する例があるのは、こうした事件に積極的に関与した結果と考えられた。気がついた一〇年ほどまえから、取締役会は大宮店にとくべつな注意をはらい、全国でも唯一、三年に一度、管理職全員をいっきょに配置転換させている。この店で事件が起きたばあいは、会社として全力で対応するべき、なんらかの予兆というのが現在では暗黙の了解になっていた。  五年まえ、問田浩輝が副店長だったとき、職員の出勤名簿と棚卸しの原簿が同時に消失したことがあった。毎日管理する元帳がなくなるなんて考えられないし、コンピューターに入れられたものがいっきょに消えてしまったわけではないから、いっしょというのは理解ができなかった。問田はどうしても納得できずに、この件にかんしてさんざんしらべた。さまざまな人が複雑にからむ、入りこんだ経緯は分かったが書類はでてこなかった。  それからしばらくして、値段がたかいとさわぎだした男性客がかなりの数のショーウインドーを叩き割る事件が発生した。男は、脱法ハーブを吸引し、錯乱していた。事件は問田が店に不穏を感じ、警察官を定期的に立ちよらせていた巡視中に起こったため、機敏な対応ができて人身に害はなかった。この出来事を契機として、当時問題だったポイント制をやめて売り場での現金値引きを導入することにした。大きな決断だったが成功し、その後、問田は総務部長に抜擢された。  石毛康則の死は、事故とされたが不審な点もあった。  現役の社長が急死したのだから、それだけでもたいへんなことだ。今回の大宮店の事件は、石毛の死の予兆ではなく、べつの大事件の前触れかも知れないと野末は思った。  ここは、なにかの正念場ではないのか。  享司の話を聞くと、シャツは間違いなく重大な意味をもつ、キーワードだと思われる。それに、こわれて役目を終えた鍵よりも、巻いてつかわれたチェーンのほうが印象的だ。巻きつけ、巻きこんだだけでは、ほどけてしまうという意味なのだろうか。しっかりと、縛り、結ぶ必要があったのだろうか。いまは、それ以上のことは分からないが、おいおいあきらかになってくるのだろう。  野末は、手酌しながら勝手に話していた。  豪腕の会長と料亭にきて、面とむかいあって酒を酌み交わすなど、亮司は考えたこともなかった。  注ごうとすると野末はことわり、もっと飲むようにいって話をつづけた。  人に気づかれずに、屋上にいくのは困難だ。なぜなら、店はそうした事態を警戒しているからだ。実際に可能だったのは、野末たちにはみえない通路があったのだろう。河にかかる橋のような、屋上につづく小径を男はみつけたに違いない。いうならば、交通量の多い、ひろい交差点にかけられた歩道橋なのだろう。車は、さまざまな方向から猛スピードで走ってくるから道路を横断するのは危険だが、そこなら安全にわたることができる。こうした橋は、入り口から出口までよく整備され、障害物はない。知らない者からすると、複雑な迷路を秒単位でぬけた感じに思えるが、本人はごく自然に目的地に辿りついただけなのだろう。ぐうぜんがかさなってみえるのは、亮司のせいではない。 「山本さんに協力してもらいたい。私たちは、全面的にあなたを信頼します。身のまわりに起こることを、ぐうぜんとは思わないでください。もしかしたら、石毛電機と関係があるのではないかと考えて欲しいのです」  野末は、困惑する享司をみて、手酌しながら真剣な表情でいった。なくなった小指のさきが、言葉に重みをもたせていた。  人生とは、一方通行の道路を車で走るようなものだ。  それも、道は川ぞいを併走している。目に入る前方の道路はほそく、このまま真っすぐすすんでも未来は見通せない。なにかをかえなければ、生き残れない。まださきがみえないむこう岸にいきたいが、橋梁のない場所でどんなに努力しても、無闇に河に入ったら流されて溺れてしまう。車にのっているから、とつぜん橋があらわれても急にはまがれない。一方通行だから、やりすごせばもどることもできない。つぎの橋が、いつでてくるのかも分からない。  むこう岸にいこうと本気で考えるなら、まがるつもりで運転しなければならない。一度わたれば、もどってこられないことは覚悟のうえだ。どちらがいいのかは、だれにも分からない。判断はまかされているから、どういう結果になっても責任は自分にある。つまり橋をわたるかどうかについては、事前によく考え、決めておかねばならない。  今回の身投げ事件は、なにかの予兆だろう。この辺に橋があり、みつければ安全に、つぎのステージにいくことができるのだろう。  こんなぐあいに未来がみえるみたいな話をすると、ひとつの過ちも後悔もなしにやってきた人生の成功者に思うかも知れない。しかし、個人的な生活はぼろぼろだ。三回結婚をしたが、最初の妻は最愛の娘を道づれに自殺した。仕事に夢中で、彼女がそれほどまでふかく傷ついていることにまったく気がつかなかった。もっと真剣に、話を聞いてやるべきだった。  野末は、溜め息をついて口をとじた。  しゃべるのをやめると、鹿威(ししおとし)のたかい音が室内にひびいてきた。  亮司がいたのは、八畳くらいのひろくてあかるい部屋だった。  野末がすわる左がわには床の間があり、水墨画の掛け軸がかけられていた。テーブルの右がわの下半分には窓がつくられ、背のひくい樹木が生いしげる料亭の庭がみえた。いくつか篝火がたかれ、木々の陰を赤くそめながら揺らすのが、うすいロールスクリーンごしに目に映った。  身投げした男は、石毛電気に怨念をもっていたのだろうと野末はいった。相当にはげしいもので、警察がしらべても容易には分からないだろう。 「娘さんが、暴漢に襲われたといっていましたね。殺されたわけでは、ないのでしょうかね。話を聞いて気になったのは、今年のはじめに石毛社長の奥さんが殺人事件に巻きこまれたことです。報道はひかえさせましたが、そのときレイプされていたのです」  野末は、小指のない左手で盃に日本酒を注いだ。第五指の欠けた右手で器を口にもっていき、酒を飲むとつづけた。  死んだ石毛康則は、幸せだったのだろうか。  去年、石毛はとつぜん自叙伝を出版するといいだした。最初に原稿を読んだが、そこには会社の指針をぜんぶ自分が決定したとかいてあった。会長の野末が、その件についての生き証人だとかかれていた。どうしても出版するといったが、懸命に説得した。  原稿を読んだとき、大会社の社長にまでなりながら、石毛は不幸だったのだと思った。年があけると奥さんの事件が起き、今度は自分まで死んでしまった。  戦時中は、よかったと考える人もいる。  現実が思い通りにならなかったのは、戦争のせいだと、だれもがみとめてくれる。いまの世の中は、戦時中とくらべれば社会から厳しい制約をうけることがすくなく、基本的にはなんでもできる。思い通りにならなかった責任の大部分は、自分にあるとみとめざるをえない。そうすると、今度は家族のせいにする者もいる。そうして右往左往して、現実がどうにもならないのなら過去くらいは自分の思い通りであって欲しいと思うのは、とくべつみょうな考えではないのかも知れない。  野末は、また酒を飲んだ。  妻が自殺したあと、二度、結婚したが、いまとなっては理由も不明だ。毎月かなりの養育費をはらう義務をおっているが、自分の面倒をみてくれる者はこの世にひとりもいない。どうしてこうなったのか、さっぱり分からない。あらゆる時点で迷い、最悪の選択をしつづけた。神がいるなら悪魔も存在し、野末は両者に魅入られたのだ。橋梁は、異界との境界部分にかかるのだから、神さまがわたってくるなら魔物だって、おなじ道をつたってあらわれるのだろう。もしかすると、橋をかけて最初にでてくるのは魔王なのかも知れない。それを退治するために、神が追いかけてくるのだろうか。  橋のむこうを玄界という。  異界とつながる場所があるから、予兆があらわれる。  艶やかな絹糸を一本とって、左手の親指と人差し指でつまんでみる。横からみると一筋になった糸は輝いてみえるし、指先で感じることもできる。しかし立てて正面からのぞいてみると、絹糸の先端は分からない。みえる気もするがあいまいで、それでもみつめていると、やがてつかむ指先の感覚まであやしいものになる。  糸の先端が不明瞭なことを、玄とよぶ。  暗いとか、黒いとか、ほの暗く奥ぶかくて、よく分からない、そんな意味だ。玄黄といえば、黒色の天と黄色い大地のことで、宇宙のすべてをさす。玄孫は、ひ孫の子供だから、かぼそいさまを形容する。老荘の学問を、玄学とか、玄虚とかよぶ。玄宗なんて名前をつけるから、楊貴妃みたいな魔物がよってくる。  悪魔は、人間のもっとも弱い部分をついてくる。巧妙で、三回目の結婚は典型的な仕業だった。なぜ、あの女といっしょになろうなどと考えたのか、幾度思いかえしても自分が信じられない。手品みたいなもので、一瞬の出来事だった。なんとも思っていなかったのに、人を無理矢理そんな気にさせ、そのうえで裏切り、訴訟まで起こした。あらゆるもの、それはお金だけではなく、信頼も尊厳も、すべてをうばっていったのだ。  野末はそう話すと一瞬、額によせた皺に小指のない右手をつけて目をつむり、大きく溜め息をつくと渇いた喉を酒でうるおした。 「それが楊貴妃みたいな、どこからみたって絶世の傾国なら、仕方なかったと思えるかも知れません。裁判所で会うことがあると、つくづく自分がみじめになります。つくられた写真はべつにして、魅力的な女なんて現実にはどこにもいません。魂をふるわせてくれる異性と出会えるのは、運がよくても人生で一度か二度しかないと分かっていたのに、心の隙間をつかれたのです。ほんとうに素敵な女性は、異界の入り口にたたずんでいるのです。そこは間違いなく、橋のたもと、ということになります」  野末は、しみじみといった。  世の中には、解決できない問題がある。  そうした事象に遭遇するのは、運が悪いのかも知れない。しかし、起こりうることは知っていなければならない。たとえば、どんなに懸命に考えても、どのようにコンパスや定規をつかっても、円とおなじ面積の正方形を図示はできない。かぎりなくちかい四角形はかけても、等面積のものは無理なのだ。πが有理数でない以上、仕方のないことで、それを努力の問題におきかえるのは間違っている。結果をだせなかったのが悪いのではなく、うまく問いを立てられなかった根本に誤謬がある。ところが、解こうと懸命に試みる者には、分からないばあいが起こりうる。絶対に答えがでてこない世界にまよいこみ、無闇に頑張り、できない理由を努力の量にむすびつけて考えるのは、すくわれない事態だろう。もう一度、起点にもどって問題をみなおすしか方法がない。  こうした恥を野末が話したのは、会社にたいする姿勢を知ってもらいたいと思ったからだ。石毛電機の幸運と、自分の不運はセットなのだ。野末は、一〇年まえに天命を知り、個人については放棄した。自分で判断するのをやめ、弁護士のいうままに法的に問題がないのをよしと考えようと思った。法律家は、不可能な提案は決してしない。法律が無理をいわないのは、可能な範囲で処理するのが法だからだ。 「私のばあいには、できることが多くて、ほんとうに腹が立ちますよ。だから悪魔がよってきたわけですが。私は、いま申しあげた通りの人間なのです。いずれにしても、会社にかんしては、経営にタッチするかぎり、橋がみつけられればわたるつもりです」  野末は、眉間に皺をよせてしみじみと話した。気になる事件があったらすぐつたえることを約束させ、亮司に携帯の番号を登録させた。  山本享司は、歩んできた人生について考えている自分に気がつく機会が多くなっていた。  娘のことはいつでも気がかりだったし、怨念という言葉が脳裏からはなれなかった。  振りかえってあらためて考えてみると、人に自慢できる過去はなにももっていないと思いはじめた。現在が無意味なら、昔もおなじように意味がなかったのではないか。若いときには夢をもち、なにかが着々と進行していると感じた時期もあった気がする。よく考えなおしてみると、ぜんぶ嘘だったと分かりはじめた。そう自分にいい聞かせ、過去を正当化しようとしたのだ。すぎさった日々は、美しく輝かしいと思いこみ、みなそうとつとめただけではなかったのか。子供がうまれたときは、わけもなく嬉しかった記憶がある。そもそも、なぜ嬉々としていたのだろう。おそらく、自分の子供だったからではないのか。子弟を成長させるのに、この感情が必要だったのではないか。妻とは、子供を育てていたころは一心同体だった。彼女の痛みや悲しみを、自分の情動と分けて考えることができなかった。こうした子供や妻との一体感は、つぎの世代を養育するのに、遺伝子にえらばれた優秀な感情だったのではないか。現実にはべつの個体である以上、永劫につづくはずのない、不要になれば終了する幻想的な情緒だったのではないか。そうであるなら、死はみじめで、苦痛に満ちたものに違いない。  アフリカで狩りをしていた最中に、ライオンに襲われて重傷をおった宣教師の話を、亮司はなにかの本で読んだ記憶があった。彼は、肩に噛みつかれ、テリア犬が鼠をゆすぶるようにもてあそばれた。どんなことが起こっているのか、はっきり分かりながら、麻痺して、痛さも恐ろしさも感じなかったという。こうした平穏な感情は、食肉動物に食い殺されるあらゆる動物がもつのだろうと推論していた。死の苦しみを軽減する、神さまの慈悲ぶかい心づかいだと結論を述べていた。  高校、大学時代に親しんだ宗教書関連の知識だったが、亮司は本を読んだとき、キリスト教を布教する聖職者がライオン狩りをやること自体が、みょうだと感じた。  宣教師が述べた、絶命時に生じるらしい「無痛の恩寵」は、当時のイギリス社会で大きくとりあげられ、神の実在を示す証拠とされた。この報告によって、彼は「サー」の爵位をえた。考えはさらに発展し、いちじるしい進歩をとげた欧米人が野蛮なアフリカの人びとに文明の光をともし、彼らをみちびくことは、神の御心の顕現とされ、奨励され、実行された。  つまりこの話は、奴隷制度を推進する目的でつかわれた。  享司は、納得できなかった。遺伝子が死にゆく者に、なぜ恩寵をあたえるのだろうか。用ずみになって死すべき人が絶命するとき、「痛みや、怖れを感じない生物」がえらばれる理由があるのだろうか。どう考えても、不合理だと思った。人間は、思いっ切りの、苦痛、恐怖、悲嘆のなかで死ぬのではあるまいか。あるいは、なにも分からなくなって息絶えるのかも知れないが、それもたいして幸せなことではないだろう。  自分の過去はよかったといつでもくりかえすのは、アルツハイマーの初期症状ではないのだろうか。やりなおしも、ある時点にもどってべつの手立てを講じることもできないが、懸命に生きてきたのは事実で、それにかんしては承知している。もっとはっきりいえば、納得しようとつとめているだけだろう。ほんとうは承服できないから、そう思おうとするだけではないのか。  部長になりたいのは、いままで頑張ったはずの自分を、会社や家族からそうした肩書きという形で評価されたいのだろう。つよい人間でもないから、現状に疑念がうまれると人生、つまりつみあげてきた経歴にも自信がもてなくなる。  日本有数の大企業の社長にまでなった石毛康則が、正面視できない現実や過去とはなんなのだろうか。野末の話には突拍子もない部分があり、ぜんぶは理解できなかったが、興味ぶかいものだった。中年をすぎた男がもつ、ごく普通の疑念を話していたのかも知れない。  現実が思い通りのものでないのなら、せめて素晴らしい過去が欲しい。いまがどうであっても、その輝く思い出にすがって生きていたい。それが、石毛社長にもあったというのだろうか。なんのために、自分が頑張ってきたのか分からなくなる。ほんとうに努力したのかさえ、もう不明なのではあるまいか。  人生の分岐点、橋なんて存在したのだろうか。  あったとすれば、大学生のとき、あの浜にかかっていたのではないか。線路わきの断崖の小径は、異界に通じる架け橋ではなかったのか。橋をわたりかけたのに、自分はもどってきてしまったのではないか。それは、誠実でも真面目でもなく、ただ愚かなことではなかったのか。ほんとうの自分とは、なんなのだろうか。だいいちそこが橋だと、どうやって証明できるのだろうか。  亮司は、若いころたくさんの宗教書を読みあさっていた。どうしてだったのだろう。  ひとつには、母親が新興宗教に夢中になり、父がおくってくる生活費をどんどんつぎこむのを目のあたりにしたからだろう。その関係で、家にはたくさんの人が出入りしていた。母親も本部にいき、さまざまな意味不明な活動をしていた。  もちろん亮司も経典を読まされ、合宿に参加しなければならなかった。懺悔会は太鼓と銅鑼が鳴りひびく異様な雰囲気のなかでひらかれ、だれもが前方につくられた舞台にあがって、自分が過去に行ったひどい仕打ちを、ぼろぼろと涙を流しながらに大声で訴えていた。すべての人が肩をだきあい、みんなが手をとりあって泣きくずれていた。  亮司も壇上につれていかれ、おおぜいの人びとから懺悔を強要された。仕方がなかったから思いつくことをしゃべったが、涙はどうしてもでなかった。  あとで宗教書を読んでみると、こうした集団体験についてもかかれていた。  各個人が、同時におおぜいの人びと、他者を体験する。そこでたがいにむすびつき、みんなが多数とおなじになっていく。こうしたことにより卑小な自己が癒やされ、一体感がうまれる。この多数性には、一種の破滅性もふくまれると記載されていた。  レミングが大きな群になって、海にむかってすすんでいく光景が目に浮かんだ。  人は、二足歩行をするもっとまえの時代から、ずっと集団的な社会のなかで暮らしてきたのだろう。みんなが個人になったのは、一〇〇〇年の歴史があるかさえ分からない。 「山本さんの話を聞くと、シャツは間違いなく重大な意味をもつ、キーワードだと思います。それに、こわれて役目を終えた鍵よりも、巻いてつかわれたチェーンのほうが印象的です。巻きつけ、巻きこんだだけでは、ほどけてしまうという意味なのでしょうか。しっかりと、縛り、結ぶ必要があったのでしょうか」  亮司の脳裏に、野末の言葉がひらめいた。  彼は、ほんとうの宗教とはなんなのか知りたかった。若いころ、亮司は古今の宗教書を手あたり次第に読みあさった。そこに、さまざまな記述をみとめた。  英語の宗教(religion)は、ラテン語の結ぶ(religare)に由来する。修道士たちは、どの会派であっても、衣服に必ず結び目をつくっている。信仰心をたもつためには、放縦な生活を戒め、なんらかのものを縛り、結んでおかねばならない。古来、結び目は、信仰には欠かせないシンボルだと記されていた。  橋については、さまざまな宗教書に記載をみつけることができた。  このモチーフは、もともと虹に由来する。  雨があがり、空中に浮かぶある程度の大きさまでの塵が流される。そのあとで天上からあかるい光がさしてきて、大空に七色に輝く美しい虹が浮かびあがる。そこで人は、二点をつなぐ大自然のドラマをみることができる。二地点のあいだには、茫漠とした不明な空間が横たわり、そこにわたされた、ひとつのものだけが連続性をたもっている。ふたつの場所が幼年期と青年期なら、橋は思春期を意味する。過去と未来なら、現在を。もっと抽象的に来世と現世なら、橋は目も眩む山頂にわたされ、下には決して自力では這いあがれない深淵が横たわっている。  イスラム教の聖典、コーランでは、それは地獄のうえにかかり、研いだ刃さきのようにほそく、信仰を保持した者だけがこえることができる。  ゾロアスター教の経典、アヴェスタでは、チンワト橋という名称がつけられている。魂は、現世でつとめを果たすと自分自身のもとに、もどってこなければならない。最後にほんとうの自分に出会うためには、チンワト橋をわたらねばならない。それはたかい山頂にかかり、その麓は地獄の闇にしめられている。正しい行いをした者には、ひろい橋がみえる。そのさきには、美貌の乙女が待っている。彼女は、善行を施した結果美しくなった、ほんとうの自分だった。悪行をしてきた者たちの橋梁はほそく、行く手に立っているのは醜い老婆だという。  その橋のたもとで待っている魂は、ダエーナとよばれる。  いまから三〇〇〇年以上もまえの人たちは、自分自身をみつめ、ふかく思いをめぐらし、自分という者がひとりでは存在しえないことに気がついたのだろう。なにかを考えはじめると、あらゆるものは、際限もなく、どんどん要素に分かれていってしまう。だから、ふたたび融合され、統一されねば生きていけない。自分がなにかに帰属し、つながっているという感情をうしなえば、生は、とても怖い行為にかわるのだろう。  亮司は、生きていてもひとりなのだから、死ぬときはさらに孤独だろうと思った。  そんな最後の瞬間に、自分をいちばんよく知っている者に出会えるというのなら、かなり増しな死ではないか。すべてに見放され、たったひとりで死んでいくのは、寂しいし、きっと怖いだろうと思った。  大宮の店が揺れていて、なにかの予兆だといわれても、亮司には理解不可能なことだった。大宮店に副店長として赴任した二年まえ、彼はひどく落胆した。  同期で会社にのこった者のなかには、店長の辞令をうけた者たちがいた。つぎの人事が最後だから、亮司の出世は支店の最高責任者までと宣言されたのとおなじだった。懸命に努力したのに、会社は彼を評価してくれなかった。  翔香は、単身赴任を仕方がないと考えている。彼の努力が、その程度のものだったと評価していた。  亮司も、大宮店の伝説は聞いたことがあった。  五年まえ、副店長だった問田浩輝が、いきなり総務部長に昇進したのは社内でも有名だった。当時はさまざまな憶測が飛びかったが、前任は博多の店長になったから、伝説は問田の特殊な例だったと理解した。  野末の話を聞いた日の夜、寝ていると、とつぜんベッドにかけられた布団の端がもちあげられた。おどろいてみあげると、寝間着の翔香が立っていた。彼女は、「私が、いるじゃないの」といいながら、かたわらに潜りこんできた。  ひどく現実感のある夢で、享司はすっかり目覚めてしまった。  朝の四時だったが、三〇分して起きあがり、お茶を飲んだ。飛びおりた男がいった通りで、亮司の世代の人生は、卒業、就職、結婚、子育て、定年、それから介護と切れ目なくつづいている。区切りも不明につながっているのは、橋が存在しなかったということなのだろうか。  享司は、絵画の件をしらべてみようと思った。  邦子の案内状と絵の真意を知るべきで、異界があるのなら、入り口は銀座の画廊しか考えられなかった。おくられてきた葉書をさがしても、みつからなかった。新潟にいった妻の翔香が整理したのだろうか。  享司は、店に電話して休みをとって銀座にでかけた。  画廊では、べつの画家の個展がひらかれていた。受付で店主との面会を希望すると、先日、飲み物をだしてくれたスタイルのいい女性がでてきた。  素敵な女は、ふかい藍色のシックなワンピースを着て真珠のネックレスを首から垂らしていた。腰には、アクセントとしてほそい紐をゆるく巻いていた。落ちないように、左端には結び目がつくられていた。彼女は亮司を覚えていて、事務室に案内してソファーをすすめ、お茶を入れた。 「先日の個展のことで、向井さんについてうかがいたい件がありまして。住所と電話番号を教えていただきたくて」と亮司が切りだすと、マダムは話をはじめた。 「また、きてくれると思っていました。伝言しますかっておたずねしたら、不充分だってお顔をなさっていたでしょう。今度、お目にかかるときには、あなたのお話もうかがってみたいと思っていました」  やさしい表情で享司をみつめるマダムは、おだやかな口ぶりで品がよかった。周囲には、香水のいい匂いがただよっていた。亮司は、セクシーな薫りにくらくらした。感慨にふけりながら右手で頭をおさえると、女はつづけていった。  亮司がみていた海の絵は、邦子には直接聞くことができなかったが、マダムにとっても不思議だった。しげしげと鑑賞していたから、彼女をよく知る人なのだと思った。ひと言でいえば、あの絵画は邦子らしくなく、構図もタッチもかわっていた。彼女は、静物も肖像も、風景も描写するが、この主題の絵をみたのははじめてだった。 「向井先生は、海を描かない画家として業界では有名です。おっしゃらないので、理由はだれも知りません」  マダムは、話好きだった。  どこの世界にも好事家という者は、いるのだろう。  今回の個展に「向井の海」がでたとなれば、相応に考えてくれる人たちが存在して、世の中の均衡がとれている。タッチが違うから若いころの作品で、エーゲ海とは色が一致しないから邦子が学生時代をすごした小樽近郊からみた日本海だろうと勘案し、たしかめにいく趣味人がいる。充分な時間と金をつかって、だされたパズルを解く楽しみを知っている人たちで、余市のあたりから一駅ずつおりて、あらゆる角度で海の写真をとってみる。いちばんあやしい小樽から札幌までは、とくに念入りに何日もかけてくりかえす。そうした試みを評価してくれる人びとがあつまって、夜を徹する真剣な論議が行われる。  享司は、仕事をする必要もない大金持ちの男の小説を読んだ記憶があった。  主人公は、屋敷の床にしきつめる絨毯の配色に悩み、大きな海亀の甲羅に黄金製の服を着せ、フロアを歩かせることを思いついた。  おなじ人たちが、日本にもいる。時間がなければ話にならないが、お金をもっているだけでは手も足もでない世界があるらしい。彼らが話しあって、どこからみてもこの構図は不可能という結論がみちびかれる。それで絵画に値段をつけようと考え、三〇〇〇万という数字がでてくる。  不思議な絵だったが、奇妙で謎が多いだけで評判になったわけではないと、マダムはいった。それだけでは、三〇〇〇万はつかない。荒削りのなかに繊細な魅力が秘められている。すこしみただけでは気がつかないが、あの海を部屋に飾って、静かな秋のながい夜に、若いころを思いだしながら、天井から六〇度くらいの光を入れてながめれば、ときを忘れさせてくれるかも知れない。批評家のなかには、邦子の新境地という話もあったといった。  マダムは、亮司をよく覚えていた。  個展の最終日、邦子が知りあいの訃報をうけて弔問にでかけ、あとをまかされた彼女は四時に店をしめるつもりでいた。ところが、そのすこしまえに黒いネクタイをした男が入ってきた。すぐに帰るだろうとばかし思っていると、奥に飾られた海の絵のところで、ぱたりと歩みをやめると首をかしげ、ぼうぜんとしてソファーにすわった。しばらくして、また立ちあがって絵画のまえにいき、ひどく深刻な表情で溜め息をつきながら一時間以上も居すわっていた。その不思議な姿に、もうしめますといえなくなって、のこっていた職員みんなと話しあい、気がすんで帰るまで店をあけておこうという話になったのだった。  翌日マダムは、閉店間際にきた男が真剣な表情で海の絵を一時間以上もみつめて、ふかい物思いにしずんでいたと邦子に話し、記名帳をみせた。 「ああ、そう」とだけ答えた彼女に、釈然としない思いがのこっていた。 「連絡しましょうか」というマダムのさそいをことわって、亮司は住所と電話番号を教えてもらった。邦子が独り身であることも、そのとき知った。  向井邦子は、田園都市線の駅舎のちかくで画材具店を経営していた。銀座から電車で小一時間の駅から、歩いて五分くらいのところに画材店「アテネ」があった。想像したよりもずっと大きな店で、床からたかい天井まで画用紙から額縁にいたるさまざまな画材がおかれていた。  店員にたずねると案内するといわれ、階段をのぼったひろい空間につれていかれた。  そこはアトリエで、いたるところに石膏像がおかれていた。オレンジやキュウリがのったテーブルがあり、パネルやカルトンが散在し、描きかけの画布が立てられたいくつものイーゼルがならんでいた。すべてが雑然とした絵描きの仕事場だった。  薄暗い部屋をぬけ、屋上の一部がテラスになったあかるい場所にでると女性がいた。縁のひろい帽子をかぶり、足元までとどくながいスカートをはき、カンバスにむかって絵筆をふるっていた。  亮司がちかづくと振りかえった女性は、不思議な表情をした。  女は、しばらく彼をみつめていたが、とつぜん立ちあがった。 「亮司さん。亮ちゃんじゃない。まあ、なつかしい。よく、きてくれたわね。三〇年ぶりかしら、画廊のマダムに教えてもらったのね」  それは、二〇歳の邦子ではなかった。亮司がすすめられたむかいの椅子にすわると、彼女はつづけていった。 「背広をきた紳士が、あの絵をしげしげとながめていたってマダムから聞いたわ。あなたの名前をみつけたときは、嬉しかったわ。あの日は用があって会えなかったけれど、きてくれただけで幸せだったわ。マダムは、紳士の印象がとてもつよかったらしいわ。息も忘れてたとか、ひどいショックをうけたらしいとか、くりかえし話していたわ。マダムはゴシップ好きだから、私はなにもいわなかったけれど会いたいと思っていたのよ」  彼女がそう話し終わったときには、三〇年の歳月はどこかに吹き飛んでいた。目のまえにいるのは、やわらかな笑みをたたえた優雅な女性だった。忘れることのできない、五〇歳をすぎた素敵な邦子だった。  三階の部屋で紅茶を飲みながら世間話をしたあとで、亮司は聞いた。 「あの絵は、どういう意味なのですか」 「そうなのよね。分からなくて。こまったのよ。助けてもらいたいと考えたのよ。どう思う、あの絵」 「どうって、面食らってしまいました。あんな立派な画廊のなかで、邦子さんの素敵な絵にかこまれて、浮きあがっていました。ただただ、おどろいて」  しばらく考えて、邦子は「いっしょにきて」といって立ちあがった。  二階と三階とのあいだに背のひくい蔵がつくられ、そこには額つきの絵が入る、段ボール製の箱や布の袋が一面におかれていた。彼女が指さした奥には、段ボールにつつまれた三枚の絵画があった。  享司がかかえてアトリエにもどると、邦子は覆いをとり、イーゼルのうえに画布をならべた。それは、どれも彼女のお気に入りだった、エムの一二号にかかれた海の絵だった。 「これを、展示したのではないわ」 「そうですね。これは、邦子さんの絵です。好事家の垂涎の的ですね。三〇〇〇万だって、マダムがいっていましたよ」 「そう、すごいわね。売ってしまいたいわ。でも三枚あったら、三〇〇〇円にもならないわ」  そういうと邦子は、額に入ったべつの海の絵をもってきて、四台目の画架にのせた。 「問題は、これよね。だれの絵だと思う」 「邦子さん。なんなのですか。これは、ぼくのです」 「違うのよ」 「冗談はやめてください。これは、タッチもモチーフも、三〇年まえに描いて、あなたにおくったぼくの絵です。間違いありません」 「なんなのよ、これ。また分からなくなっちゃうわ。でもね、はっきりしているのは、これがあなたの作品ではないこと。なぜなら、亮ちゃんがくれた絵はこの世にはないから」 「どうしたのですか」 「すてたのよ、ずっと昔に。ごめんなさいね。感傷的になったことがあるのよ。そのとき、やきすてたのね。だから、あなたの絵ではないのよ」    邦子は、自分が描いた海もすててしまうつもりだったといった。  しかし、二度とモチーフにしないと決心し、記念としてのこした。亮司の絵をもやしたことをずっと後悔していた。ときどき、あの海の夢をみた。亮司の絵は、素晴らしい構図だった。青い海と空と、すべてがひとつになった充実した世界だった。なぜだか分からなかったが、邦子は大好きだったといった。 「邦子さんらしくもない、悪い冗談です」 「ふざけたのでは、ないのよ。どうしたらいいのか、すっかり分からなくなったのよ。それで、葉書をだしたよ。素敵な思い出だったから、だれの手にも触れられない場所にとり分けておきたかったけれど、連絡しないわけにはいかなかったの。あなたがこなければ、仕方がないと思ったわ。私は、問題を解決する努力はしたのだから。最終日の三時になって、あなたがこないと分かったとき、これでいいと思ったのよ。そう考えようと」 「ちょっと待ってください。そんなはずはありません。これは銀座の画廊のいちばん奥にかけられていた絵で、間違いなくぼくの描いた作品です。あなたが真似たのでも、だれかが模写したものでもありません」 「なぜ、そうだといえるの」  邦子は、聞いた。  絵は、なにを封じこめるのだろうか。画布のなかに真実をのこせるのだろうか。真理とはなんなのだろうか。瞬間のなかに煌めくひとつの現象なのだろうか。  亮司は、この構図の絵を何枚も描いたが、邦子におくった一枚だけはとくべつだった。のこりは、札幌をさるときにもやしてしまった。  まず左足のつまさきを地につけ、右足を半歩踏みだして体重をのせ、背筋を伸ばして真っすぐに立つ。右手を右の腰にあて、左の人差し指と、その手のひらでつかんだながい筆の尻の部分を額に押しあて、足元よりすこしさきの地面をじっとみつめる。あわい紫のスカートをはいて、肩と胸がはだけた空色のシャツを着て、真っ青なほそい紐をウエストに巻き、藍色のスカーフをターバンにする。やわらかい潮風が、まとわりついている。  享司は、邦子の姿を描いて、それから浜からみた海と空を上書きしたのだ。  絵が完成するとは、下書きがすこしずつ消えてなくなることで、彼女はゆっくりといなくなっていった。すべてが、空となり海にかわった。やがて風になり波に変化し、邦子はおもむろに消えていった。完全になくなってしまう。  そのとき、瞬間の真実が煌めいて青がのこった。  それは、彼女の腰に巻かれ、ゆるく締められたほそい紐だった。 「たぶん、もうあの浜にはいけないでしょう。いまの規制が厳しい時代、線路わきを歩くなんて許してはくれないでしょう。あの海、ぼくらの記憶で終わっているのです。だからこの構図はありえないのです。邦子さんの話は、理解できません。それに作品には、ぼくのサインが入っています」  山本享司は、二〇歳の青春のある日、邦子とふたりだけのあの浜で、この絵を描いた場面をなまなましいほど鮮明に思いだした。  銀座の画廊でとうとつに遭遇したときには思いだせなかったものだった。あそこで、幾度もくりかえしみつめて思いだそうとした。なにかが心にひっかかっていたが、画廊ではどうしても整理ができなかった。その情景は脳裏からはなれず、毎日考えつづけていたが分からず、もやもやとした思いだけがのこっていた。いま二〇歳のときの微妙に揺れた気持ちのすべてを、あざやかに思いだすことができた。  そこには、青い空と青白い海があった。  北国の秋の色がただよう、淡青にそまって輝く世界が目のまえに存在していた。その浜には、日に照らされて青く煌めく女神が降臨していた。  亮司は、二〇歳のとき、自分がもつ情念のすべてをこめて、目のまえで眩いほどに輝く邦子を描いていた。同時に、彼はくりかえし考え、充分に納得し、女神をとり巻く秋に気がつきはじめた青い世界を上書きしたのだ。  そのふたりは、どちらも間違いなく二〇歳の亮司だった。  向井邦子は、アテネの二階で絵画教室をひらいていた。教室といっても指導を目的としたものではなく、アトリエを自由に提供するだけだった。生徒は勝手にやってきて、好きなことをする。デッサンしたければ塑像はそろっているし、野菜をかってきて静物画を描いてもいい。彼女はおかれた画布をみて、希望されれば講評し、助言する。  ある日、邦子は不思議な海の絵をみつけた。彼女は、もう久しいこと海を主題に絵画を描いたことはない。その絵は、なつかしかった。  立ちどまりのぞきこんでいると、とつぜん明恵が振りかえった。 「素敵ね」  邦子は、あわてていった。 「どこの海なの」 「日本海かな」 「季節は、いつなの」 「たぶん、秋かな」 「そう。これは、秋の海なのね」 「たぶん」 「違うの。分からないの」 「季節は、初秋の気がします。でも、海が秋かどうかは分かりません。世界はすき通って、耳をすますと虫の声が聞こえてくる。光はまだつよく、さんさんとふり注いでいるけれど、大気は乾燥して清々しい。空の表情は、すこし冷たい。夏が終わったころだと思います。この海に、季節はないのかな。いつでもおなじで、ずっとかわらないのかも知れません。時計が、ここでとまっているのかな」  明恵は、右手を頭にそえて考えながらいった。 「そんな海、みたことがある。ずっと昔に。あなたはどこでみたの」  明恵は、すべてが嫌になって夏の終わりにひとり旅をした。  北海道にいき、小樽から普通列車で札幌にいった。車窓からみた日本海がとても印象的で不思議な既視感を覚えた。なつかしく思える景色に思わず列車からおりて、浜にむかって歩いてみた。ちかづくとひどく心がひかれ、もうすこしさきにいこうと思ったが、浜辺は終わっていた。  みえた光景は、空と海だけではなかった。その浜で、明恵が目にでき、感じられる、すべてが青かった。やわらかく頬をうつ風も、潮の匂いも、よせる波の音も、みんな青色から構成された青の世界だった。 「よかったわね。ずいぶん素敵な場所に辿りついたのね。それで、写真をとったの。それを、みて描いたの。それとも、だれかの作品を参考にして模写したの」 「絵を描くつもりはなかったのですが、アトリエにいるとあの浜が鮮明に浮かんでくるのです。ここには橋があって、あそこの海とつながっている気がします。こまかい部分がみえてくるのです。描くと、さらにディテールが分かってきます。ああ、こうなっているんだ。だから、この色をつかうのだと。先生は小樽の出身ですよね。以前にこの海を描いているなら、その絵をみせてもらえば、もっといろいろなことが分かる気がします」 「残念だったわ。描いたのはずっと昔のことで、それから何度も引っ越しをしたから、なくしてしまったわ。のこしていればみせてあげられたのに。なんていう題になるの」 「夏の終わりの風景、晩夏の海。いえ、初秋。それとも、海、世界は秋にそまりはじめて。かな」 「やっぱり、秋の海の景色なの」 「分かりません。この海に季節はないのだけれど、世界は夏が終わって錦秋にそまるころになり、やがて純白の雪の時代がやってくる。そんな感じがただよっている。でも海はおなじで、永遠に表情をかえない」 「もう、すっかり色が入ってみえるけど、まだ完成してはいないの」 「まだだと思います。もうすこし、ある気がします」 「分からないの」 「描いていると、だんだん鮮明になってくるのです。この海が、いったいなんなのか。どうして、秋の色がただよいはじめているのか。なぜ、私が描いているのか。描出しなければ、ならないのか。どうして自分が、私なのか。なぜ、うまれてきたのか」 「たいへんな作品ね。できたら教えて頂戴ね」  明恵は、その言葉に大きくうなずいた。  久しぶりの休日、昼ちかくに起きて新聞に目を通していると、妻の遙乃がお茶をもってやってきた。思い悩む様子をみて、石毛康則は聞いた。 「今度は、なにをしたのかね」  遙乃は、すこし目をそらし、しばらく考えていた。  康則は、彼女が長男の栄男を嫌うのは充分に知っていた。  一〇年以上もまえに、卒業して石毛電機に入社した彼を地方に赴任させたのも、遙乃のつよい希望だった。春に本社勤務にかわり東京にもどった栄男が、ちょくちょく顔をだしはじめると、また小言を聞くことになった。 「久しぶりのお休みで、くつろいでいるのに、私もやめたいのです。毎日おそくて、疲れて帰ってきたあなたを相手に、それから話なんてとてもできません」  遙乃は、思いつめた表情でいった。 「お聞き、いたしますよ」 「しじゅう、つげ口をするみたいで、私も我慢しているのです。今度は、明恵にまで変なことをやるんです。なにを考えているのか分からなくて。明恵も気持ちが悪いって、ずいぶんいって」 「なんなのだね、その話は。もうすこし具体的に話してくれないと分からないね」 「このあいだ、あの人がきて帰ったあとで明恵が自分の部屋にいってみると、箪笥があらされていたのです。下着がなくなっていて。気持ちが悪いんですよ」  康則は、何度かこんな話を聞いていた。以前だったら馬鹿ばかしいとしたところだったが、いまはそうもいえなかった。  栄男は先妻の子供で、将来は会社をつがせるつもりで愛情を注いで育ててきた。もともと祇園の芸子だった遙乃は、妖艶で美貌だった。長男が大学生のころは明恵と家族四人で暮らしていたが、女盛りの三〇歳の彼女は目の毒だったかも知れなかった。  だから遙乃の訴えのすべてを信じたわけではなく、実母のいない栄男を不憫に思う部分もあった。しかし一〇年会社で働かせてみると、聞こえてくる話には醜聞が多かった。 「あいつも、今年三四だ。結婚させなけりゃ仕方がないな」 「うちにくるのを、やめさせてもらいたいんです。明恵は、どこにいくにも部屋に鍵をかけています。あの人がくると、自室にこもっているのです。だれも相手にしないのに、なんのためにおとずれてくるのか分からないんです」  栄男がいっしょに住んでいたころ、たびかさなる事件で遙乃はノイローゼになった。  彼女がぽつぽつと語ったのは、聞くにも耐えない下卑た話で、当初は神経過敏だとばかり考えていたが事実はもっと深刻だった。  栄男の言動は、母や年長の女性にたいする慎みをあきらかに欠いていると思われた。 「礼儀なんて、ひとつもないのです」 「とっても失礼で、悲しくなります」  遙乃は、最後にいった。  成長するにつれ、明恵は彼女によく似てきた。  学生時代にいだいていた栄男の遙乃への思慕が、娘に転嫁したのだろうか。仮にも兄妹で、そんなことがあるのだろうかと康則は思った。  遙乃は、その年があけ、暦のうえでは春がくるころ事件に遭遇した。  定期的に通う料理学校からの帰路、何者かにつれさられ、暴行をうけたあと殺害された。計画的な犯行と考えられ、徹底的な捜査がされたが解決されていなかった。  明恵のまえには、ひとりの悪魔が立っていた。  すらりとした長身で、理知的でハンサムな男性は、髪をみじかくしていた。色白の品のよさそうな男は、落ちついた声で明恵にいった。 「おまえが、魔王をたおすために生をうけたのは知っている。でも、おれには手下がいるし、女ひとりではとても勝ち目がない。母親も食らってやった。今度は、おまえも餌食になるのだ。憎しみと苦しみだけがある不条理な世界は、おれがいるかぎりつづくのだ。生をうけたことを呪え。父親でさえ、おまえを助けられない真実を知れ。すべてをあきらめて、魔王のものになれ。おまえを温めてやれるのは、義理の兄、おれだけだ」  明恵は、うなされて目覚めた。 「あの人、もう家にこさせないでよ」  遙乃の死後、たびたび来宅する栄男に、明恵はいった。 「どうしたんだ」  涙をためている明恵をみて、康則はいった。 「不愉快よ。失礼で不潔」 「まあ、いろいろあるのだろうが、お母さんがいなくなったいま、腹違いといっても、たったひとりの兄妹じゃないか」 「母さんは、お父さんに話していないの。事件が起こるまえに大喧嘩したとき、あの人、私とは兄妹じゃないっていったそうよ。血なんか、つながっていないって」 「どういうことだ」 「母さん、ずいぶん悩んでいたわ。あの人は、祇園にいたことで、お母さんをまるで娼婦だったみたいにいうから。なにを考えているのか分からないけど、どういう意味なんだろうって」  康則が、先妻の君枝と弟の石毛文次が内縁関係にあることを知ったのは、別れて、三、四年たったころだった。男女の仲について、兄弟で話しあっても仕方がないと考えていた。ふたりが正式に入籍しないのは、康則にたいする配慮なのだろうと思った。しかし、よくよく考えてみると、文次と栄男は親密だった。 「東京にもどして、役員に昇進させたらどうか」と提案したのも弟だった。  栄男が実母の君枝としばしば会っているのは、耳にした。さまざまに考えだすと、文次夫婦と長男の三人は、親子みたいな関係だと思いあたった。  康則は、悩みつづけた。  過去のさまざまな出来事を思い起こすにつれ、疑惑は確信にかわっていった。しかし三〇年以上もまえの恥を、いまさらあきらかにしても無意味だった。康則は、明恵に事情を話し、死亡時には財産のすべてを彼女ひとりにゆずるという遺言状をつくった。  遺言をかいて三ヵ月もたたないうちに、悲劇が起こった。  石毛家の居間は、大きな吹きぬけになっていた。二階には、南にめんする玄関から中扉をあけて入った場所につくられた、通常よりひろい規格の直線の階段をあがる。のぼった踊り場は東で夫妻の寝室に、むかいの西がわが明恵の自室になっていた。双方の部屋のあいだは居間の吹きぬけにあたり、北がわに橋状の廊下がある。  深夜、酒に酔った康則が吹き通しにかかる橋から転落死した。  彼は睡眠薬を常用し、夜遅くまで飲酒するばあいが多く、摂取量も増えていた。血中のアルコール濃度は致死量にちかく、また呼吸器にものこり、誤飲があった事実も確認された。推定死亡時刻は深夜二時で、知りあいの家に宿泊し、朝、帰宅した明恵が遺体の第一発見者だった。  この絵を描いたのは、教室に通う二〇歳の女性だと邦子はいった。  ほんとうに綺麗な娘で、出会った男は、だれでも恋に落ちてしまう予感がする。邦子にも、そんな時代があったと思う。美貌で知性的で、お金持ちで、どこからみたって素晴らしいお嬢さんだが、幸せではない。絵が完成したといったので、貸してもらい個展にだしてみた。どうしても、理解ができなかった。四枚の絵はどれもマリンの一二号で、あの浜からみた石狩の海だった。構図はそっくりだが、邦子は海原を描いている。しかしこの絵の主題はとり巻く世界で、海は背景だった。だから娘は、季節は関係がないといったのだ。  亮司がくれた絵も、おなじように邦子の三枚の絵画とならべて、くりかえしくらべた。  彼の作品は、素敵だった。青がふかくて、微妙で複雑だった。どんなに混ぜあわせても、あんな色彩はだせないと思った。どうやったら、あの色になるのか分からなかった。邦子には描けなかったので、海は描かないことにした。この絵は、亮司がくれた作品に似ている。断言はできないが、そっくりだと思うと邦子はいった。 「これは、自分の絵だとしかいえません。間違いなく、ぼくが描いたものです。邦子さんのお話は、残念ですが信じられません」  邦子は、これを描写した娘と会いたいかと亮司に聞いた。彼がうなずくと、面会しないでは、いられないだろうといった。 「なぜ、描いたのか。直接、聞かなければならないわよね。いま電話してみるわ。ちかくに住んでいるの。このまえとつぜんお父さんが亡くなられて、あの日はやく帰ったのよ。もうすこしいれば、あなたと会えたのに。心細くしてると思って、一刻もはやくあの子に会いたかったのよ。画廊にいても、ずっと気になっていたから」 「どうしたの。知っている人なの」  海の絵の作者が石毛電機の社長令嬢だと知らされて、亮司は言葉をうしなっていた。  石毛明恵を直接は知らないが、彼は大宮店で働いている。石毛康則の葬儀で青山霊園にむかうときに、ぐうぜん時間ができて銀座の画廊に立ちよったことを邦子に話した。 「明恵ちゃんとは、不思議な縁なのよ。康則さんが亡くなった日、私の家にとまったのよ。あのとき帰せばよかったと、くりかえし悔やんでいるのよ。悪いことをしたって、ずっと思って」  その日、邦子の個展に明恵がきた。自分の絵が豪奢なギャラリーで立派な額に入り、飾られているのをみた。画廊の閉店後、邦子は彼女を食事にさそってお茶を飲んだ。  帰路、つれだって駅につくと、明恵は家に帰りたくないといいだした。  春に不幸な事件があったことを、邦子はよく知っていた。 「きてもいいけど、お父さんにはことわってね」と話すと明恵は電話をした。  それが、康則との最後の会話になった。  夜、お茶を飲みながら、邦子は、絵が完成してなにがはっきりしたのか聞いた。 「ぜんぶではないけれど、分かったことがある」  石毛明恵は、話しだした。 「私が描いたのは、あの浜からみえる海ではなく、邦子さんだった。あなたは、日の光を浴びて黄金に光っていた。輝きながら、ふかい悲しみにしずんでいた。なぜなら軍神であるあなたをもってしても、正義の戦いにたおれる私たちをすくえなかったから。私もふかい悲しみのなかにいて、青い世界に溶けこんでいく邦子さんを描いていた」  明恵は、なにかを思いだすような表情で、つづけた。 「そのとき石狩の浜には、大きな虹の橋がかかっていた。しかし、それは、あなたの輝きにまけ、外がわの暖色はとぼしく、内がわの寒色ばかりが目だった。北国の秋の世界は、ひとつずつがさまざまな青い小片から構成されていた。私は、あなたを不可視の橋梁にかえ、絵のなかに封じこめ、永遠の守護神にした。世界には魔王がいて、私たちが戦わねばならないことを邦子さんは知っていた。でも私は、大いなる存在の一部で孤独ではない。あの絵に最期までのこった腰に巻かれた青い紐は、それを示している。あなたは、私たちに、悪魔と戦う勇気をあたえた」 「だれなのかしら。私たちって」 「私は、ひとりではないのよ。この世に、味方がいるのよ。悪魔は、時間をかけて魔王に育ったのよ。とてもつよくて、ひとりでは勝てないけれど、私たちが力をあわせれば、打ち負かすことができるわ」 「怖そうな話ね」 「たくさんの恐ろしいことがあって、ひとつの真実がうまれる。いまはすべてが隠されているけれど、やがてあきらかになる。そうしたら、もっと順序立てて邦子さんに話せると思うわ。あなたが味方だって、分かったの。もうすこし待っていてね」  明恵は、額に手をつけて考えこみながらいった。  翌日、朝食をいっしょにとって家に帰った彼女は、冷たくなっている父親をみつけた。  邦子は明恵に電話をかけたが、携帯の電源は切られていた。 「一週間もまえから、ずっと不通なのよ」  心配でたまらないという表情で、彼女は口をひらいた。  ちかいというので、ふたりは明恵の家をたずねてみることにした。  五分くらい歩くと、たかい石塀にかこまれた瀟洒な二階だての邸宅がたっていた。大きな鉄の門扉から建物の玄関までは三〇メートル以上もあった。  邦子はインターフォンを押して、返答する男の声にいった。 「絵画教室のアテネです。石毛明恵さんから、おかりしているカンバスを、おかえしにうかがいました。明恵さんは、ご在宅ですか」 「留守にしています」 「お電話をかけてもつながらないのですが、どうやって連絡したらよろしいのでしょうか」 「遠い親戚のところにいっていますから、分かりません。おひきとりください」  インターフォンは切られ、庭に立つ男がみえた。 「帰りましょう」  邦子はつげて、ふたりはアテネにもどった。  自宅につくと、彼女は、「事件が起きている」と亮司にいった。石毛明恵には、大嫌いな腹違いの兄がひとりいるだけだ。頼れる親戚など、ありえないといった。 「庭で、男がみはっていたわね。二階の西がわ、明恵さんの部屋のカーテンが揺れていたわ。心配だわ、どうしましょう。ずっとみょうだと感じていたのよ」  亮司は、ちかごろ彼の身のうえに起きたすべての事件が、巧妙な経路で明恵につながっているのが分かった。どんな事情があっても、彼女に会わねばならないと思った。いままでの出来事すべてを語ることはとてもできなかったが、彼がこの件に会社としても関与していると話した。 「石毛電機の幹部は、社長の周辺でおかしな事件が起こりつつあるのに気がついています。明恵さんの安否を早急に確認します」  亮司は、邦子に約束した。野末に電話し、概略を説明した。  彼はすぐに反応した。一時間後、刑事をつれてアテネにやってきた。  亮司は、石毛家の様子をつたえ、邦子も明恵のことを話した。 「そうですか、いよいよ、ときがきましたか」  野末は、覚悟をした表情でいった。享司の話を全面的に信じているらしかった。 「令状がありませんので、強引に侵入することはできません。野末会長は、両親が相次いで亡くなられた石毛明恵さんの後見人として、面会をもとめているとしましょう。だれが、いっしょに住んでいるのでしょうか。雇用された者なら、ことわることなどできないはずです。どうしても駄目だというのなら、たしかにおかしいです。令状をとって、でなおしましょう」と刑事は話した。  四人で石毛の家にいった。秋も盛りのすみ切った爽やかな日で、都会の空は夕日にそまりはじめていた。  刑事は、石毛家のインターフォンを押した。 「先日の事故を担当している警察の者です。石毛明恵さんに、お会いしたいのですが」 「明恵はいない」と返答が聞こえた。 「どうやったら面会できますか。緊急の用件なのです。失礼ですが、あなたはどなたですか。明恵さんとは、どういうご関係ですか」 「私は、叔父だ。連絡をとってみますから、今日のところはおひきとりください」  「副社長の声だ」  野末は、刑事に代わった。 「副社長、野末吾郎です。明恵さんに用があって、お会いしたいのです。刑事もきています」 「明恵はいない。後日連絡する。今日は帰ってくれ」  インターフォンは、切られた。 「これは、おかしい。責任は、私がもちます。刑事さん、入りましょう」 「規則がありますから」  刑事は、躊躇した。 「仕方がありません。みていてくれればいいです。助けて欲しければ叫びますから、なんとかしてください」 「明恵さんの安否を確認しなくてはなりません。屋敷内の部屋の配置は、向井さんから聞きました。私がいきます」  亮司は、野末にいった。 「そうしてくれますか。あなたが鍵だと思っていました。山本さんだけが、この事件を解決できると信じていました」  野末は、大きくうなずきながらいった。 「君に、そんな権利はない」 「なぜですか。会わせない理由は、あなたにこそない」  玄関で石毛文次と野末が、押し問答をくりかえす声が聞こえた。  そのとき、亮司は文次のわきをすりぬけて室内に走った。 「そっちにいったぞ」  背後で男の声がした。  亮司は、玄関をぬけ階段をかけあがり、踊り場にでる。  そのとき、目のまえに橋がかかっているのがみえた。  ふと、森の匂いがした。  奥ぶかい、木々の息づかいだった。それが、橋のむこうから流れてきていた。その香りが、やわらかい風にのっていた。橋のむこうの扉がゆっくりとひらいて、さらにいい匂いがただよってくる。オレンジ色をした夕日がもれて、あけはなたれた戸から大量の西日があふれでていた。  そこから、暖かい南風とともに、芳しい緑の香りがはこばれてくる。ゆるやかな流れにのって、魂に吹きよせてくる。その大気を呼吸している。いい匂いにむかって歩いている。  橋にながい影がさし、それを目で追うと乙女がいた。  白く輝くスカートをはいた、すらりとした肢体がみえる。  大きく胸のはだけた銀色に煌めくシャツを着て、真っ白なほそい紐を腰に巻いている。露わな肩、金のブレスレットが光る白い腕、張り切った乳房がみえる。高貴なうまれの、美しい乙女がいた。  娘の驚愕の表情がみえ、彼女の叫びが聞こえた。  橋の真ん中で振りむくと、男がナイフをむけていた。  腹に激痛が走り、血が噴出していた。亮司は、男ともみあいになり、やがて相手が悲鳴をあげてたおれた。彼は、両手でナイフを握りしめていた。  橋の中央で、男が血を流してたおれていた。そのとき階段をかけあがる足音がして、皺だらけの老婆があらわれ、刺された男性をだきあげた。 「とつぜん、ものすごい力が襲ってきたんだ。それがおれのナイフをうばって、腹につき立てたんだ」  男のふるえた声が聞こえた。  亮司は、刃物をすてると、よたよたと歩きながら橋をわたった。  眩さに満ちた場所は、ふかい森の匂いがした。いままで嗅いだこともない木々のいい香りが、やわらかく暖かい南風にのってただよっていた。その匂いのするさきに、白く輝く美しい乙女がいた。橋をわたり切ったところで、亮司は力つきた。  目のまえの乙女は、彼の上体をやわらかな膝のうえにだきあげた。 「ああ、そうか。あの人も、こんな風にもみあいになって、相手を殺してしまったんだ」  亮司は、乙女をみつめていった。 「そうよ」 「そうだったんだ。あの人の娘さん、ぼくの娘と同い年。それに、君とも。ああ、もしかすると、殺された男。あなたのお母さんを」 「そうよ」 「大切に思う娘が、ひどい目にあったら、ぼくだって殺めてしまうかも知れない」 「そうね。でも、すこし違うのよ、肝心なところが。あの人には、三人の子供がいたけれど、うえのふたりは女だった。待ちに待ってうまれた三人目は、男の子だった」 「どういうこと」 「大切に育てられた男の子は、親孝行の素晴らしい青年になり、希望する大学にいった。そこに、悪魔があらわれた。魔王は、自分のやり方で子供を手下にした。あの男は、息子と懸命に話しあった。すっかりかわってしまったことを、幾度も嘆き悲しみながら。そうして話すうちに、殺人の事実を知ったのよ。口論に発展し、子供は刃物をもちだして親を脅かそうとした。ふたりはもみあいになり、あの人は、最愛の息子を刺し殺してしまった。安心して、彼は、あなたではない」  森の香りが、やわらかい風にのって流れてくる。  銀色に輝くシャツをきた乙女は、腕をつかって、自分のウエストに巻かれた純白のほそいクスティーを解いた。そして亮司の腰に三重に巻きつけ、三三個の結び目をつくった。  その女神は、高貴なうまれのはっきりとした乙女で、宝石をちりばめた黄金細工の王冠をかぶり、金色に輝く耳飾りと首飾りをつけていた。腰はひきしまり、胸は豊かで、色白の腕には豪華な金のブレスレットが光っていた。  亮司の目のまえに、張り切った乳房がみえた。  彼には、すべてが分かりはじめていた。  乙女は、耳元で囁く。 「あなたは、知らなかったわね。画布に下書きした邦子さんの姿が、嘆きのアテネ、だったということ。物思いにふける女神がながめる足元には、ひくい石づくりの記念碑が立っているのよ。そこには、オリエントの大国、アケメネス朝のペルシアとの戦いによって死んだ、都市国家、アテナイの人びとの氏名がほられている。兜をかぶったアテネの守り神、軍神アテネが、石碑にある名簿、神である彼女をもってしてもすくえなかった、たくさんの勇者たちの名前をみて、悲しみにしずむ姿だといわれているわ。でもあのとき、メドゥーサの盾を絵筆にもちかえた邦子さんは、武具ではなく、ターバンを巻いていた。だから軍神ではない、処女神アテネ。彼女が嘆いていたのは、戦死した人びとのことではない」  なつかしいが、夢みたいな昔の話だと彼は思った。  亮司は、乙女をじっとみつめた。 「海、秋がただよう。そう題した、あの絵。ほんとうの題は、海、秋の色がただよう、だよ。知っていたかい」 「ああ、そうだったわね。思いだしたわ、はっきりと」  乙女は、じっと亮司をみつめていった。  娘は、詩を口ずさむ。   私たちはひとつの織物。  ふたつの方向から、布はあまれていく。  あなたが担っているのは、横糸。  私が紡いでいるのは、縦糸。  あなたは、はかない現象。  私は、不滅の真理。  あなたは、あなたであることを知っているあなた。  私は、あなたをうみ、つつみこみ、帰っていく、  あなたが見知らない、もうひとつの、あなた。  あなたと私は、いまという一瞬のなかでめぐりあって、 百の世代。千の時代。万の年代をかけて、  混じりあい、くみあわさって、ひとつの文様をつくっていく。  あなたは、私の一部のあなた。  さようなら、私のなかのあなた。  詩が、流れている。あの浜辺で、邦子は日に照らされ黄金に輝いていた。  ちょうど、いま、夕日に立つあなたの姿。それは大伽藍の西構え、バラ窓の下に聳立し、落日を一身に浴びる堂々としたながい影、黄金に輝く君の容姿。  亮司は、乙女の胸に語りかける。 「君が綺麗であること。素晴らしい美貌に、私は満足する。なぜなら、君はぼくなのだから」 「そうよ、魂はひとつ。あなたが、私を美しくした」 「でも、ぼくはなにも思いだせない。ほんとうの自分が君だとしても、この世の私の過去や喜びとは、なんだったのだろう」 「あなたは、奥さんとすごした楽しい日々を忘れようと考えた。悔しくて、仕方がなかったのね」 「ぼくは、なにを望んでいたのだろう。妻も子供も、いったい私にとってなんだったのだろう」 「あなたの、すべてだったのよ。だから疑問をいだくと、ぜんぶをうしなったのよ。あなたは、懸命に生きてきた自分の過去が、すべて失敗だったと思いこんで、やりなおさなければならないと感じた。若い娘や素敵な女性は、現実には伴侶にできなかったから、時代をさかのぼり、邦子さんに辿りついた。そこに、ほんとうに別れ道があったのか、たしかめたいと思った。あなたは記憶を整理し、可能なかぎり主観を排して、客観的に振りかえった。そこで、邦子さんを描いている二〇歳の私に気がついた。二〇のあなたは、あのとき決断した。二〇歳の私が描いた自分の絵のうえに、北国の海と空にただよいはじめた秋の風景を上書きした。そして、かかっていた、あなたの橋をわたった。あの浜で私たちは別れて、あなたの人生がはじまった」 「君は、なんでも知っているんだ」  享司は、おどろいて呟いた。 「魂は、私たちの身体をのりついでいく。あなたの生涯は、瞬間のなかで煌めくひとつの現象。あなたは、立派に役目を終えた。だからもう、やりなおさなくてもいいのよ。いっしょにつぎの世界にいくことができる。あなたは、頑張ったのよ」  そのとき、あたり一面が大きな鐘の音につつまれた。  すんだ音色の天上の鐘が、たからかに鳴りひびくのが、幾度もいくども、くりかえし聞こえた。  そのなかで、亮司はふかい闇に落ちていった。  しかし、そんなに冷たくはなかった。  素晴らしい落下感につつまれながら、彼は落ちていった。  これでいいと、亮司は思った。                                      ダエーナ、一四七枚、了