海面下                                    由布木 秀  一  ある、初夏の日のことだった。  青い空に拡散するあわい雲をぬけて、爽やかといっていい朝の乾いた陽光が地上にさんさんとふり注いでいた。北大正門まえの交差点に立って、あざやかな赤い信号をながめていた藤木隆弘は、ふと背後に視線を感じて、じっと足元をみたまま瞳だけ右にむけると、道をわたってくる女の子供がみえた。年は一〇歳くらい。三年生か四年生、グレーのTシャツにながいおさげの髪。すべすべとした白い頬と輝いている黒い瞳。しわになった脳のページを、猛烈ないきおいで検索していく。少女の視線は、彼にむけられていた。あどけない笑みは、はじめてでかけた隣町で、休日には決まって顔をだす母親の弟に、バタリとでくわしたとき思わずもれてくる、安堵感に彩られていた。  あらたな気配を左に感じて、まえをむいたまま瞳だけを今度は左がわへうごかすと、ホテルの玄関をぬけてきた若い男女がみえた。おない年くらいの学生で、同級生か、なにかのクラブの先輩と後輩か。朝のビジネスホテルからつれだってでてきたふたりは、だれがみるのもおかまいなしに、なんの屈託もなく楽しそうに会話をしている。検索が、絶え間なくすすんでいる。信号が青にかわって踏みだそうとした刹那、右の袖をつかまれた。満面に笑みをたたえた少女が意味不明に立ち、じっと藤木の瞳をみつめていた。 「人違い」といおうとしたとき、黒い鞄をさげた右の手のひらに白い紙がはさまれているのを発見した。つぎの瞬間、横断歩道の反対がわに走っていく少女の後ろ姿がみえた。  藤木は真一文字に口をとじ、ここではなにも起こらなかった、そんな感じでゆっくりと車道をわたった。正門をぬけて歩きながらバッグを左の脇にかかえこみ、ふたつ折りになった小さなメモ用紙をひらいてみると、黒いボールペンで走り書きがあった。 「つけられている。構内に入ってまいてから。東邦イン、九二○」  紺のジーンズをはき、青色のポロシャツをきてグレーの野球帽をかぶった藤木は、おなじペースでゆっくりと歩いていた。しかし、さきほどまでとはすべてが違った。神経の束が一挙に立ちあがり、背中にあつまってざわざわしていた。直視できない後ろの些細な不自然な気配や、異質な物音を懸命に聞き分けようと試みていた。できるだけおなじ調子をたもって、ゆっくり歩こうとしていた。  男子学生が、くぼんだひろい緑の芝に寝そべり、ちかくを小川が瀬の音を立てながらながれている。老夫婦が、銅像のまえで記念写真をとっている。朝の大気につつまれ、みんながゆったりとくつろいでいる。藤木は必死に、一般人のうすい青色の、爽やかですんだ空間にまぎれこもうとしていた。しみだしてくるべとつく汗や、からみつく異臭をオブラートでつつみこもうと懸命に努力していた。  藤木は、レンガづくりの大きな建物につづく道をゆっくりと歩いたが、なんの気配も感じることができなかった。ファザードにある石のステップをあがって扉をあけると、目のまえに吹きぬけになった階段がみえた。石づくりの構内は、空気が湿り、ひんやりとして静かだった。  藤木は、振りかえることもなく石段をのぼり、二階につくと右にまがり、つきあたりを左にすすむ。ながい石の廊下は、自分の足音しか聞こえない。つきあたって左にまわり、裏の階段をつかって三階にのぼり、通路を真っすぐに歩いて正面玄関のうえの踊り場についた。そこで、はじめて後ろを振りかえった。  物音はしない、人の気配もない、吹きぬけになった階段にはだれもみえない。窓から外をながめても、ライトブルーの空間だけがあった。だれもいない場所で、しばらくじっとしていた。藤木はグレーの野球帽をとり、やや白いものがまじってきた髪をかきあげ、手の甲で汗をぬぐった。 「やっぱり、だれもいないじゃないか」  藤木は、左手ににぎりしめたうすい紙をもう一度みてみた。  筆跡に見覚えはなかった。  藤木は、才能について考えていた。  才は、象形文字で、ながれをせきとめる堰(せき)の材料を意味する。縦に三本の川をかき、左側面から楔を入れる。その縦線二本を省略すると、才の字になる。ながれの変化に、はっと気がついて、堰が認識される。川が干あがるか、よどんでいるなら、巨大な堰堤があっても才としては理解されない。また豊かな流量は、それをこえてしまう。堰にみあった適切なながれがあって、人は、能くはたらく才を、みつけることができる。  才能は、あくまで遺伝的にひきつがれ、環境の因子をえて開花する。それが評価されるには、時代の要望によりそわねばならない。さらに見栄えがするには、ある程度の大きさも必要になる。  超能力、つまり念動力、テレパシー、予知能力なども、たくさんの本にかかれているのだから、あるに違いない。しかし、こうした才能は、通常の意識のながれに比べ、小さいものなのではないか。水流がある範囲に限定されるばあいは堰としてみとめられるが、流量が多くなると隠されてしまう。だから再現性がひくく、万人に理解してはもらえない。  藤木の才能も、そうしたものだった。彼の不運は、普通はみんなが気にもとめない、相対的に小さな能力に気がついてしまったことだったのかも知れない。 藤木隆弘が才能を発見したのは、小学校一年生のときだった。  藤木は、父親を地獄の赤鬼として覚えていた。父は、彼が七歳のときに事故で死んでしまったから、この印象がかわることはなかった。酒を飲んで顔を真っ赤にした鬼は、額をテカテカさせながら母を虐めていた。じっさいに母親の頬を平手でうったのをみたことがあるから、つねに恐怖の対象だった。イメージとして、赤鬼は血まみれだった。涙をぼろぼろとこぼしながらあやまる母の姿は、ふかい印象となって彼の心にのこっていた。 「死んでしまえ。鬼は、地獄にもどればいい」とくりかえし思った。  父の弟は、親切な人で、いつも母をなぐさめていた。 「叔父さんが、ほんとうのお父さんなら、よかったのに」  母親とふたりの光景をみて、幾度も思った。  小学校に入学した年の夏、ある暑い夜、母は夕食の後片づけをしていた。居間でうとうとと眠ってしまった隆弘は、不思議な夢をみた。  たくさんの人が行き来する駅のホームに、鬼がいた。ひどく酔っ払った赤鬼は、酒瓶を片手にプラットホームにひかれた白線のうえにぼうぜんとしゃがみこみ、構内にくる列車をみていた。ぐうぜんちかくにいた隆弘が両手で鬼の背中を力いっぱいに押すと、バランスをくずしてレールに落ちていき、いきおいよく入ってきた車両が、猛烈な警笛を鳴らした。周囲の人が振りむいて、絶叫が聞こえた。  泣いている隆弘を母が起こし、「怖い夢でもみたのか」と聞いた。  彼は、母親にしがみつき泣きじゃくった。電話のベルが鳴って、母がでた。受話器をおくと、顔を真っ青にした母親が、「ひとりで寝て待っていてね」といった。  隆弘は、横になりながら、恐ろしい夢について考えていた。  その日、酒に酔った父はプラットホームから落ちて、列車にひかれて死んだ。転落時の目撃情報はとぼしく、故意につき落とされた可能性も否定できなかった。夢の内容については、母にも話していなかった。  父が死んで半年くらいたつと、叔父さんは母親といっしょに住みはじめた。  一年後に娘がうまれると母と再婚して、ほんとうにお父さんになった。妹は女の子だったから、両親にはとくべつに可愛がられた。  隆弘は、年が七つはなれていたから親密な感情がわかなかった。しかし、人から妹と似ているといわれ、混乱することもあった。  小学校の六年生のときだった。藤木隆弘には、エイ君という親友がいた。隆弘と彼のあいだには、秘密があった。担任の沢井先生がふたりの初恋の相手で、つよい思いをうちあけあった。たがいに張りあい、だれよりもふかく先生を思っていることを証明しようとした。恋敵でもあったエイ君が家にやってきて、帰った直後だった。 「タカも、ずいぶんませたことを考えているのだね」  母は、隆弘をじっとみて意味ありげな、ふくみ笑いをしていった。 とつぜんお腹が痛くなって、トイレでうんうんと唸っていたあいだに、ふたり切りになったエイ君がしゃべったのに違いなかった。あんなに秘密だといったのに、だれにも絶対にいわないと誓ったのに、彼は約束をやぶったのだ。 父が夜に帰ってきてくつろいだとき、隆弘をみて母がなにかを囁いた。母親は意味深に笑い、聞いた父親は、にやけていた。母が風呂に入ってふたりになると、父がいった。 「担任の女の先生は、さぞかし綺麗なんだろうな」  父親は、隆弘をからかっていた。  エイ君には、真面目に話したのに。父にこんな風に馬鹿にされるなんて、あの母に、嫌らしい笑いをなげかけられるなんて。心の底から信頼していたのに、エイ君はなんて卑劣な奴だったのだろう。あいつとは絶交しよう、もう二度と口をきくまい。彼は、ひと晩考えて学校にいった。  つぎの日の朝、三階の教室の窓から正門をみていると、ランドセルを背負ったエイ君が懸命に走ってくるのが目に入った。朝寝坊の彼は、いつでもぎりぎりに学校にやってきた。始業のチャイムはもうすぐで、必死の形相で走っているエイ君の顔が目に入った。あせる彼の後ろに、大きなバンがみえた。 「道路にでてしまえ。エイなんか、車にひかれればいい」  隆弘は思って、右手でエイ君を道路がわにつきとばす仕草をした。  そのとき、ふいに、彼はよろけて車道に入った。後ろから走ってきたバンが、目のまえで男の子をはねとばした。窓からみていた幾人かの級友が、大声をあげた。世界が悲鳴で満たされ、騒然となり、おおぜいの生徒が窓辺にあつまってきた。サイレンが聞こえ、救急車がやってきて、不安をかきたてる音をのこして去っていった。隆弘は、たくさんの級友とともに、ぼうぜんと様子をみていた。  ベルが鳴り、胸騒ぎのなかで自分の席につくと、いつもなら音とともに教室にころがりこんでくるエイ君はやってこなかった。彼の座席はあいたままで、がらんとしていた。始業が知らされても、先生は教室にあらわれず、小声で話す生徒たちの声が聞こえた。だれも、隆弘がエイ君の事故に関係するなんて知らないし、思いもしかったに違いなかった。  給食が終わると、午後の授業はなくなった。先生や、PTAのお母さんにつれられて、集団下校になった。  家に帰ると、母はもうこの出来事を知っていて、隆弘にいった。 「今日の事件は、残念なことだったね。落ちこんでいるのだろうけれど、タカはエイ君の分まで生きてあげなければね。いちばんの親友だったものね。エイ君は、いつでもほめていたよ。昨日も話してくれた。勉強してりっぱな大学をでて、一流の会社に入って、担任の先生みたいな教養のある人と素晴らしい家庭をつくりたい。そんな人生の目標をもつタカを尊敬するって、エイ君はいっていたよ」  高校時代、藤木隆弘は東横線で通学していた。三年生になった年の春に、祐天寺からのってくる女生徒に気がついた。渋谷までいっしょだったが、帰りの電車でも会うことがあった。きっと彼女も、藤木に気がついたに違いなかった。  清楚な制服に身をつつんだ、高校一年と思われる素晴らしい、ながい髪の女性は、化粧も不必要な、すべすべとした肌をしていた。理知的な美しい横顔で、車窓からうつりすぎる外の景色をいつもながめていた。どことなく寂しげで、ふかい物思いにしずみ、ぽつねんとひとりたたずむ姿は、どんな男もちかづけないと感じられた。高級住宅街に消えていく彼女は、金持ちの令嬢に違いなかった。  その年の夏休み、高校で補講をうけて帰る午後の二時をまわったころだった。冷房のよくきいた車内で一息ついて、ふとみると彼女がいた。しかしひとりではなく、若い男としたしげに話をしていた。背のたかいスマートな男性は、はでな紅い色のシャツをきて、こい黒のサングラスをかけていた。不良っぽくみえる男の腕に彼女はからみつき、頬はバラ色に輝き、嫌らしい媚びた口元をしていた。  そこにいたのは、清純な乙女ではなかった。  クレーの絵が、思い浮かんだ。知らないうちに娘が発散しているものは、深窓の令嬢がはなつ白銀色にきらめくオーラではなかった。白いハイヒールをはいた女のいちばんちかい部分は、こいピンク色の膜でつつまれていた。その外がわを、順に青色と黒色の層が覆い、最外層には鮮烈な赤色の殻があり、まわりの背景を補色の緑色に変化させる猛烈なフェロモンだった。娘は世界の中心にいて、周囲を不当にゆがめていた。そこには理性も美もなく、遠近をあいまいにして景色をかえ、自然の秩序を崩壊させていた。臭気を感じて、みなおしてみると、胸はふくらみ腰には脂肪がつき、娘は妖気につつまれていた。 「なんだ。この女も雌豚だったんだ」  男に夢中で、娘は、彼がいるのにも気がつかなかった。  藤木は、祐天寺でおりていくふたりの後ろ姿をみて、念じた。 「なんという堕落だろう。これほどの淫乱には、その罪に応じた罰が必要だ。殺されなければ、おさまりがつくまい。こらしめられるのは女だから、あの若い男が死ななければ」  その瞬間、以前ホームで人を殺してしまったことを思いだした。転落して電車にひかれる事故は、トラウマになっていて考えたくもなかった。たとえば空からなにかが落ちてきて、ぐうぜんにあたって死ぬのなら、まさに天罰とはいえないだろうか。そんなとてつもない状況は、自分の能力をはるかにこえているに違いなかった。 「そうだ。空からふってきた隕石にでもあたって、死んでしまうがいい」  藤木は、つよく願った。  下車したふたりをのこして扉がしまり、車両はうごきだした。彼は、念じつづけていた。  つぎの日の朝、藤木は新聞をみて仰天した。  三面に「白昼の悲劇」と題して、祐天寺駅で起こった死亡記事がのっていた。空からブーメラン状の金属片が落ちてきて、若い男の眉間につきささり即死した話だった。「原因は不明」とかかれていた。この奇妙な事件は週刊誌にもずいぶんとりあげられ、惨劇の現場にいた妹、水嶋羅姫(らき)の話がのっていた。 「だれかが、やったのです。ぐうぜんに空から金属片が落ちてきて、ちょうど眉間にあたるなんて信じられません。兄は才能の豊かな人で、するどい感性をもっていました。直前にいいはじめたのです。だれなのか分からないが、殺そうとする者がいる。つよい殺意を感じる、とくりかえし話していました。兄は、だれか、といったのです。かならず、犯人がいるはずです。みなさんで、さがしてください。だれも、なにもしてくれないのなら、ひとりででもみつけだします。私は、さがしものをみつけるのが得意なのです」  事件があってから、藤木は以前よりはやい時間に家をでて、おそい時刻に帰宅した。そうしたことにより、彼女には会わないですんだが、この出来事は彼につよい衝撃をあたえた。暗闇を怖れたし、夜にうなされるばあいが多くなった。  藤木は、二〇歳のとき大学を中退し、新興宗教団体に入って出家した。  光の国教団の教祖、グル、弥勒一(みろくはじめ)は、藤木隆弘に出会うといった。 「おまえには、とくべつな能力がある。それは、誇りにも、なぐさめにもならない。その才能は、かんぜんにネガティブなもので、一般の社会では無用で害悪しかうみださない。この教団のなかでなら、おまえの力はみとめられる。人は、評価される場所にいるべきものだ」  藤木は、彼の身に起こったさまざまな事件を弥勒に話した。精神科の医師でも聞いてくれないと思っていた奇妙な話を、グルは最後まで耳をかたむけた。 「ぼくは、人を殺してしまったらしいのです」  藤木は、いった。 「警察に追われているのか」 「ぼくがやったという証拠は、どこにもありません。だれかに、疑われたのでもないのです。自分で不審に思っているだけです」 「相手を憎んでいたのか」 「そのときには、憎悪していたと思います」  藤木は、うなずいた。  憎んだ相手が、考えどおりに死んだのなら、殺したに違いない。手をくださなくとも、殺しはできる。他人が気づいたかどうかで、事実はくつがえらない。それが藤木の能力なら、みとめねばならない。昔はあやまって罪を犯した者も、隠れて生きる場所があった。いまの情報化社会では、なんでもかんでもあばかれてしまう。人を抹殺するのは、生存の権利をうばうのだから許されることではないと弥勒はいった。  それから、考える素振りになってつづけた。 「おまえにだから真実を話すが、生命をうばうことが、すくいにつながるばあいもあるのだ。モーセですら、緑のマントにくるまった男が、若者を殺す真意を理解できなかったのだ。大罪を犯すのが決まっている者を、行為を起こすまえに殺害するなら、地獄に落ちるのをすくってやるのとかわらないのだ。教団で、そうしたことを手伝ったらどうだ」 「どんな話なのですか」と藤木は聞いた。 「モーセは、知っているか。エジプトで奴隷になっていたユダヤ人を、イスラエルまでつれもどしたとされる人物だ。キリスト教は、ヤコブがはじめ、モーセがひきつぎ、ユダヤ教徒だったパウロがひろめた宗教だ。この三人が出会った神はべつべつで、同一のエホバではなかった。しかし、それがキリスト教とよばれたのだ」 「出エジプトの話は、読みました。それが、どうしたのですか」 「モーセの我慢、を知っているか。あるとき彼は、最高の知恵をもっている緑の男と出会う。モーセは奥義を教えてもらいたいと思って、つきしたがおうとする。緑の男は、自分の行為をだまってみていられるならいいという。それで、ふたりは旅をする。緑の男は、みんながのる船の底に穴をあけ、通りかかっただけの若者を殺害する。モーセは、我慢できずに、文句をいう。緑の男は、なにも分かっていないと彼を馬鹿にする。最後に、モーセは真実を聞かされて、自分の無知に恥じ入るのだ」 「なにに、かいてあるのですか」 「コーランだ。そこは、洞窟なのだ」 「ぼくは、せまいところが苦手なのです。押しつぶされる気がしてきて。ひろくても、真っ暗な闇は怖いのです。無数の霊が、じっとみつめています。危害をくわえるつもりがないのは分かるのですが、彼らは私が起こした事件について、ひそひそと話しあっているのです」 「暗闇の霊というのは、おまえ自身だ。知るべきなのは、自分についてなのだ。闇のなかに、危害をくわえる狼や野犬がいないと、自分自身で分かっている。霊とは、認識していない、愛すべきおまえの一部なのだ」  グルは、藤木に教団へ入って処分を担当するようすすめた。  光の国教団は、弥勒一(みろくはじめ)こと、本名、小山田一郎が創始した宗教団体だった。教義は、密教を中心とする仏教にキリスト教などが混在している。グル、弥勒一は、竜華世界「光の国」を創出するために転輪聖王として降臨した弥勒菩薩であり、光革命はすでにはじまっている。いっこくもはやく世界が崩壊をはじめた事態を知り、ハルマゲドンに備えるべきだと説く。  紀元一〇〇〇年は、西欧では最後の審判の年と真面目に考えられ、人びとは不安と期待のなかで一年をおくった。だからあたらしい世紀がつつがなくやってくると、ヨーロッパの各地で教会はあたらしく立て替えられ、壁は白い装いにかわりはじめた。それが、ロマネスク様式だといわれる。  二〇〇〇年紀の終わりもノストラダムスの予言書がベストセラーになり、一九九九年に人類最後の年がくると騒がれた。しかし、紀元一〇〇〇年とは違って社会は高度に情報化されていたので、ひとにぎりの者たちをのぞいては、迷信にとらわれることはなかった。ミレニアムは、恐怖の対象ではなかったが、大きな期待にもならなかった。  わが国では、昭和のはじめに宗教家がアメリカとの衝突と、日本の破滅をとなえて大事件に発展した。当時、世界は経済恐慌のまっただなかだった。不安と混乱に覆われ、日本は、国際的に孤立をふかめ軍国主義にむかっていた。だから予言は、人の意識のながれをはげしくさえぎった。弥勒の時代は、日本の経済はバブル後の不良債権処理によって混乱していたが、第三次世界大戦が起こる状況でもなかったから、ぶっそうな予見でしかなかった。  グルは孤児で、血をながした状態で札幌市のある病院のまえにすてられていた、といわれる。外傷が原因と考えられるが、右目を失明していた。その折り、左目にも障害をうけ、どの程度の視力があるのか周囲の者には分からなかった。無類の女好きで、とくに美人に目がなかったから、まったくみえないとは思われなかった。さらに同時にうけた外傷が原因と考えられるが、左脚も不自由で跛行していた。背はひくくひどく太り、年は四〇歳くらいだが、頭髪はかなりうすく頂部は禿げていた。魅力にとむ容姿とはいえなかったが、精力は絶倫で、女信者を思いのままに手込めにし、妻のほかに多くの妾をもっていた。信徒には絶対的な禁欲をかかげていたから、教団内でうまれるのは全員、グルの子供だった。いうなれば、教団は弥勒のハーレムで、信者はすべて彼の奴隷にちかかった。 機動隊によって強制捜査された当初、警察はこの男が「迫害される聖人」としてあつかわれるのに細心の注意をはらい、さまざまな報道規制をしいたが、教祖の逮捕劇は無様だった。教団の聖堂、内陣にある棺を二重底につくりなおし、下がわの隠し部屋で、グルは大量の水と食料のほか、現金三億円にかこまれた状態で発見された。そのうえ、お気に入りの女信者の下着を、両手で何枚もにぎりしめていたから、捜査官もありのままに報道するのを、ためらったほどだった。  逮捕にひきつづいて行われた裁判では、いっそうみじめな姿をさらけだした。「教団が起こした事件は、自分とはまったく無関係」とするグルの主張は、つぎつぎとくつがえされた。裁判の進行につれあきらかになる、あまりにも非人道的、反社会的な行為が、すべて弥勒の指示だった事実が否定できなくなり、元信者が不利な証言をかさねるにおよび、裁判長の制止にもかかわらず、かつての部下に罵詈雑言をはきつづけた。その内容のほとんどは、信者のごくプライベートなことで、真実を知りたいと思う聴衆をうんざりとさせた。  一九九五年に逮捕されたグルは、裁判にさきだち、拘留中の教団幹部たちにむけて獄中からメッセージをだした。それによれば、九六年に奇跡が起こり、教団への不当な弾圧がとうとつに解除される。九七年にはじまるハルマゲドンが二〇〇一年にかけて日米間の最終戦争に発展する予言に変更はないから、信者は獄中で修行して耐えねばならないという指示だった。  世界が終了する日の直前に教団が弾圧されるのは、グルがくりかえし話していたから、信者たちはメッセージに息を飲んだ。弥勒がなにもかたらなかったので、真相の解明は遅々としてすすまなかった。それでも裁判は、ひとつの真実を暴きだした。  九六年に奇跡は起こらず、九七年にハルマゲドンも起きなかった。まったくあたらない予言と、同時につよまる元信者の転向に、怒りの限界をこえた弥勒は、失神をくりかえした。現実と妄想が正面衝突し、やがてグルは、わけの分からない独り言をぶつぶつと呟くだけの廃人になってしまった。  弥勒一が宗教指導者で大教団を組織し、思いのままに信者を支配したのは事実だった。逮捕後、一般社会のなかにおかれた弥勒がどんなぐあいだったにせよ、頂点に君臨したグルは、やはり能力者だった。彼は、よってくる信者たちの才能をみぬく力をもっていた。  一般社会のなかで藤木と似た悩みをかかえて苦しむ能力者たちは、弥勒に会ってみとめられることにより癒やされたと感じた。彼らは、自分の才能を充分に認識していないばあいが多かった。わけも分からずに、能力を怖れていた。世間のだれにも理解されない者たちは、悟りをもとめてグルのもとにやってきたのだった。彼らの才能は、相対的に小さく、再現性にとぼしく、充分には分からないものだった。  グルは、自分の能力に気がついていた。  目のまえに、なだらかな丘陵があった。  木の一本もはえていない土色をした丘は、とおくにいくつもみえた。気がつくと藤木自身も丘陵にいて、振りかえると後方にも小高い場所があって、あいだの平坦なところには、無数の穴(ピツト)があいていた。どのピットも円形をし、直径は二メートル以上で、平らな部分を累々としめていた。  藤木は、穴でとりかこまれ孤立していた。彼は、つぎの丘へいきたいと考えていた。そのためには、無数にとりまく穴の近傍を通らねばならなかった。そこには、恐ろしいピットワームがすんでいた。獲物がちかくを通ると、震動を感知して穴から立ちあがるワームは、貧毛綱の環状動物だった。ミミズに似た円筒状のほそながい生き物で、全長が一〇メートルもあった。  ひとつのピットからワームが天にむかってすくっと立ちあがると、地には影がうまれ、大気が震えた。震えを感知して四方八方からつぎつぎと起きあがり、ついには、みわたせるすべてはピットワームが林立し、ゆらりゆらりと揺れていた。膚色のぶよぶよとした生き物は、体表がじっとりと湿り、無数の男根が立ちならんで揺れうごく、不気味な光景をつくりだしていた。  ワームは、体躯をしならせ鞭にして、そばにいる藤木を力いっぱいにうつから、皮膚はさけ、骨はくだけた。激痛のなかで彼は必死に地面を這い、でてきたことを後悔しながら元の丘陵にもどっていった。しばらくじっとしていると、うけた傷は自然に癒えてきた。藤木は、どうやったら、むかいの丘陵にいけるのかと考えていた。  失敗と後悔をくりかえすうちに、ピットワームには顔があり、一匹ずつ違った表情をもっているのに気がついた。右がわのピットにすむのは、主に鬼の容貌をしていた。ホームにすわりこんだ酩酊した顔、声をあらげて罵倒する怒りの表情、母にあきれて失望した顔貌、むかってくる電車をみる恐怖の面持ち、それにふと幼い藤木をながめたときのやさしげで泣きそうな顔つきもあった。一方、左がわは羅姫の兄の容貌だった。彼女と手をつないだ幸せそうではなやいだ顔、命がねらわれると知った不安な表情、飛んでくる金属片をみる怪訝な顔貌、それが自分を目指していると分かったときの、恐怖にひきつった顔つきなどを見分けることができた。  さまざまな嫌な思い出が、この場所につまっているのだと、藤木は理解した。それが、むこうの丘陵に辿りつきたい理由だと分かった。意味を知って、いかねばならないと思うが、何度くりかえしても、藤木はワームの攻撃をかわすことができなかった。立ちむかうたびに、まともに鞭をあてられ、皮膚はさけ、腸までが断たれるのだった。  一匹のワームが立ちあがると、それに応じて無数の虫がつぎつぎに芋づる式に直立し、このながれはもう途中でとまることはなかった。はげしい攻撃をうける藤木は、いっそのこと命が絶たれればいいのだが、なぜか蘇生してしまうのだった。死ぬことができず、くりかえし苦しみを味わうために再生していた。どう考えても理不尽で、状況からぬけだすには、むかいの丘にいくしか手立てがないと分かってきた。この事実だけが不変だった。  傷が癒えた藤木は、細心の注意をはらって、そっと歩きだした。怖いが、ほかに方法がないので前進していった。すすむほどに、恐怖はさらにはげしくなった。気づかれて、もどる距離がながければ、いままで以上の攻撃をうけるに違いなかった。 「どうしようか」と思ったとき、穴のなかから声が聞こえた。 「ここまでだ。今日は終わりだ」  弥勒の声だった。怖じ怖じと藤木が穴をのぞきこむと、下にグルをみつけた。 「なにをしているのですか」 「おまえがワームを退治しろというから、やっている」 「どうやって始末するのですか」 「食ってしまうしかないだろう。しかし、ふるくてまずい。今日は、腹がいっぱいで苦しいから、これでお終いにする。おまえだって、こんな虫が存在しないことくらい分かっているのだろう。それでもでてくると感じるのは現実だから、根元から始末するしか仕方があるまい。相手が幻であっても、ぶつかれば皮膚はさけ、骨はくだけるに違いないのだからな。時間がたてば身体の傷は消えてしまうが、壊れた心はもどらない。表面ほど、かんたんにはつながらない。少々時間はかかるが、じょじょにみんな食ってやるから安心しろ。おまえは、おれのいった通りにすればいい。なにをやっても、自分で決めたことでなければ、行為から罪はうまれない」 「おまえは、あたえられたものを、処分すればいい。憎しみから犯せば殺人だが、憐れみから起こるなら救済なのだ」  藤木は、グルに服従することにした。悲惨な状態ではこばれてくる、弥勒にしたがわなかった者を楽にしてやるのが仕事だった。  やがて彼は、処分屋の藤木とよばれることになった。  二  水嶋羅姫(らき)は、東京のうまれだった。大手家電メーカーにつとめる父親の享司と、母親の香織、長兄の研との四人家族だった。  母は、羅姫の三つ年うえの兄を溺愛していた。家族で協議をしたうえで、研は北大に進学したのだが、意向をまったく無視された香織は、この裁定にふかく悲しんだ。落胆は、家人が予想していたよりずっと大きく、やがて彼女は鬱病になった。  香織は、美しい女性だった。娘の羅姫は、年の違いは歴然だったが、生き写しといえるほど母に似ていた。彼女は、進学校としても有名な女子校に通っていた。  入学した年の夏に北大から帰省した研は、祐天寺駅のホームで不可解な死をとげた。惨劇の現場に居あわせた羅姫は、ショックから駅にちかよれなくなり、通学は困難な状況にかわった。近隣の高校に転入したが、しだいに欠席しがちになっていった。天罰にも思える兄の死は、母の悲しみに追い打ちをかけた。夫と娘が研に北大進学をすすめたのが、この耐えがたい不幸の原因だといってふたりをはげしく責め、家庭のなかで争いがやむ日はなかった。  羅姫もまた、精神的にいちじるしく不安定になり、享司も安心して仕事をつづける状況ではなくなっていった。資産家だった彼は、しばらくして会社をやめ、家族の看護に力を注いだ。香織の鬱は、いっそうはげしくなり、一年後に首をつった。ふかく心をやんだ羅姫は、高校を卒業することもできなかった。享司は住み慣れた家を売却し、ふたりで都内の新築のマンションにうつりすんだ。羅姫は、学校にもいかず就職もしないまま、新居で父と暮らした。彼女が二四歳になったとき、享司はマンションの屋上から墜落して死亡した。捜査はされたが、原因は分からなかった。遺書はなく、自殺とも他殺とも断定できず、遺産にくわえて多額の保険金が彼女の手元にのこった。  享司が死んで一年たった、羅姫が二五歳のときだった。街を歩いていると、みょうな格好をした新興宗教の若者に声をかけられた。 「あなたには、悩みごとがありますね。グルは、かならず解決してくれます。だまされたと思って、一度会ってみませんか」  すこし汚れた白い道場着をまとい、黄色の羊の顔をした帽子をかぶった、羅姫とおない年くらいの女性は、真剣な表情でいった。 「悩みが分かるのですか」 「はい、グルの弥勒さまに不明なことはないのです」  女は、確信をもっていった。  羅姫も、名前は聞き覚えがあったが、いい評判とはとてもいえなかった。しかし、信者のすき通る瞳にみせられた。昔、自分もそんな目をしていたと思った。さまざまな手続きをへて、羅姫は弥勒に会った。 「君には、とくべつな能力がある」  グルは、最初にいった。 「兄を殺した者が、分かるのですか。私の家庭は、その人によって目茶苦茶に壊されたのです」  羅姫は家族に起こった悲劇を話し、グルは最後まで聞いた。 「相手を知って、どうするのか」 「復讐します。殺された兄とおなじに、眉間にブーメランをつきさして」 「なぜ、そんなにこだわるのか。復讐しても兄さんは生きかえらないし、君のほんとうの気持ちは相手を殺すこととは思われないが」 「私の本心が、分かるのですか」 「すべてとはいえないが、君の混乱した狂気と魔的な心がみえる。それは一般社会では、決してうけ入れられるものではない」 「そうですか。どうするかは、分かってから決めます。私はさがしものが得意で、なんでもみつけられるのに、この件はどうしてもはっきり識別できないのです。殺人者は、ちかくにいると思うのですが」 「そうだ。君には、さがしものをみつけだすとくべつな才能がある」 「私は、能力をもっています。昔から、欲しいものはなんでも、みつけることができたのです。あなただったの、兄を殺したのは」 「私ではない。嘘をついても仕方がない。みつけ上手なのはほんとうだが、私の協力なしに、この件は特定できない。君は、間違っていない。相手は、教団にいるだろう。時期がきたら教えよう」 「兄は、するどい直感をもった人で、殺される直前、くりかえしいっていました。だれかが、ねらっている。命をうばおうとしている。それは、天罰かも知れないと」 「天誅か」 「天罰なんて、存在するのでしょうか。天界が人間を罰するなどという事態が、起こるのでしょうか。兄がいった天とは、人のことではないのでしょうか」 「六凡四聖である。天界は、地獄から餓鬼、畜生、阿修羅とつづく六道の最上界ではあるが、迷いの世界にかわりはなく、人に罰をあたえられる場所ではない。善悪を判定でき、賞罰を決められるのは、第六天に住む私だけだ」  グルは、復讐のためにも、全財産をもって教団に出家することをすすめた。  ある日、藤木のもとにひとりの女性信者がやってきた。あのときの高校生、水嶋羅姫だった。 「グルから、あなたの部下になって事後処理を手伝えと命令されました」と羅姫はいった。  藤木は、ぶんぶんと首を振った。 「あなたのことは、知っています。一目で分かりました。あなたも覚えているでしょう」 「いや知らない」 「そうですか。とても懐かしい話です。私は高校時代、祐天寺から渋谷まで東横線で通学していました。あなたとは、そこでいっしょでした。覚えていなくてもかまいません。あなたは、教団ではずいぶんと偉いのですってね。みんなに怖れられる、処理庁の長官だと聞いています。どんなに残酷なことでも、眉ひとつうごかすことなしに実行してしまうのですってね。あなたは、ものすごくつよい心をもっているのね。教えてもらいたいのよ。人を殺すのは、どんな気持ちなのかを。私は、兄を殺害した者をさがしだしたいのよ」 「知ってどうするのか。復讐のために殺すのか」 「グルにも、おなじ質問をされたわ。私が、ただ殺したいとは思っていないのを、すぐに分かったみたいだったわ。いってみれば、さがしものがみつからないのよ。いままで、なんでもみつけてきたのに。理由が知りたいのよ。グルに協力してもらって、みつけることにしたのよ。さがしだしてから、どう料理するかは、あなたに話す必要もない」  羅姫は、藤木の部下として処理を手伝うことになった。彼には、どうしても納得がいかない点があった。 「なぜ、羅姫を部下に任じたのだろうか。グルは、おれから直接、話を聞いている。それに、なぜ、羅姫に手をださなかったのだろうか。彼女は、昔の純粋で無垢な女生徒ではない。さらに魅力を増した、成熟した女だ。無類の女好きで、しかも盲目でありながら面食いの聖者が、なぜ、彼女をおれの手にわたしたのだろうか」  一〇年ぶりに会った羅姫は、美しかった。彼は煩悶をくりかえしながら、彼女にひかれていった。  ある日、藤木は弥勒によびだされた。おおぜいの信者のすわるまえで、グルは聞いた。 「おまえ、羅姫と関係しているという話がもっぱらだが、ほんとうなのか」  グルは、ぶっきら棒にたずねた。しばらくして、「間違いありません」と藤木は神妙に答えた。 「やはりそうなったか。それで、どうするんだ、おまえ」 「なにを、でしょうか」 「おまえが、是非というのなら、教団では異例のことだが、このばあいは考えてもいいと思っている」  信じられない、グルの発言だった。だめだといわれ、したがわざるをえないと考えていた藤木は当惑した。いつもとは、あまりに違うグルの言葉に、周囲にはざわめきが起きた。しばらくして、藤木は恐る恐るいった。 「それならば、是非、考えていただきたい」 「おれは、今回の藤木のばあいはどちらでもいいと思っている。つまりだ。おまえ、コンテナに入って、二週間考えろ。頑張ってみろ。やり終えたら、おまえの好きにしていい」  藤木は、唾を飲みこみ、「とても、それは」と絶句して、じっと畳をみた。 「二週間。三日だって無理だ」と藤木は思った。  かびくさい、すすけた天井のすみに張った蜘蛛の巣でもながめていたのだろうか。みえるのかどうかさえ、分からなかった。いつもの無表情をたもったまま、グルは胡坐をかいていた。大きな腹で、紫の道場着がはち切れそうだった。グルが呟く独り言が、脈絡なくつらなっている。 「神」、「悪魔」、「あの世」、「この世」  ぶつぶつとくりかえされる言葉で、勝手放題に伸びた、顎と口のまわりのひげが揺れていた。グルは、意味不明な単語を、もそもそと反復したあとで顔をあげ、藤木を正面からみてひくい声でいった。 「やれ」  その言葉で、一瞬、あたりが「しん」となった。 「許してください」  広間に土下座したやせた藤木は、頭を床にこすりつけていた。額と鼻を通して、板の凍る冷たさを感じた。猛烈な風がふくなか、飛ばされまいとして、みんなで柱にしがみついている。藤木は、だれよりも必死になって大黒柱をしっかりつかんでいたのに、彼の場所だけに竜巻が起こり、柱ごともっていかれる。みんなは無事なのに、どうして。コップになみなみと注がれた酒が、表面張力で必死にこらえている。みんなでじっと我慢して、なんとかうまくいっていたのに。そこに、とつぜん予期もしない風がふいて均衡がやぶれ、滴がひとつこぼれ落ちる。それが、藤木だった。 「許してください」  ながれでる汗、とまらない震え、そのなかで彼は絶叫していた。 「堪忍してください。それだけは許して」 物音のとだえた道場のなかを、藤木の絶叫だけがひびきわたっていった。周囲にいた者は、だれもがなにもかたらなかった。  グルは、鬼気せまる藤木の懇願をながめていた。鼻の穴に指を入れ、ぬかれた鼻毛をじっとみた。 「白か」  そう呟いて顔を天井にむけ、中央に正座する青い幹部服をきた藤木をじっとみつめた。両がわをとりかこむ、四〇人ほどの白い道場着の出家者たちをみていった。 「仕方がない。手伝ってやれ」  藤木は、とつぜん立ちあがると、真後ろの出口にむかって走っていた。若い男の出家者が右足にからみついてきた。蹴って振りほどこうとすると、べつの信者が左手をつかんだ。右手で、その男の頬をぶちぬいた。つぎの瞬間、新手に左脚をくみつかれた。藤木はバランスをうしない、左の肩からたおれていった。さらに抗い、もがいていると、両腕を羽交い絞めにされた。藤木の身体は反転され、うえをむいた。天井がみえ、立ってじっと見下ろしている白い塊が目に入った。 「ああ、おまえ」といいかけたとき、大声がひびいた。 「いきます」  その瞬間、胃のあたりがやけ、空気の塊が食道をぬけて口からでてきた。そして、魂をこなごなにする音が、耳のちかくでかすかに聞こえた。  灼熱と凍結の地獄を二度くらいやりすごすと、生死をふくめ、すべてが闇に同化していった。自分という存在は、はるかかなたに追いやられ、ただただ怖い、真っ暗な世界のなかにいた。見覚えのある二〇人ちかくの男女が、ぼうっと藤木をみつめていた。ひとりひとりを、どう始末したのか、よく覚えていた。彼らはくりかえしあらわれ、藤木の心臓を鷲づかみにした。 「どうして、こいつらが、おれ自身なのだ」 「タカちゃん、大丈夫なの。もう半分はすぎたのよ。水は、ここだから」  羅姫の叫ぶ、甲高い声を聞いた気がした。 「とおくへ、いかなければ」  藤木は、はっとして目が覚めた。生暖かい風が頬をなでている。そうだ、逃げなくては。気がつくと、頭がガンガンと痛んだ。  みあげると三日月がでて、数え切れない星が天をうめつくし、輝いていた。ちかくに富士がそびえ、裾野を覆う樹木の影が目に入った。ふかくて厚い森は、海にみえた。 「逃げていたんだ」  藤木は、立ちあがって周囲をみまわした。犬のほえる声が背後に聞こえ、振りかえると、サーチライトの小さな光がいくつかみえた。彼はさきにすすもうとして、たおれた太い木につまずいて、バランスをくずし膝をついた。暗闇のなかで、ぶつかってころがり、したたか頭をうって気をうしなっていたらしい。触った手のひらについた血糊が、よわい月の光に照らしだされた。  迷う間はなかった。太い木をまたいで、彼はすすみはじめた。枯れ葉をちらす風の音が聞こえ、みあげると、大木にはみょうな形の葉がしげっていた。「ばしーん」という金属のぶつかる音声が、とつぜんひびいた。彼は生唾を飲みこみ、息をひそめた。脳神経が、五〇メートル四方に拡散する。鼓動の音が聞こえた。すすむ方向から、水のながれる音響が耳にとどき、葉を鳴らす、よわい風の物音がした。そのとき、「ばさ。ばさばさ」と猛烈な音がして、大木の黒い葉がいっせいにうごいた。周囲には、不気味なカラスの鳴き声がひびきわたった。藤木の心臓は、しぼりあげられていた。  べっとりとした汗が、額にしみでた。厚い落ち葉のなかで、藤木はかがみ、身をひそめた。風を冷たく感じた。さきほどは暖かかったはずだが、ふとみるとベージュのセーターをきていた。 「寒かったのか」  周囲に気配のないことを確認して、ゆっくりと歩きはじめる。カサコソいう、落ち葉の音がする。 「なにから、逃げているのだろう」  どこにすすもうとしているのか、分からない。すくなくとも、ここにいるのはまずいのだ。風が冷たい。冬なのか、まるで凍るみたいだ。ちらちらと光るものを感じ、手のひらをみると、眩めきながら舞っているのは雪だった。真冬の夜に、富士の裾野のふかい森のなかを逃げているらしい。月に照らしだされた世界は、侘しい影をつくる木々と、踏まれる枯れ葉の切ない音に満ちていた。 「ここまでくれば、大丈夫ではないか」  そんな思いが脳裏をよぎったとき、背後に気配を感じた。なにかが空を切って襲いかかってくる。彼は前方に飛んだ。 「がしゃーん」という、立木に固いものがぶつかる音がした。  振りかえると、月の光のなか、ひとりの信者が鉄パイプを振りまわしていた。白い道場着姿の大男で、ながい髪を後ろでしばっていた。  即座に起きあがって逃げていく。うすい月の光に照らされた森のなかを、息を切らせ、木の根や枯れ木に足をとられて、ころびながらすすむと、急に視界がひろがった。目のまえは崖になり、道がなく、振りかえると鉄パイプを振りかざした男が襲ってくる。  藤木は、むかってくる大男の足をめがけてすべりこんだ。鉄パイプが、振りおろされる。一瞬はやく、つまさきが膝をとらえ、男がころがった。立ちあがった藤木は、鉄パイプをつかむ右手を踏みつけた。ころがったパイプを手にし、男を力のかぎりなぐりつけた。何度もくりかえし、鉄パイプをうちおろした。どんなになぐっても、立ちあがってくる気がした。  はっと我にかえると、藤木は男の全身を鉄パイプでついていた。月の光に照らしだされた、たおした敵の姿をじっとみて、思わず武器を落とした。血まみれの死体には、顔面にも腕にも腹にも、いたるところにまるい輪がつき、肉がそげ落ちて血がながれていた。震えながらじっとみると、顔には見覚えがあった。藤木はうずくまって、さらにたおした敵をみつめた。  なんということか、たおれているのは小柄な年配の女性だった。  まえにもこの女を、おなじぐあいに殺した記憶があった。足がとどかない、ふかい水槽に入れ、部下たちとまわりをとりかこみ、縁に手をつけようとよってくるところを、藤木は竹竿のまるい先端でついた。女の肉がそげ、ながれる血で水が真っ赤にそまり、うごかなくなるまで、だまってつきつづけた。 「なんで、そんなことをしたのだろうか」 ぼうぜんと脳のしわをひらいていた藤木は、ふっと異変に気がついた。闇のなかに、べつのものがいた。人ではなく、ひとつでもなかった。死体の足元にころがった鉄パイプを手にしたとき、べつの人骨に気がついた。何度もみたことのある、頭蓋骨や骨盤、大腿骨が無造作にちらばっていた。 「やっぱり、骨は始末ができないんだ」と思った瞬間、気がついた。  藤木は、鼻から大きく息をすいこみ、生唾を飲んだ。なんだか分からない、数も不明なものにとりかこまれていた。日本に狼がいるわけがないが、追っ手の犬とも違う。静かに獲物をねらう気配からすると、血の臭いであつまってきた野犬なのだろうか。森に迷いこんだ人を、ここで食っているのか。  藤木が崖がわに一歩後退すると、距離をたもってその分だけよってくる。鉄パイプをしっかりとにぎり、もう一足ゆっくりとさがると、影もうごいた。犬の群れで、かなりの数で、腹をへらしていた。 五メートルとはなれていない場所で、犬たちは食事をはじめた。 「ごつん。ごん」と骨をかみくだく音が聞こえた。  六、七頭の野犬が、いま、手に入った餌を食べ、何頭かがその輪に入りこもうとし、小さな争いが起こった。ありつけなかったものたちは、自分たちにあたえられた獲物をねらい、包囲網はせばまっていた。  藤木は、いつしか崖の縁まで後退していた。風がふいて、月をさえぎる厚い雲がながれた瞬間、状況が分かり息を飲んだ。  十重二十重と、隙間なくとりかこむ野犬の群れがみえた。月にもう一度雲がかかろうとしたときに、均衡がやぶれた。群れの先頭にいた二頭が襲いかかってくるのがみえ、藤木はあとずさった。彼は、崖から落ちていった。うえから二頭の野犬が、のぞきこんだ。つぎの瞬間、一頭が崖を飛びおりていた。  藤木は、懸命に泳いでいた。崖の下には川がゆるやかにながれていた。対岸の河原に辿りついたときには、彼は全力をつかいはたし、ゴロゴロとした石のうえにたおれこんだ。みょうな気配に振りかえり、脳裏は真っ白になった。追ってきた犬が、いまにも岸に辿りつこうとしていた。彼は立ちあがると河原の大きな石を両手でつかみ、まさに岸辺にあがる野犬の頭上に思い切りぶちあてた。つぶれる感触が手につたわり、犬は二度三度と痙攣した。まえにも、こんなことをしたと思った。  三日月が照らす崖のうえには、じっと凝視する無数の瞳があり、藤木はへなへなと河原にすわりこんだ。身体が痛む、ひどい寒さを感じて我にかえった。雪もちらつく冬の河原で、藤木はずぶぬれの状態だった。彼はセーターと衣類をぬぎ、ぬれた下着をきつくしぼり、凍りつく風のなかで裸になって全身をふいた。もう一度つよくねじって肌着を身につけた。力いっぱいしぼった道場着とセーターを羽織ったが、状況は何ひとつかわらず、身体がいっそう冷えただけで、服には氷がつきはじめていた。  そのとき、闇に覆われたふかい森のなかに光をみつけた。じっとみつめると、かすかではあるが輝きがみえた気がした。  もしかしたら、家があり、人が住んでいるのかも知れない。あそこまでなら、辿りつけるのではないか。  藤木は、びゅーびゅーと、凍てつくはげしい地獄の寒風がふきすさぶなか、身にまとう衣服の表面から、じょじょに下着に、さらに体表までが氷になって固まってくるのをこらえながら歩みつづけた。  いったい、どのくらいの距離だったのだろうか。二〇〇メートルなのか、二キロメートルなのか、見当もつかなかった。  闇のなかの輝きが家らしいと分かり、さらに屋根からでる煙をみとめたとき、彼は駆けだした。精いっぱい駆けたつもりだったが、ちかづくには気のとおくなる時間が必要だった。ログハウスがあり、カーテンの窓から、わずかなあかりがもれていた。 「人がいる」と思い、扉をたたいた。こごえた手で、がちゃがちゃとノブをまわしたが、鍵が固くしまっていた。 「入れてください。お願いです」  藤木は、大声でくりかえし叫んだ。血の気がうせ、魂がまさに身体からひきずりだされようとした瞬間、扉はひらいた。あかるい部屋と白い腕。ピンクの服でドレスアップして、笑みをたたえた若い女性をみた。 「神さまだ。きっと、辿りついたんだ」  そう思った瞬間、藤木は意識をうしなった。  パチパチという薪がはぜる音がしていた。どこもかしこもが氷水に浸り、冷たいのをとっくに通りこし、全身をアイスピックでくりかえし刺される、はげしい痛みを感じた。頭から足の指先までかんぜんに凍りつき、歯茎ががちがちと音を立てて鳴りつづけていた。炎とともに、薪が真っ赤に燃えさかる暖炉のそばで、藤木は毛布にくるまっていた。身につけているのは乾いたあたらしい下着だったが、震えはひとときもやむことがなかった。毛布を首筋までひきずりあげ、膝を立て、手でかかえ、できるかぎり小さくなる。頭がはっきりしてきて、いままでのことをすこしずつ思いだした。 「ここは、どこなんだろう」  してきたことを考えれば、とても天国にはいけないだろう。こんな綺麗な、地獄があるのだろうか。 「おまえは、いま菩薩道にいる。来世は仏だ」  グルは、そういってくれた。数々の修羅場をわたってきて、阿鼻と叫喚のなかで血まみれの大海を泳ぎまわって、菩薩にむかっていたとは信じられない。仏になりたくて、グルに頼ったのでもない。ただ自分が恐ろしい者であることを知って、判断を人にゆだねるべきだと思っただけだった。 「気がつかれましたか」  甘い匂いをはこぶ、やわらかい風を感じた。すき通る声の女は、かすかな笑みを浮かべた、二三、四歳の美人で、たばねた髪に半袖のあわいピンクのドレスをきていた。 「は」、「い」  歯茎をがちがちさせながら、藤木は答えた。 「道に、迷われたのですね」と女は聞いた。 「みち」  なにかの比喩なのだろうか。迷ってここまできたのだろうか。 「まよ」、「い」、「ました」  藤木は、かすれた声でいった。 黒い髪、うすくひかれた蛾眉、形のいい鼻、白い項、それぞれが素敵で、しかも調和している。女は、真剣な表情で藤木をみつめながらいった。 「よく、ここまで辿りついたわね。あなたは、あの一〇〇メートルもある崖から飛びこんで、薄氷の張る川を補助具ももたずに泳いでわたり切ったのね。河原から二〇キロもはなれているのに、歩いてやってきたのね。かんぜんに凍った上下の服を身につけて、狼が襲う真っ暗な森を、ずっとひとりでやってきたのね。すごいわ。あなたは、いままでにみたこともない勇者だったのね。この森のふかさに、だれもたずねてきてくれないから、私はたったひとりで寂しかったわ」  ながい髪をたばねた美しい女は、藤木の首にかけられたロザリオを手にとりあげて、まじまじとみつめていった。 「あなたは、カソリック教徒なの。こんな素敵なロザリオ、うまれてはじめてみたわ。純金製の薔薇の花冠なんて、考えたこともなかったわ。きっと、家宝なのね。数珠とおなじで、これでお祈りをするのね。きっと、ご利益があるはずだわ。このペンダント。マダイの十字架、すごく神秘的ね。いちばん下の尖ったところが、あなたにすくいをあたえてくださるのね。きっと、マリアさまが助けてくれたのね。ひとりでは、ここにやってくるのは不可能だわ。あなた、もしかして、喉が渇いているのですか。暑すぎますか。なにか、冷たいものでも、おもちしますか」  盛んに燃える暖炉のまえで、きっちりと毛布にくるまり、身体は小刻みに震えていた。歯が鳴り、なめらかに言葉もでなかった。 「飲み」、「たいです」と藤木は答えた。 「アイスティーにしますか、それとも、ジンジャエールがいいかしら」  女は、はなやいだ声で聞いた。  喉はカラカラで、干からびて死ぬ寸前だと感じた。 「あた」、「っかい」、「もの」   藤木は、声をしぼりだした。 「あー、そうだったの」  女は、大きくうなずいていった。それから腕ぐみをして、思案をはじめた。  お湯が欲しいと藤木は思った。すこしぬるいくらいでいい。 「暖かいものを用意しましょう。なににしましょうか」  それならスープがいい。湯気のでている熱いポタージュが、藤木は思った。  女は、首をかしげて思案していたが、やがていった。 「紅茶がいい。それともコーヒーかしら」  その言葉に、藤木はすこしがっかりした。もう、どちらでもいい。お湯で充分だ。なんでもいい。女は、答えを待って、じっとだまって立っていた。 「こー」、「ひー」  藤木は、うめいた。 「そうか、コーヒーだったのね。アイスではなくって、ホットで。それがご希望だったのね」と女は聞いた。  お湯でいい。そう思いながら、藤木は気力を振りしぼり、「ホット」と答えた。 「分かったわ」  女は、大きくうなずいた。それから、最高においしいものを、入れてあげるといった。 彼女は、藤木に質問をはじめた。  豆は、なにが好みかと聞いた。コロンビアか、モカか、キリマンジャロか。ブルーマウンティンもあるが、すこし俗っぽい。力強いグァテマラは、どうかと聞いた。そして、藤木の答えをじっと待っていた。彼がグァテマラとうめくと、女は賛成し、その豆の特徴について解説した。ながい説明が終わると、ミルクをどうするのかと聞いた。  藤木が欲しいと答えると、彼女は、あきらかに失望した。  挽きたてのグァテマラに、心をこめて落とす薫りたかいコーヒーに、ミルクを入れて飲むのかと呟いた。彼が、どちらでもいいと、うめくと、それはおかしいと女はいった。藤木があやまると、責めるつもりはないとつげた。  彼女は、溜め息をつき、ミルクを入れるところからまた話をはじめた。  藤木は、よく分かった。  彼女が天使ではなく、ここが天国でもないのを。  これからえんえんと、この問答がつづくのを。  きっと彼女は、慎ましく、ていねいに、そして優雅にたずねつづける。決して急ぐことなど、しないだろう。つかうミルクの種類や量、それに銘柄もあるかも知れない。さらに、砂糖のタイプにグラム。入れる方法や、タイミング。もしかしたら、容器の文様、カップと皿の絵柄の色ばかりではなく、花の形態や、暖めかたまで。もしも、勝手に問いに答えなかったら、女の厚意を無にしたら、なにが待っているのか分からないことを。  気のとおくなるながい問答が終わり、彼女は、指を折りながらひとつひとつ確認して、にこやかにほほ笑んだ。それは、素晴らしい笑顔だった。 「では、いまから大急ぎでつくって、おもちしますわ」  女は、そうつげ、ゆっくりと去っていった。  女が階段をおりる音が聞こえると、藤木は周囲をみまわした。あたらしい白い壁、あかるい光、すべてが整理され、ひろびろとして清潔で塵ひとつない部屋だった。ソファーからすこしはなれた窓際の花瓶に、白百合の生花がさしてあるのに気がついた。彼は立ちあがり、それをとって振ると、なかに水分が入っていた。彼女の消えていった場所に人影がないのを確認し、百合の茎を押さえながら水を飲んだ。どのくらいの量だったのか、一度口にすると、自分でもおどろくほど喉が渇いているのが分かり、結局、すべてを飲み干してしまった。  ソファーにもどり、暖炉のまえにすわりなおすと、震えはすっかりおさまっていた。気がつくと炉の火は燃えさかり、暖房もつよすぎるほどにきいていた。半袖の女が、「アイスか」とたずねた理由も分かる気がした。  彼女は、すぐにはもどってはこないだろう。  地下二階の倉庫までいって、たかい天井まで壁一面にならぶコーヒー豆の容器のなかからグァテマラをみつけだし、部屋のすみにおかれた梯子をはこんできて、目指す場所まであがっていく。確認した瓶を両手でつかんで、注意ぶかくおりると、必要なだけの豆を取り分け、しっかりと蓋をしなおしてラダーをのぼり、元の位置に容れ物をかえす。最後がいちばん危ないと、小さい声でくりかえしながら慎重に階段をおり、決められた場所に梯子をもどす。それから、暖かい部屋にながれるシャンソンにミラボー橋を思い浮かべながら、グァテマラの香りにつつまれ、ゆっくりと豆をひく。手びきのミルは、金属臭もしないセラミック製で、わいたお湯が適度に冷めるまで待ち、時間をかけ、心をこめて、ていねいにドリップをたらすに違いない。  しかし、彼女は天使ではない。この厚いカーテンをあけてみれば、はっきりする。  そう思って、藤木はかけられた覆いをひいた。外は真っ暗な闇がつづき、窓には無数の目が張りつき、ぎらぎらと光りながら彼をみつめていた。とりかこむのは異形の者たちで、すくなくともここが天国でないことだけは、はっきりしていた。  階段をおりて二階の地下室にいけば、ドリップを入れる、彼女の優美な後ろ姿をみられるだろう。しかし、ひと声かけたときに振りかえった女は、出刃包丁を振りかざす醜悪な老婆なのだ。どんなに美しくみえても、魔物に違いなかった。  藤木は、彼女がおりた階段と反対の方向に、せまい通路と、さきにある扉をみつけた。暖炉脇にほしてあった乾いた服を身にまとうと、出口をあけて部屋をでた。  富士の裾野にあった教団施設には、数棟の巨大な道場が立てられ、いちばん北がわの端にコンテナが一個、ぽつねんとおかれていた。木製の柱が地面より二メートルたかくにくまれ、高床式になった鉄製の容器の入り口には、幅のひろいコンクリート製の階段がついていた。コンテナの底には、拳大の穴がふたつつくられていた。食料をあたえる穴隙は、二段構造でペットボトルと、にぎり飯がおける棚があった。反対側のすみに、排便用の穴が備えられていた。  季節は、秋のはじめだった。それでも日がのぼれば、金属製のコンテナ内は容易に三〇度をこえた。さらに夜、太陽がしずむと室内は氷点下になった。 「まる二日、飲み物が手つかずのままです」  羅姫は、グルにいった。 「どうするほうがいいと思うか。外にはこびだすか。まだ三日のこっているが、もう死んでしまったかも知れない」  グルは、羅姫に聞いた。 「コンテナは、洞窟だって話していましたよね。そこで、真実があきらかになると」 「そうだ。地中海とアラビア海が、ひとつにむすばれる場所だ。そこには、宝がつまっている。モーセは、そこで最高の英知をみつけた」 「それなら、だしてください。コンテナは、人が変容する場所なのですね。あのなかで、七日以上すごした者はいません。彼は、もう英雄です。助けてみたいと思います」  羅姫は、いった。 「それなら、だしてやれ」とグルは答えた。  冷たくなり、ほとんど息がない状態でコンテナからはこびだされた藤木は、道場内で看護をうけた。  羅姫は、ずっとつきそって彼を励ましたが、全快するには二ヵ月ちかくかかった。  機動隊が教団捜索に入ってくると分かった、まえの週だった。  藤木と羅姫はグルによばれ、五〇〇万円ずつを手渡され、協力して逃げつづけろという指示をあたえられた。 「予言した通り、光革命が成就する直前に、教団は不当な弾圧をうけつぶされる。これは、回避できない運命なのだ。この世はあまりに汚れすぎ、これ以上の浄化はできない。私は、だれにもみつけられない場所に消えることにした。普通の人びとには分からないが、この世には、いたるところに次元の裂け目が存在する。私は、違う世界にいき、そこであらたな教団をひきい、ハルマゲドンが終わるころ、ここにもどってくる。それまでふたりは、なんとしても逃げつづけ、洞窟に辿りつき、不死なる者に変容するのだ。あとのことは、ドクターに指示してある」  通称ドクター、本名、沢村忠一は、東大出の医者で、教団の診療所を運営していた。  彼はまだ四〇歳まえだったが、ひどくやつれた表情をしていた。藤木と羅姫は、ドクターが手をくだした者たちの事後処理を担当していたのだった。  グルの指示をうけた沢村は、ふたりを軽井沢の別荘につれていき、整形手術をほどこした。  そこには、大量の水と食料がたくわえられていた。傷創が落ちつくまでの一ヵ月、テレビの映像を通して教団のニュースがぞくぞくと入ってきた。教祖は無様につかまり、幹部も軒並み逮捕され、世の中は騒然となっていた。教団の秘密が露見し、大量の殺人と反社会的行為の数々があばかれていった。 「君たちは、ふたりで協力して逃げろ。理由は分からないが、それがグルの指示だった。私はひとりで逃げる。ここにも捜索の手が入ってくるに違いない。傷もなおったから、でていったほうがいい。元気でな。また、どこかで会えるといいな」  それが、ドクターとの最後の会話だった。沢村は数年間逃げつづけていたが、一〇年まえに、仮住まいの部屋で縊死しているのが発見された。この事件は、元教団幹部の自殺として大きく報道されたが、教団とつながりがあった藤木と羅姫には、すこし違った噂が耳に入った。ふたりは相談し、別れて逃げることにした。  交番には相もかわらぬ、バツ印のない手配書が張られていた。しかし、ふたりはまったく似ていなかった。目元も鼻筋もすっかり整形され、だれもおなじ人間だとは思えないだろう。藤木は、眼鏡をかけ、口ひげをはやし、坊主だった髪もながく伸ばして別人になって逃げていた。羅姫はどうしているのだろう、と彼は思った。  チャイムの音がドアごしに聞こえたが、扉のむこうに人の気配はなかった。来訪を待つ者が気がつかないはずはありえないので、押すのは一度でやめてもどってくると、エレベーターホールの自動販売機のまえに、若い女がいた。黒い髪のグラマーな長身の女性で無防備だったが、藤木は一見して、飛んでもない怪物だと理解した。  下方にむかうボタンを押して、エレベーターの扉をまえにしながら、頭はフル回転していた。絶対に会ったことがあった。それだけは、はっきりしていた。分からない。どこだったか、いつだったか、だれだったか。 「このままでは、すむはずがない」と思ったとき、背後から「うまく、まいたみたいね」という女の声がひびいた。藤木は、なにも聞こえなかった素振りで、じっとしていた。全身の神経を逆立たせ、身構えていたが、女は、騒ぎを起こす気持ちはないらしかった。意図は、さっぱり分からなかった。 「手短に話をしましょう。やっぱり、部屋のほうがいいわね」  そういって、女はゆうぜんと廊下を歩いていった。  藤木がどんなことをしてきたか、知って声をかけてきたはずなのに、なにも怖れていないらしかった。五〇歳をすぎた彼は、どうどうとした若い女姓の後ろ姿をみて立ちすくんだ。 「こいつひとりなら、なんとかなる」と藤木は思った。  青い地に大きな白い水玉模様のついたワンピースをきた女は、「九二〇」とかかれた扉にカードキーをさしこみ、なかへ入った。  ツインの部屋で、テーブルが窓がわにおかれ、椅子が二脚あった。  女は、藤木に奥のソファーを指さした。備えつけの冷蔵庫からコーラをとりだし、紙につつまれたまま棚におかれていたグラスをもってきた。彼の目のまえで缶をあけ、コップの包装紙をとりはらってそれを注いだ。 「どちらがいい」と女は聞いた。  藤木がすこし考えたあとで、だまったまま右のグラスをしっかりとつかむと、彼女は左のコップをとって、うまそうにコーラを飲んだ。 「馬鹿にしやがって」  女が浮かべた小さな笑みに、藤木は思った。 「一〇〇〇万を用意しなさい」  女は、とつぜんいった。  藤木は、じっと女をみつめた。 「なんのために。いったい君は、おれのなにを知っているんだ」  藤木は、眉間にしわをよせながら、かすれた声でいった。 「なんにも。知りたいとも、思っていないわ。分かっているのは、ひとつだけ。あんたは、くたくたに疲れ、もうどうでもいいと思っている。それで充分なのでしょう。あなたの、すべてをかたるのに」  藤木は、生唾を飲みこんだ。コーラを口にふくむと、渇いた喉に炭酸がしみわたっていった。 「一〇〇〇万なんて、とてもできない。一〇〇万だって無理だ」  静かな、スパークする、みじかくてながい時間がたったあとで、藤木は、女をじっとみつめていった。 「そうでしょうね。でも、あんたはもってくるわ。二週間以内につくって連絡しなさい。それで、ひとつのことだけを正確に答えるのよ。どうやって、手に入れたか。私は、裏をとるわ。それが裏づけられ、あんたが始末を希望して、一〇〇〇万をげんにもっているのが確認できれば、仕事にかかるわ」  女は、そういうと、携帯の番号がかかれた小さな紙をわたした。この申し出が一度かぎりで、話とひとつでも違うことが起きれば、チャンスは二度とはないとつけくわえた。 「どう、始末をつけるんだ。いう通りに一〇〇〇万をもってくると、目立たずに、楽に殺してくれるというわけなのか」 「手荒な仕事は、嫌いなのよ。聞いたことが、あるでしょう。どこかで。こういう仕事が、あるって。あなたが望むところに、つれていってあげるだけよ」 「とても、一〇〇〇万なんて無理だ」  唇を固くとじ、思案した藤木がいうと、 「それじゃ仕方ないわね。こちらは、ただの好意なんだから」と女はぶっきら棒に答えた。  藤木は、すべてが分からなかった。しばらくして、 「あの子供は、なんなんだ」と聞いた。 「女の子だから育てたのよ」 「男だったら、殺したんだな」  女はだまって、レースのカーテンごしに外をながめていた。 「もういいわね」と彼女はいった。 「分かった。ひとつだけ教えてくれ。どうして、おれが希望していると思った」 「私は、プロよ。説明したって仕方がないわ。ほかは、いいのね。もう、質問はないのね。これで話はすべてで、お終いね」  女は、そういうと席を立ち、そのまま去っていった。  部屋にのこされた藤木は、ひとりで考えていた。 「始末屋だったんだ」  三  都市伝説かと思われる始末屋の話を、藤木はこれまでに何度も聞いたことがあった。  どんな難問でも解決してしまう、世界最高峰の日本警察が本気で捜索して、逮捕できない犯人なんているのだろうか。どの交番にも手配書が張られ、バツの印がない兇悪犯罪者の顔写真がいくつものっている。藤木と羅姫の顔つきはかなり違うが、ほんとうにこんなにたくさんの犯罪者が、日本のなかを逃げつづけているのだろうか。ほとんどは、もう死んでしまっているのではないのだろうか。死体もでてこないのだから、どこかで適当に処理されているのではないのか。  噂では、始末屋がいるという話だった。なんのためにやるのか知らないが、一〇〇〇万の値段でうけ負うのかも知れない。金額が妥当なのか、割にあうのかも分からないが、もっと組織的なものだとばかし思っていた。おおぜいの人間が関与すれば、いずれ警察に知れてしまうに違いない。  札幌周辺だという話は、くりかえし耳にしていた。逃亡者の多くが最終的に北を目指すのは、始末屋と関係していると、藤木は幾人から聞いたように思った。同様の身のうえの者たちが情報を交換する宿が、各都市にいくつかある。何年も逃げていれば、姿をみれば、たがいになんとなく分かって、どこがまだ安全なのかという話になる。  そういう気持ちをもったとき、どうやって始末屋をみつけて相談するのかという肝腎な部分は、だれも知らない謎だった。  藤木は、こんな形で声をかけられるとは、想像もしていなかった。  札幌にきたのも始末屋と出会って、なんらかの決着をつけたいと、心の底で望んでいたのかも知れなかった。思いかえすと、女性がからんでいるという話も聞いた気もしたが、真剣に考えたことはなかった。あんな若い女が、始末屋だとは思ってもみなかった。たぶん三〇歳、そこそこだろう。始末屋の話は、逃走をはじめたころから聞いていた。代替わりでも、したのだろうか。綺麗な女だったが、間違いなく魔物に違いなく、ふかい地獄の一軒家に住んでいたピンクのドレスをきた魔女だ。あの始末屋は、シャンソンがながれ、ひかれるグァテマラの芳醇とした香りにつつまれながら、彼の渇死を待っていた。手にかかれば、死体もでてこないところに、つれていってくれると幾度も耳にした。話では、だれもが納得してついていくのだと聞いていた。ほんとうに、そんなことがあるのだろうか。女のいう通り、疲れたのは事実だった。もうくたくたで、これ以上逃げてどうするのだろう。ちょうどいいときに会えたのが不思議なくらいだが、なぜ、いまあらわれたのだろうか。この機会をうしなったら、おれはいつまで逃げつづけなければならないのだろう。 「グルは、どうして逃亡を指示したのだろう」と藤木は聞いた。 「問題は、そこよね」  羅姫は、しばらくして答えた。 「この洞窟って、いったい、なんなのだろう」 「不死になるって、話していたけれど、意味が分からないわ」  羅姫は、コーランをめくりながら呟くようにいった。 「エフェソスは、トルコの地中海がわにある古代都市よね。世界の七不思議、アルテミスの女神像で有名なところだってかかれている。七人の眠り聖人、セブンスリーパーズの伝承は、ユダヤ教、キリスト教、それもギリシア正教会、シリア教会、コプト教会など、さまざまにあるわ。グルが話していたのは、コーランよね」  羅姫は、そういって一八章をひらいた。  そこには、この伝承が記述されていた。  七人の眠り聖人の後に、第二の物語がつづいていた。  モーセは、従者のヨシュア・ベン・ヌーンと行脚をしていた。彼は、たとえ八〇年かかかっても、ふたつの大洋が接している場所に辿りつくまでは、旅をつづけるといった。ふたりが、大海が出会うところについたとき、すっかり忘れたので、もっていた魚は海のなかに泳いで逃げてしまった。  しばらく歩くと、モーセは「そろそろ昼食にしよう。この長旅で、すっかり疲れ果ててしまった」といった。ヨシュアは、「私の身に起こったことを、ごらんください。もっていた昼食用の魚を、忘れてしまい思いださなかったのです。これは、サタンの仕業に違いありません。魚は、海に泳いでいってしまったのです」と答えた。  すると、モーセは、「その場所こそ、私たちがさがしていたところだ」といった。そして、きた道をもどりはじめた。  モーセが、魚が逃げてしまった場所につくと、ひとりの男に出会った。彼は、アラーがとくべつな恩寵をさずけ、じきじきに知識をあたえていた者だった。  モーセは、男にむかって、「お伴させてください」と頼んだ。「あなたにみちびかれ、さずかっている真理を分けてもらいたいのです」といった。  男は、「おまえは、私の行為を辛抱できないだろう」と答えた。  モーセは、「神の意志にたいしては、忍耐します。どんな事件が起こっても、いいつけに背くことはないでしょう」と答えた。  男は、「それならば、ついてきてもいい。どんなことが起きようとも、私が解きあかすまで一切たずねてはならない」といった。  こうしてふたりは、歩きだした。  やがて船にのりこんだが、男は船底に穴をあけた。  モーセは、「のっている者たちを、溺れさせようとするのですか。とんでもないことを、やりましたね」といった。  男は、「それみろ。おまえには、我慢などできるはずがない」と答えた。  モーセは、「失念していました。責めないでください。あまり難しい目にあわせないようにお願いします」といった。  またふたりは、歩きだした。  やがてひとりの若者に出会ったが、男はやにわに殺してしまった。  モーセは、「なんの罪もない者を、殺害しましたね。むこうから仕掛けてきたわけでもありません。なんと惨いことをするのですか」といった。 「だから、おまえには我慢ができないと話したではないか」と男は答えた。  モーセは、「もう一度、私が質問したら、もうつれにしないでかまいません。今回は、なんとか許してください」といった。  ふたりは、旅をつづけ、やがてある町についた。  街の人びとに食べ物をくれるように頼んだが、だれも家には入れてくれなかった。  そこで、ある屋敷の塀がくずれかけているのをみて、男はそれをなおした。  モーセは、「要求すれば、いくらでも報酬がもらえるでしょうに」といった。  男は、彼の言葉を聞いて、別れようとつげた。そのまえに、おまえが耐えることができなかった事件の意味を話しておきたいといった。 「あの船は、海で生活していた貧しい人びとのものだった。海賊の首領がねらっていたので、使い物にならないように穴をあけておいたのだ。そうすれば、彼らがそれ以上の難儀にあわなくてすむからだ。あの若者の両親は、信心ぶかい者たちだった。しかし息子は、神に背かせ、信仰をすてさせるつもりだった。だからアラーは、もっと親孝行な者と取り替えようとしたのだ。あの塀は、街に住むふたりの孤児のもので、その下に財宝が隠してあった。石塀が壊れると、あきらかになってしまうのだ。そのために、なおしておいた。アラーは、ふたりが成人に達したら掘り起こるように手配したのだ。これが、おまえが耐えることができなかった出来事の理由なのだ」といった。  この後に、洞窟では、第三の物語がつづいている。  これは、アレクサンドロス大王の話だった。彼は、世界の西と東の果てにいき、意のままに人民をおさめる。最後の審判で神が善悪の判断をくだすよりまえに、善い者は助けられ、悪い者たちはこらしめられる。北の最果てでは、世界の終末に襲ってくるゴグとマゴグが、それ以前に来襲しないように鉄製の防御壁をつくる話がかかれていた。 「セブンスリーパーズは、あきらかに復活の物語といえるだろう。もしかすると、ふたつの海がむすびつく場所にいる緑の男、ハディルは、死んでいた昼食用の魚から生きかえったのかも知れない。アレクサンドロス大王については、復活の日にむけた物語になっている。つまり、三つの話は、ばらばらではないのかも知れない。復活は、洞窟のなかで起こる。よみがえる者は、ハディル。彼は、英知だけでなく、圧倒的な力と財力をもっているということなのだろうか」  藤木は、考えながらいった。 「グルは、ハディルについては、なにも話さなかったわよね。ただ洞窟をみつけろって、いっていたわよね。どうして、ふたりだったのかしら。なぜ、私たちは、とくべつだったのかしら」  羅姫は、そういって右手で額を押さえた。   それは、藤木がくりかえし考えてきた問いだった。  グルは、どこからみても自分勝手で、信者のことなどなんとも思っていなかった。しかし、藤木にはとくべつな思いがあったのではないか。話もいっぱい聞いてくれた。だいいち教団では考えられない、羅姫との関係までみとめた。代償はひどいものだったが、飛んでもなく例外的だった。 「とくべつ」。この考えが、いちばん恐ろしかった。  一度そう思うと、グルのすべてを正当化する根拠になった。これも、弥勒が仕組んだのではないか。通常は考えられない羅姫との関係を許したのも、逃亡を指示したのも、べつの魂胆があったのだろうか。分からない。  一〇年ほどまえ、ドクターの縊死が発見され、自殺と報道された。藤木が信頼できる筋からの話では、教団が関与したらしい。  この事件を聞くと、羅姫は「男女のふたりでは、目立つから危ない」といった。それで藤木は、彼女の指示にしたがい女装をし、女のふたりづれになって逃げていたこともあった。ひげや、すね毛をそって、ストッキングをはき、カツラをかぶり、スカートをつけて変装した。その様子をみて、羅姫は笑いころげた。つづけるのはかなり困難で、三ヵ月が限界だった。結局は、べつべつに逃げることになった。  それでも、別れるべきではなかったと藤木は思った。  危険でも、いっしょにいるべきだった。彼は、心の支えをうしなった気がした。いまや、羅姫に再会する以上の希望はなかった。自殺もせずに生きぬいてきたのは、彼女への思慕だった。   グルから逃亡の指示をうけた三人は、教団の最高幹部たちだった。  兇悪犯罪の主犯だったから、いずれ死刑はまぬがれないものの、警察にとっては全容解明のため、是非ともとりしらべたい者たちだろう。教団がわにしてみれば、逮捕され、自供される事態はさけたいのが本音だろう。いろいろしゃべられれば、こまる人間がたくさんいるはずで、藤木と羅姫は、教団からも追われていた。  元幹部といったところで、表向きには解散したことになったのだから、助けるなんて考えられなかった。通報してこまるのは教団でもあったから、なにかトラブルがあって、ドクターの縊死という事件が起こったのではないか。  そもそも自殺という選択肢は、信者にはなかった。自殺者の行く末についての恐ろしい話は、グルからさんざん聞かされているので、信仰を放棄しないかぎり、そうした死に方は考えなかった。その証拠に、逮捕された幹部で自殺した者はいなかった。  教団は、信者に「逃亡犯と関係してはいけない」とくりかえし指示をだしているはずだったし、逃走を助けたとなれば世間的にも大変なことだった。基本的にはこちらが仕掛けないかぎり、無視を決めこむだろう。教団の真意は、だまったまま死んでくれることに違いなかった。  藤木にとって、一〇〇〇万は大金だった。  逃走をはじめたころには五〇〇万の現金をかかえ、邪魔だと感じたことさえあったが三年ともたなかった。ひとりで建築現場や除染作業をわたり歩いてきたが、羅姫はさらに大変だったに違いない。辿りつくのは場末のキャバレーか、行きずりの男を相手に、春をひさぐくらいしかないのだろう。彼女は、どうしているのだろうか。  羅姫ともう一度めぐり会って、だれからも追われることもなく、のんびりとすごしたいと藤木は思った。  どんな心配からも逃れ、ふたりでただ海をみていたい。なんの義務ももたず、浜辺で寝そべっていたい。羅姫といるのなら、きっと日差しのつよい南の島ではないだろう。北欧のフィンランドか、アイスランドの冷たい海のほうが似合うのだろう。波もない、光もうしなった暗い藍色の海原をながめながら、羅姫とふたりで平和に暮らしたい。この世のしがらみから、すべてときはなたれて。  羅姫の笑い声が聞こえる。  さあ、怖がらないで。  笑って滅んでいきましょう。  みつめあい、手をつなぎ、  波もみえない、王国にいきましょう。  さあ、怖がらないで。  いっしょに滅びましょう。  輝く愛のなかで、だきあって、  ふかい冥府に、しずんでいきましょう。  藤木は、そんな歌を聞いた気がした。  優子が始末屋に違いないと思いはじめると、一〇〇〇万はどうしても必要な金になった。  コンビニに押し入っても、レジには二〇万、あるかないかだろう。連続して五〇の店舗を襲うのは、スーパーマンでも不可能だろう。家の箪笥に一〇〇〇万を隠している者もいるのだろうが、あたりをつけて押し入るわけにもいかない。ひとりでは、銀行も無理だろう。郵便局には、一〇〇〇万なんて現生がおいてあるのだろうか。身の代金目的で誘拐したって、すぐにもってこられる者はかぎられる。待つあいだに大騒動になってしまう。そうしたら、もう始末屋と会うこともできない。  二年まえ、札幌の元教団の支部で一〇〇〇万の強奪事件があった話を思いだした。事件は表沙汰にはならず、犯人も分からなかった。教団とのかかわりがある者だけが知っていることで、関係者の犯行だと考えられたが、その後は、どうしたのだろうか。 「なぜ二年まえ、そんな事件が起きたのだろうか」  藤木もまた、そこに辿りついた。 「あそこになら、もう一〇〇〇万あるのかも知れない」  札幌の支部は、警備をいっそう強化しただろう。二度と、こうした事件が起こらないように。水面下で支持をふたたび拡大しているとはいっても、あれだけの騒動を起こしたのだから、以前の勢力の一〇〇分の一にもならない。警察の目も、依然きびしいに違いない。あそこには、ほんとうはもう「ない」のかも知れない。確実に「ある」ところにいかなければ。  強奪事件がもう一度起きても、教団はすぐには警察にうったえないだろう。いわない可能性のほうがずっとたかい。そんな大金をもっていること自体が問題だし、出所を説明しなければならない。  教団に触れれば、牙をむく。しかし、そこしか考えつかない。教団が全力をあげてさがしはじめれば、居所はどこからかもれる。すぐにはうごけないから、そのあいだに始末してもらうしかない。  小山田礼希が息苦しさを感じて目を覚ますと、男がいた。おどろいて声をあげようとすると、鼻柱をつよくたたかれた。鼻血がでて呼吸が苦しくなり、猿ぐつわを噛ませられているのに気がついた。豆電球が、みたこともないやせた男をぼんやりと照らしだした。 「藤木」  礼希は、すぐに分かった。大捜索があったときには小山田礼希はまだ一二歳で、すべての教団幹部を知る立場ではなかったが、藤木の名前は覚えていた。その後も逃げつづけている藤木隆弘が、凶暴、兇悪で、一〇〇件にものぼる殺人を犯したと聞いていた。教団補佐の宮澤は、顔をかえて特定できない藤木は、なにをするのか分からず、いちばん怖いのだと話した。礼希を警備する理由は、警察からまもるためではなく、彼が逃げているからだとくりかえしいった。夜、寝るときには、かならず窓をロックしろと注意されていたのに、昨日の晩、いい気持ちで飲んだワインの量がすこし多くて、ようやく涼しくなった風にあたったのだ。鍵をしめ忘れたのだが、こんなことは年に何度もないのに、その日をねらって、彼が入ってきたのだった。  藤木は、もっていたカッターナイフで、自分の血で鼻腔をふさがれた礼希の左の頬に切りこみを入れた。やける痛みがして、そこからも暖かいものがながれてくるのが分かった。ひくい声で、覚悟があるといった。いっしょに死ぬ気なら、それでもいいと囁いた。彼女が首を横に振ると、なんでも聞くかとたずねた。  礼希は大きくうなずき、いわれるままに裸になった。  首にロープをまかれ、携帯電話と車のキーをもって階段をおりた。自家用車にのりエンジンをかけ、指示にしたがって運転した。いわれるままに走ると、空き地に車両があった。エンジンを切ると、おかれた車の助手席にうつれと指示された。礼希は移動し、逆らうことなく、あたえられたロープで自分の両足をしっかりしばった。それからべつの縄で拘束され、席にかんぜんに固定された。  藤木は、礼希がうごけなくなったのを確認すると、車をうごかした。一五分くらい走り、さきほどとは違う暗い人気のない場所にとめると、じっと彼女をみつめた。 「問題は、ここからだ。宮澤に電話をかけ、一〇〇〇万円を用意させろ。できなければ、殺されることだけを話せ。分かったな」  猿ぐつわっを噛まされた女は、藤木をみつめて、大きくうなずいた。  くつわをはずすと、礼希は「腕が痛い」と小声でいった。藤木がカッターナイフで右の頬に切れこみを入れると、彼女は凍りついた瞳になった。   「いわれたことだけをやれ」  押し殺したひくい声で、藤木がつげると、女はうんうんとうなずいた。 「番号をいえ」  藤木は、女の部屋からもってきた携帯をみせていった。 「#04」  藤木がボタンを押して電話をかけると、すぐに携帯はつながった。  よびだし音がするや否や、宮澤がでた。  女は、「殺される」とだけいうと、嗚咽をはじめた。  藤木は、電話をかわり、この状況を解決するには、宮澤がひとりで、三〇分以内に教団の金庫から一〇〇〇万をもってくるしかないと話した。 「分かった」と彼はいった。 「藤木さん。手荒なまねはしないでくれ。藤木さんのことは、気の毒だと思っている。捜索まえに逃亡を命じられ、教団の罪を全部ひとりで背負わされ、はめられたのは、はっきりしている。うちもすっかりじり貧で、いまはこれ以上なにもできない。今回の要求には、いわれた通りにうごく。この件については、どこにも話さないから最後にしてくれ」  宮澤は、しゃべりつづけていたが、電話を切った。  一時間後、藤木は一〇〇〇万の現金を手にしていた。宮澤は、ひとりでやってきて、指定された場所に金をおいた。白んだ空のもと、高速の乗り場ちかくの公園に、目を覆い、猿ぐつわを噛ませ、両腕を後ろ手にしばりあげた礼希を、素っ裸のまま置き去りにした。彼女の携帯は途中ですて、藤木は羽田にむかって高速道路を走っていた。右手でハンドルを操作しながら、首にかけられた純金製のロザリオにつけられているマダイの十字架を、左の手のひらでじっとにぎりしめた。  希望がうまれた、夏の四時だった。なにが光明で、どんな望みなのか、彼には分からなかった。  藤木は、世界の重圧に押しつぶされて変形していた。  息苦しさを覚える大気圧は、高速道路の両がわにつらなって立ちならぶ夜光灯をぐにゃぐにゃにまげ、前方にひろがる閑散とした道路の視界も、まげてゆがめていた。藤木は、自分が深海にすておかれた一匹の白いクラゲだと感じた。はげしい水圧をうけて形がたもてなくなるなか、自力ではほとんどうごけず、あてもなく浮かんでいた。ちかくに、いくつもの赤紫色の海藻が、ゆらゆらと揺らめきながら、立っているのがみえた。潮のうごきがとどこおり、ときのながれからもみすてられて、光もろくにとどかない、物音のとだえた沈黙の緑色の海底で、意志も意味も不明になって、世界の重みで変形しながら、白いクラゲはただぼんやりと浮遊していた。水圧によって底の黄色い砂のうえに押しつけられ、身うごきができなくなる寸前でとどまり、かろうじて浮かびただよっていること、それがひとつの希望だった。 「二度と、こんな思いはしたくない」と思った。 「最後だ。これですべてが終わり、解放される」  彼は、放浪に疲れ切っていた。  藤木は、羽田にむかって走り、朝一番の千歳便にのった。  札幌についたのは、朝の九時半だった。藤木は、ネットカフェにいき、事件になっていないのを確認した。彼は、そこでたおれるままに眠りこんだ。夕方に起きてネットでしらべたが、事件の報告はなかった。ねぐらを札幌にかえて、つぎの日まで待った。翌朝のネットに、「元教祖の娘が、裸で保護された」という記事がのっていた。  固有名詞もなかったし、被害届もだされていなかった。  四  つよい日差しがふり注ぎ、世界は藤木隆弘のまわりだけをのこして輝いていた。あかるい空間のなかで、彼ひとりだけが、ふかい奈落の底につづく真っ暗な穴に落ちこんでいる気がした。  藤木が、朝の九時、始末屋に電話をかけると、金の出所をたずねられた。  一時的に行方不明になった元教祖の子供が、埼玉で保護されたといった。娘は、関越道ちかくの公園に置き去りにされ、猿ぐつわを噛み、両腕を後ろ手にしばられ、しかも素っ裸だったと話した。  一五分後に再度連絡しろとつげられ、一五分たってから電話をかけた。今度は金を確認するといわれ、命じられるままに小樽いきの普通列車にのった。  一〇時の車内は空席が目立ち、老婆が斜向かいになる扉のちかくにすわり、居眠りをしていた。ふかいしわが刻まれた顔には、加齢にともなう大きな斑点がひろがり、老醜をただよわせる女のそばには孫娘と思われる幼女が、両手でにぎりしめた汚れた人形にむかって、なにかを囁きつづけていた。ちかくを、ハエが何匹も飛んでいるのがみえた。  電話があって、藤木は指定された小さな駅でおりた。  指示にしたがって線路をはさんだ反対がわのホームにむかい、紙袋をあけて、なかに入っている金をみせた。だれもいなかったが、藤木はいわれた通りにした。電話がかかってきて、もう二駅いけと命じられた。  指定された駅でおりると、潮の香りがした。改札をでて、バスの停留所でベンチに腰をおろして待っていると、優子があらわれた。紙袋の中身をもう一度確認して、 「やっぱり、やればできるじゃない」と彼女はいった。 「これで、完璧に、どこにももどれなくなった」と藤木は答えた。 「大丈夫よ。ここまできて後悔した人はいないわ」  優子は紙袋をもち、手招きして歩きはじめた。線路ぞいの道はやがてなくなり、漁師の荒ら屋が一列につらなる軒下になった。  家と線路のあいだの小径は石くれ立ち、すべって危ないのだろうか、安物のカーペットがしかれていた。割れて、するどくなった石の一部は、厚い布地をやぶっていくつもつきでていた。生臭さとも違う、腐った魚のきつい臭いが、「つん」と鼻腔にとどいてきた。  藤木は、思わず、まがりそうになった鼻を押さえた。軒先を一〇くらいすぎていくと、やがて家屋もなくなり、大きな角ばった石が累々とつづくだけの浜辺にかわった。いちばん端のくずれかかった家に、優子は入った。なかでは、八〇歳くらいのやせた男が朝っぱらから焼酎を飲んでいた。 「仕事のあとにしろっていうのに、そんなこともできないのかい」と優子はいった。 「こんな凪じゃ、死ねもしねいさ」と老いた男は答えた。  六月の北国は、晴れわたった空から、つよい日差しが注がれ輝いていた。すき通った海に、真っ白な海鳥が浮かんでただよっていた。 「亀、いくよ」 「分かったよ。いま、だすから」  亀は、仕事着にかえることもなく外にでると、五メートルはある漁船をつなぐワイヤーをゆるめはじめた。船は、海のなかまでずっとつづくレールにのっていた。  藤木は、ダイブ用のスーツをわたされ、着替えろといわれた。 「こんなことは、はじめてだ。一度もない」というと、 「みんなそうよ」と優子は無表情に答えた。  藤木は、自分の黒いバッグから所持品をとりだし、小さなリュックに入れるよう命じられた。持ち物のなかに眼鏡があるのを、女は目ざとくみつけていった。 「大丈夫よ。もう必要がなくなるから」  藤木は、だまったまま荷物をリュックにおさめ、とりだした金のロザリオを首にかけた。 「みょうな持ち物ね。おまもりなの」と優子はいった。  藤木は、なにも答えず、命じられるままに重いボンベを船にはこんだ。 「この下なのよ」  断崖のちかくに船をとめさせ、優子はひとりでさきにもぐっていった。彼女が海面にでてきたり、しずんだりするのを、藤木はじっとながめていた。海面下の優子は、船のうえからはゆらゆらとみえた。彼女のながい肢体は、ちぢんだり伸びたりしながら、波うっていた。海面にでてくるとマウスピースをはずし、どこまでもたかい空にむかって、ソプラノの声をあげた。そのときだけ、彼女はひきしまってみえた。すき通った声が、天空に木霊するのを確認すると、下に消えていった。 「なあ、いい女だろう。ふるいつきたくなるだろう」  年老いてやせた男は、藤木をみつめ、同意をもとめてかるく笑った。頭は禿げあがり、白い口ひげと顎ひげが、ながく伸びていた。あわい灰色の木綿のズボンをはき、同系色のパーカーをきていた。全体が白っぽくかるそうで、どこへでも飛んでいけそうな、まるで仙人にみえた。 「なぜ、亀なんだ」  藤木は、聞いた。 「亀吉っていう名前なんだ。ほんとうは、手も足も甲羅のなかにしまいこんで、じっとちぢこまっているわけだな。あんな女にくわえられたら、どうなったって仕方がねえって思うじゃないか。そうだろう」 「始末屋は、もっと年増だと考えていたが」と藤木はいった。 「そりゃー、奴のお袋もいい女で、ぞっこんだったよ。相手が魔物だと分かっていても、人の手にはわたせないな。おまえさんなんかは、まだまだ増しで、おれなんぞは始末してももらえない。ほんとうは、いちばんに片をつけてもらいたいが、それは無理なんだそうだ」 「始末されることを、亀さんもしてきたのか」 「おまえさんも、相当な事件を起こしてきたってわけだ。いちいち聞いても仕方がないが、優子に声をかけられたんだから、それなりの人生なんだろう。もう逃げられない、ほとほと疲れ切ったわけだ。自首したって、仕方がねえよ。ようやっと忘れかけてくれた世間さまを起こして、もう一度あんたの親族に、居たたまれない抗議が殺到するだけだ。肉親だって、死んじまったほうがいいって、心から祈っている。仏でも、鬼でも、どっちでもかまわないから、二度と世間に顔をみせてくれるなってな。こうして年に三、四人、始末を手がけて五〇年にもなるっていうのだから、二〇〇って数まで、もう一息ってところか。一〇〇番目の記念はおれにしてくれって、泣いて頼んだこともあるんだぜ」 「女性もやるのか」 「男も女も関係がねえよ。始末を望むものは、ちゃんと優子にみつけられて整理されるのさ。サツがどんなに頑張ったって、ホシなんてあがるわけがねえ。こちトラが、逐一しずめているのだから」 「みんな、この海底に押し浸されたのか。一〇〇〇万もはらって、だまってしずめられたのか。そりゃー、かなりの悪党だな」 「みんな、喜んでいったのよ。無理じいはしないから、やさしい始末屋の噂が、あんたの耳にもとどいたわけだ。つまりはよ、こうなったのも、みんな、まえから決まっていることなのさ。もともと、でてきちゃいけねえ者が、世の中にはいるのよ。それを、いるべき場所にかえしてやるのよ。そもそもが、はじまったところに」 「それじゃ、あんたはどうして、生きていけるんだい」 「そこが、つらいところよ。おまえさん、海の色は青いなんて、ガキみたいなことを考えているんじゃないんだろうね。すくってごらんよ。色なんか、どこにもついちゃあいない。空が青けりゃ碧くなり、お日さまがしずみかければオレンジにみえるだけだ。おまえさんがみて、考える海ってのは、せいぜい波までだ。船が港からでていっても、いいのかくらいは分かっても、それ以上の認識はできないだろう。海面は、海全体からみたらかすかな部分で、おまえさんは、もっと、ずっと下からうまれている。ところがおいらは、そっからもでていない。すっかりみはなされている。はじめも終わりもなく、えんえんとこの仕事をするためにうまれた、たったひとりの最低の下僕というわけだ」 「波は意識で、海面下には、自分が生誕した膨大な無意識の世界がひろがっているということか。波浪が表層をただよう自我なら、下には、おれも知らない自己が無限にひそんでいるのか。しかし、なんで希望すると分かったのかな。手配の写真とは、まるで違うのに」  藤木は、ポツリと呟いた。 「臭わないか」と亀吉は聞いた。 「なにが」  藤木は、思わず鼻を鳴らした。 「なにがって、風にのって潮の香りがしてくるだろう」 「まあ、海のうえだからな。いまは慣れて、もう分からないが」 「そこんところだ。海っていうのは、おれにとっては、とことん魔物だな。こうやって六〇年つきあってみて、しみじみ分かる。あんた、線路づたいにここにきたとき、気がつかなかったかい」 「なにを」 「臭いよ。あの発酵した、どこか懐かしい」 「あれか。腐った魚の臭いだな」 「そうだよ。いつまで、臭っていた」  藤木がだまると、亀吉はまた言葉をついだ。 「臭いは、違いを知らせる感覚だ。腐ったものを食べると、死んじまうこともあるからな。一種の防衛反応で、違いを知らせるだけの感覚だ。だから、つよい刺激でも、さらされつづければ慣れちまうのよ。有機物が腐敗する魚の臭いは、基本的に身体に害をおよぼさない。五分もたてば、それを感じない鈍感な奴は世の中にたくさんいる。自分の体臭や口臭に気づかないのは、普通ってことだな。無機物の硫化水素やアンモニアは、人にとって有害だから、かなりながい時間、感じつづけられる。危険な臭いは、くりかえし警告されるわけだ。おまえさんには、潮の香りはもう感じられないのだろうが、おれは違う。この海っていうのは、なにが住んでいるのだろう。魔物だな。潮の香りはずっとしている。何時間、海上にいても、凪いでも時化ても、海の匂いは、やむことはない」  藤木がだまっていると、またつづけていった。 「フェロモンって知っているか。昆虫が、交尾のときにだす液だ。種類が違うと認識できないそうだ。それでいて、同種の雄や雌だけには、はっきり嗅ぎ分けられる。顔も姿も、関係ないんだ。おれたちは、だしているらしい。自分じゃ気がつかないだけで、優子の話によれば相当なものらしい。すげえんだってよ。鼻がほんとうにまがるほどで、吐き気がするのだそうだ。なにを話さなくたって、すぐに分かるわけだ。おれの臭いは、そりゃー、すさまじいものらしい。薄野のど真ん中で、五〇〇メートルはなれていても、すぐに分かるんだってさ。あいつは、いってた」 「嗅ぎつかれたってことか」 「なんでも、かぎりがあるのだそうだ。汚れた精神が地表の大気とまじりあい、こらえ切れなくなったときには臭気にかわる。嗅ぎつかれたっていうよりは、気がついてもらいたくて、自分で悪臭をまきちらしていたわけだ。それで可愛そうになって、始末屋がでてきたってわけよ」  やり切れない亀吉の話につきあって、藤木はだまされている気がした。  そうこうすると、優子は船縁にもどってきて、じっとみつめる彼を海面から射抜くするどい眼差しでみて、「ここよ」と話しかけた。  亀吉とふたりで、彼女を小船のうえにひきあげた。 「怖いの」  ながい黒髪を大きなバスタオルでふきながら、優子はおだやかな表情で藤木をみた。つよい日差しが、彼女の横顔を金色にそめていた。 「分からない。はじめてもぐるのだから」 「そうだったの」  優子は、ゆっくりとうなずきながら、少女にもみえるあどけない表情で、彼をみてにっこりと笑った。  藤木の脳は、スパークした。 「ここでやめたら、臆病だな」 「口からすって、鼻からはく。かんたんよ。いままで、できなかった人はいないわ」 「どうだろうか。おれも納得すると思うか」 「みんな承知するわ」  彼女は、どうでもいいという口調で答えた。 「おれも、みんなとおなじか」 「だれもが、そう聞くわ。自分だけがとくべつかも知れないってね。あんたたちは、いつも思っているから。でもね、とどのつまりは、おなじなのよ。どいつもこいつも、ただの悪党にすぎないのよ」  優子は、興味がなさそうに答えた。亀吉がさしだした熱いコーヒーを飲んだ。 「どちらでも、いいのよ」  ひきかえせないところまで、きていた。今度の事件があってもなくても、状況はおなじだった。だから、とくに始末屋のせいではなかった。しかし、藤木には、よく分からなかった。 「どうするの。あなたの気持ちは」と彼女は聞いた。 「どうしても嫌なら、帰れるという君の言葉を信じるしかない。とはいっても、ここまでつれてきた者をかんたんに帰すとも思えないが」 「そうね。それじゃ、いってみるのね」  彼女は、念を押した。  藤木は、女をみてうなずいた。  私物の入った小さなリュックを背負い、そのうえに重い酸素のボンベをつけて、彼女といっしょに海中にダイブした。海面を通して青い空と、のってきた船の朱色の腹がみえた。彼女のあとを追って、海底へもぐっていった。口から息をすい、ゆっくりと鼻からはきだした。優子の姿を追いながら、二〇分ほどブラック・ホールにも思える巨大な暗い空間を通りすぎていくと、うすくて白っぽい輝点がみえたように思った。彼女がむかっているらしい、あわい、かすかな点はすこしずつ、はっきりとしてきた。ゆるやかな潮のながれを感じながらちかよっていくと、そこからわずかな光がもれでていた。人が立って充分に歩けるくらいの、たかさと幅のある断崖に切られた穴だった。なかから、よわい光がしみでていた。  洞窟の入り口と思われる穴のまえに立つ優子に、藤木は追いついた。 「このさきにあるのよ」  優子の声は、藤木の心に直接ひびいてきた。 「地獄があるのか」  藤木が思うと、答える彼女の声が脳裏にひびいた。 「そうね。地獄でもあり、天国でもある世界が。そうした分類では、いいあらわせないものが。怖いの」 「分からない。怖いのだと思う。いつもとおなじで」 「じゃあ、ついてきなさい」  優子はそういうと、洞窟のなかを歩きはじめた。そこは海藻に覆われることもなく、砂も小石もほとんど消失し、だれかが断崖の岩肌に巨大なドリルであけた穴にみえた。  優子をまねて右の壁に両手をつきながら、ゆっくりと回旋していく。洞窟にそって歩くと、すこしずつあかるさが増して視界がひらけてきた。ゆるやかな潮のながれに背中を押され、優子の魅惑的な肢体がしだいに影をつくりはじめ、大きく右にまわると、ふたりは輝きのなかにいた。そこは、ホワイト・ホールの眩めきの場所だった。輝きは、とどまることができず、あふれでていた。  輝く巨大な場所だった。東京ドームの数倍はあると思われるひろい空間は、あらゆるところに照明がつき、信じられない眩しさに覆われていた。ぼうぜんとながめるうちに、しだいにあかるさに慣れ、その光の源が、じつは壁にぎっしりと張りついたホタルイカに似た生き物のせいだと分かった。小さな生物は、腹がわの発光器を輝かせながら、隙間なくならんで巨大な洞窟の壁面にくっついていた。幾千万、幾億とも知らぬ、生命体の大群落だった。  海底には、五、六〇メートルの背のたかい赤紫の海藻がはえ、ホタルイカの大照明をうけて七色に輝いていた。幅は四メートル以上はあっただろう。ドームの天井にむかってとどかんばかりに伸びて林立する海藻は、先端部分で枝分かれしていた。アメリカ杉、ジャイアントセコイアが、ジャイアントケルプになって、たがいに競いあい、ならび立っていた。ふかい海のゆるやかなながれに身をまかせ、ゆらゆらとやわらかく戦いでいた。一本いっぽんが、周囲とは無関係に自由な意志で揺らめいていた。眩めきながら、照明をうけて影をつくりながら、ひとときもおなじでなく、彩られ輝きながら。  海底の砂は、金色をしていた。ほんものの黄金だったに違いなかった。すくおうとすると、砂金は指のあいだから、さらさらとこぼれ落ち、ゆるやかな潮のながれにのり、輝きながらゆっくりと棚引いていった。  藤木は、しゃがみこみ、手で海底をほり起こしてみた。どこまですくっても、金色の砂が果てることはなかった。億の歳月をこえ、海に注がれつづけてきた世界中の金の粒子だけが、自然とあつまる場所なのだろう。五、六〇メートルはつもった砂金からなる海底だった。  金の砂のうえに、深紅の藻がしげっていた。ひとつの株の直径は、五〇センチくらいにみえた。三、四〇くらいあつまって、植物群落をつくっていた。無数の群落は、砂金と交互に折りかさなりながら海底をうめつくしていた。潮のながれにただよい揺られながら、目眩く輝きに応じて、深紅にみえたり、薄紅になったり、ときには透明に変化していた。揺らめく紅の藻は、しなやかで、この世でもっともはかなく弱々しいものに映った。それでいて同時に、ひとつひとつがダイアモンドでつくられた宝飾品に間違いがなかった。トリプルエクセレントにカットされ、スパークし、さまざまなカラーに映しだされた。もうカラットという単位では表現できない量と、最高のクオリティーをもっていた。一のあとに数え切れないゼロがつづく、途方もない価値のダイアモンドが、株をうみだし、群落を形成し、海面下をつくっていた。  首を真うえにみあげてみると、燦然とした猛烈な光の頂で、枝分かれしながら、ゆらゆらと揺れる巨大な林立する紫の海藻。立つ海底には、輝く分厚い黄金が、交互にえんえんとあらわれる背のひくい、スパークをくりかえし群生するダイアモンドの紅い藻。三つのべつべつのものは、ひとときもおなじ色をせず、刹那せつな、微妙に予測不能な変化をつみかさねながら、心地よい潮のながれに揺らめき、からみあっていた。兆でも京でも、たらないくみあわせ、一期一会の眩めきのなかで、藤木はぼうぜんと立っていた。  林立し群生する海藻に海流がゆっくりとあたって戦ぐ音は、決して地獄では耳にできないしらべだった。四方八方から襲ってくる巨大なスケールのオーケストラは、藤木がうまれてはじめて聞く、やわらかでおだやかな旋律だった。やむことなくつづき、心にしみ入ってきた。ささくれだった彼とは、どこから考えても似つかわしくはなかった。いままでの自分が、嘘としか思えなかった。幻のなかで暮らしていたのだろうか。なにが、ほんとうだったのだろうか。目をとじて、耳に神経を集中し、音楽に身をゆだねていると、心はどんどんと落ちついていく。神聖で、荘厳な音律だった。  三メートル以上はあると思える、三角形をした巨大なエイが、輝く壁と紅葉に色づく海中を、光に彩られながら青白い裸身を思いのままにさらけだし、ゆったりと泳いでいく。一メートルはつきでた、ながくて細い尾は、なんと艶めかしいのだろうか。  反対のほうから、五メートル以上の虹色の海蛇が泳いでいた。ながい影のある姿態を妖艶にくねらせながら、その色を、赤に緑に紫に変化させながら、優美にダンスをおどっていた。やわらかい、しっとりとした肌。藤木を海藻の一部と思うのだろうか。彼に触れながら、目のまえで三拍子のゆったりとながれる円舞曲、ワルツをおどっている。つかもうとすると、なんの抵抗もなく、するりと逃げていってしまう。触れるだけでいいのに。藤木の腕は、むなしく潮をつかむ。いとおしい感触だけをのこして。  小さな魚の群れがみえた。熱帯魚に似た小さくて、色あざやかなひきしまった身体をしていた。集団になって、右に左にと瞬時にむきをかえながら、金色に輝いて揺れていた。色づいて戦ぐ、林立する海藻のなかで。  今度は、大きな竜ともよぶべき海蛇が、ゆったりとした潮のながれにのってやってくる。 「緑の彼は、この洞窟の主なのよ」  優子の囁きが聞こえた。  一〇メートルはあるだろう。腰を振りながら、藤木を挑発しながら恭しく接してくる。光の加減をうけて透明に変化し、緑色に輝く美しい裸身は、いままで出会ったどんな女よりも妖しい快楽をはこんでくる。くねくねとして周囲を泳ぎはじめ、胸に触れ、股のあいだを通りぬけ、自由にまとわりついてくる。やわらかい肌を感じさせ、藤木の胴に三重、四重にまきつきながら、首のまわりにただよいながら全身をつつみこみ、そっと愛撫していく。触ったのかどうか、実体があるのかないのか、それすらも分からない、そんな感じで。  ああいっそ、このまま果ててしまいたい。  三〇年かかったが、辿りつけた。ながくつらい年月だったが、グルが正しかったのかも知れない。ここにこられたのだから、いままでの出来事をすべて帳消しにしても、あまりあるものだったのかも知れない。グルは、この海面下にいたのか。穴だらけの記憶のなかで、憎悪と嫉妬と愛情が一挙にふきだし、涙がわきでていた。なんの脈絡もなく、すべてが断片的で意味不明だったグルの言葉は、この場所をさしていたのか。それに、みちびかれたのだろうか。たしかに、普通の言葉ではつたえることができない。  ここは、彼岸だ。  優子は、緑の主と藤木がじゃれあう様子に、不思議な感じがした。洞窟を支配する緑色の主人は、死すべくさだめられた悪党をくりかえしみてきたが、いつも無視していた。三重、四重と身をくねらせ、とりまく主といっしょに、発光器の光線をあびた藤木の身体は、緑に輝いてみえた。 「どうしたの」と優子は聞いた。 「緑の魚になった、夢をみていたようだ」と藤木は答えた。 「もう、お終いよ」  優子の声が、ひびいてきた。おだやかでやさしくすき通り、直接心にかたりかけていた。 「もうすこし、みていたい」  藤木がそういうと、優子は笑った。 「なにが、おかしいのか」  彼女は、奥のほうを藤木にさし示した。洞窟のちょうど「中央」にあたる部分で、黄金の砂が一段たかくなり、舞台をつくっていた。ゆるい波とたわむれる数多くのダイバーがいたが、よくみるとだれも呼吸をしていなかった。 「納得するのね。あなたも、あのひとりになるのを」  彼女は、聞いた。 「そばによってみても、かまわないかい」 「いいわよ。もう五分もいたら、海面にでるまでの酸素はなくなるわ。だから、すぐに決めて欲しいの」  藤木はうなずいて、彼女と林立する海草のあいだをぬけ、黄金の舞台のまわりでワルツをおどっているダイバーたちにちかよっていった。  海底にしげったダイアモンドの紅い海藻は、たかい天井まで伸び林立する赤紫の藻といっしょに、ゆるやかな潮のながれに戦ぎ、ゆらゆらとやわらかなステップを踏んでいた。揺れる海草にかこまれ、おおぜいの人が空の酸素のボンベを背負いこんだまま、だまって黄金の砂上に立っていた。腐敗もせず仮死にみえる状態で、だれもが満足そうな表情で、海流のリズムにあわせてゆるやかに戦いでいた。  藤木は、海底の風景の一部になり、だまって軽快な歩調をとる、ひとりひとりの顔をのきこんでみた。面識はないが、どこかで顔写真をみた覚えがある人びとがいた。 「舞台にいってもいいか」と藤木は聞いた。 「かまわない」と優子は答えた。  藤木は、舞台のうえで、だまってワルツをおどっている三人の人びとをみた。そうして、みつけた。 「やっぱり、羅姫。おまえも、ここにいたのか」  羅姫は、まるで生きているみたいだった。やわらかい笑みは素敵で、物思いにふけり、車窓から外をながめる、無垢で純粋な高校生の面影があった。話しかけても、答えることはなかった。そんな必要も、うしなわれたはずだった。 「疲れたんだね。我慢できないほど。最後は、幸せになれたんだね」  藤木は、思った。 「この女性は、弥勒の教団にいたといった。あなたの女だったのね」  優子は、思いだした。  羅姫は、娘の遙香をみていった。 「そっくりね。だれがみたって、あなたの子供。可愛いんでしょうね。男は、いずれ死ぬ運命だけれど、女は違うわ。娘は、やがて母になる。母親として暮らし、少女にかわって生きる。娘がいれば、女は不死になる。うらやましいわ」 「なぜ、子供をうまなかったの」 「妊娠はしたのよ。私はうみたかったけれど、男が嫌だといってね。愛していたし、自分の子供が欲しかったのよ。男がどうしてもうまないでくれって、泣いて頼むのでね。それで、泣く泣く堕ろしたのよ」 「男は、あなたのお父さんね」 「なぜ、そんなことが分かるの。そうか、あなたも心が読めるのね。弥勒が、とつぜんそんな能力をえたはずがないと思って、一族をさがしていたのよ。グルは、人の心をすこし読むことができたけれど、猜疑心のつよい、臆病なつまらない男だったわ。弥勒がこの街の病院のまえに遺棄されていたのだから、一族はここにいて母親は命を助けようとした。事情があって、自分ではまもり切れなかったのね。始末屋をいとなんでいたとは知らなかったけれど、グルの父親が王さまだったわけね」 「その親玉と、おなじ臭いがするのよ。あなたのは、もっとひどい。その男を、呪い殺したのね。ライバルも殺害し、さらにもっと、あなたにはなにかがある」 「母は、綺麗な人だったわ。私は、そっくりだった。だから、娘が欲しかった。兄は、いたのだけれどね」 「そうだったの。お兄さんは、お父さんにそっくりだったのね」 「母は、すべてを独占しようとした。でも、私がいたのよ」 「いいわ。もうたくさん。興味もないわ。亀吉なら、喜んで聞くかも知れないけれど。弥勒もきっと、あなたには手をださなかった。そんな気持ちには、とうていなれなかったのでしょう」 「人間の歴史って不思議。人が増えればかならず戦争が起こって、どちらかの部族が全面降伏するまで戦いつづける。負けたがわの男は、すべて殺害されるけど、若い娘だけはのこされる。女は、恋人を殺され、両親も兄弟もうしないながら敵に愛され、勝利した部族の繁栄のために子供をうむのよ。それが、自分の人生になる。男たちが女を道づれに全滅しないのは、憐れみからではない。のこせば、部族の血がのこることを、知っているからよ。それが摂理だわ。だから女は、つれそいながら復讐することもできる。閉所恐怖症の男を、コンテナに押しこんでやったわ。彼は、いつも怯えていた。子供みたいに闇を怖がって泣き叫ぶのよ。つれそい、生かさず殺さず、苦しめてやったわ」  優子の思いが直接心につたわった藤木は、言葉をうしなっていた。彼の脳裏に、酩酊した赤鬼の顔が浮かび、エイ君の笑い顔がよぎった。東横線の車内でみた、羅姫の兄を思い浮かべた。おどろく藤木に、優子はいった。 「あなたは、素晴らしい才能をもっていたわ。思いによって映される未来を、怖がった。さきを知る者は、みんな不幸になるわ。分かっても、なにも変更できないから。そういう状況でしか、人は未来を知りえないから」 「おれの人生とは、いったい、なんだったのだろう」 「才能があった、ということなのよ。あなたは、その能力に気がついてしまった。それは、もう後もどりのできない出来事だった」 「すべてが間違っているのに、才能だけが正しかったわけか」 「あなたのことだから、この場所も、きっと以前に思い描いたのでしょう」  優子は、そういった。  こことは知らなかったが、藤木はみた記憶をもっていた。いつだったか、三途の川をわたり、賽の河原で地獄の番犬を殺した覚えがあった。暗い夜、凍てつく風がふく、荒涼とした冥府をさ迷い、あかるくて暖かい部屋に辿りついた。ドレスアップした、美しい若い女がいた。上品で優美にみえた女性を、始末屋なのだろうとずっと思っていた。それも違っている。あの魔物は、ずっと目のまえにいたのだ。しかも、おれは、その怪物を愛していたのだ。  藤木は、優子にむかって振りかえり、立って揺れるダイバーを指さしていった。 「この人は、あんたとそっくりだ。双子の姉さんかい」 「違うわよ、あたしの母よ。母親も、ここでうまれたのよ。私も、いつかは、もどってくるのよ」 「この人は、だれなの」  そっくりな、もうひとりの女をみつけて、藤木はおどろいて聞いた。 「祖母よ。娘が、一七歳になったら事情をよく話して、ここにつれてきて、私は、この洞窟にのこるつもりなのよ。祖母や母といっしょに、ゆっくりと眠るわ」 「それじゃ、親父さんはどこからきたのかい」 「親父って。ああ、亀吉のことね。あれは、夫よ。同時に父でもあり、祖父でも、曾祖父でもある。きっと息子にもなる。あの男には、そんな価値もないのよ。あいつは、人の心が読めた。それで、自分を神だと思った。すべての神さまの運命とおなじで、息子に殺されると考えたのね。それで、殺害しようと思った。曾祖母は、不憫に感じて、血まみれになった赤ん坊を、病院のまえに置き去りにした。亀吉も、はじめてだったから、やり損ねたのね。妻であった曾祖母は、母でもあったから、そこまで逆らえなかった。亀吉は、その事件で彼女を憎み、殺して切り刻み、食べてしまった。それで自分は、不死をえたと信じている。あいつは地上にのこって、ここを支配しているつもりなのよ。憐れんでやってよ。あいつを、つれてくる者はいない。ここに、くることもできない連中が、世の中にはいるのよ」 「グルも、この洞窟でうまれたんだ。海面下が、弥勒の故郷だったんだ」 「そうよ。弥勒は、ここへもどってこなければならなかった。曾祖母が命をかけて、彼をまもってあげたのだから。あいつは、ここで亀吉を殺し、父親の王国を滅ぼさねばならなかった。私や娘を解放するのが、彼のうまれた意味だった。それなのに、使命も、なにもかもすべて忘れ、女と金に溺れて自分をみうしなった。あいつは、ちょっと心が読めただけの男で、とことん亀吉の息子だった」 「そうだったのか。ここが、おれのうまれた穴でもあったんだ」と藤木は思った。 「納得したの」  優子は、聞いた。 「もう、あんな世界にもどる気がしない。ここでいい。心ゆくまで、この海底をみて、一部になっていたい。ここには、安らぎがある。それに、もうひとりではない。こんなに多くの、兄弟といっしょで、なんの文句もない。始末屋の話は、ほんとうだった。望んだところ、考えもできない世界につれていき、二度と隠れなくてもよくなる。何度聞いても、信じられない話だった。ほんとうのことだった。いったいだれが、そんな話をつたえてくれたのだろうか」 「知っていたのよ、あなたが。覚えていたのよ、故郷のことを。言葉ではなく、思いで」 「亀吉が神ならば、君は天使だったのか」  藤木は、いった。 「なあに、それ」 「君のことだ」 「ずっと、悪魔につかえてきたのよ。私のどこが天使なのよ。いい。不死とは、死ねないことよ。もし神が再臨すれば、生を終えられるかも知れない。でも神さまがいなければ、あいつは、ずっと生きつづけなければならない。私は、ただの女だわ。あの女性が、いった通り。娘がいれば、女は不死になる。亀吉を、みつづけることはできる」  彼女は、ゆっくりとした口調でいった。 「さようなら」  彼女は、藤木の耳元で囁いた。 「さようなら」  藤木は、答えた。  女がでていってしまうと、発光体は急速に輝きをうしないはじめた。 「こういう仕掛けだったのか」と藤木は思った。 「そうだよな。こうでなくてはな。おれが、這いでてきた子宮なんだ。一筋縄で、終わるはずがない」  藤木は、思った。 「もしかすると、娘が母になり、そして、また少女にもどって、つづきつらなる三〇〇年にくわえて、さらに九年のあいだ、おれはここで眠りつづけ、ときがくれば復活するのだろうか」  彼は、納得していた。 「この洞窟でうまれたとして、いったい、だれの子宮だったのだろう。もしかすると、羅姫のものではないのか。つまり彼女は、おれの母親だったのか。羅姫は、妊娠したが一度も子供をうまなかったといった。海面下のすべてを支配する彼女は、孕むことができる大母であり、同時に決して子を出産しない永遠の乙女だったのかも知れない。羅姫は、愛する兄の復讐のために、おれを殺しはしなかった。とらえ、支配し、去勢して、夫ではなく息子としてあつかったのだ。おれを男根として彼女につかえさせ、人として生かしてもくれなかった。だからいっしょにいても、苦しみしかあたえられなかった。また、とらえられてしまった。いや、そうではない。おれは、よばれるままに、すすんで羅姫が待つ、ここまでやってきたのだ。彼女の子宮であるこの洞窟は、善も悪もなく、すべてが暗黒となって溶解し、このうえなく平和で混沌でもある、底なしの冥府なのだろう。おれがもどるのに、相応しい場所だったに違いない」  藤木は、思った。  そして、ふかい夜がやってきた。  五  ある初夏の日のことだった。青い空から爽やかな朝の乾いた太陽の光が、地上にさんさんとふり注いでいた。北大正門まえの交差点に立って、あざやかな赤い信号をながめていた水嶋羅姫は、ふと背後に視線を感じて、足元をみたまま瞳だけを右にむけると、道をわたってくる女の子供がみえた。年は八つくらい。一年生か二年生で、桃色のTシャツにながいおさげの髪をして、すべすべとした白い頬が輝いている。黒い瞳が綺麗な、可愛い少女だった。  娘がそばによってくると、羅姫はとつぜんしゃがみこんでだきしめた。子供は、おどろいて、周囲をキョロキョロとみまわした。右の手のひらにふたつ折りの小さなメモ用紙をみつけた羅姫は、娘をだいたまま舗道の後ろにさがった。 「私に、もってきたのでしょう。みせてね」とやさしくいった。  娘は、だまってうなずいた。 「つけられている。構内に入ってまいてから。東邦イン、九二○」  そこには、黒いボールペンで走り書きがあった。  羅姫は、「あなた、名前はなんていうの」と聞いたが、娘はだまっていた。 「それじゃ、いっしょにお母さんに会いにいきましょう」  彼女は、娘をだきあげたまま、二〇メートルほどはなれたホテルにむかって歩きはじめた。  羅姫は、藤木隆弘と別れてから、うらぶれた場末の飲食店を点々とわたり歩いていた。なるたけ不細工にみえる化粧をし、センスのよくない服をきて、とろくて鈍そうにはたらいていた。おおむねは、女将さんがひとりで経営する店で、頭も耳も悪そうに振るまいながら、仕事はのろいが真面目だけが取り柄という役を演じていた。それでも、実直なのは多いに評価され、あいた部屋に住みこむ生活が幾年かつづいた。アパートを借りるには、実印が必要な世の中にかわっていた。男ならば、住民票も提示しなくても泊まれる木賃宿があったが、女が独りで住むには、目立ってしまいはばかられた。  羅姫は、なぜ、グルが藤木とふたりで逃げろといったのか、考えつづけていた。弥勒は、約束をまもって、兄を殺害した男を教えてくれた。羅姫は、藤木に事実を問いつめたことはなかった。 「私には、北大に進学した兄がひとりいたのよ。ふたり兄妹だったのよ」  羅姫は、いった。 「ぼくにも、妹がいた」と彼は答えた。  藤木は、自分がだれの息子なのか判然としないという話をした。再婚した義父と母親は、父の生前から不倫関係にあったのではないかと疑っていた。父親が死んで多額の保険金を手にした母は、家屋も売った。べつの場所にあたらしい家をたて、義父といっしょにひっこし、幸せそうに暮らしていた。再婚後にできた娘を、両親はとくべつに可愛がった。妹と藤木隆弘は似ていた。母は、他界した前夫のことなどすっかり忘れていたと話した。 「お父さんは、なぜ死んだの」と羅姫が聞くと、「事故だった」と藤木は答えた。 「私の兄も、変死だったのよ。高校時代に、あなたも通っていた東横線の祐天寺のホームで、空からブーメランがふってきて額を直撃したのよ。新聞にも大きくとりあげられたから、読んだことがあるのじゃないの。週刊誌でも、ずいぶん騒がれたのよ。考えられないでしょう。だれが、なげたのか分からなかったけれど、そんなことってありえないわ。だれかが念じて、殺したのね。聞いたことないの。まったく、知らないの」 「まえにも、君から聞いた覚えはある。そんなこと、だれができるのだろうね」 「念力をつかえる者ね。教団にもいたのかしら。グルは、さがすと約束したけど、結局、なにも教えてくれなかった。どうしてだろう。彼にも、はっきりしなかったのかしら」 「グルは、すべてが分かっていたわけではない。彼がなんであったのか、いまは理解できないことは、たくさんある。なぜ、君とこうした関係になるのを許可してくれたのだろう。どうして、ふたりで逃げることを指示したのだろう」 「問題は、そこよね」  羅姫は、彼をみつめた。  藤木は、決して冷酷なだけの男ではないと、彼女は思った。彼には、まるで子供みたいなところがあった。暗闇をいつも怖がったし、自分が手をくだした殺人の夢をみては怯えていた。悪夢に震えるのが充分に理解できるほど、残酷にあつかう場面を目撃したこともあった。うなされるのは、仕方がなかったのだろう。だからといって、彼がただの臆病者だったのではないと、彼女は思った。  グルは、羅姫をよんで、藤木が兄を殺したと話してくれた。 「彼を、どうするつもりだ」 「そうね、子供でもつくってやろうかしら。それで、その子を殺したら、復讐になるのかしら。藤木をそそのかして、首をしめさせてやろうかしら。料理して、食べさせれば復讐になるのかしら。そうしたら藤木は、子供みたいに泣くのでしょうね」 「君は、ととのった容姿をもつが、つねに狂気がうずまいている。ほんとうの望みが、なんであるのか分からない」 「なぜ、私にさがせなかったのかしら。欲しいものや、みつけたい人は、なんだって自分でさがしてきたのに。どうしてかしら」 「藤木に、直接聞いてみろ」  グルは、だまった。  弥勒は、人がなにを考えているのか、全部ではないにしても、幾分かは分かるらしいと羅姫は思った。  グル、弥勒一、本名、小山田一郎は、襁褓(むつき)にくるまれた新生児として、札幌市手稲区の総合病院のまえに置き去りにされていたのを発見された。保護されたときには、全身にはげしい打撲の痕があり、ひどい虐待をうけたと考えられた。その後遺症により右目が失明し、さらに左目にも障害をもっていた。同時にうけた外傷が原因と考えられる、左脚の跛行があった。  発見時の弥勒について記載された情報は、これ以上はない。ここから推測すると、何者かが虐待し、べつの者がすくおうと試みたに違いない。手稲のちかくに家族がいて、緊急避難的な状態で置き去りにしたのだから、家庭内でよわい立場の人間が救出しようと思ったのだろう。母親が助け、父親は息子を殺そうと考えたのだろう。理由は分からないが、弥勒がある程度、心が読めるからには、両親もそうした才能をもつに違いない。その後、新生児を置き去りにする彼のケースと似た事件は報告されていない。一族には、なんらかのルールができたか、子供がうまれなかったかのどちらかだろう。弥勒に似た能力を所持するなら、才能を、だれかにつたえたいとは思わないのだろうか。こう考えていくと、彼が素質をもつ以上、父親も「心を読む」力があり、さらに息子は必要がなかったのだろう。そうなると、娘がいるのではないか。  父親が典型的な家長として君臨する、心を読める一族が手稲のちかくに暮らしているのではないか。そこには、王がいるのだ。王国があり、なにかを支配しているのだ。  羅姫は、思った。  そこは、もしかすると、洞窟に関係があるのではないか。それを、みつけださねばならないのだろうか。弥勒は、羅姫の才能を充分に知っていた。しかし、なぜ、藤木とふたりでなければならなかったのだろう。洞窟は、英知をふくむ、あらゆる財宝で満たされている。地中海とアラビア海をむすぶ、不死にかわる変容の場所だという。  モーセの我慢では、従者のヨシュアは、昼食用の魚を忘れる。もともと彼は、真理が隠された、地中海とアラビア海がつながる場所にいこうとしていた。魚が逃げられたのは、モーセが気がつかなかっただけで、ちかくに海があったことを意味していた。それに気づいた彼は、その地点にもどり、そこで緑の男、ハディルに出会う。エフェソスにつくられたアルテミス女神像は、下半身が魚の姿をしている。キリストの世紀は、占星術では双魚宮に該当する。この知恵を象徴する忘れられた魚は、もともと緑の男、ハディルをさしている。だから彼が、英知をもっているのは理解できる。コーランでは、そこからモーセの我慢がかたられる。  つぎに、とつぜん、アレクサンドロス大王の話がつづくが、世界を征服し教化する大王は、ハディルの親友というより、もっとちかい存在なのだろう。いってみれば、影ではないか。つまりハディルは、英知と圧倒的な武力という力をもっている。神か悪魔かは分からないが、超越者には違いなかった。  洞窟には、ハディルがいるということなのだろうか。  羅姫がいくら考えても、それだけでは分からなかった。彼女は、さがすことにした。がんらい、さがしものをみつけるのは、得意だった。欲しいものについては、ひたすら考えて、ありそうな場所をさがすうちに、思った「ズバリ」を発見することができた。自分でみつけられなかったのは、兄を殺した藤木隆弘だけだった。そのときだって、考えかたによっては、ちかくにいるはずだと思ってさがすうちに新宿で弥勒の信者に出会ったのだ。直接的ではなかったが、彼女の考えは間違っていなかった。  羅姫は、なぜ自分がさがしものを、みつけられるのかと思った。欲しいものは、気がつくと、いつでも彼女の目のまえにあった。考えているうちに、みつかるのは当然なのだと分かった。なぜなら、彼女がさがしていたのは、もともと自分のものだったのだ。だから、必要になれば目のまえに出現する。おそらく王国も、みつかるなら自分のものなのだ。つまり、彼女は、もともとその国の女王なのだ。  羅姫は、北海道にわたり、札幌周辺を半年以上、歩きまわった。ちかくに今回のさがしもの、「弥勒の一族」がいるらしいという予感は、日増しにたかまっていった。幼いメッセンジャーガールに出会ったのは、そんなころだった。  羅姫は、白いカードをもってきた娘をだいて、東邦インに入ると九階にあがった。エレベーターをおりると、ちかくの自販機のそばに若い女がいた。娘が気がついて、身体をうごかした。彼女は、母親だとすぐに分かった。  女は、まったく予期しないはずの展開にあわてる素振りもなく、羅姫のまえをどうどうと歩いて、九二〇号とかかれた部屋にカードキーをさしこんだ。ツインルームで、窓際に椅子が二脚あった。  女は、奥にすわることをうながした。羅姫が腰をかけると、娘をひきとり、廊下のエレベーターのちかくで待つ指示をだして部屋をしめた。  女は、自分の名前を「優子」と名乗って、コーラを飲むかと聞いた。羅姫がうなずくと、冷蔵庫からとりだし、ビニールにつつまれたコップをふたつもってきてテーブルにおいた。封をやぶって注ぎ、「どっちがいいか」と聞いた。羅姫は、窓際のものをとって、ひと口飲んだ。優子も、のこったコーラを口にふくんだ。 「一〇〇〇万を、もってきなさい」と女はいった。 「なんのためのお金なの。もってくれば、一族を紹介してくれるのかしら。あなたは、弥勒の父親の娘なのね」と羅姫はいった。 「なにかしら。始末を、望んでいるわけではないの。あなたの希望は、弥勒の一族との面会なのかしら」 「そうか。あなたが始末屋なのね」  羅姫は、すこしおどろいて、しごく納得した表情をした。  彼女は、始末屋の話をいろいろな土地で、くりかえし聞いたことがあった。  逃げはじめたころからの噂で、都市伝説かと思っていた。日本の警察が交番にポスターを張りだし、本気で捜索して、みつけられない事態が、ほんとうに起こるのか分からなかった。バツ印がない顔の人間は、もう死んでいるに違いなかった。遺体もあがらないのだから、どこかで処分されたのだろう。やいても溶かしても骨はのこるから、産業廃棄物にでもまぎれこませて、二度とほり起こすことがない場所に、うめるのだろうと考えていた。とはいっても、ほんとうにいるのかも不明だったし、どうやって希望する逃亡者をみつけるのかも分からなかった。  始末屋は、弥勒の一族が関係する仕事だったのだ。それで、逃亡にすっかり疲れた犯罪者をみつけることができたのだと、羅姫は納得した。 「たしかに、逃げるのはもうくたくただわ。一〇〇〇万をもってくれば、私の始末をうけ負うわけね。弥勒の一族と王国を案内してくれて、王さまにもお目にかかれるのね。どうやって一〇〇〇万をさがしだすのか、いまの私には相当な難問だけれど、考える価値はあるわけね」 「なにを思っているのか分からないけれど、弥勒の一族と会ってどうするの」 「あなたは、心が読めないのね。どうやって、私をさがしだしたのかしら。弥勒の父親なら、心が読めるのではないの。グルは完璧とはいえなかったけれど、ばくぜんと考えていることが分かったみたいよ。その父親なら心が読めて、とくべつな国をおさめているのじゃないのかしら。一〇〇〇万をもってくれば、王さまにあわせてくれるのね。それなら、なんとか考えてみようかしら」 「いろいろな人間をみてきたけれど、あんたみたいな女ははじめてだわ。一〇〇〇万は始末料で、面会料ではないのよ。始末を希望するなら、うけ負うけれど、それ以外の約束なんかは、できないわ」  さまざまな犯罪者とむかいあってきた優子だったが、羅姫が思っていることは、判断がつきかねた。彼女も、人の考えを読めたが、いつもというわけにはいかなかった。相手が優子にむかって、心をひろげた瞬間だけだった。そのとき、感情や思いがつたわってきた。彼女の才能は、大罪を犯して警察から追われ、逃げるのに疲れ切った人びとがだす臭気を嗅ぎ分ける能力だった。そうした人間が始末屋に会うのを希望して、札幌市内を歩きまわっているのを、みつけだすことだった。  通常、彼らは猛烈な臭気をだしながらおなじ場所を徘徊する。なかでもいちばん多いのが、北大まえの交差点だった。徘徊場所は人によってさまざまで、植物園であったり、薄野の大通りだったりする。臭気を発する人間が、幾日かおなじ行動をくりかえすのを確認し、彼らがくる時刻を知って、遙香に四つ折りの手紙をとどけさせた。  娘も、優子の才能をうけついでいるから、多くの歩行者のなかから臭いをだす者をみつけて、メッセージをわたすことができた。そして面会し、条件をつたえた。ほぼ全員が納得し了承したが、一部の者は金をつくれず、始末してもらえなかった。短期間に一〇〇〇万をつくるのは、逃亡者にとっては難しい要件で、相当な覚悟をもっても調達できない金額だった。  なにをいわれても、優子は金をつくれなかった者と二度と接触することはなかった。こうした資金の融通を試みるなかで、失敗して警察に逮捕される者たちがいて、始末屋の話が都市伝説となってつたわっていった。  一週間後、羅姫は、約束した通り金ができたと、優子につたえてきた。彼女に出所を聞かれ、札幌の教団支部からもってきたから表沙汰にはならない。札幌支部に電話すれば、混乱した状況が確認できるといった。  優子が報道機関を名乗って、該当する施設の長に連絡をとると、そういった事実はないと強硬に否定する、あわてた様子を知ることができた。彼女は、羅姫からの電話に、小樽いきの普通列車にのる指示をだし、小さな無人の駅に下車させて金をもっているのをみきわめた。それで、根城の荒ら屋につれてきた。 「そうか。おまえさんが、王に面会を希望したわけか」  羅姫をみると、亀吉は笑っていった。 「あなたが、弥勒の父親だったのね」  彼女は、いった。 「今日の仕事は休みだ。しばらく、この女と話をする」  亀吉は、優子にいった。  彼は、羅姫が王の正妻を希望していることを知った。しばらく仕事を休み、彼女と暮らすと話をした。  優子は、遙香をつれて旅にでた。パスポートがないので外国旅行はできなかったが、以前から興味があった沖縄と周辺の離島を、三ヵ月のあいだ旅行してもどってくると、羅姫はすっかり女王になり、亀吉の子供を宿していた。  優子は、いった。 「羅姫と暮らすのなら、私は一向にかまわない。いっしょにはいられないから、遙香をつれてでていく。それでもいいのか」  亀吉は、未練はあったが、羅姫が臭気を感じとれない以上、始末屋をつづけられず、優子がいないかぎり海面下を支配することもできなかった。王国を統治するには、彼女の母方の血がうけつぐ、嗅ぎ分ける才能がどうしても必要だった。  亀吉は、羅姫を始末する決心をした。彼女には、以前から王国をみせるとずっと話していた。優子につれていかせ、洞窟に置き去りにすることになった。  羅姫は、かんたんにだまされた。優子といっしょに海にもぐり、黄金に輝く王国に感動し、ダイバーたちの輪のなかに入って、そのまま置き去りにされたのだった。  ある日、藤木は、かつてない、とても爽やかな気持ちで目が覚めた。ながい夢をずっとみつづけていた気がした。内容ははっきりとは覚えていないが、奥ぶかい真っ暗な冥府から、何者かに助けだされた。光につづく道を美しい伴侶とともにすすみ、広大なあかるく輝く世界につれだされ、つよい日を存分にあびながら復活する夢だった。  ふかい眠りから目覚めた藤木隆弘は、自分が暖かいベッドに横たわっているのに気がついた。周囲をみまわすと、ホテルの一室にいるらしいと思った。エキストラベッドがおかれるひろいツインルームには、つぎの間がみえ、ソファーと机があった。しばらくするとドアホンが鳴り、買い物袋をさげた優子が遙香をつれてあらわれた。おどろく彼に、彼女は経緯を説明した。  優子は、洞窟をでようとしたとき、一族がステップを踏む黄金の舞台の中央で、クラゲになってただよう藤木の姿をみとめた。彼は、深海の圧力に耐え切れなくなり、黄色い砂に押しつけられ、かろうじて浮かんで漂流していた。その色は、透明でも白でもなく、緑に発色していた。  そもそもこの洞窟の世界は、赤色が中心をしめていた。冥府には、せいぜい黄色まではあっても、赤の領域で生命をもって浮かんでいられるのは、主の緑だけだった。 「なぜ、あの男が緑色に輝いているのだろうか」  そう思った瞬間、優子の脳裏で、ずっと昔に母から聞いた「七人の眠り聖人」物語がひらめいた。  西暦二五〇年ごろ、宗教迫害のためにエフェソスの洞窟に隠れた七名は、三〇九年ほど経過したあとによみがえる。  この物語は、ローマ皇帝、デキウスの迫害時期に相当していた。七人の若者が、キリスト教信仰の罪にとわれた。彼らは、改宗するための時間をあたえられた。七人は、ローマの偶像崇拝を拒否し、祈りを捧げようとエフェソスの洞窟に入った。皇帝は、彼らが邪教にしたがい、改宗しなかったので、入り口を大量の土砂でふさいだ。しかし、七人は死んだのではなく、ながい眠りについたのだった。彼らが心地よく目覚めると、迫害は終わっていた。  イスラムの伝承では、このとき一匹の犬がくわわっていた。さらにモーセの従者が、昼食用の魚を忘れた物語がつけくわえられていた。そこに、緑の男が登場する。  藤木こそが、「忘れられた魚」だったのでは、ないだろうか。彼女たち、亀吉の圧政のもとに虐げつづけられてきた一族が反攻するための「救世主」だったのではあるまいか。  洞窟の舞台の真ん中には、優子の曾祖母にあたる「ヨネ」の骨がうめられていた。そのステージのうえでは、祖母の「美子」と、母の「利子」がステップを踏んでいた。それに「羅姫」が、彼女は亀吉の子供を宿しながら、輪舞にくわわっていた。さらに、「優子」と「藤木」をあわせればが、七人がそろっていた。なぜ、羅姫が洞窟の女王としてやってきたのか。そのとき優子は、はっきり分かった。羅姫という名は、王の「犬」の名前だった。つまり、亀吉までふくめると七人と、一匹の雌犬になるのだ。  更新するための役者が、ついに全員そろったのだ。  すべてが、予言されていたのだ。  優子が藤木と力をあわせれば、ながい「とき」をずっと支配し、時間のながれをとめてきた、「クロノス」の圧政をうちやぶれるのではないか。虐げられてきた、すべての者が解放される、あたらしい王国をきずくことができるに違いなかった。  そう確信した優子は、洞窟にひきかえし、藤木に帰る指示をだした。  藤木隆弘は、なにがどうなったのか、さっぱり分からなかった。  優子は、ここにいてはいけないというばかりだった。つれもどされる意味は分からなかったが、彼はついていった。  亀吉は、優子が藤木をつれて帰ってきたのをみて、なにか重大な事件が起きたことを理解した。五〇年間この稼業をつづけていたが、洞窟にのこすべきものが船にもどってきたのは、はじめてだった。亀吉は、優子から藤木をひきあげるように指示をうけた。彼の心をさぐってみると、理由は不明だったが、ひどく混乱していることだけは分かった。  優子は、船にひきあげられると、亀吉に藤木の潜水衣をぬがせるよう指示した。彼女は、普段着にかえた。藤木に予備の服をあたえ、帰港する指示をだした。  亀吉は、優子の心をさぐったが、防御されて知ることができなかった。二度と洞窟からでてこられないと覚悟した藤木は、彼女のよびかけについてきただけで、極度に疲労困憊しているとしか分からなかった。  浜につくと、優子はさきにおりた。  亀吉は、藤木と船をひきあげる作業をした。電動のウインチをまわしていると、遙香がやってきて藤木隆弘をよんだ。亀吉は、娘がただ優子の言葉をつたえているだけなのを知った。  藤木は、作業の途中で遙香についていくと、漁師の軒下を歩いて鉄道の駅についた。車で待っていた優子が、すぐにのるようにいった。遙香が助手席をしめ、彼が後部座席にすわると、自動車はうごきはじめた。  ひどい緊張から、ときはなたれた藤木は、気分が悪くなっているのに気がついた。四肢の筋肉と関節が痛みはじめた。身体中の皮膚がかゆくなり、目眩を感じた。疲れ切った彼は、かるい潜水病になり、ふかい眠りについた。  睡眠から目覚めた藤木に、優子はいった。 「弥勒が、この世で生をえることができたのは、彼女の曾祖母にあたるヨネが身体を張って、亀吉の暴力からまもったからなのです。母親が命をかけて生かしたのに、自分がなんであるのか分からなくなり、小さな能力をたくみにつかって、女と金と権力に溺れたのです。あなたは、弥勒がやりとげられなかった仕事を、うけつぐ義務をもっているのです。曾祖母からずっと優子にいたるまで、そして娘の遙香まで支配をつづける亀吉を、いまこそ葬りさり、あたらしい王国の支配者にならねばならないのです。私たちは協力して王を洞窟につれていき、真の花嫁、羅姫とともに永劫にとじこめなければならないのです。それが、あなたがうまれた意味であり、弥勒に出会い、彼女とふたりで逃げつづけてきた意義なのです。あらゆる苦難に、耐えることができた理由なのです。自分のあやまりに気づいた弥勒は、最後の望みをあなたに託したのです」  藤木は、優子のいう意味がよく分かった。  藤木隆弘の不明だった父親とは、彼を抑圧してやまない、「父の原理」の弥勒だった。そして羅姫こそ、大母に違いなかった。なんでもかんでもすべてを飲みこみ、食らいつくす、「母の原理」そのものだった。  藤木隆弘もまた、彼女にすっかり吸収されていたのだ。 「それにしても、そのロザリオはいったいなんなの。あなたとは、まったく場違いにみえるけれど」  優子は、不思議そうな表情でたずねた。  藤木は、自分の首につるされたロザリオをはずして手にとり、みつめながらいった。 「おれが愛した、魔女からの贈り物だ。母の形見だといわれた。つけていれば、なにかのときには、かならずまもってくれると教えられた」 「そうやって、コントロールされてきたわけね」 「そうだ。羅姫の夫は、亀吉だった。おれは、亭主ではなかった。もし、オイディプス王だったら、いま、このマダイの十字架の部分で、自分の目を刺していただろう」 「そうね。あなたは、彼女の息子だった。母親とまじわって、盲目にされていたのだから。もう、あなたには必要がないわ。そんなもの、すててしまいなさい」と優子はいった。  一部始終を聞かされた藤木は、自分をとりまいていた人びとがなんであるのか、はじめて理解できた。  ふたりは、作戦を立てた。亀吉は一〇メートルのゾーンに入れば、心が読めた。その範囲の外ならば、相手がなにを考えているのか分からなかった。  ある晴れた日、風も凪いだ頃合いを見計らって、優子は、亀吉の家のちかくにいき、藤木をのこして荒ら屋に入った。さまざまに詰問する彼の背後で、胸に隠しもったスパナーをつかむと、頭部を思い切りなぐりつけた。気をうしなったのを確認して、優子は屋外から藤木にきてもいいという合図をおくった。  藤木隆弘は、家に入ると亀吉の服をぬがせ、ダイバースーツをきせて舟艇にのせ、ワイヤーをゆるめて海にでた。洞窟のちかくにいくと碇をおろして船をとめた。潜水衣をきた藤木は、彼を起こし、気がついたことを知ると海中に飛びこんだ。  目を覚まさせられた亀吉は、優子から王国を視察にいくとつげられ、船縁から海につき落とされた。気がつくと身体にはロープが固くまかれ、先端は彼女とつながっていた。縄のながさは一〇メートル以上あり、ゾーンをこえた優子の心を読みとることができなかった。彼女のそばにはもうひとりダイバーがいたので、藤木だろうと推しはかった。  亀吉は、ふたりがなにを考えているのか分からなかったので不安はつのったが、王国を一度はみてみたいと思った。暗いなかを泳いでいくと、かすかに光る染みがみえた。ちかづくと、そこはいっそうあかるくなり、洞窟の入り口だと分かった。ふたりの姿はみえなかったが、ロープはそのさきに消えていた。彼は、胴体につけられた縄にひかれて、回廊状になった洞窟に入った。  そこは、海藻に覆われることもなく、砂も小石もほとんど消失し、だれかが断崖の岩肌に巨大なドリルであけた穴に思えた。亀吉は、右の壁に両手をつきながら、ゆっくりと回旋した。洞窟にそって歩くと、すこしずつあかるさが増してきて視界がひらけてきた。大きく右にまわると、彼は輝きのなかにいた。ホワイト・ホールの眩めきの場所だった。輝きは、とどまることができず、あふれでていた。  そこは、輝く巨大な場所だった。東京ドームの数倍はあると思われるひろい空間は、あらゆるところに照明がつき、信じられない眩しさに覆われていた。  亀吉は、ロープにひかれるまま、洞窟の中央部にいった。ダイバーたちが潮のながれに揺らめきながら、輪になってステップを踏んでいた。さらに中央には、周囲から一段とたかくなった黄金の舞台がみえた。そこには、優子をふくめると、四人の彼の妻たちが輪舞をおどっていた。  亀吉は、彼女を追って舞台にのぼった。そこで立ちどまり、自分が支配してきた世界をみまわして驚愕した。  みあげると、燦然とした猛烈な光の頂で枝分かれしながら、ゆらゆらと揺れる巨大な林立する紫の海藻がそびえ、海底には、輝く分厚い黄金がしかれている。交互にえんえんとあらわれてくる、背のひくいスパークをくりかえす群生するダイアモンドの紅い藻があった。これら三つのべつべつのものは、ひとときとしておなじ色をせず、刹那せつな微妙に予測不能な変化をつみかさねながら、心地よい潮のながれに揺らめいて、からみあっていた。兆でも京でもたらないくみあわせ、一期一会の眩めきのなかで、亀吉はぼうぜんと立っていた。  林立し、群生する海藻に海流がゆっくりとあたって戦ぐ音は、四方八方から襲ってくる巨大なオーケストラとなり、やわらかでおだやかな旋律をやむことなくつづけていた。  一〇メートルもある竜である海蛇、洞窟の緑の「主」は、そばによってきて、かつての王を憐れみながら静かにながめていた。  そのとき、周囲でステップを踏むダイバーたちの輪にまぎれこんでいた藤木が泳いできて、背後から亀吉を羽交い締めにした。すぐに優子が、かわって両腕を押さえつけた。手のあいた藤木は、背中に隠してあった大きなナイフをとりだし、亀吉のダイバースーツの前面部を切りさき、巨大な男根を切りとった。  夥しい赤い血が噴出し、紫と赤と黄金がスパークする領域を、紅にそめていった。かつての王の身体から、無限にふきだす血液によって、みわたすかぎりの世界は、解放の喜びを象徴する鮮烈な赤色にかわった。  亀吉は、舞台の真ん中で、のたうちまわっていた。  藤木は、かろやかなステップを踏んでいる羅姫のまえにいき、彼女の首に黄金のロザリオをかけた。 「おまえの夫を、おいていく。あとは、冥界の王とふたりで、いつまでも好きなだけ暮らせ」と藤木は声をかけた。  そのとき、羅姫は、目をかっとみひらいた。憤怒の表情で眉をつりあげ、藤木をみかえすといった。 「おまえは、私のものだ。わが王国の王子だ。おまえは、私のなかでうまれたのだ。逃がしは、しないぞ。私たちの王国に、永遠にとどまるがいい」  藤木は、驚愕の表情で立ちつくした。 「なにを、しているの。いくわよ」  優子が、藤木の背中をたたいて声をかけた。  もがき苦しむ亀吉をのこして、ふたりはいっしょに冥府をぬけた。  優子と藤木がでると、洞穴の光は急速にうせて、やがて暗黒の闇がおとずれた。王と女王をえた洞窟はかんぜんにとじられ、二度とふたたび、ひらかれることはなかった。  ふたりは、海面につくとボンベをすて、船にあがった。夏の日差しがさんさんと照りつけていた。  優子は、藤木を力いっぱいにだきしめ、胸に顔をうずめて涙をながした。  藤木隆弘は、彼女こそが、ほんとうに彼を理解してくれるパートナーだった。さがしつづけていた、真の花嫁だったと確信した。  大海の波に揺れる小船にのった藤木は、雲ひとつない日の照りかえしをうけ、全身を緑色にそめられて輝いていた。 そのとき、世界は更新された。  あたらしい英雄が、うまれたのだ。                                 海面下、一七一枚、了