螺旋のはざま 由布木 秀 一、明日香の恋 横川明日香は、ぼうぜんとして立ちどまっていた。 とうとつに出現した男は明日香の琴線に触れ、彼女がその甘いしらべに気がついたときには、もうべつの映像にとってかわられていた。目に映ったのは、やや紅い光沢のある黒いマホガニーの机におかれたコンピューターの画面だった。時間がたったためにアクセスしたサイトにかわって、内蔵された写真がスクリーンセイバーとしてつぎつぎと映しだされていた。彼女の目のまえを通りすぎた一枚の画像が、ふいに弦をはじいたのだ。 容姿のととのった若い男は、青いスーツに身をつつみ、誠実そうな柔和な瞳をむけていた。あかるい日差しをあびる屋外の風景のなかで、明日香にむかって微笑んでいた。男は瞬間に出現すると、すぐに石づくりの建物に変化し、つぎには砂浜がつづく海辺の情景に、さらに磨かれた紅いテーブルのうえの三つのグラスにおきかわった。そこには、白ワインがそそがれていた。背景として時々刻々と変化をつづける映像のなかには人の姿も何枚かあったが、彼女の心をふるわした男はもうでてこなかった。 横川明日香を姉として慕っていた後輩の山井由梨は、婚約不履行の被害に遭遇した。 事件が起こるすこしまえ、由梨は婚約者の永井翔治を明日香に紹介した。 そのつぎの日、翔治は彼女にメールをよこした。 「会って話がしたい。ふたりだけで。会いたい」 「由梨に連絡してください。あなたとふたりだけで、会うことはできません」 「それはだめ。彼女には、内密のことだから」 困惑し、幾多の戸惑いのあとで、明日香は由梨に電話で事情を話した。 「ああ。そうだったの。迷惑をかけたわね」 答える由梨の声には精彩がなかった。 それからしばらくして、永井翔治は婚約を一方的に破棄し、べつの女性との結婚を宣言した。おどろいた由梨は、彼に説明をもとめた。 「気がかわったのだから仕方がない」と翔治は答えた。 「離婚とは違うのだから、君がいうほどの大事ではない。婚約は、これからの一生を特定の相手とずっと暮らす状況を、現実の問題としてみつめなおす期間だよ。よく考えてみたら、君といっしょに生活する自信がなくなったんだ。よかったのじゃない、結婚しないで。婚約にしておいて正解だったよ。離婚だったら、おたがいにたいへんだったものね」 他人事として平然と話す翔治に、由梨は大きなショックをうけた。 「婚約を決めたときと、形式をおなじにして。ご両親といっしょにもう一度山井の家にきて、よく事情を説明してもらいたい」 由梨は、母親と相談してから翔治につたえた。 永井翔治は、「面倒だ」、「なにも、かわらないのに」とぶつぶついっていた。電話で幾度かやりとりすると、「けじめをつけましょう」と答えて、後日ひとりで家にきた。 由梨も母親も、すべてを一般論として勝手な話をする翔治にあきれた。 気儘な変心を責めてはみたが、こんな浮ついた気持ちの男を生涯の伴侶にはできないと思われた。ある意味、彼のいう通り結婚まえに本性が分かってよかったが、いっぽうで猛烈に腹立たしかった。 由梨が不実について正すと、翔治は最後に家族の話をした。 「お父さんが早くに亡くなられましたから、お母さんとのむすびつきは普通よりもずっとつよいはずです。つまり、ゆくゆくはいっしょに暮らす可能性がたかいですよ。ぼくは次男だから、この件は不利ですね。元気なときはいろいろと否定するでしょうが、実際になにかあったらだれが面倒をみるのですか。君のいう通り最初から分かっていたことでも、婚約したからはじめてじっくり考えられたのですよ。離婚ではないのですから、なにが問題なのか理解できません。破棄することが可能だから、ぼくらは、結婚ではなく婚約をえらんだのでしょう」 母親は、すべての原因をなすりつけられ、涙をこらえ切れなくなって席をはずした。 最後にふたり切りになったとき、翔治は、 「君が、明日香さんを紹介したのが悪いんだ」といった。 彼は、結婚するつもりだという女性の写真を由梨にみせた。 玄関の扉をしめるまで我慢していた彼女も、鍵をかけ終わると悔しくて泣きくずれた。こんな無神経な男と結婚するつもりだった自分自身が、情けなかった。 山井由梨は、年の暮れに横川明日香を自宅までたずね、嗚咽しながらことのしだいを話し、弁護士を紹介して欲しいといった。 気がすすまない由梨のきわめて個人的な問題だったが、明日香は根負けして、父親と相談した。最近、顧問弁護士のひとりにくわわった真田佳夫を教えてもらい連絡をとった。仲介役として、相談内容や日時を設定し彼女につたえた。 山井由梨が、母親といっしょに法律事務所に相談にいくと約束した前日の夜だった。 由梨からとつぜん電話があり、母が婚約不履行の件ですっかり鬱状態になり、とても見知らぬ人に会える状態ではなくなってしまったとつたえてきた。 「もう、申しわけなくて。なにからなにまでお世話になって、明日香先輩には頭があがらないのですけれど」とさかんに前置きしてから、由梨は彼女に同行を依頼した。 さすがに明日香も考えた。 その日は、真田佳夫に無理をいってとくべつに相談の時間をつくってもらった年明け早々の日曜日で、キャンセルすることはできなかった。彼女は、いっしょに映画をみにいくつもりだった友人にことわりの電話をかけねばならなかった。いきがかりとはいえ、ひどい話になったと後悔した。これを最後にしようとかたく心に誓いながら、彼女は由梨の姉がわりという立場で同席した。 真田佳夫の法律相談所は、都内の雑居ビルのなかにあった。 インターフォンで訪問をつげると、佳夫がでてきて部屋に案内された。扉をあけると、正面は大きな窓になっていた。ひろい室内の中央におかれたほそながいテーブルをはさんで設置された、窓がわのソファーをすすめられた。明日香は奥にすすみ、立派なマホガニー製の黒い机のちかくにすわった。デスクの後ろは壁一面に書棚が造作され、大小さまざまな本がびっしりとならんでいた。しばらくすると、佳夫が盆にのせてお茶をはこんできて、むかいあったソファーに腰をおろした。 山井由梨は、真田佳夫に婚約不履行の件を順序立てて話した。 聞きたくもないプライベートな話をする由梨のとなりで、明日香は所在なくだまってすわっていた。 それがひとしきり終わると、真田佳夫はいった。 「お気持ちはよく分かりますよ。しかし、そんな不実な男を夫にして一生苦労するより、さまざまな事件が起こるまえに本性が知れて、よかったと思うほうがいいでしょう。そう考えて、できるだけ忘れることです。不誠実な者と会って話をすれば、さらに傷つくのはあなたで、相手の方ではありません。訴訟に勝っても、えるものはなにもありません。人は、あらゆることを覚えているのです。つつけば、さらに嫌な記憶は鮮明になり、忘れられなくなります。人間とは、そういう生き物なのです。物理的な被害がそれでも最小限だった、歩いていて石につまずいたと思って、大怪我にならないだけ、まだ幸いだとして忘れることがいちばんです。そんな男とどんな形でつきあっても、疲れるだけで、腹が立つだけですよ」 由梨は、自分でも考えていたことを専門家に指摘され、すこし納得し、幾度もうなずいた。それで、ひとときの静寂が支配した。 間がもてずに本棚をながめていた明日香は、青い表紙の見覚えのある大型本に気がついた。 「どうか、なさいましたか」 彼女の様子をみて、佳夫が聞いた。 「書棚を拝見してもよろしいですか」とたずねると、「どうぞ」と答えた。 明日香は、立ちあがると、壁一面につくられた本棚にちかづいた。青い背表紙に思えた本は、光の加減でそうみえただけで、彼女には無関係なものだった。明日香が不審な気持ちで振りかえったとき、マホガニーにおかれたコンピューターの画面が目に入った。 そこに、あの男がいたのだった。 その男性に明日香が会ったのは、繁華街のレストランだった。 音大時代の友人たちと近況報告でもりあがっている最中に、ちかくのテーブルにすわった三人の若い男が、いっしょに飲もうと声をかけてきた。 彼らは、かなり酒が入っていた。 明日香は、「今日はこの通りの女子会で、私たちは仲間同士で充分に楽しくやっていますから」とていねいにことわったが、三人の男はしつこかった。 友人たちは、「またか」という感じですっかり白けていた。 はずんでいた会話も中断され、明日香はこまり、店の者をよぼうと思った。 そのとき、店員とは違う若い落ちついた感じの男がやってきて、 「もしかして、おこまりではないのですか」と彼女に声をかけた。 「じつは、こまっています」 明日香が相手の瞳をみつめて答えると、「そうなのですね」と念を押した。 彼女がうなずくのをみて、男は若い酔客たちに声をかけ、いらだち気味の三人とともにその場をはなれていった。品のいい、大人の男性だった。 どんな話になったのか分からないが、やがて三人の男たちはすごすごと帰っていった。 不自然なほどスマートな出来事で、あざやかすぎる感じがした。 もしかしたら今度は、さきほど止めに入った若い男が明日香を誘いにやってくるのだろうか。彼女にアタックするために仕組んだ、芝居だったのだろうか。 友人たちは、だれもが思った。 しかし男は、もうあらわれなかった。 「大丈夫?」 友人のひとりが、ややぼうぜんとしている明日香に声をかけた。 その男に違いなかった。 明日香は、みず知らずの通りすがりの者から声をかけられることも多かったが、外見しか関心がない軽薄な男たちを嫌っていた。しかし、こんなに素晴らしいチャンスを利用しない男性に興味をもった。爽やかさだけが印象にのこった。 間違いなく、その男だった。 真田佳夫とよく似ているとは思わなかったが、息子なのだろうか。家に帰ってからも映像が脳裏からはなれず、夢にまででてきた。はじめて味わう不思議な気持ちで、朝のコーヒーも、夜の食事も、なんの味もしなかった。悶々とした一週間がすぎて、明日香は真田佳夫に電話で面会を希望した。なにをどう話すつもりなのか、自分でも分からなかった。しかし、この不明な気持ちのままではいられなかった。 約束の日、明日香がインターフォンを押すと、事務員がでてきて案内された。 扉をあけて部屋に入ると、マホガニーの机にすわっていた真田佳夫が立つのがみえた。 ソファーにいたもうひとり男が立ちあがり、彼女をみると微笑んだ。 「こんにちは、明日香さん。お噂は、かねがねうかがっております。今日はちょっと用があって立ちよったのですが、絶世の美人がくるのだから待っていろといわれまして。こんな機会をみのがすのは罰当たりだと、くりかえし話されたものですから。図々しく、お待ちしていました。横川会長には、父がいつもお世話になっております。はじめまして。私は、息子の真田空人(そらと)です」 空人はそういって、右手をさしだした。 「はじめまして」とは、なんなのだろう。会っただけでも人は覚えていてくれるのに、言葉まで交わした男が、その場面を忘れてしまうだなんて。 明日香には、信じられなかった。 「あなたとは、お目にかかったことがあります」 彼女は、空人をじっとみていった。 「ああ、そうでしたか」 空人は、真面目な表情でいった。 真田佳夫も、真剣な面持ちで彼女をみつめた。 「あなたは、私をみて微笑んでいました。とても素敵な笑顔でした」 空人はその言葉で、さしだした右手をひっこめた。 明日香は、彼をじっとみつめてつづけた。 「あなたは、三つ揃いの青いスーツをきて、紅い縞模様のネクタイをしめていました。春の日の午後で、やわらかい日差しのなかで爽やかな風が吹いていました。気流にのって、満開の桜の花びらがゆるやかかに舞っていました。瀟洒なレンガづくりの家には、立派な門扉があって、右がわの道からすこし奥まったところに、大きな電動式のオーヴァースライダーのシャッターがみえ、そのアイボリーの色がとても素敵で」 「ちょっと、待ってください」 真田佳夫は、明日香の言葉を制した。 「それはもしかして、あの画像のことですか。そういえば、書棚のまえで振りかえったあなたは、ぼうぜんとしていました。ああ、そうだったのですか。それは、もしかして」 「そうです。その映像が気になって。恥ずかしいわ」 「今日のご用というのは、それだったのですか」 真田佳夫は聞いた。 頬を赤らめた明日香が小さくうなずくのをみて、佳夫は空人にいった。 「おまえの生家だ。二年まえ検事局に配属されたとき、あの家のまえで撮影した写真が、このなかに入っている。明日香さんは、ぐうぜんそれをご覧になったんだ」 「そうだったのですね。なにをいわれているのか、さっぱり分かりませんでした。では、あらためて」 空人は右手をさしだし、明日香と握手をした。三人でソファーにすわると、事務員がお茶をもってきた。 「あなたほど、おやさしい方は滅多にいません。私は仕事柄、たくさんの人とお目にかかってきました。先日は、感動しましたよ。あのお友だちは、音大の後輩になるのですか。幾分か、あなたを逆恨みしていると思いました。今日は、そのお話だろうとばかし考えていました」 「いえ。それは、大丈夫です」 その後、山井由梨との連絡はとだえていた。 「そういうことなら、こんな殺風景な事務所ではなく、どこか洒落たところにおつれして、食事でもご馳走したらどうかね」 「いえ、そんな。私こそ、先生にはたいへんお世話になって」 「あなたは、ピアノをひかれると、うかがっておりますが」 「ピアニストの才能はなくて、いまは院にすすんで音楽史を研究しています」 「専門は、どなたですか」 「チャイコフスキーです」 「素晴らしい。私は、彼の音楽がいちばん好きです。バレエ曲が素晴らしい。三大バレエのなかでも、眠れる森の美女はいちばんです。あなたは、まるでオーロラ姫です。意地悪な魔女にとんでもない呪いをかけられ、しずかに眠っている。あなたといっしょに、世界が眠りにつくのです。姫君を起こす、資格をもった男があらわれるまで。あなたは、なにがお好きですか」 「物語としては、くるみ割り人形がいちばんです。大切な人形を乱暴な男の子にこわされて、悲しみにくれる女の子。傷ついた、その愛おしいお人形を気遣っていると、やがて素敵な王子さまの世界につれていかれる」 「あの、もりあがっているお話の途中で申しわけありません。明日香さんさえよろしければ、お食事にお誘いしようかと思いますが、かまいませんか」 「恐縮します。お世話になっているのに」 「父こそ、裁判官をやめて仕事がないところを、会長さんにひろっていただいて。いくのはいいのですが、お父さんこそ、いっしょに食事がしたいのではありませんか」 「明日香さんは、おまえとの会食を希望されているんだよ」 「いえ、ごいっしょしていただければ、きっと楽しいと思います」 「ちかごろの若い者は、なんとやさしいのだろうかね。それでは私が、とっておきのお店をご紹介しましょう」 それで、三人でフランス料理をたべた。ワインも入って、話ははずんだ。 以来、すっかり明日香のファンになった佳夫は、空人に交際をさかんにすすめた。ひとり暮らしの彼をよび、彼女を自宅にまねき食事会をした。 妻の久江も、すっかり横川明日香を気に入った。 真田家のアップライトのピアノで、請われるままに「眠れる森の美女」の間奏曲をいくつかひく明日香は輝いていた。この日のために何年かぶりに調律したピアノフォルテは、最高の弾き手をえて、ながい眠りから目を覚ました。 「私たちは子供にめぐまれなかったけれど、明日香さんが空人と結婚してくれたら、いままでの悲しみは全部消えて、眠れる森の王さまと后になれるのに」 音楽を聴いたあとで、久江はケーキを切りながら、ふたりをみていった。 佳夫は、大きくうなずいた。 真田夫妻の希望がどこまでつたわったのかは、分からなかった。 幾度考えても、これほどの良縁はふたつとはなかった。空人は、もともと女性に関心がひくいのか、なにを思っているのか分からなかった。何度か会ったらしかったが、どう進展するのか、夫妻はやきもきしていた。 それがある日曜日に、明日香とふたりでやってきた空人は、とつぜん婚約の日取りを横川の家にいって決めるつもりだといいだした。そんな大切な話を、なぜまえもってつたえないのかと思ったが、善は急げということになり、四人で彼女の屋敷にでかけた。 真田空人が両親をともなって横川の家にはじめて挨拶にきたのは、よく晴れた日だった。 放射冷却現象で真冬の寒さがぶりかえした啓蟄のころで、到着を玄関で出迎えた横川光義は、真田久江がぬいだコートがごく普通の既製品だと確認した。 その前日、明日香が真田空人の来訪、それも婚約の件といいだしたとき、光義は心底おどろいた。真田弁護士の息子とつきあいはじめたのは、妻の良枝から聞いていた。しかし、婚約はまったく想定外だった。 「もうすこし猶予をもってくれないと、急すぎる」と彼はいった。 明日香は、光義がいなくてもかまわないとくりかえした。 「お父さんは、なにをやっても無礼なのよ。お願いだから、自分の行為をしっかり認識してもらいたいわ。あなたはいるだけで態度がすでに傲慢なんだから、言葉には細心の注意をして欲しいわ。できればなにもいわないで。ただ、すわっていてもらいたいわ。緊急の出張が入れば、いちばんいいわ。ゴルフにいったってかまわないし、病気になって入院しても文句はないわ。お母さんさえいれば、話はきちっとすすむのだから。お父さん、どこかにいってよ。そのほうが、間違いが起こらないのだから」 真田佳夫が以前は高名な裁判官といったところで、日本には現役が三〇〇〇人もいる。それに、いまは一介の弁護士にすぎないのだと光義は思った。それで仲人の話がでたとき、「法務大臣の幸坂さんは、どうだろうか」といってみた。 真田夫妻は息をのみ、そくざに「それだけは、やめましょう」と声をあわせた。そして、たがいの顔をみあわせた。 そのリアクションのはげしさに、光義ははじめて溜飲のさがる思いがした。 真田佳夫は、婚約が法的拘束力がない不要式行為であると説明し、仲人に同席してもらう肩肘ばった形式ではなく、たがいの家族の紹介というごくごく内輪の会がよろしいのでは、と一語一句を噛みしめて提案した。 そのとき光義は、自分の存在が充分に配慮された話しあいになっている気がした。婚約の日取りも、彼の都合が優先された。 「それでは、私のほうでホテルの予約を聞いてみますから」と真田佳夫はいった。 「大丈夫です、この日で。あけさせますから。いっぱいなら、適当な方をおいだしてもらいますから」と光義が答えるのを、佳夫は「はあ」といってうなずいた。 明日香は、額に手をあててうつむいていた。 真田夫妻が帰ったあと、彼女は光義の法務大臣発言に対して本気で怒り、泣いて自室にとじこもった。婚約式がちかづくにつれ、明日香の心配は端からみてもはげしいものになり、父親とは言葉も交わさない日々がつづいた。 二、婚約 花薫る五月も終わりにちかづいたある日の夕方、横川の家に久しぶりに輝一がやってきた。家族全員がそろった夕食が終わったとき、横川光義は話しだした。 「それにしても、空人君は家業をつぐ気にないのかね。三年つとめてくれれば、副社長を約束してもいいのだが」 それを聞くと、今年二六歳になる明日香は、顔を曇らせた。 「またその話なの。このあいだも真田さんがいらしたときに何度もむしかえして、閉口していたわよ。婚約のさいに、空人さんの意思を尊重するなんていっておきながら、約束違反だわ」 「それは、分かるのだけれど。実際に会って話をすると、ついでくれたらという気持ちがおさえ切れなくなるんだよ。彼のお父さんが、餃子の太郎、一瀬を創業した和也さんだったとは知らなかった。あの人は、ほとんど一代で全国チェーンをつくりあげたんだ。空人君は、その商才をうけついでいるはずだ」 「それは分かりますよ。なんていっても、彼は魅力的な男性ですからね」 長男の輝一が賛同した。 「兄さんは、だまっていてくれない」 彼女は、兄をみた。 ドラッグストアを全国展開して急成長した横川グループの社長、横川光義と妻の良枝には、惣領の長男、輝一と、長女の明日香というふたりの子供がいた。 三〇歳になる横川輝一は、変わり者で未婚だった。学業成績はよかったのだが、子供時代から小説家を志望し、親としてはさまざまに配慮し、精根つくして更生させ精神科医にさせたから跡継ぎを望むのはあきらめていた。 光義が期待したのは、間違いなく妹の明日香だった。 一流大学をでた才女で、一度出会っただれもが、容易には忘れられない美貌にもめぐまれていた。いずれ頭をさげて、ぜひ結婚させて欲しいという青年があらわれると確信していた。そうなったら、いうことをよく聞きそうな者なら、入り婿にして跡取りにしてやろうと考えていた。 光義は、大学院で音楽史を専攻する明日香が、ひょんな出来事から若い検事をみそめ、結婚を望んでいるらしいと聞きおよんだ。その折りも、しっかりとした法律の知識をもっているのも事業展開に役立つだろうと思った。彼の事業をつぐ気がまったくないと空人にすげなくことわられたときも、最初から欲や野望をむきだしにするのは、いまの若者でもやはりできないのだと考えた。輝一はとくべつな変わり者で、普通ではないので仕方がない。だれにとっても、横川の事業は魅力的なはずだと思っていた。すくなくともあらたまった席では、跡取りになれるのは「心がけしだい」くらいはいっておこうと考えていた。 「婚約式で、入り婿の話をかならずするって息巻いていたのに、あのときにいわないで。いまさら、なによ」 明日香は、空人にすっかり夢中で、このあきらかな原因によって結婚のイニシアチブを完全にうしなっているのは、彼にとって容認できない不愉快な現実だった。 「あのとき、思うことをすべて話して、ほんとうによかったのか」 光義は、幾分かいらだち気味に聞いた。 「かまわなかったわよ。もちろん真田さんは、ご自分のお仕事に誇りと情熱をもっているから、家業をつぐのが絶対の条件だってはっきりいえば、婚約にはならなかったかも知れないわ。でも、私はもうたくさん。お父さんは、恥ずかしいわ。家をでたいわ。いまだって、いっしょに暮らしているのは形だけだわ。お父さんは、どの程度分かっているの。横川の家が、ばらばらになるのは仕方がないことよね」 「家族が離散する」という明日香の言葉で、みんなが婚約式の出来事を思いだした。 やわらかい雨が満開の桜の花びらをぬらし、あわい霞が棚引いて視界をさまたげるある休日に、式は港区のホテルの一室を借りて行われた。 出席したのは、空人の両親、裁判官の真田佳夫と、久江。それに兄弟。双子の弟の小池海(かい)人(と)、妹の一瀬未知だった。 それが事件だったのだ。みんなが分かっている。あのとき、はじめて会った未知に、横川の家の全員が衝撃をうけたのだった。完全に気圧されたのだった。 「それにしても、噂には聞いていましたがおどろきましたね。空人君があんなにも好男子なのですから、妹さんの美貌もさぞかしとは思っていました。しかし、あんな人がほんとうにいるとは、知りませんでしたね。明日香とは、ぜんぜん違う美貌ですね。未知さんは、いったいどういう人の奥さんになるのでしょうかね。まさにトロフィーワイフとよんで、さしつかえのない女性ですよね。あの人といっしょに暮らしたら、世界はどんな風にみえるのでしょうかね。まったく、うらやましい」 輝一が嘆息まじりにいった。 「お父さんは、美人によわいからね。まったくだらしがなくて、なにもいえなくなってさ。おどおどして、いい年のくせにみっともなかったわ。未知さん、笑っていたわ。あのとき、なぜはっきり話さなかったのよ。明日香のいう通りだわ。いまさら、おそいわよ」 妻の良枝が、批判がましく口をひらいた。 その日、真田一家が先着する部屋に入ると、不思議な雰囲気がただよっていた。 かるがるしく話をするのもひかえられる、ある種の緊張感で、どこかで世界のバランスがくずれた無気味な感じだった。 あきらかに、中央にすわるひとりの女が関与していた。 なにをみたのか、光義はすでに不明確なのだが、魔的とも思える高貴さで、自分とその女性とのあいだに物理的以上の隔たりを感じた。まず、距離の感覚を狂わされていた。たとえるのは難しいが、聞いた話で参考になるとしたら、とつぜんにおそってきた持病の胸痛に顔をしかめる西施の物語だったかも知れない。その奇妙な状況を、だれも正確に表現できなかったから伝説としてのこったのだろうか。 美しいという好ましい状態は、つねに社会的にたかい階層に発生する。人は、社会的動物だといわれる。つまり人間のつくる世の中が、平等ではないと意味だ。階層が序列化され、上下関係に裏打ちされた世界を社会とよぶのだ。そうした人の世を望まないなら、神仙をもとめて幽玄たる山奥に隠棲するしか道はない。 階層化された社会では、つねに上位にあるものが、善であり、正義であり、真理なのだ。とうぜん美もそこに属し、美女はかならず上流にいる。もし下流におかれれば真理に反するから、すみやかに上界にひきあげられる。 歴史は、それをよく証明している。 勇者が相応の地位をえるためには、さまざまな困難にうち勝つ必要がある。 龍と闘い、身体のいたるところに消えない傷をつけられねばならない。周囲の嫉妬と不合理な屈辱に苦しみ、自分の影と血みどろの闘いをくりかえし、時間をかけて階段を一段ずつ這いあがって上流にたどりつく。 彼が目指す場所にいけたのは、勇者であるのを証明してみせたからだ。 しかし、美女は違う。 川で洗濯をしていても、孤児であっても、みいだされた瞬間には上流にいる。間違って下流にまぎれていただけだから、上界に入る権利をとくに証明する必要はない。 つまり、美女は発見されるのだ。 光義は男だから、美しい女性は大好きだった。 秘書は、若くて容姿のととのった者をえらんでいる。来客者がどんな用事で会長室にやってきても、まず受付で美女に出会い、お茶をはこんできた女性がさらに美しければ、すみやかに交渉に入れるし、解決もちかい。光義が取引先を訪問したときもおなじで、素晴らしい秘書が主人のかたわらに侍っていればうらやましいし、人事部長をよんで検討させることも考えなくてはならない。つきあいの場が円滑に進展するためには、美女は最良の装置に違いない。美しい者たちにかこまれながら声を荒らげる者がいれば、もうつきあう価値もないことがはっきりとする。 高級なクラブにいって美女にとりかこまれる瞬間は、心が穏やかになる。自分の過去を正当化するひとつの機会だった。そこにあたらしい美人がいるのをみつければ、髪型をみて、煌びやかな衣装がどう調和するのか考えるだけで、本来すごさねばならない虚しい時間がながれていく。目をひくのは、蛾眉、明眸、皓歯、楊柳、かも知れないが、こうした部分は美女の要素にすぎない。 しかし、どれほど綺麗にみえても、クラブの女性は限界をかかえている。彼女は、そこにすわる理由が存在し、どんなに隠されていても期待と魂胆がある。それが悪いというのではなく、仕事なのだから仕方がない。つまりクラブは、華やかではあっても下流なのだ。そこにほんとうの美人がいるなら、もちろん例外はあるにせよ原理的にはとどまれない。だれかにみそめられ、ひろいあげられ、素早く上流にくみこまれるに違いない。 美しい女性と出会う機会が多い光義からみても、明日香はたいへんな美貌だと思う。 器量からは銀座のクラブでもナンバーワンになれるし、家柄も育ちもよく、教養ももちあわせるから美人の条件を備えている。ひとつ足りないものがあるとすれば、憂い、つまり薄倖だ。西施、楊貴妃、スタテイラ。ほんとうの美人は、決して幸せにはなれない。長寿をえて、生涯を終えることができたなら、きっとそれほどではなかったのだろう。だから光義は、明日香が真の美人でなくても充分だと思っていた。 真田空人の妹としてだまって腰をおろしていた一瀬未知には、憂いがあった。聖女に思えたわけでは決してない。不可解で、一国を傾けるだけでは足りないかも知れない。薄気味悪いほど妖艶で、うちすててはおけず、気がついたときにはだれもが手をさしのべている。いうならば、無気味な存在だった。女の話などしたこともない輝一が、心をうごかすのもとうぜんだと光義は思った。 横川輝一は、早坂光一という同期の精神科医の物語をはじめた。 弟にミスワールドとの結婚話がもちあがり、条件は相手の家業、餃子のチェーン店をつぐことだった。 光一は、医者だから不適当と決めつけられ、きわめて不当な裁定だとなげいていた。 「もしかして、これ未知さんのことじゃないだろうか」と輝一は聞いた。 真田空人の両親は、彼が一五歳のとき、火災に巻きこまれて焼死した。それで空人は、父、一瀬和也の妹の真田久江にひきとられた。弟の海人は、母、麻美の兄、小池進太郎の養子にされた。妹の未知は、祖父、一瀬正志の養女になった。 しばらく考えていたが、明日香は「そうかも知れない」といった。 「たしかに、未知さんには縁談があるって聞いたわ。相手は、亡くなったお父さんの弟、餃子の太郎、一瀬のいまの社長、一瀬智治さんの夫人の、兄さんの息子さんで、普通の会社員だと話していたわ。奥さんの旧姓は、早坂だったと思うわ。未知さんは、おじいさんの養女だから、戸籍上は空人さんの叔母さんになるわ。だから結婚話の相手は、叔父さんの奥さんの、お兄さんの息子だけれど、戸籍では義理の兄の子供にあたるのかしら。私とは、どういう関係になるのかしら。親族ってややこしいわよね」 「世代が混乱すると、いっそう複雑になるね。あなたとは血がつながらないのですから、遠い親戚というべきだね。しかし、ぼくにも手をあげる権利はないのかな」 輝一がいった。 「可能性は、あるかも知れないわね。未知さんは結婚に興味がないから、うまくいかないだろうって、空人さんはいっていたわ」 それを聞いた父親の光義は、一瀬智治の男の子がつぎつぎに死んだ話を思いだした。 「一瀬にも、跡継ぎがいないのだ」と呟いた。 「だからあなた、どの家だって思い通りにはならないのよ。空人さんに、あまり無理なことをいってはだめよ」 妻の芳江が応じた。 「兄さんは、未知さんと結婚できるのなら、精神科の仕事をやめて、餃子のチェーン店をついでもいいわけなの」 明日香が、真剣な面持ちで輝一に聞いた。 「あの人と暮らせるなら、なんだってやるよ。会社の経営なんて、ある程度のブレインがまわりについていれば、難しくはないと思うよ。げんに、お父さんだってやっているのだから」 その言葉に、光義が怒った。 「おまえ。それは、ないだろう。だいたいこんな話になったのも、おまえの、おかしな頭のせいなんだ。人の家をつぐくらいなら、医者なんてやめて、うちの店をやったらどうだ」 「輝一の話は、お父さんに失礼ですよ。ほんとうに、あんたのせいでこんな状況になっているのですから」 妻の芳江も、光義に味方した。 「申しわけありません。でも、お父さんがですね、未知さんみたいな美人をつれてきてくれれば、ぼくは医者なんかすぐにやめて、あとを立派につぎます」 輝一は、光義をじっとみつめて真剣な表情でいった。 「だれが、おまえなんかに頼むか。せっかくきずきあげたものを、どぶにすてるのとおなじだ。大勢の社員が、路頭にまようことになる。経営っていうのは、たいへんなんだ。自分ひとりの問題じゃない。おまえは、医者くらいがちょうどいいんだ」 「そう、馬鹿なことをいって。あんたには無理です。お父さんは頑張っているのですから」 その妻の言葉にうなずきながら、光義がいった。 「やっぱり、空人君だよな。彼なら、うちのウェブサイトにのせても様になるしな。広告効果だってありそうだ。写真つきで社長の理念なんてのせれば、うちの店がいちだん高級になった気がするだろう。イメージは大切だからな」 「また、やめてよ。破談になるわ」 明日香がいった。 「そう、訴訟では絶対に勝てません。むこうには、腕利きの弁護士がついているのですから」と輝一が応じた。 「お父さんがしつこくいうから、真田さんはすっかり眠れなくなっているわ」 明日香の話に、みんながだまった。 どういうことなのかと、兄の輝一が聞いた。 明日香は、家族全員がこの話にひどく興味をもったらしいと感じた。 だまっていると、輝一が話したほうがいいといった。 それで弟の小池海人によって光のない部屋にとじこめられる夢を、最近ずっとみているという空人の話をした。 「かるいノイローゼ、なのだろうか。双子の精神構造はよく分からないけれど、なぜ、弟さんにとじこめられるのだろう。原因は、親父なのに」 「そんなことは、いっていない。いつ、そんなに追いつめたのか」 「思っている以上に、ナイーブなのかも知れませんよ」 芳江が、とりなした。 「じつは、さっきの早坂が、双子の精神構造を専門にしているんだ。すこし、あいつから聞いてみようかな」 「あまり大げさにしないでね。だれにも話さないつもりだったの」 「しかし、弟さんはそっくりだね。一卵性なのだから、似ていて当たり前だろうけど、瓜ふたつで、どちらがどちらだか、さっぱり分からない。言葉が不適切かも知れないけれど、無気味に思えるくらい酷似しているよね。しゃべり方もそっくりだし。海人君に挨拶の順がまわって、サングラスをとったときにはおどろいたよ。一瞬、混乱しましたよ。でも小池って、小池組なんだろう」 輝一がいった。 「そうなんだよ。そう、小池組なんだよな。若頭という話だった。一瀬は、グループの業容を拡大するときに、小池組の力を借りたんだ」 そう話して、光義はだまった。 都会で事業をひろげようと思えば、お金以外の解決法が欲しいと、経営者ならだれでも考えるだろう。一瀬が小池組と提携した理由は、ひと言ではすまないさまざまな事情があったのだろう。禁じ手だが、それだけに魅力的だった。どんな人間でも、自分が優位な立場にあると理解した瞬間から手のひらをかえして振るまうものだ。どうしようもなく我が儘な生き物にかわり、いいたい放題になる。そんなとき、お金以外の解決手段が欲しい。 「そりゃ、お父さん。ウェブサイトは、まずいんじゃないの。小池組の若頭とそっくりなんじゃ、なにを宣伝しているのか分からない。すくなくとも、庶民的な感じにはならないよ。それで、海人君にとじこめられるってことなのかな。空人君も仕事柄、だいぶ迷惑なのだろうか」 「つまり、おふたりは外見上、瓜ふたつだけれども、性格はまったく正反対ってわけなのね。空人さんは正義の番人で、海人さんは無法者っていうことに」 「よしてよ、お母さんまで。知らないわよ。海人さんのことはほとんど話さないし、私だって婚約式ではじめて会ったんだから」 「もっと、深刻な話があるかも知れないよ。たとえばさ、小池組がなにかやらかしているってことはないの。極秘なのだろうから、明日香は聞いていないだけで。内々の捜査が行われ、現実に海人君を逮捕する案件があるとか」 「そんな、馬鹿なこといわないでよ。ありえないわ。でも、海人さんを私に会わせなかったのは、納得がいかないことではあるのよ」 「空人君と海人君は、ぼくがみても区別がつかないが、明日香には、はっきり分かるんだ」 「もちろんよ。そうね。分かるはずだというべきかしら」 明日香は、すこし不安を感じた。 真田空人は、小池海人とは馬があわないらしかった。 明日香は、海人とは婚約式のときはじめて会って話をした。式が終了しホテルのラウンジにすわっていると、ぐうぜん通りかかった彼がかたわらにやってきた。 「滞りなく終わってよかったですね」と声をかけた。 「ありがとうございます。ようやっと、海人さんにもお目にかかれたし。お話は、かねがねうかがっておりました」 「お会いしたのは、はじめてではありませんよ」 海人は、真っ黒なサングラスをとると、じっと明日香をみつめ、それから笑いかけた。 「そうでしたか」 「そうです。もう、何度も会っていますよ」 「そうでしたか。それは、失礼しました」 明日香がすこし首をかしげてそう答えたとき、ちょうど空人がやってきた。 海人はサングラスをかけなおし、 「それでは、また、いずれ」といって、その場を去っていった。 「なにを話していたの」 やってきた空人が聞いた。 「天気の話、みたいなものよ」と明日香は笑いながら答えた。 海人は、なにをいったのだろう。遠くからみたことがある、といったのだろうか。 そのときふと頭をもたげた奇妙な混乱は、得体の知れない無気味な恐怖をともなっていた。空人とのあいだにはふたりだけの秘密がいろいろあるが、だからといって区別がつくと断言できるのだろうか。 「明日香にも微妙なら、未知さんには分かるのだろうか」 輝一はいって、それから大きな溜め息をもらした。 三、結婚 一瀬和也と小池麻美の婚姻は、はじめから周囲の者に祝福されたわけではなかった。 和也の父親、一瀬正志と、麻美の父、小池浩太郎はおない年だった。ふたりは、仕事ではふかいつきあいだったが、結婚にはどちらも反対した。 正志は、東大をでた長男の和也に大きな期待をよせていた。 仕事が大好きで思い切りのいいところも、自分にそっくりだと思っていた。この自慢の息子が姻戚関係をむすぶとしたら、みあうのは名士の娘以外に考えられなかった。具体的には地元の代議士、前法務大臣、神崎渉の次女が年齢からも相応しかった。彼は、後援会長を通して話をすすめていた。さまざまな便宜をはかり、ようやく正志の誠意が先方につたわり、好意ある反応をうけとった。見合いの日程が決まると息子をよび、この素晴らしい縁談について話した。 ところが和也は、「絶対にやめて欲しい」とにべもなくことわった。 女嫌いだとばかり思っていた息子の口から、指定暴力団小池組、組長、光太郎の娘、麻美の名前がでてきたときには、正志は仰天した。東京証券取引所に上場する予定をひかえた彼は、小池組とはできれば縁を切りたいと考えていた。それで、「そんな事態になったら、一瀬グループの未来はなくなる」と道理をとき、和也を諭した。 一瀬和也が小池麻美をみそめたのは、八年もまえだった。 和也は、大学を卒業してグループに入社した年、正志につれられて光太郎の屋敷に挨拶にいった。そのおり、一八歳になる麻美をみて、眩しいほどの美貌に憧れをもった。しかし、機会はおとずれなかった。それが二年まえ、仕事上の依頼があって和也は光太郎の長男、進太郎に会った。異業種で、考え方が根本から違うはずの相手に緊張して臨んだ彼は、意外にも意気投合したのだ。気さくな進太郎と幾度か会ってうちとけるうちに、さらに美しくなった麻美と再会した。 そのとき和也に、初恋の思いがあざやかによみがえった。 「極道者の娘なら、男の世界を充分に知っている。家から一歩外にでれば、男性には七人の敵がいて、生死をかけた鉄火場だ。男の仕事をよく理解し、どんなに苦しいときでも文句もいわずに家庭をしっかりまもってくれるに違いない」 それは、和也の理想だった。しかし現実問題として考えると、暴力団の組長の娘と結婚することには戸惑いを感じた。 和也が父親から見合いの打診をうけたころ、麻美の家には関東英和会の会長が訪問していた。 彼女は、同行した二八歳になる息子といっしょにお茶をのみ、世間話をした。 帰ると光太郎は、「どうだ」と聞いた。 そのとき、見合いだったとはじめて気づいた麻美は、男の軽薄で好色そうな顔を思い浮かべた。いつもぶらぶらして、博打と女にしか興味のない、がさつな男たちを彼女は軽蔑していた。上品で教養があり、なによりも家庭を大切に思う普通の家に育った男以外は、伴侶として考えられなかった。それで麻美は、「結婚させられそうだ」と和也にラインをおくった。 一瀬和也は、彼女と会った。 ふたりで自分たちがおかれている状況を整理し、あれこれと具体的な事例をあげて話しあううちに、たがいに相手が自分の理想だと確信した。 その場で和也はプロポーズし、麻美もそくざに承諾した。そして、「どんな困難があっても、ふたりで力をあわせてのりこえよう」と話しあった。 家に帰った和也は、正志に麻美と結婚すると話した。 「縁を切られれば、光太郎の舎弟になる覚悟があります」 彼は、思いつめた表情でいった。 「よく知っているつもりでも、相手は正真正銘の暴力団なんだぞ。警察にも、目をつけられている。将来、事件があったばあい、なにをいわれ、実際にどうされるのか見当もつかない無法者なんだ。よく、分かっているのか。つきあいはいまだけで終わらず、一生つづく。考えなおすべきだ。綺麗で気立てのいい娘は、いくらでもいるんだ」 正志は、強硬な和也の態度にたいへんなことになったと感じ、家族をあつめて話しあった。 裁判官の妻だった長女の真田久江も、とうぜんのごとく反対だった。 「あんた、なにを考えているの。真田は、あなたとつきあうことができなくなる」といった。 弟の智治は、「暴力団と血縁関係になるのは問題が大きすぎる。どうしてもというのなら、勘当して縁を切るべきだ」とつよく主張した。 和也は、麻美とつれだって小池光太郎のところにいき、 「お嬢さんと結婚させてください」と頭をさげて頼んだ。 光太郎は、思いもかけない展開に言葉をうしなった。しばらく考えてから、 「正志は、なんといっているのか」と聞いた。 「正直、賛成ではありません。でも、私は麻美さんを嫁にもらいたいと、つよく希求しています。麻美の意思も確認しました。正志がなんといおうと、決意はかわりません。勘当されたら、舎弟になります。伯父貴。みとめてください。この通りです」 そういって和也は、頭を畳にこすりつけた。 「おれは、おまえの伯父貴ではない。舎弟になって、どうするんだ。おまえは、一瀬の跡取りだから価値があるだけだ。そうでなかったら、たんなる屑で、仕事もないひょろひょろの優男だ。なにができる。どうやって生活する。親を説得して、でなおしてこい。話が成立するかはともかく、順序が目茶苦茶だ。自分の父親も説得できないで、相手の親が承知するはずがない。話は、それからだ」 浩太郎は、仕事上でつきあう堅気相手との結婚は不幸になると信じていた。和也と麻美をまえに、くりかえしておなじことをいった。 「堅気は、かならずトラブルを起こす。物事がうまく回転しだすと途端に豹変し、処女にでもなったつもりで振るまおうとする。自分は潔癖だと思いだし、ロータリーみたいな仲よしクラブに入って、心にもない社会貢献なんかを唱えはじめる。それが堅気というものだ。汚れた過去は全部相手に押しつけて、騙されていた善人のふりをする。一皮むけば落ちない汚れが染みついているのに。どちらかというと自分が悪党だと納得しない分、ずっと卑劣なのに、堅気とはそんなものだ。それくらいならはじめから悪徒だと知り、そこからぬけられないと理解している筋もののほうが、よっぽど善良だといえる。たがいに分かりやすく、関係はながつづきする。つれそうっていうのは、ながい時間なんだ。おまえたち、よく考えてみろ。結婚しても、不幸になるだけだ」 和也は、ふたたびもたれた家族会議で主張した。 「麻美は、極道者の世界で育っているのです。男の仕事についても、よく知っています。玄関からでていく夫に、石と金をうちあわせ、火花とともにおくりだしてくれるはずです」 「おまえ。それは、映画のみすぎだ。すべて、おまえの幻想だ」 正志は、あきれていった。 どういう説得も、熱くなった和也の心緒をかえることはできなかった。 長女の久江は、「本人の気持ちを尊重するしかない」といった。 次男の智治は、 「暴力団と身内になるのは、絶対に反対です。舎弟でも弟子入りでも、本人の好きにさせればいいでしょう。常識がなさすぎます。そもそも親の話を聞かないのですから、勘当にするべきです」とつよく主張し、正志に決断をせまった。 法務大臣とやくざでは天と地ほども違っていたが、麻美を最初に紹介し、もともとの原因をつくったのは自分だと一瀬正志は思った。身からでた錆で、因縁だろうと考えた。 正志は、光太郎をたずね、子供たちの将来について話しあった。 浩太郎は、先妻、清恵との一人娘だった麻美を溺愛していた。それで、彼女に押し切られた。浩太郎にとっては、小池がわが譲歩したのを形にのこすのが大切で、いくつかの条件をつけた。 「妻に先立たれた一瀬正志が、和也、麻美の夫婦と同居をしない。ふたりのために、立派な新築の家を用意する。産まれた子供を、ゆくゆくは一瀬の跡取りにする」という三つだった。 和也と麻美は、周囲の猛反対を押し切って結婚した。 ふたりは、両家のだれもが不適切だと考えた相手をたがいに伴侶とした。みんなが一様におどろいたが、本人たちも例外ではなかった。ふたりは、自分たちの意思が最優先とされ、着々と進展していく結婚への行程に興奮した。半信半疑のなかで、おどろきは喜びにかわった。 「まっとうな社会で育てられ、充分な教育をうけた男性と結婚できるなんて、まるで夢物語だわ。夢はくりかえしみたけれど、現実になるとは一度も考えたことはなかったわ」 「二二歳のときに一八歳の君をみそめて、結婚するならこの人と思った。とはいっても、住む世界が違うからいっしょにはなれないだろうと考えていた。さまざまな女性に出会ったけれど、あのときの衝撃に匹敵する人はいなかった。君は、あわい黄色い柄の和服をきて、可憐な水仙にみえた。無骨な男たちにかこまれ、子供のころ映画でみた藤純子にそっくりだった。その憧れていた人が、ぼくの妻なんだ。仕事を頑張るよ。君に、苦労をかけさせることは決してしない」 ふたりは、人もうらやむ理想のカップルだった。 麻美の妊娠が分かったときには、和也は有頂天だった。 彼女も子供が嫌いではなかったが、子育ては不安だった。 和也の母は、すでに他界していた。 一瀬和也の弟、智治はまだ独り者だった。彼は、ふたりの結婚に最後まで反対をつづけ、小池の家にいだくあきらかな敵意を隠すことはなかった。 和也のふたつ年下の妹、久江は、裁判官の真田佳夫に嫁いでいた。子供にはめぐまれていなかったが、協力をあてにするのは難しそうだった。 小池浩太郎は、麻美の母とはすでに別れ、二五も年がはなれた玲子を後妻にむかえていた。 彼女は派手好きな女で、「子供は、嫌いだからね」とはっきり拒絶していた。 浩太郎と同居する兄の進太郎夫妻には、三歳の男の子がいた。妻の美和は親分肌で気風のいい、いかにも筋ものの女房で、「こまったときには、なんとでもする」とはいってくれたが、実母とは違うのだから限界があると思った。 超音波検査のあとで、「お腹の子供は、双子で、順調に生育している」と麻美は医師からつげられた。 「ひとりでもたいへんで、どうしたらいいのか分からないのに、ふたりなんてどうやって育てていくのだろう」 彼女は、不安になった。しかしその話を聞いて、和也はさらに舞いあがった。 「双子を産むなんて、君はなんて素晴らしいのだろう。ぼくたちの愛が普通の人の倍だと、身をもって示したんだよ。結婚したって、こんなに幸せになれるカップルはたくさんはいないよ」 和也は、身近でうまくいっていない例をいくつかあげた。 「君は、すべての望みをかなえる愛の女神だ。ぼくは両手に可愛らしい天使、アモールをかかえ、さらに目のまえにはヴィーナスが待っている。一歩外には敵がいても、家のなかは愛が満ちあふれている」 麻美は、すこし違和感を覚えた。 「双子を育てるのは、普通の倍以上にたいへんだっていうわ。経験のある人は、もう二度と御免だと話すわよ」 「なんとでもなるさ。元気に産まれてさえしまえば。君には悪阻もないし、機能的にも最高の女性なんだ。案ずるより、産むがやすしだよ。正志のところではたらいている、土師さんの夫婦に協力を依頼するよ。旦那の昇さんは、無口ですこし無気味な感じもするけれど実直な方だよ。奥さんの良枝さんは、人をつかうのがうまいんだ。それでも人手が不足なら、家政婦を随時やとおう。人の手があればなんとでもなるよ。双子は、子育てがいっぺんにできて効率的だっていう話も聞くしね。あとから振りかえれば、たいへんなときがじつはいちばん幸せというのは、よくあることだよ」 最後まで悪阻がなかった麻美の妊娠は、順調に経過した。 早期に入院し、三二週で誘発して元気な男の双子を出産した。出生時体重は、どちらも二三〇〇グラム以上あった。念のため一ヵ月、入院をつづけた。自宅に帰ってくると、土師夫妻に世話をお願いし、チームには適宜、家政婦がくわわった。ふたりの子供はよく泣き、うるさかったが元気だった。首がすわってしばらくして、体調をくずした土師夫妻が正志のところに帰り、日中は家政婦が対応した。 和也は、約束通り早めの帰宅を心がけた。たいへんだとは分かったが、それでも予想の範囲内だと考えていた。 「ふたりの仲がとんでもなく悪く、なにもいっしょにできない」 「どっちの子も、乳首に噛みつくのよ。どんなに叱っても、やめないのよ。きっとこの子たち、ふたりで私をたべてしまうつもりなんだわ」 麻美は、くりかえしこぼしていた。 しかし和也は、なにが問題か分からなかった。彼は、子供が大好きで、育児にも最大限協力する理解ある夫として振るまおうとした。しかし、その望んだ子のことで喧嘩になるとは考えてもいなかった。 寝返りをはじめると、いまがいちばんたいへんなのだろうと思った。はいはいしてうごきまわり主張をもちはじめると、もうすこしでこちらのいうことも分かるのだと信じた。しかし冷静に振りかえって考えてみると、ただただ尋常でない騒ぎの毎日で、しだいにたいへんになるいっぽうだった。これが楽しい子育てというものなのかと、和也は思いはじめていた。もちろん麻美には同情していた。夜でもこの状態なのだから、家政婦がいつまでいてくれようが、心の休まるときがあるとは思えなかった。しかし、なんでこんななのだろう。家に帰るのが待ち遠しいという話はあっても、苦痛だとは人から聞いた覚えはなかった。双子を同時に育てるのは、こんなにもたいへんなことなのだろうか。 家に帰ってきた当座はまだよかったが、体力がつくにつれて泣き声はしだいに大きくなった。そう感じると、その声音は和也をいらつかせるものにかわった。周囲が分かりはじめると、ふたりはいっしょにおくことができなかった。 麻美は母乳がでたが、うばいあいがあまりにもはげしく、三ヵ月で哺乳瓶にかえた。 「なんで、こんなに泣くんだろう」 和也は、彼女に聞いた。 「この子たち、腹を立てている。理由は分からないけれど、ふたりとも、ものすごく怒っているみたい」 麻美は、困惑した表情で答えた。 「まるで、敵同士」 麻美は、ふたりが母親の愛情をうばいあうというより、生き残りをかけた熾烈な戦いをしていると感じた。どうして、こんなに仲が悪いのだろう。なにがあったのだろうか。ふたりをみるたびに、麻美は考えていた。 「お願いだから、ぼくの世話をして欲しい。あちらは、どうでもいいから」 最初は、こういっているのかと思った。しだいに、 「どうか、いっぽうにはかまわないで。あいつを、どこかみえない場所につれ去って、ぜひとも、この世から抹殺して欲しい」 麻美は、もっとずっとはげしい主張なのだと気づきはじめた。 子供たちは、あきらかにたがいに憎みあっていた。 ふたりをいっしょにだくなんてとんでもなかった。麻美と和也がべつべつにかかえても、そばにいればたがいをみて泣きつづけた。おなじ部屋で片方だけをだけば、もういっぽうは狂ったみたいに泣きわめき、挙げ句にはちかよってきて噛みつこうとする。ベビーベッドをならべておけば、たがいにずっとなじりあっている。あいだに柵がなければ、とっくみあいになる。うごきは緩慢で、ふたりでじゃれているようにみえるが、実際には、噛みつき、ふみつけあっている。その姿は、麻美の精神をさいなみ、絶望的な気持ちを起こさせた。 和也の家は平屋で、部屋は、リビングルームのほかに六つあった。 なるたけはなれたべつべつの和室にベビーベッドをおいて、扉をしめておくしか方法がなかった。それでも片方をあけると、もういっぽうは雰囲気を察して号泣をはじめた。泣くのは仕方がないことだったが、理由が分かるとやり切れなかった。ふたつの扉をあけておくと、たがいにベッドの柵をつかんで立ちあがり、はなれた相手にむかって号泣をつづけるのだった。ステレオになって聞こえる大音響は、自分の意見を通してくれない親の不親切を責めていた。さらなる問題は、それが際限なくくりかえされ、いつやむとも知れないことだった。 応答のないチャイムをもう一度鳴らし、しばらく待っていた田川麗香は、どうしようかなと思った。すぐに応じられない家庭は珍しくはないのだが、はっきりたしかめてみようと考えたのは虫が知らせたのだった。門をあけて庭に入り玄関の扉のノブをまわすと、鍵はかかっていなかった。 「こんにちは。田川です。一瀬さん、いませんか」 わずかに扉をあけて、なかにむかって声をだした。 「こんにちは。保健婦の田川です」 田川麗香は、もうすこし大きな声をあげてみたが、とくに音は聞こえなかった。 それで、これ以上は仕方がないと思って扉をしめた。戸締まりを忘れただけかも知れないし、このあたりの新築の家には警備のシステムが入っているばあいもあり、作動して騒ぎになったらたいへんだった。 「なんで、扉なんてあけたのだろう」と気まずい思いに後悔しながら門をしめた。 「どうかしましたか」と背後から声をかけられた。 振りかえると、門の脇に若い男が立っていた。 彼女は、どぎまぎした。 「どなたです」 「私は、この家の者です。あなたこそ。どなた、なのですか」 男は、すこしいらだち気味に答えた。 「ああ、一瀬さんの旦那さんですね。よかった。こんにちは、保健婦の田川といいます。双子ちゃんの係をしています」 麗香は、にっこりと笑って答えた。 「それは、どうも。いつも、お世話になっています。もう、終わったのですか。育児がこんなにたいへんだとは、思いもかけませんでした」 男は、途端に恐縮していった。 「いえ、今日の午後、うかがうお約束をしていたのですけど、用事があったみたいですね。どこかに、おでかけなさったのね。ちょっと気になって、のぞいてみたのです。扉があいたままで、こまっていたのです。ご主人が帰ってきてくれて、よかったです。ほっとしました」 「そんなはずは、ありません」 そういうと、男は門をぬけて鍵のかかっていない玄関をあけ、中扉を押して部屋に入った。 麻美は、居間のソファーの下に倒れ、そばにふたりの子供が眠っていた。 「もう限界です。子供たちは、ずっと泣きつづけています。もうだめです、助けてください」 三時間まえに、和也はメールをうけとった。 着信があったのは会議の最中で、なんとかぬけだして電話をかけたが、よびだし音が鳴るばかりだった。彼はいらだっていた。仕事中に急ぎとも思えない電話がつづき、ふたりはいい争いをしていた。 「生き死にに関する緊急事態以外は、こちらも仕事だから連絡しないで欲しい」 そうつよくいったのは、昨日だった。それでこんなメールをおくって、さらに電話にもでない麻美が挑発していると感じた。しかし腹立たしく思ういっぽう、猛烈に心配でもあり、どうしようかと考えたが気になって集中できなかった。これでは、仕事は無理だと感じて帰ってきた。ほとんど、喧嘩するいきおいだった。 「あんまり泣きやまないので、私、思わず、ひっぱたいてしまったのです」 「だれを」 麗香は、聞いた。 「あっちの子です。右です」 「あ、ほんとう。この子の頬、たしかに真っ赤になっているわ。どっちなの、空人ちゃんなの」 「分からないのです。私、どちらがどっちだか、区別がつかないのです。保健婦さん、こんなことって、あるのでしょうか。私、もう母親失格なんです。だってふたりの区別がつかないのです。こんな、母親っているはずがないですよね」 麻美は、泣きながら話しはじめた。 「家政婦さんも、もう嫌だって帰ったのです。三人目です。どこか、おかしいっていっていました。手におえないって。私も、そう感じます。この子たち、仲よくしようなんて、ぜんぜん思っていないのです。こんなに似ているのに、なぜ嫌いあうのかしら。双子なんて、産まなければよかった。人間はひとつのものなのに、ふたつだなんて神さまが許さないのだわ。産んだ私に区別ができないだなんて、おかしくなったのです。結婚しても不幸になるだけだって、父がいっていたのが正しかったのです。あたし、育児手帳をどちらにつけたらいいのかも分からないのです。もう私、だめなんです。夜も、ぜんぜん眠れません。何日も、食事もしていません」 げっそりとやせた麻美は、すっかり窶れていた。保健婦でなくても、いちばんぐあいが悪いのは彼女だとすぐに分かった。 泣いている麻美をなだめた麗香は、台所に和也をよんで、いった。 「べつべつに育てるしか、方法はないかも知れませんね。奥さん、かなりのノイローゼです。このままではぐあいが悪いです。私も一瀬さんの双子ちゃんのことは、まえから気になって仕方がなかったのです。だから今日も、いないのを何度もたしかめたりして。でかけたのかと思って、気分転換ができて、いい傾向だなって考えていたんです。ご主人、なにか方法をみつけなくては」 「分かりました。お話の通りだと思います。ずっといっしょにいるのに変だとお思いでしょうが、あなたにいわれるまで、妻がノイローゼだなんて、ぜんぜん気がつかなかったのです。なんだか私も、もうすっかりわけが分からなくなっていて。どうしたら、いいのでしょうか」 「ご主人が仕事を休んで育児を手伝っても、解決にはならないでしょう。奥さん、何日かでも入院したほうがいいかも知れません。一瀬さんの家庭のばあいは、とてもまれなケースで、おふたりを、おなじ場所で育てるのは、難しいのではないのかしら」 「双子では、こんなこともあるのですか。どこか、おかしいのでしょうか。なぜ、こんなにも仲が悪いのでしょうか。こんなことって、あるのですか」 「発達に異常はないです。言葉がおくれているのは、双子さんのばあい、とくべつかわったことではありません。なんの問題もありません。このあいだも脳波をとりましたよね。正常だっていわれたのでしょう。精神的な問題は、もうすこし大きくならないと判断ができないだろうと、奥さんから聞いています」 「ふたりは、憎みあっているみたいです。なにひとつ違わないことを基本に、まったくおなじに、育ててきました」 「そうですよね。私も、知っています。麻美さんは一生懸命やってきましたし、間違ったことはしていません。このケースは、たいへんまれだと思います。空人君と海人君は、たがいにつよい嫉妬心をもっている気がします。自我が形成される年齢ではありませんから、憎しみなどという感情ではないと思いますけれど、我慢はできないし、なにかを教えることも無理でしょう」 空人と海人の泣き声がひどくなり、一瀬和也と田川麗香のふたりが居間にもどると、妻は床でぐったりしていた。 「麻美」 和也が、声をかけたが返事はなかった。 「おい、大丈夫か」 和也は、さらに声をかけ、上体を揺すった。 麻美は、ぐったりしてうごかず、気をうしなっていた。麗香が脈をとったが、微弱だった。顔面は蒼白で、冷たかった。 「たいへんだわ、ショックを起こしている」 麗香は、大声で叫び、すぐに救急車をよんだ。 一瀬麻美は、そのまま緊急入院となった。麻美の入院は、予想外にながびいた。当初はだれもが一週間程度と考えたが、一年半にわたる双子の世話に、心身ともに疲れはてていた。まわりに迷惑をかけることを恥じて、不完全なままに育児に復帰しようとして、さらに何度も体調をくずした。麻美は、母親としての自分を責め、育児ノイローゼからうつ病を引き起こした。 四人での暮らしを何回か試み、結局入院になる事態をくりかえした。 「麻美の健康をとりもどすのが先決」と周囲の者の意見が一致し、「体調が万全になおるまで親族で子供をひきとろう」という結論に達した。 空人は、和也の妹、真田久恵にまかされた。子供にめぐまれなかった夫婦に可愛がられ、とくべつな病気をすることもなく大切に育てられた。 海人は、麻美の兄、小池進太郎にひきとられた。祖父の小池浩太郎のお気に入りになり、子供嫌いを自称する玲子にもよくなついた。 「はじめて可愛いと思った子供だわ。綺麗な顔をした不思議な子だね」と玲子はいった。 進太郎の息子、涼とは四歳違っていたが、仲がよく喧嘩することもなく、みんなに好かれた。 四、双子 和也は、麻美がすこしよくなって退院し家に帰ると、無尽蔵にある仕事を切りあげ、できるかぎり早く帰宅することを心がけた。食事の用意は負担になると思われたし、日中ひとりでおいておくのも心配だったから、土師夫婦にきてもらった。子供たちのことは気がかりだったが、空人も海人も、真田と小池の家に馴染んで問題なく暮らしていた。子供の話題は心の負担になるので、しないほうがいいと医師にいわれ、和也も会いにいくのはまれだった。 麻美は、ちょくちょく病院通いをつづけていた。そうこうするうちに、彼女はふたたび妊娠した。麻美は、また双子が産まれるという幻想にとりつかれた。 「もう産むのは嫌だ」と彼女はくりかえしいった。 超音波で幾度もしらべ、ひとりであることを説明しても、麻美は納得しなかった。 和也も気になり施設をかえて検査したが、間違いなく単胎妊娠で、たぶん女の子という見立てはかわらなかった。麻美のかかりつけの医師に相談すると、「産まれるのが女児なら、かかえている大きな喪失感をうめてくれる可能性がたかいだろう」といった。 和也は、彼女を説得した。 「女の子ならいいけれど、それでも双子だったらどうするの」 「以前も、診断は正しかったよ。どこでしらべても今度はひとりで、たぶん女の子だといっているよ。きっと、そうじゃないの」 「あなたが、双子を希望したのよ。だから、産まれたのよ」 「そんなことはない。双子だと分かって、喜んだのは間違いないけれど」 「あなたは、魔法をつかう。口でなんといっていても、心で念じさえすればなんでも思い通りになってしまう。だからいまはひとりでも、また双子にかわるわ。あなたは、効率ばかりもとめるから。私は、大切に育てたいのに」 「もう、双子はこりごりだよ。麻美と、おなじだよ。希望など、していないよ」 「ほんとうなのね。それでも双子が産まれたら、どうするの」 「片方は、すててもいい」 和也が答えると、彼女はようやく納得した。 麻美は、悪阻がないままに妊娠の期間がすぎ、女の子を産んだ。彼女に似た綺麗な可愛い子で、未知と名づけた。麻美は、娘に夢中になった。 和也は、土師夫妻に手伝いにきてもらい、未知と三人の家族をもった。ようやく麻美から解放され、仕事に専念できた。事業は順調で、面白いくらい続々と支店ができ、チェーン店が全国にひろがっていった。 「進太郎さんには、迷惑ばかりをおかけしています。子供は可愛いとは思いますが、ほんとうの恋人は仕事なんです」 和也は、ふたりで酒を飲む機会があるといった。 「男とは、そういうもんだ。女は、家をまもっていればいいんだ。妹のことは、申しわけない」 進太郎も、相づちをうった。 麻美は、未知の養育をつづけるうち、自信をとりもどした。土師夫妻にも帰ってもらい、妻が食事をつくって夫を待つ、普通の生活をはじめた。 その暮らしは、和也が結婚のときに望んでいたもので、一瀬の家にあかるさがもどった。未知をつれて三人で、空人と海人をたずねることもはじめた。 和也と麻美は、子供たちが小学校に入る年、やりなおそうと決意した。大恋愛の末に困難のなかで結婚したのだから、家族五人でいっしょに暮らしたいと思った。 空人、海人も、聞き分けができる年齢になっていた。 「育児は完璧を目指さず、成り行きにまかせたほうがいい」との医師からの助言もあり、周囲の者も賛同した。 和也は、麻美の無理がいちばん心配だったから、土師夫妻に依頼し、いっしょに暮らしてもらうことにした。同居にさきだち、空人と海人には、さまざまな検査をうけさせた。脳波、MRIなどの理学的な所見も、小児精神科での精神面の診察でも、とくに異常はみとめられなかった。 「心が成長するまで、様子をみまもるしかありません」と医師はいった。 空人と海人はべつべつに育ってきたのに、小学校に入るとさらに似てきた。もうどちらがどちらだか、さっぱり不明だった。 麻美は、分からなくなると小池の実家の話をした。海人にしか理解できないはずだったが、それでも空人が口裏をあわせているだけのようにも感じた。話し終わってじっとみると、彼女をみつめかえしている特定不能な子供がひどく無気味に思われた。はっきり分かるために色の違う服をきせたが、勝手に衣類を交換すれば、麻美でさえも空人と海人を区別できなかった。 ふたりは、相かわらず仲よく遊べなかったし、よく諍いを起こした。とはいっても、一定のルールがあるらしく、たがいに悪口やつげ口はいわなかった。会話を交わすは、ほとんどみかけなかった。彼らは、ふたりのあいだだけで通用する秘密の言葉をもち、たがいになにかしらは理解しあっているようにみえた。友だちともべつべつに遊んでいたが、なにがほんとうかは分からなかった。 そんな暮らしをはじめて三ヵ月くらいがたったころから、「ぼくどっち」がはじまったのだ。 「お母さん。ぼくは、どっち。海人。それとも空人。この服をきているのは海人。でも、空人と交換した。そう海人。違うよ、ほんとうは空人。なぜ分からないの。お母さん。ぼくはどっち」 「小池のおじいちゃんの部屋には、大きな仏壇があったよね」 「お母さん。そんな話をしてもだめ。やっぱり分からないんだ」 「あれは、海人」 未知は、いった。 「どうして、お母さんには分からないの」と男児が聞いた。 「いまのも、海人」 「どうして分かるの」 麻美は、未知に聞いた。 「だって、海人なんだもの」 「ねえ。それじゃ、ぼくはどっち」 今度は、空人の服をきたのがでてきていった。 「また、海人」 未知がいった。 「なんで、分かるの」 「だって、海人なんだもの」 「未知。どこでみ分けているの」 「お母さん、怖い。だって、空人と海人は違うんだもの」 未知は、詰問する麻美に泣きだした。 「なんで、お母さん。分からないの」 海人の服をきた子がいった。 「お母さん。分からないんだ」 空人の服の子がいった。 「お母さん。ぼくは、自分を、分かってくれる人と結婚したい」 海人の服をきた子はいった。 「そう、すればいいわ。もう、むこうへいきなさい」 麻美はいった。 禁止をもとめる彼女の懇願を無視して、「ぼくどっち」は執拗にくりかえされた。 和也は、ある日の午後、土師昇から、「麻美さんが自殺未遂をした。すぐ病院にきて欲しい」と連絡をうけた。あわてふためいて病室にかけつけると、麻美は鎮静剤で眠っていた。医師から病態についての説明をうけたが、彼にはよく理解できなかった。 麻美につきそっていた土師は、和也に屋上にいこうといった。 「麻美さんは、空人さんと海人さんを紐で自分にしばりつけて、池に飛びこもうとしたのです。何日か、様子がおかしかったので注意していたのです。池のまえで紐をつかってふたりをしばりだしたので、どうするつもりなのか聞いてみいました。すると、片方は死なないはずだから、どちらなのか決め、本来のひとりにもどしたいと話されまして。どうやったら分かるのですかと聞くと、和也さんが溺れさせてみろといったと答えました。それで麻美さんをとりおさえて、救急車をよんだのです。きてくれたみなさんには、狂乱したとだけつたえてあります。事実、ものすごく暴れましたから」と土師は小声で囁いた。 「今日、湖に白くて首のながい鳥が二羽いたのよ。白鳥だと思うでしょう。でも、嘴の形が違うからペリカンなの。それが、自分の胸をつついて血をながしていたの。そのうちに、今度はたがいに小突きはじめて、たべあって、それから一羽のペリカンにかわったの。それで思ったのだけれど、正しい者と間違った人がいるの。ふたりは、きっと神さまと悪魔なの。だから、死なない者と死すべき人がいて、どちらがどっちだか、どうしたら分かると思う」 和也は、前日、全国で二〇〇番目の出店祝賀会があった。溺死するほどに酒をのみ、完全に酩酊しておそく帰宅した晩、麻美は真剣な表情で聞いた。 「溺れさせれば、分かるのじゃないのか」 朦朧状態で寝間着にかえてベッドにもぐりこみ、気をうしなう寸前に答えた記憶がのこっていた。 「思いあたることがあります。ご迷惑をおかけしました。土師さんには、お世話になりっぱなしで、どう、ご恩をおかえしていいのか分かりません。そうすると、麻美とあのふたりが、ともに暮らすのは難しいのですね」 「たぶん、だれもいっしょには暮らせません。とても危険です。ただ、麻美さんがおかわいそうで」 土師は、そう答えた。 和也は、真田久江と小池進太郎に頭をさげ、事情を話した。以前と同様に、空人と海人を育ててもらうことにした。 和也夫妻は、それから四年後、ふたりが一〇歳になったころから、年に一〇日間だけ家族五人ですごしはじめた。暮れから正月にかけて、軽井沢の別荘に空人と海人をよんだ。このときには土師夫妻にも頼んで、買い物や料理など家事を手伝ってもらった。 家族五人がいっしょに正月をすごすためにたてられた軽井沢の別荘は、三階が円形の尖塔になった瀟洒で風変わりな建物だった。 一階は浴室とダイニングキッチン、空人と海人の部屋のほか、土師夫妻の寝室がつくられていた。家の中心には、ひろいリビングがあった。テレビやソファーのおかれた居間の中央に、洒落たスケルトンの螺旋階段が三階まで真っすぐに伸びていた。一階の天井は通常よりもずっとたかく、二階に和也と麻美の部屋がつくられ、尖塔部分にあたる最上階に未知の寝室があった。リビングからみあげると、黒い鋼板製の螺旋階段は、ゆるやかかに回転しながら、はるか彼方にまでつづいてみえた。 素案をだした麻美は、設計のデザイナーにいった。 「未知は、天上に住むお姫さま。勇者がやってきても、宝は簡単に手に入らない。まもっている龍を倒して、ずっとつらなる、螺旋の階段をのぼっていかなければならないの」 和也と麻美は、日中はほとんど一階の居間ですごした。しかし、夜は二階にあがって寝ていた。 空人と海人は、黒く輝く螺旋をつたってうえにのぼるのは許されていなかった。 とくべつな用があれば、つながるインターフォンをつかうし、緊急ならば階下から二階にむかって大声で叫べば聞こえる。もちろん土師に依頼すれば、つたえてもらうこともできた。 食事のときは、空人と海人はたがいにテーブルのいちばん端にはなれ、あいだに両親と未知がすわる。母と娘が買い物にでかけていなければ、和也ひとりが真ん中で、沈黙と静寂につつまれた勤行の食堂にかわった。 別荘で暮らすにあたって、いくつか約束事があった。 「ぼく、どっち」は、決してしないことはもちろんだったが、なにかしゃべるときには、まず自分の名前をつげる。空人は青系統、海人は赤系統の服をきる。勝手に変更するのは、厳禁、等々だった。 こうした諸規則によって秩序はたもたれていたが、ときどき悪戯が起こった。 くだらない事件だったが、幾分か実害をともない、みのがせないものだった。たとえば、雪玉をつくって窓のガラスを割るとか、干してあった洗濯物を鋏で切るとか。そうした愚かしい事件を起こすのは、海人の仕業だった。理由はさっぱり分からないが、乱暴はしばしば起こった。麻美が大事に育てた鉢植えを割ってしまったり、読みかけになった和也の本のページをやぶったり、叱らねばならない行為を起こすのは、海人だった。 幼稚で馬鹿ばかしい事件だった。海人がくりかえす意味も不詳で、詰問してもだまったままだった。とくに小池の家で、こまったという話は聞かなかった。軽井沢にくると、そうした悪さがしたくなるらしかった。 「海人は、なにに反抗しているのだろうね」 麻美は、空人に聞いた。 「だまってないで教えてくれない。あんた、なにか知っているのじゃないの」 「分からない」 空人は、席を立って自分の部屋にもどっていった。 こうして、幾年かがすぎた。 ふたりは、姿形は瓜ふたつではあるが、性格的には違うらしいと周囲の者は考えはじめた。空人はおとなしくていい子だが、海人は乱暴ですこし問題がある。なぜこうなったのかは分からないが、つぎつぎに起こる事件は、この考えを支持していた。 「海人のしつけが悪いのは、小池の家で幼年期をすごしたからだ。親父も弟も、そう思っている」 和也は、ときどきいった。 麻美は、その話に憤りを感じた。悔しかったし、だいいち腑に落ちなかった。 「全部が、海人の仕業なのだろうか」 麻美は、ふたりを区別できなかった。しかし、海人がほんとうに問題児なら、表情だって荒々しくなるはずだと思った。どこからみても、ふたりはそっくりだった。しかし海人がやったといい、空人もみとめている以上、疑うことには限界があった。 麻美は、割り切れないものを感じていた。 和也の弟の智治は、がんらい嫉妬心がつよく一瀬の惣領として産まれなかった運命に、根のふかい不満をいだいていた。兄が美貌の麻美と結婚したのも、小池の家が派手なのもうらやんでいた。さらに和也の婚姻にさいし、父の正志が「ふたりの子供に一瀬をつがせる」と約束したことに、妻の妙子ともどもふかい恨みをもっていた。 「なんで親父は、あんな提案をうけたんだ。おどされたうえでの約束なんて、反故にすべきだ」 「将来なんて分からない。子供が元気に育つかどうかだって、先々のことはだれにも予測できないではないか」とつねづね口にしていた。 当時の一瀬は、会長が正志。社長が和也。専務が智治という経営陣だった。 一瀬智治は、反社会的組織、小池組とふかい関係の和也が社長になっているのは上場企業として不適格だとし、正志に自分を新社長にすえる人事を嘆願したがことわられた。そこで何軒かをグループから脱退させ、新会社をつくろうと画策していた。彼には、ふたりの息子、一二歳の遙夏と一〇歳の冬紀がいて、やがてはどちらかに家業をつがせたかった。 「会長から、うちの取締役に電話がありました。もう、これ以上は無理です」 支店長は、声をひそめていった。 「反社会的勢力という話は支持をうけるはずだっていったのは、児島さん、あんたじゃないか」 「そうです。一瀬は、いまの時代の象徴です。このデフレ期には、いちばんの成長企業です。スーパーと外食チェーンは庶民路線、反社ですよ」 「それなら、なんとか融資をしてくれ」 「バブルの時代ならともかく、無理です。取締役会を支配できて、あなたが和也さんを追い落として社長におさまり、メインバンクをうちにもってきてくれるなら、どうにでもしますよ」 児島は、皮肉な笑いを浮かべていった。 「女神の心は、うつろいやすいのです。物事には、ときの利がありますよ。あなたは、それを逸してしまったのです」 智也は、反社会的勢力を問題視する一貫として、海人の件にかんしても、 「乱暴者になったのは、極道者の家庭で育てられたからだ」とことあるごとに吹聴してまわり、小池の家を激怒させた。 浩太郎は、麻美から和也までがそう考えていると聞くと、本気で怒りだし、よんで真意をただした。 「苦しいときに、たがいに助けあうのが親族なのに、後ろ脚で砂をかける真似をして渡世はできない。ほんとうに、そう思っているのか。それならば、はじめからすべてをなかったことにするつもりなのか。それだけの、覚悟をもっているのか」 浩太郎は、どすのきいた声で和也にいった。 「申しわけございません。言葉のはずみだったのです。真意では、ありません。ながいあいだずっと助けていただいた恩を、かたときも忘れてはいません。そうした言葉を、発したかも知れません。でも、心にもないことだったのです」 和也は平伏し、平謝りに謝りながら、「なんで、夫のつげ口なんかするんだ。帰ったら、ただではおかない」と思った。 「海人は、やさしい、いい子だ。小池の家で、問題など起こしたことはない」 浩太郎は、正志をよびつけていった。 「今後、こういった根も葉もないいいがかりをつける奴がいれば、小池組としてもすてておけない。しかし、これは、一瀬の跡継ぎ問題ではないのか」と問い質した。 事実関係を聞き、「男に、二言はないのだな」とさらに念を押した。 「智治に辞表をかかせよう」 正志は決断し、和也に話した。 その冬の正月、事件は起こったのだった。 深夜、一瀬和也の家屋から火がでて燃えひろがった。 山間の一軒家だったので類焼はなかったが、家は全焼した。子供三人は助かったが、二階に寝ていた和也と麻美は、焼死体となって発見された。火元は夫妻の寝室付近で、火のまわりが早すぎるとして、放火の疑いもあった。特殊な構造の建造物で、もし三階の窓があいていれば、尖塔が煙突のかわりになり、猛烈ないきおいで燃えひろがることも充分に考えられた。和也と麻美には、頭部になぐられた傷痕にもみえる外傷があった。原因として、転倒や家屋の崩落も考えられ、断定はできなかった。空人と海人は一階で寝ていて、火災に気がついて逃げたが、三階にいたはずの未知が、なぜ助かったのか、判然とした説明はえられなかった。 「気づいたら、火の海だった。お兄ちゃん、ふたりといっしょに逃げた」 未知は、これ以上の証言をしなかった。 あまりに幼稚な発言だったから、その後に精神鑑定も行われた。 担当した精神科医は、なにかを隠すというよりも、大きな精神的な衝撃をうけて健忘が生じている。さらなる探究は、心の傷をふかめるだけで無益だという鑑定書を提出した。 空人も海人も、「なにも覚えていない」とくりかえすだけだった。 土師夫妻は親戚に不幸があり、その晩は東京にいっていた。 放火、殺人の可能性も否定できなかった。綿密な捜査が行われたが、決定的な証拠はあがらなかった。ノイローゼ状態だった麻美が、放火して、無理心中をはかった可能性も否定できなかった。結局、事実関係は不詳のまま、石油ストーブからの引火とされた。 火災で両親をうしなった子供たちは、ばらばらになった。 未知は一瀬正志の養女にされ、土師夫妻に育てられた。 空人は、裁判官の真田佳夫の養子となり、法学部にすすみ検事をしていた。 海人は、小池進太郎にひきとられ、国立大学を卒業したあとは小池組の若頭に抜擢された。 進太郎にはひとり息子の涼がいたが、がんらいの学者肌で社会人類学の准教授になっていた。彼は、長男の不始末を悔やんでいた。 「渡世人の息子が、よりにもよって学校で人さまにものを教えるなんて、あっていいはずがない。あいつの教育については、とんでもない間違いをしたんだ。そもそも、分別ってものがない。自分さえよくて満足できれば、人の道などどうでもいいと考えているんだ。世の中を知らない学者先生には、こまったものだ。家が先代からうけついできた稼業を研究の対象にするなんて、いつか絶対にバチがあたる。親として恥ずかしいし、ご先祖さまに申しわけが立たない。海人がいてくれなかったら、小池の家もお終いだった」 新太朗は、涼の話をする機会があると、だれに対してもおなじことをいった。 五、螺旋 真田佳夫は、緑が眩しい初夏の日、「可能ならば、夕方お目にかかって、お話をさせていただきたい」という明日香からの電話をもらった。希望された事務所で佳夫が待っていると、彼女は五時をすこしすぎた約束の時間にあらわれた。 明日香は、幾分か暗い風情に思えた。 用向きをたずねられると、「空人さんがすこし変なのです」と言葉すくなに話しだした。うったえる彼女の姿は切々とし、憂いとふかい愛情を感じさせた。 「気がふさぐみたいで、いっしょにいてもなにかべつのことを考えている感じなのです。どうしてなのだか分からないのです。聞いても答えてくれないし、仕事がたいへんなのでしょうが、悪夢をずっとみつづけ、眠れない話をされて、兄に相談してみたらノイローゼかも知れないとおどかされて。でも原因も分からなくて、なにかご存知のことはありませんか」 「いえ、知りませんでした。そういえば、婚約式のあとは会っていません。おふたりで、いちばん楽しい時期をおすごしだとばかり考えていました。家内とも、なるたけ邪魔をしないでおこうと話しあっていました。でも、どんな悪夢なのでしょうか」 明日香は、空人が海人によって扉ひとつない真っ暗な部屋にとじこめられる夢をみつづけているらしい。石づくりの冷たい場所で、一晩中、出口をさがしながら壁をつたって歩くという話だったと答えた。 佳夫は、空人の実母の麻美が、ひどいノイローゼになって子供をつれて心中未遂をした事件を思いだした。軽井沢の別荘で起こった焼死も、表向きは事故としてあつかわれたが、真相は不明だった。空人に当時の状況を聞いたこともあったが、なにも覚えていないとくりかえすだけだった。思いだしたくない記憶をつつくのは、良策ではないと考え、そっとしておいたが、もやもやとした謎がのこっていた。 佳夫は、思いかえしてみれば、二ヵ月まえの婚約を決める手順についても釈然としなかった。空人はがんらい自分のことについてほとんどなにも話さない性格だったが、それにしても、彼ら夫妻に相談するのが順序だと思えたし、急に横川の家をたずねなければならない理由も分からなかった。まったくぐうぜんだとは思うが、横川光義は仲人に法務大臣などと、なぜいいだしたのだろう。思いつきに違いなかったが、その言葉は、佳夫にも久江にも、和也と麻美の結婚の騒動を思い起こさせた。正志がひとりで勝手に考えてしたこととはいえ、自分からいいだした婚姻願を一方的にとりさげ、さらに比べられた相手が暴力団の組長の娘だった事実があとから分かって、法務大臣からはかなりの難癖がつけられた。光義のばあいは、その後はなにも話がなかったからふかい考えがあったとは思えないが、無気味な一致で、不安が脳裏をかすめた。 佳夫は、職業柄、物事は理性で判断し、不合理なものはみとめない立場だったが、不可解には思った。家に帰ると、妻に明日香の話をした。 久江は、連絡してみても、うんともすんとも答えないスマホをながめながら、 「未知さんならなにかを知っているはずね」といった。 佳夫も、根拠は判然としないが、そうだろうと思った。 しかし、真田夫妻は、未知とは疎遠だった。どこか陰のある彼女は、絶世の美人ではあったが無気味に思えた。 「土師さんに聞いてみたら、なにか分かるかも知れないわね」 久江がいった。 土師昇、良子は、一瀬正志の家で料理を担当する夫婦者で、日中通ってくる家政婦をとり仕切っていた。正志の妻が死んだころからずっと一瀬の自宅に住んでいたから、久江もいっしょに暮らしたことがあった。いわば執事で、和也夫妻が子供たちと正月を別荘ですごしたときも、料理番として同居した。未知とよく話もするらしかった。 久江が連絡すると、土師は、「分かりました。私が佳夫さんの事務所にうかがいます」と答えた。 「どうせなら、もっと落ちつく自宅に」と久江はいった。 「法律事務所のほうがいいです」と彼は答えた。 土師は、初夏のつよい光がさすある休日、佳夫の事務所をたずねてきた。 「家内は体調が悪いので、ひとりでまいりました」と彼はいった。 土師は、黒い背広をきていた。七〇歳をすぎた白髪のやせた男で、左の足が不自由で杖をついていた。 「とつぜんおよび立てをして申しわけないのですが、空人についてうかがいたいことがあります。ほんとうは未知さんに聞くのが適切なのかも知れませんが、ご存知の通り疎遠で、どうしていいか分からなくて。もちろん土師さんとは、いままで話したこともほとんどないのに、勝手なお願いで申しわけございません。未知さんに聞くとしても、事前にお話をうかがってからのほうがいいだろうと、妻と相談しました。および立てしておきながら恐縮なのですが、正直、私たちには、そもそもなにが問題なのかも、よく分からないのです。空人のことをある程度知っているとはいえ、血縁関係がない土師さんにご足労願うのも筋違いだといわれそうです。家内が、あなたならなにかヒントをくれるだろうとしきりに話すものですから」 真田佳夫は、土師にきてもらったものの、どこから話を切りだしていいのかさっぱり分からなくなっていた。話しながら、どう考えても息子の空人に事情を説明させるのがさきだと思った。裁判官という職業なのに、身近な本人の話も聞かないで数えるしか会う機会がなかった者をわざわざよんで最初にたずねるのは、自分でもおかしいと感じた。 「私も家内も、今回の件については心を痛めているのです」 土師は、話しはじめた。 「断片的ですが未知さんから話を聞いて、不安な気持ちにつつまれています。よくないことが産まれそうな、そわそわする気分です。不謹慎ですが、軽井沢の別荘で事件が起こったときもこんな感じでした。あのころ、麻美さんはくりかえしひとり言を呟いていました。魔王と魔女が、神と悪魔と美女を産んだ。三人の子供は、波乱のなかで成長した。神と悪魔は双子で、ふたりのどっちがそうなのかは、美女が決めると。その言葉が、頭からはなれないのです。ですから、佳夫さんの気持ちは痛いほど分かります。よく知らせていただいたと思って、やってきました。真田さんが分からないというのも、無理はありません。実親の和也さんも麻美さんにも、不明だったのですからとうぜんです。なにが問題だか分からないと、あなたはいま仰いましたね。それでは、私からひとつおたずねします。失礼ですが、あなたは空人さんについて、なにをどの程度分かっていると思いますか」 「みょうな質問ですね。もちろん全部は知りません。それは、だれに対してもそうです。でも、ある程度は知っているつもりです」 「その根拠は、なんなのですか」 「子供のころからいっしょに暮らしていた。その事実でしょうか」 「それでは、海人さんについては」 「彼とは、暮らしたことがありません。ですから、ほとんどなにも知らないといっていいと思いますよ」 佳夫は、不思議な質問に戸惑いながら答えた。 「私は、子供のときからおふたりの世話をしてきました。だから、ある程度は分かりますよ。それは、あくまでおふたりについてです。空人さんでも、海人さんのことでも、ありません。それに、未知さんからいろいろ話を聞いています。それも参考にして、ふたりをみて考えますから、ある程度分かるのです。理解できないときには、未知さんに教えてもらいますから、それでようやっとおふたりについてはすこし知っているだけです。それでも分かるのは、空人さんでも、海人さんのことでもありません。こう話しても、あなたにはなんだかさっぱりご理解できないでしょう。こんな話を、信じてもらえるでしょうか。空人さんが子供のころは、海人さんだった。つまり、小さい時分。あなたがたといっしょに真田家ですごしたのは、海人さんらしいのです。麻美さんが自殺未遂を起こしたあと、真田さんがひきとって暮らしたのは空人さんです。軽井沢で正月をすごすことになった一〇歳ごろからは、おふたりはちょくちょく入れ替わっていたそうです。真田さんや小池さんの家で暮らしていたそうですが、こんな話を信じますか」 真田夫妻は、顔をみあわせた。 「それでは、私たちは、海人を、空人とおなじ理由で知っているということなのですか。にわかには信じられませんが」 「私には、空人さんと海人さんの見分けがつきません。おふたりは、べつべつな人です。ご両親にも、分かりませんでした。とり分け麻美さんにとって、区別できないことは大きなショックでたいへんな悲しみだったのです。おふたりをみるたび、奥さまは分からないご自分をお責めになったのです。そのうえふたりは、麻美さんに判別させようとはしなかったのです。でも、おふたりは、分かってもらいたかったのです。真田さんと小池さんの家をふたりが交互に行き交い、空人さんと海人さんの役を演じていたのは、だれかに気がついて欲しかったのだろうと未知さんはいいます。 なぜ、彼女だけに区別ができるのか分かりません。麻美さんは、必死にその方法を知ろうとしました。でも未知さんは、どうしてもつたえられなかったのです。そういうことって、あるとは思いませんか。私たちは、全部を知っているわけではありません。そもそも、あなたと私がみているものがおなじだという保証はないのです。分かっているけれど、つたえられない出来事はたくさんあります。たとえば色盲の方に、赤と緑の違いを説明できません。音感のない人に、いま聞いている音が、ド、だなんて、どうやって解説したら分かってもらえるのでしょうか。波長を図にかいて違いを説明しても、理解とは次元がべつです。未知さんだって、おなじです。説明できないのと、分からないのは違いますよね。 おふたりは、幾度も海人さんに会っているのです。空人さんだと信じているから、考えもしないだけだったのです。はじめに明日香さんに会ったのは、海人さんだったという話です。婚約を決めるために、あなたがたご夫婦をつれて横川の家にいったのも、そうらしいのです。 乱暴な話でたいへん申しわけないのですが、たとえばですよ。あなたが昨日の夜中に、とつぜんに思い立って私の家までタクシーでのりつけ、扉を押しやぶって侵入したとしましょう。仮定の話ですよ。寝ている私を起こしてなぐりつけ、血だらけにし、携帯でタクシーをよんで自宅に帰り、また寝床について朝までぐっすり眠ってしまった。あなたは、なにも覚えていません。夢も、みていません。こんなことをしないのは、だれもが知っています。しかし、なぐられて被害をおった私が、警察にうったえます。刑事がしらべると、防犯カメラのいたるところに映っているし、家内もあなただと証言します。でも真田さんは、私の家もご存知ではありません。いったこともないと反論し、日ごろのあなたを知る方は、冤罪だと警察に主張します。さらにしらべると、往復につかった二台のタクシーの運転手からも証言がえられます。状況がつみあがって、結局、夜間のまったく知らない行動をみとめる必要がでてきます。この事態に、あなたは病院にいって検査をうけるかも知れません。それは、夜間の意味不明の行動をみとめはじめているのを意味します。信じられないけれど、自分がしたかも知れないと考えたことになります。でも、ここまでの話では、まったく不充分なのです。考えていただきたいのは、こうした事態が日常的にくりかえされることです。週に二回、こんな事件がつづいたら、あなたは、ご自分のなにを信じますか。 あのふたりは、どんな事態が起こっても、自分が関与しなかったとは思いません。もうひとりの行為だなんて、決して口にはしません。それが起こした事件も、自分がいるから起こったと考えるのです。たがいに、すべてが自分自身なのです。もう、そうした煩わしい説明をする気持ちはもっていないのです。子供のときからくりかえされてきた誤解を、いちいち釈明するつもりはないのです。ただふたりは、いつも思っているのです。いつかひとりになろうと。影とは本質的に違いますから、できるはずだと。もちろん明日香さんと未知さんが等価なもので、ふたりで分けあえられれば素晴らしいことです。でも、分からなかったのです。空人さんは、考えていたのです。明日香さんとだれも知らない遠いところにいくか、それともべつの方法をえらぶか。海人さんも、おなじことを考えていたはずです。 だれだって、自分を理解してくれるものといっしょにいたいでしょう。それは、ごくごく普通の気持ちですよ。そうした者を独占したい、そう思って人は結婚するのでしょう。ほとんどのばあいは幻想で、あとで失望が待っているわけですが。今回は海人さんが宣戦を布告し、空人さんがうけて立ったのです。未知さんによれば、最後の闘いがはじまったのだそうです」 真田佳夫と久江は、だまって考えていた。 空人とは、ほんの一時期をのぞいては、ずっといっしょに暮らしてきた。 子供時代には、よくつれだってドライブをした。職業柄、日本各地を転々としながらさまざまな街でいっしょに暮らしてきた。中学時代には、三人でオーストラリアを旅したし、大学に合格した夏には、イタリアを家族で二週間周遊した。入学後はべつべつに暮らしていたが、休みのときにはかならず自分たちに会いに帰ってきた。それが、ある場面では、海人だったというのだろうか。いままで一度も、そんな事態を想定していなかった。 考えられるはずがなかった。 夫妻がだまりこんでいると、土師は「ちょっと失礼します」といって立ちあがった。彼は天井までつくられた書棚のまえにいくと、本に触れ、周囲をみまわした。 「どうしましたか」と佳夫は聞いた。 「この部屋の家賃は、相場よりだいぶ安かったのではありませんか」と土師はいった。 「そうでしたが」 佳夫は、土師をみつめた。 「そもそも今回の事件のすべては、この部屋ではじまったと聞いています。いったいどうしてそんなことが起こったのだろうと、ずっと考えていました。一度、機会をつくって、ぜひ現場をみてみたいと思っていました」 「空人が担当した、大がかりな脱税事件がありまして、ここが首謀者の部屋だったのです。それで、安く借りることができたのです」 「奥さんがいますから、あまり話したくはありませんが。ちょうどこのあたりですよ」 そういって、土師はぽんぽんと書棚の本をたたいた。そして振りかえって、佳夫をマホガニーの机ごしにみていった。 「この書棚を、造作しましたよね。なぜつくったのかというと、そのほうがよかったからですね。女ですね。それも、色に執着がある」 佳夫は、だまって土師をみつめた。 首謀者は、女の占い師で、青の魔女とよばれていた。 「空人さんは、この事件でずいぶん活躍したのではありませんか。そういうことだったのですね」 土師は、そういうと溜め息をついた。 「土師さんが風変わりなのは、以前からよく存じあげておりますよ。でも、もうすこし具体的に話していただけないと、なにをいっているのかさっぱり分かりません。未知さんと勝手に比較して、ずいぶん一方的なお話をなさっていますよね。でも土師さんは、明日香さんを、みたこともないのでしょう。私は、よくおふたりを知っていますよ。明日香さんは、たんに美貌ばかりでなく、素晴らしい音楽の素養ももっています。ピアノ科の大学院にまですすんでいる、敵うひとがみつけられないような才女ですよ」と久江がいった。 「チャイコフスキーの研究家だと、うかがっています」 「そうですよ。明日香さんは、眠れる森の美女に歌われる、オーロラ姫の生まれかわりみたいな方ですよ。ご本人は、くるみ割り人形のほうが好みだと仰っていましたが」 「そのお話も、うかがっています。問題なのは、白鳥の湖なのです。彼女は、オーロラ姫ではなく、王女、オデットなのです」 「そんな、バレエ曲の好みの話ではありません。私は、おふたりをよく知っていますけれど、未知さんよりも、ずっと美人で素敵な方ですよ。ふたりを勝手に比べて、明日香さんが、まるで試験に落ちたみたいな話をされるのは、ちょっと理解ができません」 久江は、またいった。 「未知さんの魅力は、同性の方には分からないのですよ。彼女はちかづきがたく、みる者をあまりにも無力にさせます」 「そうらしいですね。でも、私には無気味なだけで、まったく理解ができませんよ」 「そうですか。ご主人にうかがってみたらいかがですか」 「未知さんの魅力は、とても言葉でくみつくせるものではありません。でも先日、事務所に、空人を心配してたずねてきた明日香さんは、私がいままで出会ったことのある、あらゆる人のなかでもっとも綺麗で、つよく心がひかれました。未知さんと、どっちがうえだとか、とてもいえないほどにです。でも、なぜだったのでしょうか」 佳夫は、頭をかかえた。 「でも土師さん、空人と海人のことだって途方もない話ですよ。それに、私がいるかどうかなど、どうでもいいです。もうすこし、はっきりいってください。奥歯にものがはさまったいい方は、もうやめて欲しいですよ」 「いや、この部屋で、青の魔女とよばれた人が自殺したんだ。いま、土師さんが立っている書棚のところで、青い短剣を胸にさして。それから壁紙を何度はりかえても、そのときの血痕がうまく隠せなかったらしいんだ。それで、書棚をつくったんだ。しかし、だからどうなのでしょうか。あなたが、そうしたことが分かるのは説明できないのでしょうが、起こったすべてが魔女の呪いなのですか」 「たぶん、どこかで小池組とも関係があって、海人さんもかかわっていたのかも知れません。この捜査で、空人さんは目覚ましい超人的な活躍をしたのではありませんか。魔女が原因ではなかったにせよ、結末はきっかけになったのでしょう」 「あなた。あの表彰状と、金一封がでたって話なの」 佳夫は、久江の言葉に大きくうなずいた。 「魔女はともかくとして、土師さんのいう通りかも知れない。もしかすると、たいへんなことが起きるのかも知れない」 佳夫は、青ざめた顔で呟いた。 空人がいたのは、一様の花崗岩でつくられたほぼ正方形をした部屋だった。 たかい天井の、だだっぴろい室内には、家具はもちろん、椅子ひとつおかれていない。なにもない空間だと分かると、ひどい息ぐるしさを感じはじめる。窓も扉も、みえないのだ。げんに彼がなかにいるわけだから、どこからか入ってきたはずなのに、その出入り口がみつからない。まるでピラミッドの玄室で、磨かれた御影石がわずかの隙間もなく四方につみあげられている。 「なにか、仕掛けがあるはずだ」 落ちついて考えようと思う。しかし、寒気がする。完全にとじこめられているのだろう。なかにのこしたまま、外から石をつみあげて扉をつぶしたのだろう。なぜ、こんなことをするのか理解できない。しかし、だれがやったのかは分かる。海人だろう。こんなことをするのは、彼しかいない。 空人にとって海人は、日に照らされてできる影に似たものだった。 切ってすててしまいたいが、とりのぞくと自分まで消えるのかも知れなかった。もちろん光のない世界にいけば分からなくなるが、そのとき、空人をとりまく闇全体が海人にかわる。考えても明快な答えがえられない領域で、無気味というよりもうっとうしく、ひとりになれたらどんなにすっきりするだろうと思う。それにときどき、空人は、自分が海人の影かも知れないという気になってくる。いつみたのかはっきりしないが、今回とはべつの忘れられない夢がある。 深夜のベッドで、首をしめられて眠りから覚める。 おどろいて暗闇のなかで抵抗するうちに闇に目が慣れてくる。そして理解するのは、首をしめられているのではない。あきらかに自分が、もうひとりを絞殺しようとしていた。 空人は、明日香が最良の結婚相手だと理解していた。 しかし、人はいったいなにを愛するのだろうか。ジークフリートは、オデットだと思ってオディールに愛をつげてしまう。明日香は、だれを愛しているのだろうか。彼女は、海人とふたりになっても、なにも気づかずに夜をすごし、空人の子供だと思って平気で彼の子を産むだろう。 真田空人は、三月ころからずっと不愉快な夢がつづいている。 毎日ではないが、平均で二日に一度くらいはおなじ悪夢をみる。冷たい石のうえで横たわっているのに気がつく場面は、何度くりかえしてもぞっとする。いまでは室内の構造についても、すこし分かっている。どうやらこの部屋は、彼をとじこめたあとで扉に細工をしたらしい。つまり石の接合部を順にたどると、かすかな光を感じる場所がある。その部にそって目地を爪ではがしていくと、光線のもれる縦線がでてくる。扉一枚分、約一メートルはなれて、もう一本縦の線をみつけられた。この二本の縦線が入る以外の壁は、どう丹念にしらべても、こうした変化は識別できなかった。光のもれくる様子から、およその輪郭は分かる。おそらくこの部分を押すか、力いっぱい蹴飛ばせば、となりの空間にいけるのではないか。しだいに細部構造がリアルになってくる部屋は、現実にある気がした。 「どんなことが起こっても、あの扉をあけてみよう」 空人は、そう思って夏至の日の夜をむかえた。 頬に、なめらかだが固くて冷たい石を感じて、空人は目覚めた。 周囲は真っ暗だった。なにもみえないなかで身を起こし、膝をかかえてじっとしている。人の気配はない。カビの臭いがただよい、空気はすこし乾いている。しばらくすると、すこしずつ周囲がみえてきた。 光がもれる石の接合部の目地を、爪をつかってはがしていく。作業をつづけると、縦に一本。一メートルくらいはなれた場所に、もう一筋の縦線がみえてくる。そこから、かすかな光がでているのが分かる。もう半年もつづけてきた作業を終え、念のために周囲の漆喰の目地をもう一度、ひとつひとつ爪で押してみる。どこも固くて、光のもれる隙間はみつけられない。 「ここしかない」と彼は思った。 決意のときがきた。押してみてもびくともしない、思った通りの重い扉。 「はたして、ほんとうにあくのか」 右足で、力のかぎりに蹴飛ばしてみる。感じる。かけた力の一部がどこかへながれでていく、そんな思い。 「ここだ。この部分に違いない」 上端と思われる壁を触り、目地を爪で押す。やわらかい部分に切れこみを入れると、一枚の扉にみえる石壁の中央部を、もう一度、右足でつよく蹴飛ばしてみた。あきらかな手応えがあり、上端からもよわい光がもれてきて、そこが周囲の壁とは違う通路だと、はっきりしてきた。できるかぎりの上部を、もう一度蹴飛ばした。 扉は、轟音を立てて倒れた。 目のまえには、白い世界がひろがっていた。 エーテルのなかで、やわらかく、たわみ、ねじれながら、おれることもない白色の紐は、銀色に輝き、回旋しながらただよっている。三〇センチに満たないリボンから、二メートル以上のものまである。ながさもさまざまな無数の白色の紐は、螺旋状にまわりながら、時々刻々と変化をくりかえしている。どこかあいまいで模糊とした白い世界は、時空から切りはなされ、そこには、内部も外部も、天も地も、北も南もない。混沌としているわけではなく、あかるく輝き、明確だが、正義も虚偽も、善も悪も存在しない。白いリボンは、ただ、濃いところと薄い部分をもち、縦に、横に、斜めに、ゆるやかかに回転しながらただよって世界を満たしている。光学異性体として、あるものは右まわりに、べつの糸は左まわりに、鏡像をなして旋回し渦をまきながら、そのまま身体に侵入し、つらぬき、去っていく。生活と無関係で意味もはっきりとしないリボンは、一七の顔をもつ紐になって、世界を支配し、ひしめいている。鈍く銀色に輝きながら濃淡にそめぬかれ、人には理解できない天の法則にしたがい、螺旋をかきながら空中に浮かんでいる。 そこは巨大なホールで、はるか彼方にある天井は点にしかみえず、どこまで伸びているのか分からなかった。白い壁には、黒い御影石の螺旋の階段がついている。渦をまきながら終わりのみえない頂上にむかって、ずっとつづいていた。 とつぜん、石壁がくずれる大きな物音がした。階段をみあげていた空人が振りかえると、彼がでてきた扉のちょうど真正面の壁の一部がかけて、ひとりの男があらわれた。 「やっぱりおまえなんだ。とじこめていたのは、こんなことをするのは、おまえ以外に考えられないんだ」 叫ぶ声が聞こえる。 「なんで、おまえがいるんだ」 空人が叫ぶ。海人も、おなじことを絶叫している。 彼は、空人をみつめて大声で叫んでいる。 「やっぱり、こいつなんだ」 空人は、じっと海人をみいった。 「おまえの存在、そのものが許せないんだ」 「邪魔ばかりして、もう、容赦はしない」 殺意が、きらきらと光っている、 おぼろに輝くリボンにのりながら、 濃淡をもって、ゆっくりと回転しながら、 白い世界を満たしながら、空人の胸をつらぬいていく。 そのとき、声が聞こえた。 麗しいよび声は、はるか天上、母たちの国からふってくる。なんといっているのだろうか。遠くて聞きとれないが、その言葉は、あきらかに自分にむかってよびかけていた。それは愛しい者。かぎりなく大切で、清浄で純白で、母であり妹であり妻でもある、部分ではない全体。自分の存在、その意義のすべてが、螺旋階段をのぼり切ったところにいる。おまえなんか、どうでもいいのだ。そこにたどりつくのが産まれた理由で、生きてきた意味なのだ。 いちばんたかいところに、人影がみえる。 「待っていてくれ。すぐいく」 絶叫が、木霊しひびいている。 バチカン美術館にあるのとおなじ二重の構造になった螺旋の階段は、まるで染色体だった。海人は左まわりに、空人は右まわりに天井にむかってかけのぼっていく。全力で、懸命にかけている競争相手がみえる。息があがって空人が立ちどまり、石の欄干につかまりながら相手をみる。海人も、反対がわのおなじところにいて、喘ぎながら彼をみつめている。不愉快さがこみあげてくる。なぜ、神はひとつのものを、そっくりなふたつにつくったのだろう。それで、また螺旋階段をのぼりはじめる。 そこは、螺旋のはざまだった。 永遠につづきながら、はじまりが存在し、終わりがあるもの。死と再生をくりかえしながら、太古より脈々とつながってきた螺旋。 ふたりは、懸命にのぼっていく。心臓が高鳴り、喘ぎがはげしくなり、石の階段にひざまずく。みあげると、あと一巡だ。反対がわに目をやると、おなじところに、ひざまずく姿勢でこちらをみているもうひとりがいる。ふたりの差は、まだついていない。この最後の一周こそが、もっとも重大なのだと思う。二重螺旋をのぼり切って踊り場にでる。最上の者はもういないが、残り香がただよっている。そして女神のかわりに、抹殺するべき、憎むべき相手が立っている。存在してはいけない、邪魔なひとりが。 踊り場で、ふたりは睨みあった。 「なぜ、神は、私をふたつに産んだのか」 「それは、つよい自己を生かし、よわい自分を滅ぼすためだ」 頬をはり、腹をなぐる。脇腹に膝を入れ、背中を蹴飛ばす。首をしめあう。ふたりは、生き残るために。抹殺されないように。摂理によって戦っていた。そしてついに、いっぽうが牡牛の咆哮に似た絶叫をのこして欄干から落ちていった。 それをみて、彼は思った。 「大きくなるために、蛇は、その外皮をぬぎすてねばならない。いまこそ私は、よみがえったのだ。死すべき部分が死に、ここで自分は、その外皮から解きはなたれ、はじめて不死なる命をつかみとったのだ。再生をはたしたからには、この扉のさきには、私を待ちこがれている人がいるはずだ」 踊り場には、白い扉口があった。固くとじられた扉のノブをまわすと、わずかにひらかれた隙間から、おびただしい光がさしこんでくる。さらに扉口は押され、すべてがあけはなたれる。 そのとき、世界は眩めきに満たされていた。 あらゆるものが輝いていた。夢にみた、素晴らしい緑の大地がつづいている。大気は甘い果実の匂いがただよっていた。しめった潮の香りがまじっていた。はるかなたかいところに真っ青な空がみえ、ゆるやかに白い雲がながれている。暖かく、やわらかい碧の風が、ゆっくりと頬をなでていく。 輝きにつつまれ、ひとり胸壁に立ち、彼は確信した。 「この塔は、大地の中心にそびえ、扉は私によってはじめてあけられたのだ」と。そして「今日、世界が更新され、すべてが生まれかわるのだ」と。 そこに、美しい女がいた。 ながくて艶やかな黒髪のうえには、金色の光輪が燦然と輝いていた。 「いい男ね、あのサングラス」 「となりの女は、ものすごい美人よ。さっき眼鏡をはずしたときおどろいたわ」 「でも、あのふたり、なんとなく雰囲気が似ているわね」 「それより、どこかでみたことがあるわ」 「映画のスターかしら」 搭乗手つづきをはじめるアナウンスが聞こえてきた。 ふたりは立ちあがり、搭乗口から消えていった。 ロビーの大型のスクリーンに顔写真が映っている。 その下にテロップがながれていた。 「昨夜、無理心中をはかったふたり。この秋、結婚する予定だった」 螺旋のはざま、一三〇枚、了