ソフィアに会った日                                    由布木 秀  一  ぼくは、いったい何ものなのだろうか。ぜんたい、自分は、どこからやってきたのだろうか。ときどき、ふとこんな考えが脳裏をよぎっていく。その瞬間、ぼくは、はっとして立ちどまる。しかし気がついたときには、もうつぎの歩みをはじめている。こんな簡単に答えがみつかりそうもない問題を真剣に考えるのは無駄だし、悩むのは現代的ではない。いまは昔とは違い、問いは提示されたまま放置されているのだ。父や母が生きていた時代とは、情報のながれが根本から異なるのだ。ぼくの両親たちは、ゆっくりとあらわれる問題に、ひとつずつとりくむことが許されていた。時間のながれが緩やかで、それが可能だった。しかし、ぼくたちの時代は違う。どんな問題でも立ちどまって直視したら、累々とつもった未解決な難題が一緒くたに押しよせてくる。それは、立木や大きな岩石をつぎつぎに巻きこんで、どんどん巨大化する土石流のようになっておそってくる。人智を結集してつくられた頑丈な鉄橋でも、一瞬のうちに押しながしてしまう威力をもっている。ぼくたちは、自分の周辺に問題が山積しているのを知らないわけではない。しかし不用意に巻きこまれたら、どこまで押しながされるのか予測もつかないと分かっているのだ。そのときには、自分という形をたもてなくなる可能性まで考えなければならない。ぼくらは、こうした危険から逃れるために、まわりで起こるどんな出来事もとうぜんとみなし、軽はずみに立ちどまり、直視するのを避けているのだ。人に教えられたわけではないが、みんなが知っている。だから、だれもがこうしているのだ。それがいいのか悪いのか、そういう問いを立ててはいけないのだ。いま起こっているもの、すべてが普通なのだと考えなければならない。いじめ、虐待、ネグレクト、セクハラ、パワハラ、性的マイノリティ、格差、貧困、戦争、こうした問題は、自分と関係がないのだから無視するべきなのだ。政治や社会は、そもそも手のおよぶ範囲から逸脱し、ぼくらとは完全に無関係だ。むきあうのは、ぼくの個人的な問題にかぎられる。しかし、なにが自分のものか、などとは考えてはいけない。どうしても知りたいと思うなら、スマホで検索するくらいはしてもいい。グーグルで読んでもすぐに分からなければ、だれもが容易には解決できない問いなのだ。だから無視して、まえにすすんでいかねばならない。なぜ前進するべきなのか、などとは考えてはならない。これも検索すれば、難しい抽象的な記述しかない。だから人生の意味、意義など、思いつくままの問いは放置しなければならない。それが、生きるということだ。アプリの使い方は、理解してもよい。しかし、それらがスマホのなかで、どうして利用できるのか。どんな構造なのかは、知る必要がない。ぼくが生きるのとは、無関係だ。それは、その問題を解決して報酬をえる専門家の仕事なのだ。  ぼくは、大手のゲームソフト開発会社で働いていた。とはいっても会社はとくに大きくもなく、東京証券取引所に上場しているのでもない。大手というのは、ぼくを自由に働かせる充分な余裕をもつ企業という意味でしかない。ゲームソフトの開発は、企画してもすぐに結果がえられない。競合も多く、ありきたりのアイデアでは輝かず埋もれてしまうから、目あたらしい、オリジナリティーの高いものがつねにもとめられている。みんなで考えると、どうしても発想はうすめられ、平凡にならざるをえない。そもそもアイデアが価値をもつなら、発案者に正当な対価があたえられなければならない。多数が参加し、なにも考えない者たちまでが発想の恩恵をえられるなら、能力を有する者は馬鹿ばかしくなってやめてしまうだろう。現代は、すべてがゲーム化し、ぼくらは売り手市場なのだ。オリジナリティーは、純粋に個性と個人の利益に属している。会社は、才能をもつ者のモチベーションをたもつ必要があった。ぼくは、それなりの高額報酬をもらい、フレックスタイムを利用し、かなり気儘に出勤することが許されていた。アイデアがわいても、そこからさらに発展させるには、時間という枠に縛られていては不可能だった。それに、どんなに気に入った画期的なゲームに思えても、最後までつくってみないと製品化できるとはかぎらなかった。あまりにマニアックだったり、煩雑だったり、非倫理的とみなされるばあいも起こりえた。だから最後までひとり切りで担当するのは、発想者にも会社にも危険だった。このリスクをふせぐため、開発の一定段階で、おなじようなセンスをもつ者を介入させねばならなかった。着想はあくまでひとりでも、商品化するには客観性がもとめられた。  ぼくらは、取引所のシステムにハッキングして盗みだした仮想通貨を、マネーロンダリングするゲームソフト、「エキサイト」を開発中だった。厳しい監視のなか、つかわれていないふるいアカウントを利用して大量の口座をつくり、盗んだマーキングされた通貨を小分けにして分散させる。そこで、考えうるさまざまな取り引きを行って、ほかの貨幣と目茶苦茶にまぜあわせ、もとがなんだか分からなくさせる。最後には可能なかぎりの方法を駆使して一般通貨に交換し、現金化する。成功すれば大金持ちになり、気に入った邸宅を購入することができる。住居の場所や外装、間取りなどを、お金に応じて選択できる。さらに資金があれば、愛人たちを複数の邸宅に住まわせることができる。お金を一定以上つむと容姿端麗な女性のヌード写真などがあらわれ、好みに応じて選択、非選択を決められる特典がついていた。  このゲームソフトは、ぼくのアイデアだった。開発には、すでに一年以上がかけられていた。会社は、こうしたソフトを市販するために社員の能力を信じて一室を提供し、雇用をつづける義務があった。ゲームの特許権は、ぼくに属していた。だから会社は、実際に市場で評価されて利益がでれば、三〇%の特許使用料を支払う責務を負っていた。とはいっても、人気商品になればダウンロードされるだけで、ほかの経費はほとんどかからないから利益率は高い。だが売れるのかどうかは、市場にだしてみないかぎり、ほんとうのところはだれにも分からなかった。会社は、どうしてもリスクを負わねばならなかった。だから最終的には、開発には期限がつけられることになる。この企画のばあいは、二年間があたえられていた。もちろん半年ごとに、ぼくはソフトの進捗状況を開発部に報告する義務をもっていた。プレゼンし、開発部長から継続開発の承認をうけねばならなかった。ぼくは、もう一年半たずさわっていたから、のこされた猶予は六ヵ月間だった。  相棒は、ほとんど同期に入社した木村悠真だった。彼は、背が高くてスマートだった。容姿もととのっていたから、ハンサムで優男という感じだった。金縁の眼鏡をかけていたが、目は悪くなかったから完全な伊達眼鏡だった。外出するときには、スマホの手鏡でながい髪を櫛でとかしてととのえる、かなりのお洒落だった。悠真は、二つ若い、二五歳だった。彼も自分の企画をもっていたが、半年くらいでいきづまり、順調だったぼくのプランに副室長として参加してきた。ぼくらは、大金持ちになれるかも知れないという手応えを感じながら、かなり真面目にとりくんでいた。もちろん室長のぼくとしては、彼のやる気をひきだすために、別途の契約をかわしていた。ソフトが市販されたばあい、特許料の一〇%を悠真にあたえるという内容だった。彼は、生活に支障がない充分な給与を会社からもらっていたが、それだけではどうしても、ぼくと温度差がでる。真剣に考えてもらうには、必要なことだった。  ぼくは、悠真とは仲がよかった。以前は、よくふたりで飲みにでかけていた。悠真は、ハンサムだったから女にもてた。喋るのもうまく、とくに女相手では、ぼくはとても敵わなかった。つまり彼は、どうでもいいことを、えんえんと話す技術をもっていた。そのなかで、相手の気に入るような会話を差しはさむのが凄くうまかった。機微をうがつというのか、女性の微妙な心理を的確につかんでいた。そばで聞くぼくには赤面しそうな歯が浮くセリフだったが、聞かされた相手は目を輝かせた。彼は、この才能を駆使してふたりづれの女性たちと親密になり、そのままホテルにいった。悠真は、必ず自分が気に入ったほうをとったが、おこぼれにあずかることができた。とはいっても、彼の選択はあきらかに外見だけだったから、ぼくがいい子にめぐりあたるばあいが多かった。いくらでも女性はつかまるので、凄く面白くなって週に三回、でかけたこともあった。しかし半年もつづけると、ぼくは物足りないと感じはじめた。悠真の女好きは、気狂いじみていた。彼は二五歳だったが、もう千人ちかくも相手にしたと豪語していた。いまでも金曜日、土曜日のほか、気がむくと平日にも盛り場にでかけていた。ときどきは、ぼくをさそった。悠真は、これだけの経験をもちながら、心がときめいた女性はひとりもいなかったといった。一ヵ月以上つきあった女は、皆無だそうだ。悠真は、友だちもいなかった。そういう面倒くさいものは、考えただけでもむかつくのだそうだ。親しくなったのは、ぼくがはじめてだといった。彼の神経ははかりかねたが、ゲームにかんしてはいいセンスをもっていた。だから、ぼくにとっては完璧な相棒だった。  ぼくらが住む大都会には、たくさんの人たちが暮らしていた。この圏内に、三〇〇〇万の人びとが生活していた。半数が女で、そのうち一〇%が二〇代だとしても、一五〇万人の女性が住んでいた。だから悠真の対象者はまだまだいたのだろうが、ぼくは朝になって目を覚まし、夜をすごした相手と顔をあわせると、ひどく虚しい気持ちに落ち入った。おなじことをえんえんとつづける気には、とてもなれなかった。とはいっても、ときどきは悠真と盛り場にいき、女性をみつけ、一緒に酒を飲み、彼が話すのを聞き、上機嫌になった女とひと晩の交際をした。そして朝をむかえ、割り切れないものを感じながら部屋をでた。可愛い女は多く、綺麗な女性もたくさんいた。しかし、そのときは意気投合しても、もう一度会いたいとは思わなかった。真剣に聞くと恥ずかしくなるような悠真の軽い言葉に、自分を理解してくれる大恋愛の相手をみつけたみたいな顔でついてくる女性たちに、おどろいたり、幻滅したりしていた。それでいて彼のさそいに乗るのは、矛盾だった。  いってみるなら、この都会では、ぼくにはたんなるセックスだけがあり、愛をみつけることができなかった。自分のマンションに帰って遮光カーテンを締めきると、部屋は真っ暗になった。暗闇のなかで考えるのは、必ずしもまえの晩の児戯だけではなかった。浮かんでくるのは、ほんらい無視するべき問題だった。ぼくは、真っ暗な闇のなかを手探りですすんでいく勇気がなかった。この世のすべてに幻滅し、希望もみいだせなかった。ぼくは、なぜ自分が生きているのか、意味が分からなかった。それにもかかわらず、この不明な場所で何年も暮らしていた。そのうえ、世の中の人びとはだれひとり、ここにぼくが住んでいることさえ知らなかった。  ぼくらは、エキサイトにどっぷりと嵌まりながら考えていた。  ぼくは、田園調布に平屋の大邸宅をもっていた。ひろい庭園には、こぼれるほどに果実をつけた種々の樹木がしげり、小川がながれていた。さらにさきには湖が造成され、築山になった場所に東屋が備えられ、周囲は鬱蒼とした森がしめていた。邸宅には大理石の浴室がつくられ、バーが併設されていた。ぼくは、この屋敷で、妖艶で肉感的で、どこか背徳的な雰囲気までもつ楊貴妃と暮らしていた。いっぽう悠真の成城にある邸宅の庭には、さまざまな形のプールが備えられ、ちかくに総檜づくりの露天風呂がつくられていた。彼は、ここでクレオパトラと生活していた。  このゲームは、いかに華麗な人生をおくるかというコンセプトにもとづいてつくられていた。素晴らしい邸宅に美貌の女性を侍らせ、お金の心配もなく愛に満ちた暮らしをひそかにつづけることは、たしかに充実した華やかな生活だろう。しかしゲーム性をもとめるなら、こうした個人的な満足から脱却する必要があった。屋敷や愛人が、特定化する事態は好ましくなかった。つまり、趣味の域をこえる優劣がつけがたい邸宅や美女が、複数存在する必要があった。しかも、それらはとうぜんながら少数にかぎられるべきだった。比較不可能な絶対的なものが限定されて、はじめて競争が起こり、その結果、富がかたより、羨望がうまれる。最終的には、ゲーム参加者が何人であろうとも、すべてを独り占めする状況が出現しなくてはならなかった。そこに強烈な嫉妬と復讐心がうまれ、勝利と敗北、優越と劣等、さらに同情という距離を想起する感情まで徹底的に味わいつくすことができた。  具体的には、邸宅は四軒しかなかった。  華やかさを追求するために、田園調布をはずすことはできなかった。邸宅は、東横線の駅舎から同心円状にひろがる西地区につくられていた。正確には一丁目から三丁目にかかる四半円、およそ一五万坪、五〇万平方メートルを敷地としていた。もちろんこの地域は再開発を行い、駅から真っすぐに邸宅に通じる道路はすべて私有地だった。周囲に高さ二メートルの壁をつくり、さらにうえには有刺鉄線を張り巡らしてあった。入り口は、駅に通じる部分にしか設けられていなかった。そこには銃を所持する警備員の宿舎がたてられ、外部からの侵入を完璧にふせいでいた。邸宅は敷地の中央部につくられ、周囲は完全に森に化していた。  田園調布に匹敵するものは、成城しか思いつかなかった。小田急小田原線の成城学園前駅から南がわ、具体的には二丁目に、およそ一五万坪の敷地を有していた。ここも再開発し、田園調布のばあいと同様に周囲に壁を造設し、物理的に外部を遮断した。駅から真っすぐに通じる道路をつくり、入り口には警備員の建物を整備した。邸宅は、敷地の中央に立てられ、周囲は森林になっていた。  こうした高級住宅地に比肩する場所としては、山手線、原宿駅の北にひろがる明治神宮はすてがたい魅力をもっていた。しかし、ここを宅地化するには政治的な問題も介在していた。受容できないユーザーの存在も配慮し、やや格は落ちるが南に隣接する代々木公園を再開発して邸宅をつくることにした。面積としては、一六万坪、五四万平方メートルで前二者と遜色がないと考えられた。ここもおなじように敷地を高い壁でかこい、中央部に邸宅を建設した。原宿駅前からは私道をつくり、入り口には警備員を配した。  さらに東京メトロ日比谷線広尾駅の東にある有栖川宮記念公園は、三物件と充分比肩できると考えられた。敷地は一万坪と三者とくらべてかなり見劣りするが、なんといっても港区南麻布という立地は魅力的だった。ここのばあいは、既存の設備を生かすことにしたが、入り口の門扉から鬱蒼とする木立をぬけ、土の道路がロータリーになった住宅玄関につづくという設定は、大邸宅というイメージをたもつには欠かせなかった。そのためには、かなりの部分に手を入れる必要があった。  こうした敷地が、いったいどのくらいの値段になるのか、まったく感覚がつかめなかった。田園調布や成城の一五万坪、原宿の一六万坪、さらに南麻布の一万坪、いくら考えても実感がわかなかった。都内のマンションの高層階では、一〇億をこえる物件も散見されるとネットに記載されているので、兆だとは理解した。この単位になると、桁がいくつでもおなじ感覚しか起こらなかった。しかしゲームを創作する者としては、もっと心奥にせまる必要があった。そこで見方を変え、世界の長者番付を検索した。それによれば、一位はフランスの有名ブランドの最高顧問だった。彼の資産は、二一一〇億ドル、二七兆八五〇〇億円にのぼっていた。二位につけるアメリカの電気自動車会社の社長は、一八〇〇億ドル、二三兆七六〇〇億円を有していた。三位は、やはり北米のネット通販の創業者で、一一四〇億ドル、一五兆五〇〇億円の資産をもっていた。その調査によれば、一四位でも七六〇億ドル所有し、一〇兆円をこえていた。また一〇億ドル、一五〇〇億円以上の資産をもつ者は、世界で二六四〇名いるとかかれていた。これらの数字は、あきらかに個人に焦点があてられていた。そうであるなら一族で資産を所有しているばあいは、おそらく途方もない額になるのだろう。べつの統計によれば、個人が保有する株や不動産などの資産合計は、四五四兆四〇〇〇億ドル、六京八一六〇兆円とも記されていた。世界の人口を八〇億人とするなら、三五億の人びとが一日二ドル以下で生活しているらしい。これは、月に六〇ドル、年で七二〇ドルと考えられる。つまり日本円では、月収一万円、年収一二万円に相当する。興味本位で個人の総資産を世界総人口で割ってみると、ひとりにつき八五二万円にあたる。この数字は、「そうなんだ」と思うだけだった。だからどうというのではなく、自分とは関係のない事実だった。ついでに「そうなんだ」を、もうすこし考えてみると、一〇人で、八五〇〇万円。一〇〇人で、八億五〇〇〇万円。だから一〇〇万人で、八兆五〇〇〇億円になる。こうした計算から、一〇兆は、一二〇万人くらいの価値に相当するらしい。つまり兆は、それなりに迫力をもっていることが分かる。  べつの観点からは、ユーラシア大陸の北部をしめる連邦国で長期にわたって政権を維持する大統領は、国家を所有している可能性すらあった。ペルシア湾と紅海にはさまれたアラブの大国は、国名からして一族の名前なのだから、まさに私物化されているとみなすべきだった。また韓国の北側の国は、事実上、私物と考えても異論はないだろう。そうした者たちの資産がどれくらいの規模なのか、想像することは困難だった。つまりこの検討から、一〇兆円くらいは、ごく普通に人が所有できる金額とみなせた。以上の考察から、四つの不動産価格は、一律一〇兆円と設定した。  この額は、ぼくが月々もらっている給与と比較するならおどろくべき数字だった。しかし、いままでみてきたように、世界では数多くの人びとが実際にこうした感覚で暮らしているのだ。彼らは、世界中に多くの別邸をもち、さまざまな人種の愛人をたくさんかかえている。さらにその資産をつかって権力に食いこみ、国家まで私物化している現実があるのだ。だから一〇兆円を途方もないとか、ありえないと思うのは完全な偏見だった。こういう視点に立ってはじめて、日本の年間予算、一一〇兆円という数字も、いままでとは違って身近に感じることができた。つまり、このゲームの市場規模は、高々四〇兆円にすぎなかった。敷地には家屋をたてなければならないが、いくら凝っても一〇〇〇億円くらいだった。ひろい土地があるから別邸もつくることができるが、これだけ出費すればどんな希望でもうけ入れられた。実際に建築する際には、画面に容姿端麗な複数のプランナーが登場する。彼女たちは、それぞれ間取りや設備などを担当し、各々数百のプランをもっている。敷地を購入して邸宅を建築するのは、努力が報われ、ようやく形になる場面と考えられた。だからこの作業は、購入者が栄誉を授けられる瞬間といっても過言ではなかった。ゲームを中断し、プランナーの話を五分の制限時間、目一杯つかって考慮する自由があたえられていた。そのあいだ、参加者全員は、おなじ画面をみつづけなくてはならなかった。  田園調布、成城、代々木には、三つの別邸が建設可能だった。南麻布は敷地面積が小さかったので、本邸以外は建築できなかった。つまり四つの地点を独占すれば、一〇軒の家屋を立てることができた。こうして、愛人を邸宅にむかえる準備がととのう。   美女は、一〇人に厳選した。具体的には、ギリシア世界から、アプロディテ、イオカステ、アルテミス、ペルセポネ。エジプトから、クレオパトラ。ペルシアから、スタテイラ、ロクサネ。中華世界から、楊貴妃、西施。日本から、小野小町を選出した。こうした女性たちは、現実にはいなかったのかも知れない。しかし彼女たちは、存在をふくめ、たんなる美貌ばかりでなく、幻想的ともいえる神秘性を兼ね備えていた。近代の美女と呼ばれた人びと、例をあげれば、ふるくは、マリリンモンロー、バーグマン、シャロンストーン。あたらしいところではさまざまにいるのだろうが、どれも映像をみることができた。映り方によってイメージが異なると、どこまでも化粧ではないのかという疑念がうまれた。年齢とともに変化するのは仕方がないが、美貌という一点から考えるなら、一個の人間に美醜がともなってしまう。要するに生きているのは残酷な真実で、神話的な人びとと競いあうことはできなかった。この選ばれた一〇名にたいしては、ありとあらゆる美的象徴性、蛾眉、皓歯、明眸、楊柳、若さ、清浄、知的、絢爛、気品、優美、肉感、陶酔、妖艶、恍惚、神秘、淫靡、背徳、淫乱、などがつけ加えられた。  ゲームに参加する者は何名でもよかったが、三人から六人くらいが最適だろうと考えられた。参加者は、まず甲乙つけがたい四つの邸宅のどれかを手に入れねばならない。そうすれば、そこに愛人を住まわせることができる。しかしこの女性たちは、だれひとりをとってもあきらかに傾国の美女だった。彼女たちからみれば、田園調布や成城の高々一五万坪、時価一〇兆円など、ほとんど魅力がないに違いなかった。しかし制作者のぼくには、これ以上の贅沢が思いつかなかった。いずれにしても、このレベルの女性たちをひとつ屋根の下に押しこめられないのは明白だった。だから完璧な勝利は、四箇所の敷地に一〇棟の邸宅をつくり、すべての美女を愛人として住まわせて、羨望の的となる優雅な生活をおくることだった。  ゲーム参加者は、四つの地域を各々一〇兆円で購入しなければならない。そのため、まず一〇〇億円があたえられる。このゲームに嵌まると、億の金額は、ちり紙程度の価値しかないと分かってくる。とはいえ、お金が無からつくれないのは、みんながよく知っていた。金持ちになるには、まず充分な金をもっていることが前提だった。世の中は、お金がなければなにもできないのだ。有り金をつかって、仮想通貨の調査をしなければならない。暗号資産という呼称は、仮想という実態を隠蔽する目的でつけられていた。そこでゲームでは、仮想通貨という現実に即した呼び名をつかうことにした。調査費は、一回につき一〇億円が必要で、所持金の一〇〇億円は一〇回分と考えてよかった。  対象になる仮想通貨は、取り引きできるものだけでも九〇種類以上があった。それらの時価総額は二〇〇兆円をこえていた。個別にみるなら、ビットコイン(BTC)は、特別大きく五〇%をしめていた。イーサリアム(EHT)も、三〇%、七〇兆円の時価をもっていた。一兆円をこえるものだけでも、三位のビルドアンドビルド(BNB)以下、リップル(XRP)、ソラナ(SOL)、カルダノ(ADA)、ドージコイン(DOGE)、トロン(TRX)、チェーンリンク(LINK)、ポリゴン(MATIC)、一一位のアバランチ(AVAX) まで揃っていた。  調査費を払って、ハッキングする仮想通貨を決定する。とうぜんながら、通貨によって成功確率に違いがある。もちろんビットコインはいちばん難しく、下位にいくほど容易だが、成功しても時価総額以上を獲得することはできない。だから現実的な対象は、イーサリアムまでに絞られる。とはいっても、必要額が五〇〇億円程度なら、アバランチをつかえばかなり安全に資金調達が可能なのだ。つぎにハッキングする金額を決めるが、各通貨の時価総額をこえることはできない。もちろん高額になるほど、成功率はひくい。こうして、四〇兆円程度を仮想通貨市場から調達する。  ハッキングは、現実に韓国の北に位置する国では国家をあげて懸命にとりくんでいる。二〇一七年以降に日本から収奪した仮想通貨は七億ドル、世界全体では二三億ドルに相当すると考えられている。日本円で三五〇〇億円程度だから、四〇兆円からすれば微々たるものになるだろう。この数字だけをみて、ゲームがまったく成立しないだろうと考える人がいるかも知れないが、それは市場の実態を理解していない。  仮想通貨は、あくまでも仮想で実体をともなっていない。人間が脳内にうみだした仮想空間で流通する通貨を、画面上で物質化しただけのものなのだ。宇宙が一一次元で構成されるかどうかはべつにして、仮想通貨が存在しているのは、人によって考えだされた脳内空間なのだ。したがって、この空間がどの程度の大きさなのか、表現することはできない。いちばん理解しやすくいえば、ここは虚数空間と考えるべきなのだ。虚数はあきらかに日常的に存在しているが、それだけをとりだしてみることはできない。なぜなら、実数ではないからだ。宇宙の構造は、どんなに巨視的でも、限局的でも、おなじにしかみえない。株価のグラフは、年足、月足、日足、時間足、分足でみると、ほとんど同一の揺れうごきをしている。いわゆるフラクタル構造を、形づくっている。つまり虚数世界では、大きい、小さいという区別がないのだ。韓国の北の国が総力をあげた三〇〇〇億円と、ゲームとして調達したい四〇兆円のどちらが高額なのかは、だれにも断言できない。このばあい、虚数記号、iが付与されていると考えるべきだろう。三〇〇〇億i円と、四〇兆i円は、仮想空間では大小の比較ができない。難しいのは、円、ドルという実数世界に還元することで、仮想通貨市場の二〇%程度をハッキングするのは充分可能なのだ。  こうして考えるなら、さらに踏みこむ事態も起こりうる。つまり仮想通貨の取引所、そのものが仮想だから自前でつくることも可能なのだ。だから、一〇〇〇億円を投資して通貨取引所を新設できる。こうした行為はつよい監視下にあるので、成功確率は一〇%くらいだろう。しかし成功すれば、ハッキングはさらに容易になる。一〇億円支払って調査し、対象通貨と獲得したい金額を入力すると成功確率が表示される。取引所をもっているなら、この確率が五倍程度上昇する。  こうした方法をくりかえして、必要な資金を獲得する。さらに成功して物質化できたばあいは、実数化されたことを意味するので状況は大きく異なってくる。つまり不動産は、仮想通貨とは違い担保価値をもっている。一〇兆円の物件なら、半額にあたる五兆円の融資をなんの制限もなくうけられる。五%の利子、二五〇億円を巡回するごとに支払わねばならないが、一兆円もっていれば四〇回の負担に耐えられる。融資をうけることにより、宅地の価格は現実的に半額になる。さらに五兆円を足せば、べつの敷地を購入でき、そこもおなじように担保価値をもっている。つまり四〇兆円の市場とはいえ、実際には二〇兆円で購入可能なのだ。いっぽう、なんらかの理由により不動産所有者が利払いできなくなれば、敷地は没収され、強制的に売却される。複数の購入希望者がいれば、担保価値からはじまる競売にかけられる。だから仮想通貨のままで保持し、売り立てを待って不動産獲得にすすむという戦略も起こりうる。  たとえば三つの敷地を所有するゲーム参加者が破産したばあい、保有していた土地は、順々に担保価値の五兆円から競売にかけられる。五兆円以上もつものが自分ひとりなら、そもそも入札が成立しないため、開始時の金額でひとつ目の不動産を機械的に取得できる。獲得した宅地は担保価値を保有しているので、五兆円の融資がそくざにうけられ、つぎの敷地の競売に参加可能になる。こうして、ドミノ的にこれらの土地を所有できる事態が起こりうる。もっていた五兆円が、あっという間に三つの不動産、資産価値、一五兆円に変わる。まさに、お金を所有していたことでうまれる錬金術の世界が到来する。しかし、もし相手が充分な幸運に恵まれ、四つの地域と一〇人の美女を侍らせる成り行きになったときには、たとえビットコインを四〇兆円所持していたとしても、何ひとつ対抗できない。完全に仮想通貨のなかで、「溺死」という大いに失笑と同情を買う事態が出現する。  こうしたゲームには、人生同様、運がつきまとうのは不可避だと考えられた。三巡につき一度、進行係から「知らせ」がやってくる。それは、幸運だったり不幸だったりする。代表的なものは、宝くじの一等に当選、一〇億円。遠い親戚からの遺産、五〇億円。という類いだが、なにせ戦っている金額が兆の単位なので、利払いの足しにしかならなかった。大きな不幸は、自然災害だった。地震による邸宅の損壊などは、敵味方に関係なくおそってくる災禍だった。このばあいは、仮想通貨をもっている者が断然有利だった。火災などは、邸宅が全焼するので再建しなければならなかった。小さいものでは、台風による家屋の破損。修理代、五億円。SNSで中傷記事掲載。炎上対策のための弁護士費用、一〇億円。与党政治家からパーティー券購入の強要、五億円。などがあった。ひとつずつはたいした金額ではなかったが、そのわずかな額が払えず、家が競売にかけられる事態も生じた。複数の購入希望者がいるなら、売り立ては五兆円からはじまるので、七兆円で落札されれば二兆円を手にすることができた。希望する者がひとり以下なら、さらに不運だった。  いっぽう美女たちは、いずれも浪費家だった。息をするのにも、お金が必要なのかと思えるほどだった。彼女たちと暮らすには、敷地を購入し、プランナーたちと邸宅をつくらねばならなかった。また、同時に侍女たちをむかえる必要があった。その支度代として、五〇〇億円が最低でもかかった。美人は、おどろくべき濫費にふけり、ひとり、一巡につき一〇億円が必要だった。彼女たちと暮らすには、このほかに定期的なプレゼントをあたえねばならなかった。  こうした女性の心理については、ほぼ悠真の意見がとり入れられた。  彼は、この領域については専門家を自任していた。なにせ、二五歳で一〇〇〇人斬りを達成し、今後の人生でどのくらいの女性と寝床をともにするのか、自分でも分からないと豪語していた。本人としては、もうひとつうえの桁を目指すつもりだった。  悠真によれば、女性は抽象よりも、あくまで具象を大切にする。愛という感情より、目にみえる物質が優先する。だから、ぼくらが考える仮想空間は、男の思考の産物だといった。女性に虚数は通用せず、目にみえないものは、ないのとおなじだった。だから定期的に、プレゼントを用意しなければならない。あたえるものは、値段が高ければなんでもよかった。ブランドもののバッグや指輪など、およそ一億円を目安に買いあたえた。こうした小物については、五巡に一度くらいの頻度で専属のスタイリストが画面に登場し、相談に応じた。彼女たちは、侍女の構成員で主人の意見を代弁していた。だれに、なにを買いあたえたかについての克明なデータをもち、差がつくと公平性をもとめ、激しく糾弾した。それでいて、みんなよりも一頭地をぬくものを執拗に要求することになった。  ここまでをまとめると、美女と暮らすためには、広大な敷地を購入し、そこに専有の邸宅をたてる。支度金を提供し、侍女たちをむかえ、浪費を許し、定期的に贈答品をわたさねばならない。それでは、ここまでつめればいいのだろうか。悠真によれば、これが最低ラインで、「イナフ」では、まったくないのだそうだ。 「それでは、充分ってなんだ」とぼくは聞いた。 「ぼくらのエキサイト空間は、大きいとも小さいともいえないだろう。そこに、宇宙だって入れられるのだから。どこまでも、ひろがっているんだ。女性のばあいは、物質世界がおなじなんだ。定期的な贈りものは、あくまでチェック可能な、気づける範囲にあるんだ。ハプニングとは、思いもつかないものをさすわけだ。だから、意識の外にあるなにかを提示してやらねばならない」  悠真は、ぼくをみつめて話しだした。  その話は、彼が酒場で女をどう口説くのかという説明になっていた。女性は、無意味に予感とか必然とかが好きなのだ。無意識のおとずれにたいして、非常に好意的な反応をしめす。考えがもの凄く現実的だから、その影の部分にあたる女性の隠された一面なのだ。いままで気づかなかったことを教えられると、好印象につながると悠真はいった。彼は女性と話しながら、身近な話題を振ってやるのだそうだ。それほど単純ではないが、非常に分かりやすい例証をあげれば、どんな女優が好みか聞いてみる。それで女が、好感をもつ女性と似ている部分を指摘する。それが顔ならとことん追求するが、そんなことは一〇人もいなかったといった。それでも、なんとか似ている部分を探してみる。必ずみつかるのだ。このためには、信念をもつべきだといった。最終的には、女性というそっくりな部分が間違いなくあるのだ。あとは、心構えの問題だ。なにかの表情とか仕草でも、声でもいい。髪の形とか、耳とか、鼻とかの部分でかまわないのだ。よくみれば、似たようなシャツをきているばあいもある。コマーシャルにでてきた服と、同系の色かも知れない。なんでもいいから、どこかに共通点をみつけだす。そうして雰囲気がよくて気がついたという感じで、ぼそっとつげる。それで充分で、あとは相手の反応をみるのだ。要するにこれが、その女性に思いもつかない好ましい情報なら最高なのだ。それこそが、好感がもてるハプニングになる。あとは、彼女がその言葉を契機として思いついたことを最大限に尊重すればいいのだ。これは、うなずくだけでかまわない。重要なのは、その飛んでもない見解にたいし絶対に反対しないことだ。しかし、エキサイトを構成する女性群ともなれば、格が違うから言葉程度ではおどろかないだろう。賛辞には馴れきっているから、値が張る現物しかないといった。  それで悠真は、美女との生活には緊張感が必要だと主張し、浮気、不倫というテーマを提案した。  具体的には、べつのゲーム参加者が、邸宅と、侍女たちの支度金、五〇〇億円を用意し、「求愛」するなら、「よろめき」はとうぜん生じることになった。自分の順番がきたとき、ターゲットに一〇〇億円をだして求愛活動を行う。成功するかどうかは、確率による。基礎的条件を満たしていれば、成功率は一〇%程度と考えられる。これにたいして、侍女団は会議をひらく。過去に主人が、どの程度の誠意をしめしていたかが厳格に計算され、評価がくだされる。ハプニング行為をしていないと、このとき成功確率が高くなる。さらに、ここで特別な小物をあたえると、確率は上昇する。ブルガリのダイヤモンドの指輪とか、ティファニーの純金のネックレスは、考えられないほど強力な小道具だった。 ぼくらは、こういう設定で、エキサイト空間に嵌まりこんでいた。都心の一等地に大邸宅をかまえ、飛んでもない美女と寝食をともにしていた。小野小町、楊貴妃、クレオパトラは、おどろくほどアイテムによわく、ぼくらのあいだで往き来をくりかえした。美女との暮らしは、思っていたより殺伐としたものだった。しかし、たとえ仮想ではあっても、素晴らしい豪邸をもち、世界最高峰の女性たちにかこまれている以上、あきらかに見劣りする世間一般の女性には興味がわかなかった。  四月なると、開発室に新入社員が見習いとして配属された。この業界では大変異例だったが、今年大学を卒業したばかりの若くてスタイルのいい女性だった。真っすぐなながい黒髪を輝かせる女は、肌の色が白く、清楚で青い服がよく似あった。さらにおどろくことには、容姿も端麗だった。肌は化粧も不必要ですべすべとし、ととのった顔は鼻筋が通り理知的だった。どこからみても、非のうちどころひとつない乙女だった。じっとみつめてしまう自分が思わず恥ずかしくなってくるほど、彼女は美しかった。名前は浅野マヤといい、どこかの大名の末裔らしく、立ち居振るまいからみても深窓のお嬢さまなのはあきらかだった。胡散臭いお宅が昼夜逆転した状態で、仕事と称して自分の好き勝手な事案に嵌まりきっている部署に、彼女がどういう経緯で志願してつとめる気持ちになったのかは、皆目不明だった。  仮想の戦いに明け暮れていたぼくたちは、この女性の出現によって現実の世界にひきもどされたのだった。ぼくらにとって美貌とはすでにありえないもので、整形をふくむ化粧としてのみ存在していた。好ましいとされる状況、つまり豊かさや美しさとは、非現実的というつよい認識に立って、はじめてエキサイトという空間を考えることができた。しかし目のまえに現実として提起されると、仮想空間との境界が不明瞭に変化したのだった。  考えれば、ぼくはいい年になるのに、恋人はもちろん友だちもいなかった。朝から晩までコンピューターの映像をみつめつづけ、仮想の大金、空想の美女、想像の豪邸につかりきっていた。毎日、何ひとつ変わらない汚れた埃だらけの部屋で、すべてが片づけられないままにひろげられた机のうえにおかれたコンピューター画面をまえに、上半身裸になってコンビニ弁当を食べながら、缶チューハイをあおっていた。同時に、初秋のさえざえとした月が虚空に浮かぶ穏やかな晩、対岸にフランス国境を臨むレマン湖畔の静謐とした高級ホテルで、ぼくらだけのためにヴァイオリンをひかせ、最高級のワインを飲みながらフルコースを楽しみ、思い切り優しい言葉で美女を口説いていた。ぼくのなかでは、この二つの世界はなんの違和感もなく並立していた。仮想空間では、バーも食事も、すべて空想の美人を口説く手段だった。  そこに彗星のごとく登場したのが、浅野マヤだった。彼女は、ぼくらがたがいに争奪をくりかえしていた伝説の美女たちと優劣がつけがたいほど優雅で、上品で、スタイルがよかった。さらに彼女たちとは違って、お金に左右されない現実の乙女だった。とうぜんながら、ぼくと悠真のあいだには、いままでとは本質的に異なる緊張がうまれた。  どれほどエキサイトがリアリティーを目指してつくられていたとしても、しょせんバーチャルでしかなかったのを、ぼくらは思い知らされたのだった。仮想と現実が不可分にまじりあい、それなりに調和し、思い切りの贅沢を満喫する世界が存在していた。それが、あまり愉快ともいえない、みたくも考えたくもなかった圧倒的な現実世界が出現し、一挙に白けてゲームに集中できなくなった。マヤが登場してから、ふたりの関係はぎくしゃくしはじめ、順風満帆だったエキサイトにさまざまな欠点がみつかりはじめた。難航がはっきりしだして、ぼくらは、もう一度よく話しあう必要を感じていた。  五月の休日のことだった。ぼくは、ながくつづく春眠のまどろみから、ようやくベッドをぬけでた。居間の時計が一〇時をさしているのをみて、窓にかけられた白いレースのカーテンをあけはなった。大都会の一〇階から眺める休日の空は、無数に拡散する白色の粒子がやわらかい陽光をうけ、よわい乱反射をくりかえしていた。すべての意識が茫漠とし、タマネギ状の表皮で幾層にもつつまれているように感じた。  列車がつらなる夢を、ずっとみていた気がした。どこなのだろうか、長距離列車が、みわたすかぎり茫漠とひろがる大平原を、もくもくと走っていた。地平線にむかう車両は果てしなくつづいていたから、日本ではみられない光景だったが、たぶんシベリア鉄道ではなかった。平原は凍てつくような場所ではなく、草木が生えていたが繁茂というほどでもなかった。闇夜ではなく、日が照り青い空がみえたから、デカン高原でも走っていたのではないか。それがつぎつぎに走行し、車両が果てしもなくつながり、もう何百台つらなっているのかも分からなかった。すでに先頭はみえず、ひくい灌木が疎らに立つデカン高原を、一列になった列車が陸続とつづいていた。ふと気づくと、ぼくは、前面がすべて窓で、視界をさえぎるものもない最前列の運転席から地平線をみつめていた。まえには線路もみえなかったが、空は青く、あかるい日差しがあふれていた。しかし、ぼくはなにに乗っているのだろうか。すべてがみわたせても、いま、自分がどこにいるのかは分からない。それなのに、ぼくは、そこが先頭の車両だと知っていた。そうなると、さきほど列車がずっとつづくのがみえたときには、どこにいたのだろう。自分が、ほんとうはなにをみているのかさえ、ぼくには分からなかった。 「ニュースを、くりかえします。警視庁は、都内の高層マンションでつづけて起こっている殺人事件が、同一犯によるものと断定しました。防犯カメラに写った若い女が、なにかしらの関与をもつ者とみて現在捜査中です」  ソファーに腰をおろし、最初に目についたテレビのスイッチを入れると、アナウンサーが大声で喋っていた。そのとき、背後で扉がひらく音が聞こえた。反射的に玄関を振りむくと、うごく青い姿をみとめた。 「助けてください」  女の震える声が聞こえた。  灰色の鉄の扉をすりぬけてきたとしか考えられない青っぽい人影は、ぼくと目があうと振りかえって鍵をロックし、ドアチェーンをかけた。それから、ゆっくりとちかづいてきた。身構えたぼくがみたのは、恐ろしい妖怪でも、凶暴な強盗でもなかった。うすい緑の服を身にまとった若い女だった。つややかなながい黒髪を背まで垂らした女性は、素晴らしくととのった容姿で、哀願をこめた黒い瞳でぼくをじっとみつめた。色白の顔はすべすべとし、染みひとつなく、あわいグレーの地に空色の水玉がついたロングのスカートをはいていた。豊かな胸は白いタンクトップで覆われ、そのうえにうすい緑色の、袖のながいカーディガンを羽織る美貌の女は、二〇代なかばにみえた。極限まで高まった緊張は、急速にほぐれていった。しかし、「どうやって入ってきた」という問いにたいする、「扉があいていたから」という女の答えは、ぼくを納得させるものではなかった。  そのとき、とつぜんドアホンが鳴りひびき、扉口がどんどんと叩かれた。女は首を振ると膝立ちになり、胸のまえで両手の指をくんで、ぼくを祈る目でみた。またドアホンがくりかえし鳴りひびき、扉が激しく叩かれた。 「織田さん、警察の者です。ドアをあけて話を聞いてください。いま女が入りましたね。織田さん、いるのは分かっているのです。答えてください、大丈夫ですか。私服ですが、私たちは警察です。モニターをみてください、これが警察手帳です。その女は、殺人事件に関与した可能性があって、追っているのです。扉をあけてください。その女は一見、虫も殺さない可愛い娘にみえますが、本性はみた目とは違いますよ。兇悪で、恐ろしい武器を隠しもっていますよ。みかけに、だまされてはいけません。織田さん、あなた、今朝のニュースをみませんでしたか。高層マンションで連続して起こった殺人事件ですが、その女が容疑者ですよ。聞こえていますか。大丈夫ですか。織田さん、あけてください」  その声を聞いて不審な表情でぼくがみつめなおすと、女はそくざに首を振り、 「嘘です、違います。彼らはふたりづれのごろつきで、警察官ではありません。以前から、私を執拗につけまわしているのです。偶然このちかくで、でくわしてしまったのです。それで、追いかけられて逃げているのです。助けてください」とかぼそい声でいった。  ぼくは女にむかって右の人差し指を立て、レースのカーテンが垂れさがるベランダがわの場所にうごかした。意味を理解した女性は、テレビの横のスペースまでゆっくりと歩いた。一〇階の窓から、やわらかな日差しがふりそそいでいた。光をうけて、部屋の両脇でゆったりと揺れるレースが白く輝いた。中央に立つ女の、あわい緑のカーディガンと白色のタンクトップは、斑な白雲と青い空と重なって輪郭をのこして溶けこみ、現実感にとぼしい不思議で神秘的な雰囲気をかもしだしていた。 「さきほどおつたえしたニュースを、くりかえします。警視庁は都内の高層マンションでつづけて起こっている殺人事件が、同一犯によるものと断定しました。防犯カメラに写った若い女が、なにかしらの関与をもつ者とみて現在捜査中です」  テレビからながれてくるアナウンサーの言葉に、美貌の女性は懸命に首を振った。  「織田さん。その娘は、昨日また都内で起こった連続殺人事件の容疑者ですよ。みた目とは違って、兇悪で、恐ろしい武器を隠しもっていますよ。みかけに、だまされてはいけません。注意して、すぐに扉をあけてください。織田さん、大丈夫ですか」 「うごくな」とぼくはいって、女性をみつめたまま扉口にむかって後ずさろうとした。 「待って」と女は小さく囁いた。清純としかみえない女性は唾を飲みこみ、覚悟を決めた面持ちになり、くんだ手をほどいて胸元にもっていった。 「うごくな」  ぼくは、もう一度ひくい声でいった。  女は、ゆっくりとした手つきで緑のカーディガンのボタンをはずし、服の両端をつまんでひろげてみせた。なにをはじめたのか分からないぼくが、だまってみつめていると、女性は、さらにゆるゆるとした動作で上衣を右肩から順にぬいだ。それから、その上着をソファーにむかって投げすてた。豊かな胸を隠す、盛りあがった白いタンクトップがいっそう露わになり、銀色に輝いた。不審な表情でなおもぼくがみつめていると、つぎに女は両手をゆっくりと腰にもっていき、スカートをおろしはじめた。白いショーツがみえ、露わな太ももが目に入った。女は、まず右足をあげて片足立ちになり、スカートをおろしきるとぼくをみつめた。それから、さらに左足を浮かし、完全に身体からはずした。そして、ぬいだスカートを両手にもち、じっとみた。  その視線にぼくが身構えたのを知ると、やがて女は、手にしたボトムズをゆっくりとソファーにむかって投げた。そこで、女性はまたみつめた。しかし、だまったままのぼくが、なおも厳しい視線を投げかけているのを確認すると、女はさらに真剣な表情になった。それから両手を交差させてゆっくりと腰にむかってうごかし、タンクトップの両裾をもってうえにもちあげはじめた。素晴らしい、半球状の乳房がみえた。すっかりわけの分からない状況のなかで、張り切った白いバストは圧倒的な存在感をしめしていた。女は、白色のタンクトップをひとつかみにすると、ソファーにむかって投げすてた。  困惑のなかで、なおもぼくがじっとみつめていると、女性は両腕をくんで胸を隠し、ゆっくりと回転して後ろをむいた。項から腰にかけての、鮮烈なラインが目に飛びこんできた。すべすべとした背中は輝き、きめはこまかく幾分かしっとりとしめってみえた。女の純白のショーツは、かつてみたこともないほど美しい理想的な臀部の、すべてを隠すにはあまりにも小さすぎた。ぼくは、唾を飲みこんだ。もうどうしていいのか、なんだかすっかり分からない未体験のゾーンに突入していた。  やがて女は、むきなおり、そのままの姿勢でじっとみつめた。女性は、ぼくが驚異の目でみかえしているのを確認すると、猛烈に深刻な表情になった。女は、しばらく躊躇し、それから両手をゆっくりとうごかして純白のショーツに手をかけた。 「もういい」  女がさらにうごこうとするのをみて、ぼくはいった。ソファーにあった衣服をとって、女性の足もとに投げかえした。それから玄関にむかって歩き、ドアホンの通話ボタンを押していった。 「うるさいですね。なんなのですか、あなた方は。女なんてきていません。これ以上騒ぐと、警察に連絡します」 「私たちは、警察官です。これが警察手帳です」  外の黒い服の男は、手帳らしきものをモニター画面のまえにかざした。 「女など、やってきませんでした。だいいち厳重な鍵がかかっているのに、どうやって勝手に入ってこれるのですか。もう一度いいます、帰ってください。これ以上しつこいなら、ほんとうに警察に連絡します」  それで、どういう反応が起こるのかと思って、ぼくが不安な気持ちでモニターをみつめると、しばらくざわざわしたが、やがて男たちはいなくなった。結果から判断するなら、彼らは警察官ではなかったのだろう。どうやって、マンションの防犯ゲートをすりぬけられたのか、理解ができなかった。女のばあい、さらにぼくの室内まで侵入してきているから、ゆゆしき事態で、つぎには男たちがあらわれることだって起こりうる。今回は許せる部分があるが、あんな無骨な者たちにとつぜん闖入されるのは、飛んでもなく物騒な話だった。防犯体制の責任を問うよりも、なにはともあれ事実をまず管理人に報告するのが義務だと思った。混乱しながらリビングにもどると、女はさきほどぬいだ服をきて床に正座していた。騒動が一段落して、あらためてじっとみつめると、それにしてもととのった容姿をもつセクシーな女性で、見事なプロポーションだった。立ってみおろすと、豊かな胸の一部が垣間みられる点をふくめて、目眩で倒れそうになるほど怪しかった。  経緯はどうであれ、このナイフひとつもたないかよわい女がマンションの一室に自発的にきている事実は、大変なことだと気がついた。そのうえ、寝間着姿のぼくがいあわせているのだ。ここで、ふたり切りでおなじ空気をすっているのは決して不運な状況とはいえなかった。怪しいことなど、この厳粛な事実にくらべれば、ささいな問題に思えるほど女は魅力的だった。不審な男がつきまとう話などすこしも妙ではなく、どちらかというと普通だと感じた。これだけの女が背景をもっていないほうが不自然で、美人局かも知れないし、この一部始終が芝居なのかも知れない。なんのために、そんな手のこんだことをするのか。街のごろつきに名前を知られて、どこかで因縁をつけられるのだろうか。  どんなに怪しくとも、このヴィーナスの裸身を鑑賞してしまった以上、一緒に暮らせるなら目をつむる手も間違いなくあると考えられた。どちらかというと、お願いしてでもそうさせてもらいたいと思いはじめていた。すこしずつ落ちついてくると、自分でもべつの興奮にとらわれだしているのが分かった。 「ありがとうございます。助かりました」と女はいった。 「名前は」とぼくが聞くと、 「マリアです」と女性は答えた。  どこかで耳にした名だと考えていると、彼女は「手洗いをつかいたい」といった。女が立ちあがると、そのうごきにつれて新緑のいい匂いが漂った。彼女が洗面所に消えると、ぼくは服の着替えも考えたが、ガウンを羽織ってコーヒーを入れることにした。でてきた女がソファーにすわるのをみて、 「いまコーヒーを入れてますから」という言葉の調子が、自分でも嬉々としているとぼくは感じた。  女は、そんな姿をみてメランコリックな悲し気な表情になり、 「差し出がましくて申しわけないけれど」と前置きし、「顔を洗ってきたらどうでしょうか」と提案した。  目やにがついているのが、みえたのかも知れなかった。たしかに起きたばかりで髪もぼさぼさだったし、「一理あるな」とぼくは感じて、洗面所で洗顔し歯を磨いていると扉の音がした。おどろいて顔をふきながらでてくると、女はもういなかった。  すべてが夢であったとしても、千載一遇のチャンスを逃したことは間違いがなかった。押さえつけても欲望を果たすべき状況で、激しい後悔がぼくをおそっていた。ドアホンを再生してみると、女は部屋の鍵をもち、それをつかって侵入していた。マスターキー以外に考えられなかったが、管理人に報告するべきなのだろうか。説明しても、起こったすべてを信じてもらうには、あまりにも突拍子もないことに思えた。いっぽう追跡してきた男たちは大柄でやくざっぽいふたり組で、こんな者たちに追われるのは、そもそも相当に怪しく、マリアはさまざまな問題をかかえているのだろうと想像された。  茫然としながら、なにが事実だったのかと考えていた。マリアは、追われていた。追ってきたふたり組は、警察官ではなかった。だから、彼女の言葉には事実があった。扉で怒鳴っていた男たちは、嘘をついたのか。それも違うのではないか。男たちがくりかえし注意喚起していたのは、女が武器を隠しもつことだった。それが間違いでないのも、ぼくは確認したのだった。あとから思えば、これが最初におとずれた変調の兆しだった。  その日の夕方、浅野マヤの歓迎会と称して、ぼくらは新宿で会った。町を歩くと、老舗の演劇ホールがある中心街の書店のまえで多数の男たちがあつまって騒然としていた。警察官がでて救急車がとまり、担架に乗せられた男が幾人もつれだされ、サイレンを鳴らしてつぎつぎと去っていった。みたことがあるテレビ・キャスターが生中継をし、周囲に七重、一二重と野次馬がとりまいていた。  予約していた飲み屋で一杯飲んで浅野マヤが手洗いに立ったとき、悠真が騒動の経緯をぼくに解説した。彼の話では、エジプトのマリアというダンサーが社会問題をひき起こしているらしかった。 「一度会ったら、二度と忘れられなくなる。美貌で、もの凄いグラマーだ。素肌をさらした緑色の水着みたいな衣装で踊るダンスが、なんとも妖艶で、大変な人気で、公演チケットが手に入らない。マリアは、その日の来場者のなかから一名を選んで夜をともにするという噂があり、入場券にプレミアがついて値段が百倍にも高騰している。ちかごろ連続して起こった高層マンションの殺人事件は、チケットトラブルと関係をもつらしい。彼女とひと晩すごすと、どんなことでも男はする気になり、政治家やセレブがそのために数百万もつむといわれている。おれは、今度エキサイトの美人にマリアをくわえるつもりだ。マヤもいいのだが、おまえに気があるらしいから、やめておく」  悠真はそう話してスマホをとりだし、公演の衣装をきたマリアの写真をみせた。なんとそれは、今朝、部屋をおとずれた美貌の女性だった。ぼくが心底おどろいた表情に変わったのを悠真はみ逃さず、理由をしつこくたずねはじめた。それで朝に起こった出来事、つまり、鍵がかかっているマンションの扉をとつぜんあけて入ってきた女が、勝手に裸になるという普通はだれも絶対に信じるはずがない、すこぶる不自然な話をした。  この事件は、どこから考えても話すほうが当惑するほど非現実的だったが、悠真は現実と仮想との境界が曖昧なものに変わっているのか、本気で憤慨しはじめた。マヤが帰ってくると、彼はいった。 「織田は、娼婦をマンションにひきこんでいるそうだ。マヤさん、こんな男とつきあうのはやめたほうがいい」 「なにをいっているのかよ。悠真、ふざけるなよ。ぼくは、マヤに首ったけなんだ」 「舌も乾かぬうちに、よくいえるよな。マヤさん、ほんとうのこいつは、肉感的でグラマーな女の身体ばかりが大好きで、楊貴妃なんかは独り占めにして、家を競売にかけても手ばなさないんです。肉体フェチで、異様なほど独占欲がつよい奴なんです。こいつなんかほうっておいて、ふたりでほかの店にいきませんか」 「冗談をいうなよな。おまえが、ひとりで帰ったらどうだ」と応じると、押さえていたなにかが切れたらしく、悠真は感情を爆発させた。  立ちあがるととつぜん、ぼくの頬をなぐった。おどろいて、「なにをするんだ」というと、「天誅である。成敗してやる」と悠真は叫んで、ぼくの腹に蹴りを入れた。室内は、騒然となった。「悠真さん、やめて」と叫ぶマヤの声が聞こえた。倒れて腹を押さえるぼくに、悠真はすわっていた椅子をもちあげて背中に叩きつけた。  気がつくと、病院のベッドに寝かされ、手当をうけていた。ぼくは、救急車で搬送され、丸一日昏迷していたらしく頭ががんがんと痛んだ。医師がやってきて、頭部のCTでは異常をみとめない。打撲だけで骨折はない。もうしばらく様子をみたら、帰宅してもいいといった。医師が部屋を去ると、今度は弁護士だと名乗る黒い服をきた大柄な男が入ってきて、昨日の事件を説明し、告訴をするかどうかたずねた。 「状況はあきらかで、証人はたくさんいるので、社会的な制裁をくわえたいなら民事告訴することもできる」といった。そして、 「加害者が病室のまえで待っているが、面会しますか」とたずねた。 「会ってもいい」と答えると、悠真が入ってきて昨日の暴行を謝罪した。  なぜ、あんなに暴れてしまったのか、自分でも見当がつかない。申しわけない。告訴はしないで欲しいと、悠真は平身低頭になっていった。  治療費は請求するが、告発までは考えていないとぼくは答えた。  かたわらで聞いていた弁護士は、 「すぐに結論をださずに、時間をかけて熟慮したほうがいいですよ」といった。 「示談に応じる」 「しばらく会社を休む」 「この件は、上司に報告する」と悠真につげて、ぼくは病院をでた。  その日を境に、周囲はしだいに変化をはじめた。まわりの風景は日ごとに馴染みのないものに変わり、「どうしたらいいのか」と考えているうちに、世界は恐ろしく変貌をとげていった。  二  都内の高層マンションに住むぼくは、絶望しながら外出もひかえて暮らしていた。同僚だった木村悠真の暴行事件があってから、世界は急速に変わりはじめていた。その後は、彼に会って話すこともなかったし、会社をやめたらしい浅野マヤとも連絡がとれなかった。周囲は目まぐるしくおどろくほどに変わり、なにが真実なのかぼくには分からなくなっていた。悠真の執拗な暴行は野獣じみていたから、考えはじめると彼が人間だったのかをふくめて、もうすっかり不明だった。  中生代に両生類から進化した爬虫類が大繁栄をとげ、恐竜時代をきずいたのはよく知られている。歴史に「もし」はないのだが、大隕石がふってこなかったら、そこから知的生物がうまれたに違いなかった。大型の爬虫類のなかには、すでに前肢を自由にできるほど後脚が発達し、二足歩行が可能なまでに進化した種もいたのだ。ただ酸素濃度の関係で、恐竜は巨大化しすぎている。植物サイズとの比較でバランスのとれた現代人と同程度の大きさの爬虫類が、大型化した種を淘汰し繁栄する事態は充分に考えられた。  銀河系の惑星のなかに、系統樹として恐竜に似た生物から知的進化をとげるケースもありえるのではないか。ただ進化論から考えるなら爬虫類と哺乳類という異なる系統が同時に選択され、繁栄するのは無理だが、そんな奇妙な世界にまぎれこんでいた。  会社からの帰り、ぼくはメトロに乗っていた。昼さがりの車内はすいていたから我慢の許容範囲だったが、朝夕のラッシュ時にこうした交通手段を利用する自信はなかった。フレックスタイムという現代の合理的な制度が活用できなかったら、発狂するか、飢え死にするかのどちらかだったに違いなかった。初夏になり、都内は暑く、むしむししていた。車内は冷房がよわめにきいて快適だったが、ひろい縁がついた茶色の山高帽を深くかぶり、濃いグレーのサングラスをかけ、大きな白いマスクをつけ、白っぽい長袖長ズボンをきたぼくの服装は露出部がどこにもみあたらず、あきらかに季節には不向きで、周囲の者たちとも極端に違っていた。  車両のなかは、動物園だった。おおむね爬虫類が中心だったが、識別できない生物もかなり混在していた。トカゲ男やワニ女が、身体の一部を布で覆って二本の脚をつかって歩いていた。覆い隠す部分はさまざまで、上下ともきこむ品のいい男も、スカートだけの女も、反対に下半身をむきだしにした若いのもいた。ぼくは、刺激しなければ彼らはおとなしいはずだと信じていたが、いつどういう行動にでるのかは保証のかぎりではなかった。要はまったく心が読めない存在たちで、みるからに気性はあらそうで、正直いって怖かった。日々状況は激変を重ね、あっという間に周囲が怪物だらけという現実になって、もう気のせいとはとてもいえなくなっていた。なにはともあれ、人間とはしばらく会っていなかった。  車両のなかには、一見、普通の格好をした人に思える生き物もいた。以前は嬉しくなって、言葉をかわそうと思った。実際にちかよってみると前方は擬態で、ほんとうの顔は後方で、頭髪のなかにもうひとつ口がみえ、真っ暗なトンネルをじっとみつめているのが窓ガラスに映って心底おどろいたのは一度二度ではすまなかった。いまは、こちらからは迂闊にちかづかないことにしていた。たがいに目があい、どきりとするばあいでも親しげな視線を投げかけてこなかったから、やはり怪物の一種に違いなかった。  もしかすると相手もぼくとおなじことを考えている可能性もあったが、多くを期待すべき状況ではなかった。これは人に間違いないと思って追いかけ、肩を叩こうとすると、とつぜん振りかえったのがワニ男だったときの恐ろしさは、夢のなかでくりかえしうなされる忘れられない出来事だった。あとで考えれば、まさに「よかったら食べてくれない」という感じの状況だった。みた目はまったく信用できなかったが、それでも車内には胸がふくらんだ女らしく思えるのもふたりいて、もしかすると哺乳類で比較的ちかい種なのかも知れないが、接触する気配もなく、ぼくをみても関心をしめさないからべつの生物だと判断せざるをえなかった。あらゆるものが自分とは無関係に存在し、これが普通なのだと信じ、なにも感じないとして通りすぎるのが最善と思われた。  実際、今日の車両にも多くの爬虫類が腰かけていた。彼らは、周囲になんの違和感もいだいていないらしかった。することはさまざまで、共食いかと思えるほどのもの凄い形相でキスをかわし、淫らな行為におよぶ者もすくなくないが、自分たち以外には無関心にみえた。串刺しになった冷凍マウスを頬張りながら、ずっとスマホをいじくりまわすイモリ男もいた。 「おっと」  一瞬なにかが飛んできて、びくっとした。まえですわって新聞を読んでいる緑のスーツをきたカメレオン男が、ながい舌をつきだし、ぼくの右耳のハエをつかまえたらしい。うまそうに食べる彼の視界は三六〇度あるから、なにをみているのかさえも判断できない。こうした者たちは二足歩行のできる新種で、干からびた感じのトカゲ男、べたついた粘液が顔に一筋みえるイモリ女がいる。ピンクのワンピースをきたワニ女は結構大柄だが、哺乳類ではないから乳房はなく胸はのっぺりしている。それに、カメレオン男や蛇女が派手な毒々しい彩色で、ゆがんだ顔と厚い唇をさらけだしている。車両のなかには、こうした怪物がウジャウジャいるのだ。  彼らはみた目も凄いが、臭気はさらに猛烈でぼくは心底閉口していた。嗅覚はいままで考えていた以上に鋭敏な感覚で、犬は臭いを嗅いで、相手が一日どう暮らしたかをかなり正確に理解するらしい。つまり死ねばともかく、生きているからには固有の臭気があるらしく、辟易としても怪物たちにとってはいい匂いらしいのだ。ぼくが個別の異臭を発するなら、耐えがたい、ひどい臭いなのかも知れなかった。しかし、そばにいても特別な態度をしめさなかったから独特の臭気はないのかも知れなかった。それは決して好ましい状況ではなく、べつの不快をひき起こすのだろう。彼らからすれば、臭いという前触れもなくとつぜん目のまえにあらわれるぼくは、かなり異様な存在だろう。ちかくにくれば、とうぜん漂うはずの臭気が感じられないのは、ひどく不愉快な生き物ではないのか。  いったい彼らに、ぼくはどう映っているのだろうか。外見はかなり違ってみえるが、ごく普通にちかよってくるから視覚ではそれほどの差異とは思えないのだろうか。もちろん彼らはさまざまだから、異なる感覚をもつ者もいるだろう。座席に腰かけたまま、じっとみつめる生き物たちは、なにを考えているのだろう。  ぼくは、みんながおなじに感じるということを、いままでとうぜんとしていた。五感、つまり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、が基本的に共通という暗黙の了解をもって車両に乗っていたが、まずこの前提条件が崩れ、感覚がまったく違うという事実から考えはじめなくてはならない。これは、かなりの難問で方法論から不明だった。  いずれにしてもありがたいことには、彼らには許容度があり、みた目の違いにはあまりこだわらないらしかった。もうすこし本質にちかづくなら、自分以外には興味がなく、他人への関心は限定されているらしかった。したければ、周囲にだれがいても無関係だった。それに車内の連中は、基本的に移動のために乗っていた。だから行為にもおのずから限界があった。これがホームに変わると、タガがはずれて凄まじい事態になっていた。  相手のすることに興味がないのだから、私的と公的の区別が存在しない。ホームの特徴とは平らでひろい場所で、つぎにどこかへいこうと思ったときすぐに列車がやってくる、かなり便のいい、だれもがお気に入りの地点だった。知りあいに偶然会う可能性も高く、ここでたむろする者たちは多く、だいたいは寝転んでいた。プラットホームのなかでベンチは特別な価値があり、周辺ではつねに争いが起き、勝利し占拠した者は悠然と寝そべっていた。いっぽうベンチ以外の床はかなり開放され、とくに奥のほうは気をつけて歩かねばならないほどたくさんの者たちが思いのままに横たわっていた。酒を飲んで鼻歌を歌うのは可愛いもので、酔いつぶれ意識をうしなった者は、だいたい裸になり両股をひろげ、生殖器をむきだしにして眠っていた。そのとなりでは、酔って嘔吐する男もいる。なんと、それに手をだす者までみることがある。このホームでは、公私の区別がない生物が本能のままに生きているから、淫らな行為にふける者たちはすくなくない。なかには出産する女もみかけるし、その卵をつまみに一杯はじめようとする者もいる。喧嘩は茶飯事で、縄張りをまもるための儀式とはとてもいえず、かなり本気でやっていた。武器は主に自分の歯と爪で、かみつきあっている光景にはしばしば出会った。腕や脚を食い千切る行為は数多く、一部の連中はまた生えてくるらしいが、出血多量で瀕死の者たちもすくなくなかった。死んだのかどうかも不明だが、すでに食べられている者もいた。  この状況でぼくにできるのは、目に映るあらゆる事柄は自分と無関係として、なにもみず、感じず、ひたすらゆっくりと歩いて帰宅するだけだった。周囲で起こる事件のすべてを無視し、どれもが日常的なごく普通の出来事と考え、それでもさらに非日常と思える事態に遭遇すれば、可能なかぎりすみやかに立ち去るだけだった。その日も、自宅のちかくのコンビニでカップ麺と米やパンを買った。店舗にはマウスやラット関係の商品が多く、檻のなかでうごきまわる「生」もあった。ラットともなると最低でも一五センチ以上だから、ケージにかこまれても迫力をもっていた。それをワニ女が一気飲みにする場面なんかをみた日には、帰ったら風呂に入って、自分の手足をていねいに洗ってみようと思うだけだった。きっと腕と脚があるのを肌身で感じ、特定の人にたいしてではないが、深い感謝をささげたくなるだろう。サイズからいえばマウスが一般的で、焼いても揚げても、やはり姿が分かるほうが食欲をそそるらしく、もとの形をたもって販売されていた。だからこんな風味のある食材に手をださないぼくを、レジのトカゲ女はベジタリアンだと認識していた。帰る途中でも二足歩行の爬虫類と会わないわけにはいかなかったが、目をあわせるのは避け、ごく普通に家路を急ぐ感じで、やや早足で帰宅した。最後の角で人間型の者に出会い、話をしたい欲求に駆られたが、ほんとうのことは分からないから気がつかない素振りで通りすぎた。  ぼくは、部屋に帰ってくるとまずシャワーを浴び、髪に染みこんだ不快な臭気を洗いながした。マスクをすて、山高帽とサングラスを脱臭ボックスに入れ、きていた服は洗濯機にほうりこんだ。それから、空気清浄機をぬけてきた無臭の大気を味わった。テレビをつけると、ニュース番組ではアナウンサーの蛇男がときどき舌をだしながら今日の出来事を話していた。チャンネルを変えると、人気者のカメ女がバラエティー番組の司会で活躍していた。世界がどう変化しても、この部屋だけは安全で、ぼくは安堵感とともに孤独の楽しみをかみしめ、味わっていた。  そのときふと気づくと、鍵ががちゃがちゃという音を立て、ノブがまわった。ぼくが身をこわばらせると、扉があいてマリアが入ってきた。ライトグリーンのながいパンツと、半袖のシャツに袖がフリルになったパステルブルーのリブニットをきていた。目があうと、彼女は前回とおなじく「助けてください」といって扉をしめ、素早くロックした。すると直後に扉口が叩かれ、チャイムの高い音がひびいた。 「織田さん。また女が入りましたね。こちらは、警察です」  まえに聞いた声がしてモニターをみると、見覚えのある黒い服をきた、ごつい感じの男がふたり立っていた。マリアに居間を指示し、しっかりとチェーンをつけ、モニター画面の電源を切った。扉を叩く音が、くりかえされた。男たちの荒々しく苛立ったひくい声がしばらくつづいていたが、やがて彼らは去っていった。 「助かりました」とマリアはいった。 「このあいだは、お礼もつげずにでていって、ごめんなさいね。怒らないでください」  そう話すマリアは、どこからみても普通の人間にみえた。思いかえすと、最初に会ったとき、彼女はお腹にも背中にも口がないことを証明していた。マリアが人間なのは、決定的に思えた。彼女の身体からは奥深い森にながれる新緑のいい匂いが漂い、ぼくは目眩を感じた。 「あなたの王国は、危機に瀕しています。私は、使者としてまいりました。一緒に帰ってください」  マリアは、とつぜんいった。  ぼくは、ふたたび彼女をじっとみつめた。この女は、出現の仕方も発言の内容も普通ではなく、よくよく思いかえせば、マリアが出没してから世界がおかしくなったのだった。 「なんの話か、さっぱり分からないよ。このあいだも会ったのに、あのときはなにもいわなかったじゃないか。王国ってなに、使者ってなんなの。いったい君は何ものなの」 「あのとき世界が怪獣だらけだといわれて、あなたは私を信じてくれたでしょうか。このまえは、まだ準備がととのっていませんでした。それで仕方なく帰って待っていました。いまのあなたは、世界が変貌したのを知っているのでしょう。ようやっと、帰国の支度がととのったのです」 「はあ」  ぼくは、溜め息をついた。  ソファーにすわらせると、マリアは話がしたい。どうせなら、テーブルのほうがいいと真剣な表情でいった。  ぼくは、その言葉をうけて食卓テーブルにいき、彼女を椅子にすわらせた。ポットに紅茶を入れて座席につくと、マリアをみつめた。素晴らしい美貌だった。ぼくは、うっとりとしながら彼女をみつめていた。  マリアは、話しだした。  ぼくは、幼いころ王国の父の邸宅に住んでいた。そこで、殷富と奢侈を楽しんでいた。両親は、ぼくが一五歳になったとき旅支度をさせ、東方の故郷からエジプトにおくりだした。彼らは、宝庫をあけて荷物をこしらえた。リュックは大きかったが、ひとりで背負うことができた。両親は、ぼくがきていた光り輝く上衣と、背丈にあわせて織られた深紅のトーガをぬがせた。そして、ぼくたちは契約をむすんだ。両親は、決して忘れられないように、その内容をぼくの魂にかきこんだ。 「おまえがエジプトにくだり、大海から竜にまもられた真珠をもち帰るならば、光り輝く上衣と、うえに重ねる深紅のトーガをふたたびまとうことができるだろう。そして、われらの第二子の妹とともに、この王国の世継ぎとなるだろう」  エジプトにきたぼくは、宿でひとりの男性と巡りあった。男は、エジプト人と不浄な人びとに組しないように忠告してくれた。しかし、ぼくは彼らとおなじ衣服をつけた。真珠をえる目的で、異邦からやってきた疑いをいだかせないために。まもっている竜を、目覚めさせないように。しかしエジプト人は、なにかの機会から、ぼくが同国人でないことに気がついた。策謀をもってちかづき、彼らの食物をあたえた。ぼくは王子であったことを忘れ、エジプトの王につかえた。しかも、真珠について忘失した。その目的で、両親がぼくをおくりだしたのに。そして、あたえられた食物の重さのために、深い眠りに落ち入ったといった。 「はあ」  ぼくは、溜め息をついた。内容は不満がのこるものだったが、久しぶりに会話ができる人間に出会えて、心から嬉しかった。それが、あのゴージャスな姿態をもった美貌のマリアだったのは、幸運以外の何ものでもなかった。王国なんて言葉は無縁で、自分とは無関係だった。どうでもいいことだろうが、彼女と暮らせるのなら異論はなかった。ぼくが頬づえをついてぼうっと眺めていると、マリアが聞いた。 「なんにも覚えていないの」 「奇想天外ですよ。このアイデアでは、ゲームにもできないですね。エジプト王が魔王だとしてアクションが必要ですが、主人公は眠っていますから戦いが起こせません。まず、目覚めさせなければ、話がつづかないですね」 「そのために、私がきたのよ」 「エジプトは、かまわないと思いますよ。欧米人の好みは、頑迷ですから。おどろくほど保守的で、ギリシアとエジプトに偏執しています。さらに望めば、イランでしょう。東方の国は、ペルシアと設定してもいいですね。日本人なら、中国です」 「場所は、どうでもいいのよ」 「ですから、エジプトという発想は生かすことができます。そこは、天上において統治され、行使されたものの一切が下界において実現された場所なのです。つまり、エジプトは異教徒にとって偉大なる秘儀の王国だといえます。原初的な叡智と呪術が、もっとも敬虔とされる国なのです。エジプト王は、海中の竜であり、悪のシンボルです」 「なにをいっているの。現実の話なのよ。問題は、あなたがはっきり目覚めて、自分がなんだったのか思いだすことなのよ」 「宿でひとりの男と巡りあいますね。ここが、転機なのでしょう。この男がどういう役割をもつのか、明確にするストーリーが必要でしょう。彼は、敵か味方かも分からないわけです。普通、物語にはルールがあります。まず味方として登場し、かなり早い段階で敵に変わるのです。主人公がペルシア王の息子で、王の印璽をえる目的で戦うストーリーなら最後に阻止するのはエジプト王になります。これは、物語のルールです。このばあい宿の男は、エジプト王の化身だとしましょう。最大の敵は、いちばん身近にいた者です。この男を倒すためには、さまざまなアイテムが必要になります。ひとつずつ獲得していくとしても、戦いだけではどうしても欠けているものがありますよ。なんだか、分かります」  ぼくが聞くと、マリアは深刻な表情になった。 「あなたの話なのよ。ゲームじゃないのよ。なにも覚えていないの」 「だから、必要なのは美しい女性です。努力して世界を征服し、お金をつくって邸宅に住むのは、そこに魅惑的なものが待っていなければなりません。具体的には、おいしい食べ物と素晴らしい美女です。後宮にたくさんの女性をかかえるのは、男の本懐でしょう。しかし、本命はどうしても必要です。だから、歴史にのこる美女がいるのです。それが王の第二子となると、妹にあたりますよね。これは、どう考えても破綻しています。マニアは特別ですから分かりませんが、一般人にはうけません。それでは、気力がわきません。正直にいって、背徳的にもなりませんね」 「なにも覚えていないのね。それじゃ、こまるのよ。なんとか思いだしてもらわないと」 「竜はいいと思いますよ。真珠には、もっとイメージを注入することになるでしょうね」 「これ以上、話しあっても仕方がないわ。王国にきて、現実を直視して考えてもらいたいわ」  マリアは、ぼくをじっとみつめた。  いままでの経緯からみて、もしかすると彼女は気が狂っているのかも知れなかった。しかし、それは許すべきだと思った。一歩外にでると周囲の者たちが怪物にしかみえないぼくだって、とても正常とはいいきれない以上、その程度の欠点は容認するべきだった。  ただ、どうしてもたしかめるべき問題もあった。つまり、あの純白のショーツの下にマリアがなにを隠しもっているのかは、明確にしなければならなかった。彼女が素晴らしい半球状のバストをもっているのは、以前にみせてもらった。しかし毎日これだけ非常識な生き物をみつづけてきたので、あの小さいショーツの下にたくましいペニスだってあわせもつ可能性は否定できなかった。前回せっかくの機会をえながらたしかめなかった不注意に、猛烈な後悔を感じていた。残念なことだが、ぼくの趣味は女性にかぎられていた。一緒に王国に帰るべきだとくりかえすマリアをみながら、真剣に考えていた。彼女の純白のショーツ、その下になにが隠されているのか。それが、最大の問題だった。  事情がどうであれ、今夜はなにかをはじめるには遅すぎると話しあって、マリアに風呂をすすめ、着替えに洗い立てのパジャマをだした。ぼくは、スパゲッティをゆでて夕食をつくった。食事のあと風呂に入って、でてくると紅茶を飲みながら話をした。 「一緒に暮らそう。ここだって、ふたりでならなんとかなる。この部屋は、防犯設備がととのっているから安全だ」とぼくはいった。  マリアは、室内に入ることができたのだから安心とはいえない。いまはもっと大切なときで、一刻も早く王国にもどらねばならない。年老いた王も国民たちも、だれもが帰りを待ちわびている。サタンの横暴は日増しに激しくなり、王国は存亡の機に瀕し、窮状をすくえるのは、ぼくひとりだけだ。都会にやってきたのは、人とは呼べない者たちが世界を蹂躙している真実を知るのが目的だったといった。 「王国を人間の世にするために、王は試練を課したのです。それなのに、あなたは都会の歓楽に身をゆだね、すっかり任務を忘れ、いつになっても帰ってきませんでした。私たちは信じて待っていましたが、もう我慢できなくなり、私は使者を志願し、むかえにきたのです」  マリアにも、この世界は怪獣ばかりにみえるらしいから同種に違いなかった。彼女を執拗に追う男たちは晴斗と丸斗というサタンの手先で、ぼくの帰還を阻止する任務をもっているといった。つまり王国には人間ばかりが住んでいるらしく、そこでマリアと暮らせるのなら、かなり魅力的な話だった。  むかいあって話していると、湯あがりの彼女はいい匂いがして、どこからみても女らしく、ますます恋情はつのってきた。この女のそばにいられるのなら地獄にだってついていきたいと思われるほどで、もうさきほどの問題はどちらでもかまわなかった。ぼくは話題をもっとムードのあるものに変えたいと考えて、軽く一杯飲もうとさそったが、マリアは疲れているから眠りたいといった。ベッドはひとつしかないと話すと、ソファーで充分だから寝かして欲しいとくりかえした。場はすっかり事務的で、さらに事後処理的な雰囲気すら漂っていた。仕方なくシーツをあたらしいものに変え、ぼくが自分はソファーでいいというと、マリアはじっと目をみつめていった。 「ごめんなさいね。私、昨日は彼らに追われて一睡もできなかったの。つづきは明日にでも、ゆっくり話させてくださいね。まずは、誠一さんのお話を聞かなくてはなりません。私が一方的に話したのですから、あなたの気持ちや思うことを全部うかがいます。でも今日のところは、このまま休ませてください」  マリアがそうつげて寝室に消えていくのを、「これでいいはずがない」と思った。  ぼくは、ベランダで酒を飲んでいたが、しだいに腹が立ってきた。  目のまえには、東京沙漠がひろがっていた。男の部屋に勝手にやってきたのは、マリアなのだ。核心は、ぼくが彼女を大好きだということだ。結婚してもいいと、真剣に考えている。責任はとるつもりなのだから、これは、「押したおし」相当の事例ではないか。男と女がひとつ屋根の下にいれば、父と娘だって、まずは関係を疑うべきだとは、セックス教のフロイト先生がくりかえし語っていることではないのか。妙齢の男女が、なにもしないでひとつの部屋にいられるはずがない。マリアになめられるし、男としてみとめられなくなるのではないか。 「おそおう」とぼくは決心した。  起きていたら是が非でも酒にさそい、面倒なら睡眠薬でも飲ませて、どんな卑劣な手段をつかってでも思いをとげよう。そう思うと、先日の彼女の悩ましい姿態がまた頭に浮かんだ。それは怪物に追われる場面とおなじくらい、くりかえし夢のなかにでてきていた。 ぼくは、自分の寝室のまえに立っていた。鍵はロックされていたが、コインをつかえば外からあけられる形式だった。こうするのはマリアが勝手に部屋に入ってきたからなのだと、自分の心にいいきかせて扉を押した。ベッドに横たわる彼女をみて、そばにいった。 「マリア」とぼくは声をかけた。 「あなたの気持ちは、分かるのよ」  寝台に横臥した彼女は、背をむけたままでいった。 「マリア。ぼくは、君が好きでたまらないんだ。一目会ったときから、夢中なんだ。君の話は理解できないし、狂気にとりつかれているならそれでもいい。ぼくも一緒に狂おうと思う。なんでも我慢できるし、君の望む通りにする。ぼくの望みも、ひとつくらいは聞いて欲しい。お願いだ。分かってもらいたい」  ぼくは寝台のそばまでいき、掛け布団ごしに彼女の肩に右の手をかけた。 「あなたの気持ちは、ありがたいわ。私も、愛されたいわ。充分に、大切にされているって感じるわ。いまだって、ちゃんとひと声かけてくれた。力ずくではなかったわ。あなたは男だわ。すべてを忘れていても、やはり私の愛する王子だわ。でも、思いだしてからにして欲しいの。分かってくれるかしら、私だって我慢しているのよ」  マリアは、そういうと身体を起こし、ぼくをみあげた。すき通った綺麗な、美しい黒い瞳だった。しかも、それは悲しみにあふれ、大粒の涙に覆われていた。彼女は、ぼくの腰にしがみついた。 「私は、ほんとうのあなたをよく知っている。でもなにもかも忘れて、私たちは今日はじめて話をしたのとおなじなのよ。それでふたりになにかが生じるのなら、外をうろつく怪物たちと、いったいどこが違うの。私たちは、人間なのよ」  マリアは、嗚咽とともに話すと泣きくずれた。ぼくは、頬をつたう真珠の滴をみて、なんとしてでも彼女をまもらなければと思いはじめた。 「すまない。悪かった。疲れていたんだよね。今日は、ゆっくり眠って欲しい。もう君を、二度と起こすことはないから」  神妙な調子でぼくがいうと、 「ありがとう。一応、扉はしめておいてね」とマリアは答えた。  ぼくは部屋をでて、コインをつかって鍵をかけた。それからソファーに腰をおろして、またウイスキーを飲んだ。ぼくにはさっぱり分からないことだったが、彼女には特別な事情があるのだと理解した。マリアのながした真珠の涙を思いかえすと、「さまざまな強力なアイテムをもっている」とあらためて感じた。  部屋に入ったことを後悔してはいなかった。それに発見もあったのだった。寝室のカーテンにかけられた小物干しに、マリアのショーツがぶらさがっていた。思えば風呂からでてきたとき、彼女は右の手のひらでなにかをつかんでいるみたいだった。それが、下着だったと分かった。うんと小さく、マリアの手のなかにおさまるほどのもので、なにかが隠せる代物ではなかった。  その事実は、ぼくの脳裏にまたべつの悩みをいだかせていた。いくら考えても、どう思いかえしても、マリアはショーツの代えなどもっていなかった。彼女のライトグリーンのパンツに、ポケットはなかった。小物入れももたず手ぶらできたマリアは、寝間着の下になにをはいているのだろう。ショーツは一枚が小物干しにあり、それがたったひとつとするのなら、彼女はどうやって代わりをみつけるのだろう。どうして、二つの場所をしめることができるのだろう。純白のショーツの謎はさらに深まり、いっそう昏迷していった。ぼくは、その解決がみつからない悩ましい問題についてくりかえし考え、杯を重ねた。  正直いって、気が狂いそうだった。 ぼくが気がつくと朝で、昨晩飲みすぎたらしくすこし頭が痛かった。さきに起きたマリアが、パンを焼いてコーヒーを入れた。ぼくらの論議は平行線を辿り、進展はなかった。あまりに突飛な話を、ぼくは理解できなかった。 「王国にいくべきだ」とマリアがくりかえし、 「大好きで気が狂いそうだ。手ぐらいにぎらせて欲しい。愛しているんだ」とぼくはくりかえした。 「あなたは、いったい私のなにが気に入っているの」 「君の全部だよ」 「すべてって。あなたは、なにを知っているの。なんにも覚えていないのでしょう。あなたが知っているのは、私の身体だけだわ」 「そんなことはない。君の真珠の涙も知っている」  ぼくは、懸命にいった。  一〇時になって、マリアが外にでてみることを提案した。 「気分が変わるかも知れないわ」と彼女はいった。 「怪物たちをみても、気が滅入るだけだ」と答えると、 「遊園地にいけばいい」とマリアが主張した。  ほんらい外出して気分が晴れる状況とは考えにくかったが、それでも彼女と一緒なら、なにかに乗れば、腕をくんだり手をにぎったりできるかも知れない。もしかしたら、腰にだって触れる機会もあるだろうとぼくは思った。それではじめて意見が一致し、ぼくらは外出した。  繁華街の中心には、小さな遊園地があった。いく途中でも園内でも、いきかう者はやはり怪物ばかりで、人形(ひとがた)の生き物はみあたらなかった。そこで、ぼくらは回転木馬をみつけた。一緒に馬車に乗ろうとさそったが、マリアは真っ白い羚羊を選んだ。ぼくは、すぐ後ろの額に白い斑が入った栗毛のポニーにまたがった。やがて舞台は、音楽とともにまわりはじめた。  ぼくがマリアにむかって伸ばした手は、振りむいた彼女がさしだす指先に触れた。上下にうごきながらふと気がつくと、後ろの馬車に晴斗と丸斗が乗ってせまってきていた。やくざみたいな人相の悪い男たちは、どちらも黒色のティーシャツにジーンズをはき、懸命にぼくを追いかけていた。  賑やかな音楽が鳴りひびくなか、メリーゴーランドは、追いつ追われつの回転をつづけていた。舞台のうえでは躍動的にうごく、ポニー、羚羊、貂などの動物たちの背中に乗って、刻々と景色がうつりすぎていた。回転木馬は、時間とともに出来事が連続して起こっているようにみえ、陽気な音楽とともに、ぐるぐると回転をつづけた。しかし、正確には中央に杭を打たれた羚羊や馬が、ただ上下の運動を機械的に反復しているだけだった。だから、ほんとうは、おなじことをくりかえしているにすぎなかった。  やがて黒い男たちは、ぼくをつかまえようと馬車をひく黒毛に乗りうつった。様子をみたマリアは、彼女が乗っている羚羊に飛びうつれといった。となりには、褐色の毛皮に覆われた貂がいて、「がんばれ」とぼくに声援をおくった。舞台は回転し、栗毛のポニーは片時も休まずに上下し、後ろには晴斗と丸斗がせまっていた。彼女は、だきついてもいいといっていた。だから、選択の余地はなかった。  ぼくは、意を決してポニーの背に立ち、マリアにむかってダイブした。彼女を両手でだきしめたが、勢いがまさって舞台の床に激突した。  三  ぼくは、気がつくと馬小屋に寝ていた。マリアは、紺色のジーンズをはき、青いストライプの入った長袖をきていた。彼女は、ロバに水や食料をつみこみ、テントもひと張りつまれていた。 「王国までは、沙漠を三日間かけてわたらねばならない」とマリアはいった。  朝の一〇時ごろに早めの昼食を村ですませて、彼女とぼくはそれぞれ栗毛のロバに乗った。荷をつんだものを一頭ひいて、広大な沙漠にむかって出発した。どこを目印にしたらいいのか、さっぱり分からない荒涼とした不毛の大地は、日中には灼熱の地獄に変わった。ぼくは、話す言葉もなく、だまってロバに揺られていった。日がしずむと野営のために、ぼくらは焚き火をしてテントを張った。食事の片づけが終わったとき、 「今日は遅く出発したから、明日は日があがるまえにでないと三日でつけない」とマリアがいった。ぼくが大きくうなずくと、彼女はつづけた。 「あなたはテントで寝て、私はここでいいから」  その言葉に、ぼくは絶句した。不可解なマリアの行動にもくもくとしたがってきたのは、つまれたテントがひとつだったからだ。だから、いくさきも分からない寂寞とした砂の大海を、文句もいわずに彼女についてきたのだった。 「ここまできたのだから、一緒に寝ようよ」  ぼくは、真剣にさそった。 「私も、そうしたいのよ。残念だけれど、もってこれたのはひとり用のテントだから、ふたりはとても入れないわ」  たしかに天幕を張っているときに、やけに小さいとは思った。その時点での問題は、大きさではなく数だった。ぼくは、張るのが簡単で素晴らしいと思っただけだった。 「大丈夫だよ。テントはみかけよりひろいから、ふたりでも横になれる」 「そうだといいのだけれど。誠一さん。試しに、横になってみたらどうかしら。寝られそうなら考えようかしら」  あらためてテントをみると、もの凄く小さかった。張るときには、それなりにいいこともあると漠然と思っていた。マリアの意向が「そうならば」と考え、ぼくは実際にテントに入ってみた。しかし、なんと狭く小さい天幕なのだろうか。たしかにひとりがようやくで、こんな馬鹿ばかしいテントが、どうして恥知らずにも存在するのだろうか。  マリアはもう、焚き火のまえで毛布をひろげはじめていた。 「分かったでしょう、あなたがつかって」 「なぜ、こんな小さいのをもってきたの」 「それしか、みつけられなかったのよ。沙漠の夜は、凍えるほどに冷えるのよ。ないよりいいでしょう」 「そんな必要なものなら、なぜ二つつまなかったの」 「テントをもうひとつもってくると、もう一頭、ロバがいるのよ。そのためには、水も食料も違ってくるからひとつが限度で、仕方がなかったのよ」  マリアは、申しわけなさそうにいった。  ぼくは、だんだん彼女の魂胆が分かってきた。マリアは、わざとひとつのテントをつんだのだ。あきらかに計画的なことで、彼女は知能犯なのだ。その計略にまんまと引っかかって、こんな沙漠の真っ只中までついてきてしまったのだ。  マリアは、ぼくに王国にきてもらわねばならないといった。晴斗と丸斗が、追いかけてきている。彼女も村でゆっくりとすごしたかったが、午後には彼らがくる。あのふたりも、沙漠をわたるには三日かかる。だから、出発するしかなかった。ぼくがタフで、ひと晩くらい寝なくても大丈夫なのは知っている。しかし、彼女には半日の違いが大きい。明日は月がでているうちに出発し、大聖堂までつきたいが、たぶん無理だろう。だからもうひと晩、テントがいる。晴斗と丸斗は、天幕をすてて追ってくる。しかしぼくらは、もっていかなければならない。  せつせつと話すマリアをみると、これしか方法はないらしいと思えてきた。そこまで聞かされれば、「それじゃ、おれはテントで」とも、いえない状況になっていた。  マリアに天幕をゆずり、ぱちぱちと爆ぜる音が聞こえる焚き火をみつめながら、茫然として考えていた。月が輝き、銀河がおどろくほどたくさんの星からできているのが分かった。緩やかな風が吹き、ながれる砂が、しきつめられた礫のところどころにあつまり、丘をつくっている。みわたすかぎりだれもいない渺々とした荒野は、神にも人にも、みはなされていた。こんな世界の果てまでひとりの女をもとめてきてしまい、さらに手に入れられない自分を情けないと感じた。ここまでつれだしたのだから、マリアが疫病神なのは間違いなかった。それは仕方がないだろう。しかし、おれの気持ちはどうなるのだ。  ぼくは立ちあがるとテントにいき、閉じられたファスナーをあけて忍びこもうとした。しかしチャックは、なかから厳重にしめられていた。ぼくは、大声で叫んだ。 「マリア。おれの気持ちを弄ぶのは、そんなに面白いのか。いつまでこんな馬鹿ばかしい役を演じさせたら、気がすむのか。君の身体に、触れさせて欲しい。マリアがいるのを、確認したい。凍えるのなら、ぼくに暖めさせてもらいたい。君のために、たくさんの男たちが生死をかけて戦ったのは聞いている。マリアは、その勝者に栄誉もあたえたのではないのか。ぼくも戦わせて欲しい。勝てば君をえて、負ければ死ぬ。このルールでかまわない。ぼくにも戦わせてくれ。こんな荒野にひとりおかれて、君を目のまえにして、触れも、暖めもできない。それは、ひどすぎるじゃないか」  マリアは、答えなかった。あたりは静けさを増し、ひゅーひゅーという風の音が聞こえた。その音響にまじって、マリアのすすり泣くかすかな声がテントから漏れてきた。ぼくは、姿のみえない彼女にむかって恋をまた囁いた 「そんなに苦しめないでください。私だってつらいのです。王国には、あなたの許嫁の王女が待っているのですよ。素晴らしい美人で、聡明で、穢れを知らない乙女です。それに、家柄も申しぶんがないのです。だって、あなたの実の妹さんなのですから」 「飛んでもない。絶対いやです。どんなに素敵でも、実の妹などと結婚なんて考えられません」 「でも、あなたは高貴なうまれなのですから、相応しい身分の人などほとんどいないのです。王女をみたら、きっとその美しさに夢中になって、私のことなどすぐに忘れてしまうでしょう」 「君への愛が、そんなにたやすく変わるなら、どうして、ぼくはこんなに苦しんでいるのだろうか」 「それなら王女をみて、それでも気持ちが変化しなければ、そのとき考えさせて欲しいのです。いまは、あなたの思いに答えることはできないのです。明日は、大変なのです。身体を、すこしでも休めておいてください」  マリアは、いった。  冷たい風が吹きすさぶなか、焚き火のまえで毛布にくるまり、夢をみた。  ぼくの花嫁は、光の娘だった。その輝きは、彼女のものだった。真珠の首飾りをつけ、薔薇の花に似た赤い服をきて、周囲には芳しいタイムの薫りが漂っていた。ミルテに覆われた頭上には、王が住んでいた。そのもとに暮らす王国の者たちは、ぼくらの婚姻を心から祝福していた。彼女がつける花冠に真理が記されているのをみた人びとは、喜び、輪になって踊りつづけた。ぼくらの愛は七つの天の門をひらいて、新郎の部屋は天上の光に輝いていた。それは、救済の甘い匂いだった。そのとき、はるかな高みから威厳に満ちた光がふりそそがれ、王国は栄光に輝いていた。花嫁は、光り輝く上衣と深紅のトーガで着飾るぼくをみつめ、国は栄耀につつまれた。  火のそばで毛布にくるまっていると、マリアが揺り起こした。彼女は、月光に照らされて空にのぼる煙をさし、晴斗と丸斗がちかくまで追いかけてきていると話し、焚き火を消してすぐに出発しようといった。それでテントを片づけ、ぼくらはロバに乗り、さきを急いだ。恋の悩みと夜の寒さでほとんど眠れなかったぼくは、昼ちかくになって鞍のうえで居眠りをはじめ、転落した。鐙にからまって右足首を捻挫し、右膝は石にあたって外傷をおった。痛みは激しかったが、その日も暮れるまでロバに乗り、野営をはじめたときには脚はひどく腫れてきた。ぜひ、というマリアのすすめをかたくなに拒み、焚き火のそばですごしたものの一睡もできなかった。高熱がでてきたが、翌日も未明に出発した。マリアは、王国まではもう一日かかるが、修道院にはもうすこしでつけるはずで、助けてもらえるかも知れないといった。高熱でぼくの意識は朦朧としていたが、空が白んでくると日がのぼる方向に建物がみえた。それが修道院の聖堂だと、マリアがいった。どこを歩いているのか見当がつかなかったが、行く手の東に建物があるのが、はっきりとしてきた。あそこまでいけば助けてもらえると彼女に励まされながら、ぼくは必死でロバにしがみついていた。  マリアは、聖堂の重い扉をひいた。ぼくらが入った巨大なラテン十字の伽藍は、人の気配がなく、静寂が支配し、高い天井を満たす空気はひんやりとしていた。六列の木製のながいベンチが内陣までずっとつづく、ひろい身廊中央の通路をマリアに手をひかれたぼくは、脚をひきずりながら懸命にすすんでいった。聖堂の十字が交差する、南の翼廊がはじまるところに告解室があった。マリアがその扉口をあけると、狭い部屋に椅子がおかれていた。下にぼくを隠し、扉をしめて彼女は腰をおろした。ぼくらが息をひそめ、外の気配をうかがっていると、黒い僧衣を身にまとい、同系色のハットで頭部を覆った大柄の神父が告解室に入ってきて、こまかい格子の仕切り窓に左耳をむけた。 「司祭さま、お助けください。私たちは、悪者たちに追われているのです。どうか、彼らからおまもりください」  マリアは、ひくい声で囁いた。 「ここは告解室だ。まず告解の秘蹟に触れなさい」 「いまは、緊急のときなのです。ぜひ、お力をおかしください」 「なぜ、追われているのか。それには理由があるはずだ。告解がはじめに必要です」 「私は、哀れな子羊にすぎません。あらゆる生き物のなかでもっとも力がよわく、神のお力なしに、一瞬たりとも生きていくことができません。いまは恐ろしい狼に、戦いているのでございます。司祭さまのお力で、この緊急の危機をおすくいください」 「おまえは、だれに助けをもとめているのだ」 「もちろん、司祭さまにでございます」 「私は、司祭ではない」  その言葉にマリアは息を飲み、じっと男をみつめた。 「私は、この教区の司教だ」 「申しわけありませんでした。司教さま、なにとぞ私たちをおすくいください」 「おまえには、罪がある。くりかえしていう。まずおまえは告解し、改悛しなさい」 「司教さま、その通りでございます。私は、罪人でございます。その罪科にたいしては、くりかえし告解し、謝罪をこいました」 「おまえの罪は、一度や二度の告解で、簡単に許されるものだと考えているのか」 「そうは、思っておりません。しかし、すでに私はくりかえし許しの秘蹟に臨み、悔いあらためてきたのでございます」 「そうではあるまい。おまえは、くりかえし起こした深い罪がある。さらに、すくいがたい罪科を重ねたのではないのか」 「その通りでございます。しかし私は告解し、改悛したのです」 「おまえのくりかえされた罪業は、そんなに軽いものなのか。神は、なんでも知っているぞ。罪の深さも、業の重さも。なにをしたのだ」 「私は、生活のために男に身をまかせました」 「それは、くりかえされたのだな」 「そうではございますが、司教さま、その罪はもうすでにあがなわれているのです」 「そうでは、あるまい。罪は、さらに深いのだ。おまえは、その肉体によって、多くの者を堕落にみちびいた罪人だ。飢えることもできたのに、男に身をまかせ、淫らな行為に陶酔したのだ。おまえは歓喜し、くりかえしすすんで愉悦をもとめた。男たちを虜にし、たがいに争わせ、さらに深い喜悦を感じたのだ」 「そうではございません、司教さま。私には病気の父がいて、薬を必要としていたのでございます。家は貧しく、その日の食べ物さえ事欠いていました。私たちは、飢えていたのです。しかし私ひとりであったなら、飢え死にすることは本望だったのです。目のまえで苦しむ父を、どうしてみすてられるのでしょうか」 「おまえは、己の罪科を正当化しようとしている。それで、贖罪ができたと心から考えているのか。おまえは、自らの欲のために父の苦しみを利用したのだ。汚らわしい肉は、ひたすら愉悦をもとめた。それをあたえる、男を探しまわったのだ。おまえはただ、もとめる理由が欲しかったのだ」 「それは違います。私は、努力しました。男たちが肉体を弄ぶときも、胸は悲しみであふれていました」 「あふれでたのは、おまえから滴る歓喜の蜜だったのではないか」 「司教さま。お願いです、もうやめてください。私たちは、王国に急いでいかねばなりません。私のつれは脚が化膿し、もう一歩もすすめないのです。ひどい高熱のために、朦朧としています。一刻も早く、病院につれていかねばなりません」 「おまえの椅子の下に、うずくまっている男だな」 「そうです」 「おまえさえその気になるのなら、男は助けられるかも知れない。部屋からでるがよい」  その言葉にしたがいマリアが告解室をぬけでると、椅子に腰かけた僧侶は自分の扉口をあけた。黒い帽子を深くかぶり僧衣を全身にまとう司教は、目のまえにいる彼女にゆっくり一回転するよう命じた。マリアは徐に後ろをむき、ぐるりとまわってむきなおった。 「おまえは、罪人(つみびと)なのだ。上辺だけではなく、心の底から告解せねばならない。それにしても、なんと淫靡な身体なのか。その、ものほしそうな唇。男にこびる瞳。かすかな情欲をもかぎ分けようとする、汚らわしい鼻腔。なぜ、これほどの淫らな素顔を平気でさらしているのだ。どうして、マスクで覆い隠さない。つねに肉を期待し、よだれを垂らしつづける、その白い肌をなぜ衣服で覆いつくさないのか。みるほどに、なんと下品な身体なのだ。おまえの存在は、罪深い。身体のすべてが恥部なのだ。覆い隠さねば、あらゆる者に劣情をひき起こす。おまえは、男を挑発している。その白い項、ほそいウエスト、なんと卑猥な尻なのか。なぜ、爪に色などつける。いったい、なにを改悛したのだ。なぜ、こんなに罪深い者が存在しているのか。光の王は、男のあばらから女をつくりだしたとき、これほどの罪をおかしたと気づいていたのだろうか。おまえは、神の罪科を一身に背負っているのだ。しかし、椅子の下にひそむ男を逃してやってもよい。おまえはひき換えに、もう二度と世間にでるべきではない。なおしがたい淫らな本性のまま、すべてを私がうけ入れよう」  マリアは、その言葉におどろいて司教をみつめ、大きな声をあげた。 「あなたは、丸斗」 「男は、助けてやろう。その代わり、私とともに暮らすのだ。おまえの本性はすでに癒やしがたく、罪をおかさずにすごすことはできない。不幸をまきちらす者を、このまま世にはすてておけない。おまえは、僧院にとどまるしかない。男をみればあふれでてくる卑しい蜜は、すべて私がぬぐってやろう」  そこに、晴斗が走りよってきた。 「丸斗。そうは、させない。これは、おれの女だ。ここまで追いつめたのだ。これでようやっと、この女を自由にできる。おれは、マリアを手ばなす気はない。丸斗。なにが、あってもだ」 「そうではない。この女は、自らの意志で、おれにその身をささげようとやってきたのだ。晴斗。おまえは、椅子の下にいる男を好きにするがいい。おれは、マリアのために神をもすてたのだ。なんと、この女は罪深いのだろうか」 「丸斗。そうは、いかない。おれは、マリアのために、地上の生活にずっと耐えてきたのだ。椅子の下の男は、好きにするがいい。おれには、なんの興味もない」  晴斗は、そういうと強引にマリアの手をひき、内陣から外につれ去ろうとした。それをみて、告解室を飛びでた丸斗は黒い帽子と上衣をぬぎすて、腹の胴巻きから鋭利なナイフをとりだした。 「この女のために、おまえを始末しなければならないのは分かっていたのだ。神さえ、すてたのだ。おまえなど、なにほどのこともない」  丸斗は、大声で叫んだ。その声でむきなおった晴斗にむかって彼は猛烈な勢いで襲いかかり、深々とナイフをつき刺した。腹部から、夥しい血が噴出した。 「この野郎。やはり、さきに殺しておかねばならなかった」  晴斗は、丸斗をみつめてひくい声でうめいた。 「なにをしているの。あなたたち、もともと天使だったんじゃないの」  マリアが叫んだ。 「女は、すべてだ。神も、女なしには一夜もすごすことができない。これが、この世の第一の掟なのだ」  丸斗は、かすかに息をする晴斗をみおろしていった。  一部始終をみていたぼくは、意識が遠のくのが分かった。  気づくと、頭上で太陽ががんがんと照りつけていた。ごとごとと揺れるなかで、ぼくは横たわっていた。そのとき、だれかにみられている気がして頭を右にかたむけると、脳裏が真っ白になった。かっと大きく目を見開く晴斗は、瞬きすることもなくぼくをみつめていた。死臭が漂うなかに真っ白な顔がみえ、ねばりつく生暖かい血を肌に感じ、ずきずきと頭が痛んだ。ごとごとという音と軋みが、荷車のうえらしいとぼんやり考え、荷台に乗せられ、どこかに運ばれているのだと思った。すべてが朦朧とするなかで、ぎらぎらと太陽がひとつ輝き、また意識をうしなっていった。  ぼくがつぎに気がついたのは、固いものに頭をしたたか打ったせいだった。遠くに、去っていく荷車の音が聞こえた。ぼくは、大きな石のうえに横たわり、おそらくすてられたのだった。まわりは高い岩にかこまれ、ふるい石切場なのだろうと思った。天空をまう禿鷹がおりてきて、頭にとまろうとした。ぼくが払いのける素振りをくりかえすと、また空にもどっていった。べつの禿鷹がちかくにおりてきて、横たわる晴斗にとまった。そこにはもう何羽もむらがり、肉はつつかれ、むしりとられていた。ときどき禿鷹はぼくのところにやってきて、手をうごかすと去っていった。べつにうんと腹がすいているわけでもなく、確実にうごかなくなってから食べるつもりらしかった。何度か腕をうごかし、そのうちにまた意識がなくなっていった。  気がつくと、年老いた白髪の男が、ぼくの顔をのぞきこんでいた。どうやらこの老爺に助けられたらしく、黒い天井がみえる洞窟の石のベッドに寝かされていた。男の名はアントニウスといい、かつて石切場だった山にうがった洞穴に住み、野に生えるわずかな草を食べ、天水で渇きを癒やす孤独な苦行をしていた。頭部を覆う深いフードと、裾のながい麻織りの粗末な寛衣は、禁欲の印だった。腰に巻かれたバンドは、神の戦士をしめしていた。男は日に一度の食事のほか、さまざまな日課をもち、誘惑に身をゆだねる「とき」をふせいでいた。死の谷にすてられたぼくは、この老爺にみつけられ、洞窟まで運ばれたのだった。 「私にできることは、ここまでだ。死の谷におかれるのは死後で、まだ死んでいなかったからつれてきただけだ。水は、昨日雨がふったからあるが、来週は分からない。草は、とった半分をあたえよう。おまえが飢えても、私の分をやることはない。死にたいのなら食べなくてもよいが、人のものまで欲しいとは思わない。おまえの右脚は、ひどく化膿している。効果は分からないが、僧院には化膿どめがある。飲みたいのなら、やることができる。洞窟の院に住む者は、すべてを平等に分けるのが掟だからしたがうだけで、感謝する必要はない。おまえの生死は、私には無関係だ。生きるべき者は生きながらえ、死すべき人は滅びるだけだ。死ぬことを希望して、私は、一五年間ここで孤独に暮らしてきた。生は、無意味だ。しかし、己の欲望や悪魔と戦うには、生きていなければならない。それが私にとって生の意味で、決して勝つことはないだろう。だからといって、負けると分かって戦わないのは、臆病者だ。私の希望は、かつてここで暮らしてきた多くの者とおなじく、勇者として死に、谷にすてられ、禿鷹の餌となり、亡骸をすべてついばまれ、自分の肉体という衣をうしなうことだ。おまえが絶命したときには、もどしてやろう。きっと勇者で資格があったから、死の谷におかれていたのだろう。無益な、お節介をしただけだったのだろう。沈黙は、私の行だが、おまえと話すのは今日が最後かも知れない。興味はないが、話があれば聞いてやろう」  朦朧とするなかでぼくが化膿どめを希望すると、アントニウスはうなずいて洞窟をでていった。畳四畳ほどの狭い窟は、横たわる石のベッドのほかにはなにもなかった。洞窟の天井中央に小さな穴がうがたれ、そこから漏れてくるわずかな光が、洞内をぼんやりとあかるくしていた。やがてアントニウスがもどってきて、化膿どめと飲み水をさしだした。ぼくは薬をとり、あたえられた水をすべて飲んだ。  その様子をみて、アントニウスはいった。 「それは、一日分の飲料だ。明日の分まで、すべて飲んでしまった。おまえは、そうした生き方をしているのだろう。今日だけは私の明日の水を半分やるが、二度とこうしたことはない」 「申しわけありませんでした。このまま死んで、二度と会えないかも知れないので、いくつか質問をさせてください」  その言葉に、アントニウスはうなずいた。 「あの壮麗な大聖堂とは、なんなのでしょうか。なかで殺しあっていたサタンの手下たちとは、いったい何ものなのでしょうか」 「光の王国には、六人の大天使がいた。そのなかのふたりは女性で、完璧と不死といわれ、アンブロシアとネクタルとも呼ばれていた。光の王は、人間の美しい娘が、聖者までも惑わすゆゆしい事態について問い質した。そのとき完璧と不死は、人の信心のなさを主張した。王国という名の天使が、ふたりが女ゆえに真実をみうしなっていると答えた。その言葉を不服として、完璧と不死は、男として地におりることを希望したのだ。地上につかわされた彼らは、人の娘が美しいのをみて信心をうしなったのだ。沙漠におかれたあの大聖堂は、ふたりの監獄なのだ。彼らは、殺しあってもまたうまれ、死ぬこともできない。最後の裁きの日がくるまで聖堂に住み、自らの欲望に責め苛まれる事態になったのだ」 「晴斗と丸斗は、もともとは天使だったのですね。生きられるのかどうかは分かりませんが、ある女性を恋し、追いもとめ、この沙漠までやってきました。あの聖堂のなかで、女は捕らえられました。ぼくが記憶しているのは、そこまでです。なんとかして助けにいかなければなりません。その女性のことだけが、気がかりなのです」 「女を、追ってきたというのか。それは、生きる望みをもっているということだな。それにしても、なぜ追いかけてきたのだ」 「ぼくは、女を愛しているのです」 「その女性の、いったいなにに恋着したのだ」 「分かりません。その女にも、おなじことを聞かれました」 「真珠なのか。肉体なのか」 「真珠とは、なんなのですか」 「魂ということだ」 「彼女からも、おなじ質問をうけました。その二つを、どう分けていいのか知りません。ぼくは、彼女のすべてを愛しています」 「どんな女なのだ」 「もの凄くグラマーで魅力的な女性です。一目みて、ぼくは恋に落ち入ったのです」 「つまりおまえは、その女性の肉体を愛しているのだな。それで女を追いかけてきたというわけか。なんと大変なことだろうか」 「飛んでもなかったのです。わけも分からず、この沙漠までつれてこられて。ぼくは、王国にいかねばならないらしいのです」 「つまり、おまえが王子というわけなのだな」 「そう、いわれました。どうして、あなたは知っているのですか。それが、なにを意味するのかも分かりません。マリアも、充分に説明してくれないのです。教えてください。ぼくとは、いったいなんなのですか」 「いやはや、前代未聞のことだ。どこから話をはじめていいのやら、分からないほどだ。マリアも、相当こまったに違いない。これが現実ならば、うけ入れなければならないのだろう」 「ぼくが、マリアをこまらせているのですか。彼女が、困惑させているのではなく。そもそも、なぜマリアを知っているのですか。ぼくが王子であるとは、どういう意味なのでしょうか。それは、ほんとうのことなのでしょうか」 「深い眠りだ。おまえは、飛んでもないところにいたのだ。そこはもう、ただのエジプトではない。そこで、さらに深い魔法をかけられたのだ。母でもないマリアが、おまえをロバに乗せ、この沙漠をわたらねばならないとは、なんという時代の変化なのだろうか。自分の力で通りぬけなければ、変容するものなど何ひとつないのだ。大変だったのは、断じておまえではない。事態は、もっと深刻なのだ。私がなにを話しても、いまのおまえには分からない。はっきりしているのは、ここで息をひきとっても死の谷にはすてられない。だから私がみつけ、洞窟につれてくることになったのだ。この沙漠は神の不在の象徴で、あの聖堂は堕天使たちのバビロン、監獄なのだ。そこでマリアが捕らえられたとしても、殺されることはない。一刻も早く、ほんとうの自分と出会わねばならない。いま、おまえがむすびつきたいと願っているのは、マリアの身体だ。それがなにを意味するのか、気がつかねばならない。おまえは王国にいき、そこでかずかずの困難にあい、どうしても分からなければ、たずねてくるがいい。そのとき私が生きていれば、話すことができるだろう。最後に、ひとつだけいっておこう。いま、この目のまえにある容器。これがコップにみえないのなら、なにを話してもはじまらないのだ」  アントニウスは、明日の分の水と草をぼくに分けあたえた。 「これからは、扉のわきにおいておく」といって、でていった。  ぼくは、激しい疲労におそわれ、深い眠りに落ちた。  身体を揺すられ目覚めると、眉までのフードがつき、裾が足首まである修道僧の寛衣をまとったマリアがとなりにいた。彼女は、食料と水をもち、ぼくに食事をうながした。右脚の腫れはかなりよくなり、いわれるままにロバに乗り、東に四〇キロはなれた王国にむかって沙漠をわたった。人の往来も途絶えた道は、日中は灼熱の地獄で、日がしずむと凍結した砂の海に変わった。風のうなり声だけが聞こえる世界を漂いながら、口をきく気力もまったく失せたぼくは、ロバに乗るというより、しがみつきながら揺られていた。幅が一キロもある涸れ谷に、昔は大河がながれ、川辺は、みわたすかぎりの緑で、神の祝福をうけた豊かな農地だったと彼女は話した。そのころの聖堂には杉が林立し、ナツメ椰子がしげっていた。いまは、一列の糸杉と深い井戸がひとつのこるだけだといった。  ぼくが王国の門に辿りついたのは、冷風のなかで、さえざえとした青い月が浮かぶ夜更けだった。マリアにつれられて建物に案内され、熱いスープと粥を食べ、暖かい布団がしかれたやわらかい寝床に横になった。つぎに気がついたとき、脚は包帯が巻かれていた。また温かいスープを飲み、粥を食べてこんこんと深い眠りについた。  ぼくが空腹を感じて目覚めたのは、昼さがりだった。気分は悪くなく、脚の痛みも腫れもなくなっていた。給仕係の綺麗なメイドが用意した温かい食事を終えるころ、ズボンと袖のながい緑のシャツをきたマリアがあらわれた。長旅の疲れがすっかりとれたらしく、いっそう美しく爽やかな顔をしていた。 「あなたは、丸二日間、眠っていらっしゃいました。ご気分はいかがですか。脚の腫れはすっかりひいたようですが、まだ痛みますか」とマリアは聞いた。  ぼくは、ずいぶんよくなっていると答えた。 「強行軍でしたから、今日はゆっくりして身体を休めて、明日、またつぎのことを考えましょう」と彼女はいって入浴をすすめた。  メイドに案内された大きな浴室は、すべて大理石でつくられていた。壁の一部は、バーになっていた。ひろい浴槽に思い切り手足を伸ばしてみると、ふつふつと生きている実感がわいてきた。どう四〇キロの沙漠をこえたのか、一〇時間以上をロバに乗ったのか、曖昧な記憶しかのこっていなかった。洞窟で隠者に出会った気がしたが、どこまでが現実で、どのへんから夢なのか、線をひくのは難しかった。  大理石の浴槽でくつろぐと、すべてがどこかで眺めた景色だった。そのなかで大聖堂の記憶は生々しく、石切場にすてられ、晴斗が鳥についばまれるのをみたのは、とても夢とは思えなかった。さまざまな死地を乗りこえたという感慨は、大きかった。  風呂からあがると、自分でも元気になっているのに気がついた。下着と寝間着をあたらしいものに変え、用意された刺繍のついた青いガウンを羽織って中庭を歩くと、季節は寒くも暑くもなく、穏やかな風が吹いていた。たわわに果実が垂れる樹木の葉は、緩やかに揺れ、夕方のやわらかい日差しをうけて緑色に輝いた。中庭には小川と池がつくられ、東屋が立っていた。そこに腰をおろして爽やかな風に吹かれると、髪を束ねてあわい緑のドレスをつけたマリアが、新緑のいい匂いを漂わせながらやってきて、むかいにすわった。メイドが幾皿かの料理を運んできて、空のコップをおき、酒をそそいだ。 「ようこそ、王国に。よくぞ、ご無事にいらっしゃいました。これで、私の責任も果たせました」 「大変な旅で、半分も覚えていない。もう二度と、あんな沙漠をこえたくはないものだ」 「もちろん、その必要はありません。ここは、あなたの王国です」とマリアがいった。 「この目に映るすべてが、ぼくのものなのか」 「そうです。乾杯しましょう、あなたの王国のために」  彼女は、そういって杯をかかげた。  染みひとつない綺麗な顔を正面にみて、久しぶりの酒が入ると、ぼくは約束の地とマリアをえた思いに急速に酔いがまわった。安堵感と疲れが眠気をさそい、彼女にうながされてベッドに横になった。  翌日、ぼくが目を覚ますと、美しいメイドが食事を用意した。ゆったりとした服に着替え、朝食をすましてひろい応接室にいくと、待っていたマリアは立ちあがり、椅子にすわることをうながした。彼女は、緑色のドレスに身をつつみ、首には金のネックレスが輝いていた。やがて紅茶が運ばれてきた。よく眠れたかとマリアが聞き、生きかえった感じだとぼくは答えた。 「それでは早速ですが、大切な話をしましょう。以前から申しあげてきましたが、いまは王国存続の危機にあり、あなたの力がどうしても必要です」 「マリア。もっと違う話は、できないのかい。ぼくは、ほとんど死ぬ目にあって、ようやくここに辿りついた。考えたこともない、いろいろな事件が起こった。それを君に話したい。幾度も絶望して、もう会えないかと思った。こうして再会したのが奇跡に思えるくらいなのだから、王国ではなく、ぼくらの話をしたい。別れたとき、高熱で意識が朦朧とし、丸斗につれていかれる君をみているしかできなかった。どれほど不甲斐なく思ったか分かるのかい。ずっと君を心配していたんだ。どうやって、逃げることができたのかい」 「その話は、しないで欲しい」とマリアはいった。 「二度と思いだしたくない、とてもつらい事件だった」と小さい声でつづけて、うつむいた。 「ぼくは、虫の息で、死の谷に晴斗と一緒に投げすてられたのだよ。なにも心配してくれないのかい」 「それは、違います。あなたが、王国で死ぬことはありえません。どんなに苦しい出来事が生じても、つねに勇敢に故郷を目指してやってくるのは分かっていました。あなたは、さまざまな事件に遭遇したに違いありません。時間が許せば、聞きたいに決まっています。一緒に苦労して、ここまで辿りついたのですから。でも、分かってください。いまは、過去より未来が重要なのです。王国は、日ごとにサタンの軍勢で蹂躙されています。軍をひきいて、どうか敵と戦ってください」 「なんで、そんなことをしなければならないのかい。君がいう通り、たしかにここには、ワニ男も蛇女もいなくて人間ばかりにみえるけれど、ぼくが王子だなんて信じられないし、たしかめる方法もない」 「それでは、あなたはなぜきたの」 「君を追ってきたんだ。手に入れたい一心で。君に夢中で、どんな危険をおかしても一緒に暮らしたいと思っている。それは、よく知っているはずだ」 「あなたは告解室で、秘密を聞いてしまったわ。私は、穢れているから相応しくありません。王女を紹介します。話しあってみてください」  マリアは、そういって気乗りしないぼくを王宮につれていった。  屋敷をでると、正面に壮麗な宮殿がみえた。護衛兵がみまもるなかを、マリアとともに王宮に入り、天井が高くつくられた謁見の間を通りすぎて王女の部屋にいった。彼女は、扉を叩いて用むきをつげ、室内にすすんだ。  ながい黒髪が輝き、深い青色のドレスをきて背が高い色白の女性がいた。その女の首には、真っ青なラピスラズリの首飾りが煌めいていた。王女だと紹介され、ぼくはおどろきの声をあげた。彼女は、美貌の浅野マヤだった。 「なぜ、君がここにいるんだ」  王女は、その問いには答えず、ぼくについてくることをうながした。彼女は、衛兵とともに砦の胸壁にあがった。さらに、ぼくをうながし、マリアと三人で物見塔にのぼった。そこからは、三六〇度さえぎるものもない大地の全容をうかがい知ることができた。西側は広大な沙漠がしめ、遠くに大聖堂らしき影がみえた。そして、城につながる一筋の涸れ沢があった。そのほかは、どの方角も山ひとつない平坦な草原で、はるかな地平線まで豊かな緑がつづいていた。しかし、みえるものはそれがすべてではなかった。石でつくられた城塞を、幾百万とも知れぬ敵の大軍が雲霞のごとくにとりかこんでいた。大きな国は、小国の城塁を七重に分かれてとりまき、沙漠をのぞく大地のいたるところに敵方の軍旗が高々とかかげられ、風に吹かれてなびいていた。東の一段高くなった場所に本陣がしかれ、周囲に数万の騎馬隊と数十万の歩兵がしたがっていた。歩兵部隊がにぎりしめる槍が、太陽の光をうけて、きらきらと輝いていた。  その様子をみて、ぼくは唾を飲みこんだ。 「この状況を変えられるのは、あなたしかいないのです。許嫁の誠一さんが、いくら待っても帰ってこないので、私はあの沙漠をマリアと一緒にこえたのです。彼女が、ひとりではあなたを目覚めさせることはできない。どうしても私が必要だというものですから、危険をおかしてもつれもどすつもりでした。あなたと会い、新宿で騒動が起きて、あとの責任はマリアがもつといったので、一足さきに王国にもどり待っていたのです。その後のことは、彼女にまかせたのです。この状況なのです。誠一さん、王国の存続のために戦ってください」  マヤが、いった。 「そうか、君が王女だったのか。しかし、マヤはぼくの実の妹なのだろう。とても、結婚なんてできない。それに申しわけないけれど、ぼくはマリアに夢中なんだ。彼女のために、ここまできたんだ。ぼくは、マリアと結婚したい」 「それは、できません。どんなにいやだといっても、私はあなたの許嫁で、妻になる者です」  王女は、答えた。 「そんなこと、だれが決めたんだ」 「王が、決定しました」 「どこにいるんだ。こんな理不尽なことばかしさせ、苦しみだけをあたえている。王に会って、直談判したい」  その言葉を聞いて、マリアがいった。 「あなたは、面会できません。父親である王は、母親でもあります。そして、父でも母でもないからです。直接みたらおどろいて、あなたは卒倒してしまうに違いありません。どこから考えても、王女が相応しいのです。彼女はスリムで、あなたの好きな豊満な姿態にみえないかも知れませんが、いまはサタンによって呪いをかけられているのです。だから、ほんとうの姿が分からないのです。彼女は、私以上にセクシーで、そのうえ乙女で清純で、一切の穢れがないのです。あなたの理想そのものです」 「たとえ汚れていたとしても、マリアがいい。ぼくにとっては、おまえの穢れがまた魅力なんだ。もう君に夢中で、ささいなことなどどうでもいいんだ。可愛そうだとは思わないのかい。君にいわれるままに、なにも分からずここまでついてきたんだ。ひと晩でいいから一緒に夜をすごしたい。そうすれば、なんでもしよう。もう自分がなにをいっているのか分からないが、出兵してもいい」 「そうはいっても、あなたは、ほんとうの王女をみたら、私などすぐに忘れてしまうでしょう。なぜなら、いま好きでたまらないといっているのは肉体なのです。ともにすごす快楽を勝手に夢みているだけです。あなたがもとめているのは、私の身体で、だから話を聞いてくれないのです」 「愛とは、もともとそういうものではないのか。肉体をともなわない愛情なんてありえない。君とむすびつきたいと思うのは部分ではなく、あらゆるところで、魂だけとか、身体だけとか、そんな風に分けられるはずがない。どうして、こうした感情を二つに分割できるのかい。どうやって、べつべつにして線をひけるのかい」 「きっと、分けられると思います。なぜなら、あなたは、ほんとうの王女を目にしたとき、私をすっかり忘れてしまうからです。すくなくとも、違ってみることになります。だいいち、長つづきしません。どんなに美しくとも、ときによって朽ち果てるものを肉体といいます。だからその欲望はひとときで、永遠に変わらない真実とは違います。あなたは、真の愛を目指すべきです。サタンを倒してみれば、分かります。あなたは、必ず納得するはずです」  彼女は、さらにいった。 「マリア。おまえが、好きなんだ。一部ではない。肉体をふくむ、おまえのすべてだ。分かって欲しい。王女については、なにも感じないんだ」 「分かりました。あなたは、あの沙漠のテントのまえで、私のために戦いたいとくりかえし囁いていました。身体が欲しければ、サタンと交戦してください。勝利すれば、いずれにしても、私はあなたのものになるからです」 「ぼくは、おまえのすべてが欲しいのだ。肉体だけではなくて、魂もふくめた全部だ」 「戦いに勝利すれば、それも、あなたの手に入るでしょう」  ぼくとマリアの会話を、王女は涙をながしながら聞いていた。    なぜ、おれは戦わねばならないのだろうか。マリアをえるというのは、これほど大変なことなのだろうか。彼女は、要求するだけで何ひとつあたえてはくれない。それなのに、なぜ、おれはマリアの言葉にしたがうのだろう。ついに、ほんとうの殺しあいをしなければならなくなっている。いったい、どういうことなのだろう。なにかの儀礼なのだろうか。儀式として、やればいいのだろうか。王女は、たしかにおれの好みだ。しかも結婚を望んでいる。本気にみえるが、ほんとうに妹なのだろうか。浅野マヤに、はじめて会ったときにも、とくに懐かしい気持ちはなかった。いっそマリアをやめて、王女に求愛したらどうか。もしかすると、おれは、女ならだれでもいいのかも知れない。なぜ、マリアを望んでいるのだろうか。たしかに、あの身体は素晴らしい。いままで分けて考えてみたことはなかったが、彼女のいう通りかも知れない。思いかえせば、マリアはおれを刺激しつづけたのだ。とつぜん部屋に入ってきて、あんな身体をみせつけられたら変になるのはとうぜんだ。しかし王女もおなじにグラマーなら、ひどく魅力的なことではあるまいか。血のつながった実妹が、求愛するなんておかしい。まったく記憶にないが、王女が妹で、ここがおれの故郷なのだろうか。なぜ、父親である王に会うことができないのだろう。いったい、おれはだれからうまれたのだろう。ぼんやりとした子どものころの記憶はあるが、はっきりとしたものはなにもない。気がついたときには、マンションに住み、会社につとめていた。なぜ、いままでなんとも思わなかったのだろう。  いったい、なにが現実なのだろう。悠真とエキサイトをつくっていた生活。怪物にかこまれていた暮らし。マリアと、こえた沙漠。そして、いまは王国にいた。この四つは、どれもがすべてかけはなれ、脈絡がなく断裂している。悪夢をつぎつぎにみているみたいだった。 「深い眠り」か。  ぼくは、アントニウスの言葉を思いかえした。  四  ぼくは、目的も相手も分からないまま、マリアの言葉にしたがって戦いを決意した。軍団が招集されたが、構成員は、ポニー、羚羊、貂だった。 「どうして、こんなものたちと一緒に、戦うことができるのか」とぼくはいった。 「あなたの本心は、戦いを望んでいないのです。だから、戦わない理由をもとめているのです。それでは勝つのはもちろん、戦いにもなりません。彼らを、もっとしっかりみてください。あなたの親衛隊です」とマリアは答えた。  その言葉に、ぼくは両眼を閉じ、「戦うからには、勝ってみせよう」と心に決めて目をあけた。そこにみたのは、兜と鎧で身を固めた堂々とした戦士たちだった。ぼくの馬は、額に白い斑の入った栗毛だった。黄金の馬銜(はみ)にかざられ、背にしかれた大きな緋の布には金糸で薔薇の刺繍が縫いとられ、地にむかって優美に垂れさがっていた。鋭い槍をもつ青い騎兵と、きらきらとはためく緋色の軍団旗をかかげる緑の歩兵が立っていた。  それで、一団をひきいてサタンの軍と対峙した。  ぼくが、緋色の布が垂れる軍馬に乗って先頭にでると、敵軍のなかから一騎がやってきた。背に黒い布地がかけられた黒毛の馬に騎乗しているのは、木村悠真だった。 「なんで、おまえがここにいるのか」  ぼくは、悠真に聞いた。 「おれが、大国の軍勢をひきいている。おまえは、なぜ戦うのか」 「倒せば、マリアをえられるからだ」と答えると悠真は笑った。  ぼくは、真正面から戦いをいどんだ。一進一退の攻防がつづくうち、やがて広大な野原で木村悠真と一騎打ちをすることになった。悠真は、勢いがあってつよく、ぼくの剣は飛ばされてしまった。恐怖のなかで部下たちをみると、彼らはポニー、羚羊、貂にもどり、圧倒的に不利な戦況を知って野原に飛び去っていった。 「まいりました。私の負けです。これ以上戦っても、勝ち目はありません」  ぼくは、敗北をみとめるとすわりこみ、頭をさげて許しをこうた。 「おまえが、王子か。つぎの玉座に、のぼることはありえない。その腐った性根を、死によって償え。人びとの、みせしめにしてやろう」  悠真はいって、ぼくの首に縄をかけ、町の中央にある広場につれていった。ギロチン台を設置し、おおぜいの人びとがみまもるなかで、その下に首筋をしっかりと固定した。ぼくの真上に、鋭い刃がきらきらと光っていた。あつまった人びとのなかには、王女とマリアがいて、ふたりは泣きくずれていた。 「なんなのだろう、これは」とぼくは思った。 「ずいぶん、手がこんでいる。いったい、どういうゲームなのだろうか」  頭上で光り輝く鋭い刃をみながら、ぼくは茫然と考えていた。  木村悠真が号令をかけると、ギロチンは一直線におりてきて頭部はころがり落ちた。悠真は、ぼくの切りはなされた首を槍につき刺し、広場の中央にさらし、死体を荒野に投げすてた。  日がとっぷりと暮れると、真夜中に王女はひそかに公共広場にいき、つきささった槍先から頭部をはずしてもち帰った。マリアは荷車をひいて荒野にすすみ、首のない身体をひろい、王宮にもどった。王女は涙に暮れながら、頭部と体躯を糸でむすびつけた。  かすかな鈴の音に気づくと、ぼくはベッドに横たわっていた。振鈴をさげた王女が部屋からでていくのがみえた。痛む首をさわると、異物があった。鏡をみると、頭部と胴体は、太い凧糸でむすびつけられていた。ギロチンが真っすぐに落下してくる恐怖の瞬間だけははっきり記憶していて、思いだすと戦慄を覚えた。ぼくは、自分の首をささえながら王女の部屋にいった。すると、目を赤く泣きはらした彼女とマリアはつげた。 「あなたの首をとって、サタンはますます凶暴になっています。このままで、終わりにはできません。国民にしめしもつかず、あなたの名誉の問題にもなりました。まだ勝負が、決着したわけではありません。体勢を立てなおし、戦うべきです」 「もう、戦争はいやだ。勝てる相手ではないし、憎む者でもない気がする。悠真は正々堂々としていたし、卑怯な手などつかわなかった。勝つ必要もないし、だいいち戦う理由が分からない」 「あなたは、自分の王国をサタンの自由にされて悔しくはないのですか。汚名をそそぎたいと、考えないのですか。あなたは、私への恋心をたくさん囁いてくれましたが、その激しい情熱はどこへいってしまったのですか。愛をさまたげているのはサタンなのに、どうしてそれを許すのですか」 「ぼくが望むものは、おまえを愛することだけだ」 「愛そうと、しないでください。私のなかに、逃げこんではいけません。あなたは、あなた自身を変えようとはしていません。いまあるがままで、周囲が都合よく自分にあわせて変わってくれるのを、ただ漠然と待ち望んでいるのです。いくら待っても、サタンはあなたのいいなりにはならないでしょう。この状況は、自分で変えるしか手立てがないのです。サタンによってみんなが不幸になり、戦える者がひとりしかいないのに、なぜ征服しようとは考えないのですか。どうしてあなたは、王子として私たちをすくってはくれないのですか。名誉は、どこにいったのですか。王国が踏みにじられ、私たちがこんなにも悲しんでいるのに」  マリアは、涙ながらに語り、王女とともに慟哭した。  ぼくは、依然として理由がよく分からなかったが、勝たないかぎり状況が変化しないことだけは理解した。再度戦うとを決意し、また軍団を組織したが、あつまってきたのは前回とおなじ、ポニー、羚羊、貂だった。  ぼくが誓いをあらたにすると、部下たちは騎兵と歩兵の立派な親衛隊に変化した。馬に乗り、ぼくらは木村悠真の本営に突撃した。陣を焼き払い、部下をさんざんに殺し、蹴散らした。しかし悠真は粘りづよく、徐々に体勢を立てなおすと形勢は逆転した。ぼくは後退し、やがて崖の下に追いつめられ、敵兵にかこまれた。ふとみると、勇敢に戦っていた親衛隊は、ポニー、羚羊、貂のもとの姿にもどり、草むらのなかにぴょこぴょこと跳びながら消えていくのがみえた。どこかで見覚えがある風景だった。おなじことを無意味にくりかえしている気がした。 「ぼくらには、戦争を遂行する理由がない。ともに、平和を築きあげようではないか」  ぼくは、木村悠真にいった。 「ふざけるな」と悠真は答えた。 「もう、殺されたくはない。まだ、生きていたいんだ」  ぼくは、木村悠真に再度許しをこうた。もう二度と、刃向かわないと誓った。しかし悠真の怒りは凄まじく、串刺しの刑に処すといって、ぼくを中央の広場に連行した。民衆のみているまえで鋭利な槍を尻からつき刺すと、穂先が口からでてきた。悠真は、その長槍を広場に立てて、柵でかこって見世物にした。  夜になって、刑場には月の光がさしていた。ぼくは死んではいなくて、串刺しの苦しみを味わいつくしていた。深夜になると、王女とマリアがひそかにやってきて長槍をぬき、荷車に乗せて王宮にもち帰った。ふたりは、ぼくの状態をじっと眺め、どうやって槍をひきぬくか検討をはじめた。口がわの穂先には反しの刃がつき、手でつかんだり、縄でひいたりすることもできなかった。ふたりの相談する声が聞こえてきた。 「お尻から、ひきぬきましょう。柄のほうなら、しっかりともてます」  マリアの声がした。  それを聞いて、ぼくは身震いした。目のまえに反った鋭利な刃がみえた。あの先端が、もう一度身体を通りぬけるのかと考えると頭がくらくらした。声をだすのも、仕草で訴えることもできなかった。そのうちに、王女がいった。 「槍の穂先には、反しの刃がついています。こちらがわからひきぬくのには、相当の力が必要です。うまくひきぬけたとしても、きっと王子は、真っ二つに分かれてしまうでしょう」 「よく気がついてくれた」とぼくは心のなかで喝采した。 「二つになったら、縫いあわせるのが凄く大変で、どれだけ時間がかかるのか、皆目分かりません。うまく縫える自信がありません。王子の身体は、すべてに段差がついてしまうでしょう。そんなに何度も針で刺すのは、私には耐えられません」  王女は、そういうとまた泣いた。その言葉にマリアも流涕しながら、ふたりはだきあって慟哭した。聞いていたぼくも、涙がでてきた。  マリアは、王宮の天井に滑車をつるし、縄では切れてしまうので鉄の鎖を長槍の反しの刃にむすびつけ、もう一方の端を王女と一緒に全体重を乗せてひいた。刺さった身体は徐々にもちあがり、垂直になると重力がかかってすこしずつ槍がぬけ、ぼくはついに床に落ちた。狂いそうになるほどのひどい苦痛で、気をうしなった。  鈴の音に気がつくと、ぼくの傷は増えていた。顔には、鼻から顎にかけて真っすぐに、ながい縦線が入り、凧糸で縫われていた。きっと、尻にもおなじ線があるのだろうと確信した。腹のなかがどうなっているのかは、考えただけでもつらくなった。もう二度と苦痛を味わいたくはなかったが、ぼくをみると、王女とマリアは再度の戦いを提案した。あまりのことに、かたくなに拒否した。 「あなたはエジプトにいって、もうあの土地にいられないと分かったはずです。王権をつぐ印璽をえるために真珠を探しに出向いたのに、彼らの企みによってすべてを忘れさせられました。でも最期には、そこが偽りの世界であると気がついて、私の言葉にしたがって一緒にここまで帰ってきてくれました」  マリアは、いった。 「もう二度と、戦いたくはない。できることは、充分にやったんだ。こんな苦しみを味わうくらいなら、もう死んでしまいたい。とても耐えられない苦痛だ」 「あなたは、幾度も愛を囁いてくれました。とても、嬉しかったわ。でも私がずっと愛していたことも、思いだしてもらいたいのです。その思いで、晴斗や丸斗の妨害をうけながらも、あなたに会いにいったのです。いまは大変なときですが、乗りこえてもらいたいのです。私への愛を思いだしてください。私たちは、愛しあっていたのです。だから、巡りあえたのです。愛しあうことによって知らなかった自分を理解し、どんな形で、たがいを大切に考えていたのか分かるはずです。私を好きだといいながら、どうしてあなたは、この状況を変えたいとは思わないのですか」 「エジプトにいればよかったんだ。ここには、えるものもない。この際限もみえない苦しみにくらべれば、なんと天国にちかかったのだろうか。周囲に無関心でさえいれば、なにがあっても、特別な危害はくわえられなかったのだ。たがいに無視しあうことに、良心の呵責はなにも感じなかったんだ。おれは、マリアにだまされたんだ」 「私は、あなたに嘘などついていません。ほんとうに望んでいるものをえようと思うのなら、サタンと戦って勝つしかないのです」  マリアは、いった。  真剣な表情でみつめる美しい彼女をみると、ぼくは悩んだ。  王女も、涙をためた瞳でじっとみかえした。  いったい、なにが、どうなっているのだろう。ぼくは、自分が王子などという設定を希望してはいなかった。王さまになって、この国をゆずりうけ、王女とマリアにかこまれて暮らすのには文句がなかった。しかし、それは仮想世界で充分だった。  エキサイトで幾度破産しても、ぼくは無傷だった。何度でもくりかえし、あらたなゲームをつづけることができた。時間つぶしだったし、とくにうしなうものもなかった。仮想の女性と、空想の邸宅にいられるかどうかだけの問題だった。ぼくには、いちばん大切なものがなかった。勝っても負けても、実際には傷つけられなかった。だから、ぼくが傷つくこともなかった。すべてが現実とは距離をもち、それでまったくかまわなかった。戦うのは、いやではなかった。しかし負けたときに、これほどの苦しみが待つ設定は考えになかった。そうなら、こんなゲームは割にあわないものだった。  もし勝率が三〇%なら、もう二度敗北したから今度は勝つかも知れない。しかし一〇%なら、さらに負けつづける可能性ものこっていた。そうなれば、またギロチンにかけられて首を切られ、槍を身体につき立てられる。それでもゲームならいい。どうして身をもって体験しなくてはならないのか。  そう考えなおすと、そろそろ勝ってもいいころではないのかと思いはじめた。もしかしたら、この戦いには三〇%くらいの勝率があるのではないか。それなら、そろそろ勝てるのかも知れない。そのときには、悠真にどう仕返しをしてやろうか。ギロチンよりも、串刺しのほうがつらかった。これをやってやろう。自分は味あわないで、人だけに行使するのは卑劣で不公平だと思った。そうだ。三〇%なら、今度は勝てる。やってみようか。  ぼくが、もう一度戦うことを決意すると、またポニーたちの親衛隊があつまった。しかし、いかにも士気があがらなかった。  馬に騎乗して悠真とむかいあうと、ギロチンと串刺しのつらい思いが鮮やかによみがえった。ぼくは、完全に怖じ気づいた。 「なぜ、ぼくらは戦わねばならないのか。手をくんで、この国を共同で統治したらどうなのか。ぼくは、悠真を兄としてあつかってもいい」 「二度と戦わぬと、さんざん許しをこいながら、今度はなにをいいだすのか。戦いをいどんできたのは、おまえではないか。おれは、なんとも思ったこともない。おまえはどうでもいい存在で、気にもならないものだ。戦わないのなら、でてくるな。エジプトがいいのなら、そこへもどって酒と女に溺れていろ。そこで、周囲とひとつになって暮らしているのが相応しいのだ。それが、おまえのほんらいの姿なんだ」  戦いがはじまったが、木村悠真はつよく、ぼくは追いつめられた。親衛隊たちは、ポニー、羚羊、貂にもどってぴょこぴょこと跳ねながら草原のなかに消えていった。  ぼくは、彼らの後ろ姿を眺めながら回転木馬の場面だと気がついた。賑やかな音楽が鳴りひびくなか、メリーゴーランドは追いつ追われつの回転をつづける。舞台のうえで躍動的にうごく、ポニー、羚羊、貂などの動物たちの背中に乗って、刻々と景色がうつりすぎる。時間とともに出来事が連続して起こっているようにみえ、陽気な音楽とともに、ぐるぐると回転をつづける。しかし、正確には、中央に杭を打たれた羚羊や馬が、ただ上下の運動を機械的に反復していた。ぼくは戦ったつもりになっていたが、事実はそうではなかった。回転木馬に乗って、おなじことをくりかえしていただけだった。  ぼくは、ふたたび無残に負けた。とても三〇%の勝率ではなかった。 「おまえが、これ以上戦おうなどと二度と考えない、最高の方法で殺してやろう」  悠真は、いった。  ぼくは、両手を縄で縛られた。馬にひきずられ、町の広場につれていかれた。木村悠真は、ぼくの両手両脚を縄索で一本ずつしっかりとしばりあげ、それを四頭の鞍にむすびつけた。騎馬した四人の男が、悠真のかけ声とともに一斉に鞭をふるうと、馬は東西南北の四方にむかって走りだした。その瞬間、ぼくは手足がつよくひかれ、身体は宙に浮いた。関節がぬけ、骨はばらばらになった。かつて味わった経験がない苦痛が、ながくつづいた。悲鳴をあげたが、身体は宙にぴんと伸びたままで四頭の馬力をもってしても四肢をひき裂くことはできなかった。悠真はしびれを切らし馬をとめると、ぼくの両脇と両腿のつけ根に剣で大きな切れ目を入れた。それで騎乗し、もう一度鞭を打つと身体はばらばらになった。  悠真は、ひき裂いた四肢をさらに分割した。両腕は肘で、両脚は膝で二つに分けた。首を切りはなし、男根を切りとった。のこった胴体を真横に切り、胸と腹に分けた。さらに正中で縦に二つに分割した。そして一四に分かれたぼくの身体を樽に入れると、河まで運び、船に乗せ、中央のながれのいちばん速い場所にすてた。  つぎの日の朝から、王女とマリアは涙に暮れながら探索をはじめた。河のながれは速かったので、捜索は困難をきわめた。ばらばらになったぼくの身体は、さまざまな場所でみつかった。ふたりは、それらをひとつずつ拾いあつめた。しかし男根は魚に食べられてしまったらしく、どうしてもみつけられなかった。あつめた一三の部分を、王女は泣きながら繋ぎあわせた。  ある日、鈴の音が聞こえて、ぼくは自分がベッドに寝ているのに気がついた。周囲には、つよい没薬の香りが漂っていた。目をあけると、振鈴を鳴らした青色の服をきてラピスラズリをつけた王女は、ぼくの胸に顔を埋め、緑の着衣のマリアは両脚をだきしめ、ふたりは声をあげて泣きくずれていた。泣き声のなかで、茫然と天井をみていた。なにが起こったのか自分でもよく分からなかったが、しばらくしてふたりが部屋をでていくと、その途端にひき裂かれる無残な痛みを感じ、思わず震えた。みると身体の傷は増えつづけ、あらゆる部分が太い糸でむすばれ、無事な場所はどこにもなかった。ぼくは、八つ裂きにされていた。溜め息をついて下半身に目をうつして、唾を飲みこんだ。男根は、切りとられていた。  ベッドにかけられた一枚の毛布を手にし、だれにも気づかれないよう注意して、ぼくは静かに外にでた。雲ひとつない晴れた日で、穏やかな黄昏がせまっていた。ぼくは、ロバに乗ると太陽がしずむ方角にむかってすすんでいった。ぜひとも、アントニウスに会わねばならなかった。自分がなにをしているのか、教えてもらわねばならなかった。目のまえの大沙漠の、はるか真西に大聖堂があった。南に石切場に通じる道がつき、その下の洞窟にアントニウスが暮らしているはずだった。そこにつづく四〇キロの沙漠を、わたった記憶があった。とはいっても聖堂からここへ辿りついたときには右の下腿部が化膿し、熱がでて意識も朦朧としていたのを、マリアがロバに乗ったぼくをひっぱってつれてきてくれたのだった。  人の往来も途絶えた道は、日中は灼熱の地獄で、日がしずむと凍結した砂の海に変わった。ただ無気味な風のうなり声だけが、空虚な世界に漂っていた。誤れば、助けてくれる者が通りかかることはありえず、乾いた砂を浴び、さらに干からび、風化して消えていくだけだろうと思った。しかし、いかねばならなかった。教えてもらわねばならなかった。  夕陽は瞬く間にしずみ、沙漠には凍てつく夜がやってきた。空が完全に暗くなり北極星が確認できるまで、ぼくは礫のうえで毛布にくるまり待っていた。天空に北辰が輝きだしても、それを頼りに真西にすすむのは難しいことで、できるかぎり遠くに目標を決め、そこにむかおうとした。はっきりとした目印そのものが、とぼしい場所だった。途中で分からなくなると、ぼくは立ちどまりはじめからやりなおした。月の明かりが行く手を照らし、星の光が遠くの砂丘を輝かせた。そのとき、はじめて気がついた。ぼくがいる大地には、楕円や丸や三角の模様がずっとつづいていた。そこは、かつてながれた大河が運んだ大量の泥土が乾燥し、ひび割れ、大きな魚の鱗状に結晶し、つらなっていた。そのときまで、なぜ気がつかなかったのか分からないほど、どこからみてもはっきりとした涸れた川底がえんえんと真西にむかってつづいていた。マリアから、そんな話を聞いた気がした。ぼくは、どこまでもつづく文様にそって涸れ谷をすすんでいった。その模様のさらに南は、砂が緩やかな丘になり、谷をつくりながら果てしなくつらなっているのがみえた。ぼくは、毛布にくるまり、ロバに乗ってのろのろとすすんでいった。久しい夜があけて背後から日がのぼってきたとき、自分のながい影のずっと遠くに朝日に映える大伽藍をみた。  やがてぼくが聖堂につくと、わずかな糸杉がみえた。真南に位置するところに、かつてすてられた石切場にむかう道をみつけた。そこに、アントニウスが住む死の谷があるはずだと思った。ふるい石切場は、草も生えない石山だった。頂上までのぼると断崖になり、目のまえにもうひとつ小さな山があり、その奥に果てをうしなった寂寞とした沙漠がみえた。  アントニウスは、いっていた。ここは、モーセがイスラエルの民をひきい、マリアがわが子をつれて逃げた沙漠だと。そこは、神の不在の象徴だった。  振りかえると、巨大な砂の海のなかにひとつぽつねんと浮かぶ大聖堂は、みすてられた堕天使たちの監獄だった。もし洞窟があるなら、絶壁の下に違いなかった。激しい渇きにおそわれ、アントニウスに会えなければ、もうこれまでだろうと思った。それでもう一度石切場の入り口にもどり、西がわから迂回し、さらに南にまわりこむと、断崖の正面に小山がみえた。石山の絶壁は、南がわの小さな山をつつみこみ、二つのあいだに回廊状の空間をつくっていた。絶壁がわに、いくつもの洞窟がならんでいた。こうした小山が砂のながれをとめなければ、洞穴の扉もやがて埋もれてしまうに違いなかった。いちばん西端にある洞窟の扉口を叩いてみると、「だれだ」というアントニウスの声がした。 「しばらくまえに、石切場から助けだしてもらった者です」  ぼくは、答えた。  入ってもいいと、アントニウスはいった。洞窟のなかで病の床にふせる彼は、ぼくに水をすすめた。それで革袋をうけとり、半分だけ飲んだ。  ぼくは、沈黙の行をといてくれることを願った。アントニウスがうなずくと、自分の身に起こった事件について話し、男根のなくなった下半身をみせた。 「なぜ、ぼくは死ねないのでしょう。考えられないほどの苦しみをずっと味わいつづけて、きっと気が変になってしまうに違いありません。もしかしたら、もうすでに狂っているのかも知れません」 「素晴らしいことだ」  アントニウスは、おどろきの声をあげた。 「おまえは、勇者になったのだ。勝てないものを相手に、逃げずに戦ったのだ。おまえは、その敗北の印を、ひとつずつ自分の身体にのこしたのだ。戦わずしてえられ、苦しみもなくもたらされるものは、真実ではない。傷つくことを怖れていたら、ほんとうの自分には巡りあえない。死なないのは、まだその時期がきていないからだ。ここは、おまえの王国なのだ。いま私は、死ぬことができる。しかしおまえは、死ねないのだ。この苦しみから解放されるには、勝利するしかない。サタンとは、おまえが取りこむべき影ではないのか。敵ではなく、許すべき相手ではないのか。二つの者は、ひとつにならなければならない。外がわと内がわが、等しいものに変わる。男と女が合一して、どちらでもなくなる。年齢をもたず、永遠に若く、何ものにも包括されず、男性でありながら女性であり、聖なる神の仮面をつけた悪魔であり、またアルファでもオメガでもある。それが、おまえなのだ。これを知るとき、主はこられる。兄弟や姉妹を憎まない者は、十字架を負わないものは、主に相応しくはない。そのためには、偉大なる反転が必要なのだ。ながれが果てるところまで辿りついたとき、万物の更新がはじまる。そこにいきつかなければ、開始すら起こらない。そのときがくるまでくりかえし戦い、チャンスをみつけ、勝たねばならない。負けつづけるのは勝手だが、それでは苦しみは終わらず、つぎの段階にすすむこともできない。いつまででもやっていたければ、それも、おまえの自由なのだ」  彼は一息つき、またつづけた。 「世界は、数多の次元から成立している。私のばあいは、きわめて個人的なものだ。おまえの次元も、そうなのだ。私たちの階層は、異なり、ほんらい交錯していない。いま私の話が、おまえの心のどこかを打ち、揺するならば、それは二つのべつべつの次元が、真空から出現する量子にも似て、一瞬ふいに揺らぎ重なったのだ。なまじ言葉をもっているので、人は間違える。相互に意思を通じうる相手が、永遠に自分の階層にいると思いこむ。次元をもたない者は多い。彼らは、なにがレベルかも知らないまま、あわく生死をくりかえしている。私の世界は、死とともに消滅するきわめて個人的な次元のなかでうまれているのだ」  アントニウスはそういい、ぼくの下半身をみてつづけた。 「しかし、なんと哀れなことだろうか。おまえは、男根をうしなっている。欲しければ、私のものをやってもいい。いまこうして終の病にふせり、死を待ち、はじめて心地のよさを感じている。こうした喜びをうんでいるのは、すべての災いをもたらした、この男根なのだ。これを切りとったなら、わが禁欲の望みは叶わなかった。男根は悪魔に違いないが、なかったらどうして自分が勇者だと証明できただろうか。私は、あと何日かのうちに息をひきとるだろう。死んだら、勇者として死の谷にすてて欲しい。おまえには、私の男根をあたえよう。死の谷で切りとり、王女につないでもらうがいい」 「マリアは、悪魔だった。エジプトで、優雅に暮らしていたぼくをさそいだした。こんな沙漠の果てまでつれてきて、恋人だとばかし思っていたのに肌も許してくれず、その挙げ句、いまでは母になってしまったのです。不出来な息子の尻を、くりかえし叩いてやまないのです。もういまとなっては、マリアを欲しいのか、愛しているのかも分からなくなっています。恋人だったら、どうしてぼくを死地に追いやるのでしょうか。いかないでくれって、泣いて頼むに決まっています。マリアとは、いったい何ものなのでしょうか」  ぼくは、聞いた。 「私に、悪魔の存在を教えてくれたのは彼女だ。次元をもつ者にとって、マリアは門なのだ。そこをぬけて、私は、悪魔にうち勝つためにこの洞窟に辿りついた。彼女の記憶は年をへるごとに鮮明となり、絶望的な欲望にかきたてる。マリアは、月に一度か二度、王国から水と食べ物を運んでくる。いまここには、飲料も食料もふんだんにある。彼女は、おまえがくるのを知っていたのだろうか。丸一日をかけてとどけてくれる物資がなければ、もっと早く死ねたのだが、マリアは簡単に死なせようとはせず、できるかぎりながく私が悪魔と対決する事態を望んだのだ。彼女に逆らうなど、だれにもできないのだ。闇のなかには、肉体という名の悪魔がいる。私は、毎晩その恐怖と戦いつづけてきた。悪魔は、恐怖心を食べて生きているのだ。だから怖れをだしつくすまで、私を生かしておいたのだ」 「ぼくも、たくさんの恐怖を味わいました。こんなになっても、まだマリアは許してはくれないのです。いったい、ぼくがどんな罪をおかしたのでしょうか。あきらかにマリアは、その優美な肉体でさそったのです。でも、ここについたら母に変わってしまったのです。ぼくは、マリアをずっと愛してきました。いまは、もう分かりません。もしかすると、憎んでいるのかも知れません」 「愛は幻想だが、憎しみは現実だ。おまえは、たくさんの恐怖よりも、そこからひとつの真実をつかみとらねばならない。量によって価値のあるものは、質においては無価値なのだ。だれであっても、あたらしくうまれ変わらなければ、神の国をみつけることはできない。しかしマリアというのは、じつは王女の名前なのだ。いまおまえが話している女の本名は、ヘレナだ。彼女は、エジプトのマリアという通り名をもっている。ヘレナは、あらゆる男を誘惑し、そしてだれのものにもならない。彼女をみて恋をしない男性はいない。女には、理解できない魅力をもっている。だからヘレナのために戦うのは、男だと証明していることなのだ。しかし、おまえは、彼女の神聖さをまるで理解していない。世俗的な部分でみているだけでは、ヘレナをえることは到底不可能だ。彼女は、神の一部なのだ」 「なぜ、悠真がサタンなのでしょうか。みんなはどうして、木村悠真とは、いわないのでしょうか」  ぼくは、深刻な表情でアントニウスにたずねた。 「サタンは、さまざまな名で呼ばれているのだ。悠真とは、おまえがつけた名前にすぎない。彼は、双子の兄でも弟でもない。サタンとは、光のなかで立ったときにできる影であり、姿に呼応する者ではないのか。おまえが、自分を知るには必要だったのではないか。自己の認識に辿りつくには、サタンは避けられない障害なのだ」 「べつに自分なんか、知りたくもなかった」 「もう現況は、だれかが助けてくれる段階ではないのだ。現実を、よくみつめなければならない。おまえは、自分の可能性と戦っているのだ。悠真は、ほんとうは下僕なのだ。おまえは、彼の踵をつかんでうまれてきたのではない。主人なら、それらしく振るまってサタンを支配し、奴隷としてつかえさせたらどうなのだ。生きることには、責任があるのだ。敗れれば、その代償を支払わねばならない。ゲームとは違うのだ。自らの身体に、決して消えることのない刻印をのこさねばならない。遊びでは、万(まん)度(ど)くりかえしても真実には到達できない。それは、賭けているものが違うからだ。おまえは、質において価値のある、ひとつの真実をつかみとらねばならない。いったい、いつまでこんな馬鹿げた遊びをつづけるつもりなのだ」  アントニウスは、暗い洞窟にうがたれた小さな穴からさしこむ、雲にさえぎられながらふってくる光束をさし示した。 「これが、光だ。私たちの魂は、天上界に住む、光明だったのだ。暗闇に落ち、粉々にくだけちり、肉体という名の牢獄に閉じこめられた。それが、われわれなのだ。私たちは、故郷の光あふれる天上の国に帰りたいが、悪魔という名の肉体が許してくれない。肉によって天上界の祖国を思いだせないよう、光明には、七重、一二重と防衛線が張られている。こんな私にも光があるのを、ヘレナは教えてくれたのだ。おまえも、どこかでほんとうの自分と出会わねばならない。そのためには、自分自身というものが、いかに耐えがたいのか、幾度も体験しなくてはならない。  いいか。はるかな、みることもできない遠い天から、雨粒は落ちてくるのだ。慈雨は、海に落下し、牡蠣の殻のなかに入り、時間をかけて真珠になるのだ。それから、ながいときがたって、潜水夫が海底にもぐり、貝をみつける。そして彼らは、牡蠣から真珠をとりだし、商人にわたす。商人たちは、それを王にあたえるのだ。  人間と神と世界は、不可分なひとつのものなのだ。どこまでも統一していることを、おまえは知らなければならない。それは、身をもって理解するしかないのだ。  おまえは、さらに深く眠っていたのだ。エジプトで、いったいなにをしていたのだ。そこで、さらに悪夢をみていたのではないのか。おまえをつれてくるのは、ほんとうはヘレナの仕事ではなかったはずだ。王国がもとめているのは、王子の援助なのに、いまでも思いだせないのではないのか。危機をすくうには、まず、おまえを救出しなければならなかった。しかし助けだしても、なお夢から一向に覚めないのでヘレナは母にも変わってしまったのだ。こんな沙漠をロバに乗せて横断させるのは、恋人になどできるはずがない。それは我が身をすててもおまえをまもり抜く、母にしか不可能なことだ。沙漠はヘレナをしたがえて、自分でこえねばならなかったのだ」  ぼくは、それから三日間、アントニウスが死ぬのを待った。以前、死の谷からすくってもらったとき横臥していた洞窟を教えられ、そこで夜をすごした。  深夜、あたりがいっそう静かになると、ふるい木製の扉がほとほとと叩かれた。ノックは、感情を抑えた小さい音だったが、風のうなり声にまぎれながら、やむこともなくくりかえされた。アントニウスは死の床にふせり、とても起きられる状態ではなかった。彼よりほかに、この孤独な洞窟を知っている者は世界でひとりもいないはずだった。だから執拗に扉を叩いているのは、魔物以外には考えられなかった。沙漠をわたる寂量とした風が耳にとどくなか、ノックの音は、いっそうの静(せい)謐(ひつ)を演出しながらくりかえされていた。もしかしたら、ヘレナかも知れなかった。それなら、なぜ以前のように入ってこないのだろう。どうして、ぼくがこの洞窟にいることを知ったのだろうか。いくら考えても、魔物の仕業としか思えなかった。やがて、耳はふるい木製の扉口に集中していった。もうノックの音は、決して小さくはなかった。大音響になって、洞窟一杯にひろがり木霊していた。ぼくは、恐る恐る扉にちかづくと、だれかいるのかと聞いた。答えはなく、おなじリズムで扉口は叩かれつづけていた。もしかしたら、風に吹かれた木の枝がこの音をくりかえし鳴らしているだけなのだろうか。そんなどうでもいい音響に、怯え、震えているだけなのだろうか。思いあまったすえ、ぼくは扉をひいた。  扉口のまえに立っていたのは、上半身が裸の兵士だった。頭に犬の仮面をつけた褐色の肌をした男たちは、肩にまるい荷物をかついでいた。身をかがめて部屋に入ってくると、ふたりの兵士は荷を床におろし、扉から暗い戸外にでていった。洞窟のなかには、巻き取られた絨毯がのこされていた。扉は閉じられ、もうノックの音は聞こえなくなっていた。寝床に腰をおろすと、沙漠をわたる乾いた風のひくいうなり声がひびいていた。不思議な気持ちで扉のまえにおかれた黄褐色の絨毯を眺めていると、とつぜん寝台にむかって、くるくるとまわってころがった。おどろいてみつめると、そこには裸の女性が横たわっていた。赤銅色をした女は目をひらき、ゆっくりと立ちあがった。彼女は、両側の鬢を真っすぐに垂らした、鼻の高いクレオパトラだった。睫はながく、アイシャドーが塗られた目は蠱惑的で、幻想的ともいえた。彼女は、その瞳でぼくをじっとみつめた。 「一緒にいこう。もっとあかるく、ひろい世界へ。おまえを、この世の王にしてやろう」  クレオパトラはちかづくと、華奢な指先でぼくの胸を撫でた。 「私を、欲しくはないのか。おまえがうしなった大切な部分も、とりもどしてやろう。望むもの、美しい女と温かい食事をあたえよう。鬱陶しい、この陰気な洞窟を一刻も早くでよう」と囁いた。  彫りが深く、目鼻立ちがととのった彼女は、淫靡な麝香の匂いにつつまれていた。以前なら、ぼくは間違いなくついていっただろう。しかし、いまはクレオパトラが魔物であるのが分かっていた。これは、ゲームではなかった。誤った選択をすれば、奥深い地獄にひとりおきざりにされることも分かっていた。 「勇者よ。目をあけて、私をみてごらんなさい。おまえは、本能を信じなければならない。それが、ずっと人を現在まで生かしつづけてきたのだから。おまえは、いままでのように自分の気持ちに逆らわず、素直になりなさい。無理をして、いったいどんないいことがあったのか。自分の傷をみて、そのひとつひとつがどうしてできたのか、よく思いだしてみなさい」  クレオパトラは、ぼくの耳に囁いた。耳たぶに、彼女の温かい吐息が投げかけられる。周囲には、心を惑わす麝香の芳香が漂っていた。  ぼくは、目を閉じて押し黙っていた。  ながい時間がたっていった。  とつぜん、指をはじく高い音が聞こえ、なにかがぞろぞろと入ってくるのが分かった。周囲は、ざわつきはじめていた。上着が剥ぎ取られ、肌のいたるところを撫でまわされるのを感じた。それが、女性のほそく艶めかしい指先だと分かった。ひとりが背後から指をつかって、ぼくの目蓋を上下にひいて両眼をひらかせた。目のまえにいたのは、赤銅色の肌を輝かせるクレオパトラひとりではなかった。優美で豊満な姿態をほこる女神、アプロディテ。妖艶なたたずまいをもつ背徳的なほど美しい人妻、イオカステ。若く凜々しく、触れがたいほどの清浄な美につつまれた、アルテミス。冷たくすき通る白い肌をもった、背の高い美貌の麗人。冥界の女王、ペルセポネ。ペルシア帝国、ダレイオス大王の実の妹で、妻でもあった気品に満ちた麗しき、スタテイラ。その巨大帝国を滅亡に追いやった、アレクサンドロス大王に愛された、輝くほどに美しい乙女、白い肌の可憐な妖精、ロクサネ。なよなよとしたやわらかな柳の小枝を束ねた腰つきをして、小柄でありながら気がつよく、精悍といってもいい不思議な魅力をもつ、西施。ながい黒髪がひときわ美しい。「思ひつつ寝ればや人のみえつらむ、夢と知りせば覚めざらましを」と歌う小野小町。さらに目のまえにすすんできたのは、妖艶としかいえない豊満な肉体をもち、いるだけで淫靡な香りにつつまれる楊貴妃だった。 「おまえは、私を愛していた。暖かい部屋で、一緒に暮らしたいといっていた。その望みを叶えてやろう。おまえを、世界の王にしてやろう。ここにいる者たちを愛人としてもち、そばに侍らせ、自由にする力をあたえよう。ただ、この暗く寒々とした辛気くさい洞窟から外にでればいいのだ。そこには厚い緋色の絨毯が敷かれ、壁には贅沢な緑の織物がかかっている。高い薔薇窓を通して西日がさしこみ、赤い段通のうえに天上の薔薇園を映しだしている。そのあふれた光に満たされたやわらかい乳白色の寝床で、世界各地のおいしい食事を楽しみ、酒を飲み、ときを忘れて私と戯れよう。そこだけに、人生の苦悩から分かたれた幸せがある。それが、おまえの望みのすべてだったのではないか。つらい苦しみからは目をそむけ、幸せを心行くまでつかむがよい」  楊貴妃は、甘い吐息とともに囁いた。その言葉のひとつひとつが、ぼくの心を打った。たしかに彼女のいう通りだった。それが、ぼくの望んでいたすべてだった。いまの苦しみのうえに、なにが待っているのだろうか。首を切られ、串刺しの刑をうけ、八つ裂きにされて、現在のぼくがいた。ヘレナの肌に触れ、ぬくもりを感じ、安らぎをえることもできなかった。なぜ、悠真と戦わねばならなかったのだろうか。ぼくと彼とは、違っていた。しょせんは他人なのだから、かまわないではないか。それは、仕方がないことだった。なぜ、ふたりに優劣をつけねばならないのか。どちらが正しいのか、争う必要があるのだろうか。アントニウスがいうように、人生は無意味なのだ。それなら苦痛を望む彼は、気が狂っているのだろう。どうせ意味がないのなら、それがはっきりとしているのなら、いまの瞬間さえ心地よく、安らぎがあたえられるなら充分ではないか。温かい家とおいしい料理、気に入った酒と女。これ以上のものが、いったいこの世に存在するのだろうか。それ以外は、おなじ無意味でも、さらに無価値で、無意義だろう。たとえ地獄に落ちても、いずれそこにいかねばならないのなら、一瞬であっても楊貴妃があたえてくれる快楽を味わわないのは馬鹿げているだろう。奈落にあっても、彼女のやわらかい肌の記憶にすがって、苦しみに耐えることができるのではないか。  ぼくは、女性のしなやかな手のひらで身体のいたるところを撫でまわされていた。一〇人の美貌の女たちにとりまかれ、彼女たちの芳しい匂いに満たされ、甘い快楽へのさそいの言葉が囁きつづけられていた。ぼくは、困惑し、両手で顔を覆った。女たちは、優しくその手をほどき、目をあけさせた。彼女たちの心を打つひとつひとつの部分を、眼前にさらけだした。ぼくは、洞窟の天井にうがたれた小さな穴からふってくる、よわい光線をみて天上の国を考えた。一瞬ではなく永劫のときを、地獄ではなく光の王国ですごしたいと思った。  そして、夜があけていった。洞窟があかるくなると、彼女たちは消えていた。ぼくは、光にあふれた戸外にでた。みわたすかぎりの沙漠を、乾いた風が吹いていた。アントニウスの洞窟をのぞくと、まだ呼吸をしているのが分かった。彼から教えてもらった食料貯蔵庫にいき、一日分の食料と水を取り分けた。自分の洞窟にもち帰り、そこで食べ、横になった。  また夜がやってきた。戸外が暗くなると、ぼくは扉をしっかりとしめた。石のベッドで横臥しながら、今日までに起こった事件をひとつひとつ思いだしていた。自分の人生は、恥ずかしい出来事ばかりだった。耐えがたい屈辱にもまみれ、人にむかって胸を張れることはひとつもなかった。天井からは、よわい光線がこぼれ落ちていた。こんな真っ暗な洞窟にまでとどくのだから、天上の光の王国が輝きに満たされているのは間違いなかった。だから、ここは地獄なのかも知れなかった。しかし、まだ洞窟には光がとどいていた。横臥していると深夜になり、あたりはいっそう静けさを増した。ふるい木製の扉が、ほとほとと叩かれた。ノックは、感情を抑えた小さい音だったが、風のうなり声にまぎれながら、やむこともなくくりかえされた。また、クレオパトラがやってきたのだろうか。美しい女たちが、あつまっているのだろうか。楊貴妃のあの素晴らしい身体を、ぼくはみつづけなければならないのだろうか。ノックの音は、くりかえされていた。感情が消失した音響は、おなじ間隔で執拗につづいていた。いまは大音響となって、洞窟中に鳴りひびいていた。ぼくはついに立ちあがり、扉口にちかづき、だれかと聞いた。しかし、答えはなく、扉を叩くおなじ音がつづいていた。ぼくは、扉口をひいてひらいた。すると、黒毛の馬が入ってきた。背には黒い布地がかけられ、そこには木村悠真が乗っていた。ぼくはおどろいて後退し、奥の寝台の隅に背中をはりつけた。  ひらかれた扉からは、ぞくぞくと悠真の配下たちが入ってきた。兵士たちは、ぼくの首を切り落としたギロチンをもっていた。串刺しにした鋭い穂先と反しの刃がついた槍をたずさえていた。ぼくを、ばらばらにひき裂いた四頭の馬も入ってきた。彼らは、ギロチンをみせ、槍を誇示して脅かしていた。  ふるい木製の扉は、あけはなたれていた。 「やりなおしてやろう」と悠真は叫んだ。 「何度でも、くりかえすことができる。ギロチンがいいのか、串刺しのほうが好きなのか。もう一度、ばらばらに千切ってやろうか。どれがいいのだ。おまえがここにいるかぎり、くりかえしてやろう」  悠真は刀を振りまわし、兵士たちは槍先をむけていた。 「逃げたければ、外にいけ。広大な沙漠を逃げまわればいい。運がよければ、おれが追えないところまで逃げられるかも知れない。ここにいるなら、おまえをもう一度、いちばん好きな方法で処刑してやろう。それがいやなら外へでろ」  悠真は、刀をぼくの首につき立てながら叫んでいた。洞窟のなかは、彼の兵士たちで一杯だった。ただ扉にむかって、人がひとり、どうにか通れる道がのこされていた。  洞窟の天井からは、小さい穴を通してよわい月光がさしこんでいた。その穴隙からあかるい粒子が、光束になってふりそそいでいた。光の王国の一部分が、そこからこぼれ落ちていた。きっと外は真っ暗で、地獄なのだろうと思った。ここを逃げだしたら、もう光もとどかない乾いた沙漠を逃げまわらねばならない。闇の国を、目指す場所もなくさまよいつづけることになるだろう。ぼくは、悠真の恫喝をうけながら、天上からふりそそぐ光束をみつめていた。一瞬ではなく、永劫のときを光の王国ですごしたいと思った。  そして、夜があけていった。いつの間にか、悠真も兵士たちもいなくなっていた。  ぼくは、ひどく疲れ、寝台に横臥した。しかし興奮が激しく、寝つくことはできなかった。アントニウスをたずねると、彼はまだ生きていた。また食料庫にいき、一日分の飲食をもち帰り、洞窟で食べた。もう一日、耐えねばならなかった。ぼくは、アントニウスが毎日くりかえしていたことに、対峙しなければならなかった。夕暮れに変わってくると、恐怖で心臓が高鳴った。  やがて、また夜がおとずれた。戸外が暗くなると、ぼくは扉をしっかりとしめた。夜があけるまで、決して扉口をひらくまいと誓った。石のベッドで横臥していると、さまざまなことを思いだした。自分が何ものなのかは、依然として分からなかった。しかし、比較的恵まれた環境にあったのは間違いなかった。どうしてそうなったのかは思いだせなかったが、もっと世の中のことを考えるべきだった。人生は、間違いだらけで、後悔しかなかった。いい思い出がひとつもみつけられなかった。ヘレナとマリアは、そんなぼくを愛してくれたのだと心から納得できた。彼女たちのために、死ぬまえになにかひとつでもいいから、喜ばせることをしたかった。もし、もう一度出会えたら、悠真と戦って勝利しなければならない。理由は分からないが、自分のいちばんの味方がそういっているのだから、きっと正しいに違いなかった。それを正解としなければ、すべてがあまりにも不明だった。洞窟の天井から、あかるい光束がこぼれ落ちていた。闇の国ではなく、天上の光の王国に辿りつきたいと思った。  深夜になると静寂が支配し、沙漠をわたる北風がうなり声をあげていた。やがて、ふるい木製の扉がほとほとと叩かれた。感情を抑えた小さい音だったが、規則正しく幾度も幾十度もやむことなくくりかえされた。おおぜいの部下をつれた悠真が、扉のまえで待っているのに違いなかった。クレオパトラが楊貴妃ととともに、扉口があくのを待ちかまえているのかも知れなかった。その音響は、執拗にくりかえされていた。周期的に鳴りひびく、扉を叩く音とともに耐えがたい時間がすぎていった。 「あけてください」という女の声が聞こえた。風のうなり声にまぎれながら、何度も耳にとどいた。 「だれなの」  ぼくは、聞いた。 「私です。あなたがいなくなったので、ずっとみんなで探していました。アントニウスに聞いて、この場所が分かったのです」 「だれなの」 「私です」  それは、間違いなくヘレナの声だった。  ぼくは、扉をあけた。大きな頭巾をかぶり、ゆったりとした修道衣を身にまとった女が入ってきた。かぶりものをとると、目を泣きはらしたヘレナだった。ぼくは、彼女と抱擁した。涙が、ヘレナの頬をつたっていた。 「王女さまは、捜索をくりかえしましたが、あなたをどうしてもみつけられず、すべての希望をうしなってしまいました。悲しみに暮れ、いまにも短剣で胸を刺して死ぬ覚悟なのです。どうか私と一緒に、王国へ帰ってください。王女さまが、死んでしまうのです」  ヘレナは、声をあげ身を震わせて泣きながらいった。 「アントニウスが亡くなったら、埋葬しなければならない」  ぼくは、彼女をみつめていった。 「死の谷に運ぶのは、明日でなくとも、なにも変わりがありません。王女さまは、いまにも死んでしまうのです。それを助けられるのは、あなたしかいないのです」 「アントニウスとは、約束してしまった。彼を、死の谷に運ばなければならない」 「王女さまと、どちらが大切なのですか。彼女は、あなたの許嫁で、たったひとりの妹さんです。誠一さんの傷を、涙に暮れながらずっと縫いあわせてきたのです。彼女は、心からあなたを愛しているのです。ひと針刺すごとに、王女さまの目から真珠がこぼれ落ち、誠一さんの傷を癒やしてくれたのです。その方が、死んでしまうのです」 「アントニウスとは、約束している。彼が光の王国に旅立つ、最後の手助けをしなければならない」  ヘレナは、涙をながした。 「約束をまもろうと考えるのは、立派な行いです。しかし、いまは王女さまの命がかかっているのです。死すべきものと、生きられる者、あなたは、どちらを助けたいのですか」  ヘレナは、ぼくをじっとみつめた。だまっていると、修道衣から翡翠が象眼されたあわい緑色の短剣をとりだした。不思議な気持ちでみつめると、彼女はそれを自分の咽につきつけた。 「あなたが帰ってきてくれないのならば、王女は死んでしまいます。私も、生きる望みをうしないます。ここで、死なせてください。どうか、私の咽をこの短剣で刺しつらぬいて。殺してください」  ヘレナは、青ざめた表情で、じっとみつめた。  ぼくは、すべてが分からなかった。洞窟の天井にうがたれた小さい穴から、光がさしこんでいた。アントニウスは、ここで戦い、最後のときをむかえていた。彼の死は、光の王国への旅立ちなのだ。この日のために、アントニウスは、一五年以上、孤独な洞窟ですごしてきたのだ。約束を違えることは、できなかった。  ヘレナは、そんなぼくを嘆き、涙していた。 気がつくと、朝がきて、彼女はいなかった。幻だったのかも、分からなかった。  アントニウスの洞窟にいってみると、彼は息をひきとっていた。ぼくは、遺言にしたがい死の谷に運び、裸にして地にさらした。ナイフで男根を切りとり、それをもって沙漠をわたり王国にもどった。  王宮では、ぼくがいなくなって王女とヘレナが嘆き悲しんでいた。姿をみとめるとふたりはそばにきて、どこにいっていたのかと聞いた。男根をみせ、「これをつけてもらいたい」とつげると、「どうやって手に入れたのか」とヘレナはたずねた。  ぼくが死の谷の話をすると、彼女は涙をながしていった。 「これは、世界でいちばんの勇者の男根です。あなたに相応しいものです。なぜなら、アントニウスは、父だったのです。私を育てながら、日増しに自分の理想の女になる娘におどろき、欲望をすてるために飢え死にしようとしました。父は、意志によって一切の食物を断ったのです。私は、思い悩みました。死ねば、助けることができるのだろうと考えました。私が死を決意したとき、父は自分の試練を生きるべきだといったのです。それで、丸斗のいう通り穢れたのです。そうすれば魅力はなくなり、ふたりとも生きられると考えたのです。でも汚れた私は、さらに魅惑を増しただけだったのです。それで父は、すべての財産を貧しい者たちにあたえて死の谷にいき、ひとりで欲望と戦ったのです。私は愛されていながら、なにもしてあげられず、苦悩をみることしかできなかったのです」  そういって彼女は、さまざまの出来事を思いだし一頻り泣いた。 「ぼくは、あなたのほんとうの名前がヘレナだと聞きました。そしてマリアとは、王女の名であるとうかがいました。それが正しいのですか」とぼくはたずねた。  その言葉を聞くと、「あなたに、ときがやってきました」とマリアはいった。  濃紺の服の王女は、ぼくにアントニウスの男根を縫いつけた。きていた衣服をぬがせると、全身に美しい香油を丹念に塗った。塗油されたものは、壮麗な神の衣装となり、芳しい匂いとともに日の光のように輝いていた。彼女は、ぼくに白い寛衣をきせると、王宮のとなりにたてられた石づくりの荘厳な神殿につれていった。そこは野外で、空には満天の銀河と、さえざえと輝く青白い月がみえた。神殿のまえには一メートルくらい高くなった祭壇があり、左右には巨大な篝火がさかんに焚かれていた。  緋色の服に赤縞瑪瑙の首飾りをさげた王女は、壇のうえにぼくたちを呼んだ。  鮮やかな緑の衣装をきたヘレナは、両の手首と足首にそれぞれ二つ、計八つの黄金の輪をつけ、両耳には三日月の形をした大きな緑色のイヤリングを垂らしていた。ぼくには、エメラルドに思えた。王女が、まとめあげられていたヘレナの髪をおろすと、それは腰までとどいた。そして、ぼくをじっとみつめて、 「今日、選ばれているのは、あなたです」といった。 「いま誠一さんは、私たちが二つに分かれているのを知ったのです。あなたは、どんな男の所有にもならない、永遠の処女であるヘレナと結婚しなければならないでしょう。彼女は、蔑まれる者にして、崇められるもの。娼婦にして、穢れることを忘れた聖なる人。妻である処女。母にして娘。把持できない沈黙のなかで、不断にわきでてくる考え。多重のひびきを打ち鳴らし、多様な装いをもつ言葉。そして、すべての争いと不幸をもたらす種であり、心をよわせ、至福へとさそう女神でもある。あなたが目的の地に辿りつくためには、彼女の身体を通りぬけねばなりません。ヘレナのなかに入らずして、人は何ものもうることができないのです。ときがきたのです。彼女に、最後の力をあたえてもらいなさい」といった。  それから王女は、ぼくをうながして祭壇をおり、いちばんまえにおかれた大きな椅子に、ふたりで腰をおろした。  銅鑼がなった。世界の果てまでひびきわたる巨大な音響が、あたり一面を覆いつくした。つよい麝香の匂いが、色濃く漂いはじめた。祭壇の両脇におかれた大きな篝火が、赤くゆらゆらと揺れていた。周囲に民衆がでてきて、息づかいが聞こえた。そこにもう一度、銅鑼の音がひびいた。あたりが異様な静寂につつまれると、太鼓がどんどんと鳴りだした。そのリズムを笛の音が追うと、ヘレナは踊りはじめた。彼女がゆっくりと手足をうごかすと、足首と手首につけられた黄金の輪がこすれてぶつかりあう、かすかな音響が聞こえてきた。しだいに笛と太鼓の音が激しくなると、ヘレナは妖しいほどに首と腰を振り、回転をはじめた。麝香の匂いがいっそうつよく変わり、力づよいドラムの音色に篝火は赤く揺れだした。まわりにつどう王国の人びとが聖なる愛の賛歌を歌いはじめると、うごきは一段と熾烈になり、やがて彼女は緑の上衣をぬぎすてた。ヘレナは、いまやうすいヴェールだけで覆われていた。その布は汗で肌に密着し、彼女の美しい肢体の輪郭がいっそう露わになった。異様な雰囲気のなかでくりひろげられる妖艶な踊りはつづき、ぼくはエロチックな興奮につつまれた。ヘレナの舞踏を凝視していると、尾骨に不思議な蛇がうまれた。それは、力づよく、ゆるゆると臍から腹、胸、首をつたって額へとのぼっていった。一段と、笛と太鼓の音が強烈になった。周囲の人びとの唱和する声も大きくなった。笛と太鼓の音、合唱の声音、麝香の匂い、赤く揺れる篝火。すべてが、その場に充満し、そこは、生命が躍動する坩堝に変わった。あらゆるものが変化し、世界がべつものに変容した。最高潮に達すると、彼女はうすいヴェールもぬぎすて、踊り狂って素肌になり、ながい髪を振り乱し、恍惚として回転をつづけた。興奮をうちやぶる銅鑼が音が、とつぜんあたり一面にひびいた。その瞬間、ぼくの蛇は頭頂からぬけでると、天にむかってのぼっていった。ヘレナは、祭壇のうえで倒れた。  音楽がやみ、人びとが去っていき、太鼓が片づけられた。しばらくして周囲が静けさをとりもどすと、王女はぼくをうながして祭壇にのぼり、神殿のまえで従者から手渡された衣服をあたえた。それは、ダイヤモンドが留め金になり、すべての縫い目が編まれた、光り輝く上衣だった。外套に袖を通したとき、緑色のヴェールを身にまとい、股に野生のタイムをすりつけたヘレナがふたたびあらわれた。王女は、ぼくの頭に油をそそいだ。そして、ぼくらの頭上に、ミルテの花冠をかぶせた。  ぼくは、王女から手渡された、すき通った緑のエメラルドのネックレスをヘレナの首にかけた。それをみて、マリアはふたりを祝福した。ぼくらは、みつめあったあとで激しい口づけをかわした。ヘレナは、苦しいと思えるほどつよくだきしめ、やがて胸に顔を埋めて泣きくずれた。  ぼくは、その姿をみて困惑した。まったく理解ができなかった。この場面で、なぜヘレナは泣きくずれるのだろう。ぼくは、いま自分が戦わねばならないと知り、勝利するために彼女の門をくぐりぬけたのだった。すべての準備がととのい、悠真に勝つことができるはずだった。それなのにヘレナは、なぜ泣きすがるのだろうか。  ぼくは、もう一度、悠真と戦わねばならないと考えた。最後の戦いを、しなければならないと真剣に思った。いまはもう、親衛隊などどうでもよかった。ポニーも羚羊も貂も、歩兵も騎兵もいらなかった。額に「勝利」と朱書きした鉢巻きをつけ、悠真に一騎打ちを申しこみ、荒野で戦いをくりひろげた。  しかし木村悠真は飛んでもなくつよく、ぼくはまた負けたのだった。  悠真は、いった。 「もう何度やっても、おなじことだ。ただ、くりかえしているだけだ。おまえは、無痛症でマゾヒストだ。痛めつけても、喜ぶだけの変態だ。おまえには、ただただ反省し、後悔しつづけるだけの刑をあたえてやろう。この刑罰は、日が暮れても終わることはない」  悠真は、そういうと大きな十字架を背負わせた。ぼくは、町の裏にある小高くなったジッグラトまで、重い磔柱を背に乗せて運んだ。休むと、無慈悲な刑吏が鞭をふるった。汗がながれ、脚は重く棒状になり、荷の重さに、ぼくは地にはいつくばった。そのとき懐かしい、くりかえし嗅いだことのある芳しい匂いがした。それが、若葉にもえる新緑の香りだと気がついた。ひとりの女性が歩みより、一枚の亜麻布をさしだした。すぐに刑吏が、女をひきはなした。ぼくには、女性の緑の着衣しかみることはできなかった。その布に顔を押しあて、埃と血と汗をぬぐった。みると布地には、ぼくの容貌が血液と汗水によって映しだされていた。それは、悠真にそっくりだった。 「これが、おれの顔なのか。どうして、なのだろう。なぜ、おれが悠真とおなじ顔かたちをしているのだ」とぼくは思った。  ジッグラトのうえにのぼると、刑吏たちは、両の手のひらに一本ずつ、両足を重ねて甲に一本の釘を打ち、十字架を立てた。その下で、彼らはぼくの上衣をうばいあった。  奴隷にたいする罰だった十字架刑は、もっとも残酷な刑のひとつだった。致命的にはならない不安定な苦しい体勢がながくつづくだけで、死は容易におとずれなかった。ぼくは、自分の重みに耐えかねていた。小雨が、静かにふりつづいていた。ぼくがつりさげられた十字架の下で、王女とヘレナは泣きながら雨に打たれていた。  十字架刑は、日が暮れてもつづいた。夜になっても、雨はしとしととふりつづいていた。ふたりの女のさめざめと泣く声が聞こえるなかで、ぼくは真っ暗な天にむかい、大きな呼び声をあげた。 「父よ。偉大なる神よ。あなたは、みすてたのか。ぼくは、自分を殺してしまったのだ。だれも、助けてはくれないのか。ぼくは、奴隷だったのか」  天からは、ただ雨がしとしととふりつづいていた。  なにも、分からなかった。何ひとつ、変わらなかった。  気がつくと、ぼくは巨大な建物のなかに立っていた。目のまえに内陣があり、左右には翼廊がひろがっていた。ぼくは、ヘレナと逃れた沙漠にすてられたラテン十字の大聖堂にいた。翼廊と交差する巨大な身廊には、円形の闘技場がつくられていた。周囲は、二階にいたるまで観客で埋めつくされていた。すっかり痩せこけ、上半身が裸のぼくは、短剣をにぎっていた。左右には、長槍を手にした丸斗と晴斗がいた。中央には、鎧をまとった悠真が、ながい剣をもって立っていた。  とつぜん、銅鑼の音が周囲に鳴りひびいた。 「この大観衆のまえで、おまえは膾に切り刻まれるのだ。今度こそ、二度とよみがえることはない」と悠真がいった。  大聖堂のなかにひしめく観衆がどよめいた。  悠真は、一メートル以上もある長剣で戦闘姿勢をとった。丸斗と晴斗は長槍をかまえ、ぼくの左右に分かれた。 「おまえの心臓を一突きにし、とりだして焼いてやる。二度と、復活できないように」  悠真は、そういって間合いをつめはじめた。  ぼくは、右手ににぎった短剣をもちあげた。剣のながさは、二〇センチしかなかった。  そのとき、銅鑼の音がひびいた。  それを聞くと、悠真は、剣先をぼくの心臓に目がけて駆けよってきた。丸斗と晴斗は、左右の逃げ道をふさいだ。  ぼくは、覚悟した。どんなことをしてでも、悠真だけは殺そうと思った。剣はみじかく、自分が助かるのは無理だった。闘技場はかぎられ、逃げ場はなかった。最善の方法がなんなのか分からなかったが、命とひき換えに悠真の心臓をつこうと思った。それが、ぼくにできるすべてだった。刺し違えることは、もっと条件がよかったときには思いもつかなかった。譲歩してきた結果、いまは土壇場にまで追いつめられていた。ぼくは、悠真の剣先が左の胸に触れ、内部に侵入してくる痛みを感じた。その剣をうけて、総毛立つなかで前進し、彼の左胸部を目がけて両手を伸ばした。そして、短剣をつき立てた。ぼくの心臓は一突きにされ、背中から血に染まった剣先が飛びでてきた。しかし短剣も、悠真の胸を正確につらぬいていた。ぼくらは立ったまま、たがいに心臓を刺しあっていた。  悠真の胸からは、夥しい鮮血が噴出していた。   ぼくにとって無限時間といってもいい、時間そのものが成立していない、ながいときがながれていった。すべての光をうしなった暗黒の領域で、うごきがとれない不自然で窮屈な姿勢をとりつづける命は、消えかかっていた。思いだせば、それなりに暖かい無の世界があったはずだった。楽園をとつぜん放逐され、ながい旅をしいられた。そしていまは、死の淵をさまよっていた。苦痛、冷酷、恐怖。しかし、そのなかで光をみつけることは、すべての人びとが経験していた。それは、何十万世代をかけて、ぼくたちの胸にしっかりと刻まれていた。ぼくは、自分の身体の一部に輝くものをみつけた。そのとき、内部で不思議な力がわきあがった。それはひとつの歓喜で、心が震えるものだった。その光は、いままで忘れていたすべてを思いださせた。自分のなかに閉じこめられていた真実だった。人類がうまれてからの二〇〇万年でもなく、生命が息づいてからの三〇億年でもなかった。インフレーションを起こし、大宇宙が生成されて今日にいたる一四〇億年という信じがたい時間をかけ、ようやく成立した一個の存在のことだった。ぼくは、さらに短剣を深く食いこませ、力一杯右にねじった。  雷鳴がとどろき、聖堂の屋根が吹き飛んだ。真っ暗な空に稲妻がかけめぐり、雨が激しくふり、やがて雹に変わって地にふりそそいでいた。  悠真の身体が、ゆっくりと崩れていった。ぼくらは、たがいにみつめあった。悠真は、ととのった顔立ちをしていた。最後に、彼は小さく微笑んだ。そしてそのまま、ぼくの身体のなかに吸いこまれていった。悠真がもっていた長剣が石の床にぶつかる、高い金属音がひびきわたった。ぼくを殺すことは、だれにもできないのだと分かった。身体からは、一滴の血もながれていなかった。 「悠真とは、サタンとは、ぼくの一部分だったのだ。すべてが、はじめからそうだった。ほんとうに自分を傷つけることなど、だれにもできない。それを、知らねばならなかったのだ」  ぼくは、歓喜とともに天にむかって雄叫びをあげた。  周囲にひしめく観客は、天空をあおいで立つ姿を無言でみつめていた。  ぼくは、雨がすっかりあがった満天の銀河をみた。そこにむかって絶叫した。 「悠真とは、ぼくがつくりあげたものだった。自分を懐疑し、ヘレナを、マリアを疑った。自己をみつけるという試練を、己に課したのだ。この世界で生きているのは、ぼくだったのだ」  そのとき、雲間から数十の強烈な光束がレーザー光線になって地上にさしこんだ。天空は、煌めきに満たされ、光り輝いていた。 丸斗と晴斗が、槍を放りだした。そして、ぼくのまえにすすみでた。彼らは聖堂の床にひれ伏し、神を讃えるといった。この際限のない苦しみからの解放を、ふたりは願いでた。 「主の剣によって、首を跳ねてもらいたい」と丸斗と晴斗は唱和した。 「望みを叶えよう」  ぼくは、そう答えてふたりの首を跳ねた。  大聖堂を埋めつくす観客たちは、おどろきの声を発し、やがて万雷の拍手喝采がひびきわたった。ぼくは、顔をあげ、周囲をぼんやりと眺めた。もっていた剣をすて円形闘技場をでると、その刹那、あたりは静寂が支配した。みまわすと闘技場は消え、観客もすべていなくなっていた。  ぼくは、静謐とした巨大な身廊にひとりで立っていた。ちかくに、マントと靴がおかれているのに気がついた。いま起こったすべてが幻想で、これらを身につけ、四〇キロの沙漠をひとりで歩いて辿りつかねばならない現実を知った。そこには、ぼくの王国があり、ヘレナとマリアが待っていた。自分が死ぬことは、決してない。どんなに苦しくても、なにがあっても涸れ谷を自力でぬけなければならない。  ぼくは、渇き切った沙漠を思い浮かべ、ロバもなくわたっていく現実を考えた。この大聖堂で暮らすなら、ここには井戸と食料があるのだ。身の安全は、保障されていた。しかし、ここには、ぼくを待っている者はいない。堕天使たちのために、神が創造した監獄だったのだから。どんな誘惑があっても、ここにいていはいけないと思った。  ぼくは、真っすぐで途方もなくながい身廊の扉口まで歩いた。容易に死ぬことすらできない、激しい苦しみだけが存在する場所に、さらにすすまねばならないと覚悟した。つかんだ取っ手をゆっくりと押し、目をつむったまま外にでた。扉のほうにむきなおって、大きな扉口を自分の手でしっかりとしめた。そして、灼熱と極寒の渇き切った世界に追いやられたと思い、これからすすむべき死地を振りかえった。  おどろいたことには、そこは沙漠ではなく大きな部屋だった。壁の一面には巨大な姿見があり、そのなかにぼくがいた。鏡に映った身体には、無数の傷痕がつけられていた。しかし瞳はすみ切り、凜々しい表情でみつめかえしていた。鏡のなかの織田誠一は、ぼくがくるのを、あきらかに待っていた。  周囲をみまわすと、そこは豪華な調度品がおかれた王の間だった。足もとには厚い緋色の絨毯がしかれ、壁には贅沢な緑色の織物がかかっていた。高い薔薇窓を通して西日がさしこみ、赤い段通のうえに天上の薔薇園を映しだしていた。そこは、罪人を処刑する沙漠ではなかった。ぼくのまえには、剣がおかれていた。それは、死刑執行人のものではなかった。乳白色をした絹のクッションのうえに、金の鞘に入った大きな国剣がおかれていた。となりのソファーには、いくつもの翡翠が象眼された黄金製の王冠と、赤瑪瑙が嵌めこまれた黄金の王錫が乗っていた。よくみると、いたるところに王の印が準備されていた。  ぼくは、自分が王座をつぐべく選ばれていることを知った。つぎつぎに、王の衣装を手にとった。それはダイヤモンドが留め金になり、すべての縫い目が編まれた光り輝く上衣だった。ぼくは、それに袖を通し、となりにおかれた深紅のトーガを羽織った。姿見をみると、背丈はぴったりとあっていた。鏡のなかの織田誠一は、力づよくうなずいた。いま、ほんとうの自分と出会ったことを、はっきりと知った。ぼくは、大きい国に住んでいたのだった。いま、深い眠りからはっきりと覚醒したのだった。  ぼくは、重い刀をとりあげ腰にさした。重たい王冠を頭に乗せ、重量を感じる王錫をとり、たったいま死すべき者として通ってきた扉をあけた。王の衣装をつけ、国権の印で身をかざり、もう一度、内陣につづくひろい身廊の真んなかの通路を歩いていった。吹きぬけになった高い天井は交差リブヴォールトでつくられ、大聖堂は巨大な空間をたたえていた。しかし、そこはもうからっぽではなかった。側廊はもちろん翼廊にいたるまで、宰相や高級将校が大国の王に忠誠を誓うために起立して埋めつくしていた。  内陣までいくと、ひときわ高い正面に二つの玉座がおかれていた。右の座には、だれもすわっていなかった。左には、女王の玉座が設けられていた。その左右に、緑色のローブで正装したヘレナと青いマントを羽織ったマリアが、ぼくをみつめながら立っていた。ふたりと正面にむきあい、目があった。気がついたことが分かると、聡明で端整な顔立ちのマリアと、優美なプロポーションをもつヘレナが、そこでひとつに重なった。 「ふたりだけが、どんなときでも変わらず、ぼくを愛してくれた。そうだ、おまえたちは、マリアでもヘレナでもない。おまえこそが、むすばれるべき妹、ソフィアだったのだ」  ぼくは、両手を天にむかってさしのべた。  天空をあおぎみて、もう一度、絶叫した。 「この領域は、あなたのものだった。ここにあるすべてが、そうだったのだ。ソフィア。あなたは、そのことを知っていた。すべての鍵をもつ偉大なる妹、ソフィアよ。あなたは、ぼくの一部だった。悠真も、父も、おなじだった。ソフィアよ。ここは、ぼくの次元で、あなたも、ずっとそこにいた。ぼくらは、おなじものだった。すべては、はじめからひとつだったのだ」  緋色の服をきた、偉大なる妹。ソフィアは、女王の玉座に腰をおろした。彼女の胸には、大粒の真珠の首飾りがつるされ、銀色に光り輝いているのがみえた。  ぼくは、王の就位を待ちわびる民衆のまえに姿をあらわし、歓声に応えるために宮殿をあとにした。              ソフィアに会った日、了、(二一四枚)  参考文献  一、子どもの夢2、ユングコレクション9、ユング著。氏原寛監修、人文書院。 二、グノーシスの宗教、ハンス・ヨナス著。秋山さと子、入江良平訳、人文書院。 三、トマスによる福音書、荒井献著。講談社学芸文庫。 四、新約聖書外典、荒井献編。講談社学術文庫。