アリアドネ 由布木 秀 夜の航海 一八の私は、やさしい父と母にさからって、なにも知らない北国にきた。若い自分ができるすべてをした。傷ついて、あらゆるリビドーをうしなって、二〇歳のときには、だれからもみすてられたいとだけ思って、海辺の小さな村に隠れ住んだ。毎晩、ひとり闇のなかにいて自分の罪をなげき、おろかな青春に涙して、うまれてきたことを呪っていた。 あなたにはじめて出会ったのは、一六のとき、 お茶の水駅の裏通りで、貴女をみつけた。 週に一度かよっていた、アテネフランセからの帰り道。 くりかえし裏にまわって、あなたをみた。 胸は、ときめいていたけれど、 かける言葉を、知らなかった。 それから、月日がながれて、 思いもよらず、あなたをみたのは、 札幌の丸善、一八のとき。 鼓動の音が高まって、思い切って貴女をもとめ、 そのあと、二回、ひっこしをしたね。 海辺の、辺鄙な漁村に住んだときには、 ふたりのあいだを邪魔する者は、もうだれもいなかった。 函館本線の、ひなびた駅まえの小さなアパート。 あのとき、ぼくらに、 どういう未来が、あったのだろうか。 すんだ夜空に、銀河が横たわっていた。ながれ星のふる二三夜の月待ちの日、緩やかに吹く海風にのって貴女はやってきた。編みこんだ黒くてながい髪に、碧色の瞳のやさしい目、高い鼻が素敵なあなたは、「海をわたろう」と甘く囁いた。 「あの大海のむこうには、世界がある。あなたが貴方で、わたしが私の。船がきている、いっしょにいこう」と。 夜更けの浜辺には、渡し守がいて、月に照らされた沖には大きな帆船がみえる。小舟にのってちかづくと、これこそ世界をかけめぐる船。たくましい竜骨の舳先を飾るアテネの顔は、月光に輝いている。のりこむと、私は天にむかって絶叫した。 「目指すは、われらが大地。私とおまえの、喜びと、血と涙がこぼれ落ちる。われらが世界」 一、前史 アッティカ王アイゲウスはふたりの妻をめとったが、子宝にめぐまれなかった。息子ができたら王妃にむかえたいと思って一〇人以上の女性と交わったが、希望はかなわなかった。すでに二〇人以上の子供をもつ義弟のパラスが、子種がない彼は王位に相応しくないと吹聴するのを聞いた。身体に不具合があれば、弟への譲位も考えねばならなかった。執事のガイアスに相談すると、デルポイで神託をえたらどうかとすすめられた。彼は、さっそく旅にでた。 アイゲウスは、デルポイのアポロン神殿にいき神託をもとめた。 巫女のピュティアが、神の意志を言葉にしてつたえた。 人びとのなかの、もっとも偉大なる勇者、 子供をさずかりたいのなら、 アテナイに到着するまで、 革袋についた足を解きはなってはいけない。 「なんだって、それで終わりなのか」 アイゲウスが不審な表情で聞きなおすと、神官は、「神は、おなじ問いに二度答えることはない。神託をえたのだから、いつまでも神殿にとどまってはならない」と帰国をうながした。 アイゲウスはアテナイへの帰り道、託宣について考えつづけた。全体としては充分に理解できなかったが、神が彼を偉大な勇者としてみとめてくれたのは嬉しいことだった。メガラまで帰ってきたとき、だれかに自慢したい気持ちになって、しばらく会っていない、知恵者として名高い叔父のピッテウスを訪問してみようと考えた。方向を変えて、サロニカ湾とコリントス湾にはさまれた幅六キロのコリントス地峡をわたった。 たずねたアルゴリス地方のトロイゼン王ピッテウスは、彼をつよく抱擁し、「どういう風の吹きまわしだ」と聞いた。神託の件をつたえると、叔父は考えぶかげに「そうか」とうなずいた。それから「折角ここまできたのだから、しばらく逗留していけ」といって、領有するスファイリア島、東端の海岸ぞいの丘陵にある別荘へアイゲウスを招待した。 雲ひとつない六月のよく晴れた日で、サロニカ湾をかこむ陸地がはっきりと確認できた。ペロポネソス半島は、北にみえるイストモスともよばれるコリントス地峡で、バルカン半島南端部とむすばれ、アイゲウスがおさめる平坦なアッティカ半島につらなっていた。領土は、スニオンの岬で終わり、そこから先は無数ともいえるキクラデス諸島の島影が途切れずにつづいていた。識別可能な島のひとつひとつの固有名詞を、彼はすべていうことができた。碧いエーゲ海は、南東にむかって果てしもなくひろがり、緩やかな波音をくりかえしていた。 夕方から食事をはじめたふたりは、葡萄酒を飲んで昔話に花をさかせた。アイゲウスは、真っ赤な夕陽がアルゴリスの大地にしずむ様子に感動した。あたりがすっかり暗くなると、ピッテウスは彼がえた神託の文言を一字一句つぶさに確認して、「この件は、じっくり考えてみるから明日に話そう。おまえには自慢の部屋を提供するから、今晩はよく休んで旅の疲れを取ったらいい」といって、二階につれていった。 案内されたのは、エーゲ海が一望できるひろい一室で、キングサイズのベッドがおかれていた。大きく切られた窓のちかくに、二脚の椅子とまるいテーブルがあり、よく晴れた日で、輝く満天の銀河と闇のなかで月あかりに光る海がみえた。すがすがしい穏やかな夜風が吹き、しずかな波音につつまれていい気持ちで酒を飲んでいると扉がひらいて、年のころなら一八歳ほどの娘が入ってきた。妖しいまでに美しい女は、「お酒を、飲みすぎてはいけません。私は、ポセイドンからつかわされたエーゲの妖精です。今晩は、あなたに素晴らしい喜びをとどけにきました」といって彼を床にさそった。 アイゲウスは、かつて味わったことのない夢幻の一夜をすごした。 翌朝、爽快に目覚めた彼は、遅い朝食を取った。テラスでお茶を飲んでいると、ピッテウスがきて「昨日の晩は、よく眠れたか」と聞いた。 「驚くべきことがあった。酒にしたたか酔っていたので夢かとも思うが、美しい海の妖精がやってきたのだ」 「それならば、きっとポセイドンの娘だろう。この島は、海神ポセイドンにささげられている」 その言葉に、アイゲウスが大きくうなずくと、ピッテウスは、なごやかに微笑んで、大きな柏手を二度うった。 すると、着飾った美しい娘がしずしずとでてきた。 「王よ。この女性こそ、昨晩の妖精」 「そうだ。これは、ポセイドンの娘。そして私の愛嬢。アイトラを、ご紹介しよう」 ピッテウスは大きく笑ってから、「あとは、ふたりで話したらいい」と立ちあがった。 叔父がいなくなると、娘はいった。 「昨日の夜、私は小舟にのって、波に揺られながら子供をさずかったように思います」 「そうだったのか」 アイゲウスは、神託の意味を理解した。彼は、アイトラを大きな石のあるところにつれていき、「息子がうまれて、これを、もちあげられるほどに成長したら、剣とサンダルをもたせて、アテナイにおくってくれ。それをみたら私は実子としてみとめ、アッティカ王位の後継者としよう」といった。 アイゲウスは石をもちあげ、下の窪んだところに象牙の柄に黄金で紋章が象眼された剣とサンダルを残しておきなおした。数日して彼は、トロイゼンを去った。 ピッテウスは、アイゲウスが神託についてなにも理解していないのを残念に思った。彼は、たしかにアッティカの王ではあるが、「人びとのなかの、もっとも偉大な勇者」では決してない。 修飾語は子供にかかり、「うまれる子が、ギリシアの歴史に残る英雄になるという神託なのだ」とピッテウスは確信した。娘の腹が大きくなると、「乳児の父親は、ポセイドンだ」と周囲に吹聴してまわり、孫をテセウスと名づけた。その名は、認知したという意味だった。 テセウスが一七歳になると、アイトラはスファイリア島の別荘につれていき、大きな石をさして、「これを、もちあげてみなさい」といった。彼が言葉にしたがって右肩を下に入れて両手でひきあげると、大石は難なくもちあがった。窪みにあった剣とサンダルを取りだして石をもどさせ、アイトラは、「おまえは、アッティカ王の息子です。この刀剣をもって、アイゲウスに会いにいきなさい。おまえは、王の後継者になるのです」といった。 トロイゼンは、アテナイ近郊の港町、ファレロンとサロニカ湾をはさんで対岸に位置していた。アルゴリス地方のコリントス地峡からメガラをぬけてアッティカのアテナイにいく二〇〇キロの街道には、名だたる盗賊が跳梁跋扈していた。アイトラは海路をすすめたが、豪勇ヘラクレスの話を聞いていたテセウスは、陸路で自分自身を試したいと思った。ピッテウスも船旅を執拗に進言したが、彼の決心は揺るがなかった。 コリントス地峡にむかう海岸線の都市、エピダウロスのちかくまでテセウスがやってきたとき、ながい青銅製の棒をふるって旅人をなぐり殺す、棒男と綽名されたヘパイストスの息子ペリペテスに出会った。格闘技の得意だった彼は、棍棒を取りあげ撲殺した。その後は青銅の棒をもちつづけたので、それがテセウスの象徴になった。 コリントス地峡で、松曲げ男と綽名されたシニスによびとめられた。彼は、力自慢の無法者で、となりあう二本の松を怪力で曲げ、通りすがる旅人の左右の脚を、べつべつの木に逆さづりにしばりつけて手をはなし、はねかえる勢いで股をひき裂いていた。テセウスは、この極刑の方法を真似、捕らえたシニスをひん曲げた木々の反動をつかって股割りの刑で殺した。それから、野生のアスパラガス畑に隠れていた彼の美しい娘ペリグネをみつけて犯した。 クロムミュオンでは、パイア、灰色の雌猪とよばれる年老いた女山賊があらしまわって、旅人をこまらせていた。テセウスは、難なくこの女を片づけた。 メガラに入ると山が迫り、サロニカ湾をみおろす高い崖にそったほそい道を通らねばならなかった。そこにスキロンという名の悪党がいて、旅人たちの持ち物を盗むと、道ばたの石に傲然と腰をおろし、「かえして欲しければ、足をあらえ」といって無造作に下肢を投げだした。旅人が足元にかがみこむのを待って、崖からけり落とし、湾にすむ大亀の餌食にしていた。 テセウスは、いうままになって腰をかがめ、足をあらうためにおかれた鉢を取ると、スキロンの頭部をめがけて投げつけた。食器にあたった男がよろめくと、その脚をつかんで崖から落とし、大亀の餌食にした。 アテナイのちかくの都市エレウシスは独立していた。ケルキュオン王は、負けたほうが死ぬという条件で、旅人に格闘を強要していた。テセウスは王をやぶって殺し、エレウシスの王位をうばった。彼はケルキュオンの孫、ヒッポトオンを統治者としておいた。 エレウシスからアテナイまでは、「聖なる道」がつくられていた。その道ぞいのアイガレオス山にちかいエリネオスで、テセウスはたたき伸ばす者、プロクルステスにひきとめられた。 この男は、旅人を自分の宿に泊め、背が低い人はながいベッドに、高ければ短い寝床にねかせた。そのあとにしばりつけ、寝台のながさにあわせて、彼らの身体を伸ばしたり、端を切ったりしていた。テセウスは、背の高かったプロクルステスを、短いベッドにしばると首を切り落とした。 アッティカ地方の北部には、パルネス山を水源とし、サロニカ湾に注ぐケフィソス川がながれていた。聖なる道が川を横切るところで、豊穣の大女神デメテルを歓待して家にむかえ、返礼に女神からイチジクの苗木をさずけられたことで有名なフェタロスの男たちと出会って、旅にでて以来はじめて歓迎をうけた。 フェタロス家の屋敷の内庭には、デメテルとその娘神の聖所あり、アテネとポセイドンも合祀されていた。テセウスが、旅の道中で起こした殺人の穢れを祓ってもらいたいと頼むと、男たちは慣習にしたがって清め、なだめの犠牲を神々にささげて家のなかで饗応した。それまでの旅路では、彼はこうした親切な人に一度も出会えなかった。 アイゲウス王が居住するアテナイは、アッティカ地方の中心だったが特別に大きな都市ではなかった。最初にこの街がつくられたとき、女神アテネと海神ポセイドンが、だいいちに祭られる神の座をあらそった。アテネは市民にオリーブの樹をあたえ、ポセイドンはアクロポリスが立てられる岩に三叉の矛をうちつけて馬と泉を出現させた。最初、人びとは湧泉を喜んだが、わきでるのが塩水だと知って、女神がえらばれ、街はアテナイと名づけられた。この決定にポセイドンは怒って、アッティカ全土を海水でひたした。人びとは、海神を第二の神として祭ったので洪水はおさまった。 テセウスが、七月のはじめにアテナイについたときには、彼はすっかり有名で、市民から熱烈な歓迎をうけた。 アイゲウスの身辺は、混乱していた。義弟のパラスが、後継者のいない彼に譲位を迫っていた。六〇歳ちかくの老王は、コリントスから逃げてきたメディアと暮らしていた。彼女が、「薬草をつかって子をさずかることができる」といって妻になり、息子メドスをうんだのだが、ほんとうに自分の子供なのか、確信がもてなかった。 魔術にたけたメディアは、不幸な過去をもっていた。もともとはコルキス王の娘だったが、金の羊毛を取りにきたイアソンに恋して親を裏切り、逃走の際には実弟を八つ裂きにして父の追跡を振り切った。イオルコスでは彼のために義理の叔父を殺し、親族殺しの罪で追放された。メディアは、イアソンとのあいだに、ふたりの子供をもうけた。逃げてきたコリントスで、彼が自分と離婚し、王に取り入り、再婚を画策しているのを知った。そこで王女を殺し、自分たちの子供を料理してイアソンに食べさせた。 海岸づたいに跋扈していた悪人を退治し、アテナイへの道を整備したテセウスは、アイゲウスに謁見した。王は彼が自分の息子だと分からなかったが、メディアはすぐに理解した。彼女は、当時アッティカの東海岸につらなるひろいマラトン平野をあらしまわる雄牛退治を、テセウスに命じるようアイゲウスにすすめた。この巨大な雄牛は、マラトンの狂牛とよばれていた。もともとは、クレタ島のミノス王がポセイドンからさずかったものだった。 兄弟三人で王位をあらそったミノスは、正当な継承権を主張するために、神から資格をみとめられねばならなかった。彼は、御心が自分にあるとつよくいい張り、証拠の品をあたえることを祈願した。ポセイドンは、海中から類い希なる素晴らしい雄牛をおくってくれたので決着がついた。しかし、それがあまりにも立派だったので、ミノスは惜しんでべつの牛を犠牲にした。怒ったポセイドンは、王の妻パシパエをこの雄牛に欲情をもつよう仕向けたといわれていた。たいへんな猛牛でクレタ中をあらしまわり、ミノスはこまり果てていた。この雄牛をクレタからギリシアにつれてくるのがヘラクレスの第七の難行で、彼は牛を主人のミュケナイ王、エウリュステウスにみせてから解きはなした。その後、猛牛はコリントス地峡をわたってアッティカ地方をさまよい、東海岸では深刻な被害がでていた。 テセウスがマラトンにやってくると、村の人びとは彼があまりにも若いのをみて失望した。狂牛は気性があらく巨大な角をもち、数多くの勇者が退治を試みたが、いずれも失敗して殺されていた。 マラトンには、ヘカレという生き神が住んでいた。五〇歳をすぎた老女で、村の三叉路に一匹の犬とともに暮らしていた。彼女は、ひどく貧しく、食卓を豪華な食材では飾れなかったが、糸杉の篝火を焚いてテセウスを厚くもてなしていった。 「今日は、どんなに空をみまわしても、どこにも月をみつけられない、雲ひとつなく晴れた新月の夜です。私は、あなたをもてなすつもりで、ずっと今晩を待っていたのです。アテナイ、デルフィニオンのアポロン神殿に、予言の能力をもった巫女がいます。彼女が、私に教えてくれたのです。アルゴリスのヘラクレスがつれてきた雄牛を、めしとることができれば、あなたはアッティカのテセウスになれるそうです。私も、この犬とともに加勢を致します。あなたに、命を献上しましょう」 ヘカレは、前途を祝福し、無事にもどったら感謝の犠牲をささげると誓ってくれた。雄牛を生けどりにして帰ってくると、マラトンの人びとは熱狂的な賛辞とともにテセウスを英雄としてむかえた。彼がヘカレに報告にいくと、ちかくの人が彼女の墓をほっていた。女神は、テセウスが雄牛と格闘したとき、とつぜん飼い犬とともに亡くなったのだった。人びとから話を聞いた彼は、ヘカレと犬が身代わりになってくれたことを知った。礼をつくして墓と祭壇をつくり、弔った。女神の死をふかく悼んで、住んでいた場所をヘカレ区と名づけ、祭りを創設した。 それから彼は、雄牛をアテナイにつれていき、デルフィニオンのアポロン神殿に犠牲としてささげた。 アイゲウスの命令をテセウスが果たすと、メディアは、「あの若者は、パラスの息子たちと結託し、あなたを殺害しようとしている」といって、祝宴をひらいて杯にトリカブトの毒を入れて殺してしまおうと進言した。 周囲が敵だらけだと感じていた王は、彼女の上申を承認した。酒宴がひらかれて乾杯しようとしたとき、テセウスは象牙の柄にアイゲウスの紋章が金で象眼された剣を頭上に掲げた。王は、その見事な刀剣にみおぼえがあった。テセウスが杯に口をつけようとしたとき、アイゲウスはとつぜんすべてを思いだし、彼のもとに走りより毒杯を投げすてた。 「おまえは、アイトラの子。そしてわが息子、テセウス」 王は、いった。 「私は、ポセイドンとアイトラの子。そしてアイゲウス、あなたの息子。この国の後継者です」 テセウスが答えると、王は抱擁して慟哭した。メディアにむきなおり、「魔女め。おまえは、すべてを承知していたのだな。それで殺そうと考えて、テセウスに危険な狂牛退治をさせ、失敗したので、今度は毒をもろうと計画したのだな。命だけは助けてやる。いますぐこの国を立ち去れ」といった。 「アイゲウス王、そんなひどい話をしないでください。メドスは、私たちの子供ではありませんか。私がうんだ子は、間違いなくあなたの息子で、この国の後継者です。彼が実子だという証拠は、ひとつもないではありませんか」 「テセウスは、私がアイトラにあずけた剣をもち、サンダルをはいている。アルゴリス、アッティカにまたがる街道を人びとのために整備し、ヘラクレスしか鎮めることができなかったマラトンの狂牛を捕獲できる勇者、彼こそ実子に違いない。この難行を、テセウスは魔術ではなく己の力でなしとげたのだ。メディアよ。おまえは、感情のおもむくままに肉親を残酷に殺してきたのだ」 「王よ。私は、愛の女神アプロディテによっておくられた、イアソンへの狂おしい思いのために、いつくしんでくれた両親を裏切り、愛するすべての者をすてたのです。彼の背信を知って、女神は狂気をあたえたのです。アプロディテがおくった激情は、自分の意志よりも、ずっとつよかったのです。そのために、愛しいわが子までも手にかけてしまった私を、あわれんでください。悲しみに、どれほどうちひしがれているのか、とても言葉ではいいあらわせません。幾晩、眠れぬ夜をすごしたか。幾度、身を震わせて目覚めたか。いまは、あなたとのあいだにできたメドスだけが私の望みのすべてなのです。子供は、魔法によってえたのではありません。アイゲウス、あなたの血をしっかりとひきついでいるのです。ほんとうの息子メドスを、どうか愛してください。王と結婚して、私は魔術をすてたのです。それが、なにもうみださず不幸にしただけだったと、メドスをうんではじめて分かったのです。魔術を知らなかったなら、いまのこんなみじめな私はいなかったに違いありません。コルキスの王女として幸せに暮らしていたはずなのです」 「メディア、不幸な女よ。私は、ついにいちばん大切な者をえたのだ。テセウス。おまえこそ、待ち、さがしつづけたわが息子なのだ。今日は、人生でもっともめでたい日だ。血をみたくないと思っているいまのうちに、とっととうせるがよい」 「王よ。すべてであるアイゲウス王よ。私は、あなたを幸せにしたではないですか。望みをかなえ、息子をうみ、いっしょに問題を解決してきたではありませんか」 彼女は、涙をながして王の膝にすがりついた。 「はげしい愛憎に翻弄される、いまいましい魔女め。子供が、私の息子だと証明できないから、パラスも後継者とはみとめないのだ。おまえの過去の不実を埋めるものなど、この世にはないのだ。稀代なる魔女め。とっととうせるがいい」 アイゲウスは、テセウスのもっていた剣をつかんでメディアにむけた。彼女は、王の気持ちが変わらないのを知ると、最後にいった。 「アイゲウスよ。おまえは、アテナイに住むことを許したとき、生涯、私をこの地から追放しないと約束したのだ。その取り決めを反故にしたばあいには相応しい罰をうけると、ゼウスに誓ったのだ。よもや、忘れてはいないだろう。それが、おまえの望みならば、私は呪おう。ふたりに、ふたつの呪いをかけてやろう。ひとつは、おまえたちが、どんなにかけあがっても、最後はかならず落ちてしまうだろう。ふたつ目は、いちばん大切なものをいくら待っても、さがしても、決してえることができないだろう。おまえたちは、このふたつの呪いとともに、生きて死ぬのだ」 メディアは、いい残すとメドスをつれ、祖父である太陽神ヘリオスの翼をもつ竜がひく魔法の戦車にのって去っていった。 アイゲウスに成人した立派な息子がいると分かると、弟のパラスは自分には王権がまわってこないことを知った。義弟は、五〇人の子供と支持する人びとといっしょになって、力ずくで王とテセウスを殺し、王位を簒奪しようと考えた。ふたてに分かれて、パラスがひきいる半分の者はアテナイの街に公然と攻めこみ、残りの者たちガルゲットスに隠れて待ちぶせた。 義弟の一族のなかに事態を知らせる人がいて、テセウスは隠れ家を急襲し要撃する人びとを皆殺しにした。パラスにしたがった者たちは、ばらばらなり策略は水泡に帰した。 冬が終わって春がくるころ、アイゲウスのもっとも恐れていた事態が起こった。クレタ王ミノスが、大祭の貢ぎ物として、アテナイ市民の子弟から七人ずつの青年と乙女を要求してきたのだ。 二〇年ちかくまえのことだが、アイゲウスは、アッティカの祭典で行われた競技会で、ミノス王の三男アンドロゲオスとレスリングの試合をした。彼のタックルで、ひっくりかえったアンドロゲオスは頭からもんどりうって倒れ、うちどころが悪くてそのまま死んでしまった。試合をみていたクレタ人は、アイゲウスが目つぶしに砂を投げたとミノスにつたえた。 怒ったミノス王は、アッティカを攻撃し各地を蹂躙した。圧倒的につよいミノスの軍勢に降伏したアイゲウスは、講和のためにいくつかの条件を飲んだ。 九年ごとに行われるクレタ島の大祭に、アテナイに在住する市民の子女のなかから青年と乙女を七人ずつ、迷宮ラビリンスの守護神「ミノタウロス」の生き贄としてさしだす。アテナイ人が、自分たちの帆船で生き贄をクレタにおくる。船には、武器をもちこまない。という三つの約束だった。ただし生き贄のだれかが、もし怪物を退治して脱出の道をみいだすなら、犠牲は終了すると併記されていた。 約束がなされてから三度目の貢ぎ物をする年にあたり、該当する子息をもつ市民は、あつまって籤をひく取り決めになっていた。過去二回にわたって二八名もの若者がクレタの祭典のためにおくられたが、ひとりも帰ってこなかった。市民のだれもがミノタウロスの生き贄として殺されたと考えたから、志願する者はいなかった。対象とされたのは、アテナイ市民のうち未婚の一七歳と一八歳の子女で、公正をきすため事前に特別な台帳がつくられていた。選考には、ミノスの指示にしたがい市民であることが必須だったので、男親がいる家庭が基準となった。また、ひと家庭が負担するのはひとりまでで、過去に子女をおくったばあいは該当しなかった。 アンドロゲオスの死は、不運な事故だったがアイゲウスが直接関与したので、市民たちは口をそろえて彼にいった。 「王の息子も、ちょうどいい年齢で、基準に合致している。まず、テセウスを生き贄にだすべきだ」 その声は、大合唱になった。 アイゲウスは、それを必死で消そうとした。 「私には、息子はひとりだけなのだ。テセウスを生き贄にさしだしたら、世継ぎがいなくなってしまう」 市民は、全員で、「子供の価値には、王も住民も変わりがない」と主張した。 双方は、容易に納得せず対立したので、人選はちちとしてすすまなかった。事態を聞きつけたミノス王は、「アイゲウスの息子を、今度の生き贄にかならず入れろ」という命令をくだした。 ミノスの指示をうけたアイゲウス王は、やむをえずテセウスを今回の貢ぎ物のひとりにすると決めた。市民も納得し、籤びきのためにポリスの公共広場の西がわにある評議場に、該当する子女と男親が参集した。 五〇〇人以上もあつまることができる議場は、ほぼ正方形の建物の内がわ三面に階段状の議席が設置されていた。机のうえにふたつの木箱がおかれたいちばん低い場所に役人がいて、対象とされてつどった者は、男が九八名、女が四四名で、合計一四二名であるとつげた。形も大きさもそっくりな黒色と白色の小石が用意され、全員のまえで各箱に七つの黒石を入れてから定数になるまで白石をくわえた。まずアイゲウスが、男の箱のなかから黒をえらんで、みんなに示してテセウスの名をよび、彼は壇にあがった。 生死を決定する籤だったので、あらゆる不正は許されなかった。ひくのは男親で、順序は年長者が先で、おなじ年のうまれなら一ヵ月でも一日でも年うえの者からと決められていた。貢ぎ物の一四名が決まると、白石をつかんだ親子は評議場をでていき、外で待機していた母親が代わりに入ってきたので、壇上は愁嘆場に変わった。 アテナイ市民の団結の象徴だった神山アクロポリスは、海抜一五四メートルの石灰岩からできた岩山で、南がわは比較的なだらかだったが、東がわと北がわは断崖となって切り立ち、西斜面にはやや緩やかな登り口があった。北西に位置する広場中央からみると、約一〇〇メートルの標高差をもつので、アクロポリスは天にむかってそびえ立っていた。頂上には、王宮や守護神アテネの聖所などが設けられ、戦時には市民に取って最後の砦となった。アクロポリスの東南、イリソス川のほとり、デルフィニオンにはアポロン神殿がたてられていた。 テセウスは、貢ぎ物となる一四名の男女が決まると、全員をひきいて神殿にいき、嘆願者の印である神聖なオリーブの若枝に、白い羊毛を巻いた供物を献上した。彼が祈りをささげていると、年配の男の神官がそばにきて、「あなたに、お話があります」といった。 テセウスは、うながされて託宣所につながる奥の部屋に案内された。そこには、ながい黒髪を首の後ろで結び目をつくって垂らし、巫女の服をきたうら若い女がいた。彼女は、カサンドラと名のり来訪を歓迎した。 「あなたは、この神殿の巫女ですね」と彼は聞いた。 「そうです。テセウス、あなたが、母を弔ってくれた行為に感謝しています。ヘカレがこの世で暮らした記憶は、街や祭りの名前に変わって、人びとの心にながく残ることになりました」 「私は、マラトンでたいへん親切な女性に出会い、命をすくっていただきました。身代わりになって死んだ方は、きっと神さまで、あなたに予言の力があるとつげてくれたのは、偶然ではないと思ったのです。クレタにいくまえに、私の定めがいかなるものなのか教えていただきたく、訪問しました」 「あなたが、ここにくるのは知っていました。しかし、この先、どう変転するのか、私には分かりません。今回のことは、神々のあいだでも噂になっています。なによりも先に、金髪の巻き毛が美しいアポロンに相談にきたのは、正しい選択でした。あなたは、ラビリンスに入る決断も、やめることもできるでしょう。侵入しなければ、光のなかをすすんでくるのですから、そこはすべて銀の弓をひくアポロンの領域で、帰還も充分可能でしょう。しかし、もしラビリンスに入るなら、その後がどうなるのか、だれにも分からないことなのです。たくましい肉体をもつアポロンは、ゼウスの御子であり、輝ける者であり、全ギリシアの青年の理想です。彼は、植物の繁茂をつかさどり、牧畜の守護神です。また竪琴や笛をふくめた音楽をあやつり、詩と演劇を愛でる芸術の神でもあります。競技会をもよおし、勝者に月桂の冠をあたえるスポーツの守護神でもあるのです。人びとの生活のすべては、理性と節制をとうとぶアポロンの手の内にあります。いいですか、テセウス。あなたは、デルポイから神託をえなければなりません。その言葉にしたがうのです。クレタから首尾よく帰れたおりには、かならずデロス島のアポロン神殿によって、充分な犠牲と感謝の祈りをささげることを忘れてはいけません。しかし、ラビリンスは巨大な闇です。待っているのは、理性ではありません。ラビリンスに入るのがさけられないものならば、そこはムーサの指揮官が支配する領域ではなく、陰なる神に頼る必要があります。その方は、穢れなきアポロンとおなじゼウスのご子息ではありますが、光よりは闇を、理性よりは狂気を、節制よりは過剰をつかさどっています。御子をたずね、教えを請わなければなりません」 カサンドラの言葉を聞いて、テセウスは、ギリシア北部パルナッソス山の麓にある予言の神、アポロンを祭る神殿でくだされる神託をえるためにデルポイに出向いた。そこで、いままでの経緯をのべてうかがいを立てると、巫女のピュティアはいった。 クレタへの案内者として、 女神アプロディテを道づれとせよ。 アッティカ地方とボイオティア地方の境界にある東西一六キロにつらなる広大なキタイロン山は、かずかずの神話の舞台になったことで、よく知られた山だった。デルポイで神託をうけたテセウスは、アテナイへの帰路、キタイロン山中をさまよっていた。彼は、カサンドラの言葉を思いかえしていた。 「定住することなく流浪をつづける御子がどこにいるのか、だれも予見はできません。その山は、すべてが神域なのです。御子をもとめて山中をさまようなら、あなたは、かならずやめぐりあうに違いありません。テセウス。御子を、微塵たりとも、侮ってはなりません。彼は、つねに仮面をつけ、ほんとうのお姿をみた者はいません。母は人間ですが、御子は半神ではなくまぎれもない神で、力はゼウスにも匹敵します」 春の山の天気はうつろいやすく、柔らかな日差しが暑いほどに照りつけたと思うと、途端に雲ゆきは怪しくなり小雨がふりだした。肌寒さを感じる薄靄の林をぬけると、ひろい草原にでた。やがて靄が晴れていくと、ふたたびやってきた柔らかい日が照らしだしたのは、小さく愛らしい白い花びらと素晴らしい香りにつつまれた一面の花畑だった。 子山羊とたわむれる、一〇歳ほどの少年がいた。黒色の短い髪に、木蔦の冠をつけていた。黒い裸の上半身に痩せた胸がみえ、ぼろきれの腰巻きをした少年は、ちかづいてくるテセウスに声をかけた。 「おじさん、道にまよったのかい」 「分かりません。真っすぐに、きたと思います。ここまで一度も、ひきかえしてはいませんから」 「おじさんが、クレタにいくんだね。ラビリンスに入って、ミノタウロスを倒すつもりだって聞いているけど、そうなのかい」 「その予定です」 「力がつよくて勇気があっても、それだけでは、生きて帰るのは無理だろうね。あの迷宮に入ったら、でてくるのは、うんとむずかしいね。ミノタウロスを倒してラビリンスから脱出するのは、豪傑のヘラクレスでもきっとできない。おじさんは、アテナイに帰ってくれば、王さまにもなれるのでしょう。そうは、思わないの」 「おっしゃる通りです。どうしたら、いいのでしょう」 「ひとりでは、無理だね。おじさんを助けて、みちびいてくれる者が必要だね。ミノスには綺麗なふたりの娘がいてね、妹は、アリアドネ。姉は、パイドラというんだよ。アリアドネは、ぼくは花嫁になるんだ。ナクソスの浜までつれてきてくれるなら、相談にのってやるよ」 「なにをすれば、いいのでしょうか」 「この薬をアリアドネに飲ませて、理性をうばって協力を頼んでみたらどうかな。ミノタウロスの殺し方を教えてもらって迷宮を脱出し、彼女をつれてナクソスまで逃げてくるんだ」 少年は、そういって丸薬をさしだした。 「この薬を飲ますと、どうなるのですか」 「これは強力な媚薬で、葡萄酒に入れると簡単にとけるし、味も変わらないんだ。いっしょに乾杯すると、飲んだ相手が恋しくてたまらなくなるんだ。眠気がでてきて、女は添い寝を希望するよ。そこで、自分のものにしたらいい。アリアドネは、決して怒らないし、後悔しないと思うよ。眠りながら楽しい夢をみて、目覚めればなんでもいうことを聞いてくれる。それでナクソスの浜までつれてきて、くれないかな。アリアドネは、ぼくの花嫁なんだ」 「その媚薬は、生涯、効きつづけるのですか」 「なんの手当もしなければ、ずっと効果があるよ。つれてきたアリアドネに効き目をなくす、べつの薬を飲ませれば、立ちどころに夢から目覚めて正気にもどるよ。あとは、ぼくが好きにするから、おじさんはアテナイに帰って王さまになればいいんじゃない」 「うまく、いくのでしょうか」 「おじさんが、一生懸命やればできるんじゃない。女神のアプロディテに、よくお願いをしとくといいよ。いっしょにいってもらって、アリアドネに正気をうしなわせるんだよ。間違えないでね。ナクソスまでつれてきてひきわたすのは、ぼくが花嫁にするのは、妹のアリアドネだ。姉のパイドラじゃ駄目だよ」 「ナクソスの浜に、妹のアリアドネですね」 「そうだ。これで話はおしまいだ。真っすぐおりていきな」 声は、とつぜん低く変わって、「テセウス、つぎは、そこで会おう」といった。 その言葉に、彼は男児をみつめた。バラ色の頬をした黒い瞳の少年は、背をむけて去っていき、ふたたび子山羊とたわむれはじめた。 「御子のじつの母は、冥界の王ハデスの妻ペルセポネともいわれます。幼いころに身体を八つ裂きにされて、二度うまれた方は、残酷で凶暴な鬼神ダイモンであると同時に、慈悲と寛容の神という二重の心をもっています。御子の情けにすがるのです」 テセウスは、カサンドラの言葉を思いかえした。 アテナイの南西にある外港ファレロンには、隣接してデメテルの聖所が設けられていた。占領して講和の条約をむすんだミノス王は、そのとなりにアッティカで死んだ息子アンドロゲオスの墓をつくった。 神託をえたテセウスは、アテナイにもどるとクレタへの貢ぎ物となった者たちをひきいてファレロンの港へいった。アンドロゲオスの墓を弔ってから、冥界の女王ペルセポネの母、大女神デメテルの聖所の祭壇で雌山羊の犠牲をささげて、アプロディテに旅の案内者をつとめてくれるよう祈った。 その夜、テセウスは夢をみた。 どこまでも青くて高い空から、きらきらと輝く白い光線が一面にふり注いでいた。それは、周囲を芳しい香りで満たしながら漂っていた。蒼い草原が、みわたすかぎりひろがるのがみえた。そこに、よく似た綺麗なふたりの女性がいて、ひとりは楽しそうにブランコにのっていた。もう片方は、その様子をじっとみつめていた。笑いながら懸命に漕ぐ娘は、大きく揺れるブランコからほうりだされまいと、つないであるほそい縄を両手でしっかりとにぎりしめていた。みつめていた女性が、とつぜん女神に変わってテセウスにいった。 「願いを、聞きとどけよう。おまえが出会ったのは、ディオニュソスだ。彼は、天上からみおろしたときに、アリアドネをみつけたのだ。ディオニュソスに取ってクレタは故郷だが、ティタン族に八つ裂きにされた場所でもあるので、いく気になれないのだ。便宜をはかることはできるが、ラビリンスのなかでは助けてはやれない。ぬけられるかどうかは、おまえの勇気によるのだ。今回の試練については、神々のあいだでも噂になっている。この難行に立ちむかうと知ったポセイドンは、ひどくあわれんでいた。おまえがアリアドネをつれだせるようみちびいてやるが、アテナイまで帰れるかどうかは私にも分からない」 翌日、犠牲にした山羊をみると、雌は雄に変わっていた。それを知った人びとは、アプロディテを雄山羊に変える神「エピトラギア」とよんだ。 テセウスは、女神に願いがとどいていることが分かった。 出発の朝、たくさんの市民がファレロンの港にみおくりにきた。そのなかに、アイゲウスがいた。 「ミノタウロスを殺してきます」とテセウスはいった。 アイゲウスは、その言葉を聞いて嗚咽した。 「もし生きてもどってきたら、帰りの船にはこの赤い帆を張って欲しい。おまえが死んだら、私も生き存えてはいられない。望みが、なくなるからだ。ぜひ、生きて帰ってきてくれ」 最後にアイゲウスは、紅柏の大葉でそめあげた深紅の帆を手わたした。 アテナイの船は、葬送をあらわす黒帆を張って、ファレロンの港を出帆した。 二、クレタ テセウス一行は、アテナイ所有の櫂船でクレタ島にむかった。甲板があり、そのうえに漕ぎ手の席が片がわに一五座ずつおかれ、ひとりが一本のオールをもってすわると両がわで三〇座となる、三〇人船とよばれる中型の帆船だった。クレタがわの命令によって、武器の携行は禁止されていた。テセウスは、ミノタウロスを倒して帰国すると決心していた。船倉を改良し、剣のほかに船底に穴をあける穿孔機などの武器を隠していた。海洋強国のクレタは、黒い帆をあげて一四名の生き贄をはこぶアテナイ船が、兵仗をもつとは思いもしなかった。 クレタ王国は、エーゲ海諸国に海洋条約をむすばせ、三〇人船より大きな櫂船の所有を禁じていた。いっぽうクレタだけは、片がわ二五座もある五〇人船、ペンテコントールという大型船をもっていた。 エーゲ海には、かつて山の頂だった幾千とも知れぬ島々が散在したから、船には櫂がどうしても必要だった。当時の海戦は、攻撃がわが相手にちかづき、のりこんでの白兵戦だったので、味方が多く、逃げても追ってもスピードがでる大型船が圧倒的に有利だった。 船上での戦闘は、足場も悪く逃げ場もなかったので、豪傑がいるかどうかで志気は大きく左右された。船首の喫水線上に、「衝角」という武器がつくられる紀元前八世紀ころには、この部分を敵の船体中央部に体当たりさせ穴をあけ、あるいは相手の船の側面をいっきに疾走してオールをこわし、走行不能にさせる戦法が出現した。軍船にはさらにスピードがもとめられ、しだいに階段状に漕ぎ手がいる二段櫂船や三段櫂船があらわれたが、テセウスの時代には甲板がないものがほとんどだった。 テセウス一行は、クレタ島の港、カイラトス川の河口にあるアムニソスにいき、小舟にのりついで川をさかのぼり、途中から宮殿につづく運河に入って終点のクノッソスの船場についた。川辺にも船着き場にも、ほとんど警備がされていないのにテセウスは驚いた。 煉瓦で整備された道をすこし歩くと、両がわに二階だてや三階だての住まいが、ぎっちりとならぶひろい通りにでた。行く手にかつてみたこともない大きくて立派な門が視界に入り、その先の小高い丘に、わが目を疑うほどの飛んでもなく巨大な宮殿がそびえ立っていた。王宮にむかって歩くと、大きな通りと直角に交わる小径がたくさんあり、どの道路の両がわにも映じるかぎり建物が密集し、ひとつひとつの通りごとに青銅の小門がつくられていた。さらにすすむと、ひろい道にかけられた勇壮な大門の上部中央に両刃の斧が象眼されているのがみえた。その行く手に、みわたせるかぎりの円柱が天にむかって林立する高層建築が目に飛びこんできて、テセウスは息を飲んだ。摩天楼となる建造物は延々とつづき、どこで果てるのかも分からなかった。 テセウスは、神がつくったとしか考えられない凄まじい宮殿に衝撃をうけたが、驚きは建物だけではなかった。この王宮は、彼の知っている城とはまったく異質だった。 城塞は、敵の攻撃にそなえ防御のために造営されるので、いちばん見晴らしのいい丘陵や山の頂上にたてられるものだった。ところがこの王宮は、小高い丘にあるとはいっても、奥にあたる南がわが一面の森である以外、ひらけた平野につくられていた。 宮殿の摩天楼は、円柱がかさなりあい天にむかって伸びていた。王宮が防御をまったく考えていないのは、城壁がない事実からもあきらかだった。クレタは全島が支配下にあるので反乱など起こらないし、エーゲ海にはミノスの海軍力に抗する敵がいないことを示していた。圧倒的な制海権をにぎっている以上、島に上陸できる勢力が存在しないのだから、クノッソスに特別な防御は必要がなかったのだ。桁違いのスケールが、王宮だけではないことにテセウスは気づき愕然とした。エーゲ海の覇者であるミノス王が、莫大な富をもちエジプトとならぶ最高の文化圏を支配するのは知っていたが、居城は想像力をはるかにこえたものだった。 さらにモダンな化粧をして行き交うクレタの女性たちは、だれもが都会的で美しく魅力的だった。とくに豊かな胸を誇示する若い女のファッションに、テセウスは仰天した。 まとめあげた、ながい黒髪の表面に糸を通したあかるい色のビーズを紐状に飾りつけ、両がわの鬢だけカールして垂れさげる。その輝く髪の生えぎわに、あざやかな刺繍が縫われた赤いヘッドバンドが巻かれ、深紅にいろどられた情熱的な唇が、すべすべとした白い顔をひきたてていた。濃いアイシャドーをほどこした大きな目は、蠱惑的で、洒落た金や銀のネックレスやブレスレットをつけていた。コルセットでウエストをきつくしめた女性たちは、フリルを水平にかさねて縫いあわせた、ふわっとしたながいスカートをはいていた。腰のくびれが異様に強調され、女性だけにそなわる魅力を、極限までひきだしていた。上着は、あざやかな原色のチョッキだが、肩に軽く羽織っただけで、張り切ったバストを思う存分あらわにしていた。なかには、胸の部分を円形にくりぬいた最尖端のファッションでよそおった女たちが、豊かな乳房を堂々とみせつけているのに、テセウスは目のやり場がないと感じた。彼は、この大都会を目の当たりにし、アテナイが田舎町で、後進の地だとはじめて気がついた。 夢にも考えたことのない別世界をまえに、ぼうぜん自失とするテセウスは、衛兵からついてこいといわれ、門のちかくにある二階だての邸宅に案内された。階段をあがって踊り場につくと、そこには彼の背よりも高い、素晴らしい光沢をはなつ巨大な青銅製の両刃の斧がおかれていた。先導者は、衛兵から侍女に変わって、室内に入った。部屋は建物の角で、壁の二面に大きくひらかれた窓があった。正面からは壮麗な大宮殿の前方がみえ、また他方からは、たくさんの人が往来するひろい道がみおろせた。窓のちかくに三脚の椅子とまるいテーブルがあり、奥に若い女が腰をおろしていた。 「頭が高い、王女である」 侍女の言葉に、彼は右膝をついて頭部を垂れた。 「立ちあがりなさい。あなたがアッティカ王、アイゲウスの息子、テセウスですか」 目のまえにアプロディテとも見紛う美しい娘がいて、輝く白い豊かな胸をあらわにしていた。ながくて艶やかな黒い髪に、青い瞳で、黒色の縁取りがついた空色のチョッキを羽織っていた。白い項には金のネックレスが、両手首には、金色の腕輪がはめられていた。彼の目は、行き場をうしないまるいテーブルをみた。そこには、黄金製の女神アプロディテの像がおかれていた。 女は、テセウスをじっとみていった。 「あなたの武勇伝は、聞きおよんでいます。トロイゼンからアテナイまでの悪人を一掃した話は、クレタでも有名です。私の召し使いも、シニスに八つ裂きにされました。あなたが敵を取ってくれたわけですから、感謝していることをつたえねばなりません。それにしても、なんとたくましい、きたえあげられた身体でしょうか」 王女が侍女になにかを話すと、テセウスはすぐちかくまですすまされた。とつぜん白くて小さい掌が大胸筋にふれて、彼はぞくっとした。 「この胸の厚みは、素晴らしい。なんという弾力でしょう。まるで、雄牛の肩の筋肉ですね。ミノタウロスの餌食にするのには、なんとも惜しいことに思われます」 侍女が王女のそばの椅子をひき、テセウスにすわるのをうながした。腰をかけるとべつの腰元が、杯に入った葡萄酒をもってきて、テーブルにおいた。左にアプロディテの黄金の像が立てられているのを確認して、テセウスは夢にでてきた女神が、アリアドネにひきあわせてくれたのだと思った。 「あなたに、おり入って話があります。みなの者、さがってよい」 王女は、いった。 「王女さま、他国の人間です。危険ではございませんか」 侍女が、いった。 「王子であり、勇者でもあるテセウスが、女ひとりを相手に狼藉などするはずがないであろう」 その言葉に彼がうなずくと、侍女たちは扉までさがった。 「大祭のなかばに、レスリングの競技会があります。武勇をふるってみたいとは思いませんか。クレタには、タウロスという常勝の男がいます。倒してみませんか。もし勝てたら、ミノタウロスの退治は、あなた以外のアテナイ人にまかせるよう、王に進言しようと思います」 「迷宮には、ひとりが入るのですか」 テセウスは、なんとしてもこの機会に媚薬をつかわなくては、と思った。胸のまえで腕を組み、うちポケットにある薬にふれた。 「そうです。ほかの者には、またべつの役目があります。王は、あなたをいかせたがっていますが」 「私は、ミノタウロスを倒して、この貢ぎ物を終わりにするつもりです。格闘技の大会にも、でてみたいです。タウロスに勝って、アッティカにはクレタよりもつよい男がいるのを王に示したいと思います」 王女は、すこし考えた。 「どれほどあなたが勇猛でも、ミノタウロスを殺すことはできません。希望なら仕方がありませんが、タウロスを倒せば王も喜び、気も変わるかも知れません。やってみますか」 「王女さまに、お誓いします。私は、タウロスを倒しますが褒美はいりません。王女のために戦います」 「そうですか。それでは、あなたの勝利を祈って乾杯しましょう」 右の掌に薬をにぎったテセウスは、胸のまえで組んでいた腕を勢いよく解いて、黄金像を払いのけた。左手にあたった像は、飛んで床にぶつかりガンという大きな音がした。全員の注意が、その一点に注がれた瞬間、彼は王女の葡萄酒に薬をそっと入れた。 「まあ、テセウス。こんなことをしたら、女神さまに嫌われてしまいますよ」 侍女がひろいあげたアプロディテをわたされた王女は、テーブルにもどしていった。 「申しわけありませんでした。それでは、乾杯しましょう」 テセウスは、いった。杯をたがいに軽くあてると、ふたりは葡萄酒を飲んだ。一口ふくんだときに、さらに輝く美しい娘がテーブルにちかづいてきて、まえにアプロディテの黄金像がおかれた椅子に腰をおろした。 「あら、もう乾杯してしまったの。お姉さま、気がはやい」 「競技会にでて、タウロスと戦う約束をしました」 「まあ、あなたが、テセウスね」 「失礼ですが、お名前は」 「私は、アリアドネ。パイドラの妹です」 「姉」 彼は、先ほど乾杯した王女をみつめていった。 「そういえば、自己紹介していなかったわね。テセウス。私が、ミノス王の長女パイドラです」 そういう彼女の瞳は、もうすこし潤んで媚薬が効きはじめていると感じた。 「タウロスは、クレタの雄牛と綽名されるミノスの将軍で、豪傑で、たいへんつよい男です」とアリアドネがいった。 「テセウス。タウロスは、クレタでは負けたことがなく威張っています。その鼻を一度へし折ってやりたいと、だれもが思っているのです。それで王は、今回の使節にあなたの参加を要請したのです。タウロスは、勝利のためには手段をえらばないでしょう」 「でも勝てば、王は、あなたの命はうばわないと思います」 「私も、そう話したのよ。テセウスは、ミノタウロスとも戦いたいのですって」 「どんなにつよくても、怪物には勝てないわ」 「私も、そういったのよ」 ふたりの王女の会話は、はずんでいたが、テセウスの頭のなかは真っ白だった。しばらくするとパイドラは、「昨日よく眠れなかったから、昼間のお酒が効いて眠くなった」といいはじめた。 「テセウス、いっしょにきて」 パイドラは、立ちあがって彼の手をひいた。 「どうするのですか」 「私を、エスコートして」 「姉さん。大丈夫なの。ふらふらしているわよ」 「テセウス、はやくいきましょう」 パイドラは、手をひっぱって彼をせかした。 「いっしょにきてください」 テセウスは、アリアドネにいい、三人でベッドのある部屋にいった。寝台に横になるとパイドラは、ひとり寝は寂しいといいだした。 「どうしたの、姉さん。ちょっと変よ、大丈夫」 「アリアドネ。あなたじゃないのよ。テセウス。私のそばで添い寝をしてよ」 パイドラは、そういいながら眠ってしまい、微かな寝息の音が聞こえてきた。 「アリアドネ。私は、あなたに夢中です。タウロスと戦います。あなたのために、勝利してみせます。勝ったときには、もう一度お目通りをさせてください」 彼は、アリアドネをみつめていった。 「あなたは、姉さんにもそう口説いたの。だれにでも、そんな風にいうの」 「飛んでもありません。パイドラが、どうしてこうなったのか、さっぱり分かりません。私は、一目みたときから、あなたのために戦いたいと思ったのです。約束してください。タウロスに勝ったら、もう一度、あなたとふたり切りで会う機会をつくっていただきたいのです」 「大丈夫ですか」 侍女が、顔をだした。 「それでは、私はいきます。さようなら、アリアドネ」 テセウスは、侍女についてアテナイの一行にもどった。 クレタ歴の一年は、太陽の南中する高度がもっとも高くなる、夏至のころからはじまる。明け方にシリウスが天空にあらわれると、ゼウスがうまれ育った洞窟から、目もくらむ光が自然とあふれてくるといわれていた。九年ごとに行われるクレタの大祭は、年初の二ヵ月のあいだに、一ヵ月をかけて開催された。 六月の中旬にクノッソスに到着したテセウス一行は、祭りがはじまるまでの一ヵ月あまりを、宮殿ちかくの宿舎で逗留した。外出は許可されなかったが、屋敷にはひろい中庭があり、彼は仲間たちとレスリングの練習をしてすごした。窓からは、さまざまな格好の人びとが道を往来するのがみえ、大祭のためにミノス王が支配するクレタ全土の九〇都市から、市民がぞくぞくとあつまっているのだと思われた。華やかではあったが、自分たちの行く末も分からず、だれもが不安な気持ちに苛まれていた。テセウスは、一行のなかから、ピラボというひとつ年うえの男を副官としてえらび、「ミノタウロスをかならず退治するから、みんなでアテナイに帰ろう」といっしょに励ましていた。 牛跳びがあるといわれた日、朝はやくにテセウスたちが泊まる宿舎に兵士がきて、彼らははじめて外出した。立派な大門をすぎると、壮麗な宮殿北正面がみえた。入り口の壁には、煌びやかな青銅の双斧が象眼され、さらに先には塔がそびえ立っているのが目に入った。薄暗い通路は、幅が三〇メートル以上、ながさも五〇メートル以上あった。道が終わったところで、テセウスはひとりだけでついてこいといわれて仲間と分かれた。右に円柱がつづき、左に木材を組みこんでつくられた大きな観客席とのあいだを歩き、しばらくして建物のなかに入り階段をあがって宮殿のうえにでた。そこではじめて、王宮の全貌が分かった。かつてみたこともない、猛烈に大きな建物だった。中央にながほそい四角型の広場があり、南がわに尖塔が天にむかって、どこまでも高く伸びていた。その壁に象眼された双斧は、かつてみたこともないほど美しかった。ながい青銅の棒状の上部にするどい刃をもつ、ふたつの斧の背がむすびつく図柄は、巨大な揚羽が優美に羽をひろげて休む姿にみえた。 「聖なる角」とともにミノス王家のシンボルになっている双斧は、おなじ大きさの二枚の斧斤が一本のブロンズの柄に結合するモチーフだった。女性原理と男性原理がどこまでも対等で、調和をもってひとつにむすびつくことを示していた。ミノスの王国では、女性は男性と同等の力を保有すると考えられていた。 すり鉢状の観客席が広場に接するいちばん下の部分には、二メートルほどの木製の塀がぐるりとめぐらされ、勢いあまった牛が客席に飛びこむのを防いでいた。地面から階段状に高くなる席を埋める観客は、万の数にもたっするのではないかと思われた。 テセウスは、西正面に位置する貴賓席に案内された。その入り口に、高さ三メートル以上、太さ五〇センチ以上の壮大なオブジェが、巨大な二本の角が青い空にむかって屹立と存在していた。クレタの聖獣である牛の角質は、男性原理と女性原理が、どこまでも牛角(ごかく)だと意味していた。磨かれた花崗岩からつくられた、圧倒的な存在感をはなつ角は、世界の中心に堂々とそびえ立ち、荘厳で神聖で、この世のあらゆるものを射ぬくに違いないと思われた。その内がわに背に青銅の双斧が象眼されたふたつの玉座があり、周囲には気品に満ちた人びとがすわっていた。パイドラがテセウスをみつけて、こちらにきてと合図をした。指示された場所は、貴賓席の北がわの前方にあたり、彼女の右にはアリアドネがいた。 「調子はどうなの」 パイドラが、聞いた。 「まあまあです」 「タウロスに勝つのよ」 「あなた方の、ご声援があれば」 そういってテセウスは、アリアドネをみた。 「お姉さまは、あなたに夢中なのよ。テセウスの話ばかし、しています。クレタから大祭にきた者は、アッティカからの貢ぎ物ですから、今回のあなたたちの宿舎は破格な待遇です。姉が、ミノス王に頼んだからかなったことです」 「タウロスを倒せば、王も私の話を理解するはずです」 パイドラは、いった。 銅鑼を鳴らして、兵士がミノス王の来場をつげると観客全員が立ちあがった。堂々とした威風に満ちた王は、黄金の王冠をつけガウンをきて、双斧がついた王錫をもっていた。ミノスが、背の部分に青銅の斧が象眼された右がわの玉座に腰をおろすと、パイドラはテセウスをつれてそばにいった。 「ミノス王。こちらがテセウスです」 「競技会にでるそうだな。タウロスは、つよいぞ」 「王女から、うかがっています。全力をつくしてみます」 「本気になっても、勝てるかな」 「神のご加護があれば。それに、みなさまの声援をいただければ」 「パイドラは、おまえをひどく気に入ったらしい。私も、興味をもっている」 「アイゲウスの息子の名に、恥じない戦いをごらんに入れます」 ミノス王は、大きくうなずいた。テセウスは、パイドラにつれられ先ほどの席にもどった。 銅鑼が鳴ると、貴賓席とむかいあう双斧が青銅で象眼された扉がひきあげられて、青い装束をきて、長髪を項のところで結び目をつくった女性の神官にひきいられて、赤い人と二名の白い者がでてきた。彼らは、いずれも髪を短くし、上半身は裸で身体にぴったりとあった腰巻きをつけていた。正面にちかよってくると、赤くみえるのは、全身に色を塗った男だと分かった。白い染料で着色された男女は棒をもち、女は胸に白色のさらしを巻いていた。 四人は、貴賓席の一〇メートルほど手前にくると、正面の玉座をしめるミノス王にたいし、恭しく頭を垂れた。そのとき、銅鑼が鳴った。神官は、ゼウスにささげる祝詞を高い声でのべて、三人の名前を順にいった。名をよばれた者は、つぎつぎと王にむかって右膝をつき、頭部を下にした。それから神官は、ふたたび頭を垂れて、でてきた出口に消え、場内には競技者らしい三人が残された。 銅鑼がひびくと、出入りの扉がとじられた。すこし左がわの聖なる角が灰色の花崗岩で象眼された壁が、観客席にいる兵士によってもちあげられ、なかから大きな黒い牛がでてきた。 雄牛は、おそらく槍で尻をつかれたらしく、いきり立って中央まで走りでてきた。また銅鑼が鳴り、観衆の大喚声に競技場がつつまれた。牛は、その大きな音に驚き、立ちどまってゆっくりと周囲をみまわした。また銅鑼が鳴り、観客のどよめきが起こった。やがて雄牛は、おなじ場内にいる三人の男女に気がついた。 なにももたない赤い色の男は、牛とむきあうと身構えた。すこし離れたところで、白い男女が棒を手にして立っていた。 雄牛は、赤い男の姿をみとめると、角を立てて真っすぐに走ってきた。刺されると思った瞬間、彼は飛びあがり、迫ってくる角質のあいだをぬけて、牛の背中に両手をつくと、それから膝を抱えて宙で一回転して地におり立った。観客の大きな歓声が聞こえ、拍手が鳴りひびき、太鼓が大きくうち鳴らされた。 とつぜん相手をうしなった雄牛は、とまるとむきなおり、あきらかにいらだって彼をじっとみすえると、前脚で何度も地をけった。赤い男性にむかって牛は、突進してきた。その勢いに、飛びあがるタイミングを逸した男は、するりと身体をかわした。通りすぎた牛は、すぐにむきを変え、ふたたび彼をめがけてまっしぐらに走ってきた。男は、また宙を飛んだ。今度は、牛の角が大腿部につき刺さった。その瞬間、場内は悲鳴で満たされた。角質に刺された男は、上体が反転し、頭部が地面にむいたままの格好で雄牛にひきずられた。血が噴出する男性を角からはなそうと、牛は幾度も首を振った。その都度、男は上下に大きく揺すられ、やがてはずれてほうり投げられ、絶命した。猛り狂った雄牛は、逃げまどう白装束の男性を追いかけ、後ろから角をつき立てた。今度は、背中を刺したままの格好で場内を走りまわった。 銅鑼が鳴りひびき、楯と槍をもった兵士がぞくぞくとでてきた。隊列を組んだ兵士たちは、長槍を牛にむけてすすんでいった。角は白い男の背中を貫通し、ふかぶかとささっていた。赤い血をながす絶命した男性をはなせなくなった牛は、疲れがみえた。兵隊が長槍をつき刺すと、雄牛はあばれた。つぎつぎと槍が刺さると、動作が緩慢になり、ついにはうごかなくなった。やがて雄牛は倒れ、べつの真槍がとどめを刺した。兵士がひっぱってきた手押し車に、うごかなくなった牛をつみこんだ。べつの台車がきて、死んだ二名の男たちをのせ、場外にひいていった。競技場には、白装束の女がひとり残った。 やがて大柄な兵士をひきつれた、青い装束で身をつつんだ女性の神職がふたたびあらわれると、貴賓席にすわり後頭部に結び目がある、ながい黒髪の肩もあらわな白いワンピースをきた巫女が王に歩みよった。ミノス王は玉座に腰をおろしたまま、そばにつきしたがう男の神官がさしだした青銅の双斧をつかみ、彼女に手わたした。斧をうけとると階段をおりて競技場の塀ぎわまでいき、ちかづいてきた青装束の神職にわたした。それを、女性神職は両手でささげながら白装束の女がいる場所にもどり、兵士に手わたした。ひざまずく女性の背後で、武人が双斧を高くかざして立った。そのとき大きな銅鑼の音が場内にひびきわたり、観客席は水をうった静寂に支配された。武人が双斧を振りおろすと、女の首は一撃のもとに切り落とされた。べつの兵が死体を片づけ、今度は男の神官たちがでてきて場内を清掃した。 興奮冷めやらないパイドラは、テセウスにいった。 「牛跳びは、アテナイ人の仕事になるのよ」 彼は、驚いて彼女をみた。 「どういうことですか」 「一四名のアッティカからの貢ぎ物は、ひとりはミノタウロスの生き贄に、残りの一三名は、クレタ大祭の牛跳びに、ささげられるのよ。今日は、あなたのつれも、どこかで様子をみているわ。これから、つぎの大祭までの九年間、牛跳びの練習をして、この日にそなえることになるわ。最初にきた一三人はだれも生き残れなかったけれど、今回は、サワランがいます。彼女は、やってくれるかも知れません」 「サワラン」 「彼女は、九年まえに貢ぎ物としてクレタにきた者たちのなかで生き残ったひとりです。牛跳びは命がけですから練習もきびしくて、前回の一三名のうち五体満足で残ったのは四名です。ほとんどは死んでしまいましたが、大怪我をして生きている者も幾人かいます。障害者になって、膝行りながら暮らしていると思います。先ほど一度うまく飛んだのは、クレタ人の指導者です。首を切られたのは、アテナイ人です。彼女は、どうしても飛ぶことができなかったので、クレタ人の指導者が挑戦したのです。これから演じるのは、アッティカのチームです。でてくる者たちのなかで、身体を赤くそめた女が、前評判の高いサワランです。彼女は、もしかすると五〇年振りに、この祭典を成功にみちびく可能性があります。あまりに危険で、クレタ人は牛跳びを極端に嫌がりますから、生き贄の者しか挑戦する人がいないのです」 「あんな曲芸は、私には不可能です」 「できないことをみとめるのは、勇気がいります。しかし、しなければならない仕事はあるのです」 パイドラの言葉に、テセウスは大きくうなずいた。 場内に、銅鑼がひびいた。先ほどの双斧の扉があがって、女の神官が三名の男女をひきつれてあらわれた。したがう者たちはおなじ服装だったが、今度は赤い染料は女性に塗られ、胸のさらしも赤色にしてあった。神官は、先ほどの場所までくると祝詞をあげ、各人の名をよび、敬礼が終わると去っていった。 また銅鑼が鳴り、聖なる角の扉から一頭の雄牛がおどりでた。今度は、先刻よりもさらに巨大な角質をもったずっと大きな牛で、それをみた場内にどよめきが起こった。 荒々しい雄牛は、赤い女の姿をみとめると突進をはじめた。彼女は、ふうわりと身体を浮かせ、角のあいだから牛の背に両手をついて膝を抱えると一回転して地におりた。大歓声がわきあがり、太鼓が連打された。雄牛はむきなおると、もう一度、女にむかって突進してきた。彼女は、ふたたび宙に浮かび、先ほどとおなじに角のあいだを縫って背に手をつくと、一回転して地におりた。 場内の喚声は最高潮になり、太鼓がはげしく連打された。すり鉢状の競技場にひびきわたる熱狂的な歓呼に、雄牛は完全にいらだって大きな咆哮をあげた。牛は、振りむくと戦う相手をじっと確認し何度か地をけり、さらに猛烈な勢いで女に突進してきた。 彼女は、飛びあがると雄牛の角のあいだをぬけて、両手を背中につけた。ほそい脚は、今度はしっかりと伸び、スリムな赤い女は、たけだけしい黒い牛の背のうえで、優美に、まるでスローモーションの動画のように宙に浮かんで舞っていた。彼女は、両腕を水平にし、両脚をとじて伸ばした聖十字の形になって、優雅ともいうべき姿で空中をゆったりと回転して、ふうわりと地におりた。 女が首のながい紅い白鳥に変身して宙を舞うのを、いあわせたすべての者が確認した。大観衆が、みまもる競技場のなかで降臨した女神アルテミスは、黄金につつまれ、輝き眩めきながら立っていた。観客は、総立ちになり大喝采がうまれた。 銅鑼が鳴りひびき、太鼓が連打されると、喚声をあげながら槍と楯をにぎった、たくさんの兵士がおどりでた。ふたりの白い男たちが、もっていた棒の尖端を牛にむけて赤い女のまえに立ち、彼女をみえなくさせた。兵士たちは、女たちをまもりながら槍をつき立てると、やがて雄牛は倒れて殺され、台車ではこばれていった。 神官がでてきて、三人がはじめの位置にもどると彼女の名前をもう一度いった。王が立ちあがると、観客全員が起立した。 ミノス王が、サワランと女の名前を大きな声でいった。すると観客は、サワ、ラン。サワラン、とくりかえし絶叫し、場内は騒然となった。王は、付き人の神官がさしだした黄金の双斧を取って、空にむかってさしあげた。それを、聖なる結び目をした髪のながい巫女がうけとり、さらに青装束の神職に手わたされた。彼女は、王に敬礼して、斧をサワランにあたえた。勝ちとった黄金の双斧を、両手で高々と頭上にかざした。場内は割れんばかりの喚声につつまれ、興奮の坩堝のなかで神官とサワランは去っていった。 「つぎは、あなたの番ね。ぜひ、大祭を盛りあげてください。ゼウスが、あなたに降臨することを祈っているわ。勝てたら、王に助命を嘆願します。私のために、タウロスをやぶってください」 「アリアドネ、あなたも応援をお願いします。そうすれば、勝てるかも知れません。運命の女神が、微笑むこともあるでしょう」 「アリアドネ、あなたも応援してあげなさい。彼が、それを望んでいるなら。勝てば、私たちの未来の扉をひらくことができます」 アリアドネがふかくうなずくのをみて、テセウスはふたりに別れの挨拶をした。パイドラと分かれて兵士に先導されて宿舎に帰るあいだ、彼女について考えつづけていた。 宿泊施設では、テセウス一行の一三人が先に帰宅し、首をはねられた女と成功したサワランが、アテナイ人だと知らされていた。彼らは、自分たちが牛跳びをしなければならない事態に絶望していた。あんな雄牛のまえに立つことすら恐ろしく、曲芸など考えられなかった。彼らは、待ちうける悲惨な運命について論議をかわしていた。 テセウスは、パイドラのことを考えつづけていた。なぜ、彼女では駄目なのだろうか。パイドラなら多分、なんでも親切に聞いてくれる。媚薬の効果が、はっきりとあらわれているから、結婚の申しこみをすればうけるだろう。便宜も、はかってくれるに違いない。彼女は美しいし、結婚してもいいのではないか。ナクソスによらずに、アテナイまで帰ってしまうのはどうだろうか。クノッソスにくらべれば、田舎で不満もあるだろうが、熱愛してくれるパイドラなら我慢するのではないか。ミノスに愛されているのだから、戦争にはならないだろう。彼女と結婚すれば、ミノタウロスを倒さなくても貢ぎ物をやめさせ、クレタと対等な関係をむすべるのではないか。しかしディオニュソスは、恐れ多くも神だ。神さまとの約束をやぶれば、どんな罰が待っているのか分からない。くりかえしアリアドネといっていたから、彼女では駄目なのだろう。だいいちパイドラは、彼を愛しはしないだろう。また媚薬をつかえば、愛するのだろうか。それでは、ミノス王は納得しないだろう。だからといってアリアドネをつれていくのは、ミノスも彼女も承知するわけがない。ヘラクレスでも不可能な、ミノタウロスを倒してラビリンスを脱出する手段があると、御子はいっていた。出奔するには、方法を教えてもらわねばならない。いっそ、ふたりをつれていったらどうだろう。脱出して美しいパイドラと暮らすのはいいが、媚薬で錯覚されて愛されるのは、男としては不本意にも思う。薬の効果だとしても、彼女は可愛い。神の命令とはいえ、媚薬をつかったのは、男らしくなかったのではないか。ほんとうに、ふたりもつれて帰れるのだろうか。御子いう通り、アリアドネをつれていくしか道はないのだろうが、どうやったらいいのだろうか。彼の煩悶は、つづいていた。 牛跳びをみて二週間がたち、テセウスが参加するレスリングの競技会の日になった。朝はやく、テセウス一行が泊まっていた宿舎にミノスの兵士がやってきて、ついてこいといった。仲間もいっしょに応援したいと申しでたが、許可はおりなかった。数名の兵士と大門をぬけ、宮殿北正面の幅が三〇メートル以上もある通路から広場にでると、二週まえとはすっかり様子が変わっていた。周囲の塀が取り払われ、円柱が林立するのがみえた。西正面のミノス王がすわる貴賓席の前方に直径、六、七メートルの円形のリングがあり、まわりに観客席がつくられ、すり鉢状にかこわれていた。 前回、神官や牛がでてきた東正面に競技者の控え室がそなえられ、入ると身体の大きさも皮膚の色もさまざまな、屈強そうにみえる男たちがいて、知らない言葉が飛び交っていた。彼は、部屋の一隅をあたえられた。そこは、競技者、四人の控え室で四隅にひとりずつが配置されていた。八人制のトーナメントだったから、もうひとつおなじ部屋があり、さらに四名がいるのだろう。午前中に三回戦って、勝ち残った者が午後にタウロスに挑む予定だった。 試合は、相手が降参するまで戦うルールで、戦意を喪失するか続行不可能になって勝敗が決定される。投げ技と関節技は許可されるが、手足をつかって、なぐったりけったりする打撃技は禁じられていた。武器の携行は許されず、素手で戦い、頭突きも禁止されている。両者が組みあった状態から試合がはじめられるなど、アッティカとおなじルールだった。 銅鑼が鳴ると、首の後ろで髪をむすんだ女の神職を先頭に、彼らは広場にでた。観客席のあいだをぬけてミノス王のまえにすすみ、神官が祝詞をのべてからひとりひとり出身地と名前を紹介された。自分の名をよばれると、テセウスは王にむかって敬礼した。それが終わると、「この競技会をゼウスにささげる。みなの者。ゼウスを称えよ」とミノスがいった。それで、全員がいったん控え室にひきあげた。 こうした競技会は、アッティカでも行われていたが、これほどの観客のまえで戦ったことはなかった。ギリシアでは、女性は競技を観戦できなかった。クレタでは客席には多くの女がいた。もちろんパイドラは、アリアドネとともに王のちかくにすわっていた。このミノスの大祭で行われる格闘技会の参加者は、東地中海世界の各地からあつまるが、アテナイ人が参加するのははじめてだと、彼女は話していた。 午前九時ごろから、予選がはじまった。 テセウスが最初にあたったのは、背の高い巨漢の黒人で体重は優に倍はあった。相手を一目みて楽勝を確信した太った男は、すぐに組み手を解いて両腕を胸のまえで組み、倒せるならやってみろ、といわんばかりに無防備になって彼をみつめた。テセウスがもちあげようとするのを、大男は脚をふんばって薄笑いを浮かべていた。実際に身体がもちあがると、驚いた表情に変わった。彼が巨体を抱えあげると、喚声があがった。背中から地面にたたきつけられた男は、苦痛に顔をしかめた。しばらくして立ちあがった大男を、彼がもう一度、先ほどよりも、さらに高くにもちあげると、ふたたび観客はさわがしくなった。渾身の力をこめて背中を地面にたたきつけると、男は立ちあがれず負けをみとめた。場内からは、感嘆の声が聞かれた。 テセウスが二番目にあたった男は、参加者のなかでは比較的小柄で間接技を得意にしていた。控え室から直接試合をみることはできなかったが、戦った相手は右腕を折られてもどってきた。 組みあうと、男は力業ではとうていかなわないと思ったのか、すぐに脚をからめてきた。ひとり寝ころんで、懸命に両脚に力を入れて転倒させようとした。テセウスが踏みとどまったまま倒れないと、観客からは大歓声があがった。腕も取れずに、ひとりで寝ころがる男に場内から失笑が漏れた。今度は、テセウスが両脚を取ってもちあげ両脇にはさみ、自分を軸にしてぐるぐる回転をはじめた。悲鳴をあげて両手で頭を抱える男を、猛烈な勢いで一〇度ほどまわして手をはなすと、五、六メートル先まで飛んでいった。こんな技などみたこともなかったので、観客は興奮の絶頂にたっした。投げられた男は、ふらついて立てず、降参の意を示した。王は喝采し、パイドラは大きな声援をおくった。 決勝戦の相手は、均整の取れた立派な体格をしていた。タウロスを倒すなら、この男だろうと、クレタ中の人びとが考えていた。組みあいからはじめたが、やはり力ではテセウスがうえだった。男は、押しこまれてリングの外に追いだされた。果敢にタックルを試みたが、テセウスは組みついてきたところを切って、相手を抱えて背中から地面にたたきつけた。起きあがると、男は彼の脚を取ろうとした。そのとき逆に、テセウスは相手の両脚をつかんだ。観客は、また回転させるのかと思ったが、彼は男を裏がえした。両脇に両脚を抱え、全身の力をこめ、相手の背中に腰をおろそうとした。テセウスの胸の筋肉は、はち切れんばかりに盛りあがった。顔を真っ赤に、力を入れつづけた。逆エビ固めは、もの凄い角度になり、それでも男は必死にこらえていたが、やがて降参した。 観客は、テセウスのつよさに驚き、歓声と喝采をおくった。これで予選が終了し、午前の部が終わった。タウロスとの戦いは、午後にもちこされた。 午前の試合が終わると控え室はだれもいなくなり、テセウスひとりのものになった。水分と果物を取っていると、パイドラがアリアドネと侍女をつれてやってきた。 「あなたのつよさは、想像以上でした。王も驚いています。ほんとうにタウロスに勝てるかも知れません。彼はつよいし、試合巧者です。ほんとうのことを話せば、勝つためには、なんでもする男ですから気をつけてください」といった。 「あなた方ふたりの応援があれば、なんとかなるでしょう」 「テセウス、格好がいいわ。凄い技だったわ。私はみたことがないし、王もほんとうに驚いていました。あなたのお父さんが兄を競技会で殺してしまったのが、アッティカとの関わりの端緒だと聞いています。きっと、アイゲウスもつよかったのでしょう。王も、納得したと思います」 パイドラは、さかんに賞賛し、ぜひ気をつけるようくりかえして帰っていった。 背丈がテセウスとおなじくらいのタウロスは、六〇歳にちかかったが、きたえられて張りのある筋肉をもつクレタの雄牛と綽名される豪勇だった。彼は午前中に三試合をこなしたが、あわせても一〇分ほどだったので、それほど体力を消耗していたわけではなかった。 タウロスとの戦いも組みあいからはじめられたが、たがいに押しあってみるとテセウスに分があるのは両者ともすぐに分かった。彼は、何度も相手をリング外に押しだした。タウロスはタックルを得意としたが、素早いテセウスは簡単にかわすことができた。このまま戦っても勝ち目がないと考えたクレタの雄牛は、隠れて反則の肘うちをくりかえした。観客は、やり口を知っていたので不満の声があがった。タウロスが肘をつかってくりかえしテセウスの顎をうったので、声援はテセウス一色となった。彼がクレタの雄牛を抱えあげ、背中から地面にたたき落とすと歓声が起こった。倒れたタウロスへの攻撃を観客はさかんに催促したが、テセウスは立ちあがるのを待った。起きあがったクレタの雄牛は、なり振りをかまわなくなって、腰にタックルされると組んだ両手をあげて、彼の背中を思い切りうった。打撃は反則だったので、不満の声が場内を満たした。倒れたテセウスの髪をつかんでひきあげて、タウロスは彼を抱えあげ力いっぱい地面にうちすえた。観客の悲鳴が聞こえた。もう一度、もちあげようとしたとき、体勢を入れかえて、クレタの雄牛を抱えると地面にたたきつけた。彼は、苦痛に顔をゆがめるタウロスが立ちあがるのを待った。ややあって起きあがると、審判は休憩を提案した。 控え室にもどって汗をぬぐっていると、係員が水の入った瓶をもってきた。一口飲もうと取りあげたとき、侍女をつれたパイドラがやってきて、「やめて」と声を発した。彼女は、瓶の水を地面にながし、革袋をさしだしていった。 「これを飲みなさい。この休憩はおかしいと、みんながいっています。あなたに勝てないと知って、なにか策をろうそうとしているのに違いありません。どうして、倒れたタウロスをすぐにやっつけてしまわないのですか。あなたが投げられると、もう心配でたまりません。お願いですから、はやく勝ってください」 「ありがとう、パイドラ。たしかに、あの水はすこし変な臭いがしました。あなたのいう通りこんな休憩をはさんだのは、今回がはじめてです。しかし、タウロスはほんとうにつよいですよ。アリアドネ。あなたが鼓舞してくれないと、勝てないかも知れません」 「アリアドネ。あなただって励ましているわよね」 「私は、応援しません」 「どうしてなの、テセウスが嫌いなの」 「そうではありませんけれど、姉さんが私の分まで声援するから、しなくてもいいと思って」 「変な子ね。でも私が、ふたり分応援するのは間違いありません」 「アリアドネ。あなたにも、励ましてもらいたいのです」 「声援は、お姉さまにまかせます。私は、応援しません」 「テセウス、はやく決めてね。勝ったら王に助命を嘆願します。午前中の三試合は、素晴らしかったわ。ずいぶん体力をつかったから、休んでいたタウロスとは戦うまえから条件が違って、すでに分が悪いわ」 「ありがとう」 テセウスは、そういってパイドラをみ、それからアリアドネをじっとみつめると、彼女は目をそらせた。王女たちは、席にもどっていった。 銅鑼の音がひびいて、係員がテセウスに戦闘の再開を知らせにきた。リングのなかは水をまいたらしく、先ほどとは違っていた。彼が素早くうごくのを、やめさせるために違いなかった。貴賓席にはパイドラはいたが、アリアドネはみえなかった。 組みあいの姿勢を取り、審判が再開の合図をした。力くらべがはじまったが、休んだのは圧倒的にテセウスに有利だったらしく、タウロスの力はもどっていなかった。力いっぱい押しこむと、クレタの雄牛はリングの外に押しだされ、だれがみても彼が優勢だった。しばらく腕の取りあいをしていたが、テセウスがタックルにいくと、タウロスはもんどりうって倒れ、頭をうった。立ちあがってくるのを待つと、観客たちは彼にいけいけと催促した。タウロスが審判になにかをいうと、試合は中断した。係員は、リングをさらに湿らせはじめた。タウロスが審判にちかづきなにかを話すと、係の者は貴賓席よりの試合場がどろどろになるまで水をまいた。観客は、ぶうぶうと不満の声をあげた。リングは、いまや全体がべとべとし、貴賓席のまえの西正面がわは泥状態になっていた。 審判が合図して、試合が再開した。力くらべになってテセウスがつよく押すと、タウロスはリング外に飛ばされて倒れた。もどってこないクレタの雄牛に、彼はちかづいて手をさしのべた。タウロスは地面の砂を、テセウスの目にむかって投げた。彼がひるむと、腹に膝蹴りを入れて倒し、髪をつかんで起こし、両手で股と頭を取って頭上の高くにもちあげた。聞こえてくる観客の悲鳴に、パイドラの声もふくまれていた。タウロスは、彼を高くさしあげると、どろどろにした場所まですすみ、王をみて、それから最大限の力をこめて泥のなかにテセウスを背中からたたき落とした。パイドラの悲鳴が聞こえ、失神したのが分かった。さらにタウロスが彼の髪をつかんで、とどめをさそうとしたとき、貴賓席の奥からアリアドネが走りでて、「テセウス。勝ちなさい」と大きな声をかけた。 髪の毛をつかまれ立ちあがらされたテセウスは、身体を入れかえて、今度はタウロスをもちあげ、背中から地面にたたきつけた。貴賓席をみると、アリアドネが叫んだ。 「テセウス。とどめを刺しなさい」 起こそうとすると、タウロスは手でつかんだ泥をテセウスの目にこすりつけた。また、悲鳴が聞こえた。タウロスは、テセウスをもちあげようと試みた。彼は、背後にまわりこみ腰を取って、そのまま泥沼になった地面にむかって、両手で胴をつかんで反り投げにした。つぎの瞬間、タウロスの頭は泥のなかにふかくつき刺さった。 しばらく、テセウスがクレタの雄牛を腹にのせてブリッジをする格好がつづいた。観客は、形勢がどうなのか分からず、しずかになった。彼が起きあがると、手をはなされたタウロスが泥のなかに全身を埋めているのをみて、大声援が起こった。テセウス。テセ、ウス、という声が、合唱になり場内を木霊していた。 ミノス王が立ちあがり、テセウスに拍手をおくった。観客も総立ちになり彼を称え、拍手喝采の音が場内を満たした。審判が、テセウスの手をあげた。気をうしなったタウロスは、台車にのせられて、はこばれていった。 ミノス王は、立ちあがると「テセウスに栄誉をさずけよう。牛跳びのサワラン。格闘技のテセウス。アッティカにも、わがクレタと匹敵する勇者がいることをみとめよう」とつげた。 場内は、いっそうの歓声につつまれた。 三、ラビリンス テセウスが、タウロスをやぶって競技会の栄誉をえてから二週間ほどたった八月中旬の午後、彼は王宮によばれ、ミノス王に拝謁した。高い天井の謁見の間には、ふたつの玉座がおかれていた。ミノス王がしめる右玉座の後ろの壁面には、象牙製の巨大な聖なる角が象眼され、両がわには、鷲の翼と上半身と獅子の下半身をもつグリフィンが二頭かかれていた。左がわの玉座には人はいなかったが、背後の壁にはにぶい光をはなつ青銅の素晴らしい双斧が嵌めこまれ、両脇にはおなじ装飾がされていた。がらんどうになった空白の座が、なにを意味するのか分からなかった。 玉座をしめる王は機嫌がよく、テセウスにいった。 「驚くべき、力と技であった。おまえは、アッティカ王アイゲウスの息子で王子ではあるが、今回は、クレタに貢ぎ物としてきた者である。ミノタウロスの生き贄となる身であるが、驚嘆すべきその勇壮に敬意を払い、助命の願いをかなえてもいい。サワランの曲技にも、おまえのなみはずれた格闘技術にも感嘆した。アッティカにも、素晴らしい人材がいることをみとめよう。おまえがマラトンで退治した狂牛は、ミノタウロスの問題をひき起こしたうえ、クレタの国土をあらしまわって人びとに甚大な損害をあたえた。私の大きな悩みをヘラクレスが解決してくれたが、最後の始末をつけたと聞いて、ぜひ今回の貢ぎ物にくわえ、勇者をみてみたいと思ったのだ。パイドラの話によれば、ミノタウロスも倒そうと考えているらしいが、それは無理なことだろう。しかしおまえは、娘になにをしたのだ。魔法でもかけたのか。それとも若い雄牛になって、狂乱の教えでも吹きこんだのか。パイドラは、夢中で賛嘆してやまない。たしかにおまえには、目をみはる勇気と腕力がある。男でも驚くのだから、若い女がひかれるのも無理のないことではあるが、すこし度がすぎていると思う。おまえは、パイドラと婚約してわが属国のアッティカ王となり、友好関係をむすんだらどうか。朝貢の義務は残しても、市民の生き贄などではなく、貢ぎ物は奴隷でもいいし、べつの形に変えるのもよい」 「王に、お褒めいただき光栄です。私は、クレタにきて驚きました。ミノス王がエーゲ海の覇者とはうかがっておりましたが、クノッソスがこれほどの近代都市であるとは思いもつかないことでした。王が、莫大な富と素晴らしい人民を抱えているのに感嘆しました。たしかにアッティカは田舎ですが、帰ったらぜひともこの国を真似て大きな都市をつくってみたいと考えています。ゆくゆくはクノッソスをこえる世界だいいちの町を、建設したいと思います。王のご提言はいいお話ですが、アテナイを世界一の都市にするには、クレタと対等になる必要があります。ミノタウロスを退治すれば、朝貢の義務はなくなるという約束をうかがっております。対等の国として友好関係をむすぶのが、私の望みです」 「クレタを、こえるというのか。それは、たいへんな野望である。おまえに野蛮な力があるのは分かったが、こんないい話を振ってまで怪物退治がしたいのか」 「そのためにきた者なれば、ミノタウロスを倒して、クレタのミノス王と対等の関係をむすびたいと考えています」 「おまえが、なにを思うのか分からない。力がいくら強大でも、できないこともあるとは考えないのか。たとえヘラクレスであっても、ミノタウロスは倒せないのだ。おまえがいけば、迷宮のなかでさまよって死ぬだけなのだ。もう一度聞くが、私の好意をことわるというのか」 「ミノス大王は、ミノタウロスを倒せば、朝貢をやめアッティカと友好関係をむすぶと、一九年もまえから約束をしていました。その誓いを果たすために、父がいくなといったのにきたのです。私は、アッティカがクレタと対等の国になるのを望んでいます。ミノタウロスを倒し、仲間とともに帰国するつもりです」 「若いとは、なんと傲慢なことであるかな。それならば、ミノタウロスを倒すがよい。その言葉、しっかりと聞いた。取り消すつもりは、ないのだな」 「ありません」 「それでは、三日後、おまえは、ミノタウロスの生き贄となれ。儀式を行う、心して待て」 ミノスは、不機嫌になっていった。 翌日の夜、王宮から侍女がやってきて、テセウスに話があるといった。会ってみると、女のほかに神官の裾が踝までのながい灰色のローブを羽織り、ふかいフードをかぶった者がいた。 「神職から、内密にお話があります」と侍女がいった。 テセウスが、腰元を扉のまえに残して灰色の神官を自分の部屋に案内すると、フードを取った者はアリアドネだった。 「あなたは、ミノス王を怒らせました。王は、ミノタウロスの生き贄にするつもりです。パイドラは、ひどく反対したので、いまは部屋にとじこめられています。彼女は、悲嘆に暮れ、食事も咽に通らないほどです。パイドラは、ぜひとも翻意させて王にあやまり、前言を取り消すことを願いでるよう申しております。私は、使者としてまいりました」 アリアドネの頬は、青くそまって美しかった。 「私は、パイドラではなく、あなたが欲しいのだ」 テセウスは、彼女の手をにぎっていった。 「ご冗談は、おやめください。パイドラは、テセウスを思って、いまこの瞬間も苦しんでいるのです」 「あなたが、すべてなのだ。パイドラの気持ちが理解できるのは、まったくおなじに、私も苦しんでいるからだ。このまえの試合のときも、あなたが勇気づけて声援してくれなかったら、タウロスに殺されていただろう。ぜひ、もう一度、力を貸して欲しいのです」 テセウスは、アリアドネの碧い瞳をみていった。 「私に、なにをしろと」 「ミノタウロスを倒し、あなたをつれて、仲間とともにこの島を脱出してアテナイに帰りたい。いまは田舎町だが、私は、クノッソスに匹敵する立派な町につくり変えたいと考えている。アッティカ中の町をあつめて、ひとつにしたい。エーゲだいいちの都市をつくりたいのだ。パイドラではなく、あなたとふたりでつくりあげたいのだ。アリアドネ。あなただけを愛している」 テセウスは、そういってひざまずくと、彼女の右手を両手でにぎりしめて自分の額に押しあてた。 「どうしたらいいの」 彼女は、左の掌で目を覆った。 「あなたが、欲しいのだ。死ぬのは怖いが、さけることはできない。私も、いつかはタウロスとおなじになる。ここにきたアッティカの人びとは、みんな儀式のために死んでいった。人がやぶれ、ほろびるのは仕方がないことだ。おなじ一死なら、あなたのために。そのちかくで、死にたいのだ。アリアドネ、どんなにさけても、一目みたときから、私は夢中だ。パイドラを気遣う気持ちは、痛いほど分かるが仕方のないことなのだ。あなたと彼女は、おなじではない。私の愛を、うけ入れて欲しい」 テセウスがにぎりしめた手を、アリアドネは払った。両手で顔を覆った。 「アリアドネ。私の思いを、うけ入れて欲しい」 彼が、そういいながら両手でローブのうえからアリアドネの腿にふれると、彼女の身体はビクッと硬直した。 「テセウス。私は、どうしたらいいのでしょう。いけないことなのに。分かっているのに。あなたのことを、お慕いしていました。あんなにを恋しがっている、じつの姉がいるのに、どうして思うのでしょうか。もう、私には分からない。ここを訪問しては、いけないと思っていました。パイドラにくりかえしいわれて、こうなることは分かっていたのに、きてしまいました。あなたは、姉の手をにぎってもいません。でも、私にはふれている。温かい手。テセウス。私は、なにをしたらいいの」 アリアドネは、じっと直視すると、両手でテセウスの手をにぎりしめた。彼は、立ちあがると彼女をみつめ、やがて唇をかさねた。ふかい陶酔のときが、しずかにながれていった。 「方法は、これしかないのだ」とテセウスは心のなかで思った。 「あなたの望みは、私と結婚することなのですね。パイドラと王がいて、いっしょになるには、どうしたらいいのか分かりません」 「ミノタウロスを倒します。そして、迷宮から脱出します。あなたとともに」 「それは、不可能なのよ」 「あなたがいれば、なんでもできます」 「テセウス。あなたは、ミノタウロスを殺して脱出すれば、ほんとうにミノスが称えてくれるとでも考えているのですか」 「約束では、そうだと思いますが」 「もし万が一そうなったら、間違いなく、ミノスはあなたを殺すでしょう」 「なぜ、どうして、そんなことが」 「それは、あなたがラビリンスの秘密を知る事態になるからよ。もともと、ミノタウロスなど、いないからよ。どうして、存在しないものを倒すことができるの」 テセウスは、アリアドネの思ってもみない言葉に色をうしなった。 「私は、クレタが嫌いです。なぜなら、この島は呪われているからです。私をここから、すくいだしてくれるなら、あなたにミノス家の秘密をお教えしましょう。できることは、なんでも致しましょう。そして、あなたの妻になりましょう。クレタから脱出するには、相応の準備が必要です。ミノスは、王家の秘密を知ったあなたを許しはしないからです」 アリアドネは、話しはじめた。 ミノスの妻、パシパエの父親は、太陽神ヘリオスだった。つまり彼女の母親ペルセは、フェニキアのゼウス神殿の神聖娼婦で、クレタでも知られていたほどの有名な美人だった。ペルセの子供たちのなかでも、きわだって端整な顔立ちをしたパシパエの美貌は、神的ともいわれ、欠けるところのない満月にもたとえられた。一七歳のときミノスの目にとまり妻になった彼女は、結婚してすぐ長男のカトレウスをうんだ。多情な王は妊娠中から、ことあるごとに周囲の女に手をだした。子供がうまれてからも、移り気なミノスはさまざまな女性を相手に遊んでいたが、彼女は次男のデウカリオンを、ついで三男のアンドロゲオスをうんだ。その後しばらくして、四男のグラウコスを出産した。子供を四人うんだパシパエに、ミノスはなんの興味も示さなくなった。ミノス王は公然と浮気をはじめ、ふたりは喧嘩をくりかえした。 パシパエは、オケアノスの血統をひいていた。彼女は、有名な魔女キルケの妹にあたり、魔術の心得があった。ミノスの浮気にすっかりノイローゼになった三〇代なかばのころ、パシパエは母親のペルセに相談した。 母は、「なおらないなら、できなくするしかない」といった。 パシパエは、ミノス王と交わった女が悪臭をだす魔法を彼にかけた。ミノスが性交渉をもつと、相手の女性からはひどく不快な臭気が漂った。まわりの人びとは、彼女がなにを行ったか、すぐに分かった。その臭いは簡単に消えなかったので、女たちはミノスを敬遠しはじめ、ついには、だれも彼の相手をしなくなった。こまったミノス王は、さまざまな医者にみせたが、原因も治療法も分からなかった。それで、よりがもどったパシパエは、長女パイドラと、次女アリアドネをうんだ。 ミノスの母、エウロペは、フェニキアの王、アゲノルの娘だった。アリアドネがうまれたころ、従兄弟にあたるフェニキア王の結婚式に招待されてでかけたミノス王は、そこで魔術にたけたシモンを知った。 経緯を聞いた魔術師シモンは、王が病気ではなく魔法がかけられたのを見ぬいて、クレタにいけば、なおすことができるといった。魔女の血をひくパシパエが関与したとすぐに分かったが、夫婦間のいざこざに巻きこまれるのを嫌って、だまっていた。 シモンは、ミノスに三つのことを約束させた。なおす方法については、たずねない。なおっても、ほかの人にはいわない。とくに、奥さんには秘密にしておく。シモンが魔術をつかうのを、人にはいわないことだった。なおして欲しい一心のミノスは、要求をみとめた。 クレタにつくとシモンは、パシパエが眠っているときに、髪の毛を一本ひきぬいてもってくるようミノス王にいった。魔法を解くには、かけた相手の身体の一部が必要だった。 ミノスは、シモンの言葉にしたがって、パシパエが寝ているときに髪を一本ひきぬいた。よく眠っていたのに彼女は、その行為ですぐに目覚めた。そして、「なにをしているのか」と聞いた。 ミノスは驚いて、「フェニキアからつれてきたシモンが、パシパエが美しいのをみてすっかり夢中になり、記念に毛髪を一本、欲しがったからだ」と答えた。 ミノス王は、髪をわたすときに、よく眠っていた彼女が目覚めて会話をしたことを話した。シモンは、疑われたのではないかと心配したが、その髪の毛をつかって魔法を解いた。 魔術師シモンになおったとつげられたミノスは、試してみたが相手をした女が臭気を発しなかったので感激した。王は、いままで数多くの治療をうけて、医者に治癒したといわれたが、すべて失敗していた。そのときまで、シモンをとくに信頼していたわけではなかった。ミノスは、魔術が凄いものだと分かり、だれが魔法をかけたのかたずねた。シモンが答えなかったので、いっそう聞きたくなった。王は、最初の三つの約束に、この問いが、ふくまれていないことを主張し、当初に決めた治療費を二倍払うといった。 シモンは、パシパエであると話した。ミノスは、それを知って猛烈に憤慨して敵をうちたいから協力しろといった。トラブルに巻きこまれるのを嫌っていたシモンは、首を縦にはふらなかった。ミノスは、協力してくれればキクラデス諸島の島をひとつあたえるとまで約束したが、彼はのらなかった。シモんがフェニキアに帰るつもりになり、パシパエに挨拶にいくと、彼女は「ながい髪の毛をあつめたい、あなたの気持ちはよく理解できますが、無駄なことですね」といって笑った。 シモンは、四〇歳まえだったが禿げていて、どんな魔術をつかっても毛髪をえられなかった。それが唯一の悩みだったので、配慮のない言葉にむっとした彼は、心を変えミノスに協力を申しでた。 「王妃に、彼女の本心を聞きだしてみましょう」 シモンは、王にいった。 ある晩、侍女と衛兵に、宮廷内で物音を立てたら死刑にする。なにが起きても執務室の扉をたたくことがないよう、ミノス王はつよく命令した。 ミノス、パシパエ、シモンの三人は、ひとつのテーブルをかこんでお茶を飲んだ。魔術師シモンは、フェニキアのレバノン杉を伐採する話をして、彼女のまえで木を切るときの手つきを、ゆっくりとくりかえした。 「なにも話してはいけない」といわれたミノスは、だまってその様子をみていた。 「あなたは、もう眠っている」 シモンは、とつぜんパシパエにつげた。 ミノスがみると、彼女は眠りについていた。 「あなたは、王が好きですか」 シモンが、たずねた。 「嫌いです。虫ずが走るほどです」 パシパエは、答えた。 「好きだったことは、ありますか」 「ほんのはじめだけです。あの男は、移り気で、スケベで最低です」 「ちかごろは、どうですか」 「魔術をかけてやったら女がよりつかなくなって、いい気味ですが、それからは、やたら私のそばにきて、べたべたはじめて気持ちが悪いったらありません。はやく死んでしまえばと思っています」 「好きな男がいますか」 「それは、タウロスです」 「彼と、寝たことがありますか」 「タウロスとは、一時はげしい恋をして、愛しあいましたよ。それで、グラウコスをえたのです。彼こそ、私の慰めなのです」 シモンは、それを聞いて青ざめた。 「指を鳴らします。いいですか。いま、あなたはすっかり、すっきりとした気持ちで目覚めます」 シモンは、指を鳴らした。 「あら、どうしたのかしら、私、眠っちゃったのかしら」 パシパエは、目をさましていった。 「これで失礼いたします」とシモンはいって、ミノスとともに部屋をでた。翌日、彼は、「もう、島はいらない」とつげて、そうそうにフェニキアに帰っていった。 ミノスは、ひとり煩悶し、グラウコスがうまれたころのことを思いだした。 一七歳で結婚したパシパエは、翌年長男カトレウスをうみ、次男デウカリオン、三男アンドロゲオスとたてつづけに妊娠した。グラウコスをはらんだときには、二二歳で三児の母親だったから、女としてはもっとも充実した時期といえた。 パシパエの美貌は、そばで毎日みるミノスでさえ素晴らしいと思ったが、ひどい焼き餅で独占欲がつよく、王の行動をいつでも批判がましくいい立てたので、しだいに距離をおきはじめた。そのころミノス王は、社交界の花形だったソプラノ歌手といい仲になって、彼女をかまった記憶はほとんどなかった。パシパエの腹が大きくなって妊娠に気がついたとき、「はてな。いつこんなことがあったのか」と不思議に感じたが、自分以外の者と不倫をするなど思いもよらなかった。王は、彼女を妊娠しやすい女だと考えただけだった。 タウロスは、パシパエとおない年で当時は親衛隊の隊長だった。たくましく男前だったから、ミノスがねたましく思えるほど、なにかにつけて女たちは彼を話題にした。タウロスは、女神アルテミスに魅入られ女嫌いだったから、いいよる女性をいつでも冷たくあしらっていた。競技会で優勝する勇ましい姿をみた女たちは、溜め息を漏らした。 忠実な部下とばかし考えていミノスは、疑うこともなかった。じつのところは女嫌いだったのではなくて、ふたりはできていたのだと理解した。親衛隊だったので、宮廷への出入りには特別な制限がなく、意志があれば会うことは可能だった。しかし、手びきする者がいなければ、すぐに耳に入ってくるはずだったから、多分パシパエの乳母が仲介の役割を果たしたのだろうとミノスは推測した。 思いだせば、そのころはミノス自身もひどく多忙だった。ミノスがクレタの王位を継承したのは二七歳のときだった。パシパエが四男を妊娠した時期で、さらに二九歳になった変人ダイダロスが、逃亡してきた年でもあった。 発明家であり建築家であるダイダロスは、アテナイばかりかエーゲ海をこえた東地中海世界で高名だった。彼は、人生の成功の階段を着々とのぼっていた。ところが、思わぬところに陥穽が待ちうけていた。つよい希望で、姉の息子を徒弟にしてから、人生は狂いはじめた。この甥のペルディクスは、彼が教える以上を理解し、考えもつかない発明をつぎつぎとうみだした。 砂に埋まったワニの歯をみてノコギリをつくったのは、基本的には真似ただけだったから、ダイダロスは許すことができた。「綺麗な正しい円を描く道具」については、彼がずっと悩みつづけ、さまざまな工夫をこらしていたものだった。それが、ひと言その話をした翌日、ペルディクスは二本の棒を組みあわせた器具をつくってきた。「こんなものを考えました」といって、彼のまえで、さまざまな大きさの美しい円を描いた。 「中心がうごかないで、円周をひくほうの脚が手とともに移動するのです。いっしょのcomと、歩くpassで、コンパスって名前をつけようかなって思っています。それにですね、こうやって磁石をつるすとですね」とペルディクスはいって、一本の棒磁石の真んなかを糸でむすんで垂らした。 「北と南をさして、いっしょにうごくのです。だから、これもコンパスですね」と彼の顔をみて、あどけない表情でいった。 ダイダロスは、努力してようやく世間にみとめられるまでになったのに、甥は発明の才能をうまれつきにもっていた。このままでは、そう遠くないうちに、名声はペルディクスに取って代わられるに違いないと考えだすと、いても立ってもいられなくなった。思い悩んで夜もまったく眠れなくなった彼は、すっかり嫉妬に狂い、アクロポリス北面の、いちばん高い崖のところから甥をつき落として殺してしまった。この事件によって、ダイダロスはアテナイの法廷でさばかれ、死刑をいいわたされた。彼の才能を惜しむ者がいて、国外に逃亡させてもらい、経緯を知ったミノスがむかえ入れたのだった。 ミノス王は、ありあまる富と人民をつかって、エジプトにもフェニキアにもない世界最高の宮殿をつくろうと、パシパエとの結婚当初から考えていた。しかし、クレタには大建造物を設計する技術者がいなかった。そこにあらわれたのが、世界最高の建築家、ダイダロスだった。王は身の安全を保証し、「お金は、いくらかかってもかまわない。最高の建築物をつくってみないか」ともちかけた。 自分の才能が形になる絶好の機会をえて、ダイダロスは心から喜んだ。それから一五年を費やし、彼はクノッソス宮殿を建造した。 この天才肌の変人は、苦労話を聞いてやり、ねぎらいの言葉をかけ、「さすがは、ダイダロス。おまえは世界一の天才で、代わる者はいない」と称えてさえやれば、いくらでも骨身を惜しまず仕事をした。そばでみるミノスが、おかしいと思うほど単純な人間だった。 ミノス王が、まずこえたいと考えたのは、ピラミッドだった。この墳墓は壮大だが、どこまでもナイル西岸の沙漠に合致した死者のための家で、ナイル東岸の緑色につつまれた生者の場所との対比で成立していた。緑豊かなクレタ島には、テーマとして不充分であるばかりか、二番煎じで独創性にかけていた。 クレタは、そもそも海のなかにあって外敵が侵入してくる危険がない。海洋国家の海軍力に、まさる敵がいないのだから、まもりを主眼に建物をつくるのは無意味だった。クレタは、エーゲの覇者であり、世界の中心に位置していた。現世はすでに素晴らしいもので、忌避すべきは亡者がまよいでる事態だった。 宮殿は、生者と死者の両者が同時に暮らすためにつくられるべきだが、死人が出現するのはさけねばならない。亡者を内がわに取りこんでおける、絶対脱出できない地下空間を創造するべきである。外から入るのは容易でも、でてくるのが不可能な地下宮殿をつくりたい。そうすれば、ピラミッドが直面する盗掘からも、自然と死者をまもることができる。なぜなら迷路とは、たとえ入れても脱出できないから、ふみ入った者はすべて地下空間から逃げられなくなる。つまり、内がわの世界に取りこまれてしまうのだ。 こうした話をダイダロスにすると、入れても脱出不可能な迷路空間を、現実世界と冥界におなじ構造でつくったらどうかといった。ただし地上部分は、開閉できる扉があって、そこを通じて内がわと外がわが、つながることもできる。しかし、地下空間には戸口がない。そうすれば、地下は内がわだけの世界になる。生者の領域と死者の冥界を自由に行き来できる者が、だれもいなければいいのではないかと提案した。かつて聞いたこともない話に、ミノスはすぐに賛成した。ダイダロスは、豊かな財力を思いのままにつかって、彼の設計にそった王宮を一五年かけて建築した。 この巨大な宮殿の地下に、地上とまったくおなじ構造の空間がつくられている。そこには中央広場もあるが、北正面の門はそもそも造設されていない。地上の宮殿も、操作によりすべての扉をとじることができる。そのとき、地上宮殿も脱出不可能な迷路に変わる。 こうした奇抜な工夫は、ダイダロスがもっとも得意とする分野だった。やがて彼は、自分が生きて宮殿をでられないことを悟った。なぜならダイダロスが死ねば、だれも迷宮をぬける手立てを知らないから、ふたつの世界を行き来できる者が完全にいなくなる。まよいこんだ人びとは、永遠に地下にとじこめられてしまうからだった。 ミノスは、パシパエについてだれにも相談することもできずに、なんとか敵をうちたいと思って考えつづけた。そうして、恐ろしく卑劣な手段を思いついた。 アリアドネがうまれて半年たったころに、王権と神官の長をあわせもつミノスは、パシパエとふたりで神殿のまえでゼウスに祈りをささげ、彼女にいった。 「これは秘密の話だから、よく聞いて欲しい。このたび、世継ぎのために特別な神の子をもうけろという神託がおりた。恥ずかしい事実だが、私は長年放蕩をしたせいで神罰をうけ、知っての通り、おまえ以外の女性と交わることができない不治の業病をもっている。だからこの神託は、丈夫で立派な子供をうめるゼウスの加護があるパシパエ。おまえにくだされたもの、というのが神官たちの意見なのだ。それで考えたのだが、パシパエの母親も、太陽神の子供をさずかった。今度は、ゼウスの子をもうけてもらい跡取りにしたい。しかし、おまえも素性が分からないのでは、二の足をふむのは当然だ。ゼウスの子供となれば、私が信頼する立派な将軍であるクレタの雄牛こそが、相応しいと考えたのだ。もちろん神殿で交わるが、伴侶は神という名目だから容貌がみえるのは問題だ。おまえは雌牛の格好をし、相手は角をつけた雄牛の覆面をかぶって、たがいに顔を会わさずに子供をえたらどうだろうか。奇妙な話だが、世継ぎのことなので、時間はあるからよく考えて欲しい」 あまりにも異様な申し出に、パシパエは驚いた。彼女は、即座にことわったが自室でひとりになって考えてみた。カトレウスとデウカリオン、アンドロゲオスは、三人とも父親に似て、多情で冷酷で、パシパエはミノスをみている気がして、とても好きになれなかった。グラウコスは、やさしくて彼女の慰めだったが、王位を継承するためには、うえの三人が死なないかぎり無理なことだった。 パシパエが太陽神の子といわれるのは、母親が神殿で礼拝にきた知らない男と情をかわしてできた子供だったからだ。すでに六人の子女をもった彼女は、身分も不明なみず知らずの男性と情交する気には、なりようがなかった。とはいっても、相手がクレタの雄牛というのなら、話は違っていた。パシパエは、いまは将軍になり妻子ももたずに彼女だけを愛しつづけるタウロスを思慕していた。しかし彼とのあいだに子供ができたとき、心の芯からぞっとした。交渉がなかったので、妊娠に気づくや否や、ミノスに頭をさげて同衾を頼んだ。それでも当然疑うものと考え不安の日々をすごしたが、王は自分のことに夢中で、彼女の浮気など思いもよらないらしかった。子供ができた事実は、タウロスとの関わりを思いなおさせた。くりかえせば隠しつづけられるはずはなかったし、もし知れたときには、非情なミノスがどんな罰をあたえるかと考えると、関係は精算せざるをえなかった。 ミノス王は、魔法が功をそうして女に相手にされなくなり、そのせいでパシパエはかえって自由をうばわれていた。タウロスへの恋情はつづいていたから、ゼウス神殿で交わるという奇妙な提案は、はげしい空想に変わっていった。 神殿は、クノッソスでは王宮の一部として宮殿内に併設されていたので、神官の許可なしに入ることはできなかった。閑散とした野外の神域、奇妙な体位での異常な交接、恋しいタウロスとのはげしい情交、妄想はどこまでもひろがり、彼女はぞくぞくと震えた。 幾日かたって、「もし仮にそうしたことをするなら、私はどんな格好になるのでしょうか」とミノスに聞いてみた。 「ダイダロスに、相談したらどうか。彼なら、どこからみても雌牛にしかみえない精巧な道具をつくるだろう。ただし相手がクレタの雄牛であると分かるよう、外を観察できる必要がある。彼は天才だから、相談すれば希望通りの雌牛をつくるだろう」 「どうして、相手がクレタの雄牛になったのですか」 「神託のいう、つぎのミノスは、ゼウス。つまり雄牛の子供なのだ」 「タウロスには、どう話をしたのですか」 「クレタの雄牛は、神の意志にはしたがうといっている。王位継承に関わる極秘事項だから、雌牛がだれなのかについては話していない。うまれる子供が世継ぎになるのは、当然いっていない。かるがるしい問題ではないから、おまえもだれかに話したら神罰がくだると考えたほうがいい」 ミノス王は、ふたり切りのとき、おもおもしい口調でいった。 妄想の虜になったパシパエは、神託をうける旨をミノスに話した。 ミノス王は、彼女を同席させてダイダロスをよび、精巧な雌牛を秘密裏につくることを命令した。その牛は、外見だけでなく、いくつかの条件を満たさねばならない。パシパエが入り、自在に移動でき、彼女がなかにいるまま、ミノスと情をかわせることだった。 奇妙な注文ではあったが、ダイダロスは、とくにふかく考えずに承諾した。名工ダイダロスは、技を示す機会があれば、それがどんなに不自然でまがまがしくても、自分にしかできないと思えば意味も考慮せずつくってしまうタイプの人間で、完成品をみたミノスが絶賛すれば満足した。 完成した雌牛は、条件に充分にかなうものだった。ひそかに設けられた部屋で、パシパエが裸になってなかに入ると、ペダルがあり、手足をつかって自在にうごかすことができた。暖かくつくられた雌牛の内部からは、外の世界がいままでとは違ってみえ、それだけでも不思議な快感に満たされた。この状態でクレタの雄牛と情交するかと考えると、妄想が脳裏をかけめぐり、愉悦がこみあげてきた。 雌牛ができて、ゼウス神殿の神官たちに特別な儀式の挙行をつたえ、パシパエが妊娠できる日を考慮し、日取りを決めた。ミノスは、一五歳の四男グラウコスに、神の子の父親になる提案をした。王位継承権をえるためには、ゼウス神殿で雄牛の面をかぶり、そこにいる雌牛と情交する神事を行わねばならないが、極秘事項で他言は無用だとつよくいった。 王位はまったく望めないと考えていたグラウコスに取って、意外な話で魅力があった。彼は、即座に賛意をあらわした。成長期に入り、かなりたくましくなったグラウコスは、指定された日の夕方、神殿にいった。ミノスからじきじきに、雄牛の文様がついたマントと、角が生えた面をわたされた。神域は、神官もふくめてだれも入れず、静寂が支配していた。ゼウスを祭る神殿のまえに雌牛がいた。マントに覆われ、雄牛の面をつけたグラウコスを確認すると、牛は情交の体位を取った。彼は責任を果たし、パシパエは神の子を身籠もった。 事件は、ずっと秘密にされた。もちろんパシパエは、はらんだ子供の父親がミノスではなく、雄牛であるとは話さなかった。 グラウコスは、王位継承の話はずっと先だといわれ、神事を果たしたとしか考えていなかった。パシパエが臨月にちかづいたある日、ダイダロスの倉庫で雌牛をみつけた。あきらかに神殿でみた牛で、そもそも、こうしたものをつくれるのは彼しかいないと、はじめて気がついて、「これはなんなのか」とたずねた。 「パシパエが、今回妊娠するのに、この雌牛をつかったのだと思う」とダイダロスは答えた。 グラウコスは、血の気がひいて青ざめた。ミノスをさがしてふたり切りになり、ダイダロスの倉庫にある雌牛について問いただした。 「このたびの神事は、牛との情交だったが、なかにだれがいたのかは知らない。ダイダロスがそういうのなら、パシパエに聞いてみるべきだ」とミノスはいった。 グラウコスは、ひとり、もんもんと悩んだ。はっきりさせたいと思い、パシパエのところへいったが、臨月の母をみてなにもいえなかった。 あきらかに、なにかに悩んでいるグラウコスに、彼女はひとりで考えないで相談しなさいとすすめた。彼は、ためらったが、母が再三くりかえしてつよくいうので、乳母を遠ざけてからダイダロスの倉庫でみた雌牛の話をした。 「私は、子供たちのなかで、おまえをいちばん愛しているから、あなただけに教えます。これは、絶対に人にいってはならない秘密です」 パシパエは、そう前置きし、昨年この内部に入ってゼウスの子をえた話をした。 「神の子供とは、どういう意味か」とグラウコスは恐る恐る聞いた。 パシパエは、去年の秋に、神殿で神事が行われたと話した。真っ青な顔のグラウコスに、どうしたのかとたずねた。 「私も、去年の秋、神事に参加しました」 「なに、それ」 パシパエは、けげんな顔をして聞いた。 「分かりません。雄牛の角が生えた面をかぶって、神殿で雌牛と交尾したのです。私が射精したとき、牛はタウロスと叫んでいました」 グラウコスは、消え入る声でいった。 「なんと」 パシパエは、叫んで気をうしない、そのまま産気づいた。うまれてきた子供は、頭がふたつで腕と脚が四本ずつあり、背中がくっついてひとつになった双子で、どちらの頭部にも小さな角が生えていた。それをみたパシパエは、ふたたび気をうしなった。同席していたグラウコスは、姿を消し、どこにもいなくなった。 ミノスは、息のあった新生児を殺し、パシパエの乳母と母も殺害した。ペルセは、きっと魔法をつかって真相を知り、復讐するだろうと考えたからだった。 失踪したグラウコスは、半年ほどたって倉庫室にならんだ蜂蜜貯蔵用の三メートルほどもある大甕のなかからみつかった。死ぬつもりで飛びこんだらしく、身体には重い青銅の双斧が三本、縄でしっかりとしばられていた。六ヵ月以上にわたって蜂蜜にひたされ、彼はミイラに変貌していた。 度重なった不幸に、パシパエは完全に気が狂った。 ミノタウロスとは、変装した雄牛と雌牛の交尾によってうまれたシャム双生児で、すでに死んだものだった。地上からの光がふってくる地下のいちばん南がわに祭壇を造設し、中心に柱を立ててミイラになったグラウコスをつりさげ、真下にミノスが殺した双子の遺体を、もともと埋めてあった場所からうつし変えた。その東がわに牢屋をつくって、狂ったパシパエをとじこめた。 ミノスは、ミノタウロスを「迷宮の守護神」とよんだ。さらに、父親のグラウコスのミイラを、「ラビリンスの主人」。狂ったパシパエを、「迷宮の女主人」とよんだ。三人をまとめて、「ミノタウロスの一族」とした。だから、親族はすでにほとんど死んでいて、もうだれにも殺せるものではなかった。 地下の中央広場の南端には、宮殿南がわに立つ尖塔につらなって、左まわりにのぼる螺旋の階段がある。塔の頂上までつづく螺旋階段は、壁の外壁にそってつくられ、中心部は空洞になり構造物を欠いていた。尖塔の真下は、地下空間で唯一光が入ってくる場所で、その部分だけがあかるかった。尖塔上部にはダイダロスが考案した機械仕掛けの蓋がつき、三日に一日だけ開口した。あいたときには光が地下にとどくが、とじられればすべてが闇になった。 ミノタウロスの事件は、ミノス家の恥であったから、だれもあえて話さなかったが、ダイダロスがつくった雌牛のなかに入ったパシパエや、グラウコスが角が生えた雄牛の仮面をつけた話。奇形の新生児がうまれたなど、人の口には戸が立てられないといわれる通り、王の一族の耳にとどかなかっただけで、巷ではまことしやかに語られていた。ミノスは、この話がさまざまに脚色されて世間の噂になっている事実を知り、地下空間の守護神としてミノタウロスの存在をみとめた。すべての原因は、ポセイドンによって雄牛に異常な欲情を抱かされた、パシパエの狂気とした。 こうした不幸がミノス家を襲って一息ついたころ、三男のアンドロゲオスがアッティカでアイゲウスに殺されるという事件が起きた。ミノスは、息子の死が不慮の事故と分かっていた。そもそもアンドロゲオスが、うまれたばかりのふたりの子供たちを残してギリシア本土にいったのも、こうした家のごたごたが嫌になったからだった。 ミノスは、報復と称して出兵してアテナイを占領した。このときに、クノッソスの地下にあるラビリンスの守護神、「ミノタウロス」の存在を明言し、宣伝した。アッティカとの和睦の条件として、クレタの大祭ごとに若い男女を七名ずつ、計一四名のアテナイ市民を貢ぎ物としてさしだすことをアイゲウスに提示し、合意させた。それでミノスは、この件を終わりにしたのだった。 アリアドネは、ミノス家の秘密をテセウスに話した。 「ミノス王の行為は、決して許されません。神のさばきを、うけることになるでしょう。もちろんタウロスの行為が正しいわけではありませんが、いまは被害者といってもいいのです。地下空間をまもるミノタウロスの一族とは、愛した子供たちで冥界にいますが、彼は現世にとどまり、生き地獄をさまよっているのです。年老いて、さらに粗暴に孤独になって、ミノスの拷問をひとりでうけつづけているのです」 「母のうんだ子供は、アステリオンといいます。そもそもミノタウロスという怪物は、この世に存在しないのですから、だれにも殺すなどできないのです。だいいちグラウコスのミイラがおかれる中央広場まで辿りつくのは、とうてい不可能なのです。あなたは、ミノスに迷宮に入る約束をしました。とても、生きてもどってくることはできません。王の謁見の間で、空席になった左の玉座をみましたね。クレタでは、勝者が左がわを取るのです。ですからあの座は、王よりも貴人である母パシパエのものです。いまは、冥界の女王なのです」 「王女。ダイダロスは、道を知っているのではないでしょうか。迷宮に入って中央広場まで辿りつけば、塔の螺旋階段をあがって地上にもどってこれるのではありませんか」 「それでも、いくつもりなのね」 「ほかに、あなたをつれだす方法はないでしょう。私が迷宮に入ってしまえば、ミノス王は二度とでてこれないと考えて安心するでしょう。あなたが塔の出口をあけてくれれば、地上へもどることもできるのではないでしょうか。その道を、ダイダロスなら知っているのではありませんか」 「彼は、年に一回、兵士をつれ、松明を点して迷宮を探索します。クレタでは、罪人をラビリンスにおくりこみます。彼らが迷路で斃死しているのを掃除をするためです。なかには、どこからかまぎれこんで死んだ者もみつかるそうです。いっしょについていく兵士は、ダイダロスをみうしなえばでてこれませんから、ずっとそばにいて、片ときも離れないという話です。彼は、なにかを知っていると思います」 「ダイダロスから聞きだすことは、できないでしょうか」 深刻な表情をしたアリアドネは、ゆっくりとうなずいた。そして、翌日またくるといい残して帰っていった。 アリアドネは、翌朝、ダイダロスの工房をたずね、ふたり切りになってテセウスの話をした。彼は、どんなに説明しても、迷路をぬけて地下の広場まででてくるのは不可能だと思った。よく構造を知ったダイダロスが松明を点してすすんでも、注意しないと間違えてしまう小径だった。ところどころに自分だけに分かる目印をつけてあったが、炬火のあかりがあって、はじめてみえるもので、暗闇のなかで辿りつくのは不可能に思えた。しかし六五歳になり、老いた彼は、故郷のアテナイが懐かしかった。 ダイダロスは二九歳のとき、この地に逃亡してきたから三〇年以上、クレタに住んでいた。そのあいだ、牛跳びを大祭で成功した者はいなかった。サワランが見事になしとげ、テセウスがアテナイ人の名誉のために戦い、勝利したのをみた。不可能だとは思ったが、アリアドネの熱い気持ちに心がうごかされた。ダイダロスからみても、ミノス王がパシパエにした仕打ちは、むごいことに思えた。ミノスは、アテナイに帰るのを絶対にみとめてくれないだろう。テセウスが助かれば、自分の追放を許すだろうと思った。いっしょに逃げるのを条件に、でてこられたときには、塔の鍵をあけようと話した。螺旋階段をあがって二周すると踊り場に扉があるから、三度たたけば開口すると約束した。 つぎの日、アリアドネは侍女をつれてやってきて、ダイダロスの話をつたえた。 「この宮殿は、地下空間だけが迷路になっているわけではありません。扉をとじれば、私たちの住む上部の王宮も、おなじなのです。こうした迷宮は、エジプトにもあると聞いていますが、構造の不規則性から考えるなら、迷路としての完璧性では比類のない建物なのです。たとえだれかが侵入してきても、王の部屋に通じる道をさがしあてることは不可能です。王家の者だけが知っているぬけ道はありますが、地下の暗闇のなかでは分かりません。いいですか、テセウス。月が、でていなければなりません。雨がふって厚い雲に覆われるか、新月だったら、もうだれにも道はないのです。地上にあってさえそうなのです。月のない夜は、クレタではだれも宮殿内を歩くことができません。 地下の空間は、死者たちの世界で冥界です。そこには、亡者のために風呂場も手洗い場もそなえられています。死人がでてくることも、生者が脱出するのもほとんど不可能との話ですが、ダイダロスは教えてくれました。成功した暁には、いっしょにクレタからの逃亡を望んでいます。アテナイに帰りたいというのが、彼の希望です」 そういって、迷路の道順を教えた。それは、つぎの言葉だった。 「一は二となり、三に変わる。やがて、あらわれた完全な数、四は、三と一からでき、二と二でもある。この数字、一、二、三、四。三、一、二、二、の順を覚えるのです。奇数は右に、偶数は左に曲がります。数字は、ぶつかる通路の本数です。最初はひとつすすみ、奇数ですから右に曲がります。それからふたつ目の道を、偶数ですから左にむかいます。つぎが奇数のときには、右手を壁につけて数字の分だけ通路をこえます。偶数では、左手をそえてすすみます。冥界には七つの門があるといわれ、それらを潜りぬけなければ、脱出できないので、七回くりかえすのです。そうすると中央広場の北端にでて、そこで光が注いでくるのを待つのだそうです。あかるくなったら、塔の螺旋階段をあがってください。ひとつだけ、お願いがあります。母のパシパエは、まだ生きています。私が最後に会ったのは二年まえで、なにを話しても分かりませんでした。広場についたら地下牢をあけて母を殺し、グラウコスのミイラも埋葬してください。青銅の双斧のまえに埋められたアステリオンの遺体もほりだし、残った骨をいっしょにあわせて、家族をひとつにして墓地に葬ることをお願いします。それが、私の希望です。 それに、おかしなお願いですが、昨日夢をみたのです。バラ色の頬の少年が、グラウコスの遺体は八つ裂きにして葬れというのです。ミイラにまでなった兄が、なぜさらに重い罰を科せられるのか分かりません。しかし、そうすればすくわれると、少年はいっていました」 つぎの日、朝はやくに宿舎に兵がきて、テセウスはつれていかれた。北正門より宮殿の西外壁にそって南がわにむかうと、勾配のついたほそい小径が通じる西門がある。そこは、ミノス王家の特別な賓客用のロイヤルロードで、さらに南にすすむと地下につづく階段がつくられ、おりるとひろい踊り場になっていた。テセウスよりも背が高い聖なる角のオブジェがおかれ、行く手は青銅の双斧が象眼された壁でふさがれていた。しばらく待つと、親衛隊をつれたミノスとアリアドネがやってきた。 「勇者よ、三日分の食料と水をあたえる。毒など入っていないから、安心しろ。普段はこんな餞別などないのだが、おまえはパイドラを虜にした。彼女は、いまも狂って部屋でわめきつづけ、なげき悲しんでいる。それが、アリアドネを怒らせたのだ。おまえは、簡単には死ねず、自分がえらんだ道を存分に後悔するためにあたえられるのだ。きっと、毒が入っていればよかったと思うときがあるだろう。このマントも、もっていけ。おまえは、寒さでも死ぬこともできない。さまよい、まよいつくして、自らの傲慢を悔いるがいい」 ミノスが手をあげると、通路の両端にかかる鎖を、兵士たちが声をあわせてひきあげはじめた。先にぽっかりと洞穴がみえ、奥にむかって洞々たる闇がつづいていた。マントをきて食料と水を抱えて、テセウスはなかに入った。 「いけ、さらばだ」 ミノスはいい、大きな音を立てて釣りあげられた石の扉がしまった。彼は、ふかい洞穴のなかにひとり取り残された。 漆黒の闇をまえに、テセウスは、まずすわりこんだ。パニックになっても、仕方がなかった。迷路をよく知るダイダロスが、松明をかざして歩くと、一時間ほどで中央の広場にでるという。だから最短では、一〇〇〇歩ほどの距離なのだろう。普通の迷路では、片手を壁につけて歩きつづければ、かならず目的地にでてこられるといわれる。そうした力ずくの方法は、ダイダロスの美意識にひどく反し、右手でも、左手でも、一週間かかっても辿りつかないぐあいに設計されていた。通った道に印をつけても、くりかえしおなじ場所にでて、やがて暗闇のなかで気が狂ってしまうといわれていた。 三日間の食料とマントは、アリアドネが脱出のために考えてくれた唯一の武器だった。うまく迷路をぬけて中央広場に辿りつけたとしても、南の塔の尖端が開放され、わずかな光が広場を満たすのは、三日に一度だけだった。それまで彼は、地下に眠る死者たちとともに、闇のなかで再生のときがくるのを待たねばならなかった。 テセウスは、大きく深呼吸した。空気は、ひんやりと冷たく、やや乾いていてカビの臭いがした。瞳孔が、どんなに散大しても、微かな光も途絶えた世界では、ただ暗黒が無限にひろがっているだけだった。彼は、アリアドネの言葉を思い起こした。 「一は、二となり三に変わる。やがて、あらわれた完全の数。四は、三と一からでき、二と二でもある」 いそぐ必要はないが、ひとつでも間違えたら終わりなのだ。脱出するのは、永遠に不可能になる。ひとつひとつが、絶対の正しさで確実に行われなければならない。最初は一、右に曲がる奇数で、つぎにでてくる通路だ。テセウスは、右手を壁につけ、ひとつ目の角に辿りついた。そこで右の道にすすみ、今度は左手でふれ、ひとつ道をやりすごした。ふたつ目の角を左に曲がった。その先には、暗闇がただひろがっていた。道には、ところどころに石がころがり、つまずくとすぐに、いま歩いている数を言葉にだした。永遠とも思えるながいときが、闇のなかですこしずつすぎていった。 もう、どれほどの時間が、たったのだろうか。テセウスは、暗闇のなかでマントを羽織ってうずくまっていた。自分が正しいのかどうかは分からないが、一、二、三、四。三、一、二、二、の順を、アリアドネにいわれた通り七度くりかえした。それが終わった場所に、うずくまっていた。どれほどの時間が、ながれたのだろうか。疲労の程度からすれば、半日ほどかとも思われたが、判断する目安がどこにもなかった。パンを食べて水を飲んで、彼は待っていた。食糧がつきるまでに、どこかがほんのりとあかるくならなければ、自分は間違えたのだ。いわれた通りに歩いて、この場所についたのだから、うごくことは絶対にできない。正しいとは思うが、考えだすとよく分からないところもいくつかあった。彼は、自分が過去にえらんだ道を信頼し、現在いる場所を確信し、その先につづくはずの未来を信じて待っていた。もう、それしか方法はなかった。 ふかい冥界の闇が、つづいていた。どこにも、光の痕跡はみつからず、時間だけが無限につらなっていた。風も音もなく、ひんやりと湿った臭いが漂うだけだった。もう、何回パンを食べただろうか。何度、水を口にしたのだろうか。視覚的にも聴覚的にも、ひろがりをうしなった世界は、ただ闇と静寂に支配されていた。 おれは、いったい、なにをもとめていたのだろうか。ギリシア一の英雄ヘラクレス、彼だったら、この窮地をどうやってのりこえるのだろうか。媚薬など、つかわなかったに違いない。おれは、卑怯だった。どうやったら、よかったのだろう。アリアドネを、愛している。あなたの真っすぐな高い鼻、愛くるしい碧い瞳、エーゲの海の色だ。彼女は、扉のまえで待っていてくれるのだろうか。いま、すぐにあなたを感じたい。抱きしめたい。思い切り、息ができなくなるほどに。ミノス王にあやまって、許しを請うべきだったのではないか。アイゲウス。おれの父。アイゲウスの名前は、エーゲ海からつけられたのではない。アッティカの英雄の名が、ギリシアの海の名称になったのだ。その父が、いくなといったのに。比類なき英雄が、涙をながして頼んでいたのに。すすんで、クレタにきてしまった。なんでも、できる気がして。それなのにいまは、闇のなかで震えている。アッティカにいれば、王の息子として贅沢に暮らせたのだろう。美しい女と、楽しい毎日をすごしていたのだろう。シニスの娘、ペリグネは綺麗だった。アスパラガスの畑に、隠れていた。あのとき彼女は、父親の身体をひき裂いて殺した恐ろしい男に震えていた。それを無理矢理、押さえつけて、泣き叫ぶペリグネを犯したのだ。ただ、欲望のおもむくままに手に入れたのだ。どうして、そんなことができたのだろう。あのとき彼女は、ちょうどアリアドネとおなじくらいの年だった。ペリグネの青い目から、涙がぼろぼろと落ちていたのを思いだす。アリアドネの碧い瞳を、もう一度みつめたい。なんとしても、あなたの肌を感じたい。その胸に頬を埋めることができるなら、死んでもいいのだ。祖父のピッテウスは、いつでもやさしかった。格闘技や剣や弓の先生を何人もつけてくれたが、なんのために、そんな協力をしたのだろう。つよくなれと励ましてもらったが、おれにどんなことを望んでいたのだろう。たくさんの時間をさいてくれたが、いったいなにを応えたのだろう。おれは、いつでも人に頼り、利用するだけなのだ。アリアドネ。あなたを利用したのではない。信じて欲しい。愛しているのだ。あなたに助けてもらって、助けだしたい。いつか死ぬなら、そばで消えていきたい。あなたが塔の下で待っていてくれるなら、なんとしてでも、この冥界をぬけでなければならないだ。タウロスは、ミノス王の目のまえでたたきつけ、殺したかったのだろう。ミノスは、彼同様におれを憎んでいる。タウロスとは、おなじだ。ミノタウロスとは、ひとつはミノスで、もうひとつはタウロスなのだ。だから、この冥界をまもる者は、彼がもっとも愛しく思う者たちなのだ。タウロスは、おれとおなじ被害者で、最愛の人たちのために戦ったのだ。彼の悲嘆を、感じることができる。そしてアリアドネ、あなたも、おなじ悲しみのなかにいる。母のアイトラは、なぜ父と暮らさなかったのだろうか。綺麗な人だったから、若いころはもっと素敵で、望めば人生を楽しみ、幸せもつかめたに違いない。父は、母をすてたのだろうか。ただ、利用しただけで。おれも、アリアドネをすてようとしているのだろうか。いや、そうではない。決して、あなたをすてはしない。どうして、すてさることなどできようか。どんな困難があろうとも、ふたたびめぐりあい、結婚しよう。ディオニュソスにわたすなんて、どうして、そんなことができるのだろうか。こんなに、かけがえのない人になっているのに。なぜ母は、おれひとりを育てることで、人生をあきらめたのだろう。トロイゼンから陸路でアテナイにいくといい張ったとき、アイトラはずっと泣いていた。アッティカにきてから、故郷には一度も帰ったことがない。どうして、もどらなかったのだろう。帰るのを、待っていたのに違いないのに。心配ばかりをかけて、母のやさしさに一度も報いたことはない。親だから、愛するのは当然だと思っていたが、なぜ、愛し育ててくれたのだろうか。会いに帰ってやらなければ。アリアドネは、おれを愛してくれている。だから、あなたに会わなければ。塔の下まで辿りつかなければ。だれよりも、愛している。だから、あなたのところまでいかなければ、この闇が、どれほどふかくとも。 ふとみると、殺したシニスがいた。背の高いプロクルステルや、スキロンが、こちらへこいとよんでいた。メディアが呪詛を負わせていた。 「ふたりに、ふたつの呪いをかけてやる。ひとつは、おまえたちはどんなにかけあがっても、最後はかならず落ちてしまうだろう。ふたつ目は、いちばん大切なものを、いくら待ってもさがしても、決してえることができないだろう。おまえたちは、このふたつの呪いとともに生きて、死ぬのだ」 メディアは、そういっていた。彼女は魔女だから、ほんとうに呪いがかけられたのだ。それで、いまここにいるのだ。メディアは、息子のメドスをアッティカの王にしたかったのだ。魔女だったけれど、アイゲウスをほんとうに愛していたのだろう。メディアは、真剣にイアソンを愛慕し、親にそむいた。それなのに彼は、非道にも彼女を裏切り、自分ひとりが幸せになろうと考えたのだ。どうして、そんなことが許されようか。メディアは、ただの魔女ではなかったのだ。彼女は、愛をもとめてイアソンを信じたのだ。アリアドネとおなじ。どうして、彼女をディオニュソスにわたすことができようか。待っていて欲しい。いま、むかっているのだ。そのために、この闇のなかで待っている。かならず、あなたに会おうと。メドスは、アイゲウスの子供だったに違いない。メディアは、はじめて幸せを手にしたのだろうが、それなのに、おれがアテナイにいったから。それで、彼女の未来を奪いとったのだ。まわりの者、みんなを不幸にした。それで、いまがあるのだから、おれなんか、うまれてこなければよかったんだ。 ふとみあげると、すぐわきに背の高い死に神が大鎌をもって、立っていた。テセウスが、その姿をみとめるとつぎの瞬間、真上に倒れこんできた。死に神は、彼とかさなりひとつになった。 ながい時間が、暗闇のなかですぎていった。 アリアドネは、いっていた。西にしずんだ太陽は、ひと晩をかけて、小舟にのって夜の大海原を東にむかうと。 「なぜだか分かる」とあなたは聞いた。 知らない答えると、つづけた。 「明日、東からのぼるためなのよ。その目的で、暗闇のなかを、ひとり小舟にのって西にすすんでいくのよ。あなたにも、そうして欲しいの」 編みこんだ黒くてながい髪に、碧色の瞳のやさしい目。高い鼻が素敵なあなたは、そういって私をみた。あのときの瞳は、悲しい、暖かい、愛惜しい、潤んだ、なんと表現したらいいのだろうか。 「そうして、欲しいの」 気が狂うほどの時間がながれて、パンと水はなくなっていった。 ふと気がつくと、ほのかな光を感じた。全体がひとつの巨大な空間かも知れないという気がすると、いま、いる場所が驚くほど高い天井で、あかりはずっと先からとどいているのが分かった。ここが中央の広場なのだと確信し、テセウスは光にむかってすすんでいった。巨大な影がみえ、それが聖なる角による陰だと分かるのに、いくらかの時間が必要だった。磨かれた灰色の花崗岩でできた大きな角質の南がわに、ブロンズの双斧が象眼された豪華な玉座がつくられていた。両脇には、鷲の翼と上半身をもち、下半身が獅子になった青銅のグリフィンが一頭ずつおかれていた。 さらに南がわには、一段高い祭壇がきずかれていた。中央に背の大きな青銅の双斧が立てられ、グラウコスのミイラがかけられていた。東がわには、パシパエと思われる老女が、呆けた表情でたたずむ牢獄があった。祭壇の西がわには、腹が異様にふくらんだ黒い女性の裸像が立てられていた。黒曜石が磨かれ、黒光りする像は、おそらく地母神の大女神デメテルなのだろうと思われた。祭壇の上部は、さらに一段高くなり、首をかたむけ、みあげると、真っ青な空がみえた。どこまでも青い、あざやかな彩色がほどこされたラピスラズリの天井に、彼は異様な興奮を覚えた。ぬけてきた聖角の奥は、光がまばらに、朧になり、やがてすべてが同化し均質化する、死者たちの住むふかい冥界の闇がつづいていた。 祭壇のさらに南がわには、螺旋階段が壁にそって右まわりに回転しながら、延々とつらなる塔が立ち、その尖端の部分に、もう青くなりはじめている空がみえた。 テセウスは、アリアドネの言葉を思いだした。 「母のパシパエは、まだ生きています。私が会ったのは二年まえで、なにを話しても分かりませんでした。広場についたら地下牢をあけて母を殺し、グラウコスのミイラを八つ裂きにして葬ってください。アステリオンも、いっしょに埋葬することをお願いします。それが私の希望です」 テセウスは、牢獄の鍵をこわし、首をしめて老女を殺した。銅柱にかけられたグラウコスのミイラをおろし、左右の脚を両手でつかんで股からひき裂いた。牢のちかくにおかれたスコップをつかって、柱の下をほり起こし、小さな骨を発見した。黒曜石でつくられた裸像のそばに穴をほり、パシパエと、ひき裂いたミイラ、みつけた骨片いっしょにして埋葬した。 四、ナクソス 「尖塔の開口部を、みていてください。尖端部が覆われ、一時的に暗くなります。それが、合図です。あかるくなったら、すぐに階段をあがってきてください」 アリアドネの言葉を反芻しながら、テセウスは待っていた。 光が漏れてくる塔の尖端部は、小さなまるい円になり、視界は極端にせまかったが、そこにも星は輝いていた。薄暗い尖塔の内部には、右まわりにつらなる螺旋階段が、うねりながら天にむかい、どこまでもつづくのがみえた。塔の内がわには、四本の直立した円柱が尖端に伸び、外壁につくられた螺旋の階段を内面からささえていた。東西南北に位置する円柱同士は、腰ほどの高さの欄干でむすばれていた。 とつぜん塔の尖端部が、なにかで覆われ光が途切れた。その瞬間、形あるもののすべてが闇にとけ、暗黒が支配した。しばらくして尖端部がふたたび開放されると、光はゆるゆると領域を拡大し、星が姿をあらわした。 テセウスは、せまい階段を足早にあがった。右まわりにすすむ彼の背には翼が生え、浮力をもち、不思議なほど軽やかで足が地につく間もなく身体はのぼっていった。螺旋を二周すると、階段はずっとつづいていたが、踊り場があり扉がみえた。彼は立ちどまり、手摺りごしに筒ぬけになっている中心部をのぞきこんだ。冥界につらなる左まわりにつづく螺旋の奥は、暗くて思い闇が幾層にもつみかさなっていた。 振りかえり扉をみつめて、テセウスは唾を飲みこんだ。意を決して三度軽くたたくと、音もなくひらいたまえに、憂愁を漂わせるアリアドネの綺麗な横顔がみえた。彼女は、ふかいフードがついて裾が踝まである、灰色のローブをまとっていた。 編みこんだ黒くてながい髪に、碧色の瞳のやさしい目、高い鼻が素敵なあなたは、ラビリンスの悪夢のなかで、幾度もあらわれた女神だった。テセウスは思わず震えた。アリアドネの姿は、どこまでも神々しく、瞳はすみ、暗いラビリンスをぬけてきた彼を、やさしくみつめていた。生きて辿りついたという熱い思いがこみあげて、テセウスは思わず彼女を抱きしめようとした。 「いけません、いまは。ああ。ほんとうに、いまは駄目」 彼女の囁きは、甘くて蜜の匂いがした。 「愛している。アリアドネ。愛しているんだ。我慢できないほどに」 テセウスは、彼女の耳元でくりかえし囁いた。 「私もです。でも、いまはいけません」 彼女は、小声できっぱりといった。 「中央の広場は、衛兵がみはっています。私の後ろを、ついてきてください」 アリアドネは、先に立って歩きはじめた。 大祭が終わった宮殿は、すべての扉がしめられ、中央の広場もみることができず、地下宮殿とそっくりな迷路になっていた。王宮の上部の円柱と壁の高さには若干の差があって間隙がつくられ、漏れでた月のあかりが、迷宮の人気のない通路を照らしだした。右に左にと、アリアドネは迷路を曲がりながら歩いていった。テセウスには、どこもおなじ通路に思え、すすんでいるのかさえ分からなかった。途中に、五、六の中庭があり、あかるい月光がふり注いでいた。深夜の迷路はすれ違う者もなく、何度曲がったのか数えることもできなかった。アリアドネは、暗い通路に垂らしてきた糸を巻きあげながら糸玉をつくっていた。その後ろを、テセウスはひたすら追いかけた。 宮殿の外にでると、前方から水のながれる音が聞こえ、右がわは山にかこまれていた。テセウスが地下空間に入った宮殿西がわとは逆の、「死者の谷」とよばれる宮殿関係者の墓地がある東がわにいるのだと思われた。北にむかって歩くアリアドネの行く手に、北門に通じる大門がみえた。彼女はひろい道にはいかず、住居のあいだの小径を通って船着き場にでた。そこには小舟がとまり、女装したピラボがいた。 「みんながきました。もう、のりこんでいます」 ピラボは、アリアドネにいった。 「ダイダロスは、きません。イカロスが熱をだしたので、あきらめました」 ふたりがのると漕ぎだした小舟は、運河にそってうごきはじめた。 「テセウス。ここまではなんとか、これました。これからが、また、たいへんです」 テセウスがみまわすと、船にのった者たちは全員が女装していた。彼の一行のほか、サワランが、さらに見知らぬ者もいた。 「テセウス、やりましたね」 ピラボがいった。みんなが声をひそめながら、「やった」。「でかした」と小声でくりかえした。 船が運河をぬけてカイラトス川にでて、中央部のながれにのると、アリアドネは、テセウスの顔をじっとみつめ、「おめでとう。やったわね」と囁いて手をにぎりしめた。 二三夜の夜更けにあがる、下弦の月に照らされた彼女の美しい顔をみると、彼はもう我慢ができなかった。ふたりは、ながい口づけと抱擁をくりかえした。 「ありがとう。闇のなかで君のことだけを考えていた」 テセウスは、いった。 「王女、すべてはご指示の通りにととのいました」 ピラボが、つげた。 「尖塔のうえにひそんだダイダロスが、あなたを確認して、下弦の月の出とともに開口部を覆い、わずかな狼煙をあげたのです。あらかじめ決めてあった手順に乗っ取り、各人が船着き場にあつまり、私たちを待っていたのです」 アリアドネが、いった。 「このあとは、どうなるの」 彼女は、ピラボに聞いた。 「アムニソスの港で待つアテナイ船には、私たちがいくのはつたわっています。小舟でちかくまでいって、王女と女性たちを船にのせます。港には、ミノスの五〇人船、ペンテコントールが三隻、陸揚げされています。船長は、穿孔機で船底に穴をあけなければ、追っ手を振り切れないだろうといっていました」 事態にだれかが気がつき、王に知らせれば狼煙があがる。たとえ、だれにも気づかれずに港についても、カトレウスの軍が待機している。エーゲの海流は、東から西にむかうから、ミノスのペンテコントールが漕ぎだしたら、アテナイの三〇人船ではとてもそのはやさにかなわない。みんながだまって櫂を漕いでいたのは、気づかれないためだけではなかった。この先に、いままで以上のさらなる奇跡をもとめていた。大祭が終わったあとだったので、深夜の川下りは幸いだれにも会うことがなかった。やがて小舟は、エーゲ海にでてアムニソスの港につくとアテナイ船がみえて、船長が浜辺にいるのが分かった。ちかくの砂浜に舟をつけて、帆船にかけられたタラップを女性たちはのぼっていった。浜辺には、布で覆われた穿孔機がおかれ、テセウスたちには剣がくばられた。 テセウスの時代には桟橋などはなく、船はつかわないときには浜にひきあげられた。ミノスのペンテコントールは、三隻とも陸揚げされていた。カイラトス川、河口のアムニソスは、遠浅で砂地だったから理想的なクレタの外港だった。 浜辺には、見張り小屋が設置され、数人が寝とまりしていた。浜から一〇〇メートルくらい離れた草原に、港湾警備隊の宿泊施設がいくつもあり、つねに大勢の兵士がつめていた。いちばん大きな宿舎の壁いっぱいに青銅の斧が象眼され、海がわには、白色の花崗岩でできた巨大な、「聖なる角」のオブジェが立てられていた。どの建物にも、いたるところにミノス王家の双斧がかかれた白い軍旗かかげられ、風になびいていた。宿舎の後方には、馬を飼育する牧場があり一〇〇台にちかい戦車も配備されていた。 深夜の浜は、見張りはいるが、特別なことがなければ番屋で寝ていた。テセウス一行の男たちは、服をきがえると穿孔機をかついだ。いちばんちかくにとまる「双斧の軍旗」が掲げられたミノスのペンテコントールに、タラップをかけ船内に侵入した。穿孔機をはこびこみ、竜骨部分をはずして穴をあけた。青銅製の頑丈な三脚の中央に青銅のドリルがついた機械は、かなり大型の道具で、男たちが三人がかりで水平に伸ばした取っ手を押しながらまわすと、固い船底がえぐられ貫通した。これも、ダイダロスがアテナイにいたときに発明したもので、戦いには必要な武器だった。テセウスたちは、音を立てるのに気をつけながら、三艘の船底につぎつぎと穴をあけた。終わると穿孔機はすてて、陸にあげてあるアテナイの船を海にむかって押しだした。 そのときになると、クレタの見張りも異変に気がついてよってきて、「なにをしているのか」と聞いた。テセウスは、警備の兵を剣で殺した。様子がおかしいのに気がついた者が報告して、数人の警備兵がアテナイの船にむかってすすんでくるのがみえた。大胆にも、海賊の一味が襲ってきたと考えたのだろう。 テセウスは、一刻もはやく船をだすことを指示し、港湾警備隊と戦いになった。相手は、数人だったが大声をあげて仲間に緊急事態を知らせたので、番屋の警鐘が猛烈な勢いでうち鳴らされ、アムニソスの早朝の静寂をやぶった。特別な事件が生じたのを知って、カトレウスの兵士が建物からぞくぞくとでてくるのがみえたので、テセウスはアテナイの船にもどった。夜もあけないうちに、アテナイ船が予告もなく出港しようとするのをみて、たいへんな事態が起きているとクレタ人にも分かった。 全員が、船にのってタラップをひきあげ、オールを漕ぎはじめたころに戦闘になった。船縁をよじのぼってくるクレタの兵士を、テセウスは剣で殺した。夜明けがちかづいた空は、白みはじめていた。遠浅の海を走って、ちかよってきたカトレウスは、船尾に立つテセウスをみて驚いた。彼が地下の迷宮に入るときに、ミノスとともにみおくったからだった。 「テセウス、おまえは、どうやってでてきたんだ。たいへんだ。アテナイ人が逃げるぞ。狼煙をあげろ。王に知らせろ。緊急の早馬をだせ」 カトレウスは、大声をあげテセウスに剣を投げた。 アテナイの三〇人船は、怪我人のひとりなく、アムニソスの港をでていった。自慢のペンテコントールに穴があけられたのが分かったらしく、クレタ軍が大混乱に落ち入っているのが船上からみえた。 それでも、「双斧の軍旗」をなびかせたカトレウスがのる三〇人船が猛烈な勢いで追いかけてきて、戦いになった。テセウスは、そこでもクレタ人を殺して大活躍したので、ミノス軍は兵士のほとんどをうしなって追跡をあきらめた。 カトレウスは、この件でミノスに猛烈な叱責をうけ、彼を殺害しなかぎり王位はゆずれないと明言され、ふかい恨みをもった。 クレタ軍が追跡をあきらめたので、一同は歓声につつまれた。船にのる者、みんなで勝ちどきをあげ、ようやっと安堵と笑いが起こり、大声でしゃべることができた。だれも、こんな英雄的行為がほんとうに可能とは考えていなかったので、さまざまな冒険談が話しあわれ、ひとりひとりが自分たちの活躍に満足を感じた。 ミノタウロスを倒し、ラビリンスを脱出したテセウスは、もちろんいちばんに称えられた。ミノスが何隻のペンテコントールをもつのか分からなかったが、水平線に追っ手の船がみえないのが確認できると、一同は漕ぐのをやめて自由の喜びにひたった。きっと、軍船は、大祭のためにクノッソスに招いた各都市の要人をおくるのにつかわれ、アムニソスのちかくには三隻だけが残っていたのだろう。 船にのって帰国する者のなかには、サワランのほかに、以前に生き贄としてクレタにきて、牛跳びの練習中に怪我にあい、歩行が不自由になった者たちが数名ふくまれていた。亡命者も、ひとりいた。彼らは、その後に起こったクレタとの戦争で、格好の案内役になった。 素晴らしい朝陽のもとで、アテナイ人は、ゼウスの祝福をうけていた。海は凪ぎ、ポセイドンもめぐみをあたえていた。ほっとすると、だれもがひどく疲れているのに気がついて、一同は交代で休みを取った。アリアドネは、裏切ってしまったパイドラと父を思って愁いにしずんでいた。テセウスは、二日後にはつくナクソスのことを考えて、途方に暮れていた。 翌日の午後から天候が変わって、船は揺れはじめた。時化はしだいにひどくなり、慣れていないアリアドネは、はげしい船酔いになった。海流に翻弄されはじめ、ナクソスについたのは予定より時間がかかり出帆して五日後だった。三日間、船酔いに苦しんだアリアドネは、憔悴し切っていた。ディア島のナクソスがみえたときには、ようやく波も風もおさまりはじめた。そこには、ながくとどまるつもりがなかったので船を沖合にとめ、テセウス、アリアドネ、ピラボの三人が艀船にのって浜にわたった。 浜辺には、だれもいなかった。神を相手に、みつけられなかったから帰ったといえるはずがなかった。八月の下旬で、浜には心地よい風が吹いていた。はげしい船酔いで三日間、食事も取ることができなかったアリアドネは、ひどくやつれ、海岸ちかくの椰子が生えた涼しい木陰に横たわると眠ってしまった。遠くから、にぎやかな笛と太鼓の音が聞こえてきた。気がついたテセウスは、ピラボに彼女の護衛を頼み、音楽がする方角にむかってすすんでいった。 彼は、奇妙な一団に出会った。馬の耳と脚をもち、尻尾をつけた頭の禿げあがった男性が、笛を吹きながらロバにのっていた。年老いた男は、獅子鼻でひどく腹がつきでていた。ちかくには、額に小さな角を生やし、雄山羊の尖った耳と蹄をもつ若い男たちが、両手で太鼓をうち鳴らしていた。周囲には風変わりな一五、六人の女たちが、頭部をまえに後ろにと、はげしく振りうごかし、長髪をなびかせながら山羊といっしょに歩いていた。鹿の皮をまとい、右手には尖端に松笠をつけた、身の丈よりながい大茴香の「酒神の枝」テュルソスをもっていた。葡萄の枝葉や木蔦の頭飾りをリボンで髪に固定した女たちは、若い者も年かさの人もいた。酒に酩酊した彼らは、ひろい草原のなかをにぎやかに踊りながら行進していた。 テセウスがちかづくと、木蔦の冠の男がでてきて、奇妙な一行に指示をした。彼らは、草原に腰をおろして休みはじめた。 ながい金髪の頭に木蔦の冠をし、顎髭をまえにむかって伸ばした男が、取り巻きの一団から離れてテセウスのちかくにやってきた。上半身に隆々とした筋肉が浮かぶ若者は、豹の皮を無造作に羽織り、胸のところで前脚をむすび、下半身には赤い布を巻きつけていた。右肩に酒の入った革袋をかけ、左手には杖を右手にはふたつのつきでた柄がつくカンタロスの酒瓶をもっていた。酔って頬を赤らめた若い男が神だと、テセウスはすぐに気がついた。青い瞳のディオニュソスは、尖端に松笠がつき、葡萄の枝や葉に飾られたテュルソスをもち、彼の姿をみとめるといった。 「おまえの活躍は、ちくいち耳に入っていた。よくぞ、もどってきた。神のご加護があったのだ」 「あなたの、お力ぞえをいただいたからです。たいへんな苦難をのりこえ、ここにやってきました」 「アリアドネも、つれてきたのだな」 「彼女はひどい船酔いになり、いまは棕櫚の木陰で寝入っています」 「それは、好都合だ。おまえは帰ってアッティカの王に即位し、ミノスに代わってエーゲの支配者となることができる。取り引きは、うまくいったわけだ」 「ディオニュソス。すべてが、順調だったのではありません。どうしても、ご相談したいことがあります。それで、あなたをお待ちしていました」 テセウスは、一団から離れたところまですすむと、ディオニュソスにいった。 「なにかな」 「アリアドネは、今回の脱出に力をつくしてくれました」 「そうであろう。彼女の助けなしには、脱出など不可能だったに違いない」 「おっしゃる通りです。それで私は、アリアドネに夢中になりました。迷宮のなかは闇につつまれた地獄で、彼女の存在だけが心のささえだったのです。いなかったら、もちろんぬけだすことはできませんでしたが、それ以上に気力もうせていたに違いないのです。脱出できたのは、アリアドネの尽力だけではありません。彼女への愛の力もあったのです。アリアドネがかけがえのないものだと、ラビリンスの闇のなかで、はじめてはっきりと分かったのです。彼女を利用しようとした私は、おろかな、恥ずべき男でした」 「そうに違いない。アプロディテに感謝をするのだ。帰ったら、まず犠牲をささげ、謝恩の儀式を執り行うがよい」 「そうします。私は、真剣に彼女を愛してしまいました。かつて、こんな気持ちになったことはなかったのです。いままでの私は、自分の利益しか考えてきませんでした。勝手な男でした。ふかい闇は、私に教えてくれたのです。ほんとうの愛とは、なんであるのか。アリアドネは、もう私の一部で分けることができません。なにとぞ、彼女をつれ去るのを考えなおしていただけないでしょうか」 「アリアドネは素晴らしい。だから、おまえに頼んだのだ。そうではない者を、なぜつれだして欲しいなどと、私がいうと思うのか」 「その通りです。彼女を、アテナイにつれていかせてください。結婚させてもらいたいのです。そのほかのことなら、どんなあなたの申し出でも、うける覚悟をもっています」 「そうだろう。彼女は魅力的だ。男なら、そう思うのは当然だ。だから、頼んだのだ。おまえが、そうした気持ちで帰ってくるのは分かっていた。しかし、もどれたのは、余が手立てをしたからだと忘れてはならない」 「その件ですが、ふつつかな私は、あなたからいただいた薬を、間違えて姉のパイドラに飲ませてしまったのです。だから、彼女は、媚薬でついてきたのではありません」 「アリアドネに、そのことを話したのか」 「そんな話は、できません」 「そうだな。神を、恐れなければならない。余は、おまえがパイドラに媚薬を飲ませてしまうのも分かっていたのだ。そうでなくては、アリアドネが、姉から自由になることはできなかったのだ。媚薬を飲んだパイドラは、ミノスに監禁された。もし、おまえがアリアドネに服用させていたら、王は彼女をとじこめ、迷宮から脱出することもできなかったのだ。これが、神の業なのだ。それが分かったら、アリアドネのことは忘れろ。あきらめるのも男の度量のひとつで、忘却しなければ、おまえはかならず不幸になる。アプロディテに、感謝のささげものを充分にあたえなくてはならない。女神は、最初にパイドラと会ったときに、肝腎な妹のアリアドネがいるのを知らせてやろうと、自分の像をおいたのだ。おまえは、それに気がつかず、行為を無駄にしたうえ、ほうり落としたので怒っている。なだめなければ、報われる愛にめぐりあえなくなる。神の腕は、おまえが考えているよりも、ずっとながいのだ。どこまでも、ついて離れることがない。アプロディテの怒りをなだめよ。そのためには、アリアドネを忘れ去らなくてはならない」 「忘れられないのです。それだけを、ずっと考えていました。はじめは、ただ利用したいと思いました。迷宮の闇のなかで、アリアドネをふかく愛す自分に気がついたのです。彼女がいたから、私はあのふかみから、もどってくることができたのです。よみがえれたら思いのかぎり抱きしめたいと考えて、冥界で再生のときを待ちつづけられたのです。彼女とは、もう分けられないひとつのものなのです」 「それでは、それがかなわぬ無理な条件だといったら、おまえは私を倒してでも、えようというのか」 「飛んでもありません。私はおろかな人間ですが、神と人が違うことは知っています。べつの事柄を教えてください。私は、どうしたらよいのでしょうか」 「おまえは、すでに英雄になった。その代償として、アリアドネをうしなうのだ。おまえが、もっとも望んだものはなんだったのか、考えてみろ。アルゴリスの豪傑ヘラクレスとならぶ、アッティカの英雄テセウスになることだったのではなかったのか。おまえは望んだものをえるために、なにもうしなわないですむと考えていたのか。しかし、あまりに希望するから、ひとつ条件をだしてやろう。たとえば、おまえがわれらの一団にくわわり、わが信者とともに面白おかしく旅をするなら、アリアドネとずっといっしょにいることもできる。彼女を、われらふたりの共有の恋人としてあつかってもよい。はやく決めろ。暗闇で考えつづけたのでは、ないのか。どちらを、えらぶのだ。おまえのいう通りにしてやろうと、話しているのだ」 生暖かい風が吹いた。ディオニュソスがさし示した場所には、彼のにぎやかな取り巻きたちが思い思いの格好で草原に横たわっていた。彼らは、山野の精であるニンフの男たちと、なにかに取りつかれた風変わりな女たちの一団だった。いまは食事の時間になり、つれてきた山羊を人間離れした手の力でひき裂いて、生肉をむさぼり食べていた。子鹿に乳を飲ませる女もいた。なかには帯に代えて、ひらひらと舌をひらめかす蛇を巻いていた。 大茴香のはなつ、甘くてどこか淫靡な匂いに、テセウスは頭を抱え、両手で顔を覆った。両眼からは、大粒の涙があふれ、頬をつたっていた。 「分かりました。私は、アテナイにいきます」 テセウスは、慟哭のなかでいった。 「いいのだな。アリアドネだったら、まよわず、おまえといっしょのほうをえらぶのだぞ。分かっているのだな。おまえは、アリアドネを妻とするよりも、アテナイの王を望むのだな。彼女と暮らすよりも、ヘラクレスとならび称されるテセウスになりたいのだな」 「どうか、アリアドネを幸せにして欲しいのです。あなたの強力な媚薬によって、私を忘れさせてください。お願いです。私は、自分のくだした選択を一生覚えています。しかし、アリアドネには、忘れさせて欲しいのです。約束してくれますか」 「承知しよう。愛する者をすてた、その先にこそ人生が待っているのだ。最初の約束をまもり、つらい決断をしたおまえのために褒美をやろう。冥界の闇ラビリンスをぬけでなければならないという困難な使命を聞いて、ポセイドンは、ひどくあわれんだのだ。それが英雄になるための試練だと知り、はばむことなく、みまもったのだ。ポセイドンは、成就してアテナイにもどれたら、どんな希望でもかなう三つの願いをおまえにあたえるといった。私は、人に取ってそうしたものは不要だと思う。なぜなら、どんな高邁な精神をもった者でも、魔法を上手につかうことができないからだ。それが可能なのは、神しかいないのだ。その三つの願いが、ほんとうにおまえのためになるのか私には分からない。願ったことを、悔やむ日がくるかも知れない。つかうかどうかは、すべて裁量にまかされている。おまえが無事にアテナイについたとき、ポセイドンの望みはかなえられる」 ディオニュソスは、浜までやってくると、「つたえるべきことは、すべて話した。もう、おまえには用はない。いけ」とテセウスにいった。 その言葉に振りかえると、そこには碧色の瞳をした白皙の美青年が立っていた。短い黒髪に黄金の冠をのせた、背が高い知的な雰囲気の男は、まとう裾のながい深紅のローブがよく似合った。髭もない青年は、肩に酒の入った革袋をかけていた。 テセウスは、その男にお辞儀をすると、眠るアリアドネをみて涙に暮れた。彼女を残し、いっしょにこいとピラボにいい、艀船にのり、アテナイの三〇人船にもどりディア島を去っていった。 アリアドネが目覚めると、日はかたむきはじめていた。テセウスも、ピラボもいなかった。海には、アテナイの船はみえなかった。 「テセウスは、おまえを残して去っていった」とディオニュソスはいった。 「なぜ。あなたは、だれなの」 「私は、ディオニュソスだ。テセウスは、おまえをここにつれてくるのが役目だったのだ」 「ディオニュソス。神が、なぜここにいるのですか」 アリアドネは、けげんな顔をした。 「テセウスは、アテナイに帰って王位につき、アッティカ一の英雄となる道をえらんだのだ。そのためにおまえを利用し、ミノタウロスを倒し、ラビリンスから脱出したのだ」 アリアドネの顔は、蒼白に変わった。 「なにがあったのです。信じられません」 「彼は、約束をまもったのだ。おまえとの合意より、私との取り決めをえらんだのだ。彼には、それしか仕方がなかったのだ。なげき悲しむがいい。おまえは、あの男のために命をけずり、父と姉を裏切った。それで、彼はアッティカの王になり、私の花嫁をここに置き去りにしたのだ」 「なんと。あなたの言葉が真実とは、とうてい理解不可能です」 「彼が、戦って負けると思うか。武器ももたない私に、どうして倒すことができよう。自らの意志で去ったのでなければ、なぜ、おまえが残されたりするのだろうか」 「テセウス。私は、あなたのためにすべてをすてた。テセウス。それなのに、あなたは、アッティカの王位のために私をすてたのですか」 「そうだ」 アリアドネは両手で顔を覆った。止め処もなく、涙があふれでていた。 「分かったら、いっしょにいこう。われらふたりのまえにも、素晴らしい未来が待っているのだ」 「いえ、私はいきません。ここに残って、彼がもどるのを待ちます」 「テセウスは、帰ってこないのだ」 「あなたの、いう通りだと思います。もどってくるなら、決してひとりにはしないでしょうから。私は、すてられたのです。でも、不必要になったからではない。必要だったけれど、すてなくてはならなかったのでしょう。クレタを憎んだ私は、父や姉を裏切ってここまで逃げてきて、浅はかな、おろかな行為の報いをうけたのです」 「悲嘆のなかからも、あらたな恋がうまれるとは思わないか。冬になれば枯れてしまう樹木からも、春には若葉がでて花がさく。おまえは死んだのではない。ここで再生しようとは思わないのか」 「もう、二度とよみがえりません。私に取って、テセウスはすべてです。いままでも、これからもおなじです」 「その気持ちは、どうして、起きていると思うか」 「なぜとは。女が男を愛するのに、理由がいるのですか」 「私は、テセウスがクレタにいくまえに会って、媚薬をわたした。おまえに飲まして、協力をえないかぎり迷宮は脱出不可能だと話した。この薬に、みおぼえはないか」 「いいえ」 「おまえは、これを飲まされたのだ。それで、彼を愛さずにはいられなくなった」 「それは、どうやって飲むものなのですか」 「葡萄酒に入れて乾杯するのだ。ともに杯をあわせた者は、忘れられなくなる」 アリアドネは、パイドラのことを思いだした。最初にふたりは葡萄酒を飲み、つぎの瞬間には、彼女はテセウスに夢中だった。 「服用すると、どうなるのですか」 「しばらくすると、眠気がおとずれる。ひとり寝が寂しくて、我慢ができなくなる」 「その薬の効果は、どのほどの期間、つづくのですか」 「三ヵ月か、せいぜいもって半年だろう。テセウスには、生涯効果がつづくと話しておいたが」 「そうでしたか。分かりました。話していただいて、私の気持ちはとても楽になりました。ずっと、パイドラを裏切ったと考えつづけてきたのです。この薬のせいでテセウスを思っていただけで、半年もたてば正気にもどるのですね。でも、なぜ彼は、姉に飲ませたのでしょうか」 「テセウスは、おまえとパイドラを間違えたのだ。私が望んだのは姉ではなく、妹のアリアドネだったから。彼は間違いに気づき、必死になって、愛を囁いたのだ。パイドラをつれてくることは、私との約束に反していたから」 「それは、強力な媚薬だったのですね。パイドラは、死ぬほど悶えていました。端でみるのも可愛そうなほど。でもテセウスは、私をつれてこなければならなかった。あなたとの約束のために」 「そうだ」 「あなたのお話の通り彼が不実で、愛を囁いた理由が約束のためだったとしても、私を真剣に愛したのは間違いのないことです。いくら違うといっても、女はそれほどおろかではありません。彼が後悔したのは、待ちかまえている恐ろしい未来のために、あなたと約束をかわした事実で、私を愛したことではなかった。事情がどう変わっても、テセウスを忘れられません。彼が、私よりもアッティカの王位を望んだとしてもおなじです。テセウスを、愛しています。彼も、そうだったに違いありません。ミノタウロスを倒してアテナイ人をつれかえることが、もっと大きな仕事だったにすぎません。それであっても、私がすてられた事実はおなじです」 「どう考えようと、おまえの勝手だが、ともにあたらしい未来を謳歌しようではないか。去った人、えられなかったものを美化してみても、なにももどってはこない。おまえは若くて美しいし、私は神で、どんな望みもかなえることもできる。どうだ。私を愛してみたら。そこにも、素晴らしい未来が待っているのだ」 「私は、ここにすてられて死んだのです。もう二度と、だれも愛すことはできません。殺してください。生きる望みは、ありません」 「媚薬を試してみないか。この薬を服用すれば、パイドラがテセウスを愛さずにはいられなかったように、おまえは私を愛することになるだろう」 「飲んでも、変わりません。私は眠くなり、添い寝をして欲しいといいだすでしょう。約束してください。テセウスは、その申し出をことわったのです。あなたは、神さまディオニュソス。ゼウスは浮気者ですけれど、愛する者との約束はまもります。だから、あなたの母セメレは、雷にうたれたのです。私が目覚めてもなお、テセウスを愛していたら殺してください。約束できますか」 「承知しよう」 ディオニュソスは革袋から葡萄酒をカンタロスに注ぎ、水をくわえて割ると杯にうつして、アリアドネがみているまえで媚薬を入れた。丸薬は、すぐにとけて分からなくなった。ふたりは、杯をあわせ葡萄酒を飲んだ。しばらくすると、彼女は眠くなった。ディオニュソスに、添い寝を希望した。御子が自分の数奇な半生を面白おかしく話していると、彼女は笑いながら寝入ってしまった。 アリアドネがつぎに目覚めたのは、全天が輝く星で埋めつくされた、新月の夜の浜辺だった。しずかな浜は、すがすがしい海風が吹き、緩やかな波音がくりかえされていた。 「お茶でもいかがかな」とディオニュソスがさそった。 「お腹が、すきました」とアリアドネが答えると、山羊の肉料理がでてきて、葡萄酒を飲みながらふたりで夕食をした。 船酔いでなにも食べられなかった彼女は、久しぶりのご馳走に舌鼓をうった。空腹感がおさまると、ディオニュソスは聞いた。 「気分は、どうかい」 「とても、いい気持ち。でも、なにかを忘れてしまったみたい」 「私のことは、覚えているかい」 「ああ、もちろんあなたは、愛しい人、デュオニュソス」 「美しいおまえのために、王妃の冠をあたえよう。これは、私がえらんだ宝石を、アプロディテがデザインして、ヘパイストスがつくりあげたものなのだ」 ディオニュソスは、アリアドネをじっとみて微笑むと、自分の頭上にあった冠を取って彼女の頭にかぶせた。その黄金の宝冠には、紫に輝く九つの大きなアメジストが象眼されていた。 「ありがとう、嬉しいわ。あなたは、愛しい人。ディオニュソス」 アリアドネは、ふと口ごもった。 「愛しい人は、だれだったかしら。たくましくて、どんな困難にも負けない。みていると、希望がうまれてくる。愛しい人。ああ、ごめんなさい、ディオニュソス。あなたでは、ないわ。私の愛しい人は、テセウス。そう、彼を思いだしました。その、すべてを。この冠は、私のものではありません」 アリアドネは、かぶっていた宝冠をぬいで、ディオニュソスにかえした。彼女の表情は、悲痛なものに変わった。立ちあがると、ぼうぜんとした顔つきになって、海をみつめて呟きはじめた。 寒い。冷たいわ、ディオニュソス。 この、心を凍らせるものはなに。 この、はげしい痛みをもたらすものは、なんなの。 なにが、私に起こっているの。 寒い。冷たいわ、ディオニュソス。 火桶をください。せめて火鉢を。 私を暖めてくれるのは。だれ。 抱いてくれるのは。だれ。 月もない。だれもいない夜。 さえぎるものもない暗い海を、 吹きぬけていく、 無意味な風、私。 姉を裏切り、父にそむき。 祖国をすてた私は、 愛される価値がない。 暖められる値打ちもない。 氷の矢。 それが、私の心臓を貫いている。 だれが、とかしてくれるの。 だれが、ひきぬいてくれるの。 寒い。冷たいわ、ディオニュソス。 だから火桶を。熱い火鉢を。 あなたには、できない。 たとえ、あなたが、神であっても。 心が、完全に凍りついてしまうまえに。 安らぎをください。 もえたはずの心を、すべて忘れてしまうまえに。 黄泉国に、つれていってください。 あなたにできるのは、 ただ、それだけ。 アリアドネは、ディオニュソスをじっとみていった。 「約束通り、私を殺してください」 「分かった。愛しい人よ。神の言葉にふたつはない。アルテミスに頼んで、おまえを殺そう。そしてゼウスに願って、天にのぼらせ星座に変えよう」 「そうしてください。そうすれば私は、テセウスをみまもりつづけることができるでしょう」 アリアドネが海辺の岩に立つと、アルテミスは矢をひいた。鏃は、彼女の心臓を貫いた。倒れたアリアドネを、ディオニュソスは抱きしめた。 「死んだおまえは、私のものだ。ゼウスよ、アリアドネを、この特別に清らかな聖なる娘を神にしてください。そして、私の星のちかくにおいてください。彼女がテセウスをみるのを、助けてやってください。私のそばにいて、彼を照覧させてください。愛するが故に、殺さねばならないとは。父よ。私は、あなたの宿命から、逃れることはできないのでしょうか。 アリアドネ。おまえは、私のラビリンスなのだ」 慟哭のなかで、ディオニュソスは空にむかって叫んだ。彼女にあたえた宝冠を、満天の銀河に高く投げあげると、願いはゼウスによって聞きとどけられ、黄金を飾るアメジストはちりぢりになり、星に変わり冠座をつくった。 空から四頭だての、豹がひく車がやってきた。周囲を、美しい天使たちが取りかこんでいた。ヘルメスが先導し、エロスが御者をつとめる車に、ディオニュソスがアリアドネを抱えたままのると、天からは無数の花と花環がふり注がれた。馬車は、ふたたび空にむかってのぼり、やがて銀河のなかに消えていった。 テセウスは、ディア島をあとにしてデロス島につき、砂浜に船をひきあげた。アポロン神殿にアリアドネが残した黄金のアプロディテを奉納し、雄山羊の犠牲を献上してクレタから脱出できた感謝の祈りをささげた。 すくいだされた若者たちは、窮屈な船内で心身ともに疲れ果てていた。彼らがずっと不安に苛まれたことも考え、彼は祭りと競技会をもよおして、アポロンにささげようと思った。 テセウスは、自分がラビリンスで味わった死の恐怖と、その解放の喜びを表現する踊りを祭典として残そうと思慮した。 五〇メートル四方の平らな土地を聖別し、周囲を幅一メートルにわたって五〇センチほりさげて溝をつくり、なかに牛の左がわの角だけをならべて結界を張った。中央に、直径が五メートルで、高さが四〇センチほど盛り土をした円形の祭壇をきずいた。 村の人びとも参加する踊りは、ふたつの要素から構成されていた。最初は、結界の外から中央の祭壇にむかうもので、若い男がいちばんまえになり、男女が交互につらなって、参加者全員がまえの人の肩に手をのせてながい一列をつくる。先頭の者が右か左かに直角に曲がると、後ろの人びとは順におなじ動作をしながらすすむ。この踊りは、石につまずいたステップや、恐怖に戦く身振りもくわえられていた。こうして先頭の者が、不規則に直角に曲がりくねりながら中央の祭壇まですすんで、そこでとまる。あとにつづく者たちが全員、順に壇にのぼると、はじめの踊りが終わる。 しばらくして、今度は先頭が若い女性に変わって、第二の舞踊がはじまる。となりあう男女が腕を交差させながら、一本の綱を両手でにぎって一列になり、祭壇をおりて右回転の螺旋運動をくりかえす。最初の踊りの「ぎこちなさ」の代わりに、今度は全員が羽をもつ鳥に変わった。淀みのない大きなながれになり、軽やかに舞台をぐるぐるまわりながら結界の外まででてくる舞踏だった。前半の祭壇に辿りつくまでの踊りは無言ですすめられ、後半の螺旋運動は「おう」、「お、う」という歓喜の叫びを発しながら踊られた。 「こうのとりの舞」と名づけられた舞踏は、日がとっぷりと暮れた深夜に、聖別された場所の周囲に松材の篝火を焚いて行われた。風に揺れる怪しい松明がつくる闇のなかを、溝に落ちないよう気をつけながら、全員が気持ちをひとつにして踊るのだった。 テセウスは、競技会を行い、勝利した者にアポロンの聖樹である棕櫚の若枝を一本折って、「折り枝」としてあたえた。その木陰で眠っていた帰還への最大の功労者、アリアドネを忘れないためだった。 競技会が終わると、アポロン神殿の神官がテセウスをたずねてきた。つれられて託宣所にいくと、ながい黒髪を項に結び目をつくり垂らしたカサンドラがいた。 「アリアドネは、ナクソスの浜で、アルテミスに心臓を射ぬかれて亡くなりました」 「なぜ、そんなことが」 「アリアドネは、あなたを狂おしいほどに愛していたのです。ディオニュソスも、彼女を熱愛していたのです。あなたと、おなじほどに。彼女は、神と英雄、ふたりの男に愛されたのです。だから、死なねばならなかったのです」 テセウスは、その言葉をかみしめ、こみあげてくる悲しみにむせび泣いた。 カサンドラは、落ちついた声で彼に話しだした。 「もともと御子こそが、クレタ島の支配者だったのです。クレタの大祭とは、がんらいディオニュソスを祭るものだったのです。ところが、御子を追放したミノス王が、ゼウスの祭典に変えてしまったのです。王女アリアドネは、ディオニュソスの花嫁としてこの世にうまれ、聖婚は宿命だったのです。ふたりはむすばれ、御子はクレタを支配する定めになっていました。しかし、定住せずに流浪をつづける神は、島にとどまることができなかったのです。テセウス、そこに、あなたが割りこんだのです。彼女は、御子の妻で、愛してはいけない女性だったのです。 テセウス。ディオニュソスこそ、恐れねばなりません。御子は、あらゆる場所に顕現するのです。アポロン神殿のなかであっても、そうなのです。この祭壇をつくる清らな大理石、滑らかな表面を指でさわって、どこかで、あなたが、なにかの違和を感じたなら、御子がいるのです。もし、海をみて、異質なものに心がひっかかったら、そこにはディオニュソスが臨在するのです。 だれにでも、暗黒があるのです。あなたに、ラビリンスが立ちはだかったように。このデロス島は、双子神アポロンとアルテミスがうまれた島です。ゼウスの子供を身籠もったレトは、ヘラに憎まれ、あらゆる大地から追いたてられました。女神は、デルポイに住む竜のピュトンをつかって、彼女を追いつめたのです。ポセイドンが波を立ててまもり、レトは当時は浮き島だったこのデロス島で、二神をうんだのです。復讐としてピュトンを殺し神託所をたてたアポロンに取っても、アルテミスにも、母親を憎んだヘラこそが暗黒だったのです。ディオニュソスにも、人間の母、セメレを憎悪した女王ヘラは、ふかい闇だったのです。 御子の笑いから神々が、その涙から人がうまれたともいわれます。神が何者であるのか、だれも知りません。御子は、ゼウスを父に、地母神の大女神デメテルを母とするといわれます。さらに冥界の王ハデスの妻ペルセポネからうまれたともつたえられます。いっぽう、冥王ハデスこそがディオニュソスであり、ペルセポネこそが御子の妻だとも考えられるのです。つまり冥界の女王ペルセポネとは、王女アリアドネの分身だというのです。テセウス、あなたは御子とふかく関わり、ラビリンスの闇を通して冥府とつながりをもったのです。このことを、生涯、忘れてはなりません」 カサンドラは、事件の真相をつげた。 デロス島をあとにして、テセウスはぼうぜんとしながらアテナイにむかった。アッティカにちかづくにつれ、彼はうしなった者の大きさに戦き、ずっと悔やみつづけた。あきらめていた帰還がかなった者たちは、本土がみえるとこみあげてくる喜びで胸がいっぱいになった。彼らは、自分たちの無事をアイゲウスに知らせる印の、赤い帆をあげるのを忘れた。舟は、ずっと喪を示す黒帆を掲げていた。 アテナイのアクロポリスには周回路があり、ややなだらかな西斜面には、頂上にむかってつづく「聖なる階段」がつくられていた。これを登り切った大門まえには、南よりに、高さが一二〇センチの髭を生やした頭部と、勃起した男根がついた四角柱のヘルメス像が立っていた。堂々とした神山の表玄関は、東西各六本の円柱からなる中央棟と、南北ふたつの翼屋から構成された。南翼屋の西がわは、さらに人工的な堡塁がつき、「翼なき勝利の女神」ニケ・アプテロスの神殿がたてられていた。良質な白大理石づくりの美しい小神殿は、まわりを高さ一メートルほどの大理石の欄干でかこまれていた。もっとも西の神殿裏手にあたる手摺りには、このうえなく優美な「サンダルの紐を解くニケの像」が浮き彫りにされていた。 そのまえに立つと、公共広場からファレロン街道がイトニア門をこえて南西にむかって港町までつづくのがみえ、サロニカ湾が一望できた。エーゲの海は、どこまでも青くて高い空から、きらきらと輝く白い光線が一面にふり注いでいた。それは、周囲を芳しい香りで満たしながら漂っていた。雲ひとつないよく晴れた日には、対岸のスファイリア島がはっきりとみえ、トロイゼンの街も目にすることができた。 毎日、ニケ・アプテロス神殿の裏手に立って、帰港する息子を待ちつづけていたアイゲウス王は、黒い帆をあげたまま港に入る船をみて絶望し、そこから身を投げて死んだ。 テセウスはファレロンに帆船を陸揚げすると、出帆にあたって神々に願ったことが成就されたので、大女神デメテルの聖所の祭壇で雄山羊を犠牲にして、ディオニュソスとアプロディテに感謝の祈りをささげ、いっぽうで無事を知らせる使者をアテナイにおくった。町についた使いの者は、多くの市民がアイゲウス王の死を悲しむのをみた。使者がテセウスの帰還を知らせると、人びとは王の自殺がテセウスたちの死去を意味すると考えていたので驚喜した。子弟をおくった市民たちは、ファレロンにむかって行進をはじめた。その人びとのなかに、帰還の無事を祝って花環を献じる人がいた。使いの者はうけとった花冠をテセウスの杖にかけた。使者はいそいで海岸にもどると、彼がまだ酒ですすぐ儀式をしていたので、それが終了するのを聖域の外で待った。すべてが終わったとき、使いの者はアイゲウス王の死去をつげた。 テセウスは、父の死を聞いて号泣した。それも、彼が帆を変えることを忘れたためだったと知ると、涙が止め処もなく落ちた。 「愛する者は、私のまえから去っていってしまう」 メディアの呪いが、しっかりと彼を覆いつくしているのを知った。 船で帰ってきた者たちは、王の死をなげき悲しみながら、大急ぎでファレロン街道をのぼっていくと、途中でアテナイからやってきた家族や親族と出会った。彼らは、思わずたがいに大声で叫びあい感激の再会となった。それは、ちょうど葡萄づみの季節だった。 テセウスは、アテナイのディオニュソス神殿のわきに、アリアドネの祭壇をつくった。彼らへの感謝をあらわすために、毎年一〇月、オスコフォリアの祭礼が行われた。 人びとは、実のついた「オスコス」とよばれる葡萄の枝をもち、アテナイのディオニュソス神殿からファレロンのアテネ神殿へと歩いていく。行列は、童子をつとめる女装したふたりの青年が先導し、あとに花環で飾った杖を所持する神官がつづく。つらなる人びとは、たがいに、「おう」、「お、う」、と大声を張りあげ、王の驚愕の死と、クレタから帰国した者たちとの邂逅の喜びを再現した。 アポロンとの誓いを果たしたテセウスは、父を弔い、一〇月のはじめ町に帰りついた。 五、アテナイ ギリシアは、ヨーロッパ南東部に位置するバルカン半島南端と、狭小なコリントス地峡を介してつながるペロポネソス半島、さらにエーゲ海に浮かぶ多数の島嶼部、という三つの地域から構成され、二〇ちかくの地方に分けられる。バルカン南端部は、背骨とよばれる南北に走るピンダロス山脈によって東西に分割され、イオニア海に面する湿潤な西部には、北部から順に、エペイロス、アムピロキア、アイトリア地方がある。エーゲ海を臨む、やや乾燥した東部には、神々の住むオリンポス山を境にして、北がマケドニア、トラキア、南がテッサリアとなる。さらに南部にボイオティア、アッティカ地方がある。ペロポネソス半島には、アカイア、エリス、アルカディア、メッセニア、スパルタで有名なラコニアがつづく。さらに、サロニカ湾に面しコリントス地峡をふくむアルゴリス地方に分けられる。エーゲ海につきでた三角形のアッティカ半島をしめるアッティカ地方は、北はかずかずの神話の舞台であるキタイロン山でボイオティアと分割され、西はイストモスともよばれる地峡がアルゴリスとの境界となっていた。 アッティカは、もともと王権が弱く、各地にちらばる貴族が直接、平民や貧民を支配していた。王は、頂点に立つとはいっても特別な権限はなく、同列のなかでだいいちの者という位置づけだった。平民や貧民は、土地の部族長や貴族にも、同時に王権にも支配される二重の貢納義務をもっていた。 アイゲウスの死後、アッティカ王になったテセウスは、クノッソスをみて、ギリシアに従来よりもずっと大規模な都市をつくらないかぎり、エーゲ海の覇者になれないことを知った。そのために地方貴族が支配する一二都市はもちろん、周辺の小さな村落までもふくめて、この地方に住む人びとをひとつの町に聚住(しゆうじゆう)させようと考えた。散在すればたがいの利益が共通せず、小規模なあらそいにより弱い力をさらに消耗し、クレタ王国と戦うことは永遠に不可能だと思った。王権がクレタほどあれば、各都市を直接支配でき理想的だが、強力な地方貴族がいる現実を考えるなら、戦いが迫るなか内部の混乱を招く事態は適切ではなかった。独立割拠のアッティカのばあい、ひとつの都市に人を集合させるには、まず各所領地で小さな王としてふるまう貴族たちを説得しなければならなかった。 テセウスは、平民や貧民への二重貢納をやめ王権の支配を放棄する条件を提示して貴族を町にあつめることを考えた。その際、王は自分の直轄地、テメノスから貢納をうけるだけになると話した。 「なぜ、おまえは、利益をすててまで、アッティカを統合しなければならないのだ」とある貴族は聞いた。 「私は、クレタのクノッソスをこえる世界でいちばんの町をつくると、大切な人と約束をしたのだ」とテセウスは答えた。 王が直接の支配をやめ、移住できる者があつまって大きな都市を整備する話は、平民や貧民には受容された。貴族に取っても王権のない国制は、現実に可能ならばうけ入れやすいものだった。 テセウスは、自分が戦争の指揮官と法律の守護者になるだけで、それ以外はすべての人に平等な権利をみとめ、ひとつの国家、民衆をつくると約束した。それぞれの地域にある公会堂や議事堂を廃し、聚住する町に共有する施設を整備し、国をアテナイと名づけ、アテネ女神のためのアッティカ共通の祭典、パンアテナイア祭を創始した。以前は、叔父ニソスの領地だったメガラを王国に組み入れ、さらにヘカトンパイオン月(七月)の一六日目に、アテナイ移住を記念した祭り、メトイキア祭をもよおした。 テセウスが王政を廃するあたらしい国家についてデルポイにうかがいを立てると、神託がとどいた。 アイゲウスの子テセウスよ。ピッテウスの娘の子よ。 数多の町にたいして、わが父、ゼウスが定めた、 限界と運命の糸は、いままさに汝らの都市にある、 汝は、うごきまわるよりも、 ときをかけて、熟慮せよ。 革袋は、やがては、波にのって海をわたるであろうから。 この神託にもとづき、女預言者シビュラは、新国家アテナイにたいして声高に宣した。 革袋は、水をくぐるかも知れない。 しかし、しずむことは定めではない。 テセウスは、国家をさらにいっそう大きくしようと考え、市民権をあたえる条件で人をよびよせ、「民衆よ、すべての者は、ここにきたれ」と宣言した。彼は、民主制が衆愚政に落ち入る事態を恐れ、人民を三つの身分、貴族と農民と工匠とに区分した。貴族階級は、神事をつかさどり、役人や法律の教師として聖俗についての解説者になるのをみとめた。また栄誉では貴族が、数では農民が、有用性と多様性では工匠がまさると考え、それぞれの主たる役割を分担した。市民が参政権と兵役をもつ、基本的には貴族制のポリスを目指した。 テセウスは、メガラ地方を確実にアッティカに併合したのち、イストモスに碑文をきざんだ石柱を立てた。東にむかう石碑には、「ここは、イオニアである。ペロポネソスではない」とかいた。また西のものには、「この地は、イオニアではない。ペロポネソスである」と文字をきざんだ。彼は、ヘラクレスがゼウスを称えてオリュンピア競技会をつくったのに対抗し、ポセイドンを讃してイストミア競技会を創設した。 テセウスがクレタから帰還して三年たったとき、ミノス王はアテナイに長男のカトレウスをおくり、ダイダロスのひきわたしをもとめてきた。それで、彼がクノッソスを脱出したことを知った。 「ダイダロスを、クレタにかえせ。もし承諾しなければ、人質に取っているアテナイ人たちを、みな殺しにする」 カトレウスは、ミノスの言葉をつたえた。 テセウスは、いずれクレタとは雌雄を決しなければならないと考えていた。戦うには、準備と口実が必要だったので、いい機会になると思った。 「ダイダロスは、エレクテウスの娘、メロベを母とするので、私に取って従兄弟にあたる。親族だから、もとめに応じられない。大王の意向は分かるが、彼のアッティカ追放処分は、すでに時効となり、市民をまもるのは、王の役割だと理解して欲しい」とカトレウスにつたえた。 テセウスは、戦いの準備に取りかかった。大型船が必要だったが、三〇人船以上をつくってはいけないという全ギリシアの取り決めがあった。エーゲ海の覇権をにぎる海軍国家、クレタ王国だけは、一〇数隻の五〇人船、ペンテコントールをもっていた。この規約は、クレタが自国の安全をまもるために、エーゲ海諸国に押しつけたものだった。 テセウスは、人に気取られまいとして、義父ピッテウスの力を借りて、トロイゼンでひそかにペンテコントールを三隻つくった。また、精鋭の部隊を創設し訓練をかさねた。 三艘の大型の櫂船ができあがると、各船に定員をこえる八〇人をのせ、総勢二四〇名の精鋭部隊をひきいて、テセウスはクレタにむかって出帆した。サワランを道先案内人とした三隻の軍船には、「双斧の軍旗」が掲げられていた。ペンテコントールは、クレタにしかないと考えられたので、偽装したアテナイの船をクレタ人は味方だと信じこみ、アムニソス港への到着をさまたげる者はいなかった。 テセウスは、上陸するや否や港湾警備隊を殲滅してアムニソスを制圧し、宿舎を占拠し、配備された敵の戦車部隊を強奪した。ミノス海軍のペンテコントールをふくむ、すべての船に穿孔機で複数の穴をあけてつかえなくし、戦車にのってクノッソスに迫った。ラビリンスの大門でカトレウスのひきいる親衛隊と交戦になり、彼らを殺した。 海軍国家を自認するクレタは、敵が島に上陸してクノッソスで戦闘が起きる事態を、まったく想定していなかった。王宮に攻め入ると、町は大混乱に落ち入った。ミノスは、降参してテセウスと和議をむすんだ。彼は、アテナイ人を取りかえし、クレタ人との友好関係をきずき、平和条約の締結に成功した。 こうしてアテナイは、事実上のエーゲ海の盟主になっていった。 テセウスには、ラピテス族の王、ペイリトオスという親友がいた。 マラトンにおいてあった彼の牛群が、何者かにつれ去られたとの知らせを聞き、戦車にのって追いかけた。原野をすすむと牛の群れがみえ、ちかくに男が不敵に立っていた。堂々とした体躯の盗人は、気色ばんで戦車にのって迫るテセウスを、大胆にも腕を組んでかっと目をみひらき、仁王立ちになって待っていた。その様子をみた彼は、男がただ者でないと分かった。 テセウスも戦車をおりて、大男にちかづき背筋を伸ばして腕を組んだ。ふたりは、しばらくみつめあっていたが、やがて男は右手をさしだしていった。 「私の名前は、ペイリトオスだ。テセウス。高名は、よく存じあげている。私は許可なく、牛を追いだしたのだ。あなたの審判にしたがおう」 「おまえが、ラピテス族の王、ペイリトオスか。勇者だとつたえ聞くが、噂に違わず、いい面がまえだ。テッサリアの王だとしても、許可なく牛群を駆りだし戦いを仕掛け、私をここまでこさせた罪は大きく、許すことはできない。おまえは、相応のふたつの罰をうけねばならない」 「あなたの望みをいうがいい。どんな、償いでもしよう」 「よくいった。それでは、この牛群を、もとの場所にもどせ。さらに、すんだら、わが家に立ちよれ。おまえを一日拘束する。よいか、今日は勇者と出会ったのだ。心行くまで、飲みあかそうではないか」 そういうとテセウスは、ペイリトオスの右手をつよくにぎりしめ、たがいに抱擁した。それから、ふたりは親友になった。 ある日、テセウスの館にヘラクレスがたずねてきた。彼の母がアイトラで、祖父のトロイゼン王、ピッテウスは、ペロプスの息子にあたる。その孫娘が、ヘラクレス母親、アルクメネだったので、ふたりは従兄弟の関係にあった。テセウスは、さまざまな功業をなしとげた彼を尊敬していたので、歓待し、食事をふるまい、来訪の理由をたずねた。 「以前から、噂を聞いて会いたいと思っていました。このたび私は、主人のエウリュステウスから九番目の難行として、アマゾン族の女王、ヒッポリュテの帯を取ってくる命令をうけ、黒海のテミスキュラまでいかねばならないのです。できれば、あなたに船を都合してもらえたらと考えて、きてみました」と彼は説明した。 ヘラクレスは、英雄、ペルセウスが創設した、ミュケナイやティリュンスがある、アルゴリスの王である主人、エウリュステウスから一二の難行を命じられていた。彼がこうした仕事にたずさわる事態に落ち入った、そもそもの原因はゼウスの浮気だった。 ペルセウスの孫、アムピトリュオンは、ティリュンス王、アルカイオスの息子で、叔父にあたるミュケナイ王、エレクトリュオンの美貌の娘、アルクメネと恋仲になり結婚を希望した。 ところがコリントス湾内の諸島に住むタポス人の王、プテレラオスは、ミュケナイ王位の継承権を主張し、戦いを起こした。彼の六人の息子たちは獰猛な海賊で、エレクトリュオン王の七人の息子を殺し、牛をうばった。 エレクトリュオンは、彼らにたいする恨みが忘れられず、プテレラオス王が支配するタポス攻撃が終了しなければ、ふたりの結婚を許さないといった。アルクメネと夫婦になりたいアムピトリュオンは、タポス人にうばわれた牛を取りかえし、エレクトリュオン王にみせた。そのとき、群れのなかの一頭の雄牛があばれた。取り押さえようとアムピトリュオンが投げた棒が運悪く王の頭部にあたり、うちどころが悪くて、死んでしまった。 ミュケナイ王の弟、ステネロスは、親族殺人の罪で彼をアルゴリスから追放し、ミュケナイとティリュンスの王位を簒奪した。 アムピトリュオンは、アルクメネをともないテバイに逃げ、クレオン王により殺人が過失であるのをみとめられ、住むことを許可された。いっぽうアルゴリスの王となったステネロスは、彼がタポス人をうって敵(かたき)を取らなければふたりの結婚を許さないと宣言した。さらにタポス攻撃は、アムピトリュオンひとりの責務と決定した。アルクメネと結婚したい一心の彼は、その申し出を了承した。 アムピトリュオンは、テバイのクレオン王の援助をうけ、船でタポス島にいき、義父の敵であるプテレラオス王と戦った。包囲をつづけたが、城は容易に落ちなかった。はやく決着をつけてアルクメネの待つテバイに帰りたいアムピトリュオンは、先陣を切って勇敢に戦ったが、どうしても落城できなかった。なぜなら、プテレラオス王の頭部には黄金の毛が生え、王が死ななければ城は落ちないと決まっていたからだった。ところが王女、コマイトは、つねに先頭で戦う美男子のアムピトリュオンの姿をみて一目で恋に落ち入った。深夜、寝室にひそかにしのびこみ、黄金の毛髪をみつけてぬいてしまった。その結果、王は死んで城は落ちたが、アムピトリュオンに取ってコマイトの愛情はうけ入れられないものだった。彼は、恩義ある王女を殺して島を分配し、愛するアルクメネの住むテバイにいそいでもどってきたのだった。 勝利して、懸案を解決させたアムピトリュオンが一刻をあらそい息を切らせながら戦場から懸命になって帰ると、彼女は姿をみても驚きもせず、溜め息をつきながら平然といった。 「昨日、あなたは、敵の城を落として帰宅して、もう私たちは結婚して初夜をいっしょにすごしたじゃない。くたくたに疲れていたはずだったのに、もの凄くはげしくて、私を一睡もさせてくれなかったわね。今日は、朝からずっと寝ていました。お願いですから、今晩はもう許してください」 アムピトリュオンは、意味がさっぱり分からず、テバイの老預言者、テイレシアスをたずねて事情を話した。すると、盲目の預言者は、彼に驚くべき事実を語った。 「かねてよりアルクメネにたいし、はげしい欲情を抱いていたゼウスが、帰ってくるまえの晩におまえそっくりに変装して、彼女と同衾したのだ。彼はギリシア一の英雄をうませようと考え、ひと晩では不充分だったので夜のながさを三倍にして交わったのだ」 アムピトリュオンは、その話に言葉をうしなった。 ヘラクレスの誕生が予定されていた日に、ゼウスは「かつて、ギリシアで生をうけた者のなかで、もっとも偉大なペルセウスの子孫が今日うまれる。その子供は、将来、アルゴリスの王になる」と天上で誇らしげに話した。 言葉を聞いたヘラはゼウスに、「今日、うまれるペルセウスの後裔が、かならずアルゴリス王につくのですね。あなたは、誓うことができますか」とたずねた。 ヘラがなにも知らないと考えていた彼は、「二言はない」と答えた。 嫉妬ぶかい女王は、ゼウスが自分以外の女と交わってうんだ子供が、ギリシア一の英雄になって名を後世に残すのが許せなかった。彼女は、娘であるお産の女神、エイレイテュイアにふたつの指示をだした。まず、アルクメネの出産をなんとしてでも阻止せよ。さらに、まだ七ヵ月の胎児でしかなかった、ステネロスの子を早産させろと命令した。アルゴリスのステネロス王は、ペルセウスとアンドロメダの息子だった。 ステネロスの妻がとつぜんの陣痛にあわてているとき、エイレイテュイアはアルクメネの産室のまえにいた。左膝のうえに右膝をのせ、そこに両肘をついて腕をあわせて、左右の指をからめて、ヘラクレスがでてくるのを妨害していた。ひどい陣痛に、彼女は七日間苦しんだが子供はうまれなかった。 美しい金髪をしたガリンティアスは、アルクメネの親友で、お産手伝いのためミュケナイからきて泊まっていた。霊感がつよかった彼女は、産室のまえで悪霊がうごめく気配を感じた。それが、お産をさまたげているに違いないと直観したガリンティアスは、部屋の扉をとじ、鍵をしめて、「よかったね、無事な出産です。おめでとう。立派な男の子です」と大声をあげた。その声を聞いて、エイレイテュイアは驚いて扉をあけようとした。女神が鍵と格闘しているあいだに術が解けて、ヘラクレスは産道をぬけだした。ガリンティアスは、エイレイチュイアの逆鱗にふれ、姿をイタチに変えられた。 アルクメネが出産したのは双子で、アムピトリュオンは、最初にうまれた子をアルケイデス、二番目をイピクレスと名づけた。そのときには、先にステネロスの子供が出生していた。おくれて世にでたヘラクレスは、偉大な王になりそこねた。ゼウスは、約束通りステネロスの子を、アルゴリス王にした。それが卑劣な王として有名なエウリュステウスで、ヘラクレスに一二の難行のほか、さまざまな形で彼と一家を苦しめた。 ヘラの憎しみは、つづいていた。ヘラクレスがまだ八ヵ月の乳児のときに、この赤子を殺そうと、二匹の蛇を揺り籠に忍ばせた。イピクレスが最初に気づき大声で叫んだが、アルケイデスは両手に一匹ずつつかんでしめ殺した。 それをみたアムピトリュオンは、どちらがゼウスの子供かよく分かった。彼は、難産にたいするガリンティアスの証言、揺り籠への蛇の侵入と、不可解な事件がかさなったのを危惧して、テイレシアスをたずねて経緯を話した。 老預言者は、「ゼウスの妻、ヘラがアルクメネに嫉妬して、子供を殺そうとしたのだ。これ以上、怒らせないことが肝腎だ。この子は、ヘラからの栄えある贈り物という意味で、ヘラクレスと名を変えるほうがよい。また不思議なことがあれば、すぐに相談にこい」といった。 アムピトリュオンは、ゼウスの子、アルケイデスをヘラクレスと改名した。神が英雄をえたいと考えているのを知った彼は、子供のときから英才教育をほどこし、弓術、格闘技、槍術など、その道の達人たちを教師にした。音楽の師としては、名人、オルペウスの兄弟、リノスをつけた。どの教科についてもヘラクレスは懸命に努力したが、うまれついての不器用だったのか、竪琴がどうしてもうまくひけなかった。竪琴以外の科目では、あっという間に師をこえるのを目の当たりにしたリノスが、「おまえは、弓やレスリングはすすんでやるのに、音楽はなまけるから上達しないのだ。もっと練習しなければ駄目だ」とはげしく叱って、平手で彼の頬をうった。 それで、かっとなったヘラクレスは、竪琴で、リノスの頭をうちくだいて殺してしまった。裁判では運よく無罪とされたが、アムピトリュオンは、この事件についてもテイレシアスに相談した。 老預言者は、いった。 「ヘラは、自分の子ではないゼウスの子供がギリシア一の英雄になるのを、みていられないのだ。それで彼女は、揺り籠に蛇を入れたのだ。出産にさいしては、お産の神、エイレイテュイアに命じて、アルクメネともども、殺してしまおうと考えたのだ。彼女は、本気なのだ。ヘラクレスが英雄になれば、ヘラはどういう手段をつかっても不幸にするつもりだ。特別な教育はやめて、平凡な子供に育てたほうがいい。また、なにかあったら相談にこい」 アムピトリュオンは、テイレシアスの言葉をほんとうだと思った。ヘラクレスに特別な教育をほどこすのをやめ、キタイロン山にある牧場の羊飼いにした。 テバイの南西に位置するこの山は、古来、多くの神話の舞台となった東西に一六キロつらなる山脈で、ボイオティアとアッティカを南北に分けていた。ゼウスとヘラの聖婚は、ここで行われた。水浴していたアルテミスの裸身を垣間みて欲情したアクタイオンが、女神の逆鱗にふれ鹿に変えられ、飼い犬に追われて、全身をずたずたにかみ殺された事件もこの地で生じた。テバイのペンテウス王が、ここを聖地とするディオニュソス神に不敬をはたらき、罰として、母と叔母によって八つ裂きにされた悲劇も山腹で起こった。ライオス王が襁褓にくるまれたオイディプスを遺棄したのも、その後、自ら目をつき盲目になった彼が生涯をかけ、さまよったのも、この山だった。 年月がたち、ヘラクレスは、弓を好み、格闘技にたけ、槍の名人に成長したが、キタイロン山で羊飼いとして暮らしていた。彼は、気がむくままにふるまったので、テバイの隣国、テスピアイ人とのあいだに、しじゅう揉め事を起こした。くりかえし苦情を聞いたテスピオス王は、いつかこの面倒な青年を懲らしめてやろうと考えていた。 ヘラクレスが一七歳になったとき、キタイロン山にライオンがまよいこみ、アムピトリュオンの羊をかみ殺し害をあたえた。隣国、テスピアイの王、テスピオスも、この猛獣に家畜をあらされてこまり果てていた。かねてより弓の名人と豪語して、隣人の羊を射殺して喜んでいたヘラクレスを餌食にしてやろうと考え、テスピオス王は、「どんな褒美でもとらせる」といって、ライオン退治を依頼した。 喜び勇んで手に弓矢をもち、肩に矢筒をかけて草原に入った彼は、待ちぶせするライオンから不意うちをうけ、武器をうしなった。ヘラクレスは、猛獣と素手で戦い、最後にはしめ殺した。 矢も槍の傷もないライオンの死骸をみせられたテスピオス王は、彼にひどく畏服した。歓心をかうために五〇人の娘を、毎晩ひとりずつヘラクレスの寝室にしのびこませた。すべての娘たちが同衾してしまうと、テスピオスは、「こんな田舎にいるのは場違いだ。おまえは、テバイにいけ」と彼にいった。 ヘラクレスは、キタイロン山で倒した獅子の皮をはいで上着とした。口をあけた顎で兜をつくったので、その姿をみた者は、だれもが彼を恐れた。テスピオス王の城から父の住むテバイに帰る途中で、ヘラクレスは、ミニュアス人のエルギノス王の使者たちに出会った。 数年まえだったが、テバイ市で行われたポセイドンの祭りのとき事件が起こった。ささいなことから喧嘩になり、テバイ人はエルギノス王の父親を殺してしまった。怒ったエルギノスは、テバイを攻めて勝利し、武器をすべて取りあげて、毎年、重い貢税をおさめるようしいていた。 うまれ故郷の屈辱を知ったヘラクレスは、使者たちを捕らえると、耳と鼻を切り取り、縄に通して首飾りをつくった。 「これを、年貢の代わりにもっていけ」といって、エルギノス王におくりかえした。 それを知ったエルギノスが攻めてきたのを、女神、アテネから武具をさずけられたヘラクレスは、かえりうちにした。武器をうばわれていたテバイの人びとは、かつて祖先が神殿に奉納した剣を取り、彼とともに戦った。エルギノス王をうったヘラクレスは、ミニュアス人の国、オルコメノスを包囲し、夜陰に乗じてひとり城壁をよじのぼり、エルギノスの城を焼き払った。 テバイ王のクレオンは、武勲をみとめ、褒美として娘のメガラをあたえた。彼女は、彼とのあいだに三人の子供をうんだ。 ヘラクレスは、父の館に、両親と妻、それに子供たちと住んで、平和で幸せな生活をおくっていた。ところが、メガラが三人目の子供、デイコオンをうんだころから、悪夢にうなされはじめた。それは、夜ごと襲ってくる奇怪な夢だった。 目のまえに、大草原がひろがっていた。茫洋とし、懐かしく思え、どこかでみた記憶とかさなっている。空は青くすみ、風も穏やかで祝福されていると感じる。草原の匂いに満たされた、すがすがしい大気につつまれているから、きっと初夏の日で、このまますすめば、草をゆっくりと食む羊の群れに出会うに違いない。しかし、こんなにひろい土地は、どこにあるのだろう。みわたしても、海も山もみえない。あざやかな緑の草原が、さえぎるものひとつなく果てしなくつづき、木の一本も生えていない。山がちなこの国に、こんな場所は知らないし、そもそもが、なぜ大平原があるのだろう。大火災で、森がすべてもえてしまったのだろうか。それともここは凍土で、木が生えることができないのだろうか。草の密集度からすると、土地は肥え、大羊群をやしなえるに違いない。こんなに豊かな場所をみた記憶はないが、将来こんな大地で暮らすのだろうか。 そう考えていると、しだいに日差しはつよく、風は生暖かくなりはじめた。ほんとうの日盛りがきて、木陰ひとつない平原は猛烈な暑さになった。白い積乱雲が、まるで大きな女みたいな形で立ちあがり、雲がひろがると、空は急速に暗くなって雨がポツリとふりだした。驟雨になり、やがて雷鳴が聞こえはじめた。 大平原は隠れるところもなく、槍と弓をもっているのに気がついた。そのとき、ちかくで雷光が走り、はげしい雷鳴がとどろいた。もっていた槍を力いっぱいに投げると、稲妻がそれに落ち、周囲は爆音につつまれた。雷の落下した場所は焼けただれ、ぷすぷすと草がもえて、なにもなくなっていた。弓と弓筒をほうり投げ、反対方向に飛んで、身を草のなかにすべりこませた途端、空から一筋の閃光が地につらなり猛烈な轟音がした。じっと、息をひそませて雷鳴が遠ざかるのを待った。雨は小降りになって風がつよく吹きだし、周囲の草が揺れている。揺れうごいている。揺れているのではない。彼が飛びこんだのは、草むらではない。緑の蛇が群居し、身体中をはいまわっている。起きあがって、走りだした。駆けながら、身体にくっつく蛇を払った。 大きな雹が、ふりだした。逃げ場をもとめて荒地にでると、ボール大にもなって背中にいくつもあたった。みえた洞窟に飛びこむと、本降りに変わり、雹が地表にぶつかる凄い音がした。すこし寒くなりはじめ、外は音響がつづいていた。しかし、そのほかに、なにかの唸り声が背後で聞こえ、輝く目がみえた。気がつくと光るのはひとつではなく、いくつもあった。なにかがいて、侵入者に気づいていた。雹がやみ地表をうつ音が消えると、唸る声もひとつではないことが分かった。雨があがって空が青くなり、洞窟のなかにも光がさしこんでくると、奥に犬の牙をもった頭がいくつかみえ、背中に蛇がうごめくのを知った。その不気味なものを注視しながら、後ずさりして外にでると石切場で、周囲は小高い丘になり、中央がすこし窪んでいた。中央部までおりてみまわすと、ヘラクレスは一二個の洞窟にかこまれていた。もの凄く甲高い声がして空をみあげると、知らない鳥が飛んでいた。大きな禿鷹だったが、胴体はライオンにもみえた。周囲の洞窟から、いままでみたこともない、背中にぬめぬめとした無数の蛇を生やした、頭が三つも五つもある、犬や大蛇がぞくぞくとでてきていた。この不明な生き物が、中心にむかってすこしずつ迫っていた。奇怪で、おぞましい生物たちは、獲物をみつけた獰猛な表情になり、いまにも襲いかかろうとしていた。槍も弓もなく、拳をにぎりしめたとき、自分が泥沼に立っているのに気がついた。もう身体が、膝までしずみはじめていた。 「いかないで」 メガラが、叫ぶ声が聞こえた。みると、わが子が奇獣の、ちかくをはいずりまわっている。自分は、腰まで沼にしずんでいる。 「そっちに、いってはいけない」 いくら叫んでも、子供には分からない。いかなければ、ぬけでなければ、そんな意思を無視して、自分は胸までしずんでいく。女の甲高い哄笑が、真っ青な空からふっていた。 汗をびっしょりかいて、目がさめる。 異様な夢が毎晩つづいて、ヘラクレスは、すっかり鬱ぎこんでいた。それをみたアムピトリュオンが、「どうしたのか」と聞いた。彼は、「よく眠れない」とだけいったが、何度もたずねると、くりかえし襲ってくる奇妙な夢について話した。 すでに、ヘラクレスがテバイ一の豪傑とされ、褒美としてテバイ王の娘をもらい、その結果、テバイの王位継承権をもって幸せに暮らすのをそばでみて、アムピトリュオンは一抹の不安があった。しばらく様子を観察していたが、悪夢はおさまる傾向がなかったので、誕生の経緯を話し、いっしょにテイレシアスのところにいこうと彼にいった。 「ヘラの栄えある贈り物」という自分の名前の意味を知ったヘラクレスは、その言葉にしたがった。 ふたりがテバイのちかくに住むテイレシアスをたずねて話をすると、老預言者は「よく相談にきてくれた。ずっと心を痛めている問題がある。きわめて大事な案件だから、一度、デルポイで神託をえてこい」といって書面をわたした。 アムピトリュオンは、ヘラクレスの夢がただならぬもので、きちんと対応しないと恐ろしい事件が起こる気がした。それで彼を説得し、ふたりでテバイから七五キロ北西に位置する、予言の神、ポイボス・アポロンを祭る、デルポイに神託をえるために出向いた。 その街は、パルナッソス山の西南斜面を覆いながらひろがっていた。聖域の南東角にある入り口から神殿につづく表参道は、「聖なる道」とよばれ、両がわはテバイなどの諸都市や競技会の優勝者らが奉納した品々で、埋めつくされていた。 神託所はこみあい、上部に「汝自身を知れ」と大きくかかれた受付で、テイレシアスの書簡をわたし、申しこみをすませると、ふたりは併設された簡易宿泊所で順番を三日待った。三日目の朝、受付所で待っていると神官によばれ、カスタリアの泉で身を清めてから、彼のあとについて、山の斜面につくられたひろい石の階段をおりていった。 「ドーン」、「ドン」という不気味な地響きがくりかえし聞こえ、やがて洞窟の入り口についた。そこには、「度をこすことなかれ」とかかれた大きな立て看板がおかれていた。私語を慎むよう神官から注意をうけて洞窟のなかに入ると、音はいっそうはげしくなった。地下にむかってひろい石段がつづき、篝火がところどころで赤くもえていた。ひんやりとした洞内は、もの凄く大きく、やがて石がしきつめられ、平らになった最下部と思われる場所に辿りついた。 周囲に四つの篝火が焚かれる中央部分には穴があり、そこから白い湯気が、もうもうと立ちあがっていた。裂け目の奥から、一定の間隔で猛烈な音響がくりかえされていた。大地の深部からはなたれる「ドーン」という巨大な音は、洞内に木霊して直接腹にひびいてきた。亀裂の周囲には、無数にもみえる蛇がうねうねと、とぐろを巻いてひしめきあっていた。落ちついてみなおすと、青銅でつくられたものだったが、絡みあい、まるで生きているようだった。薄暗い異様な雰囲気と、衝撃波によってゆらめく白い大気のなかで、いまにも、うごきだしそうに思えた。そのとき、ふと人影を感じて割れ目の上部をみあげると、真っ白い服をきた若い女が宙に浮かんでいた。 凄まじい音響と湯気のなかで、ヘラクレスがよくみなおすと、穴には高さが三メートル以上もある黒色の鼎が立てられ、三本の脚があわさった頂上は椅子に変わり、そこに巫女が腰掛けていた。黒い脚部は、闇にとけあいひとつになり、立ちのぼる白色の気が篝火に照らされると、はじめてべつべつのふたつのものに分かれていた。その頂上に二〇歳くらいの、ながい髪を垂らした若い女が、白い服に身をつつんですわっていた。 穴をはさんでむかいにいた神官が、「テバイのアムピトリュオンの息子、ヘラクレスだな」といった。「そうです」と答えると、「この者たちは、テイレシアスからの書面をもっている。ヘラクレスが、悪夢をみる。わけを知りたいとのことである」とつげた。 巫女は、その声を聞くと、椅子のうえで震えだした。「ドーン」という耳をつんざく地響きが、地下のふかくから、くりかえし聞こえた。篝火に照らされた白い蒸気が、その音に揺れながら周囲を漂っていた。ぶるぶると震えていた若い女は、甲高い声で絶叫した。 われは、アルゴリス王、エウリュステウスの奴隷となり、 一〇の難行をなす。 それを聞いて、ふたりは驚いて顔をみあわせた。なぜなら、エウリュステウスこそ、ほんらいヘラクレスがなるべき、アルゴリスの王位を簒奪した者だったからだ。ミュケナイ王、エレクトリュオンには七人の息子がいたが、タポス人のプテレラオスの子息によってすべて殺されていたから、玉座は娘婿のアムピトリュオンがつぐべきものだった。しかし、王の弟のステネロスが簒奪し、王位はエウリュステウスにひきつがれていた。アルゴリスには、ミュケナイのほか、ティリュンスなどの諸ポリスがあった。ティリュンス王は、アムピトリュオンの父だったが、この王位もステネロスによって簒奪され、いまはエウリュステウスのものだった。 ふたりは、不可解な託宣をもっていそいでテバイに帰り、再度、テイレシアスをたずねた。老預言者は、テバイちかくに特別な家を設け、少年をつかって犠牲をささげ、神託をつげていた。 「デルポイで託宣をえましたが、意味がまったく理解できません」とアムピトリュオンはいって、ピュティアの言葉をつたえた。テイレシアスは、私邸の神殿に神託をあげ、アポロンに山羊を犠牲にして祈りをささげた。 「私の考えと、おなじだ。ヘラの憎しみは、はげしいので、これで終わるはずがないとずっと心配していたのだ。おまえが英雄的な行為をはじめれば、かならず難問がふりかかってくる。これは、ヘラの意志なのだ」 テイレシアスは、いった。 「理由が分かりません。エウリュステウスとの因縁は、あなたもご存知のことですよね」とアムピトリュオンがいうと、テイレシアスはうなずいた。 「よく分かっている。アムピトリュオン、おまえは、あやまってエレクトリュオン王を殺してしまった。これは悲しむべき事故であって、悼んでも、償う性質のものではない。おまえは、タポスをうち、王の汚名も立派にそそいだのだ。アルクメネとの結婚は、どこからみても正当なものだ。しかしヘラは、こういっているのだ。 王の遺恨を晴らすのは結婚の条件で、親族殺人の埋めあわせではない。この過程で、おまえは王女、コマイトの助力をえた。プテレラオス王はポセイドンの息子で、黄金の毛により不死にされていたので、彼女の協力がなければ城は絶対に落ちなかった。自分たちとおなじペルセウスの血統をひく、再従姉妹にあたる協力者の王女を殺害したのは、あらたな親族殺人を犯したことになる。ほんらい、おまえがアルクメネと結婚するのは、さまざまな因縁で不可能だった。それにもかかわらず、運命にさからって無理くりいっしょになったために二重の親族殺人が起こり、償うことのないまま今日にいたっている。罪は、どこかでかならず精算をしなければならない。おまえが償えなかったので、息子にひきつがれた。ヘラクレスがエウリュステウスの奴隷になって、命ぜられる一〇の難行を果たすことによってのみ、すべての罪が贖われる。この裁定に不満があるというのなら、おまえの一族を今日にも殺してやる。ヘラは、そう思って、ヘラクレスに三人の子供ができるのを、たんたんと待っていたのだ」 「女神の考えは、なんと恐ろしいことだ」とアムピトリュオンは絶句した。 「その通りだ」 テイレシアスは、ふかくうなずいた。 彼が盲目になったのも、ヘラが原因だった。もともとテイレシアスは男だったが、キタイロン山中の三叉路で、蛇が交尾しているところにめぐりあった。木の枝で、はげしくうちすえて雌蛇を殺すと、彼はとつぜん女性に変身した。その後七年して、キタイロン山のおなじ三叉路で、交尾している二匹の蛇にふたたびめぐりあった。 「おまえは、殺せば人の性を変えるほどの力をもつのだな。それならば、もう一度、うち殺そう」といって今度は雄蛇を木の枝で撲殺すると、彼は男にもどったのだった。 ゼウスとヘラが男女の性の快楽は、どちらが大きいかと話しあい、やがて口論に発展した。そのとき、両方を経験したことのある、彼に聞いてみようという話になった。 テイレシアスは、「性の営みで、男が享楽するのはひとつの部位だが、女性のばあいは九つの部分が同時に歓喜で満たされる。女の快楽が、男性の九倍以上になるのはあきらかだ」と答えた。するとヘラは怒りだし「おまえの目は、節穴だ。そんなもの、なくてもおなじだ」といって平手でなぐりつけ、彼を盲目にしたのだった。 一部始終をそばでみていたゼウスは、あわれに思ったが、起こった出来事をもとにもどすことはできなかったので、テイレシアスに心眼をあたえ、予言の能力と七代の長命をさずけた。 「ヘラは、もっとも恐れなければならない女神なのだ。理由はともかく、ヘラクレスが英雄となるなら、地獄の苦しみを味わせてやろうと考えつづけている。この子がうまれたときから、私はずっと心配していたのだ。ヘラの恨みは、限界がなく執拗なのだ。エウリュステウスにつかえても、おまえは、ひどい仕打ちをうけるだけなのだ。彼は、女神にまもられただけの卑劣で臆病な男で、ほんらい英雄が勤仕する王ではない。そうした摂理に反する不本意なことを、ヘラは望んでいるのだ。名前を変え、羊飼いになって暮らしていたとき、このままなにも起こらなければいいと、ずっと考えてきた。おまえは、ライオンを素手で殺し、テスピオス王の五〇人の娘と交わり、エルギノス王を殺害し、彼の堅固な城をひとりで粉砕してしまった。これはもう、ヘラには許せることではなくなってしまったのだ。エウリュステウスにつかえれば、おまえは古今を通して、ギリシアでいちばんの英雄となるだろう。だれもが考えられない、さまざまな難行をやりとげるに違いない。その物語は、三〇〇〇年も四〇〇〇年も、世界の各地で語りつがれるだろう。そうした英雄的な行為でおまえが高名になれば、さらにヘラを意固地にさせるのだ。だから難行を終えても、すくわれることはない。命じられた任務は、デルポイの神託には一〇とあるが、エウリュステウスは小ずるい奴だから、もっと多くの数になるかも知れない。もしもすべてを果たしたときには、今度はやり終えたことをヘラは恨んで、おまえの家族に危害をくわえる可能性も残っている。女神の憎しみには、際限がないのだ。私は、いろいろ悩んできたが、おまえが家族をすてて神官になれば、ヘラも許してくれるのではないかと思う。どちらをえらぶかは、よく考えたほうがいい」 その話を聞いて、アムピトリュオンは、ヘラクレスに神官になることをすすめた。彼は、エウリュステウスにつかえると答えた。 「おまえの妻子まで、殺されるかも知れないのだ」とアムピトリュオンはいった。 「私が、まもってみせます」とヘラクレスは答えた。 「彼は、ゼウスの息子なのです。なぜ、ヘラの、これほどのひどい行為を許すのでしょうか」とアムピトリュオンは聞いた。 「ゼウスは、英雄がうまれることを希望した。しかし、そうした者がどう苦しむかについては考えなかったのだ。ゼウスは、語りつがれるべき英雄的な行為を望んだが、ほんとうに遂行したばあい、彼がどんな人生をおくるかについては慮らなかったのだ。英雄が前代未聞の快挙を果たせば、ねたむ者はたくさんいる。素晴らしければ、それに比例して、エウリュステウスみたいな偶然に権力をもった者たちがいちばんにうらやみ、自分が卑劣でつまらない臆病者だと知っている分だけ、さらにひどい仕打ちをはじめ、すこしでも腹いせをしようと考えるのだ。そうした嫉妬を代表するのが、ヘラの役目なのだ。アテネ女神は味方してくれるだろうが、なんといっても女王の力は強大で、ゼウスはそれをみているしか仕方がないのだ」 「おまえは、ミュケナイやティリュンスばかりか、メガラと結婚したのだからテバイの王にもなる資格をもつ者だ。現世で平和に暮らせる由緒ある血統をひいているのに、たいへん残念なことだ。それが、わが不徳という理由でヘラに責められるのなら、死んでも償いたいと思う。ゼウスの息子であるまえに、私の子供なのだ」とアムピトリュオンはいった。 「ヘラは、おまえの死などまったく望んでいない。これらすべては、いいがかりみたいなものだから、ヘラクレスを不幸にしたいだけなのだ」とテイレシアスはいった。 「私は、自分の人生をやりとげてみせます。ゼウスが課し、ヘラが賦したものならば仕方がありません。私は、父上の死によって生き存えたいとはまったく思いません」 ヘラクレスは、きびしい表情でエウリュステウスの奴隷になるといった。 「それが、運命だろう。どんな不幸が待ちうけているのか話せないが、おまえが、ギリシア一の英雄として、後世に名を残すことだけは間違いない」とテイレシアスは悲痛な表情でいった。 それで、彼の残酷な人生がはじまった。 テセウスは、かねてより難行をかさねるヘラクレスを不憫に思ったので、手助けをしてやりたいと考えていた。また、アマゾン族の女王の帯を取りにいく話は、アテナイの都会の生活にも飽きた彼には面白そうに思えた。 「それは、英雄がでていかねばならないほどの仕事なのか」とテセウスは聞いた。 「アマゾン女王の帯は、軍神アレスの一族としての証しの品でもあるから、礼儀をつくしたところで、すんなりと、わたしてくれるとはとても思えない。エウリュステウスの馬鹿娘が、女王の下着をつけてみたいと思いはじめたのだ。わがままなうえに低能だから、着用しても、アマゾン女王になれないことが分からないのだ。よくしらべてみると、女王の帯とは、剣の柄をさすために身につける道具だという話もある。その剣帯は、黄金製で翡翠が象眼されているらしいから、馬鹿娘にはつけようがないし、簡単にゆずってくれる代物でもないだろう」とヘラクレスは答えた。 こうした話にテセウスが興味をもったのをみて、いっしょに冒険をしてみたい思っていた彼はいった。 「アマゾンの女王ヒッポリュテには、アンティオペという、たいそう美しい妹がいると聞いている。男勝りで勇猛だが、右の乳房を切っているわけではないらしい。弓はアルテミス、美貌はアプロディテだと噂され、私たちが、いままでみたこともないタイプの女性だと思う。船を貸してくれたら、あなたのために、つかまえてきてあげましょうか」 「そんな美しい女なら、ヘラクレス。あなたがほうっておかないでしょう。いっしょにいきますから、彼女は私の自由にさせてください。アテナイの船を用意します。この冒険には、私の親友のペイリトオスも同行させてください。彼を、ご存知でしょう。あとで恨まれるのはこまりますから」 ペイリトオスも勇者として有名だったので、ヘラクレスはすぐに同意した。ふたりは、すっかり意気投合して酒を飲みあかした。 アテナイの船を仕立てて、ヘラクレスが隊長、テセウスが副隊長となって、一行は黒海の南海岸に住むアマゾン族にむかった。ファレロン港から出帆したが海があれて、帆船はクレタの支配下にあった、キクラデス諸島のパロス島に立ちよった。アテナイとは、平和条約をむすんでいたので、テセウスは安心して港に入った。ところが、この島を統治していたのは、ミノスの三男、アンドロゲオスの忘れ形見だったふたりの息子、兄のアルカイオスと、弟のステネロスだった。彼らの父親は、一八歳のときアッティカの競技会でアッティカ王、アイゲウスと戦い不慮の死をとげていた。 アルカイオスから褒美をもらえると考えた兵士が、テセウスの部下を二名殺害した。彼は違約に驚き、パロスの町を包囲して戦いが起こった。アルカイオスは、一行にテセウスばかりでなく、ヘラクレスもいると知って降伏した。 ミノスの王位をついだ次男のデウカリオンが急遽やってきて、話しあいになった。ヘラクレスは、アマゾン遠征の幸先が悪いと怒り、ふたりの兄弟を人質として遠征に同行させることで和睦した。デウカリオンは、テセウスに今回の不始末をわびて、アマゾンからの帰りにクレタに立ちよる提案をした。 「友好関係を再確認しましょう。盛大な歓迎会をもよおしますから、ぜひ、国賓としてクレタにきて欲しい」といい、アリアドネがディオニュソスによって殺されたのを知っていたデウカリオンは、彼に正妻がいるのか、たずねた。 テセウスは、彼女を思いだして首を振った。 アマゾン族が住む黒海の南岸、テミスキュラにいくと、ギリシアの勇者たちがそろってきたのをヒッポリュテは歓迎して、宮廷で晩餐会が行われた。 テセウスは、美貌のアンティオペをみた。短いブロンドの髪の彼女は、背が高く、すきとおる白い肌をして、精悍でしなやかな肢体をもっていた。彼には、まるで若い豹に思えた。黒海を望む高台にたてられた王宮からは、月に照らされて輝く黒い溟渤がみえた。 「客好きな海」とよばれる、冥界の入り口がくりかえす波音につつまれ、語り明かしたふたりは、恋に落ち、結婚の約束をした。ヒッポリュテは、ギリシアと友好関係をむすぼうと考え、ヘラクレスの希望にしたがってアマゾン族の至宝、アレスの剣帯をわたした。 困難と思われた難行があまりにも簡単に達成されて、拍子ぬけした彼は、満足せず人質のふたりをつれてトロイアにむかった。そこでポセイドンがおくった海の怪獣と戦い、これを倒して、トロイア王、ラオメドンの娘、ヘシオネをすくった。 テセウスは、アンティオペをアテナイにつれかえろうと考えていたが、ひどい悪阻になって、彼女は船にのるのはもちろん、食事も取れなかった。 「一年したら、むかえにくる。男でも、女でもいい。丈夫な子供をうんで欲しい」と彼はいった。 「テセウス。信じて待っているわ。あなたがミノス王の娘、アリアドネをナクソスの浜にひとり置き去りにしたのは、聞きおよんでいます。可愛そうな彼女は、親を裏切ってまでつくしたのにすてられて、アルテミスに射殺されたのです。私は、アリアドネとは違って、ただ耐える女ではありません。裏切ったら、あなたを殺します」 「それは、恐ろしい。そんなことが起こらないよう、一年後にはかならずむかえにこよう」 テセウスは、ペイリトオスとともにテミスキュラをあとにした。アリアドネだったら、そんな脅しは決していわないに違いないと、彼は思った。 パロス島で、アテナイと和睦してクレタにもどったデウカリオンは、妹のパイドラをテセウスと結婚させようと考えていた。 思いかえせば、彼は、クレタ王国に取って不倶戴天の敵だった。 デウカリオンの弟、アンドロゲオスは、テセウスの父に競技会で不慮の事故とはいえ殺され、それから、アテナイとはかずかずの因縁がうまれた。ミノタウロスの生き贄としてやってきた彼が、迷宮を脱出してアリアドネをつれだし、さらにダイダロスが逃亡した。アテナイに使者として出向いた兄、カトレウスは、その件で揉め、結局、クノッソスまで侵攻してきたテセウスに殺された。新興国アテナイは強力になり、クレタの覇権はうしなわれた。ミノス王も、テセウス憎しがこうじて不必要なまでにダイダロスを追いかけた挙げ句、反対に殺害されてしまった。事実だけをいうなら、テセウスは、母のパシパエも殺したのだから、ミノスの王国は彼ひとりによって栄光をうしなった。 過去の事件を恨みつづけても、あらたな発展はなかった。アテナイをみとめ、テセウスとパイドラを結婚させ、あたらしい時代をきずくのがよいだろうと考えた。デウカリオンは、彼女をよんで、彼が正妻をもっていないことを話し、「婚約するつもりはないか」と聞いた。 テセウスを忘れられず、まだ嫁いでいなかったパイドラは、兄の申し出は嬉しかったが心中は複雑だった。すべてを知るデウカリオンがすすめてくれているのだ、と彼女は思った。 アマゾンからの帰路、テセウスは、ペイリトオスとともにクレタによった。アムニソスの港にはデウカリオンが待ちうけ、派手に飾られた戦車にのって、ふたりはクノッソスまで行進した。国賓として招かれたので、大門に通じるひろい沿道を、平和を望むクレタの人びとが、埋めつくして出迎え、テセウスはまるで凱旋将軍だった。 クノッソスの宮廷では晩餐会がもよおされ、素晴らしい料理がふるまわれた。そこで、テセウスは、パイドラに会った。 真珠の首飾りが映える、深紅のドレスに身をつつんだ艶やかな彼女は、赤瑪瑙が象眼された白金の冠をつけていた。編みこんだながい黒髪に、鼻筋が通った美しいパイドラは、妹の生き写しだった。その瞬間、ラビリンスをぬけでたとき、塔の下でみた、灰色のローブとふかいフードに覆われた、愛しいアリアドネの緊張した横顔を思いだし、身体の震えがとまらなくなった。 「お懐かしいことで、ございます」 パイドラの声は、アリアドネかと勘違いしてしまうほどだった。 行事が終わるとデウカリオンは、テセウスにいった。 「パロスで和睦したおりに、正妻をもっていないとうかがいましたが、パイドラと正式に結婚して、両国の友好を、さらにふかめたらどうでしょうか」 そう話す国王のまえで彼女は、なごやかに微笑んだ。 「なにか、ご不満でもありますか。クレタの王女では、不釣りあいですか」 デウカリオンは、聞いた。 「飛んでもありません。光栄なことです」 「パイドラは、ずっと、あなたに夢中です。日時は、追って決めましょう。両国で盛大な式にしましょう。その節には、私は、もちろんアテナイに出向きます。結婚式の日は、両国の祝日にしましょう」 デウカリオンは、テセウスと固い握手をかわした。 事務的な話は後日ということになり、王とパイドラは、アムニソスの港まで彼をみおくった。 アンティオペに、なんとつたえたらいいのだろうか。テセウスの心は乱れ、すぐにアテナイにもどる気持ちにはなれなかった。ペイリトオスにエーゲ海の外にでてみようと話して、ふたりはシチリア島にいった。シチリアを旅して南部のカミコスまできたときに、ダイダロスの噂を聞いた。コカロスの宮廷にいって、アテナイのテセウスであると名のると、コカロス王はふたりを賓客として遇した。彼がラビリンスを脱出するときに、ダイダロスに助けてもらった事情も聞きおよび、面会を許可した。 ふたりは、会うと涙をながして語りあった。 ダイダロスは、テセウスがアリアドネをともなってクレタを脱出したときの話をはじめた。彼は、いっしょに逃げるつもりだった。ダイダロスは、ミノス王の女奴隷ナウクラテとのあいだにイカロスという男児がいた。五五歳のときにうまれたひとり息子で、溺愛していた。イカロスが高熱をだし、とても逃げることができなかった。 ミノスは、テセウスがラビリンスを脱出できたのは、ダイダロスが秘密を漏らしたに違いないと考えた。彼を憎み、迷宮に幽閉した。才能を高く評価していたミノスは、殺すまでは考えなかった。 幽閉されたダイダロスは、ふたつの要求をミノス王にだした。ひとつは、塔の尖端部を開口状態にたもち、パシパエがいた牢を改造した地下の工房で研究をつづけるために必要な物資をあたえることだった。ダイダロスの性格をよく知るミノスは、この提案をうけ入れた。ふたつ目は、当時六五歳だった彼が、一〇歳になる愛息のイカロスと週に一度は地下で会うことで、これも許可した。 ラビリンスから通常の方法で脱出できないのは、つくったダイダロスがいちばんよく知っていた。彼は、ふるくからアイデアをもっていた。嫉妬に狂ってペルディクスを、アテナイ・アクロポリスの北面の絶壁からつき落としたとき、甥は目のまえで、「山ウズラ」に変身したのだった。翼をもった甥っ子は、地面にたたきつけられることもなく、軽やかに空を飛んだ。その光景は、ずっと脳裏に焼きついていた。 ダイダロスは、塔の尖端部から、飛翔しようと思い翼を考案した。 ある日、イカロスに、「低すぎると、雲にさえぎられ、どこを飛んだらいいのか分からない。波飛沫があたれば、翼が重くなり、海に落ちてしまう。高すぎると、太陽の熱で蝋がとけだし羽が離散するから、私とおなじ場所を飛行するのだ」とよくいいふくめて、ふたりで塔の尖端部から飛びたった。 空を飛んだのは、気持ちのいい晴れた日で柔らかな南風が吹いていた。眼下に、凪いで碧に輝くエーゲの海がみえ、自由に飛びまわるのにすっかり嬉しくなったイカロスは、翼を大きくうごかし、あがったり、おりたりをくりかえした。 ダイダロスは、クレタ島からすこしでも、遠くへ飛ばねばならないと幾度も話した。暖かな南風にのって、彼らはクレタから離れ、眼下に無数の島々が浮かぶキクラデス諸島が目に入ってきた。やがて、デロス島、パロス島と思われる上空にくると、西に大きなエウボイアの島とアッティカの半島、さらにつらなってペロポネソス半島がみえた。東には、アジアの大地が目に入りはじめた。 はしゃぐイカロスに、ダイダロスは、ちかくをいっしょに飛ぶのだと、くりかえした。夢中になった彼は、さらに上空にのぼっていった。そこからは、オリンポスの山がみえ、トラキアが、陸にかこまれたエーゲ海の全容が、南北に走るギリシアの背骨、ピンダロスの山脈が目に入ってきた。そして、小アジアの沿岸がはっきりと視野に捕らえられた。振りかえると、クレタの島が地中海にぽつんと浮かび、遠い南にはエジプトがみえた。さらに果てには、はるか彼方まで広大なエチオピアがつづいているはずだった。 「それより先に、あがってはいけない」 ダイダロスは、大声で叫んだ。 イカロスは、さらにのぼっていった。やがて、キプロスの島をこえてシリアがみえ、恐竜の顔の形をした小アジアの全貌が目に入ってきた。北は、はるか彼方までみわたすかぎり陸地がつづき、東にエーゲとつながる大きな内海が視界に捕らえられた。イカロスは、さらに上空を目指した。そのとき、太陽の熱で蝋がとけだし、翼がもげた。 ダイダロスは、目のまえで墜落するイカロスを、涙のなかでみるしかなかった。東風にのってシチリアのカミコスまで飛び、そこの王コカロスの宮廷にかくまわれた。彼は後日、ここまではこんでくれた悲しみの翼を、クマエのアポロン神殿に奉納した。 イカロスとともにダイダロスがいなくなると、ミノスは激怒し、殺すべきだったと考えた。なぜなら、彼はラビリンスの秘密を知っていたのだ。どう門をとじても、ダイダロスが教えれば、だれかが王の部屋にやってくるかも知れない。どうしても、彼を殺さなければならないとミノスは思った。アテナイに帰国したという情報をつかんだ王は、カトレウスを使者にたてて、ダイダロスのひきわたしをもとめた。テセウスは、彼がいるのをみとめながら、こばんだので、ミノスは街を攻撃することも考えた。しかし、アテナイ市はすでに強力な都市国家に再編され、アイゲウスのときとは違って容易に攻めおとせないと思われた。どうやってアテナイを攻撃し、ダイダロスを奪還するかと、長男のカトレウスと協議をかさねていた。 そのとき、思ってもみないことが起こった。テセウスのひきいるアテナイ軍がクレタに侵攻してきたのだった。長女のパイドラは、攻めてくると聞くと、小おどりして喜んだ。ミノスは、今度は裏切るに違いないと思って、彼女を再度幽閉した。さらに、考えもしないクノッソスでの戦闘が起こった。長男のカトレウスをうしなった王は、不本意なことにテセウスと講和を協議せねばならなかった。 アテナイにエーゲ世界の盟主の座をうばわれたミノスは、すべての元凶がダイダロスだったと信じはじめた。テセウスがクレタに侵攻してきたとき、道案内としてサワランはみかけたが、彼はみなかったという情報をえた。間者をはなってさぐらせると、アテナイにはいないことが分かった。ミノスは、躍起になってダイダロスをさがしはじめた。彼の技術は、だれもが役に立つものだったので、どこかの王宮にかくまわれているに違いなかった。ミノスは、ある策を思いついた。大きな巻き貝の尖端に穴をあけ、基部から糸を通してくれたら、キクラデス諸島の好きな島をわたすという条件で、各宮廷に使者をおくった。答えられる宮廷は、なかった。しかし、カミコスのコカロス王は、糸を通した巻き貝を使いの者にわたした。それでミノス王は、ダイダロスがコカロスにかくまわれているのを知った。彼以外に、この難問を解ける者がいるとは考えられなかった。 ダイダロスは、巻き貝の尖端部を蜜にひたして、体に糸をつけた蟻をはなった。すると、その生き物は貝の渦を通りぬけ、尖端からでてきたのだった。こうした迷路について考えるのは、彼の大好きなことだとミノスはよく知っていた。 王は、ダイダロスを殺す気になって、カミコスのコカロス王にひきわたしをもとめたが、ことわられた。クレタ王である、彼の要求がこばまれるなど考えもしなかったミノスは、激怒して、簡単に勝てると考えてコカロスを攻撃したが、戦いは思いのほかながびいた。ダイダロスによって、難攻不落の城につくり変えられていたのだった。ミノスは、クレタの威信がひどく損なわれたと感じて、多いにあせった。市を包囲すると、コカロスは使者をおくってきて、「とても大王にはかないません。ダイダロスのひきわたしに応じますので、和睦を祝す晩餐会にご出席ください」といった。 ミノスが、部下をひきつれてカミコスの宮廷にいくと、コカロス王が美しい三人の娘とともに出迎えていった。 「このたびは、命令にさからい、申しわけありませんでした。おくればせながら、大王を国賓としてご招待し、和睦をむすびたいと思います。すでにご存知かも知れませんが、カミコスでは、外国の元首にたいして晩餐会をもよおすまえに入浴していただき、王の娘に身体をあらわせる習わしがございます。私の娘たちのなかで、気に入る者がいれば、大王の側女にしてもらい、さらに友好をふかめたいと思います」 ミノスが、娘をみると三人とも若く美しく、なごやかな表情で彼をみかえしていた。王は、大理石でつくられた風呂場につれていかれ、裸にされた。娘たちも半裸になり、温かい湯をかけて彼の身体をあらいはじめた。娘のいい匂いにつつまれ、素晴らしい半球状の六つの乳房をながめながら、どれをえらぶべきか、という悩ましい問題に夢見心地でいると、「この部屋は、最新設備の蒸し風呂です。一度汗をかいてから、冷たい水でもう一度、おあらいしましょう」といって娘たちはでていった。 扉がしめられると、風呂場の下方四隅と上方四隅から勢いよく湯気が吹きでてきた。 ミノスは、はじめてみた最新型の蒸し風呂だった。やむことなく、吹きでる蒸気で部屋は猛烈に熱くなってきた。彼は、いそいで扉をあけようとしたが、ぴったりと固くとじられ、うごかなかった。戸をたたき大声で叫んだが、だれもこなかった。熱い蒸気は噴きだしつづけ、逃げ場をうしなった彼は、全身にやけどを負い、苦しみにのたうちまわった。 「こんなものをつくれるのは、ダイダロスしかいない。なぜ、気がつかなかったのだろうか。あいつは、疫病神だったのだ。ラビリンスをつくったのも、雌牛をこしらえたのも、テセウスを逃がしたのも、みんなダイダロスの所為だったのだ。あいつによって、ミノスの栄誉は、すべて地に落ちたのだ」 彼は、くりかえし思いながら死んだ。 充分な時間がたってから蒸気をとめると、コカロス王とダイダロスは浴室に入り、ミノス王の死体に約束通り冷水をかけた。焼けただれたミノスの死骸は、待っていた兵にわたされ、王をうしなったクレタ軍は帰国していった。 ながいダイダロスの話が終わったとき、「アテナイに帰るか」とテセウスは聞いた。 「いや、もう私は、コカロスで死にたい」といった。 テセウスは、ダイダロスと別れた。 六、パイドラ クレタで、デウカリオンと友好をふかめた翌年の六月、テセウスはパイドラと結婚した。式には、ギリシア全土から王や貴族がやってきた。アテナイの町を、ふたりが派手な飾りをつけた馬車にひかれてパレードすると、市民は沿道を埋めつくし、花吹雪をふらせた。アッティカもクレタも祝賀にわき、アテナイ市は名実ともにエーゲ海の盟主になった。 この壮麗な結婚式の話は、遠い黒海南岸のテミスキュラに住むアンティオペにも、つたわってきた。男の子をうんだばかしの彼女は、テセウスがむかえにきてくれる日を、指折り数えて待っていた。そこにつたわってきたのは、信じられない結婚の話だった。ぼうぜんとする妹をみて、女王ヒッポリュテは髪を逆立てて怒った。名誉をけがされ、復讐にもえた女王は、その年の九月、アマゾン族をひきいて黒海の南岸をまわり、陸路でテッサリアを通ってアテナイに進軍した。 アマゾンの左翼は、アクロポリスとは目と鼻の先、一〇〇メートルほどしか離れていない、西がわの「聖なる階段」に隣接する小高い軍神アレスの丘に陣をしいた。右翼は、やや西のプニュックスの丘陵を占拠し、出入り口を包囲した。 ふたつの丘のあいだで、はげしい戦闘が起こった。アテナイ軍は、夜陰にまぎれてアクロポリスの北面の岩場につくられた階段状の小径をおりて周回路を通って南がわにでると、さらに南に大きく迂回して、アクロポリス南西に位置するムサイオンの丘陵から北東にむかってアマゾン右翼をはさみ撃ちにしようと、プニュックスにうってでた。しかし、はげしい反撃にあい、撃退され多数の死者をだした。アクロポリスに立てこもったテセウスは、ペイリトオスに助けをもとめた。軍をひきいてやってきた親友が北からアマゾン族に攻撃をはじめると、彼は神託にしたがって恐怖の女神「フォボス」に犠牲をささげ、うってでた。 ふたつの丘のあいだで、ふたたび激戦がくりひろげられた。テセウスがわは勝利をおさめ、勢いにのってアマゾン族の本陣に迫り、多くの女族を殺した。 軍神アレスの丘に、東がわからテセウスが、北がわからペイリトオスが押しよせた。ヒッポリュテが本陣からでてきて、いった。 「この、いまいましい男め。いきつくさきざきで、破壊と死をもたらすことしか知らない者よ。わが種族の名誉と繁栄は、おまえひとりによって、すべてが灰燼となったのだ。報われることのない戦いを、永遠にくりかえすがいい。私は、死をひきかえに呪ってやる。わが愛する妹は、テセウス、おまえによって二度殺されたのだ」 ヒッポリュテの部下が、本陣からアンティオペの死体をはこんできた。心臓を矢で射られ、事切れた彼女をみて、テセウスは約束を勝手にやぶった自分の罪をくい、涙がこみあげてきた。ナクソスの浜で、アルテミスに胸を射ぬかれたアリアドネを思いだした。 ヒッポリュテは、テセウスとペイリトオスの目のまえで、自刃して果てた。彼は、残ったアマゾンの副将と和議を成立させ、アンティオペの忘れ形見、一歳にも満たない息子ヒィポリュトスを託された。ヒッポリュトスをトロイゼンにおくり、義父のピッテウスに養育を依頼した。 テセウスは、アンティオペを射殺したアテナイの楽人、モルパディアをさがしだして殺した。外港、ファレロンへとつづくファレロン街道の市内への入り口、イトニア門のちかくに彼女の墓石と祭壇を造設した。隣接して、モルパディアの墓もつくり弔った。 多くの死者をだし、甚大な被害をうけたアマゾンのために、軍神、アレスの丘にアマゾン神殿、「アマゾネイオン」をたてて祭壇を建立し、アレス神に犠牲をささげた。 この戦いでアマゾン族は、多大な打撃をあび、えるものもなく自国へ帰っていった。北方のテミスキュラにいたる、ながい旅の途上でも、幾度も困難に遭遇し数多くの死者をだした。 この話を聞いたヘラクレスは、婚約を一方的にやぶったテセウスを責めた。ヒッポリュテとアンティオペのために祭壇をつくって、ゼウスに祈りをささげた。 ラピテス族の王、ペイリトオスは、ヒッポダメイアと結婚することになったとき、テセウスを式に招待した。六月のこのうえもなく晴れた日、ギリシア北部をしめるひろい肥沃な平野があるので名高いテッサリアの領土を、ペイリトオス王は彼に案内した。山の多いギリシアは、耕地に適した土地がすくなく、とくにアッティカ地方は痩せたことで有名だった。クレタは、島で山脈も三つあったが、クノッソスを中心とする中央地帯や海岸ぞいには平地が大半をしめ、豊かな農作物の産地としてよく知られていた。その豊富な農産物を東地中海世界と交易して、ミノス王は莫大な富をたくわえ、クレタ王国をエーゲの覇者に押しあげたのだった。 ペイリトオスに案内された丘のうえから、ゆったりとながれる河にそって雄大な草原が延々とひろがり、萌えた若葉が緑に変わる森林が取りかこむ茫洋とした平原を目の当たりにし、テセウスはうらやましく思った。うるさいほどに鳥のさえずりが聞こえ、羽を大きくひろげた鷲が、ゆうゆうと空を舞うのがみえた。鹿、猪、熊などの大型の動物も多く、テッサリアでの狩りはアッティカとはスケールが違っていた。これだけの土地があったら、アテナイはもっと豊かだっただろうが、民主制をしくことにはならなかっただろう。北に神々が住むオリンポスの山をながめながら、都市国家アテナイは、アッティカという地域に合致した制度で繁栄するしか方法はないとテセウスは思った。 ペイリトオスの屋敷の中庭でひらかれた披露宴で、彼は新婦のとなりにすわった。花嫁のヒッポダメイアは、細身で背が高く白い衣装が素晴らしく似合ってみえた。遠縁にあたる彼女の美貌について、いままでに彼は何度も噂を耳にしていた。実際に会ったのは、このときがはじめてだった。金髪をなびかせるヒッポダメイアをみて、テセウスは美しいと思った。しかし、女の髪は、やはり黒がいちばんいいと感じた。 テッサリアには、ラピテス族と先祖をおなじくするケンタウロス族が住んでいた。雲からうまれた彼らは、馬の胴体と四肢、人間の上体と頭と腕をもっていた。ペイリトオスは、ラピテス族とテッサリアの領有をめぐって過去にあらそったこともあったが、いまは解決したので結婚式に招待した。 披露宴がたけなわになると、気のあらいケンタウロス族のなかでもいちばん凶暴なエウリュトスは、若くて美しい花嫁をみてすっかり欲情した。上等の葡萄酒を飲み慣れていなかった彼らは、完全に酒に酔って理性をうしなった。エウリュトスは、食卓を蹴飛ばすと祝宴の中央にすわるヒッポダメイアのところまでいき、無遠慮に胸をさわり、驚いて身をすくめる花嫁を抱きあげ、逃げようとした。それをみると、ほかのケンタウロス族も、ならって気に入った女や、そばにいた女性を抱え、屋敷の出口から逃亡をくわだてた。 目のまえで起こった暴挙に、テセウスは「おまえがやっていることは、酒に酔ったですむ話ではないぞ。ペイリトオスに無礼をはたらくのは、親友の私にしたのとおなじだ。すぐ花嫁をはなして席にもどれ。そうすれば、今回だけは見逃してやる」とエウリュトスにむかって声をあらげた。 背にのせたヒッポダメイアを左手でしっかりと押さえた彼は、右の拳でテセウスをなぐりつけた。そばに、あらい淡黄色の胎土で製陶され、赤色の顔料の緊密な斜線が肩部で交差する文様が、三度くりかえされた見事な酒甕がおかれていた。テセウスは、酒で満ちた大甕を頭上の高くにさしあげて、エウリュトスの頭部にぶちあてた。頭を割られた彼は、血まみれになって即死した。いたるところで、ケンタウロス族が女をめぐってあらそいを起こし、双方に多数の死者がでた。披露宴にはペイリトオスの仲間の英雄たちがそろっていたので、彼らのほとんどの者が殺された。この事件のためにケンタウロス族は、テッサリアにいられなくなり、ペロポネソス半島のマレア岬まで逃げて生きのびた。 ギリシア西部、イオニア海に面したアイトリア地方の都市、カリュドンは、オイネウス王のもとで栄えていた。豊年の祝いとして、王は、デメテルには実りの初穂、ディオニュソスには葡萄酒、アポロンには雄山羊、アテネにオリーブと神々に供物をささげたが、肝腎の街の守護神である、アルテミスへの感謝を失念した。 これに怒った女神は、カリュドンに大きな野猪をはなった。市民は、田畑をあらされ、家畜を殺されて、城壁のなかからでることができなくなった。 オイネウス王は、ギリシアの諸都市にむかって野猪の被害をうったえ、「倒した者には、猪の皮を武勲の誉れとしてあたえる」と檄を飛ばした。それで、勇者がぞくぞくとカリュドンにあつまった。 要請に応じたテセウスがオイネウスの居城に出向くと、王は彼の手を取って、「あなたにきてさえもらえれば、ほかにだれもいなくても猪を退治できる」といって喜んだ。 宴会場につれていかれると、そこには勇名をはせた者たちが、ギリシア全土からあつまっていた。 テセウスがくるのを、いまや遅しと待ちかまえていたペイリトオスは彼をみると、「われらの力をみせてやろう」といって抱擁した。酒が入ると、「たとえ女神の猪であろうとも、これだけの勇者があつまれば、なにをなしえようか。野猪を射て、皮と栄誉をテッサリアにもちかえるぞ」とペイリトオスは息巻いた。 「いや、神は恐れたほうがいい。これだけの勇者をあつめたには、わけがあるに違いない」とテセウスは答えた。 ギリシア中の英雄がカリュドンにあつまったことを喜んだ王は、猪を退治していないにもかかわらず、素晴らしい山海の珍味で、勇者たちを九日間もてなした。 一〇日目に一行は、猪退治のために、ジュゴン山に集結した。そのなかに、アルカディア王、イアシオスの娘、アタランタがいた。 黄金の鎧で胴をしめた美貌の彼女は、象牙製の矢筒を肩にかけ、漆黒の弓をもっていた。それをみたオイネウス王の息子、メレアグロスは、一目で恋に落ち入った。彼には、すでに妻子があった。 体表を槍とも見紛う剛毛で覆われ、象をもしのぐ牙をもった猪が山腹にあらわれると、一同は息を飲んだ。多くの矢がはなたれ、真槍(しんそう)が投擲されたが、どれも密集する固い毛にはじかれた。力いっぱい投げたテセウスの槍もはねかえされ、だれひとり、手傷を負わせることはできなかった。 「われらの力を、みくびるな。女神など、なにするものぞ」 ペイリトオスは、大きく叫ぶと野猪が走ってくる前面に槍をかまえて仁王立ちになった。それをみたテセウスは青ざめ、そばにあった大きな石をもちあげると、猪にむかって投げた。槍がはじかれると同時に、大石が頭部に命中し、野猪の牙はペイリトオスをかすめていった。 大猪の爪牙によって、幾人もの勇者がさし殺された。そうこうするうちに、アタランタのはなったつよい弓が剛毛のあいだに分け入り、野猪は傷を負って血をながしはじめた。やがて幾人かの槍が刺さり、最後はメレアグロスが猪を倒した。 野猪の皮は、彼にあたえられた。アタランタの歓心をひきたいメレアグロスは、最初の矢を射た彼女のものだと主張したため、猪に傷を負わせた者のあいだであらそいが起きはじめた。 「野猪は退治されて、われわれの仕事は終わったのだから帰ろう」 騒動を横目でみながらテセウスは、ペイリトオスにいって、ふたりは帰路についた。 「あの皮の栄誉は、だれのものになるのだろう。結末を知りたかった」とペイリトオスはいった。 「猪の皮も、女神、アルテミスがおくったのだ。ただでは、すむまい」とテセウスは答えた。 「女性といっしょに、狩りをするのは不吉だ。とはいえ、あの女はなんと色白で美しいのだろうか。メレアグロスの気持ちも理解できる」とペイリトオスはひとり呟いていた。 アテナイに帰ってしばらくして、この皮をめぐるあらそいでオイネウス王の一族が殺しあいになったことを、テセウスは知った。 「つまり、美しい王女、アタランタは、女神、アルテミスの化身だったのだ。いったい神とはなんなのだろう。人とおなじでないのは分かるが、なにがいちばん違うのだろうか」 若いころからずっと考えている答えのえられない問いを、彼はくりかえし思った。 テセウスが創設した「アテネ女神の祭典」パンアテナイア祭は、例年七月末に四日間行われたが、年をへるごとに規模が拡大していった。 アカデモスからとどけられた聖火を、派手に着飾った稚児や市民、長老、奏楽隊らの祭礼行列が、女神のあたらしい真っ青な長衣を帆にみたてて張りわたし、まわりにアテナイ市民の娘たちが競いあってつくった、輝かしい武勲を図柄にした見事な刺繍で飾りたてた船山車(ふなやま)を、大きな四つの車輪がつけられた台車にのせてひっぱりながら公共広場の中心部をぬけてアクロポリスのアテネ神殿まで、つきることなく延々とすすむさまは、華やかで、壮観で、みる者を圧倒した。 とくに四年ごとに行われる大祭では、ギリシア全土からあつまる人びとで街はごったかえし、世界一の都市の祭りに相応しいものになっていた。祭典では、神々に多数の羊や牛が犠牲としてささげられ、その肉は広場で市民に分けあたえられた。このときに、あわせて行われる各種の競技会は、たいへんな人気だった。 ある年のパンアテナイア小祭に、テセウスの息子のヒッポリュトスが格闘技競技会にでるためにトロイゼンからやってきて、館に一〇日ほど泊まった。はじめて継子をみたパイドラは、途端に心臓がとまる思いがして、顔から血の気がみるみるひいていくのが分かった。ヒッポリュトスは、クレタで出会ったテセウスと瓜ふたつだった。いっしょに葡萄酒を飲んだ瞬間、心をときめかせた一八歳の彼が、そこにいたのだった。彼女の胸に、あのときの情熱が去来した。 ヒッポリュトスは、テセウスとアンティオペの息子で、うまれて間もなく祖父にあたるトロイゼンのピッテウス王にひきとられた。幼少時より、ピッテウスが武道や弓術などの師匠をつけたので、がんらい素質にめぐまれていた彼は、めきめきと頭角をあらわした。勇壮なアマゾン族の血をひき、弓にたけていたのはもちろんだが、一八歳になるころには格闘技ではトロイゼンに敵がいないほどだった。パンアテナイア祭の競技会で、ヒッポリュトスは、なみいる強豪をつぎつぎとやぶって優勝した。 試合を主催したテセウスは、息子の技術に驚嘆し、興奮した。競技が終わって優勝者にあたえられる、神聖なオリーブの樹から取った「油」が入ったアッティカ焼きの彩陶を手わたしたのは彼だった。 クレタとは違ってアテナイでは、婦女子は男が裸で行う格闘技の試合を観戦できなかった。芯から心をゆすぶられたテセウスは、普段は滅多に会話することもなくなっていたパイドラに、ヒッポリュトスの戦い振りを興奮して拳をつくりながら話した。 彼は、祝勝会を館でひらくといいはじめた。ヒッポリュトスは、見も知らぬ土地で派手なことはしたくないとさかんにことわったが、最後はテセウスが強引な形で押し切った。彼の館にアテナイの名士たちがあつまり、だれもが勝利を祝った。まったく無名だったヒッポリュトスは、一躍英雄として称えられた。格闘技の祝勝会といえば、参加する者はむさくるしい男ばかりというのが相場だった。ヒッポリュトスは、アテナイの女性たちのあいだですでに猛烈な人気になっていた。ほとんどの男性には婦人や娘が同伴し、さらに母親までついてきた。すべての女性は、年に関係なくそばにいって、なにか話をしたいと思った。 その様子をみて、テセウスは、マラトンで狂牛を退治したときのことを思いだした。パイドラは、彼がクレタの大祭で大活躍し優勝したのを思い起こした。 「奥さま、息子さんは、どこにいかれたのです」 しばらくすると姿を消してしまったヒッポリュトスに、何人もの娘をつれたアテナイ貴族の夫人が、パイドラのところにやってきてたずねた。 彼女は席をはずし、彼の部屋の扉をたたいた。「どうぞ」という応答になかに入ると、ヒッポリュトスは窓から暗い夜空をながめていた。 「どうしたの、ぐあいでも悪いの」 パイドラは、声をかけた。 「やっぱり、こんな会なんてひらかなければよかった。好きじゃないのに、親父が意見を聞かずに勝手にやるからです。あの人は、いつもそうなんですよ。自分勝手で。やめてくれって、あんなにいったのですから。パンアテナイア祭にでてみようなんて、どうして考えたのだろう。トロイゼンに、いればよかったんだ」 「あなた、凄い人気じゃない。女性の方は、だれもがひと言でいいから話がしたいって待っているわ。みんなの噂では、あなたはトロイゼンでも娘さんたちに凄い人気があるんですってね。有名な話だって聞きましたよ。どの娘さんも、振りかえってくれないあなたをみては、溜め息をついているって」 「女性は、好きじゃないのです。それに夜に奇跡を起こす女神も、私の趣味じゃないんですよ」 「テセウスの息子は、女嫌いだってわけなのね」 「子息といっても、私は、妾の子ですから。それも騙されて、殺された女の子供ですから。あなたの息子とは、うまれが違いますよ」 「そんなこと。思いもつかなかったわ」 「それは、あなたが弱い立場になったことがないからですよ」 彼は、ぶっきらぼうにいった。 ヒッポリュトスは、姿形こそテセウスとそっくりだったが、驚くほど繊細で、つよく抱きしめたら折れてしまいそうだと感じられるほど弱々しかった。そんな彼を抱きたいと思って、彼女はくらくらした。 「どうなったのだ。主役がいないって文句がでているぞ」 テセウスが、入ってきていった。 「もう、会には、顔をだしたくないそうよ」 「おまえの祝勝会だろう。でなくて、どうする。みんなが、おまえを英雄だと思っている。凄いことじゃないか」 「街は嫌いです。親父と私は、違う人間です。残念なことに、血はつながっているらしいですね。格闘技は得意だし、狩猟の腕は人よりたけています。もう、今日は寝ます。明日の朝に、トロイゼンに帰ります。二度とパンアテナイア祭には参加しませんから、あとは勝手にしてください」 ヒッポリュトスは、そういってふたりを部屋から追いだした。 翌日、彼はトロイゼンに帰っていった。 アテナイ、アクロポリスには周回路があり、ややなだらかな西斜面の「聖なる階段」で表玄関の大門に通じていた。堂々とした神山の入り口の、東西各六本の円柱からなる中央棟をぬけて右に曲がると南翼屋が造設され、西がわは、さらに人工的な堡塁がつきでて、そこに「翼なき勝利の女神」ニケ・アプテロス神殿がたてられていた。この白大理石の美しい小神殿の周囲に、高さ一メートルほどの大理石の欄干がつくられていた。もっとも西の神殿裏手にあたる手摺りには、このうえなく優美な「サンダルの紐を解くニケの像」が浮き彫りにされていた。そのまえに立つと、サロニカ湾が一望できた。 エーゲの海は、どこまでも青くて高い空から、きらきらと輝く白い光線が一面にふり注いでいた。それは、周囲を芳しい香りで満たしながら漂っていた。雲ひとつない晴れた日には、対岸のアクア・トロイゼンも目にすることができた。 ヒッポリュトスを忘れられなくなったパイドラは、この上品で洗練された浮き彫りの後ろに、アプロディテの祭壇をつくった。対岸にトロイゼンの街がくっきりと浮かんでみえる日には、女神に祈りをささげて、さまざまなことを思った。 たとえば、パシパエとタウロスの事件。 親衛隊の隊長だった彼は、格闘技にたけ、独身主義を通し、若いときは素敵な男性だったと聞いた。どんなに化粧をほどこし、着飾っても振りむかないタウロスに、たくさんの女性がなげき、溜め息をついたと耳にした。クレタにいたころは、ふたりの関係は恥ずべきことだと感じたが、パシパエもひとりの女だったのではなかったか。愛しあったのは、ごく自然な、なり行きだったのだろう。 パイドラが物心がついたころには、パシパエはもう気が狂い、ラビリンスの地下にとじこめられていた。タウロスは、テセウスが脱出して彼女の死が確認されると、ゼウス神殿のまえで自刃して果てたのだった。愛するパシパエを残し、先に死ぬことができなかったのだろう。 ミノス王は、冷酷な夫だった。浮気者で、勝手で、相手のことなど、なにも考えない男だった。自分は、たくさんの女と遊びながら、パシパエの浮気を許さなかった。ミノスは、彼女をまったく愛していなかったのだろうか。そうだったら、なぜ、あんなむごい仕打ちをパシパエにくわえたのだろうか。彼は非道で、人として許されないことをしたのだ。 私にも、ミノスの血がながれている。 パイドラは、祭壇でアプロディテのひとつの顕現である女神「アポストロフィア」に祈りをささげた。心に芽生えた、よこしまな思いを払いのけるよう、くりかえし願った。 肉欲を賞賛するエロスをつれたアプロディテは、女神、アポストロフィアという姿を取って顕現し、乙女や既婚の婦人、巫女にまとわりつく邪悪な恋情を取り去ってくれるといわれていた。 「クレタに帰りたい」と彼女は思った。 アイゲウスの弟パラスは、アッティカの王位をあきらめきれず、テセウスの失政を待ちつづけた。アマゾン族、アンティオペとの結婚がつたわったときには、たとえ跡継ぎがうまれても、まったく辺境の王家の妻だったから正当性にかけると主張することもできた。パイドラのばあいは、エーゲ海の勇、クレタ王家との婚姻だったので、その子供の王位継承権に異論をさしはさめなかった。 彼女は、結婚するとすぐに身籠もり、娘、アリスを、ついで待望の男児、アイガスをうんだ。パラスは、自分と息子たちに王位がまわってこないことを知った。アリスは、二歳時に風邪をこじらせて死んだ。アイガスは、三歳のときに足をすべらせて崖から落ちて死亡した。希望をうしなっていたパラスは、幸運がめぐってきたと思いはじめた。その後、パイドラは身籠もらなかったので、彼はこのまま子供がうまれないことをゼウスに祈った。アイガスの死から数年して、彼女は、アカマス、デモポンとつぎつぎに息子をうんだ。彼の祈りもむなしく、ふたりの子供は順調に成長していった。 テセウスに似てたくましいヒッポリュトスが、とつぜん夜空を輝かせる彗星のごとく出現し、パンアテナイア祭で優勝したのをみて、パラスは腹をくくった。自分の手でなんとかしないかぎり、状況が変わらないと悟った。彼はすでに七〇歳をすぎ、これ以上待つ猶予はなかった。息子たちと、最後の戦いを挑む決意した。 パラスが王位継承をあきらめないのを、テセウスはよく知っていた。注意ぶかく監視していた親衛隊の隊長、ピラボは、情報をいちはやくつかんで報告した。テセウスは、パラス一族を一掃しなければ問題は本質的に解決しないと考えた。彼が、これほどまでに王位に執着するには理由があった。 彼らの父、パンディオンは、アッティカ王だったが、メティオンにアテナイを追われてメガラに亡命した。そこでメガラ王の娘と結婚し、玉座をついだ。パンディオンには、ニソス、パラス、リュコスという三人の息子がいた。アイゲウスは、もともとはスキュロス島の王、スキュリオスの子供で、養子だった。パンディオンが死ぬと、ニソスがメガラの王位をついだ。養子のアイゲウスをふくめた残りの三人は、アッティカを攻めて、そこを支配していたメティオンの息子たちから領土をうばいかえした。勝ったばあいには、えた領地を三分割する約束があった。しかし、アイゲウスは反故にし、ひとりで領有した。だから彼は、ずっと恨みつづけて自分の領有権を主張していたのだった。 テセウスは、ペイリトオスに連絡し、あらそいが起きたときには背後からパラスを攻撃するよう要請をして、攻めてくるのを待っていた。蜂起すると、彼はアクロポリスに立てこもった。攻撃するパラスの背後からペイリトオスの軍が迫ると、テセウスは攻勢に転じて一挙に倒し、後患の根をたつために一族をみな殺しにした。 この事件によって王位をおびやかす者はいなくなったが、親族殺しは重大な犯罪だった。アテナイの裁判所は、一年間のアッティカ追放を命じた。テセウスは、パイドラとふたりの息子をつれて、母、アイトラの父、ピッテウスが支配するトロイゼンにいった。そこには、アンティオペの忘れ形見、ヒッポリュトスが育てられていた。 パイドラは、クノッソスの私邸ではじめて会った瞬間からテセウスに夢中だった。大胸筋にふれたときから、彼は雄牛で英雄だった。女神、アプロディテに命じられたエロスが、黄金の矢で射たに違いないと彼女は思った。彼が大祭の格闘技競技会で優勝すると、その思いは間違いのないものになった。英雄ならば、テセウスは、彼女を掠奪しにきたはずだった。そのために、クレタには怪物がいたのだ。 大祭の競技会が終わると、パイドラは彼の助命をミノス王に嘆願した。熱意にほだされたミノスは一度は承諾したが、あくまでクレタ王国との対等な関係を望むテセウスの発言に不快を感じた。王が彼をラビリンスにおくりこむことを決心すると、彼女は翻意をくりかえしもとめた。 「本人が、どうしてもしたいと主張するのだから仕方あるまい」とミノスはいった。 「ミノタウロスがどれほどつよくても、生きているものならば、テセウスはかならずや、倒すでしょう。それなのに真実を話さない王は卑怯です」 パイドラは、涙ながらにうったえた。ラビリンスに入れば、ミノタウロスがいる中央広場までいきつけないのは、火をみるよりもあきらかだった。 容易にひきさがらない娘に、ミノスはコルキスの王女、メディアがイアソンに騙されて親を裏切り、実弟を殺すまでしてつくしたのに、最後は用ずみになってすてられた例を取った。一時の情熱に身をまかせ、国の掟にそむく無益さを話した。 「テセウスと、イアソンは違います」 彼女は、王をせめてはげしく泣きつづけた。 食事も咽を通らずになげくパイドラをみるうちに、ミノスは、「このままでは、なにか飛んでもないことを、しでかすのではないか」と不安を感じた。彼女がメディアとは従姉妹で、血縁関係をもつのが大きな理由だった。しかし、よくよく考えてみると、トラブルの張本人であるミノス自身の血をひく事実に気がつき、衝撃をうけた。自分がした行為を考えあわせると、このままでは、親を裏切るのは時間の問題だと思いはじめた。ミノスは、彼女に蟄居を命じ、部屋にとじこめ監視をつけたのだった。 自室に幽閉されたパイドラは、テセウスがなにも知らずにラビリンスに、いまにも入ると思うと、いても立ってもいられなくなった。アリアドネをやって彼に翻意をうながし、謝罪させ、ミノス王に嘆願させようと考えた。乳母をつかって妹を部屋にまねき入れ、彼女は自分の考えをつたえた。その申し出を、アリアドネは頑なにことわった。 妹からみて、パイドラの様子は尋常ではなかった。恋の激情を目の当たりにして、助力してやりたいとは考えた。しかし、テセウスの彼女への妙な囁きや目配りを思うと、彼とふたり切りで会うのは、どうしても気がすすまないことだった。 「是が非でも」と頼む姉に、アリアドネはいった。 「私が、姉さんの代わりに幽閉されますから、自分で会いにいって、話すほうがいいと思います」 ふたりは、双子といわれるほど、よく似ていた。服を変えてしまえば、見分けがつけられるほど、そばによってこられる者はかぎられていた。 パイドラは、その申し出をうけて考えた。自分でも、いまは正常の状態を逸していた。こんな有様でテセウスとふたり切りで会ったとして、なにをつたえられるだろうか。感情的になっているので、状況を順序たてて論理的に説得することができるだろうか。ミノスのいう通り、自分でもなにをしでかすか見当がつかなかった。悲観的になっていた彼女は、うまい手立てが考えつかなかった。もしかしたら、ミノスにさからってテセウスのために幽閉されている事実も、翻意に役立つかも知れないと考えた。それで、「冷静に話しあうには、あなたのほうがいい」といって、妹に承知させた。 もどかしいと思えるほどの、ながい夜をすごしたパイドラは、翌朝、アリアドネに会ってぐあいをたずねると、テセウスの決心を変えられなかったという返事をえた。今晩もう一度いかせて、なんとか翻意させ、王に謝罪させなければと彼女は思った。ミノタウロスも、母の件も、すべて真実を話してよく教えなければ、ラビリンスに入るという意味を理解させなければと、パイドラは考えたことをアリアドネにつよい口調でいった。 最後に、「私のためにお願いします。彼を助けてもらえば、アリアドネ。私はあなたに一生の恩をほどこされたと考えるでしょう」と妹の手を取って話した。 その翌日、どんな手立てをしてもテセウスの気持ちを変えることができなかったいうアリアドネの報告を聞いて、パイドラはパニックに落ち入った。 「あなたは、なんて頼りにならないの。王を。ミノス王を」と叫びつづけて、挙げ句に窓から飛びおりようとした。 あまりのはげしさにミノスも驚き、医者をよんで、眠り薬を大量にあたえて床につかせた。目をさましたら、なにをするかも分からないので数人の見張りをつけた。 まる一日眠り、晩に覚醒したパイドラは、その日の朝にテセウスがラビリンスに入ったことをつげられ、生きる気力をすっかりなくした。 「私は、彼といっしょに死にます」といって食事も拒否し、寝床に臥せったまま泣きつづけた。 医者にも手のほどこしようもない、痩せて憔悴し切った長女をみて、ミノスは、テセウスをひきとめておけばよかったと後悔した。こんな形で娘ひとりをうしなうのも、ミノタウロスの祟りや呪いだろうと思った。だれがみてもパイドラは死にそうで、彼と心中するに違いないと思えた。 三日して、仰天する事態が起こった。テセウスがラビリンスをぬけだし、アリアドネをつれてクレタを脱出したのだ。 ミノスは、カトレウスからアムニソスで起こった事件の報告をうけて怒り狂った。 「おまえが、クレタ王位を継承するには、自らの手でテセウスを始末するのが条件だ。塩漬けにした首を、目のまえにもってこい。できなければ王位は、デウカリオンがつぐ」 ミノスは、謁見の間で大勢の部下をまえにしてカトレウスに宣言した。恋に狂うパイドラばかりに目をうばわれた王は、アリアドネがテセウスの脱出を手助けするなどとは、微塵も考えていなかった。彼女の憔悴が演技とは、とても思えなかったから、姉を裏切ったことは間違いなかった。ラビリンスに入るテセウスを、ミノス自身がみとどけた以上、彼が生きたままでてくるにはアリアドネの尽力には限界があり、ダイダロスがなんらかの形で関与したのはあきらかだった。ネクロポリスをまもる内がわと外がわの扉をうしない、どこにも辿りつけない袋小路が永遠につづくはずの迷宮に、たいへんな欠陥が存在するのを知って、ミノスは困惑した。 年に一度、ダイダロスは清掃を目的にラビリンスに入るが、仕事ができるのは、どこかに微かな印があり、手にもった篝火で確認するから可能なのだろうと勝手に考えていた。そうした目印は彼ひとりの心にとめておけばよく、聞きだして、かき残すべきものではないと思っていた。今回、テセウスがラビリンスをぬけでた事実は、暗闇のなかを手探りで歩いても突破できる秘密があるのだと分かって、ミノスは仰天した。それは取りもなおさず、上部の王宮の扉をすべてとざして迷宮化しても、王の寝室に予期せぬ人物がひょっこりやってくる事態を意味していた。秘密が公開されればラビリンスは無用の長物に変わると知って、ミノスは幽閉に異議をとなえれば殺すことを決心した。王を恐れたダイダロスは、すすんで迷宮に監禁された。 死ぬつもりだったパイドラは、乳母からテセウスがクレタを脱出した話を聞いた。彼が生きているのに、彼女ひとりが死去するのは犬死にだった。アリアドネが取った行動は不可解で、納得のいく説明ができなかった。妹を頭から信頼していた彼女は、最愛の姉をみすててテセウスと駆け落ちするとは、とうてい考えられなかった。乳母たちが、「男女の仲は、ちょっと先が闇なのです」とくりかえし話しても、首を振って相手にしなかった。しかし、生きる望みがうまれたのは事実だった。 パイドラは、アリアドネがテセウスと彼女を助ける目的で、やむなく、こうした行動を取らざるをえなかったのだと考えはじめた。はじめは姉のためだったしても、ふたりでいれば「わりない仲」になるかも知れないと思うと、安穏とはできなかった。 「テセウスを助けるには、実姉にも、隠し通さねばならなかったのだ。ほかに、手立てがなかったのだ」 パイドラは、懸命にそう考えようとした。最後には、 「妹が、姉のはげしい恋情をテセウスにつたえたからには、やがて彼は、むかえにくるに違いない。どうしてこれほどに愛しているのを知って、私をこのままにしておくことができるのだろうか」という勝手で、都合のいい話を信じはじめた。 さまざまな情報が交錯するなか、アリアドネがナクソスの浜にすてられ、ディオニュソスが彼女を射殺した事件もつたわってきた。にわかには信じられない筋がきだったが、多数の目撃情報があつめられ、事実と認定せざるをえなかった。 ミノスは、この話をパイドラにつたえ、「用ずみになったアリアドネは、すてられたのだ。メディアとおなじで、私がいった通りだ」と話した。 不思議な話だったが、数多くの証言からパイドラも事実と考えざるをえなかった。それでも彼が、いつか彼女を獲得に来訪すると信じきっていた。 テセウスがクレタに侵攻してきたとき、パイドラは「ついに、むかえにきた」と思った。部屋にとじこめられた際も、「私は、テセウス以外の者とは、絶対、結婚しません。テセウスとの、和解の仲介に入ってもいいのです」とミノスにいった。 しかし戦いが終わると、彼はミノス王とたんたんと講和した。相互不可侵の条約を締結すると、彼女の話を何ひとつすることなく帰っていった。 パイドラは、すべてが自分の勝手な幻想だったと気がついて愕然とし、ひとり切りになって部屋で泣いた。テセウスの厚い大胸筋の感触が、手に残っていた。 「彼は、間違いなく雄牛で、ゼウスの化身だったのだ。ミノスの非道を正すためにやってきて、一族がほろぼされただけだったのだ。彼の目的は、私ではなかったのだ」 いつ果てるとも知れない涙が、こぼれ落ちていた。 アマゾンにむかうヘラクレス一行が立ちよったパロス島で不測の事態が起きたため、デウカリオンはテセウスと会った。そこで講和をした際に、帰路にクレタを訪問することを彼は提案した。正妻のいないテセウスを、パイドラと結婚させようと考えていた。 兄のデウカリオンが話す縁談を聞いて、運命よりも不安を感じた。しばらくしてアマゾンにいったテセウスと、王女、アンティオペとの恋物語を人伝に耳に入った。彼女はなにがほんとうで、つぎにどういうことが起こるのか、まったく見当がつかなかった。 約束通りにクレタに立ちよったテセウスと、パイドラはクノッソス宮殿で行われた晩餐会の席で再会した。そのときに彼が示した態度と言葉は、かつて彼女が抱いたあらゆる疑念を一挙に払拭する力をもつものだった。 パイドラは、テセウスの望みに応じてふたり切りで屋外のバルコニーにでた。満天の銀河の輝きを背景にして、中秋の名月が夜空に煌めいていた。秋の夜ではあったが冷たさはどこにも感じられず、うるおいに満ちた、すがすがしい風がふたりをつつんだ。 「あなたの真っ黒な髪を映えさせる、こんなに素敵な冠(クラウン)をみたことはありません。気品高いパイドラに、私が知る言葉ではいいあらわせないほど素晴らしく似合っています。こんなに真っ白に輝く金属を、いまはじめてみました。銀をどう精錬しても、こんなぐあいにはなりません。全然、違う素材ですね。教えてください。いったい、なんなのでしょうか」 「これは、クラウンではなく、ティアラです。材料がなんであっても、かまわないのです。ただ金属の真っ白い輝きが、純潔を意味していることを、知ってさえいただければ。この赤瑪瑙の石が表現する気持ちも分かってもらえば、それで私は充分なのです」 パイドラは、テセウスをみつめてゆっくりと答えた。 「結婚して欲しい。はじめてお目にかかったときから、私は、あなたひとりだけを、ずっと愛してきたのです」 テセウスは低いが、はっきりとした口調でパイドラに結婚を申しこんだ。彼の瞳が愛でもえているのを、彼女はしっかり確認した。それをみたパイドラが、「分かりました。おうけいたします」といって小さくうなずくと、テセウスは彼女を抱きしめ、はげしい口づけをした。 パイドラは、夢をみている心地になった。テセウスが去ってから結婚の日まで時間があり、そのあいだにも、さまざまな噂がつたえられたが、彼女の気持ちが揺らぐことはなかった。 翌年の六月、壮麗な結婚式が遅滞なく行われ、パイドラの幸せは頂点にたっした。その後、間もなくアマゾン族がアテナイに侵攻し、はげしい戦いがあり、噂話が嘘ではなかったと知った。この話はつまるところ、テセウスがアンティオペではなく、パイドラを取ったことを確認させるものだった。 「彼を幸せにするのは、私しかいない」と彼女はつよく思った。 パイドラは、結婚して間もなく娘、アリスを、翌年、待望の息子、アイガスをうんだ。しかし、テセウスの心は、捕らえがたいものだった。ふたりの子供たちをみても、気持ちが鬱いでいるばあいが多くて、なにが不満なのか見当もつかなかった。 「おまえの瞳は、なぜエーゲの色をしていないのか」 テセウスは、ふと囁いた。パイドラの瞳は、会った人、だれもが素敵だと話してくれる素晴らしい青色だった。みたことはなかったが、アドリア海の色にそっくりだとみんなにいわれた。それがいったい、なんの不満なのだろう。 「おまえの髪は、なぜ真っ黒でないのか」 テセウスは、低い声で呟いた。彼女の髪は、柔らかな赤がわずかにまじる上品な黒色で、どんな色をまぜあわせても、こんな素敵な色彩にならないと、だれもがいってくれる落ちついた黒だった。 「あなたは、どこにも光のない墨色の毛髪が好きなの。そんなひとつの部分が、どんな意味をもっているの」 そう思って、パイドラはみつめかえした。テセウスの瞳は、虚空をさまよい、愁いに満ちていた。 「いったい、あなたは、なにを望んでいるの」 クレタの晩餐会で再会したときの、あのはげしくて情熱的な瞳は、どこにいったのだろう。あなたは、ようやっと欲しいものを手に入れたはずなのに。このひろい世のなかで幸せにしてあげられるのは、私ひとりしかいないのに。なにを考えているのか。どうして、私をもっと大切に、やさしくしてはくれないのか。 アリスが風邪をこじらせて死んだとき、パイドラは悲嘆の涙に暮れた。美しい青色の瞳をもった彼女は、ふたりの愛の結晶だった。 「人は、いつか死ぬものだ」とテセウスはいった。 なんで、そんないい方しかできないのか。 アイガスが崖から落ちて死んだとき、パイドラは身がひき裂かれる思いがした。 「神が、めしたのだから仕方がない」とテセウスはいった。 なんで、そんな他人事(ひとごと)として話ができるの。なぜ、いっしょに悲しんではくれないの。なにも話さなくてもいい。ただ、そばにいて、悲しみ、涙に暮れる妻を、思い切り抱きしめてくれさえすれば、それで、かまわないのに。どうして、こんなになげく私を、あなたは、遠くからみているのか。 あいついで他界した娘と息子を、ほんとうに心の底から、いっしょに悲しんでくれたのは、クレタからついてきた乳母だった。 アイガスが死んだころには、ふたりのなかはすっかり冷え切り、このまま子供ができなかったら、すてられてしまうのではないかとパイドラは思った。 彼女が苦悩しているのをみて、乳母は、「お母さまなら、魔法をつかうのでしょうが」とひかえめにいった。 悩みぬいたパイドラは、雲ひとつなく晴れた新月の夜に三叉路に立った。全天をくまなく埋めて輝く無数の星々をみていると、魔術に頼ろうとする自分は、あまりにもみじめだった。それは、世界の果てにあるコルキスの王女には相応しいかも知れなかった。しかし、東地中海世界の盟主だった、クレタ王女がするべきことではなかった。母は、魔術をつかって悲劇がうまれ、冥界の女王、ペルセポネになったのだった。パシパエの子供、アステリオンは、八つ裂きにされた。冥界の闇をやぶってでてきたテセウスは、ずっとゼウスだと思ってきたが、もしかしたらディオニュソスだったのだろうか。 彼女は、館に帰りアプロディテの祭壇に手をあわせ、それから自分の髪を真っ黒にそめてみた。祈りが通じたのか、その後、テセウスとはすこしよりがもどって、アカマス、デモポンのふたりの息子をさずかった。彼女ができることは、そこまでだった。 「ラビリンスに入って、彼は、すっかり変わってしまった」とパイドラは思った。ときには、憎まれているとさえ感じることもあった。 彼女の心に、あきらめの気持ちと絶望が襲ってきて、クレタに帰ろうと考えていたときに、あの若くて素晴らしく魅力的な、昔のテセウスにそっくりなヒィポリュトスに出会ったのだった。 「クレタ島に、帰国するべきではないか」 彼女は、ニケ・アプテロス神殿にあるアプロディテの祭壇のまえで、トロイゼンをみながら考えつづけていた。そんなときに、パラス一族の後継者あらそいがはじまった。そして彼女は、トロイゼンにいき、ヒッポリュトスと暮らすことになった。 いっしょにすごす毎日は、パイドラに喜びと苦しみをあたえた。ヒィポリュトスをみるたびに、彼女の胸は禁断の思いに震えた。彼は、ラビリンスに入るまえのテセウスだった。そうなら、私たちは分かりあえる。ふたりで話がしたい。手を取ってみつめあいたい。熱い口づけに、この世を忘れてしまいたい。死んでもいい。もう一度、はげしい恋に、どんな罰をうけてもかまわないから焼かれたい。何度か言葉をかけあう機会はあったが、ヒィポリュトスは、継母として以上にパイドラをみることはなかった。 「あたりまえなのだ。たとえ義理ではあっても、ヒッポリュトスは間違いなく私の息子なのだ。母は、そうならざるをえなくてタウロスを愛し、彼もその思いに答えたのに違いない。それは、不倫だったのだ。なぜ私はこんな飛んでもない思いに苛まれ、苦しまねばならないのか」 パイドラは、懊悩した。 「クレタに帰ろう」 彼女は、最後にはいつもそう思った。 ピッテウスの館の東がわには、体育館がたてられていた。裏庭にまわると両がわに銀梅花が生える小さなベンチがあり、そこにすわると、ちょうど低木を覆う常緑の葉と競技場のかさなる円柱が目隠しになって、なかをのぞきみることができた。 ヒッポリュトスは、週に一、二度、そこで仲間とレスリングの練習をしていた。裸になった彼は、上半身も下半身も充分にきたえられ、見事なまでにたくましい筋肉の、ひとつひとつが彼女に溜め息をつかせた。ヒッポリュトスが組みあって力をこめると、それにあわせて盛りあがる筋は、クレタの大祭で大活躍をしたテセウスを思い起こさせた。クノッソスの大門わきの邸宅で、はじめて出会ったときにふれた、雄牛の肩にも似た、弾力のある大胸筋を彼女は思いだした。 ときどき、パイドラの周囲になにかの香りが漂うのに乳母は気がついて、ずっと不審に思っていた。それがハーブの匂いであると思いあたって、侍女は館の裏庭にいってみた。緑にしげる銀梅花のあいだにはベンチがあり、そこからは体育館のなかをのぞきみることができた。腰をおろすと、地面に常緑の葉が散乱しているのに気がついた。不思議に思ってひろいあげると、どの葉身にも小さな歯形がついていた。 地中海を原産とする銀梅花は、夏に五弁の可愛い花をさかせる。豊穣の女神、デメテルと、愛の美神、アプロディテにささげられる、この白い花弁は、花嫁のブーケとしてつかわれ、純愛と純潔を象徴していた。 ベンチに腰をかけ銀梅花にかこまれた乳母は、パイドラを思って胸が熱くなり、涙がこぼれた。 「なんと、皮肉なめぐりあわせなのか」 乳母は思った。銀梅花は、セメレを天上界にむかえるために、しずかで冷たく揺らぐこともない鏡にも似た、レルネの湖面をもぐって冥界におもむいたディオニュソスが、母をひきとる代わりにハデスに寝床に残した、暗い不滅の象徴となる不吉な花でもあった。 「このままでは、パイドラは死んでしまう」 乳母は、そう思った。 彼女は、なにを聞いてもだまっていた。子供のときから、ずっと目撃してきた乳母は、その原因を知っていた。侍女は、テセウスに狂った二〇歳の彼女もみてきたのだった。 「テセウスさまは、あまりに冷たすぎます。私は、どうしたらいいのでしょうね」と乳母は聞いた。 「ここにはいられないのよ。アテナイの街だったら、まだ我慢ができるのよ。そこにいれないのなら、クレタに帰りたいわ。明日にも、帰国したい。ここには、いるべきではないの」 パイドラは、そういって乳母にすがって泣いた。 侍女には、彼女の気持ちが痛いほど分かった。 ピッテウスの館の北がわには大門があって、街の広場に通じていた。門の左右には、東がわにはアルテミス女神、西がわにはアプロディテの女神像がむかいあって立てられ、それぞれの神像のまえには立派な祭壇がしつらえてあった。ヒッポリュトスは、毎朝、女神、アルテミスに熱心な祈りをささげていた。機会あるごとに花環を献じていたが、アプロディテに祈願したことは一度もなかった。いっぽうパイドラは、毎日欠かさずアプロディテ女神に花冠と祈りをささげていた。対照的なふたりのはっきりとした姿勢を、トロイゼン市民、だれもが目撃していた。 狩りに生きがいを感じていたヒッポリュトスは、天気のいい日には、かならず従者の少年たちと愛犬をひきつれてトロイゼンの山へ入っていった。父親とは狩猟というおなじ趣味があるわけだから、いっしょにすれば楽しいだろうとだれもが思った。しかし、彼はふたりでいくのを嫌がった。 テセウスは、ことあるごとに技量の卓越したヒッポリュトスにテッサリアの豪快な狩りの話をし、同行しようとさそったがいい返事をもらったことがなかった。 「あいつは自慢の息子なのだが、母親の敵だと思って恨んでいるみたいだ。おれを、不幸な目にあわせたいのだ。ピッテウスには、こんなに立派に育ててくれて、どう感謝したらいいのか分からないほどだ。なんといっても、親父さまに頼りすぎてしまったのだな。 あいつは、おれの息子でありながら、もういい年になるのに、政治にも興味がもってないし、戦争で手柄をあげたいとも思っていない。自分の小さな世界にとじこもり、世のなかからあぶれて、理由もなくすねている。こんな立派な家系にうまれながら、まるで野良犬みたいにうろうろしている。格闘技の競技会では優勝するらしいが、だからなんなんだ。傲慢で自尊心ばかりが高く、両親にたいしても、なんとも思っていない。あいつは、なにさまのつもりなんだ。テバイでひらかれるアルテミス会とは、いかがわしい新興宗教に違いないが、いったいなんなんだろう。アルテミスを敬うのはいいが、アプロディテ女神を神々のなかでもっとも忌まわしいと公言し、軽蔑している。こうした行為をつづければ、いつか女神の逆鱗にふれるに違いない。それにしても、母になることがないアルテミス女神とは、そんなに素晴らしいものなのか。おれの息子でありながら、どうしてなのだろう」 テセウスは、柄にもなく泣き言をこぼし、ふたりで狩猟を楽しむことをあきらめたみたいだった。アッティカから追放になった彼は、ペイリトオスのところにいっては、テッサリアでいっしょに狩りをして遊んでいた。 パイドラには、知りあいはひとりもいなかった。しずみこんでいる彼女をみかねて、乳母はいった。 「一度、ヒッポリュトスさまと話しあってみたらどうですか。あの方は、テセウスさまと違っておやさしいから、話を聞いてくれるかも知れませんよ」 「なにを、話したらいいの」 「それは、なり行きではないのですか。今日は、館にいるみたいですから、聞いてみましょうか」 乳母はそういって、パイドラをみた。彼女がだまっていると、でていった。 乳母は、ヒィポリュトスに会うと、「だれひとり、知りあいがいないトロイゼンで、パイドラさまが寂しがっているので、気晴らしに、話でもしてあげてくれたら喜ぶのですが」と言葉をかけた。 彼が、いぶかしく思いながら部屋にいくと、パイドラは震える声でいった。 「あなたは、若いころのテセウスにそっくりです」 彼女は、話しはじめた。 「生き贄としてやってきた彼に、私は、一目惚れしてしまったのです。アプロディテが、激情をおくったのです。あなたも知っている通り、テセウスは妹に助けられて迷宮をぬけだし、彼女をナクソスの浜にすてたのです。彼は、私の兄も殺害しました。父も結局、テセウスが原因となって殺されました。もちろんミノス王は、聖なる神殿をけがしたのです。ポセイドンの怒りにふれて、ほろぼされたとしても仕方がなかったのですが、でも、若いときのあの人は素敵だったのです」 「その話は、人伝に聞いています。母も父にすてられ、アテナイまで私をつれてきて殺されました。姉である女王のヒッポリュテも、そこで自刃をとげ、アマゾン族はたちなおれない打撃をうけて、和睦しました。父の生涯は、はじめから最後まで人を傷つけることで、なりたっていると思います。私は親父のような生き方は、したくありません。田舎で、平和に暮らしたいのです。アテナイに民主制をしいたのは、せめてもの罪ほろぼしだったのでしょう」 「あなたは、やさしいのね。テセウスとは違って繊細だし。それに、私たちの境遇には、似ているところがあるわ」 そういってパイドラは、ヒィポリュトスをじっとみつめた。 「たしかに、そうですね。私は、あなたを、もっと高圧的な方だと思っていました。生母なんかとはまったく違って、クレタという世界一の名家に、長女としてうまれ育ったのですから。周囲をみくだして、父といっしょに、いつも威張りちらしているのだろうと」 そういってヒィポリュトスは、遠慮がちにパイドラにむかって笑みを投げかけた。それは、素晴らしい贈り物にみえた。 「あなたは、だれにでもやさしくできるの」 「そんなことは、無理です。だから人とは、ふかくつきあわないほうがいいと思っているのです。気ままな狩りが、好きなのです。ながい人生を平和に暮らそうと思ったら、女神、アルテミスがいちばん素晴らしいのです」 「きっと、お母さんがやさしい人だったのね。あなたは、思いやりがありすぎるわ。だれも、傷つけまいとしている」 「父は、人を害することしか知りません。相手が、男であっても、女であっても。それが、父の人生なんです。私は、親父とは違う道を歩んでいきたいのです。でも、やさしいあなたが、母であってよかったです」 穏やかな口調で、ヒッポリュトスはいった。パイドラは、目眩を感じた。 「そのテセウスが、私を狂わしたの。自分の父や兄や、それに妹と母まで殺され、それでもなお、愛していたのよ。彼が、私の家庭を滅茶苦茶にするのに喜んで手を貸したのよ。それが、すべてだった。そのことを、いつも考えているの」 「愛は、怖いものですね」 「そう。それで、いまは、あなたに夢中なのよ」 パイドラは、ヒッポリュトスをじっとみつめて、押し殺した低く小さな震える声で呟いた。 「夢中。それは、どういう意味ですか」 ヒッポリュトスは、驚いて聞きなおした。 「あなたは、素敵だわ。私が、はじめて出会ったとき。人生にまだ夢を抱いていたころに会った。私が夢中になった、あのテセウスとそっくり。ヒィポリュトス、ひとりにしないで」 「どうなさったのですか。大丈夫ですか。あなたは、どんなに美しくても、私の母ですよ。そんなことをいわれたら、もう二度と話はできません」 「分かってください。あなたは、テセウスの代わりではない。ラビリンスに入って、彼はすっかり変わってしまったのです。愛していたのは、愛するのは、ヒィポリュトス、あなたなのです。私は、母のまえにひとりの女なのです。あなたのためなら、死んでもいいのです。お願いです、私にやさしくしてください」 パイドラは、囁いてヒィポリュトスの右手を両手でにぎりしめた。彼は、じっと彼女の白い手をみていた。それから、顔をあげて、パイドラの瞳をみつめた。それは、驚愕の表情だった。 「あなたは、女だったんだ。手を、はなして。抱きつかないで。あなたに自由にされるのは、私が死んでからです」 彼は、両手で自分の顔を覆った。 「狂っている。あなたのために、私の母は殺されたのだ。たしかに、父がいちばん悪いのです。しかし、あなたの狂気が母の人生も狂わせたのです。こんな話をする母親とは、いっしょには暮らせません。二度とそばには、こないでください」 彼は、顔面を蒼白に変えて部屋をでていった。 パイドラは、なぜそこまでいってしまったのか自分でも分からなかった。扉ごしにふたりの会話を聞いていた乳母は、涙していった。 「奥さま、テセウスさまが帰ってきます。ご主人は、あなたのすべてをうばったのです。お可愛そうな、奥さま。クレタでは、お幸せだったのに。テセウスさまさえ、やってこなければ、もっとずっと、みんなが幸福だったのに。大丈夫ですか。奥さま、ヒィポリュトスが、なにかを話すかも知れません」 「主人を、出迎えてください」 「ご主人には、ヒッポリュトスがパイドラさまに迫って辱めたと報告します。奥さま、それでよろしいですね」 乳母は、真剣な目差しでいった。 その言葉を聞いて、パイドラはじっとだまりこんだ。彼女は、はげしく駆りたてた女神、アプロディテに完全に裏切られ、みすてられたことを知った。しばらくして、「クレタに帰ればよかったのです。もう、すんでしまったことは仕方がありません。すべてが、どうでもいいのです」と小さく呟いた。 乳母がでていくと、どうにもならない気持ちを、自分では押さえることができなかった。 「女神、アルテミスに魅せられた彼は、いまは子鹿に変わって、狩られるに違いない。父のテセウスによって。愛の女神、アプロディテによって。そして、恐るべき母である、私によって。彼は、嫌でも、あとを追ってくるに違いない」 パイドラは、思った。 「もう、だれにも、愛してもらえない。家族を呪った私は、恋慕される価値がない。自分は、クレタの海岸を吹きぬける灰色の北風。凍え、震えさせるだけの、意味のない空っぽ。女を愛せないヒィポリュトスに、よみがえらせてはもらえない。もう、これ以上、愛のないテセウスと暮らすのは、魂をうしなった私には耐えられない」 誇りたかき、女神、アルテミスよ。 聡明で、清らかな、 美しい乙女よ。 恥ずべき私は、 いまこの瞬間に、大地が裂けて、 迷宮の闇のかなたに、消えていきたい。 それが、かなわぬものならば。 せめて、小鳥になって、 空を、どこまでも飛んでいきたい。 人も住まない、この世の果てまでも。 パイドラは、腰紐を解いて柱にかけ、首をつった。 テセウスは、顔面を蒼白にしたヒッポリュトスが挨拶もなく、逃げるように去るのをみた。涙をふいている乳母がでてきて、特別な事件があったのを知った。「パイドラ」と叫んで部屋にいった。彼女は、首をつって事切れていた。 テセウスは、いそいで抱えあげ、首筋に巻かれた紐を解くと、パイドラを床にねかせた。どんなによびかけても、もう目をさますことがなかった。 「なにが、あったんだ」 テセウスは、大声で乳母にたずねた。 侍女は、驚愕の表情をしていた。 「なにが、あったんだ」 大声で叫ぶテセウスの声に、ピッテウス家の使用人があつまってきた。 「ヒィポリュトスさまが、奥さまに迫ったのです。そして、辱めたのです」 乳母は、いった。 「なんと」 テセウスは、絶句した。 「ヒィポリュトスをよべ」 執事が走り、彼がやってきた。 パイドラをみて、「まさか。こんな。なんと、いうことを」とヒッポリュトスは絶句し、両手で顔を覆った。 「おまえのせいだ。呪ってやる。昔、ポセイドンが、三つの願いをかなえてくれると私に約束した。そのひとつをつかおう。おまえを、呪ってやる」 「私は、なにもしていません」 「見苦しいぞ。それでは、どう説明する」 「私は、なにもしていません。パイドラは、ひどく寂しがっていました。全部、あなたの所為ですよ。やさしくしないから、可愛そうなほどでした。彼女は、ふたりだけで話したいと、私を寝室にさそったのです」 「なんと、いうことを。でていけ。二度と、おまえの顔などみたくない。でていけ」 「誤解ですよ。私は、なにもしていません」 「もう、聞きたくない。ポセイドン。この男を殺してください。血のつながりがなければ、自分でやるのですが。でも、この男は私の息子なのです」 「分かりました。あなたの気がおさまるまで、私はテバイにでもいきます」 風がつよく吹く晴れた日で、空には、やや灰色の雲が足早にながれていた。テバイにむかって館をあとにしたヒィポリュトスは、長年にわたって調教した自慢の愛馬がひく戦車にのって、トロイゼンの海岸ぞいの道を走っていた。荒波が海辺にうちよせる、はげしい音に驚いて沖合をみると、波が砕けて白浪が立っては消えていた。潮風がさらにつよく吹いて、波頭はいっそう大きくなった。そのとき、凄まじい波の音が、群れた馬たちのもの凄い嘶きとなって聞こえ、ヒッポリュトスの戦車をひく、二頭の雌馬は耳を立て、おびえて立ちどまった。 海からくるのは、もはや浦波ではなく、ひとつの波頭が一頭の白い馬に変わっていた。海岸には、無数の白馬が一斉に列をつくって押しよせていた。白いたてがみを、なびかせる最前列の馬は、跳ねて砕け、飛沫を巻きちらしながらあとにつづく、大きな白毛におきかえられた。みえるかぎりの海の表面には、無数の馬頭が隊列をつくって浮かび、その後ろから、さらに蒼白い馬体をあらわそうとしていた。最前列の馬が砕けてちってしまうと、つぎの瞬間、背後から飛んでもなく大きな白馬の列がやってきた。戦車の真正面に、ひときわ巨大な白毛があらわれた。背には、白くなったながい髪と顎髭を伸ばした堂々とした男がのり、左手には無数の手綱をにぎりしめ、右手には三叉の矛をつかんでいた。 それをみると、ヒッポリュトスの馬たちは驚いて後ろ脚で立ちあがった。その勢いで戦車が横転し、はずみで彼はほうりだされた。愛馬の手綱が身体にまといつき、海岸の岩場をひきずられた。 ヒッポリュトスは、朦朧とした意識のなかで、つよい潮の臭いが取り払われ、周囲に芳しい香りがあふれ、漂っているのが分かった。アルテミス女神が、自分のちかくにいるのを知った。 「女神のそばで死ねるのは、本望です」と彼はいった。 「ヒッポリュトスよ。愛するおまえに栄誉をさずけよう。これからは、トロイゼンの街では、嫁ぐまえの乙女に髪を切らせ、墓にそなえさせよう。おまえの純潔な死を悼み、ふかい悲しみの涙をくりかえしながさせよう。乙女たちが歌う歌声は、たえることないだろう。おまえの不幸な運命と、思慕したパイドラの悲恋が、いつまでも語りつがれていくために」 「このうえなく、嬉しいです。しかし、私はもうすぐ死んでいきます。女神をけがすのは、本意ではありません」 「おまえを、クロノスが王としておさめる、エリュシオン、至福者の島につれていこう」 言葉を残して、アルテミス女神の芳しい香りは去った。 ヒッポリュトスは、浜辺でそのまま死んだ。 事件を使用人が聞きつけ、遺体をテセウスにとどけてきた。 「罰があたったんだ」と彼は呟いた。 それを聞いて、乳母がいった。 「罰があたったのは、テセウスさまです。あなたは、パイドラさまを、滅茶苦茶にしました。ミノス家をほろぼし、それでも愛してくれた奥さまを大切にあつかわなかった。パイドラさまがいなかったら、いまのあなたはなかった。だから、すべての家族をうしなったのです。呪われているのは、あなたです。ヒィポリュトスさまは、血がつながっているとは思えないほど、おやさしい方で、パイドラさまを傷つけることなど、できるはずがないのが、なぜ分からないのですか。己の罪をくい、地獄で震えればいい。あなたなんか、うまれてこなければよかったんです。たったひとりで、地獄で焼かれるのが相応しいのです」 「おまえは、なにをいっているのだ」 「あなたは、アリアドネさまをすて、そのうえアンティオペさまをみすてました。でも、パイドラさまを取ったわけでもありません。いったい、あなたは、なにを望んでいるのです。私を、殺してください。パイドラさまがうまれてから、ずっとお世話をしてきたのです。あなたがアムニソスの港から、クノッソスの船着き場に貢ぎ物のひとりとしてついて、ミノスの私邸に最初に招かれたときにも、私はそばでおつかえしていたのです。子供のころから、ずっとみてきたのです。パイドラさまは、願えばあらゆる望みがかなう方として、おうまれになったのです。属国の貢ぎ物としてあらわれたあなたは、彼女が望めば、両脚の腱を切られて膝行りにされ、それでも生きていかねばならなかったのです。そうなっても、だれもなんとも思わなかったのです。パイドラさまは、誇りをもっています。由緒ある王家に、長女としてうまれた世界一のお姫さまなのです。いつでも妹とくらべられ、おとしめられる方ではないのです。あなたみたいに、野蛮でも、がさつでもないのです。可愛そうな、パイドラ。あなたにさえ、会わなければ。美しい、私のすべての誇りだった、パイドラ。なぜ、こんな男を愛してしまったのですか。パイドラは、だれよりもあかるくて、いつでも輝いていたのです。クレタを世界一にまで育んだ地中海の暖かい海と、太陽のどこまでもあざやかな光あふれる豊穣の象徴だったのです。その輝きを、あなたがすべてうばったのです。テセウス。あなたは、短気で、無思慮で、攻撃的で、自己主張がつよく、自分勝手で、独善的で、相手をみとめられず、冷酷で、周囲の人びとを不幸にしかできない。クレタで、殺されればよかったのです。この男は、パイドラにはまったく相応しくなく、趣味でもなかったはずなのです。女神、アプロディテが狂気をおくったのでは決してありません。なにか、この男がしたのです。私には、分かりません。この男が、パイドラになにか特別なことをしたのです。そうでなかったら、こんな出来事は絶対に起こらなかった。可愛そうな、パイドラ。殺してください。もう私は、生きる望みがないのです」 テセウスは、ぼうぜんとその言葉を聞いていた。 七、冥界 もし神々が、人の知恵と思慮をおもちなら、 徳のある者には、その定かな標にと、 二度の若さを、おくり給うたに違いない。 すぐれた人には、生を終えたそのあとも、 ふたたび陽の下に、よみがえり、 二度目の青春を生きるが、 卑しき者は、ただ一度の生涯を歩むのみ。 このような標があれば、 舟人が雲間に星を数えるごとく。 善き人と悪しき者の、 見分けも、つこうというもの。 だが神々は、 かかる、定かな境をあたえ給わない。 年月のめぐりにつれて、富が増しゆくのみ。 ヘラクレス、657~671、エウリピデス、 訳、川島重成、金井 毅、 あるとき、テッサリアのペイリトオスが、アテナイに、テセウスをたずねてきた。ふたりは、酒を酌みかわし過去の冒険を話しあった。ペイリトオスは、ヒッポダメイアとのあいだに息子、ポリュポイテスがいた。三年まえに妻をうしなった彼は、テッサリアの領地を子息にあたえ、引退していた。アマゾンやシチリア島への旅、アマゾン族との戦闘、結婚式でのケンタウロス族との戦いや、カリュドンの猪退治など、好き勝手に無鉄砲をした若いころの話がつぎつぎにでてきて、最後に女の話題にいきついた。 「女性がいないのは、寂しいことだ」とテセウスが呟いた。 「妻をもてれば、また若いころにもどれるが、だれでもいい、というわけにはいかない」とペイリトオスはいった。 「ゼウスはいつだって、好きな女性を力ずくでものにしてきたんだ。だから、彼の娘なら掠奪しても、怒りようがない。いまの若い者は自由意志ばかりをとなえて、力で奪いとるなんて野蛮だと思っている」 「妻にするなら、たしかにゼウスの子供がいい」 「彼の娘は、神聖だ。ただの女ではないから、われわれを、もう一度よみがえらせてくれる」 さまざまに好き勝手をいいあったあとで、ふたりは結論にたっした。 「まだまだ老けこむ年ではない。いい女がそばにいれば、また元気になれる。子供だってつくれるし、四人でフェニキア、エジプトをまわって、ヘラクレスの柱までいってみようではないか」 酔った勢いで話はどんどんころがって、ふたりは、なんとかして自分たちに相応しい妻をつれてこようという結論にたっした。 「いまの条件に間違いなく該当するのは、スパルタのヘレナに違いない。彼女は、ゼウスとレダの娘だ」とペイリトオスはいった。 「それでは、まずヘレナを掠奪して、籤をひいてどちらかの妻にしよう。それから残った者のために、もうひとり、ゼウスの娘をうばおう。もう一度、青春を取りもどそう」 彼らは、おない年で五〇歳になっていたが、たがいに冗談ではないぞと誓いあった。 ふたりは、ヘレナをえるためにスパルタにいった。アルテミス・オルティアの神殿によってみると、若い娘が音楽にあわせて軽やかに舞を披露しているのにめぐりあった。この世の者とは思えない美しさで、宙に浮かんでみえた。周囲の人びとは、だれもがうっとりとして、われを忘れて娘の踊りにみとれていた。それがヘレナだと聞いて、テセウスはずっとさがしていた女だと感じた。 目をみあわせたふたりは、やおら神殿にあがった。テセウスは、彼女を抱えあげた。彼は、身をこわばらした華奢なヘレナが、まるで若い羚羊に思えた。何ひとつ抵抗しなかったので、テセウスは彼女を抱えたまま戦車をつないだ場所までいった。のりこもうとすると、神官たちが追ってきた。ペイリトオスは、剣を取りだした。 神官がたじろぐあいだに、ヘレナを抱えたテセウスは、戦車をうごかしはじめた。後ろからペイリトオスが飛びのると、全速力で走りだした。ラコニアの境界、テゲアの町までスパルタの人びとは追いかけてきたが、国境をこえてアルゴリスに入ると追跡はみえなくなった。トロイゼンまでの一五〇キロを一日かけて走りぬけ、ピッテウスの屋敷にいくと、アイトラがひとりで住んでいた。 「どうしたの、この綺麗な娘は」と母はいった。テセウスが経緯をつたえると、アイトラは彼の話になかば呆れながら、「まだ、結婚するには若すぎる」と話して年を聞いた。 「一二歳」とヘレナは答えた。 約束にしたがってふたりは籤がひくと、テセウスがあたった。 「この娘が、おれの新妻なのだ」と思って、あらためてじっとヘレナをみた。飛んでもなくととのった容姿で、噂以上の美貌だった。見知らぬ男たちに掠奪されたにもかかわらず、一二歳とは思えないほど落ちついていた。この娘が年をかさねたら、いったい、どんな女性になるのかと感じるほど、すでに妖艶で魅力的だった。しかし、高貴さと優雅さの点では、アリアドネにはかなわないと彼は思った。 トロイゼンではスパルタにちかすぎたので、母もつれてアッティカの北部、アフィドナイの砦にとじこめ、友人のアフィドノスに口外しないことを誓わせて保護を依頼した。アイトラには、ヘレナが結婚に充分な一四歳になるまで育てて欲しいと話した。 今度は、籤にあたらなかったペイリトオスの妻をもとめようと話しあった。彼は、ハデスの妻ペルセポネをえたいといいだした。 「それは、さすがにまずいのではないか」 あまりにも大胆な発言に、テセウスは二の足をふんだ。 ペルセポネは、ゼウスとデメテルの娘で類い希な美貌で有名だった。女神が、掠奪を恐れてシチリア島の森のなかに隠していたのを、冥界の王、ハデスが戦車でのりつけ、強引に彼女をつれ去り死者の国の女王にしたのだった。デメテルが、ひどくなげいたために、地上に穀物が実らなくなって飢饉が起きたのは、だれもが知る話だった。 テセウスは、頭を抱えた。 「ペルセポネは、ゼウスとデメテルの娘だが、神ではない。彼の子供ならだれでもいいと約束したはずだ。それとも、冥界の王、ハデスが怖くなったのか」とペイリトオスはいった。 カサンドラの言葉が、テセウスの脳裏に浮かんだ。 「ディオニュソスは、ハデスの異名です。御子の妻、アリアドネは、冥界の女王、ペルセポネの分身です」 もしそうならば、彼女と再会できるのだろうか。しかし、二度と冥界とつながってはいけないと、カサンドラには釘を刺されていた。 ペロポネソス半島最南端、ラコニア、タイナロン岬の尖端部には、ポセイドン神殿がたてられ、先は断崖になって海につづいていた。その崖の中腹にある洞窟は、古来、冥界につながるといわれていた。ペイリトオスのつよい主張に押し切られ、テセウスは、タイナロン洞窟をくだることを承諾した。 神殿裏手の絶壁にめぐらされた柵のなかでいちばん太くしっかりとした杭に頑丈な綱が張られ、断崖にむかって垂れていた。柵ごしに海をのぞきこむと中腹に亀裂があり、タイナロン洞窟の入り口に違いないと思われた。ペイリトオスが綱をつたっておりていき、出入り口にたっした。縄でむすんだ二本の松明を垂らすと、彼がうけとり、それからテセウスは断崖をくだった。 せまい裂け目をぬけて入ってみると内がわは想像以上にひろく、奥からは幾分か湿った、ひんやりとした風がながれ頬にあたった。洞内は、それまで聞こえた波音も消え、別世界の入り口に相応しい静寂が支配していた。奥にむかって、ふかい闇がつづくのを確認すると、松明に火を点して歩きはじめた。 ところどころに水がたまり、ゴロゴロと大きな岩がつらなる道を、ふたりはくだっていった。洞窟の奥からは緩やかな風が吹き、松明の炎を揺らした。やがて急なくだりになり、苔が生す足元の悪い岩の道を、ふたりはかわす言葉もなくすすんでいった。 テセウスは、光ひとつうしなったラビリンスの闇のなかを、死を肌で感じながらさまよった若き日を思いだした。 「この道がほんとうに冥界につづき、目的がハデスの妻、ペルセポネの掠奪だとしたら、間違いなく摂理に反する神への冒涜以外の何者でもあるまい。そうならば、先には罰が待っているのではあるまいか」とテセウスは思った。 半日かけておりると、勾配は緩やかになり、遠くから河のながれる音が聞こえてきた。 「もうすぐだ」とペイリトオスがいうと、行く手にぽっかりと穴がみえ、洞窟は終わっていた。 ふたりがでた場所は河原の端で、思わず息を飲みこんでしまうほどの、なんとも荒涼とした風景がひろがり、ここが冥界であるのは疑問の余地がなかった。目のまえをながれる大河は、右手の上流から左の下流にむかって弧を描き、みわたせる対岸には河川敷らしきものは、ひとつもみえなかった。絶壁が屏風状につづき、どこから向こう岸にわたれるのか、皆目見当がつかなかった。 ぬけてきた洞窟の上流にも断崖がそそり立っているので、ここがふかい谷であるのは間違いなかった。もやもやとする上方は全体が薄暗く、どうなっているのか、はっきりと確認はできなかった。そそり立つ両がわの断崖の上部は、靄とも霧とも表現しがたいものに覆われ、最上端は曖昧な形で放置されていた。タイナロンの入り口から半日かけておりてきたことを考えあわすなら、この場所に空などあるはずがなかった。幽々とした上部で、双方の絶壁がつながっているのではないか。目に映る全体は猛烈にふかくてひろい谷といってよく、いちばん底の部分に河が弧を描きながら、ながれているらしい。 ながれの左にあたる川下には、平らな場所があり、大きな石がゴロゴロした河原になっていた。船着き場と思えるところに、死者らしい者たちが列をなしてならんでいた。二〇〇メートルほどで平坦な場所は終わり、また絶壁がそびえ立ち、下流で対岸の崖とひとつになって谷をつくっていた。河原は、幅が一キロ以上も奥がある領域で、最終縁は糸杉が林立し、後方は断崖が覆いかぶさり、ドーム状に上方にむかってひろがっていた。 こうした様子から全体を総合的に考えると、ここは想像を絶する巨大な洞窟に違いないと思われた。振りかえって、でてきた絶壁の最下部に位置する洞穴をみると、上部に「タイナロン」という文字が目に入った。河原にはいくつかの洞窟がみえ、それぞれが地上のどこかと、つながっているのだろう。 せまい視界しかえられない洞窟内は、どこに、どういう光があるのかは分からないが、闇ではなく、曖昧な、もやもやとした薄暗い世界がつづいている。聞こえてくるのは、憎悪に満ちた大河、ステュクスの轟音と、波飛沫が舞うばかりだった。目に映るすべては、さむざむとしていた。河原の岩にすわりこみ、ぼうぜんとしながら荒々しくながれる河をみていると、薄暗い上流に一艘の舟があらわれた。ぼろ切れ一枚を腰に無造作に巻きつけただけの、ほとんど裸の大男が舳先にのり、巨大な櫂をあやつっていた。激流のなかで、いまにもしずみそうな舟には、操舵する者よりほかは、だれもいなかった。おそらく上流に冥界の河原があり、そこに死者をのせてわたる小舟で、男は船頭のカロンなのだろう。舟は、ふたりのまえを通りすぎると船着き場にとまった。 彼らは、小舟がついた場所にむかって歩いていった。そこには、意志をうしない棒立ち状態の死者が、ぼうぜんと列をつくってならんでいた。服装はさまざまで、若い者も、年寄りも子供もいた。船着き場では、樹皮でできた小舟を舫い終わったカロンが、ならんで待つ死者を順に乗船させていた。すでに五〇人以上が舟にのり、すしづめ状態だった。口に貨幣をくわえるでもなく、両手にも金銭をもたず、ぼんやりと立つ、背が高くて頑丈そうな男にカロンはいった。 「渡し賃がなくて、おまえは、どうしてもらいたいんだ。金を払わないなら、奥の林のなかで二〇〇年ほど、うろついていろ」 つき飛ばされ、河原で転倒した男は、のろのろと立ちあがると、岩にあたって血がながれはじめた額を両手で押さえた。だまったまま、奥の糸杉の林にむかってふらふらと歩いていった。 カロンの頭頂部は禿げ、うすくなった白髪と白い顎髭が、ながく伸びていた。そのせいで老けてみえるが、背丈は優に二メートル以上もある大男だった。年齢がいくつなのかは分からないが、皮膚は全体的に張りがみとめられ、胸や腿の筋肉は隆々とし、精悍な顔立ちだった。行動は、ひどく荒々しかった。しじゅう大声でわめきながら乗船する死者をさばくカロンは、あらゆることに苛々していた。すこしでも気に入らなければ、相手がほとんどうごけない老人でも、言葉の分からない幼児でも、容赦なくつき倒し、思いのままになぐりつけ、気がすむまで蹴飛ばしていた。 ペイリトオスが行列を押しのけてカロンのまえにでると、彼はするどい眼光でにらみつけた。 「おまえは、いくら金を払っても、舟にのることはできない」 カロンは、ペイリトオスをじっとみると首をかしげ、しゃがれた声でつづけていった。 「おまえ、もしかして生きているんじゃないのか。なにをしにきた。殺してもらいたいのか。いま、ぶち殺してやるぞ」 「落ちつけ、カロン。しっかりと目をあけて、よくみてみろ。私は、テッサリアの王、ペイリトオスだ。私たちがやってくることを、ハデスからなにも聞いていないのか」 「ここではな、王も乞食も関係がないのだ。俗界で、なにさまであろうとも、おれの命令が絶対なのだ。生きていながら、ここにくるとは図太い奴だ。仕事の邪魔をして、ただですむと思うなよ。ずたずたに裂いて、この河にながしてやる。おまえは、冥界の周囲を九回くりかえしまわりつづけるのだ。一巡するのに二〇〇年はかかる。つぎにここに辿りつくころには、おれは引退しているから、そのとき、だれにどう頼むのかは、よく考えておくのだな。時間がたくさんあると思うのだろうが、この河をながされつづけるのは、そんなに簡単なことではないぞ」 そう話すあいだにも、カロンが、どんどんと興奮してきているのは、ペイリトオスにも分かった。 「ハデスから、なにも聞いていないのだな。こまった奴だ。おまえではなく、ハデスの話だ。奴は、体裁が悪くてだまっていたのだろう。おまえも、知らないですむことではない」 カロンは、完全に癇癪を起こし、上気した表情でわめきはじめた。 「殺してやる。股を裂くぞ。ばらばらにしてやる」 「私に手をだしたら、たいへんなことになるぞ」 「おまえは、なにがいいたいのだ」 カロンは、完全に衝動が押さえきれなくなったらしく、巨大な櫂をもちあげ両手を震わして、いまにもペイリトオスになぐりかかろうとしていた。 彼は、興奮する船頭を涼しい表情でみつめていった。 「だから、私はテッサリアの王、ペイリトオスだ。こちらは、アッティカ王、テセウスだ。私は、今日、冥界の女王、ペルセポネを、ハデスから譲りうける約束になっているので、じきじきに参上したのだ。これは、王妃の意志でもある。だまって、われわれを向こう岸までわたさないと問題になるぞ」 「なんだ、その話は」 「おまえが、事前になにも聞いていないのは分かった。だからといって、待たされるのはこまる。おまえは、この舟に何人のせようとしているんだ」 「一度に、はこぶのは一〇〇人だ」 「いま、乗船している者たちをおろせ。われらふたりがのる」 カロンが、不詳な話にとまどったのはあきらかだった。 「ペルセポネを、待たせるわけにはいかない」 「女王に会って、どうする」 「ペルセポネは、私の妻になるのだ。ハデスには、話がついている。もともとは、彼女の意向なのだ。おなじ話をくりかえさせるな。はやく、だして欲しい」 堂々と話すペイリトオスに押され、カロンは、「こんな事件ははじめてで、聞いたことがない。ちかごろは仕事ばかりふえて、いったい、世のなかは、どうなっているんだ」とぶつぶつと呟いた。そして、のりこんでいた死人をおろした。 ふたりがのると、喫水線は船縁とおなじ場所までしずみこんだ。 「われわれを河に落としたら、たいへんなことになるぞ」 ペイリトオスがいった。カロンは、しぶい顔をしながら舫いを解いて、櫂を漕ぎはじめた。ながれのある河をのぼって絶壁を左にまわりこむと、対岸の河原についた。 「ご苦労。カロン。おまえが、とどこおりなくわれわれをわたしてくれたことについて、ハデスにじきじきに礼をのべるよう、つたえておく。帰りには、ペルセポネと三人でわたるが、そのときはまた、よろしく頼む」 ペイリトオスはそういうと、不審げにするカロンを残してハデスの館にむかった。屋敷のまえには、獰猛な冥界の番犬、ケルベロスがいたが鎖につながれていた。ペイリトオスは、館の扉をたたき、驚く召し使いに居間に案内させ、ハデスをよべといった。冥界の王に会うと、彼は、「ペルセポネを妻にしたいと思うので、私にゆずって欲しい」と直接要求した。 ペイリトオスの大胆な言葉に、ハデスは唸って驚いた。 「さすがに、豪傑は凄いことをいう。妻の件では、さまざまな人に迷惑をかけたので、ゆっくり話しあい、たがいに取って最善の方法を考えよう」と話して椅子をさしだした。 ふたりがすわると、そこから離れられなくなってしまった。それは忘却の椅子で、腰をおろした者は自分たちが何者であるかを、すっかり忘れてしまうものだった。彼らは、そのまま館の裏にもっていかれ、一年間すわりつづけた。 この事件のあと、カロンはハデスによびだされた。呆けた顔で椅子にすわりこんでいるふたりをみせられ、河をわたした経緯をたずねられた。ありのままを話すと、冥界の王はつよい口調で叱責した。 「おまえは、何年この仕事をしているんだ。そんな馬鹿な話がありえないのは子供にだって分かることだ。おまえは、それ以下なんだな。生きた人間が、どうして冥界にやってくるんだ。かつて、この河を、生者がわたったのか。おまえは、わたしたことがあったのか。そんな特例は、ありえない。もし仮にそうした事態が起これば、冥界は大混乱になる。おまえは、死人たちをずいぶん乱暴にあつかっているらしいな。癇癪を起こして、ひどい仕打ちをすることについては苦情がたえない。ペルセポネはみかねて、船頭からはずすよう、しじゅう私にうったえている。おまえは抵抗しない弱い者をいじめられても、こんな威勢のいい馬鹿者を相手にはできないのか。こいつらなら、好きなだけ痛めつけても、だれも文句をいわない。そもそも王妃を掠奪にくるとは、主人の妻に暴行をくわえようとするのだから、身をすてても戦うべき相手ではないのか。今度、こんな不始末が起きたら、たいへんな罰をうけると肝に銘じろ」 その言葉を聞いて、カロンは頭を抱えた。 いっぽうヘラクレスは、難行をかさねていた。最後となる一二番目の任務は、冥界のハデスの館をまもる番犬を生きたまま、つかまえてくることだった。 ケルベロスは、デュポンとエキドナの子供で、ヒュドラやキマイラ、オルトスとは兄弟にあたっていた。頭が三つあり、尻尾は大蛇だった。背には、蛇の頭部がいくつもの列をつくって生えていた。冥府から脱出しようとする者を、捕らえて食べる怪獣だった。 冥界にいくには、霊魂の不滅と再生を約束するエレウシスの秘儀をうける必要があった。密儀を享受する資格は、エレウシス市民にかぎられていたので、ヘラクレスはピュリオンの養子となった。秘儀をうけた彼は、冥界の女王、ペルセポネの母、デメテルにまもられ、また死出の旅の道先案内人、ヘルメスにもつきそわれて、タイナロン洞窟から入っていった。 ステュクス河の渡し守、カロンは、生きているヘラクレスをみて驚いた。つきそってきたヘルメスが、わたすよう彼にいった。その言葉に、カロンは首を振った。 「生きた人間を、舟にのせることはできない」 「そんな、ささいな問題、どっちだっていいじゃないか」 ヘルメスは、いつもの小馬鹿にした表情で彼にいった。 「死んでいるかどうかは、小さな事柄ではない」 カロンは、不愉快そうに答えた。 「おれと、おまえの仲じゃないか。秘儀もうけたのだし、それに、この件は、ゼウスも知っている特別な話だ」 「口達者で、世わたりばかりがうまい尻軽な盗人野郎と、いい仲になったことはない。そもそも、ステュクスに特別はありえない」 「私が、だれだか分かっているわね」 言葉を聞いて、カロンはうなずいた。 「その命令も、聞けないの」 デメテルが、いった。 「なにを希望しているのですか」 「その舟にのせて、ヘラクレスを対岸にわたしなさい」 「デメテルさまの命令であっても、それだけはできない」 カロンは、顰めっ面をしながら答えた。 「なぜ、駄目なの」 「こいつは、生きている」 「どうしたら、わたしてくれるのかい」 ヘルメスが、聞いた。 「力ずくでも、無理だ」 「可能かどうか、試してみるか」とヘラクレスはいった。 それで、大格闘がはじまった。カロンは、うまれてから一度も、喧嘩で負けた経験がなかった。たとえ相手がハデスであっても、自分が戦ってやぶれるとは考えもしなかった。一度も、全力をだして喧嘩した記憶もなかった。しかし、相手は尋常ではなかった。驚きながら、それでもカロンは必死に戦ったが、最後には許しをこい、わたすことを誓った。 ヘラクレスは、ハデスに会うと、冥界にきた目的を話した。 「ちかごろは、馬鹿なことをいう奴が多くてこまる」 冥王が、取りあわなかったので喧嘩になった。 彼はハデスを押さえこみ、不死身の資格を手に入れ、ついに「素手でケルベロスを捕らえて、生きたまま冥界にもちかえるのなら、地上につれていくのを許可する」という約束を取りつけた。 認可をえたヘラクレスは、番犬がつながれる場所にいった。三つの頭部は、それぞれが獰猛な犬にみえ、凶暴な牙が光る口をもち、どこから手をつけたらいいのか分からなかった。ケルベロスは、ヘラクレスをみて咆哮をくりかえし、背中の蛇も彼をみすえて、うごめいていた。生きているので、殺すことはできるだろうと思った。しかし、このままつれていき、もちかえるのは、ハデスがいう通りほとんど不可能に思えた。 ぼうぜんと思案していると、ひとりの男がやってきた。それは、七代の寿命を終えた盲目のテイレシアスだった。死者は過去をすべて忘却する定めだったが、冥界の女王、ペルセポネの命によって彼だけは除外されていたのだった。テイレシアスは、ヘラクレスにいった。 「おまえのことは、ずっと注目してきた。よくぞ、ここまで辿りついた。おまえの業績は、間違いなく後世に残るものだ。ところが、この最後の仕事は、できないぐあいになっている。おまえは、ケルベロスにくわれる運命なのだ。ここまで任務を果たすとは夢にも考えなかったヘラは、この難行で絶対に殺すつもりになり、二重に防衛線をしいたのだ。ハデスは、女王にいわれ、半年まえからケルベロスに餌をあたえていない。だから番犬は、かつてないほど凶暴になっている。命にしたがったハデスは、おまえと戦って負けると思わなかったから、ヘラが評価しすぎだと考えていた。実際に敗北して驚いた冥王は、女王に相談した。考えられないが、おまえなら、こんなケルベロスもつれだすかも知れないと思ったのだ。それでヘラは、夜の女神、ニュクスをよび、彼女の娘たちモイラたちによって、番犬に生きた英雄をくわせる運命をあたえようと冥王にいった。冥界はハデスの管轄で、許可がなければ女王も手だしはできなかった。その案に冥王は、同意して命令をだしたのだ。それでふたりは、いま安心しているのだ。おまえは、ここまでやったのだ。人間の身であり、執拗なヘラの妨害をうけながら冥界まできて、私はなんとしてでも行も果たし、女王の度肝をぬいてやりたいと考えている。この功業をやりとげ、人にもすぐれた面が存在することを神々に証明したいのだ。方法がひとつだけあるが、おまえは運命にしたがい、ここでくわれるのを望むか。それとも、世界がはじまってから、だれもなしとげられなかった、この難行を貫徹するのを希望するか、どちらかをえらべ」 「ここまできて、ようやっと私は解放されるのです。妻にも両親にも、心配をかけ通しでした。私も意地になっています。なんとしてでも、やりとげたいと思いますが、これは犬という動物ではない、飛んでもない怪獣です。なにを、どうしたらいいのか、さっぱり分かりません。生きたまま捕らえるなど、とてもできないと思います。もし方法があるなら、教えていただきたい」 テイレシアスは彼の言葉にうなずき、ハデスの館の裏につれていった。そこには、テセウスとペイリトオスが呆けた表情で椅子にすわっていた。ヘラクレスが驚いて理由をたずねると、こうなった経緯をテイレシアスは説明した。 「このどちらかを、ケルベロスの餌にやるしか方法はない。ふたりは英雄だから、ヘラの条件に合致する。どちらかを、えらべ」 ヘラクレスが頭を抱えると、「これしか方法はない」とテイレシアスはいった。 「それしか手段がみつからないのなら、テセウスは親友ですので、ペイリトオスを餌にあたえることにします。そのまえに、彼を助けたい。どうしたら、いいのでしょうか」 「あの青銅の脚を、こわすしかない。テセウスを助けて、ペイリトオスのほうは、椅子に腰をおろしたまま、ケルベロスにあたえろ。飢餓状態の番犬は、奴を食べるだろうが、満足して、すこし落ちついたところをすわらせてしまうのだ。あれは忘却の椅子だから、ケルベロスもすべてを忘れ、さわがなくなる。あの椅子ごとつれていくしか術はない」 ヘラクレスは、テセウスのそばにあった青銅の棒で腰掛けをこわそうと試みたが、いくらなぐっても、びくともしなかった。それでペイリトオスがもっていた分厚い剣をつかって、小一時間かけて四脚を破壊した。テセウスは、ようやく椅子から離れた。 「ヘラクレス。どうしたんだ」 テセウスは、驚いていった。 ヘラクレスが、事情を説明した。親友のペイリトオスを食べさせるのを、テセウスはためらった。しかし飢餓状態のケルベロスをみて、助けてくれたヘラクレスの判断にまかせるといった。 「テセウス。手をださないでくれ。これは、私の仕事なのだ。もしくわればあいには、ひとりで地上に帰ってくれ」とヘラクレスはいった。 腰掛けにすわったペイリトオスをまえにおくと、番犬は三つの口を大きくひらいてバキバキと音をさせながら、あっという間に食べてしまった。空腹が満たされた怪獣をみすえ、三本の首をいっきにつかんで椅子につかせると、ケルベロスは忘却状態に落ち入った。 ヘラクレスが椅子ごと肩にかついでテセウスと地上にもどっていこうとすると、テイレシアスはいった。 「おまえは、すぐにテバイに帰れ。クリュメノスの霊場から地上にでて、ケルベロスをデメテルの森に隠して、ミュケナイではなく、テバイ市にいけ。おまえの家族が危ない。クレオンは、リュコスに王位を簒奪された。奴は、英雄の息子たちが、いずれ復讐するに違いないと考え、子供のうちに、父親をふくめて一族をみな殺しにするつもりだ。メガラとアムピトリュオンは、おまえが冥界で死んだと思っている。この行が果たせると考える者は、神々をふくめて世のなかにひとりもいないのだ」 ヘラクレスは、テイレシアスに礼をのべ、地上にむかった。 ステュクス河には、舫いを解いているカロンがいた。彼は、ヘラクレスと目をあわせると、あからさまに嫌な表情をした。椅子にすわらされ、かつがれているのが間違いなく地獄の番犬、ケルベロスであるのを確認し、露骨に顔をしかめた。しかし、文句をひとついうでもなく、だまったままふたりを対岸にはこんだ。 冥界への道は、ラコニアのタイナロン洞窟のほかに、ヘルミオネ半島にもあり、ハデスがディオニュソスの母を天界につれだすためにひらいた大地の割れ目がクリュメノスの霊場として知られていた。そこをぬけて地上にでると、ヘラクレスはヘルミオネの街の郊外にひろがるデメテルの森にケルベロスを隠し、トロイゼンにむかった。 テセウスは、ピッテウスの館で戦車を調達し、コリントス地峡を通ってテバイまで彼をおくった。アテナイで兵をあつめて救援にむかう約束して、ふたりは別れた。 カロンは、ヘラクレスをわたした件でハデスに詰問され、結局、一年間、鎖でつながれることになった。 「今度、あんなのがきたら、どうしたらいいのでしょう」 カロンは、獄屋にとじこめられるときに、神妙な顔でハデスに聞いた。 「心配するには、あたらない。彼ら英雄の時代も、もうすぐ終わりがくる。着々と準備はととのっている。必要な者はすでにうまれ、もう、駒はそろっているんだ」とハデスはいった。 ヘラクレスが不在のなか、テバイの町には暴動が起こり、エウボイアうまれのリュコスが、義父クレオン王を殺して玉座をうばい、一家を殺害しようとしていた。アムピトリュオンと、メガラと三人の子供たちは、館のゼウス神殿に避難して奇跡のすくい、冥界にくだった彼がケルベロスをつれて帰ってくるのに一縷の望みを託していた。しかしタイナロン洞窟に入ってから半年がすぎ、だれもが失敗したと考えていた。 ヘラクレスが帰ってこないと分かったリュコスは、将来に禍根を残さないため一家をみな殺しにするつもりになった。使者をだして、メガラに自決できなければ殺害するとつたえた。 彼女は、消息の途絶えたヘラクレスが死んだと思わざるをえなかった。老いたアムピトリュオンと相談し、自分たちでは子供をあやめることが不可能だと考え、リュコスにその旨をつたえた。子供たちに死に装束をきせたとき、ヘラクレスが、いまは簒奪者のものになっている、父の館に帰ってきた。 彼を目にしたアムピトリュオンは、亡霊かと思ってメガラをよんだ。死に装束をきた家族をみて、ヘラクレスは「間にあってよかった」といって、テイレシアスから事情を聞いて、テバイの人にみつからないよう気をつけて、いそいで帰ってきたと話した。彼は、アムピトリュオンの館にある、ゼウス神殿の陰に隠れて敵を待った。 リュコスは、数人の部下とともに乱暴に邸宅に入ってくると、ほんらい、たとえ罪人であっても逃げこんだら手をくだすことができないはずの聖なる神殿のまえで、すっかり殺人を犯すつもりになっていた。「これで、すべての禍根がたたれる」といって、傲慢な表情でメガラたちをみた。 アムピトリュオンが部屋の扉をしめると、「その通りだ」という声がした。リュコスが驚いてみると、神殿に槍をもったヘラクレスがいた。それをみるなり、部下は逃げだした。リュコスは、あっという間にきられ、部下たちも逃げることはできなかった。 奇跡が起こった。アムピトリュオンとメガラは、涙をながし、手を取って喜びを分かちあった。死の恐怖から一転して、死んだと思った父親が帰ってきた。両親のまわりで、子供たちも抱きあっていた。ヘラクレスは、リュコスの死体を館の外にはこびだすと、家を清めるためにゼウス神殿のかまどのまえにささげものをおいた。 いっぽう、アテナイにいそいでもどったテセウスは、町が以前と変わっていると感じた。騒然とし、よく事情が分からなかったが、ピラボに兵をあつめさせてテバイにむかった。 天上では、ヘラが手のつけられないほどあれ狂っていた。その凄まじい不機嫌さに、神々のだれもが、そばにちかよれないほどだった。テイレシアスのお節介で、ヘラクレスがすべての功業を果たしてしまったのだ。あのとき、視力ではなく、命をうばうべきだったと彼女は思った。冥界にいるテイレシアスを、さらに八つ裂きにしたいほどだったが、権限がなかったから恨みのすべてはヘラクレスにむけられた。ヘラは、完全に気が狂った。イリスを使者にして、狂気の女神、リュッサをよんでいった。 「ヘラクレスが、大団円をむかえることは絶対に看過できません。人間のくせに、あまりにも不敵な行為をくりかえしました。こうなったら、ヘラクレスを狂わせるのです。いま彼は最高の幸福を味わったのですから、もう充分でしょう。今度は、最大の不幸を味あわせてやるのです。彼に取りついて、自分の子供たちと、妻を殺させるのです」 「私は、天空、ウラノスの娘です。夜の女神、ニュクスを母としてうまれた気高い血筋をひいています。私は、悪戯に無用の血をながすことには耐えられません。女王は、一時のお気持ちで、大それた罪を犯すべきではありません」 「おだまり。おまえは、秩序がどうなのか分かっているのかい。私が、女王なのだ。おまえの母、ニュクスを通して運命の女神、モイラに命じさせたのに、ヘラクレスをケルベロスに食べさせなかったから、こんな事態になったのです」 「ヘラさま。あなたは、母に生きた英雄を食べるよう、命令したのです。あまりにひどいことをしつづけてきたので、ヘラクレスの名前を口にできなかったのです。彼は、人間だけではなく神々にも名を知られた者です。かつて人が足をふみ入れたこともない、未知の世界にまで入りこみ、われわれの大地まで荷ない、猛り狂う大海原をも恐れず、不敬な人間たちにないがしろにされた神の栄光を取りもどした名誉ある勇者です」 「いつから、おまえは、そんなに偉くなったのです。ゼウスだって、私に説教などできないのです。あの無法者は、なんと天界の女王に弓をひき、三つ叉の鏃がついた矢をはなったのです。ゼウスのたったひとりの正統な后に、この不治の傷をつけた彼奴を、いったい、どうして許すことができるのでしょうか」 ヘラは、大きな傷跡が残る右の乳房をリュッサにみせた。 「それは、女王が常識では考えられないほどの、ひどいことをヘラクレスにやったからです。ゼウスは、みかねて、黄金の綱で両手をしばり、両脚に金床をつけ、あなたを天界から宙づりにしたのです。また、おなじ戒めをうけたいのですか」 「なんと。おまえはいったい、自分をなにさまだと思っているのか。リュッサ一族を、すべてタルタロスにおくりこんでもいいのですよ」 ヘラは、大声で叫ぶと狂気の目で、リュッサをにらみかえした。 「処女神、リュッサさま。私たちは、ヘラさまの部下でございます。女王のご希望なら、するのが役目でございます」 イリスがいった。 「分かりました。ヘラさまも、いつか、このことを後悔されると思います」 リュッサは、いった。 愛らしい子供たちは、メガラや祖父たちといっしょに、ヘラクレスのまわりを取りかこんでいた。周囲は、血の穢れを清めるための、敬虔な儀式が行われる静寂につつまれた。小刀と大麦を入れた籠が、祭壇を取りかこむ人びとによって手わたされた。ヘラクレスは、右手にもつ松明を、となりに立つ父親のアムピトリュオンにわたし、清めの水に両手をひたそうとした。そのとき彼は、ぼうぜんと立ちつくした。父親がうごかないのを不思議に思って、子供たちが顔をあげると、もうヘラクレスはこの世のものではなかった。頭を前後にはげしく振り、瞳は宙に浮き、目は血ばしり、口からは泡が吹きでていた。 気の狂った笑い声を立てながら、大声でいった。 「父上、エウリュステウスを殺害するまえに、これでは二度手間ではありませんか。私が奴の首をここに持参したうえで、いま、リュコスを殺した手の穢れも、いっしょに清めることに致しましょう。ちょっと、待っていてください。いまこそミュケナイにいき、奴の息の根をとめてまいります」 そういうと清めの水をすて、大麦の籠をほうりだした。 「だれか、弓をもってこい。私は、ミュケナイの城を破壊しなければならない」 ヘラクレスは、歩きはじめた。戦車があるといい、それにのると話して鞭を振る仕草をはじめた。 まわりにいた召し使いたちは、あわてはじめた。 幻影の戦車にのったヘラクレスは、いくつもの町をこえて、ミュケナイに辿りついた。そこで彼は、卑劣漢、エウリュステウスをみつけ、雄叫びをあげた。 「どうしたのだ」 アムピトリュオンが、腕を取っていった。 だが狂気のなかで、父親はエウリュステウスの父になっていた。ヘラクレスがひと押しすると、アムピトリュオンは壁まで飛ばされていった。彼は、エウリュステウスの子を殺すといって、弓をつがえ、自分の子供を狙いはじめた。異常を感じた子供たちは、祭壇の下に、柱の陰に、母の裾にと隠れた。 「どうしたの、ヘラクレス、あなたの子供よ」 メガラは、必死で叫んだ。 まわりにいた父親も召し使いも、声のかぎりに絶叫した。 「正気になってください」 すべては無駄だった。ヘラクレスは、子供をひとりずつ殺していった。祭壇の下に隠れた子は、矢でいられた。 「お父さん。殺さないで。ぼくは、あなたの子供です。エウリュステウスの子なんかではありません」 そういって、父の膝にすがってきた子供は、弓矢の距離ではなかったので、棍棒で金髪の頭をうちくだかれた。メガラの後ろに隠れた子は、母ともどもに一本の矢で射殺された。さらに彼は、父親に襲いかかった。そのとき、兜をかぶり楯をもったアテネ女神があらわれた。 ヘラクレスは、アテネに石を投げつけられ、倒れて柱にあたり気をうしなった。老いた父は、彼を大黒柱に頑丈な縄で幾重にもしばりつけた。しばらくたって気がついたヘラクレスは、自分がなにをしたのか、ひとつも覚えていなかった。 「どうして、しばられているのか」と父親に聞いた。 父は正気にもどったのを確認すると、起こった出来事をつげた。 「ゼウスよ。この無慈悲なヘラの行為を、みてはいないのですか」 アムピトリュオンは、天にむかって叫んだ。 「私は、また女王の憎しみをうけたのでしょうか」とヘラクレスはいった。 「最愛の者たちを、自分の手で殺してしまったのか。なんとヘラは、むごいことをするのだろうか。もう、とても生きてはいられない」 ヘラクレスは、慟哭した。 そこに、手勢をつれたテセウスがやってきた。 「なにが、あったのだ」 テセウスが聞いたが、だれも、なにも語らなかった。彼は、さがって召し使いに事情をたずねた。 「ヘラクレス。アテナイにいこう。テバイにはいられないが、そこなら、私が住むのを許すことができる。英雄には、死に方がある。ここで自刃するのは、英傑ではない。あなたには、もっと相応しい死に場所があるはずだ」 ながい沈黙のあとで、ヘラクレスは、テセウスとアテナイにむかった。アテナイ市には、彼にささげられた直轄地が設けられていたので、そこに住んだ。三ヵ月して、平静さを幾分取りもどしたヘラクレスは、ケルベロスをミュケナイにつれていき、一二の難行を達成した。 いっぽう、テセウスが冥府で忘却の椅子にすわっているあいだに、アテナイでは、ペテオスの息子でエレクテウスの曾孫にあたるメネステウスが、アッティカの王位を簒奪した。彼を独裁者として批判し、改革によって不利益をうけていたの有力者たちをいいくるめた。すべての人をひとつの都市に集中させると、地方を直接支配する部族長や貴族の権限が希薄になり、彼らは不満をもっていた。民衆にたいしても、テセウスの言葉は嘘で、結局は以前通りの二重支配をうけていると、政策を批判した。 メネステウスが、こうした策動をしているとき、ヘレナの父、テュンダレオスの子供たち、ディオスクロイといわれる双子、カストルとポリュデウケスが、スパルタの大軍をひきいてアテナイに侵入してきた。彼女を掠奪したのは、テセウスだった。彼は、この騒動を好機と捕らえた。 「テセウスは、一二歳の子供を妻にしようと誘拐したのだ。それで、スパルタの英雄がアテナイを攻撃するのだ」 メネステウスは、さかんに宣伝するいっぽう、ディオスクロイはテセウスが独裁的に支配するアテナイ市の解放者だと民衆を説きふせ、市内にむかい入れた。彼らも、妹の返還を希望しただけで、戦争を起こす気はなかった。しかし、アテナイの人びとが彼女の居所は知らないというと、テセウスを庇っていると考え、力にうったえてきた。 アテナイ人のアカデモスは、ヘレナがアフィドナイに隠れていることをつたえた。彼らは、彼女の解放をもとめて戦い、その地を破壊した。ヘレナをみつけだし、テセウスの母、アイトラを捕虜としてつれ去った。メネステウスが彼らの戦争を支持して融和をはかったので、アテナイはそれ以上の被害にあわなかった。 テセウスがテバイからアテナイ市に帰ると、直轄地のテセイアが、四カ所をのぞいてヘラクレスにささげられるヘラクレイアに、承諾もなく勝手に変更されているのを知った。以前の通りに国政を統べようとすると、はげしい抵抗に遭遇した。町を去るときに敵意をもっていた者たちが、「テセウスが施行した、民主制とは名ばかりだ。自分の都合にあわせて市民を扇動してきたし、いい年になっても、まだ娘の掠奪をつづけている」と今度は、侮りの気持ちまで抱いて、ひどく感情が悪くなっているのに気がついた。民主制もなくなり、メネステウスが思いのままに民衆をあおっているのをみた。 「テセウスは、そもそも冥界にまでいったのだ。そこから帰ってきた者が、おなじポリスの一員であるなどと、どうして、いえるのだろうか」 メネステウスは、彼を批判していった。 なんとかもとに、もどそうとつとめたが、いったん、うごきだしたながれをとめることができず、民衆はテセウスを軽蔑していた。なにもかも思い通りにいかなくなり、カサンドラをたずねて彼女の意見を聞きたいと思った。デルフィニオンのアポロン神殿にいってみると、ちょうど神官たちが葬儀をしていた。カサンドラの死を知り、彼はすべてを覚悟した。 テセウスは、アテナイをあきらめ、ふたりの子供、アカマスとデモポンを、ひそかにエウボイアに住むカルコドンの息子、エレフェノルのもとにおくった。彼は、ガルゲットスのアラテリオンで、自分がつくりあげた都市の人びとにたいして呪いをかけた。 「この街は、呪われるがいい。いつの日か、飛んでもない強国が、アテナイを蹂躙するだろう。そのときに戦う人びとは、私が街をつくりあげたのを思いだすだろう。かずかずの困難にうち勝って、アテナイを、クレタのクノッソスをこえる世界だいいちの都市にしたことを思い起こすだろう。そして、私がいないのを悲しむに違いない。こんな形で最大の功労者を追いやったことを、すべての者が悔いあらためないかぎり、そのとき、この街はほろびてしまうだろう」 ある晴れた朝、テセウスは小舟にのって、スキュロス島にむけてファレロンの港を出帆した。どこまでも青くて高い空から、きらきらと輝く、白い光線が一面にふり注いでいた。それは、周囲を芳しい香りで満たしながら漂っていた。振りかえると、アクロポリスがくっきりと浮かんでみえた。スパルタにつれていかれた母、アイトラをすくいだせない自分を情けなく思った。 「なぜ、こんなことが起こったのだろう」 テセウスは、経緯を考えはじめた。そもそもの原因となった、ヘレナの端整な横顔が脳裏に浮かんだ。彼女の美しさは、この世の者とは思えない、どこか淫靡で湿ったものだった。 アリアドネは、違っていた。彼女は、エーゲの海を満たす鮮烈な「光」そのもので、白くて、すがすがしく乾いていた。会うことはできなかったが、冥界の女王、ペルセポネもきっとかぎりなく清浄で、アリアドネとおなじ雰囲気をもっていたに違いなかった。 掠奪したとき、ネメシスの娘、ヘレナは、アルテミス・オルティアの神殿で踊っていた。優美な舞姫である彼女は、ある意味、聖娼でもあったのではないか。ヘレナがいた神殿の名は、呪い殺してしまった愛息、ヒッポリュトスを思い起こさずにはいられなかった。 アルテミスは、スパルタの守護神であり、冥界の糸杉は女神の象徴のひとつだった。そもそもオルティアとは、ゲリュオンの番犬、オルトスをさし、ヘラクレスがはこびだしたケルベロスの兄弟にあたる。だから神殿は、間違いなく三叉路に立てられていたのだった。オルトスとは、「立つ」を意味する言葉だから、まさにあの祭殿には、アルテミスが臨在していたに違いなかった。つまり、女神の目のまえで、舞姫を掠奪したのだろう。 テセウスの父、アイゲウスは、スキュロス王、スキュリスの息子だったので、スキュロス島には領地が残っていた。彼は、そのとき、島を統治するリュコメデス王のところにおもむき、「父親の所領をかえして欲しい」と申しでた。 スキュロス島にいったことを知ったメネステウスは、リュコメデスにテセウスの殺害を依頼した。彼が生きているかぎり、簒奪者は安心できなかった。アテナイで人気をうしなったのを充分に知っていたリュコメデスも、力のあるテセウスが自分に取って代わるかも知れないと心配した。 「あなたの父上の所領を、おみせしましょう」 そういうと、リュコメデスは、部下をひとりつれてテセウスに領地を案内した。断崖のある場所までくると、領土をみせる振りをして彼をつき落とそうと考えていた。 テセウスが崖に立つと、碧いエーゲ海がみえた。そのとき、アイゲウスがアクロポリスの断崖から落ちて死んだことを思いだし、彼は不意にしゃがみこんだ。うずくまった背中を、だれかが猛烈な勢いで通りすぎ、兵士が絶叫をあげながら崖から落下するのがみえた。振りかえると顔面を蒼白にしたリュコメデスが、おもむろに剣をぬいた。 「そうか、おまえに取っても邪魔なわけだな。どうあっても、殺したいのか」 「いや、そうではないが。とはいえ、私は、剣をもっている。あなたは、圧倒的に不利だと思う」 「ポセイドンは、私に三つの願いをかなえてくれると約束した。ひとつ目に、おろかな望みをし、それをずっと悔やんできた。でも、ポセイドンよ。いままた、ひとつの願いをかなえて欲しい。リュコメデスよ。領土をうばうつもりなど考えてもいなかったが、それほど迷惑ならば、この島から去ってもいい。ただ、ここから飛びおりろというのなら、おまえと戦おう。勝てはしなくとも、抱いていっしょに落ちることはできる。でも、そうした死に方は望んでいない。アイゲウスは、崖から落ちて死んだ。どうせなら、私は、父の名がつく、このエーゲの海で消えていきたいのだ。その願いを、かなえるつもりはないか」 テセウスは、聞いた。 「その希望を、かなえてもよい」 リュコメデスは、いった。 夕方になって、一艘の小さな帆船が用意された。乗組員は、テセウスひとりだった。彼が帆を高くあげると、船は風を捕らえて、エーゲの海にむかって出帆した。 リュコメデスは、その様子をじっとみていた。 やがて夕陽が、海に消えていった。黄昏が早足ですぎるころ、凪になって、船は当て処もなく大海に漂っていた。 甲板に寝ころんだテセウスは、「おれは、ついにアイゲウスの最後の領土までうしなったのだ」と思った。 「アリアドネは、コインの裏だったのだ。表に、あかるく快活なパイドラがいつもいて、神々しいクレタのつよい光をさえぎったのだ。だから影になり、ディオニュソスに愛されたのだ。そして、私は、彼女のなかにまよいこんだ。アリアドネ。おまえが、私のラビリンスだった」 彼は立ちあがり、月のない晴れた夜空を埋めつくす満天の銀河にむかって両手をさしのべ、大声で叫んだ。 「ポセイドンよ。最後の願いを聞いてくれ。アリアドネに、もう一度会わせて欲しい」 「夜の航海」をぬけて 月がでていない深夜だった。雲ひとつない、よく晴れた夜空を埋めつくす満天の銀河は、こい密集した部分と、うすいまばらな領域に分かれながら、それぞれが輝いていた。ながれ星がいくつもみえ、小舟は穏やかな波に揺れていた。まるで、母体のなかを漂う胎児だった。無数の星の光に照らされた波はきらきらと煌めき輝いて、割れたガラスの破片となり、鏡に変わり、数多の過去の情景をうつしだしていた。 「なぜポセイドンは、三つの願いをあたえてくれたのだろう。ラビリンスをぬけなければならないという残酷な使命を知って、海神は、どうして、あわれんだのだろう」 そのとき、テセウスは、はじめて気がついた。 「そうか。父、アイガウスは、じつは、ポセイドンだったのだ」 なぜ、アイトラがいつでもやさしかったのか。ながいあいだの疑問が解けていった。 「私をうみ、育ててくれたアイトラとは、アテナイであり、アテネ女神、その人だったに違いない。街を創始するときに競いあった、アテネとポセイドンが、ここを世界でいちばんの都市にするために、今度は手をたずさえたのだ。私は、二神の望みをかなえる目的でうまれ、その使命をよく果たしたのだ。つまり、クレタを倒す、ミノス王家をほろぼす道具だったのだ。使命が成就されたのだから、私に、もうなにも残っていないのは当然で、仕方がないことなのだ。いまや完全な用ずみで、残りカスなのだから」 そこまで思いいたって、テセウスはふかい溜め息をついた。 となりにすわる、アリアドネが甘く囁いた。 「いろいろなことがあったわね。すべてが昨日の事件みたいに鮮明で、生き生きと輝いている。ご覧なさい、テセウス。舟のまわりにちらばる、この割れた鏡には、そのときの熱い思いが、ひとつひとつが眩めきながら映っている」 「そうではない、アリアドネ。このガラスの破片のひとつひとつは、割れた心で、粉々になって砕けてしまった私の思いだ」 ながれ星が天空を駆けぬけて、もえつき、消えていくのを目で追いながら、テセウスはいった。 「クレタで、死ねばよかったのだ。私は、なにも知らなかったのだ。あなたを愛してしまうのを。そして、熱愛した貴女を、置き去りにしなければならなかったことを。私は、知らなかったのだ」 「それは、神もおなじです。テセウス。分からないから、だから生きる価値があるのです。ゼウスが、約束してくれた。ディオニュソスも、そうして欲しいと望んでいる。この世で、私たちは、もう一度、出会う。そこで今度こそ、いっしょになって生きることができるのです。だから、むこうの岸には、私たちの素晴らしい未来が待っているのです」 凪いだ海がくりかえす微かな潮騒につつまれて、船は小さく上下に揺れながら漂っていた。テセウスは上体を起こして、天の川が映える満天の銀河が輝くなかで、となりにすわるアリアドネをみた。 編みこんだ黒くてながい髪に、碧色の瞳のやさしい目、高い鼻が素敵なあなたは、塔の下で再会したときと、何ひとつ変わっていなかった。 「ディオニュソスも、それを望んでいるのか」 「そうです、テセウス。私たちは、彼の涙から、うまれてきたのです」 アリアドネの姿は、どこまでも神々しく、その瞳はすみ、暗いラビリンスをぬけてくるテセウスを、やさしくみつめていた。 「分かった。アリアドネ。昔、君がいっていたのを思いだす。太陽は、西にしずんで、小舟にのって、真っ暗な闇のなかを、ひと晩かけて東にすすんでいく。それは、明日またのぼるためだと」 波間に漂う船は、やがて、砂浜にのりあげた。 「君と、また、この世界で会うことができるのだね」 「そうよ。私たちは、祝福されている。東京で、会いましょう」 「分かった、それなら、ぼくは君を待とう」 私は、そういい、船をおりた。 アリアドネ、(三九八枚)、了、 参考文献、 一、テセウス伝、プルタルコス著。太田秀通訳、世界古典文学全集23、筑摩書房。 二、テセウス伝説の謎、太田秀通著。岩波書店。 三、スパルタとアテネ、太田秀通著。岩波新書。 四、ポリスの市民生活、太田秀通著。河出書房新社。 五、ギリシア案内記、パウサニアス著。馬場恵二訳、岩波文庫。 六、ギリシア悲劇Ⅲ、エウリピデス著。ちくま文庫。 七、ギリシア悲劇Ⅳ、エウリピデス著。ちくま文庫。 八、世界美術大全集、三、エーゲ海とギリシアアルカイック。小学館。 九、世界美術大全集、四、ギリシアクラシックとヘレニズム。小学館。 一〇、世界美術大全集、二〇四、世紀末と象徴主義。小学館。 一一、ギリシアの神話、神々の時代、カール・ケレーニー著。植田兼義訳、中公文庫。 一二、ギリシアの神話、英雄の時代、カール・ケレーニー著。植田兼義訳、中公文庫。 一三、迷宮と神話、カール・ケレーニー著。種村季弘、藤川芳朗訳、弘文堂。 一四、ディオニューソス、カール・ケレーニー著。岡田素之訳、白水社。 一五、神話と宗教、W・F・オットー著。辻村誠二訳、筑摩叢書。 一六、ディオニューソス、W・F・オットー著。西澤龍生訳、論創社。 一七、ギリシア思想の起源、J・P・ヴェルナン著。吉田敦彦訳、みすず書房。 一八、ギリシア人の神話と宗教、J・P・ヴェルナン著。国文社。 一九、ディオニューソス、アンリ・ジャンメール著。言叢社。 二〇、ギリシア人と非理性、E・R・ドッズ著。みすず書房。 二一、ギリシア神話、呉茂一著。新潮文庫。 二二、変身物語、オウィディウス著。中村善也訳、岩波文庫。 二三、ギリシア神話、アポロドロス著。高津春繁訳、岩波文庫。 二四、ギリシア・ローマ神話、ブルフィンチ著。野上弥生子訳、岩波文庫。 二五、悲劇の誕生、ニーチェ著。塩屋竹男訳、ちくま学芸文庫、巻二。 二六、ニーチェ書簡集、詩集、ニーチェ著。中島美生訳、ちくま学芸文庫、別巻二。 二七、変容の象徴、ユング著。野村美紀子訳、ちくま学芸文庫。 二八、心理学と宗教(ユング・コレクション3)、ユング著。村本詳司訳、人文書院。 二九、世界宗教史、Ⅰ~Ⅲ、エリアーデ著。ちくま学芸文庫。 三〇、聖娼、N・クォールズコルベット著。日本評論社。 三一、ギリシア・ローマ神話事典、マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル共著。大修館書店。 三二、ミュケーナイ世界、チャドウィック著。安村典子訳、みすず書房。 三三、ディオニュソス、マルセル・ドゥティエンヌ著。法政大学出版局。 三四、ギリシア神話の本質、G・S・カーク著。法政大学出版局。 三五、古代クレタ文明、ハンス・パルス著。佑学社。 三六、迷宮に死者は住む、ヴンダーリヒ著。新潮社。 三七、古代の密儀、マンリー・p・ホール著。象徴哲学大系1、人文書院。