アス 由布木 秀 一、青い意識 私は、集合の時間まで房(ぼう)ですごすことができなかった。 扉をあけて外にでると、雲がかかった空には月もみえなかった。暗い回廊は静かで、物陰ひとつなかった。身を地に伏せると、広場をはさんで南の楼門がみえた。煉瓦づくりの赤茶けた南門は、闇のなかでまぎれていた。上部のあかりをあびて、グレーの制服と帽子をかぶった複数の衛兵が銃剣をたずさえて入り口の左右に立っているのがみえた。 二〇メートルほどもある堂々とした楼門は、見張りの塔になっていた。そこにも、おなじ色の制服をきた兵士がつめているのが分かった。入り口には扉がなかったから、舗装された道が一直線に王宮につづいていた。 ライトアップされた宮殿は、闇のなかに浮かんでいた。 白亜の御殿は、美しい曲線を描き、この世のものとは思えない佇まいで宙にただよっていた。闇夜のなかで白く光ってみえるのは、ほそくなった殿舎の上部だった。砂時計の形をした宮殿は、ウエスト部分が蜂の腰になってくびれ、うえはひろがり、天空とつながっていた。基部は、闇にまぎれて不明瞭だったが、おなじように曲線を描きながら膨らみ、白亜の大理石でつくられた正方形の台座にのっていた。楼門からつづく道と各辺が直角になる四角い土台は、たかさが二〇メートル、幅が二キロもあった。その中央部にまるい宮城が、砂漏の形でそびえていた。台座の四隅におなじ白亜の大理石からできた塔が立っていた。荘厳な雰囲気を周囲にただよわせ、圧倒的な迫力で闇のなかに浮かんでいた。 王宮につづく四本の道は、それぞれが楼門とつながっていた。 私の房の正面は南門だが、北側にも煉瓦づくりの二階になった門が立てられていた。そこからは、王宮はおなじ形にみえるに違いなかった。 正門とよばれる西門は、南門よりはるかに大きな楼門が立っていた。三〇メートルほどのたかさで、入り口もずっと大きい。左右の物見の塔も見栄えがし、右がわは軍事パレードのとき王が謁見する場所にもなるので、一段とたかくつくられていた。 西正門から王宮につづく通路は、中央に豊かな水をたたえる泉水がもうけられ、適度な間隔をあけて、ライトアップされた噴水が白い飛沫を中空にあげていた。その両がわにアンツーカーでつくられた赤褐色の道がのび、さらに周囲は樹木によって占められていた。 各楼門のあいだはたかい灰色の石塀がつらなり、王宮への侵入をふせいでいた。塀には間隔をあけて常夜灯がつき、最上部には電気鉄線が張られていた。 南門から王宮へつづく幅が四メートルほどの赤褐色の道は、楼門のあかりがあたる入り口の部分だけがみえた。内がわは小さい広場になり、兵の宿舎があり、軍用ジープがおかれていた。ライトアップされた緋色の軍旗が、弱い風に棚引いていた。そのさきは、ところどころに小さな灯火がみえ、道が真っ直ぐにのびているのが分かった。周囲は、ひくい樹木がうえられ、すこしはなれた場所には高木も茂っていた。遠くに、真っ白な王宮が暗い夜空に輝いていた。 あそこへ、いかねばならないのだ。そこがうまれが故郷であり、かけがえのない思い出がつまっているのだから。私と王は、コインの表裏なのだ。同時に、表がわになることはない。王を、裏にしなくてはならなかった。私自身が、表にもどるために。 私は、立ちあがり房に帰った。青いローブをぬぎ、青色の長ズボンとシャツをきて、青の防弾チョッキに袖を通した。碧色の柄に金が縁取られ、翡翠が象眼されたサーベルを腰につけ、碧いハットをかぶると、私は房をでて裏門にむかった。 集合場所に指定された空色房の扉まえにいくと、緑はもうきていた。 背のひくい、チビの彼は、緑色の軍帽をかぶり、腰に拳銃をさげていた。肩に拡声器をもち、マイクを緑がかったシャツのポケットに入れていた。周囲を、冷たい風がふいているのを感じた。眉間に二本のふかい縦縞を入れた緑は、緊張した面持ちで、私をみると意味深にうなずいた。 東の楼門は、正門ほどではないが南門より大きかった。東門は裏門とよばれ、構造はおなじだったが、警備は南や北より厳重だった。物見の塔も南門よりたかく、兵士も多く配備されていた。右塔から広場を監視するサーチライトが、不審者をみつけだそうと左右に規則的に揺れうごいていた。なぜ南門ではなく、裏門からの突破を緑が提案したのか、私には分からなかった。 ふと気づくと、硝煙の臭いがした。 赤い兵士の制帽をかぶった赤が、機関銃をかかえてやってきた。大柄な彼は、予備の弾倉を両肩から斜めにかけていた。赤い枠の眼鏡をつけ、見栄えのする顎髭を生やしていた。赤は、私をみると不敵な面構えで、にやりと笑った。場慣れした感じだった。それをみて、私は生唾を呑みこんだ。 旋風(つむじかぜ)がふいて、気がつくと黄色がいた。 彼女は、黄色いズボンとシャツをきて、多数の手榴弾を腰からぶら下げていた。同色の軍帽をかぶった黄色は、あきらかに緊張し、頬は淡黄色に染まっていた。 生暖かい風がふき、気がつくと、となりに黒がいた。 背のたかい彼は、真っ黒な無精髭をのばしていた。黒い軍帽をかぶり、目立ちそうな漆黒の上下を着用し、黒光りするバズーカ砲を肩にさげていた。さきにきていた四人を冷徹な表情でみつめ、緑をみた。 「これで、全員がそろった。空色、オレンジ、紫はこない。作戦を話す。私が先頭に立つ。ここから真っ直ぐに、サーチライトが照らしだす場所まで匍匐し、そこで光を避けて、ひとりずつ内がわに入る。全員が探照灯の内部に入りこんだら、匍匐前進し、入り口までちかよる。手ごろな距離になったら、私が飛びこんで衛兵を殺す。楼門の番兵をすべて殺害し、兵士宿舎を制圧し、ジープにのって王宮にむかう。親衛隊を殺し、王の執務室を占拠する。帝王が抵抗すれば、殺害する。無抵抗ならば、捕らえて人民裁判にかける。質問はないか」と彼は小声でいった。 私は、緑をみてうなずいた。だれも、なにもしゃべらなかった。 緑が先頭になって、サーチライトのちかくまで匍匐した。光が通りすぎるのを待ち、全員が内がわに移動した。そこから東門まで、匍匐前進した。楼門の入り口に、衛兵が待機しているのがみえた。緑が振りかえり、「いくぞ」といった。 そのとき、黒がバズーカをはなった。右の物見塔が吹き飛んだ。 緑は、東門入り口の衛兵を殺害した。 ふたたびバズーカ砲の大音響がして、左がわの物見の塔もくずれた。衛兵が吹き飛び、硝煙の臭いが立ちこめた。熱風がまうなか、赤が機関銃を乱射しながら、つっこんでいった。左手に拡声器をかかえた緑が、「抵抗はやめて、降伏せよ。武器をすて、両手をあげて、でてきなさい」と声を張りあげながらつづいた。 「やったわ」。「できたわ」 黄色が、ヒステリックな甲高い声でいった。 その後ろを青い服をきた私が、サーベルを右手にもってすすんでいった。 最後に、無造作にバズーカを肩にかけた黒が、シニカルな表情でついてくるのが分かった。 ピストルを右手にもった緑が、守備隊にむかって「君たちは、かこまれている。無駄な抵抗はやめて、武器をすて、両手をあげてでてきなさい」と拡声器で大きな声を立てはじめた。 ここまでは作戦通りで、順調だった。指揮をとる緑も、落ちついた声で投降をよびかけていた。 黄色が、とつぜん悲鳴をあげた。 「かこまれている」。「かこっている」。 黄色は、パニックになってさわぎだした。 錯乱した声が聞こえたときには、手遅れだった。どこから出現したのか分からなかったが、銃器で武装した兵士が、突破した裏門を制圧していた。前面からは、装甲車をふくむ機動部隊がぞくぞくとでてきて、さえぎるものひとつない楼門の広場で前後をはばまれ、完全に「袋のネズミ」状態になっていた。 「失敗だ。裏門にもどる。突破する。いくぞ」 赤がいった。 「垂れ込まれていたんだ」 黒の呟きが聞こえた。 今夜の奇襲にたいしては、完全な防衛体制がしかれていた。 とつぜん前方で爆発物が破裂し、王の機動部隊が吹き飛んだ。 そのあとも、つぎつぎと炸裂する爆弾の音がひびいた。しかし最初の爆発以外は、とくべつな被害をあたえていなかった。黄色がパニクって、闇雲に手榴弾をまきちらしていた。大きな爆発音は、それなりの効果があり、節分の豆まきみたいにつぎつぎに投げられる爆発物に、前方の機動部隊は進撃をはばまれていた。 前衛部隊がその音に気をとられていたとき、バズーカが発射され、後方部隊にじんだいな被害がでた。 機関銃を乱射する赤は仁王立ちになって、後方の兵士たちをつぎつぎと撃ちたおし、血路をひらこうとこころみていた。 もうもうとした硝煙のなかで、彼につづいて私も裏門を突破した。 装甲車を破壊した黒は、衛兵たちの集中砲火をあび、目のまえで蜂の巣にされていた。 とても、助けられない状況だった。 私は、裏門をぬけると、振りかえることもしないで一目散に自陣にむかって走った。そのときには、自分でも恥ずかしいくらいに恐ろしかった。理由は具体的にはいえないが、脳裏が真っ白で、恐怖に支配されながら逃げまわり、私の房に辿りついた。なかに入りこむと扉をしっかりとしめて、膝をかかえて震えていたのだった。 黒のほかにも何人かが死んで、作戦が失敗したのはあきらかだった。 扉の外では銃声がひびきわたり、一晩中、爆発音がやむことなくつづいていた。だれかがのこって戦っているのだろうが、戦闘に参加する勇気は、まったくでてこなかった。とても勝てないと感じた。 この話があったときから想定していた、最悪のパターンが現実のものとなった。 参加すべきではなかったと、ひとりで考えていた。扉のちかくでさらに大きな爆発音がして、房全体が幾度もはげしく震動した。いまにも扉口をこじあけて王軍が侵入してくるかと、恐怖に身構えていた。たぶん、皆殺しにされるだろう。そう思って扉をしっかりとしめ、全員で声を押し殺し、じっとだまりこくっていた。扉口がやぶられるのか、房ごと破壊されるのかと考えながら、不安にさいなまれ、一睡もできない夜をすごした。 これが昨夜の事件の全容だった。 今日になると物音は聞こえなくなったが、どういう状況なのか扉をあけて確認する勇気はなかった。 私は、青黒い房のなかで考えていた。 今回は、かなり特殊な作戦だった。 こうした軍事作戦は、これまでもくりかえし実行されていたが、成功した話を聞いたことがなかった。私は、今回はじめて実戦に参加したが、想像以上にリアリティーのある過酷な戦闘だった。目のまえで黒が蜂の巣にされるのをみたときには、足がすくんだ。成功すれば、事態は劇的にかわるはずだった。 こうした事件を起こすのは目的の達成がみこめるからではなく、緑がさかんに主張する通り、反対勢力がいる事実をつねに知らせる必要があった。 王がアスを無視する現実にたいして、存在をアピールせねばならなかった。 今回は、協力して本格的に王権を転覆するまでもたくらんだ大事件だった。これは、早晩、しなければならないとは思っていた。 となりの紫は、「潮時がくるまで待つほうがいい」といっていた。私も、そう考える部分もあったが、待機をつづければ、ほんとうにそうした時期が到来するのだろうか。 緑は、「ただ待っても、そんな潮時は永遠にこない。だから、やるしかない。実行するなら、元気な、いまだ」といっていた。 この主張に一理があるのは、充分に分かった。おそらく正しいのだ。 今回のたくらみは、アピールの範囲をこえていた。だから、王が事前に計画を知っていると分かったときの恐怖は、はげしいものだった。この機会に乗じて反撃され、根こそぎにされることも考えねばならなかった。はじめて王の考え方も、分かった気がしたのだった。ひと晩たつと攻撃はやんだので、日をあらためて再開されるのだろうが、いまはいくらか落ちついたのだった。 今回、これだけ大規模に反勢力が結集し侵攻したので、いくつか判明した事実もあった。第一は、王が思った以上に手強いことだった。 昨晩の作戦は、参加者が多かった点で画期的だった。 いままでの攻撃は、赤が正面の守備隊に機関銃を乱射したり、黄色が広場に手榴弾を四つも五つもばらまいて爆発が起こったりするだけだった。テロによって死傷者がでることがあっても、行為自体は殺害が目的ではなく、抵抗勢力の存在をアピールするのが主眼だった。 もっとも、黒は異質な考えをもっていた。バズーカ砲をつかって、殺戮を目的に西楼門を大々的に破壊したことがあったが、あくまで単独行動だった。 いつのばあいでも緑が陰でうごいていたが、今回はテロリストの説得が成功し、赤と黄色、初参加の私はともあれ、黒まで共同戦線に参加させたのだから、そうとうに頑張ったと評価できた。 「力に訴えても」という気持ちをもつ者、全員が結集した、かつてない戦闘だった。 ここまで組織だった作戦ははじめてだったので、楼門の守備兵を蹴散らし、司令部まで攻めこめるのではないかとも考えていた。実際にまもりの堅い裏正面を派手に突破したときには、帝王の殺害まで可能かと思ったくらいだった。 王を殺したばあい、合議制がはじまるとは考えられなかった。また、たいへんな混乱が生じ、さまざまな悲惨な事件が勃発するに違いなかった。ある程度は覚悟しているが、一度は王権を打倒し、現状をかえることが重要だと思った。だれが王位についても、権力はずっと脆弱化し、状況が流動的に変化し、私個人の発言力は増すに違いなかった。ひとりひとりの意見をある程度、うけいれざるをえない、あたらしい体制がうまれるだろう。 アスが王になりたいと考えているのは、間違いない。冷静をよそおうペダンチックな紫でさえ、心のなかでは房からでて司令官に変身したいと思っているはずだ。あんなのが王についたら、秩序はどうなるのだろうか。個人的にはかまわない気がするが、黒や赤や緑はだまっていないから、あの連中を殺さないかぎり不可能に違いなかった。 客観的にみても、昨晩の作戦に参加しなかった者たちは王になる資格はないと思った。だから私は、はじめてだったが参戦したのだった。 いつも涙をためて、なにか要求がある感じで、じっとみつめるしかできない、空色に命令されるなんて考えられなかった。不謹慎なオレンジがいすわることにでもなれば、秩序そのものが存在しない。 私は、かならずしも規律が重要だと考えるわけではないが、彼らが王につくのは極端すぎると思った。本人たちも、ある程度は分かって、そういう気持ちはもっていないのではないか。 今回、緑は合議があった事実を示すために、空色やオレンジ、紫までの全員に声をかけたのだから、ずいぶんやる気をだしたのだった。いまは、それがよかったのかどうかが問われるわけだった。たぶんアスは、おなじことを考えているに違いなかった。 裏切り者がいたのだ。 事前に機密がもれていたから、王は奇襲にたいする万全なそなえができ、昨日の失敗につながったのだ。王権の反撃がこれで終了するなら、今度はだれが密告したのか、徹底的にしらべることになるのだろう。緑を中心にしてはじめるのだろうが、テロリストは生きのびたのだろうか。黒は、目のまえで蜂の巣にされたから死んだに違いなかった。あれだけ銃撃されて、私自身が生きているのも不思議なくらいで、さらに死亡者がでたのだろうか。時間がたたないと分からないことだった。 私は、ひとりで密告者がだれだったかと考えていた。 あやしいのは計画に不参加だった者で、オレンジなんかは、いちばんだろう。 アスが彼に好意的でないのは、彼自身が充分に知っていた。オレンジは、王から完全にはみすてられていないと思える節があり、もとからスパイだった可能性も否定できなかった。しかし、あんなへらへらした奴が、そんな根性をもっているのだろうか。こうした事態になれば、まっさきに疑われるに決まっているし、王が性欲家をじきじきにまもることなどありえないので、密告にはハードルがたかいが、あやしいのは間違いがなかった。どこから考えても、いちばん疑わしいのはオレンジだった。 つぎにあやしいのは、紫だろう。 あいつは、いつでもうえから目線で偉そうなことをいうから嫌われていた。陰気で分別くさいが、密告までするだろうか。そうした行為が、ただですまされないことだけは、充分に知っているのではないか。 その点、空色は、なにを考えるのか分からなかった。 脅かされれば、なんでもするに違いなかった。不合理なことをしでかすという点では、オレンジとおなじで、あやしくないとは決していえなかった。それほどの勇気が、あるのだろうか。恫喝すれば、白状するだろうが、自白しても恐怖からいうだけで、真実かどうかは分からないだろう。あんなものが、この八房の一隅をしめること自体が不思議でならなかった。 攻撃がこれで終了し、房が存続できれば、生き残った者があつまって、今回の失敗について話しあうだろう。緑が仕切りだして、密告者が分かれば処罰を提案するのだろう。制裁となると、房ごと破壊するのだろうか。房はのこして、内部の者を全員殺害するのだろうか。緑は、なにかを提案するに違いない。アスが神経質になるのは、想像できた。 私はひとりで、考えつづけていた。 参加者にたいしても、全幅の信頼をおいていたわけではなかった。生き残った者はあやしかった。 黄色は、手榴弾をいくつも投げるが、かならずしも敵をたおすことを目的とするわけではなかった。いつでも最初に、わめいてさわぐだけで、今回も裏門を突破したときの燥(はしや)ぎかたは尋常でなかった。あの甲高い声が、合図だったとも考えられた。あいつは信号をおくって、こちらの行動を相手に知らせただけではなかったか。爆弾があたった敵がぐうぜんに死ぬことはあっても、ヒステリーの意図はべつだとも考えられた。黄色は、生きのびたと思うが、そうであればあやしい。 赤は、どうか。 戦闘家は、いちばん攻撃的で、つねに先頭で戦っていた。最前線で王軍の反攻にまず遭遇し、突破できないことが分かると踵をかえし、すぐに裏門にむかった。赤が、いちばん衛兵を殺したに違いなかった。相手からすれば、戦闘家の機関銃をとめなくては被害が拡大するわけだから、最初にねらわれてもいいはずだった。赤が生きているのは、おかしい。生きのびたなら、戦闘家はそうとうにあやしい。なにかしらの了解があって、ねらわれないことになっていたのだろう。 緑があやしいのは、間違いがなかった。 テロリストほど、信頼という言葉から縁遠い者はいない。あやしいという点ではチャンピオンで、人を巻きこむことしか考えていなかった。今回も拡声器をつかってわめいていたが、あんなに大声をだせば相手に知らせたのとおなじだった。緑は、なんでも提案し、口が達者で、ああだ、こうだ、といいくるめられてしまうことが多かった。テロリストが王と結託すれば、房の連中を自動的に始末できるのだろう。そのあとで、参謀としてもどる密約をした可能性はありうる。緑があやしくないとは、決していえなかった。 黒は、死んだに違いなかった。 戦死したからといって、無罪放免になるとは考えられなかった。アナキストは、行動は派手だが、冷徹で適確な攻撃をしていた。しかし、考えは支離滅裂でおかしいから、事前に密告し、それで侵攻し、さらに反撃をうけて殺されても不思議とは思えないくらい変だった。一般常識が欠如し、普通とかとうぜんとか、こうした思いこみは、あてはまらないと考えるほうが正しいだろう。死んだからといって、黒が密告者だという疑惑は晴れないだろう。あいつなら、そうした行動もありうると思えるほど、得体が知れなかった。 考えていくと、自分自身についてもいくらかは検討する必要があるだろう。 私は、密告していないが、自分だから絶対ないと分かることで、ほかの者がどう思うかはべつだろう。はじめて参加した計画が失敗したのは、なんとなく縁起が悪かった。私が参戦したから不成功だったと、考える者もでてくるかも知れない。論理が飛躍して、不首尾にみちびいたと曲解されるだろうか。緑なんかは、そう思えばとことん主張するに違いなかった。武器がサーベルだったのも、殺傷能力はあきらかに劣り、あやしいといわれるのだろうか。やる気があるなら、もっと攻撃的な銃器をもつべきだと咎められたら、どう弁明するべきだろう。私は、王との一対一の戦いを考えたわけで、サーベルで奴の心臓を一突きにし、賛辞をえる空想にふけっていた。現実的な赤からみれば、理解できないのだろう。私は、すでに疑われているのかも知れなかった。はやくに裏切り者が判明しないと、密告者だといわれる可能性があった。 そこまで考えると、たいへんなことになったと思った。 房の扉をあけると、幅が四、五〇メートルのひろい道が回廊状に王宮をとりまいていた。 回廊も私自身のものだから、基本的には自由にうごける場所で、扉口の正面には宮殿の南門がある。そこには銃をもったふたりの衛兵が守備し、王宮だって私の所有物なのに入るのを阻止していた。自由に歩けるはずの回廊でさえ、日中は警備兵に制限されることもある。不愉快だがいちいち争っても疲れるだけなので、昼間は通りにでるだけで我慢していた。夜間に入ると、衛兵は楼門の守備につき、回廊の警備は手薄になる。そこで黒や紫に出会うわけだが、とくに挨拶をする間柄ではない。 アスは、総勢で八人いた。 とくに仲がいいわけではないが、同僚というか似た境遇の者たちだった。そういう意味あいからは、おなじ王ともいえるのだろう。彼らも、自分の房室をもっていた。なかに入ったことはないから確実ではないが、私の房とおなじ構造だろうと推察できた。 不愉快だが、彼らはアスだった。 話しあって確認したわけではないが、私自身なのは間違いないだろう。ほかの者もおなじで、私を彼らの一部だと考えていた。たがいに不満だったが、現実は仕方がないので協力したり反発したりしているのだ。 房は、王宮をとりまいて存在していた。たとえるなら、胎蔵界曼荼羅の中央の図にちかい。中心に王宮があり、八葉が各房になって存在していた。私は南にいて、まえは殿舎の南正門だから、由緒正しき房であり、格もいちばんたかいはずだった。こうした房室が八個、宮殿をとりまいていた。 私の左がわ、つまり西がわは黒が住んでいた。彼は、昨晩の戦闘で集中砲火をあび、目のまえで殺された。 右の房には、紫が暮らしていた。学者はへんくつで、戦闘にも参加しなかったし、いつでも偉そうな、なんでも分かった口ぶりで話すので嫌われていた。 私の房から時計まわりに、黒と緑が住んでいた。つぎにオレンジ、黄色、赤、空色、ふたたび紫になって、私自身がいるわけだ。 この色はとくに名称ではなく、アスは個別に名前をよびあうことはなかった。 「あいつ」といえば、八人のだれをさしているのか、たがいに了解がついてしまうのだった。不愉快な現実だったが、アスに名前は必要がなく存在していなかった。それでは話ができないので、私が勝手につけた色がこうしたものだった。色彩で分ければ、だれがやってもおなじだろう。正直にいって、これも愉快なことではなかった。 アスのひとりひとりは、個性がつよかった。それ故、王宮から追放されたのだ。 私も、また退去させられたのだ。私自身は、房で王として振るまうこともできるし、もともと住んでいたから、原理的には王宮にもいけるはずだった。 私以外の者は、性格が極端で、みているだけでいやな気持ちになった。会話はもちろん協力などもってのほかだが、無理をしていっしょに行動するばあいも起こる。 こうした状況で徒党をくんだのだから、紫にいわせれば「あせっている」という表現がつかわれるのも一理あるのだろう。いまのままではまずいと思ったので、合同で作戦を立てたのだ。それで反撃にあい、再度、状況を確認したともいえた。 私は、勝手に想像していた。勝手気ままとはいっても、かなり正しいと確信する。懇意に話しあったことはないが、充分に理解している連中なのだ。 黒は、秩序をまったく考えていない。破壊衝動だけで生きる無政府主義者だった。 黒についていくと碌なことはなかった。だから、蜂の巣になっても戦っていたのだ。アナキストが殺されたのは仕方がないと、だれでも思うに違いなかった。 となりの緑は、人を巻きこむことしか考えていなかった。どうしようもない奴だった。なににつけても仕切りたがり、主張する性格なのだった。 私は、テロリストとか、扇動家とかよんでいた。なんと緑の房は、西門に位置していたのだ。おだやかにはみられない事実で、王宮西門は「正門」とまでよばれていた。理解ができないし、考えるたびに非常に気分が悪いが、一般には西正面といわれていた。 そのとなりが、オレンジだった。 こいつがアスのひとりだと、考えるだけでもぞっとした。なぜ、こんな者が一員を構成しているのだろうか。こいつだけは、仲間はずれにしたかった。機会があれば殺したいと、だれもが殺意をいだくのもとうぜんだった。みただけで気持ちが悪くなり、なにをするのか考えただけで、嫌悪感がわいてくる。王宮の周囲に房をもち、まるで同格として奴がいることに腹が立ってくる。この事態は、アスがあいつに似た部分があるといわれているのとおなじだからだ。緑は今回、共同戦線の件でオレンジにも声をかけたが、そうとうな覚悟だったのだろう。しかし、もし参加するといったら、この戦闘はみおくられたかも知れなかった。こいつは、性欲家とよばれていた。変質者などという普通の言葉では、表現できないほど気味の悪い奴だった。異常性欲者とか、性的異常者という語彙は、まるで性的以外の部分では正常というひびきがあって、誤解を秘めていた。ぐうぜん目があうと、そばへよってきて身体に触れようとする。男にたいしても、女にたいしてもおなじように振るまう。だまっていると、その行為はどんどんエスカレートし、いたるところを触りだす。緑はどうやって、あいつと話をしたのだろうか。きっと、触られつづけたに違いない。無気味なことだった。こいつが自分の房内でなにをしているかと考えると、胸くそが悪くなった。オレンジの房には、性欲家とそっくりな奴がいるのだ。こいつをみるたびに、だれもがおなじことを考えた。奴は、房内でなにをやっているのだろう。王の一部だったのは、間違いがなかった。アスは、奴と幾分か違うから別れているのではないか。あいつには、とくべつな性臭がした。回廊を歩いていても、ふとその臭いを感じ、奴がそこにいたことが分かり、気持ちが悪くなった。王の一部だという一点で、アスとつながっているだけなのだろう。それでも一族だと思えば、気分が悪かった。これ以上、考えるのはやめよう。 そのとなり、北面に位置するのが黄色だった。 これは女で、なぜ一部なのかもはっきりしなかった。王は、男のはずだった。オレンジは性別不明だが、女はもうひとりいた。アスの性比は、男五名、女二名、性別不明一名となっていた。黄色は、すぐパニックに落ち入り、なにをしでかすか見当がつかなかった。あの金切り声を聞くと、ぞっとした。 そのとなりは、赤だった。 なにしろ戦うのが好きで、機関銃を見境なくうちつづけていた。昨晩の戦闘でも、相手に打撃をあたえたという点ではいちばんだろう。いつでも、火薬の臭いがした。思考は、きわめて単純だった。戦うか、争わないか。このふたつの選択しかないが、ほとんどのばあい、戦闘をえらんだ。気がむくと、宮殿にむかって機関銃をぶっぱなしていた。そのために、北門と東門の警備はほかの門よりきびしかった。突破するなら、南門をつかうのが妥当だったが、緑色が守備の裏をついて、チェックの厳重な裏正面から攻撃するのがいいといって譲らなかったので、今回の作戦になった。こう考えると、密告に関しても、緑があやしくないとは決していえなかった。 そのとなりの東門正面には、わけの分からない泣き女がいた。 空色だが、いつでも涙をためて泣いていた。いったい、なんなのだろうか。あの房内では、しじゅう肩を震わせて泣きあっているのだろうか。さっぱり分からないことだった。ただ悲しいらしくて、生きるのもつらいらしいから死んでしまえばいいのに、わざわざ泣きながら暮らしていた。緑が口説いたって、攻撃に参加するはずもなかった。参戦しても、力になんてなりえない。あれがひとつの房を占め、東門の正面だった。どういう理由なのか、私には分からない。東門は、だれが適当なのか不明だが、空色がふさわしくないのは確実だった。 つぎが紫だった。これで、ようやく一周することになる。 紫は、学者とよばれていた。いつも分かった風なことばかり、ずっとしゃべっていた。だれにも理解されないから、論旨は自分でも不明瞭なのだろう。話をはじめると、「それについては、私にも考えがある」といつでも切りだした。紫の思いを聞いても仕方がないのに一席ぶちたがり、くどくどとしつこくつづいて、いつ終わるのか分からなかった。話すだけで、決して行動にはつながらない。今回の戦闘への不参加は予想通りで、あいつが力になるなんて思いもつかなかった。緑が話をしたのは、完全にアリバイづくりだったのだろうが、そうとうに時間がかかったのではないか。それでも話すだけなら、オレンジや空色より、まだ増しだったろう。紫がでてくると、独特の古本の臭いがして、すべてがふるめかしくなった。すぐに、「自制しなければ」などと訓戒をたれたがる。自分が我慢すべきだと、思われていることに気がつかない。空気を読めない点では、圧倒的にいちばんだった。オレンジだって、自分が嫌われているのは理解した。空色だって、避けられることは知っていた。こいつは、自分を分かっていなかった。 アスは、こうした八人のメンバーで構成される不幸な現実があった。各自が、それぞれに房室をもっていた。私の房と似たというより、ほとんど同一だろうと想像していた。 自分のことも、紹介しておこう。 私は、青色で芸術家だと思っていた。ほかの者は夢想家と考えているらしい。人の評価など気にしても仕方がなかった。精神的には、いちばん安定し、分別をもっているから、王にとってかわれるのは、私しかいないに違いなかった。 昨晩の事件が起きてから、一日中、房室にとじこもっていた。 回廊から青色の扉をあけて房に入ると、一〇メートルくらいのひろいホールがつくられ、そのさきに私自身の青い机と長椅子がおかれていた。 私は、広間をはさんで、扉口とむきあう中央にすえられた真っ青な特別席にすわっていた。このテーブルとソファーは、かなり立派だった。今回、予期せぬひどい結果となり、房にたいしてもはげしい攻撃がくわえられた。くりかえし、爆発物が扉に投げつけられた。音響と振動は心を震撼とさせるものだったが、扉口は無傷だった。 「この扉は、とくべつではないのか」と日頃から考えていたが想像以上で、しめてしまえば王でも侵入できなのだろう。 私は、まず扉口の頑丈さに感心し、安堵したのだった。 扉をやぶることはできないし、房も破壊不可能なのだろう。扉口があくかは試していないが、おそらく問題なく作動するに違いない。扉や房がなにからできているのか、残念ながら分からなかった。昨晩の爆発音と揺動から考えれば、分厚い鋼鉄製であったとしても損傷をうけたに違いないから、私の知らない強力な素材がつかわれているはずだ。ひと晩にわたるはげしい攻撃にあって、はじめて扉と房の強固さを確認し、生きていることを実感したのだ。そうした意味からは、今回の参戦は大きな自信につながったといえた。 房室というと僧房などが想像され、おなじ軒で母屋につらなる小部屋だと誤解されそうだ。房は、巨大な王宮をかこむ回廊部分につづいているが、比較してもおどろくほど大きかった。言葉の意味からは、ふかいというほうが適切だろう。王宮よりも広大で、この房にいったいどれほどの奥があるのか、持ち主の私でさえ知らないほどだった。 房室内は、いちように青黒く、青い机とソファーがみわたすかぎりずっとおかれていた。 私のテーブルよりは、小さく粗末なものだが、はるか彼方までつらなっていた。 房は部屋だが、天井に照明はないので青い薄明の空間がつづいていた。全部のテーブルではないが一部に手元灯があり、ところどころにフットライトがついていた。なにもみえない闇ではないが、すべてがぼんやりとし、明瞭ではなかった。たとえれば、大都会の大きな喫茶店だった。地階にあり、さらに深夜営業をしていた。ずっと深夜がつづくいているのが、房室だった。 この房で、私は王であり、唯一の完全者で、完璧者だった。 房内には私以外の者もいて、ごそごそと不可解なうごきをしていた。気味悪いとか、怖いとかの感情はなかった。すべてがみえるわけではないので不明な点はあったが、物騒とか不審とかいう問題にはならなかった。 房にいるのは、どれもが私なのだった。たしかめたわけではないが、間違いないだろう。はっきりいって、いやになるくらい自分が巣くっていた。すこしみただけでも馴染みがある者たちで、未到達、不完全な私がいた。各々が青いテーブルとソファーをもって、すわっていた。他人がみれば無気味かも知れないが、私のことだから「これが事実だ」という認識しかなかった。 歩きまわると、見覚えのある自分に出会った。 子供のころの私はたくさんいた。印象的な場面にでてくる、明確な記憶がある自分だったりした。ほとんどはぼうぜんとすわっているだけだが、なかには私を真似て歩きまわる者もいた。これも、べつに脅威とは感じられなかった。私をみると敬意をはらって、ちゃんとよけるから、危害がくわえられると思ったことはなかった。攻撃能力をもつ者は、房のなかでは私以外にはいなかった。彼らをよくみると、足をひきずったり、手が麻痺したりしていた。歩行は可能だが、どこかしら不完全だった。こうした者は、すくなくとも、五、六名はいた。話しあうことはないから、現在どんな過程にある者たちなのか判然としなかった。私にむかって、成長している途上だったのだろうか。 自分の青色の特別席が、房の中心だったのは間違いなかった。ここからはなれるほど、意味不明の者がいた。辺縁部には、不完全な者たちが存在していた。およそ似ても似つかない者までいたが、あきらかに自分だと、私には分かった。私自身のほんとうに一部分だけで、ほとんど奇形な者たちだった。そうした者が青いソファーにすわるというか、うごけないでうごめいて存在していた。それが自分だとはいえ、薄気味悪く、不快をもよおす者たちだったので、それ以上の奥をしらべる気持ちがうせていた。今回、この房室が想像以上に強固で、自分専用の部分だったと再確認できたので、いままでとは幾分違う愛着がわいてきていた。 房の安全は確認されたが、外にでる状況ではなかった。 私はこのさい、房室を徹底的にしらべてみようと思った。 房内は青黒い世界で、ちかくには自分と馴染みがある者たちが密集していた。すべてが私で、各々が青いテーブルと椅子をもって席にすわっていた。似た自分が、よろよろとしながら何人も徘徊していた。どれもみたことがあるが、だからといって気があうわけでもなかった。昔からひとりだと思っていたが、現実にこれだけたくさんの自分がいるとなると、原点から考えなおさねばならないとあらためて感じた。そのなかでいちばん自分自身らしいのが、私なのだと思いなおし、勇気を振りしぼってさらに奥にすすんでみた。 闇雲に進行しても成果はないだろうと考え、方向を決め、黒房がある西にむかって歩いた。いずれ房の境の壁にぶつかるに違いないと思って奥にすすんでいくと、しだいに馴染みをもたない青色の席がちらばっていた。さらにさきには、私になれなかった自分自身というか、形のはっきりしない奇形状態のものがいて、みたこともない形状になっていた。それでも、それが自分であるのは分かった。まだまだ席はつづき、ぼんやりとひろがっているが、しだいにおぞましく思え、それ以上すすむ気がなくなってきた。たぶん、もう形がない者にまで青い座席があたえられ、存在しているのではないか。私という限界がどこまでなのかたしかめてもかまわなかったが、すでに理解できない状態になっていた。このさきが自分かどうかは、かなり主観的な問題だったし、みて気持ちのいいものではなかった。まだまだすすむ余地はあったが、こちらはこうした形がずっとつづいていると考え、方向をかえることにした。だいたいが青黒くて分からなくなったら、自分の席にもどれるかも定かでないほど漠然とひろかった。自分自身というのは、思った以上に果てしもないものなのだ。だからすべてを理解するなんて、できるとはとても思えなかった。これが八葉の房にそれぞれひろがっているのなら、個人という者は、かなり空闊と思わざるをえなかった。自分自身でも、自分について満足に理解できないのだから、相手のことが分かるなんて、ありえないのだ。 今度は、紫房の方角にすすんでみたが、奥はおなじ状態だった。 もうすっかり不明で、いったん迷ったら、自分の房だから方向感覚はあるとか、ある程度は分かるはずだとか、いってもいられないほどだった。ほんとうにもどってこられないと心配になるくらい蕩然として、言葉をうしなった。なんだか分からないが、限界もなく茫洋としていた。果てが存在するのかさえ不明といってもいいくらいで、これよりさきにすすむことに意義があるとはとても思えなかった。だからいままで、これ以上探求してこなかったのだ。思いかえせば、何度か奥の状態を確認したいと思ったのだが、やるとこうした状況で、どうにも表現の仕方がないほど、自分が普通でない形態で存在しているだけで、整理がつけられる感じではなかった。 もう一度、青色の特別席にもどってから、ひたすら扉と反対方向に歩いてみようと考えた。こちらについては、試した記憶がなかった。左右については放棄したので、奥については結論をだしてやろうと心に決め、気持ちをあらたにしてすすんでいった。 ところが、どれほどいっても、えんえんとつづいていた。 扉が前面にあり、王宮回廊とつらなっているわけだから、どう考えても反対方向は奥がわになると思った。いったい、奥とはなんなのだろうか。ものには限度があると思うが、だんだん心ともなくなってきた。青黒い世界をすすんでいくと、しだいにどこを歩いているのか、自信をうしなってきた。振りかえっても、はっきりとしたものはなかった。みまわすと、奥があることだけが分かった。かれこれ三時間ちかくも歩いたのに、ぼうばくとした世界がつづいているだけで、前方はさらに不明になっていった。もう歩きまわる者にも遭遇せず、うごく物体もみかけなくなっていた。中央部より形は小さいが、青いテーブルとソファーだけがいつまでもつづいていた。 こうしたものが存在するのは、そこにはかならずなにかが「ある」ということを意味するらしく、もうすでに「いる」という感じではなくなっていた。それでも、なんとなく私自身であり、なぜこれがそうなのかさえ明言できないが、やはり自分自身だと考えられた。青いテーブルのうえに「ぽん」とおかれた物体に親近感はわかないが、こうした者は、私の房内に「ある」のだし、「おれは、おまえではないのか」とあらたまって詰問されれば、「自分ではない」ときっぱりいえる自信がない。その程度になっていた。 私は、くたくたに疲れ、とうとう辿りつけないことが分かった。すさまじいところまで、きてしまっていた。どういう構造なのか分からないが、帰るといっても方向も定かではなかった。左右の壁にいきつくのは、西がわには一時間歩いて辿りつけなかったのだから、たいへんなことになったと考えはじめた。自分のなかで、迷ってしまったのだ。私は、そばにあった青いソファーに腰をおろした。 青色のテーブルのうえには、青っぽいコンニャク状の物体がおかれていた。すわると自分の席をとられたという、その物質が発する「不快感」がつたわってきた。この物体は、ただ机におかれただけなのに、思いのままに移動できる私に憧れがあるわけではなく、外見からは想像もつかないほどたかい自尊心をもっているらしかった。 「なにか文句でもあるのか」とコンニャクに聞いてみた。 「まるで王を気取っているらしいが、私とは、ほとんどかわらない」 「これほど姿、形が違って、おまえはうごくこともできない。だから、いまはじめて、生きているのに気がついた。ずいぶん、威勢がいいのだな」 「私は、おまえをよく知っている。考えることは全部分かるのだから、とくに容姿など、どうでもいい話だ。おまえだって、以前はおなじように思っていたぞ」 「容姿、形がどうだといっても、いまのふたりのあいだには、神と人、以上のへだたりがあるぞ。おまえがうごけないかぎり、踏みつぶそうと思えば簡単なことなのだぞ。ふたつのものがあったとき、どちらが力を行使できるのかというのは、決してささいな問題ではない」 「おまえは、いつからそんな偉そうな論理を振りまわしはじめたのだ。私の場所に勝手に侵入してきて、好き勝手なことをいい、そのうえ恫喝するなんて罰があたるぞ」 おどろくには、コンニャクは自分の形態に恥じ入る感情はどこにもなく、非常にたかいプライドがあり、想像以上の覚悟を所持していた。 「おまえは、たんに欲望をもったから、手と足を生やしたにすぎない。欲動とは、万人に共通するもので、本質とは無関係なのだ。なまじ手足をもったことによって、欲望を果たしたり、満たしたりできる気がして夢中になり、自分のほんらいの姿を忘れてしまったのだ。私の本質とは、移動できるかどうかでもないし、姿形がどうであるかにもよってはいない」 「なにを、偉そうにいっている。私は自分の本質のうえに、一般的なものまで兼ねそなえている、いうなれば完璧な者なのだ。五体が満足ではなく移動できないというのは、普通の部分さえもたない、不完全だと示しているにすぎない」 「たしかにおまえは、ある意味、完全といえるかも知れないが、とても完璧とはみなせない。そうした言葉があてはまるのは、私のほうだろう」 「おまえの、どこが完璧なのだ。完全とは、どう違うのだ」 「余計な事物がついているから、おまえは完璧とはよべない。欲望のないものは、本質をみることができる。欲動にとらわれている者は、外観しか分からないのだ」 「これ以上、つまらないことをいうなら、ほんとうに踏みつぶしてやるぞ」 「やりたければ、そうすればいいのだ。そう考えるのは、しなければ自分の存在を肯定できないからにすぎない。無視しえない者に映るから、私をつぶしてみえなくさせたいと思い、まるで至高な存在者として振るまいたいだけのことなのだ。それは、おまえの不安にすぎない」 会話を交わしながら、「こんな自分もいたのだ」と誇らしく感じた。 私は、この青っぽいコンニャクの部分に偉く感動し、これ以上不快な思いをさせたくないと考えた。たしかにある意味、余計な手足がついて自分の本質にとどまることができなくなり、関係のない他者と比較しているだけではないのか。このままでは問題だと感じ、私以外の者たちになろうと、無意味な試行をくりかえしているにすぎないのだろうか。私は、自分の枢要をすてさって、非本質的な者にかわろうと意味不明の頑張りをしている可能性もありうると思った。 この房に外縁に、ただ「ある」者こそが、自分自身の本質なのかも知れない。 「私自身とは、いったいなんなのだろう」と考えて唖然とした。 私は、たしかに分裂し、増殖してきた。しかし、この房にあふれかえる自分をまとめるのでも、代表するわけでもない。ちょうど王が八房のアスを統率するのでも、象徴するのでもないのと、おなじだろう。席を立ち、房の最後にあるはずの境界を想像して頭をかかえた。 そのとき、とつぜん私の目前に青色の壁が出現し、ふたつの青い扉口がみえ、青黒い闇のなかにぼうと浮かんでいた。くりかえしみたが、間違いなく、扉のまえに立っていた。 私の房に存在する扉口だから、あけられるはずだと思った。 なにがでてくるのかは想像ができず、非常に怖い気持ちに落ち入った。房のなかで、こんな気分になったのは、はじめてだった。あのコンニャクのことを考えると勇気がでてきて、黒にちかい右がわの青い扉口を押してみた。問題はなく扉はあいて、さきは通路になっていた。 眩しいとさえ感じるほどあかるく、でてみると歩けたから、この構造もまた自分のものであると分かった。通路は、幅が五メートルくらいで、たかさもかなりあり、上部の壁と天井とのあいだの三〇センチくらいの隙間で、外とつながり、光がもれていた。おだやかな風をうけて、小径の大気が揺れていた。緩やかに右にまがる通路をすすんでいくと、左がわの壁に青黒い扉があった。無視して奥にむかって進行すると黒い扉口がみえ、道は完全に終わっていた。なんだか分からないので勇気がいることだったが、思い切って扉に手をかけて押してみたが、びくともしなかった。ひいてもうごかないので、結局あけられなかった。 この扉口は、黒のものなのだろう。 通路をもどり、さきほど無視した青黒い扉のまえで考えた。 この扉口のむこうは、外がわに違いないが、いま自分がいる場所は、内部なのか外部なのか分からなかった。内にも内がわが、外にも外面があるのかも知れない。層状にかさなる、複雑な構造をとっているのかも知れない。考えだすと気になったが、自分の房にもどれるのかを確認するべきだと考え、入ってきた最初の青い扉までもどってドアをひいてみた。 あいて帰れたので、今度は左がわの青色の扉口をあけた。さきほどとおなじひろさの通路が左にゆっくりとまがり、右の壁に青紫の扉があった。さらに小径はつづき、紫のものと考えられる紫色の扉口にぶちあたった。あけようとこころみたが、扉はびくともしなかった。押したりひいたり叩いたり、やってみたがだめだと分かった。あきらめて、外とつながるらしい謎の扉口のまえで考えていた。 すると、紫の扉があく音が聞こえた。同時に、古本のかびの臭いがしてきた。 二、紫 「ここで、あえるとは珍しい。君とは、はじめてではないかな」と紫はいった。 「ここには、よくくるのですか」 「なんといっても、房のなかは胡散臭いからね」 紫は珍しく、おかしそうに笑った。 学者は、アスではいちばんの年寄りだった。背がひくく、顔が不釣りあいに大きく五頭身くらいだった。頭頂部は完全に禿げあがり、前額との境にみじかい白髪がすこしだけ生えていた。大きな老斑が浮きでた紫色の顔の中央に巨大な鼻が胡座をかき、ぶつぶつとした黒い穴が無数に吹きでていた。白い眉毛はうすく、あるのかどうかも不明だった。目蓋は下垂し、小さい目は、あいているのかも分からないほどだった。顔は脂気がなく、皺がより、不揃いの髭がのびる顎の部分は、三重にたれさがっていた。学者は、いつも紫色のゆったりとしたガウンをきていた。 立ち話をするうちに、昨日の騒動のことから王へと話題がかわった。 紫は、「それについては、私にも考えがある」とつげて、王権の成り立ちについて話しはじめた。学者は、この問題を考えるにあたっては、史記が参考になるといった。 司馬遷によれば、中国人の歴史は黄帝にはじまる。 帝王は、二五人の男児をもっていた。そのなかで封地をえて、地名を姓とした者が一四人いて、中華圏の人びとはすべて黄帝の子孫になる。彼は、諸侯の力をかりて神農氏の炎帝をたおして帝位についたというから、当時は黄帝以外の種族も存在していたのだろう。つづいて五帝時代があり、最後の帝禹が夏王朝をひらく。夏の遺跡は確認されていないから、司馬遷は伝説をもとに自分たちの祖先について熟慮し、神話とは一線をひき、黄帝まではいたとしてもよいだろうと考えたのだろう。 この史記からいえることは、ふたつある。 まず、人間は神さまや半神の獣からうまれたのではなく、やはり最初も人だったらしい。つぎに、記憶はつねに戦いからはじまることだ。 アスがいつから出現したかは、思い出が連続的に残存する少年時代にいたのはあきらかだ。ぼつぼつと途切れながら記憶がのこる幼年時代には、もうはっきり存在していたのだろう。 こうした固有の思い出は、古代史になぞらえるなら、殷墟などの遺跡にそうとうする。旧跡が王朝の存在を証するなら、記憶はアスの出現を証明する。それでは歴史時代以前の黄帝がなにを示し、対立した神農氏とはなにものだろうか。 おそらく漠然としていた世界に、母親が登場したのではないか。黄帝とは、母をさすのだろう。母親に影響をうけながら、伝説の夏王朝や、いくらか遺跡がのこる殷王朝につながっていくのではないか。殷周革命はあったと考えられるが、明確な記述などないから潤色されているはずだ。周王朝の制度は、俗にいう封建制で、中央集権をめざしている。黄帝以来のすべての中国人はおなじ血族だが、時間が経過して血縁に遠近が生じていた。周王朝では、さらにちかい血縁者に領地をあたえ、中央の王権が地方にいきとどく整備をした。 ここで、大きな変革がある。これは、父の存在ではないか。アスのなかへ、父親が母親の権限を駆逐して入りこんできたのではないか。いうならば、父は蛇を退治し、母的なものが主宰していた世界を簒奪したのだ。そしてあらたに、いかがわしい支配者としての座を占めたのだろう。 黄帝が神農氏をたおす原因は、徳がうしなわれたからという話だが、それ以上の記載はない。夏王朝、最後の桀王はおなじく美徳が消失するわけだが、くわえて女色に溺れたという記述がある。殷王朝の終焉の紂王では、さらに妲己という固有名詞が登場し、くりかえされる。周王朝でも、幽王が褒似を溺愛して国がみだれるという同一構造になっている。 これらは伝説としてのこるものだが、おなじパターンだというべきだろう。結局つぎの王朝が前王朝を審判し、自己を正当化するのだが、批判するときに、周囲の合意をいちばんえやすい物語がつくられるのではないか。中傷のレトリックとしては、卑しい出自、窃盗などの軽犯罪への関与、性的不品行が代表的だ。なかでも性的堕落は、徳の消失と王朝崩壊が生じる原因として、人に理解させやすい構図なのだろう。 アスのばあい、子供時代のことだから性的な堕落という表現はありえない。 両親のいいつけをまもらなかったという理由で叱責をうけ、矯正される話に違いない。こういう風にしなさいと、完全に枠にはめられるのではなく、自分なりに考えて、これはだめだと判断し、方針をかえるのだろう。あたらしい王朝は、まえとは違うと確認され、いろいろな形で批判し、自己の正当化につながるのだろう。こうした矯正を何回かうけて自己批判し、思春期がおとずれるのではないか。 周王朝の一二代目、「西周」最後の幽王のばあいは、性的堕落を起こし、徳をうしない責任をとらされる。しかし周の王朝は完全にはつぶされず、都をうつして「東周」となって名目的にのこる。 思春期では、父親は名目上偉いが、以前とは違って統一するほどの力はなく、混乱期に入るから残存するだけで、権威がみとめられるわけではない。春秋、戦国時代では、さまざまな機略が飛びかい、行く末は、さっぱり分からない。この状態がどのくらいつづくのかは人それぞれで、いちがいにはいえないのだろう。混乱がすぐにおさまるばあいも、状況が一生継続する者もいるのではないか。 つぎにうまれるのは、中国では戦国の覇者、秦帝国で、きびしい規律をもとめる中央集権国家になる。混乱は収拾されるが、あまりにも性急で力ずくだったので、天下が安定するためにはもう一度反乱が起こって、漢の成立を待つのだ。 アスは、いま戦国時代にいるのではないか。 今度統一されたときは、はげしい弾圧を覚悟せねばならない。いままでの中途半端な状態ではいられなくて、完全に自由をうばわれるに違いない。自分が王になるのか、なれないのかは、生き残りをかけた大問題なのだ。 紫は、例の調子でながながとしゃべっていた。 学者は、物事を端的にまとめられず、話がながいだけでポイントがどこにあるのか分からなかった。こちらで判断し、いい加減のところでやめさせないと、いくらでもつづけるのだ。紫がいわんとしていることは、だいたい分かった。 もともと私は、王宮にうまれ、王とともに育ったのだ。 帝王とは、ひとつだった。もともと不可分な関係だったが、私は補佐役にかわった。なぜ、そうなったのだろうか。王が我がままのうえ、自分のことがぜんぜん分からないので、自然と私が方針を述べ、諭す事態が生じたのだ。彼より知性がたかくなり、筋道の通った考え方ができたのだ。ところが優柔不断な帝王は、取り巻きたちにもちあげられ、お気に入りにし、お世辞のうまい彼らの意見を聞きはじめた。王は自分をもたないので、人の判断に振りまわされだした。子供のころは一心同体で、いっしょに楽しんだ記憶も多い、かけがえのない私を疎んじはじめたのだった。私自身は、元来が王だったのにどこかで切りとられ、一部分とみなされ、さらに疎外され、貶める陰謀にあって、無実の罪をきせられたのだった。帝王の取り巻きからすれば、私はとても危険な存在だった。ふたたび気に入られるのはもちろん、彼らが怖れたのは、私自身が王にとってかわる可能性があったことだった。取り巻きたちは結託して、当時、遭遇した不始末やぐあいの悪い事態を私のせいにし、手を切るべきだと讒言したのだ。 私自身は、「それは、根も葉もない間違いだ」とはっきり主張し、根拠も示したのだ。しかし、多数の取り巻きたちに踊らされた帝王は、自分が責任を負うべき問題を、私が原因だと判断したのだった。もともと帝王自身が悪かったのに、みとめようとはせず、王にとってもっとも大切な私自身を追放したのだった。周囲の官僚たちにとって、それがいちばん都合のいいことだった。 どうやって移動したのか、よく覚えていないが、気がついたときには房内にいて、王宮にもどるのを衛兵によって阻止される事態になったのだ。 なにかを一服もられて、意識をうしなっていたあいだに、ここにつれられてこられたのではないか。宮廷にいたころは、王宮の周囲に房とよばれる構造物が、なんのために存在するのか知らなかった。宮殿に住んでいたとき、非常に問題となった事案が発生し、処遇について王と協議した記憶がある。帝王は、私の進言を入れて、だれかを追放したのだが、こうして房に追いやられてはじめて、どうあつかわれたのか知ったのだ。今度は、おなじ事態が自分の身に起こったのだが、私自身のばあいははっきり無実だった。 私は、房内に住むことになり、ひとり切りで考えていた。 なぜ、こんな不合理な目にあわねばならなかったのだろうか。どうして私は、王に信じられなかったのだろうか。なぜ、王宮にいつづけることができなかったのだろうか。どうして、そんな力関係にかわっていたのだろうか。そもそもが、なぜ。私は、王にならなかったのだろうか。 こうして、なぜ。どうして、と考えつづけた。 そう言葉を発するたびに、私の数が増えていった気がする。増殖した私自身も、それぞれがおなじく、なぜ。どうして、と考えつづけ、さらに増加したのだ。子供時代を思いだし、懐かしい場面が浮かぶと、そのひとつひとつに、なぜ、あのころの私は、なにも思わなかったのだろうか。どうして、当時の私自身は、幸せだったのだろうか。なぜ、あのころの私は、王を立ててやろうなんて思ったのだろうか。考えつづけて増殖をくりかえし、結局、房のなかは私自身でいっぱいになってしまったのだ。 房内では、なにをしていても、いつもおなじ事案について思いめぐらす。 自分がほんらいなすべき行為は、いまやっていることではないという、わけの分からない不安感にさいなまれる。なぜ、こんな憂慮が生じるのだろうと、私はほとんど毎日、毎時間、考えてつづけている。だから、こう思ったときの私自身は、圧倒的に多い。房のなかの私は、おなじ怖れをかかえている。こうした愁いが原因となって別れた私自身は、房内にあふれかえって、もう数え切れないほどなのだ。 この不安感がなんだったのか、紫の話を聞いて、しだいに分かってきた。 これは、存在の不安なのだ。理由もなく房に押しやられ、なにが悪いのかも不明のまま迫害をうけ、私は自分の存在意義に疑問をもち、憂慮を感じたのだ。今後、どうなるのか。私はなにをしていても、この疑問が頭からはなれなかったのだ。ほんらい、やるべきことは決まっていたのだ。私は、王と交代するべきなのだ。帝王を房にとじこめ、この問題を考えさせるべきだったのだ。私は、王にとってかわり、多くの部下をもち、知恵のある参謀にとりまかれるべきだった。これ以外は、なにをしても無意味なのだ。いましていることは、自分がほんとうになすべき行為とは違うと考えられたのだ。 当時私にくわえられた非難は、性的な堕落ではない。 オレンジは、あきらかに性的堕落という理由で追放された。あの放逐は、いまでもやむをえないと思われる。黒が追い払われたのも、もっともで、アナキストはなんでも壊してしまったから、王はまとめることができなくなっていた。泣き女のときも、空色が中心にいるとなんの進展も見通せなかった。赤のばあいにも、あまりに挑発的で周囲が敵だらけになってしまったから、中核におきつづけるのは困難だった。紫はともかく、策略ばかりねっている緑も、すぐにヒステリーを起こす黄色も極端すぎて、いっしょの行動をとるのは難しかった。彼らは、あきらかに王権の維持にはふさわしくなかった。私自身はだいたいは中庸路線で、芸術家肌だからいくらかは夢見がちな部分はあったが、決して極端とはいえず、王にとってなにが不利益だったのだろう。 私を追放したとき、帝王は自分の不始末の処理にこまっていた。当時、疎んじていた私自身に、すべての罪をなすりつけたのだ。 私は、スケープゴートで、身に覚えのない数え切れないほどの汚名をきせられ、房に入れられたのだ。だから、私自身がなぜと考えるのはとうぜんだった。いまだって、どうしてと思ってしまうのは、やむをえないことだった。 そもそも帝王その者が、かなり極端なのだ。 王には官僚機構がそなわり、まもられている。帝王には、通常このましい進言があり、その場において、どの仮面をかぶるのが効果的なのか判断がなされている。私が幾分か極端な部分をもつとしても、必要と考えられるときに適切なマスクで顔を覆えば、なんでもまるくおさまり、おだやかで慈悲ぶかい姿をとっていられるのだ。つきつめていえば、その一部分の人格面が完全に欠損しているばあいでも、ふさわしい仮面をつけて補うことができる。本質ではない、まったく技術的な問題なのだ。王が落ちついてみえるのは偽の姿で、破壊的な黒の部分をもっている。だから私を追いやる決定をくだしたのだし、好戦的で赤そのものに思えるときもある。かなりのヒステリーで、黄色そっくりな女性でもあるのだ。精神的にも弱く、起こってしまってどうにもかえる術がない事件を、くどくどとくりかえし悩みつづけ、ベッドのなかでしょっちゅうひとりで泣いているのだ。 そのうえ問題なのは、王はオレンジを大切にあつかっていることだ。 帝王の本心は、性欲家を宮廷内にとどめておきたかったのだが、非常な不始末があって猛烈な反論にあい、泣く泣く手放したのだった。だから、正門と称される西正面と北門のあいだの、決して悪くない位置の房をオレンジにあたえたのだ。王は、ときどき性欲家をよんで、いかがわしい行為にふけっているという噂は、昔から根づよくある。帝王は、非常に気持ちの悪い部分がある。私には、そうしたところはなく性格はさっぱりしているから、どう考えても王にふさわしいのだ。 王宮の南正面に、私自身の房がある。西は緑、北は黄色、東は空色だった。 つまり王は、男二名と女二名の構成要素をつよくもつ、男らしいとは決していえない者なのだ。このあきらかな構造を考えても、私がもっとも普通なのだ。私自身は、王にかわりうる者のなかでいちばんちかくにいて、非常に危険な存在だったのだ。だから私は、どうしても、なぜと思ってしまうのだ。どこから考えても、まったくの無罪なのだ。 それでは、なぜ、そんな危険な私自身を、王は殺さなかったのだろう。 きっと私は、帝王の一部だったのだ。私自身の死滅は王の一部分の死を意味していた。帝王も、無傷ではいられない可能性があったのではないか。まずは隔離し、時間をかけてその部分がない状態になれ、大丈夫と確信できた段階で始末するのが、賢明な処置と考えられたのではあるまいか。 殺されずにのこされるのは、王が病気になったり不始末をしでかしたりして弱れば、反乱を起こすパーツにかわることを意味する。今回、かなりの房が協力した王権の転覆作戦が立てられ、実施されたのは、機が熟しているともいえるのだろうか。王がつよくて警備がはげしければ、作戦を計画し、実行することもできない。こちらがわは、存在するだけで手いっぱいになり、反抗など考えられないのだろう。帝王が揺らいでいるから、騒動が起こったともいえるのではないか。 かつてエチオピア王国では、後継の混乱を避けるために、王子たちは人里はなれた山のなかの城にとじこめられたという。 殺されるわけでは、なかったのだ。王のぐあいが悪くなれば後継者が必要で、血族が該当する。エチオピアの王子たちは、そのためにのこされていたが、どうしても後継にふさわしくないと考えられる者にたいしては傷がつけられた。王には、身体に欠損がないのが重要な資質だったので、どこかに傷痕をくわえられれば、不適格とみなされた。足を折るとか、片腕を切りおとすとか、はげしいことをしなくても、みえるところに墨を入れられるとか、顔に大きな傷をうければ、隠しきれない欠点になった。つまり五体満足で存在するのは、王になにかあったときのそなえともいえるのだ。 紫は、勝手に講釈をつづけていた。私が自分自身の考えに入りこんでいるのをみて、強引にもどそうとして、みょうな話をしだした。 「おまえは、自分の房が混沌としているのがいやなのか」 「べつにそうでもないが。紫は、どうなんだ」 「それについては、私にも考えがある。房が混沌状態であるのは、決して悪いことではない。混沌となるのは、すべての要素が脈絡をもたずに、入りみだれて存在するからだ。構成物がなくなれば、あとは荒廃しかない。だいいちおまえは、自分を完全な者だと考えているのか」 「なんで、そんなことを聞くのか。おまえは、どうなんだ」 むっとして答えると、紫は注意がひけたことに喜んで、また話しはじめた。 「それについては、私にも考えがある。アスは、房のなかでつねに完全な自分をさがしているのだ。完璧でありさえすれば、あらゆる困難をのりこえられるかも知れないと思ってな。完全というのは、欠点をもたないこととは違う。そういう意味で完璧というのなら、もう望むものもなく、充分にみちたりているはずだからな。完全とは、たとえ欠点があっても、部分ではなく全体ということだ」 「私を、完璧な者ではないと思うのか」 「いや、アスも帝王も、おなじく完全なのだ。そうした意味からは、王はイソギンチャクにもたとえることができる。ずんどうな円筒形をして、身体の真ん中に大きな口をもっている。周囲に、毒がふくむ触手をかかえている。あらゆる可能な場所に手をのばして、獲物と思われるものに触れたら、毒素で麻痺させて捕らえ、まるごと口のなかにほうりこむ。消化できれば身体にとりこみ、できなければ、そのままの形で糞といっしょに口腔から吐きだすのだ。アスは、王に消化不能だった部分で、糞便とともにすてられたのだ。私たちが生きているのは、帝王には殺せなかったからなのだ」 かなり面倒くさいことをいいたそうで、真面目に聞くと、むっとする話だろうと思った。気分が悪くなるだけで、そんな言葉は、もう充分だった。この通路を話題にすると、ここは「パイプだ」とまた偉そうに講釈をはじめた。私は、一枚ある扉をさして、これはひらくことができるのかたずねた。 「ここは、共有部分だから、おまえにもあけられる」と答えた。 ひらいたことがあるのかたずねると、紫は、至極満足な表情で、とうぜんだといった。とくになにもないところだと話すので、扉をあけてみた。 荒涼とした大地がみえた。みわたすかぎりの赤茶けた沙漠で、礫と砂がつづき、玄黄と表現していいほど、だだっぴろく、太陽だけがぎらぎらと眩しく、すべてが渇き切っていた。 「どうした」と紫が聞いた。 「この沙漠に興味がある。いってみたい気がする」 「あちらは外部で、人のいく領域ではない。でていくなら、この内部しかないのだ」 「内がわは、戦いばかりだ」 「おまえは、ここで戦闘するしかない。負ければ自分の部屋にとじこもり、時間をかけて癒やし、元気になったら戦うのだ。もし勝てれば、司令室にいける。そこで、王になることができる」 私がその話を不服がある感じで聞いていると、つづけた。 「みれば分かる通り、おまえは一人前で、自分の房をもっている。独り立ちした者がやるべきことは、王権の奪取しかない。おまえは、こんなところで、うろうろしているばあいではない。どうせ、なにをやっても手につかないのだろう。いつだって煩悶しているに違いない。おれのやるべきことは、もっと違うと。それがなんだかも、知っているのだろう。なんとしてでも中央にでて、まだ生きていると主張しなければ、永遠に忘れられてしまうのだ。そうした、あせりがあるのだろう。忘れるな、おれはいるのだってな。そう、王にむかって叫びつづけたいのだろう」 紫が偉そうに、いかにもうえから目線でいったので、私はすこし腹が立った。 「それではおまえは、なぜ、生きて、こんなところをうろついているのか。紫だって、おなじではないのか」 学者は、自分はひとつの機構で、全体を記録する使命をもっているのだと答えた。 王権内部の記述だけでは、つねに不充分だ。奴らは都合のいい話しかのこさない。見栄えのする記録だけがつみかさなるだけなので、権力から距離をおいて真実を記す責務がある。これは世襲で、私が王になれば、紫も正史の編纂者として政権に参加する。そのばあいには、王権にいた人びとのなかから、学者の仕事をひきつぐ者がでてくる。それで、調和がとれている。状況しだいだが、私にひとはたらきしてもらいたい。おなじ仕事をするなら、日があたる場所でやりたいとは思う。しかし、戦いそのものは紫の業務ではない。先日、緑がきて、えんえんと共同作戦への参加を要請されたが、この話をしてことわった。奴は、よく理解しただろうといった。 緑はたいへんだったなと、私は思った。 こんな講釈をずっと聞かされたのかと考えると、かわいそうなことだった。緑は、おまえの話など了解するはずがない。私も、まったく理解する気にはなれなかった。紫は、自分を正当化しているだけで、死んでしまえば記録とやらはどこにのこり、だれが紐解くのか、はっきりご教授をうけたいと考えた。また話しだすと止め処なくつづくので、切りあげどきだと思った。 ひろい房内を、紫がどうしてこの通路までこられるのかという点に関しては、疑問だったので聞いてみると、こんな基本も知らないのかという、あきらかに馬鹿にした表情になって教えてくれた。 「房は、おまえのエリアだ。考えさえすれば、どこでもいくことができる。房内には、考えられる限界など存在しない。なぜなら扉までふくめてひとつの意識だからで、そこが不明瞭なのは、房にいるアス自身が明瞭ではないからだ。それが、房内があるという意味だ。パイプについては、共同部分だから直接ここにくることはできない」とまた偉そうにいった。 今度は、その構造について話そうとした。興味はあったが、もう今日は充分にごたか説を拝聴したので、ことわって、自分の房に帰っていった。 三、闖入 王宮と各房のあいだは、幅が四、五〇メートルもあるひろい回廊がつくられ、西正門と東裏門の前方は一〇〇メートルほどにひろがっている。南門と北門のまえも幅員は大きくなるが、西と東ほどではない。四つの楼門のちかくに衛兵のつめ所がある。西正門前方は広場として利用されるので、たかい塔がそなえられている。東裏門にも、西正面ほどではないが物見台が立っていた。 紫によれば、広場は政権維持のためには必須のツールで、いくつかの目的をもっているらしい。 そこは、敵がどうしてもぬけてこなければならない場所で、物見台にいればうごきを早期に察知できる。広場は、人をあつめて示威行動をするのに必要で、そのばあい塔は謁見台になる。軍事パレードは他国にみせびらかすためではなく、自国の人民に脅威をあたえる目的で行われる。理由は、ふた通りあり、政権の内部に力があまっているときと、まったくなくなったばあいで、どちらでもパレードは必要になる。状況を考えれば自ずから分かるが、簡単に区別ができるという。 ヒステリーが、手榴弾をひとつパレードにむかって投げてみれば、前者では猛烈な逆襲がはじまり、かなり危ない目にあうはずだが、後者のばあいには、兵はちりぢりになるから、それほど危険とはいえない。パレードにたいして周辺の警備がきびしくないときは、まだ王に力があることを示している。政府の求心力がなくなると、帝王は閲兵式で威嚇をこころみるが、事故が生じると弱体化が露呈する、思惑とは真逆のとりかえしのつかない事態に発展するので、周辺警備が厳重になる。 ここを間違えるのは、かなり危険なことらしい。 ある日、東裏門につづく広場にみょうな男が出現した。 簡素な白いワンピース状の装束で身をつつんだ髪のながい痩せた男性で、皮膚はやや黒ずみ、四〇歳くらいにみえた。この男がまったく異質な者であるのは、一目瞭然だった。アスは、性格が違うといっても、基本的には王と一部を共有した一族だった。中身はほとんどかわらないから容姿など無意味で、どんな格好をしてもおなじだった。たがいに本質を理解しあっているので、外見をどう変化させたところで仕方がなかった。仮面をかぶって変装してみても、だれがそんな馬鹿なことをしているのか、すぐに分かってしまう。せいぜい、色とか臭いとかの雰囲気で区別するしかなかった。 外見は、相手の本質が不明なばあいに意味をもっていた。特徴的な格好は、どこかでその人の真髄とつながっている可能性があり、詳細に検討するなら、分からない部分を知る手がかりになるかも知れない。 聖書を左手にもって辻説法をこころみている男は、あきらかにアスの一族ではなく、王がなにかしらの方法で雇い入れた外人部隊の一員だったのは明白だった。彼の背後にあたる裏正門では、通常よりも多い衛兵がじっと様子をみまもっていた。 王が状況をかえるためにあらたな作戦を立てたのはあきらかで、趣向としては新鮮だったので興味があり、ちかづいてみると、ほかの房の者もでてきていた。 ちかくにいたのは、黄色と空色、赤だった。 裏門からでてきた意味が、これで判明した。この男だってプロのはずで、王から必要な情報をえて、よく考えてターゲットをしぼってあらわれたのだろう。照準を、まず三人にしぼりこんだのだった。 「神さまは、偉大です。神は、よみがえられました。怒りは、物事の解決にはむすびつきません。愛です。愛情だけが、すくわれる、ただひとつの武器なのです。隣人を愛しましょう」 「愛ってなんだ」 髪のみじかい、大柄の赤がいった。 「やさしくすることです」 「それは、なんだ」 「相手の立場になることです。そうして考えてみて、いやがる行為をしないようつとめるのです。そうすれば、自分もいやな目にあうことがなくなります。どうしたら相手の立場になれるのか、考えるのです。物事を思慮することが大切です」 「私は、相手の立場になりすぎるのよ。自分よりさきに、相手方のことばかしを考えてしまうわ。自分自身がなんだか、分からないくらいなのよ。自分が、相手を傷つけたに違いないとばかし考えつづけて生きているのよ。私のなかは相手だらけで、ちっともすくわれないわ。なんとかして欲しいわ」 若くてながい髪の空色の女が、涙をふきながらいった。 「あなたとは、ゆっくりふたりきりで話しあい、考えましょう。思考が必要です。考えることです。ひたすら熟慮しましょう」 「相手の立場になれっていうが、黄色についても思慮しているのか。おまえが考えろと命令したから、たいへんな状態になっているぞ。こうしろ。ああ、やれ。といえばそれだけ、ヒステリーはパニクってしまうぞ。いいのか、それで」 「そうよ。あなたが考えろ。思考しろ、なんていうから。考えはじめると、そわそわがはじまってくるのよ。なんとか、しなけりゃ。そう思うほど、なんともならないわ」 「落ちつきなさい。大きく息をすって、とめて、それからゆっくり吐きだすのです。そうすれば気持ちは落ちつき、あせりはおさまります。しずまります。完全におさまります」 「問題はそこよ。どうして、私のいっていることが分からないの。そういう指示が悪いのよ。指図されて、しようと考えると、私はだんだん、そうはできなくなってくるのだから」 「おまえは、相手も分からずに、自分のいいたいことを話している。人によって、話の内容や方法をかえるべきなのに、おれたち三人におなじ言葉をくりかえしている。おまえは、分かっていない。もう、おれはここから退散する」 赤は、立ちさろうとした。 「なんですか。愛情は、万人に共通です。まず、愛の実践。愛情。愛。これだけです。みなさん、落ちついて。しずまって。落ちつくんです」 「えい、言葉をくりかえすな。これ以上いうなら、一発ぶっぱなすぞ」 「落ちついてください。静かにして。落ちついて。沈静するのです」 みじかい髪を黄色く染めた中年のヒステリーは、指示をうけすぎて、パニクりはじめていた。 「私だって。自分だって。落ちついていたいのよ。そう考えるほど、なにかをしなけりゃ落ちつけないって、私は思いはじめるのよ。なんでもいいから、行動しなけりゃならない。落ちつくためには、行為にでるしかなくなっちゃうわ。もう、房にもどろうって思っているのよ。それでなければ、なにかをしてしまうって分かっているのよ。房に帰ろうと考えている私。なにかをはじめようとしている私自身。ふたつがひとつになって、房に帰るには、行動しなけりゃならないことに気がつくんだわ。王がいけないのよ。私をこんな房にとじこめて。もともと思う通りなんて、できなかったのよ。ひとりにさせて、どんどん過激にかえさせたのよ。思う通りにできないように、かえたのだよ。すべてが、なくなってしまえばいいのだわ。我慢をしているのに、アンタが悪いのよ。やるな。するな。といわれるほど、やるのをやめられなくなるのよ。そうさせたいと考えるなら、やれ。やれって、いわなくてはいけなかったのよ」 黄色は、叫びだした。 異常な事態が起こっているのに気がついて、東門から衛兵がかけつけてきた。 金切り声を張りあげていたヒステリーは、とつぜん腰の手榴弾をとりあげて、ピンをぬき、ちかづいてくる兵士にむかって投げつけた。黄色の手をはなれた榴弾は、理想的な弧を描いて衛兵を直撃した。兵卒が飛びちり、多数の死傷者がでた。 「落ちついてください。お願いです。そんなことをしては、絶対。だめ。です。やめてください」 「絶対とか、だめなんて、いわないで」 宗教家の注意を喚起する発言は、ヒステリーにとっては禁句だった。 その言葉は、被刺激性が極限までたかまっていた黄色の反応を、つよくあと押しするものだった。ヒステリーは、あたり一面に爆弾をまきちらしはじめていた。 赤も空色もいっせいに避難し、みていた私も後方に逃げた。 いっぽう宗教家は、予期せぬ出来事にパニックを起こしていた。黄色のそばからはなれられなくなっていた。ヒステリーの足下にひざまずき、足をかかえて震えていた。 「こんなことをしては、だめなのよ。やっちゃ、いけないのよ。どうして、こんなにだめなことを私はしているの。アンタのせいよ」 黄色は、足下にうずくまる宗教家にむかって金切り声を張りあげながら、腰から手榴弾をとりあげた。広場のいたるところにまきちらしたので、ほうぼうで爆発が起こった。 その様子を、衛兵が東門の塔でみはっていた。 楼門に狙撃部隊が出現したが、白い宗教家が黄色からはなれないので、確実な狙撃は困難だった。彼は、とっさの判断として、ヒステリーのちかくにいれば、自爆しないかぎり安全だと考えたのだった。 黄色は、足下にからみついてくる男をけとばして叫んだ。 「アンタが。悪いのよ。私をこうさせているのは、アンタなのよ。はなれなさい。どかないと殺すわよ。殺害するのは、殺したい。殺生したいって、考えるからではないのよ。殺したいとは思わない。殺害したくないって考えるから、殺生されるのよ。アンタは、殺されないのよ。殺生されないのよ」 ヒステリーは、ものすごい表情にかわって金切り声をあげていた。完全に殺す気になったらしかった。 宗教家は真っ青な顔をして、ぼうぜんと立ちつくした。 黄色は、「殺さない。殺害しない」と呪文をくりかえしながら、一目散にかけだした。ふたりのあいだに距離ができると、ヒステリーは「殺してやる」と叫んで、手榴弾のピンをぬいて宗教家にむかって投げようとした。 そのとき、黄色は狙撃された。 ヒステリーはたおれ、それでも爆弾を投げようとしたが、また狙撃兵の銃弾があたった。手榴弾は、黄色の手のなかで爆発した。ヒステリーの身体は粉々に吹き飛び、もうもうとした硝煙の臭いが立ちこめた。 しばらくたって、宗教家は立ちあがり、「神の許しがあたえられることを」といって、宮廷にもどっていった。 布教が成功したかどうかは分からなかったが、彼の予期とはひどく違っていた。 王宮から兵がでてきて、一連の爆発で傷ついた部分をなおし、ちりぢりになった黄色の死体をあつめて、荷車につみこんで王宮内にはこんでいった。 初日の布教から、二、三日して、宗教家はふたたびあらわれた。 裏門に出現したから、もう一度、ここの住人をターゲットに教えをたれるつもりらしかった。宗教家は空色にたいし、いい感触をつかんだに違いなかった。前回の事件にこりたらしく、広場の中央ではなく、東門のちかくで話をはじめた。 赤と、空色のふたりがとりかこんでいた。そろった顎髭を生やした戦闘家は、宗教家に説教をはじめた。 「アンタが注意しないから、ああいう事件が起こるんだ。布教の自由はあるが、配慮は必要だ。思うことをなんでもいっていいはずがない。物事には順序があるし、考えよりも行動がさきにでる者もいると考えて、言動はひかえめにすべきだ。力ずくでやろうと、はじめから思うのは間違いだ。アンタもプロなのだろうから、相手がどういう者なのか、判断しながら慎重に行動しなければ、仕事にならないだろう」 ずっと諭された宗教家は、不愉快そうに聞いていた。現実に問題はあったとしても、初日の外人部隊としては、それなりの成果をあげたのだろう。 彼は、気をとりなおして説教をはじめた。 ヨハネの福音書を読んでいると、北門のほうから黄色い眼鏡をかけた女が、懸命に走ってくるのがみえた。腰にたくさんの手榴弾を巻いたヒステリーだった。 宗教家はその姿をみておどろき、衛兵にむかって絶叫した。 「だめ。あなたは無理。こないで。衛兵。あの人をつれて、自分の房にもどすんだ」 四、五〇人の兵士がでてきて、ながい剣がついた銃をつきつけ、ヒステリーのまわりをとりかこんだ。 「黄色房まで連行」という宗教家の言葉にしたがって、銃剣で押さえつけられ、黄色は房内につれていかれた。 ヒステリーが生きていたのは、私自身にも予想外だった。 そばにいた怪異な風貌の紫は、私の怪訝な表情をみて、 「アスを、個々に殺しても仕方がないのを知らないのか。抹殺するのには、根からたたなければならない。こんなことも、知らなかったのか」と馬鹿にした。 こいつはどういう理由か分からないが、たしかにいろいろ知識はもっているらしいのだが、なにせ性格が悪くて始末に負えないのだ。その言葉で、なるほどと思った。 黄色房には、ヒステリーがあふれかえっているはずで、コピーとは違うが分身みたいな者たちだろう。増殖した者が自分の出番を待っている状態で、うえが消えれば順にでてくるわけなのだ。ひとりひとりを殺しても、仕方がないのだ。どんな生き物でも頭部をつぶせば生きかえれないというが、房のばあいには頭もあわせて増殖している。それで、王軍は無闇に攻撃してこないわけだ。仕掛けてくるのは勝手だが、成果はあがらず、効果がないことをつづけるのは猛烈に疲れるのだ。王は、すっかりこまって、外人部隊を投入してきたのだ。 まえの黄色は殺害されたが、それはなんでもない事態で、ひとりがやられてあたらしい者に交代しただけなのだ。本人としては、殺されるのは痛くてつらかったのだろうが、死んでいるからどんな感じだったのか、聞くことはできない。問題は、なにが本人自身かという問いなのだ。 本人とはひとつの本質で、それがつづくかぎり、よみがえるのではないが、生きていることになるのだ。そう思って左の房を振りかえると、シニカルな表情でバズーカを肩にかけた、背のたかい黒がいた。 アナキストは、以前と同様に、髪はみじかく真っ黒な無精髭を生やしていた。漆黒の上下をきて、自分の黒房のまえから広場の様子をうかがっているのが分かった。 黄色は、銃撃隊にかこまれておとなしく房内にもどっていった。 「隣人を愛しなさい」と宗教家はまたいった。 黄色がいなくなった場所に、今度はオレンジが入りこんできた。 性欲家は、中年だったが性別は不明だった。だぶだぶの修道衣みたいなオレンジの寛衣をきて、腰に同色の紐を巻いていた。髪はみじかく、腹はでていた。 宗教家は、性欲家をみて眉をひそめた。 「愛するのは、得意です」 ピンクの眼鏡をかけたオレンジがいった。 「この広場が、王権がいきとどかない無法地帯なのは、よく聞いていることです。あなたについては、帝王から例外的に指令がでています。名指しで、とくべつな注意が必要だと、さんざん指示されています」 「人がどう思おうと、私は愛することができます」 オレンジはいった。 「愛とは、ひとつの精神です。思いやりで、相手の立場になって、配慮することです。他人を、自分とおなじ者と考えて大切にとりあつかうのです」 「分かっています。同感です。私のめざすところでもあります。もともと私自身は、王とは一体でしたし、いまでも基本的にはおなじだと考えています。一体ならば、なにもわざわざはなれている必要もないのではないかと」 「いいですか、私の言葉をよく聞きなさい。愛とは、ひとつの気高い素晴らしい精神なのです。崇高で、人類のすべてに、個別ではなく、全体にむかってひろがっているのです。ここが、大切なところです。個別ではなくて、人類すべてへの平等な高尚な精神をさすのです。いいですか、あくまでも個人ではないのです」 「さっきは、隣人への愛を説いていました」 オレンジはそういいながらちかづき、両手を胸のまえであわせて合掌し、それから宗教家の手をにぎりしめた。 「私は、使徒になることができます。あなたとひとつにあわさって、教えにしたがえるのです。神を愛せというのなら、私はそうすることができます。得意なのです。あなたがなにを説いても、私はうけいれることができます」 「いいですか。愛とは、精神をさすのです」 そういっているうちに、オレンジは宗教家の足下にひれふし、足を触りはじめた。 「愛情は、人同士をむすびつける気高い思いやりです。人がいやがる行為をしないのは、愛にちかづくことなのです」 そう話すうちに、オレンジはしだいに宗教家の足に自分の頬をすりつけ、上部をめざしてうごきはじめていた。膝や腿につよい頬ずりをくりかえし、彼がだまるといった。 「もっと、説教をしてください。愛の話を聞かせて欲しいのです」 「愛情とは、気持ちです。思いやりで、相手がいやだと思える行為は、絶対にしないことです」 「相手方がどう考えるのか、どうやって判断するのですか」 「相手の立場に、なってみるのです。自分が相手方だったら、どうして欲しいとか、こうしたら不愉快なのではないか。それを察して、やめることです」 そう話しているうちに、オレンジは腰に手をまわして宗教家にだきつき、 「私にはよく分かります。相手だったら、なにを希望するのか。相手方にかわって考えるのは、私がもっとも得意なことなのです」といいながら、宗教家を押したおした。 ほかの房の者たちは、どうなるのかと思ってそばによってきていた。 オレンジは彼の顔をなで、口づけし、さらに襟もとから手をさしこみ、皮膚に直接触ろうとしていた。 宗教家は、硬直し蒼白になっていたが、だれもとめなかった。 どこまで我慢できるのか知りたかったし、彼は、オレンジの愛をうけいれてしまうほど、ふかく寛容な精神をもっているのだろうか。 性欲家が宗教家の白いワンピースの裾をもちあげると、毛ぶかい太ももがみえた。 そこに頬ずりをはじめたとき、彼もついに切れた。 「愚か者め」 宗教家は、立ちあがり、オレンジをけとばした。 「だまっていればいい気になりやがって、どこまでもつけあがる気持ちの悪い奴だ。説明はうけてはいたが、王の一部を伸展すると、これほど気色のひどいものにかわるのか」 そうわめいて衛兵をよんだ。 兵士は宗教家の言葉にしたがい、オレンジを銃剣でとりかこむと、性欲家の房までひきつれていった。 彼は頭を押さえ、嘔吐をはじめた。 宗教家の怒りは、すさまじかった。彼は房に警備の者を立て、オレンジがでてくるのを完全に遮断した。工事人夫をつれてきて、性欲家の扉のまえに壁をつくりはじめた。オレンジの扉口は、完全にコンクリートでふさがれ、出入りは不可能になった。 布教の二日目は終わった。 宗教家は、精神の均衡がもどるまでしばらく時間がかかった。 何日かして、彼はふたたび裏門にあらわれた。前回、二度とオレンジがでてこられない壁をつくったせいか、宗教家には余裕が感じられた。彼は広場の中央まできて、当初から的をしぼっていた赤と空色に説教をはじめた。 宗教家は、大柄な戦闘家に教えをたれていた。 「戦いは、愚か者のすることです。右の頬をうたれたら、左をだしてみるのです」 「そうすると、どうなるのですか」 「相手は恥じ入って、攻撃をやめるでしょう」 「ほんとうでしょうか」 赤が真剣に聞くと、宗教家は幾分考えながら、「普通はそうです」と答えた。 「やってみましょう」と戦闘家はいった。 「なにをですか」 「ですから、恥じ入るかどうかです」 「分かりました。私があなたをうちます。そうしたら、反対の頬を押しだしてみてください」 ふたりのあいだで合意がつき、宗教家は、赤い枠の眼鏡をかけた右頬をかるく叩いた。戦闘家が攻撃にたいして反対の頬を押しだすと、「恥じ入りました」といった。 「さて、今度は私の番ですね」 赤は、不敵な笑いとともに口をひらいた。 宗教家は、こまった顔になったが、じっと空色がみていたので右の頬をだした。 戦闘家は、目をつむることを提案した。赤は、彼が目蓋をとじると、満身の力をこめて右頬をなぐった。 宗教家は、一撃で吹き飛び悶絶した。 戦闘家は、のびてしまうと水をかけて目を覚まさせた。無理矢理立たせると、左の頬をだすことをうながした。 ふらふらしている宗教家が、はっきり困惑したのが分かった。 「だしてくれないと、理解できません」と赤はいった。 宗教家は、悩んでいたが、やがて左の頬を押しだした。 戦闘家は、今度は左手を拳骨にして思い切りなぐりつけた。宗教家が吹き飛び、完全に気絶すると、赤は、また水をかけて意識をもどさせた。 「恥じ入るって感情がわきません。どうしたら、その気持ちを手に入れられるのでしょうか」 赤は、たずねた。 「人によっては、そうした感情が、わかないこともあるのでしょうか」 宗教家は、左の掌で顔を押さえながら答えた。 「どうしても理解したいのです」 赤は、しつこくいった。 「もう一回、右の頬をだしてみてください。もしかしたら、感じるかも知れません」 「思わなかったら、どうするのですか」 「もう一回なぐってみます。そうして、今度こそ、左で感じるかどうか試すことになると思います」 宗教家は、その言葉を聞いて激高した。 「愚か者め。おまえは、普通ではない。何度やっても、おなじだ」 宗教家は衛兵をよび、赤をとり押さえた。 「馬鹿者め。この広場で、おまえを公開処刑にする」 宗教家は、戦闘家にむかって宣告した。 指示をうけた衛兵は、赤の上衣をとった。 宗教家は、背中をむきだしにさせると、鞭をもってこさせた。手足を兵士にしっかりと押さえつけ、うごけなくさせてから、みずから三九回の鞭打ち刑を施行した。 戦闘家は、血まみれになり、生死も不明のまま、衛兵によって自分の房内につれていかれた。房の両がわにひとりずつの兵士がつき、赤の回廊への出入りは禁止された。 宗教家が傷ついているのは、傍目からも分かった。しかし、彼が王の意向を着々と果たしていたのも事実だった。黄色と赤を房にとじこめ、オレンジを物理的に隔離した。この事態を、王はたかく評価しただろう。 数日して、宗教家はまた裏正面の広場に顔をだした。彼はすっかり立ちなおり、いまでは完全に余裕が感じられ、空色を相手に話しだした。 「最初に申しあげた通り、私はあなたがすくわれるべき、第一の者と考えていたのです。ついに、ふたりになりましたね」 「あなたは宗教家で、万人への愛を説いておきながら、黄色や赤やオレンジに、ひどいことをしたとは思わないのですか」 「愛情は、必須です。差別をしてはいけません。しかし、相手が人間でなければ仕方がないのです。万人を愛す前提は、対象が人であることです」 「私は、自分を批判ばかりするのです。さまざまな、どうでもいいことまで思いだしては、くりかえし反省をつづけているのです。いっそ死んだほうが増しだと、いつでも考えるのです。王がこの部分を切りはなして私になすりつけ、自分は無反省になり、苦しみだけをあたえたのです。あなたを最初にみたとき、救世主にも思いました。でも、王とおなじで切りすてています」 そのとき大きな爆発音がひびき、黄色の扉を守備する衛兵たちが吹き飛ぶのがみえた。 黒が、バズーカ砲をはなったのだった。もう一度大音響がして、オレンジの扉をふさいでいたコンクリートの壁がぼろぼろとくずれていった。黒が、さらなる一撃をくわえたのだった。 赤房を守備する衛兵たちも、あわてて逃げはじめた。 宗教家は、そわそわしながらいった。 「また今度に話しましょう。あなた、病気じゃありませんか」 その言葉に、若い空色は泣きだした。 「アンタなんか、大嫌いよ。王とおなじだわ。反省なんてないのだから、私の気持ちなんて分からないのだわ。いつだって焼きごてをあてられている、苦しみなんて理解できないのだわ。そんな人たち、死んじゃえばいいのよ」 髪のながい空色は、泣きながら胸から短剣をとりだし、宗教家をつき刺した。衛兵が東門に逃げるあいだに、彼はひとり、滅多刺しにされ、血まみれのなかで息絶えていた。 その様子をみた私は、空色がはげしい情熱をもっているのにおどろいた。 「似たところがあるのだな」 紫は、感心して呟いた。 宗教家の殉教は、王に大きな衝撃をあたえたらしかった。 しばらくすると、西正門に白衣をきた男性が出現した。 頭部が禿げあがり、腹のつきでた男で、聴診器を首のまわりにたらしていた。王が助っ人として依頼した、外人部隊の医者に違いなかった。宗教家とは違って、彼ははじめから威嚇を目的としていた。後方には銃撃隊がつき、正門両がわの物見台にも狙撃兵がライフル銃をもって注視していた。 医者がでてくると、兵士が空にむかって発砲し、銅鑼がなった。 彼は、威嚇音で注意をひくと、「これから、各房の点検をはじめる。最初に、テロリスト、でてきなさい」と拡声器を通した太い声でいった。 銃剣をもった数人の衛兵が緑房の扉までいくと、あらわれた緑をとりかこんだ。 チビのテロリストは、大柄な男たちにかこまれ、みえなくなった。 「武器を投げすてて、おとなしくきなさい」と医者はまた拡声器で叫んだ。 携帯する拳銃をすてた緑は、衛兵にかこまれ、白衣の男のまえにいった。 「よろしい」 医者は、素直にしたがった緑に満足しながらいった。 「君はだなあ。王の支配に、不満をもっているらしいが」 ながい髪を後頭部でしばった緑の男が、医者をみすえてだまっていると、 「非常にふてぶてしい。君はだなあ。反抗的で、策謀ばかりこころみているらしい。そうした態度は、よくない。誤りを正してやりたいと思うのだ。君はだなあ。なにさまのつもりなんだね」とつづけていった。 「医者に頼ったということは、王は最後の手段にでたわけですね。状況も分からずにごたごたいっていると、ぶっぱなしますよ」 「君は、武器をすててきたのだろう」 「一挺はね。なぜ、ひとつしかないと思うのですか。根拠はなんなのですか。アンタね。衛兵にかこまれていれば、安全だと考えるのかも知れませんが、根拠はなんなのですか」 医者は、はげしく動揺した。 兵士に指示して、緑のまわりに配置し、銃剣をつきつけさせた。さらに塔のうえにいる狙撃隊にも、ライフルをかまえさせた。 「君はだなあ。状況が分かっているのかい。これでも、つよがりをいうのかね」 「殉教した宗教家は、立派でしたよ。彼は、丸腰でこちらがわにやってきたのです。こんなアンタに、王はいくらはらったのですか」 「君はだなあ。おかれている立場が、分からないらしいな。質問するのは私で、答えればいいのだ。君は、圧倒的に不利なのだ。こうしたことは、子供でも分かるものだが、一般常識がないらしい。君はだなあ。チビのうえに、女みたいに髪の毛をのばして、なにを考えているのだ。こそこそと策動するのは得意らしいが、一般人として、やっていい行為と、いけないことの区別がない。成長の過程でそうとうの問題があったと考えるべきで、危険への感覚が鈍磨している。これは重大な欠陥だ」 「銃剣をつきつけて、どうなるのです」 緑は、聞いた。 「不審な真似をしたら、君は殺されるのだ。そんなことも、分からないのか」 「殺すのはいいですが、こんなにちかくにいるのですから、あなたもいっしょに死にますよ」 「君はだなあ。つよがりをいうな。いかにもテロリストの発言だ」 「そうですか」 緑は、緑色の上衣のボタンをはずし腹をみせた。そこには、爆弾が巻かれていた。 それをみると、医者はいった。 「もう帰りなさい。あなたは、強情なのですね。それに、頭もいいらしい」 医者は、衛兵に房につれもどす指示をだした。 緑は、さっと彼にちかづき肩をだいて、 「もうすこし、話してもかまわないのですがね」といった。 医者は、蒼白になって、 「すこし、いいすぎたかも知れない」と答えた。 「アンタ。後ろから兵にうたせるつもりでしょう」と聞くと、 「たぶん、いまは、そうした考えはない」と医者は答えた。 「いっしょに私の房へいって、もうすこし本質的な話をしませんか。たがいが、おなじ条件のもとで」 「今日は、やめておきましょう。このつぎの機会に考えますから」 テロリストは、腹にまきつけていた爆弾をはずし、医者のそばにおいた。 「ちょっとでもうごいたら、スイッチを入れます」といって、緑房にむかってゆっくり帰っていった。 医者は、その後ろ姿をぼうぜんとみていたが、緑が扉をあけると、 「この爆発物はどうしたらいいのだ」と拡声器で声をかけた。 「アンタは、自分ではつまみあげることもできないでしょう。兵士にもたせてください」とテロリストはいった。 衛兵が爆弾をひろいあげ、緑にむかって走りだした。広場の中央部にいくと、とつぜん爆発が起こり、兵士は吹き飛んだ。 「この気狂いめ。銃撃せよ。殺してしまえ」と医者は命じた。 緑の扉にむかって兵士が発砲したが、なんの効果もえられなかった。 それをみると、「もういい、これくらいにしてやろう。これで、あいつの考え方が分かった。今日は、充分な成果があった」と彼は大声でいって帰っていった。 二日くらいたつと、前回の数倍の兵士をひきつれて、医者はまた西門に姿をあらわした。 房の者は扉をでて、今度はなにをするのかとみまもっていた。 狙撃隊がとりかこむなかで、医者は拡声器をつかって、 「黒、武器をすてて丸腰になって、こちらにきなさい」とまた高圧的に命令した。 前回の事件で、緑は、すっかりあきらめられたらしかった。 背がたかい黒が、黒い扉のところで医者をじっとみつめていると、 「素直にしなさい。君はだなあ。王の依頼をうけた、私の要求を聞く義務がある」と拡声器を通して大声でいった。 そのとき、バズーカがはなたれた。 医者は吹き飛び、部隊は大混乱になった。 バズーカ砲はつぎつぎと発射され、兵士の多くが死傷し、西門が大破し、西塔は直撃をうけて崩壊した。衛兵が消えさるまで、砲撃がつづけられた。 四、カタストロフィー 医者の殺害後、形勢は一気に房軍にかたむいた。 西正門で緑が王軍の宰相を暗殺し、東門では赤が衛兵をほとんど撃ち殺した。北門では黄色が爆弾をばらまき、門を崩壊させた。南門では、黒のバズーカが連続して炸裂し、王宮までのすべてのものが消失した。王軍の敗走は決定的だった。 緑は、千載一遇のチャンスだとして、全房員に招集をかけた。オレンジは除外されたが、王の裁判には参加させるかわりに邪魔しないことをちかった。 房軍は一挙に王宮になだれこんだが、王軍の抵抗はほとんどなく中庭には白旗がかかげられていた。ちかよると、親衛隊は降伏した。武器をすべてとりあげ、武器庫に格納し施錠した。兵には罪をとわないことが通告され、王権の終了が宣言された。つづいて、帝王の捜索が行われた。 王は、自室のタンスのなかに隠れているのが発見された。ひどく泥酔し、アルコール中毒が疑われるほどだった。帝王は、アルコールがぬけるまで監禁された。正気にもどると、執務室に連行され、非公開の人民裁判が行われた。 壇がもうけられ、議長の緑と副議長の紫が腰をおろした。正面の小椅子に帝王がすわらされた。各人が王をとりまいて腰をおろした。壇から時計まわりに、泣き女、戦闘家、ヒステリーが左がわに、むかいに性欲家がすわり、右がわにはアナキストと私が座を占めた。 テロリストが、「王の裁判をはじめる」と宣言した。 学者が、罪状を読みあげた。 「王は、一族でありながら、個人的な私利私欲にふけり、いわれもなく弾圧し、追放し、房にとじこめ、孤独な生活をしいただけでなく、殺害しようとしたのは許しがたいことである。アスは、つねに和解をもとめてきたが、宗教家や医者など外部の者をつかって抹殺までこころみたのは、言語道断である」 緑は、順に手短に王の罪をあげろとつげた。 それでまず、私が、帝王とはうまくつきあってきたといった。 王の夢やロマンスを率先し、楽しみを提供してきた。いい思い出をつくろうと真剣に考えてきたのに、とつぜん追放にあった。王は、外部の人に、夢を追っても仕方がないから現実をみろ、などといわれて急変し、私を放棄したのだ。できるかどうかはともかく、憧れをもって、自分の未来を追求すべきだった。人がどう考えても、いいではないか。望むものにむかって精進するのは、悪いことなのだろうか。王の自分のなさにはあきれ、絶望する。とても許されない行為だといった。 つぎに、アナキストが立った。 黒は、「帝王をなんとも思っていない」と無表情にいった。王とも考えないし、こうした裁判も無意味だ。帝王は、アナキストを尊重しなかったのだから、殺されても仕方がない。テロリストが王権をひきつぐなら、おなじことが起きるだろう。権力とは構造で、トップに立つ者とは関係がなく不必要だ。民主制でも、結局だれかが王とおなじことをするから、秩序そのものが不要だ。つぶしたいと考えたときに、つぶせる制度がいい。王には、みせしめとして、公開の場での死刑を要求すると静かにいった。 つぎは、オレンジ色の寛衣をきた性欲家が立っていった。 オレンジは、仲間はずれにされ、だれとも会話すらできずに、ひとり寂しく房で自身とたわむれるしかない生活をおくっている。こうした話が、また非難の対象になる。しかし、帝王だけは、性欲家を愛していると信じて耐えてきた。王が房におくったのは、体裁のためだと考えていた。本心では愛していたが、人の噂が気になってやったことで、臆病者だとは思ったが、許してきた。王は自己愛がつよく、オレンジを必要としていた。しかし、宗教家の一件で、裏切ったのが明確になった。みず知らずの他人にまで、性欲家を非難していたのだ。ふかく傷ついて、自分自身が可愛そうで、自分と愛しあうしかできなかった。矛盾しているが、オレンジは自己愛を代表するので、悲しいが、いまでも王を愛せると話した。 黄色い眼鏡をかけたヒステリーが立ちあがり、いった。 王は、優柔不断で、人の意見なしにはなにもできない。黄色は、それが恥ずかしく、いらいらする。やらねばならないことを躊躇して、決心できない。それでいて、できないのを人のせいにする。行動すべきことを、やらない。行うべきでない行為をするのだ。そうした自分を否定して、ヒステリーという別人格をつくって、房に入れたのだ。考えるたびに腹が立っていらいらした。王は、死刑がそうとうだといった。 今度は、赤い眼鏡をかけた大柄の戦闘家が立っていった。 王は、もともと気性のはげしい攻撃的な人間で、このままではまずいと、赤が思ったほどだった。それが攻めすぎるという周囲の意見を入れて、戦闘家ひとりがそうであるかのように振るまいはじめた。王は、自分がなく、人の言辞によってコロコロ人間性がかわる。人びとからよく思われたいとばかり考え、自身の一部を否定する。否認した部分もふくめて自分なのだから、みとめるなら大人の対応といえる。自身では不承認の一部も、現実にあるのなら、切りはなすなんてできない。宗教家になにかをいわれると、自分も万人への愛をもつ、崇高なヒューマニストみたいに思いはじめる。赤は、あのとき王をひっぱたくつもりで、説法者をなぐってやったと語った。 若い泣き女が立っていった。 帝王が、アスにたいして、ひどいことをしてきたのは、弁解の余地はないと思う。なかでも泣き女への行為は、非道そのものだ。空色は、王の監視をしていた。道に照らして恥ずべき行動をとったときには、なぜこんなことをやってしまったのかと、いっしょに悩んであげていた。泣き女は、帝王の良心で、慰め役だった。だから、王の秘密をすべて承知している。彼が、たくさんの人を傷つけたのを知る生き証人だ。王は、自分の行為から生じた事件を反省し、愚かさを認識し悲嘆に暮れる、その感情をすべて空色になすりつけ放棄した。帝王とは無関係として、泣き女だけに荷を負わせた。空色は、房のなかで、くりかえし思いだしたくもない事件を想起しているといった。そして、つづけた。 「思い起こしても仕方のない過去を考えつづけて、完全にノイローゼになってしまいました。毎日、耐えきれなくて慢性自殺の状態で、今朝も首をつってきました。私は、王を殺してやりたいとは思いません。おなじぐあいに房にとじこめ、私自身をかえして、ひとりで悩みつづけて欲しいと考えています。その望みだけで、今日まで生きてきたのです。そうしたら、明日から自殺しないですむかも知れません」 泣き女の主張は、つよく涙をさそった。アスは、おなじ気持ちになって泣き、ここまで生きてきた空色をたたえた。 つづけて紫のガウンをきた学者が立ちあがり、「それについては、私にも考えがあります」といった。 なにはともあれ、王は嘘つきだ。日記さえも、嘘をかいている。だれかにみられる事態を考え、都合のいい話ばかりを記述している。嘘も方便とはいうが、自分をみつめる日記は便宜的にかくものではない。注意を喚起していたら、真実の考え方が違うとして、問題を紫に転嫁した。空色は、王には良心がないといった。もっていないのは、それだけではない。王は、自分について考える必要があったのに、都合が悪い部分を人から指摘されると、解決を図ろうとはせず、案件そのものを隠匿してしまうのだ。隠したところは問題だから、いちばん大切なのに、意見する機構をとりさったのだ。紫は、その切りとられた部分を大事にもっている。それが、王にたいへんな不興をかっているのだと述べた。 最後に、長髪を首の後ろでしばったテロリストがいった。 帝王は、策略をつかって緑を追いだした。王は、低能で、どういう手段で仕返しをやり、人を貶めるのか分からず、いつもめそめそしていた。だから教えてやったが、緑が指導的立場につき見事に成功すると、逆に妬みをいだいた。王は、無闇に嫉妬ぶかい。自分ではなにもできないくせに、うまくやるとひどく妬ましく思い、成功するテロリストを怖いと考え、幽閉したのだ。 「王の誤りはあきらかだが、最後に弁明のときをあたえる。述べたいことがあれば、話すがいい」と緑はつげた。 王は、立ちあがり、八人のアスをみまわして、「話を聞き反省しています」といった。 たしかに自己中心的で、ひとりよがりだった。いうなら、自分の個人的な大切な情緒みたいなものを、ひとつひとつ隔離したのだった。だから、自身が成立するはずがなかった。自分の一部である以上、消せる道理はありえなかったのに、まわりにできるといわれたのを真にうけてしまった。隔離した当初は気分がよく快活になれたが、徐々に落ちこんだ。最後は外部の有力者に頼ったが、完全に失敗した。アスたち、諸機能ともよぶべき者が、とてつもなく発達し、はるかに自分をこえていった。アスがいう通り、彼はその部分ではあきらかに劣っていた。それは嫉妬というよりも、脅威だった。自分の機能を充実させ、いつかはひとりひとりと個別にむきあい、話しあうことによって和解するつもりだった。彼の予想をはるかにこえているのをみて、統合する自信をなくした。状況がそうであっても、まとめるのが使命だったから、成功せず無能だった事実をみとめる。しかし、アスを同等にあつかい、だれかを依怙贔屓することはなかった。彼の手に負えなくなったので、宗教家や医者に解決を依頼したが、あんなに強引にやるとは考えてもいなかった。彼らは、融和する方法があるといったから許可したのだ。 「アスは、面々とつづいてきたひとつの事相にすぎません。こんな風に私を逮捕し、殺害するのは決して解決にはつながりません。だれにとってもよい結果にはならず、べつの和解の道を模索するのが必要なのです。みなさんは復讐に燃えていますから、これ以上申しあげることはなく、甘んじて処分をうけいれる覚悟です。最後に、お慈悲をいただきたいのです。私は、オレンジとおなじ房に入れられるのだけは、いやです。ギロチンでもいいですから、公開処刑にしてください。私は、自己愛がつよかったのです。それでいて、自己がなんだか分からなかったのです。人からいわれたのが、自分だと信じてしまったのです。私は、王だったのです。名誉ある死を望みます。オレンジこそが、私の大嫌いな自己愛そのものなのです。帝王の最後の望みを聞いてください」 王は、涙を浮かべながら切々と懇願した。房の者たちの恨みはふかく、この弁明で帝王の処遇は決定した。王は、オレンジ房に連行され、なかに入れられた。性欲家の扉のまえには、帝王が二度とふたたびでてこられない頑丈な壁がつくられた。 王の処刑は、空色をいっそう苦しめることになった。 帝王の無念に共感するのではなく、抑圧者のいったんを担い、さばいた事実は泣き女をさらにふかく傷つけた。空色は、黄色に殺して欲しいと訴えた。ヒステリーから大型爆弾をわたされた泣き女は、房内で爆発させた。空色房は、完全に破壊された。 その後は、アナキストが予想した通りの展開が生じた。 テロリストは、自分が参謀になるからといって、黄色に、彼女を女王にする話をもちかけた。ヒステリーには安定という言葉がなく、緑は権力欲がつよく、所詮は王の一部で考えはひどく偏っていた。テロリストは、黄色に強力な爆弾をつくらせ秘密裏に陰謀をねった。 ヒステリーは、戦闘家に話があるといって扉をあけさせた。赤房に大型爆弾を投げこみ、扉口を押さえつづけた。房内で強力な爆弾が破裂し、戦闘家の房は壊滅した。 いっぽうアナキストは、テロリストのちかくでずっと待機した。緑が扉をあけた一瞬の隙に、バズーカをはなった。テロリストが吹き飛ぶと、アナキストは緑色の扉口にむかっておびただしい数の砲弾を撃ちこみ、緑房を徹底的に破壊した。 黄色は、この事態をみて観念し、大量の爆薬とともに房内で自爆した。 結局、アナキストと、学者と、私がのこった。 黒は、私たちが権力への意欲がなく、テロリストに荷担しなかったのをよく知っていた。 三人は、殺しあいにはならなかった。というより、私と紫は、殺されなかった。 黒は、バズーカ砲でのこった建造物をくりかえし破壊したので、王宮はみる影もなくなった。 扉があけはなしになったテロリストの房をのぞいてみると、がらんとし、決して果てしなくひろがってはいなかった。房内には、住む者のさまざまな思いがつまり、くみつくせないひとつの意識にかわり、無限に拡大していたのだと、私は理解した。 破壊されてはじめて分かったが、房が強力で堅固なのは、外部から身をまもるだけではなかった。内部の爆発が、外に波及しないためでもあった。強力な爆弾を破裂させても、はげしい機銃掃射をうけても、房の外壁がくずれることはまったくなかった。 回廊にでてみると、もともと宮殿が存在したところは、瓦礫がころがるだけの殺風景な場所にかわり果てていた。すべての建物が破壊され、王宮をとりまく壁のひとつものこっていなかった。 アナキストは、瓦礫をまえに愛用のバズーカをほうりすて、体育すわりになって自分の膝をかかえていた。憮然とした表情で、殺伐とかわった光景をみつめていた。 なにを考えているのか、さっぱり分からなかった。 私は、王宮が徹底的に破壊されたのをみて、すべてが終わった気がした。 以前、紫が話した通り、あらゆる要素がなくなった王国は、完全に荒廃していた。国が混沌とした状態だったのは、八房に住むアスが、それなりにかけがえのない、ひとつひとつの構成員だったからに違いなかった。 パイプにでて外部に通じる扉をあけ、荒涼とした沙漠をみていると、紫がそばによってきた。 「どうするつもりなんだ」 「この沙漠に、いってみたい」 「いくのは自由だが、人ではなくなるということだ」 会話をするのも最後だと思って、紫にパイプについて聞いてみた。 学者は、「それについては、私にも考えがある」と前置きしてから話しはじめた。 「おそらく、どこの房にもパイプはつき、となり同士がつながっているのだ。破壊された緑房にいってしらべてみたが、奥には緑の扉がふたつみつけられた。あけることはできなかったが、こことおなじで、となりとパイプでつながっているのだ。アナキストとテロリストは、表裏の関係で、隣りあわせなのだ。おまえと、となり同士なのも、ぐうぜんではない。私と似ているのだ。おまえは、アナキストとも、そっくりな部分があるのだ。ここは、似た者同士がゆっくりと語りあえる、たったひとつのところなのだ。そして、この場所にこれるのは、房を代表する者にかぎられるのだ」 「なぜ、ここが荒野につながっているのだ」 「おれとおまえには、必要だからだ。空色とのあいだにある扉がつながっているのは、荒野ではない。そこからは、寒々とした氷河がみえ、草一本茂っていなかった。ここに原野がひろがっているのは、おれたちのひとつの希望なのだ。だから荒野は、神がアダムとイヴのためにもうけた楽園、エデンともよばれている。世捨て人になるには、なにもない場所が必要なのだ。そうでないと、なにかをしてしまうからな。中国では隠者や仙人に、インドではサドゥーに、西洋では沙漠のアントニウスになるためだ。血は争えないのだな。まえのおまえも荒野にでていった。いくらかわっても、そういうタイプなのだな」 「まえとは、なんだ」 「前身がいなくなったあとに、おまえになった。いけば、青房にまたつぎがでてくる、それだけだ。夢想家には分からないのだろうが、黄色や空色がとった行為は正しい。そのときの自分が、のこりの自分たちをふくめて始末をすると決断しなければ、時間がすぎていくだけで、なにもかわることはない。 悲観的な哲学者がいっている。 すべてのものの根底にある意志は、自己実現する精神などでは決してない。盲目のひたすら増殖する、無目的の、我が身をずたずたに切りさく営みなのだ。なんらかの考えられたこと、意味ぶかいものにむけられた透徹性でもない。現実を支配しているのは、理性ではなく、こうした意志であると。 房とは、毎日、毎時間、自分自身をみつめつづける機構なのだ。自分とはなんなのか、徹底的にみさせられる。そこから逃れる術もみつけられない、ある種の地獄だ。どんなにいやでも、手立てもなく、ただみつめていなければならない場所だ。なにしろ、目にみえる全部が自分なのだから。それらをどうするのかは、房の主に決定権がある。決定できなければ、無用の者で、だらだらとおなじことがつづいていくだけだ」 「それでは、おまえは、どうなっているのだ」 「司馬遷の話をしたな」 こいつはまわりくどい講釈をはじめるつもりだ、と私は思った。 「話すのは、迷惑か」 私のいやそうな表情をみて、紫はたずねた。 「話したいのなら、聞いてやろう。おれという本人との、最後の会話になるのだろうからな」 ぜひ、話をさせて欲しいと、学者はいった。 「司馬遷が、史記をかきあげる以前のことだった。彼は、幼なじみを庇ったために武帝の怒りをかい、宮刑に処せられた。ひと思いに有無をいわせず刑が執行されたのならともかく、司馬遷のばあい、受刑するかどうかを、自分でえらぶことができた。罰金さえはらえば免れたが、支払えなかったから刑罰をうける事態になった。司馬遷には有力な一族も、ながいあいだ親しくつきあってきた友人もたくさんいた。しかし、帝に厭われ、宮刑を宣告された男に、だれも金などかしてくれなかった。自分は、幼なじみの旧い友人を庇ったのに、もっと親しい者たちは、みんなが彼をみすてたのだ。その不合理な現実を、司馬遷は骨身に染みるまで味わった。だから、彼は武帝を二重に恨んだ。その恨みにとりつかれながら、史記をかいた。彼は歴史を記述しながら王を恨み、つぎつぎとあらわれてくる怨恨の分身を自分で殺したのだ」 「なにかをつづけるとは、そういうことなのだ。私は、ここで起こった事件を、すべて記録としてのこしている。その途中で、こうなった事態をはげしく恨んでいるから、分裂して恨みの分身があらわれる。おまえたちといっしょに、さわぎたいと主張をはじめる。そんなことをしたら、記録は、かきつづけられないのだ。彼らが育ってきて、歩けるくらいになったら、私はペンをつき刺して毎日殺しているのだ。扉をでた、左がわをみてみるがいい。殺した死体が山とつまれている。おまえたちは、ずっと自分だと思っている。しかし、おまえが寝ているあいだに、あたらしい者と交代するのだ。私だけが、ずっと本人なのだ。ここには、ほんらい王宮があり、房状にアスの世界がとりまいている。私の考えでは、この構造がとうとつに出現したはずはないのだ。下部にもおなじ組織があって、そこの王国はうまく統合され成功したのだ。だから葡萄の房状に育って、うえにこの次元がうまれたのだ。うまく再統合されれば、上部にもあらたな王国ができるはずだったのに、王が無能で崩壊したから、房が分裂したままで荒廃してしまった。いつの日か、下部の階層から、ここが失敗した理由をしらべるために探索者がやってくる。次元をこえてくるほどの者だから、扉だって本人ではなくともあけられるに違いない。そのとき、彼らは私の房から壮大な史書を発見することになる。ここで過去に起こった出来事が、すべて記録としてのこされている。私は、それまで生きられるのかどうか分からない。ただ死ぬときには、記録をしっかり保管できる方法をとって、房を破壊してやろうと考えている」 「みかけによらず、おまえはロマンチックなのだな」と私はいった。 「似ているだろう」と紫は笑った。 それで私は、学者と別れて荒野を歩きはじめたのだった。 あとのことは、なにも知らない。 アス 、一三四枚、了