光に                           由布木 秀  役所は、石づくりの立派な三階だてで、大勢の職員が働くようにつくられていたが、実態はそうとはいえなかった。ビザの申請カウンターは、二階のいちばん奥まったところにあった。ふたりいる職員のひとりが布袋(ほてい)さまで、シゲルに三枚の申請書をつくらせた。顔中のいたるところに髭を生やした四〇代後半に思える、白いターバンに同色の制服をきたシークの小男は、腹が異様につきでて七福神の布袋にそっくりだった。もともとこの神さまはインド人だから、太鼓腹は古代から富の象徴だった。もちろん一〇ルピーも喜捨すれば、すぐに証明書がもらえるのは分かっていた。金をわたすつもりがなかったので、仰せにしたがい一日かけて、おなじ書類をかきなおした。男は、夕方になって申請書をようやく受け取り、「明日の九時にくれば証明書をやる」と不愛想につげた。  翌日、シゲルは九時まえに役所に出向き、門があくのを待って薄暗くてひんやりと感じられる屋内に入り、足音がひびく石づくりのひろい階段をあがり、いちばん奥のコーナーにいった。布袋さまはカウンターのそばにいて、仲間と談笑していた。彼が「証明書をもらいにきた」というと、男は「しばらく待っていろ」とぶっきら棒にいい自慢の髭を撫でた。そこでシゲルは、三時間待った。そのあいだに二度ほどカウンターにいき証明書を要求すると、男は「いまはいそがしい、もうすこし待て」と迷惑そうにくりかえした。  神さまが簡単に仕事なんかやらないのは、よく分かっていた。  手持ち無沙汰のシゲルがじっとみていると、男はチャイを飲んで同僚と談笑し、ふざけあい、ときどき自分をみつめる異邦人に不愉快そうな視線をなげかけた。正午になって柱時計が、アーチ状の天井がつくる馬鹿でかい空間に、ときを知らせはじめた。ひろい室内で 固い石壁にぶつかる「ボウオン」という音がひびいていた。彼は、仕方なく立ちあがりカウンターまでいくと、男は昼食の用意をはじめていた。 「まだなのかい」とシゲルは聞いた。 「やあミスター、これから昼休みでね」男は無愛想に答えた。  シゲルは、このままでは埒があかないことを理解した。 「なにもしないでいるが、おまえの仕事はなんなのか」と聞いた。 「ミスター。今日はいそがしいんだ」男は、目をそらして答えた。 「そういって、なにかがでてくるまで、待たせるつもりなんだな」 「昼休みなんだよ」男は面倒くさそうに顔をあげ、「どうしろっていうのだい」と聞きなおした。この国を知らない奴にはこまったものだと、目はつげていた。  そのときのシゲルは、感謝として一〇ルピーをあげたいという寛容な気持ちに、どうしてもなれなかった。金を払わねば、今日、書類はもらえないのだろうか。明日に、チップをやる羽目になるのだろうか。ビザの延長証明は、特別な書類ではなかった。  シゲルは、物事をはっきりさせるより手段がないと思った。 「上司をよべ」と彼がいうと、「あいにくだな。ヘッドも昼休みだ」と男は答えた。  シゲルは、大きく息を吸いこんで布袋をじっと睨みつけると、グッと腹に力を入れて、できるかぎりの大声をだして騒ぎはじめた。  いままでの穏やかな態度を一変させ、木製のカウンターを両手で思いきり叩いた。大きな音が、昼食をはじめようとしてざわめきはじめた室内に一瞬の静寂をもたらした。あたりがシンとなり、まわりの職員がいっせいにビザの申請コーナーをみた。そのときには大演説会がはじまり、声は石づくりの室内にひびきわたっていた。 「不誠実もいい加減にしろ。昨日、一日かけて書類をつくった。たった三枚の書式が決まった申請書だ。あんなつまらない書類をつくるのに、なぜ一日かかるんだ。おまえが、故意にそうしたからだ」  しゃべっているのは、だれも知らない日本語だった。申請書の意義からはじまり、公務員としての信条やあり方がつけ加えられた。シゲルは、両手でバンバンとカウンターを叩き怒鳴りつづけ、文章とするにはいささか不適切な文句をならび立てた。世界中のどこの国にもこうした文言があるはずで、内容より感情を表現している。シゲルが知っている英語は上品なクイーンズ・イングリッシュで、このレベルの話には不適切だった。彼は、思いつくさまざまな暴言を叫びつづけ、最後に、ちょうどそばにあった電話帳を両手でもって木製のカウンターに思いきり叩きつけると、「バアアン」という素晴らしい音がひびいて、周囲はいっそうの静寂が支配した。そのときには、まわりには幾重にも人垣ができていた。  男は、シゲルの豹変に驚いた。予期しなかった事態に表情はうって変わって真剣になり、いままでの馬鹿にした薄笑いもなくなっていた。眉間にふかい二本の皺をよせ、黒い顔面をひろく覆う頬髭を微かに揺らして立っていた。ぶつぶつとした細かい穴が浮きでる団子鼻の男は、口をあけて一歩もうごかずに、ぼうぜんと彼をみつめていた。となりにいた職員がシゲルにちかより、「静かにしてください。お願いします。サー・プリーズ」と懇願した。その職員がなにかを口早につげると、男は小走りに奥の部屋に入っていった。 「証明書」はつぎの瞬間、シゲルの目のまえにおかれていた。彼は、書面を取りあげ、裏をみて間違いのないことを確認した。それから小タオルを取りだし、額の汗をゆっくりとふいた。「見世物」がひとつ終わり、人垣をつくっていた職員たちは、みんな自分の席にもどり、つまらない事件はすべて忘れられ、昼ごはんがはじまった。 「暑い日だな」シゲルは、額の汗をぬぐいながら英語でいった。 「アッチャ」。布袋さまは、殊勝にもそう答えて首をかしげた。 「アッチャ」は、「分かった」でも「いいね」でもある肯定の言葉だった。首をかしげるのは、その気持ちを身体で表現したものだった。  シゲルは、もう三ヵ月この国にいられることになった。  南中時の太陽が、眩しく照りつづけていた。雲ひとつない真っ青な空の下でシゲルのいる場所だけが異様に黄色く、世界はぎらぎらと赤茶けてみえた。役所からチャーチゲートにむかう六車線の大通りは、死んだみたいに静かで、カラカラに乾燥し、ときおり車が白い煙をだしながら走りすぎていった。一瞬の排気音が去ると、世界はさらに静けさを増した。みえるもの、すべてが脂ぎり、サウナ風呂に変わっていた。すこし歩いただけでだらだらと汗がながれた。茂は、五メートルもあるひろい石畳の歩道をホテルにむかっていた。  そのとき、奇妙な者たちに遭遇した。  ふたりの子供だった。ひとりは、光をさえぎるものもない路上で胡坐をかき、歩道にぺたりとすわりこんでいた。痩せた一〇歳くらいの少女で、背までたれたながい髪はクチャクチャで、ピンクが完全に色あせたサリーに身をつつんでいた。通りすぎる人びとに避けられているふたりにちかよったシゲルを、彼女はこの国の人に特有な大きな瞳でじっとみつめた。もうひとりは、とても風変わりな格好をしていた。カラカラにやけた路上にぼろ布をしき、胡坐をかく娘の右膝に頭をのせて横たわっていた。色あせたぼろぼろのサリーが顔と上半身をかくしていたが、女であるのはすぐに分かった。  シゲルは、ふたりが姉妹だろうと思った。胡坐をかくのは姉で、サリーにまかれているのは妹なのだろうと勝手に想像した。ちかよると、少女は彼の瞳をじっとのぞきこんだ。小麦色のすらりと伸びた脚だった。ほそかったが皮膚はすべすべとし、へこんだ腹につづいていた。臍がでっぱっていた。乳房は、顔をかくした色あせたサリーに覆われ、みることができなかった。下半身は、つよい光にやかれていた。シゲルは、しゃがみこんだ。黒い両脚のつけ根にある縦の亀裂のまわりで、産毛がきらきらと金色に光っていた。  膨らみがない恥丘は、つよい日差しのなかでいっそうあらわに映った。  シゲルが小さな割れ目をみているのを確認すると、胡坐の娘が右手の指先でそこをひらいてみせてくれた。綺麗なピンクの色だった。 「アッチャ」シゲルが首を右にかしげて立ちあがると、胡坐の少女は左手を差しだし、手のひらを上にして、「一(エク)ルピー」といった。  綺麗な瞳だった。白い部分の縁が青色にちかくて、ふかい海の底を連想させた。ポケットから一ルピー紙幣を取りだして左の手のひらにのせると、少女はそれを反故同然のサリーのなかに押しこんだ。そして自分をみつめるシゲルをみて、白い歯をみせて笑った。あどけないかわいい笑顔で、思わず彼も首をかしげ笑いをかえした。  シゲルは、また、日がぎらぎらと照りつける道を歩きはじめた。チャーチゲートにちかづくと人通りは多くなり、レストランに入ってアイスクリーム入りのヨーグルトを注文した。  寸法がまったくあわない丈のみじかいシャツをつけた一〇歳くらいの男の子が、店の床をふいていた。アイスクリームの注文がきたので、真ん中に羽のついたモーターをまわすことになった。少年は電気の代わりで、タービンとつながる鉄の棒を、汗水をだらだらながしながら懸命に回転していた。まわし易くするために取っ手の部分がひろがっていたが、アイスクリーム一杯分の電力は容易ではなく、おなじくらいの男児の汗が必要だった。シゲルは、その様子をテーブルに肘をついてじっとみていた。やけるほどに暑かったが、直射の光を避けられたので部屋のなかは幾分か楽で、みあげると高い天井にプロペラ型の扇風機が無意味にまわっていた。 「日本人ですか」という言葉が、違うアクセントで聞こえた。  シゲルは、ゆっくりと顔をあげて声の主をみた。二〇歳くらいの黒い肌の青年が、ストライプのシャツをきて立っていた。服は汗の臭いがしみつき、よれよれになっていた。肩にかけられた航空会社の名前がついた汚れたバッグは、いかにも軽そうだった。シゲルは、様子を一瞥すると、男が立っているのと反対側の窓の外をみた。大通りをはさんで、石づくりのプリンス・オブ・ウエールズの美術館がみえた。青年は、テーブルのむかいにある椅子をひき、「かけてもいいか」とたずねた。その言葉で彼は、ふたたび頭をあげ暗い室内をみまわした。昼食時をすぎたレストランは空席が目だっていた。 「ノー」とシゲルは答えた。 「なぜ」男は、とがめていった。 「I don't need you」  青年は、シゲルのするどい視線にあきらめたらしかった。唾をはきすてる音が聞こえ、そのあとで光のなかにでていく男の後ろ姿が視界に入った。汗で背に貼りついたシャツは土色にみえた。もともとはあざやかな黄色で、彼の黒い肌によく似あったに違いなかった。  少年の汗と交換されたアイスクリームは甘く、口のなかで瞬く間にとけ、儚くきえていった。昼下がりのレストランは人もまばらで、テーブルをふたつくらいはさんで、腹のつきでた背のひくい男がカレーを食べていた。どんな生まれの職種集団(ジャーティ)であっても、この国の人びとは手で食事をする。右手は、神からあたえられた神聖で清らかなものだ。だから、なにかを口に入れるさいには右の手をつかう。左手は不浄で、排便の後始末はこちらの手指でする。だから、あの娘は右手で妹にさわり、左の手で金を受け取ったのだ。ふたりには元締めがいて、幾年かすれば売春宿に売られていくのだろう。つよい光が頭をよぎり、でてくる汗を小タオルでふいた。  シゲルは、ひとりの女性のことを思いだしていた。  その女は、ある駅の構内で詩集を売っていた。そこには、針金細工を販売する外国人や、ペンダントをあつかうヒッピーたちが店をひろげていた。彼らにまじって、女は店舗をひらいていた。大きな黒い布の上に、ガリ版ですった詩集が何号分かおいてあった。塾のアルバイトにいくつごうで、シゲルは週に何度かその駅を通った。そんなとき店に立ちより、彼女の本を買い、しゃがみこんで世間話をした。 「この、まえのー、どうー、だったあー」と女は聞いた。女性は四〇歳くらいにみえたが、年は知らなかった。背はひくく、髪はぼさぼさのオカッパで、右手と右足が不自由だった。シゲルは、「あの言葉には、なかなか含蓄があったよ」とか、「あそこの表現は、よかった」などと批評をした。  オカッパは話を聞いて、「なか、なかー、するどいわあー。あんたあー」といってほめてくれた。彼女の言葉は流暢ではなく、最後の語尾を伸ばし、力を入れて発音した。「うー」とか「たあー」とかいう音が、シゲルの脳裏に残った。なにかの話題で彼が医学生だと話すと、オカッパは昔の詩集を取りあげてペラペラとめくり、「かったいの服をきた、私」という一文を指し示し、「あんたあー。このー、意味、分かるー」と聞いた。  シゲルは、その言葉を知っていた。しかし、オカッパが「かったいの衣」で表現しようとしたものは、理解できなかった。 「分からない」とシゲルが答えると、「ヤブ医者ー。ほんとうにー、ヤブ、ばっかりー。なんだ、からあー」といって笑った。オカッパには歯がほとんどなかった。シゲルが苦笑して「学生なんだよ。それも勉強をしない。できの悪い」というと、「そう、よねえー。お金持ちのー、顔はー、してー、いないものおー」と答えた。 「金持ちの容貌って、どんなものなんだい」とシゲルは質問した。 「そんなー、こともー、分から、ないのおー」とオカッパはいった。  金持ちは、優しい顔をしていない。それは、一目で分かる。なによりも、はっきりとしたものだ。それが分からないなんて、信じられないと話した。 「あんたー、いいー、お医者さんにー、なって、ねえー」とオカッパはいった。 「考えておくよ」 「五体満足うー、なんだしいー。優しい、んだしいー」と真面目な表情でいった。  レストランの床を、褐色の肌をした一〇歳くらいの腕も脚もほそい少年が一生懸命こすっていた。手にもつ雑巾と交換してもいいと思えるズボンをはき、相撲取りが仕切る格好になって懸命にフロアをみがいていた。少年が額から汗をだらだらながしながら床をこするのをみながら、「この国は、不潔ではない」とシゲルは思った。ただ日本とは、衛生の観念がすこし違うだけだ。ぎらぎらとした光の国では、日に何度も水あびをしなくてはならない。上着も下着も、一日に幾度も取りかえる必要がある。しかし、すべての人にできるわけではない。それだけのことで、不潔とは意味あいが違う。  シゲルは、チャイを注文した。すわる場所から美術館と中央郵便局がみえた。便箋売り、切手の貼り屋、代書屋など、考えられるかぎりの出店が軒をならべていた。シゲルは、職種には切りがないことを教えてもらった。公園には、マッサージ士、耳かき屋、靴磨きが暮らしている。駅には赤帽、席取り屋、靴の修繕職人、水売り、髭剃り職人などなど、分化し専門化した職人がいたるところにいた。  そして、数え切れない物乞いをみた。黒ずんだ包帯をまいた男性が指のない手のひらをひろげ、「バクシーシ、お恵みを」と哀れにいった。丸太になった脚を重そうにひきずりながら、象皮病の男が手を差しのべて、じっとみつめていた。少女が、抱えた赤ん坊の口を指差し、「ミルクを買うお金を、バクシーシ」と大きな瞳でシゲルを凝視するのだった。大勢の不具者をみた。手首のない者。片腕の人。脚のない者。両脚ともうしなっている人。顔がやきただれた者。全身に火傷の痕がある人。激しい光のなかで、彼らは不具であることを誇示し、堂々と生きていた。杖をつき、いざり車にすわり、路上に寝そべって、一様に彼をじっとみつめ、「旦那(バブー)、バクシーシ」と口々に叫んでいた。  はじめて彼らをみたとき、シゲルは差し伸ばされた手に紙幣や硬貨をわたした。しかし、個人ではとても救えない人たちだった。どんな金持ちでも癒やすことができないほどの無数の人びとで、これは政治の問題で同情とは違う。いつしか、彼はそう考えていた。  子供のころ、山手線で白い服をまとった腕や脚のない人たちがいた情景をシゲルは思い起こした。激しい戦争があったのだ。日本は欧米と戦い、敗れた民衆は傷つき、心までむしばまれた。しかし、いつしか傷痍軍人たちは、電車のなかからいなくなった。政治家たちは、いつも真実を覆いかくそうとする。その意向によって、人びとはほんとうにみんな忘れてしまう。道端にも、多くの物乞いがいたはずだった。東京の下町で育ったシゲルは、子供のころゴミ箱をあさる人びとの姿をみた記憶があった。すべてが昔のものになり、日本人はみんな忘れてしまった。思いだしたくもない過去は、つごうよく忘却させる仕組みができていた。貧困は日本人とは無縁で、貧しいインドの人びととは、命の価値が違うのだと平気でいう。  拝まれ、叫ばれ、袖をひかれ、脚にすがられるにしたがい、シゲルは同情よりも不快感を覚えはじめた。なぜ、だったのだろう。  つかわれなくなった駅には、レプラの者たちが暮らしていた。屋根があれば雨をしのげるから、どこの駅舎もあばら骨が浮きでた子供たちであふれていた。一等車にのっていると、金持ちは彼らになにもあたえなかった。物乞いがちかづいてくると、左の腕を水平にまであげ、手の甲をみせて下から上にむかって二度、三度と、振った。しかし三等車にのる貧しい人びとは、食べ残したパンや飲み物をいつでも彼らにあたえていた。  シゲルは、最初にこの町からでたとき一等車の乗客だった。しかし、帰路は三等車だった。一等と三等は、八倍の値段の差があった。この町に帰ってくる列車は、丸二日間の旅程だった。シゲルは、車両のなかで所持するお金を全部、落としてしまった。トイレからでようとしたとき、ズボンのポケットにあった真四角の黒い財布がちょうど便器に落ちた。正方形の札入れは、目のまえで、まるい円筒の壁に水平になったまま、こつこつぶつかりながら見事に落下していった。便器は貯蔵型ではなく、線路にたれながす方式だった。シゲルは、列車のなかで気狂いになって騒いだ。ようやく車掌をみつけると一生懸命、事態を分かってもらおうとつとめた。しばらくして話を理解した乗務員が、車両のすみの紐を指していった。 「そのために、このロープがある。落としたお金が一〇〇〇ルピー、およそ三万円以上なら、列車をとめることができる。それが規則だ」  とめるには充分なお金が入っていたが、そんなことは知らなかった。落としてから一〇分以上はたっていて、車掌はそれ以上、なにもいわなかった。だれにも、どうすることもできなかった。  シゲルは、ぼうぜんとしていた。事態を理解し、連結されたつぎの車両にいってみると、紐はたれさがっていた。さらにすすむと、となりにもあった。そのつぎの車両にも紐は、ちゃんと備えられていた。  シゲルが悪かったのだ。この国はあらゆる場面を想定し、さまざまな対処の方法を考えてくれていたのに、知ろうもとせず、厚意を踏みにじった。まぎれもなくシゲル自身のせいで、責任を負わねばならなかった。シゲルは一日半、なにも食べられずにこの町に帰ってきた。そのとき、座席のちかくにいた家族が不運な出来事を知ってパンをあたえてくれたが、彼はそれを口にできなかった。かたくなに、そうした善意を拒絶した。なぜだったのだろうか。飢えたり、渇いたりするほうが、あたえられるより、増しに思えただけだった。彼は、もとめられた者にも金をやらなかったのだ。恵んでもらおうともしない自分が、施しをうける権利はないと思った。  シゲルは、腹をすかして列車に揺られながらオカッパの言葉を思いだしていた。  かったいという語彙は、室生犀星の詩にもでてきて、乞食を指していた。オカッパは教養があったから、このことも知っていたはずだった。「かったいの衣」とは、彼女が乞食をしていたって意味だろうか。自尊心のつよいオカッパが、いうはずがなかった。彼女はシゲルが医学生だと分かって、この言葉をなげかけた。彼は医学用語で、かったいが、ハンセン氏病、レプラを指すことを知っていた。あきらかに、この文脈でつかっていた。つまり彼女は、自分がレプラの衣をまとっているといったのだ。  シゲルは、「バブー、バクシーシ」という言葉には反応しなかったけれど、大道芸人たちには見物料を払った。蛇使い、腹話術師、笛ふき、猿使いなど。大道芸人は、シゲルの歩みをとめ、あたらしい感動をあたえてくれた。  マドラスから四〇〇キロほど南下したところに、チルチラパリという町があった。そこには、山の頂にきずかれたロックフォートというシヴァ神を祀る寺院がつくられていた。岩山にのぼると、町を一望できた。気狂いになって照りつける光のなかを半日彷徨って、シゲルはこの寺をみつけた。ずっと道を歩いてきて、ふっと顔をあげると、寺院がとおくの岩の上にみえた。それは、シゲルが不可触民(ダリッド)の住む部落の真ん中に立っていたときだった。筵を立てただけの小屋が両側にずっとつづき、どこから入りこんでしまったのだろうか。気づいたら、そこにいたのだった。掘っ立て小屋に住む人びとが、入り口からぞろぞろと蟻のように湧きでてきた。チャイニーズだかチベッタンだかも分からないシゲルを、珍しそうにじろじろとみつめていた。視線にたえかねて、ふと空をみあげたとき、ロックフォートがみえた。巨大な岩山はつよい光をあび、燦然とした輝きのなかにあって、ただただ神聖なものに映った。破壊の神、シヴァはヒンドゥーでもとくに人気をもち、男根(リンガ)はその象徴だった。天にむかってそびえる岩山の寺院は、シヴァ神のものにみえて、小一時間かけて山を目指した。  寺の入り口で、不思議な見世物をみた。四〇歳くらいの逞しい体躯の男性が路上で筵に寝そべっていた。男は、両脚が根元からなく、代わりに頑丈な腕と強靭な腹筋をもち、「起きあがり小法師」の運動をくりかえしていた。三〇度くらいまで勢いをつけて起きると、つぎの瞬間バタンと後ろにひっくりかえり、反動でまた起きあがった。その運動は、無意味にくりかえされているのだと思った。ぎらぎらと光がふりそそぐなかで、男は休むことなく起きあがりひっくりかえっていた。しばらくして、シゲルは気がついた。起きあがるとき、筵を叩くく手のひらがひとつのリズムをかなでていた。 「音楽家なんだ」とシゲルは思った。そして、その激しいリズムに聞き入った。両脚は、つけ根から見事に切断され、もりあがった肉芽組織と土色になった褌がみえた。男は光のなかでうごめき、股間のものはシヴァのリンガだった。見物人がいるのに気づくと得意になり、ますます激しく、いよいよつよく、そのリズムをくりかえした。臀部を支点として反復するみたこともない踊りは、シゲルをぼうぜんとさせた。彼は男性に歩みより、二ルピーの紙幣を差しだし、「アッチャ」といって首をかしげた。男はうごきをやめ、白い歯をみせて笑った。額からは、汗が滝になってながれ落ちていた。  ロックフォートに入ると、ひとりの年配の僧侶がシゲルのそばにきた。バラモンの痩せた男性で、瞳はすみ理知的にみえた。再生族の証しである聖紐(ウパナヤナ)をかけた男は、「ご案内しましょうか」と、なまりのないクイーンズ・イングリッシュでいった。ヒンドゥー教のなかで、バラモンは、もっとも高いヴァルナだ。僧侶、王侯、商人の上位三階級は再生族とよばれ、一本の紐を左肩から右腰にかけてつけている。それは、神から祝福されたものの証しとして、親から子供へとひきつがれる。  男は、三柱の神さまの話をした。破壊神、シヴァ神と、創造神、ブラフマー。そして、シヴァの破壊がやってくるまでこの世をささえるヴィシュヌの話だ。世界は、シヴァ神の撃滅から生まれる。  寺院はシャイヴァ派に属し、三神のなかでも最高の神としてシヴァを祀っていた。だから僧侶の話では、この世で起こるすべては、シヴァ神の意志だという。シヴァは、偉大で比類のない神だ。ヒマラヤのカイラーサ山に住み、ガンジスはそこからながれる。シヴァ神には、三人の妻がいる。パールヴァティーは、美しく貞淑でもっとも人気のあり、シヴァの最初の妻サティーが転生した女神だ。二番目の妻、カーリーは、女性の恐ろしさをあらわし、殺戮や破壊、それに時間、老いを象徴する。痩せた青黒い身体で、いつも手に生首をもっている。三人目の妻は、ドゥルガーといい、優雅で美しく、しかも恐るべき戦いの女神だ。母としての女性を表現している。  シゲルは、ベナレスでたくさんの絵画をみた。あわいパステルでかかれた、トラにまたがったドゥルガーは、両手に剣をもっていた。美しく勇壮で、つよく心をひかれた。  バラモンの僧は、三人の妻がじつはひとつの神であること。そもそもヒンドゥーの三柱とは、全一であり、神々も人びとも多くの顔や心をもち、かさなりあい積みあげられ、上にも下にも、かぎりなく連続している。そうしたすこしずつ違ったものが、果てしなくつづく層状の世界が、ヒンドゥー教だといった。  その話は、マドゥライでみた、ミーナークシー寺院を思い起こさせた。寺院の中心には沐浴場があり、そこをかこむ一一の楼門(ゴープラム)がつくられていた。なかでも最外部の四面に立つ門はきわだって高く、極彩色に描かれたさまざまな姿の神々が微塵の間隙もなく彫られていた。息苦しいと思えるほど、ぎっしりとつめこまれたゴープラムには、まさに神さまの上にも、下にも神が刻まれていた。  神々は、群像となってシゲルを圧倒した。バラモンの「層状の世界」という表現は、彼の心に素直に入りこんでいった。  僧侶は、ロックフォートを案内し、シヴァがこの寺院をつくれと命じ、多くの人びとがここでシヴァ神と、その眷属をみつけたことを一時間以上も説明してくれた。話がすべて終わったとき、「サンキュー、ベリーマッチ」と彼はいった。  痩せたバラモンは、じっとシゲルをみて、それから静かにつげた。 「Would you mind paying some money ?」  素晴らしいクイーンズ・イングリッシュだった。 「うっかりしました。お話に聞きほれてしまい、たいへん申しわけありませんでした」  シゲルは、バラモンに二ルピーの紙幣をわたした。僧は合掌して受け取り、「ナマステ」といった。それから、ふかい礼をした。 「ナマステ」は便利な言葉だ。「さようなら」でも、「こんにちは」でもある。「こんばんは」にも「ごきげんよう」にもなるし、「またの再会を」という場合にもつかう。「ナマステ」といえば物事にけじめがつく。それが、はじまりであっても、終わりであっても。  ニューデリーにも、脚のない音楽家がいた。シゲルは、その男にコンノート広場からデリーの駅にむかう路上で出会った。首都の中心部での客引き、販売行為にかんして官憲はうるさく、ときおり、いっせいの「清掃」がおこなわれた。警察の白いトラックをみつけると、路上の物乞いや食べ物売りたちは、あわてふためいて一目散に逃げた。逃げおくれたものは、なぐられ、車に押しこめられた。路地に入ると、ステッカーをみつけた。そこには、「REMEMBER POVERTY AND HUNGRY」とかかれていた。  スコールがふったあと、雲ひとつない空から、真夏の光がぎらぎらと照りつけていた。コンノート広場でマッサージ士に身体をもんでもらい、駅ちかくのホテルに帰る途中だった。そのとき、かつて聞いたことのない激しいタンブリンの音がひびいてきた。 「この男は、いったいどこからやってきたのだろう」  シゲルは、まず思った。五〇歳ちかくの、額にふかい皺が刻まれた黒い男性は、両脚が根元からなく、褌がわずかに部分を覆っているだけだった。男は、痩せた体躯を右に左にとくねらせながら、真っ青な空にむかって、右手でタンブリンを高々とかかげていた。激しくうちならし、そのひびきとともに芋虫になって前進していた。  タンブリン。すんだ音色。うきうきしてくる、タンブリン。情熱的でつよく激しい、どこか荘厳ですらある、あの素晴らしい太鼓。 「どこからきた」  シゲルは、男に歩みよるとたずねた。しかし、言葉はつうじなかった。男は、その代わり、シゲルの瞳をみいって懸命にタンブリンを鳴らした。「アッチャ」と彼はいい、二ルピーの紙幣を差しだした。男は、にっこり笑った。そして、左手でお金を鷲掴みにすると、いっそう高々とタンブリンをかかげた。  デリーにいたのは一週間だけだった。シゲルは、官憲が路上の人たちを一掃したのをみた日、駅にむかった。 「どこへでもいいから汽車にのろう」と思った。  ところがあいにくの大洪水で、鉄道は全線ずたずただった。日もとっぷりとくれ、ホテルをさがすのにはおそすぎた。それでもシゲルは幾軒かまわってみたが、どこも満室で、あいている宿屋は、東洋の若者だと知ると、とんでもない値段を要求した。払えない額ではなかったが、馬鹿ばかしく感じて、彼は駅の構内にいた。  そこは、人びとでごったかえし喧騒が支配していた。あらゆる場所に、さまざまなものがあり、なにもない空間はひとつも、みあたらなかった。どんなにわずかな地点でも見逃されず、人びとは思い思いに布をひろげ横たわっていた。構内の照明はぎらぎらと脂ぎった光を発し、その眩しさのなかで、たくさんの人たちがうごめいていた。彼らの大きな話し声や甲高い笑い声。喧嘩の叫び声や気狂いになって騒ぐラジオの音楽。デリーの街。この世のすべてが構内の一点に押しこめられ、それでいてどの人も自分の権利を声高に主張していた。  どんな空隙でも人びとは見逃すことなく、あらゆる柱には意味不明な紙が貼られていた。すべての壁には、わけの分からない「なにかが」あった。自分をみうしなってしまいそうな人びとの洪水のなかで、どの列車にのろうかと思案しながら、時刻表の貼られた看板をぼうっとながめていた。そのとき、「どこの人ですか」という綺麗な女の声が、背後で聞こえた。驚いて振りかえり、ひとりの女性の姿をみとめて、シゲルは息を飲んだ。ぎらぎらとした地獄の喧騒のなかに、天使が立っていた。ふかくすんだ大きな黒い瞳で、じっとシゲルをみつめる白いベールをかぶった女性は、間違いなく美人で魅力的だった。背中に純白の羽毛をもつ、若い尼僧だというのはすぐに分かった。 「I'm Japanese. I came from Japan」  答えると、彼女は笑った。白い健康そうな歯がみえて、ほんとうにおかしそうに一笑したのだった。シゲルが緊張しているのが、分かったのかも知れなかった。 「And then. What happen to ? 」  丸顔の優しそうな、ふっくらとした頬をみつめながらシゲルは聞いた。二〇歳前後で、背丈は一六〇くらいの均整のとれた体つきをしていた。電灯に照らしだされた白い衣が、シゲルのまえできらきらと眩しく光っていた。その心も、僧衣とおなじく一点の汚れもなく純白にみえた。彼女は、右の手のひらをだして、「両替してもらえますか」といいながら一ルピーの硬貨をみせた。 「もちろん喜んで」シゲルはポケットをさぐり、小銭をいそいで取りだすと、一〇〇パイサを勘定した。さまざまな貨幣のまじった硬貨を右の手のひらにのせ、「Are you happy ? 」と聞いた。すると彼女は思案気になり、シゲルの手をじっとみつめた。それからすこしこまった顔をして、「私は、五〇パイサが二枚ほしいのよ」といった。  彼女に、どんな理由があるのか分からなかった。 「ちょっと待っていてね。すぐに替えてきます。ご希望に添うことができます。でもそのあいだ、この荷物をみていてくださいね」  シゲルは自分の生活必需品がすべて入ったリュックを指して、若い尼僧にいった。  彼女は一瞬キョトンとし、それからうれしそうな表情で「もちろんいいわ」と答えた。  シゲルは売店にいき新聞を買い、五〇パイサを手に入れた。すこしのあいだだったが、もどってきたとき、おなじ場所に彼女が立っていてくれたのでうれしかった。それで五〇パイサを二枚わたし、一ルピー硬貨と交換した。 「ありがとう。ごきげんよう」  彼女は、信頼された喜びに微笑んで、シゲルが差しだした右手をつよくにぎりかえした。一〇メートルほど離れたところで、布をしいてすわっていた尼僧仲間のなかにもどり、なにかをしゃべると、みんなが笑って彼をみた。七、八人いたが、シゲルも笑いをかえした。  なにをしゃべっているのか、すこし気になった。賭けでもしたのだろうか。五〇パイサは、賭け金なのだろうか。彼は、色々空想した。どの子も綺麗で天使にみえた。今日、遭った嫌なことも、高値をふっかけられて、くたくたに疲れているのも、みんな忘れてしまった。五〇パイサの理由など、どうでもよかった。  シゲルは、あかるい気持ちになった。尼僧の茶目っ気は、彼にあたらしい力をひき起こした。煌々とした光と喧騒の支配するニューデリー駅の構内で、布を一枚しいて横になり、一夜をすごした。  ぎらぎらと光明が照りつけていた。アイスクリームのあとにチャイを飲むと、汗もでてすっきりとした。シゲルは、強烈な光のなかを二〇分ほどかけてホテルへと歩いた。そのあいだに物乞いたちや闇ドル買い、わけの分からないさまざまな人びとが彼の歩みをとめ、ひとときもひとりには、してくれなかった。最後にシゲルに声をかけたのは、ホテルのまえで暮らす物乞いだった。金髪の男で薄汚れていたが、もともとは肌の白いヨーロピアンだった。自国からここにやってきて、最後の金までつかい果たし、パスポートまでも替えたのだろう。それで、身も心もこの国の人になった。なにが、そうまでさせたのかは分からなかった。金髪の男は、浅黒い布をひろげて、胡坐をかいていた。シゲルの姿をみつけると、大声で叫んだ。 「バブー、バクシーシ」  その声でシゲルは、もう一度、金髪の青年をじっとみつめた。男は、ほとんど歯がなかった。噛みタバコをやると、歯牙がとけると聞いていた。金髪の歯は、いっぱいみてきた、この国の男たちのものだった。身体にはいちおう布がまかれていた。しかし大きな四肢を覆うには不充分で、腿から下はなく、肩から先の腕をかくすこともできなかった。上腕には、毛が生えていた。右の腕には、肘のあたりにできものがあり、がさがさで血が固まっていた。左脚もぶつぶつし、かきむしった痕になり、一部は膿んでいた。みえる腕も脚も、すっかりほそくなっていた。男のまえには、素焼きの小さい「チャイ・カップ」がおかれていた。なかには、なにも入ってはいなかった。シゲルは、再度、男の顔をまじまじとみた。瞳は青で、汚れてはいたが間違いなく白人だった。フレンチだと確認して立ちさろうとすると、男はもう一度大きく叫んだ。 「バブー、バクシーシ」  その声は、ひときわ大きくシゲルには聞こえた。みえるかぎりの世界にひびきわたり、幾度も木霊していた。シゲルは、「ペッ」と路上に唾をはいた。その仕草をみて、男は笑った。歯はすべてがとろけ、口中が真っ赤な噛みタバコの色をしていた。顎も、すっかり痩せていた。もうすぐ死ぬのだろうな、とシゲルは思った。  それも、奴の悟りなのだろう。  その年の一〇月、シゲルは日本に帰ってきた。また塾でアルバイトをはじめ、小学生や中学生に勉強を教えた。自分は、以前となにも変わっていないように思った。  師走の夜の六時すぎ、寒い風が「ビィウン、ビュウン」と吹き抜ける駅のまえで、なかなかこないバスを待っていたとき、シゲルはひとりの女性をみかけた。二五、六歳の女は、「歳末助けあい」とかかれた白色の木箱を首にかけて、街のあかりに照らされ、路上に「ぽつねん」と立っていた。薄手の茶のコートに身をつつみ、師走の木枯らしがふきすさぶ都会の冬景色のなか、髪をポニーテールにまとめ、マフラーもない白い項があらわで寒々とみえた。シゲルは、何気なく彼女にちかづいていた。目鼻立ちがととのった女性は、ルージュとともに頬にはあわく紅がぬられ、目にはアイシャドーがひかれていた。白い箱をつるすほそい項は、魅力的で後れ毛がみえた。  不意に彼女は、顔をあげてシゲルをみた。ながめていた自分に気がついてドキッとした彼は、咄嗟にポケットに手をつっこみ、最初に触れた硬貨を木箱に入れた。「チャリーン」という、お金のぶつかりあう音がひびいた。そのひびきは、シゲルにとても嫌な気持ちを起こさせた。教会名の入った腕章をつけた女は、音に反射的にお辞儀をして、「ご協力、ありがとうございます」と大きな声をだした。  シゲルは違和感を覚えた。ひと言では、表現できないものだった。 「なにがありがたいの。いったい、あなたは。なにを、ありがたいっていっているの」  それは、あきらかに非難する口調で、自分がなぜ、そんなことをいいだしたのか分からなかった。教会の女は、さらに不明だったのだろう。意味不明の中傷に驚いて、目のまえの男の意図を推しはかった。 「なんでしょうか」彼女は笑みを浮かべながら、穏やかに聞いた。 「あなたは、なにに対して礼をいったんですか。ぼくは、それを聞いたんです」 「年の瀬をむかえて、こまっている人たちのために、あなたが協力してくれたからです」 「でも、それが当然の行為なら、ありがとうは必要ないでしょう。おかしいです」 「そんなことはありません。すべての人が協力してくれるわけではありません。あなたの行為は、ありがたいものなんです」 「でも、それじゃ、まるで物乞いみたいです」シゲルは、思わずいった。 「なんですか。物乞い、ですか」彼女は予想外の言葉に驚いて、ひどく怪訝な顔をした。 「どうか、なさっているのじゃありませんか。なぜ感謝の言葉が、乞食なんですか。変なのは、あなたではありませんか」  教会の女は睨んだ。シゲルが両手で頭をおさえているのに気づくと、「おぐあいが悪いんじゃありませんか」と今度は優しく聞いた。 「変なんです。うまくいえないけど。ありがとうなんていうのは、おかしいんです」 「そんなことはありません。人に恵みを施すのは、だれにでもできる行為ではありません。それをすすんでなさるのは、とてもありがたいんですよ」女は、さとす口調でいった。 「そうじゃないんです。あなたは、思いあがっているんです。ありがたい、なんていう権利は、もっていないと思うんです」 「感謝が悪いなんて、聞いたことがないわ。なにをいっているの。やっぱり、あんた、おかしいわ。人間は、ひとりでは生きられないんです。いつでも、いまこうしていられることを、神に感謝する必要があるわ」と女はいった。 「だから、思いあがっているんです。人間は、人に感謝してやれるほど、偉いはずがないんです」シゲルは、語気がつよまっているのに気がついた。 「ずいぶん、おかしなことをいっているわね。はじめから最後まで、考えかたがおかしいわ。あなた、けちをつけようとしているのね」 「おかしいかも知れません。でも、ありがとうなんていう必要があるんでしょうか。あなたは、この師走の寒い路地に立って募金活動をし、正当な対価を獲得したにすぎないんです。だから募金をえられても、だまっていればいいんです。こうした歳末助けあいなんていう運動は、そもそも傲慢で、問題を覆いかくしているんではありませんか。あなたたちの善意は、論点を隠蔽し、あきらかにしなければならない課題を奈落の底にしずめているんではありませんか」 「いったい、傲慢てなんですか。あなたが一〇〇円を寄付したことと、どういう関係があるんですか。なんで寄付行為をしたんですか。はじめから文句をつけようと思って、こんなことをやったんですね。最低ですね。あなたなんかは、こんな寄付をする資格、そのものがないのよ。不愉快だわ。たった一〇〇円で、なにをいっているのよ。だれも感謝なんてしないわよ。たった一〇〇円、こんなものかえすわ。だれも感謝なんてしないわ」女は、ヒステリックにいった。 「たしかにぼくには、資格がないかも知れません。でも、ぼくらがやるべきことは、違うんです。こんな風に、問題をうやむやにするのではないんです。恵むのではありません。 インドの人たちだって、みんな働いていたのです。なにもやらないで、ぼうっと立って、お金を恵んでもらうのは、乞食だけでした。だれもが、懸命に仕事をしていたのです。それは、感動的なほどでした。ぼくらがしなければならないのは、みんなが正当な代価をえられる、一生懸命、働ける職場をあたえることなんです」  教会の女は、シゲルの提起する問題は歳末助けあいと無関係で、政治の話だといった。すべてが因縁づけで、迷惑だと語気をつよめ、目をつりあげて彼を睨みつけた。  シゲルは、貧しい人に多くのものをあたえたいのなら、寄付をつのるより、働くほうがいいのではないかといった。 「どうかしているんじゃないの。私たちは、みなさんにこうした善意を施せる場所をあたえているのよ。それは、なによりも尊いことよ。神の代理人みたいなものよ。私の行為は、善意よりも、さらに崇高な神さまの意志なのよ。迷惑だわ、人をよぶわよ」  シゲルは、寄付行為によって善を施したと考えるのはおかしい。こうした行為で、善人にはなれない。さらに、善をおこなう場を提供しているという話は、思いあがりではないかといった。  女は、シゲルの言葉に完全に怒った。彼には、そもそも寄付行為をする資格がない。お金をかえすから、この場から立ちされといった。女は叫ぶと、周囲にできた人の輪にむかって、シゲルの不道徳な考えについて大声で説明した。文句をつけるために、たった一〇〇円を寄付した。善意が、ある振りをした。募金活動にけちをつけるために、シゲルが一〇〇円を募金箱に入れたのだと、彼女は興奮して叫んでいた。そして、「こんなことなら、このまま通りすぎていく人のほうが、ずっと善意にあふれている」といった。  シゲルは、教会の女性が硬貨を差しだすのをみて、駅にむかって歩いた。女が彼になげたのだろう、背後で一〇〇円玉が路上にあたるチャリーンという高い音がひびいた。  シゲルは、いく先を変え、山手線にあてもなくのった。列車に揺られながら、駅の構内で詩集を売るオカッパに一年間、会っていないことを思いだした。一年まえの師走、シゲルは彼女のあたらしい本を買った。その詩集には、赤ん坊のことがかいてあった。 「子供をうんだの」 「そうー、よおー」  オカッパは、満面に笑みをたたえて答えた。 「あたしー、こんな風にー、脳性、麻痺、だしー、あたしのー、旦那もー、そう、なのよおー。だから、ずっとー。すごくー、怖、かった、のよおー」  オカッパは、生まれた子供に障害がなく、元気なのだと懸命に話した。それから、大きく口をひろげて笑った。彼女には、ほとんど歯がなかった。言葉も流暢ではなかった。笑い声は、歯がないために「フォアー。フアー。フォアー」と空気がもれる音がした。  笑いかたが面白いと、シゲルはいった。  オカッパは、さらにフォアー。フアー。フォアーと笑った。  そのときシゲルは、詩集を売っている女を、はじめてみた気がした。年は三二、三歳で、顔には艶がなく痩せこけていた。背もひくく、口のまわりにはたくさんの小さな皺が刻まれ、髪の毛はオカッパでみじかかった。髪も艶はなかったが、汚れてはいなかった。黒い服に、同系色のコートをきていた。笑うと、右の首の筋肉がひきつれて揺れていた。親子三人でとった写真を、オカッパはシゲルにみせた。元気そうな赤ん坊だった。それは師走の寒い日で、構内を北風が「ビィウン、ビュウン」と吹き抜けていた。 「帝王、切開でー、赤ちゃん、うんだー、のよおー。だからー。こうー、寒いとー、傷がー、痛い、のよおー」  オカッパは、こぼした。 「今日は、冷えるもんね。この商売もたいへんだよね」  シゲルの言葉を聞いて、オカッパは、また「フォアー。フアー。フォアー」と笑った。  その笑い顔をみたとき、彼女の後ろの柱にステッカーが貼られているのに気がついた。 「うるさいのかい、ここは」シゲルは、掲示を指してオカッパにたずねた。そこには大きな字で、「構内での物売りを、固く禁じる」とかかれていた。  オカッパは、駅員がしつこく追いだそうとするといった。ここで商売ができないと、生けていけない。だれも、彼女を雇ってはくれない。障害者の労働意欲が高いことが立証されても、彼女たちが債務責任に乏しいという理由で雇用が成立しない。 「でもー、あたしー。立ち、退かないー、のよおー。ここでー。商売、できないとー、あたしー。生けてー、いけー、ないもんねー。問題はー、あたし、たちがー。絶対にー、もってー、いないー、さいむう、せきにいん、なのよおー。施設なんてー。真っ平、よおー。生ける、のはー。あたしのー、権利、よおー。どんなー、人間だってー。それをー、うばう、なんてー、できない、のよおー。あたしー、戦う、ん、だからあー」  オカッパは、「フォアー。フアー。フォアー」とまたおかしそうに声を発した。駅のひろい構内は、彼女の晴れ舞台だった。スポットライトをあびたオカッパは、光っていた。  太陽がぎらぎらと照っていた国で、たくさんの「かったい」をみた。 「オカッパは、人には触れてもらえない存在だった」 「あの言葉の意味が分かったよ」 「あなたは、素晴らしい詩人だよ」  シゲルは、そう、つたえたかった。彼は、駅でおり、オカッパの仕事場へとむかった。しかし、彼女の姿は、そこになかった。 「休みかな」とシゲルは、はじめそう思った。  師走の駅の構内は、大勢の人がいて、みんな、いそぎ足で通りすぎていた。そこで、シゲルは気がついた。ぐるりとあたりをみまわすと、針金細工の外国人も、ペンダント売りのヒッピーも、だれひとりいなかった。駅の構内は寂しく整然とし、柱には貼り紙の一枚もなかった。シゲルは、両手をポケットに入れて立っていた。北風が「ビィウン、ビュウン」と吹き抜けていた。ぼんやりとつっ立つ彼のまえを、たくさんの人たちが早足で通りすぎていた。どの人も、あざやかな色、最新のコートに身をつつんで、ピカピカの靴をはいていた。  彼らは、無表情で黙々と歩いていた。歩みをとめる者は、だれもいなかった。北風が構内を吹き抜けていた。シゲルは、通りすぎていく人びとをぼうぜんとながめていた。そのとき、彼の心になにかがこみあげてきた。それは、ひと言では表現できないものだった。  叫びたい。なんでもいいから、絶叫したい。この人たちのながれを、一秒でも、とめたい。  それは言葉ではなく、ひとつの感情だった。シゲルはその気持ちを飲みこんで、ポケットに両手を入れて行き交う人びとをみていた。彼が駅の構内をあとに師走の街にでると、歩道にはたくさんの人がいて、ざわざわし、道路は車で渋滞していた。ヘッドライトのあかりが目に入り、街灯が密生していた。頭をあげて空をみると、数え切れないほどのネオンがぎらぎらし、眩しく、昼間のようにあかるかった。  しかし、それは、光ってはいなかった。                                                        光に、五二枚、了