青い女 由布木 秀 夜になると女はやってきた。闇に覆われた世界のなかで、ぼくは、たまらず口づけし、荒々しく衣服をはいだ。はげしく、たがいの舌を吸いあった。乳房にふれ、乳首をつまみ、撫で、口でふくむ。そして、彼女の身体のいたる部分をまさぐりつづけた。軟体動物のような女は、身をくねらせて悦楽の叫びをあげ、感応し、狂ったように悶えると闇のなかに輝きを灯した。春雷が鳴りひびく。深夜のアパートは、ぼくたちの狂宴なかで世界から孤立していた。すっぽりとすべてを覆いつくす闇と、二重に閉じられた窓ガラスをこえてやってくる執拗で淫靡なつよい潮の薫りにつつまれていた。耳をすませば、寄せる波の青い音が聞こえた。女は、謎につつまれていた。どこからきたのか、なにが目的なのか、名前すら知らなかった。そうしたものを、もつ者なのかも定かではなかった。ただ青黒い闇のなかで青く光る裸身は、愛撫をうけて歓喜の声を高らかにあげた。ぼくは、彼女に酔いしれていた。それが、すべてだった。美しい女は、ぼくを、悩殺のなかでまどろませた。そして春霞のように幻惑すると、青色のときを翻弄させながら青い空に浮かぶ白い朝靄とともに消えていった。 こんな夜を、いったい幾晩くりかえしただろう。ぼくは、彼女に永劫にだきしめられていたかった。だれにも邪魔されずに青い世界を堪能し、そのなかで朽ち果ててしまいたかった。それが望みのすべてだった。いつ女がやってくるのか、知らなかった。毎晩、ぼくはただ彼女を待っていた。四時になると小さな漁村にあるたった一軒の銭湯にいき、いちばん風呂で思う存分手足を伸ばしながら青く光る女のことばかしを考えていた。外にでると、柔らかく頬をうつ潮風が湯あがりの髪を揺らしていった。夕暮れをむかえ、人をうしなった砂浜から白い海鳥が虚空に浮かぶ青い海をみていた。漁師の舟は朝でかけると午後にはもどってきたから、そこにはとおい島影しかみえなかった。侘しい村は住む人もすくなく、通りには魚と肉と野菜を売る店がいくつかならんで立っていた。 寝床のうえで、ぼくは女とときどき話をした。彼女については、なにもたずねなかった。知りたいことはひとつもなく、事実が分かるのは怖かった。彼女は、いくつか質問した。ぼくは、できるかぎり正直に答えた。いまの状況にいたる物語だったが、だれの興味をひくものではなかった。あとは、好きな食べ物や小説。お気に入りの作家や風景。大好きな演劇や絵画などの話だった。 「どんな映画が好きなの」と女は聞いた。 それで、ぼくは嵐が丘の話をした。 原作は、エミリー・ブロンテの、Wuthering Heights という。作者は、一八〇〇年の初頭に英国にうまれた女性で、三〇歳くらいでこの物語をかいて死んだ。日本語訳もでているけれど、書籍を読んだことはない。原作は、時間設定などが煩雑で錯綜しているといわれる。それに比べて、映画はずっとよく構成されているらしい。幾度も映画化されたが、ローレンス・オリビエが主演した作品がいちばんよかったと話した。 「どんな物語なの」と彼女は聞いた。 それで、ぼくは思いつくままに話をした。原作も知らないし、土地も場所も違っていただろう。固有名詞も正しいのか分からなかったが、脳裏にのこっていた話をした。 英国の中部、マンチェスターの西部に樹木も育たない荒地がひろがっていた。そこでは、いつでもつよい風が吹き、香水の原料になる野生のヒースだけが生えていた。その土地に、地主のアーンショウ一家が住んでいた。母親ははやくに死んだが、幼い息子ヒンドリーと、娘キャシーが幾人かの召し使いといっしょに暮らしていた。ある日、父親が仕事先のリバプールから帰ってくる。そのとき、港町の路地でひろった混血の男の子をつれてくる。父親は、子供を養子とし、ヒースクリフと名づけた。アーンショウは、三人を分け隔てなく可愛がった。兄のヒンドリーは、父の愛が奪われたことに嫉妬し、ヒースクリフを虐める。妹のキャシーは、混血で身寄りのない彼に同情する。嵐が丘でヒースの香りにつつまれながら、ふたりは豊かな子供時代をすごした。やがてヒースクリフとキャシーは成長し、たがいにつよい愛情を育んでいった。孤児だった彼にとって、彼女は女神だった。父親が死ぬとヒンドリーが主人になり、ヒースクリフを召し使いにおとしめた。キャシーは、抗議するが兄を意固地にさせただけだった。彼女は、嵐が丘にいるかぎりヒースクリフとは結ばれないことを知り、この地をすてて出ていけとつげる。金持ちになって、むかえにきて欲しいとくりかえし懇願する。しかし、彼はキャシーのそばをはなれられなかった。兄のヒンドリーは不幸が重なり自暴自棄になり、やがてアーンショウの家は落ちぶれていく。兄妹三人の生活は、暗澹としたものにかわる。 隣家のリントン家に、エドガーという若い男性が暮らしていた。彼は、金持ちでやさしく上品で節度をもった素敵な紳士だった。エドガーは、美しく育ったキャシーに恋をする。彼女は、あかるく華やかなリントン家に憧れをもつ。素晴らしい紳士、エドガーから求愛をうけたキャシーは、どうしていいのか分からなくなり、将来を考えて懊悩する。ヒースクリフは、彼女に裏切られたと思って家をでる。彼が去ると、キャシーはエドガーと結婚して幸せに暮らす。 幾年かして、ヒースクリフは大金持ちになって嵐が丘にもどってくる。ヒンドリーは、酒と賭博で完全に身を持ちくずしていた。ヒースクリフは、兄の負債を払って嵐が丘の主人にかわり、キャシーに愛を囁きつづける。彼女は、エドガーとの板挟みに耐えられず、やがて心の病から大病になり危篤状態に落ち入る。 ヒースクリフは、リントン家に忍びこみ、キャシーの臨終に立ちあう。死ぬと、彼女をだいて窓をあけはなち、ふたりが愛を育んだ嵐が丘をみせながら絶叫する。 「生きているあいだ、おまえは人の妻だった。いま、あなたは死んだのだ。だから、もうぼくひとりのものだ」 ヒースのつよい匂いが、ふたりをつつみこむ。 「ロマンチックね」と女はいった。 「そうだね」とぼくが答えると、彼女はつづけた。 「でも、幸せになれないパターンね。未練がありすぎるから。整理が必要だわ」 「幸せになれなくても、かまわない。執着心をとことんもちつづけるのも、それもひとつの人生ではないの」 「そうかも知れない」と女はいった。 それから、ぼくたちはまた愛しあった。 二〇歳のときだった。 ぼくは、三月のなかごろ、小さな漁村にこしてきた。そのころはまだ風は冷たく、海は凍った藍色をしていた。住んでいた平屋の一軒家は、台所がついた二間だった。それが三世帯分つくられていた。ぼくは、いちばん海側の部屋を貸してもらっていた。とはいっても、ほかにはだれも住んでいなかったから夜はとても静かだった。窓からは、暗闇に覆われた日本海がみえた。海側には外灯が一本もなかったから、部屋の電気を消してしまえば、ひたひたと寄せる青黒い海の影が漂っているだけだった。ときどき、漁り火がみえた。満ちた月がでれば闇はうすくなったが、すべてが識別できるほどではなかった。弱い光に浮かぶ波浪の青い音を聞き、どうさえぎっても入ってくる潮の香りを感じながら、ゆらゆらと揺れる青黒い海をみて暮らしていた。四月になっても波は雪のように白く、裏の山々は冬枯れていた。山桜がさき、ピンクの花弁を散らすと、裏山は春の息吹に染まりはじめた。そんなある晩、彼女はやってきた。 深夜、室内灯を消し、ひくい三日月が照らす青黒い海をみつめていた。そのとき、ふと気がつくと、女がぼくのベッドに腰をおろしていた。同い年くらいで、ながい豊かな黒髪を胸までたらした細身の女性だった。彼女は、服をぬぐと猫のように四つん這いになり、腕と脚を交互に伸ばして屈伸の運動をした。張っ切った乳房と、艶めかしいまるい臀部がみえた。女の裸身は、青黒い闇のなかで青く光っていた。ぼくはちかより、柔らかい肌にふれた。彼女の反応のひとつひとつに狂喜し、感嘆しながら、この世のすべてを忘れた。 それから週に一度か二度、女はぼくの部屋におとずれた。どこからきたのかは、知らなかった。なぜここにいるのかは、聞かなかった。ただ彼女は挑発し、すべてを奪いとろうとしていた。しかし残念なほど、ぼくはなにももってはいなかった。唯一の財産は、二〇歳の若さだった。ぼくは、それを狂おしいほど呪っていた。彼女は、命を奪い、生きる力をぬきとろうとしているのだろうと思った。ぼくは、そう信じていた。女は、夢魔とか淫魔とかよばれるものだったのだろうか。それでも、かまわなかった。ぼくのまえにあらわれるときに二〇歳の美しい女性でいてさえくれれば、文句はなかった。暗いなかでみる彼女の横顔は、端整だった。ほそくしなやかで、可憐な姿をしていた。実体がなんであろうと、ぼくにはよかった。彼女は、いつも闇のなかでおとずれた。青白い月のあかりしかなかったし、満月のときにはこなかった。室内灯をつけるのは怖かった。もちろん弾む肌やながい髪、湿った唇、身体から漂う狂おしいほどの海の薫り。高く張りのある綺麗な声。すくなくともいま、若くて美しい女の姿だったのは分かった。あかりをつけたら、もう二度とあらわないかも知れないという思いが、ぼくを押しとどめていた。それに、もしかしたら海の妖精かも知れなかった。ひなびて侘しい漁村だったが、日本海のちかくだった。ぼくは、なにも知りたいとも思わず、女を待っていた。彼女は、あきらかに精気をぬきとっていた。だから日中は眠りこけ、夕方に起きだし、いちばん風呂に入って裸身が青く光る女のことばかり考えつづけた。深夜になると部屋の電気を消し、ぼくはひたひたと押しよせる青黒い海をみつめて待っていた。 春とともにやってきた喜びは、夏に入ってもつづいていた。やがて盛夏がおとずれた。浜が海水浴客で賑わうようになると、彼女はこなくなった。それまで、ぼくらはうまくやっていた。彼女が精気を望んでいるなら、できるかぎりあたえたいと思った。ぼくは、女にまたきてもらいたいとばかり考えていた。ほかの望みは、なにもなかった。だから、困るような質問もしなかった。ぼくは、漁村が騒がしくなったのを呪いながらテントから出入りする人たちや、キャンプファイヤーの疎ましい炎をながめていた。もう、きてはくれないのだろうか。なにか、気に染まないことをしたのだろうか。だれか、ほかの男をみつけたのかだろうか。そう思いながら、一晩中、彼女のことを考え、待ちつづけていた。八月も終わり、浜辺には秋がやってきた。空と海が透明にもどって、清々しい風が湿った大気を吹き飛ばしていった。太陽が、高い天からすき通った青い光線を投げかけはじめた。 九月に入ったある日、彼女はやってきた。ベッドのうえで、また猫のように姿態をくねらした。待ちかねていたぼくは、彼女に口づけした。だきしめ、身体のどの部分にも愛しているとつげた。青い女は、その思いをすべてうけとめ、快楽の頂きにのぼりつめた。ぼくらは、くりかえしおなじ道を行き来した。 「寂しかったか」と女は聞いた。 「気が狂いそうだった」とぼくは答えた。 なにをしていたかと聞かれた。またきてくれると信じて待っていたと、ぼくは答えた。それからは、週に一回くらいの頻度で彼女はおとずれた。ぼくは、日中は休み、夜に備えた。ときどきぼくらはおしゃべりをしたが、些末なことだった。 北国の秋ははやい。裏山の木々が色をかえるよりまえに、海は青白い冬の装いをみせはじめていた。秋もふかまったころ、女はまたやってきていた。ぼくは、彼女の唇を奪い、息もできないはげしい口づけをした。乳房を撫でた指は、つづいている部分をくまなくなぞりはじめた。もう彼女がなにを感じるのかも分かっていた。拙いものではあったのだろうが、どうしたらいいのかも知っていた。ぼくはできるかぎりやさしく丁寧に身体をまさぐり愛撫して、唇を這わせた。ぼくらは、陶酔のなかで愛しあった。 ベッドで横になったとき女が聞いた。 「いつまで、こうしているのか」 「いつまででもいい」とぼくは答えた。 もう寒くなったと女はいった。石油ストーブの赤い炎が、彼女の横顔を染めていた。 「いつまでもは、これない」 「なぜ」 女は、ぼくにでていくべきだといった。躊躇い、だまっているとつづけた。 「ヒースクリフは、ずっと嵐が丘にいつづけることはできなかった。そこは、熱狂的な思い出とヒースの香りには満ちていたのでしょうけれど、それだけでは結婚できなかった。彼が下男のままで、彼女をえることはできないわ」 「キャシーが正しかったの」とぼくは聞いた。 「もしほんとうに愛していたのならば、外にでて金持ちになり、むかえにこなければならなかった。そうつげて、彼女を信じて、待っていてくれるように頼むしかないわ。違うの」 「キャシーは、信じてくれただろうか」 「愛していればね。そうでなければ、仕方がないわ。待っていてくれなければ、そんなキャシーのことは忘れるべきだわ。ヒースクリフは、勝手でわがままなだけでしょう。もしかしたら、卑怯で残忍かも知れない」 「そうだね。でも、彼も可愛そうだ」 「キャシーの愛を信じることができなければ仕方がないでしょう。でも、ヒースクリフはそうしなかった」 ぼくは、だまっていた。すると、女はまたいった。 「あなたは、私を信じていられるかしら。どうなの」 「分からない」とぼくは答えた。 「私は、なにもいわなかった。聞かれもしなかったから。でも、あなたは知っている。私が何もので、どうしてここにいるのか。あなたは、うしなうことばかりを怖れている。でも、思いだして。臆病者のヒースクリフは、なにもえることができなかった。無慈悲で不幸を拡散しただけだったわ。彼は、キャシーの愛を信じなかった。卑屈な奴隷根性で、ずっと下男のままだった。それなのに未練がましく、世の中に八つ当たりした。それほど愛していたのならば、もっとべつの方法があったはずだわ。違うの」 「どうしたらいいのだろう。ぼくには、分からない」 「私を、ほんとうに欲しいのならば、心から自分のものにしたいのならば、ここにいても仕方がないわ。あなたは、やりなおさなければならない」 「どんなふうに」 「大学を、やりなおしたらどう。うけなおして。ここにいても、未来がないわ。お願い、私をむかえにきて。待っていることを信じて。あなたに、できるの」 ぼくは、だまっていた。しばらくすると、彼女は口づけしてくれた。ぼくらは、もう一度身体をあわせた。 「私が待っていることを信じて。むかえにきて」 青い女はいった。 「いつまででも、待っていてくれるの。そんなことが、ほんとうにできるの」 「私たちは永遠に若く、何ものにも包括されない。だから、待つことができる。私を信じて、むかえにきて。分かるの」 だまっていると、真剣な表情で女はもう一度いった。 「信じることが、できるかどうかだけ」 それが最後の言葉だった。彼女は、その晩以降、くることがなかった。しかし、ぼくは待っていた。もしかしたらと思って。夏には、一ヵ月間、こなかったことがあった。だから、待っていた。しかし、そのときには、彼女はあんな話をしなかった。だから、ほんとうはもうこないのかも知れなかった。 ぼくは、小樽行きの最終列車にのっていた。平日の車内はがらがらで、空席が目立っていた。ボックス席にすわるぼくのまえに、白い水玉模様のついた青いワンピースをきた女性が腰をおろした。肩までたれたながい黒髪が眩しい、北国育ちを思わせる美人だった。ほんのりと漂う香水の匂いに、かるい目眩を覚えた。ぼくは、夜汽車のなかほど、左がわの座席にすわっていた。四人がけのボックス席は、となりも前後も空席だった。しかし彼女は、わざわざ人がいる窓ぎわの席に腰をおろしたのだった。ぼくは、だらしなく投げだしていた脚をひっこめ、背筋を立てて座席にすわりなおした。 年のころなら二〇歳にみえる女性は、窓から暗い夜空をじっとながめていた。左には、空色のうすい秋のコートがおかれていた。なにかを思いつめた、ふかい愁いに沈む白い横顔は、眩しいほどに輝いていた。胸につけられた金のネックレスが、やや紫がかった青いワンピースに映えて、きらきらと光っていた。彼女は右をむいたまま、からめた指を腿のうえにおいていた。白い左右の手首にも、やはり金のブレスレットがつけられ、あやしく光っていた。モデルか女優にもみえる素敵な女性は、一度出会ったら忘れられるはずがなかった。 ぼくは、まえにすわる女の姿をちらちらとのぞきみしながら、車両のきしむはげしい音響に満たされていた。それでいて、とても静かな車内ですべてを忘却し、うっとりとして最終列車に夢見心地で揺られていた。町からはなれると、暗い闇が支配する手稲の山並みをぬけながら、車両はがたごとと音を立てて走っていた。 ぼくは、この女が部屋をたずねてきた女性に違いないと思った。年格好は、おなじくらいだった。横顔も、こんなような気がした。いつも暗闇だったから確実ではなかったが、ほかに考えられなかった。青色の服がつつんでいる身体のラインも、幾度もふれたことがあるようにみえた。青い女は、いつも潮の香りにつつまれていた。この女性は、香水なのだろうか、海藻の匂いを漂わせていた。これほど目のまえにいるなら、となりにすわってキスをしたいと思った。夜毎にくりかえされた陶酔の思い出が、脳裏いっぱいにひろがった。どうなっているのだろうか。彼女なら、なぜあらわれたのだろうか。違うのだろうか。ぜんぜん関係のない、べつの女なのだろうか。ぼくは、迷っていた。ゼウスからキリスト、仏さま、名前を聞いたことのあるすべての神々に、女性が自分とおなじ駅で下車して欲しいとだけ祈りつづけた。 切ない若い男の祈りを、神が聞きとどけてくれたのだろうか。女性は、ぼくといっしょに海岸沿いの小さな漁村の駅舎でおりたのだった。もう、彼女に間違いなかった。なぜ、声をかけてくれないのだろうか。ぼくは、いまにもだきしめたいと思い、混乱しながら後ろをついていった。彼女は、アパートがある道とは反対の方向に歩いていった。もちろん、ぼくがついてくるのに気がついていた。 踏み切りまでいくと警報器が鳴りだして、女は立ちどまった。夜も相当にふけていたから、待ちあう人とて彼女とぼくしかいなかった。ぼくらは歩道もないせまい道の左右に分かれ、だまって踏み切りのまえで立ちどまっていた。狂おしく感じる蒸気機関の汽笛が、夜空を切りさきながら青白く木霊し、赤く点滅する信号が映しだす侘しげな世界で、大きくひびく警報音が耐えがたかった。女は、その小さな肩越しにぼくをみた。どきっとしてみつめかえした瞬間、彼女は、ほそい姿態をまるめてさっと遮断機をくぐると、まさに列車がくる前方を駆けぬけた。 信じられないことだった。 大きな警笛が、闇に覆われた青黒い世界を真っ赤に埋めつくした。彼女は、踏み切りをぬけるとむきなおり、ぼうぜんと立つぼくにむかって微笑んだのだ。そしてみつめた表情を、なんと表現したらいいのだろうか。眉根が寄せられた美しい顔は、ふかい愁いをふくみ、苦しみに耐えながら、「どうしてなの。なぜ、こないの。あなたは、それでいいの」と切なく語っていたのだった。 警報器がこの世の終わりをつげるようにがんがんと鳴りひびき、点滅する赤い信号によってうまれた薄暗い世界で、彼女はぼくにむいて立っていた。はだけた女の青いコートからみえる、ネイビー地に水玉模様がついたワンピースは、周囲の闇に溶けこんでいった。白い小さな水玉はしだいに大きさを増し、まるい鈍色の水銀の粒子にかわった。やがて、暗い海風にまぎれて消えていった。ながい髪ときらきらと輝く瞳だけをのこして、背景とみわけがつかなくなるころに大きな黒い塊が轟音とともに入ってきた。 列車は、ぼくらのあいだに一筋のはっきりとした「線」をひいた。それは乗りこえがたい、絶望的な深淵だった。六〇台も貨物をひく蒸気機関車の汽笛を、これほどまでにうらめしく、切なく聞いたことはなかった。泣きたいくらいに悲しく、自分自身が情なかった。機械的に点滅する赤い光と、重い車両とほそい二本のレールがこすれあってきしむ音、くりかえす警報音のなかで、ぼくは立ちつくしていた。気がとおくなるほどのながい時間がたって蒸気機関車が去ったときには、予期した通り彼女の姿はなかった。 その夜、ぼくは街中を歩きまわり、やがて気がつくと、だれもいない玉砂利の浜にすわっていた。夜空には二三夜の月が輝き、周囲に光もない浜辺からは満天の銀河がよくみえた。潮騒のなかで暗い日本海をみつめて、ぼくは夜風にさらされていた。夜の海と空は、すべてが曖昧になって区別がつかなかった。汽車はあれほど峻厳とした線をひいたのに、もうどこにも境界はなく、あらゆるものが青黒い闇にまぎれていった。 それから幾日かたって、ぼくは漁村の借家をひきはらった。札幌の大学には、中退の届け出をだした。東京にかえると、父親はひどく驚いた。事業が破綻した父は、帰還原因の一翼を担っていた。ぼくは、「中途退学」を報告した。父親はなにもいわず、それから一度も会話をしてはくれなかった。 五年たって、ぼくは国立の医学部に進学していた。 とくに医者になりたいと思ったわけではなかったが、試験に合格できたのだった。アルバイトして通いながら、いつでも青い女のことばかし考えていた。彼女の言葉にしたがって、争いもない穏やかな漁村の村をでてきた。しかし、どうやったら待っている女と、再会できるのだろうかと思いつづけていた。 東京から総武線で通学していたが、医者になっていいのかどうかも分からなかった。 日差しが眩しい、初夏の日のことだった。ある駅で一〇時ころ、ぼくは、青色の合成樹脂でできた三つの座席がつながるベンチの端にすわって小説を読みながら各駅停車を待っていた。通勤時間帯をすぎたホームには、人はほとんどいなかった。そのときひとりの女性がやってきて、ベンチの中央に腰をおろした。ぼくは、どきっとして背筋を伸ばしてすわりなおした。大きな白い水玉模様がついた青いワンピースをきた女は、年は二〇歳くらいで眩しいほどに美しかった。微かに漂う海藻の匂いが鼻をかすめ、懐かしい記憶がよみがえった。ぼくは、胸がどきどきした。 「なにを読んでいるの」 とつぜん彼女は、ぼくに聞いた。綺麗な、すき通った声だった。ぼくは、読んでいたノヴァーリスの文庫本をみせた。あまり面白くないと感想をつげた。 それから会話になって、ちかごろの天気がすこし暑いことなどを話した。ぼくは、細面の女性をみてうっとりとし、なぜだか、とても懐かしい気分に落ち入った。それで、お茶でも飲まないかと誘ってみた。彼女はうなずいて、いっしょに駅の改札をぬけた。ちかくの喫茶店に入って、ぼくらはアイスコーヒーを頼んだ。 冷たいものを飲みながら、彼女はいくつか質問をした。ぼくは、以前は札幌の大学にいき、中退して、いまはこの県の医学部に通っていると話した。彼女は、北海道でなにをしていたのかなど、いくつか聞いた。こんなに素敵な女性と話す機会は、滅多になかった。ぼくは、どきどきしながら正直に答えていた。どのくらい、たったのだろうか。 ぼくがだまると、彼女はじっと瞳をみつめた。 「私、あなたの恋人になってあげてもいいわ」と、とつぜんいった。 ぼくは、心臓が胸から飛びでるほどに驚いた。そんな言葉をいわれたのはもちろん、いままで考えたこともなかった。ぼくは、背筋を伸ばして彼女の顔をまじまじとみつめた。ととのった顔立ちで、すべすべした白い肌が輝く娘は、真っ黒でながい髪をポニーテールにまとめていた。 ぼくが無言でだまっていると、 「どうしたの。あなたが好きよ。なにか、ぐあいの悪いことがあるの」 彼女は、不思議そうに聞いた。そして金色のブレスレットがつけられた右の手で、まとめている髪の毛をそっと撫でつけた。 「とても残念なことですけれど、いま、ぼくは恋をしているのです。相手も、好きだといってくれました。ほとんどは手紙のやりとりだけで、一度だけ実際にあって、いっしょに夕飯を食べました。そのときは、あまりしっくりとはしなかったのです。それで手紙をかいたら、あなたは紳士だといっていました」 ぼくは、考えながら彼女につたえた。 「そうなの。残念ね。それじゃ、仕方がないわね」と彼女は笑って答えた。 それで、この話題は終わりになった。 「あなたは、どんなお医者さんを目指しているの」 ふっと声が聞こえて、ぼくは顔をあげた。彼女は、ぜんぜんべつなことを話しだした。 「医者になるのかどうか、いまでもはっきり分からないのです。大学をかわったけれど、これでいいのかどうかも、あやふやなのです」 ぼくは、額に手をふれながら答えた。 「あなたは、運がよかったのね。医学部に入るのは、大変ですもの。大学をかえたのは、きっと神さまがお医者さんになれっていったのよ。都会が嫌いなら、医療にめぐまれない過疎にいけばいいのじゃない。あなたがいた北海道だったら、そうした地域がたくさんあるのでしょう。感謝されて、やってよかったと思うわよ」と彼女はいった。 それからなんの話になったのか、ぼくは忘れてしまった。ただ、そういわれたことだけが脳裏にのこった。 そのころ、ぼくは、恋をしていた。 相手の女性とは、大学の構内で偶然にすれ違った。そのとき女は、紺色の地に白い水玉模様がついたワンピースをきていた。黒くて真っすぐに伸びたながい髪が、日の光に輝いてみえた。つぎの瞬間、はげしい恋の炎に燃やされていた。 ぼくは、その女性と文通をはじめた。それで、会うことになり食事をした。帰りがけに「君の手をにぎりたい」というと、「嫌よ」とことわられた。拒絶の理由が分からなくて、つきあう気持ちがないのかと手紙をかいた。返信がきて、そんなことは思っていないとかかれてあった。 駅で出会った女性は、ぼくに青い女を思いださせた。 なぜ、彼女は今日あらわれ、恋人になってくれるといったのだろう。 ぼくは、すっかり分からなくなった。夜になって、恋をしていた女に電話をかけた。 「つきあっている人がいるのか」とくりかえしたずねた。 女は否定していたが、執拗に聞くと「ずいぶん、しつこいのね」といった。それで、つきあっている男の話をした。毎晩、その男性と会話するために、父親に電話をつけてもらったといった。 「そうした人がいるのなら、なぜ、教えてくれなかったの」とぼくは聞いた。 「男は愛をつげて、女性の気持ちがむいてくるのを、じっと待っていればいいのです」と女は平然と答えた。 「ぼくは、君の恋路を邪魔するつもりはない。破局がおとずれるのを、望んでもいない。それに、順番をならぶ気もない」 ぼくは、すっかり幻滅した。 その晩、女性からもらった一〇通ほどの手紙をみんな燃やした。 ぼくは、寝室の豆電球がつくるうすい闇のなかで青い女のことを思いだしていた。 こうして大学に通っているのは、彼女に指示されたからだった。北海道でぐうたらな生活をおくっていたぼくが医学部に進学できたのは、実力だけでは決してなかった。青い女が、なにかのキーをもっていたに違いなかった。彼女を忘れたことはなかったが、とおくに感じはじめていた。いったい、ぼくはなんのために大学をかわったのだろう。ここまでは理解できたが、この先が分からなかった。 昔、暮らしていた漁村の景色が脳裏に浮かんだ。ぼくは、あそこで死ぬはずだった。人生に絶望し、青い海と空にまぎれて消えてしまおうとばかり思っていた。とおくに淡く浮かぶ石狩の浜をながめながら、毎日どうやって死のうかと考えていた。生きぬく自信をすっかりなくし、青い海に光があたってきらきらと輝き、白い雲がゆっくりとながれていくのを、すべてが満たされた気持ちになってみていた。ここで終わるのもそれなりだと思いながら、漁舟が青白い波間に漂うのをながめていた。漁村にたどりついたのは、まだ白い雪がのこる春のはじめだった。ずるずると、ただ悩んでいても仕方がなかった。だから、夏までには決着をつけるつもりだった。 そこに、青い女があらわれた。彼女は、どこからきたのだろう。なんのために、姿をみせたのだろう。ぼくは、彼女を影絵でしか知らなかった。かぼそい月あかりの下でしか、みたことがなかった。しかし、しなやかな肢体、弾力のある肌、狂おしく括れたほそい胴、甘い唇。それは、間違いがなかった。ぼくは、青く光る女に夢中になった。彼女は、この世のものとは思えなかった。その淫靡さもふくめて、地上の光あふれる世界の者では決してなかった。たとえ彼女が異界からきたのであっても、ぼくにはかまわなかった。そんなことは、問題ではなかった。ぼくは、夜毎、彼女を待っていた。やがて夏がきて浜辺は賑わい、夜遅くまで人が歩くようになった。ぼくは、静かに決着をつけたかったから、いい時期ではなくなっていた。だから、こうなるまえに決行するべきだった。彼女は来訪しなかったが、ぼくは時機をうしなっていた。夏が終わると、女はまたやってきた。あるとき、彼女は不思議なことをつげた。ぼくに、大学をかわれといった。すべてをやりなおせと。 ぼくは、寝台に横臥しながらずっと考えていた。 今日、出会ったポニーテールの女性は、踏み切りを走りぬけた女に違いないと思った。年格好もおなじだったし、雰囲気もよく似ていた気がした。あのときは状況がもっと深刻だったから、横顔もずっと緊迫感が漂っていたのではないか。海辺のアパートにやってきた女もあわせて、三人はおなじ女性だったのだ。彼女は、ぼくを待っていてくれたのだ。あの女性を忘れたことは一度もなかったが、時間がたつうちに、すべてが夢、幻としか考えられなくなっていた。しかし、そうではないのだ。彼女は、ずっとぼくをみまもっていたのだ。なにが起こったのか、すべてを知っているのだ。 「お願い、むかえにきて。私が待っていることを信じて」 そう囁いた青い女の細面の横顔を、ぼくは思いだした。 彼女は、はっきりつげたのだった。 「信じることが、できるかどうかだけ」と。 ぼくは、翌日からずっと乗り換えの駅で待っていた。前日に出会った青色のベンチに、朝から夜まですわって、周囲をみまわしつづけた。一週間、ノヴァーリスの文庫本を手にしていろいろ考えながら待っていたけれど、彼女はもう二度と姿をあらわさなかった。青地に白い水玉模様がついたワンピースをきて、黒い髪がポニーテールだったことを、ぼくは覚えていた。あの綺麗なすべすべとした肌の、幸せそうであかるい顔を思いだした。きっと、彼女はぼくを幸福にしてくれたに違いなかった。おなじ大学の学生ではなかったし、その後、駅で姿をみることはなかった。 彼女は、あの日、駅舎にきてぼくに会い、恋人になってくれるといったのだった。背は一六〇くらいあったのだろうが、名前も知らなかった。 それから五年がたって、ぼくは医者になっていた。 結婚する気持ちは起こらなかったが、なにかの機会から面倒見のいい親切な女性と知りあった。その方が、見合いの話をもってきた。いくらことわっても、写真を大量におくってきた。どんな経緯だったのか忘れたが、一度お見合いした。この話がどうなったのかは、覚えていない。ことわられた気がするが、その方はさらに一生懸命に相手を紹介しはじめた。どの人も素敵だったけれど、意思がなかったぼくは「大変だ」と思い、世話を焼いてくれる女性にくりかえし電話した。 「まだ、はっきり結婚する気持ちになっていないのです」と意志をつたえた。 「みんな、そうなのですからかまわないのですよ。あなただけでは、ないのです。お相手の方も、おなじ気持ちなのです。だから、そんなことは、すこしも気にする必要がないのです。そうこうしているうちに、みんながなんとかなるのです」 よく分からないが、一歩もひかない意志を感じる説得を幾度もうけた。ぼくは、結婚しないかぎり容易にぬけられない状況だと知り、「これで、いいのだろうか」と悩みながら結局一〇回くらい見合いを重ねた。 そうしているうちに、玲奈とめぐりあった。 二五歳だった彼女は、土曜日の午後にぼくが研修していた内房線の駅までやってきてくれた。待ちあわせ場所が事前の情報と違っていたらしく、さがすところもない小さな駅舎だったが、どうしてもみつけられなかった。約束したはずの場所で途方に暮れていると、若い女性がぼくのブレザーの右袖を小刻みに幾度もひっぱりながらいった。 「ねえ。あなた、でしょう。ねえ。村木さん、なんでしょう。ねえ。あなた、今日お見合いするのでしょう」 黄色い服の女性は、袖をひっぱりながら困惑した表情でぼくをみつめていった。 それが、玲奈だった。彼女は、黄色いツーピースをきていた。それが、とてもよく似あっていた。車にのってもらって走ると、水田がみえた。玲奈は、苗がうえられ水が張られた田んぼ指さして、大声で「コシヒカリ」と叫んだ。ぼくは、みょうな人だなと思った。周囲は水田ばかしだったから、「コシヒカリ」の絶叫はやむことがなかった。ぼくらは、田んぼの真ん中にあった喫茶店でお茶を飲んだ。なんの話だったのか忘れたが、彼女はずっと嬉しそうな表情をしていた。幾度も見合いをくりかえしてきたが、相手の女性がこんなに楽しそうに振るまってくれたことはなかった。ぼくまで、なんだか嬉しくなってくるとても魅力的な笑顔だった。大きな駅までおくる途中でステーキハウスによって、夕食を食べ、懐かしい日本海の風情について話した。 北国の漁村は、明治以来、鰊を追ってさかえ、やがて内陸の交通網が整備されるにしたがい繁栄からとりのこされていった。学生時代、そこで暮らし、赤い朝焼けとともに焼き玉の音をあげて、青白い沖に出港する漁舟をみていた。灰色の雲海とひとつになって淡く映る、対岸に位置する石狩の浜。そこに生える、艶やかな深紅の花弁をまとった、はまなすの甘い香り。夜半の静寂をやぶる、春雷のとどろき。蒸気機関車のするどい警笛音と、たなびきながら青い空に消えていく白い煙。青白い海原にぽつねんと孤独に浮かぶ、白色の海鳥。それは、青い海と白い雲がおりなす物語だった。 二週間たった六月はじめの日曜日、銀座の千疋屋で待ちあわせた。玲奈は、とても魅力的な赤いドレスをきていた。洒落た、おそろいの小さなバッグをもち、肩までたれた真っすぐな黒髪には素敵な花飾りがついていた。金のネックレスをたらし、銀のブレスレットをはめた、綺麗なお姫さまだった。最初にコシヒカリの田んぼまできてくれたときとは、別人にもみえる深窓の令嬢だった。身につけているものも高価で、とてもぼくには養えないように思えた。 フランス料理店に入ってフルコースを頼むと、玲奈は赤ワインが飲みたいといった。グラスワインを注文しようとすると、ハーフボトルがいいと囁いた。それでワインで乾杯したが、玲奈は勢いよく飲みはじめてボトルはすぐに空になった。 とくべつな会話は、なかったように思う。ぼくは、毎日の仕事が忙しいという話をした。彼女は笑みを浮かべて聞き、ワインを飲んでいた。ほとんど酒が飲めないぼくは自分の分もやったが、それでも足りないらしかった。 「もうすこしワインを飲みますか」と聞くと、玲奈は大きくうなずいた。 またハーフボトルの赤ワインを頼むと、「とってもおいしい」と満面に笑みを浮かべてその瓶も飲みほした。玲奈の笑い顔は、素晴らしく可愛かった。まるでワインの一滴だって飲んでいない感じで、すぐに顔が真っ赤になるぼくにはうらやましいほどだった。 とはいっても赤ワイン、ボトル一本を空けた玲奈はすっかりできあがり、アパートまでおくって欲しいといった。表通りにでると、ドレスの裏地につけられた花柄文様を、裾をめくってみせてくれた。白い脚が膝うえまでみえて、ぼくはどきどきした。 地下鉄の駅についてホームにおりると、彼女はひどくご機嫌で構内にあらわれた列車にむかって「電車さん、こんにちは」と大きな声で挨拶して手をふった。 五反田にあったアパートまでおくっていくと、「入って欲しい」と玲奈はいった。 ぼくは、夜もふけていたから躊躇した。くりかえし依頼されたので玄関に入り、扉をしめた。すると彼女は、とつぜんぼくをだきしめた。そして、「あなたが大好きで結婚したい」といった。 ぼくは、そんな気持ちを、その瞬間までまったく予期していなかった。 玲奈は、お酒を飲んでご機嫌そうに振るまっていたが、ムードのある話はひとことだってしなかった。彼女は、豊かな家庭でいちばん末の娘として大切に育てられた。だから自分がいわなくても、欲しいものをなんでもあたえられていた。ひどく不器用で、気をひく会話のひとつもできなかった。 「いつ決心したの」とぼくは聞いた。 彼女は、フルコースを食べたときにはすでに「結婚しよう」と固く心に決めていた。どうしたらそうした話にもっていけるのか、分からなかったといった。それで、お酒を飲んでいたらしかった。 「でも、一本も飲めるとは、考えなかったわ」と玲奈はいった。 ぼくは、面白い女性だと思った。 「泊まっていって欲しい」と玲奈はいった。 「あなたをみているとね。犬になっちゃうのよ。私ね。尻尾が、自然とふりふりしてきちゃうのよ」 彼女はそうつげると、四つん這いになってお尻を左右に大きく揺らした。そして、嬉しそうに「尻尾、ふりふり」と叫んだ。 ぼくは、一歩外にでればレディーだった玲奈に圧倒された。 つぎの日も仕事があり、朝一番で総武線と内房線を乗りついで二時間かけてもどらなければならなかったが彼女の部屋に泊まった。こうした事件が起こらなかったら、結婚なんてできなかっただろう。 面倒見のいい、お見合いをすすめた方の話が思いだされた。 「なるほど、こうして人は結婚するのだ」と納得した。 ぼくは、それから何度もデートをして玲奈がとてもやさしいことを知った。彼女なら、生涯の伴侶になってくれるだろうと確信した。 玲夏は三女で、内科を開業していた父親の末娘だった。両親の愛を存分にうけ、大切に育てられた令嬢だった。彼女の父母は、この婚姻にずっと反対していた。 玲奈の家庭では、ぼくと同い年の長女が絶大な権力をにぎって言論を支配していた。さっぱり理由が分からなかったから、こうした構図をひどく疑問に感じた。ぼくは、機会があったとき、どうしてあなたがそんな権利をもっているのかと長女に率直にたずねてみた。それが、彼女の逆鱗にふれたのだった。親のそばに住んでいるだけで直接の関係がないはずの姉が、ぼくらの結婚につよい拒否の意向を示した。それが、両親の反対にもつながった。次女も、この家庭の秩序を支持していた。それで四人は団結して、自分たちの意にそぐわない伴侶に猛反対をつづけた。 ぼくは、あまりに反対がつよいので、どうしようかと思った。玲奈は、「破談になっても、ずっとつきあいたい」とくりかえしいった。結局、彼女が反対を押し切り、ぼくらは結婚した。玲奈は、ぼくの父親といっしょに暮らしてくれた。やがて、彼女は妊娠した。ぼくの母は他界していたから、実家にもどって出産した。 ちかくに住んでいた玲奈の姉は、家庭の秩序を乱す者を許さなかった。両親も、おなじ意見だった。彼らは、いうことを聞かない娘がみょうなカルトに洗脳されたとばかし考えたのだろうか。信じられないが、お産のために帰省したにもかかわらず「離縁」の話をくりかえした。 玲奈は、困惑しながら電話で状況を説明してくれた。子供までつくりながら、彼女の家族のあまりのうるささに、今後のこともふくめて考えざるをえなかった。 ぼくは、玲奈と見合いするころ気になっていた女性がいた。 妻とは同い年で、凄く素敵な人だった。外科を研修していたときに些細な病気で入院し、ぼくは主治医だった。それが縁で幾度か話して、心がひかれていた。しかし玲奈と銀座で会って予期しない事態が起こり、とつぜん結婚することになった。 ぼくはいろいろ状況を整理してみると、これでよかったのかと考えはじめていた。もしかすると、結婚の相手はあの女性だったのではなかったのか。こんなに反対にあっているのは、選択が正しくなかったからではないのだろうか。家に帰ってひとりで考えていると、ひどく不安になっていった。 ぼくは九月のある土曜日の午後、東京の銀座でその女性に会った。あらわれた女は、シックな青いワンピースをきて、そこには白い水玉模様がついていた。ちかくにいくと、香水なのか微かな海藻のいい匂いが漂っていた。黒い髪をみじかくパーマにし、背は一六〇くらいだった。 ぼくは、この女が彼女だったのかも知れないと思った。 医学生のとき駅のホームで会って、とつぜん恋人になってくれるといった若い女性を思いかえした。彼女は、ぼくに青い女を思いださせた。その女性は小樽行きの最終列車でわざわざおなじボックス席にすわり、いっしょに漁村の駅におり、ふたり切りで信号を待ってくれたのではなかったか。まえにすすむことができないぼくを、眉根を寄せた悲しい目でみつめたのではなかったのか。札幌の大学でにっちもさっちもいかなくなって死んでしまおうかと考えていたとき、「やりなおせ」と囁いた女ではなかったのか。もしそうなら、「待っていることを信じて欲しい」といったのではなかったか。 ぼくは、すっかり驚いて食事に手もつけられなかった。 彼女は、いろいろと話を聞いてくれた。 ぼくは、ひどく素直な気持ちになって考えていたことを話した。 玲奈の姉と馬があわない。その女性が、ぼくをひどく嫌っている。どうしても理解ができなかった。両親なら玲奈を育てたのだし、大学にも学費をだしていかしてくれた。だから彼女の行動に口をはさむのは仕方がない。しかし姉は、おなじように両親から大切にしてもらっている。ちかくで夫は医院を開業し、資金的な援助も充分にうけているらしい。だから満足してもいいのではないか。なぜ父親が、特定の娘の意見を尊重しなければならないのか分からない。あらゆることに長女が決定権をもっているのは、とても理解できない。ぼくとは関係がない家庭の事情だが、妹の結婚まで姉が気に入った男性でなければならないのはおかしい。父親は、長女をとくべつな存在にしている。理解できない構図だ。両親がそれを変だと考えないのは、とても不思議だ。こんなぐあいにあらゆる場面で干渉をうけて、将来うまくやっていけるのか完全に自信をなくしている。 そんな話を、ぼくはした。 「玲奈さんは、やさしい、いい人よ」と彼女はいった。 幾度か三人でいっしょにお茶を飲んで話していたから、ふたりは面識があった。 「玲奈さんは、影響力をもっているお姉さんの手から逃れるためにもあなたが必要だったのよ。いいなりになるような人なら、結婚したいとは思わなかったよ。だから、やさしくしてあげなさい。きっと、いろいろな大切なものをあたえてくれるわ。あなたひとりでは、決して手に入れることができないわ。ご家族とうまくいかないのなら、はなれていればいいのじゃない。距離がとおければ、影響はかぎられるわ。彼女がそれを望んで結婚したのだから、かまわないのでしょう。玲奈さんを大事にするのよ」といった。 ぼくは、心にひっかかっている青い女のことをたずねてみたかった。彼女とどんな関係をもっているのか、聞きたかった。しかし、あまりに突拍子もない話だった。青い女のことをたずねる機会は、どうしてもえられなかった。 彼女は、息子がうまれると、玲奈が入院していた静岡の病院まで片道四時間もかけて大きな花束をもってきてくれた。驚くほど立派なブーケは、病院中で評判になった。玲奈は、写真をみせて話してくれた。 ぼくは、彼女が結婚に賛成したのだと思った。 玲奈がうんだ男の子は、可愛かった。ぼくは、すっかり夢中になった。そうして一年をすごし、麻酔科を研修していたころ、父は、食後に胸につかえるといった。内科で内視鏡検査をすると、食道癌がみつかった。父は、大学病院で手術をうけた。結果は、ひどく不満足なものだった。そのために、父はたくさん苦しまねばならなかった。 玲奈は、ずっと付き添ってくれた。彼女の両親は、それを喜ばなかった。だから、ぼくにはいろいろな文句がつけられた。しかし玲奈は、ずっと暖かく看病してくれた。父は、彼女にもの凄く感謝していた。それは、ぼくもおなじだった。 人生を振りかえると、黒い髪の美しい女性が、重大な岐路で示唆をあたえてくれることに気がついた。彼女は、いつも青色のワンピースをきて洒落たアクセサリーをつけた若くて素敵な女だった。小さな漁村で死んでしまおうかと考えていた愚かなぼくのまえにあらわれ、生きる喜びを教えてくれた。東京に帰り、父親と和解することをうながした。医学部の学生時代には、夢のように感じていた青い女を思いださせてくれた。その女性が、僻地医療を提案したことは忘れられない事件だった。 ぼくは、泌尿器科の専門医になっていた。外科と麻酔科を研修したが、僻地で医療活動をするには内科研修が必須だと思った。専門医制度が全盛の時代だったので、さまざまな科をまわるのは決して容易ではなかった。困難だったが、なんとか手づるをみつけて内科を研修した。 父は、内科研修時に食道癌が再発して、ぼくの患者になった。食事も食べられなかったが、玲奈はとても大切にしてくれた。毎日、息子をつれて病室にやってきた。ほとんど一日中、父の話し相手になってくれた。結局、父親は痛みのなかで死んだが、玲奈のやさしさの分は確実に軽減したはずだった。父の看病にたいし、ぼくらは心から彼女に感謝していた。 それからぼくは、北海道の僻地で自分の目指す医療を行った。そこへも、玲奈はついてきた。身寄りもない不便なところで、子供が大好きなぼくのために二男二女、四人の子をうんで育ててくれた。 青い女のいった通りだった。玲奈は、ぼくに、すべてをあたえてくれたのだった。二〇歳のときに、もしも彼女に会わなかったら小さな漁村で朽ち果てていた運命だった。とりかこむ青い空と海のなかに溶けこみ、藻屑となって消えるべき命で、そこで終わっていた人生だった。彼女は、とつぜん目のまえにあらわれて生きることを命じた。ぼくは、それにしたがった。自分でも考えなかった医師になり、すすめられて、可愛くやさしい玲奈をえた。彼女にみちびかれるままに僻地で医療に従事し、思いもしなかった素晴らしい人生を手に入れることができた。 ぼくは、北海道の過疎地で医院を開業していた。朝から晩まで、懸命に働いていた。四人目の子供がうまれ、小学校にあがり、仕事も順調にすすんでいた。五〇歳をすぎたころから、また青い女のことを考えだしはじめた。彼女は、いったいなんだったのだろう。結局、いわれた通りに生きてきた。彼女は、そうしたぼくをみているに違いなかった。いままで言葉にしたがってきたが、このままでいいのだろうか。最後にあらわれてから、二〇年ちかくの歳月がたとうとしていた。 漁村のぼくの部屋にやってきた青い女は、「待っている」といったのだった。 「信じることが、できるかどうか」だと。 ほんとうだったのだろうか。 ぼくは、その言葉をどうしても忘れることができなかった。あるときは、玲奈が彼女かも知れないとも思った。しかし産科病棟に花束をもってきてくれた女性は、あきらかに存在していた。だから玲奈は、青い女とは別人ではないか。 そうだとしたら、ふたりはどういう関係になるのだろうか。 玲奈は、いつでもぼくを助けてくれた。協力的で穏健で、豊かな家の深窓で育てられたから嫌なものみないように躾けられていた。だから玲奈は、ぼくの多くの欠点をみのがしてくれた。 青い女は激情的で指導的で、ややもすると破滅的だった。玲奈とは、性格が極端に違っているように思えた。そうならば、ぼくは彼女と会うための努力をしなくてもいいのだろうか。どこまでが、青い女の指示だったのだろうか。転学して、やりなおす。過疎地にいって、医療を行う。玲奈を大切にする。ここまでは、あきらかに指示だった。その後、二〇年もたって、つぎにどうするべきか教えてくれなかった。このまま、ここで医者をやっていて、いいのだろうか。彼女からは僻地医療をすすめられたが、一生そこにいろとはいわれなかった。指示が途絶えた以上、待っているべきなのだろうか。青い女の言葉を、もう一度思い浮かべた。 「お願い、私をむかえにきて。待っていることを信じて」 もしかすると、むかえにいかねばならないのではないか。そもそもこの地は、ぼくにとっても玲奈にとっても故郷ではなかった。子供たちが順調に独り立ちすれば、ふたり切りになってここで暮らしていかねばならなかった。身寄りがない以上、寂しいに違いなかった。この先、どこにいったらいいのだろうか。 ぼくは、煩悶することが多くなっていた。 ある年の九月の出来事だった。学会がひらかれて、ぼくは前日から札幌に出向いた。ホテルに泊まった翌朝、会場にむかって大通りを歩いていると、無性に海がみたくなった。 その思いに気がつくと、もう我慢ができなかった。ぼくは、学会をさぼることにして駅にいき、小樽行きの普通列車にのった。もちろん蒸気機関車はとっくの昔になくなり、電車にかわっていた。幾分古ぼけた各駅停車の車両は、手稲の街並みをぬけ、大きな音を立てながら走っていた。平日の一〇時ごろで、車内には人もほとんどいなかった。ぼくが漁村で暮らしたころから、三〇年以上の歳月がすぎていた。学生時代にすごした駅にちかづくと、昔日の面影はすっかりなくなっていた。周囲には、家並みがつづいていた。駅は快速電車や特急快速がとまるらしく、立派になっていた。街は札幌のベッドタウンにかわり、住宅が密集していた。 ぼくは駅でおりると、懐かしい浜にむかって歩いた。線路沿いにあった、みすぼらしい漁師の軒並みはもうなかった。ぼくは、だれもいない玉砂利の浜辺で海をみた。よく晴れた日で、真っ青な空から秋の爽やかな日差しがさんさんとふりそそいでいた。とおくに石狩の浜がみえた。やや藍色がかった海は、なにひとつかわっていなかった。潮の香りに満たされながら、しばらく寝そべっていた。そして、青い女を思いだした。海だけはおなじにみえたが、周囲はすっかり変貌していた。 それから、ぼくは駅にもどってすこし歩いた。風呂屋もなかったし、魚屋も生鮮食品店もなくなっていた。ぼくが暮らしたはずのアパートはテナントのビルにかわり、一階はレストランになっていた。午後の一時ごろだった。ぼくは昼食を食べようと思って、その店に入った。白い壁紙が張られた内装はとても綺麗で、海側は大きな窓が切られていた。食事時をすぎた店内には、お客はいなかった。周囲をみまわし、自分の寝室があったはずの場所をみつけた。その正面には、昔ぼくの部屋につくられていたのとおなじ位置に窓が大きく切ってあった。もちろん当時はずっと小さいものだったが、浜からみる海は昔日の風景とそっくりに思えた。 ぼくは、懐かしい景色がみえる位置におかれたテーブルの椅子をひいて腰をおろした。 店の主人と思われるコックがつける白い帽子と前掛けをかけた男がやってきて、メニューをみせ、なにを食べるのかと聞いた。ぼくは、茶色い表紙のメニュー表をめくって、ハンバーグランチを頼んだ。 「なんですか」 男は、ひどく不審そうにたずねた。 ぼくは、メニューのハンバーグランチを指さし、「これが欲しい」とくりかえした。 ちょっとみょうな時間があって、「コーヒーはどうするのか」と男は聞いた。 その言葉にすこし考えて、「食事後に、もってきてもらいたい」といった。 やがてランチがでてきて、ぼくは、海をみながら食事をした。ハンバーグは、おいしいものだった。食べ終わると主人はホットコーヒーをもってきて、空になったランチプレートをさげた。男がいなくなってコーヒーを一口ふくんだとき、不思議な気持ちに落ち入った。 海をみると、大きな壁ができていた。沖のほうから、一段と高くなった波が押しよせてくるのがみえた。それは、どんどんちかくに寄せてきて家並みや自動車を押しながし、さらに陸にむかって侵入していた。大きな道路が冠水し、一面が海にかわっていた。 「どうかしましたか」 声が聞こえて、顔をあげると店の主人が立っていた。 「いえ。べつに、なにも」 「なにが、みえたのですか」 男は、不審そうにいった。ぼくは、自分でもなにをみたのか分からなかった。 だまっていると、男はいった。 「ここの窓、綺麗でしょう」と同意をもとめた。 「ああ。そうですね。気がつきませんでしたが」 「先週、業者に頼んで窓ガラスを全部、ふきなおしたのです」 ぼくがだまっていると、男はつづけていった。 「ちょうど、一週間まえだったのです。あるお客さんがきて、この窓を綺麗にするようにといわれたのです」 お客は、ほかにはいなかった。 だまっていると、男はぼそぼそと話しだした。 「みょうなお客さんでした。ちょうど今ごろの時間でした。ハンバーグランチを頼んで、コーヒーをこの席で飲んだのです。よばれてそばにいくと、窓を綺麗にふいて欲しいととつぜん話しだしたのです。なんの話かと思っていると、この一枚だけでいいというのです。私の店ですから、自分なりに手入れはしています。あまりに奇妙な申し出だったので、理由を聞いたのです。そうしたら、またみょうな話をしはじめるのです。なんでも、一週間後にこの店にお客がやってくる。その客は、ここから海をながめるだろう。だから、綺麗にしておいてもらいたいというのです。どんなお客だか聞いてみました。はじめてくる客で、きっとハンバーグランチを頼むのじゃないのかっていうのですよ。理解できない話に考えていたら、財布から三万円をとりだしました。これだけあれば充分だろうって。納得できませんし、気持ちが悪いですよね。でも、そういいのこして帰ってしまったのです。それで業者をよんで、綺麗にさせたのです。もちろん、どの窓もやってもらいました。料金は、ちょうど三万円でした。それで今日、あなたがやってきたのです」 店主は、ぼそぼそと話した。 「なにが、みえたのですか。あのお客がいったのは、あなた以外には考えられません」 「自分でも、よく分からないのです。海が変化してみえました」 ぼくが答えると、男はもっと具体的なことが聞きたいといった。 「なんだか、よく理解できないのです。ところで、いくつかお伺いしたいのですが」 ぼくが聞くと、分かることなら答えると男はいった。 「そのお客ですが、女性でしたか」とたずねた。 「そうです」 「もしかして、若かったですか」 「そうです」 ぼくは、もうひとつ質問した。 「青い服を、きていませんでしたか」 店主は、溜め息をついた。 ながい黒髪が綺麗な、二〇歳くらいの若い女だった。はじめてみる女性だった。この街の者ではないだろう。金色のネックレスをしていた、と男は呟くように答えた。 店主がどうしても関わりを教えてもらいたいといったので、ぼくはすこし話した。 三〇年以上もまえ、ここに住んでいた。当時、この場所には三軒長屋のアパートがたっていた。ここはぼくの寝室にあたり、こんな感じで小さな窓がつくられていた。そこで、二〇歳くらいの若い女とときどき会っていた。いまは道北に住んでいるが、とても懐かしくなって三〇年ぶりに今日きてみたといった。 「もしかして、その娘さん、この場所で亡くなったのですか」 しばらくして、店主はひどく深刻な表情でたずねた。 そういう話は聞いていない。それ以上はなかったと、ぼくは答えた。 「でも、三〇年以上もまえのことだったのでしょう。先週きた女性は、二〇歳くらいでした。どう考えたらいいのですか」と主人は、ひどく真剣な表情でたずねた。 「分かりません。でも、彼女は永遠に若いのです。年をとらないみたいなのです」 ぼくは、考えながら答えた。 それから、店主に礼をいって店をでた。 帰路、列車に揺られながら考えていた。 青い女は、妄想ではなかった。彼女は、いまでも待っていてくれるのだ。今日の映像がなにを意味するのか分からなかったが、ぼくのすすむべき道と関係をもっているのは間違いなかった。海をみせてくれたのだから、道北の内陸部ではないのだろう。海辺の街に、いかねばならないのだろう。全容は不明だったが、なんらかの方針はもらったのだ。ぼくは、道北の町を去ることを考えはじめていた。 それから、五年たった三月の寒い日だった。夕方、テレビからながれる映像をみて驚いた。三月一一日、一四時四六分、三陸沖の太平洋を震源として超巨大地震が発生した。 沿岸部を津波が襲い、たくさんの人びとが亡くなっていた。原発の事故が続発し、考えたこともないメルトダウンが起こった。沿岸から押しよせた大津波が家を軒並み押しながし、数多の車両をながしていた。道路が冠水し、一面が海にかわっていた。 それは、ぼくが五年まえに漁村のレストランでみた映像だった。 たくさんの悲惨な話がうまれ、絶望と混乱が人びとを襲っていた。毎日、放映される画面をみながら、ぼくはその地にいかねばならないと確信した。開設していた医院を廃して、東北の街に移り住むことにした。ちょうどふたりの娘たちと息子たちは、その市街で暮らしていた。 ぼくは海岸からすこしはなれた街中に住んだが、沿岸部は壊滅状態だった。どこにいっても、家がながされた跡しかのこっていなかった。豊かなリアス式の海岸は、完全に消失していた。この街が復興するまでには、多くの時間と労力が必要だった。原発の事故も処理不能になっていて、地中に漏れだす核燃料をとりだすこともできなかった。 退職してからは、青い女にどうやったら会えるのかと考えつづけていた。 開業していたときは診療で忙殺されたが、この街で子供と生活し、成長をみることができた。子供たちはみんな真面目で正直に育ち、それぞれが希望する職業についた。愛する伴侶をみつけて、紹介してくれた。ここでも、彼女と会う機会はなかった。脳裏では、青い女はますます鮮明になっていったが、みつけることはできなかった。 玲奈は、ずっとやさしくしてくれた。娘たちに子供ができると、彼女は孫に首ったけになった。 ぼくは、ひとりで外国にいってみようと思った。医学生だったころに、インドを放浪したことがあった。英語は、具体的な事柄なら意志をつたえられるが、抽象的な話題までは対応できなかった。いろいろな国の人たちと、もっと楽しい会話ができるはずだから、しっかりと英会話を習得したかった。英語圏に留学して、気ままな旅行をしたかった。それからスペイン語もならって、憧れの南米を旅してみたかった。アマゾンをみて、パタゴニアを漂泊したかった。 一〇月末の晴れた日、ぼくはJRの駅に隣接した丸善にいた。書店がある高層のビルには、留学のアシスタントをする業者がテナントとして入っていた。丸善でフィリピン、セブ島の英語留学案内書を購入したぼくは、約束していた時間に斡旋業者をたずねた。 ながい髪をした、四〇歳くらいの主任の女性がでてきた。茶系の服をきた細身で清楚な雰囲気をもつ女は、ぼくをみて、 「ちょうど、フィリピンのセブ島で勉強したいという人がもうひとりいますから、ごいっしょに説明いたしましょう」と口をひらいた。 いわれるままについていくと、壁にホワイトボードがかかり、中央にそう大きくはないテーブルがおかれ、それをかこんで四脚の椅子がある小さな部屋に案内された。 そこに、ひとりの女性がいた。 彼女は二〇歳で、白い水玉模様がついた濃い藍色のワンピースをきていた。黒い髪は真っすぐにながく伸び、肩よりももっと下までたれていた。右の手首には、金のブレスレットが輝いていた。主任の説明は、つづいていた。しかし、なにをいっているのか、ぼくにはもうひとつも分からなかった。結局、翌年の四月、彼女とおなじ学校に二ヵ月間、通うことになり、契約書にサインをして部屋をでた。それから、ぼくらはいっしょに地階のスターバックスに入ってコーヒーを飲んだ。そこで、メールアドレスを交換した。 翌年になると、コロナがはやりだした。この流行が容易に収束しないのは、医者としてよく分かっていた。ぼくは、二月のはじめ、四月にフィリピンにはいけないだろうと彼女にメールをかいた。 「どうしたらいいの」と女は返事をよこした。 「これから数年は、海外にはいけないだろうね。予約はキャンセルしかないですね。それとも、なにかアイデアがありますか」 「分かったわ。それではキャンセルしましょう。そのかわりに、違う場所にいきませんか」 どこ、なのだろう。どんなところでも、ついていきたい。 ぼくは、「日時と、どういう服装でいったらいいのか教えてください」と返信した。 五月になってもコロナはつづいていたが、彼女から「ジャンプをしよう」というメールをうけた。 連休後のよく晴れた日、提案にしたがってぼくは新幹線で大宮につき、普通列車に乗り換えて埼玉のある駅にいった。そこで彼女と落ちあって、タクシーをつかって飛行場にむかった。飛行場内の施設で、下から空気が吹きでてくる場所につれていかれた。そこで、腹ばいに水平の体勢を保って空中に浮かぶ「ベリーフライ」の練習をさせられた。一時間くらいやると、「それでいい」と女はいって小型の飛行機に乗りこんだ。双発の小型機には、操縦士、副操縦士と彼女の三人がのっていた。「ジャンプ」といわれたときには、せいぜい「バンジー」までしか考えていなかった。しかし、女は「スカイダイビング」をする気だった。上空にいくと、ぼくをみつめて彼女はいった。 「頭から回転して錐もみ状態で落ちていったら、私にも助けられないわ。外にでたら、さっき練習したベリーフライをしていなさい」 いっしょに飛んでくれるわけでもないのだ。 ぼくは、彼女の考えをはじめて理解した。 扉はひらかれた。強風が吹きこんでくる外には太陽がさんさんとあかるい光をはなつ果てしない真っ青な世界があり、ところどころに白い雲が浮かんでいた。小さい飛行機の双発になったプロペラの轟音が、猛烈な風のなかで青色の領域を埋めていくのがみえた。ぼくの目のまえには、きらきらとしたつよい光線をうけて、点々と白い雲が浮かぶ、青い空がひろがっていた。 もう、躊躇することはできなかった。 ぼくは、空にむかって飛んだ。彼女に命じられた通り、懸命に「ベリーフライ」を試みていた。とおくに初夏の日をうけて輝く青い海が一面にみえ、まだらに白い雲が浮かんでいた。そこでは、墜落するとは思えない、ゆっくりとした不思議な時間がながれていた。 眉根を寄せて、「どうしてこないの」と愁いていた女性。 「恋人になってくれる」といった彼女。 「大事にするのよ」と囁いた女性。 みんなぼくの、彼女だった。 背に、女の手がふれたのを感じた。彼女は、背後からぼくをだきしめてくれた。 「どう、気持ちは」 女は、耳元で囁いた。 「素晴らしい。君といっしょなら、このまま落ちていきたい」とぼくは答えた。 「大丈夫よ。パラシュートなんて、つけていないから」 「それでいい。あなたの素顔をみせて欲しい。君をだいたまま、落ちていきたい」 彼女は、ぼくを反転させ、かぶっていたゴーグルをすてた。 青い空と水玉模様になった白い雲が、視界を占領した。 そのとき、ぼくはしっかりと彼女をみつめた。女の顔立ちは、神々しく、きらきらと輝き、眩しかった。緩やかな落下というよりは無重力になって宙に浮かんでいると感じながら、ぼくは彼女にはげしい口づけをして力いっぱいにだきしめた。 「やっぱり、待っていてくれたのだね。ずっと、君を信じていた。疑ったことは、一度もなかった」 「あなたが、くるのは知っていた。だから、待っていたわ」 ぼくは、腕をいっぱいに伸ばして、彼女をもう一度、力のかぎりだきしめた。心地よい潮の匂いを感じた。 「教えて欲しい」とぼくはいった。 「玲奈とは、いったいなんだったのだろう。彼女は、いつもやさしく、ぼくにすべてをあたえてくれた。君のいった通りだった。ぼくのわがままも聞き、いつでも味方になってくれた。君とは、どんな関係だったのだろうか」 「私たちの物語は、ふたりだけではつくれなかったのよ。どんなに愛しあっていても、キャシーとヒースクリフだけでは、嵐が丘が成立しなかったように。人びとの心をうつためには、エドガーという素晴らしい紳士が必要だった。彼は、ヒースクリフとはあらゆることが対照的につくられている。激情よりは静穏。反乱よりも秩序。闘争よりも平和というぐあいにね。エドガーとおなじように、玲奈さんは、あなたに欠けているものをすべて補ってくれたのよ。彼女がいてはじめて、私たちの話も人を感動させる物語になったのよ」 女は、じっとみつめて答えた。 「もう、二度と君を逃がさない」とぼくはいった。 「それで、いいわ」 女も、だきしめて答えた。 そのとき、彼女の衣服が消えていった。すき通った裸身は空と同化し、青みがかっていた。ぼくは驚きながら、青色にかわった女性が逃げられないようにさらに力をこめてだきしめた。 「逃げられっこないわ。あなたは、それが分かっている」 彼女は、つよくだきしめてくれた。 「そうか。君は、青い女だったんだ」 「そう。青い花よ。あなたからうまれ、追いもとめた。そして、どうしても捕らえることができなかった」 青い女は、笑った。 ぼくは、だきしめている自分の両腕が透明になっていくのに気がついた。みるみる青くかわり、全身が彼女の色に染まった。 やがてぼくらは、青色の世界に溶けこみはじめた。 そして、そのまま青い空を、真っ青な海にむかって落ちていった。 青い女、七四枚、了