フルート・レクイエム 由布木 秀 ちかごろは、ほんとうにはやく目が覚めると石渡忠司は思った。 だいたい昔から中沢みたいに、「外があかるいあいだは眠りつづけて、暗くなるころに、ようやく起きだす」なんて、したことはなかった。海をわたって東北大まできて、最初に下宿と決めたところは、大家さんが朝ごはんを支度して起こしてくれた。日中はどうであれ、朝は間違いなく人並みだった。それからうつり住んだアパートでは、相手をしてくれるのは、目覚ましの器械だった。昼まで眠ることはあっても、それ以上は無理だった。特別な用事がなくとも、周囲があかるくなれば目が覚める。これが、普通なのだ。 中沢が始終こぼしていた不眠の苦痛は、感じたことがなかった。いつでも、どこでも、横になれば眠れるから、その恐怖は充分に聞いたが理解できなかった。 もとから身体がそうできているのだろうが、ちかごろはほんとうに目覚めがはやい。夜は二時、三時まで起きていることも多いが、七時には目が覚める。以前なら二度寝するときもあったが、いまはなにを考えるでもなく、床のなかでぼんやりとすすけた天井をみている。これはひとつの習慣で、それ以上の意味は、なにもないと思う。 がんらい、物事に意義をみつけるのは難手だった。もちろん興味の大部分は、いつでも身のまわりのことだったが、自己の存在意義とか、人生の価値など「哲学的な問い」にはならなかった。 昔から系統だてて物事をとらえる人間ではなかったし、自分を変える意欲もほとんどもっていない。神さまがおつくりになったとき、間違えたのか、さぼったのか。手をぬいて堕落しやすくつくられた失敗作なのだ。周囲で起こる事件が「自分のせい」だなんて、ゆめゆめ考えたこともなかった。ただ、もくもくと生きていたのだ。 人の振る舞いに口をだす気はないし、自分がすることだって傍観している。そういう具合に、自己を客観視する癖がついている。自己分裂に落ち入っているのだろうが、「どうしよう」とも思わない。そうなったものは、仕方がない。変えようとするのは、自分らしくないだろう。 自己を制御しようなんて、考えたこともない。生も死もふくめて、すべてがどうでもいい気がする。そういう気持ちで物事を判断するなら、いったいなにがのこるのだろうか。 自分らしさが、行動パターンを決めるのだろうか。 目覚めても起きもしないで布団のなかにいるのが、私らしいのか。なにをやっても、自分らしいのではないか。布団のなかで考えをやめ、ふたたび寝入っても、私らしいに違いない。 そうでなければ、自分らしくないものは、どうすればいだろう。 こんなことを考えるのが、私らしいのだろうか。 「自分らしい」というのは、行動からでたひとつの結果なのだ。 「らしい」と「らしくない」の主人は、「私の行為」なのだ。それを取捨選択する手立てが、「自分らしい」のだろうか。 「らしい」行動ばかし取って、ますます私らしくなるのだろうか。とことんやって、ついに完成して自分になるのだろうか。 「自分らしさ」をひとつひとつあげれば、目録はできるだろう。 「全自分カタログ」 あまり、感心しないな。 自分がなんだか不明になったら、そこに記載された行動を取ればいいのだろうか。 そうまでしても、自分らしさは分からないだろう。カタログに反して私らしくない行動を取ったばあい、どうなるのだろうか。それが自分らしくないといわれても、手立てがあるのだろうか。つまり、「どうでもいい」と思うのは、もしかすると、「どうにもならない」のではないか。自分らしくない私だって、存在しているのだ。だらだらと布団のなかで、毎日おなじことを考えている。結論に到達するまえにあきらめ、ひとつもすすまないのが自分らしいのだろうか。 だから、ほんとうは「どうでもいい」のではなく、「どうにもならない」のだろう。 階段をのぼる、「トントン」とひびく音が聞こえた。 「山口だな」と石渡は思った。 その音は、部屋のまえでとまると扉があいた。 「まだ寝てんのか。石渡」 山口啓吾は入ってくると、両手で自分の両腕をだきしめながら、「寒い」といった。 「おまえ。珈琲あるか」 そういいながら、山口は食器棚をさがした。 「石渡も飲むか」 山口は、薬缶を火にかけた。 石渡は、床から腕をのばし時計を取りあげ、七時だと確認した。 「新聞は、読んだか」 石渡が声をかけた。 「ああ。忘れた」 山口は、新聞を取りに、いまのぼってきた階段をおりていった。 石渡忠司は、もう二年以上、山口啓吾とおなじアパートに住んでいた。広瀬川沿いにつくられた、かなりふるい部類の二階建てで、ひとつのフロアーに六畳一間ばかりが六部屋、廊下をはさんでむかいあっていた。ながしはあるが、ガスはプロパンだった。彼の部屋は、西むきだった。夏の午後などは部屋いっぱいに西日があたり、ひどく暑くなったが、それ以外の季節は日もあまり入らなかったし、冬はとても寒かった。 山口があけていったカーテンの隙間から、青い空がみえた。晩夏の綺麗な空色だったが、よくみると雲の表面がきらきらと光って、うすい氷がやわらかいシルクのレースになって天空にはりついていた。 「また冬がくるな」と石渡は思った。同時に、「もう仙台の三冬は飽きたな」と感じた。故郷は九州だったから、冬は暖かく雪はふらなかった。 山口は、理学部の大学院に通っていた。修士の二年目で、来年は就職してたぶん東京へいくのだろう。 「また、ひとりいなくなる」と石渡は思った。 足音が聞こえ、扉があいて山口が新聞をもってあらわれた。彼は、お湯がわくとカップにインスタント珈琲を入れた。 「おっ、また阪神が勝っている。頑張るな。これで、巨人と二ゲーム差か。阪急はつよいな。セリーグのチームじゃ勝てないな。おお、ヤクルトが負けてる。駄目だよな。ヤクルトくらいじゃないのか。優勝したことがないのは」 山口は、大きな声で勝手に話していた。 「でもぼく、ヤクルトを飲んでるよ」 布団のなかから、石渡がおどけていった。 山口は、「ははは」と笑った。 「いくら飲んでも無駄だよ。もしかしたら、おまえが愛飲するから勝てないんじゃないのか」と逆に石渡を揶揄した。 「山口さん、それは間違いだよ。ヤクルトは身体にいい。ぼくは、風邪ひとつひかないものね。だから弱いのは、選手がヤクルトを飲んでいないからだ」 「なんで、あんなチームが好きなのかね。石渡さん」 山口は目をほそめ、横臥する石渡をじっとみつめた。頭をゆっくりと二度、三度と横に振りながらいった。 「そりゃ山口さん。考え方はいろいろですよ。いいですか、一シーズン戦って、巨人のファンは日本一になってはじめて嬉しがるわけですよ。つまり喜びは、年に一回味わうだけです」 石渡は、ゆっくりとした口調でいった。 「はあ。それで、どうしました」 「こういう弱いチームだって、年に何回かは勝ちますよ。アクシデントは、なにごとでも起こりますからね。そうした事故のひとつひとつを、ファンは優勝とおなじくらいに喜ぶことができるのです」 「そのマイナー指向だけは、石渡さんの勝ちです。完全に脱帽しています」 山口は、また頭を二、三度、ゆっくりと振った。 「今日もないのか。石渡さんは」と溜め息まじりにつづけた。 「大学は、ありますよ。山口さん。いくら待っていたって、大学がきえてなくなる日は、残念ながらこないのです。いっそこつぜんと消滅してくれれば、ふん切りがつくわけです。なまじっかというより、実際は生殺しの状態なんです」 「いいですなあ、優雅で。なんてったって、石渡さんは高等遊民ですから」 「いえ、どういたしまして。山口さんこそ、前途ようようとしていらっしゃって」 「いえ、とんでもない。どこかの藩主さんのご子息と、平民の子は違いますから」 「いや、そのほうが気楽でいいもんだぞ。余も、平民になりたい」 山口は、笑った。 石渡も、つられた。 山口は、化学科で朝から晩まで実験をしていた。なにが面白いのだろうか、と石渡は思っていた。朝は八時にはでかけ、夜は九時ごろに帰ってきた。一度はかならず石渡のところにきた。お茶を飲んで話し、一〇時になると自分の部屋にもどって勉強していた。 石渡は、山口がでかけてからも床のなかにいた。起きても、やることもなかったが、眠たくもなかった。早起きの習慣がついたのは、毎朝、山口に起こされた結果だった。そのうち、彼のほうが先に目が覚めるようになっただけの気がした。 石渡は、また留年していた。うまくいけばと思ったが、駄目だった。淡口のいう通り、教育学部へでも転部したほうがよかったのだろうか。そうしたら、卒業だけはできたかも知れなかった。 高等遊民。べつに高等でなくてもいいが、遊民とはなんだろう。ふらふらと職にもつかないで人生を楽しんでいる者をさすのだとしたら、山口の指摘は間違いだった。 石渡は、もう遊んでいるつもりはなかった。いっしょにふらふらしていた者たちは、みんな卒業した。 大学のひとつくらいは、でたいと石渡は思った。学部へすすめず、また一年どうすごせばいいのだろう。考えても憂鬱になるだけだった。健康よりも健全が的確な言葉だろうが、生きるためのなにかが欠落していた。それがなんなのか、べつだん知りたくもなかった。分かったところで、なにも変わらないだろう。 石渡は、九州の高校を卒業すると金沢大学の物理学科に籍をおいた。翌年、東北大の理学部に再入学した。考えてみると、金沢にいたころがいちばん大学にいっていた。そのときだってずいぶんさぼって、みんなから取りのこされた気がし不安を感じていた。あのころは、いったいなにになりたかったのだろうか、 東北大に入ってまもなく、山口と中沢、それに早川と原子物理のゼミをやっていた。みんな、ここを去っていった。早川は、就職して東京にいった。中沢は、中退して外国にいる。そして来春、山口は東京にいく。 石渡は、ふと安藤哲志のことを考えはじめていた。 安藤は、痩せて髪がながい、すこし可愛いい顔をした青年だった。 入学した当時、石渡は彼と語学のクラスがいっしょだった。いちばん後ろの席に腰掛けていると、やはり最後方にひとり離れてすわる安藤をみかけた。 はじめは、みんなばらばらだったが、一ヵ月もするとクラスにも四人、五人と輪ができて会話する光景がみられた。安藤は、いつもひとりですわっていた。石渡は興味をもったが、話しかけるほどではなかった。やがて姿をみかけることもなくなり、クラスの仲間からも忘れられていった。彼を知らない者のほうが多かっただろう。 その年の冬、石渡がひとりで勾当台を歩いていると、公園の入り口付近で絵を売る安藤にでくわした。とても寒い日の夕方で、両手を後ろ手にして灰色の壁にもたれてポツンと立つ彼は、通りすぎる人をぼんやりとながめていた。 石渡は、具合の悪いところをみた気になって、ひきかえすか、知らんふりするかと、一瞬、躊躇した。そのとき安藤が彼をみつけて、ニッコリと微笑んだ。石渡は、あどけない人懐こそうな笑いにひきつけられた。それで、安藤にむかって歩いていった。 「石渡さん、お久しぶりです。お元気ですか。このまえは、ほんとうにありがとう」 安藤は、石渡にかるく頭をさげた。 「なんだろう」 石渡は、さっぱり分からなかった。 「あの。テストの範囲を教えてもらって」 安藤は、幾分かうわずった声でいった。 石渡は、七月はじめの授業のとき彼とはじめて会話したのを思いだした。安藤がクラスの連中と話した、最初だったかも知れない。ロシア語の教科書を手にして石渡を上目づかいにみながら、 「石渡さん。どこまでが、試験範囲なんですか」と聞いた。 授業が終わって、みんなが教室からでていくころだった。 「そういえば君。今日、授業にいなかったね」 石渡がいうと、「うん」とかすかに笑いながら安藤は答えた。彼は、試験範囲とテストにかんするわずかな知識をつたえた。 たぶん、そのことをいっているのだと石渡は思った。なぜ安藤は、彼に聞いたのだろう。偶然、そこにいたからなのだろうか。なぜ安藤は、授業が終わるまで外で待っていたのだろう。そのときに感じた疑問は、いまは分かる気がした。安藤ははじめから、石渡に聞くつもりで待っていたのだ。いなかったら、そのまま帰ったのだろう。授業に出席して教師にあてられるのも、彼ひとりが指名されないのもいやだったのだ。だから故意におくれて教室に入らず、終わるまで待っていたのだ。 「売れるかい」 石渡は、安藤にたずねた。 「ぜんぜん。不景気なんだよ。みんな、お金をもっていないんだ」 安藤は、心底そう思っているうみたいにいった。そこで、二言、三言、話をして別れた。 石渡は、安藤に興味を覚えた。それは、好感だったのかも知れなかった。 それから幾日がたった、月もないとても寒い晩だった。石渡は、葉が落ちた高木がならぶ定禅寺通りをぬけて勾当台をむかっていた。公園は、すっかり冬枯れていた。 「安藤は、たぶんもういないだろう。こんなに寒い日だし」と思いながら入り口にいくと、案の定、彼はそこで待っていた。雪もちらつくなかで、ひとりポツンと立つ姿は、街灯に照らしだされ、とても寂し気だった。 石渡をみつけると、安藤は喜んで、 「今日は寒いからもう帰ろう」といいながら絵を片づけはじめた。 絵画は二〇枚くらいあったから、大仕事だった。絵を二枚ずつ、ちいさな器具ではさんで大きなザックに入れた。それだけでは足りずに、ふたつの袋につめて両手でかかえた。 「ぜひ家へきてくれ」 彼は、くりかえしさそった。 石渡は、幾度も熱心にすすめられ、いっしょにいくことに決めた。荷物をもとうとすると、安藤は「いいんだ」と何度もいったが、ひとつだけははこばせてくれた。バスに揺られて、八木山のアパートについた。八畳一間のひろいだけの部屋で、ふるく建てつけも悪かったから、冬の寒い風が窓の隙間から入ってきていた。 「やぶれたんだ」 安藤は、窓の隙間にはったビニールをガムテープで固定しながらいった。部屋は、雑然としていた。中央に新聞紙がしいてあり、三脚があった。そのうえに、裸電球が黄色く光っていた。室内はカンバスに埋もれ、机にもつまれていた。押し入れが半分ひらかれ、布団がしいてあり、彼はそこに寝ていたのだろう。 安藤は、石油ストーヴをつけ薬缶に水をくんで、「ガスがないから不便なんだ。ストーヴをつかいはじめたから、お湯はすぐにわくんだ。電熱器じゃ、なかなか沸騰しない」といった。絵の道具を片づけ、中央に空間をつくって座布団をしいた。お湯がわくと、お茶を入れ、インスタントラーメンを食べさせてくれた。 その晩、石渡は部屋に泊まった。彼が帰ろうとすると、安藤は「もう寒いから」とか、「ここは心霊スポットで、暗いと危険だから」とかいった。泊まったほうがいいと、しつこいほどに話した。 みょうな言い方だが、石渡は、すこし可愛そうな気もしたのだった。 夜がふけてくると、安藤は押し入れの隅から四〇センチくらいの黒色のケースを大事そうに取りだし、なかに入っているものをみせてくれた。銀色をした筒で、石渡にはなんだかさっぱり分からなかった。 「ぼくの、たったひとつの財産なんですよ。石渡さん」 安藤は、深紅のベルベットをつかって、そうっとなでまわしていた。時間をかけて、三つのほそながい円筒をみがいた。石渡がじっとみていると、彼は、すこし「はにかんだ」表情になった。 「ずいぶん綺麗なものだね」 「ぼくの宝物なんです。毎日これをみがかないと、一日が終わらない気がして」 安藤は呟いて、「おかしいでしょう」と同意をもとめた。 三つの部分がつながり一本の筒になってはじめて、石渡にもなんなのか分かった。それは、素晴らしく綺麗な銀色のフルートだった。 「吹けるの」と聞くと、安藤は恥ずかしそうにしながらながい調べを演奏した。 石渡は、曲の名前も知らなかったが、とても寂しそうな旋律だった。穢れをうしなった調べは、世界から孤立していた。美しくすき通っていたが、部屋が寒かったからか、冷え冷えとした印象をあたえた。イメージとして話すなら、人里からとおく離れた山中に寒村があった。そこの山頂に、壮麗な教会が建てられていた。神の国を目指してつくられた、赤瑪瑙で装飾された尖塔の頂に、ぽつねんとおかれた風見鶏だった。灰色のメッキをほどこされた銅製の鳥は、貧しい村の空を吹きぬける、つよく冷たい風にむかって一生懸命に方向を変えていた。 安藤は、演奏が終わると楽器についた手垢をていねいにふき取り、三つに分けられたほそながい円筒をもとのケースにおさめ、押し入れのいちばん奥にしまいこんだ。 「みょうな男だった」と石渡は思った。 安藤がかいた絵は、作成費だけでも一〇〇〇円以上はかかるだろう。彼は、それを五〇〇円で売ろうとしていた。実際に売れるのをみたことはなかった。彼の話だと、一日に二、三枚販売できたら凄いらしい。そのうえヤクザがまわってきて、所場代を五〇〇円取るらしい。なぜ、そうまで売りたいのだろうか。 「似顔絵は、ほんとうの儲けなんだよ」と安藤はいった。 それだってひとり一〇〇円で、一日にふたりがくるかどうかだらしい。 どこかでアルバイトをしても、時給は一五〇円くらいだった。しかし、吹きさらしの寒い道にひとりで立って、儲かるはずのない絵を売るより、ずっと理にかなっていた。 石渡は、大学を三度変わったのだから、合理的とはいえなかった。しかし、あんなに不合理なことはできないと思った。身体をうごかすのが、とくに嫌いではなかったが、アルバイトをする気にはならなかった。どんなに金がなくても、寝ているほうがましだった。安藤ほど不合理な人間に会ったのは、はじめてだった。あの日も絵を買おうとしたら、ぜひもっていってくれといって、どうしても金をうけ取らなかった。 「べつだん、お金が欲しくてやっているわけじゃない」 安藤は、石渡をじっとみつめていった。 そうだろうと思った。それでなければ、あんな馬鹿なことができるはずがなかった。喫茶店によって、石渡が朝食と珈琲をご馳走すると、安藤はひどく喜んでいた。とても人懐っこい男だった。 ほんとうに冬がきて雪がふりつづくころになると、安藤も、街頭で絵画を売るのはあきらめたみたいだった。ときたま学校で出会うと、喜んで絵の話をした。彼は、二年にもなれず落第し、会うこともなくなった。それが五月の末ごろ、ひょっこりと石渡の下宿をたずねてきて、「学園祭で一〇円寿司をだしたいから、いっしょにやって欲しい」と頼んだ。 「手伝えといわれても、なにもできないよ」 「いいんですよ。石渡さん。ひとりよりも、いいんです」 石渡は、何度かそんな風に頼まれて、早川をつれてきて三人で一〇円寿司をやった。しゃりを忙しくにぎるなんて、とてもできないから最初に分担を決め、魚屋でネタを仕入れる役目をした。なにを買ったらいいのか分からずに早川といっしょに右往左往して、なんとかそろえた。しかし、どう考えてもひとつにぎると三〇円見当はした。 「一〇円ではぜったいに帳尻があわないから、やれない」 早川は、いいはった。 「石渡さん。ぜったい一〇円でやるんだ。赤字はぼくがもちます。いいでしょう」 安藤は、何度もいった。 石渡は、どうでもよかった。安藤の気がすめばいいと思って一〇円寿司をやった。石渡は、ご飯をたき寿司粉をまぜ、うまれてはじめて一生懸命働いた。 「ワサビがきいていない」とお客にいわれるたびに、 「新米なもんで、すみません」とあやまった。 石渡はそのとき、一〇円寿司を食べにきた客をなぐってやりたかった。理由もなく、そいつらに無性に腹が立った。 学園祭の三日間、一〇円寿司は多いに繁盛し、安藤と早川は朝から晩までにぎりつづけ、結局四万円ちかい赤字がでた。最後の日、あと片づけが終わって、いっしょに酒を飲んだ。数日して、安藤がお金をもってアパートをたずねてきた。 石渡は、彼に金がないのを知っていたから、「いらない」といった。 「そんな。それは、ないですよ。石渡さん。ぼくが払うといったんです」 安藤は、幾度もくりかえした。 「いったい、いくらの赤字だったんですか」 もちだした金は、みんな石渡のものだった。 早川は、払う気なんてもともとなかった。どちらかといえば仕事をしたのだから、いくらかでも欲しかったのだろうが、よくつきあってくれた。彼は、授業料だって自分で働いて払っていたから、とても取る気にはなれなかった。 もちろん、石渡だって金はもっていなかった。のこっていた銀行の貯金と、今月分の仕送りで赤字分とアパート代を払うと、残金は一万円ほどだった。三週間以上を暮らさねばならなかったが、石渡は金がなくても生活する自信をもっていた。 「いくらだったのですか」 安藤は、何度もそう聞いた。 「総額で、四五〇〇円だ」 石渡は、とうとういった。 「そうですか」と彼は答えた。 「そんなもんだったのですか。ぼくは、もうすこし多いのかと。最低でも一万円はこえるかと思っていたんです」 安藤は、すこし複雑な表情をしていった。 「よかった。ほんとうは、一万五〇〇〇円くらいはあるだろうと計算していたんです。自分でやろうといいながら、石渡さんには馬鹿にされるかも知れません。一万五〇〇〇円は、ちょっと大きいなって思っていたんです。ほんとうに、まずいなって。あんなに繁盛して、途中からは寿司をにぎりながら、これって具合が悪いなって心細くなっていたんです。そうだったのか。よかった。取りごし苦労だったんだ。うまくいったんだ。お客さんも、みんな喜んでくれていたし。石渡さんと早川さんには、ぼくの勝手でただ働きをしてもらって、悪かったとは思っていました。でも、お客さんから安くてうまかった。来年も、ぜひやってくれよって何人にもいわれて。そうか、この程度ですむのか。それなら、来年もまたやってみたいな。みんなが喜んでくれて、そうしたことをできるなんて、最高ですよね。そうしたら石渡さんには悪いけれど、またつきあってもらって」 安藤は、かなり興奮気味で、最初に恐る恐る話を切りだしたときとはまったく別人にみえた。ひとしきり彼の感じた喜びを話したあとで、「ありがとう」と何度も礼をのべて、金を払った。 石渡は、「お祝いをしよう」といって、ふたりで街にでて特上の寿司を食べた。三日ぶりの夕飯はもの凄くうまかった。一人前、一五〇〇円だった。ちょうどいいと思って、もうひとつ追加して四五〇〇円で、その場は石渡がもった。 安藤は、「折半にしましょう」とさかんにいった。 「いいから」と石渡は払った。 安藤は、また何度も礼をいって帰っていった。 それから幾日かして、とつぜん彼がやってきた。 「石渡さん。嘘をつきましたね」 安藤は、ひどく興奮して、思いつめた表情で石渡をみつめながらいった。大きくみひらかれた瞳は、幾分か湿り気をおびていた。 「今日、早川さんに会いました。石渡さんが四万円以上の赤字をひとりでかぶって、一銭もなくてこまっているって聞きました。ひどいじゃないですか。あんまりですよ。ぼくは、もうだれに会わせる顔がないです。早川さんは、軽蔑していました。当たり前だ。ぼくは、もう早川さんと話すことも、できないじゃないですか」 彼は、切々といった。 石渡は、安藤に金がないのを知っていたので、早川に「赤字はこっちでかぶるから、手伝いの手間賃は払えない」と話した。 「おれは、思うんだよな。おまえって奴は、ぜんぜん分かってねえんだ。ようするにだ。おまえは、金を稼いだことがないんだ。お金をもらうというのは、大変なんだよな。おれはだな。稼いだことがあるからいえる。そうなんだよなあ」 早川は、石渡の話を聞いていった。 彼は、自尊心のつよい男だった。人をみくだせると思ったとき、とたんに偉そうになった。石渡にも、そういう部分があった。だからいやになるより、そのとき早川を分かった気がした。彼は、単純でいい奴だった。いつでもすこし、どこかが「ずれていた」が、心おきなく話すことができる、たったひとりの男だった。 早川のいった通り、石渡はお金のありがたみを知らなかった。金にこまる事態が、それからも幾度かあった。しかし、お袋に仕送りをふやしてもらう頼みも、人に借りたこともなかった。 安藤は、石渡にあたらしい買ったばかりの茶色の封筒をだした。 「もし石渡さんが、これをうけ取ってくれなかったら、ぼくはもう対等につきあえない。どうか。これを、うけ取ってください」 何度も、そういった。石渡もそのとき、金が欲しくなかったわけではなかった。しかし、ぜったいにうけ取れないと思った。なぜ、そんな風に考えたのだろうか。 「おれ、金はあるんだよ。だから、いいんだ」と石渡はいった。 「ぼくは、たしかに金持ちじゃない。家は、百姓をやっている。遠野の痩せた土地だから、米だって満足なものはできやしない。でもぼくは、すくなくとも石渡さんだけには同情されたくない。分かってもらいたいんだ」 安藤は、きっぱりといった。 「同情されたくない」 山口もいつだったか、そう石渡にいったことがある。彼は、どこかで間違っていたのかも知れない。人づきあいは、うまくない。それは、自分らしいことだから仕方がなかった。同情して金を払ったのではなかった。しかし、間違っていたのだろうか。 「早川さんから聞かされて、どうしていいのか、さっぱり分からなくなったのです。ぼくは、石渡さんだけは信じていた。家は、百姓をやっている。石渡さんとは違う。やっと大学へ入れてもらった。それなのに通いもしないで、ほんとうに親不孝者なんだ。どうしていいのか、分からない。自分がなぜ、こうしているのか、大学へいかないのか。絵をかいているのか。ぼくは、すべてがさっぱり分からないんだ」 安藤の独白は、えんえんとつづいた。声はだんだんかぼそく、内容はしだいに愚痴に変わり、ぶつぶつと呟く独り言になった。 そんな具合だったのだが、彼はとうとう泣きだして、涙が頬をつたっていった。 石渡は、それをみて、なにもいえなかった。どうしたらいいのか分からなかった。そして視線が出会うと、安藤はとつぜん立ちあがり、「馬鹿野郎」と大声でさけんだ。部屋をとびでると、階段をころがるみたいにおりていき、荒々しく玄関がしまる大きな音がひびきわたった。 石渡は、ぼうぜんとしていた。最初に、なにかを飲みたいと思った。封筒をあけると、しわのよった万札が四枚あった。部屋をでて喫茶店に入り、そこで一万円をくずし、安藤の下宿へいった。外からいそうもないと分かったが、鍵はあいたままだった。裸電球をひねり、隙間風が入る部屋のなかで彼の帰りを待っていた。一一時をすぎても、安藤はあらわれなかった。 石渡は、すべての事情がばらばらだった。ぜんぜん、まとまりがなかった。一二時もすぎて、「今日は、もう帰ってこないのかも知れない。どこでひと晩をあかすのだろう」と思った。これ以上待っても仕方がないと考え、今回の模擬店の赤字が四万円だったこと。三人だったが、早川にはただ働きを頼んだだけで、赤字分はふたりで決済するのが正しいと思う。ひとり二万円ずつ負担するべきで、まえに四五〇〇円かえされたから、のこりの一万五五〇〇円を石渡がもらう。したがって、四万円からその額をひいた二万四五〇〇円は、安藤のものだと、机のうえにあった便箋にかいて、封筒のなかに金といっしょに入れた。 石渡は、どこへおけばいいのか迷った。鍵もかかっていないし、部屋の目のつくところにはおけそうもなかった。安藤に気づいてもらわなければ、無意味だった。机の引きだしはどうかと思いながら、フルートが入ったケースがいちばんいいだろうと思いついた。 石渡は、押し入れのなかをさがした。しかし、黒い箱はどこにもなかった。そのときになってはじめて、「とても悪いことをした」と思った。それに気がついた瞬間、彼の世界を構成する、すべてのものが色あせていった。 「なぜ、はじめから赤字分を、折半にしなかったのだろうか」 後悔にも似た感情がつぎつぎと起こってきて、石渡はひとりぼっちだと思った。そうなったのは、自業自得だったことに、また気がついた。彼は机のなかに金をおくと、タクシーにのって下宿へ帰った。 それから、安藤とは一度も会わなかった。また冬がきて、石渡は何度か勾当台公園の入り口にいってみたが、彼の姿はなかった。一度だけ、安藤の下宿に足をはこんだことがある。そのとき、べつの男性がいて、まえにここに住んでいた友人について彼はたずねた。 「大家に聞けば、分かるかも知れない」と男がいった。 石渡は、階下の家主のところへいき、安藤のことをたずねてみた。 「ああ、あの男ね。そう」 垢じみた老婦人は、眉をひそめて答えた。 「一年まえになるかしらね。夏の終わりころに、お母さんがきてつれて帰ったのよ。すこし、おかしかったんじゃないのかしらね。滅茶苦茶に荒れてね。だれも彼もかまわず、喧嘩するしさ。くわしいことは知らないけど。親不孝者だね。まったく」と石渡をじっとみつめていった。 安藤は、いまごろ、なにをしているのだろう。遠野の痩せた土地で、百姓をやっているのかも知れない。もしかすると、彼には、そのほうがよかったのかも知れない。もらった油絵も、何回か転居するうちになくなっていた。とても繊細で、いつも黄色いとっくりのセーターをきて、えり首が真黒くなっていた。安藤とは、そんなことがあった。 石渡は、寝転んだまま両手を頭の後ろでくんで、すすけた天井をみた。東北は、寂しいところだと思った。 石渡が時計をみると、そろそろ九時だった。お茶が欲しくなって、半分ほど起きあがって薬缶を取った。うごくのも億劫で、ぬるま湯を珈琲がのこったコップにそそいで飲んだ。 山口とは、五年以上もつきあっていた。石渡のつきあいのほとんどが、六年まえ入学した当時の知りあいだった。四年で卒業して高校教師をしている淡口は、就職してからもしばしばアパートをたずねてきた。ふたりの交友関係は、つづいていた。 しかし、淡口とか、山口とかのつきあいが、心の奥底で不思議な憎悪に似た感情につながっているのを、石渡は気がついた。なぜそんな気持ちがうまれ、根底にすくっているのか。彼は、知っている気がした。 来年、山口が大学院をでて東京へいけば、とても寂しくなるが、同時にすこし気楽になるのではないかとも思った。どちらもおなじくらい、ほんとうの気がした。あたらしい友人をつくる自信はなかった。いま中沢とはじめて出会うことがあっても、会話もしないだろうと思った。「悲しい」とか「寂しい」とかと問われるまえに、どうにもならない、自分らしいもののひとつだと思えた。 石渡は起きあがり「今日は、布団をたたんでみるかな」といつになく思ったが、無駄だろうと考えなおしアパートをでた。 仙台駅にむかって散歩がてらに歩き、いきつけの喫茶店の二階でオムライスを食べた。週に五度くらい、ここで決まってこの料理を注文した。いつしか、それをはこぶウエートレスと顔見知りになって、なにかしらの会話がうまれるということも起こらなかった。幾人もの女性が、やめるのをみてきた。それは、眼前を通りすぎる貨物列車をながめる、無機的な事件だった。食事が終わると珈琲を注文し、スポーツ新聞を丹念に目を通した。朝の儀礼が終了し、ぶらぶらと大学へ歩いた。夏は確実に終わり、六度目の秋をむかえようとしていた。 石渡は、三年目くらいから大学へはいかなくなった。五年目に理学部を中退し、翌年、文学部をうけなおして東北大に再入学した。そして今年の秋、「二年には、なれない」と教務から通達された。 大学の周囲の風情も、六年のあいだに変化していった。映画館がつぶれ、学生むけの綺麗なアパートができ、ボーリング場にかわってホテルがつくられた。麻雀は人数がそろわなかったし、パチンコをやる気力も起こらなかった。いまわずかに興味をひかれるのは印度の古典、ヴェーダで、文学部にすすみ印度哲学を専攻するつもりだった。石渡は、生きるのにもっとも無意味と思われる学問をすることが、いちばん自分らしいと考えはじめていた。 萩ホールまえで、写生する女の子がいた。後ろにまわってカンバスをみると、樹木にかこまれたホールをかいていた。 「うまいもんだ」 そう思った瞬間、娘は振りかえった。 「あら、このあいだの人じゃない」 先日、美術部をたずねたとき、かき方をコーチしてくれた娘だった。 「かかないの。べつに難しくはないよ。猿にだってかけるんだから、人間にできないはずはないよ。ほら。つっ立ってないで、かいてごらんよ」 無理やり筆をおしつけられ、まごまごしていると、 「色をつけりゃいいんだよ」 小柄で頬がふっくらとした可愛い子は、青いジーパンに同色のセーターをきて、幾分かぞんざいな口調でいった。石渡は、指示されるままに筆をうごかしてみた。 「なっちゃいないな。今度、カンバスと絵の道具、買っておいでよ」 娘は、筆を取りかえして、またかきはじめた。 石渡はしばらくみていたが、そっと離れて学生会館にいった。彼は、地下の喫茶店に入った。南というマスターが学生相手にちいさなバーを経営していた。そこに、いくのは日課だった。石渡の姿をみつけると、「おそかったじゃないか」と南は嬉しそうにいって、アイスミルクをつくった。 「ではさっそく、三でもするか」と話しかけた。 「いいですよマスター。でも今日は、ぼくだけ四かも知れません」 石渡は、おどけてみせた。 「いいですよ。碁でさえなければ、つきあっていただけるわけですから」と南も応じた。 石渡は、カウンターのいちばん奥の自分の席にすわった。南とは、毎日碁をうってほとんどの時間をすごしていた。たがいに上達したいと思っていないから腕はあがらず、まったくの暇つぶしだった。勝敗は、最後に駄目をつめないと分からなかった。やってみると、たがいに生きていると思った石が、どこにも目がないときもあった。途中の合意では「死」のはずだったのに、堂々と大石につながっていたりした。序盤のリードは、結果とは異次元だった。とても碁とはよべないと意見が一致し、四へ、三へと名前は変わっていった。呼称がどうなっても、ふたりはそうして時間をつぶす間柄だった。 今日も、石渡はいつもの席にすわった。何杯飲んでも一〇〇円のアイスミルクをもらって、それぞれが勝手な構想で石をうっていた。 石渡は、碁石をつかんで「今度は、どこがいいか」と考えていた。 「山井さん。最後は、どうだったの」と南はとつぜん聞いた。 「山井さんかい。もう何年まえかな」 石渡は、碁盤をみつめながら答えた。すこしみょうな時間があって、不思議な違和感におそわれた。それでふっと顔をあげると、真剣な瞳で南がみつめていて、彼は「どきっ」とした。 山井はまえのマスターで、石渡とはいつでも将棋をやっていた。バーはきわめて暇な状況がつづき、彼は仕事をあきらめ、やめていった。権利をうりわたしたのか、譲ったのかは知らなかった。 やめる際に、山井が「たったひとりの常連」と石渡を紹介した。 彼からすれば、ゲームが碁に、マスターが南に変わったにすぎなかった。 「最後って」 「やめるまえさ」 「南さん。この店、やめるのかい」 「仕事にならないもんな」 それで石渡は、今日は三が二だったと気がついた。ふたりは、まったく違うことを考えていたのだと知った。南の言葉に、彼はだまって碁石を碁笥にもどしはじめた。 山井が将棋をさしながら、客がふえないとこぼしていたのを石渡は思いだした。 「バーを手放して、違う仕事をやろうと思う」といった日、マスターはひどく陽気に振る舞った。たまには、いっぱいつきあってくれと、しつこくくどいた。 酒が飲めない石渡は、仕方がないので水割りというよりアルコール割りをもらった。 山井は、ストレートをがんがん飲み、土曜の夜だったのにだれもこないバーで、ふたりで朝まで将棋をさした。マスターは、負けつづけた。 「あんたは、娼妓。あたしは、幇間」などとひとりで騒いでいた。 大学内だったから、「夜の営業は一〇時まで」と決まっていた。時間がすぎたころ、守衛がまわってきた。山井は、「今日だけは見逃してよ」といった。 「いっぱいご馳走したい」とも話した。 もちろん守衛はことわったが、見逃してはくれた。 「それにしても、昨日はひとりの客もこなかったね」 石渡は、朝の六時ころベロベロになって将棋もさせなくなった山井にむかっていった。 「いいよな、石渡さんは。嫌味じゃないよ。石渡さんがいるから、これまでやってこれたんだ。ほんとうに感謝しているんだよ。表のドアをみてごらんよ」といった。 石渡は、扉をあけてみた。 「本日より、しばらく休業いたします。来月より、再開する予定でございます。ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします」とかかれた紙がはられていた。 石渡は、外の風景をみやった。構内の樹木は、色づきはじめていた。人も季節も、みんなすこしずつすすんでいく。しかし、石渡はずっとおなじところを巡っていた。なんの変化もなく、年だけが二五歳になった。人生の三分の一を終えようとしているが、問題なのは先がみえないことだった。幾年、こうして生きていくのだろうか。大名の跡継ぎとして優雅な時代にうまれていたら許されたのだろうが、いまという現実があるかぎり無理なのだ。社会と石渡とのあいだには、空虚な間隙や冷酷な深淵がひかえていた。ふたつのものを埋め切れないのなら、どうするべきなのだろう。 答えは、「どうにもならない」だった。 安藤のことが頭に浮かんだ。ふたりは、似たもの同士だった。 中沢との決定的な差異を認めてからも、石渡はよく彼の部屋にいった。あの暗い場所におとずれるのは、ひとつの気懸かりだった。二日に一度くらい、彼は足をはこんだ。それには、もっとべつな意味があったのだろうか。 社交的で精力的で、いつも友人にかこまれていた中沢が闇にとじこもると、しだいにだれもが距離をおきはじめた。最後まで部屋をたずねたのは、石渡ひとりだった。彼の憂鬱な表情や暗い言葉。徹底的な厭人癖が、そうさせた。中沢は、たずねていった者を歓迎しなかった。彼によって、空間は異質な世界に変貌していた。 部屋の扉は、異次元の入り口だった。 「この門をくぐるものは、一切の希望をすてよ」とかかれていた。 オガタンストーブが燃えて深紅に染まる部屋には、渡された梁の中央にロープがつるしてあった。そこには輪がつくられ、中沢はときどき首を通してみるといっていた。そうすると、こことはべつの世界がみえるのだと話していた。 中沢のあまりに拒絶的な態度に、石渡も何度か辟易とした。そのころは、暗い部屋をたずねるのは彼以外はいなかった。いちばん親密だったはずの野田も、学校で出会うと、「あいつの陰気さには、たえられない」といった。 その通りだった。どうにもならない暗さ、人びとを不快にさせるほどの憂鬱さ、そこに中沢がいた。彼の人をはねつける態度のなかに、じつは心から石渡を必要とする姿をみたように思った。しかし、それだから出向いたのだろうか。おそらく石渡は、だれもよりつかなくなった彼に同情したのだ。中沢の闇にかんする問題が解決されたかどうか、聞いていなかった。また、その気もなかった。 春になって、中沢は下宿を変わりたいといった。石渡は、すぐに賛成した。彼は、海のみえるところへいきたいといった。石渡たちは、その日に出向いて七ヶ浜の漁村にアパートに決めた。翌日、早川をよんで三人でひっこしをした。 漁村にうつってからの中沢は、人とのつきあいもすこしずつ復活した。以前の友だちとも、よりをもどしていたが、やや受け身にみえた。他人を思いやるというより、関心がなくなったのだと思う。人をむすびつける不思議なエネルギーは、もうなかった。たぶん、闇のなかにおいてきたのだろう。 石渡にたいする中沢の態度も、すこしずつ変化していた。いちばん親密だったのは、変わらなかったが、彼の信頼はくらべられないほどに高くなった。中沢は、漁村からでてくるとかならず石渡のところへきて、麻雀や碁をして泊まっていった。彼の迷惑にならないし、拒絶されないと信じていた。 中沢は、三年目に中退して、東京へ帰っていった。いまは、外国を放浪しているという話だった。消息不明だ。 安藤も中退したから、石渡のまわりには「落ちこぼれ」ばかりがあつまった。 大学は入るより、でるほうがずっと難しいものなのだ。石渡が時間がかかっても卒業できれば、三人のなかではいちばん優秀で学生本来の仕事をまっとうしたことになる。レベルはともかく、高等遊民としては質のいい者だろう。だれもが不可能だった偉業を、代表としてやりとげたと考えることもできる。 石渡は、正門まえの喫茶店で、水のおかわりをもらいながら、不思議な夢をみた。 意味深な表情をした山井がいて、「ロシアンルーレットをやろう」とあおっていた。 中沢は、すぐに挑発にのり、「いいよ。やろう」と答えた。机におかれていたのは、おもちゃのピストルだった。弾丸はでるが、ヘルメットをかぶれば問題はなかった。六連発の銃倉に一発だけビービー弾をつめると、リボルバーを回転させた。いっしょにいた安藤が、「ぼくも、仲間に入れて欲しい」と頼んだ。 それで、三人が石渡をみたのだった。 「みんながするなら、やってもいいよ」と答えると、すぐに中沢が拳銃を取り、こめかみにあててひき金をひいた。しかし、弾丸はでなかった。つぎに安藤が弾倉を回転させて、こめかみにむかってひき金をひくと、弾が発射される凄い音がして彼はたおれた。あたった右の側頭部から血がながれ、弾丸は皮膚にめりこんでいた。 山井が、「やめようぜ」と石渡にいった。 中沢と安藤が、彼をみた。 それで石渡は、弾倉をまわして、銃をこめかみにあてひき金をひいた。もの凄く大きな「カチ」という音がして終わった。 山井は、すぐに帰っていった。中沢が、血をながす安藤を介抱していた。 「あら、またいた」 絵を教えてくれた、みじかい髪の女の子が立っていた。 「ひとりなの。席がないな。なんで、みんな、こんなに暇なんだろ。まあ、いいや。いっしょにお茶でも飲んでやるか」 そんな風に呟いて松木直子は、すこし笑って石渡のまえにすわった。とても可愛い笑顔だったので、彼も思わず微笑を浮かべたほどだった。 松木直子は、石渡に美術部で最初に出会ったとき不思議な感情をいだいた。好感といってもよかった。背が高い彼を、幾度もみかけていた。学生ホールのロビーで文庫本をめくるか、地下の喫茶店でマスターと碁や将棋に興じていた。ふたつの場所以外では、みたことがなかった。ニヒルな横顔の石渡は、視線があっても一瞬ですぐに小説やゲームにもどした。しかし、優しそうな瞳を彼女は見落としてはいなかった。 黒い革のジャンパーをきて、色の濃いサングラスをかけた男が美術部をたずねてきたとき、直子は一目で石渡だと分かった。一〇時ころに、彼女が部室の鍵をあけ、カンバスとイーゼルをもって萩ホールにむかおうとした矢先だった。一瞬、直子は暗いと思って振りかえると、黒い男が扉のまえに立っていたので、どきっと感じた。冷静さを取りもどしながら彼女に用があるのだと理解して、「なにをしてるんだよ」と聞いた。 石渡は、言葉に窮した。美術部をたずねた最大の理由は、暇だった。彼女の質問に正直に答えることもできず、だまっていると、 「なにか話したらどうなの。人をおどろかせてさ」と直子はいった。 「絵を習いたいって。かいたことあんの。かき方、知ってんの」 「ああ。かき方っていっても、その基礎のところ」 「油の溶き方。そんなもん、ないよ。絵の具の溶き方だろ。日本語は、ちゃんとつかえよな」 直子は、サングラスの奥からみつめる瞳を感じながら、言葉づかいが、どうしてこうなるのだろうと思いながらいった。結局、萩ホールまえで絵をかいてみせたが、やる気があるのかないのか、石渡はだまってみていた。 「まったくどういう男なんだろ、こいつは」と思って素描しながら振りかえると、もう彼はいなかった。 「あんたいったい、なにを考えているのよ」 この男も笑うことがあるのだ、と思いながら直子は聞いた。 「教えてくれといいながら、あんた、あんまり失礼なんじゃない」 「うん。あんまり君が熱心にかいているんで、ついね」 「今日だってなによ。まるで、泥棒猫みたいにこそこそして。帰るんなら、そういうのが礼儀じゃないの。いったいあんた、どういう了見なの。まったく、いやになっちゃうよ。あんたは、どこの人間なの。九州、九州男児だっていうの。ああ、いやだ。まったく、世も末だよ。いくつなの、二五歳。ああ、いやだ」 彼女は、いろいろと勝手にしゃべりながら石渡を優しそうな男だと思った。こんないい機会を、わざわざ提供してやっているのに、みょうに落ちついてくどきもしない彼を、いくらか憎たらしく、歯がゆく感じた。 「ほんとうに、かく気があるの。もしそうなら、絵の道具、買いなさいよ。お金あるの。ないのなら、かしてやろうか」 威勢のいい直子に、石渡は辟易としながら聞いた。 「でも、どのくらいかかるの。高いんだろう。七、八万はするの」 「馬鹿だなあ」 直子は、なかばあきれながらいった。 「ほんとうに、なにも知らないんだわ」と思った。 直子は、ちょうど丸善に本を注文していたから、絵の道具を買うのを手伝ってやろうと考えた。彼女は、この無気力な男を、うながして外にでた。 丸善で、石渡は画具を買った。その気はなかったが、直子の親切は嬉しかった。ちょうど金もあったので、すすめられるままに画材を購入した。 「これがいい」とか、「あれにしなさい」とか、直子は勝手にいった。石渡は指示に逆らう理由もなかったので、いくつか絵の道具を買った。そうこうしているうちに、深紅のイーゼルがあって、直子はとても気に入った。 「これがいいな。欲しいな。あんたには、もったいない」 直子は足をとめ、深紅のイーゼルを左右からみたり、後ろにいってながめたりした。よほど気に入ったらしかった。石渡は、彼女の表情がしだいに真剣に変わっていくのをじっとみていた。最後に直子は、イーゼルがつくるちいさい空間に頭を通した。 そのとき、彼女の白い首が切断されて、画架のうえにおかれているようにみえた。 石渡は、みょうな気分に落ち入った。 「そんなに気に入ったのなら、ぼくがこれを買うよ。いま、君がつかっているのと交換してもいいよ」 石渡は、お金が財布にあったので特別な気持ちではなくいった。 その言葉を聞くと、直子はじっと彼をみつめてから答えた。 「いやな性格ね。ぜったい女にはもてない。嫌いになりそうだわ。あんた、そんなに凄いお金持ちなの。はじめて会った女性にそんなプレゼントをしたら、だれでも喜ぶと思っているの」 「いや、そういうわけではない」 「いったい、いくらもっているのよ」 「いや。ぼくは、いつも全財産をもち歩いているんだ」 石渡はズボンのポケットから財布を取りだして、中身をひらいて直子にみせた。月はじめだったので、そこには二万円以上の金がおさまっていた。 「これが、あなたの全財産なの」 「そうだよ」 「今日、画材を買ったあとは、どういう風に暮らすわけ」 直子は、不審気に石渡をみつめていった。 「のこりで、すごすんだよ」 石渡は、直子がなにを聞いているのか、よく分からなかった。 「それって。結構、難しいのじゃない」 直子は、理解不能になって聞いた。 「ほかに方法はないしさ」 石渡が答えると、しばらく直子は思案した。 「分かったわ。アルバイトをしているのね。朝夕、食事つきのところに住んでいるのね」 石渡は、意味不明に落ち入った直子をみた。なにが彼女を困惑させているのか不明だった。しだいに不審に思うことが分かってくると、説明しても無駄だと感じた。 月の途中でお金がなくなれば、仕送りがくるまで布団のなかでごろごろしていれば、時間は確実にたつのだ。こんな簡単なことが、なぜ分からないのか。アンパンひとつが、どのくらいの空腹にたえうるものなのか。こうした事情を理路整然と話すのは、なかなか困難だと感じた。 すっかり誤解した直子は、彼が予想以上にお金をもっているのをみると、 「せっかく、つきあってあげたのだから、ご飯くらいおごりなさいよ」と口をひらいた。 石渡は、幾度かいったレストランでいっしょに昼食を食べた。 女性とふたりきりでの食事は幾年もなかったので、彼は自分の無口を恥じた。直子とおなじ速度で食べねばならないと思って、無理やり腹につめこんでいた。レストランをでると、彼女は不機嫌そうにだまりこんだ。 「どうにもならない」気持ちが、石渡をおそってきていた。 いっしょに肩をならべて大学にむかったときには、直子からは快活さがうしなわれていた。 石渡は、みんな自分のせいだと思った。沈黙は言葉の別離で、埋められるものは感情だけだった。共有できる思いがあれば、ながすぎる静寂に疲れることはないが、石渡は世界と和解する手立てをうしなっていた。 直子の乱暴な言葉づかいは、ナイーヴな心の反映にすぎない。 「サービス精神。君は、それが過剰なんだ」といつか中沢はいっていた。 交差点で立ちどまると、女は上目づかいに背の高い石渡をみて、「重いでしょう」と聞いた。 「そうだね。重い」 石渡は、ぶっきら棒にいって、自分がなにも考えていないことを知った。画具をもちながらあとを歩いていると、直子は楽器店のショーウインドーのまえで立ちどまった。 みょうな気配を感じて、石渡は飾り窓をのぞきこんだ。そこには素晴らしく綺麗な銀色のフルートと、深紅のベルベットがおかれていた。 直子は、しばらくのあいだウインドウをじっとながめていた。 彼女は、とつぜん「素敵な、フルート」と呟いた。 「どんな人がつくって、だれに演奏されるのかしら。このフルートが、どういう世界をもっているのかって、考えたことはある」 彼女は、振りかえると石渡をみて話しだした。 「私のいとこは、東北大にいたのよ。途中でやめたけど」 言葉づかいがすっかり変わった彼女の変化におどろきながら、フルートの世界という言葉に、石渡は不思議な肌寒さを感じた。たとえられない不安で、中沢がいった闇の領域にちかかった。 「ものは、ひとつでは存在できない。複合、連関、生起。闇は、それを教えてくれた。もし君がいなかったら、ほんとうに首をつっていたと思う。命の恩人だ。石渡という人が、儚くみえる蜘蛛の糸で、ぼくをすくってくれたのだ」 中沢には、ほんとうにそう思えたのだろう。だから、その後のつきあい方が変化して、彼に甘えたのではなかったのか。 「ねえ。ちょっとつきあってよ」 直子はいって、石渡を店内にさそった。彼は店の扉をひらき、もっていた買ったばかりの画具を、邪魔にならない通路の奥において、彼女のあとをついていった。 「やっぱり、いいわね。フルートは、繊細で華やかで。たったこれだけの管楽器が、三つのオクターブを奏でることができるのだから。でも、繊細な楽器だから、すこしでも傷ついたり、まがったりしたら、もう終わりなのよね。どうやって、こんな管楽器を昔の人は作成したのかしら。木をけずって、一本一本つくったわけよね。ひとつひとつが違ったフルートで、どれもが異なる音色をもって、持ち主によって、まったくべつの音をだしたのね」 「私には、いとこにあたる兄さんみたいな許嫁がいたのよ。東北大に入ったときに、父が合格祝いに買ってあげたのよ。彼は、高すぎるって辞退したんだけれど。田舎でたった一軒の楽器店のまえで、いつもそのフルートをみていた。銀色に輝く綺麗な管楽器で、かたわらに楽器をみがく深紅のベルベットがおかれていたわ。貧しい農家の息子だったけれど、地元では秀才で家族中に期待されていた。楽器店につれていかれて、私にもみせてくれた。大学をでて、お金を稼いだら買うんだって真剣な表情でいっていたわ。 あなたが卒業するまでには、このフルートは、だれかが購入するって私は話した。楽器屋の店主と交渉しているっていうのよ。その年に東北大に入ったら、四年間、フルートをだれにも売らないって約束して欲しい。利息をつけても、いいからって。笑っちゃうでしょう。お店の人も、こまったと思うわ。それで東北大の合格祝いに、父がおくってあげたのよ。生涯大切にしますって、彼は、涙をこぼしながらいっていたわ」 「大学の二年生のときに、精神的におかしくなってね。住んでいたアパートの大家から、苦情の電話がかかってきたわ。両親がたずねたときには、もう別人だったらしいわ。大学にもいかずに、ほうぼうで喧嘩したらしくて、なぐられた痣が身体中にあった。げっそり痩せて、部屋の隅で膝をかかえているのをみつけたのよ。なにをいっても反応がなくて、精神科につれていって、学業をつづけるのは無理だと診断されたわ。実家にもどってから、しばらく病院に入っていた。東北大は、中退になった。退院して家に帰ってきた年の冬、納屋で首をつったのよ。自殺の可能性があるのは、医者からいわれていたから、すぐに気がついたの。命に別状はなかったわ。また入院になって、ずっと精神病院」 「何度か会ったけれど、いまでは、もうだれも分からないみたい。自殺未遂のまえに、話をしたのよ。東北大には、凄く立派な人がいたんだって。優しくって、頼もしくって、親友になれたっていっていたわ。でも彼は、大事な友だちを裏切ってしまったらしいの。内容が、なんなのか、だれにもよく分からなかった。フルートが原因だったらしいの。親友に、あやまって許してもらいたいって、くりかえしいっていた。私は、その人と結婚するべきだって話すのよ。名前くらいは教えて欲しいといっても、まったくしゃべらないのよ。特別なことが、あったんだろうと思ったわ。分からなかったので、仕方がないから親友という人を、さがそうかって話になったの。なにかが、判明するかも知れなかったから。大家さんは、迷惑ばかりかけられたとしかいわなかった。教務もたずねたけれど、ほとんど大学にいかなかったらしいの。調べようがなかった。ご両親の落胆は、ひどかったわ。お母さんは、すっかり寝こんでしまうし。人生って、不思議よね。不幸はかさなるのね。お父さんが事故を起こして、車で人をはねて。 直子は、大きく溜め息をついた。 「最後は、中学生の妹までつれて一家心中した」 彼女は、ひとつひとつを思いだし、ぽつりぽつりと話していた。 「父は、ひどく悔やんでいたの。あんなもの、あげなければよかったって。父が買ってあげなければ、違う人生があったのかも知れなかったのよ。でもそんなこと、だれにも分かりはしないわ」 石渡は、目のまえが暗くなるのを感じた。胃の腑が重く、立っているのがようやくだった。相槌もせずにだまっていると、直子は振りかえって石渡をみた。 「大丈夫。どうかしたの。顔が真っ青よ。どこか、具合が悪いんじゃない」 直子は、おどろいていった。 「すこし疲れたみたいだ。今日は、これで帰るよ」 石渡はいい、画材をかかえて楽器店をあとにした。つかまえたタクシーに買った荷物をつみこんでアパートの自分の部屋につくと、疲れが一気にでて、思わず床に横たわった。 そのとき石渡が思ったのは、 「今朝、なぜ布団をたたもうと思いついたのか。そして、それが無駄だと、どうしてやめたのか」 それ以外の、何物でもなかった。 石渡のまえに、深淵が横たわっていた。 自分は、なんであるのか。たしかに人とのつきあいは、うまくはない。「誠実」とはなんなのだろう。自分は、同情されてもいい人間なのだ。それだけが、はっきりしていた。 晩夏の太陽が西にかたむき、日差しが容赦なくさしこんでいた。深紅のイーゼルをみながら、石渡は寒気を覚えた。 「中沢だったら、なんというだろう」と彼は思った。 緩慢としたときのながれが瀬にむかい、飛沫をあげて急峻なものにとつぜん変化する。あかるかった、ごく普通の世界が、ふと気づくと闇のなかにある。 「最初は、薔薇色だったんだ」 中沢は、部屋の中央にロープをつるしていた。輪をつくり、そのなかにときどき首を通し、世界を垣間見たといっていた。 「君は、命の恩人だ」 そういった中沢の、青白い顔が目に浮かんだ。 「これから、どうなるのか」 深紅のイーゼルをみながら、石渡は思った。 これは、「どうでもいい」のではなく、「どうにもならない」問題なのだ。 フルート・レクイエム、六七枚、了