ミューズ                                     由布木 秀  浅倉遙(はる)菜(な)は、高い天空から、緑に染まる輝く大地をみおろしていた。  遙菜は、芳しい香りに満たされながら、ただよっていた。  それは、新緑に似た秀逸ななにかがうまれたときに感じる、もう二度と手ばなしたくない心ひかれる薫りだった。すがすがしい風が彼女のながい髪をくりかえしそよがせ、執拗にまといつき、魂をどこまでもはこんでいく。うすい面紗(ベール)になってひろがる遙菜に、まだらな雲が浮かぶ真っ青の天空から若い太陽が黄色い光を投げかける。だれもいない屋上には、冴えわたる日差しの音しか聞こえない。ときおり思いだしたように小鳥のさえずりが混じり、おだやかにふく風が黄色く染められた天上のおとぎ話をゆっくりと語っている。光線によって温められ一面にただよう甘い草木の香りは、さらにつよさをましている。光のベールが幾重にもつみかさなって、黄金にかがよいながら彼女をとりまいている。金色のドレスにつつまれた遙菜は、すぐそばにいるはずの青い神にやさしく抱かれ、くりかえし愛の囁きを聞いている。あわくひろがる彼女の身体は黄金の光をうけ、下界にむかって銀色の光線が無尽蔵にあふれでてくるのを感じる。冬には枯れ果ててしまった草木は、いまは心地よい生命の匂いで大気を満たしていた。遙菜は、みえるかぎりの世界をよいとみとめ、心からの祝福をあたえていた。おだやかな風をくりかえし感じる。おなじ薫りに占められた気持ちよい暖かいながれが、純化された彼女の魂を幾度もいくども揺すっている。すべてのふるい因習から解放する黄金に輝くつよい光は、遙菜の心をあらいきよめ、かるくし、やわらかな草の香りにつつまれた気流にのせ、青くすみ切った天空にただよわせている。  なんという、高みにいるのだろうか。  遙菜が美術部にいくと、鍵があいているのが分かった。春休みの日曜日なのに、だれがいるのだろうと思ってなかに入ると、「やあ、ぴったりだね」という声がした。振りむくと、若い男が笑みを浮かべていた。 「ぼくも、いまきたところだよ」  遙菜は、いくつか年上にみえる男性を知らなかった。黄色のタートルネックのセーターをきた長身の男は、なかなかの好男子だった。会えば、記憶にのこっていそうだった。 「どうかしましたか」と遙菜はたずねた。 「なにがですか」と男は聞きかえした。  遙菜は、不審げな表情でだまった。 「忘れてしまったのですか。ずいぶんお忙しいとは、うかがっていましたけれど」  みじかい髪の男は、金縁の眼鏡をひきあげながらいった。 「すみません。覚えていないのですけれど」  遙菜の困惑した顔つきをみると、男は考える風情になって午後の一時に待ちあわせたと答えた。暮れの宴会で約束したといった。  遙菜は、美術部の忘年会には実験が手間どり遅れていった。ついたのは最後だったから、あいていたすみっこの席にすわった。ずっと実験が忙しくて、友だちともゆっくり話す機会がなかった。楽しみにしていたが、遅刻したせいで希望どおりにはいかなかった。しかし二次会では合流でき、世間話に花をさかせ、近況を報告しあった。 「遙菜さんは遅れてきて、ぼくのとなりにすわったでしょう。コンスタブルがお好きだってお話をしましたけれど、お忘れになったのですか。実験が忙しくて、ようやくぬけてきたと話していましたよ」  男は、遙菜をみていった。 「コンスタブルは、大好きです。そんな話をしたのは、覚えていません。実験が忙しくて忘年会には遅れて、あいていた席にすわった記憶はありますけれど」 「それじゃ、名前も忘れたのかな。ぼくは、三上で、君たちの二年先輩です」 「すみません。すっかり忘れているらしいです。どんなお約束をしたのですか」 「三月のはじめまでは、実験でなにもできないけれど、学期が終わったら時間をつくれると、君はおっしゃっていました。だから四月の最初の日曜日に、部室で待ちあわせる約束をしました」  遙菜は、まったく覚えていなかった。三上のいう通り、三年時の化学実験がようやく終わり、これから卒論にまとめなければならなかったが、四年生はずっと自由な時間があるというのは正しかった。 「約束の時刻は、午後の一時でした。いま、ですよ。それで、きたのではなかったの」  たしかに午後の一時だった。 「嫌だわ。きっと、ぼうっとしていたのね。ものすごく忙しかったから、たぶん、三上さんのいう通りだったのね。午後はここにこようと思っていたから、不完全な記憶があったのかしら。いったいなにをお約束しましたか」  三上は、知りあいの紹介を約したといった。  遙菜は、まったく覚えていなかった。  忘年会のころは、日に三時間くらいしか眠れないほど実験に忙殺されていた。意識も、あやふやだったのだろうか。それにしても、なにもかも忘れるなんてこんな不思議なことははじめてだった。  遙菜は、つれだって部室をでて正門まえの喫茶店へと歩いた。  三上は、忘年会の席で知りあいの画家の話をした。海の絵を描く青年に興味をもった遙菜が、四月に紹介を希望したらしい。まったく記憶からぬけ落ちてみょうだとは思ったが、三上の話は彼女の現状と符合していた。  休日の午後の喫茶店は、すいていた。  二階にのぼると、窓ぎわの席にすわっていた青年が三上にむかって手をあげた。遙菜をみると、立ちあがって挨拶をした。座席につくと、三上は江上聡一を紹介した。  髪がみじかいハンサムな男は、遙菜の好みだった。珈琲を飲みながら絵の話をしばらくしていると、三上が「それじゃ、おれはこれで」といって席を立った。  江上聡一とふたり切りになって、大好きなコンスタブルとターナーについて会話を交わした。聡一は、まるで詩人のように海を語った。話を聞く遙菜の脳裏に、コンスタブルがくりかえし描いたデダムの水門の情景があざやかに浮かびあがった。聖なる黄色い光線に覆われた、ターナーの作品が心をよぎった。卒論のことで頭がいっぱいだった遙菜は、日常とまったく違う世界に触れてとても楽しくなり、以前からの大切な知りあいに出会った気がした。  聡一は、品がよさそうな素敵な男性だった。くわしい事情までは聞けなかったが、海がみえる漁村に住み、終日、絵を描いて暮らしているといった。画業で生活できるのか、分からなかった。生活臭をまったく感じさせないすんだ瞳をした知的な男性は、不思議な魅力をもっていた。 「なにを勉強しているの」と聡一は聞いた。  遙菜は、農学部の農芸化学科に在籍していると答えた。 「理系女性は、とてもすくないのではないの。農学部に進学する女性も、多いとは思えないけれど」 「そうなのよ。私は、すこしかわっているの」  遙菜は、考える素振りになって答えた。 「どんなことを勉強しているの」と聡一は聞いた。  それで、遙菜は答えた。  農芸化学科は、発酵にかんする化学の分野で、チーズやバターなどの乳製品の製造や保存、煙草のブレンド、ウイスキーの醸造などに関与している。それに、豚肉や牛肉を製品として加工するばあいのカットの規格など思いつくことを気楽にしゃべった。二年生、三年生のときには、理学部の化学科同様の実験にあけくれていた。四年生は、いままでの結果をまとめて卒論を作成しなければならない。決して暇ではないが、実験台にはりつく生活からは解放されると話した。化学の実験は、一度はじめるとつぎの作業の時間が決められ、時間どおりにしないと正確な結果がえられない。きちっとやらないと、卒論がかけない。だから気分的には、とても解放されたといった。  遙菜の話を熱心に聞く聡一をみていると、初対面とはまったく思えなかった。彼女の心はうちとけていた。  いつしか遙菜は、農学部の屋上の話をはじめていた。  まばらな雲が浮かぶ青い空から透明な日差しがふりそそぐ夏の日の早朝。学部まえの高木の並木をゆっくりと歩いて中央の玄関から農学部の校舎に入る。その刹那、石だけがはなつ、特有な香りを感じる。静寂に支配された大きな空間は、幾分か冷ややかで厳かで、身体が触れた瞬間、高い天井のすみずみまで重厚な匂いに満たされているのが分かる。中央の石づくりの暗い廊下を歩いて裏の玄関に辿りつく。そこに、ふきぬけになった階段ホールがある。みあげると、西にむかって大きく切られたゴシック調の窓からつよい光線が差しこんでいる。すんだ光は、みがかれた石づくりの階段を浮きあがらせ、はるかな重々しい歳月をうつしだす。コツコツという自分の靴音に耳をすましながらのぼっていくと、ほかの場所とは違う厳粛な時間をひしひしと感じる。光明に満たされた未来と、うす暗い過去のあいだを混沌が統御し、遙菜が暮らす現在のよどんだ「とき」に触れあうことができる。すこしずつ高みへのぼるにつれ、光への憧れは、いっそうはげしくなってくる。足音は、やや湿った感じがする暗い空間にひとつひとつ木霊しながら、「現在」がしっかりと「未来」をうけとめ、なんの違和感もなく「過去」のなかへそっと溶けこんでいく、表現できない感覚に対峙する。  それは、不思議な憧れ。  子供のころの、おもちゃ箱。  なつかしい熊のぬいぐるみ。  廃校の音楽室にのこされた、オルガン。  ナミブの赤い砂に浮かぶ、蜃気楼。  石の階段が終わると、四階の踊り場につく。すみに卓球台がひとつおかれる石づくりのひろい空間は、冷たくやや暗くて、いつもひっそりとしている。取り分け夏の日の早朝は、いっそうの静寂に統治されている。光にたいする憧れはふたたびつよさをまし、奥につくられた漆黒の螺旋階段をのぼりはじめる。暗くてせまい階段を、さらにうえにむかってまわっていく。やがて頭上に、人がひとりしか通れない小さな四角い出口をみつける。天井を覆う重い蓋をおしあげ、身をかがめ、ちょっとした努力のあとで外へぬけることができる。  そこは、日常とは違う、非現実の世界。  周囲を、芳しい命の香りに満ちたすがすがしい白い風がゆったりとふきぬけている。まだらな雲が浮かぶ青い空から、朝の大陽がつよい光線をふりそそいでいる。だれひとりいない屋上には、冴えわたる日差しの音と囁く風のおとぎ話、甘い草木の匂いよりほかにはなにもない。幾重もの光の黄色いベールが、輝きながら一枚の面紗にかわって天上からたれさがっている。遙菜の全身が、黄金のドレスにつつまれる。それに応じて、彼女の身体からは銀色の光線があふれでて下界をつらぬいていく。緑の匂いに満たされた真っ青な空間におだやかな風がふき、心を揺すりながら通りすぎる。透明なつよい光が全身をあらいきよめ、幾度もくりかえし、魂を揺さぶっている。やがて、やわらかな草の薫りに満ちた気流が、彼女の心を青くすみ切った天上にはこんでいく。  遙菜は、空とひとつになって天空にただよっている。白く光る風は、ながい黒髪をなびかせ、黄金に煌めかせる。なんという高みにいるのだろうか。  満たされている。  この世は、あらゆる美しいものにあふれ、ひとつの不足もみつけられない。みおろせば、石づくりの屋上をとりまくあざやかな緑は大地の果てまでひろがりつづけ、髪をやさしくそよがせた白く輝く風は一面のエメラルドの農場をゆるやかに波うたせている。  うねり。波うち。くりかえし白くかがよう風と光と遙菜が、たがいに満たしあっている。  目にうつる輝く宇内(うだい)は、すべて彼女のものだった。かぎりない陶酔のなかに没し、遙菜がまだ知らないエクスタシーにつつまれると、いいかえてもよかった。天上につれさられた魂は、芥子粒になった下界をみおろし、緑の農場は果てしもなくつづいている。  遙菜は、「真実の美」を構成するひとつのパーツをつくっていた。 「素敵な話だね。もちろん、ひとつの自己陶酔には違いないけれど、だれでもが味わえる境地ではないよ。コンスタブルは、その感覚を味わおうと、一日、ずっと戸外で、おなじ風景を描いていた。彼だって毎日は体感できなかったはずだ」 「分かるの、この感じ。二年生のときに知ったのよ。素敵な、ふるえる感覚。五月から八月までの早朝しか味わえない。それも、ほとんど快晴の日だけ。年に何回もないわ。生きているって分かる恍惚とした瞬間なのよ。これを味わったら農学部以外にはすすめなかったのよ」 「分かるよ。その感覚は、麻痺だ」  聡一は、そういって微笑んだ。素晴らしい笑顔だった。 「そうね、麻痺だわ。なんなのだろう、あれ」  遙菜は、その言葉にはっとして感覚を思いだしながらいった。 「全能感だよ。君が、その世界の主人になった。神さまだよ。遙菜さんのばあいは、女王さまだね。みえるかぎりのすべてが、君の所有物になったんだ。もうどこをさがしても、あたらしいものなど、ひとつもみつけられない。だって、みんな君が知り、名づけてしまったあとなのだから」 「あなたも、味わったことがあるのね」 「そうだよ。芸術をうみだす人間には、この感覚がすべてだ。自分の世界で、あらゆる事物が自由自在になる。筆をふるえば、思う作品がかける。ぼくは、あわくひろがりつづけ、知りうるかぎりの宇宙にひき伸ばされる。もう、自分しかいない。ぼくは、どこまでも世界とひとつに融合し、不可分な一体になっている。でもね。そこにはニンフがいるよ。くりかえしその情景を堪能していると、憧れによってさまざまな思いが具現化される。そこには、農学部の屋上のニンフが住んでいる。きっと、緑の農場にも暮らしているはずだ」  聡一は、ゆっくりと話して笑った。 「ニンフって、なに」 「妖精だよ。ギリシア神話では、花嫁ともよばれる美しい娘たちだよ。ほとんど女神さまで、すべてが満ちたりた世界に暮らしているんだ」 「妖精。ニンフね。私にもみえるのかしら」 「そこの主人だけには、知ることができる。今度、よくみてごらん。まず、感じるんだ。気づくものを追っていけば、きっとニンフがいる」 「どんな、感じなんだろう」 「妖精は、女王さまを知っている。そこが、だれの王国なのかをね。だから屋上や緑の農園のニンフは、君を大切にしてくれる。妖精は、いたずら者で、ひどく残酷なときもある。でもね、主人だけには、そんなこと絶対にやらないのだよ」  その瞬間、遙菜は、聡一の世界に触れた気がした。 「あなたが絵を描いている場所にいけば、妖精にも会えるのかしら」 「それは、無理だね。ぼくのニンフは、ほかの人にはみえない。君の妖精は、遙菜さん、ひとりにしか分からない」 「聡一さんの漁村にいけば、あなたのニンフを感じることができるのかしら」 「遙菜さんが麻痺を知っているのだから、気がつけるはずだ」 「教えてくれるの」 「そうしてあげる。きっと、分かると思うよ」 「みてみたいわ。ニンフが住んでいるというあなたの海を」 「そうだね。君は去年の暮れ、三上くんにおなじことを話した。だから今日、会う約束になった」  遙菜は、ぼうぜんとした。  そんな記憶は、まったくなかった。コンスタブルはともかく、麻痺については今日うまれてはじめて語りあった。だれに話しても、この気持ちを理解してもらえるとは思えなかった。だからこんな素敵な会話だったら、どんなに実験に忙殺されていても忘れるはずがなかった。理解できなかったが、遙菜は江上聡一が住む漁村を五月の連休にたずねる約束をした。  聡一は、その日は晴れるからニンフを感じるには都合がいいといった。一一時発の列車にのれば一二時半すぎにつくと、日時をかいた手帳のページをやぶって彼女に渡した。彼は、スマホも携帯ももっていないといった。家には、テレビはもちろん電話もパソコンもない。連絡もとれないから、ぐあいがわるくなったらそれでいいといった。  すべてが、現実ばなれしていた。 「五月の晴れた日に、駅でお待ちしています」と聡一はいった。  素晴らしい笑顔だった。 「かならずいくわ」と遙菜はいった。  ふたりは、手を振って正門まえで別れた。  そのとき彼女の心に去来したのは、あきらかに恋の予感だった。  遙菜は、ふとラリーの音に気がついた。  振りむくと、階段をはさんだ反対がわの卓球台でふたりの男が懸命に球をうちあっていた。彼女は、ホールの奥にある鉄製の螺旋階段の横で窓から外をながめていた。硝子窓を通してみる眼下の木々は、まだ冬枯れていた。聡一と別れたのは覚えていたが、どうやってここにきたのか分からなかった。昼から、ずっと夢をみつづけている気がした。思いなおして、彼女はせまい螺旋階段をのぼりはじめた。天井には蓋状になった出入り口がつくられ、遙菜は押してみたが扉はひらかなかった。理由が分からずごそごそと奮闘していると、短パンの男たちがながいスポーツタオルで汗をふきながらやってきた。 「そこは、あかないよ」と赤いショートパンツの男は、遙菜をみながらいった。 「なぜかしら」 「鍵があるでしょう」  男が指し示した場所には、南京錠がかかっていた。  遙菜は、階段をおりると、いままでなかったのにどうしてだろうと聞いた。 「去年の暮れに、事故があったらしいよ」と男はいった。  厳冬の一二月に、若い男性が屋上から飛びおり自殺をはかった。出入り口はここしかなかったので、それからは閉鎖されている。いく必要があるばあいは、一階の事務室で理由をつげて南京錠の鍵をもらわねばならない。一般の人はもう屋上にはいけないらしいと、男はいった。遙菜が、実験で夢中になっていた時期に起こった出来事だった。  ふたりは始終ここで卓球をやっていたから、どんな人が出入りしたのか、現場検証にきた刑事に聴取されたといった。  遙菜がおどろいた表情になると、どうかしたのかと男は聞いた。  ひどく動揺したのは、男たちにもつたわったのだろう。  大学の講義がはじまると、遙菜は予想以上の仕事が山積しているのに気がついておどろいた。なにをどうまとめたらいいのか、教授の指導をうけているうちに時間は瞬く間にすぎていった。  どんなに忙しくても、江上聡一についての出来事は脳裏から片時もはなれることはなかった。三上の忘年会の話は完全に記憶からぬけ落ち、くりかえし考えるほど信じられなかった。喫茶店であった江上聡一は、人物設定や会話の内容もふくめてひどく突拍子もない出来事だった。その日、正門まえで聡一と別れてから四階のホールまでどうやって歩いたのか、記憶は完全に欠落していた。しかし、そこで聞いた事件はほんとうだった。それからは、ずっと鍵がかかっているのが螺旋階段の下から分かった。  屋上から飛びおり自殺をはかったのは、若い男だった。  図書館の新聞で、みじかい死亡記事をみつけた。  原因は分からなかったが、二五歳の男性で、S・Mと記載されていた。不思議な話だった。Sが名前なら聡一と、Mが苗字なら三上が該当した。年齢もおなじくらいだったからひどく不安に感じた。どうやら男は裏玄関にむかって飛びおりたらしいから、農場がみえたはずだった。とはいっても、そのころなら真っ白い雪に覆われていたに違いなかった。  すべてが白昼夢にも思えたが、遙菜は、聡一から渡された紙片をもっていた。  そこには彼女の字ではなく、のる列車の時刻と乗り換える駅、おりる駅名がかかれていた。夢にしか思えない出来事だったが、紙片はのこされていた。  遙菜は、何度かホールにいこうと思ったが球をうちあう音が聞こえて断念した。  桜がさいたころの晴れた平日、彼女は早朝に四階にのぼった。  はやかったので卓球をする男たちはいなかった。螺旋階段の出口に鍵がかかっているのを確認し、窓から色づきはじめた農場をみた。  階段をのぼってくる足音がして、振りかえると三上がいた。  彼は、おどろいた表情になった。遙菜とならんで農場をながめながら、 「毎年この時期には花見ができたのに、今年は屋上にいけなくて残念だよ。江上とは、どうなっているの」と聞いた。  遙菜は、五月の連休に漁村をたずねる約束をしたと答えた。 「それは、いいね。すごく素敵な場所だから、君は絶対気に入ると思うよ。コンスタブルは、海辺では創作の意欲が湧かなかったのかな。ターナーは、海をよく描いていたよね。江上がいる場所は、コンスタブルの海辺なんだ」  三上は、素晴らしい笑顔でいった。  イギリスの風景画家たちの話をするうち、遙菜は不安を感じていた自分が馬鹿ばかしくなった。自殺した若者と、三上と聡一をくみあわせたイニシャルがおなじ。そんなことに理由なんか、あるはずがなかった。考えて、みょうな気分に落ち入った自分を愚かしく思った。きっと素晴らしい気分転換になるに違いなかった。またここで会おうといって、三上とは別れた。  遙菜は、聡一の漁村にいけば非日常的な世界があり、不思議な時間がながれ、屋上で味わうことができなくなった麻痺の感覚を味わえるのではないかと思いはじめた。化学の実験や卒業論文、就職や将来のありふれた生活。そうした常識的で油にまみれた日常とは、まったく違う世界が彼女を待っている気がした。東京に帰ったら二度と味わうことができない間違いなく大切なもので、人生をかえる出来事かも知れない。  どんどん、空想はふくらんでいった。  遙菜が列車で二時間ちかくもかかる聡一の住む漁村に出向いたのは、北国に春をはこぶつよい風がふくころだった。桜がさいて風流を感じる暇もなく散ると、あわい紫色のライラックの房が花をひらく。豊かな花弁は甘い香りをはなち、豪奢な雰囲気をもっていた。フランスでは、「リラの花のさくころ」と歌われ、恋が芽生える季節がはじまったことを意味するらしい。  つよい風は冬のなごりをふき飛ばし、あかるい雰囲気や自由な発想をはこんできた。 「好きになれる人の家をたずねることがあったら、薔薇の花束をもっていきたい」  遙菜は、少女のころから思っていた。  そんな機会は、いままでおとずれなかった。これからもないだろうと、遙菜は列車に揺られながら思った。浮き世ばなれした今回の潮時を逃したら、今後も絶対ありえないだろう。この不思議な出来事に、薔薇の花束はお似合いだろう。彼女は、海岸線を走る車窓から青い海原をみながら思った。  しかし、現実には実現不可能な夢物語に違いなかった。  一一時に乗車した遙菜は、一二時ちかくに運河がみえる乗り換えの駅についた。  駅舎の階段を昇降して六番線のホームにいくと、聡一が話した通り、一両編成の列車がとまっていた。彼女が車両にのろうとすると、綺麗な少女たちの姿が目に入った。  あわい緑の服をまとった中学生くらいの七、八人の娘たちが輪になっているのがみえた。少女たちは、綺麗なながい黒髪を腕までたらしていた。彼女たちは、さまざまな服装の多くの人びとが行き交うホームのなかほどで薔薇の花束をかかえて立っていた。そばには、「地球の環境をまもる緑の運動」とかかれた小箱がおいてあった。  目があうと、あわい緑色の服の少女たちは遙菜にむかってにっこりと笑いかけた。  不思議な気持ちにうながされて、彼女は思わず娘たちが立っている場所まで歩いた。  輪の真ん中にいた綺麗な少女は、深紅の薔薇は一本が三〇〇円で半分は寄付になると落ちついた口調でいった。少女たちの周囲では、たくさんの人びとが足早に行き交っていた。若いカップルも年老いた老婆も、子供たちも歩いていた。  遙菜は、連休中の午後だとはいえ、みんなは一両しかない列車にのってどこに行楽にいくのだろうと、その様子をみて思った。  そうしたさまざまな人が行き交うホームの真ん中で、とても綺麗な少女たちは薔薇を両手にかかえて立っていた。幾人かは足をとめ、花束を買いもとめていた。  遙菜は、素晴らしい赤い花弁をとても不思議な気持ちになりながら当惑した表情でながめた。 「薔薇は、世界の完全性をつよめてくれます。このアプロディテの血によって染められた深紅の重弁は、世の中の欠けている部分を補い、不完全だったものに全体性を付与します。そうして情熱と純潔があかされ、いままで手がとどかなかった望みがかなえられるようになるのです」と真ん中にいた少女はいった。  遙菜は、一〇本買うとつげた。  ながい黒髪が美しい少女は、なかから綺麗なものを選り分けて花束をつくり、「この花には幸せがやどっている」と真剣な眼差しでいった。  遙菜は、薔薇をかかえて江上聡一が待つはずの駅にむかった。  ふるびた列車は、がたごとと大きな音を立てながら走っていた。ホームにはたくさんの人びとが行き交っていたが、車内は乗客がほとんどみうけられなかった。うす暗いボックス席にひとりで薔薇の花束をかかえてすわっている遙菜は、自分でも不思議な光景だろうと思った。もう、日常では考えられない世界だった。いささかは陳腐で、もし友人にでも話したら、「なにやっているの」といわれるに違いないと思った。すべてが奇妙なうえに、さらに自分でもおかしなことをしているのではないかと不安になった。この薔薇の花束をみたら、聡一はなんと思うのだろう。どう、説明したらよいのだろう。遙菜が、大恋愛を望んでいるという気持ちにみられてしまうかも知れない。聡一に誤解されたらこまるし、まるでせまっているみたいに思われるかも知れない。なんで、こんなものを買ってしまったのだろう。車両にはだれもしないから、おいていきたいとも思った。  列車は、田園風景がひろがる平坦な場所を走っていた。やがてあざやかな新緑が、彼女の目に飛びこんできた。その素晴らしい若々しい緑色の情景のなかで、深紅の薔薇の花束は圧倒的な迫力をもっていた。  やがて、列車は指定された駅についた。駅員もいない小さな駅舎で、おりたのは遙菜ひとりだった。ひなびた駅の改札をでると、多くの人が行き交っているのがみえた。そこには、約束どおり聡一が立っていた。  遙菜は、現実と夢が交錯する奇妙な感覚に落ち入った。  聡一は薔薇の花束をみると、「それ、どうするの」とひどく怪訝な表情で聞いた。  遙菜は、困惑の様子がとてもおかしかったのでひとしきり笑った。 「あなたの、ニンフたちへのプレゼント。今日は、ぜひお目にかかりたいから」  遙菜が花束を手渡すと、はじめて聡一は贈り物だと気がついた。 「考えてもみないことが起こるのは楽しいね。きっと生涯で一度の出来事って、こういうものなのだろうね」と遙菜の耳もとで囁いた。  ひどく真剣な口調におかしさをこらえながら、「そんな風にいってくださるのなら、薔薇の花束はもう二度ともってこないわ」と気取って答えて、ほっとし、よかったと思った。  坂をおりると、両がわにひろい漁師の家が軒をならべる土の道になっていた。歩道はなかったが、多くの人びとが歩いていた。聡一はだれとも顔なじみらしく、行き交う人に挨拶されていた。そうした人たちは、いっしょに歩く遙菜をとてもやさしくみつめ、微笑んでくれた。  漁師の家の庭で網をほす仕事をしていた男は、聡一に声をかけた。 「今日はいい天気だね。聡一さんの彼女かい」 「いえ。この港の綺麗な風景をみたいというので、きてもらったのです」 「可愛い人だね。薔薇の花束かい。お安くないね。とってもお似合いだよ。名前は、なんていうの」  日に焼けた男は、遙菜にも声をかけた。 「秘密だよ。源さん、恥ずかしがっているよ。こんな素敵な人、ぼくの恋人になんて、なってくれないよ」 「そうだよな。でも、聡一さんはいい人だよ。彼女になってあげなよ」  源さんは、笑った。  となりの家で、漁具をなおしていた老女が声をかけた。 「聡一さん。よかったね。ひとりでは、寂しかったものね。若い女性がくると、この街も華やかになるね」 「明恵さん。からかったりしたら駄目だよ。もう二度ときてくれなくなったら、明恵さんのせいだからね」 「おお怖い。聡一さんから恨まれちゃうよ。うまくいかなかったら、みんなあたしのせいにされるわ」  明恵は、そういうと大きく笑った。  聡一も遙菜も、笑みを浮かべた。  漁師のならびは、木造の平屋ばかりだった。格子がはまる窓は、黒くくすみ、ながい歳月を連想させた。 「この村の家は、ずいぶんふるそうね」 「たぶん、つくられたのは明治のはじめだと思うよ。農学部の校舎よりも、まえかも知れないね。鰊業がさかんだったころは、もっと活気があったらしい。ときおり、そんな過去の薫りがただよってくる」と聡一はやさしくいった。  遙菜は、空気を胸いっぱいに吸いこむと、潮の香りばかりではなく、農学校とおなじ匂いを感じた。両わきにつづく漁師の家から声をかけられながら歩いて、大きく右にまがると急に視界がひらけ、小さな港がとつぜん目に入ってきた。 「まあ、素敵ね」  思わず遙菜は、小さく叫んだ。 「そうだろう。ぼくは、駅からあてどもなく歩いてきて、この角をまがった瞬間、ここに住んで絵を描くことに決めたんだ。今日みたいな暖かい南風にさそわれてね」 「いつの話なの」 「なにかな」 「何年まえなの」 「いつだったかな。ここでは、ときはとまっているみたいなんだ」  遙菜は、じっと聡一をみた。彼は笑っただけで、それ以上はなにもいわなかった。  景色にみとれながら浜までいき、ふたりは白い防波堤に腰をおろした。とおくで、船を操作するたくさんの漁師の姿がみえた。つよい潮の香りが、周囲を満たしていた。 「どう。今日の空気には、過去の香りがついているの」  顔をのぞきこみながら聞くと、聡一は首を左右に振った。 「この匂いは、あたらしい。まっさらな感じだ」  そのまま雲もまばらな空をあおぎ、「薔薇の薫りもつよくて」とつけ足した。  暖かい春の日で、規則正しい浦波の音ばかりが耳にとどく静かな午後だった。  休日だというのに、どの男女も自分の仕事をしていた。ふたりを邪魔する者はいなかった。静かな、漁村だった。  そうした人びとを背景にして、入り江は、遙菜たちふたりだけのものと感じられた。左右を小さい岬にかこまれ、右は小高い丘になり、視界はさえぎられ、黒い岩肌がみえた。左はやや大きく、ぽつりぽつりと人家がたち、そのさきに春霞が棚びく青い海がひろがっていた。水平線のそばには霞んだ青白いあいまいな領域がただよい、やさしい春風がそっとつまんでは空全体にうすくおしひろげていた。天空にはあわく白い面紗が覆い、そのうえから太陽が輝いていた。 「春の空は、麻薬の粉をふるいにかけている」と詩人がいったのを思いだした。  粉末はコンスタブルの雪にかわって、輝きながらふりそそいでいた。うっとりと夢見心地になったのは、麻薬の粉を胸いっぱいに吸いこんだせいだと思った。遙菜は、この情景にめぐりあえて幸せだと感じた。  やがて、ふたりは立ちあがり、聡一の家にむかって歩きだした。入り江の右に、小高い丘につらなるほそい道があった。小径が傾斜をます手まえに、ふるい平屋がたっていた。空き家になった漁師の住まいを借りていたのだろう。大きな勝手に、洗濯機と小さな冷蔵庫がならんでいた。聡一は、ながしの桶に水をため、薔薇の花束をひたした。 「茎を切ったほうが、いいかも知れないわね」と遙菜がいうと、 「大丈夫。花束には、魔法をかけたから。つぎに君がくるときまで、赤い花をさかしつづけているように」と聡一は答えた。 「どんなにはやくても、来週になるわ」 「それなら大丈夫。いまとおなじくらい真っ赤に、さきほこっているはずだよ」と聡一は答えた。  縁にかこまれた、ひろい二間だった。ひとつは、寝台が片すみに、食卓が中央にあった。奇妙な配置だったが、机がなかったので本はそこで読むのだろう。壁ぎわには棚がふたつおかれ、美術にかんする書籍がならび、ふるい美術全集がそろっていた。もうひとつはアトリエで、画布が無造作にちらかっていた。描かれていたのは窓からみえる風景だった。  部屋のあいだを走る勝手につづく廊下が、二間を縁になってとりかこんでいた。窓にはあかり障子が一枚ある切りで、あけはなすと温かく陽気な春風が思う存分かけめぐり、戸外とすこしもかわらなかった。 「冬は、どうするの」  思わず心配になって、遙菜はたずねた。  聡一は、微笑んで縁のはしの溝をさして「雨戸があるよ」と答えた。 「それじゃ、冬は真っ暗になるのね」  遙菜は、彼の顔をみながらいった。 「そうだよ」  聡一は、外の風景をぼんやりとみた。それから遙菜の瞳をみつめ、また視線をはずした。 「北国の冬って、きっと思索のときなんだ」といった。それから下唇をかるくかみ、「すこし気障だったかな」とつけ足した。  遙菜は、その言葉に笑った。  ふるい家だったが、縁から青い海や周囲の緑に色づく木々をみると目にうつるすべてが自分の庭にも思えた。都会で億のお金をつんで高層マンションを買ってもベイエリアの人工物がみえるだけで、こんな贅沢は味わえないに違いなかった。  おしゃべりをしてからつれだって丘にあがると、素晴らしい風景がひろがっていた。  海は大きな弧を描き、地球が平らには思えなかった。ゆるやかな曲線をつくりながら、海原は果てしもなくひろがっていた。日本海の色は遙菜がおよいでいた内地の海とは違い、どこまでも青白かった。じっとみていると、悲しくなるほど青かった。丘には、啄木の石碑が立てられていた。彼もここから青い海原をながめたとき、おなじ思いにひたったに違いないと思った。内地の海は気軽に人をむかえ入れたが、日本海はそんな感じには思えなかった。遙菜がながめていることなど、まったく無頓着だった。海は、自分の領域で独自に生きている気持ちがした。  遙菜がいま感じたことを話すと、 「世界には、万物が個性的に存在している。だから、自分がむかう事物とは対決しなければならない」と聡一はいった。 「むかいあうの。なにと。どういうぐあいに」 「自分の世界を、まもるために。つねに。力のかぎりに」  遙菜は、聡一の話がさっぱり分からなかった。そもそも、なにとの対決なのか。なぜ、対抗するのかも分からなかった。どこまでもひろがる海と空をみる小さな自分を考えると、対象も理由も不明だったが聡一はそうした自然と対峙しているのだろうか。  ふたりは夕方になって列車にのり、運河がある港街で乗り換えのためにおりた。駅のちかくでお寿司を食べて、おしゃべりした。 「来週も、きてもいい」と遙菜が聞くと、「ああ、もちろん。今日はお土産をもらったから、おかえしを用意するよ。楽しみにしていて」と聡一はいった。  それで、ふたりは駅で別れた。  翌週、聡一の漁村をたずねると、すぐにアトリエにつれていかれた。  イーゼルには、椅子に腰をおろした女性の肖像画がおかれていた。若い女は、ながい黒髪を輝かせながら腕まで真っすぐにたらしていた。細面で理知的な女性はととのった目鼻立ちをし、やわらかい微笑みを口もとに浮かべていた。すんだ瞳はやさしそうに遙菜をみつめ、手には素敵な紅い薔薇の花束をかかえていた。画架のそばには、花瓶にさされた深紅の重弁が、絵に描かれたものとみわけがつかないほどあざやかにさいていた。 「実物よりずっと綺麗だわ」 「そんなことはないよ。風景しかモチーフにしなかったから、うまくかけない。一生懸命に描いたのだけど」とすまなそうにいって、「実物のほうが、ずっと素敵だ」と聡一は囁いた。  絵の右下に「Souichi」というサインがあり、遙菜はすっかりうれしくなった。 「ありがとう。一生、大切にするわ」といった。  ふたりは、暖かくやわらかい日差しのなか港の防波堤におかれた平らな石に腰をおろして語りあった。漁船が海にでていくのがみえた。子供たちが浜で遊んでいた。多くの人びとが、この港で暮らしているのがみえた。そうした事物は、すべて背景になって一枚の絵をつくっていた。  遙菜は、ここの風景がとても気に入ったと話した。  もしコンスタブルが住んでいたら、きっとこの海と裏山の雑木林を描きつづけたに違いない。そうしたら、ここはコンスタブルカントリーになって、観光地にかわっていたかも知れないといった。 「君が、絵が好きなのはよく分かったけれど。どうしてなのかな」と聡一は聞いた。  自然を観察する素晴らしくいい目をしている。その感覚は天性のものだろう。しかし普通の女性は、街にでて買い物に夢中になったり、仲間とおしゃべりしたり、つくられた音楽や映画をみるほうが好きなのではないか。理系の女子だって風景をながめるよりは、友だちと温泉旅行をする人たちが多数派だろう。男友達と食事してドライブする人のほうが、ずっと普通ではないかと聞いた。 「私、人づきあいが下手なのね。ずっと、そうなのよ」  遙菜は、すこしこまって答えた。 「どうしてなのだろう。べつに、遙菜さんの身上調査をするつもりはないよ。なぜ君だけが、農学部の屋上で麻痺を感じることができたのだろう。ぼくは、ずっとそればかしを考えている」 「私、友だちができないの。美術部でも仲間はたくさんいるのだけれど、親友をつくれないの。きっと、育った環境によるのだわ」  遙菜は、聡一には分かってもらえる気がした。それで、話しはじめた。  遙菜の母親は、彼女が幼いころ離婚していた。再婚した義父には、娘のつれ子がふたりいた。だから遙菜は、戸籍では三人姉妹のいちばん下だった。彼女は東京にうまれたが、母の再婚者は大阪だった。そのころ遙菜は、ちょうど思春期だった。小学校の五年生のときで、関西弁がしゃべれなかった。ふたりの姉たちとはぜんぜん性格が違っていたから、話しあえることはほとんどなかった。義父は、自分の娘たちを可愛がった。そもそも、性格がいじけていたのかも知れない。ほんとうはどうだったのか分からないが、いつもそう考えていた。義父は、そうしたことをふくめてごく普通の人だったと思う。その分、母親はとてもよくしてくれた。いろいろ気づかってもらったのは知っていたけれど、やはり居場所がないとばかし感じた。関西弁は苦手だったので、学校でも友だちはひとりもできなかった。みんな自分のせいだったのだけれど、思春期だったから素直になれなくて影響が大きかったのだと思う。ときには、母を恨んだこともあった。高校生のときに、義父は仕事の関係で東京に引っ越しした。姉たちは、関西の大学にすすんで三人家族にかわったけれど外にでたかった。ときどき帰ってくる姉に会うのも嫌だったし、ひとり切りになりたかった。ひとりで、だれにもわずらわされずに知らない場所で暮らしてみたかった。一度もいったことがなかった北海道に住んで、大学生活をおくりたいと思った。高校時代から美術部に入って、ずっと絵をつづけてきた。都会だったから描きたい風景はなく、いつも静物画ばかりだった。北海道にきてから海をみて感動した。支笏湖の情景には、季節を問わず圧倒された。新緑や紅葉する山々をながめ、風景画に夢中になった。週末がくると汽車にのってでかけて周辺の景色を描いてきた。だから恋をしたこともないし、親友もいない。その不足した部分を補い、慰めてくれたのは風景画だった。しかし、農芸化学科にすすんだら忙しくて絵もかけなくなった。 「私、自分に自信がもてないのです」と遙菜は小さな声でいった。 「そんなに優秀で真面目なのに。どうしてなのだろう」 「人に自分の話をしたのは、今日がはじめてです」  遙菜は、小声で答えた。  聡一は、だまっていた。   北国は、どの季節も風情があって素敵だった。なかでも夏は、爽やかで日差しはつよいが陰に入るともう別世界だった。日盛りのなか、麦わら帽子をかぶって港を歩いた。  遙菜は、村の人たちともすっかり顔なじみになり、行き交う人と挨拶しあった。たくさんの村人が、姿をみつけると気軽く声をかけてくれた。だれもが、彼女を好意的にみているのが分かった。  岬の下には日陰になった大きな平たい岩があり、聡一のお気に入りの場所だった。そこにすわり、おだやかな呼吸をくりかえす海をみながらふたりは話した。そばにはイーゼルが立ち、描きかけのカンバスがおかれ、パレットや絵筆が散らばっていた。 「ずっと、ここからの風景を描きつづけているの」と遙菜は聞いた。 「世界はひろくて、おなじ日は二度こない。同一の時間も、くりかえさない。天地が創造されてから、一本の木におなじ二枚の葉がついたことはない。いつでも、すべてがかわっている。だから、おなじものはどうしてもかけない」 「コンスタブルの言葉ね。あの白くなったところ。あれが、あなたの波。いま頬を打った風。それが、あなたのそよ風。私たちがすわっている平らな岩。これが、あなたの石。いま絵筆が触れた点。それが、あなたのコンスタブルの雪なのね」 「そうだ。ここがぼくの海だよ」  聡一は、答えた。  遙菜は、晴れわたった夏の日の早朝だけに起こる素晴らしい麻痺の感覚について話した。石づくりの農学部の建物に入った瞬間に気づく、過去と未来がひとつに溶けあう話をした。屋上で感じる、すべてをみおろす充足した思いを話した。 「麻痺は、恍惚感をともなう自己陶酔の世界だ。どこまでも自分のものだと思える全能感にひたり、酔いしれる感覚だ。それは、ひとつの高まり。完璧な陶酔。聖なる狂気。そんな事件が起こるのは、君が屋上を構成している世界の主人だからだ。その、みえるかぎりの領域は遙菜さんのものだから、すべての存在をよしと判断できる。農学部の屋上で、君におとずれる素晴らしい麻痺の感覚が、ぼくにはよく分かる」 「聡一さんが、ここで感じるものなのね。素敵な感覚。たしかに、自己陶酔だわ。屋上に立ち、はるか彼方までつらなる緑の農場をみて、自分がこの世の創造主になった気がするのよ。全能感というのも分かるわ。その通りだわ」 「全部が君のもので、完璧にすべてをみつけだしてしまった」 「そうかも知れないわ。だから、満ちたりた感覚に覆いつくされるのね」 「そうだよ。でも、足りないものがある。分かるかい」 聡一は、真剣な表情になって聞いた。 「なんだろう。すべてが満ちて、あらゆるものがある。それで、なにが足りないのかしら」  遙菜は、すこし考えて呟くようにいった。 「ゼウスが世界に秩序をうみだしたとき、創造の瞬間に立ちあった神さまたちは、だれもが声もだせないほど一様にふかく感嘆した。それをみて、最高神はこれでいいと宣言した。そのとき、ある神さまがいった。ゼウスよ、完璧ではない。まだ不足しているものがあるとね」 「なんだろう。分からないわ」  遙菜は、すこし考えてから答えた。 「ある神さまが、ミューズが足りないといった」 「なにかしら。それ」 「ゼウスの偉業を、この創造の奇跡に立ちあった感動をほめたたえ、後世にのこす言葉が不足していると。それがミューズの女神たちだよ。歌で、詩で、踊りで。そのかえがたい驚愕と歓喜を表現する讃美の女神たちだ。彼女たちがいて創造の御業が完成する」 「そうか。たしかに、ほめてくれる人はいるほうがいいわね。ミューズは、農学部の屋上にも暮らしているのかしら」 「麻痺があるところに欠けているものなんてない。ニンフが存在するなら女神もいるはずだ」 「そうか。みつけたいけれど、もう屋上にはあがれないわ。機会があったら今度は注意してみたいわ」と遙菜は答えた。  聡一は、神話について話をはじめた。  ゼウスは、ティタン族の女神、ムネモシュネと九晩、臥所をともにした。ミューズは、そのときにうまれた九人の女神たちをさしている。ムネモシュネという名前は、記憶という意味になる。むかしの人たちは、ノートもペンもなくて記録をのこせなかった。あった事件のすべてを覚えていなければならなかった。だから、あらゆる創造は記憶からうまれた。ミューズは、さまざまな分野の芸術家に霊感をあたえてくれる。彼女たちがいなかったら、絵も詩も、歌もつくれない。  だれもが女神から霊感をえて、はじめて芸術をうみだすことができる。  芸術家は、ミューズの召しつかいにすぎないのだから  ダンテがいっている。  ぼくは、愛から霊感をうけたとき筆をとる。  囁かれるままに文字をつらねていく。  ダンテのミューズは、ベアトリーチェ。美しい年うえの女性。ダンテが夢中に恋しつづけた彼女は、人妻になり、早死にした。彼は、神曲のなかでアエネイスをかいた詩人、ヴェルギリウスの助けをえて、地獄をまわり、煉獄をぬけ、天界に辿りつく。そこには、ベアトリーチェが待っている。  芸術家は、あらゆるものが存在するという奇跡を讃美する使命をもっている。それを果たすためにこの世に生をうけた。だから、ミューズたちに力をあたえてもらえなければ。そうでなければ、できる道理が分からない。  それは、まぎれもない霊感。 「ぼくは、ふたつのものだけを信じている。君の存在と、もうひとつは自分の霊感」 「ミューズの世界って素敵ね。でもそんな領域がつづいていたら、普通の社会で暮らすのはたいへんでしょうね」 「なぜ、なの」 「ときには頂上にあがって、麻痺を感じてみたいわ。でも、非日常での出来事なのよ」 「それが、日常だったら」 「そんな毎日を、ずっとつづけていられるのかしら。違いを認識してはじめて分かるものではないの。麻痺でない、普通のときがあるから気づくことができる。ずっとおなじだったら、もうなにも感じられない」 「そうかも知れないね。ぼくは、ここで麻痺を感じることができる。目にうつる空も雲も、浮かぶ漁舟でさえも、すべてが自分のものだと思える」 「それが日常になったら、すごいわね。そこから、もう二度とでてこられないかも知れないわね。あなたがいっていた、ニンフにあってみたい。ここにもいるのでしょう。どうやったら感じられるの」  遙菜は、聡一をみていった。 「すぐそばにいるよ。感じてごらん」  聡一は、遙菜をみつめて両手を耳の後ろに立てた。彼女は、その様子をみて首をかしげた。 「ニンフは、いたずら好きだ。いま、風にのってくる。ほら、そこにきた。画布を揺らすよ」  聡一は叫んだ。そのとき、イーゼルにおかれたカンバスががたがたとふるえた。 「ええっ。嘘」  遙菜は、おどろいて聡一をみた。 「こっちにきて。すぐに。いま、そこに波をかけようとしている」  遙菜は、即座に立ちあがり聡一のそばにいった。そのとたん波が岩にあたって、いた場所に波飛沫がかかった。 「ええっ。なんなのこれ」  遙菜は、聡一をみつめた。 「ニンフは、美しい花嫁。感情がはげしくて親切で、ときどき残酷になる。海の老人、ネレシスの娘たち。妖精、ネイアスたちは、君が綺麗なので嫉妬したんだ」  その言葉で、遙菜は笑った。 「ミューズは、ニンフたちの女王さまだね。彼女は霊感をあたえ、陶酔をはこんでくる。芸術をうみだす世界にとどまってもらうためだ。とても魅力的で、虜になる。彼女たちの手からは、逃げられなくなる」 「もし、ぬけだしたらどうなるの」  遙菜は、聡一をみてたずねた。 「逃げられない。逃亡しようとすれば、対決しなければならない。たぶん、だれであっても勝てないだろう」 「すこし怖いわね」 「そうかい。あとは想像力だよ。屋上で君をみつめているニンフたちにあってみたら、ものすごく素敵な気持ちになれる。ぼくがいったことが、ほんとうだって分かる。それに、そこには讃美した世界を創造しただれかがいるはずだ。青い服をきた、男の神さまかも知れない。きっと、ほめたたえてくれる君を待っているはずだ。会ってみたくないの」 「私を、気に入ってくれるのかしら」 「それは、もちろんだよ。だって、彼が創造した世界を讃美してくれるのだから」 「そうか。でも魅了されたら、どうしよう。もう、逃げられなくなるかも知れないわ」 「そこがいちばんなら、それでもいいのじゃない」  聡一は、やさしくいった。  彼女は、ふかく考えこんだ。  遙菜は、日曜日になるとお弁当をこしらえ、幾度も聡一の漁村にでかけた。日曜ごとに外出するのは、日常から切り離されるいい気分転換だった。平日は卒論の資料を読み、考えることに没頭できた。面白いほど論文はすすみ、教授から「すごい集中力がある」とほめられたりもした。  海岸線を走る車窓から、春から初夏にそして盛夏にむかい姿をかえる日本海をみた。海は一日としておなじではなく、いつもあたらしい表情をしていた。青い空を背景に浮かぶ白鳥に思いを馳せながら、ゆっくりとながれる白い雲に望みをなくしながら、遙菜は毎週列車にのった。  乗り換えの駅にあたる運河がある港街は、さびれた風情につつまれて素敵だった。坂の多い街を、おしゃべりしながら足のむくままにぶらぶらとさ迷った。聡一は、この歴史のある港町が大好きで以前からひとりで歩きまわっていた。こまかい事情までよく知り、路地ばかりでなく人が住む家の庭を通りぬけたりするのは、都会育ちの遙菜には考えられないほど面白いことだった。気づかずに通りすぎてしまう旧跡も多く、聡一が「これがね」と郷土史をひもといてくれるのはとても楽しい時間だった。  運河ぞいには、静かな休日のたたずまいを熱心に写生する日曜画家がたくさんならんでいた。倉庫がつらなるレトロな水路に画架がかさなりあってならぶ情緒あふれる風情に、遙菜は夢中になった。  聡一は、興味がなさそうだった。 「運河なんて、つまらない」と彼はいった。  人みしりなのかな、と遙菜は思った。 「また、あそこにいきましょうよ」と彼女は聡一をさそい、日曜ごとに絵描きさんの背後から絵の具がカンバスを埋めていくのをながめた。  ある日、遙菜は、彼といっしょに水路を熱心に描いている画家をみてイーゼルの後ろにまわり、あっとおどろいた。  男は、運河で写生をしていた。しかし画架におかれた絵には、新緑に覆われた大平原の風景が描かれていた。果てしもなくつらなる雨あがりとも思える大草原は、朝日に照らされ、きらきらと緑に輝き、おだやかな風にふかれて波うっていた。ひとつひとつの草に光があたって煌めき、重さをうしなって浮きあがっていた。神に祝福された世界は、点描の素晴らしい情景をうつしだしていた。  遙菜は、ぼうぜんとみとれた。  それが、殿山との出会いだった。彼は、七〇歳なかばだった。白髪でやせ、腰もまがっていたが品がよかった。 「素晴らしい構図だわ」と彼女がいうと、「ありがとう」と殿山は答えた。  それから風景画について、遙菜と話がはずんだ。彼は、いっしょにいる聡一がA三版のスケッチ帳をもっているのをみつけた。殿山は、みせて欲しいといった。  聡一は、ためらった。 「みせたくない」といった。  遙菜は、「この人は画家なのです。風景ばかり描いています」と話した。 「それでは、ぜひともみてみたい」と彼はいった。  殿山は、海や岬や遙菜の素描きがつづくスケッチ帳をめくりながら、しばらくなにかを考えていた。とつぜん、「なかのいい、ふたりの似顔絵を描いてあげよう」といった。  殿山は、スケッチブックの空白のページに普通の青いボールペンをつかって描写をはじめた。遙菜がのぞこうとすると、「うごかないで」といった。五分くらいで素晴らしい似顔絵を描いた。本職にも思えるほど特徴をとらえたスケッチだった。 「そっくりで、すごいわ」と遙菜はおどろいていった。 「お嬢さんは、もっと綺麗だよ。実物にはかなわない。君もスケッチは上手だけれど、こんな可愛い人がそばにいるなら絵なんかかく必要もないのに」と殿山がいった。  遙菜は、面白い話だと思って笑った。 「ぜひ、お礼がしたいわ。失礼かも知れないけれど、とっても気に入ったから、いくらかでもお支払いしたいわ」といった。 「ここでは、お金をもらうと問題になる。仕事として店をだすのは、役所から禁じられている」と殿山は答えた。そして、ニューヨークのセントラルパークで似顔絵店をひらいていたときの面白い話をいろいろしてくれた。 翌週、遙菜は聡一をさそって、また運河ぞいを散策して殿山に会った。彼は、素敵な運河を描いていた。絵には情感があふれ、水路にならぶ日曜絵描きのなかでも画力は傑出していると彼女は思った。  遙菜が手作りの特製のサンドイッチをあげると、殿山はひどく感激した。夕方、なじみの店で一杯つきあって欲しいといった。列車の都合でながくはいられないと話し、四時に殿山が絵を描いている場所で待ちあわせることになった。  聡一は、なぜか分からなかったが、まったく乗り気ではなかった。せっかくだから話を聞いてみたいと遙菜がいうと、それでも彼はつきあってくれた。  運河で一日をすごす道具のなかには、椅子や水筒もあったので大荷物だった。殿山は左脚が義足だったが、「荷物は、自分ではこぶ」といって聞かなかった。聡一は、なんとかいくつかもたせてもらった。一〇分くらい歩くと、小さな店がならぶ横丁でまだ暖簾がかかっていない「不知火」という居酒屋の扉を彼はあけた。  女将さんは殿山と顔なじみで、開店は五時だったが三人を入れた。カウンターにならんですわると、酒とつまみをだしてくれた。  殿山は、結構なペースで飲んだ。  遙菜はお酒はまったく駄目だったし、聡一もほとんど飲めなくて杯に口をつける程度だった。日曜の夕方は、暇な時間だった。  だれもこない店で殿山はひとりで、すっかり酔って説教をはじめた。 「絵画などの芸術は、暮らしを豊かにするための道具だ。人生にとって、ほんの一部分でとるに足らない。どこまでいっても趣味で、生活にはならない。真面目にやるから楽しいのだし、真剣に考えるから面白みがあるが、楽しみとして追及するべきだ。いい加減なところで満足するのが大切で、絵画は純粋に自分のためだけのものだ。人に評価される手段でも、名声をえる道具でもない」とさかんに話した。  女将さんは、お酒も飲めない遙菜をみて、「こっちにいらっしゃい」といった。  うながされるままについていくと、小上がりに通した。ひくいテーブルに座布団をしいて、お茶をだしてくれた。  遙菜は、女将さんとほうじ茶を飲み、肴をつまみながら話をした。  部屋には、大きな絵画がかけられていた。そこには、真っ黒のなかに、オレンジや、緑、赤などさまざまな色が浮かんでいた。  遙菜がこの絵についてたずねると、女将さんは話してくれた。 「これが、不知火(しらぬい)なのよ。八朔(はつさく)って分かる」と彼女は聞いた。 「ミカンの種類かしら。むかし、食べたことがあるような気がするわ」 「そうね。あなたがいうのは、八朔柑というミカンね。朔は、月の最初の日をさす言葉なのよ。だから八朔は、八月一日のことなのよ」といった。  九州、有明海の海岸線が入りくんだところに、不知火海とよばれる場所がある。不知火は、旧暦の八月一日、八朔のころ、その海でみられる蜃気楼現象だ。国の名勝に指定されている。日本書紀には、景行天皇の九州巡幸のときに不知火海上で方向が分からなくなった。天皇は、遠方にある火によって陸地に導かれた。それで、「だれが灯を点してくれたのか」と側近の者にたずねた。ひとりも知らなかったので、そうよばれるようになったとかかれているらしい。女将は、夜の有明海にたくさんの火が揺らめく不知火をみながら育ったといった。  殿山は、聡一と議論になった。彼は耳がとおくて小さな声では聞きとれないので、ふたりは大声で会話をしていた。話の内容は、遙菜にも女将さんにも聞こえた。殿山がずいぶん説教して、絵画で生活しようとする無益をくりかえし諭した。  やがて、聡一がいった。 「そんな話ばかししていたら、運河のニンフにきらわれてしまいますよ。せっかく描いた絵にいたずらされるくらいならいいですが、親切で美しいニンフたちは、ときには残酷です。女神も、あなたをみすててしまうでしょう」  その言葉を聞いて殿山はだまり、頭をかかえこんだ。 「君は、ミューズに出会ったことがあるのか」 「女神は、いつでもそばにいます。彼女は、たとえようもなく美しいのです。心にせまってきて、いつでもつかめそうで、それでいて容易に手に入れることはできません。女神を追って、数多の画家が死んでいったのです。ぼくは、どんな事態になってもミューズを手ばなしたりはしません」 「そうだったのか」と殿山は唸った。  遙菜は、六時の列車にのるからといって店をでた。  聡一も、いっしょにかえることにした。彼は、「すっかりつかまってしまった」と笑った  ふたりは駅まで歩き、そこで握手して別れた。  聡一は、はじめて手をにぎってくれたといってひどく感激した。  遙菜は、その言葉を聞いて笑った。  ふたりは話しあい、運河ぞいの散歩はしばらくやすむことにした。  そうした日々をかさねて、遙菜は完全に恋に落ちた。  人気のない崖の下で、うまれてはじめて口づけを交わした。夏休みには、聡一の部屋に幾度か泊まった。ふたりは、はげしい愛の炎に身をゆだねることになった。  遙菜は、九月に気乗りがしない聡一を説得して運河ぞいの散歩を再開した。どうしても、殿山とは会えなかった。日曜ごとに何回か運河に足をはこんだが、みつけられなかった。  遙菜はひどく気になって、せっかくご馳走してもらいながら逃げだした格好だったのでぜひとも会いたいと聡一に話した。彼は、いないのだから仕方がないと答えた。  遙菜は、「不知火」にいって女将さんに聞いてみたいたいと話した。ふたりは、九月の彼岸ごろ暖簾がはずされた時間に店をたずねた。  聡一は、看板をみると、なかに入りたくない。運河で待っているといった。  遙菜は、理由が分からなかったがひとりで店に入った。  女将さんは、彼女をよく覚えていた。  遙菜が「運河ぞいを散策しても、どうしても殿山さんにお目にかかれない。なにかご存知ではありませんか」と聞いた。 「このまえ、いっしょだった人はどうしたの」と女将さんはいった。 「殿山さんと、口喧嘩になったのを気にやんでいるのです。いまは、運河のところで待っています」と遙菜は答えた。  女将さんは、すこし考えていた。午後のはやい時間だったので、まえに通された部屋にあがるようにいった。お茶をだして、話をしてくれた。 「殿山は、八月の末に運河で溺死した」と彼女はいった。 「日ごろから水路で死ぬことを希望していたので、満願だったのではないか。足をすべらしたのか、自殺だったのかは分からない」といった。 遙菜がひどくおどろいた素振りになると、話をしてくれた。  殿山は、有名な画家だったが不幸がかさなり、絵も売れなくなった。家族とも別離し、身よりがなかった。画家志望の若い人をみるとやり切れなくなるらしいのよ、と女将はいった。  通された小さな部屋には、以前の通り壁に絵がかけられていた。真っ暗な有明海に、不知火がいくつも浮かんでいた。  遙菜は、その絵をじっとみいった。そして、右の下端に「Tonoyama」というサインをみつけた。 「これ、殿山さんが描いた絵だったのですね」と聞いた。  その様子をみて、女将は、「男は、どうしようもない生き物なのよ」といって話をはじめた。  彼女と殿山は、高校時代に九州で知りあい、結婚の約束までした。彼は、絵描きになる夢をすてきれずパリに遊学した。世界の各地を放浪したが、画家としては大成しなかった。彼女がさまざまな事情から九州をはなれ、この街で居酒屋を営んでいるのを、どうして知ったのか、一〇年ほどまえにひょっこりとあらわれた。  女将は、四〇年のあいだ殿山は死んだと思って暮らしてきた。そう自分に言い聞かせて、日々をすごしてきた。 「殿山が、なにをもとめていたのか分からない。私は、再会したいとは思わなかった。できれば、自分の胸のなかだけに美しい思い出としてのこしておきたかった」  女将は、とくに親切にはしなかったといった。  殿山は、生活保護をうけ、この街でひっそりと暮らしていた。酒が好きで、売血して酒代をかせいでいた。死なれてみると、彼の生涯とは、なんだったのかと思う。自分の人生を考えるのといっしょだから、やり切れなくなる。どうしてべつの男と結婚しなかったのかと、くりかえし思う。殿山を待っていたわけではなかったのに、どうしてだったのだろう。  女将は、右手を頭に添えて考えこみながらいった。 「あなたは、現実をみれる大人の男と結婚しなさい。大学まで卒業したのだから、親を悲しませても仕方がないのよ。もっと幸せになれるのだから」と遙菜にいった。  彼女は、礼を述べて不知火をあとにした。  遙菜は、待っていた聡一と会って運河ぞいを歩きながら事情をつたえた。 「後味のわるい出来事になったわ」と彼女はいった。  聡一は、「そうだね」と答えた。  遙菜は、義父のこねがあって、つとめる会社は決まっていた。東京にもどって両親と暮らすのは、北海道行きを最後までひきとめた母との約束だった。就活に時間をとられることはなかったが、夏が終わると卒論をまとめる作業でさらに忙しくなった。やがて季節は、秋のさかりになっていた。  北国の秋季はみじかく、かけ足で通りすぎていった。夏もせわしいが、むかえる遙菜も心構えをもち、「やってくるな」と思っているうちに暑い季節がはじまった。つよい日差しに浮かれていると、ある朝ふっと風がふいた。気がつくと、秋にかわっていた。その感じがもう一回くると、季節は晩秋になっていた。  港の山がわは、雑木の林だった。日に照らされたときの秋の終わりの美しさは、とても言葉でいいつくすことはできなかった。紅や黄にかわった木の葉に透明な光があたり、コンスタブルの雪をかかえて輝くさまは、たとえようもなかった。彩られた葉は、一枚一枚が微妙に違っていた。色づいた雑木のなかを歩いて、ひらひらと落ちてくる枯れ葉が、ながい黒い髪にとどまることがあると、聡一がていねいに払ってくれた。  遙菜は、彼の絵に才能を感じた。どれもこれも素敵で、応募すれば賞をもらえるに違いない。入選は、間違いないだろうと思った。ずいぶん懸命にすすめてみたが、聡一はその気がなかった。  秋がふかまるにつれ、ふたりの話題はすこしずつ現実味をもってきた。すくなくとも、遙菜の話はそうなった。 「これから、どうするつもりなの」 「ここでないと、絵は描けないの」  彼女は、幾度かそうした話題を言葉にだした。  聡一は、自分の生活についてなにも語らず、話をはぐらかした。  彼が、遙菜を愛しているのは間違いがないと思った。燃える思いを、身体でうけとめたことも幾度もあった。つよく抱きしめられ、心を溶かすはげしい口づけをくりかえしうけたが、具体的な話は聞けなかった。  遙菜は、翌年には卒業し、東京での就職が決まっていた。そうした事情をくりかえし話したが、聡一は答えなかった。彼女は、自分が働いても彼に好きなことをさせたいと思いはじめていた。  美しい北国の秋は足早にさっていき、やがて小雪がちらつく季節がやってきた。  聡一は、しだいに憂うつになった。遙菜と会うときは、精いっぱいほがらかに振るまおうと面白い話をした。しかし、彼の心がふかい憂いに捕らわれているのが分かった。  ふたりは、粉雪が舞う運河のある街をならんで歩いた。寒くなっても、水路には日曜絵描きがたくさんでていた。  聡一の部屋から、すっかり冬の景色になった港をながめた。寒くなっても、漁村には多くの人びとが行き交い、熱心に仕事をする姿がみられた。港町は、あいかわらず賑わっていた。しかし聡一は憂愁に捕らわれ、いつもなにかを考えていた。遙菜は、どうやったら悲しみからすくいだせるかとばかり思って、そばにいた。 「この人のためなら、なんでもするだろう。聡一には、私が必要なのだ」と遙菜はくりかえし思った。  一一月、最後の日曜日、朝から粉雪が舞うとても寒い日だった。昼ごろ運河のある街で待ちあわせ、ちかくのレストランで食事をし、お茶を飲んだ。窓の外の雪は、しだいにはげしくなった。 「もし差しつかえなければ、今日は君の家をたずねてみたい」と聡一はいった。 「雨戸を張ったのね」  遙菜は、戸が立てられた彼の家を想像した。 「そう。もう、ぼくの家は真っ暗だから」  聡一はいって、微かに笑った。  ふたりは、列車にのって農学校のある街にむかった。空は真っ暗になり、はげしい吹雪にかわっていた。遙菜は、車窓からぼんやりと冬の溟海をみつめていた。ところどころで輝く海は、すこし無気味にも思えた。鉄道とならんで走る道路を照らす水銀灯が、一面の銀世界を浮き立たせた。 「ほら綺麗。これも、コンスタブルの雪かしら」  遙菜は、海をみいる聡一の肩をつついて指で示すと、「きっと、そうだね」と答えた。  駅のちかくのレストランで、食事をした。それから地下鉄に乗り換え、アパートまで、だまったままいっしょに歩いた。家につくと、遙菜は「入って」といった。そのとき、はじめて聡一は部屋の敷居をまたいだ。 「綺麗にしているね」と彼はみまわしていった。  また、雪がふりはじめ、その晩、聡一は部屋に泊まった。  ふたりは、炬燵に入りながら話をした。  遙菜は、東京で就職するかどうか、まよっているといった。九州に住んでみたら、どうだろうか。凍てついてしまう冬がこない暖かいところで、いっしょに暮らしたいといった。  聡一は、それはできないと答えた。  彼はとつぜん、「緑の女王」という話をはじめた。  あるところに、素敵な女性が住んでいた。彼女は、とても綺麗で利発だった。父親が幼いころに死んで、母親が再婚した義父にはふたりの娘がいた。姉たちは、妹ほど綺麗でも賢くもなかった。どちらかというと意地悪で、彼女を召しつかいのようにあつかった。母親は、たいそう心を痛め、可愛がってくれたが、義父は自分の娘たちを依怙贔屓した。母がいないある日、父親は、着飾った姉たちをつれて三人でドライブにいった。妹は、ひとりのこされ、家を掃除し、夕食の用意をしておくように命じられた。いっしょにいってもどうせ楽しくはなかったから、のこされるのは我慢できた。しかし母親もいなかったので、彼女は悲しくなって泣いていた。  そうして、今日こそ洞窟にいってみようと決意した。  娘が住んでいた街には、山がはじまるところに奥ぶかい穴があった。しめ縄がひかれ、入れないように厳重な柵でかこわれていた。洞窟のなかには、神さまが住むといわれていた。しかし、ほんとうは死の国に通じ、悪魔の王国とつながっているという噂もあった。街の人はだれも足を踏み入れたことがなく、絶対にちかづいてはいけないと子供のころから命じられていた。  娘は、以前から幾度もこの洞窟に入ってみようと考えていたが、なかなか勇気がでてこなかった。しかし、悲しい日々がくりかえされたので彼女は決心した。  娘は、ライトひとつをもって洞窟に入っていった。なかは静かで寒く、物音が途絶えていた。ときおり冷たい風が奥のほうからふいてきて、こうもりが飛び交っていた。真っ暗な洞窟は、怖ろしかった。歩く場所には、動物の骨が散乱していた。気がつくと、蛇がじっと彼女をみつめていた。娘は、何度もひきかえそうかと考えた。どんなに虐められても、家のなかのほうがずっと安全だと思った。しかし、娘はここで帰ったらなんにもならない。意気地がないのだけが分かり、いままでの生活にもどるだけだろう。それを、自分が容認したことになるだろう。洞窟の奥にいってみようと決意した「いま」という瞬間は、もう二度と手に入らない。帰ればみんなに叱られ、神域を穢したという理由でどんな罰をうけるのかも分からなかった。ここに入ったからには、死んでもすすんでみようと決意した。そして、娘は歩きつづけた。心細くて、寒くて、お腹がすいた。もってきたビスケットを口にふくみながらすすんでいくと、とうとう洞窟の出口にでた。  目のまえには、青白い巨大な世界がひろがっていた。だだっぴろい場所には光はわずかしかなく、みわたすかぎりがあいまいだった。みあげると上部は青黒く、眼前にはひろい川が急峻なながれをつくっていた。河原をくだっていくと、小舟があって渡し守の老いた男がいた。背が高い男性は額にふかい皺がより、とても怖い顔をしていた。老爺は、この川は渡れないから帰れといった。それでも向こう岸にいきたいとつげると、男はきている服をすべてぬぐなら渡してやってもいいと答えた。娘は考えたが、裸になるのは恥ずかしかったし、嫌だった。申し出をことわると、この川はここ以外には渡れない。もし気がかわったら、またくるがいいと男はいった。  娘は、さらに川下にむかって河原を歩いていった。その途中で川岸に木々がはえているのが目に入った。黒いカラスが、木にとまってなにかをつついていた。娘がみると、鳥の雛がいた。何羽かうまれたのだろうがみんな食べられてしまったらしく、ひな鳥が一羽だけのこっていた。親は、餌をとりにいっているのだろう。その隙をねらって、大きなカラスが食べようとしていた。娘は、落ちていた棒をひろって木陰に隠れた。カラスがやってきて木にとまった。そのとき、棒で頭をたたくと見事に命中した。逃げたカラスに、今度は大きな鷲がやってきて攻撃しているのが目に入った。  娘がしばらく川沿いを歩いていると、橋がみえた。とはいっても二本のロープが急峻なながれの幅のひろい川に張られただけで、橋桁の一部は腐っていた。娘はどうしても、向こう岸にいきたいと思った。しかし急峻なながれにかけられたロープは真っ黒になっていて、重さがかかったら切れてしまうかも知れなかった。さきをみわたすと、川幅はさらにひろくなっていた。向こう岸にいくなら、服をみんな渡して小舟にのるか、このほそいロープを信じるか、どちらかしかなかった。娘は考えたが、帰るのも渡し守にたのむのも、どうしても嫌だった。ロープが切れ、死ぬのも運命だろう。どちらか、えらぶ権利をもっているのだと思った。考えた挙げ句、崩れかけたつり橋を渡ることにした。途中で羽目板がなくなり、ロープにぶら下がった。川のながれは急で、落ちればおよいでは岸に辿りつけないだろうと思った。とても怖い思いをしたが、向こう岸までなんとかつくことができた。  対岸には、森につづく道がつくられていた。そのさきの、とおくに高い塔がみえた。娘は、きっと城がつくられ、道はそこへつづいているのだと思った。彼女は、鬱蒼とした森林をぬけていった。森は静かで、ひたひたという自分の足音だけが聞こえた。ときどき狼の咆哮がひびき、木には梟がとまっていた。それでも歩いていくと、やがて大きな宮殿がみえた。しかし、そこは真っ白くなって凍りついていた。とても寒く、北風がふき、雪もちらついていた。真っ黒に塗られた立派な大きな門があり、黒い服をきた門番の老婆がいた。ながい杖をもった女は、ここには入れられないといった。門扉は、頑丈な鉄でできていた。重そうで、娘にはとてもあけられないと思った。しかし門番の後ろには、ようやくひとりがぬけられるくらいの小さな潜り戸がついていた。  娘は、ながいこと歩いてきてここを目指してきたのだと知った。どうしても宮殿に入りたいと思った。希望をつたえると、門番はここにはだれも入れないと答えた。どうしたら門をぬけられるかとたずねると、老婆は帰れといってながい杖で娘をたたいた。  そのとき大きな鷲がやってきて、門番に襲いかかった。老女が大鷲と戦っているのをみて、娘はせまい潜り戸を通りぬけようと思った。そこは、とても小さくて鍵がかかっていた。彼女の手が触れると扉はひらいたが、せまくてひとりが通りぬけるのがようやっとだった。  娘が氷にとざされた宮殿に入ると、とたんに室内があかるくなった。召しつかいがやってきて、彼女を部屋につれていき、温かい食事を振るまってくれた。大きな風呂場に案内され、娘は身体をあらい、湯船にゆっくりと浸かった。そして、やわらかいベッドで横になった。  翌朝、目が覚めると、召しつかいがきて素晴らしく綺麗な黄色い服をきせてくれた。それは、あつらえたように彼女の身体にぴったりとあっていた。そして、宮殿のいちばんうえの塔につれていかれた。部屋をあけると、素晴らしく立派な身なりをした王さまが待っていた。  王は、娘に結婚して欲しいといった。  彼女は、「私は、召しつかいのようにあつかわれてきた者です。家から逃げてきただけで、とてもそんな身分ではありません」といった。  王は、その言葉を否定した。 「この王国には、いままでだれも来訪する者がいなかった。なぜなら、人間界ではここにきてはいけない掟になっていたからだ。しかし、みんなの制止を振り切ってやってきたあなたは、ただの娘さんではない。もともと、この王国の妃だったのだ。だからだれもがとめたのに、やってくることができたのだ」といった。  王は、従者からあざやかな緑のドレスを手渡された。  娘は、その新緑に彩られたローブをみておどろき、あまりにも美しいので躊躇した。  王は、「これを身につけて欲しい」といった。 「緑の王国では、女王しか即位ができないのです。あなたが妃になってくれないと、この冬枯れた季節から春にすすめないのです。王国の人びとは、みんなで王妃がやってくる日をずっと待っていたのです」といった。  それで、娘は納得した。王さまは、彼女に緑のガウンをきせた。そして、手渡されたエメラルドが象眼された黄金の冠を頭にのせた。  娘は、王といっしょに塔のバルコニーにでた。  眼下には、たくさんの人びとがふたりの結婚を祝福していた。凍りついた王国に、春の暖かい風がふいた。凍てついた景色は一瞬のうちに消え去り、新緑がいたるところに芽吹きはじめていた。  塔のうえからみわたす緑色の大草原は、どこまでもつらなり、日の光があたり、きらきらと輝いていた。  そのとき娘は、もともと緑の王国の女王だったことを思いだした。  聡一は、話をすると、どう思うかと聞いた。 「新緑は、素晴らしく綺麗だわ。都会で暮らしていたときには、なんとなく紅葉する秋が好きだったのよ。でも、知らなかっただけだったのね。北国にきて分かったのよ。白いコブシが花をつけ、桜がさいて散ってライラックが開花する。そして、冬枯れていた草木が一挙に芽生えてくる春が、いちばん素晴らしい季節だと気がついたのよ」と遙菜は答えた。 「でも、若い娘がひとりで暗い洞窟に入っていくのはとても難しいわ。大きなカラスと戦ったり、ながれの急なひろい川にかかった崩れかけたつり橋を渡ったりするのは、きっとできないわ。黒い服をきた門番の老婆はひどく怖そうだし、だいいち凍てついた宮殿に入ろうなんて思えるかしら。緑の女王になるのは、たいへんすぎるわ。きっと、私にはできないわ」  その話を聞くと、聡一は「そうだね」と答えた。   翌日、遙菜ははやく起きて、ふたりで笑いながら朝食をとった。晩の雪もあがって太陽があかるく輝いていた。ふたりは真っ白につもった新雪に音を立てながら、足跡をつくって歩いた。一五分ほどの道のりはすぐに終わって、十字路を右手にまがり農学部の正面玄関のまえについた。 「どうするの」と遙菜はたずねた。 「ぼくを、信じてもらいたい。なにが、あっても。ぼくが、いつでも君を、心から待っていることを信じてもらいたい。どんな事態が、起こっても。ぼくの存在を信じてもらいたい」  聡一は、遙菜の手をにぎりしめて真面目な表情でいった。 「もちろんよ。信じているわ。またいくわ。連絡して」と遙菜はいった。 「分かったよ。待っているよ」  彼は微笑み、駅にむかって歩いていった。  三日、四日たっても一向に連絡してこないのが気がかりになって、遙菜は翌週、聡一の住まいをたずねた。  ひなびた駅をおりると、人通りは途絶えていた。坂道をくだっても、だれにも会わなかった。道に面した漁師の家々は、ひっそりとしていた。人が住んでいるようには思えなかった。港には漁船も、働く人びとの姿もなかった。  遙菜は、不思議な気持ちにつつまれながら聡一の家屋のまえにいった。雨戸に覆われた家は、しっかりと鍵がかかっていた。いつもあけはなしだったので、彼女はひどく不審に思った。怖ろしい不安におそわれ、雨戸を一枚はずして縁からなかへ入ると、なにもなかった。電灯をつけようとしたが、あかりはつかなかった。雨戸から差しこむわずかな光が、何年もつかわれていない荒れた部屋をうつしだした。  気づくと、遙菜は自室にもどっていた。どうやって帰ってきたのか、記憶は空白だった。聡一の部屋でみた空虚さとおなじで、彼女は泣いていた。  遙菜は、アパートに閉じこもって幾日かひとりですごした。聡一がひょっこりとあらわれる気がして、風の音にだまされて幾度も扉をあけた。食欲は、まったく起こらなかった。ひどく疲れているのに、寝床についてもさまざまなことが思い浮かんで眠れなかった。そして、ふと泣いている自分に気がついた。そんな日々を幾日かすごした。  遙菜は、とつぜん母に会いたくなった。  心に母親の姿が浮かぶと、矢も盾もたまらず、コート一枚をはおって列車にとびのった。遙菜の北国いきを、最後まで反対したのは母だった。返事をかかなくても、月に二度はかならず手紙をよこした。  列車のなかでも、遙菜はほとんどなにも食べる気が起こらなかった。東京駅につき家につくまで、すべてが夢中の出来事に思えた。玄関をあけ、母親をよんだ。  声にでてきた母は、ひどくやつれた遙菜をみて、 「どうしたんだい、おまえ」とおどろいてたずねた。 「帰りたくなったの。会いたくて。お母さんに」  はじめは笑顔をつくっていたが、母という言葉を口にすると、あとがつづかなくなって遙菜は泣きくずれた。抱きかかえた母親の胸で、声を立てて彼女は泣いた。  遙菜は、母にしがみついて泣きくずれていた。  一ヵ月も家にいただろうか。年があけると、遙菜はかなり元気をとりもどした。卒論も気がかりになって北国へもどった。  母親は、同行してくれた。一週間ほど部屋に泊まり、東京に帰っていった。  いろいろとたずねられたけれど、彼女はなにも答えなかった。  遙菜が教室にいくと、たくさんの同級生が心配してくれていた。なかがよかった友だちは、彼女が春からずっと変だったといった。始終、不思議なことを話していた。運河の街から通っている同級生は、六番線のホームにはいつでもほとんど人がいない。そこで、薔薇の花束を売っているなんて考えられない。水路で写生している人は、むかしはどうだったのか知らないがいまはほとんどいない。いくらそう話しても、彼女はぜんぜん違う話をしていた。みんなで、心配していたといった。  遙菜は、そんな遣り取りをひとつも覚えていなかった。いくら思いだそうとしても、脳裏になにも浮かんでこなかった。四年生になって卒論を頑張った記憶はのこっていた。しかし、そのころ教室でなにがあったのかは、ひとつも覚えていなかった。  遙菜は、幾度か四階のホールにいき、螺旋階段をのぼってみた。  そこには、いつでも鍵がかかっていた。南京錠は、大きくて頑丈なものだった。遙菜は、携帯でさまざまな角度から写真をとってみた。やがて卒論もかき終え、三月に卒業した。卒業式にもでて、東京で会社に就職した。  遙菜は、卒業して自宅にかえる途中で運河の街でおり、運河ぞいをひとりで歩いて不知火をたずねた。  午後の一時をすぎたころで、店は閉まっていた。まわりこんでブザーを鳴らすと、会ったこともない女の人がでてきた。 「なんのご用です」と女性は聞いた。 「何度か、お世話になった者です。女将さんは、いらっしゃいませんか」 「私が、主人です」と五〇歳くらいの女性は答えた。  遙菜は、不審に思って去年ここであった出来事を話した。  女性は、この店でもう五年ちかく営業している。遙菜には、会った記憶がない。女将さんの年格好を聞いても、まったく分からない。見当もつかないと答えた。  遙菜は、小上がりに立派な額に入った絵画がかけられていないのかとたずねた。女性があるといったので、それは不知火の絵ではないかと聞いた。その話に、女将さんは遙菜を店に入れた。そして、小上がりに通してくれた。 「この絵なの」 「そうです。ここで、話をしたのです。この絵画の、右端には、Tonoyamaというサインがかかれていました。私と話した女将さんは、絵を描いた方とはふるい友だちで、結婚の約束をしたことがあったといいました」  女性は、知らなかったと答えた。彼女は、遙菜にいわれて絵のすみをみた。そこにサインをみつけて、知らなかったと嘆声をあげた。彼女が五年まえにこの店を購入したときには、絵はすでにかけられていた。そんな謂れがあったとは、まったく知らなかった。まえの経営者は、病死したと聞いている。この絵は、よくみると無気味なので、はずすつもりだった。しかし、そうしたものなら、すてるのはやめようといった。  卒業後、遙菜は会社につとめ、一年間、真面目に仕事をした。もちかえった肖像画は、新聞紙を幾重もまいて押し入れのなかにしまいこんだままだった。思いだすまいとしても、なかなかそうはいかなかった。記念というわけではなかったが、ホームセンターをたずねて携帯で撮影した南京錠をさがした。種類が多くて、おなじものをみつけることは難しかった。いく都度、南京錠を買いもとめたので、たくさんのコレクションができた。遙菜は、あつめた鍵をいじるのが趣味になった。  三上という先輩は、分からなかった。  みんなは、四年生のときの遙菜が、おかしかったといった。  なにかに、とりつかれていたようにみえた。恋を落ちたみたいで、いつも恍惚としていた。卒論を懸命に頑張っていたが、話しかけてもまともな返事はしなかった。ある友だちは、遙菜を運河ぞいでみたが、だれもいない水路にひとりで立ってぶつぶつとなにかをしゃべっていたといった。みんな、彼女の様子がおかしいと考えていたと話した。暮れに病気になったと聞いて、そうだったのかと全員が納得した。もっと気をつけてあげればよかったと、みんなで話しあっていたといった。  だれに聞いても、三上という人は知らないという話だった。先輩の名簿にもなかったし、過去のクラブの卒業アルバムにもうつっていなかった。二度も会ったのに、電話番号も聞かなかったから不思議なことだった。  漁村の家が、ほんとうにあるのかも不明だった。  ちかくの漁師が、もっていたのだろうか。聞けば、なにかが分かるのかも知れなかった。しかし、周囲には人も住んでいないのかも知れなかった。不知火の女将の話が、脳裏をよぎった。聡一は、浜辺になにかの怨念を抱懐して死んだ男だったのだろうか。  遙菜は、半年のあいだ何ものとつきあい、だれに抱かれたのかも分からなかった。考えだすと、ひどく無気味な物語にかわっていた。しかし、彼女は実際に自分がモデルになった肖像画をもち、そこには「Souichi」というサインがのこされていた。  遙菜はときおり、農学校の屋上の「麻痺」を思いだした。  そこで生じる感覚は、あきらかな自己陶酔である種のエクスタシーなのだろう。セロトニンとか、ドーパミンとかの化学物質が脳内で作用し、多幸感がうまれるに違いなかった。神にでもなった、非日常的な全能感で満たされる瞬間だ。しかし現実ではなく、ある種の妄想世界に違いなかった。  聡一が実際にいたのかは、もうなにも分からなかった。そのころ自分になにが起こったのか、まったく説明ができなかった。  夢でなかったとして、聡一は画布のまえで筆をふるうとき、この感覚に捕らわれたのだろう。だから遙菜の話を理解し、麻痺と名づけることができたのだろう。しかし異常な知覚で、人が生活する場所にこんな感覚は起こらない。覚醒剤の中毒患者や通り魔事件の犯人が、そんな感じをもつのかも知れなかった。薬物ではなく、なんらかの合法的な方法で手に入るのなら、はげしいエクスタシーがつづく麻痺のなかから人はでてこられるのだろうか。聡一がほんとうに画家だったのか、実在していたのかも分からなかった。しかし、芸術とはそうした感覚をあたえるものなのだろうか。  それが、ミューズだったのだろうか。  分からないことばかりだった。  一年後の六月、遙菜ははじめて有給休暇をとって北国にいった。漁村をたしかめたいとは思わなかった。正門まえの大学にいちばんちかいホテルに泊まった。  四時に起きると、素晴らしい快晴の朝だった。  遙菜は、ホテルをでて思い出の校舎にいった。  雲ひとつない空からあかるい日差しがふりそそぐ、高木の並木道をゆっくりと歩いて中央の玄関から農学部の建物に入った。その刹那、石だけがはなつ特有な匂いを感じた。静かな空間は、幾分か冷ややかで厳かで、身体が触れた瞬間、高い天井のすみずみまで重厚な薫りに占められているのが分かった。中央の石づくりの廊下を歩いて裏の玄関に辿りつき、ふきぬけになった階段ホールをみあげた。西に大きく切られた硝子窓から差しこむ光線は空中の微細なチリを浮き立たせ、はるかな歳月をうつしだしていた。  石づくりの階段をコツコツという自分の靴音に耳をすましながらのぼっていくと、日常とは違う厳粛な時間を感じた。輝きに満ちた光明の未来と、漆黒の闇に覆われた過去とのあいだをうずまく、彼女がいる混沌の支配をうける現在のよどんだ「とき」を覚えた。すこしずつ高みへのぼるにつれ、光はいっそう透明度をましてくる。ひとつひとつの足音がやや湿った暗い空間に木霊しながら、「現在」がしっかりと「未来」をうけとめ、「過去」のなかへそっと溶けこむ、いいあらわせない感覚に対峙する。  それは、不思議な憧れ。  子供のころのおもちゃ箱。  なつかしい小犬のぬいぐるみ。  それは、ナイルを遡行するフェラッカの吹きながし。  砂漠におき忘れた魔法のランプ。  石の階段が終わる四階のひろい踊り場につくと、天井にちかい暗い空間はいつも幾分か湿った感じがした。取り分け夏の日の早朝は、いっそうの静寂が支配していた。光にたいする憧れはふたたびつよさをまし、奥の螺旋階段をのぼりはじめる。暗くてせまい階段をさらにうえにむかっていくと、頭上にひとりしか通れない小さな四角い出口をみいだす。そこには、以前みたのとは違う頑丈な南京錠がふたつかかっていた。  遙菜は、針金をもっていた。一年間、ずっと修行したので、どんな鍵でも彼女はあけることができた。  遙菜は、身をかがめ、ちょっとした努力のあとで屋上へぬけた。  そこは、日常とは違う非現実の世界だった。  おびただしい光がかがよい、雲がまだらに浮かぶ青い空からすがすがしい無垢な白い風がくりかえしふき、ながい黒髪をなびかせる遙菜は幾重にもなった金色のドレスにつつまれながら輝いていた。  なんという高みに、いるのだろうか。あらゆる因習の手をすりぬけた遙菜は、かぎりない陶酔のなかに没入し、それはエクスタシーといいかえてもよかった。天上につれさられた魂は、芥子粒になった下界をみおろしていた。髪をそよがせた風にくりかえし波うたれるエメラルドグリーンのかがよう農場が、どこまでもつづいていた。あざやかな新緑が、芽吹いていた。みわたすかぎりの素晴らしい緑の世界は、すべてが遙菜のものだった。 「真実の美」が目のまえで揺らめき、輝いている。  冬にはすっかり枯れたはずの世界は、春のおとずれとともにあざやかに復活していた。眼下に、あかるい光に満たされた豊穣な宇内が果てしもなくつづいている。  遙菜は、そのとき気がついた。みまわすと、翼をもった美しい妖精たちがそばによってきた。ながい黒髪の眉目麗しい若い女性たちは、あわい緑色の服をきて日に輝き、ただよいながら宙に浮かんでいた。遙菜をとりかこむと会釈をした。目のまえに、どこかで会った記憶がある、ながい黒髪がひときわ綺麗な少女のような妖精がでてきた。娘は、遙菜に空をみあげろといった。妖精たちの言葉にうながされて顔をあげると、天空に聡一がいた。  青いローブに身をつつんだ彼は、笑いながら遙菜をみおろしていた。 彼女は、むかし天上で暮らしていたことを思いだした。そこには、美しいものがあふれていた。そこで、真実の美をみてすごした記憶があざやかによみがえった。 「もう一度、たしかめてみたい」と遙菜はつよく願った。気がつくと、背には翼がはえていた。  聡一は、ここまでのぼっておいでと声をかけた。遙菜は、その言葉に応じてすがすがしい高い空をのぼりつめていった。はるか彼方の雲間から、翼をもった白馬と黒馬の二頭がひく馬車がおりてくるのがみえた。  のぼっていくと、聡一は彼女の頭上にいくつものエメラルドが象眼された素晴らしい王冠をかぶせた。彼は遙菜を抱きしめ、はげしい口づけをした。そして、やってきた三上が御者をつとめる馬車にふたりでのりこんだ。  そのとき、歌声が聞こえた。どこまでもすんだ声だった。ソプラノ、アルト、テノール、バス。混声四部のハーモニーが唱和され、あたり一面からひびいてきた。 存在の真実が、みのり豊かな出会いをうみ、  ここに、この星が誕生してからはじめての愛がうまれ、  麗しい花嫁が、無垢な光明で輝く白い風にのってやってくる。  かがよう恍惚に染められた世界は、どこも光とやさしさにあふれ、  生の喜びの気流にかわって、  いつまでも煌めく緑の田園をふきぬける。  美しいニンフたちがふたりをとりまきながら輪舞するのが、遙菜にはみえた。  そのとき、はじめて彼女は気がついた。 「そうか。ここは、聡一がつくった宇内だったのだ。創造の奇跡が起こり、すべての神々が感嘆した。しかし完全ではなく、欠けているものを埋めなければならなかった。それが、この世界を讃美する、私。ミューズだったのだ」  天上から鐘の音が、聞こえてくる。きよらかな高くすんだ音だった。さらに、数え切れないほどのアフロディテの血によって染められた真っ赤な薔薇の重弁が、ふたりの頭上にふりそそがれた。世界の完全性を象徴する深紅の花弁は、遙菜がすわる席を埋めつくした。  ふたりをのせた馬車は、どこまでも高い天にむかってのぼっていった。                              ミューズ、一〇四枚、了