医者になる 由布木 秀 一、水平線 蒼い日本海は、いつでも潮の匂いを漂わせながら穏やかな波音をくりかえしていた。小樽にむかう浜辺は岩場となって終わり、そこから線路に沿って張碓まで歩くことができた。切り立った高い崖にちかづいていくと、玉砂利の浜がみえてくる。もう張碓の駅は営業していなかったが、堤防から海岸におりることができた。 眼前には青い海がひろがり、白い雲がゆっくりとながれているのがみえた。右側の端に浮かぶぼんやりとした島影が石狩だろうと思った。みわたす世界には、だれもいなかった。海鳥が甲高く侘しい声をあげながら浮かび、遠くに漁舟が漂っているのがみえた。日の光は、あらゆる事物を照らしていた。輝きを遮るものはひとつもなく、天の恵みをいっぱいに享受する光明に満たされたあかるい世界が目のまえに存在していた。 「赤い馬」という名の仙人が、海と空との境界をみたくて雲にのり、人生をかけて辿りつこうとする物語を読んだ記憶があった。彼は、いまでも水平線を追いかけているのだといわれる。筋斗雲よりはやい雲にのれば、ほんとうに辿りつけるのだろうか。努力をすれば、空際といわれる理想の地にいきつけるのだろうか。 曖昧にみえても、海と空は画然と分かれているに違いなかった。しかし、意志を張りあっているのではないと村木真鋤は思った。妥協するのではないが、たがいに納得できる一点に収束しようと試みているのではあるまいか。 そこを、みたいと思った。 いまの瞬間だって、触れあっているに違いないのだから。 大学にいくときには、おおきな汽笛の音を聞いてから寝床から離れれば充分だった。村木は、駅前のアパートに住んでいた。彼が寝間着を普段着にかえて家をでると、汽車は駅にとまっていた。駅舎はちいさかったので、後部車両ははみでて踏み切りをふさいでいた。遮断機をくぐりぬけ、とまっている列車のひらかれた扉の段差をのぼってなかに入ることができた。車掌は乗車しようとする人がいなくなるのを確認すると、警笛を鳴らした。扉は、最後に入った者がしめるのが礼儀だった。 大都会でそだった村木はこの蒸気機関車にのるのが楽しくて大学に通ったが、それだけの興味ではつづけることはできなかった。いつの時点から道を誤ったのか考えても、仕方がなかった。たとえはっきり分かっても、解決にはつながらないことだった。 しばしば学生が引きこもり、親も知らないあいだに大学にも通わなくなり、ひっそりと自死する事件が報告される。とくに学校と齟齬があったわけでもなく、理由も不明にそうした出来事が起こる。おなじ事態が、村木真鋤にも生じたのだった。原因をいくらさがしても、解決にはむすびつかなかった。いずれにしても、もう大学にはいけなくなっていた。 だから玉砂利の浜にすわって、村木が考えていたのは三つだった。 ひとつは、このあやふやな生活をつづける。大学は留年できるが、卒業するのはますます困難になるだろう。月に一〇日働けば、病気や怪我をしないかぎりこの生活をつづけることはできる。しかし、かいた小説が評価されるには神の恩寵が必要だろう。神さまをとくに信じてはいなかったが、慈悲だけをひたすら頼みにしてここで暮らす。 もうひとつは、多くの若者が考えるようにひっそりと自分の幕をとじる。やり方は、さまざまあるに違いない。縊死はいちばんみつかりにくく、確実に実行できるだろう。線路があるから夜にレールのあいだに伏していれば、おなじ結果がえられるだろう。しかしこの方法は、どうしても多数の人を巻きこむことになる。なにも関係がない運転手には、生涯のトラウマをのこすだろう。自分の家族にも、たいへんな迷惑がかかるに違いない。夜、沖にむかって泳いでいけば冷たい領域に辿りつき、心臓麻痺を起こすだろう。沖合まででられれば、自分の意志ではどうしようもなくなるに違いない。しかし遺体は必ずみつけられ、地方紙くらいには載るだろう。 最後のひとつは、東京の自宅にもどることだった。家が困窮しているのを知りながらでてきた村木としては、いちばん考えたくない選択だった。失業中の父に、なんとつげたらいいのだろう。父親は、知りあいのすべてに頭をさげて仕送りをしていたに違いなかった。それも不可能になったのだから、食事にもこまっている事態は容易に想像できた。普通の学生生活がつづけられなくなったのは、現状に落ち入るおおきな原因に違いなかった。だからといって、文学をやりたいというのが、直接むすびつくともいいがたかった。 そもそも、なぜ自分は小説をかきたいのだろうか。どうして、そんなものに執着したのだろうか。小説をかくとは、いったいなんなのだろうか。おそらくは自尊心が、こうした屈折した姿で顕現したに違いなかった。自分が周囲の人びととは違うという思いが、極端な形で具現したものなのだろう。だから仕送りがなくなったのはひとつの契機で、いずれこうなったに違いなかった。若者がこうした領域にすすむのは、さまざまな経緯からなのだろう。文学をやりたくても、父親が生活費をきちっと送っていた段階ではそうもできなかったのではあるまいか。それがなくなって、嫌いな父からの援助がすべて消失したと感じた時点でほんとうに自由になったと思ったのではないか。文学をやるなんて将来を考えていないのだから、肉身なら許せるはずがないだろう。明治の文筆家、二葉亭四迷は、父親に浴びせられた「くたばってしまえ」という罵声を筆名にしたと聞いたことがあった。 こうした欲求は、非常に質が悪いものだった。救われない状況に自らすすんでいくのだから、妙な矜持が出現する。聖女が貧困や苦痛を無二の喜びにかえるのと、どこかで交錯しているのではないか。いくら考えても、不明なことだった。 夜中にふと異変に気がついて目覚めると、右の手が宙に引きあげられていた。ひとり真っ暗の闇のなかにいて、どうしても自分ではおろすことができない。だれも助けてはくれない。このままでは、いられない。しかし、何ものかによって引きあげられた右手は、天井にむかってのびていた。脂汗が、額にながれていく。あきらかに、望まないことが起きていた。そのとき、灯油缶がパーンをおおきな音を立てる。はっと気がつくと、右手が自由になった。こんな金縛りが夜ごとくりかえされた。 村木は、心におおきな葛藤をかかえていた。どうにもならないものだった。 二一歳だった。朝から晩までずっと海をみながら、おなじことを思っていた。夜になると、小説をかいていた。太宰も、芥川も安吾も、すくなくとも人生のある時期、こんなふうに生活していたのだろうとばかし思った。 こうして玉砂利の浜で、海をみながら考えているときに、ついに名案が浮かんだのだった。 「大学を、やりなおすことはできないか」 「医学部に、入りなおしたらどうか」 そうすれば、あらたに六年間の執行猶予期間がえられるだろう。もう五年やれば、小説はなんらかの評価をうけられるかも知れない。そうしたら、医者にはなんの興味もないのだから小説家になろう。五年間頑張っても、小説が売れないこともありうる。それは、運がなかったのだろう。そのばあいに備えて、保険をかけておいたらどうだろうか。最低の単位だけはとって留年をしないよう心がければ、駄目なときには医者になれるだろう。小説家は無理だと判断せざるをえなくなった時点で、仕方がないから懸命に頑張って立派な医師になればいいのではないか。 村木は、そのとき、医学部の試験に合格できないとは考えもしなかった。自分が小説に頑張っているくらい努力すれば、なんでもできるはずだと確信した。その思いについては、なんの疑念も浮かばなかった。 村木は、医学部を受験することにした。大学に退学届をだす必要にせまられ、農学部の事務に相談すると「学部長と話しあってくれ」といわれた。 指定された日時に、村木は、農学部長の部屋をたずねた。土壌学が専門だった農学部の学長は、年のころなら五〇歳をすこしすぎていた。細面で痩せ、みるからに誠実な人物だったが彼をみると嫌な顔をした。 村木は、土壌学のテストをうけていた。問題は四問あったが、ひとつも分からなかった。仕方がなく、裏に「ドストエフスキーとカフカの共通点についてしるせ」という五問目を勝手に設定し、解答用紙いっぱいを埋めつくした。懸命にかいたが、たぶん読んではくれなかっただろう。いずれにしても、「零点」をつけられていた。それで教授は、彼をよく覚えていた。再試験か、あるいはレポート形式で単位をもらえないかと頼みにきたと考えたに違いなかった。 教授の言葉には棘があり、完全に怒っていた。 「いったい、どうしたものか」と村木は思った。 「事務の者から、君が話をしたがっていると聞いたのだ。それで時間をつくっておいたのだ。つたえたいことがあるなら、はやくいいなさい」と教授は、かなりきつい語調で口をひらいた。 「退学したいのです」とつげると、学部長はひどく驚いて中退してどうするのかとたずねた。 医者になって脳神経を中心に研究したいというと、じっと村木をみつめた。 「医学部は、むずかしいぞ。簡単には入れない。農学部をでてから、考えてみたらどうか」と今度はうってかわり親身になっていった。 零点をとる者が急に医学部にいくという方針の転換を話しても、無理だと思うのはきわめて自然だったろう。村木は、入学試験について重大には考えていなかった。本気になれば、かなりのことができると思っていた。しかし教授から自分が置かれた状況を説明されると、そうとうにむずかしいかも知れないと考えはじめた。 学部長は、村木の性急な「退学」という判断について気をもみだした。社会的には「大学中退」が「高卒あつかい」だと噛んでふくめて話をはじめた。親身になって事情を聞きだそうとし、彼の翻意をくりかえしうながした。説得は熱をおび、微に入り、細をうがち、三、四〇分もつづいた。なかにはかなり大胆とも考えられる、「なんとか、進級させる機会をもうけよう」という、校規にはあきらかに抵触する条件もつけくわえられはじめていた。しかし、村木の意志はかわらなかった。どうしても譲らない彼に、教授はいった。 「私が農学部の学長をしているあいだは、瞳が黒いかぎりは、もし君が再度希望をかえて卒業を望む気持ちになったときには、必ず復学させてやる。これは、男同士の約束だ。必要なら、一筆かいてやってもいい」と村木をじっとみていった。 「分かりました。そのときには、よろしくお願いします」と彼は答えてふかぶかとお辞儀した。 それから幾日かたって、村木は漁村のアパートをひきはらった。札幌駅をあとにするときには、数人の友人にみおくられた。しかし彼が希望どおりに医学部に進学するとは、だれひとり思ってはいなかった。 村木真鋤は、故郷にむかう列車にのりながら札幌で暮らした日々を思いかえした。 村木は、一九の年にこの街にやってきた。大嫌いな父親と、顔をあわせる生活から逃れるために。しかしいつのころからか道を誤り、にっちもさっちもいかない土壇場にまで追いつめられた。そしてついに退学し、北国を去る日をむかえていた。 村木は、雪で覆われた原野を走る列車にのっていた。車両はトンネルに入り、真っ暗な闇のなかをながいこと疾走していた。しばらくすると、目のまえに輝く銀世界がみえた。それは、強烈なあかるさだった。なんと美しかったことか。 その瞬間、彼は自分の選択が正しかったと思った。 正誤とは、なんだろうか。 村木は、人生のなかでたくさんの間違いをくりかえした。世の中は、決して思い通りにはならなかった。望まない過ちを犯す機会も、数々あった。そうした不如意な生涯のなかで、正しいとは、自分で選択したという事実だ。もしこのとき、納得がいかないままに東京につれもどされたなら、村木の人生はぜんぜん違ったものになっていただろう。恥をしのんで帰省を決心し、自己判断で中退し、行為に責任をもつ機会がのこっていたこと。それが、彼にはとても大切な事実だった。 闇のなかで暮らしたことは、村木にとって無駄ではなかった。そこは冥界にちかい場所で、たくさんの金銀、財宝が埋められているところだった。暗黒の闇に触れたことにより、彼は無尽蔵のエネルギーを掘りだす権利があたえられた。 それがなければ、村木が医者になるのも不可能だった。 二、医学生 村木が東京に帰ると、家族はひどく驚いた。事前に情報のひとつもあたえなかったから、中途退学を知った父親は激しいショックをうけていた。事業が破綻した父は、息子の帰還原因の一翼を担っていた。村木は、「中途退学」を報告した。父は穏やかな人物で、彼はなぐられたことは一度もなかった。ただ、なにも会話をしてくれなくなった。 「東京で働きながら、医学部にいく」と村木はいったが、父は黙っていた。 父親は、太平洋戦争のときある将校と懇意になり、時計商を営みながら軍部とともにシンガポールまで辿りついた。そこで、軍の注文をうけて物資を調達する商社をつくった。父の友人は、一〇〇〇人規模の従業員がいて、「スリーダイヤモンド」よりもおおきな会社だったと話していた。 父親は、大陸感覚の大雑把な商いだったのか、くりかえし人に騙された。そうした事実については、「仕方がない。おれが騙したわけではない」としかいわなかった。 村木は、父親がずっと嫌いだった。顔もみたくなかったので、家が困窮していたのに札幌の大学にすすんだ。しかし、なにもできずに中退して帰ってきて不甲斐なさをしみじみと感じた。仕事もない父が朝はやくに起きて黙々とランニングをする姿は、村木を震撼させた。はじめて頭がさがり、尊敬にちかい気持ちをもちはじめた。 村木は、翌春、医学部を受験したが、とうぜん不合格だった。うまれてはじめて、勉強を教えてもらいたいと思った。駿河台にある予備校をうけたが、不合格だった。仕方がなく代々木ゼミナールを受験したが、驚くことにはそこにも合格できなかった。ほかに方法もみあたらず、無試験の昼間部に入学した。 朝の六時から一一時まで五時間アルバイトをして、昼の一時から五時まで四時間、ゼミナールで講義をうけた。さらに夕方の六時半から八時まで一時間半、仕事をやって九時に自宅に帰った。帰宅してから一二時まで、二時間半くらい勉強する時間を確保した。 村木は、このときほど物事に集中できたことはなかった。かぎられた勉強時間をつかって、どんな教科も予習をした。講義は復習の時間になり、そのまま知識として身についた。一生にこの一年だけは、真面目に授業を聴いた。講義をよく理解するのが、ほんとうに役に立つと驚き、実感した。この思いが、後年コンプレックスの原因になった。 村木は、四月に入学して一学期が終了した夏に代々木ゼミナールから特待生として表彰された。授業料免除という、自分で働いている彼にとってはひどくありがたい特典をうけた。さらに、午前部への通学が許可された。このときもらった英々辞典は、村木の勲章としていまも大事に書斎に置かれている。 授業が午前に変更されたので、朝の六時から八時まで二時間のアルバイトをして九時から午後の二時まで五時間、講義をうけた。三時から八時半まで五時間半、仕事する生活にかわった。そうして頑張った結果、翌年の春、だれひとり信じる者がいなかった国立大学医学部への受験は成功した。 村木は、予備校の試験に落ちた時点でかなり現実が厳しいことを知った。昼間部に通いはじめたころは、ほとんど絶望的に思えた。しかし、予備校の教師が講義中に語るどうでもいいような話のひとつひとつが、ひどく興味ぶかく感じられ、心をうった。どの教科ももの凄く面白いと思い、のめりこむことができた。自分でも信じられないくらい試験ごとに成績があがり、周囲の受験生を追いぬいていった。夏に午前部への通学が許可されたころには、もしかしたらと感じはじめていた。しかし、実際の試験では物理の教科でおおきな失敗をして、絶対うからないだろうと確信していた。 だから掲示板に自分の番号をみつけたときには、わが目を疑い、そこから離れられなかった。神の恩寵は、ここにあったのだと理解した。どんなに考えても、自分ひとりの力では起こりえない出来事だった。彼は、つよい運を感じた。 代々木ゼミナールからは、大学に通う奨学金が授与された。額としてはわずかだったが、お金の問題ではなかった。代々木ゼミナールの経験が、村木に自分の運と能力を再確認させた。頑張れば、人間はなんでもできると彼は思った。 だれも考えなかった国立大学医学部に合格したことで、両親の怒りはかなりおさまった。しかし学費をふくめ、生活費は自分で工面しなければならなかった。塾の講師をずっとつづけたが、がんらい医学部転籍は小説をかくためだったので、優先順位から大学に通う時間はひどくかぎられることになった。 このとき、村木はもう一度、誓願をした。 「五年間、という年限をかぎって創作にうちこもう。それで、駄目ならあきらめよう。小説家になれないのなら、仕方がないから医者になろう。そのときには全精力を傾け、立派な医師を目指そう」と心にちかった。 村木は、アルバイトをつづけながら小説をかき、絶対に留年しない程度に試験だけは通ろうと思った。とはいっても「カンニング」は、一度もしなかった。どの教科も、すべて自分の力で通った。 医学部に通う六年のあいだに、村木は四ヵ月間、インドを放浪した。それでも、留年はしなかった。さまざまな追加の実習が必要で、試験は人の倍もうけたがみんな正規で合格した。評価は、優も良もなく、全部「可」だったと思う。しかし彼は、多くの学生が平気でやっていた卑劣な不正行為は、しなかった。 それは、村木の人間としての矜持だった。 インド世界を放浪したことは、彼の生涯にわたっておおきな影響をもたらした。もしいかなかったとしたら、村木の人生はずっとちいさくまとまったものに終わっていたに違いなかった。インド世界は、閉鎖的な島国にうまれそだった彼にはあまりにも巨大な社会との出会いだった。カーストが実在することに、村木は激しい衝撃を覚えた。そこでは、人は、一個の人格をもった人間としてではなく、掃除とか洗濯とかの一部分を担当する機能として存在していた。社会の不平等について、村木は、中学生時代からつよい反感をいだいていた。ところが、ひとつの文明がながく継続したインドで今日までつづいてきた制度は、不公平から成立していた。人間の社会で生きることは、不平等を前提としなければならなかった。もちろん彼には容認できない事態だったから、秩序と戦わねばならないと覚悟した。後年、医者になって奮闘するのは、こうした社会制度だった。 インド世界を小説としてまとめるのは、当時の村木には力量的に不可能だった。いずれにしても彼は、医学部在籍中さまざまな新人賞に応募したが成果はえられなかった。 最初に誓願した五年間という月日もながれ、村木は小説家をあきらめねばならないと決意した。六年生になったとき心を入れ替え、小説はやめ、アルバイトと学業に専念することにした。 医学部の学生は、五年生にすすむと病院を見学し、実際の仕事に触れる体験学習をうける者がほとんどだった。そうした余計な課題は、村木には行う根拠もなかった。五年間はぶける部分をすべて手抜いてきた代償はおおきく、みんなに追いつくのはかなりむずかしい状況になっていた。同級生たちが国家試験をみすえ受験勉強に専心するなか、彼は卒業できるかどうかの正念場をむかえていた。卒業試験はきわめて過酷で最大の難関となり、多くの科目で通過がそうとうに危ぶまれた。 何回か追試をうけ、勉強についてだけではなく人格についてまで目茶苦茶にいわれるのをじっと耐えていればだいたいは容赦してくれた。しかし結構うるさい教授がいて、三つがどうしても許可されなかった。こうした手のほどこしようもない教科が複数あると、普通の者ならあきらめてしまうに違いなかった。 この状況から、村木は教授たちが想像もできない粘り腰をみせたのだった。 「先生の科目だけなのです。あとは、なんとかなったのです。おっしゃることはよく分かりますが、国家試験は徹夜をしてでも頑張って必ずうかります。ここは、目をつむって単位をください。そもそも、医学部に入学できたのです。本気でやれば、基本的に頭は悪くはなく充分な理解力をもっているのです。さまざまな事情で、どうしても勉強できなかったのです。不本意ですが、この教科だけがひどい手抜きになりました。こうして、先生をわずらわせている事態を申し訳なく思います。なんとか諸事情を汲んでいただき、卒業さえさせてもらえば、ほかの科目は大丈夫なのです。重点的にこの教科を勉強して、国家試験には絶対にうかる自信をもっています。先生のお気持ち、ひとつなのです。なんとかお願いします」 村木は、平身低頭してくりかえし頼んだ。交渉は難航し、量的にも充分な罵詈雑言を浴びせられたが、それもなんとか凌いだ。ついに、対象をひとつにまでしぼりこんだ。 こういう状況で最後まで通さないといい張る教授ともなると、もうかなりの偏屈だった。ほとんど、ヒステリーといってもよかった。とはいえ教授をそこまで追いこんだのは、あきらかに村木だった。 「私は、たくさんの学生を実際にみてきた。駄目なのだ。おまえみたいな学生が、国家試験にうかったのをみたことがない。絶対に試験には合格しないと分かっているのだから、一年みっちり基礎からやりなおさねばならない。どんなことがあっても、おまえを通せない。その気は、まったくないのだ。そう決めたのだから、これ以上たずねてくるのはやめなさい。おまえの行為は、ただの迷惑だ。これ以上私の時間をつぶすのならば、来年だって通すのかと考えることになるのだぞ」と頑強に抵抗された。 村木も、すでに手段はつくし切っていた。いくら情けにすがろうとくりかえしても、もう無意味だった。そこで戦法をかえて、脅すことにした。 「両親は失業しておりますので、私は自分で生活費を稼いで大学に通っています。教授にはたいへんご迷惑をおかけし、心から申し訳なく思っています。卒業が一年のびるのなら、私はまた働かなければ暮らしていけません。それとも教授が奨学金をだして、勉強に専念させてくれますか。そうまでするというのなら、この科目ひとつのために留年して学業にはげみます。奨学金を、だしてくれるのですか。はっきり、いってください」 村木が相手をじっとみて問いつめると、しばらくして「分かった。頑張りなさい」と教授はいった。こうして最後の難関を突破し、晴れて卒業をむかえ、国家試験への道がひらけた。 卒業試験は、一般的には「卒試」とよばれていた。この関門を通過できれば、「医学士」の認定をもらえる。認定証が、医師国家試験の受験資格だった。大学としては、合格率の低下は教育方法について問われることにもつながり、「卒試」はおおきな障壁だった。 村木は、はっきりいって「落ちこぼれ」だった。だから、よくぞここまで辿りついたというべきだった。こうして「落ちこぼれ」ていると、さまざまな理由から似た境遇の者と仲よくなる傾向があった。そうした者たちは周囲に五、六人はいたと思うが、彼らが卒業できたと聞いたことはなかった。そのなかで記憶にのこる者が、ふたりほどいた。 ひとりは、女性だった。ごく身近だったが、個人的に話したことはほとんどなかった。ただ女性は一学年九〇名ほどのなかに、四、五人しかいなかったから目立つ存在だった。なぜ、彼女がそうした境遇に落ち入ったのかは不明だった。本人でさえ、よく分からなかった可能性もあった。いうまでもなく、才女だった。音楽や美術、文学にくわしく、容姿はととのい、美貌でもあった。村木は、彼女がちかくにいるのをみていただけだったが、後年創作のなかに登場してきた。 小説の主人公は医学部の学生で、家長として振る舞う父親に嫌悪し、中退して世界を放浪する。彼は、最初にサンフランシスコにいき、そこである美貌の女性に話しかけられる。ながい髪が綺麗な女は、主人公にひどく親切で英語をふくめた暮らしやアルバイトの世話を焼く。この女性の両親は弁護士で、シスコにプールつきの邸宅をもち、黒人のお手伝いさんもいる。彼女は、ハイスクールではもっとも成績がよく、医学部に進学したが落ちこぼれている。恵まれた環境とあり余るほどの才能を授かりながら、自分にはなにもないと信じ切っている。ただ人のぬくもりだけをもとめて落ちこぼれている彼女は、女神であり、霊感をあたえる最高のエロスだった。 医学部のほとんどの学生は体制派で、若いにもかかわらず秩序に組みこまれるのを希望していた。全員がそうではなかったが、多くの者たちは非常に恵まれた環境にそだち、自分が医者になることに、彼女のようには疑問ももっていなかった。医学部の学生は、将来が約束されている職業学校の生徒たちだった。戦前の陸軍士官学校を思わせる、将校養成のための軍人施設とかわらない一面をもっていた。 学生運動にひきこまれ、卒業できなかった学生もいた。非常に真面目で、好感のもてる男だった。彼は、三里塚にはよく通っていたらしい。医学部生には愛想をつかしていたから、大学よりも街にでかけることになったのだろう。社会矛盾を真剣に考えていたから、彼は先輩にこの運動にひきこまれた。純情な男が、不合理な社会に異議を申し立て、秩序をまもる権力から自由を拘束されるまで戦った者に敬意をいだいたのは、想像にかたくない。しかし憧れた先輩は転向して卒業し、国家試験にうかっていまはもう普通の医者を目指していた。彼は、街のパン屋でサンドイッチをつくるとでる耳の部分をもらって主食にしていた。 村木は、男が中途退学を決めたとき一度だけ話した。 「もう一度、頑張れないのか」と聞いたことがあった。 「もう、駄目なんだ」と彼は答えた。 「医者になってから、できることもあるのではないか」と村木はたずねた。 「君に、期待している」と男は答えた。 村木は、彼が置かれている状況は理解できたが、「せっかく入ったのに、もったいない」とは感じた。「志」は分かるが、まえにすすめない以上どこかで一線をひいて方針をかえねばならないと思った。自分の問題ではなかったから、この話題で論争しても仕方がなかったが「頭が固すぎる」とは感じた。 村木は、二一歳のときならあきらめて中退したかも知れない。それをのりこえ、運も味方につけて医学部に方針転換ができたのだ。小説に芽がでない以上、医者になるしかなかった。家庭的にも経済的にも村木よりずっと恵まれた者たちが、能力もあり、医学進学課程に入れたのに、さまざまな事情から中退していくのはもったいないと思った。彼らのような者こそ、医者になるべきだった。あつまれば、医療という枠組みをかえることもできたに違いなかった。それぞれがいい分をもっていたのだろうが、どこかで腹をくくって現実にむきあわねばならない。この点に関しては、二一歳のときとは違っていた。 「落ちこぼれている」とはいっても、医学部に入ったのだからもともと勉強はできるのだ。教授たちは、一部の者がどうであれ、基本的には教育者で相談にのってくれる。 インドで貧しい者たちとともに土壌学をひろめた農学部の学長に、村木は浪人中に二度ほど手紙をかいた。そのたびに、教授ははげましのながい返事をくれた。最後にはいつでも、「復学しろ」とかいてあった。「なんとでも、してやるから」と末尾にはかかれていた。 医学部の教授たちも、みんな優しかった。懸命になって頼めば、なんとかしてくれた。学生のほうがあきらめなければ、道は必ずあるのだ。だから、「もったいない」と村木は思った。 六年生になると、卒業ができるかどうかはべつにして進路を決める必要があった。よほどのことがないかぎり、希望する診療科に入局できた。勉強をしなかった村木は、内科とか外科とか範囲のひろい科目は知識が追いつかず、たいへんだろうと考えた。まずちいさな診療科に入り、そこから他科をまわりたいと思った。 泌尿器科学の教授に面会ができて、希望を話すと「外科」と「麻酔科」の研修を約束してくれた。それで、村木は泌尿器科にいくことに決めた。不勉強だったので、その「診療科」がなんであり、なにをするのかをふくめてすべてが分かっていたのではなかった。しかし懸命にやれば、立派な医者になれるのを村木は疑ったことはなかった。 いくつかの医局が、入局をすすめてくれた。なかでも、教授にひどく気に入られた学科もあった。 「ぜひくるといい」。「おまえこそが、入るべきだ」と教授は真剣にすすめてくれた。それは、「君だけは、くるな」といわれるよりも、ずっといい話だった。その科目は、だれでも容易に予想できるに違いない「精神科」だった。 村木は、どうして教授と話すことになったのか、経緯はよく覚えていなかった。おそらく点数が足りず、追試の相談にいったのだろう。こうした形で村木は多くの教授室をたずね、だいたいは怒られ、嫌な顔をされた。精神科の教授ともこの経緯で話す機会をえたのだろうが、ひどく気に入られた。 「おまえがすすむのは、ここしかない。君は、きっと素晴らしい精神科医になれる」とくりかえし説得された。 「私が面倒をみてやるから、安心して入局しろ」と教授は彼の目をみつめて熱心にいった。 村木は、自分でもその話は間違っていないだろうと思った。精神科の仕事をするには、精神構造のどこかで患者さんとの共有部が必要なのだろう。教授は会った瞬間に、彼がその部分で満たされているのを一目でみぬいたのだろう。 村木は、正直にいって精神科には魅力があった。自分に適しているに違いないと素直に考えた。どちらかというと問題なのは、適合しすぎていることだった。作家の北杜夫も加賀乙彦も、精神科医だった。そこにいけば、小説の主題は猛烈な量があるに違いなかった。 結論からいえば、村木は精神科を望まなかった。もし彼が普通の医学生程度に勉強していれば、そこにすすんだと思う。村木は、医学についてほとんど無知だった。一夜漬けで、すべての試験は通った。筆記であれ口述であれ、即席に記憶したものばかりだった。知識はすべてが断片的で、まったく身についていなかった。この状態で精神科にいけば、医学を知らない精神科医になるのはあきらかだった。勉強すれば、知識としては埋まるだろう。しかし、実際の医療という枠組みがまったく分からない「精神科医」になるだろう。すくなくとも、生涯そう思いつづけるだろう。考えだすと、もっと真面目に勉強し、精神科医になってから小説をかくのがよかった。もどれない過去について考えても仕方がなかったので、後ろ髪はひかれたけれど教授の申し出を丁重にことわったのだった。 春の医師国家試験は、とうぜんながら合格できなかった。卒業試験がたいへんで、国家試験まで手がまわらなかった。当時は一年に春と秋に試験があったので、半年間がっちり勉強した。 医学部の受験と医師国家試験をうけたときの二回は、村木はひたすら学業に没頭した。おそらく、春の試験は五割もできなかった。落ちたなかでもほとんど最下位で、途中からは採点の手抜きをされても仕方がないほどひどかった。 合格点は七割だったが、秋には八割ちかくできたと思う。しかし合格するためにつめこんだ知識だけで、学問としてはなにも分かっていなかった。村木の医学知識は、どこまでも断片的なたんなる寄せあつめにすぎなかった。 三、研修医 秋に泌尿器科教室に入った村木は、時間があれば勉強した。 大学で一年間、基礎的な手技を教わったのち、関連病院で泌尿器科を研修することになった。上司は充分なスキルをもつ穏やかな医師だったが、いままでみてきた研修医と村木はまったく違っていた。あつかいあぐねた部分が、かなりあったに違いなかった。 村木は、泌尿器科学の大著、A四版の二段組で六〇〇ページをこえるキャンベルの英語版を毎日、時間を決めて読んでいた。こうした勉強自体が、医学をまったく理解していない証拠だった。この大著はほとんど辞書で、もっと実地に即した本をえらぶべきだった。医学とは、ある分野を熟知する専門の教授が全体を俯瞰しながらバランスを考え、総体とつながる部分をひとつずつ教えるものなのだ。 そのへんからすでに分からない村木は、基礎研究の本をやみくもに読みすすみ、すぐには応用のきかない臨床の現場でさらに不明になっていた。ある部分だけを詳細に理解しても、実地ではなんの意味もない。この問題の本質を考えるなら、村木は激しいコンプレックスに悩んでいた。学生時代に勉強しなかった自省で、自分がなにも知らないというつよい思いこみだった。 村木は、講義にほとんど出席しないで試験まえに友人たちから講義録のコピーをもらい、必死に暗記した。しかし拙いながらも、なんとかすべて自力で試験に合格したのはまぎれもない事実だった。たとえ断片的ではあっても、知識としてはもっていた。 ところが村木には、講義を聴かなかったという思いがつよくのしかかっていた。学生たちは、自分が知らない真の知識をもっているに違いないと考えた。さらに適確にいうなら、師弟のあいだにかわされた秘密の教えをうけたのではないか、というひどい強迫観念にさらされていた。 この思いの源泉は、代々木ゼミナールでの成功体験だった。現実に予備校の試験すらうからない者が、講師を信じて授業をしっかり聴けば、ほかのことはなにもしなくても成績があがった揺るがしがたい事実だった。いうならば、自分で考えてなにを勉強するよりも、専門の先生が行う講義の聴講こそが適確な知識を身につける最善の方法だという、ひどい思いこみだった。もちろん、この考えは正しい。しかし、正解は必ずしもひとつとはかぎらなかった。ほかの手段で埋められたのに、講義を聴かなかったことを無闇に後悔し、必要な知識に辿りつけないとばかし考えていたのだった。 この思いが村木からとれたのは、毎日、予定を立てて医学書を読んで勉強し、外科、麻酔科、内科をまわったときだった。いくぶん余裕ができて周囲のいろいろなタイプの医者と比較して、それなりに自分が医学大系を理解していると納得するまでつづいた。 内科の研修時にこの事実に気がつくまで、彼は医学全体についてなにも分からないというひどいノイローゼになって悩んでいた。 一年間、泌尿器科学を学び、それから外科で一年、研修をさせてもらった。これは上司だった泌尿器科医長の好意によったが、入局いらいの村木の希望だった。研修した外科は、消化器が主だったが呼吸器外科も専門にしていた。そのため胸腔穿刺は得意になり、気胸の手術まで教えてもらえた。 泌尿器科についてはいくぶん知っていたにせよ、外科はほとんど分からなかった。そのため、上司からはひどく怒られることになった。人間性についてまで疑問を呈され、罵詈雑言に耐える一年がつづいた。衆人のまえであまりに激しい言葉を浴びせられると、一瞬、自分がなにをしたらいいのかさえ分からなくなった。手術のメスをもったさいに交代させられるという、非常に屈辱的な行為までうけた。 完全なパワハラ行為だったから、そばでみている女性の看護師たちからは、多いに同情されることになった。しかし、村木がなにも理解していないのがいちばんの問題だった。彼も完全なコンプレックスをもち、自分が悪いと思って耐えることができた。一年間にわたって叱られつづけながら、ある程度まで外科学を理解した。 村木は、外科の上司からみてもそうとうにかわっていた。泌尿器科医になるのに、内視鏡をはじめとする手技を執拗に見学にきた。村木とは同学年の研修医がいた。上司は、その部下には内視鏡を教えても、彼には手ほどきすらしてくれなかった。あきらかに意地悪で、明確に拒絶し、「こい」ともいわないのに村木は必ずやってきた。 上司からみると、怒るためにそばにいるみたいなものだった。なににつけても小言をならべ立てるが、なんにも懲りない感じで村木はちかくに寄ってきた。これだけはっきりと拒絶すれば、疎遠になるのが自然の理だった。しかしどんなに人間性を貶め、責められても、彼はまったく離れていかなかった。 村木からすれば、この先生からしか教えてもらえないと叱られるたびに思うのだった。せっかく叱責してくれるのだから、悔しい思いを上司から技術をうばうことで釣りあいをとろうと考えた。なんでもいいから教えてもらおうという意欲がつよく、いくら怒られてもそばにいく。最後には根気くらべになり、手間のかかる迷惑な研修医だった。 村木は、叱られた分、教えられたものはしっかりと身についた。彼は、外科の上司を恨むことはなかった。どちらかといえば、医者として尊敬していた。後年、村木が道北で地域医療に従事したとき、とくに知らせもしなかったのにこの外科医はわざわざたずねてきてくれた。上司にとっても、彼はいらいらさせる仕事ができないだけの部下ではなかったのだ。困惑に落ち入らせた記憶にのこる存在だったのだろう。 そのころ、村木は結婚した。経緯は割愛するが、よき妻をえたことだけは間違いがなかった。誤りだらけの人生で、唯一の成功といってもよかった。 その後、村木は大学にもどり、さらに泌尿器学を研修した。彼は、麻酔科をまわりたかった。外科で全身麻酔を一〇〇例以上実施したが、つねに上司に怒られていた。麻酔医がかける最新の本格的な麻酔手技を、どうしても知りたかった。大学の医局で一年くらいすごしたとき、関連病院でつとめていた医師が体調を崩し、仕事を休まざるをえない事態が生じた。医局会がひらかれ、代わりにだれかがいかねばならないことになった。あまりにも急な話で、時期も九月のはじめで中途半端だった。さらにその週のうちに引っ越すという条件もついていたので、だれも希望しなかった。 教授は、「応じる者には、なにかしらの要望を叶える」といった。 その言葉で、村木は手をあげた。 「麻酔科にいかしてもらえるのなら、応じてもいい」と話した。 ちょうどその時期、妻の冴子は出産のために里帰りをしていた。状況的には不可能にちかかったが、麻酔科にいけるのならみかえりがあると思った。ほかに候補はいなかったので、医局会という多くの医師が同席する場で、彼の提案はうけ入れられた。それで冴子も不在のなか、とつぜんの引っ越しをした。 村木は、麻酔科を研修する「約束」をえたが、こうした合意を教授はその場凌ぎに安易にだしていた。だいたいは、空手形にかわるものだった。実際に麻酔科にまわるためには、この合意の履行をつよく教授にせまる必要があった。すでに外科を研修したのを、ほかの医局員もよく知っていた。 「おまえだけが特別なのは、おかしい」と難癖をつける同僚もいた。 「おれの約束は、まもってもらえなかった」という輩も多かった。 村木には、信じられない発言だった。それならば、はっきりと交渉して合意をまもってもらえばいいのに、「無理だ」といわれれば、「仕方がない」とあきらめてしまうから成就しないのだ。もともと、つよい希望ではなかったのだろうと思った。 教授は、たくさんの部下をみて村木がどういう性格なのか充分に理解していた。ほかの医局員とどんな合意をかわしたのか知らなかったが、彼との約束はすべてまもってくれた。教授は、内科をまわるのも許し、「医局をやめて、離島診療をしたい」という希望もうけ入れた。「医学博士をとらせてやる」という約束まで叶えてくれた。とうぜんながら、それなりの代償はあったが、村木は、「腎結石の増大に関与する因子についての検討」という論題で泌尿器科学の学位をえた。 こうした経緯で冴子のいないあいだに引っ越しをしたあと、大学の関連病院の泌尿器科に一年勤務した。その病院の副院長は、泌尿器科教室に属する大先輩で皮膚科を診療していた。 がんらい日本の泌尿器科は、ドイツ医学の「皮膚泌尿器科」という分野をひきついでうまれた。これは、欧米を席捲した深刻な感染症、「梅毒」を治療する目的だった。それが時代の趨勢にしたがって、「皮膚科」と「泌尿器科」に分かれたのだった。村木は、時間があると副院長のところにいき、皮膚科診療を教えてもらった。 この病院では「腎透析」を外科が担当していた。早朝の針刺し業務を肩代わりし、透析の「シャント」手術を教えてもらった。何例か、外科医のアドバイスをうけ、実施した。ここは最初に研修した外科とおなじ系列だったので、話題も共有でき、たびたび飲み会にも誘われた。 その後、教授と約束を履行してもらう交渉をして、「麻酔科」をまわった。村木は、怒られながらも外科で一〇〇例以上も全身麻酔を施行した実績をもっていた。一通りは分かっていたから、「新生児」とか、人工心肺をつかった「心臓弁置換術」など通常の研修では教えてもらえない特殊麻酔をうけもてた。助手としてではなく実施者として、三〇〇例以上に全身麻酔をほどこした実績をえて、「麻酔科標榜医」という「麻酔科医」を名乗れる資格を取得した。 麻酔時の無抵抗な状態では、注入された薬物が人体で教科書どおりの反応を示すのを身をもって知ったのは、非常に役に立った。血圧や心拍数の管理など、循環器内科でも通常では遭遇しない薬剤の効果を実感できた。また数例の出産直後の新生児に麻酔をかける機会をえたのは、非常に役に立った。その後の離島診療で、新生児仮死をNICUのある施設まで飛行機で搬送する事案も生じた。新生児が死んでも生きても、彼は、自分の診療に納得することができた。 つまり村木がやって駄目なら、どこへいってもおなじだと断言できる精神的な安定をえられた。これは医療を行うのに、とても重要な心の支えだった。もし目のまえで努力も虚しく患者さんが亡くなったとしても、自分の施術に納得できた。 村木は、半年麻酔科を研修して医局にもどり、その後、泌尿器科専門医の資格をえた。彼は、博士号が欲しかったので教授と相談して「腎結石」の課題をもらい、実務も腎臓の結石を破壊することが中心になった。 この方法は、「経皮的腎結石破砕術」(PNL、Percutaneous Nephro-lithotripsy)とよばれる。皮膚から腎臓に管を通して内視鏡を挿入し、結石を破壊し、除去する手技だった。「体外衝撃波」が主流になる今日でも、重要な技術にかわりがない。村木は、ほとんど毎日、数時間も放射線をあびながら、上司と部下の医局員と腎臓結石や尿管結石の破砕をくりかえした。手技のためには、硬膜外麻酔が適切だった。腰椎麻酔とは違い、技術が必要だったので麻酔医の腕のみせどころだった。 こうして破砕をしながら、大学病院にのこされた一〇〇年にわたる泌尿器科のカルテを閲覧し、学位論文の検討をすすめた。論文のおおむねの目鼻がついたころ、村木は内科研修を教授に希望した。彼は、ひどいコンプレックスをもっていた。村木にとって内科学は壮大な領域を占め、しっかりとした研修をうけて理解しなければ、ひとりでの診療は不可能だと考えていた。どうしても、内科をまわらねばならなかった。 村木には、内科学を教えてもらえる病院のあてがあった。それは麻酔科を研修した総合病院で、院長が泌尿器科の先輩だった。頼めば、いかせてくれると勝手に考えていた。しかし話しあうと、どうしても色よい返事をもらえなかった。それでこまって、自分がいけると考えていた施設にいくことができないと正直に教授に話して相談した。 「そんなに希望するなら、聞いてやってもいい。しかし、おまえは泌尿器科医として充分に一人前の仕事ができる。関連病院に、医長として赴任することも可能だ。内科を研修するのが、どうしてそれほど必要なのか」と教授は聞いた。 「ナイジェリアのラゴスに、仕事があるのでいってみたいのです。内科をまわらないと、やはり不安でいけないのです」と村木は答えた。 この回答を、教授はまったく予期していなかった。ひどく驚いて、もうとめても仕方がないと思ったようだった。関連する病院に、村木のいるまえで電話をかけた。そこは、数多くの関連病院をかかえる内科教室でも、一、二を争う人気の立派な教育施設だった。 「うちの医局員が、どうしても内科を研修したいといっている。うけ入れてくれないか」と院長と話をはじめた。教授はいろいろと相談していたが、とつぜん「おまえの給与は、 いくらだ」と聞いた。 村木は、医局員でも最低だったので一三万円だった。そう話すと、「一三万では、どうか」と教授は相手にいって電話を切った。それから村木をじっとみて、「いちおう、会ってくれることになった。土曜の一一時にいってみろ。給与は、一三万だ。あとは相談してみろ。はっきりいって、むこうはこの話にまったく乗り気でない。それを承知で、聞いてみろ」と話した。 これは、教授が内科研修を許可したことを意味していた。 この出来事よりまえに、村木は「熱帯医学研究所」をたずね、仕事を聞いた。そのとき、「北京の日本人相手の医者」と「アブダビの医療施設」が募集していることを知った。後者は、医学博士を条件としていた。時代は、エイズのさかりだった。ナイジェリアのラゴスなら、仕事は無尽蔵にあるといわれた。 冴子に相談すると、「日本なら、どこへでもついていく。ラゴスだけは嫌だ」といわれた。 村木は、内科を研修しないかぎり、医療行為ができないと思いこんでいた。泌尿器科の教授が「医長として、関連病院に派遣してもいい」といったが、彼は真にうけなかった。なぜ、これほど内科研修が村木の脳裏を支配していたのだろうか。これについては、一度、彼の心理を分析してみないと理解できないだろう。 村木の医学大系が分からないという思いは、非常に根のふかいものだった。彼は六〇歳で退職するまで、医学部に再入学してもう一度、医学生をしなければならないという夢をくりかえしみていた。さらに驚くことには、仕事をやめてもこの夢路は継続していた。進学する大学は、出身医大だったり北海道大学だったりした。いずれにしても夢のなかで、彼は一年生に混じって授業を真面目に聞いていた。さらに、解剖はともかく、組織学や病理学の実習で顕微鏡をのぞき、生化学の実験などを懸命にやっていた。 つまり、専門の教授の講義を聴かなかった。さらに実習という専門教育もうけなかったという気持ちは、あきらかに強迫観念になっていた。 これを裏がえしに考えるなら、村木以外の学生は授業をちゃんと聴き、理解していたに違いないという思いとかわらない。同級生は九〇名くらいだったが、真面目な者は三分の一くらいだった。彼らは、よく予習や復習をする優等生だった。のこりの半分は普通の学生で、それなりに理解していたのだろう。全体の三分の一は、追試にもひっかかる連中だった。村木は、同期で卒業できた者のなかで成績が最低だったのは間違いない。彼は、これを疑ったことはなかった。 しかしながら冷静に考えてみれば、医学の専門課程はたかだか四年しか行われなかった。専門の教授が講義するといっても、なにも知らない学生を相手にしていたのだ。医学部の課程を修了するためには、とうぜんながら専門科目はすべて必須だった。これらの単位をひとつでもとれなければ、卒業は許されなかった。村木が、口述、筆記をふくめ、すべての科目を不正な手段をつかわず自力で合格したのはまぎれもない事実だった。卒業試験の合格圏は、七割が相場だった。だから追試をしても五〇点しかとれないのなら、いくらなんでも教授と話しあうことはできなかった。 整形外科医が「心臓は、筋肉でも骨格でもない」と豪語し、専門以外はなにも分からなくても平然としているのを村木は冗談としか考えなかった。 つまり、医学生が医学大系全般を充分に理解しているはずだという彼の考えは、必ずしも正しくはなかった。なぜ、こうした幻想をいだいたのかと考えるなら、村木は自分と比較するべき学生をみつけられなかったからだろう。これが、大学にいかなかったという問題の真実だった。 みんながどうであるのか不明だったので、その分からない部分を村木は自分の理想で埋めていった。だから、彼にとって医者は非常に理念の高い人物になった。つまり、品行方正で、真面目で勉強家で、医学一般を熟知し、このうえもなく患者さんを大切にする。 実像を知らなかったので、村木にとって医者はこうした存在に変化してしまったのだ。優秀な医師を目指そうという誓願にしたがって、彼はそうした幻想的な人物にむけた不断の努力が必要になった。医学全般についてかなりふかい理解に到達するという観点に立つなら、「自分ひとりで、医療行為ができるのか」と考えることにもつながっていった。それは同時に、「医者とは、なにか」という哲学的な問いにも発展した。 指定された土曜日に紹介をうけた五〇〇床もある病院にいき、病院長との面会を申しでた。秘書につれられ院長室に入ると、院長が自分の椅子にすわっていた。彼の机のまえには応接セットが置かれ、事務員らしきものが腰をおろして同席していた。院長は、村木を立たせたまま、会うなり「迷惑だ」とはっきりいった。その言葉にどうしても研修をうけたいと申しでると、非常に憮然とした表情になった。 「そこまでいうのなら、泌尿器科の教授の顔を立てねばならない」と不愉快そうに話しだした。給与は税こみ、一三万。属託あつかいで、非正規。ボーナスは、とうぜんない。時間外手当も、支給されない。休日出勤は状況により必要だが、手当などはもってのほかだ。当直は、一年生とおなじにやってもらうが報酬はでない。院長は、つぎつぎと冷酷な話をつづけた。 二〇〇〇年以降は、実際にさまざまな「診療科」を学生としてではなく医師としてまわるのは当たりまえになった。村木が研修医のころは、「専門医制度」が創設された時代だった。専門だけができればいいという風潮がつよく、他科研修は容易ではなかった。前例がなく、どこでもうけ入れをひどく嫌がられた。 村木が「分かりました。そこまで迷惑ならやめます」と話すまで、院長は過酷な条件をくりかえした。拒絶以外の何ものでもない、ながい説明が終わったとき、村木は聞いた。 「分かりました。それで結構です。住宅だけは、用意していただくか、手当などを考えてはいただけないでしょうか」 「そんなものは、ありえない。それが嫌なら、やめなさい」と院長は即座に答えた。 「分かりました」と村木は覚悟した。 こうしたながい問答のあいだ、院長は着席の指示を一度もださなかった。 四月一日の八時に内科の医局にいく指令をうけ、まったく歓迎されないのを充分に知って院長室をあとにした。 冴子と二歳の息子、真一は、病院の駐車場に置かれた自家用車のなかで待っていた。院長との経緯をつたえて、住宅をみつけなければならないと話した。 駐車場から、でようとすると料金が必要だった。腹が立ったが、三〇〇円を払わねばならなかった。住宅手当だけは交渉したかったが、とても話しあう余地がないのは分かった。安い住居を、みつけねばならなかった。それから不動産屋に冴子とともにいって、いちばん安価な物件をさがした。どれも五、六万はして、入居は不可能だった。大学では、一三万のほかにアルバイトができ、月に手取りで二五万くらいだった。それが一三万となると、家には三万円くらいしかだせそうもなかった。いろいろあたると、京成電鉄が走る線路わきの物件が、ひどい騒音のために予算内で借りられることを発見した。実際にみてみるとそうとうにうるさかったが、慣れるに違いないと思った。教授と院長がせっかくいいといってくれたのだから、選択肢はほかになかった。冴子と、いままで貯めていた生命保険をやめて生活資金にしようと話しあい、線路のまえの家を住居に決めた。 村木は、内科の研修をうけられることになった。教授は院長と話しあい、週に一回、彼が大学で結石の破砕業務に従事するのも決められていた。 四月から、村木の内科研修がスタートした。もともとこの病院の内科は、専門が「内分泌」というホルモンの病気や膠原病、アレルギー疾患をあつかう分野だった。ほんらいの専門分野が非常にかぎられた領域で、消化器科も循環器科もおなじ非専門分野に該当していたので両者を分割できなかった。そのため彼は、どちらも同時に学ぶことができた。 村木は、週に一回大学に砕石にいき、博士論文の問題をかかえながら月に三回、一年生として当直をし、いわれるままに働いた。教わることはたくさんあったが、彼には糖尿病と高血圧くらいしか症例があたえられなかった。二ヵ月くらいは我慢したが、とてもこのふたつの病気だけでは満足ができなかった。そこで、医長に談判にいった。 「私は、内科学を教えていただきたくて、ここにきているのです。もっと、しっかりした病気をうけもたせてください。遊びにきているわけではありません」とつよく主張した。 村木の抗議に、部長の先生はびっくりした。 「いままで、たくさんの研修医をみてきた。しかし、仕事をくれといわれたのは、はじめてだ。君の症例は、よくえらぶことにしよう」と答えてくれた。 内科の部長は、非常に尊敬できる先生で、公平でみるべきところはしっかり把握する能力をもった上司だった。こう話してからは、もの凄い症例を村木にあたえてくれた。それこそ専門の内分泌疾患の、その後、生涯にわたって一度も診ることがない患者さんばかりだった。彼は、懸命に勉強しなければならなかった。こういう立派な上司がいる病院だから医局にもしっかりとした医師が多く、さまざまな形で手助けしてくれた。生涯で、一例しか診られない病気を多数うけもち、治療にたずさわることができた。 村木は、予想どおり内科がひろい分野をもつのを肌身で知り感激した。時間があれば、病棟で自分のうけもち以外のカルテも閲覧した。教科書にかいてある、さまざまの病気に実際に接することができた。 村木は、半年くらいたったとき、すこし余裕がでて周囲の医者たちをみまわした。医師たちを、自分とくらべられる状況になった。冷静に考えてみると、彼は、かなりいろいろなことができた。すくなくとも周囲の医者に決してみおとりしないと、自信をもちはじめた。 部長は、「急性心筋梗塞」の主治医にもしてくれた。ずいぶん頑張ったが、元気に病院を歩いてだすことはできなかった。ひどく落ちこんでいるのをみると、部長は「再挑戦してみますか」と聞いた。 「お願いします」と答えると、二日後の当直のときにその日に発症した心筋梗塞の患者さんがきて、主治医にしてくれた。 なんとか生きて帰したいと思って、幾晩も泊まりこんで可能なかぎりの治療を試みた。そうすると、鼻から気管に管を入れる「経鼻挿管」や、中心静脈栄養、動脈圧測定など、みんながひどく苦労している手技が自分にはすらすらとできる事実に気がついた。この再挑戦の患者さんは、ひとりで歩いて病院をでていってくれた。 ここではじめて、長年にわたって苦しめられてきた、学生時代に勉強せず、医学体系を理解していないというコンプレックスから解放された。 なんでもまともにできる村木に、部長は「なぜ、こんな契約で研修になったのか」と聞いた。 「ほかに手段が、ありませんでした」と彼は答えた。 一二月になって、部長は約束になかったボーナスをくれた。 一〇万円を封筒に入れてさしだし、「これしか、私にはできなかった」といった。村木は、金額はともかくすごく嬉しかった。 しかし、三ヵ月くらい暮らして一三万円ではとても生活ができなかった。泌尿器の医長に頼み、週に一回、アルバイトをさせてもらい三万円をもらった。 泌尿器科の仕事だったが、外科医がふたりだけの病院だったので村木がくるのにあわせて手術をくみ、麻酔を依頼された。とくにお金にはならなかったが、せっかくもっていた技術だったので時間の許すかぎりはつきあった。 内科も研修して自信をつけた村木は、いくつかのヒットを飛ばすことにも成功した。 カンファレンスをしていたときに、はこびこまれた急性呼吸不全の患者さんがいた。こうした急患を最初に診るのは、研修医の仕事だった。村木が救急室にいくと、ミーティング中だったので多くの内科医があつまってきた。 はこばれてきた患者さんは、意識がなかった。努力性の呼吸も、いつとまっても不思議でない状態だった。診察した村木は、挿管の必要性と、呼吸音から右肺に占拠性の病変(癌など)があるだろうと報告した。 そばにいた内科の次長が、処置を彼に一任した。 村木は、多くの医師がとりまいていたので、みんなができない経鼻から挿管してみようかと思った。しかし肺に病変があるなら、なんらかの処置が必要となる。いい機会なのに残念だと思いながら、経口的に挿管した。呼吸が安定したので、レントゲンを撮影してみると、左肺に気胸、右肺に占拠性病変の可能性をみとめた。 まずは、生命的に問題になっている呼吸状態を改善しなければならなかった。具体的には、左肺の気胸にたいして減圧のために管(ドレーン)を挿入する必要が生じた。先輩たちは、どうやってその先端をいちばん有効にドレナージできる肺尖部に留置するかと相談をはじめた。 村木は、この施設で幾度も気胸に遭遇した。先輩たちがドレーンを挿入した写真をくりかえしみたが、どれも不充分だった。この施設には呼吸器内科の医師も研修にきていたが、若手だったので充分な処置ができなかった。彼は、教わる立場だったので自分の技術をあえて紹介することはなかった。 このばあいは、まず村木が処置した患者さんだった。さらに内科の先輩たちは、手技について問題を感じ、相談していた。 村木は、「呼吸器外科では、ドレーンをもっと美しく留置していました」と話した。 内科の次長は、彼に「やってみろ」といった。 村木は、挿入したい肋間のひとつ下から皮膚ろうを作成し、胸腔ドレーンを差しこんだ。 こうすると、管は一肋間分の皮膚で押さえつけられるために緊張が生じ、肺尖部にむかざるをえないのだった。外科研修のとき、呼吸器外科の先生に教えてもらった技術だった。 村木は、おおぜいの内科医と看護師に幾重にもとりまかれるなかで、胸腔ドレーン留置術を美しく施行した。あっという間に処置が終わると、みていた看護師たちは歓声をあげ、拍手をしてくれた。 レントゲンを撮影すると、ドレーンの先端は理想的な場所に留置されていた。 それをみると、内科次長は素晴らしいと絶賛してくれた。内科の医師たちが、手技について説明をもとめてきた。村木が丁寧に教えると、みんなが納得した。 また呼吸状態が安定してから精査すると、右肺には進行した癌病変がみとめられた。気胸は、この癌により左肺野への圧力が高まって生じたものと考えられた。 村木の父親は、食道癌に罹患し、大学病院で外科手術をうけた。完璧な手術といわれたが、断端が陽性で癌はのこり、輸血をしたためC型の肝炎になった。その後に縫合不全が生じ、入院をくりかえした。ゴルフが好きで、もう一度、プレーしたいという一点で頑張り、いけるまでに回復した。しかし内科の研修中に再発し、彼の患者さんになった。 冴子は、義父をよく看病してくれた。 薄給の身であるのを知っていた病棟の看護師長は、村木を自室によんでいった。 「借金をしてでも、特別室に入れなさい。そうすれば、私たちも特別なお世話ができるのですから」 村木は、師長の言葉にしたがった。 どの看護師さんも、これ以上は考えられないと思えるほど親切にしてくれた。 父親は、食欲がまったくなく大静脈から栄養補給を施行していたが、病院食をつけることができた。 冴子は、午前中から息子をつれて義父が入院する個室にいった。看護師が配膳する特別食のご馳走を食べて、子供と外で遊んでから部屋で昼寝した。そして、「帰るのは、水戸黄門をみてからにしたら」という義父の誘いにのった。夕食の特別食は、冴子のもち帰りになった。どんな副菜だったのか、翌日の弁当で村木に知らせた。 父親は、全身転移があり、現実的にはモルヒネしか処置はなかったので最後は自宅で看取った。あまりに痛がるので、村木は病院から硬膜外のセットをもらってきて、家で背骨の硬膜に管を挿入した。一週間くらいすると感染が問題となるので抜去しなければならず、おなじ場所にさまざまな角度からチューブを留置した。京成電鉄の電車が早朝から深夜まで通るので、病人にはつらかっただろうが、あたらしい硬膜外チューブに交換して薬剤を注入した晩、「すごくいい。これがほんとうだ」と父はいった。 翌日、村木が起きると、父親はソファーにすわって息絶えていた。床に、ジュースの缶がころがっていた。気持ちよく目覚めた父親が久しぶりに起き、冷蔵庫から冷たい果汁をとりだし、ソファーにすわって飲もうとして絶命したのだと理解できた。 大嫌いだった父は、そのころには大切な人にかわっていた。村木は、さまざまな医療行為をさせてもらったので父親の夢をみることはなかった。医師国家試験に落ちる夢路は、あきれるほどくりかえしあらわれたが、父は一度もでてこなかった。 村木の父親が死んだのは、暑い時候だった。 木枯らしが吹きはじめたころだった。村木は、内科次長から院長室をたずねるよう指示をうけた。いわれた時刻に秘書に案内されて部屋に入ると、応接のソファーに院長と内科部長がすわっていた。彼は、むかいの席に腰をおろすように指示された。 ふたりは、ひどく深刻な表情で村木をみつめた。秘書がお茶を置いてでていくと、院長は一週間まえに泌尿器科で起こった医療事故について話をした。 「教授に相談したら、君から説明をうけるように指示されたのだが」といった。 一週間ほどまえに、泌尿器科で経皮的な腎結石破砕術(PNL)を施行した患者さんが生死の狭間をさ迷っていた。村木は、ICUでべつな患者を治療していたときに、この非常に具合の悪い事例が発生したのを知った。 泌尿器科は、治療対象の臓器、器官として、腎臓、尿管、膀胱をうけもっていた。これらの部位は、男女のどちらにとってもきわめて重要だったが、科の特徴として性差がみとめられた。 女性は、体のつくりから細菌性の膀胱炎にかかりやすかった。この疾患の原因菌はほとんどが大腸菌で、男性にくらべて尿道がみじかいことに起因していた。代表的なものは、新婚旅行中に生じる「ハネムーン・シスタイシス」だった。尿がちかくなり、血尿とともに激しい疼痛が出現する。花嫁は、なによりもおおきな精神的なショックをうけ、花婿が特別な病気をもっていたのではないかと疑い、不和に発展するばあいも起こる。 男性は、泌尿器科に人生で三回かかるといわれていた。幼年期に包茎、壮年期に結石、老年期に前立腺肥大症に罹患する。一〇〇歳まで生きれば、ほぼ全員が前立腺癌にかかる。 村木が専門とした結石症は、代謝がさかんな壮年男子の疾病と考えられていた。彼は、超音波エコーを使用し、皮膚から腎臓にむかって穴をあけ、管を通し、内視鏡をつかって結石をとりだしていた。この手技PNLは、一九七〇年代にアメリカで開発された。その後、欧州各国で改良がくわえられ、日本では一九八〇年代以降、大学病院を中心として研究された。村木がとりくんだころは、あきらかに高度先進医療だった。術式が完成されていなかったので、あらゆる部分が不明な領域で、正確に知る者がだれもいないパイオニア的な仕事だった。彼は、五年先輩の上司とともにこの分野にとりくみ、大学病院で放置されていた五〇〇例ほどの結石を破砕、除去した。 体外から行う内視鏡手術で、全国各地の病院で多数の死者がでたことは、記憶にあたらしい。現在は、かなり技術が進歩し、経験が蓄積され、なにをすると具合が悪いのか分かっている。それでも未熟な者が行えば、事故は避けがたい。 許される医療事故はないが、高齢者で癌などの悪性疾患のばあいは家族にもそれなりの覚悟がある。また手術の危険度についても、充分な説明をして了解をうることも可能だろう。 結石症は、壮年男子の疾病だった。もともと良性疾患で、事故で生命的な問題に発展することは家族も考えていない。もし術前に「死ぬかも知れない」と話せば、合意がえられる病気ではない。患者、家族が、旧来の外科的手術を希望するのは間違いないだろう。 村木は、PNLによって多数の結石を治療した。未踏の領域だったので、あらゆる合併症を経験することになった。考えられない出来事が、現実に起こった。しかし、幸いにも生死が問題になった事例はなかった。後年、いっしょに砕石業務を担当した上司と会う機会があったが、さまざまな事件を思いだし「なによりも、人が死ななくてよかった」としみじみと話しあった。 ここの総合病院の泌尿器科は、二名の常勤医と一名の非常勤医師で構成されていた。医長は、村木の四年先輩だったがPNLを幾例も経験していなかった。結局、この方は亡くなったが一家の大黒柱だった。院長は、事故をどうあつかっていいのか分からず、医師を派遣している泌尿器科教授に説明をもとめた。 教授は、この手技について泌尿器科教室のなかで村木がいちばん理解している。不明な点は、直接、彼から説明をうけて欲しいと答えた。 それで、村木がよばれた。 「この手技で、こんなことは起こるのか」と院長は聞いた。 「普通は、ありえません」と村木は答えた。 五〇〇例ちかく砕石し、たくさんの合併症を経験したが、死亡した例はもっていない。特別な出来事が起こったのは、疑いの余地がない。現在の病態を名づけるなら、急性呼吸切迫症候群(ARDS)としかいえないだろう。こうした事態が生じることを、事前に予期するのは困難だと思う。しかし、なぜ起こったのかについては考えるべきだろう。技術の未熟さがなければ、こんな事故は生じなかっただろう。これ以上は分からないと、彼は答えた。 「どの部分を、未熟だというのですか」と内科部長が聞いた。 「手技に時間がかかりすぎています。手術は、実際にやってみないと分からない部分があります。この例の標準的な所要時間は、熟達した者が行えば三〇分くらいです。ですからやってみて、それ以上に時間がかかりそうなら、腎瘻を造設する(皮膚と腎臓のあいだに穴をつくり管だけ通しておく)だけにとどめ、砕石は日を改めることも考えるべきでしょう。今回のばあい、術者は全身麻酔をかけています。この手技は、硬膜外麻酔で充分できるのです。つまり、術者にこうした判断がなかったことを意味していると思います」と村木は答えた。 「この手技は、一般的なものなのかね」 しばらくして院長が聞いた。 「まだ、完全には確立していないと思います。しかし簡単な症例をえらべば、泌尿器科医なら充分できるでしょう。ですから、ながびいたばあいはやめなければなりません。体外からちいさな穴をあけることで可能な内視鏡手術は、これからもどんどん行われるでしょうが、充分に怖さを知っている者が施行するべきです。日頃からこうした症例をあつかっている私たち結石班は、この手技のむずかしさをもっと啓発するべきでした。非常に困難な合併症を多数経験しながら、教室内で共通の認識をえられなかったことを反省しています」 村木は、考えながら答えた。 また、しばらくたって内科部長がいった。 「君は、自分の専門分野で、先達がいなくてずいぶん怖い思いをしてきたわけですね。だから内科にきて、専門的な学問を熟達した者からしっかり習いたいと考えたのですね」 「そうです」と彼は答えた。 村木は、院長が総合病院長として事故にどうむきあったのか、詳細は知らなかった。示談が行われ、病院が謝罪したのではないかと思った。 彼は、この医療事故が訴訟になったとは聞いていなかった。 四、離島医療 村木は、父親も死んだので完全に自由の身となった。ながいあいだの念願だった「自分ひとりでの医療」、さらに哲学的にいえば「医師とは、なにか」という疑問をはっきりさせたかった。 「ラゴスは嫌だ」と冴子がいい、ちいさな子供もいたので日本で過疎地にいきたいと考えた。がんらい北海道には縁があったので、道の僻地医療をあつかう財団に聞くと、離島で募集しているのを知った。それで、日本最北の島で診療したいと考えた。 内科研修をうけた病院では、院長が村木をよんで親切に話をしてくれた。 「もう一年、研修をつづけて内科認定医をとったらどうだ。そのために、病院としては最大限に協力する用意がある。もちろん正規の職員として採用するし、住宅もやる。ボーナスも、二年目として支給する。泌尿器の教室に週一度いく業務があるのなら、教授と話しあい許可してやる。博士論文のために時間が必要ならば、話してくれれば考慮する。離島にいっても、君の実績にはまったくならないから真剣に考えたほうがいい」 院長は、くりかえしアドバイスしてくれた。院長室にわざわざ二度もよんでソファーにすわらせ、膝をまじえて親身になって話をした。 しかし、村木は内科研修の意味あいがすでに哲学的な命題にかわっていたので、この機会を逃したらもう二度といけないだろうと考えた。国内ということで、冴子の了解もとれた。ところが、義父が「ひとりでいけ。離婚しろ」とさわぎだした。 冴子の父親は、内科の開業医だった。村木がさまざまな診療科を研修することを、まったく理解してくれなかった。あまりに口だしするので、こまり果てた彼は、泌尿器科の教授に相談にいき、一連の事情を説明した。すると、 「それで、おまえの奥さんはどっちについたのか」と聞かれた。 「いっしょにいくといっています」と村木が答えると、 「それじゃ、気にするな。大丈夫だから好きにやれ」とプロフェッサーはつげた。 教授は、なにかにつけて相談し、いつでも話にのってくれたので村木にとって大恩のある先生になっていた。 この離島診療について意見をうかがったとき、「大学にのこる奴は、なによりもまず、おれのいうことを聞かねばならない。おまえは、組織のなかでは偉くなれない」と教授は話した。 医学部は、臨床だけでなく学問を追求する場でもあった。大学にのこる者は、だれでも研究者になりたい希望をもっていた。村木も、例外ではなかった。人生が何度もできれば、あるいは学生時代に悔いなく勉強していれば、大学病院で研究する道も考えただろう。 希望が地域医療だと知った教授が、そう話しながら許可してくれたのは、村木が博士論文のために懸命にデータを収集していることや、あたえられた腎結石の破砕という仕事をよく果たしたのをみとめたからだろう。内科にいかせて紹介した院長から評価され、仲介者としての顔も立ったに違いなかった。自分の駒にまったくならない彼にたいして、実績をみとめて自らを納得させたのだろう。 こうした恩義を感じる教授だったが、村木はもうひとつ思い出をもっていた。 医局会で、泌尿器科の医員が一堂に会したときだった。教授は、村木に病棟でなにかをしてこいといった。それがなんだったのかは、忘れてしまった。そんなに面倒な仕事ではなかったが、必要がないことだった。村木は、発言の意味がまったく理解できなかった。それで知らん顔をしていると、教授は幾度もくりかえした。 「おまえは、席をはずせ」みたいな感じだったが、理由が分からないので黙ってすわっていた。すると医局長が、「村木。教授のいう通りにしたほうがいいぞ」と口をだした。これもよく意味が分からないので、黙ってすわっていた。 会には、三〇人以上が臨席していた。教授は、一度いいだすと執拗なところがあり、ごちゃごちゃと村木にむかってでていけとくりかえした。あまりにしつこいので、彼は立ちあがって「うるさい。馬鹿野郎。なんて、しつこいんだ」と思わずいって席を立って部屋をでた。 とうぜんだが、一同は静まりかえった。事情はよく覚えていないが、村木はどう考えても必要がない指示をうけたのだった。病棟で患者さんたちをみていると、会合が終わって医局員がもどってきた。 しばらくすると助教授が村木のそばにきて、 「話がある。終わったらついてこい」とぼそっといった。 助教授は、うるさい方ではなかった。村木としては、先ほどの態度を咎められるに違いないと思った。しかし、すでにすんでしまったことだったので仕方がなく、いわれるままについていった。 助教授につれられていったのは、大学がある街の界隈では最高級のクラブだった。すわると、すぐに綺麗な女性たちにとりかこまれた。 村木が奇妙に思っていると、助教授が真顔になっていった。 「よく、いってくれた。立場上、どうしてもおれにはいえないことなんだ。教授は、ほんとうにしつこいんだ。おまえは、おれにばかしうるさいと思っていた。教授にも、ちゃんといえるのだな。今日ほど胸のつかえがとれて、すっきりとした日はいままで一回もなかった。ありがとう」 助教授は、瞳をみつめ、両手で村木の手を握りしめ、ひどく感激してくれた。 教室では、教授がいちばん偉かった。つぎは助教授だと、世間は考えるだろう。しかし実態は、二番目に偉いのはやはりプロフェッサーだった。その下もおなじで、ずっと九番まで教授がつづき、一〇番目にやっと彼がいた。助教授は、人事権をすべて握られ、完全な采配下にあった。気に入らないことをすれば、いつでもどこかに追いやられる役職だった。だから助教授は、なにをいわれても我慢する身分だった。 教授から義父への対処法を教わったので、村木は「そうしたものなのか」と考えた。冴子の父親の話は、まったく無視することにした。そうすると母親もくわわって、さらに騒々しく叫んでいた。それでも黙殺を決めこんで、二月ごろに世話になった内科をやめさせてもらい、冴子と子供といっしょに道庁にいって辞令をもらい、北限の離島に赴任した。 稚内には、そのときはじめて泊まった。晴れた日で、風もない夜空には黄色い満月が浮かんでいた。戸外はしんしんと冷えていたが、階段が張りめぐらされた由緒ある宿屋は暖かかった。老舗旅館の入り口につくられた広間には、壊れて、ときを刻まなくなった大時計が置かれていた。この街は、一八五六年に松浦武四郎がサハリン探検に出帆していらい交通の要衝として大いに発展を遂げた。戦前には、高さ一四メートル、ながさ四二七メートルの北防波堤ドームがつくられ、ギリシア建築を模した七〇本の美しい列柱群がのこされていた。その輝かしい時代にときを刻んだはずの大時計は、過去の記憶を大切にまもりながら眠っているようにみえた。夕食には、香ばしいカニ鍋が部屋まではこばれてきた。日本最果ての地で味わう鍋は、古めかしい家屋の匂いと混じりあい、レトロな時間がながれる雰囲気をかかえていたが、怖いことはなにもなかった。 翌日、稚内から八人のりの軽飛行機で島の空港にむかった。客席とコックピットのあいだは一枚のベニヤ板で仕切られ、一部には穴があいていた。海面をみると、ちいさな飛行機の影が映っていた。遠くにきたという感慨に浸れる小型機は、海面すれすれに飛んでいるらしく、のったもの以外には説明不能な迫力があった。 空港につくと、村木は、軽飛行機を背景に、子供と冴子と代わる代わるに入れ替わって、さまざまな写真をとった。 しばらくすると人がやってきて、「医師の村木さんですか」と聞いた。「そうだ」と答えると、「村の議員さんたちが、歓迎のために空港の出口でずっと待っています。そろそろ、きてはもらえないでしょうか」といった。 うながされてすすむと、空港の出口に二列になって議員の方々がならんでいた。村木は、丁寧にお辞儀して挨拶をした。むかえにきていた車にのって、島の南にある診療所についた。翌日、村木は正装して町役場におもむき、町長から正式に辞令をもらった。ひどく感激し、最良の医療をしようと心にちかった。 村木は、二年間とすこしこの離島で診療した。いい思い出になって、なつかしい出来事は数多くあった。なによりもまず、懸命に仕事をしたことだけは間違いがなかった。そのころには、彼はさまざまな疾患に対応できる、かなり万能的な医者になっていた。 貧しい漁村では、高血圧と整形疾患が多かった。高血圧症は病気として認識されておらず、いくら説明しても「薬ではなく、気あいでなおす」と頑強に主張する漁師が多数いた。いっぽう整形疾患は、どうしても痛いので治療の対象だった。 このちいさな島で医療をするとは、整形疾患をみることだった。本屋がないのは確実だったので、村木は事前に大量の本を購入して輸送していた。なかには整形外科の教科書もたくさんあり、今度はこれを中心に勉強することになった。 こうしてどんな病気にも対応するのが島民に知れてくると、膝関節に水を溜めた患者さんがきて「針を刺し、液をぬいて、薬物を注入して欲しい」と依頼された。体内のどの部分にも、かなりいろいろなものを入れてきた。しかし、それまで膝関節に針を刺したことはなかった。躊躇していると、患者さんは手技を教えてくれた。 「一日、待って欲しい」と村木は猶予を願いでた。 「今日中に本を読んで勉強するから、明日またきてもらいたい」というと、患者さんは帰っていった。 さすがに教科書にはなんでもかいてあり、この手技についても詳述されていた。村木は読んでよく理解し、つぎの日にやってきた患者さんに望みどおりの医療をほどこした。 「あんたは、筋がいい」と喜んでくれた。 「仲間に、先生がこうした手技もするのを話しておく。また、やってくれ」といった。 その後、村木は、膝関節疾患をくりかえし診療することになった。設備されたレントゲン装置は旧式だったが、操作法を学び、写真をとって診断する事態が生じた。さらに患者さんの要望に応えて肩関節にも範囲をひろげ、しだいに病院は繁盛しはじめた。 道の予算では、血液検査やレントゲン検査のフィルム代などの費用は、「役務費」というトイレの汲みとり費用と同一項目をつくっていた。 予算額はまえの年度に決済され、他項と融通したり、立て替えたりすることは基本的にできない。どういう事態が起こっても、汲みとり費用が前年の一〇倍以上になるのは役所の想定外だった。検査をしたくても、経費が計上されていない。病院としては収益があがると説明しても、「予算がない」としかいわれなかった。薬剤についてもおなじで、前年の実績にもとづいて決済され、薬をだすのにも制限があった。 いままで、なにもしてこなかった診療所だった。各項目の費用がない前年どおりに予算がつくられ、容易に仕事ができなかった。陳情をくりかえしても、役所のやることなので思い通りにはいかなかった。 当時、全道にこうした診療所が一〇施設くらいあり、どこも赤字だった。北海道庁としてはつぶしたいが、医療は地域の選挙も左右する重大事だった。簡単には廃止できないジレンマに、地域医療課は悩んでいた。結局一年のつもりが二年以上になったのは、一年目はやれる仕事が限定されたせいにもよった。 一生懸命にやっていると道庁の担当者も配慮をはじめ、卸が薬剤費をその年の請求としてはあげずに、帳簿上で翌年度に繰りこすなどの「裏技」を駆使して費用を捻出してくれた。担当の者も、診療所がはやってあきらかに売りあげが増してくると、すこしずつ相談に応じはじめた。 「宝くじに、あたった感じなのです」と担当者はいってくれた。 その後の話によれば、ちょうど村木とおなじ時期、知床道立診療所に自治医科大学出身の医師が赴任した。道としては、継続医療がえられるとおおきな期待をしたらしい。それで、村木よりも知床の診療所の要求を優先させたというのだった。 しかし自治医科大の医師は、給与が安いと文句をつけだし道ともめ、さらに時間外診療をめぐって町民とも騒動を起こし、道の担当者が仲介に入らねばならなかった。 離島医療ともなれば、そうとうのお金がもらえると考える者は多いに違いない。しかし実態は、道知事以上に高給のはずがなかった。本給は三〇万くらいで、そこに毎日、時間外手当がつき、当直手当と休日手当が加算され、さらに僻地手当と特別の離島手当が上乗せされ、額面で月に一五〇万くらいだった。ボーナスはほとんどなかったが、村木には驚くほどの金額だった。彼は、お金を稼ぎにきたのではなかった。正当な報酬をもらえて嬉しかったし、それに応じた医療を提供しようと考えただけだった。 島には、庁舎のちかくに博物館があった。入り口には、著名な性的二型を示す海馬の雌雄の剥製が置かれていた。 村木は、この漁網をやぶる害獣に興味をもった。駆除の対象となる海馬は、シャチ、サメにつぐ最高位の捕食者だった。診療所につとめる看護師に話すと、夫の漁師を通じて「海馬撃ち」の船にのせてもらえる約束がとれた。 村木が早春の日、夜あけに指定された場所にいくと、思った以上におおきな船舶が係留されていた。猟師がふたりいて、片方は操舵をうけもち、もうひとりがライフルをもった海馬撃ちだった。挨拶して乗船させてもらった。海馬撃ちは船の先端部のマストを指さし、「これをかかえて、しがみついていろ」といった。村木は、防寒具を着、さらに雨合羽をかさね着していた。つよくはなかったが風もあり、まだ暗い夜明まえの大気はひどく冷たかった。間違って落ちたら「ただではすまない」日本最北限の日本海は、氷にもみえる透明にちかいすみ切った藍色だった。 日本最北端は、宗谷岬だった。この島の北には、ちいさな離れ小島が浮かんでいた。かりに橋をつくって陸つづきにしても、最北端にはおよばなかった。こうした事実を残念に思う島の人びとは、この地を日本最北限とよんでいたのだった。 ふたりの猟師は、きわめて無愛想で歓迎されていないのは雰囲気で分かった。船に弱い村木は、船酔いの心配もあったが、指示にしたがいマストにしがみついた。おおきいとはいっても、船舶はうごきだすと激しく揺れ、彼は必死で帆柱にかじりついた。 ライフルをもった猟師は、海馬をみつけると、操舵する者に、右だ、左だと指示をだした。お金の問題なのか、なるだけ銃弾を撃たないで脅かし、浅瀬に誘導した。そして、逃げ場をうしなった海馬を射殺した。猟師は、海中に落ちていく獲物を先端部に刃のついた道具で引きあげた。縄でしばってブイをつけて海にしずめ、つぎの海馬をねらった。こうしてパップとよばれる一歳未満の幼獣二頭と、雌の成獣一頭を駆除した。三頭を獲るといい時間になったので、ブイが浮かぶ場所にいった。獲物をつないだロープを船尾につけたまま船着き場にもどり、射殺した海馬を甲板に引きあげた。かなり大型の動物で、幼獣とはいっても二メートルちかくあった。 海馬を追いかけると、船は激しく揺れた。その凄まじさは、村木が酔うのも忘れるほどだった。マストをはなしたら、「死ぬ」とだけ思い、両手両脚でしがみついていた。撃たれた海馬の血が、すき通る藍色の大海を真っ赤に染めながらひろがるさまは壮観だった。冷たい氷が、巨大な哺乳類の体から吹きでる暖かな紅い血潮でとけていった。赤い蓮華の花が、凍る藍色の海のなかで「パッ」と音を立ててひらいた感じだった。 船着き場にもどると、猟師はすぐに幼獣を解体し、肉の一部をビニールの袋に入れて村木にあたえた。 「おまえは、いい奴だ」と彼はいった。 「仕事をみようなんて思う観客がのると、まず海馬は獲れないものだ。それが三頭も撃てたのだから、またその気になったらのせてやる。あんたは、おれたちにとっても縁起がいい」と表情を緩めていった。 そんなものなのだろうと、村木は思った。猟師は、板子一枚をはさんだ地獄のうえで仕事をするから、どうしても「験をかつぐ」のだろう。肉をもらって家まで車を運転して帰ったのだろうが、なにも覚えていなかった。住居にもどると猛烈な疲れがどっと押し寄せ、彼は夕方までこんこんと眠りについた。 そもそも海馬は、絶滅危惧種だった。アメリカでもロシアでも、禁猟になっている。昭和の初期には、青森や東北の日本海がわまで回遊した海馬が「害獣」化し、しかけた網をねらうのは命がけの行為だった。この原因は、漁の強度が増し、海馬たちの食い分を漁師が獲っているからだった。とくに底曳きのトロール船は、緩衝になる魚を根こそぎにさらってしまう。漁網の目をこまかくし、かつては海馬にのこされていた食料まで人が獲っていく。激しい強度の漁により漁獲量がへり、島の漁協で黒字の漁師はひとりもいなかった。こうした矛盾は、彼につよい創作意欲をいだかせた。 村木は、整形外科を中心にあらゆる疾患を診療することになった。医療とは、「自分は何科だ」と宣言し、目のまえにある病気を専門外として「診ない」ではすまされない。科に関わりなく、具合が悪いという患者さんの話をなんとか聞きだして対処するのが医療行為だった。それに対応しなければ、医師としては資質に欠け、勉強不足というべきだろうと彼は思った。 中耳炎と診断できれば、教科書にある通り鼓膜を切開しなくてはならない。隣家の靴屋さんは、漁船につむエンジンを修理する鉄工所だった。仕事中に生じる眼内異物の処理や眼球にちいさな鉄片が刺されば、村木は教科書を読んで考えた。現場の人が話す処置の方法を参考にし、できるかぎりの対応を試みることになった。 海でかこまれ、行き場をうしなった島で診療すると、村木が診た患者さんはほかに逃れる術もなく診療所にもどってくる。つまり、自分がほどこした医療の結果を完全に把握することができた。 都会では、具合が悪ければ患者さんはその医者をあきらめ、どこかに転院する。だから、自分の施術の結果を充分に認識できない。もちろん離島とはいっても、稚内にわたる手段はのこされていた。道立の診療所は南北にほそながい島の南にあり、北端の村には有床の施設がつくられていた。患者さんは、すくないながらも選択の余地をもっていたが、ありがたいことに、具合が悪い事態が生じても村木に状況を報告してくれた。 これは、ある種の「信頼関係」が医師と住民とのあいだに構築されたのを意味していた。そうなると、村木の医療が適切だったかどうかを教えてくれるのは患者さんという関係ができた。不満足な結果なら、書籍を読みなおし、考えさせてもらえる状況がうまれた。 教科書は、すべてがかいてあるとはいえ、なんにでもかぎりがある。患者さんはひとりずつ違うから、極論すれば各人がべつの疾患をかかえている。これは内科的な論理で、外科では内科が診断できるほどたくさんの手術法がない。だから、ある程度の疾患群はまとめて考えざるをえない。このへんの疾患分類の違いが「診療科」によって異なるのは、どこまで対応可能かという各分野の性格による。 信頼関係が樹立されれば、病気を教授するのは患者さんで、教わるのは医師という、大学病院で偉そうに診療していても絶対に理解できない「医学の根幹」が村木に分かりはじめた。大切にさえすれば、患者さんたちこそが先生で、自分の足りない部分を教えてくれる。だからどんな片田舎で診療しても、村木がさらに有能な医者になることは可能だった。極論するなら、医師とは生徒であり、教師である患者さんの言葉を真摯にうけとめねばならなかった。 この事実に気がついて、懸案だった哲学的な命題「医者とは、なにか」という答えが、朧気ながら村木に分かりはじめた。患者さんから教えてもらえるだけの信頼をえるには、自分の専門的な技術を誇っても仕方がなかった。増してや、おべんちゃらをいっても話にならない。病気をもった病人と真摯にむきあい、はじめてえられるものだろう。漁村、農村、都会を問わない「真理」に違いないと彼は思った。 島の北部の村には、島出身の外科医がいた。いうなれば、この離島のスターだった。そこには有床の施設がつくられ、手術も施行していた。 外科研修もすませ麻酔科標榜医だった村木は、要請をうけて麻酔をかけ、助手をした。彼は道職員だったので、こうした他施設にいく行為は個別事案ごとに道の決済をえなければならなかった。とくに報酬をもらったわけではないが、規定では副業に準じるものと考えられた。 北海道地域医療課の担当者は、派遣した医師にたいして苦情ばかし聞かねばならない役職だった。村木が、そうした形で地域社会から評価され、道の環境部長から決済をうける事態をとても喜んでくれた。 貧しい漁村の診療では、考えさせられる出来事が多々あった。 最高級品になる「香深産、利尻昆布」漁は、旗があがる夏の凪いだ晴天の日に行われる。引きあげた昆布は、できるかぎりはやく天日にさらさねばならない。学校は休みになり、働ける者、全員が動員される。 こういう日には、数人のお年寄りが非常に憂鬱な表情で診療所をおとずれる。 「去年までは、私もいったのに」と愚痴を聞かされる。 医師としては、慰め、本質的にはなんの役にも立たないが、点滴でもやって来訪者が病人であるのをあきらかにしてあげねばならなかった。こうした日にくるのは、ほとんどが女性だった。男性のばあいは、具合が悪くてもなんらかの仕事があったらしい。 こうしてみ知った女性のひとりが、冬になって不慮の死を遂げた。冬場は、つよい風が島全体を吹きぬけていた。雪がつもらないほどで、海は時化ることが多かった。沿岸部では、一部に消波ブロックが置かれていた。冬場にちかづく理由もないので、こうした場所で女性が波にさらわれるのは本人の意志以外には考えられなかった。 村木は、住民から報告をうけて現場に出向くと状況をみて憂鬱になった。死亡診断書は、事件性がないと分かっても病死とはかけない。不慮の死にそうとうし、宗谷支庁に報告しなければならなかった。葬儀もだせず、支庁から派遣される司法警察官の検死を待たねばならなかった。幾人もいない特別な職員だから、いつくるのかも分からない。さらに、冬期だから船は欠航する。 幾日もたってやってくると、村木がいくら状況を説明しても、警察官も仕事だから曖昧にはできなかった。何日もまえに死んだ遺体を診療所まではこびこみ、検死をし、脳内出血の有無について、後頭下穿刺を行わねばならなかった。村木は麻酔医だったので腰椎穿刺は、体位がとれなくても施行できた。しかし後頭下穿刺ともなると、生きている人に行う手技ではないから、やり方を聞いても容易ではなかった。どうしても採取できず、腰椎穿刺にかえさせてもらった。それで、ようやく診断書がかけて葬儀を行うことができた。 島から稚内に出向くのは、決して容易ではなかった。稚内発のフェリーが一日に一往復あったが、日帰りの一便だった。だから、稚内には夕方につく船でいかねばならなかった。半日ですむ用事であっても、二泊して早朝の便で島に帰るしかなかった。これは町民の利便から考えれば容認できないことで、町長がくりかえしフェリー会社と宗谷支庁に陳情してもかわらない現実だった。 さらに、冬期は時化でフェリーがこなくなるばあいがあった。三日欠航すると、新聞は午前中に四日分がまとめて配達された。野菜やパンなども、店頭からなくなった。こうした事態が起こるのは、だれのせいでもなかったから、島の人びとはあきらめがよかった。村木も、とくに不便だとは思わなかった。 島というのは、独特の雰囲気をもっていた。容易には納得できないことで、うまく説明するのはむずかしいが、一例をあげてみる。 村木夫妻にあてがわれた宿舎は診療所の二階で、とうぜん一階とは階段でつながっていた。島は平坦な場所が極端にすくなく、どこも傾斜だらけだった。診療所のわきにも上り坂になった小径があって、住居部分のドアがつくられていた。 冴子は、虫に刺される女性だった。理由は分からない。たくさんの人がなんでもない場所でも、彼女だけには蚊がよってきて刺されてしまう。ひとりで外出すると驟雨に巡りあってずぶ濡れになったりする、ひどく運が悪い女性だった。 住居は、村木夫妻と子供の三人が暮らすには充分なひろさがあった。ただ網戸が整備されていなかった。道の地域医療課に連絡すると、予算が底をつき手立てがないといわれた。村木は冴子と話しあい、生活必需品の網戸を自前でつけることにした。 島には、いくつかデパートとよばれる店があった。この呼称は、規模のおおきさではなかった。生鮮食品から家電までなんでも売っているが、不足した品を取りよせる意志はなかった。店主の気分によって、あつかっていた商品がとつぜんなくなるばあいもあった。品揃えの一貫性を放棄したコンビニと考えるべき商店だった。診療所の斜向かいが、こうしたデパートだった。 村木が網戸について相談すると、店主は取りあつかっているいった。主人は、彼と同い年くらいで、真一と同級になる息子を保育園に通わせていた。注文すると、ひと月くらいたった平日の午前中、店主は網戸をかかえてやってきた。窓枠に嵌めようとしたが乱暴にあつかったので、戸がゆがんで隙間ができてしまった。幾度か試みたが、網戸を変形させたために、どうしてもうまくいかなかった。 「これで我慢してくれ」 店主は、冴子にいった。 彼女は、とうてい納得がいかなかった。きちんとしてもらいたいとくりかえすと、彼は憮然とした表情でかえっていった。 それから、またひと月くらいたって店主があたらしい網戸をもってやってきた。今度は丁寧にあつかったので、うまくおさまった。 「どうです。文句は、ないですね」と店主はいった。 「これは、いいわね」と冴子は答えた。店主が帰ってから、茶封筒に入った請求書をあけてみると、二枚分の網戸が請求されていた。冴子は納得がいかずに、電話して一枚分しか払えないといった。 店主は、現実に二枚が必要だったのだから仕方がない。このばあい、請求は二枚分になると主張した。 冴子は、村木とも相談した。ふたりの常識では、一枚分の網戸を入れ替えただけだから、二枚分を支払う義務はみあたらなかった。こんな話を聞いたことはなかった。もともと店主が乱暴にあつかったせいで、枠がゆがんだのだった。つかえなくなった分は、あきらかに店がわの問題だった。 村木は、店まで請求書をもっていって、自分たちの考えを話した。 「しかし、必要だったのは、二枚です」と男は答えた。 「それは、ご主人がひとつを壊したからですよね」と村木は念を入れた。 「そんなつもりはなかったのです。壊れたのです。うまく入らなかったのです。それは、私のせいではないです」 「それでは、だれの責任なのですか」 「あえていえば、診療所の窓枠が悪いのです」 「かりに、一枚目の網戸の強度に問題があったなら、それは、取りあつかった稚内の業者に請求するべきではないのですか」 「あなたは、島の事情を知らないのです。このばあい、二枚の請求になるのです」 村木がいくら論理だって話しても、店主は自分の考えを主張した。幾度か押し問答をくりかえしたが、いっこうに埒があかなかった。村木はどうしても納得できず、一枚分の料金を支払い領収書が欲しいといった。主人は考えていたが、あとでもっていくと憮然とした表情で答えた。 それから三日くらいして、二階の扉のベルが鳴った。冴子がドアをひらくと、真一を同級生になる店主の子供が立っていた。 「どうしたの。真一は、まだ帰ってきていないわよ」 ぼうっと立つ男の子に冴子は声をかけた。 「これ。わたすようにいわれた」 子供は、茶封筒をさしだした。 「偉いわね。おつかいをしたのね」 冴子が声をかけると、子供は足早に坂をくだっていった。封書のなかには、網戸の請求書が入っていた。今度は一枚分だったが、領収書はなかった。 村木と冴子は、この書類を見ながら話しあった。どうやら二枚分を支払わないと、領収書はよこさないらしかった。つまり、踏み倒したということにされるのだろうか。店主からすれば、網戸をつけようと試みたのは、純粋に好意だったのだろうか。普段はやらないことを、村木夫妻のために一肌脱いでくれたのだろうか。余分な費用がかかったのは、夫妻がつよく望んだせいだったのだろうか。どうしても網戸一枚分が余計に必要になったのなら、事情を話して半々にもつということは、まったく考えないのだろうか。島では、なんでも我慢するのがルールなのだろうか。しかし、島民相手ならこうはいかないだろう。いくら考えても論理性がなく、意味は分からなかった。仕方なしに、村木はもう一枚分の料金を払い、二枚分の領収書をもらった。次回からは、こうしたばあいについても事前に話しあわなければならないのだろうと思った。我慢するしか手立てがなかった。年月をへて考えても、釈然としない出来事のひとつだった。 赴任当時、日本最北限の離島は「最果ての観光地」としてかなりの観光客もおとずれていた。村木が往診していた家庭も一〇数軒あったが、繁忙期には病人は完全に厄介者と認定された。 通常の家が民宿となるばあい、泊まれる部屋はすべて宿泊者に提供された。その結果、患者さんは押し入れに入れられていた。村木は、布団部屋に入り、ふすまをあけて診察し、血圧をはかり、具合を聞いた。 観光客が、くも膜下出血を起こしたこともあった。 患者さんは、高山植物が咲き乱れる桃岩でとつぜん倒れた。はこばれてきたときには、意識もなく、挿管した。腰椎穿刺を施行し、脳出血が生じている事実を確認した。自発呼吸があったので、死亡宣告はできなかった。家族と連絡をとった添乗員が札幌市への転送をつよく希望したため、ヘリコプターをよぶことになった。自衛隊は稚内にもいるが、道警のヘリは札幌からくる。午前中に生じた事案だったが、ヘリコプターが到着したのは夜だった。そのころには自発呼吸もなく、瞳孔は散大していた。 村木は、呼吸を補助しながらヘリコプターに同乗した。機内は、猛烈にうるさかった。死亡したと分かっていたが、村木は呼吸を補助することしかできなかった。一時間以上かけて札幌につき、救急車にのって救急病院にはこばれた。 到着すると、でてきた担当する医師は、患者さんを診て「死んでいる」といった。 村木は、救急室のまえのベンチに腰をおろして待っていたが、だれからもなにも話されなかった。虚脱感のなかで小一時間くらいすわっていたが、やがて声をかけてももらえない立場なのだと気がついた。 空港で待機していた救急隊員は帰っていったし、死亡を宣告した医師ももうでてはこなかった。たしかに、挨拶しても仕方がなかった。仕方なしに病院の外にでると、もう真っ暗だった。電話ボックスがあったので、電話帳で番号をしらべていくつかのホテルに連絡した。夜も遅かったので、どこも泊めてはくれなかった。 村木は、深夜、札幌のまったく知らない場所にほうりすてられたのだった。 自分がなにをしたのかと整理するのに、やや時間がかかった。途方にくれたが、このままでは埒があかなかった。仕方なく中退した大学時代の友人に連絡し、事情をつげ、宿泊を依頼した。そこで一晩泊めてもらい、翌日、稚内にむかった。さらに一泊して、島にもどった。後日、地域医療課に事情を話すと、旅費だけはなんとかしたいといってくれた。 さまざまな輸送手段をつかうたくさんの搬送事例を経験したが、ほとんどはだれからも感謝されることのない虚しいものだった。 村木は、もうすこし、やりがいのあった事例も体験した。 島には、産科はなかったが、産婆さんがいた。彼女は、ここで出生した赤ん坊のほとんどすべてをとりあげる尊い仕事をしていた。 村木は、産婆さんから、うまれた子供が青いままで、赤くならないという連絡をうけた。彼女のところにいってみると、真っ青な新生児が横たわっていた。彼は、カテーテルを鼻から挿入し、吸引し、呼吸を確認した。NICUをもつ施設に、緊急的に搬送しなければならなかった。稚内に連絡し、飛行機がでるまえだったので、予約した。 航空機に新生児をのせるには、健常だと証明する書類をつくらねばならなかった。 赤ん坊を保育器に入れ、酸素をながし、ときどきカテーテルで気道を吸引しながら稚内まで移送した。ついた飛行場には救急車が待っていて、該当する施設まで、呼吸状態をたもてたまま搬送することができた。村木は、翌日、島に帰った。 この新生児のばあいは、一日一便の飛行機を利用できた非常にラッキーな症例だった。しかし、産婆さんから報告をうけて、NICUの整備された施設に搬送するのに五時間以上がかかっていた。努力をしたが、村木は、後遺症は避けられないとばかし思った。 ところが二ヵ月くらいたって、子供はなんの傷害もなく島に帰ってきた。父親は、漁師だったが、ひどく喜んで、どうしても酒をご馳走したいといった。村木は、酒類が苦手だったが、居酒屋で彼の話を聞いた。 この離島は、世界的な奇病「エキノコッカス症」の発祥地としても有名で、内科の教科書にもでてくる。エキノコッカスは寄生虫の一種で、人に寄生すると肝臓に巨大な嚢胞を形成する。正常な細胞を押しつぶし、肝機能を傷害する。そのため、外科的に嚢胞をふくむ肝臓の部分的な切除が必要になる。島では、野生の狐を介してひろがった。そのため、四つ足の動物は駆除の対象となった。現在、狐は島内にはいない。がんらい熊も生息していないので、野生の動物に襲われる危険がなく安全に散策できる。 エキノコッカス症の後遺症で、肝臓が剥きだしになった患者さんの往診も何件かあった。技術も不充分な時代にエキノコッカスの嚢胞をとりだす目的で肝部分切除術をうけた者は、かなり悲惨な状況ですて置かれていた。医療は、命をまもるという美名のもとに対症療法的に処置して「善し」とされるのではなく、施行後も患者さんが人として「生活する」のを前提に行われるべきだった。後遺症に真剣にむきあわねばならないと、村木は、ふかく考えることになった。 エキノコッカス症は、海でかこまれた離島に出現したので島内では駆除ができ、媒介する生物を絶滅できた。いまでは道内に拡散し、各地で散発的に生じている。 こうした悲惨な過去は、ひと時をすぎると忘れ去られるものだった。村木が診療したころは、道内から赴任した教職員がペットとして犬をもちこんでいた。町の条例では四つ足動物の搬入は厳しくとりしまるのが規定だったが、文言も風化しつつあった。 村木がなんでも診察するのは、島内に知れわたっていた。愛犬が食欲がなくなって具合が悪くなると、飼い主がつれてきて点滴を希望した。医療人である村木は、気持ちが分からないわけではなかったが、後遺症に苦しむ患者さんを実際にみていて気乗りのしない話だった。それで、「犬の解剖については勉強していないので、点滴の技術はない」と話して了解してもらった。 診療所があったのは、南北にほそながい島の南で香深という村だった。この名前からも、昔は一面の森林だったと考えられる。ニシン漁がさかんになり、明治いらい人びとが移り住んで生活のために木材として伐採し、山火事も相次いで発生し、樹木はほとんど消失していた。 人を襲う動物も蛇もいないことから、時間に余裕がある休日は、冴子が握り飯をつくり、村木が水筒をバッグに背負って島内のほぼ全域を歩きまわった。いけそうなところは全部歩いたが、とくに西海岸は美しく、玄武岩がそのままの形で露出して断崖となり、道東の知床半島で観光船にのるとみられる光景を堪能できた。漁船にのせてもらい、溶岩がつくる豪快な風景に感激したこともある。西海岸をまわって自力で香深にもどってくる八時間コースも、ゴロゴロとした岩がつらなる浜を歩くが、子供づれなので行程を二回に分割し、八時間ずつかけて踏破した。 島は、全島が国立公園内にあり、どこでも美しい自然に恵まれていた。国立公園は行政によって景観がまもられ、なにかを造成するのには特別な審査が必要となる。とはいえ島の自然が手つかずでのこされたのは、バブル期でもここまではお金が落ちず、放置されたからだった。人の手が入れば、どんなものでも開発という名の金儲けの手段となり、「ぐちゃぐちゃ」にされてしまう。人間という生き物は、お金のためならほとんどなんでもする。美しい自然がのこるのは、貧しくて土木工事までの価値がなかったのと同義で、村木は複雑な感情をもった。 島の南には、水道をはさんで利尻が浮かんでいた。利尻島は、中央に利尻富士がそびえ、周辺には森林も多く、蝦夷甘草の大群落でも有名だった。この頂上にのぼろうと、村木は三回挑戦した。最後に事務を担当してくれていた方の助力をえて、標高、零メートルから一七二一メートルの山頂まで辿りつくことができた。そこからみた島は、紺碧の海に浮かぶ、平べったい緑色の領域で、まさに「花の浮き島」だった。 この離島の風景が美しいのは、ときどきテレビで放送される。 しかし四季を通して住んでみて、はじめて分かることもたくさんあった。雪がとけて五月まで、島は枯れて彩色をうしなっている。村木は、その様子をなんとも思わなかった。 六月になると、とつぜん島はあざやかな緑につつまれた。冬枯れた状態から、一挙に新緑が芽吹くのは劇的だった。三回みたが、この情景はいつも感激をともなっていた。 西海岸は、真夏で暑くてもすぐに霧がでてきて寒くなった。海水浴は可能だが、海は冷たく、どんなに頑張っても五分は浸かっていられなかった。 知床とは、アイヌの言葉で「地の果て」、「先がほそくなる場所」をさすという。だから、西海岸と東海岸があわさる南端部は知床岬とよばれていた。 快晴のひどく暑い日だった。診療がはやく終わったので、村木は冴子といっしょに南にむかって散策をはじめた。道を歩いていると、通りかかった自動車がとまって、どこまでいきたいのかと聞かれた。いくらことわってもつぎつぎと車は停止し、送るというお誘いをうけた。一時間以上歩いて知床についたが、その日は霧もでていなかった。 ふたりは、半島状になった場所の散策をはじめた。 知床の岬は、あざやかな緑につつまれ、丘陵状につらなっていた。その先に海があり、さらに利尻富士がくっきりと浮かんでいた。だれもいない大草原が、目のまえにひろがっていた。気をつけてみると、高山植物が一面に咲いていた。白や黄色の可憐な花弁が、草原を埋めつくしていた。海のそばの道は、すぐ先が断崖になっていた。足を滑らしたら命はないと思いながら、美しい花畑を歩いていった。やがて獣道は桃岩に通じ、そこから道道をくだりながら診療所にもどった。 坂の途中に彼の息子が通う保育園があり、ちょうど終わる時間になっていた。つぎつぎと、子供たちがでてくるのが目に入った。 村木と冴子が待っていると、真一がみえた。息子は、ふたりの姿をみると飛びでてきた。 先生が、「どうしたのです」と声をかけてくれた。 「いい天気だったから、知床まで散策してきました」と冴子が答えた。 真一は、一瞬、驚いた表情になって村木をじっとみつめた。つぎの瞬間、振りむくと一目散に坂道を駆けおりていった。 それをみて、先生は「ああ。グレた」と呟いた。 「いつも、三人いっしょだったですものね」といった。 ふたりがことわりもなく勝手にでかけたのは、真一にとってひどくショックな事件だった。息子は、そのときはじめての家出をした。いくらたっても、自宅にもどってこなかった。さがすと、港ちかくの居酒屋の二階にあがって、一年先輩の子供とゲームをしていた。 夕食をご馳走になっても帰るといわないので、奥さんが理由を聞いた。 真一は、「もう家には、もどりたくない」と答えた。 休日、だれにもことわらず家族三人で島内のほそい道を歩いていると、どこにいても島民に必ず発見された。自動車にのせられ、診療所につれていかれた。緊急患者さんがでると手分けしてさがすらしく、どんな場所にいてもみつけられて車で搬送された。狭いとはいっても、島内には獣道がたくさんあった。おおきな道は歩きつくしたので蛇も熊もいないことを「よし」として歩きまわっているのに、必ずみつけられるのだった。 島は、中央に最高峰、標高四九〇メートルをもっていた。森林はわずかで、陸地の大部分は高さ二メートルほどの緑色のササに覆われていた。 それを背景に、凪ぎ、荒ぶる海と、夕日が西海岸に落ちていくのを、村木はくりかえしみた。緩やかに戦ぐ全面が緑のササは、日常とはまったく違う異空間にいる風情をもっていた。情景をくりかえし眺めるうちに、この植物にたいして彼は興味をいだきはじめた。 島の一面にひろがるササをみつめていると、村木は、こうした世界が実際にあるのではないかというモチーフがうまれた。人間は、環境を破壊することしかできない動物で、金とむすびついた権力者を制御するシステムをもっていない。いずれちかいうちに、地球は住めなくなるに違いない。これをもとの状態にもどすためには、強力なササがくりかえし生えて死ねば土壌改良ができるかも知れないと思いはじめた。こうした構想は、後年SF小説になった。 一生懸命やったこともあり、島の人びとは、みんながとても親切だった。散策から帰ってくると、あけはなしになった玄関にときどき食べ物が置いてあった。料理をしなくてすむから、冴子はひどく喜んでいた。となりの靴屋のお婆さんはたいへんに親切で、知りあいもいない彼女をときどきたずねてきてくれた。いろいろな、食べ物をくれた。思いだすのは、こうしてなにかを手渡すときに、 「汚いとは、思わないでね」と必ずいうのだった。 この言葉は、どこまでも胸にしみわたっていき、いまでも鮮明に覚えている。 前述した通り、道立診療所の月給は、まず固定給が定められ、時間外手当、当直手当、僻地手当、離島手当などが加算された。ところが年度末になり確定申告をすると、村木は、町から「二〇〇万円」を返却された。彼は、間違いだと考えて税務課の窓口にいき「間違っているから、返金したい」と申しでた。すると係の者が課長と相談をはじめ、「これは、あなたのお金だからうけとれない」といった。彼は、そんな話を一度も聞いていなかったので「自分の金ではないから、いらない」とつげて返却し、自宅に帰った。 いくらの時間もたたないうちに税務課の部長と課長がつれだって村木の官舎にやってきて、そのいわれを話しはじめた。 文脈としては、町では道立診療所で医療を行うのに感謝し、医師が道からもらう報酬にたいして発生する住民税を診療所長に返還するのが不文律の規約になっている。診療所が開設されていらいずっと継続してきたものだから、ぜひおさめて欲しいという内容だった。 村木は、いままで聞いたこともない意外な事情だった。税金として払うべきものをもらう違法行為に加担したくない趣旨を説明し、この件は終了したいとつげた。しかし町からすると、毎年予定され、決済された予算が浮いて帳簿上で不都合になるらしかった。すぐに助役がやってきて、気持ちは理解できるが、なんとか曲げてもおさめて欲しいといった。 「不正な金まで欲しいと思って、医療を行っているわけではない」と村木は答えた。 助役は、「町としては、たいへんにこまるのです」といった。 そして二〇〇万円が入った、ややおおきめの封筒を玄関において立ち去ろうとした。村木は、「こんな金は、欲しくない」ともう一度話した。置かれた封筒をひろいあげてわたすと、助役はかなり困惑した表情になった。あとで連絡するから、このお金については町長と直接会って相談にのってもらいたい。自分の裁量では、もう決済することができないといった。 助役が帰ると、いくらもしないうちに電話があった。 「町長がお目にかかってお話ししたいといっているので、部屋をたずねてきて欲しい」と連絡をうけた。 村木は、指定された日時に町長室に出向いた。 町長は、真剣な表情で彼の瞳をじっとみつめていった。 「先生のお気持ちは、よく理解できます。こうしてお金をかえされるのは、町長としてはすこし嬉しい気もします。この形の診療施設にかわってから三〇年ちかくたちますが、町の支給する金額が不充分だと指摘されることはあっても、必要ないといわれたのははじめてなのです。しかしながら、おそらく先生の後任になる医師は、こうしたお金を希望するでしょう。町民にとっては、これを支払っても一日でもながくお医者さんに島で診療していただくほうが有益なのです。そのために、つづいてきた慣行なのです。またいわれるままに返金されてしまうと、このお金の由来を町民にどう説明すればいいのか、たいへん困難な事案が発生するのです。こうしたことがお嫌いで、先生が医療行為をもっと崇高なものだと考えているのは、よく分かりました。しかし、ここは町長という私の立場を、ぜひとも汲んではもらえないでしょうか。なんとか目をつむっても、このお金をおさめてはいただけないでしょうか」とひと言ずつ考えながら、ひどく丁寧にいった。 村木は、町長に迷惑をかけるのは本意ではなかった。そこで話しあい、この金額を町に寄付するという形で合意した。寄付行為には目的が必要で、診療所の機器をそろえるという名目になった。町長は、感謝状をつくり、日を改めて授与式を行ってくれた。 村木は、このお金で稚内の器械卸と相談し、超音波診断装置を購入した。予算のいわれは風説となって業者にもつたわり、出血サービスで希望する機種を配備できた。 この話は、とくに村木が自慢するようなものではなかった。町としても複雑な背景をもっていたため公にはされなかった。とはいっても秘密ではなく、狭い島の人びとはだれもが知っていた。なにかで彼が買い物にいった折、店を経営していた男と寄付の話になった。店主は、「そんな金額は、献金したくても稼いだことがない」とひと言だけコメントした。 二年と幾ヵ月かたって、村木は、冴子の父親から総合病院の内科を紹介され、島を去るながれになった。 そのとき、議員の人たちから送別会をしたいといわれた。着任時に飛行場で待たせた記憶があったが、それからはつきあいがなかった。名前も知らなかったから辞退したが、ぜひともとくりかえし要請され、島で一軒の寿司屋の二階に招待された。広間はおおきかったので、かなりの議員がいた。そのひとりひとりから、村木は労をねぎらわれ、感謝の言葉をたくさん聞かされた。 かなり酒が入ってくると、議員の方々は寄付の話をした。 医者は、お金目当てで島にやってくるとばかし考えていた。寄付をしてくれるなんて、思いもかけない驚くべき事件だったと口々に話しはじめた。 「こうした素晴らしい行為にたいして、広報にも載せなかったことを許してもらいたい」と議長はいった。 議員たちのあいだで、ずいぶん論議になったという話だった。島の北部にも医師がいた。広報に掲載して公的に感謝すると、刺激することになるので避けざるをえなかった。ずっと申し訳なく考えていた心情だけは、村木が島を去るまえにつたえたかったといった。 別れのとき、フェリー乗り場は島民で埋めつくされた。 村木と冴子、それに真一は、かかえるほどのテープをもたされた。 たくさんの人たちが、涙をながしてみおくってくれた。 村木は、「離島医療をやり遂げた。頑張ってよかった」という感慨をつよくもった。 五、都会にもどる 離島医療は冴子の両親が大反対するなかで行われたので、村木は融和をはかる必要がうまれた。 義父は、地方都市の中心部で内科医院を開業していた。三女の父で、冴子はいちばん末の娘だった。長女の夫に金銭的な援助をあたえて、近隣で産科医院を開業させていた。 義父は、村木が内科を研修したのは自分の内科医院をつぎたいからだと固く信じこんでいた。その思いこみから、彼は終生逃れられなかった。 村木は、離島での医療を考えたとき、義父からつよい反対をうけた。あまりに激しかったのでどうしたらよいのか分からず、泌尿器科の教授に相談したことがあった。プロフェッサーは、冴子が味方なら大丈夫だとつげた。その折に、「大学にのこる奴は、なによりもまず、おれのいうことを聞かねばならない」と話した。 父親もまた、内科医院をつぎたいのなら自分の命令にしたがえと思っていたのかも知れなかった。しかしながら都会では味わえない総合的な医療を経験し、「医者とは、なにか」という命題のヒントをえた村木にとって町医者の仕事はまったく魅力がないものだった。彼からみれば、勉強もしない義父は、医学にも熱心でないとしか映らなかった。 村木は、紹介された総合病院で消化器内科を研修することになった。離島医療を経験してみると、周囲の医師たちがあまりにも狭い範囲の医療を分担しているのを知って驚いた。それは、個人が機能としてのみ存在するインドの分業世界を思いださせた。 時代は、専門医制度の全盛期だった。専門だけできればいいという風潮がつよく、治療の対象は病人という全体ではなく、病気という部分にすえられていた。その結果、医療は細分化され、多くの専門分野に分かれていた。 ひとつの県に二、三つくられた中核的な病院なら、必要な専門スタッフを全員そろえることも可能だった。しかし普通の総合病院では、該当する人員を充分に配備するのはむずかしかった。だから、かなり中途半端な状況になっていた。 紹介された病院のばあい、内科は、消化器科と循環器科、呼吸器科のみならず、血液内科、糖尿病内科、腎臓内科に分割されていた。血液は、ひとりの医者が消化器と兼務していた。 この制度の弊害は、たがいに専門分野を決めてしまうと、そこに非専門の者が入りこめなくなる点に集約される。専門とする領域では、だれでも第一人者になることができる。それを維持するには、専門分野について非専門の者が口をださないという不文律が存在しなければならない。つきつめれば、自分も他人の領域には論究しない必要が生じた。たがいに第一人者でありつづけるには、自己の分野にとじこもらねばならなかった。非専門家からとやかくいわれたくなければ、より専門をしぼりこんだほうが理に適っていた。範囲が狭くなれば、自分が第一人者になる可能性はさらに増すのだ。その結果、ほんらいどちらの分野でもみなければならなかった領域を、専門とする者がいないという事態まで起こった。それを改善するためには、境界分野の専門家が必要となり、細分化の勢いはとまらなくなっていた。 医学は、人間という生物の精神のありようからはじまり、足の爪までも対象とする。人体は、さまざまな機能をつかさどる器官から構成されている。そこを、いくらでも切りとって狭い部分をつくることは理論的にはできる。細分化し、専門家となり、自分が第一人者と公言するのも可能なのだ。こうして分割できるのは、視点を個々の疾病や器官に置くからだった。 医療は、医学とは異なり、病気をかかえた病人を対象とする。極端にいえば、人間はひとりひとり置かれている状況が違うから、その数だけの疾病があるともいえる。だから患者さんをほんとうに治療しようと考えたとき、中村哲さんのような事例も起こりうる。アフガニスタンでは、病気の根本が貧困だと彼は気がついたのだろう。専門が脳神経内科医だったから、培ってきた学問は現実のまえにあまりにも無力だと感じたのだろう。医療行為として、彼は農地の整備事業を行ったに違いない。 おなじ病気に罹患しても、病人はそれぞれが違っている。医療は、医学とはべつな範疇に属している。病気がなおっても、病人が死ぬ事態はいくらでも生じうる。疾病が治癒しなくても、患者さんが平安な気持ちで暮らし、みまもる家族をふくめて満足して亡くなることも可能なのだ。医療とは、医学を道具に病気をもつ病人を安らかにする行為なのだろう。だから必要な視点は、つねに患者さんという全体だった。これは、とても重要な事実で、おなじ薬でも処方する医師によって効き方が違うのはとうぜんなのだ。治療手技が同一でも、満足度には差がでる。医学レベルがおなじでも、医療レベルは違うからだ。これは、かかわっているのが機械ではなく人間同士だからとうぜんだろう。この事実を不合理と称して否定すれば、医療を理解していないといえるだろう。 紹介された施設でも、個別な分野では村木よりも医学の知識を有するものはたくさんいた。しかし狭い領域で専門家を自称して、自分の診察範囲を決定していた。 現在の医療は、こうした過去の時代の反省からうまれている。すべてが改善されたわけではないが、当時よりもずっと患者さんは中心に措定されている。 村木が考えた医者の理想とは、こうした専門医制度とは対極だった。だから周囲の医者たちからは、いくつもの分野を診療できるのはおかしいという批判がうまれた。 上司の消化器科長を兼任する内科部長は、その考えを率先した。彼は、村木の実績を何ひとつみとめなかった。中途半端な医者というレッテルを張り、徹底的に一年生としてあつかい、矯正につとめた。 一例をひきあいにだすなら、気胸の患者さんがきて胸腔穿刺が必要になる。村木は、呼吸器外科までまわり、立派な研修をつんだので素晴らしい手技を知っていた。 「やった経験はあるか」と呼吸器科長に聞かれた。 村木は、胸部写真をみて「できます」と答え、施行しようとした。 「なにを考えている。レントゲン室で透視をつかわないで、できるはずがないだろう」と科長はいった。 「なんと、幼稚なのだろうか」と村木は思った。 ドレナージの管をどこからどう刺すべきかは、レントゲン写真をみれば一目瞭然だった。わざわざ透視をつかって、さらに確認する必要はなかった。レントゲン室にいき、実際にやり方を聞いてみると、ひどく稚拙な手技だった。それでは、ドレーンを肺尖部に留置するのは不可能だった。 「この手技は、したことがない」と村木はいって術者を代わってもらった。 それで科長の指示にしたがって、彼の部下が施行した。村木は、未熟な手技をみて自分が行いたいとは思わなかった。終了すると、科長は「こんなこともできないのか。研修としては、まったく不充分でなっていない」といった。 「そうですか」と村木は答えた。 それから一週ほどして内科のカンファレンスのとき、シャーカステンに気胸のフィルムが置かれていたことがあった。 内科部長が、「この写真について、どう思うか」と村木に聞いた。 わざわざ質問するのだから、どんな意味があるのだろうと彼は考えた。このフィルムで、気胸の原因まで分かるのだろうか。村木は、背景を考えて黙っていた。 しばらくすると、「おまえは、気胸も分からないのか」といった。 彼は、部長をまじまじとみつめた。それで、呼吸器科長となにかを話しあったらしいと分かった。 消化器科長は、内視鏡の挿入方法を教えていた。咽頭の後壁に押しあてながら挿入するのだという。村木は、考えただけでもそんな操作はできなかった。しかし、先輩たちは教えられた通り施行していた。 村木は、もっと患者さんの苦痛を軽減できる方法を採った。しかしビデオ内視鏡を使用するため、どうしても記録がのこった。閲覧するたびに、「おまえは、なにも分かっていない」。「いわれた通りにしない」と部長からくりかえし叱責をうけた。 手技を盲信しているので、患者さんにどちらが楽なのか聞くことすらなかった。一事が万事だった。どんな手技も被験者を前提にしていないから、丁寧さに重きが置かれなかった。 客観的に評価して、この総合病院の医療水準は高くなかった。 ある診療科で、かなり技量の劣った者が働いているならもうすでに問題なのだ。そうした医者が、その病院では許されることを意味している。つまり、周辺にもおなじ程度の医師が診療しているに違いない。そもそも中枢ちかくに、それを支持する者が存在しなければ、不充分な行為を質すことは不可能だろう。 簡単な例証をあげよう。 患者さんをうけもつ医師は、自分ができない医療行為はスキルをもった専門家に依頼しなくてはならない。手術が必要なら、外科医に頼むことになる。患者さんの状況から早期の処置が望ましいなら、さらなる説明をし、頭をさげて順番をはやめてもらわねばならない。ある偏狭な医師は、担当する外科医が個人的に嫌いだという理由で、必要でも改めては依頼しない。こういう信じがたい事態が、現場では実際にうまれている。 村木が最初に内科を研修した病院では、内科部長が有能だった。部長は、そうした事態を把握し、該当する医師に注意をあたえる。くりかえされれば、指摘された医者はいづらくなって施設をかえていく。真面目な者は、自らの努力が無駄でないと納得できる。とはいえ、そうした医師がある程度の地位までついてしまうと、部長でもいいつづけるのはむずかしくなる。うるさい人物と思われずに一定の水準にたもとうとするのは、実際には困難なものだろう。 そうした干渉が行われない施設では、どういう事件が起こるのだろうか。 胃ポリープの切除では、胃壁に穿孔をつくった。がんらい胃は厚い筋層をもち、潰瘍で筋肉が壊死しているならともかく、鉗子でつついたくらいでは普通は穴などあけられない。もっと壁がうすい一二指腸の内視鏡では、とうぜん穿孔を起こした。なんでも力ずくで行うから、大腸内視鏡でも腸壁をやぶった。いずれのばあいも、緊急の外科的手術が必要となった。 この一連の事件は、乱暴なひとりの医者が行った医療過誤だった。消化器科長は、こうした危険な者を野放しにしていた。ほんらいは謹慎させ、一時的でも医療行為をやめさせる必要があった。どんなに気をつけても、医療事故は起こりうる。しかし、くりかえし事故を起こす者は限定される。交通事故と、おなじなのだろう。 胆管造影では、科長自らが猛烈な圧力で造影剤を注入して人為的に急性膵炎を惹起させた。この方は、あっという間に亡くなった。 村木がうけもった胆管癌の患者さんは、黄疸を軽減するために汁を体外に排出(ドレナージ)しなければならなかった。皮膚から胆管に管を挿入するのに、盲目的穿刺などという時代錯誤の手技を外科が行っていた。村木は、エコーをつかって狭い腎盂内にチューブを留置することまでできた。そうした技術によって、腎臓や尿管の結石を破砕し、体外にとりだしていた。この施設で行われているのは、現代医学ではなかった。 術者の勘を頼りに三〇センチものながい針をくりかえし刺された女性患者さんは、翌日に亡くなった。正確には、最後にかなりひどい一撃をくわえて死に至らしめた患者さんの家族に、「解剖したいといえ」と部長は命じた。 村木は、そんな言葉をとてもつたえられなかった。それで部長には、「家族が嫌だといっている」とつげた。 「剖検ができないと、教育病院ではなくなる。おまえの損になるのが、なぜ分からない。懸命に頼めば、家族は了承してくれる。そうでなければ、おまえが一生懸命やらなかったのだ」と部長は大声で叱責した。 「私は、きちんとした内科の教育病院で研修をうけました。その施設では、特別な症例以外には解剖など行いませんでした」と村木はいった。 「そこは、教育病院ではなかったのだ。おまえの習ったことは、すべて間違っているのだ」と部長は平然と答えた。 甚だしく、やる気を削がれる状況だった。とはいっても、村木はあたえられた制約のなかで自分の職責は果たした。同僚は、彼が熟達した技量と熱意をもっていることをみとめた。そうしたなかで、幾人かの記憶にのこる患者さんにも出会った。 肝硬変により吐血が生じて入院になった、五〇代の女性がいた。不審に思った夫は、かかりつけの医師に吐瀉物をもっていった。それにもかかわらず、前医は吐血だと気づかず放置した。つまりこの医者は、通院する患者さんの病態をまったく理解していなかった。 入院時に付き添った旦那さんは、ひどく機嫌が悪かった。村木が話を聞くと、医療に対するつよい不信をあからさまにした。旦那さんは、ふたつほど年上の奥さんを大切に思っていた。彼女は、やくざな生活を送っていた彼を改心させ、意義ある人生に導いてくれた恩人だったといった。肝硬変になるのだから原因はまず飲酒だったが、患者さんは女傑にも思える豪快そうな人だった。 緊急入院時、出血性のショックを起こしていた。肝硬変による食道静脈瘤の破裂で、止血はできても救命はむずかしかった。主治医に命じた部長も、状況をみた医師たちも看護師たちも、時間の問題だろうと考えた。こうした重篤な症例は、ナースステーションのいちばんちかくに置かれる。だいたいは、容態が悪くなって処置がなくなり、奥の部屋に移されて死をむかえることになっていた。 本人は意識がなかったが、旦那さんはこのまま死んだら裁判を起こすといった。 血管内で血液が凝固しやすくなる、DICを併発していることから、生命的予後がむずかしいと村木は説明した。 「おまえたちは、同業者だから庇いあうのだろう。しかし、医療過誤という真実をつげなければ、おまえも告訴する」とくりかえし旦那さんは息巻いた。 病院には、血液内科を標榜する者もいた。しかし、専門は白血病だった。DICの治療を熟知する医師は、いなかった。村木は、大学病院の泌尿器科で前立腺癌からこうした病態になった患者さんの主治医だった。ICUで、血液内科の医師が治療にあたっていた。患者さんは亡くなったが、なにを行ったのか、すべて把握していた。その例を参考にして、最新の医学書にしたがった治療は奏功した。 あきらかに死に直面している者が復活するのは、だれがみても驚異だった。 こうした症例ではさまざまな処置が必要だったが、どんな病態でも、村木がほとんどひとりで対応しているのを目撃したのは看護の人びとを刺激したに違いなかった。 とうぜんのことながら、この肥満体の患者さんは高血圧症にも、糖尿病にも罹患していた。しかし、彼女を治療したのは村木ひとりだった。この女性は、自力で食事ができ、冗談がいえるまで回復した。歩行を希望したが、以前からの膝関節痛があって困難だった。 村木は、写真を撮影して変形性膝関節症と診断した。治療のために、適切な薬剤を膝関節に幾度か注入した。それが著効して、歩行器をつかって廊下を歩けるまで回復した。 彼女は、膝までよくなったことにひどく感激し、院内をくまなくまわって村木の有能さを宣伝してくれた。挙げ句の果てに転倒して、裂傷をおった。その傷も、村木が縫った。 さまざまなエピソードをのこしたが、おおきな肝臓癌があったので予後は不良だった。 いちばん調子がよかったころに、村木はこの病院をやめた。 彼が自己都合で医院を去るとつげると、彼女は深刻な表情にかわった。 翌日、病室をたずねると旦那さんが待っていて、「いかないで欲しい」と話しだした。村木がいなくなれば、彼女は死んでしまうに違いないといった。 「やくざな人生を送っていた私を、妻は、人間として立ちなおらせてくれたのです。その大恩に、今回ようやっと報いることができたんです。でも、まだすこしだけなんです。これから、もっといろんなことを妻にしてやりたいと考えているんです。それだけが、私の生きる希望なんです」 旦那さんは、話しながらぼろぼろと涙をながし、嗚咽をくりかえした。 村木は、こまって立っていた。 「おまえさん」 彼女は、背後から声をかけた。 「大の男が、みっともないよ。先生を必要としているのは、あたしだけじゃないんだよ。こうして出会えただけで、充分じゃないか。あたしたちは、幸運だったよ。どうせ、人は死ぬんだよ。でも先生がいてくれたから、こうしておまえさんと大切な時間がつくれたんだよ。それで、もう充分じゃないか。先生とあたしたちの人生が、この病院でつながっていただけで、あたしは満足だよ。新地に出向く門出を、いっしょにお祝いしてあげようよ」といった。 道北で医療をしているころに、旦那さんからながい礼状をもらった。 村木が去っていくらもたたないうちに、患者さんは亡くなった。しかし、とても感謝している。納得し、思いのこすことはなかった。彼と出会えなかったら、たぶんそうした時間はえられなかった。こんな気持ちにも、絶対なれなかっただろうと丁寧な字でかかれていた。 村木は、この患者について看護師からも手紙をもらった。 「患者さんが医師を信頼し、力をあわせてひとつになったとき、なにがうまれるのか、はじめて知りました。人間て、素晴らしい生き物だと思いました。目のまえで起こっている奇跡に、心から感動しました」とかいてあった。 一年ちかく辛抱したが、やめることを決意した。 村木は、消化器科の会議のときに部長にいった。 「この病院をやめて、私は、道北で地域医療をします」 「無理に頼まれたから、雇ってやったんだ。なんと、勝手なことを話すのか。しかし、その僻地とやらを、一回はみにいってあげよう」 なにを考えたのか、部長はいった。 「私は、あなたが尊敬できないのです。だから、決心しました。そんな迷惑なことは、考えないでください」と村木は答えた。 会議だったので、まわりにはたくさんの人がいた。 その言葉を聞くと、部長は黙った。 循環器でも人が移動したので、送別会が行われた。 村木のまわりには看護師たちがたくさんあつまって、二重、三重に彼をとりかこんだ。彼女たちは、辞任を異口同音に残念がってくれた。同時期にやめた循環器医は、この病院で数年間、働いていた。しかし看護師はそばにいかなかったから、あきらかな差をつけたのだった。 看護師たちに好かれたのは、とうぜんだった。うけもち制度だったから、自分の患者さんのことで質問があれば、担当医に話さなければならなかった。しかし連絡しても、担当の医師は、なかなか病棟にこなかった。つかまえても、分野がすこし違えば自分では分からなかった。問題は、だれか専門家に聞いてみるという話で棚上げにされた。だから看護師は、患者さんになにもしてやれなかった。 だいたいが、担当医はせいぜい日に二度くらいしか病棟にいかなかった。村木は、医療とは患者さんのそばにいることだと信じていた。話を聞くのが治療の大前提だと思っていたので、病棟にはしょっちゅう顔をだした。 だから、すべての看護師は村木がくるのを待っていた。彼に話せば、すぐに結論がでた。よんでもこない担当医を待つよりも問題が容易に解決し、患者さんに適切な処置をしてやれたのだった。看護師たちは、村木をとても大切にした。なにかにつけて自分たちのエリアによんで、お菓子とお茶をご馳走してくれた。 村木は、送別会のとき道北で僻地医療に従事すると話した。 その後しばらくたって、若い女性の看護師が話をしたいといってやってきた。彼女は、僻地医療に同行したいと申しでた。 村木は、自分がどうなるのかも、はっきりとはしていなかった。それで、「気持ちはありがたいけれど、なにも分からない。あなたの生活の保障は、できない」と答えた。 看護師は、それでもいっしょに働きたいといった。しかし、村木はことわった。 彼女は、その年、病院をやめ、国際協力事業団(JICA)に入って海外にいったと噂で聞いた。 六、僻地医療 総合病院に勤務した年の秋、冴子の父親は前立腺の手術を市内のべつの病院でうけた。義父は、専門医資格をもっている村木真鋤が術中に立ちあうことを要求した。希望にしたがい、村木はまったく知らない病院の手術室に入った。手術は順調に推移し、義父は二週間ほど入院した。 村木は、休日には冴子と真一をつれて病室に見舞いにいった。幾回かおとずれると、母親から彼女に電話があった。 義父は、見舞いを希望していない。頻回にいくと、ちかくに住む長女が圧力を感じ、不快に思うからやめて欲しいという内容だった。 村木は、なにを話されているのか理解できなかった。 義父は、見舞いにいくのを迷惑に感じるのだろうか。 村木は、たくさん病人を診てきた。さらに、食道癌で他界した父親の主治医だった。病院につとめて感じたのは、どんな美辞麗句をならべ立てるよりも、見舞いにおとずれることこそが患者さんを大切に思っている表現だった。逆に見舞う人がこない方は、看護師も医師も、それほどには大事にしなかった。残念なことだが、比較すれば仕方がなかった。だから村木は、自分の患者さんの部屋には足繁く通った。そばにいて話すことが、大切に思っているという表現だった。ほかの医者たちとの差があまりにも歴然としていたので、四人部屋では、ある患者が看護師長や内科部長、あるいは直接、村木に主治医をかえてもらいたいと願いでる事件まで起こった。 どうしても都合でいけなければ、見舞ってくれる人に言葉を託したり、手紙をわたしたりもできる。普段はどうであれ、具合が悪いときにこそ、大切に思う気持ちをつたえねばならないのではないか。自分が出向かないのを正当化し、それを医療人である義父が支持するという現実は、とうてい納得がいかないものだった。 約一年間、義父一家とひとつの街に住んで、さまざまな出来事が起こった。悲しくなる事件、残念な事態は、たくさん生じた。 なかでも、この出来事は村木の心をうごかすおおきな材料になった。大切に思われていない以上、義父の気分ひとつで彼は好き勝手にされるに違いなかった。 この事件は、冴子にとってもおおきなショックだった。 義父は、村木がいくら否定しても、内科医院をつぎたいのだろうと勝手に思いこんでいた。そのためには、紹介した病院で研修をつづけろとしか命じなかった。 村木がつとめつづければ、義父の思いこみを確信に導くことにしかつながらなかった。 彼は、この事件のあと冴子とよく相談した。 村木は、いまの施設につとめつづけたいとは思わない。義父の内科医院をつぐ気には、とてもなれない。この地で、義姉の夫妻と家族ぐるみのつきあいをしていく自信はない。いままで村木がつみあげてきたものを、いかしたい。望んでいる医療を実現するには、おそらく過疎地域にいくしかないだろうと話した。 その話に、冴子は納得してくれた。 村木は、離島医療の折、世話になった北海道の地域医療課に連絡をとった。担当者は、わざわざ遠く離れた家までやってきて相談にのってくれた。彼は、ふたつの候補をあげた。どちらも道北の僻地で、一方は道立診療所だった。 離島にいたころ道内を旅行したので、村木は、いずれの地域にもいったことがあった。提示された道立診療所は、かなりふかい山のなかだったので旭川にでるのも容易ではないと考えられた。子供の就学もあるので、まだちかいほうをと冴子と話しあい、地域医療課に報告した。 担当者は、村木の希望が自分たちの施設ではなかったが、好意的にも連絡をとってくれた。年があけると、当該自治体から視察にきて欲しいといわれた。それで、冴子と真一をつれて出向いた。 村木は、家族とつれだって札幌まで飛行機でいき、列車にのりかえて旭川についた。そこで、行政区の保健部長の出迎えをうけた。市の車に同乗して該当市までいき、ホテルで一泊した。夕食後に寒いなか戸外にでてみた。ホテルが整備された中心部だったが、すでにシャッター街になって、かなり寂れているのが分かった。 この街は、稚内から札幌へいく国道沿いだったので車では幾度も通過した。北の端から南下する道は、夏期には原野がひろがっていた。つまり樹木もそだたない湿った荒地で、わずかな下草しか生えていない。この街までくると、あとは塩狩峠をこえれば街並みがみえはじめるという地点になる。だからイメージとしては、もっとおおきな市だと思っていた。しかし、想像とは違っていた。 翌朝、部長がジープにのってきて、診療地域をひとまわりしてくれるといった。 寒い日で、零下二〇度にちかかった。雪はダイヤモンドダストになってきらきらと輝きながらふっていたが、風もしだいにつよくなっていった。 走っていたのは、どこまでも真っすぐな信号機のひとつもない一本道だった。左右にははるか彼方まで雪原がつづき、家の一軒もみあたらなかった。あまりの風景に口をひらく者もないまま三〇分ほど走ると、道はやや左に曲がり、ようやく人家がみえた。三叉路になり、その周辺に一〇軒ほどの家がならんでいた。農協のビルがみえ、中学校が目に入った。 そのちかくに診療所があった。ちいさな建物で、廊下のような形の構造物で家屋とつながっているのが分かった。暖房もなく、いまみても寒いだけだと部長がいうので、外側からの見学にとどめた。 保健部長は、この施設を無償で貸与してくれる。さらに、いくらかの助成費を市が提供する。そこで医業を行い、診療による収入は自分のものしてよいといった。 こういう形式は、委託開業とよばれる。 ハード部分にあたる診療施設を、医師は無償でつかうことができる。行政としては、とくに医療行為に期待してもいないので施設は古く、診療機器はほとんどない。開設する医師は、市の職員でもなく、身分も保障されない。採算がとれるならだれかが仕事をしているはずだから、助成金だけでは暮らしていけない。行政市としては、村にも医療施設が必要だという住民の声に配慮し、形式的に設置しているだけだった。幾人かのはぐれた医師がやってきては、うまくいかないでやめていく。どの医者も肩書きをもっているだけでなにもできず、やる気もない。注意していても、ときに無免許の者がまぎれこんでくる。とうぜんながら、評判はすこぶる悪い。そうした医者をひきとめる理由もないので、やめれば公募をする。市は、努力しているという姿勢をみせる以上のことはやらない。かえられない現実を露わにさせて、アリバイ的に医師をもとめていた。 募集がかかっている状況を、村木はよく理解した。 保健部長は、医療圏としては二〇〇〇人程度の住民がいるといった。しばらく、この施設は休止している。いまは、みんな総合病院に通っている。ここで診療をはじめれば、日に三〇人くらいの患者さんがくるに違いない。だれもが、診療所があくのを心待ちにしているといった。 保健部長は、地域医療課から村木の離島診療の実績を聞いていた。彼が卓越した技量と情熱をもつ点も耳にとどいていた。実際に会ってみると、家族もそろって、こうした施設にやってくる者たちとはあきらかに違っていた。だからこの寂しい風景を見学して、とても診療を希望するとは思わなかった。 「雪も、ひどくなってきたから帰りますか」と部長は凍てつく光景をみていった。 村木は、ここの医療圏がどの程度の範囲なのかと逆にたずねた。 「もの凄く、広大な領域になります」と部長はいった。 役所がある市の中央から、この施設まで三〇分以上車にのっていた。そのあいだ、信号機はひとつもなかった。右も左も、大雪原だけがみえた。そのうえを、さらに雪が吹きぬけていた。 「せっかくですから、診療地域をまわってみたいです」と村木は希望をつげた。 意外な答えに戸惑いながら、部長はそれなら診療圏を一周しようといった。 それで、ほとんど人家がみえない道をジープはすすみはじめた。やがて、はっきりとした吹雪にかわった。人が暮らすので除雪はされているはずだったが、道路の境界もよく分からなくなった。 「こんなひどい日は、年に幾日もないです」と部長は釈明をはじめた。 視界は、激しい風雪のなかでしだいに不鮮明になっていった。フォグランプをつけた車の窓からは、ライトをうけて雪が舞っていることしか分からなかった。走っている場所がほんとうに道路なのかも不明な雪道を、ジープはゆっくりとすすんだ。 「これは、ひどい日です。帰りましょうか」と部長はいった。 「この先も、人が住んでいるのでしょう。そこも医療圏なら、いってみましょう」と村木は答えた。 戸外は、完全な吹雪になっていた。激しい地吹雪にかわり、通りすぎる車もみあたらなかった。除雪の道標だけが、かろうじてみえる状態だった。 「これは、数年に一度という吹雪です。帰りましょうか」と部長はまたいった。 「まわれるのなら、一周したらどうでしょう」と村木は答えた。 それで、医療圏と称する部分を一巡した。三叉路にもどるのに、三時間ちかくかかっていた。部長によれば、もうひとまわり外側にも道はつくられ、人も住み、ほかに施設はないからすべてが医療圏にそうとうするといった。 それから旭川まで送ってもらい、村木は視察を終えた。 保健部長は、その日、医療圏を一周することによって、どんな言葉をもちいるよりも確実な情報を彼にあたえた。荒涼とした情景が物語っていたのは、この地域がかかえる真実だった。 同行した市職員のだれもが、村木がくるといいだすとは考えなかった。後日、彼が診療すると話したとき部長はひどく驚いていた。 村木は、冴子に申し訳なく思った。 彼女は、恵まれた家庭で大切にそだてられた。冴子は、村木が希望するならやってもいいといった。 ふたりは、むかう土地が人が住む限界の集落だと理解した。 視察にいった日、厳しい自然は、村木が決して間違えないように姿をあからさまにしてくれた。彼は、その土地で自分の医療を試してみたいと思った。 村木が紹介された病院をやめ、道北で地域医療をするとつげると、義父の一族はあつまって家族会議をひらいた。彼は、不明な罵声を浴びせつづけられた。冴子は、ふたりの姉から「縁を切る」とつよい調子で話され、泣きじゃくっていた。名古屋港からフェリーに乗船して苫小牧にむかったが、彼女はずっと泣いていた。 彼は、自分の道を追求することになった。 村木は、春に診療所を開設した。保健部長の話とは違い、住民は医院をおとずれなかった。評判の悪い医者が幾代もつづき、村の人びとからも完全にみはなされていた。最初の一ヵ月、来院した者は日に二、三名だった。 開設後、村木は、保健部長からこの施設で医療を行う辞令をもらった。部長がやってきて、「これ、どうぞ」と一枚の紙切れを手渡された。 村木は、患者さんが来院しないのはさまざまな理由で仕方がないと思った。しかし保健部長の行為は、とても残念だった。彼は、つよい使命感をもっていた。 「こんな形は、望みません。行政の長から、市長室で正式に辞令をもらいたいです」とつよく主張した。 こうした希望は、この施設で暮らそうと考える医者たちには思いもつかないことだったらしい。長年仕事にたずさわっていた保健部長は、驚いて役所に帰った。 後日、村木は、市長室によばれた。彼は、正装しておもむき、辞令をえた。 ひどく残念なことには、村の人びとは、医者は金儲けをする者という認識しかもっていなかった。この辺鄙な地で理想の医療を行いたいなどとは、だれひとりおよびもつかない話だった。 後年になり人生を振りかえると、村木は、自分が猛烈な思いこみと激しい思い入れによって行動していたことに気がついた。当時は、勝手な幻想とは考えてもいなかった。しかし、そうしたつよい自負心がなければ、どうしてもできない仕事だったに違いない。この心情は、中村哲さんとも通じあう部分だろう。村木は、青春時代にインド諸国を放浪したことがあった。パキスタンのペシャワールや、アフガニスタンのカーブルの風土を実際に体験していた。だから、感じることがあった。 村木がうけもった医療圏は、保健部長がいった通り広大な地域だった。 視察のとき走った南東にむかう道道が、市と村とむすんでいた。三叉路にから、南に入ると診療所だった。曲がらずに道道をそのまま東に三〇分くらいすすむと、奥にもうひとつ村があった。そこをぬけていくと、おおきなダム湖がつくられていた。さらに先は、天塩岳に通じていた。 診療所まえの南にむかう道道を、三〇分くらいすすむと峠にでる。そこが、医療圏の境界だった。さらに三〇分ほどすすむと、最終的には旭川と通じる国道にでた。南にむかう道道は、峠までのあいだでいくつかの道と直角に交差する。そのなかに、丘陵地帯をぬけて市とつながる道路がある。そこの交差点を東に曲がると、村の奥に入る道がつくられている。さらにすすむと前方におおきな山がみえ、中腹に茫洋とした丘陵地帯がひろがっていた。初夏から秋にかけては、牧草が一面に生えていた。あざやかな緑を背景に、豆粒状の黒い牛群がみえた。直進すれば、山麓をまわる道になった。視察の折、保健部長がもうひとまわり先にも道路はつくられ、人が住んでいるといったのは正しかった。そのときには、吹雪でこの山はみえなかった。ずっと手前で北に曲がって、ダム湖に通じる道道にでた。そこで西にむかい三叉路をぬけて、きた道をもどったのだった。広大な医療圏には、信号機は教育目的で小学校のまえに設置されたひとつよりなかった。 ダムにむかう途中の村には、高齢な医師が暮らしていた。なにもしなかったので、この地域も村木の医療圏といってよかった。 山の周囲では、牧畜を生業として人びとが点々と暮らしていた。往診を依頼され、この地区もまわることになった。人が生活しているので道は市が管理し、冬期にも除雪が入るのが基本だった。視察時には、ひどい吹雪に遭遇した。運転していたのは、冬道に慣れた職員だったのだろう。それでも、どこを走っているのか分からないほどの吹雪だった。もし吹きだまりに突っこんだら、命にかかわると思えるほどだった。携帯もない時代だったので、村木は無線の講習をうけ、資格をとり、車に無線機をつけた。 医療圏のなかには、豊かな人びともいたし大規模な農家もあった。しかし村木がみることになったのは、貧しく立場の弱い者たちだった。そもそも豊かな人びとは、こうした不便な土地にのこる理由がなかった。能力の高い者も、若い者たちも、ここを去っていった。だから、のこっている人びとは、基本的に貧しかった。また余裕のある家では、病人は旭川や札幌に通っていた。 最初に村木の診療所を受診したのは、もっとも貧しい人びとだった。彼らは、具合が悪いお年寄りたちだった。不便なバスにのって総合病院には通っていたが、いろいろな疾病をかかえ、多くの科を受診し、結局、どこからも充分な診療をうけられない者たちだった。各科から飲みきれないほどのたくさんの薬剤をもらい、どんなに服用しても具合がよくならない人びとだった。 こうした患者さんのさまざまな不具合を聞いて全体像をとらえることについては、村木は秀でていた。彼は、薬を整理してやった。どの科の医者も、患者さんに興味をもっていなかった。だから、ほかでどんな薬剤を処方され、どういう具合で通院しているのか聞いてもやらなかった。こうして放置されていた者たちは、村木の診察をうけ、あきらかに調子がよくなった。 彼らは、さまざまな病院に通い、医者が実はなにもしてくれないことをよく知っていた。さらに、自分の具合の悪い話をいくら聞いても実際の診療点数とむすびつかず、利益につながらないのも分かっていた。だから自分たちの容態をすこしでもよくしたいという情熱をもつ村木に出会って、ひどく驚くことになった。いちばんはじめに彼の考えを理解したのは、名もなく弱い患者さんたちだった。そうした者たちが、村木のコアなファン層を形づくった。 彼らは、横につながりをもっていた。おなじ悩みをかかえる者をたくさん知っていた。だからコアな部分が、村木の診療の素晴らしさについて熱弁をふるうことになった。この力こそ、どんな媒体をつかった宣伝よりもおおきな影響力をもっていた。 彼らのお陰で、診療所はしだいに繁盛していった。 患者さんを大切にあつかえば、医者も大事にしてもらえる。 これは、村木の信念だった。それは、この寂寞とした土地でも有効だった。 開業した年は、夏に寒い日がつづいた。このままでは冷害になるという話が、村木の耳にもとどいてきた。夏期の気温が一定まで上昇しないと水稲は受粉が不充分で、稲が実らない。村木が札幌で大学に通っていたころは、道産米は品質として劣るとされた。しかし品種の改良や平均気温の上昇などにより、北海道は日本有数の米所になっていた。この地方は区画がおおきな水田が多く、農家は稲作を主力にしていた。 不作の話は、月日を追うごとに激しくなった。議員は来院すると、たいへんな年になるだろうと村木に話した。やがて、秋に入っても稲穂は垂れなかった。噂どおりの凶作になった。北海道ばかりでなく東北地方にも冷害がひろがり、不作の報道は全国ニュースでもつたえられた。地域では、この話題一色になった。米が手に入らないという噂が飛びかい、外国産米を輸入するうごきにもつながった。実際、冴子が農協にいっても外米しか置いていなかった。道内有数の米所にきて、緊急輸入されたタイ米を購入して食べた。そういう事態をむかえてみると、慣れ親しんだ日本産の米は口にあっていると村木はつよく感じた。 この年は、国から激甚災害に指定され、農家には義援金が配布された。 内陸地帯なので、冬の寒さは格別だった。真一は小学校に通っていたが、朝六時の気温がマイナス二〇度では始業は一時間おくれる。マイナス三〇度のばあいは、二時間の自宅待機になった。真一は事情を知らずに小学校にいき、みつけてくれた教頭先生と石炭ストーブのまえで凍えていたこともあった。 積雪も多かった。除雪を担当してくれたのは、ちかくに住む七〇歳くらいの男性だった。以前にもやっていたと聞いて頼みにいくと、嫌だといわれた。 「まえの医者は、給金を踏み倒していった」と答えた。 「そんなことは、決してしないから」と村木は話し、希望額に割り増しの料金をつけた。 この方は、ダムになってしずめられた村の、さらに奥の山のなかでうまれたといった。小学校は、小一時間山道を歩いて通い、熊にも出会ったことがある。一二人兄弟の長男だった。焚き木ひろいは、子供たちの仕事だった。薪には、暖房用、湯沸かし用、さらに餅焼き用があった。そうした用途によって、どの木をひろうか考えながらあつめたと話していた。 「多くの子供をそだてるのを、親はしんどいというが、うまれてきた子供たちだって、生半可な思いでは暮らしていけなかった」と笑いながらもらした。 この方は、小型の除雪機をつかって診療所の周囲を除雪した。診察室には村木が椅子に腰をおろすと、すぐわきに外を眺める窓がついていた。冬の降雪がひどい時期になってくると、いくら除雪しても、周囲はしだいに高くなっていった。窓枠の下まで雪がつもり、除雪機は村木の目の高さをうごいていた。しかし、窓がすべて積雪でふさがれることはなかった。 雪の時期が終わると、診療所の花壇の手入れをしてくれた。村木がなにを植えるか相談すると、日当たりがいいから野菜がそだつといった。種類について一任すると、この方は豆が大好きで、花壇は豆畑になった。春には、山菜を採ってきてくれた。秋に庭のハタンキョウが実れば、大量の果実酒を製造した。落葉キノコが大好きで、みつけるともってくるが、癖があって村木には食べられなかった。 この方も、コアな患者さんになった。 病院もない離島では、子供もうめなかった。冴子は、道北の過疎の村で妊娠した。そのとき、村木は彼女が貧血を起こしていることに気がついた。住んでいた過疎地域の行政区にある総合病院の産科の女医に話すと、 「子宮外妊娠かも知れない。出血したら子宮をとる緊急手術をしましょう」といった。 村木は、ひとり医長だったから限界があることは分かっていたが、飛んでもない話だと思った。 「もう、貧血になっています。子宮をとるまえに、できることがあるでしょう」 「冴子さんの主治医は、私です。指示にしたがうのが医療です」 なにを考えているのか、女医はひどく高圧的にいった。彼女は産科医でありながら、子供をうみたい親の気持ちが分からないのだった。 「君は、何年目の医者なのかい。自分の力量が、分かっているのかい」 「私が、何年目なのかは無関係です。あなたが何年医者をしているのかは、興味もありません。たとえひとりであっても、私は総合病院の産科の部長です。主治医の指示にしたがうのが患者の役目です。だいたい、君、なんていわれる関係ではありません。あなたは、先輩でもないし、ただの村医者にすぎないのですから」 村木は、この女性に医者としての資質が完全に欠如しているのを知った。 「それなら、大学病院につれていきます」 「駄目です。そんな勝手なことは、私が許しません」 若い女医は、気狂いのようになってわめいた。 村木は、車にのせて大学の附属病院につれていき、冴子は緊急入院した。 翌日、病院から連絡があり「すぐにきてもらいたい」とつげられた。診療所に「本日休診」の札をだして、七歳の息子といっしょに車で二時間をかけて大学につき、産科にいくと、医者がいった。 「緊急の手術が、必要になりました。いまなら、子宮をのこすことができます。奥さんに話したら、手術を希望しました。あなたを待てませんでしたので、いま手術中です」 冴子は、ひどく怖がりだった。その彼女が承諾したのを知って、村木は驚いた。しばらくして手術室からでてきた冴子は、彼の顔をみると大泣きした。 「手術は、うまくいきました。子宮はのこせました。また、子供をえることができます」と主治医はつげた。 「よかったですね。いい判断でした。あの市の総合病院には、ひどいのを送って申しわけありません。若いので、なにも分からないのです」と謝罪した。 村木は、「よく決心できて偉かったね。これで、また子供がうめるよ」と冴子にいった。 「私は知らない。先生は、あなたに連絡して、ご主人が手術を望んでいる。病院にくるまで待てないからやりますと、いったわ」と冴子は答えた。 村木は、それから三人の子供たちを授かった。 子供がうまれると手伝いの人がどうしても必要になり、議員に相談すると紹介してくれた。 七〇歳くらいの元気な女性の方で、髪の毛を紫色に染めていた。人生の達人で、冴子が入院しても、新生児がつぎつぎとうまれても、あらゆることに自然体で対応した。夕食なども、夕方ひょこっとやってきて、ごそごそっとしているうちになにかしらをだしてくれた。朝、とつぜんたずねてくると一歳になったばかしの娘をおんぶして外にでていった。しばらくすると、卵のパックを四ケースもってもどってきた。農協の売り出しにいったそうで、村木の家の分だと二パック置いて帰っていった。 婆ちゃんは、年子でうまれた子供たちをふたりまとめておんぶしていた。人生にこまることなどひとつもなく、あらゆる出来事をうけ入れ、どうにでも対処してしまう頼もしい小母さんだった。 だから子供が増えても、村木と冴子は真一をつれてナイターのスキーにもいけた。 あるとき、懇意にしていた製薬会社の方が厳冬期のワカサギ漁に誘ってくれた。釣りは、村木の趣味ではなかった。住んでいた過疎地から五〇キロくらい離れたところにある湖は、ワカサギ漁で有名だった。地方テレビでも、季節になるとしばしば紹介していた。なんといってもその湖は、日本国内最低温度の記録をもっていた。村木は、極寒期にそこがどういう状況になるのか皆目分からなかった。縁があってちかくまでにきたのだから、いってみたいと思った。せっかくだから、息子の真一もつれていこうと考えていた。話すと、冴子もいってみたいと希望した。とはいえ彼女は、ふたりの娘を年子でうんだばかしで次女はようやく生後三ヵ月だった。村木は無理だろうと思ったが、冴子は婆ちゃんに相談してみるといった。 「ワカサギ漁に、つれていってくれる人がいるの。私も、いきたいのだけれど」 冴子は、聞いた。 「きてやる。いってこい」と婆ちゃんは答えた。 「でもね。朝、五時に出発するっていうのよ」 「そうか。それじゃ、顔もあらわんできてやる」と婆ちゃんは即答した。 それで国内最低気温の記録をもつ湖にいき、極寒を体験した。 懇意にしていた製薬会社の方は、非常に温和で物静かな人だった。ところが氷結する湖面に立った瞬間、スーパーマンに変身した。おおきな開口機で、分厚い氷の掘削をはじめた。凍った湖面につぎつぎと三つの穴をあけてくれ、そこで四人でワカサギを釣った。村木は、釣りはじっくりとやるものだろうとばかし考えていたが、そんな悠長なことでは漁はできなかった。スーパーマンはずっと活躍しつづけ、その結果、かなりの漁獲があった。昼には帰宅したが、獲物は婆ちゃんと三人で分けた。 この方も、村木のコアなファンだった。 こうした手伝ってくれる方々から聞く話は、新鮮だった。たんに医師と患者さんという関係では、分からないことはたくさんあった。 人びとの生活の実態を知るには、家をたずねるのが有効だった。 村木は、たくさんの往診をくりかえしたが、決してお金にはならなかった。保険診療では、車賃をとってもよいとされていた。現にどの医者も、一回につき一万円程度の往診料を徴収していた。彼は、そんなものを要求したことはなかった。 当時、村木は、だれからもまったく信頼されていなかった。それは、残念なほどだった。 往診は、この地区では週に一回までと決められていた。保険点数は、決して高額ではなく、せいぜい五〇〇〇円程度だった。車で職員をつれていき、診察して帰ってくるのに、どんなばあいでも小一時間はかかった。それだけを考えれば、割があわない仕事だった。 さまざまな往診依頼をうけた。 どうしても親族があつまるお盆まで生きながらえさせて欲しい、という希望があった。患者さんは、ダムにいく途中の村に住んでいた。仕方がないので片道三〇分以上かけて、二週間くらい日参した。とうぜん保険点数の往診料は、週に一回の請求しかみとめてもらえなかった。さらに、この方は癌の末期で座薬では疼痛がとれなかった。それで、麻薬を購入した。経口的には服用できないので、砕いて肛門から挿入する。麻薬を購入するには、保健所に申請し、麻薬簿と麻薬金庫を整備しなければならなかった。薬剤は、この患者さんのためだけに必要だった。一〇錠つかうのに一〇〇錠入りを購入して、のこりは保健所の審査をへて処分しなければならなかった。廃棄した分は、村木の持ちだしだった。 後日談だが、患者さんは、家族の希望どおり親戚にかこまれて亡くなった。そのあとで家人がお礼にきて、とても助かったといった。村の医者に頼んだら、往診料だけで一〇万円以上もかかったと話された。村木は、心情的には複雑だった。しかし、この家族の本音を聞きだすためには、休日もふくめて二週間、往復一時間かけて通わなければ分からないことだった。 ほかにも、褥瘡がひどくなって毎日の処置が必要だった患者さんもいた。皮膚を鋭利な器具をもちいて掻爬し、あたらしい肉芽を出現させねばならなかった。この患者さんは、娘さんとふたり暮らしの、とても貧しい家庭だった。家はアパートの一室で、なかには家具もみあたらなかった。 保険請求時に、往診する以外に術がなかったと、どんなに記載してもすべて削られた。再審査申請書をあげると返事がきた。 「医者が往診し、実際にそうした処置をするとは、とても信じられない」とかかれていた。保険者は、質の悪い不正請求とみなした。 だから、往診費用はほとんどすべてが持ちだしだった。 この方のばあいは、家に置いておくことがすでに問題だった。村木は、懇意にしていた老健施設の責任者に幾度も会いにいった。この方の状況をつたえて、くりかえし施設に収容してもらいたいと嘆願した。 施設長は、あきがないのでショートステイという形でまずうけ入れよう。状況をみて、さらに考えようといった。それで、搬送のために職員がきた。うごけないので、布団に寝かしたまま窓から車に移動させようとした。職員たちがもちあげたときに、この方は畳に転落した。それで大腿骨の複雑骨折になり、救急車で総合病院に搬送された。 その後の事情を、村木は知らない。 さまざまな理由から、栄養チューブを挿入しなければならない患者さんもいた。このチューブ代、四万円は、どんなに請求してもみとめられなかった。患者さんは、脳梗塞後遺症で認知症をともなっていた。延命しても仕方がなかったが、どうしようもなくなると総合病院に入院した。そこで静脈栄養をつかって、体力をとりもどす。その結果、すこし食事ができるようになる。しかし、退院すればおなじ状態をたもてない。当時、そこでは認知症の患者にも、お金になるという理由で胃瘻をつくっていた。この患者さんのばあいは、それだけはやめて欲しいという村木の主張が通った。家族から、どうしても生きながらえさせたいと訴えられ、週に三度くらい処置に通っていた。 家は、おおきな田んぼをもつ地域ではそれなりに豊かな農家という印象だった。 患者さんは、九〇歳ちかい老女だった。家には、四世代の方々が暮らしていた。主は、四〇代の男性だった。同い年くらいの奥さんと、複数の子供さんがいた。男の母親は、六〇代の女性で、通称、なか婆ちゃんといった。患者さんは、おお婆ちゃんにあたっていた。 考え方としては、四〇代の男を中心に、たがいに血縁関係をもたない三世代の女性が暮らしていた。現代の都市部では滅多にお目にかかれない、かなり複雑な家庭だろう。 患者さんは、病態としては老衰だった。村木が考えるなら、食事ができない以上、粛々と死んでいくべき人だった。自然の成り行きに任せるべきではないかと話したが、家族はうけつけなかった。この家族構成で、意志決定者はあきらかにご主人だった。 なぜ、これほど延命しなければならないのか、村木はどうしても分からなかった。あとは可能性だが、おお婆ちゃんは、生きていればお金になったのかも知れないと思った。彼は、そうした制度にくわしくはなかった。農家の主婦だから自分の年金はなくとも、遺族年金みたいなものはでるのかも知れなかった。そんな事情を考えねばならないほど、彼には理解できなかった。 奥さんは、非常によく面倒をみていた。彼女は、あるとき村木にいった。 「総合病院の先生は、とても親切なのです。食べられなくなっていると話したら、点滴を二本くれました」 村木は、複雑に感じた。すくなくとも、その点滴は医者のものではなかった。病院の備品で、つきつめれば税金だった。彼が往診に応じたのは、使命感だった。自分の医療圏で苦しんでいる者がいたから、利益を無視してつくした。それは、だれにも理解してもらえない行為だった。 最終的には、村木はご主人と話しあった。 医師として、延命には賛成できない。なによりも、本人が可愛そうで仕方がない。村木は、自分が延命治療をうけたいとは考えていない。原因が特別な病気ではなく、老衰によって食事ができなくなったなら、死んでいきたい。あなたも、こんなに周囲のことが不明でも、生きながらえたいのかと聞いた。 しばらくして、ご主人は、自然の成り行きに任せたいといった。一週間後、患者さんは亡くなった。 いま思いかえしても、こうした暗澹とした気持ちになる出来事は数多くあった。どんな仕事であっても、かけた思いが簡単に報われることはない。とくに世間からみすてられた僻地でいい医療をほどこしたいなどと考えても、快哉と叫ぶ事態とはどこまでも相反していた。一個の医者の力では、どうにもならない事件の連続だった。これ以上の話は、紙面を汚すだけだろう。 村木の胸の奥ふかくにしまっておくべきものだろう。 農村は、漁村とはかなり雰囲気が違っていた。水田の区画整理や、用水路、暗渠の整備など協同作業が必要だったから共同体意識がつよかった。みんなが、おなじであるのをひどく大切にしているようにみえた。あくまで同一性を追求し、多様性を排除していた。だから自作農とはいっても、完全に一国一城の主だった漁師とは違っていると感じた。 稲作でも、耕運機からはじまってトラクターなど使用する機械の種類も多く、かなりの設備投資がかかる。実際には、農協に多額の借金をかかえていたのだろう。離島の漁民たちが漁業組合から拘束されるのと、おなじ構図ができているのではないかと村木は思った。とはいっても、設備投資できる農家、酪農家は、間違いなく裕福だった。 そうしたことができない貧農もいた。また、生活保護をうけている世帯も多かった。村木がよくみても、どんな仕事をしているのか不明な人びともたくさんいた。 こんな僻地であっても貧富の差があり、さらに貧しい人たちが住んでいるのは驚きだった。そうした者たちが疎外され、救いのない状態に置かれているのは、悲しいほどだった。いっぽう、こうした土地で威張って暮らす者もいた。序列化とまではいかないのだろうが、「弱い者虐め」をする小ボスが必ず住んでいた。 村木には、北海道で新聞記者になった友人がいた。 彼は、さまざまな支所にいき、地域をまわり、道内の農村は非常に民主的だといった。どんな問題でも、要求があれば住民は小ボスに訴える。すると力をもっている彼らは、行政につたえ、必要なものを実現できる。きわめて民主的な構造ができているといった。 村木は、地域に入ってみてそうは思えなかった。おそらく新聞記者というのは、かなり立場のある仕事だったのだろう。だから、ほんとうの下層民たちと接点がなかったのだろうと思った。地域の小ボスが汲みあげる意見は、自分の意向に沿っていた。嫌われれば、そもそもとりあげられない。 小ボスたちは、「地域の融和」という言葉をつかって反対意見を封じこめていた。きわめて保守的な地盤だと感じた。力をもつ者にとって有利な「融和」が、要求されていた。だから、どの地区でも虐められている者たちがいた。 こうした小ボスは、非常に質の悪い者だった。彼らは、地域で行われる祭りの実質的な主宰者で、地区選出の議員よりもずっとおおきな力をもっていた。おおむねは、土木建築業の社長で市の建設部と癒着していた。地域住民は、力のあるボスの事情を配慮し、忖度までしていた。この構図によって、貧しく弱い者たちは、救いがない場所に貶められているように映った。 どんな山の奥にも、人家がつくられていた。廃屋などもみかけたが、山麓ではどこにも人が住み、畜産を営んでいた。入植した人びとにも幸運と不運があり、多くの者が離農していったに違いなかった。営んでいられたのは、勝ちのこった者たちだったのだろう。 村木は、こうした酪農家にも往診していた。 患者さんは、脳梗塞の後遺症で、お嫁さんに大切に看護されていた寝たきりの老婆だった。老健施設なども整備が不充分で、順番待ちだった。入院ではだれかが付き添いとして必要になるので、往診はたいへん感謝された。帰りには、牛乳をたくさんもらった。職員で分けたが、とても飲みきれないほどだった。 奥さんの仕事は、たいへんな量だった。彼女は、子供をうみ、そだて、病気になった舅や姑の面倒をみる。家事はもちろん、牛の世話もしていた。 おおきな畜産農家で、一基三〇〇〇万という立派なサイロが複数、立っていた。ご主人のトラクターは、ベンツのマークがついていた。酪農を営むには、かなりの設備投資が必要になるのだろう。この地区では間違いなく豊かな部類に入るが、おそらく農協の借金にしばられて仕事をつづけていたのだろう。朝から晩まで、家族全員で業務をしている感じだった。 どこにいっても、人がつくる世界は、生きるのがたいへんそうにみえた。 この地域は、周囲を山にとりまかれ盆地状になっていた。夏は三〇度をこえる日もあったが、乾燥していてすごしやすかった。寒暖差が六〇度にもなる、文句なしに豪快な風土だった。 秋の紅葉は、素晴らしかった。 ダム湖の周囲はもちろん、天塩岳にいたるまで美しいと表現するしかなかった。村木は、休日の晴れた日には車で紅葉狩りを楽しんだ。しかし、いちばん心にのこったのは裏山の雑木の紅葉だった。なにが美しいといっても、最高の日は一日しかなかった。だから毎日みていると、その素晴らしい瞬間に出会えた。日に照らされた裏山の紅葉は、どんな場所よりも輝いていた。 村木は、ずっと秋が好きだった。しかしここで厳しい冬をすごして、春がどんなに素晴らしいものか実感できた。 白いコブシが咲き、桜がつづいた。ダム湖は、雪解け水によって満杯にまで膨れ、おおきく領域をひろげ、ダムの季節をむかえた。湖をかこむ山々のところどころに、山桜がピンクの花弁をつける。そこに日の光があたると、ひろがる青に映える。だれひとりいない静寂のなかで、湖面は風に吹かれて揺れ、印象に震える。みわたせる世界のすべてが、春の喜びにあふれる趣を醸しだした。 村から丘陵をこえて市にむかうくねくねとした坂道は、村木の大のお気に入りだった。雪がとけると、枯れた牧草地がつづいていた。それが、ある日とつぜん緑にかわった。色づいたのに気がつくと、美瑛のような丘陵地帯になってつづいていた。そこに、黄色い菜の花畑が忽然と出現する。連作ができないらしく、毎年、違う場所に咲いていた。一面をしめる菜の花は、真っ黄色の領域になって区画いっぱいにひろがっていた。春には、冴子といっしょにこの地区を車でくまなく散策した。 ある夏のことだった。夜の一〇時ごろ、とつぜん玄関の鍵がガチャガチャとまわる音が聞こえてきた。その音響は、執拗にくりかえされた。不審に思った村木は、冴子といっしょに玄関にいき、明かりをつけた。扉口のガラスに人影が映ったのをみて、今度は扉をたたきはじめた。 「どちらさまですか」と村木はたずねた。 「むかいのババです。どうか、後生ですから入れてください」と嗄れ声が聞こえた。 村木は、その声に聞き覚えがあった。もしかしたら、と思って扉をあけると老婆が立っていた。診療所から五〇〇メートルくらい離れた農家の姑さんだった。 扉をあけてうながすと、老婆は玄関に入ってきた。彼女は、茶色の風呂敷のつつみをひとつ胸にかかえていた。裸足に気がついて、冴子は雑巾をもってきて足をふいてやった。 そのあいだも、老婆は茫然とした表情で立っていた。足の裏も綺麗になったので、部屋のなかに入ってもらった。 となりの居間に通して、「どうぞ、おすわりください」と村木はいった。 老婆は部屋をみまわし、「ここは、なんて、あかるいのでしょう」と口をひらいた。 それから、村木と冴子をじっとみつめた。 「先生ばかりでなく、奥さまも、なんと神々しいのでしょうか。おふたりの頭には、金色の後光がさしております」と涙をながしながらいった。 意味不明だったが、なにやら興奮し、思いつめているようだった。村木は、食卓テーブルにすわってもらい、お茶とちょっとした菓子をだした。事情がさっぱり分からないので、彼は、落ちつかせるしかないと思った。真一はもう寝ていたので、冴子と三人でテーブルをかこんで、しばらく世間話をした。 そのうち、老婆はいくぶんか落ちつきをとりもどした。 村木は、たずねてきた理由は聞かなかった。 やがて会話がつきると、老婆は、今晩、泊めてもらいたいといった。 村木は、夜がふけているのを理由に彼女の考えに賛成した。風呂をすすめたが、老女はいいといった。冴子は、自分の寝間着をもってきて着替えるかと聞いた。 老婆は、風呂敷包みから寝衣をとりだした。そこには、歯ブラシもみえた。 村木は、彼女のつよい意志を感じた。 診療所のむかいとはいっても、あいだには農地がひろがっていた。一キロまで離れていなかったが、五〇〇メートル以上の距離があった。家出を覚悟した老婆は、電灯もない真っ暗な道を、泊めてもらえると信じて裸足で歩いてきたのだった。 夜も大分ふけたから、もう寝ましょうという話になった。老婆にあたらしいタオルをわたして、洗顔をすすめた。村木は、自分の書斎に布団をひき、ここに休むようにいった。彼女は、指示にしたがった。 この老婆は数えで一〇〇歳にあたり、村木の診療圏では最高齢だった。彼は二ヵ月に一度、彼女の家を往診していた。痩せて小柄だったが、頭は明晰だとばかし考えていた。こうして行方不明となれば、家族が心配しているのは間違いなかった。 夜もふけていたが、村木は彼女が休んだのを確認すると診療所にいって電話をした。 老婆は、息子夫妻と暮らしていた。かなりおおきな農地をもつ、それなりに裕福そうな農家だった。彼女が一〇〇歳だから、息子は七〇歳以上になるのだろう。外見は、もっと若作りで日焼けして精悍そうにみえた。お嫁さんは、六〇代の前半くらいに思っていた。 とうぜんのことだが、家族は老婆がいきそうな場所へはすでに連絡していた。ほぼ村中で老女の失踪は、事件になっていた。 村木が、老婆が来院していることをつたえると、お嫁さんはすぐにむかえにくるといった。 今日のところは落ちついて、休んだと思うから安心して欲しい。むかえにくるのは、明日にしたらどうか。朝、起きた様子で連絡するから、それから考えようと村木は提案した。 彼女は、旦那と相談し、同意した。 翌朝、冴子もくわわり、食卓テーブルでいっしょに朝食をとった。 村木が意向をたずねると、「点滴をしてもらいたい」と老婆はいった。それで、診療所のいちばん奥で補液をはじめた。 医院があくと、患者さんがやってきて待合室は混雑しはじめた。そうすると、来院した者のひとりが奥で点滴をしている老婆をみつけた。彼女の失踪を心配した家族は、思いつく場所、すべてに連絡したに違いなかった。老婆が診療所にいるという事実は、さまざまな憶測とともに瞬く間に噂になったらしい。 やがて、ひとりの婦人がやってきて、村木に話があるといった。診察が一段落したらと答えると、女は奥の点滴している老婆のそばに腰をおろした。ふたりは、なにかを話しあっていた。手があいた村木がいくと、彼女はさまざまな話をはじめた。 老婆とは、親子のような関係なのだ。今回の失踪は、ひどく心配していた。昨晩は、眠れないほどだった。老婆は、お嫁さんとうまくいかず、ずっと仲違いをしている。このまま家人のもとにかえすのは、如何なものだろうか。ほかの手段はないだろうか。施設などはどうか。などと矢継ぎ早に話した。 この農村という世界は、一種、異様な領域をつくっていた。狭い共同体なので、たがいがどういう関係なのか、外部の者には分からない。村木は知る気もなかったが、仲間とそうでない者たちを峻厳と差別しているのは理解した。彼らの話のなかには、兄弟同然とか、親子みたいなという表現がしばしばでてきた。なにをいいたいのか、村木にはまったく不明だった。実際には、血のつながりがないのだろうとしか考えられなかった。 女性があまりにさまざまなことを話すので、村木は、 「それでは、あなたが引きとって、いっしょに暮らすのですか。そういうふうに、ご家族にお話ししたら如何ですか」と聞いた。 その言葉に、女性は黙った。 「もし、そこまでのお気持ちがないのなら、これはご家族の問題です。今回の出来事に関しては、奥さんと充分に話しあっています。もう、家に連絡する時間になりました。部外者が立ちいる問題ではないと思いますが、如何でしょうか」といった。 村木の言葉に、彼女はぶつぶつと呟きながら帰っていった。 こうした話の一部始終を聞いていた老婆は、かなり落ちついてきた。 家族に連絡をとりたいが、いいかと村木がたずねると、そうして欲しいといった。電話すると、すぐに息子と奥さんがむかえにきた。それで、いっしょに帰っていった。 後日、息子と奥さんが村木をたずねてきて、丁寧な礼を述べた。お嫁さんは、たいへん普通の方で往診時に幾度も話したことがあったし、好感をもっていた。今回の件は老女の被害妄想だと、村木は確信していた。 お嫁さんは、涙をながしながら若いときに老婆に虐められた話をいくつかした。 「お婆さんは、どうしてもそのことを思いだすのです。そうすると、弱い立場になった自分も、おなじ目にあうと考えるのです」と涙ながらにいった。 村木は、点滴中に起こった事件を彼が話した内容もふくめてつたえた。 それを聞くと、嫁さんはまた泣いた。 ふたりは、ひどく感謝した。 「家庭の事情は、人さまには絶対に分かりません」と息子は泣きながらいった。 この方は、満一〇一歳になった年、家族にみまもられて亡くなった。完全な老衰だった。徐々に弱ってきて食事ができなくなると、家族は点滴を希望した。 村木は、よく説明した。 点滴は、なにも解決しない。ただ、苦しむ時間がのびるだけなのだ。それは本人にとってだけでなく、ご家族もおなじなのだ。ここまで充分に天寿をまっとうしたのだから、人の手を離れている。じっと、みまもるのがいいのではないか。具体的には、氷や濡れたガーゼを口にふくませたらどうか。苦しむばあいがあれば、それをとりのぞく方法を考えようといった。 家族は、彼の話に納得した。 老女は、死ぬ直前に村木に会いたいといった。往診すると、まだ意識があった彼女は、彼の手掌をそっと握った。枯れ木のようにほそい手は、乾燥し、冷たかった。 長年、さまざまな場所で診療してきた村木は、年老いた者たちが奇妙な性向をもつのに気づいていた。とくに女性に顕著だが、やたら身体に触れたがった。診療中だから腕が主な部分になるが、老女たちは機会があれば撫でまわしている。村木は、そうした傾向を知っていたから、左腕はうごかさず勝手に触れさせておいた。それは、薬師如来などの、なにかのご利益があるものを撫でまわす参拝客の姿を連想させた。彼女たちは、そうすることによって、自分の身体にいい物質を吸収できると信じているようにも思えた。 老女は、村木の手に触って安心した。寝入ったようにみえたので、彼は自宅にもどった。 それから半日くらいして、彼女は、苦しむこともなく眠るように死んだ。 委託診療をはじめて三年ほどたった、初夏、午後の出来事だった。 み知らぬ男が診療所にあらわれ、村木への面会をつよく希望した。事務員が用件をたずねたが、はっきりとした目的をいわなかった。名刺をもらいたいと話すと、男はもっていないと答えた。事務員が不審に思っていると、薬剤関係の者だが来院の目的は販売ではないといった。背広姿の男は、普通の会社員のようにみえた。 事情をつたえにきた事務職員が、村木にどうするかと聞いた。彼は、ちょうど手があいていたので会ってみると答えた。 事務員に招じ入れられた男は、うながされるままに村木の正面のソファーに腰をおろした。来院の目的をたずねられると、薬剤関係の者だが、どうしても一度お目にかかりたかったといった。 不審に思っていると、男は村木をじっとみつめた。やがて、 「先生が、名医なのですね」と口をひらいた。 「どうしましたか」と村木が聞いた。 男は、ここは一〇年以上にわたって自分に割りあてられた地区だったといった。去年、診療所にいい医者がきたのを知った。今年この地域をまわって、ぜひとも名医に会ってみたいと思ったと話した。 村木は、内容がよく分からないと答えた。 男は、富山の置き薬をこの地区で販売してきたと話しはじめた。以前は、充分な売りあげがみこめた地域だった。ところが、去年からさっぱり売れなくなった。今年もきてみたら、どこにいっても村木の話ばかりで、薬はひとつもさばけなかった。彼が診療するかぎり、もうまわっても無駄だと分かった。来年からは、あきらめるつもりだ。この地域には二度とこないから、そのまえに一度、みんなが噂をしている名医とはどんな人なのか、みたかったといった。 男は、そう話すと、診療所をでていった。 七、地域医療 村木は、五年目に、委託診療をしていた村を行政区としてもつ市にでて開業した。 彼は、充分な設備を配して理想の医療を行ってみたかった。市にも開業医がいたが、高齢で旧態依然とした診療をしていた。 冴子は、義父に村木がこの地方で病院をたてるとつたえた。 それを聞くと父親は、「そんなことをして、いつ帰ってくるのか」とたずねた。 冴子は、医院をつくるのだから、もどらないとつたえた。 彼女の両親は、たてるのはやめて帰ってくるようにいった。 実際に病院がつくられ、診療をはじめてからも帰郷をうながす電話があった。 義父は、病気になって医院を手放す直前までふたりがもどってくると信じていた。なぜそう信じこんでいたのか、どうしても分からなかった。 村木が暮らしていた市の人口は、二万五〇〇〇人だった。彼の診療所には、三万枚以上のカルテがあった。市の周辺の町村からも、患者さんはわざわざやってきてくれた。診療所は、北海道でも五指に入る無床施設として大いに繁盛した。とくに宣伝したのでも、特別なサービスを行ったのでもなかった。ただ患者さんが、村木の医療が自分にとって有益だと判断した結果だった。 島とは違って複数の開業医もいたし、有床の施設もあったので、彼が診療できる科目の多さをふくめ、激しい嫉妬やあきらかな妨害が起こされた。 医療関係者は、うんと狭い息ぐるしい地域で力関係に支配された秩序に適合し、自らすすんで組みこまれていた。新参者である彼に、一生懸命、序列動作を行う者もいた。 村木は、この地で理想の医療を追究した。 業務は、採血の結果がでてくる六時のデータ受信からはじまった。無床の診療所は、血液の検査施設まで自前ではもてず、信頼できる検査機関に依頼していた。 検査受託機関は、全道から検体をあつめ、基本的には札幌のセンターで測定し、管理していた。貧血などのルーチンな項目に関しては、いくつかの集配所で行うばあいもあった。結果は、すみやかに札幌センターに送られ、ほかの検体のデータとまとめられる。 血液データは、一度、測定されれば終わりではない。基本的にすべての血液検体は、凍結保存される。後日、問題が起これば検体を再検し、再度データを確認し、追加の項目をしらべる必要が生じる。再検値が初回といちじるしく違い再現性に欠けるばあい、検査センターとして信頼に足らない。値段が安いセンターもあるが、コストだけでは判断できない。どこに委託しても保険点数はおなじだから、いい加減な業者も存在する。残念なことに、そうした廉価な会社が存続可能なのは、点数だけを欲しがる安ければいいという需要もあるのだ。 外注した検査結果は、通常、翌日には入手できない。四、五日経過して、診療所をまわる検体集配員が測定値を記載した用紙をくばる。それを事務員がカルテにはさむか糊付けし、つぎの受診日にはじめて医師が判断するのが通常の過程だった。受診しなければどんな異常値であっても、だれも知らない事態が総合病院でもごく普通に起こった。 村木は、患者さんがコストを負担しながら結果が放置される状況を看過できなかった。 そのころ通信回線により、データをやりとりするシステムが開発された。光ケーブルはなく、回線で送られるデータ量はいまから考えれば非常にわずかだった。PCも容量がちいさく、緩衝器をつかって一時的にデータを保留しなければ受信もできなかった。だからこの通信システムを構築するためには、検体をだす開業医のつよい希望が必要だった。また受託検査機関にかなり有能なスタッフがいて、試行錯誤のさまざまな対応を行い、はじめて実現できたシステムだった。 村木がデータ管理にうるさい開業医なのは、検査センターも充分に知り、特別な配慮をしてくれた。 早朝にデータを受信し、もし来院の必要をみとめる異常値だったばあい、電話して患者さんが仕事にいくまえにつたえねばならなかった。日々の検体は多量で、まとめるには一時間以上かかった。この作業は、検査値が正常範囲なのかチェックするだけでは不充分だった。今回えられた数値が患者さんの過去のデータと整合性をもつのか、くわしく検討しなければならなかった。各項目を経時的に比較したグラフを印刷し、患者さん個人の異常値をみつける。理にあわない結果なら検査センターに再検を依頼する。 そのために患者さんひとりにつき、一〇枚くらいの経時グラフが必要だった。 村木は、採血データを本人によく納得してもらってわたしていた。それをみた者は、視覚的に自分の病態が理解できた。かかれたグラフは、糖尿病や腎臓病、高脂血症などの患者さんが現状を知るツールになり、定期的に採血を希望する行動にもつながった。そのため、さらに検体がでた。 医学は、ふかい学問で、教授を筆頭に世界中で寝食を忘れて究明に没頭している者が数え切れないほどいる。大家が述べたことが正しいと考えられた時期もあったが、かつての医学的常識はくりかえしくつがえされた。正誤の判断は、批判に耐えうる証拠が必要な時代にかわっていた。医学は日々枠組みをかえ、再現性を追究する科学になっていた。 村木は、午前中に胃の内視鏡検査を、七、八件、施行していた。午後は、大腸内視鏡検査を、一、二件、行った。早期胃癌発見数では、該当する医療圏では有床施設をふくめて、ダントツのいちばんになった。これだけの検査をしながら、医療事故は一件も起こさなかった。もし事故が生じれば、つづけることはできなかっただろう。 もちろん、彼は運にも恵まれていたのだ。 医療事故を起こす者は、くりかえしている。村木の同期でも不本意にも事故に遭遇し、ノイローゼになって自殺した医者がいた。医療訴訟が起これば、激しいストレスから働く気持ちも、うせるのが普通だった。しかし医者のなかに、なんとも感じない乱暴な者がいるのは間違いなかった。 早期胃癌の発見数が管内で一位だという事実は、胸を張れる立派な実績だった。なぜなら癌は、内視鏡的な処置で体外から完全にとりのぞけたからだった。つまり患者さんは、自分のどんな器官も損傷せず、術後なんの制限もなく日常生活を送ることができた。いっぽう当時よく行われていた胃のバリウム検査は、おおきな進行癌をみつけるためだけのものだった。診断を確定するには、いずれにしても内視鏡検査が必要だった。被曝をともなうバリウム検査自体も決して楽なものとはいえないが、エックス線をつかってバリウムの影をみるだけなので精度におおきな限界をもち、早期胃癌の発見は絶対にできないと断言できる。偶然、早期癌がみつかるばあいも現実にはあるが、医者がどう説明しようとバリウム検査の結果とはまったく無関係だと考えてよかった。正直にいうなら、完全に無意味な前時代的な遺物といえた。もし胃癌が心配になって検査をうけようとしたとき、医師がバリウムをすすめたら、理解の程度が低いか、べつの魂胆をもっていると思って、それ以上つきあうべきではない。すくなくても、内視鏡検査に不慣れな医者だろう。その医師は、診断をつけることができないのだ。 村木は、苦しみを軽減する目的で、経鼻内視鏡を使用した。狭い鼻腔を通すため管の太さに制限があり、解像度は経口内視鏡よりやや劣っていたが、検査をうける患者さんは苦痛がすくないので、充分に納得するまで丁寧に胃壁を観察できた。こうして村木は、たくさんの早期胃癌を発見した。彼の考えにしたがうなら、経鼻内視鏡は、医学レベルには解像度にやや問題をかかえていた。しかし医療レベルでは、経口内視鏡をはるかに凌駕する機種だといえた。それは、彼の医療圏で早期胃癌発見数が一位だったという事実が、燦然と物語っていた。 とはいっても、村木がいつでも正しい行為ができたわけでは決してなかった。まだまだ足りない部分は膨大だったし、診療のなかで間違いも反省すべき点も、たくさんあった。ただ患者さんを第一に考えようとし、なによりも正直に、誠実に対応したことだけは事実だった。医療は、患者との信頼関係を構築できなければ、やる価値もない無益な行為で、よい結果には決してつながらなかった。 さまざまな患者さんのなかには、はじめから村木を侮辱するつもりで来院する者たちもいた。患者が一極に集中する現況を快く思わない人びとは多く、ネガティブキャンペーンはつねに行われていた。村木は、患者さんがへらない以上、仕方がないと考えていた。彼がキャンペーンに対応しようとしなかったので、こうした行為はエスカレートする傾向をもっていた。とはいっても、首謀者は、決して村木のまえにはでてこなかった。どういう関係なのか不明だったが、いってみれば「チンピラ」みたいな者が診察室にあらわれた。村木は、この地区には開業医も有床施設もあるのだから、自分の気に入った施設への受診をすすめた。そうした患者は、非常に不愉快な言葉を浴びせながら医院をあとにするのが常だった。 北海道の農村地帯は、もともと旧社会党がつよく、革新的な地域だといわれていた。村木は、この考えは基本的に間違っていると感じた。農村地帯は、自民党、旧社会党、どちらの地盤であっても、保守的なのはかわりがなかった。農村という構造が、革新的な行動を阻害するのだろう。なによりも、既存の秩序が優先される。それは、地区の有力者たちにとって、たいへん好ましい事態で、だれもが「小ボス」になりたいと思って我慢し、努力してきたのだ。彼らは、貧しい人びとや社会的な弱者たちを「落ちこぼれ」として排除し、自らに都合のいい既得権益を必死でまもろうと画策していた。 「村八分」は、決して死語ではなかった。 数々の利益団体と癒着し、不正な裏金をつくって、自分たちの権力欲や快楽をとことん追求する旧態依然とした日本の政治が、まさに彼らのお手本だったのだろう。 村木は、さまざまな施設で研修してきた。苦痛をともなう検査を患者さんに施行するばあいは、手技をよく考えた。なによりもまず、患者の利益につながるべきだった。患者さんを人として丁寧にあつかわねばならないのは、医療行為の基本だった。通常、どの施設でも内視鏡検査は、術者と補助する者とのふたりで行われていた。医師は、内視鏡を両手で保持するので、胃の組織の一部を鉗子でとりだす生検(バイオプシー)を施行するためには助手が必要だった。 村木は、被験者に配慮が払われないかぎり、患者さんは楽にならないだろうと考えた。なぜなら多くの施設では、患者は匿名化され、検査の中心から疎外されていた。つまり、この形式では、患者さんの苦痛を共有する者がどこにもいなかった。患者は、検査のために我慢することだけがもとめられていた。丁寧にあつかわれない以上、たとえ有益であっても、二度とうけたくないと思うのはとうぜんだった。彼は、この検査が医師とふたりの看護師たちによる三人のチームを必要としているのではないかと考えた。資格を有する看護師が内視鏡時に患者さんの専属となるなら、その役割はおおきな意義をもつだろう。すこしでも楽な検査にするために、そうした人員を配置するのはコストにみあう充分な価値があるだろうと考えた。専属となった者がなにを行えば、より効果的なのか、くりかえしスタッフと討議した。実際に看護師に内視鏡を施行し、どう手助けすれば苦しみをすこしでもへらせるのか、みんなで体験して考えた。こうしたことをくりかえして、彼女たちは、経鼻内視鏡検査における介助のプロになった。 内視鏡をうける患者さんは、右側臥位で検査台に横臥する。ビデオ内視鏡を患者にもみえる位置に置き、余裕のある被験者は、画面を医師と共有することもできる。介助する看護師は、内視鏡検査では患者さんの背中がわに立っている。彼女は、患者の左手をかるく握り、右手を背中に添え、検査中ずっと耳もとで状況を説明しつづける。 「いま、いちばん奥にいきました。あとは、帰ってくるだけです」 「なるたけ、溜め息をつくように、はー、はあ、という浅い呼吸をくりかえしてください。お上手です。こうすると、検査がずっと楽になります」 「とても、胃壁は綺麗です。おおきな病変はありません。いまは、微細な問題がないか、丹念に観察しています。もうすこしで終わります」 「どうしても苦しかったら、私の手を握ってください」 彼女たちは、患者さんに状況を囁きながら、身体に触れつづける。これは、おおきな安心感を被験者にあたえた。こうして、この検査は多数の方々にうけ入れられた。 医療圏はちいさかったので、一日八例、週に四〇例などという途方もない内視鏡検査をずっと行うためには、いい評判がつづかなくては不可能だった。それができたのは、あきらかに彼の施設が患者さん、ひとりひとりを大切にあつかった証拠だった。 村木は、待合室をおおきくつくり、そこをつかって二ヵ月に一度くらい糖尿病教室や腎臓病教室をひらいた。採血のグラフの見方や、食事療法の実際などを定期的に指導した。 予防医学には力を入れ、休日を利用して行うインフルエンザの予防接種は、日に二〇〇人以上にものぼった。道の保険機関からは、一診療所としては考えられない数だったので間違いではないかと、くりかえし問いあわせがきた。 さらに市のホールを使用して、「新型インフルエンザ」、「尿失禁」、「禁煙」などのテーマで市民講座をひらいた。 村木は、院内新聞を年に四回の目安で発行した。最近の医療の話題や、その時期に流行する病気の解説。院内での出来事や、スタッフの紹介記事などを載せた。 こうした事柄は、医院をつくったらやってみたいと考えていたものだった。 村木は、この施設でいくつかの新薬の開発にたずさわることができた。 あたらしい薬剤が、効能どおりの薬効を示すか検討する作業を臨床治験という。新薬を一般の医療機関で処方するためには、この段階を避けることはできない。ひとつの薬剤にたいして、全国で二〇〇人くらいの症例が必要になる。臨床治験は、二重盲検という方法で行われる。対象の疾患を有する一〇人程度の患者さんをえらび、治験薬と偽薬を服用する半分ずつの群に分ける。製剤には番号がふられ、医師は投与する薬剤が治療薬かどうかが分からない。プラセボは、治験する薬と色も形もそっくりにつくられている。だから患者さんも、自分が効果をもつ薬剤を服用しているのか分からない。医師も患者も、つかわれているのが治療薬なのかプラセボなのか不明なことから、二重盲検試験(ダブルブラインドテスト)とよばれる。 こうした治験は、主治医と患者さんとの信頼関係がないとどうしてもできない。半数の者に一定期間、治療薬を服用させないことが前提になるので、医者が患者の病態を充分に把握していないと実施できない。あきらかにプラセボで被験者の不利益につながると医師が判断したばあいには、即座に治験を中止する必要がある。また新薬に、予期しない副作用が生じることも起こりうる。とはいっても、創薬の治験は四段階に分かれるが、この最終段階まですすんでこられた治験薬に、毒性はほとんどみとめられない。 新薬の開発は、人に薬効を示す化学的な基本骨格がなにか、さがしだすことからはじまる。どの化学構造が有効なのか判明すれば、コンピューターをもちいて、化学構造式のなかにこの骨格をもつ化合物を三〇〇種類くらいつくりだして候補薬を選出する。こうした候補のほとんどは、マウスをつかった初期の毒性検査で除外されてしまう。有効性とのかねあいを考えながら、最終的に一種類の治験薬にしぼりこむ。この薬剤を通常投与量の一〇倍くらいまで健康成人に一定期間、服用させ、人にたいする毒性、副作用について検討する。人体に有害でないと考えられた治験薬が、疾病にたいしてほんとうに有効性をもつのかどうか、最終的に判断するのが第四相の二重盲検試験にそうとうする。海外で実際につかわれている薬剤を、わが国で承認させるばあいにも臨床治験は必要になる。日本人にたいしても有効で重篤な副作用がないという証拠がえられなければ、保険診療には適用されない。ほとんどのばあい、薬効は、人種差をこえ、海外の情報と矛盾しないとたしかめることができた。 むずかしいのは、完全な新薬だった。 新薬開発の現場では、高額な費用をかけてもほとんど成功しない現実から「クスリは、リスク」ともよばれている。毒性を排除した群から明確な有効性をもつ薬をえらびだす作業は、非常に困難だった。たくさんの治験をしたが、村木が処方した薬剤は、どれでも効果をみとめた。前立腺肥大症などでは、だれがプラセボを服用しているのか、どうしても分からなかった。全国で予定した行程が終了すると、「キーオープン」が行われた。そこではじめて、どの患者が治療薬を服用していたのかはっきりする。結果を知らされると、プラセボが非常に効果をもっていることが分かった。 大手製薬の開発担当者は、「なぜ、偽薬がこんなにきくのでしょうか。こうなってくると、薬とはなんなのか、問いなおす必要がありますよね」と村木に嘆いた。 これは、医療への信頼といっても過言ではないと彼は感じた。ほとんどの治験薬は、偽薬群との有意差が全国レベルで確認されず、承認されなかった。 そのなかで、現在、骨粗鬆症薬として、どの医療機関でも処方されている国内メーカーが開発した薬剤は、世に送りだすために村木が一役買った新薬だった。 一〇数年たって、一度だけ税務調査員が入ってきた。おなじ街の開業医たちは、ついにマルサがうごいたとさかんに噂をした。 となりの市からやってきた税務調査員は、山となってつまれた自由診療のインフルエンザ予防接種の領収書には、なんの興味も示さなかった。一束とりあげて台帳と照らしあわせると、すべてさげていいといった。こちらが用意したものについては、彼らはしらべる必要がないと判断するのだろう。 税務調査員は、診療開始の朝八時から終業の夕方五時まで、三日間にわたって来院し、細事にいたるまで調査した。実際の質疑については、依頼していた税理士が応接した。彼は、開業医の税務を専門にしていた。旭川に住んでいたが、早朝から自家用車でやってきて対応した。かなり詳細にわたる税務調査だったらしく、二日目から顧問の税理士は腹痛を訴え、下痢をした。 村木は、三日目の午後になって、よばれた。診療の合間に応接室にいくと、税務調査員と頬をげっそりとした税理士がむかいあってソファーにすわっていた。 「どうかしましたか」と村木は聞いた。 「棚卸し表のなかに、間違いがあると指摘されまして」と税理士は答えた。 調査員は、何枚かにわたってかかれた表の一部をさして、この薬価が間違っているといった。村木が指摘された部分をみると、たしかに誤っていた。彼は、調査員に感心した。診療所は、院内処方をしていた。ほとんど全科を診療していたので、薬剤は外用薬まであわせると五〇〇ちかい種類があった。調査員は、その棚卸し表のなかから、たったひとつの誤りをみつけだしたのだった。 「ご指摘の通りです。すごいですね。よく、みつけましたね。まったく気がつきませんでした。これは、薬の卸問屋がつくって、もってきた表なのです。本部で間違え、いままでだれも気がつかなかったのです。それを、あなたがみつけだしたのですね」と感歎しながら村木が答えた。 「そうだったのですか」と調査員はいった。 「いずれにしても、あきらかに私どもの間違いです。支払いが必要ならば、やりなおします。税理士の先生に、具体的な方法を指示しておいてください」 村木は、そういいのこして診療にもどった。 顧問税理士が、やりなおし方をたずねた。 調査員は、このままでいいといった。 「来年の棚卸し総額がわずかにかわるだけですから、そこで調整してかまいません。私どもとしては、誤りを指摘したという事実をご理解いただければと思います」といいのこして帰っていった。 村木は、とくに修正申告も指示されず、税務調査が終了したという報告をうけた。 「さすがに、先生のおっしゃる通りにしていたらとるものがないのですね」 彼は、顧問の税理士をみつめ、考えぶかげにいった。 「ほんとうですね。私も、驚きました」 村木よりすこし若い、苦労人の税理士は答えた。 「どこの医院でも、必ずなにかしらをみつけだされて、いくらかとられると聞いていました。先生は、すごく有能ですね」と村木は褒めた。 すると税理士は、自分もはじめての経験だったといった。どの開業医も、彼に隠してなにかしらをやっている。いままで、村木もそうだろうと思っていた。しかし三日間、調査員と多岐にわたってしらべたが、問題になる事案はひとつもなかった。すべてを税理士のいう通りに実行していたのは、長年この業務にたずさわってきたが、はじめての経験で心底驚いたと真顔で話した。 医学はまだまだふかく学ぶことも多かったが、医療はある程度、極めたと思った。 村木は、この地区で開業し、自分で望んだのではなかったが立場をもつ事態になった。つまり、彼の医療行為は周囲に影響をもたらした。診察できる科の多さと、患者さんたちが集中する現状から、つよい嫉妬の対象となった。 社会を構成し、秩序を維持している者たちとの折りあいがつかなくなってきていた。彼らは、自分たちの既存の利益をまもろうと画策していた。 非常に卑近な例をあげれば、予防接種の料金は自由診療だった。 インフルエンザのばあい、ひとつの容器にはふたり分が入っていた。だから、半額に引き下げても充分な利益があった。予防医学を目指していた村木が、そうした値段でたくさんの人びとにうつと、非難が渦巻いた。彼らは、価格が一定になるようにさまざまなとり決めをしていた。周知されている言葉をつかうなら、談合だった。公共事業からはじまって、どの営利団体でもやっていることだった。しかし医療業界もおなじなのは、とても残念だった。そこに働いていたのは、利益で、患者さんではなかった。 村木が僻地の村でやっていたときには、開業医たちは仕方がないと思ったのだろう。しかし市内で開業して患者さんが集中してくると、あきらかな妨害をはじめた。さまざまな、執拗で陰湿な嫌がらせだった。信じられないが、広報までつかわれた。 医者たちは、とても残念なことには、決して偉くなかった。彼らは、権力と結託し、利益団体として活動していた。診ているのは、病気でも病人でもなく、自分の病院や医院だけだった。医業ばかしをみていれば、患者さんなど、寄ってくるはずがないことが分からないのだった。 村木が脳裏にえがいた尊敬すべき医者など、いなかった。 すべてが、彼の幻想だったのだ。 村木は、診療する気持ちが急速にうせていった。 患者さんたちは感謝してくれたが、このままの状況で多忙な業務をつづけるなら、もう幾年も生きていられないだろうと考えはじめた。 集団的な力によって、彼は、肉体的よりも精神的に疲弊をしいられていた。 彼らの望みは、村木がもっと普通の医者になることだった。子供っぽい理解できない矜持をすてるのだ。患者さんを粗末にあつかい、自分の遊興を優先しよう。黄金がながれる川のそばに、ようやっときたのだ。だから、もっと楽をしても充分なお金が稼げるのだ。いくらでも好きなだけ、そこから汲みあげてもかまわない。せっかく医者という資格をもっているのだから。既存の体勢に組みこまれ、秩序をまもる一員になりさえすればいいのだ。義父だったら、村木が医者の世界を知らないといっただろう。しかし、自分たちにとって都合がいいだけの秩序は、彼には不必要だった。 不合理な現実だと感じた。 村木は、腕をくみ、顎を襟に埋めて懊悩たる物思いにしずんだ。 自分は、すでに理想の医者になったのではないか。離島医療や僻地医療をして、己の医療行為に納得ができたのだ。それが正しいのは、これだけ患者さんがあつまってくれたことで、あきらかになったのではあるまいか。この事実を、みとめてもいいのではないか。ここで満足するべきだろう。未練など、もうないはずだ。 村木は、亀を飼育してはいけないという動物学者の話を読んだことがあった。 万年という寿命は、伊達につけられたのではない。周囲の環境が悪化しても、亀は簡単には死ぬことができない。そうしたなかで飼育されれば、回復不能な状態までただ弱っていくだけだ。たとえ一部が腐っても、それでも万年という寿命をもつため斃死できない。周囲の状況が悪化しても、あきらかな病気にもかからない彼は、自分が亀と似た境遇にいるのだろうと思った。 村木は、力いっぱい生きてきた過去を振りかえってみた。思いかえせば、医者を目指してから好ましい環境などひとつもなかった。つねに逆境をのりこえ、既存の秩序と戦い、充分に頑張ったと思った。彼は、自分のやってきた行為に満足した。 村木は、悩みつづけて、やがて決心した。 末の息子が高校を受験するのにあわせ、六〇歳の年に医院を廃業することを決意した。 村木の閉院の宣言は、街の人びとを驚かせた。ちいさな共同体では、力のある者たちに忖度し、意図的にたくさんのひどい噂がながされた。猛烈なネガティブキャンペーンが、この日を待っていたという感じで堂々と行われた。しかし病院の経営は順調で、医療事故もかかえていなかった。だから村木は、不治の癌に罹患していることにされた。頭がおかしく、能力も劣っていたとされた。去っていく者を、公に弁護する人びとはひとりもいなかった。 こうした状況は、村木に、石川啄木や室生犀星の文章を思い起こさせた。 しかし、たくさんの患者さんたちが、ふたりきりになった診察室では泣いてくれた。 「どうして、私たちを置いていくのですか」 「なぜ、先生は、やめなければならないのですか」 「いったい、だれが私をみてくれるのですか」 涙の訴えは、診察室のなかだけで嗚咽とともに秘かに囁かれた。 その患者さんたちの姿を垣間見た若い看護師は、「先生は、もの凄く頼りにされていたのですね」と感慨ぶかげにいった。 毎日くりかえされる涙の訴えに、村木は心をうごかされたが、決心はかわらなかった。 市を去ってから、個人的に手紙をもらう機会は幾度もあった。どれも、好意的な文書だった。なかには、記憶にのこるものもあった。 五〇歳代の男性からの葉書で、ほとんど文字が読めない方だった。 「いなくなって、せんせいだけがみてくれたのだとわかりました。かなしいです」と、たどたどしい大小不同の平仮名でかかれていた。 村木は、医者にはなれたのだった。立派な医師になろうという医学生のときに立てた誓願は、果たせたのだと思った。そうならば、今度はどうしても極められなかった小説家の道を探ってみたいと考えた。 村木は、六〇歳の年に家族とともに東北の街に移り住んだ。この地方では、未曾有の大震災が起こり、原発事故が続発して混乱の極みにあった。しかし、彼は移住することにした。 やめた当初、村木は、すっかり気がぬけ、目標をうしなってしまった。自分がなにをやってきたのか、さっぱり分からなくなった。もう二、三年しか生きられないと感じたが、一〇年たっても元気だった。医院を開業していたころは、何ひとつ子供たちをかまってやれなかった。しかし、ここでいっしょに暮らして成長をみとどけることができた。 村木が自分の人生を振りかえってみると、思いこみと間違いの集積だった。あらゆる出来事は、失敗と後悔の連続だった。そのなかで、ふたつだけ正しい選択をしたのではないかと思った。冴子を妻にえらんだのと、繁盛していた医院を意固地にならずに閉院したことだった。 あたらしい町に引っ越してからは、医師の届け出もしなかった。専門医も更新せず、医師免許をしまい込んだ場所も忘れていた。もうそうした肩書きは不必要だった。思う存分やったので、なんの未練ももっていなかった。どうにも仕方がない経緯から医者になったが、自分の意志で廃業したのだった。 それから一〇年、村木は、この世の不正や不合理とさまざまな形で戦う小説をかきつづけた。懸命に創作したが、残念ながら評価されることはなかった。しかしその過程で、たくさんの、自分に欠けているものを発見した。冴子が好きだったスキーもいっしょに頑張って、ともに一級をとることができた。 間違いだらけの人生のなかで、このふたつについては、後悔がなかった。 あるとき村木は、同人誌を主宰している男性と巡りあった。 男は、印刷がこれほど普及しているのに雑誌をつくると高くならざるをえないのは、製本を委託できないからだといった。彼は、安価で同人誌を発刊するために製本技術を学んでいた。原稿をPDFファイルにして印刷し、自分で本をつくっていた。文学という領域は驚くほど底がふかく、さまざま形でたずさわる者がたくさんいる現実を村木は改めて知った。 この同人の主宰者は、話を聞いてみると医学部の中退者だった。彼が、どんな経緯で中退になったのかは知らなかった。しかし、文学の世界になんらかの形でたずさわっているのは事実だった。それは、世の中を形づくる価値観に迎合できないと主張しているのと同義だった。社会の不合理をつよく感じ、構成する秩序に反感をいだくから、決して得にはならないと分かりながらこの領域にとどまっていたのだろう。 村木は、主宰者の経歴をなにかの機会に知っただけで個人的にふかく話をしたわけではなかった。年齢から推測すると、六〇年代後半に医学部の学生だったのだろう。 男は、村木が送った小説の草稿を読んで、第二章、医学生と、第四章、離島医療がよかったと褒めてくれた。なにをそう感じたのか聞かなかったし、それ以上の話をする機会もなかった。しかし村木の脳裏では、男の経歴は医学生時代に中途退学していった男子学生とかさなっていた。 最後に、「君に期待している」といわれたのを思いだした。 彼は、もうひとりの村木だった。 同人の主宰者に、いいといわれたのは、頑張って医者になり、理想の医療を追究したことを、はるかなときをこえて「落ちこぼれた」自分に肯定してもらったような気がした。 村木は、また夢をみていた。 充分な時間的な余裕をもって家をでたのだが、どうしても目的の地点に辿りつけない。自転車をつかうこともできたのに、電車にのるほうがはやいだろうと思った。しかし、行き方が分からない。そこに三人の男がいて、駅につれていくといった。しかし実際についたところは、荒ら屋がひしめいている軒下だった。くずれかけたちいさな家のあいだをぬけていくと、道路がみえた。かなり時間を費やしたから、もう急がねばならなかった。タクシーをよぼうとすると、道は大洪水だった。車は水中からでてくるが、停車場にはたくさんの人たちがならんでいた。とても待ってはいられない。どうしても、タクシーをつかまえることができない。そのとき、マイクロバスがやってくるのがみえた。なかには一〇名くらいの男たちがのっていた。バスはとまってくれるが、乗り合いでは、いつつけるのかも分からない。のらないとつげると、車にいた者たちは全員で睨みつけた。「せっかくとまってやったのに、時間を無駄にした」という感じで、あきらかに怒っていた。バスは、どんどん遠くに去っていった。道はずっとつづいていたが、自分のまえだけが洪水だった。 結局、目的の場所には、どうしてもいくことができない。 村木は、夏も終わるころ高い断崖に立って緑に輝く太平洋をみていた。 二〇歳のとき、海をみつめながら暮らしていたのを思いだした。そのころ、夜中に幾度も金縛りになった。 ふと気がつくと、右手がだれかによってもちあげられている。横臥しながら、右腕をずっと挙上していなければならない。不自然な体勢をとっている自分に気がついて、冷や汗がながれてくる。つらい姿勢を、どうしてもやめることができない。そのとき、彼の枕元におおきな鎌を携えた死に神が立っている。動悸が、激しくなる。周囲には、鼓動だけが聞こえる音をうしなった世界がずっとつづいている。やがて死に神は村木の心臓にねらいをつけ、鋭い鎌をかかえたまま覆いかぶさるように倒れてくる。あきらめて目をとじた瞬間、金縛りがとけた。 こんなことが、幾夜くりかえされたのだろうか。 そのころ村木は、心におおきな問題をかかえていた。このままでいいはずがなかったのに、決心ができなかった。なにが正しいのかは、だれも知らない。しかし彼は、自分でありつづけるために決断をしなければならなかった。それが、どうして医者につながったのかは分からなかった。あのとき、死んでいた可能性も高かったのだ。 青春時代、村木は、ちいさな漁村に住んでいた。そこで、高層アパートの工事現場でユニットバスを設置するアルバイトをしていた。労働基準法も、整備されていない時代だった。おなじくらいの年の学生とペアになって、くまれた足場をつたって重いパネルを高層階まで引きずりあげていった。命綱もヘルメットも、なかった。相方は、三日とつづかずやめていった。もし足を踏みはずしたなら、ひどい事故が起こったはずだった。怪我をして入院すれば、親はどんな手立てをつかってもやってきて、東京につれもどされたに違いなかった。五体満足な状態で、自分で大学をやめると決断しなければ、医学部に合格するパワーもうまれなかっただろう。 ひどくこまったときには、必ず援助者に出会うと話す人がいる。人生とは、そういうものだと幾度も耳にした。 村木は、間違いだと思っていた。助けてくれる人に出会える段階は、まだほんとうにこまってはいないのだ。とことん迷いこんだときには、もう周囲にはだれもいない。 村木は、自分が正しい道を歩いてきたとは微塵も考えていなかった。思いだすなら、どの部分も間違いだらけだった。しかし、懸命に生きたのはほんとうだった。 開業していたころは、職員にたいして厳しかった。だからスタッフは、どんどんやめていった。つねに、あたらしい人員を育成しなければならなかった。最後までのこってくれた職員には、感謝しかなかった。もっとよい方法があったはずだと考えるなら、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。しかし、事故をひとつも起こさなかったのだ。その引き換えと考えて、許してもらうしかなかった。振りかえっても、それしかいえなかった。かえられない過去を無闇に反省し、あまりに自身を責めても仕方がなかった。 何ごとも不如意な人生で、自分で決断することが、いちばん大切だった。 水平線は、太陽の光をあびながら白い雲のなかで青い空と接していた。村木は、なにかの飾りにもみえる曖昧になったその領域にいってみたいと思った。 彼は、いつまでも水平線を追いかけていた。 「赤い馬」の物語とは、自分の話だったのかも知れない、と村木はそのとき思った。 医者になる、二四七枚、了