捨てられて           由布木 秀  捨てられたもののなかに、もっともたいせつな宝が隠されていた。  一、二刀流  今シーズンの大山翔太の活躍は、MLBにとどまらず、競技の枠をこえた全スポーツ界のトピックスになった。彼のハンサムな容貌は、一九三センチ、九五キロの鍛えられた肉体とあいまって、すべての観客を魅了した。それにしても、素晴らしい成績だった。  打者としては、一六二試合のすべてに出場した。  七〇〇打席、五七〇打数、二三〇安打。打率、〇.四〇四。二塁打、七〇、三塁打、二〇、本塁打、七〇。塁打数、五五〇。打点、一八〇。三振、二〇〇、四球、一〇〇、死球、一〇、犠打、〇、犠飛、一〇。出塁率、〇.四九二。長打率、〇.九六五。前二者の合計となるOPSは、一.四三七。さらに、盗塁、一〇〇、盗塁死、〇。併殺打、〇。得点圏打率、〇.六二五。と圧倒的な数字をのこした。  当然、三冠王だったが、本塁打、打点、打率は、ナリーグを加えてもトップだった。塁打数、出塁率、長打率、OPSも、両リーグを通じて一番だった。さらに、盗塁数もトップだった。極めつけは、三振の数も一番だったから、全部門の記録をすべて大山が独占したことになった。  さらに投手としても、規定回数、一六二イニングに到達していた。  先発で三〇試合に登板し、二五勝二敗、完投、五、ノーヒットノーラン、一試合をふくむ完封、四、という成績をのこした。防御率、一.〇〇、勝率、〇.九二六。投球回数、二〇〇、奪三振、四〇〇、奪三振率、一八。  これらは、すべて両リーグで圧倒的なトップだった。だれもが想像を絶する数字がきずきあげられた。この結果、MVP、サイヤング賞はもとより、あらゆる部門で一位だったのだから各賞は大山が独占した。アフターシーズンも彼の話題でもちきりとなった。  この活躍に刺激をうけて、MLBでも二刀流を目指す者が激増した。リトルリーグでは、投打を兼務するのが一流の証しとなりはじめていた。  この偉業にたいして、MLBでは選手総会が開催された。数々の熱心な論議が行われ、つぎの条文が決議された。 「走る、打つ、投げるの三つの行為は、野球というスポーツがうまれてからずっと、べつべつな種目だった。三者は、まったく異なるジャンルであって、そもそもひとりの競技者が同時に行うことは想定されていなかった。これは、ベーブルースのような偉大な業績を否定するものではない。彼は、全記録を独占するという愚かな行為はしなかった。ルースは、投手と打者が本質的にべつな部門で、頂点をきわめるのがいかに難しいのか証明したのだった。MLBの歴史的な経緯をかんがみ、選手会は二刀流を排除する決定をくだした。希望までは拒絶しないが、そのばあい、規定打席や規定投球回数に到達しないのが条件になる。もし投打で十傑に入りたいのならば、シーズン途中でどちらに専心するか、宣言しなくてはならない。フルシーズンで行うなら、両者とも中途半端で二流にとどまることが前提になる」  決議を採択した選手会は、オーナーがみとめなければストライキに入ると宣言した。 MLB関係者は、この決定を憂慮した。大山翔太が成功したことで、多くの選手が二刀流を志していた。その数は五〇名にちかかったが、大山との差は歴然としていた。つまり二刀流を志した者が、各リーグで打撃の十傑に名をつらねることは甚だしく難しかった。たとえ、なんとか入っても、投手としての成績までのこすのは不可能だった。逆のばあいもおなじだったから、この決定は、つきつめれば大山といっしょに試合をするのを拒絶するという決議だった。  しかし、大山翔太の人気は沸騰していた。ファンは、彼がぬけたMLBを想像することはできなかった。オーナー側は選手会とくりかえし話しあいの場をもうけたが、選手側はどうしても譲らなかった。シーズン開始まで揉めに揉めた事案は、二刀流リーグの創設という前代未聞の事態に発展した。  選手会は、二刀流を目指す者が五〇名いるという現状から二チームに分け、独立リーグを創出するように提言した。MLBは、従来のワールドチャンピオンシップを行う。優勝チームは、独立リーグの覇者とあらためてリアルチャンピオンを決定するというものだった。さらに選手会は、この創設により、MLBでは二刀流を禁じるという抜本的改革を行った。  物議をかもしたシーズンがはじまった。  独立リーグはスーパーリーグと名称が変更され、どの選手も投打の両方に従事しなければならなかった。負担を軽減し、質を向上させるために、試合数はMLBの半分に決定された。このリーグは、熱狂的な数多くのファンに支えられた。とはいっても、大山がダントツの一位である状況に変化はなかった。どの試合も、彼の一挙手一投足に注意が払われ、他の選手たちは引き立て役にすぎなかった。ひとりが投打を兼務するために負担が過剰で、怪我をする選手が続出した。夏には半数が故障者となり、チームを維持するのが困難な状況がうまれた。さらに試合数を減らさなくては、立ちいかなくなった。こうした事態は、打率、勝率はともかく、本塁打数とか打点数、勝ち星などで、従来の成績とはあきらかに見劣りがした。  いっぽうMLBは、盛りあがっていた。多数の選手が、数多くの栄誉を争って元気いっぱいに活躍していた。シーズンを通じて、話題に事欠かなかった。本塁打王、打点王、首位打者、最多勝利投手、勝率王、奪三振数王など多くの部門でデッドヒートが行われた。  秋になると、スーパーリーグは二チームの編成もできなくなった。観客にも忘れられ、選手たちは続々とリーグをやめていった。スーパーリーグでも、あらゆる部門で一位だった大山は、リアルチャンピオンを目指したかったが、すでに九名の構成をとれなかった。  MLBでチャンピオンシップが行われるころ、大山翔太は、だれもいない球場で憮然とした表情になって無人の観客席を睨んでいた。            二刀流、七枚、了  二、リドル  ふと気がつくと、私はベッドに横たわっていた。身体中がうずき、どこが痛いのかさえ分からなかった。起きあがることなどできそうもなく、目をうごかして周囲をみた。粗末な部屋で病院にも思った。だれかが、そばにいる気配を感じた。白い服をきてキャップをかぶった女性の看護師が、「気がつかれましたか」と聞いた。「もうすこし、眠っているほうがいいですよ。喉がかわいたなら、水を飲みますか」と聞いた。うなずくと、看護師はガラスの水さしを口にあてがってくれた。その先端からながれる水を、すすった。 「ここは、どこなのですか」と私は聞いた。 「病院です。もうすこし眠っていたほうがいいですよ」 「身体中が痛いのです。なにがあったのでしょうか」 「事故ですよ。ひどいアクシデントで、全身を打ったのです」  そういわれる、身体中に包帯がまかれている気がした。 「あなたは、だれなのですか。ここは、どこなのでしょうか」 「私は、あなたの看護師です。ここは、専属の救命チームです。ご希望なら、あなたの先生をお呼びしましょうか」 「なにも覚えていません。なにがあったのでしょうか」 「事故ですよ。深く考えないほうがいいですよ。また頭が痛くなりますから」 「分かりました。もうすこし眠ります。とても、疲れた気がしているのです」 「そうしたらいいですよ。今度目覚めたときには、もっと元気になっているに違いありません」 「そうだといいのですが」 「大丈夫ですよ。私たちがついていますから。安心してください」  看護師のやさしい言葉を聞きながら、また眠りに落ちていった。  つぎに気がついたとき、私は身体中に包帯がまかれているのが分かった。まるで、ミイラになった感じだった。痛みはかなりおさまり、ぼんやりと思いだしはじめていた。  神は、円形の舞台の真ん中でスポットライトを浴びていた。 「悪のひとつでも、のこしてはならない」と呟いて念じはじめた。しばらくすると、「昨日、私は、女性をみて裸身を想像しました」といって、神から分かれた一部が舞台の真ん中にあらわれた。銃をもった信者たちはいっせいに、「邪悪な者」をうった。その部分は、身体中がボロボロになるまで穴があき、死んだ。 「どんな小さな悪をも、最後までしぼりだすのだ」と神はいった。  舞台をとりかこむ人びとは感銘し、両手をあわせて涙する者たちもいた。  私は、ボロボロにうたれて絶命した、もともと神だった一部を荷車に乗せ、墓地にはこび、深い穴に捨てたのだ。  それが、二日まえのことだった。  神は、いつも苦行の末に悪をみつけ、分離し、追放してきたのだった。そうして、ますます純化した。私たちは、さらに神にちかづいていた。私は、その一族だった。神の世界を実現するために全精力をそそぎ、純化をつづけてきたのだった。そうだ。神は、ずっと一心同体だったのだ。  私は、思いだしていた。  二日まえの日、同志の沙耶をみて、そのひきしまった白い横顔を美しいと思った。化粧もしていない細面の頬が素敵だと気がつくと、ほそい腕も、微笑みをたたえる唇も愛らしかった。そのとき、私は、豊かな乳房に気づいた。彼女は、頭のなかで白い裸身になって微笑んでいた。そのとき私は、沙耶がたんなる神につかえる同志だけではなく、ひとりの女だと感じたのだ。だからといって気持ちを告白し、彼女を傷つけたのではなかった。しかし目をあわすたびに、裸像は頭のなかで明確になっていった。はたして、ほんとうにそうだったのだろうか。それだって、はっきりとはしなかった。彼女を女性として感じたのは事実で、それだけだった。それが、二日まえのことだった。一日中、会うのをなんとなく心待ちにし、彼女のためにも、よりよく神につかえ、ともに神の国に平和をきずこうと考えていた。  それがとつぜん分離され、追放されたのだ。神は、私をみて「これこそが、邪悪だ」といった。気がつくと、神殿の舞台の真ん中にひとりで立っていた。いままでいっしょだった信者たちの銃が、目のまえにならび、そのなかに沙耶もいた。 「やれ」と神が命令すると、彼らは、私にむかって発砲した。機関銃が鳴りひびき、たちまちのうちに穴だらけにされた。それで、深い穴に捨てられた。銃弾で全身を穴だらけにされ、墓地に投げ捨てられたのだった。だれかが崖からおりてきて、私をすくいだしてくれた。だれだかは分からない。私は、その深い穴を知っていた。そこに、銃弾で穴だらけにした、かつての仲間を幾度も捨ててきた。彼らは、味方だったのに悪魔に魂を売ったのだった。神に罰せられ、うたれ、ここに投げ捨てられた。しかし、昨日は私自身が捨てられたのだ。私は、思いだしはじめていた。 周囲は、ぼうっとしていた。私は、自分の生死も不明だった。曖昧な記憶のなかで、全身によみがえる恐怖や痛みと、弾丸の硝煙のにおいを覚えていた。私は、悪魔なのだろうか。念じて分離された神の一部で、悪と名づけられた部分で、攻撃され穴だらけにされた者なのだ。私は、死ぬこともできずに、レジスタンスに拾われたのだ。悪の軍団に、はこばれたのだろうか。  やがて傷も癒えた私は、自分がなんであるのか知りたいと思った。  看護師につれられていくと、グルはいった。 「私自身も、かつて神の一部だったのです。彼は、私に悪のすべてをなすりつけ、自分だけが善だと主張したのです。神の国の指導者となり、ますます小さな悪徳をそぎ落としました。でてきた分身を、銃撃隊に穴だらけにさせたです。私は、その絞られ、そぎ落とされた部分も自分の一部だと信じ、彼らを助け、保護し、仲間にしたのです。彼は、私たちを悪と呼んでいます。ますます悪徳を拒絶し、自分だけが神だと考えているのです」  だまっていると、グルはいっしょに裁きをみにいこうといった。  私は、ついていき、なつかしく感じられる舞台をとおくから眺めた。神は、すっかりやせ細っていた。スポットライトを浴びた彼が、祈りを捧げるのがみえた。そのとき、すべてが私だと気がついた。以前に神が悪を放出したあと、円満にみえる純白のなかで、ふと濁りを感じた。ほんのささいで、おなじ白でも日の光によって出現する、銀色にも、靄にも思えるものだった。それが分身としてあられて、目のまえで銃撃され、穴だらけにされたのだ。 「あれが、私なのです」とグルはいった。「彼を、助けねばなりません。あなたは、そうは思いませんか」 「私は、助けます。なぜなら、彼こそが私自身だからです」 「私たちは、悪と認定され、傷ついています。助けないと、集団自殺をしてしまうでしょう。なぜ我々が、悪なのでしょうか」 「分かりません」 「彼が、私たちを悪としたからです」  私は、だれを助けたらいいのか分からなかった。しかし、私自身を救出しなくてはならなかった。助けるべき私が神なのか、それとも悪なのかも分からなかった。しだいに、分身を救出すればいいのだと気がついた。神は痩せ衰え、いつまで苦行をつづけられるのか分からなかった。彼は、ますます禁欲し、純化し、不穏分子を切り捨てた。だから、捨てられたものをたいせつにし、援護し、助けて仲間にかえていけば、やがて悪魔といわれた部分が全体をつくりだし、再生するのではないか。 私たちは味方をふやし、神と対峙した。彼はすっかりやせ細り、とても全体とはいえず、ほんの一部分になっていた。実際にあるのかないのか、もう不明な「神の核」をとらえ、魔法のランプにとじこめた。そのとき、世界は解放された。  神の核心とは、「だれよりも偉くなりたい」。「尊敬されたい」というエゴから構成されていた。殺すことはできなかったが、魔法のランプにとじこめ、海底の一番深くにしずめられた。いつかまた、だれかが神の核を拾いだし、地上によみがえらせ、ふたたび世界を混乱に落ち入らせるのか、私には分からない。 いまは神の国は崩壊し、すべての人間が和して、悪の国とひとつになっている。                   リドル、了、(十枚)  三、怪                                     山本享司は、石毛電気の大宮店に配属された年の秋、大学時代の友人だった丸山秀樹から自叙伝がおくられてきた。亮司は、丸山のすすめで絵画部に入り、ふたりできそって絵をかいていた時代があった。彼とは夜を徹し、夢中になって絵画論を話しあった記憶ももっていた。二年生のとき、丸山の絵がその地方の画家に賞賛された。彼は、三年生を休学して絵画のために上京するといった。享司は荷物をあずかったが、丸山がその一年をどういう気持ちで、どんなぐあいにすごしたのか、まったく分からないことだった。三年の夏、山本享司は向井邦子と出会って、人生の華やかな時期をおくった。邦子がギリシアに旅立ったのと入れ替わりに、丸山はもどってきた。どうやら彼は、画家をあきらめたらしかった。享司は、絵をかく気持ちをすっかりうしない、就職活動もはじまって多忙になっていた。学年も違ってしまったので、彼とは疎遠のまま卒業した。享司にとって絵画は、すべてがいい思い出でもなくなっていた。丸山のことも、それで終わりになっていた。それが五〇歳をすぎたころ、とつぜん自叙伝が享司におくられてきた。  自伝には、丸山が大学の二年生のとき賞賛された絵画の話が、周囲にいたクラブの仲間をふくめて実名で記述され、上京した経緯がこまごまとかかれていた。当時の経過を享司なりに覚えていたが、向井邦子という女性に出会った事件にくらべれば、どうでもいいことだった。その後はたがいに絵をかかなくなり、接点もなくなっていた。翔司にとって絵画は、ほとんど興味もないものになっていた。  自伝のなかで丸山は、自分には絵の才能があり、伸ばし、きわめたかったが、家庭の事情でできなかったとくりかえしかいていた。そのことばかりが、記載されていた。三年時に上京した経緯は、山本享司がくわしく承知しているとかいてあった。ひどく驚いて読みかえすと、知らないことがさまざまにかかれ、まるで享司がそうした記述の正しさを証明する者であるかのごとくに記載されていた。  なんで、こんなものをかいてきたのだろう。五〇歳というのは、微妙な年齢なのだろう。老境にさしかかり、自分がどうして生きてきたか、納得できなくなっているのかも知れない。五〇歳をすぎた男が、あのときにべつの道をとったらと、くどくどかいて人に配っている気がして困惑した。理解できないわけでないが、出(だ)汁(し)につかわれた感じで、いい気持ちではなかった。  ただ問田もおなじで、なんのために頑張ったのか分からなかった。  今年五七歳になる問田浩輝は、五年まえから総務部長をしていた。彼は、五〇歳のとき発表された人事異動で大宮店副店長の辞令を得て、はげしいショックをうけた。だれよりも懸命に業務をつとめてきたのに、本部にもどれないのは、経営陣がみとめてくれなかったことを意味していた。問田は、会社をやめようとまで思いつめた。辞職してどうするのか具体的には考えられなかったが、このままおめおめとのこって減給され、六五歳まで倉庫番をつとめる姿は惨めすぎると感じた。子供たちを大学に進学させ、卒業させ、さらに親の介護のために彼の全生涯はついやされたと思った。その状況に甘んじ、愚痴ひとつこぼさず、家族と会社に懸命につくしてきた。しかし、だれにも評価されなかった。家族にたいせつにもされず、いっしょに苦労した妻も、彼をこの程度の男だと考え、不合理な人事と思ってはくれない。  問田は、すべてがさっぱり分からなくなった。家族をやしなうのは自分の義務なのだろうが、結局は他人なのだ。その長として意志が尊重されるのなら、べつの見方もあるかも知れない。子供たちはすねをかじるだけで、なんの希望もかなえてはくれない。家族構成員は各自が自由で、問田はひとつも権限をもっていない。そう考えはじめると、すべてをなげだしたくなった。しかし、会社だけは違うと思っていた。ちゃんと序列をまもって、彼を尊重してくれると思いこんでいた。問田は、生涯は家族に自由をうばわれ、そして最期に会社にも裏切られたと感じた。  子供を育てあげ、それなりに努力した人生をおくった者には、昔はそれに応じた老後が存在したのではないかと思った。印度でも生涯の終わりに遊行期があって、自分がこの世にうまれ、生きてきた意味について考えることができた。すべての人に可能だったのではないだろうが、一家をたいせつにまもりつづけてきた者にあたえられる、ダルマとしての権利だった。それが彼には授与されず、かわりに介護がひかえていた。  学生時代は、学生運動に加わったこともあった。社会には強者の不正が横行し、社会的な弱者の権利を束縛していたからだった。とくに、共産主義を信奉していたからではなかった。その後、日本は総中流化し、みんながそこそこの給与をもらって豊かになった。格差はあるが、社会が国民の行動を束縛する可能性は減ったと思った。軍国主義の時代には、社会的な規約が人生を決めていた。もの凄くつよい信念をもって、非国民といわれても自分をつらぬいた人もいたのだろうが、普通はできなかった。社会の豊かにともない、一般人が遊民になるのも容認された。白い目でみられても、ホームレスとして生きることも可能なのだ。しかし、彼は倫理という口実で家庭にしばられ、自由をうばわれていた。家族のために我慢して、仕事を趣味にするまで頑張ったのに、だれにも評価されなかった。だいいち両親は、認知症で面倒をみてもらっているのさえ分からない。鬱々として夜も眠れなくなり、精神科を受診したほうがいいだろうかと考えていたときに事件が起こった。  みょうな出来事だった。事務室に保管されている、出勤簿と棚卸し台帳の原簿が同時に紛失したのだ。コンピューターで管理されているので、ペーパーレスにしてもいいといえば、その通りだった。なくなってはじめて、なんの意味もないものをたいせつに保管していたのが、あらためて分かったと考えるなら、それまでだった。だから職員は、だれもが奇妙だとは思いながらも、どこかに捨てられて、時代の成り行きだとしてしまった。 こうした書類が無意味だとつよく考える人が、主張を立証するために投棄した可能性もあった。だれかが故意にしたのでなければ、こんな事態は生じ得ないものだろう。なくなってはじめて、みんなが必要ないとはっきり認識したのだった。その人の主張は正しく、それ以上に、問いつめる意味のない問題提起という考えもあった。しかし、個人情報がつまった社内の重大な資料で、かりにそんな行為をすれば、社内規定で厳罰に処せられるはずだった。  一通りの調査を行い、事件の解明ができなかった店長は、監査のためにコンピューターから起こす作業を事務に命じた。問田は、納得できなかった。ずっとつづけてきた大事な原簿がなくなったのは、ひとりひとりではなく全員の責任だった。支店全体の責務なら、個人は無関係なのかも知れない。しかし、おかしいと問田は思った。毎日つかい、さらに衆人の監視下にあり、そのうえ同時というのは、あまりにも馬鹿にした話だった。出勤簿を押すたびに今日も頑張ろうと思い、倉庫の在庫をみては、どうやって売ろうかと考えてきた。その原簿がだれにも注意を払われない事態は、人ごととは思えなかった。  店長は、これ以上さがしても仕方がない。明確に不必要だと判明したのだから、探究は無意味だといった。問田は、意固地になって経緯を解明しようとした。  事務室に出入りできるのは、職員のほかに取り引き業者がいた。業者が建物内に入るには、裏口の守衛室のまえを通る。そこには帳面があり、名前と企業名、来訪理由、入館、退館の時刻を記入していた。問田は、記名簿を全部しらべた。帳簿がなくなったのが分かった日の前日、ほぼ同時にべつべつの業者の新人社員がおとずれていた。ふたりは、だいたいおなじ時間に入り、同時刻に退出していた。以前に彼らは、あらたに大宮店の担当になるために上司とつれ立ってきた。その後、業者の都合で、他店の営業にかわる挨拶だった。だから、ひとりでくるのははじめてだった。   新人は、挨拶を終えると店の偉そうな人から大きな封筒をわたされた。大事な書類だから七階の部屋までもっていき、机の上に置いてきて欲しいと頼まれた。たいせつな文書を、わざわざなにも分からない者に手渡すことはおかしい。その奇妙さに気づかない新人は、いわれるままに七階にはこんだ。とはいえ大宮店は六階までで、あとは屋上だった。  いわれた者がエレベーターに乗ってついた七階は、猛烈に大きな部屋で中央に立派なテーブルが置かれていた。職員がだれもいなくて変だとは思うが、机はひとつしかなかった。新人たちは、最初で最後の仕事をしたと考え、そのままエレベーターでおりてきた。ふたりの男とも、おなじ行動をとっている。だからどちらが先だったかも不明だが、机上の書類は素早くとりさられたのだろう。しかし実際にある机ではないので、時間も場所も理解できないものだった。  問田は、僅かなあいだ、名目上、大宮店の担当だったふたりの新人を業者の営業所までたずねて事情を聞いた。封筒をわたしたのは、彼らがはじめて会った年配の者で、店長か副店長かと考えたという話だった。恐らく、同一人物から書類を手渡されたのだろう。  結局なにも分からず、肝心な原簿もでてこなかった。  店長は、こだわる問田を笑いものにした。ゴミ箱までさらってしらべたのだから、それで終わりだといった。  問田は、事務室にそうした不審な人物が出入りできるのは、おかしいと考えた。守衛をひとり増員し、店内の巡回をふやした。人事に関係したので店長からクレームがついたが、問田は自分の責任で断行した。  それから一週くらいして、事件が起きた。四階の売り場で若い男性客が値段が高いといって暴れだし、手にもっていた木刀で商品が入ったガラスケースをいくつか割った。ちょうど守衛の巡回中に起こったので、素早い対応ができた。客にも職員にも怪我はなく、とりおさえられた犯人は、警察にひきわたされた。男は、脱法ハーブを服用し錯乱状態だったことが分かった。  この件を知った会長の野末は、取締役会で揉めていた案件を決断した。ポイント制をやめて、売り場での現金値引きを導入した。この施策は的を射て、業界の新しいながれをつくった。半年後、問田は営業部長に栄転した。  事件後、問田浩輝は、神主にあらましを話して店内の祓除を依頼した。宮司は、儀式が終わったあと彼を呼び、お祓いをすすめた。神社に出向いてきよめられてから問田は奥の枯山水がみえる部屋に案内され、神主とお茶を飲んだ。 「なにか、変でしたか」と彼は聞いた。 「分かりません。今後、七階がでてこないことを祈願しましたが、効果は不明です。しかし、帳簿を封筒に入れて、わたしたのはだれだと考えていますか」と神主は聞いた。 「いったい、どういうことでしょうか」 「もし、ほんとうに該当する者がいなければ、封筒をわたした偉くみえたかたは、あなただったのではないのですか」  当惑する問田をよそに、神主はつづけた。 「こういった不合理は、一生懸命しらべること自体がおかしいのです。あくまで通常のばあいですが、理解できない事柄はうち捨てておくものです。事件に拘泥し、合理にかなわないと声高に主張する行為は、不合理を宣伝している者になります。おおむね、一番の関係者だというのが普通です。だから問田さんでなければ、もうひとりのあなただったのかも知れません。これは、忘れたほうがいいですよ」  問田は、だまって、砂と石の庭をみていた。 「もうひとりの自分は、自暴自棄になっていたのだろうか。それとも、私を助けようとしたのだろうか。なくなったのは、なぜ出勤簿と棚卸しの原簿だったのか」と考えはじめていた。  日の光が、砂を照りかえしているのを、問田はつよく感じた。               怪、了、一三枚     捨てられて、三〇枚、完