海志と三井 由布木 秀 一 とうとつな扉の出現、三井の失踪。 鉄の扉口をまえにして、海志は途方にくれていた。ふたつの出来事をむすびつけられず、ぼうぜんと立ちすくんでいた。 一昨日のことだった。年があけてまもない平日の朝の一〇時ころ、都心にも本格的な寒波が到来し、雪がちらつきはじめていた。恵比寿駅まえの喫茶店でコーヒーを飲みながら、ぼんやりと玄関ホールをながめていると、二七、八歳の若い男が入ってきた。木枯らしが薄茶のコートの裾をひるがえすなか、男性は黒い手袋をして、左手に黒色の鞄をさげていた。外がわのドアがしまり、自動であいた内がわの扉をぬけてレジの横に立つと、風で乱れた髪を右手でなでつけながら一瞬顔をあげた。金縁の眼鏡をかけた端正な顔立ちの男は、幾分か神経質そうで、喫茶店で起こる出来事を一刹那に把握しようとする、するどい目つきが印象的だった。男性は、ゆっくりと奥にすすんでいった。それだけのことだった。 あたらしい人が入ってきて、立ちさるのをぼんやりとながめつづけて二時間がすぎた。海志は昼食の時間になったのを知り、店をでるまえに洗面所にむかった。いちばん左奥の壁が三メートルくらいの幅で切りとられ、一八〇度回転すると右が仕切り壁にかわって通路がつづき、まず女性用が、つぎに男性用の化粧室があった。とくに人に出会うことなく席にもどり、請求書をもって立ちあがったとき、「あれっ」と思った。風呂場でお湯の蛇口をひねって部屋に立ち帰った瞬間に感じる、あの思いだった。 「浴槽の栓」 あの男がいない。出入り口はずっとみていたが、店に男性の姿はなかった。洗面所でも、通路でも会っていない。店内をみわたせるレジの横から座席を振りかえって、変だなと思ったのだ。 翌日も、ほぼおなじ時刻に男はやってきた。雪はやんだが低気圧はいすわり、コートの裾はすこし揺らいで、髪もいくらか乱れていた。レジの横を通りすぎ、ととのってはいるが神経質そうな顔で店内を一瞥すると、奥にすすんでいった。 コーヒーを飲みながら、玄関ホールをながめているうちに昼になった。海志は、いつもの蕎麦屋にいこうと思った。立ちあがり、まず洗面所にむかった。男は座席にみあたらなかったし、化粧室にもいなかった。レジで代金を支払いながら店内を振りかえり、「これは、おかしい」と思った。 今日、玄関ホールをみていると、一〇時ちょうどに男はやってきた。寒気団はすぎ去り、コートの裾が裏返ることはなく、髪も乱れていなかった。レジの横を通りすぎる一瞬、金縁の眼鏡のなかの瞳が海志の目とあった気がした。男性も、彼に気がついているらしかった。立ちあがると、化粧室にむかう男の後ろ姿がみえた。みょうなぐあいだった。鞄をかかえ、コートもきたままだった。 海志は、化粧室に追いかけた。仕切り壁をぬけると、座席とおなじ赤茶色のカーペットがしかれ、幅三メートルほどの通路が一〇メートルくらい先まであり、正面は壁になり終わっていた。だれもいない廊下の左、なかほどに出入り口がふたつならび、手まえが女性用、奥が男性用だった。追いかけて入った化粧室は、がらんとしていた。三つならんだ個室トイレは、ひとつだけ使用中だった。しばらくして姿をあらわした年かさの男は、腕をくんでみつめる海志と、ふたつの個室を交互にみて、不愉快そうに眉をよせた。でてきたばかりの部屋を彼がのぞきこむのを、なにかいいたげに睨みつけた。 男は、女だったのだろうか。 みかけで人は分からないから、可能性は充分に考えられた。化粧室から若い女がでてきた。通路の壁によりかかってみつめる海志と目があうと、うつむいて廊下を小走りにぬけていった。しばらく待つと、年配の婦人が手をふきながらでてきた。海志の視線に出会うと後ろを振りかえり、不思議そうな表情でもう一度彼をみた。 男は、どこにもいなかった。 海志がえた結論は、ふたつだった。男は、みた目通りの男性。しかも、こつぜんと姿を消している。海志は、男を三井とよぶことにした。これだけ特定された以上、固有名詞が必要だと考えたからだった。 通路は、壁になって終わっていた。左がわに廊下から一メートルくらいひっこんで鉄製の扉があり、物置に思えた。洗面所の清掃用具は、男性用の個室がならぶ小部屋にしまわれていたから、カーペット専用の大型クリーナーでも収納するのだろうと昨日は考えた。これほど立派な扉が、なぜ必要なのだろう。三井の失踪と、扉口は関係があるのではないか。海志は、はたと考えこんでしまった。 扉は通路からひっこんでいるので、洗面所に往来するだけではみえない。店のスマートな雰囲気は、たもたれていた。収納する小部屋が必要なら、効率を犠牲にしても充分にみあう優雅さがあるのだろうか。ホテルなら間違いなく、この手法をつかうだろう。大都会の老舗ならではの発想だろうか。 鉄製の大きな扉は、まわりの壁とおなじアイボリーで、とり分け目立つ構造はない。とはいっても、とうとつ感はいなめず、不自然さは周囲ににじみでている。こんなどんづまりに、カードキーを差しこまねばならない扉があるのは納得できなかった。蝶番のぐあいを観察すると、押してひらく構造で収納には不便だろう。大きな空間が背後にあるなら話はべつだが、どうして、そんなスペースが必要なのだろうか。 通路を幾度も往復しながら腕をくんで考えていると、紺色の背広を羽織った紳士がやってきて、「どうかしましたか」と聞いた。海志は、説明に窮した。年かさの男に睨まれたことや、女性用の洗面所をじろじろ無遠慮にみつめていたのを思いだした。だまっていると、「地下フロアに、ご興味があるのですか」と紳士は聞いた。 意外な言葉だった。海志は二年まえからこの喫茶店を利用してきたが、地階の話は聞いたことがなかった。玄関ホールに二基あるエレベーターにも表示はみあたらず、階段は併設されているが、地下にむかうものは知らなかった。思いがけない問いかけに、海志が不審げにうなずくのをみて、対応に慣れているらしい男は支配人だと自己紹介し、ついてくるようにいった。化粧室まえの通路をでて店内に入り、おなじ壁のいちばん右端から奥の事務室にすすみ、支配人室とかかれた部屋に通された。すすめられるままにソファーに腰をおろすと、「ご贔屓にしていただいていると、うかがっております」と支配人は、やわらかな物腰でいった。 「当店では、地階について、あえて宣伝は行っていません。常連のお客さま専用の、とくべつサービスとしております」と前置きし、 「ご希望なら、パスポートを発行しています。料金は月極めで、基本的にはセルフサービスとなります」と話しはじめた。 事前に決めた自分の席にすわるとか、さいしょのコーヒーは従業員がはこんでくるが、カウンターにいけば好きなだけ飲めるとか、禁煙への協力などが記載された用紙をみせ、利用の規則を説明した。前払いの月額料金、三万円が妥当かどうかは分からなかったが、この喫茶店は海志にとって必要だったし、三井もきっとそこにいると思われたから、同意書にサインをしてカードで清算した。 パスポートはカードキーで、差しこむと鉄製の大きな扉があいた。たった一階とは感じられない、ながい螺旋階段をおりていくと地階になっていた。天井がたかく薄暗いせいもあるのか、フロアは地上部より数倍もひろく思われた。黒いボックス席が洞々とならぶ空間で、かなりの人びとがいる感じだった。各テーブルには、読書用の手元灯があるが、ほとんどの人は利用していなかった。足もとを照らす豆電球が適度な間隔で床のちかくにおかれ、歩くのにこまることはない。海志は、壁ぎわにすわる三井をみつけた。 このフロアでは、もてなそうとする店のこまやかな配慮をみいだすことができた。まず、無遠慮に歩きまわる人がいない。話し声もしないし、興味本位の不愉快な視線にさらされる事態もない。ひとりをとうぜんの権利として、落ちついてすごすことができる。店員は客が着席するやいなや、ドリンクとお絞りをもってくるが、声をかけるなどの配慮を欠いた行為は決してしない。 「馴染み」というべたべたした関係など、お客が微塵も望まないのを店は充分に知っている。長年の営業的なノウハウが蓄積され、すこぶる洗練されていると感じた。フロアの従業員が日替わりになることで徹底され、店のスタッフは、いっさい顔をださないし、なんの干渉もしない。基本的にお客は入れ替わらないので、カップをさげる必要もない。地上の店は夜の零時にしまるが、地階に時間制限は決められていないらしく、泊まりこむ客はいないと思うが、海志は適当な時間に帰るからほんとうのところは分からなかった。出入り口も、ひとつやふたつではないらしく、客同士が鉢合わせしない仕組みを目指していた。 室内音楽もない静かなフロアにひびくのは、ときを知らせる時計の音だけになる。これが定番の柱時計の味気ない音響だと、さらに気が滅入るが、ながれてくるのは「からくり」のにぎやかな曲だった。さいしょはどうかと思ったが、慣れると自然にうけ入れることができる。一時間ごとでは煩わしいが、聞こえるのは、朝の一〇時と昼の一時、夜の九時の三回だけだった。これだけをみても、地階というニーズにそうとうな研究がつみかさねられているのが分かる。どう迷っても、そろそろなにかしらの判断をしなければならない時刻で、その証拠にこのタイミングでうごきだす人は多かった。 一口でいえば、海志はフロアを知ってたいへん満足した。荒涼とした大都会、乾ききった大沙漠で、ついに自分のために用意されたオアシスに辿りついたと感じた。衆人環視の殺伐とした現代社会のなかで、完全にプライベートな空間を提供しているのだ。利用料金がたかすぎるとは、決していえない。その証拠に、こんなにおおぜいの人がいるのだ。海志は、ひとりではないのが明白になり、気持ちが安らぐのを感じた。この空間のために料金を払うのは異常ではなく、普通の神経で考えれば、ごくとうぜんという心の支えをえたと思った。 毎朝、スーツをきてネクタイをしめた三井が螺旋階段をおりてくるのを、海志は自分の席からながめた。オレンジ色のスポットライトが、神経質そうに唇をとじた端正な横顔にあたり、背景のうすい闇から彼を浮かびあがらせた。まるでスターだった。 はじめのころは、周囲にだまってすわる人たちがひどく気になった。どの人も、さまざまな経緯でホールに辿りつくのだろうが、ひとりひとりはどんなだろうと考えずにはいられなかった。洗面所にいくふりをして座席のあいだを歩いて観察すると、フロアを利用しているのは、サラリーマン風の若い男が圧倒的に多かった。ほとんどは虚脱した表情で、手元の読書灯をつけることもなく、気配を消して暗闇と一体になっている。どれほどの人びとがいるのか分からないのは、そのせいだ。両手で頭をかかえ、小声でぶつぶつと呟く人をみつけると、周囲におかれた所持品から特徴をさがしだそうと注意を払った。そのうちに、どの人たちも日替わりでこうした行動をとっているのが分かった。人目を気にする必要のない私的な空間で、みんな素顔をさらしだしているだけだ。なんの不都合も起こらないのが、ここではしっかりと保証されている。 人を観察するのは、愚かなことだ。自分との違いを詮索するのは無意味なのだ。基本的におなじだし、違っていたとしても、どうしようもない。ひと月ここに通ってみると、周囲の事情に興味は起こらなくなった。あとからフロアに入ってきただれかが、海志の行動に注意を払っても不思議ではなかった。その人もときがくれば、おなじことを知るだけなのだ。やがて、この店のなかの自分という存在にも興味がなくなっていった。 普通は、どんなものにでも内がわと外がわがある。店が用意するカップのなかには、熱いコーヒーが注がれている。外がわからは、火傷もせずにつかむことができる。それとおなじで、だれもが一階と地下では違っている。あの颯爽とした三井でさえも、フロアにおりた途端に表情はすっかりゆるみ、喜怒哀楽がなくなった、のっぺりとした容貌になり、うつけて目のまえの壁をながめている。となりの座席にほうりだした黒い鞄のなかには、専用のコンピューターが入っているのだろうが、一度だってあけるのをみたことはない。 なにかの都合で三井の席をすりぬけたとき、ふとした仕草が目に映った。忘れられない事件だった。三井は、ハンカチを目頭に押しあてていた。薄暗い覆いかぶさる壁をみては目をつむり、その動作をくりかえしていた。「くっ」というひくい呻き声も聞こえたから、息をつまらせ嗚咽していたのだった。 海志は、動揺した。みてはならないものを目にしたと思った。あまりにも衝撃的だったので、通路で立ちどまったまま、じっとみつめつづけていた。海志は、まだ好奇心をもつ自分自身を恥じた。フロアにいる人びとは、まわりの出来事に関心がないから、ここにきているのだと確信した。それから四方への興味は、さらになくなっていった。 半年がたって、べつなことを考えていた。ここにも、ずっとはいれないのだ。緊急避難の隠れ家で、まともな人間ならこうした場所を、まずはみつけなければ仕方がない。しかし、ここにいることは、解決にはならないのだろう。居心地はいいが、正確には、悪くはないというべきだろう。いずれにせよ一時的な逃避場所で、ここにいても解決にはつながらない。無闇に時間をひきのばし、手つかずでながびいただけ、状況はさらに複雑になっているのだろう。 ここでは、なにをしていても、だれからも干渉されない。この場所を知るまえは、世界から自分ひとりがみすてられたように思っていた。半年通ってみると、いまではフロア全体がひと塊りになって、まとめてすてられている気持ちがした。はっきり分からないが、いつかここにもいられなくなるに違いない。客の全体数は、半年まえとかわらなかったが、あきらかに人は入れ替わっていた。徐々に自分が新参者から常連に、古株へとかわりはじめているのは理解できた。こなくなった人たちは、どこにいくのだろうか。あまり考えたいことではなかったが、いつか彼も、ここをでていかねばならないと感じた。 いうなれば、三井は海志の先輩だった。彼をみていれば、自分に起こることも分かるはずに違いなかった。三井もいつかここにはこなくなり、スポットライトはだれも照らしださないだろう。彼とは一度しっかり話しあわねばならないと思ったが、地下フロアはそうした場所ではなかった。 海志は、毎日おなじことを考えて、スケルトンになった黒い螺旋階段をながめていた。ついに、その日がやってきたのだ。昨日も姿をあらわさなかった三井は、一〇時になっても螺旋階段をおりてこなかった。今度は、海志が決断をしなければならなかった。この場所から、立ちさらねばならないのは理解できた。どこにむかえば、いいのだろうか。 海志は、見当もつかなかった。 「もう、七年になるのね」 美紀子は、悲しげにいった。 二ヵ月まえに、渋谷のホテルでふたりは会った。一段落してベッドに横たわると、美紀子はポツリといった。艶のあるながい髪をとかしていた彼女は、ブラシを寝台にほうりすてると、哀願する目で海志をみつめていった。 「七年よ」 大学をでて銀行の窓口業務につく美紀子は、すっきりとした顔立ちをしていた。可愛いというより美しいといったほうが適切で、化粧しラインをひくと、ひどく理知的にみえた。テレビ目線でじっとみつめられると、居心地の悪さを感じた。 「そうか、はやいもんだな」と海志も呟くようにいった。 「駄目だったわけね」 美紀子は、考える口調で聞いた。 「仕方ないじゃないか。思い通りにはいかないよ。全力はつくしたんだ」 「いつも、そうだったわ。海志さんって人は」 美紀子はなにかを思慮し、言葉をついだ。 「あなたは、志望する大学を目指して浪人し、一年頑張って成績をあげ、絶対に入れると思ったのに、受験で考えられない大失敗をしたのよね。それで、すべりどめの大学校にすすんだわ。遅刻も早退もせずに頑張って大学に通い、立派な成績をのこしたのに、志望した会社の内定取り消しにあって卒業を延期したわ。私より年はひとつうえなのに、一年おくれて入社したわね。その年度には、希望した会社の採用はなかったわ。私と結婚したかったから、不本意だったけれど頑張っていまの企業に入ったのよね。それなのに、いちばんいきたくない部署にまわされた。今回、誠心誠意力のかぎりをつくして、できがよかったはずなのに昇級試験に落ちて、もう一年、希望しない業務をつづけなければならないってことね」 「つくづく運が悪いんだ。仕方がないよな。自分でも、あきれるくらいだ」 「あなたは、真面目で努力家よ。いつでも、真っすぐまえをむいているわ。母がいっていたの。考えたほうがいいって。結局は、そこなのよね。だらしがなくてもかまわないし、頑張らなくてもいいのよね。運が悪いのは、いちばんまずいのよね。自分では、どうにもならないのでしょう」 「そうなんだよな。できることはしたし、みんなよりよかったはずなんだ。どうして、あれで駄目なのだろう。みえない神の意志っていうか、恐ろしくなるよな」 「そこが問題なのよね。母のいう通りかも知れない。どうしたらいいのか、考えても分からないのだから、手立てがないわけよね。とても残念だけれど、もとめられているのは結果なのよね。あなたには、それがだせない。なにをどう努力したって、無意味なのよね。世の中ってそうよね。過程なんか、だれももとめてはいないのよ」 美紀子は、しごく納得して大きくうなずきながら、海志をみていった。 「結果なんだよ。どうやったら、それが手に入るのだろう」 「そうよ、結果よ。私はメスよ。雌は、子供を育てなければならないわ。頼れるオスをもとめているのよ。結果をだせる、雄をね。もたれかかったらいっしょに倒れてしまう、柳のオスだったら、安心して子育てなんてできないわ。あなたの運の悪さに、一生をまかせていいのだろうかって」 美紀子は淡々と話していた。 「もう、つきあって七年になるのよ」 「なんとか、そろそろ好転しないのかな。いいかげん、嫌になるよな」 「あなたの話を、しているのよ。母がいうのよ、かわりの相手をさがせって。私は、あなた以外には考えられないのよ。父もいうのよ。婚期はあるって」 美紀子は、悲しそうに話した。 「どうなって、いるんだろうな。おれって」 美紀子は、涙をながしはじめた。耐えがたい沈黙の時間がすぎていった。そのあとで、いった。 「別れましょう。しばらく、会うのをやめましょう。できれば、あなたに運がむいてくるまで」 それが二ヵ月まえの事件だった。美紀子のスマホは、着信拒否になった。家に電話もしてみたが、母親から「もう、会わないでもらいたい」とつげられた。今度ばかりは、本気らしかった。暮れから調子が悪かった。正確には、うまれて気がついたころから、ずっとよくなかったのだが、本格的に絶望的な様相を呈しはじめた。美紀子の拒絶は、必死につかんでいた、小さな手がかりをとりあげられた気がした。それからは、窮屈なヘルメットをかぶりつづけている感じだった。自分がいる場所ではなく、べつの世界ですべてが進行していた。無彩色の白黒フィルムでかかれた風景を、ただぼうっとながめていた。気力もわかないまま、あてもなく無意味に、自宅と会社と喫茶店を往復していた。 今日は、診療所にいってみようと決心していた。 二 山手線、恵比寿駅と地下鉄の入り口のあいだの、五階だてのビルの所有者がだれなのかは知らない。建物の外装はくりかえし手なおしされているが、実はこの建築物は昔からある。上部の階のテナントは何度も入れ替わったが、一階のひろいフロアを占める全国チェーンの喫茶店はずっとかわらず流行ったのか、時代の波に飲みこまれることもなく事業を継続している。この店舗は恵比寿駅まえのいちばんの老舗だが、地下一階でも営業しているのを知る者はすくない。地階は、景気と無関係に充分な利益がでる営業形態らしく、店ではとくに喧伝をしていない。 ビルの最上階の窓に、大きな字で「心の病気のクリニック」と宣伝がかかれていた。駅にちかい一等地なのに建物がふるいせいなのか、五階はがらんとし、窓がわにそってテナントの空き部屋がならんでいた。内がわの通路に面した真ん中部分に、窓もない部屋がひとつぽつんとあり、ドアにはクリニックとかかれていた。異様にさびれ、うちすてられた感じで、入るのに躊躇われるほどだった。 どうするかと考えていると、なかから笑い声が聞こえた。ノックして扉口を押してあけると、真っ黒な顔の女性と、いきなり目があって度肝をぬかれた。扉の左がわにおかれた机のうえに受付とかかれたプレートとテレビがならび、ピンクの花柄のワンピースをきた確実に六〇歳をすぎた女は、ワイドショーをみながら煎餅を食べていた。 髪の毛を真っ赤に染めあげた受付嬢は、海志が患者としてきたのを確認すると、「待っていなさい」といって別室にいき、もどってくると、となりの部屋へすすむことをうながした。 室内には、大柄で太り、頭の禿げた年配の男がいて、医師の山崎と名乗った。 「暑いですね。クーラーを入れましょう」 海志は、部屋がとても暑いことに気がついた。うながされるままに上着をぬぎ、ネクタイとワイシャツをゆるめた。 みょうな雰囲気の受付嬢が、冷たい麦茶をもってきた。医師は、彼女にテレビをイヤホンで聞く指示をだして、白衣に袖を通した。受付嬢がでてゆき、だまっていると男は「地下から、きたのですか」とたずねた。 海志がうなずくのをみて、医師はクリニックが地階とつながっているといった。 たんにおなじ建物というだけではなく、地下から順に層状構造でつみあがり地上五階を形成している。診察室は、ビルの中央に位置し、インドの仏教寺院でいえば聖室にそうとうする。診療所の周囲の通路は、そこを右まわりに巡回する繞道になっている。五重塔のいちばんうえの屋根の部分を考えれば分かりやすいが、尖塔はシカラとよばれる砲弾状で、最上部には仏陀の遺骨がおさめられている。地下の喫茶室を底辺とし、診察室の天窓を頂点とするピラミッドを想像してみろといった。 その言葉に海志が天井をみると、窓が切られていた。 地下の喫茶室に通う人たちは、性格的にはQで、悩んだあげく五階まで相談にくるのだと山崎はいった。 海志がだまっていると、医師は、この部屋は最上階の割りには落ちつくだろうと聞いた。 ここは、地階に比べてあかるすぎると思ったが、居心地がいいと感じた。 海志がそういうと、なぜだか分かるかと山崎はたずねた。 だまっていると、彼は、窓がないからだとつげた。 たかい場所は苦手ではないのかと、海志に聞いた。高層建築物の窓ぎわにいくと怖くなると、地下からきた人よくいう。落ちてしまいそうだ。正確には、飛びこんでいきそうだ。それで、たかいところはすっかり駄目だという。ホームもおなじで、恵比寿の駅で山手線を待っていると、だれかに線路へつき落とされる気がする。正確には、自分で軌道にむかって落ちていきそうだ。歩道を歩いていても、車のいきかう道路に、だれかにポンと背中を押されて真ん中にいってしまいそうだ。より正確には、自分で車列の群れに飛びこんでいきそうだ。そういうことはないかと、海志に聞いた。 「だれが、悪意をもっているのか、直前にならなければ分かりません。とつぜん危険な事態に落ち入っているばあいも、あると思います。どんな人でも、背中を押す可能性はもっています。自分からいきそうな私がいるので、極端にいえば、かるく肩をたたかれて、いけ、と命令されたら、そうしてしまうかも知れません」 「そうですよね。それで、みなさん地下にいくのです。あそこなら、もう落ちていくはずがありませんから。窓がないことで、ここは地下と、まずはつながっているのです」と山崎は話した。 そういわれて海志は、あらためて部屋をみまわした。室内は一〇畳くらいで医師の机がおかれ、ふたりがむかいあってすわるソファーがあった。周囲の壁には、受付につながる扉がみえるだけで窓はなかった。その割りに、かなりあかるかった。天井をみると、天窓を通して空がみえた。 「この部屋の屋根は、窓になって天とつながっているのです。聖室ですからパワースポットで、太古の生命ともむすばれています。うまれたばかりの、輝くエネルギーの塊です。いまは必要がないですから、すこし暗いロールスクリーンにかえましょう」 山崎医師が操作をすると、天窓を覆ううすい緑のカーテンに、濃い藍色のものがさらにひかれ、部屋は薄暗くなった。 山崎は、歩道橋はどう思うかと聞いた。 車が走る真ん中にいけるにもかかわらず、不安感が起きない。歩道橋の幅、手すりの背丈、材質、色、この分野には世界中にたくさんの専門家がいて、事故なくわたれる万全の研究がされている。さらに研究内容は、公表すると挑戦しようとする者が必ずでてくるので機密あつかいになっている。足もとが周囲よりあかるいところは、人には光にむかう衝動があって危険だといった。 「さいきん気がついたのですが、いい思い出がなくなっているのです。どうしてなのでしょうか。失敗した出来事。恥ずかしい事件。情けなかったこと。思いだしたくない事柄ばかりが、頭に浮かぶのです」 海志は、山崎にいった。 想起を希望しない記憶は、たぶんほんとうだと思える出来事だ。いい思い出もあるはずだが、まったく脳裏に浮かばない。海志は不運だから、好ましい記憶と、そうでないものの比率は半々とはいかないだろう。それでも、七対三。さらに悲惨で、八対二なのだろうか。それでも、嬉しい思い出もあるはずだが、みつけられない。 「なんにも、思いだせないのですか」と山崎はたずねた。 「いいことは、ひとつも思い起こせないのです」 「それは、残念ですね。おつらいと思います」 山崎は、考えながらいった。 海志の話は極端だが、間違ってもいない。人は、失敗を覚えて学習する。整理すれば、胸をはれるいい思い出よりも苦しみをともなう記憶が多いのが普通だ。しかし面白い失敗もあるはずで、不首尾と苦悶は、必ずしも並立しない。問題はその思い出が、自分を苛み責める気持ちをひき起こすことだ。どんな記憶にたいしても恐怖の感情が出現すると、人は疲れ果ててしまうといった。 「なおせるのでしょうか。人によっては、いいことばかりを思いだす、幸せな方も暮らしているのでしょうね」 そういう者がいるなら、死ぬまえで、自己防衛だろうと山崎はいった。 ある程度の年齢になれば、だれでも人生が間違いだらけだったと気がつく。死がちかづいてくると、それでは死に切れず、強引に過去をねじまげてかきかえ、よかったと思う以外は考えないことにするのだ。だから、いいという内容は滅茶苦茶だ。過去の個別の記憶は封印し、「よい」という一括りのかたい殻で覆うのだ。外殻の中身をのぞくなどもってのほかで、問いも発しない。「よい」ひと塊りは、神聖で犯すべからざるものにかえ、人は死ぬ準備をする。認知症も、そうした知恵のひとつなのだ。 海志の希望にはそえないが、ほんとうは面白いことなどこの世にはない。落語や漫才などをしっかり聞いてみると、まったくつまらない。どこで笑ったらいいか悩むほどだが、寄席にいくのに噺家のセリフを検討しようと考える人はいない。みんな爆笑したくて、お金を払っている。もとをとりもどそうと、懸命に頑張って笑っているのだ。テレビのバラエティーも、おなじだ。冷静に聞けば、つまらない話ばかりだ。ほとんどの人は、この事実に気がつかない。都合がいいのでほうっているが、気づいた者はどう対処するかという問題なのだ。しかし噺家が笑いをとるために、いいまわしを工夫し、微妙な間をつかうのには感心する。げらげらおかしいではないが、興味ぶかいという点では充分に面白い。 馬鹿ばかしく、つまらなくても、奥行きのあるものは存在する。考え方によっては、海志のつらさや苦しみは面白いのかも知れない。だから、呼び名をかえてはどうか。つらいとか、嫌だとか思ったとき、「面白い」といってみる。なぜなら、いい思い出がなくて苦しんでいるのではない。海志は、自己嫌悪に苦悩している。悪い記憶が起こって、嫌悪がうまれるのではない。嫌だと思って、それに該当する思い出を無意識にさがしている。だから、嫌悪する記憶しかでてこない。そういうときに、「面白い」というと、つぎの瞬間、嫌な思い出に辿りつけない。すぐにはできないから、訓練が必要になる。 はげしい自責の念は、反省的で素晴らしい人だと示しているわけではない。その感情に捕らわれるのは、非生産的で危険なことも海志には分かっている。起こってしまった出来事は、仕方ない。過去の事件を反省しても、なにもうまれない。すんでしまったものは、なおしようがない。そのうえ、つべこべ文句をいうのは、他人ではなく海志なのだ。あまりに不合理で、悪性のサイクルにはまっている。考えるべき問題は、終わった事件ではなくて将来だ。Qのばあいは考え方をかえる方がいい。反省は、ほどほどにするべきだと山崎はいった。 「Q」という単語がしばしばでてくるので、海志が意味が分からないと話すと、医師はていねいに解説してくれた。山崎によれば、「QCDの性格分類」は、国際的にもみとめられ、ほとんど真理と考えられている。心理学における基本で、学校教育法でも高等学校の道徳の時間にさいしょに教えると決められていると語った。 海志が、「ABO」の血液型の分類しか知らないというと、そうした「えせ科学」ではなく、世界で通用する性格分類だから、これくらいは覚えていたほうが社会人としては必要だと話しはじめた。 「Q」は「QUESTION」の頭文字で、懐疑的な性格をさす。代表的な人は、「デカルト」になる。「C」は「CHRIST」の頭文字で、宗教的かどうかは問わないが、求道的な性格をいう。この言葉の代表例が「キリスト」なのは、だれにでも分かる。「D」は「DAME」の頭文字で、「Q」と「C」以外の性格をさす。 「だめ」とはなにかと海志が聞くと、漢字でかけば「駄目」だといった。彼は、ここだけが日本語で、国際的に通用するのかたずねた。山崎は、この分野では日本の貢献度は非常にたかく、学界では「Q」を「懐疑的」の「K」とし、「C」を「求道的」の「G」とする、「KGD」の分類と改名したいと考える左派がいるほどだと語った。ひとつが日本語であってもまったく疑義はなく、国際的には充分みとめられ、納得できるといった。 「D」については、世界的規模で、かなりの研究がある。D性格は、ほとんど本を読まないことが知られている。優性遺伝とも考えられ、疫学的にも二〇〇〇代以降、世界中で猛烈に増加している。さらにD性格は、精神疾患にも罹患しにくく、「うつ病」にかかったという症例はほとんどない。「Q」、「C」性格のばあい、気分が落ちこんだときに「励まし、頑張らせる」のは絶対ともいえる「禁忌」となる。医師国家試験では、この部分を間違えると「一発失格」の「地雷」とよばれているのは有名だ。いっぽう、D性格では気分が落ちこむことは稀とされているが、たとえそうみえたときに「励ましても」なんら問題はない。この性格のばあい、他人がどう思おうとも、なんとも感じないからで、「忠告」そのものが無意味だと考えられている。 「Qの方は、反省はほどほどにするのがいいですよ。開きなおりが大切です。ほかにも症状はありますか」と山崎医師は聞いた。 「心が落ちつかない気持ちが、つづいています。なにをやっても、している行為に熱中できません。それとはべつな、なすべきことがあるのではないかと、気がつく瞬間ごとに思うのです。しなければならない事柄は、いまやっている行為とは絶対に違うという思いです。それが、なんだか分からないのです」 「だから集中できないわけですね。それは、死ぬことなのでしょうか」 「思いだした事例が恥ずかしい思いにつながり、自責にかたくむすびつくばあい、そんな瞬間、ああ嫌だ、いっそ、と感じます。しかし、死が中心か、といわれれば違うと思います。周辺にただよっているのは、間違いないでしょう。一〇種類くらいの記憶に毎回苦しめられ、堂々めぐりや空まわりに考えつづけ、心がどこかにいき、これでいいのかと、くりかえし、しつこく問われる感じです。答えはいつでも、駄目に決まっていて」 山崎医師がおなじ地平に立ってくれるのを知り、海志は心をひらいていった。 「どうです、転地でもしてみませんか」 山崎が、とつぜんいった。 「転地療法ですか」 海志には、予期もしていない話だった。 「現代人には、気分転換が不可欠だと思うのですよ。二、三週間、山間の村にでもいかれてみては。気分にも、変化がでてくると思いますよ」 山崎医師は、聴診器を所定の位置にもどしながら、べつのことを考える風情で、おすすめの療養施設を知っているといった。 JRの黒部駅から宇奈月温泉にいき、黒部峡谷鉄道にのっていく舌字村という陸の孤島だが、後輩が経営する施設がある。そこにいってみたらどうかと提案した。 「かなり、遠そうですね」と海志が聞いた。 北陸新幹線ができて猛烈にちかくなったが、転地なら、そのくらいまでいかなければ気分転換にはならない。比較の対象がむずかしいが、匹敵するとすれば刑務所だろうといった。 「監獄ですか」 「比べれば、対象とすれば、ということです。素人の方は物事を簡単に比較するが、非常にむずかしい行為です。無理やり比べれば、ということです」 「考えれば、刑務所なんですか」 「比較が悪かったかも知れません。入った経験のない方は、刑務所という言葉に抵抗をもっていますからね」 「先生は、収容されていたのですか」 「何事も経験です」 「入らねばならないことを、先生はしたのですか」 「微妙な質問です。あなたには、なかなかむずかしいところがあります。悪い意味で、話しているのではありません。切りかえしがはやい、するどいというか」 「私がですか」 「お気づきでないのですね。あなたは一見ですよ、ちょっと見では、Dではないかと思われるくらい、ぼうっとされています。しかし、されるべき質問はきっちりなさっていますね。容易ではないと、思うわけですよ。いいかげんなことでは、ご納得はいただけないと」 「そんな風にみえるのですか」 「多くの患者をみている医者。幾人かの医師しか知らない患者さん。ここには、幾分か立場の違いがあるわけでして。とうぜんですが、見方も違います」 「それで、刑務所の話ですが」 「するどい。あなたは、そうして話をもとにもどしてしまう。いい逃れができません。八割くらいの方は、こちらがですよ、すこし違う話にもっていけば、ちょっとした疑問なんかはですね、問題にしないのです。いっしょに、つぎの話題につきあうのが普通です。あなたは違う。これは性格の問題で、ご自身にたいしても、おなじ接し方をすると考えられます。こうなってくると、QよりもCの要素がつよいのかも知れません。タイプ分類を考えるうえでも、かなり重要な素因をふくんでいます」 「私が聞きたいのは、刑務所の話で」 「すごいですね。追いつめています。べつに話したくはないと、申しあげているのではありません。これは、あなたのもつ性格と考えるべきでしょう」 医師はそういうと、カルテになにかを走り書きした。思慮する素振りで天井をみつめ、さらにかきこみをつづけた。 「先生、完全に気になってきました。刑務所の話ですが、これだけは聞かないと、もう、まえにすすめないと思います」 「分かっています。あなたの性格からは、そうでしょう。逃げる気はありません。分かりあうまで、徹底的に話すつもりです。時間はいいのですね。さて、刑務所の話でしたね」 「そうです」 「あそこはですね。世間が考えているほど、ひどいところではありません。食事だって、ほどほどです。麦飯って馬鹿にされている方が多いですが、けっこうな健康食で、私はいいと思います。ただまわりの雰囲気が、すこし娑婆とは違います。そうした意味あいからは、やはり別世界で、どだい舌字村と比較するのは、不適切だった気がします」 「先生。私が問題にしているのは、なぜ刑務所に入られたのかと」 「そうでしたか。べつに恥ずかしいことをしたわけではなかったのですが、話すといっても、そうですね。まあいいでしょう」 「なにがですか」 「分かりました。正直に申しあげると、保護されたのです。間違いです。過誤というのは、だれにでも、どこにでも、起きてしまうことで。あなたにだって、起こりえます」 「保護ですか。拉致でもされたのですか。被害者だったのですか」 「そうでは、ありません。だから、間違いだったわけですが。加害者ではありませんよ。考え方によっては、被害者というよりは加害なのかも知れません」 「なにを、なさったんですか」 「なにもしていないですよ。だから、間違いだったのですが。なにもなかった、というわけでもないのですが」 「やっぱり、なにかをしたんですか」 「いえね。考え事にふけっておりましたら、よくは覚えていないのですが、行き倒れになってしまったらしいのですよ。気がついたら警察のなかで。自分でもその状況を知ったときには、事件に巻きこまれたのではないかと思ったくらいで。ながいこと満足に食事もしていなかったので、だされた麦飯が、おいしくて。悪い思い出ではありません。あそこは命の恩人です。考え方によっては、そこもいいですね。大部屋ですが、お金もかかりません。紹介状はかけませんが、転地という意味からは、考えてもいいかも知れません。職員の方も、けっこうやさしいのですよ。しつけが、充分にされているのですね。親切です。あそこは、世間に誤解されています。どちらでもいいですよ。刑務所にしますか」 「いえ、私は、そちらのほうは遠慮したいと思います」 「はっきりしています。決断力も決して悪くはない。それでは、舌字の村がよろしいでしょう。あそこは、親切を産業に村興しをしているところですから最適です。いい施設があるのです。紹介状をかきましょう。舌字の駅から鳥羽医院への道も、くわしく記述しておきましょう。知らない土地でまようのは、疲れますからね」 山崎医師はそういって、手紙をかきはじめた。 「そこでは、入院しなくてはいけないのですか」 海志が怪訝な表情で聞くと、医師はおどろいた顔をした。 「あなた、病気でいけるんですよ。個室で食事がついて、看護サービスまでうけることができるのです。医学博士の、私がつけた病名です。全国で通用します。五〇〇〇円のホテルに泊まったら、あなたはその額を払って、食事代も支払わねばなりません。病名がつくのですよ。三割負担で、病院に泊まれるわけです。療養するなら、入院の一手だと思いますが。分かりますか」 「紹介状があれば、三割で療養ができるわけですね」 「そのうえですね。あまりにうまい話で、この手の話題は苦手なのですが、せっかくここまできてくれたのですから、お話ししましょう。病名がつけば、保険がおりるのですよ。なにか、医療保険に加入していませんか」 「そういえば、入っていたと思います」 「それは、ラッキーですね」と山崎医師はいった。 「幸運」 海志は、その言葉を思わずくりかえした。ながいこと聞いていない単語だった。 「ラッキーですよ。一日入院すれば、いくらか支出されるタイプではないのですか。普通は、三〇〇〇円くらい支払われます。払った額は、もどってくるのです。病名がありますから診断書がでて、有給休暇がつかえます。かわりに私が療養したいくらいです。なんていったって、ただ、ですから。ほんとうにうらやましい」 「うらやむ」 なんて久しぶりに聞く言葉だ、と海志は思った。 「紹介状は、いらないのですか」 「いえ、欲しいです。紹介状がそんなに魅力があるとは、考えてもみませんでした。ほんとうに個室で、食事もついているのですか」 「そこが味噌です。食事つきで、しかも個室の医院を知っているのですよ。冷暖房完備で一日に六〇〇〇円ですむ。消費税も入ってですよ。三割負担で二〇〇〇円を切るということは、あきらかに差額があるのですよ。交通費の足しにつかえるわけです。二週間も療養すれば、旅費もほとんどでることになります」 「うまい話ですね」 「いいとか、ずるいとか、そういう話題は私のもっとも苦手とする分野で。この際ですから、はっきりといいましょう。どこから考えても入院です」 「分かりました。間違いなく入院です」 「ただちょっと、やっぱりお話ししといたほうがいいかな」 「なにか、問題があるのですか」 「案件というほどのことではありません。ただ、お話ししたほうがいいのかと。鳥羽医院の院長先生ですが」 「その方に、問題があるのですか」 「滅相もない。素晴らしい方ですよ。後輩なのですが、私も尊敬するほどの徳のたかい人で。すこし、かわっているのです」 「変人って、具体的にはなんなのですか。みょうな趣味でもあるのですか」 「飛んでもない。まあ、いけば分かります」 「気になりますね。そうしたいい方は」 海志がそういうと、医師はだまったまま、じっと床をみつめた。 「すこし話題をかえましょう。おたずねしますが、先生からみて、私は、かわっているのでしょうか」 「あなたが、ですか」 医師は、思いもつかないことを質問されたという感じで、じっと海志をみつめた。 「あなたは、ぜんぜん普通です。超普通。あなたをそうよばないで、いったいなにを普通というか」 「そうですか。それでは、先生はかわってはいないのですか」 「私。ですか。私なんぞは、ごくごく当たり前の人間で、極端に普通。まったくで、絶対の、金輪際というべき。まるで根っからの、怖いくらいの普通ですよ」 「そうなのですか。では、あの受付嬢は」 「受付」 「先生の部下の、お茶をだしてくれた、あの方ですが」 「桜ちゃんですか。彼女は、まさに普通です。満点というべきです」 「それでは、鳥羽先生は、どう普通でないのですか」 「つまり、徹底的な、完全なCなんですよ。一途なんですね。こうと思ったら、徹底的にやるタイプですね。医師の鏡というか、経済のことなんか、ぜんぜん気にしないのですよ。すくいたい、あらゆる者を。衆生とでもいいますか、患者だけではありません。それはもう、ありとあらゆるものを、根底の魂からすくおうって、そんな感じですね。性格ですからね。頑固といえば一徹。正直とするなら、なにかが頭につくほどで。鳥羽先生なんかは、税務調査をうけたときに、税務署の役人がですよ、あまりのことにあきれて、節税の仕方を講義したって、そんな逸話があるくらいでして」 三 いっそ彼岸といえるほど、はるかな道のりだった。前日の早朝、羽田から富山に飛び、鉄道で黒部に入り富山地方鉄道にのり、宇奈月温泉で一泊した。朝の九時に黒部峡谷鉄道にのりかえ、欅平からさらに私鉄にのりついで、目的の村についた。 駅まえは広場になり、舌字温泉とかかれた宿泊施設があり、集落の概要を記載した案内板が立てられていた。この村は山がわを舌のつけ根とみると、日本海がわが舌先にあたる面白い形だった。背後に鬱蒼とした森があり、駅にちかいところは墓地になっていた。絶壁の中間の平たい岩が大きくつきでた形で、舌そっくりの小さな集落だった。平らな舌の中央に、医院をかねた鳥羽寺院があり、とりかこむ外縁に全長四キロの周回路がつくられていた。駅は舌根部の、ちょうど真ん中に位置していた。村は、中心に高層建築ともいえる鳥羽本山のビルがあるだけで、駅まえ以外には建物すらなく、山崎と名乗った医師は、この場所のいったいなにを説明したかったのだろうかと海志は思った。 彼は、舌字村の舌尖にあたる絶壁から日本海をみていた。遠くに能登半島がみえた。崖の内がわに、たかさが五メートルはある金網をはった鉄柵が、内外二重に立てられていた。あざやかなグレーにぬられた網をつかみながら断崖をのぞきこむと、ほそい川がながれる眼下の森まで三〇〇メートル以上も切りたち、足がすくんで小刻みに震えてきた。 「どうか、なさいましたか」と背後で声がした。 振りかえると、薄緑の作業服をきた村の職員らしい男が心配そうにみていた。 「どこから、いらしたのですか」と背のたかい男性は聞いた。 思わず身構えると、痩せた男は穏やかな調子でいった。 「泊まるところがありますか」 だまっていると、髪をみじかく切った若い男はつづけた。 「お金がなくても、泊まれる場所があります。心配はいりません。みなさんが、悩みをかかえているのはとうぜんのことです。温泉にでもつかって、ゆっくりしてから、また考えてみてはいかがですか」 「大丈夫です。自殺をしよう、などとは思っていませんから」 その言葉を聞くと、男はさっと金網がわにまわった。 「この村は、全体が療養所になっているのです。あなたが、なぜここにきたのか、だれも聞きませんから」 男は、真剣にいった。 「あやしい者ではありません。紹介状をもらったので、やってきたのです」 「それでは、鳥羽医院に、ご案内いたしましょう」 「どうしようかと思って」 「なにがですか」 「いこうか、どうかと」 「手紙をおもちなら、いったほうがいいですよ。私がご案内いたします」 「もう、帰ろうかと」 「鳥羽医院にですか」 「いえ、このまま東京に」 「そうですか。それでは、駅まで荷物をおもちしましょう」 「ひとりで考えたいのですが」 「単身でここにいらした方をみつけて、声をかけるのが私の仕事なのです。それで、給与をもらっているのです。ここにいるのも帰るのも、あなたの自由です。滞在するなら、鳥羽医院にいきましょう。嫌なら、違う宿泊所もあります。帰りたいのなら、それもいいでしょう。しかし、犬もつれていない方を、ひとりにしておくことはできません」 「飼い犬といっしょなのは、宿泊客なのですか」 「そうです。あるいは、療養施設にいらしている方がたです」 「なるほど、それで区別がつくわけですね」 「そうです。犬をつれていない、おひとりの方をみたときには、声をかけねばなりません。それが、私の仕事なのです」 みまわしてみると、だれもが飼い犬といっしょだった。 「犬が好きなんですね」 「触れあい療法の一環だと、聞いています。犬は嫌いですか」 「いえ。猫よりは、犬です」 「それはよかった。それなら、鳥羽医院にいってみたらどうですか。気に入らなければ、駅のちかくの温泉に無料で宿泊できます。それも嫌なら、お帰りになってもけっこうです。おつきあいしますから、一度、紹介状をおみせしたらどうですか。あなたの気持ちしだいですが」 男は、紳士的だった。 「分かりました。それでは、つきあってください」 周回路と鳥羽医院の境内とを仕切るたかい塀にそって先導する男についていき、道を左にまがると、幅、四、五〇メートル、奥行き二〇メートルほど、玉砂利がしきつめられたひろい門前にでた。すすむと、巨大な阿吽の仁王像がおかれる大門がみえた。右がわには口をあけた阿像が天衣を風にはらませ、気焔をあげていた。左がわの吽像は口唇をとじ、境内に侵入しようとする魔物をするどい目つきで威嚇していた。さらにすすむと、行く手に白煙が立ちのぼっているのが目に入った。 「あれは、なんの煙ですか」 「火葬場があるのです。ホスピスですから」 「駅まえの広場に大きな看板がでていましたよね。素懐をかなえる三つの約束とか」 「お金をとらない。延命しない。苦しませない。ですよね。鳥羽本山の住職が、医者なのです。終末期の患者さんを、気持ちよく阿弥陀如来におとどけできると」 「浄土真宗とかいてありましたね」 「真宗、第一一派、平の鳥羽派といわれています。落ち武者の末裔なのです」 そんな話をしているうちに、鉄筋でつくられた三階だての施設についた。男がなかに入ってなにかを話すと、四〇代と思われる事務服をきた、やや太った女性がでてきて、療養かと聞いた。事務的な話のあとで、彼女についてあがった三階の部屋は、海がみえる個室で冷暖房が完備していた。 紹介状をみせると、職員はおどろいて「義夫先生ですか」と聞いた。 「恵比寿の診療所の先生です」 「山崎先生ですね。それは、たいへん。いま院長に話してきます。くつろいでください。冷蔵庫のなかは、なにをお飲みになってもけっこうです。お酒はありませんが」 職員は、紹介状をもって、いそいそと階段をおりていった。遠くに素晴らしい日本海がみえた。木製のベッドに横になり、手足を伸ばすと、清々しい森の風が吹きこんでいた。階段を早足でのぼってくる音が聞こえた。 「院長先生が、いまお会いしたといっています。ご都合がよければ、いっしょにきていただけませんか」 先ほどの事務員が、息を切らしながらつげた。 「さて、どれにいたしましょうか」 黄土色の僧衣に身をつつんだ鳥羽院長は、柔和な笑顔をずっと浮かべながらいった。間違いなく笑い顔なのだが、人工的に無理やりつくった感じだった。六〇歳をこえるに違いない目のまえの先生は、頭の真ん中に縦に剃りこみが入り、両がわは白髪だった。なぜ、こんな不自然な髪形をしているのか。もう医者という概念では捕らえ切れず、いままで接触がほとんどなかった住職という言葉によってのみ、たもつことができる極限のイメージだった。 道の両がわには、ずっと犬小屋がならび、一頭ずつ犬が入っていた。部屋も、大きく清潔で、犬たちも気持ちがよさそうだった。どの飼い犬も柔和そうで、健康そうにみえる綺麗な毛並みは、白や茶や赤色をしていた。 「犬は素晴らしい動物です。仏さまからの授かりものです」 「住職は、生き物はなんでもお好きなのでしょう」 「そうですね。仕事柄、生きているものは、みな愛するようつとめております」 「嫌いな生き物は、いるのですか」 「好きの反対ですね。あまり好みではないものは、おりますよ。聖職者でありながら、不徳のいたすところで、残念ながら苦手は、ございます」 「そうなのですか。やはり好き嫌いは、どうしてもあるのですね」 「そう、申しているのではありません。好まぬと嫌いは、多いに違います。苦手と嫌厭は、まったく別ものです。何事も嫌ってはいけません」 「それも、修行なのですね」 鳥羽僧正は、修練はするべきだといった。 人には、適切な修行が必要だ。適度とは、はげしくも、徹底的でもない。とはいっても、不徹底でもいけないから激烈かも知れない。悟りをひらこうと考えて山籠もりといっても、ミーハーは南アルプスだ。メッカだが、極端に普通、凡人の発想だ。夏の立山は、銀座とおなじだ。あんな中途半端なところでは、なにもできない。なにかに集中しようと思うなら、人はだれでも人里を離れようと考える。世間とは、うるさくて専心なんて、できないよう仕組まれているし、格好を気にするからだろう。しかし立山ではあまりと思う者は、さらに凡庸だ。そういう方がいちばん手軽に考えるのは、奥飛騨だ。飛騨で修行したなんて聞くと、よく分かった者からみれば子供の遠足だろう。空海法師でも、せいぜいが高野山だ。当時の高野はそうとうに険しかっただろうから、いまなら月山だ。物事を比較するのは、容易ではない。たとえれば、という一応の話になる。北海道の大雪山は、そのうえの格だろう。夏でも、雨がふれば気温はすぐにマイナスにかわるし、ヒグマがでる。大雪で籠もるとなれば、只者ではない。山崎先生は、一心不乱に修行し、仏の目にかなった。つまり真如に到達された際、多摩川の橋の下にいたのだ。多摩川線の二子玉川駅ちかくにある橋梁だった。あんなうるさいところで、我も忘れて座禅をくんでいたのだ。大雨で、気がついたら増水し、濁流が胸元までとどいていたらしい。そこではじめて我にかえられたと、Cの探求、にはかかれている。ふらふらのまま自宅に帰ると、その日はなんと、母親の一三回忌にあたっていた、といった。 「行き倒れになったという話は、聞いたことがあります。刑務所に保護されたとか」 「それは、違うときのことですね。ホームレスの仲間意識、その愛と真実、にかかれていたと思います」 「そうですか」 「新宿でホームレスの方がたの巨大精神世界を探求しようとして夢中になり、行き倒れたというお話で」 「食事もとらなかったと、お話しされていました」 「おくわしい。やはり、ご興味があったのですね。山崎先生に」 「いえ、滅相もありません」 鳥羽僧正は、山崎医師が我にかえって家に帰ると、奥さんはすでに離婚していたといった。あたらしい夫とのあいだに、小学三年生を頭に四人の子供がいた。山崎医師の子は、ふたりだったが、うえのお嬢さんは二〇歳で結婚して、孫さんまでうまれていた。それで、先生は歓喜したといった。 「いったい、なにに喜んだのですか」と海志は聞いた。 「だってあなた、考えてもご覧なさい。ちょっと気がつかないあいだにですよ、子供がふたりから六人に増え、お孫さんまで用意して、仏さまは待っていてくれたのです」 「山崎先生は、精神科のお医者さんでしょう。鳥羽住職のお話は、仏さまの話題で、まじっていませんか。学問と宗教が」 「するどい。問題は、そこです。そこで、私と山崎先生との接点が明確になってくるわけです。先生が探究しようと試みたのは、仏陀の精神分析だったのです。なぜ、あのような偉大な精神が出現するのか、そこに焦点をしぼって研究なさったのです」 「なるほど、求道的ですね。凡人ではありませんね。そう考えると、たいへん疑問に思われることがあって、ひとつお聞きしたいのですが」 「これも縁。なんなりと、おたずねください。南無阿弥陀仏」 「山崎先生がいう、普通というのは、どの程度なのでしょうか」 「尋常ですか」 「そうです。山崎先生が、私をひと目みて、ごくごく普通といわれたのですが、どう思いますか」 「あなたをですか、海志さん。それは、ごもっともなお話です。あなたは私がどうみても、普通。絵にかいた尋常でございます」 「鳥羽住職からみて、山崎先生はいかがですか」 「そうですね。山崎先生は、学問を好むあまりに、普通からみれば、ややそうともいえない、まあほんのすこしですが、むずかしい、境界領域でございますね」 「さらに、疑問があります。山崎先生をしてですね、かわっていると表現された者、それは、一般的にはどう考えたらよろしいのでしょうか」 そう質問すると、鳥羽瑞雲はじっと海志をみつめた。 「追いこんできている。あなたは、只者ではありませんね。さすが山崎先生のご紹介の主。紹介状を手にしているとの看護師からの報告で、なにをおいてもと、お目にかかったわけでございますが」 「先生は、簡単には紹介書はかかないのですか」 「ご冗談を。山崎先生の紹介状、これはたいへんな価値のあるものでございます」 「そういえば、全国で通用するとおっしゃっていました」 「はなはだしい謙遜です。山崎先生の紹介状をおもちとならば、世界中、どの国にいっても通用します。現在ばかりではありません。たぶん、あの世でも」 「そうだったのですか。簡単にくれたので、だれにでもかくのだろうとばかし思っておりました」 「南無阿弥陀仏。滅相もないことでございます。私、みずからがお相手いたすのも、ひとつには紹介状をおもちだったから、こそでございます。こうしてお話ししてみれば、山崎先生が手書きなされた意味もまた、つたわってこようというものでございます」 「そうだったのですか。ラッキーの部類に入るわけですね」 「それは、幸運でございます。どこからみても」 「それで先ほどの、普通の話ですが。その山崎先生がかわっていると表現をされる方は、どの程度、尋常からみれば距離があるのでしょうか」 「たとえることは、たいへん困難ではございます。それでもといわれるのならば、北海道の大雪山で籠もる方であろうと」 「よく分かりました。胸のつかえがおりました。やっぱり、そうだったのですね」 「ご得心なされた、わけですね」 「はい、よく分かりました。もうひとつ、聞いてもいいですか」 「これも縁。なんなりとおたずねください」 「鳥羽住職は、ご自分を普通だと思いますか」 「なんということを」 鳥羽瑞雲は、じっと海志をみつめ、とつぜん偏差値の話をはじめた。 彼によれば、人同士を比べるのは基本的に容易ではない。しかし偏差という考え方は、さらに全体と構成要素である「個人」を比較している。二者は、質的に違って比べられない。偏差値は、全体を同質の者として無理やりに順にならべる試みだから、比較される「個人」は相対化せざるをえない。最終的には、個性をもつ「人」ではなく、構成要素としての「存在者」として捕らえられる。これが、現代のアイデンティティの喪失に密接につながり、競争によってますます「個人」はうしなわれる。全体のなかで相対的な意味あいしかもたない、たんなる「存在者」という質を問わない部分に貶められる。ほかの人にかわれない「個人」がいたはずなのに、社会は無個性の「存在」のあつまりになるのだといった。 「かわるかもどうかも、またこれ自分。私自身のなかでは、ごくごく普通でございます。人さまと比較対照するなど、ほんらい益なきこと。私は、つねに普通を心がけております」と鳥羽僧正はいった。 「そうだったのですか。よく分かりました。つまり、幅があるわけですね。そこには」 「幅とは、いったい、なんでしょう」 「ですから、普通のなかでも、レンジがあるのですね。極端に平凡。猛烈に凡俗。ごくごく尋常。まるで普通。人並みに通常。さらには、すこし凡俗。ぎりぎり普通とか」 「平たくいえば、その通りです。なにせ阿弥陀如来は、人智をこえています。まったく普通ではありません。劫という時間から、風輪という空間までもが超絶しております。仏さまからみれば、人間の変化などまるで差がないといっていいでしょう。善人、悪人などとは、もう紙一重でございます。紙といっても、厚さもミクロの状態でございます」 「なるほど。鳥羽住職のお話が、すこし分かってまいりました」 「得心なされたとは、愉快。痛快。南無阿弥陀仏」 鳥羽住職は、大きく笑った。 「猫は、寝子でございます。寝ているばかりで、なんの役にも立ちません。餌をあたえても野生のままで、とくに飼われている自覚はありません。その点、犬は対照的です。一晩中起きて、主人をまもってくれます。ですから、寝ぬ、でございます。忠実であることから、主人が死ぬといっしょにいってしまう、つまり、逝ぬ、でございます」 鳥羽住職は、犬はとくべつな生き物だと話しはじめた。 世界最古の宗教、ゾロアスター教でも記述がある。 人間と犬は、たがいに幾重にも補いあっている。あらゆる生き物のなかでもっとも忠実な伴侶だ。人間の心からの敬意、友情、愛に値するのは、犬をおいてほかにはない。人間自身の一部で、影ともいわれ、人類の繁栄と幸福に欠かせない生き物だ。犬を理解することから、世界が存在するのだ、といった。 鳥羽住職は、年端のいかない子供にさとす調子で、海志の問いにひとつひとつ答えてくれていた。 「よくさがしてください。あなたにあった犬は、一匹しかいないはずです。それは、かえがたい、かけがえがないものです」 「この犬なんかは、どうでしょうか」 「さすがにお目がたかい。これは良犬です。四歳ですから人にすれば三〇歳前後、素直で忠実です」 「そうですか、雑種みたいですね」 「そうです。ここにいるのは、ほとんどが交雑種です。血統をもたないものこそが、まずすくわれるべき存在なのです」 「名前は、なんというのですか」 「名ですか」 「そうです」 「名前ですか」 「ぐあいの悪い、呼び名なのですか」 「そうではないのですが。さて、どうでしょう」 「なにが、どうなのですか」 「なんとよびたいか、と聞いているのです」 「もしかして、決まっていないのですか」 「名は、飼い主がつけるものです。縁があってむすばれるからには、あなたが愛情をもって名づければよろしいかと。なるがままに、これがわが宗派の真髄でございます」 九時ころ、海志は犬小屋にいった。ほそくてながい脚と、みじかいが密生した赤くて光沢のある毛並みがそろった犬は、元気そうだった。安易すぎるかとも思ったが、アカと名づけることにした。頭をなでると、耳はたれさがり、顎はあげられて、口もとはわずかにひらかれて表情がゆるみ、笑っていた。はじめて会ったときから、ふるくからの友だちだった気がした。 舌の形になる道路をぐるりとまわると約一時間だった。気持ちのいい朝で、もうすこし歩きたいと思ったが、道はそれでおしまいだった。もう一度、岬状にさらにつきでた舌字村の先端部にいき、前方と後方から二重構造になる頑丈な鉄柵ごしに日本海をながめた。晴れわたり、能登の島影が美しくみえた。 海志は、また周回路を歩きはじめた。鳥羽寺院のまえをぬけた。構造上どうしても、どこを散歩しても寺院の門前を通過することになるが、広場につくと、おおぜいの人があつまっているのがみえた。ちかづくと、犬が曲芸をしていた。 犬つかいは、小柄でピエロの格好だった。濃いピンクのまるい飾り鼻をつけ、黄色に脱色された髪はみじかくそろえてあった。縞模様の黄色いシャツをきて、ながいズボンをはいていた。 芸をするのは、真っ黒でビロード状に輝く艶がある毛並みをもつ、子牛ほどの大きな土佐犬だった。肩や尻の筋肉は隆々ともりあがり、犬歯はするどく、耳は立ち、獰猛そうにみえた。周囲をみまわしても、白や茶色の飼い犬しかいなかった。この村で、たった一頭の黒い犬だと思われた。前脚を大きく肩のところまであげ後脚で立ちあがると、ふらつくこともなかった。その威容に、観客はおどろき拍手をした。直径が五〇センチくらいの大きなボールに、犬はゆっくりと四脚でのった。素晴らしい平衡感覚だった。そのうえで、土佐犬は前脚をあげて、しっかりと立ちあがった。姿には、王者の風格があり、牡牛よりもさらに巨大にみえる黒い犬の一挙手一投足は、とりかこむ人びとを魅了し、感嘆と称賛の拍手が鳴りひびいた。 「この土佐犬は、クロといいます。これだけのバランス感覚をもっているのは、世界で一億の犬族のなかで、ただ一頭です。みなさまも、ごらんになるのははじめてだと思います。もう一度、盛大な拍手をお願いいたします」 観客は、最大限に手をたたいた。 「では、最後の曲芸です。なんとこのクロが、ボールのうえで逆立ちをします。できたら、盛大な拍手をお願いいたします」 観客はどよめき、ピエロをかこむ輪がちぢまった。 「まえの方は、おすわりください。よろしいですか」 犬づかいは、いった。 海志はいちばんまえで、膝をまげて腰をおろした。アカをちかくによせ、右の手のひらを頬にあてながらながめていた。膝のうえにおかれた左の手で、首輪とつながるやわらかい革紐をもっていた。 クロは、ゆっくりと大きなボールにのった。位置を正し、巨大な前後の脚をちかづかせると、おもむろに後脚をあげた。周囲の人びとは固唾を飲んだ。やがて後脚はゆっくりとあがっていき、クロはボールのうえで逆立ちをした。 観客のひとりが拍手をはじめると、大歓声にかわった。最前列で膝をまげて腰をおろしていた海志の目と、ボールのうえで逆立ちをするクロの瞳が、おなじたかさになった。犬の獰猛な目玉がぎらりと光り、その瞬間、土佐犬は空を飛んだ。気がついたときにはクロは目前にいて、前歯を歯茎までむきだして革紐をつかむ左手首にかみついていた。 「ぎゃー」 海志は、おどろきの声をあげた。周囲でみている人びとも絶叫した。「静かに」 つよい調子で、ピエロがいった。 「クロは、あなたを気に入ったらしいですね。頭をなでてごらんなさい。かみついたりなんてしませんよ。おどろかないでください」 海志は、恐る恐る右の手のひらを土佐犬の頭にかるくふれた。クロは、手首をはなした。 「利口なものでしょう。ちょっとした座興です。クロは、おとなしいのです。みなさん、おどろかれたでしょう。逆立ちしたまま、玉のうえからどうやってこの方のところまで飛んだか、みた人はいらっしゃいますか。でんぐりかえしをしたわけでは、ないのですよ。すごいでしょう。どうかみなさん、クロに、またこの方に拍手をしてください」 ピエロは、観客にむかっていった。人びとは一様にうなずき、大きな喝采を土佐犬と海志にあびせた。それで、曲芸はおひらきになった。 海志は、鳥羽医院に帰り、アカを犬小屋にはなすと自室にもどった。シャワーをあびてベッドに横臥した。頭が、痛みはじめていた。クロのするどい目が、やきついていた。何度もみてきた、直視してはいけない瞳に思えた。 はじめて会ったわけでは、ないのだ。警告なのだろうか。殺意なのだろうか。なぜ、憎んでいるのだろう。ずっと昔から、クロを知っていた気がする。世界でたった一頭の黒い犬、暴力的で、感情的な。いつから知っているのだろう。 食欲もわかず、眠る気にもなれず、二度、三度と寝がえりをうったあとで、起きあがってベッドに腰をおろした。青い日本海がみえ、白い雲がながれていた。 クロがいったいなになのか、ピエロに聞いてみなくては。 海志は、犬小屋にいき、アカをつれだして首輪に革紐をつけ広場にむかった。駅まえ広場には犬をつれた人が散歩しているばかりで、ピエロもクロもいなかった。薄緑の服をきた、村の職員がみまわっていた。 「曲芸は、今度はいつするのですか」と聞いた。 「なんのですか」 男は、不審げに答えた。 「午前中にやっていた、犬の曲芸です」 「ここで、ですか。催し物の予定はなかったと思いますが、犬の曲芸ですか」 「そうです。おおぜいの人が、いっしょにみていました。クロという名前の巨大な土佐犬が、ボールにのったり逆立ちしたり」 「犬が倒立するのですか。みたこともないですね」 「ピエロもいました」 「道化ですか。きっと、この村の人ではありませんね。催し物だったら許可がいりますし、人びとがあつまるばあいには職員が必ずついているはずです」 「私はその犬に、かみつかれかかったのです」 「そんな。それは危険ですね。一大事です。すぐに会議をひらきます。あなたは、鳥羽医院の療養の方ですか」 「そうです。昨日ついたのです」 「そうですか、それでは、分かりしだいご報告いたします」 「ありがとう。そうしてください。ピエロの方に、聞きたいことがあるのです」 「そうでしょうね、さっそくしらべます」と男はいった。 海志は、職員と別れ、駅をぬけて墓地にむかった。午後の四時ごろだった。とつぜん女性の絶叫が聞こえた。甲高い叫び声は、のどかな山間の静寂を切りさいていった。 その声におどろいて墓場をぬけると、ひとりの女がうずくまっていた。彼女は、腰をぬかして地面にすわっていた。すこし離れたところに、喉笛をかみ切られた男の死体がころがっていた。真っ赤な血が、あたり一面にひろがり凄惨な現場だった。顔面を蒼白にして震える五〇歳すぎの女をかこんで、犬をつれた、五、六人の男たちがいた。 「知りあいですか」と男が聞いた。 「いえ、私はひとりできていたので」 女は、泣きながら答えた。 彼らは口々に、警察をよぼう、村役場の職員に連絡しようと叫んでいた。しかし、警察所や役場がどこにあるのか、分からないらしかった。ひとりの男が「これは猪の仕業だ」といった。かこんでいる男たちは異論をとなえ、熊だ、虎だ、と勝手なことを話して論議がもりあがった。海志は、その光景をひと目みて冷や汗がでていた。胃が重くなり、痛みにかわり、吐き気と悪寒がしていた。 「犬じゃないのですか」と海志はいった。 「そんなはずは、ありえない。かつて、聞いたことがない」 「さっき広場で曲芸をしていた、大きな犬なら、できるのではないでしょうか」 「サーカスですか」 「知りませんね」 「この村には、そんな犬はいませんよ」 まわりの人が、いっせいに叫んだ。 役場の制服をきた職員が、三人で黄色いロープをはりはじめ、「ここは、いまから立ち入り禁止とします」といった。 海志は、アカをつれて鳥羽医院に帰った。途中で広場をぬけたが、とくにかわったこともなく、クロも犬つかいのピエロもいなかった。一五分くらいすると、四〇代なかばにみえる太った女性の事務員がきて、「夕食のバイキングがはじまります」といった。 「食欲がないのですが、いつまでやっていますか」 「バイキングの時間は、六時から八時です。時刻がすぎても、捕食室にいけば、冷蔵庫になにかが入っています。職員にいえば、インスタントのラーメンくらいは、だせると思います。ぐあいが悪いのですか、看護師をおよびしましょうか」 「大丈夫です。駅まえ広場の、犬の曲芸を知っていますよね」 「サーカスですか。ここにはいろいろな犬がいますが、曲芸をするのは知りません」 「ピエロは」 「サーカス団が、ここまできたことはないと思います」 「みょうですね、私はみたのです」 「車では移動できませんから、ここには、鉄道を利用することになります。この小さな村にサーカスがきたらたいへんな話題ですから、私の耳にもとどくはずです」 「そうですよね。あの列車に猛獣をのせて、ここまでくるのは不可能ですよね。ところで、墓地の殺人事件は知っていますか」 「舌字のですか。この村で、殺人事件が起こったのですか」 「男性が喉笛をかみ切られて殺されているのを、みかけたのです。役場の人がきていました」 「たいへん。ついに起きてしまったのですね。すぐに院長に報告にいってきます。お腹がすいたら、事務所にきてください。できるかぎりの、おもてなしはします」 職員は、あわてて階段をかけおりていった。 食欲もでないまま、ベッドに横になった。あたりはしだいに暗くなり、いつしか海志は眠っていた。 四 海志が目が覚めると、朝になっていた。雲ひとつない快晴で、窓をあけると清々しい避暑地の風が、ゆるやかに入りこんできた。遠くに日本海がみえた。海志は、ふと「だれもいない」気がした。事務室におりていったが人の気配はなく、みなおしてみると、建物は何年もつかわれていないようにみえた。玄関をでて犬小屋にいった。静寂が支配する空っぽの小屋がつづくいちばん奥に、寝そべるアカをみつけ、だきしめた。 「この世の中のすべての生物がいなくなっても、あれはいるのだろう。もう、逃げられないのだろう」 革紐をつけることもなくアカとともに仁王門にいくと、玉砂利がしきつめられた門前正面の道に、子牛ほどもある真っ黒な土佐犬が横たわっているのがみえた。寝そべっていたクロは、海志をみつけると後ろ脚を踏んばり、頭をさげて大きな伸びをした。 「やっぱり、待っていたのだ」 海志が思った通りだった。クロをみると、アカは、耳と口もとを後ろ下方にひいて、ひくい唸り声をだした。 そのとき、バリバリという木造建築がこわれる猛烈な音がひびいて、たかさが三メートルちかくもある阿吽の仁王像がうごきだした。 筋肉が隆々とした巨大な阿形像と吽形像は、怒りの表情を露わにしてクロのまえに立ちはだかった。ずんずんと阿吽の二像は玉砂利をすすみ、黒犬にせまっていった。クロは大きな唸り声をあげ、阿形像に飛びかかった。阿形は左腕をかみつかせながら、右の手で黒犬の頭部を渾身の力をこめてなぐった。それでも左の腕に食いついているクロを、吽形像が右手で力一杯の背中をたたくと、その勢いで左上腕が食いひき千切られ、阿形像は片膝をついた。吽形は、黒犬の両足を両手でつかむと空にむかって思いきりひきあげて、地面にたたきつけようとした。頭部が地にぶちあてられる瞬間、クロは背中をまるめると吽形像の右の大腿部に食らいついた。その勢いで、吽形は前方に倒れ、大きな音がした。左腕をうしなった阿形像は立ちあがると、黒犬の腹部を思いきり右脚でけとばした。クロはその力でふり飛ばされたが、吽形像の右の脚は千切れていた。黒犬は立ちなおると、阿形像の喉にかみつき、ひき千切った。吽形像はクロの胴にしがみつき、海志をみて逃げるよううながした。彼は、アカとともに走って玉砂利をぬけ、村の先端部へとむかった。後ろを振りかえると、吽形像の首も千切られ、海志はぼうぜんとなった。 クロは、ゆっくりと立ちあがると、彼をみつめた。海志は我にかえって、道をあとずさった。クロは、間あいをたもちながら彼についてきた。海志は、舌字をかこむ頑丈な鉄柵まで後退した。彼の背中が柵があたり、しりぞく場所はなかった。アカは耳と口もとをつよく後方にひいて、鼻に皺をよせると上唇をあげ、口をあけてうなった。鉄柵で立ちどまると、一〇メートルほど離れてクロもとまり、地に横たわった。 「いけ、アカ」 海志は、いった。 アカは、全速力で巨大な敵にむかって走りだし、クロの首筋を目がけて飛びあがった。黒犬は、おどろくはやさで立ちあがり、首をくるりと右にまわして赤犬の喉笛に牙を立てた。一瞬のことだった。アカは、地に背を押しつけられ、必死でもがいていたが、やがてうごかなくなった。クロは口に血をしたたらせてゆっくりと立ちあがり、無表情な死んだ目で海志をみると、面倒臭そうに、もう一度地面に横たわった。 「アンドゥー」 海志は、天にむかって絶叫した。 「分かっていたのに、なんで、いけなんていったのだろう。仁王も殺してしまう、あんな巨大な犬に、勝てるはずがないのは知っていたのに。いえば、相手がどうであっても、アカがむかっていくのも分かっていたのに。これじゃ駄目だ。ひどすぎる。アンドゥー」 そのとき一瞬、なにかがとまった。クロが起きあがり、もどってアカにかみつき、ゆっくり地面にすわった。赤犬が起き、黒犬から離れた。後ろをむいたまま、海志のもとに帰ってきた。 クロと目があった。海志は、首にアカを襟巻きにして担ぎあげると、金網をあがりはじめた。クロが追いかけてきて、飛びついたのも分かった。かみつかれるすんでのところで足を払いのけ、必死でよじのぼり、五メートルもある金網のいちばんうえに手がかかった。安堵を覚え、真下をみるのを避けて後ろを振りかえった。頭が真っ白になった。クロは、鉄柵をよじのぼりはじめていた。金網の穴に四本の前脚と後脚を入れて、四脚の一本をうごかしながら、ゆっくりだったが、表情もかえずに、一歩ずつのぼってきていた。 「そうだ。クロは、ボールのうえで逆立ちだってできるのだ」 頂上で、海志は二重になった鉄柵をまたいですわり、犬をだきしめた。アカは、クロをみて威嚇の唸り声をだした。見る間にのぼりきって鉄柵にあがった黒犬は、表情もかえずに、海志をみつめながら徐々にちかよってきた。一メートルもないところで、身をひくくして攻撃の姿勢をとった。 「ここまでだ」 海志は立ちあがり、アカをかかえたまま谷にむかって飛びおりた。宙で身体が反転して、クロがみえた。黒犬は冷酷な目で、じっと海志をみつめていた。アカの重みと温かさを感じた。 「アンドゥー」 海志は、天にむかって絶叫した。 「かなわないと知っていても、主人のためにアカだって立ちむかったのだ。このざまは、なんなのだ。おなじ死ぬのに、どうせ殺されるのに、これじゃ面白い。滑稽すぎる。アンドゥー」 海志は、世界にひびきわたる大声をはりあげて叫んでいた。 一瞬、時間がとまった。身体が反転し、谷底がみえた。ずっとしたに、ほそい川がながれていた。日の光が川面にあたり、きらきらと輝いていた。フィルムがゆっくり巻きもどされ、アカをかかえた彼は、空中にもちあげられ、鉄柵のうえに立ち、柵をまたいですわった。 海志は、犬をだきながら四つん這いになった。おなじ目のたかさで、猛烈な勢いで飛びかかってくるクロをうけやめ、アカをかかえて谷に落ちた。黒犬が首筋にかみついてきた。強烈な痛みが走り、薄れていく意識のなかで、アカとクロの、重みと温かさを感じた。これでいいと、海志は思った。 気がつくと、ソファーに横になっていた。天井からはあかるい朝の光が差しこみ、頭の禿げあがった、白衣をきた医師が傍らにいた。 「先生が、やりなおさせてくれたのですか」 「二回もですよ。ちょっと、ずるい。そのうまいとか、こすいとか、そういう話は、私のもっとも苦手とする分野なのですが」 「分かります。人生は、一回こっきりですよね。そこだけが、平等なんですよね。でも、耐え切れなかったのです」 「自分を責めすぎては、いけません。勇気がなくなります」 「それで、なんなのでしょうか」 「分かりません。あなたの風景を、みただけですから。意味するものについては、考えなければなりません」 「こうしたことは、先生に教えてもらう事物なのですか。それとも、自分で気がつくのですか」 「いろいろなばあいがあります。たいていは、自分で気がつくのじゃありませんか」 「察するところ、クロはだれかで、アカは、ぼくなのでしょうか」 「そうですね。アカもクロも、あなたなのじゃないのですか。普通はそうですよ」 「そうですか。そんなものなのですか」 「徹夜になってしまいましたね」 「分かるかどうかはべつにして、ありがとうございました」 「そうですね。では、これで」 医師は、海志の上着をハンガーからはずしてわたした。 彼は、もう一度、山崎医師に礼をのべて部屋をあとにした。 螺旋階段をおりていくと、一〇時をつげる、からくり時計のにぎやかな音楽が聞こえた。自分の席につき暗い店内をみまわすと、おない年くらいの若い男がじっとみつめているのに気がついた。海志は、知らない男性を不審げにみかえした。目があうと男は顔をそらし、天井をみる素振りをした。はこばれてきたアメリカンコーヒーを一口飲むと、ひどく疲れているのを感じた。お絞りで額の汗をぬぐって、ふとみあげると、先ほどの若い男が立っていた。 「なんですか」と海志は聞いた。 男は、もじもじしていたが、意を決していった。 「二日間、あなたはこなかったのです。心配で。いつかは私も、ここにもこれなくなるのじゃないかって」 男は、泣きそうな顔をした。 「すわってもいいですよ」 海志は、まえのあいている席を指差した。 「お言葉に甘えて、失礼します」 男はすわると、じっとみつめて話しはじめた。 「心配で。この黒い鞄を、かえせるかどうかって。樹海にでも、いってしまったのではないかと。ごめんなさい。縁起でもないことを」 「鞄ですか」 「これです」 男は、黒いバッグをとりだした。 「ぼくのですね。忘れていったのですか。もって、待っていてくれたのですか」 「やさしいのですね。私は、なぐられても仕方がないって思っていたのです。ほんとうに、ごめんなさい。偶然だったのです。みるつもりなんて、なかったのです。あなたが嗚咽するなんて、思ってもいなかったのです。興味は、ありました。いつもここにすわって、壁をじっとみていましたから。思いつめたみたいになって。みるつもりなんて、なかったのです」 「そうだったのですか。つまりは、死んだつもりで、刺しあう気持ちにならなければ、なにもうごきはしないんですね。頑張るって、そうだったのですね。覚悟というわけで」 「そんな。死ぬとか、覚悟とか、そういった話はやめてください。ちょっと、みてしまって。それだけなのです。鞄をのこしてでていってしまったときは、興味をいだいた自分が、恥ずかしくて。もう、金輪際、関心なんかもちません」 「そうでしたか」 「知らないでしょうが、私は後輩なのです。あなたをみていると、自分がどうなるのか分かる気がして」 「それでは、鞄をかえしてください」 「よかった。なにか召しあがるのでしたら、ご馳走します。代金は、私にださせてください」 「お金ですか」 海志は、じっとだまりこんだ。 「怒らないでください。失礼でしたか。そんなつもりは、なかったのです。ですぎたことをいって」 海志は男の言葉に応えず、黒い鞄をかかえて立ちあがった。 「代金を払っていない。診察代を、支払っていなかった。山崎先生は、それなりの仕事をして、ヒントをくれたのだから」 そう思いながら、五階にのぼっていった。フロアの中央に「心の病気のクリニック」とかかれた扉があった。あけてみると、受付嬢はいなかった。中扉をひらくと、診察室は人気もなくがらんとしていた。 「変だな」と思って受付を振りかえると、見覚えのある机がおかれていた。もう一度診察室に入ると、ふるぼけたテーブルとソファーが配置されていた。不思議な気持ちになって、扉をしめ、長椅子に腰をおろして考えていると、足音が聞こえてきた。通路の扉口があいてしまる音がして、中扉がひらいた。そこにいたのは、喜怒哀楽の表情がすべてなくなった、のっぺりとした顔の三井だった。 「あなたも、ここにきたことがあるのですか」 海志は、聞いた。 「なにをいっているのですか。今朝までいっしょに話しあっていたでしょう」 三井は、答えた。 「ここは、山崎先生のオフィスですよね」 「だれですか。それ」 「違うのですか」 「いいですか。私たちは、二日間、このオフィスを借り切って、結論をだそうと話しあっていたのでしたよね」 「そうでしたか。それで、なんの結論ですか」 「こまりますね。もうすこし、しっかりしてくださいよ。そろそろ、結論をださねばなりません」 「どこまで、話しあっていましたっけ」 「つまり、私はクロです。あなたが、一応は海志です」 「そうでしたか。あなたが、クロだったのですね」 「まあ、便宜上そうなっています。しかし、私がクロだってことは、あなたもそうだと、さっき結論がでたでしょう」 「そうでしたっけ。アカは、なんでしたか」 海志は、聞いた。 「あなたの、周囲のものですよ。私のまわり、ということにもなりますが。私たちが名づけた、周囲の状況です」 「まわりというと、具体的にはなんなのですか」 「こまりましたね。なんにも覚えていないのですか。たとえば、いまあなたがもっている黒い鞄です」 「バッグですか」 「そうです。それに地下の喫茶室や、美紀子さんや、あなたの両親。罵倒する係長など。そうした事物はあなたが名づけた、アカというわけです」 「すると、私のものだったのですか」 「個人の事物では、ないですよ。あなたがいて、はじめて成立するものです。いい方によっては、そうなります」 「そうですね。そういういい方をするならば、たしかに私のものだと思います」 海志は、いった。 「そろそろ、合一しなければならないのですが」 「このままの状態で、ひとつになって価値があるのですか」 「駄目でしょう。このままで合一すれば、首をつるなんて勇気はありませんね。断崖から飛びおりるなんて、場所も知りませんし、怖くて落ちるところにちかよることもできません。駅にいって電車にひかれるのは、他人にもそうとう迷惑です。あとで、身内に飛んでもない請求がくるらしいですよ。樹海にいってもですね、結局は保護されてしまうでしょう。その可能性のほうが、ずっとたかい。ふらふらになったあげく道にまででてきて、家族は大恥をかくだけでしょう。施設に、とじこめられてしまうでしょう。いい選択では、ありません」 「ロープをもってですね。樹海で、大きな木に自分をしばりつけてみたらどうでしょう」 海志は、いった。 「うまく、しばれるでしょうか。苦しくなったらそこから、ぬけだしてくるのが落ちじゃないのですか。確実なのは、そのロープで樹海のなかで縊死することですが、けっこう勇気がいるのではありませんか」 「自信は、ありませんね。それではですね。このまま、ふたりに分かれているのは」 「それがもう限界だから、話しあいがもたれたわけでしょう。これ以上は、無理ですね」 「このままの状態をつづけると、具体的にはどういうことになるのですか」 「たぶん、施設でしょう。だから、いっていたでしょう。全室が個室で、食事がついて別世界。大部屋かも知れませんが、自由度はだいぶ違うと思いますよ」 「そうすると、やはり合一するしかないわけですね」 「施設は、考えただけでも嫌ですね。そこよりは、樹海です」 「そうですね。私も、そう思います」と海志はいった。 「この際、いっそ飛びおりるというのはどうでしょうか」 「それは、ありますよね」 「クロもアカもいっしょになって飛びおりるというのは、なかではましな方法かと」 「そうですね。ほかに道がないのなら、仕方がありません。やってみますか。それしかないですよね」と海志はいった。 「そう思います。覚悟が必要です」 「確認します。頑張るわけでは、ないのですよね。覚悟をする、ということですね」 「そうです。どちらかというと、いままで、頑張りすぎたのではないかと思います。覚悟ももたずに努力するのは、まったく無意味でしょう」 「経験からは、意味がなかったでしたね。頑張るなんて、つづけられなくなるわけですね」と海志はいった。 「そうです。生きるには、覚悟がいるということです」 「腹をくくるのですね」 「ほかに手はありません。覚悟して、おいてください」 三井は、表情をかえることなくいった。 そのとき、部屋が輝きに満たされ、光があふれた。みあげると、天窓があいて天井がなくなり白い雲がみえた。雲間から一条のつよい光の束が、部屋全体に差しこんでいた。海志と三井は、本能にうながされ、光明の源にむかって上空にのぼっていった。雲をぬけると、はるか彼方までも見通すことができる真っ青な空があり、輝く光の柱のなかで、ふたりは、いつしかひとつになっていた。 そして私は、この世にうまれた。 海志と三井、一〇〇枚、了