インド 由布木 秀 一九七八年七月一二日、昼に成田空港を出発した。なぜだか分からないが、六回ほどボディチェックをうけた。当時は学生運動がさかんな時期だったので、単身でインドにいこうとする若い男は、マークされるべき対象だった。 旅客機がフィリピンとタイでトランジットして、ボンベイについたのは真夜中だった。猛烈にながくて窮屈な飛行だったから、くたくたに疲れていた。 チケットは、新宿駅ちかくの小さな旅行代理店で購入した。いま思えばもっと増しなしっかりとした旅行会社で手に入れるべきだった。ネットがない時代だったから、どうしていいのか分からなかった。新宿の大通りに面したビルの上部の窓にはられた店の広告が目についたのだった。小さな代理店なら、安いチケットを売っているという幻想だった。三〇代後半の女性が、ひとりで実務を担当していた。二回くらいかよって出発日を決め、いちばん安いというエジプト航空のボンベイ往復便を購入した。インドは広大な領土をもっていたから、どう考えてもカルカッタ往復のほうが距離的にはみじかかった。エジプト航空が安いという話は、どこからか耳にしていた。それで、いわれるままに契約してお金を支払った。出発日が決まり、値段も確定していたはずだったのに、女から満席になって約束した便がとれないと二度ほど連絡があった。その都度、値上げを要求された。出発日を決めていたから仕方なく了承した。しかし、ほんとうなら旅行代理店側のミスだった。いま考えれば、あくどい商売だった。 インドにいくと騙されると多くの人はいうが、日本だっておなじように危険だった。なにごとでも、まず疑ってかかるという心構えが必要だった。だから、インドで苦労する羽目に落ち入ることは、前もって約束されていたのだった。 ボンベイの空港は、かなり巨大だった。闇のなかでライトが照らされ、タラップをおりた。異常な蒸し暑さだった。人いきれを感じながら、すしづめになった空港バスにのってターミナルビルに入った。クーラーが効いていたかは、はっきりしない。たくさんの職員がはたらいていたから、設備はあった可能性が高かった。しかし、飛行場側のドアがあけはなされ、外気がもろに入ってくる場所だった。税関の黒い空港職員は、青いリュックザックを幾度か点検し、最後にチョークで白い丸をつけた。 両替をして、ひろい通路を外にむかって歩いていくと、インフォメーションの男が立っていた。その背が高い男性に知っていたホテル名をつげると、 「そんなホテルは、聞いたことがない」とこたえた。 いまから考えればとうぜんだった。彼が、三流以下のホテル名まで知っているはずがなかった。このホテルは、ボンベイの場末にある小さなゲストハウスだった。新宿のスナックにつとめていた女性から聞いた唯一の知識だった。インドにいくことを知った友人が、飲み屋につれていってくれた。そこではたらいている女性が、最近インド旅行をしたという触れこみだった。ボンベイにいくとつげると、彼女は「オリバーゲストハウス」という宿の名称を教えてくれた。「ここに、泊まればいいのよ」と女はいった。 人生で、これくらい不思議な話はなかった。なぜ、彼女がこのゲストハウスをいいといったのか。どうして、わざわざ話したのか。彼女は、じっさいに宿泊したのか。そもそもスナックでアルバイトをしていた女の話を、なぜ信じたのだろうか。考えだすと切りがないかった。もしかすると、彼女はインドになどいかなかったのではないか。客のひとりからボンベイの話を聞き、泊まったゲストハウスの名称を知っていただけではなかったのか。 「どこか。泊まるところはあるのか」と係員に聞いた。 大柄な真っ黒な男は、「オリエントパレス」というホテルの名前をつげた。 「四時まで待つなら、おまえはそこで寝ることができる」 「ほかは」 「ない」 係員は、一目みればどんな相手か分かったのだろう。きっぱりと言い切り、ここでは夜をすごせないとつけくわえた。 ぎらぎらする照明が、疲労感に追い打ちをかけていた。形容しがたい蒸し暑さに、汗がだらだらながれ、身体中が一瞬のうちにべとべとになった。下着が皮膚にはりついていく感じだった。そのホテルの名前に赤丸がつけられた地図をもらって、ターミナルをでた。照明がなくなると、とつぜん真っ暗に感じた。その途端、闇のなかに真っ黒な無数の陰がうごめくのをみた。異臭が鼻をつき、思わず胸糞が悪くなった。 真っ暗のなかで饐えた臭いがし、真っ黒な男たちが口々に不明な言葉を叫んでいた。気がつくと、闇に浮かびあがった彼らは一〇人くらで、とりかこんでいた。ひとりの男が、とつぜん強引に肩からリュックをひきずりおろした。おどろいて、右手で肩掛け紐をつかんだ。男は、持ち主の主張を無視して先頭に立って歩きはじめた。なにが起きているのか分からなかった。リュックザックの紐をはなさないようにつかんでいると、ひっぱられる形ですすんでいった。目がなれてくると、強引に荷物をうばおうとしている男の姿がライトによって浮かびあがった。周囲には、旅行者らしき者たちもいた。しかし、誰もなんともいわなかった。暑さと異臭のなかで、起こっている不明な事態に混乱した。時差ぼけと長旅の疲れで、すべてがぎらぎらとしていた。 この状態ですこし歩くと、タクシーがとまっていた。男は、ザックを勝手にトランクにほうりこむと、汚れた手の平をひらいた。タクシーにのりこみ、「発車しろ」と命じたがうごかなかった。一〇人以上の男たちが、車をとりかこんでいた。あけられた車窓から真っ黒な手が何本ものびてきて、どの手の平も上をむいていた。両替したばかりだったので、こまかいお金をもっていなかった。仕方がなく荷物をほうりこんだ男の手掌に一〇ドル札をのせると、彼は鷲掴みにした。 「足りない」 「もっと、必要だ」 狂ったように、男たちは口々に叫んだ。 「車をだせ」ともう一度いった。 タクシーはうごきだし、うしろで男たちの大きな笑い声が聞こえた。 肌にまとわりつく湿気、異臭、汗、喚声、なにもかもが不愉快だった。しかし、最初の関門をやりすごしたことですこし安堵していた。あとは、ホテル名が入った地図をうけとった車の運転手が目的地につれていってくれるはずだった。 タクシーは、華やかなハイウエイを走りつづけていた。高速道路は、立体的に幾本も交差していた。闇のなかでスポットライトにうつしだされた旅客機は、荘厳な輝きにみちていた。ボンベイ国際空港は、考えていた以上の大都会につくられていた。とりかこんだ男たちは、旅行者からああした方法で金をせびりとっていたのだと思いかえした。やがて車は高速からおり、周囲の街灯がなくなっていった。タクシーは、真っ暗な闇のなかを走っていた。しだいに疑問がうまれ、やがて不安感がひろがっていった。いつまでのっても、ホテルにはつかなかった。まったく街灯もない車外は漆黒の闇が延々とつづき、そのなかを車はただ走っていた。どこへつれていこうとするのか、肌がさらに汗ばんでくるのを感じた。時計は三時にちかく、走行しているのが道路かどうかも不明になっていた。人の気配はもちろん、すれ違う車にも遭うことがなかった。タクシーは、ただもくもくと走りつづけていた。 運転手は、大柄で太っていた。物騒だとは聞いていたが、タクシーにのるだけでザックを盗まれそうになったのだ。暗闇につれられいかれたら、どんな目に遭うのか見当もつかなかった。戦っても勝てそうもないと思い、武器をさがした。折り畳み傘はトランクのなかだったので、胸ポケットのボールペンを汗ばんだ手の平で握りしめた。 そのとき、とつぜん車は急ブレーキをかけてとまった。後部座席で身構えると、心臓ががちがちと鳴った。あたりには街灯などなく、漆黒の闇につつまれ静寂が支配していた。どのくらいの時間が、すぎさったのだろうか。ながい静けさのあと、闇のなかで背にこぶをもつ白い牛をみた。ヘッドライトが、ゆっくりと道を横切る姿をうつしだした。 ホテルについて荷物をおろすと、運転手にチップをやった。 男は、大金持ちだと思ったかもしれない。しかし、彼はバックミラーでずっと観察していたのだった。うまくやったと考えたのだろうか。もしかすると「暴発」を待っていたのかもしれない。 インドで、幾度か危ない羽目に落ち入った。そのときは、さほど重大事に思わなかった事件でも、あとから考えなおすとべつの感慨に浸るばあいも多かった。 帰国してから、学会でニューデリーにいった教授に、ぐうぜんスナックで会って話をされたことがあった。インドを旅行したのを知り、彼の経験談を聞かされた。 背広姿だった教授は、どうしたら正規料金でホテルに帰れるのかと緊張しながら考えていた。そのとき、ものすごいインド美人がのった自動車が目のまえにとまった。後部座席に乗車していた彼女は窓をあけ、クイーンズイングリッシュで教授に行き先を聞いた。つげると、それなら目的地のちかくだ。おくりましょうといった。教授が考えていると、運転席からでてきた男が後部座席の扉をあけて、美人のとなりをすすめた。それですわると、彼女は仕事などについて聞いた。大学の教授だと知ると素晴らしいといい、知的な会話をはじめた。彼は、お香の匂いが立ちこめる車内で、すっかりいい気持ちになって美人と話をしていた。やがてホテルについた。運転手がおりてきて後部座席の扉をあけた。教授が降車すると、とつぜん一〇万円を要求された。当時のお金だから、いまなら三〇万以上だと思われる。押し問答になったが、最終的には教授は支払ったと話していた。 幸運は、世の中には落ちていないと知るべきだ。意味不明の親切くらい怖いものはないと考えるべきだ。こうした当たり前のことを知るには、身分に応じた授業料をはらわねばならない。金持ちの格好をして不安げでいれば、その分だけ高くなるのは道理だった。 オリエントパレス・ホテルのフロントで小一時間待ち、五時をまわるころ白い服をきて従者をつれた中年のアラブ男があらわれた。頭部にイカールという真っ黒な輪留めをし、ガットゥラとよばれる白布を肩までたらしていた。寸胴な白色のワンピースをきて、サンダルを履いていた。髭を生やした男は、一瞥するとお茶をご馳走してくれた。 意味は分からなかったし、話す気力もなかった。早朝に出発する理由でもあったのだろうか。意味不明だが、彼がいた部屋に都合よく泊まる者が待っていたのだ。ぐうぜんではないことだけは、間違いない。お茶は、なんらかの理由をもっていた。 アラブ男が戸外に消えてしまったあとで、部屋に案内された。シャワーをあびると、ベッドに横たわった。くたくたに疲れていたが、容易に眠りはおとずれなかった。二時間ばかし横になると起きだし、もう一度シャワーをあびた。そのとき、興奮して勃起していたことは鮮明な記憶だった。 まぎれもない、インドの朝だった。 とくになにも食べずにホテルをでると、地図をみながら駅まで歩きはじめた。道はどろどろにぬかるみ、まるで牛の糞がまきちらされているようにみえた。女たちが、泥道で野菜を売っていた。そんな道路がずっとつづいていた。 人びとの食い入る視線にたえながら、ようやく駅にたどりついたのは午前一〇時ごろだった。窓口でチャーチ・ゲート行きの切符を買い、木製の階段を昇降してプラットホームで電車を待った。 駅は閑散としていたが、いくらかの人がいた。大きな青いリュックを背負った若い東洋人は、あきらかに異国の奇妙な生き物だった。彼らの反応は、誰もがまったくおなじだった。この東洋人が、自分とどこが違うのか入念に確認していた。するどい目つきと、厳しい視線を感じた。子供のころ、母親から身体障害者をみつめてはいけないと教えられていた。こういう考えは、日本という単一民族、単一語族から成立する特殊な世界だけに当てはまっていた。この国の人びとは、違いに敏感だった。たくさんのカーストが存在する社会では、そうした感覚がなければ、自分とおなじ部分をみいだすこともできない。 一五分くらいして電車がホームに入ってきた。四両編成だったが、満員でドアがみつけられなかった。各車両の前後に存在するはずの扉には、人びとがぎっしりとしがみつき鈴なりになっていた。 ぼうぜんとみつめながら、ついた列車が発車するのをみおくっただけだった。 暑い国にきた、カフカだった。 立ちつくしていると、とつぜん背後から声をかけられた。振りかえると六〇歳くらいの背広をきた老紳士がみえた。男は、ホームに到着したときから、ずっとベンチにすわっていた。股のあいだに杖をつき、背筋をすっとのばしていた。男は、声をかけた。 「おまえは、列車にのれないだろう」といった。 「なぜ」とたずねると、彼はつづけた。 「イフ、ユー、シャルライド(もしのるなら)、おまえは目的地につくまでに荷物をすべてうしなうだろう」 そうなのだと思った。 だまって立ちながら、ホームでずっと疑問に感じたことを考えていた。むかいには、電車がこないプラットホームがつくられていた。レールは赤茶け、ながく使用されていないようだった。そこには人びとがひしめきあっていたが、電車を待っているとは思えなかった。一様に頭髪がぼうぼうにのび、うごめいているとしか表現できなかった。 「彼らは、なにをしているのか」 老紳士にたずねると、彼はまたじっとみつめて呟いた。 「ゼーアー、レプラス」 「レプラ」 どうやら彼らは、ハンセン氏病患者だったのだろうか。ほんとうに、こんな形で隔離されているのだろうか。おしだまり、その様子をもう一度みた。ホームから溢れるばかりのたくさんの人たちだった。朝の太陽が力を増しはじめ、生暖かい風がふいていた。しばらくして、もうひとつの疑問を老紳士に聞いてみた。男は、両手でつかんだ杖をひらいた両足の真ん中においていた。取っ手部分にのせた手掌を胸の高さにして、ベンチで三〇分以上もすわっていた。 「ワット、アーユードーイング」 耳が遠いのだろうか、男はおしだまっていた。 やがて、彼はとなりのホームをみながらいった。 「アイム、ナッシング。オンリーナッシング」 大きな声で、怒鳴るようにこたえた。 それであきらめて、駅を去った。 ボンベイは、西インドの入り口となる。アラビア海に面するマハーラーシュトラ州の州都で、インドでも最大級の都市だった。ウルハース川の河口付近のボンベイ島、およびその北にひろがるサーシュティー島から構成されていた。両島は、埋め立てによってつながっていた。ボンベイ島は、サーシュティー島の南にむかってのびる半島となっている。中心部は南部のフォート地区で、そこから北に市街地がひろがっていた。その南のコラバ地区は、一九世紀以降開発のすすんだ古いエリアで、インド門やタージマハル・ホテルはこの地区にあった。フォート地区の東側がボンベイ港で、町の発展の原動力となってきた。 インド門のちかくに、さがしもとめた宿があった。チャーチゲート駅でタクシーをおり、青いリュックを背負って炎天下を三時間歩いた。猛烈な暑さで一〇分もすると身体中の水分が蒸発し、日陰をみつけるたびにサトウキビのジュースを飲んだ。 リュックを背負って、石づくりの住宅がならぶ舗装された道を歩いていた。そこで、遊んでいる幼稚園児くらいの女の子供に出会った。 「ハワーユー」といって、彼女はじっとみつめた。 だまっていると、髪をお下げにした可愛い子は、笑いながらつづけた。 「アイム、ファイン。アンド、ユー」 子供は、挨拶の仕方を教えてくれた。 疲れ切ってたどりついたのは、せまい二畳ほどの部屋の粗末なベッドの上だった。経営者は背が高く、太った赤ら顔のフランス人だった。一瞥すると前金で四〇ルピー(一二〇〇円)を要求し、玄関まえの房室に案内した。ひろい空間をベニヤ板で仕切り、天井ちかくの壁はなかった。おなじ部屋が、縦にながくならんでいた。誰もいないとき、となりの室内を上の隙間からのぞいてみた。つくりは、すべていっしょだった。家の奥には、ドラム缶がおかれていた。いまなら水浴び用だと分かるが、ついたばかりで知らなかった。水道の汲み置きだと信じ、風呂の水で毎日歯をみがいていた。無知とは、恐ろしいものだ。 どこにいくにしても、最初のホテルだけは予約しておいたほうがいい。スナックの女性からもらったみょうな情報をもっていなければ、もうすこし増しな出だしになった可能性があった。なにもしらべていなかったから、ホテルの値段が高いのかさえも見当がつかなかった。インド門ちかくを散歩していると、飛行機のなかでいっしょだったアメリカ人の若い夫婦に出会った。 彼らは、泊まっているホテルの名前を聞くと「いくらなんだ」とすぐにたずねた。 「四〇だよ」とこたえると、「コストリー」といって首をすくめた。 「いい食事がついているんだろうね」 ふたりは、世間知らずを心配してくれたらしかった。表情から察すと値段は安いわけでもないらしかった。 「これ以下のホテルって、どんなものなのか」 想像してみたがなにも分からず、「はやくボンベイをでたい」と考えただけだった。 食事には、苦労した。どのレストランも、ひどい汚く臭いがして入れなかった。どうしていいのか分からず、せまい部屋で日本からもってきた梅干しを食べた。 「なくなったらどうしようか」と考えながら瓶をみつめた思い出は、いまでも鮮明だった。 インド門は、イギリス領インド帝国の時代に建てられた記念建造物だった。アラビア海を臨む海岸地区につくられていた。インド門は、高さ二六メートルの玄武岩のアーチで、ボンベイ港海岸線沿いのチャトラパティ・シヴァージー・マーグの終端に位置していた。この門は、大きいだけでなく猛烈な厚みがあった。非常に重々しく畏怖される建造物だった。この重厚な門は、ボンベイのタージマハルとも称され、市内ではいちばんの観光地だった。 インド門のちかくは大きな広場で、夜でも観光客がたくさんいた。水売りが、ボックスに入った水を売っていた。服装からも、不慣れな旅行者だったのは一目瞭然だった。すぐにインドの若い男がよってきて、オピウムをみせて「買わないか」といった。 「ヤマザキ」とは仲がいいんだ。 日本人だと知って、彼は日本の姓をいった。 口にできたのは、生ジュースだけだった。命のジュースで、朝昼晩、これだけですごした。チャーチゲートの四つ角で売っていたヒンドゥーの男は、「この日本人は、異様に気に入ったらしい」と思ったろう。 「こんなに好きなら、つぎには倍の値段にしてみようか」と考えていたかもしれない。 あまりにお腹がすいたので、五つ星のタージマハル・ホテルに入ってタンドリチキンを食べた。ムガール帝国の宮廷料理だが、味がどうだったか覚えてはいない。食後二ルピーのチップをやると、ボーイは支配人をよんできた。背広をびしっと決めたマネージャーは名刺をさしだし、泊まっているホテルの名前をしつこいほどたずねた。 なんだったのだろう。 ボンベイにいた五日間、市内の観光バスにのった。ガンジーの小さな家が博物館のようになっていた。ガイドは、サリーを着ていた。彼女は、「ス」という発音ができなかった。インド人は、三時半は「ターティーツリー」という。英語力がすぐれていたのではなかったが、集中していたらしく彼女の話は、よく理解できた。 インド門の裏手から船にのって古代遺跡のあったエレファンタ島にもわたった。ここは、エレファンタ石窟群とよばれる石窟寺院だった。シヴァ信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設がはじまったとされる。水瓶を頭にのせた可愛い女の子がそばにくると、ちかくにいた男から写真をとってあげると声をかけられた。いっしょの撮影が終わると、少女は手の平をだして「エクルピー」(エクは一)といった。 どこでも乞食ばかりが目についた。赤ん坊をだいた年端もいかない少女に、大きな瞳でみつめられると金をやった。脚や腕がない者ばかりで、この国は悲しみに溢れていた。 選択屋は、やたら目についた。このカーストは、ドービーといわれる。屋外に洗濯物がいっぱいならべられ、干されているのは、異様なながめだった。 インドは、大英帝国支配の影を負っていた。いまでもほとんどかわらないと思うが、傷跡はいたるところにみられた。アメリカ、ソビエト連邦についで世界第三位の敷設距離をもつインド国鉄も例外ではなかった。イギリスは、線路の軌道幅を統一しないことにより争いの種をまいた。鉄道には、広軌、狭軌のほか、中軌までが故意にバラバラに敷設されていた。このために、人夫たちは、荷物のつみかえ作業で争わねばならなかった。内部に不和を起こして統治する大英帝国の知恵だったといわれる。 チャーチゲートは、ボンベイの中心部だった。鉄道の始発駅になるヴィクトリア・ステーションにもちかかった。売店でインド国鉄の時刻表を買い、毎日徒歩でかよって有効期限六〇日間の一等車周遊券を購入した。 ヴィクトリア駅は、昔日の東京駅を彷彿させる赤い煉瓦づくりの立派な建物で、天井はみあげるほどに高かった。ヴェネツィア・ゴシック建築様式で、壮麗で豪奢な建築物だった。ヴィクトリア朝のゴシック・リヴァイヴァル建築とインドの伝統的建築の要素が組みこまれていた。装飾性が高く、建設には一〇年ちかい年月を費やしたといわれる。 インフォメーションには、やせた四〇歳くらいの男性がいた。この頬がこけて浅黒い男を、毎日質問ぜめにした。時刻表を読みあさり、こまかい記述まで気がついて、納得できるまで聞いた。四日かかって、思いどおりの券を入手することができた。そのときまでには、インド国鉄のちょっとした「通」になっていた。 購入できると、ここまでつきあってくれたお礼として葉巻を一本あたえた。男は、とても喜んだ。嬉しそうにもらうと「こっちへこい」といった。薄暗いむしむしとした暗い廊下をかなり歩かされ、「ステーションマスター」とかかれた部屋にとおされた。 そこは冷房がよく効き、立派な机と肘かけがある椅子に制服をきた恰幅のいい男性がすわっていた。 「シガーをあげなさい」とやせたインフォメーションの男がいった。 私は、日本からもってきた「アルカデア」という銘柄の葉巻を一本さしだした。 彼は、駅長に紹介してくれた。 「ヒーイズ、マイグッドフレンド」 そう話だし、毎日会いにやってきて時刻表についてくりかえし質問をしたこと。おどろくほどくわしく、立てた予定表が完璧で、ついに明日ボンベイを立つ予定になった。ここにいられると、ほかの仕事がまったくできない。ばあいによっては、自分の職さえうばわれかねない。そして、つきあった礼として最後に葉巻をもらったといった。 駅長は、満足そうに聞いていた。 そのときは、紹介された理由が分からなかった。しかし、いまは理解できる。 これは、インフォメーションのやせた男の好意だった。彼は、なにも知らない若者を心配したのだった。異国からやってきた真面目な青年が無事に旅を終え、いい思い出をつくって、なにごともなく帰国できるのを祈ってくれたのだ。その行為は、考えもしなかった結果にむすびついたのだった。 こうして人口一〇〇〇万といわれる巨大都市、ボンベイをぬけだすことができた。夢にまでみたエローラとアジャンタの石窟寺院。その観光基地、アウランガバードを目指すことになった。 駅長を紹介されたのは、「葉巻を一本とられた」としか考えていなかった。ところが、ながい旅を終え、ふたたびボンベイに帰ってきたとき、彼に助けられる運命になっていたた。駅長が覚えてくれていたので、無券乗車を許してもらえたのだった。 ボンベイへの帰路、二等列車にのっていた。車内で財布をトイレに落として無一文になった。一昼夜、飲まず食わずでヴィクトリア・ステーションにたどりつくのだが、こんな筋書きは、お釈迦さまでも考えなかっただろう。 この経緯は、作品番号一五「光に」で紹介されている。 インドは、多民族、他宗教、多言語で形成され、人種の坩堝といわれる。 独自の文明は、地理的な状況によってつくられた。 東西南北、三〇〇〇キロをこえる広大な国土はユーラシア大陸の一部で、ヨーロッパの地理学者は「インド亜大陸」とよんだ。しかし、彼らが名づけた「ヨーロッパ大陸」は、この亜大陸とほぼおなじ大きさだった。 世界最大のユーラシア大陸の総面積は、北米大陸の約二倍半、オーストラリアの約七倍になる。ユーラシアは、シベリア、南中国、北中国 、ロシア、インドシナなど 約一〇個の大陸がつぎつぎと衝突、融合をくりかえし、二億年まえに現在の原型がつくられた。四五〇〇万年まえに、インド大陸が嵌入して褶曲によりヒマラヤが形成された。 ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸の北側で南に弧をかいてつらなる世界最高峰の山脈だった。東端のヤルンツァンボ(ブラマプト)川の大屈曲部から西端のインダス川峡谷まで、延長二五〇〇キロ、幅二〇〇~三〇〇キロで、総面積は日本列島とほぼおなじになる。北に海抜四〇〇〇~五〇〇〇キロのチベット高原がつづいている。チベット側からは高原を縁取る高度差三〇〇〇~四〇〇〇メートルの高い山並みでしかない。しかし、南側からみると絶壁としてそそり立っている。東西にのびるヒマラヤ山脈は、南北の気流をさまたげる障壁になった。夏のモンスーン期は、とくにネパール・ヒマラヤとその東で、ベンガル湾からの湿潤な大気が山脈の南に大量の降雨をもたらしてミャンマー国境に大密林地帯をうみだした。このために、中国から南下する勢力もここではばまれた。いっぽう北は、乾燥したチベット高原がひろがり、崑崙山脈をこえた北側は砂漠になる。冬期は、寒冷なシベリア寒気団がヒマラヤのために南下できず、東にふきだす。この結果、北西季節風は日本列島に寒い冬をもたらす。ヒマラヤ山脈は、東アジアの気候にも大きな影響をおよぼしていた。 ヒマラヤは、神々がつくった人の侵入を許さない隔壁となり、インドを中央ユーラシアから完璧に切り離した。周囲の世界との交流は、西方の一部で行われた。パキスタンとアフガニスタンの境、カイバル峠を経由することでアフガン高原とを往来できた。ハラッパー文明、あるいはインダス文明とよばれるインド最古の文明期(紀元前二〇〇〇年から一五〇〇年)には、メソポタミアとのあいだでさかんな商業活動が行われたと考えられている。おもに、ラピズラズリがつくった交易路だった。紀元前一〇〇〇年まえの数世紀あいだ中央ユーラシアから諸部族がインドに侵入し、印欧語をもたらした。この言語は、ひろくヨーロッパ各地にもつたえられた。そのため、北部、中部インドで発達した諸言語とヨーロッパ諸国語には、基本構造に共通性がみられることになった。 インド北西部は、アレクサンドロス大王がひきいたギリシア人に侵略された。その後、釈迦族、スキタイ族、フン族、さらにトルコ人、モンゴル人、アフガン人も侵入し、しばしば彼らの定住地ともなった。インド内部から中央アジアにでる人びとも、ここを経由した。なかでもチベットと中国にむかった仏教巡礼者、仏僧、奢侈品の交易商人たちが重要な役割をはたしたといわれる。 インドとイランに侵入したアーリア民族は、さらに小アジアを経由してヨーロッパに入り、やがてギリシア文明とローマ帝国をうみだした。 こうしたインド文明の設定は、小説の舞台装置として欠かせない。 作品番号一「神の住むちかくで」で詳述されている。 ボンベイ発、アウランガバード行きの列車にのりこみ、自分の席をみつけ荷物を網棚にのせるとチェーンでしっかりとむすびつけた。となりにすわる年輩の紳士が、「そんな必要はない」と不愉快そうにいった。 「ここは一等車だ」 いま考えれば、彼のいったとおりだった。しかし、旅行をはじめたばかりだったので、誰もがおなじインド人にしかみえなかった。一等料金が二等の八倍もするという意味も、理解していなかった。インドには、大金持ちが住んでいた。そのいっぽうで、たくさんの貧民が暮らしていた。席にすわると、靴磨きの少年が列車に入ってきて、勝手に靴をみがきはじめた。終わると、二ルピーを要求した。紳士がとがめると、少年は値段を一ルピーに変更した。 ボンベイからアウランガバードまでは、三五〇キロほどの距離だった。五時間ほどした夜中にマンナッドという駅で列車を乗り換えた。青いリュックを背負ってプラットホームにおりていくと、誰もいなかった。薄暗い光に照らしだされたホームを、積み荷がない土台だけの車両をひく貨物列車がとおりすぎた。 そのとき、そばにいた男が叫んだ。 「おまえが乗り換える列車はこれだ。なにをしている、すぐに飛びのれ」 ふりむくと、ぼさぼさの髪の毛の若い男だった。 一瞬ためらった。なにか変に思った。 「どうした。はやくのらないといってしまう」 男は、また大声で叫んだ。 「おれの列車は、一等車だ」とこたえた。 やがて、貨物列車はとおりすぎた。 「そうか。一等だったのか」 男は、いいのこすと消えた。 なんだったのか分からない。飛びのったら、どうなったのだろうか。こうした意味不明な事件には、数多く遭遇した。なにをいわれても、立ちどまる必要があった。急がされるなら、やめるべきだった。急いで得するばあいもあるのだろうが、損することのほうがずっと多いはずだ。おそらく、これは真理だろう。 アウランガバードは、マハーラーシュトラ州の町だった。州都ボンベイからは北東三五〇キロのデカン高原にあった。バードは、イスラム語(ウルドゥー)で町を意味する。ムガール帝国第六代皇帝アウラングゼーブは、この地に自らの名を冠してアウランガバードと名づけた。 夕暮れどきには黒い布で身をくるんだ女たちが、ぬかるんだ道端で牛の糞をまるめ家の壁にはりつけているのをみた。ときに、その横顔は息を飲むほどの美貌にみえた。石窟院として名高い、エローラとアジャンタへの観光はこの町が起点だった。 観光バスにのって、エローラ観光をした。素朴な土地だったので、巨大都市ボンベイと比較して、すべてが魅力的にみえた。 エローラは、アウランガバードから三〇キロほど離れた村で、世界的にも有名なエローラ石窟寺院群があった。ここは、仏教だけではなくヒンドゥー教やジャイナ教をふくむ三四の窟院から構成されていた。なかには、教科書でみた古代インドの宇宙観を示す有名な彫刻もあった。平板の地球は、四頭の象にささえられていた。そのしたの巨大な亀は、とぐろをまく大きなコブラにのっていた。さらなる重層性、果てもなくかさねられた世界。上部にも下部にも、なにかが限りなくつづき、その連続のなかに自分が存在している。 インド世界は、一枚の盆から水がしたたり落ちるギリシアの単純な世界観と比較すると、息づまるほどの周密感をあたえた。この世界には、西洋的な「虚無」はみとめられない。「無」とは、「ない」ものの存在を意味していた。 高さ二〇〇メートルほどの円錐状の丘に築かれたダウラターバード要塞は、中世インドで最強の要塞のひとつだった。みる者を圧倒する景観をたもっている。城壁をふくめた要塞の総面積は、およそ六三万ヘクタールにもおよぶ。そびえる硬い岩の丘は、緩やかな斜面部を削りとってつくられた強固な防御用断崖と、ふかい水堀をそなえている。周囲は、三重の城壁でかこまれていた。要塞内には貯水池があり、乾季でも涸れないように、外部の山岳地帯の巨大な池から水をひける構造をもっていた。ひきついだ王朝がかわるごとに、ダウラターバード要塞は拡張され、いくつかの構造物がつけくわえられてきた。今日、ここには、堀や武装化城壁のほか、階段状城壁、宮廷邸宅、寺院、大広間などがつくられている。さらに、曲がりくねった暗闇の通路が造設され、攻城軍を滅ぼす仕掛けをもつといわれていた。 要塞からみおろすと、恐竜が暮らした白亜紀末期に火山地帯から湧きでた大量の洪水玄武岩がつくった大地がみえた。やせた草原は、デカントラップと名づけられている。釈迦がうまれた二五〇〇年まえと、なにもかわっていないはずだった。 要塞の麓の草原にこつぜんと「チャーンド・ミーナール」が出現する。この建造物は、一四四七年に建てられた四つの階よりなる光塔で、高さは三〇メートル、基部周囲は二一メートルだった。光沢をもつタイルと彫刻で覆われ、まさに光り輝く塔だったとつたえられている。これは、「エローラのタージマハル」ともよばれていた。草原のなかにとつぜん出現する白く輝く大理石の霊廟は、人を夢幻の世界にひきずりこむ聖なる場所だった。 インドールから観光にきていた、四、五人の青年たちといっしょに暑い日盛りを歩いた。 彼らは、がぶがぶと飲水して私にもすすめた。そこで、はじめてインドの生水を飲んだ。彼らは、男同士が手をとりあって歩いていた。インドではよくある風景だが、はじめてだったので幾分かおどろいた。彼らは、さまざまな香料がつまった銀色の小箱をもち、とまるたびにとりだしては舐めていた。 アウランガバードに帰り、夕方、ぶらりと入ったレストランでフランス人の青年といっしょになった。髪はぼさぼさだったが瞳は理知的で、みじかいチョッキをきて旅慣れてみえた。 「いい上着だね」 挨拶がわりに服をほめると、お気に入りだったらしく「ベナレスで特注したものだ」と自慢げに話をはじめた。 彼は、医学生だった。一〇月の国家試験の発表まで、この国ですごすといっていた。 レストランでミネラルウォーターを飲んでいたが、「インドの水は、飲めるのか」と聞いた。 問いかけに、彼はこたえた。 「生水は、飲まないほうがいい。とはいっても、大部分は問題ない。飲水してもいいが、ときにスペシャルにぶつかるのを覚悟しなければならない。これを飲むと、たいへんな目に遭う」 翌日、そのとくべつなものに出会う運命になっていた。 アジャンタへは、観光バスでいった。この遺跡は、ボンベイから東北東に四〇〇キロ離れ、デカン高原の西端をながれる大河ワゴラーの断崖をくりぬいてつくられた仏教の石窟寺院だった。一八一九年に、虎を追ってきたイギリスの士官によって発見された。 原野を走っていた観光バスの行く手に、とつぜん虚空があらわれる。眼下に、巨大な絶壁をもつU字谷が出現する。その光景に出会った瞬間、心はおどろきの空白に支配され、神聖な感情に襲われる。オットーのいう、ヌミノーゼ的な感慨だった。しかし、こうした高貴な感情をインドではながく持続させることはできない。シャツ一枚の子供たちが、すぐにバスをとりかこみ、アメジスト製だという首飾りを売りにくる。 「エクルピー」という執拗な叫び声がふかい谷に木霊していく。 神聖と俗がつねに混在している世界がインドだった。こうしたものが面白いと思えるまでには、授業料と一ヵ月ほどの期間が必要だった。 大河ワゴラーは、大きな弧をかいてながれていく。固い岩質が絶壁側への浸食をさまだげた。巨大な壁の中腹に沿って、回廊がつくられていた。水を汲むために川岸におりることさえままならない過酷な地で、崇高な祈りがつづけられた。壁には、三〇以上の窟が掘られていた。何千体とも知れぬ、いわば衆生の数にみあう壁画や彫刻がつくられていた。 窟内には、修行僧たちが寝起きした石のベッドがひっそりとおかれ、そこに横たわってみた。ひんやりとした硬質な感触だった。彼らが、生涯をかけて望んだものはなんだったのだろう。とおりすがった誰かが、この谷に仏が隠れているのをみつけ、露わにしなければならないと感じたのだろう。これだけのものがつくられたのだから、神がいたのは間違いがない。しかし、崇高な行為のなかで神さまは姿をあらわしてくれたのだろうか。 二〇〇〇年まえにつくられた第一期窟は、インド最古の仏教壁画といわれる。一五〇〇年まえの第二期窟では、インド古典絵画の最盛期をいろどる華麗な装飾世界が現出されている。デカン高原の西端、アジャンタの周囲は奥ぶかいためほとんど略奪にも遭わず、原形をとどめ、世界遺産の価値をもっている。壁面には、仏陀の伝記とジャータカとよばれる仏教説話がかかれている。釈迦は、涅槃に入るまえ五〇〇回以上も転生をくりかえし、前世は水牛や、象、龍だったりした。 汗を拭きながら歩いていると、いつしかヤンキーの娘とふたり切りになった。二〇歳くらいの小柄な女性は、ポニーテールに髪をまとめ、とてもチャーミングだった。彼女は、両親と三人づれだった。入り口の休憩所で、「リムカ」(炭酸飲料水)を飲んだときにいっしょだった。 石窟寺院は、容赦ないインドの太陽がまともに照りつけ、逃げ場もない猛烈な日盛りだった。午後の二時ころで、窟のなかまで熱気が充満していた。入り口の休憩所で飲んだリムカはとっくに汗にかわっていた。回廊がまがって日陰になった場所に、やせた水売りがいた。水の入った真鍮の壺が、あやしく輝いていた。娘とふたりしかいない回廊で、思わず顔をみあわせた。彼女はいたずらっぽく笑い、それから白い項を一瞬かたむけてゲームにさそった。硬貨とひき替えに、水売りはいっぱいの柄杓をさしだし、生暖かい水をうまいと思った。半分ほど飲んで、容器を娘にわたした。 彼女は、それを口にしながら上目づかいに可愛く笑った。 それから、話しはじめた。 「ニューオリンズから、きたのよ。機会があったら、ぜひ日本にいきたいわ。あと二日で、ボンベイから帰国するのよ。あなたは、これからどうするの」 そんな、たわいもない言葉を交わした。 こうして話していたが、石窟の壁画に夢中になるうち彼女はいなくなった。家族と合流したのだろうと思い、つぎつぎと感動をうける窟をめぐりつづけていた。しばらくして、便意を感じた。はげしいもので、入り口の休憩所に懸命に走った。トイレに入ろうとすると、ちょうどそこからでてくる娘に出会った。彼女は、さきほどとおなじくいたずらっぽく笑ったが、力はなかった。 「スペシャルだ」と思った。 それが、猛烈な下痢のはじまりだった。 インドで、四回ほど生水にあたった。そのうち二度は、赤痢かチフスかと思えるほどのはげしいもので、医者で抗生物質をうってもらった。 観光バスの終着駅は、ジャルゴンだった。アウランガバードからは、一五〇キロほど北にむかったことになった。 ジャルゴンからアグラへは九〇〇キロで、夜行寝台列車にのった。 一等車のコンパートメントは、四人部屋だった。オーストリアの若い中学教諭とその婚約者(可愛かったが、ぶくぶくに太っていた)と、背が高い赤ら顔のインド人といっしょだった。 トイレにいくとき、教師に「荷物をよろしく」といった。その言葉は、同室のインド人をたいへん傷つけたらしく、帰ってくると大声でくりかえし喚いた。 「荷物は、大丈夫だったのか」 「ほんとうにいいのか」 「たしかめる必要はないのか」 申しわけなく思ったが、それどころではなく、一晩に七回トイレにかよった。翌朝、げっそりとなってアグラについた。 この街は、日本でいえば京都と似た観光地だった。 アグラは、ガンジス川最大の支流、ヤムナー川沿いに位置し、古代より交通の要所として発展してきた。地域における政治、経済、文化の中心だった。古代叙事詩「マハーバーラタ」では、アグレーヴァナ(前方の森)と表記されていた。三世紀のプトレマイオスが制作した世界地図にも、「アグラ」は記載されているといわれる。一六世紀初頭、最後のデリー・スルターン朝、ローディー朝がこの地に都をおいた。一五二六年に、ムガール帝国、三代皇帝アクバルが首都とした。五代皇帝のシャー・ジャハーンは、愛妃ムムターズ・マハルの死を嘆き、この街にタージマハル廟を建てていた。 闇ドル買いの群から解放されて、宿を決めたのは昼すぎだった。部屋で横になると、間もなくベルがひびいた。ドアをあけるまで呼び鈴はずっと鳴りつづける。「これがインド」だった。 扉のまえで待っていたのは、大柄で腹のせりでた脂ぎった顔をした男だった。 「町案内をしてやる」 彼はしつこく食いさがり、幾度もおなじ文句で断った。 「アイドーント、ニージュー」 この言葉をアメリカ青年から教えてもらったのは、もうすこしあとだった。 宿は、洒落たバンガロー風で各部屋のまえにテラス状に廊下がつくられていた。白いテーブルと椅子がおかれ、ながくのばされた軒がつよい日差しをさえぎっていた。腰をおろすと、すぐに男がちかよってきた。 「コーチンからきたんだ。家族といっしょだ」 彼は、あいていた椅子に腰掛け、なんの承諾もなくしゃべりはじめた。 「コーチンには、いい木材がある。素晴らしい家具ができる」 無視してタバコをふかしていると、男はだんだん真剣になっていった。 「日本と商売がしたい。絶対にもうかるんだ」 「おいおい、待ってくれよ。ぼくは、ただの学生だぜ」 いくらいっても、こうなったらインド人はとまらない。 「兄弟に、ビジネスマンはいないか。ひとりくらい、知りあいをもっているだろう。紹介してくれ。手紙をくれ」 席を立つまで、彼は懸命に話しつづける。この様子を、奥さんらしい婦人が子供をだきながら窓越しにみているのが分かった。若い美人だった。 「お父さんは、お仕事の話をしているのよ。休暇より、仕事が優先なのよ」 言葉も分からない赤ん坊に、そんなことを囁いている感じだった。 部屋にもどると、またベルが鳴り、扉をあけるまでつづいた。戸のまえには、さきほどあきらめたと思った者が、小柄な白服の男性をつれていた。今度は、白い男が話しだす。 「君の服は、いけない。そんな格好をしていたら、一目で旅行者だと分かってしまう。この男性が、心配している。たいへん危険だ」 最初の大柄な男を指さしていった。 ずいぶんとありがたいことだと、呆れながら思った。 「政府の直営店で、服を買ったほうがいい。この男が、ただでそこへつれていく。買いたくなければみるだけでいい」と今度はふたりで叫びはじめた。 「服」は、アウランガバードで出会ったフランス青年のチョッキを連想させた。政府直営という言葉は、不思議な安堵感をあたえた。 うなずくと、すぐに古い乗用車が用意された。車中で、また説得がはじまった。 「観光は、どうするつもりなのか。安く案内する。みるべきものは、たくさんあるんだ。みんな、こうしているんだ。君だけを、このまま帰すのは心苦しい」 とことんいいつくしたと本人が納得するまで、話は延々とつづくのだった。 「エンポリウム」(政府直営店)とかかれた大きな看板のまえで車はとまった。店のなかに入り、すこし歩くと布地売り場にでた。あかるい豪奢な部屋だった。床には赤い絨毯がしかれ、高い天井にはシャンデリアが揺れていた。姿をみとめると、七、八人の店員たちが一斉にちかよってきて、肘かけのついた大きな椅子がはこばれた。案内した男が、マネージャーといっしょにもどってきた。 支配人は歩みより、慇懃な仕草で挨拶をした。店員が布をはこんできた。 「服だ」といった。 彼は、その言葉に大きくうなずいて、「くつろいでください、時間はたっぷりありますから」と、床にしかれた布地について解説をはじめた。 「服だ」 もう一度、いった。 「みるだけで結構です。時間は、たっぷりありますから」 支配人は、はこばれてきた紅茶をすすめながら椅子のそばに立って、店員に指示をだした。足元に、大きな布がしかれはじめた。買う気はまったくなかった。彼の勧誘にたいして、無愛想に拒否をくりかえしただけだった。 「これは、いかがですか。それでは、こちらは。これなんかは、たいへん素晴らしい柄ですが。気に入りませんか。今度はどうですか」 この様子に、しだいに戦慄を覚えた。それは最初に感じた、果てしもないインド的時間にひきこまれるというような抽象的なものではなかった。着実に厚さがふえる具体的な恐怖だった。大きくうすいプリントの布地は、拒絶とおなじ数だけ床にしかれて厚みを増していた。踝をすぎるころ、その戦慄の正体はいっそう明確になってきた。つまりこの恐怖をうみだしている者は、休みなく布地をはこんでくる店員でもなく、飽きもせず解説するマネージャーでもなかった。あきらかに、拒絶をつづける自分こそが山をつみあげていた。 気が遠くなるほどの時間から解放されて店をでたとき、ひとつの事業を終えたあとの安堵を感じた。無論、そのためには授業料が必要だった。手には、上下のインド服をもっていた。複数のプリント地も、象牙のアクセサリーも自分の所有になっていた。 結局、たくさんの荷物をかかえて店をあとにした。車にのりこみ、ふと外をながめて唖然となった。なぜなら、でてきたのは政府直営店ではなかった。入り口は、「エンポリウム」だったが、出口はとなりの店舗だった。 男たちは、車中でうんざりする説得をまたはじめていた。もう完全に疲れ切り、腹も立てていた。彼らにしても一応の収穫があったらしく、それなりに満足していた。ホテルにもどることを主張し、それはなんとか聞き入れられた。 「明日こそ、観光だな」 男たちは、真剣な表情でいうと去っていった。 体よく騙されたのだ。象牙のアクセサリーは、それなりの値段だから買ったのだが、あとでちゃんとプラスチック製の偽物だと分かった。ずいぶん腹が立ったが、誰にというのではなく、不甲斐ない自分自身にたいしてだった。 時間がたったいまでは、これも一興だったと思う。 インド服は、たしかに気狂いじみた暑さを凌ぐにはもってこいだった。日本から着ていた服とかえてからは、こういうさそいはなくなった。だから、有効な防御法のひとつといえた。アウランガバードで出会ったフランス青年も、おなじ事件に遭遇してチョッキをもっていたのだと分かった。 購入したプリント地は、ながい旅のあいだ充分に役に立った。その地は、素晴らしく見事なムガール模様だった。支配人が紹介した布地のなかから、いちばん気に入ったものを買ったのだった。もっているうちに、ますます好きになった。 旅の途中で出会ったたくさんの人が、「ずいぶん素敵な図柄ね。どこで買ったの。いくらくらいするものなの」と異口同様にたずねた。もちろん自慢の品物だった。とはいえ、もっともなことで、おなじ柄の布が一〇枚も買えるほど高価だったのだ。 翌日、タージマハルをみにいった。坂道があって、リキシャがおかれていた。 タージは、たいへんこみあっていた。 タージマハルは、南北五六〇メートル、東西三〇三メートルの長方形の敷地に造営されている。南端には前庭がつくられている。北端の大楼門をはさむ庭園は正方形で、水路と遊歩道によって幾何学的な構図に分割されている。総大理石の廟堂を中心に、西側にモスク、東側に集会場がつくられている。四隅には、高さ四二〇メートルの尖塔(ミナレット)が建てられている。 この宮殿のイメージは、作品番号一三「アス」の舞台になっている。 みがかれた大理石は素晴らしかった。日の光に輝き、思ったよりずっと巨大で荘厳だった。中央に壮麗な地下への通路があり、霊廟へとつづいていた。 シャー・ジャーハンが幽閉されていたアグラ城にもいった。大河ヤムナーは、タージのまえで蛇行して方向をかえる。だから、アグラ城とタージマハルのあいだは、一本の川をはさむというイメージでは説明できなかった。タージは、幾重にも離れたところで、きらきらと輝いていた。 タージマハルは、王妃ムムターズ・マハルの墓廟として造営された。権力者が自分の墓をつくるのは、決してめずらしくない。日本の古墳やエジプトのピラミッドなど、巨大な建造物が知られている。これらは、権力の象徴としてつくられる。いっぽうタージのばあいは王妃の墳墓で、世界でも例がないといわれる。シャー・ジャハーンは、息子に幽閉されたアグラ城塞から、亡き愛妃の眠るタージマハルをながめながら一六六六年に死去した。 アグラは観光地だったので、金目当てにインド人がひっきりなしにやってきた。閉口して、静かな場所にいきたいと思った。 インド最北部のカシミール地方の州都、スリナガルを目指すことにした。 アグラから寝台列車にのって、首都デリーを通りこした。さらにパンジャブ地方を南北に縦断してスリナガルへとむかう八〇〇キロの行程には、丸一日が必要だった。感覚としては、東京から博多というイメージだった。翌日、寝台列車は終着駅ジャムムについた。 そこからバスにのりついだ。スリナガルまでは、二六〇キロの距離だった。 インドの乗り合いバスは、想像しがたい騒音を発している。乗客は、気が狂ったように騒いでいるのが普通だった。これは、どこにいってもおなじだった。 この様子は、作品番号一「神の住むちかくで」のなかで一章を割いてかたられている。 スリナガルにちかづくにつれて、山道になっていった。とはいっても、ネパールとは違って周囲は大平原だった。奥ぶかい山に入っていくというイメージではなかった。 休憩で休んだとき、インド人にさそわれてチャイを飲んだ。めずらしかったのか、いろいろ質問された。インド人は概して話し好きで、こまかいことまで聞くのが普通だった。お金をはらおうとすると、そばにいた男が、「彼はリッチマンだから、その必要はない」といった。これが、インド人にご馳走になっ最初で最後の事件だった。そのとき、オートバイでスリナガルにむかっていたインド青年と話をした。 「日本の学生は、みんなバイクにのっているんだろう」 彼は、愛車を自慢しながらいった。 「違うね。車だよ」 「えー」 彼は、びっくりした顔をした。その表情があまりにもはげしかったので、ひどく印象的だった。 カシミールは、インド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域だった。標高八〇〇〇メートル級のカラコルム山脈がつらなり、パキスタンと中国の国境には世界第二の高峰k2がそびえている。 インドの実効支配地域は、かつてジャンムー・カシミール藩王国(一八四六年~一九四七年)があった地域だった。現在は、連邦直轄領となっている。この地域は、文化、宗教的に三分割される。ムスリムが九五%をしめる、カシミール渓谷地域。つぎに、ヒンドゥー教徒が過半数のジャンムー地域。さらに仏教徒とイスラム教徒が同数程度居住するラダック地域になる。 スリナガルは、自然の景観美と、ムスリムが九五%という係争が同居するカシミール渓谷の州都で、最大の都市だった。高級織物のカシミアは、この地域原産のカシミアヤギの毛からつくられたことに由来している。カシミール渓谷をながれるインダス川の支流、ジェルム川の両岸に位置し、美しい湖とそこに浮かぶハウスボートが有名だった。避暑地としても知られる、高級なリゾート地だった。 インフォメーションをさがして、宿泊場所を聞いた。 「ハウスボートは、値段が高い。湖の周囲のホテルなら安い」と男はこたえた。 職員は、プロだから相談する相手を一目みれば、なにを希望しているのかすぐに分かるのだろう。彼は、なかではいちばん安いハウスボートを紹介してくれた。 静かな湖面には、たくさんの船が浮かんでいた。大型船の両側に船頭たちが列になってならび、かけ声とともにながい竿を一斉にさして移動していくさまは壮観だった。まるでうごく王宮にみえた。季節もいい時期だったので、いつでも天空は真っ青で輝いていた。湖の周囲は、ふかい森でかこまれていた。高地だったので、新緑ともいえるつよい緑で覆われていた。 とはいえ、こういう人里離れた場所にいっても、まだ観光気分になれなかった。気持ちが内向きで、晴れやかでなかった。盗まれたり、騙されたりすることを心配しすぎていた。入国してから二週間が経過していた。日本人が通常つかうルートも知らなかっので、誰とも会わず、心配の種はつきなかった。これでは、決して楽しい旅行にならない。まだまだ授業料をはらう段階だった。 それでも、この街には一週間ほどいた。観光バスで市内観光をした。その途中で、はじめて日本人青年と出会った。彼は、オートバイにのっていた。ヨーロッパまで、バイクで走破すると話していた。もうすこし日本語をつかいたかったが、五分ととまっていてはくれなかった。 泊まったハウスボートでは、二日後にもっと安い部屋を希望した。三〇代のオウナーは考えて、係留されている小さなボートを紹介した。そこはひとりしか宿泊できなかったので完全に個人用といえた。よくルールが分からなかったので、一六、七のボーイが縄でつくられた橋をこえて食事をはこんでくるたびに、一ルピーのチップをやっていた。彼はだまってうけとっていたが、いは考えればあきらかに不必要な行為だった。あるとき二ルピーをやったら、サーバントはおどろいて目をまるくした。うまれてはじめて、この額の紙幣をみたような表情だった。こうした例外的な事件は、主人に報告がいくはずだった。だから、オウナーは、宿泊者が貧乏旅行者なのか金持ちなのか分からなかったらしい。 ここまできたのだから、ヒマラヤにいってみたいと考えるのは不思議ではなかった。 もともとカシミール地方は、帝政ロシアの南下政策に対して英露が戦ったグレートゲームの戦場だった。カシミール紛争の直接的な火種は、イギリスからの独立だった。 一九四七年八月、イギリス領インド帝国は独立時に分割された。 インドは、ガンジーの一民族論にもとづいてつくられた。彼は、ヒンドゥー教徒が多数派をしめながらも、多民族、多宗教国家を目指した。いっぽうジンナーは、イスラム教徒を別個の民族とみなす二民族論を唱えた。そこで、イスラム教を国教とするパキスタンがうまれた。この分離独立にさいして、藩王国はいずれかの側に帰属することをせまられた。カシミール藩王ハリ・シングは。ヒンドゥー教徒だった。しかし、住民の八〇%はムスリム(イスラーム教徒)がしめていた。 藩王ハリ・シングは独立を望んだが、住民間ではパキスタン側へ帰属をもとめて暴動が起こるようになった。一九四七年一〇月、イスラム教徒の民兵がパキスタンから進入を開始した。これに対抗するため、ハリ・シングはインドに武力介入を要請した。支援依頼によって、インド政府はスリナガルに兵力を展開して、第一次印パ戦争が勃発した。パキスタン正規軍も投入され、カシミール西部を中心に戦闘が行われた。国際連合は、一九四八年一月、停戦をもとめたが、戦闘状態はつづいた。同年一二月三一日、合意がはかられ戦闘は中止された。この結果、カシミールの六割をインドが実効支配することに決まった。のこりは、パキスタンの支配下となった。しかし、平和はつづかなかった。 以後、パキスタンとインドは、ともにこの地域の領有権を主張し、大小の軍事衝突(カシミール紛争)をくりかえした。その結果、第二次印パ戦争、第三次印パ戦争、カールギル紛争が起こった。 インドは、中国ともこの地域の領有権を争い、中印国境紛争を起こした。カシミールと東部地域のアクサイチン、ラダック・ザンスカール・バルティスターンでは、はげしい戦争となった。その後、ほぼ中間付近に管理ラインがひかれた。インドは、ジャンムーカシミール州を領有した。またパキスタンは、アーザードカシミール州とギルギット・バルティスタンを占有した。さらに中国は、アクサイチン、カラコルム回廊を実効支配することとなった。 一九九〇年代に入ると、カシミール西部地方を中心にパキスタンの支援をうけた過激派のテロが頻発した。さらに治安部隊の過剰ともいえる反撃がつづいた。 一九八〇年ころのスリナガルは、一般旅行者がおとずれることが可能だった。 グルマルグ自然保護区は、西ヒマラヤ、ピル・パンジャル山脈の北東側にあたり、一八〇ヘクタールにわたってひろがっていた。ここは、カシミール渓谷の中心に位置するスリナガルから南西五〇キロの地点にあった。バスを利用したが、充分に舗装されていない山道をぬけるので二時間以上かかった。 乗り合いだったが、インド人旅行者ばかりでがらがらだった。 降車すると、すぐさま観光業者たちにとりまかれた。インド服をきていたが、一目瞭然だった。さまざまな提案がされ、交渉がはじまった。前日インフォメーションにいったときに、ポニーにのって雪渓までいけるという話を聞いていた。そこで、この案を選択した。三〇歳くらいのやせた男が、専用のガイドになった。ヤクの毛皮製だというコートを貸してくれた。標高二五〇〇メートルくらいの地点は、夏だったがかなり寒かった。 多くの観光客と別れ、ガイドとふたりでポニーにのって、背が高い鬱蒼としたヒマラヤスギの林をぬけながら山道をあがっていった。一時間くらい登ると頂上にでた。とつぜん視界がひらけて、大雪渓が眼下にひろがっていた。周囲にはシラカンバも生えていた。 壮観な眺望だった。 グルマルク自然保護区は、冬期の降雪が降水量の大部分をしめていた。標高三〇〇〇メートル前後の場所は、ひろい高山草原になっていた。ここは、ヒマラヤのなかでもとくべつに雪がのこりやすい地形だった。とくに北向き斜面や谷筋には、七~八月まで雪渓(ネヴェ)がつくられていた。誰ひとりいない場所に、テントがもうけられていた。そこで、ガイドといっしょに昼食をとった。チャイを飲んで、彼の料金も支払った。 帰路も、バスを利用した。自分のボートにもどって横臥すると、猛烈な腹痛が襲ってきた。生水など飲んでいなかったので、下痢をしたわけではなかった。ポニーに二時間以上揺られたせいで、腸捻転でも起こしたのかもしれなかった。かんぜんな捻転が起これば、手術しかない。腹痛に脂汗をながしながら食事もとれず、帰国するべきではないかとばかし考えていた。運がいいことに、痛みはしだいにおさまってきた。 ハウスボートのオウナーは、会うたびに観光の案内をしていた。そのさそいにのらず勝手にでかける者は、気に入らないようだった。スリナガル自体は、綺麗な高級リゾートだった。しかし、観光しかない場所だったから、ラダックなどとは違って長期にわたり滞在する街ではなかった。 翌朝、ハウスボートを出発した。早朝だったが、湖畔までボートが送迎にきた。要するに宿泊施設は湖上だったので、往復には専用ボートが必要だった。以前、この送迎にきた男に湖水観光をしつこく勧誘され、つきあったことがあった。五分くらい漕ぐと、「ここからは、べつ料金」とくりかえすので、馬鹿らしくなってきて途中でやめていた。 五〇代のあごひげを生やした男で、ターバンをまいていたからシーク教徒だった。真っ黒だったが、流ちょうな英語を話していた。男には、毎日外出するので、そのたび一ルピーを支払っていた。どの程度が、相場なのかは知らなかった。 この日は、たまたま一ルピーをもっていなかった。それで陸についたとき、半額の五〇パイサ貨幣をやった。男は、猛烈に怒りだした。つきあっていられないのでバス停にむかってすすんでいくと、追いかけてきた。さかんになにかをいっていたが、聞きとれなかった。路線バスがきて、乗車するまで喚きつづけていた。ボーイに二ルピーやったことも、聞いていたに違いなかった。バスには乗客がいたが、のりこむまで喚いていた。運転手には、男がなにを怒っているのか分かったのかもしれない。早朝で最後の機会だったので、もっとチップをもらう気だったのは理解できた。しかし、いくら喚かれても、やりたいとは思わなかった。 これは些細な事件だったが、はじめてインド人と渡りあった気にしてくれた。ここいらあたりから、すこしずつ状況が変化しはじめた。この事件まで、あまりに一方的にインド人が勝利してきた。ここで、はじめて自己主張ができた気がしたのだった。 スリナガルのバスセンターにいき、またバスにのった。一二時間かけて、鉄道の始発駅ジャムムについた。途中でバスが休憩所に立ち寄ったとき、プーナ大学の学生と知りあった。好青年で、品がよかった。ここで、はじめてインドの普通の若い者に出会ったのだった。プーナは、インド西部の街だから、ジャムムとは二〇〇〇キロほど距離が離れていた。基本的にインド人は、理由なく旅をしない。スリナガルは、彼の故郷だったのかもしれなかった。観光客を相手にするのは、二〇代~三〇代の若い男たちだった。 年寄りに、どう思うか聞いてみたことがあった。 「いまは恥ずかしくて、とてもあんなまねはできない」とこたえた。 「日本にうまれて、ラッキーだね。この国では、君のような旅行は誰にもできない」といっていた。 ジャムムから、ベナレスにいこうと考えた。 時刻表でしらべると、二泊三日の旅だった。 インド最北部のカシミールからベナレスまでは、距離にして一三〇〇キロほどだった。距離的には、青森から大阪までいく感じだった。ジャムムからパンジャブ、首都デリーをぬけて、ウッタル・プラデーシュへと通過するルートは、貨物列車が渋滞し、単線区間が多かった。ベナレスにつづく鉄道は、土手の上を走っていた。このときには、なぜこうした形になっているのか分からなかった。列車がベナレスについたのは、明け方だった。早すぎたので、さらに二〇〇キロ乗車してガヤまでいった。この結果、北インドをほぼ横断したことになった。 ガヤは、歴史をもつ都市だった。一六キロ南に位置するブッダガヤで、仏陀は悟りをえたといわれている。それ以前からガヤは、巡礼地だった。町の東には、ファルグ川がながれていた。「ラーマーヤナ」で、ラーマは、この川のほとりで妻や弟とともに父、ダシャラタのために供犠を行ったとされる。「マハーバーラタ」では、ガヤは、ガヤープリーという名称ででてくる。この町は、マガダ地方に興隆したシャイシュナーガ朝、ナンダ朝、マウリヤ朝のもとで繁栄した。仏教の庇護者だったアショーカ王は、ガヤをおとずれている。グプタ朝時代には、ビハール地方の中心都市になった。八世紀に、パーラ朝の支配下に入った。ブッダガヤの大菩提寺は、この王朝を立てたゴーパーラの息子、ダルマパーラによって建設されたといわれる。それから、ムガール帝国領になった。やがてイギリス領インド帝国の支配下に入った。一九四七年に、インドに組みこまれた。 ガヤの駅におりたときに、日本人に出会うことができた。駅前で、同い年くらいの髪のながいバックパッカーがいた。話しかけると、彼は鉄道でこれから町を去るといった。日本人に会えずに苦労してきた話をした。すると、彼はつれていたインドの少年を紹介してくれた。この子供は一〇歳くらいで、ラージという名前だった。彼は、少年に案内してもらったらいいと提案して駅にむかった。 ラージは、ブッダガヤに住んでいた。日本語も、かなり流ちょうにしゃべれた。話しながら歩いていると映画館のまえを通りかかった。ラージは、かかっていた「アスパラガス」という映画が人気化しているといった。観覧を希望したので映画館に入った。インドは映画大国で、ほかに娯楽もなかったので国民的な人気産業だった。幾度かみたが、決して面白くはなかった。筋が粗雑で、不出来な素人の小説みたいだった。終わってから、リキシャにのってブッダガヤにいった。チベット仏教寺は、無料宿泊者をうけいれていた。そこに泊まったが、義務として朝の祈祷につきあわねばならなかった。寺からでてくると、ラージが待っていた。 三〇代半ばの日本人がいたが、とても荒んだ感じだった。この男は、あきらかに村の貧しい若者たちを馬鹿にしていた。みていて、非常に不愉快だった。一五歳くらいのラカンという青年と、目のまえで口げんかをしていた。 このインド青年も、決して好感がもてるタイプではなかったが、自分たちの国を貧しいとけなされるのは愉快ではないはずだった。 「あの男は、悪いやつだ。いつか、ひどい目に遭うだろう」とラカンはいった。 夏期休暇中で、いくところもなかったのか、村には若い連中がうろつきまわっていた。同年代の若者が気ままに旅をつづける姿は、羨ましく不合理に感じたのは間違いなかった。 「インドは、はじめての外国だった。日本語をしゃべる者に会えなくて苦労した」 挨拶がわりに男に話した。 「この国は、そういうやつがくるところではない。台湾か韓国で経験をつんでから旅行する場所だ」と偉そうにいっていた。ごろつきのような男だった。 ブッダガヤは、ビハール州、ガヤ県にある仏教の聖地で、ガンジス川の支流ファルグ川に臨んでいた。仏陀は、ここの菩提樹のしたで悟りをひらいたといわれる。生誕の地、ルンピニー。はじめて説教をした、サルナート。他界した、クシナガラ。こうした町とともに、成道の地として四大聖地のひとつとされていた。仏教では、最高の聖地だった。 中心にあるブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディ寺)が建てられていた。寺のなかには、本堂として高さ五二メートル大塔が建っていた。仏陀は、菩提樹のしたで成道した。すわっていたのは金剛宝座といわれる。そこには巨大な石がおかれ、釈迦の大きな足跡がつけられていた。 大菩提寺の周囲には、中国寺、日本寺、チベット仏教寺などがならんでいた。バックパッカーは、こういう場所に無料で泊めさせてもらっていた。 ラージは、ずっと離れないので、いっしょに昼食をとった。食堂といってもテーブルなどはなかった。地面にすわると、だされたバナナの葉が皿がわりだった。そこに小麦粉を練ってうすくのばして焼いた、チャパティをのせて食べる。また、小さな容器に入った五種類くらいのカレーがついている。これが結構いけるのだった。カレーは小さな容器に入っていたので、すぐになくなった。店主に要望すると、かわりをくれた。それもなくなったので、もう一度いくと断られた。 「カレーは、おまけだよ」とラージが教えてくれた。 北インドでは、主食はチャパティだった。ビハール州は、インド屈指の小麦の産地だった。ガンジス川とヤムナー川にはさまれたウッタル・プラデーシュ州中部は、ガンガー・ヤムナー・ドアーブとよばれる。ふたつの川のあいだに形成された、肥沃な沖積平野をさしていた。とくにガンジス川沿いの北インドは、豊かな穀倉地帯をつくっている。歴代の王朝は、この地域の領有権をめぐって争ってきた。インドが貧しいのは、国土の大部分が洪水玄武岩に覆われていたからだった。玄武岩の台地には大河もながれているが、肥沃な土壌をつくれなかった。だからデカン高原を支配しても意味がとぼしく、どんな強力な王朝が出現しても南アジアは一度も統一されなかった。 ラージは、つきまとって離れなかった。少年の家は数珠を売っているらしく、勧誘をはじめた。ガヤ出会った青年は、閉口してブッダガヤを去ったのだろうと思われた。この町は、とくにみるものもないので、翌日ラージギルにいくことにした。 日本人に会って、そこには日本寺があり、無料で宿泊できるという情報をえたからだった。 ガヤからバスがでていて、六〇キロ、三時間くらいの行程だった。 ラジギールは、日本では王舎城といわれる。ビハール州ナーランダ県にある都市で、ガンジス川中流域に位置していた。古代にはマガダ国首都がおかれ、釈迦が説法した地のひとつだった。外輪山にかこまれた盆地のなかにある都市遺跡で、北インドではめずらしく温泉が湧きでている。 日本山妙法寺では、芸大出身の彫刻家が仏像を彫っていた。 ここは、作品番号一四「仏陀の弟子たち」という作品の舞台になった。 一泊して翌日、鉄道でパトナにむかった。距離的には、一〇〇キロ、二時間程度だった。 パトナは、インドのビハール州の州都で、南には大河ガンジスがながれていた。紀元前五世紀ごろは、マガダ国の首都だった。紀元前三世紀、インドの大半を統一したマウリヤ朝の中心都市だった。また、四世紀に成立したグプタ朝でも首都として栄えた。 観光資源にとぼしかったので、一泊して朝にベナレス行きの列車にのった。二五〇キロほど離れており、六時間くらいかかった。 ベナレス駅につくと、リキシャで繁華街のゴドリアにいった。交差点をすこし北にすすんだ、ウエルカムというホテルに宿泊した。なぜ、ここに泊まることになったのかは、まったく覚えていない。経営者は白い服をまとった年老いたイスラムで、三〇歳くらいの若主人、ハッサムがいた。 ホテルに宿泊することを決めると、二階の部屋につれていかれた。荷物をおろすと、ハッサムが三階につれていった。彼は、そこに泊まっていた日本人男性を紹介した。 俊和は、黄疸になって二ヵ月以上このホテルで静養していた。がりがりにやせ、真っ黄色でベッドに横臥していた。彼は、日本人がやってきたことにものすごく喜んだ。 俊和と出会えたのは、インドで最大の事件だった。彼には、さまざまなことを教えてもらい、うまれてからいままでの歩んできた道を存分に話しあった。不思議なほど気があった。いっしょにベナレス大学にいったり、ガートを案内されたりした。とはいっても、彼は体調がすぐれず、よく帰国しないなと思っていた。 俊和と出会えたことにより、インド旅行はものすごく面白いものにかわった。ゴドリアでは、信じられないような出来事に数多く遭遇した。 この俊和とベナレスについては、作品番号三六「ホテルウエルカム」で詳細にかたられているので割愛する。 彼から八大聖地をすべてまわったと話されたので、サルナートにもいってみた。ベナレスの北一〇キロだったで、リキシャをつかった。サルナートは、仏陀が、はじめて説教をした「初転法輪」の地として知られ、四大聖地のひとつとなっていた。 ものすごく暑い日だった。坂道はなかったと記憶しているが、リキシャはたいへんだった。男は、人をのせた車両をひっぱりながら一時間以上漕ぐのだから汗だくだった。木陰に入ると、疲れ切っていた。 サルナートは、遺跡公園として整備され、中心に仏塔「ダメーク・ストゥーパ」があった。面白いとは思わなかった。正直、暑かった思い出しかのこっていない。 その後、南インドを旅してみようと思い立った。 朝ベナレスをでた寝台列車で一泊し、夜になってマドラスについた。一気に一五〇〇キロの距離を三五時間かけて南下したのだった。なにしろ一等の周遊券をもっていたので、鉄道を思い切りつかった。 マドラスは、北インドにくらべると綺麗な町だった。現在は、チェンナイとよばれている。南インドの東側コロマンデル海岸沿い、ベンガル湾に面するタミル・ナードゥ州の州都だった。インド有数の世界都市だった。いまは、南インドの玄関口、南アジアのデトロイトともいわれる。インドの健康首都、インド銀行業の首都などの異名をもつ。 ひどく気に入った町だった。ここからはじまる南インド旅行は、たいへん楽しかった。 マドラス・セントラル駅からバンガロールを経て、マイソールにむかった。インド南部を横断する距離にして五〇〇キロ、一二時間ほどの行程だった。 マイソールは、インド南部カルナータカ州で二番目の規模の都市だった。かつてマイソール王国、マイソール藩王国の首都として有名だった。 マイソールの中心部には、壮麗な藩王宮殿が建てられていた。 マイソール宮殿は、幾何学的なイスラーム様式と、曲線的なヒンドゥー王国の装飾が交差していた。南インド王権の象徴として、尖塔とドームが階層的にかさなっていた。砂岩からできた宮殿は、光を吸いながら、光線を反射していた。多層になった巨大なアーチ構造物は、夕暮れには金色にかわった。 マイスールは、一八世紀の一時期をのぞき、ずっとオデヤ朝が統治していた。宮殿は一九一三年に再建され、王国の中心として機能していた。植民地支配の影をひきずりながらマイソールの威信をとりもどすために築かれていた。オデヤ家の記憶を封じこめた、王国最後の宝石ともいえた。青と金の光が天井からしたたり落ちる儀礼の大広間や、象牙と鏡面が連続する王が歩いた回廊があった。無数のアーチが視界を分割し、インド的な時間を演出していた。そこは、香油と白檀の匂いがのこる南インド王国の呼吸だった。 マイソールでは、観光バスもつかった。ハネムーンのインド人が多かったが、これがうるさくて、バスの車内はいつも地獄のようだった。 ここで下痢がひどくなり、病院で抗生剤をうってもらった。 マイソールで三泊して、バスをつかって南インドの高原避暑地ウーティ(ウダガマンダラム)にいってみた。この町は、タミル・ナードゥ州ニルギリ丘陵の中心に位置し、標高約二二〇〇メートルの避暑地だった。英領時代からの山岳保養地として有名だった。昼についたが、とくにみるものもなかった。真夏の晴天だったが、ひどく寒かった。ここにはいても仕方がないと思い、鉄道で終着駅にいくことにした。 つかったのは、ニルギリ山岳鉄道だった。タミル・ナードゥ州ニルギリ県に敷設されたインド最古の山岳鉄道のひとつだった。二〇〇五年からは、ダージリン・ヒマラヤ鉄道とともに世界遺産「インドの山岳鉄道群」を構成している。四六キロつづき、麓のメットゥパラヤムまでついた。 ニルギリ山岳鉄道は、いまでもインドで稼動する蒸気機関車鉄道のひとつだった。軌道は、一メートルのナローゲージだった。車両は急勾配を登るために、べつの蒸気機関車に押されたり、ひかれたりしていた。この区間の最大傾斜は、一二分一、八三パーミルだった。つまり一〇〇〇メートル走ると、八三メートル高くあがることを意味していた。登坂時は、蒸気機関車は最後尾に連結して列車を押しあげていた。下るばあいは、先頭になってスピードを制御していた。ディーゼル機関車にひかれる区間もあり、要するにこの鉄道がいちばんの観光だった。登りは約五時間、下りで三時間半かかった。 メットゥパラヤムから、普通鉄道でコインバトールにつき、そこでコーチン行きの夜行列車をつかまえることができた。区間は、二〇〇キロ、四時間くらいだった。 コーチンは、インド南部、ケララ州の都市で、インドの主要産業都市だった。 一四世紀からアラビア海に面する重要な港町として、おもに香料貿易で栄えた。一五〇三年、ポルトガルによって占領され、欧州初のインド植民地となった。ヴァスコ・ダ・ガマは三度目のインド洋航海中の一五二四年、この地で病死した。一五三〇年に拠点はゴアに移ったが、要塞としてのひきつづき重要な位置をもっていた。その後、オランダ、マイソール王国、イギリスなどの支配をうけた。 主要産業は、観光、建設、肥料などの製造、造船など多岐にわたっていた。また、インドで唯一水上バスによる公共交通システムをもっていた。これは、世界最大規模の電動水上バス交通インフラともいわれている。 コーチンは、島と半島が入り組んだ複雑な地形だった。水上バスの出発点、アレッピーへむかったが、直通便はなかった。バス路線は、こまかく分断されていた。 早朝この町につくと、バスを三度乗り換えてアレッピーにいった。朝水上バスにのって延々八時間かけて水郷地帯をぬけていった。ちなみに料金は、二ルピーだった。 アレッピーからクイロンまでは、水路で直結していた。淡水と海水がまじりあった塩分のすくない汽水湖、ヴァンバナッド湖をとおり、せまい運河をぬけた。カヤンクラム湖から、アシュタムディ湖がクイロンの玄関だった。つまり、ここには海岸線と並行して南へのびる、湖と運河の連続体がつくられていた。ケララの「バックウォーター」として有名だった。 船は、大型でなかった。乗客はところどころで乗り降りしていたが、がらがらだった。いっしょになったフランス青年と、日盛りのなか舳先にすわっていた。川面は静かで、小さな帆船が海にむかってすすんでいくのがみえた。彼とはクイロンまで同乗していたが、とくに話すことはなかった。 よく晴れた日で、水と周囲の樹木がおりなす景観美に陶酔した。 翌日、鉄道で二時間かけてトリヴァンドラムについた。 この町は、インド南部ケララ州の州都だった。インド大陸南端ちかく、アラビア海から三キロほど内陸に位置する。一八世紀にトラヴァンコール藩王国の都となった。現在は、インド最大のITパークをかかえ、州のソフトウェア輸出の八割を担うといわれる。 トリヴァンドラムとは、「アナンタの町」を意味している。街の中心には、シュリー・パドマナーバスワーミ寺院がつくられていた。そこには、アナンタ(大蛇)に横たわるヴィシュヌ神像がおかれていた。アートギャラリーも秀逸で、ドゥルガ女神の彫像にも目がうばわれた。 翌日は、乗り合いバスで海岸線を走行し、最南端のケープコモリンについた。およそ一〇〇キロで二時間程度だった。 インド大陸最南端、コモリン岬は、カンニヤークマリーという町だった。沖合にヴィヴェーカーナンダ・ロック記念寺院がつくられ、女神カンニヤークマリー(処女の女神)を祀られていた。ヒンドゥー教の伝説では、カンニヤーデーヴィーは、女神パールヴァティの化身でシヴァ神と結婚する予定だった。しかし、シヴァは約束の日にあらわれなかった。そのため、彼女は結婚することなく永遠の処女として、シヴァ神を待っているいわれる。東にベンガル湾、西にアラビア海がみえた。正面は、インド洋だった。寺院の最先端部には大きな岩がたくさん転がっていた。秀逸な景観がはえる、素晴らしい町だった。 翌日は、乗り合いバスで、ナガルコイルに一旦もどった。そこから、ティルチェンドゥルで、ふたたび乗り換えて、トゥティコリンに移動した。所要時間は、四時間ほどだった。コモリン岬、カンニャークマリーは巡礼地になっていて、海岸線をつたい南端をまわる路線は巡礼客が多かった。 トゥティコリンから、夜行の鈍行にのってマドゥライにむかった。 この町は、インドのタミル・ナードゥ州中南部に位置する都市だった。ヴァイハイ川岸に発達した古都だった。州内第二の大都市で、紀元前から栄えていたといわれる。パーンディヤ朝の首府として、多くの文化遺産をかかえる南インドの商業の中心地だった。 一六世紀から一七世紀にかけて、マドゥライ・ナーヤカ朝によって完成したミーナークシ寺院は、市の中心にあった。多くの観光客や巡礼者がおとずれていた。この寺院は、ミーナクシ・スンダレスワラール寺院ともいわれていた。インド・タミル・ナードゥ州マドゥライのヴァイガイ川南岸に位置する、歴史的なヒンドゥー教寺院だった。聖堂には、パールヴァティの一形態であるミーナクシと、配偶者スンダレスワラール(シヴァ神)が祀られていた。この寺院は、シヴァ派、シャクティズム、ヴァイシュナ派などさまざまなヒンドゥー教の宗派が融合した存在として神学的に重要とされていた。 ミーナークシ寺院の敷地は、六ヘクタールにおよんでいた。複数の同心円状のかこい(プラカラ)のなかに記念碑がつくられ、それぞれの高い石づくりの壁で強化されていた。外壁には、四つの大きなゴープラム(装飾的門)がもうけられていた。さらに、各門に小さな華麗な門が一〇個ずつつくられていた。いちばん高いのは南側の塔で、一六世紀に建てられ、高さ五二メートルだった。もっとも大きく目立つミーナクシとスンダレスワラルの祠は、最内側のプラカラの中庭に位置していた。複合施設には、多数のマンダパ(パビリオン)がつくられていた。千柱のホールもふくまれ、神像の安置や祭り、そして炊事につかわれていた。寺院の聖地やマンダパには、さまざまなヒンドゥー教の神々の像が設置されていた。黄金の蓮の池(ポトラマライ・クラム)は、敷地内にあった。 この寺院は、見応えをもっていた。ゴープラムは、極彩色な装飾をほどこした楼門だった。そこには、息がつまるほど周密に神々が埋めこまれていた。上部にも下部にも神さまが、ひしめきあいながら造形されていた。色彩も毒々しいほどだったが、圧倒的な迫力をもっていた。黄金も蓮の池は、ものすごく大きかったが、どうやって水をかえるのか分からなかった。とても沐浴はできないと思われた。緑にかわっていて、入ったら病気になりそうだった。 なぜだか分からないが、ほんとうの田舎町をみたいと思った。 このあたりで、すっかり強気になったのだった。さがしてみると、ポンディーという小さな町があった。そこにいくつもりで列車にのった。しかし、乗換駅で間違えて、ティンディヴァナムまでいった。そこで仕方がなく、列車で二〇〇キロ南下してチルチラパリにもどった。 この町の歴史は古く、六世紀にパッラヴァ朝が支配下においた。一二世紀にチョーラ朝、さらにパーンディヤ朝の領土になった。さまざまな王朝の支配下に首都としておかれた。マイソール王国とも領土を争ったこともあった。一八〇一年、イギリスはこの地を獲得して一九四七年まで統治下におかれた。 ここには、ロックフォート(岩の城)がつくられていた。古い岩山に建てられた歴史的な要塞と寺院の複合施設だった。ロックフォートは、高さ八三メートル岩の上に建設されていた。前方には、大きな池がつくられていた。なかには、ふたつの寺院があった。ロックフォートの中腹には ターヤーマン寺院がつくられ、シヴァ神を祀っていた。さらに上部には、ジャンブケーシュワラル寺院が建立されていた。これは、シヴァ神を祀る五大元素寺院(パンチャブータ・スタラ) のひとつとされる。インド哲学では、世界は五元素で構成されている。地(Prithvi)、水(Apas)、火(Agni)、風(Vayu)、空(Akasha)だった。シヴァ神は、五元素それぞれの形で顕現するとされていた。南インドには、この五つに対応する寺院がつくられていた。 ジャンブケーシュワラル寺院は、五大元素寺院の「水」を象徴するシヴァ寺院だった。 ここにいこうとして駅でおりたが、みつけられなかった。快晴の空からは、太陽がさんさんと照り輝いていた。駅から歩いていくうちに、みょうな場所にでた。ダリッドが住んでいる貧民窟だった。土の道の両側に、掘っ立て小屋がずっとつづいていた。振りかえると、おなじような光景だった。知らないうちに、かなり入りこんでいたのだった。みなれない東洋人がいることに気づいて、住んでいる者たちが小屋からでてきた。みている間に、ぞろぞろと蟻のように出現しはじめた。道の両側に、人びとがならんで不詳な東洋人をみつめていた。彼らにとって、はじめてみる者だったのかもしれない。すすむこともできず、どうしていいのか分からず、立ちどまった。あまりの視線にたえかねて、空をみあげた。そのとき、燦然と輝くロックフォードが目に入ったのだった。 ここで起こったことの一部は、作品番号一五「光に」に記載されている。 ロックフォートは、ちょうど駅の裏側にあたっていた。高さ八三メートルという巨大な岩山だったが、チルチラパリ駅は南西側の低地だったので建物や市街地にさえぎられていた。密集した市街をぬけて、旧市街からロックフォートにむかうことになっていた。直線距離としてはちかかったが、視界が完全に遮断されていた。観光案内も、当時はなかった。そのため、駅からさがしながら歩くと、迷う構造だった。 石の城になった山頂からは、町並みがみおろせた。はるか彼方まで、民家がひしめきあっていた。 翌日、どうしても気になって、もう一度、パンディーという小さな町を目指した。バスをのりついで、ポンデシェリとティンディヴァナムのあいだの村にたどりついた。 そうして乗り合いバスをおりたら、人があつまってきた。それは、幾重にもとりまきはじめた。黒い服をきたイスラム教徒が多い、ムスリムの村だった。おどろいて、旅行者だと叫んだ。しかし、英語を話す者はいなかった。もちろん、ヒンディー語も通じなかった。日本人などみたことがなかったらしく、ひとりもうごかなかった。群がってきた誰もが、ものすごく真剣な眼差しでじっと凝視していた。それが退きもせず、異変に気づいた人びとが、さらにあつまってくるのだった。周囲は、真っ黒になった。おどろいて、車内にもどった。運転手に、ティンディヴァナム行きのバスを聞きだし、とまっていた車両に一目散にのりこんだ。小一時間たつと出発して、目的地についた。身の危険を感じたのではなかったが、観光地でもない場所を無闇にたずねても仕方がないと思った。 ティンディヴァナムから、マドラスにもどった。 この町は、二回目だった。おなじホテルに泊まると、みたことがある日本人に再会した。 ここでは、買いもとめた書籍などを自宅におくった。また領事館にいってみると、家族から手紙がきていた。綺麗な町で個人的には好きだったが、とくにすることもなかった。 日本や欧米をはじめ諸外国では、インドというと、まず北インドが連想される。名高い観光地は、北に集中している。たとえば、タージで有名なアグラ、首都のデリー、ヒンドゥー教の聖地なベナレスなどだ。「北インド」という言葉は、インドがひとつでないことを意味している。「南インド」は、現代でもドラヴィダ人、ドラヴィダ語族が大多数をしめている。両者は、言語的、文化的にも大きく違っていた。 南インドでは、場所によってはヒンドゥー語が通じなかった。そういうところでも、英語はつかわれていた。もちろん日本がどこにあるのかなど、まったく知らなかっただろう。 北インドは、大まかにインドの北部をさしている。この地域は、ヒンドゥスターンともよばれる。文化圏としてみるなら、パキスタンやバングラデシュ、ネパールにもまたがっている。北インドの中心は、ヒンドゥスターン平原になる。おもに、インド・アーリア人を祖先とし、インド語派のサンスクリット語を起源とする言葉をつかう人びとをさす。ヒンディー語とウルドゥー語を同一の言語とみなせば、ヒンドゥスターニー語が実質的に共通語として機能している。 北インドは、人口密度、貧困、政治不安がかさなっていた。宗教衝突や政治的緊張が高く、大部分が難民をふくむ貧困層だった。さらに都市インフラの未整備などがかさなり、物乞いが多く、街が荒れてみえた。 南インドは、インド南部の広大な三角形の半島をさしている。東にベンガル湾、西にアラビア海、南にインド洋がひかえている。東海岸沿いに東ガーツ山脈が、西海岸沿いに西ガーツ山脈がのび、これらにかこまれた高地がデカン高原になる。この階段状につみがている洪水玄武岩なかをゴーダーヴァリ川とクリシュナ川、カーヴィリ川、 トゥンガバドラー川などがながれている。 東南部には、ラーマの橋とよばれる砂州と島が点在するポーク海峡をへだて、スリランカがある。ラクシャドウィープの南のアラビア海には、モルディブの島々がつらなる。三角形の半島の南端がカンニヤークマリー(コモリン岬)で、そのさきにインド洋がひろがっている。都市としては、マイソール、コーチン、マドラス、マドライ、ハイデラバードなどが有名だった。 南インドに居住する人たちは、ドラヴィダ人だといわれる。 言語学的には、ドラヴィダ語族は、タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語、トゥル語、コータ語などの言語を母語としてつかう人びとになる。カイバル峠をこえてパンジャブから侵入したアーリア人よりも、はやくからインド大陸に居住していた民族で、インダス文明の末裔ともいわれる。彼らは、徐々にインドの南方へと追いやられた。チョーラ朝などのもとで興隆し、イスラム教勢力の侵入をくいとめた人びとだった。ドラヴィダ人は、アーリア人にくらべ肌の色が黒く、背がひくいとされる。 タミル文字は、サンスクリット文学とは系統が違っている。独自の宮廷文学などがのこされている。古代タミル語は、未解明のインダス文明の文字を解く鍵とみなされている。また、ムルガン神信仰などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活なども、アーリア系とはべつだと考えられる。さらにタミル人とは、おもにタミル・ナードゥ州でうまれた者たち。タミル語を母語とし、タミル文化を担う人びとをさしている。つまり、タミル人は、ドラヴィダ人の代表とも考えられる。 マドラスは、英領時代からの行政都市だった。道路がひろく、石づくりの建築物が整備されてのこされていた。港湾都市だったため、富が蓄積されていた。教育水準が高く、宗教衝突などは、ほとんどなかった。物乞いは目にする機会がすくなく、市場が整理されていた。おなじインドとはいっても、別世界のように感じられた。 そもそも南インド自体、教育水準が高かった。タミル・ナードゥ、ケーララ、カルナータカは、識字率、学校教育、医療が北インドより圧倒的に高水準だった。その結果、貧困率がひくく、路上生活者がすくなかった。物乞いも目立たない都市環境がうまれていた。 南インドは、ドラヴィダ系だといわれ、豊かな印象をうけた。 料理や食文化も、北と南ではかなり異なっていると感じた。 主食は米だったが、蒸したような大きな粒ですごくうまかった。 南インドでは、一般的にパロボイルド米(半ゆで米)が主流だった。収穫後、殻つきのまま蒸して乾燥させ、精米するといわれる。調理法も、南インドでは、米を多めの水でゆでる。さらに水分を切ってから、パスタのように余熱で蒸らす。その結果、蒸し米のような食感になる。米粒が黄色がかり、特有ないい香りだった。粘り気がなく、ふっくらして柔らかかった。パロボイルド米は、しめっているのでココナッツ・カレーとの相性がとてもよかった。 レストランでは、バナナの葉を皿がわりにしていた。北インドもおなじだったが、色艶が違っていた。バナナの葉は巨大で、濃い緑をしていた。そこに、やや黄色がかった大粒の米が山のように盛られるのだった。カレーはおまけだったから、ついているだけでお終いだったが、ご飯はいくらでもおかわり自由だった。柔らかくておいしかったので、大量に食べていた。これは、インド人もおなじだった。線維性の食料を多量にとるため、排泄物も多くなる。快食、快便で非常にすっきりとするのだった 南インドは、気候が湿潤で稲作に適していた。古代から米中心の食文化がつづいていた。とくに、タミル、ケララ、などの農村では、朝も昼も夜も米という家庭が多かった。いっぽう北インドは、小麦地帯だったのでチャパティが主食だった。 インド観光の目玉は、アグラ、デリー、ベナレスなどの北インドに集中していた。 あまり紹介されない南インドは、多大な観光価値をもっていた。物乞いもすくなく、人も穏やかだったので、非常に楽しい思い出になった。 マドラスのホテルで新聞を読んでいると、ハイデラバードの記事が目に入った。そこには「シュート・アットサイトオーダー」とかかれていた。戒厳令下の町がどんな具合なのか、みてみたいと思った。ハイデラバードは、マドラスから七〇〇キロ北に位置していた。夜行寝台列車でいくと、一四時間くらいかかった。この町は、政治的に混乱し、しょっちゅう戒厳令や外出禁止令がでていた。 一九四七年にインドとパキスタンが分離独立すると、多くの藩王国はインド政府に併合された。ハイデラバードを首都とするニザーム藩王国も、いずれかへの帰属をせまられた。ムスリムだったニザーム家は、ヒンドゥー教徒主導のインド政府に参加することに否定的だった。そこで、現状維持とする暫定協定をむすんだ。しかし、インド大陸中央部に広大な藩王領をもつニザーム家が、パキスタンの飛び地として独立する事態をインド政府は極度に警戒した。一九四八年、政府は、経済封鎖により追いつめ、同年九月にインド政府軍をハイデラバードに派遣した。ニザーム家当主、アーサフ・ジャー七世は、なすすべなく降伏した。こうしてインド大陸最大で最後の藩王国は、インド政府に強制併合された。 ハイデラバード州は、併合時、マドラス州の一部だった。一九五三年、新州境の確定されると、テルグー語圏として切り離された。ハイデラバード州は、インド政府初の言語圏基準による州境線をもつアーンドラ・プラデーシュ州となった。そして、州政府として権限をあたえられた。 カシミール地方でも話題にしたが、一九四七年の「インド、パキスタン分離独立」は、まず宗教で分けられた。ガンジーとジンナーが、各政府をひきいた。基本的に、ヒンドゥー教徒多数地域はインドに編入された。イスラム教徒が多いばあいは、パキスタンだった。やがて東パキスタンは、バングラデシュとして独立した。語族的には、パンンジャブ語もベンガル語も、おなじインド・アーリア語派だった。西パンジャブは、イスラム教徒が多数派だったのでパキスタンへ入った。東パンジャブは、ヒンドゥー、シク教徒が多数をしめたのでインドに編入された。東ベンガルは、多数派がイスラム教徒だったので、パキスタン(バングラデシュ)に入れられた。さらに西ベンガルは、ヒンドゥー教徒が多数だったのでインドに組み入れられた。 つまり分離独立は、宗教の人口比率が唯一の基準だった。 インドは独立したが、国内の州境は混乱していた。一九五六年、「州再編法」により、州は基本的に中心的な言語によって区切る方針が採用された。タミル語は、タミル・ナードゥ州。テルグ語は、アーンドラ・プラデーシュ州。カンナダ語は、カルナータカ州。マラーティー語は、マハーラーシュトラ州。ベンガル語は、西ベンガル州。ヒンディー語 は、北インド諸州だった。つまりこの分割は、ドラヴィダ語族、インド・アーリア語族という枠組みではなく、じっさいの話者コミュニティを基準とした。 一九七〇年代後半のハイデラバードは、暴動、衝突が頻発した時代だった。ヒンドゥーとイスラムの宗教対立、ニザーム王国の残影による政治的対立などが顕在化した。さらに旧市街の貧困と人口密集問題、地域政党の台頭や選挙前後の暴動などが頻発した。そのため、しばしば戒厳令、外出禁止令が発令されていた。 となりの町、シンカラバードは、乗換駅になっていた。そこから、ハイデラバード・デカン(ナンパリー)駅にいった。 シンカラバードは、インド南中央鉄道管区でインド全土の鉄道主要駅と連絡するハブだった。ボンベイから七五〇キロ、マドラスから七〇〇キロ、カルカッタから七二〇キロ、そしてデリーからは一七〇〇キロだった。 ハイデラバードは、すでに暴動は鎮圧されていた。駅には、整然と人びとが歩いていた。ひしめきあっては、いなかった。駅前や街角には、多くの武装した兵士が立っていた。宿をとろうと思って歩きまわったが、どのホテルも泊めてくれなかった。夕方になっても宿舎をみつけられなかったので、ハイデラバードのすぐ北側で、フセイン・サーガル湖をはさんでむかい側に位置するシンカンデラバードにもどった。ふたつの町は、八キロしか離れていなかった。かんぜんな双子都市で、いまではほぼ一体化している。 シンカラバードは、まったく落ちついていて宿泊できた。 ホテルを決めて町を歩くと、北側にたくさんの岩山がみえた。頂上にいけば周囲がみわたせるだろうと思って、いちばんちかくの二〇〇メートルくらいの山を登りはじめた。 快晴で暑い日だった。乾いた穏やかな風がふいていたので、気持ちがよかった。歩いていると、三〇歳くらいの男と母親が登っていくのに追いついた。石でできた山道は整備されていたが、ひろくはなかった。いっしょになって山頂につくと、そこには祠が建てられていた。三六〇度の視界が目に入った。そこからは、シンカラバードの市街地ばかりではなく、フセイン・サーガル湖をはさんだハイデラバードの町並みまでみおろすことができた。民家は、みえるかぎりつづいていた。 岩山は、玄武岩ではなく、立派な花崗岩が積み木のようにかさなっていた。こうした小高い山が散在しているのが分かった。 頂上には、三人以外誰もいなかった。母親に話しかけられ、日本人だとこたえた。彼女は、日陰になった祠堂で、もっていたお昼ご飯をひろげた。いっしょに食べようとさそってくれた。断る理由もなかったので、ご馳走になり、おしゃべりした。女性は黒い服だったので、だぶんムスリムだった。北インドで、イスラム女性は、旅行者に話しかけることはない。もしそうした出来事に遭遇したなら、とくべつな事態で基本的に無視するべきだった。 南インドでは、女性の地位は北インドにくらべて高かった。息子がいるというシチュエーションだったので、母親は開放的だったのかもしれない。チャパティをご馳走になり、チャイもいただいた。 ハイデラバード、シカンダラーバード一帯は、世界的に有名な花崗岩のボルダー地帯といわれる。ボルダーとは、まるい岩をさす言葉だった。フセイン・サーガル湖の周囲は、二五〜三〇億年まえの巨大な花崗岩の丘が連続する、デカン高原特有のボルダー丘(Rocky Hill)を構成していた。 デカン高原は、洪水玄武岩が平均二〇〇〇メートルもつみかさなり、階段状にみえることからデカントラップとよばれる。マグマが地表で急速に冷却すると、粒子がこまかい玄武岩になる。いっぽう地下深部でゆっくりと冷えると粒が大きい花崗岩が形成される。 インド大陸では、玄武岩の地殻が厚くつくられていた。そのため、マグマが地下ふかくに溜まり、ゆっくり冷える環境がととっていた。そうして、地下深部で巨大な花崗岩の塊(バソリス)が形成された。 インド大陸は、非常に古い大陸地殻をもっていた。それが数十億年にわたり、風雨や河川による浸食活動にされて上部を覆う地層が削られると、深部の花崗岩は地表に出現した。また、インドがユーラシア大陸に衝突したさい、大地が隆起して深層の岩石は、押しあげられた。その結果、花崗岩は、地下ふかくから地表まで上昇するばあいもあった。 デカン高原は、上部に玄武岩層(デカントラップ)が覆い、下部の花崗岩層が基盤になる二層構造をつくっていた。 シンカラバードで登ったボルダーは、こうして花崗岩が露出した部分だった。 超大陸パンゲアは、アフリカに出現したスーパープルームによって、一〇ほどの大陸(クラトン)に分けられた。アフリカ東岸から分離されたインド大陸は、ユーラシアと衝突した。しかしユーラシア大陸は、柔らかい地殻構造で形成されていた。そこに基板として固い地殻をもつインド大陸が衝突した。したがって、インドは、ユーラシアにぶつかるというよりも突き刺さった。その結果、ヒマラヤが褶曲されたが、ユーラシア大陸の地殻は二重に折れ曲がりチベット高原がつくられた。この構図は、二〇〇〇メートル級のモンゴル高原にもおよぶ。さらにバイカル湖まですすんで、インドプレートは沈みこむ。だからバイカルは、いまだに成長をつづけて、水深を増している。カスピ海が、ドナウなどからはこばれる土砂などにより消滅にむかうのとは対照的な構図をえがいている。 これは、作品番号四「世界は曼荼羅のなかで」で詳細にかたられている。 翌日は、ハイデラバードにいって観光した。 駅前は、武装兵士が立っていたが、人はたくさんいた。混乱は、かんぜんにおさまっていた。チャールミナールまで五キロほどの道を歩いたが、猛烈に混雑していた。旧市街の中心で、バザールが密集していた。イスラム系住民が多く、祭礼もみかけた。道幅が極端にせまく。露天が埋めつくしていた。交通整理は、ほぼ機能していなかった。その道に、牛、リキシャ、人が入り乱れていた。香辛料、排気ガス、動物の臭いがまざり、さらにいつ暴動が起きてもおかしくない緊張感がただよっていた。インドでも、もっとも密度が高い都市空間をつくりだしていた。 駅から五キロ離れた場所に、四つの光塔をもつ大建造物チャールミナールが建っていた。この建造物は、ゴールコンダ王国の伝説的最高傑作といわれていた。ニザーム藩王国発行のハイデラバードルピー貨幣の裏面にも刻印され、町を象徴するもっとも有名な建物だった。 チャールミナールは、一五九一年にムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーによって建設された。基盤の一辺は二〇メートル、四つのアーチは幅一一メートル、高さは二〇メートルだった。四(チャール)の光塔(ミナール)があることから、チャールミナールと名づけられた。四面アーチ構造の上部が屋上になる。そこの西区画にはモスクがつくられ、ゴールコンダ王国が建てたなかでもっとも美しい建造物といわれる。屋上から高さ二〇メートルの四階建ての塔がそびえている。金曜礼拝者が宿泊するスペースの正面には、祈りのための場所が四五つくられている。このスペース東側には、独特のアーチデザインをもつベランダがある。四つのアーチ門上におかれた時計は一八八九年にくわえられた。チャールミナールの南西基部には、ラクシュミー女神を奉った小さなヒンドゥー寺院が建立されている。これは、後年につけくわえられた。 チャールミナールが建てられた意義は、いまでも論争となっていた。上層階は、学校だった。くみ上げ式の溜め池だった。当時流行した疫病除けだった。妃への贈り物だった。ゴールコンダ城と秘密のトンネルでむすばれた脱出路だった。ただの門構えだった、などと論議されている。 いずれにせよ、チャールミナールは、ハイデラバードの魅力と美を意味していた。 四本のミナレット(塔)の内部に螺旋階段があり、上層のバルコニーまで登れる構造になっていた。現在では老朽化して禁止されているが、二〇世紀後半までは観光客も登ることができた。とくに一九八〇年前後は規制が緩く、上層までいくのが可能だった。そこからは、旧市街をみおろせた。 露店の屋根、メッカ・マスジドの巨大なドーム、砂埃と香辛料の匂いがまざる空気、遠くにひろがるハイデラバードの乾いた大地などだった。眼下は、猛烈な人口密集地帯だった。 旧市街は、露店、仕立屋、香辛料商、肉屋、宝飾店など地元住民の生活と経済の中心だった。チャールミナールは象徴的建造物だったが、観光地化はまだすすんでいなかった。 人口密集地帯だったが、北インドにくらべて物乞いの数は圧倒的にすくなかった。 旧市街は、イスラム系住民の強固なコミュニティがつくられていた。イスラム社会では、ザカート(喜捨)、サダカ(ほどこし)が宗教義務として機能していた。地域内部で、貧困層を吸収する仕組みがつくられていた。路上にでて物乞いまでする者は、比較的すくなかった。 また、暴動にたいして戒厳令が多発されていた。そのため路上生活者は、排除されていた。市場がしまると、彼らは居場所がなくなる状況がうまれていた。治安の緊張が、路上の乞食を物理的に減らしていたのだった。 チャールミナールの南西九一メートルにあるメッカ・マスジドは、ハイデラバードで最大、インドでも最大級のモスクだった。一度に一〇〇〇人の信者が収容できるほど大きかった。その名前は、メッカのグランド・モスクに由来していた。大広間は六〇メートルほどの四角形をしていた。広間の三面に、はそれぞれ五つアーチ構造をもち、天井をささえていた。西側は、ムスリムでもっとも神聖視されるカーバ神殿への祈りの方角で、高い壁で塞がれていた。両端に、それぞれ花崗岩の一枚岩からなる柱状の八角堂がつくられていた。その上に、ドーム屋根をもつアーチ状につらなる回廊があった。 非常に厳かで、簡素だった。日本人でもなかに入れて、みることができた。とはいっても、厳粛な空間だったので外側部分だけだった。 サラール・ジャング博物館も観光した。この建物は、目利きの骨董品収集家として世界に知られたニザーム藩王国宰相にちなんで名づけられていた。展示品のほとんどは、サラール・ジャングが収集したものといわれる。彼は、単なる骨董品の収集家ではなく、詩人や作家、美術家の後援者でもあったため、死後に膨大な量の値のつけられない高価な収集品がのこされた。一九六八年に博物館をつくって、こうした個人的なコレクションを展示していた。 ここまで南インドを旅行した。こうして、ようやく自信がつきデリーにいってみようと考えた。 ハイデラバードからニューデリーまでは、インド大陸を縦断することになる。距離としては、一七〇〇キロで四〇時間、車中泊二日の行程だった。青森から博多へ直行する感覚に相当した。 デカンをみながら一等車にのっていると、インド人は話し好きだったので、いつでもなにかをいっていた。はじめは聞いているが、抽象的な話になってくると語学力が追いつかなかった。それに相手からは、めったに遭遇しない東洋人だった。しかし、こちらはからは、いつでもいるインド人だった。 それで適当にこたえていると、とつぜん「おまえ、話が分かっているのか」と聞かれたことがあった。「はい」と返事をした。するとインド人は、「それなら、いままでの話をまとめてみろ」といわれた。この質問には、こたえられなかった。 五〇歳くらいのアメリカ人男性と、おなじコンパートメントになったことがあった。 これは、みかけない事態だった。一等車にのっているのは、日本人旅行者はほとんどいなかった。周遊券をもっていたので乗車したが、じっさいには二等車のほうが断然面白かった。 一等車を利用するものは、インド人の金持ちか、欧米人では新婚旅行者たちにかぎられていた。だから五〇歳というと、非常に中途半端な年代だった。普通は仕事が忙しく、 デカン高原をゆっくり走る一等寝台の乗客にはならなかった。この男は、作家みたいにみえた。非常に知的な感じで、やせた大地をずっとみつめていた。デカン高原は、荒涼とした風景を形づくっている。洪水玄武岩で構成された大地には、大木は育たなかった。見栄えのしない灌木が、ポツポツと立っていた。地の果てまで、それがつづいていた。 ニューデリーについたのは朝だった。 ニューデリー駅の駅舎は、白っぽく近代的なつくりだった。駅前はひろく、南側はコンノート広場につながっていた。整備された印象だった。 まず、レッドフォートを目指した。タクシーにのると、運転手は、市街にむかって走りはじめた。あきらかに、反対方向だった。行き先がレッドフォートだと再度つげ、「違う道ではないか」と聞いた。 四〇代くらいの男は、「おれは、ニューデリーをよく知らないのだ」とこたえた。 ふざけた話だった。レッドフォートは、デリーでもいちばんの観光名所だった。 ムガール帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンが、アグラから遷都し、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードの居城として築いた。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩からつけられていた。 「とまれ」と命令すると、露天商がならび、人びとが行き交う道でタクシーは停車した。 「金は、はらわない」とつげると、男は文句をいった。 それで、多くの人びとが行き交う道の真ん中で、話しあいをはじめた。事件が起きていることが判明すると、まわりは人があつまってきた。 「ニューデリー駅で、レッドフォートへいけといった。こいつは、違う道をすすみ、デリーの町を知らないとこたえた」と大声で喚いていると、周囲を三重くらいの人びとがとりかこみはじめた。 「おまえに、金などはらう価値がない」といった。 男は、「お好きなように」(アズユーライク)とこたえた。 それで、周囲の人だかりを分けて道にでた。運転手は、ほんとうに一銭もはらってもらえないとは考えなかったようだ。ふりむくと、唖然とした表情だった。 それから、歩いてレッドフォートにいくと、予約制で入れないといわれた。翌日に予約して、コンノート広場に帰ってきた。そこで、裕明に出会った。 彼は、広場にぽつんと立っていた。ふたつくらい年上で、背はおなじくらだったが、やや太っていた。日本人だと分かって背後から声をかけると、右手をあげて「やあ」といった。 裕明は、ナイロビからニューデリーのパーラム空港について、この広場にやってきていた。九月だったが暑い日で、立っているだけで汗がでてきた。しかし、彼は背中のリュックの上に、まるめた毛布をかついでいた。それで、冷たいものでも飲もうという話になった。それからいっしょに宿をさがして、おなじホテルに泊まった。もちろん、たがいにシングルだった。 「毛布を売りたい」と裕明はいった。 「そうだろうな」とこたえた。 裕明については、作品番号六六「象は二度跳ぶ」で、たくさんかたられている。 翌日、再度レッドフォートにいき、観光した。大きな建造物で、見応えがあった。いまは、「赤い城の建造物群」として、世界遺産にも登録されている。ラール・キラーともよばれ、ムガール帝国時代の城塞。デリー城ともいわれる。 「これを、知らないとはいわせない」代物だった。 夕方帰ってきて、ホテルのオウナーと喧嘩になった。シャワーを触るとビリビリ電気がながれるのだった。文句をつけたが、まったく対応してくれなかった。それで、裕明と別れてホテルをでた。夜になっていて、ニューデリーの駅からどこかへいこうとしたが、ガンジス川は大反乱していた。列車はすべてキャンセルされていた。ぼうぜんとして突っ立ていると、背後で女性の綺麗な声がした。若い修道女が話しかけてくれた。 この経緯は、作品番号一「神の住むちかくで」でかたられている。 夜の一一時ごろ、ゲストハウスの大部屋に泊まった。結局、インド人と雑魚寝することになった。 翌日、コンノートを散策した。 鉄道が再開したので、夜行をつかってラクナウにむかった。 この町は、インドウッタル・プラデーシュ州の州都だった。一八世紀、アワド藩王国の首都として栄えた。ニューデリーの南東約五〇〇キロに位置している。 特徴のない北インドの町だったが、ここで裕明と再会した。彼は、ボブという二メートルほどもあろうかという背が高いアメリカ青年といっしょだった。 ラクナウをみわたしたが、とくに観光する雰囲気でなかった。それで、三人でベナレスにいってみようかという話になった。 ルクナウからは、三〇〇キロほど離れていて八時間くらいかかった。 ベナレスには、以前、鉄道でいったことがあった。そのとき、列車は土手の上を走っていた。どうして、こんなものをつくっているのだろうと考えていた。しかし、ベナレスにちかづくにつれて意味が分かった。列車は、ガンジス川の真ん中を走っていた。ベナレスは、かんぜんに水没していた。夜になってベナレス駅にはついたが、ゴドリアには入れなかった。 三人で、一部屋に泊まった。 ボブは、夜になるとさきに寝た。彼は、二五、六歳の大柄な青年だった。裕明とはデリーで会って、いっしょに列車にのってきたのだった。高長身だったのでベッドのサイズがあわず、膝をかかえて寝ていた。 裕明と話していると、ボブがとつぜん「マミー」と大声で叫びだした。そして、枕をしっかりと抱きしめた。 それをみた裕明は、「いるんだよ。こういうのが。カリフォルニアは、こんなやつでも暮らせるんだ」といった。 翌日、どうしようかという話になった。裕明は、すでに背中につんでいた毛布を処分していた。買値よりも高く売れたといっていた。コダックのフィルムを五本くらいもっていて、ちかくにきた若い男たちと商談をはじめた。まとまりかけたときに、ボブが値段が高すぎるといいだした。じっさいには、半値で買えるといった。正直だったが、商談は終わりになった。裕明は、ボブと別れるといった。コダックのフィルムをどう処分したか分からないが、彼はどこかで売り払ったはずだった。 翌日、裕明とネパールにむかった。インド国鉄が壊滅状態になり、前進も後退もできなかったから、バスしか道がなかった。夕方、国境をこえソーワンダという町に泊まった。そこからバスをのりつぎ、ポカラについた。この町で、コテージを借りて食事をしているときにヒッピーに出会った。 裕明とは、せっかくだからヒマラヤまですすもうという話になった。山岳地帯をトレッキングする基地のジョムソン空港にいこうと思ったが、予約が満杯で一週以上たたないととれないとつげられた。 ヒッピーがマジックマッシュルームをやろうと,くりかえしいった。それで、三人で食べた。 この話は、作品番号一「神が住みちかくで」の最終場面になっている。 ポカラは、避暑地だった。若いヨーロッパのヒッピーのたまり場だった。こういう場所が、インドでもいくつもあった。インド西海岸のゴアなどは、とても有名だった。 ポカラからは、ものすごい山道をぬけ一二時間以上かけてカトマンズについた。くたくたに疲れ、ちかくでみつけたホテルに泊まることにした。 翌朝、洗顔しているとき可愛い娘に会った。彼女は、オーストリアからきていた。かなりの美貌で、どうしてひとり旅しているのかと不思議になるほどだった。非常にムードがある出会いだったので、おたがいに意識した。彼女は、夜、部屋にやってきて、トランペットをふいた。マリワナで浮かれていたのだった。 もうすこしいたかったが、裕明がせっかくだからチベットにいこうといいだした。それで、チャイニーズボーダーにむかった。夕方、シェルパの村、バラビセに泊まった。宿泊施設がなく、ネパール人たちと雑魚寝した。 翌朝、中国国境にむかうバンがでていた。のろうとすると、裕明が歩いていこうといいだした。 バンをつかっても二時間以上かかる山道を、トレッキングしようという発想は思いつかなかった。それで歩くことになったが、あきらかに無謀だった。たがいに、失敗したと思いながら、仕方なく登っていった。午後の三時すぎにトラックがとおり、のせてもらいタトパニという村についた。いまは、旅館もあるようだが、当時はなにもなかった。宿の女主人が風呂にいけとすすめたので,さらに山道を登って温泉がでる場所までいった。そのとき、橋をへだててレッドチャイナをみた。ふたりの若い兵士が銃を立てて警備していた。 それから、川沿いの温泉がでてくる場所で露天風呂に浸かった。 この経緯は、作品番号三「チャイニーズボーダー」に詳述されている。 翌日の朝、タトパニをでて、夕方カトマンズについた。インドにもどろうという話になり、パトナ行きの飛行機を予約した。カトマンズに帰ると、またヒッピーがいた。裕明と三人で宝石商にいき、買いもとめたが、これが大仕事だった。 その晩、オピウムをもらい食べてみると、猛烈に気持ちのいい夢をみた。朝になってこの出来事を話すと、裕明はパーティーをしようといいだした。 それで翌日、ネパールの若い男と交渉して、オピウムを買いもとめた。 その日は,誕生日にあたっていた。オーストリア人の娘はまだいて、誕生日パーティーの場所をつくってくれた。彼女は、とてもカトマンズにくわしかった。満月にちかく、素晴らしくすみきり、さわやかな夜だった。み知った幾人かの日本人にも声をかけて、ケーキでお祝いをした。その帰り道から、裕明とオピウムを食べはじめた。彼が足りないというので、幾度か追加した。 翌朝、ふたりは、オピウムの急性中毒になった。 たいへんな事件が勃発したのだった。 この経緯は、作品番号二「カトマンズ」で詳述されている。 ここで、パトナ行きもキャンセルになった。待っているあいだに、タイのビザがとれた。 しばらくして、すこし落ちつき、カトマンズ空港からパトナに飛行機で飛んだ。 裕明は、インドに入るとカトマンズで買ったウィスキー売って、いくらか利益をえた。 自分も免税店で購入していたが、希望する値段で売れなかったので、しばらくもち歩くことになった。裕明は、旅慣れていて、こういう判断は非常によかった。といっても、つねに正しいとはいえなかった。 パトナからは、鉄道で二〇〇キロ離れたムガールサナイにむかった。 ムガールサライ駅は、北インド最大級の鉄道ハブだった。長距離列車が大量に通過するために、停車時間がみじかく、乗り換えが複雑だった。ここからベナレスまでは一五キロだった。適当な列車がみつからなかったので、バスを利用した。 ベナレスに入っても、調子はかんぜんではなかった。裕明とは、ウエルカムに泊まった。 ハッサムは、再会をととても喜んでくれた。彼は、父親とは違い、喜怒哀楽を素直に表現できた。俊和についてたずねると、ひとりになると一週間ほどして帰国したといった。 ハッサムは、三階の部屋に泊めてくれた。以前、俊和が暮らしていた客室だった。道側の窓からゴドリア市街が一望できる、ウエルカムでいちばんながめがいい部屋だった。 医者にいったが大丈夫だとつげられ、しばらくベナレスで回復をはかろうということになった。日ごとに調子がもどってきて、ガートをめぐっていた。 ゴドリアからベナレス駅にむかう大通りに面して、ハイファという老舗の中華料理点があった。中国人というのは、およそ考えうる場所には必ずいる民族だった。裕明と話すうちに、ホテルの若主人ハッサムは、豚の味を知っているのだろうか。かりに食べたらどう反応するのだろうか、という疑問がうまれた。考えたが分からなかったので、実験してみようということになった。 そこで、ハッサムをさそって中華料理屋にいった。彼は、イスラム教徒だった。チャーハンを頼むと、ハッサムはうまいといった。もりもり食べるので、裕明と目をみあわせた。いいのだろうかと思って、この料理に豚が入っていることを教えた。とつぜん彼は、深刻な表情にかわり、真っ青になって立ちあがった。料理店をでると、指を喉におしこんで吐きつづけた。あまりにはげしかったので、たいへん申しわけないと思った。いたずらとしては、度をこした行為だった。懸命に謝ると、案外簡単に許してくれた。 「豚は、うまい」とハッサムはいった。 「教えてくれてありがとう。戒律をまもることができた。おまえが、さそってくれなかったら、生涯、豚の味を知らなかっただろう」といった。 ハッサムは、いいやつだった。イスラム教徒というと、戒律にしばられ、とっつきにくい感じがしていた。ヒンディーよりも、気難しいとばかり思っていた。彼とつきあっているうち、非常に親近感を覚えた。 裕明とは、サーカスへいき、カバの曲芸をみたのは楽しい思い出だった。 小さなガートをめぐって沐浴をつづけていると、日本人女性によびとめられた。彼女は、インド人と結婚していた。ガートを研究していたが、その一部を構成する建築物に入ったのは、はじめてだった。がんらいガンジス川辺には、石づくりの立派な建物がならんでいた。各地の藩王が、聖地で焼かれるためにこぞって建てたといわれていた。 日本人女性は、話し相手がいなかった。 旦那さんは、日本語を話せた。裕明とゴドリアに泊まっていることを知ると、二階が空いているので宿泊しないかといった。つれられてあがると、大きな土間の部屋がふたつあった。ガンガー沿いでベランダもつき、ながめが素晴らしかった。気に入ったのを知ると、旦那さんは、ぜひ、ここに泊まってくれといった。 意外な申し出だったが、奥さんの日本人女性は、ごく普通の方だった。おなじ東京の下町うまれだったので、話題も豊富にあった。ウエルカムに帰り、裕明と話しあって、その家にひっこした。こうしてガンガーがみえる二階で、寝泊まりをはじめた。土間だったので、鍋で煮炊きをしてもいいといわれた。ゴドリアの朝市で野菜と牛糞をかい、煮て食べてみた。じっさいには、かなり面倒な作業だった。 裕明の誕生日になったので、またハイファにいって中華料理店でお祝いをした。 翌日、彼は、カルカッタにむかった。 ひとりで、ガンジス川に面して立てられた部屋の二階で暮らしていた。毎日、マルカルニカーを中心にガートをめぐっていた。どこでも、沐浴してみようと思っていた。ガンガーが石づくりの構造物に、ひたひたと快い音を立てるのをずっと聞いていた。 二〇歳のころ、日本海の海辺の村で絶望しながら暮らしていたのを思いだした。 ガンガーのちかくで刻々と変化する川面をみながら、インド旅行を振りかえる時間があたえられた。 この旅で、さまざまなドラッグを試す機会をもったが、まったくあわなかった。そういう者を「バッド」とよぶらしいが、どうしても快感にはつながらなかった。酒も弱かったが、ドラッグも体質的にあわなかった。 ヒンドゥー教には、つきせぬ興味をいだいた。マルカルニカーで人が焼かれていくのを,ずっとながめていた。ガートも巡礼のようにまわっていた。 二週くらいたったとき、ベナレス大学にウルドゥー語学科に留学している同い年くらいの日本人女性と巡り会った。八ヵ国語くらい話せる才女で、ながい黒髪の美しい女性だった。非常に知的で、インドに関して不詳だった部分の多くを、彼女が補足してくれた。この女性は、おそらく外語大の教授くらいにはなったと思う。 彼女とは、映画館で「ラーマーヤナ」を、いっしょにみた。美しい女性は、なにがどうなっているのかについて、たくさん解説してくれた。ガンガー沿いのレストランで、文学、哲学、芸術、さらにインド文明についてなど、あらゆる話をした。俊和が入門書だったなら、彼女は専門書だった。いっしょに旅行する計画もあったが、ちょっと問題がうまれて,それがベナレスを去る契機をつくった。 一〇月の半ば、帰国するつもりになって、ボンベイにむかった。一六〇〇キロ、四〇時間くらいかかった。すでに周遊券はなかったので、二等だった。 ここで事件が起きた。 朝にトイレで排便したとき、ポケットに入れてあった真四角の大きな財布が落ちた。便器は、まるい筒からできた垂れ流しだった。したには、線路のあいだの枕木がつづいているのがみえた。黒い財布は、水平になったまま筒にぶつかりながら落ちていった。 これは、おどろいた。考えもしない事件だった。財布には、全財産が入っていた。パスポートとトラベラーズチェックは首からさげていたが、かなりの現金をもっていた。 車掌に聞くと、インド国鉄は、こういう事態も想定して対処法もあった。しかし、そこまでは知らなかった。無一文になり、翌朝まで食事も飲水もできずに、ボンベイ、ヴィクトリア駅にもどってきた。このとき、ボンベイ行きの切符もいっしょに落としていた。車掌は事態を知っていたが、チケットをもっていなかったので、駅長に説明しなければならなかった。旅の最初でいった覚えのある暗い廊下をとおって、「ステーションマスター」とかかれた部屋に入った。車掌が事態を説明した。駅長は、覚えていてくれた。パスポートとトラベラーズチェックをもっていることを知ると、「不幸中の幸いだ」といって、駅からでるのを許してくれた。 この経緯は、作品番号一五「光に」に記載されている。 こうした筋だったと、ずっと信じていた。 しかし、今回まとめなおすと、あらたな事実が浮かびあがった。どうやら、ダーダー駅でおろされたようだった。この駅は、ボンベイの入り口にある巨大なジャンクションだった。チャーチゲートまでは、一〇キロほど離れている。ヴィクトリア駅にいきたかったはずだから、意志だったのではなく強制されたに違いなかった。おそらくここでおりて、銀行でトラベラーズチェックを現金にかえて、列車とバスをつかってチャーチゲートに入ったのだろう。 最初に泊まったオリバーゲストハウスで宿泊を希望すると、二〇ルピーといわれた。 「なぜ半額になったのか」と聞いた。 フランス人の店主は、「おまえは、インド中をまわってきた。だから、その分安くなった」とこたえた。 翌日、サルベーションアーミーにひっこした。そのとき、変更の宿賃を請求された。この男には、いい思い出がひとつもなかった。 サルベーションアーミーは、大部屋だったが、食事もついていて安かった。ここは、コストリーだった。そこで幾人かの若い日本人と会った。出だしがここだったら、もっと計画的な旅になったはずだった。 ショッピングを楽しんだり、シタール見学にいったりした。 シタールは、北インド発祥の弦楽器で、日本にもちこめば高く売れるという話だった。しかし、音響のために木製のまるい部分がついていた。壊さずにもって帰るのは難しそうだったのでやめた。 タージマハルホテルで、ケララの踊りをみた。インド舞踊は素晴らしかった。独特で、「踊るシャクティー」という名称だった。タージマハルホテルに泊まっている日本人観光客にも会ったが、汚い者をみるような目つきをされたのをよく覚えている。 日本人青年と話す機会があった。 「ものすごく汚いレストランを知っている。いってみるか」と聞いた。 みたいとこたえたので、最初ボンベイで苦労した、臭いがひどくてどうしても食べられなかったレストランにつれていった。入ってみると、綺麗でおどろいた。まったく臭いも気にならなかった。 そのとき、インドを旅行したのだと実感した。 一〇月一九日、ボンベを出発して、翌日バンコクについた。 国がかわると、また水にあたりひどい下痢になった。医者にいって抗生剤の注射をうけた。バンコクのホテルは、非常に清潔だった。ここでも日本人に会った。 翌日、朝九時にたち、北に七〇〇キロ離れたチェンマイに鉄道を利用していった。この町は、ほんとうの田舎町だった。二日ほどして、夜行でまたバンコクに帰ってきた。 まえに泊まったホテルにチェックインした。そこには、幾人かの日本人が宿泊していた。彼らと話していると、私娼窟に泊まっている男の話になった。背格好や風貌などが、裕明にそっくりだった。名前を聞いたが、知らないという話だった。 旅行者には、似たやつがいるのだな思った。 夜に、女性たちがたむろするホテルの地下にいってみると、裕明に出会った。 再会したので、またいっしょに旅をしようと話しあった。それで、インターナショナルエクスプレスをつかって、シンガポールにいくことになった。しかし、駅にいってみると直通便はなかった。それでも、一応のってバンコクの南西二〇〇キロの「ホアヒン」というビーチについた。海沿いのリゾート地で、四時間くらいかかった。ながい白砂のビーチがつづいていた。海岸で日光浴をして一日をすごした。 なにもないところだった。 「新婚旅行は、こういう場所がいい」と裕明はいった。 「ここなら、ふたりで、やるしかないよな」 彼らしい発言だった。 翌日鈍行でバンコクに帰ったが、車中泊だった。一〇時間くらいかかった。 夕方、裕明は、フィリピンにいくといって別れた。 バンコクで幾日かすごして、成田に帰った。予定していた便は、なにかの手違いがあり出発できなかった。航空会社は、その晩泊まる宿舎を提供してくれた。ゴールデンドラゴンという名前だったが、この旅行でいちばん綺麗なホテルだった。 一一月はじめ、夜遅くに成田についた。 ここで事件が起きた。 ネパールの山岳地帯に生息するヤクという牛に似た動物がいた。この骨でつくられたパイプをもっていた。これは、大麻の喫煙具だった。入国制限があったのは、アヘン喫煙具だった。大麻を吸引する気はなかったが、記念にもちこもうとした。完全に合法だったが、空港職員はみとめなかった。取調室に連行され、署長まででてきて詰問された。大麻を吸っていたわけでもなかったが、もちこもうとした行為が大胆だといわれた。 それで三度、丸裸にされた。 こちらも。腹が立った。不法なものは、どこにもなかったので、こうなったらもちこんでやろうと思った。やがて職員は、上着のシャツにタバコの葉がのこっているのをみつけた。さらに詰問されたので、よくしらべろといった。職員は、顕微鏡でみたらしく普通のタバコだと判明した。 「二度と国外にはいかせない」と署長は気色ばんだ。 アヘン喫煙具がだめだからという理由で、大麻喫煙具を試したのが不届きだとされたのだった。 「白黒がつくまで、泊まってもいい」といった。 こちらの強気をみて、容疑がかけられないと署長は判断した。しかし三度も裸にして、このまま見逃すこともできなかったようだ。 「放棄しろ。それが嫌なら、一〇度でも丸裸にする」と署長は喚くようにくりかえした。 仕方なくヤクボーンの喫煙具は、断念した。 夜は、かんぜんに更けていた。都心にいくバスは、無罪の者を送り届けるために一台だけが待っていた。ひとりで、空港バスにのって都内のステーションについた。そこからタクシーで帰った。自宅に入るとき、みょうな気持ちで振りかえった。 そこには、空港職員がのった車が家を確認していた。 これは、かんぜんなおまけだった。 インド、一四三枚、了