海馬 由布木 秀 一 一二月に入り、鱈漁がはじまって間もないころだった。 寒気がきて、大気は凍るようにつめたかったが、すみ切った朝日のなかで、海は鮮烈な藍色になってかがやいていた。 戸村直治が刺し網を巻きあげていると、とつぜん揚網機ががたがたと揺れはじめた。青くかわった海面は、ざわざわとしはじめ、騒然となっていった。 大量のカモメが上空を舞っていた。真鱈がわれ先にと海面にのぼってきていた。海面下に大きな黒い影がみえた。底から褐色の膚をした海馬が、真鱈の白い腹にむかって浮かびあがってくるのが目に入った。もうれつに大きな海獣は、歯鯨ほどもあるようにみえた。海馬は、直次の目のまえで、彼の鱈を食いあらしはじめていた。褐色の皮膚を朝日でかがやかせる馬鹿でかい雄は、巨大なタテガミを生やしていた。 直次は、操舵室から爆竹をとってきて、海面にむかって投げこんだが、なんの効果もなかった。彼がみつめるまえで、海馬は、刺し網をひき千切っていった。のこされたのは、やぶられた網と、食べのこしになった真鱈の一部だった。 須古頓うまれの戸村直治は、ポイントも仕掛けも要をえていたから、だれの漁網より鱈がかかった。 海馬は、利口な動物だった。どの網に、鱈がいちばん獲れるのか知っていた。そして、だれの船が仕掛けた漁網をねらえばいいのかを理解した。自他ともに、島いちばんの漁師だとみとめられていた直治を、海獣もまた点頭したのだ。 海馬は、早朝に大型の魚群を食べるが、「底刺し網」からも直接に摂餌する。アシカとは違って深海にながくとどまれないため、揚網時に、海面ちかくにあがってきた網を目標にする。直治が早朝に底刺し網をひきあげるときに海中にもぐった海馬は、鱈の白い腹をみて、下から群れのなかに入りこみ、好物の白子をねらって腹部を食べちらかした。追いはらおうと爆竹をつかっても、巨大な雄はおどろきもしないで食い千切っていった。 二度、三度とくりかえすうちに、海馬はしだいに大胆になり、仕掛けを本格的にあらしはじめた。直治の目のまえで襲ってくるのは、後頭部に立派なタテガミを生やした馬鹿でかい雄だった。もう不運では片づけられなくなり、終いには、網はずたずたにやられた。 鱈漁は、まだはじまったばかりだった。刺し網は、一本が二〇反で二〇万円した。直治は一人娘のためにと思って、こつこつとためていた金をおろし、頑丈なあたらしいテトロン製の漁網を一〇本購入した。木綿の網は、魚にもみえる。テトロン製のばあいは、水中で透明化するので効率はよくなる。 直治は、まだ挽回できるチャンスはあると思った。あたらしい網が手に入ったのは、正月があけて一週間ほどしたころだった。待ちかねていた漁網がくると、直治はあらかじめ決めておいたいくつかのポイントにさっそく出向いた。そこに、新品の網を、ひとつずつ仕掛けたのだった。そして揚網の日に巻きあげていると、ふたたびタテガミがやってきてあたらしい漁網をずたずたにひきさいたのだった。雄は彼についてまわり、どの網をあげるときにも、底から入りこんで鱈を食いちらかしたあげく、強力なテトロン製の新品をびりびりにひき千切ったのだった。 下ろしたての漁網が、無残にひきさかれたのをみた日、直治は海馬があつまる岩礁にいってみた。操舵室からでて左舷の甲板に立つと、雪まじりの風が容赦なく彼の顔をうった。三〇メートル四方の平たい岩場のうえに、多くの海馬が横たわっているのがみえた。体長が二メートルくらいの、あわい茶色の雌が幾重にもとりまく真ん中に、五メートルの全身を、かがやく黄褐色の毛皮で覆われ、いかにも知恵がありそうに額の部分がもりあがる「タテガミ」は、ゆうぜんと空をみあげていた。岩礁に注意しながら船をちかよらせると、雌たちはせわし気に体をうごかして、われ先にと海にとびこんでいった。しかし雪がのこる平場の中央で、黒いつるつるした両ヒレをしっかりとのばしたタテガミは、黒褐色の腹部をみせたままの姿で微動だにしなかった。冷風が吹きすさぶなか、威厳にみちた態度で直治をじっとみかえしながら、首のまわりの毛を逆立てていた。たぶん一〇齢くらいなのだろうが、自分の子供みたいな二〇頭以上の雌にかこまれてハーレムをつくっていた。どうどうとした態度は、直治にはふてぶてしく挑発的にみえた。タテガミは、魚とは違う一頭の雄だった。 船泊に帰ってきた直治は、ずたずたにやぶれた真あたらしい網を船にのこしたまま軽トラックにのった。道道四〇号線を、香深にむかって走っていた。すると、香深井をすぎたところでとつぜんサイレンの音がして、島に一台配備されているパトカーが直治の軽トラを追いかけてきた。 「走っているまえの軽トラック、そこで左がわによって、すぐにとまりなさい」という通報がきこえた。指示にしたがって直治が車を左によせて停車すると、パトカーから警察官がでてきて、「スピード違反だ」といった。 「しょうがないな。おれは、急いでいるんだ」と直治はいった。 「エンジンを切りなさい」 「はあ」と彼がこたえると、警察官はおなじことをまたくりかえしていった。 それで仕方なく、直治はエンジンを切った。かなり背がたかく、大柄で隆々とした筋肉がついた、ごつい感じのする警察官は、いままでみたこともない男で、鍔のある帽子をかぶり、金縁の眼鏡をかけていた。 「この道道の最高速度は、四〇キロですよ。あのカーブのところに四〇という標識が立てられていますよね。あれがみえないはずがありません。いま、あなたは七〇キロ以上をだしていましたよ。ですから一般道で三〇キロ以上も速度超過をしたわけですから、これはみのがすことができません。警察切符が必要です」と警察官はつげた。 「おまえ。なにをいっているんだ。いや、たしかにすこしスピードをだしていたな。ちょっと、いろいろと考えながら走っていたからな。もうしわけない。勘弁してくれ。ちょっと急ぎの用があったんだよ」 「速度超過をみとめるわけですね。免停処分になりますから、免許証をみせてください」 「おい。待ってくれよ。おれは、あやまっているんだよ」 「交通違反をしたのですから、謝罪はとうぜんですが、それで許すわけにはいきません」 いままでに会ったこともない若い金縁の眼鏡をかけた警察官は、直治を直視して真顔でいった。警官の表情は、ひどく挑発的にみえた。 「なあ。おれは、須古頓の戸村直治だ」 「免許証は、もっていないのですか」 「おまえ、名前はなんていうんだ」 「本官は小川隆児ですが、島でたった一台のパトカーにのっている警察官にたいして、警察手帳をみせろとはいわしませんよ」 「きつい冗談だな。おまえ。いつからここに赴任しているんだ」 「本官は、昨年の一二月から船泊に勤務していますが、それが直治さんの交通違反とどういう関係があるのでしょうか」 「おまえな。いまは冬場だぞ。島の者以外のいったいだれが、この道を走っているんだ」 「島民であろうがなかろうが、交通違反には罰則があります。本官は、道路交通法に則ってお話をしているのです」 「なにを、寝ぼけたことをいっているんだ。どんなものに則ってもかまわないけれどな、ここは島なんだ。おまえ、勤務するにあたって、ちゃんと指導をうけてきたのか」 「直治さん。須古頓、だか、スッテンテンだか分かりませんが、本官は、ここに遊びにきている者ではありません。稚内の本庁から、島の秩序をまもるために派遣されたのです。もし、あなたが免許証を不携帯であるなら、それもまた、追加すべきあきらかな罰則です。さらに無免許の可能性さえある、かなり悪質な者と考えられます」 「おまえ。罰則って、だれがおれに罰をあたえるんだよ。もう、冗談はやめてくれよ。おれは、急いでいるんだ。スピードをだしていたのは、たしかだよ。だから、悪かったって詫びているじゃないか。あんたのいう通り、これからは気をつけて運転するよ。おれには、急ぎの用があるんだ。あんたが、これ以上なにかをして時間をつぶしたいのなら、勝手にそのへんで島の人間以外を頑張ってとりしまっていたらどうだ。おれは用事があるから、もうつきあっていられないから」 直治は、そう話して窓をしめようとした。 「あんた、冗談ばかしいってもらってはこまります。直治さん、抵抗すると公務執行妨害になりますが、それでもかまわないのですか。島から逃れることなどできないのですよ」 「小川とかいったな。あんた本気なのかよ」 「本官は、冗談でパトカーにのっているわけではありません。免許証をだしなさい」 小川巡査は、真面目な表情でいった。 直治は、仕方なく札入れから免許をとりだすと、巡査にみせた。 「いやはや態度も悪く、情状酌量の余地もありませんな」 小川巡査は、そういうと道路交通法について、ながながと話をはじめた。一般道の法定速度は六〇キロだが、ここは標識があるから四〇キロになる。三〇キロ以上の速度超過だから赤切符の対象で、本庁で起訴不起訴の判断をうけねばならない。出頭しなければ、六ヵ月以下の懲役刑がある。刑事罰だから前科にもなり、検察や警察のデータベースと市区町村の犯罪人名簿に記載される。罰点は六で、行政処分の免停三〇日だといった。それから稚内で行われる短縮講習について、費用等を話した。 「もちろん三〇日の免停をうけ入れるなら受講する必要はありませんが、免停中に運転をすれば無免許運転です。分かりましたか」 「おまえなあ。島の者をつかまえてどうする気なんだ。いい加減に冗談はやめてくれよ。こちとらは腹が立っていたんだよ。なにしろ、新品の網をずたずたにされているんだからな。もうおれ自身だって、ぼろぼろなんだ。おまえだって、ずたずたにしたいくらいなんだ。だから、すこしはやかったって、あんたのいう事実をみとめて詫びているんじゃないか。赤切符、免停って、それなんなんだよ。おまえは稚内署から派遣された警察官で、島の者をまもるために、ここにおくられてきたのだろう。それが島民をつかまえて、どうするんだ。おまえ、気はたしかなのか」 「なんともはや態度が悪いですな。島の者であってもなくても、交通違反はルール違反。罰則は、法律です。もし不服があるというのなら、本庁に出頭したさいに、不服申したてをしてください。通常裁判により審理を行うことができます。略式で終えて罰金を支払ったほうが、あなたにとって絶対に得だと思いますよ。本官が話している内容は、分かりましたか。今日一日だけは、車の運転をみとめてあげますが、明日からは、とうぜんですが無免許ですから、のることはできません。それをみつけたら、無免許運転がくわわりますから、もう講習での短縮もありません。九〇日の免停を覚悟しなければなりません。帰りは充分に注意をはらって、規則にしたがって運転をしてください。分かりましたか」 「馬鹿野郎。考えられない」 「これ以上の暴言を本官に発するならば、公務執行妨害として現行犯逮捕にしますよ」 巡査は、直治を睨みつけていった。 「おまえ。逮捕して、おれをどこへつれていくんだよ」 「もう、いいからいきなさい。明日からは無免許ですから、くれぐれも間違いは避けてくださいよ」 小川巡査は、そういうとパトカーに帰っていった。 「いったい、どうなっているんだ。なにからなにまで、腹が立つ」 直治は、両手で顔を覆った。 「どこまでも、ついていない」 直治は、溜め息がでた。しばらくして、エンジンをかけ、気をとりなおして運転をはじめた。直治は、香深を通って新桃岩トンネルをぬけて元地にでて、それから七六五号線をのぼっていくと「おババ」の家についた。 神山のふるい家は、道ぞいに一軒たっているだけで、周囲にはなにもなかった。もともと香深からは桃岩をぬける、まがりくねった急勾配の道道七六五号線がつづいていた。かなりまえ、堆積した砂岩から構成される元地一帯に大規模な地滑りが起こり、通行禁止になり、おババの家はながいあいだ孤立していた。いまは、香深から西海岸の元地にでるトンネルがつくられ、七六五号線を桃岩にむかって遡っていくことができた。 そもそも礼文島は、南北が二九キロメートル、東西はいちばんひろい北がわでも八キロメートルしかない逆三角形の形をしている。北部は船泊、南部は香深とよばれ、定期的に稚内とむすばれるフェリーの港があった。このふたつの村をつないで、東海岸にそって道道四〇号、礼文島線が南北に走っている。だから礼文島の南部に位置する香深と西海岸の元地は、距離的には隣接していた。しかし、ふたつの村の途中に海底でできた玄武岩の塊からなる桃岩が存在し、東西の気流をさえぎる山岳地帯がとつぜん出現する。このため東海岸が晴天であっても、西海岸にちかづくにつれて冷えて濃い霧が発生し気温が急激にさがる。その結果、東西の境に位置する桃岩一帯は、高山植物の群生地になり、春のおとずれとともにつぎつぎと開花する。夏季には、レブンソウ、レブンアツモリソウ、レブンウスユキソウなど、礼文固有の稀少な植物が咲きほこり、花の種類は、二、三週で変化した。 神山の家は、この道の最後にあるふるい一軒家だった。人が住んでいるのでいちおうは村の除雪対象だったが、山頂の桃岩と海岸の元地の中腹に位置するため、つねに強風に吹きさらされ雪がふかくつもることはなかった。道路の最後は、除雪機械が回転できる、かなりひろい平地になっていた。直治は、道の終わる場所にギアをローに入れたまま車をとめた。サイドブレーキは凍りつき、さまざまなトラブルの原因になるので使用する習慣はなかった。エンジン音がやむと、吹きすさぶ風の唸り声がきこえた。 直治は、冬枯れた島をじっとみつめた。空は青く、灰色の雲がつぎつぎとながれていた。目のまえには、白い雪がただ一面にふりつもる荒涼とした風景がひろがっていた。なだらかな表面には、一本の木もみとめることはできない。香深という趣ぶかい名称からも、入植以前には、島全体に森林がひろがっていたに違いなかった。ニシン漁がさかんなころに和人が住みつき、木々は伐採され、燃料としてつかわれた。くりかえし山火事が発生した結果、森林は島の最高峰、五〇〇メートル足らずの礼文岳の周囲にあるだけで、そのほかの部分は、背のひくい笹に覆われていた。だから、五月になって一様の緑にかわるときには、東海岸は水面にオアシスが浮かんでいるようにみえる。それは、幾度みても見事な心躍る景観だった。いっぽう西海岸は、知床半島とよく似た黒い玄武岩の断崖がつづき、一部が浜となって、召国、宇遠内、元地とよばれる部落が散在していた。 直治は、高校の授業で習った、礼文島の歴史を思いかえした。もともとは、この島には、四〇〇〇年まえに縄文人が住んでいた。一五〇〇年くらいまえに、礼文、利尻、稚内とサハリン南部は、中国東北部、アムール川河口域で栄えた古代文化の亜型になる、「オホーツク文化圏」の一部だった。オホーツク文化を担った人びとの暮らしは、海での漁に特化していた。魚や貝のほか、鯨や海馬を捕獲し、骨角器という動物の骨や歯などからつくる道具の製作を得意としていた。四〇〇年まえの江戸時代には、蝦夷地の一部にかわってアイヌが暮らし、和人と交易を行っていた。和人たちと関わったことから生活が不自由になり、天然痘などの厄災がもたらされた。漁場をめぐってアイヌ同士が争った歴史もあり、一部は「桃岩物語」としてのこっている。桃岩のうえで人質にとられた娘は、仲間のために身をなげて、彼女の涙が元地の「メノウ」になったといわれる。つまり、この島は、領有権をめぐって争いが起こるほど豊かな漁場を提供してきたのだ。縄文人やオホーツク人の暮らしは、生活に追われるものではなかったらしい。余暇を利用し、貝殻を細工して装飾品として楽しむこともできるほど、充分に豊かだったのだ。 直治がみる海は、ふかい藍色をして凪いでいた。元地には、地蔵岩が天にむかって立っていた。きっと、縄文人の時代から、なにひとつかわらないおなじ光景だったろう。周辺にめぐまれた漁場をもったこの場所は、そこで暮らす人びとをずっと豊かに、幸せにしてきたに違いなかった。ながい歴史のなかで、海馬は餌として獲られることはあっても、魚を争う相手ではなかったはずだ。 直治は気をとりなおし、車からおりた。神山の家のまえに、黒いセダンがとまっていた。運転席にいる男が、直治をみつめていた。みたこともない男性だった。金縁の眼鏡をかけて髪をみじかくスポーツ刈りにした男は、年齢は三〇歳くらいで神経質そうにみえた。やせた顔には髭がなく、大福餅をつぶしたような団子鼻で、白っぽい面は、そばかすだらけだった。赤っぽいシャツをきていたが、車のエンジンを吹かしたままだったので、寒くはなかったのだろう。島の人間でないのは、あきらかだった。どこから、やってきたのだろう。そもそもがなんのために、ここにいるのだろう。じっと彼をみつめる若い男は、不愉快そうな目をしていた。 「この野郎」と直治は思った。新品の漁網をずたずたにされ、あわてて軽トラックを運転し、香深井で意味も分からない警察官とやりあったこと。彼がここにやってきた理由も、みんな充分に知っているという風情だった。それで、直治をみつめていると感じた。あきらかに彼を馬鹿にし、因縁をつけているように思えた。海馬に魚を獲られたことが、漁師としていたらず、愚かしいとでもいいた気だった。直治は、ひどく不愉快に感じた。いま、この場で車からひきずりおろし、殴りつけてやりたいと思った。金縁の男のほうは、そうした彼の考えも知って、「やれるのなら、やってみろ」と挑発していた。直治は目をそらして、神山の玄関をあけた。 家に入って靴をぬいでいると、ババの娘の登美子がやってきた。いまは往診中だから用があるなら待っていろといった。直次は、玄関の右がわの部屋で、真ん中におかれた石油ストーブに手をかざしながら今日の出来事を思いかえしていた。閑散とした待合室で、うすい座布団に腰をおろし、冷える日だと思いながら、あたっていると、やがて白衣をきた医師と看護師が挨拶をしてでていった。 登美子が、なんの用かとたずねた。直治が、漁のことで相談があるので「おババ」に面会したいと話すと、すこし待っていろといって奥にもどっていった。ストーブにあたっていると、登美子は、彼の入室を許可した。 「おババ」は、白い衣をきて大きな神棚のまえにすわっていた。 「須古頓の直治といいます。戸村の一族ですが、相談にのってもらいたいのです。医者がきていましたが、おババは、どこかぐあいが悪いのですか」と直治はきいた。 「いや。とくに、どこも悪くはない。すこし、あぐど、が痛くて注射をしてもらっている。今度の医者は、なかなかいいぞ。もし、病院にかかるのを相談にきたのなら、大丈夫だ」 ぐあいが悪いのかと思いながら、直治が周囲をみると、部屋の奥に布団が畳まれておいてあるのがみえたから、「おババ」がふせっていたのだと分かった。 「起きていても平気なのか」と彼はいった。 「大丈夫だ。医者のほうとしても、起きている者をたずねてくるのは、やりづらいことだからな。せめて往診のときくらいは、ふせってぐあいが悪そうにしているだけだ。演技は、得意だからな。とくに、どこも悪いところはなくぴんぴんしとるが、医者とつきあっていくには、こうするほうがいいと考えている。おまえは、須古頓の戸村の本家か。まえに一度会ったことがあるな。親父さんは、二年くらいまえに死んだときいているが、どうした。なにかぐあいが悪いのか」 彼は、父親が死ぬまえに、このまま入院をつづけてもいいのか分からずに、おババをたずねたことがあった。 「その戸村喜平の倅の直治です。お久しぶりです。よく、覚えていてくれました。今度は自分のことなのですが、いや、おババ、もうどうにもこうにもならないんで、まったくこまっているんだ」 「どうした」 「おれの網が、去年の暮れから、でかいゴジラみたいな海馬にねらわれているんです。獣のすることは、理解できないですよ。なにが気に入ったのでしょうかね」 直治は、漁網をずたずたに千切られ、弱っていると話した。 「おまえの網がねらわれたわけか。それで、どうした」 「どうも、こうもないから、おれだって、鱈を獲らなけりゃ生きていけないわけなんだから、あたらしい刺し網を一〇本買ったんだ」 「それは、大枚の出費だったな」 「鱈漁は、まだこれからが本番だからな。もう、つなぎあわせることもできないほどのずたずたで、どうにもしょうがなくて、なけなしの金をたたいてあたらしい頑丈な奴を買ったんだ。それが今日、仕掛けた新品の網をひきあげていると、またその海馬がでてきて、びりびりにやぶってしまったんだ。もう、使い物にもなりそうもない。どうしたらいいのだろうな。おババ。すこし相談にのってもらいたい」 その言葉に、おババは大きな目でじろりと直治をみつめた。ババがいくつになるのか、彼は知らなかった。娘の登美子が五〇歳を優にすぎているのは間違いがないから、おババが七〇歳ということはありえなかった。一見では、八〇歳でもいい気がした。登美子はかなり太っていて、丸顔で、どことなく愛嬌があった。夫とは離婚したときいた気もした。その話では、旦那は札幌の市役所につとめ、子供もふたりいたらしい。いまは後妻をもらって、子供たちを育てているらしい。登美子は髪をみじかくしているが、風貌からは、頑丈で元気だけが取り柄という普通の漁師の女房にみえた。おババとは、どこもまったく似ていないから、じつの親子かどうかも分からなかった。八〇歳くらいにみえるババは、骨と皮ばかりにやせていた。大きな色あせた赤い座布団にすわっているが、重量感がまったくなかった。吹けば飛ぶ感じで、ちょこんと胡座をかいていた。すくなくなった白髪は肩まであるが、頭頂部は禿げている。眉はつりあがり、眉間にはふかい縦皺が二本きざれ、右の目の周囲に青黒い大きな老斑が浮きで、血の気をうしなった厚い下唇がつきでている。口をあけると、歯がひとつもなかった。頬がげっそりこけていた。眉間の皺をさらにふかめ、ぎらぎらと感じさせる目で直治をみつめるので、怨念をかかえて死んだ幽霊と話している気分になってくる。寝間着みたいな白い服をきているが、巫女の衣装に違いなかった。皺だらけで相談にのるためにわざわざ着替えたのではなく、もともと寝衣でもあるのだろうと直治は思った。 「もうすこし様子をみるわけには、いかないのか。そのうちに、おまえ以外の網をねらうもしれない。でかい海馬の気がかわるのを待って、また、ちょこっとやりはじめたらどうだ」 「どうも、そうではないらしいんだ。その馬鹿でかい海馬は、タテガミを生やした雄なんだが、おれが網を注文してくるまでの二週間は、だれのものにも、ちょっかいをださなかったんだ。それで、大丈夫だとばかし思っていたんだ。よりにもよって、今日おれがあたらしい網をひきあげるのを、ずっと待っていたらしいんだ。それで揚網していたら、二週間待ったという感じで、徹底的に食らいついてきたんだ。せっかくのあたらしい網がずたずたで、もう使い物にならないんだ」 「つまり、そのタテガミは、あきらかに、直次、ひとりをねらっているのだな。おまえがいちばん腕がいいってことを、よく知っているわけだ。礼文で、唯一、利益をだす漁師は、須古頓の直治しかいないと、ババは話をきいているぞ。海馬に気に入られるほどに、おまえの網には鱈がかかっているわけだ」 「そんなもの、あいつに知ってもらっても仕方がないんだ。だれが教えたわけでもないし、勝手に思いついたらしいんだ」 「いや、そうではないわ。そのタテガミは、おまえに相当の恨みをもっている。直治、四つ足はこわいぞ。魚とは、違うんだ。ようするにおまえが、もともとタテガミの食い分まで獲ったのを知って、それで復讐するつもりでねらっているんだ」 「しかし、ババよ。底曳きが、なんでもかんでも小さいものまでひっぱっていくのが問題なんだ。おれと海馬は、被害者なんだよ。いっしょに底曳き網の被害をうけている、相棒なんだよ」 そういって、直治は思った。 海馬は、べつの魚も食べるから、わざわざ彼の真鱈を横どりする理由はない。最近は、鱈もホッケも漁獲量が激減している。死んだ爺さまが、ニシンの雄の精子で海が白くそまったと話していたが、直治はそんな光景は知らなかった。漁師になってから海馬はずっと網を食いあらす害獣だったが、ひとりだけがねらわれて被害にあった話は、いままできいた覚えもなかった。 「なにかみょうなものが、おれにとりついているんじゃないかと考えてさ。お祓いをしてもらいたいと思ってきたんだが」と直治はいった。 おババは、若いころに海が真っ白にそまるニシンの群来をみたことがあると話した。アワビがかさなり、海中を裸足で歩くのは痛かった。どこにも海馬はいたが、勝手に暮らしていたから人間と争う事件は起きなかった。人はなにを考え、どんなことをするかも予測がつかないから、獣もこわいに違いない。ババも、人間くらい恐ろしい生き物はない。それを覚悟して襲ってくるタテガミは、相当な難物と考えたほうがいい。そいつと争おうなんて思ったら、食い殺されるに違いない。直治だって、こまかい目のテトロンの網をつかっているのだろう。今年はねらいを決めたらしいから、もうあきらめて、来年に船の底の色をかえ、獲れそうもないポイントで、ほそぼそとつづけるしかない。海馬も殺されるのを承知しているのだから、直治の網に獲物がかからなければ、ねらわれないだろうといった。 「おババ。そういうわけにはいかない。おれにだって生活がある。それがみたこともないほどの馬鹿でかい奴で、種島でハーレムをつくっているんだ。自分の子供みたいな小さいのにとりまかれて、殿さまをやっているんだ。あんまり腹が立ったから、今日はそこにいってみたんだ。おれがちかづいても、逃げることもない。ふてぶてしい野郎で、種島の岩礁の真ん中にすわって、身じろぎひとつしないでじっと睨みつけていた。あいつは、食いやぶったのがおれの網だと充分に承知しているんだ。腹が立ってきて、撃ち殺してやろうかと思ったくらいだ」 直治の話に、ババはだまって考えていた。登美子がもってきたお茶を、おババはゆっくりと飲んだ。からからに乾いて、いまにも折れそうなほそい右の手で、顔の青黒い老斑をしきりにつついて揺らしていたが、直治にむきなおるといった。 「そうなってくると、きっと、おまえの臭いもかいで覚えているのだろう。いったん知られてしまった以上、たしかに船の底の色をかえたくらいでは、おさまらないかもしれないな。しかし、おまえ、四月からはホッケがはじまるのだろう。今年はこれだけ寒いのだから、昆布のできは素晴らしいに違いない。だから、ウニはでかいのが育って充分に期待できる。おまえくらいの腕があれば、夏のバフンはいくらでも獲れるのではないのか。五月になったら、ノナを獲る最中に懸命にさがしておいたらどうか。鱈だけが、人生ではあるまい。もう、これだけやられたのなら、ここははっきりと降参してだな、そうそうに白旗をあげたほうがいいかもしれんぞ。千切れた網でも、はっておいたらどうだ。おまえにねらいをつけた海馬だって、その意味くらいは理解するだろう。四つ足は利口で、むこうも必死で生きているのだからな。腹を立てても仕方がない。まあ、ちょっと、ここにすわれ」 おババは、直治を神棚のまえに正座させると、「大麻」とよばれる六角にととのえられた白木のお祓い棒を上座において、彼の横で、二礼をした。祓詞を奏上した。さらに、二礼、二拍手、一礼した。それが終わると、今度は立ちあがり、大麻をもって直治の頭部ちかくを幾度も往復させて、祓いきよめる修祓をした。 「たしかに、おまえには、でかい歯鯨みたいなものがついておる。これは祟りだな。そういえば、おまえの死んだ親父さまは、道楽で海馬を撃っていたことがあったな」 「おれも、祟りしかないと思っていたんです。たしかに父の喜平は、道楽で年に何回か海馬を撃っていました。いっしょにつれていかれましたが、銃弾があたったのは、みたことはありません」 直治はそこまで話して、「あっ」と思った。あの金縁の若い男は、医者の往診についてきた運転手なのだ。そうなると、道の職員に違いない。なんで、あんなぐあいにおれを睨んだのだろう。 「海馬撃ちは、難しいからな。素人には、できまい」とババがいった。 「一発、おどかしてやりましょうか。そうしたら、なにか違いますかね」 「そうだな、どうにもならないのなら、一回やってみてもいいかもしれない。しかしおどかすだけで、四つ足を殺すのはよくないぞ」 「親父が撃つのをそばでみましたが、船は揺れるし、相手は逃げるのですから、あんなもの、あたるわけがないですよ。銃弾の無駄って奴で。しかし、たしかに腹が立つから、あいつのちかくにいって一発ぶっぱなしてやったら、どうでしょうね」 「まあ、おまえの恨みも、その程度のことで晴れるのなら、ぶちはなしてみたらどうだ」 「あれは、免許がいるのですよね」 「おまえの親父さまは、猟友会に入っていただろう。いまは船泊の漁協に窓口があるから、そこで有害鳥獣駆除隊員になったらよかろう。今時は隊員がへっているから、簡単に会長から推薦状がもらえるに違いない。帰りがけに、香深の診療所にいって、おまえが気狂いでないことを証明してもらえばいい。それにしても、あの医者はだいぶかわっている。この島で医療をやるのを、わざわざ希望してきたらしい。ババに、大層な情熱を語っておったぞ。金をかせぎにきた者とは、違うな。往診させても、とくに往診料が欲しいともいわないからな。なかなかまっとうで、いまの時勢には、ずいぶんとかわっている。一度みておくのも、いいかもしれないぞ」 「おババのいう香深にきた医者っていうのは、金縁の眼鏡をかけて、ひょろっとして背がたかい、やせた若い奴か」 「おまえ、知っているのか」 「一度、会って話したことがある」と直治はいった。 鱈漁がはじまった、すぐのころだった。もうれつな寒波がやってきた日で、早朝の船泊港は空気は切れるほどに冷え、すべてが凍りついていた。しかし、港はひさびさの豊漁で活気づき、船からおろした大きな鱈が一面にころがっていた。人いきれで湯気があがるほどだった。そのとき直治のちかくに、保健部長につれられた背がたかくやせた若い男性がやってきて港の様子をみていた。金縁の眼鏡の男は、ダウンを着込み、さらに登山用らしい赤いゴアテックスの風よけと、オーバーズボンをはいていた。ちかくにいる直治に、ころがっている鱈を指さして、「この大きな魚は、なにか」ときいた。 「はあ」 直治は、あきれて男の顔をじっとみた。とくに、ふざけているわけではないらしかった。 「おい。こいつ、鱈も知らないで生きているらしいぞ」 直治は、大声で叫んだ。まわりにいあわせた者たちが、その言葉に大きな声で笑った。あとで直治は、それが香深の診療所にやってきた若い医者だときいた。たしかに休日の朝で、評判がいいという話も耳にした。 「鱈も知らない奴だった」 「都会もんだからな。仕方があるまい。東京のうまれだといっておったわ。おまえが夜中に起きだして、身を切る冷気のなかで真っ暗な海にでていくのも、知らないに違いないわ」 「ババのいう通り、あそこで診断書をもらって帰るわ。そういえば、頭がおかしい警察官に香深井でつかまりましたが、なんなのでしょうかね」 「あれか。あいつもだいぶかわっているな。香深井のあたりで島の者をつかまえているらしい。どうかしたのか」 「あいつ。この冬場に、香深井のカーブのところでレーダーをやっていた。いまババに会おうと走っていたら、あいつのパトカーに追跡された。三〇キロオーバーで赤切符を切って免停とかいっていたが、あれは本気なのだろうか」 「どうも、そうらしい。おまえのほかにも、何人かつかまっておる。なにをしに島にきたのか、分からない奴だ。あれにも、あまりちかよらないほうがいいだろう」 「おれのほかにも、つかまえているのか」 「香深井のあたりは、注意したほうがいい。あいつは、あそこが気に入っているらしい。しかし、このまま島の連中をつかまえるとなれば、あの男にも祟りがあるに違いない」 「おババ、あいつは、なにをしにきたのだろうか」 「分からん。本人がなにも理解していない以上、もうだれにも不明なことだ。しかし、宗谷本庁も、いったいなにを教えてきたのだろうか。いままで島に赴任してきた者のなかで、いちばんの阿呆であるのは、間違いがない」 「おババ。いっそ、稚内の警察にうったえてやろうか」 「しかし、質の悪いことには、あいつは稚内署からまわってきた、ほんものの警察官なのは間違いないらしい。去年の暮れに船泊にきたらしいが、どうやら不始末をしでかしたのだな。そうでなかったら、年末に島におくられてくるなんて考えられない。あいつがきたのは、希望ではまったくないな。ここで点数をあげて一日もはやく稚内にもどりたいと考えているらしい。おまえの鱈漁とおなじで、つけは、やがて自分にまわってくることが分かっていないのだ」 「ババよ。あんなおかしいのと、いっしょにしないでくれよな。それじゃな。面倒をかけたな」 直治はそういって、ババの神山をあとにした。 おババは、島では龍神の生き神さまだと考えられていた。不明な事態が起こったばあいは、このババと話しあうのがいちばん手っとり早い解決の方法だった。直治の父親が、肺炎といわれて島の診療所に入院したときにも相談したことがあった。 「もう幾日ももたないから、そのままにしておけ」というババの話をきいて帰ったつぎの日に、父の喜平は死んだ。 直治は香深の港に車をおくと、診療所をたずね診断書をもらった。事務室をのぞいてみたが、ババの家のまえであった黒いセダンを運転していた男の姿はなかった。その事務職員の挑発的な目が、脳裏からはなれなかった。四〇号線を走って船泊に帰ったが、香深井のところにはパトカーはいなかった。 翌日、直治は漁協にいき、猟友会を紹介してもらった。駆除する者がほとんどいなくなって、簡単に入会でき、すぐに有害鳥獣駆除隊員となった。猟友会の会長から推薦状をもらい、稚内にいって講習をうけることをすすめられた。網は、二、三日では、どうにもできないほどにはげしく傷ついていた。仕方なしに繕いをしていると、一週間たって直治の自宅に稚内の警察署からの葉書がきた。検察官の立ち会いのもとに、起訴か不起訴を決め、罰金を確定するから出頭せよという要請がかかれていた。 「あの馬鹿野郎。本気だったんだ」 直治は、頭をかかえた。 「どうしてやろうか」とも考えたが、小川という巡査のいう通り刑事罰だから、ほうっておけば強制的な方法もとられるのは間違いなかった。免停の短期講習が必要で、ついでに猟銃の講習もうければ一週間がかりの仕事になる。年初からつづく災難に悲嘆しながら、香深の医者の診断書と猟友会の会長の推薦状をもって、稚内にいくことにした。おババが、この不運を充分に祓って、これで終いにさせてくれたのかどうか、とばかし考えていた。 稚内に出向くとはいっても、決して容易なことではなかった。冬季には、香深と船泊にフェリーが一日に一往復あるが、どちらも稚内発での日帰りの一便だった。もし講習をうけるなら、夕方の船で稚内にいき、翌日、泊まって受講し、さらにもう一泊して、つぎの日の朝の便で島に帰るしかない。これは、町民の利便から考えれば容認できないことで、礼文の町長がくりかえしフェリー会社と宗谷支庁に陳情してもかわらない現実だった。免停に出向くだけで、二泊三日が必要だった。 直治は、こんなことをする小川という巡査が、ながく島にいられないのは、明白だと思った。本人が希望するなら、すんなり思った通りになるだろう。小川は、相当の不始末をしでかしたうえに、稚内署でも嫌われていたに違いなかった。普通なら、おババのいう通り暮れに赴任するなどありえないし、くるまえには「島でやっていい行為と、してはいけないこと」の区別くらい、本署でだれかが教えてくれるはずだった。 直治は、猟銃の授業を受講したから、ついでに免許停止の講義もうけた。免停のためだけだったら、わざわざくる必要もなかった。島では、事故さえ起こさなければ無免許も容認されていた。しかし、小川はそれも問題にし、さらに罰則をくわえる可能性があった。どうしようもない奴だと思いながら、略式裁判をうけて大層な罰金と講習料を支払い、銃の許可証をもらい、いちばん安いライフルを購入した。年初からの予想外の出費に、直治はほんとうに頭が痛くなっていた。 帰ってきて猟友会の会長に挨拶にいくと、有害鳥獣駆除隊員は船泊ではほとんどいなかったので、すぐにライフルの使用が許可された。翌日に島の奥に入って、じきじきに銃の撃ち方を教えてもらった。人がいそうな方向には、撃ってはいけない。仮初めにも人間に照準を定めたら大ごとだと、あたりまえのことだけを教えられた。 直治は子供のころに、父親につれられて何度か海馬撃ちについていった。銃も撃たせてもらったこともあった。しかし、実際に海馬に弾があたるのはみた覚えがなかった。ましてや、自分が撃てるとも思ってみなかったから完全な腹いせだった。 それが最初の猟で、獲物をしとめることができた。自分の撃った弾丸が海馬の体をつらぬき、吹きでた深紅の血が、凍りつく真っ青な海をとかしながらひろがっていくさまに、直治は興奮した。いままでの漁ではえられなかった、まったく違う快感が彼を襲った。まるでほんとうの海の男に変身した気持ちがした。夢をみている気分になり、面白いほど海馬をしとめることができた。 二 戸村一族が暮らしていた須古頓の部落は、島の最北に位置していた。 日本最北端は、北緯四五度三一分の宗谷岬だった。いっぽう須古頓岬は四五度二七分で、わずかにおよばなかった。岬の一キロ北に海馬島が浮かび、灯台が立っていた。たとえ、橋をかけて陸つづきにしても、日本最北端にはわずかに足りなかった。この事実を悔しいと考えていた島の人びとは、須古頓岬を日本最北限とよんでいた。 須古頓の部落に生をうけた戸村勇吉は、直治とは家もとなりで親戚だったし、小学校から中学校、高等学校までひとクラスの同級生だったから兄弟同然に育った。勇吉は、戸村直治より半年はやくうまれたが、勉強でもスポーツでも勝ったことはなかった。本家筋だった負けん気のつよい直治が、いつでも兄貴分で、なににつけても一枚上手であるのにとくべつな抵抗をまったく感じなかった。 須古頓の部落は、もともとは戸村の一族が一〇軒ほど暮らしていた。勇吉が小学校に通っていたころには、分家にあたる同級生の三島銀次の家があった。しかし銀次の父親は、冬の鱈漁の最中にあやまって海に落ち、若くして死んだために、母親が船泊の漁業協同組合で事務をはじめ、やがて部落を去った。だから、幾軒かのあばら家があったが、住んでいたのはふたりの一家しかいなかった。 戸村勇吉は中学までは直治とおなじくやせていたが、高校に入ると急に身体が大きくなりはじめた。そのころは、戸村直治とならぶのを意図的に避けていた。ずっとかわらない小柄の直治をうらやましくも感じた。卒業して父親の仕事を本格的に手伝いはじめて、ならんで比べられる機会がへって、勇吉はすっかり気が楽になった。そのころに、ボディビルに嵌まったのだ。通信販売で買ったバーベルを朝晩くりかえしもちあげていると、成長期と相まって筋肉がどんどんとついていった。全身がうつる大きな鏡を買いこんで、部屋でポーズをつくって、自分の鏡像をみてはうっとりとした。まだ充分ではない部分の筋肉を、どう見栄えのあるものにかえるか真剣に考えていた。高校までの自分とはまったく違うあたらしい戸村勇吉をみつけ、ようやっと一人前の男になった気がした。プロレスラーでも目指しているのかと、会う人ごとにいわれたのはこのころだった。 戸村勇吉が漁師の家業をついだのは、自然の成り行きだった。示しあわせたのではなかったが、直治もやはり漁業者になった。とくに海の男に憧れたわけではなかったのも、いっしょだった。 暗い夜の港に、白雪が静かにふっていた。 季節はずれの雪を白く浮き立たせながら、水銀灯がかがやいている。闇の奥に眩しい光がはなたれている店がみえると、さわがしいカラオケの声がきこえてくる。戸村勇吉は、湿った雪をはらってなかに入り、異様にもりあがっているカウンターを避けてすみの席に腰をおろした。 琴美がすぐに焼酎をもってやってきて、華やいだ声でいった。 「何年ぶりかしら、こんな風に店が人でいっぱいになるのは。よかったわ、直ちゃんの運を分けてもらえて」 直治がそばにきて、「どうだったのか」ときいた。 「だめだ。肺炎らしい」 「そりゃだめだ。一週間だ。まあ、飲め、飲め。そばにいたってなんにもかわらない」 直治はすっかりできあがっていて、勇吉がコップをおく猶予もないほどに急いでつぎまくり、あげくに酒をこぼした。 「やっと運がむいてきたんだ。飲んでくれ」 直次は、銀次に肩をたたかれて立ちあがりながらいった。マイクをつかむと、また歌いはじめた。 「なにもかも、いっしょだってことだ」と勇吉は思った。 直治の父親が死んだのは二年まえの冬で、最後はやはり肺炎だった。朝暗いうちから起きて、荒ぶるつめたい潮のなかで漁をする海の男は、酒をあびるみたいに飲んで、塩辛い肴を好むから高血圧になって脳卒中を起こす。寝たきりの惨めな生活をながいことおくって、最後は風邪をこじらせて死んでいく。父親ばかりではない。勇吉の祖父も、直治の爺さまも、みんな、この「お決まりの」コースだった。 昼間から酒を飲む父親をみては、「ああは、なりたくないものだ」とふたりで話しあっていたのは高校時代までだった。実際にあとをついで漁をはじめると、夜明けまえに起きても時化で船をだせなければ、朝の九時にはもうやることがない。明日は今日の分もはたらきたいと思えば、はやく眠らねばならない。結局、ふたりも、昼まえから酒を飲む以外にすることはなかった。 その年、四〇番目の海馬をしとめた日に、直治は、船泊のスナック「琴美」を借り切って、仲間内に声をかけてあつまって祝宴をひらいていた。仲間は子供のころからの知りあいたちで、礼文高校を卒業して家業の漁師をついだ者ばかりだった。漁協の青年部に所属し、祭りでも仮装でもノリのよさでは島でいちばんだった。 「いやあ、直治。もう名人どころではないな、これは。おまえは、天才じゃないのか。天職なんじゃないのか」 光男がいった。 「すげえよな。おれたちの仲間にこんな名人がいたのかって、考えてもみなかったよな。直治は、なにをやらせてもいちばんだ。しかし、海馬を撃っても、ひとりで許可駆除数の四割だぜ、現ナマ、二八〇万だ。もう馬鹿ばかしくて、ちんたら網なんかはって、鱈がかかるのを待ってなんかいられないよな。海馬に食い千切られた漁網をひとつひとつ手でなおすなんて、できないよな」 銀次がいった。 酒場を借り切って、仲間に声をかけて酒を振るまっていた。まだ解体していない、その年の四〇番目の獲物をみんなにお披露目をした。酒場のまえは港で、直治は船から幼獣の海馬をおろした。みんなにみせるためにリヤカーにのせ、「琴美」のすぐ横までもってきておいてあった。直治は、海馬の頚椎を右の指でさしていった。 「みてくれよ。今日やった、四〇番目の獲物だ。ここだ。一発で、命中させたんだ」 「すごいよ。みせてもらった。たしかに一発しか弾丸は入っていなかった。どこから血がでたのか、まったく分からなかったものな。おまえに指さされても、よく理解できないくらいだ。こんなものみたのは、はじめてだ。タテガミっていう海馬も、身内を四〇頭もやられ、おまえを怒らせて、たいへんなことをしでかしたって、いまごろになってあわてているのじゃないか」 康太がいった。 「直治。いっそ、会社をつくったらどうだ。おまえが社長でよ、岡さんを副社長にして。あれだけの肉だ、加工法を考えれば食えないはずがない。缶詰工場をここにつくって、その社長もやって商売をはじめれば、島いちばんの長者になれるんじゃないのか。あの毛皮だって、なめし方によっては売れるのかもしれないぜ。いままでは、だれも真剣に考えたことがなかったんだ。あんなつめたい海に一〇分も、もぐっていられるんだ。考えれば、なにかの方法があるはずだ。その工場もつくって、社長になったらどうだ。そうしたら、おれを工場長にやとってくれよ」 睦夫がいった。 「カムチャッカじゃ、学校給食にも海馬をだすっていう話じゃないか。ロシア人にとっては、幼獣の肉は、とろけるみたいでうまいって偉い評判らしいじゃないか。日本人は、すっかり舌がこえているから、もう食べなくても仕方がないが、根室みたいにミンクでも飼って海馬肉を餌にしたらどうだ。それで、その毛皮を売ったほうが金になるのじゃないのか」 聡介がいった。 「ミンクはいいぞ。高級品だ。おれが飼育係をひきうけるからよ。根室から買ってきたらどうだ」 睦夫がいった。 「おまえは、腕が悪くて鱈が獲れないからな。油代ばかしかかって借金ばかりが増えるから、漁師をやめたくて仕方がないのだからな。直治に泣きついて、なんとか仕事をもらって食わしてもらえ」 聡介がいった。それで、また全員が笑った。 「漁網に悪さをする害獣の海馬を獲れば、みんなに感謝されるに決まっている。直治が撃ってくれるなら、おまえの鱈を全員で分けられるから、八方がまるくおさまるっていうわけだ。みんなが不漁でも海馬はへらないから、直は道から駆除代をもらうことができる。それで、缶詰工場でも毛皮工場でも立てて、今度はそこでつくったものを売ればいい。すごい商売をみつけたな。おまえ、いやもう、直治さんってよばなきゃならないかな」 吉蔵がいった 「直治が立てつづけに捕獲した海馬をもっていくから、ほんものかどうか、役場がキバを札幌におくってしらべたって話だったものな」 銀次の言葉で、酒場で飲んでいた者たちがいっせいに笑った。 「おれも、課長からきいた。札幌では、直治が海の一部をかこいこんで、海馬を飼育して、一頭ずつ殺しているんじゃないかってよ。本気で考えたらしい。だれがきいたって、信じられない話だ」 光男がいった。 「それで、一杯飲ましてもらえるっていうのだから、もうよびつけなんてできないな。直治さん、じゃなくって、直治さま、だな。なあ、名人」康太がいった。 「来年は、稚内で宴会をひらくぞ。みんなを、二泊三日で招待してやるぞ」 直治は、大声で叫んだ。 「直ちゃん、そんなこといわないで、ここで二回やってくれよ」 「いや、おれは稚内がいい。直治、頼むぞ」 「そうだ、もっと景気のいいところへいって、ぱあっと、さわごうぜ」 「直ちゃん。そんなこといわないで、ここでやっておくれよ」 「分かった。来年は、稚内で一遍、琴美で二回だ。みんな我が儘なんだから」 直治は、大声でそういった。 「いいぞ、大将」とだれかが叫び、だれもが大きな声で笑った。 祝勝会がさらにもりあがり、飲みなおしていたときだった。 光男が、「そういえば、直治。おまえ、赤切符を切られて稚内で略式裁判と免停の短縮講習をうけたんだってな」といった。 それから、昨年の暮れに赴任してきた小川巡査の話になった。 小川は、まったくの堅物でなんの融通もきかなかった。すべて規則に準じたがり、光男も、香深井でおなじ手口で逮捕され、懸命にあやまって赤切符にはならなかったが、反則金を納付していた。同様のやり方で青切符を切られた被害者が、島内ですでに一〇人以上はいるらしいという話だった。小川巡査がどういう心得で、島の者たちを厳しくとりしまっているのか真意ははかりかねたが、これからも相当数の犠牲者がでるのは間違いがなかった。船泊の前任の巡査が去年の一二月のはじめに稚内で交通事故にあい、膝の手術をうけることになった関係で、小川が急遽、派遣された。結婚して一年くらいで、まだ子供もいなかったので、稚内署では適任と判断されたらしい。剣道の達人で、道内でも数すくない六段位をもち、全国でも名は知れわたっているらしい。毎朝、神棚に手をあわせて、法の順守を祈願しているという話だった。 「チャンバラがつよいからって、いったいなんなんだ。まったく反省がない。一回どうにかして懲らしめないと、これからつづく警察官にも示しがつかない。悪い影響が避けられないな」と直治はいった。 飲んだ勢いもあって、みんなでいろいろと相談になった。 小川隆児の妻の清美は、商店街に買い物にいくと、昨日までとはなんとなく雰囲気が違っているのに気がついた。 ショッピングエリアといっても、一軒の魚屋があって、となりに野菜や果物をあつかう生鮮食料品店がならんでいるだけだった。島には、コンビニエンスストアはないが、デパートメントストアは幾軒か存在する。このデパートというのは、かなりの曲者だった。なんでも売っているが、ないものはとくにとりよせもしない、きわめてあいまいな代物だった。いうならば個人経営のスーパーマーケットで、家電から生鮮食料品まで手広くあさく販売していた。この手の商店を礼文島ではデパートと称し、船泊地区にもいくつかあったのだった。 清美が、魚屋で魚をみていると、いかにも島の女性という感じの頑丈そうな女将さんがでてきて、「それは、売りものじゃないから」といった。彼女は、変だなと思った。ちかくに買い物にきた年配の女性がいて、その女は清美がみていた魚を買って帰っていった。 島で魚類を購入するのは、かなり抵抗のある行為だった。なにせ魚というのは、「ただ」ですぐそばを泳いでいる食料なのだ。みまわせばどこも海であり、魚類はごくちかくにいるものなのだ。だから魚を買うのは、島民ではない、学校の教諭か、道や支庁から派遣されている者にかぎられる傾向があった。 漁師ではない島の者たちにとって、基本的に魚類は、なんらかの方法によって分けてもらうもので、購入という行為までにはいたらない食品だった。まわりじゅうが魚だらけなのに、その魚をもらえないのは、極論すればたいへんに悔しいことだった。身銭を切ってまで食べたいとは、決して思わないのが普通だった。入手できなければ、仕方がないからおかずは山菜ですまそうと考える者たちがほとんどだった。 清美は、小川の赴任によって島についてきたのだった。彼女は、小川隆児とは対照的に小柄でやせていた。綺麗なながい黒髪を肩までのばし、隆児とおなじく近眼で眼鏡をかけていた。もちろん清美が離島勤務を希望したわけではなかったが、ぶじに再来年の三月までつとめあげれば、今後は、利尻、礼文という島の勤務は免除されることになっていた。暮れもおしつまったころのとつぜんの人事だったが、 「この機会に離島勤務に従事すれば、半端な分だけ期間はみじかいし、二度といかないですむから、勤務を終えたら子供をつくって子育てに専念しよう」という夫の言葉にしたがってやってきたのだった。 清美がおいてあった鱒を手にとろうとすると、「それは、だめ、腐っているから」と女将はつげた。 「新鮮そうにみえるけれど」と彼女がいうと、 「素人には分からないだけ」と女主人はこたえた。 それでホッケをみていると、あとから店に入ってきた女性が、腐った鱒をごく自然に買っていった。 「あれは、いまさっき、女将さんが新鮮でないからだめだって話した魚だったのじゃないの」と清美はきいた。 「島の者は、それでも食べられるのよ。でも、あんたみたいな、稚内からきた人は、あたるから売れないのよ」と女将はこたえた。 「それじゃ、このホッケを二匹、どうかしら」 清美は、いった。 「ああ。それも、腐っているから売れないのよ」 「さっきの人、買っていったみたいでしたが」 「あれも島の者だから、腐っているのを食べても大丈夫なのよ。なんといっても、慣れているからね」 「そんな、腐ったものを売っても、いいわけなの」 「そう。島の保健所は、みのがしてくれるのよ。この店には、あなたが買える新鮮な魚はないから、よそをあたってみなさい」 女将は、彼女の顔をみるでもなくいった。 清美は不愉快に思ったが、そんな嫌味をするなら、わざわざ買わなくてもいいと考え、となりの野菜を売る生鮮食品店に入った。そこも島の中年の女性が主人で、客と話していた。清美がジャガイモを三つばかし手にとって順番がくるのを待っていると、その様子をみた女主人がいった。 「あんた、それはだめ。腐っているから。売りものじゃないのよ」 「これは、腐ってなんていません。変なところは、どこにもみあたらないわ」 「奥さんが大丈夫だと思っても、店の主人の私がみとめるのだから、腐っているのよ」 「そんなものをおいて、問題にはならないの」 「島の者はね。腐ったのを承知で買っていくんだから。問題にはならないのよ」 「分かりました。私も承知して、これを買っていきます」 「あんた、そうはいかないのよ。島の者は承知しているけれど、あなたのところは、ご亭主が腐ったものを売ったのを知ったら、保健所に通報するでしょう。そうしたら、あたしの家は商売ができなくなっちゃうのよ。だからあなた、ほかの店をあたってみたらいいのじゃないの」 「でも、どこからみても腐っていないし、島の方が食べられるのなら、私も大丈夫だと思いますけれど」 「それが、素人の考えなのよ。島の者は慣れているから大丈夫なのよ。それに、あんたが平気だといっても、ご主人が腐ったものだと知れば、ただではすまないでしょう。文句がくれば、私の店は商売ができなくなるのよ。うちが腐った野菜を売るのは、保健所もちゃんと知っているのよ。でもね、島民は苦情をいわないから、役所もうごくことはないわけね。それで、なんとか島としては、まるくおさまっているのよ。分かるの、ここの点が重要なのよ。でも正式に苦情がいったりしたら、保健所だって仕事だから無視はできないのよ。だから指導が入って、私の店は、すぐに営業停止になってしまうわけなのよ。もう迷惑だから、どこかほかの店舗をあたってみなさいよ」 清美はデパートにもいったが、なにも買うことができなかった。六時になって小川巡査が帰ってくると、食卓には米とみそ汁しかなかった。清美は、どこの店もなにも売ってくれないといって泣きはじめた。 「米も味噌も買えない」と彼女は涙ながらに話した。 小川は、島の者が逆恨みしているから気をつけたほうがいいという話は、同僚の巡査からきいたが、こんなあきらかな嫌がらせをうけるとは考えなかった。その週は、休みの日にバスにのって香深にまでいって、米と味噌のほか、おかずになりそうなものをデパートで買いもとめた。しかし、船泊とは交通の便が悪く、食料品を買うために通う距離ではなかった。たった一台しかないパトカーで、香深まで妻をのせて買いだしにいくのは、さすがに公私を混同しているとみなされるに違いなかった。どう事態を解決したらいいかと考えているうちに、小川事件は起こったのだった。 小川隆児が、住んでいたのは船泊の街中だった。 官舎は、ダイニングキッチンのほかに二間があり、幾分老朽化していたが夫婦ふたりで暮らすには、さして問題はなかった。ただ昔のつくりだったので、ユニットバスの浴槽が小さく、身体の大きな小川はくつろぐことができなかった。船泊に、銭湯は一軒しかなかった。 休日の午後はやくに広々とした湯船に浸かることを、小川はほとんど唯一の楽しみにしていた。ある休みの日、彼が三時すぎに銭湯に出向くと、男湯には「掃除中」の札がかかっていた。 「今日は休業なのですか」と小川は入り口にいる親父にきいた。 「いや、いいですよ」と主人はこたえ、番台からおりてきて札をはずした。 それで、小川は男湯に入った。休日の銭湯は、午後一時からはじまるのが普通だった。いつもいく三時ごろは、比較的すいた時間帯だったが、それでも通常は何人かの客がいて、浴槽の周辺で遊ぶ子供たちに出会った。彼は島にきてからはじめて、気持ちのいい一番風呂にひとりきりで浸かることができた。 番台の親父は、小川が入るとすぐに「掃除中」の立て札を男湯にだした。幾分かもしないうちに、直治とその仲間がやってきた。 「いま、入っていったんだな」 「そうだ」 「じゃ、あとはだれも入れないでくれよな」 直治は、いった。 「分かった。しかし、命に関わるほどには、しないほうがいい」 「親父には、迷惑をかけないよ。番台に、すわっていただけなんだから。なんにも知らなかったんだから。でもよ、相手はいちおう警察官なんだよ。中途半端というのが、いちばんぐあいが悪いんだ」 直治が入ると、勇吉、銀次のほか一〇人ばかりの仲間が脱衣所につづいた。それをみて、番台にいた静雄は、また「掃除中」の看板を男湯の入り口に立てた。 小川巡査がいい気持ちで、足を存分にのばして、たったひとりで大きな浴槽に浸かっていると、脱衣所にぞろぞろと男たちが入ってくるのがみえた。なにかの行事でもあっていっしょに汗でもかいた連中なのか、頭を角刈りにしたよく似た雰囲気の一〇人くらいの男が、つぎつぎと服をぬぎはじめた。どれもごつい感じで漁師仲間にみえたが、とくゆうの大声はきこえなかった。 裸になった男たちは浴室に入ってくると、だれも浴槽には浸からず、ずらりと左右に分かれてならんでお湯をだしはじめた。洗い場には、小川がもってきた石鹸とシャンプーが入れられたプラスチック製の洗面器がおかれていたが、その両脇にも彼らは陣取った。いっしょに入ってきた男たちは仲間だと思われたが、たがいに話すこともなく、だまってお湯をながして手桶がいっぱいになると、それを身体にかけていた。なんの意味があるのか分からなかったが、彼らがその行為をただくりかえしたので、風呂場はもうもうと湯けむりがあがりはじめていた。 すきなだけ湯船に浸かっていた小川は、下腹部を手拭いでかくしながら立ちあがった。浴槽から自分の洗い場にいこうとすすむと、足元に木製の手桶が飛んできて彼の脛にあたった。 「痛い。なんだ」と思ったときには、鼻かけに頬被りにした男たちが、まわりをぐるりととりかこんでいた。 「なにを」 小川が声をだしたとき、男たちはいっせいに殴りはじめた。彼が頭を両手でまもってしゃがみこむと、四方八方から思いきり蹴とばされた。小川が気絶したのを確認すると、男たちは脱衣所にいき、身体をふいて風呂屋をあとにした。 番台にいた静雄は、「掃除中」の看板をさげた。 しばらくすると子供をつれた男がやってきて、入浴料をはらうとなかに入った。 「親父さん、たいへんだ。人が風呂場で倒れている」 男が血相をかえて静雄にいった。それで、いっしょになかに入ると、小川は風呂場に大の字になって完全にのびていた。 「大丈夫かい」と静雄が揺すりながらいうと、彼は気がついて、「ひどい目にあった」とつぶやいた。 どこも痣だらけで、手酷くやられたのは一目瞭然だった。 「危ないな。あんた、転んだんだな」と静雄はつげた。 「なにをいっている。一〇人ぐらいの若い男たちが、とつぜん襲ってきたんだ。番台で親父さんはみていただろう」 「いや、おまえさんのあとは、だれも入らなかったよ。こちらの親子さんが、あんたが倒れているのをみつけたから、どうしたのかと思って私はきただけだよ」 「直治の野郎だ」と小川はすぐに気がついた。 しかし、目撃者がひとりもいないのだ。番台の親父は、なにも知らない、だれもまえを通らなかったとくりかえすだけだった。自分が殴られたのが、こんなにはっきりしているのにも関わらず、目撃者がいないのだった。 小川は、証拠のひとつもみつけることができなかった。彼は、全身を痣だらけにし、痛む身体をひきずりながら家に帰ってきた。 清美はおどろき、経緯をどうしてもききたがった。 小川が話すと、彼女は「もうここにはいたくない」といって泣きはじめた。 清美が、なにも買えない状態もずっとつづいていた。 小川がよく考えなおしてみると、銭湯にいくのはもちろん島のどこにいても、自分が非常に危険な立場になっているのに気がついた。島民、全員がグルであるかぎり、風呂場での襲撃事件はあきらかな警告だった。この状態がつづくならば、さらにはげしい事件が起こることは、ありえないとはとてもいえない事態になっていた。 小川は、派出所の同僚とも話しあい、稚内の本庁に妻がうけている嫌がらせもふくめて経緯を話して上司と相談した。その結果、支庁からもきわめて危険な状況と判断され、五月の連休まえに小川夫妻は礼文島をあとにした。出発の日、波止場には署の関係者が数人ほど見送りにきた。握っていたテープが切れると、平らな島影がみえた。 「ぶじに稚内に帰れることになって、よかったわ。もう、二度と島にはきたくないわ」 清美は、目に涙を浮かべていった。 「そうだな」 小川はこたえ、清美のやせた肩をだいた。 その年の夏、船を売らないかと銀次は話しはじめた。 「もう、おまえには、いらないだろう。それだけの腕があれば、海馬を撃って生活ができる。運だけじゃ四〇頭は無理だぜ。天賦の才能があるんだな。きいたことがないよ、割りあての四割をひとりでやっちまうなんてよ」 銀次はそう話しだすと、じっと直治をみつめていった。 「ここに、五〇〇万がある。これで、おまえの船を売れよ。ちょうど、あれを欲しいって奴がいるんだ」 五〇〇万におどろいたわけではなかった。直治の船は、もともと二三〇〇万だった。漁業協同組合には六〇〇万の借金があったし、どんなに安く見積もってもそれ以上にはなると思った。しかし銀次がみせたのは、手の切れる新券だった。真あたらしい一〇〇枚が束になって、中央に紙がまかれているのが、目のまえにつみあがって五つあった。うまれてから四〇年、みたこともない札束だった。 「漁協には、この船のために、六〇〇万の借金があるんだ。おまえのいう通りにしたら、一〇〇万の赤字だ」 「あの船には、もう七年以上のっているんだろう。悪い話じゃないはずだ。夏はだれかの仕事を手伝っても、月に一五万くらいはもらえるだろう。内地にかせぎにいってもいいんだ。冬の二、三ヵ月で、三〇〇万ちかい現金が入ってくるんだ。肉だって売れば、いくらかにはなる。冬のかせげるあいだ、立派な船をねかせておいても無駄だろう。鱈、あげるわけじゃないんだから、バフンを獲っているので充分だろう。もう網もいらなくなる。あたらしいライフルくらいしか、金はかからないんだ。大切な道具をやぶられる心配もない。みんなから感謝されて、いい機会だぜ。直は名人なんだから」 銀次は、直治が考えているのをみるとつづけていった。 「あの大きいのと、つるんでもうければいいんだ。タテガミをねらっては、だめだ。あいつが、おまえのツキをよんできたんだからな。世の中の仕組みっていうのはよ。ほんとうの勝負は、自分よりつよいものとは絶対に戦わないっていうことだ。これは相手が、人間だろうが海馬だろうが、かわらない自然の掟なんだ。つよいもの同士が本気で戦えば、たとえうまく勝って生きのこったとしても、たがいに無傷ではいられない。だから代理として、雌でも子供でもいいから弱いのを立てるんだ。それを犠牲に殺して、つよいものは両方、生きのこる。これが、生存競争のルールっていう奴だ。雌と子供を撃てばいいんだ。またあいつがいくらだってつくるのだから、それを直が撃ち殺せば、自然の掟に合致しているんだ。ようするに、あのでかいのは直治のパートナーだ。なにがいいのか悪いのか、世の中ってのは分からねえよな」 金は、いつも目のまえを素通りしていた。船舶を買ったときも家を建てなおしたおりも、数字がかかれた紙をもらっただけだった。 「たしかに漁協で売っても、船がなくなって、その代わりに通知がくるだけなんだ」 そう思いながら、直治はじっと五つの札束をみつめていた。ふと気がついたときには、紙には判がおされ、手垢のない束をにぎりしめていた。 札幌でキャバレーにいった。最初に相手をしてくれたのは、年増の女だった。二回目のとき、直治はその女性にいった。 「若い女に、ぱあっととりかこんでもらうことはできないのか」 「兄さん、景気がいいのね」 それで五人の女にとりまかれた。酒をつがれて、海獣を四〇頭、撃ち殺した話をした。 「海馬っていうのは、動物なんだ。おれたちとおなじ哺乳類なんだ。つまりはよ、知恵があるってことだ。魚は網をはっときゃかかるけど、哺乳類はそうはいかない。ねらわれて、つかまれば殺されるのが分かって、それで逃げているのを相手にするんだ。追われる奴も必死なんだ。それを承知で追いつめているんだから、なにかの拍子で逆襲してくるかもしれない。窮鼠、猫をかむっていうだろう。死ぬか生きるかの、海のうえの真剣勝負だ。これが、猟って奴だ。王さまが夢中になるのは、もっともなんだ」 みんなが真剣にきいてくれた。それで直治は、へべれけに酔った。うまれてはじめてあじわう、もうれつにいい気持ちだった。えらばれた人間だけに許されていることに思えた。 「それにしても、若くて綺麗な娘、二〇人にとりまかれたら、どんな気持ちがするのだろう。しかし、それでは話もできないし、身ももちそうにない。獣とは違うんだ。人間さまにはこれが限界なんだ」と直治は、思った。 三 しかし、つぎの年からさっぱりあたらなくなった。性能のいいライフルを購入して研究をかさねるほど、海馬は獲れなかった。真面目に考えるほど、銃弾はむなしく虚空にきえていき、年ごとに猟は難しいものになった。 直治は、半年かけて六頭の海馬しか獲れなかった年の夏、かつて海馬撃ちの「名人」といわれた豊岡樫太朗をたずねた。 樫太朗は、もう八〇歳になり、絶壁にかこまれた西海岸にある宇遠内のくずれかかった家にひとりで暮らしていた。そこには、彼のほかに住んでいる者はいなかった。樫太郎は、裏にある雑木林をわずかばかり開墾して芋をつくっていた。玄武岩からできた島は、土にめぐまれていなかった。掘り起こしても石ばかりがでてくるやせた土地で、なにをうえても充分に育たなかった。彼は、家のまえの海に投網して生活に必要な小魚を獲って、ひっそりと暮らしていた。 樫太朗は、頭はすっかり禿げあがっていた。金縁の眼鏡をかけた樫太郎は、背もひくくやせていた。腰もまがっていたから、いっそう小柄にみえた。酒をもった直治がたずねてきたのをみると、畳一枚はあると思えるほどの仏壇に蝋燭をともし、線香をあげ、鈴をうって両手をあわせた。日本酒を飲みながら話をきくと、彼は久しぶりの般若湯にいい気持ちになったといった。 直治が、タテガミとの因縁を懸命に話すと、樫太郎はずっとだまっていた。なにを考えているのか分からなかった。樫太郎は、まったくべつのことを思っているようにみえた。手酌で酒を飲んでいたが、どちらかといえば不機嫌そうで、直治はわざわざここまできたのが無駄骨だったと感じはじめていた。もしかすると、もうかなりぼけているのだろうか。直治がなんの話をしているのか、分からないのかもしれなかった。 一〇畳くらいの居間には、すみに仏壇がおかれていた。ただよう線香の匂いをかいで、直治はあらためて部屋をみなおした。居間は、ひき戸一枚で宇遠内の小さな浜がみえる土間とつながっていた。ふたつの部屋あいだには、穴だらけのあかり障子が仕切っているだけだった。奥にやぶれた襖が立ち、四畳半くらいの小さな部屋がもうひとつあるに違いなかった。きっとそこには箪笥などがおかれ、樫太郎が寝起きをするのにつかっているのだろう。電気はつくが、水はないはずだ。土間に汲み置きの大きな水瓶があるが、どうやってはこんでくるのだろう。水がなくて、野菜を育てるのは難しいのではないか。ほうっておいて育つものしか、うえられないに違いない。この部屋には、ビニールがはられる小さな窓がひとつあるだけだが、冬の寒さをどう凌ぐのだろうか。直治はそう考えて、彼をみた。 樫太郎は、腰がまがっているというより、ひどい猫背だった。亀背は、年老いた女にはみたことがあったが、男では珍しくはじめてだった。そのまがりの程度ははげしく、ほとんど「せむし」にみえた。昔の人が、背中に虫がいるに違いないと思ったのは、あながち無知のせいだけではなかったのだろう。樫太郎は、ひどい弯曲のため猪首になっている。頬骨がつよく張りだし、まるで海馬にみえた。金縁の眼鏡は、挑発的なタテガミの目に似ていた。なんなのだか分からないが、不思議で、敵対的で、さらに魅力的だった。信じられないが、八〇歳の酒を飲んでいい気持ちになったという猫背の爺が、どこか官能的ですらあった。そう考えて樫太郎をみつめると、目のあいだの距離が普通の人よりはなれすぎているように思った。それで、海馬に似ていると感じたのかもしれない。そのとき、ふと島を去った警察官、小川巡査も「離れ目」だった気がした。最初に直視された瞬間、直治は、ひどく挑発的に感じた。そのときには理由が分からず困惑したが、喧嘩を売っているみたいだった。それに、おババに家のまえであった道の診療所職員も「離れ目」だった気がした。おなじ金縁の眼鏡をかけ、挑む目で直治を直視した。おれは、あいつらに海馬の面影をみたのだろうか。それで、不愉快さを感じたのだろうか。 直治がだまると、しばらくして樫太郎は話をはじめた。 海馬をずっと撃ってきたから、気持ちはよく分かると話した。しかし結論からいえば、仲間とおなじ暮らしをするのがいちばんいい。ともに豊漁を喜び、いっしょに不漁をなげいて暮らすのが最善だ。直治には漁師という本分があり、それをつくして生きるのが人の定めだ。仲間と違った浮き沈みを経験しても無意味で、生活にはならない。しかし、それが不可能なら、考えなくてはならないだろうといった。 「おまえが、みんなと違って生きる以上は、たとえ生きながらえたとしても、せいぜいおれの暮らししかできないだろう。殺生をつづけるなら、相応の報いがあるだろう。でもよ、おまえ。やけに嬉しそうだぜ。もう分かっているのだろうが、タテガミは、おまえの恋人だ。奴が、雄で、娘の姿をとれないのは、野生がはげしすぎるからだ。なんでも、かんでも、管理されているおれたちには、弱肉強食の自然が、綺麗で、眩しいのさ。おまえは、その野生に魅入られた。奴と心中ができなければ、おれが死んだあと、宇遠内にひとりで暮らす覚悟をする必要がある。いいか、ここの冬は、寒くてつらいぞ。しかしそうしたら、今日みたいに、若い海馬撃ちがたずねてくるかもしれない。二〇年ぶりのお神酒にありつくこともできる」 樫太朗は、じっと直治を睨みつけ、それから大声をだして笑った。 「もう、私はいやだよ」と妻の米子はいった。 「あんな肉、だれも食べないよ。狐だってほうっておくって、長谷川のババアが、大声で聞こえよがしにいっていたよ。悔しくて。くやしくて、涙をこらえるのに必死だったよ」 米子はそこまで話すと、また泣きはじめた。直治が撃ってきた海馬の肉を、橇にのせて島中を売りに歩かされたのだ。 「たいへんな亭主をもったわね。米ちゃんも、名人の女房じゃ苦労がたえないわね」 同級生の元子は、そういって笑った。 「おまえさんが、いくら島中を歩いて売ってこいと命じても、売れないものがある。あんな、ゲテモノ。ごわごわした、たわし、の毛皮はなんの役にも立たないし、使い道なんかないわよ。あったらだれかが、とっくに商売にしているわ。カレーに加工しても、大和煮をつくっても、食べられたものじゃない。漁協の沖さんもいっていたよ。もう、もちこまないで欲しいってさ」 「あんたがはじめた気持ちは、分かるよ。大体あの年、四〇なんて獲れたのがおかしかったんだよ。ちょっと名人なんておだてられて、馬鹿ばかしいったら、ありゃしない。去年なんか、半年かけて六頭しか撃てなかった。油代にもならないよ。どうやって生活していくつもりなんだい。あんなあてにもならないもの、仕事じゃないよ。旦那方が、やればいいんだ。あんたのお父さんだって、道楽とわり切ってやっていたんだろう。趣味で生活なんて、できるはずがないわよ。やればそれだけ、ふかみに嵌まっていくんだよ。勇吉さんは偉いよ。目立たないけど、いつもこつこつやって、身体にも気をつけて、ちかごろはまた、毎日バーベルをもちあげているってよ。船の借金もかえし終わって、娘は高校から札幌にだすんだってさ」 米子は、くりかえしいった。 その晩のことだった。真夜中に、ふとネズミがそうぞうしく天井を駆けまわっているのに、直治は気がついて目を覚ました。浜を吹きぬける風と波のさわがしい音につつまれて、いつもとは違う海の闇が部屋までしのびこんできた。暗闇のなかに、みょうな雰囲気がただよっているのを、彼は感じた。 須古頓の部落は、直治の祖父の時代には戸村の一族が住み、一〇軒くらいの家が玉砂利の浜にならんでいた。そこで暮らした人びとは、さまざまな理由からこの地を去っていった。銀次の家族もよそにいき、いまは直治と勇吉だけが住んでいた。銀次一家の廃屋は、最北限の潮と風によってかなり傷んでいた。 直治の家屋は、銀次と勇吉の家の真ん中で、玉砂利になった浜のあさい岸から一〇メートルほどはなれて三軒がならんで立っていた。岸壁は港として整備されていなかったから、ボートはひきあげられるが、小型の船舶は横づけもできない。ふたりの船は、船泊港においてあった。観光バスがとまる日本最北限の駐車場には、彼らの家の車が二台ずつ吹きさらしに駐車され、そこから船泊の港に通っていた。 直治と勇吉は、銀次一家のあばら家で鶏を飼っていた。やぶれた窓にはビニールのシートで覆って風雨が入るのをふせぎ、一日中ストーブを焚いていた。なかでは、三〇羽ほどの家禽が駆けまわっていた。 月もない真夜中に、銀次のあばら家から鶏の鳴き声がひびいた。もうれつな風がびゅうびゅうと吹き、真っ暗な外からカモメの声が不気味にきこえた。その闇のなかで、「ぐぼおぅ」。「ぐぼぅ」という不気味なひくくて太い唸り声がした。 「あんた、なんだろう」 米子が起きだして直治に声をかけた。 「分からない。なんだろうか」 「なにかがいるよ。あんた、私はいままでに、こんなみょうな唸り声なんか、きいたことがないよ」 「そうだな。分からない。でも、なにかがいるみたいだな」 「あんた、あいつがきているのじゃないのかい」 「馬鹿な。そんな話は、きいたこともない」 米子は、部屋のあかりをつけた。波音とはげしい風の吹く音にまじって、鶏の鳴き声がきこえていた。 「あんた、鶏小屋に、あいつがきているんじゃないのかい」 「まさか。あいつらは、魚しか食わないだろう。人がいる浜にあがってくるなんて、いままできいたことなんてないぞ」 直治はそうこたえ、ライフルをとりにいった。はげしい風が崖にあたる音なのか、「ぐぼおぅ」。「ぐぼぅ」という太くてひくい唸り声がくりかえしきこえた。ライフルを手にして、ふたりは、そのまま夜があけるのを待った。 空があかるくかわると、直治は鉄砲をもって鶏小屋にいった。小屋の入り口がこわれ、鶏は幾匹かがのこっているだけだった。そのとき、「だれか、いるのか」という勇吉の大きな声がきこえた。 「おれだ」と直治はこたえた。 ライフルをもった彼をみて、勇吉はいった。 「タテガミがきたのか。真夜中にすごい唸り声がきこえた。八重子がひどくこわがっていた」 「分からないが、あいつかもしれない。いままできいたこともない話だが、襲ってきたのだろうか。扉がやられた。ひどい風だったからな」 「なにかが、ぶつかったんだな」と勇吉はいった。 直治は、ライフルを床において両手で顔を覆った。小屋をでて空をみあげると、多くのカモメがうるさいほどに鳴きながら飛んでいた。振りかえると、鶏がいた銀次の家の屋根には、たくさんの真っ黒なカラスがならんでとまっていた。 直治は、どの鳥もいつもとは違い、ひどく攻撃的で、いまにも襲いかかってくる気がした。すべての動物が、彼の命をねらっているように思った。直治がそうして考えてみると、海馬という獣は、最強の捕食者でありながら普段は気づかれない生き物だった。なぜなら肉も皮も、人間にとってはなんの価値もないのだ。だから、いつしか「害獣」というレッテルをはられ、生存そのものが無価値とされ、人の意識のそとに追いやられた生き物だった。それがとつぜんキバをむいて、目のまえに出現したのだった。 直治と勇吉は協議して、鶏小屋は夜に電気をつけておくことにした。それで、ふたりで協力してこわれた玄関をなおした。 この事件があってから、米子は、もうここに住むのはいやだといいだした。娘といっしょに札幌にいくといって、別れ話をはじめた。 「五〇〇万、かえしておくれ。あたしの分だってあるんだから。娘と札幌にいくからさ。キャバレーの女にみついだ分、かえしておくれ。おまえさんが惚れられるわけがないだろう。あんたの仲間も、もうだれもよってこないじゃないか。銀次は、どうしたんだい。やめてくれってあんなに話したのに、船まで手放して借金だけがのこって。最初の年は、タテガミが申しわけなかったっていっただけだよ。あんたの網だけをやぶってしまって、それで償いをしてくれたんだよ。だから、そこで満足していりゃよかったんだよ。魚と違うんだよ。知恵があるのさ。おなじ手なんか食わないのさ」 くりかえし、米子はいっていた。 直治は、なんとかして金をつくる必要があった。家屋を売りたいとは思っても、須古頓の浜では買い手がいなかった。家のローンはのこっていなかったが、土地もふくめてそもそも資産価値がなかった。銀次に相談して、家屋を担保に三〇〇万を借金して米子と娘にやった。ふたりは、その金をもって札幌にでていった。結局、直治には六〇〇万の船のローンと三〇〇万の家の借金がのこった。彼は、この負債を生涯にわたって返済しなければならなかった。 米子と娘が家をでていき、がらんとした部屋でひとり横になって考えると、直治は自分が的にされていると、ひしひしと感じた。先日、鶏小屋を襲ってきたのは、タテガミの警告だったに違いなかった。 直次は、ずっと海馬をねらっていたつもりだった。しかし、いつの間にか立場が逆転し、あきらかに追いつめられていた。タテガミは、包囲網をせばめ、今度は警告ではなく、彼をしとめるつもりになっているのに違いなかった。 しかし、直治はやめられなかった。凍りつく青白い海と、生暖かい真っ赤な血。脳裏に焼きついた光景に、とりつかれていた。 直治は、神山のおババをまたたずねた。ババはすっかり弱って、床にふせっていた。彼は、この先どうしたらいいのか相談にのってもらおうと考えていた。 直治をみると、おババはいった。 「今度の医者は、まったくだめだ。完全なはずれで、往診にもきてくれん。往診料を一万円もとるのになにもみてはくれないし、注射はもちろん、わしに触りもしない。島の者が診察にいっても、カルテにひとつもかかず、患者が懸命に話しても知らん顔で英語の雑誌を読んでいるそうだ。いったい、なにさまのつもりなのだ。日本語は話せるらしいが、ただいるだけだ。金は道からでるらしいが、出来高制ではないから、さっぱり仕事をする気がないらしい。看護師の話では、医者の免許はほんものらしいが、医業ができるのかどうかも分からないらしい。道のほうへは、町長がなんとかしてくれと頼んだらしいが、なんともはや、ひどいのがきた。おまえが最初に網を千切られたころにいた若い医者は、ほんとうによかった。あれは、あたりだった。離島の医療に情熱をもっておった。熱い気持ちを、ババに語ってくれたのだ」 「その医者には、おれもおババにいわれて診断書をもらったことがあるよ」 「そうだ。あの医者はな、二〇〇万以上を町に寄付をしたそうだ。その話がふるっているではないか。看護師がいうには、診療所は道の出先機関で、離島とはいっても給与には上限があるらしい。あたりまえだ。道の知事より給与がたかいはずがない。毎日、時間外と当直の手当がでて、さらに休みの日にも、休日勤務の報酬がつくらしい。それを足していくと一五〇万にはなるらしい。本給はかなりひくくて、ボーナスは看護師のほうが多いという話じゃった。医者は、どいつもこいつも金を目あてにきているのだから、町でも協力金をはらうのだそうだ。道からもらう給与にたいして、かかる税金を補填するらしい。それが、あの医者には気に入らなかったそうで、不正はいやだと役所の窓口でもめたらしい。それで、税務課の職員が事情を説明しにいったのだな。だしたお金をうけとってもらえずに、つっかえされて難儀したそうだ。助役がこうした慣例を説明しにたずねたらしいが、どうしても拒否されたらしい。町長が役所の自室によんで、町としてもたいへんにこまると話したら、寄付をすることになったのだそうだ。あんな医者は、もう二度とこない。志をもった者だったのだ。もしおまえが今度の医者にかかろうかという相談ならば、やめといたほうがいい」 直治の脳裏に、金縁の眼鏡をかけた男の姿が浮かんだ。年齢も、顔立ちもはっきりとはしなかった。 「二〇〇万なんて、逆立ちしたってない。余計にもらったら、おれだって寄付くらいするわ。おババ、ほかでもないのだが、すっかり弱っているんだ。海馬がさっぱり撃てなくなって、女房にも逃げられたし、もうどうやって暮らしていくのか、見当もつかないぐあいになっている」と直治はいった。 「おまえの話は、きいておる。だからババは、おどしで撃つことには賛成したが海馬撃ちになれとは話さなかったぞ。なんだか話では、船も家も手放して、家族も離散してしまったというではないか。四つ足を殺すのはいかんと、ババが話したのを覚えているのか」 「それが、撃てるとは思えなかったんだ。弾丸があたるなんて、考えもしなかったんだ。あの年、撃った銃弾がみんな命中して、四〇頭も獲れたんだ。それが、不運のはじまりになった。なんであの年にあんなに弾丸があたったのか、もうさっぱり分からない。おれは、おババが憑き物を祓ってくれて、それがよかったのだろうとばかし考えていたのだが、翌年からは、いいことがひとつもない。なんで、あの年、あんなにあたったのだろう」 「直治、それが世の中のこわいところなのだ。だめでも一定ならば、なんとでも対応できる。しかし、浮いたり沈んだりするのには、なかなかついてはいけないのだ。いままで、おまえがいっぱい獲ってきたのが問題だったのだ。だからババは、海馬をおどかして気がすんだら考えをかえて、ほそぼそとやれと話したぞ。そうすれば、それなりに一定の生活の方法があったはずなのだ」 「いまとなっては、ババのいうことはよく分かる。しかし、いまさら話されても、これからどうしたらいいのだろうか」 「まだ、あのタテガミとかいう、でかいのが縄張りをまもっているのか」 「そうなんだ」 「でももう、かれこれ五年になるな。タテガミは、いつまでやる気なのだろう。そろそろ奴も終わり、なのではないのか」 「そうだな。そういえば、あいつも終わりかもしれない。たしかに、タテガミもそろそろ、交代することになるんだ。そうか。だから、このあいだ、おれのところにやってきたのだ。そうか、あいつも終わりなんだ」 直治はくりかえしいって、幾度もうなずいていた。 四 昨晩から吹いていた風が、空があかるみはじめるころには、ぱたりとやんだ。凪いだ日本海を、船は真っすぐに北上していた。上下が「つなぎ」になった防寒服のうえから、さらに防水のコートをはおった背のたかい戸村勇吉は、自慢の筋肉も服でかくれて、しょぼくれた顔をしていた。 「どうせいっても、獲れないだろう」と勇吉は思った。 「直、帰ろうぜ」と彼は大きな声をかけた。 「勘弁してくれよ。これを最後に、もうやめろよ。今日はよ、油代はおれがもつからよ。これっきりにしてくれないか」 やせて背のひくい戸村直治は、船首のちかくに立てた鉄製の柱と自分の胴の部分を、太いロープでがっちりとむすんでいた。命綱でポールと一体になった直治は微動だにせず、だまったまま、じっと北の海をみつめていた。 勇吉は、また声をかけた。 「嬶が口やかましくてよ。来年、札幌の高校へいかせようってな。二番目の娘をさ。うるさくてよ。あの野郎、口からうまれてきたんだな」 船のエンジン音が声をさえぎるのか、直治はだまったままじっと海面をみつめていた。もう四月になったというのに、もうれつな寒波が襲っていた。船泊の港では感じなかった冷気が、勇吉の頬をくりかえしさしつらぬいていた。大気は凍りつき、水分はすべて結晶し、空はぬける青さだった。 「なんでいくのよ。どうしていっしょ、でなければならないのよ。直治は、あんたのなんなのよ」 出掛けに、「ろくでなし」と大声で罵った妻の八重子の声が、勇吉の耳にのこっていた。 「人がいいのも、あきれるわ」 勇吉が自分のことを思いながら舳先をみると、頬のこけた直治は振りかえって空をみつめていた。恍惚とした表情で真っ青な天空をみあげていた。その視線を追うと、利尻の山が朝日にかがやいているのが目に入った。 「珍しいな。雲ひとつない」 そう勇吉がまた声をかけると、直治にはなにもきこえないのか、だまってぼうぜんと空をみつめていた。その様子はまるで魂がぬけたみたいで、話しかけるのをやめた。 「あの姿をみるとな、絶対にいかしておけないって、思うんだぜ」 腹の底からひびく声で、直治はとつぜんつぶやいた。 「なにかいったか」と勇吉はきいた。 直治がいま、みつめる北の海は、目をこらしてみても彼にはなにもみえなかった。少々気味が悪くなってきて、勇吉は操舵室にもどって自動にしていたエンジンを切った。機関がプスプスと音をのこしながら静かになると、みわたすかぎりなにもない藍色の海のなかで、呼吸している者はふたりしかいなかった。 「なんだ。故障か」 直治は振りかえり、勇吉にむかってきいた。 「おまえ、今日はおかしいぜ」 「そうか」 「なにかがみえるのか、そこから」 「タテガミがみえる」 「大丈夫か、おまえ。昨日、飲みすぎたんじゃないのか。そこからはなにもみえないぜ。あと五分はいかないとな」 「そうか。みえないのか」 「大丈夫か。タテガミって、あの馬鹿でかい奴か。おまえの遺恨の雄だよな。やめとけよ。どれを撃ったって、値段はおなじなんだ。小さいのにしておけ。奴の雌をみんなやっちまったらいい。でも、またつぎのがくるからおなじだけどな。たしかにいいよな、奴は。おれには、分かるよ。自由に食いあらしてよ。雌にかこまれてよ。やりたいだけ、すきにしまくってよ。直、おれには、おまえの気持ちがよく分かるんだよ。どうせ海で暮らすなら、つぎにうまれるときは、あいつになりたいってな。タテガミのほうが、いいんじゃないのかってな。どこから考えたってよ。いくらやっても、おれたちはなんにもできないよ。でもよ、仕方がねえじゃないかよ。おれたちは、こううまれてきてしまったんだし。神さまの考えることなんか、分からねえよ。ここは、もうこれで今日を最後ってして、ひきかえしたらどうだ。おまえは頑張ったんだから。それは、おれがいちばんよく分かっているのだから。なんだって潮時はあるぜ。こつこつやれば女房だって帰ってくるし、また昔みたいになれるって」 「べつに、おれは、もう意固地になっているわけじゃあないんだ」 直治は、雲ひとつかかっていない利尻の山をみながらいった。凪いだ藍色の日本海にこつぜんと出現する海抜、一七二一メートルの利尻富士は、優美な姿を朝日のなかに映しだしていた。三角形で扁平な礼文とは対照的に、利尻は円形で見事な富士をかかえていた。この山は、海底に裾をひろげて、もうれつに巨大な姿をしているはずだった。いまは、その先端部だけがみえていた。 直治は、タテガミについて考えつづけていた。 そもそも、海馬は孕んでも一匹で、双生はきわめてまれだ。雌は、うんだ子供を二年間かけて育てる。あいつがはじめてやってきたのは五年まえで、二〇頭の雌たちをつれていた。それからはずっとタテガミの天下で、ここで王さまになって、自分の子供をうませつづけている。雄が成獣に生育するのは四年だが、雌が出産できるまでには五年はかかる。つまり、奴はながくやりすぎたわけだ。そろそろ自分の種の娘も、ハーレムに入れなけりゃならない。だから考えてみると、自然というのはうまくできている。いつまでもハーレムの主人をやっていることは、不可能なんだ。奴は、もうそろそろ引退しなけりゃならない。おれがあともうすこし我慢していれば、自分の息子に王さまの地位をうばわれて、どのみち、あいつはいなくなる。タテガミは、おれたちの親父みたいに惨めに死ぬことになるんだ。みんな、そうやって滅んでいく。それが、自然の摂理というわけだ。だからおれとの因縁も、つきつめてみりゃ道理で、とうぜんの成り行きだった。もともと、獲りすぎていたんだ。奴の食い分まで、おれがみんな漁獲してしまったんだから。だから、あいつがちょっかいをだしてきたのも、神さまが決めた、はじめから分かっていたことだ。ようするに、鱈はタテガミのものだった。おれが、間違っていた。タテガミは、恨む対象ではなかったんだ。奴は、おれに自分の人生がなんであるのか教えてくれた。どちらかといえば、タテガミに感謝している。どのみち、おれは脳卒中を起こして、爺さまや親父とおなじように肺炎で死ぬことになっていたんだ。 「勇吉、悪いな。つきあってもらって。おれは、今日を最後にするつもりだ」 「なんだ、きいていたのか、おまえ。さっきはよ、うつけたみたいになって、ちょっと薄気味悪かったぜ。きこえてないんだ、とばかし思っていたんだが」 「なにか、いったのか」 直治は、不審そうに勇吉を振りかえってみてきいた。 「だからよ。今日を最後にしてくれってよ」 「そうか、迷惑をかけたよな。おまえの嬶が、うるさいんだろう。よく分かっているよ。おれもその気だから、もう心配するな。今日までに、借りた金。全額ではないがな。今朝、おまえのロッカーに入れておいた。帰ったら確認してくれ」 「おまえ、どこから借りたんだ。そうか、銀次か。あの野郎が。あいつは、足元をみて、飛んでもないことをいいだすからな。おなじ戸村の一族で、ガキのときからずっと同級生だっていうのに。おまえ、今度はなにを売ったんだ。そんなもの、もうなかったんじゃないのか。あの野郎、なにか高利をふっかけてきたのか。一度、あいつはコテンパンにしてやろうと思っていたんだ。帰ったら、いっしょに相談しよう。あいつの話になんか、絶対にのっちゃあだめだ」 「大丈夫だ。勇吉、これ以上、おまえには迷惑はかけない。まだ、おれは、すこしもっていたんだ。売るものも、ちゃんとのこっていたのさ」 「そうだったのか。そういえば、おまえに船、売っちまえっていったのも、あいつだったよな。あれで、銀次は一〇〇万ももうけたんだよな。でもよ、どこまでいってもおれたちは漁業組合の金づるで、島で魚を獲る者、だれひとりとして黒字の奴はいないんだ。生きれば、その分だけ、漁協に借金ができる仕組みになっているんだからな。このからくりのたったひとりの例外が、鉄砲をもつまえのおまえだったんだから。まったくおれたちは、なんのために皮膚も切れる凍てつく冬の海に、日ものぼらないうちから船をだして、板子一枚をはさんだ地獄のうえで毎日まいにち殺生をくりかえしているんだろうな。それが、だれの利益にもならないだなんて、馬鹿ばかしくておかしくて笑っちまうよな。実際にはだれかがもうけるんだろうが、よくは分からないけどよ。すくなくともよ、結局口先だけで生きている銀次がいちばんいい思いをするなんて、それだけは絶対に許せないよな」 「でもよ。銀次の親父は、若い時分に鱈漁で死んだんだ。奴は苦労をして、思うことがあるんだろう。人は、それぞれってわけだ」 「でも、今日が最後なら、おれは、それでいいんだ。直治、なにも気にしないでくれ。いいんだよ、おれは。嬶がなにをわめこうが、おなじ部落にうまれて、ガキのときから、おまえとは一心同体なんだ。でもよ、もう五年になるのか」 勇吉は考えぶか気にいった。それで、またエンジンをかけて、船は北にむかいはじめた。 岩場と、その奥に小さな島がみえた。小島はすこし尖った形をしていた。右の一部が岬状に海にむかってつきでて、左は岩がころがる浅瀬につづいていた。船のエンジン音がすみ切った空にひびくと、海馬の群れは海中に拡散していった。 直治は、タテガミだけをねらっていた。彼は、浅瀬になんとかさそいこもうと、執拗に追いたてはじめた。タテガミは島と船とにはさまれまいと、方向をかえて逃げていた。二時間もつづいた、一騎打ちだった。 直治は、海面にむかって撃った。銃弾はあたらなかったが、タテガミの腹のすぐ脇を通った。海馬は、海中にもぐった。その瞬間、直治は間髪を入れずに海面を撃った。銃弾はタテガミのまさにむかおうとする、鼻づらをぬけていった。海馬が大きく反転するさまが目に入った。 「右だ」 直治は大きく叫んだ。その声にあわせて、勇吉は面舵をとった。船体はきしみながら回転して、島の岬状になった部分が右前方にみえた。 「とまれ」 直治は叫んだ。勇吉はエンジンをとめた。世界を静寂が支配していた。海面には、つめたい風が吹いていた。とつぜん直治が、海中にむかって二発の弾丸を撃った。切りさく銃声が木霊した。 「この野郎。岬だ。そっちにいけ」 船は、また走りはじめた。岬はもう目のまえだった。左は島の浅瀬がつづいていた。 「とまれ」 直治はいった。 もう一段追いこんだら、たしかに逃げ場はない。ほんとうに、ここにいるのか。勇吉は、様子をみて思った。タテガミには、みえている。船の腹が、どこにあるのか。海馬との戦いでは、経験のあさい若い奴を獲ることしかできない。おどろいてむやみに逃げまわる雌か、うまれたての、一、二齢の二メートルにもみたない幼獣しか獲れない。何度か難を逃れて大きくなった雄は、この大海原をどう逃げればいいのか、よく分かっているのだ。相手は海馬撃ちがどこにいて、なにを考えるのか充分に理解している。揺れる船のうえから、致命弾をうける可能性など皆無にひとしい。 立てつづけに二発の銃声がした。 勇吉は思った。直には、みえているのだろうか。もう逃げられているのではないか。いくらなんでも、一〇分くらいはたった気がする。すくなくとも五分はたっている。 「左だ。ゆっくりいけ」 直治のいう通りすすむと、船は岬と陸地をむすぶ半円形のちょうど中央にいた。 もしほんとうに、ここに追いこまれていれば、普通は逃げられないと、勇吉は思った。追いつめられた海馬が浅瀬にのりあげ、ほとんど身動きができなくなり、無理やり沖に逃げだそうとして、船の右舷や左舷から空中にとびあがる。そのとき、海獣がまったくの無防備の姿をさらすのを、勇吉は何度もみてきた。そうは息はつづかない。通常なら五分ちかくはもぐれるが、これだけ追われつづけていれば、海馬も体力をはげしく消耗している。とても五分はもぐってはいられない。 銃声がひびきわたった。海面が真っ赤にそまった。その瞬間、 「くるぞ」と直治が大声で叫び、また銃声がひびいた。 船体が、岩に正面衝突したほどのはげしい揺れを感じた。海水が頭上からふってきて、すべてがこわれ、ひっくりかえる衝撃だった。二トンの物体と、船は正面からぶつかっていた。 勇吉がそのとき遭遇したのは、もうれつに大きい、飛んでもなく巨大な海馬だった。いままでみたこともない、褐色の膚をした歯鯨ほどの大きさで、ながいキバをもっていた。海馬は、船首からのりこんできた。その部分を改造した柱にしがみつきながら、直治はひき金をひいた。しかし、弾丸はでなかった。 「この野郎。ただじゃ、おかない」 直治は大きくそう叫ぶと、腹巻きから大きなナイフをとりだし、柱とむすびつけていたロープを切った。そして、タテガミにむかって飛んだ。つぎの瞬間、ナイフは海馬の左の目にめりこんだ。 「ぐぼおぅ」 ひくいタテガミの唸り声がした。海馬は、直治の胴に食らいついた。腹にキバを立てられた直は、左手でタテガミの首のまわりにある毛をつかみ、恍惚とした表情になって右手でナイフをつきさしていた。血しぶきをあげていた海馬は、胴にかみついた状態で、頭を左右につよく振った。やがて、直治をくわえたまま海面におり、そして勇吉のみているなか、ゆうゆうと右舷を通って島をはなれていった。 その様子を、彼はぼうぜんとながめていた。 どのくらいの時間がたったのだろうか。つめたい風が、だれもいない海面をゆったりと吹いていた。気がつくと、溟海はすっかり静寂をとりもどしていた。おどろきが一段落した勇吉は、きっと直治はこの海の伝説になるのだろうと思った。 そして、悲しいというよりは、自分がひどく不愉快なのに気がついた。 「直治の、馬鹿野郎」 「ふざけんなよ。直治」 だれもいない、つめたい海にむかって、勇吉は絶叫した。 「本家っていうのは、ずるい」 「分家にうまれて、いいことなんか、なにひとつ、なかったぞ」 そう叫びながら、勇吉は涙が頬をつたうのを感じた。 海馬、一一〇枚、了