アルジェの朝                                      由布木 秀  すがすがしい早朝の大気が空一面にひろがると、小鳥たちはどこからともなくやってきて楽し気にさえずりはじめた。ランボオがあこがれた北アフリカの太陽もまだ力が弱く、そのもとでひろげられる人びとの愚かな戦いを忘れさせる、青くすき通った朝だった。それは、漆黒の闇をへてはじめて得られたものだったが、人間にとっては高い代価だった。  街角で銃声が起こった。小鳥はさえずりをやめ、街頭に死臭が漂っていった。  街の東の軍事犯収容所で、チェルマーシーという名の軍曹が上官殺害の罪で射殺され、共同墓地にうめられた。三〇歳なかばの若い男だった。頬はこけやつれていたが、青くすんだ瞳が印象的だった。妻子はなかったが、これから結婚し可愛いい子供をもうけ、幸せな家庭をもつ権利もあったはずだった。しかし、彼は軍の法に裁かれ罪人となり、祖国のために戦った仲間によって射殺された。  チェルマーシーは、レジスタンスにくわわらず、アルジェリア戦争に参加しなかったなら、不合理な戦いに苦しむこともなかった。その愛が可憐な乙女にむけられていたら、無縁仏となってすてられもしなかったろう。しかし、彼の狂おしい情愛は祖国に面し、青年らしい野心と自負の念から、レジスタンスにくわわったのだった。  チェルマーシーは、生来臆病な人間だった。彼は、レジスタンス運動のなかで、なによりも拷問を恐れた。また、そう考える自分を憂慮した。ゲシュタポにとらえられ、廃人になった仲間に会うと、逃げだしたい戦慄が背筋に走った。つねに青酸カリを携帯していたが、実際にこのすっぱい粒剤を飲めるかどうかも分からなかった。  ロドリゴは、チェルマーシーがレジスタンスにひき入れたのだったが、彼とは根本的に違う人間だった。外見からは文学青年を思わせたが、白くて顎の尖った顔立ちからは想像できない精神のつよさをもっていた。 「価値を感じたら、それひとつで重くなる。なにかを行うためには、考えることは放棄し、ある意味、死なねばならない」  ロドリゴは、いった。 「祖国に、価値がないというのか。狂ったドイツ野郎を倒して、自由を手に入れることが無価値だと思うのか」 「祖国か」  ひくく呟いてから、ロドリゴはいった。 「おれは、たまたまフランスにうまれた。だから、ドイツと戦っている。祖国の奪還に価値をもつのは、おれたちではない。母国のために戦うのを非難するつもりはない。勝利は、混乱に乗じようとする共産党や、血をあびずに瞑想にふけるドゴールには、権力への夢につながる。しかし戦いに勝っても、故郷の村も両親も帰ってはこない。制勝は、おまえになにをもたらすのか」 「たしかに、なにももどってはこない」  チェルマーシーは、はるか彼方をながめて考えはじめた。 「アンは、まるで犬ね。大好きなお兄ちゃんが、追いかけてくれるんですものね。簡単にはつかまらないわ」  ブラシをもったチェルマーシーの手をすりぬけ、アンは走って逃げていた。 「お父さんも、支度ができたわよ。アンは、いかないの。神さまに嫌われちゃうわよ」 「教会になんて、いきたくないわ。お祈りしなけりゃ、意地悪するなんて、神さまはケチで大嫌いよ」  寝癖がつよくて髪をみじかくしていたアンは、チェルマーシーにブラシを当ててもらいながらいった。 「教会から帰ってきたら、湖でパパが大きな魚をつってくれるわ。サンドイッチのほかに、特製のパンケーキもあるのよ」 母は、笑っていった。 「お兄ちゃん、いちばん後ろの席にしてね。終わったら、すぐに外にでれるから」 「分かったよ」  チェルマーシーは、アンの手をとっていった。  礼拝が終わると、ふたりは最初に教会をでた。爽やかな初夏の日で、太陽がさんさんと輝いていた。戦争は、はじまっていたが、頑強なマジノ戦と国力の差を考え、戦いがドイツの降伏で終わることを疑う者はいなかった。とつぜんとおい空に影がみえ、飛行機の轟音が聞こえたときも、だれもが友軍機だと思った。ふたりは、背後で耳をつんざく爆発音を聞いた。爆風に身をかがめてふりかえると、父や母がいたはずの教会はもうなかった。茫然と廃墟をながめる兄妹に、ふたたび轟音が聞こえてきた。チェルマーシーは「ふせろ」と大きくさけんで地にふしたが、アンはおどろいて走りだした。逃げる妹にむかって機銃掃射の音がつづいた。土煙のなかでアンは倒れ、戦闘機は去っていった。走りよったチェルマーシーがみたのは、頭部を射貫かれて絶命した一二歳になったばかりの妹だった。 「面白半分だったのだ。奴らは、空から射撃の練習をしたのだ。物事には、善悪がある。容認できることと、そうでないものが存在する」  チェルマーシーは、ロドリゴが敵のひとりでもあるかのように、じっと凝視した。 「もどってもこない過去を、どう許さないのだ」 「教えてやるしかない。この苦しみ、悲しみ、絶望。その数々を心に刻みつけてやる。血でもってしか返還できないものがある。あいつらを、おなじにしてやる」  彼は嗚咽とともにいい、しばらくしてロドリゴにたずねた。 「おまえは、なぜ戦うのだ」  真剣な表情をみて、ロドリゴは小さく笑った。 「なぜは、いらない。この世に生をうけたこと、それがすべてだ。おれがいま、銃で自分の頭をうったとしても、存在する以上の理由などない。今日の空が晴れているだけで、充分な死ぬ根拠になる」  ロドリゴは、寂しそうに笑った。  レジスタンスの仲間同士で話す機会があると、チェルマーシーは民間人だった両親の死や、人の生きる権利について熱烈に語った。そばでだまって聞くロドリゴを、理解できなかった。知っていたのは、彼が孤児として育ったことだった。 「おれは、ひとりで生きてきた。温かい家庭も父母の愛も知らない。しかし、運命を恨んでなどいないし、納得したから生きてきた」  その言葉に、チェルマーシーは困惑した。  「憎悪もなく、どうして殺しあいができるのだろう。ロドリゴが、ナチを憎む理由はなんなのだろう。不合理にあつかわれたことで、おれが敵を憎悪するならば、彼はフランスの社会や法律を、それらを支えるすべての人間を唾棄するのではないか。それとも、なんの感情もなく、愛憎を超越した世界に生きているのか」  チェルマーシーは不審な思いで、ロドリゴをみいった。ただ彼の恐ろしさだけは、はっきりと理解できた。  ロドリゴは、ナチの捕虜を手に入れたとき容赦しなかった。その残忍さは、チェルマーシーの心にひそむ恐れと交錯した。椅子にしばられひくい呻き声を発する男をまえに、そっと内ポケットをさぐり錠剤を確認せずにはいられなかった。ロドリゴの眼前では平静をよそおっていたが、彼のするどい視線に出会うと、冷たい風が心をよぎった。  たとえば闇のなかで目覚めてしまった夜、目に焼きついた昼の凄惨な場面は、チェルマーシーを容易に眠らせなかった。父や母にそばにいてほしいという稚拙な思いが、脳裏に浮かんだ。夢でエスエスにとらえられ、両手を椅子の後ろでしばられ、拷問をうける場面にも遭遇した。自白をせまる男は、ロドリゴに似ていた。 「こいつは臆病だから、すぐはく」  男はいって、彼の内ポケットから青酸をとりだし、 「おまえにこれが飲めるのか」と笑った。  チェルマーシーは、奥歯にドリルを入れられて目覚めた。身体中にねばつく油汗を感じ、部屋のすみにいるはずの自分の分身をさがした。指で目頭をつよく押してひとりだと確認すると、彼はおもむろに立ちあがり、カーテンの隙間から外をながめた。石づくりの舗道には、街灯もついていなかった。チェルマーシーは、子供のころの幸せだった日々を思い起こした。母の白い優しい指先が浮かんだ。家のまえには林が、奥には湖があり、泳いだり、つりやボートをこいだりした。明るい日の光がふりそそぎ、緑の匂いが満ち、命がうごめいていると感じた。彼が世界と調和しとけこみ、主役として生きていると確信できた。しかし、いま目にするのは、壊れた家屋と爆風によって無残に折れた木々と、廃墟と化した町だった。  夏の昼下がりの街角。ちょっとした湿気が漂い、荷をかかえた主婦や無邪気な子供たちが遊んでいた。むかいのカフェでは、若い男女が恋を語っていた。化粧品も洒落た服もなかったが、パリジェンヌは、このときいちばん美しかった。代用コーヒーで我慢すれば、占領下ではあったが恋するふたりには素敵な日に違いなかった。  とつぜん鉤十字をつけた一台のジープがとまると、なかから武装した幾人かの兵隊が踊りでて、市民に発砲をはじめた。鼓膜をやぶるばかりの銃声がひびき、兵士の車は去っていった。一瞬の出来事で、いあわせた多くの市民は、なにが起こったのか分からなかった。軍用ジープが視野から消えてはじめて、人びとは事件の重大さに気がついた。のっぽの男が横たわる子に走りより、息を飲んだ。頭を射貫かれた子供のまわりで、人びとは立ちつくした。ジャガイモの袋をにぎりしめたまま、血まみれで絶命している女もいた。沈黙のなかで家路についた人びとは、夜おそく虐殺の理由を知った。  ラジオは、ドイツ兵を殺害したレジスタンスへの報復だとつげていた。 「これは、おれたちを市民から切り離そうとする卑劣な作戦だ。もちろん愚劣ゆえに力強い。だからこそ、おれたちは勝利せねばならない。奴らを倒すことなしに、この状況を脱出できない」 「しかし、市民にはなんの罪はない。住民が殺されるのを、おれはみてはいられない。それが、おれたちのせいだとしたら」  チェルマーシーは、口籠もった。 「おまえの話は、われわれがドイツと戦わねばならない理由そのものだ。うちやぶらないかぎり、奴たちは帝王であり、おれたちは虫けらなのだ。これは、奴らの狂気、悪にたいする正義の戦いなのだ。正当性は、おれたちにある。正義のためには、すべてが許される。自由フランスは、勝ちとられるのだ。おまえの弱い気持ちは乗りこえるべきだ。おれたちは、無罪だ。罪があるのは、ナチであり、ヴィシーであり、臆病な小市民だ。祖国の危機をまえに立ちあがらぬ者にこそ罪科をもっても、おれたちが責められる道理はない。無抵抗は、奴らをつけあがらせる自殺への道だ」 「しかし、臆病で利己的な虫けらであっても、もっとも弱い人びとを犠牲にする権利が、おれたちにはあるのだろうか。良心が痛むことはないのか」  チェルマーシーの言葉に、ロドリゴは首をふった。 「おまえは最初に、この戦闘を自由フランスのためと位置づけた。おれたちは、戦いに勝利する道をとった。そうしたからには、すすむべき場所はここしかない。おまえが小市民たちの道をとっていればべつだが、レジスタンスへ参加した以上、もうひきかえすわけにはいかない。船はでてしまったのだ。一部の人びとが、おれたちの抵抗を迷惑だと考えても仕方がない。陸地にのこってみおくった者たちは、大海にでた船が嵐にあい、海の藻屑となるまいと必死で抗っているのが分からないのは当然だろう。同胞が死ぬのに憐憫を感じるのは、勝たねばならない理由だろう。こんなことで抵抗をやめたとしたら、彼らの死はなんなのだ。なんと、いいわけするのか。自由フランスを勝ちとるのが無理で、あきらめるなら、彼らは犬死にしたことになる。いずれ人びとも、戦って血の代価をはらわないかぎり、自由は得られないと知るだろう。たしかに、生き血は高い。しかし支払った以上は、得なければならない。自由フランスのためにながされた血液は、その実現によってしか報われない。血は、われわれをひとつにする。ナチは、全市民を敵にまわした。おれたちが戦いつづけるかぎり、奴らは泥沼に入りこむ。報復がくりかえされるたびに、全市民はさらにナチを憎むはずだ。レジスタンスの正当性を問うのは、論議の方向が違っている。ナチに、無辜な市民をどんどん殺させればよい。そうすれば、幾人かは立ちあがるはずだ」  ロドリゴは真剣な表情でいうと、溜め息をついた。しばらくして、またしゃべりはじめた。 「良心とは、臆病のことだと思わないか。人がなにかを、どうしてもしなければならないときに、不可避に生じる重荷から逃げる常套文句ではないか」 「それでは、自由は、正義は、なんなのだ」  チェルマーシーは思った。しかし、ロドリゴは彼の心をさっしたのか、間髪をあけずにいった。 「臆病、虚偽、奴隷根性。そうしたもろもろの人間の弱さ、悪とも呼ぶべきものに、良心という言葉は彩られている。道義心とは、人の愚かしさが生みだす、踏みこえねばならない観念のひとつだ。おれたちは慈悲の心、大慈悲心をもって戦うのだ」  アルジェリア戦争は、自由フランスが起こした過ちのひとつだった。一八三〇年、この砂の大地をシャルル十世がフランスに併合して以来、一〇〇余年の年月がながれた。アルジェリア人民は、支配者であるフランス政府の圧制にあえいでいた。それは、ナチの占領下にあったフランス人民とおなじだった。  一九五四年六月、 ディエン・ヴィエン・フーで仏軍がヴェトナム人民のナショナリズムに敗退したころ、FLN(Front de Liberation Nationale、民族解放戦線)は、既成のMTLD(Mouvement pour le Triomphe des Libertes Democratiques、民主的自由の勝利のための運動)やUDMA(Union Democratique du Manifeste Algerien、アルジェリア宣言民主同盟)の反対を押し切り武装闘争に突入した。しかし、レジスタンスがナチの圧倒的な武力のまえに歯が立たなかったのとおなじで、銃も満足にない彼らの抵抗運動が暗礁に乗りあげたのは無理からぬ話だった。FLNの軍事組織ALN(Armee de Liberation Nationale、民族解放軍)は、最初の戦闘にやぶれると解体寸前にまでおいこまれた。  しかし、レジスタンスがどんな迫害にも屈しなかった通り、彼らは徐々に体勢を立てなおし、執拗なゲリラ戦をつづけた。仏軍は、容赦するところを知らなかった。多くの罪のない人民が、兵士の銃や仏人コロンの棍棒により虐殺された。FLNとレジスタンスとの違いは、蛆虫だった仏人がアルジェリアでは帝王になったことだった。ロドリゴとチェルマーシーはこの戦闘に参加した。  一九五七年一月、アルジェの戦いははじまった。戦闘の舞台になった薄暗いカスバで、相方の火器により三〇〇という人命がうしなわれた。FLNはアルジェの街から完全に撤退する重大な危機に落ち入った。そして、仏軍の追究がはじまった。  ロドリゴたちに課せられた使命は、厄介な反対者を根こそぎに退治することだった。場末の小路から、不審な男をつれだし拷問をくわえた。すこしでも情報をもつと思われた者は、有無をいわさず痛めつけ、フランスがなにを考えているか、よく分からせることが任務だった。ロドリゴは、使命を充分にはたした。  アルジェの戦いは、チェルマーシーにとって胸が痛むものだった。彼らは侵略者にすぎず、徹底した抑圧者だった。監禁、殺戮、拷問。彼が以前もっとも恐れたことを、今度は自分たちがくわえたのだ。  ブラックジャックをはめての撲殺、すべての指を一本ずつ切り落とし、腕を折り、眼球を摘出し、生皮をはぐ。バーナーで焼かれる蛋白質の異臭をこらえ、濃硫酸を肛門から注入する。そして、彼らがレジスタンスを支えた人びととおなじように苦痛にたえるほど、チェルマーシーは動揺した。 「おれたちは、ナチと変わらない。エスエスになった。十年まえ、おれたちが青春のすべてを祖国の自由にささげたのと、まったくおなじに、彼らは独立のために戦っている。おれが憎悪し、非人道性を非難し、撲滅を血で誓いあったナチに変わってしまった。ロドリゴ、いったいおれたちはこれからどうなるのか」   チェルマーシーは酔っていた。ほろ酔いの加減のロドリゴは、色白の頬を赤くそめながらいった。 「考えすぎるのは、病気だ。おまえは、昔からそうだった。軍人にならなかったら文学青年でいられたのだろうが、目のまえにあるのは現実で、理念ではない。自ら選択した事実を、直視するべきだ。レジスタンスの闘士であるおまえに、分からないはずはあるまい」  ロドリゴは、チェルマーシーをみて、 「明日はとなりの村に出掛ける。FLNの指導者が隠れているという情報が入った」と小声でいった。 「おまえが、うらやましい」  それを聞くとロドリゴは、大声で笑っていった。 「楽しむことだ。夢ではなく、現実を」  翌朝はやく、ロドリゴの一隊はとなり村にむかった。肥沃な土地は仏人のコロンが支配し、のこったわずかな耕地に多くのアルジェリア人が生活の糧をもとめていた。そこも貧しい村のひとつだった。今日もまた、すべてを焼きつくつもりの太陽が黄道をのぼりはじめて間もないころに到着すると、ロドリゴは村人全員を広場にあつめていった。 「この村にFLNの男が隠れている。おまえたちのなかで知っている者がいたら、名乗りでるがいい。報酬をあたえよう」  そういって、彼は札束を地に落とした。 「一万フランだ。最初に名乗りでた者にこれをやろう」  住民は、だまっていた。 「日がしずむまでは、待とう。知っている者は、おれの宿舎までこい。秘密がいいなら、そうしよう。夕方まで待って、だれもこなかったときには、おまえたちは自分たち用の大きな穴を掘らねばならない。どちらがいいか、よく考えることだ」  ロドリゴは、村人をゆっくりとみまわしてつづけた。 「帰って考慮しろ。ただし、ここからでようとする者は、容赦なく射殺する」  ロドリゴとチェルマーシーは、村長の家で昼食をとった。日輪はぎらぎらとし、窓の外は果てしもない不毛の地がつづいていた。太陽は、自分のためにこの沙漠をつくったのではあるまいか、とチェルマーシーは感じた。 「くると思うか」  窓から外をながめながら、チェルマーシーはいった。ロドリゴはだまっていた。  夕方になり涼しい風が吹きだすころ、チェルマーシーはうたた寝から目覚めた。兵士が入ってきてロドリゴにいった。 「少佐、村の者がひとりきております」 「そうか。呼んでこい」とロドリゴはいった。 「ようやく、おいでな去った」  兵士は、若い男をつれてきた。おどおどとした気の弱そうな若者は、ロドリゴにみつめられると床に目をやった。 「まあ。こちらにすわれ」  彼は、椅子をさしていった。 「じつは」  青年は口籠もり、さらにつづけていった。 「つまり、将軍のいわれる通り、ひとり隠れているらしいので」  若者は、ロドリゴがなにかをたずねると思って口をとじた。しかし、だまって窓の外をみていると、ふたたびいった。「村はずれのエステル爺さんの家です」  そうつげ、また口をつぐんだ。 「爺さんは、FLNと関係をもっています。息子がフランス軍に殺されたので、孫が入ったという噂です。隠れているのが、だれかは知りません」  ロドリゴは、青年を凝視めた。男は弁解してあわてていった。 「ほんとうです。知らないのです。でも、たしかなことなんです。この部落でFLNに関係があるのは、エステル爺さんと、隣家のクリムです。でも、となりにはいません。いれば分かるのです。ほんとうです、信じてください」  泣きそうな声で青年はいった。  沈黙ののち、ロドリゴは口をひらいた。 「もちろん、君を信じている。村はずれのエステル爺さんだな。ありがとう。これで、部落はすくわれた。人間愛に満ちた青年によって、この住民たちは皆殺しにされなかった。きっと、みんなが感謝をするだろう。帰ってもいい」  そういわれると、青年は躊躇した様子でしばらく立っていたが、意を決していった。 「あの約束のものは」 「おお、そうだったな」  ロドリゴは、そばにあった鞄から札束をとりだして机のうえにおいた。青年は立ちあがり、まえにすすみ、それをつかもうとし、あわてて手をひっこめていった。 「このことは、将軍閣下。内密にして、もらえるのでしょうね」 「もちろん、約束はまもる」  安心した青年が札束をつかんだ瞬間、ロドリゴは腕をとらえた。不審な表情に変わった男に、彼は優しくいった。 「家族は、いるのか」 「はい。母と、妹がひとり」 「そうか」 「なにか」 「いや、この大金がうやむやになってしまっては忍びない。かならず、家族におわたししよう」  いぶかしそうに青年はロドリゴをみ、その瞳に会うと蒼白に変わってふるえだした。 「裏切り者は大嫌いだ。とくに金目当ての裏切りはな。始末は、おれがつけよう」  ロドリゴは立ちあがり、外へでるのをうながした。青年は抵抗したが、兵士に手をしばられて、つれだされた。銃声がひびき、あたりは静けさをました。  一隊は、村はずれのエステル爺さんのところにむかった。乱暴に扉をあけて家に入ると、おどろく老人と孫娘にいった。 「密告があった。いえば、おまえたちの命だけは助けてやる。隠れているのは、おまえの孫か。どうせ、逃げ切れないのだ。おれは、部下を殺されたくない。おまえも、その孫までうしないたくはあるまい。いえば、命は助けよう」 「将軍閣下。滅相もありません。かくまうなど途方もないことで。閣下、なにかの間違いです。孫は、この子供ひとりしかいません」  老人は、孫娘の手をしっかりとにぎっていった。  その言葉を聞くと、ロドリゴは兵士たちにつげた。 「この家をしらべろ。みつけたら殺せ」  ロドリゴは、どっかと椅子に腰をおろした。しばらく静かな時間があった。老人にとっては気がとおくなる静寂の後で、とつぜん銃声がした。発砲音が幾度かくりかえされ、兵士が入ってきた。 「抵抗しましたので、殺しました。銃撃戦になり、ヒムディは即死。ジャックとラシクは傷を負いました」  老人は、泣きだした孫の髪を幾度か撫でていった。 「将軍閣下。お許しください。わしは、あいつに何度もいいました。すべて運命だと思ってあきらめて、この畑を耕せとくりかえし話しました。しかし、あいつは父親の復讐だとかいって、ついに自分も殺されたのです。年よりの話を聞いていればいいものを、どうせ、なにもできやせんのに。それでも、英雄気どりででていったのです。将軍閣下、わしは老いぼれです。息子も孫も死んで、生きている望みはもうありません。殺すのなら、わしだけにしてください。どうか、この娘だけは、助けてやってください。わしは、もう生きていても仕方がありません。エストラーナは、まだ一二歳になったばかりです。これからひと花さかすことも、あるかも知れないのです。エストラーナは、閣下に感謝しても、絶対に恨みをもちはしません。お許しください。将軍閣下」  床に額ずいて許しをこう老人の姿は、ロドリゴに狂おしい思いをひき起こした。彼は、腰から銃をとりだし引き金をひいた。するどいさけびとともに、孫娘は倒れた。老人は額をうちぬかれて横たわる娘にちかより、そばにひざまずいた。小柄な老爺は、さらに小さく薄くなって、そのまま消えてしまいそうにみえた。老人は、うつけた表情でロドリゴをみあげていった。 「なんということを」  老人の頬に涙がつたった。 「アッラーの神よ。慈悲ぶかいものよ。この男を許してはくださるな。こいつに、地獄の業火の下で、永劫の苦しみをあたえよ。この犬畜生にも劣る男を、決して許してはくださるな」  そういうと、老人は立ちあがった。 「爺さん。神は、いないのだ」 「なんということを、アッラーはおる」 「もし、神がいるとすれば、まさに、この娘かも知れない」 「滅相もない。アッラーは全能で、なにもかも、みているはずだ」  老人は、じっとロドリゴをみつめた。  彼は、兵士を呼び、老爺を部屋のすみに拘束すると、室内の椅子やテーブルを外にはこびださせた。それから、娘の衣服をはいで全裸にさせた。ふたりの兵士によって、おさえられた老人は、いぶかしげにロドリゴをみた。部屋の真ん中には、死んだ娘が裸で横たわっていた。ロドリゴはひとりの若い兵卒を呼び、二言三言、耳うちした。兵士は、おびえた表情で答えた。 「少佐。それは、とてもできません」 「おまえが無類の女好きなのは、おれの耳にも入っている。エンリキ、これは命令だ」  彼は顔を紅潮させ、青ざめた兵士の胸倉をつかむと怒鳴った。 「分からんのか。命令なのだ」  ロドリゴは、兵士をつき飛ばした。蒼白になったエンリキはゆるゆると、バンドをときはじめた。チェルマーシーは、ロドリゴがなにを命じたのか分かると目を疑った。そして、眼前で起こなわれる野卑な行為を凝視する彼をまじましとみつめた。所業が終わると、兵士はふらふらと部屋をでていった。 「エストラーナ」  われにかえった老人は、とらえる兵士の手をふり切って孫娘に歩みよった。周囲に散乱する服をひろいあげ娘を覆うと、涙で頬をぬらしながらいった。 「可愛そうなエストラーナ。神は、許しはしない。絶対に、宥恕しないはずだ」  老人は、幾度もそうくりかえした。  ロドリゴは、天井をあおいで両手をうえにあげた。チェルマーシーには、その両腕が巨大な二本の角にみえた。老人の慟哭も耳に入らず、ロドリゴは両手をかかげて、まるで神にむかってなにかを訴えるように天井をみあげた。しばらくすると、彼は老爺に歩みよっていった。 「立つがいい。これが戦争なのだ」  その言葉に、力なく立ちあがると、ロドリゴは老人の肩をかるくたたいて部屋をでた。最後にチェルマーシーが家を後にすると、背後で老爺の号泣が聞こえた。  酒場は、ひどくこんでいた。チェルマーシーは、ロドリゴといっしょに奥の特別室に入ると、だまって酒を飲みはじめた。彼は、ジンを煽っていた。 「おまえは、ナチ以上に非情で残忍だ。レジスタンスの時代をすっかり忘れている。ナチを、憎んではいたのではないか」  それを聞くと、ロドリゴは静かにいった。 「おれは、とくに憎悪していたのではない。憎んでいたのは、パルタイ・フューラー、ただひとりだ。彼は、あまりにも高くのぼりすぎた。この世に、ふたつの宇宙は存在できない。オーストリアの無名の絵描きは、キャンバスをつかっても売れはしなかった。しかし彼は、ドイツの空に夢をかいてみせたのだ。その絵は、不遇にあえぐゲルマン民族に忘れていた誇りを思いださせ、途方もない値で売れることになった。彼は、天才だったのだ。  おれたちが、みている世界は違う。おまえは苦悩に彩ったが、ほんとうにこの世はそうなのか。思っているだけ、ということはないのか。人間は、それぞれ自分の流儀で考え、まだできるとか、これが限界だとか、勝手に判断している。人の能力とは、前提ではなく結果ではないのか。フューラーは、自分の才能を最大限にひきだした。幻想に自ら酔うことさえできれば、この世は望み通りにうごきだす。そうでなければ、なぜ、伝手ももたずに田舎からでてきた青年絵描きが、世界に君臨できたのか。コルシカうまれの貧相な男が、不可能はないと豪語し、百姓の娘がオルレアンの聖女になれるのか。私生児のキリストは、神にまでなった。人の歴史は、なぜでつまっている。おまえが敬愛するマルクスは、干年王国を自己の幻想とまぜあわせ、空想の主人公にした、彼の幻のプロレタリアートにむかって手をふっただけだ。そんなものは、実際には存在しなかったから、革命はロシアで起きたのだ。すべては、幻想だ。おまえの好きな、バイロンでもランボーでもいい。自分の幻想をひたすら信じ、そのなかに酔いしれ、気質に溺れた者は天才と呼ばれた。夢想に周囲をとりこみ、大衆すべてをまきこんだ者たち。ヒトラー、ナポレオン、キリスト。人びとは、彼らを英雄、神と呼んだのだ。  この世界は、おまえが望む通りにはいくまい。なぜなら、つねに自分を疑い、自省し愚痴をこぼし、世はままならないと思っているからだ。おまえは、悩むのは知っている。しかし、そこから這いでる術が分かっていない。おまえは、多くの知識をもっているが、あやつる方法を知らない。だから世界は、離れるばかりなのだ」 「ロドリゴは、道徳も倫理も知らない。だから気違いになった。ヒトラーとおなじ、ひとりよがり異常者なのだ」  ながいロドリゴの独白を聞いて、チェルマーシーは思った。  その様子をみて、彼はふたたび口をひらいた。 「おまえは、悩むのが好きなのだ」  チェルマーシーは、挑むように瞳をのぞきこんだロドリゴにむかっていった。 「おまえは、考えたことがないのだ。正義についても、愛についても。満たされた心も、飢えた精神も知らない。昔から、おまえはそうだった」  それを聞くと、ロドリゴは押し殺したひくい声で笑った。 「精神の飢えか。おまえが愛に満ちた家庭で、夢を追っていた輝かしい少年時代。おれは、狂おしいときをすごした。暗く冷たくなにもない、底なしの沼にいた。一度落ちると、もがくほどふかみに嵌まっていく、ただ苦しいだけの沼地だった。おまえは、無の色をみたことがあるか」  ロドリゴは、たずねた。 「苦悩を楽しむかぎり、知るはずがない。おれがみた、無の色は、透明でも闇でもない。正義という愚かな観念を知らなかったら、どれほどすくわれただろう。おれは、孤児院のまえに置きざりにした両親を恨んだのでもない。子供を意のままにはたらく奴隷と考え、女房と喧嘩した腹いせに気をうしなうまでムチをあたえ、泣く子を凍てつく冬の夜に、暗く湿った汚物まみれの小さな部屋にとじこめるのが大好きな、頭のいかれた院長を憎みつづけたわけでもない。おれは、それを許そうとした。ただ、そういう不正を放置する偽善的な人びとを宥恕することはできなかった。チェルマーシー、おれは正義を愛した。だから、苦しみの沼に落ちたのだ。物心がついたころ、気儘な折檻にたえられず、孤児院をぬけだした。真面目にはたらいたが、一三、四歳の子供にできることはかぎられていた。一八歳の秋、理由もなく首にされ、職をもとめて街をさまよっていた。いまでも、はっきりと思いだす。一銭の金もなく、朝から一切れのパンも口にしていなかった。それでも我慢したのだ。正義を、愛していたからだ。神がみていると、信じたからだ。マロニエの木が黄色に変色して、焼き立てのパンにみえた。毒だとは知りながら赤い実をひろっていたとき、木の根元に黒い革の財布をみつけた。ひろいあげ、そこに一万フランがつまっているのをみた瞬間、おれがどう思ったか想像してみろ。その金で服を買い、もうすこしまともな身なりをすれば、職もあったに違いない。しかし、すぐに警察にとどけた。ポリスはさしだした財布をうけとると、おれの貧しい姿をじっとみた。そばに黒眼鏡をかけた背広姿の紳士がいて、そいつが警察官に耳うちした。ポリスは、おれにむかっていった。得物が大きかったんで怖くなったな、と。それで、したたかなぐられ、水一杯あたえられぬまま、留置所で一晩、凍えさせられた。恐らく男は、報酬をやるのが惜しくなったのだろう。それは、どうでもよかった。その一晩、おれがどんなことを考えたか分かるまい。たしかにおまえは、ナチによって大切なものをうしなった。しかし、なくした世の中を信じることはできたのだ。  覚えているか。おれは、おまえを雲だと話したことがある。鱗雲に似ていた。ランボーの愛した北アフリカの空で、照らす太陽をもとめていた。日の光によって、綺麗なオレンジ色に輝こうとしていた。しかし、おれは雲ではない。一八歳のとき。正義をもとめてやまなかったころ、おれは雲だった。しかし、分かった。雲は、おれのものだった。すき通る青い空も、太陽も、自分の持ち物だった。おれは、世界で存在する術を得た。それは、苦しみの沼から獲得したものだった。おれはあのとき、生まれ変わったのだ」 「チェルマーシー」  真面目な表情で、ロドリゴはいった。 「おまえは、アンドロギュヌスを知っているか。あの老人と出会ったとき、髪のみじかい子供を、おれは少年だと思ったのだ。老爺が孫を娘といったので、はじめて女だと気がついた。それでも、少女には思えなかった。裸にしても、少年にしかみえなかった。だから神聖な儀式の犠牲にされ、娘は神になったのだ。ふたつのものを、同時に担うのは重すぎるのだ。世界に両極があるだけで、すでに人には重いのだ。統一への願望。それは、すべての生ある者の強迫観念だ。昼と夜とが合体し、天国と地獄が結婚し、男と女がひとつになって、アンドロギュヌスが誕生する。昔、両性をそなえていた人が、おれの足もとで、バギナとペニスを得て、神にもどることができる。あのとき、古代の神殿で荘厳な儀式を主宰する皇帝になった。性的とも違う、異次元の、かつてない精神の充実。はかり知れぬ霊魂の高まりを感じたのだ。おれはあのとき、世界の支配者となり、目にみえるかぎりのものに、すべてはよしと豪語した。この手で、宇宙をつかんだのだ」  そういうと、ロドリゴは両の掌を自分の目のまえにさしだし、まじまじとみつめた。 「この腕と手で」  彼は、自分の両腕をポンポンとたたいた。 「宇宙を、つかんだのだ。生ある者も無機物も、そして神までもが、手でつかまえられたのだ。アルジェの町も、おれのものだ。青い地中海も、灼熱の太陽も、果てしなくひろがる砂の粒子のひとつひとつも。すべて、おれのものになった。この手によって、宇宙はとじられた。その環のなかに、チェルマーシー。おまえもいるのだ」  その言葉で、チェルマーシーは立ちあがり腰から銃をとった。ロドリゴは不思議そうにみて、自分にむけられている拳銃に目をうつした。それから、ふたたび瞳に転じた。おどろくのでも、恐怖したのでもなくみえた。優しくて穏やか目だった。  そんなロドリゴをみつめながら、チェルマーシーは引き金をひいた。その瞬間、彼はかすかに笑った。するどい銃声がホール全体にひびき、ロドリゴは机におかれたグラスのうえに倒れた。チェルマーシーは、倒れこんだ彼にむかって、義務でもあるかのように引き金をひきつづけた。銃弾がうちこまれるたびに、ロドリゴの身体はピクピクと痙攣した。血は、テーブルをつたってながれ、床にたれて血溜まりをつくった。  石の通路にあたる歩哨の靴音が、こつこつと獄舎の壁にひびいていた。わびしい音が高まり消えていってしまうと、凍てつく静寂がやってくる。それはちょうど、悲しみがしだいに高まり胸いっぱいにひろがると、やがて結晶をつくって固化するときの、どうにもなす術のない思いに似ていた。静寂は、人に無益な徒労をしいるのだった。規則正しすぎて、やり切れない鼓動の音がチェルマーシーの耳にひびいた。床にすわり、瞑想するぐあいに固く目をとじ、両手でつよく頭をおさえ、高い鉄格子の嵌まった窓をながめた。天空に月がみえ、さしこむ弱々しい光が彼を照らし、その格子はあわく浮かんでいた。味気ない壁のむこうに人のうごきまわる空間があるのをたしかめたいと思い、立ちあがると鉄格子を両手でぐいとにぎりしめ、背伸びをしてつま先で立った。彼は、幾日かぶりで獄舎をとりかこむ石壁の一部と、その先に点在する民家の屋根をみることができた。鉄格子をつかんで懸垂すると、庭の土がみえた。 「自由フランス」  そう呟くと急に力がうせ、彼はずるずると冷たい床に落ち、同時に思わず涙がこぼれ落ちた。月光があわく格子をかく、大地とつらなるはずの石のフロアに接吻した。そのとき、ふと安らかな心持ちに落ち入った。のこされたわずかな時間を無駄にする焦燥感に、ずっと苛まれていたのに、とつぜんべつの次元にすべりこんだ気になった。自身が薄明の世界に同化し、稀薄な存在に変わり、部屋いっぱいにひろがり、窓をぬけるわけでもなく外にでてしまい、目のまえに土がみえた。満たされた不思議な気持ちがしばらくつづき、やがて彼は自分にもどってくるのが分かった。心地よい余韻を感じながら、以前、ロドリゴから聞いた話が脳裏によみがえった。 「おまえは、こんな体験をしたことがあるか。感情が高まって限度をこえると、いつもはおれを支配する覚めた理性が完全にはじき飛ばされてしまう。熱い情念によって、宇宙の真理を垣間みる。そこは、ちょうど中空になったテニスボールの中央部が、周囲と何ひとつ変わらないのとおなじだ。その中心部にむかって、おれはもの凄い速度ですすんでいく。そして中核をぬける瞬間に、たとえようもない満たされた気持ちに落ち入るのだ。すべてが自分のものになり、宇宙の永遠、不滅、統一を実感するのだ。おれは、通りぬけ、そのままもどってくる。だから宇宙の中心は、きっと鏡になって、たとえば天空にむかって飛びつづけると、最後は、いま両足で立つ地面をやぶって、でてくるのだろうと思う。発作、と名づけたのだが、もう、しばらく起きていない。おれの青春は暗かったが、あるとき、数多の人が行き交うシャンゼリゼ通りで、夕陽が目に入った瞬間、それが起こった。思わず泣いてしまった。チェルマーシー。おれの青春は暗かった。しかし、発作と交換できるなら、さらに暗黒でも悔いることはなかっただろう。あの瞬間こそが、生だと思う」  ロドリゴは、ひどく真面目な表情でいった。 「夢でもみたんだろう。おまえらしくもない」  チェルマーシーは、答えた。 「知らないのだ」  ロドリゴは、寂しそうに笑った。  その場面があざやかに浮かび、やがて去ってしまうと、また静寂が支配した。 「壁だ」  そう呟くと、彼は冷たい石を二度三度とたたいた。 「冷酷で非情で、他者をよせつけぬ壁。これ以上は、すすむべきでないという境界があった。おれは、その境域をまもるべきだったのだろう。境目の内側で暮らすべきだったのだ。ロドリゴは、壁をうちやぶろうとした。おれは、彼につれられて境界にむかった。ロドリゴさえいなければ、アルジェにもこなかった。馬鹿げた意地が、おれをこの地にわたらせた。砂の大地は、壁の外側だったんだ。いったい、ロドリゴとは、なんだったのだ」  二年まえ、サハラの沙漠をはじめてふたりはみた。赤茶けた砂と礫が目のまえいっぱいにひろがる、灼熱の大地。巨大な荒地は文明の進出を許さぬ世界の果てで、人がうまれてから、何ひとつ変わってはいない場所に思えた。肥沃な土地には、生命が生と死をくりかえす。不滅とか永遠とかいう甘美な言葉は、この不毛な砂礫をさすのだろう。熱風が、ふたりの頬をつよくたたく。そのとき、チェルマーシーはいった。 「生も死もない。すべてが、絶えている。無と呼ぶべきものか」 「そうだ。ここにはなにもない」  ロドリゴも答えていった。 「まるで宇宙だ。おれは、この土地が好きになれそうだ。ここには、壁すらない」  チェルマーシーは首をふり、両手で頭を覆った。 「この意識よ、去れ。こんなどうでもいいこと、消えてしまえ」  自らを叱咤していった。ふかい溜め息とともに、ロドリゴの痩せた横顔が、老人と娘の顔が、また、歩哨が自殺したとつたえてきた、エンリキが浮かんだ。人びとの容貌は、走馬灯になって脳裏をめぐり、消えていった。ロドリゴを殺害するのは、自分の半生を否定するのとおなじだった。チェルマーシーは、己の半身を殺したのだろうか。さわがしい酒場と酔いのいきおいで、偶発的に起こった事件にみえたかも知れない。しかし、彼はすでに何度もロドリゴにむかって銃をひき、血の海のなかに溺れさせた気がした。そして、最後の眠りに落ちていった。  チェルマーシーは、小鳥のさえずりに目覚めた。格子の窓から、日の光がさしこんでいた。すがすがしく感じる早朝で、以前にもこうして最後の一日を落ちついた気持ちでむかえたことがあった気がした。いままで、この生気にあふれた朝をなんと軽々しくあつかってきたのだろう。瞬間をきざむ一秒が、彼の頭上からキラキラと輝きながらふってくるのがみえ、その粒子をつかもうとする、どんな努力もむなしかった。とおくから足音が聞こえ、歩哨につきそわれて、黒い服に身をつつんだ神父が入ってきて、老眼鏡をとりだして鼻にかけた。額は禿げあがり、片手には聖書をかかえていた。 「チェルマーシー。あなたの罪を悔いあらため、神に許しを請いなさい」  神父は、穏やかな口調でいった。 「神さまは、ほんとうにいるのだろうか」 「あなたは、神を疑うのか」 「もし神さまがいるのなら、私の殺人は許されてもいいはずだ」 「チェルマーシー。あなたは、すくわれたくはないのか」 「私は、軍人となるまえから多くの人を殺してきた。今度も、極悪人をひとり殺害しただけだ。ロドリゴは、レジスタンスの過程で英雄的に死んだのだ。私は、死人を殺しただけで、どうしてそれが罪になるのだろうか。ナチスドイツとFLNは、フランスの敵だった。真の仇敵は、ロドリゴだった。私がレジスタンスにくわわらなくても、フランスは勝っただろうが、彼を殺害しなければ、アルジェリア人はこれからもずっと無意味に殺されていたのだ。なすべきことを、しただけだ。私の行為を、だれが裁くのだろう。ユダもパウロも、キリストに命じられるなままに自分のなすべきことをした。どちらもおなじにしたがった。しかし、ユダは汚名をきせられ、パウロは聖人になった。公平ではないと、私は思う」 「君は、自己を正当化するつもりなのか」 「自分でまいた種を、刈るのはいい。殺人が罪なら、それでもかまわない。しかし、いままでに大勢の人を殺してきたのだ。なぜ、それは罪にはならないのか。この大戦をへたほとんどの人びとが、みんな罰せられなければならない。なぜ、私は、処罰されるのだろう」  彼は、無言で立つ神父の青くすんだ瞳をみいった。 「すべてが、分からなくなってしまった。神によって裁かれるならば、それでもいい。しかしフランスは、なぜ私を殺せるのだろう」  そのとき、チェルマーシーは自分がひざまずき、泣いているのに気がついた。 「この過酷な時代にうまれてこなければ、善良な一市民として幸福に生きられたはずだ。神がいなくて、教会が存在しなければ、両親が爆死することもなかった。いまさら、許しを請うてどうするのか。もしキリストが神ならば、今度うまれるときには、サハラの砂になりたい」  チェルマーシーは、涙が頬をつたうのを感じた。神父はふかい溜め息をもらし、目にもなにかが光ってみえた。足もとにうずくまる男の肩をたたきながらいった。 「立ちあがりなさい」  神父は、チェルマーシーの青くすんだ瞳をみいっていった。 「可愛そうな子よ。あなたに、神の許しがあたえられんことを」  神父はチェルマーシーを祝福し、彼の口唇に接吻した。そして歩哨を呼び、外にでた。  すがすがしい朝で、空は青くすき通り、雲ひとつなかった。とおくに、面々とつづく赤茶けた砂礫がみえた。チェルマーシーは、なんの脈絡もなく、世界のはじまりのときを思い浮かべた。   ウラーノスが、最初に全世界を支配した。彼は、ゲーをめとって多くの息子を得た。そして、最後にクロノスがうまれた。末の息子は、ウラーノスを恨んだゲーの金剛の斧によって、父の生殖器を切りとり、海に投じた。クロノスは支配権を継承し、自分の子供によって殺されるという父親の予言を恐れ、うまれた子をつぎつぎに飲みこんだ。しかし、レアーは彼をあざむき、洞窟でゼウスを育てた。そして、成長した息子は、父親を殺した。 「クロノスとは、ときのことなのだ」とチェルマーシーは思った。  歩哨に後手にしばられ、彼はかるい眩暈を感じた。兵士が黒い衣切れで目隠しするのを、頭をふっていった。 「私は、自分の死をみとどけたい」  兵士は去っていき、上官に何事か話した。兵士たちは、一列にならぶとチェルマーシーにむかって銃をかまえた。銃口は、クロノスの巨大な口にみえた。小鳥のさえずりを彼がふたたび聞いたとき、上官の手はふりおろされた。うったなと思った瞬間、腹部にさす熱い痛みを覚えた。彼は、朦朧とした意識のなかで、死ぬと感じた。その刹那、「無の色」をみたと思った。  それは、ロドリゴのいう通り無彩色でも有彩色でも、透明でも闇でもなく、鏡になって輝いていた。  チェルマーシーは、がっくりと膝をついた。                            アルジェの朝、五〇枚、了