ソシュールからの手紙 由布木 秀 一 五月のミレナは、素晴らしかった。 冬のあいだ、ドーバーをこえてくる風が、雪と氷をはらんで世界をとざそうとするのとは違って、地中海をわたってくる気流は適度な湿り気をおび、町全体にひろがる緑の田園をゆるやかに吹きぬけていった。太陽の高度は八月とおなじだったが、日差しは空一面にひろげられた雲の粒子によってやわらげられ、大気は乙女の吐息をまきちらした甘い香りをただよわせていた。日がくれれば、ひんやりとした夜霧が町全体を覆い、水銀灯はぼんやりとひろがり、無数のほのかに白く小さな可愛らしい蕾が、どこにもここにもあった。それは恐らくはかるい気体、たぶんあの巨大な飛行船を浮かべるのとおなじ不活性な物質ででき、支柱をうしなった電灯は空中にふうわりと浮かんでみえた。 ミエール・コギツールが、パリ郊外のミレナでクリニックをひらいてからすでに二〇余年の歳月がながれていた。彼は、田園の多いこの町が気に入っていた。なかでも夏にむかおうとするいまの時期がとりわけ好きだった。五月になると、赤みがかった白い花を円錐状につけたマロニエの並木道をゆっくりと歩いて、東西に走るディスクール・ストリートにあるオフィスへ通うのが日課だった。ミレナ駅にむかう大通りには高層ビルが林立していた。彼の仕事場は、南北に横切るエピステーメー・ストリートが交差する、街でいちばん交通量が多いエノンセ・ジャンクションの、ひときわたかいビルの最上階にあり、そこからは町が一望できた。遠くに週に二度講義を担当するパリ大学ミレナ分校がみえた。しかし今日は、ちょうど授業のない日にあたっていた。 いつもとおなじ八時半に家をでたコギツールが、オフィスについたのは九時まえで、シーニュはすでにきていた。彼女に挨拶をしたあとで診察室に入り、大きな机のまえにおかれた椅子に腰をおろした。外に面した壁が、すべてガラスばりになった応接室をかねた部屋は、朝の輝きに満たされていた。すこしして、シーニュがパロールの朝刊とコーヒーをはこんできた。 コギツールは、この秘書に満足していた。シーニュは、彼との三つの約束、遅刻をしない、あたえられた仕事をきっちりやる、余計な興味をもたない、をよくまもったし、なによりも若くて美しかった。着道楽でお洒落な彼女は、いつでもなにかしら違った装いでコギツールを楽しませてくれた。シックな青い服をきて、金のネックレスをたらす今日のシーニュがでていくと、彼は紙面に目を落とした。ゆっくりとコーヒーを飲んでいると、ノックの音がして彼女が入ってきてつげた。 「先生。ウーシア・マーテリアル、とおっしゃる方が面会にみえております」 どこかで聞いた名前に、「なんの用なのかね」とコギツールはたずねた。 「先生の診察をご希望です」 シーニュはすき通るたかい声で、はっきりといった。 「診察。紹介者は、だれかね」 コギツールは、いぶかしげにたずねた。 「紹介状は、おもちではありません」 彼は、シーニュの青い瞳をのぞいた。 「先生が、紹介のない方の診察はされないと申しあげたのですが。マーテリアルさんは、ぜひともお会いしたいとくりかえしおっしゃい、無理を承知で一度とりついで欲しいと」 シーニュは、幾分かぐあい悪そうに言葉をにごした。 「君も知っている通り、予約のない者は診察しない。もう一度、はっきり申しあげて、帰っていただきなさい」 コギツールはシーニュをみつめ、ふたたび朝刊に目を落とした。 「マーテリアル氏は、先日、パロールの紙面で先生の診断をうけられたと申しております。できればもう一度、みていただきたいそうです。どうしてもご無理ならば、どなたか紹介していただけないか、とおっしゃって。私は、先生が紹介状をおもちでない、予約のない方の診察はしないと申しあげたのですが、ぜひ一度とりついでいただきたい、とくりかえしお話になり」 シーニュの口調は、いつもとはすこし違って抑揚があるとコギツールは感じた。 「今日の予定は、どうなっているのかね」と彼はたずねた。 「一一時にスタール夫人がいらっしゃいます」 シーニュは即座に答えて、 「あの奥さまは、いつも約束の時刻からおおむね一〇分はおくれていらっしゃいます」といいだし難そうにつづけた。 それを聞くと、右の指先で自分の鼻をさすりながら、コギツールは微笑をもらした。シーニュも小さく笑った。 「それでは、君の心を揺すぶっているらしい青年に、一度お会いしてみようか。マーテリアルさんには、問診表に記入してもらいなさい」とコギツールはいってシーニュをみた。 彼女が一瞬、頬を赤らめてさってしまうと、彼は窓までゆっくりと歩みより外をながめた。 エノンセ・ジャンクションは、交通量が多い場所にも関わらず、電子化された信号システムがうまく作動し、渋滞することもなく車がいきかっていた。 ほどなくシーニュが問診票を手にしてあらわれた。 「神経質そうな字だ」とコギツールは思った。細いペンをつかって達筆な文字でかかれた用紙には、学歴がパリ大学法学部卒業。現職はガブリエル自動車工業、特許部、サブマネージャー。趣味は、読書とチェス。両親は、一六歳のときに家の火災で焼死。双子の兄のほかには、身寄りがない。頑固な不眠と不愉快な夢境で悩まされている。一〇日まえにパロールの紙面で彼の診断をうけ、眠れないよりも、夢の内容が問題だろうと指摘された。睡眠薬を服用するよりも精神分析医に相談することをすすめられた。などがかかれていた。 コギツールがシーニュにうなずくと、彼女はでていき、すぐに背のたかい青年が入ってきた。彼はとつぜんの来訪についてていねいに詫び、 「紹介状が必要だとは考えなかったのです。どうしたらよいのか分からなくて。先生に相談すれば、きっと解決していただけると思いまして」とひくい声でむすんだ。 コギツールは青年を一目みて、なぜシーニュが彼女らしくもなく仕来りをやぶったのかを理解した。彼もまた、美貌の若者に興味を覚えた。 知的で端正な顔立ちをした、黒い髪とグリーンの瞳の青年は、「申しおくれました。先日パロール紙で診断していただいた、ウーシア・マーテリアルと申す者です」と自己紹介し、一枚の名刺をさしだした。 大柄でやや腹のでてきたコギツールは、それに応じて自分のものをわたした。 青年は、大切そうにうけとり、胸ポケットからとりだした皮製の財布にしまいこんだ。黒色の紙入れは、ブランド品にみえた。コギツールが厚いクッションのついた椅子をさしてすわるのをうながすと、あわい緑のスーツに身をつつんだ青年は、ゆっくりと腰をおろした。上品な顔立ちだったが、幾分か憂鬱そうにもみえた。 「夢をごらんになるとか」 コギツールは、聞いた。 「はい、それを解決していただきたくて」 マーテリアルは、ひくい声だが、はっきりといった。 ノックとともにシーニュが熱いコーヒーをはこんでくると、コギツールは明日の講義につかうレジメの印字を依頼した。彼女がでていくと、夢境についてたずねた。 マーテリアルは、夢をみはじめたのは、昨年の秋、一〇月のなかごろからだ。がんらい寝つきが悪く、さまざまな方法を試みた。試行錯誤をくりかえし、入眠を容易にする手段を思いついた。最初にひろい草原を思い浮かべ、田園地帯を歩きはじめる。頭のなかの彼が勝手に散策しだすと、快い眠りがおとずれる。寝床についたときひろい草原を思い浮かべるのは、習慣にさえなった。ところが、昨秋から奇妙な夢をみはじたといった。 「いつから、そうした方法を試みたのですか」 「たぶん、五年以上まえからだと思います」 「それ以前は、どうしていましたか」 「ひとり暮らしだったので、学生時代に夜ふかしの習慣が身につき、入社してからたいへん困りました。寝つくことができず、酒や鎮静剤を飲んで、いろいろ試みたのですが、効果はえられませんでした。そうこうするうちに、この方法をみつけたのです」 コギツールは、うまい手法だといった。悩みは夢の内容なのか、とマーテリアルの端正な横顔をみながら聞いた。ネクタイは真っすぐにむすばれ、背広には皺ひとつなかった。すき通る青い瞳で、あわい緑のスーツの下にはすこし茶色がかったストライプのシャツを、粋にきこなしていた。力になってやりたいと思えてくる青年だった。 丸顔で立派な口髭を伸ばしたコギツールが、予定になかったとつぜんの来訪なので今日の時間枠は一時間にかぎられる。面談の内容については、医療行為として守秘義務があるが、診察室での会話はすべて録音が必要となる。途中で重要だと思う事柄は、カルテに記入するが、全体の構成を充分に考えるには生の音声が必要不可欠だ。こうした方法に異議のないことをマーテリアルが納得したという書面をのこしたいと話して、主旨がかかれた一枚の紙をさしだした。彼は、書類を読み終えると署名した。コギツールは、夢境の話をうながした。 「昨年の一〇月ごろから、くりかえしみる夢なのです」と青年は前置きして話しはじめた。 マーテリアルは、ひろい草原にひとりで立っていた。 みまわすと、どこまでも一面に緑色の葉が生いしげる、素晴らしく美しい場所にいた。彼は、なだらかな起伏が延々とつづく、丘陵地帯のいちばんたかいところに立っていた。目にするものは、どこまでもあざやかな緑の草に覆われた果てしない大地だった。 ゆるやかな風をうけて、草原がゆっくりと揺らいでウエーブをつくりながら、日の光をきらきらと反射して輝くのがみえた。眼前の土の道は、振りかえると、なだらかな起伏に、みえ隠れしながらずっと遠くまでつづいていた。自分がどこからきたのか、よく分からなかったが、いくつもの丘陵をこえてやってきて、いちばんたかい場所に辿りついたに違いなかった。地味が豊かそうだったが、膝くらいの背丈の草しか生えてはいなかった。一本の灌木も、みえなかった。とても清々しく、頬をうつ風も暖かく、太陽のたかさやあかるさから、おだやかな春の日の午前中なのだろうと思った。どうやらマーテリアルは、この一筋の道をずっと歩いてきたらしい。理由は分からなかったが、その通路をすすむのが、生きることと密接に関係するのだろうと思った。いくべき道が、ずっと先までつづいているのがみえた。 しばらく立ちどまって周囲をみていたマーテリアルは、自分が目指すらしい方角にむかって、また歩きはじめた。かわり映えのしない土くれた通路をすすんでいくと、やがて三本に分かれているのがみえた。分岐する地点にやってくると、三つの道はどれもおなじ幅だった。それぞれの通路のあいだに、膝くらいの背の草が青々と茂っていた。どちらに、すすむべきなのだろうか。こんな場所にやってきたのは、はじめてだと思いながら道をみていると、五〇メートルくらい先の左に人影がみえた。緑色の布につつまれ、濃い緑のハットをかぶっていた。人影は、ウーシアが分岐点で自分をみているのを知ると、草原をゆっくりとぬけて真ん中の通路まですすみ、立ちどまった。肩ごしに振りかえって視線があうと、さらに横切って、いちばん右の道に立ち、身体を正面にむけてじっとみつめた。ウーシアは、山高の帽子をふかくかぶった人を、よく知っている気がした。しかし、男性なのか女性なのか、分からなかった。人影も彼を知っているらしく、なにかをいいたそうだった。じっとみつめあっていたが、やがて右の草原にすすみだした。 そのときとつぜん、真ん中の道が草に覆われはじめ、みるみる不明になっていった。視線をもどして人影を追うと、すでに草原のなかに消えていた。 目のまえの道は二本になって、マーテリアルは、分岐点に立っていた。草地の通路は、幅が三メートルほどで、土で固められていた。やがて左がわの道がゆっくりと、動画をスローモーションでみている感じで草に覆われ、気づくと周囲とおなじ草原にかわった。たぶん最初に消えた真ん中の通路も、同様に草本に被覆されたのだろうが、人影に気をとられて、その瞬間を注視していなかった。 彼のまえには、すすむべき道はひとつだけだった。もともと、これしかなかったのではないかと思えるほど、二本の通路はすっかり草原にかわっていた。分岐点だったところは、ただ右にゆるやかにまがる場所になっていた。右がわの草本のなかに消えていった人影も、錯覚だった気もした。 もし人が、いったんひろい草原に入ったら、マーテリアルがいる細い道をみつけだすのは不可能にも思えた。周囲をよくみれば、あきらかに自殺行為だった。そんな危険な行為をする人は、いないだろう。踏み固められた道がとつぜん草に覆われるなど、ありえる話ではなかった。論理的にはそう思えたが、やはり道はもとは三本あり、人影もみた気がした。 やがてマーテリアルは、のこった自分の道を歩きはじめた。空は晴れ晴れとし、うきうきする爽やかな日だった。輝く静かな世界が、しっとりとしたせせらぎの音に満たされているのに気がついた。そんなひびきを発するのは、きっとだれも触れたことがない清流に違いないと思い、さらにすすんでいった。ふかい谷にでて、川にむかって道はくだっていた。やがて瀬がみえ、丸太でできた煙突のある山小屋がたっていた。 マーテリアルは、そのなかに入って服を着替えた。茶色のスーツをきていたが、室内のベッドのうえにおかれた青いジーンズと赤いシャツにかえた。山小屋には、通路にそってふたつの扉がつくられ、彼は入り口から入って出口からでた。普段着に着替えて、やってきた踏み固められた平坦な土の道をまた歩きはじめた。 通路は、ときおり整備されていない細い獣道と交差した。マーテリアルは無視して、人によってつくられたと思う道を真っすぐに幾年も歩きつづけた。ある日、急に視界がひらけた。気づくと、彼は小だかい丘のうえにいた。振りかえると歩いてきた道がずっとみえ、青々とした一面の草原のなかで地平線までつづいていた。そこは、最初にいた場所に似ていた。しかし、まえとはあきらかに違い、すすむべき方向に巨大なたかい石塔がみえた。通路は、いつしかひろい石畳になり、固い石にぶつかる自分の靴音だけが聞こえた。ながいこと歩くと、やがて道は古代のバビロニア時代につくられたと思える塔につづいていた。 石塔のなかは右まわりのゆるい坂道になり、螺旋をかきながらすこしずつうえにのぼっていた。一足ごとに石の階段にぶつかる靴の音がひびき、暗くて冷えびえとしていた。塔の東がわに大きな窓が切られ、そこから日の光が入っていた。出窓の大きさは、次第に小さくなっていった。 みえる世界は、青く晴れわたっていた。のぼるにしたがって、遠くまで望め、ひとまわりするごとに窓からはいろいろなものが目に映った。はっきりと覚えているのは、違った種類の犬をつれた、二、三〇の人がいた。彼らは、たがいに自分の愛犬を自慢し、あげくの果てには罵り、なぐりあっていた。その様子を、立ちどまって、ぼんやりとながめていた。ほかの窓からも、さまざまな景色をみた気もしたが、あとはよく覚えていなかった。 理由は分からなかったが、彼は休みなく歩きつづけた。次第に塔の窓は小さくなり数もへり、やがてなくなった。そのかわりに、六〇ワットくらいの裸電球が天井のところどころにつりさげられ、薄暗かったが歩くことはできた。そしてついに、あの場所にやってきた。 ウーシアが、コギツールにパロールの紙面で質問した、いきどまりになった病院の廊下だった。そこに腰をおろすと、ずっと歩きつづけてきたのでひどく疲れていた。 彼のいる場所は、石の薄暗い通路だった。幅は五メートルくらいで、二〇メートルほどまえに一枚の扉がみえた。天井はたかく、彼と扉口のちょうど真ん中に、裸電球がひとつ輝いていた。しかしそのあかるさも、通路全体を輝きで満たす力はなく、どこか不安気で寂し気だった。 深夜の病院の通路にも思えたが、患者が眠るはずの部屋につづく扉はみえず、中央の裸電球がぼんやりと浮きだす世界は、堅固な石の壁で、物音の途絶えたよどんだ空間だった。 彼は、廊下で体育すわりになった。気づくと、石の冷たさが臀部につたわってきた。もう一度、輝きの奥の暗い空間を凝視した。そこには、白い扉があった。正確には灰色なのだろうか。周囲の薄暗い闇のなかで、ぼうと浮かんでみえたので白い色に思えた。灰色がかった扉の左に、金色のノブが輝いていたが鍵穴はなかった。かなり距離はあったが、彼は多くを知っていた。たとえば扉は木製ではなく、なにかの金属ででき、ふとした弾みで鈍く輝くのだった。鍵穴のみえない扉口はかんたんにあきそうで、押すのではなく、ひけばいいとか、そんなことだった。腰をおろす彼は、なぜここにすわり、扉があるのか、夢のなかで考えつづけていた。問いがなんの回答もえられぬままに周囲にひろがり、やがて闇に同化するのを、じっとみつめていた。 そして、息ぐるしさを感じて、彼は目を覚ますのだった。 マーテリアルが語り終えると、じっと聞いていたコギツールはいくつか質問した。窓からみた人びとが、愛犬を自慢していた話をとりあげた。犬、CHIENは、女性の色香の象徴だろうが、「あなたも、欲しかったのだろうか」と聞いた。青年はじっと考えて、「分からない」と答えた。それでコギツールは、 「あなたは、争いは嫌いなほうですか」と聞いた。 「たぶん、だれだってそうでしょう」 「暴力でない、争いもあるかも知れません。たとえば人生とか」 「生きるのは、ひとつの戦いだと思います」 その答えを聞いて、コギツールは「ほう」といってすこし考え、またたずねた。 「そうだとしたら、あなたは、人生はなにとの戦いだと思いますか」 「それは、いいふるされたことです。自分自身と、でしょう。違いますか」 答えを聞いて、コギツールはその通りだろうといった。 それから、夢の細部についての検討に入った。 コギツールは、夢境が三つの部分から構成されているといった。 第一、Aは人影の場面で、マーテリアルは分岐部で立ちどまる。つぎのBは、かなり執拗に歩く部分。最後のCは、扉のまえですわりこむ。Bのなかでも、山小屋で服をかえる場面で、彼はとまっているはずだ。ここで、スーツから普段着のジーンズに着替える。この小屋は、ごく自然に入ったのだから彼のものだろう。家は住居だが、だれかがいた気配はなかったのか。煙突からは、人煙はあがっていなかったのかとたずねた。 マーテリアルは、しばらく考え、煙はでていなかったといった。 コギツールは、着替えた青いジーンズと赤いシャツは彼のものかとたずねた。 マーテリアルは、ハイスクール時代にきていたと答えた。大学時代には、青いジーンズも赤いシャツもつかわなかった。すてたのだろうが、ありふれたものだったとつけくわえた。 コギツールは、山小屋に昔の服がおかれていたのだから、彼の家なのだろうといった。しかし、休むこともないから、なぜ急いでいるのかと聞いた。 「山小屋は、私のものです。休むこともできたのでしょうが、普段着にかえると、すぐにいってしまうのです。急いでいたと思います。はやく、出口をぬけなくてはならなかった。そんな、気がします」 青年は、ふかく考える素振りでいった。 「Aで、最初に人影をみたとき、あなたがいた分岐点はどんな感じなのですか」とコギツールは聞いた。 青年は、紙をいただけないかといって、彼をみつめた。黒くてやや細めの眉はゆるやかに外にむかってあがり、形のいい耳は大きすぎもせず、顔の輪郭に調和していた。ちかくにあったメモ帳をさしだすと、青年は内ポケットから太い万年筆をとりだし、ゆっくりと紙に道をかきはじめた。綺麗な指先で、爪の形もいいとコギツールは思った。青年のかいた道は、Y字型をしていた。一〇時方向と二時方向に分かれていたが、がんらいは一二時の方向にも通路があったと話した。 二 「一〇時の道は、だれのものだったのでしょうか」 コギツールは、紙片をとりあげてたずねた。 「きっと、兄のだったと思います」と青年は答えた。 問診票に双子のお兄さんがいると記載があったのを、コギツールは思いだした。マーテリアルの両親は、ハイスクール時代に火事で死んだとかかれていた。その状況をかんたんに教えてもらいたいと話すと、高校で寮生活中の一六歳のとき、深夜に自宅で火災が発生し、逃げおくれた父母は焼死し、原因は漏電とされたといった。 「お兄さんも、寮にいたのですか」とコギツールは聞いた。 「兄は、両親と住んでいました」と青年はいった。 ふたりは、そこでだまりこんだ。マーテリアルがすぐに兄の話をはじめると考えていたコギツールは、予期せぬ沈黙にすこし戸惑い、兄弟のあいだに問題があると理解した。それで、今日は終わりにしようと思ったとき、彼はまた話しはじめた。 「私たちは、一卵性の双子なんです」 「それでは、お兄さんもおなじ夢をごらんになるとか」 「いえ、それは違います。兄は、こんなものはみません」 「おふたりは、話しあったことがあるのですか」 「一卵性ですから、分かるんです。兄と私は、ぜんぜん違うのです」 「なにが、ですか」 コギツールは、首を傾けながらマーテリアルに聞いた。 「考え方、そのほか、いわばすべてがです」 問診票には、兄以外に身寄りがないとかかれていた。兄が問題なのは、コギツールにはすぐに分かった。嫌いだという話を聞いて、理由をたずねたが、青年は口ごもった。初回の面談ですべてが分かるはずはないので、今日はこのへんでやめようと提案した。 「先生のおっしゃるのはもっともなのですが、もうすこし事実をお話ししないと、いくらたっても解決できないでしょう」 「それは重大な、決着に必要と思われることなのですね」 「私は、財産家です。ちょっと話がそれてしまいますが」 「そんな気がしていましたよ」とコギツールは同意した。 マーテリアルの両親は、共働きの平凡なサラリーマンだった。父母は三つ年が違い、父は二五歳で結婚して、彼がうまれたときは三〇歳だった。四年間、妊娠しなかったので、両親は不妊治療に通っていた。彼らの誕生を祝って、受取人を子供にした生命保険に加入した。パリの郊外に、瀟洒な一軒家も新築した。その家屋が火事にあい、不幸なことが起こったが、火災保険に入っていた。それで、結果的に財産家になってしまった。しかし、決して望んでいたのではないといった。 「そうでしょうね。それが、どうかしたのですか」とコギツールは聞いた。 「兄は、望んでいたのかも知れないのです」と青年は答えた。 コギツールは、よく話が分からないといった。 マーテリアルは、一卵性だったがふたりはすべてに対照的で、ひとつがべつべつなふたつに分かれたぐあいだったと話した。 「ジギルとハイド、みたいなことですか」 コギツールが、いぶかし気に聞いた。 「その通りです」 「いったい、お兄さんの、なにを疑っているのですか」 「火災の原因は、漏電となり保険金もおりたのです。しかし、兄が起こしたのではないかと。もちろん、ふたりで火事について直接話したことはありません。兄は、両親をとても嫌っていました。不良でしたから」 「違っていたわけですね。あなたは、優秀で、現役でパリ大学の法学部に進学し、一流の自動車会社につとめています。お兄さんは、なにをしているのですか」 「兄は、無職です。試験もうけられませんでした。兄がはっきり悪徳の持ち主だと分かったのは、中学生のころからです。両親は、私たちをべつべつの高校にすすませました。兄は、よく、父母から怒られていました。小学校のときから嘘をついたり、人を傷つけたり。しょっちゅう、叱られていました。それでエートル、兄の名前ですが、彼はいつもいっていました。よいものは、ウーシア。悪いことは、エートルと」 「マーテリアルさん。だいぶ事情があきらかになってきましたので、これからは、あなたを、ウーシアとよびましょう」 コギツールは、いった。 「そうしてください。そのほうが気楽に話せます。マーナも、そうしています」 「どなた、ですか」 「失礼しました。私の婚約者の名前です」 コギツールは、パロールの相談コーナーで「結婚をひかえ」とかかれていたのを思いだした。それで、婚約者もこのことを知っているかとたずねた。青年がうなずくのをみて、エートルが自宅に火をつけ、両親を殺害したというのだろうか、と思った。 「なにか、根拠はあるのですか」とコギツールはたずねた。 一卵性だから分かるのだ、と青年は答えた。 コギツールは、ふたりが神と悪魔ほどに違うにも関わらず、なぜエートルの可能性をウーシアは確信的に語れるのかと聞いた。 「双子でない方に、こうしたことを理解していただくのはたいへんだと思います。エートルは、以前にも、そうした過去をもっているのです」とウーシアはいった。 「なんですか、それは。殺人歴、ということですか」 コギツールは、怪訝な表情でたずねた。 「殺人では、ありません」 マーテリアルは押しだまり、上目づかいにコギツールをみると、溜め息をついた。やがて彼は、道の説明につかった紙片をとりあげて、Y字の真ん中の人影とともに消えてしまう線を指さして、話しはじめた。 「これは、ほんらい、私たちの通路だったのではないかと思うのです」 「ウーシアと、エートルということですか」 コギツールは、混乱していった。 「じつは、私たちは三つ子だったのです。ずっと腑に落ちなかったのですが、あるとき母がいったのです。不妊治療をしていたので、最初は三つ子だったと。それで、確信したんです。私は、覚えているのです。生温かい暗く狭いところで、エートルがいっしょだったときのことを。でも、もうひとりいたのです。たぶん羊水につつまれていたころの思い出でしょうが。胎児の記憶って、あるのでしょうか」 「普通は、ありえませんね。仮にあったとしても、記憶みたいなあきらかな形としては表現されないものでしょう。意識される浅いところではなく、もっとずっと古層の無意識か、あらゆる存在を生みだす精神エネルギーが薫習されているといわれるアーラヤ識か、とても言葉としては語ることができないでしょう」 「たしかに、はっきりとはしませんが、不思議な記憶というよりも、思いというほうが適切なのでしょうか」 思いつめたウーシアをみて、コギツールは大丈夫かと聞いた。 「心配はいりません。大丈夫です。エートルは、うまれたときから悪魔だったのです。それで、神の罰をうけて、抹殺されたのです」 「エートルは、生きているのでしょう」 「だから、悪魔なのです。彼は、死なないのです。殺されたのに、マジックをつかって、私の兄としてよみがえったのです」 「なんのためにですか」 「分かりません。私を、不幸にするためでしょう。両親も焼死させた悪魔なのですから」 「そうすると、あなたは神なのですか」 「そうでは、ありません」 「三つ子だとおっしゃいましたね。もうひとりの方は、どうなったのですか」 「それが、恐らく草原のなかに消えていった人影です」 「そうすると、その方は、いなくなったのですか。それで、エートルが復活して、お兄さんとしてうまれたのですか」 「そうらしいのです。どうやら」 「どういう順番になるのですか。あなたと、エートルと、人影ですが」 「草原のなかに消えていったのは、真ん中です。兄がエートルで、末弟が私です」 「緑色の服を、きていたのですよね」 困惑しながら、コギツールは聞いた。 「そうです」 「緑は、なにを意味するのでしょうか」 「先生。ずっと、それについて考えていました。新生児を、赤ん坊といいますよね。赤いからでしょう。でもなぜ、緑児とよぶのでしょうか」 「新生児が、緑色の便をするからでしょう。違うのですか」 「そうなのですか。私は、勝手に考えていました。イスラム教のフォークロアで、緑の人がでてきますよね。神の最初の天使として」 「チドルですか」 「コーランをよんで、気がついたのです。ハディル、とかかれていました。もしかすると赤ん坊は、神の最初の天使なのでしょうか。きっと、ハディルがエートルを殺したのです。悪魔が、うまれないように。しかし、エートルは大悪魔だったのです。ハディルにのりうつって、よみがえったのです」 「ちょっと、待ってください」 コギツールは、頭をおさえた。完全な妄想だった。ウーシアは好男子だが、なにが青年をここまで追いつめているのだろうか。しばらくして、彼は、質問をかえた。 「あなた方は、ほんとうに一卵性なのですか。お母さんは、不妊治療をうけていたのですよね」 「母は、二卵性だといっていました。顔立ちも、エートルとは幾分違い、そっくりではありません。容姿が若干ことなるのは、後天的なものだと思っています」 「お母さんは、二卵性だといったのですね。こうした話で間違えることは、普通はないと思いますよ。嘘をつく理由も、分かりません。それに三つ子の話は、どう考えたらいいのですか。もっと、説明してください」 「母は、妊娠の初期には、三つ子だったといいました。それで、私は分かったのです。母は、気遣ってくれたのです。親ですから当然です。三卵性の三つ子だったと、私にはいいました。妊娠の中期になって、三人の子供をうむのは母体への影響が大きすぎるから、ふたりまでとすすめられ、胎数をへらすかどうか、両親はかなり悩んだそうです。ずっと望んできて、せっかくできた命を粗末にしていいのかと。それで三つ子をうみたいと話したら、産科医はくりかえし猛反対したそうです。そうするうちに、胎児が消えたのだそうです。母は、胎盤が痕跡をふくめて三つだったから、三卵性だといいました。私は、一卵性の三つ子だったのだと思っているのです」 「そこには、いろいろな思いがあるわけですね。すくなくともお話をうかがうかぎり、オリジナリティーの問題をかかえているのは事実なのでしょう。エートルとは、どうつきあっているのですか」 「彼は、リヨンで暮らしています。だから普段は会いません。ときたま、私のところにやってくることがあります。一卵性ですから分かるんです。今日、くるなって。べつに、なにをするわけでもないのです。ただ、私の周囲をかぎまわりにくるのです」 「あなたがリヨンにいくことは、ないのですか」 「ありませんね。エートルに会いたいとは思いませんから」 「嫌いなのですね。ウーシアは、エートルを」 「そうです」 「それでは、エートルも、あなたを嫌いなのですか」 「そうです。本質が悪魔と神ほどにことなる、おなじひとつの者が存在するのは、気分のいいことではないのです。この気持ちは、一卵性でないと理解できないでしょうが」 ウーシアは、ゆっくりと考えながらいった。 「残念ながら、分かりませんね。その羊水につつまれた子宮内での思い出ですが、悪魔というべきエートルは、なぜあなたを殺そうとはしなかったのですか」 「ハディルが、いました。その気配を察して、エートルを始末したのです」 コギツールは、溜め息をついた。やや時間があって、彼は話題をかえようと提案した。 「高校生の時代に常用したジーンズを、大学に入ってから、はかなくなった理由はなんだろうか」とたずねた。 ウーシアは、原因はないといった。 コギツールは、考えてもらいたいと答えをつよくもとめた。 「みんなが、はいていたからでしょうか」とウーシアはいった。 コギツールがさらに、赤いシャツについてたずねた。 ウーシアは、両親が焼死したころからやめた気がする。赤いシャツは縁起が悪いと思ったのだろうか。それでいっしょにジーンズも、はかなくなったのだろうと答えた。 コギツールは、さらに趣味についてたずねた。 「大学時代にはサークル活動をしていなかった」とウーシアはいった。 「チェスの同好会にも、入らなかったのか」とたずねた 「エートルと、していたのです。彼だったら、どううごかすかと考えて、ひとりでやることが多かったのです。正直にいって、みんな弱くてだれも相手にならないのです。エートルは、つよいですよ。私の思考ばかりか、心理まで読みとってきますから。友達はいっぱいいましたよ。だから遊びたいときは、いっしょに楽しみました。義務でするのは、嫌だったのです。エートルとチェスをやっていたのは、中学生までです。高校で寮に入ってからは、ほとんど記憶がありません」 コギツールは、ここもエートルで塞がれているのが分かった。そこで話題をかえて、夢で「バビロンの塔」をのぼったのを確認し、宗教にたいする考え方をウーシアに聞いた。 「読書が趣味なのです。それも、宗教書ばかり読みつづけていたのです」と青年はいった。 人類最古のゾロアスター教から、ヒンドゥー教、キリスト教はもちろん、回教、道教、日本の神道についてまで読みあさった。エリアーデの世界宗教史はまとまっているが、系統的に論じようとする試みには、無理がありすぎる。人間の分を、こえていると感じた。その証拠に、彼はこの書を完成できずに死んでいる。宗教書を読みながら、なぜ自分の身にこんなことが起こったのか考えつづけた。宗教がうまれたのは、決して神が存在するからではない。悪魔がいるから、どうのりこえるのか考えることで必要になったのだろう。だからキリスト教よりも、イスラム教のほうが増しだろう。聖書では悪魔はいるのに、教義から排除されている。だから、中世のスコラ派は、その由来について考えねばならなかった。 「私は、宗教をとくに信じてはいません。しかし、ハディルが存在するのは、事実だと思います。それは、超越者がいることで、神にも悪魔にもなりえるのです。そうした者たちは、とくていの書物や、かぎられた教会のなかに存在するわけではないのです。信仰心をもつ人たちは、いつでも聖書にはこうかいてある、なんて話しています。宗教を信仰する方がたは、自分以外の者を信頼しているのではないでしょうか。自分を信じられないという理由で、神を信じこむのは、おかしいと思います」 「しかし、信仰とは、がんらいそうしたものではありませんか。自分とは次元の違うとくべつな存在をみとめて、その考えを尊重する行為とは思わないですか」 コギツールは、聞いた。 「そうかも知れません。だから信仰は間違っているのです。私は、一般的な神は信じていません。信仰は麻薬とおなじで、信頼して自分を安心させているだけです。自己の存在を、信じた者によって保障してもらうだけです。ほんとうは自分をすてさって、神のなかだけで生きているのです」 「ほう」 コギツールは、確信に満ちた青年の口調にうなずきながら、 「するとあなたは、すくなくとも自分は信じているのですね」といった。 「私という人間が、いまここにいる。これは、信じています。そして、私という存在がひとり切りのもの。これも、信じていいと思っています」 「でも、神の最初の天使、ハディルは、存在しているのでしょう。どこに、いるのでしょうか」 「悪魔が隠したのです。エートルのせいで、ハディルは、消し去られたのです」 「どこまでは、いっしょにいたのですか」 「うまれる瞬間までです。出産直後に、エートルが入れ替わったのです」 コギツールは、ウーシアのつよい確信を聞いて、話題をかえた。 山小屋の話にもどって、青いジーンズと赤いシャツがベッドのうえにおかれていることについてたずねた。衣類がきちんとたたまれ、小屋の掃除がいきとどき、清潔だったなどを聞きだした。 「夢にでてくるものは、一般的にはなんらかの形で、過去の記憶とつながっています。たとえば衣類は、高校時代の服だったし、塔はバベルによって、細いながらも聖書に関係し ているのでしょう。山小屋はどうですか。あなたは登山をしますか」とたずねた。 ウーシアが否定すると、だれかが住んでいるのではないか、とコギツールは聞いた。たとえば最初にみた「人影」が、暮らしている可能性はないのかたずねた。 この問いにたいしても、ウーシアは否定した。 ベッドは、綺麗で白いシーツがしいてあった。見覚えのないものだった。そのほかには、男ものか女ものかよく分からない一組の黄色のパジャマがたたまれておいてあった。見覚えは、なかった。父親が、黄色のパジャマをもっていた気がする。みなれないベッドカバーが、かけられていた。よく考えると、ベッドの大きさはキングサイズくらいで、狭い部屋には不釣りあいだったと話した。 「それは、とてもひとりではつかい切れませんね。皺もない白いシーツで覆われた、キングサイズのベッドですか。狭い一間の大半を占めることになりますから、ずいぶん強調されていますね。マーナとウーシアのほかに、子供さんが幾人かいても、ひろいくらいの大きさですね。これは、大きな象徴ですね。とても重要な暗示です。きっと解決の糸口でしょう」 コギツールは、真剣な表情で何度もうなずき、ノートから目をあげていった。 「山小屋にかんして、べつな質問があります。出口と入り口ですが、それは決定的なものなのでしょうか、つまり、家が道の真ん中に立っているとか。まるで夢のなかのあなたは、一歩でも後退するのを苦痛に感じているともうけとれますが」 「違いますよ」 コギツールの言葉を聞くと、ウーシアは直後にそう話し、はじめて笑った。好感のもてる笑顔だった。 「道は、家のまえを走っていますよ。右がわに川がながれ、反対の左がわに山小屋があります。私は入るときと、でるばあいで、違う扉を利用するだけです。どちらの扉口も、道に面していました。扉はふたつあるのです。入り口は、私が歩いてきた道のちかくなのです。よく分かりませんが、急いでいたのでしょうか」 ウーシアは、そういうと笑みをもらした。 「あなたは、どちらにむかっているのでしょうね。塔にのぼると、窓は東に切られています。川のながれと、あなたのすすむ方向は、おなじらしいですね。入り口と出口が決まるなら、むかっている方角があるみたいに思えるのですが」 「いままで、考えませんでした。塔の窓からは、日がのぼるのがみえました。出窓は、東がわに切られているはずです。いわれると、右とか左とかで川と山小屋を話しましたが、西にむかっていた気がします。理由は分かりませんが、たぶん西方向ですね」 「私も、そうではないかと思いました。結局、道は真っすぐ西にむかっているのではないのでしょうか。すこしでも西がわです。現実のあなたも、後退することは嫌いですか」 「好みでは、ないでしょうね。後退が好きな人は、ほとんどいないでしょう」 「まあ、そうかも知れません」 コギツールは、その言葉に大きくうなずいた。彼の脳裡に、さまざまな考えが浮かんでいた。時計をみると、一〇時半にちかかった。コギツールは、右の中指で幾分白さの増してきた頭をかいた。 「最後にひとつ聞きたいことがあるのですが」といってすこし休み、そしてつづけていった。 「あなたは結婚を考えているとおっしゃいましたが、挙式はいつごろになる予定ですか」 「夏です。この、六月二五日を予定しています」 「立ち入ったことで恐縮なのですが、あなたは心から結婚を望んでいらっしゃいますか」 「どういう意味ですか」 ウーシアは、さも意外という表情で、まじまじとコギツールをみつめた。 「私は、その女性を愛していますよ。なぜ、望まない女と結婚するなんて、考えるのですか」と憤慨した様子でいった。 「いえ。別段そうしたつもりで申しあげたのではありません。いずれにせよ、失礼いたしました」 コギツールは、詫びた。いささかばつが悪い時間のあとで、ふたたび口をひらいた。 「お子さんは、何人くらい欲しいですか」 「ふたりもいれば、いいと思っています」 彼は、平静にもどっていった。 「時間が参りましたね。予約の方がいらっしゃるので、またもう一度いらしてください。日時については、受付でシーニュと相談していただいて。できれば今度は、婚約者の方がごいっしょだと、もっと都合がいいと思われますが、いかがでしょうか」 「はい、できるだけいっしょに参ります」 「それでは、おひきとりください」 立ちあがると、礼を述べて部屋をでようとするウーシアにむかって、コギツールは声をかけた。 「ああ。そうそう、ウーシア。あなたが結婚の日時を決めた、日を覚えていますか」 「昨秋です。一〇月の一五日です」 彼は、そう即座に答えて怪訝な表情をした。 「ありがとう。それでは、またお待ちしております」 コギツールは、そういうと、かるく会釈をした。 ウーシアと婚約者がやってきたのは、つぎの週のおなじ曜日だった。ふたりは、予定の時刻きっかりに姿をみせると、コギツールにていねいな挨拶をした。ウーシアは、「こちらがマーナ・ガブリエルです」と婚約者を紹介した。 「もしかして、あなたは、オセロー・ガブリエルさんのお嬢さんですか」とコギツールはおどろいてたずねた。 彼女がうなずくのをみると、 「これは奇遇だ、先日、お父さんにお会いしました。ロータリーの例会で、ガブリエルさんはメイクアップにいらして、私のとなりにおすわりになったのです。そのとき、六月に下の娘さんが結婚するとおっしゃっていましたが、あなたのことだったのですね。これは奇遇だ」 彼は、そういって笑った。 マーナは、スタイルのいい素敵な女性だった。育ちのよさそうな上品な顔立ちをしていた。髪はみじかいブロンドで、なによりも美しかった。 ふたりが腰をおろすと、コギツールはマーナにむかっていった。 「ウーシアの夢については、聞いていらっしゃいますね」 「ええ」 マーナは、綺麗にならんだ白い歯をみせて笑った。 「全部、聞いております。先生とのお話も、細大もらさず。私たち、ほんとうに愛しあっているのです。この人の苦しみは、私のものでもあるのです。どうか、解決してあげてください」 その言葉にうなずいたコギツールは、ウーシアの夢とふたりの結婚は、関係があると思うかとたずねた。マーナは、否定した。コギツールは、ウーシアが夢をみはじめたのと、婚約時期が重なることについての意見をもとめた。彼女は、分からないと答えた。 マーナは、ウーシアがやさしく仕事熱心で、夢の原因が思いあたらないといった。彼はとても頑張り屋で、いまはロシア語を勉強している。会社がロシアへ進出するので、プロジェクトのチーフに抜擢され、冬はモスクワにいくことになるだろう。彼女はパリが好きだが、仕方がないといった。 コギツールは、マーナにウーシアの兄についてたずねた。 彼女は、一度だけ会ったことがあるといった。 「容姿は、一卵性ですからとてもよく似ています。私は、エートルが生理的に嫌いなんです。モスクワについていくのも、パリを離れれば私たちを邪魔する者もいなくなるからです。理由は、うまくいえませんけど、みただけでも嫌な感じで、ふたりがいっしょだと、いいことが起こらない気がします。女の直感です」 マーナは、答えた。 コギツールは、エートルについてウーシアからくわしい話を聞いているのか、たずねた。マーナはよく知り、彼のいう通り、人を殺し、家に火をつけて大惨事を起こしても不思議でない感じだったと答えた。会って嫌なことが実際にあったのかと聞くと、彼女はふたりはそっくりだと話した。 コギツールが、マーナはひとりで面会したのかとたずねた。 「ああ、先生は、疑っているのですね。エートルは、いないのではないかと。違います。エートルは、ウーシアの幻想ではありません。私は、三人でいっしょに会ったのです。パリから離れれば、エートルも追ってくることができないでしょう。ウーシアも、連絡はしないでしょう」とマーナは答えた。 「なるほど」 そういって、コギツールは一息ついた。 「素敵ですね。私は、あなた方が結婚することによって、夢は解決するだろうと考えています。マーナが快活なお嬢さんだと分かって、とても安心しました。彼には、憩いが必要です。賑やかな温かい家庭。マーナがつくってくれるはずのものです。扉の先にあるのは、きっとそういう世界です。私は、さまざまな解釈を試みました。いまからお話ししようと思うのですが、ただひとつはっきりとしないところは、あのベッドでした。マーナに会って、分かりました。ウーシアはひとりではなく、子供をいっぱい欲しがっているとしか考えられないでしょう。最初の人影も、結局マーナだったと思うのです」 コギツールが、そう前置きをして話をはじめると、彼女も身をのりだした。 「ウーシア。あなたにとって、マーナははじめて愛した人だったのですね。違いますか」 「そうです」 ウーシアは、はっきりと答えた。 それを聞いて、コギツールは話しはじめた。 ウーシアは、山小屋にだれもいないことを確認する。皺ひとつないシーツに覆われた空虚なベッドをみて、埋めてくれる人をもとめる。夫婦と子供ふたりがいれば、決してひろすぎないだろう。彼は、伴侶をもとめて一刻も争う旅にでる。そのために、旅仕度をしなければならない。正装をぬぎ、普段着にかえ、基本的な家から出発する。道は、まさにゼロを意味する谷のもっともふかい川ぞいからはじまる。もともとベッド、LITは、英語ではBEDにあたり、スペイン語のCAMAを語源とする。これは、脚を意味する。寝床は、床から一段たかいことを示している。ところがよりふるいラテン語では、LITの語源はLECTUSで、川底、つまりRIVER BEDを意味する。ふるくは寝床とは、土を一段掘ってつくられたらしい。だから普通よりひくいところ、という意味になる。山小屋が谷の川ぞいにあるのは、まさにゼロを示すのだろう。ベッドには、新妻とはじめて床をともにするという意味が備わっている。ウーシアは、その寝台を満たしてくれる人、つまり伴侶をもとめて一筋の道を歩いていくのだろう。ゼロから出発した彼が、至上の場所に到達するには、ながい時間と道のりを必要とする。脇目もふらず歩みつづけ、あらゆる出来事にたいして、傍観者になる。そうすることによって、はじめて辿りつけるのだろう。塔のなかに住む人を目指して、一心に歩む。道は無機的で、歩きつづけるのは、素晴らしいことと結びつくと確信できてもつらいものだ。石の通路、石づくりの塔、裸電球、金属の扉、それらはどこかで、命ある暖かい表象とは無縁だ。しかし、山小屋はセクシーだ。ベッドは、ずばりだし、尖塔もかなり性的だ。形態ばかりでなく、のぼりつめるのはエクスタシーを感じさせる。筋が通っている。だから、歩くことができる。道が、愛と喜びに満たされた世界につづくのを知っているのだろう。そこでウーシアは、子供をもうけ父になるのだろう。山小屋のベッドのパジャマが、語っていたものだ。ウーシアは、すこしずつ塔をのぼりはじめる。右まわりにすすむ道は時計を、周囲にひびく靴音はカチカチと秒を刻む音を暗示する。ときは、ちかづいている。ウーシアは、まさにその入り口を発見し、あとはぬける日を待つだけだ。扉をみつけて安心して、いままでのながい道のりに疲れ切ってしまった。すこし、心配にもなっている。もし扉があかなかったら、どうしようかと考えている。これが、夢が語っている物語なのだろう。 「すると扉は、私たちのハネムーンを意味するのですね」 マーナは、目を輝かしていった。 「まさに、その通りです。扉のむこうには、えもいわれぬ美しい可愛い人が、あなたを待っているはずです」 コギツールは、ウーシアを、それからマーナをみて微笑んだ。 「あとは勇気をもって、あければいいだけなのです。もう、すわりつづける必要はないのです」 「そうよ。ウーシア、あければいいんだわ。私は待っているのよ。待ちこがれているの」 マーナは、ウーシアをみていった。 彼女の言葉に、彼は大きく溜め息をついた。 「勇気がいるな」と呟いた。 「元気をだして、私たちのために」 マーナは、彼をじっとみつめていった。 「ウーシア。どうして、躊躇するのかね。もう、戸惑いはいらないのですよ」 「そうよ、なにを考えているの。なにも怖がることはないのよ」 マーナは、またいった。 ウーシアは、額に手をあてて考えこんだ。 「どうしたのですか」 コギツールは、いった。 「しかし、先生。もしも、扉があかなかったら、どうしたらいいのですか。そうなら、ぼくはこれから、生きていけるのですか。マーナ。どうやって、ぼくは生きられるのかい。金属の扉で、とても壊せそうではない。もし、あかなかったら、どうしたらいいんだ」 彼はそう語気をつよめていうと、まじまじとコギツールとマーナを交互にながめ頭をかかえこんだ。しばらく沈黙の時間があった。 「それは、思いすごしです。かならずあく扉です。鍵もないし、あなたの話の通り、ひけばかんたんにいくはずです」 コギツールは、いった。 「そうよ、絶対にあくわ。ウーシア。考えてみて。私たちの結婚を反対しているのは、だれひとりいないでしょう。私は、あなたを愛しているわ。いっしょになれないなら、死んでしまうわ。安心してウーシア、もうあなたは、ひとりじゃないのよ。私たちは、いつもひとつなのよ」 「そう、勇気をもつことです。先日、マーナのお父さんにお会いしたときも、結婚相手を素晴らしい好青年だとほめていらっしゃいました。まさかウーシアのことだとは、考えもつかなかったのですが」 コギツールは、彼にむかってやさしく微笑んだ。 「そうよ。父はほんとうの息子みたいに、あなたを気に入っているのよ。娘の私がやけるくらい、ウーシアをほめるのよ。私たちを阻むものはなにもなくてよ。勇気をだして、私は待っているのだから」 マーナが熱っぽく語る言葉に、ウーシアは彼女の青い瞳をじっとみつめた。やがてふたりはだきあい、口唇をあわせた。 三 ふたりがでていくと、ほどなくラカンがやってきた。 彼は、ちかごろ売り出し中の精神分析医で、おなじミレナ分校に講座をもっていたし、パリ大学の先輩、後輩という仲でもあったので、たまにいっしょに昼食を食べた。その日も、まえまえからそんな話になっていた。 「はやかったな」とコギツールはかんたんな挨拶をかわすといった。 「あんまりいい天気なので、途中でやめました」とラカンは答えた。 「教師がそんなだから、ちかごろの学生はぐうたらになる」とコギツールは思った。 ラカンは、彼の気持ちがつたわったのか、窓ぎわまでいき、ぼんやりと車が往来する交差点をながめていた。髪はぼうぼうとしており、無精ひげが生えていた。黒枠の眼鏡をかけて、いつもの黄色いポロシャツをきていた。だれも、大学の講師だとは考えないだろう。ラカンの不健康そうな土色の痩せた横顔をみながら、コギツールは思った。 ノックの音が聞こえて、シーニュがコーヒーをはこんできた。昼食時にはまだすこしはやかったので、ふたりは、ソファーにすわって飲みながら世間話をはじめた。 「なにか面白い話は、ありませんでしたか」とラカンはたずねた。 「風変わりな夢をみる患者がきた」とコギツールは話した。 ラカンが聞きたいといったので、彼は先ほどの出来事を語った。 一通り話が終わるといくつかの質疑応答があった。 ラカンは、コギツールの知っている、ほとんどすべてを聞きだした。 「それで先生は、どんな風に解決したのですか」と彼はたずねた。 コギツールは、先ほど自分がした解釈をくりかえした。 話を聞き終えると、ラカンは「なぜ先生は追っかけていると考えたのですか」とたずねた。 「と、いうと」 「彼は、逃げているのではないでしょうか。そうは、思いませんか」 「なにからだね。それに、なぜだね」 コギツールは、右手で鼻を撫でながらすこし考えていたが、ラカンにたずねた。 「その上品で、裕福な婚約者、という女性からですよ。シーニュも好感をもったという優男は、いつまでもひとりでいたいのじゃないのですか。つまり、そうするかぎりは、彼は自分を信じていられる。自己を信頼することが、アイデンティティーだと考えている。一卵性が強調され、まるで自分がうまれながら他者とは違うからこそ、非凡と思っているのでしょう。ベッドのパジャマは、父への憧れというよりも、怖れではないのですか。平凡な父親への、恐怖ではないのですか。だから、結婚の象徴から逃げだす。それにベッドには先生の解釈のほかに、掘ることから墓地という意味もあります。結婚は人生の墓場、という格言は、まさに合致するわけですね。私たちの年になってようやく、この言葉がじつは意味ぶかいものと、はじめて理解するのですが」 ラカンは、おかしそうに笑った。 「まさにその通りだな。かつて君が話したなかで、もっとも妥当と思えることだ」 コギツールは同意し、笑みを浮かべた。 ラカンは、愛犬をつれた人びとが自分のものを自慢し、そのあげく喧嘩をするという話は面白いといった。犬は、本能的に寝床を掘る。愛犬は、自分の人格の一部とさえいえる。犬を理解することにより、世界は存在するのだろう。人間自身の一部であり、繁栄と幸福に欠かせない動物だろう。愛犬は、人間がいままでになしえた、もっとも有用な伴侶ともいえるといった。 「たしかに、犬の部分は面白いと私も感じたよ」 コギツールは、応じた。 「それにエートルは、実在するのでしょうか。これは重要な点ですね。彼の副人格には違いないのですが」とラカンはいった。 「マーナは、実際にエートルに会っている。ほとんど、そっくりといっていた。一卵性か二卵性かという点に、ウーシアはずいぶんこだわっている。ただ、この話はよくできていて、三つ子だったという部分が興味ぶかい。つまり、ウーシアとエートルのあいだに、もうひとりが介在している。しらべてみたのだが、彼の生家には火事が起こって、両親は焼死している」 「父母の死は、ウーシアになんらかの過失があったのでしょうか。入寮中だったと、直接の関与を否定する言葉をふくめて、罪の意識をもっていますね。だから道はいうならば、贖罪を意味するのかも知れません」 「それも考えてみた。孤独な道は、巡礼で、目指すのは聖地ということになるからね。赤いシャツをきるのをやめたというのは、かなり露骨に火を暗示し、消そうという雰囲気がつたわってくる。彼の陳述からは、兄が両親を焼死させるのを、ウーシアは事前に知っていたことになる。もちろん無意識もふくめてだが」 「これでエートルが幻想ならば、分かりやすいのですが。マーナは、完全に否定していますね」とラカンはいった。 「エートルは、実在すると考えるべきだと思う。ウーシアの副人格なのだろうが、すべての非を負わせている。彼は、エートルにたいして殺意までもっているのだろう。激しい怒りを、隠していない。一度、会ってみたいと思うほどだ」 コギツールは、大きくうなずきながらいった。 「ちょっと、うまくできすぎているとも感じますが」とラカンは答えた。 「エートルは、マーナと結婚することによって、存在意義をうしなうのだろう。モスクワにいくのは、非常にタイミングがいい。東にあたるから、恋人をつれた人たちが喧嘩する、ごく普通の光景がみられる場所だろう」 「むかっているのは、西なのでしょう。だから、逃げだしたいと思うウーシアの無意識も、理解できるのではないでしょうか」とラカンはいった。 「贖罪のための巡礼の道は、聖地に結びつくのだから、西のスペインにつづいている。ウーシアは、明確に神を否定している」 「その無神論は、面白いですね。しかし、ウーシアが否定しているのは、既存の神さまという感じですね。文脈を考えるなら、あきらかに彼は、自分が神だといっているようにも聞こえます。つまりウーシアは、いままでの人生を、自在にうごかしてきたのではありませんか。彼の現在の地位とか、よく分かりませんが、両親の死とかもふくめてです。その神にとって、どうしようもできないのが、大悪魔のエートルなのではないでしょうか。そうなってくると、ウーシアは、いま平凡な結婚をする自分自身を、疑いの目をもってみているのではないでしょうか。彼は、自分がひとりだけでつきすすむ道を、歩くべきだと信じているわけです。つまりほかの者が、介在しない通路を。だから信心は、自分以外を信じるのだと拒否しているのではありませんか。先生の解釈は、ひとつのながれ、婚約者、マーナへとすすむ方向を重視しすぎていると思いますが」 「しかし、君は彼が伴侶をもとめて道を歩くと考えるのに、異議があるのかね。犬、CHIENは、あきらかに女をあらわしている。ウーシアは、塔の窓から、人びとが恋人をつれているのをながめた。あれほど執拗に歩いていた彼が、立ちどまってみたというのだから、あきらかに憧れたと考えるべきではないのだろうか」 「塔のなかの扉がベッドからつづいていたのですから、伴侶をもとめる道という先生の指摘には意義はありません。しかし、犬ですが、英語ではDOGです。つまり、アナグラムではGODですから、彼らは女性をもつとともに、神からも祝福されているのでしょう。ウーシアは、伴侶をえると同時に、うしなっていた神聖をとりもどすのでしょうか」 「アナグラム。なにかね、それは」 「言葉遊びです。綴りを入れかえただけですよ。神と恋人をつれた人びとが、おのおのが自分の犬を自慢して争う、というのは面白いですね」 「なるほど、言葉遊びか。それは、面白い。人の無意識のなかでは、言葉は分割され、音素となって結びついているはずだからね。争う、で思いだしたが、彼は人生を戦いだといっていた。私は、人びとが罵り、なぐりあっていたと聞いたので、争いは嫌いかとたずねた。ウーシアは、そうだといった。それで、暴力でない争い、たとえば人生といったのだ。そうしたら彼は、それはひとつの戦いだと答えた。戦争という言葉があるが、このふたつは違う。どちらも相手より上位につこうとする行為だが、争いは口や態度で表現するのに、戦いは力を行使して押し通すことだ。つまり彼にとって、すくなくとも人生は、ふたつはおなじで、解決には暴力が必要だといっているのだろう」 「ウーシアは、どうしてもエートルと戦わねばならないのですね。つまり彼が生きるためには、力ずくという暴力的な方法で、生死をかけた戦いをしなければならないのでしょうか」 「そういうことになる。それに、夢をみはじめたのが婚約をした時期というのが示す通り、ここには歴然とした時間の経過がみとめられる。君の解釈が間違っているとは断言できないが、彼がむかうのは女性、婚約者なのだろう。塔の螺旋状の右回転は、時計そっくりだ。ときの経過を象徴し、ちかづく結婚を意味する。いつも君は、時間のながれを無視しようとつとめるが、正当なのだろうかね」 「そんなつもりは、ないですよ。この夢にしてもそうですが、現実の彼の状況からすべてがでているのでしょう。夢境では、過去も現在も未来も入り乱れていますから、時間のながれは本質的に無関係です。彼はいま、結婚しなければにっちもさっちもいかない状況なのではありませんか。相手は、会社の社長の娘さんですからね。婚姻を不履行にすることも、できないのでしょう。急ぐのではなく、追われて、逃げているのかも知れません。山小屋こそが、彼のスイートホームではないのでしょうか」 「どうして、なんだい」とコギツールはいぶかしげに聞いた。 「その味気ないものが、彼の結婚のイメージではないのでしょうか」 「すると、ウーシアは逃げだしたいだけだと、いうのかね」 「そうです」 「すると、最後の扉のところで、なぜ、彼はとまっているのだね。君の話にしたがえば、なんとしても逃げだそうとするのではないのかね」 「そうは、思わないですね。彼は、ほんとうに怖いのでしょう」 「あかないことかね」とコギツールはまたたずねた。 「いえ。あくことがですよ。ウーシアが入れば、扉が空間を塞いでしまうでしょうから。彼は、もう二度と現実にはもどれない。だから、待っているのでしょう」 「なにをかい」 すこし苛立ち気味に、コギツールは語気をあらげた。 「追いかけてくるのは、エートルではありません。考えられるのは、婚約者のマーナだけですね。彼女が、山小屋につれてもどしてくれることをでしょうか」 「婚約者は、扉のむこうにいるのだと思うね。そもそもこの道は、彼ひとりのもので他人が介在できないから、だれも追いかけることはできない。それが、たとえマーナであっても」 コギツールは、右手をあげて横に幾度か振った。 「その通りです。一見矛盾しますが、だからウーシアは、くたくたに疲れているのではないのでしょうか。そうなってくると、彼はすべてがはじまった分岐点まで、自分で帰らなければならないのです。ようやっと歩いてきたのと、おなじ道を。だから、なかなか立ちあがりたいとは思わないのでしょう。それに山小屋は殺風景で、寝床だけがあるのでしょう。まるで、子宮のイメージですね。三つ子が、部屋いっぱいに、ならんで寝ているのでしょう」 「子宮なら、なぜ出入り口が、べつなのだろうね」 「扉がひとつだと思うのは、先生が男性だからでしょう。子宮には、入り口と出口が存在しますよ。彼は、玄関からは無意識に入ったのでしょう。出口はあきらに存在し、ウーシアひとりが、でていったのでしょう」 「エートルは、どこから脱出したのかい」とコギツールは聞いた。 「マジックを、つかったと話しています。正規のルートで、この子宮からでたわけではないのでしょう」 コギツールは、ラカンの話を聞いて、さらに妄想的だといって笑った。 「それに、ウーシアは、最初に先生に話していませんか。彼のほんとうの道は、消えたY字型の真ん中だったと。ですから最初の草原にもどって、緑色の人影を気にせず、確実にあった真っすぐな通路をまよわず歩くべきだったと。しかし、緑の人については考えさせられます」 「君のいっているのは、本質的なことだ。その緑色の人が、だれかという問題になる。ウーシアは、ハディルだといっていた。コーランを読んでみたよ。ハディルは、アレクサンドロス大王とも、親友なのだそうだ。神の第一の天使で、モーゼにも真理を教えてやっている。イスラム・フォークロアのなかでは英雄で、どんなところにも、さまざまな形で出現してくる。出産直後に、このハディルにかわって、大悪魔のエートルが生をうけたことになっている。うまれる直前まで、ウーシアはいっしょだったのだから、君がいうような神ではなくとも、アレクサンドロス大王と同等の立場で、英雄だったのかも知れない。それにしても、消えてしまったハディルがいたはずだ。それが、だれなのか分からない。しかし、マーナ以外の女が、でてこない。フランス語の女性は、妻だからね。この人影は、ほかのだれだと思うのかい」 「そうですよ。彼は、話していないですね。なぜなのでしょう。彼は、その人影がだれなのか絶対に知っています。しかし、話せなかった。そこがポイントですね」 「彼が、知っているとは思わない。隠す理由もないし、ふたりは愛しあっている。ほかの恋人はいない。あとは、母親だ。いくら君がフロイト派だとはいっても、ここに近親相姦を考えるかね」 「いえ、無理です。母親は、あまりにも自然で希薄で、存在感がなさすぎます。どちらかというと、もともといない感じさえします」 「すると彼の本心は、どちらになるのかね。君の説では、入りたいのかね、それとも違うのかね」 「彼自身、分からないのじゃないのですか。だから、先生のところにきた。それに問題なのは、エートルにもどうやら道があったらしいという点ですよ。ウーシアは、先生にそれをちゃんと話しています。ですから、エートルも反対がわから自分の道を歩いてきて、おなじ扉のまえで、じっと待っている可能性もあります。ようするに扉口は、ウーシアがいう通りひいてもあくが、もしかすると、押してもいいのでしょうか」 「それは面白い考えだ。ちょっと考えなかったが、そうすると、ふたりは、おなじ目的地にむかっているのだろうかね」 コギツールは、右指で鼻を撫でながらいった。 「だから扉のむこうには彼の副人格の、大嫌いなエートルが待っているのかも知れないのです。扉口があいてしまえば、ふたりはむきあうことになります。そうは、考えられませんか。最後の扉にむかう通路は、まるで産道じゃないですか。これは重大事で、扉口をあけて、いいことが待っていると、いえるのでしょうか」 ラカンは、真剣にいった。 コギツールは、すこし不愉快さを感じた。 「すると君は、私が彼に扉をあけることを指示したのは、間違いだというのかね」 「いえ。分かりません。ただ、漁師がいうではありませんか。板子一枚下は地獄だと。世界を分節する扉は、一枚へだてたむこうがわは宇宙のはじまりで、ガス状の星間物質で満たされた、カオス、混沌たる闇の状態もありえるのでしょう。だいたい、こうした事態がウーシアの嫌いな聖書にかかれたバベルの塔のなかで起こっているのだとしたら、望まないことでしょう。そもそも彼の道は、なんで尖塔につづいていたのでしょう」 「すると、君だったら帰れというのかね」 「そうですね。私だったら、そういうのでしょうか。それに、まがるという方法もありますし」 「どういうことかな」 「まがるのです。とまるでも、あけるでもなく。まがるのです。もしかすると、すわっている彼の位置からは決してみえない場所に、もうひとつの扉があるのかも知れません。廊下は薄暗いとずいぶんいっていますよね。よくさがせば、扉口はひとつとはかぎりません。なにかの陰にまがった通路をみつけて回転し、東がわにむかう扉も存在するかも知れません。そこならモスクワにはいかなくても、最初の分岐点にもどれる可能性ももっています。私が思うのは、彼がみて考えつづけている正面の扉をあけたら、ウーシアはもう二度ともどってこれないのでしょう。まったく不連続な世界で、だれひとりとして、なにが起こるか予測できないわけで。彼は、そこまで考えているのではありませんか」 「とりかえしのつかないことになる、というのかね」とコギツールはいった。 「そうですね。なにも、起こらないかも知れません。そうしたことをふくめて、予測し難いというのですが」 それを聞くとコギツールは大声で笑った。ラカンも、つられた。 「君の話で思いだしたが、この扉については理解できないことがある。なぜ、扉口のノブが左がわについているのかという点だ」とコギツールはいった。 「たしかに、そうですね」 ラカンは、すこし考えてからつづけた。 「なにか、理由があるのでしょうか。普通は、右がわですね。右、DROITEは、英語のRIGHTで、神でもあり、権利や正義を象徴しています。印欧語族では、どの言語でも共通です」 「だから左にあるノブは、左回転させなければ扉をあけられない。つまり、この扉口のむこうは、彼よりも偉い人が待っている。それを、君はエートルだと思うかね。マーナが相応しいとは考えないかね」 「たしかに。エートルなら、ノブは右にありそうですね」 ラカンは同意した。 それからふたりは、レストランへいって、昼食後に別れた。コギツールとラカンは、たがいに相手の意見を批判的に考えながら、うまくない食事をとった。こうした衝突は、ふたりには稀なことではなかった。 「どうもコギツールは、物事を暗示的に考えすぎる。どれもこれもおなじ力しかもっていないはずだ。右まわりが、時間を意味する。彼らしい解釈だ。その塔は、もしかすると、時間のながれから隔絶された、逡巡を意味する螺旋ではないのだろうか。彼は解決、つまり扉のまえにすすむのを望まず、おなじところをまわっているだけではないのだろうか。ウーシアは、扉口をあけたくないのだ。その先になにがあるかも、すべてを知っているのではあるまいか。帰ってきなさい、といわれたくて、相談にきたのではないのか。結婚は、考えなおしてみなさい。そんな、忠告をうけたかったのではないか。そうでもないかぎり、結婚への時間は一直線でやってくる。もう、逃げられない場所まで追いつめられている。だれも、反対してはいないのだ」 ラカンは、そう思った。 四 一週間ほどすぎたある朝、食事を終えたコギツールが、出勤までの時間をロッキングチェアーに揺られていると、妻が昨日とどいたと手紙を一通もってきた。彼は、達筆だが神経質そうでもある、細い字でかかれた書面を読みはじめた。 親愛なる、ドクター・コギツール へ 拝啓、暖かい日々がつづいておりますが、いかがおすごしでしょうか。先日はマーナともども、たいへんお世話になり、ありがとうございました。あれから家にもどり、幾日かいろいろと考えておりましたが、昨晩「勇気をもて」という先生のお言葉を、いま一度思いかえして、今夜こそあけてみようと決心しました。その晩、かるく酒を口にして休みました。案の定、私はふたたび塔に入り、扉までやってきました。しばらく考えこんでおりましたが、やがて立ちあがると走って扉口までちかより、心臓をドキドキさせながら冷たい金色のノブをつかみ、左にまわして、エイとばかりにひいてみました。するとどうでしょう、扉はかんたんにひらいたのです。つぎに私がみたものは、先生がおっしゃった通りの世界でした。海辺で、太陽がさんさんと輝き、潮の匂いがしました。オリーブの木が、岬の先までずっと茂っていました。眩しいほどのあかるさで、耳をすますと、波音の合間に小鳥がさえずる声が聞こえてくるのです。もう通路はなく、すべてが道だったのです。私は、小さな黄色の花がさく野原をぬけ、砂浜へでて、すわって、どこまでもひろくて輝く青い海をながめていました。喜びが心を満たし、なぜか泣いていました。そのとき背後から、私の名をよぶ女の声を聞きました。振りかえると、先生がおっしゃった、まさに可愛い、えもいわれぬ美しい女性が、黄色の花さく野辺にすわっていました。緑の瞳で、私を凝視していたのです。みつめかえすと、彼女は微笑んでくれました。ながい艶のある緑の黒髪をしていました。私は、彼女のもとに歩みよりました。そして、やさしくだき、白い頬に口づけをしました。なんと私は、満ちたりていたでしょう。彼女の膝を枕にして、ながいこと横になっていました。もう、ときはなくなっていました。太陽はおなじ場所で輝き、やわらかい日差しで私たちをつつんでいました。私を拘束するものは、なにもなかったのです。どのくらい、そうしていたのでしょう。私は、彼女にむかってたずねました。 「あの扉は、いつからあったの」 「ずっと昔からよ。私が気づいたときには、もう、すでにあったわ」 すんだ声で、彼女は答えました。 「あなたは、いつからぼくを待っていたの」 「嬉しかったわ。忘れないでいてくれて。私は、約束を信じていたわ」 しばらく、私たちはだまっていました。そのうちにまえから考えていた、ひとつの疑問を私は思いだし、また彼女に聞きました。 「あの扉は、ぼくのほかに、だれが通ったの」と。 すると彼女は、ながい白い指で、ゆっくりと私の額を、そして髪を撫で、もう一度口づけをしてくれました。 「だれもこなかったわ。あれは、ウーシアの扉だったのよ。そう思い、あなたもみとめた。のこしてでていき、私のためにもどってきてくれた許しの扉だわ。だから、あなただけを待っていたのよ」 「そうか。エートルは、こなかったんだ。約束だった。また、ここに帰ってきたんだ」 私は、思わす呟きました。 すき通る青い空をながめ、おだやかな潮の音を聞き、彼女の甘い舌を味わい、芳しい髪の匂いをかいでいました。暖かく、やわらかな腰に触れ、私はいつまでもそうしていました。もう欠けているものはなにもありませんでした。幸せで、すべてが私の想像した通りでした。みんな先生のおかげです。ほんとうに、ありがとうございました。 ウーシア・マーテリアル 手紙を読み終えると、彼は右の胸ポケットにしまいこみ、八時半きっかりに家をでた。いつものマロニエの並木道をぬけ、エノンセ・ジャンクションの職場についたのは、九時すこしまえだった。彼は、オフィスでシーニュをみて、どきりとした。 彼女は、あざやかな緑のワンピースをきていた。それは、素晴らしく似合っていた。 コギツールは、シーニュに朝の挨拶をして部屋に入ると、カーテンをさっとひらいた。 広々とした世界がみえた。 「暑くなりそうだ」とコギツールは思った。 ノックの音がして、彼女がパロールとコーヒーを、机にはこんできた。 「ありがとうシーニュ。君が三つ編みにしているのを、はじめてみたよ。緑が、こんなに似合うなんて考えたこともなかったよ。その緑色のスカーフも素敵で、今日は一段と綺麗だね」 彼が声をかけると、シーニュは微笑んで首を横に傾けた。 「昨日、先生がお帰りになったあとで、ドクターラカンから速達がとどいていました。机の引き出しに入れておきました」 彼は椅子にすわり、熱いコーヒーを口にしながらゆっくりパロールに目を通した。三面の片隅に、ひとつの記事を発見した。 昨日、午前一〇時ころ、パリ、ラング・ストリート三丁目、タブローアパート三階で、原因不明のガス爆発が発生。男女ふたりの死亡が確認された。被害者は、アパートの住人、ウーシア・マーテリアル氏(二七歳)と、婚約者、ガブリエル自動車工業社長、オセロー・ガブリエル氏の次女、マーナさん(二四歳)。ふたりは、とくに不審な外傷はなく、ガス爆発による焼死とみられている。また同日、爆発したアパートで、ウーシアが兄といい争う大声を聞いたという隣人の証言もあり、事故となんらかの関わりをもつとして、失踪中の同氏の捜索に警察は全力をあげている。隣人たちによればふたりは一卵性の双生児で、焼死した男性が兄弟のどちらなのか、外見では判別がつかないと当局は話している。 コギツールは、その記事を読み終えると席を立ち、窓ぎわまで歩いた。日差しはすでに夏のものだった。眼下にエノンセ・ジャンクションがみえた。そこはけっこう交通量の多いところで、今日はいつになく渋滞していた。エピステーメー通りでバスが故障したのか、立ち往生しているのがみえた。自慢の電子化の信号も役に立たず、警察官がでて、右往左往していた。彼は窓を背にし、ぼんやりと机をみた。 「マーナは、死んだわけか。ウーシアとエートルの、どちらかとともに。運の悪い奴だな、あかなければ帰ることもできたのに」と思った。それで、「まがるか」と独りごちた。ラカンの手紙を思いだし、机のいちばんうえの引き出しから速達をとりだし、封をあけた。 論考「扉」 扉口は、ふたつの空間を分ける機能をもっている。分割されるには、かならず意味があり、その象徴として扉は存在する。だからあける行為は、意識するかはべつにして、基本的にはつぎの空間へ踏みこむことを含意している。 物理的にも心理的にもかんたんに開放できる扉は、あまり重要なものとはいえない。教会とか病院とかで、地下の暗い廊下で扉口をみたとき、「あけてもいいのか」と考えるのは、精神的な束縛だろう。このばあい扉に鍵がなければ、開閉はすでに個人に委ねられている。扉口とむかいあったとき、最初に物理的に開放可能かと思い、つぎにあけてもいいのかと考えることになる。鍵がない、すぐあくはずの扉をまえにして躊躇するばあいは、心理的な抑制がある。だから、考えたほうがいいのだろう。その扉口の先には、いままでとはまったく違う世界があるのかも知れない。 扉は、どこにも存在する。形も大きさも、さまざまだろう。一般的には、容易に入れる扉は、でるのも可能だろう。扉口によっては、入ると消えてしまうばあいがある。通常、入室直後はおなじ場所に存在し、もどることもできる。 扉は、かならずしも床についているとはかぎらない。天井についていたり、窓のばあいもある。換気口みたいな、狭い通路が扉口という事態も起こる。しかし、つぎの空間につながっているなら、こうした形態でも扉とよべるのだろう。どの部屋でも、よくさがせば、かならず扉口は存在する。みつけるためには、壁を充分観察して、そのむこうにどんな空間があるのか、ずっと考えるうちに、いままでみえなかった輪郭がうまれ、次第にはっきりとした形になり、やがて扉以外とは思えなくなる。 こうして扉によって世界を分節するのは、まったく個人の意思に委ねられている。光もとどかない晦冥たる闇に覆われた深海の底に横たわる、多義的であいまいで有耶無耶な思いを、みきわめ、ひろいあげ、とりだす。つまり分節する扉口は、既知とはあきらかに違う。いわば括弧つきの「扉」ともよぶべきとくべつなものだろう。それは、単にみえる以外に、同時に不可分の意味をあわせもち、まえの空間をも明確にするのだ。つまり「扉」は、前後の領域を対立させるのではなく、成立させているのだ。それは、意味と音を内包し、あいまいで無定形だった空間に、意義のあるふたつの単位をつくりあげている。どういうぐあいに区切ったとしても、「扉」が連続体に分割線を入れた以上は、Aと非Aが同時にうまれて、二分割されたのだ。 自分のために用意された専用の扉口だと分かっても、すぐに入るのはたいへん危険だ。なぜ存在するのか、あらためて考えるべきだろう。まさに思考によって扉はあるわけだが、だからといって、自分にとってほんとうに必要なのかどうかはべつだ。たとえば快楽の部屋は、みんなが想像する魅惑的な場所だが、一度入ったら帰ってくることができない。だから、はっきりとした時点で、もう一度はじめにもどって、なんのための扉か、真摯に考えるべきだろう。 扉口のむこうには、さらに戸口があり、べつの空間につながっている。しかし、そんな遠くの扉まで考えるのは不可能だ。扉口をあけて室内に入る理由は、つぎの戸口にいく手段なのだ。入室自体が目的のばあい、とても危険で、そこは快楽の部屋と似た、終わりの場所ではないのか。 とはいっても、入室しなければ分からないこともいっぱいある。だから、扉をあけるには勇気が必要だろう。それでいながら、ただ入れればいいものではなく、あとはさらに重要だ。あまりながく考えていると、扉は消えてしまうかも知れない。そうしたら、もう二度と扉口はでてこないだろう。 とはいっても、一般的な扉が問題なのでは決してない。躊躇している、「あの」扉口が事件なのだ。 最後のコメント 先日の話でもっとも重要だと思えるのは、青年が山小屋を利用するところで、この夢のなかで扉は三度登場する。小屋の入り口と出口、そして最後の場面になる。青年は、山小屋に服を着替えるという目的で、扉をあける。自分の道を歩むために、出口をでる。これは、扉がつぎの空間にいく手段だと話している。ところが最後の場面では、入ることが目的化され、ウーシアは、その先の領域について論究していない。つまり、彼は、そこに辿りつけさえすればいいと考えている。ウーシアは、扉のむこうがわにある世界を認識しているのではないか。しかし、同時に知らないともいえるのではないか。それは、彼がいう胎児のころの話に似て、言語化できず、分節不可能な形で理解しているのではないのか。ウーシアは入るのがぐあいが悪いと知り、躊躇しているのではないのか。その後の話が分かったら、また教えていただきたい。 親愛なる、ミエール・コギツールへ イェルムスレウ・ラカン、拝 手紙を読み終わって、コギツールは市街をみわたせる大きな窓のちかくにいき、ぼんやりと町をみた。外の世界は、躍動していた。窓からは、ミレナ分校がみえた。彼は、大きな溜め息をつくと力なく部屋の中央にもどり、やわらかいソファーに腰をおろした。 「約束、PROMISSION。つまり、もとからあった使命だと、いうのだろうか」とコギツールは呟いた。 そのとき、ノックの音がして彼が答えると、シーニュが、 「先生、予約のスタール夫人がいらっしゃいました」とたかい声でつげた。コギツールは、無言のまま大きくうなずいた。 ふたたびノックの音がして扉があき、スタール婦人が入ってきた。 グレーの服をきた五〇歳をすこしすぎたスタール夫人は、いままで考えてみたこともないほど、彼には輝いてみえた。 不思議そうな表情で自分をみつめるコギツールをみて、夫人は、いつもよりさらに憂鬱そうにいった。 「先生。今朝のパロール、お読みになりました。タブローアパートの、爆発の記事ですけれど」と彼女はコギツールにたずねた。 「ああ、読みました。たいへんなことが起こるものですね。それが、どうしたのですか」 怪訝な表情で、彼は聞いた。 「ガブリエル夫人とは、昔からの大親友なのです。今回の事件には、ひどいお嘆きで、娘さんの婚約者が悩んでいるのを聞いて、先生をすすめたのは私だったのですよ」とスタール夫人はいった。 「ああ、そうだったのですか」 コギツールは、スタール婦人の言葉にはっとし、思わず掠れた声で答えて唾を飲みこんだ。やや間があって、 「マーナさんは、たいへんお綺麗で快活なお嬢さんでした。どんな男であっても、心ひかれて当然と思える。そのことで、今朝はひどく落ちこんでいるんです」とコギツールは神妙に答えた。 「昨日の晩、私は奥さまにお会いしたのです。涙も枯れ果てて、なぐさめる言葉もありませんでした。すこし落ちついてから、お話をうかがったのです。奥さまは、真実を知りたいと思って、ランガージュ総合病院にいかれたのです。ウーシアがエートルを嫌って、一卵性か二卵性かの問題でこだわった理由が分からなかったのですね。院長先生のオットー博士は、奥さまとは旧知の仲で、普通は教えてくれないところを、あまりのお嘆きをみかね、カルテをしらべたのです。みんな死んでしまったのですから、仕方がないとなったらしいのです。それで、おどろくじゃないですか、ウーシアとエートルは兄弟でもないのです。彼のお父さんは、ふたり兄弟の兄で、どちらの夫婦も不妊でランガージュ総合病院の産婦人科で不妊外来に通っていたのです。それも、オットー先生の担当だったのです。遺伝的に不妊になりやすい家系だったらしく、同時期に治療をうけていたのです。あるとき、ウーシアの両親に事故が起こったのだそうです。その日はちょうど、弟さんの奥さまの出産予定日で、入院していたらしいのです」 スタール夫人は、一息つくとコギツールをみつめた。 「冬の寒いころ、ドーバーをこえて雪と氷がふってきた日の、夜のことだったらしいのです。とつぜん、産気づいた奥さまをウーシアのお父さんが車で搬送していたとき、病院の目のまえでスリップ事故を起こしたのです。ひどい事故で、ご夫妻は亡くなったのに、奇跡的に双子のおひとりだけが、すぐはこばれたランガージュでうまれて助かったのだそうです。それが、ウーシアなのです」 「オットー先生は、いろいろなことを思いだしたといったそうです。結局、弟さんの息子さんがエートルなのですが、うまれた日もいっしょだったので、弟の夫妻が双子としてひきとったらしいのです。じつは、彼のお母さんも、不妊治療をうけ、はじめは二卵性の双生児だったのです。母親は、一挙にふたりのお子様ができるのを、とても喜んでいたらしいのです。不妊治療はたいへんで、もう一度する気にはなれないですからね。それが、妊娠の中期におひとりになって、ひどく残念がっていたのです。こんな事故があって、おなじ日にうまれたのだからと考えて、自分の子供としてウーシアをひきとったのですね。ところが、話はまだお終いではないのです。じつは、ウーシアも一卵性の双子だったのです。救急室でとりあげることができたのは彼だけで、もうおひとりは手おくれで亡くなったのです。ウーシアのばあいは、じつは一卵性の三つ子だったのですが、病院としては双子までが限界だからと、胎数をへらすのをすすめていたのです。ご両親は、決心がつかなかったらしいのです。そのうち自然に胎数が減少し、双子になって順調に育ち、経過をみるつもりで入院予定だった前日の夜に、事故が起こったのだそうです」 「オットー先生の話では、ウーシアのご両親は、子供の妊娠を喜んで、大層な金額の生命保険に夫婦で入ったそうです。受取人を、子供たちにしていたのです。だからエートルのご両親は、ウーシアと同時にかなりの大金をうけとることになったのだそうです」 「そうだったのですか。教えていただいてありがとうございます。まったく予測外のことで、よく整理をしてみなければなりません。なんと申しあげていいのか分かりません。気が滅入っています」 コギツールが、ゆっくりと話すと、スタール夫人はいった。 「先生のことは、感謝するとガブリエル夫人は、おっしゃっていました。すごく晴れ晴れと、マーナが帰ってきたって。ところで先生にこんな話をするのはお門違いですが、こうした胎数の減少はよく起こるらしいですね。ごく普通の妊娠でも、ひとりでうまれた胎児が、じつは初期には双子だったことは、けっこうあるって聞きました」 「ヴァニシング・ベイビーですね」 「嫌ですわね、人間て。そんな胎児のころから、戦わねばならないのですか」 スタール夫人は、憂鬱そうにいった。 「いいえ。そうではないのだと、思いますよ」 しばらくして、コギツールは答えた。 「先生、もうひとついいですか。私、はじめて知ったのですが、一卵性でも、両者が男とはかぎらないのだそうですね」 スタール夫人の言葉を聞くと、コギツールは彼女の瞳をぼうぜんとみつめた。それから、両手で頭をかかえた格好になったまま瞑想にふけった。静かな時間が数分もたったあとで、顔を起こすと、コギツールは深刻な表情でスタール夫人をじっとみつめた。 「胎盤がひとつでも、DNAをしらべてみなければ、一卵性とはいえないのです」とひくい掠れ声でいった。 スタール夫人は、かつてみたこともないほど思いつめた表情を浮かべるコギツールにおどろいて、声もかけられずじっとみつめた。しばらくすると、彼は夫人にいった。 「たいへん申しわけありませんが、今日はひどくぐあいが悪く混乱していて、あなたのお話を医師として聞いて診察することは、とてもできません。あらためて予約の日を、シーニュと設定してはいただけないでしょうか」 「分かりました。ほんとうに、おぐあいが悪そうですわ。お大事にね」 スタール夫人は、いぶかしげな表情で答えると、挨拶をして部屋をでていった。 扉がしまると、コギツールは立ちあがり自分の机にいき、おかれた冷めたコーヒーを一口飲んだ。窓のちかくまでいって、エノンセ・ジャンクションをみおろした。エピステーメー通りを塞いだバスに車が追突したらしく、大混乱になっているのがみえた。 「そうか、ガス状の星間物質なのか。すべてが。棚引いてみえるガスは、どんなに量があっても、じつは細い二筋の螺旋の糸からできている」 コギツールは、思わずそう呟いた。 「それが、カオスというわけだ。それで、ウーシアは私のところにきたのだ。彼は贖罪を果たし、ながい旅のあとで辿りついたのは、うまれた聖地だったのだ。ハディルは、どんなところにでも、さまざまな形で出現してくるのだ。神の最初の天使なのだから」 コギツールは、ガラスに映った自分の姿をみた。 恰幅はいいが、力強さに欠ける容姿をぼんやりとながめていると、窓の右端に扉の輪郭がみえてきた。四角いガラスの扉口で金色のノブがつき、鍵はなく、押せばかんたんにあきそうだった。ながめていると、扉全体がエメラルドの色になって輝きはじめた。金色のノブは、ますます輝きを増し、魅惑的にみえ、いまや扉は確実に存在していた。思わずちかづくと、彼は緑のエメラルドグリーンに輝き満たされる扉口の外をみた。そこはやわらかな日差しに満ち、温かそうで、コギツールを誘っていた。彼は、さらにその奥をみつめた。 そこは、ひとつの世界だった。 きらきらと緑に輝くエメラルドの光沢は、よくみると一様ではなく縞模様になっていた。華やかに煌めく、厚く層状の部分と、やや疎らで輝きの不足した地点に分かれてみえた。同時に、それぞれが輝点をしたがえていた。たとえば電池のふたつの極で、一体となり分割できず、輝くものではなく、背景に目をむけると、それは巨大な闇にもみえた。太古の宇宙、まだ星が存在しないころ、世界がガス状の星間物質だった名残に思える暗い領域は、厚みをもった濃い一部と疎らな薄い場所に分けられていた。疎の部分は、あるとも、ないともいえるもので、それ自体が神の至福の言葉であり、同時に沈黙でもあった。いい方をかえれば、言語でつたえることはとうていできない、という表現をもってしても語れない、朧気で、それでいてうごかし難い金剛石として存在していた。つまりふたつは、分けられないひとつでありながら、紙の表と裏で、彼にとってはあきらかに違うものだった。 そこに、コギツールがいた。 彼は目を凝らし、髪の毛が薄くなり、やや太った丸顔の自分が、こちらをにこやかに微笑んでいるのをみた。ほんらい、合一すべき自分自身であり、陽子と反陽子の、プラスとマイナスの、意味と音の、身体と心の、分けてはならないものを分割した大いなる過ちを、いまこそ修復すべき一瞬に思えた。それは無に帰り、有にもどることだった。 コギツールは、思わず金色のノブに手がかかった。彼は、取っ手を右手でしっかりとつかみ、思い切って右にまわそうとした。しかし、ノブはうごかなかった。コギツールは、ぼうぜんとしてエメラルドの自分をのぞきこんだ。おどろいていると、翡翠の彼は次第に朧に、不明瞭になり、扉口も瞬く間に不鮮明にかわっていった。 とつぜん、「ぎー」という軋む音が聞こえ、背後で扉がひらいた。コギツールはギクリとして我にかえり、唾を飲みこんだ。ふりむくと、 「先生、スタール夫人の予約日が来週の今日に決まりました」 緑の服をきたシーニュが、たかい声でいった。 その言葉でコギツールはじっとみつめて、無言のまま大きくうなずいた。そして、部屋をでていく彼女に、彼は大きな声をかけた。 「シーニュ、姿をみせるときには、ノックをしなさい」 ソシュールからの手紙、一〇四枚、了