X氏                                     由布木 秀  一  X氏は、もとからいたのかもしれなかった。しかし、石木順がみつけてやらなければ、ひとりでは存在の痕跡すらのこせない者だった。  夜にかかれる日記は、その日に生じた出来事を振りかえって記述される。日誌は、いちばん明確な残滓がみとめられる過去を、夜半という比較的冷静な現在から省みて、ふたつの時制にいたはずの自己をつなぎあわせる行為だろうか。やや大仰にいうなら、分裂しがちな自分という存在を統合する試みのひとつといえるだろう。  石木順は、小学生のころから日記をつけていた。日誌が人間精神の産物なら、色々な人がいるわけだから、さまざまな形態をとるに違いなかった。だれにでも生じる事態だったのだろうが、石木のばあいも幾多の変遷をたどり、ひとつの活路をみいだしていた。日記にかかれる対象の石木順と、それを記録する者、Xがいると思った。X氏がいつから出現したかは不明だったが、かき手としての役割をあたえ、みつけてやったのは石木だった。石木順が「動」ならば、彼は「静」ともいうべきもので、精神の奥深くにひそんでいた存在だった。  石木がくりかえし日記をかく過程で、夜に記述を担当するX氏とのあいだに微妙なずれが生まれてきた。やがて彼は、はっきりと存在感をもちはじめた。とはいっても、どう考えてもX氏は石木順の人格断片にすぎず、幻想的な思考の産物でしかなかった。どこまでも石木を追いかける劣位存在で、いちばん身近な家族からも絶対にみとめてもらえない者だった。いうなれば石木順は、X氏が恩恵を感じるべき主人だった。しかし、しだいに彼は奇妙に存在感を増していった。なにか事件を起こし、巻きこまれて動揺するたびに、X氏は平静さをうしなって狼狽する石木を冷ややかにみつめだした。こうしたことが重なるうちに、やがて妙なぐあいに主従が逆転しはじめた。X氏は、冷徹な目で一枚一枚のノートをみつめていた。それが顕著になりだしたのは、彼が宇高や斉藤とつきあわなくなったころからだった。  やがて、X氏は一部領域で支配権を堅持しはじめ、石木順と対抗し、指示をだすまでに成長していった。いまや彼の精神は、外部と内部というふたつの世界に分割されていた。外界の主人、石木順と、内界の支配者、X氏との対話が日記だった。  石木は、大崎の目黒川にかかった橋梁から真っ黒な川をながめていた。たもとに出版会社があり、彼はそのわきをぬけて橋にたどりついた。川の上流にむかって右にセメント工場が、周囲に、あばら家ともよべる小さな汚れた家々がひしめきながら立っていた。左がわに汚物処理場がつくられ、バキュームカーが頻繁に出入りしていた。川面をじっとみていると、真っ黒な死んだながれに、メタンガスが「ぽっ」と浮きあがるのがみえた。左から折れまがってくる川は、五〇メートルくらいさきで建造物のなかに消えていた。両がわには、黒い縁石がくまれ、処理場に船がとまっていた。その右がわには、真っ黒な泥が汚らしく堆積していた。  灰色のペンキがぬられた船があり、かなり年輩の男が鉢巻きをして立っていた。上半身は裸で、汗でクシャクシャになった汚れた黒っぽい作業ズボンと地下足袋をはいたオヤジは、柄杓で真っ黒な川の水をすくいあげ甲板にばらまくと、タワシでゴシゴシと磨いていた。太陽がぎらぎらと輝く、真夏の日の出来事だった。  べつの男が、オヤジに声をかけた。そのとき、鳩が空からいっせいに飛んできて、橋の下へ消えていった。オヤジは、振りむくと舟尾のロープをほどいた。声をかけた男はそれをみて、ながい竿で黒い縁石を力いっぱい押すと、舟はグラッとかたむいて川の中央にでた。オヤジは、「ぺっ」と唾をはいて、自分も竹竿をにぎって川面につき立てた。そして舟は、橋の下へ入っていった。石木は、振りかえって道を横切り、船がでてくる川下をみた。そのとき数十羽の鳩が橋の下から空へ舞っていくのがみえた。ここにすんでいるのに気がつき、それを認識した自分に、彼は感動した。  石木は、舟がゆっくりと川をくだっていくのを無感動にじっとみていた。「クロロマイセチン」と大きくかかれた看板のある製薬会社の工場がみえた。セメントをつんだコンクリート・ミキサー車が、川ぞいの国道を走りぬけていた。やがて、舟が建物の陰に消えるのを、彼はみつめていた。しばらくすると、まるいボールが川下にむかって、ゆっくりとながれていくのがみえた。まんまるい大人の頭くらいの大きさで、真ん中に色褪せた赤い線が入っていた。みつめていると、子供のころ、それで遊んだ気がしてきた。そのとき、海をみたいという思いが、とうとつに石木の脳裏にひらめいたのだった。  川にそってくだれば、希望はかなえられるはずだと彼は思った。  海をみて、果てしない世界に接すること。  それが自分が考えているすべてだと感じ、彼は川下にむかってすすみはじめた。  それから、どのくらい歩いただろう。石木は、川端の雑草が繁茂するほそい道をとぼとぼとすすみつづけた。中学校をぬけ、老母や若い娘、物乞いにも出会った。闇雲に川ぞいを歩いていたが、やがてひとつの目印があらわれた。高い、赤と白の三本の煙突だった。それが、目的の場所だと信じた。 「海をみたい」とばかり思っていた石木の心に、「そこへいけば、自分という者のなにかが分かる」という憧憬が付加されはじめていた。東京湾の埋め立て地らしいひろい道にでると、大型のトラックが猛スピードで走りぬけていた。舗装された車道だけがあり、わきに歩道はなく、ぬかるんでいた。端の雑草をふみつけながら、目的地にむかって歩きつづけた。どれくらいすすんだろうか。彼は、立ちどまった。  石木がみたのは、川の終わりだった。そこは、海だと考えていたが、現実に目にした風景は、そうはよべなかった。すくなくとも、漠然と思いえがいていた大海ではなかった。 「コールタールの海」で、あきらかに死んで、その上を真夏の太陽が真黄色にぎらぎらと輝いていた。石木は、すわりたいと思ったが、周囲はぬかるみ泥海の一部に化していた。 「ショック」  石木をおそっていたのは、そんな言葉ではなかった。なにかの空白で、考えることもできない、すなわち疲労そのものだった。彼がいたのは土手で、下に雑草が生い茂る平らな泥地がみえた。  石木はしばらくぼうぜんと立っていたが、もうすこしちかづきたいと思った。一メートルくらいおりてみると「ぶすぶす」と音がして、足が沈んでいった。特別にいやな感じではなく、なにかに入りつつみこまれる、妙にセクシャルな感覚だった。その足をひっこぬきながら、二、三歩まえにすすむと、彼は驚きにつつまれた。  つまり海と称するもののなかに、石木の膝は沈みこんでいた。彼は、完全に泥海の一部になっていた。このまま死ぬのだろうかと思った。その思考は一枚の薄い膜につつまれ、どこか他人ごとだった。まだ大丈夫そうだったし、うごく気にもなれなかった。しかし、身体は確実に沈んでいた。翌日の新聞記事になるかもしれなかった。 「一七歳の高校二年生。東京湾の泥海でおぼれる」  そう思うと可笑しさがこみあげ、ひとりでケラケラと笑いころげた。真黄色の太陽を、もの凄く綺麗だと感じた。足は、すでに腿まで沈んでいた。「自殺だろうか」と石木は思った。着実に死がせまっていたが、無感動だった。彼は、自分への裏切りでも反逆でもないと思った。いわば「X氏への挑戦」だった。  石木順という男は、妙に「人なつこく」、ひとりでいることができず、絶えずだれかをもとめていた。麻雀や競馬、パチンコなどのギャンブルが好きで、どことなく見かけだおしだった。しかし、X氏は違った。彼の生活には規律があり、冷ややかで虚無的だった。石木順の日常を怖そうな微笑を浮かべ、じっとみつめていた。ふたりは、すべてに対照的で、「昼」と「夜」であり、「明」と「暗」だった。しかもX氏は、およそ道徳という観念をもっていなかった。具体的にいうなら、集団生活とか他人とのつきあいに必須と考えられる配慮やモラルとよぶべきものがない、いわば魔的な存在だった。  しかし、いまやX氏は、どうでもよいことになりつつあった。現実として石木は腰よりもふかく海にはまりこみ、泥は臍のちかくにまできていた。冗談とはいえない状況で、周囲には人の姿はどこにもなく、知らない鳥が生暖かい虚空に浮かんでいた。「着実な死」がゆっくりと訪れようとしていた。さきほど笑った朝刊の文面を思いだしたが、いまは可笑しくもなく、もっと切実で現実的だった。 「これは自殺なんだ」と彼は確信した。  すこしまえまで自分に相応しいとさえ思っていたが、いまはそんな余裕はなかった。「死」を傍観できるのは、一定の距離があるばあいにかぎられ、ちかづきすぎると素直にはうけ入れられないらしかった。そのうえ、はっきりいってもの凄く「格好」が悪かった。コールタールの泥海で死ぬのは、アドリア海やエーゲ海とまではいかなくても、普通の海でおぼれるのとは、どこかが決定的に違っていた。太平洋につながっているのは事実としても、実際には底なし沼だった。冒険映画では未開の奥地にでてきたりするが、ここは東京のど真ん中だった。  異常者と思われるだろう。もしかすると、他殺としてあつかわれるかもしれない。さらに驚くには、いまや胸の位置まで沈みこみ、頭が真っ白になった。その蒼白な頭部が、真っ黒の泥海のなかへ沈下していく。それでも海ならまだいいが、ここは東京中の汚物が最終的にながれこむ集積場みたいな場所だった。そこで溺死するなんて、かなり異常で変態じみていると感じた。  そのとき、二メートルほどさきに丸太が浮かんでいるのが目に入った。色は真っ黒だったが、ふとくて立派な流木にみえた。石木は手をのばしたが距離があり、つかまろうとするなら方法はかぎられていた。時間的な猶予はなくなっていて、彼は意を決した。  石木は、流木にむかって飛んだ。とはいっても気持ちだけで、実際には、ぐにゃりと横になっただけだった。もう、腕も顔も都会の汚物まみれだった。流木に手がふれると、必死でしがみついた。彼は三メートルもある木をひきよせ、腹の下に押しこもうとした。流木はかなりの浮力をもち、身体は徐々にぬけはじめた。頭の上まで都会の汚物にまみれながら、石木はすこしずつ陸にちかづいていった。それで、ようやく乾いた土にあがったときには、さすがに死ぬほど疲れていた。いまや汚物のお台場は、名実ともに「死の海」だった。東京湾がなんであるのか、彼は身にしみて分かった。  石木の自殺未遂ともよべる、このあまりに馬鹿ばかしい事件は、X氏に対するひとつの挑戦だった。外界を支配する者の最後の悪あがきだったが、結果はあきらかな敗北だった。彼は、全身を汚物まみれにし、逃げおくれ、乾期の泥沼を必死ではいまわるドジョウさながらの惨めな姿だった。バスの車掌にも、異様な臭気と、あまりにもおぞましい外見に乗車をことわられた。ほとんど泥人形といってもいい姿で、果てしなく遠いと感じられる復路を、通りすがる人々の新奇な視線にたえながら、疲労に身をきしませて歩いて帰らねばならなかった。そして、母の驚きとも失望とも違う、形容しがたい出迎えをうけ、やつれ切った身体を寝床にうずめたのだった。  この事件があってから、石木は心の奥底にひそむX氏に、さらに精神をむしばまれていった。魔的な世界が、彼のなかで徐々に、しかし確実に進展するのが分かった。なぜなら石木は、あれほどかいていた日記をつけなくなった。やがて彼の目は、果てしない自己の内面の世界にむけられていった。  X氏は、さらに勢力を拡大していた。いまや、やせて黒縁の眼鏡をかけた彼は、五人の部下をもち、みずからが委員長をつとめる六名からなる真理委員会を組織し、議長を兼任していた。委員会は、道徳委員、自己調査委員、自己監督委員、書記官と名乗る四人の若い無表情な紺色の服をきた男性たちと、風紀委員という一名の女性から構成されていた。女は、細面の美人で、幾分かはエロチックともいえる、白い背中がみえる背後が大きく切られた赤いドレスをつけていた。彼らは、濃茶のマホガニーで半円形の机をつくり、黒い裁判長の服をきたX氏を中心に、輪になってすわっていた。天然パーマのみじかい髪をした彼の右隣には、書記官が、さらに右がわには自己監督委員が腰をおろしていた。いっぽうX氏の左隣には、道徳委員が、そのとなりには自己調査委員が、いちばん左端にはながい黒髪をなびかせる若い風紀委員がすわっていた。真理委員会は、X氏の意向によって発議され、ことあるたびにひらかれていた。  石木は、裁判の被告人みたいな状況で、議長をふくめ六人の委員がならんですわる、まるいテーブルによってつくられた空間の真ん中にひとりで立たされていた。そこで、彼らのひとりひとりから提出される質問にたいして、正確に答えねばならなかった。答えがすこしでも曖昧になると、追究する委員の口調はきびしくなり、もう尋問とか審問とかいう感じだった。激しい検分にたえられず、だまって立つ石木をみると、各委員は席をはなれ、議長の周囲にあつまって額をよせあい、ひそひそと論議をつづけていた。真理委員会の書記によってつくられた議事録を手にとって、目を通すX氏は、ときどき顔をあげて、ぼうぜんと立ちすくむ彼を、冷ややかにながめていた。そして、「これは、駄目だ」という感じで、ゆっくりと首をふった。  二  石木順は、村木真鋤と約束をしていたグラウンドの土に、方程式をかいてみた。村木が簡単といった問題は、どうしても解けなかった。鳴き声がして空をみあげると一羽の烏がいた。彼は立ちあがるとそばに落ちていた小石をひろい、鳥にむかって力いっぱい投げつけた。「あたれば入る」と念じたが、石は予期したほど飛ばず、放物線をかいて落下した。「うかりたい」と思わず独りごちてネットを背にもたれながら「運が悪いな」と感じた。  昨日は、九時から六時間、順に、国語、社会、英語、数学の教科の試験をうけた。今日は、午前中だけ、理科の二科目が行われた。試験会場は、理系の選択で分けられていたので、石木は生物と物理の教室にいた。九時からはじまったテストが一二時に終わる、五分くらいまえに、階段状になった会場で彼の左前方にすわっていた生徒が大きな悲鳴をあげた。なにが起こったのかとみると、すぐにちかよってきた監督官にむかって、「やぶれちゃいました」と泣きそうな声で学生がいった。消しゴムをつかった拍子に、力を入れすぎたのか、答案用紙がびりびりに引き裂かれたのだった。教官は、すぐにあたらしい用紙をもってきて、「これにかき写しなさい。名前も忘れないで」とつげた。生徒は、顔面を蒼白にしながら、だまって用紙をうけとっていた。  こうした不運は、試験にはつきまとうものだと思った。今回の事件では、やぶれた答案をみた瞬間には、「可愛そう」と感じたが、いまは「気の毒な奴だ」としか思えなかった。おなじ出来事に違う感情があるのを、どう考えればいいのかと彼は思った。どちらも間違いなく的確な情感と思えるのに、時間の推移によって変化していた。  昨日は、もっと凄い事件があった。最後の数学の時間に、石木のまえにすわっていた生徒が、とつぜん臭いをだしはじめた。試験の終了までには十五分くらいあったが、後ろにいた彼は、猛烈な臭気にすぐに脱糞だと分かった。周囲の者ばかりか、監督官までもが気がつきながら、だれもなにも語らずもくもくと答案用紙にむかっていた。石木は事実に気づいたとき、まず「可愛そう」と思い、試験後には「根性がある」と考えた。しかし今日、その生徒は欠席していた。試験が終わったいまは、「なぜ挙手して、トイレにいかなかったのだろう」としか思えなかった。だから、「馬鹿だな」とさえ感じ、よく考えると、「可愛そう」なのは自分だった気もした。そのときには、まるで思いもつかない感情だった。  やがて、村木真鋤が緩やかになった坂をおりてきた。やせて背が高い村木は、黒縁の眼鏡をかけていた。髪は、天然パーマでみじかかった。彼は、とても疲れてみえた。昨日の電話口で「できた」。「出来た」と叫んでいた彼とは、どこか違うと石木は思った。 「できたかい」  石木は、村木にたずねた。 「解けたかい」  村木は、グラウンドの方程式をさしていった。 「試験の話はやめよう」  石木は、答えた。  ふたりはつれだって、うっそうとした木立をぬけて三四郎池の縁までいった。肩をならべ、だれもいない池の周囲を歩きはじめた。  石木はふと、むかいに人影をみたと思った。あかるい赤い色のジャケットをきた女性に思えたが、大きな石に隠れてみえなくなった。 「おなじ受験生で、やっぱり自信がないのだろう」と彼は思った。  池のまわりをゆっくりと歩いていると、村木がとつぜん「たぐち」と大きな声で名前をよんだ。田口は、すわっていた石から立ちあがり、彼をみて微笑んだ。 「そんなところで、なにをしているのかい」 「いやべつに。君こそ。なにを、しているのさ」  田口は、石木にかるく会釈した。 「知っているだろう。ぼくとおなじクラスの石木だよ」 「ああ、一度会ったよね。君とは」  石木は、記憶がなかった。  いまここにいる、やせて背が高い田口は、さきほどみた人影とは違う気がした。彼は、茶色のコートの下には、白いタートルネックをきて、チェックのズボンをはいていた。髪の毛は中程で分けられ、すこし頬のこけた色の黒い肌に垂れていた。田口は、考えにふける石木の顔をみてから、村木を振りかえっていった。 「自信がありそうだね。余裕しゃくしゃくじゃないか」 「余裕だって。飛んでもない。どうやらみんな、来年らしいね。こんなところを、うろうろしているようじゃ」  村木はいって、「喫茶店にでもいかないか」と田口をさそった。 「うん、ちょっと用があるから、やめとくよ」  彼はそういうと、村木たちとは反対の方向に歩いていった。  石木は、後ろ姿をみて、去年の学園祭で会ったのが田口だったかもしれないと思った。その男は、若い女をつれて生物研究会にやってきた。クラブでは、微生物の標本展示をして顕微鏡をつかって来場者にみせていた。コーナーにやってきた女は、もの凄い美人で、石木は思わずみつめてしまうほどだった。女性としてはやや背が高く、一六〇くらいあり、赤っぽいワンピースに、同系色の薄いカーディガンを羽織っていた。ながい見事な黒髪で、色が白くて鼻筋が通った素敵な女で、なによりも華やかだった。石木は、顕微鏡の見方を説明できないほど完全に魅せられていた。ほとんど一目惚れ、といってもよかった。学園祭後もずいぶん話題になった女は、年は二〇歳で、名前は躍子だと聞いた。つれていたのが同学年の田口といわれた気もするが、男についての記憶はなかった。そのときクラブがいっしょだった同級生の新田亮一が、女をみたまま完全に釘づけになり、固まってしまったのだった。新田は、運の悪いことに理科室でいちばん高価な顕微鏡をはこんでいる最中だった。女にみとれてぼうぜん自失になり、床に落としたのだった。器械がバラバラにこわれ、新田はひどく動揺し、挙げ句には泣きだしたのだった。  そのとき、とても「可愛そう」だったと石木は思いだした。  騒ぎを知って意地の悪い顧問のヒヨコがやってきて、新田にむかって、「泣く奴があるか」とか、「どうするんだ」とかいって怒りだし、クラブの展示はすっかり滅茶苦茶になった。顕微鏡は弁償する必要などなかったのだろうが、彼は親に頼んであたらしい立派なものを一台もってきた。すっかりしょげて、身体のぐあいまで悪くして、半月くらい学校を休んでいた。  石木は、田口が騒動の原因をつくりながら状況を冷静にみていたことに、すこし陰険な感じをもった。しかし彼は、あとで新田の馬鹿さ加減も感じたので、「可愛そう」という情感は、そのときも瞬間に消えていたと気がついた。  ある出来事になんらかの感情をもつのは、空間に枠組みをつくることなのだろう。石木が思う、どの色をあてはめてもいいのだろう。なにかの弾みで偶然に青と決まれば、はじめからずっとその色調に染まってみえる構造らしい。起こった出来事は、自分が「こうある」と感じるままに把握され、存在する気がした。石木は、どのばあいにも最初「可愛そう」という色をごく自然な気持ちであてはめた。しかし、実際に存在するのは出来事で、色彩は状況に応じてつけられ、ときどきで変化するらしかった。 「さて、それではぼくらも駿台の願書でも、もらいにいくか」  石木は、村木をみていった。 「落ちても、予備校に通う気はしないな。今日は、このまま帰ったほうがいいだろうな」  村木は、溜め息をついた。 「願書をもらうのだけは、つきあえよ。どうせ暇で、することもないんだろう」  石木は、村木が解けた数学の一題さえできていれば、と思いながら彼をうながして歩きはじめた。ふたりは、湯島天神をぬけ、お茶の水へと歩をすすめた。駿河台にある予備校で願書をうけとり、ちかくの喫茶店へ入ったときには二時をかなりまわっていた。くすんだ茶色のボックス席がならぶ、ただひろいだけの音楽喫茶で珈琲を頼むと、ふたりは同様に「なにを考えて、こんなにずっと歩いていたのか」と感じた。そして、はじめて昼食を食べていないことに気がついた。村木はミートソース、彼は空腹を覚えなかったのでトーストを注文した。  すわってしばらくすると、店の奥から男がテーブルにちかよってきて、「石木」と声をかけた。 「いやな奴にあった」と彼は内心、思った。 「なにをしけこんでいる。Mさんがたまには顔をみせろってよ」  大がらで肩幅のがっしりした宇高は、村木を一瞥し、「こいつはだれだ」という感じで顎をしゃくった。  石木は、だまって煙草を吹かしながら、やってきたほうをみた。右のいちばん奥のまるい茶色の机に、顔見知りの斉藤と松田、さらに彼らよりやや年上のふたりの男女が、彼とむかいあう格好ですわっていた。黒っぽい服をきて、髪がみじかくて黒い枠の眼鏡をかけた男性はみた記憶があったが、となりの女は知らなかった。男は、彼を意味あり気にみつめていた。  宇高は、石木が斉藤と松田のほうをみているのを確認すると、「忙しいのか」とまたたずねた。彼がかるくうなずくと、「あとで電話をかけるよ」といいのこして、奥にもどっていった。  高一の春に、石木はふとしたことから、ある新左翼のセクトに関係した。といってもべつだん深入りしたのでもなく、実際に活動したのかどうかも疑わしかった。お茶の水駅にある大学に、彼は放課後たびたび通った。それは秘密めいていて、隠しておくことで一種の優越感を味わえるものだった。 「なんだい、あいつは」  村木は、怪訝そうに石木にたずねた。 「いや、べつに、ちょっとした知りあいさ」 「あのすみにいる、ふたりは」 「女のほうは知らないが、男はいやな野郎さ」  石木は、ぶっきら棒に答えた。いっしょに喫茶店にいるわけだから、松田や宇高がまだセクトと接触をもっているのは、彼にはすこし不愉快だった。 「Mというのは」  村木は、またたずねた。 「まえに話したろう。以前ちょっとだけ、あるセクトに関係していたんだ。なにもしなかったけど、そのときのキャップがMというんだ。あいつらはね、自意識過剰でさ。たがいに、イニシャルでよびあうんだよ。すこしは尊くなった気がするらしい」 「おまえも、やっていたんだろう」  村木は、真面目な顔で聞いた。 「きついな」  石木は、すこし笑った。  ウェートレスが注文の品をはこんできた。石木は、空腹感のない腹に無理やりトーストを押しこんだ。村木をみると、いかにもまずそうにミートソースを食べていて、可笑しくなった。  石木が宇高のほうに目をやると、彼ら五人は額をあつめてなにやら話をしていた。女はながい黒髪に、赤いジャケットをきていた。遠かったので、はっきりとは分からないが、かなりの美人にもみえた。はやくこの店をでたいと思って村木をみると、スパゲッティーを食べ終えていた。珈琲を飲みながらトーストについてきた食塩の小瓶をみつめていると、中身が砂糖とおなじ色であるのに気がついた。 「なにを考えている」と村木がいった。  石木が、「砂糖は塩色。塩は砂糖色」と呟くと、彼は不愉快そうな顔になり、小さく「ふん」と馬鹿にした。 「すこし砂糖、増やしといてやるか」  石木は、爪で食塩のキャップをとりはずし、砂糖壺のなかへ注ぎこんだ。塩をスプーンで平らにして、顔をあげた。  村木は、軽蔑する表情で彼をじっとみていた。 「いこう」と石木はいって、彼らは喫茶店をでて、歩きだした。  ふたりがつきあいをはじめたのは、高二のとき、おなじクラスになってからで、授業をエスケープしては、雀荘や早朝割りびきのボーリングをしていた。  石木は、村木真鋤を遊び仲間と思ったが、自分と似ていることにも気がついて、優越感をもった。論議の対象さえあたえてやれば、村木はいつでも反対意見をのべ、懸命になって彼の意見をつぶそうとした。それは歯ごたえがあったが、しめす対応が反射的で、ひどく単純に思えた。村木が物事を哲学的にとらえるところにも興味をもっていた。哲学といっても体系だったものではなく、自分の方針に筋を通そうと努力する、見栄えのしない「あがき」だった。論議になると村木がたびたびニーチェに論究するのを、彼がルソーについて考えるのと比較して面白いと思った。  石木は、中学一年のころから小説をかいていた。はじめた動機ははっきりとはしなかったが、日記の延長線上だった。彼は、小説をかくのに満足を覚えていたし、その行為のなかで客観的に自分をみる、幾分か自虐にも似た倒錯的な感情をもつこともあった。  ふたりは、肩をならべて古本屋をのぞきながら、ぶらぶらと歩いて水道橋へでた。そこから総武線で神田へもどると、相談して、わざわざ内回りの山手線にのった。石木の家は恵比寿で、村木は目黒に住んでいた。彼らは立ちつづけながら山手線にゆられ、すっかり暗くなった空をみても、そのまま自宅へ帰る気になれなかった。ふたりは、まだ歩きたりないと思った。恵比寿駅をやりすごし、品川までいって目黒まで散策しようという話になった。  六時もすぎたし、相方の家では試験が終わった息子たちを心配しながら待っているはずだったが、すぐに帰る気は起こらなかった。品川駅で下車すると、高輪のゴルフ練習場のわきをあがっていった。ふたりとも、さすがにひどく疲れ、軽口を叩きあう元気もなく、おなじくらいの歩調でもくもくと歩いていた。  前々日から眠っていない石木は、疲れ切り、「なぜ東大しかうけたくなかったのか」と思った。坂道をのぼりながらコンクリートにつけられた円形の模様をみていると、以前にもここを、いまとおなじ気持ちで、だれかと肩をならべ、だまって歩いた気がしはじめた。しかし現実ではなく、この道ははじめてだった。 「ここだ。ぼくが自転車にのっていて、車にひかれて死にそうになったのは」  村木が、とつぜんいった。彼がさし示した場所は、ふたりがのぼってきた緩やかな坂の終わりちかくの脇道だった。  そのとき、石木は以前にひとりで大崎を歩いたことがあったのを思いだした。水銀灯が白く輝き、微かではあるが小雨がふりだしているのに気がついた。 「そういえば、川をくだった日も、こんな雨ではなかったか」  錯乱した意識のなかで村木の言葉に応える気力もなく、なにかがすぎさったあとの倦怠が石木の周囲に漂っていた。  そのとき、ふいに鐘の音を聞いた気がした。寺の鈍い梵鐘の音ではなく、天地を切りさくすみ切った高い音色の鐘だった。精神的な限界を感じない石木には、警告を知らせる奇妙な感覚があった。疲労への志向は一種の嗜虐で、彼は自分の身体を責めさいなむことに興味をいだいていた。  石木の肉体が、疲れを知らぬ精神の生贄となって、倦怠の極に立たされる。そのとき、彼の肉身は美しい鐘の音を心にむかって奏でるのだった。  石木には田舎がなく、東京以外の土地を知らなかった。しかし、小高い丘に教会がたつ、寒村に住んでいた思い出があった。樹木がうっそうと茂った森がひろがり、家々の扉は古ぼけた木でできていた。ちょうどおない年の、ピーターという少年がいた。教会の塔には鐘がつられ、屋根には風見鶏が立っていた。その鐘の音を聞きながら、最上部で悲しげにむきを変える鶏をみながら、彼は育った記憶をもっている気がした。  高輪の坂を歩く石木は、左の肩から皮製のしゃれた茶色の鞄をかけて、両手はコートのポケットにつっこんでいた。右の指先がなにかを探りあてようと無意識にうごいて空を切った刹那、妙な錯覚に落ち入った。川をくだった日もまた、このコートをきていた気がした。真夏の暑いころで、太陽が眩しいほどに照りかえしていたから、錯覚だと気づいたとき、彼は確実にすべてを思いだした。  夏の蒸し暑い日、石木は二晩つづけて眠っていなかった。そして朝、彼はひどく歩きたいと思って家をでて、あの橋のたもとまでいき、そこで鐘の音を聞いたのだった。  三  石木と村木は、坂をあがり切ると右へまがって白金にむかった。小雨がふりだし、七時もすぎていて、ゆっくりとふる霧雨が、歩き疲れたふたりには快かった。たがいに語る気力もないまま歩きつづけていくと、スナックがあるのが分かった。「るみ」と平仮名でかかれた電気の看板が、闇のなかに、ぼうっと輝いていた。石木は、その立て看板を「もの凄く美しい」と思った。それは、感動的だった。  石木の思いがつたわったのか、村木が目で「いく」と合図をしたので、ふたりはスナックに入った。内部はひどく薄暗く、正面にカウンターがみえ、のこりの狭い部分にボックス席がふたつあった。ふたりは、入り口ちかくの席に腰をおろした。  客は、ジーンズをはき、黒っぽいティーシャツをきた男がひとりきりだった。カウンターにならんで丸椅子があり、男性のとなりの椅子には紺色の上着が無造作におかれていた。歌が大きな音でながれ、カウンターチェアにすわった男は、煙草をくわえながら曲にあわせて身をゆすり、テーブルの表面を左右の人差し指をつかって太鼓をたたく仕草でリズムをとっていた。二五、六でながい髪をした、背の高そうな、やせた青年だった。  真っ黒い服をきた小柄で長髪の女が、男のとなりの椅子に腰をおろし、ふたりが入ってくるのをだまってみつめていた。彼らが席につくと、くわえていた煙草を灰皿で消して、気がむかない感じでノロノロと立ちあがり、若い闖(ちん)入(にゆう)者(しや)に水をもってきた。  ふたりは、ビールを注文した。女はだまっていて、つたわったのかも不明なまま、カウンターの後ろに消えた。有線放送からは佐良直美のハスキーな声がながれていた。 「ねえ。私、この歌大好き」  女は、冷蔵庫からビールをとりだしながら、振りかえって男にいった。青年はだまって、太鼓をたたきつづけていた。  ほとんどはじめてのビールを飲みながら、村木は虚脱感でぼうっとしていた。障子一枚隔てたむこうから、石木の呟きが聞こえた。それは、有線の音楽にまじって掻き消されていた。 「正直にいって、東大生になりたいと思っている。東大のなにが、どうしてこれほど、欲望を掻き立てるのだろう。名前や肩がきにすぎないのに。おれは、入る正当な理由が欲しかった。簡単そうだが、どんな言い訳も納得させなかった。おれの内部の冷ややかな何者かが、嘲笑をあびせていた。嘲ることさえ、しなかったかもしれない。彼は、それほど冷酷なんだ。おれは存在を愛してきた。存在者こそが小説の主題で、主人公たちはつねに躍動し、乱舞していた。躍りあがる。躍子とは、なんていい名前なんだろう。いまは、どうしているんだろう。しかし、それは偽りの躍動だったのではあるまいか。活動と沈滞、相反するはずのふたつが、心の奥底の言語を絶した謎の領域でたくみにひとつに結合するのをみた。そのあいだで踊らされていたのが、おれだった。正体なんて、あるのか。いまおれが自分に語りかけている言葉は、本当はなんなんだろう」  石木は、飲みなれないビールを口にしながら独語していた。 「言葉とは、本当に存在するんだろうか。言語は、他者とのコミュニケーションだ。X氏が登場してからは、自分のなかの道具になった。おれが君としている対話を、人は独白というんだろう。しかし、これがいちばん普通の会話なんだ。おれは、自分によって存在の危機を感じている。他者からの抑圧だったら、なんらかの行動を起こせるだろう。でも内部に抑圧者がいるとしたら、どうやって排斥したらいいんだろう。自分との戦争という、妙な名称まで考えた。自殺は、勝利ではなく、やはり明白な敗北ではないのか。この戦争に勝ちなど、ありうるんだろうか。勝利も敗北も、躍動も沈滞もない。あるものは、ただ無意味な疲れだけだ。宇高からときどき電話で、おまえは駄目になって、名誉心から東大を狙い、行動を起こす力がないといわれる。どうしておれがしていることが、行為ではないのか。ちかごろ、小説を恐ろしいと感じている。創作はフィクションだが、かく本人にとっては経験として蓄積される。よくかけたものなら、その分だけ現実味をおびてくる。読むだけなら、現実的といってすませられるだろうが、本人には、あたらしい経験として奇妙に生きてくる。擬似体験としての作用がつよくなればなるほど、その人が行動したのとおなじになって、知らず知らず影響されてしまう。認識にも似たところがある。おれはX氏を識別した。彼はいると思い、冷笑していると感じた。すべてが間違いかもしれないが、手おくれで、もう終わりなんだ。認識とはそんなもんなんだ」  石木は、ぽつりぽつりといった。彼は、なぜ自分がこんな話をしだしたのかも、分からなかった。もし、村木が途中でなにかをいってくれたら全部を話さずにすんだのだった。いまここで、自分をまったく無視して勝手に話をさせている彼は、内部にいる抑圧者とおなじだった。  その瞬間、村木がX氏だったのではないかと思いはじめた。もともと彼は、援助をしてやって、ようやく自分に追いついてきた者だった。石木は、さまざまに材料を提供し、考えさせて、不充分な説明を聞き、誤謬を正してやったのだ。それなのに、いまではまるで対等で、話をさせ、喫茶店では自分の行為を幼稚なものとして馬鹿にした。あきらかにさげすんだ目でみて、批判すら放棄した。白金の坂のところで、「ひかれて、死にそうになった」といわれて、X氏につながる泥海を思いだした。  村木は、知っていたんだ。彼は、自分を侵食してきたのではないか。方程式もできていたから、きっとあいつはうかるんだ。それで優越感をもって、今日はこんなにつきあっているんだ。  石木の淀んだ脳裏で、わけの分からない思考がうごきだした。  村木は、ビールを一口飲むと顔がほてり意識もぼんやりとした。スナックの薄暗さに目がなれると、壁にかかるゴーギャンの絵に嫌悪を覚えた。裸婦の土民が、なんの感情もなくかかれていた。モデルの女の目は、死んだように濁っていた。なにを訴えたいのか分からない。ということは、死んでいるんだろうと彼は思った。そうしてみると、スナックの主人らしい黒い服の女は、生気がまったくうせてみえた。やせて頼りなげで、反応が鈍くぼうっと立つ姿が、壁にはめこまれて一体になっているのに気がついた。 「なあ、幽霊みたいだな」と村木はいった。  石木は、彼がどんな話をしだしたのか、まったく分からなかった。 「なにかいったのか。村木」 「だから。この店の女主人は、まるで幽霊みたいだといったんだ」  石木には、村木の声が有線放送の雑音にまぎれて小さく、故意に分かりにくく話しているのかもしれないと思った。 「もっと。はっきり。喋らないと。なんだか。分からない」  大きな声で、石木はいった。 「だから。この店の女は。幽霊みたいだよな」  今度は、かなり大きな声で、村木がいった。 「おまえ、失礼だろう。そんなこと」  石木は、驚いて答えた。 「おまえが、大きな声で話せと強要したんだろう」 「いって、いいもの。悪いことがある。それくらい分からないのか」 「だから小声でいったのに、本人が命令して、自分で反論している。でも、そう思わないか」 「なにが」 「また、いわせるのか。この店の女を、よくみてみろ。壁にすいこまれて、ひとつになっている。幽霊じゃないのか」 「おまえは、不謹慎だ。道徳がない」 「思うかどうか聞いているのに、話が分からないのか」 「不道徳だ」 「もうでよう」と村木は、いってカウンターで代金をはらった。  外にでて時計をみると、九時だった。さすがに帰ろうとなって、本当は心配する家族に電話をすればいいと分かっていたが、すこし険悪な雰囲気で、どちらもいいださなかった。ふたりは、だまって五反田にむかって歩いた。やがて植物園があり、そこについたときには九時半になっていた。 「入ってみよう」と石木がいった。 「本気かよ」  村木は、冷めた目で石木をみた。 「いや、人影がみえた。ちょっと気になる」と石木は答えた。 「帰ろうといっても、おまえは、また執着するんだろうな」  馬鹿にした感じで石木をみる村木は、完全にX氏だった。彼は、主導権をとりかえしたいと思って、「怖いのか」と聞いた。  村木は「しまっているはずだ」といいながら鉄の扉をゆすった。鉄柵の門扉のとなりにある小さな扉口をひっぱると、鍵はかかっていなかった。五時になると、両方とも閉めるのが規則だった。 「あいている。こわしたのではなく、うまくあけている。これはプロの仕事かもしれない」  村木が、鍵の状態をしらべながらいった。 「入ってみよう」  石木が、もう一度いった。 ふたりは、真っ暗な園内に入った。もともと夜には開園しないので、門扉のところ以外には、水銀灯も備えられていなかった。ふかい闇に支配されていたが、ふたりの遊び場だったのでこまることはなかった。すこしすすむと、「ちょっとまて」と石木が小声でいった。 「音が聞こえる」 「なんのひびきだろう」と村木はいった。 「池のそばの、大きな木のあたりだ」と石木が答えた。 「そうだ。あの木だ。なにかを打ちつけている」  村木がいった。それで、ふたりは顔をみあわせた。 「いこう」と石木はいって歩きはじめた。  村木もなるたけ足音をしのばせ、池のそばの大木にむかっていった。だれかが、木になにかを打ちつけていた。こんな、真っ暗な闇のなかなのだ。昼間には、できないことだと推測できた。コーン。コン。という音とともに、白い服をきた人影がぼんやりとみえた。 「きっと、丑の刻参りだ。もう帰ろう」と石木がいった。 「もうすこし、みよう」  村木が反論したので、石木はむっとした。道に段差があったのを忘れてつまずき、転んで「どさっ」という音がひびいた。 「だれだ」  高い女の声だった。振りかえると、ながい髪をして赤いジャケットの人影は、上に白い浴衣みたいなものを羽織っていた。  ふたりが一目散に出口にむかうと、長髪を振り乱した女は金槌をもつたまま追ってきた。入り口のちかくで、村木は鉄柵の水銀灯の下までいき、落ちている小石をひろって白衣の女性に投げつけた。追ってきた赤いジャケットの女は、若かった。石木もころがっている砂利を投げつけると、いくつかが見事に命中した。女は当惑し、あいていた小さな扉をぬけて道路に飛びでた。そのとき道を走ってくる車に、ふたりの目の前ではねられた。 「ごちぃ」といういやな音がひびいた。「どん」という人が倒れる音響がした。石木と村木は、鉄柵越しに様子をみていた。女はピクリともうごかず、コンクリートが赤く染まりはじめていた。車内からながい髪と髭を生やした若い男がでてきて女性に走りより、ちらりと周囲をみた。慌てている男性は、壁の陰に隠れたふたりには気づかずに、急いで車にのると、そのまま走り去っていった。 「ひきにげだ」  村木は、叫んだ。  若い女は、血まみれになって横たわっていた。すぐそばに電話ボックスがあったので、村木は救急車をよび、警察にも電話をかけた。  石木は、血の気をうしなった女が田口のつれていた躍子だと思った。白衣は、血に染まっていた。その下には、紅い上着を羽織っていた。三四郎池でみた人影も、昼の喫茶店で眼鏡の男といた赤いジャケットの女性も、同一人物だと思った。今日は一日をかけて、この女を追いかけていたのだと、石木は確信した。  救急車がきて、女性をのせて走りはじめた。彼らは同乗して救急病院にいった。女はすでに死んでいて、警察がやってきてふたりは現場検証に立ちあった。検証には一時間半かかり、そのあとに警察署で事情聴取をうけた。ふたりは、署から一二時ごろ家に電話をかけた。石木の両親も村木の父母も、ひどく心配していた。  深夜に植物園に入り、高校生がスナックで煙草をすい、酒を飲んだのをふくめ、ふたりにはあきらかに不審な点があったので色々と質問をされた。しかし彼らが、その日にうけた試験が不出来だったことで、警官は妙に納得して、どちらかというと同情されたみたいだった。警察から解放されたのは、夜中の二時ころだった。村木の父親が車で警察署までむかえにきていた。  石木は、家までおくってもらい、ふたりは別れた。両親に説明するのにも時間がかかり、入浴して自分の部屋にもどったのは、午前の三時をすぎていた。 真理委員会が、ひらかれていた。 自己監督委員は、あまりにも肉体を酷使することを幾度も問題にした。石木が精神と肉身の均衡を気ままにやぶるのは、あきらかに危険で事件性があり、決して容認できないとくりかえし追及した。  道徳委員は、喫茶店で砂糖壺に塩をまぜたことを、幾度も問題にした。つぎに席にきた者が塩入の珈琲を飲んで、たいへんな騒動がもちあがったはずだと主張していた。あの喫茶店にもう一度いったら、逮捕されるかもしれないと警告を発していた。  自己調査委員は、そもそもいやがる村木を強引につきあわせて、自分の都合を優先して駿台まで歩いたことを激しい口調で攻め立てていた。試験が終わったのなら心配して待つ家族のもとに、はやく帰るのが当然で、おまえが阻んだのだと難詰した。  自己監督委員は、その意見を支持し、いつでも主導権をとらずにはいられない石木の性格が根本的にまがっていて、非常に危険だと指摘した。原因は、不明な自尊心にあると主張した。石木という男は、なににつけても他人と優劣を競おうとし、すぐにむきになり、根拠も曖昧なまま理解不能な優越感をいだいている。自分ひとりのことも満足にできないのに、意味も不明な全能感をもっている。不遜な性格によって人から教えてもらえず、成績だって決してよくない。数学の問題が一問、解けたかなど無関係で、東大など絶対入れない。あまりにも、自分を知らなすぎると主張した。  風紀委員の若い女性は、三四郎池でみた赤いジャケットの女を執拗なまでに追いつめたのを、偏執的だといって責めていた。  やせて黒縁の眼鏡をかけ、みじかい天然パーマの髪をしたX氏は、混乱し動揺する石木を直視し、嘲笑っていた。各委員の尋問がすんで、彼がぼうぜんと立っているのをみつめた。真理委員会の議長であるX氏は、最後に今回の事件をまとめていった。 「おまえは、今日、一日をかけて執拗なほどに躍子を追いつめ、ついに殺してしまったのだ。村木は、植物園に入るのをいやがった。スナックでも、このままでは女は幽霊になると、くりかえし警告していたではないか。おまえは、勝手に不謹慎だと決めつけ、厚意を無にした。村木は、躍子の顔をめがけて石を投げたのもみていたぞ。彼は、威嚇のために投石したから、あてる気などなかった。おまえが力いっぱいに石をぶつけるのをみて、殺すつもりなのかと不思議そうにしていたぞ。最後に、死んだ躍子をじっとみつめる姿に、村木は意図的な殺人だったと確信したに違いない。車にひかれたのは事故だが、おまえに殺意があったのを知っていたんだ」  X氏は、マホガニーのテーブルの中央で、ぼうぜんと立っていた石木にむかって、自分の席につくように指示した。さし示された自己監督委員の右がわには、専用の椅子が用意されていた。彼が、指定された場所にすわると、目の前には日誌がおかれていた。  X氏は、五人の委員とともに石木を冷酷な目でじっとみて、「日記には、事実をかけ」とつよく命令した。                                  X氏、五一枚、了