親友とよぶ男 由布木 秀 重松忠史が一枚のファックスに気づいたのは、職員たちと仕事の確認をしていた朝の八時ごろだった。待合室には、すでに一〇人あまりの患者が待っていた。職員はきびきびとうごき、診察室の机にはカルテが山をつくりはじめていた。かすかに震え、大きな音で鳴りひびく三台の電話に、事務職員がつぎつぎと対応していた。そのなかの一本がファックスにつながった。重松は、やかれてでてくる感熱紙に、不思議な違和感が漂っているのに気がついた。だから、看護スタッフがそれぞれの持ち場にちっていくと、自分でやぶって手にとったのだった。 重松忠史 さま 前略 とつぜんのファックスにて、お便りをする非礼をお許しください。私は、三五年ほどまえ札幌の大学にいたころ、「テルミドール」の同人として、重松さまにお会いしたことがございます。京都の元宮と申します。平成一五年(二〇〇三年)に、「陽射しの影から」という題名の自叙伝を発刊しました。そのなかで「重松忠史」さまを、「間堅忠史」というお名前でかかせていただきました。事後承諾となってしまったことを、お詫び申しあげます。と申しますのも、作成中は連絡先を存じえず、製本の段階で友人の山岡克彦君が貴兄のホームページをみつけて、はじめて道北でご活躍だと知ったのです。一度お会いして、勝手にかかせていただいた非礼を、お詫びしなければならないと思っておりました。 五月三日に北海道の観光をかねて、そちらにいく予定です。もしよろしければ、ぜひお会いしたいと存じます。敬白 元宮龍一 「先生、内視鏡の準備ができています」 ファックスの紙面をみつめていた重松に、看護師長の村井加奈子が声をかけた。今年三五歳になる加奈子は、ながい黒髪をナースキャップにまとめていた。端正な顔立ちで、なによりも落ちついていた。 「ああ、分かった」と重松は答えて、「三五年まえか。加奈子の年とおなじなのか」と思った。 元宮龍一は、なつかしい名前だった。出会ったのは、たしかに三五年くらいまえだった。 重松は、一九歳の春に札幌の大学に進学し、二一歳の初冬には中退した。元宮との出会いは、三年にも満たない期間に起こった数多くの出来事のひとつだった。 重松は、小説家になりたかった。元宮龍一といっしょに同人をつくって、小説をかいていた時代があった。その時期、元宮も作家を志望していたのは間違いなかった。事実関係からは、重松は彼と出会ってから、同人を募集した。とはいっても、元宮は人をあつめ、会を運営するような実務は、ほとんどなにもしなかった。自分の時間をさいて他人の世話をやくなど、もっとも苦手とするタイプの男だった。だから事実は重松が募集し、そのときにあつまった者がさらに知りあいをつれてきて、一〇人くらいで「テルミドール」が誕生し、同人誌を発行した。 同人には、一部にノンポリもいたが、当時の社会矛盾に大きな不満をもつ反体制派学生のあつまりだった。多くの者は、デモがあると黒いヘルメットをかぶって機動隊とぶつかっていた。 元宮は、思想的には完全な右翼で、天皇制を支持し、三島由起夫に私淑する「楯の会」のメンバーだった。重松をはじめとする同人連中と馬があうはずはなく、半年くらいすると「テルミドール」からはしだいに疎遠になり、べつのグループにも参加した。非常に自己顕示欲が高く、自尊心のつよい男だった。京都の大地主の息子で、同人ではいちばんの「ブルジョワ」という評判だった。 重松は、元宮が必要もないのに剣道具をつけて構内を闊歩しているのを幾度もみかけたことがあった。なにをするにも仕草が大袈裟で芝居がかった感じで人と接したので、学生らしい、うちとけた友人にもなりにくかった。わざとやっていると、だれもが分かったから、同人仲間からはますます嫌忌された。 重松は、元宮と現代社会学の講義で知りあった。マルクス主義者を自任する教授に、近代史についての疑問を話していたら、あとから龍一がやってきて、ほとんど正反対の話をはじめた。「こういう奴が、世の中にはいるのだ」と重松は新鮮な驚きをもった。 ふたりは、いっしょに喫茶店に入って、まったく違う視点で会話した。元宮が物理学に興味をもっているのを知り、ノーベル物理学賞を受賞した、ファインマンについて話した。それから、「解析概論」を読むべきだという話になって古本屋に買いにいった。 大学の周囲には、古書店がならんでいた。ある店で、かきこみのない綺麗で安い「解析概論」を二冊みつけて、重松が一冊を買った。元宮は、「新品がいい」といって、生協の書店に注文した。 重松は、彼とふたりでファインマンの教科書をテキストとしていっしょに勉強したこともあった。そうして話しこむうち、元宮が小説をかくのを知った。 「それなら、人を募って同人誌をだそう」と重松がいった。 「多くの学生と、いっしょにやるのはいやだ」と元宮は答えた。 「ふたりだけでは、雑誌はだせない」 重松は主張して、同人をあつめた記憶があった。 このころが、いちばん仲がよかった時代だった。重松は、元宮とさまざまなことを話した。とはいっても、たがいの家庭環境までは話題にしなかった。そうした話は、相当に親しくなって、さらになにかの機会が揃わなければできない。若いときは自意識がつよすぎて、自分や家庭がかかえる問題を客観的にみつめられない。増してやふたりは小説家を目指していたから、内向的で自尊心ばかりが甚だしかった。人とは違うと懸命に主張することはあっても、自分の思いと育った環境を関連づけ、主観を排して考えるには若すぎた。だから、話が表層的な部分に限定されたのは仕方がなかった。 重松は、町からかなり離れた下宿に住んでいた。元宮は、そこにもたずねてきた。いっしょに旭山記念公園や植物園を散策し、文学談義に耽った思い出もあった。こうして親密につきあっていたのは、せいぜい半年くらいだった。社会認識に大きな隔たりがあったのも一因だったが、同人仲間から敬遠されたというより、かかわりをもちたくない感じに振る舞った元宮は、自然の成り行きで疎遠になっていった。 重松は、二年目に大学のちかくに住居を変えた。元宮は、気紛れに下宿をたずねてくることがあった。 「いまは、どこに住んでいるの」と重松は聞いた。 「薄野の裏通りだ。場末の煩雑なところだ。薄暗い細い道が交錯して一本間違えると、どこにいるのか分からなくなる。夜は、危険だろうな。ちかくには、界隈の女が暮らす陰鬱な一角がある。さまざまな理由から、男をつれこんだりするのだろうな。道が入りくんでいるから、とても教えられないよ」と元宮は答えた。 「連絡するには、電話すればいいのか」 「電話機は、つけていない。アパートだから大家もいないし、連絡はとれない」と彼は、にべもなくいった。 重松は、あきらかに避けようとしている元宮を追いかける理由がなかった。当然の成り行きとして、やがて彼とはすっかり疎遠になった。ただ元宮は、「テルミドール」に作品をだしていたから、編集会議ではいっしょだった。重松は、会が終わったあとで、お茶や食事に誘った。元宮は、用があるといって必ず断った。二年生になるころには、近況が不明だったから、せいぜい顔見知りだった。親しいとは、とてもいえなくなっていた。 つくられた同人誌は、基本的に同人たちが知りあいに販売した。しかし、札幌の大通りには、こうしたきわめてマイナーな文学活動に理解を示す書店が一軒だけあった。店頭販売を依頼すると、一〇部くらいを七掛けでひきうけ、入り口正面の立派な陳列台におき、定価で販売してくれた。とはいっても、書籍は二ヵ月で回収しなければならなかった。重松はときどき状況を確認しにいったが、売れ行きは芳しくなく、次回もおいてもらいたいと思って自分で購入したりした。だから、この書店にいけば、かなり革新的で前衛的な書籍もみつけることができた。例えば、「爆弾の作り方」などの指南書もおいてあった。当時、新左翼とよばれていた者たちが、こうした雑誌に手を伸ばした者を、個人的にスカウトする場所でもあったらしい。 一九七〇年代には、札幌にも地方文壇があった。旧跡としても名高く、北国という薫り高いイメージも象徴する「札幌時計台」に本社をもち、月刊の文芸誌をだしていた。そこの編集者は前述した書店に出向き、札幌の大学に通う学生たちがつくった同人誌を、わざわざ自前で買い、読み、さらに批評までしてくれた。いまではすっかり消えてしまった文学の火種が、まだくすぶっていた時代だった。 べつの同人にも所属していた元宮は、そこで小説を発表した。その作品の一節が編集者の目にとまり、「非常に斬新で、清冽な表現」と賞賛する文章が同人誌批評欄に掲載された。この欄は同人たちが楽しみにしていたので、すぐに仲間内でも話題になった。 ただ重松が読んだかぎり、たんなる雅語のよせあつめで、特別な印象をもつことはなかった。哲学的で力強い小説をかきたかった彼とは、モチーフが違っていたので理解もできなかった。 元宮は、この件で有頂天になった。そのころは、ほとんどつきあいもなかった重松の下宿をとつぜんたずねてきて、「留年して、東京で文学にうちこむ」と宣言した。「家人に内密でいきたいから、帰ってくるまで荷物をあずかって欲しい」と依頼した。 重松は、元宮がどんな経緯でべつの同人に入り、小説を発表したのか。賞賛してくれた雑誌の編集者と会って、なにを話しあったのか。ひとつも知らなかった。意図的に、なにも説明しない元宮が、「東京にいくから、荷物をあずかってもらいたい」とだけいってきたのだった。 ずいぶん勝手な話だったが、もともとそういう奴だったから仕方がないと、重松は思った。物事を意図的に隠し、全体像を把握させないように曖昧にし、誇大にみせるのは、とても馴染めない元宮の奇妙な習癖だった。つきあっていると、ひどく不愉快に感じられる疎遠になった理由のひとつだった。彼がすべての人間におなじように振る舞ったのかは、たしかめたこともなく、知らなかった。プレイボーイは、ある女性と実際にかかわりをもつよりも、関係していると噂されるほうを好むという。そんな感じで、いつも背後に大きな謎をかかえているように振る舞った。 いうならば、元宮は「薔薇十字団」に属し、闇の巨大組織から極秘任務をあたえられているように重松には映った。どうとも思わないで誘導にのって聞きはじめても、結局、すっきりとした答えはえられず、傾聴した分だけ不愉快にさせられた。一年生のはじめに半年つきあって、やり方を充分に知っていたので、彼は、あえてなにもたずねなかった。 どこからみても、疎遠というより避けられていると感じる重松に頼みにくるのだから、元宮には友だちがいないのだろうと思った。詮索するのも不愉快だったので、とくになにもたずねずに、家財道具一式をひきうけてやった。重松は、元宮のもとめに応じ、荷物の搬送を手伝いにいった。場所は忘れたが、いくと受話器がおかれていた。 「おまえって男は、どこまでもひどい奴だな」 重松は、あらためて元宮をまじまじとみつめていった。 「電話は、嫌いなんだ」 「それじゃ、つけなけりゃいいだろう」 「どうしても、必要なときがある。いまは通じてないから、ないのとおなじだ」 「手伝いなんかに、こなければよかった」と重松は溜め息交じりにいった。 「いや、悪かった」と元宮は答えた。 重松からすれば、これぞ「元宮龍一」という感じだった。とくに失望するとか、あらためて嫌いになるとか、いうものではすでになかった。「おれに対してさえこうなのだから、とても友だちはいないだろう」と再度、思っただけだった。 重松は、元宮を名目上の間貸し人として家財道具いっさいをひきうけることになった。彼の親が現金書留でおくってくる仕送りを、東京の下宿に転送した。元宮が首都におもむいたのは、二月の終わりだった。みおくったのは、重松ひとりだった。おなじ年のうまれだったが、学年では彼のほうがひとつ上だった。札幌駅で重松は、餞別をやった。彼が東京行きの列車に、颯爽とのりこんだ姿は目にやきついていた。 元宮は、ボストンバッグを網棚にのせ、通路がわに陣どった。両脚のあいだに、札幌の老舗、五番館デパートの取っ手のついた大きな紙袋をはさんでいた。そこから、「ぬっと」とびでた木刀の柄の部分に両手をおき、不敵な面構えで、じろりと車内を一瞥した。 重松には、み覚えがあるグラビア写真だった。洒落た肘掛け椅子に浅く腰をおろした三島由起夫が、鞘に入った日本刀の柄に両手をおいて、周囲をみまわす構図だった。あきらかに、元宮はその写真を意識していると感じた。それは、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、三島が檄文を読んでいたニュース映像とかさなった。激しい緊張と同時に存在する、ほとんど自己陶酔としか思えない恍惚とした表情だった。自己愛の塊ともよぶべき光景で、重松の印象にふかくのこった。 重松忠史は、その年の四月、大学からかなり離れた函館本線ぞいの小さな漁村のアパートに引っ越した。それにともない、元宮の荷物もいっしょにはこばれた。 重松は、大学にもいかず小説をかいて暮らしていた。未来については、絶望していた。なぜそうなったのかはともかく、道を踏み外しつつあったのは間違いなかった。 このとき、「天才」という詩をかいた。こうした文章をつくって自死すれば、夭折した異才になれるのだろうかと思った。ただ自分を天才とよぶには、あきらかに素地がなかった。この詩を同人誌にのせるには、かなり「迷い」があった。そこで、元宮が「天才になりたい」と叫んでいたのを思いだし、「龍一に捧げる」という副題をつけて掲載した。 テルミドールの編集長は、春山といった。当時から腹がでていて、一目では穏やかな人物にみえた。しかしながら、感性は鋭く、批評はひどく辛辣だった。春山は、この詩を読んで、「おまえでも、さすがに副題をつけざるをえなかったのだな」といった。しかし、出来映えについては褒めていた。 重松は、元宮龍一と知りあって間もないころ、いっしょに植物園にいったことがあった。そこには、樹齢豊かな木々がうわっていた。初夏の昼さがりは、若いカップルが肩をならべて歩き、ベンチに腰掛けて楽しげに話しているのがみえた。 ふたりは、アイヌ民芸品の展示館をのぞき、一通りのコースを歩きまわった。それから、ひろい芝生の中央に立つ、太い楢の木の下に横臥した。若葉を照らした陽光が、密生する葉のあいだから、細くきらきらと輝く金の糸になって零れていた。雲ひとつない日盛りだったので、歩きまわったふたりはすこし汗ばんでいた。しかし北国の夏の爽やかさは、木陰に入ってしみじみと分かるものだった。清々しい風がふき、重松の心は微風にのって、青く果てしない天空までのぼっていった。 「天才になりたい」 とつぜん元宮は、横たえていた半身を起こして馬鹿でかい声で叫んだ。芝生にはいくらかの人もいたので、重松はひどく驚いた。 「バイロンになりたい」 元宮は、そういって天をみあげ、ふたたび横臥した。そのとき彼がみせた表情は、野心というより哀愁にあふれていた。恍惚とした瞳が、重松の印象としてふかくのこった。 「朝、目が覚めると有名になっていた」というのは、バイロンの言葉だろう。彼は、熱血漢として生き、ギリシア独立運動に身を投じて死んだ。天皇制に拘泥し、秩序ばかしを優先する元宮龍一とは、正反対の人間だと重松は思った。 その年の夏が終わるころ、元宮は札幌にもどってきた。 「引っ越しを手伝ってやる」と重松は申しでた。 「いいんだ」と元宮は答え、世話になったといって、蔵書印として自分の判子が押された普及版の「漱石全集」をくれた。 翌日、運送屋がきて荷物をはこんでいったが、どこに住むのかは教えなかった。電話はないという、いつもの元宮のやり方だった。 東京で、どんな事件があり、なにを考えたのかも、重松は知らなかった。聞いても、元宮は曖昧にするのも分かっていた。だから、すべてが不明だった。その後に、幾度か漁村にやってきて浜辺で会話したが、東京での生活について話をされた記憶はなかった。懇意になったという編集者との経緯も、大学でいまなにを考えているのかも知らなかった。 重松にとって元宮は、ときどき会いにくる充分に親しくなれない男だった。札幌にもどってからは、小説をかくのもやめ、学問に精をだしているという話を人伝に聞いた。 その年の一二月、重松は大学を中退して東京に帰った。元宮は、とくに去就を知らせる間柄ではなかった。彼が札幌を去ったことも、知らなかったのだろう。退学したのを同人のだれかから聞いたとしても、どうしてそうなったのかは、気にもとめなかったに違いない。すくなくとも重松の東京の自宅に、元宮から音信をつたえる郵便物がとどいたことはなかった。 大学を去ってから振りかえってみると、元宮龍一という人間は、ますます理解をこえた不思議な人物に思えた。なかでも、当時あきらかに避けていた彼が、東京行きにさいして荷物の管理や郷里からおくられてきた現金書留などの転送を、なぜ重松に頼んだのか、いくら考えても分からなかった。元宮の冷淡な態度を考慮するなら、ほんらい依頼する相手ではなかった。普通なら頼むなど、できなかったのではないか。札幌にもどってきてからも、彼は無関心に終始していた。恩義に感じたのかも不明で、まったく手応えがなかった。大学ですごした時期を思いだすと、熟慮するほど、元宮は理解できない人物になっていた。 重松は、創作のなかで元宮龍一について考えつづけた。元宮がどういう家庭に育ち、いかにしてあのような性格を形成したのか、大きな物語をつくって作品で展開した。その結果、元宮龍一には、考えられうるかぎりのイメージが付加された。重松の小説で、元宮は、木沢諒一という氏名をあたえられた同世代の人物になっていた。 諒一は、東北の中心都市の出身で、その地方を支配した大名の家老職をつとめた家系の末裔だった。戦前はたくさんの小作農をかかえた大地主だったが、戦後は農地改革によりほとんどをうしなっていた。歴代の当主は、保守党の政治家で国政にも進出していた。しかし諒一は、父親の木沢公一とは血縁関係がなかった。 大臣にもなった祖父、木沢公明は、政界の大物で、木沢家の頂点をつくった人物だった。しかし期待していたふたりの息子は、相次いで不慮の死をとげる。芸妓を母にもつ公一は、木沢家の事情により後継者にすえられる。しかし幼少時、自由に育った彼は、公明の正嫡の息子たちに比べて文武ともに劣っていた。 木沢公一は、どうしても父親の意向にそうことができなかった。虐待にも似た執拗な矯正をうけ、家長にたいする憎悪と憧憬をあわせもつ、屈折した木沢的人格を形成する。彼は強引な形で、木沢家の出入り業者の美貌な娘と結婚する。美人を好んだ公明が、自分のもちものに嫉妬していると考えることで、屈折した感情が爆発する。しかし、このとき妻は、ある男性の子供を宿していた。公明が死ぬとふたりは離縁するが、公一は血のつながりがない息子、諒一をひきとる。妻は、裁判を起こすが敗訴する。 諒一は、公一の後妻の愛情をうけても馴染まない。家庭で孤立する彼は、夫の公明に虐待されつづけた祖母から異様な愛を享受する。高校生のとき、女性と無理心中事件を起こす。その後は、東京の親戚にあずけられる。かなり複雑な環境に育つことになった諒一は、血のつながりのない妹と肉体関係に落ち入ったりする。 元宮龍一は、重松にこうした関心をわかせる素材だった。三五年のあいだに元宮という人物は、実在とは無関係に存在していた。なぜなら興味をいだいたのは、重松が二一歳のころだった。いくらでも想像できたのは、全体像がまったく不明だったからだった。それをいいことに、何十年とひきずって勝手に思い描いたので、もはや元宮の実在とは、なんの関係もなくなっていた。生死をふくめて、どうでもかまわないものになっていた。 重松忠史が、元宮龍一からファックスをもらった日、八時にはじまった午前の診察が終わったのは、一二時をすぎていた。重松は、診療所と棟つづきになった自宅にもどって、妻の幸恵と昼食をとった。彼女は、彼が食事中に考えごとをしているのに気がついて、なにか事件でもあったのかと聞いた。 「ファックスがきてね。札幌の大学時代の知りあいなのだが」 「松本さんや、石田さんといっしょなの」と幸恵は、何回か重松の診療所をたずねてきた同期の名前をいった。 「同人誌をやっていたころの仲間なのだが、この男の話は、いままでしなかったと思うよ。今日、とつぜんファックスがおくられてきて考えてみると、親しかったのかどうかも、よく分からない。連休に会いにきたいと、かいてあった」 「どこの人なの」 「京都だったと思う。街の中心からは離れているらしいが、生家は大地主だったらしい。当時の同人仲間では、いちばんのブルジョワという評判だった」 重松は、おくられてきたファックスをポケットからとりだして、妻にみせた。 「くわしいことが分かったら、また教えてね」 お茶を入れながら、幸恵はいった。 重松は、ファックスをじっとみつめた。感光紙がやかれてでてくるのをみた瞬間から、違和感が紙面に付着している気がした。固い大きなゴシックが最初の不安で、元宮龍一なら絶対につかわないと思われた。ただ、なにが元宮なのか、彼にはすでに分からなかった。 重松は、小説家になりたかった。彼は、自分が生きている世界で、多くのどうしても納得のいかない出来事に遭遇した。さらに、何年にもわたって、興味をひかれる事件があった。そうした事柄が自分とどうかかわるのか、明確にしたいという欲求をつねにもっていた。それらを適当に合理化できない彼は、小説という手段を用いて、つきつめたいと考えるのが習性になっていた。 ファックスに携帯の番号がかかれていたので、昼食後、重松は電話をかけてみた。何回かのよびだし音のあとでつながった相手は、元宮龍一だと名乗った。声を聞いても記憶は鮮明にならず、不明瞭のままだった。 「やあ、お久しぶりだね。ファックスをみたよ。なつかしいね」と重松はいった。 「やあ、声はまったく変わらないな」 相手の男は、答えた。 「せっかく、ちかくにくるなら、ぜひよってくれよ。泊まっても、かまわないよ。どうせ旭山動物園に、いくつもりなのだろう」 「せっかくだから、そこは予定している」 「人気があるからね。ここまで遊びにくる連中は、お目あてにして、必ずいくよ。男三人のおじさんトリオでも、禿げと白髪の初老コンビでも、恋人同士みたいに手をつないで」と重松がいうと、電話のむこうで笑う声が聞こえた。 「連休で、旭川の宿はいっぱいだろうから、うちに泊まってくれてもかまわない」 「ありがとう。でも、よく知っているだろう。ぼくは、昔から人見知りだ」 うまい表現をつかうな、と重松は思った。真実は、ほとんど病的で、うちとけず、あらゆるものを拒否する感じだったのを思いだした。こうした事実を「人見知り」という言葉でおきかえると、「シャイで、恥ずかしがり屋」というイメージが付与され、普通になる気がした。 「そうだったな。連休は、旭山動物園の特需で宿はとれないかも知れない。ぼくの家族は、お客さんが大好きだから、とくに気にしなくていい」 「そうか。それじゃあ、お言葉に甘えようかな。日程が決まったら、もう一度ファックスするよ」 「それじゃ、楽しみにしているよ」 「それは、ぼくもさ」 相手はいって、終わりになった。 電話にでたのは、重松が知っている元宮龍一に間違いがなく、ほかには考えられなかった。しかし元宮は、ふるい小説のモデルのひとりにすぎなかった。再会したいと思う相手ではなかった。重松が札幌の大学を去ってから、賀状のやりとりも一度もなかった。生死もふくめて消息不明で、実在すら忘れさられていた。元宮は、道北の街で医院を開業していることをネットを検索して知ったといったが、なぜとつぜん連絡してきたのかは不明だった。 重松は、五五歳のころから創作活動を再開していた。ちょうどその時期にかさなって、ふるい同人仲間だった元宮からファックスがとどいたのは、なにかの節目だったのか。元宮龍一とは、容易に言語化できない、もつれともよぶべき現象が起こっているのかも知れないと感じた。文面を読みなおすと、予期に反して元宮は、彼をよく覚えているようだった。かかれた「自叙伝」のなかで、重要なパーツを占めているのだろうか。 すくなくとも、重松がモデルとしてかいた小説の元宮は、こんな再会を望んではいない気がした。なつかしいという気持ちよりも、ひどく奇怪に思えた。ミステリーまがいの不可解な感情を、ぬぐいさることができなかった。再会は、楽しみよりも、幾分無気味で小説じみていると感じた。 電話をした二日後の昼に、元宮から大きな郵便物がとどいた。重いつつみをあけてみると、そう厚くはないが、しっかりとしたハードカバーの本が一〇冊ほど入っていた。「陽射しの影から」という題名で、表紙には、著者、元宮龍一とかかれていた。裏には一〇〇〇円という定価が記載されていた。製本はしっかりし、表紙は綺麗で品もよく、洒落て、元宮とかさなる部分があった。 「自叙伝」を手にとり、この本が彼の自宅に、どのくらい山づみになっているのかと考えた。ぺらぺらとめくると、元宮の荷物をあずかった二一歳のときに同人誌にのせた「天才」という詩が、本文に引用されているのをみつけた。それに、「龍一に捧げる」と副題をつけたのは事実だったが、読むと一部が改竄されていた。 ひどく不審に思いながら、さらにめくると、文中に重松のペンネーム、「町堅忠史」をもじった「間堅忠史」という人物がかかれていた。どうやら元宮は、彼を克明に覚えているらしかった。とはいっても、たがいの状況について話す機会はなかったのは揺るがしがたい事実だった。だから重松は、元宮をモデルにして勝手に生い立ちを想像できたのだった。そうである以上、元宮龍一も彼を知りうるはずがなかったから、文中にでてくる者は妄想の産物だった。 ふたりが接触したのは三五年まえで、その後、一度も会っていなかった。たがいに、勝手にイメージをふくらます事態が起こりえた。「自叙伝」の記述には、重松の記憶とは一致しない点が多々みつかった。すくなくとも「間堅」は空想の産物で、あきらかに経歴も違っていた。 そもそも元宮は、重松について興味もなかったはずだった。友人というより知己のひとりにすぎなかったのは、数々の証拠で明白だった。重松をモデルにした小説としか考えられなかったが、前書きにも、後書きの自己解説にも、記述したのはすべて事実だと、くどいほどにかかれていた。 「私の青春を知る親友の間堅は、たったひとりの、この自叙伝の証明者なのです」とまで記載されていた。 「いったい、これは、なんなのだろう」と重松は思った。 自宅にくるといって、本までおくられているのに、電話で抗議しても仕方がないと考え、ざっと目を通し、思いつく誤りを箇条書きに記録しておいた。 全体としての内容は、青春時代に世間にみとめられた截然とした才能をもった「私」は、家庭の事情で文学をつづけることができなかった。不運で不合理な人生を、歩まざるをえなかった。その青春の輝かしい時代が間違いなくあったのは、親友である間堅が証明してくれるという話だった。 元宮が、医院のホームページをみたとファックスにかかれていたのを思いだし、もしかしたらと思ってネットで検索すると、「陽射しの陰から」がヒットして、ブログにいきついた。 ブログサイト、「水玉模様」 三五年ぶりの再会になります。「陽射しの陰から」をかかえて、五月三日に間堅と会う約束ができました。楽しみです。みなさん、三五年です。彼だけが、私の青春のすべてを確実に知っているのです。きっと素晴らしい再会になると思います。(05.01) コメント ① 本宮さん、よかったですね。三五年まえといったら、私がようやっと、小学校に通いはじめた時期です。なにも、覚えていません。その感激、また教えてください。 コメント ② 間堅さんは、元宮さんとは、なんでも話しあえる大親友だったのですから、三五年たっても、なんの違和感もないのでしょうね。私も先日、二〇年ぶりで再会した友だちがいました。だれだか分からないほどに、変わっていました。私には、そんな大親友はいないので、うらやましく思います。ぜひ、くわしい経緯を発信してください。楽しみに期待しています。 こうした記述が、えんえんとつづくブログをみて、重松は完全に困惑した。 旭川空港の到着ロビーで、羽田からの乗客がおりてくるのを重松忠史はながめていた。灰色の長ズボンと冴えない同系色のトレーナーというラフな格好で、だれもがおなじ形の手荷物をもって、もくもくと歩くのをみていたとき、いきなり肩を叩かれて振りかえった。 「よう。なつかしいな」 太く低い声で、親しげに男はいった。 やや白さが勝る豊かな髪をした、落ちついた感じの年配の紳士だった。ネクタイはなかったが、グレーのシックな背広をきて、重そうな黒い鞄をもっていた。 「いやー、ぜんぜん変わらないな。すぐに分かったよ」 無言でじろじろとみつめている、やや腹のでてきた重松をみて、黒い縁取りの眼鏡をかけた恰幅のいい紳士は、やわらかな微笑みを浮かべた。 「そんなに、変わったかな。そうか。すっかり白髪になったからな」 男は、右手にもっていたボストンバッグを床におろすといった。それでも黙って重松がみつめていると、 「おれだよ。元宮だよ。まいったな」と感慨ぶかげに右の手をさしだした。 握手をしながら、「そういえば、眼鏡をかけていたな。当時は金縁の洒落たものだったな」と重松は思いだした。 「そんなに、おれは変わったかい」と男はまた聞いた。 「元宮なのか。いや、ぜんぜん分からなかったよ」と重松は穏やかな表情でみつめている紳士にむかっていった。 「そんなに変わってしまったのか」 男は、またおなじことを呟いた。 「やあ、正直いって別人みたいだ。よく整理しないと。たしかに、元宮なんだろうな。いまでも、ピンとこないくらいだよ。やあ、驚いたな。きっと、おれも、すっかり変わっているのだろうな」 彼は、不思議そうな表情で答えた。 「重松、そっくりだな。いくつなんだい」 元宮は、子供をみて感嘆の声をあげた。 「いっしょにいくっていうから、つれてきたんだ。いちばん下でね。年をとってからできたんで、可愛くてね」 「なつかしい。ほんとうに可愛いな。おまえを抱きあげるなんて、考えてもみなかった」 元宮は、そのときにはもう、重松の子供を天にむかって高くかかえあげていた。 「怖いよ」と息子がいった。 「そう。四人いるって、いっていたものな」 「そんな話、いつした」 「新聞に、写真がのっていたじゃないか」 「なにかな」 「医院のホームページに、院内新聞をだしていたろう」 そういうと彼は、にやりと笑った。 重松は、空港で再会した元宮を自宅につれていき、五月の連休とはいえ気温が一〇度以下の夜、家族といっしょにカニ鍋をつついた。しだいにわだかまりも解け、酒を飲みだすと三五年まえの思い出になった。北海道の文芸誌で、元宮の小説の文章が賞賛された話だった。とつぜん彼は、引用された二〇〇字くらいの散文を大声で朗唱をはじめた。すごい思い入れがあったのだと感心しながら、重松は元宮の自叙伝にたいする疑念を話しだした。 「困るよ。こんなかかれ方をしたら、もう町堅のペンネームをつかえなくなるよ」 「これで、君も有名になる」 「なにを、いっているんだい。おまえは、これが事実にもとづいた自叙伝だとくりかえし、そのために実名が必要だとかいていたよな。ぼくの知る個人も本名だが、こんなことをして、迷惑はかからないのか。了解は、とれているのかい」 「すべては事実だから、いいじゃないか」 「なにを、いっているんだよ。おれがちょっと読んでも、虚偽の記載は、たくさんみつけられる。とても見解の相違とはいえない、歴然とした間違いだよ。故意としか考えられない記述が、複数かかれている。理由は分からないが、君は大学受験の年をひとつ、意図的に変えているよな。それに、東京から帰ってきたのは、夏だった。ぼくは、春に引っ越して、年内に中退して帰郷した。だから、三月に会うことはできない。それが、なにを意味しているのかは分からない。しかし、わざと変えている」 「それは、たいしたことではない。君のいう通りだが、どちらだってかまわないだろう」 「どうかしているんじゃないのか。ぼくからは、どちらでもいいが、あきらかに事実ではないよな。なにかの整合性をもとめているのだろうが、意図がさっぱり分からないことだ。三五年もまえの出来事だし、おれとは無関係だから、小説としてなら口をはさむものではないだろう。ぼくも創作するから、モデルが必要なのは分かる。なにか印象的な出来事が起こって、小説にしたいと考えるのは普通だろう。すべてを想像で創作できる人なんて、ほとんどいないだろう。問題なのは、記述した内容が、全部を事実だとくりかえし執拗にいい張っていることだよ」 「おおむね正しいのだから、どっちだって、いいじゃないか」 「おまえも、嘘をみとめているのだろう。もう、すべてが事実という前提がくずれているじゃないか。君にとっては、どうでもいいのだろうが、ぼくには迷惑だよ。経歴は違うし、いった覚えのないことがいろいろかかれている。創作なら、目くじらを立てても仕方ないだろう。それにしても実名をつかい、人のペンネームを流用するのは悪趣味だね。君だってある程度分かって、ほかの人たちは本名にしたのに、ぼくの名前は筆名をもじったのだろう。さらにいただけないのは、自分の実名を公表していないことだね。周囲の人を本名でかきながら、君自身は仮名をつかって責任から逃げている。はっきりいって、まったく賛成はできないし、やりすぎだと思うね」 「見解の違いだよ。自分については、すこし離れて客観的にみたいと思って、あえて仮名をつかったのだ。君は、ぼくの過去を証明する人になる。だから了承をとらずに名前をだすのは、やめておいた」 「おれは、君をぼんやりとしか知らないのに、どうやって立証するのだい。あの詩の著作権は歴然としたぼくのもので、勝手に引用され、改竄されるのは愉快ではないよ。序言に、だれだれに捧げるとかかれた書籍を、みるばあいがあるよね。そうされた人が、自分のものとして内容をかきかえるのは考えたこともないね」 「君の詩は、難解だ。理解しにくい部分を、分かり易くしただけだ」 重松は、頭をかかえた。それで、「天才」という詩が、どういう経緯で「元宮に捧げる」という副題がつけられたのか、事情を説明した。当時の同人連中が、こうした事実をすべて知っていることも、詳細につげた。 元宮は、重松が去ったあとで、テルミドールの同人たちと話もしなかったに違いなかった。すこし話しあえば、こうした経緯も分かっただろう。元宮は、テルミドールの同人たちと、重松についてなんの話もしなかったのだろう。だから大学を変わって医者になった経緯も、まったく知らなかった。もっと正確には、当時の元宮は、重松に興味がなかったのだ。 「ほんとうの意味での自分史なんて、人にはかけないと思うよ。だれだって自分の過去は美しくありたいから、生きていくためには、汚れて思いだしたくないものをわざわざ紙面にのこすなんて絶対にできないよ。だから、創作でいいと思うよ。モデルがいるのは自然だし、発想が平凡なのだから仕方がないよ。でも自分の名前はふせて仮名にして、了解もとらずにみんなを実名でかいて、そのうえ、すべてが事実の記載である証拠として、ぼくをひきあいにだされるのは困る。なにを意図して、こうした書籍をつくったのか、まったく分からない。とても、みとめられないね」 「それは、小さな問題だよ。考え方の違いだよ。ぼくにとって、君は尊敬できる親友だ。日本最北の離島までいって診療し、多額の寄付までするなんて、いかにも重松らしくて感動したんだ。素晴らしい親友をもったと、心から誇りに思っている」と元宮は話した。 「そんなこと、どうして知っているんだ」 重松は、とつぜんの話に驚いて聞いた。 「院内新聞に、かいてあったじゃないか」 「そんなこと、新聞にはのせていない。絶対にかいていない」 重松は、強硬に主張した。 「そうだったのかな」と元宮は昔と変わらない曖昧な表情になった。 重松は、そうした出来事を、院内新聞にはかいていなかった。寄付したのは事実で、時間がたってから、「正義感が、つよかったのだ」と思った。幾分かは満足な気持ちになって、町長からもらった感謝状を書斎に飾っていた。しかし、あえて人に話す美談ではなかった。 この話を知るには、元宮が離島にいき、重松について島民にたずね、聞きだすよりほかになかった。昔から異様な奴だとは感じていたが、さらに完璧になったと判断するより術はなかった。 「一〇冊おくっただろう。昔の同人仲間に、配ってくれないか」と元宮はいった。重松は、「とても配れない」と答えた。 「迷惑だから、事実だという部分については、とり消してもらいたい。さらに、天才という詩を無断で改竄したことについても、謝罪して欲しい。ブログで、そうかいてくれるのが最適だ。できないのなら、詩に関しては黙認してもいい。しかし意味不明なコメントは、消去するべきだ。不特定多数の目に触れるブログの、ぼくにかんする記述は削除して欲しい」と重松はつげた。 元宮の思考のなかで、重松忠史は勝手に肥大し、実在とは違ったべつの人物になっていたのだろう。そうではあっても、変更不能な事実を故意に異なった記述に変えているのは間違いなかった。さらに、そうした虚偽事項のすべてを証明する者として、重松の名をあげるのは容認できるはずがなかった。 翌日、元宮は、彼の妻に丁寧な挨拶をして帰っていった。 重松は、ブログをみた。 ブログサイト、「水玉模様」 昨日、間堅と会いました。変わり果てた私をみて、彼は動揺していました。すっかり、白髪になってしまいました。しかし、間堅は昔のままでした。彼はただただ驚き、いぶかしげに私をずっとながめていました。(05.05) ブログサイト、「水玉模様」 間堅こそは、私の青春を知るたったひとりの親友です。彼はなにを思ったのか、「天才」という詩を捧げてくれました。これだけは、理由が分かりません。私は、若いころ、天才に憧れました。異様に、努力をしたことがあります。なぜ彼は、私に「天才」という詩をおくってくれたのでしょうか。記載された同人誌には間堅の小説も掲載され、なかなか読み応えのあるものでした。その主人公ですが、じつは私をモデルにしたのではないかとずっと思っていました。今回、再会したので彼に聞いてみました。間堅は、「違う」とは答えましたが、口振りからすると、私の考えはかなり正鵠を射ていると感じました。(05.06) コメント ① やはり三五年という歳月を、たがいに思いつづけて生きてきたのですね。とても素敵な話です。間堅さんは、元宮さんにとって、きっと分身みたいな存在だったのですね。そうした人をもっていたら、私の人生もいまより華やかだったろうと思います。 重松の反論は、いっさい聞き入れられず、ブログはまったく訂正されなかった。もしかすると、元宮はかえって喜んでいたのだろうか。すでに重松の想像の範囲をこえ、得体の知れない人物になっていた。すくなくとも彼が小説で勝手にイメージした元宮龍一は、ずっと増しな人間だった気がした。 重松は、必要なことは、つたえたわけだった。元宮は、その後も彼を「親友」とよび、ブログに得体の知れない「自叙伝」を掲載しつづけた。重松が自分のペンネーム、「町堅忠史」を検索すると、「間堅忠史」にヒットした。そこには、まぎれもない彼の筆名がかかれ、意味不明な文章がのっていた。 「この、なつかしいペンネームを、院内新聞でみつけた。いつか彼の名をあかそう。本名は、○○忠史。この雑誌を手に会いにいき、了解をとって実名を公表したい」 もう了承がとれないと充分に分かっても、元宮にはひきさげられないらしかった。 重松は、学生時代から、ずっとおなじペンネームをつかってきた。世間に知られることはなかったが、大切にしてきた自分の名前が、もじられているのは気持ちがいい出来事ではなかった。それが記されている本宮のホームページについて、さまざまに考えざるをえなかった。 虚偽記憶というものは、存在するのだろう。これは、誤った事柄を真実と考え、間違えて記憶されることを指す。元宮のばあいには、あたらないだろう。妄想だということは、重松がさんざん説明し、本人もたくさんの間違いがある事実を納得していた。しかし元宮は、その迷妄に生きていたのだろう。 医療人である重松は、嘘をつかねば暮らせない人びとがいるのも分かっていた。彼は、医師というつよい立場をもっている。正論を話しても生活できるが、すべての人がそうではない。立場の弱い者のなかには、嘘も方便としなければ、生きていけない人たちがいる。しかし、元宮は基本的に財産家で、とくに生活できないわけではない。 重松は、三〇歳くらいのとき、有名な雑誌で新人賞の栄光に輝いた小説を読んだことがあった。元宮と再会したころ、受賞者のその後が気にかかり、著者名をネットで検索してみた。すると、ヒットしてホームページに辿りついた。その受賞者は、以後、目立った創作ができなかったのだろう。そこには、かつて栄誉をうけた作品が、自由に読めるように掲載されていた。重松は、小説がそれひとつしかないのをみて、幾分、惨めに思ったことがあった。しかし、その作品は、すくなくとも有力な雑誌の新人賞だった。 元宮は、まるで自分が流行作家であるみたいに振る舞い、一人前の作家としてホームページをつくっていた。しかし、そこにはのせる小説がひとつもなかった。若いころに、同人誌の批評欄で彼の作品が賞賛されたのは事実だった。より正確には、褒められたのは二〇〇字足らずの文章だった。その一節がのっている小説は、二〇歳のころにかいた稚拙な作品だった。正常な者なら、恥ずかしくて読むこともできないものかも知れない。だから彼であっても、そこに全文を掲載するのは、はばかられたのだろう。元宮は、二〇〇字足らずの褒められた文章を生涯の勲章にしていた。それも、雑誌の一編集者の書評だった。 ホームページには、雑誌社の名前が記載された「封筒」が飾ってあった。宛名の部分には、彼のペンネームがかかれていた。これは、元宮がその雑誌の編集者と交流があったのが事実だという、証拠として掲載されているのだろう。このことを逆説的に述べるなら、これ以上のかかわりがなかったという証しにもなる。いったいどういう心理が、こんな行動をうながすのだろうか。 元宮は、どうやらそれ以外には、まとまった創作ができなかったらしい。ホームページには、いくつかの作品の題名だけがかかれていた。作品名の下には、その小説の一節と称する文章が記載されていた。さらに、それに対して講評が並置されていた。 「三島に毒された時代の、若がきの文章といえるだろう。いまの私には、とても評価はできない」などと、自分でコメントをつけていた。 これだけ肥大し切った自己と誇大妄想をもっているなら、小説が存在すれば、恥ずかしげもなく掲載するに違いないと重松は思った。 なんとしてでも、自分を誇大にみせたいのだろう。元宮は、かつて栄誉をえた作家という妄想に、ひとりでひたり切っていた。 ふたりが青春時代に巡り会い、いっしょに小説家を目指した時期があったのは事実だった。くりかえし考えても、重松は、元宮が親友だとは思えなかった。そのころ、ちかくにいたことは事実だった。くわしくはないものの、元宮の周辺事情を知りうる立場にはあった。その客観的な事実が、重松を証明者にえらばせていた。だから賞賛された小説が、どんな作品だったのか、彼は充分ではないが内容を知っていた。元宮がひとりで勝手に妄想世界に入りこんでいる分には、他人がとやかく口をはさむものではない。記憶と照らしあわせて異なる真相を知る者としては、病的に感じるだけだった。しかし証拠として自分の名前が引用されれば、状況が違ってくる。 元宮は、妄想世界の擁護者として、そのころ近辺にいた重松を利用し、自己承認をもとめていた。この構図は、ある程度、完成の域に達していると感じられた。 自分以外には、なにが真実だったのかは分からない。もしかすると自分でも不明瞭で、過去を証明するのは困難な事柄なのだろう。 記憶は、通常つよい感情とともに切りとられている。元宮が自分の文章を賞賛してくれた書評に接したときの思い出は、あきらかに「恍惚」だったに違いない。しかし、そうした思いは年とともに色あせていくのが普通だろう。過去を詳細に検討してみると、すべてがあやふやで、彩色をうしなった白黒写真の世界になるのかも知れない。そこに華やかな色をほどこすかどうかは、まったく個人にゆだねられている。元宮が過去のある情景を美しく飾り、好ましいと判定したからには、彼の「癒やし」につながっているのだろう。そうであるならば、みとめるべきものなのだろう。だから正誤についてひとつひとつあきらかにするのは、まったく方向違いで無意味だろう。実際に多数の者たちが関与した歴史的事件でさえも、真偽はつねに問題にされる。個人的なものであるなら、どうしても主観的な領域にとどまるだろう。それを、客観的な事実として証明しようと望めば、周囲の者を巻きこまねばならない。自分ひとりではみとめられないという理由で、他人に自己承認してもらおうとすれば、かなり難しい問題を提起するに違いない。 重松は、小説をかきたいと考えて、六〇歳の年に閉院した。生涯の課題だった、創作をつづけることが可能になった。新人賞に応募したが、みとめられるのは難しかった。小説をかきつづけるうちに同人に所属すると、ペンネームが元宮の妄想世界につながっている事実に、ふたたび頭を痛めはじめた。重松が元宮龍一と再会したのは、一〇年以上もまえの出来事になっていた。そのとき、自叙伝に関しては、まったくみとめらないと通告した。それからは、特別なつきあいは途絶えていた。 重松は、元宮がつくっているホームページをみなおし、一連の事件について考えなおしてみた。 一〇年まえ、とつぜんファックスが医院におくられてきた。そのとき、やかれてでてきた感熱紙に、重松は、不思議なほどの違和感をもった。なぜ、だったのだろうか。元宮龍一は、なつかしい氏名だった。その名前がよび起こす人物と、やかれたゴシック調の固い文字は、まったく似あわなかった。三五年もまえのことで、なにが正しくほんとうなのか、もうだれにも分からなかった。 元宮は、もっと繊細だった気がしていた。もちろん、それは重松が勝手に描いた人物像だった。しかし、文学を志した元宮が一世代の年月をこえて、自分にとって過去を証明する、とても大切な人物に邂逅するなら、こんなファックスはよこさないだろう。文筆家だったのだから、間違いなく手紙をかくだろう。繊細な文字で、誤字ひとつない丁寧な書簡をおくるのではないか。住所は、分かっていたのだ。なぜ、そうしなかったのだろうか。 元宮の自叙伝には、序文がつけられていた。それをかいたのは、彼が懇意にしているという、すこし有名な人物だった。元宮は、その文章をひどく喜んでいる印象だった。この序文については、さまざまな解説がついていた。依頼するためには、当然だが元宮は手紙をおくっている。ある程度は経緯を知って、かかれている文章を読みなおすと、有名な人から序文をえられたのは、彼にとっては自伝をみとめられたという趣をもつらしい。 元宮がずっと自己承認をもとめているのは、あきらかだった。 重松は、元宮龍一との関係を再考してみた。 どう振りかえっても、ふたりは、親友という間柄とはいえなかった。それでは、友人だったのだろうか。いっしょに作家を目指していたという事実からは、ライバルとよんでもいい部分があったのだろうか。だから元宮は自分が評価されたと思ったとき、重松に荷物をあずけたのだろうか。屈折した思いから、ふたりがおかれている立場の違いをみせつけたつもりだったのだろうか。自分がライバルから天才と評されたと考えて、もう一度、舞いあがったのだろうか。しかし、この考えはどうしても無理があった。 重松は、元宮からそれほどの敬意をうけたことがなかった。かなり勝手に振る舞われ、ある意味、人格を尊重されていなかった。なぜ、だったのだろう。重松は、自分がなにをやったのだろうと思った。感謝もされず、親密にもならず、なぜ元宮のために、つくしてやったのだろうか。この思いがあって、どうしても理解も納得できなかったから木沢諒一を創作したのではなかったか。 元宮がライバルと考えていたのは、函館うまれの同世代の作家だった。その男は、文学にとらわれ、貧困のなかで必死に創作活動をしていた。さまざまな賞にもノミネートされたが、最後は絶望し、夭折した。いまでも作品は、文庫になってのこっていた。 本宮は、この男の名前を親しげによんでいた。 重松は、ふたりの関係に興味がなかったが、夭折した作家の作品をいくつも読んでいた。とくに気に入ったわけではなかったが、文章から下積みの喘ぎが聞こえた。夭折した作家は、真剣に文学に取りくんでいた。元宮の安直さを、絶対にみとめないだろうと思った。 あるとき重松は、この問題をどうしても解決したいと考えた。元宮龍一に電話し、煩わしいからブログやホームページの、彼にかんする部分を削除してもらいたいと話した。 元宮は、「尊敬する親友の君に迷惑がかかるのは、申しわけない」と電話口でいった。すぐに受諾したが、簡単に応じないのはよく分かっていた。なにかしらの「才能」をもった、「不運」な「作家」という迷妄は、彼がよりどころとする核心的な部分だろうと感じた。いわれるままに自分をみつめなおすなど、できるのだろうか。 一週間くらいたって、重松はもう一度電話をかけた。ホームページが、なにも訂正されていないとつげた。 「ぼくの尊敬する親友が迷惑に思うのだから、ブログは、君のいう通りなおした」と元宮は答えた。 「そうかい。でも町堅忠史を検索すると、君のホームページの妄想に辿りつく。ぼくは、この状況を迷惑に思う。ひとつ、はっきりさせたいが、いったい親友とはなんなのだろう」と重松は聞いた。 「たぶん、ある時期に起きたさまざまな出来事を、たがいによく知りあっている者を、そうよぶのではないか。ぼくは、君がなにをしていたのか知らなかった。仲がよかったのは半年くらいで、その後はほとんど音信不通だった。東京にいくときに、ぼくが荷物をあずかったのは事実だ。ほかに適当な人がいなかったのだろうと、思っただけだった。札幌に帰ってきてからも音信不通で、ぼくが去るときに連絡する相手でもなかった。連絡先も知らなかった。それが、親友とよぶ者なのだろうか。君は、中退して帰ったぼくの自宅に手紙一本もくれなかった。これは、揺るがしがたい事実だ。こういう関係を親友とよぶのだとしたら、おなじような人は、ほかにもたくさんいるのではないのか。君が妄想にひたっているのは、ぼくにはどうしようもないことだ。でも、元宮の迷妄なのだから、ひとりでやって欲しい。すくなくとも、ある時期、手助けしたことで、君の妄想に巻きこまないでもらいたい。小説ひとつかけないで猛烈な才能をもつ大作家みたいに思いこんでいるのは、客観的な事実を知る者としては恥ずかしい。しかし赤の他人だから、手立てがない。道北の診療所にきたときに、ぼくの考えはつたえた。君も、それをみとめていたのではないか。こういうことをいわれて、なにか反論はあるのか」 しばらくして、「迷惑をかけた」と元宮は答えた。 「早急に削除する」といった。 「終わったら、電話しろ」と重松はつげた。 数日して、元宮から「削除した」という連絡があった。検索すると、まだのこっていた。元宮は「そんなはずはない」といった。「ヤフーで検索してみろ」とつげた。そこには、重松のペンネームが記載されていた。 「これは、ヤフーの問題だ。そこに、のこっているんだ」と元宮は答えた。 「なぜ、おれが、ヤフーに問いあわせなけりゃならないのか」と重松は聞いた。 「自分で、ちゃんと処置する」と元宮は答え、経過は報告するといった。 重松は、グーグルにものこっていることを指摘した。 元宮は、ヤフーとはおなじ検索エンジンだから、片方をやればいいのだと答えた。処理が終わったら連絡するといって、彼は電話を切った。憮然とした感じだった。 それから、電話がかかってくることはなかった。 ホームページは、重松の部分は削除されたが、項目はのこったままだった。 それから、五年の歳月がながれた。 重松は、創作活動をつづけていた。過去に起こった事件を思いかえし、真相を考えるのは習性になっていた。五年まえに電話をかけてから、元宮龍一との接触はなかった。ペンネームは、元宮のホームページにはつながらなくなっていた。だから、ネットからはそこに辿りつけなかったが、非常に奇妙な物語を忘れることはできなかった。 ふたりは、同時期に札幌の大学で知りあい、いっしょに同人活動をしていた。元宮は、重松のまえから去っていったが、明確な理由は分からなかった。ずっと音信不通だったが、三五年後にとつぜん彼から連絡があり、自叙伝をおくってきた。ちょうどそのころ、重松は小説をふたたびかきはじめていた。 元宮は、自叙伝で重松忠史について多くの記載をしていた。彼を大親友とよび、自伝の正当性を証明する者とみなしていた。 いっぽう重松は大学をやめて故郷に帰ってから、元宮を主人公とする小説を一〇〇〇枚以上かいていた。脳裏から離れなかったが、二七歳のとき印度を半年放浪し、はじめて元宮龍一の呪縛から解放された。 ふたりが似ていたのは、あきらかだった。目にみえない糸が張られ、時間も場所も関係なく相互に影響していた。量子的なもつれ、といってもいいだろう。さらに似ているところを探すなら、元宮は男の兄弟をもち自営業だった。 重松は、いつしか彼の自叙伝を読んでいた。 自伝は、ある朝、目覚めた元宮が大きな書店にいき、同人誌批評欄を目にした瞬間からはじまる。つぎのように記述されている。 「そのとき、すべてが輝いていたのだった。みつめる文章の一行一行から、無尽蔵な光がこぼれ落ちていた。その光線は、私の身体をつきぬけて世界に散らばっていった。それは、怖ろしいほどの言葉の力だった。その黄金の輝きのなかで、私は夢をみた気持ちになり、ほうけたように立っていたのだった」 重松は、元宮の物語をレーモン・ルーセルが経験した出来事と重ねあわせていた。 フランスの精神科医、ピエール・ジャネは、神経症で、小心で細かいことに気がつき、たやすく鬱状態に落ち入る若者、マルシアルが話した言葉を記載している。 「ある特別ななにかがあって、自分が傑作をつくっていること。神童であることを感じさせるのです。八歳で顕れた神童もいますが、私は一九歳で 顕れたのでした。私は、ダンテとシェークスピアにならぶ者であり、老いたヴィクトル・ユゴーが七〇歳で感じたもの、ナポレオンが一八一一年に感じたもの、タンホイザーがヴェヌスベルクで夢見たものを感じていました。 つまり、栄光を感じていたのです。 いや、栄光というのは自分の名が人びとの口から口へと飛びかっているのを確認することによってえられる観念なり、考えではありません。自分に価値があるという感じ、自分が栄光に値するという感じではないのです。 その栄光というのは、一個の事実、一個の認識、一個の感覚だったのです。私は栄光を所有しているという。 私のかくものは光輝につつまれており、私はカーテンを閉めるのでした。というのも自分のペン先からでる輝かしい光線を外に漏らすような、どんな些細な裂け目をも怖れていたからで、私としては幕をとつぜん一気に引きあけて、世界を光明にひたしたかったのです。これらの紙を散らかしておいたりすれば、シナにでもとどくような光線を生じさせるようになっただろうし、夢中になった群集がわが家に殺到してきたことでしょう。 私は、燃えあがる何千ものペンの火先でかいているのでした。きっと、本がでれば、この眩い火床はなおいっそうむきだしになって、全宇宙を光明にひたしたでしょう」 マルシアル(レーモン・ルーセル)は、何時間ものあいだペンを手にしたまま、じっとして、自己の夢想と栄光の感触に没入していた。 マルシアルは事実、第二の感情を保ちつづけたのだったが、それは一九歳のあの数ヶ月間、彼の心をひたしつくした感じを、たとえ五分でもよいからふたたびみいだしたいという強烈な欲望、気狂いじみた情熱だった。 「恍惚の心理的特徴」(法政大学出版局) (豊田公一訳、一部、仮名表記訂正) 「朝、目が覚めると有名になっていた」 その日、まさにバイロンが降臨したのだった。 黄昏か、夜明けか、 だれも知らない。 いまから、黒いふかい季節が、 ほとほとと、戸をたたく、 透明な造花をかかえて、 やってくるのか。 しかし、まて、 あの海鳴りの音をきけ。 ごう、ごう、という、ルシュフェルのさけびが、 おまえを、世界にいざなうのだ。 おまえは、こわれたファスナーにも似ている。 おまえの四方を、不安がとりまく。 いつでも、 かなしげな、碧空にむかっては、拡散していく、 汽笛が、ふゅるふゅると、 幾千年もつたわる魔法のしらべをかなでると、 船出だ。 帆をあげるのだ。 たかく。 もっとたかく、狂おしく。 なぜなら、 潮には、その心があるように。 風にも、その心があるはずだから。 赤は、紅いほうがよかった。 青は、碧いほうがよかったのだ。 だから、たかくへ。 もっと、たかくへ。 あの世界へ。 ただ、あの世界へ。 白い指先を、黄金のなかにうきださせた、 忘却のはるかな地平へ。 白いレモンをかみしめながら、 海の沈黙は、緑の藻が生えた。 すすめ、すすむだけだ。 おまえは、それにのったのだから。 すべては、 そうだ、涙の海も、血の大海も、 みな、おまえひとりのために、用意された。 帳がちれば、 今日もまた、おまえの。 そう、おまえだけの、運命。 道化は死んだ。 そうしておまえは、 白いレモン、血、夜、 そして、黄昏。 「天才」 創作という行為は、奥ぶかいものだった。 重松は、六〇歳で退職してから、毎年、小説を三〇〇〇枚以上かきつづけてきた。評価はされなかったが、その過程でいくつもの発見があった。言葉にたいする自分の感覚が劣っていたことを知ったのは驚きだった。描写、会話、陳述を組みあわせて小説は構成される。ひとつの局面は、読者に飽きられるまえに転換させなくてはならない。日記ならともかく、小説は読んでもらえなければ、かいたことにならない。章立ての意味も、若いときは気づかないで執筆していた。映画や舞台とは違って、これらすべてを作者がひとりで考える小説の世界は、かなり奥ぶかいものだろう。 なにが、ふかいのだろうか。 どうしても、自分の過去をみつめることになるからだ。それは間違いだらけで、後悔という名の茨の道だろう。ものをかくかぎり、避けて通ることはできない。どれほど苦労してみつめなおしても、報われない可能性が高い。どこにも、近道はない。つづけるか、あきらめるか、という選択しか存在しない。勇者のみが、自分の過去をみつめづけられるのだろう。隠蔽もせず、美しく飾ることもなく。その上で、前進しなければならない。悲嘆に暮れても仕方がないし、記憶をかきかえることもできない。だから、創作をつづけるのは、非常に難しい行為に違いない。 自己愛に執着する者は、安直なのだと、重松はなにかの本で読んだ。 もし、真面目な技術者がタイムマシーンをつくろうと考えるなら、不可能なものを製作しようと企てるのだから、さんざんに努力するのだろう。そうして、結局、完成させることはできなかったにせよ、その過程でさまざまな有意義な事柄を発見して、納得するだろう。いっぽう自己愛がつよい者は、そうはしない。彼は、張りぼてのタイムマシーンを実際につくり、家の玄関に飾るだろうとかかれていた。 この楽天的ともいえる、俗にまみれた安っぽさこそ、病的なのだろう。 ある程度の年齢になって過去を振りかえるなら、右往左往し、奇妙な行動をとる事態はありうるだろう。人生に、余りに多くの失敗がつらなっているのに驚いて、隠蔽したくなるのはたしかだろう。そうした事態を目の当たりにして、精神が崩壊しないために、自分史は有効なツールかも知れない。好ましい出来事だけをかいておき、苦しいときに読みかえして、自分の長所や素晴らしい部分を再認識できる。しかし、そうした自分史は、人に読ます作品ではないだろう。ひとりで、そっとみるものだろう。 自叙伝となると、曲者に違いない。主観的に記述しながら、客観性をもとめている。これを通用させるためには、周囲の者を褒めるしかないだろう。そうすれば、自分も浮きあげられるかも知れない。しかしながら、主観と客観により構成されている世界を、ひとつに結合させる試みは虚しいだろう。どうしても齟齬は生じる。自己承認は非常に奇妙な思いで、他人によってしか成立しない。さらに承認してくれる相手は、だれでもいいというわけにはいかない。 重松は、元宮が、なぜ東京行きのときに家財を彼にあずけることができたのか分からなかった。いいかえれば、どうして愉快とはいえない者の申し出を、自分が受諾したのかという疑問だった。小説をかきながら、彼はくりかえし考えていた。 おそらく重松は、不思議な感情にとらわれていたのではなかったか。なにが適切な言葉なのか分からないが、いちばんちかいと思えるのは、恋という気持ちかも知れない。不実な元宮にたいして、彼はそんな思いをいだいていたのではあるまいか。だから申し出をうけ、不合理に耐えたのではないか。元宮は、重松がそうした感情をもつのを知っていたのではないか。だから、身勝手な振る舞いができたのではないか。重松は、その感情の葛藤に苦しみ、天才という詩をかいたのではあるまいか。ながきにわたって元宮をモデルに作品を創作した理由は、この辺りの事情ではなかったのか。 恋とは、こうであって欲しいという、自分の思いで他者を満たしてしまう心情だろう。勝手に、幻想をつくりあげる行為だろう。重松にとって元宮は、去っていく恋人だったのではなかったか。恋が一方的な思いこみであるなら、構成要素として「幻滅」という感情が存在しなくてはならない。 ピエール・ジャネは、被害妄想(みすず出版、松本雅彦訳)のなかで語っている。 「恋愛妄想の患者たちではすべて、自分たちが崇拝にちかいところまで愛されているといった感情がみられる」 重松は、そう考えて、はじめて一連の出来事が理解できたような気がした。 親友とよぶ男、七三枚、了