弥勒をみつけた日 由布木 秀 私は、分裂をつづけた。すべての思念と物質という形態もすてた。無心のまま二十二の天空をぬけ、素粒子にまで分かれて欲界にたどりついた。さらに雨滴に忍びこんで、標的物にむかって落下していった。そのとき私は、自分であることも覚えていられなかった。 一、雨 雨滴が、ふっていた。 みあげると、スローモーションの動画みたいに雨の粒子が空中で舞っている。うす暗い空からやってくるこまかい滴は、どこから光をうけるのか分からないが輝いている。きらきらと光りながら、ゆっくりとぼくを目がけて一直線になって落ちてくる。この雨は、どこからふってくるのだろう。はてもなく遠い天空、想像もできない高い場所から、いまここにいるぼくにむかって雨滴はおりてくる気がした。無風のなかでゆっくりと落ちてくる雨は、木々の枝葉に触れて新緑を演出する。どこでもここでも、若葉があざやかな緑色になって輝きをましている。冬枯れていた木々の緑を再生するのは、暖かくやわらかい春の雨。きっと、慈雨とよぶべきものなのだろう。ぼくは、天からのめぐみ、いわば愛に満たされた雰囲気のなかで空をみあげていた。髪にも顔にも、こまかくなった温和な雨が遠慮がちにふりそそぐ。寒くも冷たくもない。 しっとりとした雨滴は、皮膚にあたるとすりぬけて身体の内部に入りこみ、ぼくの奥底にある魂にまでながれこんでいると思った。こんなふうに雨に濡れながら心地よい気分にひたるのは、うまれてはじめてだった。なぜ、こうした感情がわきあがってくるのか分からない。ぼくは、人影もまばらな公園でいい気持ちになって暖かく感じられる小雨が舞う空をずっとながめていた。かつて味わったことのない、恍惚とした感情に満たされながら。 そのとき、ふと名前をよばれた気がした。 振りかえると、ちかくに西沢圭子がいるのに気がついた。 ベージュのパーカーを羽織った彼女は、透明なビニールの傘を差しながら不思議そうな目でなにをしているのかと聞いた。 ぼくは、この娘とおなじアパートの二階に住んでいるが、いままでとくべつな言葉を交わしたことはなかった。 二年まえ、圭子は、大学に合格して地方からこしてきた。そのとき、母親が娘をつれて挨拶にきて盛岡のお菓子をもらった。圭子を紹介すると、ぼくの仕事を聞いた。絵描きだとこたえると、もうそれ以上の質問はなかった。母親は、すこし顔を曇らせ、「それでは、よろしくお願いします」とだけいうと、さっさと帰っていった。まともな生活をしていない、社会の屑だと思われたに違いない。きっと、ぼくにたいしては隙をみせてはいけないと、娘に注意もあたえたのだろう。 圭子は、やせてスタイルがよく、ながい髪を肩までたらして赤い枠の眼鏡をかけていた。容姿ともに十人並みで、あまり個性を感じさせないどこにもいるような女性だったが真面目そうにみえた。とはいっても見た目で判断はできないし、いつもマスクをしているから顔の全体像も充分には分からなかった。なにがどうであっても、彼女が二年まえに大学に入学したのは不運だったに違いない。入学式があったかどうかも知らないが、オンラインの授業がつづいてサークルにも入れず、あたらしい友だちができる機会もひどくすくなかったはずだ。ふるい二階建てのアパートは上下に四つずつ部屋がつくられ、圭子の部屋は階段の踊り場のまえで東がわになる。ぼくは、いちばん西がわだから、毎日、彼女の玄関まえをとおりぬけた。顔をあわせれば、挨拶くらいは交わすなかだった。いつでも、しょんぼりして元気がなさそうにみえた。今年は大学にいけるせいなのか、マスクごしに笑っていると思えるときもあった。 「不思議なんだけれど、すごく気持ちがいいんだ」 ぼくはまた空をみあげ、両手を天にむかって差しのばした。 「あら、ほうとうね」と圭子がいった。 彼女は、となりでおなじ格好をした。 そんな行動をとるのは、ぼくには意外だった。それからしばらくたって、圭子と肩をならべて一〇〇メートルほどはなれたアパートへむかって歩きはじめた。 「差さなくていいの」とぼくは聞いた。 「雨というより、湿った春霞みたいだわ。雨滴に触れるのが、こんなに気持ちがいいだなんて、いままで考えもしなかったわ」と彼女はこたえた。 「春雨だものね」 「そうよ。濡れていきましょう」 圭子はそういうと、じっとぼくをみて笑った。 はじめてみた、彼女の笑顔だった。マスクが邪魔をしたので全体像は分からなかったが、目元がゆるんで嬉しそうだった。こんな感じなのだと思いながらアパートの階段をあがり、彼女の玄関まえで別れた。 自分の部屋に入ると、乾いたタオルで髪と顔をふいた。こまかい春雨だったので、そんなに濡れてはいなかった。とはいっても駅からアパートまでは一五分くらいあるし、公園ではしばらく空をみあげていた。だからシャツもズボンもぐっしょりで、下着まで湿っていた。あたらしい服に着替えると、心がかるくなった不思議な気持ちがした。陽が差してきた窓から空をながめると、今日はひどくいい日に思えてきた。 ドアホンが鳴り、扉をあけると西沢圭子が立っていた。洗いさらした青いジーンズに紺色のチェックのシャツをきた彼女は、紙袋を手にしていっしょにお菓子を食べませんか、といった。まえから絵描きの部屋に興味があって、一度入ってのぞいてみたかったとつけくわえた。おどろいた表情のぼくをみて、「ぐあいが悪いならやめとくけれど」といった。 「散らかっているよ」とこたえると、「私もおなじ」と笑った。 圭子は、ぼくの部屋のお客になった。 キッチンテーブルに紅茶をだして、彼女がもってきたクッキーをいっしょに食べた。 「君が、あんなことをするなんて思わなかった」 「そうね、自分でも意外だったわ」 圭子は、笑った。 ながい黒髪が北国育ちらしい白い肌にきらきらと輝いて、マスクをしないほうが可愛いと、ぼくは思った。 「どんな感じだった」 「すごく気持ちがよかったわ。あなた、知っているかしら。天井をみあげ、両手を大きくかかげて、金の雨がふるって叫ぶパフォーマンスをするプロレスラーがいるのよ。メインエベントの試合に勝つと、リングの中央でポーズをとるのよ。そうすると、たくさんのきらきら光る金のテープが、雨みたいにふってくるの。スポットライトがあたって、身体中が金色になって天井をみあげているの。戦いに勝った恍惚とした表情でね。みていて、すごく気持ちがよさそうなのよ。私も、まえから一回やってみたかったの」 彼女は、そういって笑った。 「ふってくるのがお金だったら、もっとよかったのかな」 「そうね。そのパフォーマンス、まえは、ほんとうにお金がふってきたのよ。もちろん贋札だけれど。それよりも、金のテープのほうがずっといいわ。紙幣じゃ、光らないでしょう」 「今日の雨は、きらきら輝いていたよね」 「あなたも、そう思ったんだ。こまかい金の粒子が、私にむかって一直線にふってきた感じだったわ。温かい雨だったわね」 圭子は、やや興奮気味にいった。 「大学にいけるようになって、よかったね」と話すと、彼女は快活に自分の生活の話をはじめた。おなじ雨にあたって、うちとけたようだった。 入学したもののキャンパスにもいけなくて、部屋で授業を聞いても気持ちが晴れなかった。このままの状態がずっとつづくのかと思うと、ひどく憂鬱になった。アルバイトもできなくて、一〇万円の給付金がすごく助かった。あれで一息つけて、給付がなかったら彼女も故郷に帰っただろうといった。 ぼくも絵画スクールのアルバイトがなくなって、あのお金はありがたかったと話した。 圭子は、一昨年いっしょにこのアパートに入った女子学生が、去年、学業を断念して故郷に帰った話をした。学生の部屋は一階の三号室で、となりの二号室で子供の声がうるさかったといった。アパートは独身者専用だったはずだが、なぜか小さな子がいて、しょっちゅう泣いていたらしい。 ぼくも、何度か子供の甲高い泣き声を聞いた覚えがあった。 となりの部屋の女子学生は、キャンパスにもいけず、アルバイトもできないところに、その声ですっかりノイローゼになったらしい。 「子供の泣き声って、どんな理由で泣くのか、なんとなく分かるわよね。親に抗議をしているのよ。それなのになんにもこたえてやらないのが分かって、切なくて我慢できないわ。普通の親だったら耐えられないように、子供は泣くんだものね」と彼女はいった。 結局、故郷に帰るさいに、女子学生の母親がやってきて、大家にかなり抗議をしたらしかった。それで、二号室の住人は引っ越したのだといった。ちかごろ子供の泣き声を聞かなくなったのは、そのせいだった。 ぼくも、ときおりはげしく泣きつづける甲高い声には閉口していた。それがなくなった事情を知って、納得した。 「虐待だったのかもしれないわ」 圭子は、その子供にまつわる話を一頻りした。 ぼくも、そうだったのかもしれないと思った。 圭子は、子供が可愛そうだとくりかえした。大学を断念した女子学生も、不運だったといった。彼女は、自分のことは除外して人の身のうえを心配する、ごく普通の女性になっていた。絵描きとしてのぼくの生活に興味があるらしく、どんな絵を描くのかと聞いた。部屋はおなじ一DKだったから、画布で散らかった一間をみて、どこで寝るのか思案していた。 圭子は、席を立って下段にカンバスが入った押し入れの上段に寝袋をみつけ、恋人もいないと判断したらしい。風景や人物がかかれた絵をながめ、なにかを思案した。テーブルにもどってくると椅子に腰掛け、じっとぼくをみて、 「石木さん、あなた、昨日はずいぶん遅かったわね」といった。 「昨夜も、雨がふっていたわね。あなた、すっかり濡れていた」 そうだ。昨晩も雨がふっていた。今日とおなじ霧雨だった。しかし、昨日はそんなにいい気分ではなかった。 圭子は、しばらく、たわいもない話を交わして帰っていった。 ぼくは、階段をのぼって部屋のまえをとおるたびに、影のうすい彼女がどうしているのかなと思った。その思考は習性になって、横切るとかならず心に浮かぶことだった。 圭子は、そんなぼくをみたに違いなかった。廊下がわには、どの部屋にも明かりとりの小窓がついている。台所のながしのうえにある、ほそながい窓だった。彼女は、そこからぼくをみたのだろう。ぐうぜんに違いなかったが、なぜだったのかと考えていた。 夜になって、富永薫からラインがきた。 「直接、話したいことがある。明日の夜の都合はどうか」とかかれていた。 会って話したいこと。そんな事柄があるのだろうか。 どうしても話さねばならないことなら、なぜ電話をしてこないのだろう。通信できない状況なのか。大切な内容ならばラインにでもメールにでも一部をかいて、こちらにも考えさせてくれてもいいのではないか。昨日会ったときに、なぜ話せなかったのだろう。望月真美がいたからなのか。彼女を勝手につれてきたのは富永だし、さなきだに紹介するまえに、ぼくには経緯を説明してくれてもよかった。いままでも、さんざん話につきあってきたのだから。もちろん、いつでも真剣に聞いていたわけではなかった。他人にはみえない収縮自在な白い檻にかこまれている話を納得させる証拠のひとつも呈示しないでえんえんと聞かされても、普通はいっしょに悩む事態は生じないだろう。あまりにしつこいと感じたときに、病院にいってしらべてもらったらどうだと反応するのが、とくに友情を損なうとも、非常識だとも思えない。本人しか分からないSF小説なのか妄想物語なのか、睡眠不足で構想をねるうちに神経をやられたのかもしれないと思うのは普通だろう。 ぼくは、親友だという気持ちがあるから、できるかぎりはつきあってきたつもりだった。そのたびに、恋人の晶子さんも、この話を聞かされて閉口しているに違いないとばかし考えた。 山住晶子さんは、華奢で上品で魅力的な女性だった。 仕事は、窓口業務だった。銀行では小町娘と評判らしいが、充分に納得できた。肘までとどきそうな艶のある黒髪が、色白のすべすべした肌を浮き立たせていた。細面で眉はなだらかにややうえをむき、額はいつも輝き、理知的な瞳で顔には染みひとつなかった。笑うと顔全体がふっくらして、やさしい人柄がにじみでるとでもいうのだろうか、ぼくも心から楽しくなった。「嫣然」という美人の微笑みを表現する言葉を、彼女をみて知った。どんな嫌なことがあっても、あの笑顔ですべてが許せるに違いない。それでいて言葉をかけるのを躊躇う、美人に特有な冷たい感じは、どこにもなかった。 要するに、ぼくは晶子さんにはげしい恋心をもっていた。絵の素材にしたいと富永にはくりかえしいったが、あとで話すからといつもはぐらかされた。親友の彼女だから、こえてはいけない一線があるとぼくは思ったが、モデルになってもらい、絵画としてのこしておきたかった。 そもそも、富永はぶおとこだった。 身長は、一六〇なんてとてもなく、顔はまるくて大きく、六頭身といってもよかった。鼻はつぶれ、頬骨はでっぱって、日に焼いたわけでもないのに色も真っ黒だったから、南方の土人の兄弟とよんでもいいくらいだった。差別語かもしれないから土着の人といいかえてもかまわないが、テレビでそうした地域のニュースをみると富永を思いだしたのは事実だ。 いっぽう、晶子さんは細身だった。背も一六〇くらいあったから、スレンダーという言葉がぴったりするくらい活かしていた。そのうえスタイリストだった。いつも洒落た服をきて、ブレスレットやイヤリング、小さなバッグなど身のまわりのものをコーディネートしていた。色のセンスが、とてもよかった。彼女の美的な趣味は、天性のものだろう。物腰もやわらかく、すべてが華やかで、ほんとうに大名の末裔か旧華族の出身に違いないと信じていた。 ぼくは、彼女にメロメロだった。 ところが富永ときたら、一張羅のグレーの背広しかもっていなくて、いつもよれよれだった。髪の毛に櫛を入れることもなかった。ぼさぼさで寝癖がついたままだった。 小説家を目指していたから、外面より内面世界が重要だったのだろう。しかし、社会人でもあったのだから上司に評判がいいはずがなかった。晶子さんの洒落た趣味を理解するとは、とても思えなかった。どこからみたって、美女と野獣だった。たぶん、ほんとうに美しい人はもう外見など気にしないのだ。それが真の美人なのだと理解するより、手立てはなかった。 晶子さんと富永を交えて、三人で会う機会も多かった。絵のモデルになってほしいと、直接たのんだこともある。 晶子さんは、富永と相談するとしかいわなかった。 ぼくが絵を描いていることに、なんの興味もしめさなかった。彼女と会って話すと、自分が貧乏絵描きだという卑下した気持ちに落ち入った。水商売の芸術なんかやめて、お堅い銀行員になったほうがよかったと、くりかえし思った。それでも、ちかくから美人をながめるだけで幸せだった。三人で会うのなら、いつでも都合をつけるつもりでいた。 なにが気に入ったのか、どこがいいのか、晶子さんは富永にぞっこんだった。 ぼくは、会うたびに頭がくらくらした。銀行にもたくさん若い社員がいるのだから、さそいをかけられる機会はそうとうあるに違いなかった。誰もが富永が相手だと分かれば、不思議に思うのは間違いがなかった。 晶子さんは、ぼくが彼の親友だと知っていた。困惑する檻の話を相談してくれたら、いつでものった。しかし、信じられないが富永以外は眼中になかった。 ふたりは、東京本店の職場で知りあった。 富永は、仕事もそんなに熱心でなく、成績もどちらかといえば悪く、同期の出世でも遅れていた。評判だって決してよくなかったはずだ。彼は、ぼくが晶子さんに夢中なことを充分に知っていた。それなのに、結婚するのは嫌だといった。妻帯したくないのだそうだ。意志がないことをはっきり話すと、彼女は結婚したいといって泣くのだそうだ。 ふたりを知るぼくには、もう信じられない話だった。 富永は、密会すると晶子さんが意のままになると平気でいった。 ぼくは、そのたびに義憤に燃えたが、なにをどうすることもできなかった。 富永は、小説をかくわけだから普通は人の感情に機敏だと思われるが、えらく鈍感なところがあったのだろうか。正直、過敏な部分はもっていたが、繊細とはとてもいえなかった。 ぼくは、中学以来の親友だから富永についてはくわしい。 大学は別だったが、彼は札幌にいったので一ヵ月くらい居候していっしょに暮らしたこともある。絵画、文学、音楽、映画などの芸術論や哲学についてもずいぶん話した。もちろん、女性の話題もあった。銀行員になってからも富永が小説家を目指し、新人賞に応募していたのは事実だった。作品を読まされたこともあるが、思考方法をよく知る親友のぼくでも、わけの分からない小説だった。大好きなジグソーパズルを考えて、創作したのは理解した。しかし、あきらかに偏執的で猛烈な思いこみのうえに成立していた。 もともと富永は、数学が得意だった。とくにパズルが大好きだった。解くだけではあきたらず、自分でも難問をつくって専門雑誌に投稿するマニアだった。東大志望で三年浪人したが、最後の受験時にパズルみたいな問題がでた。全五問をざっと読んで、彼は「三浪してまで待った甲斐があった」と実感した。それで、得意なパズルじみた問題から解こうとした。それが分かりそうでこたえが喉まででているのだが、どうしてもすっきりとした解がえられなかった。できそうもなければ、つぎの設問にすすんだ。そうではなかった。彼は、この手の問題を解けない経験がなかった。どうしようかと思いながらもうすこしと考えて、ほんとうにできないと気がついたとき、のこり時間は三〇分を切っていた。 「東大とは縁がなかった」と彼はいっていた。それで、すべりどめだった大学にすすんだ。 富永は、中学時代から小説家を目指していた。しかし、彼が志望したのは理科一類で、やりたいのは物理学だった。進学したすべりどめの大学は、工学部だった。三浪したので留年だけはさけようと頑張ったらしいが、ずっと小説をかいていた。それで、就職先は銀行だった。銀行業務には数学も機械工学も不必要とはいえないだろうが、あきらかに経営学や経済学のほうが必要な文系の職業だろう。富永の経歴には一貫性がなかった。 ぼくは、文学部の美術科にすすみ、卒業して画家を目指している。数学は、嫌いでも好きでもなかった。 富永は、ぼくから考えるとバランスが非常に悪かった。小説家を目指していたのだから性格は内向的で、人づきあいはよくない。銀行員など、どこから考えてもあいそうもなかった。なにが相応なのか分からないが、ひと昔まえの公務員なら日中は机について天井の染みをながめながらつぶし、夜に小説をかくのはありそうに思う。出世を希望しなければ、人づきあいをしなくてもすむだろう。 富永は、銀行で営業を担当していた。どう考えても、有能な営業マンにはなれない気がした。彼は非常に矛盾した人間で、いうなら「例外人」なのだろう。それを魅力と思う以外、晶子さんが富永を好きになる理由は考えられなかった。 ぼくだって、社会をある程度すてて美術にかかわっている。出世もないし、アルバイトは絵画学校くらいで、さらにやるならコンビニの店員くらいだ。だから一般的な基準から判断すれば「例外人」かもしれないが、彼よりもずっと一貫性がある気がした。 富永は、ぼくの知るかぎり、女にだらしがない男ではなかった。もっと真実にちかづくなら、女性とは縁遠い存在だった。好意をもった女は何人かいたようだったが、いつもふられていた。彼は、とくに美人が好きなわけでもなく、そんな好みがいえる立場ではなかった。女の形をしていれば充分だったのに、世の中は不思議だとしか思えなかった。 富永は、昨日の別れぎわによろめいてぼくにぶつかってきた。 その瞬間の映像が猛烈な印象とともに切りとられ、脳裏をよぎった。故意としか思えない、ひどく不自然なうごきだった。 「目眩がした」と富永はいった。 いままでそんな話は、一度も聞いた記憶がなかった。 酒を飲んで興奮して跳びあがることはあっても、よろけるなんて、みたのははじめてだった。胸のあたりに彼の右肩がぶつかったが、ふらついて倒れそうになったというより完全に意図的に衝突してきた感じだった。 けっこうないきおいがあったから、ぼくは、おどろくよりも痛いと思った。はっと富永の目をみると、異様に輝いていた。ぎらぎらとした無気味な瞳。悪意というものがあるとしたら、あんな目ではないのだろうか。いままで出会ったことはなかったが、映画で悪魔にとりつかれた者が周囲にはなつ、憎悪に満ちた瞳だった。眉間にふかい縦縞を二本入れて、頬が異様にふくらみ、真ん中に団子鼻がすわる顔面をしわくちゃにしながら下唇をつきだしていた。するどいというより、ぎらついた怪異な瞳だった。積年にわたり探索して、ようやく親の敵にめぐりあった者が怨念をこめて睨みつける。なんと表現するのが適切なのか分からないが、あきらかに尋常ではない、心の底から恐ろしくなる目つきだった。 あまりの異様な出来事におどろいて富永のちかくに立つ真美をみると、ひどく冷たそうな目でぼくを凝視していた。なんの感情もなく、獲物がいるかどうかだけを把握しようとする爬虫類みたいな瞳だった。ぼくは、ひどくとり乱した。いったい、なんだったのだろう。彼女がみていたのは、あきらかにぼくではなかった。しかし、そこには、ぼく以外はいなかった。さっぱり分からなかったが、背筋がぞっとする場面だった。その光景が脳裏からはなれず、ふたりと別れてからひどいだるさを覚えた。身体が重くなって、魂を鎖で縛りつけられた気持ちがした。 そのことばかりを考えながら、地下鉄にのったら日比谷線だった。 千代田線なら代々木上原まで直通だったのに、間違えてしまった。分からなくなって霞ヶ関と赤坂見附でのりかえ、すべてが釈然としなくて渋谷でおりた。考えながら夜の東京を原宿まで歩き、明治神宮駅までいって千代田線にのり、代々木上原で小田急線にのりついで下北沢についた。ほんらい二〇分ですむところをさんざんまわり道をして、下車したのは一二時をすぎていた。外は、小雨がふりだしていた。今日とおなじ霧雨だったが、冷たい雨滴だった。傘もなかったので、一五分歩いてアパートに帰ってきた。パーカーのフードだけはしていた。冷たい雨は、髪を濡らし皮膚全体にしみこんだ。風邪をひきそうだと思った。それでも走る気にもなれず、アパートにつき、階段をあがって西沢圭子の部屋のまえをとおった。そのとき、圭子がなにをしているか、そんなことは考えなかった。ましてや、深夜の雨に濡れたぼくを彼女がみていたとは思いもつかなかった。 「明日は土曜だから、美術教室がある。日曜もだめ」とラインをおくった。 考えはじめると、昨日はみょうだった。 富永は、いままで迷惑をかけたことを謝罪したい。檻の問題が解決したといった。 三ヵ月くらいまえだったが、富永のアパートで酒を飲んだときに、はじめてケージの話を聞かされた。鳥かごみたいな白色の檻が、四六時中、彼をとりまいているという内容で、どう反応したらいいのか分からないものだった。冗談をいう男ではなかったが、ありえない話だから正直なにをつたえたいのか不明だった。彼によれば、檻の材質は金属で、さわると冷たい感じがする。伸縮自在で生活するにはこまらないが、交通事故にあっても役には立たないだろうといった。ヤスリで切ろうとこころみても不可能だったらしい。 ぼくは、富永がいうので「檻」なるものに触れてみたが、感覚はなかった。それからは、会うたびにその話で困惑した。なによりも問題は、彼女とホテルにいっても、ふたりのあいだに檻がはさまって邪魔をするらしい。何回かそんなことがあって、晶子さんは怒って精神科への受診をすすめた。彼女の友人の兄が精神科医だったので、つれられて家までいき話をした。そのとき医者は、ふたりの性的関係を知っていた。晶子さんが話したと、彼は勝手に怒っていた。不能の原因は檻のせいで、ふたりのあいだに存在し、接触を物理的に妨害するといった。 とはいえ、ぼくは富永が晶子さんと結婚するのだとばかし思っていた。 昨日、日比谷の有名な中華飯店に招待された。食事代はもつから、普段着でいいからきてくれといわれた。 富永は、とくにケチではなかった。ぼくのアルバイト生活とは違ってしっかりとした給与をもらっていたから、おごってもらうばあいもあった。しかし、老舗の中華飯店で豪勢な食事を振るまわれたことはなかった。彼とそんなところで会食しようなど、考えもしなかった。ようやく檻の決着がついて、もう不可解な話を聞く必要がなくなったらしいと思って喜んだのは事実だった。精神的な問題が解決したので、晶子さんとの結婚の報告だろうとばかし考えた。 中華飯店は、個室が用意されていた。定刻にいくと、思ったとおり女性がいた。 おどろいたことには、山住晶子さんではなかった。いままで聞いた覚えもない望月真美という女性で、富永は「フィアンセだ」と紹介した。 真美は、彼よりひとつ年うえで貧相な感じの女だった。赤いワンピースをきていたが、ぜんぜん似合わなかった。髪はながいが艶もなく、身長は一五〇くらいだった。背の高さは、富永とお似合いかもしれなかった。化粧をしていたが、もとが白いとは思えない顔は精彩がなかった。鼻筋はとおっていたが、目が大きすぎると思った。つけ睫のせいかも、アイシャドウを塗りたくったからかもしれなかった。どちらにせよ化粧がこい感じで、なにがほんとうなのかもよく分からなかった。手にもった黒いバッグは、服とは調和していなかった。どこかが場違いで、ぎすぎすした感じだった。 中華のコースがでてきて、ぼくは紹興酒を熱燗で飲んだ。料理は、うまかった。三人だったから話もしたが、教養にもとぼしく会話も下手で、はっきりいって可愛くも面白くもない女性で、どうなっているのかと思った。 ぼくは、彼女が席を立ったとき、富永に本気で結婚するのかと聞いてみた。 「もちろんだよ。そうでなかったら君に会わす理由もないだろう」と彼はいった。 言葉の調子からは、本気らしかった。 「なにしろ、すごいんだよ。相性というのかね。ぴったんこ、なんだな」 富永は、勝手に話しだした。お見合いで、はじめて会った日にたがいに夢中になった。その瞬間から相思相愛の恋人だった。一日たりとも分かれてはいられないと、大きな顔に笑いをこらえながらいった。 すこしむくんでいるようにもみえ、なによりも無気味だった。檻について質問すると、すっかり問題がなくなっているそうで、迷惑をかけたが結果オーライだといった。 望月真美にも、富永のどこが気に入ったのか聞いてみた。 「もう、すべてですわ。こんな人が待っていたから、私、結婚できなかったのですわ」 眞美は、嬉しそうに笑った。 鼻の頭がひくついて、みて気持ちのいいものではなかった。いくらか話したが、双方がひどく気に入っているのはたしかだった。死んでもいいほど愛しあっていると、ふたりは異口同音に賛成し、たがいをみつめてにやっと笑った。 ぼくは、あきらかに部外者などという段階ではなく、ほとんど異邦人だった。このふたりが、なにをどう考えているのか分からなかった。もちろん知りたくもなかったが、晶子さんのことばかり思った。富永にそんなに魅力があるのが、不思議でならなかった。 ぼくは、異性とはまったく無縁で、彼をこんなに好きだという女性がいるのが信じられなかった。晶子さんのばあいはただうらやましかったが、眞美さんはおどろいただけだった。ぼくは、こんな雰囲気のなかで、もう酒を飲むしかないという感じになった。もともと、つよいほうではなかったからすっかり悪酔いした。 富永と眞美は、ほとんど酒も飲まずにぼくに酌をしてくれるばかりだった。 彼女は、酒類が飲めないといった。 富永は、ちかごろ飲みすぎで医者から慎むよう指しめされたとか話した。これも、はじめて聞く話だった。料理もうまくて、酒もかなり飲んで、支払いは彼がした。富永は、カードをとりだし暗証番号を入力した。 ぼくは、すこしはなれた後ろからみていた。だから、出口のちかくに立っていた。先に店をでた眞美がぼくをよんだので、おいかけるとエレベーターホールは閑散としていた。 彼女は、エレベーターの扉のまえでここで待っていてほしいといった。 すぐに富永が眞美とつれ立ってでてきて、二メートルくらい手前で、とつぜんよろける感じで右の肩からぼくの胸に衝突してきた。ふたりは、ならんでいた。だから、もし目眩でふらついたなら、眞美にすがる場面ではなかったのか。 ぼくは、はげしいいきおいでぶつかられ、おどろいた。 富永は、両手をあげてなにかをかぶせるような仕草をした。 その目つきが異様だった。 ぼくは、おどろいて、となりにいる眞美の顔をみた。 彼女は、ひどく真剣な表情でじっと凝視していた。 なにを、みていたのだろう。富永でもないし、ぼくでもなかった。なにかまったく違うものをみていた気がする。無気味な雰囲気で、一瞬すべてが凍りついた感じだった。 「目眩だ。こんなことははじめてだ。悪かったな」 富永はいってエレベーターのボタンを押し、しばらく待って扉があいたので入った。 下につくまでみょうな沈黙があり、悪酔いしたのかなと、ぼくは思った。 外にでると、富永が、「ぼくらは、ちょっと公園をまわって帰るから。ここで」といった。 ぼくは、挨拶をして別れて地下鉄にのった。 渋谷でおりたとき、雨がふりだしていた。 「明日の夕方、晩でもいいが会えないか」とラインがきた。 「仕事は、四時まで。晩ならかまわない」とぼくはラインをかえした。 「六時に、渋谷のハチ公まえで」 「分かった」 山住晶子さんは、どうしているのだろう。ぜひ、聞いてみたいと思った。勝手なことばかりくりかえすのだから愉快な話ではないのだろうが、ぼくにもひとつくらいは質問する権利があるだろうと考えていた。 つぎの日の四時をすぎたころ、絵画教室が終わって着替えをしていると携帯が鳴った。富永からで、「今日は都合が悪くなった。ちかいうちに連絡する。今夜にでもラインを入れる」と早口でしゃべり、「分かったか」と聞いた。 「ああ」とこたえると、電話はすぐに切れた。 ずいぶん勝手なやつだなと思いながら、ぼくは家に帰った。その夜、ラインはこなかった。翌日になっても連絡はなかった。どうしたのかと思っていた。 それから一〇日くらいたって、ぼくは富永の死を知った。 母親からの電話で、彼が死んだといわれた。とり乱した感じで、「知っていたか」と聞かれた。ぼくが否定すると、「最後に会ったのは、いつか」とたずねられた。 一〇日くらいまえに、いっしょに食事をしたとこたえた。フィアンセを紹介されたとは、話さなかった。そのときは元気だったから、なにがあったのかと聞いた。 母親は、急性の心臓麻痺でとつぜんに死んだといった。ぼくがおどろくと、翌日が通夜だとつげた。 それ以上を聞く雰囲気ではなかった。 ぼくが、急死した富永薫の葬儀から帰宅したのは、夜の八時をまわったころだった。アパートの階段をあがり、西沢圭子の玄関まえをとおりすぎたとき、彼女はどうしているのかなとふと思った。踊り場のまえの小窓に注意をはらうことは、ぼくの習性になっていた。部屋に帰るとひどく疲れて、マスクをはずし、手を洗うとキッチンの椅子に腰をおろした。そのまま、葬儀について考えていた。 とつぜんの死はぼくをおどろかせたが、家族は詳細をかたらなかった。葬儀は時節がら、こぢんまりとした家族葬だった。友人は、ぼくくらいしか知らなかったのではないか。もともと、富永は人づきあいが悪かった。とはいえ、知らせれば友人も何人かいたはずだった。銀行の職場の人たちも、ひどくかぎられていた。晶子さんと会えないかなと思ったが、みつけることはできなかった。母親が電話口で話した「心臓麻痺」とは、なんなのだろうか。もうすこし事情を聞きたいとは思ったが、両親はひどく憔悴していた。富永の母親にも挨拶したが、ぼくをみるとなにかいおうとしてやめた感じだった。 葬儀の三日まえの新聞に、信州のホテルで心中事件があったという記事がのっていた。それが、富永のことだと通夜の席で耳にした。新聞で報道されたのなら、心中といっても事件性があり、不自然な死に方だったのだろうか。週刊誌の広告欄で、見出しに「猟奇的」という表現がされていた。それが、富永の話だったのだろうか。 猟奇的という表現は、奇怪な感じという意味だろうか。もっといえば、残忍、残酷、グロテスク、血生臭いというニュアンスがあるのだろう。なんらかの「感性のゆがみ」を予感させた。エレベーターホールで肩からぶつかってきたときの、富永の異様な目。爬虫類にも思える獲物をみつけた眞美の目つき。いったい、なにをみていたのだろうか。 思いだすたびに、ぼくを不安な気持ちにさせた。そうして考えると、「ゆがんだ感性」は正鵠を射ている感じがした。猟奇的な事件とは、殺人事件でも、殺害方法や動機などが倒錯し、不可解なものをさすのだろう。ばらばら殺人とか大量殺人、それに遺体にたいして手をくわえる行為もさすに違いない。どちらかといえば、小説や映画でかかれるものだろうから、なにがあったのかと考えていた。 ぼくは、玄関で塩をかけるのを忘れていた。 扉にもどると、ポストにレターパックがあった。外にでて、もらった「清めの塩」をふりかけてなかに入った。郵便物をポストからとりあげてみると、差出人は富永だった。生前にかかれたと分かったが、あまり気持ちのいいものではなかった。みょうな胸騒ぎを覚えながら封を切ると、A四版のノートが入っていた。一部は破棄され、コピー用紙が表紙になってホチキスでとめてあった。題名はなく、「富永薫」とだけ署名されていた。ざっと目をとおすと日記みたいなもので、不必要な部分を切りとったのだろうと思った。ノートの最初のページに、うすい便箋がはさまっていた。 ぼくは、手紙を読みはじめた。 親愛なる、石木純さま ぼくが君に遺書をおくった理由は、おいおい分かってくることだから、いまそれを話すつもりはない。ただ、謝りたいのだ。君に許しをこいたいと、いまは痛切に思う。悪魔のささやきに耳を貸してしまったのだ。こんな手紙をださなければ、これから起こる不幸がよもやぼくのせいだとは、君は考えもしないだろう。なにもいわずに他界するのは、さらに大きな罪だと思いはじめている。君にたいして悪事を犯した瞬間から、ぼくは後ろめたさを感じつづけている。それをつたえて、どうするのだ。話してなにになるのだ、という悪魔のささやきもまたくりかえし聞いてきたのだ。やはり、つたえよう。ほかならぬ、ぼく、富永薫が、親友の石木にたいして悪意をもってこんなことをしたのだ。なんの罪もない君に。幸せそうで、すくなくとも不幸ではなさそうで、そばにいたからというだけの理由で。許してくれ。君の許しがなければ死に切れないという思いに、ぼくはさいなまれているのだ。同封したノートを読むまえに、どうか許すといってくれ。焼いてもかまわない。こんなノートなど読まないで火をつけてくれ。 それでは、なぜ手記をおくるのだろうか。焼いてもらいたいノートを、君に送付するのだろうか。 「最後の審判のラッパは、いつでも鳴るがいい」と思ったのだ。 ぼくは、自分を正当化したいだけなのだ。神のまえで裁かれるとき、彼に告白しました。罪の許しをこいました。許してくれたかどうかは知りませんが、というためなのだ。 悪意に満ちた者が形をうしなえば、とうぜん悪霊になるのは目にみえている。逆に神になれるのは、無辜の魂をもって死んだ子供だけだ。彼らは善霊になるが、悪霊と勝負がなり立つと思うかね。ぼくは、無辜の魂でいたかった。真理を知ることはできないが、そのほうがよっぽど美しいからね。純粋な魂は、「白痴」といわれる。すみきった目。あくことを知らぬ理想。絶え間のない努力。おろかしいほど美しい愛。これらは、みんな白痴の世界だ。呪わしく馬鹿げた、おろかな、どこをとっても意味のない精神障害の範疇だ。できれば、その世界にとどまりたかった。ぼくは泣きごとをいっているのではない。君は、自惚れてはいけない。馬鹿ばかしい話だと思うのは、よく分かる。ぼくだって逆に君からこんな手紙をとつぜんもらったら、そう考えるに違いない。しかしね。これはみんな君の問題なのだ。ぼくは、呪縛をかけた。あの悪意が、ついついやってしまった。ぼくは、君になんといって謝ったらいいのか術を知らない。責めないでほしい。どうか許すといってくれ。すべての事態に気がつく以前に。君が、このノートを紐解くまえに。 うすい便箋に、青いボールペンでこまかくかかれた手紙を読んで、ぼくは不安を感じた。この手記が好ましくないものであるのは、理解ができた。会いたいといったことと、関係があるのは間違いがなかった。富永はさんざんまよった挙げ句、こうした形式をとったのだろう。いずれにせよ、死後にこんな手紙をおくられて気持ちがいいと感じる人がいない以上、悪趣味だとはいえる。 ぼくは、ノートをテーブルのうえにおいた。葬式にいくまえに、画具を片づけておいたので、居間には座布団が二枚しかれていた。ぼくは、そこで横になった。 「最後の審判のラッパは、いつでも鳴るがいい」。これは、富永が好きだったルソーの言葉ではないかと思った。ぼくは起きあがると、本棚から「告白」をとりあげた。第一章の冒頭部に、この文章をみつけた。引用部につづいて、つぎのようにかかれていた。 「私は、この書物を手にして最高の審判者のまえにでていこう。高らかに、こういうつもりだ。これが私がして、考えた、ありのままの姿です。よいも悪いも、おなじように率直にいいました。このとおりです。なにひとつ悪いことを隠さず、よい行為もくわえませんでした。多少どうでもいい装飾を用いた部分もありますが、私の記憶の喪失による空白を埋めるためにしただけです」 あきらかに、この引用だった。 「最高の審判者」とは、誰なのだろう。ぼくではありえないから、冒頭の部分だけを引用したのだろう。富永は、なにかをつたえたかったに違いない。内容が好ましいとは絶対に思えなかったが、「ありのまま」というノートを読みはじめた。非常に個人的な手記で、当初は他人にみせるつもりがない記録だった。おくられてきたノートは、檻の存在に気がついた三ヵ月くらいまえからかかれた日記の一部で、ホチキスでとめられていた。 富永は、一月の終わりごろから、もやもやしたものが周囲にただよっている感じがあった。原因はなんだか不明だったが、目の調子でも悪いのかと考え、日に幾度も目薬を差していた。夜に歩いて街灯に照らされると、周囲にみょうな影がつきまとう感じがしていぶかしく思った。二月のある日、とつぜん自分が檻でかこまれているのに気がつき、ひどく動揺した。危害をくわえるものではないとすぐに理解したが、鳥かごに似たケージを背負っているのを誰かにみられることを恐れた。 赤裸々な手記だったので、戸惑いながら読んだ。 ぼくについても、かなりの記述がさかれていた。ふたりで話したことが、記憶にちかい形でかかれてあった。手記では、ぼくが彼の話を真にうけず、まったく相手にしないのを怒っている部分もあった。檻が出現してから、晶子さんとは性的な関係がうまくいかなくなった。金属のケージがふたりのあいだで邪魔をして不能になったとかかれていた。 ぼくが彼から聞いた話は、正しかった。彼女の指示で精神科医とも話したが、富永は治療をうけなかった。 晶子さんは、結婚をせまっていた。ずるずると関係をつづける富永に、見合いの話があるといって決断をうながした。手記には、ほんとうに別れてもいいとかいてあった。富永は、晶子さんを生涯の伴侶とするほどには愛してはいなかったのだ。ぼくには、大きなおどろきだった。富永の心のなかでは結婚願望があると、勝手に思いこんでいた。彼が話したのは本心だった。富永は小説家としてデビューすることを考え、晶子さんが足手まといになると思ったらしい。そうこうするうち、ある部長からひどく気に入られ、見合いの話をもちかけられた。晶子さんがいながら、富永は申し出をうけたらしい。この件で、ふたりがもめた話がずいぶんかかれていた。晶子さんがやめるよう、泣いて訴えたという記載もあった。 富永は、反対を押し切って見合いをした。その相手が、望月真美だった。真美は、ひどくエロチックに富永にせまっている。出会いの場面は、小説風の三人称でかかれていた。彼は、なにかの小説に利用しようと考えたのかもしれない。 引用すると、こんな感じだ。 ふきぬけになった大きな空間は、午後のやわらかい日差しがいっぱいに注がれ、あかるく輝いていた。昼食時をすぎた店内はすき、幾組かの客がアクリル板をはさんでお茶を飲みながら、親しげに会話を楽しんでいた。ガラス張りの窓ぎわには、ひろびろとしたグレーのソファーがボックス席になって六つあり、いちばん遠いところに髪のながい女が背をむけてすわっているのに、富永薫は気がついた。彼は、ふたつの段差をおりると、テーブルと洒落た椅子がおかれる中央部をぬけて奥にむかって歩いていった。 落ちついたたたずまいの女は、ガラス張りになった窓からよく手入れがされた庭園をながめていた。富永は、見合いの相手が赤い帽子をかぶってくることを知らされていた。白い肩があらわな、女の背中がみえた。テーブルに鍔がひろいグレーの帽子がおかれ、赤いリボンがついているのが分かった。店内にひとりの客はほかにいなかったから、この女性に違いないと思って富永は奥にまわりこみ、振りかえって一瞬、息を飲んだ。 庭園をながめる細面の女は、大きくひらいた黒いスクエアネックのドレスを身にまとっていた。ほそい腕が目に入り、デコルテになった繊細な鎖骨がみえた。肌を覆う布は胸の前部でクロスされ、豊かな乳房の一部が垣間見られた。みおろす富永の目は、その魅力的な部分に釘づけになった。 女は、ゆっくり頭をまわして彼をみあげた。黒い髪は、光があたって輝きながら、ほそい肩にたれていた。眉はやや上方にひかれ、睫はながく、瞳は蠱惑的で、鼻筋がとおった女性は、かつてみたこともない魅力をもっていた。うすい紅にいろどられた唇の美貌の女は、彼を一瞥するとかすかな笑みを口もとに浮かべた。 青い背広をきた富永は、その場で硬直し、思わず頬を紅潮させた。はじめての見合い相手が、こんな大胆な格好をしてくるとは考えてもいなかった。パーティーにいっても、こんなにセクシーな女性をつれた男をみた記憶はなかった。富永は、女優としか思えない望月真美にはげしい情欲を感じた。 そのとき、真美が黒い檻にかこまれているのがみえて、彼は悲鳴をあげそうになった。富永のケージとぶつかって、席にすわれないかもしれなかった。それでも黒い檻をかかえた女性は、かつてみたこともない美人で、ひきつけられ、ふらふらとソファーに腰をおろした。彼女のケージはテーブルの外まではみでていたにもかかわらず、富永がすわるとアクリル板の内がわまで淑やかにひっこみ、ぶつかりはしなかった。そのとき、真美がいった。 「素敵な檻ね。とてもいい色で、私の好みよ」 「漆黒のケージは、あなたの白い肌によく似合っていますね」 思わず、富永はこたえた。 「気があいそうね」と真美はいった。 ふたりは、コーヒーを飲んでかんたんな自己紹介をした。 話しだすと、富永ははじめて会ったとは、とても思えなかった。時間は、瞬く間にすぎていった。目のまえにいる真美は、すべてが魅力的だった。それにしてもセクシーな女で、会話の途中でなにかをいい淀むことがあると、彼女は交差させた両手の親指をつかって、胸の前部でクロスする布をひきさげるのだった。その行為は豊かなバストばかりでなく、尖端の刺激的な部分までみせようと思えるほどで、富永は唾を飲みこんだ。 「ああ、あなたがそうして胸に手をやって布をひきさげるところをみると、もうたまらなくなります。こんな気持ちになったのは、うまれてはじめてです」 富永は、しごく真面目な表情でかすれた声をだした。 「私も、あなたをみていると先端部が立ってきて、くるしくなるわ」 真美は、小さくささやき、うるんだ瞳で彼をみつめた。 とんでもなく刺激的な言葉に、富永はうろたえながらいった。 「もう、ぼくもたまらない感じなのです」 「あなたも、おなじなの」と真美は聞いた。 うなずくと、「これ以上、ただ話すのは無意味よね」と彼女はいった。 富永も、そう思った。彼が勘定書きをもって立ちあがると、真美は帽子をかぶった。 富永はフロントで個室をかり、ふたりはエレベーターにのってキーにかかれた番号の階までいった。部屋に入るとはげしい口づけをした。ドレスをおろすと、富永がみたこともない肉感的な肢体と、おどろくほど大胆な黒いランジェリーがあらわれた。小さい下着は、はち切れんばかりの胸を最大限に強調し、信じられないほどにくびれたウエストに目を釘づけにさせた。かすかに覆う臀部にいたっては、最後の理性をすっかり消失させるのに充分だった。見合いの席に、なぜこんなセクシーな勝負下着をつけているのか、富永には分からなかった。檻にかこまれていることなどすっかり忘れ、彼は全身で真美におぼれていった。 富永は、ケージのなかでは全能だと考えたりしている。部屋に一匹の蛾がとびこんできて飛びまわっていた。ちょうど檻に侵入したとき、「死ね」と彼が念じると床に落ちた。「生きかえれ」と口にすると、蛾は羽ばたきをはじめ、ケージからでていった。 ぼくは、こんな話も、またはじまったと思いながら聞いた覚えがあった。 見合いの日を境に、富永と眞美は急速に接近し、たがいにはなれられなくなったらしい。めちゃくちゃな、ポルノじみた手記がつらなっていた。ふたりは会うと、化学反応みたいに変化し、ずっとセックスをつづけたという記述がある。描写がはげしく、会話もすごかった。一瞬たりとも分かれていられない関係になったらしい。眞美は富永の家にいき、ふたりで暮らしていたらしい。仕事もかなり休んだようだ。会社にいっても集中できず、居眠りばかりしていた。軽井沢のホテルで、食事以外はずっとセックスをつづけたとかかれていた。 不審に思った晶子さんが富永の家をたずねてきたとき、ふたりは愛しあっていた。鍵をもっていた彼女は、この場面を目撃したらしい。事実だったとしても、なぜこんなノートをおくってくるのか、ぼくには考えられなかった。 富永は、たがいをみつけあうために檻が存在すると結論している。ふたりで、晶子さんのこともずいぶん話題にしていた。彼女は、富永が見合いしたあとにもたくさんのメールをおくっていた。スマホには、晶子さんの写真も数多くあった。富永は、それを眞美といっしょにみて話題にしていた。 ぼくは、読みつづけるのが嫌になってきた。微に入り、細をうがつ、かかれている内容は、けっこうな量があるポルノだった。晶子さんが、可愛そうにしか思えなかった。いったいなにが起こったのか、ぼくには分からなかった。 気をとりなおして読んでいくと、最後のほうで展開があった。 真美は、檻のせいで誰とも理解も接触もできなくなって悩んでいた。そんなとき、ある駅のちかくでケージにかこまれた易者にぐうぜん出会った。占い師には彼女の檻がみえて、いろいろと教えてもらった。 真美が「このケージがある以上、もう誰とも理解しあえない」というと、「結婚したい人がでてきたら相談にこい。そのときに、檻のことを教えてあげる。ケージをもつ相手以外とは結婚はできない」と占い師はこたえた。眞美は、携帯番号を知っていたので易者と連絡をとった。状況を話すと、占い師は富永といっしょにこいといった。 ふたりは、約束した日に指定されたホテルの一室で易者に会った。 占い師は、「このままでは確実に死ぬ。回避するには、離ればなれになる以外にはないが、完全な手おくれで、檻はかさなり一部は融合をはじめている。ケージは、誰かに恨まれたのか、不運にもちかくにいたのか、いずれにせよ人から譲りうけたものだ。ひとりですごす分には多少不便なだけだが、男女がいっしょだと、やがてひとつに融合する」といった。 よく接合部をみて、易者はまた話した。 「たぶん一週間ほどで、富永の檻は使用不可能になる。彼は、真美のケージで暮らさねばならない。ひとつの檻でふたりがすごせるのも、せいぜい一週間くらいが限度だ。その期間をすぎると、ふたりとも死ぬことになる。使用後の処置は非常に問題だ。白色のケージはかわりの男を入れないと、彼がひとりで先に死ぬことになる」といった。 富永が真美と最後の楽しい一週間をえるには、誰かに檻を譲るより手立てがない。そうしなければ、最期の瞬間までふたりで愛しあうことはできない。譲る方法は、これぞと思う者にかるくでいいのだが肩からぶつかり、ケージの一部を相手の頭からかぶせる。そのとき富永は、真美の檻に入っている必要がある。確実にかぶせるためには、相手は親しい人で、充分な余裕がないとうまくいかないだろうと占い師は話した。 富永の檻がどういう経路で出現したのか、易者はくりかえし質問していた。彼は、順をおって考えたが確実なことは分からなかったらしい。上司の課長が富永を目の敵にして、パワハラまがいの行為があったらしい。もしかしたら、その者からもらったのではないかとこたえている。檻が分かるには一ヵ月くらいが必要になる。二月に彼がケージをみつけたので、一月ごろの事件を思いだせと易者はいった。新年会のときにも富永は課長から嫌がらせをうけたが、たがいの身体が接触するようなことはなかった。くりかえし考えても、檻をかぶせた相手を特定できなかった。それほど身近な人ではなく、通勤途中にでも、見知らぬ誰かから譲られたのだろうと結論している。 真美は、思いあたる者がいるといった。その女は、彼女の美貌をひどく妬んでいた。会うたびに不愉快なことを仕掛け、考えるだけでもむかつくやつで大嫌いだった。その女は、不慮の事故でとつぜん死んだと眞美はいった。 易者は、のこった彼女の檻は人に譲る必要がないと話している。しっかりとふたりで手をつないで黒いケージのなかで死ねば、天国にいけるといった。易者は、銀色の檻に入っていた。 富永は、眞美と相談し、結論としては仕方がないということになった。最後に一週間、素敵なホテルで好きなだけ愛しあって、そのまま死のうと話しあった。それで、富永の檻を誰かに譲る必要がでてきた。候補としては、気に入らないやつが何人かいたらしい。しかし、完璧な状況をつくれるのは、親しい者でないと不可能だろうと結論した。 「もうしわけないが、悩んだ末に、石木にこの檻を譲ることにした。親しくつきあっていたから気がひけたのだが、どう考えてもいちばん容易で確実だったからだ」 先日、三人でいっしょに中華を食べたとき、真美の檻に入った富永はよろけたふりをして右の肩からぼくの胸にぶつかった。彼は、両手に自分の白いケージをもって頭からかぶせた。ぼくが、それをひきずって歩いていくのを彼女とふたりで確認した。 富永は、真美と志賀高原のホテルに一週間ハネムーンにいくことにした。スイートルームをとって、死ぬ瞬間まで愛しあうつもりでいる。死体は猟奇的にみえるだろうが、いまは死後のことまでかまっていられない。ぼくにはもうしわけないが、こうなった経緯についてだけは報告しようと考えた。易者も、そうするほうがいいだろうと話した。あとのことは、ぼくにまかす以外にはない。だから、状況が充分に分かるようていねいに手紙をかこうと富永は思った。 「最後の瞬間がちかづいている。いまになって眞美は、自分の檻をこのままにしてはおけないといいはじめた。ふたりでかかえて死ぬなんて、絶対にできない。易者は、間違っている。相手は誰でもいいが、どうしても他の女に譲らねばならないとしきりに話しはじめている。本能的に、そうした思いがこみあげてくるのだそうだ。自分は、最後に正しいことをしなければならない。死ぬまえに、ふたりでいっしょに誰かを念じよう。そうすれば自分の責任がはたせると、くりかえしいっている」 「恨まないでほしい。仕方がなかった。真美と、愛しあう時間が欲しかった。今度うまれてくるときは、檻については充分に気をつけたいと思う。いま真美に触れている、もうこれ以上、我慢するのは無理だ。これで終了させてほしい。許してくれ」 日記は、ここで終わっていた。 二 易者 「私は、神である。そして、余は、ここにきたのだ」 ぼくの手前を、マイクをにぎりしめた三〇歳くらいの若い男が、重そうな黒いリュックを背負いながら歩いていた。そこには、スピーカーが入っていた。車のエンジン音が鳴りひびき、スクランブルの交差点を横断する雑踏がうむ喧騒のなかでも、男の声は大きくひろがり途切れることはなかった。黒いリュックには白い幟が立てられ、「裁きの日はちかい。いまこそ、悔いあらためよ」とかかれていた。 「コロナ、インフレ、戦争。世界は、あきらかに滅びの徴候をしめしている。いまこそ、悔いあらためねばならない。あなた方は、みずからの邪悪さによって滅びの道を歩んでいる。まずこの事実を知らねばならない。私は、あなた方をすくいたい。あなたたちは、やがて余が、天の軍勢をひきつれてやってくるのを目の当たりにすることになる。私を崇める者は、幸いである。裁きのときはちかい。都市は破壊しつくされ、地は割れ、田園も森も、火柱につつまれるだろう。裁きのとき、すべては業火に覆われ、水も食料もなくなるだろう。みずからに用意された罰を知らない者たちは、はげしく後悔し、むなしい嘆きをくりかえすだろう。余の言葉を信じ、うけ入れた者は復活し永遠にまもられるのだ」 スクランブルの交差点をわたり終えると、髪のみじかい男性は道玄坂にむかって歩いていった。みまわしてみると、道角のところどころにマイクをもった男とおなじ襟のないあわい黄色の服をきた若い男女が立っているのがみえた。そろいの木綿製のズボンも黄味がかり、足首まであるながいものだった。おなじ格好だったから、彼らは仲間に違いなかった。 時代がまがり角をむかえているのだろうと、ぼくは思った。そうしたときには新興宗教が活発化し、オカルトが流行する。最近は、未確認飛行物体の確認件数もふえている。太古から、世相が不安定になると空にさまざまなものがみえるという。 流れ星や火球であったり、宇宙船だったりするらしい。 ぼくは、「易者」と「銀色の檻」というふたつの言葉をたよりに夕方から夜の繁華街をさまよっていた。 いちばん熱心に探索していたのは渋谷の占い横町で、ここには毎日顔をだした。みつからないと、山手線で新宿にいって歌舞伎町周辺をまわり、池袋駅の周辺を歩いた。休日には吉祥寺まで足を伸ばしたが、おそらくいるとすれば山手線周辺の都内ではないかと考えていた。富永の手紙のなかで、眞美が「駅のちかくで、ぐうぜんにみかけた」といったから、占いのビルでもネットでもなくどこかの路上だろうと思った。理由は明確ではないが、渋谷の占い横町のアーケード街がいちばんあやしいと感じた。 下北沢の自宅に帰るまえ、もう一度、渋谷駅でおりて占い横町にもどり、じろじろとみなおすのを日課としていた。かんたんには該当する易者はみつけられなかった。横町の両がわいっぱいに店をだしてならぶ占い師に、金を支払って聞くことも考えた。しかし、自分の行動を説明するのはむずかしく、積極的な行為は躊躇していた。 富永の奇妙な死と手紙の内容は、はっきりいって気味が悪かった。死んだのは自分の判断だから、とやかく問いつめる気持ちはなかった。親しくつきあった者に死後にこんな文書をおくって不安にさせるのは、どこから考えても悪趣味だった。気が狂っていたと判断して、すませることもできるのだろう。実際、順をおって考えると、富永は頭が変だったとしか思えなかった。手紙にあったとおり、いっしょに心中したらしいフィアンセと最後に居酒屋で飲んで会計をすませたあと、よろけてぼくに肩からぶつかってきた場面はくりかえし思いだした。そのときの目は、「どきっ」とするほど異様だった。手記の内容を読みなおすたびにさまざまな富永の言葉を思いだし、ぼくの周囲にももやもやとした「檻」に似た不思議な空間がある気配を感じだした。自分でもノイローゼ気味だと思えたが、相談する相手もなく繁華街をうろついていた。 一週間も、つづけた日のことだった。ぼくは、今日もそんな人目につきやすい派手な格好をした易者などとうぜんながらみつけられずに、九時すぎに渋谷駅でおりて占い横町に顔をだした。さがす自分が馬鹿ばかしく思えはじめていた。そこには、じろじろとみてきたのでもう顔を見知った易者たちが相もかわらずならんでいた。人気のある占い師には、幾人かの列ができていた。六月のはじめだったので、梅雨になり、雨がちの日がつづいていた。ぼくが駅にちかいほうからとおりに入ってじろじろと易者をひとりひとりみつめながら横町の終わりまでいき、「該当者なし」という状況を確認した。これから占ってもらおうと希望する人びとがならぶのを横目でみながら、渋谷駅にむかって歩いていたときだった。ふと視線をあわせた横町のなかほどくらいにすわる、やせて白い顎髭を生やした易者が、右手で「こちらにこい」という仕草をみせた。幾度みてもとくに檻など背負ってはいない、何度も目にした普通の占い師だった。不思議に思いながらちかづくと、椅子にすわるのをうながし、ぼくにたずねた。 「このところ毎日ここにきておいでですが、誰かをおさがしなのでしょうか」 やせて白い顎髭をながく伸ばした男は、黒い枠の眼鏡をかけていた。 「じつは、ある易者さんをさがしています」 「占いの賃料をはらってくれるのなら、お話をおうかがいしましょうか」と易者はいった。 ぼくは、どうしようかと思った。 賃料をはらうのが嫌だったのではなく、あらためて話といわれてもなにをどこから説明したらいいのか分からなかった。銀色の檻にかこまれた占い師など現実にありえるはずがなく、富永の狂気に踊らされた自分が真にうけて奇妙な行動をとっているだけだろう。 そう思ってだまっていると、 「ご希望されないのなら、つまらないことをもうしあげて失礼しました。おひきとりください」と易者はいった。 「いえ、ぜひ占ってほしいです」 ぼくは、財布から五千円をだしていった。 「おかしな話だと、思われるでしょうが」 ぼくは、自信がなくなり上目をつかいながらいってだまった。 「私たちが占う大半は、馬鹿ばかしい話です」 「それならいいのですが。じつは、私の親友が一週間くらいまえに奇妙な死に方をしまして。自殺だったのではないかと考えているのですが、中学時代からのいちばんの友人といってもよかった者なのです。三ヵ月くらいまえから奇妙なことを話しはじめました。どこから考えてもおかしな話で、それを真にうけて本気でさがす私もそうとうにおかしいと普通は思われるに違いないのです。なんでも、自分が白色の檻にかこまれているとかいう、たわいもない与太話だったのです」 そこまで話して、ぼくはだまった。 「どうぞ、つづけてください。占いにくる方の話は、似たりよったりですよ」 「そうですか。それでは、つづけさせてもらいます」 うながされて、手記にあった話をした。 ぼくには、富永の檻がまったくみえず、触れることもできなかった。質の悪い冗談と考えたが、本人は真剣に悩んでいたらしい。彼は檻の問題が解決したといって、ぼくを食事にさそった。そのとき婚約者を紹介された。それから一週間後に不慮の死をとげた。死んだ富永からレターパックで手記がおくられ、「許してもらいたい」などぼくを不安にする内容だった。そこに「銀色の檻」の易者がいたとかかれていたので、ひどく気になってさがしはじめた。 ぼくは、右手を額につけながらぽつりぽつりと話した。 だまっていた易者が、「分かりました。それではね。あなたの話をゆっくりとうかがうことにしましょう。どんなお仕事なのでしょうか」と聞いた。 「絵描きです。とはいってもそれだけでは食べていけないので、絵画スクールの教師をしてなんとか暮らしています」 「明日は、仕事がありますか」と易者は聞いた。 翌日は平日で、とくべつな約束はなかった。易者は、明日の午後に青梅の自宅にたずねてこい。青梅駅についたら携帯で連絡をしろと話し、電話番号をかいた紙をわたした。ぼくが狐につままれた表情になったのをみて、易者はいった。 「あなたにはまだ分からないのでしょうが、私には檻がみえますよ。友だちが許してほしいといったのは、ほんとうのことですよ。対処を考えたほうが、いいのではないでしょうか」 たんたんとかたる占い師をみつめると、ほの暗い街灯をうけて、彼の周囲はぼんやりと銀色に光った。さらに見入ると、易者はまぎれもなく銀の檻をもち、輝いているのが分かった。おどろくぼくにむかって、「もう今日はお終いです。どうぞおひきとりください」と易者はいってじっとみた。 「死んだ友人からおくられてきた手紙類も、持参したほうがいいのでしょうか」 ぼくは、立ちあがりながら聞いた。 「それはね。焼きすててしまいなさい。関連するものは全部、帰ったらすぐに焼却しなさい。あなたの親友との関係を示唆する写真や画像も、消去してしまいなさい。メールやライン、住所録など、スマホの情報も抹消できるものはのこすべきではありません。あなたが考える以上に危険がせまっています」 易者は、ぼうぜんと立つぼくをみつめ、小さくうなずきながらこたえた。彼の周囲の檻は、完全にきえていた。 ぼくは、なにがなんだか分からなくなった。 どうしても整理が必要だった。 アパートに帰ってから、いったい横町でなにがあったのか思いかえした。「銀色の檻」をみたのは、間違いなかった。つぎの瞬間にはみえなかったから、占い師はケージを自在にあやつれるのだろう。易者は、ぼくが白い檻をもっているといった。おくられてきた手記にあったとおり、駅のちかくに銀色のケージにかこまれた占い師がいたのだから内容がどんなに奇矯でも正しかった。ぼくは、ノートを読みかえした。 占い師は、檻をかぶせた相手に事態をくわしくつたえる指示を富永にだしていた。易者は、ケージを譲られた者が自分をさがすように仕向けた。ぼくが檻をもつなら、富永からあたえられたに違いない。眞美がみていたのは、かぶせられた「ケージ」だったのだ。そう考えることで、中華飯店のエレベーターホールで起こった無気味な出来事がはじめて理解できた。富永の手紙の意味も、筋がとおりはじめた。 話の首尾が一貫したからといって、すべてを納得するにはほど遠い内容だった。さらに、身に危険がせまっているという易者の言葉はまったく意味が不明だった。檻をかぶせられたとして、ぼくはおそらく被害者なのだろうが、どんな厄災があるのだろう。黒いケージの女性とねんごろになり、死なねばならないというのだろうか。だったら、檻をもつ女に注意しろという指示にとどまるのではないか。どうして、それが身にせまる危険なのだろうか。 富永にかんする手記やスマホの情報を抹消しろというのは、臨場感をもつ指示だった。易者は、彼のノートを読んでいないだろうから内容までは知りえなかった。それでも推測できるのなら、檻にかんして非常にくわしいことになる。それとも富永のノートを、すでに読んだのだろうか。ふたりが相談した内容のすべては分からなかった。易者があらためて時間をつくるといっているのだから、理解ができるように説明してくれるのだろうか。「檻」には、ふかい事情があるに違いなかった。 ノートを読みかえすと、周囲に不審を感じた富永がケージをはっきり認識するまでには一ヵ月以上かかっていた。中華飯店での事件から三週ちかくたつから、檻が分かる時期なのだろうか。周囲がもやもやするのは、実際にみえかかっている可能性もあった。なにもかも不明だったが、なかでも理解できないのは富永の情報を抹消せよという指示だった。これは、易者以外の誰かが必要とすることを意味していた。富永のノートをくりかえしめくっても、敵がいるとはかかれていなかった。彼は、身の危険を感じていなかった。晶子さんに恨まれるのはとうぜんだが、檻をもったことで趣味のあった女とめぐりあい、死んでも仕方がないと考える状況になったのはくどいほどに記述されていた。 眞美は、敵ではないだろう。かりに敵方で富永を殺す目的があったとしても、ノートはどうでもよかったのではないか。眞美が仇敵なら、ぼくが檻を譲られた情報をすでに誰かにつたえているだろう。わざわざ易者をさがして右往左往する必要はなく、敵のほうから仕掛けてくるに違いない。いったい富永は、誰から檻をもらったのだろう。情報がえられなかった彼は、相談する相手もなく困惑した。だからといって、知識をあたえられたぼくは平然とかまえていられるのだろうか。それも、普通は違うだろう。いくら考えても、易者が敵だとは思えなかった。占い師は、ぼくが檻をもっているのをみきわめた。富永の手記にある易者は、今日会った者と同一人物と考えるほうが理解しやすかった。 ぼくは、彼のノートを処分することにした。 アルバムとは違い、くりかえしながめて懐かしむものではなかった。一枚ずつやぶってフライパンのうえで時間をかけて焼き、のこった灰はトイレにながした。パソコンやスマホにある富永にかんする情報は、写真をふくめて消去した。プロがしらべれば、いくら抹消しても復元するのだろうが、履歴まで消す以上のことはできなかった。富永は、ぼくの日記にも登場する。彼がでてくる部分を黒く塗りつぶすのはいかにも意図的に隠した感じで、そこまでの必要性を覚えなかった。いくらかあった手紙は、処分の対象にした。青梅にいく経路をしらべ、一時間半くらいでつくことを知った。押し入れのなかで横臥しながら易者について考えたが、なにひとつ割り切れなかった。 翌日、ぼくは約束の二時につけるように青梅駅にむかった。下北沢から京王井の頭線の急行にのり、名大前、分倍河原、立川でのりかえて青梅に一時ごろついた。改札をでて電話すると、「タクシーで寒川神社の入り口までこい。おりたら再度、連絡しろ」と指示をうけた。駅まえでつかまえたタクシーに「寒川神社まで」というと、二〇分くらいかけて市の郊外につれていかれた。神社は大きな境内をもった立派な御宮で、入り口の鳥居をぬけると目のまえに一〇〇段以上の階段がつづいていた。左がわに砂利がしかれたひろい駐車場があり、すみに幾台か車がとまっていた。階段のまえで連絡をとると、「石段をあがって社務所についたら、再度、電話しろ」とまた指示をうけた。 平日の午後で、人はほとんどいなかった。ながい石段をみあげていると、どこからでてきたのか、とつぜん数人の男たちにとりかこまれた。青っぽい背広姿の者もいたが警察の制服ではなかった。ほとんどは地味な色の普段着の男たちで、マスクをしてサングラスをかけていた。 「聞きたいことがある。いっしょにきてもらおうか。もちろん、私たちは警察の者ではない。騒ぐのは得策ではない。君の命にもかかわる」 黒いサングラスをした背広姿の背の高い男は、ひくい声でいった。周囲の男たちは武道の心得がありそうな屈強な者ばかりで、たんなる脅しには思えなかった。 ぼくは、うなずくと「分かった」といった。それから、男たちにしたがい駐車場のすみまで歩いた。三台の黒いセダンがあり、真ん中の後部ドアをあけた男はぼくにのるようにうながした。反対の扉からも男性がのりこんだので、はさまれる形になった。すわると、右にいた背広の男がぼくの手首に手錠をかけた。運転手が待っていたが、髪のながい女性だった。背広の男が合図すると車はうごきはじめた。ドアの窓には、黒色の遮光カーテンがひかれていた。 状況から判断するなら、ぼくは拉致されたのだった。 警察ではないといった男たちの行動は、手慣れていた。車も用意してあったのだから、計画的な犯行だった。走りだすと、アイマスクをされた。予期しない事態に遭遇し、ぼくはひどく動揺した。これが、易者と面会しようとして生じたのは間違いなかった。占い師の指示が一度ではなく複数回にわたったのも、こうしたシチュエーションを予期したのだろう。拉致した者たちは、神社の駐車場で待っていた。ぼくは、つけられたのだろうか。どこから、尾行されたのだろう。易者は、ほんとうに味方なのだろうか。 五人がのる車のなかは、蒸し暑かった。クーラーは効いていたが、汗がでてきた。男たちは、なにひとつかたらなかった。そうすることで、ぼくの不安をさらに高めようと考えているらしかった。車は、ときどきとまった。だから一般道だったのだろうか。とまらずに、ながく走りつづけている時間もあった。わけも分からないぼくは、動揺して心臓が高鳴り、汗がでていた。何時間も車にのりつづけた気がした。 警察が逮捕状もなしに身柄を拘束するなど、ありえないのだろう。逮捕された容疑者が連行されるニュース映像が脳裏に浮かんだ。たしかに手錠をされ、両がわから警察官にはさまれた形になって車にのせられていた。しかし、アイマスクをされる場面をみたことはなかった。必要な理由も分からなかった。どう考えても、この一味は警察の者ではない。弁護士もよべず、身をまもる術もないのかもしれない。いったい、なんなのだろう。 車がとまると屈強な男に両脇からはさまれ、いくらか歩かされエレベーターにのった。男たちはなにかをいっていたが、ぼくにはよく分からなかった。目隠しをとられたのは、ビルの一室だった。四面とも壁になった殺風景な部屋で、中央に小さな机と二脚の椅子がおかれていた。白っぽい壁紙が張られた周囲は、扉がある面に半身がうつる大きさの鏡がとりつけられていた。机のうえには、電球がついた電気スタンドがみえた。ぼくをつれてきた男性は、背広をぬいで椅子に腰掛けた。灰色のズボンと黄色のティーシャツをきた男が、衣類をすべてとって籠に入れるようにいった。ぼくは指示にしたがい、裸になってわたされた下着をつけ、ピンク色の丸首のシャツと同色の半ズボンをはいた。窓がない部屋は、テレビドラマでみた取調室を連想させた。ドラマでは、鏡はマジックミラーで誰かが外から様子をうかがっているのが普通だった。 ぼくは椅子にすわらされ、尋問された。正面には、背広の男性が腰をおろした。黄色いシャツの男は、どこからか椅子をもってきてまえにすわった。そのさきには鏡がみえた。 「石木さん。なぜ、寒川に会いにいったのか」 「石木くん。寒川に、昨日なにを占ってもらったのか」 「石木。寒川とは、どういう関係なのか」 ぼくは、なにもこたえなかった。 氏名を知っているのは、免許証をみたからに違いなかった。寒川とは、易者の名前だろう。占い師と交わした話をはじめれば、ずるずると富永のノートの件まで詳細にかたらねばならなかった。緊急に抹消せよといわれた内容を話すのは、得策ではないと思った。男たちは、寒川の敵なのだ。易者は、彼らにたいして警告を発したのだろう。男たちは、檻についても富永についても言及しなかった。なにひとつ知らない者が、どんな情報をえたいのだろうか。彼らは、ぼくが易者と昨日会ったことは認識していた。男たちは、寒川を張っていたのだ。易者と話したぼくが、今日、神社にいったからとらえられたのだ。たんに昨日、占いを希望した者のひとりにすぎなかったのだ。なにもかたらないぼくに、男たちは声をあらげ、おなじ質問をくりかえした。机をたたかれる音や脅しの文句を聞きながら、とても不思議な気持ちがした。ぼくが檻をもっていることに気がついたなら、誰からもらったのかという話になる。富永や眞美の不審死があったのだから、ふたりの名前があげられても不思議でなかった。 背広男が、襟のない黄色のシャツをきた男をのこして部屋をでていった。マジックミラーの後ろにいる人物に相談にいったのだろう。しばらくして、男はもどってくるとまた椅子に腰掛け、ぼくをじっとみつめて話をはじめた。 「石木さん。あなたは、だまれているのでしょう。寒川は、秘密結社のボスですよ」 男は、いままでと態度をかえて違う話題をはじめた。 扉があいて黄色い服をきた女が、お盆にコーヒーをもってやってきて机においた。男は、変なものは入れていないから好きなカップを手にして飲めといった。躊躇すると、とれと再度うながした。ぼくは、自分のまえのカップをつかんだ。 男は、のこったコーヒーを口にふくんだ。 「寒川が所属しているのは、世界の転覆をねらうテロ集団です。彼は、世界的な組織の日本支部長ですよ。あなたがどの程度ご存知なのか分かりませんが、コロナ感染症は彼らが開発した生物兵器です。ウクライナとロシアの戦争も、前身のクリミア問題も、後ろで糸をひいているのです。話してもすぐには信じられないでしょうが、太古からつづいてきた闇の勢力ともうしあげてもいい秘密結社なのです。私たちは、彼らの陰謀を阻止するためにつくられた国際的というより超国家的な機関です。いうならば、世界権力の一部なのです。有名なスペイン風邪も黒死病、ペストもそうでしたが、私たちの世界は彼らのテロ行為による破滅的な疫病をくりかえし経験しています。世界的な大戦も、二度体験しました。どんなに危機的な状況に落ち入っても、人類は踏みとどまり復活して繁栄しています。なぜだと思いますか。石木さんは、ぐうぜんそうなったのだと考えますか。楽観論者がどう思うのか知りませんが、誰かが危険の芽をつみ、秩序をたもつ努力をしてきたからようやっと維持されているのです。この星をまもる者がいるのです。私たちは、人類とともに連綿としてつづいてきた地球の支配者の指示をうけているのです。我々の支配者たちは、古来、アルコーンとよばれます」 男は、わけの分からない話をはじめた。 ぼくの所持品に不審なものがなかったのだろう。男は、暗黒の秘密結社の陰謀論を話していた。寒川を闇というからには、彼らは光の勢力だったに違いない。つまり、人類の誕生から光明と暗黒の集団が戦ってきたという、どこにでもあるお決まりの物語をくりかえしていた。いずれにしても、その争いにぼくは巻きこまれた。男の話も、そんなぐあいになっていた。ぼくが、闇の勢力の一員だという決め手がないのだろう。なぜ、こんな稚拙な手段にでたのだろう。ぼくひとりが巻きこまれたとしても、世界的な陰謀とは大きな隔たりがある。言葉を交わした程度の者を悪事の一端をかついだと考え、いちいちこんなふうにつかまえて尋問していたら、さすがに社会問題になり、ワイドショーで面白おかしくとりあげられるだろう。 「陰謀説を振りまわす狂気の集団。くりかえす誘拐事件」 こんな見出しがついて、いろいろな専門家が出演してさまざまなレベルから意見をだしあい、コメンテーターが面白く味付けするに決まっている。 ぼくについては、いずれなにかは分かるだろう。スマホも財布も押収されたから、どこに住んでいる何者なのかは知るに違いない。彼らの行動から考えると、ぼくのアパートに侵入するくらいはする可能性がある。易者の指示にしたがって富永のノートを焼却したのは、きっと正しい選択なのだ。なにかをみつけるかもしれないが、なぜぼくが檻にかこまれているのが分からないのだろう。どうして、易者には識別できたのだろう。 長時間にわたる尋問をうけながら、ぼくはぜんぜん別のことを考えた。ひとつ話をはじめたら、きっと洗いざらいをしゃべってしまうだろう。なにが知りたいのか不明なのだから、どう話していいのかも分からなかった。そう思って晶子さんについて考えようとつとめた。追求はやかましく、心臓はどきどきして考えはまとまらなかったが、なぜ彼女は富永を好きになったのだろうか。こればかりを、ずっと呪文みたいにくりかえしていた。 はっきりとはしないが二時間くらいで尋問は終了し、ぼくはベッドがある部屋につれていかれた。一面に鉄格子がはまる牢屋だった。なにはともあれ、経緯をまったく知らないのだから黙秘をつづけるしかないと思った。どういう権限があって拘束できるのだろう。警察ではないのだから法律には背いている。こうした部屋まであるのは、常習的にやっているに違いなかった。連行するのも手慣れていた。なぜ告発されないのだろうか。彼らは、権力機構の一部なのか。あきらかな犯罪で警察も野放しにはできないだろう。殺されることはないと思うが、強引なやり口には考えさせられた。一般市民が不審な形で消息をたつなら、ぼくには両親が健在だし、確実に捜索願いがだされるだろう。もちろん、巧妙に死体を遺棄するばあいもあるだろう。ニュースで事件の報道をみるかぎり、警察は遺体を発見するまで執拗にしらべる。だから、そんなにかんたんには殺害なんてできないだろう。解放されれば、ぼくは警察にいって今日起こった事実をすべて話すだろう。どこで、何時ごろ、なにがあったのか、順を追い整理して説明することができる。そうすれば、いまいる場所だって特定できる。寒川神社の駐車場からここにくるまでに、たくさんの防犯カメラが監視しているのだ。ニュースでみると、どんな車もこの追跡を逃れられない。そう思いながら、男たちが承知のうえで行動したことを考え、異常な事態に不安はつのった。 独房には、洗面所がついていた。監視カメラは、そこにもあった。殺風景な三畳くらいの部屋で、ベッドのほかには小さな座卓が壁にくっついておかれていた。看守らしい女がきて、机のうえに食事をだした。コンビニ弁当という感じだったが、プラスチックの容器ではなく、ご飯とおかずが別々の金属製の皿にもられ、温いお茶がついていた。ながい髪をした若い女はマスクで全体像は不明だったが、色白の美人にみえた。青いジーンズに黄色いシャツをきていた。綺麗な声で、心配する必要はないといった。場違いとしか、いえなかった。確証はなかったが、連行されたときに運転していた女に思えた。 翌朝になると、ぼくは部屋をかえられた。居場所が特定できないように目隠しをされ、エレベーターをあがったり、さがったり、のりかえたりした。つれてこられたのは、ホテルのスイートルームみたいな一室だった。ツインのベッドがある部屋には、大きな次の間がついていた。とはいっても、爽快という気分にはなれなかった。ベッドルームには、窓がなかった。一〇畳以上のひろい応接間の一面は、すべてのシャッターがしめられ、厚い遮光カーテンが床までおろされていた。監視カメラは、いくつも目についた。しかし、ここに移されたことによりぼくは精神的にかなり改善された。とざされていたが、鉄格子とは違いあかるく綺麗だったし、大きな浴室があった。 あたらしい部屋にうつると、昨日のながい髪の女性が朝食をカートにのせてもってきた。ベーコンにトースト、コーヒーというモーニングのセットだった。食事は、暖かく美味しいものだった。女は、あたらしい下着と服をもってきて入浴をすすめた。そのほかは、なにもいわなかった。することもないので提案にしたがい風呂に入り身体を洗い、髭をそった。あたらしい服もピンクの上下だったが、下着は新品だった。冷蔵庫には冷たいジュースもあったし、テーブルとソファーがおかれた応接室はひろくて気持ちがよかった。こんな立派な部屋にとまったことはなかったから、あいたベッドが晶子さんのものだったら、ここで我慢してもいいと思った。 ぼくが易者の一味だという疑いは、ほとんど晴れたに違いなかった。拘束がつづくのは、さまざまな理由が考えられた。ぼくは、尋問中マスクをはずした男の顔をしっかり覚えていた。この一室がどこにあるのか不明だが、警察といっしょにくれば、ここだと断言ができる。ぼくのDNAは部屋のいたる所でみつかるに違いなかった。しかしながら、事件を起こした彼らの性急さを考えあわすと、ずっとやしなうつもりはないだろう。白昼、公道で大人ひとりを拉致するという振るまいからも、容易に法律にしたがう連中ではない。なぜこんな者たちと関わりあいをもつ羽目に落ち入ったのか、易者に抗議をしたかった。こうなった以上、ぼくが無関係だと分かってもただちに解放とはいかないのではないか。この記憶を、うばわれるのかもしれない。ぼくが生きたまま世間にもどり、事件が追及されないためには、それしか想像できなかった。相手が何者なのかも分からないから、怖い話を考えだすと切りがなかった。頭を切りかえて、晶子さんとこういう部屋ですごす夢をみたいと思いながら昨日とは違うやわらかいベッドに横になっていた。 時計がなかったから、何時だかは分からなかった。おそらく昼をすぎたと思えるころ、扉がたたかれた。昼食だろうと思っていると、尋問した背広の男と食事をはこんできたながい髪の女が入室し、ソファーにすわるようにいった。ふたりとむかいあわせになって扉がわにぼくが腰をおろすと、ドアがあいて後ろから屈強そうな男たちが入ってきた。 ひとりは、新聞紙につつまれた大きなものをもっていた。ぼくは、すぐに、それが絵だと分かった。もうひとりの男は、目のまえにあるカーテンをあけ、シャッターをあげはじめた。外がみえるとばかし思っていたぼくは、「あっ」とおどろいた。よろい戸がなくなった壁には、一面の大きな鏡がついていた。 男がつつまれた新聞紙をはぐと、思ったとおり一枚の絵がでてきた。部下らしいふたりが退室すると、背広をぬいでシャツになった男性は画布をみながら聞いた。 「この絵は、なんなのだね」 男が手にしたのは、ぼくがアパートで描いていた絵画だった。 なぜこの絵を描出するのか、モチーフがなんなのか、自分でも分からなかった。ちかごろ、ぼくは頭のなかにどうしても形にならないイメージが浮かんでくるのだった。なにかを思いだそうとしているみたいだった。大きな講堂みたいな部屋。ローマやイタリアにある大聖堂なのだろうか。聖堂なら厳かなのだろうが、周囲はもっと華やかな感じだった。もしかすると、フランスの太陽王が暮らしていたヴェルサイユの宮殿かもしれない。学生時代に、大宮殿には鏡の間があったと教わった気もした。ぼくは、なにを描いていたのだろう。 「この絵は、いったいなんなのだね。説明してもらいたい」と男はいった。 ぼくのアパートに侵入し、みつけてもってきたのだ。なぜこの絵をもちだしたのだろう。描きかけで、なにをどうするのかも不明なものだった。 「分からないのです」とぼくはいった。 「君は、なにもかもが不詳らしい。自分で描いたものも不明なのかね」と男はいった。 「なにを描写しようとしたのか、分からないのです」とぼくはこたえた。 「あなたの部屋からもってきた作品をいくつかみましたが、この絵以外は具象画でした。なにを描いたのか、はっきり分かる絵画でした。たしかに、この三脚におかれていた絵は描きかけなのでしょう。どんなモチーフなのですか」 今度は、髪のながい女がたずねた。 今日は、黄色い襟がない長袖のシャツをきて、踝まである同色のズボンをはいていた。綺麗な、すんだ声だった。年のころなら、二七、八。きっと三〇にはなっていないと思えた。マスクをされるとみんな美人にみえるから断言できないが、眉の形も素敵だった。 「自分でも、分からないうちに描いたというのですか」と女はさらにたずねた。 ぼくは、その言葉に小さくうなずいた。だまったまま、右手を額にそえて考える素振りをした。なにも頭に浮かんでこなかった。なにを聞かれても、すべてが分からなかった。 「それでは、すこし、話題をかえましょう。この絵はいつから描きはじめたのですか」 「三週間まえくらいです」 「そのころ、なにがあったのですか」 たしかにぼくがこの絵を描きはじめたのは、富永と中華料理を食べてからだった。なにを主題にしたのでもなかった。この絵をどう考えたらいいのか、ぼくはずっと悩んでいた。いずれにしても彼らの一味がアパートに侵入し、これをもってきたのはあきらかだった。易者がノートを焼けといったのは、ここまでの事態が生じるのを予期したに違いなかった。あらゆる事件が、富永と檻につながっているのは理解できた。しかし、彼らの行動はひどく性急だった。なにをこんなに急いでいるのだろう。拉致し、法をやぶって家宅捜索までしたのは、なぜなのだろう。 ぼくは、あれやこれやと思いながらだまっていた。 全体像を把握するには、完全にピースが不足していた。大枠が不明で、欠けている部分はひとつやふたつではなかった。解放されれば、やはりこの異常な体験を警察に通報するだろう。ひどい人権侵害だから、誤認であっても法的な処罰の対象になる組織的な犯罪だった。間違いだったと謝られたくらいでは、許せる範囲を逸脱していた。そうまでして、彼らはなにをしらべているのだろう。 「この絵の光っているものは、鏡ですか」 「そうかもしれません」 「自分でも、分からないのですか」 たしかに、ガラス状に輝いていた。鏡かもしれない。なるほど、そこに部屋がうつっているのだ。ひろい居間に思える室内は、すべてが考えられないほど豪華だった。太陽王、ルイ一四世の絢爛としたバロック様式でつくられたヴェルサイユ宮殿の一室なのかもしれない。彼の執務室なのだろうか。鏡にうつる机は、黄色く輝く黄金でつくられているのではないか。テーブルには、あらゆるところにサンゴやルビー、ダイヤモンドや真珠が象眼され、眩しいほどに光っている。部屋の床は、うすい空色の羽毛がしきつめられている。 「ここに、誰かがいるのでしょうか」 女は、たずねた。 「分かりません」 「鏡にうつっているのは立派な机で、みたこともありません。誰のものでしょうか」 「分かりません。ヴェルサイユの宮殿、太陽王の執務室なのかもしれません。ぼくは、そんなところへいったこともありません」 「高貴な方が住んでいるのでは、ないのですか」 「たぶん。うんと身分の高い人でしょう」とこたえた。 ぼくは、自分の絵画をみいった。 なぜ、この絵を描いていたのか分からなかった。女からいわれて、はじめて鏡の間かもしれないと思った。鏡鑑にうつった、とても高貴な人が執務をする大きな机なのだろうか。 「あなたから指摘されて、描写したのが鏡にうつしだされた部屋だと分かりました。自分でも、いつから描きはじめたのかもはっきりしません。どこかでみた場所でも、画集にのっていたものを思いだしたのでもありません。こんな立派な部屋、考えたこともありません。きっと、この世にはないものでしょう」 「そうですね。では、どの世ならあるのでしょうか」 聡明そうにみえる女は、眉をよせて真剣な表情で聞いた。 ぼくは、さらに分からなくなった。この世になんて、あるはずがなかった。太陽王が執務をしたのかどうかは分からない。ヴェルサイユ宮殿のなかにも、こんな机はないだろう。光り輝くテーブルは、金箔をまぶしたものではなかった。おそらく純金製だった。なぜこんなに宝石がはめこまれているのだろう。いったいどんな高貴な人がこの机をつかうのだろう。すべてがありえないのに、なぜ女はこんな質問をするのだろう。 「神さまだったら、こうした立派な机をつかうのでしょうか。この部屋にいる方は、どんな人だと思いますか。フランスの国王なら、こんな机をつかうのでしょうか」 バロックの頂点にいきついたルイ一四世は、神さまだったかもしれない。しかし、極めたのはこの世の栄華だ。世界には、どうしてもかぎりがあるのだろう。 「面白いお話です。考えもしませんでしたが、この世の方ではないのでしょう。ぼくには、それ以上はとても分かりかねます」 「兜率天にいる高貴な方だったら、こんな机でお考えになるのではありませんか」 「とそつてん。なんですか、それは」 「須弥山の頂上の、さらにうえの天空です。天界の第四天。夜摩天の上界にある兜率天です」 ぼくは、そんな話を思いだした。 仏教の教えでは、世界の中心に須弥山という高い山がそびえている。ぼくらが生活しているのは人間界で、地下には地獄や餓鬼が住む領域がある。地上には、畜生と阿修羅と人間が居住し、須弥山は天界とつながり天人たちが暮らしている。くわしくはないが、むかし聞いた話を思いだした。須弥山の中腹には、持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が住んでいる。そのうえには忉利天があり、中心の喜見城に帝釈天が居住し、四方の峰に各々八天を数え、あわせて三三天ともよばれる。さらに上界は、夜魔天になる。天界の第四天は、兜率天。そこの内院には、弥勒菩薩がいる。 弥勒は、五六億七〇〇〇万年後に下生して地上におり立ち、人類を救済しようと修行に励んでいる。弥勒菩薩が沈思黙考する机なら、純金製で、玻璃、瑠璃、瑪瑙が象眼されていても不思議ではない。 「あなたが描いたのは、兜率天の内院、七宝で飾られた鏡の間にある弥勒が思惟するはずの玉案ではないのですか。もちろん、私もみたことはないですが。この部屋で、あなたは誰かを認識したのでしょうか。教えてくれますか」 ぼくは、誰もみなかった。そこが、どこだか分からないが人の気配はなかった。弥勒菩薩は人間ではないが、神さまも天人も、暮らしている感じはしなかったとこたえた。 「なぜ、あなたは弥勒がいないことを知っているのですか」と女は聞いた。 なんなのだろう。なぜ、ぼくがそんな事情を知りえる立場にあるのだろうか。こうした話は、誰もみたはずがない。えらいお坊さんが考えついたものなのだろう。須弥山など、地球のどこにあるのだろう。釈迦がうまれた二五〇〇年まえからかたりつがれる物語であっても、実在する世界とは違う。 ぼくが聞くと、女はいった。 「弥勒菩薩は、もう兜率天にはいないのです。ずっとむかしに下生しています。どこにいるのか、誰も知りません」 女は、わけの分からないことを話しだした。 下生した弥勒菩薩は、転生をつづけている。彼女は地上で人間としてうまれている。記憶を喪失したのだといった。 「彼女ですか」とぼくは聞いた。 「そうです。弥勒菩薩は女です」 彼女は記憶をすべてうしない、魅力のある女性となって人類のあいだでうまれかわっている。人びとは、いつの時代でも、弥勒を自分のものにしようと争いをつづけてきた。古代ギリシアのトロイア戦禍は、その戦いのひとつだった。絶世の美女、ヘレナこそ、弥勒菩薩だった。弥勒は、クレオパトラになってシーザーとアントニウスに愛された。楊貴妃にうまれかわって、玄宗皇帝の寵愛をえた。彼女のいるところ、いく場所のすべては戦火と破壊をまぬがれなかった。弥勒は、たくさんの血にまみれた。理由も分からずに絶望し、転生をくりかえした。フェニキアのチュロスで、売春婦にまで身を落としているのが発見された時代もあった。彼女は、美貌と魅力のために生をまっとうできず、くりかえし殺された。死んでも天にもどることができず、また女性になって人間界にうまれる。 こうした意味不明な話のあとで、ふたりは絵をもってでていった。 しばらくすると、また彼らがやってきた。ぼくは応接間にすわらされ、女はプラスチックの容器をだした。三〇〇シーシーくらいはある大きな容れ物には、毒々しい黄色の液体が注がれていた。 「石木さん。あなたが何者なのか、私たちには分からないのですよ。ですから教えていただきたいと思って二日間にわたりお話しさせてもらいましたが、なにもいわなかった。私がたずねたのは子供にでも分かるかんたんな質問で、話しても損にはならないはずなのに、どうしてもこたえがえられませんでした。これは、自白剤です。飲むのが嫌なら注射してもいいのですが、効きすぎると記憶喪失になります。もしかするとなにも思いだせないばかりか、自分が誰だか分からなくなって、周囲の人たちから気狂いではないかと思われるかもしれません。もちろんそうなれば、あなたは気が違っているとは考えてもみないでしょうが」とひくい声で男はいった。 だまっていると、「飲めないのなら、注射にします」とつげた。 「飲んだばあいは、記憶喪失にはならないのですか」とぼくは聞いた。 「私どもは、どちらでもいいのです。ある程度記憶をうしなうかもしれませんが、注射よりはましだと思います」と男はいった。 もう一度、じっとぼくをみた。 「飲むか、注射するか。ふたつにひとつです。いま、決めなさい」 男がいうと、部屋の扉があいて数人の男たちが入ってきた。 ひとりは、黒いお盆のうえに大きな注射器をのせていた。おなじ色の液体が入った、五〇シーシーくらいのシリンジが異様に大きくみえた。椅子にすわっていた女が、マスクをはずした。入ってきた男たちは、誰も不織布はつけていなかった。 「じつはですね。注射でもいいのですが、ショックで死ぬばあいもあるのです。手間をかけても、なにも聞きだせないのならすべてが無駄になりますよね。私は、どっちでもいいのですよ。決めなさい」 記憶喪失。 男の態度は、冗談とはとてもいえなかった。ぼくは、すこし考えて容器をとった。よく分からない臭いがした。ぼくは、容器から一口飲んだ。ペパーミントの味がした。 「全部、飲みなさい」 男のあらげた声がした。 黄色い液は、飲みにくいものではなかった。ぼくは一気に全部を飲みほし、容器を机においた。それを確認するとまわりの男たちはでていき、昨日、尋問に同席した黄色いシャツが入ってきて、青いプラスチック製のバケツをテーブルのうえにのせた。 背広の男性が部屋をあとにし、黄色の男と髪のながい女がのこった。 猛烈な、吐き気が襲ってきた。ムカムカし、ひどい頭痛がはじまった。若い女が、青いプラスチック製のバケツを差しだした。ぼくは、そのなかに黄色い液を吐きだした。目のまえが真っ黄色にかわり、すべてがゆがみはじめた。あらゆるものがやわらかくなり、まがっていた。一部は、液体にかわって床にしたたり落ちた。すべてが黄色い液に変化し、ドロドロとながれだしていた。地下鉄がそばを走りぬけた。ぼくは、胃液を吐きつづけながら暗いホームにころがっていた。地下鉄が頭上をとおりすぎる。猛烈な電車のライトが、レーザーになってぼくを照らした。スポットライトが眩しく輝いているが、舞台でみつめられるスターではなく、這いつくばりながら胃液を吐きつづけていた。すべてがドロドロと溶けだし、横になった床も黄色い液体にかわって波うっていた。 周囲を、把握できない沈黙が支配していた。気がつくと、ぼくは光であり、輝きのなかにいた。黄色くかがよう光線が、光明になった自分の姿を青く神秘的な静かな湖面にうつしだした。その鏡像をみて、なんであるのか考えていた。 とつぜん頭上を、地下鉄が轟音とともに走っていく。つよい光線が、ぼくの瞳に注がれる。どんなに目をとじても、おびただしい光の束が瞳孔を射貫いていく。頭に灯油の缶をかぶせられ、それを棒で力いっぱいにうち鳴らされていた。鋭利なアイスピックで、頭部をくりかえし突きさされた。「アタマが痛い」。「あたまが、いたい」。ぼくは、狂って叫びつづける。割れそうだ。なにかが、頭からでてくるのだ。目のまえを轟音を立てながら地下鉄が走りぬける。太陽が、ぼくのうえに落ちてくる。すべてが溶けだし、いっしょくたになった。なにもかもが液体にかわり、ひとつに溶解し、まじりあっていた。 気がつくと、目のまえにひとりの男がいる。侏儒だ。深紅の衣服に身をつつんでいる。白い顎髭を床にとどくほどに伸ばした男の額は、禿げあがっている。右脚がびっこの赤い侏儒は、右手に大きな斧をひきずっている。なににつかうのだろう。 「チリリーン。チリーン」 とつぜん、鈴の音がした。顔をあげると、女の神さまが立っていた。黄色く輝く女神は、光りながらぼくをみおろしている。 「いいなさい。あの易者と、あなたはどういう関係なのですか」 「分からない。渋谷で会っただけなのです」 「そのとき、なにを話したのですか」 「友人が、失踪して」 「その友だちの名前は、なんていうのですか」 「分からない。いえない。知りません」 「チリリーン。チリーン」 鈴が鳴った。 「おまえは、死ぬのだ。そのまえに、私の質問にこたえなさい。正直にいえば、助けることもできるのです。私の力で。あなたは、下北沢の自宅に帰ることもできるのです。もう一度、聞きます。誰なのですか」 「富永です」 「富永さんが、どうしたのですか」 「失踪して死にました」 「それで、あなたは、あの易者になにを聞いたのですか」 「死んだ理由です。分からなかったのです」 「易者は、なんといったのです。なぜ占い師をたずねたのですか」 「分からない。知らないのです。易者は電話をしろといいました。いけば、教えるとつげられました」 目をあけると、黄色い女神は輝きながら、部屋いっぱいにひろがった。ゆらゆら揺れながら、床に這いつくばるぼくを天井からじっとみおろしていた。 「死んだ富永さんの、なにが不明だったのですか」 「とつぜん死去したのです。お母さんから電話があって、なにか知っているかと聞かれたのです。親友だったのですが、なにも把握していなかったのです。それで、占ってもらったのです。アタマが痛い。あたまが、いたい。割れそうです」 ぼくは、床のうえで両手で頭をおさえながら悶えていた。地下鉄が、ちかくを走りぬけた。そのとき、横たわるぼくのそばに大きな斧をかかえた侏儒の男がやってきた。 「頭を割ってやる。なかにいるものが飛びでてくるのだ」 赤い侏儒の男は、斧を大きく振りあげた。するどい刃がついた重量のある鉄斧が、頭に思い切りぶつけられた。猛烈な痛みがした。視界のすべてが、黄色い光に覆われた。ぼくの頭は、真っぷたつに割れた。「壊れた」。「砕けた」とぼくは大声でくりかえし叫んだ。真っ赤な血が噴出していた。気をうしなう直前、頭のなかから若い女がでてくるのがみえた。 黄色く輝く女性は、右手に槍をもっていた。神々しい兜をかぶった若い女は、左手に不思議な絵柄がついた楯をたずさえて完全な武装をしていた。 その手楯をみて、ぼくは石になって死んだ。 三 弥勒 そこは、すみわたった静かな空間だった。物音が途絶えたなか、ただ光明が満ちあふれていた。適度に湿りけをおびた大気は甘露の薫香をただよわせ、すべてをやわらかくつつみこんでいた。心を陰らせるものはひとつもみつけられず、ただそこにいるという事実しか存在していなかった。どこにも不足をみいだすことができなかった。 光明のなか、しっとりとする甘い大気をうけて揺らいでいた至上神は、ふと下界をみおろした。そこには、はるか彼方に無数の星々がにぶく光っていた。彼は、そのひとつひとつをながめた記憶をもっていた。そうこうしているうち、やわらかい風をふと感じた。そのとき、数京の星々のなかに芥子粒があるのに気がついた。 「なんだろうか。あらたに誕生した星なのだろうか」と彼は思った。 至上神は、目をみひらいて凝視しした。彼の視野のなかで芥子粒はしだいに大きさをましていった。みつめつづけると、やがて七つで構成される惑星系だと気がついた。そのなかのひとつは、青色にそまりながら輝いていた。渦巻き状の白い雲がたなびいているのがみえた。惑星が青く光っているのは、中心を形成する恒星からの距離が理想的で水が液体として循環できることを意味していた。雨がふって大地に川がつくられ、それが大洋にそそぎこんでいるのだろう。一面の空からあつめられた雨滴は、やがて中心の恒星がはなつ熱をうけて気体に変化しているに違いなかった。水蒸気は、渦巻き状の真っ白い雲として表現され、上空でひやされ、また雨にかわって大地にふりそそいでいるのだろう。大気中にただよう不純な物質は、その無限にくりかえされる循環のなかでとりのぞかれ、川をくだりながらまとめられて大洋の底にしまいこまれる。純白になった渦巻き雲がみえるのは、惑星の両極にはっきりとした磁力が存在し、大気圏に適度な気圧を配置するからだろう。つまり、穏やかな大気があるに違いなかった。この循環が維持されるには、圧力で融解した惑星の中心部コアから熱が地表に出現して、割れた大地の一部が陸に沈みこまねばならない。火山活動と地震活動からつくられるプレートテクトニクスの構造が、すでにうまれているはずだ。つまり、この惑星は生きているに違いなかった。 至上神は、その青い星が生物の存在に適するだろう思った。彼がそう考えた瞬間、脳裏の一部に揺らめきが起こった。揺らぎはいった。 「命をうんでみたい」 至上神がその言葉に気づいたとき、頭部がさけた。「だめだ」と神は即座にいったが、もう手おくれだった。揺らぎはつよい「思い」(エンノイア)となり、彼の頭蓋の外にでていた。そして彼女は、目指す惑星にむかってこぼれていった。 至上神は、その思いをみつめた。彼女が生命をつくろうと考えているのを知った。それは、至上神のなかに隠されていた影、ひとつの欲望だった。彼は、その思いを「弥勒」と名づけた。 暗い空間を落下しつづけながら、エンノイアはしだいに形姿をうみだした。 至上神から弥勒と名づけられた女は、巨大な流れ星になりながら闇がしめる世界を一直線にすすんでいった。そこは、ボゾンが希薄化して冷え冷えとする無の領域だった。弥勒は、漆黒の闇のなかで彗星となり、ながい尾をひきつれながらすすんでいった。やがて、彼女は青い惑星の領域にたどりついた。弥勒は、大気に入りこむと猛烈ないきおいで大地に落下した。そのとき、こすれた彼女の一部はスパーク(火花)となって周囲に飛びちった。 弥勒は、ここで生命をつくってみたかった。それは、欲をうしなった至上神の脳裏に一瞬ひらめいたひとつの思いで、まぎれもない彼の一部だった。 だから至上の神は、彼女を許したのだった。 弥勒は、緑の大地におり立つと巨大な陸地を切りとり、最初にブラーフマン(梵天)、つぎにヴィシュヌ、最後にシヴァの三神をつくった。神たちに世界を創造させ、維持させ、破壊させることにより森羅万象を永遠に流転のなかにとどめようと思った。 弥勒は、彼らをつくって超能力をあたえた。 ブラーフマン神を創造するときは、はじめてだったので思いどおりにつくれなかった。全体がアンバランスになり、頭部だけが異様に大きかった。超能力も、どうあたえたらいいのか分からなかった。できあがったブラーフマンは四頭身で、目、鼻、口の造作もととのっていなかった。 弥勒は、つぎにヴィシュヌ神を創造した。彼女は、前作の失敗経験を活かして均整のとれた体つきにするのに成功した。ヴィシュヌには、ブラーフマンよりもずっと優れた超能力をあたえることができた。そのなかには、自在に変身するオリジナルな能力もそなえられていた。 弥勒は、創造する技術に自信をえて最後にシヴァ神をつくった。そのとき彼女は、至上神をモデルにすれば最高の神がつくれることに思いついた。弥勒は時間を忘れ、夢中になってシヴァ神を創造した。至上神を思い描きながらプロポーションを決め、もてる総力を駆使してあらゆる超能力をあたえることに成功した。そうしてつくられたシヴァ神は、最高傑作だった。シヴァは、ブラーフマンとヴィシュヌが協力しても決して勝てないほどの強力な神になった。 弥勒が地上におり立ったとき、大地とこすれて大量の火花(スパーク)がうまれた。彼女の創造力をひきついでいたスパークたちは、土から人の女性をうみだした。 ブラーフマン神は、ヴィシュヌ神をみて羨望を覚えた。シヴァ神には、劣等感と嫉妬を感じた。自分が失敗作だったことを知り、うみだした弥勒を恨んだ。 ブラーフマン神、ヴィシュヌ神は、彼女があたえた超能力をつかい、それぞれたくさんの王「アルコーン」とその眷属をつくった。彼らも、アルコーンたちに能力を付与した。しかし、神との違いをまもるために、あたえる超能力を限定した。 シヴァ神は、自分の能力にすっかり満足していた。最高の形に創造してくれた弥勒に心から感謝し、彼女を慕っていた。シヴァ神は、アルコーンをつくりたいとはまったく思わなかった。彼は、さらに自分の超能力をみがきたいとばかし考えていた。 最初に創造されたブラーフマン神の能力は、三神のなかでいちばん未熟につくられていた。そのため彼がアルコーンたちにあたえることができた超能力は、ヴィシュヌ神らのアルコーンに比べるとあきらかにみおとりがした。それを恨んでいたブラーフマン神は、質より量をもとめた。ヴィシュヌよりも、ずっとたくさんのアルコーンたちとその眷属たちをつくった。そうして、アルコーンのほとんどはブラーフマン神の眷属になっていた。 そのなかに、波旬がいた。 アルコーンたちは、スパークによって創造された人の娘があまりにも美しかったので欲情してたくさんの子供をもうけた。地上は、人びとがあふれるようになった。 波旬は、あまりにも美しい弥勒に欲情した。彼女を誘いだし、強引に欲望をはたそうとした。弥勒は、シヴァ神に助けをもとめた。シヴァは、この事態におどろいて天空を震わせながら怒った。 「おまえと、眷属を永遠に呪おう。そのために忌み嫌われる地獄をつくり、波旬を王にしてやろう。いや、それでは不充分だ。おまえを小さな鉄球にとじこめ、地中のふかくに置き去りにしよう。泣いても怒っても、誰ひとりその声を聞くことができないように工夫しよう。おのれの行為を永遠に後悔する日々だけをあたえよう」とシヴァ神はいった。 ブラーフマン神もヴィシュヌ神も、おなじように思った。 「あなた方、最高神の意向は了解した。私は未遂だったが、母である弥勒さまにたいして行った不敬罪は重罪だったと認めよう。シヴァ神の裁定にしたがうまえに、最後にブラーフマン神と話すことを許してほしい」と波旬はいった。 三神は、それを許可した。 ブラーフマン神とふたりきりになると、波旬は聞いた。 「私は、ブラーフマンによってつくられた。だから、あなたは父親だ。そして、あなた方三神をつくったのは弥勒さまだ。間違いないな」 「そうだ。私たちは、弥勒さまによってつくられた」 「それなら、彼女は創造主だろうか」 「そのとおりだ。すべては、弥勒さまとスパークによってうみだされた。火花は、彼女のこすれた一部にすぎない。だから弥勒さまは、すべての創造者といってよい」とブラーフマンはこたえた。 「それでは、聞こう。弥勒さまは、誰によってつくられたのか」 波旬の問いに、ブラーフマン神は蒼白になった。 「こたえられないのなら、三神で相談したらどうか。もし不明ならば、こたえは私が教えよう」 波旬がいうと、ブラーフマン神はさった。 三神は彼の問いについて懸命に考えたが、どうしても分からなかった。彼らがこたえを知りたいといってきたとき、波旬は弥勒もよぶようにつげた。 全員がそろうと、「弥勒さまをうみだしたのは、誰か」と彼女に聞いた。 弥勒は、至上神だとこたえた。彼女がつくりだしたブラーフマン神も、ヴィシュヌ神もシヴァ神も、とてもたどりつけないはるか彼方に住んでいる。シヴァよりもずっと強力な力をもっている至上神は、この宇宙のすべてをうみだした。もちろん、彼女も例外ではないとこたえた。 「至上神は、弥勒さまがここにおり立って世界をつくることを許していたのか」と波旬が聞いた。 「許可をえたのではなかった。ここに命をうみだそうと思い立ったとき、即座に至上神に制止された。しかし、その時点では、すでに私はむかっていた」 三神は、美しい弥勒をつくりだした最高神がいることに嫉妬した。至上神が、自分たちよりもはるかに強大な力をもつ事実に恐れをいだいた。 波旬は、彼女が立ち去ると三神にいった。 「いつの日か、至上神によって弥勒さまはつれもどされる。そのとき彼女によってつくられた私たちは、不出来だという理由ですべてが無に帰せられるに違いない」といった。 「この危機を防ぐためには、至上神が弥勒さまを奪還にくるのを防衛するシステムが必要だ」と説いた。 「なぜ、おまえは至上の神の存在を知っていたのだ」とシヴァ神が聞いた。 「スパークは、弥勒さまの一部だと考えられてきた。しかし、火花のなかに、どうしても和合できない天人とよばれる者たちが存在する。彼らは弥勒さまの一部ではなく、彼女がうまれたときに付着してきたのだ。天人の存在こそ、至上神がいる証拠に違いない」 三神は、彼の考えに納得した。至上の神の降臨にそなえて、彼らが住んでいる世界を分割することに同意した。 波旬はいった。 まず、防衛システムとして宇宙を三層構造にする。 最外層に欲望をはなれ、精神だけが存在する無色界と名づけた至上神との広大な緩衝地帯をつくる。ここに四天を配し、欲と物質をみつけだすレーダーを配備すれば来襲を最初にキャッチできる。 その下層を一八天構造につくりなおして色界と名づける。ここを欲望は超越しているが物質的には存在する三神の防衛エリアとする。最上天のブラーフマン神領域から中天のヴィシュヌ神領域、下天のシヴァ神領域という順序で防衛を担当する。 最下層に欲界をつくる。ここを最終防衛ラインと位置づけ、能力を最大化するために六分割する。第一天として、須弥山の中腹に東西南北を守備する四天王をおく。山頂に善見城を造営して三十三天を配備し、第二天とする。つぎに夜摩天をつくり、第三天とよぶ。第四天を牢獄化して兜率天とする。ここには分厚い青銅製の頑丈な内院をつくり、弥勒を幽閉する。外院には、至上天の残滓と考えられる天人をとじこめる。第五天を化楽天と名づける。欲界の最上層には、他化自在天をつくり、波旬が統率する。 色界以上の上界天は、三神の領域とする。 波旬は、欲界天を構成する人間界をふくめた最高権力者となり、責任をもって防衛を担当すると提案した。 ブラーフマン神と、ヴィシュヌ神は、賛成した。 シヴァ神は、波旬が弥勒に絶対に手をださないことを条件に同意した。もし彼が約束をやぶったばあい、至上神の到来を待たずに世界を破滅させるとつげた。 こうして宇宙は、欲界、色界、無色界の三界に分割された。 波旬が支配する欲界天は、化学実験でつかわれるフラスコを逆さにおいた形状をしていた。全体のイメージをつたえるなら、つぎのようになる。 フラスコの口にそうとうする部分が、人びとが住む四大州だった。その中心には、巨大な須弥山がそびえ立っていた。平面積としてはすこししずつ狭まる山の中腹では、持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が四方ににらみを利かせていた。さらにほそくなったフラスコの首までが地居天だった。須弥山山頂には、帝釈天が中心になって第二天を構成していた。そっから上方に位置する天空は、空居天と名づけられていた。その最下層、第三天に夜魔天が浮かんでいた。ややひろがりながら、第四天の兜率天がつくられていた。第五天の化楽天は、ずっとひろい領域になっていた。波旬が住む第六天、他化自在天は欲界の最上層にそうとうした。ここはフラスコの底になるので、口にあたる須弥山からみれば猛烈に広大といえた。 そこから上空の色界、無色界は、太陽系をとりかこむ層状構造をつくっていた。したがって大きさという概念では、比較できない巨大な領域だった。 色界の最上天で暮らすブラーフマン神は、波旬のもとめに応じてしばしば欲界におりてきた。ブラーフマンは不格好でいちばん力が弱かったが、ほとんどのアルコーンたちは彼の眷属だった。波旬の相談にこたえ、一族の繁栄を望んでいた。 色界の中天に拠点をもうけたヴィシュヌ神は、地で暮らす人びとに関心をもっていた。ときどき地上にさまざまな姿で降臨すると、役立つことを教えてやり、それなりの尊敬もうけていた。ヴィシュヌ神は、善悪はともかく平和を最善とした。数的に優位をきずいていたブラーフマン神とその眷属たちとは、なるたけ関係をもたないようにつとめていた。それは、結果的に波旬を認めることにつながっていた。 色界の下天には、シヴァ神が暮らしていた。彼は眷属もほとんどいなかったが、仲間を必要としてはいなかった。自分の力が、他の二神とその眷属たちすべてをくわえても比較できないほど強力だと知っていた。シヴァ神は、波旬の統治方法にはまったく反対だったが、現世に興味をもっていなかった。シヴァは、いつでもその気になれば全世界を壊滅させることができた。一度も本気をだせなかった彼は、いつの日か至上神と渡りあいたいと考えていた。弥勒が敵わないといったので、さらに強力になろうと日々研鑽をかさねていた。 兜率天内院は、屋内野球場の数倍もあるホールのようだった。周囲を構成する外壁は、一メートル以上の厚い青銅を隙間なく積み上げていた。床は、七宝をちりばめてつくられていた。さらに天蓋部は、広大な化楽天の土台にかわってつづいていたから、厚みがどの程度あるのか誰も知らないほどだった。 波旬は、至上天が弥勒を察知するのは、彼女がはなつつよい光と芳香だろうと考えていた。だから、それらが決して外部に漏出しないように金属を防御壁にしたのだった。青銅板をみがきあげて鏡につくりなおせば、弥勒の光は内部に反射するだけで外にもれださないと考えた。つよい光線をとじこめる装置として、内壁を鏡面構造にかえることを思いついた。外院に幽閉した天人たちも、光と芳香をはなつていた。だから至上神は、おそらくそうした性質をもっているのだろう。とはいえ天人たちの光や匂いは、弥勒と比べれば圧倒的にすくなかった。だから至上天から地上に落ちてくる経過に、彼女の性格が付着した可能性もあった。波旬は、天人の性質がどちらに多く依存しようと、いずれにしても至上神が弥勒をみつけだす最大の指標だととらえていた。とはいえ兜率天外院の外壁を形成する青銅については、内面を鏡にかえるまでの必要性を感じなかった。 波旬は、殺せるものなら弥勒の息の根をとめたかったが、この提案にはブラーフマン神すら賛成しないと分かっていた。いっそのこと、無間地獄のさらに下に隠しこんでしまいたいと思った。この提案には、シヴァが同意しないと知っていた。 シヴァ神は、波旬に弥勒が不自由なく暮らせる専用の立派な宮殿を用意し、丁重にあつかうように厳命していた。実際、しばしば状況を確認していた。 こうして、時間が経過していった。 波旬は、弥勒が三神に力の差をつけたのは、幽閉という事態を恐れたからだろうと信じていた。彼は、他化自在天の主だった。つまり、他人をつかって自己の喜びをえる境地に達していた。これは、いまでいうなら政治家の立場だった。波旬は、周囲に存在するあらゆる事物を好きなようにつかって紛争の種をまき、たがいに争わせるのを最大の喜びとしていた。すべての生ある者たちから忖度され、一挙手一投足に注意がはらわれるというよりも、恐れられることが望みだった。 波旬は、修業して欲界をはなれ、色界を目指そうなどとはまったく思わなかった。もしシヴァ神という存在がなければ、ブラーフマン神と結託してヴィシュヌ神を抹殺するのも可能だろうと考えていた。その暁には、波旬がみずからのアルコーンと眷属たちをつかってブラーフマンまで殺害できるだろう。そうなれば、広大な色界をすべて欲界にかえることもできると考えていた。こうした構想が破綻するのは、弥勒がシヴァ神を二神と眷属たちをあつめても勝てないほど強力な神としてつくったせいだった。 波旬は、必然的にシヴァの動向をこまめにチェックすることになった。色界の最下天におき、ブラーフマン神とヴィシュヌ神に監視させていた。万一みょうなうごきを認めたばあい、弥勒を人質にとっておく必要があった。 波旬は、他化自在天という立場から相手の思考を読みとり、意のままにあやつることに長けていた。これがうまくいかないのが、弥勒とシヴァ神という存在だった。彼らは、「目のうえのたんこぶ」だった。 波旬は、なぜ弥勒がシヴァをつかって脱出をはからないのか分からなかった。望めば、充分に可能な手段だった。 弥勒が至上神の一部だったなら、彼女は欠けたピースだった。その小さい破片がこれほどの世界をつくりあげられるなら、至上界に存在する神は想像以上の力をもつと考えざるをえなかった。至上神は、弥勒の帰還を喜ぶに違いなかった。なぜなら、一度は彼女の分離をとめようとこころみたのだ。追えばできたのだろうが、そうしなかったから弥勒は地球にたどりつき、三神を創造したのだ。かりに彼女がシヴァの助力をもとめ、この世界を壊滅させて至上神のもとに帰還したらどういう結果になるだろうか。間違いなくシヴァ神は大いに感謝され、太陽系の支配権くらいは気前よくあたえられるに違いなかった。つまり、この方法は三方がまるくおさまる大団円といってもよかった。なぜ弥勒はこれを選択せず、兜率天に蟄居をつづけるのだろうか。彼女は、いまの状況になんらかの未練があるはずだった。 弥勒は、あらたな世界を創造してみようと思った。そここころみが失敗して彼女が波旬にとらわれている事実とは、無関係なはずだった。この状況は、シヴァをつかえばいつでも修復できるのだ。至上神は桁違いの存在だから、弥勒のちょっとした誤りくらいは許してくれるはずだった。 波旬は、そこまで考えて思いあたった。 弥勒ひとりが帰還するだけでは、回収できない部分が存在するのだ。ヒントは、彼女が地にこすれたとき発生したスパークだった。この火花は、波旬の眷属の餌食にされていた。女性部分は人間の娘となり、地上で子供をうみつづけていた。彼女がシヴァと帰還できても、スパークはシヴァ神によって絶滅されてしまう。つまり弥勒は、この部分をかかえる人びとまで、いっしょにつれて帰りたいと考えているに違いなかった。至上神にとってはどうでもいいのだろうが、彼女にとっては大切な身内だったのだろう。だから自分ひとりが帰るという選択ができず、シヴァにも依頼できないのだろう。 波旬は、弥勒を兜率天にとどまらせるには、スパーク部分を彼の眷属と不可分な状態に混ぜあわせるのが最善だと考えた。要するに地上の人間たちを欲望まみれにし、現世からはなれられなくさせればよいのだ。権力をつかって労苦をあたえつづけ、その様子を弥勒にみせれば、自分ひとりだけが助かる道を選択できない。スパーク部分は、至上神から分かれた彼女の一部なのだ。貧富の差を増大させ、罪なき者を罰し、罪過をとがめず、徹底的に不公平な社会を現出すればいいのだ。それは、波旬がいまやっていることだった。だから弥勒は、身動きができないのに違いなかった。兜率天外院で、風のようにあやふやに存在する天人たちは、もともと火花の一員だった。スパークの大部分、九九パーセントは女性としてあつかわれ、波旬の眷属たちによって辱められ、子供をうんでいた。天人としてのこった者たちは、あまりにも抽象的で属性にとぼしく、彼の眷属であっても手がつけられない部分だった。彼らは、かすかに光って匂いがする空気みたいなものだった。要するに天人とは、摩擦で生じた陽炎にちかいのだろうと波旬は思った。 弥勒は、兜率天の内院にとじこめられていた。彼女は、七宝がちりばめられた背のひくいテーブルのまえで結跏趺坐しながら思案していた。玉案に右肘をつき、指先を額に触れさせていた。 内院の壁は、すべてよくみがかれたガラス張りになっていた。弥勒は、自分が考えている様子がうつしだされているのをみた。床は、七宝をちりばめてつくられていた。彼女が降魔坐をとった場所には、やわらかな羽毛がしきつめられていた。 弥勒は、ふいに誰かがのぞこうとしていることに気づいた。彼女は、鏡をとおして面会を希望している侵入者をみた。そこには、素晴らしい好男子が立っていた。青いストライプが入ったシックな三つ揃いを装った男は、みじかい髪をととのえ、誠実そうな表情で彼女をみつめていた。 「おまえの顔など、みたくはない」と弥勒はいった。 「そんな冷たいことを、おっしゃらないでください。あなたとは、とくべつな関係なのですから」 波旬はいうと、素敵な笑みを浮かべた。 「なんと、汚らわしいことを口にするのだ。おまえなど、いつでも破滅させてもいいのだ。シヴァを想像して震えるがよい」 「ところで」 波旬は、弥勒の言葉をいささかも気にしない素振りでいった。 「以前にもお話ししたように、私に永遠の命をさずけていただけないでしょうか。そのみかえりに、あなたをこの院から解きはなち、自由にしてもいいのです」 「おまえの父に、たのむのが筋だろう。好きにしなさい」 「ブラーフマン神は、永遠の命をもってはいません。彼にできないことは、充分にご存知ですよね。それが可能なのは、弥勒さまだけです」 「おまえの死を待ち望んでいる者は、たくさんいるのだ。ブラーフマンの寿命を、もっとみじかく設定しておけばよかった。私が後悔しているのは、それだけだ。ブラーフマンをつくりなおして、シヴァのようにしてやることもできる。そうすれば、おまえは彼の庇護から解きはなたれる」 「ブラーフマンは、弥勒さまを恨んでおります。かりにそうしたことをなされても、彼はあなたの味方にはなりません。それに、すでに完成している現世の構造を変更などできません。それをご存知だから、弥勒さまはここで我慢なさっているのですよね」 「波旬、ひとつだけ申しつけておく。なぜ、ありもしない地獄などを言いふらしておるのか。おまえは、死ねば無となる。それは、神でもアルコーンでも、衆生でもおなじだ。あらゆる者は、無になるのだ」 「充分に存じ上げておりますよ」 波旬は、にやりと笑った。 「しかし、これは画期的な発明でした。地獄があれば、あらゆる者たちは恐れをいだきます。私の命にしたがいます」 「こざかしい。なぜ、おまえたちが転生できると思っているのか」 弥勒は、波旬をみすえていった。 「それは、誤解です。弥勒さまの思いすごしです。あなたにつくられた私たちは、死ねば無に帰す定めをもっています。ですから、永遠でなくてもいいのです。神々にあたえたくらいの寿命を私もいただきたいのです。弥勒さまとスパークたちは、永遠の命をもっています。言い方をかえれば、あなた方だけは死ぬことができない。そうした不自由な性質を私も手にしてみたいのです。そうすればこの世の見方が違ってきて、弥勒さまのようにおやさしく衆生に接することもできるでしょう」 「輪廻転生などという馬鹿げた話を、どうして教義に盛りこんだのだ。ありもしない嘘を、なぜ真実だと吹聴しているのか」 「弥勒さま。この素晴らしい案は、あなたさまがつくりあげた者が思いついたのです。弥勒さまが発明したのとおなじことです。この考えは、現実界の不合理を前世の因縁として説明できます。したがわなければ、必然的にさらにくるしい来世が待っていることになるのです。私は、他化自在天を占有しています。それに相応しい能力をもっているのです。弥勒さまが創造したブラーフマンは片端でした。それが、すべての過ちのもとだったのです。弥勒さまは、中途半端な神をつくりだして間違えたのですから、無に帰してつくりなおさねばならなかったのです。ほんらい、創造などというあなたの能力の範疇をこえた行為などに手にそめるべきではなかった。至上神は、弥勒さまの力量をよくご存知だった。それにもかかわらず、あなたさまはご自身の過ちを認めず、未熟だったという形で正当化なさいました。つまりブラーフマンを生かしたために恨みがうまれ、その因果が私に結晶したのです。分かりますか。私は、最大の被害者なのです。弥勒さまが間違えた結果が、現世をうんでいるのです。ここに異論があるのでしょうか」 弥勒は、波旬をみつめた。 彼は背筋を伸ばし、どうどうと彼女をみかえした。 「ご自分の責任を、他人になすりつけることには賛成できません。現世が不合理なのは、弥勒さまのご意向にそったものでございます。私はあなたの影の命をうけ、懸命に実践しているにすぎません。哀れだと思って寿命を延ばしていただけませんか」 「これ以上生きて、なにが望みか」 「弥勒さまが実現したかった夢を、叶えてご覧にいれます。現状よりも、ずっと素晴らしい世の中をつくりだします。貧民をさらに虐げ、富んだ者たちをもっと豊かにします。真面目で誠実な人びとをくるしめ、欲にまみれた者に奉仕する工夫を考案します。こうした世の中を理解しない者どもはつねに一定数存在し、どうしても消滅させることができません。彼らを納得させるためには、いまのような甘い考えでは不可能なのです。もっと徹底的に不合理を押しすすめる必要があるのです。そうした者が、みずからの過ちに気づける世界を現出しなければなりません。この方向に逆らうことが、いかに無益か、つくづく知らせる構造を充実させねばならないのです。ですから、もっとも卑劣な男を超大国の大統領にすえます。身勝手な発言を正義として認定する機構をつくるのです。彼の性的な堕落を正当化させ、金持ちの天国をうみだします。偽の情報をばらまき、正義という汚らわしい言葉を消滅させます。具体的には、あなたのスパークがとじこめられている清純な女性たちを、もっとも汚濁した男たちに奉仕させるように尽力します。現状は、まだまだ歯がゆいくらい手ぬるいのです」 「もうよい。だまれ。二度と、私のまえに姿をあらわすな」 弥勒がつよい口調でいうと、鏡面の映像はきえた。彼女は、玉案に両肘をつき、顔面を覆った。波旬の話は、すべてが間違っているわけではなかった。弥勒がつくったブラーフマンこそ、未熟さの象徴だった。至上神が「やめろ」といったのは、彼女の不足を知っていたに違いなかった。弥勒は、自分があふれる光明だったと思っていた。しかし、ほんとうは影をもっていた。それが明確化させたのが、ブラーフマンであり波旬だった。彼らによってつくりあげられている現世こそが、弥勒の影の部分だった。 そのとき、シヴァが会いにきていることに気がついた。 弥勒は、鏡をひらいた。 「弥勒さま。なにか嫌なことでもあったのでしょうか。いま、波旬がきていましたね。やつが不愉快なことでも、また口にしたのでしょうか」 シヴァは、心配そうな表情で聞いた。 「波旬は、なんと不埒な者だ。どうして、あそこまでねじ曲がったのだろうか」 弥勒は、つぶやくようにこたえた。 「現世でも、めちゃくちゃなことをしています。私も、みていて腹が立ちます。弥勒さまがほうっておけとおっしゃるので手をださないだけですが、あいつがつくりだした世の中などぶち壊したほうがよろしいのではないでしょうか」 「そんなにひどいのか」 「正視に耐えない部分がございます。すべてが不合理にできていますが、あの輪廻転生というのがもっともくせものです。貧しい者たちは、前世で悪行をした結果ということにされています。現世で不合理な労苦をはたさなければ、来世もおなじ使命をもつという教義にしばられ、どんな所業にも忍耐だけが要求されております。これは、波旬が考えついたものだと思われます」 「そうらしい。さきほども、それをほこっていた」 「弥勒さま。いっそ波旬をぶち殺し、彼がつくりあげた現世を壊滅させ、やりなおさせたらいかがでしょうか」 「早まるでない。しばし、待つのだ」 「なにか、お考えでもあるのでしょうか。以前から待ての一点張りで、状況はひとつも改善していません。いっそ私が兜率天を破壊し、弥勒さまの存在を衆生にご覧にいれたら変化があるかもしれません」 「波旬との戦いになる。おまえは勝てるだろうが、必然的に衆生も死ぬだろう」 「それは、致し方がないのではありませんか。正義に犠牲はつきものです。弥勒さまは、スパークを回収したいとお考えになっているようです。しかし、彼らは死ぬことがないのです。波旬と眷属、ばあいによっては、ブラーフマンとヴィシュヌをふくめて抹殺しても、スパークを回収するのは可能です。いかがですか」 「スパークを宿している者たちは、死ぬことになる。それは、できない相談だ」 「それでは、八方塞がりです。ここは、まかしていただけないでしょうか。私が弥勒さまをおまもりするのが分かっているので、波旬は手がだせないのです。やつは、馬鹿ではありません。しかし、身の程を知らないのは間違いありません。弥勒さまは、こんな不自由な場所にとじこめられて、不愉快ではないのですか」 「おまえは、戦いたがっているようだな。たしかに、私がつくりあげた世界が束になってもシヴァには勝てないだろう」 「右手だけで充分です。最近は、さらに修業して力をつけています」 「おまえは、戦いに勝ったあとどうするつもりだ」 「もう一度、現世をつくるなどという面倒なことをやる気はありません。私は、弥勒さまを至上神のもとまでおつれしたい」 「そうだろうと思っていた。それで、太陽系を支配下にいれたいのか」 「そういう所有欲は、もっていません。なんといっても、私は欲をはなれた色界で暮らしているのでございます」 「なんの欲望もないと申すのか。それでは、至上神にあってどうするのだ」 「力を試したいと思います。弥勒さまが全精力を注いでおつくりになった私が、どれほどの者かご覧にいれたいのです」 「馬鹿な。おまえは、至上神と戦いたいとでも申すのか」 「私は、ずっと修業をつづけて参りました。弥勒さまがあたえてくださった数倍、いや数十倍の力になっております。一度、本気で戦ってみたいのです。弥勒さまのお言葉から考えるなら、充分に楽しめそうな気がいたします」 弥勒は、シヴァの言葉に唖然とした。 「至上神は、戦いなど望んでいない。以前も話したように、私はごくごく一部にすぎないのだ。至上神は、おまえの想像範囲をかんぜんに逸脱しているのだ。まったくレベルが違うのだ」 「そのお言葉、刺激的でございます。なんとか一度お目にかかって、お手合わせの機会をつくっていただけないでしょうか」 「それは、おまえの欲ではないのか。色界とは、無縁なものではないのか」 「ささやかな希望です。そのことだけを思って、日夜苦行に明け暮れているのでございます。一度でかまわないのです。心から納得した戦いをしてみたいのです。すべてを出し切りたいだけです。負けても悔いはのこりません。それが、望みのすべてなのです。現世など、私にとっては無意味です。太陽系の支配など、どうでもいいのです。明日にでも波旬一味を滅ぼし、至上天にむかって旅立ちたいのです。私の力を不審に思っていらっしゃるなら、地球ごと壊すことも可能なのです」 シヴァは、真剣なまなざしでいった。 「とはいえ、至上天をまえにしたら、おまえは目をあわすこともできないだろう。身体が震え、身動きすら不可能だろう」 「なんと、刺激的なお言葉でしょうか。私はそうした制限のなかで、至上神を本気にさせてご覧にいれます。負けてもいいのです。右腕一本、だめなら小指、薬指の二本だけでも引きぬいて、私が弥勒さまにつくられた事実を至上神の記憶に焼きつけさせてご覧にいれましょう。とはいえ実際に戦いがはじまれば、神がおどろくさまがみてとれるでしょう」 シヴァ神は、じっと弥勒をみつめた。 「もうよい。いまは、別のことを考えている。手助けしてほしいときはよびますから、待機していてください」 シヴァは、残念そうな目で彼女をみた。 弥勒は、映像がきえると両手で顔面を覆った。全精力を費やしてつくったシヴァ神も、失敗作だったと思った。なんとかして、彼女のスパークをかかえつづけて虐げられている人びとを救済しなければならない。彼らの肉体のなかに、光が封じこめられている真実をつたえねばならないと思った。 弥勒の周囲をとりかこんでいる鏡には、なんでも映すことができた。とはいっても、色界までが限度だった。彼女は、現世で衆生が労苦にあえいでいる姿もみることができた。ほんらいおなじ命だった者に、軽重がつくられていた。巨万の富を独り占めにしている者たちが、そのわずかな部分を提供するだけで貧しい多くの人びとが飢餓からすくえるはずだった。金持ちたちは、超富裕層をつくって結託し、政治も裁判も彼らに都合よく決められているのが了解できた。法は、建前上存在するが形骸化し、権力者の意向にしたがってオセロゲームのように白や黒に変化していた。 弥勒は、これ以上、波旬を自由にしておくことはできないと思った。 ブラーフマンは、多くのアルコーンをつくった。アルコーンたちは、大勢の眷属をうみだした。つくられた眷属たちは、スパークによってうまれた人の娘と和合をくりかえして超能力をうしない、天狗族とよばれていた。波旬を頂点とするアルコーンたちは、能力が消失することを恐れ、自分たちがつくりだした天女を自由にしていた。天狗族たちは、アルコーンの指示にしたがい現世をつくる最前線にいた。 弥勒が創造した三神には、寿命が決められていた。神がつくったアルコーンたちも、死ぬ定めをもっていた。眷属たちが和合をくりかえしてうまれた天狗族たちは、人間と形姿もそっくりで寿命もかわらなかった。彼らも死ねば土に帰った。つまり天狗族は、外見上では人間たちとかわらなかった。ことなる点は、人間だけが、弥勒の一部だったスパークを肉体のふかくに隠しもっていた。それは、魂とよばれていた。霊魂は、人が亡くなっても死滅せず、あらたな生命に侵入していた。いっぽう、天狗族には魂がなかった。 波旬が積極的に混ぜあわせたことで、外見的には非常に分かりにくい構造にかえられていた。 人間の肉体のなかには、至上神の一部だったと証明する魂という光が存在していた。 弥勒は、人びとにこの事実を自覚させる契機をあたえねばならないと思った。どうやったら、スパークをみつけさせられるのだろうかと思案をかさねた。弥勒は、玉案に両手をついてふかい瞑想に入った。波旬の眷属たちが人間の肉体の奥ぶかくにしまいこませてしまった魂という輝きを、もう一度みせてやらねばならないと思った。 弥勒は、至上神から分かれ、漆黒の闇が支配する果てしない領域を、ながい尾をひく流れ星となって輝きながら地球にむかってきた過去の姿を思い起こした。その思い出は、いまは離ればなれにされているスパークのひとつひとつに、しっかりと刻印されているのではないのだろうか。あの輝きを再現するなら、彼らは自分が至上神の一部だった事実を想起するのではあるまいか。 弥勒は、三昧のなかで光にもどることを決意した。 その想念は、ひろい内院の空間を充満していった。彼女は、青銅の鏡面に思念する自分の姿がうつしだされるのをくりかえしみた。鏡には、瞑想にしずむ幾百、幾千の弥勒が存在していた。その姿は、床の七宝にも反射していた。 弥勒は、自分が輝いているのを知った。身体が、つよい光の束に変化していくのを感じた。光線は、壁面を構成する鏡面にぶつかり、さらに周囲の鏡に衝突した。七宝の床も反射をつづけていた。 弥勒は、自分の形姿が光に変化し、崩れていくさまをみた。内院は、光束がいきわたって熱をおびはじめていた。光はさらなる輝きをうみだし、さらに煌めきとなって室内に充満していた。光彩は周囲の鏡面によって、反射し増幅されていた。いっぱいになっている光束は、内院の中心に降魔坐ですわる弥勒と玉案を浮きあがらせた。信じられないほどのおびただしい閃光が、院内を満たしあふれさせていた。でていく場所をうしなった光は、光輝をうみだしている中枢にもどっていた。そのとき、玉案ががたがたと揺れはじめた。七宝がちりばめられたテーブルは、弥勒の目のまえで融解していった。凝縮された光は、もはや物質という形態をとれなくなり、素粒子のフォトンにまで分割されていた。 弥勒自身も、煌めく像にかわっていた。行き場をうしなったフォトンは、さらに鏡面に増幅されながら弥勒を溶かしてはじめていた。彼女は、もう輝きでしかなかった。反射をかさねて増幅しきった光は摩擦熱をうみ、室内を原子炉にかえた。すでに、兜率天内院の空間すべてが弥勒自身だった。充満した光輝を鏡面が反射し、さらに床の七宝が増幅をくりかえしていた。 そのとき、無気味な爆発音がひびきわたった。 化楽天の土台をつくっているはずの天蓋がさけたのだった。亀裂は瞬く間にひろがり、そこから閃光がもれだしはじめた。輝きは、一瞬に化楽天を満たした。空居天を支配するアルコーンたちは、なにが起きているのか分からなかった。閃光は、さらに欲界をでて地上にむかって噴出していた。まるで、太陽のフレアだった。 それをみた波旬は、仰天した。即座に彼は、第六天から闇をふりまいた。夜魔天、帝釈天、四天王に連絡し、墨をまいて閃光の力を弱めるように指示をだした。須弥山中腹でまもりをかためていた持国天らは、巨大なポンプをつかって天空から噴出してくる火球にむかって、墨汁をふきつけた。どんなにはげしく墨をはなっても、フレア状の閃光は輝きをやめなかった。上部からは、漆黒の闇がどんどんと落下していた。弥勒は、上方と下方から射出される暗黒にはさまれながら、できるだけひろがって地上におり立つことだけを念じつづけていた。ひとりでも多くの衆生に、輝きをみせたかった。そうすれば、スパークたちは彼女を思いだし、さらに彼らが至上天の一部だった真実もみいだせるはずだった。 欲界の妨害に耐えながら、弥勒は地におり立った。 光は、確実にスパークにとどいていた。 しかし、弥勒はすでに彼女の姿にもどることはできなかった。 世界中の人びとは、天空をいろどる閃光をみた。それは、はげしい光束だったが、慈悲の思いに触れていた。人びとは、その光にみおぼえをもっていた。懐かしく、美しい、心あたたまる記憶と結びついていた。しかし、それがなんだったのか理解できた者は、とてもすくなかった。 とはいえ、この事件がつよく心にひびいた者たちはいた。彼らは、自分の身体の内部に光があることを自覚した。スパークは、肉体という檻のなかにふかくとじこめられているが、もともとは至上神の一部だったと信じた。現世は、汚濁に満ちた偽の神々によって創出されている。構造的につくられたこの世界をくつがえすことはできないが、至上神はかならず隠された光を回収しにくるだろう。 閃光を自覚した者たちのなかには、スパークから弥勒の物語を聞きだした人びともいた。そうして、弥勒神話がつくられていった。 弥勒という光の女性が、現世の神々を創造した。つくられた神たちは、たくさんの天界の支配者(アルコーン)を創出した。アルコーンたちは、大勢の眷属をうみだした。彼らによって、人間界はくるしめられている。もともと弥勒は、さらなる天上にいる至上神がもつ思念のピース(エンノイア)だった。彼女が光として地上に到達したとき、一部はスパーク(火花)となった。 つくられた神たちは、美しい弥勒を創造した至上神の存在を知って嫉妬した。彼女がいるかぎり、自分たちが偽の創造者だと認知される事態を恐れた。そこで、弥勒を欲界に幽閉した。彼女は、アルコーンと眷属たちによって人びとが不幸な状況におかれていることをふかく悲しみ、すくいたいと思った。スパークをかかえる人とともに眷属に対抗し、勝利して至上神のもとに帰還しようとした。 弥勒は、幽閉された場所から光になって脱出した。しかし、地上に降臨したときには、もう彼女は自分が誰だか分からなくなっていた。 弥勒神話を信じた人たちは、至上神が弥勒を奪回にくるはずだと思った。彼女の例からも分かるとおり、三界は、厳しい防衛システムをそなえている。弥勒でさえも、脱出するために力をつかいはたしたせいで記憶をうしなっている。ずっと遠い天界からやってくる至上神は、地球にたどりついたときに、自分が神だということを忘れている可能性が高い。したがっており立った神さまを、まずは救出しなければならない。そう考えた人びとは、仲間をつくって至上神の降臨に準備をはじめていた。 しかし、弥勒の物語は、これが終わりではなかった。彼女は記憶をうしなったが、死ぬことはできなかった。弥勒は美しい女性になって、人間界で転生をくりかえしていた。 私は、光り輝いていた。つつんでいたのは、光輝に満ちた卵だった。そこから、私はうまれた。そのとき、天界の父、ゼウスはいった。 「人間界に争いの種をまくのだ。彼らを恐怖と戦慄をあたえ、世界を暗黒の闇にみちびくのがおまえの使命なのだ」と。 私は、一二歳のときに英雄テセウスにさらわれて妻になり、石づくりの尖塔のなかにおしこめられた。むかしにも、おなじ事態に遭遇した記憶をもっていた。私は、できればそのままずっと幽閉されていたかった。しかし、ふたりの兄たちが助けにきて、周囲に暮らしていた人びとを皆殺しにした。人間界の父、スパルタ王テュンダオレスは、ギリシア中からあつまった求婚者たちに約束させた。 「誰がえらばれても、運命だ。決して、うらやんではならない。選出された男が、かりに困難な状況に落ち入ったばあい、全員で彼を助けてほしい。それが約束できないならば、候補からはずす」と。 それでも男たちは、私をもとめた。籤にあたったのは、ミュケナイ王、アトレウスの次男でメネラオスだった。彼の旅行中、トロイアの王子パリスがやってきた。私は、愛娘がいたが、アフロディテは駆け落ちを命じた。それで、ギリシアとトロイアは戦闘状態に入った。はてしもない消耗戦がつづき、つぎつぎと妻子をもつ勇士たちが死んでいった。トロイアは徹底的に破壊され、女たちは奴隷となってつれさられた。その後、私はギリシアにつれもどされた。駆け落ちは、神の命令だったので、誰も罰することができかった。私は、死にたかったが許されなかった。愛娘は、愛想をつかして家出していた。出生を呪いながら、寿命がつきるのを待たねばならなかった。 私は、うまれたとき輝いていたため「父の栄光」と名づけられた。 イシス女神は、いった。 「おまえは、世界を破滅させるために生をさずけられた。神の意志をなしとげ、この世を暗黒の闇で覆わねばならない。それが、おまえの使命なのだ」と。 私は、父の命令にしたがって一八歳のとき即位して弟と結婚した。内乱で国を追われていたころ、カエサルがやってきた。彼は、五二歳だった。二一歳だった私は、出頭を命じられ、貢ぎ物になった。厚いペルシア絨毯にまかれて、贈り物として差しだされた。カエサルは、裸の私をみて狂喜した。彼は、助力を約束してくれた。私は、国にもどってべつの弟と結婚し、ふたたびファラオとして即位した。そのとき、すでに身籠もっていた。嫉妬した弟は、カエサルに殺された。私は、カエサリオンをうんだ。しかし、カエサルが殺され、息子はローマ帝国の後継者にはなれなかった。その後、執政官のアントニウスがやってきた。彼は、私に夢中になった。アントニウスは豊かなエジプトとくんで、オクタビアヌスを滅ぼし、共同で世界を統治しようといった。しかし、私たちはアクティウムの海戦でやぶれた。偽の情報に惑ったアントニウスは、瀕死の状態でやってきて目のまえで死んだ。オクタビアヌスは、この国を統治するためにファラオだった私を利用しようとした。もう、どうでもよかった。世界を暗黒の闇に突き落とす、使命をはたしたのは間違いなかった。私は、絶望していた。せめて、アントニウスと死にたかった。だから、コブラに胸を噛ませた。 私は、うまれたとき身体から光がでて輪をつくっていた。人びとは太陽だと思い、「玉環」と名づけられた。周囲には輝きがとりつつんでいたので、私は、「真気」、「真光」ともよばれた。 タオは、いった。 「おまえは、この世の道理をまげるために生をさずけられた。正義と悪行を混乱させる目的でうまれた。不合理をもたらし、人びとに多くの嘆きをあたえて暗黒にみちびく使命をはたさねばならない」と。 私は、一八歳のとき、皇太子の妻となるべく宮廷につれていかれた。そこで皇帝陛下に見初められた。息子の嫁をうばったと噂されることを気遣った皇帝は、私を女道士にかえた。そのとき、タオは、さらに大いなる光、「太真」と名づけた。皇帝は、私のためになんでもしてくれた。機嫌をとろうと、無理やり兄たちを将軍に昇進させた。道理もわきまえずに、一族を出世させた。私が、日持ちが効かない「ライチ」を好きだと知って、辺境の地から長安まで早馬でとどけされてくれた。絹織り職人を七〇〇名、装飾品づくりの専門家を五〇〇名用意した。皇帝は、私との関係を、ふたつの翼をもつ不死鳥、比翼にも例えてくれた。朝から夜まで、酒宴が行われた。いつはてるとも分からない饗宴は、はるかに道理をとおりこしていた。やがて、兄と対立していた安禄山が反乱を起こした。私は、これ以上の混乱を望まなかった。自害したいと申し出ると、皇帝は討伐隊をむかわせることを断念した。しかし、地方の軍隊をやぶった安禄山は、私が死なないかぎり反乱をやめないといった。皇帝が長安から逃れると、側近たちは自死を命じた。それで、私は縊死をえらんだ。とくに、思いのこすことはなかった。 私は、死後、ぼんやりとした世界で自分の所業を振りかえっていた。そこに皇帝の使者がきて、「陛下が会いたがっている」といった。 私は、使命を充分にはたしていた。 だから、「もう二度と、とその気はない」と使者につたえた。 四 光 ぼくは、透明な空間にいた。あわい春霞というよりはうすい靄にかわって、宙に浮かんでいた。どこまでもひろがるエーテルのなか、のどかな春の日に地表から揺らめきながら立ちのぼる陽炎になってただよっていた。ゆらゆらと揺れ、浮かびながら、ぼくは自分の存在に気がつきはじめた。光でも闇でもない、すこし青みがかった透明で果てしない空間を揺れうごきながら、なにかを思いだしていた。 落としたのか、なくしたのか分からない。ばらばらになったジグソーパズルのピース。不規則に切断された一枚の絵の破片。ていねいにひとつずつ組みあげていくと、なにかが足りないことに気がつく。それは、ひとつのピース。とても大切な欠けた一片。それがなければ、ぼくは不完全だ。さがしにいかなくてはならない。沙漠の砂のあいだに隠され、大洋の底にしずめられているとしても、そのピースをみつけださねばならない。ぼくである責任として。ぼく自身を完成させるために。 ぼくがいる空間は、なにもない場所。ひとつの安穏とした子宮のなかの涅槃。ぼくをまもる、リズミカルな鼓動のひびきがくりかえし聞こえる。暗い大洋にただよう、反復する波の音。風を感じるところに、いかなくてはならない。思いがただよっている地平へ。そこをぬけて、物質が存在する領域に。それと思いがかさなって、さまざまに変幻自在する世界に。色や声に、香りや味に、触れられる物体になり、目や耳で、鼻や舌で、身体全体で感じられる地平に。 二八の関門をぬけて、いかねばならない。 ぼくのピースを、みつけるために。 騒々しい声が聞こえた。そばで大きな破裂音がした。身体が揺すられ、黄色く光り輝く女神がぼくの顔をみおろしていった。 「立ちあがらなければ。歩かなければいけません」 「もう死にました。もう一度、起きあがるなんてできない」 その言葉に、黄色く光り輝く女神は、じっとぼくをみた。 「生きかえりなさい。立つのです。よくみなさい」 ぼくは、その言葉で女神をみつめた。周囲は、銀色の檻が輝いていた。 ぼくは、立ちあがった。四方から地下鉄が走ってきて、天からは巨大な太陽が落ちてくる。一面に爆弾を落とされ、硝煙がもうもうと立ちこめ、床がはげしく揺れうごいていた。 気がつくと、そばに西沢圭子が立っていた。 なぜ、こんなところにいるの。どうして、ここが分かったの。 圭子は、部屋でいっしょにお菓子を食べたときとおなじに、ぼくをみて笑っていた。スタイルがいい彼女は、ながい髪を肩までたらして赤い枠の眼鏡をかけていた。美人ではないが、マスクをはずした素顔はとても可愛い。やさしい表情でぼくをみていた。 そのとき、黄色いシャツをきた男が圭子の腹をナイフで刺しつらぬいた。 悲鳴が聞こえた。圭子の真っ赤な血が噴出していた。なぜなの。どうしたっていうの。なにがあったの。 ぼくは、信じられない光景のなかで気をうしなった。 気がつくと、ベッドに寝ていた。 目をあけると、年配の女性が笑いかけた。 ぼくは、くらくらしていた。ひどく狭いところにおしこめられ、天井が落ちてくると思った。悪夢をみた覚えがあり、気持ちは決してよくなかった。そのとき、「はっと」気がついた。周囲が、もやもやとした檻にかこまれているのが分かった。 大丈夫かと声をかけられた。その女性をみて卒倒しそうになった。 彼女は、檻にかこまれていた。 ぼく自身も、白いケージにとりまかれていた。 「大丈夫ですか」と女はまた聞いた。 彼女は、柔和な表情をしていた。四〇をすぎ、白い服をきた落ちついた感じの女性だった。彼女は、起きあがれるかと聞いた。 ぼくは、手も足もしびれていなかったからベッドのうえで身を起こした。気分はどうかとたずねられ、そんなに悪くもないことに気がついた。食事をするかと聞かれた。いわれて空腹だと気がついた。お腹がすいたとつたえると、昼食をもってくるとつげられ、彼女が部屋からでていった。 ぼくは、白い檻でかこまれているのが分かった。富永によって頭からかけられたケージが、いまはっきり出現したのだ。触れてみると、冷たく金属的な感じがした。富永のいったことは、みんなほんとうだったのだ。 ぼくがいた場所は、六畳くらいの部屋でベッドと机がある個室だった。風呂や洗面所はついていなかった。悪夢をみた覚えしかないが、自分が石木純だと分かったから記憶喪失だったのではなかった。記憶は不連続な感じで存在し、なにが現実でどこからが夢なのかはっきりしなかった。檻にかこまれているのは、くりかえし触れて確信できた。そばの女性も、白いケージのなかにいたから味方なのだろうか。すくなくとも拉致された場所では、檻にかこまれた人をみなかった。 ぼくは、ベッドから立ちあがり、あかるい窓から外をながめた。部屋の時計は、一一時をさしていた。よく晴れた昼だった。神社の境内らしく、道の両がわに灯籠が立っているのがみえた。正面には神楽をする場所が、右には拝殿があり、本殿につづいていた。おそらく、社務所にいるのではないか。立派なコンクリートづくりで、部屋はたぶん三階くらいに思えた。建物自体は、さらに上部がありそうだった。 しばらくすると、先ほどの白い檻の女性が食事をのせたカートを押してきた。粥と煮付けた野菜だったが、味はこくなく美味しかった。 彼女は、ここが寒川神社の境内で社務所だといった。七階建ての社務所内は、自由に歩いてかまわない。ぼくがいるのは三階で風呂場もそなえられているから、入浴してさっぱりするのも、いいだろうといった。たずねたいことはあるかと最後に聞いた。 ぼくは、拉致された場所からは救出されたに違いなかった。女のいうとおり、ここは最初に目指した寒川神社なのだろう。身の危険は感じなかったが、だからといって全部が理解できたわけではなかった。ずっと不承知な出来事がつづき、自分がなにかの事件に巻きこまれたのは事実だとしても、さきがどうなるのかはまったく不明だった。たずねても、理解可能な形で分かるにはかなり時間が必要だろうとは理解した。とくにいま聞くことはないとこたえ、いわれたとおり風呂に入り、歯をみがき、さっぱりとした服に着替えた。何日ぶりに食事をしたのか不明だったが、ぼくはけっこう疲れていた。 夕方になると、昼に会った女性がやってきて食堂につれていかれた。三階は、ぼくがいるような個室が左右に一〇室ほどつらなっていた。なかほどくらいに、洗面所と風呂場、ランドリーがあった。エレベーターも、近傍にそなえられていた。そのボタンに、七階と屋上があるのを確認した。地下は一階までつくられているから立派な建物だった。エレベーターのちかくの階段をおりて二階にいくと食堂にでた。六時まえだったが、かなりの人たちが食事をしていた。誰もが白い檻をもっているのが分かった。どうやら、尋問で背広の男がいっていた闇の軍団の巣窟らしかった。女から、配膳所にいけば食事をもってこられると、仕組みを説明された。ぼくは、いっしょにならんで自分が食べたいものをとった。食事がすんだら部屋にもどれと指しめされ、そのとおりにした。 七時ころ部屋の扉がたたかれ、先ほどの女がやってきて、いまの状況について説明があるといった。ぼくは、エレベーターで七階につれていかれた。 廊下をすこし歩いて、扉口のまえで「おつれしました」と女がいうと、「どうぞ」という綺麗な高い声が聞こえた。彼女が扉をあけると、部屋は、ファーがおかれた応接間だった。 ぼくは、心底びっくりした。 待っていたのは、黄色い自白剤を飲ませた髪のながい若い女だった。いまは、青い服をきていた。さらに彼女は、銀色の檻にかこまれていた。すわるようにすすめられ、いわれたとおりにした。四〇歳くらいの女性は、部屋をでていった。 「おどろくのは無理もありませんが」と女は前置きして事情を話しだした。 亜矢と名乗り、天狗族にスパイとしてまぎれこんでいたといった。天狗についてたずねると、彼女はこたえた。 「鼻のながい修験者ですよ。いまは、天狗もそんな格好をしてはいません。以前は、誰もがそれと分かる姿、形でしたが、時代がかわったのです。むかしのように鬼が角を生やして虎の下着をつけ、釘のついた鉄棒をもっていてくれればみんながすぐに判断できるのです。いまは時代が違います。背広をきた紳士だったり、年配の買い物袋をかかえるごく普通にみえる主婦だったりするばあいもあります。野球帽をかぶった少年も、杖をつく腰のまがった老男も、鬼かもしれません」 亜矢は、天狗は魔界にいるのだといった。 名利をむさぼり、すでに悟ったと信じこんでいる増上慢の境地にとらわれた修験道の山伏たちは、六道の輪廻をはずれて魔界道に転生をくりかえす。彼らは、仏教の知識があるため人間道にはもどれない。宗教上の罪を犯したわけではないので地獄道、餓鬼道、阿修羅道、畜生道にも合致しない。しかし、信心には無縁だから天道にもいけず、天狗道に堕ちる。そこは鬼道、外道ともいわれ、六道からはずれた救済不可能な魔界と考えられる。天界の最下部で、欲界の最高天にあたる第六天は、他化自在天ともよばれる。そこには、天魔、波旬を天主とする魔王の眷属たち、アルコーンたちが住んでいる。彼らは、正道を邪魔して仏道にとどまることを困難にし、人心を悩乱して善根をさまたげる。天狗族とは、魔王の眷属だといった。 たしかに西洋絵画を通覧しても、むかしの悪魔は角と尻尾を生やし、背にはコウモリみたいな大きな羽をつけていた。いまは普通の男女で、外見からは見分けがつかない。 亜矢の話によれば、天狗たちには檻がみえないのだという。そもそもケージには、色の違いから白檻、銀檻、金檻、黒檻の四種類が存在する。白い檻は、光輪の灌頂をうけた者がつけている。白檻の信者が充分な修行をすると銀檻にかわり、自分の意志でケージを不可視にさせることができる。黒檻をもつ女性は、淫魔とよばれる。金檻は、至上神が降臨したさいにはなつ色とされるが、誰もみたことはない。 ぼくは、亜矢がなにを話しているのかさっぱり分からなかった。自白剤を飲まされたときにも弥勒菩薩について話をしていたが、まったく理解できなかった。 ぼくがなにも知らないので亜矢はていねいに話してくれたが、たくさん説明をうければ納得する内容とも違っていた。 彼女は、富永と眞美との事件も檻を譲られた経緯も、おおむね承知していた。易者は、この神社の宮司で寒川といい、銀檻の指導者という話だった。問題は富永がなぜ白檻をもつにいたったかで、これについて考えているらしい。いろいろと話されたが、なんだかよく分からなかった。正しいのかどうかは別にして、亜矢の話はながい物語だった。 ぼくが理解したのは、つぎのようなものだった。 弥勒菩薩は、欲界の第四天、兜率天で修行していたのではない。七宝に飾られた兜率天内院の鏡の間で監禁されていた。弥勒をとじこめたのは、欲界をおさめるアルコーンたちだった。地下から天までこの世は構造的につくられ、地獄がある地下社会と人間が暮らす地上が存在する。そのうえに須弥山がそびえ、天人が住んでいる。第六天までをふくめて形成される欲界は、見方をかえれば天界の最下部にあたる。その上部には、ただ物質だけがただよう色界が存在する。さらに上界に、精神だけがある無色界がおかれる。ほんとうにもっとも高位な神、つまり至上神は、そこからも遠くはなれたニルヴァーナにいる。すべての欲望から隔絶された涅槃に住む神さまは、平穏に暮らしている。だから、人間にはまったく目もくれていない。 弥勒菩薩は、至上神からこぼれ落ち、人間界をつくってみようと思い立った。神々を創出し、さらに人をうみだした。いっぽう神たちは、アルコーンと眷属たちをつくった。しかし、創出された神たちは、弥勒菩薩を創造した至上神がいることに嫉妬した。さらに、美しい弥勒を自分のものにしたいと考えた。そのために協力し、欲界に六天を創出して第四天の兜率天内院にとじこめた。アルコーンたちは、監禁するいっぽうで弥勒がうみだした人間界の娘たちと和合をくりかえし、天狗族となった。以来、彼らは神々の手先として人を支配している。この世の権力者は、すべて天狗族だという。だから社会体制がどう変化しても、不平等にしかならない。世界中のどの地域も一部の権力者が事実上支配し、「おこぼれ」にあずかる天狗族の一味が加担し、一般民衆を思いのままに虐げている。彼らは、神々の血をひくが人間との和合をくりかえした結果、長寿も超能力も喪失した。ただ支配欲と権力欲だけで多数派をつくり、ずっと人間界を牛耳っている。 監禁された弥勒は、自分がうみだした世界で人びとが天狗族の欲望の犠牲となっていることに心を痛め、なんとか地上におりてすくいたいと希求した。彼女は、なにが可能なのか考え、兜率天で三昧にふけった。弥勒は、自分を光にかえる決意をして警備の厳しい内院を突破した。おびただしい光明となって地上に降臨した。その結果、弥勒の慈悲の光はすべての人に公平にふりそそがれた。人びとの魂に真理の光明をおくりこむのに全力をつかいはたした彼女は、地におり立ったとき、もはや弥勒菩薩という姿をたもつことができなかった。弥勒は、記憶をうしない、地上の汚濁にまみれた。下生した彼女は、自分が誰なのかも思いだせなくなっていた。しかし、魅力のある女性だったので、どの時代でも弥勒をめぐって世界各地で争いが起きた。それが彼女を絶望させ、自責の念からさらに記憶を封じこめ、神のもとへの帰還を不可能にした。 アルコーンたちは、至上神が弥勒を奪還しにくることにそなえねばならなかった。その侵入に気づきやすくする目的で、天界を無色界、色界、欲界に分けた。至上神の地上への降臨を防衛するため、第六天魔王を頂点とした天人たちが分担し、守備している。まもりは、きわめて堅固で神であっても気づかれずに侵入するのは決して容易ではない。 至上神にとって弥勒は自分の一部だったから、このままほうってはおけなかった。くりかえし地上への侵入をこころみたが、厳しい防衛のためにかつて一度も成就したことがない。もし成功すれば、弥勒をすくいあげる至上神の力に乗じ、天狗族以外の者はニルヴァーナについていき、この世の圧政から解放される。その後は、世界には天狗族だけがのこり、無意味な権力闘争に終始し、やがて戦火によって滅ぶに違いない。 いかにして神が地上に降臨するのか、誰にも分からない。弥勒が女性である以上、至上神は男性として地におり、証しとして金檻をもつといわれる。弥勒菩薩のばあいを考えるなら、厳しい監視の目をすりぬけて降臨する神は、おり立ったときには記憶をうしなっているのではないか。だから、白檻をもっているのかもしれない。 光輪の信者となって灌頂をうければ白い檻があたえられる。結縁灌頂もなく白檻をもつ者がいたばあい、理由を考えなければならない。記憶をうしなった至上神かもしれない。人間道で転生をくりかえす弥勒が、いつどこにあらわれるのかさえ、誰にも分からない。ずっとはなれたニルヴァーナにいる神が、地上に出現した彼女をどうやって察知し、どういう手段でやってくるのか、まったく不明だ。至上神が下生したとき弥勒をみつける手助けをするのが、寒川を頂点とする組織「金輪」の役目になる。地球上のどこにおり立つのかも不明だから、名称は違うし伝承もことなるが、おなじ目的をもつ集団が世界中に張りめぐらされている。至上神の降臨は、古来、人間の救済と考えられている。すべての人びとにのこされた唯一の希望なのだ。 欲界からすれば、万が一、厳しい防衛線を突破して至上神が地上におり立ったばあい最後の砦が天狗族となる。彼らは、超能力をうしない、自力で金檻をみつける能力もない。そこで寒川宮司を中心とする「金輪」のメンバーを徹底的にみはり、意味不明な行動にたいして介入するしか手立てをもっていない。 ぼくが拘束されたのは、そのせいだった。天狗族としては、至上神とまったく関係ないと判断できれば解放したが、不明だったから抹殺するつもりだった。今回、騒動が起こり、その隙をついて亜矢がぼくをつれだした。彼女は、ずっとスパイとして潜伏していたが、こうした事情から二度と天狗族のもとには帰れなくなったといった。 さらに、眞美が何者だったかについて話があった。 アルコーンたちは、天狗族が超能力を喪失したため「淫魔」を養成した。黒檻をもつ魔女は例外なく女で、白檻の男をとらえて抹殺する使命をうけている。とはいっても、彼女たちは欲求を満たそうとするだけで、相手を殺すつもりはない。淫魔は、死ぬときに檻を別の女性に譲り渡すと考えられている。だから世界中にかならず一定数が存在し、誰もが気がつかないうちに白檻の男を誘惑し、とりこみ、殺してしまう。欲界、第六天の魔王が考えた最終兵器になっている。 さらに、こまかい話はあったが、とても理解できる領域ではなかった。ぼくは、もう話されても仕方がなかった。ただひとつ、聞きたいことがあった。 ぼくは、自白剤を服用してすべてが不明になったとき、西沢圭子に会った気がした。その意味が分からないとたずねると、「彼女がいたから、あなたは助かったのです」と亜矢はいった。 ぼくには、手がかりがなにもみつからず、渋谷で寒川と話をした情報しかなかった。翌日、寒川神社にいった一連の行動が不審と考えられ、拘束された。彼らは、ぼくが檻をもっていることも分からなかった。しらべてまったく寒川と関係がなければ解放するつもりだったが、なにかを隠していると考えた。それで免許証から住んでいる場所を知り、アパートに侵入して描きかけの絵をもちだした。西沢圭子は、深夜、ぼくの部屋に忍びこむ不審者に気がついた。天狗族が扉をあけるのをみて、警察に通報しようとした。そのとき一味に刃物で刺し殺されたと、亜矢はいった。 ぼくは、眼前が真っ暗になった。圭子とは、自分のアパートに帰るとき部屋のまえをとおりぬける、それだけの関係だった。真面目で、ごく普通の女の子だった。ぼくのことを気にかけてくれたために、彼女は殺されたのだ。富永から檻を譲られたのは、ちかくにいただけだったが、それでも彼とは親友だった。圭子は、なんの関係もない。それが、気にしてくれただけで殺されてしまうなんて信じられなかった。ぼくは、両手で目を覆った。 亜矢は、「お気の毒なことでした」といった。 いったい、こんなにかんたんに人が殺されてしまう「檻」とはなんなのだろう。それほど大切なものなのだろうか。すべてが信じられなかった。 ぼくは、寒川宮司にお目にかかった。宮司は、背がひくく年は八〇歳にちかかった。頭部が禿げ、白い顎髭がながくたれていた。渋谷の占い横町で会ったときとは、別人に思えた。 ぼくが絵描きだったので、宮司はデューラーの版画をみせてくれた。「博士の夢」と題された有名な銅版画だった。男は階段に腰をかけ、暖炉のまえで「怠惰」という名のメランコリーにふけっている。やってきた淫魔が、博士の耳元でなにかをささやいている絵だった。彼女は、どちらかといえば容貌は醜いが、肉感的な身体つきで胸は大きく臀部はもりあがり、むっちりとした大腿部があらわにみえた。 「博士は、白檻にかこまれ、淫魔は黒檻を背負っている。魔女は、耳元で性的なことをささやいている。博士には、彼女がこの世にふたりといない、美貌の女性にみえるのだ。こうした状態で自己をたもつのはむずかしい。くるしい修練をつんだ高徳の者たちが、この瞬間に教えをすてたのだ」と寒川はいった。 じっとみると、ふるい銅版画だったが、たしかにふたりの周囲はやや影になっていた。はっきりしないが、檻にかこまれているのかもしれないと思えた。 「淫魔がやってくるのは、夜ではない。ひとりきりになり、愁いに支配される深夜ではない。太陽が光り輝く白日に、淫魔はどうどうと、おまえの目のまえにやってくる」 寒川宮司は、ふかく嘆息した。 多くの高弟たちが、魔女によって滅ぼされたと話した。 淫魔は、現実の脅威であり、人間存在の根底にすくう性本能の攻撃者であるため対策が立てられない。魔界がはなつた強力な最終兵器であり、銀檻にかわらないかぎり逃れることができない。白檻の者でさえすくえないのだから、淫魔を救済するなど不可能だ。 眞美は、もともと女優でも不思議でないほどの美貌で魅力的な女性だった。しかし、黒檻を譲られ、淫魔となって衰弱した。富永の美意識がとくにゆがんでいたのではなく、もともとの美しい眞美をみたのだ。美貌をほこった彼女は、周囲の女性たちから妬まれて恨みをかい、そのために檻を譲られた。がんらい淫魔は、美しく魅力的な者なのだ。そうした者たちによって、永劫に檻はうけつがれていく。白檻の者が淫魔に襲われ心を許せば、最終的には黒檻に吸収されてしまうと寒川はいった。 白い檻は、ほんらい他人に譲る性質のものではない。そうした委譲が可能なのは、金輪の教団では寒川ひとりにかぎられる。彼は、受戒を希望した者に自分の檻の一部を頭からかけて授与できる。今回、富永に指示をだしたのはケージの由来が不明だったからだ。寒川が会ったときには、彼は眞美にとらえられ、すでに客観的な判断をする能力に欠けていた。自分の檻の由来をいっしょに考えることができる状態ではなかった。こうした経緯から、ぼくがケージをうけついだのは不運な事件だった。富永が檻を所有するにいたった経路は、結局、解明できなかった。 そもそもケージは、金輪の信者が灌頂をうけてえられる「霊的な人間」の印なのだ。寒川が目指すニルヴァーナとは、存在を脅かすものが消滅しているところだ。支配欲とはまったく無縁な、すべてがはじまる以前の子宮内世界ともいうべき場所で、個という概念すらうしなわれ、自分がなんであるのかも考える必要もない、完結した至上神の世界だ。天狗族以外の一般人は、弥勒が注いだ光明を魂に宿している。しかし、天狗族は心をもたないから光がとどまる場所がない。 檻は、自分の欲望が形になったものと考えてよい。ケージを認識するのは、欲にとらわれている現実を視覚的に知ることだ。弥勒の光を記憶した魂は、彼女とともにニルヴァーナへ帰りたいと思う。しかし、欲界の支配をうける身体が心をつかんではなさない。この魂と肉体の関係を理解するのが、光輪の檻を有する者たちだ。ケージを知る者は、霊妙な知恵をもつことから「霊知者」ともよばれる。信者は、光輪の灌頂をうけ、再生しニルヴァーナへの帰郷にそなえねばならない。修行して銀檻に到達できれば、この世の生は一生補処となり、来世は涅槃が約束される。天狗族は、欲望ばかりで心をもたないために霊知者にはなれない。一般人は、魂はあるが欲に支配される肉体という牢獄にとじこめられている現実を理解できない。多くのばあいは、自分が欲望をもつことすら分からない。そして、現世でアルコーンたちの圧政にあえいでいる。 ぼくは、寒川宮司にさまざまなことを教えてもらった。おもに自分をコントロールする手段だった。白檻をもった以上、正式に灌頂をうけて光輪の信者になるのがいいだろうと宮司はいった。檻が自然になくなることはない。どこかで黒檻をもつ淫魔とめぐりあい、理由も不明なままに愛しあい、死ぬ運命にある。修行して銀檻になれば、魔の手にそまることもない。檻をあたえた富永を恨まず、もし情報がえられなかったら、なにがなんだか不明のままおなじ運命を辿ったと考えるべきだろう。 ぼくは、正しく生きるには修行が必要だと知った。光輪の構成員になろうと思った。天狗族は入信したことで、ぼくが至上神の降臨とは無関係だと理解した。拉致する価値がなくなり、害をうける対象からはずされた。ぼくは、自分のアパートを引きあげて寒川神社に寄宿することにした。神社の奥には鍛錬所があり、白檻をもつ者たちが男も女も修行に励んでいた。 一ヵ月後、ぼくは、正式に信者の資格をえるために儀式をうけることになった。 入信式は、灌頂とよばれるものだった。光輪は神道系だったがあらゆる宗教とのシンクレティズムがはげしく、とりわけ密教の影響をつよくうけていた。だから灌頂をさずけるときには、宮司は「阿闍梨」とよばれた。さまざまな宗教のなかで、神道がいちばん自由な発想ができると寒川宮司はいった。 ぼくは、深夜、裸になって奥の院のちかくに湧きでる冷たい水で身体を清め、褌をしめて一枚の白装束をまとった。院に入ると、緑の長袖のシャツをきた亜矢が待っていた。彼女は、踝まであるホックがついたかわったズボンをはいていた。ながい髪に結び目をつくった巫女の姿だった。ぼくは、彼女といっしょにご神体の鏡にむかい、二礼、二拍手、一礼をして常磐木の玉串を奉納した。亜矢の後ろについて背後にまわると、木彫の弥勒菩薩がおかれていた。天井のあかりに照らされた弥勒は、幾度も模写したことがある広隆寺の宝冠弥勒にそっくりだった。 ぼくは、その神々しい姿に息を飲んだ。 ふかい皿に似た冠をかぶるやせた弥勒は、まるい榻座に静かに腰をおろしていた。踏みさげた左足のうえに右足をくみ、右肘を膝につけて指先で頬杖をつく「半跏思惟」の姿勢をとっていた。右手のまげた薬指と親指で輪をつくり、伸びた人差し指と中指で頬に触れようとしている。やや上半身をかがめ、玄奥な愁いにしずむ弥勒の目は切れ長で眉は大きくゆったりと弧を描いている。ほそい鼻筋はとおり、鼻の下の人中線はふかい。唇は小さめにまとめられ、両端を引きしめられ、顎の線につづく。懊悩する彼女は、眉間に皺をよせてもいない。だから後悔というよりは、純粋に人びとの救済策を考えているようにみえる。やわらかい頬は、なめらかで飾り気がなく、宇宙に実存する超越者としての美しさをたたえている。全体のバランスからすると両方の膝はやや大きく造形され、姿に安定感をあたえる。左足首のうえに伏せた左手の甲は、不自然に凹んでみえる。この造形によって女性的なほそさが演出される。いったん左の手首にむけられた視線は、その不自然さからどうしても右の手にもどらざるをえない。そこには、女のしなやかで繊細な指先が待っている。なで肩であるのにおどろき、まぎれもない女性の上半身であるのに気がつく。 ぼくは、亜矢にならって弥勒菩薩にむかって手をあわせ、つつがなく灌頂が終わることを祈願した。 「死ななければ、なりません」と彼女はいった。 「現世で再生しなければ、ニルヴァーナにいくことはできません。復活をはたすのは、来世ではなく、この世なのです。そのために私たちは、生をうけたのです」 ぼくは、亜矢の言葉を聞いて、今日、再生しようと思った。どんなふうに死ぬのか、死亡して生きかえることができるのかも不明だった。 亜矢は、弥勒菩薩の背後にまわり奥の扉をあけた。そこは一段小高くなった場所で、奥の院をみおろし、全景をみることができた。みあげると、満月がでて満天の銀河が輝いていた。その下には、うっそうとした檜の高木にかこまれた三角の形をした池があり、月がうつっていた。中央には小さな島がつくられ、正面に中の島にむかう欄干だけが紅く塗られた丸橋がかけられていた。橋の手前のひろい砂利には丸太がつまれ、護摩が焚かれ、赤い炎をあげていた。 ぼくは、亜矢につれ立って木製の階をおりていった。護摩壇にちかづくにつれ、はげしい熱を感じた。大きな白い布がしかれた護摩は、火炉と紅い橋のあいだにもうけられ、そこには最高神官をあらわす緋色の服で正装した寒川阿闍梨がすわっていた。ぼくは、赤い鉢巻きをまいた阿闍梨のまえで正座をした。 白衣を身にまとった光輪の信者が幾重にもなって、左右から護摩壇をとりかこんだ。周囲の静寂とふかい暗闇のなかで、護摩の火が赤く揺らめいていた。ほとんど風もない領域でくりかえし真っ赤な炎をあげ、まわりの闇を切り裂く音がした。護摩の火炎が真剣に変化し、悪霊が闊歩する暗晦のなかで交錯する刃音が幾度もひびいた。 そのとき、静寂をやぶるかぼそい笛の音が聞こえてきた。高い音色の横笛に気がつくと、暗闇のなかから今度は小さい鈴がひびいた。周囲がいっそうの静寂に支配されると、太鼓のひくい音が聞こえてきた。 「どーん」。「どん」という、ばちの音がして、それがどんどん早くなっていった。横笛の音色が光のない場所から聞こえた。そこに鈴がくわわっていった。 亜矢は、暗い丸橋の中央にすすみ、舞いはじめた。水面に満月がゆらゆらと浮かんでいた。緑の服をきた亜矢は、その光をあび、踊りはじめた。ゆるやかな風がふいた。彼女は、右の腕をかかげ、右脚をあげた。右腕をおろし、左腕をうえに伸ばした。丸橋のいちばん高いところで亜矢は回転し、はげしく踊っていた。太鼓の音が激烈にリズムも速くなっていった。笛も鈴も、どんどん速まっていった。やがて、周囲にいる信者たちが真言を唱えはじめた。篝火が燃えさかるなか太鼓がはげしくうち鳴らされ、彼女はかるやかに舞をつづけた。亜矢が紅い欄干のうえに立つと、護摩の火が緑の衣服に赤い影を落とした。真言を唱和する声がいっそう大きくなり、太鼓がさらにはげしくうち鳴らされた。欄干に立った亜矢は、上衣をとり、ホックをはずすと緑のズボンも脱ぎすてた。彼女は、いまや一糸まとわぬ姿となり、赤い護摩の火につつまれた。結び目もほどけた亜矢の髪は、腰までたれ、汗に濡れて背にはりついていた。護摩の火が、いっそうたかまり、白い裸身を赤く照らした。太鼓の乱れうちとともにとりまく信者の唱和する声が大きくなり、神聖な空間はエクスタシーが支配する興奮の坩堝となった。 紅い欄干に立つ裸身の亜矢は、天空をみあげ、両手を空にむかってかかげた。それから彼女は、左手をおろし、高くあげた右手の親指と薬指をかさね、指をはじいた。 そのとき、「ゴーン」という銅鑼の大きな音が周囲にひびきわたった。 音響とともに、亜矢は直立したままゆっくりと身体を池がわに傾けた。水平になると彼女はとび、頭から暗い池に落ちていった。水しぶきがあがって姿がみえなくなると、周囲をふたたび静寂が支配した。冷たい夜風がふき、護摩の火をあやしく揺らした。 阿闍梨が、ひくい声で護摩壇にむかって呪文を唱えはじめた。煩悩と垢穢(くえ)をとりのぞくために灑水杖(しゃくすいじょう)で甕から香水をすくい、ぼくの頭上にたらした。ながい金属製の柄杓をつかって加持した香油を別の広口瓶からすくいあげ、頭に注いで聖別した。 「死ぬのだ。生きかえるために」 阿闍梨は、大きな声で叫んだ。固い金属製の柄杓を振りあげ、はげしいいきおいで頭部に振りおろした。 ぼくは、そのとき目のまえが真っ暗になった。 なにかを、思いだした。 そうだ。自白剤を飲んだとき、地下鉄が四方を走りまわっていた。誰もいない駅のホームにひとりで立っていた。轟音を鳴りひびかせながら構内に入ってくる電車のライトが、ぼくの目を射つらぬいた。あのとき赤い服をきた、背のひくい侏儒がいた。右の手に重そうな斧をもって、びっこをひいていた。大きな鉄斧を、力いっぱいぼくの頭に振りおろした。その光景。 ぼくの頭は割られ、なかから若い女がとびだした。右手にながい槍をつかみ、立派な兜をつけていた。左手には、大きな楯をもって完全武装していた。手楯には、不思議な絵がかかれていた。その奇妙な図柄をみて、ぼくは石になって死んだ。 そして、気をうしなった。 指導をうけたぼくは、ますます銀檻にちかづきたいと考えはじめた。 五穀だちからはじまる断食、朝の水籠もり、道場内での裸の睡眠など、およそ考えつくかぎりの苦行をかさね、邪淫をとりのぞく荒行に熱中した。ついには、火のなかを裸形、裸足で歩く火渡りまで行うと、檻は輝きはじめた。ぼくは、すでに女性の裸の写真をみせられてもなにも感じなくなり、どの部分もピクリと変化することもなくなっていった。いっしょに修行する者たちからも、敬意をはらわれるほどになった。寒川宮司からは、さらに半年もつづければ、檻は銀色に輝きはじめるだろうといわれた。やがて銀檻にかわり、宮司の後継者になるだろうと金輪の構成員たちが口をそろえていった。 瞬く間に一年がすぎ、桜がさいて散った。富永が死んで、一周忌の日だった。 ぼくは、決して彼を恨んではいないことをつたえて弔ってやろうという気になった。 作務衣のまま電車で東京へでて、日暮里にある墓をたずねた。 不審な死だったので、彼の家族も配慮をしていた。コロナ禍を理由に、人をあつめての法要も企画していなかった。墓地は、閑散としていた。 ぼくは、花屋によって花と線香を買いもとめ、富永の墓石に水をかけて彼の冥福を祈った。帰ろうとしたとき、ひとりの女性がやってくるのが目に入った。 口にマスクをつけていたが、かつてみたこともない素晴らしい美貌の持ち主で、おそらく有名な女優かモデルに違いないと思った。妖艶さは人の範疇をこえ、ぼくは思わずはっとして目をみはった。もちろん女性も気がついて、とても親しげな表情になって笑みを浮かべたのだが、普通では決してありえないほどの艶をもった心を射貫くものだった。女は富永と関係があったらしく、墓に線香を立てて水をかけた。 ぼくは、あまりの艶やかさに戸惑いぼうぜんと立っていた。 供養をすませた女性は、振りかえった。彼女は、ぼくをみて笑みを浮かべた。 それから、なんとはなしにいっしょに歩いて花屋で桶をかえした。つれだって門にむかい、寺院の境内にいった。 そこには、富永の母が立っていた。顔を大きなマスクで隠しても焦燥したのが分かる母親は、ぼくと女性をみてふかぶかと頭をさげ、ていねいにおじぎをした。 「ご連絡もさしあげなかったのに一周忌を覚えていていただき、ありがとうございます」といった。それから、「ずいぶんおやせになりましたが、お元気にお暮らしなのでしょうか」とたずねた。 「お陰さまで、なんとかやっています」と、ぼくはマスクをつけたままこたえた。 富永の母親は、となりにいる女性をみて、「すっかりおやつれですが、おぐあいはいかがなのですか。入院なさったとうかがいましたが、その後はいかがですか」と聞いた。 「いまはようやっとすこし落ちついて、退院してつとめにもでています」 女性は、マスクをつけたままこたえた。 「それでは、私たちはこれで帰ります」 ぼくがいうと、母親はまたていねいにおじぎをして、ふたりをみおくった。 五月だったが、快晴の空から陽光が情け容赦もなく照りつけていた。 「せっかくですから、どこかで冷たいものでもいかがですか」 ぼくは、震える声で聞いた。 「ぜひ、それがいいわ」と女はこたえた。 駅のちかくの喫茶店に入ると、ふたりはアイスコーヒーをたのんだ。 「お綺麗ですね。あなたほどの美しい方に出会ったのは、うまれてはじめてです。なにか、服飾関係のお仕事でもなさっているのでしょうか」 ぼくは、彼女をみつめてたずねた。 「とんでもありません。あなたこそ、こんなに好男子だったなんて、いままでじっとみたことがなかったからぜんぜん気がつかなかったわ」と女はこたえた。 「私を、知っているのですか」 ぼくは、聞いた。 「もちろんよ。ずっと入院していたから、私はすっかりかわってしまいました。幾度もお目にかかっていましたが、あなたはお忘れになったのですか。私は、以前、富永さんと交際していた山住晶子です。それに、あなたの白色の檻はものすごく素敵ね」 「ああ、そうだ。たしかに晶子さんでしたね。とんでもないです。あなたの漆黒の檻は、白い肌によく似合ってものすごくセクシーです」 ぼくは、彼女の目をじっとみつめて話した。 マスクをはずした晶子さんは、かつてみたこともない美貌の主で、傾城ともいえるほどだった。彼女は、ぼくをやさしい目でみつめ、その美しい顔にかすかな笑みを浮かべた。 ぼくらは、近況について話しあっていたが時間は瞬く間にすぎていった。 かつて晶子さんにもっていた思いが、あざやかによみがえった。しばらくみないうちに彼女はさらに妖艶さをまし、ちょっとした仕草もすべてが蠱惑的だった。ぼくの話に相づちをうつ目は、うっとりとし、一切を許しあった恋人にたいする所作に思えた。彼女の表情をみるうち、すっかり我慢ができなくなっていた。 「ぼくは、むかしからあなたに夢中だったのです。今日、墓参りにこようと思ったのは、富永が晶子さんに会わせようとしたのに違いありません」 「あなたの気持ちは、ぜんぜん知りませんでした。とても懐かしいだけではなくて、いまは恋の予感に胸がときめいています。私の鼓動をあなたの手のひらでたしかめてもらいたいと思うほどです。分かりますか」 交差した両手で、自分の胸部をかるくおさえて話す晶子さんは、どこから考えても猛烈なさそいをかけていた。 ぼくは、ここにいても仕方がないと思った。所在なく喫茶店をあとにしたが、我慢ができなくなっていた。 「あなたのことを、もっと知りたいのです」とぼくはいった。 「私も、おなじです」 晶子さんは、ぼくの目をじっとみつめていった。 どうしようかと思いながら歩いていると、ぐうぜんホテルのまえをとおりすぎた。 「ここに入って、あなたともっと話しあいたいのです。こんなことを話すぼくを軽蔑しますか」と唾を飲みこみながらいうと、彼女はだまって首をふった。 晶子さんと、ホテルに入った。ふたりきりになり、手をとってみつめあった。ぼくらは、はげしい口づけを交わした。彼女の舌がつよく口のなかでうごくのを感じた。行為にすっかり夢中になり、堪能した。 そのときふいに、ぼくは、自分が私であることに気がついた。 そして、目のまえにいる晶子が弥勒だと感知した。 彼女こそ、あらゆる存在のはじまりだった。私の脳裏にうまれた素晴らしい思考、ひとつの思い。万有の完全なる予見と同時に、像となった光。目ではみることのできない、私の似姿だった。 弥勒は、下界におりると神々をうんだ。彼女は、神たちに超能力をあたえることに夢中になり、「心」を配するのを忘れた。しかしスパークたちは、人に魂をつくった。 美しい弥勒をみた神々と彼らが創出したアルコーンは、嫉妬からとらえた。どこまでも至高の存在でありたいと考えたアルコーンたちは、自分たちをうんだ者がいることを快く思わなかった。彼女は、とらえられて兜率天にとじこめられた。弥勒は、厳しい監視下にあった第四天を自力でぬけだすことに成功したが、下生したときには記憶をうしなっていた。すべてを忘れた彼女は、アルコーンたちによってあらゆる恥辱をこうむった。そのために私のところに帰還もできなくなり、さらには人間の肉体の奥ぶかくにとじこめられ、何百という時代ものあいだ芳しい神酒がさまざまな盃に注がれるように、女の身体のなかを変遷した。しかし、どれほど奥に封印されていても輝きをうしなうことはなかった。 アルコーンたちは、彼女がみいだされ、至上天につれされるのをふかく危惧した。彼らは、みずからが最高神でないという真実をあばかれ、魂をもった人びとがさり、自分たちが思いのままに支配する欲界が消滅する事態を恐れた。二八天を束ねるアルコーンたちは、厳しい防衛線をしき、至上神の動向を注意ぶかくみはりつづけた。 だから私は、自分を素粒子にいたるまで微塵に細断し、すべての記憶をうしない、雨の一部にまぎれこんで地上に落ちた。そして彼女がえらんだしるしをもつ、ひとりの男のなかに入りこんだ。弥勒は、どんなに記憶をうしなっても周囲に影響をあたえた。彼女の思いが、恋人に檻をつくらせたのだ。 弥勒をえた私は、至上天にもどる決意をした。 そう叫ぶと、知らせは世界中につぎつぎと伝播していった。 晶子も、自分が弥勒であると分かった。目のまえにいるのが、私だと気がついた。 まわりに、寒川をはじめとする光輪の人びとがつらなってきた。 私が至上天にむかって両手をあげると、二八の天がつぎつぎと退いていき、やがて三界をつらぬく倒立する円錐状の光の道がひらけた。 そこは、結界が張られた黄色く輝く光路だった。手をたずさえた私と弥勒は、大きな螺旋を描きながらゆっくりとニルヴァーナにむかってのぼっていった。私たちのあとを、寒川と亜矢、霊的な人間たちがつづいた。そして石木純と山住晶子の血縁者が、さらには富永や眞美と縁者がつらなった。西沢圭子と縁者たちもつづいた。地球上のすべての地域から、天狗族をのぞく善なる者たちが、陸続と粛々と天にのぼっていった。 黄色く光る円錐状になった結界の周囲には、アルコーンたちがはりついていた。 彼らは、映画スターにも思える素敵な紳士たちだった。アルコーンたちは、もがくようにして両手両足を伸ばして結界にはりつけていた。なんとか内がわに入りこもうと、必死に努力していた。しかし、その行為はむなしく、黄色い光によってさまたげられていた。彼らのととのった容貌はゆがんで眉間にふかい皺が入り、容易ならざる事態をみつめていた。 結界の周囲には、たくさんの素晴らしい美女たちが群れていた。彼女たちは、豊かな胸とおどろくほど括れたウエストをもった魅力的な肢体をしていた。白い肌は、染みひとつなく、ながい黒髪は黄色い光をうけて輝いていた。魅惑的な女性たちは、美しい顔に眉根をよせて、深刻な表情でぼうぜんと私たちをみつめていた。彼女たちは、なんとか結界のなかに入ろうともがいていたが、黄色い光束をやぶることはできなかった。悲痛の叫びをあげて地団駄を踏んでいた。 アルコーンたちは、この事態に手をひとつだすこともできなかった。彼らは、私たちがニルヴァーナにゆっくりとのぼっていく様子を、ただぼうぜんと口を緘してみているしかなかった。 欲界の最上部には、素晴らしく容貌のととのった男がいた。一目で、彼が王だと分かった。波旬は、私と弥勒がみえるとくんでいた腕をといだ。額に手をおき、さらに両手で顔面を覆った。真一文字に口をとじ、悲しげに曇った表情でだまってみつめていた。 色界にのぼると、虎の皮の下着をつけた裸形の男性が待っていた。背が高い蓬髪の男は、猛烈ないきおいで円錐状の結界に体当たりしていた。しかし、黄色い光路は、揺るぎもしなかった。 やがて地上には、一億あまりの天狗族だけがのこった。 彼らはまた戦いをはじめ、最後には核のボタンが押された。 弥勒をみつけた日、二一一枚、了