ホテル・ウエルカム 由布木 秀 一、ホテル・ウエルカム 「ちょっと、きてくれよ」とハッサムはいった。 彼は、部屋の左にある大きな窓からゴドリアの街をみていた。 「いま、でてくるんだ」 ハッサムは、振りかえってベッドのうえで胡坐をかく竜司をみつめて、真剣な表情でいった。 「みたって、仕方がないんだろう」 竜司は、一週間まえの新聞を読みながら、ぶっきら棒に答えた。 ハッサムは、おしゃれで、いつでもパリッとした上下をきて、ズボンの皺もずいぶん気をつかっているみたいだった。顔も腕も浅黒くて、顎に髭を生やしていたが立派なものではなかった。 イスラムの男の髪は、だいたいもじゃもじゃだった。服にはあんなに気をつかうのに、頭はこれでいいとするのか。竜司は、ハッサムをみるたびに思った。テンパの黒髪もふくめて、ふたりは外見がよく似ていた。どちらも、瞳は黒く眼鏡をかけていた。彼はふたつ年上だったが、おなじように痩せていたから、ふたりは兄弟に思われたかも知れない。 竜司は、もともとは色白だったが、この国を旅しているとあらゆる部分が順応して変化をはじめた。汚れたのか焼けたのかどちらでもいいのだが、最初はあきらかに日本人だったが、だんだんみんなから中国人やタイ人と間違えられはじめ、いまではチベッタンと思われたりした。ここにもやはり順序があり、このばあいにかぎっては日本がいちばん上位だった。序列は、中国人、タイ人、ネパーリとつづき、最後がチベッタンで、これより下はないみたいだった。精神的にも肉体的にも、どこもかしこもが、インドの影響をうけていたのだった。 ハッサムは、この家の長男だった。ゴドリア・ジャンクションのやや北に位置する三階だてで、こんなコンクリート製のホテルをもっているのはだいたいがイスラム教徒で、「金持ち」とよんでもいいと思った。 三階の道路に面した八畳くらいの部屋には、ベッドとシャワー室がついていた。あったのは、それで全部だった。入り口をあけると、正面と左の壁に窓が切られていた。やや大きな左窓からは交差点につづくゴドリアの繁華街を一望できた。三階だてはこのあたりではすくなかったので、そこからながめると街で起こっていることがだいたい分かった。正面の小さな窓の下にベッドが縦におかれ、枕がわの右壁のすみには、小さいテーブルがあった。その壁の入り口がわに、もうひとつ空間がつくられ、そこがシャワー室だった。竜司は、この部屋に六週間、ひとりで泊まっていた。 とはいっても、じつはリルケと同棲していた。彼女をどう思っていたのか、ひと口ではいえない。必要としたのは、事実だった。リルケが、竜司をどう思っていたのかは分からなかった。彼女はどちらかといえば、彼を無視したから、たがいに干渉しないようにしていた。以前は、この部屋に俊和がいた。竜司は、よくここでいろいろな話をしたが、リルケについては聞いた記憶がなかった。だから、俊和がホテルから去った四ヵ月まえから、彼がくる六週まえのあいだに、どこからかうつってきたのだろう。あとから入ってきた者に、彼女が遠慮する理由はなにもなかった。 リルケは、いつでも壁を自由にうごきまわっていた。真っすぐのばあいも、横切ることもあって、状況には無関係で、彼女の気持ちひとつだった。リルケは、ときどき天井にいて、肩で大きく息をしていた。よっぽど急いでいたのだろう。どうして、リルケが天井にいられるのだろうか。吸盤があるとは思えなかったし、みていてもよく分からなかった。天井は平面にみえるが、実際にはごつごつし、小さな隆起をしっかりと足の指でつかんでいるのだろうか。 ときどき、リルケは落っこちてくる。床のばあいも、運のいいときはベッドだったりする。気まぐれで、竜司の顔のうえに落下することもあった。ぬるっとした感触はあまり気持ちのいいものではないが、えらんで落ちるのだから、リルケはきっと女なのだろうと思った。そうして親愛の情を示しあって肌をあわせると、いちおうは顔をあらうことになったが、殺そうとか、追いだそうとか、そういう気分にはなれなかった。 「きてくれ。早く、早く」とハッサムは竜司をみて、右の手をさかんに振りながらいった。 「でてきたんだ」 ハッサムがみていたのはゴドリアの交差点にむかう道で、二〇メートルくらいの幅があるベナレスの中心街だった。人口密度は高く交通量も多いが、自動車はすくなく、ほとんどがリクシャーで自転車が二人乗りの座席がついた車をひっぱっていた。 当時の交通手段は、歩くか、人力車かの選択にかぎられていた。バスもあったが、普通の旅行者にはのれなかった。これはみないと分からないことのひとつだろう。ようするにバスは、乗車する者からお金をとって運行していた。当たり前にも思えるが、身体が外にあれば「のってはいない」ことになった。ほとんどのばあい、バスの出入り口には、ぶどうの房状に人がたわわにぶらさがり、簡単には車内に入れなかった。彼らは、のっていなかったので、バス代を払う必要がなかった。 リクシャーは、手軽な乗り物だった。貸し切りだから、ひとりでも、ふたりでも、おなじ料金のはずだった。しかし日本人なら、人数分を要求された。万事がそうだったから、旅をするあいだに、だんだんチベッタンになるのは無理からぬことだった。安全に旅行するために、旅行者たちにとって必要な防御手段だった。 夏のベナレスは、日中のひとときには四〇度以上になった。限界を知らない日の光がふりそそぎ、汚れ切った世界をすべて消毒していった。圧倒的につよい日差しによって、あらゆるものは焼きつくされた。そこには例外がなったから、雲もすべて蒸発し、空はいつも真っ青ですき通っていた。いっぽうが力を限界まで行使したのだから、とうぜん反動も大きくなるわけで、とつぜん雨滴がぽたぽた落ちてきたと感じると、猛烈なスコールがはじまった。 雨がふるのは、ひとつの風情だとずっと思ってきた。ぬれていきたい春雨でも、憂鬱な五月雨でもそうだったし、秋の物思いにふける霖雨でも、高く晴れわたった空から氷雨がとうとつに冬の便りをつれてやってくるのも、歌や詩ができる素材だと考えていた。この国の雨には、風情がなかった。とつぜん天空がナイアガラに変わるのだ。時間にすれば三〇分はふりつづいてはいないと思うが、どれほど空が物持ちがよくても一度にこれだけの量の水をあびせかければ充分だった。ひどいときには一メートル先もみえなくなり、すべてのものが立ち往生した。どんなに熱によって乾ききった地面でも、いっぺんにはこれだけの雨を吸収できず、街中が水浸しになった。ゴドリアの中心街が三〇センチくらいの水溜まりに変わるのだった。メリハリがつきすぎているだけで、なにか詩のひとつでも詠もうと考える、そんな余裕はどこにもなかった。 とはいっても、何事でもそこならではの情緒があり、過激なスコール後のゴドリアは語りつくせぬ趣をもっていた。 竜司は、その様子を窓からずっとみていた。 一面の海のなかで車もバスも走れなくなり、雨がやみ冠水した道路から水が自然になくなるまで立ち往生していた。ここが、リクシャーの出番だった。激しい雨にうたれた自転車の運転手は大声で叫びながら、役に立たなくなった自動車に水しぶきを吹きかけ、水をえた魚になって走りまわっていた。 「どんなに進歩した機械だって、しょせんはこんなものだ」 彼らが大声で喚いていたのは、そんな内容だったと思う。とくに夜、水禍のなかで力なく道路に立ち往生する自動車の黄色いライトに照らしだされ、おびただしい数のリクシャーが自由自在に街並みを走りぬける様は、紫に揺れて輝いていた。 竜司がまったく違う雨の風情をみた左の窓から、いまはハッサムがゴドリアをながめていた。彼は二五歳で、なんの仕事をしているのか、分からないやつだった。意図はまったく理できなかったが、しょっちゅう服をかえていた。一日に最低でも四回は着替え、おなじ格好で街にでかけることはなかった。 ホテルの経営はハッサムの父親、ダニアールがやっていた。かなり年寄りで、額にも頬にも皺がきざまれていた。とくに額部のものはふかかった。髪の毛は真っ白でみじかく、白い顎髭をながく伸ばし、いつでも白っぽい服をきた、ごく普通のイスラムにみえた。ハッサムがダニアールの長男だから、年回りから考えると六〇歳にはなっていないと思われたが、回教徒の年は分かりにくく、枯れた感じで七〇歳くらいに思えた。ホテルの玄関にある軒先で、朝から晩までロッキングチェアーを揺すって暮らしていた。 雰囲気は、サドゥーだった。これは、サンニヤーシー、出家遊行者で、修験者とか山伏というほうが分かりやすいだろう。みんな、この街で彼岸に辿りつこうとしていていた。白い清楚な服をきたダニアールは、なんの欲もなく、悟り切った風情でロッキングチェアーに揺られていた。しかし彼は、ゴドリアに宿屋をもち、複数の妻と四人の息子がいる完璧な「金持ち」だった。 ホテルの宿泊者に朝食をつくるのは、ダニアールの末っ子、ザリムの仕事だった。ザリムとハッサムは、腹違いだった。そのあいだに、ナッシアという次男とザービルという三男がいるが、どういう血縁関係か分からなかった。ただハッサムは、ダニアールのあとをついでホテルの経営をする、イスラムの生活が保証されていた。ザリムには、どんな未来が待っているのだろうか。二〇歳にもならない彼は一日じゅう仕事に従事して、額にはいつも大粒の汗が浮きでていた。長男のハッサムが、なにひとつしないのとは対照的で、ふたりは両極端だった。 考えてみても、ザリムはいちばん下だから、なにかがもらえるとは思えなかった。うえの三人が死んでしまえば、ホテルをつぐことも絶対ないとはいえないが、一等の宝くじにあたる確率なのだろう。現実には、ザリムはサーバントで、家にのこるためにはなんでもしなければならなかった。竜司の朝食をつくるのも、部屋の掃除も、みんな彼の仕事だった。もちろんザリムがうけもっていたのは、ホテルとしての不特定多数者にたいする業務で、家事はべつのだれかがするのだと思う。 ダニアールは、金持ちのイスラムだったから、たぶん三人以上の奥さんがいた。回教徒は一夫多妻で四人までの妻をめとることが許されているが、結婚にはヒンドゥーが持参金を要求するのとは違って、結納金をつまねばならなかった。妻たちを公平にあつかわないと、夫は離婚を申し立てられ、賠償金を払う必要があるらしい。複数の嫁をめとって楽しい生活ができるのは、かなりの金持ちにかぎられていた。 どんな力関係でダニアールの家庭が成り立っているのか、これには興味があった。竜司にとっては二度目のベナレスで、前回は二週間、今回は六週間泊まっていたが、この家で女性をみたことはなかった。なにかの折、黒装束の年配の女が、ホテルの内庭で洗濯物を干しているのをみかけた。彼女は、竜司がみているのに気づくと、すぐに隠れてしまった。何番目の婦人になるのか知らないし、聞いていいのかも分からない。内庭はホテルの建物にとりかこまれ、うす暗くてよくみえなかった。それ以上は分からなかったし、声をかける雰囲気でもなかった。内庭は直射日光はあたらないが、やはり暑くて乾燥しているから、洗い物を干すには最適だった。 ホテルの女たちは、いつも隠れてみたことがない。日本でイスラムの女性というと、黒い服とマスクを思い浮かべ、黒装束で肌さえ覆えば、どこへでも出歩けるのだろうと考える。実際にはそうでもなくて、神さまみたいに姿もみせない者らしい。とくに卑しいブッディストが相手では、なおさらだ。 これは、ヒンドゥー教徒よりも、ずっと増しだ。ヒンドゥーの上流階級の女性は、竜司の姿をみつけると、乞食か不可触民をあつかうぐあいに、左の腕をあげて手の甲をうちから外に何度も振った。 「あっちへいけ」ということで、身振りだけで言葉もかけないし、なかには天をあおいで鼻をつまむ女もいる。 「自分の臭いを、知っているのか」 そう、聞いてやりたい。竜司だけが、くさい臭いをだしているみたいに、これみよがしに鼻をつまむ。このばあいは聖なる右の手をつかう。これ以上に不愉快な出来事はなかった。そばにすわるとたいへんで、サーバントが何人もやってきて、わけの分からない言葉をギャーギャーと叫ぶ。竜司が生きていることから、悪いみたいだった。ベンチにすわっただけで、権利があったはずだが、ほんとうはそうでもなかったらしい。どこからみても竜司はヒンドゥーではなく、日本人でもチベッタンでも関係なく、彼女にとっては紛れもないアウトカーストだった。触れるなんて考えられない暴挙で、目に映るだけでも穢れる存在なのだ。ヒンドゥー以外は人間とは思っていないのだから、人権なんてはじめからなかったのだ。 だから、だまって隠れてくれるイスラムの女のほうが、ずっと増しで、この家には子供が総勢で何人いるのかも分からなかった。男はたしかに四人らしいが、ハッサムに聞いても教えてもらえないし、ザリムは押しだまっていた。ご婦人たちと娘たちと、一〇人くらいはいるはずだと思うが、内庭でみかけた女以外ひとりにも出会ったことがなく、不自然で不思議なところだった。もちろん勝手口があって、女たちはそこから出入りをするのだろう。その気になってホテルのまわりで観察していれば会えるかも知れないが、それほどの価値はなかった。わざわざインドまで、ダニアールの家庭問題を調査しにきたのではなかった。このやり切れない暑さのなか、外でただ待つなんて不可能だし、とてもそんな気にはなれない。時間はあるからなにをしてもいいが、不必要な興味まではいらない。 ハッサムとは、それなりにやっていたのだった。話によれば、彼には相思相愛の相手がいて、道路をへだてた斜向かいのイースティン・ホテルを経営するバラモンの娘で、名前はナンディーというらしい。その女性は、ベナレスでいちばんの美人だそうだ。 「愛しあっているんだ」とハッサムは額に皺をよせて、深刻そうにいった。 「口もきいたことがないんだろう」 思いつめた表情に、竜司は頭をかかえていった。 「目をみれば分かる」 ハッサムは、そう主張した。 「馬鹿ばかしい。そういうのを思いこみっていうんだ」 「みつめあったんだ。おなじ民族なんだ。目で会話することができる」 「ナンディーが目つきで、おまえを好きだといったのか」 「そうなんだ。でも、カーストが違う。ナンディーは二〇歳だし、金持ち同士だ。釣りあいはとれているが、問題はカーストだ」 「馬鹿ばかしい。どだいひとりよがりの話で、相手の意思も分からないのに、ロミオとジュリエットか」 「なんだ、それ」 ハッサムは、目を大きくみひらいて竜司に聞いた。 「くだらない、日本の昔話だ。ナンディーは、なにをしているんだ」と竜司は聞いた。 「大学生だ」とハッサムは答えた。 その答えは、竜司にはいささか意外だった。彼は、ボンベイで女子大にいってみたことがあった。インドの若い女性と話がしたかった。息のつまるカーストのなかで、男と女のあいだに不合理で大きな差別がある世界で、教養をもつ妙齢の女性たちが、いったいなにを考えているのか、聞いてみたかった。ボンベイで女子大をさがすとふたつみつけた。泊まっていたサルベーションアーミーから、ちかいほうにいってみた。大学の名前は忘れてしまったが、門のまえには立派なコンクリートで舗装された道があり、校舎にむかってひろい石畳の歩道がついていた。さえぎるもののない炎天下、竜司は女の子をずっと待っていた。猛烈に暑い日だったが、彼には耐えることができた。竜司は若くて、まだ二七だった。 女子大には、多くの学生がいた。当たり前だがみんな女だった。サリーをまとった者も、おなじ色の上下に分かれたスーツをきている子もいた。「きっと制服だろう」と竜司は勝手に思った。正門のまえで、彼女たちをじっとみていたのだった。しかし、話しかけるチャンスがなかった。どの娘も竜司が日本人だと分かったみたいだったが、ほんとうは中国人に映ったかも知れない。そのころは、まだインドをまわって日も浅かったので、チベッタンとはみられなかったと思う。竜司は彼女たちから、どうみなされもよかったのだが、ひとりでいる女の子がみあたらなかった。だいたいふたりで手をつなぎ、割りこむタイミングがなかった。目があって微笑を浮かべた娘も幾人かいたが、話す「きっかけ」がつかめなかった。 みつめあって感じたのは、彼女たちも東洋の果てからきたと思われる竜司に興味をもったみたいだった。この国の人は、普通と違う者には関心を示すが、若い教養のある女性もおなじだった。 残念なことをひとつ話すと、女性たちは考えていたより綺麗でなかった。最初のころは、ほんとうに幸せだった。なにしろ道ですれ違う女性が、みんな美人にみえた。彫りがふかい顔立ちにドキッとすると、女のまわりには、顔を中心に憂いや翳りがオーラになってとりまき、神秘的で厳かと感じるほど魅力的だった。それは、有頂天だった。みえるかぎりの美人にかこまれているなんて、たとえ言葉が交わせなくともハーレムみたいなものだ。そこまではいかなくとも、その手前にはいたはずだった。 旅をつづけるうちに、分かってしまった。度胸がすわって目がこえて、相手をよくみる習慣がついていた。じっと正視すると、みんながそんなに綺麗じゃない。だれもが美人だなんて、竜司の勝手な幻想で、残念だが現実にはそうでないほうが多かった。 この国の人たちは遠慮というものがなく、自分と異なる者をみるとどこがどう違うのか、しっかりみつめる。日本では不具者がいると、直視しないのが礼儀として両親から教わる。じろじろみられっぱなしで、竜司もはじめは苦痛だった。一ヵ月もすごすと、やはりこの視線にも慣れるから、人間はなんにでも染まってしまう生き物らしい。観察されつづけた期間が終わると、今度は竜司も遠慮なく、じろじろみるがわに自然になって、がぜん面白くなった。不思議なものはなんであっても、よく分かるまで、納得するまで徹底的に凝視したのだった。だからそのころは、もう日本人ではなくてチベッタンにちかづいていたのだろう。 ボンベイでも、ついふらふらとよっていく、それほどの美人には残念ながら会うことができなかった。でも、そこそこならインドの若い女の子と話がしてみたかった。普段の生活のなかで、なにを考えているのか、宗教についてどう感じるのか、聞きたかった。できれば、学生がいいだろう。学問や教養があるほうが、きっと面白いだろう。カーストについても話したかった。インドやイスラムの女性がおかれている地位や結婚について、話しあってみたかった。女で教養があるとはいっても、あの太った、おばさんたちはいやだ。とても話す気には、なれなかった。 「ハッサムは、大学にいったのか」と竜司は聞いた。 「いや高校までだ。おれは、ホテルをつぐだけだ。それで充分なんだ」と彼は答えた。 ハッサムが高校までなら、ザリムは中学までだろう。そのくらいの差をダニアールは、はっきりとつけてやるだろう。ザリムが、決して間違えないために。 「そこだけで、もう不釣りあいではないのか」 図星だったらしく、ハッサムはだまった。 「教育に、カーストはないのか」と竜司は聞いた。 ハッサムのいう通りベナレスの中心街でホテルを経営するのだから、商売敵というより、まずはおなじ氏姓だ。彼が違うといったのは、宗教にたいしてで、回教徒とヒンドゥーでは共食できないから通婚も不可能だ。ハッサムの家系は、イスラムではアシュラーフというバラモンに相当する高位のカーストだから、「釣りあっている」というのはべつに間違いではないのだろう。 「ナンディーの家は、わりと自由なんだ。ちょっと変わっていて、親父さんは話の分かる人らしい」 ハッサムはなにを思ったか、じっと竜司をみつめると急に変なことをいいだした。 「教養のカーストは、いいとしよう。その話の分かるナンディーの親父さんなら、モスレムとの結婚も許すのか」 竜司は、ハッサムに聞いてみた。 「それは無理だ。釣りあいがとれていないのは、そこだけなんだ。でも愛しあっているんだ。その日本の昔話とおなじさ。おたがいに報われない恋なんだ」 ハッサムが真剣にいったので、思わず竜司は吹きだした。 「なにがおかしい」 ハッサムは、語気をつよめた。 「ダニアールに相談してみたらどうだ」と竜司はいった。 ハッサムは、だまった。彼は、馬鹿ではない。だから、ダニアールは跡とりに決めたのだ。ハッサムは、この悲恋物語をだれとしたらいいのか、それくらいは知っている。友人にもこんな話はできないから、竜司が相手をしてやっているだけだった。 「プラトニックだな。それも、かなりだ」といった。 竜司は、プラトンが好きだった。著作を読むと、理由はよく分からなかったが心が落ちついた。 「なんだそれは。ものの名前か、場所の名称か」 ハッサムは、真剣な表情で聞いた。 「昔のギリシア人の名だ。哲学者、物事を考える人だ。サドゥーみたいなものだ。その人がいったんだ。正しいもの。善い事柄。美しい事物。これらは、ひとつだってな」 竜司はいった。 「それは、コーランにもかいてある。アラーも、そういっている」とハッサムは応じた。 「まあ聞け。魂と肉体は、べつべつの、ふたつのものだというんだ。ようするに、心と身体だ」 「当たり前だ。魂と肉体はべつべつだ。コーランにもかいてある」 「だから、おまえの恋は、魂の部分だ。純粋に、心で起こっているものだ」 「その通りだ。おまえはやっぱり分かってくれた。おれが思っていた通りのいいやつだ」 ハッサムは、えらく感動して竜司の手をにぎりしめた。彼には、その両手が幾分か汗っぽく湿って感じた。 「純粋に魂の部分で、ナンディーとは愛しあっているんだ。それで充分なんだ。今度、みせてやる。おまえの部屋からみえる。いっしょにみよう」 ハッサムは、真剣にいった。 ザリムは、家事をすべてするから四六時中、いそがしそうに働いていた。年は一七、八歳で、身長はハッサムよりややひくく、腹がでていた。肌は黒くて、半袖の灰色がかったシャツ以外の上着をみたことはなかった。汗っかきで、いつも額に玉の汗を光らせて、なにかというと左手の甲で眉のうえをぬぐう仕草をした。それとも、どんなときでも働いていると周囲にみせるのが、ザリムの仕事だったのだろうか。そばからみるかぎり、この兄弟は、ほとんど主従の関係だった。ハッサムに嫌われれば、彼は家にいられないのではないか。どこにいくのかは知らないが、そのくらい差が厳格に決められている感じがした。もちろん、ザリムは結婚もできないのだろう。いちばん下にうまれたのだから仕方がないことで、イスラムの神さまが決めた、うけ入れなくてはならない現実だ。 四人の兄弟のなかで財産をもって結婚できるのはハッサムだけで、兄弟四人分の妻をひとりでもらうので数はあっている。彼が妻たちと何人、子供をもうけても、やはり長男に家督をゆずるから家は永遠につづくのだろう。 ホテルの名前は、「ウエルカム」という。竜司がベナレスにくるのは二度目で、前回と今回のあいだに三ヵ月の空白があって、南インドとランカを旅していた。まえに泊まったときは、おなじベッドに俊和が寝ていた。ハッサムが、ひきあわせてくれたのだった。 俊和は、竜司と会ったとき、すでに二ヵ月以上ベナレスにいて、ずっとウエルカムに泊まっていた。彼は半年間、インドやスリランカ、バングラディシュ、パキスタン、アフガニスタンと放浪し、最後にネパールに入り、そこで肝炎に感染した。ハッサムが紹介してくれたとき、俊和はガリガリに痩せて真黄色で床にふせっていた。肝炎が長引いて、ウエルカムで静養していたのだった。 二、俊和 インドで起こった仏教には、八大聖地とよばれる場所がある。 俊和の話によれば、はじめはそれほど大それたことを考えてはいなかったらしい。まずブッダガヤにいき、それから釈迦の死後に説法をまとめる、初回の仏教結集が行われた、日本では竹林精舎とよばれる、ラージギルにいったらしい。そこで釈尊がうまれた、ルンピニー。悟りをひらいた、ブッダガヤ。はじめて説法した、サルナート。入滅の地、クシナガラという四大聖地のほかに、竹林精舎、ラージギル。第二回仏教結集の場所、ヴァイシャーリー。舎衛城、祇園精舎、マヘート・サヘート。母親マーヤーのために天界にのぼり天人たちに法をつたえ、ふたたび地上におりたとされる、サンカーシャをくわえると八大聖地になるのを知った。全部いこうと思いたち、順番にまわりはじめた。最後にクシナガラにつき、釈迦の気持ちにいくらかでもちかづきたいと思い、ルンピニーまで歩いたらしい。 「あれで、終わってしまった」と俊和はいっていた。 ルンピニーはネパールにあり、バスでカトマンズにいき飛行機で、パトナにもどってきたのだった。 「その道は、猛烈に暑かった」と俊和はいっていた。 「釈迦はルンピニーをめざして、ヴァイシャーリーからクシナガラまで歩いたのだ。おれの道のりと、おなじくらいだ。釈迦は、八〇歳という高齢で、下痢をしながら歩いたのだし、道は二五〇〇年まえより整備されているはずなんだ。それがもの凄くたいへんで、くたくたになって、インドの大地を移動するのは、こんなにも疲れ果てるものかとしみじみ思ったんだ。ルンピニーで宿に泊まったら、そこの親父が、よくその状態で歩いてきたって。ひどく驚いてな」 俊和は、暑いから生水を飲みつづけ、肝炎に感染し、ルンピニーについたときにはすでに真黄色で、だれがみたって黄疸がでていた。養生して、寝ているしかなかった。とはいっても、そうそう横臥してもいられなかった。俊和の肝炎が長引いていたのは、幾分でも楽になると、のこのこ街にでかけるからだった。そのおかげで、ベナレスのことは、すみからすみまで知っていた。竜司は、街のさまざまな事情を俊和から教わった。どの料理店がうまいとか、どこのガートが面白いとか、そんな事柄からはじまり、近道とか、ホテルの家族構成がどうなっているらしいとか、あらゆることだといっていい。彼は、滅茶苦茶に詳しかった。 俊和は、竜司の三つ年上で、病気のせいもありガリガリに痩せ、髪は坊主にしていた。ベナレスで理髪店に出向いたらしい。 床屋といっても店があるのではなく、男が道にいるだけだった。裏通りで、ひどい臭いがする場所で、カミソリをもった男性が立ち、人がすわる木箱がおいてあった。微妙な髪型の話はできないから、俊和は「ショートカット」といった。そうしたら景気よく髪を切られて、気がついたら坊主になっていた。こんな路地に突っ立って、一本のカミソリだけで商売をしているのだから、床屋の主人は一生族、シュードラで、チベッタンがいくには分相応だった。 「汚い。髭をそるのに、石鹸とかシャンプーとかいうものがない」 「なんでやるんだ」 「そばにおいてある水だ。瓶に入り、それで湿らしている。なんだか分からないもんだ。だれのも彼のも、髭はみんなそこに入っている」 「それは、ひどいな」 竜司も、うなずき同意した。しかし俊和の髭をそって、そのあとに消毒もしないで髪を切られるつぎのインド人は、肝炎になるかも知れない。それも、かなり迷惑だったに違いなかった。 時間があると俊和の部屋へいって、竜司はよく話をした。それがいまの彼の住まいだった。外国を旅していると、もの凄く親しくなれる者がいる。会った人、だれでもとはいかないが、いろいろなことを話しあうばあいがあって、俊和とはそうした関係だった。話があうかという次元ではなく、出会うためにうまれてきた。いつか、たがいのことを話しあう。それが、ずっとまえから決められていた。そんな感じだった。飾る必要もなかったし、好きなことを話してよかった。時間は無限にあり、出会ったのがインドの聖地ゴドリアだった。だから、いっそう親しくなれたのだった。 俊和とは、何度もいっしょにゴドリアを歩いた。どんなときでも喧騒が支配していたが、新宿みたいな魔界ではなく、ちかくに神がいると感じさせてくれる、たとえられない場所だった。タージマハルがあるアグラは、京都に似た観光地だった。ベナレスは、世界でたったひとつの場所だろう。その中心がゴドリアで、ぶっそうな歌舞伎町と神聖なヒマラヤが、同時に存在する不思議なところだ。 「この国の女の子と、話がしてみたい」と竜司はいった。 「どんな子が、望みなんだ」と俊和は聞いた。 「綺麗な女性がいい。頭がよくて、教養があって」 竜司は、ボンベイの女子大のまえで炎天下をすごした話をした。 「終わっているな。おまえ、まだそんなこと思っているのか。マスクのいい男と、友だちになりたいのか。おまえの基準て、そんなもんなのか」 俊和は、小さく頭を振りながらいった。 「たしかにそうだな。美男子の友だちが欲しいとは思わない」 「そうだろう。そんな年になっても、まだこんな簡単なことが分からないのか。綺麗な女の子のどこがいいんだ。おまえは、なにに惚れるんだ。ただの外見なのか。見た目がよければ、それでいいのか。だいたいそんなに、なにもかもそろった女、日本にだっていないじゃないか」 たしかに、そうかも知れなかった。 「顔が綺麗かどうかはともかく、教養のある、若い、この国の女の子と話がしてみたい。インドの女性がおかれている不合理や、カーストの問題について話したい。どう思っているのか。生で聞いてみたい」 竜司が真剣にいうと、彼はだまっていた。 俊和は、受験校として有名な都立高校を卒業したが、大学にはいかなかった。「報道カメラマンになりたかった」といったが、なぜカメラマンへの希望をすてたのか、そのときは話してくれなかった。 「三里塚では、ずいぶん写真をとった。めくらどりだ。あとで現像して、なにが写っているのか楽しみだった。五〇〇〇枚もとった」といっていた。 いつだったか、竜司が俊和の部屋をたずねると、ザリムとなにかをいいあうのが聞こえた。彼が入ると、気まずいムードが漂っていた。 「なにを、もめているのか」と竜司は俊和に聞いた。 「大したことじゃない」 俊和が、「もういい」と声をかけると、ザリムは神妙な面持ちででていった。彼が部屋から去ったあとで、「なにがあったのか」と竜司は聞いた。 「つまらないことだ」 炭酸飲料の栓をぬく俊和をみて、なにが起きたのか竜司にも経緯がすこし分かった。先ほどザリムが「リムカはいらないか」と御用聞きにきたのは、彼に頼まれて買いにいく、ついでがあったのだろう。そのときは、「よく気がきくな。こんな雨がふっているのに」と思ったが、じつは駄賃をふたりからもらおうと考えたのだ。 俊和は、ベッドに横臥していた。正面の窓の下にあるヘッドボードに枕を縦におき、それを背に半臥位になっていた。痩せて、身体は真黄色だった。髪も坊主で、どこからみてもチベッタンだったが、実際は知性にあふれていた。いつも世界中で起きる、さまざまな出来事を考えていた。 「どうしてこの国の人間は、ありがとうっていえないのだろうか」 彼は、とつぜん呟いた。 雨がふりはじめ、スコールになりそうだったが、俊和はどうしてもリムカが欲しくてザリムに頼んだ。彼は竜司のところにもきたから、一回でふたり分の駄賃が入るので、うまくやったと思って買いにいったのだろう。それは俊和には預かり知らないことで、わざわざ雨のなかを往来してくれたのに感謝して、いつもの倍のチップをあたえたらしい。そうしたらザリムが喜んで、「タンキュー」といった。 それが、俊和の癇に触ったらしかった。 「なぜ、いつも英語でいうのか」と彼は聞いた。 「ヒンディー語ではシュクレアー、ウルドゥー語ではダニワードという言葉がある。なんで、おまえは自分の国の語彙を一度もつかわないのか」と俊和はたずね、「一回、いってみろ」と話した。 ザリムは、じっと口をつぐんで、こまった顔で立ちすくんだ。この場面で、竜司が登場した。 「分かるよな。なににだって序列があるんだから。シュクレアーなんて、口がさけてもいえないんだろう」 俊和は、ぽつりといった。 感謝というのは、おなじカースト内で、はじめてあらわれる感情だろう。上下の関係が厳格に固定された社会では、カーストをこえる発言は命令と服従だけなのだ。だから、「お願い」も「ありがとう」もないのだ。 ザリムの「タンキュー」という言葉は、「やあ」とか「これで」とか、そんな意味あいのかるい文句だった。自分は仕事をしたのだから人からとやかくいわれる筋合いでもないし、礼を述べる必要もなかった。 「ザリムをみていると、考えてしまうんだよ。この国には、人がうまれた分に応じて果たすべき三つの義務がある。まずは、社会的義務であるダルマ。つぎに、経済的利益を追求するアルタ。最後に、直接的な快楽を望むカーマだ。しかし、無闇にこれらを追いもとめてはならない。アルタは、ダルマに従属し、こえてはいけない。カーマは、序列がいちばん下だ。ダルマにも、アルタにも、劣位になる。だから、配慮が必要なんだろう。ザリムは、サーバントとしてダルマを行い、それによって駄賃、アルタを追求しているんだろう。彼は、自分の身分に応じた義務を果たしているだけだ」 俊和は、考えながらいった。 「シュクレアーという言葉は、どんな感じなのだろうな」と竜司は聞いた。 「命にかえてもとか、簡単にはかえし切れない恩にたいしての発言なんだろう。あらゆるものに序列がある。カーストの体系は一列ではないから、おれとおまえのあいだでは順序は不明確だろう。とはいっても、おれたちはいっしょに食事もできるし、たがいにものをあたえあうことも可能だ。おなじサブカーストなのだろうが、それでもなんらかの順序はあるはずだ」と俊和はいった。 「ぼくらのあいだでは、どうでもかまわないが、ヒンドゥーの神のまえでは、一度決められた序列とは、意味が違うんだろうな」 竜司は、答えた。 「この国は、不思議だ。西洋は、建前では人権をみとめ、平等と公平を謳っている。東洋は中国が代表で、世俗が権力をにぎり、宗教は基本的には禁止されている。イスラムの世界は、またべつだ。中洋では、宗教が権力の中枢にいる。ところが、この国の基本は祭祀と王の二重権力構造だ。四つの文明圏は、相互に容易に理解できない違った洋で、インドを深洋と名づけてもいい気がする。ヴァルナ体系は古典的だが、なくなっているわけではない。氏姓、ジャーティーこそがカーストだが、ヴァルナと入り組んで複雑だ。結局、組織体系をつくるのは、共食と通婚ができるサブカーストなんだろう。浄と不浄により階級が立てられ、分業と相互依存にもとづき社会が成立している。だから、どのカーストもインド世界には、不可欠な構成要素になっている。よく考えてみると、日本だっておなじではないのか」 「インドにきて、許されていないことがあって、その理由が自分が卑しいアウトカーストだからだと分かって衝撃をうけるよ。日本にいるときは、カーストが実在するなんて信じられなかった。自分が、それをもっているなんて思わなかった。日本にはカーストがないと、はじめは答えていたけれど、旅をしながら考えると、インド人の考えは間違いではないね。社会の分節の仕方が違うんだと、いまは理解している。日本では、曖昧に許可されているだけだったんだ」と竜司は答えた。 「西洋では、認可するか、排除するかと思考するところを、インドでは序列をあてがって満足する。この文明は、生態系に似ているんだろう。食器棚のなかに入りこんだ蟻にたいして、殺虫剤をまいて殺したりはしないんだ。そんなことをやったら、周囲の食器にも影響がおよぶ。だから、存在をみとめてやるんだ。しかし蟻は、分相応に暮らすことがもとめられる。その分をこえて、皿まで侵入すれば抹殺されるんだろう」 「日本という国は、敗戦によって完全に欧米化され、独自の文明を忘れてしまった気がするね」と竜司はいった。 「もともと、なかったのかも知れないよ。日本は、固有の価値観をもたず、中国からの借り物ですませてきた。それは、すこしも恥ずかしいことではない。借り物であっても、うまくつかいこなす力をもつなら、劣等感を抱く必要はまったくない。ところが、それが分かると一部の人はとたんに反発して、日本固有のものがあるといいはじめ、天皇制をもちだしたりする。曖昧な自己で満足していたコンプレックスが、裏がえしになるんだろう。考えの違う者を非国民とよんだり、とうとつに好戦的な態度にでたりする。明治時代の日本には、ヨーロッパ崇拝あった。明白な劣等感で、漱石も鴎外もヨーロッパにいった。戦後は崇拝するのがアメリカに変わって、また引目をもつ。がんらい日本人は劣等感の塊で、古代から中国という強大な東アジアの盟主がごくちかくにいたんだ。インドの影響も、主にそこを経由して受容している。明治維新も、西洋への劣等感から起こった。この日本人がもつコンプレックスを、自分たちでよく理解してみとめないと、とつぜん豹変して傲慢になり、アジアの諸国をみくだしたりする。インドには、まったく独自の思想があって、こうした民が一〇億もいるのを、神さまはどう考えているんだろう。ここで生きるというのは、やぶれば罰が待つ、この規範をうけ入れることだろう。まったく、息がつまる世界だと思う。天は、人のうえにも下にも、人間をつくった。一〇億人の全部に順番をつけた。それも、入りこんだ状態で。奥がふかくて、普通の国民だったら溺れてしまうだろう。この国の人びとは、序列が神さまからあたえられた不可避なものだと承知して生きている。忍耐づよいし、金持ちやカーストの高い連中にとっては、都合のいい住みやすい世界で、すべてが自在になる天国なんだろう」と俊和はいった。 「日本でも権力者はいるけれど、これほどの自由はないだろうな。母国は嫌いだが、インド人にうまれなくて幸せだったと思うよ」 竜司がいうと、 「その意見は正しい。たぶん、シヴァの名にかけても」 俊和は、合掌し黙祷して神妙な表情で答えた。 「竜司がご希望なら、さがしにいこうか。そういう教養のある女性を」と俊和はいってくれた。 竜司は、彼といっしょにベナレス大学、ベナレス・ヒンドゥー・ユニバーシティー、BHUに、リクシャーにのってでかけた。とはいっても、あてはなく、大学内をぶらぶらしただけだった。構内には、車が走る舗装されたひろい道路があった。幅が三、四メートルの固い土の道が多かった。通りすがる大学生のなかには女性もいたが、声をかける雰囲気はなかった。むこうからやってくる学生は、男であっても女であっても、じっとふたりをみつめたあとで、なるたけ道の反対端を通ってすれ違った。完全にさけられたのだが、どう考えたって俊和のせいだった。だれがみたって彼は真黄色で、ジャパニーズ、チャイニーズ、タイ、ネパーリ、チベッタンのどこに属するかという以前に、黄疸というカーストで、肝炎だと知らせながら歩いていた。 「これで帰らないのが不思議だ」と竜司が考えていたくらいで、知らない者がよってくるはずがなかった。さけられたのは、あきらかに俊和のせいだった。彼には白いところがひとつもなかった。目はとくにひどく、瞳をのぞいて真黄色で、だれがみたって度をこした病人だった。うつるかも知れないと考えるのが普通だから、ふたりのちかくにいこうなんて思うはずがなかった。構内は静かでひろびろとして、木が多かった。どの建物も立派な石造りで、学生もずいぶんいた。 ふたりのまえには、肝炎という病気のカーストが大きく立ちはだかり、あかるかったが、どことなく寂しい探検だった。いくところもなく、俊和といっしょに竜司は学生食堂に入った。 学食は日本とおなじでひろいホールがあり、テーブルと脚の部分だけが金属の木製の椅子がずーっとならんでいた。入ったのは午後の二時ごろで、昼食の時間はすぎたから、こんではいなかった。テーブルの反対がわには、配膳用のカウンターと調理室があった。食券を買って、インド人の学生とならんで、プーリーをとった。これは、チャパティーをふたつ折りにして、油であげたものだった。 忘れられないBHUでの昼食で、紙につつまれたプーリーをテーブルで食べた。竜司がひと口かじったとき、ふっと変な感じがした。プーリーをひらいてみると、なかからコンガリとあがったゴキブリがでてきた。かなり立派な、大きなやつだった。いろいろなところで食事をしたが、ゴキブリ入りのプーリーははじめてだった。もちろん、なにかの手違いで、相手がチベッタンだからと思ってわざと仕組むなんて、そんな器用なまねはできるはずがなかった。学生にまじって順番に待ったのだし、揚がってきものを列にならんでとったのだ。しかし、竜司のプーリーはゴキブリ入りだった。それで彼は、ゴキブリをとりだして食べた。完全な熱消毒ずみだったから、騒ぎたてるほどのことでもなかった。インドの学生は、そうしているのだろうと思った。この貧しい国で、ゴキブリくらいで食べ物をすてるなんて考えられなかった。 「ツー・エッグス・オムレツを一生懸命つくった」 ザリムは前回、竜司がホテルをでていくとき、そう主張した。毎朝つくってくれる食事は、いつもおなじパンと紅茶とオムレツだった。ただのスクランブルエッグで、卵ふたつ以外はなにも入っていなくて全部で一ルピーだった。それが、三日目から二五パイサあがった。四分の一ルピー。二五パイサはザリムの駄賃で、「新聞を読みたい」と話せば、いつだって買ってきてくれた。 「チップが欲しい」と彼はいったが、竜司はとりあげなかった。ハッサムが、「やれ」って口をはさんだ。 「ザリムは、途中でごまかしたんだ」と竜司はいった。 「なにをしたんだ」とハッサムは聞いた。 「市場で卵の値段があがっている。そういって、朝食の料金を二五パイサ増やした。だから市場に出向いてみた。卵の値段は、変わっていなかった」と竜司は答えた。 ハッサムはこまった顔になり、ザリムもだまっていた。竜司がホテルをでていこうとしたら、彼が追い駆けてきた。それをみたハッサムが、後ろから大声で叫んだ。 「親父に相談させてくれ」と。 ウエルカムの玄関には、椅子にすわったダニアールがいた。ハッサムが、ことのしだいを話すと、彼はだまって聞いていた。話が終わると目をつむってなにかを考え、「卵の値段は、変わらなかったのか」とたずねた。 ザリムは、押しだまったまま汗をかいていた。彼は、太って汗っかきだった。そのときは、普段よりたくさん流汗していた。 静かな時間があって、ダニアールは竜司にむきなおりいった。 「ザリムに、二ルピーやってくれ」 ひくい声で、つよい意志を感じた。正しいのかは分からなかったが、ダニアールがそういったのだから、絶対のことだ。 竜司は、彼に二ルピーやった。ザリムは喜んだし、ハッサムはほっとした。それをみると、ダニアールはいった。 「またきてくれ。いつでも歓迎する。若いの、元気でな」 それが、四ヵ月まえのことだった。あわせて八週間以上もウエルカムにいたが、ダニアールと話したのは二度だけだ。これが最初で、最後にベナレスを離れるとき、もう一度、話をする機会があった。それは、結末の物語だ。 ダニアールは、朝から晩までロッキングチェアーですごしている。なにを考えるのかは分からないし、傍目には「ただ、いるだけ」だった。四人の奥さんと暮らしていたら、楽しい出来事もいろいろあるだろう。毎晩、違う女と寝られるなんて。もしかしたら、三人でいっぺんに同衾したりするのだろうか。考えるだけでも興奮してくる。合法で、女たちも承知しているなんて、正直いってうらやましい。竜司も男にうまれた以上、一度でいいから、そんな生活をしてみたいと心から思う。 しかし、たいへんかも知れない。 竜司でも、四人の女とつきあうことはできるだろう。だからといって、いっしょに暮らすのは無理だろう。愛人とするのはいいが、どう考えても同時は不可能だ。ダニアールは、現実にそんな生活をおくっている。きっと、秩序が必要なのだろう。 ダニアールを頂点とする家の掟で、やぶられてはならないきびしい規律に違いない。それがなかったら、とても四人の女といっしょには暮らせないだろう。こまかいことまで、全部決まっているはずだ。そうでなければ毎日が戦争で、安らぐときがない。すべて決定していても、解決できない問題が日々起こるはずだ。そのときは、彼がなんらかの基準と尺度をもって決めるのだろう。そこには、きちんとした理由が存在し、みんなが納得する裏づけがあるのだろう。家族は、平和に暮らさねばならないのだから。 ダニアールにしか、分からないことがあるのだ。彼にも、兄弟が何人かいたのだろう。しかし、こんな結婚ができたのは、ダニアールだけだったはずだ。彼は、父の財産を全部ひきついだかわりに、ひとりの女だけを愛することも許されなかったのだ。家をのこすためには、男の子供が必要だ。跡とりがうまれ、家督をゆずれるまでに育つ成人を、確実にえるには、複数の息子が必須だった。そのためには、妻もひとりではすまなかった。ダニアールは、家をのこすという使命をあたえられたのだから、いい事柄も悪い事態も、すべてを負わねばならなかった。 ゴドリアは、いつでも喧騒が支配していた。歩いていると、乞食やサドゥーに、心を揺さぶられた。交差点は未舗装の土の道路で、ベナレスの駅から、ダシャーシュワメードにむかって四〇メートル以上のひろい通りが東西に走り、いっぽうガンガーにそって南北の細い道が何本もあった。そのなかでいちばんガンガーにちかい小径と大通りがぶつかる四つ角がゴドリアで、多くの人が行き交っていた。 露天商がいっぱいでて、いつでも罵声や喚声が渦巻いている。なにを悟るのか分からないが、上半身が裸のサドゥーはおおぜいいて、聖紐を左肩から右脇にかけて好き勝手なことをしていた。女の行者には会わなかったから、開悟は「男の仕事」だった。乞食と病人がいて、腕や脚のない者が、みんなとは違うのを誇示しながら歩き、いざり車にのっていた。いつも、うるさいゴドリアだった。 竜司は一度だけ、交差点が静かになったのをみたことがあった。それは、異様な光景だった。ひとりの女性が歩いていただけで、それで一瞬、静寂になった。その女は、ベナレスの駅のほうからとつぜんあらわれ、ダシャーシュワメードにむかって真っすぐにすすんでいった。真っ黒な女性だった。うえから下まで、あらゆるところが黒くて、つまり、なにもきていなかった。カールしたみじかい髪の女は、大柄でどうどうとし、背筋をピンと伸ばし、全裸のまま、まえをしっかりと見定めながら大地を踏みしめ、大またに大通りを歩いて四つ角をぬけていった。交差点には信号器がついていたが、そのとき、何色だったのかは忘れた。すくなくても車はクラクションを鳴らすこともなく静かにとまり、すべての者の目が女に釘づけになった。 そのときだけだった。ゴドリアは、神々しいほど静寂になり、みんながじっと、女の一挙手一投足をみつめていた。半円形の立派な乳房をもった三〇歳くらいの真っ黒な女性で、股間にも黒い毛が生えていた。女は、ゆっくりと歩いていた。なんだったのか分からないが、彼女がそのまま交差点をぬけ、ダシャーシュワメードの手前で小路を右にまがってみえなくなると、とたんに出来事は忘れられ、いつものうるさいゴドリアになっていた。 竜司はウエルカムに帰ってから、俊和の部屋にいき、この事件を話してみた。彼も、そんな光景はみたことがないといった。 「でも、あると思う。およそ人間が考えられることはなんでもある。ベナレスとは、そういう街だ」と俊和はいった。 いきつけのレストランでチャイとお菓子を食べながら、「帰ったほうがいいと思うか」と彼は聞いた。竜司がベナレスを去るときで、南インドをまわるつもりでいた。 「急性肝炎という病気は、そんなにながくはつづかない。俊和のは、もう慢性化した肝障害だ。日本では、まだよく分かっていないウイルスの可能性もある。しっかり、なおしたほうがいいだろう」 根拠はなかったが、竜司はいちおう医学生だった。いくらかでも医学を知っているらしいと思う者から、なにかをいわれれば、だれでも不安になる。 「そうか。やっぱり無理か」 俊和はいうと、かるく唇をかみながら真剣な表情で考えこんだ。 「じつは、やりのこしていることがある。話をしたい。あとで部屋にきてくれ」 俊和は深刻な表情で、押し殺したひくい声でいった。 南インドにたつ、まえの日の晩だった。俊和は、竜司を部屋によんで、テーブルの引き出しから幾重にも折り畳まれた用紙をとりだし、自分のベッドのうえでひろげはじめた。それは、最後には新聞紙ほどの大きさになった。 竜司は、図柄が最初なにかの絵にみえたが、しだいに地図だと分かってきた。広大なガンガーがながれ、ベナレスの駅からダシャーシュワメードガートにむかうひろい道があり、それと直角にぶつかるゴドリアの交差点が判別できた。さらに北がわにウエルカム・ホテルが記載され、ガンジス河にそってガートの名前が、ぎっしりとかかれていた。 俊和は、地図を作製していた。 ガートとは、ガンガーにつくられた石の階段で、河のなかにむかってずっとおりていき、どこまでもある。水位があがってもさがっても、石段はみえる。とはいっても、年に一回くらいは洪水がくる。その凄まじさは、実際に遭遇した者でも充分に表現できないほどで、竜司が最初にベナレスにいったときに通りすぎねばならなかったのは、フラッドが原因だった。ゴドリアは、完全に水没していた。 竜司は、列車でニューデリーからハウラーにむかっていた。車両は、小高い丘のうえを走っていた。複線になった線路だけが周囲よりも高く盛り土にされていたが、理由は不明だった。ベナレスにちかづくにつれ、竜司にも意味が分かりはじめた。そのとき、列車は大きな海のなかを走っていた。ベナレスは完全に水没し、竜司はぼうぜんと河面をみていた。ガンガーは、川幅を一〇倍にもひろげていた。 ベナレスは、ガンジス河の中流に位置する。ガンガーは、その水源をヒマラヤにもち、この街の西、上流約一〇〇キロにあるアラハバード付近で、ヤムナー河と合流してひとつの大河になる。北インド全体をしめる広大なヒンドゥースターン平原のなかでも、ふたつの河にはさまれるドアーブ地方は、ほとんど高度差がないインド有数の穀倉地帯として知られている。古代から各王朝は、この平原の支配権をめぐって戦いをくりひろげてきた。ベナレスでは、ガンガーはほぼ水平な地点を真北にむかってながれ、市街をはずれると直角にまがって東へながれを変えるので、まるでとまってみえる。上流に大量の降水があったばあい、ガンジス河は、ここで川幅をひろげて対応するだけなのだ。 ガートは、たんなる石段だが、ヒンドゥーは聖なるガンガーで沐浴したり洗濯したりする。そういうときに必要で、水位にあわせて最適の段がつかわれる。便利な必需品で、生活そのものだった。 俊和は、肝炎にやみながら身を粉にして、ガンガーの西岸に点々とつづくガートをさがしていた。八四といわれる沐浴場の六〇以上が、地図にはのっていた。 「どうしても、これを完成させたい。かきあげるまで、ここにいるつもりだった。竜司のいう通り、黄疸は消えない。なおりたければ、日本に帰って治療するべきだろう」 俊和は、真剣な表情でみた。竜司はだまったまま、ベッドのうえにひろげられた地図をながめ、なんでこんなことをしているのだろうと思った。 「観光課にもいってみた。主要なガートの地図はあるが、全部を網羅したものは、どこにもないんだ。それに気がついたとき、おれの仕事だと思って、ここまでかいた」 俊和は、紙をみせた。新聞紙くらいの大きさで、もの凄くこまかいところまで記載された地図だった。いろいろな小径が記録され、建物が全部かかれていた。 「これをかきあげるのに、もう一ヵ月くらいかかる。やりのこして帰らねばならないのは、とても残念だ」 俊和はいい、じっとみた。 「竜司。おまえは、もう一度ベナレスにくる。おれもインドは全部まわったが、最後はゴドリアだ。ここには、この国のすべてがある。おまえも、まわれば分かる。竜司が元気なら、どうしてもここにもどってくる。インドのすべてがある、このベナレスに」 俊和は、ゆっくりとした口調で、確信をもっていった。 「それで、どうしろっていうんだ」 竜司は、聞いた。 「もどってこないのならば、仕方がないと思う。強制でも、頼んでいるのでもない。まあ、聞いてくれ。この地図を完成させたいが、できずに日本に帰ることになるかも知れない。おまえと会うまでは、ひとりで仕上げるつもりでいた。竜司がここを去ることになって、よく考えてみた。もう四ヵ月以上も黄疸がでたままで、なおらない。ヒンドゥーの神さまが、いっている。このガートの地図が完成するとしたら、おれ以外の者の手によってなんだ。きっと、そういうことだ」 暑い夜で、俊和はベッドに横臥していた。竜司は寝台の左にある椅子にすわり、小さなテーブルを移動させ、むかいあっていた。あらためて俊和をみて、とても地図を完成させるのは無理だと思った。彼は真黄色でガリガリに痩せ、いつ死んでも疑問がのこるとは思えなかったし、ここが病室でも不思議はなかった。 「それで考えていた。ハッサムに、地図をたくそうと。まともな日本人がきたら、みせて、完成させてもらいたいと思って」 俊和は、静かにいった。 「ハッサムに、そんなことが分かるのか」と竜司は聞いた。 沈黙が支配する時間がながれて、「終わっているよな」と俊和はじっと地図をみつめながらいった。 「だから、こうする。おまえは、自由だ。もしベナレスにまたきたら、ウエルカムに泊まってくれ。そのときハッサムが地図をもっていなければ、おれが完成させたと思って欲しい。ベナレスに、こなくてもいい。それは運命だ。完成できないで日本に帰れば、ハッサムがこの地図をもっている。おまえがくれば、彼がこれをわたす。その気が起こったら、完成させてくれ。そうならなければ、それでかまわない。ここにこなければ、ずっとハッサムが地図をもち、一生、これはベナレスだ。おまえに希望することは、ひとつだ。もしベナレスに、もう一度きて、完成させる気になり、できたら、そのコピーをおれにおくってもらいたい。日本の住所は、地図につけておく」 竜司は考えていたが、さっぱり分からなかった。俊和とは気があったが、たいそうな約束は足手まといで、とらわれたくなかった。自由にすごすためにきたのに、制限は不必要だった。この作業は勝手にはじめた彼の意志で、竜司とは関係がなかった。よく考えると迷惑で、ベナレスにこられなくなる。竜司は腕をくんで、だまったまま窓からみえる夜のゴドリアの風情をながめていた。 「忘れてくれて、かまわない。重荷に思われるとこまる。竜司は、これをやりにきたのではない。分かっている。忘れてもらってかまわない。すべては偶然だと思ってくれ。偶々竜司がベナレスにきて、予期もせずこの地図に興味をもち、結果的に完成したら、そのときだ。コピーでいいから、おくってもらいたい。頼みはこれだけだ。これも、覚えていなくてもいい。ハッサムも、忘れるかも知れない。あいつはいいやつだが、そんなに律儀でもない」といった。 竜司は、ぼうぜんと地図をみ、困惑の面持ちでだまっていた。 「悪かった。こんな話をして。おまえがいくのが、いよいよ明日と決まり、みょうな気分になってしまった。当たり前だ。竜司にはおまえのインドがあるし、分かっていたんだ。ほんとうに、すまないことをいった。この話は、忘れてくれ。終わりにしよう」 俊和は、竜司をみつめながら、一語ずつ噛みしめて話すと目をつむった。なにかを考えてからひろげた地図を丁寧に畳みなおし、もともとしまってあった引き出しにおさめた。俊和は、リムカの栓をあけて彼にすすめた。 竜司は、むし暑い部屋のなかで、いっそう汗ばむのを感じながら、炭酸水で喉をうるおし、よどんだ空間をみていた。 「じつはな、まえに戦火のアフガンにいった話をしたよな」 俊和は、ひとりで喋りはじめた。 「竜司も知っている通り、あそこは四月に軍事クーデターがあって、大統領の一族が惨殺された。ちょうど戦火の真っ只中だった。おれは国境で警備兵に金をわたし、報道カメラマンとして入国した」 俊和は、右のやや大きな窓を深刻そうな表情で、じっとみながらつづけた。 竜司は、みょうな話になったと思いながら、だまってバックグランド・ミュージックを聞く感じで、ぼんやりと外をながめていた。 「カーブルでひろい道を歩いていた。真昼間で、暑くて乾燥しギラギラしていた。土ぼこりが舞っていたが、そこが国道だった。けっこうな人が行き来していた。とくに歩道はなくて、おれは左の端を歩いていた。そのとき馬鹿でかい音がして、鼻先をなにかがブーンと飛んでいった。おれは反射的に身をふせて、地面に腹ばいになった。ながいあいだ、かなりの弾丸が飛びかった気がした。ほんとうは、二、三分だったかも知れない」 俊和は、そう話してリムカをひと口飲んだ。 「銃声が静まって、やや時間があって、人がまたうごきはじめた。そのときになって、生暖かいって感じた。頬がぬるっとし、手でぬぐってみると真っ赤な色だった。おれは血溜まりのなかにいて、地面はどす黒かった。すぐとなりに男が横たわって、さっき鼻先をかすめて飛んでいった弾は、こいつに命中したわけだ。そいつが狙われるやつだったのか、無差別な発砲だったのか分からない。真っ赤な血をながして、即死したのは事実だった。ぼうっと立っていたら何人かのモスレムが割りこんできて、死体はトラックの荷台にほうりなげられ、車は走りさっていった。そのうえには、一〇くらいの死骸が無造作にのっていた。おれは血まみれでぼうぜんと突っ立っていたが、まわりのモスレムたちはなにもいわなかった。はいていたルンギで、いちおうは顔をふいた。それでも、血痕はシャツにのこっていた。仕方がないから、そのまま宿に帰った。カウンターのまえも通ったが、ホテルの親父は、血まみれになったおれをみても、なにもいわなかった。部屋にもどって、血なまぐさい衣服をぬいでシャワーをあび、紅色の血が染みこんだ下着をかえ、ベッドに横たわってぼうっとしていた。なにを、考えていたんだろう。ぼんやりと真っ赤になった自分の衣服をみていたら、とつぜん身体ががたがたと震えだしてな。恐怖がやってきたんだ。怖かった。いても立っても、いられないほどに。そのときになってはじめて、猛烈な恐怖がやってきたんだ」 俊和は、そう話して真剣な表情でじっと竜司をみた。 「馬鹿ばかしいだろう。おれは、絶対報道カメラマンにはなれないと思った。こんな恐怖ととなりあって、毎日、正常な気持ちでいられるなんて。平然とシャッターを押しつづけるなんて、おれには不可能だと思った。ベトナムでアメリカの若いやつらが、薬中になっていくのがよく分かる。どちらかといえば、それが正常なんだ」 「おれは、佐藤訪米阻止をかかげた羽田闘争でも、新宿騒乱でも機動隊とぶつかった。仲間がジュラルミンの楯で額を割られ、ドバッと血がでてうずくまると、警棒で滅茶苦茶になぐられ、鉄の靴で蹴りを入れられ、救急車ではこばれていくのを何度もみたし、失明したやつも、片手がうごかなくなった者も知っている。三里塚では決定的な証拠写真をとろうと思って、五〇〇〇枚もシャッターを切った。でも、分かったんだ。あれは、みんな遊びだったってことだ。日本の民主主義のなかでやっていた、どこかにルールがある遊戯だった。プロレスみたいなもので、たしかに血はながれる。それは暴力や興奮、違法や悪役を表現するが、でも殺しはしないっていう暗黙のルールが決まっていて、そのなかでやるショーだったんだ。もちろんプロレスだって、セメントじみたときもあるんだろう。予期せぬ事故だって、起きるかも知れない。おれたちだって、真面目にやっていたんだから」 俊和は、大きく溜め息をつき、ぼうっとした目つきで右の大きな窓をまたみつめた。竜司もむきなおると、彼の視線の先にはふかい闇がつづいていた。そこには、厚い雲が覆いかぶさっている気がした。 「連合赤軍の浅間山荘事件でも、警察の狙撃隊は最後まで発砲をためらった。殺すことは、ルール違反だったんだ。相手が、人殺しであっても。戦争って、そうじゃない。実際に人が死んで無造作にすてられて、それが普通だって、みんなが知ることだ。これはまったく違う。そうは、思わないか」 俊和は、竜司をみつめて聞いた。 暑苦しい、むした晩だった。じわっとする熱気のなかで、さまざまな思いが竜司の脳裏を駆けめぐっていた。 「それでな、おれはカーブルを逃げだした。その日にバスにのって、一目散さ」 俊和は、自嘲気味に微かに笑いながら、竜司をじっとみつめてつづけた。 「こんな現実に、耐えられなかった。三日後にはカイバルをこえ、パキスタンに入り、それから脇目もふらずに逃げつづけてインドにもどり、アムリトサルの宿屋について、それでも恐怖はつづいていた。とても、報道カメラマンなんかにはなれない」 「馬鹿にしたおれたちの父親たちは、そんな現実とむきあって暮らしていた。すくなくともある時期、おれのまわりにいるごく普通の親父が、理由がどうであれ、たいそうな勇気で、国や天皇陛下のためと適当なことをいわれ、みんなから万歳三唱をうけて、凄い覚悟で最前線にむかった。そこへいかしたやつらは東京で、戦時中だってうまい飯を食って、好きな女を抱いて暮らしていたんだ。まわりにいた、よれよれになった巨人ファンの体制派の親父たちが、じつはそんなところへいって戦っていた。新潟の土建屋の立身出世話が好きでよ。裸一貫から我慢して権力者になったのだから、絶対自分たちを分かってくれるはずだと、本気で思っていた親父たちが、なんのためだか、ほんとうのところは知らないまま、満州や中国で人を殺し、勲章をもらって、捕虜として生きるのを恥として、硫黄島で玉砕したんだ。もちろん状況はいろいろで、おれだって、特別な事情で逃げだせなくなるかも知れない。すくなくともカーブルから、ちびりそうに、格好も悪く逃げだしたのは事実なんだ。おれの、ほんとうの姿だったんだ」 彼は、だまり、リムカで喉をうるおした。 「それは、俊和の戦いでは、なかったからだろう。アフガンの戦争で、代理ではあっても、君のものではなかったから逃げられたんだろう。外人部隊だったらともかく」 竜司がいうと、俊和はなにも答えずにつづけた。 「アムリトサルの、ゴールデン・テンプルをみた。あの荘厳なシークの聖地で、甘露の池にかこまれてたたずむ、ハリ・マンディルをながめて、いろいろなことを思った。ひと口でいえば、この国は凄いという心からの尊敬の念だ。畏敬だな。おれみたいに、甘ったれた人間が太刀打ちできる人種じゃないってことだ。シークたちは、いつもターバンを巻いて、ちんけな服をきて、髭を生やして、手には変なブレスレッドをつけている。あれが、もうすでに戦っているというみょうな感じだ。戦いになれば一目でヒンドゥーと見分けられ、攻撃目標にされるのを知って、あえてしている、その覚悟だな」 「三〇〇〇年以上も歴史のあるこの国は、なんでも飲みこんで融合し、自分の一部に組み入れてしまう。それなのに、かつて一度も統一されたことがない。そもそも歴史に価値をみとめないから、史書をもっていない。凄い国だよな。戦後の日本にうまれてよかったって、素直に感じる気持ちだ。それでカーブルから帰ってきてから、仏教の聖地でもまわってみようかと思いはじめた。そんなことひとつ、おれにはできなくて、黄疸になり」 彼は、一息ついた。 「アムリトサルには、いったんだよな」 俊和は、竜司をみあげて聞いた。 「そこまでの感慨は覚えなかったが、いくだけは」 「どう感じた」と彼はたずねた。 竜司は、アムリトサルにいったことがあった。スリナガルのハウスボートで出会った、ターバンを巻いたシークの男が、ぜひ一度はいけと、執拗に彼に話した。 「神の国をつくるのは、シーク教徒の夢だ。われわれがインドとパキスタンとに分割されても、すべてのシークが切望していることだ。国民会議派が大英帝国との妥協のなかでイスラムの分離独立をみとめたさいに、ほんとうはまず宗教で、この国を分けるべきだった。グル・ナーナクは、ヒンドゥー教のカースト制度を不当なものだと知り、御前ではすべての同胞に身分差がなく、まったくおなじで、どの仕事でも自由につける。一部のむずかしい教義をもてあそび、信仰を儀礼におきかえる宗教ではなく、熱烈な愛を行為で示せば、神のちかくにいけると説いたのだ。われわれはグルの言葉を真実とみとめ、シーク教徒の国、カリスタンをふたたび建国する事業が、現世においてあたえられた使命だと考えている。そのために、自己を犠牲にするのは、神への愛が本物であるかどうかを示す目安になる。いかなる敵対する勢力にも一歩もひかず、カリスタンを建国する、これがシークだという証しなのだ。大英帝国と闘いインドは独立したが、パンジャブは分割された。この国は言語の違いによって、一四の州に分けられたが、あくまでヒンドゥー教徒のなかで行われるべきものだった。シークはヒンドゥーではなく、イスラムでもない」 ターバンを巻き、髭を生やした四〇歳くらいの腹のつきでた男は、家族をつれてハウスボートに泊まっていた。子供がふたりいて、灰色の服をまとった奥さんは、細面の美人だった。 スリナガルは森にかこまれた美しい街で、いつもすんだ空気に満たされていた。カシミールの避暑地で、北に大きな湖があり、多くの舟がホテルとして浮かんでいた。大きさは、小型から大型のものまでさまざまだった。ながい竿をもつ船頭たちがハウスボートの両脇に一〇人ちかくならんで、声をかけあいながら肩にかけた細ながい棒をいっせいに水底にさし、ボートの位置を変えていく様子は迫力があり、うごく王宮にみえた。 竜司が泊まったのは、中型の舟だった。船頭は数人いて、家族ですごすデラックスな部屋やスイート・ルームもあった。そこで出会ったシークの若い男が、彼にちかより民族の話をはじめたのだった。左の腰に短剣をぶらさげて、やはり右の腕にはピカピカした金属のブレスレッドをつけた男性は、竜司にむかって、 「シークを理解して欲しい。アムリトサルにきて、ゴールデン・テンプルをみてもらいたい。われわれは、ヒンドゥーとはまるで違うのだ。このことを、世界のみんなに理解してもらいたいのだ」と熱烈に話した。 湖の周囲は、みわたすかぎり緑の灌木に覆われ、パミールにつらなる空はどこまでも青く、水辺にも葦が隙間なく生いしげり、水面にも一部は浮かんでいた。竜司がおとずれたのは五月のはじめで、すべてのものがうまれ変わる季節で、大気は芳しい匂いに満ちていた。湖面を吹く風もおだやかで、新緑のすがすがしい甘い香りをのせて、ゆっくりと通りすぎていた。 「神聖な場所だった。神さまが住んでいると感じたよ。幾何学的で、どちらかというと、ヒンドゥーよりもイスラムの影響がつよいと思った。モスクとは違うが、大理石の白い道はタージを連想させるものだった」 竜司は、聖歌につつまれた、黄金寺院を思い起こした。白い服をきた信者たちが、天上にもとどくと思われるほど高くてすんだ声で、グルをたたえる詩句を、朝から晩まで一日じゅう歌うのが耳に入った。足音までが聞こえる静寂と、心にひびく聖歌。荘厳な神殿と、それをつつみこむ神聖さ。どこまでも、すみわたる空の青と池水の蒼。そのハーモニーのなかで、甘露の池にかこまれた、本山のハリ・マンディルをみた。そこは、ただただ清浄で穢れがちかづくことができない別世界だった。 「シークが住むパンジャブは、カイバル峠とデリーの通り道にあたるから、どれだけの民族が戦い、どのくらいの量の血を大地にながしてきたのか、神さまだってもう数える気がなくなるほどだ。インドにながくいると、いままでとうぜんとしてきたものに、もう一度考えなくてはならないことがたくさんあるんだと分かる。そもそも人は、ほんらい平等なんだろうか。カーストとは、特別な考え方なんだろうか。きっと竜司もインドじゅうをさ迷って、最後にこの問いに辿りつくんじゃないかと思う」 俊和は、ぼそぼそと話し、また熱気のなかで汗ばんだ額を布でぬぐった。 それからべつの話をした。俊和は、自分が私生児で、お袋が娼婦だったと話しはじめた。彼は、高校をでてすぐに結婚して男の子供がうまれたらしいが、二〇歳のころには別れてしまったらしい。 「私生児も、きっとカーストだ。だから、おれの子供も、また私生子だ」と俊和はいった。 カーストは、こうしてできるのかも知れない。俊和が、そのときなにを考えたのか分からないが、話したのは、きっとみんなほんとうのことだったのだろう。 「物心がつくころには、お袋をふしだらだと思った。ほんとうのところ、おれはだれの子かも分からないんだからな。結婚して子供をつくって離婚してみると、よく育ててくれたと思って、いまは心から感謝している。戦後のどさくさのなかで、お袋は懸命に生きてきたんだろう。とても人さまに話せないことも、たくさんしたんだろう。そのなかで足手まといになるのを知りながら、おれをうんだんだ。堕胎の選択だって、考えたはずだ。お袋がひとりで決めて、自分の胸だけに秘めていたんだと思う。なぜ、おれをうんだんだろう。考えても分からない。事情があったんだろうが、話なんてしたことがないから知らない。うまれた子供をみせたとき、可愛いい、そっくりだってお袋はいった。おれは、親父にも似ていたんだろう。離婚したと話したときは、ずいぶん寂しそうな顔をした。それが子宮癌で、あっという間に死んでしまった。お袋の生涯とは、なんだったんだろう。離婚後の死は、応えたよ。恩だけうけて、なにもしてやれなかったからね。でも、きっと納得していたんだと思う。お袋は自分の判断に、人からなんといわれようとも、後悔なんてしなかったんだろう」 「おれは、悔恨の念に駆られつづけている。くだらない、さもしいよな。いっそうまれてこないほうがよかったなんて、お袋に申しわけないよな。自分がいやになるんだ。ウエルカムのベッドで寝そべりながら、こんなことならこなければよかったとか、とうてい無理な釈迦の真似事なんて、できっこないのに。彼女と結婚したのが、そもそも間違いだったとか。いい女だったのに、おれが勝手に離婚したとか。最低、子供はうまなければよかったとか。自分のあらゆる判断に、おれは後悔していた気がする」 「セクトにいたんだ。いま思うと、おれはなんと闘争してきたんだろう。こうして組織から離れて考えてみると、自分のお袋と戦っていた気がする。じつは彼女こそ、この世でたったひとりの味方だったのに」 俊和は、自嘲気味に笑って「あとにならないと分からないことは、いろいろあるよな」といった。だまっていたが、やがて「元気で旅をしてくれ。おれができなかった分まで」となにやら、やけにしんみりとした口調になった。 「こうして、おまえとここで会えたのもひとつの縁だ。偶然ではないと思う」 俊和は、おもむろにベッドから立ちあがり、部屋のすみにおかれたバッグの中身をごそごそとさぐりはじめ、「おまえが元気に旅をつづけられることを祈願して、これをやる」といって、紫檀の数珠を竜司に手渡した。いい香りがした。 とつぜんの贈り物に竜司がとまどっていると、「ふかく考えないでくれ。気まぐれだ」と俊和はいった。 三、ゴドリア 竜司は、六週まえにベナレスにきた。俊和と別れてから三ヵ月がたっていた。 ベナレスにもどってきたとき、彼はいなかった。当たり前だろう、そんなにながくはいられまい。俊和と会いたいとも思ったが、暗示じみた言葉や予言じみた話が気になって、竜司にとってベナレスは、いきにくいところに変わっていた。そういう意味からは、すでに街は特別で、どこかでさけていたのだった。インドをまわると、やはりベナレスは面白そうだった。俊和に会ったことはもちろんだが、ほかの街とは違って、インド人がここで往生しようとの考えるはこんな気持ちなのだろう。彼が最後までいたのは、ベナレスで死ぬつもりだったのではないか。それを、竜司が追い帰してしまったのかも知れない。そんな風にも思った。 竜司は俊和にひとつの「約束」だったか、「借り」なのか、なにか「因縁」をつくったのかも知れなかった。 夜行でついた朝のベナレスは、冷えびえとしていた。駅の周囲は、それまでまわったインドのやや大きめの街と、なんにも変わらないと感じた。 「なぜ、ここを特別に思ったんだろう」と竜司は考えた。駅まえでリクシャーを頼んで、「ゴドリア」とひと言いった。それで、車はうごきはじめた。なつかしく感じられるダシャーシュワメードにむかう大通りを走っていくと、ゴドリアの交差点と、多くの行き交う人の群れがみえた。 「左にまがってウエルカムへ」と竜司は口にしていた。 石造りの玄関につづくホテルの階段をあがっていくと、カウンターに入る手前の軒先で、清楚な白い服をきた白髪のダニアールがロッキングチェアーに揺られていた。彼は、竜司をみて微笑んだ。何事かをつげると、受付にいたザービルは、すぐに二階にいった。ほどなくハッサムがやってきた。 「よくもどってきてくれたな。必ず、もう一度会えると思っていた」 ハッサムは満面の笑みを浮かべて竜司にいい、手をつよくにぎりしめた。彼に案内されて、二階の一室につれていかれた。ハッサムは、再会をずっと待っていた様子だった。竜司が案内された部屋に荷物をおきベッドに腰をおろすと、「チャイはどうだ」と聞いた。 「それはいいね」と答えると、ハッサムは大声でザリムをよび、ふたり分のお茶をもってこいと命じた。彼は旅の行程を聞いていたが、「ほんとうに、旅行者とは分からないものだな。インド人にはこの点は理解できない。旅が目的なんて、馬鹿げていると考えないのか」と真剣な表情でいった。 「ハッサムには、どうしたって理解できないだろう」と竜司は思った。扉がノックされ、ザリムがポットに入ったチャイをかかえてきた。 「元気そうだな」と竜司がいうと、彼はまじまじとみながら、「また、ながくいてくれるんだろう。会えて嬉しい」と答えた。 「また、朝飯をお願いするよ」と竜司はいった。 「まかしてくれ」と彼は膨らんだ頬をさらに緩めて答えた。 「ちょっと、チャイを飲んでいてくれ」 ハッサムは、チャイカップにお茶を注いで、ザリムにむこうにいけという仕草をしながら部屋をでていった。ほどなく、大きな封筒をもってもどってきた。竜司がその袋をながめていると、ハッサムは話しはじめた。 「俊和は、日本に帰るといってでていった。覚えているか。そのとき、竜司が必ずここにもどってくると話していた」 「どのくらいかかるのか」とハッサムが聞くと、「はっきりとは分からないが、たぶん三ヵ月くらいだろう」と俊和はいった。 彼は、カレンダーに丸をつけておいたのだそうだが、日付が三日しかずれていなかったらしい。 「俊和と約束したことを、覚えているか」とハッサムは聞いた。 「なんの取り決めもなかった」と竜司は答えた。 ハッサムは、考え深げな真面目な表情になっていった。 「俊和も、そういっていた。特別な約束はないが、竜司はもう一度くることになっている。これは神さまの決定だから、病気にでもかからないかぎり、だいたい三ヵ月でもどってくると話していた」 「俊和の話の通りだったことに驚いたのか」 竜司が聞くと、ハッサムは直接答えずに、「そのときには、これをわたせといわれた」と口をひらいた。 彼は、先ほどもってきた大きな封筒を手渡した。 「中身を知っているのか」と竜司は聞いた。 「みせてもらった」 「俊和は、おれに完成させて欲しいと考えていたらしい」 「Ryuji, How do you feel this ? 」と彼は聞いた。 「Whatでないのか。Howか」 竜司は、不審な表情でハッサムの言葉をくりかえした。 「まあ。Whatでもいいが、Howというほうが適切に思う」 「俊和は、いつまでここにいたのか」 「おまえが宿をでてから、一週間くらいして帰った」 「黄疸は、とれなかったんだな」と竜司が聞いた。 「そうだな。最後まで黄色かった。でも、最初ほどでもなかった。ここにあらわれたときは、ひどい状態だったから、ずいぶんよくなっていた。竜司に日本での治療をすすめられたからだと、俊和は話していた」とハッサムは答えた。 封筒の中身をとりだしてベッドにひろげてみると、以前みたときに比べ、ガートの数は増えていた。竜司は、地図をみつめ考えていた。彼は、裏がわをめくってみた。地図を表にもどし、今度は先ほどの封筒をもう一度とりだし、なにも入っていないのを確認した。 「ふうん」と竜司は思った。地図をみいったとき、彼は不思議な感情に満たされた。うまくいえなかったが、これは自分にとって、じつはとても大切なものではないのか、そんな思いだった。 「俊和は、これ以外に、なにかのこしていかなかったのか」と竜司は真剣な表情でハッサムに聞いた。 「じつは、もうひとつ預かっている。いっしょにわたすなって俊和がいったから、こうしただけだ。すべては彼の意志なんだ。隠していたのではない。竜司が地図をみてこまった顔をしたら、封筒はわたさないで欲しい。それが、希望だってな。いま、おまえはこの地図をみて、いやな顔をしなかった。どちらかというと、嬉しそうにみえた。どちらであっても、わたそうとは思っていたのだが」 「そうか」 封筒をみながら竜司は、また考えはじめた。 「俊和は、こうもいっていた。竜司は、考えた挙げ句、三ヵ月たってやってくる。整理するのに、そのくらいの期間が必要だと。なんだか、よく分からないことだ。日本人には、不思議なところがあるんだな。民族が違うから、流儀は異なるのだろうが」 ハッサムは、こまった顔をして顎髭を撫でた。 「これで、おれの仕事は終わった。肩の荷がおりた感じだ」といって、じっと彼をみつめた。 「竜司。ゆっくり滞在してくれ」 ハッサムは、さばさばした表情で部屋をでていった。 封筒の表に、「竜司へ」とかかれていた。なつかしい気がした。ここへきたのは、正しい選択だったと思った。封を切ってとりだすと、手紙が角張った字でつづられていた。何回か清書したらしく、とくに誤字はなかった。 竜司に 南インドで、楽しい思い出をつくってきたと確信している。あそこはドラヴィダだから、いつも独立運動があって、インドも南と北ではかなり文化が違うと思う。南インドは米もうまいし、土地も豊かだ。マドラス以外は、物乞いの数もすくない。いくつもの面白い事件に出会っただろう。どこへいっても、ヒンドゥーのなかにいるかぎりベナレスは特別だ。きっと、帰ってきてくれると思っていた。 地図のことは、つづけても、やめてもいい。竜司の選択だ。どちらでもいいから、日本に帰ったら地図と手紙をおくってもらいたい。ベナレスにきたのが分かれば、それで充分なんだ。この地図をみせた日のことは、きっと生涯忘れないと思う。おまえはおれの話を真面目に聞いてくれた。あのとき、「ああ、分かったよ」。「まかしてくれよ」なんて安請けあいはしなかった。それで、「竜司と友だちになれてよかった」と思った。おれが考えた通り、おまえは嘘がつけない人間だ。当惑したのは、よく分かった。しかし、ガートの話だけは、しておきたかった。おれはこの街で、たったひとりで四ヵ月ちかくをすごしながら、帰っても仕事はないし、肉親はいないし、みんな終わっていた。ザリムとおなじだ。ここにくるまで、おれは自分が決着していることさえ気づかなかった。ウエルカムの小さなベッドに、ひとりで四ヵ月も横たわって、かさかさの黄色い皮膚をみながら、過去に起こった事件を考えていた。 この仕事を終えたら、ベナレスで死のうと思っていた。上流の橋から身をなげ、母なるガンガーで腐乱し、魚に食べられ、その一部になる。それだって、多くの人が希望しても、できないことに思えた。おれをさがす者もいない。できた地図は観光局に差出人不明でおくり、ウエルカムも綺麗に清算する。ダニアールと世間話を交わし、苦労話も聞いてやり、ハッサムにもザリムにも派手にチップをやって、みんな喜ばす。朝ここをたってガンガーの上流で荷物をながし、夕方までぶらぶらする。人目が途絶えた夜にルンギもなげいれ、裸でガンジスに抱きあいたいと本気で考えていた。竜司がおれの話をいい加減に聞き、地図の作製を安請けあいしたら、ガンガーで死ぬつもりだった。信じられる友人のひとりもみつけられない、くだらない人間の最後としては、神さまもお目こぼししてくれる気がしていた。 おれはセクトから分かれて、ここまでやってきた。なんだったのだろう。おれの人生とは。おまえのいい方をすれば、日本にいたときも、自分の戦いではなかったわけだ。馬鹿ばかしく、端から道化だった。お袋について考え、いまできるのは、供養としてすべてのガートを巡礼することだと思った。ある種の贖罪で、その証しとして地図をつくりはじめ、おまえと出会った。いま、離ればなれになって、未完で終わるガートの図面をまえに、人生を振りかえってみた。おれは、すべてが燃えつきたという思いで暮らしていた。じっとガートの地図をみていると、おれたちの時代は終わったのではない。そんな気がした。生きているかぎり、おれたちの時代ではないのか。なにもかもやりつくし、終わった気になっていたが、分からなくなってきた。 よく考えてみると、おれには子供も別れた妻もいる。まだ三〇歳で、釈迦だってあの時代に八〇歳まで生きたのだ。ガンガーで魚の餌になるのには早すぎるのではないか。ヒンドゥーの神さまは、それを教えるために、ベナレスでおまえに、ひきあわせてくれたのではないか。そうでは、ないのか。ここでほんとうに死んでしまったら、子供は間違いなく私生児だ。おれは、母とおなじ過ちを犯したのだろうか。違うだろう。母はうんでくれたのに、おれは殺そうとしている。おまえと出会うために、インドを旅していたんだと思いはじめた。また会いたい。地図なんかどうでもいい。 昨日、アシュラムと話をした。やつのガートで、おれは自分が生きてきた、いままでの事件や、ガンガーで死ぬつもりだと考えたことを、ずっと日本語で話した。日が沈んだ黄昏のときで、河面をゆっくりと甘い匂いのする風が吹き、アシュラムはいつものムシロに胡坐をかいていた。じっとみると、ひどくやつれていた。やつのまわりには、三人の僕がいる。普段は彼らが割って入り、自由にはさせてくれない。昨日はおれがそばにいって勝手に話していると、アシュラムが右手をあげて僕を制した。やつは、だまって聞いていた。おれは勝手に話をしながら、心にひびく温かい気持ちを感じた。子宮につつまれた平穏で、柔らかい風だった。湿り気のある、アシュラムに満たされた世界で、小一時間くらい勝手に話をし、最後に合掌し一〇ルピーを喜捨した。すると、彼がおれに手をあわせた。そのとき、感じたんだ。すべての世界がひとつになって。うまくいえないが、生とか死とか、豊かさとか貧しさとか、そんな部分ではなく、全部がいっぺんにやってくる感じで、陳腐ないい方だが、「神の愛」を感じたんだ。甘くてはちきれる、柔らかく暖かい、好ましい思いだ。 「まだ死ぬには若すぎる。やりなおして、生きてみろ」といわれた気がした。ベナレスは、冥府とつながっている。これほど、ちかくに死を予感させる街をみたことがない。そのいっぽうでベナレスでの往生は、ヒンドゥーがもつさまざまの通過儀礼にすぎないとも思える。聖なる連環の粛々とした、ひとつの通過点なのだ。 生きてみようと思いはじめた。格好が悪くても、みっともなくてもいいから、一生懸命、生きのびよう。神さまはおれを生かしてくれた。そう、思いはじめた。お袋は、格好悪い生きざまを、どうどうと息子のおれにみせてくれた。そして、けっこう格好よく死んだ。おれは権力と戦ったつもりだったが、じつは世間から逃げいていたんだ。別れた妻とも話しあい、やりなおしてみたい。ベナレスは、終わりではなく、はじまりなのではないか。ザリムだって懸命に生きている。逃げずに戦っている。自分だけが、逃げだすなんてできない。おれもまた、自己のダルマを果たさねばならない。 母国に帰って、まずは病気をなおすことにした。 また日本で会いたい。ぜひ手紙をもらいたい。 俊和より ベナレス、ホテル・ウエルカムにて つぎの日の朝、ハッサムがやってきて部屋が変わった。泊まっていた旅行者は、べつの場所にうつされたらしい。ここは見晴らしもよかったし、ウエルカムではいちばんいい部屋みたいだった。ハッサムの提案だったのか、ダニアールだったのか分からないが、特別な好意に違いなかった。だから、すこしながくいることにした。ザリムはまた朝食をつくってくれたが、卵ふたつのオムレツで一ルピーだった。卵の値段がさがったのか、特別には聞かなかった。三日目からは、朝食には金がかからなくなった。ザリムが竜司のポリエステルのTシャツを欲しいといったからだった。それで、交渉になった。 「五日分だ」とザリムはいった。 「一〇日分でなければ駄目だ。いやなら、食事代は金で払う」 ザリムはかなり考えいろいろ悩んでいたが、Tシャツは一〇日分の朝食になった。この国の人にとって、ほかの者がもっていないものを所有するのは、高いカーストの証しだ。彼がポリエステルのシャツを欲しがるのも、外国人とつきあいのある自分のジャートを自慢したいだけだった。竜司のTシャツは、ザリムには小さすぎてとてもきられない。だから彼は、自分がつけるために欲しいのではない。 普段、気づかないだけで、日本にもカーストがある。わが国では宗教は曖昧だが、金や職業による身分制は存在する。それがやぶられても罰則がはっきりと決められていないので、しばる構造が違う。 インドでは背くとたいへんで、村八分になる。たとえば若いふたりが恋に落ちカーストをやぶると、待っているのは賠償で、女はだいたい売られるらしい。いちばん金をだした者の慰み者にならなければならない。ヒンドゥーは一夫一妻だが、金持ちが買った女性になにをしようと不問にされるらしい。そんなときは、女が死をえらぶことも多いだろう。そうすると金を払ったやつは大損で、文句は女性の家族にいく。女の一家は、苦情にだまって耐えなければならない。家族の一員がカーストをまもらなかったのだから、そのくらいの覚悟はできている。しかし、絶対うまくいかないと分かっているのに、なぜやぶるのだろう。身内を不幸にし、だれも幸せになれない。心中ならまだ理解できるが、なぜ万分の一にかけるのだろうか。たとえ運よく逃れられても、住む土地もなく生きていかねばならない。のこされた家族に、たいへんな迷惑をかけるのに理解ができない。 俊和の置き土産は、地図だった。 竜司は、意志をひきつぐことにしたが、特別な理由はなかった。最大の事由は暇だったからだが、最初の日、地図にそっていちばん川下のガートにいってみた。道はいろいろかいてあったが、近道に思えるところを図面だけをみていった。その通りいくと、めざしたガートがあって感激し、面白そうに思った。こうした目的で地図をつかってしまうと、完成させないと俊和とは二度と会えない気がした。それで、彼の意志をひきつぐことになった。 朝から毎日、ガートめぐりだ。四国の巡礼とおなじで、たいへんだった。この仕事は、まず俊和の地図が間違っていないか、たしかめることからはじまった。かかれた場所をひとつずつ確認するのだが、かなり根気のいる作業だった。俊和がはじめたプロジェクトだったが、完成するまでベナレスを離れることができない。運がよければ適当な人と出会って、この意志をさらにひきついでもらえるかも知れない。 六〇のガートを確認するのに二週間かかった。ほとんどは正しかったが、いくらか間違っている部分はかきなおした。ガートにつづく道は迷路そのもので、それぞれに名前がつく幅が二メートルくらいの小径だ。ひしめきあい、そびえ、無彩色の、覆いかぶさる石造りの建物のあいだをぬけていくが、相互の位置関係を知るのは容易ではない。実際に地図をつくってみると、俊和の苦労がよく分かった。考えながら歩いていると、道に迷ってしまう。確実な目印がまず必要で、それを中心に地図をつくっていく。 そうやって探索していると予期もしない場所にでることがある。ベナレスに死ににきた者の宿泊施設とか、火葬場の材木置き場とか、かったいが暮らす掘っ立て小屋とかさまざまで、またそこを目印に、かきこんでいく。こうしてガートの地図ができあがるのだが、苦労の連続で、なんでインドでこんな仕事をあたえられたのか悩んでしまうほどだった。こんなに努力したのは入学試験以来で、毎日マップの空白部分をひとつずつ埋める作業がつづいた。 ベナレスに死ににきた者が泊まる宿泊施設は、だいたい二階だてで、病人は一階にいるのが普通だった。日本の病院では死がちかづくにつれ、階があがっていくばあいが多く、たとえば三階から四階、さらに五階という感じだ。ここでは違って、死にそうになると下におりてくる。すこしでもガンガーのちかくでの往生を望んでいる。目のまえで死んでいく人に出会った場面も経験した。多くの親族にかこまれたときも、連れ合いがひとりのばあいもあった。 死んでから棺桶に入れられて、ベナレスにおくられてくる人はおおぜいいる。インドじゅうから送達されるらしいが、そんなことができるのは一握りの金持ちだけだ。遠路はるばるとはこんでくるのは、相当な大金持ちに違いなかった。普通はそんなことはできないから、ガンガーのちかくで死ぬ順番を待っている。遺灰をながすためにおとずれる人だけでも、年に五、六〇〇〇はいるらしい。 河にそって八〇以上のガートがあるが、もっとも有名なのは、マルカルニカーだろう。火葬場で、竜司は毎日そこに通い、なにがどう行われるか、克明に脳裏にきざんだ。焼かれる者のとなりでみていたから、家族は外部職員だと思っただろう。 火葬場は、英語ではバーニング・プレースという。メインのマルカルニカーが有名すぎるが、ハリスチャンドラというサブもある。火葬場も、ガートであるのは変わりがない。さすがに灰がふってくるマルカルニカーの水をくんで、チャイ用にもっていく人はみなかった。朝のチャイはガンガーの河水でする者はけっこういて、そこで沐浴中に排便しても関係なく、聖なる河に触れてしまえばその瞬間、穢れはすべて清浄なものに変わるらしい。 火葬場のガートは、子供にとって最高の遊び場らしく、ときには焼けのこった骨なんかが浮かんで面白いから、マルカルニカーのちかくではしょっちゅう泳いでいる。多少離れて遊ぶのが礼儀で、あまりちかづくと焼けた灰が落ちてきて火傷をするから、おたがいに注意を払っているようだった。 死体は竹でつくった担架にのってやってきて、担ぎ手たちは掛け声をあげるが、なにをいっているのかは分からない。シヴァを賛美しているのは間違いがないだろう。マルカルニカーの裏手には、尖塔が八〇〇キロの純金で葺かれた、シヴァ神を祭るヴァイシュヴァナート寺院がある。ガンジーの改革によって、アウトカーストまで寺に入ることが許可されていた。竜司は、日本人という不可触民よりさらに卑しい身分なので、なかに入れなかったから、内部がどうなっているのか知らなかった。 担架が紅い布につつまれた者は女で、白いばあいは男だった。ガートちかくの階段で縁者は別れをつげると、担ぎ手だけになって、ガートの石段をくだり、ガンガーの河水に遺体をつけた。みんなは、一〇メートルほど離れた塔のそばから肉親や知人の死体が焼かれるのをみるが、この付近に竜司はい。 マルカルニカーに興味をもって毎日通う彼が、こんなにちかくで観察しても注意をうけないですむのは、不可触民だったからだろう。竜司が身分をこえ、そばにいる家族に話しかければスキャンダルになって、すぐに排除されるに違いなかった。 マルカルニカーで女性の数がすくないのは、感情が激しくて静かにできないという理由で制限されているらしい。これも、皆無ではなく、女がかたわらにいるばあいもある。カーストによるらしく、涙ながらに、すき通る小さな声で歌を歌っている女性の姿をときどきみかけた。 竹の籠から遺体をおろして、木材のうえにのせる。さらに、薪をつみあげ油を垂らして火をつける。火つけには藁がつかわれ、基本的には足からでも頭からでも燃やしはじめていいらしい。喪主と思われる男が、足がわにつけるばあいが多かった。ただ、火がついた藁は、地面のちかくにくべられた。 薪は、四キロ一ルピーで、死体を一体燃やすのに四、五〇キロは必要だった。だから、薪代は一〇ルピーくらいになるらしい。これは純粋に薪の値段で、火葬の総額は暴利でもなく、通常の形式なら二〇〇ルピー程度らしい。働き盛りの警察官の月給が五〇〇ルピーだから、公務員の二週分の給与に相当するのだろう。 火つけをすると、火のついた藁をもって死体の周囲を五度、回転する。火炎がつよいと、ぐるぐるまわれないから、頭のほうだけを五回ほどまわる。火つきをよくするためにパウダーをまくばあいもあった。生焼けはぐあいが悪いから、金持ちは薪も多いし、粉末も余計にばらまいていた。そのほかに油脂をぬったり、特別に綺麗な木片のうえに死体をのせたりした。 三歳以下の子供は、燃やさないらしい。まだヒンドゥーになっていないという理由だ。理論的には聖紐の儀式、ウパナヤナを終えて再生しなければヒンドゥー教徒になれないから矛盾があると思った。そうした理解しがたい問題は、バラモンがながい教義をつくって、さまざまに都合よく解釈しているのだろう。 サドゥーは焼かれず、死んだばあいは「重し」として石を身体にしばりつけ、河になげこむといわれていた。しかし、竜司は現場をみたことがなかった。 サドゥーは、世間の束縛をすてた人、サンニヤーシーともよばれる出家遊行者で、インド全土に四、五〇〇万人いるといわれていた。竜司がみるかぎり、みんな聖紐をつけていた。彼らは、自分の持ち物を人にあたえ、家族の財産にかんする一切の権利を放棄するらしい。 シャンカラは、サドゥーになるさいには自己に供犠の火をとりこみ、葬儀もすませて聖紐も焼けといっていた。もし普通の生活にもどれば、二度とヒンドゥーになれず、子々孫々、アウトカーストだとかいていた。このさいに、ひと房の頭髪もすてろと記述している。遺棄された髪とは、いうまでもなく去勢を意味していた。 この出家制度は、興味ぶかいと竜司は思った。個人がまったく無視される、厳密な相互依存を特徴とするカースト制度によって秩序がたもたれている。そのいっぽうで、現実世界にはり巡らされたカーストの網の目をぬけだし、一個人をうみだす制度もあるのだ。自由になりたければ、社会をすてればいいのだ。 サドゥーは、すでにヒンドゥーでもなく、まったく制約がなく、すべてが許されている。人によっては足元に額ずかれ、かなりの尊敬もうけている。ただ、社会にもどってきてはいけないのだ。 俊和のいう深洋世界とは、権力をもつ王侯が宗教的な司祭にはなれず、さらに高位なバラモンにより力を制限される二重権力構造をさしている。王がいない現在でも、村落共同体には土地にたいして、いちばん上位の権利を有する支配カーストが存在し、司法権の一部を所有しているらしい。このカースト制度は、決して昔話ではない。釈迦がヒンドゥー教を否定して仏教を創設したとき、王侯はバラモンから逃れて自由になり、一時的にはよかったのだろうが、現実には祭儀ができずにこまったのではないか。 王がおさめているのは現実社会で、仏陀は社会をすててしまったのだから、おなじ次元にはいない。釈迦が俗世を遺棄したのは、仏伝にはくどいほどにかかれている。社会に住む王が、司祭をかねられればバラモンは不要だろう。それですんだなら、仏教が衰退する理由もなかった。実際の政治が行われる現実社会では、バラモンは不可欠な存在だったのではないか、と竜司は思った。 おおむねが燃えてしまうと、一塊の骨をとりだしてガンガーになげこむ。それから、河水が満たされた素焼きの陶器を頭上にのせ両手でささえた者が、目のまえに河、背後に焼かれた遺体という設定で、壺を後ろにほうり落とす。そうすると土器は灰のうえに落ち、砕けて水が飛びちる。これは、たんなる儀式で、火が消えることはない。燃えのこった薪は片づけられ、灰はガンガーにすてられる。壺の儀式は、ないばあいもあるので別途の費用がかかるらしい。 墓参りのとき、墓石に水をかけるのは、ガンガーの名残だろう。ここで行われる火葬には、「死者の姿をのこさない」という意味があり、火で焼却し、灰も聖なる河にかえすから、基本的には写真撮影は「厳禁」となっている。 マニカルニカーは、基本は上下二段で、その差別は不詳だった。なにかの差があるのだろうが、分からないことは多かった。 こうして死体が焼かれ、灰がガンガーになげられ片がつく。ひとつの葬儀が終わり親類縁者が去り、燃やした薪に水がかけられ、ぶすぶすと音を立てている。そうすると、ちかくに住む子供が炭をひろいにやってくる。 マニカルニカーの近辺は貧民街だから、たぶん正面からみて右手の建物に住人か、さもなければ、またその炭火を売る不可触民の仕事なのだろう。こうした死という穢れにたずさわる人びとは、すべてダリッドだろうが、金属製の中華なべに燃えのこった「かす」をひろいあつめていく。水がかかってぶすぶすしたものは不適切で、赤くなければ意味がない。そうした燃えている薪をみつけて、竹の棒をつかってたくみに炭をひろうのは、特殊な技術が必要な作業にみえたが、子供の仕事だった。 竜司がみていると、こうしたダリッドのあいだにもさらに序列があるらしい。燃えカスを女の子がひろっていると、火葬場のちかくで泳いだふたりの男の子がきた。みんなおなじくらいの年だったが、ひとりの男の子供は、焼いたのこり火で腰布のルンギを乾かそうとし、灰がついて汚れてしまった。少年は、少女に布をわたした。女の子は、ガートにあらいにいった。よくしぼってもってきて、ルンギを男の子にわたし、また炭ひろいをつづけていた。そこには、上下関係に似たものがあると竜司には映った。 毎日、こんな出来事を観察していた。考えると馬鹿みたいだし、どうみても、とても利口な者がすることとは思えなかった。あとは一生懸命歩く行程の連続で、はっきりいって毎日かなりいそがしかった。俊和は、こんな激しい労働をしていたのだから肝炎がなおるはずがなかった。帰国までに、完成させねばならない。不可能なら、適当な後継者をさがす必要があった。未完のまま終わったら、俊和に連絡もできなかった。なにがなんだか分からない袋小路で、作業そのものがベナレスにそっくりだった。 「でてきた。きたんだ」 ハッサムは、叫んだ。 「早くきてくれ」 「しょうがないな」 竜司は、立ちあがりながらいった。ハッサムのちかくにいき、窓からゴドリアに通じる道を、ふたりでみた。 鮮やかな緑のサリーだった。素晴らしい美貌で、ながい黒いストレートの髪が中央から分けられていた。顔の全部を知るには遠すぎたが、オーラを感じた。ハッサムのいう通り、驚くべき美人であるのは間違いがなかった。 となりで、変なうめき声がした。ハッサムをみると真っ青になって、がたがたと震えだし、窓から一歩ずつ後ずさり、とつぜん泣きだした。 竜司にはなにが起こったのか、さっぱり分からなかった。 ハッサムは、ベッドで嗚咽をはじめた。ごんごん寝台をたたきながら泣いていた。竜司のかけ布団を自分の額に押しつけて、もう号泣だった。 「なにを考えているんだ。どこにでも、わけの分からないやつはいる。やっぱり、こいつは、だいぶおかしい」 竜司は、その様子をみて思った。 素晴らしく綺麗な緑のサリーだった。 緑色が美しい色彩だと、竜司はインドではじめて知った。都会育ちの彼は、緑に馴染みがなかった。太陽の光線がつよいほど、それを照りかえす力をもつのは緑色だけだった。日の光があたると、緑葉は影をつくりながら、輝くグリーンと赤みがかった補色の緑に変化した。赤い陰影の翠緑は、光る緑色をいっそう映えさせながら沈んでいった。緑葉の量があるほど、多くの補色の緑がうまれ、わずかにのこる輝きのグリーンを浮き立たせた。新緑が眩しく感じられるのは、そのせいだった。だから浮き立つものをもっていなければ、女もいっしょに影になって、緑色のサリーは似あわなかった。つよい光のなかで映えて緑の衣装が相応しいのは、綺麗な女性だけなのだ。 サリーは一枚の布で、だいたい、五メートルから六メートルくらいある。縫い目のないほうが、高いらしい。ながいほどいいが、九メートルくらいが限界らしい。もちろん木綿製より絹製はずっと上等だし、重いほうが絹の量が多いのでさらによい。だいたい、こうした序列らしかった。 インド人はデブが好きで、太った女は腹がでているのをみせびらかしてサリーを巻く。肥満体は、「食事にこまっていない」という金持ちの証しになる。ダリッドの竜司をみて鼻をつまんだ上流のご婦人は、三段バラだった。彼だって好みがあって、デブは嫌いだった。べつにそばにいきたかったのではなく、疲れていただけだったし、すこしからかってみようと思っただけだった。そんなことを思いだした。 ハッサムの嗚咽は、つづいていた。 「もう、みてはいられない」と竜司は思った。 ハッサムをのこして外にでたのは、朝の九時半ごろだった。 四、ガート 巡礼も、最終段階に入っていた。竜司は、まずマルカルニカーに顔をだし、いちばん手前の焼き場にいった。ガンガーの水位はさらに低下し、もうひとつ下の段があらわれていた。今日はじめて、三段目の焼き場があるのを竜司は知った。状況が変わっても、どうにでも対応するのだろう。 火のついた薪の周囲にあつまった親族は、男ばかりだった。いちばんちかくにいる、三〇歳くらいの男性の母親が焼かれているのだろう。あらかた燃えると、四〇歳くらいの男が壺をとりだし、息子に水をかけさせようとした。焼き場の係員がガンガーからくみあげた河水を、息男はいわれた通りに四度まいて火を消した。最後に「壺の儀式」になって、焼かれた者の連れ合いらしい、六〇歳くらいの男性がよばれた。男は、ずっと泣いていた。いわれるままに壺をなげると、ひとりで立つことさえできなくて、すぐに親族のなかにまぎれていった。それから、息子が一塊の骨をガンガーにほうりなげた。 竜司は、その様子を小一時間くらいみていた。それから、いつも通りにマルカルニカーのひとつ下流のガートにいき、行をしているアシュラムにチャパティーを一枚喜捨した。 巡礼をはじめたとき、竜司は、このサドゥーに祈願した。 「私は、俊和の意志をひきつぐことにしました。これから毎日、チャパチィーを一枚寄進させてください。そのかわりに、ガートの巡礼がとどこおりなく終了し、無事に俊和のもとに完成した地図をおくれるよう、おまもりください」 虚空をみあげるサドゥーは、もちろん竜司の言葉に振りむく理由もなく、表情ひとつ変えずに行をつづけていた。五〇歳くらいのガリガリに痩せた男で、ながい髪には白髪が交じっていた。 サドゥーは、竜司が最初にベナレスにきた四ヵ月まえから一枚のムシロに座してふたつの行をしていた。俊和は、「たぶん五年以上、この状態だ」といったから、五年の根拠をもっていたのだろうが、彼には正確な期間までは分からなかった。 アシュラムは「無言の行」をし、声を聞いたことはなかった。周囲の人びとがさしだす余り物を食べて暮らし、それなりの尊敬をうけていた。おおぜいの人が彼の足元に額ずくのを、竜司は毎日みた。 日の出まえにガンガーで沐浴すると、アシュラムは一日じゅうだまって座したまま「日輪を凝視する行」をしていた。眼球は、日の光にすっかり焼かれ真っ白で、たぶん網膜にぼんやりと映る太陽の影を、目でずっと追っているのだろうと竜司は思った。 この朝も、裸の上半身に聖紐を左の肩にかけたアシュラムは、日輪を凝視していた。チャパティーを寄進すると、竜司はなにかを感じた。もちろん声でも表情でもなかったが、盲目のサドゥーは、彼をはっきり識別しているらしいと思った。そんな雰囲気で、柔らかな羽毛に似た、しっとりとした風が竜司の心を通りすぎた。 「分かっているんだ」と彼は確信した。 俊和によれば、アシュラムは、「シャイヴァ派の行」をしているそうだ。根拠は分からなかったが、ベナレスはヴァイシュヴァナート寺院を中心としたシヴァ信仰の街だから、矛盾はなかった。 ヒンドゥー教は、偉大な三柱がよく知られているが、実際の信仰はヴィシュヌか、シヴァかのどちらかだった。この二神は、まるで対照的だった。 ヴィシュヌ神は、菩薩みたいにさまざまに姿を変えて現世に出現し、マハバーラタのクリシュナが有名だが、仏陀も化身なのはだれでもが知っている。論理的であかるく、おだやかで善意と友愛にあふれる、祭祀的な至上神だ。 いっぽうシヴァは、非論理的で暗く、あらあらしく悪意に満ち、ほとんど悪魔じみていた。ひじょうに孤独で、荒涼としたヒマラヤの山中に住み、人間を愛することもない。火葬場や戦場など不吉な場所を好み、死骸を焼いた灰を身体にぬる。彼は多くの別称をもち、シヴァ「慈悲深き者」。シャンカラ「救世主」。マハデーヴァ「偉大なる神」。パシュパティ「野獣の王」。ナタラージャ「舞踏の神」。ハラ「破壊者」。カーラ「時間の神」。シャルベーシャ「羽のある獅子」。バイラヴァ「殺戮の神」。神々に挑戦する阿修羅の三つの城を破壊する、トリプラールダナ「三城砦の破壊者」。さらにガンガーダラ「ガンジスをささえる神」でもあった。 シヴァは、ガンガーを氾濫させるだけでは飽き足らず、疫病を巻きちらして人びとを大量に殺戮する。髪を三つ編みにし、暗褐色の肌で腹は黒く背中は赤い。そのうえに獣の毛皮をまとっている。この猛烈な、なにがなんだか分からない神が、インドでいちばん人気で、ベナレスの守護神なのだ。シヴァは、武器として三叉の戟をもつ。その先端に、三〇〇〇年以上の歴史があり、マハバーラタでは「輝ける街」カーシーとよばれ、玄奘の大唐西域記でも大自在天を信奉すると記載される、ベナレスがのっかっているといわれる。 竜司は、上流にむかって歩きはじめた。つくられた地図のあいだに、見逃したガートがひとつあった。その先を調べていた。道はすぐに分かった。ヴァラディーという名の、幅が一〇メートルくらいの小さなガートだった。ついたのは一一時ころで、ちかくに住む男が沐浴をしていた。そこでも年老いた女が、ガートの守り神に小さい土器でガンガーの河水をささげ、合掌していた。日本でも仏前に水をそなえるが、そっくりだった。観光ボートがいくつかみえたが、慣れっこになって、だれも気にしていなかった。身を清めていた男は、インド的にいえば「魅力のある」腹だった。竜司も、今日はこのガートで沐浴するつもりで、着替えのルンギをもっていた。 腰巻きは、ただの木綿だった。こうした小さくて、観光客や巡礼者のこないガートで、ものが盗まれたことはなかった。 沐浴は、裸ではなく、衣服をまとったまま行う。着替えのルンギをガートにおいて、竜司は身を清めた。ガンガーにつかると便意を催したので自然の成り行きにまかせた。まかされたものは、浮かんでながれていった。 インドは非衛生的なところで、よく下痢をする。日本人が弱いからではなく、インド人もおなじだった。それから、ガンガーで口をゆすいで、河の水をひと口飲んだ。 そうこうしていると、死体がひとつながれてきた。うつぶせで、臀、背、後頭部がみえ、股間の一部は、腫れて巨大になっていた。臀部が充血して赤く、背部にも真っ赤な筋がいくつもあったのは異様で、死んでからかなりたってから、なげこまれたに違いなかった。遠くからはこばれてきたのだろうが、親族は焼き場に払う金がなく、ガンガーにそのままほうりこんだのだろう。死体はふわふわとながれてきて、竜司のまえでゆっくりと一回転した。腹になり、またまわって背中の赤い筋がみえた。 死体は、河のながれの関係でうごかなくなった。いっしょに沐浴したデブのインド人にとっても、いささか驚きだったらしく、ガートの石段をあがって逃げていった。竜司は力いっぱい、河の中央へむかって死体を押しもどした。遺体はながれにもどり、またゆっくりと、ふわふわと浮いて川下にはこばれていった。デブの男はじっと彼をみつめていたが、死体が遠くにいったのを確認すると、沐浴のつづきをはじめた。 竜司は着替えるためにガートにもどり、乾いたルンギをとった。 「やっぱり、日本の人ね」とそのとき女性の声音が聞こえた。 声がしたほうをみると、ガートの右端にある家の正面に女が立っていた。 それが、真利子だった。 「こっちへ、きなさい」 「ここに、お住まいなんですか」 竜司は、ぬれたまま不審気にたずねた。 「そうよ。ここはあたしの家よ。入って着替えて、お茶でも飲んでいったら」と真利子はいった。 若い女で、三〇歳くらいにみえた。ふっくらとした体型で、丸顔で黒いながい髪に、赤っぽいサリーをきていた。額には、赤いビンディをつけていた。 竜司は、さそわれるままに家に入った。ガートをずっと研究してきたが、その構成要素ともいうべき周辺の家屋を見学したのははじめてだった。石造りの二階だてで、河のなかからつきでたように立っていたが、基礎がどううたれるのか分からなかった。一八世紀にインド各地の藩王マハラジャが、この地で最期をむかえるために競って家をたてたという話は聞いていたが、ガートをとりまく建造物についてはいままで考えたこともなかった。 住居にはガンガーに面してベランダがあり、真利子はそこで「着替えたら」といって乾いたタオルをくれた。いつもは、ぬれたルンギをしぼって身体をふき、もってきたものに変えていた。竜司は、いわれるままにベランダにいき、真利子からわたされたタオルで身躯をぬぐった。そこからみるガンガーは、いつもとは違う構図だった。竜司は、髪の毛をざっとふくと、ベランダの欄干の石壁に両手をついた。 「ひたひた」という、ガンガーが石造りの建物にぶつかる音が聞こえた。そこは、静かなときに支配されていた。 竜司は、身体をふくのを忘れ、タオルを石壁にかけると、表情を変えたガンガーの河面をながめた。漁舟が浮かび、投網する漁師の痩せた姿がみえた。ゆっくりと網をひきあげる男をみていると、とつぜんヴァラディーのガートを走る足音と、なにかを叫ぶ女の子供の甲高い声が聞こえた。かなり離れたところからだと思うが、たぶん少女の言葉に応える母親の声音が、静寂をやぶってひびいた。そしてまた、波のひたひたという音だけが聞こえた。 空を一面に覆う、うすい雲のあいだをぬって、一筋の光が投網をする漁師のちかくにさしこんでいた。波打つガンガーの河面は、雲間をつらぬく束になったつよい日に照らされ、煌めき輝く光線とたわむれながら、青い点描が揺らめいていた。まるで色彩分割された、モネがかく湖面に似て、時々刻々と変化する光が水面に妖しくうすく漂っていた。そのとき、竜司はなんの脈絡もなく二年まえに亡くした母の面影をみた気がした。 ガンガーには、哀愁が漂っていた。柔らかな風が吹いた。じっと河面をみていると、詩がひとつできた。竜司は、それをゆっくりと口ずさんだ。雲もゆったりとながれ、また波音が聞こえてきた。規則的でやむことがなく、意識するかどうかは、聞く者の自由で、いつでも音はしていたのだ。どんなときでも。どのくらいの時間だったろうか。ふっとわれにかえり、振りむくと、女がじっと彼をみつめていた。 竜司をみていた真利子は、気が変わったらしく、 「気持ち悪くないの。シャワーがあるからつかったら」といった。 「じゃ、そうします」と竜司は答えた。 シャワー室に案内されて水をあびると、たしかにガンガーよりも気持ちがよかった。あらためてもらったタオルで身体をふき、持参した乾いた腰巻きに着替えた。 ルンギはただの木綿の布で、沐浴のときは下着はつけない。これは女もおなじで、身を清めるさいは、サリーだけだ。下着なんてもともとは、なかったのだろうから、ヒンドゥーの女性は、いつも布しか巻いていないのかも知れない。 「あらってあげるわ」と真利子はいって、ガンガーで沐浴したルンギを洗濯機に洗剤とともにほうりこんだ。 「物好きね」 彼女は、居間の椅子にすわり、竜司にも腰をおろすよううながした。 そこには、藤の腰かけが四脚と、中央にまるいテーブルがあった。居間は入り口のすぐまえで、日本なら玄関にあたる部分だった。 「あんな遺体に触れて、よく平気ね」と真利子はいった。 「死体に触ったのは、はじめてです。ちかよってきたので、仕方がなかったんです」と竜司は答えた。 ガートのとなりの建物だったので、椅子にすわるとベランダの壁ごしにガンガーがみえた。真利子がだしてくれたチャイを飲みながら、竜司はじっと彼女をみつめた。色の白い丸顔で優しい感じの日本人だった。額に赤いビンディをつけた、ごく普通の女性にみえた。 「結婚しているんですね」と竜司は聞いた。 「インド人の妻なのよ。私も物好きでしょう」と真利子はいった。 「ずいぶん、ロマンチックな話ですね」と言葉をかえすと、彼女は笑った。 真利子は、浅草のうまれだった。ふたりで、いろいろな世間話をした。日本人と話すのは久しぶりだったが、不思議な出会いに思えた。竜司は、旅行の話をした。彼女の結婚の物語を聞きながらチャイを飲んでいると、ドアがノックされる音が聞こえた。 「どうぞ」と真利子はいった。 「入るわよ」という女の声音がした。 間違いのない日本語で、痩せた女性があらわれた。瞳が黒くて肌が黄色く、顔立ちのととのった綺麗な女で、理知的にみえた。ながい髪の女性は、オレンジのサリーをきて、ビンディをした日本人だった。 「裕美。この人、竜司さんというんだけれど、ここで沐浴していたのよ。死体がながれてきてね。沐浴しながら、それを河にむかって押しかえしていたわ」と真利子はいった。 「物好きね」と裕美も言葉を発した。 「それでは。今日は物好きが三人あつまって、お昼を食べましょう」と彼女がいって竜司はカレーをご馳走になった。 「なにをしているの」と裕美は聞いた。 竜司は、俊和との出会いと、うけついだガートの地図について話した。これはうけた。ふたりは、「聞いたことがない」といった。 「一度、みてみたいわ」と裕美は口にした。 「きっと、力作なんでしょうね」と真利子はいった。 「あとふたつで完成です」と竜司は答えた。 「全部のガートで沐浴したの」と裕美が聞いた。 「そこまでは、とても。時間がありませんでした。いそがしかったものですから」と答えると、ふたりは声を立てて笑った。 それから、ベナレスの話になった。ふたりは、おなじ二九歳で、出会ったのは偶然だったといった。真利子は、二年まえにインド人と結婚し、ベナレスに住んでいた。裕美は、タイで商社につとめていたが、事情があってやめて、いまはBHUの学生だという経緯だった。外語大のウルドゥー語学科を卒業したらしいが、さっぱり分からない話だった。 いろいろと話して二時をすぎたころ、「ご馳走さまでした。これでまた」と竜司がいうと真利子が、 「明日は、お寿司をご馳走してあげるわ。お昼にいらっしゃいよ。裕美も、どう」と提案した。 「お寿司ですか。いいですね」と竜司は答えた。 「じゃ、決まりね」と真利子がいった。 裕美も、お昼にくると答えた。 竜司があらってもらったルンギを手にしてウエルカムにもどったのは、午後の三時すぎだった。ホテルではハッサムが待っていた。さすがにもう泣きやんで、晴ればれとした表情だった。 「いったい、なんだったんだ」と竜司は聞いた。 「いやあ、人騒がせだ。ナンディーには、こまったもんだ」とハッサムはいった。 「おまえも、みただろう」と彼は聞いた。 「そうだ。おまえの馬鹿さ加減を」と竜司が答えると、ハッサムはバツの悪そうな顔をした。 「みなかったのか。みんな、ナンディーが悪いんだ」 「緑のサリーをきていた娘だろう」 「そうだ。シンドゥールをしていた。デリーでは、学生のあいだで、はやっているらしい。あんなことをするのは、ここではナンディーしかいない。まったくこまったもんだ」とハッサムは真剣にいった。嬉しそうだった。 「いったい、なんなんだ」と竜司は思った。 「大騒ぎになったんだ。ベナレスじゅうが知っている。結婚しないでシンドゥールをつけたのは、ナンディーがこの街でははじめてなんだ。彼女は進歩的だが、すべてをうけ入れることはできない」 ハッサムは、興奮して話した。なんでも、甘受できそうな晴れやかな表情だった。 夕方、いっしょに食事にいくことになって、ハッサムはまた服を着替えた。五時ごろ、ダシャーシュワメードでは、フェスティバルをやっていた。これはヒンドゥーの祭りで、ハッサムには興味がないことだった。食事をしたあとで、ふたりで肩をならべて、ゴロリアの交差点にむかって緩いのぼりの小径を歩いていた。そこで、ナンディーがつれの者といっしょにおりてくるのにすれ違った。ハッサムが、緊張するのが分かった。歩きがぎこちなくなり、ころびそうになった。足があがらず、つま先が地面にぶつかってしまうみたいだった。 ナンディーは、青いサリーをきていた。 今度は、竜司もはっきりとみた。若い女は、シンドゥールではなく赤いビンディをしていた。素晴らしい美貌だった。つやのある黒い髪は真ん中から分けられ、腕のところまで真っすぐに伸び、鼻は高くて、切れ長の目をしていた。彫りがふかくて、知性的にみえたし、ブルーの瞳は海の底を連想させた。竜司も、まじまじとみた。心をうばわれ、立ちどまっていたかも知れない。目があって、ナンディーも竜司をじっとみつめた気がした。それからたがいに、反対の方向に歩いていった。 「分かっただろう」 その日、ハッサムはたいへんだった。ウエルカムに帰ると、ずっと竜司の部屋にいて、完全な興奮状態で話しつづけ、ひとりにしてはくれなかった。 「ナンディーと目があった。あれは、愛しあっているもの同士のものだった。おまえにも分かっただろう。ナンディーはおれの瞳をじっと、ずっとみていた。あれが純粋な魂の、愛情の表現だ」 ハッサムは、喋りつづけていた。 「勝手にしろ」と竜司は思った。 ホテル・ウエルカム、一三五枚、了