プラナブの夢                     由布木 秀  一、ガンガツアー  プラナブは、三時に目が覚めた。近頃は目覚めるのが早くて、いつでも充分に眠った気がしなかった。今日も仕事があるので、「もう二時間くらいは床についていたい」と思って、じっと目を閉じていた。やがて、これ以上は、横になっていても仕方がないと思えてきた。となりをみると、真利子はよく眠っていた。安らいだ寝息の音が、リズムをもって聞こえていた。  プラナブは、そっと立ちあがり、ガンガーにそってつきでた石造りのベランダにでた。ゆったりとした木綿製の寝間着のまま、縁側の石壁に手をついて外をみやると、暗闇のなかで、ひんやりとした朝の冷気が彼の顔を撫でていき、黒い満々とした河が目の前に横たわっていた。それはうごくことも忘れ、じっとして、ガート脇の石造りの壁に、ゆっくりとした調子で、くりかえし弱くぶつかっていた。「ひたひた」という音だけに支配される世界を、彼は感じた。  暗闇のなかでひろがり、ときどき飛沫をあげる水を満々とたたえたガンガーは、わずかずつ北にむかっていた。甘い香りにつつまれた河面を吹きぬけてきた風は、聖なる河に清められ、重さをうしない、神の恩寵をのせて頬を柔らかくうった。  プラナブは、隅田川でみた大玉の打ちあげ花火を思いだした。球形の大きな輪が天空にひろがり、青みがかった紫の蜘蛛の糸に変わってながれ落ちていった。光がなげかけられ、うす暗かった世界は一瞬、紫色の紡糸につつまれ、やがて原野が一挙に姿をあらわした。  青紫の絹糸があわい緑に変わるころには、生気を感じさせない灌木がみえた。原野は、しだいにあかるくなってきた。すべての浄と不浄が白日のもとにさらされ、人の世界がみえてくる。ときをあわせて、天上からは小鳥のさえずりが聞こえてきた。それにしても夜明けの啼き声は、なんと高く騒がしいのだろうか。日常のなかでかき消されてしまう、すべての生き物の存在をあらためて教えてくれるときに、世界は支配されていた。乾季であっても雨季であっても、晴れても雨がふっても、時々刻々と変わる状況とは関係なく、夜明けのガンガーはすがすがしかった。流域には、鳩、雀、鷹など鳥類が数多く、空を自由に飛びまわっていた。  絵画にして、のこしておきたいほどだった。プラナブはもともと画家志望で、時折、二階のアトリエで絵をかいていた。彼が名を知らない鳥も多く、いまベランダで羽を休める首にオレンジの毛の生えた小鳥の名前は分からなかった。これだけ有機物があるのだからとうぜんだが、魚類は無尽蔵にいて、ガートのちかくで布をひろげ、バケツいっぱいもすくっていく人びとの姿をよくみかけた。なまずに似た大きな魚もすんでいて、これはけっこういける。そういえば真利子が、「昨日、このガートで沐浴した日本人と知りあいになった。ご馳走する約束をしたから、あの魚が欲しい」といっていた。 「ツアーの客から、醤油を分けてもらわなければ」とプラナブは思った。  あたりがしだいにあかるくなり、太陽が対岸の砂丘からのぼってきた。もう一〇〇〇回もみた、ベナレスでもっとも荘厳で神を身近に感じる瞬間だった。夜明けのガンガーは、いつもあたらしい感慨とともにやってくる。ときがとまって、この瞬間のなかで輪廻の終わりがとうとつにおとずれても、なんの悔いもないだろう。かりに、ほんとうにそうしたことが起こりえるなら、自らすすんで、その「ひとコマ」に落ちていきたいとさえ、プラナブは考えていた。  この地を「聖地」とよぶのに、もっとも相応しい時間だった。ガンガーをはさむ砂丘には灌木だけが生え、みわたすかぎりの地平線まで原野がつづいている。神は最初に、「浄と不浄」を分けたのだ。あらゆる場所、人、時間が、「聖」か「賎」かを定義したのだ。  だから、不浄な対岸の砂丘に建造物をつくってはいけないと、人間が法律で決めることになった。 「穢れ」は、どこにでも容易に出現する。神々の住む世界とは違って、人の世はすでに汚れている。人は、うまれ落ちた瞬間から穢れやすくできている。だから再生族は、人生の節目に儀礼を執り行うことによって、汚れた魂をほんらいの清浄な姿にもどす必要がある。昨日、やむをえず生じた出来事、穢れた者たちをみたり、臭いをかいだり、触れたりという、生きていればさけられない不浄は、沐浴によって聖なるながれとともに去っていき、汚れがのぞかれた自分だけがのこる。しかし、身を清める程度ではとり切れない、「身についてしまった穢れ」がこの世には存在する。  マルカルニカーで火葬されれば、清浄な霊魂は聖なる煙とともに月にのぼり、穢れた肉体は消滅し、焼けのこった部分はガンガーで浄化され、すべてが清算される。ベナレスは、魂が再生する、この世でたったひとつの場所としてつくられた街なのだ。  遠くに、蒸気船がゆっくりと遡上していた。手前には白い帆船が風をいっぱいにはらんで、河面をすべっていくのがみえた。長閑な聖地の朝だったが、彼には安息がおとずれていなかった。 「なんで、こんなにインドはうるさいのか」  半袖の青いストライプのシャツをきて、頭髪に白いものが交じりはじめた男は真剣な表情でプラナブに聞いた。 「物乞いばかりだ。バクシーシばかりだ。子供から大人までみんなそうだ。ここは、聖地じゃないのか」  プラナブと外見のよく似た、小太りの黒い縁とりの眼鏡をかけた中年の男だった。 「インド人は、うまれるときは口からね。脳味噌は、産道にのこしてしまうのね。最初にでてくるのは、頭じゃないの。手と口がいっしょになって、うまれ落ちるの。それに、オギャーとは泣かないの。最初に、バクシーシっていうんです」  プラナブが答えると、だいたいの客は笑ってくれた。  日本の観光客は面白いもので、片言のほうがうける。プラナブは浅草で五年間暮らしたし、日本人の女性をめとっている。妻は、英語も話せないから、家庭での会話も日本語をつかっている。ほんとうは、日本人と変わらない抑揚のないアクセントで、ずっと流暢に話すことができる。ところが、幾分ぎこちなく喋ったほうが、あきらかに親切にされる。理由ははっきり分からないが、たぶん外国語にたいするコンプレックスが、こうした形で表現されるのだろうとプラナブは考えていた。このことに気がついたのは、日本で暮らして三年くらいたったころだった。  プラナブは、皮膚も浅黒く顔形も違うので、だれもがすぐに異国人だと分かってくれる。それが、あまりにも綺麗で抑揚のない、アナウンサーがつかうのとおなじ言葉を喋ると、「なんだ、日本うまれのハーフなのか」と関心は急にひくくなる。わざと片言に話し、よく分からない単語がある素振りをくわえ、どうつたえたらよいのか思案する時間を会話のなかでつくると、みんながとても親切にしてくれる。そうした行為が、外国人や外国語にたいするコンプレックスを解消するらしい、と彼は考えていた。  聖なる河の真ん中に、三羽のカラスがとまっていた。最近の映画の話でもするのか、ガンガーの中央でゆうゆうとながれにのっているのがベランダから遠目にみえた。 「どうして規則は、こんなにも、まもられないのだろう」とプラナブは思った。  たしかに、ベナレスはひどい。インドのなかでも最悪なのだろう。きっと、バクシーシもいちばんひどいのだろう。観光客が文句をいうのは、とうぜんなのだろう。いつからこうなってしまったのか。  ベナレスの街の上流からは、死体をながしてはいけない。これは、条例で決められている。気持ちは、分からないわけではない。聖なるベナレスを、死体になってもゆっくりと味わってみたい。ガンガーの清らかな匂いにつつまれ、時間をかけてこの街をながれていきたい。それは、とうぜんのことだろう。しかし、こんなに毎日ながされるのは問題だ。ここは、インドの聖地だけではなく、いまや世界のベナレスだ。だから、街の下流からは死体をながしてもよいと決めたのではないか。火葬場で焼くには、お金がかかる。かなりのまとまった額だから、だれもができることではない。金銭がないから、聖なる河に触れてはいけないというのではない。お金をかけないで、ガンガーを味わうこともできる。仕方がなければ、死体をながしてもいい。しかし、下流からにしてもらいたい。  沐浴がはじまっていた。このガート、ヴァラディーはとくに観光客用ではないから、近所の住人たちが昨日ついた穢れをとりのぞくために身を清めているのだろう。不浄はどこにでも存在し、気づかないうちに侵入するから、毎日かかさず沐浴する必要がある。  プラナブは、帰国後ベナレスの観光局で日本人ツアー専用のガイドの職をみつけ、真利子との結婚が決まった二年まえに、このガートを買った。彼は、人もうらやむ河畔に住居をもちながら、もう一〇年もガンガーに浸かってはいなかった。 「沐浴は、毎日するのですか」  痩せた二〇歳なかばの男の、昨日の質問だった。 「そんなことは、ありません。週に一回でいいんですよ。だから、モクヨウクビ、っていうじゃないですか」  プラナブが答えると、舟にのっていた全員が声を立てて笑った。  彼が案内していたのは、一度に四〇人が乗船する大型船で、ガンガーツアーでは最大のものだった。ふたりのインド人が、川底にとどくながい竿をたくみに操りながら、小一時間をかけてガンガーをゆっくりとくだって遡行する行程を、ひとり三〇ルピーでやっていた。ダシャーシュワメードから観光客をのせ、マルカルニカーをみせて、聖なる河の話を多いときには日に五回もしていた。  プラナブの評価は、三〇ルピーという破格の値段で表現されていた。これがインド人相手の舟なら、ガイドがついても五〇パイサ、二分の一ルピーだったから、彼は超エリートといえた。適当なジョークを交えながら一二〇〇ルピーという大金を払わせ、観光客から「ありがとう」といわれる業務にしていた。 「もちろん、これは冗談よ。だれか、信じませんでしたか。あなた、大丈夫ですか。日本で、こんなこといわないでくださいね。帰国してからならかまいませんけど、観光局につげ口だけは絶対やめてね。そんなことをいいつけられたら、すぐこれ」  プラナブはそういうと、自分の太い首を水平にした右手の甲の部分で、二、三度たたいた。 「明日から私、毎日サンデーね。あたしが皆さんに、バクシーシをしなければならなくなります。数が多くて、とても競争には勝てませんよ。毎日が日曜日というより、朝から晩まで反省しながら沐浴日ね。奥さんにすてられて、ガンガーで土佐衛門。なにせ相手はインド人ですから、インドーをわたすのはとても上手ね」  また、笑いが起こった。  つたえたいことをつげられない不便さを、つねに感じているツアー客にとって、プラナブは最高のガイドだった。観光客たちは、いつもさまざまな疑問を彼に聞いてきた。彼らにとってプラナブは、親密な関係になりたい、「頼りがいのある」存在にみえた。多くの写真を、ツアー客とならんで撮影された。特別な贈り物、いわゆる「ご祝儀」をくれる気前のいい客もいたし、帰国してからベナレス観光局宛に、プラナブが欲しいといった、日本の週刊誌や醤油や梅干し、「ササニシキ」や、「コシヒカリ」がとどくこともあった。なかには、日本語でかかれた手紙が同封されていた。印字された英語で、観光局長宛に直接くるばいもあった。どれもが、「プラナブが、たいへんよく日本と日本人を理解し、いい旅になったのは彼の助力だ」とかかれていた。  印象的な贈り物もとどいた。  日本食の話題になって、「納豆は好物」と話した記憶はあった。相手も、からかい半分だったと思う。税関がどういう基準で判断するのか分からなかったが、隙間なく納豆がつまった大型の段ボール箱がおくられてきたことがあった。真利子は大好きだったし、浅草で五年暮らしたプラナブも、はじめこそ食せなったが、いまでは好物に属するものだった。とはいっても、とても段ボール一箱分は食べつくすことができず、同僚にもみせて、「これが日本の朝のおかずだ」と試食をすすめてみたが、観光局の職員はだれひとり手をだす者はいなかった。  納豆は、「不浄」そのものにあつかわれた。仕方がないので道端のバクシーシの連中に、半分ほどつまった箱ごと、施しとしてやってみたが、彼らにとっても、かなり不思議な食品にみえたらしい。段ボールのまわりに輪ができるほどにあつまった者たちのなかには、子供も大人も、乞食もサドゥーもいた。遠くからみていると、納豆は可愛そうなくらい小突きまわされた挙げ句、最後にダリッドの子が味見役に立たされた。  六、七歳の男児は、かなりの悲壮感を全身に漂わせ、腐敗臭と、ねばねばとどこまでも糸をひく得体の知れない豆を、何粒か右の手で恐る恐るつかみ、鼻をおさえながら口にほうりこんだ。それで、じっと口唇を閉じていた。いきなり「オェー」と吐きだすや否や、まわりの人の輪を驚くほどの速さで駆けぬけると一目散にガートまで走り、ベトベトになった手をあらい、懸命に口をゆすいだ。耐えられなくなったのだろうか、とつぜん半ズボンをぬぎすてるとガンガーに飛びこんで頭までもぐった。  子供の反応を瞬きも忘れてみつめていたバクシーシの連中も、さすがにあきらめたみたいだった。のこった納豆の塊は、あつまった人びとのなかでも、もっとも長老と思われるサドゥーが段ボールにつみこむと、顔を背けながら箱をもちあげ、ガートまでいき、ガンガーにむかってほうりなげた。そして彼も沐浴をはじめ、ルンギを入念にあらっていた。  プラナブは、納豆にたいしての、ほぼ完璧な理解に到達した。この食品は、インドでは最上級の「穢れ」に属し、序列としては「最低」ということだった。  プラナブは、もともとベナレスのバラモンの出身だった。家は先祖から北西部の地主で、小作人をつかっていた。バラモンといっても、とくに宗教的な祭祀にたずさわるわけではなかった。父親は、ヴァルナとしてはひくい序列だったが、氏姓は地主で、高い階級に属していた。プラナブは、五人兄弟の末で三男だったがBHUに進学できた。末弟が大学にいけたのは、家がある程度以上の金持ちだったせいもあるが、父親が進歩的な人だったからだ。祖父は、インドの独立運動に参加し、ガンジーとともに戦った国民会議派の闘士だった。父もその影響をうけていたので、三男も大学にいかせてくれた。異例ではなかったとしても、彼の進学には大きな問題があった。  長男は、インドの金持ちの通例にならって、イギリスにいきオックスフォードを卒業した。小作人を管理する父親の仕事を手伝うのが、プラナブの役目だった。三三歳のとき、父が死んだ。兄弟は五人いたが、財産は長男がうけついだ。彼は末弟だったのでうけとれたのはわずかな遺産だったが、通常よりずっと多かった。兄もまた、祖父や父の血をうけついでいた。  インドでは、長男は父親のカーストをそのままひきつぐから、兄弟のなかでも格が違っていた。プラナブは、兄とはおなじヴァルナでも、地主のジャートではなくなっていた。ずっとひくいカーストで、ゆくゆくは家をでていかなければならなかった。彼に特別な能力、たとえば数学や科学が得意で理系に進学し技術者にでもなれば、都市での就職も可能だった。経済学部で金融に精通すれば、イギリスにわたりシティーで職をもとめることもできた。  だからプラナブがBHUで文学部にすすみ絵画をやりたいといったとき、父親が「それなりの覚悟があるのか」とたずねたのはとうぜんだった。五人兄弟の末弟が好きな芸術をえらんだのは、彼が人生と天秤にかけて趣味をとった結果だから、それ以上をもとめる立場にはなかった。プラナブが人並みの結婚をし、自分の家庭をつくるのは、そのとき放棄されたことだった。父は、彼がBHUで絵画を専攻するのを許した。兄も、財産のいくらかをくれ、日本にいくのも許可した。破格の事案だったが、末弟が将来をまったく考えず自分勝手な行動をした事実は、親族一同が充分に知っていたことだった。  二、職人  プラナブは、東京の下街に興味をもった。上野周辺で隅田川のながれるところ、点でいえば浅草だった。そこで働く職人たちに興味をもった。彼らは、ただ技術を売っていたが、「奥」のあるものだった。 「浅草は、ベナレスに似ている」とプラナブは思った。  川は交通機関としてはいちばん単純だから、国や地域を問わず、街はまず川ぞいに発展する。ながれる隅田川は荒川の支流で、汚れていて、とても沐浴はできない。真利子の祖父が、この川で泳いだといっていた。ひと昔まえには、魚やシジミがとれ、朝とったばかりの二枚貝を天秤にかついで行商する風情があったと、真顔で話していた。考えられない急速な変化が、この国で起こったのだろう。  浅草寺は、東京都内で最古の寺院だ。本尊は大黒天で、古代インドのマハーカーラ神、つまり悪魔退散の強力な守護神で、本体はシヴァの化身だ。武器が入った大きな袋の中身が食料やお金に入れかわり、日本では福の神に変わった。どれでもインドが起源で、多くは仏教につつまれてつたわる過程で、この国は、なんでも都合よく経済の問題に転化してしまうとプラナブは思った。  浅草寺のとなりは浅草神社で、こちらが祭っているのは、神だ。恵比須神で七福神のなかで唯一の日本うまれの神さまだが、これも開運の福の神だ。神と仏があって、そのうえ天皇がいる。これらが独自に存在しては、物事に厚みがでない。たしかにヒンドゥーは、あらゆるものをうけ入れる。それはふかい器で、なんでもそこに入れることができる。ほうりこんでかきまぜれば、ほとんどは消えてしまうが、あるべきものはとどまるべき場所にのこる。  日本は、すべてが雑然として整理がされていない。文化はあると思うが、とても文明とはよべない。いいかえれば、この国は技術をもつが、思想とは無縁という関係に似ている。うすっぺらで、めくればすぐに底がみえてしまう。だからカーストという、多くの民族が戦い交流するなかで、どうしても消せなかった根本的な思想体系が欠如していると感じた。  未来がなかったプラナブは、三四歳のとき日本にいった。浮世絵に興味があった彼は、約一年間日本各地を放浪したあとで、浅草で羽子板をつくる真利子の父親、健二に弟子入りを志願した。  その家は、八代もつづく羽子板づくりの職人だった。健二は、当時まだ健在だった父の梅太郎と相談した。父親が棟梁のころには、何人かの職人志望者が住みこんでいた。羽子板も機械生産が主流に変わった彼の時代には、弟子入りする者はもういなかった。  梅太郎も健二も、「職人芸も、これまでか」と考える時勢になっていたが、弟子入りの希望者がインド人とは、およびもつかないことだった。外国人には、この伝統を理解するのは不可能だろうと思われた。背がひくく腹がつきでた、ずんぐりとしたプラナブの容姿は、彼らが想像する「黒人」そのものだった。不器用そうな黒くて太い指をみただけで、「とても無理」に思えた。  プラナブは、「私は、インドの総合大学で絵画を専攻し、小さな賞ならとったこともある。インド固有の絵は、パステルで油ではない。こうした手仕事には、つきせぬ興味がある」と片言で何度も懇願した。  仕方なしに梅太郎と健二は「けちょんけちょん」にするつもり、彼に羽子板にかかれた絵図を模写させてみたのだが、ふたりは心底驚くことになった。  プラナブは、芸大出の新進画家とも見紛う素晴らしい絵をかいたのだった。それでふたりは、和紙にかかれた繊細な絵図と、浅黒く、ずんぐりと腹がつきでて、目も鼻の造作も大きな容貌をもち、天然パーマのちぢれた髪の理解不能な黒い肌の男を交互にみつめながら協議して、「やらしてみるか」という話になった。  真利子の家は、木造の二階だてで、健二は二階の一室をプラナブに貸しあたえ、内弟子として芸をつたえることにした。 「インド人の羽子板職人」の事件は話題性をもっていて、浅草の街を紹介するミニコミ誌でもとりあげられた。それが恩義ある人から羽子板づくりの技術ばかりでなく、最愛のひとり娘までうばうことになった。  プラナブは、健二の一〇歳年下で、一五ほど年が違う二〇歳の真利子は可愛かった。気むずかしい職人気質の父親よりも、彼は話しやすい相手だった。真利子にとっては、健二とおなじつながりだった。女と男の関係ではなく、娘が父をしたう感情だった。  プラナブにとっても、おなじだった。もう一〇歳若くて日本人だったら、結婚したかった。長男で、ベナレスの地主のカーストなら、嫁にむかえたかった。しかし、日本人との婚姻にたいする親族の反応を思っただけでも、無理なことだった。  もともと夢想癖のつよかったプラナブであっても、あまりに現実から乖離したとりとめのない妄想で、考えている自分自身に嫌悪感さえ抱いた。それでいて真利子を勝手に思って、寝苦しい夜をすごしたのもほんとうだった。考えるほどに愚かな、このおとぎ話に、深夜ふと目覚めて苛まれることが幾度もあった。  毎月一八日は、浅草寺の縁日にあたる。羽根つきは、もともとは室街時代に発祥したといわれる。羽はうまれた子供の邪気をはねよけ、健やかに育つことに通じ、とくに女児の出産には羽子板をおくる慣わしがあった。子の成長を願って贈与し、それで羽根つきをして新春をすごす縁起物だった。江戸時代に入ると浮世絵師が歌舞伎の役者絵などをはりつけ、江戸の女性たちの人気商品となって多いに繁盛した。とくに正月用品を買う「歳の市」は、幕末までは浅草にかぎられていた。武家や大店が年始用品をもとめに家来や奉公人等を大挙してよこし買い物をしたので、羽子板は多いに繁盛した。明治に入ると、さまざまな場所で年末用品を買うのが当たり前になり、浅草の羽子板産業は衰退していった。それでも歳納めの「羽子板市」は、一年の無事に感謝し、くる年の吉兆を願う観音詣でともかさなり、数多くの人びとで賑わっていた。  ある年、歌舞伎役者の浮世絵を押しつけたプラナブの作品は、優秀賞に輝いた。彼は、棟梁から祝儀をもらい、ほろ酔い気分で自分の部屋で座布団を枕に、ぼうっと横になっていた。襖がノックされて真利子が入ってきた。 「プラナブ。凄いじゃない」  彼女は、声をかけた。  彼も、まさかの賞にやや興奮していた。 「インドでも何回か入賞したことがあるけれど、今回がいちばん嬉しいよ」とプラナブは答えた。 「あの役者絵のモデルは、だれだったの」と彼女は聞いた。  ほろ酔い加減でぼうっとしていた彼は、その言葉に反応してふらりと立ちあがると、「ああ真利子。こっちへおいでよ。襖をちゃんとしめてね。じつは君に贈り物があるんだ」  二三歳になった真利子は、ますます美しくなっていた。プラナブがいい気持ちで立ちあがると、目の前がくらくらした。まるで雲にのった感じで、映る世界が新鮮ですべてが自由にみえ、自分がなんでもできそうに思った。押し入れをあけ、奥にしまいこんだ幾重にも新聞紙にくるんだ棒をもってきて、不思議そうにする真利子のまえで、すわりなおした。 「モデルは、これだよ」  プラナブは、新聞紙を一枚一枚、丁寧にはいでいくと、綺麗な羽子板がでてきた。かかれていたのは、真利子だった。 「これをだそうと、考えたんだけれどね。棟梁に、叱られるかも知れない。だいいち真利子がこまるだろうと思ってね。応募したのは、これをアレンジしてみたんだ」 「まあ、とても綺麗」  彼女は、その羽子板をまじまじとみた。 「真利子のためにつくったんだ。部屋に飾ってもらおうと思って」 「まあ」  彼女は、溜め息をついた。その息は、甘い香りがした。そして、プラナブの瞳を優しくながめたとき、もう欲情をおさえることができなかった。 「真利子」。「まりこ」とプラナブは、ひくい声で囁きつづけた。酒が入り、閉じられた小空間に、夢にみた美しい乙女がひとりでいた。  真利子は、プラナブに異性としての感情をもっていなかった。無防備で、そこにつけいったことになった。それまでにも、幻想をあたえていたのは事実だった。あらゆるものがはじまったインドをできるかぎり美化し、彼女に話をしていた。 「真利子。ぼくは、名門のバラモンの出身なんだ。インドには階級があって、カーストって知っているだろう。日本の士農工商みたいなもんだよ。でも、ほんとうはヴァルナっていうんだ。もともとは皮膚の色という意味だけど、いちばんが僧侶で、バラモン。つぎが王侯や貴族で、クシャトリア。それから商人で、ヴァイシャ。この上位の三階級は、生後に儀式をしてヒンドゥーにうまれ変わるから、再生族とよばれている。その下に、上位階級につかえる使命をもってうまれたシュードラ。奴隷階級がいる。彼らは再生せずに死ぬので、一生族ってよばれているんだ」 「父は、ベナレス北東部で小作をかかえる大地主だったんだ」 「へー。プラナブは、貴族よりも、もっとうえの人なんだ。やっぱり、お金持ちなんだ。そうでなければ、日本になんてこれないもんね。インドって、面白そうなところね。今度、プラナブの故郷をたずねてみたいわ」  真利子は、いつも優しい瞳でみつめていった。こうした事態になったのは偶然だったが、機会をずっと狙っていたと彼は思った。  そうした関係が、健二に知られたのは半年後だった。  プラナブは、夕焼けが都会の雲を茜色に染めるのを、座布団を枕に横になりながら窓からみていた。とつぜん一階で、大きな物音が聞こえた。その音響は、どこか不浄なものに満ちていた。やがて階段をトントンとあがる音がして、襖がかるくノックされ、思った通り真利子の母、敬子が小声で「プラナブ」といった。 「はい」と答えると、 「すぐ下にきてくれない」と声の主はつげた。  それだけの言葉だったが、重苦しい不吉な雰囲気につつまれ、ひと言をのこして階段をおりる真利子の母親の足音は、どこかで不安を駆りたてた。  プラナブが階下にいき、恐る恐る居間に入ると、棟梁の健二が黒ずんだ茶色の座卓のまえで胡坐をかいていた。机のうえには、半分くらい空になった一升瓶がおかれ、となりには大きな湯呑み茶碗がふたつならんでいた。棟梁は、眉間に皺をよせ紅潮した顔で腕をくんですわっていた。角刈りにされた健二の頭からは、湯気が立ちあがってみえ、プラナブは思わず唾を飲みこんだ。彼の姿をみとめると、「すわれ」と棟梁はひくい声でぽつりといった。  部屋の左端には髪の毛がばさばさになった真利子がうつむき、真っ青な顔で畳をみつめていた。彼女の白い左頬にはあきらかな手形がつき、真っ赤に腫れあがっていた。プラナブは、棟梁が酒瓶から茶碗に酒をつぎたす、ドクドクという音響だけが聞こえる、逃げだしたくなる雰囲気が漂う部屋をぐるりとながめた。  ぼうぜんと突っ立っていると、「ドーン」という机がたたかれる大きな音がした。 「すわれっていってるんだ。この馬鹿野郎。テメイは、耳もいかれているのか」  棟梁は顔をあげ、プラナブを睨みつけながら、どすの聞いた声でいった。彼は、心臓がバクバクした。胸をつきやぶり、目の前に赤いハート型の柔らかいものが、飛びだしてくるかと思った。 「すわれっていうんだ」  くるった声に、プラナブは自分が立っているのに気がついて、棟梁の目の前に正座した。  「おまえ、どういう了見なんだ」  健二は、だれにとはなしに呟き、それからいった。 「テメイの国では、こうしたことが許されるのか。バラモンか、ばらばらか知らねいが。腐れクロ」  プラナブは、あまりの憤りに驚きながら、だまってみつめた。 「この馬鹿野郎が」と棟梁は叫びながら、茶碗の酒を彼の顔にひっかけた。プラナブの顔面から、酒臭い滴がぽたぽたと落ちていった。  押しだまっていると、「このクロ、なんとかいってみろ」  健二は、大声で叫び、今度は空の瀬戸物の茶碗をつかんで彼の額を思い切りなぐった。 「バッシャーン」というもの凄い音がして、プラナブは前額がとても熱くなり、目の前が真っ暗になり、意識が遠のくのを感じた。 「やめてよ。お父さん」  真利子の高い声が聞こえた。 「あんた。死んじゃうわよ」  敬子の声がした。 「馬鹿野郎。この黒いのが、そんな玉じゃねえ。人さまの二階に間借りをさせてもらい。小遣いまでめぐまれ。こちとらの職人芸まで教えてもらい。その挙げ句に、恩のあるおれの、たったひとりの娘をおもちゃにしたんだ」  話しているうちに、健二はさらに興奮してきた。  意識がもどってきたプラナブは、額が生暖かく感じた。目をあけると、目蓋から温かいものがながれてきて、ぬぐおうとした。 「馬鹿野郎」  棟梁は、彼が血をぬぐおうとした右の手を、拳で思い切りなぐりつけた。プラナブは、そのままの格好で後ろにドンとたおれ、思い切り後頭部を畳にぶつけて意識がまた遠のくのを感じた。 「出刃だ。もってこい。敬子。出刃、もってこい」  健二は、もの凄い形相でプラナブをみつめながら口走った。 「なにをするの、あんた」  敬子は、真っ青になって叫んだ。 「この薄汚い指をつめさせてやる」 「あんた、やめてよ。そんなこと、できるわけないでしょう」  敬子は、大声で叫んだ。 「この野郎」  棟梁はそういうと、わなわなと震えだした。 「この野郎。こんな。こんなこと、しやがって。生きて、この家からでれるなんて、思うんじゃねえぞ」  棟梁は、叫ぶととつぜん立ちあがり、たおれているプラナブのうえにまたがってすわり、ポロシャツの襟首を両手でつかんだ。 「テメイに、落とし前をつけさせてやる。黒いの、最後に日本の職人の仕来りってやつを教える。テメイ、身をもってじっくり味わえ」  棟梁は、プラナブを睨みつづけたままいった。額には青筋が立ち目はすわり、声はひくく「どす」がきいていた。  首をしめられたプラナブは、息もできず身体ががたがたと震えだした。やがて、痙攣状の大きな震えになっていった。 「警察。なにをしているの真利子。警察に電話しなさい」  敬子は、絶叫した。 「うぶな女を犯すことはできても、こんな汚い指ひとつ、つめるのも知らないのか」  健二は、泡をふいて意識もなくなりかけているプラナブの首を、さらにしめつづけながら叫んだ。  敬子は玄関に走り、ひき戸をあけて、やや暗くなりはじめている戸外にむかって絶叫した。 「だれか、きて。だれか。たいへんだー、うちのが殺しちゃうよう」  この羽子板屋の騒ぎを、隣近所はもう充分に気がついていた。そうした叫びがなくとも、玄関の扉をわずかにあけてなにが起こったのか聞き耳を立て、ある者は草履をはいて臨戦態勢に入っていた。  その凍った空間を、耐え切れない切羽つまる甲高い声音が切りさいていった。敬子の声が終わらないうちに、となり近所の扉がほとんどいっせいにガラガラとひらかれ、どの家の男も女もわれ先にと、羽子板屋をめざして走った。  気がつよく、なんでも早合点して割りこむくせがあり、あいだに入ると騒動にしてしまう畳職人の「喧嘩の熊」が、案の定いちばんのりで駆けつけた。  熊五郎が見たてた光景とは、ずんぐりとしたプラナブが死んだみたいに横たわり、うえに健二がのっかっていた。彼の口からは白い泡が吹きでて、真っ黒な額から真っ赤な血がながれていた。健二に首をしめられた顔面は、蒼白だった。いったいこのばあい、何色の顔というべきなのか、熊五郎にもさっぱり分からなかった。その表現できないプラナブをぼうぜんとながめていると、 「熊さん。うちのが、殺しちゃうよお」と敬子が熊五郎にむかって絶叫した。  熊はわれにかえり、健二のそばにいくと、首をしめる両手をつかんで、力いっぱいひきはなそうとしながら、「やめろ、棟梁」と叫んだ。 「馬鹿野郎。テメイになにが分かる。邪魔すんな」  健二は叫んで、右の手をはなして拳にして熊の顔面をたたいた。それはちょうど、裏拳になって熊五郎の鼻の根元に命中し、大量の血がでてきた。 「なっ。な。なにをするんだ」  熊五郎は、大声で叫んだ。 「この野郎」  今度は熊五郎が逆上し、プラナブに馬乗りになった棟梁の頬を、狙いすました拳で思い切りなぐった。健二はその一撃で、首をしめていた左手をはなし、床にころがった。 「テメイ。本気でなぐったな。テメイに割って入られる筋合いじゃねい。この馬鹿野郎。不意打ちを食らわしやがって。このでしゃばりが」  健二は、またもの凄い顔になって、今度は熊にぶちあたっていった。熊五郎は大きくのけぞり襖にぶつかり、そのままたおれ、枠ごと折れる大きな音がひびいた。熊の顔が真っ赤になって、健二を睨みつけるころには、何人かの男たちがふたりのあいだに入り、羽交いじめにしていた。三人の男に手足を押さえつけられた熊五郎は、「殺してやる」と叫びつづけていた。  気がつくと、パトカーのサイレンの音がひびいていた。何人かの警察官が土足のまま飛びこんできて、棟梁はとり押さえられた。手が自由になったときに警官をなぐりつけてしまった健二は、「公務執行妨害」で現行犯逮捕された。みんなの目の前で手錠をはめられ、警察に連行された。 「大丈夫なの。どうなの」  真利子は、プラナブのそばで、涙をぼろぼろとながしていた。口からは泡を吹き、額からは大量の出血をし、意識もなく痙攣する右手をもって泣いていた。  やってきた救急車が、彼を担架にのせてはこんでいった。  昔かたぎの職人でなくとも、ひとり娘とプラナブとの関係を許すはずがなかった。三九歳になり、正業ももっていない彼は、どこからみても婚期を逃した得体の知れない中年と映った。真利子は、プラナブの言葉を信じたのだろうか。「小作をかかえる大地主」という「冗談」を。そのときには、もう嘘だとはいえなかった。  インドの金持ちが日本にくることは、まずありえない。インド人の憧れは、つねにヨーロッパで、それも「大英帝国」以外にはない。真利子も、敬子も「もしかしたら」と思ったのだろうか。彼を許すつもりはなくても、信じたのかも知れなかった。  なにも知らない真利子は、インドにいってプラナブと結婚すると話しはじめた。彼女にとって、はじめての男だったし、職人気質できびしい健二は、自由への願望をつよめただけだった。真利子が、家族をすてたのだ。その決断を、プラナブは、彼女の両親以上に驚いていた。信じられない、女の愛だった。  プラナブは、日本に五年いたので言葉が話せた。当時、経済成長の波にのった日本人は、世界中にツアー客として旅行をはじめた。もちろんインドも例外ではなく、インド観光の目玉は、現代とムガール帝国の首都だったデリー、タージマハルで有名なアグラ、それにヒンドゥーの聖地ベナレスだった。  観光局は、日本語ができるプラナブを、日本人ツアー専用ガイドとして雇ってくれた。ガイドの職は公務員で、高いカーストになる。給料は「かなりいい」部類だが、この国では土地こそが財産とよべるもので、貨幣とは二次的だった。  さらにこまかくいえば、インドには地所の所有権という概念は、がんらいなかった。地主のカーストとは、ある一定の範囲の土地でつくられる収穫物の一部を取得する権利をもつ者だった。生産したのが自作農民か小作農民か季節労働者かによっても、えられる分配は違っていた。自営農民であっても、働いて収穫ができるのは、第一に土地があるからで、つぎに王が耕作をみとめてくれたからだった。さらにバラモンが祭儀をし、洗濯屋や床屋や、鍛冶屋や車大工などが、なにかしらの援助をあたえたおかげだった。つまり財産である「土地」には、さまざまなカーストが複雑にからみあい、くっついていた。  日本人は金離れがよく、団体行動をとるから観光客としては最高のお客だった。団体でうごくなら面倒は一度ですむし、英語も話せないから、つねに固まって行動する。だれかがはぐれて行程がずれ、時間あわせに慌てる必要もほとんどなかった。世界のどこをさがしても、こんな団体旅行で満足する国民はいないだろう。  日本人は島国で、他民族の侵略、つまり「文明の違い」という世界中のほぼすべての民族がとうぜんとして、うけ入れねばならなかった現実を知らずにすごしてきた、ひじょうに特異な種族なのだ。だから、物事の大系など、なにも考えないですんできたのだとプラナブは思った。  真利子との結婚は、親族全員からとうぜん反対された。相手はブッディストであり、カーストがあまりにも違っていた。長女が嫁いだ先は祭祀にまつわるバラモンで、上位婚だったから婿の発言権はつよかった。事実上プラナブの処遇は、姉婿の意向にまかされた。それは、彼の父の土地をひきついだ兄の意見でもあった。  できるかぎりの持参金をつみ、季節ごとにさまざまな物品をおくり、ようやくいっしょに食事ができるまでになった婿との関係を、風来坊の弟の飛んでもない行為で序列が崩れることをみんなが恐れた。 「おまえは、どうかしているのではないか。おなじヴァルナのなかでさえ、結婚できる身分ではない。相手のジャートは、なんなのだ」と兄は聞いた。 「日本には、はっきりとした氏姓はありません」  プラナブは、答えた。 「ジャートは、インドだけのものではない。帝国にも似た制度が存在する。日本とマダガスカルでは、明確な氏姓をもつと聞いている」と長女の婿がいった。 「一時代まえ、一〇〇年くらいまえだと思いますが、孤立政策をとって世界中と鎖国をした時代にはあったらしいのですが、いまは公にはないのです。それにジャートは厳然とみとめられるですが、日本人の意識はまったく未分化なのです」 「そんな曖昧なものなのか」と姉婿が聞いた。 「そうなんです。どんな氏姓とも、共食も通婚も、とくに障害がないのです」 「それは、たしかにジャートとはいえないな。そんななかでおまえは染まり、自分の氏姓を忘れてしまったわけか。もっていないんだから、ダリッドであることに変わりはないんだな」と婿はいった。 「そんな半端なジャートとは、どうなっているんだ。まったく意識されていないのか」と兄が聞いた。 「日本では、特別に自覚されていないのです。ジャートがなにかと質問されれば、特殊な技術をもった職人、という答えになると思います」とプラナブは答えた。 「つまり、肉体労働者なんだな」と兄はいった。 「ダリッドで、労働者なんだな」と婿が口をはさんだ。 「でも、縁起物をつくる職人です。それは神におさめる、奉納するものです」 「だからなんなんだ」と婿はまたいった。 「卑しい仕事ではなくて、神事に関係するジャートなんです」 「祭祀にまつわるのは、私のほんらいの職務だ。そのさいに道具を用意するのは、奴隷の仕事だ」と婿はいった。  プラナブの兄と長女の夫が話しあい、結論がでた。 「結婚するなら、ヴァルナをすてる必要がある。もう、ともに食事はしないし、たがいに行き来するのも無理だ。違うジャートなら、われわれがおまえに干渉するいわれもない。なにをしようと、制約する権限ももたない。つまりおまえは、完全に自由ということだ」  姉婿は、いった。  プラナブは、この決定をうけ入れた。兄弟は、考えなおすよういろいろと話をした。とりわけ長姉は、プラナブがガイドの職をみつけて高給とりになったのだから、おなじヴァルナから嫁がもらえると話した。 「考えなおすべきだ」とすすめ、実際に結婚相手をさがしてくれさえしたのだが、彼は「真利子と結婚するから、裁定にしたがう」と答えた。  それで、プラナブの再生族の証しだった聖紐は、一族すべてがあつまるまえで焼かれて灰になった。親族から宗教上抹殺され、一生族としてあつかわれる結論をえた。プラナブは、兄から借金と、わずかにのこった父親からの遺産とあわせてガートちかくに家を買ってあった。長兄は、債務を棒びきにしてくれた。 「身内としてできる、これが最後のことなんだ」と兄は自分に言い聞かせた。  近代的な考えをもっていた長兄だから、そうしてくれたのだ。殺されても、文句のいえる筋合いではなかった。観光客が入ってくるベナレスではなく、地方の村落共同体だったら殺害される例もあった。ヴァルナからはずされたのだから、昔からの友人もいないし、観光局のだれもが知っていた。ベナレスは、街といっても基本的には田舎で、こうした出来事は街中の者の興味をひく、なによりも早くつたわる情報だった。  真利子が結婚のためにもってきた金は、魅力的だった。結婚後、分かったことだったが、彼女の母が用意した五〇〇万という日本円は、当時のレートで一七万ルピーにあたった。プラナブの一ヵ月の報酬が二〇〇〇ルピーだったから、ざっと考えても六年分以上の年俸に相当した。おなじ年代の警察官の給与が五〇〇ルピーだとすると、持参金は飛んでもない額だった。だから、どこかのバラモンと養子縁組みをむすんで、再生族にもどることも可能だった。  親族会議のさいに、この途方もない持参金が分かっていれば、ふたりのカーストをこえた結婚はダリッドの上昇婚としてあつかわれただろう。プラナブは、バラモンのヴァルナをもって妻をむかえる許可をえられた可能性もあった。真利子の家が大金を用意したのが分かったのは、一族の裁定後だった。べつの親族をもつことにも、彼は疲れを感じた。  真利子も、事態を知りはじめていた。懊悩しているのが、プラナブにはよく分かった。真利子が彼にたいしてもつ感情が、なんだったのかをふくめて悩んでいるらしかった。気むずかしい職人肌だった父親になかった優しさを、プラナブにもとめただけだった気もした。そうであるなら、男女の愛ではなく、父と娘の関係だった。  プラナブは、一族とヴァルナをうしなったが、そのかわりに一五歳も離れた若い真利子を手にいれた。どんなインドの金持ちでももっていない日本の女で、どこからみたってうらやましいと思われるに違いなかった。真利子は、どうなのだろうか。一族をうしない、親からもみすてられ、広大なインドで知っているのはプラナブだけだった。彼女と、おなじ氏姓の者はいない。たったひとりのジャートで、これでは生きてはいけないだろう。 「別れたい。普通の結婚がしたい。日本に帰りたい」  真利子がいついいだすのか、プラナブは怖かった。ある意味では騙されたわけだし、いい分は理解できた。そのうえ真利子は、日本に帰れば、ごく普通に暮らすこともできる。  昔かたぎの健二は、容易には許してはくれないだろう。母の敬子や親戚は、みんな「よかった」っていうだろう。真利子は、もう一度結婚して、やりなおすこともできる。孫がうまれるころには健二も年をとり、幾分かはまるくなって、昔の話としてあつかってくれるに違いない。  日本人は、氏姓をつよく意識しない民族で、自分たちが、じつはインドとおなじ序列のなかで生きているのに、日々あらためて考える種族ではない。時間とともに真利子の過去はうすめられ、やがては普通の人として、あつかわれることになるだろう。  家には、召し使いは住まわせていない。どんなサーバントも、真利子よりヴァルナが高い。プラナブがいれば、雇われた者は外ではこの夫婦をどれほど馬鹿にしても、金を払う雇い主だから、彼女にたいして変な態度をみせない。しかし、真利子ひとりのときには、なにが起こるか分からない。そのうえ彼女に、「この結婚が、こうした形で成立している」と話されると思うと、もうプラナブには心の安らぎはどこにもなかった。  ヴァルナをすてるとは、こういうことだったのだ。現実となってはじめて分かった。この状況をみつめれば、自分以外に真利子の話し相手をみつけてやらなければ、気がくるってしまうだろう。こんな孤独に、人間は耐えられるものなのだろうか。  プラナブは、ベナレスじゅうを必死になってさがし、裕美という日本人をみつけた。彼にとってインドに興味をもってひとりで勝手にきている彼女は、不思議で魅力的な存在だった。  プラナブは、真利子に疲れたのだろうか。いっそ「別れる」といわれたほうが、よかったのだろうか。そんな思いが脳裏をかすめると、なにがなんだか、さっぱり分からなくなる。どこでどう、道を間違えてしまったのかと自問してみる。たったひとつの真実は、ヒンドゥーがブッディストを、それも恩義をうけた大切な人の娘を力ずくで犯したという間違いのない原因で、いまはその結果だった。  金があれば女も買えるし、息子もつくることはできる。しかし、子供にはジャートがなく、子々孫々呪われた運命だ。これから一〇〇回輪廻しても、二度と再生族には転生できない。折角、バラモンにうまれたのに、神の恩寵を無にしたプラナブの行為はヒンドゥーのなかでも最大の罪だった。彼は、この罪業を一〇〇世代にもわたり、ずっとみつづけなくてはならない。  そう思いはじめると、なぜ真利子が結婚してくれたのか分からなかった。思考は、いつもどうどう巡りで、バラモンとして生きるべきだったのは理解していた。三男にうまれたのは、神さまが決めたことだった。現世はそこからはじまり、あたえられる財産もかぎられ、人生を設計する必要があった。なまじっか父親が大学にすすませてくれたのが、ヒンドゥーの掟をやぶることになったのだろうか。父も、そうしては、いけなかったのだ。先祖が何千年も試してきたことが、自分の時代に変わるはずがない。  とまってみえるが、ガンガーはながれている。真利子とプラナブの関係も、時々刻々変化している。彼女が子供をうむのは、考えられない。私生児以下で、耐えがたいことだ。もう一度日本にもどってすべてを謝り、羽子板職人をする、そんな方法はないのだろうか。あの職業は味があり、生涯の仕事として恥ずかしいとは思わない。今更、どの面をさげて真利子の両親に会うのか。しかし、彼女をうしなうより、ずっと増しな方法だろう。  だれもたずねてこない昼のあふれる時間、真利子はなにをしてすごすのだろうか。いくらなんでも、考えるだろう。この現実を、そして未来の生活を。  三、ガンガーの水 「チャイを入れたわ」  真利子がいった。 「どんな、青年だったんだ」とプラナブは聞いた。  裕美がいちばん安全で、日本の若者も怖い。 「変わった人だったわ。ここで沐浴してたわ。すべてのガートでやるみたいだったわ。面白い人がいるわよね」と彼女はいった。 「真利子のことは、驚かなかったのかい」 「びっくりしたみたいだったわ。今日の昼食にさそったの。お寿司を食べさせてあげるってね。意外だったみたい。久しぶりの日本人で、楽しかったわ。やっぱり若い人は面白いわね」と真利子はいった。   プラナブは、こうした何気ない言葉でも、ぞっと感じることがある。真利子が普通の結婚ではないと、責めている気がする。 「そりゃ、そうだろう。裕美もくるわけだね。それじゃ、でかいのをとってこなければね」 「大きすぎるのは、味がいまいちね。驚かしてあげないとね。インドじゅうを、まわっているみたいな話だったわ」 「若いからな」という言葉がでそうになって、プラナブは息を飲んだ。 「暇、なんだな」と彼はいった。 「あたしも、そうよ」と真利子は答えた。  プラナブは、「まずい」と思った。これも禁句だった。 「一二時まえには帰るから。今日の観光客も、金持ちの日本人ばかりだ。どうして、金をつかいたがるのだろう。それでいて、バクシーシという子供には一銭もやらない」とプラナブはいった。 「数が多すぎるからよ」と真利子は答えた。  プラナブと彼女の会話は、日本語だった。真利子は英語がほとんどできないし、ヒンディー語はとうぜんできない。それは、救いだったのかも知れない。  はっきりいって、プラナブからみても、彼女の行動はあまりにも無謀だった。 「いったいなぜ、やってきたのだろう」  考えだすと、分からなくなる。 「プラナブ。デリーにいくから、むかえにきて」という電話を二年まえにうけた。 「そっちで、あなたと結婚するわ」と電話ごしに真利子がいった。  彼女の若い肉体は、プラナブにとって魅力があった。充分すぎるほどだったが、そのときにはすでにおびただしい嘘をついていた。  騙そうと思ったつもりはなかったし、はじめはジョークだった。しだいに、正当化しなければならなくなった。冗談ではなく嘘に変わり、また事実とは違う言葉をかさねることになった。話をするほど、偽りの山がつみかさなっていく。カーストをすてた罰だ。もともとプラナブには「妄想癖」があった。日本にいったのも、そのひとつだった。 「もしかしたら、あの国で暮らせるかも知れない」  これは、迷妄以外のなんだったのだろう。四〇歳をすぎ、つまらないギャグと嘘の上塗りで、若い真利子には面白かった時代もあったのだろう。ながくいっしょにいれば、ばれるし、飽きられてしまう。 「名門のバラモンだ」 「インドでは、画家としてみとめられている」 「ベナレスでは、みわたすかぎりの農地をもつ、小作をかかえる大地主だ」  考えれば小さな冗談で、嘘ではないが解説が必要だった。真利子が大切な人ならば、もっと正確に話すべきだった。わずかしか違わないが、あつまれば事実とはかなり異なっていた。  名門のバラモンの出、であったことはほんとうだ。いまは、もうそのヴァルナではない。アウトカーストも同然で、ヒンドゥーをすてなくてはならなかったし、助けてくれる者もいない。だれも助けようもなく、すべてから見放されている。すくなくとも一族からはみすてられている。これが事実だ。  BHUでは絵画を専攻して、小さな賞はとったこともある。画家として地位をきずくなど、とうてい不可能だった。  多くの小作をかかえていたのは、子供のころだった。正確には父が、いまは兄が雇っていた。  一二時に帰ると、裕美と竜司という青年がきていた。居間で三人が談笑し、ひさびさに真利子の笑い声を聞いた気がした。 「じゃん、じゃーん。ご主人さまの登場です」  プラナブは、扉をあけて大きな声でいった。うけなかった。三人とも、ぼうぜんとプラナブをみただけで、冷たい視線を感じた。 「今日は、最高の具材を用意しました。ほらこれです」  プラナブは背後に隠していた右手をぐるりとまわして、みんなの目の前にさしだした。しっかりと尻尾をつかまれていたのは、ガンガーでとれる、大きな鯛ほどもある「なまず」だった。 「じゃあ、真利子。いま、おろそう。君たちもみるかい」  プラナブは、裕美たちにいった。 「いや、ぼくは、ここにいます」と竜司という青年が答えた。  折角、話題をつくってやろうとしたのに、つまらないやつだ。 「じゃ、いこう」  プラナブはシャツをぬいで上半身が裸になると、真利子をうながした。 「それじゃね。いまから刺身をつくってくるから、期待していいわよ」  彼女は、裕美と竜司にいった。  ほどなく、皿にもった生の魚がでてきた。 「じゃん、じゃーん。これ、日本の醤油です。観光客から、もらってきました」とプラナブはいった。 「たしかに、キッコーマンだ」と竜司は驚いていった。  小さなビニール袋に入った醤油が二〇くらいあった。どれにも、「キッコーマン」とかかれていた。 「じゃん、じゃーん。さて私は、この醤油をなにと交換したのでしょうか。じゃん、じゃーん」  プラナブは、つながったビニール袋をもちあげていった。 「バクシーシですよ。もらうのは、乞食にしかできません」とプラナブはつづけた。  裕美も竜司も、ぼうぜんとみていた。場がしらけていた。  竜司は、失望した。真利子から招待をうけたとき、若いハンサムな夫を想像した。日本の女性がたったひとりでインドにまできたのだから、とうぜんそこには国をこえた、熱烈で、だれにもとめることのできない激しい愛があると勝手に考えていた。 「なにか、おかしい人らしい。どんなわけがあって、真利子はプラナブの妻になったんだろうか」と竜司は思った。 「じゃん、じゃーん。これが隠し味、菜種の油です」  プラナブはつづけていた。うけないことは分かったが、もう焼けだった。 「面白いのよ。これを醤油に入れると、わさびの風味がでるのよ」と真利子は口をはさんだ。  いわれるままに菜種油をとかすと、たしかにそんな感じがした。 「どう」と真利子が聞いた。 「たしかに、わさびの風味がします。脂がのったタイみたいで、とてもおいしいです」と竜司がいった。 「けっこう、いけるでしょう」と真利子がうなずきながら話した。 「じゃん、じゃーん。菜種の油が、わさびの味になると発見したのは、だれでしょうか」とプラナブはいった。  また、みんながだまった。 「この人、こういう発見が好きなのよ」と真利子がいった。  それから四人で、チャパティーを食べ、お茶を飲んだ。 「ガンガーは、素晴らしい。これが、その水だ」  プラナブは、すみの机のうえにおかれた大きな瓶を指さした。 「こんなに、有機物が入っている。みえるだろう。このゴミが有機物だ。それでも、腐らないんだ」  竜司がみると、たしかに浮遊物が無数に漂っていた。 「半年まえに、ガンガーの真ん中ですくった水だ。河には、放射線がながれている。だから、有機物があっても腐らないんだ」 「どこで、それが入るんですか」と竜司が聞いた。 「ヒマラヤだ。そこに、ラジウムの鉱脈がある。それが河の源泉から、とけだしている。だから、聖なる河水は腐らない。つねに放射線の消毒をうけて、すべてのものは清まっている。そこに、信仰がうまれた」とプラナブはいった。 「観光客相手にやっているんだろう」と竜司は思った。  観光客は、「そんなもんか」と考えるのだろうが、彼には理解できなかった。 「そんなに放射線がでていたら、人間にも毒です。さまざまの癌の、原因になってしまいます」と竜司がいった。 「適度で微量だ。人体には影響がない」とプラナブはいった。 「微生物を殺せるなら、人間にも作用します。人の細胞が癌化されても、おかしくないと思います。人間がどうであれ、有機物が死滅するのですから、プランクトンが死にます。動物性プランクトンも、植物性プランクトンも、影響されるでしょう。放射線がガンガーを洗浄するなら、死の河になるはずです」と竜司はいった。 「そんなこと、どうして分かる」とプラナブは聞いた。 「教科書にのっています。ガンガーの迷信ですね。観光客には、伝承と事実とを分けて、正確に話したほうが親切なのではないでしょうか」  プラナブは、ムッとした。 「それでは、腐らない現実を、どう説明する」  彼は、つよい口調でいった。 「よく分かりません」  竜司は、腕組みして考える素振りになって、部屋のすみにおかれた浮遊物が漂う瓶をながめた。 「あなたが話されたことが真実で、説明しなければならないとしたら、魚がいっぱいいて、瞬く間に消化されるちょうどいい生態系ができているのでしょうか。よく分かりません。そもそもそれは、半年もまえの水なんですか」  竜司が聞きなおすすと、プラナブは、ムッとした表情になった。 「ご主人が、定期的にとりかえているのではありませんか」と彼が真利子にいうと裕美が笑った。 「これは、半年まえの水だ。間違いないよな」  プラナブは、彼女に聞いた。  真利子は、「そうだ」といわなかった。信じられないことに、おかしそうに笑っていた。みんなが、なにも語らない時間があって、ガンガーの波音だけがひびいていた。 「ぎりぎりまで水を満たして完全に密閉すれば、酸素がすくなくて簡単には腐らないのでしょうか」  竜司は、またプラナブをみた。 「実際には、水中にも酸素分子はとけこんでいるはずです。半年まえの水だとすれば、面白い不思議な現象ですね。浮かんでいるのは、ほんとうに有機物なのでしょうか。プラナブさんは、ほかの水で試したことはあるんですか」 「インドの科学者たちも、ラジウムのせいだといっている」 「そうかも知れませんが、この国の話ですから、測定値はないんでしょう。迷信と科学がごちゃまぜになっているというのが、ぼくのインドの印象です」と彼が考えながらいうと、裕美が笑っていった。 「たしかに、竜司はよくみているわ。伊達に半年、旅行してこなかったってわけね」  プラナブは、押しだまったまま不機嫌な表情で考えていたが、いわれてみれば、ほかの水で試したことはなかった。 「真利子に聞いたが、君だって沐浴するそうじゃないか。ガンガーの水は、飲んだことがないのかね」とプラナブは話題を変えた。 「ありますよ」 「それみろ。これだけのものが、ながれている。死体だって、漂っている。沐浴中にインド人は排泄もする。知っているのか」とプラナブは聞いた。  話がうまくすすまないのを、不愉快に感じているのが分かった。インド人は、感情をおさえ切れないところがあって、面白いと竜司は思った。 「知っていますよ。ぼくだって、沐浴中に排泄します」 「その水を、自分で飲んだんだろう」  プラナブは、「それみろ」という感じで聞いた。 「そうです」 「それでも問題はないのは、聖なる河には殺菌作用があるからだ」 「非科学的ですよ。まったく不合理で、プラナブさんの話はまるでインドそのものです。ガンガーの水を飲むと三回に一度は、必ずひどい下痢をします」 「それは話がべつで、日本人が弱いからだ。なまじっか上下水道が整備されたところに住んで、自然の治癒力をなくしているんだ」  プラナブは、竜司を小馬鹿にしていった。 「そんなことは、ありません。プラナブさん、ガートのそばをみてください。どこだって下痢便だらけですよ。インド人のだれもが、この水を飲んで下痢をしているんですよ」 「ははは」  その言葉を聞くと、我慢していた裕美がこらえ切れなくなって、声を立てて笑った。真利子も、つられておかしそうに一笑した。 「たしかに、下痢便はどこにもあるわよね」と裕美がいった。  言葉を聞いて、プラナブはだまった。 「プラナブさん。そのガンガーの半年まえの水を、一度試しに飲んでみたらどうですか」  今度は、竜司が攻勢にでた。 「ぼくは、あなたが下痢をするほうにかけます。裕美は、どう思う」  竜司は、むきなおって聞いた。 「私は、飲みたくないわね。下痢にかけてもいいわ」と裕美は答えた。 「真利子さん。この水、ほんとうに半年まえのものなの」と彼女は聞いた。 「四六時中は、見張っていられないわよ」と真利子は答えた。  状況は、プラナブに不利だった。指摘されてはじめて、彼は、その水を飲もうと思ったことがないのに気がついた。観光客には、ガンガーの真ん中で河水をすくい、有機物が浮遊するのをみせ、腐敗しないと話していた。しかし、水が腐るとは、どんな事態をさすのか考えたこともなかった。 「インドじゅうを旅行したの」と裕美が聞いた。 「そうだね。だいたいは、いきました」と竜司は答えた。 「インドじゅうが、こんなに騒がしいの」と真利子が聞いた。 「うるさいって」  竜司は、聞きなおした。 「だから、子供がバクシーシを、インドじゅうでやっているの」 「ベナレスだけでは、ありませんね」と彼は答えた。 「ここほどひどいところは、インドにひとつもないはずだ」  プラナブは、確信をもっていった。 「そんなことは、ありません。観光地はどこもそうですよ。デリーも、ボンベイも、ハウラーも、負けず劣らずですね」と竜司が答えた。 「ほんとうか」  プラナブは、目をむきだして真剣に聞いた。 「日本人がみるかぎりは、ベナレスは普通です。サドゥーの数は、やはり異常に多いと思います。偽のものがずいぶんいて、この点ではインドでいちばんひどいです。ここのサドゥーは比較的若い世代で、子供のバクシーシと変わりません。本物もかなりいるのでしょうが、これはベナレスの特徴です。それでも、ここは聖地だと思います」 「どうして、そう考えるのだね」とプラナブは聞いた。 「焼き場があるからです。ひと口でいえば、この街はヒンドゥーの墓場だからです」 「なるほど。ここが墓地だというのかね」とプラナブは聞きなおした。 「そうですね。どんな村にでも、焼き場はあると思います。そこは暮らしている者たちが死んだばあい、共同体としての機能を果たす場所でしょう。ベナレスは、死のためにつくられた、世界でたったひとつの街だと思います。死ぬことが、こんなに身近に感じられる場所はありません。ベナレスで往生するのは、きっとヒンドゥーのひとつの夢なんでしょうね」 「まるで評論家だな。たかだか半年、インドをさ迷うと真実をつかんだ気になるんだな。若いっていうのは、傲慢なことだ」  プラナブは、鼻で笑った。 「君たちは、カーストについては、なにも理解できないんだろう」とプラナムはいった。 「そうですね。体系については、理解できないことだらけです。内部の人間では、ないのですから。でも、自分のうまれ育った国を、もう一度、考えさせる契機にはなります。日本人だからなにも理解できないというのは、あたらないでしょう」 「それでは、君は、どのヴァルナに入るのかね」とプラナブは聞いた。 「そうですね。ぼくがアウトカーストになるのは、間違いないでしょう。いっしょに食事ができて、ご馳走になれたのですから、プラナブさんのカーストとぼくたちは、交流が可能ということでしょう。すくなくとも今日、あなたがバラモンとして、ぼくに接しなかったとはいえるでしょう」 「私が、もしそうだったら、どうだったのだね」 「今日のプラナブさんは、パンディットになるんでしょう。刺身は生だから、問題はないのかも知れません。でも、焼かれたチャパティーまでいっしょに食べて、話をしてくれたのは、きわめて異例でしょうね。インドの食事は、会話を楽しむあつまりではないらしいですから。プラナブさん、なんでこんな話題をするんですか。インド人がいちばん語りたがらないのが、こうした内部の話ではないのですか」 「お話にならない。たかだか半年旅行して、なにを知ったつもりなのか分からないが、インドの思想はそんな浅いものではない。若者は、この国のふかさにかぶれ、髪をそって出家する。ふかいインドの器は、しょせん日本には馴染みがない。ここには、文明がある。あらゆる物事の発祥地だ。何千年とつづき、再構成されつづけてきた体系なんだ。その集大成がカーストだ。ジャートとは、そんなに曖昧なものではない」  プラナブは、大きな目を、さらに大きくみひらいて竜司をじっとみた。まるで喧嘩するみたいにいった。 「では、あなたのカーストはなんなのですか」 「バラモンだ」とプラナブは答えた。  それで、竜司が笑った。 「インド人のカーストは、バラモンだらけですね。私たち旅行者が聞くと、みんな自分のことをバラモンと答えます。そういわなければならない感じですね。バラモンは、いちばんあてにならないものです。ふたつのばあいが、あると思いました。つまり、バラモンでしかないか、それでもないのです」  竜司は、淡々といった。  裕美は、興味ぶかそうに聞いていた。 「私が、嘘をついたみたいな話だね」とプラナブはいった。 「ぼくには、分からないことが、あるのでしょう。べつに、それはかまわないのではないのですか。民族も違うのだし、分かりあえない部分があって、とうぜんでしょう」  竜司は、なげやりな感じで首を振った。 「おまえの経験なんて、たかが半年のもんだろう」  とつぜんプラナブが、大声で怒鳴った。同時に右の拳で力いっぱい、机をたたいて、「ドン」という大きな音がした。  それで竜司も裕美も驚いて、プラナブをしげしげとみつめた。彼は顔を真っ赤にして本気で怒っていた。 「この人、糸を焼いてしまったのよ。私と結婚するために」  真利子がとりなした。  プラナブは、ムッとしてだまっていた。 「私と結婚するために、カーストをすてたのよ」と真利子は話した。  プラナブは、憮然としていた。竜司も押しだまり、完全にこの件について、なにかの会話がつづく雰囲気ではなくなっていた。 「動力のない飛行機をつくったんだって。この人がいうのよ」  真利子が、とつぜん話題を変えた。  なんでこんなときに、そんな話をもちだすんだ、とプラナブは思って彼女をみた。 「グライダーですか」と竜司は聞いた。 「そうじゃない。重力にさからって飛ぶ、飛行機だ」 「信じられない話ですね」 「でも、事実だ」 「どんな構造なんですか」 「軍事秘密だ。答えられない」とプラナブはいった。  げらげらと、竜司が笑った。 「インド陸軍が、設計図をもっていったんだって」  真利子が、微笑みながらいった。 「陸軍でも、設計者の発想までは、もっていけませんけどね」  竜司は、困惑気味に言葉を発した。 「だから、軍事秘密なんだ」 「きっとそれなら、ガンガーの河面を素足で歩いて、むこう岸までいける道具もつくれそうですね。すべてが常識やぶりの、仙人みたいなお話ですが」  竜司が、プラナブをみていった。  彼がそういい終わったとき、真利子がげらげらと笑いはじめた。そうした自分に気がつくと、またおかしくなったのか。涙をながし、声を立てて笑いつづけた。竜司と裕美は、なにがなんだかさっぱり分からず、彼女の笑いと、となりで「ぶすっ」とするプラナブを交互にみた。笑い声だけがひびく沈黙の時間があってから、真利子は立ちあがり、壁にかかっていたタオルで涙をぬぐうといった。 「竜司は、天才ね。まさにその通りなのよ。この人、それも発明したのよ」  そういうと、またげらげらと笑った。  竜司と裕美も、笑いころげた。 「すると、もしかして海軍が」と彼がいうと、 「アッタリー」  真利子は、さもおかしそうに大きな声でいった。 「軍事秘密」  笑いをこらえながら、「ですね」と竜司はいった。  裕美も、声をだしてげらげら笑っていた。 「事実なんだ」  プラナブは、怒りをこめていった。 「面白いでしょ。この人」と真利子がいった。 「面白すぎます。完全なインドの方です」と竜司がいった。  プラナブは、大きな目でじっと真利子をみつめた。今度は、しげしげと竜司をみた。大きな深呼吸をし、それから首を左右に振って、あらあらしく席を立った。 「竜司さんのいう通り、水のうえを歩く道具もつくったって話すのよ」  真利子は、プラナブが憮然としていなくなると、やや間があってからつづけた。 「ただ足につけるだけで、いいんだって。海軍に没収されたっていうのよ。どんなに説明されても、信じられないでしょう」と竜司に同意をもとめた。 「残念ながら、ぼくの思考の範囲をはるかにこえています」  彼は答えてから、いった。 「折角ご馳走してもらったのに、こんな話になって申しわけございません」 「いいのよ、気にしないで、また遊びにきてよ。あの人、すぐに今日の出来事は忘れてしまうわ。単純で思いこみが激しいところがあるけれど、面白いことをいって、煙に巻くのが好きなのよ。今日は竜司さんが相手でペースをつかめなかったけれど、つぎには、あなたという人が分かったから、あんな話はきっとしないと思うわよ」  真利子は、笑みを浮かべながらゆっくりと竜司にいった。 「映画は、みたことがある」  裕美が、とつぜん彼に聞いた。 「いくつかはね。ぼくのみたのは、どれもひどいもんだったけれど」 「どんな映画だった」 「インドのラブコメかな」 「ああ、多いのよ。とてもついていけないでしょう」 「そうだね、あれだったら、東映の、やくざ映画のほうがずっと増しかな。それで、映画がどうしたの」 「なかには、それなりのものもあるのよ。なにしろ、世界最大の映画大国だから」 「たとえば、どんな映画なの」 「そうね、ラーマーヤナなんかは面白いわよ」 「昔話かい」 「そうよ、知ってる」 「子供のころ文学全集で読んだことがあるよ。もう、ほとんど覚えていないけど、それが面白いの」 「まあまあなのよ。いってみる」 「ちかくで、やっているの」 「どこでも、興行しているわ」 「解説してくれるの」 「ヒンディー語は、だいたい分かるわ。日常生活にこまらないくらいにわね」 「ウルドゥーも、分かるんだろう。凄いね」 「そうね、だいたいわね。あなた、ヒンディー語とウルドゥー語はおなじだって知っている」 「そうなんですか。まったく知りませんでした」 「ウルドゥー語はね、表記はアラビア文字だけど、イスラムがもちこんだアラビア語、ペルシア語、トルコ語の一部の語彙が、北インドでヒンディー語とまざった言語なのよ。一四世紀にデリー周辺で成立した混成語で、方言みたいなものなのよ。私は、どちらかといえばヒンディー語のほうが得意だわ。言葉はたくさんあるから、平凡な島国育ちの女には限界が存在するわ」 「いくつくらい、分かるの」 「日本語と英語、フランス語、以前暮らしていたからタイ語は喋れるわね。ヒンディー語、ウルドゥー語、それからマレー語かしら。七つだけよ。こんなことは、ごくごく平凡なのよ。この国で教養がある人なら、五、六の言葉は普通に喋るわ。クラスには一〇ヵ国以上の言語を読み書きができる、スーパーレディーもいるのよ。彼女ったら、片手間に私が教えた日本語までいまではすっかり理解して、会話はもちろん、辞書をみながら日本の小説だって読んでいるわ。ただ漢字は、さすがに苦手みたいね。かけるのは、小学校の四年生くらいまでのものかしら」と裕美はいった。 「考えられないですよ。それは、また特別ではないんですか。島国の人間からすれば、君はどこからみたって、スーパーウーマンですね。ひとりで、きていることもふくめて」と竜司が応じると裕美は声を立てて笑った。 「じゃ、いってみましょうよ」 「ぜひ、いきたいね。つれていってもらいたいですよ。教えてくれるのならね」  それで明日、ウエルカムに裕美がむかえにくることになった。 「じゃ竜司、一時ね。真利子、今日は帰るわね。面白かったわ。最高よ。いままでで、いちばん面白かったわ。たまには、こういう企画もいいわね」  裕美は、真利子にいった。プラナブが好きではないらしかった。  それから、真利子とふたりになった。 「浅草で、いっしょにいたのよ。父が、羽子板をつくっていたの」  真利子は、いった。 「ぼくの祖母も、浅草出身です。仲見世にはずいぶんいきました。子供のころですが、活気があってたしかに、ゴドリアに似ているかも知れません。浅草という話がでるまで、考えていなかったのですが。浅草寺の寺街なんですから。たしかに、ここは浅草なんですね。歌舞伎町とばかし思っていました」と竜司はいった。 「もしかすると、あなたのおばあさんと、私の祖父とは、顔見知りだったりして」 「そうだったら、面白いですね。ぼくも、しばらくいっていないのでなつかしいですね。雷門とか、五重の塔とか、花屋敷とか」 「そうね、一回、帰りたいわね。気がつかなかったけれど、うまれ育った街ってなつかしいわね。竜司は、どこでうまれたの」 「ぼくのうまれは、品川です。第一京浜のところです。おなじ下街ですよ」  竜司は、八津山橋や青物横丁の話をした。話題は延々とつづき、つきなかった。 「変わっているでしょう」と真利子はいった。 「そうですね」と竜司は答えた。 「変わっているわね。あなたと話しているのを聞くと、はっきり分かるわ。変わっているけど、ちかくにいると気がつかないこともあるのよ」  真利子は、しんみりといった。 「なんだか、寂しそうですね」 「日本は、遠すぎるわ。考えなければね。私も、頭がおかしくなりそうだわ。このごろ、ノイローゼ気味なのよ。気力もでないし、日本のことばかし考えているわ。あなたのいう通りよ。この街は死とつながっているわ。でも、ここの往生は、ヒンドゥーのためだわ。どちらかというと、アウトカーストにとっては、安らかな死をむかえられないわ。焼いても、もらえないでしょうし。そんなことばかし考えているの。ホテルでも、はじめてみようかしら」 「それは、いいですね。あたるかも知れませんよ。こんなガンガーぞいで、多少手をくわえて洒落たつくりに変えれば、高くても旅行者はくると思いますよ。日本人専用がいいですよ。浅草とか浅草寺とか雷門とか、そんな名前のホテルにしたら、うけますよ。気分も変わってきますよ」 「そうね。いいアドバイスだったわ」  プラナブは、もうでてこなかった。それで、真利子に挨拶して帰った。 「あの人は、今日はもう駄目よ。徹底的にやられたもの。でも、大丈夫よ。心配はいらないわ。このつぎに会うときは、みんな過去になっているから、根にはもたない人なのよ。挨拶はいいわ。またきてね、必ずね」と真利子は最後にいった。 「寂しがり屋の、おばさんのために」  竜司は、折角食事をご馳走してもらいながら口喧嘩になったのは、プラナブにも真利子にも申しわけなく思った。カーストの話がはじまりで、「バラモン」という言葉がひき金だった気がした。触れられたくないことが、あったのだろう。この話題は、竜司が望んだのでは、なかった。なぜ、こんな結果になったのだろうか。 「カーストはなにか」とたずねられたら、日常で意識するかはべつにして、日本人なら仏教徒と答えるしかないと竜司は思った。仏教は、成立から世捨て人の思想だから端から権力とは無関係で、社会の構成要素からほとんど除外されている。現実には冠婚葬祭にほぼ限定され、なにかの行動を取捨選択する指針ではない。だから日本人のカースト意識は曖昧だが、仏教のなかにつつみ隠され、インド思想の影響をうけているのではないか。空海も親鸞も、「旃陀羅」という言葉を否定的な意味あいでつかっている。日本人の心の構造にはカーストが存在し、なにか機会があると表面にでてくるのではないだろうか。部落問題は、根がふかいのだろう。  竜司がウエルカムについたのは、二時ごろだった。今日はガートの数は増えなかった。もう、二日もあれば完成するだろう。この仕事も終わりで、俊和にも報告できる。ベナレスの卒業だ。充分にインドはまわったし、心のこりはなかった。  四、プラナブの夢 「まったく、いまの若いやつは礼儀を知らない」  プラナブは、ベランダに両手をついてガンガーをみながら怒っていた。真利子は、答えなかった。  翳った空をぬけてきた風がふたりの頬にあたり、彼女はプラナブをじっとみつめた。なんでもない男だった。小太りで、背も高くなく、眼鏡をかけて口ひげを生やしていた。肌は浅黒く、目は黒かったが、髪には白いものがかなり交じっていた。真利子は、すべてが分からなくなっていた。いまという時間も、自分がここにいる現実も、全部が夢だと感じた。 「チャイだ。聞こえているのか。チャイをもってきてくれ」  プラナブの苛ついた声が耳に入ってきた。 「なあに」  真利子は、われにかえってプラナブにたずねた。 「チャイが欲しい。真利子、なにをぼうっとしているんだ」  ポットに入れた熱いチャイをテーブルにもっていくと、プラナブは椅子に腰かけてガンガーをながめていた。 「すわりなさい」と彼は静かにつげた。 「あの竜司とかいう男は、なんと無礼なやつだ。おまえは、そうは思わないのか」  真利子は、だまって話を聞いていた。 「食事までいっしょに食べてやったのに、あの態度はなんだ。だいたい、なぜ、おまえはあんな話をしたんだ」とプラナブはいった。 「なにかしら」真利子が聞くと、 「なにじゃない。空軍も、なにもかもだ」とプラナブは答えた。 「でも、ほんとうのことなんでしょう」  プラナブはその言葉を聞くと、さらにムッとして、右手で拳をつくって目の前のテーブルを「ドン」とたたいた。 「おれは、嘘などつかない」 「だったら、いいんじゃない」 「たったひとりの妻が、主人の話を信じないなんて、そんなことがあるのか」 「私は、みせてもらっていないんだから、ほんとうかどうかなんて分からないわ。竜司さんのいう通り、あなたの話を簡単に信じる人は普通はいないわ」 「おまえは、そんな信頼できない者の妻になっているのか。ガンガーの話だって。おれが、いつあの水を交換したのか」  真利子は、だまっていた。 「おまえは、みたことがあるのか」とプラナブはまた聞いた。 「はっきりいいなさい」 「ありません。あなたのいう通りです」 「そうだろう。なぜ、そうだといわない。おまえは、あんなチンピラに味方して、裕美と三人で笑っていたんだ。それが、妻のすることか。はじめてきた者といっしょになって、自分の夫を笑ったんだ」  プラナブは、また睨みつけた。 「悪かったわ」と真利子はいった。 「そんな言葉ですむ問題か」 「だから、悪かったって、いっているじゃない」 「反省がない」  ふたりのあいだに、よどんだ時間がながれていった。 「あの水の話はひどすぎる。そうは思っていないのか」 「でも、それじゃ。あなた、あれ飲めるの」 「まだ、そんなことをいうのか」  そう吐きすてると、プラナブはもう一度テーブルを、「ドン」とたたいた。それで真利子は、まただまった。 「不愉快な一日だった。おまえのために刺身の具をとってきて、ずいぶんさがして、いちばん脂ののってうまそうな大きいのを一生懸命、えらんだんだ。観光客に頭をさげて醤油をもらって、みんな、いうからしたのに。なんなんだ」  さらに真利子を責めていった。  とつぜん立ちあがり、 「今日は、一杯、外で飲んでくる。おまえは、勝手に食事をして寝なさい」  プラナブは、シャツのままの姿で外へでていった。玄関の戸を力いっぱいしめる音が石造りの部屋にひびいて、真利子には大きな拒絶に思えた。普段、隠されていた深淵がふたりのあいだに大きく横たわるのを、まざまざとみた気がした。  一二時ちかくまで、プラナブは酒場をさ迷っていた。バーといっても、ベナレスは禁酒州だから普通の店ではなかった。違法な営業をしている秘密の地下クラブだった。昔はいったこともあったが、真利子と結婚してからははじめてだった。とくに馴染みではなかったが、どのオーナーもプラナブを「よく」知っていた。 「旦那さん、珍しいこともあるものね」  女主人は、笑いながらいった。 「今度、奥さんもつれていらっしゃいよ。寂しい思いをしているんじゃないの」  そんなところを何軒かはしごして、家に帰ってきたのは一二時をすぎていた。そっと玄関をあけ、鍵をかけなおし、二階の寝室にあがってみると真利子はよく寝ていた。リズミカルな、静かな寝息の音が聞こえた。プラナブは、いいすぎた気がしていた。いますぐにでも起こして謝りたいとも思ったが、自分でも酒臭くタバコ臭いことに気づいてシャワーをあびた。居間の籐椅子に腰をかけると一気に酔いがまわってきて、タオルでゴシゴシと髪をふくと、バスローブのままベッドにすべりこんだ。 「プラナブ」とよぶ声が遠くで聞こえた。 「いかなくてはいけない」と彼は本能的に思った。しかし、つよい睡魔だった。 「プラナブ」  真利子が弱々しい声が、また耳にとどいた。 「よんでいる。いかなくてはならない」  激しい睡魔のなかで、プラナブは右手をあげようとした。だがどうしても右の手はあがらず、 「起きなくては。いかなければ」  そう思いながら、また眠ってしまった。 「プラナブ」  もっと遠くから、また真利子の切ない声が聞こえた気がした。 「ああ、いかなくてはならない。このままではいけない」  プラナブは、猛烈な眠気のなかでまたそう思った。そして、ゆっくりと身体をガンガーにむけて横になり、わけの分からぬまま身を起こした。ぼうっとしていた。どのくらいの時間だったか、ぼんやりと真利子のベッドをみると、姿はなかった。ようやく起きあがり、真っ暗な寝室のなかで彼女の空になった寝台を横目に、「こんな夜中に、どこへいったんだ」とプラナブは思った。時計をみると二時をさしていた。 「横になったのが一時にちかかったから、一時間もたっていない。眠いのはとうぜんだ。それにしてもいったい、どこでよんでいるのだ。まったくあいつは迷惑なやつだ。明日だって、朝から四本も仕事が入っているんだ」  プラナブは、ふらふらしながらベランダにでて、真っ黒なガンガーをながめた。ふっと、となりのアトリエをみた。そのとき、なんだか分からなかったが、そこは恐怖が支配していた。  彼はのけぞり、ベランダからガンガーに落ちそうになった。なんだか分からなかった。 「おお、危ない」  プラナブの酔いが覚めてきた。もう一度、アトリエをみた。彼は、そのままうずくまった。  真利子が立っていた。  しかし足は、床にとどいていなかった。  宙吊りになった、彼女がいた。 「ああ。おお。ああ」 「ついに、真利子」  涙がプラナブの目からぼろぼろと床に落ちた。部屋の中央にすすみ彼女をみた。真利子は、首ひとつでロープにぶらさがっていた。優しい顔をしていた。 「真利子。可愛そうな。真利子。なんで、こんなことになってしまったのか。悪かった。可愛そうな真利子。なにをとっても、まがったことひとつできなかった。嘘ひとつ、つけなかった、真利子。おれは、なにを、したのだろうか。もっとも大切な真利子。世界でたったひとりの、おれのためにすべてをすててくれた。父よりも母よりも、兄よりも、だれよりも、ずっと大切な真利子」 「全部を、うしなってしまった」  プラナブの目から涙が止め処もなくあふれでていた。やむことなく頬をつたい、乾いた土の床に落ちていった。  そのとき、目が覚めた。身体じゅうが、汗まみれになっていた。夢とは思えない真利子の縊死の姿が、目に焼きついていた。プラナブは、その様子を思いだし、思わず身震いした。となりのベッドをみると、真利子はいなかった。時計は二時をさしていた。 「どきり」とした。  ガンガーをみると、真利子が月の光に浮かび、ぽつねんと立っていた。 「やあ、さっきはいいすぎて悪かった。悪夢をみたんだ。うなされていただろう。さっきの夢」といいかけて、月に照らされた彼女が、刺身包丁を首につきさそうするのに気がついた。 「真利子。なにをしている」  プラナブの心臓は、飛びでる寸前だった。 「もういや。殺して。あなた、責任をとってください。殺してくれないのならば、自分でつくわ」  真利子は、静かにいった。 「待って。悪かった。ほんとうに、すまなかった」 「幸せになりたかった」  真利子は、嗚咽しながらいった。 「あなたを、幸せにしたかったから」 プラナブは、ベッドから床におりて正座し、ふかぶかと頭をさげた。酔いは、すっかり覚めていた。 「許してくれ。必ずおまえを幸せにする。今日は、悪かった。いままでのことは、許してくれ。必ずつぐなう。お願いだ、待ってもらいたい。ひとりにしないでくれ。みんな、おれが悪かった。もう一度、一回だけチャンスをくれ。お願いだ。その包丁をおろしてくれ」  プラナブは、涙ながらにそういった。どのくらいの時間がたったのだろうか、ながい沈黙があって、カチンと音がして、真利子は包丁を床にすてるとへなへなとすわりこんだ。彼が気がつくと、泣きじゃくっていた。プラナブはゆっくり真利子のちかくにいき、床に落ちた包丁をガンガーにほうりなげると、「ぽちゃ」という音がした。 「悪かった」  優しく真利子の肩を抱き、涙にむせびながら彼はくりかえしていた。暗闇のなかで、ひんやりとした冷気がプラナブの顔を撫でていった。 肩を抱くと、真利子は彼をみあげ、囁く小さな声で、 「あなた、ほんとうに私を愛しているの」と聞いた。 「えっ」  プラナブは一瞬声をうしない固まって、それから、「当たり前じゃないか、なぜそんなことをいうんだ」と答えた。 「日本に帰りたいわ。あなたは、もう一度、私の父に謝らなければならないわ。それで好きな羽子板をつくって、日本ならどうやったって暮らしていけるわよ。子供が欲しいわ。ここで、うむことはできないわ」 「そうだな、それがいちばんいいだろうな」  プラナブは、小さく答えた。ガンガーの河面を吹きぬけてきた、すがすがしい風がふたりの頬を撫でていった。 「ヒンドゥーをすてたのだから、ごくごく自然なことだろう」  プラナブは、そのとき思った。 「疲れただろう。今日はもう寝よう。このことは真剣に考えよう。約束する。これはふたりの問題だから」  プラナブは、いった。  涙に沈んだ真利子は、ながいことうごかなかったが、やがて嗚咽も小さくなり、彼にうながされて寝室に入りベッドに横になった。プラナブは、彼女の髪を撫でていた。しばらくして、自分のベッドにもどり様子をみていたが、真利子は眠りについていった。ゆっくりとした寝息の音が聞こえた。気づくと四時をすぎ、ガンガーの夜明けがおとずれようとしていた。  河は、とまってみえた。その真ん中を、帆船が神の愛に満たされた風を、はちきれるほどにうけて遡上していた。  ガンガー。ガンジス。すべての罪を、つぐなってくれる聖なる河。  もう一度、真利子が眠っているのを確認するとプラナブは居間におり、半年まえに中央の河面ですくったガンガーの水をながめた。ガンジスに清められ、決して腐ることのないはずの河水だった。  プラナブは、大きな瓶をテーブルのうえにもってきて、ふたをねじってあけてみると、予期もしなかった「もわっ」という異臭がたちこめ、水はあきらかに腐敗していた。 「ああ」と彼は絶句して、腐乱したガンガーの河水をだきしめた。  石造りの家の壁に、ゆっくりとした調子で、くりかえし弱くぶつかる、浦波の音だけがしていた。すべての世界が、「ひたひた」という音響だけで支配されていると、プラナブには感じられた。 「奥さん、日本人なんですってね」  ツアー客のひとりが、どこで聞いたかプラナブにいった。 「浅草ですよ」 「すすんでいる。インドがこんなに開放的だったなんて、知らなかった」  男はいった。 「そうしたばあい、奥さんはヒンドゥーに改宗するんですか」  べつの客が、無邪気に聞いてきた。 「ヒンドゥー教は、心がひろいんですよ。ブッディストも、すべてヒンドゥーにふくまれています」 「カーストって、きびしくないんですか」 「私は、バラモンの出身です」とプラナブがいうと、 「名門なんだ」と男は答えた。  普通は、それで終わるのだ。 「そうなんだ。ヒンドゥーでさえあれば、たとえ三男であっても、結婚ができなくても、名門の一族ではあったんだ。いったい、私はなにを望んでいたのか」とプラナブは思った。  真利子を犯したのは、過ちだった。結婚したのは間違いで、恩義ある人の娘として兄に紹介することもできたのだ。 「じつは、三男坊だったんだよ」  冗談ですみ、笑いで終わることができたのだ。 「どうであっても、私はインド人だったんだ」 「ベナレスで、死にたい」  プラナブは、痛切に思った。すべてを、ガンガーにながしてもらいたい。あらゆる過去を清算し、清められ、許されたい。マルカルニカーで火葬されて、灰をガンガーにながしてもらいたい。  それは、「プラナブの夢」だった。  火葬してくれる人は、もうだれもいない。 「それが、カーストをはずされた、ほんとうの意味だ」  プラナブには、分かっていた。                     プラナブの夢、一〇三枚、了