ヒロミの部屋 由布木 秀 一、裕美 朝方、にわか雨がふった暑い日だった。ゴドリアの交差点に通じる幅二〇メートルほどの土の道からは陽炎が立ちのぼり、すべてが霞んでみえた。ホテルのまえで待っていると、オレンジ色のサリーに身をつつんだ裕美がリクシャーにのってやってきて、竜司もそこにのりこんだ。ウエルカムは、ゴドリアの交差点のやや北がわに位置していた。そのまま北にすすむと、道は右にまがりながら上り坂になり、のぼり切ったところに映画館があった。観客が五〇〇人くらい入れる石造りの大きな建物で、真っ暗な館内は人熱れでむんむんしていた。巨大な黒いものが世界を埋めつくすことだけが分かる、夜のガンガーに似ていた。 後ろの小さな穴から光線がでて、正面の大きなスクリーンに映写していた。もれたわずかな光で、場内の様子が分かるには多少時間がかかった。館内はこみ、観客の大部分は男だったが、なかにはサリーをまとった年かさにみえる女性もいた。ぼんやりとながめている竜司を、裕美は小声で「あそこがいいわ」とうながして、ふたりがすわる場所を指示した。 映画は「ラーマーヤナ」だった。王さまが魔王と戦い、誘拐された女王をとりもどす話で、協力する大きな猿がでてきた。最後のほうで悪魔をやっつけて王と王妃がいっしょになったが、終わりではなかった。それからなにかがあり、大猿は王さまに疑われ尋問される。そのとき猿がすくっと立ちあがって、詰問した王にむかって自分の胸を両手でぐっとひらく。名場面らしく、館内は騒然となりもの凄い歓声につつまれた。大猿がひらいた胸のなかには、王と王妃のふたりだけがいた。 竜司は、大学をふたついった。最初の学校は地方の中心都市で、駅の地下街に一〇〇人も入ればいっぱいになる小さな映画館があった。二四時間営業の店で、五〇円の入場料を払うと一日つぶすことができた。そこで東映のやくざ映画をみたが、筋はいつもおなじで、キャストも高倉健と藤純子、鶴田浩二と決まっていた。理不尽なあつかいに我慢をかさね、限界をこえると、健さんは腹に真っ白な晒しをドスといっしょに巻いて、ひとりで敵地にのりこんでいった。どの作品でも藤純子は高倉健とはいい仲だったが、この世では添いとげられない間柄だった。鶴田浩二はだいたい敵方の客分で、義理のために戦わねばならなかった。 健さんが純子に別れをつげ、敵の組に単身なぐりこみをかける、そのシーンがくると、「ケンサーン」という観客の甲高い叫びが、暗い映画館にひびいた。みんなが、おなじ気持ちになった。高倉健は、滅茶苦茶に格好がよかった。声の主は若い男であったり、けっこうな年のおじさんだったりしたが、必ず掛け声は聞こえた。絶対にはずせない名場面で、猿が胸をあけたシーンとおなじだと思った。 映画は二時間で終わり、裕美は、ゴドリアのガンガーぞいのレストランに竜司をさそった。 「歩くの」と彼が聞くと、「人目があるから、リクシャーがいいわ」と彼女は答えた。 「のったって、おなじじゃないの」 「みられている時間が違うわ。それにこの暑さよ。汗をかくわ」 午後の四時ごろで、外はまだ日盛りがつづいていた。リクシャーにのってレストランにいき、彼女が決めた品をいっしょに食べながら、ふたりのお喋りはとりとめのない話で弾んだ。 艶やかな黒髪の裕美は、目鼻立ちがととのい美しかった。痩せた横顔は睫毛がながく、ひきしまった頬は理知的で、ふかい愁いを感じさせた。柔らかな声はしっとりとして、すみ切った瞳は竜司の心を、すべてみぬく雰囲気をもっていた。 インドや日本の話から歴史や芸術の話題になって食事が終わり、チャイを飲んで会話が途絶えていた。 「オレンジのサリーは、よく似あうね。凄く素敵だよ」 竜司は、いった。 「嬉しいわ。どう面白かった」と裕美は聞いた。 その言葉で、じっと彼女をみつめていた竜司はわれにかえり、思わず窓の外の景色をながめた。 ガンガーぞいにあるレストランの、二階のガラス窓は大きく切られていた。下流がわにすわる竜司に、つよい日差しを河面にうけて照りかえしながら、ながれることを忘れたガンガーが、さえぎるものひとつなくみえた。柔らかな風が吹いた。河辺のガートに波が緩やかにぶつかり、河面は金色に輝き揺らいでいた。ダシャーシュワメードには、さまざまな格好の人びとがあふれていた。風が吹いていると感じた。 「いままでみたインド映画のなかでは、抜群に面白かったよ。粗筋を読んだ記憶はあるけれど、ほとんど忘れていたよ。すこし教えてくれないかな」 「インドの古典というと、まずはマハバーラタね。ギリシア神話のイリアスとかオデュッセイアにあたるけれど、それこそ世界一のながい叙事詩なのよ。そのあとに成立したのが、ラーマーヤナね。このふたつは、古代から吟遊詩人に詠われつづけてきたわけね。大きな猿は、勇士ハヌマン。王さまは、ラーマ。とらえられた王妃は、シータという名前よ。彼女を強奪したスリランカの魔王は、ラーバナよ。頭が一〇に分かれ、腕が二〇本もある怪物なのよ。ラーバナは激しい苦行をして能力をつけ、神話では天上界も支配したことになっているわ。こうして梵天から、神々や魔物には、殺されない力をさずかったの。ヴィシュヌは、ラーバナを殺害するために人間に化身してラーマとして誕生するのよ。彼は、事情があって王国を一四年間追放される。最初の部分で、シータはラーバナにとらえられるから、ふたりが再会するには一四年の月日がたっているの。この期間が物語の伏線なんだけど、映画ではみんなが知っているから省略されることが多いわ。だからシータは貞操を疑われ、自ら火のなかを歩くわけね。聖女は焼かれないことになっているから、この場面はどの映画でもあるわ。原作では、ラーマ王はシータの貞節を信じるの。でも国民は、どうしても納得しないのよ。それで、シータはラーマにすてられ、悲しみのなかで死ぬのよ。あの、みんなが騒然となったところが今回の最高のシーンね。創作でしょうが、ハヌマンはラーマに忠誠心を疑われたわけね。それで、胸襟をひらいてみせるの。心のなかには、ラーマとシータしかいないのよ」と裕美はいった。 「たぶんそんなことだろうと思ったよ。やっぱり名場面だったんだ」 「この作品は、あそこが最高の見せ場ね。どのラーマーヤナの物語でも、ハヌマンの忠誠心は形を変えて感動的に表現されるわ。それこそ監督の腕の見せ所になるわ。この話ができたのは二世紀末ね。大きな猿ハヌマンは知恵の神で、祭ってあるヒンドゥー寺院には、大学の受験生が合格祈願の列をつくるわ。もともとは風の神さまで、ラーマの弟がコモリン岬で病気にかかったときには、ヒマラヤの薬草を一日でとって帰ってくる。中国にわたって孫悟空になると、筋斗雲にのることができたわけね。桃太郎の家来の猿には、そんな力はなくなっているわ」 「なるほど、全部、インドうまれなんだね」 「すべての起源は、ここにあるわ。だから、調べてみたくなったの」 ゆっくりとした口調で竜司の目をみつめながら話す、裕美の瞳も頬も輝いてみえた。 「帰ったら、本でもだすのかい」 「かきたいことは、いろいろあるわ。もののはじまりの物語ね」 「明日も、どこかにいきたいな」 裕美をみつめてから、竜司は口をひらいた。 「いいわよ」と彼女は微笑んで優しい声で答えた。 「どこか、面白いところはないのかな」 「そうね。もう、あなたは、ここに二ヵ月もいるのよね。なにをしてたの」 「はじめは観光のつもりだったけど、あのプロジェクトがあって、帰るに帰れなくなってね」 「地図のことね」 竜司は、俊和との出会いや、うけついだガートの話をした。 「一度みてみたいわ。私も、そんなには知らない。パラノイアだわ」と裕美はいった。 「俊和は、思うことがあったんだ。この大地を踏みしめて、はじめて感じるガンガーのながれだ。コモリンの岬で立ちどまる、時間のうごきだよ。大学をふたついくと、考える人と、しないですませる者がいるのが分かる。俊和は、死ぬときに後悔するかだけだといっていた。たしかに立ちどまるべき者が、そのまま通りすぎたら悔やむのだろうね。もともとなんとも感じない人は、どうとも思わないんだろうね。でも、ふたつのタイプがいるのは事実で、この大地に触れると一挙に、序列の問題をふくめて根底から問いなおされる気がする。彼とは、似ていたんだ。なぜここにいて、どうして私なのか。自分とは、そもそも存在するのか。そんなことを始終、考えている」 裕美には、竜司がとても嬉しそうにみえた。 「口説くのを知らないんだわ。きっとこの人、女の肌に触れたことがない」と裕美は思った。 異国の高級レストランで、大きく切りとられた窓からは、うごくのを忘れたガンガーがみえる。帆船が、すがすがしい風をいっぱいにはらんで遡上している。こんなロマンチックな場所で、偶然出会った男と女が食事をしている。最高の舞台がそろっている。竜司の心は、ときも場所も関係なく、こうした考えについやされ、きっと俊和もおなじ世界にいたのだろう。いまは、女の私がかわりをさせられている。幾分かは寂しいが、それが竜司の業なのだと彼女は思った。 裕美の身体をすりぬけていった、幾人かの彼とは違う男たちの姿が脳裏をかすめた。竜司は、そんな考えなど思いもつかないらしくつづけていた。 「ガンガーはとまっているし、ベナレスの街に神が住み、聖であるならば、むこう岸は賎で、不浄として手つかずにほうってある。時間に支配されない不変が、実在する。たとえば、つよい光が緑の木の葉を照らし輝かせる。一瞬ごとに、葉は違う緑色に変化する。なにがほんとうの緑なのか、だれにも分からない。人間の視神経が受容する、ひとコマが折りかさなっている。だから、ある刹那だけを切りとれば、緑は固定され、その緑色については論じられる。この国では、それが可能なのではないかという気持ちだ」 「時間がとまれば、思考はふかまるというわけね」と裕美はいった。 「時を連続体ととらえると、解決できない。いくら考えても、螺旋階段を上下するだけで、一歩を踏みだすことさえ不可能だろ。倶舎論は、知っているかい」 「刹那滅、くらいならね」と彼女は答えた。 「ほんとうに、裕美は学問があるよな。君とのお喋りは、もの凄く楽しいよ」 竜司は、満足げな表情になり、また話しはじめた。 「仏教では、一弾指のあいだに六五の刹那あるという。人間の感覚は、視覚で一秒に二〇コマくらいは識別できる。同時に音を聞き分け、匂いも味も肌触りも感じるから、五感をすべてで厳密に分割したら、一秒間は、ほんとうに六五コマまで識別可能なのかも知れない。しかし、どれもが独立したコマで、不連続だなんて素晴らしい発見だよ。人間の網膜細胞は、三原色を認識する三種の神経線維で構成されている。白色をふくめて、どんな色でも合成されてうまれている。しかし三原色を認識するのは、網膜の神経だ。つまり合成して色彩を感じる場所は、画布ではなく脳なんだ。印象派が一瞬のなかでとらえようとした、光と色との微妙な関係は、刹那ではじめて追求できる。それこそ一期一会だ」 「もう滅したコマには、もどれないわけね」 裕美は、相槌をうった。 竜司は、その言葉にまた、満足した表情でつづけた。 「ここで俊和と会ったのは偶然で、巡りあわせだったけれど、話していると、魂はおなじだと思った。すべてが因縁で運命論的に決まっている、そんな気持ちかな。ウエルカムにまたきて、予期した通り彼の置き土産をみたとき、ぼく自身が考えたことだと思った。四国の八八箇所めぐりだよ。インド人がベナレスにきて、パンチクロシーの巡礼をするのとおなじだ。ガートの地図を完成して、肝炎で帰った彼にみせてやらなければならない。もうすぐ、終わると思う」 「それから、どうするの」 裕美は、聞いた。 「そうだね、インドはおしまいだ。ヒマラヤにでもいって、日本に帰ることになる。でも、まだなにかがある気もするんだ。カードゲームで、ポーカーでもいいけれど、いま、ぼくはツーペアをもっている。普通はのこりの一枚を交換して、フルハウスを考える。まったくべつの発想で、ツーペアをくずすと、ストレートになるかも知れない。フルハウスでは物足りない、もったいない気持ちなんだ。こんな気分は、ほとんどはじめだけれど。分かってもらえるかな。三枚すてたらフォーカードがつくれる、そんな気がするんだ」 「そうした確立は、かぎりなくゼロにちかいのでしょうが、永遠というべつのカードをもてば、不可能とはいえないわね」 裕美は、そう答えて肩まで垂れた髪を右手ですくいあげた。細くてながい中指と親指で輪をつくり、人差し指と伸びやかな薬指を右の頬にかるく押しあてると、ややまえかがみになってなにかを考えていた。 竜司には、目の前にいるエレガントな裕美が、なんでも望をかなえてくれる弥勒菩薩にも思えた。神秘的で上品な姿で瞑想にふける、広隆寺の半跏思惟像にそっくりだった。 「一年半もいるのに、私の知っているのはベナレスだけだわ」 裕美は、寂しそうに呟いた。 「いっしょにどこかにいってもいいよ。そんなことしたら、いづらくなるのかな」と竜司は聞いた。 「それは、関係ないわ」 裕美には、竜司の言葉は意外だった。彼女は、タージマハルはもちろん、ベナレスをでたこともなかった。 「女のひとり旅は怖いわ。とくにここでは。竜司だって、気をつけたほうがいいわ。いなくなるケースは、数え切れないほどなのよ。どうさがしても、絶対に分からないのよ。知らなければ、どこへでもいくけれど。帰るまえには、いくつかの場所へはいってみたいわ。タージには必ずいくわ。シャージャハンが、国をほろぼしてまで建設したのですもの。二二年もかけて。一度は、みてみたい。二二年間も、死んだ妃をずっと愛しつづけていたなんて素敵だわ。それこそ、ラーマよ。そんな変わらない愛なんて、竜司、インド的だと思わない。国のすべての財産をかけて。命まで犠牲にして。こういう極端さが、インド的なものなのよ」 裕美は、うっとりとした目で話しはじめた。 「アグラの城をみてみたいわ。シャージャハンが幽閉された、城塞の屋上から、どんな風にタージがみえるのかしら。息子に監禁された王が、自分がつくった霊廟をみて、なにを考えたのかしら。想像してみたいわ。三〇〇年以上もまえは、いまみる以上に、タージは輝いていたのでしょうけど」 裕美は、話していた。 「ロマンチックだね。いまの大学の女の子に、君みたいな人はいない。時代が違うみたいだ。もっと現実的で、お金のことばかし考えている」 竜司は応じながら、なぜ裕美がひとりでBHUに留学したのだろうと思った。普通の失恋くらいでは、こないだろう。 「それは、誤解だわ。竜司が思うほど、みんな昔と変わっていないのよ。どちらかというと、あなたは普通ではないわ。昨日のプラナブとの話なんか、変人同士の壮絶なバトルという感じだったわ。ロマンチックな会話ができる男が、いなくなっただけなのよ。お金は必要よ。なければ、ロマンチックな体験もできないわ」 静かなときのあいだに、ふたりは紛れこんでいた。 「そうそう、そういえば」 裕美は、いいことを思いついたという表情で話しはじめた。 「サーカスがあるのよ、ベナレスにも。これが面白いらしいのよ。どういってみない」 「サーカス。空中ブランコかい」 「そうよ。でも違うのよ。国によって、出し物も変わるのよ」 つぎの日は、サーカスにいくことにした。興行は午前と午後の二部構成だった。ふたりは、昼過ぎの公演にいくことにした。 裕美が、二時にウエルカムまでむかえにくる約束になった。 「おくっていこうか」と竜司はいった。 「人目があるから、ここで分かれましょう。そこがゴドリアの交差点だから、帰り道は分かるわよね」 「ここに二ヵ月いたんだ、地図をかきながらね。また明日を楽しみにしているよ」 「それじゃね。店をでたら、べつべつにいきましょう。明日は、二時にホテルのまえで」 裕美は、そういってふたりは別れた。 二、ハッサム 歩いてウエルカムに帰った。ガンガーはもうすっかり闇に支配されていた。街は変わらず喧騒とし、出店がつらなって焼き鳥やオムレツを売っていた。車がブーブーと警笛を思い切りならし、リクシャーの男が大声で叫びながら走っていた。売り子がくるった声で、おなじ言葉をくりかえしていた。「バクシーシ」。「おめぐみを」という物乞いの声もおなじだった。男同士、女同士で手をつないだカップルで、どこのバザールもごったがえしていた。 そうした人ごみをぬけてホテルにもどって横になると、ほどなくザリムがきて、竜司に用を聞いた。 「とくにないよ」と彼は答えた。 ザリムはドアで突っ立ったまま、竜司をみていた。 「なにか用があるのかい」と聞いた。 「とくにない」とザリムは答えた。 「それじゃ。扉をしめてくれ」 竜司がいうと、ザリムはでていった。ほどなくノックの音が聞こえた。 「だれ」 「おれだ」とハッサムの声がした。 「入っていいか」 「べつに、かまわないよ」 扉をあけて入ってきたハッサムは、なにやら興奮していた。 「あの女はなんだ」 「みてたのか」 「目はある。ああいう風にしたら、だれにだってみえる」 竜司がだまっていると、ハッサムはつづけた。 「日本の女だった。どういう関係だ。旅行者ではないな」 「BHUの学生だ。一年半ベナレスにいて現代社会学を勉強している。現代社会って分かるか」 「それは、大学で勉強するものなのか。現代社会とはおれたちが生きている世界だろう。そんなこと、勉強しなくてはいけないのか」 しばらくして、ハッサムは不思議そうに聞いた。彼は、いつも真剣だった。 「ハッサムがみても分からない問題を、研究しているんだ。学問とは、そういうものだ。 必要があるかどうかは、べつの問題だ。無関係といってもいい」 「みて、分からないものはない」 「ほんとうか。みれば、なんでも分かるのか」 「だいたいはな。目に入れば、理解できる」 「そうか」と竜司は答えた。しばらくして、 「それで、おまえは、なにが分かったんだ」と聞いた。 「あれは女だった」 「馬鹿か、おまえは。それはだれにだって分かるもんだ」 「日本人の学生で、BHUで現代社会を勉強している」 「それは、いま、おれが話したことだ」 「サリーをきていたから、旅行者じゃない。おまえとおなじ、ジャートだ。普通、となりにすわるのは結婚してからだ。氏姓がひくい者同士だからできるんだ」 「おまえも、そういうジャートになりたかったんじゃないのか」 ハッサムは、だまった。 「どこにいったんだ」 「みれば分かるんじゃないのか」 「綺麗な女性だった」 「ああいう女は好きか」 「当たり前だ。日本の女は、綺麗だ」 「ここにも、泊まりにくることがあるんだろう」 「旅行者とは、違っていた。サリーをまとった日本の女は素晴らしい。日本人とは、思えないくらいだ。日本の女性には、サリーが似あうのかな。竜司がうらやましい。あんな女といっしょにいられて。いろいろなことを、好き勝手に話せるのだから」 ハッサムは正直だから、そう思ったのだろう。彼は、左の窓から裸電球の光に満ちたゴドリアの街を、思いつめた表情でじっとながめた。その様子は、どこか儚げで朧で、魂が四つ角の大気のなかに迷いこみ、消えてなくなってしまう気がした。 「話してみたいか」と竜司はいった。 ハッサムは、ゆっくりとベッドにむきなおった。不審気な表情で、 「いま、なんといった」と口をひらいた。 「だから、彼女と話してみたいのか」と竜司がつげると、ハッサムは、はっきりとした口調で答えた。 「もちろんだ。できることなら、日本人の女と話してみたい。旅行者ではない。サリーをきる女とだ。なぜ、ここにいるのか。どんなことに興味があるのか。なにを考えているのか、聞いてみたい。ただそれだけだ」 ハッサムの言葉は、竜司の心をうった。 「かなえてやろうか。その希望を」 「ほんとうか」 ハッサムは、真剣に聞きなおした。 「明日、また会うことにした。いっしょに食事でもどうか。直接、聞いてみたらどうだ。おまえが考えている、その疑問を」 「そうしたい。いいのか」とハッサムは答えた。 それで明日の夕方、いっしょに食事をする約束になった。中華料理店だが、ハッサムは、いくのははじめてだといった。 曜日の感覚はなかった。朝、オムレツを食べた。ザリムは、ずっと竜司の食事をみていた。 「なにか用があるのか」と彼は聞いたが、なにもいわなかった。 午前中は、ガートをさがして時間がつぶれた。数は八三になり、あとひとつで完成だった。午後の二時に、裕美がウエルカムにやってきた。リクシャーにのるとき竜司が自分の部屋をみあげると、真剣な表情でふたりをみるハッサムと目があった。 ベナレス駅のちかくにテントがはられ、サーカスが興行していた。インドでも有名なサーカス団らしく、国中をまわっているという話だった。テントはかなり大きく、五〇〇人以上の観客がいた。竜司は全体をみまわし、サーカスはどこも基本的にはおなじだと感じた。四方に柱が立てられて、テントをささえる大きな空間がつくられ、中央にまるく仕切られた演技をする場所があった。舞台の床は土で、とりかこんで観客席がつらなっていた。 いちばんまえの席のチケットを買って、裕美とみた。 サーカスの入り口には、ポスターがはられていた。空中ブランコや道化師が描かれていたが、かばが中央にいた。 日本でサーカスにいったことはあるし、テレビでもよくみた。興行に動物はつきもので、犬や猿は普通だ。熊やゾウ、トラやライオンなどの猛獣も芸をする。かばは、想像したこともなかった。 考えてみたが、逆立ちは無理だろう。下肢二本で立つことだって人がささえても、不可能だろう。縫いぐるみでもきた者が、なにかをするのだろうか、ポスターをみて考えてみたが、竜司には想像もできなかった。 館内はこみ、出し物もごくごく普通で面白かった。サーカスの女性は綺麗だと、竜司は思った。化粧が濃いので素顔は分からないが、華やかだった。彫りのふかい顔立ちは、メークすると一段とひきたってみえた。きびしいジャートがある国で、身体を露わに雑技をするのだから不可触民だろう。先祖代々、稼業をうけつぐサーカスの女性たちは、どんなあつかいをうけているのだろうか。舞台に立つのだから、大道芸人よりは高い序列に違いなかった。女の大道芸はみたことはないから、彼女たちはやはり特異な存在で、かぎられたジャートなのだろう。 うまれてはじめて、かばの曲芸を見物した。大きな動物が、奥のほうから、のっしのっしと歩いてきた。動物園ではだいたい汚れた水槽に身を沈め、黒い鼻とせいぜい背中くらいしかみえない。実際に全体像をみるのははじめてで、予想以上に大きな生き物だった。 かばのまえに動物使いがいて、右の手に草をもっていた。男が餌を鼻に押しあてた。かばは、すこし動物使いのほうに移動した。歩くというより、うごく感じだった。そのうごきに、また男がいくらか後退し、かばの鼻に草を押しつける。この動作がずっとくりかえされた。観客はなにが起こるのかと、懸命にみまもっていた。 中央のまるい演技場は直径が二〇メートルくらいで、かばは奥からでてきて、円形の仕切りちかくを一五分ほどかけてゆっくりと一周した。そして、やってきた通路に消えていった。 ほんとうに、かばがそのまま舞台からいなくなったとき、固唾を飲んでみつめていた観客は一瞬しんとなり、それから館内は、爆笑の渦で埋めつくされた。竜司もおかしくて、裕美とふたりで声を立てて腹をよじり、涙をながして笑った。いっそ極芸とよんでもいい、最高に面白いショーだった。サーカスが終わってテントをでたとき、竜司は裕美にいった。 「ホテルのオーナーの息子が、昨日、ぼくらのことをみていたらしいんだよ」 「ウエルカムの」 「そう、裕美がむかえにきてくれたから。イスラムなんだ。暇らしくてよくみているんだ」 「ここの人は、みんな暇人よ。ゴシップばかり追いかけているわ。それがどうしたの」 「日本人のサリー姿をはじめてみたらしい。サリーと、とてもよく似あうといって。なんで裕美みたいに綺麗な女性が、ひとりでBHUにきているのかって、凄く興味があるらしい」 「この国の人は、なんにでも好奇心を示すわ。どうしたら、ひかせないですむか、考えてしまうほどよ」 「その通りだ。ようするに暇なんだ。興味をもったことは事実で、君と喋りたいんだそうだ」 「なにを、話すの」 「特別なことはないと思うよ。ハッサムというんだが、ここに二ヵ月もいるんで友だちなんだ。彼は物事をふかくは考えないが、正直だし、家がホテルだから女性の旅行者にはずいぶん会うんだと思う。しかし裕美は、ハッサムのいう通り特別だ。いい方によっては、物好きで変わっている」 「いいたいことは分かったわ。でも、興味がないわ。この国の人の考えることは、みんなおなじよ」 「それは、日本もそうだ。とくにこのごろはひどい。裕美みたいな発想をする人は、ほとんどいない」 「かばの曲芸だと、思っているのね」 竜司は笑った。 「まあ結論からいうよ。ハッサムは、女性と話したことがほとんどないんじゃないかな。旅行者の女と、かぎられた話はすると思う。それ以上の機会はないんだろうね」 「イスラムは、みんなそうよ。女はもので、片寄った配分になるから、富とか力の象徴でしかないわ」 「その通りだ。だから話してみたいんだろう。食事を、いっしょにしたいといっているんだ。ぐあいが悪いかい」と竜司は聞いた。 裕美は、右の手をかるく額に触れていたが、やがて、うんざりとした表情で、「もう、そのつもりなんでしょう。そうしてやるって、竜司は話したんでしょう」といった。 「そうなんだ。ハッサムは、いいやつだ。不愉快な人間ではない。馬鹿ではない。人を気遣えるし、ホテルの跡とりだし」 気がすすまないらしく、裕美はずっと考えていた。その姿をみて、竜司も思った。イスラムやヒンドゥーの男たちは、裕美がブッディストだから、格下相手なら失礼なこともするのだろう。ある意味では、サーカスの女芸人とおなじに思うのだろう。 「いいわ。それがあなたの、たってのご希望なら。責任も、多少はとってもらうことになるかもね」 裕美はいった。 竜司には、彼女がなにを考えているのか分からなかった。譲歩を引き出し、ハッサムとの約束が果たせそうだったので、「いいよ。なんでもする」と竜司は答えた。 それで、中華料理店でいっしょに食事することになった。 ハイファーは、ベナレスでは有名な店で、俊和と何回かいった。ゴドリアを西にまがり、ベナレス駅にむかう途中にあった。大きなガラス窓が、大通りに面して切られた綺麗な店で、まるいテーブルが一〇くらいならび、清潔な感じがする中華料理の老舗だった。中国人は、どこにでもいた。 裕美とふたりでリクシャーにのって、ハイファーについたのは五時半ごろだった。青いストライプの入ったシャツをきて、裾がひろがったズボンをはいたハッサムは、店のまえに立っていた。彼も竜司も眼鏡をかけ、背の高さも似ていた。ふたりとも痩せていたので、みかけでいちばん違うのは口ひげだった。ハッサムは、イスラムの割には毛がうすく、伸ばしていたが立派とはいいがたかった。竜司が髭をそらなければ、すぐに彼くらいにはなりそうだった。三人でハイファーに入り、道路がわの四人がけのテーブルに腰をおろした。窓ごしに大型のバスが行き交うのがみえた。裕美は、窓がわで竜司とならんですわったので、彼とむきあう形になった。 「ウエルカムの跡とり、ぼくの親友のハッサムだ」と紹介した。 「こちらは、ミス裕美だ。ぼくの大切な友人だ」 竜司は、ハッサムにいった。 「お会いできて嬉しい。綺麗な色だ。サリーをきた日本人に会うのははじめてだ。日本の女性に、よく似あうことがはじめて分かった」とハッサムは話しはじめた。 「サーカスは、どうだったか」と彼は裕美にたずねた。 「ハッサムは、いかなかったの」と彼女は聞いた。 「そうだ」と彼は答えた。 「ハッサム。おまえは一日じゅう、なにをしているんだ。ベナレスについて、なにも知らないじゃないか」と竜司はいった。 「まわりが分かればいい。それが、おれにとって必要なことだ。ほかは関係がない」 「裕美と話をするのは、重要なのか」と竜司は聞いた。 「知りたいことがある。だから必要だ」とハッサムは答えた。 ウエイターが注文をとりにきて、チャーハンを頼んだ。裕美は怪訝な顔をしたが、その表情にハッサムは気がつかなかった。 「竜司から、いろいろ話を聞いている。彼とは親友だ。今日は会えて嬉しい。いっしょに食事ができて、とても光栄だ。サリーをきている日本の女性は美しい。とても魅力的だ。赤いサリーは、裕美によく似あう。肌が白いからとてもマッチするのだと思う。赤は情熱的な色だ」と真剣な表情でつづけた。 「いろいろ、教えてもらいたいんだってさ」 竜司は、裕美にいった。 「どんなことかしら」 彼女は、つまらなそうに答えた。 「竜司とは親友だ。でも、裕美に教えてもらいたいことがある」とハッサムはいった。 チャーハンがでてきて、いい匂いがした。三人で食べた。 「どうだい。うまいか」と竜司はハッサムに聞いた。 「なかなか、いける。この食べ物は、はじめてだ」と彼は答えた。 ハッサムは、ほんとうにうまそうに食べていた。 「おいしいだろう。その肉、なんだか知ってるか。みれば、なんでも分かるっていったものな」 「ふうん。変わったものだな。でも、うまい」 ハッサムはスプーンにチャーハンをのせて、じっくりとみつめて答えた。また、さじに入れ、うまそうに口にした。それをみて、竜司はいった。 「その肉は、豚だ」 ハッサムは顔をあげ、眉間に皺をよせた。不思議そうな表情で、彼をまじまじとみながら、「なに」と聞きなおした。 竜司は、もう一度いった。 「みれば分かるんだろ。それは、豚の肉だ」 その言葉を聞くと、ハッサムは真っ青になった。浅黒い顔からは血の気がうせ、とつぜん立ちあがると口をおさえて、一気に外にかけだした。戸外で、吐いている音がした。 「ひどい人ね」 裕美は、彼をみつめながら、しみじみとした調子でいった。 竜司も驚いていた。ハッサムがこんなに激しい反応をするとは思っていなかった。ふたりのあいだにながれる空気は、完全によどんでいた。なにも語らない裕美はじっと外をみて、竜司にはひどく息苦しい時間に感じられた。自分のしたことを、心から反省せずにはいられなかった。裕美にも、謝りたい気持ちでいっぱいだった。しばらくすると、ハッサムは思ったより、さっぱりとした表情で席に帰ってきて、水を飲んだ。 「やりすぎだった。申しわけなかった」と竜司はいった。 「教えてくれて、ありがとう。食べないですんだ」 もどってきたハッサムはいった。 「悪かった。許してくれ。昨日おまえが、なんでも分かるっていったから、ほんとうかどうか、試してみたんだ。ほんとうに悪かった。許してくれ」 竜司は起立して頭をさげ、神妙な顔になって謝った。 「いいんだ。おまえは友だちだ。豚が、こんなにうまいとは知らなかった。はじめて分かった。おまえが機会をつくってくれなければ、一生知らなかった。でも、もうおれはお茶でいい」 裕美は、ふたりの会話をだまって聞いていた。 ハッサムはチャイを頼み、外をみたり、天井をながめたりしながら考えていた。やがて裕美にむかって話しはじめた。 「ロメとジュリーの、日本の話を教えてもらいたいんだ」 お茶を飲みながら、ハッサムは聞いた。 「なに、それ」 裕美は、聞きかえした。 「日本の昔話だ。竜司に聞いても、よく話してくれない」とハッサムはいった。 「ロミオとジュリエットのことだ」 竜司は、チャーハンを食べながら裕美にいった。 「ああ、そう。それは日本の物語ではないわ。イギリスの話よ」と裕美は答えた。 「そうか。どうも変だと思った。そういう名前の日本の宿泊客はいない」 ハッサムは、うなずきながらいった。 「どんな話なんだ」と裕美に聞いた。 「恋愛物語よ。若いふたりが愛しあっているのだけれど、いろいろな、しがらみがあって、結婚できずに心中するのよ」 「分かる気がする」 「ハッサムには、ジュリエットがいるんだ。ふたりは愛しあっているんだそうだ。この世では、結婚できないらしい」 竜司が解説した。 「まあ、それは可愛そうね」と裕美はいった。 「ほんとうに、そう感じるの」 竜司は、彼女に聞いた。 「それは、心から思うわよ。竜司は、そうでないの」 裕美は、真剣な表情で聞いた。 「たがいに愛しあっていれば、という前提ならばね。ハッサムのばあい、その辺から怪しいんだ。裕美は、ながく住んでいるから、インド人のことはよく分かるだろう。インド人同士なら、ふっと目があえば、愛情はたがいに確認できると思うかい」と竜司は聞いた。 「ジャートが違うわけなのね」と裕美はいった。 「さすがスーパーウーマン。お見通しだね」と竜司がいうと裕美は笑った。 「ぼくは思いこみだと話したのだけれど、ハッサムには特殊な能力があるらしい。みるだけで、なんでも分かるんだそうだ」といった。 「それで、竜司がいたずらにいたったわけね。正当化しようとしても駄目よ。いたずらには、ふたつあるわ。楽しいものと不愉快なことよ。さっきのは完全に後者ね。多いに反省するべきだわ。軽蔑されても仕方がないくらいだわ」と彼女は、つよい口調でいった。 「裕美は、思った以上に、いい人だ」とハッサムは賞賛した。 彼は、チャイを飲みながら考えていた。やがて、「裕美は、純粋な魂の愛を信じるか」と聞いた。 「また、なにかいわれたのね」 「これは、べつに嫌なことではない。竜司が、的確にふたりの愛を表現してくれた。ギリシアのプラが、アラーとおなじことを話しているらしいが、ほんとうか」と裕美に聞いた。 「なんだ、ハッサムは疑っているのか」と竜司がいった。 「おまえは大切な友だちだ。でも、ときどき嘘をいう。だから、裕美から直接聞いてみたい」 「プラって、なあに」 「やっぱり、いないのか。そんなのは」 ハッサムは、竜司を睨みつけた。 「プラじゃない、プラトンだ。名前くらい覚えておけ」 竜司は、いった。 「そうか、プラトンか。その人が、おれのジュリエットにたいする愛情を、肉体ではなく魂の愛だといっているらしい。ほんとうか」 「竜司の話は、正しいわ。プラトンは、そう話しているわ。あなたたちの愛は、とても素敵よ」と裕美はいった。 「分かってくれるのか」 「もちろんよ」 「裕美は、優しい」 ハッサムは感激していた。それからジャスミンティーを頼んだ。 「豚のエキスは入っていない」 竜司がハッサムにいうと、彼は裕美をみた。 「大丈夫よ」 裕美も、うなずきながらいった。 ハッサムは、ジャスミンティーを飲んで、「うまいチャイだ」と感想を述べた。食事が終わると、彼は歩いて帰るといった。 竜司は、裕美とふたりでリクシャーにのった。 「たしかにいい人だわ」と彼女はいった。 「もう二ヵ月だ。毎日、ぼくの部屋にきて、ひとりにさせてくれないのでこまる」 「友だちがいて、いいじゃない」 ふたりをのせたリクシャーは、ゴドリアを南にまがった。 「このまま、おくっていこうか。どうする」 「そうね」 「赤いサリーも似あうね。素敵だよ。ハッサムがいった通りだ」 「やっと、気がついてくれたのね」と裕美は笑った。 ゴドリアとBHUの中間くらいの場所で、リクシャーをおりた。 「入っていって。紅茶でも飲まない」 「いいのかい」 「あがって、いってよ」 木造の二階だてで「BHUの学生むけの住宅」という話だった。ふるぼけた家屋の左端に木製の戸があり、あけるとせまい階段があらわれた。のぼると小さな踊り場で、右に扉がみえた。鍵をあけて部屋に入ると、裕美は裸電球をねじってあかりをつけた。アパートというより、普通の住宅の二階を間借りした感じだった。プライバシーをまもるためにいちおうの造作がされていたが、もともとは下とつながった一軒の家に思える部屋だった。 一〇畳くらいで、白っぽい絨毯がしいてあった。道がわに窓が、部屋の中央ではなく、やや右がわに切られていた。そのちかくに机があったが、座卓で、食事のときにもつかうらしかった。床には、電球のスタンドがおかれ、綺麗に整理されていた。書棚はなく、本が絨毯につまれていた。階段がわにベッドがおかれ、ふかい赤色のベッドカバーに覆われていた。窓の反対がわに小さなキッチンがある、ワンルームのふるい建物だった。すみには小型の冷蔵庫がおかれ、ガスはプロパンだった。生活の臭いがした。 竜司が入り口で立っていると、「そこにすわって」といって、裕美は座卓のまえを指さした。ベッドとむかいあう位置に、彼は腰をおろした。 「紅茶を入れるわ。ちょっと待ってて」と裕美はいって食器をとりだし水をわかした。 絨毯にはチリひとつなく、綺麗に掃除がされていた。窓際の壁には大小さまざまな本がつまれていた。背表紙はヒンディーの文字が多かったが、英語の書籍も日本の文庫本もあった。ノートが山づみにされていた。 「授業は何語なの」 「ヒンディー語よ。英語の授業もあるわ」 「日本人は、ほかにいるの」 「そんなわけ、ないでしょう」 裕美は、ぶっきら棒に答えた。 それから、彼女の話をした。裕美が外語大をでたあとで、タイの商社にいたこと。パキスタンの大学にいくか、インドにするのか、悩んだという話だった。 「家族は賛成したの」 「そんなわけ、ないでしょう。仕送りは、してもらっているのよ。自分でためたお金もあるけどね。それだけで生活したら、父も母も心配でしょう。ここは、外語大の教授に紹介してもらったの。帰ったら、大学にもどるわ。講師には、してくれるわ。そういう話でもなければ、父も母も絶対許さないもの」 「何年いるの」 「四年よ」 「ながいね」 「きっと、あっという間だわ」 「ご両親は、きたことはあるの」 「一回だけね」 「なんていってた」 「思ったより近代的だって。スラムみたいな場所を、考えていたらしいわ。心配はしていたわ」 いくつかのそんな会話のあとで、「ひとつ、聞きたいのだけれど」裕美はいった。 「昨日のプラナブの話だけれど、あのジャートの話題ね。どういう意味なのかしら」 「プラナブのジャートは、なんだと思う」 「あまり、考えたことはないのよ。立ち入った事情は失礼だし、昨日みたいな話になったのは、はじめてだったわ。プラナブはこの国の尺度からすれば、ガートちかくに家をもつ、小金持ちよ。ガイドとしては、かなり名が知られているわ」 「半年いただけだから、よく分からないよ。再生族が、証しである糸を焼くって、なにを示すと思う。ほんとうにバラモンだったら、いっしょに食事をしてくれるのかな。たぶんお昼は、真利子と三人だったのではない。ブッディストに改宗したとしても、糸は焼かないんではないかな。自分の証しみたいなものだし。日本に住むならともかく、インドで棄教する理由がないとは思わない」 「アウトカーストが、仏教に改宗するのとは意味が違うわね」 「もし糸を焼いたとすれば、自分の意志ではない」 「そうか。焼かれたってわけね」 「二度と手にできないよう、一族から追放された、かな」 「プラナブは、嘘をついていることになるわね。真利子が、だれもたずねてこないってこぼしていたわ。ずっとひとりで、なにをしていいのか、分からないって。BHUにでも編入してみたらと話したけれど、その件ではご主人が反対で、いまのところは無理だといっていたわ。彼女は、英語も喋れない。プラナブは英会話くらいができてから試験をうけたらと、いっているらしいわ。そのくせ英語の教師もつけてやらないのだから、喋れるようになるはずもないし。可愛そうな気がするわ」 「日本人と話して、バラモンといいだすインド人は、なんなんだろう。嘘かも知れない。あるいは、バラモンでしかないのか」 「違うということね」 「ようするに跡とりではなく、次男か三男か、普通は日本人と結婚するジャートではないんだろう。真利子には、なにか誤解があったのかな。二年たつというから、事情が分かりはじめているのかな。推測だけど」 「きっと正しいわ。BHUには、跡とりしかこないわ」 「それも、文系はそうだと思うよ。理系だったら、インド人は英語を話せるから、技術者として仕事を都市にもとめることもできる。跡とりでない者が大学で絵画を専攻したら、未来はないだろうね」 「あきらめることになるわけね。未来のすべてを」 「そうだね。家族は、もてないだろう。その、ひきかえだろうね」 裕美は、考えていた。それから紅茶をひと口飲んだ。 「プラナブは、いやらしいのよ」 とつぜん、裕美はいった。 「せまってくるのよ。真利子がいるのに」 ふたりの目があった。裕美は、竜司をじっとみつめていた。彼は、なにをすればいいのか分かった。声をかければよかった。言葉でなくても、肩を抱いても、手をにぎるだけでも充分だった。静謐なときが、ながれるのをやめていた。裕美が待っているのが分かった。湿った空気がながれていた。 竜司は、意を決して生唾を飲みこむと、「お願いがあるんだ」といった。 「なあに」 裕美は、希望がなんであっても、かなえてくれる表情で答えた。 「ヒンドゥーの女の子と、話がしたい」 裕美は、だまった。沈黙の時間が油にまみれてすぎていき、周囲の空気が冷たくなり、重くまとわりついてきた。 「分かったわ」 ながい沈黙のあとで、裕美はいった。また音もなく、ときがながれていった。 「どんな話がしたいの」と裕美は聞いた。 それから、じっと竜司の目をみつめた。 「話しても、いいのかい」 「もう、あなたはいっているじゃない」 「ヒンドゥーの若い女性と話してみたい。君くらいに教養がある学生がいい。聞いてみたいんだ。彼女たちが、この国でなにを思って暮らしているのか。ヒンドゥーのジャートや女性の地位について、考えていることを聞きたいんだ。ボンベイで女子大にいってみた。話したかった。我慢できなかったんだ。きっかけが、つかめなくてね。一日じゅう、女子大のまえをうろうろしていた。馬鹿みたいに」 裕美はだまって聞いていた。またガンガーのときが支配し、彼女は紅茶をひと口飲んだ。 「竜司がどうしても話してみたいのなら、そういう女の子を紹介してもいいわ。あなたの希望にそう、ヒンドゥーの、若くて、教養のある、綺麗な子を」 裕美は、ゆっくりといった。 「手配してあげるわ。竜司がインドにきて、思いのこすことがないように。因縁だわ。私に原因があって、結果が、こうしてあなたに答えなければならない。分かったわ。今夜にでも、ホテルに連絡を入れてあげるわ」 裕美は、昔を思いだしたのか、べつなことを考える風情になった。どこか遠くをながめる目つきにみえたが、竜司には居心地の悪い時間だった。 「それじゃ、帰るよ」といった。 「そうね」 「今日は、楽しかったよ」 「そうだったわね」 扉をあけて、竜司がお別れをつげたとき、裕美はいった。 「あなたは、ひどい男ね。あんないい人を騙すなんて」 「ハッサムのことは、反省している」 裕美は、竜司を責めていた。彼のすべての行為で、重苦しい雰囲気につつまれて部屋をでた。階段をおりると、後ろでドアをしめる、木のきしむ音がひびいた。 紅茶の容器がふたつおかれたテーブルをじっとみつめると、不意に涙がこみあげてくるのを裕美は感じた。両の目が一瞬熱くなったと思うと、ぼろぼろと湧きでてきたものは頬をつたい、とどまることもなく絨毯にこぼれ落ちていった。テーブルに両肘をつき両手で顔を覆った。閉じられた目から、信じられないほどの涙があふれてきた。滴は、すわりつづけていられない、悲しみをつれてやってきた。赤色のベッドカバーをはずすと、赤いおしゃれのサリーをぬいだ。ベッドの布団をつかむともぐりこみ、頭からかぶって思い切り泣いた。嗚咽し、慟哭する自分に感動し、生きている己に感激して、涙があふれた。 「こんな風に泣いたのは、何年ぶりになるのかしら」 そんな思いが涕泣のなかで浮かんだ。 「寂しかったんだ。たったひとり切りで」 彼女は、あらためて思った。 「そう。ひとりぼっちで」 竜司がウエルカムに帰ったのは八時ごろで、ハッサムが部屋にやってきた。 「遅かったな」と彼はまずいって、 「あれから、またふたりで話をしたのか」と聞いた。 「そうだ。ふたり切りでだ」 「ふたりだけ」 ハッサムは、目を大きくみひらいて聞いた。 「裕美の部屋にいってね。ひろい綺麗な寝室だったよ。真っ赤な、厚い絨毯がしかれていてね」 そう竜司がいうと、ハッサムは深刻な表情になってだまった。 「そんなこと、していいのか」 「日本では、なんでもかまわないんだよ。知らなかったのか。ジャートがひくいからな」と竜司がいうと、ハッサムは眉間に皺をよせてだまった。 「嘘だよ。お茶を飲んだだけだよ。なにもできやしない。当たり前だろう」 「おまえは、嘘つきだ。それには、ふた通りある。楽しい嘘と、そうでないものだ。これは完全に後ろのほうだ」 「裕美が、気にいったみたいだな」 「とても面白かった。裕美は優しい。ここに泊まる日本人の女性をみてきたが、いままで会ったなかでいちばん綺麗で素敵だった。竜司、結婚するなら、裕美みたいな優しい女がいちばんだ」 「ハッサム。いい意見だった。参考にするよ。それに今日は、希望がかなってよかったな」 「そうなんだ。その礼をいいたかった。いままで、旅をする女性しかみたことがなかったから誤解したみたいだ。旅人だったんだな。今日はいい勉強になった。日本の女性は、ほんとうに素敵だ」とハッサムはいった。 彼が部屋をでていこうとしたとき、竜司はよびとめてたずねた。 「ハッサム。おまえのジャートは、なんなんだ」 「おれの氏姓か。そんなこと、なぜ急に聞くのか」 彼は、不審気にいった。 「気まぐれだ。あらためて、聞かれたらなんと答える」 「おれは、ウエルカムの跡とりだ。それしかない」 「なぜ、イスラムだと答えない」 「みれば分かることだ」 「ジャートを聞いたとき、男がバラモンと答えたらどう思うか。知らない者に」 「バラモンなんだろうと思う」 「そうではないと、考えないか」 「そういうばあいもある。しかし、旅をするおまえたちとは、基本的に違う」 「なにがだ」 「ベナレスで、住んでいる者に嘘をついても仕方がない」 「デリーで、知らない人にいわれたら、どうだ」 「バラモンだろうと考える。そうは、思わないこともある」 「おまえは、どこで、それを見分ける」 「その必要はない。どちらでもいい。金持ちではないと知れば、充分だろう」 「なぜ、財産がないと分かる」 「金持ちだったら、まずそういうだろう。どちらであっても、おれとは関係がないから、そんな状況は、問いにも答えにもならない」とハッサムは答えた。 三、ナンディー つぎの日の朝、竜司は八時半にホテルをでてリクシャーでBHUにいった。美術館がひらくのを待って館内に入り、どれもこれもが素晴らしい細密画がかかるギャラリーにいた。 「九時に、そこで」 昨夜、一〇時ごろにホテルに裕美から電話があった。別れたときとは打って変わった、元気そうな声が聞こえた。 「竜司がもとめている、ヒンドゥーの、教養のある、若い女の子を紹介してあげるわ」 開館直後のひろい常設のギャラリーには、だれひとりいなかった。竜司は、いちばん好きなシヴァ神の妻、ドゥルガーの絵をじっとながめていた。彼女はトラにまたがり、両手には鋭い剣をもち、頭に冠をかぶっていた。パステルだったが、素晴らしいタッチだった。 シヴァには、三人の妻がいる。パールヴァティーは、清らかで美しく女の優しさを示している。シヴァの最初の妻、サティーが転生したもっとも人気のある女神だ。カーリーは、「時間」とか「黒色」を意味し、女の怖さを示している。顔は青黒い色でぬられ、手には髑髏や生首をもつ。血や殺戮を好み、嫉妬や復讐心、老いをあらわし、みるたびに悲しい思いがした。ドゥルガーは、「ちかよりがたい者」という意味で、竜司がいちばん気にいるシヴァの妻だった。優美で激しく、一〇本以上の腕があり、そのひとつひとつにさまざまな武器をもって敵と戦っていた。きっと、母の姿なのだろう。 ドゥルガーをじっとみつめていると、背後から「竜司」という裕美の声がした。振りかえって言葉をうしなった。オレンジのサリーをつけた裕美は、鮮やかな青い布をまとった女の子をつれていた。 「ドゥルガーが好きなの」とヒンドゥーの女性はいった。 「日本語を話すの」 竜司は、驚いて聞いた。 「普通の会話、くらいわね。裕美と話すときは、日本語よ。だれも知らない言葉は、便利なことも多いわ」 その女の子は、笑いながらいった。 竜司は一歩さがって、ラピスラズリの群青ともよべるサリーをまとう若いインドの女性とならびながら、 「ドゥルガーが、いちばん好きだ。パールヴァティーは退屈そうだし、カーリーは可愛そうで、みていられない。ドゥルガーは違うね。力でせまってくる。描かれ方にもうごきがあるし、理知的で心につめよる美しさをもっている」 竜司は、いった。 「まるで、君だね」 青いサリーに身をつつんだ娘をじっとみつめていった。 女性は、竜司の言葉に、おかしそうに笑った。彼があまりにも真剣な表情だったからだろうか。 「この絵は、印象派の影響をうけているのよ」と若い女はいった。 「そうなの」 そんな言葉をまったく予期していなかった竜司は、心の底から驚いた。柔らかな笑顔で彼をみつめる女性をもう一度みて、そして生唾を飲みこんだ。 「考えてもみなかったけど、きっとそうだね。西洋の分類でいけば、モチーフは新古典派だね。奥に秘めた情熱は、ロマン派だ。画家でいうなら、ドラクロワに似ている」 「そうね。アングルよりは、ロマン派ね」 「ドラクロワは、好きかい」 「アングルは、形にとらわれすぎてるわ」 「ダビッドは、職人というか、マニエリズムで教科書だね。なんでも、こうかけばよろしいって感じで、どの作品も、マルか、バツか、すぐに採点してしまう」 「アングルは、ダビッド後の新古典の領袖だから、どんなに異国情緒をかもしだしても描写は美しいけれど、描かれる人たちは感情が抑制されて静物画みたいだわ」 「躍動感がないよね。理性よりも感性を重視したのがロマン派だね。デッサンという輪郭より、色彩をとった。古代の秩序にたいして、近代の情念の勝利を主張したのがロマン派だよ。感動しながら描く孤高のドラクロワは、ひとつの時代をきずいている」 「新古典主義は、あかるくて、落ちついて上品よ。秩序だっているし、友愛に満ちて、時代を支配している。ロマン派とは対照的で、アングルとドラクロワは、産業革命とフランス革命をへた、ナポレオン後のフランス絵画を代表する二大巨匠だわ」 「ロマン主義の、ロマンて、なんだと思う」 竜司は、真っ青なサリーを眩しく感じながら、日本語を話すヒンドゥーの女性をじっとみつめていった。 「そうね」 彼女はすこし考えて、 「もともとの言葉は、英語で、フランス語ではロマネスク、ドイツ語ではロマニッシュになるかしら。いまは、フランスでもロマンチックという単語はあるけれど、ひと言でいえば、病気かしらね」と話して微笑みを浮かべた。 それを聞いて竜司も笑った。 「そうだね。素晴らしい答えで驚いたよ。でも肩をもっていえば、病気よりも狂気かな。非論理的であらあらしく、破壊や破滅、それに残酷や廃墟が好きで、まるでシヴァみたいだね」 「ああ。それ、面白いわね。その表現、凄く気にいったわ」 女性は感嘆し、竜司をみつめて嬉しそうな顔をした。 「いままで考えてもみなかったけれど、新古典派って、ヴィシュヌみたいだわ」 そう呟いて、じっと竜司の目をみつめた。青い瞳は、彼を正視していた。彼女が自分のすべてに自信をもっているのが分かった。 「気位の高い女なんだろう」と竜司は思った。 心臓が高鳴るのを覚えながら、美しいドゥルガーをみつめ、言葉をついだ。 「ヴィシュヌとシヴァは、対照的だよね。シヴァ神は、あんなにあらあらしくて人間のことなんかなんとも思っていないみたいにみえるけど、なんで人気があるんだろう」 「ヴィシュヌが、バラモンの神だからよ。もちろんブラーフマンはいるし、それこそ彼らが礼拝しているわ。ヴィシュヌは、世界を維持するわけだから、そのためには秩序が必要よ。あかるく論理的でなければならないわ。人にも優しいし、熱烈に愛する者たちのバクティには、現世利益もあたえてくれる」 「シヴァは、民衆の神なんだろう。滅茶苦茶なことをするけれど、どうして人気があるのかな。インドの大衆も、ロマンをもとめているんだろうか」 「あなたのいう通り、非論理的なところがシヴァの魅力だわ。だれにも媚びないし、いうことも聞かない。あなた、ヴィシュヌとシヴァが、結婚した話は知っている」 「聞いたことがあるよ。そこでも、シヴァは男だったみたいだね」 「ヴィシュヌは女性になって、シヴァ神を誘惑したのよ。それで息子をうんだわ。だからこの二神は、どこまでも対等なのよ」 彼女は、大きく笑った。 「パールヴァティーは、献身的すぎるわ。カーリーではふたりがいっしょで、度をこして暗いわ。ドゥルガーが、いちばん均衡をたもてるわね」 「ギリシア神話では、ディオニュソスも、ヘラクレスも、インドにきたことになっているね。シヴァは、ディオニュソス神に間違いないね。ヴィシュヌは、ヘラクレスではなくアポロだったんだね。あかるくて、いつも人間によりそい、秩序と節制をすすめ、竪琴をひく音楽の神で、競技の勝利者には月桂樹の葉でつくった冠をあたえ、デルポイの信託所には、汝自身を知れ、とかかげている。君は、どちらが好きなの」 「ヴィシュヌよりは、シヴァのほうが魅力的ね。ドラクロワは、たしかにシヴァ神に似ているわね。結局、結婚もしなかった。画壇ではいつも孤立し、それでもアカデミーに憧れて入りたくて仕方がなかったわ。したわれもせず、弟子も育てず、タレーランがいなかったら、どうなっていたのかしらね」 「ドラクロワは、彼の息子であるのを生涯にわたって知らなかったといわれるのね。信じられない話だよね。あれほど想像力のある人が、自分の出生に無頓着だったなんて、考えられないよ。日記に、なにがかかれているのか知らないけれど、どういう根拠で通説になったのか理解できないね。アングルもドラクロワも、どちらも素晴らしく、最高の水準に到達したのは間違いがないね。あとは鑑賞するがわの問題で、趣味とか立場とか、そうしたものの違いなんだろうね。ぼくらからみると、ドラクロワは満点ということになるね。主題にたいしても貪欲で、充分に情熱的だし」 「そうね。ドラクロワは、もっと激情的だわ。それを一生懸命、おさえている。ほんとうは野獣なのに。飛びかかって食べてしまおうと、いつも狙っているのに」 竜司をみつめながらいうと、女はおかしそうにまた笑った。 綺麗な白い歯ならびがみえた。青いサリーをきて、碧い瞳だった。ながい髪は中央から分けられ、肩よりもずっとしたの、腕のちかくまであった。鼻は高く、顔立ちは彫りがふかくて、目は切れ長だった。竜司はめまいを感じた。こうして日本語を話す若い女は、たぶんベナレス一の美人だろう。ながい旅をしてきて、こんなに美しい女性は、ボンベイでも、デリーでもみた覚えがなかった。 「あなたのことは、知っているわ」と女はいった。 「何度も、ゴドリアで会っているものね。このまえのフェスティバルの夜は、じっくりみつめあったわよね」 女は、おかしそうに笑った。 「知りあいなの」と裕美がいぶかしげに聞いた。 「いや」 竜司は、頭を振って裕美をみつめた。 「ハッサムのジュリエットだよ」と呟いた。 「ああ。そうだったの」 裕美は、ふかい溜め息をつき、感嘆していった。 「そうね。彼女の家は、ウエルカムの斜向かいだものね」 「なんの話」と女は聞いた。 竜司は話した。 「ナンディーって、よんでもいいかい」 「なんで、私の名前を知っているの」 「君は、ベナレスでいちばんの有名人だよ。ぼくみたいな旅行者だって、みんなが知っているくらいの。一度君に出会ったら、忘れられる人は、だれもいないよ」 「面白い話ね」 ナンディーは、笑みを浮かべて答えた。 「忘れられないのが、ぼくのほかにもいるんだ。ウエルカムに。ナンディーの家と、斜向かいのホテルだよ。イスラムの若い男がいるだろう」 「あそこには、何人か暮らしているわね」 「あのホテルの跡とりが、君に、恋いこがれているんだ。例の、シンドゥール事件で」 「シンドゥール」 「そうさ。二、三日まえ、ナンディーは緑のサリーをきて、シンドゥールをしていた」 「ああ、あれね」 ナンディーは、こまった顔になって答えた。 「シンドゥール。ナンディー、あれをつけて外出したわけ。どこから、そんなものもってきたの」 裕美が驚いて聞いた。 「お母さんの部屋にいったら、目に入ったのよ。それで、いたずらしてみたの」 「あんたらしいわ。シンドゥールなんて。考えられないわ」 裕美は、ぼうぜんとしていった。 「ウエルカムの跡とりのハッサムが、君のロミオだけれど、ぼくに一度、ジュリエットを紹介したいって、しつこくいうんだ。それでいっしょに、ナンディーが家からでてくるところをみていた。ぼくが泊まっている三階の大きな窓からね。そうしたら、ロミオがとつぜん泣きだしたんだ。ぼくのベッドまで後ずさると、ごんごんたたきながら号泣してさ。シーツまで全部ぬらしてしまった」 ナンディーは、げらげらと笑った。 「冷たい夜だったわけね」 「そんなものじゃないよ。もう、とてもつかえないよ。鼻汁までついているんだ」 ナンディーは、げらげらと笑った。健康そうな白い歯だった。湿った、しっとりとした肌だった。 「怒られたわ。父は、本気だったわ。今度あんなことしたら、BHUにもいかしてやらないって」 ナンディーは、おかしそうにいった。 素晴らしい美貌だった。若くて、理知的で、まるでドゥルガーがそのまま絵からぬけでてきたみたいだった。三人で図書館にいって美術全集をみようということになり、ギャラリーをでた。 外は日盛りで、つよい光線がさしていた。先を歩くナンディーの截然とした青いサリーと、裕美の鮮烈なオレンジのながい布は、強烈な光のなかで浮かびあがりながら、たがいにひきたてあっていた。橙は、原色の赤と黄色からつくられる第一次混合色だから、パレット上で青とまぜあわせれば黒くなる。となりあってならぶふたりの鮮やかな色は、分割されたまま、輝きのなかでさらに明度があがっていた。たがいに力をおよぼしあい、輪郭があやふやに変わり震えて、色彩だけが凄烈に輝いてみえた。光彩は、客観的で普遍的な世界から、主観的で個人的なものに変化し、青とオレンジは、一瞬にして姿を変える文字どおりの印象になっていた。 BHUの図書館にいって、大型の画集をだしていっしょにみた。アングルとドラクロワ、それに、セザンヌ、どれもが素晴らしかった。 「ゴーギャンは、違うわね。彼は、まったくべつの、独特の世界に住んでいるわ」 ナンディーはいった。 さまざまな話をした。絵画や文学について。さまざまの作家のいろいろな作品について、思う存分の話を。楽しい会話を。 「プラトンの理想の社会は、インドに似ている」とナンディーはいった。 「あそこにも、はっきりとしたジャートがある」 「なんで、分かるの」 「まず、ヒエラルキーが存在する。それに、社会は分断され、分業で成り立ち、個人ではなく全体がもとめられている。だいいち女性が登場しないわ」 「男同士が手をつないでいるのは、イスラムの連中とそっくりだね。君のいう通り、プラトンは理想の国制をスパルタにもとめている。リュクルゴス伝を読むと面白いよね。カースト制度といってもいい、完全に分断された社会があって、王権が絶対的でないところまで、インドに似ているね」 「リュクルゴス伝。だれだったかしら」 ナンディーは、右手の指で額に触れてすこしだまった。 「そうだったわ。なんていったかしら。プルタルコスだったわよね」 竜司をみて笑った。 「スパルタの話は、笑えたわ。あまりにも硬直しすぎて、可愛そうにも思えるわ。ペロポネソス戦争でまけた、アテナイの政治をみて育った若いプラトンは、スパルタの国制が無視できなかったのね。その民主主義は、ソクラテスを告発し、刑死させたのだから。プラトンの時代ですら、真、善、美は、かぎられた人だけにあったのよ。考えてみて、竜司。プラトンの世界は、理論的であかるく、おだやかで善意に満ちている。秩序に支配され、抑制がきいて、いつでも綺麗な論理的な帰結がある」 「ここでは、結論はないの」 竜司は、ナンディーをみつめていった。 「この世が存在するのは、ヴィシュヌが支配するからよ。秩序があるから、ヒンドゥーは結論をもっているわ。なにが正しくて、どうすればいいのか。みんなはじめから最後まで、すべてが決まっているわ。決定しすぎているくらいにね」 「分かるよ。いままで、プラトンとインドの世界が似ているなんて、一度も考えたことがなかった。君のいう通りだろう。自由の度あいがかぎられている。いいのか、悪いのかはべつにして」 「自由という言葉も、ロマン派の思想ね。べつのいい方をすれば、現実逃避とおなじだわ。秩序が支配する世の中にいたたまれず、逃げられるところならどこへでも、どんどん逃避していくわけね。その先が、異国趣味だったり、幻想的な世界だったり、場所はさまざまよ。ここで生きるのは、秩序を大切にしてまもることだから、旅行者のあなたには分からないでしょうね。竜司がシヴァについてどんなに考えても、自由を追いもとめて逃げているかぎり、ジャートは不明だわ。残念なことに、あなたは、どうしたってヒンドゥーにはなれない」 「君のいう通りだと思う。ジャートという言葉はひとつの記号で、シーニュだ。シニフィエとシニフィアンを同時にもっている。日本人のぼくには、どうしても君とおなじには分節できない。それこそ、恣意性のなかにとどまっている」 彼が慎重に言葉をえらんで話すと、ナンディーは大きくうなずいて微笑んだ。 「でもね、竜司。人のなかには、ヴィシュヌもシヴァもいるのよ。私たちの心には、二神がやどっているのよ。バガヴァッドギーターの世界は、人の胸中でこの二柱が争う姿をかきだしているのよ」 「そうか。なぜプラトンが好きなのか、ずっと分からなかった。今日、君と話して、はじめて理解したよ。シヴァ的なロマンと、ヴィシュヌ的なプラトンが、ぼくのなかで両極としてひきあって、相補的に構成されていたんだ」 竜司は、ひどく納得した表情になっていった。 その言葉を聞いて微笑むナンディーは、美しかった。まさに時代を超越して、ドゥルガーと話をしていたのだった。 夢の三時間がたって昼になった。ナンディーは、「帰るわ」っていった。 竜司は、だまって彼女をみつめていた。理由は分からなかったが、涙がでそうだった。すくなくとも目は、うるんでいたに違いなかった。ハッサムの気持ちの、半分くらいは分かった気がした。だまって、ナンディーをみつめていると、 「楽しかったわ。高校時代までに、全部読んだの。図書館の本は、ほとんど目を通したわ。この国では、女は仕事がないの。ある人は、たいへんよ。ずっと、それをしていなくてはならないのよ。私は、ずいぶんと幸せだったわけね。裕美に話しておくわ。時間をとって、また楽しい会話ができるから安心して」とナンディーはいった。 「待っているよ。天使がおりてくるのを。ベナレスに二ヵ月いて、待つことだけは覚えたから」 竜司がいうと、ナンディーはまた笑った。裕美に挨拶すると、帰っていった。 目の前がくらくらした。ナンディーの姿がみえなくなると、図書館の椅子に腰をおろした。非現実的で、すべてが信じられなかった。ぼうぜんとしていた。ナンディーのいったことは、みんな「真実」に思えた。新宿のゴドリアで、哲学の講義を聞いた気がした。 「お気に召したようね。ナンディーは、それこそバラモンの出よ」 裕美は、図書館の窓から彼女が外にでていくのをぼんやりとみながらいった。 「若くて、素敵だわよね。飛んでもない知性があって。だれにもまけない教養をもっていて。絶世の美貌で。でも、ここでどうするのかしら、あの子」 「君のいっていたスーパーレディーって、ナンディーのことだったんだね」 「凄いでしょう。この国には、あんなにすべてをもっている人が実際にいるのよ。はじめて彼女に出会ったとき、自分に絶望したわ。でも、すぐ分かったわ。競争する相手じゃないって。だれも競うことなんかできない、特別な存在というものが、この世にはほんとうにいるのよ。私がおとっているのじゃなくって。ある意味では、神さまみたいな存在が」 裕美は、両腕をくんで途切れとぎれにぼんやりといった。 「きっと、たいへんだね」 「ナンディーのおじいさんは、ガンジーとともに独立闘争を戦ったのよ。大英帝国と。だから、ナンディーはBHUにこれたのよ。この国では女性が大学にいき、本を読むなんて、だれも必要だとは思っていないわ」 それからふたりで、学生食堂にいって食事をした。学食はいくつもあるらしいが、俊和といった場所がいちばん大きかった。 「ここには、以前きた」と竜司は裕美に話して、油虫入りのプーリーの話をした。 それを聞くと、彼女はげらげらと笑った。 「馬鹿ね。そんなもの、インド人だって食べないわよ」 「そうだったのか」と竜司はいった。 裕美は、彼をみつめて口をひらいた。 「ナンディーがあんなに快活に話すのを、みたのははじめてだわ。あなたのことが気にいったのよ。ナンディーは自由だから、嫌なものはいやだっていうわ。満足したでしょう。夢がかなって。ボンベイの女子大のまえで、もう一度、うろうろしないですんでよかったわね」 「ありがとう、裕美。とても満足している。でも、なにも聞いていない。あの子がこの社会をどう思っているのか、不充分だ」 「話していたわ。あれがすべてよ。あれ以上は無理よ。あれが言葉の限界だわ」 裕美のいう通りだ、と竜司は思った。あれが「言葉」の限界だ。ナンディーは、女性の問題についても話していた。 「またねって、いっていたじゃない。話す機会は、あるかもね。あとは、ナンディーの気持ちひとつね。午後の授業があるから」 裕美は、食堂で別れた。 BHUのなかをあてもなくぶらぶらと散策し、もう一度図書館にいった。三人で話題にした美術全集をとりだし、ナンディーがすわった椅子に腰をかけて、ドラクロワの画集をみた。ほとんど処女作ともいっていい「ダンテの小舟」も、頭巾の赤と着衣の緑が、補色でありながら隣接し、それでいて赤色は鮮やかでなんの違和感もない。彼は、登場したときから、色彩の魔術師だったのだ。「サルダナパールの死」は、インド的だとナンディーはいった。「どんなマハラジャでも、こんな立派なベッドはもっていない」と彼女は感想を述べた。「激怒のメディア」はカーリー、「オフィーリアの死」はパールヴァティーで一致した。 ふたりでドゥルガーをさがした。いくつか候補があった。「ミソロンギの廃墟に立つ瀕死のギリシア」は、バイロンをふかく愛したドラクロワが、彼の死をいたんで描いた作品だった。中央にいる女性は、雰囲気はいいが、ドゥルガーとは違っていた。バイロンは「ミネルヴァの呪い」をかいて、ギリシアを救おうとした。中央に立つ女性は、女神アテナに違いなかった。「民衆を導く自由の女神」も違う。ドゥルガーは、人びとを指導することはない。それっでもやはり、ドラクロワは、女神を描いていた。 閨秀「ジョルジュ・サンドの肖像」こそ、ドゥルガーに違いなかった。「フレデリック・ショパン」は、恋に疲れ果てた天才の姿だった。この二枚がいっしょになっていれば、もっと違ってみえただろうに、心ない人がいると思った。 「クレオパトラ」はいい素材で、シーザーにせまったときなら、ドゥルガーだったのだろう。しかし、このモチーフでは、そうはならなかった。それでも、面影はいちばん漂っていた。 「失敗作かも知れないね。でも、ドゥルガーは、ベナレスにいる」 竜司は、ナンディーをじっとみつめた。 「それもゴドリアで、運のいいことに、目の前だ」 彼が真剣な表情で話すと、彼女は笑った。 「君を、ドゥルガーとして、小説を執筆してみたい。日本人作家がベナレスを舞台にした物語を創作して、その英訳本をみたら、ぼくがナンディーをかいたんだと思ってもらいたい」と竜司はいった。 「面白い口説き文句ね。私の子供に話しておくわ」 ナンディーは、笑いながら答えた。 しかし彼女は、自分がそうではないと、否定しなかった。ナンディーはそのとき、ドゥルガーであることに気づいたのかも知れない。 竜司は、美術館の大きな常設ギャラリーで、女神の絵をみていた。夕方の四時ころで、人はほとんどいなかった。ぼんやりと夢の一日を考えながら絵をながめていると、「やっぱりここだったのね」という裕美の声が後ろから聞こえた。振りかえると彼女がひとりで、こまっている感じにみえた。 「どうしたの」と彼は聞いた。 「竜司。もう一度ナンディーに会いたい」 「もちろんだよ。話をしてみたい。ずっと話していたいよ。あらゆる話をしてみたいよ。できれば、彼女についても知りたい」 「BHUにのこっていれば、ここか図書館かのどちらかだと思ったわ。図書室にはいなかったから。もう、帰っていればと思ったけれど。仕方がないわよね」 感慨ぶかげに、裕美はいった。 よく分からないが、竜司がBHUにのこっていたのが、こまったことみたいだった。だまっていると、 「ナンディーが、もう一度話をしてもいいっていうのよ。竜司と。どちらかというと、もう一度話をさせて欲しいって」 それは、驚きだった。 「あなたも分かるでしょう。ヒンドゥーの女の子が、そんな興味をもってはいけないってこと。ナンディーが、そういったのよ。気をつけて欲しいの。仲介は、してもいいわ。気をつけて欲しいのよ。ここは、日本ではないという事実を。インドで、ヒンドゥーの聖地ベナレスだってことをね」 裕美がなにをいいたいのかは、よく分かった。ここには、ジャートがある。もちろんBHUは大学で、自由でひらかれている。しかし、それには、かぎりがある。インドのベナレスの大学だし、ナンディーはヒンドゥーで、竜司はブッディストだ。彼女はここに住み、彼は旅人だ。あらゆるジャートが違って、かさなっている部分がみあたらない。氏姓がおなじでなければ、通じあうものはひとつもない。 「分かるよ。裕美がいいたいことは、充分に。旅行者が話をできる、そんな機会なんてない。今日は驚いたんだ。裕美が、ほんとうにナンディーを紹介してくれたことをね。信じられない気分だった。そのうえ、ナンディーがアウトカーストのぼくを会話の相手にしてくれた。夢、いまでもそうだ」と竜司は答えた。 また、沈黙だ。裕美には、整理をする時間が必要だった。自分の状況や、いまというとき、ガンガーのながれや風のうごきなどを。 「五時半に家にきて。私の部屋よ。人目があるから、もうこれ以上、外では会えないわ」と裕美はいった。 「部屋は、あけておくから入っていて。五時半にナンディーといっしょに帰るから、そのまえにいて頂戴。昨日きた私の部屋、ひとりでこれる」 「分かる。あの家の正面にクスリ屋があった。となりはタバコ屋だし、よく分かる」 裕美は、だまって考えていた。 「そうしましょう。五時半にナンディーと帰るから、そのまえに部屋にいて頂戴。分かっているわね。ナンディーは、ほかの子と違うのよ。なににでも興味をもっているわ。普通のヒンドゥーの女性ではないのよ。あんなに教養のある若い女の子は、日本にだって、いないでしょう。それは、よく分かったでしょう」 裕美は、くりかえしていった。 「特別だっていうことは、理解している。充分にね。ぼくみたいな旅行者に興味をもつことが、もう特別だって、よく分かっている。相手はブッディストだ。ジャートが違うものに、興味をもたないのが普通だ」 「ナンディーは、自由だわ。でも、そうなりたいって思っているだけよ。あの子は、馬鹿ではない。あなたがみた通り聡明よ。自由になれないことも、よく知っている。でも、若い女の子よ」 「やめたほうがいいのか」と聞けばよかったのだろう。 すくなくとも裕美は、その言葉を待っていた。もう一度、会いたかった。ナンディーのそばにいたかった。彼女のまわりの空気をすいたかった。その吐息を感じたかった。 「五時半まえに、裕美の部屋にいっているよ」 すこし間があって、竜司はぽつりと答えた。 「分かったわ。ナンディーにつたえてくるわ。それじゃあね」 裕美は、美術館をでていった。彼女のいう通りだった。裕美の言葉は、みんな正しかったろう。ナンディーが、どんな女性なのか分かった。三時間の会話はすべてを教えてくれていた。このうえ、なにが知りたいのだ。聞くべきことは、したではないか。素晴らしい知性であるのは分かった。およそ人がもてる、あらゆるものをもっていることも理解できた。 「危険だ」という裕美は正しかった。プラトンのためなら、死んでもいい気がした。BHUの帰り道、レストランでチャイを飲んだ。 「どうなるんだろう」 興奮で心が震えていた。数多の不安が漂い、自分でも整理がつかないものばかりだった。ナンディーの意志もはっきりとは分からなかったし、通りをみながら考えごとをすると五時になっていた。 人目をさけてふるぼけた木造の家の扉をあけ、内がわに入って戸をしめた。目の前に色あせた高い階段があった。昨晩、一度あがって帰ってきたはずの場所だったが、こんなにも暗く、これほど急だったのだろうか。とつぜん階段が立ちあがり、垂直になり、身体のうえにたおれてくる気がした。息が乱れていたが、音を立てるのに注意して静かにあがっていった。階段は、ギシギシと大きな悲鳴をあげ、足はその声に震えた。扉のまえにいた。色あせたうすい一枚の板だった。生唾を飲みこみ、ノブをつかんで押すと、きしんだ音がして彼は女の部屋にいた。 竜司は、座卓のうえに位置する裸の電球をひねって、あかりを点した。八畳くらいの居間があり、道に面した窓がわの右にベッドがおかれ、ふかい赤色のベッドカバーがかけてあった。綺麗に掃除がいきとどいた部屋の左に、本が無防備につまれていた。窓の反対がわに小さなキッチンがあり、トイレとシャワー室がついて、すみには冷蔵庫が配置されていた。床には真っ赤なカーペットがしかれ、黒色のまるい座卓が中央におかれていた。時計をみると、五時一五分をさしていた。湿った感じの女の部屋で、竜司はひとりで待っていた。 まえにも、こんなことがあった気がした。 マルカルニカーのガートから、水墨画で描かれた夜のガンガーをながめたとき。真利子の家のベランダから、投網をする痩せた漁師をみた時。ウエルカムの部屋の窓から、夜のスコールをながめたとき。立ち往生する、車の黄色いライトに照らされたリクシャーが、紫色に輝きながらゴドリアの街を走りぬける時。 いつも、ひとりでみつめる、自分をながめる竜司がいた。 ながくて、あっという間の一五分がたって約束の五時半になるころ、階下で物音がした。竜司は座卓のまえにすわっていたが、階段をあがってくる足音が聞こえると、思わず立ちあがった。頭がぼうっとして血の気がうせ、目の前が暗くなった。木製の扉が音を立てながらひらいて、まず裕美が入ってきて、それから赤いサリーのナンディーが姿をあらわした。 「また、会えるなんて夢みたいだ」 嗄れた声で、竜司はいった。 「待ったの」と、ナンディーが答えた。 「時間なんて、すぐに忘れてしまう。君と会って、なにを話そうかと思っただけで」 それで、三人で話をした。主に竜司の旅についてだった。 インドじゅうをさ迷った末、ウエルカムで真黄色の俊和と会って、ガートの地図の使命をひきついだ。苦労して図面をつくり、完成間近になっている。俊和とふたりで、あてもなくBHUを歩いた。ボンベイで、女子大にいってみた。ヒンドゥーの女の子と話がしたくて、炎天下、汗をだらだらながしながら、うろうろとさ迷っていた。 ナンディーは、おかしそうに笑って聞いていた。綺麗な歯ならびをしていた。 こうした女性を「傾国」というのだろう。ヒンドゥーに、改宗してもいいくらいだ。竜司は、ナンディーの笑みをみて思った。 ひとしきり話すと、裕美が「じゃー。買ってくるわね」ととつぜんいって席をはずし、扉をあけて外にでていった。階段をおりる音がして、部屋にはふたりがのこされた。 「とっても綺麗だ。ナンディー。赤いサリーは、またよく似あう」 竜司は、いった。 「この赤は、私の心よ」と彼女は答えた。 「こころ」 竜司は、その言葉をくりかえした。 「そう。赤はそういう意味よ。赤色は情熱、緑色は平和」 ナンディーは、ゆっくりいった。 「赤と緑で、人間の恐ろしい情念をすべて表現したいといった画家がいたね。君の赤色は、激情的で、まるでドゥルガー女神だね」 「私がドゥルガーなら、あなたはシヴァね。シヴァ神は、神々のあいだにも、友だちをもっていない。人間を愛することもないし、悪魔的な怒りによって震えあがらせ、病気と災害をつかって殺害する。予測不能で、危険な神だわ」 「いまは、シヴァよりも、ハヌマンになりたい」 「なあに、それ。ラーマの」 ナンディーは、真剣な表情で、不思議そうに聞いた。 「そうだ。そのハヌマンだ。あけられるものなら、いまここで、ぼくの胸をひらいて、君にみせてあげたい」 それで、ふたりはだまった。竜司は、思わずナンディーの右の腕をつかんだ。それは微かに震えていて、信じられないほど愛くるしく、この世のものとは思えなかった。竜司は唾を飲みこんだ。ナンディーは、彼の腕をつよい力でにぎりかえした。竜司は彼女の震えている肩を抱き、瞳をみた。美しかった。そんな気がしたが、もうなにも覚えていない。 ナンディーのすべすべとした彫りのふかい、どこか哀愁に満ちた素顔が竜司の目の前にあり、その瞳が真剣な表情で彼をみつめていた。もうすべては決まっていた。とめる者もなく、神さまにだってできない。ナンディーの吐息が聞け、甘い香りをかげるのだ。彼女が大きな瞳を閉じたとき、竜司ができることは、たったひとつだけだった。柔らかい舌を感じた。ゆっくりと、それでいてつよく激しくうごき、芳しい甘露で満たされていた。永遠につづいて欲しかった。このまま、たとえ、「死」がとうとつにおとずれても、悔いはなかった。ずっとこうしていたかった。 ドアがノックされる音がした。竜司が気がつくと裕美がぼうぜんと立ちつくしていた。彼女はみんな知っていた。 「口紅がついているわよ」とボソッと裕美はいった。 ナンディーが、「帰るわ」って口をひらいた。 「それじゃね。気をつけて」と裕美はいった。 ナンディーは、立ちあがって竜司をみた。言葉はなにもなかったが、瞳は「またね」っていっていた。ナンディーはひとりで部屋をでていき、階段がきしむ音がひびいた。 「あなた、どういうつもりなの」 裕美は、つよい語調でいった。 「ヒンドゥーにとって、男のとなりにすわることがどんなに特別なのか、知らないわけじゃないのでしょう。手をにぎるなんて、セックスしたのとおなじだわ。口づけなんて、結婚よ」 その通りだ。竜司だって知っている。 「ナンディーは、憧れていただけよ。自由という幻想に。そこに、その塊みたいな、あなたが登場しただけよ。あの子が恋していたのは、フリーダムよ。竜司じゃない。なんで、こんなことをするの。あなたは七つも年上で、いくらかの教養をひけらかし、信じられないわ。傍若無人だわ。あなたは、いつも自分勝手で、節度をこえているわ」 裕美は、ほんとうに怒っていた。彼女がいったことは、みんな正しい気がした。 ナンディーが、なにを竜司にもとめていたのか知らない。どんなに考えたって、分からない気がした。竜司の「自由」だったのか、ナンディーにはもつことのできない「放浪」だったのか。おなじジャートがないのに。神さまは、竜司に機会をあたえてくれた。するべきではないのに、分かっていたのに抗することができなかった。自分の行為には責任がある。逃れるつもりはない。そうとしか、いえなかった。裕美にいくら話しても、分かってはくれないだろう。もしかしたら、理解するかも知れない。それでも、分かってはくれないだろう。 「もう、私には手をだせないわ。ここに、いられなくなる」 「そうだね」 「ナンディーが、一〇分でいいからふたりだけにして欲しいっていったのよ。だから、そうよね。全部が、あなたのせいじゃないわ。私が、ナンディーの希望をかなえたのだから。こうなることも知っていたのに。なぜ、そんな願いを聞いたのかしら。だれの幸せにもならないと、私は知っていたのに」 裕美と話しあうことは、数多くある気がした。それは、俊和が最後に竜司に話した、心の奥にしまっておいた話だ。男と女がそんなことを語りはじめたら、おたがいに傷つくだけだろう。 「迷惑をかけたね」と竜司はいった。 「ほんとうに、心から感謝している。ナンディーは、自由に憧れたんだと思う。君のいう通りだ。気ままに、なんでもできる、ぼくの放浪に憧れたんだと思う。とるに足らない教養を餌に、若いナンディーをつってしまった。君のいう通りだ。なにも知らないヒンドゥーを、穢してしまった」 竜司は、ゆっくりといった。 「夢物語だ。いまでも、夢をみている感じだ。裕美、ひとつだけ分かって欲しい。これは、プラトンなんだ。手をにぎり、唇に触れてしまった。でも、ナンディーとこの場でセックスをしても、プラトンなんだ」と竜司はいった。 「たしかに手をにぎりしめ、口づけしたくらいでは、日本では、プラトニックの域をでていないでしょうね。でも、ここはインドよ。それも、聖地ベナレスよ」と裕美はいった。 「そうじゃない。ぼくのいいたいのはそういうことじゃない。場所も時間も、無関係だ。肉体なんか、まったく関係ない」 「詭弁だわ」 言葉はなく、ふたりのあいだを静かなときがながれていた。 「そう、詭弁だな」と竜司はいった。 分かってもらえないことはある。説明しても、無駄だ。理解しても、もらえなくなる、竜司は思った。潮時だ。 「ほんとうに、迷惑をかけたね。たいへん申しわけない。とても感謝している。どう表現していいか、分からないほど。これでもう、君とも会えない」 また、沈黙があった。 「そうね、お別れね」 裕美は考えたあとで、自分に言い聞かせる感じでいった。その表情はとても寂しそうにみえた。 「ありがとう。心から感謝している」 「分かっているわ」 裕美の部屋をでた。竜司が、きしむ階段が音を立てないように気をつけて、ゆっくりとおりていくと、 「あっ、待って」と背後から彼女が声をかけた。 「いい忘れたわ。私もさっき知ったのだけれど、真利子が死んだわ」 声は、震えていた。 「亡くなった」 いぶかしげに、竜司は聞いた。 「そう。死んだらしいわ」 裕美は、右手で頭をおさえた。 竜司は、おりてきた階段をあがって扉までいき、じっと彼女をみつめた。 「どうしたんだろうか」 「分からないわ。自殺だと思うわ」 沈痛な面持ちで裕美はいった。ながい沈黙のあとで、 「それも、ぼくのせいだろうか」と竜司は静かに聞いた。 わずかにひらかれたドアの隙間から、部屋の光が弱々しくもれていた。 「違うわ、あなたのせいじゃない。今度のことも、竜司の責任じゃない。あんなに責めて、悪かったわ」 そう裕美はいうと、涙が頬をつたいはじめた。 「分かっているのよ。あなたは、正直で真面目で、ずるくないわ。だからって、すべてがいいとはいえないわ。正直にみせるずるさだって、人同士には必要なことなのよ。それができない、あなたが嫌いではないのよ。なんていったら、いいのか。分かってくれるかしら」 彼女は、泣きながら聞いた。 「裕美」 竜司は、小さく囁いて、彼女の肩を抱いた。裕美は、彼の胸に顔を埋めた。 「悪かった。裕美。許して欲しい」と竜司はいった。 裕美は、泣きつづけていた。ひとしきりむせび泣き、聞いた。 「みんながいってしまう。私がここにきた選択は、これでよかったってあなたは思う」 彼の目からも、涙がこぼれていた。 「分からない。いいとか悪いとか、いま、理解できることではない気がする」 「竜司」 裕美は、彼の胸をもう一度つよくだきしめ、じっとそうしていた。 「寂しくなるね」と竜司はいった。 「仕方がないわ。私がえらんで、ここにきたのだから」 「元気でね」 「あなたもね。もう、二度と会えないわね」 「きっと、そうだね」 「さようなら」 裕美は、そういって彼をみつめた。 竜司は大きくうなずいて、階段をまたゆっくり通りていった。 ドアがしまる、扉のきしむ音がした。「カシャ」という鍵のかかる音響が聞こえた。 四、リルケ ウエルカムの自分の部屋から、ゴドリアをながめていた。八時すぎだったが、多くの人びとがうごめいていた。街灯や、立ちならぶホテルの部屋の光に照らしだされ、数多くのリクシャーが道を駆けぬけていた。みんなが無関係に、どこにいくのかも不明に走りぬけていた。半年インドを放浪し、このホテルに二ヵ月以上も滞在し、毎日、窓からゴドリアで起こるさまざまなものをみた。 晴れた日も、雨のときもあった。朝のゴドリアも、みた。昼も、夜も、真夜中の四つ角もながめた。巡礼者もみたし、旅行者も、サドゥーも、乞食も、この街の住人たちもみていた。ヒンドゥーも、イスラムも、ゾロアスターも、シークも、仏教徒もいた。男もいたし、女も歩いていた。それが、なんだったのだろう。北がわの斜向かいにイースティンホテルがみえた。そこはやはり三階だてで、ゴドリアに面してふたつの窓が映っていた。不意にひらいて、ナンディーが顔をみせてくれる気がして、じっとみていた。 ふたつのことを、思ったみたいだった。 ひとつは、ハッサムについて。彼は、いつでもこうしてイースティンをながめていた。なにを考えて、みていたのだろう。たった一本の道路をへだてただけの、こんなにちかくにあるのに、いまは絶望的な距離に思えた。裕美と話して、インド版のロミオとジュリエットの、どうしようもない恋愛映画を馬鹿にしたけれど、この国の人たちは、日本人とは違った感覚でみていたのだろう。そんなことだった。 もうひとつは、なぜ掟をやぶるのだろうか。そんなことだった。ジャートをやぶって、幸せになった者はいない。インディラでさえ、そうだ。この国では、毎日多くの若者が掟に背き、殺されている。死ぬのも分かっているし、逃げられないし、家族や血縁に迷惑がかかるのも充分に承知して、ジャートはやぶられる。マハトマでさえも、氏姓はまもるべきだといった。秩序や歯止めは必要なのだと思うし、そうしたものがなければ、世界はまた混沌へもどってしまうだろう。神さまが登場し、混乱を整理してくれて、私たちの世の中がある。全部分かっている。背いた若者たちも、みんな知っていた。しかし、ジャートはやぶられた。 プラナブのことも考えた。はじめて、彼の心も分かる気がした。真利子もプラナブを愛していたのだと、いまは確信できた。そうでなかったら、ひとりでインドまでは、こないだろう。たがいに愛しあっていなかったら、ジャートをやぶるはずがない。人がだれかを愛する、そこに理由をもとめることなどできない。 真利子は、死んだ。マルカルニカーでは、火葬もできない。プラナブは、どうするのだろうか。竜司が、最後の扉をあけてしまったのだろうか。切りさいたのだろうか。多くの罪を、犯しつづけているのではないか。さまざまな思いが、竜司の脳裏に浮かび消えていった。 ずっとみつづけていたが、イースティンの窓はひらかなかった。夕食も食べてはいなかったが、外にでて食事をする気持ちにはなれなかった。窓を離れ、俊和のように枕をヘッドボードに立てて半臥位をとった。ベッドに足をなげだし、横になった。じっと天井をみながら、ぼうっと考えていた。そのあいだ、いろいろなことを思ったような気がした。しかし、なにも思いつかなかった。 じっとしていて、ふとみょうな気持ちになった。そのときはじめて、なにかが違うのに気がついた。言葉ではなく、とつぜん襲ってきて通りすぎる一陣の風で、身体のなかを吹きぬけていった。それでまた、じっとしていて気がついた。リルケがいなかった。 この何日か話もしなかったし、彼女をすっかり忘れていた。こんな竜司に愛想をつかして、どこかへいってしまったのだろうか。やはり気になったので、いちおうベッドの下をみたが、そこにもみつけられなかった。シャワー室にも、いなかった。彼氏ができたのだろうか。 そう思って、右のすみにおいてあったリムカをとってひと口飲んだとき、なにかの影がみえた。机をうごかしてみると、そこにリルケがいた。彼女は、もううごいてはいなかった。 竜司は、机を右がわにはこんで、ベッドに腰をかけて、リルケとむかいあってリムカを飲んだ。彼は、同居人をうしなっていた。一ヵ月以上もいっしょにいたのに。彼女は竜司のために、いつも室内を綺麗にしてくれていたのに。もともとがリルケの部屋だったのに、あとからきて同居させてもらって、勝手気ままにすごし、死んだことにも気がつかなかった。彼女の死は、彼の脳裏を埋めつくした。 竜司は、リルケのそばまでいき「どうしたら、いいんだろう」と思った。死んでから、丸一日はたっている感じだった。ルンギでリルケをつつんでみると、一五センチくらいの大きさだった。ホテルをでて、ゴドリアの交差点をまがってダシャーシュワメードにむかった。人の多いガートをみていると可愛そうになって、マルカルニカーにいった。九時をすぎていたので、そこにはだれもいなかった。ガートをおり、足をガンガーに浸してリルケを河にかえした。 竜司は、ここで死者を見送る人びとを毎日みてきた。実際に、自分が葬送するのははじめてだった。血がつながっている気がした。つつんできたルンギをたたんでガートに腰をかけると、河面を吹きぬけてきた風が竜司の頬を優しくうった。彼は、ヴァラディーガートで死体をながれにもどした日、真利子の家に招待された。ベランダからガンガーをながめたときつくった即興の詩を、リルケに手向けることにした。手をあわせ大声で、暗闇の河にむかっていった。 布一枚にくるまって、 妖しく揺れて漂う、ガンガーをながめていると、 ガートをかける足音がして、 少女の叫ぶ声がひびいた。 遠くで女がそれに応え、 そして波の音だけがのこった。 とうとう、 空は一度も晴れなかった。 欄干に肘をつくと、 震えて浮かぶ、漁舟の影が頼りなくみえた。 なぜか、二年まえにいった、 母を思った。 今日のガンガーは、悲しすぎる。 そして、リルケはながれていった。ガンガーはゆったりと彼女を抱き、つつみこんだ。 竜司は、その様子をじっとながめていた。 「この国には、人がうまれた分に応じて果たすべき三つの義務がある。まずは、社会的義務のダルマ。つぎに、経済的利益を追求するアルタ。最後に、直接的な快楽を望むカーマだ。しかし、無闇にこれらを追いもとめてはならない。アルタは、ダルマに従属し、こえてはいけない。カーマは、序列がいちばん下だ。ダルマにも、アルタにも、劣位になる。だから、配慮が必要なるのだろう」と俊和はいった。 世界秩序への連帯を意味するダルマが、もっとも高位にあるのは納得できる。自分がうまれてきた社会的義務とは、道徳を遵守することだろう。さらに倫理とは、父権的な、すでにつくられた既存の権力への服従を意味する。この秩序の維持、ヴィシュヌの精神こそが、ヒンドゥーの基本なのだ。 どのくらいの時間がたったのだろうか、柔らかい風が頬を撫でていくのを感じて、竜司はわれにかえった。それからもうひとつガートをくだって、行をするアシュラムをみつけ、リルケをつつんできたルンギを寄進した。 手をあわせ、日本語で彼にむかって、 「明日は、ぼくがリルケになるかも知れません。この気持ちを、とめることはできないでしょう。あなたにまもってもらってここまできましたが、ついにもうひとつというところで、地図は完成せず、今度は、ぼくがガンガーをながれる番だと思います。いままで、ありがとうございました」と話した。 そのとき、アシュラムの唇がわずかに揺れてみえた。それからダシャーシュワメードまでもどった。なにか食べようかとも思ったがやはり食欲がなく、リムカだけ買って部屋に帰った。それから厨房にいき、ザリムをみつけ、 「ハッサムに会いたい」といった。 「部屋で待っていてくれ。よんでくる」とザリムは答えた。 ほどなく、竜司の部屋の扉がたたかれ、ハッサムが入ってきた。 「服をかしてくれ」 竜司は、ハッサムをみていった。 「なんのつもりだ」 「おしゃれをしてみたい」 ハッサムとは、背格好がおなじだ。たぶん彼の服は、竜司にぴったりあうはずだった。 「おしゃれか」 「そうだ。おまえが、毎日していることだ。たったひとつの仕事だ」 竜司は、いった。 ハッサムはだまって考えていたが、それから聞いた。 「おしゃれ、ってなんだ」 「だからおまえがしている、たったひとつの仕事だ」 「おしゃれ。dress up というのは、デコレート、装飾するっていうことか」 「違うのか」 「それは、間違いだ。まったく違う。おれが着替えているのは、たしかに仕事だ。でも、その、おしゃれではない」 「では、なんなのだ」 「おれが着替え切れないほどの多くの服を買え、そろえてあるのをみんなに知らしめるためにしていることだ。ジャートの役目だ。これは、おれの仕事なんだ」 なるほど、そういうことだったのか。竜司はそのとき、はじめてハッサムが毎日、着替えをくりかえす意味が分かった。 「では、かしてくれないのか」 「それとこれとはべつだ。かすのはかまわない。好きなものをきろ」 ハッサムは、竜司の部屋をでていき、いくらもたたないうちに一〇数着の服をかかえてもどってきた。 「まだあるが、最近の流行はこうしたものだ」と彼はいった。 これは、みせなければならないだろう。これだけもっているなら、毎日、幾度も着替える必要がある。 「いちばんあたらしいのは、どれだ」と竜司は聞いた。 「こういったものだ」 ハッサムは、二、三をえらんでくれた。 「これを、きてもいいのか」 「かまわない。おまえとは友だちだ。好きなものをきろ」 パリッとした形のいいシャツだった。あわい灰色の地に、うすい青いストライプの入った服だった。ズボンも白っぽかった。裾がひろがって、竜司にぴったりとあった。 「これが、最新の流行なのか」と彼は聞いた。 「いちばんあたらしいやつだ。ベナレスでも、だれももっていない。おまえは、おれと間違えられるかも知れない」とハッサムはいった。 「そんなものなのか。おまえの友だちは、みんな、服をみているのか」と竜司は不審気に聞いた。 「半々だ。どっちもおなじく大切だ」 ハッサムはそう答えた。 「ところで」と竜司は真面目な顔で彼にたずねた。 「おれが死んだら、可愛そうだと思ってくれるか」 「なんで、そんな話をする」 「おれだって、急に死ぬかも知れない。そのときこの服をきていたらどうしようか。ハッサムは、こまるだろうな」 「服は、やってもいい。おまえは、簡単には死なないだろう。それはよく知っている」 ハッサムは、自信ありげにうなずきながらいった。 「服は、ただでくれるのか」 竜司は、聞いた。 「おまえとは、友だちだ。なにかのときには、助けになる。服くらいは、やってもいい。衣服には、かわりがある。おまえの代役はいない」 「そうか、気前がいいんだな。イスラムはもっとケチかと思った」 「相手による。なんでもそうだ」 「何事でも、そうなのか」 「そうだ。なんでも相手によるんだ」とハッサムはいった。 五、ベナレス 翌朝、七時ごろだった。部屋の扉がノックされ、ザリムの声がした。「いいよ」と答えると、「玄関に、会いたいとサドゥーがきている」といった。 竜司は、いぶかしげな気持ちでベッドから起きあがり、ロビーまでおりていった。そこには、ぼさぼさの髪をした、痩せた五〇歳くらいの、みたこともない男が立っていた。下半身には白っぽいルンギを巻きつけていた。上半身は裸で、左の肩から右の腰にむかって聖紐をかけていた。男は竜司をみて、「話がある。すぐに終わるが、おまえの部屋にいってもいいか」と聞いた。 男は、本物のサドゥーだった。服は幾分か汚れていたが、物乞いにはみえなかったし、しっかりとした英語を話したので、竜司は用件を玄関で聞くこともなく、自分の部屋にむかえいれた。 「アシュラムからの伝言がある」と男はいった。 「なんだって。行をしているアシュラムが、なにかをいったのか」 「そうだ」 「アシュラムは、なにも話さないのではないのか」 「そうだ。でも言葉は、私の心にひびいてくる。グルは、おまえにいっている。自分の行為によって、なにかをえようと考えてはいけない。この世において、果たすべき義務をしろとつげている。とき、とともに生きることを運命づけられた人が、そのなかに埋もれてしまえば、地獄に落ちるといっている。永遠と一瞬を、おなじにみてはいけない。歴史をこえて永劫にいたる方法を、なんとかしてみつけなければならない。そのためには、心の平静をたもち、感覚を制御する必要がある」 男は、すこし考える仕草になって話をやめ、またつづけた。 「グルは、おまえを心配している。この世にある一切のものは、知恵をうしなった無明の者が勝手につくりあげた幻影、マーヤーなのだ。以前にも、おまえの友だちにおなじことを話したと、グルはつげている」 だまって聞く竜司をみて、いった。 「私は自分の仕事を終えた。だからこれで帰る」 男は、彼の部屋をあとにした。 朝の九時に美術館はひらく。それを待ってギャラリーに入った。常設展で特別なものはないから、人はだれもいなかった。竜司がドゥルガーの絵をみていると、背後に足音が聞こえ、振りむくと緑のサリーがみえた。ナンディーだった。彼女は、竜司のそばにきた。とくに化粧もしていなかった。ビンディも、つけていなかった。する必要もなかった。中央で分けられたつやのある、真っすぐな黒い髪の毛が腕まで垂れていた。 「きっと、ここにいると思ったの」 ナンディーがいった。 「必ずきてくれると信じていた」と竜司は答えた。 目をみつめあった。その瞳は、愛に満ちていた。ハッサムが思ったより、ずっと確実なものだった。 「自分で、私が分からない。あなたと会えば、その先に待っているのは数々の掟だわ。どんなに頑張っても、竜司は私をつれだせない。ここに、とどまれもしない。結論は分かっているのよ。悲しいくらいに。でも、過程が分からないのよ」 ナンディーは、真剣に竜司の瞳をみつめていった。 「私は、籠の鳥だわ。綺麗な声で歌うことだけを望まれている。話をしたいの。あなたといっしょに、ガンガーをみてみたい」 ナンディーと肩をならべて美術館をでた。ふたりでリクシャーにのり、彼女は行き先をつげた。自転車は、走りだした。すれ違う多くの人びとが、ふたりをみていた。 雲ひとつない晴れた日で、ナンディーは緑と光につつまれ煌めいていた。すべての緑色が影に、脇役に、補色の赤になって沈みこみ、彼女を輝かしていた。太陽のはなつ、つよい白色光のなかにある七つの色によって、ナンディーの鮮やかな緑は輝きにつつまれ、すでに色彩をうしなっていた。彼女は、ほんのわずかな光の変化で、虹の呈色がさまざまに交錯する、目眩く万華鏡の世界をつくりだした。あかるい緑は、ナンディーひとりのものだった。彼女は、緑色の支配者だった。緑に神さまがいるとしたら、ナンディー以外にはありえなかった。 リクシャーは、石造りの橋についた。ベナレスの街ではもっとも上流にかかる大きな陸橋で、人通りもすくなくはなかった。彼女は周囲の状況など、なにひとつ気にかけていないという風情で、リクシャーにヒンディー語でなにかを話した。運転手は、首を右にかたむけて、どこかに走っていった。橋の中央にいき、ふたりでガンガーをみた。右手に荒涼とした砂丘が延々とひろがり、灌木がポツリポツリと立っていた。左にはベナレスの街があり、ガートが点々とみえた。そのひとつひとつの名前を、竜司はいうことができた。舟が、白い帆に柔らかい風をいっぱいにうけながら河を遡上していた。 「父はね、私を結婚させるつもりなの。相手は二〇歳も年上で、顔もみたこともないの。私は、嫌だっていっているの。まだ断っていないみたい」 ガンガーをみつめながら、ナンディーは話しはじめた。 「ほんとうに、裕美になんて会うのじゃなかったわ。彼女は、素晴らしいわ。理知的で、行動力があって、私は憧れてしまった。ほんとうの姉だと思っているのよ。私は、鳥籠にしばられているだけ。でも、彼女は世界を飛びまわっている。日本語を教えてもらいながら、たった七万の大英帝国にやぶれたインドと、欧米を相手に戦った日本を、私は考えたわ。原爆を落とされ、東京をはじめとする大きな街はすべて焼け野原になったと、本にはかいてあったわ。それなのに、日本は立ちあがり、世界の列強に伍している。あなたの国は、アジアの誇りよ。東洋の民族でありながら、欧米にあれだけの敗北を負ったのに、ものともせずに、力をつけて世界中に進出している」 「一〇億の民をもつインドにもいない、裕美みたいな優れた人たちが、日本にはいっぱい暮らしているんだと思ったわ。そうでなければ、できるはずがないですもの。そんな裕美と結婚する日本の男たちって、どんな人たちなんだろうと、私はずっと考えていたのよ。釣りあいは、どうとるんだろうって。この国の古臭い制度では、きっと太刀打ちできない方法があるんだろうと。でも分かったわ。あなたみたいな男が、日本には数え切れなくらいいるのね。よく分かったわ。だからインドになんてとても不可能な、オリンピックまでひらくことができたのね」 ゆっくり、彼女は日本語で話していた。竜司は、じっと聞いていた。遠くの左の川岸からは、ヒンドゥーが神に召される白い煙が立ちのぼるっているのがみえた。風もなく、白煙はゆらゆらと揺らめきながら、天上界にむかって真っすぐにあがっていった。その白い煙が、この街と神の世界とをつなぐ一筋の道に、竜司には思えた。 「裕美にさえ会わなければ、日本に興味をもつこともなかった。あなたにも、出会わなかった。でも、私は裕美に会い、竜司とも巡りあってしまったのよ」 ナンディーは直視して、そう話した。彼も、みつめかえした。 もう、言葉はなかった。どんなふかい宗教も、思想も、哲学も、この感情をおきかえることはできなかった。ナンディーの細い腕をにぎりしめた。その肩は、昨日とは違い、震えてもいなかった。口づけをし、激しく舌をすい、柔らかい細い肢体をだきしめていた。 「死んでもいい。ずっと、このままでいたい」と竜司は思った。 ナンディーは、泣いて、甘い匂いがした。吐息なのか、涙なのか分からなかったが、なんでもよかった。心をとろかす匂いが、竜司の全身をつつみこんだ。橋のたもとで、多くの人がみていた。ナンディーは、竜司を力いっぱいだきしめた。 どのくらいそうしていただろうか。 「これが、精いっぱいなの」 ナンディーは、いった。 「私には、できることのすべてなの。鳥なのよ。私は、翼をもっているのよ。空を、自由に飛びまわりたいのよ。その鳥は、飛んだことがないの。籠に飼われたまま、大きくなったから。でも、飛んでみたのよ。自分の翼を、思う存分にひろげて、いま、精いっぱい、飛翔したのよ。これ以上は無理。籠にもどらなくては。だれも助けてはくれないわ」 ナンディーの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 「いま、ぼくに翼があったなら、ここで大鷲となり、君をとらえて、この天空をどこまでも駆けのぼりたい。そんな羽根が欲しい。でも、ぼくの背中に、翼はない」 「さようなら。愛しているわ。私が生きているかぎり、恋慕しつづけるわ。これからだれと結婚しようとも、どんな家庭をもとうとも、昨日と今日のことは生涯忘れないわ。私の人生のなかで、もっとも輝いた二日間だったわ。本を読んだり、絵をみたり、BHUの学生になって、幸せだったわ。この日のために、うまれてきたって分かったわ。ガンガーがながれているかぎり、私はあなたを忘れないわ。竜司は、もう感覚ではとらえ切れない、永遠の存在になったわ。超感覚世界にある、永劫不滅のもの。イデアだわ」 ナンディーはいい、もう一度竜司に口づけした。 「愛している。生涯、忘れない。この日のために、インドにきたのを。ベナレスにとどまり、地図をつくっていたことを。すべてが、ナンディーに会うためだった。昨日、君がドゥルガーになり、ぼくがシヴァに変わったことを、忘れない」と竜司もいった。 彼の頬も、涙でぬれていた。 「ヴィシュヌの正体。秩序とは、天と名づけたものを代表する、長老たち。彼らは、時代と共同体の集合的な文化財の継承者。でも、シヴァは英雄。ロマン派は、ただ現実から逃げるのではなくて、戦った。相手は、ふるい掟だ。だれもが大人になって、その規律にくみこまれる。若い時代にどんなに反抗しても、やがてふるい掟をまもる集団の一員に変わり、長老面で秩序をとなえる。孤高する英雄を、子供っぽいという言葉におとしめる。理想よりも、自分の利益を優先する。それが、ヴィシュヌの秩序だ。シヴァのロマンとは、勝ちとるもので、容易にはうけ入れてもらえない自由をさすんだ」 「分かったわ。ほんとうのロマンがなんだか、はじめて理解したわ。でも、ここはインド。聖地、ベナレス。昨日、あなたはシヴァになった。私は、ドゥルガーだった。あのとき、私たちふたりが神になったことは、生涯忘れられない、永劫不滅の真理。でも、お願い。いまは、シヴァにはならないで」 「たとえ、地獄の業火に焼かれようとも、一晩、君といっしょにすごすことができれば、ひきかえてもいい。そのためにあらゆるものが犠牲となり、子々孫々、呪われるとしても、ナンディーを抱きたい。結局、この思いがどれほどつよくとも、君も、家族も、幸せになれない。ぼくも、一族も、不幸になる。だれひとり、幸せになれない選択だ。君とは、ここで別れなければならない」 竜司は、自分に言い聞かせていった。 ガンガーの河面には、緩やかな風が吹いていた。神々の国の香りをのせた気流は、清められ重さをうしなっていた。すべてが清浄で、穢れは遠くに退いていた。 つよい光線をあびたガンガーの河面は、青と金色に筆触分割にされて、色彩の揺らめきに妖しく満たされながら、あかるく輝き、漂っていた。ガンジスは、すべての形態を光と空気のなかに、とけこませていた。 そのとき、激しい気持ちは起こらなかった。赤いサリーはシヴァを、緑はヴィシュヌをあらわしていた。すべてをうけ入れられる、論理的でおだやかな、友愛に満ちたヴィシュヌ神の意思にふたりの心は支配されていた。 「愛というのは、ひとつの感情。インド人が分節しても、日本人がしても、きっとおなじものだわ。でも、抽象的な概念は、文化の違いがあるから、そうはならない。竜司。でもね。ロマンという言葉は、いま、私のなかではじめて、ヒンディー語でも、英語でも、フランス語でも、ドイツ語でもなく、日本語によって、あなたとまったくおなじに、分節することができたのよ。恣意性は、どこにもないの。だから今日の出来事は、決して忘れられなくなったのよ。さようなら、竜司」 彼女がいった。 「さようなら、ナンディー」と竜司は答えた。 「リクシャーを待たせてあるわ。これで、お別れにしましょう」 ナンディーは、頬を涙でぬらしながら竜司にいった。 橋のたもとには、二台のリクシャーが待っていた。ふたりは、べつべつの車にのった。まえのリクシャーにのりこんだナンディーは振りかえり、もう一度竜司をみて、なげキスをしてくれた。目は、涙にうるんでいた。ナンディーをのせたリクシャーは走りだした。 「さようなら、竜司。すぐに帰って。ベナレスから逃げて、駅にいって」と彼女は振りかえって大きな声で叫んだ。 「さようなら、ナンディー」 竜司も、大声でよびかけた。 彼女をのせたリクシャーは、どんどんと去っていった。 「ゴドリア、ホテルウエルカムへ」と竜司はつげた。 彼のリクシャーも、走りはじめた。 「たいへんなことをした」とハッサムはいった。 「ダニアールにひどく怒られた。おまえに服をかしたので、おれがしたのだと思われた」 ハッサムは、真っ青な顔でいった。 「もう、ここにはいられない。おまえは、自分のしたことが分かっているのか。戒律に背いたんだ。その報いは待っている。もしかすると、ナンディーにも振りかかる。いま、すぐでていったほうがいい。明日では遅い。殺されるかも知れない。残念だが、これでおしまいだ。ここはインドだ」 ハッサムは、いった。 会計をしてもらい、ザリムに一〇ルピー、チップをやった。 「おまえは、友だちだった。もし、裕美がきたら、迷惑をかけた、謝っていたとつたえて欲しい。機会があったら、彼女にこれをわたしてくれ」 竜司は、名前と住所をかいた紙をさしだした。 「分かった。こんな形で別れるのはとても残念だ。もう二度と会えないだろう。元気でな。これが最後だ。真っすぐ駅にいけ。最初にきた汽車にのれ」 ハッサムは、竜司の肩を抱いた。彼は泣いて、鼻水をすする音がした。ハッサムはいいやつで、ダニアールとは違って豊かな感性をもっている。二〇年もたてば、父親とおなじ無表情に変わるだろう。感情をあらわしたら、彼の家庭は滅茶苦茶になる。ハッサムと別れ、階段をおりてホテルの玄関にいった。 ダニアールは、ロッキングチェアーに揺られていた。竜司をみるといった。 「早くでていけ。真っすぐ駅にいけ。殺されても文句はいえない。もう、ベナレスにはくるな。二度とゴドリアには、足を踏み入れてはいけない。それがおたがいのためだ。おまえにとって、いいことだ。そして、ナンディーのためでもある」 ダニアールは静かな声で、そういった。 それで、ホテルをあとにした。 ホテルイースティンのまえにいった。三階だての石造りの建物だった。道に面した窓は、みんなしまっていた。じっとホテルをみていると、屈強な男がひとり、入り口にでてきた。 「ナンディー」 竜司は、大声で叫んだ。ゴドリアの街がしんとなった。もうふたりの男が、入り口にでてきた。竜司はもう一度、できるかぎりの声で叫んだ。 「ナンディー」 男たちが三人で竜司にむかって歩いてきた。人があつまりはじめていた。 「ナンディー」 竜司は、もう一度大声で叫んだ。 そのとき、ゴドリアは、静まりかえっていた。すべての車がとまっていたが、クラクションを鳴らすものはひとりもいなかった。全部のリクシャーがこぐのをやめ、道いくみんなが、歩みをとめていた。無言で、竜司と棒をもったイースティンの男たちをみつめていた。街はかつてない静謐な、神々しいほどの、ときに支配され、風も吹くのをやめていた。 「ゴーアウェー」 「ゲタアウト」 男たちが大声で叫んだ。彼らがちかくまでくると、自然と人垣ができて、幾重にもひろがっていった。 「ナンディー」 竜司はできるかぎりの声で、もう一度叫んだ。男たちは目の前で、左の手には木の棒をもっていた。 「ゲタアウト」 大声で、彼らは叫んだ。男たちはすぐそばで、棒を振りあげた。 そのとき、「竜司」という高い声がした。 三階の窓がひらいて、ナンディーがあらわれた。ゴドリアのすべての人が彼女をみた。ナンディーはもう一度、「竜司」と叫んで、彼をみつめた。 「いって。すぐに。駅に。Go Station!」 絶叫する高い大きな声がして、涙が頬をつたうのがみえた。それからすぐに窓はしめられた。 「ゲタアウト」 「ゴーアウェー」 男たちは、またいった。 人垣をかき分けて、竜司はとまっていたリクシャーにのった。 「トゥーステーション」 竜司は、いった。 リクシャーは、交差点にむかって走りはじめた。竜司は後ろむきになって、ナンディーのいる三階の窓をじっとみていた。微かにそこがひらいて、もう一度、彼女の愁いに満ちた顔がみえた気がした。その頬はぬれて、光っているように思った。ゴドリアの交差点でリクシャーは右にまがり、ひろい大きな通りを駅舎にむかっていた。 ベナレスの駅につき、最初にきた列車にのった。どちらにむかっていてもよかった。車両は鉄橋をわたったから、ハウラーにすすんでいた。橋のうえから、ベナレスの街が一望できた。そこは静かな聖地で、ガンガーはゆっくりうごき、とまってみえた。涙が頬をつたい、ぼろぼろとやむこともながれつづけ、列車の木の床に落ちていった。むかいにすわるインド人の男が、じっと竜司をみていたが、なんの関係もなかった。鉄橋をすぎると、さらに涙がこみあげてきた。声をだしたら、走る汽車から飛びおりてしまう気がした。それで、必死に口を閉じていた。 ベナレスは、どんどん小さく変わっていった。やがて、みえなくなっていった。なにもない大地がつづいていた。ところどころに灌木が生え、それが延々とつらなっていた。そのつづいたところにベナレスが、ゴドリアが、そしてイースティンホテルがあり、ナンディーがいるはずだった。彼女につらなる原野を、ながいこと、ただぼうっとながめていた。夕日が沈み、夜がきて、すべてが闇につつまれていた。竜司は、ずっとベナレスのあった方向をみていた。列車は、ハウラーにむかって走っていた。 地図は、未完のままだった。もうひとつガートが埋められれば完成だった。しかし、もう永遠に未完のままで、できる可能性は皆無だった。俊和になんとつたえればいいのか分からないが、仕方がなかった。「なんとか、考えて欲しい」といわれた事案を、忠実に果たそうと頑張っただけだ。だれにも結末は分からないし、知っているのは神さまだけなのだ。俊和は、くるのを信じていた。竜司は、ベナレスにいった。ガートの地図をつくったのも、強制されたのではなかった。 こうして考えてみると、俊和の言葉はひとつの「おつげ」で、その線上で真利子に出会い、裕美に会った。そして、インドにきて半年のあいだ、いちばん望んでいたナンディーに出会えた。そこに恋愛感情がうまれるとは、考えてもみなかった。分からなかった。こうなることを知ったときには、もうすべてがはじまっていたのだ。 みんな、そうだったのだ。結果は分かっても、過程が不明だったのだ。だからプロセスをたしかめるために、踏み絵をしながら結末にむかってすすんでいったのだ。すべては、神さましか予見できなかったのだろう。だから仕方がないことで、一生懸命、頑張ったのは、そのためだった。やっているときには分からないものは数多くあり、事件が起こり、終わって、はじめてあきらかになるのが普通なのだ。世界とは、そういう風にできているのだろう。だれもが後悔につながることは、しようとは思っていないのだから。 ハウラーについたのは二日後だった。何度もきた街で、サルベーションアーミーに泊まり、日本人にも会った。帰国しようと思った。全部、終わっていた。なぜここを放浪し、なにが大切だったのか、分かった気持ちになった。自分がこれから、どうしたらいいのか。なにをめざして生きるべきなのか。分かった気がした。 ヒンドゥーの神は、卑しいブッディストにも教えてくれたのだった。まずは、己のダルマを果たさねばならない。そのためには、力のかぎりに、目の前にある自分の仕事をやりとげなくてはならない。そう、教えてくれた気がした。 生きて、ベナレスを離れることができた。ナンディーは、BHUをやめさせられるかも知れなかった。しかし、竜司がのこらなかったのだから、相手がいなくなれば、ある程度の期間、自宅に監禁されたとしても、それ以上の咎めはうけないだろう。ナンディーは、特別な存在だ。処女をうしなったわけでは、ないのだから、この事件によって、彼女のなにかの価値はさがるのだろうが、かぎりがあるに違いない。だからナンディーは、「ここまで」、「これが限界」、「籠にもどる」といったのだ。 彼女は、よく分かっていたのだ。 「永遠」と「ひととき」の違いを。 ナンディーは、掟にしたがったのだ。 世界は、やはり、プラトンだったわけだ。 ながい放浪の旅は終わりをつげ、竜司はハウラーから成田にむかった。その最後は、ナンディーとのあわい恋の終局だった。同時に放浪の終わりで、青春の終着点だった。生きる理由を知り、これからなすべき人生を教えてくれた。今後、なにをやり、どうすればいいのか、竜司には分かった。 一八の年に青春に入学して、二八歳で卒業させられたわけだった。 ヒロミの部屋、一四一枚、了