ガンジスに抱かれて                                       由布木 秀  ホテル・ウエルカム  一、ホテル・ウエルカム 「ちょっと、きてくれよ」とハッサムはいった。  彼は、部屋の左にある大きな窓からゴドリアの街をみていた。 「いま、でてくるんだ」  ハッサムは、振りかえってベッドのうえで胡坐をかく竜司をみつめて、真剣な表情でいった。 「みたって、仕方がないんだろう」  竜司は、一週間まえの新聞を読みながら、ぶっきら棒に答えた。  ハッサムは、おしゃれで、いつでもパリッとした上下をきて、ズボンの皺もずいぶん気をつかっているみたいだった。顔も腕も浅黒くて、顎に髭を生やしていたが立派なものではなかった。  イスラムの男の髪は、だいたいもじゃもじゃだった。服にはあんなに気をつかうのに、頭はこれでいいとするのか。竜司は、ハッサムをみるたびに思った。テンパの黒髪もふくめて、ふたりは外見がよく似ていた。どちらも、瞳は黒く眼鏡をかけていた。彼はふたつ年上だったが、おなじように痩せていたから、ふたりは兄弟に思われたかも知れない。  竜司は、もともとは色白だったが、この国を旅しているとあらゆる部分が順応して変化をはじめた。汚れたのか焼けたのかどちらでもいいのだが、最初はあきらかに日本人だったが、だんだんみんなから中国人やタイ人と間違えられはじめ、いまではチベッタンと思われたりした。ここにもやはり順序があり、このばあいにかぎっては日本がいちばん上位だった。序列は、中国人、タイ人、ネパーリとつづき、最後がチベッタンで、これより下はないみたいだった。精神的にも肉体的にも、どこもかしこもが、インドの影響をうけていたのだった。  ハッサムは、この家の長男だった。ゴドリア・ジャンクションのやや北に位置する三階だてで、こんなコンクリート製のホテルをもっているのはだいたいがイスラム教徒で、「金持ち」とよんでもいいと思った。  三階の道路に面した八畳くらいの部屋には、ベッドとシャワー室がついていた。あったのは、それで全部だった。入り口をあけると、正面と左の壁に窓が切られていた。やや大きな左窓からは交差点につづくゴドリアの繁華街を一望できた。三階だてはこのあたりではすくなかったので、そこからながめると街で起こっていることがだいたい分かった。正面の小さな窓の下にベッドが縦におかれ、枕がわの右壁のすみには、小さいテーブルがあった。その壁の入り口がわに、もうひとつ空間がつくられ、そこがシャワー室だった。竜司は、この部屋に六週間、ひとりで泊まっていた。  とはいっても、じつはリルケと同棲していた。彼女をどう思っていたのか、ひと口ではいえない。必要としたのは、事実だった。リルケが、竜司をどう思っていたのかは分からなかった。彼女はどちらかといえば、彼を無視したから、たがいに干渉しないようにしていた。以前は、この部屋に俊和がいた。竜司は、よくここでいろいろな話をしたが、リルケについては聞いた記憶がなかった。だから、俊和がホテルから去った四ヵ月まえから、彼がくる六週まえのあいだに、どこからかうつってきたのだろう。あとから入ってきた者に、彼女が遠慮する理由はなにもなかった。  リルケは、いつでも壁を自由にうごきまわっていた。真っすぐのばあいも、横切ることもあって、状況には無関係で、彼女の気持ちひとつだった。リルケは、ときどき天井にいて、肩で大きく息をしていた。よっぽど急いでいたのだろう。どうして、リルケが天井にいられるのだろうか。吸盤があるとは思えなかったし、みていてもよく分からなかった。天井は平面にみえるが、実際にはごつごつし、小さな隆起をしっかりと足の指でつかんでいるのだろうか。  ときどき、リルケは落っこちてくる。床のばあいも、運のいいときはベッドだったりする。気まぐれで、竜司の顔のうえに落下することもあった。ぬるっとした感触はあまり気持ちのいいものではないが、えらんで落ちるのだから、リルケはきっと女なのだろうと思った。そうして親愛の情を示しあって肌をあわせると、いちおうは顔をあらうことになったが、殺そうとか、追いだそうとか、そういう気分にはなれなかった。   「きてくれ。早く、早く」とハッサムは竜司をみて、右の手をさかんに振りながらいった。 「でてきたんだ」  ハッサムがみていたのはゴドリアの交差点にむかう道で、二〇メートルくらいの幅があるベナレスの中心街だった。人口密度は高く交通量も多いが、自動車はすくなく、ほとんどがリクシャーで自転車が二人乗りの座席がついた車をひっぱっていた。 当時の交通手段は、歩くか、人力車かの選択にかぎられていた。バスもあったが、普通の旅行者にはのれなかった。これはみないと分からないことのひとつだろう。ようするにバスは、乗車する者からお金をとって運行していた。当たり前にも思えるが、身体が外にあれば「のってはいない」ことになった。ほとんどのばあい、バスの出入り口には、ぶどうの房状に人がたわわにぶらさがり、簡単には車内に入れなかった。彼らは、のっていなかったので、バス代を払う必要がなかった。  リクシャーは、手軽な乗り物だった。貸し切りだから、ひとりでも、ふたりでも、おなじ料金のはずだった。しかし日本人なら、人数分を要求された。万事がそうだったから、旅をするあいだに、だんだんチベッタンになるのは無理からぬことだった。安全に旅行するために、旅行者たちにとって必要な防御手段だった。  夏のベナレスは、日中のひとときには四〇度以上になった。限界を知らない日の光がふりそそぎ、汚れ切った世界をすべて消毒していった。圧倒的につよい日差しによって、あらゆるものは焼きつくされた。そこには例外がなったから、雲もすべて蒸発し、空はいつも真っ青ですき通っていた。いっぽうが力を限界まで行使したのだから、とうぜん反動も大きくなるわけで、とつぜん雨滴がぽたぽた落ちてきたと感じると、猛烈なスコールがはじまった。  雨がふるのは、ひとつの風情だとずっと思ってきた。ぬれていきたい春雨でも、憂鬱な五月雨でもそうだったし、秋の物思いにふける霖雨でも、高く晴れわたった空から氷雨がとうとつに冬の便りをつれてやってくるのも、歌や詩ができる素材だと考えていた。この国の雨には、風情がなかった。とつぜん天空がナイアガラに変わるのだ。時間にすれば三〇分はふりつづいてはいないと思うが、どれほど空が物持ちがよくても一度にこれだけの量の水をあびせかければ充分だった。ひどいときには一メートル先もみえなくなり、すべてのものが立ち往生した。どんなに熱によって乾ききった地面でも、いっぺんにはこれだけの雨を吸収できず、街中が水浸しになった。ゴドリアの中心街が三〇センチくらいの水溜まりに変わるのだった。メリハリがつきすぎているだけで、なにか詩のひとつでも詠もうと考える、そんな余裕はどこにもなかった。  とはいっても、何事でもそこならではの情緒があり、過激なスコール後のゴドリアは語りつくせぬ趣をもっていた。  竜司は、その様子を窓からずっとみていた。  一面の海のなかで車もバスも走れなくなり、雨がやみ冠水した道路から水が自然になくなるまで立ち往生していた。ここが、リクシャーの出番だった。激しい雨にうたれた自転車の運転手は大声で叫びながら、役に立たなくなった自動車に水しぶきを吹きかけ、水をえた魚になって走りまわっていた。 「どんなに進歩した機械だって、しょせんはこんなものだ」  彼らが大声で喚いていたのは、そんな内容だったと思う。とくに夜、水禍のなかで力なく道路に立ち往生する自動車の黄色いライトに照らしだされ、おびただしい数のリクシャーが自由自在に街並みを走りぬける様は、紫に揺れて輝いていた。 竜司がまったく違う雨の風情をみた左の窓から、いまはハッサムがゴドリアをながめていた。彼は二五歳で、なんの仕事をしているのか、分からないやつだった。意図はまったく理できなかったが、しょっちゅう服をかえていた。一日に最低でも四回は着替え、おなじ格好で街にでかけることはなかった。  ホテルの経営はハッサムの父親、ダニアールがやっていた。かなり年寄りで、額にも頬にも皺がきざまれていた。とくに額部のものはふかかった。髪の毛は真っ白でみじかく、白い顎髭をながく伸ばし、いつでも白っぽい服をきた、ごく普通のイスラムにみえた。ハッサムがダニアールの長男だから、年回りから考えると六〇歳にはなっていないと思われたが、回教徒の年は分かりにくく、枯れた感じで七〇歳くらいに思えた。ホテルの玄関にある軒先で、朝から晩までロッキングチェアーを揺すって暮らしていた。  雰囲気は、サドゥーだった。これは、サンニヤーシー、出家遊行者で、修験者とか山伏というほうが分かりやすいだろう。みんな、この街で彼岸に辿りつこうとしていていた。白い清楚な服をきたダニアールは、なんの欲もなく、悟り切った風情でロッキングチェアーに揺られていた。しかし彼は、ゴドリアに宿屋をもち、複数の妻と四人の息子がいる完璧な「金持ち」だった。  ホテルの宿泊者に朝食をつくるのは、ダニアールの末っ子、ザリムの仕事だった。ザリムとハッサムは、腹違いだった。そのあいだに、ナッシアという次男とザービルという三男がいるが、どういう血縁関係か分からなかった。ただハッサムは、ダニアールのあとをついでホテルの経営をする、イスラムの生活が保証されていた。ザリムには、どんな未来が待っているのだろうか。二〇歳にもならない彼は一日じゅう仕事に従事して、額にはいつも大粒の汗が浮きでていた。長男のハッサムが、なにひとつしないのとは対照的で、ふたりは両極端だった。  考えてみても、ザリムはいちばん下だから、なにかがもらえるとは思えなかった。うえの三人が死んでしまえば、ホテルをつぐことも絶対ないとはいえないが、一等の宝くじにあたる確率なのだろう。現実には、ザリムはサーバントで、家にのこるためにはなんでもしなければならなかった。竜司の朝食をつくるのも、部屋の掃除も、みんな彼の仕事だった。もちろんザリムがうけもっていたのは、ホテルとしての不特定多数者にたいする業務で、家事はべつのだれかがするのだと思う。  ダニアールは、金持ちのイスラムだったから、たぶん三人以上の奥さんがいた。回教徒は一夫多妻で四人までの妻をめとることが許されているが、結婚にはヒンドゥーが持参金を要求するのとは違って、結納金をつまねばならなかった。妻たちを公平にあつかわないと、夫は離婚を申し立てられ、賠償金を払う必要があるらしい。複数の嫁をめとって楽しい生活ができるのは、かなりの金持ちにかぎられていた。  どんな力関係でダニアールの家庭が成り立っているのか、これには興味があった。竜司にとっては二度目のベナレスで、前回は二週間、今回は六週間泊まっていたが、この家で女性をみたことはなかった。なにかの折、黒装束の年配の女が、ホテルの内庭で洗濯物を干しているのをみかけた。彼女は、竜司がみているのに気づくと、すぐに隠れてしまった。何番目の婦人になるのか知らないし、聞いていいのかも分からない。内庭はホテルの建物にとりかこまれ、うす暗くてよくみえなかった。それ以上は分からなかったし、声をかける雰囲気でもなかった。内庭は直射日光はあたらないが、やはり暑くて乾燥しているから、洗い物を干すには最適だった。  ホテルの女たちは、いつも隠れてみたことがない。日本でイスラムの女性というと、黒い服とマスクを思い浮かべ、黒装束で肌さえ覆えば、どこへでも出歩けるのだろうと考える。実際にはそうでもなくて、神さまみたいに姿もみせない者らしい。とくに卑しいブッディストが相手では、なおさらだ。  これは、ヒンドゥー教徒よりも、ずっと増しだ。ヒンドゥーの上流階級の女性は、竜司の姿をみつけると、乞食か不可触民をあつかうぐあいに、左の腕をあげて手の甲をうちから外に何度も振った。 「あっちへいけ」ということで、身振りだけで言葉もかけないし、なかには天をあおいで鼻をつまむ女もいる。 「自分の臭いを、知っているのか」  そう、聞いてやりたい。竜司だけが、くさい臭いをだしているみたいに、これみよがしに鼻をつまむ。このばあいは聖なる右の手をつかう。これ以上に不愉快な出来事はなかった。そばにすわるとたいへんで、サーバントが何人もやってきて、わけの分からない言葉をギャーギャーと叫ぶ。竜司が生きていることから、悪いみたいだった。ベンチにすわっただけで、権利があったはずだが、ほんとうはそうでもなかったらしい。どこからみても竜司はヒンドゥーではなく、日本人でもチベッタンでも関係なく、彼女にとっては紛れもないアウトカーストだった。触れるなんて考えられない暴挙で、目に映るだけでも穢れる存在なのだ。ヒンドゥー以外は人間とは思っていないのだから、人権なんてはじめからなかったのだ。  だから、だまって隠れてくれるイスラムの女のほうが、ずっと増しで、この家には子供が総勢で何人いるのかも分からなかった。男はたしかに四人らしいが、ハッサムに聞いても教えてもらえないし、ザリムは押しだまっていた。ご婦人たちと娘たちと、一〇人くらいはいるはずだと思うが、内庭でみかけた女以外ひとりにも出会ったことがなく、不自然で不思議なところだった。もちろん勝手口があって、女たちはそこから出入りをするのだろう。その気になってホテルのまわりで観察していれば会えるかも知れないが、それほどの価値はなかった。わざわざインドまで、ダニアールの家庭問題を調査しにきたのではなかった。このやり切れない暑さのなか、外でただ待つなんて不可能だし、とてもそんな気にはなれない。時間はあるからなにをしてもいいが、不必要な興味まではいらない。  ハッサムとは、それなりにやっていたのだった。話によれば、彼には相思相愛の相手がいて、道路をへだてた斜向かいのイースティン・ホテルを経営するバラモンの娘で、名前はナンディーというらしい。その女性は、ベナレスでいちばんの美人だそうだ。 「愛しあっているんだ」とハッサムは額に皺をよせて、深刻そうにいった。 「口もきいたことがないんだろう」  思いつめた表情に、竜司は頭をかかえていった。 「目をみれば分かる」  ハッサムは、そう主張した。 「馬鹿ばかしい。そういうのを思いこみっていうんだ」 「みつめあったんだ。おなじ民族なんだ。目で会話することができる」 「ナンディーが目つきで、おまえを好きだといったのか」 「そうなんだ。でも、カーストが違う。ナンディーは二〇歳だし、金持ち同士だ。釣りあいはとれているが、問題はカーストだ」 「馬鹿ばかしい。どだいひとりよがりの話で、相手の意思も分からないのに、ロミオとジュリエットか」 「なんだ、それ」  ハッサムは、目を大きくみひらいて竜司に聞いた。 「くだらない、日本の昔話だ。ナンディーは、なにをしているんだ」と竜司は聞いた。 「大学生だ」とハッサムは答えた。  その答えは、竜司にはいささか意外だった。彼は、ボンベイで女子大にいってみたことがあった。インドの若い女性と話がしたかった。息のつまるカーストのなかで、男と女のあいだに不合理で大きな差別がある世界で、教養をもつ妙齢の女性たちが、いったいなにを考えているのか、聞いてみたかった。ボンベイで女子大をさがすとふたつみつけた。泊まっていたサルベーションアーミーから、ちかいほうにいってみた。大学の名前は忘れてしまったが、門のまえには立派なコンクリートで舗装された道があり、校舎にむかってひろい石畳の歩道がついていた。さえぎるもののない炎天下、竜司は女の子をずっと待っていた。猛烈に暑い日だったが、彼には耐えることができた。竜司は若くて、まだ二七だった。  女子大には、多くの学生がいた。当たり前だがみんな女だった。サリーをまとった者も、おなじ色の上下に分かれたスーツをきている子もいた。「きっと制服だろう」と竜司は勝手に思った。正門のまえで、彼女たちをじっとみていたのだった。しかし、話しかけるチャンスがなかった。どの娘も竜司が日本人だと分かったみたいだったが、ほんとうは中国人に映ったかも知れない。そのころは、まだインドをまわって日も浅かったので、チベッタンとはみられなかったと思う。竜司は彼女たちから、どうみなされもよかったのだが、ひとりでいる女の子がみあたらなかった。だいたいふたりで手をつなぎ、割りこむタイミングがなかった。目があって微笑を浮かべた娘も幾人かいたが、話す「きっかけ」がつかめなかった。  みつめあって感じたのは、彼女たちも東洋の果てからきたと思われる竜司に興味をもったみたいだった。この国の人は、普通と違う者には関心を示すが、若い教養のある女性もおなじだった。  残念なことをひとつ話すと、女性たちは考えていたより綺麗でなかった。最初のころは、ほんとうに幸せだった。なにしろ道ですれ違う女性が、みんな美人にみえた。彫りがふかい顔立ちにドキッとすると、女のまわりには、顔を中心に憂いや翳りがオーラになってとりまき、神秘的で厳かと感じるほど魅力的だった。それは、有頂天だった。みえるかぎりの美人にかこまれているなんて、たとえ言葉が交わせなくともハーレムみたいなものだ。そこまではいかなくとも、その手前にはいたはずだった。  旅をつづけるうちに、分かってしまった。度胸がすわって目がこえて、相手をよくみる習慣がついていた。じっと正視すると、みんながそんなに綺麗じゃない。だれもが美人だなんて、竜司の勝手な幻想で、残念だが現実にはそうでないほうが多かった。 この国の人たちは遠慮というものがなく、自分と異なる者をみるとどこがどう違うのか、しっかりみつめる。日本では不具者がいると、直視しないのが礼儀として両親から教わる。じろじろみられっぱなしで、竜司もはじめは苦痛だった。一ヵ月もすごすと、やはりこの視線にも慣れるから、人間はなんにでも染まってしまう生き物らしい。観察されつづけた期間が終わると、今度は竜司も遠慮なく、じろじろみるがわに自然になって、がぜん面白くなった。不思議なものはなんであっても、よく分かるまで、納得するまで徹底的に凝視したのだった。だからそのころは、もう日本人ではなくてチベッタンにちかづいていたのだろう。  ボンベイでも、ついふらふらとよっていく、それほどの美人には残念ながら会うことができなかった。でも、そこそこならインドの若い女の子と話がしてみたかった。普段の生活のなかで、なにを考えているのか、宗教についてどう感じるのか、聞きたかった。できれば、学生がいいだろう。学問や教養があるほうが、きっと面白いだろう。カーストについても話したかった。インドやイスラムの女性がおかれている地位や結婚について、話しあってみたかった。女で教養があるとはいっても、あの太った、おばさんたちはいやだ。とても話す気には、なれなかった。 「ハッサムは、大学にいったのか」と竜司は聞いた。 「いや高校までだ。おれは、ホテルをつぐだけだ。それで充分なんだ」と彼は答えた。  ハッサムが高校までなら、ザリムは中学までだろう。そのくらいの差をダニアールは、はっきりとつけてやるだろう。ザリムが、決して間違えないために。 「そこだけで、もう不釣りあいではないのか」  図星だったらしく、ハッサムはだまった。 「教育に、カーストはないのか」と竜司は聞いた。  ハッサムのいう通りベナレスの中心街でホテルを経営するのだから、商売敵というより、まずはおなじ氏姓だ。彼が違うといったのは、宗教にたいしてで、回教徒とヒンドゥーでは共食できないから通婚も不可能だ。ハッサムの家系は、イスラムではアシュラーフというバラモンに相当する高位のカーストだから、「釣りあっている」というのはべつに間違いではないのだろう。 「ナンディーの家は、わりと自由なんだ。ちょっと変わっていて、親父さんは話の分かる人らしい」  ハッサムはなにを思ったか、じっと竜司をみつめると急に変なことをいいだした。 「教養のカーストは、いいとしよう。その話の分かるナンディーの親父さんなら、モスレムとの結婚も許すのか」  竜司は、ハッサムに聞いてみた。 「それは無理だ。釣りあいがとれていないのは、そこだけなんだ。でも愛しあっているんだ。その日本の昔話とおなじさ。おたがいに報われない恋なんだ」  ハッサムが真剣にいったので、思わず竜司は吹きだした。 「なにがおかしい」  ハッサムは、語気をつよめた。 「ダニアールに相談してみたらどうだ」と竜司はいった。  ハッサムは、だまった。彼は、馬鹿ではない。だから、ダニアールは跡とりに決めたのだ。ハッサムは、この悲恋物語をだれとしたらいいのか、それくらいは知っている。友人にもこんな話はできないから、竜司が相手をしてやっているだけだった。 「プラトニックだな。それも、かなりだ」といった。  竜司は、プラトンが好きだった。著作を読むと、理由はよく分からなかったが心が落ちついた。 「なんだそれは。ものの名前か、場所の名称か」  ハッサムは、真剣な表情で聞いた。 「昔のギリシア人の名だ。哲学者、物事を考える人だ。サドゥーみたいなものだ。その人がいったんだ。正しいもの。善い事柄。美しい事物。これらは、ひとつだってな」  竜司はいった。 「それは、コーランにもかいてある。アラーも、そういっている」とハッサムは応じた。 「まあ聞け。魂と肉体は、べつべつの、ふたつのものだというんだ。ようするに、心と身体だ」 「当たり前だ。魂と肉体はべつべつだ。コーランにもかいてある」 「だから、おまえの恋は、魂の部分だ。純粋に、心で起こっているものだ」 「その通りだ。おまえはやっぱり分かってくれた。おれが思っていた通りのいいやつだ」  ハッサムは、えらく感動して竜司の手をにぎりしめた。彼には、その両手が幾分か汗っぽく湿って感じた。 「純粋に魂の部分で、ナンディーとは愛しあっているんだ。それで充分なんだ。今度、みせてやる。おまえの部屋からみえる。いっしょにみよう」  ハッサムは、真剣にいった。  ザリムは、家事をすべてするから四六時中、いそがしそうに働いていた。年は一七、八歳で、身長はハッサムよりややひくく、腹がでていた。肌は黒くて、半袖の灰色がかったシャツ以外の上着をみたことはなかった。汗っかきで、いつも額に玉の汗を光らせて、なにかというと左手の甲で眉のうえをぬぐう仕草をした。それとも、どんなときでも働いていると周囲にみせるのが、ザリムの仕事だったのだろうか。そばからみるかぎり、この兄弟は、ほとんど主従の関係だった。ハッサムに嫌われれば、彼は家にいられないのではないか。どこにいくのかは知らないが、そのくらい差が厳格に決められている感じがした。もちろん、ザリムは結婚もできないのだろう。いちばん下にうまれたのだから仕方がないことで、イスラムの神さまが決めた、うけ入れなくてはならない現実だ。  四人の兄弟のなかで財産をもって結婚できるのはハッサムだけで、兄弟四人分の妻をひとりでもらうので数はあっている。彼が妻たちと何人、子供をもうけても、やはり長男に家督をゆずるから家は永遠につづくのだろう。  ホテルの名前は、「ウエルカム」という。竜司がベナレスにくるのは二度目で、前回と今回のあいだに三ヵ月の空白があって、南インドとランカを旅していた。まえに泊まったときは、おなじベッドに俊和が寝ていた。ハッサムが、ひきあわせてくれたのだった。  俊和は、竜司と会ったとき、すでに二ヵ月以上ベナレスにいて、ずっとウエルカムに泊まっていた。彼は半年間、インドやスリランカ、バングラディシュ、パキスタン、アフガニスタンと放浪し、最後にネパールに入り、そこで肝炎に感染した。ハッサムが紹介してくれたとき、俊和はガリガリに痩せて真黄色で床にふせっていた。肝炎が長引いて、ウエルカムで静養していたのだった。  二、俊和  インドで起こった仏教には、八大聖地とよばれる場所がある。  俊和の話によれば、はじめはそれほど大それたことを考えてはいなかったらしい。まずブッダガヤにいき、それから釈迦の死後に説法をまとめる、初回の仏教結集が行われた、日本では竹林精舎とよばれる、ラージギルにいったらしい。そこで釈尊がうまれた、ルンピニー。悟りをひらいた、ブッダガヤ。はじめて説法した、サルナート。入滅の地、クシナガラという四大聖地のほかに、竹林精舎、ラージギル。第二回仏教結集の場所、ヴァイシャーリー。舎衛城、祇園精舎、マヘート・サヘート。母親マーヤーのために天界にのぼり天人たちに法をつたえ、ふたたび地上におりたとされる、サンカーシャをくわえると八大聖地になるのを知った。全部いこうと思いたち、順番にまわりはじめた。最後にクシナガラにつき、釈迦の気持ちにいくらかでもちかづきたいと思い、ルンピニーまで歩いたらしい。 「あれで、終わってしまった」と俊和はいっていた。  ルンピニーはネパールにあり、バスでカトマンズにいき飛行機で、パトナにもどってきたのだった。 「その道は、猛烈に暑かった」と俊和はいっていた。 「釈迦はルンピニーをめざして、ヴァイシャーリーからクシナガラまで歩いたのだ。おれの道のりと、おなじくらいだ。釈迦は、八〇歳という高齢で、下痢をしながら歩いたのだし、道は二五〇〇年まえより整備されているはずなんだ。それがもの凄くたいへんで、くたくたになって、インドの大地を移動するのは、こんなにも疲れ果てるものかとしみじみ思ったんだ。ルンピニーで宿に泊まったら、そこの親父が、よくその状態で歩いてきたって。ひどく驚いてな」  俊和は、暑いから生水を飲みつづけ、肝炎に感染し、ルンピニーについたときにはすでに真黄色で、だれがみたって黄疸がでていた。養生して、寝ているしかなかった。とはいっても、そうそう横臥してもいられなかった。俊和の肝炎が長引いていたのは、幾分でも楽になると、のこのこ街にでかけるからだった。そのおかげで、ベナレスのことは、すみからすみまで知っていた。竜司は、街のさまざまな事情を俊和から教わった。どの料理店がうまいとか、どこのガートが面白いとか、そんな事柄からはじまり、近道とか、ホテルの家族構成がどうなっているらしいとか、あらゆることだといっていい。彼は、滅茶苦茶に詳しかった。  俊和は、竜司の三つ年上で、病気のせいもありガリガリに痩せ、髪は坊主にしていた。ベナレスで理髪店に出向いたらしい。  床屋といっても店があるのではなく、男が道にいるだけだった。裏通りで、ひどい臭いがする場所で、カミソリをもった男性が立ち、人がすわる木箱がおいてあった。微妙な髪型の話はできないから、俊和は「ショートカット」といった。そうしたら景気よく髪を切られて、気がついたら坊主になっていた。こんな路地に突っ立って、一本のカミソリだけで商売をしているのだから、床屋の主人は一生族、シュードラで、チベッタンがいくには分相応だった。 「汚い。髭をそるのに、石鹸とかシャンプーとかいうものがない」 「なんでやるんだ」 「そばにおいてある水だ。瓶に入り、それで湿らしている。なんだか分からないもんだ。だれのも彼のも、髭はみんなそこに入っている」 「それは、ひどいな」  竜司も、うなずき同意した。しかし俊和の髭をそって、そのあとに消毒もしないで髪を切られるつぎのインド人は、肝炎になるかも知れない。それも、かなり迷惑だったに違いなかった。  時間があると俊和の部屋へいって、竜司はよく話をした。それがいまの彼の住まいだった。外国を旅していると、もの凄く親しくなれる者がいる。会った人、だれでもとはいかないが、いろいろなことを話しあうばあいがあって、俊和とはそうした関係だった。話があうかという次元ではなく、出会うためにうまれてきた。いつか、たがいのことを話しあう。それが、ずっとまえから決められていた。そんな感じだった。飾る必要もなかったし、好きなことを話してよかった。時間は無限にあり、出会ったのがインドの聖地ゴドリアだった。だから、いっそう親しくなれたのだった。  俊和とは、何度もいっしょにゴドリアを歩いた。どんなときでも喧騒が支配していたが、新宿みたいな魔界ではなく、ちかくに神がいると感じさせてくれる、たとえられない場所だった。タージマハルがあるアグラは、京都に似た観光地だった。ベナレスは、世界でたったひとつの場所だろう。その中心がゴドリアで、ぶっそうな歌舞伎町と神聖なヒマラヤが、同時に存在する不思議なところだ。 「この国の女の子と、話がしてみたい」と竜司はいった。 「どんな子が、望みなんだ」と俊和は聞いた。 「綺麗な女性がいい。頭がよくて、教養があって」  竜司は、ボンベイの女子大のまえで炎天下をすごした話をした。 「終わっているな。おまえ、まだそんなこと思っているのか。マスクのいい男と、友だちになりたいのか。おまえの基準て、そんなもんなのか」  俊和は、小さく頭を振りながらいった。 「たしかにそうだな。美男子の友だちが欲しいとは思わない」 「そうだろう。そんな年になっても、まだこんな簡単なことが分からないのか。綺麗な女の子のどこがいいんだ。おまえは、なにに惚れるんだ。ただの外見なのか。見た目がよければ、それでいいのか。だいたいそんなに、なにもかもそろった女、日本にだっていないじゃないか」  たしかに、そうかも知れなかった。 「顔が綺麗かどうかはともかく、教養のある、若い、この国の女の子と話がしてみたい。インドの女性がおかれている不合理や、カーストの問題について話したい。どう思っているのか。生で聞いてみたい」  竜司が真剣にいうと、彼はだまっていた。  俊和は、受験校として有名な都立高校を卒業したが、大学にはいかなかった。「報道カメラマンになりたかった」といったが、なぜカメラマンへの希望をすてたのか、そのときは話してくれなかった。 「三里塚では、ずいぶん写真をとった。めくらどりだ。あとで現像して、なにが写っているのか楽しみだった。五〇〇〇枚もとった」といっていた。  いつだったか、竜司が俊和の部屋をたずねると、ザリムとなにかをいいあうのが聞こえた。彼が入ると、気まずいムードが漂っていた。 「なにを、もめているのか」と竜司は俊和に聞いた。 「大したことじゃない」  俊和が、「もういい」と声をかけると、ザリムは神妙な面持ちででていった。彼が部屋から去ったあとで、「なにがあったのか」と竜司は聞いた。 「つまらないことだ」  炭酸飲料の栓をぬく俊和をみて、なにが起きたのか竜司にも経緯がすこし分かった。先ほどザリムが「リムカはいらないか」と御用聞きにきたのは、彼に頼まれて買いにいく、ついでがあったのだろう。そのときは、「よく気がきくな。こんな雨がふっているのに」と思ったが、じつは駄賃をふたりからもらおうと考えたのだ。  俊和は、ベッドに横臥していた。正面の窓の下にあるヘッドボードに枕を縦におき、それを背に半臥位になっていた。痩せて、身体は真黄色だった。髪も坊主で、どこからみてもチベッタンだったが、実際は知性にあふれていた。いつも世界中で起きる、さまざまな出来事を考えていた。 「どうしてこの国の人間は、ありがとうっていえないのだろうか」  彼は、とつぜん呟いた。  雨がふりはじめ、スコールになりそうだったが、俊和はどうしてもリムカが欲しくてザリムに頼んだ。彼は竜司のところにもきたから、一回でふたり分の駄賃が入るので、うまくやったと思って買いにいったのだろう。それは俊和には預かり知らないことで、わざわざ雨のなかを往来してくれたのに感謝して、いつもの倍のチップをあたえたらしい。そうしたらザリムが喜んで、「タンキュー」といった。  それが、俊和の癇に触ったらしかった。 「なぜ、いつも英語でいうのか」と彼は聞いた。 「ヒンディー語ではシュクレアー、ウルドゥー語ではダニワードという言葉がある。なんで、おまえは自分の国の語彙を一度もつかわないのか」と俊和はたずね、「一回、いってみろ」と話した。  ザリムは、じっと口をつぐんで、こまった顔で立ちすくんだ。この場面で、竜司が登場した。 「分かるよな。なににだって序列があるんだから。シュクレアーなんて、口がさけてもいえないんだろう」  俊和は、ぽつりといった。  感謝というのは、おなじカースト内で、はじめてあらわれる感情だろう。上下の関係が厳格に固定された社会では、カーストをこえる発言は命令と服従だけなのだ。だから、「お願い」も「ありがとう」もないのだ。  ザリムの「タンキュー」という言葉は、「やあ」とか「これで」とか、そんな意味あいのかるい文句だった。自分は仕事をしたのだから人からとやかくいわれる筋合いでもないし、礼を述べる必要もなかった。 「ザリムをみていると、考えてしまうんだよ。この国には、人がうまれた分に応じて果たすべき三つの義務がある。まずは、社会的義務であるダルマ。つぎに、経済的利益を追求するアルタ。最後に、直接的な快楽を望むカーマだ。しかし、無闇にこれらを追いもとめてはならない。アルタは、ダルマに従属し、こえてはいけない。カーマは、序列がいちばん下だ。ダルマにも、アルタにも、劣位になる。だから、配慮が必要なんだろう。ザリムは、サーバントとしてダルマを行い、それによって駄賃、アルタを追求しているんだろう。彼は、自分の身分に応じた義務を果たしているだけだ」  俊和は、考えながらいった。 「シュクレアーという言葉は、どんな感じなのだろうな」と竜司は聞いた。 「命にかえてもとか、簡単にはかえし切れない恩にたいしての発言なんだろう。あらゆるものに序列がある。カーストの体系は一列ではないから、おれとおまえのあいだでは順序は不明確だろう。とはいっても、おれたちはいっしょに食事もできるし、たがいにものをあたえあうことも可能だ。おなじサブカーストなのだろうが、それでもなんらかの順序はあるはずだ」と俊和はいった。 「ぼくらのあいだでは、どうでもかまわないが、ヒンドゥーの神のまえでは、一度決められた序列とは、意味が違うんだろうな」  竜司は、答えた。 「この国は、不思議だ。西洋は、建前では人権をみとめ、平等と公平を謳っている。東洋は中国が代表で、世俗が権力をにぎり、宗教は基本的には禁止されている。イスラムの世界は、またべつだ。中洋では、宗教が権力の中枢にいる。ところが、この国の基本は祭祀と王の二重権力構造だ。四つの文明圏は、相互に容易に理解できない違った洋で、インドを深洋と名づけてもいい気がする。ヴァルナ体系は古典的だが、なくなっているわけではない。氏姓、ジャーティーこそがカーストだが、ヴァルナと入り組んで複雑だ。結局、組織体系をつくるのは、共食と通婚ができるサブカーストなんだろう。浄と不浄により階級が立てられ、分業と相互依存にもとづき社会が成立している。だから、どのカーストもインド世界には、不可欠な構成要素になっている。よく考えてみると、日本だっておなじではないのか」 「インドにきて、許されていないことがあって、その理由が自分が卑しいアウトカーストだからだと分かって衝撃をうけるよ。日本にいるときは、カーストが実在するなんて信じられなかった。自分が、それをもっているなんて思わなかった。日本にはカーストがないと、はじめは答えていたけれど、旅をしながら考えると、インド人の考えは間違いではないね。社会の分節の仕方が違うんだと、いまは理解している。日本では、曖昧に許可されているだけだったんだ」と竜司は答えた。 「西洋では、認可するか、排除するかと思考するところを、インドでは序列をあてがって満足する。この文明は、生態系に似ているんだろう。食器棚のなかに入りこんだ蟻にたいして、殺虫剤をまいて殺したりはしないんだ。そんなことをやったら、周囲の食器にも影響がおよぶ。だから、存在をみとめてやるんだ。しかし蟻は、分相応に暮らすことがもとめられる。その分をこえて、皿まで侵入すれば抹殺されるんだろう」 「日本という国は、敗戦によって完全に欧米化され、独自の文明を忘れてしまった気がするね」と竜司はいった。 「もともと、なかったのかも知れないよ。日本は、固有の価値観をもたず、中国からの借り物ですませてきた。それは、すこしも恥ずかしいことではない。借り物であっても、うまくつかいこなす力をもつなら、劣等感を抱く必要はまったくない。ところが、それが分かると一部の人はとたんに反発して、日本固有のものがあるといいはじめ、天皇制をもちだしたりする。曖昧な自己で満足していたコンプレックスが、裏がえしになるんだろう。考えの違う者を非国民とよんだり、とうとつに好戦的な態度にでたりする。明治時代の日本には、ヨーロッパ崇拝あった。明白な劣等感で、漱石も鴎外もヨーロッパにいった。戦後は崇拝するのがアメリカに変わって、また引目をもつ。がんらい日本人は劣等感の塊で、古代から中国という強大な東アジアの盟主がごくちかくにいたんだ。インドの影響も、主にそこを経由して受容している。明治維新も、西洋への劣等感から起こった。この日本人がもつコンプレックスを、自分たちでよく理解してみとめないと、とつぜん豹変して傲慢になり、アジアの諸国をみくだしたりする。インドには、まったく独自の思想があって、こうした民が一〇億もいるのを、神さまはどう考えているんだろう。ここで生きるというのは、やぶれば罰が待つ、この規範をうけ入れることだろう。まったく、息がつまる世界だと思う。天は、人のうえにも下にも、人間をつくった。一〇億人の全部に順番をつけた。それも、入りこんだ状態で。奥がふかくて、普通の国民だったら溺れてしまうだろう。この国の人びとは、序列が神さまからあたえられた不可避なものだと承知して生きている。忍耐づよいし、金持ちやカーストの高い連中にとっては、都合のいい住みやすい世界で、すべてが自在になる天国なんだろう」と俊和はいった。 「日本でも権力者はいるけれど、これほどの自由はないだろうな。母国は嫌いだが、インド人にうまれなくて幸せだったと思うよ」  竜司がいうと、 「その意見は正しい。たぶん、シヴァの名にかけても」  俊和は、合掌し黙祷して神妙な表情で答えた。 「竜司がご希望なら、さがしにいこうか。そういう教養のある女性を」と俊和はいってくれた。  竜司は、彼といっしょにベナレス大学、ベナレス・ヒンドゥー・ユニバーシティー、BHUに、リクシャーにのってでかけた。とはいっても、あてはなく、大学内をぶらぶらしただけだった。構内には、車が走る舗装されたひろい道路があった。幅が三、四メートルの固い土の道が多かった。通りすがる大学生のなかには女性もいたが、声をかける雰囲気はなかった。むこうからやってくる学生は、男であっても女であっても、じっとふたりをみつめたあとで、なるたけ道の反対端を通ってすれ違った。完全にさけられたのだが、どう考えたって俊和のせいだった。だれがみたって彼は真黄色で、ジャパニーズ、チャイニーズ、タイ、ネパーリ、チベッタンのどこに属するかという以前に、黄疸というカーストで、肝炎だと知らせながら歩いていた。 「これで帰らないのが不思議だ」と竜司が考えていたくらいで、知らない者がよってくるはずがなかった。さけられたのは、あきらかに俊和のせいだった。彼には白いところがひとつもなかった。目はとくにひどく、瞳をのぞいて真黄色で、だれがみたって度をこした病人だった。うつるかも知れないと考えるのが普通だから、ふたりのちかくにいこうなんて思うはずがなかった。構内は静かでひろびろとして、木が多かった。どの建物も立派な石造りで、学生もずいぶんいた。  ふたりのまえには、肝炎という病気のカーストが大きく立ちはだかり、あかるかったが、どことなく寂しい探検だった。いくところもなく、俊和といっしょに竜司は学生食堂に入った。  学食は日本とおなじでひろいホールがあり、テーブルと脚の部分だけが金属の木製の椅子がずーっとならんでいた。入ったのは午後の二時ごろで、昼食の時間はすぎたから、こんではいなかった。テーブルの反対がわには、配膳用のカウンターと調理室があった。食券を買って、インド人の学生とならんで、プーリーをとった。これは、チャパティーをふたつ折りにして、油であげたものだった。  忘れられないBHUでの昼食で、紙につつまれたプーリーをテーブルで食べた。竜司がひと口かじったとき、ふっと変な感じがした。プーリーをひらいてみると、なかからコンガリとあがったゴキブリがでてきた。かなり立派な、大きなやつだった。いろいろなところで食事をしたが、ゴキブリ入りのプーリーははじめてだった。もちろん、なにかの手違いで、相手がチベッタンだからと思ってわざと仕組むなんて、そんな器用なまねはできるはずがなかった。学生にまじって順番に待ったのだし、揚がってきものを列にならんでとったのだ。しかし、竜司のプーリーはゴキブリ入りだった。それで彼は、ゴキブリをとりだして食べた。完全な熱消毒ずみだったから、騒ぎたてるほどのことでもなかった。インドの学生は、そうしているのだろうと思った。この貧しい国で、ゴキブリくらいで食べ物をすてるなんて考えられなかった。 「ツー・エッグス・オムレツを一生懸命つくった」  ザリムは前回、竜司がホテルをでていくとき、そう主張した。毎朝つくってくれる食事は、いつもおなじパンと紅茶とオムレツだった。ただのスクランブルエッグで、卵ふたつ以外はなにも入っていなくて全部で一ルピーだった。それが、三日目から二五パイサあがった。四分の一ルピー。二五パイサはザリムの駄賃で、「新聞を読みたい」と話せば、いつだって買ってきてくれた。 「チップが欲しい」と彼はいったが、竜司はとりあげなかった。ハッサムが、「やれ」って口をはさんだ。 「ザリムは、途中でごまかしたんだ」と竜司はいった。 「なにをしたんだ」とハッサムは聞いた。 「市場で卵の値段があがっている。そういって、朝食の料金を二五パイサ増やした。だから市場に出向いてみた。卵の値段は、変わっていなかった」と竜司は答えた。  ハッサムはこまった顔になり、ザリムもだまっていた。竜司がホテルをでていこうとしたら、彼が追い駆けてきた。それをみたハッサムが、後ろから大声で叫んだ。 「親父に相談させてくれ」と。  ウエルカムの玄関には、椅子にすわったダニアールがいた。ハッサムが、ことのしだいを話すと、彼はだまって聞いていた。話が終わると目をつむってなにかを考え、「卵の値段は、変わらなかったのか」とたずねた。  ザリムは、押しだまったまま汗をかいていた。彼は、太って汗っかきだった。そのときは、普段よりたくさん流汗していた。  静かな時間があって、ダニアールは竜司にむきなおりいった。 「ザリムに、二ルピーやってくれ」  ひくい声で、つよい意志を感じた。正しいのかは分からなかったが、ダニアールがそういったのだから、絶対のことだ。  竜司は、彼に二ルピーやった。ザリムは喜んだし、ハッサムはほっとした。それをみると、ダニアールはいった。 「またきてくれ。いつでも歓迎する。若いの、元気でな」  それが、四ヵ月まえのことだった。あわせて八週間以上もウエルカムにいたが、ダニアールと話したのは二度だけだ。これが最初で、最後にベナレスを離れるとき、もう一度、話をする機会があった。それは、結末の物語だ。  ダニアールは、朝から晩までロッキングチェアーですごしている。なにを考えるのかは分からないし、傍目には「ただ、いるだけ」だった。四人の奥さんと暮らしていたら、楽しい出来事もいろいろあるだろう。毎晩、違う女と寝られるなんて。もしかしたら、三人でいっぺんに同衾したりするのだろうか。考えるだけでも興奮してくる。合法で、女たちも承知しているなんて、正直いってうらやましい。竜司も男にうまれた以上、一度でいいから、そんな生活をしてみたいと心から思う。  しかし、たいへんかも知れない。  竜司でも、四人の女とつきあうことはできるだろう。だからといって、いっしょに暮らすのは無理だろう。愛人とするのはいいが、どう考えても同時は不可能だ。ダニアールは、現実にそんな生活をおくっている。きっと、秩序が必要なのだろう。  ダニアールを頂点とする家の掟で、やぶられてはならないきびしい規律に違いない。それがなかったら、とても四人の女といっしょには暮らせないだろう。こまかいことまで、全部決まっているはずだ。そうでなければ毎日が戦争で、安らぐときがない。すべて決定していても、解決できない問題が日々起こるはずだ。そのときは、彼がなんらかの基準と尺度をもって決めるのだろう。そこには、きちんとした理由が存在し、みんなが納得する裏づけがあるのだろう。家族は、平和に暮らさねばならないのだから。  ダニアールにしか、分からないことがあるのだ。彼にも、兄弟が何人かいたのだろう。しかし、こんな結婚ができたのは、ダニアールだけだったはずだ。彼は、父の財産を全部ひきついだかわりに、ひとりの女だけを愛することも許されなかったのだ。家をのこすためには、男の子供が必要だ。跡とりがうまれ、家督をゆずれるまでに育つ成人を、確実にえるには、複数の息子が必須だった。そのためには、妻もひとりではすまなかった。ダニアールは、家をのこすという使命をあたえられたのだから、いい事柄も悪い事態も、すべてを負わねばならなかった。  ゴドリアは、いつでも喧騒が支配していた。歩いていると、乞食やサドゥーに、心を揺さぶられた。交差点は未舗装の土の道路で、ベナレスの駅から、ダシャーシュワメードにむかって四〇メートル以上のひろい通りが東西に走り、いっぽうガンガーにそって南北の細い道が何本もあった。そのなかでいちばんガンガーにちかい小径と大通りがぶつかる四つ角がゴドリアで、多くの人が行き交っていた。  露天商がいっぱいでて、いつでも罵声や喚声が渦巻いている。なにを悟るのか分からないが、上半身が裸のサドゥーはおおぜいいて、聖紐を左肩から右脇にかけて好き勝手なことをしていた。女の行者には会わなかったから、開悟は「男の仕事」だった。乞食と病人がいて、腕や脚のない者が、みんなとは違うのを誇示しながら歩き、いざり車にのっていた。いつも、うるさいゴドリアだった。  竜司は一度だけ、交差点が静かになったのをみたことがあった。それは、異様な光景だった。ひとりの女性が歩いていただけで、それで一瞬、静寂になった。その女は、ベナレスの駅のほうからとつぜんあらわれ、ダシャーシュワメードにむかって真っすぐにすすんでいった。真っ黒な女性だった。うえから下まで、あらゆるところが黒くて、つまり、なにもきていなかった。カールしたみじかい髪の女は、大柄でどうどうとし、背筋をピンと伸ばし、全裸のまま、まえをしっかりと見定めながら大地を踏みしめ、大またに大通りを歩いて四つ角をぬけていった。交差点には信号器がついていたが、そのとき、何色だったのかは忘れた。すくなくても車はクラクションを鳴らすこともなく静かにとまり、すべての者の目が女に釘づけになった。  そのときだけだった。ゴドリアは、神々しいほど静寂になり、みんながじっと、女の一挙手一投足をみつめていた。半円形の立派な乳房をもった三〇歳くらいの真っ黒な女性で、股間にも黒い毛が生えていた。女は、ゆっくりと歩いていた。なんだったのか分からないが、彼女がそのまま交差点をぬけ、ダシャーシュワメードの手前で小路を右にまがってみえなくなると、とたんに出来事は忘れられ、いつものうるさいゴドリアになっていた。  竜司はウエルカムに帰ってから、俊和の部屋にいき、この事件を話してみた。彼も、そんな光景はみたことがないといった。 「でも、あると思う。およそ人間が考えられることはなんでもある。ベナレスとは、そういう街だ」と俊和はいった。  いきつけのレストランでチャイとお菓子を食べながら、「帰ったほうがいいと思うか」と彼は聞いた。竜司がベナレスを去るときで、南インドをまわるつもりでいた。 「急性肝炎という病気は、そんなにながくはつづかない。俊和のは、もう慢性化した肝障害だ。日本では、まだよく分かっていないウイルスの可能性もある。しっかり、なおしたほうがいいだろう」  根拠はなかったが、竜司はいちおう医学生だった。いくらかでも医学を知っているらしいと思う者から、なにかをいわれれば、だれでも不安になる。 「そうか。やっぱり無理か」  俊和はいうと、かるく唇をかみながら真剣な表情で考えこんだ。 「じつは、やりのこしていることがある。話をしたい。あとで部屋にきてくれ」  俊和は深刻な表情で、押し殺したひくい声でいった。 南インドにたつ、まえの日の晩だった。俊和は、竜司を部屋によんで、テーブルの引き出しから幾重にも折り畳まれた用紙をとりだし、自分のベッドのうえでひろげはじめた。それは、最後には新聞紙ほどの大きさになった。  竜司は、図柄が最初なにかの絵にみえたが、しだいに地図だと分かってきた。広大なガンガーがながれ、ベナレスの駅からダシャーシュワメードガートにむかうひろい道があり、それと直角にぶつかるゴドリアの交差点が判別できた。さらに北がわにウエルカム・ホテルが記載され、ガンジス河にそってガートの名前が、ぎっしりとかかれていた。  俊和は、地図を作製していた。  ガートとは、ガンガーにつくられた石の階段で、河のなかにむかってずっとおりていき、どこまでもある。水位があがってもさがっても、石段はみえる。とはいっても、年に一回くらいは洪水がくる。その凄まじさは、実際に遭遇した者でも充分に表現できないほどで、竜司が最初にベナレスにいったときに通りすぎねばならなかったのは、フラッドが原因だった。ゴドリアは、完全に水没していた。  竜司は、列車でニューデリーからハウラーにむかっていた。車両は、小高い丘のうえを走っていた。複線になった線路だけが周囲よりも高く盛り土にされていたが、理由は不明だった。ベナレスにちかづくにつれ、竜司にも意味が分かりはじめた。そのとき、列車は大きな海のなかを走っていた。ベナレスは完全に水没し、竜司はぼうぜんと河面をみていた。ガンガーは、川幅を一〇倍にもひろげていた。  ベナレスは、ガンジス河の中流に位置する。ガンガーは、その水源をヒマラヤにもち、この街の西、上流約一〇〇キロにあるアラハバード付近で、ヤムナー河と合流してひとつの大河になる。北インド全体をしめる広大なヒンドゥースターン平原のなかでも、ふたつの河にはさまれるドアーブ地方は、ほとんど高度差がないインド有数の穀倉地帯として知られている。古代から各王朝は、この平原の支配権をめぐって戦いをくりひろげてきた。ベナレスでは、ガンガーはほぼ水平な地点を真北にむかってながれ、市街をはずれると直角にまがって東へながれを変えるので、まるでとまってみえる。上流に大量の降水があったばあい、ガンジス河は、ここで川幅をひろげて対応するだけなのだ。  ガートは、たんなる石段だが、ヒンドゥーは聖なるガンガーで沐浴したり洗濯したりする。そういうときに必要で、水位にあわせて最適の段がつかわれる。便利な必需品で、生活そのものだった。  俊和は、肝炎にやみながら身を粉にして、ガンガーの西岸に点々とつづくガートをさがしていた。八四といわれる沐浴場の六〇以上が、地図にはのっていた。 「どうしても、これを完成させたい。かきあげるまで、ここにいるつもりだった。竜司のいう通り、黄疸は消えない。なおりたければ、日本に帰って治療するべきだろう」  俊和は、真剣な表情でみた。竜司はだまったまま、ベッドのうえにひろげられた地図をながめ、なんでこんなことをしているのだろうと思った。 「観光課にもいってみた。主要なガートの地図はあるが、全部を網羅したものは、どこにもないんだ。それに気がついたとき、おれの仕事だと思って、ここまでかいた」  俊和は、紙をみせた。新聞紙くらいの大きさで、もの凄くこまかいところまで記載された地図だった。いろいろな小径が記録され、建物が全部かかれていた。 「これをかきあげるのに、もう一ヵ月くらいかかる。やりのこして帰らねばならないのは、とても残念だ」  俊和はいい、じっとみた。 「竜司。おまえは、もう一度ベナレスにくる。おれもインドは全部まわったが、最後はゴドリアだ。ここには、この国のすべてがある。おまえも、まわれば分かる。竜司が元気なら、どうしてもここにもどってくる。インドのすべてがある、このベナレスに」  俊和は、ゆっくりとした口調で、確信をもっていった。 「それで、どうしろっていうんだ」  竜司は、聞いた。 「もどってこないのならば、仕方がないと思う。強制でも、頼んでいるのでもない。まあ、聞いてくれ。この地図を完成させたいが、できずに日本に帰ることになるかも知れない。おまえと会うまでは、ひとりで仕上げるつもりでいた。竜司がここを去ることになって、よく考えてみた。もう四ヵ月以上も黄疸がでたままで、なおらない。ヒンドゥーの神さまが、いっている。このガートの地図が完成するとしたら、おれ以外の者の手によってなんだ。きっと、そういうことだ」  暑い夜で、俊和はベッドに横臥していた。竜司は寝台の左にある椅子にすわり、小さなテーブルを移動させ、むかいあっていた。あらためて俊和をみて、とても地図を完成させるのは無理だと思った。彼は真黄色でガリガリに痩せ、いつ死んでも疑問がのこるとは思えなかったし、ここが病室でも不思議はなかった。 「それで考えていた。ハッサムに、地図をたくそうと。まともな日本人がきたら、みせて、完成させてもらいたいと思って」  俊和は、静かにいった。 「ハッサムに、そんなことが分かるのか」と竜司は聞いた。  沈黙が支配する時間がながれて、「終わっているよな」と俊和はじっと地図をみつめながらいった。 「だから、こうする。おまえは、自由だ。もしベナレスにまたきたら、ウエルカムに泊まってくれ。そのときハッサムが地図をもっていなければ、おれが完成させたと思って欲しい。ベナレスに、こなくてもいい。それは運命だ。完成できないで日本に帰れば、ハッサムがこの地図をもっている。おまえがくれば、彼がこれをわたす。その気が起こったら、完成させてくれ。そうならなければ、それでかまわない。ここにこなければ、ずっとハッサムが地図をもち、一生、これはベナレスだ。おまえに希望することは、ひとつだ。もしベナレスに、もう一度きて、完成させる気になり、できたら、そのコピーをおれにおくってもらいたい。日本の住所は、地図につけておく」  竜司は考えていたが、さっぱり分からなかった。俊和とは気があったが、たいそうな約束は足手まといで、とらわれたくなかった。自由にすごすためにきたのに、制限は不必要だった。この作業は勝手にはじめた彼の意志で、竜司とは関係がなかった。よく考えると迷惑で、ベナレスにこられなくなる。竜司は腕をくんで、だまったまま窓からみえる夜のゴドリアの風情をながめていた。 「忘れてくれて、かまわない。重荷に思われるとこまる。竜司は、これをやりにきたのではない。分かっている。忘れてもらってかまわない。すべては偶然だと思ってくれ。偶々竜司がベナレスにきて、予期もせずこの地図に興味をもち、結果的に完成したら、そのときだ。コピーでいいから、おくってもらいたい。頼みはこれだけだ。これも、覚えていなくてもいい。ハッサムも、忘れるかも知れない。あいつはいいやつだが、そんなに律儀でもない」といった。  竜司は、ぼうぜんと地図をみ、困惑の面持ちでだまっていた。 「悪かった。こんな話をして。おまえがいくのが、いよいよ明日と決まり、みょうな気分になってしまった。当たり前だ。竜司にはおまえのインドがあるし、分かっていたんだ。ほんとうに、すまないことをいった。この話は、忘れてくれ。終わりにしよう」  俊和は、竜司をみつめながら、一語ずつ噛みしめて話すと目をつむった。なにかを考えてからひろげた地図を丁寧に畳みなおし、もともとしまってあった引き出しにおさめた。俊和は、リムカの栓をあけて彼にすすめた。  竜司は、むし暑い部屋のなかで、いっそう汗ばむのを感じながら、炭酸水で喉をうるおし、よどんだ空間をみていた。 「じつはな、まえに戦火のアフガンにいった話をしたよな」  俊和は、ひとりで喋りはじめた。 「竜司も知っている通り、あそこは四月に軍事クーデターがあって、大統領の一族が惨殺された。ちょうど戦火の真っ只中だった。おれは国境で警備兵に金をわたし、報道カメラマンとして入国した」  俊和は、右のやや大きな窓を深刻そうな表情で、じっとみながらつづけた。  竜司は、みょうな話になったと思いながら、だまってバックグランド・ミュージックを聞く感じで、ぼんやりと外をながめていた。 「カーブルでひろい道を歩いていた。真昼間で、暑くて乾燥しギラギラしていた。土ぼこりが舞っていたが、そこが国道だった。けっこうな人が行き来していた。とくに歩道はなくて、おれは左の端を歩いていた。そのとき馬鹿でかい音がして、鼻先をなにかがブーンと飛んでいった。おれは反射的に身をふせて、地面に腹ばいになった。ながいあいだ、かなりの弾丸が飛びかった気がした。ほんとうは、二、三分だったかも知れない」  俊和は、そう話してリムカをひと口飲んだ。 「銃声が静まって、やや時間があって、人がまたうごきはじめた。そのときになって、生暖かいって感じた。頬がぬるっとし、手でぬぐってみると真っ赤な色だった。おれは血溜まりのなかにいて、地面はどす黒かった。すぐとなりに男が横たわって、さっき鼻先をかすめて飛んでいった弾は、こいつに命中したわけだ。そいつが狙われるやつだったのか、無差別な発砲だったのか分からない。真っ赤な血をながして、即死したのは事実だった。ぼうっと立っていたら何人かのモスレムが割りこんできて、死体はトラックの荷台にほうりなげられ、車は走りさっていった。そのうえには、一〇くらいの死骸が無造作にのっていた。おれは血まみれでぼうぜんと突っ立っていたが、まわりのモスレムたちはなにもいわなかった。はいていたルンギで、いちおうは顔をふいた。それでも、血痕はシャツにのこっていた。仕方がないから、そのまま宿に帰った。カウンターのまえも通ったが、ホテルの親父は、血まみれになったおれをみても、なにもいわなかった。部屋にもどって、血なまぐさい衣服をぬいでシャワーをあび、紅色の血が染みこんだ下着をかえ、ベッドに横たわってぼうっとしていた。なにを、考えていたんだろう。ぼんやりと真っ赤になった自分の衣服をみていたら、とつぜん身体ががたがたと震えだしてな。恐怖がやってきたんだ。怖かった。いても立っても、いられないほどに。そのときになってはじめて、猛烈な恐怖がやってきたんだ」  俊和は、そう話して真剣な表情でじっと竜司をみた。 「馬鹿ばかしいだろう。おれは、絶対報道カメラマンにはなれないと思った。こんな恐怖ととなりあって、毎日、正常な気持ちでいられるなんて。平然とシャッターを押しつづけるなんて、おれには不可能だと思った。ベトナムでアメリカの若いやつらが、薬中になっていくのがよく分かる。どちらかといえば、それが正常なんだ」 「おれは、佐藤訪米阻止をかかげた羽田闘争でも、新宿騒乱でも機動隊とぶつかった。仲間がジュラルミンの楯で額を割られ、ドバッと血がでてうずくまると、警棒で滅茶苦茶になぐられ、鉄の靴で蹴りを入れられ、救急車ではこばれていくのを何度もみたし、失明したやつも、片手がうごかなくなった者も知っている。三里塚では決定的な証拠写真をとろうと思って、五〇〇〇枚もシャッターを切った。でも、分かったんだ。あれは、みんな遊びだったってことだ。日本の民主主義のなかでやっていた、どこかにルールがある遊戯だった。プロレスみたいなもので、たしかに血はながれる。それは暴力や興奮、違法や悪役を表現するが、でも殺しはしないっていう暗黙のルールが決まっていて、そのなかでやるショーだったんだ。もちろんプロレスだって、セメントじみたときもあるんだろう。予期せぬ事故だって、起きるかも知れない。おれたちだって、真面目にやっていたんだから」  俊和は、大きく溜め息をつき、ぼうっとした目つきで右の大きな窓をまたみつめた。竜司もむきなおると、彼の視線の先にはふかい闇がつづいていた。そこには、厚い雲が覆いかぶさっている気がした。 「連合赤軍の浅間山荘事件でも、警察の狙撃隊は最後まで発砲をためらった。殺すことは、ルール違反だったんだ。相手が、人殺しであっても。戦争って、そうじゃない。実際に人が死んで無造作にすてられて、それが普通だって、みんなが知ることだ。これはまったく違う。そうは、思わないか」  俊和は、竜司をみつめて聞いた。  暑苦しい、むした晩だった。じわっとする熱気のなかで、さまざまな思いが竜司の脳裏を駆けめぐっていた。 「それでな、おれはカーブルを逃げだした。その日にバスにのって、一目散さ」  俊和は、自嘲気味に微かに笑いながら、竜司をじっとみつめてつづけた。 「こんな現実に、耐えられなかった。三日後にはカイバルをこえ、パキスタンに入り、それから脇目もふらずに逃げつづけてインドにもどり、アムリトサルの宿屋について、それでも恐怖はつづいていた。とても、報道カメラマンなんかにはなれない」 「馬鹿にしたおれたちの父親たちは、そんな現実とむきあって暮らしていた。すくなくともある時期、おれのまわりにいるごく普通の親父が、理由がどうであれ、たいそうな勇気で、国や天皇陛下のためと適当なことをいわれ、みんなから万歳三唱をうけて、凄い覚悟で最前線にむかった。そこへいかしたやつらは東京で、戦時中だってうまい飯を食って、好きな女を抱いて暮らしていたんだ。まわりにいた、よれよれになった巨人ファンの体制派の親父たちが、じつはそんなところへいって戦っていた。新潟の土建屋の立身出世話が好きでよ。裸一貫から我慢して権力者になったのだから、絶対自分たちを分かってくれるはずだと、本気で思っていた親父たちが、なんのためだか、ほんとうのところは知らないまま、満州や中国で人を殺し、勲章をもらって、捕虜として生きるのを恥として、硫黄島で玉砕したんだ。もちろん状況はいろいろで、おれだって、特別な事情で逃げだせなくなるかも知れない。すくなくともカーブルから、ちびりそうに、格好も悪く逃げだしたのは事実なんだ。おれの、ほんとうの姿だったんだ」  彼は、だまり、リムカで喉をうるおした。 「それは、俊和の戦いでは、なかったからだろう。アフガンの戦争で、代理ではあっても、君のものではなかったから逃げられたんだろう。外人部隊だったらともかく」  竜司がいうと、俊和はなにも答えずにつづけた。 「アムリトサルの、ゴールデン・テンプルをみた。あの荘厳なシークの聖地で、甘露の池にかこまれてたたずむ、ハリ・マンディルをながめて、いろいろなことを思った。ひと口でいえば、この国は凄いという心からの尊敬の念だ。畏敬だな。おれみたいに、甘ったれた人間が太刀打ちできる人種じゃないってことだ。シークたちは、いつもターバンを巻いて、ちんけな服をきて、髭を生やして、手には変なブレスレッドをつけている。あれが、もうすでに戦っているというみょうな感じだ。戦いになれば一目でヒンドゥーと見分けられ、攻撃目標にされるのを知って、あえてしている、その覚悟だな」 「三〇〇〇年以上も歴史のあるこの国は、なんでも飲みこんで融合し、自分の一部に組み入れてしまう。それなのに、かつて一度も統一されたことがない。そもそも歴史に価値をみとめないから、史書をもっていない。凄い国だよな。戦後の日本にうまれてよかったって、素直に感じる気持ちだ。それでカーブルから帰ってきてから、仏教の聖地でもまわってみようかと思いはじめた。そんなことひとつ、おれにはできなくて、黄疸になり」  彼は、一息ついた。 「アムリトサルには、いったんだよな」  俊和は、竜司をみあげて聞いた。 「そこまでの感慨は覚えなかったが、いくだけは」 「どう感じた」と彼はたずねた。  竜司は、アムリトサルにいったことがあった。スリナガルのハウスボートで出会った、ターバンを巻いたシークの男が、ぜひ一度はいけと、執拗に彼に話した。 「神の国をつくるのは、シーク教徒の夢だ。われわれがインドとパキスタンとに分割されても、すべてのシークが切望していることだ。国民会議派が大英帝国との妥協のなかでイスラムの分離独立をみとめたさいに、ほんとうはまず宗教で、この国を分けるべきだった。グル・ナーナクは、ヒンドゥー教のカースト制度を不当なものだと知り、御前ではすべての同胞に身分差がなく、まったくおなじで、どの仕事でも自由につける。一部のむずかしい教義をもてあそび、信仰を儀礼におきかえる宗教ではなく、熱烈な愛を行為で示せば、神のちかくにいけると説いたのだ。われわれはグルの言葉を真実とみとめ、シーク教徒の国、カリスタンをふたたび建国する事業が、現世においてあたえられた使命だと考えている。そのために、自己を犠牲にするのは、神への愛が本物であるかどうかを示す目安になる。いかなる敵対する勢力にも一歩もひかず、カリスタンを建国する、これがシークだという証しなのだ。大英帝国と闘いインドは独立したが、パンジャブは分割された。この国は言語の違いによって、一四の州に分けられたが、あくまでヒンドゥー教徒のなかで行われるべきものだった。シークはヒンドゥーではなく、イスラムでもない」  ターバンを巻き、髭を生やした四〇歳くらいの腹のつきでた男は、家族をつれてハウスボートに泊まっていた。子供がふたりいて、灰色の服をまとった奥さんは、細面の美人だった。  スリナガルは森にかこまれた美しい街で、いつもすんだ空気に満たされていた。カシミールの避暑地で、北に大きな湖があり、多くの舟がホテルとして浮かんでいた。大きさは、小型から大型のものまでさまざまだった。ながい竿をもつ船頭たちがハウスボートの両脇に一〇人ちかくならんで、声をかけあいながら肩にかけた細ながい棒をいっせいに水底にさし、ボートの位置を変えていく様子は迫力があり、うごく王宮にみえた。  竜司が泊まったのは、中型の舟だった。船頭は数人いて、家族ですごすデラックスな部屋やスイート・ルームもあった。そこで出会ったシークの若い男が、彼にちかより民族の話をはじめたのだった。左の腰に短剣をぶらさげて、やはり右の腕にはピカピカした金属のブレスレッドをつけた男性は、竜司にむかって、 「シークを理解して欲しい。アムリトサルにきて、ゴールデン・テンプルをみてもらいたい。われわれは、ヒンドゥーとはまるで違うのだ。このことを、世界のみんなに理解してもらいたいのだ」と熱烈に話した。  湖の周囲は、みわたすかぎり緑の灌木に覆われ、パミールにつらなる空はどこまでも青く、水辺にも葦が隙間なく生いしげり、水面にも一部は浮かんでいた。竜司がおとずれたのは五月のはじめで、すべてのものがうまれ変わる季節で、大気は芳しい匂いに満ちていた。湖面を吹く風もおだやかで、新緑のすがすがしい甘い香りをのせて、ゆっくりと通りすぎていた。 「神聖な場所だった。神さまが住んでいると感じたよ。幾何学的で、どちらかというと、ヒンドゥーよりもイスラムの影響がつよいと思った。モスクとは違うが、大理石の白い道はタージを連想させるものだった」  竜司は、聖歌につつまれた、黄金寺院を思い起こした。白い服をきた信者たちが、天上にもとどくと思われるほど高くてすんだ声で、グルをたたえる詩句を、朝から晩まで一日じゅう歌うのが耳に入った。足音までが聞こえる静寂と、心にひびく聖歌。荘厳な神殿と、それをつつみこむ神聖さ。どこまでも、すみわたる空の青と池水の蒼。そのハーモニーのなかで、甘露の池にかこまれた、本山のハリ・マンディルをみた。そこは、ただただ清浄で穢れがちかづくことができない別世界だった。 「シークが住むパンジャブは、カイバル峠とデリーの通り道にあたるから、どれだけの民族が戦い、どのくらいの量の血を大地にながしてきたのか、神さまだってもう数える気がなくなるほどだ。インドにながくいると、いままでとうぜんとしてきたものに、もう一度考えなくてはならないことがたくさんあるんだと分かる。そもそも人は、ほんらい平等なんだろうか。カーストとは、特別な考え方なんだろうか。きっと竜司もインドじゅうをさ迷って、最後にこの問いに辿りつくんじゃないかと思う」  俊和は、ぼそぼそと話し、また熱気のなかで汗ばんだ額を布でぬぐった。  それからべつの話をした。俊和は、自分が私生児で、お袋が娼婦だったと話しはじめた。彼は、高校をでてすぐに結婚して男の子供がうまれたらしいが、二〇歳のころには別れてしまったらしい。 「私生児も、きっとカーストだ。だから、おれの子供も、また私生子だ」と俊和はいった。  カーストは、こうしてできるのかも知れない。俊和が、そのときなにを考えたのか分からないが、話したのは、きっとみんなほんとうのことだったのだろう。 「物心がつくころには、お袋をふしだらだと思った。ほんとうのところ、おれはだれの子かも分からないんだからな。結婚して子供をつくって離婚してみると、よく育ててくれたと思って、いまは心から感謝している。戦後のどさくさのなかで、お袋は懸命に生きてきたんだろう。とても人さまに話せないことも、たくさんしたんだろう。そのなかで足手まといになるのを知りながら、おれをうんだんだ。堕胎の選択だって、考えたはずだ。お袋がひとりで決めて、自分の胸だけに秘めていたんだと思う。なぜ、おれをうんだんだろう。考えても分からない。事情があったんだろうが、話なんてしたことがないから知らない。うまれた子供をみせたとき、可愛いい、そっくりだってお袋はいった。おれは、親父にも似ていたんだろう。離婚したと話したときは、ずいぶん寂しそうな顔をした。それが子宮癌で、あっという間に死んでしまった。お袋の生涯とは、なんだったんだろう。離婚後の死は、応えたよ。恩だけうけて、なにもしてやれなかったからね。でも、きっと納得していたんだと思う。お袋は自分の判断に、人からなんといわれようとも、後悔なんてしなかったんだろう」 「おれは、悔恨の念に駆られつづけている。くだらない、さもしいよな。いっそうまれてこないほうがよかったなんて、お袋に申しわけないよな。自分がいやになるんだ。ウエルカムのベッドで寝そべりながら、こんなことならこなければよかったとか、とうてい無理な釈迦の真似事なんて、できっこないのに。彼女と結婚したのが、そもそも間違いだったとか。いい女だったのに、おれが勝手に離婚したとか。最低、子供はうまなければよかったとか。自分のあらゆる判断に、おれは後悔していた気がする」 「セクトにいたんだ。いま思うと、おれはなんと闘争してきたんだろう。こうして組織から離れて考えてみると、自分のお袋と戦っていた気がする。じつは彼女こそ、この世でたったひとりの味方だったのに」  俊和は、自嘲気味に笑って「あとにならないと分からないことは、いろいろあるよな」といった。だまっていたが、やがて「元気で旅をしてくれ。おれができなかった分まで」となにやら、やけにしんみりとした口調になった。 「こうして、おまえとここで会えたのもひとつの縁だ。偶然ではないと思う」  俊和は、おもむろにベッドから立ちあがり、部屋のすみにおかれたバッグの中身をごそごそとさぐりはじめ、「おまえが元気に旅をつづけられることを祈願して、これをやる」といって、紫檀の数珠を竜司に手渡した。いい香りがした。  とつぜんの贈り物に竜司がとまどっていると、「ふかく考えないでくれ。気まぐれだ」と俊和はいった。  三、ゴドリア  竜司は、六週まえにベナレスにきた。俊和と別れてから三ヵ月がたっていた。  ベナレスにもどってきたとき、彼はいなかった。当たり前だろう、そんなにながくはいられまい。俊和と会いたいとも思ったが、暗示じみた言葉や予言じみた話が気になって、竜司にとってベナレスは、いきにくいところに変わっていた。そういう意味からは、すでに街は特別で、どこかでさけていたのだった。インドをまわると、やはりベナレスは面白そうだった。俊和に会ったことはもちろんだが、ほかの街とは違って、インド人がここで往生しようとの考えるはこんな気持ちなのだろう。彼が最後までいたのは、ベナレスで死ぬつもりだったのではないか。それを、竜司が追い帰してしまったのかも知れない。そんな風にも思った。  竜司は俊和にひとつの「約束」だったか、「借り」なのか、なにか「因縁」をつくったのかも知れなかった。  夜行でついた朝のベナレスは、冷えびえとしていた。駅の周囲は、それまでまわったインドのやや大きめの街と、なんにも変わらないと感じた。 「なぜ、ここを特別に思ったんだろう」と竜司は考えた。駅まえでリクシャーを頼んで、「ゴドリア」とひと言いった。それで、車はうごきはじめた。なつかしく感じられるダシャーシュワメードにむかう大通りを走っていくと、ゴドリアの交差点と、多くの行き交う人の群れがみえた。 「左にまがってウエルカムへ」と竜司は口にしていた。  石造りの玄関につづくホテルの階段をあがっていくと、カウンターに入る手前の軒先で、清楚な白い服をきた白髪のダニアールがロッキングチェアーに揺られていた。彼は、竜司をみて微笑んだ。何事かをつげると、受付にいたザービルは、すぐに二階にいった。ほどなくハッサムがやってきた。 「よくもどってきてくれたな。必ず、もう一度会えると思っていた」  ハッサムは満面の笑みを浮かべて竜司にいい、手をつよくにぎりしめた。彼に案内されて、二階の一室につれていかれた。ハッサムは、再会をずっと待っていた様子だった。竜司が案内された部屋に荷物をおきベッドに腰をおろすと、「チャイはどうだ」と聞いた。 「それはいいね」と答えると、ハッサムは大声でザリムをよび、ふたり分のお茶をもってこいと命じた。彼は旅の行程を聞いていたが、「ほんとうに、旅行者とは分からないものだな。インド人にはこの点は理解できない。旅が目的なんて、馬鹿げていると考えないのか」と真剣な表情でいった。 「ハッサムには、どうしたって理解できないだろう」と竜司は思った。扉がノックされ、ザリムがポットに入ったチャイをかかえてきた。 「元気そうだな」と竜司がいうと、彼はまじまじとみながら、「また、ながくいてくれるんだろう。会えて嬉しい」と答えた。 「また、朝飯をお願いするよ」と竜司はいった。 「まかしてくれ」と彼は膨らんだ頬をさらに緩めて答えた。 「ちょっと、チャイを飲んでいてくれ」  ハッサムは、チャイカップにお茶を注いで、ザリムにむこうにいけという仕草をしながら部屋をでていった。ほどなく、大きな封筒をもってもどってきた。竜司がその袋をながめていると、ハッサムは話しはじめた。 「俊和は、日本に帰るといってでていった。覚えているか。そのとき、竜司が必ずここにもどってくると話していた」 「どのくらいかかるのか」とハッサムが聞くと、「はっきりとは分からないが、たぶん三ヵ月くらいだろう」と俊和はいった。  彼は、カレンダーに丸をつけておいたのだそうだが、日付が三日しかずれていなかったらしい。 「俊和と約束したことを、覚えているか」とハッサムは聞いた。 「なんの取り決めもなかった」と竜司は答えた。  ハッサムは、考え深げな真面目な表情になっていった。 「俊和も、そういっていた。特別な約束はないが、竜司はもう一度くることになっている。これは神さまの決定だから、病気にでもかからないかぎり、だいたい三ヵ月でもどってくると話していた」 「俊和の話の通りだったことに驚いたのか」  竜司が聞くと、ハッサムは直接答えずに、「そのときには、これをわたせといわれた」と口をひらいた。  彼は、先ほどもってきた大きな封筒を手渡した。 「中身を知っているのか」と竜司は聞いた。 「みせてもらった」 「俊和は、おれに完成させて欲しいと考えていたらしい」 「Ryuji, How do you feel this ? 」と彼は聞いた。 「Whatでないのか。Howか」  竜司は、不審な表情でハッサムの言葉をくりかえした。 「まあ。Whatでもいいが、Howというほうが適切に思う」 「俊和は、いつまでここにいたのか」 「おまえが宿をでてから、一週間くらいして帰った」 「黄疸は、とれなかったんだな」と竜司が聞いた。 「そうだな。最後まで黄色かった。でも、最初ほどでもなかった。ここにあらわれたときは、ひどい状態だったから、ずいぶんよくなっていた。竜司に日本での治療をすすめられたからだと、俊和は話していた」とハッサムは答えた。 封筒の中身をとりだしてベッドにひろげてみると、以前みたときに比べ、ガートの数は増えていた。竜司は、地図をみつめ考えていた。彼は、裏がわをめくってみた。地図を表にもどし、今度は先ほどの封筒をもう一度とりだし、なにも入っていないのを確認した。 「ふうん」と竜司は思った。地図をみいったとき、彼は不思議な感情に満たされた。うまくいえなかったが、これは自分にとって、じつはとても大切なものではないのか、そんな思いだった。 「俊和は、これ以外に、なにかのこしていかなかったのか」と竜司は真剣な表情でハッサムに聞いた。 「じつは、もうひとつ預かっている。いっしょにわたすなって俊和がいったから、こうしただけだ。すべては彼の意志なんだ。隠していたのではない。竜司が地図をみてこまった顔をしたら、封筒はわたさないで欲しい。それが、希望だってな。いま、おまえはこの地図をみて、いやな顔をしなかった。どちらかというと、嬉しそうにみえた。どちらであっても、わたそうとは思っていたのだが」 「そうか」  封筒をみながら竜司は、また考えはじめた。 「俊和は、こうもいっていた。竜司は、考えた挙げ句、三ヵ月たってやってくる。整理するのに、そのくらいの期間が必要だと。なんだか、よく分からないことだ。日本人には、不思議なところがあるんだな。民族が違うから、流儀は異なるのだろうが」  ハッサムは、こまった顔をして顎髭を撫でた。 「これで、おれの仕事は終わった。肩の荷がおりた感じだ」といって、じっと彼をみつめた。 「竜司。ゆっくり滞在してくれ」  ハッサムは、さばさばした表情で部屋をでていった。  封筒の表に、「竜司へ」とかかれていた。なつかしい気がした。ここへきたのは、正しい選択だったと思った。封を切ってとりだすと、手紙が角張った字でつづられていた。何回か清書したらしく、とくに誤字はなかった。  竜司に  南インドで、楽しい思い出をつくってきたと確信している。あそこはドラヴィダだから、いつも独立運動があって、インドも南と北ではかなり文化が違うと思う。南インドは米もうまいし、土地も豊かだ。マドラス以外は、物乞いの数もすくない。いくつもの面白い事件に出会っただろう。どこへいっても、ヒンドゥーのなかにいるかぎりベナレスは特別だ。きっと、帰ってきてくれると思っていた。  地図のことは、つづけても、やめてもいい。竜司の選択だ。どちらでもいいから、日本に帰ったら地図と手紙をおくってもらいたい。ベナレスにきたのが分かれば、それで充分なんだ。この地図をみせた日のことは、きっと生涯忘れないと思う。おまえはおれの話を真面目に聞いてくれた。あのとき、「ああ、分かったよ」。「まかしてくれよ」なんて安請けあいはしなかった。それで、「竜司と友だちになれてよかった」と思った。おれが考えた通り、おまえは嘘がつけない人間だ。当惑したのは、よく分かった。しかし、ガートの話だけは、しておきたかった。おれはこの街で、たったひとりで四ヵ月ちかくをすごしながら、帰っても仕事はないし、肉親はいないし、みんな終わっていた。ザリムとおなじだ。ここにくるまで、おれは自分が決着していることさえ気づかなかった。ウエルカムの小さなベッドに、ひとりで四ヵ月も横たわって、かさかさの黄色い皮膚をみながら、過去に起こった事件を考えていた。  この仕事を終えたら、ベナレスで死のうと思っていた。上流の橋から身をなげ、母なるガンガーで腐乱し、魚に食べられ、その一部になる。それだって、多くの人が希望しても、できないことに思えた。おれをさがす者もいない。できた地図は観光局に差出人不明でおくり、ウエルカムも綺麗に清算する。ダニアールと世間話を交わし、苦労話も聞いてやり、ハッサムにもザリムにも派手にチップをやって、みんな喜ばす。朝ここをたってガンガーの上流で荷物をながし、夕方までぶらぶらする。人目が途絶えた夜にルンギもなげいれ、裸でガンジスに抱きあいたいと本気で考えていた。竜司がおれの話をいい加減に聞き、地図の作製を安請けあいしたら、ガンガーで死ぬつもりだった。信じられる友人のひとりもみつけられない、くだらない人間の最後としては、神さまもお目こぼししてくれる気がしていた。  おれはセクトから分かれて、ここまでやってきた。なんだったのだろう。おれの人生とは。おまえのいい方をすれば、日本にいたときも、自分の戦いではなかったわけだ。馬鹿ばかしく、端から道化だった。お袋について考え、いまできるのは、供養としてすべてのガートを巡礼することだと思った。ある種の贖罪で、その証しとして地図をつくりはじめ、おまえと出会った。いま、離ればなれになって、未完で終わるガートの図面をまえに、人生を振りかえってみた。おれは、すべてが燃えつきたという思いで暮らしていた。じっとガートの地図をみていると、おれたちの時代は終わったのではない。そんな気がした。生きているかぎり、おれたちの時代ではないのか。なにもかもやりつくし、終わった気になっていたが、分からなくなってきた。  よく考えてみると、おれには子供も別れた妻もいる。まだ三〇歳で、釈迦だってあの時代に八〇歳まで生きたのだ。ガンガーで魚の餌になるのには早すぎるのではないか。ヒンドゥーの神さまは、それを教えるために、ベナレスでおまえに、ひきあわせてくれたのではないか。そうでは、ないのか。ここでほんとうに死んでしまったら、子供は間違いなく私生児だ。おれは、母とおなじ過ちを犯したのだろうか。違うだろう。母はうんでくれたのに、おれは殺そうとしている。おまえと出会うために、インドを旅していたんだと思いはじめた。また会いたい。地図なんかどうでもいい。  昨日、アシュラムと話をした。やつのガートで、おれは自分が生きてきた、いままでの事件や、ガンガーで死ぬつもりだと考えたことを、ずっと日本語で話した。日が沈んだ黄昏のときで、河面をゆっくりと甘い匂いのする風が吹き、アシュラムはいつものムシロに胡坐をかいていた。じっとみると、ひどくやつれていた。やつのまわりには、三人の僕がいる。普段は彼らが割って入り、自由にはさせてくれない。昨日はおれがそばにいって勝手に話していると、アシュラムが右手をあげて僕を制した。やつは、だまって聞いていた。おれは勝手に話をしながら、心にひびく温かい気持ちを感じた。子宮につつまれた平穏で、柔らかい風だった。湿り気のある、アシュラムに満たされた世界で、小一時間くらい勝手に話をし、最後に合掌し一〇ルピーを喜捨した。すると、彼がおれに手をあわせた。そのとき、感じたんだ。すべての世界がひとつになって。うまくいえないが、生とか死とか、豊かさとか貧しさとか、そんな部分ではなく、全部がいっぺんにやってくる感じで、陳腐ないい方だが、「神の愛」を感じたんだ。甘くてはちきれる、柔らかく暖かい、好ましい思いだ。 「まだ死ぬには若すぎる。やりなおして、生きてみろ」といわれた気がした。ベナレスは、冥府とつながっている。これほど、ちかくに死を予感させる街をみたことがない。そのいっぽうでベナレスでの往生は、ヒンドゥーがもつさまざまの通過儀礼にすぎないとも思える。聖なる連環の粛々とした、ひとつの通過点なのだ。  生きてみようと思いはじめた。格好が悪くても、みっともなくてもいいから、一生懸命、生きのびよう。神さまはおれを生かしてくれた。そう、思いはじめた。お袋は、格好悪い生きざまを、どうどうと息子のおれにみせてくれた。そして、けっこう格好よく死んだ。おれは権力と戦ったつもりだったが、じつは世間から逃げいていたんだ。別れた妻とも話しあい、やりなおしてみたい。ベナレスは、終わりではなく、はじまりなのではないか。ザリムだって懸命に生きている。逃げずに戦っている。自分だけが、逃げだすなんてできない。おれもまた、自己のダルマを果たさねばならない。  母国に帰って、まずは病気をなおすことにした。  また日本で会いたい。ぜひ手紙をもらいたい。           俊和より                 ベナレス、ホテル・ウエルカムにて つぎの日の朝、ハッサムがやってきて部屋が変わった。泊まっていた旅行者は、べつの場所にうつされたらしい。ここは見晴らしもよかったし、ウエルカムではいちばんいい部屋みたいだった。ハッサムの提案だったのか、ダニアールだったのか分からないが、特別な好意に違いなかった。だから、すこしながくいることにした。ザリムはまた朝食をつくってくれたが、卵ふたつのオムレツで一ルピーだった。卵の値段がさがったのか、特別には聞かなかった。三日目からは、朝食には金がかからなくなった。ザリムが竜司のポリエステルのTシャツを欲しいといったからだった。それで、交渉になった。 「五日分だ」とザリムはいった。 「一〇日分でなければ駄目だ。いやなら、食事代は金で払う」  ザリムはかなり考えいろいろ悩んでいたが、Tシャツは一〇日分の朝食になった。この国の人にとって、ほかの者がもっていないものを所有するのは、高いカーストの証しだ。彼がポリエステルのシャツを欲しがるのも、外国人とつきあいのある自分のジャートを自慢したいだけだった。竜司のTシャツは、ザリムには小さすぎてとてもきられない。だから彼は、自分がつけるために欲しいのではない。  普段、気づかないだけで、日本にもカーストがある。わが国では宗教は曖昧だが、金や職業による身分制は存在する。それがやぶられても罰則がはっきりと決められていないので、しばる構造が違う。  インドでは背くとたいへんで、村八分になる。たとえば若いふたりが恋に落ちカーストをやぶると、待っているのは賠償で、女はだいたい売られるらしい。いちばん金をだした者の慰み者にならなければならない。ヒンドゥーは一夫一妻だが、金持ちが買った女性になにをしようと不問にされるらしい。そんなときは、女が死をえらぶことも多いだろう。そうすると金を払ったやつは大損で、文句は女性の家族にいく。女の一家は、苦情にだまって耐えなければならない。家族の一員がカーストをまもらなかったのだから、そのくらいの覚悟はできている。しかし、絶対うまくいかないと分かっているのに、なぜやぶるのだろう。身内を不幸にし、だれも幸せになれない。心中ならまだ理解できるが、なぜ万分の一にかけるのだろうか。たとえ運よく逃れられても、住む土地もなく生きていかねばならない。のこされた家族に、たいへんな迷惑をかけるのに理解ができない。  俊和の置き土産は、地図だった。  竜司は、意志をひきつぐことにしたが、特別な理由はなかった。最大の事由は暇だったからだが、最初の日、地図にそっていちばん川下のガートにいってみた。道はいろいろかいてあったが、近道に思えるところを図面だけをみていった。その通りいくと、めざしたガートがあって感激し、面白そうに思った。こうした目的で地図をつかってしまうと、完成させないと俊和とは二度と会えない気がした。それで、彼の意志をひきつぐことになった。  朝から毎日、ガートめぐりだ。四国の巡礼とおなじで、たいへんだった。この仕事は、まず俊和の地図が間違っていないか、たしかめることからはじまった。かかれた場所をひとつずつ確認するのだが、かなり根気のいる作業だった。俊和がはじめたプロジェクトだったが、完成するまでベナレスを離れることができない。運がよければ適当な人と出会って、この意志をさらにひきついでもらえるかも知れない。  六〇のガートを確認するのに二週間かかった。ほとんどは正しかったが、いくらか間違っている部分はかきなおした。ガートにつづく道は迷路そのもので、それぞれに名前がつく幅が二メートルくらいの小径だ。ひしめきあい、そびえ、無彩色の、覆いかぶさる石造りの建物のあいだをぬけていくが、相互の位置関係を知るのは容易ではない。実際に地図をつくってみると、俊和の苦労がよく分かった。考えながら歩いていると、道に迷ってしまう。確実な目印がまず必要で、それを中心に地図をつくっていく。  そうやって探索していると予期もしない場所にでることがある。ベナレスに死ににきた者の宿泊施設とか、火葬場の材木置き場とか、かったいが暮らす掘っ立て小屋とかさまざまで、またそこを目印に、かきこんでいく。こうしてガートの地図ができあがるのだが、苦労の連続で、なんでインドでこんな仕事をあたえられたのか悩んでしまうほどだった。こんなに努力したのは入学試験以来で、毎日マップの空白部分をひとつずつ埋める作業がつづいた。  ベナレスに死ににきた者が泊まる宿泊施設は、だいたい二階だてで、病人は一階にいるのが普通だった。日本の病院では死がちかづくにつれ、階があがっていくばあいが多く、たとえば三階から四階、さらに五階という感じだ。ここでは違って、死にそうになると下におりてくる。すこしでもガンガーのちかくでの往生を望んでいる。目のまえで死んでいく人に出会った場面も経験した。多くの親族にかこまれたときも、連れ合いがひとりのばあいもあった。  死んでから棺桶に入れられて、ベナレスにおくられてくる人はおおぜいいる。インドじゅうから送達されるらしいが、そんなことができるのは一握りの金持ちだけだ。遠路はるばるとはこんでくるのは、相当な大金持ちに違いなかった。普通はそんなことはできないから、ガンガーのちかくで死ぬ順番を待っている。遺灰をながすためにおとずれる人だけでも、年に五、六〇〇〇はいるらしい。  河にそって八〇以上のガートがあるが、もっとも有名なのは、マルカルニカーだろう。火葬場で、竜司は毎日そこに通い、なにがどう行われるか、克明に脳裏にきざんだ。焼かれる者のとなりでみていたから、家族は外部職員だと思っただろう。  火葬場は、英語ではバーニング・プレースという。メインのマルカルニカーが有名すぎるが、ハリスチャンドラというサブもある。火葬場も、ガートであるのは変わりがない。さすがに灰がふってくるマルカルニカーの水をくんで、チャイ用にもっていく人はみなかった。朝のチャイはガンガーの河水でする者はけっこういて、そこで沐浴中に排便しても関係なく、聖なる河に触れてしまえばその瞬間、穢れはすべて清浄なものに変わるらしい。  火葬場のガートは、子供にとって最高の遊び場らしく、ときには焼けのこった骨なんかが浮かんで面白いから、マルカルニカーのちかくではしょっちゅう泳いでいる。多少離れて遊ぶのが礼儀で、あまりちかづくと焼けた灰が落ちてきて火傷をするから、おたがいに注意を払っているようだった。  死体は竹でつくった担架にのってやってきて、担ぎ手たちは掛け声をあげるが、なにをいっているのかは分からない。シヴァを賛美しているのは間違いがないだろう。マルカルニカーの裏手には、尖塔が八〇〇キロの純金で葺かれた、シヴァ神を祭るヴァイシュヴァナート寺院がある。ガンジーの改革によって、アウトカーストまで寺に入ることが許可されていた。竜司は、日本人という不可触民よりさらに卑しい身分なので、なかに入れなかったから、内部がどうなっているのか知らなかった。  担架が紅い布につつまれた者は女で、白いばあいは男だった。ガートちかくの階段で縁者は別れをつげると、担ぎ手だけになって、ガートの石段をくだり、ガンガーの河水に遺体をつけた。みんなは、一〇メートルほど離れた塔のそばから肉親や知人の死体が焼かれるのをみるが、この付近に竜司はい。  マルカルニカーに興味をもって毎日通う彼が、こんなにちかくで観察しても注意をうけないですむのは、不可触民だったからだろう。竜司が身分をこえ、そばにいる家族に話しかければスキャンダルになって、すぐに排除されるに違いなかった。  マルカルニカーで女性の数がすくないのは、感情が激しくて静かにできないという理由で制限されているらしい。これも、皆無ではなく、女がかたわらにいるばあいもある。カーストによるらしく、涙ながらに、すき通る小さな声で歌を歌っている女性の姿をときどきみかけた。  竹の籠から遺体をおろして、木材のうえにのせる。さらに、薪をつみあげ油を垂らして火をつける。火つけには藁がつかわれ、基本的には足からでも頭からでも燃やしはじめていいらしい。喪主と思われる男が、足がわにつけるばあいが多かった。ただ、火がついた藁は、地面のちかくにくべられた。  薪は、四キロ一ルピーで、死体を一体燃やすのに四、五〇キロは必要だった。だから、薪代は一〇ルピーくらいになるらしい。これは純粋に薪の値段で、火葬の総額は暴利でもなく、通常の形式なら二〇〇ルピー程度らしい。働き盛りの警察官の月給が五〇〇ルピーだから、公務員の二週分の給与に相当するのだろう。  火つけをすると、火のついた藁をもって死体の周囲を五度、回転する。火炎がつよいと、ぐるぐるまわれないから、頭のほうだけを五回ほどまわる。火つきをよくするためにパウダーをまくばあいもあった。生焼けはぐあいが悪いから、金持ちは薪も多いし、粉末も余計にばらまいていた。そのほかに油脂をぬったり、特別に綺麗な木片のうえに死体をのせたりした。  三歳以下の子供は、燃やさないらしい。まだヒンドゥーになっていないという理由だ。理論的には聖紐の儀式、ウパナヤナを終えて再生しなければヒンドゥー教徒になれないから矛盾があると思った。そうした理解しがたい問題は、バラモンがながい教義をつくって、さまざまに都合よく解釈しているのだろう。  サドゥーは焼かれず、死んだばあいは「重し」として石を身体にしばりつけ、河になげこむといわれていた。しかし、竜司は現場をみたことがなかった。  サドゥーは、世間の束縛をすてた人、サンニヤーシーともよばれる出家遊行者で、インド全土に四、五〇〇万人いるといわれていた。竜司がみるかぎり、みんな聖紐をつけていた。彼らは、自分の持ち物を人にあたえ、家族の財産にかんする一切の権利を放棄するらしい。  シャンカラは、サドゥーになるさいには自己に供犠の火をとりこみ、葬儀もすませて聖紐も焼けといっていた。もし普通の生活にもどれば、二度とヒンドゥーになれず、子々孫々、アウトカーストだとかいていた。このさいに、ひと房の頭髪もすてろと記述している。遺棄された髪とは、いうまでもなく去勢を意味していた。  この出家制度は、興味ぶかいと竜司は思った。個人がまったく無視される、厳密な相互依存を特徴とするカースト制度によって秩序がたもたれている。そのいっぽうで、現実世界にはり巡らされたカーストの網の目をぬけだし、一個人をうみだす制度もあるのだ。自由になりたければ、社会をすてればいいのだ。  サドゥーは、すでにヒンドゥーでもなく、まったく制約がなく、すべてが許されている。人によっては足元に額ずかれ、かなりの尊敬もうけている。ただ、社会にもどってきてはいけないのだ。  俊和のいう深洋世界とは、権力をもつ王侯が宗教的な司祭にはなれず、さらに高位なバラモンにより力を制限される二重権力構造をさしている。王がいない現在でも、村落共同体には土地にたいして、いちばん上位の権利を有する支配カーストが存在し、司法権の一部を所有しているらしい。このカースト制度は、決して昔話ではない。釈迦がヒンドゥー教を否定して仏教を創設したとき、王侯はバラモンから逃れて自由になり、一時的にはよかったのだろうが、現実には祭儀ができずにこまったのではないか。  王がおさめているのは現実社会で、仏陀は社会をすててしまったのだから、おなじ次元にはいない。釈迦が俗世を遺棄したのは、仏伝にはくどいほどにかかれている。社会に住む王が、司祭をかねられればバラモンは不要だろう。それですんだなら、仏教が衰退する理由もなかった。実際の政治が行われる現実社会では、バラモンは不可欠な存在だったのではないか、と竜司は思った。  おおむねが燃えてしまうと、一塊の骨をとりだしてガンガーになげこむ。それから、河水が満たされた素焼きの陶器を頭上にのせ両手でささえた者が、目のまえに河、背後に焼かれた遺体という設定で、壺を後ろにほうり落とす。そうすると土器は灰のうえに落ち、砕けて水が飛びちる。これは、たんなる儀式で、火が消えることはない。燃えのこった薪は片づけられ、灰はガンガーにすてられる。壺の儀式は、ないばあいもあるので別途の費用がかかるらしい。  墓参りのとき、墓石に水をかけるのは、ガンガーの名残だろう。ここで行われる火葬には、「死者の姿をのこさない」という意味があり、火で焼却し、灰も聖なる河にかえすから、基本的には写真撮影は「厳禁」となっている。  マニカルニカーは、基本は上下二段で、その差別は不詳だった。なにかの差があるのだろうが、分からないことは多かった。  こうして死体が焼かれ、灰がガンガーになげられ片がつく。ひとつの葬儀が終わり親類縁者が去り、燃やした薪に水がかけられ、ぶすぶすと音を立てている。そうすると、ちかくに住む子供が炭をひろいにやってくる。  マニカルニカーの近辺は貧民街だから、たぶん正面からみて右手の建物に住人か、さもなければ、またその炭火を売る不可触民の仕事なのだろう。こうした死という穢れにたずさわる人びとは、すべてダリッドだろうが、金属製の中華なべに燃えのこった「かす」をひろいあつめていく。水がかかってぶすぶすしたものは不適切で、赤くなければ意味がない。そうした燃えている薪をみつけて、竹の棒をつかってたくみに炭をひろうのは、特殊な技術が必要な作業にみえたが、子供の仕事だった。  竜司がみていると、こうしたダリッドのあいだにもさらに序列があるらしい。燃えカスを女の子がひろっていると、火葬場のちかくで泳いだふたりの男の子がきた。みんなおなじくらいの年だったが、ひとりの男の子供は、焼いたのこり火で腰布のルンギを乾かそうとし、灰がついて汚れてしまった。少年は、少女に布をわたした。女の子は、ガートにあらいにいった。よくしぼってもってきて、ルンギを男の子にわたし、また炭ひろいをつづけていた。そこには、上下関係に似たものがあると竜司には映った。  毎日、こんな出来事を観察していた。考えると馬鹿みたいだし、どうみても、とても利口な者がすることとは思えなかった。あとは一生懸命歩く行程の連続で、はっきりいって毎日かなりいそがしかった。俊和は、こんな激しい労働をしていたのだから肝炎がなおるはずがなかった。帰国までに、完成させねばならない。不可能なら、適当な後継者をさがす必要があった。未完のまま終わったら、俊和に連絡もできなかった。なにがなんだか分からない袋小路で、作業そのものがベナレスにそっくりだった。 「でてきた。きたんだ」  ハッサムは、叫んだ。 「早くきてくれ」 「しょうがないな」  竜司は、立ちあがりながらいった。ハッサムのちかくにいき、窓からゴドリアに通じる道を、ふたりでみた。  鮮やかな緑のサリーだった。素晴らしい美貌で、ながい黒いストレートの髪が中央から分けられていた。顔の全部を知るには遠すぎたが、オーラを感じた。ハッサムのいう通り、驚くべき美人であるのは間違いがなかった。  となりで、変なうめき声がした。ハッサムをみると真っ青になって、がたがたと震えだし、窓から一歩ずつ後ずさり、とつぜん泣きだした。  竜司にはなにが起こったのか、さっぱり分からなかった。  ハッサムは、ベッドで嗚咽をはじめた。ごんごん寝台をたたきながら泣いていた。竜司のかけ布団を自分の額に押しつけて、もう号泣だった。 「なにを考えているんだ。どこにでも、わけの分からないやつはいる。やっぱり、こいつは、だいぶおかしい」  竜司は、その様子をみて思った。  素晴らしく綺麗な緑のサリーだった。  緑色が美しい色彩だと、竜司はインドではじめて知った。都会育ちの彼は、緑に馴染みがなかった。太陽の光線がつよいほど、それを照りかえす力をもつのは緑色だけだった。日の光があたると、緑葉は影をつくりながら、輝くグリーンと赤みがかった補色の緑に変化した。赤い陰影の翠緑は、光る緑色をいっそう映えさせながら沈んでいった。緑葉の量があるほど、多くの補色の緑がうまれ、わずかにのこる輝きのグリーンを浮き立たせた。新緑が眩しく感じられるのは、そのせいだった。だから浮き立つものをもっていなければ、女もいっしょに影になって、緑色のサリーは似あわなかった。つよい光のなかで映えて緑の衣装が相応しいのは、綺麗な女性だけなのだ。  サリーは一枚の布で、だいたい、五メートルから六メートルくらいある。縫い目のないほうが、高いらしい。ながいほどいいが、九メートルくらいが限界らしい。もちろん木綿製より絹製はずっと上等だし、重いほうが絹の量が多いのでさらによい。だいたい、こうした序列らしかった。  インド人はデブが好きで、太った女は腹がでているのをみせびらかしてサリーを巻く。肥満体は、「食事にこまっていない」という金持ちの証しになる。ダリッドの竜司をみて鼻をつまんだ上流のご婦人は、三段バラだった。彼だって好みがあって、デブは嫌いだった。べつにそばにいきたかったのではなく、疲れていただけだったし、すこしからかってみようと思っただけだった。そんなことを思いだした。  ハッサムの嗚咽は、つづいていた。 「もう、みてはいられない」と竜司は思った。  ハッサムをのこして外にでたのは、朝の九時半ごろだった。  四、ガート  巡礼も、最終段階に入っていた。竜司は、まずマルカルニカーに顔をだし、いちばん手前の焼き場にいった。ガンガーの水位はさらに低下し、もうひとつ下の段があらわれていた。今日はじめて、三段目の焼き場があるのを竜司は知った。状況が変わっても、どうにでも対応するのだろう。  火のついた薪の周囲にあつまった親族は、男ばかりだった。いちばんちかくにいる、三〇歳くらいの男性の母親が焼かれているのだろう。あらかた燃えると、四〇歳くらいの男が壺をとりだし、息子に水をかけさせようとした。焼き場の係員がガンガーからくみあげた河水を、息男はいわれた通りに四度まいて火を消した。最後に「壺の儀式」になって、焼かれた者の連れ合いらしい、六〇歳くらいの男性がよばれた。男は、ずっと泣いていた。いわれるままに壺をなげると、ひとりで立つことさえできなくて、すぐに親族のなかにまぎれていった。それから、息子が一塊の骨をガンガーにほうりなげた。  竜司は、その様子を小一時間くらいみていた。それから、いつも通りにマルカルニカーのひとつ下流のガートにいき、行をしているアシュラムにチャパティーを一枚喜捨した。  巡礼をはじめたとき、竜司は、このサドゥーに祈願した。 「私は、俊和の意志をひきつぐことにしました。これから毎日、チャパチィーを一枚寄進させてください。そのかわりに、ガートの巡礼がとどこおりなく終了し、無事に俊和のもとに完成した地図をおくれるよう、おまもりください」  虚空をみあげるサドゥーは、もちろん竜司の言葉に振りむく理由もなく、表情ひとつ変えずに行をつづけていた。五〇歳くらいのガリガリに痩せた男で、ながい髪には白髪が交じっていた。  サドゥーは、竜司が最初にベナレスにきた四ヵ月まえから一枚のムシロに座してふたつの行をしていた。俊和は、「たぶん五年以上、この状態だ」といったから、五年の根拠をもっていたのだろうが、彼には正確な期間までは分からなかった。  アシュラムは「無言の行」をし、声を聞いたことはなかった。周囲の人びとがさしだす余り物を食べて暮らし、それなりの尊敬をうけていた。おおぜいの人が彼の足元に額ずくのを、竜司は毎日みた。  日の出まえにガンガーで沐浴すると、アシュラムは一日じゅうだまって座したまま「日輪を凝視する行」をしていた。眼球は、日の光にすっかり焼かれ真っ白で、たぶん網膜にぼんやりと映る太陽の影を、目でずっと追っているのだろうと竜司は思った。  この朝も、裸の上半身に聖紐を左の肩にかけたアシュラムは、日輪を凝視していた。チャパティーを寄進すると、竜司はなにかを感じた。もちろん声でも表情でもなかったが、盲目のサドゥーは、彼をはっきり識別しているらしいと思った。そんな雰囲気で、柔らかな羽毛に似た、しっとりとした風が竜司の心を通りすぎた。 「分かっているんだ」と彼は確信した。  俊和によれば、アシュラムは、「シャイヴァ派の行」をしているそうだ。根拠は分からなかったが、ベナレスはヴァイシュヴァナート寺院を中心としたシヴァ信仰の街だから、矛盾はなかった。  ヒンドゥー教は、偉大な三柱がよく知られているが、実際の信仰はヴィシュヌか、シヴァかのどちらかだった。この二神は、まるで対照的だった。  ヴィシュヌ神は、菩薩みたいにさまざまに姿を変えて現世に出現し、マハバーラタのクリシュナが有名だが、仏陀も化身なのはだれでもが知っている。論理的であかるく、おだやかで善意と友愛にあふれる、祭祀的な至上神だ。  いっぽうシヴァは、非論理的で暗く、あらあらしく悪意に満ち、ほとんど悪魔じみていた。ひじょうに孤独で、荒涼としたヒマラヤの山中に住み、人間を愛することもない。火葬場や戦場など不吉な場所を好み、死骸を焼いた灰を身体にぬる。彼は多くの別称をもち、シヴァ「慈悲深き者」。シャンカラ「救世主」。マハデーヴァ「偉大なる神」。パシュパティ「野獣の王」。ナタラージャ「舞踏の神」。ハラ「破壊者」。カーラ「時間の神」。シャルベーシャ「羽のある獅子」。バイラヴァ「殺戮の神」。神々に挑戦する阿修羅の三つの城を破壊する、トリプラールダナ「三城砦の破壊者」。さらにガンガーダラ「ガンジスをささえる神」でもあった。  シヴァは、ガンガーを氾濫させるだけでは飽き足らず、疫病を巻きちらして人びとを大量に殺戮する。髪を三つ編みにし、暗褐色の肌で腹は黒く背中は赤い。そのうえに獣の毛皮をまとっている。この猛烈な、なにがなんだか分からない神が、インドでいちばん人気で、ベナレスの守護神なのだ。シヴァは、武器として三叉の戟をもつ。その先端に、三〇〇〇年以上の歴史があり、マハバーラタでは「輝ける街」カーシーとよばれ、玄奘の大唐西域記でも大自在天を信奉すると記載される、ベナレスがのっかっているといわれる。  竜司は、上流にむかって歩きはじめた。つくられた地図のあいだに、見逃したガートがひとつあった。その先を調べていた。道はすぐに分かった。ヴァラディーという名の、幅が一〇メートルくらいの小さなガートだった。ついたのは一一時ころで、ちかくに住む男が沐浴をしていた。そこでも年老いた女が、ガートの守り神に小さい土器でガンガーの河水をささげ、合掌していた。日本でも仏前に水をそなえるが、そっくりだった。観光ボートがいくつかみえたが、慣れっこになって、だれも気にしていなかった。身を清めていた男は、インド的にいえば「魅力のある」腹だった。竜司も、今日はこのガートで沐浴するつもりで、着替えのルンギをもっていた。  腰巻きは、ただの木綿だった。こうした小さくて、観光客や巡礼者のこないガートで、ものが盗まれたことはなかった。  沐浴は、裸ではなく、衣服をまとったまま行う。着替えのルンギをガートにおいて、竜司は身を清めた。ガンガーにつかると便意を催したので自然の成り行きにまかせた。まかされたものは、浮かんでながれていった。  インドは非衛生的なところで、よく下痢をする。日本人が弱いからではなく、インド人もおなじだった。それから、ガンガーで口をゆすいで、河の水をひと口飲んだ。  そうこうしていると、死体がひとつながれてきた。うつぶせで、臀、背、後頭部がみえ、股間の一部は、腫れて巨大になっていた。臀部が充血して赤く、背部にも真っ赤な筋がいくつもあったのは異様で、死んでからかなりたってから、なげこまれたに違いなかった。遠くからはこばれてきたのだろうが、親族は焼き場に払う金がなく、ガンガーにそのままほうりこんだのだろう。死体はふわふわとながれてきて、竜司のまえでゆっくりと一回転した。腹になり、またまわって背中の赤い筋がみえた。  死体は、河のながれの関係でうごかなくなった。いっしょに沐浴したデブのインド人にとっても、いささか驚きだったらしく、ガートの石段をあがって逃げていった。竜司は力いっぱい、河の中央へむかって死体を押しもどした。遺体はながれにもどり、またゆっくりと、ふわふわと浮いて川下にはこばれていった。デブの男はじっと彼をみつめていたが、死体が遠くにいったのを確認すると、沐浴のつづきをはじめた。  竜司は着替えるためにガートにもどり、乾いたルンギをとった。 「やっぱり、日本の人ね」とそのとき女性の声音が聞こえた。  声がしたほうをみると、ガートの右端にある家の正面に女が立っていた。  それが、真利子だった。 「こっちへ、きなさい」 「ここに、お住まいなんですか」  竜司は、ぬれたまま不審気にたずねた。 「そうよ。ここはあたしの家よ。入って着替えて、お茶でも飲んでいったら」と真利子はいった。  若い女で、三〇歳くらいにみえた。ふっくらとした体型で、丸顔で黒いながい髪に、赤っぽいサリーをきていた。額には、赤いビンディをつけていた。  竜司は、さそわれるままに家に入った。ガートをずっと研究してきたが、その構成要素ともいうべき周辺の家屋を見学したのははじめてだった。石造りの二階だてで、河のなかからつきでたように立っていたが、基礎がどううたれるのか分からなかった。一八世紀にインド各地の藩王マハラジャが、この地で最期をむかえるために競って家をたてたという話は聞いていたが、ガートをとりまく建造物についてはいままで考えたこともなかった。  住居にはガンガーに面してベランダがあり、真利子はそこで「着替えたら」といって乾いたタオルをくれた。いつもは、ぬれたルンギをしぼって身体をふき、もってきたものに変えていた。竜司は、いわれるままにベランダにいき、真利子からわたされたタオルで身躯をぬぐった。そこからみるガンガーは、いつもとは違う構図だった。竜司は、髪の毛をざっとふくと、ベランダの欄干の石壁に両手をついた。 「ひたひた」という、ガンガーが石造りの建物にぶつかる音が聞こえた。そこは、静かなときに支配されていた。  竜司は、身体をふくのを忘れ、タオルを石壁にかけると、表情を変えたガンガーの河面をながめた。漁舟が浮かび、投網する漁師の痩せた姿がみえた。ゆっくりと網をひきあげる男をみていると、とつぜんヴァラディーのガートを走る足音と、なにかを叫ぶ女の子供の甲高い声が聞こえた。かなり離れたところからだと思うが、たぶん少女の言葉に応える母親の声音が、静寂をやぶってひびいた。そしてまた、波のひたひたという音だけが聞こえた。  空を一面に覆う、うすい雲のあいだをぬって、一筋の光が投網をする漁師のちかくにさしこんでいた。波打つガンガーの河面は、雲間をつらぬく束になったつよい日に照らされ、煌めき輝く光線とたわむれながら、青い点描が揺らめいていた。まるで色彩分割された、モネがかく湖面に似て、時々刻々と変化する光が水面に妖しくうすく漂っていた。そのとき、竜司はなんの脈絡もなく二年まえに亡くした母の面影をみた気がした。  ガンガーには、哀愁が漂っていた。柔らかな風が吹いた。じっと河面をみていると、詩がひとつできた。竜司は、それをゆっくりと口ずさんだ。雲もゆったりとながれ、また波音が聞こえてきた。規則的でやむことがなく、意識するかどうかは、聞く者の自由で、いつでも音はしていたのだ。どんなときでも。どのくらいの時間だったろうか。ふっとわれにかえり、振りむくと、女がじっと彼をみつめていた。  竜司をみていた真利子は、気が変わったらしく、 「気持ち悪くないの。シャワーがあるからつかったら」といった。 「じゃ、そうします」と竜司は答えた。  シャワー室に案内されて水をあびると、たしかにガンガーよりも気持ちがよかった。あらためてもらったタオルで身体をふき、持参した乾いた腰巻きに着替えた。  ルンギはただの木綿の布で、沐浴のときは下着はつけない。これは女もおなじで、身を清めるさいは、サリーだけだ。下着なんてもともとは、なかったのだろうから、ヒンドゥーの女性は、いつも布しか巻いていないのかも知れない。 「あらってあげるわ」と真利子はいって、ガンガーで沐浴したルンギを洗濯機に洗剤とともにほうりこんだ。 「物好きね」  彼女は、居間の椅子にすわり、竜司にも腰をおろすよううながした。  そこには、藤の腰かけが四脚と、中央にまるいテーブルがあった。居間は入り口のすぐまえで、日本なら玄関にあたる部分だった。 「あんな遺体に触れて、よく平気ね」と真利子はいった。 「死体に触ったのは、はじめてです。ちかよってきたので、仕方がなかったんです」と竜司は答えた。  ガートのとなりの建物だったので、椅子にすわるとベランダの壁ごしにガンガーがみえた。真利子がだしてくれたチャイを飲みながら、竜司はじっと彼女をみつめた。色の白い丸顔で優しい感じの日本人だった。額に赤いビンディをつけた、ごく普通の女性にみえた。 「結婚しているんですね」と竜司は聞いた。 「インド人の妻なのよ。私も物好きでしょう」と真利子はいった。 「ずいぶん、ロマンチックな話ですね」と言葉をかえすと、彼女は笑った。  真利子は、浅草のうまれだった。ふたりで、いろいろな世間話をした。日本人と話すのは久しぶりだったが、不思議な出会いに思えた。竜司は、旅行の話をした。彼女の結婚の物語を聞きながらチャイを飲んでいると、ドアがノックされる音が聞こえた。 「どうぞ」と真利子はいった。 「入るわよ」という女の声音がした。  間違いのない日本語で、痩せた女性があらわれた。瞳が黒くて肌が黄色く、顔立ちのととのった綺麗な女で、理知的にみえた。ながい髪の女性は、オレンジのサリーをきて、ビンディをした日本人だった。 「裕美。この人、竜司さんというんだけれど、ここで沐浴していたのよ。死体がながれてきてね。沐浴しながら、それを河にむかって押しかえしていたわ」と真利子はいった。 「物好きね」と裕美も言葉を発した。 「それでは。今日は物好きが三人あつまって、お昼を食べましょう」と彼女がいって竜司はカレーをご馳走になった。 「なにをしているの」と裕美は聞いた。  竜司は、俊和との出会いと、うけついだガートの地図について話した。これはうけた。ふたりは、「聞いたことがない」といった。 「一度、みてみたいわ」と裕美は口にした。  「きっと、力作なんでしょうね」と真利子はいった。 「あとふたつで完成です」と竜司は答えた。 「全部のガートで沐浴したの」と裕美が聞いた。 「そこまでは、とても。時間がありませんでした。いそがしかったものですから」と答えると、ふたりは声を立てて笑った。  それから、ベナレスの話になった。ふたりは、おなじ二九歳で、出会ったのは偶然だったといった。真利子は、二年まえにインド人と結婚し、ベナレスに住んでいた。裕美は、タイで商社につとめていたが、事情があってやめて、いまはBHUの学生だという経緯だった。外語大のウルドゥー語学科を卒業したらしいが、さっぱり分からない話だった。  いろいろと話して二時をすぎたころ、「ご馳走さまでした。これでまた」と竜司がいうと真利子が、 「明日は、お寿司をご馳走してあげるわ。お昼にいらっしゃいよ。裕美も、どう」と提案した。 「お寿司ですか。いいですね」と竜司は答えた。 「じゃ、決まりね」と真利子がいった。  裕美も、お昼にくると答えた。  竜司があらってもらったルンギを手にしてウエルカムにもどったのは、午後の三時すぎだった。ホテルではハッサムが待っていた。さすがにもう泣きやんで、晴ればれとした表情だった。 「いったい、なんだったんだ」と竜司は聞いた。 「いやあ、人騒がせだ。ナンディーには、こまったもんだ」とハッサムはいった。 「おまえも、みただろう」と彼は聞いた。 「そうだ。おまえの馬鹿さ加減を」と竜司が答えると、ハッサムはバツの悪そうな顔をした。 「みなかったのか。みんな、ナンディーが悪いんだ」 「緑のサリーをきていた娘だろう」 「そうだ。シンドゥールをしていた。デリーでは、学生のあいだで、はやっているらしい。あんなことをするのは、ここではナンディーしかいない。まったくこまったもんだ」とハッサムは真剣にいった。嬉しそうだった。 「いったい、なんなんだ」と竜司は思った。 「大騒ぎになったんだ。ベナレスじゅうが知っている。結婚しないでシンドゥールをつけたのは、ナンディーがこの街でははじめてなんだ。彼女は進歩的だが、すべてをうけ入れることはできない」  ハッサムは、興奮して話した。なんでも、甘受できそうな晴れやかな表情だった。  夕方、いっしょに食事にいくことになって、ハッサムはまた服を着替えた。五時ごろ、ダシャーシュワメードでは、フェスティバルをやっていた。これはヒンドゥーの祭りで、ハッサムには興味がないことだった。食事をしたあとで、ふたりで肩をならべて、ゴロリアの交差点にむかって緩いのぼりの小径を歩いていた。そこで、ナンディーがつれの者といっしょにおりてくるのにすれ違った。ハッサムが、緊張するのが分かった。歩きがぎこちなくなり、ころびそうになった。足があがらず、つま先が地面にぶつかってしまうみたいだった。  ナンディーは、青いサリーをきていた。  今度は、竜司もはっきりとみた。若い女は、シンドゥールではなく赤いビンディをしていた。素晴らしい美貌だった。つやのある黒い髪は真ん中から分けられ、腕のところまで真っすぐに伸び、鼻は高くて、切れ長の目をしていた。彫りがふかくて、知性的にみえたし、ブルーの瞳は海の底を連想させた。竜司も、まじまじとみた。心をうばわれ、立ちどまっていたかも知れない。目があって、ナンディーも竜司をじっとみつめた気がした。それからたがいに、反対の方向に歩いていった。 「分かっただろう」  その日、ハッサムはたいへんだった。ウエルカムに帰ると、ずっと竜司の部屋にいて、完全な興奮状態で話しつづけ、ひとりにしてはくれなかった。 「ナンディーと目があった。あれは、愛しあっているもの同士のものだった。おまえにも分かっただろう。ナンディーはおれの瞳をじっと、ずっとみていた。あれが純粋な魂の、愛情の表現だ」  ハッサムは、喋りつづけていた。 「勝手にしろ」と竜司は思った。       ホテル・ウエルカム、一三五枚、了  プラナブの夢  一、ガンガツアー  プラナブは、三時に目が覚めた。近頃は目覚めるのが早くて、いつでも充分に眠った気がしなかった。今日も仕事があるので、「もう二時間くらいは床についていたい」と思って、じっと目を閉じていた。やがて、これ以上は、横になっていても仕方がないと思えてきた。となりをみると、真利子はよく眠っていた。安らいだ寝息の音が、リズムをもって聞こえていた。  プラナブは、そっと立ちあがり、ガンガーにそってつきでた石造りのベランダにでた。ゆったりとした木綿製の寝間着のまま、縁側の石壁に手をついて外をみやると、暗闇のなかで、ひんやりとした朝の冷気が彼の顔を撫でていき、黒い満々とした河が目の前に横たわっていた。それはうごくことも忘れ、じっとして、ガート脇の石造りの壁に、ゆっくりとした調子で、くりかえし弱くぶつかっていた。「ひたひた」という音だけに支配される世界を、彼は感じた。  暗闇のなかでひろがり、ときどき飛沫をあげる水を満々とたたえたガンガーは、わずかずつ北にむかっていた。甘い香りにつつまれた河面を吹きぬけてきた風は、聖なる河に清められ、重さをうしない、神の恩寵をのせて頬を柔らかくうった。  プラナブは、隅田川でみた大玉の打ちあげ花火を思いだした。球形の大きな輪が天空にひろがり、青みがかった紫の蜘蛛の糸に変わってながれ落ちていった。光がなげかけられ、うす暗かった世界は一瞬、紫色の紡糸につつまれ、やがて原野が一挙に姿をあらわした。  青紫の絹糸があわい緑に変わるころには、生気を感じさせない灌木がみえた。原野は、しだいにあかるくなってきた。すべての浄と不浄が白日のもとにさらされ、人の世界がみえてくる。ときをあわせて、天上からは小鳥のさえずりが聞こえてきた。それにしても夜明けの啼き声は、なんと高く騒がしいのだろうか。日常のなかでかき消されてしまう、すべての生き物の存在をあらためて教えてくれるときに、世界は支配されていた。乾季であっても雨季であっても、晴れても雨がふっても、時々刻々と変わる状況とは関係なく、夜明けのガンガーはすがすがしかった。流域には、鳩、雀、鷹など鳥類が数多く、空を自由に飛びまわっていた。  絵画にして、のこしておきたいほどだった。プラナブはもともと画家志望で、時折、二階のアトリエで絵をかいていた。彼が名を知らない鳥も多く、いまベランダで羽を休める首にオレンジの毛の生えた小鳥の名前は分からなかった。これだけ有機物があるのだからとうぜんだが、魚類は無尽蔵にいて、ガートのちかくで布をひろげ、バケツいっぱいもすくっていく人びとの姿をよくみかけた。なまずに似た大きな魚もすんでいて、これはけっこういける。そういえば真利子が、「昨日、このガートで沐浴した日本人と知りあいになった。ご馳走する約束をしたから、あの魚が欲しい」といっていた。 「ツアーの客から、醤油を分けてもらわなければ」とプラナブは思った。  あたりがしだいにあかるくなり、太陽が対岸の砂丘からのぼってきた。もう一〇〇〇回もみた、ベナレスでもっとも荘厳で神を身近に感じる瞬間だった。夜明けのガンガーは、いつもあたらしい感慨とともにやってくる。ときがとまって、この瞬間のなかで輪廻の終わりがとうとつにおとずれても、なんの悔いもないだろう。かりに、ほんとうにそうしたことが起こりえるなら、自らすすんで、その「ひとコマ」に落ちていきたいとさえ、プラナブは考えていた。  この地を「聖地」とよぶのに、もっとも相応しい時間だった。ガンガーをはさむ砂丘には灌木だけが生え、みわたすかぎりの地平線まで原野がつづいている。神は最初に、「浄と不浄」を分けたのだ。あらゆる場所、人、時間が、「聖」か「賎」かを定義したのだ。  だから、不浄な対岸の砂丘に建造物をつくってはいけないと、人間が法律で決めることになった。 「穢れ」は、どこにでも容易に出現する。神々の住む世界とは違って、人の世はすでに汚れている。人は、うまれ落ちた瞬間から穢れやすくできている。だから再生族は、人生の節目に儀礼を執り行うことによって、汚れた魂をほんらいの清浄な姿にもどす必要がある。昨日、やむをえず生じた出来事、穢れた者たちをみたり、臭いをかいだり、触れたりという、生きていればさけられない不浄は、沐浴によって聖なるながれとともに去っていき、汚れがのぞかれた自分だけがのこる。しかし、身を清める程度ではとり切れない、「身についてしまった穢れ」がこの世には存在する。  マルカルニカーで火葬されれば、清浄な霊魂は聖なる煙とともに月にのぼり、穢れた肉体は消滅し、焼けのこった部分はガンガーで浄化され、すべてが清算される。ベナレスは、魂が再生する、この世でたったひとつの場所としてつくられた街なのだ。  遠くに、蒸気船がゆっくりと遡上していた。手前には白い帆船が風をいっぱいにはらんで、河面をすべっていくのがみえた。長閑な聖地の朝だったが、彼には安息がおとずれていなかった。 「なんで、こんなにインドはうるさいのか」  半袖の青いストライプのシャツをきて、頭髪に白いものが交じりはじめた男は真剣な表情でプラナブに聞いた。 「物乞いばかりだ。バクシーシばかりだ。子供から大人までみんなそうだ。ここは、聖地じゃないのか」  プラナブと外見のよく似た、小太りの黒い縁とりの眼鏡をかけた中年の男だった。 「インド人は、うまれるときは口からね。脳味噌は、産道にのこしてしまうのね。最初にでてくるのは、頭じゃないの。手と口がいっしょになって、うまれ落ちるの。それに、オギャーとは泣かないの。最初に、バクシーシっていうんです」  プラナブが答えると、だいたいの客は笑ってくれた。  日本の観光客は面白いもので、片言のほうがうける。プラナブは浅草で五年間暮らしたし、日本人の女性をめとっている。妻は、英語も話せないから、家庭での会話も日本語をつかっている。ほんとうは、日本人と変わらない抑揚のないアクセントで、ずっと流暢に話すことができる。ところが、幾分ぎこちなく喋ったほうが、あきらかに親切にされる。理由ははっきり分からないが、たぶん外国語にたいするコンプレックスが、こうした形で表現されるのだろうとプラナブは考えていた。このことに気がついたのは、日本で暮らして三年くらいたったころだった。  プラナブは、皮膚も浅黒く顔形も違うので、だれもがすぐに異国人だと分かってくれる。それが、あまりにも綺麗で抑揚のない、アナウンサーがつかうのとおなじ言葉を喋ると、「なんだ、日本うまれのハーフなのか」と関心は急にひくくなる。わざと片言に話し、よく分からない単語がある素振りをくわえ、どうつたえたらよいのか思案する時間を会話のなかでつくると、みんながとても親切にしてくれる。そうした行為が、外国人や外国語にたいするコンプレックスを解消するらしい、と彼は考えていた。  聖なる河の真ん中に、三羽のカラスがとまっていた。最近の映画の話でもするのか、ガンガーの中央でゆうゆうとながれにのっているのがベランダから遠目にみえた。 「どうして規則は、こんなにも、まもられないのだろう」とプラナブは思った。  たしかに、ベナレスはひどい。インドのなかでも最悪なのだろう。きっと、バクシーシもいちばんひどいのだろう。観光客が文句をいうのは、とうぜんなのだろう。いつからこうなってしまったのか。  ベナレスの街の上流からは、死体をながしてはいけない。これは、条例で決められている。気持ちは、分からないわけではない。聖なるベナレスを、死体になってもゆっくりと味わってみたい。ガンガーの清らかな匂いにつつまれ、時間をかけてこの街をながれていきたい。それは、とうぜんのことだろう。しかし、こんなに毎日ながされるのは問題だ。ここは、インドの聖地だけではなく、いまや世界のベナレスだ。だから、街の下流からは死体をながしてもよいと決めたのではないか。火葬場で焼くには、お金がかかる。かなりのまとまった額だから、だれもができることではない。金銭がないから、聖なる河に触れてはいけないというのではない。お金をかけないで、ガンガーを味わうこともできる。仕方がなければ、死体をながしてもいい。しかし、下流からにしてもらいたい。  沐浴がはじまっていた。このガート、ヴァラディーはとくに観光客用ではないから、近所の住人たちが昨日ついた穢れをとりのぞくために身を清めているのだろう。不浄はどこにでも存在し、気づかないうちに侵入するから、毎日かかさず沐浴する必要がある。  プラナブは、帰国後ベナレスの観光局で日本人ツアー専用のガイドの職をみつけ、真利子との結婚が決まった二年まえに、このガートを買った。彼は、人もうらやむ河畔に住居をもちながら、もう一〇年もガンガーに浸かってはいなかった。 「沐浴は、毎日するのですか」  痩せた二〇歳なかばの男の、昨日の質問だった。 「そんなことは、ありません。週に一回でいいんですよ。だから、モクヨウクビ、っていうじゃないですか」  プラナブが答えると、舟にのっていた全員が声を立てて笑った。  彼が案内していたのは、一度に四〇人が乗船する大型船で、ガンガーツアーでは最大のものだった。ふたりのインド人が、川底にとどくながい竿をたくみに操りながら、小一時間をかけてガンガーをゆっくりとくだって遡行する行程を、ひとり三〇ルピーでやっていた。ダシャーシュワメードから観光客をのせ、マルカルニカーをみせて、聖なる河の話を多いときには日に五回もしていた。  プラナブの評価は、三〇ルピーという破格の値段で表現されていた。これがインド人相手の舟なら、ガイドがついても五〇パイサ、二分の一ルピーだったから、彼は超エリートといえた。適当なジョークを交えながら一二〇〇ルピーという大金を払わせ、観光客から「ありがとう」といわれる業務にしていた。 「もちろん、これは冗談よ。だれか、信じませんでしたか。あなた、大丈夫ですか。日本で、こんなこといわないでくださいね。帰国してからならかまいませんけど、観光局につげ口だけは絶対やめてね。そんなことをいいつけられたら、すぐこれ」  プラナブはそういうと、自分の太い首を水平にした右手の甲の部分で、二、三度たたいた。 「明日から私、毎日サンデーね。あたしが皆さんに、バクシーシをしなければならなくなります。数が多くて、とても競争には勝てませんよ。毎日が日曜日というより、朝から晩まで反省しながら沐浴日ね。奥さんにすてられて、ガンガーで土佐衛門。なにせ相手はインド人ですから、インドーをわたすのはとても上手ね」  また、笑いが起こった。  つたえたいことをつげられない不便さを、つねに感じているツアー客にとって、プラナブは最高のガイドだった。観光客たちは、いつもさまざまな疑問を彼に聞いてきた。彼らにとってプラナブは、親密な関係になりたい、「頼りがいのある」存在にみえた。多くの写真を、ツアー客とならんで撮影された。特別な贈り物、いわゆる「ご祝儀」をくれる気前のいい客もいたし、帰国してからベナレス観光局宛に、プラナブが欲しいといった、日本の週刊誌や醤油や梅干し、「ササニシキ」や、「コシヒカリ」がとどくこともあった。なかには、日本語でかかれた手紙が同封されていた。印字された英語で、観光局長宛に直接くるばいもあった。どれもが、「プラナブが、たいへんよく日本と日本人を理解し、いい旅になったのは彼の助力だ」とかかれていた。  印象的な贈り物もとどいた。  日本食の話題になって、「納豆は好物」と話した記憶はあった。相手も、からかい半分だったと思う。税関がどういう基準で判断するのか分からなかったが、隙間なく納豆がつまった大型の段ボール箱がおくられてきたことがあった。真利子は大好きだったし、浅草で五年暮らしたプラナブも、はじめこそ食せなったが、いまでは好物に属するものだった。とはいっても、とても段ボール一箱分は食べつくすことができず、同僚にもみせて、「これが日本の朝のおかずだ」と試食をすすめてみたが、観光局の職員はだれひとり手をだす者はいなかった。  納豆は、「不浄」そのものにあつかわれた。仕方がないので道端のバクシーシの連中に、半分ほどつまった箱ごと、施しとしてやってみたが、彼らにとっても、かなり不思議な食品にみえたらしい。段ボールのまわりに輪ができるほどにあつまった者たちのなかには、子供も大人も、乞食もサドゥーもいた。遠くからみていると、納豆は可愛そうなくらい小突きまわされた挙げ句、最後にダリッドの子が味見役に立たされた。  六、七歳の男児は、かなりの悲壮感を全身に漂わせ、腐敗臭と、ねばねばとどこまでも糸をひく得体の知れない豆を、何粒か右の手で恐る恐るつかみ、鼻をおさえながら口にほうりこんだ。それで、じっと口唇を閉じていた。いきなり「オェー」と吐きだすや否や、まわりの人の輪を驚くほどの速さで駆けぬけると一目散にガートまで走り、ベトベトになった手をあらい、懸命に口をゆすいだ。耐えられなくなったのだろうか、とつぜん半ズボンをぬぎすてるとガンガーに飛びこんで頭までもぐった。  子供の反応を瞬きも忘れてみつめていたバクシーシの連中も、さすがにあきらめたみたいだった。のこった納豆の塊は、あつまった人びとのなかでも、もっとも長老と思われるサドゥーが段ボールにつみこむと、顔を背けながら箱をもちあげ、ガートまでいき、ガンガーにむかってほうりなげた。そして彼も沐浴をはじめ、ルンギを入念にあらっていた。  プラナブは、納豆にたいしての、ほぼ完璧な理解に到達した。この食品は、インドでは最上級の「穢れ」に属し、序列としては「最低」ということだった。  プラナブは、もともとベナレスのバラモンの出身だった。家は先祖から北西部の地主で、小作人をつかっていた。バラモンといっても、とくに宗教的な祭祀にたずさわるわけではなかった。父親は、ヴァルナとしてはひくい序列だったが、氏姓は地主で、高い階級に属していた。プラナブは、五人兄弟の末で三男だったがBHUに進学できた。末弟が大学にいけたのは、家がある程度以上の金持ちだったせいもあるが、父親が進歩的な人だったからだ。祖父は、インドの独立運動に参加し、ガンジーとともに戦った国民会議派の闘士だった。父もその影響をうけていたので、三男も大学にいかせてくれた。異例ではなかったとしても、彼の進学には大きな問題があった。  長男は、インドの金持ちの通例にならって、イギリスにいきオックスフォードを卒業した。小作人を管理する父親の仕事を手伝うのが、プラナブの役目だった。三三歳のとき、父が死んだ。兄弟は五人いたが、財産は長男がうけついだ。彼は末弟だったのでうけとれたのはわずかな遺産だったが、通常よりずっと多かった。兄もまた、祖父や父の血をうけついでいた。  インドでは、長男は父親のカーストをそのままひきつぐから、兄弟のなかでも格が違っていた。プラナブは、兄とはおなじヴァルナでも、地主のジャートではなくなっていた。ずっとひくいカーストで、ゆくゆくは家をでていかなければならなかった。彼に特別な能力、たとえば数学や科学が得意で理系に進学し技術者にでもなれば、都市での就職も可能だった。経済学部で金融に精通すれば、イギリスにわたりシティーで職をもとめることもできた。  だからプラナブがBHUで文学部にすすみ絵画をやりたいといったとき、父親が「それなりの覚悟があるのか」とたずねたのはとうぜんだった。五人兄弟の末弟が好きな芸術をえらんだのは、彼が人生と天秤にかけて趣味をとった結果だから、それ以上をもとめる立場にはなかった。プラナブが人並みの結婚をし、自分の家庭をつくるのは、そのとき放棄されたことだった。父は、彼がBHUで絵画を専攻するのを許した。兄も、財産のいくらかをくれ、日本にいくのも許可した。破格の事案だったが、末弟が将来をまったく考えず自分勝手な行動をした事実は、親族一同が充分に知っていたことだった。  二、職人  プラナブは、東京の下街に興味をもった。上野周辺で隅田川のながれるところ、点でいえば浅草だった。そこで働く職人たちに興味をもった。彼らは、ただ技術を売っていたが、「奥」のあるものだった。 「浅草は、ベナレスに似ている」とプラナブは思った。  川は交通機関としてはいちばん単純だから、国や地域を問わず、街はまず川ぞいに発展する。ながれる隅田川は荒川の支流で、汚れていて、とても沐浴はできない。真利子の祖父が、この川で泳いだといっていた。ひと昔まえには、魚やシジミがとれ、朝とったばかりの二枚貝を天秤にかついで行商する風情があったと、真顔で話していた。考えられない急速な変化が、この国で起こったのだろう。  浅草寺は、東京都内で最古の寺院だ。本尊は大黒天で、古代インドのマハーカーラ神、つまり悪魔退散の強力な守護神で、本体はシヴァの化身だ。武器が入った大きな袋の中身が食料やお金に入れかわり、日本では福の神に変わった。どれでもインドが起源で、多くは仏教につつまれてつたわる過程で、この国は、なんでも都合よく経済の問題に転化してしまうとプラナブは思った。  浅草寺のとなりは浅草神社で、こちらが祭っているのは、神だ。恵比須神で七福神のなかで唯一の日本うまれの神さまだが、これも開運の福の神だ。神と仏があって、そのうえ天皇がいる。これらが独自に存在しては、物事に厚みがでない。たしかにヒンドゥーは、あらゆるものをうけ入れる。それはふかい器で、なんでもそこに入れることができる。ほうりこんでかきまぜれば、ほとんどは消えてしまうが、あるべきものはとどまるべき場所にのこる。  日本は、すべてが雑然として整理がされていない。文化はあると思うが、とても文明とはよべない。いいかえれば、この国は技術をもつが、思想とは無縁という関係に似ている。うすっぺらで、めくればすぐに底がみえてしまう。だからカーストという、多くの民族が戦い交流するなかで、どうしても消せなかった根本的な思想体系が欠如していると感じた。  未来がなかったプラナブは、三四歳のとき日本にいった。浮世絵に興味があった彼は、約一年間日本各地を放浪したあとで、浅草で羽子板をつくる真利子の父親、健二に弟子入りを志願した。  その家は、八代もつづく羽子板づくりの職人だった。健二は、当時まだ健在だった父の梅太郎と相談した。父親が棟梁のころには、何人かの職人志望者が住みこんでいた。羽子板も機械生産が主流に変わった彼の時代には、弟子入りする者はもういなかった。  梅太郎も健二も、「職人芸も、これまでか」と考える時勢になっていたが、弟子入りの希望者がインド人とは、およびもつかないことだった。外国人には、この伝統を理解するのは不可能だろうと思われた。背がひくく腹がつきでた、ずんぐりとしたプラナブの容姿は、彼らが想像する「黒人」そのものだった。不器用そうな黒くて太い指をみただけで、「とても無理」に思えた。  プラナブは、「私は、インドの総合大学で絵画を専攻し、小さな賞ならとったこともある。インド固有の絵は、パステルで油ではない。こうした手仕事には、つきせぬ興味がある」と片言で何度も懇願した。  仕方なしに梅太郎と健二は「けちょんけちょん」にするつもり、彼に羽子板にかかれた絵図を模写させてみたのだが、ふたりは心底驚くことになった。  プラナブは、芸大出の新進画家とも見紛う素晴らしい絵をかいたのだった。それでふたりは、和紙にかかれた繊細な絵図と、浅黒く、ずんぐりと腹がつきでて、目も鼻の造作も大きな容貌をもち、天然パーマのちぢれた髪の理解不能な黒い肌の男を交互にみつめながら協議して、「やらしてみるか」という話になった。  真利子の家は、木造の二階だてで、健二は二階の一室をプラナブに貸しあたえ、内弟子として芸をつたえることにした。 「インド人の羽子板職人」の事件は話題性をもっていて、浅草の街を紹介するミニコミ誌でもとりあげられた。それが恩義ある人から羽子板づくりの技術ばかりでなく、最愛のひとり娘までうばうことになった。  プラナブは、健二の一〇歳年下で、一五ほど年が違う二〇歳の真利子は可愛かった。気むずかしい職人気質の父親よりも、彼は話しやすい相手だった。真利子にとっては、健二とおなじつながりだった。女と男の関係ではなく、娘が父をしたう感情だった。  プラナブにとっても、おなじだった。もう一〇歳若くて日本人だったら、結婚したかった。長男で、ベナレスの地主のカーストなら、嫁にむかえたかった。しかし、日本人との婚姻にたいする親族の反応を思っただけでも、無理なことだった。  もともと夢想癖のつよかったプラナブであっても、あまりに現実から乖離したとりとめのない妄想で、考えている自分自身に嫌悪感さえ抱いた。それでいて真利子を勝手に思って、寝苦しい夜をすごしたのもほんとうだった。考えるほどに愚かな、このおとぎ話に、深夜ふと目覚めて苛まれることが幾度もあった。  毎月一八日は、浅草寺の縁日にあたる。羽根つきは、もともとは室街時代に発祥したといわれる。羽はうまれた子供の邪気をはねよけ、健やかに育つことに通じ、とくに女児の出産には羽子板をおくる慣わしがあった。子の成長を願って贈与し、それで羽根つきをして新春をすごす縁起物だった。江戸時代に入ると浮世絵師が歌舞伎の役者絵などをはりつけ、江戸の女性たちの人気商品となって多いに繁盛した。とくに正月用品を買う「歳の市」は、幕末までは浅草にかぎられていた。武家や大店が年始用品をもとめに家来や奉公人等を大挙してよこし買い物をしたので、羽子板は多いに繁盛した。明治に入ると、さまざまな場所で年末用品を買うのが当たり前になり、浅草の羽子板産業は衰退していった。それでも歳納めの「羽子板市」は、一年の無事に感謝し、くる年の吉兆を願う観音詣でともかさなり、数多くの人びとで賑わっていた。  ある年、歌舞伎役者の浮世絵を押しつけたプラナブの作品は、優秀賞に輝いた。彼は、棟梁から祝儀をもらい、ほろ酔い気分で自分の部屋で座布団を枕に、ぼうっと横になっていた。襖がノックされて真利子が入ってきた。 「プラナブ。凄いじゃない」  彼女は、声をかけた。  彼も、まさかの賞にやや興奮していた。 「インドでも何回か入賞したことがあるけれど、今回がいちばん嬉しいよ」とプラナブは答えた。 「あの役者絵のモデルは、だれだったの」と彼女は聞いた。  ほろ酔い加減でぼうっとしていた彼は、その言葉に反応してふらりと立ちあがると、「ああ真利子。こっちへおいでよ。襖をちゃんとしめてね。じつは君に贈り物があるんだ」  二三歳になった真利子は、ますます美しくなっていた。プラナブがいい気持ちで立ちあがると、目の前がくらくらした。まるで雲にのった感じで、映る世界が新鮮ですべてが自由にみえ、自分がなんでもできそうに思った。押し入れをあけ、奥にしまいこんだ幾重にも新聞紙にくるんだ棒をもってきて、不思議そうにする真利子のまえで、すわりなおした。 「モデルは、これだよ」  プラナブは、新聞紙を一枚一枚、丁寧にはいでいくと、綺麗な羽子板がでてきた。かかれていたのは、真利子だった。 「これをだそうと、考えたんだけれどね。棟梁に、叱られるかも知れない。だいいち真利子がこまるだろうと思ってね。応募したのは、これをアレンジしてみたんだ」 「まあ、とても綺麗」  彼女は、その羽子板をまじまじとみた。 「真利子のためにつくったんだ。部屋に飾ってもらおうと思って」 「まあ」  彼女は、溜め息をついた。その息は、甘い香りがした。そして、プラナブの瞳を優しくながめたとき、もう欲情をおさえることができなかった。 「真利子」。「まりこ」とプラナブは、ひくい声で囁きつづけた。酒が入り、閉じられた小空間に、夢にみた美しい乙女がひとりでいた。  真利子は、プラナブに異性としての感情をもっていなかった。無防備で、そこにつけいったことになった。それまでにも、幻想をあたえていたのは事実だった。あらゆるものがはじまったインドをできるかぎり美化し、彼女に話をしていた。 「真利子。ぼくは、名門のバラモンの出身なんだ。インドには階級があって、カーストって知っているだろう。日本の士農工商みたいなもんだよ。でも、ほんとうはヴァルナっていうんだ。もともとは皮膚の色という意味だけど、いちばんが僧侶で、バラモン。つぎが王侯や貴族で、クシャトリア。それから商人で、ヴァイシャ。この上位の三階級は、生後に儀式をしてヒンドゥーにうまれ変わるから、再生族とよばれている。その下に、上位階級につかえる使命をもってうまれたシュードラ。奴隷階級がいる。彼らは再生せずに死ぬので、一生族ってよばれているんだ」 「父は、ベナレス北東部で小作をかかえる大地主だったんだ」 「へー。プラナブは、貴族よりも、もっとうえの人なんだ。やっぱり、お金持ちなんだ。そうでなければ、日本になんてこれないもんね。インドって、面白そうなところね。今度、プラナブの故郷をたずねてみたいわ」  真利子は、いつも優しい瞳でみつめていった。こうした事態になったのは偶然だったが、機会をずっと狙っていたと彼は思った。  そうした関係が、健二に知られたのは半年後だった。  プラナブは、夕焼けが都会の雲を茜色に染めるのを、座布団を枕に横になりながら窓からみていた。とつぜん一階で、大きな物音が聞こえた。その音響は、どこか不浄なものに満ちていた。やがて階段をトントンとあがる音がして、襖がかるくノックされ、思った通り真利子の母、敬子が小声で「プラナブ」といった。 「はい」と答えると、 「すぐ下にきてくれない」と声の主はつげた。  それだけの言葉だったが、重苦しい不吉な雰囲気につつまれ、ひと言をのこして階段をおりる真利子の母親の足音は、どこかで不安を駆りたてた。  プラナブが階下にいき、恐る恐る居間に入ると、棟梁の健二が黒ずんだ茶色の座卓のまえで胡坐をかいていた。机のうえには、半分くらい空になった一升瓶がおかれ、となりには大きな湯呑み茶碗がふたつならんでいた。棟梁は、眉間に皺をよせ紅潮した顔で腕をくんですわっていた。角刈りにされた健二の頭からは、湯気が立ちあがってみえ、プラナブは思わず唾を飲みこんだ。彼の姿をみとめると、「すわれ」と棟梁はひくい声でぽつりといった。  部屋の左端には髪の毛がばさばさになった真利子がうつむき、真っ青な顔で畳をみつめていた。彼女の白い左頬にはあきらかな手形がつき、真っ赤に腫れあがっていた。プラナブは、棟梁が酒瓶から茶碗に酒をつぎたす、ドクドクという音響だけが聞こえる、逃げだしたくなる雰囲気が漂う部屋をぐるりとながめた。  ぼうぜんと突っ立っていると、「ドーン」という机がたたかれる大きな音がした。 「すわれっていってるんだ。この馬鹿野郎。テメイは、耳もいかれているのか」  棟梁は顔をあげ、プラナブを睨みつけながら、どすの聞いた声でいった。彼は、心臓がバクバクした。胸をつきやぶり、目の前に赤いハート型の柔らかいものが、飛びだしてくるかと思った。 「すわれっていうんだ」  くるった声に、プラナブは自分が立っているのに気がついて、棟梁の目の前に正座した。  「おまえ、どういう了見なんだ」  健二は、だれにとはなしに呟き、それからいった。 「テメイの国では、こうしたことが許されるのか。バラモンか、ばらばらか知らねいが。腐れクロ」  プラナブは、あまりの憤りに驚きながら、だまってみつめた。 「この馬鹿野郎が」と棟梁は叫びながら、茶碗の酒を彼の顔にひっかけた。プラナブの顔面から、酒臭い滴がぽたぽたと落ちていった。  押しだまっていると、「このクロ、なんとかいってみろ」  健二は、大声で叫び、今度は空の瀬戸物の茶碗をつかんで彼の額を思い切りなぐった。 「バッシャーン」というもの凄い音がして、プラナブは前額がとても熱くなり、目の前が真っ暗になり、意識が遠のくのを感じた。 「やめてよ。お父さん」  真利子の高い声が聞こえた。 「あんた。死んじゃうわよ」  敬子の声がした。 「馬鹿野郎。この黒いのが、そんな玉じゃねえ。人さまの二階に間借りをさせてもらい。小遣いまでめぐまれ。こちとらの職人芸まで教えてもらい。その挙げ句に、恩のあるおれの、たったひとりの娘をおもちゃにしたんだ」  話しているうちに、健二はさらに興奮してきた。  意識がもどってきたプラナブは、額が生暖かく感じた。目をあけると、目蓋から温かいものがながれてきて、ぬぐおうとした。 「馬鹿野郎」  棟梁は、彼が血をぬぐおうとした右の手を、拳で思い切りなぐりつけた。プラナブは、そのままの格好で後ろにドンとたおれ、思い切り後頭部を畳にぶつけて意識がまた遠のくのを感じた。 「出刃だ。もってこい。敬子。出刃、もってこい」  健二は、もの凄い形相でプラナブをみつめながら口走った。 「なにをするの、あんた」  敬子は、真っ青になって叫んだ。 「この薄汚い指をつめさせてやる」 「あんた、やめてよ。そんなこと、できるわけないでしょう」  敬子は、大声で叫んだ。 「この野郎」  棟梁はそういうと、わなわなと震えだした。 「この野郎。こんな。こんなこと、しやがって。生きて、この家からでれるなんて、思うんじゃねえぞ」  棟梁は、叫ぶととつぜん立ちあがり、たおれているプラナブのうえにまたがってすわり、ポロシャツの襟首を両手でつかんだ。 「テメイに、落とし前をつけさせてやる。黒いの、最後に日本の職人の仕来りってやつを教える。テメイ、身をもってじっくり味わえ」  棟梁は、プラナブを睨みつづけたままいった。額には青筋が立ち目はすわり、声はひくく「どす」がきいていた。  首をしめられたプラナブは、息もできず身体ががたがたと震えだした。やがて、痙攣状の大きな震えになっていった。 「警察。なにをしているの真利子。警察に電話しなさい」  敬子は、絶叫した。 「うぶな女を犯すことはできても、こんな汚い指ひとつ、つめるのも知らないのか」  健二は、泡をふいて意識もなくなりかけているプラナブの首を、さらにしめつづけながら叫んだ。  敬子は玄関に走り、ひき戸をあけて、やや暗くなりはじめている戸外にむかって絶叫した。 「だれか、きて。だれか。たいへんだー、うちのが殺しちゃうよう」  この羽子板屋の騒ぎを、隣近所はもう充分に気がついていた。そうした叫びがなくとも、玄関の扉をわずかにあけてなにが起こったのか聞き耳を立て、ある者は草履をはいて臨戦態勢に入っていた。  その凍った空間を、耐え切れない切羽つまる甲高い声音が切りさいていった。敬子の声が終わらないうちに、となり近所の扉がほとんどいっせいにガラガラとひらかれ、どの家の男も女もわれ先にと、羽子板屋をめざして走った。  気がつよく、なんでも早合点して割りこむくせがあり、あいだに入ると騒動にしてしまう畳職人の「喧嘩の熊」が、案の定いちばんのりで駆けつけた。  熊五郎が見たてた光景とは、ずんぐりとしたプラナブが死んだみたいに横たわり、うえに健二がのっかっていた。彼の口からは白い泡が吹きでて、真っ黒な額から真っ赤な血がながれていた。健二に首をしめられた顔面は、蒼白だった。いったいこのばあい、何色の顔というべきなのか、熊五郎にもさっぱり分からなかった。その表現できないプラナブをぼうぜんとながめていると、 「熊さん。うちのが、殺しちゃうよお」と敬子が熊五郎にむかって絶叫した。  熊はわれにかえり、健二のそばにいくと、首をしめる両手をつかんで、力いっぱいひきはなそうとしながら、「やめろ、棟梁」と叫んだ。 「馬鹿野郎。テメイになにが分かる。邪魔すんな」  健二は叫んで、右の手をはなして拳にして熊の顔面をたたいた。それはちょうど、裏拳になって熊五郎の鼻の根元に命中し、大量の血がでてきた。 「なっ。な。なにをするんだ」  熊五郎は、大声で叫んだ。 「この野郎」  今度は熊五郎が逆上し、プラナブに馬乗りになった棟梁の頬を、狙いすました拳で思い切りなぐった。健二はその一撃で、首をしめていた左手をはなし、床にころがった。 「テメイ。本気でなぐったな。テメイに割って入られる筋合いじゃねい。この馬鹿野郎。不意打ちを食らわしやがって。このでしゃばりが」  健二は、またもの凄い顔になって、今度は熊にぶちあたっていった。熊五郎は大きくのけぞり襖にぶつかり、そのままたおれ、枠ごと折れる大きな音がひびいた。熊の顔が真っ赤になって、健二を睨みつけるころには、何人かの男たちがふたりのあいだに入り、羽交いじめにしていた。三人の男に手足を押さえつけられた熊五郎は、「殺してやる」と叫びつづけていた。  気がつくと、パトカーのサイレンの音がひびいていた。何人かの警察官が土足のまま飛びこんできて、棟梁はとり押さえられた。手が自由になったときに警官をなぐりつけてしまった健二は、「公務執行妨害」で現行犯逮捕された。みんなの目の前で手錠をはめられ、警察に連行された。 「大丈夫なの。どうなの」  真利子は、プラナブのそばで、涙をぼろぼろとながしていた。口からは泡を吹き、額からは大量の出血をし、意識もなく痙攣する右手をもって泣いていた。  やってきた救急車が、彼を担架にのせてはこんでいった。  昔かたぎの職人でなくとも、ひとり娘とプラナブとの関係を許すはずがなかった。三九歳になり、正業ももっていない彼は、どこからみても婚期を逃した得体の知れない中年と映った。真利子は、プラナブの言葉を信じたのだろうか。「小作をかかえる大地主」という「冗談」を。そのときには、もう嘘だとはいえなかった。  インドの金持ちが日本にくることは、まずありえない。インド人の憧れは、つねにヨーロッパで、それも「大英帝国」以外にはない。真利子も、敬子も「もしかしたら」と思ったのだろうか。彼を許すつもりはなくても、信じたのかも知れなかった。  なにも知らない真利子は、インドにいってプラナブと結婚すると話しはじめた。彼女にとって、はじめての男だったし、職人気質できびしい健二は、自由への願望をつよめただけだった。真利子が、家族をすてたのだ。その決断を、プラナブは、彼女の両親以上に驚いていた。信じられない、女の愛だった。  プラナブは、日本に五年いたので言葉が話せた。当時、経済成長の波にのった日本人は、世界中にツアー客として旅行をはじめた。もちろんインドも例外ではなく、インド観光の目玉は、現代とムガール帝国の首都だったデリー、タージマハルで有名なアグラ、それにヒンドゥーの聖地ベナレスだった。  観光局は、日本語ができるプラナブを、日本人ツアー専用ガイドとして雇ってくれた。ガイドの職は公務員で、高いカーストになる。給料は「かなりいい」部類だが、この国では土地こそが財産とよべるもので、貨幣とは二次的だった。  さらにこまかくいえば、インドには地所の所有権という概念は、がんらいなかった。地主のカーストとは、ある一定の範囲の土地でつくられる収穫物の一部を取得する権利をもつ者だった。生産したのが自作農民か小作農民か季節労働者かによっても、えられる分配は違っていた。自営農民であっても、働いて収穫ができるのは、第一に土地があるからで、つぎに王が耕作をみとめてくれたからだった。さらにバラモンが祭儀をし、洗濯屋や床屋や、鍛冶屋や車大工などが、なにかしらの援助をあたえたおかげだった。つまり財産である「土地」には、さまざまなカーストが複雑にからみあい、くっついていた。  日本人は金離れがよく、団体行動をとるから観光客としては最高のお客だった。団体でうごくなら面倒は一度ですむし、英語も話せないから、つねに固まって行動する。だれかがはぐれて行程がずれ、時間あわせに慌てる必要もほとんどなかった。世界のどこをさがしても、こんな団体旅行で満足する国民はいないだろう。  日本人は島国で、他民族の侵略、つまり「文明の違い」という世界中のほぼすべての民族がとうぜんとして、うけ入れねばならなかった現実を知らずにすごしてきた、ひじょうに特異な種族なのだ。だから、物事の大系など、なにも考えないですんできたのだとプラナブは思った。  真利子との結婚は、親族全員からとうぜん反対された。相手はブッディストであり、カーストがあまりにも違っていた。長女が嫁いだ先は祭祀にまつわるバラモンで、上位婚だったから婿の発言権はつよかった。事実上プラナブの処遇は、姉婿の意向にまかされた。それは、彼の父の土地をひきついだ兄の意見でもあった。  できるかぎりの持参金をつみ、季節ごとにさまざまな物品をおくり、ようやくいっしょに食事ができるまでになった婿との関係を、風来坊の弟の飛んでもない行為で序列が崩れることをみんなが恐れた。 「おまえは、どうかしているのではないか。おなじヴァルナのなかでさえ、結婚できる身分ではない。相手のジャートは、なんなのだ」と兄は聞いた。 「日本には、はっきりとした氏姓はありません」  プラナブは、答えた。 「ジャートは、インドだけのものではない。帝国にも似た制度が存在する。日本とマダガスカルでは、明確な氏姓をもつと聞いている」と長女の婿がいった。 「一時代まえ、一〇〇年くらいまえだと思いますが、孤立政策をとって世界中と鎖国をした時代にはあったらしいのですが、いまは公にはないのです。それにジャートは厳然とみとめられるですが、日本人の意識はまったく未分化なのです」 「そんな曖昧なものなのか」と姉婿が聞いた。 「そうなんです。どんな氏姓とも、共食も通婚も、とくに障害がないのです」 「それは、たしかにジャートとはいえないな。そんななかでおまえは染まり、自分の氏姓を忘れてしまったわけか。もっていないんだから、ダリッドであることに変わりはないんだな」と婿はいった。 「そんな半端なジャートとは、どうなっているんだ。まったく意識されていないのか」と兄が聞いた。 「日本では、特別に自覚されていないのです。ジャートがなにかと質問されれば、特殊な技術をもった職人、という答えになると思います」とプラナブは答えた。 「つまり、肉体労働者なんだな」と兄はいった。 「ダリッドで、労働者なんだな」と婿が口をはさんだ。 「でも、縁起物をつくる職人です。それは神におさめる、奉納するものです」 「だからなんなんだ」と婿はまたいった。 「卑しい仕事ではなくて、神事に関係するジャートなんです」 「祭祀にまつわるのは、私のほんらいの職務だ。そのさいに道具を用意するのは、奴隷の仕事だ」と婿はいった。  プラナブの兄と長女の夫が話しあい、結論がでた。 「結婚するなら、ヴァルナをすてる必要がある。もう、ともに食事はしないし、たがいに行き来するのも無理だ。違うジャートなら、われわれがおまえに干渉するいわれもない。なにをしようと、制約する権限ももたない。つまりおまえは、完全に自由ということだ」  姉婿は、いった。  プラナブは、この決定をうけ入れた。兄弟は、考えなおすよういろいろと話をした。とりわけ長姉は、プラナブがガイドの職をみつけて高給とりになったのだから、おなじヴァルナから嫁がもらえると話した。 「考えなおすべきだ」とすすめ、実際に結婚相手をさがしてくれさえしたのだが、彼は「真利子と結婚するから、裁定にしたがう」と答えた。  それで、プラナブの再生族の証しだった聖紐は、一族すべてがあつまるまえで焼かれて灰になった。親族から宗教上抹殺され、一生族としてあつかわれる結論をえた。プラナブは、兄から借金と、わずかにのこった父親からの遺産とあわせてガートちかくに家を買ってあった。長兄は、債務を棒びきにしてくれた。 「身内としてできる、これが最後のことなんだ」と兄は自分に言い聞かせた。  近代的な考えをもっていた長兄だから、そうしてくれたのだ。殺されても、文句のいえる筋合いではなかった。観光客が入ってくるベナレスではなく、地方の村落共同体だったら殺害される例もあった。ヴァルナからはずされたのだから、昔からの友人もいないし、観光局のだれもが知っていた。ベナレスは、街といっても基本的には田舎で、こうした出来事は街中の者の興味をひく、なによりも早くつたわる情報だった。  真利子が結婚のためにもってきた金は、魅力的だった。結婚後、分かったことだったが、彼女の母が用意した五〇〇万という日本円は、当時のレートで一七万ルピーにあたった。プラナブの一ヵ月の報酬が二〇〇〇ルピーだったから、ざっと考えても六年分以上の年俸に相当した。おなじ年代の警察官の給与が五〇〇ルピーだとすると、持参金は飛んでもない額だった。だから、どこかのバラモンと養子縁組みをむすんで、再生族にもどることも可能だった。  親族会議のさいに、この途方もない持参金が分かっていれば、ふたりのカーストをこえた結婚はダリッドの上昇婚としてあつかわれただろう。プラナブは、バラモンのヴァルナをもって妻をむかえる許可をえられた可能性もあった。真利子の家が大金を用意したのが分かったのは、一族の裁定後だった。べつの親族をもつことにも、彼は疲れを感じた。  真利子も、事態を知りはじめていた。懊悩しているのが、プラナブにはよく分かった。真利子が彼にたいしてもつ感情が、なんだったのかをふくめて悩んでいるらしかった。気むずかしい職人肌だった父親になかった優しさを、プラナブにもとめただけだった気もした。そうであるなら、男女の愛ではなく、父と娘の関係だった。  プラナブは、一族とヴァルナをうしなったが、そのかわりに一五歳も離れた若い真利子を手にいれた。どんなインドの金持ちでももっていない日本の女で、どこからみたってうらやましいと思われるに違いなかった。真利子は、どうなのだろうか。一族をうしない、親からもみすてられ、広大なインドで知っているのはプラナブだけだった。彼女と、おなじ氏姓の者はいない。たったひとりのジャートで、これでは生きてはいけないだろう。 「別れたい。普通の結婚がしたい。日本に帰りたい」  真利子がいついいだすのか、プラナブは怖かった。ある意味では騙されたわけだし、いい分は理解できた。そのうえ真利子は、日本に帰れば、ごく普通に暮らすこともできる。  昔かたぎの健二は、容易には許してはくれないだろう。母の敬子や親戚は、みんな「よかった」っていうだろう。真利子は、もう一度結婚して、やりなおすこともできる。孫がうまれるころには健二も年をとり、幾分かはまるくなって、昔の話としてあつかってくれるに違いない。  日本人は、氏姓をつよく意識しない民族で、自分たちが、じつはインドとおなじ序列のなかで生きているのに、日々あらためて考える種族ではない。時間とともに真利子の過去はうすめられ、やがては普通の人として、あつかわれることになるだろう。  家には、召し使いは住まわせていない。どんなサーバントも、真利子よりヴァルナが高い。プラナブがいれば、雇われた者は外ではこの夫婦をどれほど馬鹿にしても、金を払う雇い主だから、彼女にたいして変な態度をみせない。しかし、真利子ひとりのときには、なにが起こるか分からない。そのうえ彼女に、「この結婚が、こうした形で成立している」と話されると思うと、もうプラナブには心の安らぎはどこにもなかった。  ヴァルナをすてるとは、こういうことだったのだ。現実となってはじめて分かった。この状況をみつめれば、自分以外に真利子の話し相手をみつけてやらなければ、気がくるってしまうだろう。こんな孤独に、人間は耐えられるものなのだろうか。  プラナブは、ベナレスじゅうを必死になってさがし、裕美という日本人をみつけた。彼にとってインドに興味をもってひとりで勝手にきている彼女は、不思議で魅力的な存在だった。  プラナブは、真利子に疲れたのだろうか。いっそ「別れる」といわれたほうが、よかったのだろうか。そんな思いが脳裏をかすめると、なにがなんだか、さっぱり分からなくなる。どこでどう、道を間違えてしまったのかと自問してみる。たったひとつの真実は、ヒンドゥーがブッディストを、それも恩義をうけた大切な人の娘を力ずくで犯したという間違いのない原因で、いまはその結果だった。  金があれば女も買えるし、息子もつくることはできる。しかし、子供にはジャートがなく、子々孫々呪われた運命だ。これから一〇〇回輪廻しても、二度と再生族には転生できない。折角、バラモンにうまれたのに、神の恩寵を無にしたプラナブの行為はヒンドゥーのなかでも最大の罪だった。彼は、この罪業を一〇〇世代にもわたり、ずっとみつづけなくてはならない。  そう思いはじめると、なぜ真利子が結婚してくれたのか分からなかった。思考は、いつもどうどう巡りで、バラモンとして生きるべきだったのは理解していた。三男にうまれたのは、神さまが決めたことだった。現世はそこからはじまり、あたえられる財産もかぎられ、人生を設計する必要があった。なまじっか父親が大学にすすませてくれたのが、ヒンドゥーの掟をやぶることになったのだろうか。父も、そうしては、いけなかったのだ。先祖が何千年も試してきたことが、自分の時代に変わるはずがない。  とまってみえるが、ガンガーはながれている。真利子とプラナブの関係も、時々刻々変化している。彼女が子供をうむのは、考えられない。私生児以下で、耐えがたいことだ。もう一度日本にもどってすべてを謝り、羽子板職人をする、そんな方法はないのだろうか。あの職業は味があり、生涯の仕事として恥ずかしいとは思わない。今更、どの面をさげて真利子の両親に会うのか。しかし、彼女をうしなうより、ずっと増しな方法だろう。  だれもたずねてこない昼のあふれる時間、真利子はなにをしてすごすのだろうか。いくらなんでも、考えるだろう。この現実を、そして未来の生活を。  三、ガンガーの水 「チャイを入れたわ」  真利子がいった。 「どんな、青年だったんだ」とプラナブは聞いた。  裕美がいちばん安全で、日本の若者も怖い。 「変わった人だったわ。ここで沐浴してたわ。すべてのガートでやるみたいだったわ。面白い人がいるわよね」と彼女はいった。 「真利子のことは、驚かなかったのかい」 「びっくりしたみたいだったわ。今日の昼食にさそったの。お寿司を食べさせてあげるってね。意外だったみたい。久しぶりの日本人で、楽しかったわ。やっぱり若い人は面白いわね」と真利子はいった。   プラナブは、こうした何気ない言葉でも、ぞっと感じることがある。真利子が普通の結婚ではないと、責めている気がする。 「そりゃ、そうだろう。裕美もくるわけだね。それじゃ、でかいのをとってこなければね」 「大きすぎるのは、味がいまいちね。驚かしてあげないとね。インドじゅうを、まわっているみたいな話だったわ」 「若いからな」という言葉がでそうになって、プラナブは息を飲んだ。 「暇、なんだな」と彼はいった。 「あたしも、そうよ」と真利子は答えた。  プラナブは、「まずい」と思った。これも禁句だった。 「一二時まえには帰るから。今日の観光客も、金持ちの日本人ばかりだ。どうして、金をつかいたがるのだろう。それでいて、バクシーシという子供には一銭もやらない」とプラナブはいった。 「数が多すぎるからよ」と真利子は答えた。  プラナブと彼女の会話は、日本語だった。真利子は英語がほとんどできないし、ヒンディー語はとうぜんできない。それは、救いだったのかも知れない。  はっきりいって、プラナブからみても、彼女の行動はあまりにも無謀だった。 「いったいなぜ、やってきたのだろう」  考えだすと、分からなくなる。 「プラナブ。デリーにいくから、むかえにきて」という電話を二年まえにうけた。 「そっちで、あなたと結婚するわ」と電話ごしに真利子がいった。  彼女の若い肉体は、プラナブにとって魅力があった。充分すぎるほどだったが、そのときにはすでにおびただしい嘘をついていた。  騙そうと思ったつもりはなかったし、はじめはジョークだった。しだいに、正当化しなければならなくなった。冗談ではなく嘘に変わり、また事実とは違う言葉をかさねることになった。話をするほど、偽りの山がつみかさなっていく。カーストをすてた罰だ。もともとプラナブには「妄想癖」があった。日本にいったのも、そのひとつだった。 「もしかしたら、あの国で暮らせるかも知れない」  これは、迷妄以外のなんだったのだろう。四〇歳をすぎ、つまらないギャグと嘘の上塗りで、若い真利子には面白かった時代もあったのだろう。ながくいっしょにいれば、ばれるし、飽きられてしまう。 「名門のバラモンだ」 「インドでは、画家としてみとめられている」 「ベナレスでは、みわたすかぎりの農地をもつ、小作をかかえる大地主だ」  考えれば小さな冗談で、嘘ではないが解説が必要だった。真利子が大切な人ならば、もっと正確に話すべきだった。わずかしか違わないが、あつまれば事実とはかなり異なっていた。  名門のバラモンの出、であったことはほんとうだ。いまは、もうそのヴァルナではない。アウトカーストも同然で、ヒンドゥーをすてなくてはならなかったし、助けてくれる者もいない。だれも助けようもなく、すべてから見放されている。すくなくとも一族からはみすてられている。これが事実だ。  BHUでは絵画を専攻して、小さな賞はとったこともある。画家として地位をきずくなど、とうてい不可能だった。  多くの小作をかかえていたのは、子供のころだった。正確には父が、いまは兄が雇っていた。  一二時に帰ると、裕美と竜司という青年がきていた。居間で三人が談笑し、ひさびさに真利子の笑い声を聞いた気がした。 「じゃん、じゃーん。ご主人さまの登場です」  プラナブは、扉をあけて大きな声でいった。うけなかった。三人とも、ぼうぜんとプラナブをみただけで、冷たい視線を感じた。 「今日は、最高の具材を用意しました。ほらこれです」  プラナブは背後に隠していた右手をぐるりとまわして、みんなの目の前にさしだした。しっかりと尻尾をつかまれていたのは、ガンガーでとれる、大きな鯛ほどもある「なまず」だった。 「じゃあ、真利子。いま、おろそう。君たちもみるかい」  プラナブは、裕美たちにいった。 「いや、ぼくは、ここにいます」と竜司という青年が答えた。  折角、話題をつくってやろうとしたのに、つまらないやつだ。 「じゃ、いこう」  プラナブはシャツをぬいで上半身が裸になると、真利子をうながした。 「それじゃね。いまから刺身をつくってくるから、期待していいわよ」  彼女は、裕美と竜司にいった。  ほどなく、皿にもった生の魚がでてきた。 「じゃん、じゃーん。これ、日本の醤油です。観光客から、もらってきました」とプラナブはいった。 「たしかに、キッコーマンだ」と竜司は驚いていった。  小さなビニール袋に入った醤油が二〇くらいあった。どれにも、「キッコーマン」とかかれていた。 「じゃん、じゃーん。さて私は、この醤油をなにと交換したのでしょうか。じゃん、じゃーん」  プラナブは、つながったビニール袋をもちあげていった。 「バクシーシですよ。もらうのは、乞食にしかできません」とプラナブはつづけた。  裕美も竜司も、ぼうぜんとみていた。場がしらけていた。  竜司は、失望した。真利子から招待をうけたとき、若いハンサムな夫を想像した。日本の女性がたったひとりでインドにまできたのだから、とうぜんそこには国をこえた、熱烈で、だれにもとめることのできない激しい愛があると勝手に考えていた。 「なにか、おかしい人らしい。どんなわけがあって、真利子はプラナブの妻になったんだろうか」と竜司は思った。 「じゃん、じゃーん。これが隠し味、菜種の油です」  プラナブはつづけていた。うけないことは分かったが、もう焼けだった。 「面白いのよ。これを醤油に入れると、わさびの風味がでるのよ」と真利子は口をはさんだ。  いわれるままに菜種油をとかすと、たしかにそんな感じがした。 「どう」と真利子が聞いた。 「たしかに、わさびの風味がします。脂がのったタイみたいで、とてもおいしいです」と竜司がいった。 「けっこう、いけるでしょう」と真利子がうなずきながら話した。 「じゃん、じゃーん。菜種の油が、わさびの味になると発見したのは、だれでしょうか」とプラナブはいった。  また、みんながだまった。 「この人、こういう発見が好きなのよ」と真利子がいった。  それから四人で、チャパティーを食べ、お茶を飲んだ。 「ガンガーは、素晴らしい。これが、その水だ」  プラナブは、すみの机のうえにおかれた大きな瓶を指さした。 「こんなに、有機物が入っている。みえるだろう。このゴミが有機物だ。それでも、腐らないんだ」  竜司がみると、たしかに浮遊物が無数に漂っていた。 「半年まえに、ガンガーの真ん中ですくった水だ。河には、放射線がながれている。だから、有機物があっても腐らないんだ」 「どこで、それが入るんですか」と竜司が聞いた。 「ヒマラヤだ。そこに、ラジウムの鉱脈がある。それが河の源泉から、とけだしている。だから、聖なる河水は腐らない。つねに放射線の消毒をうけて、すべてのものは清まっている。そこに、信仰がうまれた」とプラナブはいった。 「観光客相手にやっているんだろう」と竜司は思った。  観光客は、「そんなもんか」と考えるのだろうが、彼には理解できなかった。 「そんなに放射線がでていたら、人間にも毒です。さまざまの癌の、原因になってしまいます」と竜司がいった。 「適度で微量だ。人体には影響がない」とプラナブはいった。 「微生物を殺せるなら、人間にも作用します。人の細胞が癌化されても、おかしくないと思います。人間がどうであれ、有機物が死滅するのですから、プランクトンが死にます。動物性プランクトンも、植物性プランクトンも、影響されるでしょう。放射線がガンガーを洗浄するなら、死の河になるはずです」と竜司はいった。 「そんなこと、どうして分かる」とプラナブは聞いた。 「教科書にのっています。ガンガーの迷信ですね。観光客には、伝承と事実とを分けて、正確に話したほうが親切なのではないでしょうか」  プラナブは、ムッとした。 「それでは、腐らない現実を、どう説明する」  彼は、つよい口調でいった。 「よく分かりません」  竜司は、腕組みして考える素振りになって、部屋のすみにおかれた浮遊物が漂う瓶をながめた。 「あなたが話されたことが真実で、説明しなければならないとしたら、魚がいっぱいいて、瞬く間に消化されるちょうどいい生態系ができているのでしょうか。よく分かりません。そもそもそれは、半年もまえの水なんですか」  竜司が聞きなおすすと、プラナブは、ムッとした表情になった。 「ご主人が、定期的にとりかえているのではありませんか」と彼が真利子にいうと裕美が笑った。 「これは、半年まえの水だ。間違いないよな」  プラナブは、彼女に聞いた。  真利子は、「そうだ」といわなかった。信じられないことに、おかしそうに笑っていた。みんなが、なにも語らない時間があって、ガンガーの波音だけがひびいていた。 「ぎりぎりまで水を満たして完全に密閉すれば、酸素がすくなくて簡単には腐らないのでしょうか」  竜司は、またプラナブをみた。 「実際には、水中にも酸素分子はとけこんでいるはずです。半年まえの水だとすれば、面白い不思議な現象ですね。浮かんでいるのは、ほんとうに有機物なのでしょうか。プラナブさんは、ほかの水で試したことはあるんですか」 「インドの科学者たちも、ラジウムのせいだといっている」 「そうかも知れませんが、この国の話ですから、測定値はないんでしょう。迷信と科学がごちゃまぜになっているというのが、ぼくのインドの印象です」と彼が考えながらいうと、裕美が笑っていった。 「たしかに、竜司はよくみているわ。伊達に半年、旅行してこなかったってわけね」  プラナブは、押しだまったまま不機嫌な表情で考えていたが、いわれてみれば、ほかの水で試したことはなかった。 「真利子に聞いたが、君だって沐浴するそうじゃないか。ガンガーの水は、飲んだことがないのかね」とプラナブは話題を変えた。 「ありますよ」 「それみろ。これだけのものが、ながれている。死体だって、漂っている。沐浴中にインド人は排泄もする。知っているのか」とプラナブは聞いた。  話がうまくすすまないのを、不愉快に感じているのが分かった。インド人は、感情をおさえ切れないところがあって、面白いと竜司は思った。 「知っていますよ。ぼくだって、沐浴中に排泄します」 「その水を、自分で飲んだんだろう」  プラナブは、「それみろ」という感じで聞いた。 「そうです」 「それでも問題はないのは、聖なる河には殺菌作用があるからだ」 「非科学的ですよ。まったく不合理で、プラナブさんの話はまるでインドそのものです。ガンガーの水を飲むと三回に一度は、必ずひどい下痢をします」 「それは話がべつで、日本人が弱いからだ。なまじっか上下水道が整備されたところに住んで、自然の治癒力をなくしているんだ」  プラナブは、竜司を小馬鹿にしていった。 「そんなことは、ありません。プラナブさん、ガートのそばをみてください。どこだって下痢便だらけですよ。インド人のだれもが、この水を飲んで下痢をしているんですよ」 「ははは」  その言葉を聞くと、我慢していた裕美がこらえ切れなくなって、声を立てて笑った。真利子も、つられておかしそうに一笑した。 「たしかに、下痢便はどこにもあるわよね」と裕美がいった。  言葉を聞いて、プラナブはだまった。 「プラナブさん。そのガンガーの半年まえの水を、一度試しに飲んでみたらどうですか」  今度は、竜司が攻勢にでた。 「ぼくは、あなたが下痢をするほうにかけます。裕美は、どう思う」  竜司は、むきなおって聞いた。 「私は、飲みたくないわね。下痢にかけてもいいわ」と裕美は答えた。 「真利子さん。この水、ほんとうに半年まえのものなの」と彼女は聞いた。 「四六時中は、見張っていられないわよ」と真利子は答えた。  状況は、プラナブに不利だった。指摘されてはじめて、彼は、その水を飲もうと思ったことがないのに気がついた。観光客には、ガンガーの真ん中で河水をすくい、有機物が浮遊するのをみせ、腐敗しないと話していた。しかし、水が腐るとは、どんな事態をさすのか考えたこともなかった。 「インドじゅうを旅行したの」と裕美が聞いた。 「そうだね。だいたいは、いきました」と竜司は答えた。 「インドじゅうが、こんなに騒がしいの」と真利子が聞いた。 「うるさいって」  竜司は、聞きなおした。 「だから、子供がバクシーシを、インドじゅうでやっているの」 「ベナレスだけでは、ありませんね」と彼は答えた。 「ここほどひどいところは、インドにひとつもないはずだ」  プラナブは、確信をもっていった。 「そんなことは、ありません。観光地はどこもそうですよ。デリーも、ボンベイも、ハウラーも、負けず劣らずですね」と竜司が答えた。 「ほんとうか」  プラナブは、目をむきだして真剣に聞いた。 「日本人がみるかぎりは、ベナレスは普通です。サドゥーの数は、やはり異常に多いと思います。偽のものがずいぶんいて、この点ではインドでいちばんひどいです。ここのサドゥーは比較的若い世代で、子供のバクシーシと変わりません。本物もかなりいるのでしょうが、これはベナレスの特徴です。それでも、ここは聖地だと思います」 「どうして、そう考えるのだね」とプラナブは聞いた。 「焼き場があるからです。ひと口でいえば、この街はヒンドゥーの墓場だからです」 「なるほど。ここが墓地だというのかね」とプラナブは聞きなおした。 「そうですね。どんな村にでも、焼き場はあると思います。そこは暮らしている者たちが死んだばあい、共同体としての機能を果たす場所でしょう。ベナレスは、死のためにつくられた、世界でたったひとつの街だと思います。死ぬことが、こんなに身近に感じられる場所はありません。ベナレスで往生するのは、きっとヒンドゥーのひとつの夢なんでしょうね」 「まるで評論家だな。たかだか半年、インドをさ迷うと真実をつかんだ気になるんだな。若いっていうのは、傲慢なことだ」  プラナブは、鼻で笑った。 「君たちは、カーストについては、なにも理解できないんだろう」とプラナムはいった。 「そうですね。体系については、理解できないことだらけです。内部の人間では、ないのですから。でも、自分のうまれ育った国を、もう一度、考えさせる契機にはなります。日本人だからなにも理解できないというのは、あたらないでしょう」 「それでは、君は、どのヴァルナに入るのかね」とプラナブは聞いた。 「そうですね。ぼくがアウトカーストになるのは、間違いないでしょう。いっしょに食事ができて、ご馳走になれたのですから、プラナブさんのカーストとぼくたちは、交流が可能ということでしょう。すくなくとも今日、あなたがバラモンとして、ぼくに接しなかったとはいえるでしょう」 「私が、もしそうだったら、どうだったのだね」 「今日のプラナブさんは、パンディットになるんでしょう。刺身は生だから、問題はないのかも知れません。でも、焼かれたチャパティーまでいっしょに食べて、話をしてくれたのは、きわめて異例でしょうね。インドの食事は、会話を楽しむあつまりではないらしいですから。プラナブさん、なんでこんな話題をするんですか。インド人がいちばん語りたがらないのが、こうした内部の話ではないのですか」 「お話にならない。たかだか半年旅行して、なにを知ったつもりなのか分からないが、インドの思想はそんな浅いものではない。若者は、この国のふかさにかぶれ、髪をそって出家する。ふかいインドの器は、しょせん日本には馴染みがない。ここには、文明がある。あらゆる物事の発祥地だ。何千年とつづき、再構成されつづけてきた体系なんだ。その集大成がカーストだ。ジャートとは、そんなに曖昧なものではない」  プラナブは、大きな目を、さらに大きくみひらいて竜司をじっとみた。まるで喧嘩するみたいにいった。 「では、あなたのカーストはなんなのですか」 「バラモンだ」とプラナブは答えた。  それで、竜司が笑った。 「インド人のカーストは、バラモンだらけですね。私たち旅行者が聞くと、みんな自分のことをバラモンと答えます。そういわなければならない感じですね。バラモンは、いちばんあてにならないものです。ふたつのばあいが、あると思いました。つまり、バラモンでしかないか、それでもないのです」  竜司は、淡々といった。  裕美は、興味ぶかそうに聞いていた。 「私が、嘘をついたみたいな話だね」とプラナブはいった。 「ぼくには、分からないことが、あるのでしょう。べつに、それはかまわないのではないのですか。民族も違うのだし、分かりあえない部分があって、とうぜんでしょう」  竜司は、なげやりな感じで首を振った。 「おまえの経験なんて、たかが半年のもんだろう」  とつぜんプラナブが、大声で怒鳴った。同時に右の拳で力いっぱい、机をたたいて、「ドン」という大きな音がした。  それで竜司も裕美も驚いて、プラナブをしげしげとみつめた。彼は顔を真っ赤にして本気で怒っていた。 「この人、糸を焼いてしまったのよ。私と結婚するために」  真利子がとりなした。  プラナブは、ムッとしてだまっていた。 「私と結婚するために、カーストをすてたのよ」と真利子は話した。  プラナブは、憮然としていた。竜司も押しだまり、完全にこの件について、なにかの会話がつづく雰囲気ではなくなっていた。 「動力のない飛行機をつくったんだって。この人がいうのよ」  真利子が、とつぜん話題を変えた。  なんでこんなときに、そんな話をもちだすんだ、とプラナブは思って彼女をみた。 「グライダーですか」と竜司は聞いた。 「そうじゃない。重力にさからって飛ぶ、飛行機だ」 「信じられない話ですね」 「でも、事実だ」 「どんな構造なんですか」 「軍事秘密だ。答えられない」とプラナブはいった。  げらげらと、竜司が笑った。 「インド陸軍が、設計図をもっていったんだって」  真利子が、微笑みながらいった。 「陸軍でも、設計者の発想までは、もっていけませんけどね」  竜司は、困惑気味に言葉を発した。 「だから、軍事秘密なんだ」 「きっとそれなら、ガンガーの河面を素足で歩いて、むこう岸までいける道具もつくれそうですね。すべてが常識やぶりの、仙人みたいなお話ですが」  竜司が、プラナブをみていった。  彼がそういい終わったとき、真利子がげらげらと笑いはじめた。そうした自分に気がつくと、またおかしくなったのか。涙をながし、声を立てて笑いつづけた。竜司と裕美は、なにがなんだかさっぱり分からず、彼女の笑いと、となりで「ぶすっ」とするプラナブを交互にみた。笑い声だけがひびく沈黙の時間があってから、真利子は立ちあがり、壁にかかっていたタオルで涙をぬぐうといった。 「竜司は、天才ね。まさにその通りなのよ。この人、それも発明したのよ」  そういうと、またげらげらと笑った。  竜司と裕美も、笑いころげた。 「すると、もしかして海軍が」と彼がいうと、 「アッタリー」  真利子は、さもおかしそうに大きな声でいった。 「軍事秘密」  笑いをこらえながら、「ですね」と竜司はいった。  裕美も、声をだしてげらげら笑っていた。 「事実なんだ」  プラナブは、怒りをこめていった。 「面白いでしょ。この人」と真利子がいった。 「面白すぎます。完全なインドの方です」と竜司がいった。  プラナブは、大きな目でじっと真利子をみつめた。今度は、しげしげと竜司をみた。大きな深呼吸をし、それから首を左右に振って、あらあらしく席を立った。 「竜司さんのいう通り、水のうえを歩く道具もつくったって話すのよ」  真利子は、プラナブが憮然としていなくなると、やや間があってからつづけた。 「ただ足につけるだけで、いいんだって。海軍に没収されたっていうのよ。どんなに説明されても、信じられないでしょう」と竜司に同意をもとめた。 「残念ながら、ぼくの思考の範囲をはるかにこえています」  彼は答えてから、いった。 「折角ご馳走してもらったのに、こんな話になって申しわけございません」 「いいのよ、気にしないで、また遊びにきてよ。あの人、すぐに今日の出来事は忘れてしまうわ。単純で思いこみが激しいところがあるけれど、面白いことをいって、煙に巻くのが好きなのよ。今日は竜司さんが相手でペースをつかめなかったけれど、つぎには、あなたという人が分かったから、あんな話はきっとしないと思うわよ」  真利子は、笑みを浮かべながらゆっくりと竜司にいった。 「映画は、みたことがある」  裕美が、とつぜん彼に聞いた。 「いくつかはね。ぼくのみたのは、どれもひどいもんだったけれど」 「どんな映画だった」 「インドのラブコメかな」 「ああ、多いのよ。とてもついていけないでしょう」 「そうだね、あれだったら、東映の、やくざ映画のほうがずっと増しかな。それで、映画がどうしたの」 「なかには、それなりのものもあるのよ。なにしろ、世界最大の映画大国だから」 「たとえば、どんな映画なの」 「そうね、ラーマーヤナなんかは面白いわよ」 「昔話かい」 「そうよ、知ってる」 「子供のころ文学全集で読んだことがあるよ。もう、ほとんど覚えていないけど、それが面白いの」 「まあまあなのよ。いってみる」 「ちかくで、やっているの」 「どこでも、興行しているわ」 「解説してくれるの」 「ヒンディー語は、だいたい分かるわ。日常生活にこまらないくらいにわね」 「ウルドゥーも、分かるんだろう。凄いね」 「そうね、だいたいわね。あなた、ヒンディー語とウルドゥー語はおなじだって知っている」 「そうなんですか。まったく知りませんでした」 「ウルドゥー語はね、表記はアラビア文字だけど、イスラムがもちこんだアラビア語、ペルシア語、トルコ語の一部の語彙が、北インドでヒンディー語とまざった言語なのよ。一四世紀にデリー周辺で成立した混成語で、方言みたいなものなのよ。私は、どちらかといえばヒンディー語のほうが得意だわ。言葉はたくさんあるから、平凡な島国育ちの女には限界が存在するわ」 「いくつくらい、分かるの」 「日本語と英語、フランス語、以前暮らしていたからタイ語は喋れるわね。ヒンディー語、ウルドゥー語、それからマレー語かしら。七つだけよ。こんなことは、ごくごく平凡なのよ。この国で教養がある人なら、五、六の言葉は普通に喋るわ。クラスには一〇ヵ国以上の言語を読み書きができる、スーパーレディーもいるのよ。彼女ったら、片手間に私が教えた日本語までいまではすっかり理解して、会話はもちろん、辞書をみながら日本の小説だって読んでいるわ。ただ漢字は、さすがに苦手みたいね。かけるのは、小学校の四年生くらいまでのものかしら」と裕美はいった。 「考えられないですよ。それは、また特別ではないんですか。島国の人間からすれば、君はどこからみたって、スーパーウーマンですね。ひとりで、きていることもふくめて」と竜司が応じると裕美は声を立てて笑った。 「じゃ、いってみましょうよ」 「ぜひ、いきたいね。つれていってもらいたいですよ。教えてくれるのならね」  それで明日、ウエルカムに裕美がむかえにくることになった。 「じゃ竜司、一時ね。真利子、今日は帰るわね。面白かったわ。最高よ。いままでで、いちばん面白かったわ。たまには、こういう企画もいいわね」  裕美は、真利子にいった。プラナブが好きではないらしかった。  それから、真利子とふたりになった。 「浅草で、いっしょにいたのよ。父が、羽子板をつくっていたの」  真利子は、いった。 「ぼくの祖母も、浅草出身です。仲見世にはずいぶんいきました。子供のころですが、活気があってたしかに、ゴドリアに似ているかも知れません。浅草という話がでるまで、考えていなかったのですが。浅草寺の寺街なんですから。たしかに、ここは浅草なんですね。歌舞伎町とばかし思っていました」と竜司はいった。 「もしかすると、あなたのおばあさんと、私の祖父とは、顔見知りだったりして」 「そうだったら、面白いですね。ぼくも、しばらくいっていないのでなつかしいですね。雷門とか、五重の塔とか、花屋敷とか」 「そうね、一回、帰りたいわね。気がつかなかったけれど、うまれ育った街ってなつかしいわね。竜司は、どこでうまれたの」 「ぼくのうまれは、品川です。第一京浜のところです。おなじ下街ですよ」  竜司は、八津山橋や青物横丁の話をした。話題は延々とつづき、つきなかった。 「変わっているでしょう」と真利子はいった。 「そうですね」と竜司は答えた。 「変わっているわね。あなたと話しているのを聞くと、はっきり分かるわ。変わっているけど、ちかくにいると気がつかないこともあるのよ」  真利子は、しんみりといった。 「なんだか、寂しそうですね」 「日本は、遠すぎるわ。考えなければね。私も、頭がおかしくなりそうだわ。このごろ、ノイローゼ気味なのよ。気力もでないし、日本のことばかし考えているわ。あなたのいう通りよ。この街は死とつながっているわ。でも、ここの往生は、ヒンドゥーのためだわ。どちらかというと、アウトカーストにとっては、安らかな死をむかえられないわ。焼いても、もらえないでしょうし。そんなことばかし考えているの。ホテルでも、はじめてみようかしら」 「それは、いいですね。あたるかも知れませんよ。こんなガンガーぞいで、多少手をくわえて洒落たつくりに変えれば、高くても旅行者はくると思いますよ。日本人専用がいいですよ。浅草とか浅草寺とか雷門とか、そんな名前のホテルにしたら、うけますよ。気分も変わってきますよ」 「そうね。いいアドバイスだったわ」  プラナブは、もうでてこなかった。それで、真利子に挨拶して帰った。 「あの人は、今日はもう駄目よ。徹底的にやられたもの。でも、大丈夫よ。心配はいらないわ。このつぎに会うときは、みんな過去になっているから、根にはもたない人なのよ。挨拶はいいわ。またきてね、必ずね」と真利子は最後にいった。 「寂しがり屋の、おばさんのために」  竜司は、折角食事をご馳走してもらいながら口喧嘩になったのは、プラナブにも真利子にも申しわけなく思った。カーストの話がはじまりで、「バラモン」という言葉がひき金だった気がした。触れられたくないことが、あったのだろう。この話題は、竜司が望んだのでは、なかった。なぜ、こんな結果になったのだろうか。 「カーストはなにか」とたずねられたら、日常で意識するかはべつにして、日本人なら仏教徒と答えるしかないと竜司は思った。仏教は、成立から世捨て人の思想だから端から権力とは無関係で、社会の構成要素からほとんど除外されている。現実には冠婚葬祭にほぼ限定され、なにかの行動を取捨選択する指針ではない。だから日本人のカースト意識は曖昧だが、仏教のなかにつつみ隠され、インド思想の影響をうけているのではないか。空海も親鸞も、「旃陀羅」という言葉を否定的な意味あいでつかっている。日本人の心の構造にはカーストが存在し、なにか機会があると表面にでてくるのではないだろうか。部落問題は、根がふかいのだろう。  竜司がウエルカムについたのは、二時ごろだった。今日はガートの数は増えなかった。もう、二日もあれば完成するだろう。この仕事も終わりで、俊和にも報告できる。ベナレスの卒業だ。充分にインドはまわったし、心のこりはなかった。  四、プラナブの夢 「まったく、いまの若いやつは礼儀を知らない」  プラナブは、ベランダに両手をついてガンガーをみながら怒っていた。真利子は、答えなかった。  翳った空をぬけてきた風がふたりの頬にあたり、彼女はプラナブをじっとみつめた。なんでもない男だった。小太りで、背も高くなく、眼鏡をかけて口ひげを生やしていた。肌は浅黒く、目は黒かったが、髪には白いものがかなり交じっていた。真利子は、すべてが分からなくなっていた。いまという時間も、自分がここにいる現実も、全部が夢だと感じた。 「チャイだ。聞こえているのか。チャイをもってきてくれ」  プラナブの苛ついた声が耳に入ってきた。 「なあに」  真利子は、われにかえってプラナブにたずねた。 「チャイが欲しい。真利子、なにをぼうっとしているんだ」  ポットに入れた熱いチャイをテーブルにもっていくと、プラナブは椅子に腰かけてガンガーをながめていた。 「すわりなさい」と彼は静かにつげた。 「あの竜司とかいう男は、なんと無礼なやつだ。おまえは、そうは思わないのか」  真利子は、だまって話を聞いていた。 「食事までいっしょに食べてやったのに、あの態度はなんだ。だいたい、なぜ、おまえはあんな話をしたんだ」とプラナブはいった。 「なにかしら」真利子が聞くと、 「なにじゃない。空軍も、なにもかもだ」とプラナブは答えた。 「でも、ほんとうのことなんでしょう」  プラナブはその言葉を聞くと、さらにムッとして、右手で拳をつくって目の前のテーブルを「ドン」とたたいた。 「おれは、嘘などつかない」 「だったら、いいんじゃない」 「たったひとりの妻が、主人の話を信じないなんて、そんなことがあるのか」 「私は、みせてもらっていないんだから、ほんとうかどうかなんて分からないわ。竜司さんのいう通り、あなたの話を簡単に信じる人は普通はいないわ」 「おまえは、そんな信頼できない者の妻になっているのか。ガンガーの話だって。おれが、いつあの水を交換したのか」  真利子は、だまっていた。 「おまえは、みたことがあるのか」とプラナブはまた聞いた。 「はっきりいいなさい」 「ありません。あなたのいう通りです」 「そうだろう。なぜ、そうだといわない。おまえは、あんなチンピラに味方して、裕美と三人で笑っていたんだ。それが、妻のすることか。はじめてきた者といっしょになって、自分の夫を笑ったんだ」  プラナブは、また睨みつけた。 「悪かったわ」と真利子はいった。 「そんな言葉ですむ問題か」 「だから、悪かったって、いっているじゃない」 「反省がない」  ふたりのあいだに、よどんだ時間がながれていった。 「あの水の話はひどすぎる。そうは思っていないのか」 「でも、それじゃ。あなた、あれ飲めるの」 「まだ、そんなことをいうのか」  そう吐きすてると、プラナブはもう一度テーブルを、「ドン」とたたいた。それで真利子は、まただまった。 「不愉快な一日だった。おまえのために刺身の具をとってきて、ずいぶんさがして、いちばん脂ののってうまそうな大きいのを一生懸命、えらんだんだ。観光客に頭をさげて醤油をもらって、みんな、いうからしたのに。なんなんだ」  さらに真利子を責めていった。  とつぜん立ちあがり、 「今日は、一杯、外で飲んでくる。おまえは、勝手に食事をして寝なさい」  プラナブは、シャツのままの姿で外へでていった。玄関の戸を力いっぱいしめる音が石造りの部屋にひびいて、真利子には大きな拒絶に思えた。普段、隠されていた深淵がふたりのあいだに大きく横たわるのを、まざまざとみた気がした。  一二時ちかくまで、プラナブは酒場をさ迷っていた。バーといっても、ベナレスは禁酒州だから普通の店ではなかった。違法な営業をしている秘密の地下クラブだった。昔はいったこともあったが、真利子と結婚してからははじめてだった。とくに馴染みではなかったが、どのオーナーもプラナブを「よく」知っていた。 「旦那さん、珍しいこともあるものね」  女主人は、笑いながらいった。 「今度、奥さんもつれていらっしゃいよ。寂しい思いをしているんじゃないの」  そんなところを何軒かはしごして、家に帰ってきたのは一二時をすぎていた。そっと玄関をあけ、鍵をかけなおし、二階の寝室にあがってみると真利子はよく寝ていた。リズミカルな、静かな寝息の音が聞こえた。プラナブは、いいすぎた気がしていた。いますぐにでも起こして謝りたいとも思ったが、自分でも酒臭くタバコ臭いことに気づいてシャワーをあびた。居間の籐椅子に腰をかけると一気に酔いがまわってきて、タオルでゴシゴシと髪をふくと、バスローブのままベッドにすべりこんだ。 「プラナブ」とよぶ声が遠くで聞こえた。 「いかなくてはいけない」と彼は本能的に思った。しかし、つよい睡魔だった。 「プラナブ」  真利子が弱々しい声が、また耳にとどいた。 「よんでいる。いかなくてはならない」  激しい睡魔のなかで、プラナブは右手をあげようとした。だがどうしても右の手はあがらず、 「起きなくては。いかなければ」  そう思いながら、また眠ってしまった。 「プラナブ」  もっと遠くから、また真利子の切ない声が聞こえた気がした。 「ああ、いかなくてはならない。このままではいけない」  プラナブは、猛烈な眠気のなかでまたそう思った。そして、ゆっくりと身体をガンガーにむけて横になり、わけの分からぬまま身を起こした。ぼうっとしていた。どのくらいの時間だったか、ぼんやりと真利子のベッドをみると、姿はなかった。ようやく起きあがり、真っ暗な寝室のなかで彼女の空になった寝台を横目に、「こんな夜中に、どこへいったんだ」とプラナブは思った。時計をみると二時をさしていた。 「横になったのが一時にちかかったから、一時間もたっていない。眠いのはとうぜんだ。それにしてもいったい、どこでよんでいるのだ。まったくあいつは迷惑なやつだ。明日だって、朝から四本も仕事が入っているんだ」  プラナブは、ふらふらしながらベランダにでて、真っ黒なガンガーをながめた。ふっと、となりのアトリエをみた。そのとき、なんだか分からなかったが、そこは恐怖が支配していた。  彼はのけぞり、ベランダからガンガーに落ちそうになった。なんだか分からなかった。 「おお、危ない」  プラナブの酔いが覚めてきた。もう一度、アトリエをみた。彼は、そのままうずくまった。  真利子が立っていた。  しかし足は、床にとどいていなかった。  宙吊りになった、彼女がいた。 「ああ。おお。ああ」 「ついに、真利子」  涙がプラナブの目からぼろぼろと床に落ちた。部屋の中央にすすみ彼女をみた。真利子は、首ひとつでロープにぶらさがっていた。優しい顔をしていた。 「真利子。可愛そうな。真利子。なんで、こんなことになってしまったのか。悪かった。可愛そうな真利子。なにをとっても、まがったことひとつできなかった。嘘ひとつ、つけなかった、真利子。おれは、なにを、したのだろうか。もっとも大切な真利子。世界でたったひとりの、おれのためにすべてをすててくれた。父よりも母よりも、兄よりも、だれよりも、ずっと大切な真利子」 「全部を、うしなってしまった」  プラナブの目から涙が止め処もなくあふれでていた。やむことなく頬をつたい、乾いた土の床に落ちていった。  そのとき、目が覚めた。身体じゅうが、汗まみれになっていた。夢とは思えない真利子の縊死の姿が、目に焼きついていた。プラナブは、その様子を思いだし、思わず身震いした。となりのベッドをみると、真利子はいなかった。時計は二時をさしていた。 「どきり」とした。  ガンガーをみると、真利子が月の光に浮かび、ぽつねんと立っていた。 「やあ、さっきはいいすぎて悪かった。悪夢をみたんだ。うなされていただろう。さっきの夢」といいかけて、月に照らされた彼女が、刺身包丁を首につきさそうするのに気がついた。 「真利子。なにをしている」  プラナブの心臓は、飛びでる寸前だった。 「もういや。殺して。あなた、責任をとってください。殺してくれないのならば、自分でつくわ」  真利子は、静かにいった。 「待って。悪かった。ほんとうに、すまなかった」 「幸せになりたかった」  真利子は、嗚咽しながらいった。 「あなたを、幸せにしたかったから」 プラナブは、ベッドから床におりて正座し、ふかぶかと頭をさげた。酔いは、すっかり覚めていた。 「許してくれ。必ずおまえを幸せにする。今日は、悪かった。いままでのことは、許してくれ。必ずつぐなう。お願いだ、待ってもらいたい。ひとりにしないでくれ。みんな、おれが悪かった。もう一度、一回だけチャンスをくれ。お願いだ。その包丁をおろしてくれ」  プラナブは、涙ながらにそういった。どのくらいの時間がたったのだろうか、ながい沈黙があって、カチンと音がして、真利子は包丁を床にすてるとへなへなとすわりこんだ。彼が気がつくと、泣きじゃくっていた。プラナブはゆっくり真利子のちかくにいき、床に落ちた包丁をガンガーにほうりなげると、「ぽちゃ」という音がした。 「悪かった」  優しく真利子の肩を抱き、涙にむせびながら彼はくりかえしていた。暗闇のなかで、ひんやりとした冷気がプラナブの顔を撫でていった。 肩を抱くと、真利子は彼をみあげ、囁く小さな声で、 「あなた、ほんとうに私を愛しているの」と聞いた。 「えっ」  プラナブは一瞬声をうしない固まって、それから、「当たり前じゃないか、なぜそんなことをいうんだ」と答えた。 「日本に帰りたいわ。あなたは、もう一度、私の父に謝らなければならないわ。それで好きな羽子板をつくって、日本ならどうやったって暮らしていけるわよ。子供が欲しいわ。ここで、うむことはできないわ」 「そうだな、それがいちばんいいだろうな」  プラナブは、小さく答えた。ガンガーの河面を吹きぬけてきた、すがすがしい風がふたりの頬を撫でていった。 「ヒンドゥーをすてたのだから、ごくごく自然なことだろう」  プラナブは、そのとき思った。 「疲れただろう。今日はもう寝よう。このことは真剣に考えよう。約束する。これはふたりの問題だから」  プラナブは、いった。  涙に沈んだ真利子は、ながいことうごかなかったが、やがて嗚咽も小さくなり、彼にうながされて寝室に入りベッドに横になった。プラナブは、彼女の髪を撫でていた。しばらくして、自分のベッドにもどり様子をみていたが、真利子は眠りについていった。ゆっくりとした寝息の音が聞こえた。気づくと四時をすぎ、ガンガーの夜明けがおとずれようとしていた。  河は、とまってみえた。その真ん中を、帆船が神の愛に満たされた風を、はちきれるほどにうけて遡上していた。  ガンガー。ガンジス。すべての罪を、つぐなってくれる聖なる河。  もう一度、真利子が眠っているのを確認するとプラナブは居間におり、半年まえに中央の河面ですくったガンガーの水をながめた。ガンジスに清められ、決して腐ることのないはずの河水だった。  プラナブは、大きな瓶をテーブルのうえにもってきて、ふたをねじってあけてみると、予期もしなかった「もわっ」という異臭がたちこめ、水はあきらかに腐敗していた。 「ああ」と彼は絶句して、腐乱したガンガーの河水をだきしめた。  石造りの家の壁に、ゆっくりとした調子で、くりかえし弱くぶつかる、浦波の音だけがしていた。すべての世界が、「ひたひた」という音響だけで支配されていると、プラナブには感じられた。 「奥さん、日本人なんですってね」  ツアー客のひとりが、どこで聞いたかプラナブにいった。 「浅草ですよ」 「すすんでいる。インドがこんなに開放的だったなんて、知らなかった」  男はいった。 「そうしたばあい、奥さんはヒンドゥーに改宗するんですか」  べつの客が、無邪気に聞いてきた。 「ヒンドゥー教は、心がひろいんですよ。ブッディストも、すべてヒンドゥーにふくまれています」 「カーストって、きびしくないんですか」 「私は、バラモンの出身です」とプラナブがいうと、 「名門なんだ」と男は答えた。  普通は、それで終わるのだ。 「そうなんだ。ヒンドゥーでさえあれば、たとえ三男であっても、結婚ができなくても、名門の一族ではあったんだ。いったい、私はなにを望んでいたのか」とプラナブは思った。  真利子を犯したのは、過ちだった。結婚したのは間違いで、恩義ある人の娘として兄に紹介することもできたのだ。 「じつは、三男坊だったんだよ」  冗談ですみ、笑いで終わることができたのだ。 「どうであっても、私はインド人だったんだ」 「ベナレスで、死にたい」  プラナブは、痛切に思った。すべてを、ガンガーにながしてもらいたい。あらゆる過去を清算し、清められ、許されたい。マルカルニカーで火葬されて、灰をガンガーにながしてもらいたい。  それは、「プラナブの夢」だった。  火葬してくれる人は、もうだれもいない。 「それが、カーストをはずされた、ほんとうの意味だ」  プラナブには、分かっていた。        プラナブの夢、一〇三枚、了  裕美の部屋  一、裕美  朝方、にわか雨がふった暑い日だった。ゴドリアの交差点に通じる幅二〇メートルほどの土の道からは陽炎が立ちのぼり、すべてが霞んでみえた。ホテルのまえで待っていると、オレンジ色のサリーに身をつつんだ裕美がリクシャーにのってやってきて、竜司もそこにのりこんだ。ウエルカムは、ゴドリアの交差点のやや北がわに位置していた。そのまま北にすすむと、道は右にまがりながら上り坂になり、のぼり切ったところに映画館があった。観客が五〇〇人くらい入れる石造りの大きな建物で、真っ暗な館内は人熱れでむんむんしていた。巨大な黒いものが世界を埋めつくすことだけが分かる、夜のガンガーに似ていた。  後ろの小さな穴から光線がでて、正面の大きなスクリーンに映写していた。もれたわずかな光で、場内の様子が分かるには多少時間がかかった。館内はこみ、観客の大部分は男だったが、なかにはサリーをまとった年かさにみえる女性もいた。ぼんやりとながめている竜司を、裕美は小声で「あそこがいいわ」とうながして、ふたりがすわる場所を指示した。  映画は「ラーマーヤナ」だった。王さまが魔王と戦い、誘拐された女王をとりもどす話で、協力する大きな猿がでてきた。最後のほうで悪魔をやっつけて王と王妃がいっしょになったが、終わりではなかった。それからなにかがあり、大猿は王さまに疑われ尋問される。そのとき猿がすくっと立ちあがって、詰問した王にむかって自分の胸を両手でぐっとひらく。名場面らしく、館内は騒然となりもの凄い歓声につつまれた。大猿がひらいた胸のなかには、王と王妃のふたりだけがいた。  竜司は、大学をふたついった。最初の学校は地方の中心都市で、駅の地下街に一〇〇人も入ればいっぱいになる小さな映画館があった。二四時間営業の店で、五〇円の入場料を払うと一日つぶすことができた。そこで東映のやくざ映画をみたが、筋はいつもおなじで、キャストも高倉健と藤純子、鶴田浩二と決まっていた。理不尽なあつかいに我慢をかさね、限界をこえると、健さんは腹に真っ白な晒しをドスといっしょに巻いて、ひとりで敵地にのりこんでいった。どの作品でも藤純子は高倉健とはいい仲だったが、この世では添いとげられない間柄だった。鶴田浩二はだいたい敵方の客分で、義理のために戦わねばならなかった。  健さんが純子に別れをつげ、敵の組に単身なぐりこみをかける、そのシーンがくると、「ケンサーン」という観客の甲高い叫びが、暗い映画館にひびいた。みんなが、おなじ気持ちになった。高倉健は、滅茶苦茶に格好がよかった。声の主は若い男であったり、けっこうな年のおじさんだったりしたが、必ず掛け声は聞こえた。絶対にはずせない名場面で、猿が胸をあけたシーンとおなじだと思った。  映画は二時間で終わり、裕美は、ゴドリアのガンガーぞいのレストランに竜司をさそった。 「歩くの」と彼が聞くと、「人目があるから、リクシャーがいいわ」と彼女は答えた。 「のったって、おなじじゃないの」 「みられている時間が違うわ。それにこの暑さよ。汗をかくわ」  午後の四時ごろで、外はまだ日盛りがつづいていた。リクシャーにのってレストランにいき、彼女が決めた品をいっしょに食べながら、ふたりのお喋りはとりとめのない話で弾んだ。  艶やかな黒髪の裕美は、目鼻立ちがととのい美しかった。痩せた横顔は睫毛がながく、ひきしまった頬は理知的で、ふかい愁いを感じさせた。柔らかな声はしっとりとして、すみ切った瞳は竜司の心を、すべてみぬく雰囲気をもっていた。  インドや日本の話から歴史や芸術の話題になって食事が終わり、チャイを飲んで会話が途絶えていた。 「オレンジのサリーは、よく似あうね。凄く素敵だよ」  竜司は、いった。 「嬉しいわ。どう面白かった」と裕美は聞いた。  その言葉で、じっと彼女をみつめていた竜司はわれにかえり、思わず窓の外の景色をながめた。  ガンガーぞいにあるレストランの、二階のガラス窓は大きく切られていた。下流がわにすわる竜司に、つよい日差しを河面にうけて照りかえしながら、ながれることを忘れたガンガーが、さえぎるものひとつなくみえた。柔らかな風が吹いた。河辺のガートに波が緩やかにぶつかり、河面は金色に輝き揺らいでいた。ダシャーシュワメードには、さまざまな格好の人びとがあふれていた。風が吹いていると感じた。 「いままでみたインド映画のなかでは、抜群に面白かったよ。粗筋を読んだ記憶はあるけれど、ほとんど忘れていたよ。すこし教えてくれないかな」 「インドの古典というと、まずはマハバーラタね。ギリシア神話のイリアスとかオデュッセイアにあたるけれど、それこそ世界一のながい叙事詩なのよ。そのあとに成立したのが、ラーマーヤナね。このふたつは、古代から吟遊詩人に詠われつづけてきたわけね。大きな猿は、勇士ハヌマン。王さまは、ラーマ。とらえられた王妃は、シータという名前よ。彼女を強奪したスリランカの魔王は、ラーバナよ。頭が一〇に分かれ、腕が二〇本もある怪物なのよ。ラーバナは激しい苦行をして能力をつけ、神話では天上界も支配したことになっているわ。こうして梵天から、神々や魔物には、殺されない力をさずかったの。ヴィシュヌは、ラーバナを殺害するために人間に化身してラーマとして誕生するのよ。彼は、事情があって王国を一四年間追放される。最初の部分で、シータはラーバナにとらえられるから、ふたりが再会するには一四年の月日がたっているの。この期間が物語の伏線なんだけど、映画ではみんなが知っているから省略されることが多いわ。だからシータは貞操を疑われ、自ら火のなかを歩くわけね。聖女は焼かれないことになっているから、この場面はどの映画でもあるわ。原作では、ラーマ王はシータの貞節を信じるの。でも国民は、どうしても納得しないのよ。それで、シータはラーマにすてられ、悲しみのなかで死ぬのよ。あの、みんなが騒然となったところが今回の最高のシーンね。創作でしょうが、ハヌマンはラーマに忠誠心を疑われたわけね。それで、胸襟をひらいてみせるの。心のなかには、ラーマとシータしかいないのよ」と裕美はいった。 「たぶんそんなことだろうと思ったよ。やっぱり名場面だったんだ」 「この作品は、あそこが最高の見せ場ね。どのラーマーヤナの物語でも、ハヌマンの忠誠心は形を変えて感動的に表現されるわ。それこそ監督の腕の見せ所になるわ。この話ができたのは二世紀末ね。大きな猿ハヌマンは知恵の神で、祭ってあるヒンドゥー寺院には、大学の受験生が合格祈願の列をつくるわ。もともとは風の神さまで、ラーマの弟がコモリン岬で病気にかかったときには、ヒマラヤの薬草を一日でとって帰ってくる。中国にわたって孫悟空になると、筋斗雲にのることができたわけね。桃太郎の家来の猿には、そんな力はなくなっているわ」 「なるほど、全部、インドうまれなんだね」 「すべての起源は、ここにあるわ。だから、調べてみたくなったの」  ゆっくりとした口調で竜司の目をみつめながら話す、裕美の瞳も頬も輝いてみえた。 「帰ったら、本でもだすのかい」 「かきたいことは、いろいろあるわ。もののはじまりの物語ね」 「明日も、どこかにいきたいな」  裕美をみつめてから、竜司は口をひらいた。 「いいわよ」と彼女は微笑んで優しい声で答えた。 「どこか、面白いところはないのかな」 「そうね。もう、あなたは、ここに二ヵ月もいるのよね。なにをしてたの」 「はじめは観光のつもりだったけど、あのプロジェクトがあって、帰るに帰れなくなってね」 「地図のことね」  竜司は、俊和との出会いや、うけついだガートの話をした。 「一度みてみたいわ。私も、そんなには知らない。パラノイアだわ」と裕美はいった。 「俊和は、思うことがあったんだ。この大地を踏みしめて、はじめて感じるガンガーのながれだ。コモリンの岬で立ちどまる、時間のうごきだよ。大学をふたついくと、考える人と、しないですませる者がいるのが分かる。俊和は、死ぬときに後悔するかだけだといっていた。たしかに立ちどまるべき者が、そのまま通りすぎたら悔やむのだろうね。もともとなんとも感じない人は、どうとも思わないんだろうね。でも、ふたつのタイプがいるのは事実で、この大地に触れると一挙に、序列の問題をふくめて根底から問いなおされる気がする。彼とは、似ていたんだ。なぜここにいて、どうして私なのか。自分とは、そもそも存在するのか。そんなことを始終、考えている」  裕美には、竜司がとても嬉しそうにみえた。 「口説くのを知らないんだわ。きっとこの人、女の肌に触れたことがない」と裕美は思った。  異国の高級レストランで、大きく切りとられた窓からは、うごくのを忘れたガンガーがみえる。帆船が、すがすがしい風をいっぱいにはらんで遡上している。こんなロマンチックな場所で、偶然出会った男と女が食事をしている。最高の舞台がそろっている。竜司の心は、ときも場所も関係なく、こうした考えについやされ、きっと俊和もおなじ世界にいたのだろう。いまは、女の私がかわりをさせられている。幾分かは寂しいが、それが竜司の業なのだと彼女は思った。  裕美の身体をすりぬけていった、幾人かの彼とは違う男たちの姿が脳裏をかすめた。竜司は、そんな考えなど思いもつかないらしくつづけていた。 「ガンガーはとまっているし、ベナレスの街に神が住み、聖であるならば、むこう岸は賎で、不浄として手つかずにほうってある。時間に支配されない不変が、実在する。たとえば、つよい光が緑の木の葉を照らし輝かせる。一瞬ごとに、葉は違う緑色に変化する。なにがほんとうの緑なのか、だれにも分からない。人間の視神経が受容する、ひとコマが折りかさなっている。だから、ある刹那だけを切りとれば、緑は固定され、その緑色については論じられる。この国では、それが可能なのではないかという気持ちだ」 「時間がとまれば、思考はふかまるというわけね」と裕美はいった。 「時を連続体ととらえると、解決できない。いくら考えても、螺旋階段を上下するだけで、一歩を踏みだすことさえ不可能だろ。倶舎論は、知っているかい」 「刹那滅、くらいならね」と彼女は答えた。 「ほんとうに、裕美は学問があるよな。君とのお喋りは、もの凄く楽しいよ」  竜司は、満足げな表情になり、また話しはじめた。 「仏教では、一弾指のあいだに六五の刹那あるという。人間の感覚は、視覚で一秒に二〇コマくらいは識別できる。同時に音を聞き分け、匂いも味も肌触りも感じるから、五感をすべてで厳密に分割したら、一秒間は、ほんとうに六五コマまで識別可能なのかも知れない。しかし、どれもが独立したコマで、不連続だなんて素晴らしい発見だよ。人間の網膜細胞は、三原色を認識する三種の神経線維で構成されている。白色をふくめて、どんな色でも合成されてうまれている。しかし三原色を認識するのは、網膜の神経だ。つまり合成して色彩を感じる場所は、画布ではなく脳なんだ。印象派が一瞬のなかでとらえようとした、光と色との微妙な関係は、刹那ではじめて追求できる。それこそ一期一会だ」 「もう滅したコマには、もどれないわけね」  裕美は、相槌をうった。  竜司は、その言葉にまた、満足した表情でつづけた。 「ここで俊和と会ったのは偶然で、巡りあわせだったけれど、話していると、魂はおなじだと思った。すべてが因縁で運命論的に決まっている、そんな気持ちかな。ウエルカムにまたきて、予期した通り彼の置き土産をみたとき、ぼく自身が考えたことだと思った。四国の八八箇所めぐりだよ。インド人がベナレスにきて、パンチクロシーの巡礼をするのとおなじだ。ガートの地図を完成して、肝炎で帰った彼にみせてやらなければならない。もうすぐ、終わると思う」 「それから、どうするの」  裕美は、聞いた。 「そうだね、インドはおしまいだ。ヒマラヤにでもいって、日本に帰ることになる。でも、まだなにかがある気もするんだ。カードゲームで、ポーカーでもいいけれど、いま、ぼくはツーペアをもっている。普通はのこりの一枚を交換して、フルハウスを考える。まったくべつの発想で、ツーペアをくずすと、ストレートになるかも知れない。フルハウスでは物足りない、もったいない気持ちなんだ。こんな気分は、ほとんどはじめだけれど。分かってもらえるかな。三枚すてたらフォーカードがつくれる、そんな気がするんだ」 「そうした確立は、かぎりなくゼロにちかいのでしょうが、永遠というべつのカードをもてば、不可能とはいえないわね」  裕美は、そう答えて肩まで垂れた髪を右手ですくいあげた。細くてながい中指と親指で輪をつくり、人差し指と伸びやかな薬指を右の頬にかるく押しあてると、ややまえかがみになってなにかを考えていた。  竜司には、目の前にいるエレガントな裕美が、なんでも望をかなえてくれる弥勒菩薩にも思えた。神秘的で上品な姿で瞑想にふける、広隆寺の半跏思惟像にそっくりだった。 「一年半もいるのに、私の知っているのはベナレスだけだわ」  裕美は、寂しそうに呟いた。 「いっしょにどこかにいってもいいよ。そんなことしたら、いづらくなるのかな」と竜司は聞いた。 「それは、関係ないわ」  裕美には、竜司の言葉は意外だった。彼女は、タージマハルはもちろん、ベナレスをでたこともなかった。 「女のひとり旅は怖いわ。とくにここでは。竜司だって、気をつけたほうがいいわ。いなくなるケースは、数え切れないほどなのよ。どうさがしても、絶対に分からないのよ。知らなければ、どこへでもいくけれど。帰るまえには、いくつかの場所へはいってみたいわ。タージには必ずいくわ。シャージャハンが、国をほろぼしてまで建設したのですもの。二二年もかけて。一度は、みてみたい。二二年間も、死んだ妃をずっと愛しつづけていたなんて素敵だわ。それこそ、ラーマよ。そんな変わらない愛なんて、竜司、インド的だと思わない。国のすべての財産をかけて。命まで犠牲にして。こういう極端さが、インド的なものなのよ」  裕美は、うっとりとした目で話しはじめた。 「アグラの城をみてみたいわ。シャージャハンが幽閉された、城塞の屋上から、どんな風にタージがみえるのかしら。息子に監禁された王が、自分がつくった霊廟をみて、なにを考えたのかしら。想像してみたいわ。三〇〇年以上もまえは、いまみる以上に、タージは輝いていたのでしょうけど」  裕美は、話していた。 「ロマンチックだね。いまの大学の女の子に、君みたいな人はいない。時代が違うみたいだ。もっと現実的で、お金のことばかし考えている」  竜司は応じながら、なぜ裕美がひとりでBHUに留学したのだろうと思った。普通の失恋くらいでは、こないだろう。 「それは、誤解だわ。竜司が思うほど、みんな昔と変わっていないのよ。どちらかというと、あなたは普通ではないわ。昨日のプラナブとの話なんか、変人同士の壮絶なバトルという感じだったわ。ロマンチックな会話ができる男が、いなくなっただけなのよ。お金は必要よ。なければ、ロマンチックな体験もできないわ」  静かなときのあいだに、ふたりは紛れこんでいた。 「そうそう、そういえば」  裕美は、いいことを思いついたという表情で話しはじめた。 「サーカスがあるのよ、ベナレスにも。これが面白いらしいのよ。どういってみない」 「サーカス。空中ブランコかい」 「そうよ。でも違うのよ。国によって、出し物も変わるのよ」  つぎの日は、サーカスにいくことにした。興行は午前と午後の二部構成だった。ふたりは、昼過ぎの公演にいくことにした。  裕美が、二時にウエルカムまでむかえにくる約束になった。 「おくっていこうか」と竜司はいった。 「人目があるから、ここで分かれましょう。そこがゴドリアの交差点だから、帰り道は分かるわよね」 「ここに二ヵ月いたんだ、地図をかきながらね。また明日を楽しみにしているよ」 「それじゃね。店をでたら、べつべつにいきましょう。明日は、二時にホテルのまえで」  裕美は、そういってふたりは別れた。  二、ハッサム  歩いてウエルカムに帰った。ガンガーはもうすっかり闇に支配されていた。街は変わらず喧騒とし、出店がつらなって焼き鳥やオムレツを売っていた。車がブーブーと警笛を思い切りならし、リクシャーの男が大声で叫びながら走っていた。売り子がくるった声で、おなじ言葉をくりかえしていた。「バクシーシ」。「おめぐみを」という物乞いの声もおなじだった。男同士、女同士で手をつないだカップルで、どこのバザールもごったがえしていた。  そうした人ごみをぬけてホテルにもどって横になると、ほどなくザリムがきて、竜司に用を聞いた。 「とくにないよ」と彼は答えた。  ザリムはドアで突っ立ったまま、竜司をみていた。 「なにか用があるのかい」と聞いた。 「とくにない」とザリムは答えた。 「それじゃ。扉をしめてくれ」  竜司がいうと、ザリムはでていった。ほどなくノックの音が聞こえた。 「だれ」 「おれだ」とハッサムの声がした。 「入っていいか」 「べつに、かまわないよ」  扉をあけて入ってきたハッサムは、なにやら興奮していた。 「あの女はなんだ」 「みてたのか」 「目はある。ああいう風にしたら、だれにだってみえる」  竜司がだまっていると、ハッサムはつづけた。 「日本の女だった。どういう関係だ。旅行者ではないな」 「BHUの学生だ。一年半ベナレスにいて現代社会学を勉強している。現代社会って分かるか」 「それは、大学で勉強するものなのか。現代社会とはおれたちが生きている世界だろう。そんなこと、勉強しなくてはいけないのか」  しばらくして、ハッサムは不思議そうに聞いた。彼は、いつも真剣だった。 「ハッサムがみても分からない問題を、研究しているんだ。学問とは、そういうものだ。 必要があるかどうかは、べつの問題だ。無関係といってもいい」 「みて、分からないものはない」 「ほんとうか。みれば、なんでも分かるのか」 「だいたいはな。目に入れば、理解できる」 「そうか」と竜司は答えた。しばらくして、 「それで、おまえは、なにが分かったんだ」と聞いた。 「あれは女だった」 「馬鹿か、おまえは。それはだれにだって分かるもんだ」 「日本人の学生で、BHUで現代社会を勉強している」 「それは、いま、おれが話したことだ」 「サリーをきていたから、旅行者じゃない。おまえとおなじ、ジャートだ。普通、となりにすわるのは結婚してからだ。氏姓がひくい者同士だからできるんだ」 「おまえも、そういうジャートになりたかったんじゃないのか」  ハッサムは、だまった。 「どこにいったんだ」 「みれば分かるんじゃないのか」 「綺麗な女性だった」 「ああいう女は好きか」 「当たり前だ。日本の女は、綺麗だ」 「ここにも、泊まりにくることがあるんだろう」 「旅行者とは、違っていた。サリーをまとった日本の女は素晴らしい。日本人とは、思えないくらいだ。日本の女性には、サリーが似あうのかな。竜司がうらやましい。あんな女といっしょにいられて。いろいろなことを、好き勝手に話せるのだから」  ハッサムは正直だから、そう思ったのだろう。彼は、左の窓から裸電球の光に満ちたゴドリアの街を、思いつめた表情でじっとながめた。その様子は、どこか儚げで朧で、魂が四つ角の大気のなかに迷いこみ、消えてなくなってしまう気がした。 「話してみたいか」と竜司はいった。  ハッサムは、ゆっくりとベッドにむきなおった。不審気な表情で、 「いま、なんといった」と口をひらいた。 「だから、彼女と話してみたいのか」と竜司がつげると、ハッサムは、はっきりとした口調で答えた。 「もちろんだ。できることなら、日本人の女と話してみたい。旅行者ではない。サリーをきる女とだ。なぜ、ここにいるのか。どんなことに興味があるのか。なにを考えているのか、聞いてみたい。ただそれだけだ」  ハッサムの言葉は、竜司の心をうった。 「かなえてやろうか。その希望を」 「ほんとうか」  ハッサムは、真剣に聞きなおした。 「明日、また会うことにした。いっしょに食事でもどうか。直接、聞いてみたらどうだ。おまえが考えている、その疑問を」 「そうしたい。いいのか」とハッサムは答えた。  それで明日の夕方、いっしょに食事をする約束になった。中華料理店だが、ハッサムは、いくのははじめてだといった。  曜日の感覚はなかった。朝、オムレツを食べた。ザリムは、ずっと竜司の食事をみていた。 「なにか用があるのか」と彼は聞いたが、なにもいわなかった。  午前中は、ガートをさがして時間がつぶれた。数は八三になり、あとひとつで完成だった。午後の二時に、裕美がウエルカムにやってきた。リクシャーにのるとき竜司が自分の部屋をみあげると、真剣な表情でふたりをみるハッサムと目があった。  ベナレス駅のちかくにテントがはられ、サーカスが興行していた。インドでも有名なサーカス団らしく、国中をまわっているという話だった。テントはかなり大きく、五〇〇人以上の観客がいた。竜司は全体をみまわし、サーカスはどこも基本的にはおなじだと感じた。四方に柱が立てられて、テントをささえる大きな空間がつくられ、中央にまるく仕切られた演技をする場所があった。舞台の床は土で、とりかこんで観客席がつらなっていた。  いちばんまえの席のチケットを買って、裕美とみた。  サーカスの入り口には、ポスターがはられていた。空中ブランコや道化師が描かれていたが、かばが中央にいた。  日本でサーカスにいったことはあるし、テレビでもよくみた。興行に動物はつきもので、犬や猿は普通だ。熊やゾウ、トラやライオンなどの猛獣も芸をする。かばは、想像したこともなかった。  考えてみたが、逆立ちは無理だろう。下肢二本で立つことだって人がささえても、不可能だろう。縫いぐるみでもきた者が、なにかをするのだろうか、ポスターをみて考えてみたが、竜司には想像もできなかった。  館内はこみ、出し物もごくごく普通で面白かった。サーカスの女性は綺麗だと、竜司は思った。化粧が濃いので素顔は分からないが、華やかだった。彫りのふかい顔立ちは、メークすると一段とひきたってみえた。きびしいジャートがある国で、身体を露わに雑技をするのだから不可触民だろう。先祖代々、稼業をうけつぐサーカスの女性たちは、どんなあつかいをうけているのだろうか。舞台に立つのだから、大道芸人よりは高い序列に違いなかった。女の大道芸はみたことはないから、彼女たちはやはり特異な存在で、かぎられたジャートなのだろう。  うまれてはじめて、かばの曲芸を見物した。大きな動物が、奥のほうから、のっしのっしと歩いてきた。動物園ではだいたい汚れた水槽に身を沈め、黒い鼻とせいぜい背中くらいしかみえない。実際に全体像をみるのははじめてで、予想以上に大きな生き物だった。  かばのまえに動物使いがいて、右の手に草をもっていた。男が餌を鼻に押しあてた。かばは、すこし動物使いのほうに移動した。歩くというより、うごく感じだった。そのうごきに、また男がいくらか後退し、かばの鼻に草を押しつける。この動作がずっとくりかえされた。観客はなにが起こるのかと、懸命にみまもっていた。  中央のまるい演技場は直径が二〇メートルくらいで、かばは奥からでてきて、円形の仕切りちかくを一五分ほどかけてゆっくりと一周した。そして、やってきた通路に消えていった。  ほんとうに、かばがそのまま舞台からいなくなったとき、固唾を飲んでみつめていた観客は一瞬しんとなり、それから館内は、爆笑の渦で埋めつくされた。竜司もおかしくて、裕美とふたりで声を立てて腹をよじり、涙をながして笑った。いっそ極芸とよんでもいい、最高に面白いショーだった。サーカスが終わってテントをでたとき、竜司は裕美にいった。 「ホテルのオーナーの息子が、昨日、ぼくらのことをみていたらしいんだよ」 「ウエルカムの」 「そう、裕美がむかえにきてくれたから。イスラムなんだ。暇らしくてよくみているんだ」 「ここの人は、みんな暇人よ。ゴシップばかり追いかけているわ。それがどうしたの」 「日本人のサリー姿をはじめてみたらしい。サリーと、とてもよく似あうといって。なんで裕美みたいに綺麗な女性が、ひとりでBHUにきているのかって、凄く興味があるらしい」 「この国の人は、なんにでも好奇心を示すわ。どうしたら、ひかせないですむか、考えてしまうほどよ」 「その通りだ。ようするに暇なんだ。興味をもったことは事実で、君と喋りたいんだそうだ」 「なにを、話すの」 「特別なことはないと思うよ。ハッサムというんだが、ここに二ヵ月もいるんで友だちなんだ。彼は物事をふかくは考えないが、正直だし、家がホテルだから女性の旅行者にはずいぶん会うんだと思う。しかし裕美は、ハッサムのいう通り特別だ。いい方によっては、物好きで変わっている」 「いいたいことは分かったわ。でも、興味がないわ。この国の人の考えることは、みんなおなじよ」 「それは、日本もそうだ。とくにこのごろはひどい。裕美みたいな発想をする人は、ほとんどいない」 「かばの曲芸だと、思っているのね」  竜司は笑った。 「まあ結論からいうよ。ハッサムは、女性と話したことがほとんどないんじゃないかな。旅行者の女と、かぎられた話はすると思う。それ以上の機会はないんだろうね」 「イスラムは、みんなそうよ。女はもので、片寄った配分になるから、富とか力の象徴でしかないわ」 「その通りだ。だから話してみたいんだろう。食事を、いっしょにしたいといっているんだ。ぐあいが悪いかい」と竜司は聞いた。  裕美は、右の手をかるく額に触れていたが、やがて、うんざりとした表情で、「もう、そのつもりなんでしょう。そうしてやるって、竜司は話したんでしょう」といった。 「そうなんだ。ハッサムは、いいやつだ。不愉快な人間ではない。馬鹿ではない。人を気遣えるし、ホテルの跡とりだし」  気がすすまないらしく、裕美はずっと考えていた。その姿をみて、竜司も思った。イスラムやヒンドゥーの男たちは、裕美がブッディストだから、格下相手なら失礼なこともするのだろう。ある意味では、サーカスの女芸人とおなじに思うのだろう。 「いいわ。それがあなたの、たってのご希望なら。責任も、多少はとってもらうことになるかもね」  裕美はいった。  竜司には、彼女がなにを考えているのか分からなかった。譲歩を引き出し、ハッサムとの約束が果たせそうだったので、「いいよ。なんでもする」と竜司は答えた。  それで、中華料理店でいっしょに食事することになった。  ハイファーは、ベナレスでは有名な店で、俊和と何回かいった。ゴドリアを西にまがり、ベナレス駅にむかう途中にあった。大きなガラス窓が、大通りに面して切られた綺麗な店で、まるいテーブルが一〇くらいならび、清潔な感じがする中華料理の老舗だった。中国人は、どこにでもいた。  裕美とふたりでリクシャーにのって、ハイファーについたのは五時半ごろだった。青いストライプの入ったシャツをきて、裾がひろがったズボンをはいたハッサムは、店のまえに立っていた。彼も竜司も眼鏡をかけ、背の高さも似ていた。ふたりとも痩せていたので、みかけでいちばん違うのは口ひげだった。ハッサムは、イスラムの割には毛がうすく、伸ばしていたが立派とはいいがたかった。竜司が髭をそらなければ、すぐに彼くらいにはなりそうだった。三人でハイファーに入り、道路がわの四人がけのテーブルに腰をおろした。窓ごしに大型のバスが行き交うのがみえた。裕美は、窓がわで竜司とならんですわったので、彼とむきあう形になった。 「ウエルカムの跡とり、ぼくの親友のハッサムだ」と紹介した。 「こちらは、ミス裕美だ。ぼくの大切な友人だ」  竜司は、ハッサムにいった。 「お会いできて嬉しい。綺麗な色だ。サリーをきた日本人に会うのははじめてだ。日本の女性に、よく似あうことがはじめて分かった」とハッサムは話しはじめた。 「サーカスは、どうだったか」と彼は裕美にたずねた。 「ハッサムは、いかなかったの」と彼女は聞いた。 「そうだ」と彼は答えた。 「ハッサム。おまえは一日じゅう、なにをしているんだ。ベナレスについて、なにも知らないじゃないか」と竜司はいった。 「まわりが分かればいい。それが、おれにとって必要なことだ。ほかは関係がない」 「裕美と話をするのは、重要なのか」と竜司は聞いた。 「知りたいことがある。だから必要だ」とハッサムは答えた。  ウエイターが注文をとりにきて、チャーハンを頼んだ。裕美は怪訝な顔をしたが、その表情にハッサムは気がつかなかった。 「竜司から、いろいろ話を聞いている。彼とは親友だ。今日は会えて嬉しい。いっしょに食事ができて、とても光栄だ。サリーをきている日本の女性は美しい。とても魅力的だ。赤いサリーは、裕美によく似あう。肌が白いからとてもマッチするのだと思う。赤は情熱的な色だ」と真剣な表情でつづけた。 「いろいろ、教えてもらいたいんだってさ」  竜司は、裕美にいった。 「どんなことかしら」  彼女は、つまらなそうに答えた。 「竜司とは親友だ。でも、裕美に教えてもらいたいことがある」とハッサムはいった。  チャーハンがでてきて、いい匂いがした。三人で食べた。 「どうだい。うまいか」と竜司はハッサムに聞いた。 「なかなか、いける。この食べ物は、はじめてだ」と彼は答えた。  ハッサムは、ほんとうにうまそうに食べていた。 「おいしいだろう。その肉、なんだか知ってるか。みれば、なんでも分かるっていったものな」 「ふうん。変わったものだな。でも、うまい」  ハッサムはスプーンにチャーハンをのせて、じっくりとみつめて答えた。また、さじに入れ、うまそうに口にした。それをみて、竜司はいった。 「その肉は、豚だ」  ハッサムは顔をあげ、眉間に皺をよせた。不思議そうな表情で、彼をまじまじとみながら、「なに」と聞きなおした。  竜司は、もう一度いった。 「みれば分かるんだろ。それは、豚の肉だ」  その言葉を聞くと、ハッサムは真っ青になった。浅黒い顔からは血の気がうせ、とつぜん立ちあがると口をおさえて、一気に外にかけだした。戸外で、吐いている音がした。 「ひどい人ね」  裕美は、彼をみつめながら、しみじみとした調子でいった。  竜司も驚いていた。ハッサムがこんなに激しい反応をするとは思っていなかった。ふたりのあいだにながれる空気は、完全によどんでいた。なにも語らない裕美はじっと外をみて、竜司にはひどく息苦しい時間に感じられた。自分のしたことを、心から反省せずにはいられなかった。裕美にも、謝りたい気持ちでいっぱいだった。しばらくすると、ハッサムは思ったより、さっぱりとした表情で席に帰ってきて、水を飲んだ。 「やりすぎだった。申しわけなかった」と竜司はいった。 「教えてくれて、ありがとう。食べないですんだ」  もどってきたハッサムはいった。 「悪かった。許してくれ。昨日おまえが、なんでも分かるっていったから、ほんとうかどうか、試してみたんだ。ほんとうに悪かった。許してくれ」  竜司は起立して頭をさげ、神妙な顔になって謝った。 「いいんだ。おまえは友だちだ。豚が、こんなにうまいとは知らなかった。はじめて分かった。おまえが機会をつくってくれなければ、一生知らなかった。でも、もうおれはお茶でいい」  裕美は、ふたりの会話をだまって聞いていた。  ハッサムはチャイを頼み、外をみたり、天井をながめたりしながら考えていた。やがて裕美にむかって話しはじめた。 「ロメとジュリーの、日本の話を教えてもらいたいんだ」  お茶を飲みながら、ハッサムは聞いた。 「なに、それ」  裕美は、聞きかえした。 「日本の昔話だ。竜司に聞いても、よく話してくれない」とハッサムはいった。 「ロミオとジュリエットのことだ」  竜司は、チャーハンを食べながら裕美にいった。 「ああ、そう。それは日本の物語ではないわ。イギリスの話よ」と裕美は答えた。 「そうか。どうも変だと思った。そういう名前の日本の宿泊客はいない」  ハッサムは、うなずきながらいった。 「どんな話なんだ」と裕美に聞いた。 「恋愛物語よ。若いふたりが愛しあっているのだけれど、いろいろな、しがらみがあって、結婚できずに心中するのよ」 「分かる気がする」 「ハッサムには、ジュリエットがいるんだ。ふたりは愛しあっているんだそうだ。この世では、結婚できないらしい」  竜司が解説した。 「まあ、それは可愛そうね」と裕美はいった。 「ほんとうに、そう感じるの」  竜司は、彼女に聞いた。 「それは、心から思うわよ。竜司は、そうでないの」  裕美は、真剣な表情で聞いた。 「たがいに愛しあっていれば、という前提ならばね。ハッサムのばあい、その辺から怪しいんだ。裕美は、ながく住んでいるから、インド人のことはよく分かるだろう。インド人同士なら、ふっと目があえば、愛情はたがいに確認できると思うかい」と竜司は聞いた。 「ジャートが違うわけなのね」と裕美はいった。 「さすがスーパーウーマン。お見通しだね」と竜司がいうと裕美は笑った。 「ぼくは思いこみだと話したのだけれど、ハッサムには特殊な能力があるらしい。みるだけで、なんでも分かるんだそうだ」といった。 「それで、竜司がいたずらにいたったわけね。正当化しようとしても駄目よ。いたずらには、ふたつあるわ。楽しいものと不愉快なことよ。さっきのは完全に後者ね。多いに反省するべきだわ。軽蔑されても仕方がないくらいだわ」と彼女は、つよい口調でいった。 「裕美は、思った以上に、いい人だ」とハッサムは賞賛した。  彼は、チャイを飲みながら考えていた。やがて、「裕美は、純粋な魂の愛を信じるか」と聞いた。 「また、なにかいわれたのね」 「これは、べつに嫌なことではない。竜司が、的確にふたりの愛を表現してくれた。ギリシアのプラが、アラーとおなじことを話しているらしいが、ほんとうか」と裕美に聞いた。 「なんだ、ハッサムは疑っているのか」と竜司がいった。 「おまえは大切な友だちだ。でも、ときどき嘘をいう。だから、裕美から直接聞いてみたい」 「プラって、なあに」 「やっぱり、いないのか。そんなのは」  ハッサムは、竜司を睨みつけた。 「プラじゃない、プラトンだ。名前くらい覚えておけ」  竜司は、いった。 「そうか、プラトンか。その人が、おれのジュリエットにたいする愛情を、肉体ではなく魂の愛だといっているらしい。ほんとうか」 「竜司の話は、正しいわ。プラトンは、そう話しているわ。あなたたちの愛は、とても素敵よ」と裕美はいった。 「分かってくれるのか」 「もちろんよ」 「裕美は、優しい」  ハッサムは感激していた。それからジャスミンティーを頼んだ。 「豚のエキスは入っていない」  竜司がハッサムにいうと、彼は裕美をみた。 「大丈夫よ」  裕美も、うなずきながらいった。  ハッサムは、ジャスミンティーを飲んで、「うまいチャイだ」と感想を述べた。食事が終わると、彼は歩いて帰るといった。  竜司は、裕美とふたりでリクシャーにのった。 「たしかにいい人だわ」と彼女はいった。 「もう二ヵ月だ。毎日、ぼくの部屋にきて、ひとりにさせてくれないのでこまる」 「友だちがいて、いいじゃない」  ふたりをのせたリクシャーは、ゴドリアを南にまがった。 「このまま、おくっていこうか。どうする」 「そうね」 「赤いサリーも似あうね。素敵だよ。ハッサムがいった通りだ」 「やっと、気がついてくれたのね」と裕美は笑った。  ゴドリアとBHUの中間くらいの場所で、リクシャーをおりた。 「入っていって。紅茶でも飲まない」 「いいのかい」 「あがって、いってよ」  木造の二階だてで「BHUの学生むけの住宅」という話だった。ふるぼけた家屋の左端に木製の戸があり、あけるとせまい階段があらわれた。のぼると小さな踊り場で、右に扉がみえた。鍵をあけて部屋に入ると、裕美は裸電球をねじってあかりをつけた。アパートというより、普通の住宅の二階を間借りした感じだった。プライバシーをまもるためにいちおうの造作がされていたが、もともとは下とつながった一軒の家に思える部屋だった。  一〇畳くらいで、白っぽい絨毯がしいてあった。道がわに窓が、部屋の中央ではなく、やや右がわに切られていた。そのちかくに机があったが、座卓で、食事のときにもつかうらしかった。床には、電球のスタンドがおかれ、綺麗に整理されていた。書棚はなく、本が絨毯につまれていた。階段がわにベッドがおかれ、ふかい赤色のベッドカバーに覆われていた。窓の反対がわに小さなキッチンがある、ワンルームのふるい建物だった。すみには小型の冷蔵庫がおかれ、ガスはプロパンだった。生活の臭いがした。  竜司が入り口で立っていると、「そこにすわって」といって、裕美は座卓のまえを指さした。ベッドとむかいあう位置に、彼は腰をおろした。 「紅茶を入れるわ。ちょっと待ってて」と裕美はいって食器をとりだし水をわかした。  絨毯にはチリひとつなく、綺麗に掃除がされていた。窓際の壁には大小さまざまな本がつまれていた。背表紙はヒンディーの文字が多かったが、英語の書籍も日本の文庫本もあった。ノートが山づみにされていた。 「授業は何語なの」 「ヒンディー語よ。英語の授業もあるわ」 「日本人は、ほかにいるの」 「そんなわけ、ないでしょう」  裕美は、ぶっきら棒に答えた。  それから、彼女の話をした。裕美が外語大をでたあとで、タイの商社にいたこと。パキスタンの大学にいくか、インドにするのか、悩んだという話だった。 「家族は賛成したの」 「そんなわけ、ないでしょう。仕送りは、してもらっているのよ。自分でためたお金もあるけどね。それだけで生活したら、父も母も心配でしょう。ここは、外語大の教授に紹介してもらったの。帰ったら、大学にもどるわ。講師には、してくれるわ。そういう話でもなければ、父も母も絶対許さないもの」 「何年いるの」 「四年よ」 「ながいね」 「きっと、あっという間だわ」 「ご両親は、きたことはあるの」 「一回だけね」 「なんていってた」 「思ったより近代的だって。スラムみたいな場所を、考えていたらしいわ。心配はしていたわ」  いくつかのそんな会話のあとで、「ひとつ、聞きたいのだけれど」裕美はいった。 「昨日のプラナブの話だけれど、あのジャートの話題ね。どういう意味なのかしら」 「プラナブのジャートは、なんだと思う」 「あまり、考えたことはないのよ。立ち入った事情は失礼だし、昨日みたいな話になったのは、はじめてだったわ。プラナブはこの国の尺度からすれば、ガートちかくに家をもつ、小金持ちよ。ガイドとしては、かなり名が知られているわ」 「半年いただけだから、よく分からないよ。再生族が、証しである糸を焼くって、なにを示すと思う。ほんとうにバラモンだったら、いっしょに食事をしてくれるのかな。たぶんお昼は、真利子と三人だったのではない。ブッディストに改宗したとしても、糸は焼かないんではないかな。自分の証しみたいなものだし。日本に住むならともかく、インドで棄教する理由がないとは思わない」 「アウトカーストが、仏教に改宗するのとは意味が違うわね」 「もし糸を焼いたとすれば、自分の意志ではない」 「そうか。焼かれたってわけね」 「二度と手にできないよう、一族から追放された、かな」 「プラナブは、嘘をついていることになるわね。真利子が、だれもたずねてこないってこぼしていたわ。ずっとひとりで、なにをしていいのか、分からないって。BHUにでも編入してみたらと話したけれど、その件ではご主人が反対で、いまのところは無理だといっていたわ。彼女は、英語も喋れない。プラナブは英会話くらいができてから試験をうけたらと、いっているらしいわ。そのくせ英語の教師もつけてやらないのだから、喋れるようになるはずもないし。可愛そうな気がするわ」 「日本人と話して、バラモンといいだすインド人は、なんなんだろう。嘘かも知れない。あるいは、バラモンでしかないのか」 「違うということね」 「ようするに跡とりではなく、次男か三男か、普通は日本人と結婚するジャートではないんだろう。真利子には、なにか誤解があったのかな。二年たつというから、事情が分かりはじめているのかな。推測だけど」 「きっと正しいわ。BHUには、跡とりしかこないわ」 「それも、文系はそうだと思うよ。理系だったら、インド人は英語を話せるから、技術者として仕事を都市にもとめることもできる。跡とりでない者が大学で絵画を専攻したら、未来はないだろうね」 「あきらめることになるわけね。未来のすべてを」 「そうだね。家族は、もてないだろう。その、ひきかえだろうね」  裕美は、考えていた。それから紅茶をひと口飲んだ。 「プラナブは、いやらしいのよ」  とつぜん、裕美はいった。 「せまってくるのよ。真利子がいるのに」  ふたりの目があった。裕美は、竜司をじっとみつめていた。彼は、なにをすればいいのか分かった。声をかければよかった。言葉でなくても、肩を抱いても、手をにぎるだけでも充分だった。静謐なときが、ながれるのをやめていた。裕美が待っているのが分かった。湿った空気がながれていた。  竜司は、意を決して生唾を飲みこむと、「お願いがあるんだ」といった。 「なあに」  裕美は、希望がなんであっても、かなえてくれる表情で答えた。 「ヒンドゥーの女の子と、話がしたい」  裕美は、だまった。沈黙の時間が油にまみれてすぎていき、周囲の空気が冷たくなり、重くまとわりついてきた。 「分かったわ」  ながい沈黙のあとで、裕美はいった。また音もなく、ときがながれていった。 「どんな話がしたいの」と裕美は聞いた。  それから、じっと竜司の目をみつめた。 「話しても、いいのかい」 「もう、あなたはいっているじゃない」 「ヒンドゥーの若い女性と話してみたい。君くらいに教養がある学生がいい。聞いてみたいんだ。彼女たちが、この国でなにを思って暮らしているのか。ヒンドゥーのジャートや女性の地位について、考えていることを聞きたいんだ。ボンベイで女子大にいってみた。話したかった。我慢できなかったんだ。きっかけが、つかめなくてね。一日じゅう、女子大のまえをうろうろしていた。馬鹿みたいに」  裕美はだまって聞いていた。またガンガーのときが支配し、彼女は紅茶をひと口飲んだ。 「竜司がどうしても話してみたいのなら、そういう女の子を紹介してもいいわ。あなたの希望にそう、ヒンドゥーの、若くて、教養のある、綺麗な子を」  裕美は、ゆっくりといった。 「手配してあげるわ。竜司がインドにきて、思いのこすことがないように。因縁だわ。私に原因があって、結果が、こうしてあなたに答えなければならない。分かったわ。今夜にでも、ホテルに連絡を入れてあげるわ」  裕美は、昔を思いだしたのか、べつなことを考える風情になった。どこか遠くをながめる目つきにみえたが、竜司には居心地の悪い時間だった。 「それじゃ、帰るよ」といった。 「そうね」 「今日は、楽しかったよ」 「そうだったわね」  扉をあけて、竜司がお別れをつげたとき、裕美はいった。 「あなたは、ひどい男ね。あんないい人を騙すなんて」 「ハッサムのことは、反省している」  裕美は、竜司を責めていた。彼のすべての行為で、重苦しい雰囲気につつまれて部屋をでた。階段をおりると、後ろでドアをしめる、木のきしむ音がひびいた。  紅茶の容器がふたつおかれたテーブルをじっとみつめると、不意に涙がこみあげてくるのを裕美は感じた。両の目が一瞬熱くなったと思うと、ぼろぼろと湧きでてきたものは頬をつたい、とどまることもなく絨毯にこぼれ落ちていった。テーブルに両肘をつき両手で顔を覆った。閉じられた目から、信じられないほどの涙があふれてきた。滴は、すわりつづけていられない、悲しみをつれてやってきた。赤色のベッドカバーをはずすと、赤いおしゃれのサリーをぬいだ。ベッドの布団をつかむともぐりこみ、頭からかぶって思い切り泣いた。嗚咽し、慟哭する自分に感動し、生きている己に感激して、涙があふれた。 「こんな風に泣いたのは、何年ぶりになるのかしら」  そんな思いが涕泣のなかで浮かんだ。 「寂しかったんだ。たったひとり切りで」  彼女は、あらためて思った。 「そう。ひとりぼっちで」  竜司がウエルカムに帰ったのは八時ごろで、ハッサムが部屋にやってきた。 「遅かったな」と彼はまずいって、 「あれから、またふたりで話をしたのか」と聞いた。 「そうだ。ふたり切りでだ」 「ふたりだけ」  ハッサムは、目を大きくみひらいて聞いた。 「裕美の部屋にいってね。ひろい綺麗な寝室だったよ。真っ赤な、厚い絨毯がしかれていてね」  そう竜司がいうと、ハッサムは深刻な表情になってだまった。 「そんなこと、していいのか」 「日本では、なんでもかまわないんだよ。知らなかったのか。ジャートがひくいからな」と竜司がいうと、ハッサムは眉間に皺をよせてだまった。 「嘘だよ。お茶を飲んだだけだよ。なにもできやしない。当たり前だろう」 「おまえは、嘘つきだ。それには、ふた通りある。楽しい嘘と、そうでないものだ。これは完全に後ろのほうだ」 「裕美が、気にいったみたいだな」 「とても面白かった。裕美は優しい。ここに泊まる日本人の女性をみてきたが、いままで会ったなかでいちばん綺麗で素敵だった。竜司、結婚するなら、裕美みたいな優しい女がいちばんだ」 「ハッサム。いい意見だった。参考にするよ。それに今日は、希望がかなってよかったな」 「そうなんだ。その礼をいいたかった。いままで、旅をする女性しかみたことがなかったから誤解したみたいだ。旅人だったんだな。今日はいい勉強になった。日本の女性は、ほんとうに素敵だ」とハッサムはいった。  彼が部屋をでていこうとしたとき、竜司はよびとめてたずねた。 「ハッサム。おまえのジャートは、なんなんだ」 「おれの氏姓か。そんなこと、なぜ急に聞くのか」  彼は、不審気にいった。 「気まぐれだ。あらためて、聞かれたらなんと答える」 「おれは、ウエルカムの跡とりだ。それしかない」 「なぜ、イスラムだと答えない」 「みれば分かることだ」 「ジャートを聞いたとき、男がバラモンと答えたらどう思うか。知らない者に」 「バラモンなんだろうと思う」 「そうではないと、考えないか」 「そういうばあいもある。しかし、旅をするおまえたちとは、基本的に違う」 「なにがだ」 「ベナレスで、住んでいる者に嘘をついても仕方がない」 「デリーで、知らない人にいわれたら、どうだ」 「バラモンだろうと考える。そうは、思わないこともある」 「おまえは、どこで、それを見分ける」 「その必要はない。どちらでもいい。金持ちではないと知れば、充分だろう」 「なぜ、財産がないと分かる」 「金持ちだったら、まずそういうだろう。どちらであっても、おれとは関係がないから、そんな状況は、問いにも答えにもならない」とハッサムは答えた。  三、ナンディー  つぎの日の朝、竜司は八時半にホテルをでてリクシャーでBHUにいった。美術館がひらくのを待って館内に入り、どれもこれもが素晴らしい細密画がかかるギャラリーにいた。 「九時に、そこで」 昨夜、一〇時ごろにホテルに裕美から電話があった。別れたときとは打って変わった、元気そうな声が聞こえた。 「竜司がもとめている、ヒンドゥーの、教養のある、若い女の子を紹介してあげるわ」  開館直後のひろい常設のギャラリーには、だれひとりいなかった。竜司は、いちばん好きなシヴァ神の妻、ドゥルガーの絵をじっとながめていた。彼女はトラにまたがり、両手には鋭い剣をもち、頭に冠をかぶっていた。パステルだったが、素晴らしいタッチだった。  シヴァには、三人の妻がいる。パールヴァティーは、清らかで美しく女の優しさを示している。シヴァの最初の妻、サティーが転生したもっとも人気のある女神だ。カーリーは、「時間」とか「黒色」を意味し、女の怖さを示している。顔は青黒い色でぬられ、手には髑髏や生首をもつ。血や殺戮を好み、嫉妬や復讐心、老いをあらわし、みるたびに悲しい思いがした。ドゥルガーは、「ちかよりがたい者」という意味で、竜司がいちばん気にいるシヴァの妻だった。優美で激しく、一〇本以上の腕があり、そのひとつひとつにさまざまな武器をもって敵と戦っていた。きっと、母の姿なのだろう。  ドゥルガーをじっとみつめていると、背後から「竜司」という裕美の声がした。振りかえって言葉をうしなった。オレンジのサリーをつけた裕美は、鮮やかな青い布をまとった女の子をつれていた。 「ドゥルガーが好きなの」とヒンドゥーの女性はいった。 「日本語を話すの」  竜司は、驚いて聞いた。 「普通の会話、くらいわね。裕美と話すときは、日本語よ。だれも知らない言葉は、便利なことも多いわ」  その女の子は、笑いながらいった。  竜司は一歩さがって、ラピスラズリの群青ともよべるサリーをまとう若いインドの女性とならびながら、 「ドゥルガーが、いちばん好きだ。パールヴァティーは退屈そうだし、カーリーは可愛そうで、みていられない。ドゥルガーは違うね。力でせまってくる。描かれ方にもうごきがあるし、理知的で心につめよる美しさをもっている」  竜司は、いった。 「まるで、君だね」  青いサリーに身をつつんだ娘をじっとみつめていった。  女性は、竜司の言葉に、おかしそうに笑った。彼があまりにも真剣な表情だったからだろうか。 「この絵は、印象派の影響をうけているのよ」と若い女はいった。 「そうなの」  そんな言葉をまったく予期していなかった竜司は、心の底から驚いた。柔らかな笑顔で彼をみつめる女性をもう一度みて、そして生唾を飲みこんだ。 「考えてもみなかったけど、きっとそうだね。西洋の分類でいけば、モチーフは新古典派だね。奥に秘めた情熱は、ロマン派だ。画家でいうなら、ドラクロワに似ている」 「そうね。アングルよりは、ロマン派ね」 「ドラクロワは、好きかい」 「アングルは、形にとらわれすぎてるわ」 「ダビッドは、職人というか、マニエリズムで教科書だね。なんでも、こうかけばよろしいって感じで、どの作品も、マルか、バツか、すぐに採点してしまう」 「アングルは、ダビッド後の新古典の領袖だから、どんなに異国情緒をかもしだしても描写は美しいけれど、描かれる人たちは感情が抑制されて静物画みたいだわ」 「躍動感がないよね。理性よりも感性を重視したのがロマン派だね。デッサンという輪郭より、色彩をとった。古代の秩序にたいして、近代の情念の勝利を主張したのがロマン派だよ。感動しながら描く孤高のドラクロワは、ひとつの時代をきずいている」 「新古典主義は、あかるくて、落ちついて上品よ。秩序だっているし、友愛に満ちて、時代を支配している。ロマン派とは対照的で、アングルとドラクロワは、産業革命とフランス革命をへた、ナポレオン後のフランス絵画を代表する二大巨匠だわ」 「ロマン主義の、ロマンて、なんだと思う」  竜司は、真っ青なサリーを眩しく感じながら、日本語を話すヒンドゥーの女性をじっとみつめていった。 「そうね」  彼女はすこし考えて、 「もともとの言葉は、英語で、フランス語ではロマネスク、ドイツ語ではロマニッシュになるかしら。いまは、フランスでもロマンチックという単語はあるけれど、ひと言でいえば、病気かしらね」と話して微笑みを浮かべた。  それを聞いて竜司も笑った。 「そうだね。素晴らしい答えで驚いたよ。でも肩をもっていえば、病気よりも狂気かな。非論理的であらあらしく、破壊や破滅、それに残酷や廃墟が好きで、まるでシヴァみたいだね」 「ああ。それ、面白いわね。その表現、凄く気にいったわ」  女性は感嘆し、竜司をみつめて嬉しそうな顔をした。 「いままで考えてもみなかったけれど、新古典派って、ヴィシュヌみたいだわ」  そう呟いて、じっと竜司の目をみつめた。青い瞳は、彼を正視していた。彼女が自分のすべてに自信をもっているのが分かった。 「気位の高い女なんだろう」と竜司は思った。  心臓が高鳴るのを覚えながら、美しいドゥルガーをみつめ、言葉をついだ。 「ヴィシュヌとシヴァは、対照的だよね。シヴァ神は、あんなにあらあらしくて人間のことなんかなんとも思っていないみたいにみえるけど、なんで人気があるんだろう」 「ヴィシュヌが、バラモンの神だからよ。もちろんブラーフマンはいるし、それこそ彼らが礼拝しているわ。ヴィシュヌは、世界を維持するわけだから、そのためには秩序が必要よ。あかるく論理的でなければならないわ。人にも優しいし、熱烈に愛する者たちのバクティには、現世利益もあたえてくれる」 「シヴァは、民衆の神なんだろう。滅茶苦茶なことをするけれど、どうして人気があるのかな。インドの大衆も、ロマンをもとめているんだろうか」 「あなたのいう通り、非論理的なところがシヴァの魅力だわ。だれにも媚びないし、いうことも聞かない。あなた、ヴィシュヌとシヴァが、結婚した話は知っている」 「聞いたことがあるよ。そこでも、シヴァは男だったみたいだね」 「ヴィシュヌは女性になって、シヴァ神を誘惑したのよ。それで息子をうんだわ。だからこの二神は、どこまでも対等なのよ」  彼女は、大きく笑った。 「パールヴァティーは、献身的すぎるわ。カーリーではふたりがいっしょで、度をこして暗いわ。ドゥルガーが、いちばん均衡をたもてるわね」 「ギリシア神話では、ディオニュソスも、ヘラクレスも、インドにきたことになっているね。シヴァは、ディオニュソス神に間違いないね。ヴィシュヌは、ヘラクレスではなくアポロだったんだね。あかるくて、いつも人間によりそい、秩序と節制をすすめ、竪琴をひく音楽の神で、競技の勝利者には月桂樹の葉でつくった冠をあたえ、デルポイの信託所には、汝自身を知れ、とかかげている。君は、どちらが好きなの」 「ヴィシュヌよりは、シヴァのほうが魅力的ね。ドラクロワは、たしかにシヴァ神に似ているわね。結局、結婚もしなかった。画壇ではいつも孤立し、それでもアカデミーに憧れて入りたくて仕方がなかったわ。したわれもせず、弟子も育てず、タレーランがいなかったら、どうなっていたのかしらね」 「ドラクロワは、彼の息子であるのを生涯にわたって知らなかったといわれるのね。信じられない話だよね。あれほど想像力のある人が、自分の出生に無頓着だったなんて、考えられないよ。日記に、なにがかかれているのか知らないけれど、どういう根拠で通説になったのか理解できないね。アングルもドラクロワも、どちらも素晴らしく、最高の水準に到達したのは間違いがないね。あとは鑑賞するがわの問題で、趣味とか立場とか、そうしたものの違いなんだろうね。ぼくらからみると、ドラクロワは満点ということになるね。主題にたいしても貪欲で、充分に情熱的だし」 「そうね。ドラクロワは、もっと激情的だわ。それを一生懸命、おさえている。ほんとうは野獣なのに。飛びかかって食べてしまおうと、いつも狙っているのに」  竜司をみつめながらいうと、女はおかしそうにまた笑った。  綺麗な白い歯ならびがみえた。青いサリーをきて、碧い瞳だった。ながい髪は中央から分けられ、肩よりもずっとしたの、腕のちかくまであった。鼻は高く、顔立ちは彫りがふかくて、目は切れ長だった。竜司はめまいを感じた。こうして日本語を話す若い女は、たぶんベナレス一の美人だろう。ながい旅をしてきて、こんなに美しい女性は、ボンベイでも、デリーでもみた覚えがなかった。   「あなたのことは、知っているわ」と女はいった。 「何度も、ゴドリアで会っているものね。このまえのフェスティバルの夜は、じっくりみつめあったわよね」  女は、おかしそうに笑った。 「知りあいなの」と裕美がいぶかしげに聞いた。 「いや」  竜司は、頭を振って裕美をみつめた。 「ハッサムのジュリエットだよ」と呟いた。 「ああ。そうだったの」  裕美は、ふかい溜め息をつき、感嘆していった。 「そうね。彼女の家は、ウエルカムの斜向かいだものね」 「なんの話」と女は聞いた。  竜司は話した。 「ナンディーって、よんでもいいかい」 「なんで、私の名前を知っているの」 「君は、ベナレスでいちばんの有名人だよ。ぼくみたいな旅行者だって、みんなが知っているくらいの。一度君に出会ったら、忘れられる人は、だれもいないよ」 「面白い話ね」  ナンディーは、笑みを浮かべて答えた。 「忘れられないのが、ぼくのほかにもいるんだ。ウエルカムに。ナンディーの家と、斜向かいのホテルだよ。イスラムの若い男がいるだろう」 「あそこには、何人か暮らしているわね」 「あのホテルの跡とりが、君に、恋いこがれているんだ。例の、シンドゥール事件で」 「シンドゥール」 「そうさ。二、三日まえ、ナンディーは緑のサリーをきて、シンドゥールをしていた」 「ああ、あれね」  ナンディーは、こまった顔になって答えた。 「シンドゥール。ナンディー、あれをつけて外出したわけ。どこから、そんなものもってきたの」  裕美が驚いて聞いた。 「お母さんの部屋にいったら、目に入ったのよ。それで、いたずらしてみたの」 「あんたらしいわ。シンドゥールなんて。考えられないわ」  裕美は、ぼうぜんとしていった。 「ウエルカムの跡とりのハッサムが、君のロミオだけれど、ぼくに一度、ジュリエットを紹介したいって、しつこくいうんだ。それでいっしょに、ナンディーが家からでてくるところをみていた。ぼくが泊まっている三階の大きな窓からね。そうしたら、ロミオがとつぜん泣きだしたんだ。ぼくのベッドまで後ずさると、ごんごんたたきながら号泣してさ。シーツまで全部ぬらしてしまった」  ナンディーは、げらげらと笑った。 「冷たい夜だったわけね」 「そんなものじゃないよ。もう、とてもつかえないよ。鼻汁までついているんだ」  ナンディーは、げらげらと笑った。健康そうな白い歯だった。湿った、しっとりとした肌だった。 「怒られたわ。父は、本気だったわ。今度あんなことしたら、BHUにもいかしてやらないって」  ナンディーは、おかしそうにいった。  素晴らしい美貌だった。若くて、理知的で、まるでドゥルガーがそのまま絵からぬけでてきたみたいだった。三人で図書館にいって美術全集をみようということになり、ギャラリーをでた。  外は日盛りで、つよい光線がさしていた。先を歩くナンディーの截然とした青いサリーと、裕美の鮮烈なオレンジのながい布は、強烈な光のなかで浮かびあがりながら、たがいにひきたてあっていた。橙は、原色の赤と黄色からつくられる第一次混合色だから、パレット上で青とまぜあわせれば黒くなる。となりあってならぶふたりの鮮やかな色は、分割されたまま、輝きのなかでさらに明度があがっていた。たがいに力をおよぼしあい、輪郭があやふやに変わり震えて、色彩だけが凄烈に輝いてみえた。光彩は、客観的で普遍的な世界から、主観的で個人的なものに変化し、青とオレンジは、一瞬にして姿を変える文字どおりの印象になっていた。  BHUの図書館にいって、大型の画集をだしていっしょにみた。アングルとドラクロワ、それに、セザンヌ、どれもが素晴らしかった。 「ゴーギャンは、違うわね。彼は、まったくべつの、独特の世界に住んでいるわ」  ナンディーはいった。  さまざまな話をした。絵画や文学について。さまざまの作家のいろいろな作品について、思う存分の話を。楽しい会話を。 「プラトンの理想の社会は、インドに似ている」とナンディーはいった。 「あそこにも、はっきりとしたジャートがある」 「なんで、分かるの」 「まず、ヒエラルキーが存在する。それに、社会は分断され、分業で成り立ち、個人ではなく全体がもとめられている。だいいち女性が登場しないわ」 「男同士が手をつないでいるのは、イスラムの連中とそっくりだね。君のいう通り、プラトンは理想の国制をスパルタにもとめている。リュクルゴス伝を読むと面白いよね。カースト制度といってもいい、完全に分断された社会があって、王権が絶対的でないところまで、インドに似ているね」 「リュクルゴス伝。だれだったかしら」  ナンディーは、右手の指で額に触れてすこしだまった。 「そうだったわ。なんていったかしら。プルタルコスだったわよね」  竜司をみて笑った。 「スパルタの話は、笑えたわ。あまりにも硬直しすぎて、可愛そうにも思えるわ。ペロポネソス戦争でまけた、アテナイの政治をみて育った若いプラトンは、スパルタの国制が無視できなかったのね。その民主主義は、ソクラテスを告発し、刑死させたのだから。プラトンの時代ですら、真、善、美は、かぎられた人だけにあったのよ。考えてみて、竜司。プラトンの世界は、理論的であかるく、おだやかで善意に満ちている。秩序に支配され、抑制がきいて、いつでも綺麗な論理的な帰結がある」 「ここでは、結論はないの」  竜司は、ナンディーをみつめていった。 「この世が存在するのは、ヴィシュヌが支配するからよ。秩序があるから、ヒンドゥーは結論をもっているわ。なにが正しくて、どうすればいいのか。みんなはじめから最後まで、すべてが決まっているわ。決定しすぎているくらいにね」 「分かるよ。いままで、プラトンとインドの世界が似ているなんて、一度も考えたことがなかった。君のいう通りだろう。自由の度あいがかぎられている。いいのか、悪いのかはべつにして」 「自由という言葉も、ロマン派の思想ね。べつのいい方をすれば、現実逃避とおなじだわ。秩序が支配する世の中にいたたまれず、逃げられるところならどこへでも、どんどん逃避していくわけね。その先が、異国趣味だったり、幻想的な世界だったり、場所はさまざまよ。ここで生きるのは、秩序を大切にしてまもることだから、旅行者のあなたには分からないでしょうね。竜司がシヴァについてどんなに考えても、自由を追いもとめて逃げているかぎり、ジャートは不明だわ。残念なことに、あなたは、どうしたってヒンドゥーにはなれない」 「君のいう通りだと思う。ジャートという言葉はひとつの記号で、シーニュだ。シニフィエとシニフィアンを同時にもっている。日本人のぼくには、どうしても君とおなじには分節できない。それこそ、恣意性のなかにとどまっている」  彼が慎重に言葉をえらんで話すと、ナンディーは大きくうなずいて微笑んだ。 「でもね、竜司。人のなかには、ヴィシュヌもシヴァもいるのよ。私たちの心には、二神がやどっているのよ。バガヴァッドギーターの世界は、人の胸中でこの二柱が争う姿をかきだしているのよ」 「そうか。なぜプラトンが好きなのか、ずっと分からなかった。今日、君と話して、はじめて理解したよ。シヴァ的なロマンと、ヴィシュヌ的なプラトンが、ぼくのなかで両極としてひきあって、相補的に構成されていたんだ」  竜司は、ひどく納得した表情になっていった。  その言葉を聞いて微笑むナンディーは、美しかった。まさに時代を超越して、ドゥルガーと話をしていたのだった。  夢の三時間がたって昼になった。ナンディーは、「帰るわ」っていった。  竜司は、だまって彼女をみつめていた。理由は分からなかったが、涙がでそうだった。すくなくとも目は、うるんでいたに違いなかった。ハッサムの気持ちの、半分くらいは分かった気がした。だまって、ナンディーをみつめていると、 「楽しかったわ。高校時代までに、全部読んだの。図書館の本は、ほとんど目を通したわ。この国では、女は仕事がないの。ある人は、たいへんよ。ずっと、それをしていなくてはならないのよ。私は、ずいぶんと幸せだったわけね。裕美に話しておくわ。時間をとって、また楽しい会話ができるから安心して」とナンディーはいった。 「待っているよ。天使がおりてくるのを。ベナレスに二ヵ月いて、待つことだけは覚えたから」  竜司がいうと、ナンディーはまた笑った。裕美に挨拶すると、帰っていった。  目の前がくらくらした。ナンディーの姿がみえなくなると、図書館の椅子に腰をおろした。非現実的で、すべてが信じられなかった。ぼうぜんとしていた。ナンディーのいったことは、みんな「真実」に思えた。新宿のゴドリアで、哲学の講義を聞いた気がした。 「お気に召したようね。ナンディーは、それこそバラモンの出よ」  裕美は、図書館の窓から彼女が外にでていくのをぼんやりとみながらいった。 「若くて、素敵だわよね。飛んでもない知性があって。だれにもまけない教養をもっていて。絶世の美貌で。でも、ここでどうするのかしら、あの子」 「君のいっていたスーパーレディーって、ナンディーのことだったんだね」 「凄いでしょう。この国には、あんなにすべてをもっている人が実際にいるのよ。はじめて彼女に出会ったとき、自分に絶望したわ。でも、すぐ分かったわ。競争する相手じゃないって。だれも競うことなんかできない、特別な存在というものが、この世にはほんとうにいるのよ。私がおとっているのじゃなくって。ある意味では、神さまみたいな存在が」  裕美は、両腕をくんで途切れとぎれにぼんやりといった。 「きっと、たいへんだね」 「ナンディーのおじいさんは、ガンジーとともに独立闘争を戦ったのよ。大英帝国と。だから、ナンディーはBHUにこれたのよ。この国では女性が大学にいき、本を読むなんて、だれも必要だとは思っていないわ」  それからふたりで、学生食堂にいって食事をした。学食はいくつもあるらしいが、俊和といった場所がいちばん大きかった。 「ここには、以前きた」と竜司は裕美に話して、油虫入りのプーリーの話をした。  それを聞くと、彼女はげらげらと笑った。 「馬鹿ね。そんなもの、インド人だって食べないわよ」 「そうだったのか」と竜司はいった。  裕美は、彼をみつめて口をひらいた。 「ナンディーがあんなに快活に話すのを、みたのははじめてだわ。あなたのことが気にいったのよ。ナンディーは自由だから、嫌なものはいやだっていうわ。満足したでしょう。夢がかなって。ボンベイの女子大のまえで、もう一度、うろうろしないですんでよかったわね」 「ありがとう、裕美。とても満足している。でも、なにも聞いていない。あの子がこの社会をどう思っているのか、不充分だ」 「話していたわ。あれがすべてよ。あれ以上は無理よ。あれが言葉の限界だわ」  裕美のいう通りだ、と竜司は思った。あれが「言葉」の限界だ。ナンディーは、女性の問題についても話していた。 「またねって、いっていたじゃない。話す機会は、あるかもね。あとは、ナンディーの気持ちひとつね。午後の授業があるから」  裕美は、食堂で別れた。  BHUのなかをあてもなくぶらぶらと散策し、もう一度図書館にいった。三人で話題にした美術全集をとりだし、ナンディーがすわった椅子に腰をかけて、ドラクロワの画集をみた。ほとんど処女作ともいっていい「ダンテの小舟」も、頭巾の赤と着衣の緑が、補色でありながら隣接し、それでいて赤色は鮮やかでなんの違和感もない。彼は、登場したときから、色彩の魔術師だったのだ。「サルダナパールの死」は、インド的だとナンディーはいった。「どんなマハラジャでも、こんな立派なベッドはもっていない」と彼女は感想を述べた。「激怒のメディア」はカーリー、「オフィーリアの死」はパールヴァティーで一致した。  ふたりでドゥルガーをさがした。いくつか候補があった。「ミソロンギの廃墟に立つ瀕死のギリシア」は、バイロンをふかく愛したドラクロワが、彼の死をいたんで描いた作品だった。中央にいる女性は、雰囲気はいいが、ドゥルガーとは違っていた。バイロンは「ミネルヴァの呪い」をかいて、ギリシアを救おうとした。中央に立つ女性は、女神アテナに違いなかった。「民衆を導く自由の女神」も違う。ドゥルガーは、人びとを指導することはない。それっでもやはり、ドラクロワは、女神を描いていた。  閨秀「ジョルジュ・サンドの肖像」こそ、ドゥルガーに違いなかった。「フレデリック・ショパン」は、恋に疲れ果てた天才の姿だった。この二枚がいっしょになっていれば、もっと違ってみえただろうに、心ない人がいると思った。 「クレオパトラ」はいい素材で、シーザーにせまったときなら、ドゥルガーだったのだろう。しかし、このモチーフでは、そうはならなかった。それでも、面影はいちばん漂っていた。 「失敗作かも知れないね。でも、ドゥルガーは、ベナレスにいる」  竜司は、ナンディーをじっとみつめた。 「それもゴドリアで、運のいいことに、目の前だ」  彼が真剣な表情で話すと、彼女は笑った。 「君を、ドゥルガーとして、小説を執筆してみたい。日本人作家がベナレスを舞台にした物語を創作して、その英訳本をみたら、ぼくがナンディーをかいたんだと思ってもらいたい」と竜司はいった。 「面白い口説き文句ね。私の子供に話しておくわ」  ナンディーは、笑いながら答えた。  しかし彼女は、自分がそうではないと、否定しなかった。ナンディーはそのとき、ドゥルガーであることに気づいたのかも知れない。  竜司は、美術館の大きな常設ギャラリーで、女神の絵をみていた。夕方の四時ころで、人はほとんどいなかった。ぼんやりと夢の一日を考えながら絵をながめていると、「やっぱりここだったのね」という裕美の声が後ろから聞こえた。振りかえると彼女がひとりで、こまっている感じにみえた。 「どうしたの」と彼は聞いた。 「竜司。もう一度ナンディーに会いたい」 「もちろんだよ。話をしてみたい。ずっと話していたいよ。あらゆる話をしてみたいよ。できれば、彼女についても知りたい」 「BHUにのこっていれば、ここか図書館かのどちらかだと思ったわ。図書室にはいなかったから。もう、帰っていればと思ったけれど。仕方がないわよね」  感慨ぶかげに、裕美はいった。  よく分からないが、竜司がBHUにのこっていたのが、こまったことみたいだった。だまっていると、 「ナンディーが、もう一度話をしてもいいっていうのよ。竜司と。どちらかというと、もう一度話をさせて欲しいって」  それは、驚きだった。 「あなたも分かるでしょう。ヒンドゥーの女の子が、そんな興味をもってはいけないってこと。ナンディーが、そういったのよ。気をつけて欲しいの。仲介は、してもいいわ。気をつけて欲しいのよ。ここは、日本ではないという事実を。インドで、ヒンドゥーの聖地ベナレスだってことをね」  裕美がなにをいいたいのかは、よく分かった。ここには、ジャートがある。もちろんBHUは大学で、自由でひらかれている。しかし、それには、かぎりがある。インドのベナレスの大学だし、ナンディーはヒンドゥーで、竜司はブッディストだ。彼女はここに住み、彼は旅人だ。あらゆるジャートが違って、かさなっている部分がみあたらない。氏姓がおなじでなければ、通じあうものはひとつもない。 「分かるよ。裕美がいいたいことは、充分に。旅行者が話をできる、そんな機会なんてない。今日は驚いたんだ。裕美が、ほんとうにナンディーを紹介してくれたことをね。信じられない気分だった。そのうえ、ナンディーがアウトカーストのぼくを会話の相手にしてくれた。夢、いまでもそうだ」と竜司は答えた。  また、沈黙だ。裕美には、整理をする時間が必要だった。自分の状況や、いまというとき、ガンガーのながれや風のうごきなどを。 「五時半に家にきて。私の部屋よ。人目があるから、もうこれ以上、外では会えないわ」と裕美はいった。 「部屋は、あけておくから入っていて。五時半にナンディーといっしょに帰るから、そのまえにいて頂戴。昨日きた私の部屋、ひとりでこれる」 「分かる。あの家の正面にクスリ屋があった。となりはタバコ屋だし、よく分かる」  裕美は、だまって考えていた。 「そうしましょう。五時半にナンディーと帰るから、そのまえに部屋にいて頂戴。分かっているわね。ナンディーは、ほかの子と違うのよ。なににでも興味をもっているわ。普通のヒンドゥーの女性ではないのよ。あんなに教養のある若い女の子は、日本にだって、いないでしょう。それは、よく分かったでしょう」  裕美は、くりかえしていった。 「特別だっていうことは、理解している。充分にね。ぼくみたいな旅行者に興味をもつことが、もう特別だって、よく分かっている。相手はブッディストだ。ジャートが違うものに、興味をもたないのが普通だ」 「ナンディーは、自由だわ。でも、そうなりたいって思っているだけよ。あの子は、馬鹿ではない。あなたがみた通り聡明よ。自由になれないことも、よく知っている。でも、若い女の子よ」 「やめたほうがいいのか」と聞けばよかったのだろう。  すくなくとも裕美は、その言葉を待っていた。もう一度、会いたかった。ナンディーのそばにいたかった。彼女のまわりの空気をすいたかった。その吐息を感じたかった。 「五時半まえに、裕美の部屋にいっているよ」  すこし間があって、竜司はぽつりと答えた。 「分かったわ。ナンディーにつたえてくるわ。それじゃあね」  裕美は、美術館をでていった。彼女のいう通りだった。裕美の言葉は、みんな正しかったろう。ナンディーが、どんな女性なのか分かった。三時間の会話はすべてを教えてくれていた。このうえ、なにが知りたいのだ。聞くべきことは、したではないか。素晴らしい知性であるのは分かった。およそ人がもてる、あらゆるものをもっていることも理解できた。 「危険だ」という裕美は正しかった。プラトンのためなら、死んでもいい気がした。BHUの帰り道、レストランでチャイを飲んだ。 「どうなるんだろう」  興奮で心が震えていた。数多の不安が漂い、自分でも整理がつかないものばかりだった。ナンディーの意志もはっきりとは分からなかったし、通りをみながら考えごとをすると五時になっていた。  人目をさけてふるぼけた木造の家の扉をあけ、内がわに入って戸をしめた。目の前に色あせた高い階段があった。昨晩、一度あがって帰ってきたはずの場所だったが、こんなにも暗く、これほど急だったのだろうか。とつぜん階段が立ちあがり、垂直になり、身体のうえにたおれてくる気がした。息が乱れていたが、音を立てるのに注意して静かにあがっていった。階段は、ギシギシと大きな悲鳴をあげ、足はその声に震えた。扉のまえにいた。色あせたうすい一枚の板だった。生唾を飲みこみ、ノブをつかんで押すと、きしんだ音がして彼は女の部屋にいた。  竜司は、座卓のうえに位置する裸の電球をひねって、あかりを点した。八畳くらいの居間があり、道に面した窓がわの右にベッドがおかれ、ふかい赤色のベッドカバーがかけてあった。綺麗に掃除がいきとどいた部屋の左に、本が無防備につまれていた。窓の反対がわに小さなキッチンがあり、トイレとシャワー室がついて、すみには冷蔵庫が配置されていた。床には真っ赤なカーペットがしかれ、黒色のまるい座卓が中央におかれていた。時計をみると、五時一五分をさしていた。湿った感じの女の部屋で、竜司はひとりで待っていた。  まえにも、こんなことがあった気がした。  マルカルニカーのガートから、水墨画で描かれた夜のガンガーをながめたとき。真利子の家のベランダから、投網をする痩せた漁師をみた時。ウエルカムの部屋の窓から、夜のスコールをながめたとき。立ち往生する、車の黄色いライトに照らされたリクシャーが、紫色に輝きながらゴドリアの街を走りぬける時。  いつも、ひとりでみつめる、自分をながめる竜司がいた。  ながくて、あっという間の一五分がたって約束の五時半になるころ、階下で物音がした。竜司は座卓のまえにすわっていたが、階段をあがってくる足音が聞こえると、思わず立ちあがった。頭がぼうっとして血の気がうせ、目の前が暗くなった。木製の扉が音を立てながらひらいて、まず裕美が入ってきて、それから赤いサリーのナンディーが姿をあらわした。 「また、会えるなんて夢みたいだ」  嗄れた声で、竜司はいった。 「待ったの」と、ナンディーが答えた。 「時間なんて、すぐに忘れてしまう。君と会って、なにを話そうかと思っただけで」  それで、三人で話をした。主に竜司の旅についてだった。  インドじゅうをさ迷った末、ウエルカムで真黄色の俊和と会って、ガートの地図の使命をひきついだ。苦労して図面をつくり、完成間近になっている。俊和とふたりで、あてもなくBHUを歩いた。ボンベイで、女子大にいってみた。ヒンドゥーの女の子と話がしたくて、炎天下、汗をだらだらながしながら、うろうろとさ迷っていた。  ナンディーは、おかしそうに笑って聞いていた。綺麗な歯ならびをしていた。  こうした女性を「傾国」というのだろう。ヒンドゥーに、改宗してもいいくらいだ。竜司は、ナンディーの笑みをみて思った。  ひとしきり話すと、裕美が「じゃー。買ってくるわね」ととつぜんいって席をはずし、扉をあけて外にでていった。階段をおりる音がして、部屋にはふたりがのこされた。 「とっても綺麗だ。ナンディー。赤いサリーは、またよく似あう」  竜司は、いった。 「この赤は、私の心よ」と彼女は答えた。 「こころ」  竜司は、その言葉をくりかえした。 「そう。赤はそういう意味よ。赤色は情熱、緑色は平和」  ナンディーは、ゆっくりいった。 「赤と緑で、人間の恐ろしい情念をすべて表現したいといった画家がいたね。君の赤色は、激情的で、まるでドゥルガー女神だね」 「私がドゥルガーなら、あなたはシヴァね。シヴァ神は、神々のあいだにも、友だちをもっていない。人間を愛することもないし、悪魔的な怒りによって震えあがらせ、病気と災害をつかって殺害する。予測不能で、危険な神だわ」 「いまは、シヴァよりも、ハヌマンになりたい」 「なあに、それ。ラーマの」  ナンディーは、真剣な表情で、不思議そうに聞いた。 「そうだ。そのハヌマンだ。あけられるものなら、いまここで、ぼくの胸をひらいて、君にみせてあげたい」  それで、ふたりはだまった。竜司は、思わずナンディーの右の腕をつかんだ。それは微かに震えていて、信じられないほど愛くるしく、この世のものとは思えなかった。竜司は唾を飲みこんだ。ナンディーは、彼の腕をつよい力でにぎりかえした。竜司は彼女の震えている肩を抱き、瞳をみた。美しかった。そんな気がしたが、もうなにも覚えていない。  ナンディーのすべすべとした彫りのふかい、どこか哀愁に満ちた素顔が竜司の目の前にあり、その瞳が真剣な表情で彼をみつめていた。もうすべては決まっていた。とめる者もなく、神さまにだってできない。ナンディーの吐息が聞け、甘い香りをかげるのだ。彼女が大きな瞳を閉じたとき、竜司ができることは、たったひとつだけだった。柔らかい舌を感じた。ゆっくりと、それでいてつよく激しくうごき、芳しい甘露で満たされていた。永遠につづいて欲しかった。このまま、たとえ、「死」がとうとつにおとずれても、悔いはなかった。ずっとこうしていたかった。  ドアがノックされる音がした。竜司が気がつくと裕美がぼうぜんと立ちつくしていた。彼女はみんな知っていた。 「口紅がついているわよ」とボソッと裕美はいった。  ナンディーが、「帰るわ」って口をひらいた。 「それじゃね。気をつけて」と裕美はいった。  ナンディーは、立ちあがって竜司をみた。言葉はなにもなかったが、瞳は「またね」っていっていた。ナンディーはひとりで部屋をでていき、階段がきしむ音がひびいた。 「あなた、どういうつもりなの」  裕美は、つよい語調でいった。 「ヒンドゥーにとって、男のとなりにすわることがどんなに特別なのか、知らないわけじゃないのでしょう。手をにぎるなんて、セックスしたのとおなじだわ。口づけなんて、結婚よ」  その通りだ。竜司だって知っている。 「ナンディーは、憧れていただけよ。自由という幻想に。そこに、その塊みたいな、あなたが登場しただけよ。あの子が恋していたのは、フリーダムよ。竜司じゃない。なんで、こんなことをするの。あなたは七つも年上で、いくらかの教養をひけらかし、信じられないわ。傍若無人だわ。あなたは、いつも自分勝手で、節度をこえているわ」  裕美は、ほんとうに怒っていた。彼女がいったことは、みんな正しい気がした。  ナンディーが、なにを竜司にもとめていたのか知らない。どんなに考えたって、分からない気がした。竜司の「自由」だったのか、ナンディーにはもつことのできない「放浪」だったのか。おなじジャートがないのに。神さまは、竜司に機会をあたえてくれた。するべきではないのに、分かっていたのに抗することができなかった。自分の行為には責任がある。逃れるつもりはない。そうとしか、いえなかった。裕美にいくら話しても、分かってはくれないだろう。もしかしたら、理解するかも知れない。それでも、分かってはくれないだろう。 「もう、私には手をだせないわ。ここに、いられなくなる」 「そうだね」 「ナンディーが、一〇分でいいからふたりだけにして欲しいっていったのよ。だから、そうよね。全部が、あなたのせいじゃないわ。私が、ナンディーの希望をかなえたのだから。こうなることも知っていたのに。なぜ、そんな願いを聞いたのかしら。だれの幸せにもならないと、私は知っていたのに」  裕美と話しあうことは、数多くある気がした。それは、俊和が最後に竜司に話した、心の奥にしまっておいた話だ。男と女がそんなことを語りはじめたら、おたがいに傷つくだけだろう。 「迷惑をかけたね」と竜司はいった。 「ほんとうに、心から感謝している。ナンディーは、自由に憧れたんだと思う。君のいう通りだ。気ままに、なんでもできる、ぼくの放浪に憧れたんだと思う。とるに足らない教養を餌に、若いナンディーをつってしまった。君のいう通りだ。なにも知らないヒンドゥーを、穢してしまった」  竜司は、ゆっくりといった。 「夢物語だ。いまでも、夢をみている感じだ。裕美、ひとつだけ分かって欲しい。これは、プラトンなんだ。手をにぎり、唇に触れてしまった。でも、ナンディーとこの場でセックスをしても、プラトンなんだ」と竜司はいった。 「たしかに手をにぎりしめ、口づけしたくらいでは、日本では、プラトニックの域をでていないでしょうね。でも、ここはインドよ。それも、聖地ベナレスよ」と裕美はいった。 「そうじゃない。ぼくのいいたいのはそういうことじゃない。場所も時間も、無関係だ。肉体なんか、まったく関係ない」 「詭弁だわ」  言葉はなく、ふたりのあいだを静かなときがながれていた。 「そう、詭弁だな」と竜司はいった。  分かってもらえないことはある。説明しても、無駄だ。理解しても、もらえなくなる、竜司は思った。潮時だ。 「ほんとうに、迷惑をかけたね。たいへん申しわけない。とても感謝している。どう表現していいか、分からないほど。これでもう、君とも会えない」  また、沈黙があった。 「そうね、お別れね」  裕美は考えたあとで、自分に言い聞かせる感じでいった。その表情はとても寂しそうにみえた。 「ありがとう。心から感謝している」 「分かっているわ」  裕美の部屋をでた。竜司が、きしむ階段が音を立てないように気をつけて、ゆっくりとおりていくと、 「あっ、待って」と背後から彼女が声をかけた。 「いい忘れたわ。私もさっき知ったのだけれど、真利子が死んだわ」  声は、震えていた。 「亡くなった」  いぶかしげに、竜司は聞いた。 「そう。死んだらしいわ」  裕美は、右手で頭をおさえた。  竜司は、おりてきた階段をあがって扉までいき、じっと彼女をみつめた。 「どうしたんだろうか」 「分からないわ。自殺だと思うわ」  沈痛な面持ちで裕美はいった。ながい沈黙のあとで、 「それも、ぼくのせいだろうか」と竜司は静かに聞いた。  わずかにひらかれたドアの隙間から、部屋の光が弱々しくもれていた。 「違うわ、あなたのせいじゃない。今度のことも、竜司の責任じゃない。あんなに責めて、悪かったわ」  そう裕美はいうと、涙が頬をつたいはじめた。 「分かっているのよ。あなたは、正直で真面目で、ずるくないわ。だからって、すべてがいいとはいえないわ。正直にみせるずるさだって、人同士には必要なことなのよ。それができない、あなたが嫌いではないのよ。なんていったら、いいのか。分かってくれるかしら」  彼女は、泣きながら聞いた。 「裕美」  竜司は、小さく囁いて、彼女の肩を抱いた。裕美は、彼の胸に顔を埋めた。 「悪かった。裕美。許して欲しい」と竜司はいった。  裕美は、泣きつづけていた。ひとしきりむせび泣き、聞いた。 「みんながいってしまう。私がここにきた選択は、これでよかったってあなたは思う」  彼の目からも、涙がこぼれていた。 「分からない。いいとか悪いとか、いま、理解できることではない気がする」 「竜司」  裕美は、彼の胸をもう一度つよくだきしめ、じっとそうしていた。 「寂しくなるね」と竜司はいった。 「仕方がないわ。私がえらんで、ここにきたのだから」 「元気でね」 「あなたもね。もう、二度と会えないわね」 「きっと、そうだね」 「さようなら」  裕美は、そういって彼をみつめた。  竜司は大きくうなずいて、階段をまたゆっくり通りていった。  ドアがしまる、扉のきしむ音がした。「カシャ」という鍵のかかる音響が聞こえた。  四、リルケ  ウエルカムの自分の部屋から、ゴドリアをながめていた。八時すぎだったが、多くの人びとがうごめいていた。街灯や、立ちならぶホテルの部屋の光に照らしだされ、数多くのリクシャーが道を駆けぬけていた。みんなが無関係に、どこにいくのかも不明に走りぬけていた。半年インドを放浪し、このホテルに二ヵ月以上も滞在し、毎日、窓からゴドリアで起こるさまざまなものをみた。  晴れた日も、雨のときもあった。朝のゴドリアも、みた。昼も、夜も、真夜中の四つ角もながめた。巡礼者もみたし、旅行者も、サドゥーも、乞食も、この街の住人たちもみていた。ヒンドゥーも、イスラムも、ゾロアスターも、シークも、仏教徒もいた。男もいたし、女も歩いていた。それが、なんだったのだろう。北がわの斜向かいにイースティンホテルがみえた。そこはやはり三階だてで、ゴドリアに面してふたつの窓が映っていた。不意にひらいて、ナンディーが顔をみせてくれる気がして、じっとみていた。  ふたつのことを、思ったみたいだった。  ひとつは、ハッサムについて。彼は、いつでもこうしてイースティンをながめていた。なにを考えて、みていたのだろう。たった一本の道路をへだてただけの、こんなにちかくにあるのに、いまは絶望的な距離に思えた。裕美と話して、インド版のロミオとジュリエットの、どうしようもない恋愛映画を馬鹿にしたけれど、この国の人たちは、日本人とは違った感覚でみていたのだろう。そんなことだった。  もうひとつは、なぜ掟をやぶるのだろうか。そんなことだった。ジャートをやぶって、幸せになった者はいない。インディラでさえ、そうだ。この国では、毎日多くの若者が掟に背き、殺されている。死ぬのも分かっているし、逃げられないし、家族や血縁に迷惑がかかるのも充分に承知して、ジャートはやぶられる。マハトマでさえも、氏姓はまもるべきだといった。秩序や歯止めは必要なのだと思うし、そうしたものがなければ、世界はまた混沌へもどってしまうだろう。神さまが登場し、混乱を整理してくれて、私たちの世の中がある。全部分かっている。背いた若者たちも、みんな知っていた。しかし、ジャートはやぶられた。  プラナブのことも考えた。はじめて、彼の心も分かる気がした。真利子もプラナブを愛していたのだと、いまは確信できた。そうでなかったら、ひとりでインドまでは、こないだろう。たがいに愛しあっていなかったら、ジャートをやぶるはずがない。人がだれかを愛する、そこに理由をもとめることなどできない。  真利子は、死んだ。マルカルニカーでは、火葬もできない。プラナブは、どうするのだろうか。竜司が、最後の扉をあけてしまったのだろうか。切りさいたのだろうか。多くの罪を、犯しつづけているのではないか。さまざまな思いが、竜司の脳裏に浮かび消えていった。  ずっとみつづけていたが、イースティンの窓はひらかなかった。夕食も食べてはいなかったが、外にでて食事をする気持ちにはなれなかった。窓を離れ、俊和のように枕をヘッドボードに立てて半臥位をとった。ベッドに足をなげだし、横になった。じっと天井をみながら、ぼうっと考えていた。そのあいだ、いろいろなことを思ったような気がした。しかし、なにも思いつかなかった。  じっとしていて、ふとみょうな気持ちになった。そのときはじめて、なにかが違うのに気がついた。言葉ではなく、とつぜん襲ってきて通りすぎる一陣の風で、身体のなかを吹きぬけていった。それでまた、じっとしていて気がついた。リルケがいなかった。  この何日か話もしなかったし、彼女をすっかり忘れていた。こんな竜司に愛想をつかして、どこかへいってしまったのだろうか。やはり気になったので、いちおうベッドの下をみたが、そこにもみつけられなかった。シャワー室にも、いなかった。彼氏ができたのだろうか。  そう思って、右のすみにおいてあったリムカをとってひと口飲んだとき、なにかの影がみえた。机をうごかしてみると、そこにリルケがいた。彼女は、もううごいてはいなかった。  竜司は、机を右がわにはこんで、ベッドに腰をかけて、リルケとむかいあってリムカを飲んだ。彼は、同居人をうしなっていた。一ヵ月以上もいっしょにいたのに。彼女は竜司のために、いつも室内を綺麗にしてくれていたのに。もともとがリルケの部屋だったのに、あとからきて同居させてもらって、勝手気ままにすごし、死んだことにも気がつかなかった。彼女の死は、彼の脳裏を埋めつくした。  竜司は、リルケのそばまでいき「どうしたら、いいんだろう」と思った。死んでから、丸一日はたっている感じだった。ルンギでリルケをつつんでみると、一五センチくらいの大きさだった。ホテルをでて、ゴドリアの交差点をまがってダシャーシュワメードにむかった。人の多いガートをみていると可愛そうになって、マルカルニカーにいった。九時をすぎていたので、そこにはだれもいなかった。ガートをおり、足をガンガーに浸してリルケを河にかえした。  竜司は、ここで死者を見送る人びとを毎日みてきた。実際に、自分が葬送するのははじめてだった。血がつながっている気がした。つつんできたルンギをたたんでガートに腰をかけると、河面を吹きぬけてきた風が竜司の頬を優しくうった。彼は、ヴァラディーガートで死体をながれにもどした日、真利子の家に招待された。ベランダからガンガーをながめたときつくった即興の詩を、リルケに手向けることにした。手をあわせ大声で、暗闇の河にむかっていった。   布一枚にくるまって、   妖しく揺れて漂う、ガンガーをながめていると、   ガートをかける足音がして、   少女の叫ぶ声がひびいた。   遠くで女がそれに応え、   そして波の音だけがのこった。   とうとう、   空は一度も晴れなかった。   欄干に肘をつくと、   震えて浮かぶ、漁舟の影が頼りなくみえた。   なぜか、二年まえにいった、   母を思った。   今日のガンガーは、悲しすぎる。  そして、リルケはながれていった。ガンガーはゆったりと彼女を抱き、つつみこんだ。  竜司は、その様子をじっとながめていた。 「この国には、人がうまれた分に応じて果たすべき三つの義務がある。まずは、社会的義務のダルマ。つぎに、経済的利益を追求するアルタ。最後に、直接的な快楽を望むカーマだ。しかし、無闇にこれらを追いもとめてはならない。アルタは、ダルマに従属し、こえてはいけない。カーマは、序列がいちばん下だ。ダルマにも、アルタにも、劣位になる。だから、配慮が必要なるのだろう」と俊和はいった。  世界秩序への連帯を意味するダルマが、もっとも高位にあるのは納得できる。自分がうまれてきた社会的義務とは、道徳を遵守することだろう。さらに倫理とは、父権的な、すでにつくられた既存の権力への服従を意味する。この秩序の維持、ヴィシュヌの精神こそが、ヒンドゥーの基本なのだ。  どのくらいの時間がたったのだろうか、柔らかい風が頬を撫でていくのを感じて、竜司はわれにかえった。それからもうひとつガートをくだって、行をするアシュラムをみつけ、リルケをつつんできたルンギを寄進した。  手をあわせ、日本語で彼にむかって、 「明日は、ぼくがリルケになるかも知れません。この気持ちを、とめることはできないでしょう。あなたにまもってもらってここまできましたが、ついにもうひとつというところで、地図は完成せず、今度は、ぼくがガンガーをながれる番だと思います。いままで、ありがとうございました」と話した。  そのとき、アシュラムの唇がわずかに揺れてみえた。それからダシャーシュワメードまでもどった。なにか食べようかとも思ったがやはり食欲がなく、リムカだけ買って部屋に帰った。それから厨房にいき、ザリムをみつけ、 「ハッサムに会いたい」といった。 「部屋で待っていてくれ。よんでくる」とザリムは答えた。  ほどなく、竜司の部屋の扉がたたかれ、ハッサムが入ってきた。 「服をかしてくれ」  竜司は、ハッサムをみていった。 「なんのつもりだ」 「おしゃれをしてみたい」  ハッサムとは、背格好がおなじだ。たぶん彼の服は、竜司にぴったりあうはずだった。 「おしゃれか」 「そうだ。おまえが、毎日していることだ。たったひとつの仕事だ」  竜司は、いった。  ハッサムはだまって考えていたが、それから聞いた。 「おしゃれ、ってなんだ」 「だからおまえがしている、たったひとつの仕事だ」 「おしゃれ。dress up というのは、デコレート、装飾するっていうことか」 「違うのか」 「それは、間違いだ。まったく違う。おれが着替えているのは、たしかに仕事だ。でも、その、おしゃれではない」 「では、なんなのだ」 「おれが着替え切れないほどの多くの服を買え、そろえてあるのをみんなに知らしめるためにしていることだ。ジャートの役目だ。これは、おれの仕事なんだ」  なるほど、そういうことだったのか。竜司はそのとき、はじめてハッサムが毎日、着替えをくりかえす意味が分かった。 「では、かしてくれないのか」 「それとこれとはべつだ。かすのはかまわない。好きなものをきろ」  ハッサムは、竜司の部屋をでていき、いくらもたたないうちに一〇数着の服をかかえてもどってきた。 「まだあるが、最近の流行はこうしたものだ」と彼はいった。  これは、みせなければならないだろう。これだけもっているなら、毎日、幾度も着替える必要がある。 「いちばんあたらしいのは、どれだ」と竜司は聞いた。 「こういったものだ」  ハッサムは、二、三をえらんでくれた。 「これを、きてもいいのか」 「かまわない。おまえとは友だちだ。好きなものをきろ」  パリッとした形のいいシャツだった。あわい灰色の地に、うすい青いストライプの入った服だった。ズボンも白っぽかった。裾がひろがって、竜司にぴったりとあった。 「これが、最新の流行なのか」と彼は聞いた。 「いちばんあたらしいやつだ。ベナレスでも、だれももっていない。おまえは、おれと間違えられるかも知れない」とハッサムはいった。 「そんなものなのか。おまえの友だちは、みんな、服をみているのか」と竜司は不審気に聞いた。 「半々だ。どっちもおなじく大切だ」  ハッサムはそう答えた。 「ところで」と竜司は真面目な顔で彼にたずねた。 「おれが死んだら、可愛そうだと思ってくれるか」 「なんで、そんな話をする」 「おれだって、急に死ぬかも知れない。そのときこの服をきていたらどうしようか。ハッサムは、こまるだろうな」 「服は、やってもいい。おまえは、簡単には死なないだろう。それはよく知っている」  ハッサムは、自信ありげにうなずきながらいった。 「服は、ただでくれるのか」  竜司は、聞いた。 「おまえとは、友だちだ。なにかのときには、助けになる。服くらいは、やってもいい。衣服には、かわりがある。おまえの代役はいない」 「そうか、気前がいいんだな。イスラムはもっとケチかと思った」 「相手による。なんでもそうだ」 「何事でも、そうなのか」 「そうだ。なんでも相手によるんだ」とハッサムはいった。  五、ベナレス  翌朝、七時ごろだった。部屋の扉がノックされ、ザリムの声がした。「いいよ」と答えると、「玄関に、会いたいとサドゥーがきている」といった。  竜司は、いぶかしげな気持ちでベッドから起きあがり、ロビーまでおりていった。そこには、ぼさぼさの髪をした、痩せた五〇歳くらいの、みたこともない男が立っていた。下半身には白っぽいルンギを巻きつけていた。上半身は裸で、左の肩から右の腰にむかって聖紐をかけていた。男は竜司をみて、「話がある。すぐに終わるが、おまえの部屋にいってもいいか」と聞いた。  男は、本物のサドゥーだった。服は幾分か汚れていたが、物乞いにはみえなかったし、しっかりとした英語を話したので、竜司は用件を玄関で聞くこともなく、自分の部屋にむかえいれた。 「アシュラムからの伝言がある」と男はいった。 「なんだって。行をしているアシュラムが、なにかをいったのか」 「そうだ」 「アシュラムは、なにも話さないのではないのか」 「そうだ。でも言葉は、私の心にひびいてくる。グルは、おまえにいっている。自分の行為によって、なにかをえようと考えてはいけない。この世において、果たすべき義務をしろとつげている。とき、とともに生きることを運命づけられた人が、そのなかに埋もれてしまえば、地獄に落ちるといっている。永遠と一瞬を、おなじにみてはいけない。歴史をこえて永劫にいたる方法を、なんとかしてみつけなければならない。そのためには、心の平静をたもち、感覚を制御する必要がある」  男は、すこし考える仕草になって話をやめ、またつづけた。 「グルは、おまえを心配している。この世にある一切のものは、知恵をうしなった無明の者が勝手につくりあげた幻影、マーヤーなのだ。以前にも、おまえの友だちにおなじことを話したと、グルはつげている」  だまって聞く竜司をみて、いった。 「私は自分の仕事を終えた。だからこれで帰る」 男は、彼の部屋をあとにした。  朝の九時に美術館はひらく。それを待ってギャラリーに入った。常設展で特別なものはないから、人はだれもいなかった。竜司がドゥルガーの絵をみていると、背後に足音が聞こえ、振りむくと緑のサリーがみえた。ナンディーだった。彼女は、竜司のそばにきた。とくに化粧もしていなかった。ビンディも、つけていなかった。する必要もなかった。中央で分けられたつやのある、真っすぐな黒い髪の毛が腕まで垂れていた。 「きっと、ここにいると思ったの」  ナンディーがいった。 「必ずきてくれると信じていた」と竜司は答えた。  目をみつめあった。その瞳は、愛に満ちていた。ハッサムが思ったより、ずっと確実なものだった。 「自分で、私が分からない。あなたと会えば、その先に待っているのは数々の掟だわ。どんなに頑張っても、竜司は私をつれだせない。ここに、とどまれもしない。結論は分かっているのよ。悲しいくらいに。でも、過程が分からないのよ」  ナンディーは、真剣に竜司の瞳をみつめていった。 「私は、籠の鳥だわ。綺麗な声で歌うことだけを望まれている。話をしたいの。あなたといっしょに、ガンガーをみてみたい」  ナンディーと肩をならべて美術館をでた。ふたりでリクシャーにのり、彼女は行き先をつげた。自転車は、走りだした。すれ違う多くの人びとが、ふたりをみていた。  雲ひとつない晴れた日で、ナンディーは緑と光につつまれ煌めいていた。すべての緑色が影に、脇役に、補色の赤になって沈みこみ、彼女を輝かしていた。太陽のはなつ、つよい白色光のなかにある七つの色によって、ナンディーの鮮やかな緑は輝きにつつまれ、すでに色彩をうしなっていた。彼女は、ほんのわずかな光の変化で、虹の呈色がさまざまに交錯する、目眩く万華鏡の世界をつくりだした。あかるい緑は、ナンディーひとりのものだった。彼女は、緑色の支配者だった。緑に神さまがいるとしたら、ナンディー以外にはありえなかった。  リクシャーは、石造りの橋についた。ベナレスの街ではもっとも上流にかかる大きな陸橋で、人通りもすくなくはなかった。彼女は周囲の状況など、なにひとつ気にかけていないという風情で、リクシャーにヒンディー語でなにかを話した。運転手は、首を右にかたむけて、どこかに走っていった。橋の中央にいき、ふたりでガンガーをみた。右手に荒涼とした砂丘が延々とひろがり、灌木がポツリポツリと立っていた。左にはベナレスの街があり、ガートが点々とみえた。そのひとつひとつの名前を、竜司はいうことができた。舟が、白い帆に柔らかい風をいっぱいにうけながら河を遡上していた。 「父はね、私を結婚させるつもりなの。相手は二〇歳も年上で、顔もみたこともないの。私は、嫌だっていっているの。まだ断っていないみたい」  ガンガーをみつめながら、ナンディーは話しはじめた。 「ほんとうに、裕美になんて会うのじゃなかったわ。彼女は、素晴らしいわ。理知的で、行動力があって、私は憧れてしまった。ほんとうの姉だと思っているのよ。私は、鳥籠にしばられているだけ。でも、彼女は世界を飛びまわっている。日本語を教えてもらいながら、たった七万の大英帝国にやぶれたインドと、欧米を相手に戦った日本を、私は考えたわ。原爆を落とされ、東京をはじめとする大きな街はすべて焼け野原になったと、本にはかいてあったわ。それなのに、日本は立ちあがり、世界の列強に伍している。あなたの国は、アジアの誇りよ。東洋の民族でありながら、欧米にあれだけの敗北を負ったのに、ものともせずに、力をつけて世界中に進出している」 「一〇億の民をもつインドにもいない、裕美みたいな優れた人たちが、日本にはいっぱい暮らしているんだと思ったわ。そうでなければ、できるはずがないですもの。そんな裕美と結婚する日本の男たちって、どんな人たちなんだろうと、私はずっと考えていたのよ。釣りあいは、どうとるんだろうって。この国の古臭い制度では、きっと太刀打ちできない方法があるんだろうと。でも分かったわ。あなたみたいな男が、日本には数え切れなくらいいるのね。よく分かったわ。だからインドになんてとても不可能な、オリンピックまでひらくことができたのね」  ゆっくり、彼女は日本語で話していた。竜司は、じっと聞いていた。遠くの左の川岸からは、ヒンドゥーが神に召される白い煙が立ちのぼるっているのがみえた。風もなく、白煙はゆらゆらと揺らめきながら、天上界にむかって真っすぐにあがっていった。その白い煙が、この街と神の世界とをつなぐ一筋の道に、竜司には思えた。 「裕美にさえ会わなければ、日本に興味をもつこともなかった。あなたにも、出会わなかった。でも、私は裕美に会い、竜司とも巡りあってしまったのよ」  ナンディーは直視して、そう話した。彼も、みつめかえした。  もう、言葉はなかった。どんなふかい宗教も、思想も、哲学も、この感情をおきかえることはできなかった。ナンディーの細い腕をにぎりしめた。その肩は、昨日とは違い、震えてもいなかった。口づけをし、激しく舌をすい、柔らかい細い肢体をだきしめていた。 「死んでもいい。ずっと、このままでいたい」と竜司は思った。  ナンディーは、泣いて、甘い匂いがした。吐息なのか、涙なのか分からなかったが、なんでもよかった。心をとろかす匂いが、竜司の全身をつつみこんだ。橋のたもとで、多くの人がみていた。ナンディーは、竜司を力いっぱいだきしめた。  どのくらいそうしていただろうか。 「これが、精いっぱいなの」  ナンディーは、いった。 「私には、できることのすべてなの。鳥なのよ。私は、翼をもっているのよ。空を、自由に飛びまわりたいのよ。その鳥は、飛んだことがないの。籠に飼われたまま、大きくなったから。でも、飛んでみたのよ。自分の翼を、思う存分にひろげて、いま、精いっぱい、飛翔したのよ。これ以上は無理。籠にもどらなくては。だれも助けてはくれないわ」  ナンディーの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 「いま、ぼくに翼があったなら、ここで大鷲となり、君をとらえて、この天空をどこまでも駆けのぼりたい。そんな羽根が欲しい。でも、ぼくの背中に、翼はない」 「さようなら。愛しているわ。私が生きているかぎり、恋慕しつづけるわ。これからだれと結婚しようとも、どんな家庭をもとうとも、昨日と今日のことは生涯忘れないわ。私の人生のなかで、もっとも輝いた二日間だったわ。本を読んだり、絵をみたり、BHUの学生になって、幸せだったわ。この日のために、うまれてきたって分かったわ。ガンガーがながれているかぎり、私はあなたを忘れないわ。竜司は、もう感覚ではとらえ切れない、永遠の存在になったわ。超感覚世界にある、永劫不滅のもの。イデアだわ」  ナンディーはいい、もう一度竜司に口づけした。 「愛している。生涯、忘れない。この日のために、インドにきたのを。ベナレスにとどまり、地図をつくっていたことを。すべてが、ナンディーに会うためだった。昨日、君がドゥルガーになり、ぼくがシヴァに変わったことを、忘れない」と竜司もいった。  彼の頬も、涙でぬれていた。 「ヴィシュヌの正体。秩序とは、天と名づけたものを代表する、長老たち。彼らは、時代と共同体の集合的な文化財の継承者。でも、シヴァは英雄。ロマン派は、ただ現実から逃げるのではなくて、戦った。相手は、ふるい掟だ。だれもが大人になって、その規律にくみこまれる。若い時代にどんなに反抗しても、やがてふるい掟をまもる集団の一員に変わり、長老面で秩序をとなえる。孤高する英雄を、子供っぽいという言葉におとしめる。理想よりも、自分の利益を優先する。それが、ヴィシュヌの秩序だ。シヴァのロマンとは、勝ちとるもので、容易にはうけ入れてもらえない自由をさすんだ」 「分かったわ。ほんとうのロマンがなんだか、はじめて理解したわ。でも、ここはインド。聖地、ベナレス。昨日、あなたはシヴァになった。私は、ドゥルガーだった。あのとき、私たちふたりが神になったことは、生涯忘れられない、永劫不滅の真理。でも、お願い。いまは、シヴァにはならないで」 「たとえ、地獄の業火に焼かれようとも、一晩、君といっしょにすごすことができれば、ひきかえてもいい。そのためにあらゆるものが犠牲となり、子々孫々、呪われるとしても、ナンディーを抱きたい。結局、この思いがどれほどつよくとも、君も、家族も、幸せになれない。ぼくも、一族も、不幸になる。だれひとり、幸せになれない選択だ。君とは、ここで別れなければならない」  竜司は、自分に言い聞かせていった。  ガンガーの河面には、緩やかな風が吹いていた。神々の国の香りをのせた気流は、清められ重さをうしなっていた。すべてが清浄で、穢れは遠くに退いていた。  つよい光線をあびたガンガーの河面は、青と金色に筆触分割にされて、色彩の揺らめきに妖しく満たされながら、あかるく輝き、漂っていた。ガンジスは、すべての形態を光と空気のなかに、とけこませていた。  そのとき、激しい気持ちは起こらなかった。赤いサリーはシヴァを、緑はヴィシュヌをあらわしていた。すべてをうけ入れられる、論理的でおだやかな、友愛に満ちたヴィシュヌ神の意思にふたりの心は支配されていた。 「愛というのは、ひとつの感情。インド人が分節しても、日本人がしても、きっとおなじものだわ。でも、抽象的な概念は、文化の違いがあるから、そうはならない。竜司。でもね。ロマンという言葉は、いま、私のなかではじめて、ヒンディー語でも、英語でも、フランス語でも、ドイツ語でもなく、日本語によって、あなたとまったくおなじに、分節することができたのよ。恣意性は、どこにもないの。だから今日の出来事は、決して忘れられなくなったのよ。さようなら、竜司」  彼女がいった。 「さようなら、ナンディー」と竜司は答えた。 「リクシャーを待たせてあるわ。これで、お別れにしましょう」  ナンディーは、頬を涙でぬらしながら竜司にいった。  橋のたもとには、二台のリクシャーが待っていた。ふたりは、べつべつの車にのった。まえのリクシャーにのりこんだナンディーは振りかえり、もう一度竜司をみて、なげキスをしてくれた。目は、涙にうるんでいた。ナンディーをのせたリクシャーは走りだした。 「さようなら、竜司。すぐに帰って。ベナレスから逃げて、駅にいって」と彼女は振りかえって大きな声で叫んだ。 「さようなら、ナンディー」  竜司も、大声でよびかけた。  彼女をのせたリクシャーは、どんどんと去っていった。 「ゴドリア、ホテルウエルカムへ」と竜司はつげた。  彼のリクシャーも、走りはじめた。  「たいへんなことをした」とハッサムはいった。 「ダニアールにひどく怒られた。おまえに服をかしたので、おれがしたのだと思われた」  ハッサムは、真っ青な顔でいった。 「もう、ここにはいられない。おまえは、自分のしたことが分かっているのか。戒律に背いたんだ。その報いは待っている。もしかすると、ナンディーにも振りかかる。いま、すぐでていったほうがいい。明日では遅い。殺されるかも知れない。残念だが、これでおしまいだ。ここはインドだ」  ハッサムは、いった。  会計をしてもらい、ザリムに一〇ルピー、チップをやった。 「おまえは、友だちだった。もし、裕美がきたら、迷惑をかけた、謝っていたとつたえて欲しい。機会があったら、彼女にこれをわたしてくれ」  竜司は、名前と住所をかいた紙をさしだした。 「分かった。こんな形で別れるのはとても残念だ。もう二度と会えないだろう。元気でな。これが最後だ。真っすぐ駅にいけ。最初にきた汽車にのれ」  ハッサムは、竜司の肩を抱いた。彼は泣いて、鼻水をすする音がした。ハッサムはいいやつで、ダニアールとは違って豊かな感性をもっている。二〇年もたてば、父親とおなじ無表情に変わるだろう。感情をあらわしたら、彼の家庭は滅茶苦茶になる。ハッサムと別れ、階段をおりてホテルの玄関にいった。  ダニアールは、ロッキングチェアーに揺られていた。竜司をみるといった。 「早くでていけ。真っすぐ駅にいけ。殺されても文句はいえない。もう、ベナレスにはくるな。二度とゴドリアには、足を踏み入れてはいけない。それがおたがいのためだ。おまえにとって、いいことだ。そして、ナンディーのためでもある」  ダニアールは静かな声で、そういった。  それで、ホテルをあとにした。  ホテルイースティンのまえにいった。三階だての石造りの建物だった。道に面した窓は、みんなしまっていた。じっとホテルをみていると、屈強な男がひとり、入り口にでてきた。 「ナンディー」  竜司は、大声で叫んだ。ゴドリアの街がしんとなった。もうふたりの男が、入り口にでてきた。竜司はもう一度、できるかぎりの声で叫んだ。 「ナンディー」  男たちが三人で竜司にむかって歩いてきた。人があつまりはじめていた。 「ナンディー」  竜司は、もう一度大声で叫んだ。  そのとき、ゴドリアは、静まりかえっていた。すべての車がとまっていたが、クラクションを鳴らすものはひとりもいなかった。全部のリクシャーがこぐのをやめ、道いくみんなが、歩みをとめていた。無言で、竜司と棒をもったイースティンの男たちをみつめていた。街はかつてない静謐な、神々しいほどの、ときに支配され、風も吹くのをやめていた。 「ゴーアウェー」 「ゲタアウト」  男たちが大声で叫んだ。彼らがちかくまでくると、自然と人垣ができて、幾重にもひろがっていった。 「ナンディー」  竜司はできるかぎりの声で、もう一度叫んだ。男たちは目の前で、左の手には木の棒をもっていた。 「ゲタアウト」  大声で、彼らは叫んだ。男たちはすぐそばで、棒を振りあげた。  そのとき、「竜司」という高い声がした。  三階の窓がひらいて、ナンディーがあらわれた。ゴドリアのすべての人が彼女をみた。ナンディーはもう一度、「竜司」と叫んで、彼をみつめた。 「いって。すぐに。駅に。Go Station!」  絶叫する高い大きな声がして、涙が頬をつたうのがみえた。それからすぐに窓はしめられた。 「ゲタアウト」 「ゴーアウェー」  男たちは、またいった。  人垣をかき分けて、竜司はとまっていたリクシャーにのった。 「トゥーステーション」  竜司は、いった。  リクシャーは、交差点にむかって走りはじめた。竜司は後ろむきになって、ナンディーのいる三階の窓をじっとみていた。微かにそこがひらいて、もう一度、彼女の愁いに満ちた顔がみえた気がした。その頬はぬれて、光っているように思った。ゴドリアの交差点でリクシャーは右にまがり、ひろい大きな通りを駅舎にむかっていた。  ベナレスの駅につき、最初にきた列車にのった。どちらにむかっていてもよかった。車両は鉄橋をわたったから、ハウラーにすすんでいた。橋のうえから、ベナレスの街が一望できた。そこは静かな聖地で、ガンガーはゆっくりうごき、とまってみえた。涙が頬をつたい、ぼろぼろとやむこともながれつづけ、列車の木の床に落ちていった。むかいにすわるインド人の男が、じっと竜司をみていたが、なんの関係もなかった。鉄橋をすぎると、さらに涙がこみあげてきた。声をだしたら、走る汽車から飛びおりてしまう気がした。それで、必死に口を閉じていた。  ベナレスは、どんどん小さく変わっていった。やがて、みえなくなっていった。なにもない大地がつづいていた。ところどころに灌木が生え、それが延々とつらなっていた。そのつづいたところにベナレスが、ゴドリアが、そしてイースティンホテルがあり、ナンディーがいるはずだった。彼女につらなる原野を、ながいこと、ただぼうっとながめていた。夕日が沈み、夜がきて、すべてが闇につつまれていた。竜司は、ずっとベナレスのあった方向をみていた。列車は、ハウラーにむかって走っていた。  地図は、未完のままだった。もうひとつガートが埋められれば完成だった。しかし、もう永遠に未完のままで、できる可能性は皆無だった。俊和になんとつたえればいいのか分からないが、仕方がなかった。「なんとか、考えて欲しい」といわれた事案を、忠実に果たそうと頑張っただけだ。だれにも結末は分からないし、知っているのは神さまだけなのだ。俊和は、くるのを信じていた。竜司は、ベナレスにいった。ガートの地図をつくったのも、強制されたのではなかった。  こうして考えてみると、俊和の言葉はひとつの「おつげ」で、その線上で真利子に出会い、裕美に会った。そして、インドにきて半年のあいだ、いちばん望んでいたナンディーに出会えた。そこに恋愛感情がうまれるとは、考えてもみなかった。分からなかった。こうなることを知ったときには、もうすべてがはじまっていたのだ。  みんな、そうだったのだ。結果は分かっても、過程が不明だったのだ。だからプロセスをたしかめるために、踏み絵をしながら結末にむかってすすんでいったのだ。すべては、神さましか予見できなかったのだろう。だから仕方がないことで、一生懸命、頑張ったのは、そのためだった。やっているときには分からないものは数多くあり、事件が起こり、終わって、はじめてあきらかになるのが普通なのだ。世界とは、そういう風にできているのだろう。だれもが後悔につながることは、しようとは思っていないのだから。  ハウラーについたのは二日後だった。何度もきた街で、サルベーションアーミーに泊まり、日本人にも会った。帰国しようと思った。全部、終わっていた。なぜここを放浪し、なにが大切だったのか、分かった気持ちになった。自分がこれから、どうしたらいいのか。なにをめざして生きるべきなのか。分かった気がした。  ヒンドゥーの神は、卑しいブッディストにも教えてくれたのだった。まずは、己のダルマを果たさねばならない。そのためには、力のかぎりに、目の前にある自分の仕事をやりとげなくてはならない。そう、教えてくれた気がした。  生きて、ベナレスを離れることができた。ナンディーは、BHUをやめさせられるかも知れなかった。しかし、竜司がのこらなかったのだから、相手がいなくなれば、ある程度の期間、自宅に監禁されたとしても、それ以上の咎めはうけないだろう。ナンディーは、特別な存在だ。処女をうしなったわけでは、ないのだから、この事件によって、彼女のなにかの価値はさがるのだろうが、かぎりがあるに違いない。だからナンディーは、「ここまで」、「これが限界」、「籠にもどる」といったのだ。  彼女は、よく分かっていたのだ。 「永遠」と「ひととき」の違いを。  ナンディーは、掟にしたがったのだ。  世界は、やはり、プラトンだったわけだ。  ながい放浪の旅は終わりをつげ、竜司はハウラーから成田にむかった。その最後は、ナンディーとのあわい恋の終局だった。同時に放浪の終わりで、青春の終着点だった。生きる理由を知り、これからなすべき人生を教えてくれた。今後、なにをやり、どうすればいいのか、竜司には分かった。  一八の年に青春に入学して、二八歳で卒業させられたわけだった。           裕美の部屋、一四一枚、了  エピローグ  ある日、アルバムがおかれた棚を片づけていると、なかでもいちばん厚いと思われる写真帳の固い表紙がやぶれ落ち、一冊全体がばらばらになりながら、音を立てて落ちていった。その様子は、どこかで日常とは違っていた。散らばって落下する瞬間が、「コマおくり」にみえた。わずかな時間だったが、「人は死ぬときに、うまれてから現在にいたるまでのすべての過去を、瞬時に追体験する」と聞いた覚えがあった。  ふるい絵巻を、五〇畳もの大広間にさっとほうりなげ、その図柄が延々とひろがっていくのをみる、そんな気持ちだった。  ひろいあげようとしたとき、あせた茶色の封筒がアルバムのあいだから、するりと落ちた。とてもなつかしい、思いがよぎった。昨日に起こったとも思える、生々しい感情に満ちて、考えることもなく最初に封筒をひろいあげた。ふるい紙の匂いの袋で、つかんだ手が自然に震えてきた。  私にとってとても大切ななにかが、いっぱいつまっている思いがする、表現できないほどなつかしいもので、封をあけてなかをのぞくとふるい紙があった。とりだしてみると、ベナレスのガートの地図だった。  遠い昔に、半年のあいだ、あて処もなくインドを放浪し、そこに二ヵ月以上も滞在したことがあった。それから三〇年がたって、私は医者になっていた。そのあいだに、一〇回以上の引っ越しをした。  医者になってから、外科も内科も麻酔科もまわって研修をうけた。学生時代には勉強しなかったが、卒業してからは、医学だけを懸命に学び、しっかりとした医療をやろうとつとめた。妻と四人の子供がいて、幸せな家庭といっていいだろう。  医者になってから、ずっとひとつのことを考えていた。なにをもって、医師というのかという問題だった。三〇年のあいだ、それだけを考えてきた。病院が変わるたびに、よびだしがあってもすぐいける場所に引っ越しをくりかえしてきた。最初にまわった外科の先生は、とてもきびしい人だった。医者は、そうしなくてはいけないと教えてくれた。自分にも、きびしかった。すくなくとも、「医者」としては尊敬していた。だから、その言葉にしたがってきた。さまざまな科をまわって、なんでもみれ、対応できる医者になりたかった。  そのために、一五、六回、引っ越しをした。医者であることを確認したくて、日本最北の離島にもいった。なんの道具もないところで、二年のあいだたったひとりで診療してみた。それが、医者であることの原点になった。離島の人びとには、感謝している。  地域で、病院でも病気でもなく、病人をみようとつとめた。そしてさらに研修をした。なににでも対応できる医者になろうと努力した。そのために一〇回以上、引っ越しをした。アルバムは、閉じられたまま三〇年間、いっしょについてきたのだった。  その三〇年を一瞬に忘れさせてくれた、未完成の地図だった。  毎日、診療で頭がいっぱいだった。ガートの地図がなければ、すべてが闇のなかに、つつみ隠されていたはずだった。それなのに、たった一枚の図面が、思いださせてくれたのだった。  若いころ、なにも分からずにインドにいき、放浪し、ベナレスに二ヵ月以上も滞在したことがあった。そこで俊和に巡りあい、懸命にガートの地図をつくっていた。ハッサムやザリムがいた。プラナブや真利子に出会った。裕美がいて、優しくしてくれた。それに、ナンディーを思いだした。どうしてなのだろう。なぜ、ナンディーを忘れることができたのだろうか。ああ。ナンディーがいたのだ。  みんな、どうしているのだろうか、輝かしい青春のなつかしいひとつひとつの場面が、走馬灯になって頭に浮かんだ。なぜ、忘れることができたのだろうか。どれもが大切な、かけがえのない私の青春の出来事だったのに。  俊和に連絡をとろうと考えたのは、帰国して二年ちかくたってからだった。彼の住所におくった地図のコピーが入った封書は、受取人不明のシールがはられてもどってきた。なぜ、とどかなかったのか、理由は分からない。手紙に記載された番号に電話もしたが、連絡はとれなかった。私の住所はつげていたから、彼が望めば、再会することもできたろう。手紙は、なかった。俊和は、帰国しなかったのかも知れなかった。手紙にあった通り、ガンジスに抱かれて、ひとつになったのだろうか。アシュラムは、それも知っていたのだろうか。いずれにしても、それ以上の詮索はできなかった。もどってきたガートの地図は、差出人不明で「ベナレス観光局」宛に送付した。  俊和の一件を終えたころ、一通の封書がとどいた。インドの消印で、差出人の名前はなかった。なかには、真っ赤な「ビンディ」が入っていた。小さな赤いシールで、「ナンディーは、結婚したんだ」と思った。封書にはビンディだけで、文章はなかった。  それは、最後のページの中央に、アルバムをしめくくって、ひとつぽつんとはさまれていた。きっと、いいものだったのだろう。三〇年の歳月がたったいまでも、ビンディはまったく色あせることもなく、鮮やかな赤のままだった。  ナンディーは、どうしているのだろう。  いまでも、緑のサリーが似あうのだろうか。  三段腹になっているのだろうか。日本人をみたら、乞食を追い払うみたいに、左手の甲を内がわから外がわに振るのだろうか。これみよがしに、右手で鼻をつまんで天をあおぐのだろうか。  きっとナンディーは、そんなことはしないだろう。彼女は、いまも生き、インドで平和な家庭をつくっていると信じる。  しかし、ナンディーは、間違いなく私の心のなかにも住んでいる。だから、これだけは分かっている。  ナンディーは、そんなこと絶対にしないはずだ。  三〇年の月日がながれ、私はアラ還になり、またプラトンのパイドロスを読んでいた。全集は手垢に汚れ、もう一〇回は紐解いたと思うが、いつもあたらしい驚きに巡りあうことができる。 「エロス。恋は、人間の身体にやどった魂が、この世をおくるなかで美しい人に出会い、かつてみた真実性。美のイデアを想起し、翼を生じ、駆けあがろうと欲して、羽ばたく心。天上ばかりをながめ、下界をなおざりにすれば、非難をうけ、狂気とよばれるもの。知を愛する心と、美しい人を敬愛する思いがひとつになった、熱情のなかに生きた者の魂」  もう二度と味わうことも、くりかえせもしないだろうが、いまでも思う。ベナレスのガートにつづく石畳の小径は、入り組み、全貌を知るには人智をもってしても困難だが、しかし整理すれば、きっとまた辿りつける。いきついた場所は、正しさにあふれ、善いものだけで構成され、燦然と輝いているはずだ。  もう一度辿りついてみたい。あの、彼岸へ。  プラトンは、好きだ。あんな風にすべてが分かったら、「死んでもいい」と思っている。                             ガンジスに抱かれて、三八七枚、了  参考文献  一、インド文明とわれわれ、ルイ・デュモン著。みすず書房、竹内信夫・小倉泰訳。  二、ホモ・ヒエラルキクス、ルイ・デュモン著。みすず書房、田中雅一・渡辺公三訳。  三、世界宗教史、Ⅱ~Ⅳ、ミルチア・エリアーデ著。ちくま学芸文庫。  四、新古典主義と革命期美術、世界美術大全集。西洋編、19、小学館。  五、ロマン主義、世界美術大全集。西洋編、20、小学館。  六、インド、2、世界美術大全集。東洋編、14、小学館。  七、アングル/ドラクロワ、現代世界美術全集。24、集英社。  八、ウパデーシャ・サーハスリー、シャンカラ著。岩波文庫、前田専学訳。  九、大唐西域記、玄奘著、中国古典文学大系。22、平凡社、水谷真成訳。  一〇、フランス絵画史、高階秀爾著。講談社学術文庫。