崖 由布木 秀 一 風 八月の暑い日のことだった。 日傘をすこしかたむき加減にさした、二七、八歳の女の後ろを歩きながら、田澤洋一は潮の香りを感じた。列車の轟音がすぎさった駅は、女性が歩むかすかな砂利の音とともに潮騒が聞こえた。よせる波音にあわせ、和服の女は草履をやや内股加減に静かに歩いていた。一足毎に砂利がはじけ、波がひき、日がふりそそぐ音がひびいていた。 洋一は、くすんだ赤いハンカチをとりだして額の汗をぬぐった。連絡階段のなかは、ひんやりとしていた。 ふいに女は、肩ごしに洋一をみた。視線は、彼の瞳と交錯した。 美しい女だった。白いふくよかな頬にうすく塗られた紅がはえ、黒いアイシャドーが魅力をいっそうひき立てていた。右手にたたまれた白地の日傘を無造作にもちながら、ゆっくりと階段をあがっていった。のぼると、正面に切られたひろい窓から青白い日本海がみえた。一〇歩ほどさきの白い美貌の女性と、青くすきとおる海がシネマの二重写しになった。女が、紺碧の大海にひきこまれていく錯覚に落ち入った。直角にまがって視界から消えさったのを、ひきずりこまれたと感じた。 かるいめまいだった。とおいむかし、おなじ目眩を感じたことがあると思った。洋一は、連絡通路の木製の壁によりかかり、顔をあげた。よごれた天井のすみに蜘蛛が糸をはっていた。綺麗な黒い揚羽がとらえられ、羽をパタパタとうごかし逃れようとしていた。大きな蜘蛛が、その様子をじっとみていた。 洋一は、黒い揚羽が自分だと思った。もう逃げられない。運命で、つぎに起こることを覚悟しなければならなかった。だれも助けてはくれない。神さまにだって、できないだろう。正面の窓ごしに線路がみえた。二本のレールは、光をつよく照りかえしながら海岸線を走っていた。 洋一は、女を殺したいと思った。 「お暑いですね」 洋一は、坂をあがりながら女に話しかけた。 「ええ」 女は、やわらかな微笑みを浮かべて静かに答えた。 「おちかくの方、なのですか」 左手と胸のあいだに小さな風呂敷包みをかかえた女は、洋一にたずねた。 「いいえ。このさきの友人のところまで。あなたは」 「ええ。私も知りあいのところへ」 坂をあがり切ると北に視界がひらけ、とおくに石狩の浜があわくみえた。かがよう波のなかに小さな漁舟が浮かび、白い海鳥がふうわりとただよっていた。女は日傘をたたみ、焼けた石のうえに手荷物をおくと胸からハンカチをとりだして額の汗をぬぐった。 「いつも、ここで一休みしてしまうわ。すっかり疲れて」 女は小さなハンカチをもう一枚とりだし石のうえに敷き、腰をおろした。扇をとりだし、ゆるやかにあおいだ。 「あなたは、まだとおいのですか」 赤いハンカチで汗をぬぐう洋一に問いかけた。 「いえ。もう五、六分です」 「まあ。それでは、おちかくだわね」 「ええ。きっとね」 洋一も、小さく笑いをかえした。 女は、立ちあがると断崖にむかって歩いた。切り立った崖には、背が腿くらいまでの二段になった石の柵がめぐらされていた。 そこからは、輝く夏も終わる日本海を一望できた。 東には白い砂浜が、海原はすんだ藍、幾分か孤独で、果てもなくひろがりながら石狩の浜へとつらなっていた。西の海は大きくくびれ、陸は貪婪な悪女になり、つよく海水をくわえこみ小樽へとつづいていた。本線は手前の岬で一度姿を消し、またあらわれ、二番目のもっと大きな地嘴をめぐりながら消えていた。小樽は、そのさきだった。余市岳が海のちかくまで裾をひろげるため、本線は思い切り海岸によってくる。灰色の防波堤が、陸の終焉をつげながらゆるやかに曲線を描き、太陽の光をくすんだ蜘蛛の糸がところどころに陰影をつけ、照りかえしていた。 小さな海にも、ひとつひとつ表情があった。防波堤に白い影を落としながら歩いてみるとよく分かった。駅のちかくの川口付近で、海は曇った表情をかくそうとはしなかった。いま列車が消える最初の岬のところで、すみ切ったあざやかな藍色にかわる。田口省三が「少女」とよぶ海は、波が灰色のコンクリートの岸壁にはげしくあたり、ときには青い飛沫を虚しく空にあげている。列車がもう一度顔をだし、いまするどい警笛を鳴らすもうひとつの岬とのあいだですこし後退し、苔がむす岩をあたえた。そこは緑の海で、省三は「乙女」と名づけていた。そこで、彼女は幾分かやわらいで岩肌をあらっていた。列車は、今度は完全に姿を消してしまう。大きな警報音は春の霞にかわり、棚引きながら拡散していく。その下の海はただ「女」と名づけられ、玉砂利の浜になっていた。防波堤も幾分かひくくなり、おりることもできた。青い姿態の女は、密やかな吐息をくりかえしていた。底には海草がしげり、吸い、吐く息のひとつひとつに戦ぎ揺らめき、あざやかな赤紫の花をひらく、とらえられない謎のなかで静かに笑っていた。 「このさきは」 洋一は、帰ろうとする省三にたずねた。 「なにもない。あとは、みんな母たちの海だ」 省三はいった。 じっと女をみると、石の柵に両手をおろし、恐る恐る岩場をみおろしていた。洋一の頭のなかで、新生児の泣く声が聞こえた。ふいに出現した赤ん坊は、大声で泣き叫びはじめた。 「ここからの見晴らしは、絶景だわ。のぞくととても怖いけれど、暑さしのぎにはなりますわ」 女は振りかえると、洋一の瞳をみつめていった。 「恐ろしいですね」 洋一は、微笑んで答えた。 「綺麗だとは思います。たとえそうだとしても、なにか手ばなしでは喜べない、そんな美しさに思えるのですよ。ぼくは臆病ですから、あなたみたいに崖をのぞきこむなんてとてもできそうもないです。なんとなく魔的で」 赤ん坊は、大声で泣きはじめた。頭が痛んだ。 「そうね。ひきこまれる感じはあるわね。ここから身をなげる人が毎年いると聞くけれど、こうして下をみたらとても怖くてほんとうにできるのかしら」 女は、ぼんやりといった。 泣き声はいっそうはげしくなり、洋一はつよい頭痛を感じ、ふいに立ちあがった。 「暑く、そして美しい」 洋一は、ふとそう思った。 そのとき、一陣の風が起こった。 裾を乱され、女はすこしびっくりし、ふたりの視線があった。 洋一は、風の精をみたと思った。 なにでできた、ドレスなのだろう。白い、ほとんど透明といっていい氷のガウン。ながい裾をして、極北のオーロラの不思議な光沢に満たされた青いローブ。腕をひろげて飛ぶ、たかい鼻の女。ながい彼女の手首には、ラピスラズリでつくられた二連になったブレスレットが青い光沢をはなっている。あけはなたれたガウンの前部には、半球状に盛りあがった乳房がふたつ、きらきらと白く、氷のように輝いている。そのあいだにつくられた谷間に、エメラルドの首飾りが揺れながらただよっている。ゆるやかに、まるくくびれた蜂の腰。ほそくて青白い部分には、かがよう黄金で編まれた女の手首ほどのベルトが、無造作にまかれている。青い臀部は大きく、そこではくびれた胴とおなじ太さのふたつの大腿、あわせて三つがつらなっている。その魅力的な部分には、エメラルドや、ダイアモンド、サファイア、ルビーなど色とりどりの宝石が、あざやかな輝きをはなちながら金の糸に織りこまれ、下着のかわりになって垂れさがっている。ゆっくりと風に揺られ、波の音に戦ぎながら、ほとんど透明なながい髪をなびかせる。なんという魅惑的な女性なのだろうか。美貌の女は空をあおぎながら、無垢の光で輝く白い項を謎の光沢につつみこみ、飛ぶ。 耳に海の子守唄がふたたび聞こえてきた。洋一は、頂を感じた。 「どうか、なさったの」 エーテルでつくられた透明な空間に、女の声が聞こえてきた。 どれくらいのときだったろう。女は、怪訝そうに洋一の瞳をみいった。 「いえ。べつになんでも」 洋一は、静かな微笑みとともに答え、女へと歩みよった。 「あなたは、ごらんになりませんでしたか」 「なにを」 あやふやな、それでいて子供みたいに輝く瞳を不思議に思ったのか、女は洋一の視線をおって西の岬をみた。 「風の精ですよ。いま、私たちのあいだを通りすぎていったのです。風にのってワルツを踊っていました。不思議な、かがよう白いドレスに身をつつみ、ただよいながら円舞曲を舞っていったのです」 呟くと、女の瞳をみつめた。美しいともう一度思った。 「素敵でした。魅力的な女性でした。絶世の美貌で心をうばわれました。そしてあなたは、もっと綺麗だ」 いいも終わらぬうちに、洋一の唇は女のうえにあった。 岬から東は、石狩にむかって白い砂浜が大きな弧を描きながらつらなっていた。 駅舎から勾配をかさねて小高い崖になり、そこから西にゆるやかにくだると、岩場と砂に分かれながら浜につづいていた。駅からの近道は、起伏にとんでいた。頂点が鋭角の二等辺三角形になる二辺を歩く道はずっと平坦で楽だが、三〇分以上の距離があった。時間によっては、踏み切りで貨物列車の通過を待たねばならない。その道の終わりに、田口省三の住居があった。たかい床のうえに立てられた、白い二階屋だった。階段をあがり玄関のブザーを押し、欄干にもたれてめぐってきた崖をながめた。 「まだ、だれもきていないよ」 テラスの木の椅子をひきながら、省三はいった。 「分かっている。車がないからね」 「冷たいものをもってこよう」 省三は、厨房へ立った。白色のテラスは海をのぞんでつくられ、潮風が間断なくふいていた。そこに、木製の白いテーブルと椅子がおかれていた。 「さっき電話があってね、一時間くらいおくれるらしい」 炭酸水をはこんできた省三は、洋一にわたしながらいった。 「静かだね。時間がとまっているみたいだ」 洋一は、外をながめながらいった。 「ときが終わり、すべてが死に絶えたのかも知れない」 「どうやら、調子が悪そうだね。なにかあったのかい。今日は、晴れすぎているのかい。視界がよくて、見通しがよすぎるのかい」 「いや、べつに。それだけじゃない」 「それだけじゃない、か」 鸚鵡がえしに呟くと、洋一は海をみつめ、またいった。 「肉体的な不調の原因は、すべて私の心のなかにある、か。決断が、必要だね」 「シャワーでも、あびたらどうだい」 「いや。どう、散歩でもしない」 洋一は、省三をさそって浜辺へでた。海鳥が鳴いていた。 「そういえば、むこうで死体があがったらしい」 省三は、歩きながらいった。 「そうか。それで、人が立っているのだね。行き交う人たちがテラスからみえて、そうじゃないかと思った。君がしずんでいる、原因のひとつの気もしてね」 「それは違うね。なにも関係がない」 「溺れたのかな」 「よくは知らない。ちかくの子供たちが、走りながら口にするのを聞いただけだ」 「みにいこう」 洋一は、省三をうながして歩をはやめた。 浜辺には、やや年をとった巡査がひとりで汗をぬぐっていた。となりに、人くらいのものを覆う筵がみえた。 洋一はゆっくりとちかづくと、「身投げですか」とさりげなく警察官にたずねた。砂に腰をおろし、汗をぬぐっていた年配の巡査は、面倒くさそうに首を縦にした。 「今日は、なんて暑いんだ。まったく人騒がせな女だ。いつになったら車がくるのだろう。もう一五分も待っている」 ワイシャツもすっかりぬいだ巡査は、かなりいい肉づきをし、肩や脇の下へ手拭いをまわしながら呟いた。 「ほんとうに暑いですね。身元は分かっているのですか」 「それくらいの配慮をしてくれれば、多いに楽だ。なんだって、こんな暑い日に飛びこむのだろう。いまの若いもんときたら、天気がいいくらいで自殺の名目になるのだから。親がどう思うか、考えたことがあるのだろうかね。えらい迷惑だ」 巡査は、とげとげしい口調でいった。 洋一はしばらく海をながめていたが、警察官のほうをむくと、「ちょっと、顔をみてもいいでしょうか」と聞いた。 そらきた、という感じで巡査はぴくりとうごいて、「見世物じゃない。君はなにを考えている」と叱責気味にいった。 太陽は、さんさんと熱と光をはなっていた。海鳥が二羽三羽、餌をもとめて虚空に浮かび、とおくで警笛が鳴る音が聞こえた。 「すこし、気になることがあるのです。娘さん、左手に黒い指輪をはめていませんでしたか」 洋一は、じっと巡査の瞳をみつめながら、ゆっくりといった。 「君は、心あたりがあるのかい。ちかくのものかね」 いぶかしげに巡査は、たずねながら立ちあがり洋一をみて、ゆっくりと筵をとりはらった。綺麗な女だった。二〇歳そこそこの娘だった。髪は乱れ、白い首筋やふっくらとした頬に藻がからんでいた。 「綺麗な娘さんですね。一七、八歳でしょうか。眠っているみたいです」 洋一はいった。 「まったく可愛いい娘だ。なんだって自殺なんかするのだろう。どうだ。知っているか」 洋一は、首を横に振った。 巡査はその様子をみると、筵で娘の顔に覆い、そっと左のほうをあげた。 「この指輪のことか」 洋一は、かるい目眩を感じた。左の薬指に黒い指輪がはまっていた。両手を額にあてると、よろけて砂浜にうずくまった。 「なにか知っているな」 巡査は、洋一を問いつめた。 赤ん坊の泣く声が聞こえた。なにがどうしたというのだろうか、頭が痛い。 「立ち眩みです。ときどき、貧血を起こすのです。なんの理由もなく。ときどき」 「なんの理由もなく、だって」 巡査は、怒った感じでいった。 「そうですよ。なんの理由もなく、です。ちょっと、ぐあいが悪いのです。暑さで、どうかしたのです」 いらだち気味に、洋一もいった。 「この娘の左の薬指に、指輪があるのを知っていた。君は、色までいいあてた。そのあげく、なんの理由もない目眩か。まったく、みょうじゃないのかね」 巡査は、厳しい口調でいった。 「ぐうぜんです。奇妙な一致で、おどろいただけです。その娘については、なにも知りません。なんとなく、心にひっかかっただけです。なぜ、そんな気持ちになったのかも分かりません。暑さです。みんな、この猛暑のせいです」 巡査をみあげながらいうと、洋一はおもむろに立ちあがった。首を幾度かまわすと、関節の鳴る音がした。彼は、赤いハンカチをとりだし額の汗をぬぐった。メタルフレームの眼鏡をはずし、目頭をつよく押してかけなおし、死体にちかづき、もう一度筵をひきあげた。 美しい娘だった。死んでいくらもたたないうちに、ひきあげられたのだろう。頬は青白く、口唇も血の気はうせていた。肌はきめこまかく、清純な魅力が秘められていた。青い飛沫模様のワンピースも、きっとよく似合っただろう。美は、いつも手のとどかないところにある。えようとしても虚しく、手に入れたと思うとそこには死の影がただよっている。一死は、美しい。洋一は、ふたたび左手の指輪をながめた。ほそい指で、爪には赤いマニキュアがのこっていた。 「ぼくの知る娘ではありません。指輪も、もっと大きな石で、こんな小さなものではありません。恐ろしいぐうぜんです」 洋一は、巡査を振りかえっていった。 「もっと大きな石の指輪。それでは、君がはめているのはなんだ」 巡査は、いらだち気味にいった。 洋一は、大きくうなずいた。 「そのとおりです。ぼくはふいに、娘さんがこの指輪をはめていると錯覚したのです」 「まったく、みょうすぎる話じゃないかね。なぜ、君がはめる指輪をこの娘がもっていると思ったのだね。それとおなじものを、もうひとつ買ったわけか。知っている娘にやったのか」 「いえ、そうではありません。この指輪は、はじめからひとつしかなかったのです。だいたいこれは、そこいらに売っているものではないのです。先祖からつたわる家宝です。ふたつとあって、たまるものですか」 「ますます、どうかしているね。君の話は、辻褄があわない。まったく、滅茶苦茶だ」 「だから、さきほどから申しあげているでしょう。どうか、したって。この暑さで、混乱したって」 巡査は、頭を振って汗をぬぐった。 「まったく、ちかごろの若い奴はなにを考えているのか、さっぱり分からん。いずれにしても、君の挙動は普通ではない。あとで事情聴取するかも知れないから、名前と住所をいいなさい。まったく、この暑いのに」 巡査はぶつぶつと独り言を呟き、さきほどすわっていた場所へもどり、上着のポケットから手帳をとりだした。 「あちらの人は、君の友だちかね」 巡査は、省三をさして洋一にたずねた。彼がうなずくと、警察官は手招きしてよび、「どこかでみた人だね」と聞いた。省三が岬の白い家をさして答えると、巡査は小さく首を縦に振った。 「それでは、あとで連絡するから。携帯番号は」 「携帯はもっていません。今日は、彼のところにいます」 洋一は、答えた。 巡査は、省三の電話番号を記録すると、ふたりに帰ることをうながした。 シャワーをあびると洋一は、ロッキングチェアーに腰をおろした。省三は、おりたたみ式のながい椅子をだして寝そべった。 「いいのかい。あんな嘘をついて」 省三は、いった。 炭酸水のグラスを片手につかんだ洋一は、みかえし、「電話のことかい。面倒くさかっただけさ。ぼくには、まったく関係ないことさ。綺麗な娘だった」と、ちかくに椅子をひいてくるといった。 「もうひとり、今日は美しい女をみた。ここへくる途中で、はじめて出会った。綺麗な女だった」 「さっきは、どうかしていたね。ほんとうに知らないのかい」 「君まで疑っているのか」 洋一は、声を立てて笑った。 「でもね。ひとつ、君に話そうと思うのだけれどね。むかし、ぼくは女を殺したことがある」 ちょうど、あのくらいの年の娘を洋一は危めたといった。そのとき女は、彼の子供を宿していた。筵をみていたら、おなじ女性に思えた。あの娘が黒い指輪をしていたときには、ほんとうに恐ろしかったといった。 省三の怪訝な表情をみながら、なぜそんな話をはじめたのか、洋一には分からなかった。席を立ち、テラスの欄干にもたれた。 「崖のうえで風の精をみた。あの娘だったのかも知れない。ちょうどあんな感じだった。心をうばわれた。波飛沫がスパンコールになった、あわい青色のドレスをきていた。踊りながら目の前をゆっくり通りすぎていった。すべてが溶けかかっていた。もちろん、風でできた身体だって溶解していた。彼女は、いつもああして踊っている」 今度は、むきなおって省三をみつめた。 今日は不思議な日だと、洋一は思った。崖のうえで頂に達した。むかし、一度だけあのたかまりに到達したことがあった。魂が肉体から宇宙に拡散され、どこまでも際限もなくひろがっていく満たされた気持ちだった。今日は素晴らしい。この日が人生に重大な足跡をのこす気がした。洋一はロッキングチェアーに揺られながら、死について考えていた。あの娘を危めたときから、死に神はずっととなりにいた。何年間、彼をくるしめてきただろう。真夜中にふと目覚めて頬にあたる澪に気がつき、みあげると彼女がいた。それも、今日までに違いない。今朝は、起きたときから胸騒ぎがした。駅前の喫茶店で妹の冴子を紹介し、直子にあずけてから教室にもどったが実験も手につかなかった。それで、こんなにはやくきてしまった。 ほんとうは、直子たちがさきのはずだったのに。 「人生は、面白い。さっき死に直面したのにね。人の感情なんて、あの白い海鳥さ。風に揺られて、空中に浮かんでいるだけだ」 省三をみつめると、洋一は、さもおかしそうにいった。 二 夏 田澤冴子は、橋口直子につれられて玄関に入ってくると、洋一をみて困惑した表情をみせた。 「こんにちは。お言葉に甘えてやってきました」 冴子は、省三に挨拶し、ブルーのふかい海の色の絨毯を踏んだ。 彼女は、あざやかな青いワンピースをまとっていた。鍔のひろいうす茶の帽子を膝にのせて厚いクッションのソファーにあさく腰をおろした。省三の視線を意識し、やや伏し目がちになった冴子は、被り物にまかれた紺色のリボンを手持ちぶさたに触れていた。小さな耳につけられた銀色のイヤリングは、右のほそい手首にはめられたブレスレットと左の時計の鎖ともおそろいで、肩のうごきにつれ、彼女に寄生する小動物にかわってうごいていた。 「ずいぶん、お洒落したね。みなおしたよ」と洋一がいった。 「よく、きてくださいました。ずっと、楽しみに待っていました」 省三が答えると、冴子は嬉しそうに笑った。 波の音と潮の香りに満ちた部屋で、四人の会話ははずんだ。話が一段落すると、洋一は直子とドライブにでかけた。 去年からの約束で、省三は冴子をモデルに絵を描くことになっていた。 「五時まえには帰ってくるよ。そうしたら、みんなで街にいって食事でもしよう」 洋一はいいのこすと、ジーンズにオレンジのシャツをきた直子とでかけていった。 「いつ、ついたの」 省三は、テラスの椅子に腰をおろしていった。冴子は、両手を欄干につけ、身をのりだしながら光をうけて輝く海をみつめた。 「朝です。直子さんにお目にかかり、いろいろなことをうかがい、おしゃべりしました。とても親切にしていただいて。いい方で、兄にはもったいないくらいです」 「はじめて会ったのですね。疲れていないの。飛行機できたの」 冴子は振りかえり、欄干にもたれながら、「なかなか機会がありませんので寝台をつかいました。去年の夏に田口さんにお目にかかってから、ずっとこの旅を楽しみにしていました。興奮しているみたいです。疲れてはいません」と笑みを浮かべていった。 「服は、どうしたの」 「兄のところに、おくっておいたのです。今日、直子さんのお宅にうかがって着替えさせてもらいました。服くらいはちゃんとしたものでないと、田口さんをこまらせるだろうと心配で。これが、私の精いっぱいです」 冴子は、素敵な家だと思った。すべてが不思議で、現実から遊離していた。一度でいいから、こんな世界に住んでみたいと彼女は思った。 「それではうえで」と省三はみじかくいって階段をあがった。 二階のテラスには、画具が散乱していた。彼が整理するあいだ、冴子は欄干のきわに立ち潮風をあびた。 省三は、彼女のふっくらとした頬が可愛いと思った。パラソルの下に小さな白い椅子をおき、すわるようにうながし、幾度か姿勢をかえながら左の横顔を描くことにしてポーズを決めた。 省三は、冴子をみつめながら、綺麗だと思った。すました横顔には恥じらいがみられ、のばした背筋には若さがあふれていた。 「口をきいても、いいのかしら」 冴子は、かしこまりながらいった。 「どうぞ」 「私。ほんとうは、田口さんのモデルをつとめる自信なんてありません。直子さんがお化粧してくれたけれど、こんな素敵な場所で、私ひとりが異邦人です」 「そんなことはありません。冴子さんは、とてもお綺麗です。そうしたひかえめなところが、魅力のひとつです。あなたは、秀才だと聞いています。小児科の先生になるのですってね。洋一くんの自慢の妹さんですから。お話は、たくさんうかがっています」 省三は、去年、会ったときから、彼女がまた綺麗になったといった。 冴子は、彼が落ちついた調子で静かに話す言葉を聞くと、すこし顎をむけてみやった。それからもとの姿勢にもどったが、頬がうす紅色にそまりはじめた。 「恥ずかしいわ」 彼女は、ぽつりと呟いた。 洋一と直子は、小樽をぬけて西にむかって走り、やがて小さな浜辺についた。ふたつの岬のあいだで、浜は大きな弧を描きながら入り江をつくっていた。夏のさかりには、このあたりまで海水浴客がきた。秋もちかいいまは、真っ黒に日やけした健康そうな漁師の子供が幾人かで水遊びを楽しんでいた。暑い日盛のなかにも、季節は着実にうつりかわっていた。ふたりは岬につくと車をひくい雑木林のちかくにおき、浜におり、波うちぎわにそって断崖の下まできた。頭上の岩肌もあらわな崖は、ややかぶさり、ひどく威圧的にみえた。海は太平洋とは違い、冷たい表情をくずすこともなく、とおくで青い白波が潮風と遊んでいた。岩場をぬけ、西がわにまわったところに手ごろな石があって、ふたりは夏の日、よくそこで日光をあびた。そのさきで切り立つ岩壁とむかいあうので、人影もなく、波の穏やかなときは平たい岩がべつな世界にも洋一には思えた。とおくに積丹の半島がみえた。ふたりは、持参したバスタオルを岩にしいた。洋一は、裸で寝そべり海をながめた。彼女も服をぬぎ、そばで腹ばいになった。 直子は洋一をみつめ、左の指に黒い大きな指輪をみつけた。 「どうしたの」 彼女は、ほそい指先でそれを示した。洋一はかるく笑った。 「形見さ。冴子がやってくるので、昨日、部屋を綺麗にしていたらぐうぜんみつけたのさ」 「素敵ね」 直子は、指をとって指輪をみつめ、手の甲に唇をあたえた。 「くすぐったい」 洋一は手をひっこめ、指にある黒い指輪を感慨ぶかそうにみた。 「冴子さん。いいお嬢さんね。普通の人で、私、安心したわ。あなたとは違うわ」 「血がつながっていないからね」 「お母さんが違うと、いっていたわ」 「冴子の話か。妹は、知らないのかも知れない。ぼくは、先妻の不倫からうまれた子供だ。まったく、血はつながっていない。赤の他人だ」 「冴子さんは、そうはいわなかった。あなたの話は、嘘か冗談だか分からない。いつでも」 洋一は、だまっていた。 「さっきの曲は、なんていうの。あの赤ん坊が泣いてはじまる」 「きらいなの。スティービー・ワンダーのヒット曲よ。素敵だわよね。知らなかったの」 「ずいぶんむかしに、どこかで聞いたことがある。あの赤ん坊の声は、耳にのこって頭が割れるみたいだ」 「イズント・シー・ラヴリィ。邦題は、可愛いアイシャ。盲目の黒人歌手よ。娘がうまれた喜びを表現している。私は、大好きよ。あなたは、きらいなの」 「リズムはいいけれど、はじめの泣き声が頭にこびりついて。手ばなしでは喜べないような」 「娘だと、いいわ」 海鳥が二羽ほど、餌をさがしながらただよっていた。長閑な時間だった。海鳥はするどく侘しげな声をあげると、海のなかへ一瞬消え、そしてふたたび虚空にあった。 「綺麗ね」 「君だって、とても綺麗さ」 くみあわせた手の甲に顎をのせて、洋一は横目でみていった。 「まあ。お上手ね」 直子は、笑った。 洋一は、情欲を感じた。彼は、そっと彼女の背に手を触れ、なめらかな肩を撫でた。左の肱をついて上半身を起こし、岩とのあいだにある胸に右の手のひらをまわした。直子は上体をすこし浮かし、彼はそう大きくはない乳房をつかんだ。 「形が悪くなる」 洋一は囁きながら、苦もなく彼女の上体をまわした。 省三は、冴子の写生をつづけていた。 「田澤さんの家は、仙台でも有数の名家らしいですね。大きなお屋敷だって、うかがいました」と省三は、筆をうごかしながら聞いた。 「そうですか。兄が話したのですか」 「いえ、去年、仙台にうかがったとき、街の人から聞いたのです。伊達藩の家老職だったとか、衆議院の議長にもなられたことがあるとか。それに、仙台市長もつとめていたとか」 「それは、祖父の時代の話です。みんな、むかしのことです」 冴子は、だまった。 祖父、公明は、田澤家の一時代をきずいた政治家だった。衆院議員を五期つとめたのち、晩年には仙台市長に転身した。公明には、大きな期待をよせた優秀なふたりの息子がいたが、後継にはなれなかった。長男は、当時関東地方をおそった大震災で他界した。公明がもっとも期待していた次男は、ヤクザとの喧嘩で腹部を刺されて死んだ。 冴子の父、公一は妾腹の子だった。彼は、正嫡のふたりの息子たちとは違い、幼年時代を自由に育てられた。公一は、公明の期待にそうのは難しかった。衆議院にも参議院にも立候補したが、議席をえることはできなかった。彼は、仙台市会議員をしていた。 潮風がふいていた。 「直子さんは、とてもいい方で安心しました。素敵なお姉さんができたわ。それに、とても美人だし」 「そうですね。やさしい方ですよ。ぼくも、大好きです。とても、魅力的な方です。洋一くんは、美人が好きですから」 「そういえば、パイドラって、どんな方なのですか」 「ああ。直子さんの部屋に、いかれたのですね」 「そうです。ちょっと、検索してみました。ギリシア神話に登場する女性だと、かかれていました」 「そうですね。どんなふうに、かいてありましたか」 「神話では、地中海のクレタ島の王女だったとか。アテナイ王、テセウスの妻だったとかかれていました。それから、美の女神、アプロディテによって義理の息子を愛してしまうと。でも、悲劇に終わるとかかれていました」 「ミノタウルスの話は、ご存知ですか。頭が牛で、身体が人間の怪物ですが」 「なにかで、読んだ記憶があります。ミノタウルスは、迷路に住んでいたのかしら。英雄が退治にいくのに王女さまが糸玉をわたして、まよわないように助けてあげる話だったと思います。その王女の名前は、パイドラではなかった気がします。でも、関係があるのですか」 「そうですね。有名な話ですから、みなさんどこかで読んだのでしょう。ラビリンスって、聞いたことがありますか」 「そんな言葉を覚えています。そうか。ラビリンスは、迷路のことなのですね。そこに、ミノタウルスが住んでいたのですね」 「そうです。クレタ島の王さまは、ミノスというのです。彼にはふたりの娘がいて、姉がパイドラ、妹がアリアドネです。ミノタウルスを退治にいくのは、アテナイの英雄、テセウスです。どこかで聞いたことがありませんか」 「アリアドネという名前は、覚えています。綺麗な王女さまですよね。糸玉をあたえて、英雄を助けるけれど、どこかの島におきざりにされる。そんな記憶があります」 「そうですね。この話は、当時の全世界の物語です。ギリシアとエジプト、さらに小アジアとよばれるトルコにかこまれた東地中海世界の歴史をあつかっているのです。エジプト帝国は、陸の大国でしたが海軍力ではおとっていました。クレタ島に、クノッソスという大宮殿があります。まずクレタが、東地中海世界を支配したのです。やがてギリシアの新興国家アテナイがクレタ王国を倒して、覇権を握るのです。だからクレタの王女パイドラは、英雄テセウスに嫁ぐのです。ギリシアのアテナイは、民主制がうまれた場所です。ですから神話のなかでも、王制はどこかで終わらせる必要があったのです。民主制をしいたのは、テセウスとされています。とはいっても、彼が英雄として生きているかぎり王権はつづくことになるのです。ですからテセウスは、さまざまな困難に遭遇します。妾腹の息子、ヒッポリュトスの話もそのひとつです。神話には、よくかかれています。でも悲劇作家がパイドラを貶めたので、彼女の悲恋は曲解されてしまったように思います」 「どんな話なのですか。でも、義理の息子を愛してしまうのですよね。女神さまに、そそのかされて」 「そうです。古代ギリシアの人びとは、まだ人間の個性がはっきりとしていなかったのです。ですからどんな事件でも起こしたのは、その人の考えではないのです。神さまが、ふきこんだからなのです。面白いでしょう」 「よく分かりません。どういう意味なのかしら」 「神話のなかで、英雄ヘラクレスは自分が熱愛する妻子を殺してしまったりするのです。しかし、もちろん彼の意志ではないのです。ヘラクレスを憎んでいる女神がおくった狂気のせいなのです。ギリシア神話のなかの人たちは、なにか不幸な出来事が生じても自分の責任ではないのです。人間の意志が、まだ成熟していないのです」 「だから、パイドラはアプロディテに翻弄されたわけですね。彼女の意志ではなくってて。自分が望んだものでは、なかったのですね」 「そういうことです。このギリシア神話のルールの例外が、テセウスなのです。彼は近代人として、さまざまな出来事を自ら決定し、その責任も負うのです」 「だから、アテナイに民主制を敷くのですね。でも、パイドラの恋愛の相手が義理の息子という組みあわせは、ずいぶん複雑そうですね。どうしたって、かなりの年下ということになりますよね。神話のなかで、とくべつな設定かどうかは知りませんが」 「そうですよね。パイドラが義理の息子を愛するのは、変だと思うでしょう。でも彼女は、東地中海世界、つまり当時の全世界を支配したクレタの王女なのです。間違いなく女神さまです。ですから年なんて、とるはずがないのです。永遠に若くて、美しい。こんなことは、人間界には起こらないのです」 「年齢は、無関係なのですね。ふたりに血縁関係がないのなら、普通の男性と女性の恋物語なのですね」 「そうです。これは、純粋に悲恋物語なのです。パイドラは、永遠に若く、いつでも魅力的で美しい。女神ですから、母になっても子供をうんでもずっと乙女なのです。人間の母親とは、違うのです。彼女が望めば、男なら恋に落ちるのがとうぜんなのです。でもヒッポリュトスは、女性にセックスを感じなかったのです」 「同性愛者だったのですか」 「そうです。だから、パイドラは嘆くのです。神話にはそう記述されているのに、悲劇作家が目新しくして話題をねらってこの恋愛物語を近親相姦の視点でかいたのです。当時のアテナイでは、ずいぶんと批判されたらしいのです。それを焼きなおした近代のフランス人劇作家が、さらに下品にかいたのです。こうした作品がもてはやされた事実を考えあわせると、当時のフランス社交界はひどくレベルがひくかったのでしょう。パイドラの物語は、すっかり誤解されてしまいました。彼女は、だれにも理解されず、悲嘆に暮れているのです」 「女神さま、だったのですね。彼女の恋人は、べつの世界に生きていたのですね。パイドラの悲しみは、とても魅力的な作品でした。だれからも理解されなくて悲嘆に暮れる様子が、美しく描かれていました。そうだったのすね」 冴子は、しばらくなにかを考えていた。 彼女は、直子の部屋に飾られていた「パイドラの悲しみ」を思いだした。描かれていたのは、素晴らしくととのった容姿の女性だった。みじかい髪はブロンドだったが、モデルはあきらかに直子だった。黄色い服に身をつつんだパイドラは、涙をながしていたのではなかった。静かな笑みを口もとにただよわせて、悲しんでいたのだろう。パイドラは、女神さまだったのだ。だから、すべてが上品だったのだと彼女は思った。 「冷たいものでも、おもちしましょうか」 しばらくして省三は、背筋をのばし白い木の椅子にあさく腰をおろし、両の手を膝のうえにかるくのせた姿勢をずっととりつづける冴子にむかっていった。 彼女は、まえをみていた頭をゆっくりとまわして、「ええ」とすまし顔に答えた。 省三が画具を床におきながら「疲れたでしょう」と笑いながらいうのを、冴子は、「いいえ、ちっとも」と応じながら立ちあがった。彼がおりていくのをよびとめ、「部屋をみても、よろしいのかしら」とたずねた。 省三がこころよく返事をするのを、彼女はにこやかに聞いた。やがて彼が冷えた炭酸水を木製のまるいお盆にのせてくると、冴子はアトリエの画布をながめていた。省三がパラソルの下に小さな白いテーブルをだしお菓子をならべているのに気づくと、カンバスをもとの場所にもどして立ちあがり、椅子をひいてすわった。 「静かなところね」 冴子は、コップを口にしながらいった。 「風光にめぐまれたところでしょう。気に入っているのです。右手の東がわ、あれが石狩です。岬でみえないけれど、あのさきが小樽です」 省三は、指で示しながら彼女に話した。 「一度いったことがあります。小樽は、大好きな街です」 「そうですか。ぼくも、大好きです。坂が多くて、詩情がただよっていますね。とても寂しく、錆びれているからでしょうか。小樽や塩谷、それに余市に写生にいくのです。冬は雪がありますから、いつでも絵になります。白銀のない季節は、小樽や塩谷は黄昏しか描く気になれないのです。余市はすこし違います。あそこは、べつに夕暮れの必然性がない気がします。すこし異質なのです」 「二年まえにきたとき、余市にもいきました。ウイスキー工場が、たっているところですよね」 「そういえば、仙台にもあるとうかがいましたが」 「素敵な場所です。広瀬川の上流で、宮城峡という銘柄をつくっています。空気がすんで、山が綺麗で、工場のなかに電線がないのです」 「それは、素敵ですね」 省三も、かるく相槌をうった。 「そういえば、あちらの画布。お綺麗な方ですのね。どなたなのかしら」 冴子は顎の先端を、アトリエのほうにむけていった。 「モデルをしてもらっています。知りあいで」 「ずいぶん、ありますね。何枚くらいお描きになりましたの」 「デッサンなどをあわせると、三〇〇枚はこえています」 「まあ、そんなにも」 彼女は、おどろいた素振りで、思案気に海をながめた。 「おなじ絵を、幾枚も描かれるのですね。分かる気がします」 「気に入った、納得のいくものができないのですよ。あの方の美は、なかなかつきとめがたいのですね。すっかり、こまってしまって。絵よりも、ずっとお美しい方なのです」 「きっと奥ぶかい美なのね」 冴子は感嘆ぶかげにいい、「私、絶世の美人をみたことがあります」とつづけた。 「ほう」 「その方なら、田口さんの創作意欲を駆り立ててくれますわね」 「さあ、どうでしょうか。化粧をすれば上辺は綺麗にみえるかも知れません。創作意欲がわくのは本質にせまることですから、見当もつきません」 「有名な美人でした。中学生のときに、一度だけお目にかかったことがありました。高校三年生でしたけれど、たいへんな美貌でした」 「お知りあいだったのですか」 省三がたずねると、冴子は一瞬こまった顔をして、「いえ、知りあいというほどのことではなくて、ぐうぜんです」と思案気に答えた。 なんでこんな話になったのだろうと、彼女は思った。 とつぜん、階下でブザーが鳴りひびく音が聞こえた。 「ちょっと失礼」 省三は、階下に立った。 潮風が、冴子の頬をやさしく撫でた。彼女は、そばになにかがいるのに気がついた。ゆっくり頭をまわして、青いすきとおる海をみた。風、だった。そして、その女のことを思いだしはじめた。 高校三年生の洋一が事件を起こした相手は、高畑夏子といった。 冴子は、中学生のとき学校帰りに一度だけ出会ったことがあった。夏子は、素晴らしい美貌だった。いろいろな噂話を聞いた。いつも男の人にかこまれている彼女をうらやましいとも思った。夏子は、自分を「レベッカ」とよんでいた。その名の由来は、イギリスの女性作家がかいた小説の主人公だと聞いた。 冴子は、ヒッチコックが制作した古い洋画をみたことがあった。映画では、後妻として結婚した素晴らしく綺麗な新妻がでてくる。先妻だったレベッカは一度も登場しなかった。絶世の美貌だったと、登場人物のだれもが異口同音に話すだけだった。そもそもレベッカは、旧約聖書にでてくるヘブライの女性名だという。その言葉は、古来、うっとりさせる魅惑的な女性。一度、捕らわれたら逃げられない束縛しつづける女を意味するとかかれていた。夏子は、そんな女性になりたかったのだろう。また実際、ファム・ファタルともよぶべき運命をあやつる女だったのだろうか。すくなくとも兄にとっては、そんな女性だったらしい。 洋一は、幼いころから両親とは齟齬があった。父母とはほとんど口をきかなかったが、冴子とは話をした。しかし夏に起こした事件で、すっかりかわってしまった。秋からは、東京の親戚の家にあずけられた。それからは、年に一週間もいっしょにすごすことはなかった。家でも、洋一の話はほとんどしなかった。冴子が直子に会いにいくことも、母親ははっきり口にはださなかったが、好意ある態度ではなかった。 なにが、それほど母の由紀を躊躇わせていたのだろうか。 冴子が、洋一をひとりの男性とみているのに気づいたのだろうか。それまでにも、兄とは血がつながりがないという噂話を幾度か耳にしていた。しかし、あらためてたしかめることはできなかった。札幌にいく前日、とつぜん由紀が話したのは、洋一の結婚相手が決まって安心したからだったのだろうか。父の公一の息子ではないとはっきりといわれて、冴子は納得した。彼女は、洋一の出生にまつわる噂話を幾度か耳にした。彼の生母は、絶世の美貌で気性がはげしい女性だったと小耳にはさんだ。しかし、なぜ祖母の綾は、洋一をあれほど可愛がったのだろうか。田澤家とは、まったく血がつながっていなかったのだ。祖母は、妾腹の公一とも血縁関係がなかった。だから、ふたりはどこかで立場が似ていたのだろうか。田澤の家は、血のつながりのない者たちで構成されていたのだと彼女は思った。 冴子にとって、洋一が他人だった事実はうけいれられるものだった。しかし、彼が婚約したのはショックだった。それを聞いたとき、心にわだかまっていたあわい思いが鮮明にひろがっていった。その夜、寝床で涙をながしている自分自身に気がついた。血がつながっていなくても、義兄になる洋一とは結婚はできなかっただろう。いつまでも、兄でいてもらいたかった。兄妹だったが幼いころから意識する関係だった。いちばん話をした男性だったし、洋一よりも魅力をもった男に出会った記憶がなかった。 冴子は、自分は普通の女だと思った。仮に田澤家が東北地方の藩主だったしても、お姫さまにはなれないだろう。もちろん、女王も女神もまったく縁がないだろう。そういう人たちとは、根本から違うのだと思った。しかし省三から聞いたパイドラの話は、心をうつものだった。直子は、なぜそんな悲恋のヒロイン、クレタ王女のモデルをつとめたのだろうか。婚約している彼女にふさわしい役柄とは思えなかった。直子の美貌が理由だったとしても、ひどく不吉に感じた。冴子も、洋一をめぐる女たちのひとりだったのだろうか。 省三の話は、みょうな不安を駆り立てた。 冴子は、今日、はじめて直子に会った。彼女は、輝いてみえた。直子のような素敵で上品な女性が結婚相手なら、兄にふさわしいと思った。洋一がおくってきた手紙には、来春卒業したら、彼女の父親が経営するレストランのチェーン店に入社するつもりだとかかれていた。直子は、ひとり娘だった。だから洋一は、ゆくゆくはチェーン店をつぐのだろう。もう、仙台にもどってくるつもりはないのだろう。 冴子は、品のいい直子をみてすっかり納得した。心にわだかまっていた感傷も整理できるのではないかと思った。それにしてもいつから、洋一をひとりの男性としてみるようになったのだろうか。 冴子は、雪がふった寒い日の出来事を思いだしていた。 洋一が東京からはじめて帰省した冬のことだった。 冴子は、友だちと庭に雪山をつくって、はしゃぎまわっていた。ふと兄の部屋をみあげると、怖い顔でじっとみつめている洋一に気がついた。彼女の視線がぶつかると姿を消し、かわりに青色のカーテンがひかれた。 その年の出来事だった。冴子は、洋一の部屋に紅茶をはこんでいったことがあった。 机のまえで、ひっそりとすわる彼は考えごとをしていた。ちかづくと、大きな黒い指輪を両手でつまんでいた。冴子は、なにをしているのかと聞いた。 洋一が話したのは、指輪にまつわる怖い物語だった。聞き終わったとき、つまんでいた両手がぶるぶると震えだし、音もなくリングは床に落ちた。 その様子をみて、冴子は小さな悲鳴をあげた。 ちかごろ指が震えると、洋一はいった。 そんな指輪、すてたらいいと冴子は答えた。 洋一も、そうするといった。 冴子は、ずっと忘れていた話を思いだした。彼女は、洋一がその指輪をはめていたような気がした。 三 凪 省三は、ブザーの音で階下におりた。その音響は、苛々した感じで断続的に幾度もくりかえし部屋にひびいた。 「いま、あけます」 省三は、大きな声で外の見知らぬ者にむかっていった。玄関の扉をあけると、浜で会った巡査が立ち、帽子をわきにかかえて手拭いで額の汗をぬぐっていた。 「なんのご用ですか」 省三はいった。 「なんの、じゃないよ。まったく暑くて仕方がない」 巡査は、呟くようにいって肩ごしに部屋をのぞいた。 冴子は、アトリエの空色の床に足をまげ、腰をおろし、一枚の肖像画をじっとながめていた。彼女とおなじくらいの年の娘で、北国の育ちらしく白い肌をしていた。上半身の肖像だったが、背がたかそうに思った。髪は、黒くてながかった。すこし固そうでゆるくカーブを描きながら、白い服の小さな胸にゆったりと垂れさがっていた。鼻筋がとおっていた。大きな瞳で、物憂げで、胸に秘めた思いがあふれる心ひかれるものだった。みつめると、不思議に涙がでてきてしまいそうでみょうな感じだと彼女は思った。それが、なんなのか分からなかった。絵をもって立ちあがると、省三が描いた自分の肖像画まで歩き、横においてくらべてみた。 肖像は油も顔の部分だけにしか塗られていなかったが、ながい睫毛やアイシャドーをつけた目の付近は完成にちかく、まず瞳に焦点をあわせたことが冴子にも分かった。瞳孔は、生き生きと輝いていた。冴子は、ふたつの瞳を交互にながめた。一陣の潮風がふいた。たわむれたいと思うのか、戦いだ髪が視界をうばった。そのとき、絵の女が風に思えた。理由もなく、彼女を潮風だと思った。 冴子は、階下で巡査がでていく扉の音が聞こえると肖像をもとあった場所にもどし、空のカップのおかれた白い机のまえの椅子に腰をおろした。海をながめる風情で省三があがってくるのを待っていた。しかし、もどってくる気配はなかった。なにがあったのか、すこし心配になった。時計をみると四時半にちかかった。彼女は、脇におかれたまるい木目調のお盆を手にするとカップをのせて階段をおりていった。 静かに階下へいくと、省三がソファーにあさく腰をおろしているのが目に入った。冴子は、立ちどまったまますこし思案して音を立てないように歩いて食堂へむかった。ほとんど省三の目のまえをぬけることになったが、彼は気づく素振りもなく、おなじ姿勢で物思いにふけっていた。 冴子は食堂に入り、カップをながしに盆を背後のカウンターにそっとおいた。振りかえると、やはり省三は考えごとに夢中になっているようだった。彼女は、二階にもどることもできず、どうしたらいいのか分からなかった。やがて蛇口をあけて、つかった容器をあらいはじめた。 「あっ」と省三は声をあげた。 「けっこうですよ、そんなことなさらなくても。ありがとう、ほんとうにいいのです」 省三は歩みよって、「すっかり、待たせてしまいました。ごめんなさいね」とやさしくいって時計をみた。 「そろそろ洋一くんたちも帰ってくるころだから、お菓子でも食べて待っていましょう」と省三が話すと、冴子はこまってうなずき「お茶を入れます。なにに、なさいます。珈琲、それともお紅茶」とたずねた。 省三がいいというのを、彼女は自分がすると幾度もいってお湯をわかし、紅茶を入れてテーブルのうえへはこんだ。 車のとまる音が聞こえ、洋一と直子が笑いながら玄関にあらわれた。彼はソファーにすわると、「綺麗に描いてもらったかい」と声をかけた。冴子があいまいに返事をするのを笑いながら聞いた。そして省三をみた。不思議な沈黙に、なにかをいおうとした。みょうな雰囲気が座を支配した。 最初に口をひらいたのは、直子だった。 「なにか、あったの」とたずねた。 省三が、巡査の話をかいつまんで手みじかに話した。 「おや。どうしようか。食事は」と洋一がいった。 「もう一度、くるかも知れないってさ。昼間の女性の親といっしょに」 「おい。ほんとうかよ。まったく、まいっちゃうな」 洋一は、上体を反らしていった。 「別段、ぼくはすっぽかしてもいいと思っていた。そういうことなら食事は明日にでもするか」 洋一は、省三をみて思いだした。 「そうか。明日は桂子ちゃんがくる日か。あの娘もいっしょにつれていこう。まえから、食事をしようって約束していたから」といって直子をみた。 「そうね。そのほうがいいわ。そうしましょうよ」 直子も、いった。 「うん。そのほうがいいな」 省三も、同意した。 「お紅茶を入れますか。どう」と冴子はたずねた。 洋一は、まわりをみて「みんな飲むよ」と答えた。 冴子は、厨房に立った。 「ところで、その巡査。あなたになんの用事なの」 直子は、不審そうにたずねた。 「用なんてものじゃないよ。気になるの」 洋一は、笑いながらたずねた。 「あら、ずいぶんもったいをつけるのねえ」 直子は省三をみて口もとをほころばせ、彼もまたつられた。 「いやね。昼間、そこの海岸で土左衛門があがってね」 「あら、いやな話ね」 直子は、ほんとうにそんな顔をした。 「なんで、それがあなたと関わりがあるの」 「なにもないよ」 素気なく洋一はいって、つづけた。 「綺麗な女性だったよ。二〇歳か、二一歳くらいの可愛いい娘だったね」 今度は、省三をみていった。 「一七、八歳だったのじゃないかい」 「いや、あれは二〇歳くらいだよ。たぶん二〇は、いっている。まあ、いいや。ちょっと顔をみてみようと思って、いい加減なことをいったらね。ぼくが、その娘を知っていると考えたらしい。親をつれてくるっていう話を聞くと、どうやら身元が分かったのだね。いったい、ぼくになんの用なのだろう。まったく自分でまいた種とはいえ、いい迷惑だよね」 「お灸でも、すえるつもりじゃないの」と直子がいうと、 「たぶんね」 「あなた。いったいなにをいったの」 気にかかる様子で、直子はふたたび洋一にたずねた。 「つまらないことさ」 「あのとき、ほんとうに君はおかしかった」 省三がいうと、洋一は苦笑した。 「変な話ね」 直子は、呟いた。 「ほんとうに変な話だ」 洋一も、相槌をうった。 冴子は、厨房で湯が冷めるのを待ちながら若い女性の死について賑やかな声を立てる洋一たちの話を聞き、なんとも名づけられない不安が胸をよぎった。カップを盆にのせテーブルにつくと、各々に紅茶をそそいだ。壺から砂糖を入れる洋一の左手をみて、彼女はほっとした。 冴子は、勘違いだったかも知れないと思った。洋一の指先はむかしどおり白くながくて、なにもはまっていなかった。 「死んだら、どうなるのかしらね。死は厳粛なものだと思うけれど、科学的にはそれで終わりなのでしょうね」 冴子は、ぼんやりと呟くようにいった。 「生き死にはおまえの専門なのだろうが、死んだら人はひとり切りになる。真暗ななにも存在しない世界で、気がとおくなるながい時間だ。この世が終わる無限のときまで、ひとりで話し相手もなくすごすことになる。死んでおしまい、というわけにはいかない」 ゆっくりと洋一はいった。 「話題をかえましょう。ごめんなさい。縁起でもない話をして」 冴子は、洋一をみた。 「おまえは、こうした話題はきらいなのだろうね。生あるものは、かならず死ぬ。すべてはうつりゆく。いやでも、ほんとうならば仕方がない」 「まあ。みてきたみたいな話をするのね」 「洋一さんは、いつでもすべてが分かったように話すから仕方がないわね。ナイーブなセンスが欠落しているのよ」 「かわらないものが、素敵だと思うわ」 「田口。いまの冴子の発言をどう考えるかい」 洋一は、意地悪そうに省三にむかっていった。 「まあ。田口さんは、そうは考えないの」 冴子は、信じられないという表情で省三をみた。 「おまえが話の腰をおるから、田口はいいだしにくくなってしまったじゃないか」 洋一がとがめた。 省三は、おかしそうに笑った。 そして、「絶対にして永遠の美は存在しない」というボードレールの言葉を紹介した。 過去のあらゆる世紀に、すべての民族が独自の美しさをもっていた。ロマン主義がおいもとめたのは、普遍的な「理想」ではなく「多様」な美だった。コンスタブルがみつけた美しさは、個人的なひどく主観的なものだった。だから、いつでもいう。私の光。私の運河。私の木の葉。私のそよ風。他人とは違う自己を発見したロマン主義は、孤独という世界もみつけた。そこでは他者が介在しないから、かぎりない自己肥大にもつながっているのだろうと省三は話した。 「コンスタブルは、いっている。世界がうまれてから、おなじ日はなかった。天地がつくられてから、同一のときもこなかった。くりかえし、彼がながめたデダムの水門のちかくには、一本の木におなじ二枚の葉はなかった。永遠や不滅ではない、うつりゆく美しさが存在する。それは一瞬の煌めき、かさなり、かがようものだろう。生存するすべてが、みんなそうだ。命あるものは、かならず滅ぶ。それでいい。ながれゆき、うつりかわる。そのなかで美もうまれると、ぼくは思う」 省三がいった。 冴子は、神話と人が生きている世界とは、違うのだと思った。さきほど省三がかたってくれたのは、女神さまの話だった。 「冴子。これが、田口の意見さ」 あとをつけたし洋一がいうと、冴子は、目だけをうごかして天井をみてから答えた。 「分かったわ。私は納得したから、もう兄さんは話さなくていいわ」 「そういわれてもね。ぼくは、田口の美は間違っていると思う」 「もういいわよ。聞きたくないわ。どうせ無気味な話なのでしょう」 洋一は、冴子に賛成する意見を述べるつもりだといった。 むかし、人は翼をもって天空を駆けていた。そこで美の実在を垣間見た、と洋一はいった。 「ぼくらは、翼をうしない地に落ちた。地上のよごれた生活のなかで忘れていた。あるとき美しい人に会い、むかし天空で出会った真実の美を思いだし、翼をはやしてもう一度、駆けのぼりたいと思う。天上でみた美々しさは、燦然と輝きながらぼくの脳裏にやきついていた。それが忘れられない。ぼくは、なんとかして翼をもちたい。もう一度、天空に駆けのぼりたい。人間は、ただやぶれ、滅んでいくだけの存在なのかも知れない。しかし、ながれ、うつりかわる美しさなんてほんとうではない。もしうつりすぎる美、それしかないのなら不滅にする努力があってもいい。違うかい」 「あるの。そんな努力って」 冴子は、いぶかしげにたずねた。 「あるさ。ひとつだけね」 その言葉に、彼女は不審な表情をした。 「冴子。分かるかい」と笑いながら聞いた。 彼女は洋一をみて、多少怒った口調で「もう、いいわよ」といった。 「死ぬことだ。その女が、もっとも美しいときに命を絶つんだ。そうすれば、永遠の美しさになる。それこそ不滅の美にかわる」 冴子は、頭を振った。直子が微笑みを浮かべてうなずくのをみて、 「兄さんは、どうかしているわね。今日はまた一段と冴えて、不愉快なことばかりいっている」と非難していった。 「そのとおりだね」 省三も同意した。 洋一は立ちあがり、テラスにでると潮風をふかく胸いっぱいに吸いこんだ。白くとおい渚で、黒い子供たちが遊んでいた。 洋一は、白色の木製の椅子に腰をおろし、はげしさをうしなった夕方の静かな凪に輝く海原をみつめた。よせくる海の吐息に、蜩の「かな」、「かなかな」という鳴く声がちかくで聞こえた。洋一には、ひどく気ぜわしく感じられた。とおい岬のほうから、警笛の音が聞こえてくる。頬をうった風がやがてゆるやかに舞いあがり、いつしか空も紫にそめていく。幾年、幾十年、おなじときがすぎさり、そこでうまれた人びとの感情、愛や憎しみ、喜びや悲しみ、偽善や虚飾、誠実な思いやりもすべてながされ、忘れられる。その終局で、人はなにをえるのだろうか。思い出、そして、死滅。洋一は、そんなことを考えていた。 「今日はまた、一段とすねていたね」と省三がいった。 「そう。今日は冴子に久しぶりにあって、うまれてから起こったさまざまなことを思いだしたから。ぼくの幼年時代は、家庭の幸せにめぐまれず、青年期は恋も知らず、壮年期には友もなく、希望ももてずに死をむかえるのだ」 「ずいぶんなペシミズムだな。しかし、ターナーは、絶対の美しさなど信じていない。彼の美は、闇を駆逐する崇高な光のなかでかがようものだ」 洋一は、「直子たちは、どこへいったのかな。いまごろは、なにか食べているのかな」と話題をかえ、さきほど帰ったふたりのことを話した。 彼は、涼しい風がふきだすと、もし巡査たちがきて用があるのなら携帯に電話をかけて欲しいとことわり、すこし散歩をするといって部屋をでた。 日はかげって、夕闇がちかいことを知らせていた。蜩がせわしげに鳴いていた。 夕闇のせまるころ直子と冴子をのせた車は石狩街道を走りぬけ、ポプラの高木の脇を疾走し、石狩の浜についた。石狩川は川口付近で大きな三角州をつくり、肥沃な土地に小さな河川をあたえ、湾にそそいでいた。 直子は、雑草のしげる海辺ちかくに車をとめると浜におりた。海岸の砂地には、紅色の浜茄子が一面にさいていた。冴子はなかでも見事な一本をそっとつまむと、「いい匂いね」といいながら香りをかいだ。おりしも夕日は、海に没そうとしていた。朱色の輝きは波にきらきらとうつり、とおくの漁船の旗も海鳥もまた赤くそまり、世界を十字に分けながら水平線のきわにあった。 「洋一兄さんの、どこが気に入ったの」 「あなたが普通の人でよかったわ。よく分からないのよ。自分の気持ちだけではなくて、洋一さんのこともね。なんだか、さっぱり分からないわ。いっしょにはいたいし、仲良くは暮らしたいけれど。うまくいくのかどうかも分からない。てっきり彼には好きな人がいるのだろうと思っていたのよ。ほんとうに結婚するのかしら。あなたとあって、私とかわらないのを知ってすこし自信がでたわ」 「変人だけれど、直子さんがお姉さんになってくれるなら安心だわ。両親にも、そうつたえることができる。私にもよく分からないの。直子さんと、こんなふうに普通に話ができてよかったわ」 冴子がいうと、直子も笑った。 「あっちが田口さんの家の方角ね。こっちが小樽」 説明する直子の横顔を垣間見ながら、 「むこうでも私たちのほうをみているかしら」と冴子はいった。 「絵は、もう描きあがったの」 背後から、彼女がたずねた。 「ええ、半分くらい。明日、田口さんさえよかったら、つづきを描いてもらうわ」 冴子は、穏やかな気持ちになって直子にいった。 「そうね。きっと描いてくれるわよ」 直子も、やさしくいった。 浜には人影もみえなかった。すっかり涼しさを増した風に、ふたりは夏の終わりを感じた。 「石狩鍋でも食べる。まだ夏だけれど」 直子がたずねると、冴子は喜んで同意した。車にのると、いった。 「この服、窮屈だわ。自分でないみたい。差しつかえなかったら、直子さんの家によって普段着にかえさせてもらえないかしら」 「そうね。きっと、そのほうが美味しく食べられるわね」と直子は答えた。 暗さが増し、疾走するすがすがしい風にうたれながら冴子はたずねた。 「桂子さんて、どんな人なの」 直子は、やさしそうな目で冴子をみかえした。 四 光 洋一は、ぶらりと省三の家をでた。 蜩は、狂って鳴いていた。 土のなかでうまれ、そこで命の大部分をすごし、幾週かでふたたびもどっていく蝉の声にはかなさをわずかでも彩色しようとする焦燥を感じた。ああ、そうではないのか。彼らはミューズと出会って歌う楽しみを教えられ、忘我のなかで、食事も飲水も、さらに死ぬことすら忘れて鳴きつづけているのかも知れない。 あてはなかった。洋一は、坂をあがりはじめていた。のぼり切ったところは視界がひらけ、海につきでた断崖になっていた。駅にむかう小径と崖の縁をかこむ柵でできた三角形の場所は、夏草がわずかに土を覆い、座卓ほどの平たい石がふたつ三つあった。反対の陸がわは山になり雑木が繁茂し、いまは蜩の声に満たされていた。鉄道は、山あいをぬって札幌へとつづく。駅は、五分ばかりくだったところだった。 日本海に面した町は、鰊業の根拠地として昭和初期まで輝かしい繁栄にあった。いまは、海岸ぞいにわずかな漁民の家が散在するより面影もなかった。夜明け、胸までの黒いゴム長をはいた漁師が赤い旗を潮風に戦がせ、自身をまるくつつみこむ水銀がつくる暗い波のなかへ出帆する姿だけがいかにも悲しく、錆びられいく漁村のむかし話を思いださせた。北国の町は海岸づたいに点々と起こり、やがて内陸との交通がはじまり、繁栄からとりのこされていった。 洋一は、昼間、和服の女が腰をおろした平たい石のうえにすわってぼんやりと海をながめていた。東がわに石狩の浜がみえた。小樽につづく西の陸はふたつの岬をのこし、海中に消えていた。大海はまるくひろがっていた。球形の地球をごく素朴に信じさせる溟渤の形は、真っ青な大皿にみえた。海面は、空と接する手まえで徐々にたかさを増し、盛りあがって皿の縁をつくっていた。水平線は海の果てで、さきは滝になり、潮は零れ落ちているに違いなかった。しずむ夕日にはえながらオレンジ色に輝き、棚引く雲に覆われ、荘厳な縁飾りをつくっていた。ルイ王朝時代のやわらかにまるみをおびた優雅な飾りは、橙黄色に光りながら世界の終淵を装飾していた。静かな美しいとき、だった。やがて涼気を増した潮風にさそわれ、悲しく孤独な海鳥が一羽、虚空に浮かんでいた。 詩情が、洋一をつつみこんだ。 小径をのぼってくる人の足音が聞こえた。 それは昼下がりに会ったあの美しい女だった。年は、彼よりひとつかふたつうえに思えた。しぶい銀色の和服をまとったうら若い婦人はやや内股加減に歩きながら静かに坂をあがってくると、洋一をみて微笑んだ。 「また、お会いしましたね。すごしやすく、なりましたね。もう、ご用はおすみですか」 洋一は、言葉をかけた。 女は立ちどまり、「ええ」とみじかく答えてやさしくみかえした。 「お急ぎでなかったら、すこしお話でもしませんか。今日は、とてもいい日でしたから」 洋一はズボンのポケットから赤いハンカチをとりだし、となりの石のうえにひろげた。 女は彼の仕草に笑いながら、ゆっくりと腰をおろした。甘い香水の匂いが、洋一の鼻をかすめた。 「なにをなさって、いらっしゃるの。また風の精でも、ごらんになっているのかしら」 「いえ。あなたを、お待ちしていたのです」 洋一の言葉に、女は白い指先を口もとにはこんで笑った。指のあいだで金色の指輪が輝いた。 「お帰りになるの」 「友人のところに泊まろうと思っているのです。あなたは、お帰りのようですね」 「お友だちって、白い家の方ですか」 女は、洋一がうなずくのをみて、ゆっくりといった。 「あのお宅は、とても素敵ですわね。絵描きさんが住んでいらっしゃるって、聞きおよんでいるのですけれど」 「ええ。田口という若い画家なのですが、ご存知ですか」 「存じあげておりますわ。いつぞや新聞で拝見いたしました。いつごろの、ことでしたかしら。なにかの賞をおとりになられたときで。近代絵画賞、だったかしら。新聞に、新進気鋭、前途有望な若者、なんてかかれていた気がいたしますわ」 「そんなことが、ありましたね。ぼくも、なかなかの才能だと素人ながら思っているのです。先日、彼の個展がひらかれたのですが、ご存知でしたか」 「私も、足をはこんで、みせていただきましたわ。あの方の絵は、なにか力を感じますわね。私、とても好きなのです。とりわけ、悲しみのパイドラ。あの絵なんか、大好きです」 「ああ。あれは素敵な絵です。構図もいいし。田口が聞いたらきっと大喜びしますよ」 「とても、綺麗な方でしたね。みじかい髪が、よく似合っていました。でも、なにを悲しんでいるのかしら」 「モデルになったのは、私の婚約相手なのです。なにを悲しむのかは、知りません」 「そう。理由がないわけね」 「話は違いますが、あなたみたいにお美しかったら、田口は絵のモデルになって欲しいといいだすと思います。そうしたらきっと彼にも決断ができて、スランプから脱出できるかも知れません」 洋一がいうと、女はまたかるく笑った。 「ほんとうに、ずいぶん涼しくなってしまいましたわね」 小さな紫の風呂敷づつみを石のうえにおくと立ちあがり、ゆっくりと崖縁まで歩いた。 「綺麗な夕日ですこと」 女は、洋一に背をむけたままいった。 彼女は、夕暮れのなかで黄色くそまろうとしていた。 むかしも、そんなことがあった。 蜩が狂って鳴いていた。 むかしも、こんなことがあった。 この女は、三度、それを思いださせた。 ちょうど、いまごろの季節だった。 夏も終わりにちかづいた、暑い晴れた日のことだった。 洋一は、夏子とふたりでこんな崖に立っていた。彼女とはクラスは違ったが、同学年だった。 夏子は、美貌の女性だった。あらゆる男から愛をそそがれるために生をうけた、そんな美しい女だった。彼女のすべては、とても言葉では表現できない。どこか神秘的なものさえ感じさせる、かがようなかにある、そんな女だった。 青い海がみえた。潮の香りをふくむ涼しい風が洋一の頬にあたった。静かだった。波のよせる音がくりかえし耳にとどき、とおくに漁舟がみえた。白い波頭があらわれては消え、きらきらと輝く晩夏の海は硝子細工にも似ていた。 洋一は、大洋をみいった。 波は、割れた鏡になって輝きながら一瞬もおなじ姿勢をとろうとはせず、空中にとつぜんたかく飛ぶと、その刹那、海鳥にかわり虚空にふわりと浮かんだ。どこか女の髪の匂いをはなつ風の作用で、ぱっとはじけて白い飛沫を溟海にもどした。そして海に摂取され、今度はまったくべつのところで、なんの理由もなく波飛沫が空に舞った。溟渤はかたときも異化と同化をやめず、くりかえされる永遠の運動のなかで、不滅な物質をみつけだそうと試みる中世の錬金術師にも似て、寄る辺なくさまよっていた。あるときは、秋の木漏れ日にもみえた。無限のくみあわせから、刹那せつなに状況にもっともふさわしい構図をえらびだそうとする溟海の、より大きなものの意志に裏うちされていた。ひとつひとつは、なんの意味もない白い飛沫がじつは微妙に極限まで計算され、全体の構成のなかで確実な位置を付与されているとも思えた。なによりも美しかった。ひとつひとつの波も、潮風も、全体としての海も。 洋一は、平たい石に腰をおろして海原をみつめて考えていた。 夏子は、どうして今日、海をみにいきたいといいだしたのだろうか。途中で理由を幾度もたずねてみたが、目的地についてから話すといってだまりこんでいた。いつもとは違う深刻な表情だったから大切な話だろうと理解した。季節は、夏が終わろうとしていた。受験も、間ぢかにせまっていた。しばらく会うのをやめようという話なら、こんなところまでくる必要はないだろうと思った。 夏子は、JRの駅からタクシーをつかって目的地らしい海のちかくでおりた。 運転手は、ふたりづれの若い男女が自殺名所で名高い崖にきたことをいぶかしんだかも知れなかった。しかし、夏子が高校生だとは思わなかっただろう。これほど美貌の女性が、世をはかなんで自殺する理由も思い浮かばなかっただろう。 崖からは、緑色をした太平洋がみえた。 夏子は、黄色い地のツーピースをきていた。それが晩夏の光に輝いて、天使の翼がはえているようにみえた。 ふたりで崖のうえに立っていると、子供ができたと夏子はいった。 洋一は、おどろいて彼女をみつめた。夏子に晩夏の光線があたって、頬は金色に輝いていた。彼は、もう一度、彼女がなんといったのか聞いた。 「子供ができたのよ。どうしたらいいの」 夏子は、いった。 洋一には、信じられないことだった。可能性は皆無ではなかっただろうが、妊娠にいたるはずがなかった。機会は一度しかなかったし、だいいち夏子がいちばん怖れていたことだった。 「どうしたいの。子供をうんで、私たち結婚するの? それでいいの」 洋一は、夏子を自分のものにしたかった。しかし、高校三年生で受験をひかえていた。子供がうまれるという話に現実感はまったくなかった。しかし結婚の約束をして肉体関係をもつなら、とうぜんこうした事態は延長線上にあった。ただ現実問題として、妊娠は考えてもいなかった。 「うんだら、君はどうするの」 洋一は、恐る恐るたずねた。 「そうね。高校は、出席日数が足りれば卒業できるでしょうね。不足だったなら、なんとかたのんでも卒業証書はもらう必要があるわね。とはいっても、いまどき高校卒業だけでは私の未来はかぎられているわ。大学にはいかなければねならないわね。子供は、あなたの家で育ててもらうしかないわよね。ご両親に、よく説明したらどうかしら。なんとか協力してもらうのね」 洋一は、ずっと不義理をつづけてきた母親、由紀を思いだした。その母に、なんとつたえたらいいのだろう。ずっと無視してきた父親、公一とも話しあわねばならない。どう話したらいいのだろう。彼も、大学にいかなければ将来はないだろう。新生児をかかえ、夏子と三人で暮らす生活は想像できなかった。金銭的な援助はえられるとしても、彼女が育児に没頭する姿は脳裏にまったく浮かんでこなかった。夏子は、洗濯のひとつもやらないだろう。彼女は普通の女性ではないのだと、いまさらのように洋一は思った。 「ご両親に話すことはできないの」 夏子は、聞いた。 「あなたの家は、大金持ちじゃない。なんとでも、なるのじゃないの。子供がうまれたら、私も仙台にはいづらいから東京にいくわ。田澤家の嫁になるのだから生活費もだしてもらわなければならないわ。どこかのお嬢様学校にでも入って一度しかない青春を楽しまなければね。洋一くんは、大学、どこにいくつもりなの」 洋一は、夏子を家のなかにとじこめておくのは不可能だろうと思った。彼女は、首都圏の適当な大学にいってどんなものからも束縛されずに奔放で派手な生活をするに違いなかった。機会があれば、モデルにも女優にもなるかも知れなかった。彼女は、子供をうんだことなど忘れてしまうかも知れなかった。堕ろして欲しいといったらどうだろう。夏子は、洋一の希望にそうのだろうか。もう彼とはつきあわないだろうか。彼女を手ばなしたくはない。しかし、どうしたらいいのだろうか。 「やっぱり洋一くん。血がつながっていないご両親には、相談できないのね」 夏子はいった。 洋一は、どういう意味だと聞いた。 夏子は、彼をみつめて笑った。 洋一が田澤公一の実子でないのは、みんなが知っていると答えた。妹、冴子の母、由紀は、後妻にあたる。洋一の実母は、先妻の成東映子なのだろう。映子は、料亭「諸月」の娘で、当時、たいへんな美貌で有名だった。洋一は成東映子の子供だけれど、公一とは血がつながっていない。このスキャンダルは、仙台中の人が知っているといった。 「それとも、どうにもならないから無理心中するの。ここから飛びおりてみるの。けっこう、たかいわよ。のぞいてご覧なさい」 洋一は、崖のうえから下方をのぞきこんだ。 めまいがするほどはるか下に、黒い岩礁と青白い海がみえた。青い大海は、眼下の一点に集約しようと試みていた。自分が立っている場所からはかなりの距離があり、海は小さくみえた。押しこめられた大海は、猛烈なエネルギーに満ちていた。そこでは、ほとんど白くなった波飛沫がさかんに舞いあがり、霧にかわって立ちこめていた。岩礁は、反復されるはげしい波の攻撃に絶叫をくりかえしていた。かたときもやまない悲鳴は、岩肌を削りとられる痛みが洋一にも感じられるほどだった。青白い波は、くりかえしよせては飛び散っていた。ありあまった力は、逆巻き、怒濤のいきおいであらあらしく岩礁をあらっていた。青い波は、岩肌を浸食しながら白くひきのばされていた。切り離された海の一部はもどることもできず、つぎの波浪におしながされ、岩いっぱいにひろがっていた。岩礁は、くりかえされる責め苦に阿鼻叫喚をつづけていた。 「真っ青よ。海じゃないわよ。洋一くんの顔のことよ。そんな、勇気があるの」 夏子は、洋一をみつめていった。 「君も、ぼくも、一七歳だ。ぼくらの年で、子供をうむなんて、現実的ではないよ」 洋一は、混乱していた。 夏子は、海をみつめた。しばらくして、 「そうよね」といった。 それから彼女は振りかえって、もう一度、洋一をみつめた。 「だからね。結婚して、入籍して、子供をうむのよ。それでさ、田澤家が一丸になってこの子を育てるのよ。面白いでしょう」 「なにが、いいたいんだ」 「洋一くん。あなた、お父さんとは血がつながりはないらしいけれど、よく似ているわよね。見栄っ張りでさ。名誉心がつよくてさ。いっしょに住んでいるから、似てきたのね」 「なにが、いいたいんだ」 「お父さんは、血がつながっていない洋一くんを自分の息子だって認知したのよ。それで田澤家の跡取り息子にしたのよ。お母さんは、裁判で親権を譲るようくりかえし訴えたのよ。でもお父さんは、自分の息子だとしかいわなかった。DNA鑑定でたとえどういう結果になっても、実子という事実はくつがえらないと主張したそうね。立派じゃない。洋一くん、尊敬しているのじゃないの」 洋一は、夏子の真意をつかみかねていた。 実母の映子が、どうしても譲らない公一に裁判を起こした話は人伝に聞いていた。しかし、そんな個人的な話題をなぜ問題にしているのか分からなかった。 「私たち、肉体関係をもったのよ。君が強要したのよ。私は、力ずくで犯されたのよ。どこでこの事件が起きたのかも、はっきりとしている。洋一くんには、言い逃れができない証拠があるわ。だから私は、君の子供を妊娠した可能性が否定できないのよ。でも、この物語でいちばん面白いところは、赤ん坊の父親はたぶん洋一くんではないということなのよ。君はそれを知りつつ、私と結婚して子供を育て田澤家をつがせるのよ。分かる? 洋一くんは、仲が悪くて口もきかないお父さんとおなじことをするわけね。興味ぶかい話でしょう。分かったの」 夏子は、洋一をみつめた。 「なにがいいたいのか分からない。君は、ぼくを愛していたのじゃなかったのか」 洋一は、聞いた。 夏子は、とくべつとはまったく考えていなかったといった。 洋一は、彼女がなぜ婚約指輪をうけとったのかと聞いた。 「あなたが、本気になって面白かったからよ」と夏子は答えた。そして、賭けの対象だったからだといった。 洋一は、その意味をたずねた。 「洋一くん、傷つくわ」 「話せ」 ぶっきら棒に洋一はいった。 夏子は、考えこんだ。 「なんだ。どんな賭けなんだ」 洋一は、顔を真っ赤にしていった。 「やめたわ」 「話せ」 「しつこいわ。幻滅だわ」 「それは、おたがいだ」 その言葉を聞くと、夏子はたからかに笑った。 「君って傑作よ。でも、安心して。もちろん話してあげるわ。それでなければ、こんなところへくる必要もなかったからね。大丈夫よ。もともと、そのつもりだったのだから。クラブの人たちと賭けたのよ。洋一くんが女はどうにでもなると思っているらしいから、可愛がってあげようってね。君から被害をうけた子も実際にいたのだから。洋一くんって傑作よ。私たち笑っていたのよ。君を振ると、みんなから夕食をご馳走してもらえるのよ。そのときに、ここでどんなことがあったのか一部始終を話さなければならないけれど。けっこう興味ぶかい話をしたわよね。私、もうすこしつきあってあげようかと思っていたのだけれど。もう、だめ。あきあきしたわ」 だまってみつめる洋一に、夏子はさらにいった。 「私は、永遠に若く、どんな男のものにもならない。崇められる者にして穢れることを忘れた聖なる女。すべての争いと不幸の種で、同時に心を酔わせ、至福へとみちびく愛の女神の生まれかわり。私のなかをとおって、洋一くんは自分がつまらないただの男だと知ったのよ。女神に感謝するがいい」 ぼうぜんとしてみつめる洋一にむかって、「指輪はかえすわ。もう二度と会う気はないわ」といった。そして、指輪を指先からぬこうとした。 そのとき、洋一は夏子の手をつかんだ。そして、おもむろに立ちあがった。 「はなしてよ」と彼女はいった。 「君は、嘘をついている」 洋一は、夏子の両手をつかんで真剣な表情でいった。 「ほんとうのことを、話せ。君は、ぼくを愛している。いままでも、これからも。ずっとぼくひとりを思いつづけている。嘘を、つくのじゃない。君は、子供を宿しているんだ。その子の父親は、間違いなくぼくだ。だから、いっしょに考えよう。これはぼくら三人の話だから、当事者が話しあわねばならない」 「なにをいっているの。私は、洋一くんをなんとも思っていないのよ。賭けの対象だったにすぎないのよ」 「君は、女神だよ。それは、みとめよう。賭けの対象だった男に、いちいち女神が身体をまかせるのかい。それは、違うだろう。君が女神であるように、ぼくは王さまなんだ。だから数奇なうまれをしている。それが、王であるのを証明している。ぼくと君が結婚するのは、道理にかなっている。子供は、王子だ」 「なにをいっているの。私は、洋一くんをなんとも思っていないのよ。だいいち子供なんて、できるわけがないでしょう。妊娠していたら、どうして君と崖のうえで話さなければならないの。女神が、子供なんてうむわけがないでしょう。永遠の乙女なんだから」 「いいだろう。高校三年生で、子供は無理だろう。堕ろしてもいいよ。仕方がないから、許可してあげよう」 「あなた、私の話が分かっているの。洋一くんがストーカーだってことは、知っているわよ。でも、もうすこし、まともかと思っていたわ」 「すべてを許してやるから、嘘はつくな。君は、ぼくに夢中だった」 「正気じゃないわね。妄想も、そこまでいくと完成しているわ。でも、その狂気にはとてもつきあえないわ」 「愛していると、いえ。正直に」 「いやよ。狂っているわ。もう、あなたと話なんかないわ」 夏子は、そういって両手を振り、身をくねらせた。 そのとき、一陣の風がふいた。 綺麗なながい髪を大きく乱され、興奮していた夏子はびっくりした。 ふたりは、みつめあった。 なにでできた、ドレスなのだろう。白い、ほとんど透明といっていい氷のトレーン。ながい裾をして、極北のオーロラの不思議な光沢に満たされた青いローブ。両腕を大きくひろげて飛ぶ、たかい鼻の女。彼女のながい腕の手首には、二連になった黄金のブレスレットがきらきらと輝いている。あけはなたれたガウンの前部には、形のいい白い乳房がふたつ、氷のように光っている。青白い腰に、かがよう黄金で編まれたベルトが無造作にまかれている。そこには、エメラルドや、ダイアモンド、サファイア、ルビーなど、色とりどりの宝石が、あざやかな輝きをはなちながら、金の糸に織りこまれ、垂れさがっている。ゆっくりと風に揺られ、波の音に戦ぎながら、ながい透明の髪をなびかせる。なんと魅惑的で、美しい女性なのだろうか。空をあおぎながら、無垢の光で輝く白い項を謎の光沢につつみこみ、飛ぶ。 耳に、海の子守唄が聞こえてきた。洋一は、頂を感じた。 「どうしたの」 透明な空間から、夏子の声が聞こえてきた。 どれくらいのときだったろう。夏子は、怪訝そうな表情で洋一の瞳をみつめた。 「君は、みなかったのかい」 「なんなの」 あやふやな、それでいて子供みたいに輝く瞳を不思議に思ったのか、夏子は彼の視線をおって大海をみた。 そのとき、洋一は海にむかって彼女を力いっぱいつきはなした。 つぎの瞬間、夕日をあびた夏子は、青い宙に黄色くなってふうわりと浮かんだ。 天使の翼をはやした彼女は、信じられないという表情で大きく目をみひらいて洋一をみつめた。つぎの瞬間、くるりと身体を反転し落ちていった。途中でもう一回、彼にむきなおり海のなかへ消えた。 洋一は、ぼうぜんとみていただけだった。 騒がしい蜩の声が、赤ん坊の泣き声にかわった。あの曲が聞こえてきた。イズント・シー・ラヴリィ。なぜ、この曲が狂って聞こえるのか分からなかった。女を駅の連絡通路でみたとき最初にもった欲望。つまり殺意を、いまはっきりと感じた。 「もし差しつかえなかったら、ちょっとあなたの指輪をみせてください」 洋一は、女のそばに歩みよると左手をとった。 「綺麗なものですね。結婚指輪ですか」 彼は、女の指からそっとはずすとながめながらいった。 「ええ」 女は、微笑みながら答えた。 「ぼくの指にぴったりです」 洋一は、自分の薬指にはめていった。 「あなたの指輪は、どうなさったの」 女は、微笑みながら聞いた。 「ぼくの、ですか」 「ええ。昼間、あなたは左指に黒色の指輪をなさっていた」 「おや、ずいぶんお目がはやいんですね。これのことですか」 洋一は、ズボンのポケットから黒いリングをとりだした。 「この指輪も、きっとあなたの指にぴったりのはずですね。理論的には」 そういいながら、左の手のひらにのせて女にみせた。 「ずいぶん素敵な指輪ね。婚約指輪かしら」 「いいえ。まだ結婚はしていないのです。なかなか、いい指輪でしょう。ちょっとした逸品なのですよ。レアメタルからできて、魔除けの意味ももっています。それに、いまは骨董的な価値もあります。ちょっと、はめてみませんか。お似合いだと思いますよ。あなたの指は、雪みたいに白い。きっと」 洋一は、女の指をとると、指輪をさした。それは、ほそくてながい薬指にぴったりとはまった。 「ほんとう、あつらえたみたいだわね。綺麗な指輪ね」 女は、右の指先で触れながら、じっとみつめた。 「気に入りましたか」 「ええ」 「気に入ったのなら、さしあげましょうか」 女は、その言葉に洋一の瞳をじっとみて、 「あなたって面白い方ね。ほんとうに。そんなわけには、まいりませんわよ」 そういって指輪をはずそうとするのを、洋一は女の右手をそっとつかんでいった。 「ちょっと待ってください。指輪をはめたまま、すこし話を聞いて欲しいのです」 洋一は、笑いかけた。 「あなたは、こんな断崖に立って怖くはありませんか。昼間も、ここから崖下をおのぞきになった。ぼくには、とてもできません。いまだって、こうして立つだけでもう足が恐怖ですくんでいるのですよ」 洋一は石の柵に両手をつけ、崖下をのぞきこんだ。 はるか眼下に大きな岩がつきでて、くりかえし青い波があたっては砕けちり、白い飛沫にかわっていた。岩石が浦波にあらわれる音が、大きくひびいた。 「私も、すこし怖くなってきたわ」 「じつはもうずいぶんむかしですが、ぼくはこんな崖から飛びおりて死のうと思ったことがあるのです。あなたは、お考えにならないのですか。そのとき、ぼくはある女性といっしょだったのです」 女は、洋一をいぶかしげにみた。 「ずいぶん、怖いお話ですこと」 「ええ、まあそうなのです。けっきょく、ぼくは飛びこめなかったのですがね」 そういって洋一は笑い、女もすこしつられた。 「悪い、ご冗談ですわね」 「べつに、冗談ではないのです。そのときいっしょだったのは、あなたのようにお美しい方だったのです。絶世の美貌で、レベッカという名でよばれていました。一七のときだったのです。レベッカは、ぼくに夢中だったのです。子供を宿して、こんな崖によびだしたのです。レベッカも、まだ一七歳だったのです。こんな崖のうえで、海をみながらいっしょに死んで欲しいといわれたのです。でもね、ぼくらはまだ一七だったのです。なにも、分からなかったのですよ。心がうごいたのですが、なかなか決心がつかなかったのです」 洋一は、右手でそっと彼女の左手をつかんだ。 「けっきょく、レベッカはひとりで飛びおりて、海の藻屑になって消えたのです。彼女とは、飛びこもうと約束していました。ぼくは、飛びおりないわけにはいかなかったのです。ずいぶん逡巡をかさね、死ななければならなかったのです。しかし、飛びこむ勇気はわいてこない。だから、海ってきらいなのですよ。ぼくは、ほとんど泳げませんし」 洋一は、女をみやった。幾分恐怖を感じたのだろうか、多少顔面が青白くなっていた。美しかった。微笑む洋一をみると、つぎの瞬間、女は、おかしそうに笑った。 「それで、どうなさったの」 「下まで、崖をおりました。ぼくは、そこから飛びこんだのです。海のなかへ。だから、ぼくだけが助かったのですね。それで、ひとつ思ったのです。人間の弱さ、みたいなものです。ずっと、考えていたのです」 洋一は、にこやかな表情で女をみつめた。 女性は、不思議そうに彼をみかえした。 「あなたは、幾度も挑発したのです。きっと、今日お目にかかったのは、ぐうぜんではありません。あなたは風の精になって、くりかえし、ぼくを煽ったのです。ですからね。心中なんかしようと思ったら、そして崖に立ったら。最初に、まず自分が飛びこまなくてはいけないって。こんなふうに、手をつないでです」 女の白い頬が、恐怖で歪んだ。 「あなた」といいかけたとき、洋一はやにわに石づくりの柵の一段目に左足をかけると、あっという間に石垣のうえまで駆けのぼった。彼女の右手を両手でつかむと、石の垣根を海にむかって両脚でけった。 女の上体が、つよくひかれた。彼女は、するどい叫び声をあげた。 落ちていくあいだに洋一の上体は半回転し、崖がみえた。そして、上空でただよう、天使になった夏子をみた。 崖のうえに浮かんだ翼をもった彼女は、当時の美しさのままだった。あのときと、なにひとつかわらなかった。黄色く輝きながら、幾層もの光につつまれていた。ながい髪をやわらかな潮風になびかせ、両手をかかげて天空をじっとみつめていた。 「夏子」 洋一は、大声で叫んだ。左手の薬指から金色の指輪を抜きとると、落ちていくなかで彼女にむかって力いっぱいなげた。 「最後まで嘘をついたな、おまえは。はじめから、おれを愛していたのに」 五 精 省三が目覚めて時計をみると七時だった。夏のさかりでも朝はすがすがしく、潮風が生命の匂いを部屋にはこんできていた。秋もちかい今朝は、すこしばかりの寒さを感じさせた。小鳥のさえずりが波の音とともに聞こえ、ガウンを羽織るとテラスへでた。海の色はまだ透明ともいえる子供で、春霞に似た雲が棚引いていた。溟渤は、一日に四季をくりかえす。北国の秋は、夏と冬のあいだで蝶になり、かろやかに舞った。野辺をさまよう大きな黒い揚羽にかわり、風に揺られ右に左にまよい、気づくともうずっと彼方にいた。 省三は、階下におりて洗面所で顔をあらった。居間のテーブルには、ウイスキーのボトルとコップが昨晩のままおかれていた。玄関から新聞をとると、洋一の靴はなかった。 けっきょく帰ってこなかったと省三は思った。一〇時すぎまで、待ちながらひとりで酒を飲んだ。巡査もこなかったが、ぶらりとでかけた洋一ももどってこなかった。テラスの椅子に腰をおろし、冷えたミルクをグラスで飲んだ。 省三は、日課の散歩にでた。晴れた日は、人気のない海辺をぶらぶらと歩き、渚で遊ぶ波の音を聞く。潮の香りを胸いっぱいにふかく吸いこむ。朝の海辺は、冷ややかな大気と朝霧で満ちていた。無数のこまかいコンスタブルの露となり、海面を覆いながらひろがっていた。そこに、二、三の侘しい漁舟をみつけた。ふだんとなにもかわらぬ静かにあける晩夏の朝は、秋のおとずれがちかいことをつげていた。 しばらくして、彼はひく潮の一部になって自室にもどるとベーコンと卵で朝食を終え、テラスの椅子に腰をおろして新聞をみた。省三は、洋一が自宅に帰ったのかも知れないと思った。電話をしてみると、携帯は電源が切られているという知らせをくりかえした。自宅の受話器もとりあげられなかった。昨日からの一連の出来事は、ぐうぜんだったのだろうが不吉に思えた。家電に妹もでないことで、ひどく安になり、直子に連絡した。 省三は、通り一遍の挨拶をして冴子が彼女の家に泊まったのかとたずねた。 「昨日すっかりおそくなって、ひとりでアパートにいても面白くもなさそうだから、無理をいって泊めてしまったのよ。冴子さんに用なの」と答え、昨晩のことをすこし話した。 「じつは、田澤がもどってこないものだから心配になってね」 「帰ってこないって」 直子はたずねた。省三は、洋一が散歩にでていった経緯を手みじかに話した。 「みょうね。電話もなかったし。いいわ。私、車で洋一さんのアパートへいってみるわ。もしかしたら、家にいるのかも知れないわ。あいつ、電話がきらいだからでないこともあるのよ。まったく人騒がせな男ね。そのあとで、あなたのところにうかがうわ」といって電話を切った。 省三は、ゆっくりと珈琲を飲んだ。日はしだいに、たかさを増しつつあった。昨日までのはげしい熱気はなく、凪なのか、無風の海は静かに表面を揺らしながら陽光を巧みに反射していた。蜩が、せわしく鳴きはじめていた。 ふたりがやってきたのは、一一時にちかいころだった。幾分夏の太陽に日やけした直子は、白いシャツと空色のパンツスーツがとてもよく似合っていた。同系色のスカーフが、アクセントをそえていた。髪は、みじかくしていた。健康そうな白い歯が、魅力をそえていた。 「あの男、どこへいったのかしら」 冷たい炭酸水で咽を潤しながら、彼女はだれへともなしにいった。 省三は、なぜだか今日の直子を、よそよそしく感じた。 世間話をしながら、みんなが不安だった。 やがて玄関のベルが鳴って、桂子があらわれた。 「ずいぶん、はやいね」と省三がいった。 彼女は買ってきた荷物を絨毯のうえにおき、「昨日が暑かったから日が照りつけないうちにと思って」と言葉すくなに答え、ふたりの客に簡単に挨拶をした。 「しばらくぶりね。重たかったでしょう。まあおすわりになって、冷たいものでも、いまおもちするわ」 直子は、席を立った。 桂子は、省三のとなりに腰をおろした。可愛い花柄のハンカチをとりだし、汗ばんだ額の汗をかるくぬぐった。彼女は、おりたたまれた手巾をテーブルの端におくと、「省三さん、どなたかしら」と小さい声で聞いた。 「初対面でしたね。田澤の妹さん。冴子さんです。こちらは、川端桂子さん」 省三は、ふたりを紹介した。 「はじめまして、冴子です。あなたの絵を、昨日拝見いたしました。一〇〇枚以上もありました」 冴子は、微笑みながらいい、かすかな香水の匂いを感じた。 「桂子さんは、卒業なさったらどうするおつもりなの。大学院におすすみになるの。それとも、どこかへつとめるつもりなの」 「まだ、はっきり決めていないのです」 伏し目がちに、桂子はいった。 「あら、余計なことを。ごめんなさいね」 直子はいって、桂子をみた。それから、省三をみつめた。 「田澤さんは」と桂子はたずねた。 「あの男、ほんとうにどこへ消えちゃったのかしら」 直子は、なかばあきれていった。 昼もちかくになったので、三人の女性は食事の用意をはじめた。 省三は、手持ちぶさたに二階のテラスへでて海をながめた。溟渤は静かで、日は天空のたかいところまであがり、波の音にも残暑を感じた。 そのとき、玄関のベルが鳴った。 だれもが、洋一に違いないと思った。 階段をおりてきた省三は、おもむろに居間を横切り扉をひらいた。 そこには、昨日の巡査が立っていた。胸をはだけ、自転車にのって走ってきたらしく息をはずませていた。 「なんですか」 省三は、不審な顔でたずねた。 「なんですかじゃない。昨日の田澤くんという君の友だち、いま、そこにあがった」 「なんですか。あがったって」 省三は、声高にくりかえした。食堂から三人の女性がでてきた。巡査は、彼女たちを省三の肩ごしにみて一瞬たじろいだ。 「心中だ。崖から飛びこんだらしい」 「そんな馬鹿な。なにかの間違いでしょう」 「昨日の浜辺にあがった。すぐきてくれ。それから家族の方に連絡を。さきにいって待っているからな。はやくきてくれよ」 巡査は、自転車のうえから大きく叫んで坂をくだっていった。 省三は、ぼうぜんとしていた。冴子は、青白いまま立ちつくした。直子は、信じられないという表情で布巾を右の手につかんで無言で立っていた。桂子は、ふかい哀愁に満ちた大きな瞳で省三の顔をみた。 「間違いだわ」 直子はいいはなつと玄関に走り、茶色の靴を手ばやくはき、「どっちの浜辺」と聞いた。 「こっちだ」 省三も靴をすばやくはき、先頭に立って走りだした。息を切らしながら彼は駆けた。昨日の浜辺だった。 省三は、筵で覆われたふたつの遺体のまえで立ちどまった。無言で立っていた。あとから、直子が息をはずませてやってきた。彼女も無言で立っていた。ふたつの影が、筵のうえに落ちた。昨日、若い女の死体があったところから幾メートルもはなれていなかった。巡査は、日盛りのなか、ちかくによってくる子供たちを、手を振っておいはらった。ふたりをみると歩みより、そっと筵の端をあげてみせた。 洋一だった。眼鏡は、波にさらわれたのだろうか。幾分かやせた頬は、青白かった。ととのった目鼻、うすい口唇、洋一に間違いなかった。直子はしゃがみこむと、彼の頬に触れた。ひんやりとし、冷たかった。おくれてやってきた冴子と、桂子が、まわりをとりかこんだ。 「もうすぐ、救急車がくる」 巡査は省三をみていった。そして、力なく髪を撫でている直子を指さし、「だれだね」と小声で聞いた。 「彼のフィアンセです」 省三も、小声でいった。 「フィアンセ」 巡査は、おどろいてくりかえし、「心中とばかし思ったのに。君、こちらの女に見覚えがあるかね」 彼は、二メートルほどはなれたところにおかれた筵をめくった。二七、八歳のうら若い美しい女だった。銀色の和服の胸元がはだけ、白い素肌があらわにみえた。たばねられていた髪が、波のなかでほどけたのだろう。白いすきとおる頬に、鬢のほつれ毛が潮に濡れてあった。 「みたことも、ありません。彼の知りあいなら、知っているはずです。昨日、五時すぎまでぼくといっしょにいたのです」 省三がいうのを聞くと、巡査は小首をかしげ、「みょうな事件だな。このふたりは、ほとんどおなじ時刻に、となりあう場所から身をなげたことになる。ここにうちあがるのは、おおむねあの崖あたりから飛びおりたはずだ」 巡査は、駅につづく崖をさした。省三をよび、浜を五、六メートルあがってから小声でたずねた。 「あのふたりの女性は、どういう関係かね」 「右は、男の妹です。昨日、故郷の仙台から遊びにやってきたのです。もうひとりはぼくの知りあいで、彼とも友だちでした。今日は、みんなで食事にいくことになっていたのです。自殺する理由は、ぼくには考えられません」 「あの女性は、フィアンセだって君はいったね」 巡査は、ぼうぜんとしてすわりこんでいる直子をさしていった。 「ええ。この一〇月に結婚する予定で」 「それがみょうなのだよ、君」 巡査は、真剣な表情でつづけた。 「あの女性のまえでは、とてもいいにくい。昨日、田澤くんという人は、みょうなことを話していたね。黒い指輪がなんとかって。君も、覚えているだろう。彼の指には、指輪はなかった。ところがだよ。あの女性の左手の薬指に黒い指輪がはまっている。いったい、どういうことなのだい。心あたりは、ないのかね」 そのとき、女のたかい声がひびいて、顔をむけると冴子がうずくまっていた。 「どうしたの」 省三は、すばやく駆けよった。 「気分が悪くなって。ごめんなさい」 「この黒い指輪をみて」 桂子は、おどろきのなかでいった。女の左の薬指に大きな黒い指輪がはまっていた。あきらかに、昨日、洋一がしていたものだった。直子も、指輪に見覚えがあったのだろうか。顔面は、青白くなった。 「家につれていったほうがいい」 巡査は、田口省三にいった。 省三は、口唇を噛みしめ大きくうなずいた。冴子をうながし、家へむかって歩きだした。 桂子も、省三といっしょにゆっくりと浜辺を歩みながら、ときおり心配そうに彼女の顔をのぞきこんだ。その瞳は、なにかを話たげだった。 「蒲団をもってきましょうか」 家へ辿りつくと、桂子はいった。 「すみません。ここで横になれれば大丈夫です。ちょっとおどろいただけで。ご迷惑をおかけして申しわけありません」 冴子は、小さくいった。 「二階の和室のほうがいい。蒲団をひきます。いっしょにつれてきて」 省三は、声をかけるとすばやくあがっていった。 和室の蒲団に寝かせると、「タオルをもってくるわ」と桂子は部屋をでた。 ふきでた汗をハンカチでぬぐいながら、省三は冴子をみた。 彼女は、だまっていた。 桂子がタオルと洗面器をもってあがってきて、冴子の額の汗をぬぐった。 「可愛そうに」 桂子は、小さく呟いた。 省三は、彼女に冴子をまかせて浜辺にもどった。 日盛りのなか、直子は、洋一の骸のまえでだまってすわっていた。 「大丈夫かい」 省三は、後ろからそっと肩に触れると囁いた。 直子は振りむくと、「冴子さんは」とたずねた。 「大丈夫。桂子さんが、みている。二階で休んでいる」 省三の言葉を聞くと、彼女は大きくうなずいて無理にすこし笑おうとした。 立ちあがると、直子は泣いた。省三の胸で、堰を切って泣きくずれた。 さけるところもない浜辺で、ふたりは一〇分ほど車がくるのを待った。ながい時間だった。 直子は、砂のうえにすわり、赤くなった目をときおりハンカチでぬぐった。もう泣いてはいなかった。話す言葉もなく、潮のよせる音だけがあたりに木霊していた。救急車がやってくると、彼女はおくられる病院の名を聞き、白衣の職員たちに丁寧に礼をいった。ふたつの影が白い担架にのせられてはこばれ、職員の挨拶とともに車がさるのをみおくった。昼の暑い浜辺で時間をすごした年老いた巡査に幾度も丁寧な礼を述べ、省三と肩をならべて桂子たちの待つ家へもどっていった。 ひどく重くるしい、暗くのしかかるものを感じて冴子は目覚めた。頭が重く、混乱していた。 「気がついたのね。大丈夫」 そばに、桂子がいた。手持ちぶさたにちかくにあった絵の本をみていたが、冴子の視線に気づいてやさしく笑いかけた。 「下へいきます」 「ひとりで、これるの」 うなずくのをみて、「それじゃ、待っているわ」と桂子はいった。 冴子は、のろのろと起きあがり、洋服をきてちかくにあった鏡で髪をととのえた。蒲団をたたみ、階下へおりていった。 桂子は、冷えた炭酸水をグラスにそそいで待っていた。 冴子はだまってコップをながめていたが、「田口さんは」と彼女にたずねた。 「浜辺にいっているわ。もう帰ってきてもいいころだけど。電話をなさったほうが、よろしいのじゃないかしら。直子さんと、相談してからがいいのかしら」 「私、家へ連絡します」 冴子は、電話をかけた。 桂子は、テラスにでた。浜をみやると、車が一台やってきた。 「母が、すぐこちらにむかうそうです」 冴子は、背後からいった。テラスから、白い担架がふたつの死体を車にのせるのをぼうぜんとながめた。後ろの扉が、しまるのがみえた。桂子をみると欄干に片肱をつき、とおくにあるなにかをさぐる瞳で、もたれていた。彼女のながい髪が風に揺られていた。綺麗だと思ったとき、ふいに涙が一滴、頬をつたった。 「川端さん」 彼女は、小さい声でよんだ。 冴子は、その言葉で振りかえった桂子にしがみつき、そしてはげしく泣いた。わけが分からなかった。悲しいのだから涙はながれるのだろう。しかしその理由がなんなのか、いうことができなかった。白色の服をきた桂子の胸に顔を押しあてて泣きながら、やわらかい乳房を感じた。いい匂いがすると気がついたとき、ふと冴子はパイドラだったから悲しんでいるのではないかと思った。桂子は、ながい彼女の髪を幾度もくりかえし、ゆっくりと撫でてくれていた。直子は、「悲しみのパイドラ」だったのだろうか。べつの世界で生きているものを、愛してしまったのだ。そのとき、二階でたくさんみた桂子の肖像画が心に浮かんだ。描かれた女性は、どれも素敵で魅力的だったが、物憂げで、胸になにかを秘めているようにみえた。それは、桂子が悲しんでいたのかも知れないと思った。 冴子は、洋一にひかれる自分を知っていた。この家で出会った三人は、みんなパイドラだったのだろうか。現実界に生きていない男に魅力を感じたのだろうか。そこに、心をうばわれたのかも知れない。それに気がついた女は、泣くしかないのだろう。だから涙がでるのだろうか。パイドラの悲しみは、むかしの物語でも、愛する女性たちと無縁ではないのだろうと思った。 玄関の扉があいて、省三と直子が入ってきた。目は幾分まだ赤くて、泣き終わったところだと乱れた化粧からも知れた。 直子は居間のクッションに腰をおろすと、桂子のもってきた冷えた炭酸水をかるく口にふくんだ。左の指で形のいい鼻を押さえ、何事か考えていた。 まだ泣いている冴子にむかって、「家へは。あなたの実家に、知らせたの。私がかけようか」とたずねた。 「お母さんが、すぐくるそうです。冴子さん、さっきご自分でお電話したから」 桂子が横から口をはさんだ。直子は、それを聞くとうなずいて「しっかりしているのね。あなたは」と冴子を慰めていった。 「田口さん。私は、これで失礼します。家に帰って父とも相談したいし、これからのことも考えなければならないし」 「車で、ですか」 「ええ」 「ハイヤーをよびましょう。そのほうがいい」 省三は、立ちあがり電話をかけようとした。 「平気です。自分で運転して帰ります」 直子は、静かに立ちあがった。 省三は、幾度かひきとめた。 桂子は、自分の車でおくるといった。 「大丈夫よ。事故なんか起こさないわ」 直子は、かたくなにいうと「冴子さん。いっしょにいらっしゃい」とさそった。 「また、きてくださいね。寂しくなるから。また、遊びにきてくださいね」 省三は彼女に幾度も念を押し、家へついたら電話をかならずかけてくれとくりかえした。 直子たちが帰ると、部屋は静かになった。風鈴の音が、涼しい風にのって聞こえた。 桂子は、二階の部屋を片づけはじめた。 省三は、テラスの椅子に腰をおろし、海をみた。 溟海は、穏やかな呼吸をくりかえしていた。夏のさかりの海は、赤い太陽と青い波、白い砂浜と赤や黄色の水着が織りなす原色の閃光に燃えたが、いまは静かな秋を感じた。表面はかわらない穏やかさのなかで、魚たちと漁民のはげしい戦いがあり、幾千、幾万の死がただよっている。海は、すべてをかえりみることもなく生きている、そんな気がした。よせくる波音はあきらかに溟海の拍動で、潮風は吐息だった。海は、生きていた。大きな生命にとりまかれ、生物はうまれ死んでいく。悲しみや喜びを織りこみながら。とりまく大気に、生命を感じた。潮風に気がつき、そこにも命を看取した。ひとりではない、と省三は思った。 桂子は、階下におりてくると、「お腹は、すいたのかしら」と遠慮がちにいい、食事を用意した。 食卓をととのえる音を耳にしながら、省三がテラスで海をみていると、携帯が鳴った。直子だった。 「心配していたよ。あんなふうに帰してしまったけれど、万が一なにか事件が起きたら今度こそぼくの責任だからね。ずっと心配していたんだ」 「ありがとう。そう思って、すぐに電話をかけたの。きっと、心配してくださっているだろうから。どうって、べつにどうでもなくてよ。私は、自棄なんて起こさないわ。彼のこと。どうでもいいわ。分かっていたのよ、こうなるのは。必然だったのよ。あの男は、私を愛してはいなかった。すくなくとも、だれよりも熱愛していたのではなかった。知っていたのよ。あの男は、きっとあれでいいのだわ。あいつは、現実界には生きていなかったのだわ。知っていたのよ。だから、なんとも思わないの。忘れるわ。きっと。私は、なんでも忘れるから。きっと。みんな忘れてしまうわ」 直子が、電話口でぼろぼろと泣く声が聞こえた。 「ぼくのことは、忘れないでね。また遊びにきてね。かならずだよ」 「ええ、ありがとう。あなたのことは、忘れないわ。また遊びにいくわ。生きてる人のことは、忘れないわ。そうよね。生きていれば、忘れようと思ってもできないでしょう。そうよね」 直子は、嗚咽をくりかえしながらいった。 「でもね。田口さん。あなたは、知っていたのよね。昨日の夜、冴子さんからパイドラの話をはじめて聞いたわ。あの男が、現実界に生きていなかったって。あなたは、知っていたのよね。どうして私を、パイドラのモデルにしたの。それは、教えてくれたつもりだったの。でも、それではつたわらないわよね」 直子は、嗚咽をくりかえした。 「余計なことだけど、私は、しっかりといわねばならないわ。あなたは、ほんとうは桂子さんをモデルに描きたかったのじゃないの。でも、それはできなかった。だから、私にしたのじゃないの。あなたは、桂子さんについて真摯に考え、誠実に対応しなければならないわ。私には、女として、つげる義務があるわ」 彼女は、ぼろぼろと泣きながらいった。 「ごめんなさいね。泣いたりして。なんなのだろう。どうかしているわ。泣いても仕方がないのにね。ほんとうにどうかしているわ。夜、お電話するわ。ええきっと。べつに平気よ。冴子さんも、しっかりしているから。私も、みならわなくっちゃいけないわ。夜、かならずするわ。それじゃ」 桂子は、長椅子の背もたれにかるく尻をのせ、そこに両手をついて心配そうに省三の電話をみつめていた。彼が携帯をおくと、「なんですって」とたずねた。 「これから、冴子さんと警察にいくそうだ。夜になったら、また電話をくれるって。思ったより元気そうだったよ」 省三は、手料理がならべられた食卓をみて、しばらく考えていた。それから、食事のまえに海をながめたいといった。それで、ベランダで潮風にうたれた。 やがて帰ってくると、食卓で彼女の手料理を食べた。 食事を終えると桂子は食器をあらい、夕食の支度をした。省三はソファーでしばらく、すわっていた。台所の仕事が一段落すると、アイスティーにレモンを浮かべ、クッキーを皿に入れて、居間にくると腰をおろした。 「なにか、話すことがあるみたいだね」 省三は、聞いた。 桂子は、ゆっくりと顔をあげ、いつもの憂いをただよわせる瞳、悲しそうな目つきになった。彼をみつめて、「私は、どうしたらいいの」といった。 省三は、二階のテラスで画具をならべていた。桂子は、欄干に片肱をついて海をみた。彼は、描きかけの絵を一枚もってくるとイーゼルにすえた。そのとき、一陣の風が桂子の髪をなびかせた。それをとめようと、ふうわりと右手を浮かして黒髪を押さえた。 省三は、その横顔を綺麗だと思った。たかい鼻も幾分やせた頬も、何気なくひかれた眉もながい睫毛も、すべてが美しかった。長身の彼女は、細身でひだのついた白い服を無造作にきていた。胴にしめられたうす茶色のベルトが、ウエストのほそさを示していた。 省三は、いままでに幾度も桂子の絵を描いてきた。つねに満足できない、なにかを感じてきた。桂子のどこか、東洋のインドか情熱のスペインか、そんな異国染みた容貌からあらわれる謎めいた美を、彼は命名することができなかった。心のなかを一度にみぬく大きな目。哀愁に満ちた瞳を、彼は名づけることができなかった。謎とか神秘的とか、そんな言葉がいったいなんなのだろう。分からないと、いっているにすぎないのではないか。 省三は、桂子と生涯をともにしても、いいのかも知れないと思った。 そのとき、一陣の風が起こった。 気流は、カンバスを大きな音とともに床に落とした。 ふたりのあいだで、なにかが舞っていた。そして、そよ風がふいた。はっとして振りかえったとき、省三は風の精をみたと思った。 なにでできた、ドレスなのだろう。白い、ほとんど透明といっていい氷のガウン。どこまでも、あわくのびる光のトレーン。くりかえしひだになって輝く、極北のオーロラの青や赤や緑の幻想的な光沢に満たされた、氷でできたうす紫のドレス。青い波飛沫がスパンコールにかわって、煌めくローブに身をつつんで踊りながら、腕をひろげて飛ぶ、たかい鼻の女。ゆっくりと風に揺られ、透明の髪をなびかせる。その額には、銀白色のティアラがくすみながら輝いている。なにで、つくられているのだろうか。とても銀とは思えない。プラチナだろうか。波の音にかがよい戦ぎながら、すきとおる青白い肌の美しい女。両耳には、大きな金のリングが耳飾りとなって垂れさがり、日の光をうけてきらきらと煌めき揺れる、海のおとぎ話。カリブの宝。女のながい左右の手首では、黄金製の二連になったブレスレットが妖しい光沢をあたえている。あけはなたれたガウンの前部には、銀色にかがよう、張り切った半球状の乳房がふたつ、きらきらと白く光り、やがて青白い流氷にかわって輝いている。白色の首には、首飾りとは違うぴったりとした黄金の輪がはめられている。そこから金糸で編まれた二本のほそい紐が垂れさがり、先端部にはダイアモンドが織りこまれている。それは、ちょうど乳首のうえにおかれている。トリプルエクセレントにカットされたダイアモンドは、きらきらと青く、ときには赤く煌めき、そのしたで直立する敏感な部分をうす紅色にそめている。ゆるやかに、まるくくびれたほそい胴。そのしぼられた白い部分には、かがよう黄金で編まれた、幅が女の手首ほどのベルトがゆるく無造作にまかれている。帯には、エメラルドや、ダイアモンド、サファイア、ルビー、ラピスラズリ、ガーネット、オパール、モルダバイト、カーネリアン、珊瑚、真珠、琥珀など世界各地の色とりどりの宝石が金の糸で織りこまれ、七色に輝き、煌めいている。青白いローブをとおしてすけてみえる氷の臀部は大きく、くびれた胴とおなじくらい太さをもつ、ふたつの大腿に分かれて地にむかってのびている。ながい脚のさきは、ほそい足首にかわり、そこには二連になった金の輪がはめられ、第二、第四の足指と黄金製のチェーンでむすばれ、エキゾチックな光輝をはなっている。ガウンの前部はひろくはだけられ、太腿と胴がひとつなる蠱惑的な場所に、女のかぼそい手首くらいの黄金の連環が垂れさがっている。ゆったりとまかれた帯から、ふたつ、三つつらなったまるい飾りは、白い素肌を覆いかくすよりも、つよめ、きわだたせ、光に応じて陰影をはなち、ゆらゆらと揺らめきながら垂れている。うごく度にこすれ、かすかな音をひびかせ、心をかきみだす部分をさらに謎めいた領域にかえながら周囲をとりかこみ、垂れさがっている。ゆっくりと風に揺られ、くりかえす波の音響に戦ぎながら、ほとんど透明にちかい青いながい髪をなびかせる。なんという魅惑的な女性なのだろうか。美貌の女は、大きくローブをはだけ、白金にもみえる氷でつくられた彼女の姿態をいっそうあらわにしながら天空をあおぎみて、無垢の光で輝く白い項を謎の光沢につつみこみ、飛ぶ。 省三の耳に、海の子守唄がふたたび聞こえてきた。頂を感じた。 「どうかしたの」 荘厳な空間に、はるか彼方から女の声が聞こえてきた。 どれくらいのときだったのだろう。桂子は、怪訝そうに省三の瞳をみいった。 「いや、なんでもない」 省三は、両手で顔を覆った。それから、生唾を飲みこんだ。 桂子は、不思議なものをみた表情になって、省三の視線をおった。そこには、濃紺にかわった海原が波浪をかかえてただよっていた。ふたりのあいだを通りぬけていった風が、そのうえで舞っているのが目にうつった。空は、すでにうす暗くかわり、縁飾りにもみえる垂れこめた雲は、オレンジ色にそまりはじめていた。 桂子は、無言のまま、もう一度、省三をみつめた。 「いや、なんでもない」 省三は、静かな笑みとともにいった。 波の音が、ゆっくりとくりかえしていた。 潮のつよい匂いが、ふたりをつつみこんだ。 省三は、海をながめながら考えていた。 「パイドラの悲しみ」は、ヒッポリュトスを愛してしまったことでは決してなかった。義理の息子が、同性愛者だったからではなかった。 この神話は、もうすこし複雑に構成されているのだろうと省三は思った。 英雄テセウスは、パイドラにそっくりな妹、アリアドネに助けられ、迷宮ラビリンスをぬけだす。彼らは、アテナイに凱旋するまえにエーゲ海に浮かぶナクソス島に立ちよる必要があった。テセウスは、愛してしまったアリアドネを、クレタへの出港時に契約したとおり大神ディオニュソスに手渡さねばならなかった。そして英雄テセウスは、うしなったものをもとめつづける。彼は、アリアドネ幻想に捕らわれることになった。東地中海世界を統一したクレタ王国の誇りたかい長女パイドラは、自分が妹のアリアドネとくらべられているのを知らなかった。テセウスが、幻影をもとめて彼女と結婚したなど夢にも思いつかなかった。パイドラは、父親にそっくりなヒッポリュトスに出会い、自分がなぜ恋情をもったのか、分からなかった。そして義理の息子が女を愛せないことを知ったとき、彼女は真実に気がつく。テセウスが、アリアドネ以外の女性に愛をあたえなかった事実に。それに気づきながら、それでもパイドラは、彼だけを愛していたことを。 省三は、洋一があれほどふかく過去の幻影に惑わされているのを、昨日、はじめて知った。さまざまな場面が、彼の脳裏をよぎった。浜辺で一七、八歳の女性の溺死体をみたとき、洋一は、はげしく狼狽した。それから帰ってきて、彼は不思議な話をした。どんな文脈だったのか分からなかったが、冴子はとつぜん中学生のときに出会った美貌の女性について話しだした。 こうした出来事は、どこかでひとつの物語をつくっているような気がした。 午後に巡査がたずねてきて、省三は洋一がなにを感じていたのか、すべてが分からなくなった。そのあと四人で会話をしたときも、ひどく奇妙に思われる話題があった。 省三は、なぜ直子にこの絵のモデルをたのんだのか、いままで気がつかなかった。電話口でいわれて、たしかに、桂子でもよかった気がした。直子は、この絵のモデルにすぎなかった。省三は、彼女に感じていたものが、なんなのかはっきりとは分からなかった。しかし、いまはよく理解できた。 そうならば、省三はあらためて桂子をパイドラとして描くことができるのだろうか。それは、どんなに考えても不可能だった。いままで、彼女の肖像画を三〇〇枚以上描いてきた。それは、どうしても分からなかったからだった。彼女の謎めいた美しさが、なんなのか理解できなかった。たしかに、三〇〇枚の描かれたどの桂子も哀愁に満ちていたように思った。つづけられたのは、意味が分からなかったからだ。理由を知ったら、もう描くモチーフはうまれないだろう。 しかし、風の精は、なぜ昨日、洋一のまえにあらわれたのだろうと、省三は思った。またどうして、いまこのタイミングで彼の眼前に出現したのだろう。 省三は、世界を放浪したいとずっと思っていた。 桂子にも、その気持ちを幾度か話していた。 パリに遊学し、スペイン語をならって、ピレネーをこえ、イベリア半島からメキシコ、さらにもの悲しいアンデス山脈の周辺を旅してみたかった。桂子といっしょにいくのか、待っていて欲しいのか分からなかった。 つまり自分は、女性ではないが、彼女とはべつのものをもっと愛しているのだろう。 だから決断し、しっかり気持ちをつげないとみんなが不幸になるのだろう。 省三は、風の精を追ってみたいと思った。 崖、一三八枚、了