擾乱 由布木 秀 一 銀座は、華やかな街だった。 子供のころ、秋葉星香は山手線の内がわにある高級住宅街に住んでいた。東京の真んなかだったが、夕方になれば道角の電球がひとつつくだけだった。だからあたりが暗くなると黄色い光が侘しく浮かんで、夜道は白熱球があることだけが分かった。 しかし、銀座だけは違っていた。みあげると、赤色や青色のネオンサインがどこにもここにもあって、煌びやかに彩られたあかるい光が空から惜しみもなくふりそそいでいた。歩道の右がわにぎっしりとならんだ高い建物は、ガラスがつみかさなって、どの窓からも大量の光明があふれ、こぼれ落ちていた。左がわには、ライトをつけた自動車がまぶしい光線をはなちながら、つぎつぎに行き交っていた。 その表通りに面したひろい舗道を、父親の秋葉幸一朗とふたりで歩くのがいちばんの思い出だった。父は洋服だったけれど、これ以上はないと思われるほど見事にきこなしていたので、通りすぎる人が行き交う瞬間にはなつ、まぶしく輝く「視線」をいつでも感じた。それは幸一朗をとらえたあとで、かならず星香にもそそがれたのだった。もし家にいるときみたいな和服姿だったなら、すぐに人だかりになって、ふたりは一歩もすすめなかっただろう。その様子を想像すると、星香は思わず笑みがこぼれてくるのだった。 幸一朗は、いつでもたくさんの女の人にかこまれていた。舞台ではおおぜいのファンの人たちが、家では踊りのお弟子さんやお世話係が取りかこみ、一挙手一投足に注意が払われていた。ひとつ違いの姉の幸香も星香も、父のまわりにできる華やかな世界のそばにずっといたかった。 母の香織と喧嘩をしているのをみるのは、つらいものだった。 「あんたたちは、自分の部屋にいきなさい」 母親にいわれると、星香たちはだまって階段をあがり、踊り場の陰で身を小さくさせて耳をそばだてていた。母のぶつぶつ声が聞こえるうちに、やがて甲高い激しい調子に変わった。しばらくつづくと、幸一朗の大声がした。ものすごい怒鳴り声で、ほんとうに父が話しているのか、自分の目で確認しなければと思えるほどだった。だしぬけにテーブルをたたく激しい音がして、最後には母のすすり泣く声が聞こえた。 原因は「浮気」だと姉がいった。 「なあに、それ」と星香が聞くと、いつものお姫さまが召しつかいをみる目つきで、「そんなのも知らないの」という、あきらかに馬鹿にした口調になった。父が、母以外の女の人と仲よく話すことだと教えてくれた。 「お母さんがしているのは、シット、っていうのよ」 だまっていると、「あんたには、分からないわよね」と幸香は、またずるそうな顔になって鼻で笑った。 星香には「シット」の意味も不明だったけれど、いつもおなじことを思った。 「お母さん。父さまを許してあげてください。まわりはすべて女の人なのですから、口をきかないわけにはいかないのです。お母さんだって、いつもいっていたではないですか。父さまがだれよりも偉くて、なににつけてもいちばんで尊敬できるって。くりかえし、星香たちに話してくれたではありませんか。みんなが、素敵な父さまと話がしたいのは仕方がないのです。お母さん、ひとりのものではないのですから。星香だったら、そんなことで怒ったりしません。絶対に許してあげます。父さまは、踊りの先生だから、女のお弟子さんの手を取って教えるのは仕方がないのです。小さな星香たちだって、我慢をしているのですから」 よそと星香の家では、いくつか違っていた。両親は、父が女で、母が男だった。結婚するまえの香織は、女性だけの劇団にいて男役をやっていたから背が高かった。幸一朗は、舞台にあがると女に変わるから、家ではこんがらがっていた。だからふたりを比べると、母親のほうが大きく背が高いから、父とならぶのをいやがっていた。それに普通の家とは反対で、母が年うえだ、と姉はいっていた。 幸香は、一年はやくうまれたのを、いつでも威張っていた。みんなが「綺麗」だとかいってほめるから、その気になって、星香をお弟子さんみたいにつかおうとした。幸一朗のご機嫌を取るのがすごくうまくて、いつでもそばにいて、すぐに彼女を除け者としてあつかった。父がいちばん偉いから、母だって、なんでもいう通りにしていた。姉は、陰では違うことをやりながら、幸一朗のまえでは、まるでいつでもいいつけをまもっているみたいに振る舞った。星香は、幸香みたいな嘘つきにはなりたくなかった。しかし、しじゅういっしょにいない父には、どうしても分からなかった。姉はいつでもほめられ、星香は逆に叱られていた。彼女のほうが、父親のいいつけをまもり、だれよりも大切にしていたのに。姉は謝るのもうまいし、意地悪で、ずるくて大きらいだった。 しかしほんとうは、父もいくらかは分かっていたはずだった。それでも、姉を依怙贔屓にするのが悔しかった。そう思って、星香は幾度も寝床で泣いた。 一〇歳になったときに、妹がうまれた。可愛くて抱きかかえると、星香をみてにっこりと笑った。ミルクを飲ませたり、おしめをかえたり、妹にかかり切りになった。登校まえにも面倒をみて、授業が終わると一目散に帰宅してあやした。妹は、母よりも星香になついていた。ほんとうはお嫁さんがよかったけれど、それはできなかった。しかしそのかわりに、お母さんになったのだった。それからずっと、妹は彼女の子供だった。 姉の幸香は四月のうまれで、星香は翌年の一〇月にうまれた。たった一年半の違いだけで、学年にしたらひとつだけだったのに、この差は彼女に取って天国と地獄、天使と悪魔、主人と奴隷ほどに違っていた。なぜ長女にうまれなかったのだろうと、いつも考えていた。 幸香は、まっすぐな髪をながくのばし、いつでも気取ってすましていた。まるで身も心もお人形さんみたいで、人からみられる自分しか考えていなかった。演技派だからやたら反応がおおげさで、外づらばかしがよくて、相手によってコロコロと態度を変えるのだった。姉は絶大な権力をあたえられ、中学生になるころには、もう家元をつぐのが決まっていた。幸香が跡取りとして立ちはだかっていたから、星香は小学生のときから居場所がなかったわけで、おさがりをありがたくもらい、奴隷としてつかえねばならなかった。喧嘩をして両親にさばかれることがあれば、だいたいは彼女が悪いといわれた。この一年半の差は、無視しえない、歴然とした、無慈悲で許しがたい不正の温床だった。 星香たちは、おなじ中高一貫校に通っていたから、星香はいつでも幸香に比較された。狡猾で仲間をつくるのに長けた姉は、中学時代には生徒会長をして、すでに特別だった。綺麗で聡明、そのうえ「優しい」なんて、ありえない評判まで勝ち取っていた。まっすぐな長髪を肩まで垂らした姉は、もっぱらなよなよとした「女らしさ」が売りだった。 だから、星香は髪をみじかくボーイッシュにしていた。そもそもが、彼女の髪の毛は天然パーマだった。鏡をまえにしてブラシで髪をとかしながら、だれにでも分かる、こんなにはっきりとした差をうまれたときにつけた母を憎らしく思った。だから私服では、スカートなんてはかなかった。星香は、たんに幸香の妹だった。 姉は、高校に入るとすぐにテレビのプロデューサーがやってきて、学校から許可をもらって仕事をはじめた。学業に専念するべき高校生が、授業をサボって出演するだなんて、それを学園が許すだなんて、かつてだれも考えなかった特別なことだった。学校へいけば廊下ですれちがって、すこし親しければ話す機会だってある、ごく普通の学生が最先端のテレビに映っているのをみんながみて確認したから、姉はものすごい評判になった。 幸香の妹でしかない星香は、高校にあがっても声はかからなかったし、中学時代と状況はなにも変わらなかった。彼女は、自分が「醜いアヒルの子」に違いないと思った。なぜなら、幸香とは何ひとつ変わらなかったのだ。一年半ほど、おそくうまれたこと以外は、すべてがおなじだった。その違いだけで、幸香はコインの表に、星香は裏になったのだった。それは、絶望的な真実だった。星香は、いつか、幸香よりも綺麗になりたかった。それで表に変わって、姉よりも騒がれる女性に変身したかった。 通っていた中高一貫校は共学で半数は男子だったが、顔にニキビをつくった汗くさい彼らになんの興味もわかなかった。そんな星香を男子学生も察したのか、とくにちかよってくる者もいなかった。 中学時代の思い出は、ひとつだけあった。皇太子殿下と美智子さまの結婚のきっかけをつくったテニスは、くりかえし報道されて憧れのスポーツになっていた。入学するとすぐ、星香は軟式テニス部に入った。女子部の部長は、三〇代なかばで子持ちの国語教師だったが、部員がいっぱいいたせいもあって、指導がきつくて二学期の終わりには退部した。星香の家が夜型だったので、早朝ひとりで起きて参加する練習がつらくて、遅刻するとひどく怒られた。 「やる気がないのなら、やめろ」とくりかえしいわれた。 それでつづけられなくなった。ぐうぜんいっしょにやめた友達にさそわれるままに応援団に入ったときには、完全にふてくされていた。 三年生の夏に、女子ソフトテニス部は全中の競技会の団体戦で全国優勝をした。学校としてはとくに体育系の部活動に力を入れていたわけではなかったので、創立以来の前代未聞の快挙だった。 応援に出向いた星香は、勝ちすすむごとにもりあがる異様な雰囲気に圧倒された。声援するうち、いつしか戦う選手たちと一体となり、必死にエールさえおくれば試合に勝てる気がした。ほんとうに優勝が決まったときには放心状態に変わり、感動して涙があふれ女性の部員同士で抱きあい、泣きくずれた。部活の顧問だった国語教師はいちやく有名になり、じっさいに戦った生徒以上に絶賛された。講堂で行われた祝勝報告会でも、校長や保護者会の会長から特別表彰がさずけられた。 ごく普通の中年の教師だったが、ふと星香は恋に落ちてしまった。うまれてはじめてラブレターをかき、先生がひとりで下校するのを何日か待ちつづけ、機会をみつけて手渡した。内容はよく覚えていないが、「部長のそばにいたい。好きです。お嫁さんになりたい」くらいはかいたと思う。わたしたあと、すっかり恥ずかしくなった星香は、部長に会うのを極力避けたし、ぐうぜんいあわせたばあいも知らん顔をしていた。 教師は、優勝した翌年の三月、軟式テニスで有名な高校へ指導者として転任した。その話を知ったころには情熱はまったくさめていたが、期末に用があって帰りがおそくなったとき、校門のところでばたりと教諭に出会った。まわりにだれもいない星香をみて、先生は「ああ、おまえ」と声をかけた。にこにこした顔つきで、「きみからファンレターをもらって、決心がついたんだ」といった。なにか意外な感じで、自分がやったのがなんだったのかよく分からなかったが、うんと恥ずかしい気持ちは幾分か楽になった。 幸香が撮影現場でどんなことをするのか、興味はつきなかった。高校へあがっても声がかからなかったので、いろいろと空想しては妹としてうまれたのを呪っていた。幸香といっしょにじっさいのスタジオをみてみたかったが、許可はおりなかった。高校に進学した年の夏休みに、姉の許しがようやっとでて、星香は妹というより、荷物をかかえるお世話係という感じで、テレビスタジオに出向いた。守衛さんのいる裏口を入るとすぐ、歌舞伎座の裏木戸を通りぬけた瞬間につたわってくる、あの華やかな世界を感じた。幸香が係の女性にメイクされるのを、部屋のすみからじっとみていた。姉は瞬く間に変身していき、素敵な衣装をつけると別人になった。そこには中学時代の生徒会長、朝礼のひな壇にあがって挨拶するすまし顔の幸香がいた。姉は、いきでつややかで煌びやかな男女に取りまかれ、完全にべつの世界の住人だった。幸香が喋る場面になってスポットライトに照らしだされると、まぎれもないお姫さまで、こっそり舞台の袖に隠れてながめている星香はどこからみても下女で、いたたまれない思いにおそわれた。そのときはじめて、姉がついてきてもいいといった意味が理解できた気がした。 「星香。私とのあいだに、どれだけふかい溝があるのか分かったの。姉妹ではあっても、おなじレベルにはないんだからね。ここのところ、決して間違わないでね」 幸香は、星香に教えたのだ。しかし彼女は正しく、その深淵は、生涯をかけてもうめられないほど無慈悲で圧倒的でこえがたい、どこからみてもあきらかな断崖絶壁で、よじのぼるなど不可能で絶望的に思えた。それからは、幸香について制作室にはいかなかった。 「華やかなスタジオにはでむかない」と決心するのは、かなりの時間が必要だったが、その思いに苦しんでいたころ大事件が起こって、姉についていく理由がなくなった。 関西舞踊の家元だった毛利家とは、父の関係で往来があった。大阪に住んでいた毛利には、ふたりの息子がいた。仲がよくて「お兄ちゃん」とよんでいたふたつ年うえの裕太は、学業も優秀だった。全国でも有数の進学校に通っていた。将来は一流企業のエリートサラリーマンか、学者になるのかと思っていたら、とつぜん高校を中退して新人歌手として芸能界にデビューした。それも「カルロス」というカタカナ芸名のニューハーフ、女装の美青年としてブレイクしたのだった。 お兄ちゃんは、すごい人気で週刊誌や芸能誌の巻頭を飾り、歌番組の常連になった。それで星香は、カルロスを楽屋にたずねた。会うと喜んだが、超売れっ子で猛烈に多忙だったから、挨拶くらいしかできなかった。あとを追いまわしていると、スケジュールの合間で余裕があったとき、楽屋によんで珈琲を頼んで、お寿司をご馳走してくれた。 「いったい星香は、こんなことをしてなにを望んでいるの」とカルロスは真顔で聞いた。 その問いに、彼女は答えられなかった。彼の熱烈なファンとはいえなかったし、なにか特別な反応を望んでいたのでもなかった。それでしばらく考えてから、「なんで、そんな格好をしているの」とだけ聞いた。 「なんだ、そこの事情か」 カルロスは、がっかりした表情になって話をはじめた。結構いろいろな話題で、星香のなかで、もやもやとわだかまった部分もふくまれていた。彼はひどく饒舌で、内容も印象的だった。 「女装は、星香の知っている通り、おれの趣味じゃないよ。でもね、自分をみとめてもらうには、その方向に舵を切らねばならないんだよ。おまえの親父だって、おなじだろう。女装が好きなのではなくてさ、世間から女形としてみとめてもらえるから役者をつづけているだけだろう。そうでなければ、職業としてなりたたないからね。芸人はつねに周囲に刺激をあたえるのが仕事で、女装や化粧がいいとか悪いとかいうのは、話題を取れてはじめて語れるものなんだよ。興味をうしなわれ、みむきもされなくなったら、この商売はつづけていけないのさ。なんといっても人気商売で、いいのかどうかは自分ではなくて、お客に決められるんだからね。大衆に好感をもたれるには、業界の人たちに適切な宣伝をしてもらう必要がある。そのために、なにかが違わなければならない。趣味と商売とはべつもので、それを勘違いされてもこまるんだよね」 「舞台までいかなくても電波がおくられ、家にいながら世界がみれるテレビという情報媒体がでてきたいまは、芸能界の激動期なんだよ。マスメディアのマスは、大衆という意味だよ。昔の芸人は親の職業だから子供がやっていただけで、たとえ人気がでても社会的には下層民で賤民だったから、みんながなりたいと考えたり、なれたりする者ではなかった。でも、これからはアメリカ型の社会になるんだよ。普通の女の子や男の子が、テレビに容易にアクセスしてきて、みんなとそんなに違わない人が、ここでスポットライトをあびてスターに変わるチャンスがあるんだよ。そうして、通信映像を媒体とした大衆の文化がつくられるんだ。チャンスさえあれば、有名人になって金持ちになれる幻想を売るんだ。特別な必要はなく、普通でいいんだよ。だれでもがすこし努力すればできそうな、くらいで充分なんだ。おれなんかは星香がよく知ってる通り、このあいだまでごく普通の高校生だったから踊りも演技も下手だけど、もちろんお釜じゃないけど、こうしてみんなと違う女装をして、とくにうまくはないけれど歌を歌ってみせればスターになれるんだよ。幻想を観客にあたえて、視聴者の大衆をひとりでも多く業界に目をむけさせ、ひきこんで人気者になるんだ。それで、面白おかしく暮らしていくんだよ」 「星香は、妹みたいに思っているよ。可愛くて好みのタイプだからさ、いっしょにいるのは楽しいよ。おれを好きだっていうのなら、なんとか時間をつくりたいと思うよ。でも女装に興味があるだけなら、商売の話だから、こんなに追っかけまでしてくれなくていいんだよ。機会をつくって、べつの場所で会おうよ」とカルロスはいった。 その話はなんとなく駄目を押された気分で、いっぽうでは星香が拒絶する部分を説明された気もした。感情的なやり取りがあったのではなくて、「彼は男に、私は女になっているんだ」と思った。 裕太を追っかけるのも拒絶された星香は、妹にうまれたことを呪いながら代わりばえのない高校生活をおくっていた。 前田美代子は、芸能プロダクションを経営していた。五〇歳にもならない彼女は、豊かなながい白髪をしていた。四〇代から髪が白くなりはじめ、さまざまな毛染めをつかってみたが、どの製品でも頭皮がただれるのでやめねばならなかった。二回の離婚歴をもつ独身女性で、子供はいなかったが面倒見がよく、さらに先見の明をもちあわせていた。秋葉家とはふるくから交流があり、幸一朗にも妻の香織にも、それぞれに独自の経路で信頼関係をきずいていた。美代子がしっかり面倒をみるといったので、幸香に仕事をさせてみた。幸一朗に取っても、日進月歩のテレビ界は、すててはおけない場所に映った。週に二日休みをもらって女生徒がテレビスタジオに通うのは、高校でも異例の試みだった。幸香は端整な顔立ちで演技力があり、聡明で頭の回転がはやく周囲をみるのに精通していたので、ほどなくスタジオでも自分の居場所をつくった。それは、彼女が考えた通りだった。 美代子は、星香にもチャンスをやりたいと思っていた。しかし幸香の妹として売りだしても伸び代はいくらもなく、だいいちそんなやり方を希望しないのを、ふたりの関係をみて分かっていた。高校にすすんだ星香が彼女に相談にこないのは、姉の器用さと自分を照らしあわせて、かなわないと思っているに違いなかった。どうにも道を切りひらけずに苦しんでいるのはみて取れたが、美代子はそのままほうっておいた。それは星香を無視しようと思ったのではなく、彼女にはべつの事実がみえていたのだった。 テレビ時代に突入した芸能界は、一般視聴者からアクセスできる部分を大切にし、ごく普通の人でも運さえよければ、だれでもスターになれるというふれこみで夢をあたえ、大衆に浸透したいと考えていた。大衆文化では、登場人物がとくに高貴な者である必要はなく、一般大衆こそが相応しかった。スターになれる夢をあたえ、視聴者とテレビという媒体を一体化させるのが、あたらしい文化をすみずみまでいきわたさせる最大の原理だった。 いまならSNSをつかって過激な発言をすれば、一時的ではあっても自分が主役に変われるかも知れない。こうした幻想は、テレビ時代にはじめて起こったものだった。かつて芸能とは、世襲されたごくかぎられた家系の職業で、一般人よりも派手にみえるかも知れないが、どちらかといえば下賤な者たちが主役だった。芸能界は、視聴者とのむすびつきやアクセスを容易にし、大衆の文化をつくるのを目指していた。裾野をひろげて庶民に目をむけさせることで、日本のテレビ業界と芸界は発展していった。 美代子のプロダクションにも自薦他薦を問わず応募してくる者はいっぱいいて、とくに女性のばあいは、どの子も若くて綺麗だった。じっさいに面会し話してみると、だれもがかなりの演技力をもち、利発で機敏で器用だった。普通の人で、特別ではないとはいっても、テレビに映って芸能界で活躍したいと思うからには、それくらいの能力がなければ行動にまでつながらなかった。こう考えると、やがてテレビ業界の主力はこのタイプの女性でしめられるに違いなかった。べつのいい方をするなら、幸香のかわりになりうる者はぞくぞくと列をつくって順番を待っていた。おなじなら、特別に売りだすのはむずかしかった。 美代子が星香のなかにみつけていたのは、幸香とはまったく違うものだった。一七歳の彼女は、端整な顔立ちをしていた。しかし、星香のほんとうの魅力は若さでも美貌でもなく、つくられた可愛い仕草や表情でもなかった。どちらかといえば、芸能界ではまず否定的にみられる、自分ではどうにもならない不器用さや愚鈍さで、それは深窓に育った令嬢だけがもっている処女性の暗い一面だった。その部分を大切にしてつよくひきだすには、はやいうちから芸界の水になじませるのは逆効果で、せっかくの長所をこわしかねなかった。だから美代子は、あえて星香をほうっておいた。高校を卒業して一八歳になったとき、幸一朗に彼女をデビューさせる話をして承諾をえた。 美代子は、「歌舞伎役者の娘」という貴種性をアピールしようと考えた。それは芸能界ではほとんどいない、手をくわえられていない良家の令嬢の雰囲気で、同時にあわせもたざるをえない不器用さやかたくなさだった。もちろん、彼女だけが知っていても仕方がないので、視聴者に理解しやすくする味つけが必要となった。 美代子はデビューにさいして星香の魅力を訴えるために、幸香のときとおなじくスチール写真を撮影した。姉では若さと同時に器用さや俊敏さをひきだしたので、背景もあかるくかろやかで華やかだった。しかし星香のばあいには、背後はずっとシックで幾分か暗く、落ちついた静かなたたずまいを演出させた。それはある種のゆがみや、ぎこちなさで、不安の裏がえしでもあったのだが、その目論見は見事に成功した。 星香が出演したのは時代劇のドラマで、いてもいなくても話の筋にはまったく影響がない完全な端役だった。台詞も二言三言しかなかったが、そこでも彼女は、思いっ切りの不器用さをさらけだした。星香に取っては真剣な悩みの種で、思いだす度に激しい苦痛にみまわれたが、テレビを通してみる視聴者には初々しく新鮮に映った。どろどろした噂につつまれやすい芸能界で、すがすがしくうけ取られ好感をもって接せられた。 器用な女性たちが活躍するなかで、もう星香は、だれがみてもきわだっていた。あかるい聡明な女たちのあいだにまぎれこむことによって、彼女はテレビの画面に立体感をうみだした。周囲の女性たちを背景に、ひとり落ちついたふかみを演出するのに成功した。芸能界でしめた場所は、はじめは曖昧にみえたが、美代子の思惑通りに、しだいに耳目をあつめ、やがて爆発した。 星香は、デビューして二年たった二〇歳のとき、「独身の男性が、結婚したいナンバーワンの女優」という賞を取った。思いもかけない評価をえた彼女は、はじめて自分を肯定する材料をもらったのだった。 二 星香は、前田美代子の事務所の後押しによってNHKの大河ドラマに起用された。主人公の武士の娘役で、家族構成員だったから一年を通じて出演する予定になっていた。だから決して端役ではなかった。にがてな会話も三種類くらいで、あとはそのバリエーションだったから、精神的な負担もすくなく大抜擢といってもよかった。九月からクランクインし、美代子の思惑通り順風満帆の船出となった。 ところが主演の人気男優、石原康夫が暮れに自動車事故に巻きこまれ大怪我をおい、急遽代役を立てねばならない事態が発生した。さまざまな経緯から藤井正継に決まったのは、まったく予想だにしないことだった。 美代子は人選を知って、夜ひとりになって自宅で横臥しながら考えていると猛烈に悪い予感がわきだしてきた。前田美代子は、もともと直感がするどく先見の明があった。だから周囲の事情をみながら落としどころを考え、思惑にそう形に根まわしをして、状況をととのえるのが得意だった。ばくぜんとした不安の原因を熟考すると、星香にはかなり問題があると思えた。秋葉家の事情に精通する彼女は、この家庭がかかえる根本的な障害を正確にとらえていた。 美代子からみると、星香は劣等感の塊だった。利発で明朗な幸香が表面にいて、そのまま一生、姉の影としてすごさねばならないと考え、彼女はつねに怯えていた。美代子が星香のよさをみとめて、抑圧された感情をほどいてやったのは間違いがなかった。しかし思春期のあいだずっと押さえつけられていた彼女が、解放されたと感じたときになにをしでかすか、見当もつかなかった。美代子からみると、充分に欲しいものを享受できた幸香とは違い、星香にはつよい野心があり、スターとして輝きたいというよりも、どんなことをしても注目されたいという激しい憧れをもっていると思った。それが、彼女のなかでコントロール不能な、愚鈍の状態であれば、もどかしさはそれなりに魅力となるが、妙な自信から行動につながったばあい、なにをしでかすか分からないと感じた。その点、幸香は常識的で、突拍子もない振る舞いを起こす可能性はすくなかった。星香は処女に違いなかったが、育ってきた環境の影響は大きく、不倫にたいしても閾値がひくいだろうと思われた。そうした考えが脳裏をかすめると、老婆心で思いすごしかとも感じたがいやな予感におそわれた。美代子は幾晩か考えたあげく、事務所に星香をよんでふたり切りで話をした。 「あなたも聞いているに違いないけれど、石原さんの代役になった藤井正継はたいへん危険な男です。もし最初から彼が主役をつとめるのを知っていたら、このドラマには推薦しなかったと思います。あなたは、私に理解できない部分があるから考えはじめると心配になるのよ。それでね、藤井にたいして充分に気をつけて欲しいのよ。あなたは、幸一朗さんからあずかった大事なお嬢さんなのですから、いっていること分かるの」 「ぜんぜん大丈夫ですよ。美代子さんが、なにを心配しているのかよく分かりません。藤井正継さんは、派手な女性関係で注目され、週刊誌にいつも顔写真つきで大きく取りあげられて騒がれている方ですよね。ずっと年うえで、すごく綺麗な奥さんも子供さんもいるのでしょう。そんな方が、私に手をだすなんて考えられません。住んでいる世界が違いすぎますけど、芸能界で注目されるには不倫や離婚のスキャンダルは必要なのでしょう。そうやって話題を提供するのは、藤井さんのお仕事なのでしょう。なんといってもつねに注目されるから、魅力のある人気俳優でいられるんですよね。だいいち大先輩ですから、立てねばならないですよね。教えてもらうことは、たくさんあると思います。気をつけなければならないのは、私のほうです。美代子さんの話はよく分かりますし、一年を通じていっしょの仕事なのですから、怒られて、きらわれないように注意したいと思います。それ以上は、どうしたらいいのですか。藤井さんは主役なんだし、仕事だから無視するなんてできませんよね」 「事故にあった石原さんは、素敵な方ですよ。常識的で紳士です。でも藤井正継は、ずっと年うえで、あなたのいう通り奥さんも子供さんもいるのですが、倫理観を完全に喪失した男です。あれは、演技でやっているのではありません。がんらいが下品な、たんなる女たらしなのよ。この男は、要注意人物です。絶対に隙をみせてはいけません。どこから貶めようとするのか、私にはまったく想像ができません。あなたは清純派で魅力があり、それで独身の男性に結婚したいと思われているのよ。私のいうこと、分かる。イメージをつくるのは、たいへんで大切なのよ。こわすのは簡単だけれどね」 星香は、よく理解しているといい一笑にふした。あまりにあっけらかんと聞く彼女に、美代子は不安を感じた。星香の言葉とは裏腹に、理解しがたい暗い部分を目のあたりにした思いをもった。おおぜいの人と出会う、職業的経験からえられた美代子の直感だった。そうはいっても、それ以上の忠告はできなかった。 藤井正継は、映画俳優の父をもつ花形スターで、テレビ黎明期の寵児だった。彼は、ミスインターナショナル元日本代表だったふたつ年うえの遙佳と結婚し、すでに三人の子供がいた。男女平等とはいっても、男尊女卑の風潮が色こくのこる日本では、男の浮気は肯定的にも評価される一面をもっていた。しかし、たとえそうした土壌があったとしても、不倫はあきらかに法律に反した行為であり、隠れて秘かに行わねばならないことだった。 妻帯者であるにもかかわらず、正継はマスメディアのながれにのり、時代の最先端をいく「プレイボーイ」という、かつて日本にいなかったあたらしい存在になっていた。その文脈では、浮気は「芸の肥やし」とも「甲斐性」とも切りはなされ、「運がよく魅力もあって、周囲の女を自然にひきよせてしまうこまった男」、「社会倫理にとらわれない、なんでもありの自由奔放な男性」という役柄を、「公的」に演じていた。役回りは、趣味にも完全に一致し、彼は嵌まり切っていた。冷静な観点からは考えがたいが、正継は役を適確にこなすいっぽうで、同時に「自分は、家庭を大切にするごくあたりまえの子煩悩な父親」という認識もあわせもっていた。 社会生活をいとなむ人間が、ほんらいどちらかしか選べないところを、相反する両者を一度に演じていたから、いずれ破綻するのは避けられない役柄だった。 正継からみると遙佳は美しい姉さん女房で、大好きな子供たちを立てつづけにうんでくれるかけがえのない女性であり、よき理解者でもあった。彼は、妻をだれよりも愛していると確信し、別れるなどとは微塵も考えなかった。女性とさまざまに接して噂になるのは職業的な役柄で、仕事の一部なのだと遙佳には説明していた。 正継は真面目に「不倫」し、世間で騒がれ週刊誌で取りあげられるのが業務だと心から信じていた。女性の噂がながれる度に、「仕事だから仕方がないんだ」と妻には話していた。 正継は、恋愛という尾をひく感情など面倒くさくて考えたくもなかった。女は性があってはじめて女性で、その部分を取り去ったらなにものこらないと彼は信じていた。だからふかくつきあった女性たちからは、正継は自分勝手で冷淡すぎる男だと思われていた。 「分かってくれよ。話題をつくるのが、おれの仕事なんだよ。これで騒がれなくなったら価値はないのだから、親父の最後がそうだったよ。人気商売というのは、はっきりしているんだよな。分かってくれよ。こうしてマスコミの望みに応じているから、金がもらえるわけなんだ。おれがこうしなかったら、週刊誌の記者も仕事がなくなってこまるんだよ。やりたいとかの問題ではなく、因果な商売なんだ」 「あんたの女好きは、病気だわ。若い女とみれば、どんな手をつかっても、やりたくて仕方がないんだからね。でもね、はっきりいっておくわ。もし外で子供をつくったら、かならず離婚しますからね。そのとき、子の親権をあなたに任すわけにはいかないわよね。慰謝料として、私は一億円をもらいます。それに、きちっと養育費はだしてもらいます。子供ひとりにつき一億円。三人いるから三億円を、耳をそろえてもってきなさい。その覚悟だけは、つねにしときなさい」 遙佳は、いつもいっていた。 正継は、女性と面倒な関係になることをまったく望んでいなかった。遙佳を真剣に愛していたし、子供は大好きだった。妻と別れるつもりなど毛頭なかったので、いわれると、 「大丈夫だ。心配ならなにか一筆、かいてやろうか。判子も必要なら、おまえの望む通りなんでもつくるよ」といつでもいっていた。 外でなにがあっても、家庭に帰ってきたときに妻の気持ちが穏やかで、大好きな子供が元気に育っていてくれれば、彼には文句はなかった。 正継が仕事で午後に家をでかけると決まっていた日、遙佳に起こされて居間にいくと、五〇歳をすぎた身なりのきちっとした男がいた。彼は、名刺をさしだし弁護士だといった。よく理由が分からずにいる正継に、男は彼女がふだんより主張する、離婚のときには子供たちの養育費として三人分で三億円、慰謝料として一億円、計四億円を支払うと誓約する書面をみせて、「内容に間違いはありませんか」と聞いた。 「これは、いったいなんなのですか。もし仮に離婚ともなれば、こういう条件だという話を、遙佳からは聞いてはいますが、私はそんな意志などいささかもありませんよ」と正継はいった。 「それが、正継さんの気持ちと違わないのならば、この文書を公のものにしたいというのが、奥さまのご希望ですが、よろしいですか」 「書類をつくってもいいと話していたのは、間違いありません」 弁護士は、その答えにふかくうなずくと、起きたばかりの正継を自分の車にのせて出発した。彼がわけも分からずにのっていると、公証人役場という看板がある場所につれていかれた。役所に入ってしばらく待つと部屋によばれ、椅子にすわっていると、よぼよぼした爺さんがでてきた。弁護士がもっていたのとおなじ内容の書類をみせ、正継がうなずくのをみて、 「私、藤井正継は、自分の不倫が原因で離婚する事態になったばあいは、子供たち三人の養育費として三億円、妻への慰謝料として一億円、合計四億円を、遙佳に支払うことを約束します。この内容を充分に理解したのを確認して、署名、捺印をいたします」と読みあげた。 「これで、いいですかな」と年配の男はいった。 「いったい、なんなのですか」 「公正証書というひとつの書類ですよ。あなたが、いま、この内容を理解して確認した事実が大切です。ひとつの実正として、つみあげたことになります」 「仮に、もしほんとうに離婚するばあい、私は不服を申し立てられなくなるのですか」 「裁判を起こすのは権利ですから、それを制限はできません。これは、内容が法律の範囲内だと証明する文書です。あなたが、納得して署名し実印を押せば公文書として、原本は役場であずかります」 「公になると、不服の申し立てができなくなるのですか」 「不承知があれば、裁判を起こせます。しかし、ここが公証人役場で、私が公証人であるのは事実です。つまり、この書類は、わざわざあなたが役場まで足をはこんで、内容を公にみとめて作成したと証明する文書となります。ここにこなければできないのですから、広告の裏紙にかいて判子を押したばあいよりは、重大な認識をもってつくられたことを意味します。自発的な気持ちがなくては、文書はのこせません」 「こんな書類が、ほんとうにいるのかよ」と正継は遙佳に聞いた。 「あなたは、なんどもこの内容で文書をつくるといっていたわね。どうせ作成するなら、ちゃんとしたのをかいてもらわないと、口約束だけでは、私は妻をつづけていく自信がないの。分かる。この書類に、もってきた実印を押して署名してくれないと、もういっしょには暮らせないのよ。それともいやなの」 遙佳は、真剣な表情でいった。 「たしかに、話はなんども聞いたし、納得はしているよ。書類をかくのも約束したけれど、この役場の人とどういう関係があるんだい」 「あなた。こちらの方は、元は裁判官の先生なのよ。法律の、プロ中のプロなのよ。そういう先生が、法律的に問題がないという文書を作成したいのよ。あなたとは、とくにそうしなければならないの。弁護士の先生につきそってもらって、役場まできたのですから、署名して印鑑を押して頂戴」 遙佳は、だまって正継をみつめた。公証人と名乗る男も弁護士も、じっと彼を凝視した。仕方なしに、正継はもう一度書面を読み、飛んでもない話だと思いながら署名して判子をついた。実印を押して書類ができると、遙佳はほっとした表情になった。彼女が文書のコピーをもらうと、弁護士の運転する車でふたりは家にもどった。遙佳は男に礼をのべ、彼に仕事にいく時間だといって服をきせた。 こういった書類をかく羽目にはなったが、正継はこの路線にうまくのりプレイボーイを演じていた。しかし何人の女と交渉があっても、いまひとつ納得できなかったのは、彼がしていたのは恋愛ではなく、たんに性の切り取りでしかなかったからだった。もちろん正継が望んだのは、それだけだったから矛盾するが、ほんとうに生活のためだったら我慢もできたのだろう。しかし、じっさいに心の交流もなく性的な関係だけをもとめると、自分がなにをしているのか分からなくなってきて、物足りなさも感じはじめた。 正継が星香に興味を抱いたのは、可愛い仕草や表情、若さや美貌でもなかった。彼女がもつ、処女性というある意味では暗い一面ばかりが目についた。身近に若い女がいれば手をださなければならないという使命にも似た感情がわきあがるのは、習性になっていた。理由はともかく、正継は習癖にしたがい彼女を口説いてみたいと思っていた。しかし星香は、芸能界では由緒のある家柄の娘なので躊躇せざるをえなかった。歌舞伎役者は、新興のテレビ業界人からみるとふるめかしく、死人が墓から甦ろうとする印象をうけた。もともと芸人は一般人よりも地位がひくく、ふるくからさまざまな呼称によって差別されてきた賤民にちかく、どちらかといえば穢れのエネルギーに満ちた人びとだった。中途半端にも思える古典芸能は馬鹿にされるいっぽうで、伝統的で権威と格式が高いものというアンビバレントな存在だった。 伝統芸能の家元の娘という立場で芸能界に居場所をつくり、独身男性が結婚したいナンバーワンと評価された星香を正継が標的におくのはとうぜんだった。しかし、そうした関係になったばあい、プレイボーイという役柄ですんでしまうのかどうか、彼には分からなかった。ファンとかバーの女とは、この点が大きく違っていた。芸能界に顔がきく彼女の父親から抗議をうけたとき、どういう事態になるのかについては考えざるをえなかった。もちろん醜聞は得意だったが、限界をこえて芸界から干されるのは、たいへんにこまる状況だったし、すべてに納得できてはいないものの、正継は自分の役柄が大いに気にいっていたのだ。それが、星香へのアプローチをとまどわせる大きな問題だった。 いっぽう星香からみると、稽古が終わったあとで藤井正継とどこへいっしょにいっても、彼のまわりにはいつでも女たちがいた。正継の周囲は、あかるく華やかで輝いてみえた。そんな彼にひかれていく自分を感じざるをえなかった。星香の周囲の者は、だれもが藤井正継に注意しろといった。彼女には、そうした忠告は逆効果だった。 幸一朗がしつようにくりかえした不倫をみて育った星香は、前田美代子が考えていた通り閾値が極端にひくかった。彼女は、会った瞬間から藤井正継にふかい興味以上の感情を抱いていた。彼が妻子持ちかどうかは、まったく問題でなかった。彼女は、不倫がトラブルになるのは、相手の女が結婚を望んだ結果、離婚騒動に発展するからだと信じていた。つまり、はじめから愛人でよかったのだ。 ともに仕事をする周囲の者には、正継といっしょになったときの星香の表情や仕草が、ひどく危ういものに映った。だれもが、それとはなしに、彼女におなじ注意をくりかえしていた。 しかし、星香はそうした警告をうける度に、そんな事件が起こるかも知れないと考えて、心がふるえた。正継と言葉をかわすと、「この人はどんな風に私を口説いて、ふたり切りのときには、なにをするんだろう」。「どうせ処女をうしなうなら、こういう女心を充分に知っている男にうばわれるのも、いい思い出になるのではないか」と考えた。妄想はじょじょに高まり、「自分に振りむかしてやりたい」とさえ思った。 「正継の奥さんは、夫がさまざまな女性と浮き名をながしているのを平気でいられるのだ。彼は、魅力的で素敵な男に違いない。奥さんはたいへんな美人らしいが、年がいくつかうえなんだ。だから若い女に手をだすのは、仕方がないと考えているのではないか」と勝手に想像した。 こうしてたがいの思惑が一致したふたりが関係をもつのは時間の問題で、出会いも経緯も状況も、ロマンスとは異次元の事象で重要ではなく、きわめて没個性的だった。はじめから気があっていたというべきだった。 ただ藤井正継は、星香との関係が恋愛になるとは当初考えていなかった。彼からすればいつも通りのつまみ食いで、彼女はすこし風味の変わった女というだけだった。ところが思いのほか、星香は不倫という状況になじんでからみついてきた。正継は、彼女が暗い妻帯者としての事実ではなく、あかるく磊落で熱しやすいという役回りに「好感」をもっているらしいと分かってきた。この娘が彼を好きになるのは、自分の魅力もすてたものではないと、新鮮な驚きを抱いた。すこし餌をまいただけで、星香はもう正継に夢中だった。 「おぼこを女にすると、これだからいやになるよ」 仲間うちにはうそぶきながら、「名門」の「独身男性が結婚したいナンバーワンの女優」として選ばれた星香が、正継を追いかけてくる状況に笑いがとまらなかった。真剣に愛していると、不倫を親に隠しながら一生懸命になって、わずかな時間でもいっしょにいたいと画策するのをみて、おかしかった。はじめは新鮮で面白いだけだったが、だんだん彼にも分かってきた。星香が普通の女たちと違って素晴らしいのは、独占欲が欠如しているからだと気がついた。彼女は、正継との結婚を望むのではなく、なんの苦情もこぼさずに「情婦」になりたいといっているのだ。星香は、彼に取って「最高の愛人」ではないのか。もし、彼女が結婚したいといいだせば、正継はすぐに踏ん切りがついた。それが「情婦」でいいといわれると、やめる機会をうしなった。正継は驚き、純愛を経験していると勘違いをはじめた。 星香は、妻になりたいとは考えなかった。プレイボーイの愛人で充分だった。たったひとつの条件は、その遊び人が彼女を本気で愛する設定だった。ふたりの思惑は完全に一致していたので、両者に取って遙佳の存在はなんの障害にもならなかった。 正継は、妻を気にせず恋愛を楽しめる都合のいい格好な相手をみつけたのだった。こうして彼は、「純愛とはなにか」をはじめて知った。正継は、軽薄であるが一面、善良で純情な男で、星香は愛の女神につかえる盲目のヒロインという筋書きで、ふたりはむすびついた。この設定は、双方に取って完璧で、どちらも大恋愛、純愛を経験していると思いこみはじめた。 大河ドラマでロケのときは、ふたりともホテルですごすので密会は容易だった。周囲には気がついた者もいたが、あえて口外するのは、だれの利益にもならなかった。 ふたりの関係が妙だと考えたのは、前田美代子だった。一年の大河ドラマが終了したあと、星香はべつの局が放送する時代劇に起用された。ここでは、また藤井正継が主役だったが、藤井の事務所がどうしても共演させたいとくりかえし、やや強引に契約を取ったのだった。じっさいにクランクインしてみると、一年間つづくロケの中心は関西で、週に三日くらい彼女は京都に宿泊しなければならなかった。 前田美代子は、そもそも藤井正継の人間性に疑問をもっていた。思案したあげく、この感覚を共有させたいと考え星香とふたりで話し会う機会をもうけ、どう思っているのか直接聞いてみた。彼女の答えは、まったく要をえないものだった。 美代子は、考えるうちにひどく不安になった。口実をつくって星香の母、香織に会った。美代子は、彼女が「碧輝香」として宝塚歌劇団で男役のスターだったころからの親しい間柄で、悩みのよき相談者でもあった。 「星香さんは、ちかごろなにかかわったことはないの」と香織にたずねた。 星香は、大河ドラマに出演しはじめてから、さまざまに変わってきていた。女優としての自信もつけたし、社会人として周囲に気をくばる成長のあとがみて取れた。彼女は、仕事の合間に自動車学校に通い免許を取得し、ときたまひとりでドライブを楽しんでいた。 香織は、星香がだれかと恋をしている可能性があると感じた。としごろの娘であり、そこまでは干渉できないと考えていた。 がんらい幸一朗は、「女は、虫がつかないうちに嫁にいくべきだ」との持論をくりかえし、星香にも二〇歳のときに見合いをさせた。本人はぜんぜんその意志をもっていなかったから、完全に強制だった。星香は気のない素振りで対応したが、相手方からは気にいった旨の連絡をうけた。相手は経歴も立派な方だったので、なにを口実にことわるのか、とても面倒でむずかしく香織は閉口した。それで星香はともかく、まず姉の幸香をとつがせるのに注力しようと幸一朗とは話しあった。跡取りでもない彼女の恋愛は、温かくみまもってやろうと考えていた。 「大人になったとは思うけれど、美代子さんがなにを聞いているのか分からないわ」と香織は答え、「どこか、問題があるの」と逆にたずねた。 「お嬢さんをあずかって、私なりに星香さんを気にかけているんだけれど」と彼女はまえおきして、だれからいわれたのでも噂が耳に入ったのでもなく、確証はまったくないが、今度の京都の仕事がどうしてもひっかかって、星香と話しあった内容を語った。 香織は、予想もしなかった正継の名が美代子の口からでてくるのを聞いて仰天し、すぐにほんとうかも知れないと思った。恋はかまわなかったが、相手が藤井正継となれば一大事だった。 「そうかも知れない。ありうるわ」と香織は深刻な表情になって美代子をみた。 「なにをしたらいいの」 「いや、直接聞いても笑うばかりだったけれど、たしかめる必要があるわね。でも、騒がせているだけかも知れないのよ。あなたの家庭をみていると、どうしても心配になってね」 「美代子さん、どうしましょう」 香織は、星香が絶対に正継と関係していると思いこみ、絶望的な表情になっておろおろはじめた。 「私にできるのは、ここまでなのよ。勝手に心配しているだけで、お騒がせして申しわけないけれど、考えだすとはっきりさせる必要があると思ったのよ。あとは、香織さんにたしかめてもらいたいのよ。なにもないのかも知れないのよ。とくに噂話を聞いたのではないのよ」 その言葉に香織は泣きだし、「美代子さんは直感がするどいから、話したことはみんな当たっていたわ」と嗚咽しながらいった。 「証拠は、ひとつもないのよ」 美代子も、ひどい消沈を目のあたりにみて、おろおろしながらいった。 しばらく香織は両手で顔を覆って涙をながしていたが、やがて、 「美代子さん、ちょっと待って。あの子、日記をかいているのよ。部屋にあるはずだから参考になるわ」といった。 「これ以上は、無理だわ。あとは秋葉さんのご家庭の問題だから、他人が口をはさむなんてできないでしょう。もう帰らせてもらえないかしら。あとは結果だけ教えてもらえば、その後の処置はいっしょに考えるから。今日は、これで帰させて欲しいのよ。勝手に心配して、こんな話をしていいのかどうかも分からなくて、昨日は一日中ずっと悩んでいたのよ。私は他人なんだから、あなたといっしょに星香さんの日記なんてみれないわよ。でも責任はあるし、なにか分かったら協力するから。それは約束しますから、今日のところは帰らせてください」と美代子はくりかえし懇願した。 「そんなこといわないで、ちょっと待っていてよ。みたってなにもかいてないかも知れないし、日記が家においてあるのかどうかも分からないのよ。とてもひとりで、この分からないままの状態ではいられないわ。心細くて、目のまえが真っ暗なのよ。どうしましょう。なにしろ、ほかに思いつかないのよ。家に手紙はきていないと思うわよ。郵便物は、私がみているから変なものがあればおよそ気がつくわ。さがしてみるから、お願いだから、もうちょっと待っていてくれない」 香織はくりかえしていい、二階の星香の部屋にあがっていき、しばらくして彼女は日記帳をもっておりてきた。 「あなたが考えた通りだわ」そういって、日記のページをひらいて美代子にみせた。そこには、「Mのことを思うと、いても立ってもいられない」とあった。かなりはっきりとした、性行為にまつわる話がかかれていた。 「私の名前はださないでね。ぐうぜん、あなたがみつけたことにしてね。私は、星香さんの事情で仕事をつづけられないという手はずは取れるわ。病気という話にするしかないでしょうね。幸一朗さんには、だまっていたほうがいいわね」 香織のながい嗚咽と沈黙のあとで、美代子がいった。それで、京都から帰ってきたら部屋に監禁して対処しようとふたりで決めた。そうなってから、美代子は仕事をキャンセルする話をつけるといった。 星香が京都から家にもどってきたのは、二日後だった。部屋で休んでいると、ひどくやつれた母親がやってきて、扉の鍵をしめると正継の件を話しはじめた。星香はいい加減に答えていたが、香織は日記をもちだして彼女のまえにおいた。 「これを読んだの。信じられない。母親にだって、そんな権利はないわ。私にだってプライバシーがある。人権侵害だわ」 星香は、蒼白になって怒りまくった。日記にはふたりの関係のはじまりから密会の様子までがかなり克明に記述されていたので、読まれたとすれば白を切るのは不可能だった。星香は猛烈な剣幕で、香織の不道徳を責めたが、それはかかれた内容が真実だとみとめることでもあった。彼女も、ふたりの関係が親密になれば、やがて両親に知られる事態がくるとは考えていた。親の拒絶にたいしてある程度の覚悟はあったが、父は許してくれるだろうと心のかたすみでは思っていた。彼女の抗議はうけ入れられるものではなく、自室での蟄居を命じられた。部屋にあった電話は、気がつくとコードが切断されていた。 「京都の仕事は、つづけさせられません。美代子さんに事情を話して、あなたは病気としてキャンセルさせてもらいます。仕方がないわよね。あんな妻子持ちの男とかかわりあっていたんだから」 香織は、頭痛をこらえながらいった。 星香は母親にたいし、ありとあらゆる罵詈雑言をくりかえしたが、最後に「お父さんは知っているのか」とたずねた。 「話せるわけないでしょう。お父さんが知ったら、失神してしまいます。あなた、どんな仕打ちをうけるかも分からないわよ」 「そんなことは、あるはずがないわ。お父さんなら、分かってくれるに違いないわ。よんで話してみてよ」 「馬鹿な子ね。どこまでも、なにも分からないのね。娘が不倫して、それもあんな汚らしい下品な男相手に性関係をもっていたなんて知ったら、お父さんどんな行動をするか見当もつかないわよ。あなたは、芸能界に復帰するのはむずかしいと思ったほうがいいわよ。お父さんは、気持ちがすこし落ちついたら、だれかと結婚させるでしょうね」 「お母さんじゃ、話にならないわ。父さんと話しあうわ」 「あんた、なにを話すの。お父さんが許すとでも思っているの」 「すくなくとも、お母さんがやった日記をみるなんて卑劣な真似には、ちゃんと評価をしてくれるわ。彼との話も、私が真剣に愛しているのをつたえて理解してもらうわ」 「どうして分かるの。あなた、なぐられるくらいではすまないわよ」 「そんなことは絶対ない。お父さんなら、どうしたらいいか教えてくれるはずよ。もっと冷静になって、今後の対処法をいっしょに考えるわ。お父さんをよんでよ。感情的なばかりのお母さんでは、話なんてできないわ」 香織は、星香の病根がふかいのを知った。いろいろ考えたが、最後には希望通りお父さんに話してやるといった。幸一朗は、関西で公演の最中だった。 「舞台は芸人の命だから、親が死んでも連絡するな」とつねづねいわれていた。 しかし香織は、星香の行動は両親の死よりも重大だと判断した。それで幸一朗に連絡を取り、一大事で、どうしても話しあわねばならない事件があると電話でつたえた。彼は内容をいえとくりかえしたが、対面でなければ話せないと香織はつげた。 幸一朗は、二日後の夜中に帰宅した。公演中によびもどされたので、顔をみるなり香織を睨みつけた。 「親が死んでも帰らないのが、芸の世界だ。それをよびもどすなど、いったいなにがあった。ことのしだいでは、おまえを許さないかも知れない」 開口いちばん、幸一朗はいって、ものすごい形相で香織を睨みつけた。 「星香です」 「あいつが、どうした。死んだのか。葬儀は、いつだすつもりなんだ」 「死んではいません」 「車にでもはねられて、重体なのか。意識がないのなら、面会しても無駄だ」 「車の事故では、ありません」 「そうか、強姦でもされたのか。それで、犯人はつかまったのか」 「そうした話は、聞いていません」 「いったいおまえは、なにを考えて、仕事に集中しなければならない、このときによびだしたんだ」と幸一朗は本気で怒鳴りだした。 「どうしても、星香があなたと話したいというのです。聞いてやってください。私は、反対したのです。そもそも、あなたには話さないほうがいいと」 「星香をよべ」 「あなたが、部屋にいきなさい。とじこめてあるのですから。あの子は、この二日間、なにも食べてはいません」 「断食するなら、いいではないか。死ぬまでやらしておけ。いったい、なんなんだ」 「あなたが、直接聞きなさい」 香織は、睨みつけていった。 幸一朗は、怒りにふるえながら階段を大きな足音をひびかせてあがると、星香の部屋の扉をけとばしてあけようとした。しかしロックされ、ドアはあかなかった。香織がさしだした鍵をうけ取ると、扉を乱暴にあけた。部屋のなかには、顔を泣きはらした星香が正座していた。幸一朗をみると、ワーと大声で泣きだし、しがみついてきた。嗚咽しつづける星香に、「どうしたんだ。いったい、なにがあったんだ」と幸一朗は聞いた。 「お父さん、お母さんはひどいのです」 星香は、香織が日記をのぞきみして秘密を知った経緯を話して、賛同をもとめた。 なんの話か幸一朗はさっぱり不明だったが、言葉のはしばしに、娘が飛んでもない単語を口走っているのに気がついた。 「よく分からない。お母さんのことはさておき、日記にはなにがかかれているんだ」と聞いた。 幸一朗は、ベッドで泣きつづける星香と、だまって日誌をもって立つ香織を交互にみた。 「なにが問題なのか、筋道を立てて教えて欲しい」といった。 それで、香織がことの経緯を説明し、もともと幸一朗にはすぐにつたえるつもりも、増してや公演中に連絡する気もなかった。星香は、父親と相談すれば許してもらえると思っているらしいと話した。 幸一朗は、わたされた日記に目を通しはじめた。そこには、藤井正継との赤裸々な情事のもようが克明につづられていた。絨毯がしかれた部屋の床に腰をおろすと、なおも文面を読みながら、彼は顔面が蒼白になっていった。一息つくと、幸一朗は星香にいった。 「おまえは、おれをよびだして、いったい、なにを話したかったんだ」 「お父さんなら、分かってくれるでしょう。私のプライバシーをお母さんは、侵害したのよ。勝手に日記をのぞきみするなんて、許されるはずがないわよね。私がだれを愛そうと、自由よね。お母さんは、なんにも分からないのよ。人権があるでしょう。お父さんなら、分かってくれるわよね」 「ようするに、おまえは、藤井正継と男女の関係をつづけているわけだな。京都のロケでずっとそうして、こうした交際をまだ継続する気があるんだな」と幸一朗はいった。 「恋愛は、私の自由よね。人を愛するのは、権利ですものね。お父さんなら分かってくれると思うけれど、私はね、正継の妻になるつもりはないのよ。彼は、奥さんをとても大切にしているし、子供も大好きなのよ。たがいに、よく分かりあっているのよ。離婚騒動になんて、絶対にならないの。だから、スキャンダルではないでしょう。私は、愛人でいいのよ。彼は、遊んでいるんじゃないのよ。私だって、そのくらいのことは分かるわよ。私たちは、真剣なの。だから、どんなに忙しくても、時間をつくるし、優しいのよ。私の我が儘も、聞いてくれるわ。私たちは、たがいに納得しているのよ。大人同士なんだし、だれにも迷惑はかからないのよ」 星香は、幸一朗の理解がえられると思いこんで、ぼうぜんとする父親をまえに、えんえんとふたりの純愛を話しはじめた。涙の訴えが一段落すると、香織がいった。 「あなた、よびもどさないほうがよかったの。この子の自由に、させておけばいいの」 とつぜん「馬鹿野郎」と幸一朗は叫んだ。 星香には、信じられない父の反応だった。 幸一朗は、ほとんど恍惚として自分をながめている娘をみすえ、力いっぱい頬をひっぱたいた。驚く彼女にむかって、「いったい、おまえは、なんなんだ」と叫んだ。わけも分からない表情の星香をみて、幸一朗は反対がわの頬をもう一度つよくはった。状況が飲みこめない彼女は、ベッドに泣きくずれた。 「藤井正継には、この世界からきえてもらわなければならない。どんな方法でつぐないをさせるか、弁護士とよく相談しよう。秋葉の家に泥をぬったおまえも、このままでいられるとは思うな。芸能界は、やめさせる。香織、美代子に、星香は引退するとつたえなさい。公演がはねるのには、一週間かかる。星香を監禁しておきなさい。食事を取らないなら、仕方がない。飢え死にするもしないも、星香の選択だ。いずれにしても、たいへんなことをおまえはやったんだ。藤井は、妻子もあり、年うえでありながら、なにも知らない未熟な娘をおもちゃにしたんだ。それなりのつぐないが必要になる。この世界では格式も高い秋葉の家にも泥をぬったんだから、いい根性をしている。はっきりと、落とし前はつけさせてやる」 最後は呟きに変わっていた。幸一朗は、星香の引退を美代子につたえろとくりかえし、タクシーを頼んで二時ごろ家をでて関西にむかった。 香織は翌日、前田美代子に電話して経緯を話し、娘を番組から降板させる手はずを取った。 星香は、自分の思惑が周囲といちじるしく違っているのを知った。父親になぐられたことはなかったからショックだったが、いまはそれ以上に藤井正継が心配だった。父が正継の役者生命をうばうとまでいっていたから、なんとしても善後策をこうじる必要があった。しかし電話という通信手段を断たれ、事態をつたえる手段がなかった。一週間後、幸一朗が帰ってきてこの一件を強引に収拾すれば、どうなるのかという不安だけがのこった。扉は、内がわからあけられないよう、つっかえ棒がはさまれていた。 なにもできずに横臥していても、今後を考えると眠れなかった。星香は軟禁状態で、三食はあたえられていたが、屈強な男の弟子が扉をあけて無言で食べ物を床におくだけだった。トイレは二階にあったが、そのさいも男性の内弟子がついていたから、逃げだせなかった。玄関はもちろん、一階におりるのも許されていなかった。父親が関西にもどった翌々日の深夜、彼女はシーツをひきさくと、むすんで縄状にして窓から脱出した。靴はなかったが、自家用車のキーをもっていた。だれにも気づかれずに脱出に成功すると、彼女はいっと関西にむかった。 京都には、正継が一年のロケのために借りた家屋があった。もともとこの家は、ふたりの愛の巣として考えられていた。正継の内弟子も何人かいて、遙佳と子供が暮らす実家は大阪にあった。 星香は、途中のサービスエリアで草履を購入し、深夜、幾度も電話をかけたがつながらなかった。京都で高速をおりたのは、八時ごろだった。そこで電話をして、彼と話すことができた。事情を説明し、京都に土地勘をもたない彼女が指定された京都タワーのちかくで待っていると、弟子をつれた正継がやってきて、車で愛の巣にむかった。 朝になり、監視を任されていた内弟子が星香の自動車がないのに最初に気がついた。弟子は、すぐに香織に報告した。彼女が星香の部屋をみると、さかれたシーツが窓からぶらさがっていた。 宝塚でスターだった香織には、二階からの脱出劇が、いかにも安っぽいテレビドラマに思えた。星香の覚悟がなみなみならぬものだとは分かったが、家で軟禁状態をつづけていれば、やがて正継につたわり、本心が知れるのは明白で、王女なら英雄が助けにくるのを待たねばならないところだった。みずから危険をおかして男のもとにむかっていくのは、下町の娘の役どころだった。かつて歌劇団で主役をつとめたこともある香織は、そんな役を演じたいとは思わなかったから、いささか惨めにも感じた。いずれにしても家出をしてしまった以上、もはや事件は相当に複雑な事態になっているのを知った。行き先は正継のところ以外には考えられなかったから、失踪の届けを警察にだしても恥の上塗りにすぎなかった。美代子には星香の家出をつたえたが、公演中の幸一朗には、「とくに死んだわけでもなかった」から連絡しなかった。彼が一週間の公演を終え、急遽帰宅したときには、もうすでに家出事件はマスコミに漏れはじめていた。 京都の借家には、正継の付け人や内弟子も何人かいた。予定通りふたりは、そこに愛の巣をきずくことになった。 星香は完全なヒロインで、愛する男のために家族をすてるのに躊躇いはなかった。役どころとしては、みずからが望んだもので、後悔は感じなかった。家出もしたので、やがてマスコミに知れるのは時間の問題だった。報道関係者に知られて週刊誌に大きく記事がのるのも、星香はさほどの抵抗を感じていなかった。彼女が芸能界に身を投じたのは、もともと姉よりも騒がれるスターになりたかったからだった。マスコミに報道されるのは、人気があって記事として価値をもつからだと信じていた。スキャンダルは、ひとつの勲章だろうとさえ考えていた。スターが一挙手一投足で騒がれるのはとうぜんだから、状況はどちらかといえば望みにかない、彼女は話題の中心になりつつあった。 しかし、正継の立場はすこし違っていた。こうした騒動になってしまうと、彼の人格が問われはじめた。妻子持ちでありながら、一〇歳以上、年のはなれた、だれからみても清純な女性を恋に狂わせた事実は、プレイボーイとしては失格だった。芸能界の遊び人は、場末の女を泣かせても、不倫という問題をあきらかにし、前面に押しだすやり口は適切ではなかった。遊びでつきあう女性と、結婚するのはありえなかった。妻帯しながらべつの女とどうどうと暮らすのは、明白に法律にも違反していた。彼は、がんらいそんなふかみに、みずから踏みこむつもりはなかった。 しかしマスコミが騒ぎだすと、正継は態度を決めねばならなくなった。星香は、なんでもよく聞き、自分がありのままでいていいといい、自由にさせてくれ大きな快楽をあたえてくれた。すべてが正継の望みのままで、彼に幻想を抱く若くて綺麗な女だった。さらに、世間が彼女を清純派と称するのはもちろん、「独身男性が、いちばん結婚したい」女性だったのだ。 正継は、ひきかえせないところまできていた。だれひとり賛成してはくれないし、できるはずもない彼は、完全に孤立した。 そこで、プレイボーイの正継は、「愛に目覚めた男」へと、変身をはかったのだ。 ふたりは、世間のきびしい目にさらされながら、「純愛」の一筋で立ちむかう戦友に、さらには同士となった。彼らは、このスキャンダルを徹底的に昇華させ、「一途の敬慕」とか「たえる愛」とかいう自作自演の舞台を勝手につくりだし、設定に酔いはじめた。「冷静さ」とは、まったくかけはなれた次元で、日本ではかつて例のなかった「ロミオとジュリエット」になった。 ふたりは完全に、大恋愛をしていると確信しはじめた。 三 ミスインターナショナル日本代表の経歴をもつ遙佳は、いうまでもなくたいへんな美人だった。日本代表選考会の水着審査では、欧米の代表たちにもひけを取らない彼女の肉感的な姿態は、周囲の女性と比較もできないほどに頭抜け、審査員たちは圧倒され、ぼうぜんとした。どの女も、となりはもちろん、ちかくによるのも極端にいやがったので、まわりにだれもいない空間が自然につくられ、どこからみても異様だった。 遙佳に一目ぼれした正継は、強引ともいえる猛烈なアタックをくりかえし、激しい求愛をかさねて獲得したが、まさにトロフィーワイフとよぶに相応しい女性だった。結婚の承諾をえたときには、彼は有頂天だったし、周囲の羨望を一身にあつめたのは、いくつかの週刊誌にも掲載されたほどだった。 遙佳がいいよる数多くの男たちのなかから、選りに選って正継の妻となったのは、父親の影響がすくなからずあった。彼の父、浩太郎は時代劇の大スターで、遊び人としても有名だった。彼女のパトロンでもあった父親から、正継が夢中でなんとか真剣に考えて欲しいと、顔を会わす度にくりかえし頼まれた。 遙佳は、浩太郎の息子だから、女癖が悪いのは遺伝だろうと思った。会って話すといかにも軽薄ではあったが、純真ともいえる一面もあり好感をもった。なによりも口が達者で機転がきき、容姿もそれなりにととのっていたので、新媒体として普及しはじめたテレビの人気者になって出世し、将来にわたって相当のギャラを稼ぐことだけは充分に期待できた。身持ちが悪いのは間違いなかったが、遙佳と暮らせばおさまるだろうと考えていた。 しかし長男を妊娠した結婚初期から、女癖は父親浩太郎の悪性遺伝子を一身にうばい取ったとしか思えないほどひどいと分かりはじめた。ちかくにいれば、どんな女にでも手をださずにいられない正継の性格を知るにつれ、喧嘩がたえなかった。三児をうんだときには、もうすっかり愛想がつき、いつ別れてもいいと考えていた。ただこれだけ苦しめられてきたので、その分の保障だけはしっかりもらおうと思って事件が起きるのを待っていた。 三児の母になっても、遙佳の美貌はすこしも衰えていなかった。三〇歳なかばの彼女はいよいよ妖艶さを増し、すこしトレーニングをして体型を取りもどせば、いいよる男はいくらでもいると感じていた。事実そうした男性は多く、腹いせに浮気をしてやろうとも思ったが、幾重にも忍耐をつみかさねたことを考えると、ここでえられる権利をうしなうのはいかにも悔しかった。どこかの女と子供でもつくったら別れてやろうと、弁護士同伴で作成した公正証書のコピーをにぎりしめ、手ぐすねひいて待っていたのだった。 自分の美貌に絶対の自信をもつ遙佳は、正継のあたらしい相手がどれほどの美人であっても、バーのホステスとか新人歌手とかの、どこにでもいるつまらない女性とできたのなら「勝手にしろ」といって、払うべき金額をもらえれば、それでいいと思っていた。なんの未練も感じなかった。 しかし、こともあろうに大立て者の歌舞伎役者の生娘で、さらに「独身男性が結婚したいナンバーワンの女性」を相手に、あの正継が「純愛」をしているなんて許せるはずがなかった。この事態は、遙佳がかつて考えなかった特殊な状況で、ほとんど掟破りの事件だった。正継が離婚に応じて欲しいといってたずねてきたとき、彼女は完全に硬化していた。 「この不可解な怒りを、なんと表したらいいのか」 「どう表現するのか分からない。ふつふつとわきでてくる激しい感情を、いかにつたえるべきなのか」 遙佳は、自分でも皆目見当がつかなかった。 正継は、結婚したときに大阪に土地つきの家を買った。六〇〇〇万という破格の価格でほとんど借金だったが、労働意欲がわく源泉にもなっていた。彼が家にもどると三人の子供たちがぞろぞろとやってきて、かわるがわるに抱きついてきた。長男と次男はもちろん可愛かったが、なんといってもうまれて二歳になる娘は、目に入れても痛くないと実感できるほどだった。うえのふたりには、帰る度になにかしらのおもちゃを買ってきていたが、それを喜ぶ姿をみるのはなにものにもかえがたかった。末の娘は、まだ土産の意味さえ分からない年だったが、彼をみつけると、「おと」。「おとー」といいながら甘えて抱きついてきた。 正継がキスをしようと抱きしめると、遙佳が、「やめなさい。あなたは汚れているんだから、口なんかつけないで頂戴」ときつい調子でいった。 「みんな、しがみつくのはやめてこちらにきなさい。その人は、あなたたちのお父さんでなくなるのよ。それにだいいち、身体中が不潔なんだから、汚れるから絶対にさわってはいけません」と遙佳はつよい調子で声をかけた。 子供たちは驚いて、母のもとにやってきた。遙佳は、娘を正継からひきはなすとしっかりとかかえた。 「それは、すこしひどすぎるんじゃないのか」 「そう。どんなことなの。ひどくないのは」 遙佳の言葉に、彼はだまった。汚いといわれた正継は、風呂に入ってよく身体を洗った。それでも遙佳は、もう子供が父親とふれるのを許さなかった。しばらくあえなかった子供たちは、妻の言葉に素直にしたがっていた。娘はずっと遙佳に抱かれていたし、彼には手がだせなかった。 正継は、子供たちが寝入るのを待って、本題の離婚の話をはじめた。彼なりに筋道を立てて、順を追って話しはじめた。聞いているのかいないのか、右手を頭にそえて押しだまり、かなり深刻な表情で物思いにふける遙佳を久し振りにじっとみると、正継は妻がものすごくいい女であるのに気がついて愕然とした。彼は、もうこの話はお終いにして雰囲気を変え、彼女ともっとべつなことをやりたいと真剣に思いはじめた。 「なあ、ところでさ」と正継がいままでとはまったく違う調子で、妙に甘えた声を口にだしたとき、遙佳はなにを望んでいるのかすぐに分かった。彼女は、完全に切れた。 「あんた。なにを考えているの。だまって聞いていれば、いい気になって、好きなことばかり喋って、それで、あんたは、この期におよんであたしと寝たいわけなの。冗談じゃないわよ。うぶな娘と、純愛をしているっていうの。あんたが鬼畜で、ほんの一握りの道徳心もないのは分かってるわ。女とみれば、さかりのついた犬みたいに尻を追いかけまわすのは、すっかりうんざりしているわ。でもね、なんなのこの話は。いまになって、これまでの経緯は全部ご破算にして、いまさら純情な男の役を、どうやってやるつもりなの。信じられない馬鹿ね。泣きたくなるわ」 いつにない激しい口調の遙佳は、きりりとひきしまった横顔が美貌のうえに理知的にみえた。怒る度にゆれる豊かな乳房はあまりにも魅力的で、正継は、しだいに我慢ができなくなってきた。なにをこんなに憤慨しているのか、ほんとうのところがよく分からなかったし、いっそのこと遙佳とやりなおすほうが物事が単純で筋が通る気がした。このさい自分でもなぜそうなったのか不明な純愛路線をすて、従来のプレイボーイにもどるのが役柄としても自然で、適切だと思いはじめた。すっかりその気でぼうぜんとながめていると、彼女は正継の考えが分かって完全に怒りだした。 遙佳は、四億円とかかれた公正証書の写しをもちだしてきて、「あなた、これが払えるの」と聞いた。 たしかに、そうした証書に署名し実印を押した記憶はあった。しかし、大卒の初任給が五万円にも満たない時代で、年末の宝くじの特賞が、ついに前後賞をふくめて一〇〇〇万円となったのが大ニュースとして報道される当時に、一億円なんてだれに取っても現実味がないお金だった。四億円など、正継が一〇回うまれ変わっても手にいれることなどできない額だった。そこで彼は値切り交渉をはじめたが、遙佳はとても一億円の慰謝料ではすまないといいはじめた。 「いったい、いくら欲しいんだ」 「子供たちだっているんだから離婚はできないわよ。女と別れなさい」 「そこをなんとか、金で解決したいんだ」 「あんな小娘をだまくらかして、いっしょに暮らしているなんて、なんなのよ。あんたなんか、商売女で充分なのよ。だれとやったって、おなじなんでしょう。相手なんか選ばないのは、よく分かっているわよ。どうしても私と離婚したいのなら、あなたがあの星香という女と別れるのが先です」 「そんな話は、聞いたことがないよ。おまえと離婚するためには、いまの女と先に別れなければならないのか。じゃあおれは、いったいだれと所帯をもったらいいんだよ」 「あなたには、そんな資格はないんです」 「滅茶苦茶、いうなよ」 「それは、あなたよ。子供も妻もいて、愛人ももって、殿さまにでもなったつもりなの。日本は、法治国家なのよ。なにごとにも、限度があるわよ。私も、ほとほと愛想がつきました。ぜひ離婚したいと思っています。やりなおすなんて、まったく考えられません。でも離婚のためには、まずあなたは女と別れなさい。そうしたうえで、書類にそって話しあいましょう」 正継には遙佳の怒りの理由が充分には理解できなかったが、真剣に怒っているのだけは分かった。話しあいが容易ではないと納得して、「でていきなさい」という彼女の言にしたがった。 正継は、大阪の家に帰れないまま京都で星香と暮らしはじめた。 この非常識きわまる二重生活騒動は、マスコミの格好の標的になった。有名な妻子持ちのプレイボーイと、一〇歳以上も年のはなれた皇族の子女が通う名門高校をでた若い人気女優との不倫事件は、ふたりが考えていた以上に世間を刺激した。がんらい目立ちたくても目立てなかった星香はすさまじい脚光をあび、彼女の一挙手一投足は茶の間の話題になった。当初は、注目されるのを無邪気に喜んでいた面もあったが、あまりの報道にとまどい、さらに「人権」などというプライベートな問題が自分たち有名人にはないのだと気がついたときには、もう手遅れだった。もともと正継の行動をにがにがしく考えていた者は多かったから、マスコミの記事は日に日に激しさを増していった。 秋葉幸一朗もただではすまず、秋葉家の玄関まえにはマスコミ関係者が群れをなして待ちかまえていた。仕方なくでてきた幸一朗は、ふかぶかと頭をさげてからいった。 「父親としての責任は痛感しております。この不祥事は、躾がなっていないとみなさまからお叱りをうけても、とうぜんだと感じます。私、幸一朗をはじめ秋葉家一同としましては、星香を勘当あつかいといたします。もちろんお相手の方には、奥さまも子供さまもいらっしゃいますので、これですむとは考えておりません。もう娘とは思いませんし、生死をふくめ言葉をかわさない覚悟はいたしました。世の中のみなさまをたいへんお騒がせし、心より申しわけなく考えております」 テレビの生中継放送で、幸一朗はふかぶかと頭をさげた。しかし、この程度ではマスコミはおさまらなかった。テレビでは、ぞくぞくと特番が組まれ、視聴率はぐんぐんとあがっていった。週刊誌もかけばその分売れたので、報道はますますエスカレートした。星香は、「略奪婚」の首謀者とされ、世間の同情は遙佳一身にあつまった。 テレビ界の性の乱れは、かねてより週刊誌にかき立てられ、一部の世論では大きな問題になっていた。若い純情な女性がプロデューサーらの破廉恥な行為をうけ、何人も自殺する現状が放置され、芸能界の暗部として従来より指摘されていた。こうした状況下で起こった正継の不倫騒動は、芸界としてもほうっておけない問題だった。いかに大衆文化とはいえ、あらゆる自由がみとめられているわけでもなかったし、あまりにもどろどろとしたイメージはテレビ界に取ってもなんとか解決しておくべき課題だった。そこでテレビ関係者が中心となり、識者があつめられ、芸能界の倫理委員会が設立された。 正継は、最初の処分の対象とされ、テレビでの出演はむずかしくなった。彼は、完全に干されることになった。 ふたつの所帯をもつ正継は、大阪の自宅で遙佳と子供たちが暮らすためにローンの支払いをふくめ、月々五〇万円が必要だった。京都の借家から、この状況でひっこすなんて無理だったし、内弟子が星香の身のまわりの世話をしなければ、報道陣がしじゅうはりついて、彼女は買い物にもでられなかった。だから、こちらにも最低五〇万円にちかいお金がどうしても必要だった。 がんらい正継の金銭感覚は、麻痺していた。正確には、なかったといってもよかった。大阪の家は彼の名義だったが、ばくだいな借金がのこっていた。稼ぎだけは超優良なはずだったが、はっきりとした自分の財産はもたず、ほとんどは遙佳が管理していた。離婚のための四億などという飛んでもない金額は想像すらできなかったが、いずれにせよ当座の資金として月に一〇〇万は必要だった。 そこで正継は、地方巡業、俗にいう「どさ回り」で金をつくることになった。各地の小都市をまわり、歌を歌ったり、地方の芝居小屋と提携し、ちょっとした時代劇などをやったりした。なんといってもつい最近までNHKの大河ドラマでは主役をつとめ、週刊誌では醜聞の帝王として、なくてはならない存在だったから注目度は抜群で、どこでも人があつまり、ギャラを稼ぐことができた。しかし、彼が品行方正に変わったのでは決してなかった。女癖が悪いのはすでにぬきがたい習性で、場所が違っても、やることはおなじだった。 「あんた、いいの。こんなことをして。あんなに可愛い奥さんがいるんでしょう」 「このコンドームは、女房が用意したんだ」 「若いのに理解があるのね。信じられないわ」 「おれたちは、純愛をしているんだ。おれには、彼女しかいないんだ。でもさ、息子は別人なんだよ。おれのいうことなんて、聞きゃしないんだよ。なあ、もうそんなつまらない話はわすれて、楽しもうよ」 正継は、立ちあがった。女は下着をみて、彼の息子が本気だと分かった。 正継は、芸能界に復帰するためにも、秋葉幸一朗になにかしらの筋を立てる必要があった。秋葉家と連絡を取ろうと幾度も試みたが、どうしても手立てがみつからなかった。それで星香から美代子を通して、「状況を説明したい」と話をさせて、香織と面会する機会をえようと考えた。正継の苦境をみた彼女は、なんとしても幸一朗に了承を取りたいと思った。それが直接ではなくとも、彼の復帰につながるとふたりは考えた。 星香は自宅に電話し、受話器にでた母の香織に意向をつたえると、「あなたは、別れて帰ってきなさい。正継は離婚なんかしないし、そのうちあんたはすてられるだけだ」と諭された。 ここで諦めてはいけないと星香は思い、前田美代子が同席する形で香織と面会する機会をえた。 指定された日時に正継が秋葉家を訪問すると、美代子がでてきて居間に通された。そこには香織がすわっていた。彼は挨拶したが、だれもなんとも答えなかった。しばらくだまっていたが、なにも語らないふたりにむかって、正継は床に土下座して額をすりつけた。 「この度は、たいへん申しわけありませんでした」といった。 香織は、だまって彼を睨みつけていた。 「妻とは、かならず離婚します。お嬢さんとの結婚を許してください」 「あんたが普通でないのは、よく知っています。それでも通常は、離婚してから申しこむものです。そんな仮定の話をされて、どう答えたらいいの」 「私は、離婚します。どうか、星香の勘当を解いてやってください。自宅にひとり切りで、外にもでれないのです。このままだと、ノイローゼになってしまいます」 「それは、あなたのせいじゃないの。責任を、人に押しつけるのはやめなさい。できないなら仕方がないから、子供なんてつくるまえに星香と別れてください」 「私は離婚して、結婚を申しこみます。いや。もうここで結婚を申しこみます」 「なにを、いっているの。あんた。すでに結婚しているんでしょう。どういう頭の構造なの」 香織も美代子も、それ以上はなにも話さなかったので、正継は仕方なくひきあげたが、誠意はある程度通じたと考えた。 そのころ秋葉家では、あらたな問題が浮かびあがっていた。 女は、はやく結婚させるべきという幸一朗の考えで、星香は二〇歳のときに見合いをさせられた。姉の幸香も一九の年からくりかえしお見合いをはじめた。いくらことわっても、幸一朗は、べつの見合い話をもってきた。 「おまえは、もう二四歳だ。女は望まれるうちにいい相手をみつけて結婚しなければ、後手にまわり、あっという間に姥桜になる。ほんとうに容色も衰えて、だれもみむきをしなくなる。女の美しさは一瞬なんだ。おまえは、今年が最後だ」と幸一朗は幸香にいった。 「お父さん。私は、好きな人がいて結婚したいと思っています。特別に見合いなんかしなくても、夫くらいは自分でみつけられます。もちろん立派な方で、財産も地位ももつ人です。彼をつれてきますから、会ってください」 「半端な男じゃ、ないんだろうな。おまえは、秋葉流舞踊の跡取りなんだ。ちんけなサラリーマンなんかとは、結婚なんてできないんだ」 「大丈夫です。お父さんは、許可してくれると思います。あとは会ってから、判断してもらってかまいません。どうしても駄目だというのなら理由を教えてさえもらえれば、私は星香とは違いますから結婚は諦めます。彼にも、婚姻には父の許可が必要だと話してあります。私は、秋葉の跡取りです。星香とは違います」 幸香は、幸一朗の目をじっとみつめて自信をもっていった。 それで指定された時間にホテルの一室で待っていると、男をつれた彼女がやってきた。幸香が伴侶として選んだのは、幸一朗もよく知る、二度の離婚歴があり親権をうしなった子供もいる、一五歳年うえの歌舞伎男優だった。 「なんなんだ。幸香は、なにを考えている。おまえの育て方が悪いから、こうなったんだ」 幸一朗は、顔を真っ赤にして怒りながらいった。 香織は、絶望的な表情に変わった。 相手は、幸香のいう通り、ある程度の財産も地位もあるサラリーマンではない男だった。 幸一朗はくりかえし翻意をうながしたが、彼女の意志は固かった。彼は納得できなかったが、これ以上の騒動は望むところではなかった。仕方なく幸一朗は、幸香に帝国ホテルで盛大な結婚式をあげさせた。もちろん、勘当中の次女はよばなかった。 その話を聞いたとき、星香は「やっぱりね」と思った。 「うちの家庭は、なにかが絶対におかしい」と話していた弟は芸能界には興味を示さず、普通の会社につとめ一般女性と結婚した。ふたりの姉をみて育った妹も、この世界はいやだといって一般人の妻となった。 幸香の結婚式が終わると、美代子は星香に電話をかけて話した。 「お母さまを、慰めてあげて頂戴。いまになっても、幸一朗さんはなんにも分からないのよ。まったく信じられない話だけれど、私があなたがたをテレビに出演させたのが、原因だって責めるのよ。お母さまはよく分かって、主人を甘やかしたのがもともとの素因だって落ちこんでいるのよ。お母さんには、電話をしてあげなさい。あなたの味方なんだから。お父さんは、なんにも分からないから騒ぎつづけるかも知れないけれど、お母さんが理解してくれれば、やがておさまるに違いないのよ」 いっぽう正継の離婚問題は、暗礁にのりあげていた。なんとしても金額について譲歩しない遙佳に、交渉の術をうしなっていた。芸能界に復帰できなければギャラを稼げず、四億という大金を貸してはもらえなかった。しかし、離婚しなければ、芸界にもどることもできなかった。正継は、完全なジレンマのなかで藻掻いていた。 ちょうどそのころ母親が死んで、考えてもみなかった遺産が手に入った。正継には妹の正美がいたので、ふたりで分けると二〇〇〇万くらいになった。遙佳の提示する金額は、彼がわざわざ公証人役場まで出向いたうえに、弁護士まで同伴させてつくった公正証書に記載された、信じられない「四億円」という数字だった。もちろんそこには、自分の署名があり判子もついてあった。 そのころ父の浩太郎は、長年にわたる飲酒がたたって肝硬変を起こして、肝臓癌も併発していた。すでに黄疸がではじめ、余命は三ヵ月、もっても半年といわれて入院していた。まだ意識障害は起こっていなかったから、話をすることができた。 「親父。こんなところで申しわけないが、遺産がどうなっているのか教えて欲しい」と正継はいった。 「ずいぶん派手にやっているらしいが、どんな状態なのか」と浩太郎は聞いた。 「苦戦しています。世間がすっかり敵だらけになって、なにしろ金がなくてこまりはてているんです」 「いったい、いくらぐらいなんだ」 「遙佳が希望しているのは、四億です」 「四億。気はたしかなのか。そんな金は、ありえない。しかし遙佳はいい女房だったのに、おまえはみる目がない。なにをしてもかまわないが、生娘だけは手をだしていけないとつねづね話していたろう。女房だけは、大切にあつかっておくべきものなんだ。おまえが手をだしたのは、なかでもいちばん質が悪くて面倒で始末におえない者なんだ。なんにも魂胆がないなんていう娘くらい、恐ろしい女は、この世にいないんだ」 浩太郎は、正継に話をはじめた。 「おまえだって、ギリシア神話の美の女神、アプロディテの名前くらいは、聞いたことがあるだろう。彼女がうまれたときに神々は祝宴をひらき、知略の神ポロスはよばれて、したたかに神酒を飲んで眠ってしまったんだ。宴会でご馳走がでたから、貧窮の女神ぺニアが物乞いにやってきて、戸口のそばで待っていた。花園で酔いつぶれて寝ているポロスをみて、ぺニアは子供をえようと企み、彼の横で臥してエロスを身ごもったんだ。恋の女神。エロスは、こうしてうまれた。ぺニアは、女神とはいっても貧乏なんだから、ほんとうの神さまではない。だからエロスは、母の性をうけて、つねに欠乏と同居している。しかし、父の性格もうけつぎ勇気があり、懸命に努力をする者で、目的に辿りつくため、なんらかの策略をかならずうみだす、すぐれた魔術師でもあるんだ。不死なる父親の性をうけてはいるが、母親から死すべき運命もうけつぐ中途半端な神なんだ。だから、ことがうまく成就して命の花をさかせ、生きるかと思った途端、母の性格をついでいるから死んでしまう。それでも父の性をもつから、また生きかえったりする。父親に似て、あらゆる機略を弄して欲しいものをえる。しかし、ようやっと手にいれた事物は、すべて指のあいだからぼろぼろとこぼれ落ち、結局なにものこらない。だからエロスは困窮はしないが、また富むこともないんだ。永遠でもなく、外部の影響をうけては右往左往し、身のまわりに起こるさまざまな情勢に敏感に反応しながら、死にそうになってはうまれ変わる。ときには完全に絶命したと思うと若々しく甦り、決して衰えまいとする。貧窮の女神ペニアは、無策、無力で、貧乏ゆえに他人にからみつき、なんでもいいから、なにかをひきだそうと試みる。知略の神ポロスは、善良、賢明で、なにごとについても自主独立をたもとうとするんだ。分かるか」と浩太郎は聞いた。 「親父、大丈夫ですか。おれは、ポロでもペニでもないですよ。親父によく似ているっていわれる、あなたのひとり息子の正継です」 「そうか。まあいい。おまえがポロスだとはいわないし、思ってもいない。どちらでもいいんだが、遙佳をすててまでえようとしている、あの娘は間違いなく、ぺニアなんだ。おまえには、むずかしすぎるかも知れないが、ようするに貧乏神なんだ」 「そこのところだけは、すこし分かる気がします。なにしろ、星香といっしょに暮らしはじめてから、路線が変調になったのです。親父の、からまれるっていう話は、いいえて妙で、さすがに相当に苦労した雰囲気がつたわってきます。それまでは、しごく順調だったんですから。演技なんか必要もなくて、ただ好きなことをしていれば、なんにもこまりませんでした。それにしても親父のいう通り、遙佳は惜しいと思います。あれは、いい女だったんです。いってみれば、あげまん、だったんです。どう思っているのか、理由はいまいちはっきりとしないのですが、すっかり依怙地になって、もう修復は不可能です。離婚しなければ、役者生命が絶たれるところにまで追いこまれているんです」 「おまえは、よく似ているんだ。ただ、おれよりもいっそう直線的で見境がなく、そのくせ脇が甘いからこういうことになるんだ。ようするに、遺産があれば芸能界に復帰でき、またなんとかできるわけなんだな」 「その通りなんです」 「京都の屋敷は、一等地で五〇〇坪ある。売却すれば二億ちかくにはなるだろう。抵当権もついていないから、すぐに売れる。そのほかの財産は知れたものだが、借金もない。遙佳は、それをちゃんと計算しているんだ。だから、なんでも分かっている大事な女房だったんだ。もう、なにもいわなくてもいい。考えていることは、よく分かる。正美には一割だけで、のこりはおまえにやるという遺言をかいておくから、その金で遙佳と交渉しろ。病床でのおれとの話をすれば、あいつはそれ以上はだせないと知っているから納得するんだ。この件はなんとかしてやれるが、もう一度いっておくが、あの娘は貧乏神だ。相当気をつけないと、おまえはすべてをむしり取られるんだ。くりかえすしかないが、貧窮の女神ペニアは、無策、無力で、貧乏ゆえに他人にからみつき、取りついて、なんでもいいから、なにかをひきだそうとする。おまえは、とても知略の神ポロスとはいえないから対処がむずかしい。おれも勝手に生きてきて最後に息子を助けてやれたなら、いつおむかえがきても思いのこすことはない。まあ、できるかぎりはやってみろ」 浩太郎は正継との約束通り遺言をすると、三ヵ月で他界した。 妹の正美は不平をいったが、遺言状の力はつよかった。 正継は、かなりまとまった額の金銭を相続できた。それで、いろいろ工面して、二億と印字された銀行通帳を手に遙佳をたずねた。病床での父の言葉をつつみかくさず話し、親父が死の直前まで彼女を気にいっていた話もした。つくれた金は二億が限界で、これ以上を要求されるなら、自分に生命保険をかけて死ぬしか手立てがないと切々と状況を説明した。 「半分では話にならない」 遙佳はいったが、正継が各方面から金策をつくし、これ以上はどうしようもないのも分かっていた。二億円は、考えられない大金だった。遊び人だったが、粋人でもあった浩太郎の病床での話に心をうごかされた彼女は、軟化の兆しをみせた。 しかし、遙佳はなんとしても腹いせがしたかった。この不愉快な男との関係を完全に清算できるのなら、四億だって二億だって充分なお金で、究極的にはどちらだってよかった。そこで遙佳は、二億という正継の要望を飲むに当たってひとつだけ条件をつけた。 「もし、星香が妊娠して子供ができたら、私はあらためて慰謝料を一億円もらいます。外で子をつくらないのは、結婚当初からの私たちの約束だったわよね。子供たちの父親は、あなたです。違う家庭と家族をもったなら、もう子供の父とはいえません。分かる。そうなったら、子供たちとの接見も二度としないと誓いなさい。あなたはなんでもすぐに宣誓するけれど、それだけだから、弁護士の先生と会って、その場で証書をつくりましょう」 「分かった。その通りにする」と正継はいった。 半額で離婚を承認してくれるのだから、とうぜんなにかしらの条件はつけられると考えていた。これから生涯にわたって稼ぐ額の半分を払え、といわれるのも覚悟して交渉に臨んだので、思っていたより簡単な提案だった。星香と子供さえつくらなければ、もうなにをしてもいいのだ。可愛い子供たちとも、いままで通り会ってお父さんもやっていられるのだ。彼は、いい話だと思った。 正継は、弁護士立ちあいのもとに書面をつくり、協議離婚を成立させた。泥沼化したスキャンダルは終焉をむかえ、マスコミ各社も結果を報道した。 そこで、正継は義父に会見をもとめた。香織と美代子が、しぶる幸一朗を説得し、場を設定してくれた。 三つ揃いのスーツをきた正継がおそるおそる指定された秋葉の自宅におもむくと、義父はソファーにそっぽをむいてすわっていた。彼が挨拶しても、なんの変化もなかった。 「度かさなる無礼をはたらき、なんと申しあげたらよいのか分かりませんが、この度先妻との離婚が成立し、お嬢さまを妻としてむかえる準備ができました。なんとしても、今回の事件は寛大なお心をもってお許しをいただき、星香さんの勘当を解いてはいただけないでしょうか」 正継は、土下座して額を床にすりつけていった。 「そういう、芝居じみたことはやめなさい。まったく、おまえは、やることなすことが不愉快だ。しかし、そんなものを好きになった責任は、星香にもある。どこをどう気にいったのかは、私の想像をはるかにこえていて申しあげようもない。正式に娘を妻として結婚し、法律上も問題なくあつかうのは、人としてのつとめだ。おまえは、こういう人間だから、星香が幸せになれるのかどうかは分からない。いちおう父としては、娘が不幸になるのはみたくはないが、勝手に選んだんだから、これ以上話すことはない」 「それでは、なんとかお許しいただけるわけですね」 「許可などしていない。おまえは、日本語が分かっているのか。私が、どこで許すといったのか。勝手にしろと、いっているんだ」 「かならず。星香さんを、幸せにしてみせます」 「とうぜんだろう。これだけ騒ぎを起こし、またくりかえすのは、おまえだってこりごりだろう。問題がなんであるのか、よく考えろ。私がいえるのは、それだけだ」 「ありがとうございます」 正継の言葉を聞くと、幸一朗は「ふん」と鼻を鳴らして立ちあがり、振りむくこともなく部屋をでていった。 こうして義父への報告がすみ、快諾をえたとはいいがたかったが、とくに反対されたのでもなかったので、勘当は解かれたとみんなが考えた。 星香は、東京の家にもどることが可能になった。 四 晴れてふたりは、正式に夫婦になった。入籍はしたが、あい変わらず金欠状態はつづいていた。結婚式はもちろんできなかったが、せっかく世間にみとめられたので、安上がりのグアムとサイパンでハネムーンを楽しんだ。 みぐるしかった離婚騒動も収束したので、マスコミの追及は幾分穏やかになりはじめた。離婚の条件はふせられたが、大金がうごいた情報は、だれが話すでもなくつたわっていた。金額は、庶民に取ってはにわかに信じられない二億とか三億とか四億とかいう桁違いの話で、正確には分からなかったが、どうやら正継は遙佳に慰謝料と養育費という名目で大層な金銭を支払ったのが憶測をまじえて報道された。高額な金品をえたという情報で、彼女への同情論は沈静化していった。 そうこうするうちに、星香は身体の変化に気がついて産科を受診すると、思った通り妊娠したのが分かった。ずっと望んでいた子供だったので、ケーキと高価なボトルワインを買って夫の帰りを待った。 正継は月に一回、大阪の家で子供たちと面会できた。彼は指定された時刻をしっかりとまもって、子供の成長を確認するのをかえがたい喜びと感じていた。そこにふってわいたのが、星香の妊娠だった。もちろん原因は彼にあったが、事実を知ると中絶手術をすすめた。 星香は、正継がなにを話しているのかさっぱり分からなかった。ようやっと妊娠した子供の中絶を本心から望んでいるのを知ると、泣きだして理由をたずねた。しかし彼は、「堕ろしてくれ」としかいわなかった。 結婚した正継は、京都に土地を買い、住居をたてていた。もちろん浩太郎が所有した物件とは違い、安い京都郊外の一〇〇坪ほどの家屋だったが、そのためにはかなりの借金が必要だった。彼は、やがては父親の家を取りもどしたいと真剣に考えていた。遺産相続問題で、すっかり疎遠になった妹にもある程度の金をわたし、いままでの苦しい事情を説明し、関係を修復することも考慮していた。そこに起こった星香の妊娠の事実は、彼の構想とまったく逆の方向性をもっていた。いまの借金をかえすので手いっぱいだったところに、遙佳に一億円の慰謝料を支払うのは不可能だった。それも半額に値切って許してもらったのを、藪をつついて事態をこじらすのは、してはならないことだった。弁護士を同伴させてつくられた誓約書の力は、いやというほど分かっていた。どう考えても、子供をうむ状況ではなかった。 また正継のばあいには、妻の妊娠という事態は大問題だった。つまり彼の息子は、どういう状況であっても、パートナーなしには一日たりとも生きていけなかった。もともとトロフィーとして勝ち取った遙佳とのあいだに隙間風が吹きはじめたのも、彼女が長男を懐妊して交渉を拒否し、正継の道楽息子が我慢できなくなったことからはじまっていた。いずれにせよ、彼が真剣に蓄財を考えていた時期に、星香の妊娠はいかにもぐあいが悪かった。どんなにくりかえし聞かれても、こうした事情を理解してもらうのはむずかしいと感じていた。だから正継には、ただ「堕ろしてくれ」と彼女に頼むより手立てがなかった。 とうぜん星香は、納得がいかなかった。どんなに理路整然と話しあっても正継の決意が変わらないのを知ると、実家にもどり母親に相談した。 香織は、話を聞いて耳を疑った。法律上なんの問題もない行為をはじめてふたりがしているのに、禁止されるのはどう考えても不可解だった。香織は、星香の希望にしたがって電話で理由をたずねた。 「どうしても、いまのタイミングはまずいのです。もうちょっと準備してからでないと、子供はつくれないのです。なにごとにも用意が必要で」 「あんたがいままで、やってきたのはなんだったの。晴れて子供をもつために、騒動が起こったのでしょう」 「そうなのですが、いまは適切でないわけで」 正継の意味不明な言動は、香織を完全に怒らせた。 「分かりました。それでは、この問題は私の裁量の範囲をこえています。あとは、主人と話しあってみてください。あなたがその機会を放棄するというのなら、星香は秋葉の家で出産させます。それとも、もう一度、離婚騒動を起こしますか。もう、どちらでもいいんですよ。別れてもらえるのなら、それで結構なんですがね」 「うかがわせて、いただけますか。幸一朗さんに事情を話す機会を、ぜひあたえてください」と神妙な声がした。 幸一朗は、正継と二度と会わないと心に決めていた。顔をみるだけでも不愉快だったし、どんな理解もしたくなかった。家に帰ってくると、星香と香織が泣きながら意味不明の内容を騒ぎ立て、正継と会うよう懇願をはじめた。理由を聞くと、たしかに理解しがたい話だった。しかし、このふたりの行動は、そもそも理解可能なものは何ひとつなかった。それなのに正継と会って説明され、なんだか分からないが、その部分だけを理解しても無意味だった。全体が不明なのに、いまさら一部の解説をうける気にはならなかった。 「おれには、そんな気持ちはない。星香は一度は勘当したのだし、許したともいっていない。あの男の顔をみるのも不愉快だ。どうせ、わけの分からない話に決まっているし、理解をしたいとも思わない。おれは、会う気はない」と幸一朗は素気なくいった。 それを聞くと、星香は号泣をはじめた。香織も泣きながら、会うだけあって話をして欲しいと切望しだした。あまりのうるささに、幸一朗は折れて面会することになった。 前回、説得に成功した縁起のいい三つ揃いのスーツをきた正継が、おそるおそる指定された秋葉の自宅におもむくと、義父はソファーにそっぽをむいてすわっていた。彼が挨拶しても、なんの変化もなかった。 「度かさなる無礼をはたらき、なんと申しあげたらよいのか分かりませんが」 正継は、土下座して額を床にすりつけていった。 その姿をみると、幸一朗はさらに不愉快そうになり、顔を反対がわにむけた。 反応がないので、正継は仕方なしにつづけた。 「今回の妊娠は、ほんらいはどう祝ったらいいのかと考えるべき慶事なのですが、何分にも諸般の事情で、私個人の力ではなんともならない状況なのです。責任はすべて私自身にあり、お父さまにはいうべき言葉もみつからないのですが、なんとかこの度は大目にみていただき、またくるべきつぎの機会に、ぜひ二重の喜びとしてむかえさせてはもらえないでしょうか」 正継は語句を選び、ひとつひとつゆっくりと話しながら、これではとても理由とはいえないだろうと思った。浩太郎なら粋人だったから、これだけつげれば、背後に漂う人の力ではどうにもならない事情を推しはかってくれるに違いなかった。しかし幸一朗とは出会いの端から相性が悪く、いっそ会わないですむなら、それですましたかった人物だった。みずからまいた種とはいえ、修復不可能にまでこじれ切った相手に、こんな話をくりかえしても納得してもらえるはずはないだろう。ここは、ありのままの事実をつげたほうが自分でもさっぱりする気もした。しかし、どこから考えてもあまりにも身勝手な話で、とまどわざるをえなかった。どうするべきか正継もすっかり分からなくなり、そこでじっとだまりこんだ。 すると、そっぽをむきながら幸一朗がとつぜんいった。 「分かった。おまえの諸般の事情がどのようなものであれ、興味はない。ただし、つぎの妊娠までにはきちっと解決しろ。星香は、おまえの妻で、自分で勝手に望んでなったんだ。しかし、そうではあっても、つぎに妊娠したときにも解決不能だったら、そのばあいはこちらにも考えがある。それはよく、おまえの胸におさめておけ。私がいえるのは、それだけだ」 「ありがとうございます。有り難うございます」 正継がくりかえしいい、額をさらに床にすりつけるのをみて、幸一朗は「ふん」と鼻を鳴らして立ちあがり、振りむくこともなく部屋をでていった。彼は、義父もまた粋人であるのを知った。しかし、これ以上の問題を起こしたときには、もうただではすまないことも充分に理解した。 幸一朗の言葉を聞くと、星香は号泣した。 正継は、今度は妻と義母にむかって土下座し、 「くりかえし身勝手をかさね、たいへん、申しわけありません。幸一朗さまのお言葉にしたがい、妊娠できる環境の整備に全力で対処いたします。今回の事態は、寛大なお気持ちになって、なんとか大目にみていただきたいのです。二度と星香さんを悲しませることは、決して行いません。それだけは、お誓い申しあげます。まだ星香さんは若く、つぎの妊娠には盛大な祝いをしたいとは思いますが、今回だけは気持ちをお鎮めいただいて」 正継が話していると、香織は席を立った。号泣する妻に、頭をさげつづけた。 星香は、父がもうなにがあっても、味方にはならないのがはっきりと分かった。姉の幸香とは言葉をかわす機会もなかったから、相談にのってくれる相手は、前田美代子がいう通り香織しかいないのに、このときようやく気がついた。 人工中絶手術には、正継が立ちあった。ずっと泣きつづける星香の肩を抱き、「かならずつぐないは考えるから、二度とこんな悲しい思いはさせないから」と彼は囁きをくりかえした。 いっぽう遙佳は、解放の日々をすごしていた。彼女は、いまや大阪の一等地に自分名義の豪邸をもち、借金もなく家政婦をやといながら銀行の利子で優雅な生活をおくっていた。一〇年間我慢をしたが、その甲斐もあって適当に男と遊びながら人生を謳歌していた。ジムに通ってひきしまった肢体を取りもどした彼女は、美貌はまだまだ健在だったから子持ちを承知で結婚を希望する男性はつぎつぎとあらわれていた。正継とさんざんつきあって鑑賞眼を充分にやしなった遙佳は、なによりも品位が大切だとまなび、慎重に相手を選んでいた。ただ月に一回たずねてくる彼を目にする度、積年の恨みが振りかえし、なんとかほんとうに別れて二度とみない環境をととのえたかった。それに、ここまで遙佳の気持ちをすさませた正継が幸せになるのは不愉快だった。しかし、よく考えてみると、星香にはまったく恨みはなかった。どちらかというと、あの矯正不能の女たらしをひき取ってくれたうえに、慰謝料までくれたのだから礼をのべたいほどだった。自分が若いときに正継と結婚しようと間違ったのは、本性が分からなかったからだが、星香もおなじに違いなかった。いずれ破局をむかえるのは容易に想像できたが、そうした興味よりいまはもう完全に別れたいと考えていた。 だから正継が面会にきた折り、星香が妊娠して中絶したのを聞いて思いは複雑だった。残酷な男だと、いまさらに感じた。相談にくれば、堕胎をすすめるなんてことは遙佳には考えられなかった。もちろん、取れるお金は取っておきたいが、悪いのは正継で、完全に星香は被害者だった。 「妊娠の件を無効にして欲しい」といわれたとき、遙佳はふかく考えた。 ようするにこの事件は、星香が中絶するのと子供に会いたいのとを天秤にかけて、正継が自分の気持ちを取ったに違いないと思った。愛想はつきはてていたが、一時は妻という座にいたわけだから、彼女にもおなじ対応をしたのだろうと分かると、さらに腹立たしく、どうしようもない不愉快な気分におそわれた。それで遙佳は、 「もう私の慰謝料はいいから、子供に面会する権利を放棄してくれれば、あなたとはすべてを清算しましょう」と提案した。 「そんなこというなよ。おれは子供たちと会いたいと思って、つらい決断をしたんだ」 「可愛そうなのは、奥さんよ。ほんとうにあんたって人は、人間の心をもっていないんだから。あなたの妻だった過去を思うと、後悔の念がおそってくるのよ」 「おまえは、ひどいことばかし話しているけど、あれだけおれからむしり取って、よくいうよ」 「それじゃ、つぎに妊娠したときは、また中絶させるわけね」 「それは、ひどすぎるだろう」 「それでは、子供のことは諦めなさい」 「そうはいかないから、こまっているんだ」 煮えきらない前夫に、虫唾が走る思いがした。それにさらに問題なのは、この男はちかごろくる度になんとか機会をみては、遙佳にせまろうと画策するのが一目瞭然だった。離婚したときに、正継がしのびこむ事態も考えられたので、鍵は全部交換し、セキュリティも防犯カメラを設置した。それでも隙があれば、押し倒してくるに違いなかった。この男となにを決めるとしても、口約束なんてまったく無駄だったから、話しあいには第三者が必要だった。 「弁護士の先生に入ってもらって、あたらしい契約をつくりましょう」と彼女はいった。 「なあ、遙佳。それはべつとして、ちょっとさあ」とまた声のトーンが変わって口をひらいたので、彼女は身構えた。 「あんた。あたしになにかあったら、警察沙汰にするからね。秋葉の家だって、今度は本気で怒っているに違いないのよ。大切に育てた娘さんを、さんざん勝手に弄くりまわしているんだから。芸能界にだって、いられなくなるんだからね」ときびしい声でいった。 「はい。はーい。遙佳さま。分かりましたよ。日程が決まったら、お知らせいただければ参上します」 正継は、大きな溜め息をついた。 「今日は、帰りなさい」 正継は、一瞬むっとした表情に変わり、それからまた笑顔になって子供たちに挨拶して家をでていった。 日をあらためてふたりは、弁護士をまじえて話しあいをもった。そのなかで、遙佳は慰謝料の請求権を放棄するかわりに、子供たちとの面会を三ヵ月に一回にへらし、指定したホテルのロビーでする、さらに大阪の家には絶対に立ちよらない、という意向の契約書につくりなおした。 正継の芸能活動は、順調に回復していた。彼はまた稼ぎはじめていた。しかし、浮気はつづいていた。 幸一朗と正継しか知らない星香は、男とはそうした生き物であると理解するよりほかになかった。やがて彼女は、妊娠した。妊娠初期からひどい悪阻で、満足に食事もできなかった。しかし今度は、うむのは問題ないといわれていたので心から喜び、実家にもどってつらい吐き気にたえて女児を出産した。一年後、星香はふたたび妊娠した。悪阻はさらにひどく、点滴をうつ苦しい日々がつづいた。実家で母の世話をうけながら、今度は待望の男児をえた。 長女が三歳になったとき、正継が折り入って話があるとあらたまって星香にいった。彼女は、猛烈に悪い予感がした。正継の女癖の悪さは、ずっとつづき、もうほとんどあきれていたから、報告がどうしても必要な事件を起こしたのは容易に推測できた。 「実は、子供がいるんだ」 正継がなにをいっているのか、星香には理解できなかった。くりかえし話されて分かったのは、長男とおない年になる娘がいるという話だった。 「なんなの。それ」 「だから、手違いなんだよ」 「間違いって。なんなの」 「おれは堕ろせといって、金もわたしたんだ。でも、しなかったらしい。たった一度の過ちなんだ」 正継は、相手の女とは一回切りの関係で、事務所に子供ができたという電話があった。コンドームをつけなかったのは事実だったが、それでも嘘だと思ったが、念のためマネージャーに金をわたして堕ろす話をさせた。相手も、納得して金銭をうけ取ったから、片がついたばかし信じていたといった。 星香はだまっていた。口もきかなかったが、一週間たって週刊誌に正継の隠し子の話が掲載されはじめた。雑誌によれば、その相手は、彼が気にいって歌手にデビューさせようとした女で、子供ができてからも、ずっと交渉がつづいているという記事だった。 長男とおない年ということは、星香が息子を出産したときとほぼ同時期に、女性も子をうんだらしい。つまり長女がうまれたころ、妊娠の悪阻で苦しむ姿をみながら、べつの女とつきあって、すくなくても三年以上にわたって彼女を裏切りつづけていた。それに正継は、隠し通すつもりだったが、週刊誌に事実をにぎられ公表されるのを押さえられなくなってはじめて、星香につげたのだという状況が分かった。彼が帰宅したとき、テーブルのうえにこの醜聞をあつかっている数冊の雑誌をおいた。 「悪かった。許してくれ」 正継は、土下座して額を床にすりつけていった。なんどもくりかえしみてきたその姿は芝居じみ、さらに不愉快になった。 「あんた。何年、私を裏切っていたの」 星香は、声をしぼりだした。 「あなたの話は嘘ばかし、いったい、なにを信じたらいいの」 正継はだまっていた。 「二度と浮気はしないと誓えるの」と星香は聞いた。 「もちろんだ。もう二度とやらない。おまえは妊娠中で、おれの相手をしてくれなかったんだ」 星香は、ひどい悪阻の日々を思いだした。なぜ女がこんなに苦しまねばならないのかとばかし思っていたが、彼は妊娠したのが不満だったのだと気がついた。 星香が中絶したとき、正継は遙佳とのあいだに、なにかの約束があったのだろうと考えていた。それは間違いがないのだろうが、妊娠すれば、べつの女にも手をだすつもりだったのだろう。しばらく虚空をみていた彼女は、涙もでなかった。なんでこの男と結婚したのか、分からなかった。 「私は、子供はふたりでいいと思っている」と星香はいった。 「なんの話だ。おまえは、素晴らしい子供をふたりもうんでくれて、おれは心から感謝している」 「あんた。私は、もうたくさん。悪阻が、どんなに苦しいのか分かるの。あなたの子供をうもうと苦しむあいだ、援護してくれるのではなくて、ほかの女に手をだしていたのね。今度妊娠したら、私は悪阻でつらいだけで、相手がいないと理由をつけて、また好きなことをするわけなのね」 正継は、だまって聞いていた。 「パイプカットをしなさい」 「分かった。そうする。それで許してくれるんだな」 「私で満足しなさい。結婚したんだから」 「分かった。おまえが大好きだ。いう通りにする」 「ほかの女には、手をださないのよ。分かったわね」 「おまえがいてくれるのなら、ほかの女には、もう手をださない。それに、ふたりで充分だ。こんなに可愛い子供を、うんでくれて心から感謝しているんだ。おまえが、好きなんだ。だから、パイプカットをする」と正継は、神妙にいった。 隠し子騒動は、週刊誌では大きく取りあげられた。醜聞の帝王、正継も星香も、スキャンダルにはこりごりして、なんとか穏便にすませたいと思った。しかし彼女は、報道陣にかこまれて取材に応じなければならなかった。 「騒動をくりかえし、みなさまにはたいへん申しわけございません。つらい日々をすごされた相手の方にも、申しわけなく思っております。今回は、主人も大いに反省しています。二度と、こんな騒動を起こすつもりはないと思います。私は、主人を信じることしかできません」と星香はコメントした。 騒ぎに驚いた香織は、心配して電話をかけてきてくれた。 「お母さん。大丈夫です。正継とは、ちゃんと話しあっていますから。どうしてもこまったら、ぜひ相談にのってください。私には、お母さんしか味方がいないのですから」と話すと、香織は電話口で泣いた。 週刊誌の論調やテレビ報道では、星香に同情的な意見も一部にはあったが、自業自得という趣旨でコメントされるほうが圧倒的に多かった。 ふたりの子女は、順調に育っていた。正継は、星香とのあいだに子供ができると、しだいに遙佳の子供たちとの面会もなくなっていった。彼は、なんの屈託もなく、ふたりの子と天真爛漫にふざけあっていた。星香は、夫の二重人格を目のあたりにして、どうしてこんな心理構造をもつにいたったのかと、考えざるをえなかった。 くりかえされた修羅場をのりこえた正継は、ますます演技力に磨きがかかった。映画やテレビなどの媒体で、さまざまな作品の主役として演じる魅力のある芸能人となっていった。どんな役柄にふんしても演技には迫力と凄味がでてきて、星香はメディアを通して姿をみる度に、「芸の肥やし」とはよくいったものだと感心した。 正継の女癖の悪さは、もう習性となって、やむことはなかった。スキャンダルで芸能界から干されてひどく苦しんだ経験をもつふたりは、問題をあきらかにしないよう気をくばった。もし、星香とのあいだに離婚騒動などを起こしたら、役者としての生命がほんとうに絶たれることだけは、正継も充分に理解していた。また彼女にたいして、さんざん不義理をした認識だけはもち、刺激する事態を極力排除する配慮もあったから、表面的には穏やかな日々がつづいた。 クルーザーの免許を取った星香は、正継の休みが取れると、ふたりだけでひろい海にでた。だれからも注目されない自由を、心行くまで味わった。 長女が小学校の三年生になったころ、星香はうまれてはじめて立ち眩みを感じた。熱はなかったが、ひどい身体のだるさを覚えた。かつて一度も病気もしなかったので、しばらく様子をみたが、立ち眩みはくりかえされたので、ちかくの内科医院を受診した。 医師は、星香を診察して貧血を指摘し、採血して結果を聞きにくるよう話した。何日かして受診すると、「どこからか出血している」といった。とくに便は黒くなかったので、生理についてたずねられた。 がんらい星香は生理不順で、二ヵ月くらいないかと思うと二週間起きにきたりした。人によって、さまざまなのだろうと考えていたが、医師は精検をつよくすすめ、紹介状をかいた。 紹介された総合病院の婦人科を受診すると、問診や診察につづき検査をうけ、一週間後の来院日を決められた。予定された日にいくと、さらに精密検査が必要だといわれ、ふたたびいろいろな装置で身体をしらべられた。終わると、つぎの診察日を決められた。 受診日の前日、午前中に病院の看護師から連絡をうけ、明日の受診に、かならず肉親を同伴してもらいたいとつげられた。 「なぜ、そんな必要があるのですか」 「医師が、ご家族にも話したいといっているのです」 「主人は出張中です。母は遠くですので簡単にはいきません」 「こまりましたね。ご主人に帰宅を頼むか、お母さんにきてもらうしかありません」 「主人は、北海道に出張です。母は、東京に住んでいるのです」 「きてもらうしか、ありません。どういう事情でも、かならずつれてきてください」 「そうですか」 星香は、特別な内容だとは分かった。よべば母はきてくれるだろうが、どんな話だって驚かないだろうと思った。癌の疑いがあるに違いないが、はっきりしてから連絡すればいいと考え、いつも通り車で翌日病院を受診した。 順番がきて診察室に入ると、「ご家族は、どうなさいました」と医師が聞いた。昨日連絡はもらったが、あまりに急で家族をよべなかったと話すと、担当医はこまった顔になった。 「大丈夫です。癌なら、そういっていただければ連絡しますから」 「普通は、ご家族がいっしょでないとお話ししないのです。よく聞いていただかないと、誤解があったりするとたいへんですから」 「大丈夫です。私、なにを聞いても驚きませんから。色んなこといわれるのにも慣れているんです。冷静に対応できます」 「そうですか」 医師は、こまった顔をした。 「大丈夫ですから、なんでも話してください。もう一度、検査するのですか。今度は、入院するんですか」 「分かりました」と医師はいった。 「それではお話ししますけれど、あなたは入院治療が必要です」 「分かりました。日を決めてもらえれば、そのときには家族を同伴したほうがいいんですね」 「そうですね。すこしお話をさせてください。前回の診察時には、あなたが子宮頸癌だとは分かっていました。どんな状態か、癌の進行の度合いを検査させていただき、今日はベッドをあけてお待ちしていました。あなたは、すぐに治療が必要なのです。緊急性があります。お分かりですか」 「ああ、そうなんですか。入院して、なにをするんですか」 「そうですね。初期ならば、癌の切除ができるでしょう。でもあなたのばあいは、すでにだいぶ進行していますので、すぐに手術は不可能です。今日にでも抗癌剤治療をはじめ、腫瘍をすこしでも小さくして、周囲にひろがる微細な部分の治療を、抗癌剤に期待するしか手はありません。それで、もし幸いにも、うまく手術治療ができると判断されれば、癌の主要部を切除することになります。そのときは、子宮だけでなく所属する周囲のリンパ節も卵巣も全部取る、婦人科としてはかなり大がかりな手術でしょう。それができるのかどうかは、まず抗癌剤治療をできるかぎりはやくやってみないと分からないことがたくさんありますので、いまの段階でさまざまな仮定のお話をしても仕方がないのです。ご理解いただきたいのは、こうしてお話しするあいだにも、あなたの癌は転移をつづけ、ひろがっている可能性が大きいのです。大丈夫ですか」 途中から、星香は、なにをいわれているのか分からなくなっていた。ただ癌が進行し、すぐにでも治療しないと手立てがないらしいとは理解した。目のまえが真っ暗になったが、気丈な感じで聞いている素振りをした。医師の話が終わると看護師につきそわれて別室にいき、明日の入院に必要なものをつげられ書類に署名した。 「ひとりで帰れますか」と担当看護師は聞いた。 「大丈夫です」 「どうやって帰りますか」 「自家用車できましたから。車をつかいます」 「タクシーのほうがいいのでは、ありませんか」 「大丈夫です」 「もし、帰りに事故などを起こしたら、治療もできませんよ。ご家族を、よばなくていいんですか」と看護師はいった。 「分かりました」と星香は答えて病院をでると、病院玄関にとまるタクシーにのって帰宅した。 家でぼうぜんとしていると、子供たちが帰ってきて騒ぎはじめた。そのときになってはじめて、たいへんだと思った。 出張中の正継に電話をしたが、でかけていて連絡は取れなかった。事務所に知らせ、緊急の要件があることをつたえた。一刻もはやく連絡して欲しい旨を話した。それから香織に電話して、今日の出来事をつたえた。母は、すぐくるといった。二時間たっても正継からの連絡はなく、事務所にもう一度電話をかけて、先ほどとおなじ話をくりかえした。子供たちを適当に遊ばせながら、入院の準備をした。 正継から電話がかかってきたのは、六時をすぎたころだった。彼女が婦人科でつげられた話をすると、明日のいちばんの飛行機で京都にむかうと話し、「おまえは、いつも元気なんだし、運もいいんだから、大丈夫だ。直接病院にいくから」となんどもいった。 母の香織は、夕方には京都にきてくれた。どのくらいの入院になるのか、この施設で治療していいのかも分からなかった。 香織は伝手を頼って東京の病院関係者から京都の事情を聞き、星香が受診した病院が婦人科としても充分なスタッフと実績があり、問題がないことを知った。院長にも連絡が取れて、全力をあげて支援するという話をもらった。子供の世話は、正継のつけ人がいるので最低限のことができるが、母の香織も週に二回くらいはきて、様子をみるという話しあいをした。 娘と息子に、しばらく入院するが、そのあいだ我慢してくれれば、また帰ってきて仲よく暮らせると話し、うなずく子供たちを抱きしめて、なんとか乗りきろうと心に決めた。 正継は、伊丹からタクシーをつかって来院し、医師の説明を聞き、おもい病状に驚き、星香をはげまし、頑張ろうといった。できるだけ面会にくるのも、子供たちに優しくするのも約束した。 星香が入院すると、翌日から抗癌剤の治療がはじまった。考えていたよりずっときびしかった。悪阻にまさる苦しみはないと信じていたが、吐き気は想像以上だった。つぎの日には点滴をみただけで、じっさいに胃液を吐くほどだった。生きているのか、いないのか、不明な苦しみだけがつづき、机に飾った正継と子供たちと四人でとった写真をながめ、我慢と辛抱をかさねた。もう何日やっているのかも分からない苦しい状態をつみかさね、それでも手術治療までこぎつけることができた。 手術日、正継は仕事を振り分けて病室で待っていてくれた。手術は順調に終わったが、創部は大きく、痛みも考えた以上に激しかった。手術治療ができたのは、そうでなかったばあいを比較すると雲泥の差だったので、これでよくなるのだと思ってたえつづけた。特別室のひとり部屋だったので、周囲でなにが起こっているのか、よくは分からなかった。星香とおなじ病気の者もかなりいるらしく、若い女が幾人も死んでいるのを知った。亡くなった女性にのこされた旦那さんや幼い子供たちをみると、手術ができて、まだ自分は運がよかったんだと思った。子供の写真をみなおしては、頑張ってこの危機を脱したいという思いをつよくした。 世間を騒がせてようやく結婚し子女ができた星香が、とつぜんの癌により闘病生活をおくっているのは、数多くの週刊誌にも取りあげられた。子供も小さかったので、同情論は大きかった。高齢者が癌で死ぬのも悲しい事態だが、なんといっても若い身空で小さな子供たちがいて、ようやっとつかんだ幸せが、こうした悪性の腫瘍で危機にさらされているのは、だれに取っても力になってやりたいと思うことだった。闘病生活は、しばしば雑誌で取りあげられた。 つらい日々がつづいたが、星香はつよい生命力でこの危機をのりこえた。幾度か瀕死の淵をさまよいながらも、術後の経過は良好で、医療としては成功した。薬剤の副作用になる脱毛にもたえ、帰宅の許可がでて正継がよばれ、医師は今後の話をした。 「これから五年は、経過をみる必要があります。そのあいだに再発しなければ、頸癌治療としては最高にうまくいったんだと思ってください。いちおう五年間、無事なら、頸癌としてはなおったと考えられるでしょう」 「ほかの治療はありませんか」と正継は聞いた。 「すこし体力が回復したら、放射線療法をしましょう」 「すぐには、できないんですか」 「いまは、体力をずいぶんうしなっています。ここまで頑張った星香さんは、すごいですよ。癌の治療は、うけていない人には分からないのです。つらさは、ご本人にしか体感できないのです。ご主人、ほめてあげてください。もうすこし体力が回復したら、再発防止のために放射線をかけましょう」 「それなら。いまやるほうが、いいのではないんですか」 「できるかぎりはやく治療計画を立てて、星香さんの体力の回復を待って、つぎの治療をしましょう」 「先生。癌もこれだけたたかれれば、弱っているんですよね。だからはやいうちに放射線もかけて、徹底的に治療したほうがよくはないんですか。時期をおくなんて、再発を待っていることにはならないんですか」 正継は、すぐに放射線治療にすすむようくりかえした。 「ご本人は、あなたと違って、ここまで頑張ってきたんですよ。まずは、体力を回復しなければなりません。放射線治療も、あなたが考えているより苦しいんです」と医師は説明した。 しかし正継はうけつけず、つづけての治療をつよく希望した。 そこで星香は、「先生。もしできるのなら、私はもうひと頑張りしてもかまいません。さしつかえなければ、主人の話す通り、このまま放射線治療をうけてもいいんです」といった。 医師は、こまった顔をした。 「できないわけでは、ないんでしょう」 正継は、またいった。 「いいのですか。結構たいへんなんですよ」 「頑張ってみます」 星香は答えた。 医師は考えていたが、「あまり例はないのですが、そこまでおふたりでおっしゃるのなら、退院をのばして、このまま治療をつづけましょう」といった。 星香が放射線治療も終えて帰宅できたのは、入院してから五ヵ月以上もたっていた。彼女は、身体をうごかすのはもちろんのこと、息をするのもつらいほどに疲れはてていたが、子供たちをみると「生きて帰ってこれた」という思いがわきあがった。 「五年」という歳月は、星香に取って決してみじかいものではなかった。はるかに遠い道標であり、呼吸するだけでもつらい日々だった。合併症にも悩み、腹部手術の後遺症による腸閉塞も幾度か経験して、そのつど入院し再手術をうけた。放射線治療をしたために、腸管の疲弊は激しく、通常のイレウスとは違っていた。 星香は癌と戦い勝利した者として、生い立ちから苦しい闘病生活にいたるまでの経緯を週刊誌のもとめに応じて連載をはじめた。若い女性の命をおびやかす、「子宮頸癌」というだれが考えてもたえられない現実は、読者にふかい共感をあたえた。 つらすぎる五年がなんとか経過して、星香は生還したと思った。その喜びをしるして、いままでの連載記事をまとめて一冊の本にして出版した。多くの読者を獲得し、共感の輪はひろがっていった。 五 「五年」という、医師が最初に話した目標の年月が経過した。 星香の子宮頸癌は、なおったと考えられる最高にうまくいった症例となり、ながく待ちこがれた歳月がたった。這ってでも、そこまで辿りつけばすくわれると、ずっと思ってきた待望の五年間だった。どんなにつらく苦しくとも、五年を目指して無我夢中で暮らしてきた。 「ふたりの子供のため」。「不自由をかけた。旦那さまのため」でもあった。 五年がすぎて、彼女は振りかえってみた。 女の命といってもいいながい黒髪は、一本一本はほそくなったがいちおうは回復していた。くりかえし手術した腹部には、さまざまなながさの傷跡がのこり、そのひとつひとつが、とまどいと苦しみを思い起こさせた。重苦しい感じはあっても、傷としての痛みはかなり軽減していた。くりかえし全身麻酔をかけたので肝臓を悪くしたが、幸い飲酒の習慣もなく、がんらい機能はよかったので、肝細胞の崩壊を意味する数値は回復していた。 五年がたったので、身体のどこかで頸癌があらたな塊をつくりはじめている事態は生じていないらしかった。 手術をして最初に驚いたのは、創部の激しい疼痛だった。身体のむきも変えられない苦痛で、どうやって起きて歩けるのか皆目見当がつかなかったが、やがてすこしずつ慣れて痛みは軽減していった。そのあとにあらわれたのは、急激な火照り感や冷感、冷や汗や動悸をともなう、寝ても立ってもいられない猛烈なだるさで、表現もできない異常な感覚だった。こうした症状は、卵巣をふたつとも摘出したために生じた女性ホルモンの低下で、普通なら、ながい期間をかけてゆっくりと起こるところが、急に変化した結果だといわれた。女性ホルモン剤を服用することで、じょじょに改善したが、自分が浮かんでいる感じはしじゅうあり、かるい眩暈はときどき出現した。 手術して三年目に、胃に初期の癌がみつかった。内視鏡的に治療ができるといわれて処置したが、切り取られた組織を詳細に検討してみると、切除断端にも癌細胞が発見され、思った以上にふかく進展していたので胃摘出手術をうけた。放射線治療を施行したため腹部腸管の血行が悪く、胃と腸がつながるには通常より時間がかかり、食事が摂取不能な状態がながくつづいた。 「なにで、こんなにべつの癌ができるのですか」 星香は、絶望的な表情で聞いた。 「人の身体では、あらゆる場所でつねに癌化が生じているのです。私たちは、生来もつ免疫の力があって、人体各所で起こる癌を日々初期の段階でくいとめているのです。だから免疫力が低下すると、いたるところで押さえつけがきかなくなり、どの組織でも癌細胞が出現する余地がでてきます。星香さんは、適切な食事とかるい運動で、できるかぎり好ましい生活習慣をたもつ必要があります。風邪やインフルエンザにかかって、体力をそこねないよう、日々気をつけることが、とても大切になります。癌化と免疫力とは力関係ですから、身体を休ませ、無理をせず、健康に暮らすしかありません」と医師はいった。 術後の腸閉塞は、二度経験した。そのつど手術になり、うごきの悪い腸の一部を切除しなければならなかった。放射線治療をして腸管の血行が悪化して栄養がいきとどかず、壁がもろくなっているので、つないでも簡単にはくっつかず、縫合不全が生じ腹部に管をいれられた時期もながくあった。 医師からは、三度目の手術は大腸同士を縫合するのは不可能で、もし今度、閉塞が出現したときは、穴をあけて人工の肛門をつくるしかないといわれた。通常なら大腸と腹壁とをつなぎ、左下腹部か臍の上部あたりに人工肛門を造設し、便を摘出できる。そのばあいは、水分を吸収する機能をもつコロンがのこるので、充分に管理方法をまなべば二日に一回くらいの処置で暮らすこともできる。しかし星香の大腸は、もう使用にたえないので、小腸を右の下腹部で腹壁と縫合し、人工肛門をつくらねばならない。そのさいには、便の管理はひじょうにむずかしく、垂れながし状態になるという恐ろしい話をされた。 それを避ける方法を、星香は真剣にたずねた。 「あなたは胃も摘出しましたから、食事はいっぺんには取れません。それに食物がとどまる場所もないのですから、食後に低血糖発作を起こすことにもなります。腸への負担をすこしでものぞくには、柔らかいものをよく噛んで、すこしずつ食べる習慣を身につけなければなりません。低血糖症状が起こったと思ったら、つまり空腹感をともなう冷感や発汗、ぼうっとなる感じが出現したら、すぐに角砂糖をなめるほうがいいでしょう。野菜は煮て軟菜とし、きざんだものを、よく噛んですこしずつ食べる習慣をつけましょう」 医師はそう話すと、パンフレットを読んで栄養士の指導をうけねばならないといった。 こうした症状は、命を直接におびやかす手術の合併症だった。 ある日、ふたりがふざけていたときに、正継が星香の身体をすこし押した。彼女は、よろめいて家の柱に右の脇腹をぶつけた。ちょっとした打ち身だったが、それが痛くて仕方がなく、正継に救急病院につれていってもらった。 医師は、肋骨が骨折していると指摘した。それで胸帯、コルセットを巻いて静かにすることをすすめられた。医師は、星香の話を聞くと整形外科への受診をうながした。 「まったく、おっちょこちょいなんだから。運の悪いやつだね。おれもなんどもやったよ。痛いところを下にして、二、三日我慢していりゃいいんだ」と正継はいった。 すこしぶつかっただけだった星香は、ながくつづく痛みに納得がいかず整形外科を受診した。診察した医師は、肋骨の骨折にたいする疼痛には、胸帯をつけているしかないといった。脊椎の骨密度を計測され、データをみせながら医者は話した。 「どこの骨も、いつ骨折してもおかしくない状態です。手術で両がわの卵巣を取ったために女性ホルモンが分泌されなくなったことに起因する、骨粗しょう症です」とつげた。 「転倒して、もし大腿骨を折れば、人工骨頭をいれなければなりません。普通は歩けるまでには回復しますが、両がわに起こしたばあいにはさまざまな事態が起こりえます。脊椎を圧迫骨折したときには、まず腰がまがりますが、それにともなって神経痛をはじめとする症状が、骨折の程度と場所に応じて起こってくるでしょう。薬剤はありますが、進行を抑えるしかできませんから、絶対に転ばないことが大事です。取り分け風呂場などで転倒すると、思わぬ事態にも発展する可能性をもつので、充分な注意が日ごろから必要になるでしょう」といった。 二度も腸閉塞を経験し、次回は手術もできないとつげられていたから、排便はたいへんな問題だった。便秘にならないために、食事にはできるかぎりの気をつかった。便のコントロールはむずかしく、うまく排便ができると、もうそれだけで一仕事という状態だった。栄養補助食品とかエンシュアリキッドとかいう高カロリーの液状物質を主食とし、似た味しかないゼリー飲料に頼らねばならなかった。それでも、うまく便がでないと、つぎになにが起こるのか考えて、目のまえが真っ暗になった。 子宮頸癌の手術で広範なリンパ節を郭清した星香は、下肢のリンパ浮腫に悩んでいた。リンパ液は、血流とおなじく全身をくまなくめぐって老廃物を除去しながら左右胸部の大血管までいき、そこで血液中に排泄される。下肢のリンパ節を郭清したためにリンパの液がながれる場所をうしなって生じる、対処しがたい足の腫れだった。かつて血管をみつけて点滴するという技術も道具もない時代に、リンゲル注射といわれる手技が知られていた。腹部や大腿部に針を刺し、重力によって水を付加する方法で、行き場をうしなった水分は皮膚の下でたまりながら、じょじょに浸透し、入れた量だけ身体が腫れる、苦痛をともなう処置だった。しかし注射が終われば、あらたな負荷はかからないから、やがて液は吸収された。 リンパ浮腫のばあいは、注入がやむなくつづいている状態に相当するので、この浮腫をともなう疼痛への対処はむずかしかった。弾性のストッキングを巻いて、下肢を挙上して横臥するしか方法はなかったが、ずっとそうした姿勢を取りつづけることはできなかった。 数々の予想をはるかにこえる苦しみがつづくなかでも、星香がさらに絶望的に感じたのは毎日の排尿だった。 通常、一〇〇ミリリットルほど尿が膀胱にたまると、知覚神経によって脳につたえられ、「ある」と感知され、三〇〇ミリリットルくらいまでは我慢ができる。こうした排尿機能は訓練が可能で、天皇陛下が天覧相撲などで長時間観戦されても、そのあいだに席をはなれないのは鍛錬の賜物とされる。おそらく陛下は五〇〇ミリリットルくらいの尿を膀胱にためることができ、一日三度も排尿すれば、事足りる能力をもっている。しかし、貯留は分かるから、我慢の限界にちかづけば放尿するので生活には問題がない。 星香は頸癌手術により、膀胱の知覚神経を切断されたので、尿がたまるのが不明になっていた。だからといって無限に貯留は不可能だから、ある程度をこえると、漏れだす事態に落ち入った。これは、かならずしも量が多いから漏出するのではなく、コントロールができなくなった状態だった。気をつけて時間を決めてトイレで腹部を押して排尿しても、すぐに漏れることもある訓練の仕方もない事態だった。 この状況は、彼女に取って苦痛以外のなにものでもなかった。自分で気をつけることもできず、医師に相談しても、時間を決めての排尿しか手立てがないといわれた。もし尿臭が漂っても、だれも直接教えてくれないから、周囲から人がいなくなるだけだった。相談もできずに家にとじこもって考えていると、いっそう憂鬱になり外出するのも恐怖を覚えた。 「いったい、なにがなおったんだろう」 星香は、思わざるをえなかった。 たしかに頸癌が再発する可能性は、ひくくなったらしい。しかし、いまや生活にはあらゆる部分で制限がつき、不安はひとつも解消されず、不自由なままで、生きている自体が苦痛だった。 子供たちの成長をみることだけが、気をまぎらわせてくれた。彼らがいなかったら、死んでしまったに違いなかった。 正継は、「命が助かったから運がよかった」としかいわなかった。星香がかかえる多くの困難を、いくら話してもなんの理解も示してくれなかった。彼の女癖の悪さはつづき、 「おまえに相手をしてもらえないのだから仕方がないよ。おれも不自由なんだ」と正継はいって従来の生活をつづけた。 星香は、この状態で相手のしようもなかった。 浮気の件では、いい争いがたえなかった。争っていると、娘と息子が、ふたりのあいだに入ってきて泣いた。その姿をみると、星香は正継になにもいえなくなり、喧嘩もつづけられなかった。 幼いころに階段の踊り場で聞いた両親の会話が思いだされ、母の香織がどんなにつらい立場だったのか、いまはよく理解ができた。 「おまえの言葉にしたがって、パイプカットもしたんだ。おれにだって自由がある」と正継は最後にはいった。 「外で、子供だけはつくらないでね」 先妻の遙佳は、仕方なく、そう頼んだに違いなかった。おそらく母の香織も、最後にはおなじことを父にいったのだろう。 「すべて、私が頸癌になったからなんだ。これが、運命だったんだ」としか、思うより仕方がなかった。 ある日、星香が出版した書籍にたいしてファンレターがとどいた。手紙のなかで、デビュー以来のファンで医者だと名乗る男は、子宮頸癌をのりこえた彼女の凄絶な闘病生活をさんざんに賞賛したあとで、最後に「なぜ、あなたは、こんな性的に自由な人がかかる病気になったと考えているのですか。よくご主人に我慢ができますね」としめくくられていた。 子宮頸癌が、男性経験の多い若い女性に頻発するのは知識としてはもっていた。どうして自分だったのだろうか、といつでも思っていた。とくに告知された初期のころには、ずっと疑問だった。しかし困難な現実をまえに、癌はだれにでも起こる可能性があり、運が悪かったと考えるようになっていた。つぎつぎに予期せぬ事態が続出し、対応するのが精いっぱいで、頸癌の原因など二のつぎだった。便秘でうなりながら、手紙の文章が脳裏にこびりついていた。 半年に一回の診察になっていた婦人科の医師に、星香は聞いてみた。 「私の、頸癌の原因はなんなんですか」 星香がたずねると、医師はなんと答えたらいいのか分からず、 「なにが知りたいのですか」と逆に聞いた。 「ですから、なぜ、性交渉の多い若い女性に頸癌が発生しやすいのですか」 「ああ、そういう問題ですか」 医師はすこし考え、「運命というものではないのですか」といった。 「私は、主人しか知らないんです。先生は、芸能界が乱交状態だと思っているんでしょう。そういう部分があるのは、知っています。でも私は、主人しかいなかったんです」 医師は、こまった顔になった。 「なにか、話しがたい理由があるんですか。知ってはまずいことなんですか。私は、術後がこんなにもたいへんだなんて、ぜんぜん考えてもいなかったんです。五年さえたてば完全になおる、元にもどるんだとばかり思っていました」 「たぶん、そうは話していないでしょう。最初からあなたの受け持ちだったのではありませんから、どういう話をお聞きになったのか分かりません。私たちは、癌は完治もありうると、普通は話しているんです」 「先生を責めているのでは、ありません。よくここまでなおしていただいたと、感謝しているんです。でも五年がたって一息ついて、周囲をようやくみまわす余裕ができると、私、生活するのがそんなに簡単ではないって、はっきり分かりはじめたんです。それは、生きたから考えられることで、ほんとうに感謝しています。でもあらためて思うと、どうして癌になったのか分からなくなって」 医師は、だまっていた。なにかがあるらしいと星香は感じたが、診察の時間はかぎられ、仕方なしにつぎの予約日を決めた。彼女は診察室の扉をしめながら、困惑気味の医師の表情を思い浮かべた。 家に帰って、手紙を読みなおした。 「でもなぜ、あなたは、こんな性的に自由な人がかかる病気になったと考えているのですか。よく、ご主人に我慢ができますね」 最後の文は、あやしく光っていた。なんとなく読みとばす言葉はあると思った。 「ご主人は、我慢」 そんな言葉を、なんども正継から聞いた気がした。しかし、かいてある助詞は「に」だった。だから主語は隠れ、「私」に違いなかった。とくに思いかえさなくとも、「性的に自由」で、それも「並外れて、大いに勝手」で、「際限もなく、いまだに気まま」でありつづけているのは、正継だった。 彼が、原因なのだろうか。 星香は、その考えが頭からはなれなくなった。リンパ浮腫で月に一回通っている医師に相談しようかとも思った。しかし、確実な話を、一般論ではなくて特定の原因を聞きたかった。 星香の頸癌手術を担当した当時の主治医は、病院の副院長になっていた。五年がたち、なんとか頸癌を克服できた報告をかね、挨拶にうかがいたいという話を秘書につたえ、三〇分の時間をもらう約束をして、副院長室をたずねた。 部屋のまえには、若い女性がいた。秘書は、星香をみると立ちあがって、副院長室の扉をあけ、室内に案内した。ソファーにすわると、しばらくしてお茶をもってきて、彼女のまえにおいた。そのとき、秘書は可愛い笑みを浮かべた。それをみて、星香はドキッとした。若くて可愛かった自分は、もういない。こんなに無邪気な微笑みを、だれにもあたえることはできないと思った。 元の主治医は、星香の訪問を喜んでくれ、日常的な暮らしについてしばらく話した。彼女は礼をのべ、来訪の趣旨を説明した。すると医師は押しだまって、考えはじめた。 「いま診察をうけている先生にも、うかがったんですが、話してくれないんです。答えにくい話なんですか」 「原因はいろいろで、確実にこうとは申しあげられません。お話をうかがって、なにを感じていらっしゃるのか、充分に分かりました。私たちはいろいろと考えないと、勝手な憶測だけで申しあげるのは、避けねばならないんです。たとえばですね、旦那さんがパイプカットをなさったとうかがいましたが、それでも子供ができるばあいはありうるんです。精管は二本あって、それぞれ大きく切りはなし、幾重にもしっかりとしばるんです。それでも自然に癒着し、再開通し、子供ができた報告も存在するんです。だから、裁判になったときにはたいへんです」 「なにが、おっしゃりたいんですか。先生、あたし、ほんとうに頭が悪いんです。自分が馬鹿で、ずっと両親にも周囲の方がたにも面倒ばかしかけて、世間を騒がすばかりで、いいことなんかなにもしなかったって、よく知っています。愚かな私が、先生のお話を誤解して、また妙な行為をはじめるのを心配してくれているのは分かります。だから、可能性でいいんです。先生には、決してご迷惑はかけません。感謝しているんです。でも、どんな可能性があるのか教えてください。私、考えはじめると、すっかり分からなくなっているんです」 星香は、ふかぶかと頭をさげた。 「一般的に、子宮頸癌は、STDと考えられています。ようするに、性行為感染症のひとつだろうということです。すべてがそうだとは、だれにもいえません。いろいろなばあいがありうるし、人には分からない症例は、たくさんあります。だから星香さん個別の話ではなくて、ごく一般論ですが、性行為にともなうウイルスの直接的なうけわたしによって生じることが、いちばん多いんです。つまり、たくさんのパートナーがいれば、そのなかのだれかが病原ウイルスをもつなら、それが相手にうつり、さらにあなたに感染するばあいもありうるんです。これは、あくまで可能性です」 医師はそこで話をやめた。 星香は、しばらくだまっていたが、やがて口をひらいた。 「つまり、多くの人と交渉しなくても、パートナーがたくさんの交渉相手をもち、なかのだれかが感染していれば、うつるばあいもあるんですね。私が、たったひとりしか男を知らなくても、その相手からうつされた可能性もありうるんですね」 「これ以上は、分かりません。あなたは、たいへんつらい日々をかさねて、いまでも生きるのがやっとなのは、よく存じあげております。できれば星香さんには、幸せになってもらいたいと思っています。この病気は、若い世代の方に発生するので、小さなお子さんがのこされたりするたいへん悲惨な癌です。多くの人たちが原因を理解して、頸癌にかかるのを防げれば、人が不幸せになることもへらせるはずです。なおすよりも、予防の方法をよく知らしめ、推進する必要があると思います。私たち、医療関係者の怠慢と力不足で、たいへん申しわけございません」 医師は、星香に頭をさげた。 彼女は、副院長にふかぶかと敬礼して部屋をでた。 家に帰ると、星香はぼうぜんとしていた。身体中から力がぬけて、なにをする気力も起きなかった。苦しみをあたえたのが正継であると、いまや彼女は確信していた。ネットで記事を検索したが、明確に感染症とはかかれていなかった。図書館で分かる程度の医学書を閲覧すると、ウイルスが仲介すると記述されていたが、それ以上のことはよく理解できなかった。しかし、副院長が最新の知識を教えてくれたのだろうと星香は思った。そうと分かった以上、もはや正継を許せなかった。骨折したときの態度や、体力の回復がないなかで放射線治療をうけさせた場面を思いかえしても、自分のことしか考えていなかったのだと思った。それはまえから分かっていたのだが、状況を照らしあわせると、どんなに寛容であろうとしても、とても受容不可能な行為としか思えなかった。 星香は、いままで正継のすべてを許すことができた。そして、現に全部を承諾してきた。どんなに裏切られても、正継の性格を充分に知ったうえで愛し、たいへんな離婚騒動を起こし、遙佳からうばって結婚したのだ。しかし、もし彼が子宮頸癌までうつして星香の健康な身体までむしばみ、犠牲にして、この状態にまで追いやったならば、どうして許すことができるのだろうか。正継は自分の娯楽のために、愛し支えた者に、ここまでの代償をしいたのだ。病気にかかって迷惑をかけたとばかし思って、肩身をせまくして五年間、暮らしてきたのだった。しかし、そもそも頸癌をもたらしたのは正継だった。不合理な堕胎も経験した。名もない生命を殺したのは、星香だった。それを命じたのは正継だった。その後に蒸しかえしたことはなかったが、いつも思い、胸が痛んだ。正継は、最後には星香が思いのままになると、馬鹿にし、かるく考えていた。ふたりの子供をえようと妊娠で苦しむあいだ、ずっと裏切っていたのだ。犠牲と苦悩をあたえつづけたのは、間違いなく正継だった。 星香は、ぼうぜんとして一週間をすごした。なにも手につかなかった。うまれてはじめて、死にたいと思った。このまま生きていたら、発狂してしまう気がした。自分がなんのために懸命に暮らしてきたのか、もう分からなかった。この感情を押し殺し、子供を育てつづけられるのだろうか。 星香は、また嬰児を殺したことを思いだした。 「ようやくうまれた命を、いわれるままに死なせてしまった。正継がなんと主張しようとも、拒否してうむことができた。大人だったんだから。助けてやれたのは、世界で私ひとりしかいなかった。それなのに、いわれるままに堕ろしてしまった。すすめたのは彼だったが、殺したのは私だった。美代子さんは、わざわざ部屋によんで、正継は危険な男だとくりかえしいった。倫理観を完全に喪失しているとつげた。演技ではなく、がんらいが下品だ。絶対に、隙をみせてはいけないと、なんども話してくれた。まわりのみんなが、星香ちゃん。あんな男にひかれては駄目だよと声をかけてくれたのだ。星香ちゃん。自分をもっと大切にしないと。周囲にいた、だれもがいってくれた。それに、お母さん。あんな、汚らしい下品な男と性関係をもつなんて。そういって、泣いた。お父さんに、なぐられた。遙佳さんは、三人の子供たちまでいたのに。私が、別れさせたのだ。全部、自分がしたのだ」 星香をおそっていたのは、大きな喪失感だった。彼女は、伴侶をうしなっていた。しかし、とつぜんなったのではなかった。はじめからそうだったのに、彼女が気がつかないだけだったのだ。思いたくなかっただけ、かも知れない。だから考えずに、懸命にまえだけをみて生きてきたのだった。しかし、もうこれ以上はできなかった。この喪失感は、癌を宣告されたときよりもずっと大きかった。彼女は、苦しみにたえる足場の、もっとも重要なパートナーを欠いていたのだった。 「もう、だれも助けてはくれない。夫も、父も。そして、母でさえも、できない」 正継は、子供に会うために帰宅したが、星香にたいする態度は変わらなかった。彼が、仕事でしばらく帰らないと話して東京にでかけた翌日だった。星香は、朝やってきた正継の付け人の若い男に、 「何日か旅行する。そのあいだ、子供をなんとかみていて欲しい」とつげた。 数日間、様子がおかしいことに気づいていた付け人は、さらに雰囲気が違う星香に、「奥さん。大丈夫ですか」といった。 星香は、なにも答えることもなく、現金とカードが入ったバッグをもってふらりと家をでた。タクシーをつかって、京都のバスターミナルにいった。発券所の係員に、星香は聞いた。 「海がみえるところに、いきたいのですが」 「太平洋ですか。日本海ですか。それとも瀬戸内海ですか」 女性の販売員は、星香をみて聞いた。 「日本海がいいわ」 「そうですね。その海が、いちばん女性的ですからね」 女は、番号がかかれていた券をさしだしながらいった。 星香は、バスにのった。乗り合いバスは、彼女を待っていたらしく、すぐに出発した。 星香の席は進行方向の左がわ、なかほどだった。真んなかの通路をはさんでふたりがけの椅子がならび、後部は円形のテーブルがおかれ、まわりをながいシートが取りかこんでいた。バスのなかは、空席が目立った。のりあっていたのは、ぐあいの悪い者ばかりだった。後ろのながいシートには、点滴をしながら老婆が横になっているのがみえた。伴侶らしい年老いた男が、そばにつきそっていた。遠くからみても、老婆は息も絶え絶えで、いつ死んでもおかしくないほど弱っていた。右がわのふたりがけには、三〇歳くらいの容姿のととのった女性が、赤ん坊の人形を抱いてすわっていた。女は、そのぬいぐるみを自分の乳児だと思うらしく、ミルクをあたえていた。どうしても飲まない人形に、いろいろとずっと囁きつづけていた。 まえから二番目の席に、若い女がすわっていた。どうやら癌らしく、ときどき苦痛のうめき声をあげていた。その右がわの席には、かなり年老いた白髪の男がすわっていた。伴侶なのか父親なのか、星香には分からなかった。そのまえの席は、ちょうど運転手の後ろになるが、男女のふたりの小さな子供がいて、お菓子を食べながら楽しそうにお喋りをしていた。 老婆の溜め息、狂った女性の囁き声、若い女のうめき声を聞きながらバスは走っていた。いたたまれない思いですわりながら、時間がたつと乗り合いバスは、日本海がみえる崖がある場所についた。彼女がそこでおりると、バスはまた走っていった。 穏やかな春の日で、崖からは日本海がみえた。大きな桜の木が一本立ち、満開の花びらがつぎつぎにちっていた。ピンクの花弁は弱い風にのり、青い海にむかって棚引いていた。ちょうど夕日が、大海原にしずみこもうとしていた。オレンジ色の太陽は、とても綺麗で、厳粛な感じで、死ぬにはいい場所だろうと思った。みおろすと海面までは一〇〇メートルちかくはあり、崖の下に波がうちよせる音がくりかえし聞こえ、くだけて白くなっているのがみえた。 そのとき、星香の携帯の着信音が鳴った。メールがきて、「ホテルで待つ」とかかれていた。彼女は、死ぬのは明日で、今日は待ちあわせの約束をしていたのを思いだした。 それで、崖のすぐちかくの大きなホテルにいった。 「日本海が眺望できる、素晴らしい大浴場と露天風呂があります」とフロントの係員がつげた。 星香はエレベーターにのって、最上階にいき、自室に入った。スイートルームで、いくつもの部屋がつくられ、大きく切られた窓からは、日がしずみ暗くなった日本海が一望できた。 星香は病気になってから、温泉にいく機会があっても、大浴場には入ったことがなかった。人に裸をみせるのはもちろん、自分でもしっかりみるのは意図的に避けていた。最上階のスイートルームには、大きな風呂場がついていた。そこには、全身が映る姿見が備えつけられていた。 星香は、大きな鏡のまえで裸になって、じっと自分をみた。 身体のいたるところに、縦の線がついていた。そこには、横に糸でしばったあとがつけられていた。どちらの手足もひどくやせほそり、乳房はみるもあわれに、すっかりしぼんでいた。表情も、魂がぬけでたあとの感じに思えた。まるで、自分が死人にもみえた。美しいところなど、どこにもなかった。鏡には映らなかったが、星香の心がさらにひどく八つ裂きにされているのが、ありありとみえる気がした。そのざくざくに切りきざまれた心臓は、腹部とは違って、ぬわれることもなく、赤い肉があらわなままに放置され、段差がつき、めくれ、むきだしになり、あまりにも痛々しかった。 「とても、もう生きてはいけない。よく、ここまで生存してきた。なんてすごい、生命力なんだろうか。だれもいってはくれないが、その力を、自分でほめてやりたい。なぜ、こんなに生きてきたんだろう。なにを望んで、ここまできたんだろう。もう、許してやってもいいのではないか。これ以上ただ生きながらえて、さらに傷をふやし、きざまれるのは、あまりにも可愛そうすぎる。すこしは、自分の心や身体も、考えてやるべきだった。もう、このへんで許してもいいのではないか」 「自殺したいとは、いままで一度も考えたことはなかった。なぜ、だったんだろう。普通はここまでくるまえに、自殺するか、気が狂うかして、こんなにずたずたにはならないんだろう。そうすれば、傷つけられるのは、やめられたに違いない。なんで、生きているんだろう。なぜ、死ねないんだろう。頭が、おかしいのではないんだろうか。こうなるまえに、普通は気が狂うんだろう。もうすでに、発狂しているんだろう。だから、平気で生きてこれたんだ」 「死なないから、苦しまねばならない。発狂しないから、現実をみつめなくてはならない」 星香は、自分の裸身をみて、涙がでてきた。ベッドに入ると、枕をかかえて泣いた。そのとき、木魚の音が聞こえてくるのに気がついた。起きてとなりの部屋にいくと、みた記憶がある僧侶がいた。秋葉家の谷中の住職が、祭壇にむかって読経をしていた。 たくさんの白い菊の花にかこまれた、小さな壇の中央には、星香の写真がかかげられていた。 「ああ、ついに死んでしまったんだ」 彼女は、それをみて思った。 とても生きつづけられないと考えたから、死にはまったく違和感はなかった。どちらかといえば、とうぜんだろうと思った。のこした子供たちを不憫に感じた。正継は子供好きだから、だれかべつの女性と再婚しても、可愛がるに違いないと思った。 六畳のせまい部屋には、棺がおかれ、白菊にかこまれていた。特別なことでは、なかったのだろう。住職のほかには、だれもいなかった。ひとり切りで木魚をたたき、鐘を鳴らして、経文を唱えていた。夕方らしく、真っ暗ではなかったが外はあかるさに欠け、しとしとと雨がふっていた。 星香が、住職の後ろでぼうぜんと立っていると、背後で天使たちの会話が聞こえた。 「あれだけ傷をつけられたんだから、死ぬに決まっている。よく、いままで生きてきたもんだ。身体中、無事なところがひとつもないんだ。驚くくらい、鈍いんだろう」 ふたりの天使が、星香の死について話しあっているのが聞こえる。聞いた声だが、だれなのかは分からなかった。 涙をながしながら、自分が死んだことを考えていると、星香はよばれて、となりの小部屋に入った。部屋には、縄や鞭、サーベルやピストルがいたるところにおかれている。目のまえにテーブルがあって、大きな椅子に天使がふたり、ならんですわっていた。その後ろに床の間がつくられ、山水画がかかっていた。テーブルのまえがわに、あきらかに背のひくい小さな椅子があり、星香はそこにすわった。大きくはない部屋だが、さまざまな武器がおかれ、背丈の高い座椅子に腰をおろしたふたりの天使たちが、彼女をみおろしていた。 ひとりは、白髪になったかなりの年長者で、ねずみ色の家紋の入った喪服をきていた。その菊の紋を、星香はみた記憶があった。もうひとりは、中年の頭部を角刈りにした天使で、黒い背広をきて、サングラスをかけていた。 「なんで、こうなんだろう。どんな原因があって、こんな結果になったんだろうか」 年老いた天使がいった。 「考えられないことだ。どうして死なないんだろうか。悪魔め」 星香がすわる目のまえで話をしていた男の天使たちは、むきなおると彼女をみつめた。若いほうの天使がいった。 「あの女を殺せるものは、世の中でおまえしかいない。あれは悪魔だから、簡単には死なない」 そう話すと、あわい緑色の柄がついた見事な短剣を取りだした。 「この剣だけが、魔女を殺すことができる。始末するのは、おまえの仕事だ。あの女の心臓の真上から、これをつき立てるしかない」 天使は、机のうえに短剣をおいた。それには、柄とおなじ色の緑の鞘がついていた。天使が外して抜き身にすると、短剣といっても刃のながさは二〇センチ以上もあり、ぴかぴかと輝き、先端部はみるだけでも怖いくらいに尖っていた。 「自分の結末は、つけなさい」とふたりの天使たちは声をそろえていった。 それで星香は、抜き身の短剣をもち、となりの部屋に入った。 そこは、せまい三畳間で、ふるいピアノや、小さなサイズの洋服、それに絵本や絵日記、人形や動物の「ぬいぐるみ」などがぐちゃぐちゃにおかれていた。ちらかり、だれも整理をしていない感じにみえた。 雑然とした部屋のベッドに、女が横たわっていた。呼吸もできないらしく、口には管が入り、人工呼吸機のチューブがついて、規則的にうごいている。いまにも死にそうにみえる女は、ショーツ以外は裸で横たわっている。腹部にはさまざまなながさの傷が縦につき、醜く変形していた。両の乳房はしぼんで、頬はこけ、手足は枯れ木みたいにほそかった。みんながこの女を殺そうと考えたのは、間違いのないことだった。 横たわっているのが仮に悪魔だとしても、もう瀕死の状態だと思えた。やつれ切り、傷だらけで、二度と立ちあがれないだろう。女は、貧相なベッドにおかれ、あきらかに粗末にあつかわれていた。すでに、死んでいるのかも知れなかった。呼吸機は、必要がないのだろう。みているだけでも可愛そうで、私が外してやりたい。しかしそれは、お医者さんの仕事なのだろう。自分でしては、いけないことなのだろう。 星香は、部屋をでようと思った。振りかえると、扉にふたりの天使たちが立っていて声を荒らげた。 「なぜ、殺さない。こいつは、悪魔なんだ」 「なぜ、刺し殺さない。なにもしなければ、また生きかえってしまうんだ。いまが、いちばんいいチャンスなんだ」 「この人が、なにか悪いことをしたの」 星香はたずねた。 「善悪ではなく、これは悪魔なんだ。だから、こんなになっても死ぬことがないんだ。神にもみすてられたのが、はっきりしている。死なないから、苦しまねばならないんだ。発狂しないから、現実をみなければならないんだ。こんなになるまえに、始末してやらねばならなかったんだ」 若い天使が答えた。 「でも、すっかり弱っているわ。なにもしなくっても、もう立ちあがることさえ、できそうもないわ」 「そうではない。生きているのが問題なのではない。死なないことが、いちばんのトラブルなんだ。自分で死ねない以上、この女は殺さなければ、なにをしでかすか分からない。みる通り、不気味な生命力だけがあるんだ。こうしたばあいには、きちっと処分し始末することが、もっとも重要なんだ」 「刺せ」。「殺せ」と天使たちは喚きつづける。声は大音響になって、小さい部屋にとどろいている。 その太くてひくい喚き声を聞くと、星香は頭がわれそうに痛み、もうわけが分からなくなった。命令にしたがうまで、天使たちは喚くつもりに違いなかった。女性のまえに立って剣をもつ彼女の、すぐ背後まで若い天使はつめより、殺害の指示をくりかえした。幾度も躊躇いながら、声に負けた星香は、短剣を女の心臓の真上においた。なおも耳元で騒ぎつづける喚声に押され、彼女は両手で剣を胸に刺した。 星香が短剣を突き刺すと、「押しこめ」。「もっとふかく」と背後で天使は喚いた。それで、彼女は、根元までふかぶかと短剣を突き刺した。恐怖で両手がふるえた。 「殺してしまった」と星香が思ったときには、天使たちは背後からいなくなっていた。いまは、ひとりぼっちだった。 突き刺したところから、なにかがあふれていた。よくみると、それは赤い血ではなく白っぽい物質だった。短剣の柄を両手でにぎりしめてふるえる星香の手をつたって、おびただしい銀色のものがわきでていた。それが光であるのに気がつくと、輝きは女性の身体全体におよんでいた。 そのとき、ふいに人工呼吸機につながれた女は、目をさました。綺麗で、とても優しい瞳だった。二〇歳くらいの若い女で、星香をなにもいわずに、じっとみつめていた。 「なぜ、私は天使たちの言葉にしたがって、この人を殺してしまったんだろう」 ひどい後悔がやってきた。星香は、両手で短剣をにぎりしめたままの格好で固まり、涙が両眼からあふれでていた。 輝いている女は、やがて顔かたちがはっきりとしてきて、刺した相手が遙佳だったと分かった。 「遙佳さんだったんだ。私は、なぜ刺し殺してしまったんだろう」 星香は、短剣の柄をにぎりしめ、ふるえる自分の両手をみつめて考えている。涙が止め処もなく、ながれでている。 その様子をみた遙佳は、微笑みを浮かべた。そしてつぎの瞬間、母の香織に変わった。 「お母さん。ごめんなさい。私が、間違っていたわ」 彼女は、涙をぼろぼろとこぼしながら嗚咽した。 「いいのよ」と香織はいって微笑みを浮かべた。 つぎの瞬間、さらに輝きが増し、女は煌めきなら立ちあがった。人工呼吸器についていたチューブが口から外れて、どこかに飛んでいった。香織が立ちあがっても、彼女は短剣を両手でつかんだままだった。心臓をつらぬいたはずの傷口から、大量の銀色の光がこぼれて、星香に落ちてくる。ふるえながらぼうぜんとみる彼女のまえで、香織はさらに変容した。刺した相手は、今度は金色に眩めきながら星香になった。 「ついに、自分自身を殺してしまった。ここまで痛めつけて、傷だらけにした私を、最後に自分で刺し殺したんだ」 驚いて呟くと、胸に短剣が刺さった星香は、ますます黄色く輝き、光があふれてこぼれてくる。黄金に光る彼女は、全身に目がついていた。星香は、部屋いっぱいにひろがり、あふれ、周囲を金色にそめながら、柄をにぎりしめてぼうぜんとふるえて立つ自分を、両腕でつよく抱きしめた。短剣は、さらに彼女をふかくつらぬいた。 「ついに、あなたに私を殺させるまで、彼らはしたのね。でも、心配しなくていいのよ。あなたは、私だから。私たちは、ひとつだから。私とあなたがいっしょであるかぎり。だれであっても、私たちを傷つけるなんてできないのよ。私とあなたがいっしょのかぎり、どんなものにも負けないのよ。あの男たちと、戦いなさい。あなたのものを、取りかえすのです。すこししか愛をもたない人は、わずかな罪しか許されない。多くの罪業をおかしても、たくさん愛した者だけは赦されるのよ」 穏やかな言葉が、心にひびいてきた。そして星香を温かくつつみこみ、巻きつき、巻きこみ、やがてふたりはひとつになった。 彼女は、自分が金色に輝いているのが分かった。 星香は、ホテルの最上階からひろい日本海をみた。真夜中で、暗い海にはあかるい月がでていた。 「生きてやる」と星香は思った。 殺人をそそのかした男は、正継だったのだろう。もうひとりの年配の男性は、幸一朗に違いないと彼女は思った。正継の背後で、指示をだしていた老いた男は、きっと父親だったのだ。父は、若い男性が力を行使するのを黙認していた。だから、サングラスの男の親玉ともいえるのだろう。つまり、幸香もまた、幸一朗の被害者だったのだ。自分が愛したのは、正継であり、父親だったのではないか。遙佳からうばったのは、母の香織から父をえようとしたのとおなじだったのだ。結局、自分は父親を愛していたのだ。幸一朗は、この間違いを正してくれなかったのだ。ふたりの娘に、真の父親像をみせず、母を下僕としてつかえさせた、偽の王子だったのだ。そうして、彼は若い女をねらっていたのだ。母の香織もふくめて、姉と彼女の三人は、この男の被害者だったのだ。 星香は、直接正継と話しあっても仕方がないと考え、ついに決断した。東京にいき、秋葉の家に香織をたずねた。 母はもう八〇歳にちかく、どこまで話すべきなのか悩んだが、星香のたったひとりの味方だった。 「お母さん。いま考えていることがあって、どうしても弁護士の先生を教えてもらいたいの。心配しなくても、大丈夫よ。事情は、お母さんにはなんでも話すわ。でも、もうすこし方針がはっきりしてから、相談にのってもらいたいの。信頼できる先生を紹介してくれる」 「分かったわ。でもね、いくつになっても心配するのが、母親の仕事なのよ。力にはなれないのでしょうけれど、話だけはしてね。紹介するのは、私たちがずっと以前からなにかと相談にのってもらっている充分に信頼できる方ですよ。お話しして、どうしたらいいのか、よく教えていただきなさい。そうすれば、適切な先生を紹介してくれるでしょう」 香織はいって、弁護士の名前と事務所の電話番号を教えた。 星香は、さっそく弁護士事務所にいき、訪問の目的を話した。 紹介された先生は、東京で大きな法律事務所をひらき、一五、六人の弁護士をかかえていた。おおむねを聞くと、離婚を専門とする者をよび相談をはじめた。しばらくすると、担当の弁護士は、問題点を大きく三つに分けた。 第一は、離婚の正当性を担保しなければならない。女遊びをしていただけでも根拠にはなるが、特定の女性がいるばあいは問題の根はさらにふかくなる。探偵事務所をやとって身辺調査を行い、決定的な現場をつかめればかなり有効だ。第二は、もし子宮頸癌の原因が正継によるとしか考えられないなら、相応の慰謝料を請求できる。学問的に正しいのか確認しなければならないが、これも弁護士が専門の医師をたずねて助言や資料をもらえる。さらに訴訟大国のアメリカで同様の裁判があるかをしらべ、勝訴の判例が存在すれば大きな支援材料になる。最後は、正継の支払い能力を検討することで、一覧表をだしてもらえば試算できる。もしかすると、かなりの金額になるかも知れない。いずれにしても、隠密にやるのが必要で、相手がこちらの策動に気がついて防衛をはじめると、簡単にはいかなくなる。正継に知られないのが絶対に都合がよく、もっとも重要になる。 「主人も、裁判沙汰は望まないと思うのです。さまざまな女に手をだしているのは間違いありませんが、それでも特定の相手はいるのでしょう。くりかえしの離婚騒動となれば、正継も前回でこりたと思います」 「それは、程度問題ですよ。こりたかどうかは、本人以外には分からないです。ほんとうに失敗したと思うなら、理由はともかく、あなたを悲しませ、こうした事務所にこさせることにはならないのです。支払い能力のどの程度まで要求するかですが、仮定の話ばかりをしても仕方がないでしょう。この三点を、みきわめましょう。それらがそろってから、よく相談しましょう。私たちはあなたの味方になりますから、なんでもほんとうのことをいっていただいたほうが得策です。よろしいですか」 「分かりました。考えられるだけの資産を、一覧にしてみます」 「保険とか、車とか、不動産とか、型式などをふくめて分かるものはなんでもかいておいてください。あとは、こちらで時価に換算します」と弁護士はいった。 星香は京都に帰ると、正継には知らん顔でなにも話さず、思いつくかぎりのさまざまな資産をノートに記入し、貯金の額などもふくめて事務所におくった。三ヵ月ほどで、おおむねの資料がそろったという連絡をうけ、また東京にいった。 探偵が調査した報告では、正継には懇意にする女性がいて、家を買って住まわせていた。それもひとりではなかった。相手の女性の顔写真や、ふたりが親密にする姿の写真もそろえられていた。さらにアメリカでは頸癌の訴訟が現実に起こって、被害者が勝訴した判例がある。つまり学問的にも感染症であるのがみとめられ、慰謝料を加算することができる。正継の資産は、ふたりの愛人の家屋までふくめると一五、六億円あると考えられるといった。 「それで、いくらを請求しますか。子供さんたちはどう考えたらいいのでしょうか」 「アメリカの判例では、請求はどんな額までできるんですか」 「それは相手の支払い能力によるわけです。一概にはいえません。法律というのは、可能な範囲を要求するもので、できない請求をしても仕方がありません。現実的に考えるのが大切です。そういう意味あいからは、請求し甲斐がある相手ともいえます」 星香は、正継がいま懇意にしている女性について考えた。そこにも家庭があって、家族がいるのだ。それを、こわしてもいいのだろうか。いちばん悪いのは正継なのだが、それでもやはり、女にも非があるに違いなかった。過去の自分を思いかえしても、愚かであるのはおなじだった。星香は、動揺した。しかし、そのために規範となる法律があって、人としてやっていい範囲と許されない出来事が、決められているのだろう。 「全部、取りあげることもできるんですか」 「それは、要求は可能です。現実に取れるかどうかは、額が多くなればなるほど、相手があることですから、納得させるのは困難です」 「同意しないと、どうなるんですか」 「それで、裁判が起きるんです」 「子供の親権は、ゆずれません。正継が、親としての責務をはたせないのはあきらかです。私の心情としては、結婚当時に彼は一銭ももっていなかったのですから、それから約二〇年のあいだに稼いだものは、すべてもらいたいと思います」 「人気役者で、さまざまな主役をしたといっても、ものすごい稼ぎですね。もちろん稼げたのは、奥さまがいたからですが」 弁護士たちと、彼女は綿密な計画を立てた。 七月のある日、正継は、夏休みの子供たちをつれて実家に帰っていた星香から電話をもらった。 「折り入って相談したいので時間をつくってきてもらいたいが、秋葉家で話すか、それともべつの場所がいいのか」と問われた。 「これは、ただ事ではない」と彼は思った。 正継は、秋葉の実家にいい思い出はまったくなかった。その家の床にさんざん頭をすりつけた記憶は、けしがたい印象としてふかく心にのこっていた。香織や幸一朗は健在だったから、ご挨拶もしなければならないのだろうが、いかにも敷居は高かった。それで、秋葉家でなければ、どこへいってもいいと答えた。 ものすごく暑い日で、蒸してもいた。正継は、待ちあわせたホテルのロビーで星香と会った。タクシーにのってつれていかれたのは、大きな看板がでている法律事務所だった。それをみると、正継は猛烈にいやな予感がした。弁護士の先生にも、いい思い出はまったくなかった。 「こんなところに、いくのかよ」 「そうよ。秋葉の家よりは、増しなんでしょ」 しぶる正継の手をひいて法律事務所に入り、玄関でスリッパにはきかえると、通路ぞいの扉をあけて一〇人以上もすわれる大きなテーブルがおかれるひろい部屋にいった。室内は、肌寒いと感じられるほどクーラーがきいていた。 正継が入ると、黒い背広で身をつつんだ、落ちついた感じのかなり年配の男が、よろよろしながらやってきて弁護士だと名乗った。名刺をわたし、挨拶をして、扉と反対がわの中央の席をすすめた。彼が腰をおろすと、となりに年配の男が、正面に星香がすわった。やがて扉があくと、さまざまな書類をかかえた真黒な背広をきた男たちが、無言のままぞろぞろ入室して着席したので、ひろい机はすべて人でうまった。 今度は秘書らしい女が入ってきて、すわっている人数分のお茶をくばった。彼女がでていくと、星香のとなりにいる黒い背広をきた中年の男が立ちあがった。正継に挨拶し、自分が弁護士であるといい、名前をつげ名刺をさしだした。終わると、そのとなりにすわる男が立ちあがり、彼のところまですすんだ。名前をつげて、弁護士だと名乗り、名刺をわたし、帰りがけに扉の鍵をしっかりとしめた。それをみると、さらにとなりの男が立ちあがった。正継のところにいき、弁護士だといい、おなじことをくりかえした。その行程は、儀式みたいにしてえんえんとつづいた。最後の男が着席したときには、彼の手には弁護士という肩書きのついた名刺が一五、六枚にぎられていた。ようするに、正継の周囲には凄腕の弁護人が一五、六人いるらしかった。彼は、完全に頭が痛くなっていた。 おおむね状況が分かると、星香のとなりの弁護士が立ちあがり、今回の離婚の話について語りはじめた。 黒いA4版の厚いファイルが人数分くばられて、正継のまえにも一部がおかれた。弁護士にいわれるままに紙面をあけてみると、さまざまな角度から撮影された愛人や妾宅の写真のほか、ほんらいプライベートにぞくする、もともと他人には自慢するつもりがまったくない、かなりの量の画像がはさまれ、べつにわざわざ教えてもらう必要も感じない、自分で理解していればいいだけの事実にかんする説明をうけた。 さらに、星香の頸癌にかんする資料だという記載があり、橙色のマーカーがぬられた部分に、「性行為による感染」とか、「ウイルスが仲介する」としるされ、指示にしたがいつぎのページをめくるとアメリカでの判例が紹介され、頸癌患者のパートナーが裁判で負けたという記事がつづいていた。指摘された紙面にいくと、彼の財産の一覧表がつくられ、かなりこまかいことまでかかれ、総額がかかれていた。 正継は喉がかわいてきたので、自分のまえにおかれたお茶を飲み、クーラーのききぐあいも寒いほどではないと感じた。星香のとなりのいかにも仕事ができそうで、冷酷そうにしかみえない中年の男が立ちあがって話しはじめた。 「結局、奥さまだった星香さんの意向としましては、そこにかかれている財産のすべてを慰謝料としてうけ取りたいという話でございます。お子さんの親権も、放棄していただきたいというのが希望です。ただ星香さんはあくまで円満な解決を望まれ、争う気持ちは基本的にもっていないとの話です。当弁護士事務所としましては、その意向にそい調停をすすめる所存ですが、仮に訴訟に発展したばあいは、全国から一〇〇余名の弁護士をあつめても一歩もひかないつもりです。正継さまがこの事態について、どうお考えになり、どういう対処法をご希望なさっているのかうかがえれば、そうした方針も考慮して、最善の方法を採りたいと思っております」 男が着席すると、だれもがなにも喋らない時間がつづき、正継はクーラーのききが悪いと感じ、息ぐるしく汗がでてきたので、きていた半そでのシャツの襟もとをゆるめた。 「事前になんの話もなく、急にこんなことをされても、すぐに答えるのは、普通はできないんじゃありませんか。それに、ここにあるのは、ちょっとみるかぎり私の全財産で、これをすべてわたしたら、のこっているのはパンツくらいですよ。あまりにも強引という気がしますがね。普通は、こうした感じでやるものなんですか」 正継は、言葉に注意しながら話した。 「こういった問題は、人さまざまで、普通とか通常とかいう基準がないんです。今回のお話は正継さまがおっしゃる通り、寝耳に水だと思われます。お言葉通り、すぐに返事ができる方は、普通は、いないでしょう。ただ、はっきりとしているのは、おふたりの愛人がいらっしゃる事実で、これをいい逃れするのはたいへんむずかしい状況です。さらに頸癌の話は、星香さんに多大な犠牲をしいた事件でございます。もし仮に裁判が起これば、通常では勝てないだけですみますが、正継さまほどの有名人ともなりますと、どこからか報道関係者が耳にし、週刊誌などに取りあげられるのを、私どもがいくら穏便にことをすすめたいと考えてはおりましても、なかなか思うに任せないかも知れません。星香さんは、先ほども冒頭でのべさせていただいた通り、訴訟を希望していません。有名人の方が裁判を起こすと、たいへんな騒ぎになるのを、身をもって知っているとのお話で、まったく望んでおりません。しかし、なにごとにも期限をつけないと物事が進展しないのは事実で、星香さんとしては、今日、この場での正継さんの返答を期待し、そのために書式とうは正継さまの実印をふくめてすべてがととのっています。あとは、ご判断ひとつに委任されている状況です。驚かれるのは承知しております。しかし、直接、裁判として提訴するのではなく、こうした場をもうけ、円満な解決を希望される星香さんの立場も、このさい考えていただいたほうが和解への道につながるかも知れません」 つよい口調で説明する黒い背広をきた男性は、背が高く容姿もまずまずだった。たぶん、こいつが主任の弁護士で、筋書きをつくったのだろうと、正継は男をみながら思った。 あああ。これでは台無しだよな。せっかく目鼻もととのって、頭もよさそうにみえるんだし、背だってまあまあなんだよな。もったいない。こんな感じで話をしたら、どんな女もちかよってこないよな。話すときには、まず拒絶されそうもない雰囲気をつくるのが、いちばん大切なんだ。なんといっても、女は臆病にできている。だから、なんでも聞いてくれそうな者にしか、ちかよってはいかないんだ。少々軽薄に思われても、心から女が大好きなんですっていう雰囲気を、つねにかもしだしておくのが必要なんだ。だから、まずは笑みをたたえて、相手を最大限に尊重していますって、振りをしなけりゃならないんだよな。こんな話し方では、絶対に女にはもてないね。そこに気がついてなおせば、おれとおなじことができるのに、なんとも残念だよな。ちょっと分かれば、人生はずっと豊かなものに変わるのに、こんな態度をされたらとても教えてやる気にもならないよな。おれだってずいぶん苦労して身につけたんだから、ただってわけにもいかないしな。味方になれば、教えてやってもいいんだがな。そうしたら弁護士先生という立派な肩書きをもつんだから、どんな女も、気がすむまで相手をしてくれるのに、まったく残念なやつだよな。 正継は、そう思いながら男の話を聞いていた。 「こんな感じで取りかこんで、威圧的な場をつくってさ。写真まで用意して、これってさあ、脅迫ってよべないの」 正継は、男をみていった。 「飛んでもございません。ただ、穏やかにお話をさせていただいているだけで、ご理解をいただきたいと、諸般の事情について順を追ってご説明しているだけでございます。いいおくれまして誠に申しわけありませんが、この会合につきましては、音声はすべて録音されておりますし、映像ものこされることになります。くれぐれもお言葉にはご注意いただき、裁判のさいには、一部証拠として提出される可能性もございます」 沈黙の時間がすぎていった。正継が暑苦しさを感じてテーブルにあったお茶を飲み干すと、扉がわにすわっていた黒服の男が立ちあがり、保冷箱からスポーツドリンクのペットボトルを取りだし、ちかよってきて彼のまえにおいた。 「今日は、無理だね」 正継は、いった。 「そうですか。たいへん残念ですが、正継さまが調停を望まれないのならば、星香さんは仕方なしに、今日、民事として正式に裁判を起こす意向です。そうしたばあいに起こってくる、ごく一般的な手順をご説明したほうがいいですか」 「たしかに、裁判は面倒という気はするね」 しばらくたって、彼はいった。 「なにか、正継さまのほうから聞きたい事項とか、要望とかはありますか」 「そりゃあ、たくさんですよ。まあ星香が離婚を希望して、さまざまに問題もありそうですから、とくにここにかかれている内容については異存はないんですが、すると子宮頸癌にかかったというのも私の責任らしいですが、こんなのをどうやって証明するつもりなんですか」 「欧米では、頸癌のほとんどの原因は、性行為による感染と考えられております。日本のばあいでもおなじでだというのは、東大の産婦人科教室の教授からじきじきに指摘をいただきました。星香さんが正継さん以外に感染源がないというのが、いちばんの根拠です。あなたの血液をしらべれば、ある程度の推察ができます。さらに、裁判で星香さんの勝訴を確実にするために、事務所では、過去に正継さんが相手とした人物をすべて洗いだし、そうした方がたを証人としてよばせていただき、同意をえられた方にたいしては検査を行い、原因ウイルスの保持につきまして調査する、かなり大がかりな作業をふくめて、検討することになります。当事務所は、全国に弁護士を二〇〇名程度かかえておりますが、こういう事態にいたったときには、大きな費用負担が生じるのは間違いありません。かかる費用につきましては、証人の方が検査を受諾するのに希望する謝礼金をふくめて、とうぜんながら星香さんが勝訴したばあいは、すべて正継さまへの請求とならざるをえません」 正継が、このわけの分からない不退転の覚悟を表明する話を聞きながらみまわすと、周囲の黒い服の男たちは一様に大きくうなずいていた。 「いや、しかしね。おれは、こんなに財産をもっているわけなの。すごいね、ひとつもふたつも桁が違うよね。いやあ、はたらきづめで忙しかったから、ずいぶん頑張ったんだと自分でも感心するよ。しかしさあ、ほんとうにこの全部を支払わねばならないの。なんでも上限があるんではないの」 「正継さまのおっしゃることは、理解できます。この金額は、およそ庶民の感覚からすれば異次元でございまして、当法律事務所が過去四〇年にわたってあつかってきた離婚調停の例からみても、最大級でございます。ただじっさいにアメリカなどでは、離婚訴訟で日本円に換算して一〇〇億をこえる事例がかなりございまして、最終的には当事者の支払い能力に帰着するわけです。しかしいま申しあげたのはあくまで不義をはたらいたことによる、ごく通常の訴訟の話でございまして、今回の頸癌の慰謝料をふくめたものではございません。おふたりの愛人のほか、正継さまの女性関係は、寡聞ながら私のごときとくに芸能界にほとんど興味をもっていない者にまで周知徹底されている話題でございます。さらに頸癌にかんする訴訟が生じたばあい、日本でははじめての事例になります。相当数の報道機関が、この経緯につきまして、さまざまな憶測もまじえて話題とし、メディアを賑わすのは想像に難くありません。星香さんは、円満な解決をご希望されているわけですが、当事務所としての本音を申しあげれば、訴訟が生じてさらなる証拠あつめをふくめ、仕事が受注できれば、本年の業績にも反映可能で、われわれのボーナス支給の増額にもつながりかねない労働意欲のわく事案となります。私どもとしましては、とくに裁判を回避したいとは考えておりません。正継さまのお望みとあらば、すぐにでもうごく用意はございます」 男がそういうと、正継を取りかこんでいた黒い背広の男たちは一様に大きくうなずいた。 「あなたの話は、すこし物騒だよね。それでも、それは脅迫ではなくて、事実ということなんですね。それでさあ、もうすこし負けてもらえるとか、そういった交渉はできないの」 「そこがいちばんの問題です。正継さま、さすがです。よくぞ、この点にお気づきになりました。星香さまがおっしゃるには、おふたりが結婚なされたときには無一文であったはずで、それからご夫婦として生活され、さまざまな苦悶をしいられて、その代償としてえられた金銭は、すべてもらいたいというのが趣旨でございます。妻として母として、不義をされるだけでも充分な苦痛ですが、星香さんが身体的にうけられた被害ともなりますと、とてもただお金だけでは解決できないのが、ほんとうのところです。仮に刑事罰でもあれば、懲役とか禁固とかいうべつの手段で積年の思いを晴らす方法もありうるかも知れません。しかし、星香さんには残念ですが、頸癌をうつすことにたいしての刑罰は我が国においては設定されておらず、民事の対象でしかありません。ですから、金銭にたいしては一歩もゆずるところはないとのお話です。なお申しそえますが、この総額で納得していただければ、当弁護事務所の経費はふくまれておりますので、正継さまにこれ以上のご負担は発生しません」 「ようするに、がんじがらめのわけだね。なにかやれば負担が生じて、費用について、全部がおれのもちだしになるんだね」 「その通りでございます。経緯をご納得いただいて、そこにある証書に署名と捺印をいただければ、この件はとどこおりなく完了となります。その書類は、」 「それは分かっている。もういい」 正継は話を制した。 「わざわざ、おれがここまできて、つくったというのが重大なんだよな。しかし、これ以上のご負担といわれたって、そんなものどうやって負担するんだい」 正継は、一覧表をじっとみていた。 「そういえば、これには先月買ったクルーザーが入っていないよね」 「はい、その件ですが、小型船舶にかんしましては、正継さまは市価よりかなり割高で購入され、頭金も支払っておりませんので完全な負債状態で、資産には該当しませんのではぶきました」 「そうなの。安くするっていっていたのに。嘘なのか。どうも話がおかしいと思ったよ。頭金はいいっていってたし。そうか、こういうのも相談にのってくれるの」 「仕事でございますから、別件として考えることはできます。ただ売買契約がなされておりますから、じっさいにはなかなか困難で、正継さまがえられるものは一般的にはほとんどないかと思われます」 正継は、いろいろとごねていた。それで、星香がいった。 「あなた。ほんとうに、離婚騒動がしたいの。今度は、役者生命が完全に絶たれるかも知れないのよ。あなたは、もう若くはないわ。でも、もう一度やりたいのなら、いいのよ、私は。してみるの。私は、愚かな女です。でも、やりたいというのなら、しましょうか。私がやれるのは、あなたがいちばんよく知っていることよね」 正継は、その言葉を聞いてだまった。星香がそう思っているかぎり、裁判では勝てないのがはっきりと分かり、ごねれば費用負担が増すだけではなく、激しいスキャンダルが週刊誌をはじめ、ワイドショーに連日報道されるのは理解した。結局、彼が書類に署名押印して解放されたのは、三時間後だった。 星香は、正継との協議離婚が成立すると、母の香織をたずねて大まかな経緯を話した。そして最後に、協議内容がしるされたコピーをわたし、子供の親権と彼のすべての財産をうばい取ったことをつたえた。 それを聞くと、香織がいった。 「あなたは、偉いわ。もう、私がいなくても大丈夫。あなたは、お母さんとは違うわ。私は、娘からただ母親に変わっただけだった。でもあなたは、母ばかりではなく、英雄にもなったのよ。お父さんになぐられた日に、シーツをひきさいて、ロープにして二階から逃げだしたことがあったわよね。朝、部屋の窓から垂れた紐をみて、お母さんはとても胸が痛んで、残念だったのよ。そのシーツの光景が、ずっと脳裏からはなれなかったのよ。お母さんは男役だったから、歌劇団で幾度も王女をすくいにいったわ。英雄は、自分が傷つくのも省みず、とらわれているお姫さまを助けにいくのよ。そこは、竜がすむ危険な場所だと知りながらも助けにくるのよ。それが、王女と英雄の関係なのよ。傷つくことこそが、宝物をうるために払う代価なのよ。犠牲と苦悩こそが、その証明なのよ。あのとき私は、安っぽいテレビ映画の一コマをみた気がしたのよ。正継が英雄なら、どんな代償を払っても、あなたをうばいに家にやってくる場面だった。王女なら、信じて待つところだった。お母さんは、お姫さまとして大切に育てたあなたが下町の娘を演じているのが、とても残念で、つらかったのよ。でも、その考えは間違っていたわ。いま、よく分かったわ。あなたは、高い代償を払ったけれども、子供たちと財産を、あの男から取ってきた。宝をうるために、身も心もずたずたにされたのよ。でもね、代償として、ちゃんと必要なものを取ってきた。どんなに傷つけられても、あなたは気狂いにもならず、自殺もしないで、生きぬいたのよ。それはたいへん、驚くべきことだわ。だからよく考えてみると、あなたが英雄だったのよ。それならば、とじこめた部屋から、危機にある正継を助けだしたいと思って脱出したのも、私は納得できるのよ」 香織はそういって、涙をながした。 「お母さん、ありがとう。ずいぶん心配ばかりさせたわね。そうやって考えると、遙佳さんも、正継から大事な宝物、三人の子供と財産をすべてうばい取ったんだから、きっと英雄だったのね。でもね、彼女は、そんな者なんかに、なりたくはなかったって、私にはよく分かるのよ。遙佳さんは、普通の女でいたかったに違いないって、あたしは知っている」 星香の瞳から涙があふれでた。 「仕方がないのよ。だれにも分からなかったんだから。女はね、男とは違って、物事を頭では判断できないのよ。自分で体験して、心で理解するのが女性という生き物なのよ。だから、仕方がなかったのよ。傷つくことばかりを心配して、なにもできない者より、遙佳さんもあなたも、ずっと偉かったのよ。そう思って、これからの人生を、自信をもって生きていきなさい」 香織は、嗚咽とともにいった。 星香は、ふたりの子供をつれて、秋葉の家にうつり住んだ。正継の同意がえられたので、彼の資産は順を追って現金化され、金額としてかなりの額を彼女はもらえることになった。しばらくして秋葉家のちかくに適当なマンションを現金で購入し、苦しいながらも心をかき乱す男と会う事態もなくなり、悠々自適とはいかないものの生活をはじめた。 なお、二〇〇九年秋に、この子宮頸癌という悲惨な病気を防止する有効な手立てであるワクチンは、日本で承認になり接種が開始された。 擾乱、二一四枚、了 参考文献、 一、いのち煌めいて、小学館、仁科明子著 二、子宮頸がん、潮出版社、仁科亜希子著