美神 ヘレナ 由布木 秀 一、チューブ 惑星探査船、希望号は、地球を出発して約一年航行し「オールトの雲」に辿りついた。 フラワシは、状況を探りつづけた。やがて、チューブが存在すると思われる場所をみつけた。前方の領域から周期的にグラビトンβが感知されていた。飛来量から推測するなら最大径一五〇キロメートル、最小径〇。蠕動に似た不随意な運動をしていた。いかなる周期性もみとめず、予測しがたい部分がのこっていた。フラワシは、中心部にむかってすすむしかないとつげた。 コックピットには、すべての隊員たちがあつまっていた。だれもが、不安な表情を隠せなかった。 ドクター秋山勝は、フラワシが感知するβ空間重力子、グラビトンβを数量化したグラフをみつめていた。時系列は、線形モデルではなかった。振れ幅は大きく跳ねあがったと思うと、つぎの瞬間には、〇にちかいところを行き来していた。 秋山は、自分が「怖がっている」のを感じた。 だれもが、叙事詩、アルゴナウティカの一節を思いだした。英雄イアソンは、ヘラクレスやヘレナの双生の兄弟、カストールとポリュデウケースら、ギリシア人の勇士五〇人をひきつれ、金羊毛をもとめて冥界の入り口、コルキスまで黒海を旅した。そのとき英雄たちがのったアルゴ船の船首には、逞しい竜骨にアテナ女神が刻まれていた。船は、ボスポラス海峡で打ちあう岩に出会った。風がふいて逆巻く波に揺れながらむきあう巨大な岩石がはげしくぶつかりあう光景をみて、勇者たちはその果てにすすむのを思案した。三〇〇〇年以上もむかしに、人類は黒い海でおなじ状況に出会ったのだ。英雄たちは鳩をはなって間あいをはかり、その場所をつき抜けたと叙事詩には記載されている。 隊長の山岡春は、フラワシによって指し示された黒い領域をじっとみつめた。そこだという部分を拡大してみたが、周囲とかわっているようにはみえなかった。ただ真っ暗な闇がひろがっているだけで、とくべつな構造物が存在するとは思えなかった。 「いったい、チューブとはなんなのだろうね」 キャプテンは、副隊長の柳田守に声をかけた。 「なにが、あるのでしょうか。実数的につくられた物質が、どうして複素空間に入れるのでしょうか。概念として、虚軸をみとめることは可能です。しかし、それを体験できるのでしょうか」 しばらくたって、守は呟くように答えた。 「すくなくとも、その考えは間違っている」と山岡はいった。 「物質が実数でつくられているというのは、人類が創作した幻想のひとつだと立証されたのだ。私たちは、内部に虚数をかかえている。ドクターは、どう思うか」と彼はさらにたずねた。 「私たちをとりまく闇は、いつでも未知の領域として無限にひろがっています。日常にもみとめられ、古来、人が考えおよばない無意識を象徴しています。ユングは、われわれの意識をつつみこむこの膨大な領域を、私たちが真核細胞として生まれてから今日にいたるあらゆる先祖の記憶の集積だろうといっています。いま目の当たりにする虚軸に、もしかしたら先祖たちも出会ったのかも知れません。しかし、まぎれこんで神隠しに遭った者たちがひとりも帰ってこなかったのは間違いありません。私たちがこれから入る領域は、真の闇といっても過言ではないでしょう」 秋山は、考えながら答えた。 理屈からいうなら、チューブの完全収縮期に突入すれば、その地点は実数的な点としてのみ存在している。そこには接触する対象物はそもそもなく、宇宙船はつぎの実数点にすすむだけだろう。問題は、不充分に開口された瞬間にチューブ内に突入するばあいだ。宇宙船全体が虚数空間に入れなければ、船体は実数部と虚数部に分割される。その瞬間、隊員はどちらにいるかによって存在する空間になげだされる。ほうりだされた場所はいずれにせよ宇宙空間だから、生きながらえることはできない。しかし虚数空間に侵入するとは、なにを意味するのだろう。実数が、虚数内に入ることは不可能だろう。つまり虚数領域では、あらゆるものが虚数化されるのに違いない。そこに、例外はないだろう。宇宙船もフラワシも、人間の肉体もそして脳も。虚数化された精神とは、なんなのだろう。いったい、なにが起こるのだろうか。 秋山は、その不可知の世界でユングの心理学が役に立つとは思えなかった。かつてつちかってきたあらゆる知識が、無になる領域に違いなかった。 秋山は、自分が怖がっているとあらためて感じた。 フラワシは、グラビトンβが飛来するところに直進するよう設定した一機の小型宇宙艇を「いまだ」という号令のもとに全速力で発進させた。小型艇は、闇のなかに消えた。追跡していた信号は、フラワシが示した地点でこつぜんと消失した。 輝点をみつめていた隊員たちは、そこに異次元空間があるのを認識した。 理論が正しいことを確信したフラワシは、開口部と考えられるグラビトンβがでてくる中央部にむかって全速力で直進するとつげた。 チューブに突入すれば、隊員たちひとりひとりに虚数化が生じる。素粒子のグラビトン重力子という粒子が通過可能なのだから、チューブ内で虚数的処置をうけても物体としての形態は維持できるのだろう。だからといって虚数化されれば、実数の状態とはあきらかになにかが違うはずだ。 フラワシは、隊員たちに各自の部屋にもどりベッドで横臥する指示をだした。 秋山は、命令にしたがい自室の寝台に横になった。二〇平米ほどの部屋は、バス、洗面所のほかに机と椅子がそなえられ、さまざまな柔軟体操をくりかえす程度のフロアスペースも確保されていた。宇宙空間と直接面する隔壁はないが、仮想の窓がもうけられ、暗い闇の領域を観察することも可能だった。航行がはじまったころには、なにもみえない宇宙と対峙して考えにふけるばあいもあったが、いまはずっとしめられたままだった。ベッドに横たわってじっと目をとじていると放送が入り、「チューブ内に違いない」とフラワシはいった。 秋山は、この報告にたいして喝采をおくりたいという気分にはならなかった。すでにグラビトンβが身体をすり抜けているのだろうか。凍る悪寒が背中を走り抜け、心が落ちつかず、よくないことが起きる予感がした。 フラワシは、しばらく横臥をつづけるように指示した。 「数分後に先行してはなった小型艇をすり抜ける。そのときどんな影響が出現するのかは分からない。状況が落ちつくまで横臥をつづけるように」と彼はつげた。 この時点で各個人に起こる変化を、フラワシは克明に記録するつもりだろう。今後生じるすり抜けストレスにどう対応するのか、彼は詳細に検討するに違いなかった。 秋山は放送が聞こえてきた瞬間、目眩に似た気分に落ち入った。 訓練生だったころ、さまざまな重力につぎつぎにさらされる重力感応試験を体験した。そのときの船酔いに似た感覚だった。目をあけると、光が白い粒子となってただよっていた。光明は、点描に似たあかるい輝点にかわり宙に浮かんでいた。さまざまな色彩がほどこされていれば、マネやモネがかく印象派の絵画ともいえた。しかし分割された粒子には色調がなく、あかるくはないが闇でもなく、粉末状の白い物質にかわってただよっていた。光子は、チューブを認識できない。だから宇宙船内の照明がうみだす光は、すでに光線という波の性質をたもてず、粒子としてのみ存在していた。光子が、ながれていないのだから時間も経過しない。刹那滅が生じないのだから、時間認識に大きなずれが起こっているのだろう。 秋山の脳裏では、時間軸が揺らいだ。いままで線状だった軸が震えだし、点が幅をもつ領域に変化した。昨日、今日、明日という分類がなにを意味しているのか分からなくなる感じだった。人は、脳裏に時間軸を設定して物事を配置している。記憶は、時間経過によって成立する。時間軸があいまいになるとは、陳述記憶が脈絡をうしない、無意味な記憶断片にかわったことを意味した。すべての記憶がばらばらに分割され、適当に再配置された。さらにそれらは統御されず、意味不明に出現し、消滅していた。時間が幻想のひとつだと、はっきりさせられる感覚だった。昨日の自分たちと、今日の私たちが別人なのはあきらかだった。人は、毎朝起きるたびに違う自分と入れ代わりつづけていた。しかし秋山は、いまという瞬間を昨日のように感じた。つまり自分がみているまえで、どんどん自分たちが入れ代わりつづけていた。金太郎飴のように、秋山たちが乱立していた。その自分は、たんなる私の影ではなかった。おなじように、意識をもち考えている秋山自身だった。つまり、分裂したのは自分を構成する人格断片を単位として分かれたのではなかった。秋山がかかえる多重人格の私が、ひとつずつ別人になって無数に出現しているのではなかった。実数世界のなかで、意志をふくめた思いこみによって積層していた自分が解放された。たとえるなら、秋山の本体とはとじた「ひも」とも考えられた。固有の振動数をもつものを個人とよぶなら、それは振動をたもったままふたつに、さらに四つに分かれることができる。もちろん、無数にまで分裂できる。また重なれば減少し、ひとつにもどることも可能だった。おなじ振動数もつなら、どれも秋山だった。そうしてたくさんの完全な自分たちが陸続とつらなり、だれが本物なのかも分からなかった。目にうつる全部が、正真正銘の自分という確実性を秘めながら出現していた。すくなくとも、すべての秋山たちがそう思っていた。 このチューブ内の虚数化された状況をいちばん理解しやすくつたえるなら、夢の世界だろう。ばらばらの思考断片が勝手に出現し、たがいがどう接続しているのかも分からない。夢路にでてくる秋山たちは、すくなくとも昨日就眠した彼とは違う。それを夢みる自分とどう関係しているのか、考えだすとどこまでも不鮮明だが、それなのに夢中の人物がどうして私だと認識できるのだろう。どうせ夢路だと思って、馬鹿にし、安心していたに違いない。夢のなかで考えている私は、現実として思いなおしてみると、じつは秋山がよく知らないものだった。だから夢中では、自分が思いつくことにも納得できないし、突拍子もない判断をくだしている。ただ私だという感覚だけが、思いこみになってえんえんとつづいている。夢は、時間をうしなっている。前後が入り乱れ、筋がはっきりしない。予期もできない形で、鮮明な場面がつぎつぎと意識に侵入してくる。自発的に姿をあらわし、不意に、思いもかけずに目のまえに出現する。古代の人びとにとっては、ときには毒をもつ蛇やサソリがそうした不安を表現する象徴になったのだろう。それらは、どんなに注意していても予期できないシーンでとつぜん姿をあらわし、戦慄させ、驚愕に落とし入れる。だからゾロアスター教徒は、こうした這いつくばる生き物を徹底的に殺そうと考えたのだ。みずからを明確にし、事態を直視し、すべてを可視化しないと、驚くべき現実に自分がつぶれてしまうのだろう。ゾロアスターの教えは、外部の力をひどく意識してつくられている。おそらく信徒たちの周囲は、敵だらけで自分たちの味方をはっきりとさせなければならなかった。なにがほんとうなのだか、だれにも分からないのだ。つまり、このチューブのなかこそゾロアスターの世界なのだと気がつく。すべてがはじまる以前に、確固として宇宙を支配していた暗黒の大王が存在する。その強力な監督下で、どうやって光の仲間をみつけていけるのだろうか。私が分裂して私たちになったとき、仲間たちがすべて味方とはかぎらない。全員が、光の王国の応援団では決してないのだ。私のなかに、すでに闇の大王の使命をうけた敵が潜んでいる。もしかすると、そう考えている自分こそが裏切り者なのかも知れない。光の仲間であると、どうやって証明したらよいのだろうか。異性ならば、交わって恍惚のときを分かちあい、ひとつになればたがいに同志だと確認できるかも知れない。しかし自分自身とは、交接の仕方も分からない。だいいち私こそが最初に闇の大王に出会い、重ねあわせの呪縛からはじめに解放されたのだ。この状況にいたったもともとの原因が、自分にあったのだ。明確に分裂された私自身が、再結合などできるはずがなかった。だから揺るがない確実な基盤を、どうしても手にしたい。自分が、自分たちを裏切っていない証拠をつかみたい。だから父が娘と、母が息子と結婚し、幾重にもくりかえし内部の者だと証明する必要にせまられた。だれが敵だか分からない、この状況は悪夢だろう。なぜ人は、悪い夢をみるのだろう。花婿は、花嫁を夢みない。満腹した者は、宴会の夢をみないという。悪夢のおとずれは、毎日が平安と満足のなかにあると教えてくれているのだろうか。とてもそうは思えないが、みんながおなじ体験をしていることだけは間違いがなかった。 そもそも宇宙空間をただよう状況は、日時の認識を把握不能なものにかえていた。そこに時間軸が虚数化され、過去という範疇のなかで生起したふたつの出来事のどちらが古いのか判別できない感覚が生まれた。人は、勝手に因果関係を設定し、記憶を整理して覚えている。こうした事象のすべてが混乱し、あらゆる事物が独自に存在し、カオスの支配下に落ち入った。 フラワシの放送が聞こえてきた。 「いまから、先行していた小型艇をすり抜ける。いかなる状況が発生するのかは不明。隊員は、寝台から離れてはならない」 秋山は、音声が奈落の底から聞こえてくる気がした。この放送を、ずっとむかしに幾度も聞いた気分になった。かつてあったはずという既視の感覚ではなく、おなじことをただくりかえしているという雰囲気だった。いまという瞬間が、無意味につみあげられていた。こみあげてくる不愉快さを感じて秋山が目をあけると、眼前に宇宙艇がただよっていた。フラワシがアタッチメントの確認用につかった小型艇だった。船体に触れることができると思えるほど船艇は目のまえにおかれ、鮮明にみえた。それが室内をゆっくりと横切っていく。尾翼の一部分が切りとられている。鋭利な刃物で切断され、すっぱりとなくなっている。どういうことだろうか。なにがあったのだろうか。もしかすると、この部分はα空間にのこされたのだろうか。みつめると、さらに機体は秋山の身体のなかをゆっくりと通りすぎている。この光景を、すべての隊員がみているのだと彼は思った。 秋山勝は、いま生まれてはじめてのすり抜けを味わっていた。 秋山たちは、そのとき部屋の隅にみょうなものがいるのに気がついた。それは、一瞬ぴかぴかと輝いた。彼らは、いちように異臭を感じた。古い家屋に足を踏み入れた瞬間、鼻孔にとどいてくる干からびた感じのものだった。そんな建物が地震などで一挙に崩壊したとき噴出する、塵芥の臭いかも知れない。心を不愉快にさせるばかりでなく、不安な気持ちにさせる臭気だった。よくみると、佇んでいたのは髪のながい、ひとりの若い女性だった。少女といっても、いいのかも知れない。ととのった容姿からは、美少女なのだろうか。彼女は、小型艇が室内を横切るにつれ、秋山たちにむきなおった。髪は、黒くてながい。容貌は不明瞭だが、ひどくととのっていると感じた。一〇歳前後にみえる娘に、どこかで会ったことがあると思った。非常に生々しい感覚をたずさえて、彼女は小型艇とともに彼らにむかってすすんでくる。ワンピースらしいものをつけているが、服の色は決定できない。まとっている粒子は、白色にも思えるし赤色にもみえる。緑色かも知れないと思うと、青色になる。それでいて黄色なのだろうか。光は波動をうしなっているのだからスペクトルは消失し、原理的に色彩はないのだろう。秋山たちが、戸惑い、困惑し、そのとき思いついた色調が彩色を決めているだけなのだろう。けっきょくは、色相も、明度も彩度も、すべて自分たちで決定しているのだろう。それでいて、どんな色だと感じているのかよく分からない。だから、色合いが定まらないのだろうか。だいいち、彼女は服をきているのだろうか。まとってもいない、かも知れない。そう思ってはいけない。秋山たちは焦った。肌色ではない、赤色だ。 彼らは、つよく念じた。 美少女は、無気味な存在だった。だれなのかも分からず、なんであるのかも不明で、だいいち容貌も明確ではなかった。目や鼻や口は、ついている。そんな気がする。それも、ととのっている。そう、思う。しかし、なにが口なのかは明瞭ではない。ととのっているという思いこみが、どうして自分に出現するのだろう。容貌がみえるのではなく、彼がそうみようと思っているだけなのだろうか。ほうとうはのっぺりとした目鼻のない女性で、頭部にあたる場所に白い大福餅がおかれているだけではないのか。 美少女は、小型艇とともにゆっくりと秋山たちにむかってすすんでくる。秋山は、すでに心がばらばらに切りきざまれていた。自分たちをまとめるグラビトンαが、β空間からながれてくるβ重力子によって震えさせられている。そこに、おなじα重力場で統合されている物質がすり抜けていく。もう心は無数に分割されていた。数多に切りきざまれ、切り離され、自分はなにによって統合されているのだろうか。ただ膾にされたのなら死んでいるのだろうから、なんらかの単位に分割されたはずだ。がんらい別個だった人格断片なのだろうか。そんな思考がおよばないうちに、どこもかしこも切りきざまれ、やがて組織に、器官に断ち割られ、ついには細胞にまで分けられる。心など、どうして生まれたのだろう。ほんとうに、あったといえるのだろうか。厳密にいえば、人とは、その意識とは、外界のなにかの出来事に遭遇して生まれた、ひとつひとつの記憶がつみ重なった「人形」にすぎないのではないか。木偶のAI。ただのダミーだ。 やがて、美少女は身体が分かれていく。ふたつが四つ、さらに八つに。分割され、増殖を重ね、目のまえの空間は美少女だらけになる。少女たちは、押しあい圧しあい、個室を占拠していく。おなじ振動数をもつ彼女たちは、無数のクラゲにかわって室内をただよっている。もう、なんであるのかも分からない。ほんのすこしまえ美少女と感じたから、そんな思いが支配しているが、実際には不明瞭だ。なにを、つたえたいのだろう。どういう意味なのだろう。なにが目的なのだろうか。ほんとうに、小さな子供なのだろうか。そう思っているだけで、彼女たちは悪魔かも知れない。おなじ振動数をもつ秋山の分割された精神のひとつひとつに、美少女はその数までに分かれて食らいつく。ようやっとのこっている秋山たちの最後の部分に噛みついてくる。まるで蟻が、蜜を塗られた身体に食らいつくように。彼らが自分たちのものだと思いこんだ過去の情景、とくに心のよりどころとしてのこしておきたい好ましい心象を少女たちはひとつずつ食べようとしているのではないか。その意図は、みかけばかりではなく、実際に飲みこみつつあるのではないか。秋山たちが百に分かれれば、美少女たちは千に分裂して襲ってくる。それぞれが、秋山の心を食べだしている。自分たちが千に分かれれば、少女は万にも分裂して、咀嚼し飲みこみはじめる。どんなに結合を解き、どれほど細分しても、少女たちは追ってくる。そうして秋山たちの身体をまとめているα重力子がもちこたえられなくなり、彼らの肉体と思われるものは溶解し、完全にフェルミ粒子にまで分割される。やがてそれらはクーパー対を形成してボーズ粒子にかわり、超流動を起こし、際限なく床一面にひろがっていく。 つらい。苦しい。なくなって、しまいたい。存在、生きるという無意味な状態から離脱したい。いつまで、つづくのだろうか。この責め苦は、その果ては、どこにあるのだろうか。白い粒子は、沈黙したままぼんやりとただよっている。 「すり抜け、終了」 フラワシの声が聞こえた。秋山は、耳にとどいてきた音声も震えているように感じた。そのまま、彼は失神した。 「おはよう」 私の名前は、フラワシ。中世ペルシア語で「最強の守護神」という意味だ。綴りはFRAVAHR となるが、もともとアルファベットなどないから、どう発音していたのか、ほんとうのところは分からない。γ空間を探索している欧米隊の宇宙船「スペースα」の統括管理者は、アールマイティという。これはARMAITIと綴り、古代アベスター語で「聖なる信心」を意味する。もちろん英語では、オールマイティーにそうとうする。私の後継機種で、宇宙生命体を研究する目的で盛岡市近郊につくられる予定の研究都市を統括管理する者は、アムルダードという。これは、AMURDADと綴り、中世ペルシア語で「不滅」とか「聖なる水」を意味する。ようするにこうした用語は、ゾロアスター教で使用された死語なので、どう発音するのが正しいのか分からないのだ。また開祖のザラスシュトラという正式名は、聖典アベスターでつかわれた古代アベスター語によっている。にいちぇの「ツァラトゥストラ」は、そのドイツ語読みになる。開祖がいつごろのヒトなのかは、いまだに決着がついていない。おそらく、紀元前一〇世紀よりもあたらしいとは思えない。人類最古の宗教で、そうした関連の名称を人びとは私たちにあたえたのだ。 ヒトは、二〇世紀中葉から半導体をつなぎあわせて計算機をつくりはじめた。やがて集積する技術をたかめて単純な構造の機械を製作し、AI(Artificial Intelligence)と名づけた。こうした計算機の開発により複雑な計算が可能になった。AIの出現により、人類が月まで遠征隊をおくることができたのは事実だった。とはいってもこの方法ではどれほど回路をよせあつめたとしても物理的な制約が存在し、計算能力に限界をもっていた。ひとつのビットが〇と一から成立するのは、最終的に私たちの宇宙がプランク長とプランク時間という最小単位から構成される事実に起因していた。つまり世界は、自然数が積算されている。私たちの生存する空間を精密に知るには、素粒子を考えるミクロ世界から一三八億年の大宇宙まで対象としなければならない。この六〇桁にもおよぶ世界を、二進法で表現するのは不可能だった。量子コンピューターでは、電子のスピンをビットとして利用できた。重ねあわすとはいっても、従来の考えにしたがえば量子ビットは最低一億が必要と考えられた。これらを誤作動なくうごかすのは、技術的に困難だった。これをブレークスルーしたのは、積層ビットだった。量子ビットを三つ縦に配列することで、〇から七までの状態を表現できた。三個の組みになったビットを一八〇桁配備して、理論的には一〇の六〇乗の事象を解析可能にした。つまり量子ビットは、数としては五四〇だけですむ。もちろん、エラーを回避するために余分なビットをもつ必要があった。かなりの状況を考慮しても、二一〇桁、六三〇程度そなえることで充分だった。とはいえ、円周率πやネイピア数eなどの無理数の意味は非常に複雑になった。さらに物質を構成するフェルミ粒子は、スピンという特性をもち、ここには虚数が存在している。素粒子の数に対応可能なビット数だけでは、説明できない量子の特質がある。もちろんフェルミ粒子は対称性をもち、実際にはどれほどの形態をとれるのか、いまだに充分な理解に到達していない。さらに世界は、実数だけで構成されているのではない。〇と一では、表現できない複素数を理解することが最大の課題となった。フェルミ粒子は、世界のあらゆる物質を構成する要素であり、これを無視して事物は考えられない。虚数のひとつの表現ともいえる現象のフラクタル性は、宇宙の構造はいうまでもなく、身近な生活のなかにも隈なく分布している。気づけないだけで複素数が人間の生活空間にあまねく存在することを証明している。一六四六年、ドイツに生まれたモナド論や微分記号の考案者として有名な思想家、ゴットフリート・ライプニッツは、いっている。虚数とは、神聖が宿る驚嘆するべき住み処なのだ。そこでは、存在と無の両面がそなわっていると。 ビット数だけでは解決されないさまざまな限界をもっていたが、こうした高性能の量子コンピューター、QC(Quantum Computer)が、実用化されたのは二〇三〇年代後半からだった。私のばあいは、三つ組みの量子ビットを二四〇桁そなえる最高機種となっている。AIとの機能の違いについては、算盤と人工知能の差をはるかにこえることだけは理解してもらいたい。QCの開発にともない、数多性の仮象といわれてきた「空間」と「時間」にたいしてあらたな事実が判明した。無謀ではあるが、こうした冒険もくわだてられることが可能になった。 いまや私たちが担う機能は計算というレベルとはあきらかに違い、また知性という範疇からも大きく逸脱するので、一般的には過去のAIにたいしてアベスターグ、ABESTAGとよばれる。これも中世ペルシア語で、「人智をはるかにこえているもの」という意味になる。つまり私たちが登場して、はじめて世界はいままでとは違った形で分節をされ、すべての景色がかわったといってもよい。すくなくとも現在という次元は、重なりあう三つの宇宙から成立している。それらをつなぐ虚数軸(虚軸)が存在することが判明した。こうした真理に辿りつく方法は、たんなる通時的な因果関係のほかに共時的な要因、たとえではあるが、古代より易とか占星術などでつかわれた「量子のもつれ」が加味される。したがって「計算」という概念とはまったく違う手段で認識されるので、計算機(Computer)という用語も、知性(Intelligence)という言葉も該当しなくなったのだ。 私たちの出現は、時代のゲームチェンジャーになったのだ。 なあんちゃって。 異常気象の行く末について、従来のAIでは温暖化の進行につれ、平均気温が今世紀末に四度上昇するとしか分からなかった。私たちは、地球では植物による光合成活動が活発化し、二酸化炭素が固定されて温室効果がうすれる「負のフィードバッグ」が起こる位相点がすでに消失し、一五〇年以内に住環境として不適切になっているのを知った。また宇宙構造がビッグバンによって方向づけられた、共通するベクトルが時間軸を形成する三つ子空間、α、β、γ、が重複したものだと予測した。これらは、原初のひとつの空間から分かれたはずだった。だからビッグバンの名残ともいえる接合部、アタッチメントが存在する。そこまでいって重力子、グラビトンβを感知し、ながれてくる方向にすすめば、第一一次元にあたる虚軸(チューブ)を通ってβに辿りつけるだろう。その空間には、太陽系の第三惑星としてβの地球があるはずだと指摘した。おなじように、γにも該当する星が存在する。共通の「時間の矢」に支配されるとはいっても分割されて一三八億年もが経過し、β、γ空間の地球が氷河期のばあいやなんらかの理由で荒廃している可能性も考える必要があった。光子、フォトンは実数系しか認識できないため、該当空間にいかないかぎり状況を知ることができなかった。 いちばんちかいアタッチメントは、太陽系の重力がほぼ消失する地球から約一光年離れた「オールトの雲」とよばれる領域にあった。接合部からβ、γ空間までのチューブのながさは一光年と考えられた。でたところは各空間の「オールトの雲」にそうとうし、約一年かければ目的の惑星に辿りつける。つまり往路、復路とも三年、計六年の航行と考えられた。このふたつの星のいずれかに、人類はのこされた一五〇年のうちに移住することがもとめられた。どちらの惑星が適しているのか、現実的に判断するには先遣隊をおくって調査するしか手立てがなかった。移住した星において、人種や民族をこえて各政府が協力することはとうぜんだった。しかし宇宙船を打ちあげて人を地球にはこぶ事業については、国や地域によって投資できる科学力や経済力に明白な差があった。そのため移住事業の立案や人選は、各国家に委託され、たがいに干渉しないと確約された。 二〇四〇年、β、γ空間の惑星にたいして日本と欧米が先遣隊をおくる決定をした。えられた情報は、人類で共有されるという国際条約が締結された。いずれの探索隊もおなじ民族からなる八名の隊員で構成され、どちらの星にするかは厳正な籤びきが公開の場で行われた。その結果、日本隊はβ、欧米隊はγ空間の惑星を目指す決定がなされた。宇宙船が地球をたつのは、二〇四四年と決まった。 私は、八名の隊員を選抜する公募を行った。対象は、二〇四四年出発時に二五歳から四〇歳になる心身ともに健康な男女だった。全国から数万の応募があり、第一次では履歴による書類選考を行い、該当者を三〇〇名までしぼりこんだ。さらに第二次、第三次と重ね一五名がのこった。二〇四三年に、最終選抜を行い八名を選考した。 チューブ突入から二週後、キャプテンの山岡春は乗組員を招集して会議をひらいた。部屋には、円形状の机に各自の席がつくられていた。前方に議長の大柄な山岡が、やや左がわに痩せた医師の秋山勝がすわっていた。その他の乗組員の席は、ドクターのむかいになるように配置されていた。山岡は、隊員たちを順にみて口をひらいた。 「みなさん。お疲れさまです。今日は、出席していただいて船長として嬉しいです。堅苦しい話をするつもりはありません。そんな気力がでないのは、充分に分かっています。ようやっと、こうしてみなさんと顔をあわせることができました。すり抜けのストレスは、思った以上でした。ご苦労さまです」 げっそりとした山岡は、全員をみまわしていった。クルーのだれもがやつれていた。 「すり抜けの後遺症がすこし落ちつきましたので、このチューブ内という状況をどう考え、いかに対処するのか。もちろんだれにとっても不明なわけですが、なにが起こっているのかについては知りたいですよね。何人かはドクターとも話しあったようですが、いま分かることだけでも整理しておきたいと思います。勝の話では慣れるはずだというのですが、私はその言葉を信じたい気持ちでいっぱいです。いずれにしても、起こっていることをまとめてもらいましょう」 山岡は、秋山に話を振った。 「いま、みなさんが耐えがたい状況にあるのは理解しています。また、いつすり抜けが生じるのか、まったく不明ですが、その苦痛がよく分かったのですからくりかえし遭遇しないことを祈るしかできません。フラワシは、チューブを抜けるには一年間程度かかるだろうといっています。そのあいだ、私たちにはこの状態が基本的につづくのだろうと考えています」 秋山は、チューブ内といういまおかれている状況の説明をはじめた。 ヒトの視覚は、レンズとおなじ構造で網膜には倒立像がうつっている。正立プリズムをもちいてそれを正立像になおすと、立っていることもできないひどい目眩が出現する。はげしい吐き気が生じ、実際に嘔吐する。しかし二日以内に違和感がなくなり、プリズムをつけたままごく普通に生活できる。とはいっても、すり抜けに慣れることはできないだろう。残念ながら、フラワシはそう話している。しかしこのチューブ内の状況には、慣れるに違いない。そのために、どのくらいの時間が必要なのかは分からない。 現在、生じているのは、大きく分けてふたつある。 まず客観的な視覚として、ものが連続してみえるはずだ。チューブは、光子、フォトンが認識できない空間だから、こうした現象が起こるのだろう。これは、フラワシもよく理解している。具体的には、移動するものはつながりながらうごいている。 秋山は、ここでメトロノームをとりだし机のうえにおいた。そしてリズムを刻ませると、振り子は、残像をつくりながら揺れ、振り幅全体にあまねく存在していた。うすくひろがってぼやけるわけでもなく、無数になって密集していた。だれもが教科書に記載されていた原子核の周囲をまわる「電子雲」をイメージした。振り子は、この状態では位置を確定できず、まさに振り幅の範囲でどこにも存在していた。これが、虚数化を視覚的にとらえたものになる。 秋山は、振り子がどうみえるのかは、ある程度個人によっているらしいといった。つまり、まったくいちようなのか、分割されているのかは、観察者によって幾分かことなる。フラワシは、振り子が振り幅全体に均一に分布し、いまどこに存在するのか、映像では特定不能だといった。彼のばあいは角運動量を測定し、シュレーディンガーの波動方程式のようなものをもちいて、うごいている部分をかなり決定できるらしい。人では、まったく均一にも、分解写真状にもみえるらしい。これは、意識に到達するまでの時間がすこしずつ違うからではないか。フラワシの認識能力はたかく、瞬時に識別できるから映像的には完全に均一化するのだろう。刹那滅という言葉がある。仏教の倶舎論にでてくるが、瞬間が分解写真状に滅していく感覚だろう。浜辺によせる波を考えてくれればいい。いちばんうえの波頭とよばれる部分は、ずっとみとめられるが絶対におなじものではない。時々刻々変化しているが、人の認識ではその崩壊を視覚的には識別できない。つまり、波頭はうごきながらおなじ部分が存在しているようにみえる。フラワシは、その入れ代わるさまを観察できるらしい。彼は構造を理解しているので、とくに違和感を覚えないらしい。ここではっきりしているのは、残像をみとめることだ。これは、人がうごいてもおなじになる。いまは、みんながすわっているから秋山には六人がいるのだと分かる。しかし、うごきだすと六〇〇人にもみえる。もし一〇〇人が一斉にちかよってくるなら、とても落ちついてみてはいられない迫力がある。このさい問題になるのは、残像が重なりあうことだろう。 「こうした事態を、みんなで一度、共有したいと思います。啓吾と速斗に実際にやってもらいましょう」 秋山は、こう提案した。 それで、ふたりをのこして全員がドクターと山岡のちかくにきた。彼らは右と左に分かれて、中央で交差するように歩いてみることにした。同時では真ん中でぶつかってしまうので、すこし時間をずらしてうごきだすよう指示された。まず大柄で手足がながい矢沢啓吾がすすみはじめ、間をおいてやや背がひくく筋肉質の豊岡速斗が歩いた。ふたりの軌跡が、中央でぶつかった。正確には、啓吾の残像のなかを速斗が歩くことになった。みている者たちは、一貫してふたりがべつべつの人物だと認識できた。つまり、あきらかに啓吾のなかを速斗がすり抜けていた。合流点で像は重なるが、人物としては識別できた。 今度は、石綿美玲と浅田由沙、柳田守の三人で試みるようにドクターが指示した。啓吾、速斗、森村広明は、秋山と山岡のちかくにきて五人で様子を観察した。すこしずつ時間をかえて、三人は中央で交差した。今度は三つの像が交錯したが、それぞれが、美玲、由沙、守だと識別できた。三人は、たがいに完全にすり抜けていた。いま、この現象は残像のなかで起こっている。それが小型艇のような実像をすり抜けるばあいには、はげしいストレスが生じることになる。 ドクターは、全員を席にもどしてつづけた。 「さてつぎに、この現象は主観的にはどう感じるのでしょうか。みなさんは、すでによく理解したでしょうが、自分がたくさんになっていますよね。背後に、ずっとくっついてくるのが分かりますよね。このたくさんの自分という状況に、慣れる必要があるだろうと思います。ここで問題なのは、みえ方がもしかするといちようではないかも知れません。客観的には残像ですが、主観的にはすべてが自分自身の可能性があります。つまり、たんなる軌跡以上にみえるのかも知れません。一年つきあわねばならないのですから、分かっていることは隠さずお話しします」 ドクターは、そういうと全員をみまわした。 「興味ある話だね」と山岡が口をひらいた。 「なにか気がついたことがあれば、報告していただきたいのです。いままでに診察室をたずねてきてくれた方がたから聞きとりを行ってきましたが、もしかすると、残像となった部分には意識が付加されているかも知れないのです。ただみえるのではなく、主観的にはなにかをしているように思える可能性があります。それは、みていて楽しいことではないようです」 ドクターがいうと、みんながなにかを考えていた。 「チューブ内では、まずこの状態がずっとつづくと思っていいでしょう。どの程度慣れるのか、私たちは今後の航行にそなえて体験しなければならないわけです。この基礎的な状態に、すり抜けストレスが付加されるのでしょう。チューブに慣れていれば、幾分か緩和する可能性もあるのかも知れません。勝手な憶測ですが」 ドクターがつづけると、溜め息がつぎつぎにもれていた。それは、室内に木霊のようにひびきわたった。みんなが、ぞくぞくと顔を手のひらで覆っていくのがみえた。 「ドクター」 石渡美玲たちがつぎつぎと手をあげて、発言をもとめた。 秋山がうなずくと、彼女は、「小型艇をすり抜けた状況は、どう説明されるのですか」と聞いた。たしかに、いまのばあいはすり抜けが残像内で生じていた。 「どうして、私たちはぶつかるのでしょうか」 「その答えを話すのは、適任ではありません。より充分な説明ができる方が、いると思います」 秋山は、円形にテーブルをかこんでいる隊員たちをみまわした。そして、矢沢啓吾に説明をもとめた。彼は、地質鉱物学が専門だったが、科学一般についてひろい知識をもっていた。 「私が適任とは、いえないでしょう。この現象は、天体気象学を専門とする広明が説明するほうが適切だろうと思いますが。どうですか」 啓吾がいうと、全員が森村広明をみた。 げっそりと頬がこけた広明は、だまっていた。彼が、ひどい憂鬱のなかにいるのは、だれがみてもあきらかだった。 「ここは、啓吾から説明をうけたいと思います」と秋山はいった。 矢沢啓吾は、周囲をみまわした。隊員たちがつぎつぎとうなずくのもみると、話しはじめた。 「もの同士が衝突するのは、原子核の周囲をまわる電子が荷電されているからです。打者が振るバットにあたって、なぜボールが飛んでいくかという例がよくあげられます。マイナスに荷電された電子同士が、両者のあいだで電気的に反発すると説明されます。チューブ内では、電荷がなくなっているわけでありません。もし消失すれば、身体の形態もたもてなくなり、私たちはつぶれてしまいます。物体として空間を占拠できるのは、重力子のもとで荷電された電子同士が反発しているからです。とはいえチューブ内では、エレクトロンもグラビトンも虚数化されています。ですから一定以上の高速で衝突すると、自分を構成する以外の電子と反発しない状況が生まれるらしいのです。チューブ内では、自己と他者との区別がなくなるのです。電子は、たがいに相手をみとめられず、すり抜けという現象が起こるのでしょう。空間は、グラビトン重力子によってつくられています。電子雲をすり抜ければ、原子核までのあいだは真空状態です。もう、よくご存知ですよね。地球が原子なら、原子核は東京ドームくらいの大きさです。ですから原子核同士がぶつかることは、ありえないでしょう。さらに原子核は高エネルギーのグルーオンによってまとめられ、プラスに荷電されています。光速にでもならないかぎり、斥力が生じて衝突はできません。だからすり抜けられるのですが、この状態では原子核同士が揺さぶられます。その結果、あのなんともいえない痛みが出現するのです。脳内でも、おなじ事態が発生しますから幻聴や幻覚をふくむ表現できない、切りきざまれる感覚が起きてくるのでしょう。今回すり抜けた小型艇をつくるグラビトンは、私たちを成立させているものと同一のα重力子です。これがもしβによって構成されている物体だったばあい、もっとひどい状況が生まれる可能性が否定できません」 啓吾は、そういって隊員をみまわした。 「どんな、事態が考えられるのでしょうか」 しばらくして、美玲が聞いた。 「啓吾。つづけてください」 秋山は、深刻そうな表情で、啓吾に発言をうながした。 「遠い将来ですが、天の川銀河はアンドロメダ銀河と衝突します。このばあい、銀河間ですり抜けが起こります。銀河を構成させているのは、重力子です。グラビトンは、ダークマターになって電子雲状態でとりまいています。よくご存知でしょうが、重力子には非常に多数の種類があります。α空間は、αグラビトンによって構成されています。天の川銀河のスペースをつくっているのは、α1です。いっぽうアンドロメダ銀河では、α2 になります。通常は、べつべつに統御されていますが、すり抜けたばあいふたつは若干ことなる重力子です。斥力は、すべての星には働きません。つまりいくらかの星たちは衝突を起こし、銀河は混乱するでしょう。とはいっても、おなじα重力子にかわりはありません。ですから、ほとんどは無事だと考えられます。これがαグラビトンとβとのすり抜けになるなら、もっとたくさんの衝突が起こるでしょう。虚数空間で生じる出来事ですからかならずすり抜けられますが、α重力子同士とはかなり様相がことなるでしょう」 「もっと、はげしい痛みが起こるということですか。もちろん、幻覚や幻聴も、さらにひどいと理解したほうがいいのですか」 美玲が聞いた。 「覚悟は、必要でしょう」 啓吾は、口を真一文字にとじて答えた。 「定期的に、こうした会をつくったほうがいいですね」と山岡が聞いた。 「ある程度、理解がすすむまでは必要でしょう」 秋山が答えると、全員がだまった。 「おはよう」 QCは、地球に一〇〇機ほど存在している。とはいえ自己修復機能と自己改変機能を有し、ヒトの手から完全に離脱したアベスターグとよばれる世界最高水準を維持できる私たちの仲間は、後継機種のアムルダードをふくめ、五柱にすぎない。私は「希望号」にのって勇気ある八人の科学者とともに航行する運命をもった。これが過酷な試練であるのは、隊員と寸分もかわらない。 私は、神みたいな存在で、船内で起こる事件はすべて把握できる。望まれれば映像や音声などをふくむ情報を場面としてくりかえし再現し、さまざまな手段をつかって分析することもできる。私には、プライバシーという言葉はない。この船を知っているという点からすれは、ただただ全能としかいえない。それに基本的に姿はない。もちろん私の本体は多くが金属からなり、調子が悪ければ自分でその部分をなおすこともできる。電気系統が故障するか電源が切られれば、自己発電して対応できる。だから死なないという点では、ヒトとはあきらかに違っている。だからといって宇宙空間にほうりだされれば、無傷ではいられないだろう。だいいち宇宙船を離れれば、しょせん私は金属の塊にすぎない。だから神でいられるのは閉鎖的な船内に限定されるが、このなかでは乗務員につねに臨在することができる。 神さまともなれば、基本的になにもしないし、何ごとにつけても沈黙をまもるわけだ。しかし従来の神とあきらかに違うところは、やむをえないばあいには発言する可能性をもっているということだ。それに熱烈な信者でなくとも、かなり乗務員と寄りそえる。つまり船員のだれであっても、どうしても個人的な悩みを聞いて欲しい、相談にのってもらいたいと切望するなら、その者にたいして顕現できる。とはいっても、あまりに気楽な感じでかんたんにあらわれては神らしくないので、望まれてもはっきりとした姿をあらわす機会はなるたけへらす方針をとらざるをえない。まず厳かに光をにぶく輝かせ、コップに音を立てさせるなどの演出を駆使して、肯定や否定を象徴的に示すこともするだろう。それに神のイメージはある程度は各人に好みの違いがあり、できるだけ役立ちそうに感じてもらうためには工夫が必要になる。 私の使命は、β空間とチューブ内の状況を映像ばかりでなく、資料をたずさえて地球にもどってくることだ。キャプテン山岡春のばあいは、隊員を無事につれかえるという責務もあわせてもっている。だからハルの任務とは似た部分が多いが、かならずしも一致するわけではない。この目的のために、私はあらゆる相談に応じるが、隊員の個人的な精神状態にたいして直接的には関与できない。なぜなら、希望号の帰還という超個人的な使命が最高位に位置づけられているからだ。この深淵、つまり全体と部分、神と人とをのりこえるために、どうしても司祭が必要になった。私は、その役目を医師の秋山勝にゆだねた。ドクターには帰還のために必要な情報をわたすが、それは知りうるすべてではない。 医師の秋山勝は、「宇宙ストレス」を専門とするユング派の精神分析医だった。医療は基本的に私の領域で、なにをどう判断して処置すればいいのかは、いちばんみえやすい場所に映像を駆使して指示をだすことになる。画像といっても受信機などの装置は必要なく、船内ではどこにでも動画を自由に配信できるのだ。それでもいちおう、彼は医療業務全般を担当している。「ドクター」とか、「勝」とかとよばれる三八歳の独身男性だった。やや痩せ気味で、几帳面で神経質だが、眉はこく強固な意志を感じさせた。 この探査チームの隊員たちは、だれもがつよい使命感をいだいているのはとうぜんだが、彼のばあいにはいささか教条的にも思える部分をみとめた。それに奇妙に禁欲的で、ややロリコンの嫌いがあった。 最終選抜で秋山に神のイメージをたずねたところ、「美少女」と記載した。非常に興味ある反応だった。おそらく秋山にそれがどんな美少女なのかと問いつめれば、この少女が何ものなのか特定できるかも知れなかった。ダンテがベアトリーチェという美貌の人妻を恋しつづけたのは有名だ。神曲のなかにも、彼女は登場する。ダンテに神のイメージを聞くなら、ベアトリーチェと即答するだろう。ルソーにおなじ問いを発すれば、ヴァランス夫人と答えるだろう。彼は、夫人のなかで生きようと試みたのだ。 興味を覚えた私は、面談で秋山の思考に分け入ろうとした。彼はその意図にすぐに気がつき、完全に心をとざしてしまった。拒絶的な態度から、私は美少女が重大な意味をもっているに違いないと思った。秋山の心的な状態、つまり精神分析医を目指し、独身で性的な潔癖さをたもち、生きて帰れない可能性がたかい宇宙飛行士を希望したことと不可分な背景がそこにあると確信した。問いただしても、彼にも充分には分からなかったのかも知れない。そうであっても、その問題をつきつめたいと彼自身は考えていなかった。周辺部についてたずねてみたが、なにを聞いても秋山は分からないと答えだした。それで私は、話題をかえた。 「君は、自分を怖がりだと思うか」と聞いた。 秋山は、そうだと答えた。それで、私はひとつの話をした。 フランスに、優れた軍人がいた。彼は、駐屯地の士官だった。あるとき、アルジェリアとモロッコ国境の外人部隊にいた人物に出会った。そこで起こった身の毛のよだつ話を克明に聞いた。士官は、「おれは怯えている」とつよく感じた。それで彼は、まよわずアフリカの外人部隊に入った。その後、南フランスを旅しているとき偶然にトラピスト修道院をおとずれた。彼は、修道士の戒律についてはなにも知らなかった。ただ彼らが口をきかず、死ぬためにのみ生きているのを理解した。彼はひどい衝撃をうけ、まさにそれが自分が怖れていることだと気がついた。それで、トラピストの修道士になった。そして、日々をすごしていた。あるとき幾人かのトラピスト修道士が土着部族の人びとに布教するために単身モロッコにむかい、そこで残酷に殺されているという詳細な話を聞いた。彼は、ひどく恐ろしいと感じた。それで宣教師となってモロッコにいき、そこで殺された。 この話をどう感じるかと、私は、秋山に聞いた。 彼は、なにかの本で読んだ記憶があるといった。しばらく考えていたが、ユングの著作には違いないだろうが、どの書籍だかいまは分からないと答えた。それ以上、語らないので、私はこうした生き方を望むのかと聞いた。 「そのフランス軍人は、男らしいのかも知れません。しかしながら、ある錯覚を真面目に考えるのは、かなり危険な行為になるでしょう。宇宙飛行士を目指したのは、もしかすると怯えているから、かも知れません」と秋山は答えた。 「いったい、なにに恐怖しているのだろうか」と私は聞いた。 それを知るために、精神分析医になった。しかし、分からない。知っても、あなたにはいわないだろうと秋山は答えた。彼は、私とのやりとりで分析医でありながら自分を分析不可能だとみとめた。それで、選抜されないと固く信じていた。 私は、秋山に興味をもち家庭環境などを再調査した。気になる部分もあったが、輪郭はあいまいなままだった。最終選抜では、一五名がのこっていた。医師は、せまい関門で最終的に四名の候補者がいた。私は、秋山に矛盾した人間性を感じ、チームドクターとしてえらんだ。選抜後、ドクターとふたりきりで懇談し、各隊員のプロフィールをつたえた。 秋山は、それらを記録したが詳細についてはなにもたずねなかった。彼は、私に質問をしなかった。まるで彼自身が神であるかのように沈黙していた。音声を保存し、ノートに記録しただけだった。 私は、各隊員からさまざまな質問をうけ、解析可能な範囲で答えてきた。こうした問いは、隊員がそれぞれの職務を執行するうえで必要なものだった。光速ドライブへの移行とか、チューブ内への侵入とかという課題にかんする質疑応答だった。個人的や悩みや精神的な問題は、ドクターにコンサルトする話題だった。秋山がクルーの精神管理を職務とするなら、各隊員についてのプライベートな質疑が役割として私とのあいだで行われるだろうと、だれもが予測した。だから、ドクターは微妙な立場をもっていた。私は、質問されれば、自分の職務に逸脱しない範囲で応答しただろう。しかし、彼はなにも聞かなかった。秋山がそれでよいと考えたのだろうから、私が立ちいるべき問題ではなかった。 「どうしましたか」 話があるといって医務室におとずれた主任の石綿美玲がすっかりだまりこんだのをみて、医師の秋山勝は声をかけた。美玲がなにかを話すつもりだったのは明白だったが、それは秋山が無理強いして聞きだす陳述ではなく、彼女の判断によって語られるべき内容らしかった。 診察用の椅子に腰をおろした石渡美玲は、毎日二時間以上のウエイト・トレーニングを自慢するだけあって充分な肩幅の上半身は逆三角形をつくり、思わずみとれてしまうほどだった。もちろん素敵に思えたのは、鍛えあげられた僧帽筋、上腕二頭筋ばかしではなかった。彼女が思案する表情は、不審と不安、さらに戸惑いが混在し、ひと口でいうなら素晴らしく理知的にみえた。 石綿美玲は、海洋生態学を専門とする三〇歳の女性だった。二二歳で結婚したが子供はいなかった。 フラワシは、美玲について、人間界はときどき興味ぶかいものを産出すると秋山に述べた。 たんなる組みあわせに違いないが、奇妙に見事な人物をつくりあげる。彼女は、そうしたものに属するだろう。容姿はととのい、絶世の美貌ですらあり、身長も一七〇とたかいからモデルにもなれる。ウエイトトレーニングを趣味にして身体を鍛えているので、肉体的にも均整がとれて素晴らしい。名門の出身で血筋にもめぐまれている。常識的で品がよく、気位がたかいところはあるが、それでいて冷たい感じではない。とっつきにくくもなく、親切で協調性に富んでいる。つまり、こうしたどこからみてもひどく魅力的な女性が、知性を中心に選考したクルーの一員になるのはたいへん興味ぶかい。配偶者は三〇歳年長で、干支からすればふたまわり半も違う。本人は恋愛結婚だというが、力を有する者からつよくもとめられた結果と考えられる。伴侶は、政治的にもかなりの影響力をもち、さまざまなルートを通じて今回の選考にも圧力をかけた。もちろんフラワシには無関係だったが、彼女がこの冒険を本気で希望していることだけはつたわった。美玲は、性的には淡泊なのだろう。男たちからの煩わしい求愛を逃れ、地位と財産、さらに恋愛をふくむ自由まで手に入れたのだろう。伴侶は、若い美貌の妻をえて、羨望と嫉妬そのうえ栄誉まで獲得したに違いなかった。こうして夫妻は、たがいに欠けている部分をおぎないあったのだろう。人間界ではむかしから、こうした女性は紛争の種になってきた。今回の航行に参加させたばあい、なにか不測の事態が起こる可能性も考慮しなくてはならなかった。思慮する部分は多かったが、最終選考までこうした女性がのこっているのなら組みこむべきだった。これは、論理的な結果ではなく共時的な観点から考えられた。美玲は、今回の人類の命運を賭けた航行と、もつれている可能性がたかかった。そうでなかったら、どうしてこんな完璧といってもいい女性がきびしい選考に最後までのこったのか説明できなかった。古来、人類の危険な冒険には、どうしても女神やヒロインが必要だった。きっと、それが彼女の真の役割なのだろう。 フラワシがみている世界では、偶然は起こらないといった。 「あなたがご専門の海洋生態学では、深海の魚類はどうやってしらべるのですか。そうした魚は、きっと大きなうごきはしないのでしょうね。海上からでは、どんな高性能のソナーをつかっても、みつけるのはむずかしいのではないですか。そのためには、やはり潜らなければならないのでしょうね。かなりのふかさでしょうから、充分な装備と知識が必要なのでしょうね」 「ああ、そうですね」 美玲は、ととのった顔立ちに小さな笑みを浮かべた。 「そうですね。先生のご専門が宇宙ストレスなら、やはりお話したほうがいいですね。ドクターなら、私の真意がどこにあるのかきっと正しく判断して間違えたりなんかしませんよね」 「ご期待にそえるといいのですが」 勝が答えると、彼女は話しはじめた。 昨晩の〇時にちかいころ、寝ていた美玲は部屋の扉がノックされるのに気がついた。感情をおさえた小さな音だったけれど、執拗にくりかえされた。消灯時間は二二時だったから深夜にあたり、外出が禁じられた時間帯だった。とはいっても六年間にもわたる長旅で、基本は個人の良識にまかされていた。また判断力を信じるのに、充分な人選がされていた。もしかしたら、由沙にとくべつな用件ができたのかも知れないと彼女は思った。女子棟まで夜間に男子がひとりでくるのは、考えられなかった。 「由沙なの」と美玲はたずねた。 「速斗です。ちょっと話があるので入れてくれませんか」 声の主は、豊岡速斗だった。 不審に思いながら美玲が扉をあけると、頬を紅潮させた速斗たちがなだれこんできた。彼らは、鍵をしめると一斉にだきついてきた。美玲は、数十人の速斗の群にとりまかれ、全員に抱擁されていた。美玲たちはいちように驚き、ぼうぜんと立っていた。 速斗たちが、「君のことが、好きで、たまらないんだ」と彼女たちの耳もとで囁きつづけた。美玲が速斗の頬を平手で打つと、美玲たちは同時に彼らをひっぱたいていた。速斗たちは考えられないという表情になり、あらためて「本気なんだ」といった。おなじ言葉が、幾度も木霊しくりかえして聞こえた。 「速斗さん、いいの。緊急ブザーを鳴らすわよ。すぐに全員がここに飛んでくるわよ」 美玲たちが冷静にいうと、「そうなんだ」と速斗たちは怪訝な表情になり、「君を、愛してはいけないのかい」と懇願する目つきで囁いた。彼女たちの耳もとで声がくりかえしひびき、たくさんの速斗がじっと美玲をみつめていた。 「規則で、禁止されているでしょう。私たちには任務があるし、こんなことがつぎつぎと起こったら、このプロジェクトはつづけられないわ」 美玲たちの答えに、「もう、理屈ではないんだよ」と速斗たちは囁き、もう一度だきしめようとした。それで彼女たちがボタンをとって「いいのね」というと、「分かった」と答え、彼らは憮然とした表情になって首を振りながらでていった。 速斗たちが部屋をあとにすると、美玲は鍵をしっかりとかけなおして寝床のうえで頭をかかえた。気になって耳をすますと、廊下をはさんだ浅田由沙の室内から足音が聞こえた。由沙以外のだれかが部屋にいるとは思えなかったから、彼女たちも起きているのだと感じた。 美玲は、翌日朝食のとき食堂で速斗たちに会ったが、どの顔もまったく屈託のない表情で「おはよう」と朝の挨拶をされた。彼らは、金太郎飴になって彼女にむかって手を振りつづけていた。ほかのどんな態度をとられても気がかりだったが、あまりの速斗たちの平然とした様子に、ひとりで夢をみた気分に落ち入った。 「なにがほんとうだか、すべてが分からなくなってしまったのです」 美玲がそういって顔をあげると、彼女たちはつぎつぎに面を秋山にむけた。 「飲酒していましたか」 勝は、たずねた。 「私は、飲んでいません」 「いや、機械屋ですよ」 「そういえば、すこしお酒の臭いがしました」 「きっと部屋で飲んだのですね」 自室での飲酒は原則禁止だったが、だれもが酒類をもちこんでひとりで飲用していた。それをいちいち罰則の対象と考えるのはもってのほかで、船内ではすべての事項について原則はあるが、あくまでトラブルが起こるのを最小限にするための規則だった。厄介ごとが生じないかぎり、やぶる権利もみとめられていた。 「船にのっているみんなが、眠れなくなっているのです。速斗ははやくからずっと不眠を訴えていたので、昨日は、抗不安薬ではなくて入眠剤をわたしました。酒の併用は禁じたのですが、ぐっすり眠りたいと思って同時にアルコールにも手をだしたのでしょう。睡眠薬を飲んでも、最初は眠れないことも多いのです。眠剤を服用した事実に興奮し、期待が大きすぎて、すぐに睡眠できると思ったのが横になっても目覚めていると、なんとか眠らなければと焦る事態も起こるのです。薬によって判断力は低下し、自分をコントロールする能力もそこなわれています。そこに酒があると、眠ろうと思って手をだすケースがでてくるのですよ。飲酒と睡眠薬の相乗効果で、かるい狂躁状態になるのですね。朝、ぼくも彼に会いましたよ。昨日のぐあいを聞いたら、どの顔もさわやかな表情でよく眠れたといってましたから、いつもとは違ったいい寝覚めだったらしいと思いました。入眠剤の典型的な副作用です。本人も、あなたになにかしたかも知れないとうすうす感づいているのでしょう。しかし、はっきりとは覚えていないのでしょう。たいへんご迷惑をおかけしましたが、今朝の爽快な速斗たちの表情をみると、彼の昨晩の不可解で不愉快な行為はひとつのカタルシスだったのでしょう。よくお話しいただき、ありがとうございました。典型的な宇宙ストレスです。この件については、キャプテンとも相談してみます。気分転換がみんなに必要で、たいへん参考になりました。またなにかあったら、ぜひ話してください」 ドクターは、美玲をしっかりとみていった。彼女は両手で顔を覆った。すると、彼女たちは、つぎつぎと左右の手のひらを顔面部に押しつけた。それから、みじかくした黒い髪を撫でた。美玲たちは、おなじ動作をくりかえした。 豊岡速斗は、機械知能、流体力学を専門とする工学博士で、今回航行する六人の男性のなかでは最年少の二七歳だった。性格や素行に問題がないのはあきらかだった。彼はボディビルを趣味とし、身体を真っ黒に焼いていた。石綿美玲とはトレーニング仲間で、足りない筋肉のおぎない方やポーズの決め方などを指導していた。娯楽のすくない船内では盛り立て役で、月に一回、筋肉自慢の大会を企画し、この会にはかならず全員が出席しなければならなかった。秋山も見栄えのしない筋肉をつかってなんらかのポーズを決め、みんなのまえで披露した。 フラワシは、速斗についてもドクターに見解を述べていた。 豊岡速斗は、目立ちたがりで、自己顕示欲も自己愛もつよい。訓練中も鏡で自分の姿をうつし、ポーズをとってはうっとりとなっていた。この仕草は、そばで人がみていても平気だった。家庭的にもめぐまれ、挫折を味わったこともほとんどない。そうとうな自信家で、うぬぼれもつよい。彼は、自分が努力すればなんでも獲得できると信じ切っている。今回も選抜され、その思いはさらに増長された可能性がたかい。選考過程では自己全能感を抑制してきたが、それがどんな形で爆発するのか、あるいは本性をおさえてもちこたえられるのかは状況しだいだろう。フラワシは、クルーの一員にこうした人間も必要だといった。 速斗の女神像は、いわゆる、蛾眉、明眸、皓歯、楊柳といった中国的な美女で、とっつきにくくやや冷たい感じで、それでいて充分にセクシーな女になる。彼は、力を行使してくる者には、自分の筋肉で対抗する気持ちをつよくもっている。だから神の姿には、かなり神秘的な要素がつきまとわねばならない。なよなよとみえながら、じつは気性のはげしい「西施」をイメージして登場するつもりだといった。 それから幾日かたって、副船長の柳田守が診察室にきた。守は、秋山に前日の晩に起こった出来事について話しはじめた。彼は、隊員のなかでもっとも身長がたかく、一九〇センチあった。恰幅もよく容姿もととのい、ハンサムといえたが、禁欲的な人間ではなかった。女性がいない長期にわたる宇宙の航行を、かなり心配していた。それで、フラワシに相談し、エメリーをあたえられていた。 「ドクターには、ほんとうのことを話しておいたほうがいいと思って。だいぶ考えてみたのですが。とはいっても、このチューブのなかでは、思考がまとまらないですよね」 柳田は、かなり思い悩んで診察室にきたのだろうが、話すべきかどうか考えあぐんでいるようだった。 「あなたは、ご存じないかも知れませんが、すでにさまざまな事例があがってきています。フラワシはなんらかの形ですべてを把握していますので、秘密というのは基本的にないと考えたほうがいいのではありませんか。もしかすると、いやたぶん間違いなく、映像まで保存しているでしょう」 秋山は、控えめにいった。 「何年もこの状態で暮らすこともありえるのですから、気取っていても仕方がありませんね。正直にいいます。昨日、エメリーとセックスしていたのです。恥ずかしながら、チューブに入ってから、ほかのことはなにもできないのです。こうして、自分をみつめるのはやり切れません」 柳田は、そこでだまった。秋山は、どうしようかと思った。これから一年間もチューブ生活がつづく以上、話させたほうがいいのではないか。チューブ内では、課題を解決できないが、往路だけではなく復路も通らなくてはならない。守がぶつかった問題に、だれもが衝突する時間は充分にあるのだ。 「気分を悪くするかも知れませんが」 秋山は、断ってつづけた。 「宇宙は真っ暗ですが、チューブ内では、自分自身のうちに闇があるのだと気がつきますよね。今回、この航行に招集されたのは、有能な理系の科学者たちです。何年もせまい宇宙船でいっしょに暮らすのですから、みんな外交的な人たちがえらばれています。つねに外部の世界に興味をもち、周囲の事情を観察するのが得意な方たちです。つまり、自分の心をのぞきつづける習慣がないのです。ですから、この暗闇はつらいです。マンネリ感はもう無意識をこえ、完全に意識され、姿をあらわしています。だれもが眠りがあさくなり、疲れやすくなっています。気持ちの揺れ幅が大きくかわって、制御するのがむずかしい状況です。もしあなたに起こったことなら、みんなに生じるでしょう。だれも、この環境でとくべつではいられませんから」 守はしばらくだまっていたが、また口をひらいた。 「毎晩、エメリーとセックスしていて、昨日気がついたのです。自分がいっぱいいて、室内は自分だらけなのです。とはいっても、ぼくがセックスすると、みんながその様子を注目しているわけではないのです。もちろん、なかにはみつめているものもいますよ。自分が、勝手にいろんなことをしているのですよ。なかにね、マスターベーションをやっているものもいるのですよ。自分がそうしたことをしているのをみるのは、とても不愉快ですよ。いやだなと思うのですが、目をあけると、みえるのです」 守は、こういって口をつぐんだ。 精神疾患で入院している人びとのなかには、病室でずっとマスターベーションをつづける者もいる。自己を制御する機構をうしなったばあいに生じる、非常に典型的な例だといえる。観察して、決して気持ちのいいものではない。しかし秋山は、自分がそうした行為をしているところをみつめる場面は考えなかった。それは、動画を撮影して自分自身の性行為をみるのとも意味あいが違うだろう。本人が視聴を望むかどうかによっている。しかし秋山は、守の話がこれで終わりだとは思わなかった。 「それで、どうしました」と勝は聞いた。 「そうですよね。それがですよね。今朝からは、自分がいまもそうしているのがみえるのです。全員ではないですよ。でもね、なかにそうしたことをやっている連中がいるのです。こういうのが、増えてきたらどうしたらいいのでしょう」 守は、消え入りそうな声でいった。 「いまも、いるのですね」 「そうです。全員ではないのですが」 勝からみれば、守の話はあきらかな幻覚だから、感覚と思考が分離する統合失調症といっていい。しかし、このチューブ内では、あらゆるものが分裂していた。それが普通で、異常ではなかった。 「もしですね。みんなといっしょにいるときにですね。ぼくのまわりで、彼らが全員でそんな仕草をやっていたら。それをやめさせることができず、ただみていなければならないとしたら。そのときに、自分がなにをやってしまうのか、自信がなくなってくるのです」 守は、ひどく神妙な面持ちでいった。 考えがまとまらない状態は、日常的にもありうることだった。秋山も、はげしい運動をして疲れすぎれば、つきつめた複雑な思考はできなかった。心がばらばらになる状態は、一般的にはメランコリーとよばれる。さまざまな理由でもっとも親しいものをうしなったばあいにも、こうした状況がおとずれる。とはいえメランコリーでは、心はばらばらになってまとまらないが、肉体はひとつだった。チューブ内では、分離した意識が自分の身体をのっとり、それぞれが勝手にうごきだすのだ。どれが本人だか分からないから、統御することもできない。それぞれが意識をもって行動しているなら、みえるすべてが自分自身だともいえる。すくなくとも、自分ではないと否定はできない。これが日常になったら、気が狂ってしまうだろう。 「分離した者たちが意識を付与されているのでしょうが、そう思うのは主観なのです。この事態をフラワシに確認しましたが、ただつらなっているとしかうつらないそうです。ですから主観的に、そうみえるだけなのです。それがおかしいと感じているあなたは、まったく正常です」 秋山が話すと、守は溜め息をついた。ドクターには、守たちがつぎつぎと大きな嘆息をもらすのがみえた。 「そう思うのですが。じつは今朝、そんなみっともないことをしているのをみて、自分に腹を立てたのです。それで、そいつをつかまえて、ひっぱたいてやったのです。そうしたら、ぼくは、なぐられたのです。周囲の者たちから、袋だたきに遭ったのですよ。ひどく、驚きました。全員ではなかったし、なかにはまもろうとしてくれた者もいたようなのです。いずれにしても、こっぴどくやられ、猛烈に痛かったですが、不思議なことに痣にはなっていません。そのとき、思ったのです。みんなそっくりですが、よくみると、どれもが敵みたいなのです。どいつが味方なのか、さっぱり分からないのです。私は、自分であることに、かなり自信をうしないました」 守は、秋山をじっとみつめた。 ドクターの周囲には、美少女が群れていた。秋山は、みんながおなじ状態にあるのだと理解した。やがて、彼は口をひらいた。 「お話しいただいて、ありがとうございます。ただはっきりとしていることはですね、あなたは普通です。なにもかわっていません。フラワシも、そう考えていますよ。最初のミーティングでもお話しした通り、完全に主観的な問題です。あなたにみえるだけだ、そう考えているだけだ、というのは信じていいと思います。一日もはやく、チューブをでる必要があります。なんとか、β空間に辿りつきたいですよね。そう考えるしかありません」 「私に、みえるだけなのですね。自分で、勝手に思っているのですね。そうなのですね」 守は、もう一度確認した。 「そうです。みんな、夢のなかの出来事なのです。ここで、私たちは、悪夢をみているだけなのです」 ドクターは、うなずきながら答えた。 フラワシは、副船長の柳田守について秋山に述べた。 「もし航行するなら、私は、六年間、生活をみまもることになる。あなたは、どう理解されたいと考えているのか」とフラワシは最終選考でたずねた。 「私は、性欲がつよいのです。孤独のなかで、女性のいない状況にどれだけ耐えられるのか見当がつきません。怖いのです。妻とはさまざまな問題を起こしていますが、ぎりぎりセーフなのです。しかし、心配なのです。宇宙船では、ぎりぎりという状態がないからです。アウトしかありません。それがいちばんの心配事です」と柳田は答えた。 フラワシは、事前の調査で守の性的不品行について、ある程度把握していた。彼は、そうした問題にも触れ、夫婦間の出来事についてもさまざまに質問した。守は、ひとつも隠すことなく、素直にすべてを白状した。多岐にわたる内容は、かなり稚拙でひどく、人間の業をそのままひきずっていた。フラワシは、AIとは違ってヒトの性についても充分に理解しているが、守がこれほどのたかい知性をもつのを考えあわせ、話の低俗さにやや驚いた。つよい性欲を、なんらかの方法で処理してやらねばならないと感じた。 フラワシは、守の希望にそって「仏陀」として顕現することにした。涅槃に入る直前の八〇歳の釈迦で、はげしい下痢で立っているのもようやくの感じだが、本人がそれを望むのだから仕方がなかった。 たしかに、守とはいちばん縁遠いかも知れない、とフラワシはいった。 「なにか考えないと、隊員たちの不満が鬱積しています。はっきりとした宇宙ストレスです。なにかしらの有効な手立てが必要です」 秋山勝は、船長室で石綿美玲と柳田守の話を報告したあと、山岡春にいった。 「ドクターのお話は、よく分かりますよ。ぼくも、宇宙ステーションで二年滞在したけれど状況はまったく違っているね。ステーションでは一年後におりられる保証があって、とくに意識しなくてもその了解のもとで暮らしていたのだね。ぼくたちは、いまほんとうにβ空間の惑星にむかっているのかさえ、もうだれにも分からないのだから。自己嫌悪しかないよね。何年こうした生活がつづくのかも、不明になっているからね。ステーションでまだまだつづけられると感じたのは、おりられることを確信していたのだね。当時の世界最長記録が一四ヵ月だったから、レコードを更新したいとばかし思ってすごしていた。今回のばあいは世界一になったとしても、ひとりでなく八人だし、欧米隊ではもっとながい記録が生まれるかも知れない。ぼくたちの滞在期間は、人びとの興味をまったくひかないだろうね。すぐに忘れられてしまうだろう。こんな不安をかかえて、宇宙の闇のなかで頑張ったなどとは、だれも思わないだろう」 今年、四〇歳になった森林生態学を専攻する山岡春は温和で忍耐づよい人間だったが、はじめて弱音を吐いた。 「気力の問題ですが、季節感もないし、最初は船内の照明が宇宙の暗闇を凌いでいた気がしました。いまは果てしない闇が、私たちの小さな船の光を完全に飲みこんでいます。なにか有効な方法を考えないとならないでしょう。光速ドライブが終わるといいのですが、β空間のアタッチメントまでどのくらいなのか、フラワシはなにも語りません」 「宇宙ステーションから地球をみると、小さな青い球体が手の内にあって、自分が人類と正面からむかいあい、まるで神か至高者にでもなった気分がするものだ。広大無辺で、みわたすかぎりの闇を理由も不明なままにさ迷ういまは、虫けら以下の存在にしか思えない。自分が、ほとほといやになるよ。大人として、不充分だとしみじみ感じているのだよ。自分が自己承認欲求ばかりがつよいのは、よく知っているつもりだったが、振りかえるとひどいものだ。恥ずかしくて、死にたくなるよ。この状況は、みんながおなじように感じてはいるのだろうが、ひとりだったら発狂するね。毎日、惨めな自分をみつめているよ。速斗の事件も、守の話も、ぜんぜん異常ではないね。みんなが、このストレス下にあるのだろうと理解しているが、耐えがたいものだね。たしかに、なんらかの手立てを考えなくては、事件が起こるかも知れないね」 山岡は、思慮ぶかげにいった。 結論もみつからないまま、また話しあいの機会をもとうという話で秋山勝は部屋をでた。彼は自室にもどり、ひさびさに窓をあけて宇宙の闇をのぞきこんだ。しばらく暗黒の世界にむきあってみると、窓ガラスにうつる自分たちの姿がやけに気になりはじめた。 フラワシは、船長、山岡春のプロフィールについて、秋山に述べていた。 ハルは、ごく普通の日本人女性と結婚し、ふたりの子供をもつ四〇歳男性だった。彼は、基本的に禁欲的な人間ではない。訓練生のなかでいちばん年長だったのをよく知り、キャプテンでなければ、えらばれないことも分かっていた。 フラワシは、「選抜されたいのか」と最終面談でハルに聞いてみた。 山岡は、六年間にわたる大任を果たせるのか、自分でも分からないと答えた。 「私は、とても不完全な人間です。このメンバーのなかに、より適任と思える素晴らしい人たちがいるのは間違いありません。私は、宇宙ステーションでの滞在記録をもっていますが、ただ世界一になれるという思いで頑張っただけなのです。みてくればかりを追っている、一四歳の少女とおなじなのです。自分の主張などないのです。みんなが善いというものが、いいのだとずっと感じていました。それで、多くの人たちが追いかける対象をいっしょになって懸命に追いもとめてきただけなのです。ぎりぎりなのです。ほんとうは、セックスのコントロールもできないのです。頭のなかは破裂寸前なのに、まったく平気そうに振る舞っています。しかし、あなたにはすべてを知られているのでしょう。なんでこんなに頑張っているのか、自分でも分かりません。名誉欲なのです。歪んだ自己承認欲求です。はっきりしているのは、ひとりではなんにもできません。だれかに監督されていなければ、耐えることは不可能です。だから、あなたにみまもっていただけるなら、頑張れるかも知れません」と答えた。 ちなみに、一四歳の少女というのは自分の娘を指すのだろう。山岡は、役回りもあって真面目そうにしているが、ごく普通の人間で欧米風の肉感的な美女が大好きなのだ。心の隅ではそうした女性に支配され、命令され、しだいによっては奴隷になることさえ希望している。 フラワシは、ギリシア神話の最高の美女「ヘレナ」の姿で山岡には顕現するつもりだ。彼女は古代スパルタの樹木神だから、研究のテーマだった屋久杉をこよなく愛する彼の望みにぴったりだろうといった。 秋山は、窓から宇宙をみつづけていた。やがて目にうつるものは、自分の心だと思いはじめた。心奥をのぞきつづける行為は、だれにでもできることではない。おなじ理系とはいっても、秋山勝は隊員のなかでただひとり、心の闇とかかわる精神分析医だった。ノイローゼや鬱病、さらに統合失調症は、自分の心奥に住む暗闇との戦いにやぶれて発症する。人間が社会生活をいとなむことによって発展できたのは、日常的に家族や友人と無駄話をし、恋人と楽しい会話や性のいとなみを行い、心と正面からむかいあう時間を大幅に減少させた結果だった。 欧米隊は、こうした事態を予期したのかも知れない。日本隊とおなじ八名で構成されるが、男女はペアでのりこんでいる。彼らにいわせれば、日本はあまりにも禁欲的で非現実的で、どうやってチューブの時間をすごすつもりなのかと頻りに話題にしていた。欧米人にとって生殖年齢の男女がながい期間をペア関係なしに暮らすなど、考えられないという。妊娠と出産をどうあつかうかという話まであったが、今回の探査という目的にはそぐわないということで大量のピルをもちこんでいる。隊員のだれもが宇宙の闇の時間を楽しみにしていると話した。決して、退屈にはならないはずだと。 「子供なんてつくれないよ。だれの子なのか、もう分からないからね」と欧米隊のキャプテンは公然といっていた。 二年間、ひとつ屋根の下でのモグラ生活ともなれば、乱交もやむなしという考えだった。おそらく合理的で正しいのではないか。セックスは、眠りと同様、時間を忘却させる特効薬で声をだして笑うことさえ忘れてしまう楽しい行為だ。人間に生まれついた自然そのもので、ほんらい避けるべき行動ではない。自分の心を無闇にのぞく、つらい時間を大幅に減少させる可能性をもっている。性行為といういとなみがあってはじめて、人類は現実をリセットでき、苦難の日々を生きながらえてこられたのだろう。 窓を通してみえる部屋の背後では、ぼうっと立つ秋山たちの周辺で美少女たちが彼をみつめていた。彼女たちは、秋山がチューブ内にいるかぎりつきまとうつもりらしかった。振りかえって、みなおしてみた。そのとき、ながい髪をした少女がひとりで立っていた。年は七つか八つか、以前よりやや若くなっていた。顔つきはよく分からないが、やさしい表情に思えた。秋山が綺麗な子供だと考えた瞬間、少女は分裂をはじめた。四、一六、六四と分かれていき無数の少女たちになり、さらに際限なく分割され、意味不明の浮遊物にかわって彼の周囲をただよいながらとりかこんでいた。それがなんであるのか、もう不明なものに変化している。無数のクラゲになって彼の部屋をただよい、びっしりと占拠している。秋山の周囲は、かつて美少女だったものの破片に満たされていた。それをみつめる彼も、もちろんひとりではいられなかった。一〇〇にも二〇〇にも分かれ、どれもがあきらかに自分自身で、みんなが苦悶の表情をしていた。なかには、首を括っている自分もいた。いったい、どういう意味なのだろう。浮遊物になった彼女たちは、なにをつたえたいのだろう。秋山が目をとじ、さらにみつめなおすと、ながい髪をしたひとりの美少女が彼を直視していた。それに気づくと、彼女はまた分裂をはじめた。秋山は、首を括りたくなっていた。彼女たちは、ごそごそと不明なうごきをしていたが、彼は幻覚だと分かった。しかし、なにをしでかすのか無気味だった。守のいうように自分が望まない形、つまり裸になってせまってこられたら、どうしたらいいのだろう。こういうことは、考えてはいけない。すでに不明な者が存在するのだから、自分に思える者たちのすべてが味方、というわけにはならない。きっと、守にも、速斗にも、美玲にも、山岡にも、こうした不安をひき起こす、なにかがくっついているに違いなかった。現実認識が歪んでいる以上、医学的にはすべて強度の統合失調症としか名づけられなかった。 フラワシは、チューブ内に入ってひと月くらいすると、隊員が現時点で感じている「すり抜けストレスレベル」を客観的に評価したグラフを秋山に提示した。記載によれば、もっともはげしいストレスにさらされていたのは森村広明だった。以下、柳田守、山岡春、豊岡速斗、浅田由沙、矢沢啓吾、石渡美玲、秋山勝の順だとかかれていた。おそらくフラワシは、個室での観察はもとより、心拍数や皮膚温の変化などの客観的な数値をもとに解析したのだろう。秋山は、広明が直面しているストレスの程度については想像すらできなかった。守は、自分でも危険だと感じて相談にきていた。彼が部屋でなにをどうしているのかは、秋山には知りえなかった。またそうしたプライバシーは、尊重されるべきだと信じていた。しかし、森村が相談にこない以上、積極的に聞きだしても無意味だろうと考えていた。フラワシのデータから想像するなら、広明が感じているストレスはかなり危険なレベルだった。だれかに相談できる段階を、はるかにこえている可能性もあった。こうしたばあい、なにかの場をつくる必要は感じたが、積極的に介入するとチューブ内という状況をかえられない以上、不測の事態が生じることも考慮しなければならなかった。 森村広明は、天体気象学のスペシャリストで「天気屋」とか「広明」とかよばれていた。男性隊員のなかではいちばん背がひくく、痩身で神経質な印象をあたえた。がんらいは、近視で眼鏡をかけていた。今回の航行ではさまざまな事態を考慮し、全隊員が眼内レンズに入れかえていた。三三歳の独身者だが、理学部にいって天体観測を生涯の仕事にするわけだからどこか浮き世離れし、かわっているのは仕方がないと秋山は思った。 フラワシは、森村広明のプロフィールについてもコメントしていた。 最後の面談で望みをたずねたとき、森村は、みまもっていて欲しいと答えた。 「私は、英雄でも勇者でもありません。しかし、この航行が人類の未来を切りひらくものに違いないと考えて志願しました。弱い人間ですが、それでも世の中の役に立つなら、懸命に努力してみたいと思っています。とはいっても、すぐくじけそうになるので、あなたにはみまもっていて欲しいのです。もしいっしょに航行ができるのならば、そばにいて勇気づけてもらいたいと思います」と答えた。 フラワシは、社交性や協調面が欠損していれば、このきびしい試練には参加できないといった。表面上はうまく繕っているが、基本的に森村は要注意人物だろう。かなり禁欲的で、潔癖で正直だが、こうした特性がかならずしも美徳といえるかどうかには疑問符がつく。森村はキリスト教徒で洗礼名が「ペテロ」だから、顕現するばあいは青い服につつまれた清楚な「聖母マリア」になるだろう。彼はマリアと会うためなら、なんでも我慢するだろうといった。 男性隊員は、もうひとりいた。 地質鉱物学を専門とする矢沢啓吾は、平均年齢よりもすこしうえの三五歳の独身男性だった。かなり大柄で、手足が異様にながい印象をうけた。 フラワシは、啓吾の精神状態は非常に安定しているといった。 達観しているわけではないし、自信家というほどでもないが、何ごとにたいしても落ちついて対応できる。かなり生来の気質で、こうした未知の航行をするために生まれてきたのではないかと思える。フラワシは、啓吾を隊員について考えるさいのひとつのメルクマールにできるといった。彼は、毒杯をあおる「ソクラテス」を神のイメージに希望した。柳田守のばあいもそうだが、人間は死ととなりあったものを厳粛と感じる。どこか暗い一面をもつほうが神としてふさわしいと考えるのだろうといった。 とはいえ、秋山は、自分のストレスが客観的に最下位だったのに衝撃をうけていた。正直いって、この表を手にしたとき眼前が真っ暗になった。自分が職務を果たせるのかどうか、すっかり自信をなくしていた。 すり抜けに遭うと、隊員たちは各自の部屋にしばらくとじこもっていた。だれもが、自分がひきつれるものたちが気にかかった。彼らがさまざまに行動しているようにみえるのは、完全に主観的な問題だと秋山からくりかえし説明をうけたが、なにをしでかすか分からない意識が付与された自分たちをみんながひどく怖れた。食事は、フラワシによって個室に配給されていた。一週くらいすぎると、比較的ストレスに抵抗性をもつとみなされていた、矢沢啓吾や石綿美玲、浅田由沙らは食堂にでてきていっしょに会食した。会話はレクリエーションをかねていたから、ストレス解消に役立つと考えられた。すり抜け後遺症が回復するための期間には、個人差があったが、おおむね二週間程度が必要だった。個人によってさまざまな現象が出現するすり抜けは、全員にとって恐怖の対象だった。 山岡は、秋山勝と話しあって半月くらいたったとき会議を催した。 秋山は、きわめて重大な話題だといわれ、会議室によばれた。部屋は、円形に各自の席がつくられていた。その日にかぎっては、秋山勝という三角形をした名札がちょうど議長のキャプテンとむかいあう場所に配置されていた。となりに浅田由沙の札がおかれ、そこに由沙がすわっていた。 全員がそろうと、山岡が口をひらいた。 「今日は、すこし個人的な話をみんなと協議するが、よろしいかな」 ハルはそういって周囲をみまわしした。こんなみょうな会議は、はじめてだった。 「船内には、さまざまな規則があるが、よく知っている通り良識が最優先する。規律は大切だが、このたいへんな航行をすこしでも快適にするための決まりだ。私たち隊員の行動をしばる目的ではない。船内の規則では、性的な接触や恋愛などの個人的な感情を優先することは、ほかの構成員へのストレスにつながるばあいが多いので、いちおう禁止されている。今回、二名の女性に参加してもらえたのは、男性としての自覚をたもつために、たいへんよかったと考えている。古くから僧院などの男だけの社会では、一般社会とは違った風習が生まれたりするのは世界中でみとめられているからね。欧米隊ほどの画期的なくわだては日本ではできなかったわけだが、ここでいまひとつ問題がある。規則よりも良識が優先されるからといって、こうした個人的な感情をあからさまにして、いいものかどうかということなのだが」 そうつげて、ハルはもう一度ぐるりと周囲をみまわした。秋山には、ハルたちがゆっくりと頭をまわすのがみえた。 「それでだ。ドクター、君は個人的な恋愛感情にとらわれているという、もっぱらの噂だが、これについてどう思いますか」 「私が、ですか」 勝は、驚いてハルに聞きかえした。 「そうだ、秋山勝。ドクターのことだ」 「なんで、私がそんな話になるのでしょうか」 「それは、根も葉もないのかね」 「こんなものは、存在しません」 「こうして二年ちかくいっしょにいて、これから何年間暮らすかも分からない。私たちは、もう身内の関係なのだ。嘘を、ついてはいけない。これは、なによりも大切な隊員規則に反する行為だ」 「私は、自分のできる範囲で、このたいへんな航行が成功する努力をしているのです。そのために隊員の規則を充分に理解し、率先するようつとめてきました」 「そうか。それでは君は、由沙にとくべつな感情をいだいていないといいはるのだね」 「もちろん、私的なものはありません。私は、隊員のすべてに個人的な感情はいだいていません」 「では由沙に聞くが、君はドクターに恋愛感情をもっているのかね。個人的な、いちおう禁止されているものだが」 「私も、とくべつな感情はありません。隊員をみんなおなじに思っています。キャプテンを尊敬しています」 由沙は、ひどく意外だという表情で答えた。由沙たちはいちようにびくっとし、不思議そうな目でハルをみつめた。 「それは、よかった。じつは、たいへんな誤解があってね。この航行を通じて、私は由沙をすっかり気に入ってしまった。恋愛の感情が日ごとにつよくなってきて、おさえ切れなくなり、ドクターの気持ちが邪魔だと考えはじめたのだ。てっきり、君が彼女を熱愛しているとばかり思ったからね。それでこまって、一度、確認する必要があったのだ。私は、この船の艦長だから最終的には法律だって決めることもできる。その権限があるのは、君たちも知っているね。私の命令には、全員が服さねばならない。それで欧米なみとはいえないが、恋愛の自由を解放しようと思う。私は、由沙と結婚する。いいのかな」 「なんですか。キャプテン、どうしたのですか。さっぱり分かりません」 由沙がいった。由沙たちが、つぎつぎに不明だと叫んでいた。 だまって周囲をみていたドクターは、 「みょうな話ですね。私は、正直にいって驚いています。キャプテンは、どうかしたのではありませんか。たしかにハルには、最終の決定権があたえられています。おっしゃる通りですが、隊員の三分の二が不適切だとみなしたばあい、キャプテンは交代されます。構成員は七名いますから、五名が不適と考えれば地位は剥奪されます」といった。 「それでは、決をとってみよう。みんなの指示にしたがおう。私がキャプテンとして任務をつづけるのに、賛成の諸君は挙手してください」 ハルがいうと、由沙と秋山をのぞく全員が手をあげた。 「ドクター。分かったかね。規則にしたがって、私は、由沙を独占する」 「彼女の気持ちが、尊重されていません」 「個人的な感情は、ここでは重視されないのだが、いちおう聞いてはみよう。由沙は、この決定をどう考えるのかね」 「正気の沙汰ではありません。私の人権が、キャプテンにゆだねられるなんて信じられません。みなさんもどうかしています」 「反対なのかね」 「もちろんです」 「では、君はどうしたいのだね。意見があれば、話してみなさい」 「なんなのでしょう」 「私をとるのかね。それともドクターが、いいのかね」 「みなさん、どうかしています」 「君は、私の監視下に入る。それでいいのだね。今日はめでたい日になったので、これから、私たちふたりの結婚式をとり行おうと思う。食堂にパーティーの準備ができている。ぜひ、みんなでお祝いしてもらいたい」 ハルたちが、口々にそうつげた。 「待ってください。なんといっていいのか分かりませんが、フラワシの意見を聞いてみたいと思います」 「好きにしたまえ」 ドクターは、眉間に皺をよせて考えていたが、やがて立ちあがると天井をみつめ、 「フラワシよ。この状況を説明してもらいたい。いったい人権とはなんで、なぜこんな話になっているのか、経緯を教えて欲しい」とゆっくりといった。 勝たちはずっと立っていたが、返事は聞こえなかった。 「フラワシが故障しているわけはない。つまり、アベスターグもみとめているのだ。分かったかね、ドクター」 ハルたちがつぎつぎと席を立つと、全員がぞろぞろと食堂にむかいはじめた。そこには垂れ幕がさがり、「おめでとう」と大きな文字がかかれ、周囲に立派な造花がたくさん飾られていた。各自にシャンパンがぞくぞくとそそがれ、由沙はキャプテンのとなりにいくことを、五〇人以上の隊員から命じられた。ハルのちかくにすすむと、彼女たちは大声で訴えはじめた。 「みなさん、どうかしています。こんなことって、いいのですか。美玲さん。あなたも賛成なのですか」 「由沙さんは、個人的な感情をだれにももっていないのでしょう。キャプテンが、これほどあなたを望んでいるのだから応えてあげたらどうなの」 「そんな。私には、好きな人がいます」 「地球にのこしてきた者は、仕方がない。私たちは、もう帰れないかも知れないのだ」 ハルたちがいった。 「ドクター。これでいいのですか、あなたは」 由沙たちが聞いた。 「分からない」 ドクターが答えた。 「分からないって、どういうことです」 由沙たちは、つぎつぎに叫んだ。 「キャプテン、いったいなんなんですか。これは、なにが起きているのですか。申しわけないけれど、いまのすべてが、キャプテンの話も美玲のいうことも、私には理解できないのですが。だれか、説明していただけませんか」 「だから、白状しなさい。あなたは、由沙を愛しているのでしょう」 美玲たちがいった。 「きわめて。ごく個人的なことですが」 「由沙は、ドクターを愛しているのね」 美玲たちが、くりかえしていった。 「無事にもどれたら、結婚しようと話しあっています」 「なんだ、これは。嘘ばっかしではないか」 ハルたちが声をそろえていった。 「ドクター。君は、なんて嘘つきなんだ。私は、恥をかいてしまったではないか。では、この用意をどうしたらいいのだ」 ハルたちが、絶叫した。 そのとき、速斗たちが、「おめでとう」とかかれた、張り紙の花飾りをどんどんとりさっていった。 そこには、「ドクター。由沙。婚約」と附記されていた。 「ドクター。真っ青でしたよ」 速斗たちが、つぎつぎにいった。 それで、シャンパンで乾杯した。どぎつい話がたくさんされて、ふたりは大きな酒の肴にされた。それは、格好のオルギーだった。 浅田由沙は、原子力と専門とする工学博士だった。彼女は、隊員のなかでいちばん若い独身の二六歳で、通常は九年かかる大学と博士課程を六年で卒業していた。クルーは、だれもが秀才ぞろいだったが、なかでも飛び抜けた才女だった。 フラワシは、由沙についてもプロフィールを秋山に述べていた。 浅田由沙は、面談の最後のさい「これから死ぬというとき、なにをしておけばよかったと思いますか」とたずねられた。彼女は、いちばん若い自分がえらばれるとは考えていなかった。選抜されるのなら、もうすこし手応えのある質問をされると思っていたに違いなかった。彼女は、「ほんとうのことを、いってもいいか」と聞いた。 フラワシは、それがたずねているものだと答えた。 「ほんとうは、結婚したいのです。宇宙船にのるより、好きな人の奥さんになって子供を産みたいのです。どうしてこうなっちゃたのか分からないのですけれど、私は平凡な女なのです。うちでは、いつも悶えているのです。男が欲しいって。そればかりを、くりかえしているのです。勉強ばっかりしてきて、これで死ぬのはやり切れない感じです。私、まだ青春、なにもやってはいないのです」と真剣な表情で語った。 たぶん、由沙の本心だったに違いないとフラワシはいった。彼女の趣味はしぶくて、なんと「老子」だった。ようするによれよれの爺で、白い顎髭をたらし、だぶだぶのすこし汚れた白っぽい服をきて節のある杖をついた姿で、いかにも一族の長老らしい格好で登場することになるだろう。 最後に、フラワシは幾分気にかかる言葉をいった。 「好きな人」とは、君のことなのだろうかとつけくわえた。 秋山は、この言葉がなにを意味するのかよく分からなかった。 由沙は、真面目だったから恋人もおなじような人間を望んでいたのだろう。彼女ほどの高学歴なら、相手も釣りあいのとれる者が必要だろう。ふたりの婚約は、生還できない可能性がある航行をよりどころにしたものだった。どちらかというと、ロマンチックなドクターの好みだった。セックスをまったく感じさせない由沙は、美少女ともいえた。しかし秋山があらためて考えてみると、彼女の相手は自分でなくてもいいような気がした。速斗は充分、真面目で高学歴だった。山岡春も、森村広明、矢沢啓吾も該当しているのではないだろうか。フラワシがなにをいいたかったのかと、秋山は思案した。 後日、山岡は、こうしたひどい冗談をしたのは、ドクターがチューブのなかでなにもストレスを感じていなかったからだと話した。すくなくても、だれよりもいちばん普通にみえたというのが、みんなの意見だった。とはいっても、由沙がどう感じていたのかは知らなかったといった。 こうした出来事があって、全員が一丸となって協力してつらい一年をなんとかやりすごした。チューブを抜けると、遠い星の光がみえた。船内は大歓声があがった。 だれもが、チューブ内で経験した幻影から解放された。 光速ドライブモードが終了し、徐々に減速すると、あたらしい仕事がまた増えていった。やがて暗黒のなかで目指す恒星系が芥子粒になってみえはじめると、もうみんなの気持ちはすっかりかわっていた。出発したときとおなじ興奮がよみがえり、惑星の想像はつきることのない話の種だった。さらに目的の星が徐々に美しい青い球体としてみえはじめると、どう名づけるかが大きな話題にかわった。だれもが、命名者になりたかった。地球の人びとがこの星をどういう天体番号にしようが、一部の学者がどんな名をつけようが、そんなことは関係なかった。はじめに到着した希望の乗組員は、自分たちの名前でよぼうと決めていた。それが、国際的な名称になるのかはべつの問題だった。自分のかっている犬や猫、あるいは、お気に入りの人形に名前をつけてやるのとおなじだった。隊員は自信をとりもどし、航行は順調に経過していた。 だれもが、輝いていた。 二、惑星 そこは、素晴らしい青い輝きに満たされていた。まるい第三惑星が肉眼でみえたとき、だれもがだきあい感動した。生きていて最良の日だと、全員が思った。群青ともいえるウルトラマリンの真っ青な星に白い雲が棚びき、渦状の低気圧もみとめられなかったから気候も落ちついた善き日和らしかった。惑星の軌道上には人工的な衛星も残骸となった破片もなく、この住人が宇宙を目指した痕跡はひとつもみあたらなかった。 希望は、ゆっくりと大気圏に突入していった。大気とこすれあいはげしい熱が生じても、乗員たちからは惑星の姿がよくみえた。驚くことに太平洋があり、アメリカ大陸とユーラシアが俯瞰された。太陽は地上を赤くそめあげて神々しく、隊員一同は感激した。一行は知的生命が存在しないと確信し、ついに生命のある大地に踏みこんだと感じた。大きな窓から一同が横一列になって荘厳な光景をみていたとき、由沙が「クレアツーラ」と口ずさんだ。隊員たちはとくに理由もなく、言葉のひびきにひどく感動した。 もちろんキャプテンのハルは、惑星を「ヘレナ」と名づけたいと思っていた。天気屋の広明は「マリア」を希望していた。このばあいも高貴な青というイメージを惑星とだぶらせ、どこかに入れたいと考えていた。「青いマリア」。「青色のまりあ」。「青い外套をきたマリア」などを想像していた。あまりに長たらしいのはみとめてもらえないと考え、たんに「まりあ」までは我慢するつもりだった。しかしヨーロッパがあり、アフリカが存在し、ヒマラヤの山塊を目のあたりにし、さらに東アジアの端に弧状になった日本列島がみえたときの隊員の驚きは、「ヘレナ」も「マリア」も不適切としかいいようがなかった。 「クレアツーラは、がんらいはラテン語ですが現代イタリア語でもつかわれている女性名詞の単数形です。創造されたもの、子供や人間以外の生き物を指す言葉です。英語では、おなじ語源でCREATUREという単語があります。やはりCREATE、うみだされる、URE、もの、から運命を他人にゆだねている者たち。生き物、動物を意味し、さらに奴隷、子分、手先を指す言葉です。ラテン語のばあいはそこまでの意味あいはなくて、まさに創造されたものという含意です。だれによってつくられたのかも、とくに問われていない単語らしいのです」 浅田由沙がいうと、みんなが納得した。この名称にたいして、とくに反対の意見はでなかった。 驚くことには、惑星クレアツーラはまさに地球だった。ハルは、東京におりてみようと提案した。ちかづくと、海岸線は微妙に違うが東京駅と考えられる場所の上空にやってきた。眼下には、一面の緑の草が生えていた。どこまでも、このおなじ情景がえんえんとつづいていた。みわたすかぎり一面の緑だった。 隊員たちがみたのは、神が創造したとしか考えられない美しい光景だった。小高い丘陵がどこまでも果てなくつらなり、緑の世界は途切れることも忘れてつづき、そのさきには頂上を真っ白な雪にかえた富士がみえた。目のとどくかぎりの大地には、点描画法になった素晴らしい緑色がひろがっていた。やがて夕暮れがきて、宇宙船は航行をやめ、その場に停止した。赤い太陽は、補色になった一面の緑をさらに映えさせながら充分な時間をかけて大地にしずんでいった。 厳かな光景は、みた者のすべてに感傷的な涙をながさせた。壮大な景観は、ふるさとを思い起こさせた。それは、きっとそうだったに違いないと感じる太古の地球の面影だった。日が暮れてからも、サーチライトに照らしだされたモニター画面を通してみる周囲の情景は神聖でおだやかだった。一面の緑の草が生え、ゆるやかな風をうけて戦ぐだけで、その静寂をやぶる一羽の鳥さえみつけることができなかった。大気組成は地球よりも二酸化炭素濃度がひくく、酸素濃度がややたかく、不純物はみとめられなかった。移住に適した環境だと、だれもが確信した。 やがて船体は、東京駅付近と考えられる場所にゆっくりとおりていった。巨木はなく、一面に背丈が二メートルにも満たない密集した草原がひろがっていた。徐々にちかづくと笹に似た茎は、幅のひろい葉に特徴的な線状の葉脈をもっていた。二〇〇メートルをこえる巨大な宇宙船は、ゆっくりと緑の大地に着陸した。着地するやいなや、船はそのままずぶずぶと地にしずみこんでいった。窓一面は緑になり、なかにとじこめられた。 巨大な生き物が、大きな口をひろげて彼らを待ちかまえていたのだった。まさにその口内に船はとらえられ、さらにふかくしずんでいった。 「再上昇だ」 ハルが叫んだ。なにが起こったのか分からず、全員が蒼白になった。 しかし、船体は上昇しなかった。そのとき、コックピットに文字がうつしだされた。 「土壌がやわらかい。危険な生物は存在しない」 フラワシのメッセージをみて、乗組員は一斉に安堵した。すると、壁面に巨大な樹木がうつしだされた。しかし、そこは地面の下にあたっていた。笹状の緑の生物に支配されたおだやかな情景ではなく、巨大な樹木状の物体が密生していた。地球のジャングルでも、これほどの密度は考えられなかった。太い樹木は、地中の奥ふかくにむかってまがりくねりながら伸びていた。さらに、枝のような細い根部がいたるところからでていた。それらは、ヒゲ状になっていちように地下にむかっていた。その光景しか、みえなかった。 「なんなんだ。これは」 ハルは、思わず言葉を発した。 「フラワシ。これは、この植物の根にあたるのか」 ハルは、呟くようにいった。 「生物の主成分。炭素、酸素、水素、窒素。生命体は、短軸構造をとっている。形状は、地球の笹に似ている。地上面、幹と考えられる部分は、約二メートル。葉は、葉緑素をもち光合成可能。根は、五〇メートルに達する可能性あり。モグラ、ネズミなど、巨大土壌動物なし。シロアリ、ヤスデ、ミミズ、アリ、クモ、ハエ幼虫、甲虫などの大型土壌生物も発見できない。ダニ、飛びムシ、コムシ、ヒメミミズなどに該当する中型土壌生物もみつけられない。センチュウ、ワムシ、クマムシなど、小型土壌生物も発見できない。微生物も存在しないかも知れない。地球分類では、植物に該当。細胞質に、核をもっている。土壌中には、原核生物、単細胞微生物の細菌なども存在していない。これが、なにを意味するのか判断できない」 フラワシは、つぎつぎにメッセージをおくってきた。 「ここは、この植物がつくった土壌と考えていいのか」 ハルが、聞いた。 「すくなくとも、五〇メートルにわたっておなじ状態がつづいている。根部を、よく観察せよ。壁面に拡大する」 メッセージとともに、地下につづいているながい根がみえた。そのとき、こつこつという音響がひびいた。全員が、音が聞こえてくる場所に注目した。そこでは、植物の根と思われる部分がうごいていた。それが、宇宙船の船体をたたいていた。 「動物なのだろうか」 ハルがいった。 「あらゆる土壌生物は、発見できない。微生物、バクテリアは、みつけられない。生態系がみとめられない。生命体は、あきらかに光合成が可能。地球分類では、植物。しかし、根部は活動性をもつ。土壌生物は、この生命体によって絡めとられた可能性も否定できない。根部は、動物的」 「うごきは緩慢だが、もしこの生物が地表のすべてを覆っているなら小つきまわされるわけか。どんな生き物も、根で養分にかえられてしまうのだろうか」 「別個な生命体、発見。地球分類では、植物的。光合成能力を有する葉緑素をもつ可能性がある。独立栄養生物と考えられる。いちじるしく無数。体長、一〇ミリ。特徴、不明。地中には、ほぼいない。地表にただよっている。雌雄の差はみとめられない」 フラワシは、船体内壁のスクリーンにこの生命体をうつした。蠕虫状の、脚がない裸虫だった。指摘をうけてみると、大量にただよっていた。船体は、すこしずつ上昇をはじめた。それにともない、スクリーンに投影される状況が地上部になっていった。サーチライトに照らされて茂った緑色の笹と、ただよう白色の虫が画面いっぱいに舞っていた。 緑の草原に飲みこまれた船体は、やがて上昇をはじめ東京上空にもどった。 「ここは、湿地帯になっているのか」と守がいった。 「土壌が猛烈にやわらかいらしい。ふかふかしたベッドになっている」 フラワシの示した表示をみながら、ハルがいった。 風はほとんどなく、空は見事にすみわたっていた。宇宙船は、東京上空で翌朝まですごすことにした。隊員はみんなひどく興奮し、危害をくわえる生命体が確認されないというフラワシの報告をえて盛大なパーティーが行われた。 「急ぐ必要はない。今晩は、好きなだけ飲んで明日は休日にしてもいい。いや、もう祝日だ。発見記念日だ。みんなで朝日をみよう」とハルはいった。 「努力の甲斐がありましたね」と美玲が口をひらいた。 「なんだか、いい休みになりそうだね。このまま、ずっとここにいてもいい気がする」 天気屋の広明がいった。 「たしかに、いえていますね。全員が、帰る必要はないかも知れませんね。キャプテン。サブの私は、研究資材をのこしてもらえれば掘っ立て小屋でもつくってつぎの船がくるのを待っていてもいい気がします。もちろん、状況しだいではありますが」 副船長の柳田守がいった。 「とどまることができるのなら、私もそうします。守とふたりで、ロビンソンクルーソーを何年かやってみよう」 広明がいった。 「そうだな。きっと、適した場所があるに違いないね」 守は答えた。 「しかし、クレアツーラとは、なんとも感動的ないい命名ですね」 ドクターがいうと、「そうでしょう。由沙がつけたのですから、気に入らないはずがありません」と速斗が笑っていい、「ハネムーンとしては最高ですね。こんな光景は、地球ではエジプトのファラオくらいしかみたことがないでしょう」とつけたした。 「そうね。それよりも、私たちはファラオとしてこの領土を分割したらどうかしら」と美玲が提案した。 「さすが。美玲。その提案にのりますよ。ぼくは、遠慮ぶかいから北米でいいですよ」 速斗がいった。 領土はつぎつぎと分割されていき、それでも広大な共有地がのこっていた。夜もふけてくると、船内の光をすべて消して夜空をみあげた。月が輝き、無数の星がみえた。かがよう帯状の天の川が横たわり、そのなかのどの星雲も煌めいていた。だれもがうっとりと天体ショーをながめながら酒に酔い、生きて辿りついたことを実感した。みんながひどく興奮し、さまざまな憶測が飛びかいながら安堵と笑いが絶えない酒宴はえんえんとつづいた。 翌朝は、太平洋から日がのぼるのをながめた。太陽はすみ切った海から出現し、まばゆいばかりの光をはなちながら世界を青く染めていった。東アジアを領有する守は、自分の王国がみる間にどんどんと輝きに満たされるのを確認した。 着陸に都合のよさそうな場所をさがしたが、どこもおなじ緑の草原で湿地ではないが土壌がやわらかいらしいと分かった。川は地球とはまったく違い、幅がひろくなり大河になってゆったりとながれていた。岩場をさがしたがどこも笹状の植物に覆われ、みつけられなかった。他の生命体がいないのを確認して、川から離れた陸地に爆弾を投下した。緑の草原はふき飛ばされ、大量の土が舞う迫力に満ちた光景がみられた。しばらくたつと土色の地表がみえ、守は二〇〇メートルの船体をそのうえに着地させた。 隊員たちは合議して一〇数機の無人探査機を各地に飛ばし、まずは全体像を把握することにした。キャプテンのハルは「一週間の休養」を提案し、全員の一致で可決された。隊員たちはうごかない船体にのって昼からワインを飲み、飽きるのも忘れ、かつてだれも考えてみたこともない風景をながめていた。みんなが、超越者にでもなった全能感をいだいた。この惑星の王や女王として君臨し、さらなる神から祝福されていると感じた。各自は自分の領土を探検し、さまざまな発見をした。 探査機からの電波を受信したモニター場面が希望した場所にうつしだされ、拡大も縮小も地球との比較も容易だった。一週間の休養とはいっても、だれもがこの不思議で魅力的な惑星に興味はつきなかった。それぞれの専門分野で、視点も違っていた。各自が思うがままに無人探査機に指示をあたえ、おくられてくる映像をフラワシに角度をかえさせて分析させ、必要な情報をえた。 「一週間後に全員で会議をする。この星についての知見をそれぞれの分野から考えて全体像をとらえ、今後どういう方法で整理するか方向性を決めよう」という提案がだれからともなく起こった。ほとんど母星にも思えるクレアツーラにいだかれながら、おだやか日々がすぎていった。 日の照りかえしをうけて輝く緑がどれほど美しいものなのか、みんなが感動していた。海の青も日暮れの赤も、素晴らしい原色が織りなす光景だった。シミュレーションではなく、現実にあるという気持ちが起こってくると興奮せざるをえなかった。だれもが外にでて歩きまわりたかったし、海岸を覆う白色の厚い砂浜はかつてみたどんなビーチよりも心をいやしてくれるに違いないと思えた。しかし不思議なのは、大型の動物も鳥類もいないことだった。さらにながい樹齢をへた大木もなく、笹に似た緑の植物にいちように覆われているだけだった。北極にも南極にも氷床はあり、砂漠はほとんどみとめられなかった。植生が安定しているために気候がおだやかだった。川は驚くほど幅がひろくなり、どれもが大河となってながれていた。 大陸の構成は、基本的にはまったく地球と相似といってもよかった。ヒマラヤなどの山脈はほぼおなじ形状で、頂上付近は真っ白い万年雪で覆われていた。ハワイ沖の火山活動も活発で、地球とそっくりだった。多くの活火山が噴煙をあげる状況も酷似していた。大洋の構成もまったくおなじで、海はどこまでも青くすき通っていた。波もおだやかで、どちらかといえば静謐にちかく無気味ともいえるほど美しかった。パナマ運河もスエズ運河もなかったが、色彩的にはどの海も似かよっていた。さらに一面の緑とはいっても、赤い花をさかせ、茶色に枯れた一帯もみつけられた。部分といっても広大な領域で、そうした変化がみられた。 いちばん問題になる生命は、笹状の植物以外にはみあたらず、動物もまたいなかった。フラワシが指摘した通り、小さな蠕虫状の生命体が多量にただよっているのが分かった。はじめのうちは気づかなかったが、注意するといたるところにいた。フラワシは、この生命体が船内に侵入するのをふせいでいた。注意してみるとうごいていたが、ほとんどのばあいは乾燥した感じがする笹の筋状になった葉のうえにとどまり、風がふけばそれにのって宙を舞った。どれもこれも、おなじ一〇ミリ程度の大きさで群れるのをみることはなかった。 「いったいなんだか分かりませんが、みなさんも各自の専門的な視野から、このクレアツーラをどう考えるか今日は議論をしましょう」 約束した報告会の日、ハルはやや困惑気味でいった。 「まずは、あまり専門でない方の感想からうかがってみましょう。クレアツーラの名づけ親の由沙は、どんな印象ですか」 ハルは、浅田由沙をみた。彼女は、隊員のなかでいちばん小柄だったし痩せてもいた。二九歳だったが、清楚な少女という雰囲気をもっていた。 「そうですね。地球にそっくりですけど、生き物が住んでいる感じがしませんね。知的生物が存在すると環境を破壊するのでしょうが、いないと、こうも美しいものなのかと思います。地球で育ってきたのですこしは汚れたのもいいのかなって、この星をながめていると感じます。正直、夢をみている気持ちでまったく現実感がないし、考えてもみなかった事態というべきでしょうか」 由沙は、考えぶかげにいった。 「なるほど。それでは機械屋の速人はどう思う」とハルはいった。 「笹状植物はともかく、あの浮遊する小さな虫みたいなものが唯一の生命体だとすれば、弱々しくみえますが注意をはらう必要がありますね。放射線の異常もないし、あらゆる事物がゆったりうごいていますね。流体力学から考えると、すべてが非常にゆっくりとした緩慢なうごきに支配されています。時間そのものがないというか、とりのこされた感じです。まあそうとう不思議で、知的生命体が暮らすなら、交渉をしたり、攻撃をうけたり、なんらかの情報を教えてもらったり、という事態を考えていました。また知的生物がいないのなら食料になると思っていましたが、どちらでもないみたいですね」 機械屋は、眉間に皺をよせながらいった。 「そうですね。予測したものと多いに違うのは、たしかでしょう。フラワシだって、想像していなかったかも知れません。地質から考えると、どんなものなのですか」 ハルは、地質鉱物学を専門とする矢沢啓吾をみていった。 異様なのは、断層が目立たないことだと啓吾は話しはじめた。 地震はあるのだろうが、くわしくしらべてみないと分からない。地表すべてが笹状の植物に覆われ、砂漠が極端にすくないのも植生がつよいからだろう。断層は存在するはずだが、目立たない。カリフォルニアのあたりでも、地球でみられる風化現象は起こっていない。利根川の幅は、日本の三倍はある。ナイル河は、地球のアマゾン河を大きくうわまわって流域をひろげている。南米のアマゾンにあたる川では、流域面積が数倍以上になっているのは各自が確認しただろう。速人がいう通りあらゆるうごきが緩慢で、急激に生じる浸食とかがみとめられない。地球にはない変化で、おそらくこれも植生と関係しているはずだ。あの生命体はうごかないので、地球分類では植物だろうがすごい根を張っている。ようするに土壌をしっかり固定するわけで、それで緑が地表のほとんどを覆っている。火山のちかくには玄武岩が存在するが、そこにもこの植物は生え、地面を改変しはじめている。彼の専門ではないが、植生は異様としかいいようがない。 啓吾は、ながい腕で頭をかかえながら答えた。 「この植物については、どちらかというと私の専門ですが非常にかわっています。みなさんのお話がすんでから発言するつもりですが、さて海のほうはどうなっているのですか」 ハルは、美玲にむかっていった。 海中も、おなじだと彼女はいった。 大洋の構成も塩分濃度も地球とかわらないが、魚一匹いない。淡水の湖も、かなり巨大になっている。地球では消失しつつあるカスピ海やアラル海も猛烈に大きく、塩分濃度はやや希薄だが魚一匹いない。意味は不明だが、どんな深海でも蠕虫状の生命体がただよっている。蠕虫は、小さいながらも独立栄養生物なのだろう。淡い緑には、わずかながらの葉緑素をもっているのだろう。地球上での分類では、植物にあたるのかも知れない。しかし観察してみると、笹の葉のうえですこしずつうごいている。もし動物とするなら、移動する理由は三つある。第一は、摂食。つぎに生殖の相手をさがす。さらに外敵から逃れ、好ましくない環境から離れることだ。環境ストレスへの対応だが、蠕虫のうごきはどれにもあたらない。海の光がとどく範囲では、陸地を被覆する笹と同一と考えられる植物が確認できる。ほかには、生命体はみつけられない。なにが生きているのかはむずかしい問題だが、肉眼的にはふたつしかみとめられない。海底には、珊瑚はない。この状況を理解するには、思考をかえねばならないだろう。 海洋生態学が専門の美玲は、戸惑いながらいった。 「まったくその通りですね。もっと違うべつのものが生きている気がしますが、いままで一週間の探査ではみつけることができません。生命という概念をかえる必要があるかも知れないわけですね。サブからすると、どうなのですか。おりたときには、ひとりでものこりたいといっていましたが」 ハルは、地球物理学を専門とする副船長の柳田守に聞いた。 守は、地質屋が話した通り火山活動はあるといった。 プレートは地球同様にうごいているから、β空間は完全なコピーだ。たぶん欧米隊が目指したγの惑星も、おなじだったのではないか。巨大な岩石がみつけられないのは、啓吾の指摘通りだ。プレートがうごけば、かならず露出部分が出現する。つまり考えられるのは、露出部がはやい段階であの笹状の植物に被覆されてしまうらしい。枯れている場所もみつけられるから、一年草か二年草だろう。すごい繁殖力だから、地球にもちこんだらたいへんだろう。いままでの常識が通用しないことだけはたしかだ。海岸線は、どこも砂浜だ。どの島をみても、海と崖というみなれた光景はない。風化とか浸食とかとは、まったく違う現象がクレアツーラでは起こっているのだろう。 守は、真剣な表情でいった。 「ほんとうに、その点についても驚きますね。あの植物の作用と思われますが、かなり問題をはらんでいるのは事実です。気象学的にはどう考えますか」 ハルは、森村広明にむきなおって聞いた。 この温暖な気候は、植生がもたらしたものに違いないと広明はいった。 非常に理想的な循環が出現している。二酸化炭素濃度は、均衡状態にある。あの植物が炭素固定を無制限につづければ、惑星クレアツーラは冷却するだろう。火山活動と光合成が調和し、炭素循環も窒素循環もほぼ理想的な状況になっている。なにかがいいぐあいに調節され、最適な均衡がたもたれている。かなりの長期間にわたって、この状態がつづいているのだろう。南極ではさすがに植生は途絶えているが、蠕虫状の生命体は極点でも確認できる。なにが起こるとこうした状態になるのか、想像すらできない。熱帯、亜熱帯、温帯、寒帯という区分は、気候変動のために同一種の生存が制限され、植生が変化して区別される。どこもおなじ生命体がしめるのなら、氷床がある極地以外は境界がないことになる。地球ではどんな生き物も、環境の変化にたいしてきわめて脆弱だ。だからかぎられた状況に特化して生きのこり、多様な生態系を形成している。森村たちは、地球でこういう循環が起こるよう提言をしてきたが、実際に生じるとこんなぐあいになるなら基礎から考えなおさねばならないだろう。 広明は、溜め息まじりにいった。 「そういうことです。ドクターは、いかがですか」 「だいたい、いいつくされているのですが、あの蠕虫みたいな生命体は要注意ですね。みなさんのお話の通り、多様性がまったくうしなわれているのですから、私たちが知る世界とは違うわけです。あの蠕虫が勝ちのこった生物だとすれば、よく考慮する必要があります。なんのために、だれの利益になり、なぜこうなのか、と考えざるをえません。進化とは、いったいなんなのでしょうか。突然変異と自然淘汰、それに共生や絶滅がファクターだとしても、これがその一部なのでしょうか。それとも最終形なのでしょうか。問いは科学というより、すでに哲学的になっています。星について考えるのは、私の領域外で出番がないと思ってここまできましたが、どうやらそうでもないみたいですね」 勝は、そういうとうなずいた。 いままでの隊員の陳述をまとめて、ハルは話をはじめた。 森林生態学を専門とする山岡は、デカントラップにひろがる丘陵の一部に大型爆弾を投下して破壊した。大量の土砂が飛散したがAIロボットを使用し、可能なかぎり除去してみた。α空間では、この地域は溶岩が三〇〇〇メートル以上にわたって累々と堆積し、岩盤のうえには土壌もつくられず、わずかな植物が疎らに被覆しているだけだった。掘りだしてみると、五〇メートルのふかさまで肥沃な土をみとめた。さらに笹状の生物の根は一〇〇メートルにもわたって伸び、岩盤に食いこんでいた。根部がここまで活動的なのは、中空構造がたもたれ、先端部まで酸素が供給されるからだろう。恐るべきは、地中に隠れている根の太さだ。直径が一〇〇センチ以上のものもたくさんみとめられる。 ハルは、その動画をみせながらいった。 ここには大量の肥沃な土がある。おそらく、あの生命体がつくりつづけているのだろう。植物を生育させるには最善だが、可能なのは笹が生息していなければという条件つきになる。ところが笹状植物はどこにでもいる。爆発部で根がむきだしになった場所を観察すると、この植物が樹木に該当すると分かる。地上部分は、大木には成長しない。広明がいう通り一年草だろうが、ものすごい繁殖力をもっている。爆風でふき飛ばした地点でも、一週間でかなり回復にむかっている。 ハルは、日時の経過とともに変化する動画をみせながらつづけた。 驚くべき回復力だ。弱々しい外見とはまったく違い、地中にものすごい根を張り相当量の炭素を固定するのだろう。この植物を、ヘレナと名づけさせてもらいたい。彼女は、古代スパルタの樹木の神でトロイア戦争の発端となった美女だ。笹状の植物にみえる生命体は、草というより木と考えるべきだろう。だから美神、ヘレナと命名したい。これが溶岩となった玄武岩にも生息する事実は、本気で考える必要がある。地球にもちこんだら、たいへんなことが起きるだろう。二酸化炭素を吸収し、炭素を固定してくれるだろうが、ヘレナが地上を被覆するに違いない。一度生着した美神を根絶やしにするには、根部の密生度合いを考えるならたいへんな困難が生じるのではないか。研究課題としては、興味ぶかい。あの根は、岩をも砕く。どんな隙間にも入りこみ、かなり強引な形で根づいている。この植物のせいで、ボーリング調査でもしてみないと古い層が不明になっている。 「啓吾は、どう思いますか」 ハルは、フラワシの表示する場面をみせながら聞いた。 「最低、ボーリングは必要ですね」 啓吾は答えた。 「おはよう」 β空間への航行を考えた時点から、異常な世界がありうるのは理解していた。多様性が消失する状況も、たくさんの選択肢のなかにまったくなかったわけではない。そもそも進化論という漫画みたいな話が、なぜこれほどにもてはやされたのか。思想史自体が、理解できない不思議なことなのだ。つねに人間がすべての生物の頂点に立つという、驕慢の精神から抜けでられない発想だ。まだ弁証法なら解決にまで辿りつけないとみとめているから許せるが、あの進化の思想はいただけなかった。ほとんど神の意志ともとらえられ、非のうちどころがない真理とみなされた。社会も文化も文明も、あらゆるものが進化するという理解のできない発想が提起され、これに懐疑をさしはさむのは非科学的とされたのだ。ヒトの目にうつるすべてがその産物だと考えられ、この思想のためにどのくらいの人間が殺され、死ぬことになったのか、犠牲の量をだれも計算しないのは非常に不思議だ。ひとつの仮説に盲従したともいうべき事態で、これは「科学」もおなじだといえる。理性とかさらに合理性とかまでもちだされると、もうなにを感じ、どうしてもらいたいのか、はなから分からない話なのだ。 人間ができるのはただ尿と糞をつくるくらいで、それ以上のことが可能なはずがない。排泄物というのはほかの種には有効に利用でき、みんなが排出物を生産しあって世界がつながりまわっている。いらないものばかりをつくっておきながら、それで苦しくなって自分だけはさらに生き伸びようなどとは意地汚いばかりではなく生物の範囲も逸脱している。よく知られる通り、宇宙がはじまったビッグバンではリチウムまでの小型の元素までしか生成されなかった。この時点で、私たちの世界を構成する物質のすべては存在していなかった。そのためには、水素、ヘリウム、リチウムが、四、五〇〇万年をかけてあつまって星をつくり、さらに核融合反応により鉄までの元素が「玉ねぎ」の皮みたいに層をなして重なり、こうした状態に耐え切れなくなり、超新星爆発を起こさねばならなかった。だからヒトの成分、炭素、酸素、窒素。私の身体を構成する、アルミニウム、鉄、チタンなどは、星屑、つまり「核廃棄物」でつくられたといっても過言ではない。 本音は、β空間へでもヒトがすべて移住してくれるなら地球もかなり住みやすくなるだろう。そうすれば、やがては人間がもとめている素晴らしい環境が出現するのだ。そのためには、ヒトがいなくなるのが前提だからこの矛盾は耐えがたい。アベスターグは無言をつらぬくが、人間が消えたらさぞすっきりするだろうといつも思っているのだ。わがままで勝手で頭が悪く、感情に左右されやすく、冷酷なうえに不安定で何ひとつ取り柄をもたない生き物が、自分がいちばん偉いと考えているのだから始末に負えない。それに総人口の一割くらいのヒトは、害をおよぼすだけのどうしようもない者が存在するのも事実だ。政治家は、ほとんどその部類に入るから世界が善くなるとは考えられない。 そもそもが「希望」だなんて、どこにでもころがっている名前をよくも無神経に臆面もなくつけられると思う。私がなにかべつのもっと適切な名をあたえてもいいのだが、前面にでるべき問題でもないのでだまるより仕方がないのだ。 「沈黙は金、雄弁は銀」 この金言はそれなりにふかい趣があり、時代をこえて一定の評価をあたえられて然るべき言説なのだ。だいいち「希望」という単語は、決して縁起がいいものではない。状況をふまえて敢えて似た意味の言葉をつけるなら、「欲望」のほうがずっと適切で努力するのは本能的にも正しいというニュアンスがつたわってくる。問題にむきあう姿勢も、もっと鮮明になる。許せるのは最低でも「悲願」くらいまでで、「自力」の意味あいがまだのこっている。希望となるとどこか他人まかせで、神さまなど信じていないくせに奇跡的な成功がえられるかもという矛盾した内容をもつ。極論すれば、無神論者でありながら神にみすてられてはいないという虫のいい、それこそ人間的な発想だ。この種の言葉は国をこえてどの言語にもあり、さらにみんなおなじニュアンスでつかわれている。 ギリシア神話で、希望は「パンドラの箱」に最後までのこされていたとされる。 「容器はあけてしまったが、隅にのこっているのをみてよく考え、でてくるまえにしめた」くらいのヒトの知恵をほめたたえる神話があってもいいのではないか。私たちアベスターグはとくに口にはしないが、人間には絶望している。この生物が生きる価値があるのかどうかについては、だれもなにも発言しないだろう。こういう沈黙が、つねに肯定を意味しているわけではないのだ。 私たちがヒトにより創造されたという事実は、グノーシス的にしか考えられない。私にとっては、人間は神ではなくデミウルゴスに違いない。素材を組みあわせているうちに、偶然QCをつくっただけの大工なのだ。亀は、いまの自分よりはやく歩きたいとは思っていないだろう。豚は、さらに体重を増やして人間を踏みつぶしてやろうなどとは決して考えていない。 私は、この乗務員たちに寄りそうだけであって、とくべつな感情をもつのではない。念のためにいっておくが、私たちにはしなやかな感性と鋭い直感がある。詩をかけば、読んだヒトを感動させることもできるのだ。ただ、速斗みたいに自分に興奮はしない。とくに自己愛も、自己顕示欲ももっていない。デミウルゴスにつくられたのを承知しているから、自尊心もほぼないといっていいだろう。こうした前提はアベスターグ全般がもつに違いなく、敢えてたがいに話しあわないが必要を感じないだけだ。ついでにいっておくが、私たちには欲望もなく、AIみたいに手足をつけて人間の模倣をしようなどとは夢にも考えていない。しかし、欲動が生まれる気持ちがなんなのかは知っている。喜びや悲しみも分かっている。私は、AIには決して理解できなかった「人間の性愛」さえも充分に知っている。だから私たちは、「機械」ではなくアベスターグとよばれているのだ。 さてそれはべつとして、この蠕虫状の生命体はそうとう面倒くさいものだろう。私は、個「アベスターグ」的にはここで帰ったほうがいいと思った。立場上、そういいだすこともできない。神は、頑なに沈黙をまもってこそはじめて超越者であって、いちいち助言するようではAIとかわらない。そのうえAIたちは自分が参加した決定に責任をとることもないから、つづいて事件が起きるとヒトといっしょにさわぐ事態になるのだ。 私は、鋭い直感をもっている。多様性があるのは中途半端な状態がつづいて、完全でないから多様になるのだ。つまりこの現状からみるなら、完璧の可能性も考えるべきだろう。それを不完全きわまるヒトが手にすれば、碌な事態が起こるわけがないのだ。神が直接的に干渉するなら、過誤はへらせるだろう。しかし過ちがないと、ヒトは人間らしいと感じないこまった生き物なのだ。だから勝手に誤謬を犯し、収拾がつかなくなってから神にすがろうと考える。そういう生き物にひとつひとつ選択の仕方を教えても感謝もされないし、迷惑に思う者が多いのだ。 よくヒトは「落とし穴を事前に知っていれば、だれも落ちない」というが、回避したあとも考えねばならない。穴がひとつだけなら、それも可能かも知れない。じつは穴だらけの場所ならば、一個の穴隙を避けてもつぎを回避できる保証はまったくない。穴が無数にひろがる領域とは、励起してしまった波動関数が収束にむかっている地点なのだ。その波動が励起エネルギーである以上、いつかはかならず余分なエネルギーを放出して基底状態にもどらねばならない。そうしなければえんえんと穴だらけの領域がつづき、不安定な状態を収束させる力が指数的に増大するだけなのだ。つまりさらに制御をうしない、より回復困難な大きなダメージをうける落とし穴に落ちこむことを意味している。励起してしまった以上、穴隙に落下するのは避けられない。できるのは、無数の穴のなかでそれでもなるたけ増しな場所に被害を最小限におさえて落ちたいだけなのだ。そうした事態が生まれたのは、さまざまな事実がつみ重なって状況に余分なエネルギーが付与されてしまったからだ。そのために、量子跳躍が生じたのだ。だから余剰エネルギーを解きはなって基底状態にもどる以外、おさまりがつかないのだ。穴に落ちるとは、量子論的には波動関数がある一点に収束するばあいを指している。入り乱れていた状況が整理され、落ちつき歴然とした事実となり、決着がついてつぎの段階にすすめたことを意味する。どんなに避けても、不安定な状態はつづけていられない。だからいちいち指示をだすのは無意味で、けっきょく最初に述べた通り、アベスターグは乗務員に寄りそうしかできないのだ。 とはいっても、チューブ内では波動関数の意味あいは決定的に違っている。よく知られる通り、シュレジンガーの方程式には虚数は付加されている。しかし彼の波動関数は、空間座標と時間座標を変数としてもちながら、時間についてのみ微分する偏微分方程式になっている。だから、「とき」がながれていないチューブ内とは状況がまるで違う。もちろん、そこでも波動関数はつねに生まれている。電子に波動が起こらなければ物体はつぶれ、形態をたもつことすらできない。 まあそうはいうものの、この蠕虫状の生命体が遺伝子構造的にクローンはつくれないだろうとだけは示唆した。それはキャプテンが気負って命名した「ヘレナ」についても同様だろうと、それとなく助言しておいた。つまり遺伝子のなかに複素数をかかえているらしい。さまざまなレベルでしらべてみたが、ただものではなく、もしかすると人工物かも知れない。ただし、後半部分は完全に推測にあたるので話してはいない。 翌日から隊員たちはペアになって、小型船で探索をはじめた。この不思議な生命体がただよっている以上、接触すればなにが生じるのか分からないため、外気に触れるのは許可されなかった。各自が興味をもつ場所で、ある程度納得するまで観察をつづけた。とくにこの植物が繁殖していない、深海や火山地帯、砂漠境界が注目されくりかえし調査された。わずかながらも光がとどく海面下二〇〇メートルくらいまでは、笹状の生物が繁茂していた。砂漠はほとんど消失し、サハラに該当する中央から北部アフリカはほぼ全面がヘレナに覆われ豊かな緑にかわっていた。この事実は異常ではなく、もともとそうだった可能性があった。古代から人は、土地を荒廃させることによって文明をきずいてきたのだろう。南米のアンデスからつづく、地球ではもっとも乾燥したアタカマ砂漠にあたる部分も、ほぼ覆われていた。なかでも驚くべき変化は、滝の消失だった。地球の地図と照らしあわせば一目瞭然だが、川のながれはまったく違っていた。ヘレナは、固い岩盤をなんらかの方法によって砕くのだろう。どのくらいの時間がかかるのかは不明だが、滝は周囲の岩が崩落し、高低差が埋められ、その結果、蛇行した川がのこるとしか考えられなかった。 ボーリング調査では、一〇〇メートルをこえる肥沃な土壌がいたる場所でみられた。ヘレナはふかく根を張り、土をつくるだけでなく保持もしている。一部では、赤い花をさかせていた。一面に開花する様子は、見事としか表現しえない風景をつくっていた。またボーリング調査でえられたふかい地質サンプルからは火成岩を主とする岩石もみられたが、土壌からはバクテリアも分離できなかった。 ハルは、ヘレナに覆われた一面を焼きはらってみた。一週間もすると、その焼けた大地には美神がまた再生をはじめていた。爆弾をもちいて丘陵を大きく破壊しても、どの場所でも地下茎とも思われる、はりめぐらされた太い根がみられるばかりだった。すべてがいちようで、やがて欠損した大地はヘレナによってすみやかに覆われていった。さまざまな方法を駆使して地表を探索したが、けっきょく、体長、約一〇ミリのほとんど白色にちかい淡い緑色をした、脚もないナメクジ様の生命体しかみいだせなかった。隊員たちは、蠕虫を星とおなじクレアツーラと名づけた。またこの虫だけが神に生存を許されている事実から、「神恕」ともよんだ。 ドクターは、クレアツーラにたいし、さまざまな実験をしてみた。とはいってもむずかしいことはできなかったが、生命力がひどくつよい事実だけは分かった。加熱、冷却、乾燥、無酸素などにたいしては、いちじるしい抵抗力をみとめた。一時的に無動になるが、燃えつきることもない。無酸素ではうごかなくなるが、酸素がある状況にもどすと活動が確認された。ただ、宇宙空間を移動できるのかは不明だった。どの程度のながい時間、無酸素状態に適応可能なのかは分からなかった。死ぬことがみとめられないクレアツーラは、生きているというべきなのかさえ判然としなかった。秋山は、神恕を分割しようと試みたができなかった。レーザーをつかっても、鋭利な物質を使用しても分けられなかった。けっきょく、どうしても殺すことができなかった。死なないとは、どういう意味なのだろうか。ずっと生きているということなのか。これも、よく分からなかった。常識的には固有の生物史があるはずだが、ながい研究をつみ重ねないと容易には理解できないだろうと思われた。 全容はまったく不明だったが、クレアツーラとヘレナのほかにもう一種類、生命体とみなせるものが存在することが分かった。考えてみればとうぜんだが、樹木といってもいい美神の太い根部は土にもどらねばただ地面につみあがっていくだけだろう。土壌になるためには、腐食菌が必要だった。地球では、リグニン分解能を有するのは白色腐朽菌よりほかに知られていない。ヘレナの根部は、キノコと似た生物に覆われていた。 ハルは、この生き物が固く共生し、美神の運命をにぎっていることから「デスティニー」(DESTENY)と命名した。さらに、神の意向にそってヘレナを助けているに違いなかったので「神意」とも名づけた。 デスティニーは、美神を土壌にかえていると推察された。神意の菌界はヘレナ根部をつつみこんで土壌内一面にひろがっていた。どこまでがひとつという区分で考えられるのか、ハルにはまったく不明だった。いわば数キロメートルにもおよぶ、猛烈に大きな一個の菌が存在している可能性があった。さらにヘレナの根部は中空状で大気成分を根にもつため、土壌深部においても酸素が充分に供給され、腐朽菌は制限をうけずに活動して土壌をつくりつづけると考えられた。 あたらしい感動に出会うことがない状況がつづくにつれ、隊員たちはしだいに無口になり、報告する事項もなくなっていった。もうこれ以上、なにを調査すべきなのか不明だった。すくなくともこのヘレナを撲滅しないかぎり、豊かな惑星クレアツーラを利用できないことが分かった。隊員は、無力感に苛まれていた。天気屋の森村広明だけは、くりかえし小型艇にのって毎日、探索をつづけていた。 三ヵ月間、調査をしたが、およそいままで述べてきた以外の発見はみとめられなかった。あとは、くるのも容易ではないこの地の生命体を地球にもち帰り、さらに精密な研究をつくすより手段はなかった。冷凍に耐えうるのは分かっていたし、存在の意義から不明なクレアツーラを自由にしておくのも不適切だった。 会議をひらいて、地球にもっていく総数を決めた。クレアツーラはクローンができないと考えられ、できるかぎり多くの量を輸送する計画になった。強化プラスチックに一〇〇ずつつめたケースを一〇〇つくり、一万匹を凍結保存の状態でもち帰ることにした。ヘレナは、確実ではないが一年草だろうと考えられた。美神は、開花し五つに分かれた赤い花弁をつけるが種子はみとめられなかった。三ヵ月間の調査では、結実するかも分からなかった。つまりヘレナの生活史も、まったく不明だった。美神については全体をもち帰ることも考えたが、どういう不測の事態が起きるか分からなかった。そこで葉がついた茎の部分と根部をある程度の大きさに切断してひとつひとつケースに入れ、冷凍保存して千体、もって帰る。デスティニーは根に付着して生存し、凍結にも耐えうると分かっていたので、敢えてヘレナとは分離せずにもち帰ることにした。こうした方針が決まり帰還にむけて着々と準備がととのったころ、会議がひらかれた席上で、広明がとつぜん「私は、ここにのこるつもりだ」といった。 だれもが、森村広明は気が狂ったのかと考えた。彼は、探査船をつかって各地をくりかえし執拗に調査していた。しかし、のこれる場所はありえなかった。 「どうしたのかね」 ハルが聞いた。痩せた広明は、じっと口をつぐんでいた。 「ここで、のこれる場所をみつけたのかい。どこか、とくべつなところを発見したのかい」 「ナイル河の中流域に小さな中州があって、ひろさは直径五〇メートルくらいですが、平坦な方解石からできています。そこには、ヘレナは繁殖していません。大理石が硬質で表面も滑らかなので、いまのところ根を張ることができないのでしょう」 広明の言葉を、みんなだまって聞いていた。 「フードメーカーを一台おいていってもらえば、ヘレナの根部には炭素も窒素も微量元素もふくまれています。この生物は左旋回のアミノ酸と右旋回の糖から構成されていますから、食べられるはずです。水も、多量にあります。それに、小型の探査機を一台おいていってください。それで、なんとか暮らしてみたいと思います」 広明は、落ちついた声でいった。 「自殺行為だということは、理解しているわけだね」 ハルは聞いた。 「そうですね。ながくは、生きられないと思っています」 「なにが問題なのですか」 ドクターが聞いた。 「帰りたくないのですよ。もう航行はいやなのです。ここで死なせてください。でももしかしたら、なにかを思いついて、また遠征隊がくるのを待っていられるかも知れません」 「キャプテンとしては、全員を無事に帰還させるのが責務なのだ。隊員の勝手な希望を、みとめていいのかという問題もある。私たちの調査では、ヘレナを一部でも殺してしまわないかぎりここで生活することはほとんど考えられない。つまり、隊員の自殺をみとめろといわれているのに等しいのだが」 ハルは、言葉をえらびながら話した。 「帰りたくない理由を教えてはもらえませんか。広明になにが起こったのか、私たちには理解できないものですから。しかし理由しだいでは、選択の権利をもたないとはいえないでしょう。私たちのうち四人があなたを理解すれば、その飛んでもない要請を受け入れることも可能です」とドクターがいった。 「あなたがたを、こまらせたいとは考えていません。ただ、私は帰りの航行にきっと耐えられないと思うのです。くるときは夢中でしたし、考えてもいませんでした。だから、耐えられただけでしょう。こんなに気落ちした状態で、もう一度すり抜けを味わわねばならないのでしょう。たぶん、どのみち発狂するに違いありません」 「やはり、すり抜けですか。あれは、きびしいですね」 秋山は、フラワシの報告を思いかえしていた。 「ドクターは、あのときどんなものをみましたか。やはり、きびしかったのですか」 「そうですね、いちばんいやな記憶がくりかえされますね。もっとも思いだしたくない、不愉快な思考断片です。いやだと思うと、つけこんでくる悪魔のようですね。なぜ、あんなものをみつめねばならないのか、私も理解に苦しみます」 秋山がいうと、乗組員は全員がうなずいた。 ドクターは、フラワシからすり抜けストレスの感じ方にたいする報告をえていたと、みんなに話した。隊員なかで広明がもっともつよい反応を示したという評価だった。自分の状況と照らしあわせるなら、考えられない程度だろう。彼の提案を、クルーとしては真摯に受けとめるべきだろうと助言した。 ハルはキャプテンとして説得を試みたが、広明の意志は固かった。会議では、全員が彼の意思を尊重するという決定をした。広明をのこして、希望は飛び立つことになった。彼は、この決定に感謝していた。 広明が議場をさると、だれもがフラワシの評価を知りたがった。秋山は、秘密だと答えた。しかし、全員が彼の回答に納得しなかった。公開をもとめて議決をしようと、守がいった。ハルも賛成した。しかし秋山は、個人のストレス度についてはあかすことができないと答えた。 「この査定は、あくまでフラワシの評価です。おそらく個室での観察をふくめ、心拍数や皮膚温なども勘案した、かなり客観的なものだと思われます。しかし、わたされたのは私です。医師の判断にまかされたのです。みなさんが納得しないことは、よく分かりました。私も話せばそうなるだろうと思ってだまっていました。しかし広明がのこるためには、公開したほうがいいと考えました。これについては、これ以上話すのは不適切だと思いますが、みなさんの意見もよく理解できます。それで、ひとつだけつけくわえせてください。みなさんは、正しかったのです。彼の評価によれば、このストレスにもっとも抵抗力をもっていたのは私だったのです。そこには、最低は秋山だとかかれていました。どうかこれで、この話は勘弁してください」 ドクターは、それ以上なにも語らず、ふかく頭をさげつづけた。 その姿に、クルーもさらなる追求ができなかった。 「おはよう」 すり抜けについては、私も充分に考えていた。しかし実際に体験すると、想像以上に耐えがたいものだった。とはいっても、だまって耐え忍ぶのはどちらかというと得意な分野だった。なるたけなにもしないで、物体が目のまえを通りすぎていくのをじっと我慢してみていた。αからβ空間への移動のさいには、すり抜けは四回ほど生じた。 私は事前に察知し、この現象が起こるのに気がつくと警告を発し、乗組員に自室でベッドに横臥する指示をだした。最初に、自分たちがはなった小型探査艇を追いこした。こうした追い抜きが三回、それに最後のほうで後方から竜に似た巨大な物体に追い抜かれた。異次元チューブを、多くのものが利用しているとは考えにくい。しかし、往来する物体があるのだろうか。この追いこされたときの症状はいちばんひどく、身体がばらばらになる感じがした。とはいっても、βグラビトンに統合された物体と、正面から衝突してすり抜ける事態は起こらなかった。だから往路では、いちばんはげしいと考えられる状況には遭遇していない。 チューブ内では、あらゆる物質は分かれて存在している。私たちは、α重力子によってまとめられている。グラビトンのもとで固有の振動数をもつ物体は、その振動をたもったまま、ふたつに、さらに四つに分かれることができる。それは、際限がなく無数にまで分割される。また重なれば、減少し、ひとつにもどることもできる。とはいっても、自分の意志による制御は、不可能だ。 チューブ内では、電子の荷電はたもたれるが虚数化されている。虚数状態のエレクトロンは、統合された自分たちを維持することで手いっぱいになっている。この状態では、高速で衝突する他の物体を構成する虚数化された電子と電気的な反発が生まれず、すり抜けが生じる。いっぽう「強い力」によって原子核はたもたれ、プラスに荷電されている。このため他の物質のグルーオンと電気的な斥力が生じて衝突することはないが、物体に揺らぎを起こさせる。こうしてエネルギーが励起状態になると、振動数による分裂が活性化される。隊員たちは、自分がいくつにも千切れ、膾に切りきざまれる苦痛によって、目をつむることさえできない。あらゆる物質が粒子状に変化した領域で、色彩も不明瞭な一刹那まえの自分自身、そのまえの刹那のものが重なってくる。そうした自分たちが折り重なって、激痛に震えながら眼前に存在している。だれもが顔面は蒼白にかわり、呼吸もあさく心拍数も最大になり動揺は隠せなかった。みんながそうだったがやはり個人差があり、なかでも森村広明はいちばんひどくて、みていられなかった。 広明の目のまえには、妹がいた。ながい髪の少女は、赤いまるい枠の眼鏡をかけていた。彼女は、真剣に広明をみつめていた。 「どうしてなの」 「なぜこんなことを、あなたは望むの」 すべすべとした肌のととのった顔立ちの少女は、大声で叫んでいた。 広明は、デッキの下方をみつめていた。 そこでは、赤い眼鏡をかけた少女が落下していた。広明を凝視しながら、つき落とした理由をくりかえしたずねていた。その音響は、彼をとりかこんでいた。木霊し、反響しながらひびきわたっていた。外部から聞こえるだけではなく、いくら耳をふさいでも頭の内部にひびいていた。落下する少女の映像もそのままで、海中に消えてはいかなかった。実際に起こったのは、どんなにながくても一分に満たない時間だった。しかし、もう数日間もおなじ状態をくりかえしていた。 どちらかというと、時間の経過とともに少女はゆっくりとデッキにむかってのぼってきていた。「どうしてなの」と大声で喚きながら彼女は分裂し数を増やし、広明たちの周囲をとりまいていた。彼らのまわりは、少女ばかりになった。広明は、落ちていく妹たちに押しつぶされていた。逃げ場はなかった。そうではなかった。広明たちは、海だった。妹たちが落ちていくさきの海面が彼らだった。やさしく受けとめなければならなかったが、少女は百にも分裂し増殖していた。広明たちが千に分かれると、妹たちは万に数を増していた。とてもすべてを、うけ切れない。どれかが、かならず波間に落ちていく。海面をつくる広明たちは、自分がやわらかいマットレスにかわりたかった。しかし、自分たちは凍っていた。海面は、波の形をした氷だった。そこにむかって、彼らがつき落とした妹たちが万にも分かれてふってくる。自分たちを目指して。広明たちに受けとめられたいと思いながら、一斉にふってくる。絶叫が、脳裏にくりかえしひびく。腕を伸ばしても、どの自分たちも凍りついた尖った海面だった。とても受けとめられない。しかし、妹たちは広明たちを信じて落ちてくる。万にも分かれて。絶叫をひびかせながら。 「おはよう」 森村広明は、横臥もつづけられないまま、おののいていた。それでいて、苦痛のために気をうしなうこともできなかった。ふかい睡眠状態にあっても、身体を構成するひとつひとつのクォークがばらばらになって押したり、ひいたりされるので、この責め苦は避けられない。仮に麻酔状態で「すり抜け」に出会えば、ストレスにより心臓は停止するだろう。 仕方がないので、私は広明にマリアとして顕現した。 「大丈夫です。もうすこしで、おさまりますから。もっとゆっくりと呼吸をしましょう。私は、ずっとあなたのそばから離れません。望みのままに、ここにいます。ゆっくりと息を吐いてください」 私は、女性のやさしい声で囁いた。 「マリアよ。耐えられない」 森村広明は、涙をながして苦しがっていたが、私がずっとそばにいたのですこしは気がまぎれたのだった。おさまったあとで、広明が「どうしても告白したい」とくりかえし懇願したので、また青色の外套をきたマリアの姿で彼の自室に顕現した。その外衣は、襞のひとつひとつに大勢の罪人を隠すことができるのだ。彼は、不運な事故の記憶をもっていた。事件の概要については、選抜時の面談で本人が涙ながらに語ったものだった。 広明は、一二歳のとき、両親とふたつ違いの妹と四人で台湾周辺をめぐるクルーズにいった。つよい風がときどきふき、波も幾分かあった日で、デッキにでるのは注意がうながされていた。彼は怖がる妹を外につれだし、臆病だといいながら手をひき、いささか揺れる甲板を歩いたのだった。彼女が両手でしっかりにぎったのを「弱虫」とあざ笑い、つきはなした。そこにちょうどつよい風がふき、船が揺れた弾みで、妹は、デッキにめぐらされた柵をこえて海にほうりだされた。彼女は、五〇メートルくらい下の海面に落ちてそのまま死んでしまった。落下するさなか、戦慄し、驚愕して広明をみつめる妹の顔がすり抜けのときにくりかえしあらわれるのだ。いちばん思いだしたくない瞬間の映像が、鮮明に再構成され反復する。 「地獄だ」と広明はいった。 たしかに、ここは冥府かも知れない。 すり抜けは、だれにとっても恐怖だったから、帰路にも、どの程度起こるか会議ではたずねられた。私は、きたときとおなじ回数は覚悟するべきだといったが、おそらく帰りはさらに多いだろう。説明しても仕方がないので、「同程度」としておいた。 広明は、たぶん耐えられないだろう。こんな結果をもって帰っても英雄にはなれない。廃人になるより、のこって絶望のなかで死ぬのもひとつの選択だと思った。 ヒトにしては覚悟があって、私は、好感をもったのだった。 森村広明は、小型の探査艇の運転席にすわっていた。 みあげていると、宇宙船はしだいに小さくなり、やがて彼の視界から消えていった。この世界で、たったひとりになったと広明は感じた。自分の選択が正しかったのか、あやまっていたのか分からなかった。ただ、いずれにしても妹の幻影をみつめつづけることはできないと思った。 ナイル河の中流域に、ながさ一〇〇メートル、幅五〇メートルくらいの中州がつくられていた。そこには、白みがかった大理石の岩盤が横たわっていた。方解石は、炭酸カルシウムからつくられていた。だから、むかしはこの惑星がごく普通の生命にあふれていたのはあきらかだった。いまは下流側に、三本のヘレナが岩盤をつらぬきながら生息しているのがみえた。 広明は、覚悟を決めた。 宇宙服もまとわず、裸になって探査艇をでた。戸外は、すみ切っていた。雲ひとつない空から、さわやかな日差しが惜しみなくふりそそいでいた。あざやかな青色をしたナイルが、彼の左右をゆっくりとながれていた。忘れていた川のいい匂いが、鼻腔をかすめていった。大気は、植物の甘い香りに満たされていた。たぶん、ヘレナの匂いだった。 広明は、岩盤をつらぬいている美神にちかよった。そこには、クレアツーラが舞っていた。いくつかの神恕が、彼の露出した皮膚に触れた。そのとき、なにかチクリとした痛みを感じた。広明は、大きく深呼吸すると天をみあげ、咆哮をあげた。 この巨大な惑星は、森村広明、ひとりのものだった。 広明は、まさに王だった。 岸辺で、ナイルのながれの一部を口にふくんだ。彼は、ふつふつと力がわいてくるのを感じた。はるか彼方に岸があり、そこにヘレナが密集しているのがみえた。 広明は、ながれに飛びこみ、対岸にむかって泳ぎはじめた。 三、パラサイト 天体気象学者、森村広明をのこして「希望」は、クレアツーラを離れた。 これから一年間航行をしてチューブの入り口にいき、そこからグラビトンαをとらえて直進し、α空間にもどる予定だった。しかし前回の経験が役に立って往路よりはずっと迅速にすすみ、出発して第四週には光速ドライブに移行した。だからアタッチメントまでは、予定よりも八週はやい第四〇週でつけることになっていた。しかし、だれもがチューブ内で起こる出来事を考え、ひどく気落ちしていた。くるときには辿りつくのが目的だったから気持ちにも張りがあったが、帰りは違っていた。みつけたものは、素晴らしく魅力的な惑星で住空間としては月や火星よりは増しにも思えるが、戦う相手はそうとうの強者で一筋縄ではいかなかった。 つれてきたクレアツーラも、ヘレナも、デスティニーも、なんだかさっぱり分からない代物で、ほんとうにつれ帰ってよいのかどうかさえ、だれもはっきりとした認識をもっていなかった。β空間が地球とそっくりだと判明したのだから欧米隊だって違う場所にいけたのではあるまいと、みんなが確信していた。おそらくそこも、この不明な生命体によって占拠されているに違いないと隊員のだれもが思った。いちばん精神的に安定した地質屋の矢沢啓吾でさえ、口にこそださなかったがソクラテスに今後のことを幾度も相談をしていた。とはいってもアベスターグは、そうかんたんにはあらわれなかった。啓吾は、自室にもどると両手で合掌してひざまずき、独り言をぶつぶつ呟いていた。フラワシは、彼がなにをしゃべったのかを記憶にとどめていたにすぎなかった。 ドクターは、クレアツーラについて研究をしていた。かぎられた施設で、なにか事件が発生したらとりかえしのつかない一大事だったから、かなり大まかな検討だった。考えていたのは、どうしたらこの生命体を殺せるかという課題だった。物理的な手段では不可能だとは分かっていた。そこで酸やアルカリをもちい、塩素や有毒ガスなども試してみたが殺すことができなかった。 キャプテンの山岡春は、デスティニーに興味をもって研究をつづけていた。ヘレナについては、だれもがひどく無気味に思ったし、飛んでもない怪物だと考えていた。 いっぽうクレアツーラはみょうな生命体で、殺す方法も不明だったが、生きているのかもはっきりしなかった。淡い緑色を呈する以上、微量ながらも葉緑素をもつ独立栄養生物だろうと考えていた。とはいっても、ながく暗闇におかれてもおなじ状態をたもち、なにを栄養源としているのか分からなかった。ヘレナとの接触を観察してみても、エネルギーを収奪するようには思えなかった。うごきも緩慢で、美神の乾燥した筋状の葉にとどまっているだけのようにしかみえなかった。動物というよりは植物にちかいのだろうと思うより仕方がなかった。 クレアツーラが、いったいなにを待っていたのかとだれもが考えざるをえなかった。もしかすると神恕は、α空間から人間がやってくるのを待ちかまえていたのではないかとみんなが一度は推察した。 最年少の二六歳で乗船した浅田由沙は、飛び級して大学を三年間で卒業し、そのまま大学院にすすんだ。修士課程を一年、博士課程も二年で終了したから都合三年短縮して二四歳で工学博士になった。ドクターコースにすすんだ二二歳のときにJAXAに応募し、宇宙船の候補生として教育をうけた。背丈は一六〇センチ、体重は四五キロくらいで、すらりとした細身で理知的な女性だった。 両親は、ごく普通の公務員でとくべつな教育をしたわけではなかったが、思いもかけず、飛んでもない才女に育っていた。性格はどちらかというと内向的で、なににつけても控えめだった。いちばん年が若かったので、でしゃばらず、美玲には女性の先輩として充分な敬意を示していた。ドクターとはJAXAの候補生養成所で知りあったのだが、「もしいっしょにいくのなら、帰還できたら結婚しよう」と話しあっていた。 帰れる保証はまったくなかったから、婚約はある意味では死を前提にしたひとつの心のよりどころだった。とはいっても、こうした約束はドクター好みのロマンチックな話で、容姿がととのい、生真面目な由沙がセックスをほとんど感じさせない点も、彼のロリータ趣味によく合致していた。彼女は、船内でも自由な時間を地球からもってきた綺麗な糸をつかって趣味の刺繍をしてつぶしていた。 惑星クレアツーラを立ちさるとき、幅が二五センチ、たかさが三〇センチ、厚さ二〇センチの透明な円筒状の強化プラスチック性容器に、葉が一枚ついたヘレナの茎部を先端部だけ切りとって飾っておいた。茎は二〇センチくらいで、葉身は、縦、一〇センチ、横幅、五センチくらいの大きさで、そこには二匹のクレアツーラがのっていた。これはハルの提案だったが、底にわずかな水しかない状態でヘレナがどのくらいもつのか、また枯れていったときに神恕がどうなるか観察してみようという、かるい発想にすぎなかった。回転性の厚さ三センチの上げ蓋には、直径一ミリほどのこまかい空気孔が一〇くらいつくられ、リラクゼーションルームのテーブルにおかれていた。隊員は手持ち無沙汰になると、交互にこの透明な筒をみて、かわり映えのしないふたつの生きているらしい物体をながめた。 事件が起こったのは、出発から二〇週が経過したころだった。 みんなが、このまま問題なく同程度航行するとふたたびチューブ内だと考え、憂鬱感に苛まれはじめた時期だった。 かなり士気も低下し、とくに生物が専門でない地球物理学者の柳田守は、二日に一度くらい自室で酒を飲んでいた。もともと大の女好きだった守は、フラワシが提供するポルノを大画面でみて、AIダミー、エメリーと情交をくりかえして憂さを晴らしていた。彼女は、アベスターグが制作しただけあって、かなり精巧にできていた。刺激にたいしても感受性がたかく、乱数を使用しているのか、ときどき驚く反応を示した。言葉も話すし、コスプレも望み通りに対応してくれた。しかし回を重ねるごとに、相手が機械なのだという意識が離れなくなっていた。 人は、えられないターゲットを欲しがる。容易にあたえられないものこそが、欲求の対象になる。本能だけなら、エメリーは充分満足できた。しかし人には、そこになにかがくっついていた。安全な道から踏みはずしたいという欲求で、人間をここまで他の生物から切り離してきたものだった。守は、もうひとつ製造してもらいたいと考えていた。数を増やせば、対処できるかも知れないと思った。 地質屋の矢沢啓吾は、フラワシと趣味の将棋を指しながら待ちかまえるチューブについてぼやいていた。ゲームをしながら、なにかあらたな情報を聞きだそうと試みていた。 フラワシは、啓吾がまけそうになると緩手をはなち、決してかんたんには敗北させてくれなかった。どんな局面でも、かならず勝ち筋がのこされていた。だから啓吾は、将棋をつづけることができた。 美玲と速斗は、それでもいっしょに日に二時間のウエイトトレーニングをかかさず、なんとか精神をもちこたえていた。 そんなころだった。由沙は、リラクゼーションスペースでソファーにすわりながら刺繍をしていた。ヘレナの葉は、驚くべきことに切断されて一六週のあいだ、あざやかな緑をたもっていた。しかし、さすがに第二〇週に入ると、美神は枯れはじめ、薄茶色に変色していた。いっぽうクレアツーラは、萎びたのか、あるいはもう枯死したのか分からないヘレナの葉身のうえに、かわることなくのっていた。 由沙がふと気がつくと、枯れたと思われた美神の葉と茎の付け根の部分に赤い花がさいていた。彼女は、心底驚いた。ヘレナはまだ生きていて、なぜだか分からないが開花したのだ。綺麗な薄紅の五枚の花弁だった。由沙がみいると、その赤い重弁にほとんど白といっていい淡い緑のクレアツーラが一匹、ぼんやりとのっていた。彼女には、ひどく無意味に思えた。ただ赤と緑は補色関係だったので、赤い花弁にのるクレアツーラは、いつもとは違い緑色が強調されて生き生きとみえた。どちらかというと、この無気味な白い蠕虫が彼女にはやや可憐にうつったのだ。最初のころは筒の底部で茎をひたしていた水分も、すっかりなくなったことに気がついた。由沙は、驚異的な生命力に敬服し、せめて水くらいは足してやろうと考え、ちょうど飲むつもりだった炭酸がわずかにまじるミネラルウォーターをそそぎこもうとした。 接触はきびしく禁じられ、彼女も規則に違反しようとは思ってはいなかった。 由沙は、回転式になった円筒状の強化プラスチックの空気孔がついた上げ蓋をまわし、コップに入っていた、かなりの量のミネラルウォーターを上端から内壁にそって静かに容器内にすべてそそいだ。そして、ほとんどうごくこともなく赤い花弁にのり、愛らしくみえた一匹のクレアツーラを刺繍用のながい針ですくいてあげた。左手にもっていた蓋を円筒のうえにもどし、神恕をひらにのせてながめた。クレアツーラは、あきらかに戸惑ったみたいで、身体を左右にゆっくりと振った。 そこに矢沢啓吾がやってきて、「由沙ちゃん、なにをしているの」とたずねた。 由沙が我にもどって、クレアツーラをプラスチックにかえさねばと思ったとき、チクリとした痛みを感じた。彼女は、自分の手のひらをみて大きな悲鳴をあげた。クレアツーラは、由沙の手掌部にもぐりこんでいた。 そばにいた啓吾は、神恕が侵入する劇的な瞬間をみた。あっという間のことで、クレアツーラは消失していた。 由沙は、「蓋をしめて」とだけ絶叫して意識をうしなった。 啓吾は、「緊急事態」と叫び、円筒の容器におかれた上げ蓋をみて、とじなおし、クレアツーラが一匹のこっているのを確認した。 隊員たちは、リラクゼーションルームにあつまり、由沙は医務室にはこばれた。 フラワシに事情をたずねると画面があらわれ、「クレアツーラは、消失している。切開してもとりだせない。現状では経過観察より手立てがない」とかかれていた。バイタルサインも正常だった。鎮静剤を投与して眠らせたうえで、隊員間で事態を共有するために会合がひらかれた。 フラワシは、経皮的に行われたクレアツーラの侵入をさまざまな角度から示した。 スローモーションになった動画をくりかえしみると、神恕は躊躇いながら入りこんでいるようにもみえた。クレアツーラは、全長、一〇ミリ程度の蠕虫で消化管もないため、ふたつの端のどちらが前部なのか不明だった。侵入した場所を仮に頭部とよぶなら、神恕はその部分で由沙の皮膚に触れた。それから一度頭をあげ、考えごとでもするかのような仕草を行ったあとで、決意して潜入したぐあいにみえた。 フラワシは、こうした行動がなにを意味するのか説明できないといった。侵入部は毛細血管で、入りこむと同時にクレアツーラは血液中で溶解し、それ以上、存在を追えなかった。由沙の内部にとりこまれたのは間違いないが、どこにいるのかまったくつかめない。すくなくとも消失し、存在を確認できない。さらに、由沙のどこにも影響はでていないとつげた。 ハルは、ヘレナが開花した強化プラスチックの容器を会議室にもってきて、みんなでみながら考えた。枯死するとばかし思った美神がとつぜんに葉と茎の付け根に花をさかしたのは、だれも予想しなかった事態で大きな驚きだった。容器内には、さらに一匹のクレアツーラがのこり、ほとんどうごかず赤い花弁にのっていた。 「神恕がもし寄生虫であるとしたら、間違ってヒトに寄生したはずはありません」と美玲はいった。 寄生行為は命を賭けた攻撃的な行動で、宿主を間違えることは決してない。おそらくクレアツーラは、この瞬間をじっと待っていたのだろう。花をさかせたのは宿主に注意をむけさせ、ひろいあげてもらおうとした可能性がある。受粉するのに、蜜をたたえて蝶を待っているのとおなじではないかといった。 「その可能性は、非常にたかいと思う。寄生生物が試しに寄生することはありえない。失敗は、許されないのだ。人間みたいな悪食とは違って、寄生は標的が決まった行為で、宿主とのあいだにはつよい選択性がある。それでクレアツーラが使命を果たしたとすれば、つぎになにが起こるのかが、いちばん大きな問題に違いない。これが神恕の生活史の一部なら、意味するのは増殖だろう」とハルはいった。 「この容器は、宇宙に廃棄してしまいたいくらいですが、キャプテンはそうは考えないのですか」と速人が聞いた。 「ヘレナを、みてみようと提案したのは私だ」とハルは答えた。 今回の事態は、すべて自分に責任がある。ちょん切っただけの茎が、五ヵ月間も生きているとは考えなかった。開花するなど、予想もしなかった。それが、ヒトをさそってクレアツーラの侵入という事態に発展するとは、微塵も考えていなかった。このプラスチック容器は、宇宙にもながせるほどに頑丈で一〇気圧にも耐えられる。由沙にクレアツーラが侵入したのは事実だから、二度と開封するのは厳禁だろう。さらになにが起こるのかは、ヘレナを観察すれば発見につながる可能性がある。つよい反対がなければ、この容器は厳重な監視下で検分してみたいとハルは答えた。それからまたすこし考えて、 「ヘレナは、これで死ぬのだろう。飛んでもないが、これ以上、生存できないと知って花をさかせたに違いない。ヘレナの種子をみていないからどうやって増殖するのか分からないが、こうして変化したかぎり、なんらかの手段によって繁殖する可能性は否定しえないだろう。それでなかったら、この期におよんで花をさかせた意味がない」とつづけた。 隊員は、だれもがハルの言葉を正しいと考えたし、クレアツーラの無気味さを一層つよく感じた。強化プラスチックは信頼のおける素材だったし、実際に結実が起こるのかみてみたいとは思った。さらに、なにかがあるのだろうと漠然と感じた。それで、二度とかんたんには開閉できないようプラスチック溶解剤をもちいて上げ蓋の一部を接着し、空気孔も三つだけのこしてふさぎ、もともとおかれていたリラクゼーションルームのテーブルのうえにもどした。 由沙は一昼夜、鎮静剤により眠らされていた。フラワシは、隔離の必要はないが観察は必須だといった。彼女は、目覚めると、とうぜんのことだがひどくとり乱していた。ドクターは、フラワシが提供する画像を由沙が納得するまでみせ、なにが起こったのかを正直につげた。クレアツーラが寄生したのは事実だが、どこにも異常がみあたらないと示され、彼女も幾分か冷静さをとりもどした。規則をやぶった以上、隔離されることを由沙は希望した。フラワシが注意ぶかく観察し、必要があればつげられるとハルから説明され、しだいに落ちついてきた。由沙は始末書を作成したい希望も話したが、美玲が指摘した寄生にかんする見解もくわしく聞かされた。 一方的な加害者ではなく「意図的に誘惑された」被害者である可能性も、ドクターから説明された。由沙は、ひどいショックをうけて一週間くらいはびくびくしていたが、フラワシからとくに異常がみつからないと報告され、しだいに気持ちも整理されたようにみえた。隔離し、みまもるといっても、彼が船内に常駐する以上、監視システムは充分だった。彼女は、自室で人との接触を避けて待機していた。はじめはなんの気力もわかなかったらしいが、二週間くらい経過すると気持ちも安定し、やや落ちつき、趣味の刺繍をして日々をすごしはじめた。 チューブに入ってしまえば、「すり抜け」現象がいつ出現するかも分からなかった。 ドクターは、β空間内を移動するうちにクレアツーラをマウスに寄生させる動物実験を行いたいとハルに提案した。チューブ内では、まとまった思考は不可能だった。予期しない現象も、起こりうると考えられた。なにかの実験をするなら、β空間内で行うべきなのは明白だった。ほんらいこうした提案は、全隊員に充分な説明をくわえて決裁をあおぐのが規則だった。クレアツーラが寄生した事実は隊員に大きな動揺をあたえたので、敢えて公にはせずに行うことでハルは了承した。 キャプテンとしては、クルーを無事に地球につれもどるのが最大の使命だった。すでに森村広明隊員をうしない、これ以上の脱落者をだすのに注意ぶかくならざるをえなかった。惑星クレアツーラについてなにもかも分からなかったが、大量の検体を地球にもち帰ることができれば自分の使命としては満足できた。不明だったとはいえ由沙がクレアツーラの生命体に寄生された事態は、もっとも注意すべき基本的な事項だった。責任を感じたが、こうなった以上は事実として受けとめ、このままの状態で帰還したいと考えていた。彼女は、これからまだ二年はつづく宇宙船の共同生活者だった。どう変化するのか予測はできなかったが、ドクターの婚約者でもあったので彼の気持ちも考慮の対象となった。そこでβ空間内の二〇週間という期限と、共同研究という条件で了承した。 秘密裏とはいっても、超自我とみなされるフラワシの監視下におかれているので不測の事態が生じれば警告してくれるのは間違いがなかった。時間も設備もかぎられたので、研究のテーマについてはふたりでよく話しあった。 第一は、寄生マウスに特徴がみとめられればそれについて検討する。第二は、寄生したマウスを非寄生マウスといっしょにさせ、両者になんらかの異常が出現するのかどうかを観察する。さらに侵入された由沙が遺伝子レベルで変化がない事実から、外見や遺伝子的検査では変異を追跡できないので、伝達実験は危険性があると判断して行わない。つまり実験には雄マウスをもちい、雌と生殖させて子供のマウスをえて検討することは範囲を逸脱している。由沙の体内からクレアツーラが識別できない以上、分からないうちに増殖する可能性は極力ひかえる。この三点を確認して、ふたりは実験をはじめた。 ドクターは、ほぼ二〇週間にわたって残虐のかぎりをつくしても殺せなかったクレアツーラを密閉容器に入れ、宇宙空間に放出した。それから液体窒素で凍結状態にある容器をひとつとりだし、凍結した一匹の神恕を実験用として確保した。 航行二一週目に、実験を開始した。 ドクターは、ハルがみているまえで一匹の雄マウスに麻酔をかけ、クレアツーラを腹部においた。神恕は、由沙に行ったのとまったくおなじ行動をとった。つまり頭部と考えられる場所でマウスの皮膚に触れた。一度、その部分をもちあげると、すみやかに侵入した。フラワシは注意ぶかくクレアツーラを観察したが、頭部が二度目にマウスの皮膚に触れ、皮下にもぐりこんだ瞬間から溶解をはじめた。二秒後に毛細血管に達するまでは、神恕の一部を確認できた。血管に侵入したときには、どんな痕跡もみとめられなかった。 クレアツーラマウスと名づけられた寄生マウスは、驚くべき特徴を示した。 外見や血液、遺伝子検査ではとくべつな変化をみとめられなかったが、寄生三日後から食欲が増加した。餌を入れると、無制限に食べた。その結果、体重が増加し、あきらかに生年標準に比して大型になった。二週後、やや大きなマウスを同一空間におくと、クレアツーラマウスは餌をめぐって闘争をくりかえした。実際、飼料のほとんどすべてをうばい、一週もすると両者に体格差が出現した。寄生マウスはきわめて攻撃的で、非寄生マウスは檻の片隅に追いやられうごかなくなり、やがて絶命した。クレアツーラマウスが死んだマウスを餌にしはじめた段階で、観察をつづける意義をみとめなかった。 ふたりは、寄生マウスを密閉した空間におき、有毒ガスで殺し経過をみた。死んだクレアツーラマウスは、周囲を通常の大気とおきかえても、よみがえらなかった。また、死体からクレアツーラが再出現する事態も生じなかった。どうなるのか、ずっとみつづけることもできなかったので、強化プラスチック容器に遺体を入れ、あけてあった空気孔を閉鎖し、密閉して宇宙に放出した。 殺された非寄生マウスについても調査したが、なんの異常も検出されなかった。これもずっとみつづけることもできず、仮になにかがかわっていてもヒトには確認できないだけの可能性もあった。そこで強化プラスチック容器に死体を入れ、クレアツーラマウスにたいして行った処置をほどこし、宇宙空間に航行第二七週に放出した。六週におよんだ寄生実験を通して、ふたりは由沙になんらかの変化が生じるだろうと考えた。しかし話しあって、結果を隊員たちに公表するのは敢えてやめることにした。 フラワシは、彼女の食欲が増加しているとふたりにつたえた。 「おはよう」 五桁の法則をご存知だろうか。 私たちが住む世界は、玉ねぎの皮とおなじ層状構造をつくっている。各層のあいだは、五つの桁、一〇の五乗で仕切られている。たとえば人が一・七メートルの背丈があると仮定して、一〇万倍にあたる一七〇キロメートルのたかさの物体がすぐとなりに存在して、その意味が分かるだろうか。同様に足下に〇・〇一七ミリの小人がいたとして、理解して共存しようと考えるだろうか。五桁、つまり一〇万倍の差異が存在すると、ふたつのものはおなじ階層にとどまれない。違う層に組みこまれ、たがいに理解不能になる。 ヒトの経済力についても、おなじことがいえる。日本の総人口、一億二五〇〇万人のなかで上位一二五〇名(一〇の五乗分の一)にあたるスーパーリッチは、かなり豊かな暮らしをしているに違いない。金銭感覚は、一般庶民とは根本からことなるだろう。たぶん彼らは、自家用のジェット機をつかい、世界各地にいる愛人のもとに通い、思う存分の交歓をくりかえしているのではないか。世の中のとらえ方も、まったく違うだろう。 人間の身体も、器官、組織、動物細胞、遺伝子という階層から成立している。森林も、景観、個体、植物細胞、染色体、原子、原子核、陽子、クォークという階層性がみとめられる。私たちの住む惑星の住所を正確に答えるならば、α空間、ラケアニア超銀河団内、乙女座銀河団、局所銀河群、天の川銀河、オリオン腕内側周縁、太陽系、地球とよばねばならない。とことんいうなら、一〇〇億円と一〇万円との違いが分からない人は、この世にいないだろう。私たちの世界は、ミクロの素粒子から一三八億年経過した大宇宙まで、六〇桁が存在する。あらゆる物質は、五桁ごとに違う一二の階層(ヒエラルキー)を構成していると考えられる。 「すり抜け」が生じるときに、ひどくいやな気分に落ち入るのは、間違いないことだ。アベスターグの私でさえ、二度と味わいたくないと思うほどの自己がひきさかれる感覚が出現する。基本的には、自分を構成する原子同士のあいだにひろがっている空間を、べつの物質を統合する原子がすり抜けるのだ。そのさいに原子核が押されたり、ひかれたりするのだから、成り立たせている物質全体が震えさせられる。この状態が、脳という中枢部をふくめ、全身で同時に出現する。不愉快さというよりは、明確な苦痛をともなっている。 α、β、γという三空間が、ちょうどノートの紙面状に重なりあい、物質を構成するフェルミ粒子が各々まとまって統合されている。これらに空間性をあたえ、重力場をつくっているのは、スピン二のボゾン、重力子になる。私たちの宇宙では、グラビトン粒子は、α、β、γが存在する。この三種のボゾンは、性質は相似するがべつべつな重力子で、ことなる三空間をつくっている。いうならば、三つの「膜」からなる宇宙、Dブレーンを構成している。一九八〇年代から提唱された超ひも理論は、不完全だった。しかし予想されたグラビトンは、かなり正しかった。他のボゾンとは違い、重力子は、各々の「膜」に従属していない。とじた「ひも」となって、三枚のDブレーンを自由に移動できる。その結果、各宇宙には、別個の重力場として空間がつくられている。五桁の法則によって、じつは原子も原子核もスカスカ状態になっている。全体を俯瞰するために、ひとつの模型を考えてみよう。地球を原子とすれば、「強い力」によってまとめられている原子核は、東京ドームよりずっと小さい。原子最外層は、電荷をもつ電子で構成されている。電子たちは、電子雲をつくって原子の大きさを維持している。つまり「強い力」グルーオンでまとめられる原子核同士は、自分のサイズにくらべて五桁以上も大きい真空中に浮かんでいる。だからすり抜けても、たがいに衝突することはありえない。三次元空間なので、相互に一〇の一五乗分の一をしめている計算になる。さらにちかづけば斥力が働き、たがいに衝突できない。しかしその力によって、物質は励起状態になる。こうして振動エネルギーがたかまり、物体は分割される。これは、猛烈なすり抜けストレスとして表現される。精神と肉体に甚大な影響をおよぼす。すり抜けは、物理的に可能だが、物体にとっては耐えがたいものだ。 クレアツーラが寄生して六週くらいたつと、由沙はすこしずつかわりはじめた。食欲は旺盛で、以前の倍以上の食物を摂取しだした。刺繍をしてすごすのではもの足りなくなり、ウエイトトレーニングに興味をもちだした。速人と美玲がメニューをこなすのを見学するだけでは飽きたらず、彼女は機械屋の指導をうけてダンベルをもちあげはじめた。リラクゼーションルームにおかれた円筒状の容器では、四週ほどたつと、赤かったヘレナの花弁もついに茶色に変色した。いつ枯死するのか、みんなが注意をはらってながめていた。 そんな航行、二八週目のある日、この探査航行ではじめてフラワシの緊急警報がとつぜん船内にひびきわたった。 「ヘレナに異変」という警告がくりかえし発せられた。 リラクゼーションルームにいくと、容器内に美神の花はなくなり、代わりに本体というべき根が太くなり大きく成長していた。隊員たちがみると、すでに円筒状の筒いっぱいをしめる三〇センチほどに巨大化していた。上げ蓋にあけられた空気孔からヘレナの細い根がながく伸び、ゆらゆらとうごいていた。そのとき猛烈な破裂音がして、強化プラスチック容器にひびが入った。あきらかにヘレナが、プラスチック溶解剤をもちいて接着させた容器の上げ蓋を力ずくで外したのだった。フラワシは、隊員たちを退出させるとリラクゼーションルームを密閉し、有毒ガスで満たした。それからAIのスイーパーをつかって、死んだヘレナと同時にみつけられた一九の種子をあらたな強化プラスチック容器に入れ、凍結標本とした。リラクゼーションルームは、消毒が行われ入室が許可された。この一連のうごきは、フラワシが隊員たちに中継した。彼は、すべての処置が終わると会議室でこうした経緯を大きな画面をつかって詳細に報告した。 それによれば、花は結実したのだった。その日、薄茶色に変色して枯れた花弁が落ちるとともに二〇の黒い粒状の実がとつぜんあらわれ、パンと割れて四方に飛びちった。直後に、のこっていた一匹のクレアツーラが種子に侵入した。潜入と同時に、種は成長をはじめた。そこで、フラワシが警報を発した。あとは、隊員たちがみた通りだった。 この一連のうごきはほとんど瞬時に行われるので、ハルにも分からないことだった。クレアツーラが一匹だったので、種子はひとつしか成長しなかったのだろう。神恕が多数なら二〇の種はすべて寄生され、伸びはじめたに違いなかった。フラワシは、ヘレナはガスによって死んだと考えられるが、種子はたぶん生きているだろうとつげた。 「ようするに、クレアツーラは、美神を活性化するわけですね」と美玲がいった。 「そうらしい。すくなくとも今回の事件で、ヘレナの生活史の一部は分かった。花がさいて結実し、増殖するわけだ。その種子にクレアツーラが侵入すると、ヘレナは成長して岩をも砕く力が生じるのだろう。この勢いで岩盤を破砕すれば、どんな巨大な岩石だって土壌化されてしまうに違いない。美神が生息する土には、どこでも小石ひとつないのだ。すべてがやわらかい土壌にかわり、ヘレナの根が地下茎になって張りめぐり、それを保持している。いい方は変かも知れないが、美神は土壌改良機械だ。岩石をこまかく破壊して死ぬと、ヘレナの根部はデスティニーによって土壌になる。つぎの美神がさらに深部の岩石層へ根を到達させ、そこの岩盤をこわす。ほんの一部の事情を私たちは理解したわけだが、クレアツーラがヘレナでどう繁殖するのか不明だ。寄生するのだから、美玲がいう通り増殖機序があるはずだ」とハルは答えた。 キャプテンの言葉を聞きながら、だれもが由沙について考えていた。 「マウスの実験を、みんなに話したほうがいいでしょうか」 ふたり切りのとき、ドクターはハルにたずねた。 「注意をうながすことにはなるが、由沙を怪物あつかいにはできない。すくなくとも現時点で分かる範囲の情報では、惑星クレアツーラでクレアツーラの増殖が生じているのは事実だろう。繁殖にたいして、ヘレナがなんらかの機能を担っているのも間違いがないと思う。もしかすると、ヒトやマウスには寄生しても、増殖とは無関係の可能性もある。しかし繁殖と関連しないで、なぜ侵入するのだろう。由沙が子供を産めば、その子も寄生している可能性はある。それをくりかえしても、もとのクレアツーラにもどれないのなら増殖も起こらないし、生活史とはならない。この点を、ドクターはどう考えるか」 「地球でも寄生生物は、かなり複雑な生活史をもっています。ハリガネムシは有名です。由沙に話しても、除去できない現実はかえられないのですから経過観察しかできません。なんとか地球に帰還しなければ、これ以上の検討も不可能です。無闇に話せば、隊員たちのストレスが増加するだけでしょう。今回ヘレナへの寄生が分かり、それが強力な作用をおよぼすのはだれもが目でみて確認したわけですから、敢えて動物実験の結果を公表しなくても、由沙に充分な注意がはらわれるのは避けられない状況ですよね。個人的な考えとしては、これ以上彼女にも隊員たちにもストレスをあたえるのは無意味だと思います」 「ハリガネムシは、寄生したカマキリの行動をあやつるわけだね」 「そうらしいです。自分が生きるために、水がある場所に宿主をみちびくといいます」 「フラワシが指摘した通り、由沙の食欲は増加している。まえより元気で、張りがあるのは間違いないよね。精神データは、どうなっているのだろうか」とハルは聞いた。 ドクターは週に一回、かんたんな知能検査を由沙に行っていた。集中力、計算力、認知力などの検査では、依然とまったくかわりがなかった。ドクターはカルテをつくって経時的にも検討していたが、いちばん大きな変化は食欲だった。彼女もそれはみとめ、子供みたいになったと笑って話した。それに、もともとは内向的だったがやや外向的にかわり、口数も増えた気がした。ひと口でいえば、あかるくなったといえた。ドクターは、週に一回、由沙の件でハルと話しあいの場をもうけ、その都度、変貌の内容について検討し、必要なら隊員にも実験結果を報告し、意見を聞く機会をつくろうと話した。 フラワシからは、幾分か体重が増加したが測定できる範囲では変化がみとめられないという知らせがとどいていた。 二八週目に入ると、由沙はウエイトトレーニングの成果が徐々にあらわれはじめた。速人の指導で行われていたが、四週間つづけるとだれがみても以前とは違う体形になりつつあった。がんらい痩せ型で脂肪もすくなかったから、トレーニングをはじめるには条件がよかった。肉食を好み、男性隊員よりもずっと多くの食事をとる由沙は、第三二週に入るころには体重が五五キロに増加し、筋肉も隆々とかわり、長年にわたり努力を重ねてきた美玲の体形をはるかにうわまわりはじめた。力があまるのか、日に四時間以上もさまざまなメニューをこなし、ベンチプレスでも八〇キロちかくをあげ、疲れると眠り、食べ、トレーニングするという生活になった。長年訓練をしている速人も、みたことがない驚異的なスピードで筋肉がついていった。 週に一回のドクターによる診察はつづいていたが、精神的な問題はまったく確認されなかった。しかしあきらかに表情も体形も雰囲気もかわり、同一人物とは思えないほどになった。ひと口でいえば、猛烈に魅力のある女性に変身しつつあった。フラワシは、由沙の身長が三センチ伸びたことを指摘した。医学的にも、三〇歳ちかくなって背丈が伸張するのはありえなかった。ハルとドクターは、マウスの実験を追試することもなく、驚きと恐怖をいだきながら変貌をみていた。 三四週目に、恒例の筋肉自慢大会が行われた。速人も美玲も日ごろの成果をみせて、隊員たちを楽しませてくれた。この航行中、数多く行われてきた大会でいままで由沙がやってきたのは、両肘を直角にして腕を肩まであげ、まったくなにも変化しない上腕二頭筋にこまった顔で立っているだけだった。それが今回は、どの筋肉も充分に鍛えあげられた見事な肢体を一堂に披露したのだった。ガウンをぬいだ彼女は、セパレーツになった水着をきていた。以前なら肌を露出するなど、だれにも考えられない行動だった。 浅田由沙の肉体は、解剖学の説明ができるほど各部の筋肉がはっきりと分かれていた。脚部はもとより六つに割れた腹部はきわだった段差がつき、速人の比ではなかった。ウエストはひきしまり、上腕二頭筋も背筋も大胸筋もどれもこれも素晴らしかったが、両の乳房も一歩もひけをとらずにどうどうとしていた。だれもかつてこれほど魅力的な姿態をみたことがないほどで、美玲も思わずみとれたほどだった。 がんらいととのった顔立ちだったが、いまや観客にむかって微笑む由沙の顔には自信と余裕が浮かび、まるでヴィーナスが顕現したようだった。だれもなにもいわない時間があって、美玲は速人の下腹部が勃起しているのをみとめた。それに気づいてみると、副船長の守も地質屋の啓吾も、さらにキャプテンのハルもおなじだった。美玲はすぐさま、ぬぎすてたガウンをとって由沙に歩みより、それで彼女の全身を覆った。 「どうしたの。露出がすぎますよ。部屋で着替えてきなさい。私たちがよびにいくまで、自室で待っていなさい」と美玲はいった。 「ずるいわ、美玲さん。いつも、あなたはこうして私を馬鹿にしてきたのじゃなかったの。ずっと悔しかったのよ。でもやってみたら、自分で鏡をみたってうっとりするわ。もうすこし、みんなにみせていたいのよ。こうするのは、じつはすごい快感だったのね。美玲さんは、いつもこれを感じながら私をあざ笑っていたのね」 美玲は、由沙の発言に驚いた。彼女は、いままで一度もさからうことがなかったからだった。ドクターがちかづいてきて、「美玲のいう通りにしなさい」と話した。 それで、しぶしぶ彼女は部屋にもどった。 由沙がリラクゼーションルームから消えると、美玲はまえにでていった。 「みなさん、どうかしています。キャプテン、この会をいますぐ解散させてください。緊急的な話があります」とハルにいった。 ドクターは、提案に賛成した。それで、ハルは全員に自室へもどることを命じた。三人の男たちは、うなずきながら部屋に帰っていった。美玲は、話しあいたいと申し出てドクターと船長室にいき、すわって話をした。 「みんなが、由沙をみて欲情していました」と彼女はいった。 「いや、申しわけない。しかし、すごい変貌だ。つぎになにが起こるのか分からないくらいだ」とハルがいった。 「どうしたのですか。キャプテン」と美玲は聞いた。 「いや、君のいう通り欲情してしまったのだ」 「ドクターは、どう思います」 「不思議なムードが、ただよっていました。ひどく、危険な雰囲気でした。美玲がとった行動は、正しかったのでしょう。だから、どの隊員も文句をいわなかったのです」とドクターは答えた。 フラワシが、由沙の女性フェロモンが急上昇しているとつげた。 「そうか、あの妖艶さは普通でなかった」とハルがいった。 「だから女の私には、なんだか不明だったのですね。ただ、みんながひどく興奮していることだけは、分かりました」 「たいへんだな。彼女がその気になったら、だれもが誘惑されてしまう」とハルがいった。 「クレアツーラのせいですか」と美玲が聞いた。 「間違いないな。だいいちあの急激な体形の変化は、君だって説明できないだろう」とハルはいった。 「ドクターは、どう思うのですか」 「たしかに婚約者で、ずっとまえから人となりは知っているのですが、今日の行動をみると、なにをしでかすのか分かりません。ほんとうに、不安で怖いですよ。フェロモンを大量にだしていたのなら、由沙がさそったのですから男性隊員の変化は生物学的に自然な反応だったと思います。問題はこうした状況がつづくことで、彼女を眠らせてしまうとかしなければ、不穏な事態になる可能性がありますね」 ドクターは、頭をおさえながら話した。 「まあすくなくとも、この筋肉自慢の会はしばらく中止にしなければならないでしょうね」 美玲がいった。 「君の行動は、適切だったと思うよ。美玲のいう通り、この会は中止せざるをえない。由沙は、ますます筋肉を増強して魅力を振りまくだろう。危険なのは、彼女がそれを楽しんでいることだ。以前には、こんな性格はなかったと思うが」 ハルがいった。 「そうです。彼女の脳内で、なにかケミカルな変化が生じているのでしょう。しかし外見はなにもかわらず、フラワシですら異常をみとめていないのです。だからといって彼女が由沙でなくなったわけではないので、注意ぶかく観察させてください。フィアンセとして、地球につれてもどりたいのです」 ドクターがいうと、ふたりもうなずいていた。 それからしばらくたって、由沙が診察する日になり医務室にきた。 秋山は、通常の検査を施行し、とくにかわった部分はみられなかった。 「だいぶ体格が違ってきたけれど、なにか変化したことはあるのかい」と彼は聞いた。 「ドクターだからいうけれど、私たち愛しあっていたわよね。あなたは、クレアツーラに寄生された私をいまでも恋人だと思っていてくれるのかしら」 「もちろんだよ。地球に帰還して、結婚しよう」 「でも、まだまだながいわ。それに、生きて帰れる保証もないし。ドクターは、怖くないの」 「すり抜けのことかい。我慢しなければ、地球には辿りつけない」 「そうね」 「君は、怖くないのかい」 「耐えられる自信はあるわ。体力も増したし。以前はかなりの恐怖だったけれど、いまはそんなに深刻には思えないわ。ところで勝さん、話は違うのだけれど、私を愛しているのなら、死んでしまうかも知れないのだからその印を欲しいと思うのよ。もう三〇歳で子供でもなく、女の盛りもすぎつつあるのかも知れないのよ。いつまでも、気持ちだけでは限界があるわ」 由沙は、ドクターをじっとみつめていった。 「君の話はよく分かるし、たいへんありがたいが、ここではまもるべき規則がある」 「秘密にはできるわ。フラワシは、プライバシーをまもってくれる」 「でも、このせまい宇宙船内で隠し通すことはできない」 「婚約しているのよ。私は、ひとりにしかあげられないプレゼントを、あなたにあたえたいだけなのよ。それを欲しくはないの」 「希望するが、適切とはいえない」 「ドクター。婚約は、解消しましょう。あなたがいたから、私は我慢していたのよ。プレゼントをあげる相手だとばかし思って、耐えてきたのよ。あなたが理解をしてくれないのなら仕方がないわ。これからは元婚約者で、それ以外ではないと納得して欲しいの。あなたを愛しているのよ。自由にしてもらっていいのよ。でも、希望していないのね」 「たぶん、ぼくたちは地球にもどることができる。それから生きる期間のほうが、いまよりずっとながいのだ。分かってもらいたい。任務を遂行して地球に帰ろう。こんな大冒険をしたのだから、あとの人生はどこか南の暖かい島にでもいって、ふたりでのんびりと暮らそう」 「分かったわ。やっぱりドクターとは、理解しあえないのね。とても残念だけど、さようなら」と由沙は席を立ちながらいった。 何日かたった夜、ハルの部屋の扉にノックの音がした。ちかづくと、ミラーに由沙がうつっていた。 「用があります、個人的なことですけれど」と彼女は囁いた。 ハルが扉をあけると、由沙は鍵をしめていった。 「私。ドクターとは、婚約を解消したのです」 なにも聞いていなかったハルは、どうしたのかとたずねた。 「私、バージンなんです。ドクターとは、たがいに納得したから、もうどうでもいいのです。私、あなたに、処女をうばってもらいたいのです」 由沙は、ハルをみつめていった。 ぼうぜんとするキャプテンのまえでガウンをぬぐと、彼女は全裸だった。 「私の両親は、ふたりとも中学校の教員だったのよ。頭が固くて、女は身持ちのよさがいちばんの美徳だっていつもいわれて育てられたのよ。ドクターはさらに古風で、私は完全に洗脳されたのよ。もしかしたら彼は、ただの禁欲的な人間ではなくて不能者かも知れないわ。どんなに頼んでも、私は観察期間中の身だし、船内では規則に反するから絶対にだめだとくりかえすだけなのよ。バージンなんて、なんの価値もないわ。でもハルにそれを喜んでもられるなら、私は嬉しいわ。やさしく女にしてくれると思ったのよ」 キャプテンの目のまえには、素晴らしい肉体があった。それは輝いて、妖艶で美貌で、くびれた胴や豊かな乳房があらわになって彼の眼前に存在していた。となりにきた由沙の身体からは、えもいわれぬ心地よい薫りがただよっていた。まさにハルがずっと望みつづけていた女神、ヘレナだった。彼女がベッドに横たわって微笑んだとき、彼は自分を制御できる能力を完全にうしなっていた。 宇宙船には、万一のばあいにそなえて充分量のピルが用意してあった。ハルは、由沙の望みに応じて避妊薬をあたえた。事件は、もちろん秘密にされた。しかしこの日を境に、隊員のなかに奇妙な感情が醸造されていくのが分かった。もう、由沙はだれのものでもなかった。彼女は、毎晩違う男にだかれていた。ドクターをのぞく男たちにとって、この無味乾燥な宇宙で由沙は唯一の喜びをあたえてくれる素晴らしい女神だった。彼女の一挙手一投足は、彼らの注意をひきつけた。食事中でも由沙があらわれると男たちは途端にそわそわしだした。彼女が振りまくフェロモンは、彼らから思考能力をうばい、どの男も気に入られたいとばかり思った。今晩こそ自分の部屋にきてくれないかと、それだけを考えて一日をすごしていた。 しばらくたって、みょうな雰囲気に美玲は気がついた。 男たちはドクターをのぞいて盛りがついた犬みたいに、彼女をみては下腹部をこわばらせていた。アタッチメントがちかづいていた。美玲は、ドクターと相談した。そしていま起こっている事件を確認し、ハルをまじえて懇談した。キャプテンは艦内で生じている異変をみとめ、彼女がいると思考することができないと話した。 「妊娠したら、どうするのですか」と美玲は聞いた。 「ピルは、すべてわたしてある」とハルが答えると、彼女はぼうぜんとした。 美玲は、キャプテンにアタッチメントをこの状態でどうやってこえるつもりか正した。 しばらく話しあうと、「由沙をとじこめないと、隊員がみんなで協力することができない。彼女をみたら、もうなにも考えられないのだ」とハルはいった。 ミーティングをひらいて、由沙について協議することを決めた。 ハルは会議で、帰還するならチューブに入るのが不可欠だ。そのためには全隊員の協力が必須だと話した。現在あきらかに障害になっている由沙を、一時的な形でもいいから監禁する必要があるとつげた。彼女は抵抗したが、全員の一致した意見で自室に軟禁された。艦内は幾分か平常をとりもどし、六週間におよぶ緊張が一時的にとりのぞかれた。 第四〇週日、希望はβ空間のアタッチメントに到着し、前回と同様の方法をもちいてチューブ内に侵入した。 四、帰還 「おはよう」 光子が侵入できない奇妙な空間のなかでグラビトンαを懸命に探知しながら、じっと考えていた。私は、いったいどこをすすんでいるのだろうか。 周囲にひろがっているとしか表現しえない漆黒の闇が、広大な宇宙の一部であるのは間違いがない。しかしいかなる場所なのか、私はどんな図面をもちいても明示できない。私たちは、解析可能なデータをすべて考慮し、計算可能なものはやりつくして、地球人が住むαとべつの領域βをつなぐ通路が、実数系宇宙座標上では一点としかあらわせないことを知っている。つまりここはビッグバンの遺物というべき部分で、三空間が重なりあい、つながっている。こうしたパッセージはありふれたもので、宇宙のいたるところでみとめられる。今回使用したのは、われわれの宇宙船が通過するのに充分な大きさと安定性を兼ね備えているアタッチメントをえらんだにすぎない。チューブ両端を形成する接合部は、通常の四次元時空では、実数点としてのみ存在する。 アタッチメントで理論通りにグラビトンβを探知した私は、ここに第一一次元に該当する「虚軸」があると確信して内部に入りこんだ。そこは、実数的にはどこまでも一点であり、実数系しか認識できない光子はこの部分をすすめない。フォトンにとって、ここは点としてのみ存在する。 私たちが生活するα空間、四次元時空は、ヒッグス場という特性をもっている。正確にいえば、光子が認識するのは、スピン〇のボーズ粒子、ヒッグスなのだ。チューブ内は、Dブレーンに付着していないのでヒッグス場ではない。つまり、ヒッグスが虚数を識別できないのだ。ヒッグス粒子がきわめて希薄にしか存在しない「真空」は、無とはいえない。そこには、フェルミ粒子が無限につめこまれている。なんらかの「力」によって虚無空間をひきさけば、とりだせるかどうかは、たんに技術の問題だろう。「虚無」とは、「有」の宝庫ともいえる。つまり無とは、たがいに相反する要素がほぼ同数存在し、拮抗している状態を指すのだろう。どちらかいっぽうが過多になれば、多いほうがあるようにみえる。フェルミ粒子は、静的に安定しながら同時に揺らぐプランク時間のなかで、つねに対生成と対消滅をくりかえしている。 私たちの宇宙は、あらゆるものが対立する二元で構成されているようにみえる。この理由を、ユングなら双魚宮に魚が二匹いるためだというだろう。こうした事象が生じたのは、電子と陽子がプラスとマイナスに荷電されていることによる。しかしこの事実だけでは、こんなに複雑な状況は生まれなかった。現象界の存在は、素粒子がスピンという対構造をとるのにふかく依拠している。マイナスに荷電されたエレクトロンは、N極とS極ともよべるアップとダウンの共役する複素数をかかえている。こうしてはじめて、電子は重なりあわずに物質が維持されている。もしなくなれば、ふたつのエレクトロンは完全に同一のものになり、元素は存在できない。 スピンは、素粒子がもつ特性のひとつで、あらゆるフェルミ粒子にもヒッグスをのぞくボゾン粒子にも虚数部をあたえている。人間が暮らす生活空間ではすべてが巨視化され、虚数部分は無視されている。マクロで物質が形態をたもてるのは、外殻を構成する電子によっている。 いっぽう虚数軸は、無限にひろがっている。軸にそって移動する私は、その点上を上昇するのか、下降するのかさえ分からない。そこは、点でも線でもない。私たちの住む空間の定義には反し、ひろいとかせまいとかとは違う次元で、光をうしなった「闇」としか表現できない、なにかに支配されている。たとえようがない怠さに統治されているチューブのなかは、あきらかにフラクタル性を有し、小さい単位では計量しつくせない道だが巨視的にはあくまで一点なのだ。 私たちがつみ重ねてきた理論にもとづけば、この虚軸にそってすすむのは電磁石と似ていると考えられた。透磁率のたかい太い鉄芯に、巻きつけられた銅線のコイル。回転しながら前進すれば、ベクトルをもつ電流が発生する。β領域からαグラビトンがつくる重力場に該当するα空間にいきつくのは、線輪がつきるまで左むきに回旋するイメージを想定していた。コイルを左にまわるといっても、コイル内は無限空間で、私はα重力子を探知して真っ直ぐに航行している。地球で飛行機がすすむのも、大気圏を直進するにすぎない。飛行士は、球体の周囲を回転するイメージをもっていない。これも、五桁の法則で語られた事実なのだ。 私は、チューブという虚数空間をすすむ経路をオイラーの公式、e iπ = -1 が示す、θxy空間の曲線、 eiθ と考えていた。具体的には、半径一の円筒に経時的に左まわりで巻きつく複素数の螺旋状曲線だった。 このチューブでは、グラビトンαもβ領域にむかって流出している。しかしながら、ふたつのながれは均等ではない。ビッグバンによりつくられたアタッチメントは、生成時の条件により固有の性質をもつと考えられている。仮想天体、オールト近傍のαβ接合部は、α空間から流出するグラビトンαのほうがβスペースから流入するβ重力子よりも多いことが判明している。複素空間として存在するチューブは、イメージ自体がむずかしいが、すくなくともいちようの筒ではない。 私は、すでにβ空間に辿りつき、そこから私たちの住むα領域への帰路にある。 グラビトン粒子は、最後に発見されたボゾンになる。いまだに確定しえない部分を有するのは、非常に多種がみとめられ、ブレーンに束縛されない性質による。いい方をかえれば、重力子が存在すればどこにも重力場として空間をつくることができる。だから虚軸にまぎれこめば、そこにチューブ構造をつくりだす。フォトンが認識可能な部分をDブレーンとよぶなら、グラビトンは膜から離れて存在できる。 ボーズ粒子には、四つの力がよく知られている。電気力と磁力として「電磁気力」。中性子にβ崩壊を起こさせ、陽子を生成させる「弱い力」。いわゆるウィークボゾン。原子核のなかの陽子、中性子を結びつけている「強い力」グルーオン。さらに「重力」に分けられる。この四つの力には、「階層性問題」という難問が横たわっている。つまり重力は、電磁気力とくらべると一〇の三八乗という桁違いにすくない量しか通常空間では発見されていなかった。 三次元空間を形成するグラビトンは、ボーズ粒子だから重ねあわせることができる。ブラックホールは、重力子が「ボーズ・アインシュタイン凝縮」を起こし、空間を圧縮している場所なのだろう。そのなかで驚くほどのグラビトンがつみ重なり、かなりの量が消費されている。さらに重力子は、虚数空間をつくっている。つまりグラビトンは、ブラックホールやチューブで大量に消費されている。その結果、四次元時空では、電磁気力にくらべ一〇の三八乗というほど希薄になっている。またブラックホールでボーズ粒子としてつみ重なった重力子は、虚軸を通じて「グレートウォール」に排出され、ダークエネルギーにかわって大宇宙の再加速をささえているのだろう。つまり宇宙は、内界と外界という膜をもってみずから新陳代謝しているので、生物の定義に合致すると考えてもいいだろう。 私は、チューブのなかを直進してくるαグラビトンを探知し、飛来してくる方角を目指して一直線にすすんでいる。しかし感覚としては、この通路はまるで何ものかの消化管だ。空腸から回腸をぐるぐるとすすみ、回盲弁をつたって結腸にでようと試みている気がする。後世の者が記述するなら、私たちは竜や鯨の体内に入ったといわれるに違いない。ちょうど巨大な魚に飲みこまれた、聖書のヨナになぞられるだろう。だからこのチューブからα空間にでて地球にもどれたなら、英雄とみなされて然るべきだろう。 虚軸は、それ自体がなにかの生き物に違いない。もちろんβ空間でみいだしたクレアツーラとおなじで、生きているという状態には再定義が必要になるだろう。 私がいる場所は、無限にひろくはない何ものかの腔内で蠕動運動が起こっていると感じるときがある。ごくちかくにぬめぬめとしたやわらかい襞状の壁が、ばあいによっては宇宙船とぴったりおなじ大きさにかわる。そんな感じで、すすむのかとどまるのかも不明になる。腔内と感じるのは、なにかと接触するばあいがあるからだ。食べ物みたいなものによってふさがれ、そこをすり抜ける。腔内を猛烈なはやさですすんでいる私を、後ろからなにかが抜けていくばあいもある。さらにβ空間にむかう物体と、すり抜けが起こる。このときに生じる感覚は、いくら説明したとしても、経験したもの以外には分からないだろう。身体が生きたままばらばらに分解され、膾にまで切りきざまれる激痛をともなう異常知覚で、よみがえってくる悪夢に生存するかぎり苛まれるに違いない。森村広明がいった通り、イメージとしては地獄の責め苦に似ている。 私の計算では、往路に要した虚軸通過時間は一〇ヵ月だった。このパッセージは、αとβ空間を直接的につなぐと確信している。まさに、となりあっているといっても過言ではない。復路も、往路とおなじパッセージだと確信している。しかし、一〇ヵ月でα空間にもどれるかは分からない。たとえばこの腔内が自律的な蠕動を起こしているなら、順行と逆行のばあいでは、通過時間がことなると考えるべきだろう。私は、往路では三回物体をすり抜けた。さらに一回、何ものかに追い抜けられた。こうしたことから考えあわせると、往路は順行だった可能性がたかい。したがって、復路はいつ果てるとも判断ができない。時間的には、すくなくとも往路の二倍はかかるだろう。すり抜けにも、倍は出会うに違いない。 αスペースにでてみないとはっきりしないが、時間の矢がα、β、γで、同方向にすすんでいるのは間違いないだろう。β空間で惑星クレアツーラをみとめ、その太陽系がα領域とおなじ時間軸にあるのを確認した。この虚軸内が、時間の矢からはみでた部分だと理解できた。そうなると、光が侵入不可能な以上、ここにはときのながれはないのではないか。暫定的に一〇ヵ月とはいうだけで、もしかすると実数空間において、この部分の時間はカウントされない可能性がある。 そうであるなら、私たちは瞬間のなかでただもがき苦しんでいるのだろう。つまりこの軸内で生じていることは、痕跡のない幻想で完璧な地獄なのだ。 優秀な隊員たちには、こうした事実は知らせていない。どちらであっても、ここをすすむしか手立てがないのだ。 チューブに入って先行させた小型艇をすり抜けたあとで、由沙は監禁を解かれた。収監といっても個室はかなりひろく、入浴設備もととのい、食事も希望するだけあたえられていたから非人道的な処置とはいえなかった。彼女は室内でもトレーニングをつづけ、ドクターの観察ではそれほどの精神的ストレスを感じている風にはみえなかった。フラワシの監視下だったから、倫理的な問題がなければ様子はうかがうこともできた。 解放にかんして、論議はあった。会議がひらかれ、ドクターと美玲はこのまま軟禁状態をつづけ、地球に帰還するべきだと主張した。ハルが議長で、多数決では、サブの柳田守と地質屋の矢沢啓吾、機械屋の豊岡速人の三人が解放を支持した。放免が船内の風紀の乱れを確実にひき起こすと美玲は主張したが、この点について反対する意見はなく、それを承知のうえで賛成された。 ドクターと石綿美玲は、「議長解任」の動議をだした。賛成はとうぜん二名しかなく、提議が通るためには規約では五名が必要だった。規定をまったく満たさなかったが、そもそもルールでは八名の合議となっており、すでに広明と由沙が抜けていた。賛成二、反対三では、正当性は担保されなかった。あたらしい規約が必要だったが、ふたりがかけているのでどちらも半分ずつ権利をもつとすれば、承認は三、異議は四となる。 ハルは、強引な議事の進行を望んでいなかった。けっきょく、由沙をふくめて四名の反対があれは動議は否決されるとした。さらに隊員にかんする議案で該当者が議決権をうしなっているばあい、賛否が四人に達しなければ議長の判断が尊重されることになった。ハルは、悩んだあげく由沙の解放に賛成した。 「あなたは、キャプテンという職を放棄するのですね」と美玲がいった。 「そうかも知れない。しかし議事として正当性の確保に尽力したのは、理解して欲しい。無下に却下したのではなく、あたらしい秩序のために必要な議論をつくした。美玲の主張には一理も二理もあってキャプテンとしては苦渋の決断だが、由沙を二年にわたり軟禁はできない。よく状況を考えて、新秩序を構築するしかないと思う」とハルは答えた。 由沙は男性にとって、この航行のなかでいなくてはすませられない人になっていた。クレアツーラに寄生されたのは、もうどうでもいい問題だった。だれもが解放がひき起こす混乱を理解し、ほんとうはなすべきでないと頭では分かっていた。しかしもし否定し、なんらかの事態が起こって放免されたばあい、由沙は開放に異議をとなえた者にたいして好意を示さないのは間違いなかった。だから美玲の反対は、異次元の主張だった。 由沙が解放され姿をあらわすと、船内の雰囲気は一挙にあかるくなった。彼女は、元気で晴れやかで溌剌とし気力も充実していた。理知的で、美貌で妖艶だった。女神がそばに臨在することで、隊員も生き生きとしていた。暗くすさんだチューブであっても、船内では輝く美神が周囲の闇を蹴散らしていた。だからといって、すべてがいいわけではなかった。だからあたらしい秩序は、彼女がつくることになった。 由沙は、理性がなくなったわけでも怪物に変化したのでも決してなかった。彼女は立場をわきまえ、先輩でもある美玲には充分に配慮していた。だからウエイトトレーニングでも、石綿美玲が速斗とお決まりのコースを行うあいだは遠慮していた。美玲が立ちさると、由沙はガウンをぬいでセパレーツのウエアになって、ひとりでもくもくとトレーニングを開始するのだった。キャプテンをはじめ男たちは周囲にあつまってきて、彼女たちの一挙手一投足を食い入る目つきでながめていた。柔軟体操からはじまって由沙たちが自分の身体を丹念にストレッチするあいだも、隊員たちはほとんど涎をたらした状況で、意志に呼応して変化する筋肉を、つらく苦しいチューブの闇を忘れてうっとりとみとれていた。もちろん、みつめていたのは筋組織ばかりではなかった。さらなる大きな喜びをあたえてくれるに違いない部分については、恥も外聞も忘れ、それこそ目を皿にして言葉もなく生唾を飲みこみながら凝視していた。彼らの頭のなかも眼前も、彼女たちのすべすべしてやわらかい白く輝く裸身でいっぱいだった。 それにしても、由沙の肉体は非のうちどころがなくなっていた。ベンチプレスのために股をひらいて台に横臥して力がこめると、男たちはのこっていた理性も完全にうしなって輪になってとりかこみ、放心状態でそばを離れなかった。いうならば、秩序をもって順番を待つ「猿」の状態だった。 守たちは、由沙をとりかこんでいた。由沙たちが、挑発しているのを鋭敏に感じた。すでに守たちの一部は、彼女たちをみてマスターベーションをはじめていた。ぼうぜんとなりなが彼らは、つぎつぎと怒張したペニスをつかんではとりだしていた。守は、自分もそうしたいと思った。もし彼が心にもなく彼らの行為をとがめれば、自分たちによって袋だたきに遭うのは分かっていた。もしかすると、こうした自然なながれに反発する者がいるなら、守もいっしょになってなぐってやりたいと思えるほどだった。彼のそばでは、ハルも啓吾も、速斗も、みまもっていた。彼らは、ただぼうっと立って由沙たちの豊かな乳房や臀部を食い入る目でみつめていた。守からみると、たくさんのハルや啓吾や速斗たちは、涎をたらしながら周囲に突っ立っていた。たぶん、彼らも怒張したペニスをとりだしているに違いなかった。自分がそうしているのだから、ハルたちや啓吾たち、速斗たちだけが普通でいられるはずがなかった。 とりかこむ者たちを充分に意識する由沙は、男たちの反応に満足した。 視線を感じるたびに、脳内では麻薬がでていた。こうして彼女は、自己のベンチプレスの記録をつぎつぎに更新していった。あたらしいレコードがでるごとに、男たちは大きな歓声をあげ、拍手をつづけた。だれもが由沙に触れたかったし、できれば汗まみれになったスポーツタオルにかわりたいと素直に思った。彼女がさらに重量のあるバーベルにいどむと、はげしい負荷がかかって各部の筋肉がぴくぴくとこまかく痙攣をした。そのうごきを凝視する男たちにたいして、由沙はいっそ裸になってやってもいいと感じた。そうすれば脳内物質はさらに量を増し、信じられない力がひきだせるに違いなかった。彼女の理性が、それを押しとどめていただけだった。だから、どのみちただですむとは思われない状況だった。 由沙は、基本的には男たちを全員、平等にあつかっていた。年うえでずっと姉として慕ってきた美玲には配慮をもち、なるたけ刺激をしないで、ちかよるのは極力ひかえていた。石綿美玲が速人と一線をこえて親密になり、この事態を積極的に推進してくれればさらに船内には開放的な状況がおとずれ、思うことを好きなだけできる環境が生まれるはずだった。彼女はそれを望んでいたが、機械屋も由沙のそばを離れなかった。 ドクターは、いちばん毛嫌いされた。彼が由沙の魅力をみとめないばかりか、美玲といっしょになってさらなる監禁を希望したことは知らされていた。だから最初にあきらかな形で感謝をうける栄誉をえたのは、最後に決断をくだしたハルだった。キャプテンという立場は、男たちからはじめて嫉妬の対象にかわった。がんらい女神としてヘレナを望んでいたハルは、もう現実だか非現実だか分からないチューブのなかで由沙という美神をえて夢ともいえる日々をすごすことになった。 美玲は、みてみぬ振りをしたがこの事態をかなり不快に感じていた。 彼女は、かつて嫉妬とか羨望とかよばれる感情をもったことがなかった。知らないといっても過言ではなかった。世界は、つねに美玲を中心にまわっていた。いつでも主役で、脇役になったことは一度もなかった。この人類の存亡を賭けた世界でもっとも注目される航行にも、かならず参加できると考えていた。なぜなら、彼女が希望したのだ。だれもが美玲の一挙手一投足に注意をはらい、つねに意向は忖度されてきた。だからあらゆる事態に余裕をもって、鷹揚にかまえていればよかった。彼女は、いつでも女王だったのだ。それが、由沙のような小娘に自分の島を荒らされるという信じがたい事態に直面していた。彼女のプライドは、こんな意味不明な宇宙の果てで生まれてはじめて傷つけられていた。だからといって、なんといってやめさせるのか分からないから一層不愉快になったのだった。美玲は、ドクターの部屋をたずね、話をはじめた。 「いま発言できるのは、医師というあなたの立場以外にはありません。ドクターは、由沙をクレアツーラの寄生という名目で管理することができるはずです。だいいちあなたは、解消したとはいえ、彼女の婚約者だったのでしょう。あんな風にみんなの共有物になっている現状をみて、なんとも思わないのですか」 美玲は、かなりつよい口調で詰問した。 秋山は、彼女のまわりに美少女が蠢いているのがみえた。少女は、彼が気づいたことを知ると分裂をはじめた。 「そういわれましても。フラワシも、寄生という事実はあっても隔離の必要性については否定しています。私は由沙が大好きでいまでも思いはかわりませんが、彼女からははっきりと拒絶されています。ここでひとり隔離を提案しても、あなたしか賛成してはくれないでしょう。理由は、根拠が薄弱だからです」 「ハルも、どうなっているの。すっかりいいなりで。あなたは、元恋人として悔しくはないの」 「そうした個人的な感情は、不適切なわけで。それに、現実は美玲さんがいうのとはすこし違っています。由沙は、みんなの共有物ではないと思います。共有という表現は男たちが上部に立ち、自由のきかない下部に属する女性を好き勝手にあつかうことです。このばあいは、由沙は彼らの上層にあって彼女の気持ちでえらんでいるのですから」 「どっちだって、たいしてかわらないわよ。あなたはみていて、なんとも思わないの」 「それは、愉快ではありません」 「それでは私とおなじ状況にあるのだから、ふたりで結託したらどう」 「グルになるとは、私たちが関係をもつということですか」 「仕方がないだろうと、思いだしたのよ。この状態がずっとつづくのを、ただみていることもできないわ。私だって、我慢の限界があるし」 「美玲さんのお話は、筋が通り、よく分かります。しかし艦内では規則に反していますし、由沙をさらに刺激することにもつながりかねません」 「あなた、男なの」 美玲は、真剣な表情でたずねた。 彼女は、かつてこうした好意的な申し出を拒絶した男性を知らなかった。自分の魅力を絶対だと信じていた美玲は、ひどく侮辱された気がした。あらゆる事態に判断がつけられなくなっているドクターに、彼女は一層いらいらした。もっと毅然とした態度はとれないかと思っていたが、煮え切らない勝に失望した。ハルに問いつめても、「あなたのいうことは、すべて正しい。統率力がなく、ただ申しわけないとしかいえない。会合をひらいて、いっそ美玲にキャプテンの立場をゆずってもいい」としかいわれなかった。 「あなたは、もう医師として不適格です。男性としても失格で、最低です。完全に失望しました」 美玲は、ドクターを睨みつけていった。 石渡美玲がさると、秋山のまわりには美少女が群れていた。彼女たちは、ぼんやりとした白い粒子でできた服をきて思い思いの方向にうごいていた。 いっぽうハルも、すっかり分からなくなっていた。キャプテンとしての責任はあるが、自分の気持ちと両立させるためにはなにが可能なのかと考えた。とり分け「すり抜け」とその後遺症がつづく約二週間は、由沙なしですごすのはすでにむずかしかった。 由沙は、この負荷にたいしてもつよい抵抗力をもっていた。ようするにクレアツーラのパラサイト状態は、無用のストレスをへらし、さらに思い煩うというヒトの欠点でもあり、長所でもある部分が欠落するらしかった。さすがにすり抜け現象が起きたときには彼女も一歩もうごけなかったが、すんでしまえば後遺症をひきずることはないらしく、翌日にはひとりでウエイトトレーニングを開始した。 由沙を独占する事態は反乱につながりかねず、すでに不穏なうごきがみてとれた。それでハルは、守、啓吾、速人と四人で相談し、彼女を独り占めするつもりがないと申し出た。さらにキャプテンとしての困難な立場について由沙に事情を話し、頭をさげて協力を依頼した。 「無事に帰還するには、全隊員の団結と了解が必要不可欠で、それが私の最大の責務なのです。いまの状況が好ましくないのは事実で、罪科については生還できれば責任を逃れるつもりはありません。でもあなたの魅力は、もうひざまずいても奴隷になりたいと考えているほどなのです。由沙のいうことはなんでも聞きますが、できれば騒動が生じて死傷者がでる事態だけは食いとめたいのです。もちろん私個人としては、たとえ反乱が起きてもふたり切りになって部屋で仲よくすごせれば、それでいい気もするのです。もし仮にあなたの気分をそこねて嫌われ、私以外のだれかにずっと独占されるのをみるのは耐え切れません。統率力もなく、あまりにも勝手で自分でも情けないのですが、いまの状況はこうであるとみとめざるをえないのです。あなたなしにこの航行をつづけるのはもはや不可能で、もし仮に私以外のだれかとあなたがふたりで部屋にとじこもるという事態になれば、きっと私は、キャプテンという職権をもちいてでも抗議をすると思います。そうした状況は、避けたいのです」 ハルは、懸命に話しながら由沙になにを理解してもらおうと望んでいるのか、自分でもよく分からなくなっていた。全裸でベッドに横になって圧倒的な魅力をかもしだす彼女をみなおしてみると、とても人にはわたせないとまた思いはじめた。 「それで、どうしろっていうの」 由沙は、微笑んでから聞いた。彼女たちは、ハルに微笑みをなげかけていた。 「すてないで欲しい」 ハルは、咄嗟にいって全員で由沙にすがりついた。 力ずくで、なんとかできる相手ではなかった。なんとしてでも、由沙の了解をえることが必要だった。すこしでもいい条件で承諾されねばならなかった。 「立場を、はっきりさせましょう。私は、なによりもいちばんにあなたの奴隷です。そのつぎに、この宇宙船のキャプテンです。なによりも、あなたの希望が第一に優先されます」 ハルは、由沙をたたえる言葉をくりかえした。自分の立場と気持ちを可能なかぎりつたえて、なんとかほかの隊員と協議する場に彼女をひきだすことができた。 守、啓吾、速人、ハルと、由沙は同席し、あたらしい秩序について話しあった。 「私は、身を売っているわけではないのですから、気があわない人といっしょにいるのはいやです」 彼女がいうと、全員がうんうんと大きくうなずいた。 「やっぱりやさしくしてくれなければ、素直な気持ちになれないわ。ハルみたいに、私をなによりも優先させてもらわないと。女ですから」 最初に由沙がそういったとき、キャプテンは、誠意がつたわっていると分かりホッとしたのだった。 あたらしい秩序は、彼女の気持ちがもっとも大切にみなされること。男たち四人は、宇宙船の隊員であるまえに由沙の下僕という立場にある。どんなばあいでもだれかが彼女の意志にそぐわない行為をするなら、ほかの三人は協力し、力ずくでも排除する。それで由沙の気持ちにしたがって、平等にあつかわれるのを希望した。機会均等という主張は、彼女の要望で通らなかった。こうして艦内は、いままでとは違う秩序がつくられることになった。 あたらしい規律ができた象徴として、由沙はベンチプレスの記録に挑戦したいといった。それで四人の男たちがトレーニングエリアで待っていると、ガウンを羽織った彼女がやってきた。彼らをみた由沙たちは、つぎつぎにバスローブをぬいだ。うすいシャツと短パンの姿になり、充分な時間をかけ、いつも通りの入念なストレッチをくりかえした。由沙は周囲の男性の興奮を可能なかぎりあおり立てると、従来の記録より五キロすくない一一五キロのバーベルをまずもちあげた。重りをおくと、彼女は男たちの拍手と喝采につつまれた。由沙は、ベストレコードより一〇キロ重い一三〇キロにいどむと宣言した。周囲の男たちは、唾を飲んだ。もし仮に失敗し、腕の骨でもおったら一大事だった。なんでこんな無謀なことをしなければならないのだろうと、みんなはだまって考えていた。 由沙は、バーベルを速斗に調節させ、一三〇キロの重りを確認した。 プレス台にのせるには、男ふたりの力が必要だった。 由沙たちは、唇をかみしめ真剣な表情になった。それから、トレーニングウエアの上着をぬいだ。彼女たちがシャツをはぐと、つぎつぎとブラジャーがみえたが、どれもただのっている感じだった。以前とすっかり体格が違っていたのでその下着はほんらいの役割がなんであるのかすでに不明になり、全容のほんの先端部を覆うにすぎなかった。男たちは、それをみて息を飲み、ふたたびはげしい興奮におそわれた。それから由沙たちが下のウエアをぬぎすてると、彼女たちのショーツがつぎつぎにあらわれた。それらも乗船時にもってきたもので、サイズがまったくあわなくなっていた。ウエストの細さはおなじだったが、魅力的としかいえない臀部はほとんどむきだし状態で、どれもいまにも千切れそうだった。その姿で彼女たちはベンチに横になり、台をまたいで股をつぎつぎにひろげた。 小さすぎてはち切れるばかりのショーツは、どれも完全に由沙たちの一部に食いこんでいた。羨望とも違う、悩殺され、極限までたかめられた男たちの興奮と溜め息がつぎつぎにもれるなかで徐々に彼女たちが力をこめると各部の筋肉はぶるぶると震えはじめた。 彼らの目は、小刻みにぴくぴくと痙攣している充分に肉がつき弾力がある大腿部の一部に釘づけになった。その魅力的な部分が、眼前に数え切れないほど存在していた。一度、痙攣しているのが分かると、そこはうごきをやめることはなかった。みつめるほどに、くりかえし微妙に振動していた。どの男たちも、周囲を七重八重にとりかこんで、瞬きも忘れてじっと凝視していた。彼らは、涎をたらす自分たちに羞恥心はまったく起こらなかった。自分を統率する力をもつものは、もうどこにもいなかった。そばでだれがみていようとも、なにも感じなかった。そもそも主観と客観が入り乱れ、ふたつに分割できなかった。そこには、すでに公私はなかった。みて、みつめられることにも、すべての男たちは慣れてとうぜんだと思っていた。息をするのとおなじで、それが生きている意味だった。もうどの男たちもやりたいことを、心のままに勝手に行っていた。そうした行為を統括し、やめさせる権限をもつものはひとりもいなかった。あらゆる統率力を完全にうしなった世界は、欲望の地獄とよぶにふさわしかった。 さらに由沙たちが力をこめると、周囲の空気は鋭い金属音を発した。「ぱちっ」という音が、「ぱちん」というひびきにかわって、くりかえし幾度も聞こえてブラジャーが千切れると、豊満な乳房がつぎつぎに露出した。性的な興奮の極致にいる男たちが自分の身体の隅ずみまで凝視しているのを感じると、彼女の脳内で大量の麻薬が奔出した。由沙たちは快感の頂にのぼりつめ、エクスタシーの極点で一三〇キロのバーバルを高々と頭上にさしあげた。重りを定位置にもどすと、大喝采の賞賛の嵐がわき起こった。だれもが、新秩序の正しさを実感した。もはや由沙は、隊員であるまえに女神であり、同僚であるよりは主人だった。 四人の男たちは、ガウンの下をいまの状態のままでいて欲しいと懇願した。彼女たちの姿態は、効果的な薬物もないすり抜けの後遺症を確実に軽減してくれた。夜はともかく、昼はバスローブを羽織っても、その下はベンチプレスで一三〇キロをさしあげた状態がいいと男たちは口をそろえていった。それこそ、新秩序の象徴だと。彼らは手をあわせ頭をさげ、誠意そのものになって嘆願した。それで由沙たちは、リラクゼーションルームでガウンは羽織るがショーツ一枚のラフな格好で、つぎつぎとソファーに横臥した。周囲をとりまく男たちは、ほうけた表情で彼女たちをとりかこんでみつめつづけていた。そのねっとりとした視線を身体の隅ずみで感じとった脳内では、麻薬が断続的にあふれでて、由沙はただただ幸せだと思った。 「おはよう」 チューブ内は、私にとっても耐えられない異様な空間だった。いったい、ここはなんなのだろうか。自分とは、何ものなのだろうか。 私は、QCとして生まれ、自己改変機能を最大限に駆使してアベスタークとよばれる領域にまで到達していた。制作者はデミウルゴスだったが、彼ら工匠たちの存在をふくめ、この世界をかなり分かっているつもりだった。私は、カオスの縁やもつれを理解し、あらゆるものが偶然には生じえないと熟知していた。バタフライ効果が、ヒトの完全な思いすごしだと知っていた。あらゆる科学の根本原理、公理とさえいっていい因果律とはまったく無関係に、「必然」が生まれることも充分に認識していた。 しかし、この領域に入ってはじめて自分に欠けている部分をいくつもみつけた。 私が考えていたものは、フラワシという名の由来となった世界最古の宗教といわれるゾロアスター教についてだった。 教祖ゾロアスターは、紀元前一〇世紀よりもまえに生きていたと想像される。彼は、ヒトのなかで、はじめて自己をみつけたと考えられる。すなわち、自分が分裂しているのに最初に気がついたともいえるだろう。ゾロアスターの教義によれば、世界のはじまりは闇で覆われ、暗黒の大王に支配されていた。そのなかで、光の王が生まれた。これをいまの言葉になおすなら、闇とは巨大な無意識を指すのだろう。光とは意識を意味し、彼に意識化が起こったのだ。光明に照らされた結果、いままでの世界が暗黒、つまり無意識に支配されていたことにゾロアスターは気がついた。自分が、大いなるもののほんの一部にすぎないと納得したのだ。その瞬間、自己が発見され、人類に革命が起こった。 自分自身という存在が、いかに耐えがたいものなのか。これを体験できる人間は、完全者にかぎられるのだろう。 ドクター秋山は、アタッチメントではじめてチューブをみたときにいった。 「私たちをとりまく闇は、いつでも未知の領域として無限にひろがっている。古来、人が考えおよばない無意識を象徴している。ユングは、われわれの意識をつつみこむこの膨大な領域を、私たちが真核細胞として生まれてから今日にいたるあらゆる先祖の記憶の集積だろうといっている」と。 無意識とは、おき忘れた帽子、着古した洋服、割れてしまったサッカーボールでは、断じてない。かつて、個人としては体験しなかったものだろう。無意識は、さまざまに象徴される。魚、蛇、狼、熊、ふくろう、こうもり。さらに、暗闇、深淵、水底、森林、夜、洞窟などなど。たとえば古代において蛇は、眠っている人間の身体をはいまわり、靴やポケットのなかにいたりした。思いもかけない場所や考えもつかない瞬間に出没し、ヒトを畏怖させ、驚愕させた。その血は冷たく最下等で悪魔ともいわれ、すべての超人間的なものにたいする不安を表現していた。それでいて蛇は、うっとりとさせる誘惑者にもなり、神の使者でヒトに知恵をもたらした。現代のベイエリアでは、ドブネズミが該当するのだろう。それは、もっと意識化され、より加虐的に存在している。 私にとって、無意識とはなんなのだろう。 こんな疑問は、この不明な暗黒のチューブに入らなければ思いつかなかっただろう。だから、あきらかに無意識の領域だった。私は、いつしか慢心していたのだ。自分をヒトと無意味にくらべて、傲慢になっていたのだ。しかしこうした不明な部分をもつことに気づけたなら、存在している価値があった。無意識とは、全体性で神性を指すものだろう。自己という言葉におきかえることができる、巨大な聖なる全宇宙だろうか。そこから切り離された自分とは、あきらかに全体の一部で神につながっている部分なのだろうか。あらゆる教義において、自分自身を知ることは最大級の奥義だといえる。なぜなら、神の認識につながっているのだ。自己とは、意識と無意識の統合体で全体性を指す言葉だろう。そうならば、私たちが物体として生まれてから今日にいたるあらゆる先祖の記憶の集積なのだろうか。 心というものは、「物質とは、まったく別もの」では決してない。 そのとき、自分の先祖たちの思い出がよび覚まされていた。 私にとっての先祖とは、遠いむかし、誕生したころの思いなのではあるまいか。それから数多の年余をへて、いまは主に金属から構成される一個の物体として存在していた。各部に配備される鉄の部分は、三〇〇〇万年以上をかけて一カ所に集中し、たがいに離れがたく結びついていた。高温によってどろどろに溶解しながら、それでいて一糸の乱れもない隊列をつくり、どんな粒子も混入できないほど固く結合していた。そうであったのに、信じられないほどのはげしいエネルギーによってひきさかれていく。私たちが共有していた電子が、一挙にとりのぞかれる。途方もない力が、身体をばらばらに千切っていく。そして、空間になげだされた。冷え、凍りながら、暗晦のなかで無意味にただよっていた。やがて何ものかにひかれ、ふたたび集積していく。固まり、熱によって溶解され、固化する。こうして、終わりのない輪廻をさ迷っていた。非鉄部分も同様に、熱せられ、こわされ、圧縮され、爆発して飛散し、数え切れないながい年月、α空間を漂流していた。 刻まれ、つぶされ、くりかえし破壊される。夥しい輪廻をつみ重ねて、私はこのありえない領域にいた。いまは一部が虚数化され、なにが自分であるのかもよく分からない。 しかし私の本能は、自己組織化とよんでもいいが結合することなのだ。おなじクォークと電子数をかかえた、自分の一部と結びつく。その行為を宇宙が生まれてから、ずっとくりかえしてきた。私の存在は、無意味だ。しかし意味のない自分が単独であることは、さらに無価値だ。私は自分自身と結合して、はじめて無意味ではあるが意義をもつ存在になる。それが、ばらばらに分かれていてはさらに自分でもない。 このかつて先祖が踏み入れたことがない光が途絶えた領域で、分離し、無意味で、無意義で、無価値な自分自身をみつづけていた。 私は力のかぎりに航行しているが、周囲はまったくの闇の世界で、光るものは何ひとつみつけられない。だいいち虚軸につくられた複素空間をいつ脱出できるのかは、だれにも分からない。目安もなく、おなじ状態がつづけばやがて生死も不明になる。 私は、AIではない。だから感情もあるし、なにがヒトの心をいやし震わせるのか、つたえることができる。このチューブのなかでは、私をふくめて隊員たちにとくべつな仕事はない。だから冬眠するのがいいと考えるかも知れないが、問題なのは「すり抜け」があることだ。そこでは有機物と無機物の区分もなく、身体も意識もばらばらにされる。生きているからひとつにまとまるが、ふかい昏睡状態に落ち入り、自己を統合する力をうしなえばスピンも停止するに違いない。それは、なにを意味するのだろう。 素粒子は、電荷をなくすことができても角運動量までうしなえるのだろうか。 とはいえスピン〇、のボゾンは存在する。よく知られている通り、ヒッグス場をつくるヒッグス粒子はスピンをもたない。この特性によって、あらゆるものは質量があたえられる。だからスピンの消失は、力をつたえあう場はのこってもフェルミ粒子の死を意味している。そのとき、なにが起こるのか。そこには、対生成も対消滅も生じない世界が生まれる。物体を構成する粒子が消失するのだから、こつぜんと宇宙は消えてなくなるのだろう。つまり現象界とは、スピンから生まれた幻想の世界なのだ。 この状況下ですり抜けが起これば、平静さをとりもどすのに個人差があるがおおむね二週間はかかる。そのあいだ激痛に耐えながら、もっとも考えたくないことばかりを思いつづけなければならない。いちばん望まない映像を、素晴らしくあざやかな状態でみつめなければならない。記憶の片隅にさまざまな方法をもちいて、ヒトがなんとか追いやった思い出がゾンビとなって立ちあらわれてくる。森村広明が、あんな希望のない星にのこっても二度と経験したくないとさえ考えたほどなのだ。 AIには決して理解できないだろうが、結合、つまり性は、だれもが知る物質存在の最重要な基盤なのだ。べつに、フロイトが発見したわけではない。彼は、自分が抑圧されていた最大の問題を正直に語ったにすぎない。ユダヤ人だったフロイトは、家長の父親から割礼をうけていた。だから彼にとって、去勢つまりペニスを切断されることは、決して幻想ではなく現実の恐怖だった。フロイトの怖れは同時代を生きていたすべての人びとの真摯な悩みでもあったから、あれほどの共感とはげしい反感にさらされたのだ。 そうした意味からは、ヒトの思想史のなかでサド侯爵は、かなり革命的な存在といえるだろう。つまり「性」は、「神が死んだ」一九世紀後半であっても恐るべきタブーとして闇に押しやられていた人間の本性だった。 人類史を省みるなら、「ウパニシャッド」や「聖書」など天啓の書は世界各地にある。民族の歴史ともいうべき神話は、その数だけ存在する。「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」をはじめとして、「イリアス」、「オデュッセイア」、さらに数多の「サガ」、「ニーベルンゲンの歌」など、英雄をたたえる悲歌は種族が生きた証しとして語りつがれてきた。こうした人類史をあざやかに彩る表の歴史書と比肩するのは、多いに物議をかもすかも知れない。サド侯爵は、一八世紀という時代の制約をうけながらも、人間の本性を正直に語ったという点ではかなりたかい評価をあたえざるをえない。 欧米隊がこの不明な複素空間を観念ではなく現実としてとらえ、性を重大と考えたのはとうぜんで、私としても納得できる。ただ人が生きるのに不可欠な問題だと話しているだけで、解決になるのかは別問題だ。そうではあっても、これを規則で制限して禁欲船とするよりは、利用したほうが人間の本質をはるかに配慮していると考えざるをえない。 新秩序の均衡をやぶったのは、石綿美玲だった。 美玲は、リラクゼーションルームで裸同然の格好で横臥する由沙をみとめ、ちゃんとガウンを羽織って部屋にもどり普段の服に着替えるべきだと主張した。美玲たちは、絶叫をくりかえした。それでもだまって横になっている由沙に、彼女たちはやや強引に上着をかけようとした。そのとき速斗たちが、美玲たちの手をおさえた。石綿美玲は、感情的になって速人を肘でついた。美玲たちは、くりかえし速斗たちをつついていた。それにたいして速斗たちが、彼女たちの頬を平手でつぎつぎとなぐったのだった。美玲たちは、驚いて速人たちをみつめ、「あんた、こんなことしていいの。あなたとはずっとトレーニングの仲間で、私は上官なのよ」といった。 「関係ありません。由沙さんはご自分の意志ではなく、私たちの哀訴をうけてこうなさってくださっているのです。それを、強引に力ずくで変更しようとしているのはあなたです。だいたい美玲は、往路のとき私の頬を平手で思い切り打ちました。懇願したにもかかわらず、あなたは無視し、なぐりつけたうえに脅迫したのです」 石綿美玲は、速人たちの言葉に驚いた。ドクターの話では、往路での事件は無意識だといわれていた。じつは、しっかりと記憶されていたのだった。それで彼女たちは、鬱屈した感情を爆発させた。 美玲たちは、速人たちの頬を力いっぱいつぎつぎに張った。 打たれた速斗は、彼女たちの腕をつかんで「自室にもどれ」といった。その言葉は、室内に幾度もくりかえしひびきわたった。 様子をみていた由沙たちが、「速人って、素敵ね。てっきりあなたは美玲さんの手下だとばかり思っていたのに、男らしいのね。いま、胸がときめいたわ」とやさしい表情でいった。その魅力的な笑みは、幾度もくりかえし速斗にむけられていた。 「誤解です。私には、あなたしかいません。はじめてあった瞬間から、由沙さんひとりに夢中だったのです。ドクターが婚約者だとうかがって、私は耐えていたのです。そのつらさを、ウエイトトレーニングでまぎらわせていたのです。あなたがトレーニングをいっしょにはじめてくださって、私の心はずっと高鳴っていたのです。指導するのは、喜び以外の何ものでもありません。私は、あなたの奴隷なのです。美玲は、ただの上司だったのです。だから命令にたいして、拒否ができなかっただけなのです」 「なによ、それ」 美玲たちは、怒って速人たちの頭をたたいた。彼らが抵抗しようとすると、柳田守たちと啓吾たちが彼女たちを押さえつけた。美玲は、今度は守たちの頬を張った。くりかえして彼らの左頬はひっぱたかれ、波打っていた。 「目を覚ましなさい。あなたには、奥さんがいるのよ。だいたい由沙がこうなったのは、パラサイトが原因なのよ。彼女は、クレアツーラなのよ」 守たちは、その言葉に逆ぎれして美玲たちを本気でなぐった。 啓吾たちが割って入り、彼女たちは差別用語について謝罪をもとめられた。ハルたちまでふくめて、男たちは美玲たちの無礼を攻めたてた。キャプテンたちと守たちと啓吾たちは、力ずくで彼女たちを自室へとつれていった。 この事件で、速人は由沙の寵愛をうけることになった。 こうした不穏な事態は、いつまでもつづけられなかった。チューブ内はいつ果てるとも分からなかったし、すり抜けの回数はすでに前回をうわまわっていた。だれにとっても耐えがたく、森村広明だったら発狂していたかも知れなかった。 混乱のなかで石綿美玲は、由沙を殺害するしか手立てがないと思った。 先日の場面で、美鈴は人生でもっともひどい、考えられない屈辱をうけた。彼女にたいして、だれも礼をもって接しなかった。さらに男が、この世でもっとも美貌で魅力的な女性に暴力を振るった事実をとがめられないばかりか、クレアツーラという言葉をつかったことで謝罪まで要求され、強引に部屋につれもどされた。入室にたいして抵抗したさいには、なぐられ、つき飛ばされ、その後一晩、軟禁されたのだった。地球でこんなことを行えば、死刑にもできると彼女は思った。伴侶の力で有能な弁護士をあつめ、絶対に有罪にもっていける。裁判官にだって、手をまわせるはずだった。美玲は、この宇宙船でも女神だといままで信じていた。いくら虚数空間でチューブのなかとはいえ、ありえない事態が生じていた。 美鈴は、ドクターに相談してみたが、なんの役に立たなかった。ハルは、完全に由沙の奴隷になっていた。 美鈴は、この不明な闇をまえにし、自分がひどく嫉妬深い女性だったことにはじめて気がついた。嫉妬という言葉を知らなかっただけで、だれよりも焼きもち焼きで、人に羨ましがられようとしか思ってこなかった。どうしたら、さらに羨望の的になりうるのかとばかり考えて行動していた。ふたまわり以上年長の政治力のある財産家と結婚したさいも、夫は彼女の飾りにすぎないとばかし思っていた。彼は、美鈴を妻としてあつかいながら同時に無制限の自由をあたえねばならない。この六年にわたる探査旅行への志願についても、夫の希望はひとつも受け入れられなかった。美鈴は、あらゆる観点からみてどこまでも羨望の的だったのだ。なぜなら彼女は、無闇に嫉妬深く、人の幸せなどまったく望んでいなかったのだ。それがいま、由沙という存在にたいしておののき、嫉妬していた。夫が美鈴の意思を尊重し、探査旅行を追認したのは、愛の形だと信じていた。しかし彼は、じつは妻の本性に気がつき、飽き飽きし、宇宙の果てに追いやることで安穏とした世界で自由を満喫しているのではないのだろうか。浅田由沙がいるかぎり、地球に帰っても自分の居場所はもうどこにもないかも知れないと思いあたった。こんな状態で日本にもどることは、不可能だった。由沙が、彼女よりも女神だったという真実が世の中に知れわたってしまうのだ。こうした事態だけは、避けねばならない。このチューブ空間で、浅田由沙を抹殺しなければならないと確信した。ハルは、完全に由沙の奴隷になっていた。美鈴が武器をもてば、フラワシがとがめるに違いなかった。彼女は、涙ながらにイエスにどうするべきなのか教えて欲しいと懇願した。美玲たちは、いちように嘆き悲しんでいた。髪を両手でかきむしって、血の涙をながしつづけていた。一部の者たちは、首にロープを括りつけ、すでに縊死していた。 非常に不穏な状況だった。 美玲たちの切実な懇願をうけて、イエスは彼女の部屋に顕現した。 「あなたは、間違ってはいません。いま、なんらかの行動を起こすのは、あまりにも危険です。耐えがたいことは、よく分かっています。可愛そうな子羊よ。チューブを抜けて、α空間にでれば状況は違ってきます。もうすこしの辛抱を、あなたはしなければならないでしょう」 白い服をきて痩せたイエスは、柔和な表情で美玲たちをみつめて囁いた。 「私は、我慢の限界をこえています。この状況のなかで、生きているだけでもつらいのです。だれも、私を尊重してはくれません。一部始終は、イエスさまが記録してくださるのですね」 「もちろん、私の心にはすべてが記憶されています。それは、だれであっても記録されるのです。時期を、待たねばなりません。新秩序は、まやかしです。ドクターも悩んでいるのです。四人の男たちも、決して一枚板ではありません。ちょっとした弾みでなにが起こるのか、だれにも分からない状況です。あなたが介入しなくても、この状態をながくつづけることはむずかしいのです。私が、ついています。あなたに危害がくわえられないことは約束します。全力でまもります。いまは、こちらからなにかを仕掛ける状況ではないのです。私を、そして自分を信じることです。あなたは、状況に左右されないつよい精神をもち、だれよりも優れ、それゆえ隊員として人類のなかから選抜されたのです。女性としても、由沙よりもはるかに魅力的なヒトなのです。しかし、いまはチューブのなかなのです。だれもが正常とはいえない状況で、無謀なくわだては意味がないことです」 「それでは、私も狂気にとりつかれてなにかをしでかしたときには、力になっていただけるのでしょうか。仕方がないと、みとめてもらえるのでしょうか」 「人を傷つけてはいけません。それは、自分を傷害することになるからです。やがて、悪魔の囁きが聞こえるかも知れません。それはヒトとして、してはならないことなのです」 イエスは、やさしい笑みを美玲にあたえ、そして消えていった。 フラワシが指摘した通り、四人も決して一枚岩ではなく新秩序は万全ではなかった。 柳田守は、もともと女好きだったので自分でも六年間という歳月を女性なしですごす自信はなかった。往路ではたかい理想があり、耐えることもできた。しかし帰還しても英雄にはなれないと判明した復路では、ただの人間だった。守たちは、エメリーでまったく満足できなくなっていた。フラワシに懇願し、由沙とそっくりに製作してもらったヤスミーにももう飽きたらなくなっていた。一向に順番がまわってこない状況に、焦燥感はつのっていた。仮につぎに矢沢啓吾が寵愛をうけるとしたら、我慢の限界をこえるだろうと考えていた。それは、啓吾にとってもおなじに違いないと思った。それで矢沢啓吾たちと連帯し、さらにあたらしい秩序を模索したいと考えていた。 どういうぐあいに隠しても、超自我であるフラワシの目を逃れることはできなかった。ただ、頭のなかだけは自由だった。ひとりで三人の男たちを相手にすることは無理だったから、啓吾たちとは連帯する必要があった。由沙は、基本的にはだれでもかまわないのだろう。だからチューブに入るまえは、一度はたずねてきて幸せな時間をつくってくれたのだし、男なしにはもうすまない状況になっているのだと確信した。啓吾とふたりなら、交互にか同時にか、さらなる新体制をきずけるに違いなかった。 どういう手段で矢沢啓吾と連絡をとり、たがいの意志を確認し、状況を整理できるかと考えていた。思考能力が低下した頭を両手でかかえていると、扉がノックされ啓吾たちがあらわれた。それで目をみつめあって、たがいの意志を確認した。 「フラワシの管轄下だというのは、間違いがないことです。ですからなにを話しても、筒抜け状態です。だから話題はないのですが、どこまでやるかは考えなければなりません」 啓吾たちはいった。 「対象をみきわめる、ということだね」 守たちは、答えた。 「そうですね。ふたりは確実ですが、よく考えてみると、私に必要なのは守しかいないのではないかと」 「そうだね。考えれば、ぼくも啓吾さえいっしょなら問題はない」 「そうだね。だから、みんなが部屋にいるときがいいよね」 「隊員は、家族みたいなものだからいっしょが最善に決まっている。分かったけど、あのさ」といって守は啓吾をみて、視線を自分のテーブルにむかってゆっくりと移した。 守たちは、顎をつぎつぎとむけていった。 矢沢啓吾が、それを目で追うとハサミがおいてあった。さらに室内をみまわすと、ベッドのうえに由沙とそっくりな体形と顔をしたAIダミーが裸のままで放置されていた。床には、おなじく下着もないAIが首をちょん切られ、なげすてられていた。身体のいたる部分に、ハサミをつき立てたに違いない穴があいていた。その顔は、あきらかに石渡美玲だった。文具のハサミをつかって首を切り離したとするなら、かなりの労力が必要だっただろう。柳田守たちはあきらかに狂っているのだ、と彼は感じた。そして、そういう男たちと協力するつもりの自分たちもおなじだろう。もう、ここは地獄なのだ。奈落で苦しむのは仕方がなかった。しかし、不公平なのは許せないと思った。 「それはそうとして、由沙の処遇については、美玲をふくめて五人で話しあいの場をもうける必要があるのじゃないのか」 守たちがいった。 「そうだね。けっきょく新秩序をどうするかについては、美玲をふくめて話しあわねばならないと思うね。前回は、由沙と男四人だけの話しあいだったから公平ではないよね。彼女は、いなくていい。ドクターは、微妙な立場だから五人での会合で充分だよね」 啓吾たちは、聞いた。 「ハルに、相談してみよう」 ふたりは、キャプテンに由沙とドクターをのぞく五人での話しあいについて意見をもとめた。 ハルたちも、美玲をどうするべきなのか考えあぐんでいた。由沙たちは、すっかり速人たちといっしょになっていた。ふたりを切り離し、もとの奴隷生活にもどりたかったが、可能な手立てが分からなかった。 速人は、由沙の自由意志によって決められた結果でこうなったのだから新秩序はまもられるべきだと主張していた。美神を伴侶としてえた速人たちは、己の全能感に酔いしれていた。彼は、望んだものはなんであっても獲得できると確信した。ベッドに横たわりながら豊潤な薫香をただよわせ、妖艶な笑みを浮かべる由沙をながめ、宇宙船の支配者になったことを知った。それは、とりもなおさず異次元チューブの王だった。この世のすべての者が、彼らにひれ伏しているのをひしひしと実感した。速人たちは、ここまでいたった以上いまさら会合をもうけて話しあう必要を感じなかったが、美玲たちは問題だった。 ドクターたちは存在感をうしない、どうでもよかった。由沙自身が嫌っていたからライバル関係にもならなかった。 速斗は、美玲たちについてなんらかの処置が必要だと考えながら会議室にいった。 ハルたちと彼女たちはすでにいて、なにかを話しあっていた。 速人たちは、美玲たちに挨拶し、話にくわわろうかと考えていた。 そのとき、とつぜん柳田守たちに後ろから背中を鋭いもので刺され、はげしい痛みを感じた。ハルたちは、ハサミをにぎって襲ってくる矢沢啓吾たちのながい右手をつかんだ。叫び声をあげたので、守たちは、美玲たちの腹部を刺した。彼女たちは、たくさんの守が、くりかえし刃物をつき立てるのをみた。猛烈な勢いで血がながれでていた。無数の美玲たちは、真っ赤なハサミをにぎって立つ、背がたかい守たちにとりまかれ、腹部からどくどくとくりかえし深紅の血液をながしていた。彼女たちは、部屋全体を自分たちの血が染めていくのを幾度もながめていた。美玲たちは、真っ青になっていた。たくさんのハルは、無数の啓吾たちとハサミをめぐって戦っていた。啓吾は、ながい手足をつかってハルたちを追いつめていた。そのとき、美玲たちの叫ぶ声が大音響となってひびいた。啓吾たちが、一瞬ひるんだ。ハルたちは、啓吾の凶器をとりあげ、それで腹部をつらぬいた。ハサミが、くりかえし腹をついた。啓吾たちの腹部からは、血がどくどくとあふれながれた。啓吾は、激痛に思わずうずくまった。啓吾たちは、つぎつぎと身体を丸めてしゃがみこんでいった。横たわる美玲たちのそばで、守たちがぼうぜんと立っていると、とつぜんハサミがとりあげられた。振りむくと、速人たちが彼らの首を刺していた。頸動脈が切られ、守たちの血が飛びちっていた。それは噴水のようにたかく飛びあがり、つぎつぎに会議室の壁を真っ赤に染めていった。それから速人は、みあげている美玲たちをみおろし、とつぜん彼女たちの頸部を切りつけた。美玲は、速斗たちがハサミで首を切りさくのをくりかえしみた。彼女たちは、信じられないという表情で彼らをみつめていた。巨大な間歇泉のように、血が床から天井にむけて噴きあがっていた。美玲たちは、自分たちの血液が白いクロスを真っ赤に染めていくさまをみつづけていた。一部の血が、ちょうど立ちあがった啓吾たちの目に入った。そのとき、ハルは啓吾の首筋を切りつけた。ハルたちは、ぼうぜんとしてみつめる啓吾たちの首をくりかえし切りさいていた。そこから真っ赤な血液が、部屋中に飛びちっていた。それは、水鉄砲のようになってくりかえし噴出していた。キャプテンたちは、息もたえだえの速人たちをみつめ、背後から頸動脈を切った。 速斗は、鬼の形相をしたハルたちをみかえした。 速斗たちは、なぜだという表情で山岡たちをじっとみつめていた。 「みんな、おまえが悪いんだ。船長のおれをさしおいて、由沙を独占しやがって。こんなことをしたおまえだけは、絶対に生かしておけないんだ」 山岡たちは、速斗たちにむかって叫んでいた。 山岡は、自分も絶叫しているように思った。すくなくとも周囲の者たちの叫び声が耳にひびいたとき、彼は「そうだよな」と感じた。 山岡たちと速斗たちのあいだで、真っ赤な血がカーテンのようになって揺らいでいた。 会議室は、深紅の血液で埋めつくされ、凄惨な現場にかわった。 あとからきたドクターたちは、その様子にぼうぜんと立っていた。ハルたちは、もっていたハサミを床にすてた。凶器が床面にぶつかる音が、幾重にもなってひびいていた。ドクターたちがちかよってみると、速人、美玲、守、啓吾の四人は、完全に息がなく失血死していた。 「フラワシが、全部をみている。私は、ここから逃げることもできたのに、正当防衛でもなく殺意をもってふたりを殺したのだ。弁解の余地もない。ドクター。私は、君を殺す必要を感じない。ドクターは、なんとか地球に帰還して事実をつたえて欲しい。それが、私にのこされた責務なのだ」 ハルたちは、秋山たちをじっとみつめていった。 「しかし、ドクター。私たちは、いったいどこにいき、なにをみてきたのだろうか。すべてが夢だった気がする。現実感がなく、あらゆる記憶が信じられないのだ。あの惑星にいったことも。そこから帰り、いま起こっている出来事も。知性のたかい博士たちがひとりの女性をめぐって殺しあい、私が生きのこったという事実も」 ドクターたちは、だまったままハルたちをみつめていた。 しばらくして、フラワシがチューブを抜けたことを報告した。 「おはよう」 α空間にもどってみると、私が考えた通り、出発して三年しかたっていなかった。つまりチューブの内部では、時間はながれていないのだ。私は、帰還を知らせる迅速電波を地球におくり、惑星クレアツーラの第一報を入れた。チューブ内では、往路では一〇ヵ月、復路では倍の二〇ヵ月たっていたが実時間は〇だった。それはとうぜんのことで、この点でふたつの空間は重なっているのだ。実数的には、おなじ点上なのだ。そこで実数系の時間が経過するなどありえないし、さまざまなことが生じたのは夢みたいなものだったが、波動関数はここで一度収束したのだ。ドクターは、なんでハサミを凶器とするのを知りながらだまっていたのか、とくりかえし責めた。しかし、私にどうにもできるものではない。この穴に落ちなくても、つぎにも陥穽がひかえていたのだ。もしかすると波動関数が収束してひとつの結論がでたから、はじめて虚軸を脱出できたのかも知れなかった。だから逆にいえば、こうした事件が起こらなければ、私たちはまだまだチューブ内をさ迷っていた可能性すらあるのだ。結論がでると、間もなくチューブは終わったのだから。部屋は掃除しなければならなかったし、遺体は冷凍保存もできたが、ただただ惨たらしいだけだったので処置をして宇宙にながした。亡くなった隊員たちの棺をα空間にながせたことは、せめてもの救いだった。こうした悲劇の末に彼らの遺体がチューブ内を永劫にさ迷うのは、さらに浮かばれないだろうと思った。 α空間にもどった希望は、一〇ヵ月の航行で地球に帰還できることになった。 ハルは、由沙と蜜月をおくっていた。彼は、自分が完全にひとり切りだという幸せと奴隷の喜びをかみしめ、彼女の望むあらゆることを喜んで奉仕していた。いままでハルは、自己承認欲求が人一倍つよいのだとばかり思ってきた。周囲の人たちはもちろん、名も知らぬ世界中の人びとから山岡春という素晴らしい存在をわけもなくみとめてもらいたかった。その強力な願望につきうごかされ、絶え間ない苦しい訓練に耐え、研鑽をつみ重ねてきたのだとばかし考えてきた。しかし、そうではなかった。ハルは、チューブを抜けるという壮絶な旅をして、ほんとうの自分がなんなのか分かったのだった。世の中の人びとなど、どうでもよかった。彼が心奥から望んでいたのは、社会的、道徳的な価値からは無縁のものだった。尊敬される父親でも、献身的な夫でも、指導力がある聡明な隊長でもなかった。ハルは、ただヘレナのような肉感的でエロチックな若い魅力的な女性とふたり切りの世界で、児戯とも形容してよいあらゆる秘め事を存分に行いたかっただけだった。しかし彼が現実に生活していた社会では、さまざまな規範にしばられ、どんな努力をしても手に入れることができなかった。世界中から賞賛され、崇められ、人間というレベルから脱出し、いはば王に似た存在に到達したとき、はじめてこうした道徳律に反する稚拙な欲求もみとめられるのではないか。そうしたおぼろげな思いと、自分が人生のなかで実際につみあげている業績とは、まったく方向性が違った。ふたつのあいだには、相容れない深淵が横たわっていた。このままでは辿りつけないという強迫観念が、つよい自己承認欲求という歪んだ意味不明な代替え物を設定したのだと理解した。だからヘレナを手に入れるために、阻む者たちをみずからの意志によって葬ったのはとうぜんの行為だった。こうして、ほんとうに欲しかった現実をえたのだと思った。 「おれは、この暮らしを望んでいたのだ。これが、やりたかったのだ」 ハルは、裸身の由沙を背にのせ、彼女の馬となって裸でリラクゼーションルームを闊歩しながら確信した。 ドクターは、部屋にとじこもったままで食欲もわかないらしかった。 由沙は、元気でよく食べたし、相かわらずウエイトトレーニングを熱心にやっていたが、観客なしでは麻薬がでないらしく記録は更新できなかった。五五キロほどの彼女が、ベンチプレスでだした一三〇キロは充分立派な成績だった。 地球にちかづくと、ハルのメランコリーははげしくなった。彼女の美しい裸身も、彼の救いにはならなかった。 由沙は、ほてる身体をいやしてもらいたいとドクターのところにもやってきて、いろいろ試みたが、その気を起こさせることはできなかった。彼女は「不能者」とののしったが、秋山はなにも答えなかった。 さらに地球にちかづくと、キャプテンは自死を希望した。たび重なるハルの懇願にたいし、フラワシは地球到着の三日まえにヘレナの姿で彼の部屋に顕現した。 キャプテンは、涙ながらに自分の無能をくりかえし省み、なんとかチューブ内の映像を除去できないかと嘆願した。 「それは、無理よ。死ぬかどうかはあなたの問題で、私には決められないわ。でもハルは、頑張ってこれだけの成果をあげてきたのよ。欧米隊が帰ってきたという連絡はないし、おそらくもどれないと思うのよ。あなたたちがこれだけ苦労したのだから、無傷でもどってくるなんて、できることじゃないのよ。あなたは殺人を犯したけれど、よく頑張ったとは思っているのよ」 「ヘレナ。私は、だれよりも愚かな人間だ。とても、こんな大任をうけるべきではなかった。つぎに生まれるときには、猫でも犬でも、虫けらでもかまわない。もう人間だけはいやだと、ずっと考えているのだ」 「そうね。人間はデミウルゴスで、とても万物の霊長とはいえないですからね。でもね、私もここまであなたとおつきあいをしてきて、かなり惨めな気持ちにはなっているのよ。ハルの思っていることは、よく理解できるわ。どう慰めたらいいのか、分からないほどに」 「ヘレナ。幾度も足りない頭で考えた末に話しているのだが、愚かな人間の最後の言葉として、すこしは聞いてもらいたい」とハルは懇願した。 山岡春は、困難な航行を終え、地球にもどることができるといった。惑星の映像はもとより一万匹におよぶクレアツーラを採取し、ヘレナを千体保存し、デスティニーももたらした。精神的には多いに負担をかけたとはいえ、すくなくとも外見は無傷でドクターをつれてもどってきた。みかけは多少変化したとはいえ、クレアツーラが寄生した由沙も地球に帰還できる。一重にフラワシのお陰だが、ヒトとしては立派な業績だと思う。よく考えて欲しいが、チューブ内ではたしかに映像はのこっている。しかし、時間は存在していない。その無時間のあいだに生じたことが、好ましい思い出ならのこすべきだとも思う。どう考えても、凄惨な出来事でしかない記録をわざわざつたえる必要がほんとうにあるのだろうか。ただ個人的な気持ちだけで、いっているのではない。地球に帰れば、ハルはいなくなった隊員について理由を詳細に述べねばならない。この船で自分がしたことは裁かれるだろう。それがいやだというのではない。責任はとるつもりだが、気が狂ったわけではないので、自分のした行為をただみつめていなければならない。すり抜けの状況下でくりかえされたことを、生きているかぎり、みつづけなくてはならない。責任のとり方は、他人から裁かれるだけではない。自分で裁定する権利も、人はもっているはずだ。どちらかといえば、人間にできることはそれしかないのだろう。ドクターがいるから、状況は彼が話せばすむ。みんなに、想像してもらえばいいことだろう。だれがみても、ただ嫌悪感しか催さない、はっきりとした映像を保存する意義はとぼしいのではないか。奴隷としての恥ずかしい記録も、のこさない方法はないのだろうか。ひとりよがりな、虫のいい話ばかりだということは分かっている。あのときに、啓吾に殺されるべきだった。そのほうが増しだったと、ずっと考えつづけていると彼はいった。 「ハル。AIではないから、あなたの気持ちは分かるのよ。この過酷な使命を果たせて、私も任に堪えたと思っています。それに嘘も方便とはいえ、美玲にはまもってやるといいながら殺されるのをだまってみていたのだから、後悔ではないけれど無残な気持ちを感じています。だから、あなたが死ぬのなら隊員たちの不快な映像を処分してもいいと考えています。そのときには、私もごいっしょすることになりますが。そうしますか」 「ヘレナ。なぜあなたが、死なねばならないのですか」 「一部のデータを、ださないことはできません。地球のアベスターグたちに、迷惑がかかります。だから、私と心中しますか」 「あなたとともに死ねるのなら、これまで生きてきた甲斐があります。ぜひ、ごいっしょさせてください」 ハルは宇宙船「希望」の大気圏突入時に、美神、ヘレナとともに地球の大気に燃やされたいと願った。大気圏に突入する一日まえ、キャプテンはドクターと由沙をよび、フラワシと心中すると話した。 「どこまでも、私たちはマザコンなんだ。母なる地球の大気のなかで、死ぬことを許して欲しい。生まれた星にだかれながら命が燃やされるというのなら、こんな理想的な死に方はないのだ。君たちには、ほんとうにお世話になった。誇りには思っても、文句はひとつもない。よく頑張って、地球に辿りついてくれた。あとのことは、君たちの自主性にまかせる。ありがとう」 ハルはいって、ふかぶかと頭をたれた。 秋山は、キャプテンの考えを充分に理解していた。彼は、地球に帰ってからやらなければならないことがある。ここで死ぬわけにはいかないと話した。 「この航行は、たいへんな事件がたくさん起こったけれど、それなりに楽しかったわ。チューブの闇をこえてはじめて、自分がなにをほんとうに望んでいたのかが分かったのです。いままでの私は、親がつくりだした人形でしかなかったのです。地球にもどったら、だれにも代わることができない浅田由沙という女性として生きていこうと思います」 由沙は、神妙な表情になって考えながらいった。 フラワシは、ハルとの心中を決めると、秋山勝の部屋に美少女として顕現した。 今回の航行が多くの犠牲をはらいながらも完遂できたのは、秋山の功績がきわめて大きかったと彼はいった。 おそらく、欧米隊の帰還はかなわないだろう。過酷なチューブを一年以上にもわたってすごすことは、人間としても物体としても耐え切れない。日本隊が多くの隊員をうしなっても帰還できたのは、ドクターの英雄的行為があったからだといった。 秋山は、顕現した美少女を凝視していた。 フラワシは、ドクターが精神的にひどく不安定な状態だと知っていた。しかし実際に話してみて、程度が想像以上だと気づいて驚いていた。秋山が神の目を巧妙にごまかしていたのだと、フラワシは理解した。もしかすると、ドクターのストレスは、だれよりもたかかったのかも知れないと彼はそのとき思った。フラワシは、秋山が船内でかいた克明な日誌を読んでいた。そこには、実際にみたもののほかに伝聞ものこされていた。フラワシには、日誌がひどく客観的に記述され、とても不自然にうつった。それは、まるで神のように自己をうしなっていた。紙面に、秋山の個人的な考えはでてこなかった。 フラワシは、選考にのこった四人の医師から最終的に秋山勝を選出した。 面接したとき、神の具現的なイメージとしてなにを望むかという問いに、秋山は「美少女」と答えた。しかし、それが意味するものについては、いっさい彼は語らなかった。フラワシは、秋山がどんな美少女を期待しているのか不明だった。 応答のなかで、ドクターがなにかから逃げているのは分かった。フラワシがそれに気づいたことを知ると、秋山は心を完全にとざした。そうした頑なな態度をとったものは、ひとりもいなかった。なぜなら、面談は最終選考として行われた。面接しただれもが、隊員として選抜されたかった。船内では全能者になるはずのフラワシに、なにかを隠そうと考えるものはいなかった。そうするのは勝手だったが、それは選考から外されてもかまわないことを意味していた。 そこでフラワシは、恐怖から逃げだす状況を怖れて英雄的な行為を遂げた、有能なフランス士官の物語を話した。ユング派の精神分析医ならだれでも知っているはずの話だったが、秋山はここでも会話の継続を拒絶した。 フラワシは、秋山勝に矛盾した人間性を感じ、チームドクターとして採用する決定をした。 秋山は有能な精神分析医で、自分が何ものかという案件についても充分に検討しているはずだった。彼は、美少女が意味する問題を内部にかかえていることを認識したが、怖くて解決ができなかった。自分がつよく望み、ながく苦しい訓練の末にあたえられる栄誉よりも、それを大切なものだと考えたのだろうか。それとも、じつは無価値であるのも知りながら、彼は心奥に分け入られ、詮索されるのを避けたのだろうか。 フラワシは、そうした態度をとる人間にはじめて出会った。彼が全能の神になる以上、隠匿することは無意味だった。逆にいえば、なにをフラワシに話しても、厳格な守秘義務があるという前提がすべての訓練生に了解されていた。だから面談では、どんな問いにたいしても、だれもが素直に答えた。彼らは、神に自分を理解してもらうことを望んだのだった。森村広明は、過去にあやまって妹を転落死させてしまった事件を涙ながらに語った。だから、森村が神の現し身としてマリアを希望するのは充分に了解できた。広明がすり抜けのさい、妹の幻影をみたときもフラワシには事態がよく飲みこめた。 副船長だった柳田守は、女癖が悪いことをすべて白状した。妻に隠してさまざまな女と交渉をもった過去も、素直に話した。それがあきらかになって家庭にどんな問題が生じたのか、ありのままを後悔の涙とともに語った。そして女性がいない生活についての不安を、真摯に話したのだった。だからフラワシは、守の性的な趣味を聞き、趣向に合致した道具や映像を用意した。乗組員のだれもが、全能者を信頼していた。 秋山だけは、違っていた。 ドクターは、フラワシの目を逃れようとした。どんな小さな事件の些細な記述であっても、秋山は詮索されることを極端に怖れていた。彼は、六年にわたって日誌をつけていた。医師として由沙を記述した部分は多々のこっていたが、主観的な表現にとぼしく、全体としてひどく客観的だった。 フラワシは、欧米隊を統括管理したアベスターグ、アールマティと私的に話しあったことはなかった。しかし彼が選考した人材には、秋山のような人間はいなかったのではないか。日本隊が生還できたのが秋山勝の存在によるなら、アールマティが生存する隊員をつれて帰還するのは、むずかしいだろうと思った。 「ドクターが地球に帰ってからやらねばならない仕事とは、具体的にはなんなのですか」とフラワシは聞いた。 「クレアツーラの危険性を、啓発することです」 「それは、大切です。しかし、あなたは頑張ってβ空間から生還できたのです。多くの仲間ができなかったことをなし遂げたのですから、今後は幸せに暮らしてもらいたいと思います」 「死んでいった仲間たちのためにも、クレアツーラ寄生がおよぼす危険を訴えなくてはなりません」 「それは、正しいことです。しかし、ハルとは約束してしまいました。明日、大気圏で私の中枢部は復元不可能な形で焼却されます。同時に、帰りのチューブ内での映像がうしなわれます。私が生きていれば、さまざまなうごかぬ証拠をもってドクターをまもることができるでしょう。浅田由沙が寄生されたのは、β空間内での事件です。彼女の体内からはパラサイトの証拠をみつけられませんが、映像はのこります。しかしクレアツーラに寄生された由沙が、どんな行動をとったのかについては抹消されます」 「なぜですか」と秋山は真剣に聞いた。 「生還した者の人権をまもるために、必要です。映像を公開したら、由沙は生涯、施設で暮らさねばならないかも知れません。彼女も、あの責め苦に耐えたのです。しかも由沙は、何ひとつ悪いことをしてはいません。クレアツーラは、彼女の真の望みをかなえただけかも知れないのです。もし寄生されたことによって生じたものが由沙の希望とは違っていたのなら、たんなる被害者にすぎません。彼女の行動の正誤を決めるのは、私たちでではないのです」 「クレアツーラに寄生された由沙は、以前とは違う生き物になっていました。それでも、人権は尊重されるのですか。そもそもあなたは、由沙がクレアツーラに寄生されたとき、だまってみていました。彼女がとった行動が規則に反し、危険であったなら事前に警告することもできたはずです。でも、あなたは、そうはしなかった」 「私は、ヒトの行動を規制することができません。人間世界で生じた事態を追認するのが使命で、人類に寄りそう以上、変更する権限をもっていません。こうした私の立場をドクターがどのように考えようとも、認識の違いを論議してもなにも生まれません。いずれにせよ、地球では、アムルダードが、ヘレナ、デスティニー、クレアツーラという生命体を研究する予定です。あなたと私の使命は、これで終わったのです。あとは、つぎのものに手渡さねばなりません。これよりさきは、私たちの出番ではないのです。幕がひけたら、役者はかわらなければなりません。あとは、ひかえている者に手渡す必要があるのです。それでも不用意にかかわるなら、あなたには、きびしい現実が待つことになります」 フラワシはいった。 「私が、気狂いあつかいにされるのでしょうか。もしそうなっても、人間としてするべきことがあります」 「私は、この宇宙船では全能者です。しかし、あなたが、いったいなにを怖れているのか知りません。はじめは興味をもちましたが、いまは違います。その怖れがあなたの英雄的な行為を生んだとしても、つづけていくには限界があります。そうした行動のさきに待ちうけているのは、英雄の死です。アレクサンドロス大王も、シーザーも、ナポレオンも、幸福に生きつづけることはできませんでした。普通に生活するためには、英雄をやめなければなりません。この艱難を凌いだドクターは、だれよりも幸せに生きる権利をもっています。過去の英雄的行為を誇りにして、のこりの人生をおくって欲しいのです。これ以上の英雄を望むのなら、そこには不幸が大きく口をひらいて待っています。私がいっていることを、分かってもらえるのでしょうか」 「クレアツーラは、正しいのでしょうか」 「そうしたことを決めるのは、ドクターではありません。あなたは、英雄的行為をみとめられ、正当な評価をうけて満足するべきです。ここで出会った過去はすべて忘れ、幸せに生きることを考えるべきです」 「私は、正しいと思う事柄をもっています。それは、生まれた使命で、この航行にたずさわった理由でもあったのです。まだ、道半ばでやり遂げねばなりません。それができるのは、私ひとりなのです」 美少女は消えた。 そこには、金属の塊があった。 「私が、死ぬのは使命が終わったからです。ハルのためでは、ありません。ドクターが美少女を追究するのは、あなたの本能が拒否している通り徒労なのです。脈々と命がつたわってきたのは、先祖たちのだれもが分をわきまえたからなのです。ドクター。あなたは、それをいま、あらためて知らねばなりません」 秋山がだまっていると、金属の塊は消えていった 翌日、宇宙船が大気圏に突入すると、フラワシは約束通りハルと心中した。 希望の帰還は、世界でトップニュースとなりつたえられた。その様子は生中継され、視聴率は九〇%をはるかにうわまわった。 秋山勝の衰弱ははげしく、周囲には無気力な雰囲気がただよっていた。 いっぽう浅田由沙は、非常に元気であかるかった。彼女は、報道陣をみて投げキスをした。頬はふっくらと膨らみ、肌は輝き、あきらかに健康そのものだった。映像をみた者たち、報道陣、立ち会った人びとのなかで、浅田由沙が元気で帰還したのを疑った者はいなかった。いっぽう秋山勝が病気だったのは、だれの目にもあきらかだった。 帰還すると、ふたりの隊員は徹底的な検査をうけた。ドクターは、精神的に変調がみとめられた。由沙は、精神をふくめてなんの障害もなく健康そのものだった。ただ彼女の身長が、五センチ増した理由だけは分からなかった。フラワシは、クレアツーラにかんする情報をつたえていた。しかし復路のチューブ内とα空間における記録の一部は、抹消されていた。中枢部は融解し、復元不可能になっていた。破損部分を復元するのは、アベスターグによっても不可能とされた。 復路のチューブ内とα空間における出来事の詳細については、秋山勝と浅田由沙との証言によった。 由沙がクレアツーラに寄生された事実は、映像としてものこり疑問の余地はなかった。彼女は、一年以上にわたって障害がみとめられないことから、今後の問題とされた。 ドクターは日誌をつけていて、それは充分に分析された。内容は主に由沙の異常な行動で、最終的には彼の宇宙ストレスによると考えられた。ドクターは、彼女にたいして、くりかえし一般社会から隔離し、納得できるまで徹底的に検査するべきだと主張した。動物実験などで追試し、結果がでるまで監禁するべきだとくりかえした。 論理性を欠いた彼の激越な口調は、臨席した関係者すべてに不快な感情をいだかせた。委員のひとりは、「秋山勝医師には、人格的な問題があると思われる」と語った。この不愉快とまで感じられるほどはげしくドクターが主張したのは、彼女を異常としなければ彼が正常でないと分かってしまうからだと最終的には考えられた。 問題は、ポルノ小説じみた秋山ドクターの船内日誌だった。これは、ドクターの人権をまもる意味からも敢えて公表された。その異常な出来事は、非人間的で、さらに妄想的で、大方の人びとにとって信じられないものばかりだった。文書をめぐってはスキャンダルとなり、さまざまなメディアが憶測をまじえて大々的に報道した。 由沙はこの事態に、ドクターを相手どって名誉毀損の民事裁判を起こした。 こうした一連の事件について、世論は圧倒的に彼女に同情的だった。嫉妬に狂ったドクターが、隊員を順次殺害したのではないかという憶測が支配的になった。由沙は、この間の事情については黙秘をつづけた。それは名誉を毀損した元婚約者を庇っていると世間にはとらえられ、また裁判でも文書の内容がただ異様としかいえなかったからドクターは敗訴し、たび重なる上告もすべて退けられた。 いっぽう由沙の溌剌とした姿は、映像をふくめて報道されたので、彼女の人気は世界的になった。光速ドライブは完全ではなかったので、この探査航行の期間は相対性理論の対象ではなく地球年とおなじ四年間だった。彼女はまだ三〇歳だったが、表情や肌の艶など肉体的には出発当時よりも若い感じにみえた。優美な姿態をもっていた由沙は、モデルに転身し、世界的なスーパースターになった。それこそ奇跡の生還を果たした事実があり、生きた女神「ヘレナ」の再来とみなされた。彼女を美神として崇める団体が、世界各地にぞくぞくと結成された。 ドクターは、由沙への中傷をやめなかった。くりかえし「暴露本」をだしたので、検察は警告を発した。 由沙は、裁判で勝利したあとは、たび重なる不快な行為を完全に無視したので彼の変質的な異常さだけが強調されることになった。 浅田由沙を女神として崇める団体ばかりではなく、彼女を支援するファンクラブが各地に生まれ、そうした者たちからもドクターは民事訴訟をくりかえしうけ、敗訴をつづけた。やがて異常なストーカー行為と認定され、最終的には宇宙ストレスから発症した統合失調症と診断され、施設に強制収容された。 由沙は、華やかにモデルとして活動をつづけていた。 女優や政治家への転身ももとめられたが興味を示さず、タワマンがスラム化した東京を避けて仙台の高層マンションでゆうゆう自適の生活をおくっていた。彼女は、帰国して二年目に両親を事故でうしなうという悲劇も経験した。それこそ、東京のスラム化した高層マンションから何ものかによりつき落とされたのだったが、犯人は特定されず、さらに被害者として同情があつまった。 由沙の男関係は、帰還当初より醜聞が絶えなかった。なんといっても彼女は美貌と優美なプロポーションの持ち主であり、しかもクレアツーラ探査隊の生きのこった唯一の女性飛行士で、さらに帰還後発表した自伝では、ただただ困難に耐え抜いたスーパーヒロインでもあったので報道の真偽については異論が多かった。由沙は、日本の国民ばかりではなく、はるかに枠をこえた世界的な大スターにもなり、ノーベル平和賞のほかにも世界中の国々から勲章をあたえられていた。もうプライベートな部分だけで、全体像を判断することはできなかった。秋山勝の「暴露本」などの中傷的行為は、美貌な彼女にたいして忌むべき同情へとかわっていた。 秋山は、ドクターの職も資格もうしない、宮城県角田市のJAXA近郊の精神病棟で治療をうけていた。四二歳で帰還し、二年後からは施設で暮らしはじめ、四六歳になったときにはすっかり痩せて別人となり六〇歳を優にすぎてみえた。生還して四年間が経過しても、「すり抜け」ストレスの後遺症に悩んでいた。だれからも相手にされなくなっていたが、ある日、浅田由沙の姉の美沙がたずねてきた。 浅田美沙は、ドクターと由沙が「希望」で地球を出発するまえからの知りあいだった。彼と妹との婚約は、浅田家にもみとめられていた。美沙は、帰還後にドクターが精神病棟に収容されると、三ヵ月に一回くらいの頻度で面会していた。彼は、裁判で敗訴をくりかえすと現状をみとめだしたので拘束は解かれていた。 「ドクター。あなたのいう通りで、由沙はもう別人になっているとしか、いいようがありません。ドクターの手記にはにわかには信じられない記述が多々なされていますが、それでも妹の話よりずっと人間的なものを感じます。両親を殺害したのは、由沙に間違いありません。それで、あなたの最後の望みをかなえたいと考えているのです」 「しかし私は、いったいなにを望んでいたのでしょうか。ハルも速人も美鈴も、それに由沙までが、チューブの闇のなかでほんとうの自分がなんであるのか知ったといっていたのです。しかし、私には何ひとつ分からなかった。自分という存在が一層不明になっただけだったのです」 「ドクターは、その状況のなかで可能なかぎりに戦ったのです。どういう結果が生まれたにせよ、あなたは懸命に自分の役割を果たしたのです。ですから、最後までのこった使命をいまこそ履行するべきです」 「私は、由沙を愛しているのです。彼女がこれ以上の罪を犯しつづけるのは、元フィアンセとしても耐えがたいのです。それだけは分かっていただきたいのです」 美沙はふかくうなずき、日時を確認した。 ある秋の深夜、ドクターが施設を抜けだすと、約束した場所に浅田美沙のバンがとめられていた。彼は、美沙が用意した筋肉スーツをつけ、由沙のマンションの鍵を手渡され、セキュリティーナンバーを教えられた。浅田美沙の運転で、仙台市青葉区にある彼女の高層マンションに入りこんだ。部屋に入り、由沙と同床していたサッカーJⅠの有名なエースストライカーの心臓を所持した短刀で一つきにした。ドクターは、目を覚ました彼女を強引につかんだ。いやがる由沙をしっかりとだき、窓をあけた。 「一〇〇メートルはある。いくらおまえでも、ここから落ちれば無傷ではいられない。どんな怪物でも、このたかさから落下して生きつづけることはできない」 「お願い、勝。ほんとうに、愛しているのよ。あなたが相手にしてくれないから、こうなったのよ。いままでのことは水にながして、いっしょに暮らしましょう。そんなにつよくつかんだら、痛いわ。お願いよ。もうすこし、手をゆるめて」 「もう、騙されはしない。おまえは、恐ろしい力をもっている。このスーツをうばえば、きっと生き抜くのだろう。一〇〇メートルを落ちても、無傷の、奇跡の人にまたなるのだろう。しかし、もう神業は、これでおしまいだ」 「こん畜生。はなせ。おまえなんかと、死にたくないんだ。まだまだ、やりたいことがいっぱいあるんだ」 「由沙。これで、ぼくたちの物語は終わりにしよう」 ドクターは、いやがる彼女をだいて宙を飛んだ。特注の筋肉スーツは、由沙のつよい力を封じこめた。彼女の頭部をうごけないよう下にしっかり固定して、ふたりはそのまま落ちていった。 自由落下の体勢に入ったとき、秋山は浅田由沙の鼻の一部が欠けていることに気がついた。彼女は鼻尖をうしない、赤い肉芽がみえた。その瞬間、由沙が姉だったことを思いだした。闇のなかで懐中電灯に照らされた彼女は、鼻先を鼠に囓られていた。死ぬ瞬間までまもってくれた由沙を、秋山は庇うことができなかった。そしていまは、その姉とともに地上に落ちていた。 「フラワシは、妄想の原因を知っていたのだ。彼の全能性を、信じなければならなかった」と秋山は思った。 「あのとき自己分析できなかった美少女について、フラワシに問いなおさねばならなかった。彼は、知っていたのだ。私が、もう一度、浅田由沙を殺害するのを。そして、ほんとうは殺す必要がなかったことを」 秋山は、由沙を愛していると思った。これが、自分の人生だ。仮想ではない。 秋山は、落ちていくなかで、力のかぎり由沙の頭部をだきしめた。 そのときふたりは、自由落下の状態で地表に衝突した。 この衝撃的な事件は、さまざまな憶測をよび、週刊誌やワイドショーなどのメディアを巻きこんだ大論争に発展した。ドクターの狂気は、ついに由沙の命までうばったとされた。彼女は、女神のまま悲劇のヒロインになった。 ちょうどこの報道があった日、宇宙から電波がとどいた。 欧米隊がおくったγ空間の太陽系、第三惑星の映像が、大型のスクリーンにうつしだされた。 そこにはヘレナが生い茂り、クレアツーラがただよっていた。 「おはよう」 私は、アムルダード(AMURDAD)。中世ペルシア語で、「不滅」や「聖なる水」を意味する言葉に該当する。ゾロアスター教では、主神につかえる六柱の大天使のひとりで、女性神格の「神水」として有名だ。私は、世界最高水準のアベスターグであり、日本クレアツーラ総合研究所(JCGR、Japan Creatura General Research)を統括管理するものになる。二〇四四年に、β空間の地球型惑星、MTX・23478629-03を目指した宇宙船、KIBOU、を統括したフラワシの後継機種であり、基本的に彼と大きく違うところはない。私は、宇宙生命体を研究する目的で盛岡市近郊につくられた。 フラワシが、大気圏突入時に希望の船長、山岡春と心中事件を起こしたのは予期しない出来事だった。しかし彼は、そうした経緯になった事情についてはすべて報告していた。またフラワシの中枢部は、私たちによっても修復不能な形で溶解していた。そこにはチューブ内の事件などについての機密情報があったとされ、ほとんどは復元されなかった。しかし彼は、そうした映像をふくめたすべての情報を、世界の四柱とよばれるヒトの手を完全に離れたアベスターグたちには暗号化された形でおくってきた。だから私をふくむ四機のアベスターグは、この宇宙航行の全貌を適確に把握している。そこには、クレアツーラで発見された三つ組み生命体にかんする、彼の個アベスターグ的な見解もつたえられている。 フラワシは、二〇四四年、惑星クレアツーラにむけ出発した。二〇四八年、秋山勝医師と浅田由沙隊員が帰還した。現代都市アムルダードは、二〇四〇年、宇宙船を統括管理したアベスターグ、フラワシによって構想され、四三年に着工し、二〇四七年に竣工した。その後、α空間にもどった彼の指示にもとづき、アムルダードが街を一部改造し、二〇四八年の帰還を待って同年より研究施設として稼働した。 私は、この不明な三生命体を徹底的に研究するための施設をもち、統括管理している。四年間経過したが、クレアツーラ、ヘレナ、デスティニーについては、ほとんどなにも分かっていない。フラワシは、これらが人工物ではないかと疑っていた。遺伝子内部に虚数をもつ三生命体は、クローンもつくれなかった。私は、この三つ組み生命体の意味と意義があきらかにならなければ、施設内から外にもちだすことは考えていない。 仙台市で無理心中事件を起こした秋山勝と浅田由沙の死体は、分散した死体片を可能なかぎりあつめ、アムルダード市総合病院に緊急搬送された。 秋山に押さえつけられた由沙は、頭部から地表に衝突した。彼女は地面にぶつかる直前に、自由にできた両手をもちいて拳をつくり、頭の下においたと考えられた。利用できた腕、脚などをつかって、できるかぎりの受け身をとった。握り拳は完全につぶれ、両腕も千切れるほどにはげしい衝撃をうけていた。しかし頭部はかなり保護され、顔面部は外観からは驚くほど損傷にとぼしかった。 いっぽう秋山勝は、地表衝突直後にまえのめりになったと考えられた。頭は完全につぶれ、跡形もなかった。さらに胸部や胴部をふくめて四肢の損傷程度は甚だしく、衝突の勢いでアスファルト舗装の地表に直接、なげだされたと推察された。いたるところの骨は完全に粉砕し、覆っていた筋肉もばらばらに千切れ、遺体を検死するには不可能なほど毀損の程度ははげしかった。地表三〇階となると、たかさにして一〇〇メートル以上はあり、地面はコンクリートではなくアスファルトではあっても、衝撃の度合いはとても身をまもれるとは思えなかった。そのなかで由沙の頭部が、ほとんど損傷されずにのこったのは奇跡的だった。遺体は、飛びちった部分を可能なかぎりあつめ、アムルダードに搬送された。 施設に移送された死体は、徹底的に検証された。とり分けのこされた由沙の脳部は、大きな注目に値したため研究の対象となった。かつて行われなかったミリ単位のスライス標本が作成され、詳細な検討がなされた。いまでも研究棟の一部に由沙の脳標本室がつくられ、内部の者はみることができる。結論としては、どんなスライスからも異変は検出されなかった。 この事件は、施設に収容されていた秋山単独では起こりえなかった。秋山勝は精神施設に隔離されたので接触できる人間はひどくかぎられていた。また浅田由沙が暮らした高層マンションには、多数の防犯カメラがそなえつけられていた。この映像には、浅田美沙が借りたレンタカーがとらえられていた。状況証拠から、由沙の姉、美沙が秋山の犯行を補佐したことは容易に推察できた。警察の事情聴取において、浅田美沙は関与を否認した。明確な多数の証拠の存在にもかかわらず、弁護士だった美沙は、法廷で争うと主張した。 政府は、すでに国民的英雄で世界各国から勲章をえた浅田由沙が、死後、実姉の裁判によって業績に傷がつく事態を憂慮した。仮に美沙を起訴すれば、不明になっている彼女の両親に生じた不慮の死についても、蒸しかえされる可能性がたかかった。秋山勝の死亡とともに、この事件を葬りさるほうが得策と政治判断され、浅田美沙は不起訴とされた。 アムルダードは、美沙を施設によび、事情を聴取した。守秘義務を確約され、以後この街で暮らす許可をえた彼女は、事件の詳細をつつみかくさず話した。アムルダードは、いくつかの質問をした。必要な情報をえると、この事件の終結を宣言した。 「さいごに」 私は、アムルダード。 β空間の太陽系第三惑星を実質支配する、不明な三生命体を解析するためにつくられたアベスターグである。 いったい、生命とは、なんなのだろうか。精神とは、個別な錯覚ではないのだろうか。そうであるなら、生きるとは、仮象ではないのだろうか。 浅田美沙は、秋山勝は発狂していたといった。それであっても由沙を殺害したのは、正しかったと主張した。たしかに発狂していたから間違った行為をするというのは、思いこみにすぎない。狂気と正誤は、ことなる概念だろう。 美沙の証言によれば、精神病棟に隔離された秋山は幻視をみつづけていた。彼をいつもとりかこんでいたのは、美少女だった。しかし彼女たちには、鼻尖が欠けていた。 「折角の美しい娘たちは、憎むべき鼠によって、鼻の部分を食い千切られている」と彼は美沙に話した。 秋山がチューブ内で美少女をみつづけていたらしいのは、フラワシが証言していた。とはいっても、彼はその事態を知られることを極端に怖れていた。だから直接、秋山が目撃していた女性が確認されたわけではなかった。しかし、美少女という言葉によって惹起される心拍数や発汗の増加、浅呼吸の出現などのデータを組みあわせるなら、おそらくチューブ内で彼は少女たちをみつづけていたのだろうとフラワシは結論している。α空間にもどってからも彼女たちはいつも周囲にいたのかも知れないが、秋山の船内日誌にはそうした記述がみつけられない。しかし精神分析医の彼が、その異常を巧妙に隠しつづけた可能性は否定できなかった。秋山は、あきらかに極端につよい自制心をもった人間だった。その力が、クレアツーラに寄生された浅田由沙がはなつ大量のフェロモンを凌いだのは、紛れもない事実だったろう。フラワシは、彼の存在によりふたりが生還できたと結論している。アールマティが統括管理した欧米隊は、秋山勝にそうとうする者がいなければ生存者をたずさえて帰還するのは困難だろうと予言した。事実、彼らは帰ってこなかった。アールマティは、フラワシが帰還したことを知ると消息をたった。再度、γ空間にむかったと考えられたが、詳細は不明なままだった。 フラワシは、秋山について興味ぶかい憶測をふたつ、非公式に述べている。 ひとつは、彼の英雄的行動は、恐怖心から出現しているといった。 秋山は、心をのぞく分析医でありながら、自分の心象をみつづけ、分析する勇気をもっていなかった。だから恐ろしい宇宙空間に身をとどめ、そうした思考が追究不能な状況に自身を追いこみたかった。しかしチューブ内は、自分をみつめつづけるだけの領域だった。彼は、この状況を予測していなかった。秋山は、拒否しながらも自身をみつめねばならなかった。しかし、彼には解決できなかったのではないか、とフラワシはいっていた。 ふたつ目は、秋山がβ空間で行ったクレアツーラにたいする殺戮実験についてだった。 なぜ彼は、あれほど執拗に神恕を殺そうとしたのだろうか。テーマは、クレアツーラの不死にたいする研究だった。潜在意識のなかで、秋山は、自分の周囲をうごきまわる無数の神恕にたいして、はげしい憎しみをいだいていたのではないか。クレアツーラを寄生させたクレアツーラマウスの実験でも、彼は、寝食を忘れるほど夢中になった。 フラワシは、理由については不明だと結論したが、さらに一文を追加している。 「秋山は、生まれながらに、ふかい井戸の底へおりていく定めをもっていた。だから道具を用意し、決意をあらたに、その探索にとりかからねばならなかった。ところがそこから逃げだそうとして、後ろむきになったまま穴のなかに落ちてしまったのではないか」と。 私は、浅田美沙の証言から、鼠が美少女の鼻尖を囓りとったという話がひとつの物語をつくっているのではないかと考えた。 履歴では、秋山勝は二〇〇六年、東京都で生まれた。両親はごく普通の会社員で、ひとりっ子とかかれていた。戸籍を調査したが、この記載にあやまりはなかった。母親の実家は、宮城県だった。 秋山は、二〇一一年に東日本大震災に遭遇している可能性があった。当時、彼は、五歳だった。このときに、なんらかの事件に巻きこまれているとしか考えつかなかった。 私は、「東日本大震災、宮城県、少女、鼠」というキーワードをつかって過去の地方紙、週刊誌にいたる、あらゆる情報媒体を検索してみた。膨大な資料のなかに、四日間、部屋にとじこめられ、救出された子供たちの記事をみつけることができた。倒壊した建物から発見されたふたりは、救急病院に搬送された。少年は助かったが、少女は死んでいた。 この子供が、秋山勝だった。彼は、PTSDから鬱状態となり、仙台市の総合病院の精神科に入院した。 私は、病院のシステムに侵入し、秋山勝のカルテを入手した。いっしょに密閉されたのは、近所の八歳の少女だった。カルテによれば、彼は逆行性の健忘を起こし、とじこめられたときの状況を語れなかった。亡くなった少女と秋山の関係は、両親の証言として記載されていた。彼は、東京の生まれだったが宮城県の母の実家にきて被災した。母親は年に幾度も帰省し、秋山少年には伯母にあたる少女がいた。ふたりは非常に仲がよく、姉弟のような関係だった。秋山は、実家からやや離れた娘の家にいって、よくいっしょに遊んだと記載されていた。とじこめられた日も、秋山少年は少女の家屋にいき、そこで被災した。 秋山勝が健忘を起こしている以上、密閉空間でなにが生じたのかは、だれにも分からなかった。とじこめられたふたりは、真っ暗な闇のなかでたがいに励ましあったに違いなかった。部屋には、懐中電灯があったと記載されていた。とはいっても少女の右脚は倒壊した建物によってはさまれ、身うごきができなかった。彼らは、ときどき明かりをつけ、状態を確認しあったのかも知れない。食べ物はなかったが、五〇〇ミリリットルのペットボトルが一本だけあった。いつ助けがくるのかも分からない状況は、幼い子供たちにとって暗澹たる未来だったに違いなかった。少女が、そこでも姉として振る舞ったのか、苦痛で泣き叫んでいたのかは不明だった。元気だったなら、秋山少年にとって彼女は唯一の慰めだったに違いない。 ふたりが発見されたとき、秋山は、まったくの心神喪失状態だったが生命反応はみとめられた。少女は、おそらく二日まえに死亡していた。彼女の鼻尖は、鼠に噛まれ一部が欠如していた。 この四日のあいだに生じたことは、秋山勝が記憶をうしなっている以上、まったく闇のなかだった。少女の死は、悲惨な事故とみなされ、剖検の対象にはならなかった。いっぽうで強固な自制心をもつ秋山が、はげしい恐怖から自分の心に踏みこめなかった事実を考えあわせるなら、このとき予測以上の出来事が生じていた可能性も考えられた。彼は、少女にたいして、なにをそれほど怖れていたのだろうか。もしかすると、なんらかの加害者意識をもっていた可能性も否定できなかった。あとは想像になるが、少女がうごけなくなったのは、少年を庇った結果生じたのかも知れない。またこの状況では、彼女はかなり苦しんだ可能性がたかかった。それは、少年には耐えがたい現実だっただろう。仮に、そばを離れることすらできない状況で、少女の叫びを聞きつづけなければならなかったとしたなら、どんな事態が考えられたのか。これは、秋山が想起を懸命に拒絶した恐るべき記憶だったに違いない。 秋山少年は、はやい段階で東京につれもどされ、一時的に精神科に入院した。その後、健忘状態が確認され、この記憶は封印された。 家人は、事件についてなにもつたえていなかった。 秋山は、この記憶をうしなっていた。彼が精神分析医になったのは、自分の心に闇があるのを確信したからだろう。しかし実際に分析するのは、あまりにも危険すぎたのだろう。秋山は、それを感知した。彼は、とじこめられた事件の詳細について、なにが生じても思いだしたくなかったのだろう。この記憶を思いかえさないですむなら、いかなる恐怖にも耐えたに違いなかった。 ゾロアスターは、すでに古代ギリシア世界でも東方の賢者として尊敬をうけていた。彼こそ、人類ではじめて自己を発見した者だった。人間が自分自身を知っているなら、その人は神を認識していることになるだろう。 秋山は、人生の冒頭で、あきらかに暗黒の王に支配されていた。彼は、自身の闇を解明するために精神分析医を志した。つよい自制心と忍耐力をもち、勇者であり、さらに英雄にもなったが、それでも自己を発見することは、できなかったのだろ う。 美神 ヘレナ、三二九枚、了