異次元の女王 由布木 秀 一 もつれ 村木秀一は、いままでに、偶然という現象に出会ったことがなかった。おそらく、この言葉の意味も知らずに、生涯を終えるのだろう。予期せぬ面白い可能性をもつ事件に出会えないのだから、多くの人びとは、つまらない人生だと思うだろう。しかし、ある高名な哲学者によれば、多数の人とは、自然が毎日幾千とつくりだす工場製品のごとき人間だという。彼が自分の意に染まない周囲の人たちをこう評するのは、傲慢で不遜な態度としかいいようがない。そうだとしても、ほとんどの人は、秀一と、あらゆる意味で利害が一致しないから、とくに、みんなとおなじでないのを残念とは思わなかった。 偶然とよばれる現象は、因果が不明な、予期せぬ出来事に遭遇するばあいを指すのだろう。その悲観的な哲学者によれば、因果関係とは、生じたり滅したりする事物の生起に関与する。この世のすべてで、時間と空間を支配する真理だという。彼は、こうした関係を知る能力を悟性とよんでいる。この言葉は歴史的な変遷をもち、現実的にはさまざまな混乱があり、日常ではほとんどつかわれることがない。だから、悟性といわれて、すぐになにかを思いつく人は、かなり教養がたかい部類に入るだろう。 秀一は、哲学者ではなかった。むずかしい問題を、論理的にひとつずつ組みあげる意欲もなかった。だから彼が理解する範囲でしか物事を整理できなかった。 カントによれば、悟性は、雑多な現実をなんらかの概念で統一的にとらえる思惟の働きと考えるらしい。秀一には、せいぜい知性としか理解できない。 この悲観的な哲学者は、悟性をパッとみて悟る直観的な力。理性、感性から区別し、感じたことを、対象から論理をこえて認識する能力だと考える。因果関係は、ふたつの事象を直観的に結合して理解する現象で、熟慮した結果として辿りつく事柄ではないらしい。なにかに出会って、悟性によって因果の存在を瞬時に了解し、その後に感性や理性をつかって考察し、妥当性を補完することはあるだろう。ある種の霊感と似たもので、どんなに理解力がたかくとも、因果関係が分からない人はいるのだという。この悟性の能力のひくい者を、その哲学者は、「愚鈍」とよんでいた。 仙台駅にむかって歩きながら、秀一は考えていた。 前日の晴れた日、彼は、車で七ヶ浜の海岸にいってみた。とつぜん、海がみたくなったのだ。もう、秋も終わりだったから海水浴客はいなかった。サーファーを幾人かみたが、夏の賑わいはなかった。浜辺に立つと、風もふかず、静かな波がくりかえし、よせてはひいていた。この運動は、太古から反復する大いなる自然のいとなみだった。大自然にいだかれるロマンチックで崇高な気持ちは、むかしなら、ここでも味わえたのだろう。いま、それができないのは、漂着物が散乱しているからだ。秀一は、そこで流木とペットボトルをみた。 大きな流れ木は、ながさが二メートルくらいだった。ながくただよっていたらしく、表面はすっかりまるくなっていた。枝がなかったから、全体はロケット状だった。ちょうど真ん中に、うろになった部分があり、正確な8の字の形をしていた。 秀一は、流木に腰をおろして海をみながら考えていた。 浜辺にうちあがった流れ木は、どうやってここについたのだろう。海で流木は育たないから、どこかの森で成長した木が、台風や大雨で土石流になって斜面をながれ落ち、時間をかけて砕け、川によって大海にはこばれ、ただよっていたのだろう。角がまるくなっていたから、うちあがるまでに期間があったことはつたわった。ちかくにおかれたペットボトルは、どうなのだろう。秀一は、それをとりあげてみた。この五〇〇ミリリットル入りのボトルは、あらゆる場所で売られているから、どこからやってきたのか分からない。ペットボトルの中央部には、長方形の凹みがあり、なんらかの文字がかかれていたのだろう。いちばんうえは、示偏の漢字にも思えるが、波にあらわれて不鮮明になっていた。川をながれてきたのか、フェリーからすてられたのか。いずれにしても波間をただよううちに、流木とおなじ海流にのり、いっしょになり、この浜にうちあがったに違いなかった。 こうして、流れ木とペットボトルのふたつが並存する、因果関係は理解できるかも知れない。しかし、本質的な問題は、この日、秀一が浜をおとずれ、これらを発見したことだ。彼がそこで出会わなかったら、流木もペットボトルも存在の意味すらない。秀一がいることによって、はじめてふたつのものは意義を問われ、考察の対象になっていた。この事象のなかで、意味をもつのは彼の存在だった。さらに問題は、秀一が流木とペットボトルがある浜辺に、きたことだった。これは、どうしても因果では説明できない。空間と時間の前後関係とは、切りはなされた現象だ。偶然とは違う、共時的な「もつれ」とよぶべき事象が生じているのだ。この現象によって、必然的に、三者は浜で合流したことになる。そうした形で、それぞれがもっていた波動関数が、ここで一度収束したのだ。 秀一は、流木に触れ、手にしたペットボトルをながめ、勝手な感慨にふけった。これらを浜にのこして、彼が立ち去ったとき、またべつの波動関数が三者に出現したのだろう。その関数では、二者はかなりいっしょにいることになるのかも知れない。しかし、さらに秀一が並存する確率は、かぎりなくひくいに違いなかった。 因果律は、私たちの社会の現象を説明する、唯一の原則と考えられてきた。科学の第一原理とみなされ、暗黙の公理ともよばれている。結果は、原因より時間的にまえに位置すると決められている。悲観的な哲学者は、因果を微塵も疑っていない。 「とき」が、一方的にながれているのは間違いがない。しかし、この思考は、設定した時間軸に、すべてを羅列的にならべて善しとするものだろう。なにも考えずに、ただ現在と過去が連綿と変化しないでつながると仮定している。日常の感覚をひきずっていると、いいかえてもいいだろう。現在と過去のつながり方は、もっと複雑に違いない。ほんとうは、「いま」という瞬間しかないのだ。ヒトは、日記をどんなに詳細にかいていても、過去については朧気にしか想起できない。動画でくわしい記録がどれほどのこされても、うつっている自分は、まったくおなじとはいえない。ヒトは、毎朝、目覚めるたびに自分自身を上書きしている。この事実を考慮するなら、現実にあるといえるのは、せいぜい「いま」という瞬間しかない。さらに、ミクロの量子世界では、時間関係は完全に破綻している。たとえプランク時間というきわめてみじかい時間であったとしても、無の空間からエネルギーをもった粒子が対生成するのは確認されている。過去になかったものが、生まれてくる現実がある。これは、とても因果だけでは説明できない。時間が一方向にながれているのは、みとめねばならない事実だろう。過去にもどることは、どんな手段をもちいても不可能だろう。しかしながら、ヒトは、「とき」のながれが、つねに一定だという幻想にひたりこんでいる。 村木秀一は、そうした無意味な思いこみ、信仰ともよぶべき因習から解放されれば、どれほど世の中が違ってみえるかとずっと考えつづけてきた。因果律こそが世界の公理だと思うのは、大きな錯覚で、ヒトの頑迷な思考傾向だろう。暗黙に納得し、思いこんでいる説明原理で、無知な人類が勝手に考案した思考法なのだろう。あんなにたくさんかかれた悲観的な哲学者の著述をよんでも、彼が前世紀的な思考にしばられていたとしか考えられなかった。 いっぽう「もつれ」は、時間軸にそって生起する因果と無関係に生じる現象で、原因からも結果からも完全に独立している。一見、おなじ空間内にあるだけで、時間的にはつながらないと思われるものが、じつは連関している事象だろう。「なぜ」とか、「どうして」とかと考えて、意味が不明という理由で、偶然とみなしてはならない現象だろう。偶々起こった出来事だと思ってしまうと、空間があたえている意義を見逃すことにつながる。四次元時空は、時間が加わって構成されている。生きている「いま」というみじかい、なにかが決定できる「とき」は、空間をあわせもつ。「もつれ」を考えずに、さまざまな事態を偶然だとみなせば、せっかくあたえられた自由意志が発揮可能な現在という瞬間を有効につかえず、意味不明として、なにもしないなままに終えてしまうことになる。この存在まで思いをめぐらして、はじめて一見不詳と思える出来事が、現象界をかなりの確率で必然にみちびいている事実が了解できる。「もつれ」を考えないと、「いま」という現実が、ほとんど偶然の産物になってしまう。ぜひ、自分の記憶を、できるかぎり鮮明に思いだしてもらいたい。過去や未来という概念は、ある程度のながい厚味をもったはずの時間を、平面的な形式にまで圧縮している。だから、日誌という記録としてのこすことができるのだ。ほんとうの四次元時空をつくっているのは、意志決定が許される「いま」というみじかい「とき」しかなのだ。ここまで考慮して、はじめて過去、現在、未来が独自に生じうる。これは、ラプラスの悪魔からの解放だし、自由意志が存在する証拠にもなるに違いない。 素晴らしい、秋の日だった。秀一は、紅葉をはじめた木々をゆるやかに揺らす、気持ちのいい風がふく道を、仙台駅にむかって歩いた。駅のすぐ手前にガラス張りの高層建築物があり、一階には書店が入っていた。仙台では、いちばん大きな本屋だろうと、秀一は考えていた。店舗に入ると、まずレジのちかくにいってみたが、さがしていた本はなかった。それから、だれが読むのか見当もつかない雑誌が何列にもわたってえんえんとならぶ場所を、空間の位置と時間の継続を定める法則によってみちびかれて、たくさんのものがあると感じる、数多性の現象にぼうぜんとしながら二周くらい歩いた。もしかすると、三周もまわったのだろうか。じっさいに手にとって雑誌をみている人もいれば、なにを思いついたのか、にぎりしめてレジにむかう者もみかけた。ここで生じていることが現実なら、現象界の多様性に衝撃をうけるというより、「幻影の面紗に覆われた仮象の世界」を目の当たりにした感慨をもった。なぜなら、あざやかに彩られた数多の雑誌は、所狭しと書棚を飾っていたが、おそらく内容は似たり寄ったりで、どれを読んでもおなじだろうとしか思えなかったからだ。 秀一がさがしていた本は、つい最近出版された「ヘレナ」という題名の書籍だった。新刊本のコーナーではなく、文芸書がならぶなかでも、いちばん隅のほうに三冊ほどおかれていた。手垢がまったくついていないB5版の本は、あざやかな緑のカバーだった。とりあげて覆いをめくってみると、表紙には緑色の笹の葉がデザインされていた。いい出来映えに思った。二〇〇ページのうすい本で、値段は二〇〇〇円だった。おかれていた三冊、全部を購入してもいいと思ったが、異様な行動で、レジの係員は無気味に感じるだろう。人がどう考えようと、秀一は気にしなかった。とはいっても、出がけに購入するのは重いだけだった。帰りがけに、もう一度よって買ってもいいと思いなおした。一冊だけ購入し、肩にかけていた濃い緑の鞄に入れた。それから、駅で弁当とペットボトルのお茶を買った。 秀一が、新幹線の専用口を通りぬけ、ホームにおりていくらもたたないうちに列車が構内に入ってきた。一〇日ほどまえに第三次行動制限がでていたから、待つ人はすくなかった。券にかかれた番号の車両に入ると、進行方向の右側に三人掛けの指定席がならんでいた。列車のなかほどの窓ぎわに、自分の席をみつけ腰をおろした。やがて正午になり、新幹線は定刻に出発した。 車両内に、乗客はいなかった。一週間まえにネットで予約したさいに、ほとんどの座席があいていたので自由席でもいいと思ったが、今回の流行は重症株だと聞いたので、いちおうはこみあう事態をさけ、指定席を購入したのだった。 一一月の透明感にあふれた日だった。どこまでもたかい真っ青な空から、すがすがしい天上の光がさしこんでいた。遠くにみえる山々は、素晴らしい点描になった紅葉のさかりで、木々の葉はすんだ光線を照りかえして輝いていた。秀一は、その景色をながめながら、弁当を食べた。ちょうど終わったころに、列車は福島についた。秀一が食べた弁当を片づけ、ペットボトルのお茶を飲んでいると、ふたりの女性がやってきた。 友人同士らしいふたりづれは、素敵な女性たちだった。三〇歳くらいにみえる女は、髪をみじかくパーマにし、朱色のワンピースを粋にきこなしていた。カクテルドレスにも思える派手な服で装った女性は、首から真珠のネックレスをたらし、あきらかにブランドものの濃い色のサングラスをかけていた。もうひとりの二二、三にみえる女は、あざやかな青いワンピースだった。髪をながくし、後ろで結び目をつくっていた。清楚な雰囲気をかもしだす素敵な女性は、巫女にも思えた。金のネックレスをつけた彼女が、どこの宗派でどんな信仰をもつのかは分からなかったが、どこか一般人とは違うと思った。この女も、お洒落な青いサングラスをかけていた。ふたりの女性は、手首につけた二連の金のブレスレットをかすかに鳴らしながら、指定券と座席番号をみ比べ、彼のとなりに腰をおろした。 彼女たちから朧にただよう香水の匂いにうっとりとしながら、秀一は、幸運に感謝した。パンデミックが流行してジムにもいけなくなって、家ですごすことが多い日常をおくっていた。堅苦しい生活とは無縁で、三つ揃いの背広をきる機会など、まったくなかった。家にいるときの寝間着みたいな普段着だったら、となりにすわってくれなかっただろう。こういう素敵な女性たちに、指定席の番号と秀一をじっとみ比べられ、挙げ句、なにやら相談をされてべつの席にむかわれたら、ひどい衝撃をうけるだろう。その後に待ちうける一日は、あきらかに惨憺たるものに違いない。 席が離れていれば、どんな女性たちなのか、もうすこし盗み見をしたかったが、となりにすわられてしまったので、秀一は、じろじろと無遠慮にみることはできなかった。香水のいい匂いにつつまれる女たちは、健康的で理知的な感じだった。手荷物は、服とコーディネートされた、藍とオレンジの肩かけ鞄だけだったので、仕事なら日帰りの出張だろうか。ふたりの淑女は、こんなに目立つ格好をしていても、淫靡な感じはどこにもなかった。女優でも不思議でなかったが、そうした職業よりは、なにかの専門職に従事するキャリアに思えた。どういう仕事なのか見当もつかなかったが、こんなに華やかな女性たちのそばで働けるのなら、声をかけるだけでも毎日が楽しいに違いなかった。どんな職業が、ふさわしいのだろうか。大企業の秘書室で、働いているのではあるまいか。ワークショップでもあって、その帰りなのだろうか。これから東京で、研修会があるのだろうか。そこには一四時すぎにつくから、それではすこし半端だろう。東京のホテルで一泊するには、荷物がすくなすぎる。 秀一は、足もとにおいてあった、ふかい緑の肩かけ鞄をとりあげた。なかには、ビニール袋に入れた一組の下着のほかに、仙台駅まえの本屋で買った書籍が入っていた。列車に揺られながら、ゆっくりとこの本を読んでみたいと、前日からずっと考えていた。まさにとりだそうとしたとき、ふたりの会話が聞こえた。 「あなたにいわれた、ヘレナを昨日読んだわ」 「そう。それで、どう思ったの」 その言葉に、秀一は固まった。バッグのなかでつかんだ本を、にぎりしめた。 「面白かったわ。イメージとしては、よくかけているわね」 女たちは、ヘレナの話をはじめた。秀一は、本をつかんでいた手をはなし、ファスナーをしめ、バッグを足もとにおきなおした。聞き耳を立てながら、車窓から遠くの山々をながめた。優雅なふたりは、大きな声では決してなく、囁くように話をしていた。 秀一がちょっとみやると、青い服の女の眉は、蛾の触覚のようにまるく描かれていた。その美貌の女性が、やや年うえに思える朱色のワンピースをきた女子の耳もとで、囁くように話しているのがみえた。それは非常にセクシーな場面で、ふたりの親密な関係を示唆し、さらには、濃密な情交を連想させた。その様子からは、彼女たちが、ただの同僚や友人にはとても思えないほどだった。 車内には人はすくなく、もしかしたら、三人だけだったのかも知れない。列車の振動音はあったが、すき通った声で囁く彼女たちの会話のほとんどすべてが、秀一の耳に入ってきた。 「デスティニーに、よく気がついたわね」 「クレアツーラとヘレナだけでは、ピースが足りないものね」 「チューブは、ワームホールとは違うわね。宇宙が複素空間で構成されるのは、ひとつのアイデアだわ。虚数軸のイメージが、よくかいてあると思ったわ」 「光速より、速いものが存在しないという前提をもうけ、さらにアインシュタインローゼンの橋、みたいなワームホールを考えるのは、矛盾だわ。光の速度は、時間軸を決定するのですから。光子が認識できない虚軸があるとするなら、そこでは、刻限がカウントされない。空間がおなじ時間の矢のなかに存在し、現在がひとつしかないなら、タイムマシンにはならないわ。祖父殺しのパラドックスは、起こりえないわ。自由意志は尊重されるし、将来は決定していないわよね」 「未来は、幻想ということね」 景色をながめながら、秀一は、ふたりの話に聞き耳を立てていた。 「ヘレナ」が、古代ギリシアの都市国家、スパルタの樹木の神というのは、よく知られている。「イリアス」に先立つ、叙事詩「キュプリア」では、三美神の競演が語られる。 ペレウスとテティスの婚礼にひとりだけ招待されなかった、争いの神、エリスは、宴席に「もっとも美しい女神にあたえる」とかかれた黄金の林檎をなげこんだ。 これをめぐって、オリンポスの主神、ゼウスの妻ヘラ。その最高神の頭部から、完全武装で跳びだしてきた処女神アテネ。さらに、美の女神アプロディテの三名が、美神の座を競った。アプロディテは、父親、クロノスの切りとられた生殖器の泡から生まれたといわれる。つまり彼女は、家長によって厳格に管理された性からの解放を意味していた。 どうしても自分では決定することができなかった主神ゼウスが審判者として任命したのは、トロイアの王、プリアモスの子で、美男子としても有名なパリスだった。やがては国を滅ぼすという夢占いをうけ、彼は生まれるとすぐにイデの山中にすてられた。羊飼いとして育てられたパリスは、やがて美貌ばかりではなく、武勇にも優れた青年に成長する。女神たちは、美しく装い、彼に贈り物を約束する。ヘラは、全アジアの支配権を。アテネは、どんな相手であっても勝利する力を。アプロディテは、人間界でいちばん美しい女をあたえるといった。パリスは、美の女神をえらぶ。それに応えてアプロディテは、スパルタ王、メネラオスの妻、ヘレナを愛の矢で射て、彼の掠奪を助ける。こうして、ヘレネをめぐって、ギリシア軍団と小アジアの要衝トロイアとの戦争がはじまる。この戦いは、ホメロスの長歌「イリアス」の主題となった。有名な「トロイアの木馬」などの欠損部は、べつの叙事詩で補足されている。 ふたりの麗しい女性が話題にした「ヘレナ」は、未来小説だった。 二〇世紀中葉より「地球温暖化」は、警鐘を鳴らされつづけていたが、二一世紀に入ると世界各地で異常気象が頻発した。日本でも五〇年に一度という災害が毎年起こり、対策を行っても、さらに想定をこえる被害が続出した。二〇二〇年以降は、COVID-19に代表されるパンデミックが、くりかえし人類をおそった。低侵襲とはいっても感染力がつよく、重症化をともなう変異株がしばしば出現した。抗原基を多数もつために、ワクチンは必ずしも奏功せず、被害は人類と共存したインフルエンザと比べることはできなかった。 古代、メソポタミアやエジプト、それにインダス地方で高度な文明をきずいたヒトは、自らが起こした自然環境の破壊から、栄華をほこった地をすてなければならなくなった。そうした事態とまったくおなじことが、現代にも起こった。古代の人びとが破壊した環境は、限定した地域だった。近代文明は地球的規模で自然を荒廃させたため、うつりすむべき新地は、地球にはすでになかった 人類は、二〇世紀中葉から半導体をつなぎあわせて、計算機をつくりはじめた。やがて集積する技術をたかめて単純な構造の機械を製造し、AI(Artificial Intelligence)と名づけた。この方法では、どれほど回路をつみ重ねても、物理的な制約から計算能力には限界があった。二一世紀に入ると量子コンピューター、QC(Quantum Computer)が考えられ、二〇三〇年代以降に実用化されると、時代のゲームチェンジャーになった。両者の機能は、算盤と人工知能の差をはるかにこえていた。 QCは、過去のAIにたいし「アベスターグ」(ABESTAG)とよばれる。これは中世ペルシア語で、「人智をはるかにこえるもの」という意味だった。アベスターグが複雑系を解析し、真理に辿りつく方法は、たんなる通時的な要因のほかに、古来、易とか占星術でもちいられてきた共時的現象にあたる、「量子のもつれ」という因子も加味される。したがって、物事の前後関係を「計算」という概念とは、まったく違う手段で理解することになった。そのために、計算機(Computer)という用語も、知性(Intelligence)という言葉も該当しなくなった。 異常気象の行く末について、従来のAIでは、温暖化の進行につれ、平均気温が今世紀末に四度上昇するとしか分からなかった。アベスターグが実用化されると、地球はすでに位相点を消失し、一五〇年以内に人類には不適切な住環境になっていることが判明した。 この指摘をうけて、地球外惑星への移住が本格的に考えられた。アベスターグによって宇宙は、α、β、γという三つの空間が重なっていることが知られた。人類が住む、αから、ビッグバンの名残であるアタッチメントで、重力子グラビトンβを感知し、流出してくる方向にすすめば、β領域に辿りつくと示唆された。そこには、βの地球が存在するはずだと、アベスターグは指摘した。この考えにそって国際的な枠組みが組織され、ふたつの空間に先遣隊をおくり、どちらの惑星がじっさいの移住に適するか、探索が必要になった。βには日本隊が、γには欧米隊がむかった。 日本のチームは、八人の隊員により構成された。中世ペルシア語で「最強の守護神」という意味をもつ、世界最高峰のアベスターグ「フラワシ」(FRAVAHRSI)によって統括管理された宇宙船は、希望(KIBOU)と名づけられた。人類の望みをたくされた希望号は、二〇四四年に、隊長、山岡春にひきいられて出発した。 「小惑星の巣」とよばれる、氷でできた仮想天体「オールトの雲」は、地球より約一光年離れ、太陽の重力圏がほぼ消失する場所になる。そこには、アタッチメントがあり、β領域へ通じるチューブ、第一一次元に該当する「虚軸」が存在する。光子が侵入できないチューブ内で、「すりぬけ」という名状しがたい苦痛に耐えながら、約一年後、β空間に到達した日本隊は、星を発見し、クレアツーラと名づけた。 地球と瓜ふたつの美しい惑星は、おなじ大きさの月をもち、大陸の構成もかわらなかった。砂漠はほとんどみとめられず、大河がゆうゆうとながれていた。日本隊の隊員は、小型艇などをつかって、この惑星をくまなく調査したが生態系は多様性が消失し、全陸地と二〇〇メートル以浅の海洋全体を覆う、笹状の植物と、体長一〇ミリの蠕虫状の生命体以外には、なにも発見することができなかった。 隊長だった生物学者の山岡春は、笹に似た生命を、地球では樹木に該当するとして「ヘレナ」と名づけた。たかさ二メートルほどの植物は、惑星表面をほとんどくまなく覆っていた。「クレアツーラ」と名づけられた蠕虫状の生命体は、あらゆる地域に無数に存在していた。さらに彼は、ヘレナと共生状態にある「デスティニー」を発見したが、この三種の生命体以外には、なにもみつけることができなかった。 山岡は、調査をうち切り、クレアツーラ一万匹と、ヘレナ一〇〇〇体を凍結保存して地球にむかった。帰路のβ空間内で、女性隊員の浅田由沙は、ふとした出来事からクレアツーラに経皮的に侵入された。痩せて淑やかだった由沙は、寄生されると毎日筋トレをはじめ、食欲も増進し体形もかわり、魅力的な女性に変貌した。彼女は、チューブ内で「すりぬけ」のはげしいストレスと戦う隊員たちの女神となった。 由沙をめぐって、隊員間に闘争が起こった。約一年後、チューブを脱出するまでに四名の隊員が殺された。キャプテン山岡は、母星にちかづくと罪の意識から自死を希望し、フラワシと話しあい、大気圏で焼却された。 出発してから四年後の二〇四八年、女性隊員の由沙と、彼女の婚約者だった医師の秋山勝のふたりが地球に帰還した。高速ドライブは完全ではなかったので、この旅は相対性理論の適応外だった。さらに二年かかったチューブ内の生活は、光子の影響をうけない虚軸内だったため、実数的な時間としてはカウントされなかった。 帰還後、素晴らしい美貌と体形をあわせもった由沙は、世界的なスーパーモデルに転身した。世界のヒロインに変身した彼女は、ノーベル平和賞のほかにも、数々の勲章を多くの国々から授与された。由沙を女神とあがめる団体が世界各地で誕生し、国の枠をこえたスーパースターとなった。 いっぽう由沙を隔離すべきだと強硬に主張した秋山は、彼女から「名誉毀損」の法廷闘争を起こされ、敗訴に追いこまれた。偏執的な暴露本などもつぎつぎと発行したが、悪質なストーカー行為と認定され、警察に保護された。彼女を支持する団体からも、たびかさなる民事訴訟をうけ、いずれも敗訴して世間から追いつめられていった。ついには、「すりぬけ」ストレスから発症した宇宙精神病と診断され、精神的な保護が必要とされて施設に強制収容された。 帰還して四年後、筋肉スーツを身にまとったドクターは、浅田由沙の姉の協力をえて、真夜中に由沙が住む仙台の高層マンションにしのびこんだ。彼女をかかえて、ベランダから一〇〇メートル下の地上に飛びおりる、無理心中事件を起こした。なんらかの方法により、由沙の頭部は保護されたが、ふたりとも身体にはげしい損傷をうけて即死となった。 素敵な女性たちは、この小説について、さまざまな角度から検討を加えていた。秀一は、聞こえてくる話から、彼女たちが外見以上に聡明なのに驚いた。相対性理論にも言及する両人は、理系女子としか考えられなかった。瞬く間に一時間がすぎて、宇都宮にちかづくと、彼女たちは身支度をはじめた。駅にとまると、ふたりは立ちあがった。振りかえると目があって、女性たちは、サングラスをはずしてじっと秀一をみつめた。どちらも驚くほどととのった容姿で、すべすべとした綺麗な肌をしていた。思わず、みとれてしまうほどだった。ヘレナの話をしていた彼女たちは、ギリシアの女神たちにも思えた。朱色のワンピースをきているのは、処女神のアテネ。青いドレスを羽織る髪のながい巫女は、冥界の女王、ペルセポネにも思えた。だれもいない車両を出口にむかって歩く彼女たちの後ろ姿をみて、秀一は、今日が素晴らしい一日になると確信した。ひどく、興奮したのだった。正直にいえば、彼女たちといっしょに人生をやりなおしたいと考えたほどだった。華やかな女性たちが消えていった扉を、秀一は、くりかえし溜め息をつきながらぼうぜんとながめていた。 そうこうしていると、みょうな格好をした男が扉口にあらわれた。背がひくい年老いた男性で、修験者のような白装束に身を固めていた。いままでみたことはないが、山伏といってもいいのだろう。頬や顎の白い髭をながく伸ばし、節くれ立った身の丈ほどもある杖をついていた。白っぽいザックを背負った男は、指定券をもつらしく、番号をたしかめながら車両のなかほどまできた。 秀一がみょうに思って立ちあがってみると、前方に乗客はひとりもいなかった。振りかえると、後部座席もガラガラだった。いつからそうなったのかは不明だが、車両にのっていたのがひとりだけなのに気がついた。 男の席は、秀一のとなりだった。三人掛けだったから白いザックを真ん中におくと、男性は、いちばん通路側に腰をおろした。ふたりのあいだに荷物を充てたのだから、男の座席がほんとうはどこなのかは不明だった。 秀一は、さきほどの余韻にひたろうと決め、緑の鞄をとりあげ、「ヘレナ」を読もうと思った。バッグからとろうと書籍をつかんだとき、異様な臭気がただよっているのに気がついた。ながい顎髭の男は、ザックをあけてなにかをとりだそうとしていた。そこから、生臭い悪臭がながれてきていた。食事をするらしく、男は、ビニール袋に入ったみょうなものをとりだした。 秀一には、それが犬の頭部にみえた。彼は、気分が悪くなり、ファスナーをしめてバッグを床にとどめた。男は、とりだした頭部を膝のうえにおき、とめてあったビニールの輪ゴムをゆるめた。その途端、猛烈な悪臭がおそってきた。男の膝に配されたのは、あきらかに小犬の頭で、眼窩からはウジのような白いものが湧きでていた。男性は、ビニールをつかんで、みじかい白毛に覆われた頭部をもちあげ、まるかじりにしようと口をあけた。秀一は仰天し、男をみいった。そのとき、男性が彼をみつめた。らんらんとした、異様に鋭い視線とぶつかった。その瞬間、秀一は目眩を感じた。眼前が真っ暗になり、目蓋をとじた。 奇妙な感じにつつまれ目をあけると、目前には炎が眩めいていた。なんなのだろうか。眼前で、赤くて黄色い炎の柱が幾本も立ちあがっていた。秀一は、太陽コロナの表面に浮かぶ、ガス状の紅炎になってひろがる雲をまえに立っていた。太陽の内部で生じた核爆発によって、赤く燃える溶鉱炉を満たす物質が、火柱をあげている。はげしい熱によって、あらゆるものが溶けだし、赤色のドロドロした液体に変貌していた。そこに、光が渦巻く。赤く、黄色く、白く。光があふれ、火柱が林立し、たがいに交差して真っ赤な溶鉱炉の表面に落ちていく。粘度がある赤い液体は、熱を発し、相互に溶かしあっている。あらたな爆発が起こり、暗い宇宙にむかって五〇〇キロメートルにも直立する、猛烈な炎を伸ばしている。やがてそれは、夜空を飾る打ちあげ花火になって、ゆっくりと表面に落ちていき、赤い溶鉱炉のなかで黄色の池にかわってつぎの噴出を待っている。黄色い液溜まりは、目にできるさまざまな場所にあり、いたるところが間欠泉に変化し、巨大な火柱をくりかえしあげている。大音響のなかを熱風が荒れ狂い、ふきすさんでいた。 ものすごい熱と光で、秀一は完全に焼却される気がした。それなのに、彼はそこに立ち、この様子をみていた。まったく安全で傷害をうけるでもなく、すべては知覚としてのみ存在し、壮大な光景は着々と進行していた。秀一は、考えうるかぎりの最高度に崇高なものを目の当たりにしていた。信じられない映像のなかで、黄色い火柱に焼かれながら、彼は陶酔の域に達した。 気がつくと、列車は大宮駅にとまっていた。白髪の修験者が、扉にむかって通路を歩いていく後ろ姿がみえた。彼は、ここでおりるらしい。大宮駅では、幾人かがのってきて、ぼつぼつと席を占めるのがみえた。 秀一がみたのは、おそらく太陽のプロミネンスなのだろう。燃えさかる炎、それがなにを意味するのか不明だったが、映像にたいして崇高な感情をいだいたのは、間違いなかった。オットーのいう「聖なるもの」に違いなかった。 東京駅でおりて、秀一は山手線に乗り換え、新宿についた。駅に併設された東王ホテルを予約していた。ひどく疲れた気がして、みじかい時間でもいいからホテルのベッドで横になりたかった。フロントにチェックインの意向を話すと、職員は、「三時からだから、もうすこし待ってください」といった。部屋で休みたいと思っていると、いあわせたフロント係が声をかけた。 「スイートルームなら、すぐに入れます。半額にしますから、いかがですか」 東京に泊まるときにはこのホテルを利用してきたが、こんな提案があったのははじめてだった。サイン会がはじまるのは四時だったから、三〇分でも横になりたいと思って申し入れをうけたのだった。最上階の部屋に入って、新宿の街をみおろした。たかいビルが林立する都会は、輝いてみえた。すべてが、不思議な感じがした。今日、起こったことばかりではなく、ここにいるという現在の状況をふくむ、あらゆる事物にたいして生まれた感情だった。彼は、なにかとくべつな出来事が生じるのではないかという予感をもった。 しばらくして、秀一は生まれてはじめてのサイン会にいった。 「ヘレナ」という小説で、彼は、ある雑誌の新人賞という栄誉に浴した。単行本になった出版記念のサイン会が、都内の書店で催された。とはいっても、才能も豊かともいえない無名の新人のイベントだったから、人なんかくるはずはなかった。その閑散とした状況は、桜でもやといたいほどだった。パンデミックは重症株が流行っていたから、人がたくさんくることが予想されたら、そもそもこんな催しは行えなかった。主催を決めた本屋も、来客者がないと考えたから、中止にもならず予定通りにひらかれたのだった。新宿の老舗の書店は、エスカレーターであがった入り口に、かなり大きなスペースをつかって会場をつくっていた。そこに、コーナーを配し、発刊された単行本をいちばん目立つ形でならべてくれた。だから、文句をつける理由はどこにもなかった。新刊書がつまれたまえに、まるい小さなテーブルがおかれ、午後の四時から椅子に腰をおろして、秀一は現実をみつめていた。 二〇歳前後の、素晴らしく瀟洒な女性だった。空色の鍔のひろい帽子をかぶり、青いマスクをつけ、さらに素敵なサングラスをかけていたが、その美貌をかくすことはできなかった。あわい紺色の洒落たワンピースをきて、ファッショナブルな金のネックレスを首からたらしていた。ながいストレートの艶のある黒髪は肘のところまでとどいていたし、アイロンした姫髪がみるものをうっとりとさせる、幻想の国のお姫さまだった。 手持ち無沙汰にテーブルに両肘をついて、指をくみ親指で顎をささえていた秀一は、一目で彼女に悩殺された。 どこの国の人なのだろうか。あきらかに、日本人の体形ではなかった。フランス人でも、アメリカ人でもなかった。インドの高貴な女性なら、こんな雰囲気なのだろうか。青い服をきた女は、さらに幻想的に思えた。死ぬまえに一度は「なま」で会って話をしてみたい、恋いこがれるアビシニアの美人だろうか。彼女の肌は、白色にしかみえないが、ほんとうは赤銅色ではないのか。ながい髪はストレートだが、じっさいは縮れているのではないのだろうか。なにがほんとうなのか分からなかったが、秀一は、この女性をちかくでみられただけで満足した。書店の声かけに応じ、仙台から今日の企画のためだけに、ホテルに泊まることになった。交通費も宿泊代もすべて自分もちだったが、秀一はやってきた甲斐があったと考えていた。 紺のサングラスをかけた美貌の女は、彼のまえを通りすぎると、単行本を一冊手にした。彼女は、それをもってレジにいき会計をすませると、テーブルに肘をつけたまま、じっとみつめる秀一にちかよってきた。 女は、購入したばかりの「ヘレナ」の裏表紙をひらき、サインをもとめてきたのだった。右の手首には、二連になったほそい金のブレスレットが輝いていた。左手首にも、おなじ色の腕輪がふたつ、はめられていた。彼女は、裏表紙の上部に、一枚の写真を親指ではさんでいた。みわたすかぎりの平原を、緑色の笹が埋めつくしている映像だった。それは、彼がイメージしてかいた、「ヘレナ」の世界の風景だった。 秀一は、両肘をテーブルにつけたまま、両方の親指で顎をささえていた。人差し指を伸ばして、マスクのうえから、両の第二指で鼻を押さえ、それから中指もつかって目頭をつよく押した。 「ヘレナの写真ですね」 秀一が、紺のサングラスのなかの瞳をみつめながらいうと、「そうなのです」と女は、なめらかで淀みのない日本語で答えた。綺麗な、すき通る声だった。 秀一は、彼女がテーブルにおいた新刊本の裏に、「村木秀一」というペンネームと、二〇二七年一一月一日という日付をかいた。 「お話があります」と女は囁くようにいった。 秀一は、うなずいてすこし待っているよう頼み、ちかくのレジにいた今日の企画を担当する男のところにむかった。やや痩せて眼鏡をかけた四〇歳くらいの男性は、店長に思えた。 「もう、だれもきませんし、すこし頭痛がしてきましたので、この階の奥にある喫茶店で休んでもいいでしょうか」とたずねた。 男は、書店の企画に応じて、秀一が律義にも、自前で仙台から上京したので充分に満足していた。 「なにかあったら、よびにいきます。三〇分しても声がかからなかったら、今日の企画は終了ですから、お帰りになってかまいません。そのさい、とくに断っていただかなくても結構です」 「ありがとうございました」と秀一は礼をいった。 「べつに、いいのですよ。あの小母さんは、あなたの最初のファンらしいですから大切にしてあげてください。読者のためには、サービスが必要ですよ」と店長は言葉をかけた。 そういわれて、秀一は細面で、ながい艶のある黒髪を腕のあたりまでたらす彼女をみた。後れ毛が、鎖骨で輝いていた。 「ひとつ、うかがいたいのですが」と秀一が聞くと、 「どう、しましたか」と男は真面目な表情で答えた。 「あの方の洋服なのですが、あなただったら、何色と表現しますか」 その言葉に、企画係は笑った。 「秀一さん。あなたは、なかなかいいセンスをしていますよ。なかには、本気で怒りだす人もいるのです。そうした方の本は、売れませんね。売る気がしませんから、書店のなかでも、いちばん日のあたらない場所においてしまいますから。大丈夫ですよ。あなたの本は、いちばん目立つところにおいてあげますからね」 「光栄です。もうひとつ、質問してもいいですか」 「どうぞ」 「あの女性がかぶっている帽子を、あなたなら、なんと表現しますか」 「ベレー帽みたいですね。でも、なんとなく似合っていますね」と男は答えた。 「もうひとつ、教えてください」 秀一がいうと、企画係はうなずいた。 「あの女性を、いくつくらいに思いますか」 「そうですね。マスクをつけて、サングラスをかけていますから、正確に判断するのはむずかしいですね。たぶん、四〇歳半ばか、もしかしたら五〇歳くらいでしょうか。面白い格好をしていますが、品のよさそうな方ですね。あなたの小説の読者層が中年女性というのは、今後の参考になりますね」 「できれば、もっと厳密にいってはいただけませんか。あとで、聞いてみるつもりです。ぴったりあたったら、あなたに夕食をご馳走しようと思っているのです」 「分かりました。レジのいちばんちかくにおきますね。宣伝してあげますよ。それにあなたの本を、私も一度は読んでみましょう。それじゃ、五一歳としましょう」 「それでは、しっかり聞いてノートにかいておきます。お名前は、木下さんでしたよね」 「あなたの二番目のファンになってあげますよ。まだ、一行も読んではいませんが」と木下は笑いながらいった。 秀一は女のところにもどり、「奥の喫茶店で、お茶でも飲みましょう」とさそったのだった。平日の夕方ちかくの店は、半分くらいの座席が埋まっていた。店内をみまわし、秀一は入り口のある壁側で、いちばん奥の席に彼女をさそい、むかいあって腰をおろした。左をむくと、客が占めた座席とあいたテーブルが交互につづいていた。ガラスになった窓ぎわの席に、二組の男女がすわって話をしていた。その窓越しに、あかるい戸外がみえた。彼は、女が注文したのとおなじ珈琲を頼んだ。 飲み物がはこばれてきたので、「ほかにも、写真をおもちなのですか」と秀一は聞いた。 女は、うなずいて三枚の画像をバッグからとりだし、ふせたままテーブルのうえにおいた。秀一をじっとみつめ、そのうちの一枚をめくると、そこには神秘的な色をした海の情景がうつされていた。それだけでは、どこなのかは分からないが、溟海とよんでもいい、広大なふかい藍色に占められた写真だった。そこには、波のひとつも立っていない、ただ一面の海の景象だった。秀一が両肘をテーブルにつけ両手の指をからめ、左右の親指のうえに顎をのせて、じっと思案していると、女はとなりの写真をめくった。そこには、緑の葉にかこまれた湖の映像があった。緑色の葉身は、秀一には直感的に笹に思えたが、一塊となっていた。みせられた写真からは、なんなのか確実な判断はできなかった。ある程度離れた場所から撮影された湖は、冷たい藍色をしていた。湖面には波もみとめられず、緑の背のひくい笹と思える植物は、揺らいでもいなかった。おだやかな、風もない日のスナップショットだったのだろう。いずれにしても、地球の風景にはみえなかったから、合成写真の可能性もあった。 「バイカル、ですか」と秀一がいうと、女は驚いた表情になってうなずき、さらにもう一枚の写真をめくってみせた。それは、飛行機かドローンなのかは不明だが、かなりの高度からとった全体像が分かる画像で、あきらかにバイカル湖の形だった。周囲に大きな構築物はひとつもみとめられず、護岸もされていなかった。緑の笹に似た植物が、湖の周辺部まで覆っていた。 あきらかに、地球のものではなかった。 「いくつか、お話があるのですが、すこし付きあっていただきたいのです」 女は、身をテーブルのうえにのりだして、秀一の顔をじっとみつめて小声で囁いた。 「そうだろうと、考えていました。きっと重大なことでしょうから、どこで話すのがいいのでしょうか。もしかして、追われているのですか」 秀一も身をのりだして小声でいうと、女は神妙な表情になった。 「大丈夫です。ご心配はいりません」 女はそういって、肩かけ鞄のなかから、直径四センチくらいのガラスの球をとりだした。表面は、みたこともない図案で装飾されていた。秀一は、ふたりのカップを壁のほうに移動させた。彼女は、まるいガラス球を彼に手渡すと、真ん中からふたつにひらいてみるようにつげた。いわれた通りにすると、なかからあわい緑の、やわらかい光線がでてきて秀一をつつんだので、すこし眩しく感じた。女をみると、もう畳んでいいといったので、半球になったふたつをとじ、もとのガラス球にもどし、差しだされた白い手にかえした。彼女は、大切そうにバッグにしまいこんだ。 「ということは、もしかすると、私も追われているのでしょうか」 その言葉に、女は小さくうなずいた。 とつぜん、ちかくで爆発が起こり轟音がひびきわたった。かつて体験したことがないはげしい衝撃波が、ものすごいいきおいでテーブルを揺らし、珈琲のカップを壁にむかってひっくりかえした。猛烈な突風が店内をふきぬけ、大きな音を立てながら入り口のむかい側にある窓ガラスが割れて、外に落ちていくのが分かった。絶叫が、あたり一面にひびきわたった。さきほどふたりがいた書店のちかくで爆発が起こったらしく、どの席もテーブルや椅子が転倒していた。窓ぎわの客は、爆風によって割れたガラスや飛んできたものがあたり、血をながしていた。みまわすと、喫茶店の入り口も破壊されていた。幸いなことに、秀一たちふたりがすわった場所は、耐力壁になっていたらしく、爆風の通り道からもずれて、とくべつな被害をうけなかった。警報音が鳴りひびき、「爆発だ」とか「火事だ」という悲鳴が飛びかっていた。 状況からは、サイン会を行ったテーブルのあたりで爆発物が炸裂したらしかった。店内の人びとは騒然とし、ガラスの破片で手や腕を切り、赤い血をながしていた。命には別状はなさそうだったが、叫び声をあげつづけていた。 「非常口から、階下におりてください」 店員らしい男性が、大声で叫んだ。のどかな午後の日が、一瞬にして戦場に変化した。 「別れて、どこかで落ちあいますか」 「いいえ、このままいっしょに外にでましょう」 女の言葉にしたがって、秀一はこみあう非常階段をおりた。救急車が、大きなサイレンを鳴らして何台もやってきた。つぎつぎと到着する真っ赤な消防車も、車列をつくってとりかこみはじめた。平日の午後だったが、あたりは不穏な状況にかわり、大混乱になっていた。 「私のホテルでは、危ないのでしょうか」 「どこに泊まっているのですか」 「東王プラザです」 「きっと、そこなら大丈夫でしょう。心配しなくても、いいですよ。ついてきてください」 女はすこし歩くと、とつぜん立ちどまって、有名なブランド物をあつかう洋品店に入った。店員が落ちつかず、扉の内と外を行き来するなかで、秀一の手をひきながら店内を移動し、「どう、大丈夫でしょう」といった。 そこには、大きな姿見がそなえられていた。うつっているのは、三〇歳の秀一と、四〇歳くらいの品がいい紫の服をきて、青いベレー帽をかぶった女性だった。 「なるほど、これなら大丈夫ですね」と彼がいって振りかえると、女の姿はなかった。細ながい店で、商品が二列になってならんでいた。みまわしても姿をみつけることができなかったので、すこし店内を歩いてみたが、彼女はどこにもみあたらなかった。入り口のちかくに、三〇歳くらいの落ちついた感じの女性の店員がいた。 「あなた。私が店に入ってきたとき、ここにいましたよね」と聞いた。 「ええ」と店員は答えた。 「私につれがいたのを、覚えていますか」 「すごく綺麗な、お若い方でしたね。どうか、なさいましたか」 「ここから、でていきましたか」 「おつれの方ですか。私は、気がつきませんでしたが」 「ここの化粧室は、どこですか」 「奥ですけれど」 「ちょっと、付きあっていただけませんか」 秀一の言葉に、彼女は怪訝な顔をした。彼は、店員といっしょに化粧室にいき、なかをのぞいてくれるように頼んだ。彼女は、でてくると、だれもいないといった。秀一は、店員に「ついてきて欲しい」とつげ、店内をすこし歩いた。彼が立ちどまると、「どうしましたか」と彼女は聞いた。秀一は、通路におかれた、さきほどの姿見をみていた。店員は、三〇歳くらいにみえる、彼の横に立っていた。振りかえると、彼女は怪訝そうな表情で秀一をみつめた。 「どうも、ありがとうございました」と彼はいって、店をあとにした。 外は、救急車両がサイレンを鳴らしながら行き交っていた。消防車がでて、消火作業をしていた。街は騒然とした雰囲気で、多くの人びとがなにが起こったのかととりまいていた。そうした周囲をみながら、秀一は東王プラザにむかって歩きはじめた。 道を歩行していると、たくさんの人びととすれ違った。彼らが、なにをするつもりなのか、まったく不明だった。そうした人たちが、ほんとうに歩いているのかさえ、よく分からなかった。あらゆる事象のなかで、たったひとつ理解できるのは、秀一がいる事実だった。これを疑いだしたら、もう存在自体が無意味といってもいいだろう。 神の存在と、自分の実存の、どちらが、よりたしかなものなのだろうか。デカルトのばあいは、自分自身とおなじくらい、確実に神さまは実在していたのだろう。カント以来、神よりも自分の実存のほうが、よりたしかになったのではないか。ヒトは、自我にめぐりあい、さらに自身の知らない自己までみつけたのだ。 そこまで自分が肥大すれば、もう神の存在など、どちらでもいいのだろう。まさに、神さまは死んだに違いない。だから秀一の住む世界に、神はいない。この事態をよく考えれば、神さまは彼だったに違いない。ミクロコスモスとマクロコスモスがひとつなら、宇宙のなかで存在するのが、じつは、秀一ひとりなのだと示している。彼が死んでしまえば、いま往来を行き交う、だれひとり、実存をつづけるなど不可能なのだ。街、風、空、大気、地球、などあらゆるものが、この原理から逃れられない。 とはいっても、目前にみるように心に思い描いた主観的現況がすべてとは、とても言い切れなかった。夢の世界は、まさに眼前に存在する主観的世界だろう。しかし、目が覚めているときは、なにかをながめる自分を、普段とは違ったたかい場所から、人間はみつめることができる。小説は、一人称でも、三人称でもかける。いっぽう多人称ともいう、神の視点からも、かくことは可能なのだ。このとき目のまえにみえるのは、かなり客観的ともみなせる世界だろう。すくなくとも夢のなかとは違っている。とはいえ、どちらも眼前にみえるように思い描いた世界には違いない。この視点をうしない、たんに主観的にしか現況をとらえられないばあいは、自己中心的になり、つきつめれば狂気とも称されるだろう。 ただ主観の世界に立脚するなら、自分以外の者は、もっぱら空間と時間を占拠しているだけだといえる。多数に思えるだけで、いてもいなくても、ほとんどかわりがない者たちと称することができるだろう。この状況は、一三〇〇年以上まえのインドの哲学者、シャンカラがとなえた、「幻想の面紗に覆われた仮象の世界」になるだろう。いくら、神の視点に立ち、自分自身では客観的だと思っても、人間には「欲望」があるので、どこかで自分に都合よく現況を把握してしまう可能性は、決してすくなくないだろう。 いずれにせよ、ただ主観にしたがって小説をかいたら、自分以外に、だれも読んでくれないのは間違いないだろう。 消えてしまった彼女が、現実的に、いるのかも分からなかった。 現実が、なにを意味するのかについては、いまは考えないことにしよう。いずれにしても、彼女が秀一のまえに一度姿をあらわしたのは、事実だった。これを疑っても仕方がなかった。書店の店長も、ブティックの店員も、彼女の存在を証言していた。もちろん、あの女性店員は怪しい。消えた女が、若くて素敵だといったのだから、そうみえたのには意味があったに違いない。同一人物という可能性をもつにしても、理由は分からない。いずれにしても目撃者が複数いることから、白昼夢でも思いすごしでもなかった。彼女はあらわれたのだから、この事実は、すでにとりかえしのつかない事態だった。 そもそも秀一がヘレナという小説を着想したのは、三〇年以上まえになる。日本最北の離島で医療をしていたころに、思いついたのだった。その島は、陸地のほとんどが笹類で覆われていた。夕焼けのなかで戦ぐ一面の笹をながめているうちに、ヘレナの原風景が浮かんだ。この小説を、どうしても忘れることができなかった。いまとなっては、とうぜんだと思う。なぜなら、彼女が待っていたのだから、忘れられるなんてありえなかったのだ。ヘレナは、四部作をつくるクレアツーラという、ながい小説の第一部で、すでに第二部もかいてあった。 秀一は、一〇年まえに退職してから、ずっとロマンを創作していた。年に二〇〇〇枚以上はかいて、二〇作品くらいずつ新人賞に投稿をつづけてきた。かなり多い部類に属するが、だす人はこのくらいは提出している。とはいっても、これを一〇年つづけるのは容易ではない。秀一が知る範囲で、こんな調子で長期にわたり、めげずに応募をくりかえしている者は聞いたことがなかった。これだけ落選をつづけると、さまざまな事柄を考える。秀一だってごく普通の人間で、落ちるのに喜びを感じてはいない。「ギネスの世界記録があるなら、この分野で挑戦してみよう」などとは、微塵も考えたことはない。 こうした事態をうけて最初に感じるのは、無才だと明確につげられている事実だった。小説に生涯をかけ、ここまでかきつづけ、たったひとりの読者からも、「面白い」とも「素晴らしい」とも、いわれたことがない。こんな事態って起こりうるのだろうか。世の中には、蓼食う虫も好きずき、といわれるくらい多様性があるのだ。この数多性の原理こそ、現象界の唯一の原則とよんでもいい。おなじでないから、多数が存在できる。それ故に、まるで実存する、かのようにみえるのだ。どんな範疇でも、メジャーとマイナーの部門がつくられ、二部構成になっている。どこからみたって、みょうちくりん、に思えても、一部の者からは支持をえることができる。この人は、どんな方と結婚するのだろうと考えていると、やはりそれなりの人物が出現し、たがいによいとして結びつく。こうした例は枚挙にいとまがなく、だれでもがごく普通にみ知っていることだ。つまり世界には、優越機能と劣等機能が不可分に存在する。それが、人の世というものなのに、なぜ、こんな画一的な評価しかうけられないのだろうか。数多くの方が応募するのだから、賞をとるのはきわめてむずかしい。しかし、予選が通らないのは承服できなかった。そこには、なにかべつの力が働いているに違いないと、秀一は考えることになった。 一〇年やったが、いつ果てるとも知れないほど無視されつづけてきたのだった。今回の栄誉をうけるまで、一度も予選を通ったこともなかった。秀一は、自分の「才能のなさ」に感心するより、どうも奇妙な世界にまよいこんだという認識をつよくもっていた。つまり、こういう結果になるのは、なにかの理由があるのではないかという疑念だった。秀一は、日々疑問をかかえながら小説をかいてきた。しかし、さらに根源的で、普通なら最初に考えるに違いない、もっとも重要といっても差しつかえない、「なぜ、こうまで評価されないにもかかわらず、創作をつづけるのか」という問いは生じなかった。 秀一は、二〇年まえ天塩岳にのぼって北をみおろした瞬間、小学生時代にくりかえし天塩川の地図をかいていたのを思いだした。そのとき、さまざまな思い出が脳裏いっぱいにとつぜんひろがったのだ。 秀一は、天塩川流域の過疎地帯で診療していた。小学生時代、くりかえして地図を描いていた場所だった。札幌ですごした学生時代には、まったく忘れられていた。天塩岳の頂上で、小学一年生のころ、インドの小説をかいていたのを思いだした。宇宙船をつくって、デカン高原から飛ばす物語だった。医学生時代にインドを放浪したが、そのときにはすっかり忘却していた。なぜあのころ、そこにいかねばならないと脅迫的に思いつづけていたのか、ずっと不明だった。その日、すべてが一挙に解明されたのだった。 時間というものが、なんであるのか、秀一には分からない。それが、因果律を構成する重要な要素だとは理解できる。ほんとうは、時間によって因果が出現している。より正確には、因果関係があるような気がする。秀一たちの脳は、時間のながれという幻想を唯一絶対の真理と考えるのに慣らされている。小説をかいてみればあきらかだが、時間軸を設定すると、物事が整理された気がする。猛烈に有用な納得させる道具なのだ。そうやって考える「時間」は、逆流することがない。倶舎論的にいえば、すべては刹那滅にしたがうので、いまという瞬間はつぎつぎと滅し、二度とよみがえらない。過去から現在に通じているのは、秀一の意識以外にはありえないが、これがおなじかどうかも分からない。じつは、この問題がいちばん重要なのではないか。ヒトは眠って起きたときに、昨日の自分を思い起こしている。ふたつは、微妙に違うのだろう。だから過去の事件も、ほんとうかどうか分からない。ただ、つながったひとつのものとしないと、あまりに混乱が生じるので、そう考えているにすぎない。ヒトは、個別事象を正確には記憶できないのだ。究極的には、目前にみえるように心に思い描く世界が、全員がおなじになることは決してないから、完全な客観性などありえないだろう。裁判でも、被害者と加害者の双方が、間違いないと信じて激論を戦わせるばあいが起こりうる。 記憶術の大家は、頭のなかにアパートを設定し、一階の一号室から、一〇階の一〇〇号室まで、だれが住んでいるのか、覚えることができる。それは、住所録みたいなもので、ただあるだけで、ほかに意味はない。大家は、記憶術に優れているだけで、そこからなにかをみちびくことはできない。だから秀一たちが記憶を利用するためには、住所録ではなく、なにかと関連して物事を覚える。その、もっともいいツールが時間なのだ。時刻にそって事件を配置することで、多数を関係づけて記憶できるのだ。この方法は、ヒトの誕生とおなじくらいの歴史がある。だから、そのながれから逸脱したものは、ほとんど記憶にのこすことができない。 原因から結果が「必然」的に生まれるのは、間違いない。因果関係が自然界の大原則と考えられているのは、正しいだろう。この関係は、悟性によって直観的にみつける。つまり、現況という結果をみて、なにが原因だったかと類推する過程を指している。これが分からない人を、悲観的な哲学者は、「愚鈍」とよんでいた。しかし、悟性をつかっても原因が、どうしても理解できなければ、因果とは無関係なものなのだろう。悲観的な哲学者は、こうした現況を「偶然」と判断するに違いない。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。「必然」は、因果関係からしか生まれないのだろうか。原因が判明しなければ、現況は、「偶然」生じた事態なのだろうか。 ホテルにつくと、フロントで部屋の鍵をもらった。エレベーターで最上階にあがると、ホールのところで、サングラスをはずして窓から外をながめている若い女をみつけた。 「こちらです」と声をかけると、彼女はついてきた。 廊下のなかほどにある部屋に入ると、秀一はマスクをはずして、手を洗い、うがいをした。鏡にうつっているのは三〇歳のころの姿で、髪も真っ黒でひどく懐かしかった。応接室の椅子にすわる彼女に、化粧室での手洗いを提案した。 秀一は、背広とチョッキをぬいで、クローゼットにかけた。そうしているうちに彼女がでてきたので、椅子をすすめた。マスクをとった女の顎は小さくて、理知的にみえた。彼女が、爆発が起こった書店を、この建物からみることができるのかと聞いたので、秀一はいっしょに隔壁の後ろの寝室につれていった。部屋の真ん中になる耐力壁の後方には、ダブルベッドがふたつそなえられ、窓側にはテーブルと椅子がおかれていた。足もとまである窓ガラスごしに、さきほどまでいた書店のビルがみえ、そのあたりから黒い煙がもうもうと立ちのぼっていた。 「大きなお風呂ね。夜景をみながらの入浴なんて、ロマンチック」 「きっと、そうでしょうね」 「でも、ずいぶんひどい爆発だわ」 女は、ちかくにやってくると、もうもうと立ちあがる黒煙をながめて、深刻な表情でいった。 「テレビで、なにか放送しているかも知れません。つけてみますね」 秀一がいうと、女はうなずいた。 椅子をひくと、彼女は腰をおろした。 秀一はテレビをつけ、なにかを飲むかと聞いた。女がうなずいたので、つぎの間にある冷蔵庫にいき、コーラとオレンジジュースをとりだした。もどってくると、彼女はテレビをみ入っていた。 放送では、緊急のニュースがながれ、新宿のビルでひどい爆発が起こったとつげていた。爆裂は、建物の二階にある、書店の入り口付近で生じ、五〇人以上の死傷者がでている。心肺停止のものが一〇名ほどいるらしいと報道していた。もしかしたら、あの若い店長も巻きこまれたのだろうか。女性のアナウンサーは、甲高い声で話し、爆弾テロだったとつげていた。犯行声明は、どこからもでていないとのことだった。さきほどいたビルが、生中継されていた。もうもうとした黒煙が立ちあがり、消防車や救急車の隊員たちが担架に人をのせて、うごきまわる様子がうつしだされていた。 「よろしければ、お名前を教えてください」と秀一は聞いた。 「ヘレナです」と彼女はいった。とても綺麗な声だった そうか。この女性が、ヘレナだったのだ。秀一は、納得した。 女は、古来、人類がくりかえし夢み、ついには神話にまでなった「ヘレナ」その人だった。男たちは、彼女にずっと夢中で、数多の作家が創作してきた。ヘレナは、決して傾城の美女ではない。彼女こそが、世界を破滅にみちびいた恐怖の大母だった。 「大地が、増えすぎた人間の重みで苦しんでいる」ことを知ったゼウスが、神々と示しあわせ、周到な用意を重ねて、人間界をカオスに落とし入れるために、テティスの息子、アキレウスとともにおくりこんだのがヘレナだった。彼女は、人類を殺戮する強力な武器として生をうけた。 ヘレナをトロイアにつれさったパリスは、つくしてくれた、かけ替えのない若妻をもっていた。彼は、妖精だった妻があたえたすべての恩を忘れ、欲情して彼女をもとめた。さらに全ギリシアの男たちが、ヘレナを奪還する、ながく破滅的な戦いを望んだ。先見の明がある幾人かをのぞけば、異議をとなえる者はほとんどいなかった。この戦いのために、数多の英雄と、美女と、その家族たちがすべて殺され、戦禍によって引き起こされた悲劇の数々は、三〇〇〇年余にわたって人類に語りつがれてきた。それでいて、彼女はなんの咎めもうけなかった。 帰還後も、ヘレナは、メネラオスの妻として暮らし、年老いてスパルタで死んだ。全ギリシアをひきいたミュケナイ、アガメムノン王も、その弟で寝取られた当事者のメネラオス王も、不幸を拡散した彼女を殺しもしないばかりか、罰さえあたえなかった。この不思議な神話は、多くの作家の創作欲を喚起した。これに注目して、数多の小説がかきつがれてきた。彼女こそ、かつて地球で生まれた人びとのなかで、史上最大の恐怖と破滅を味あわせた美女だったのだ。 「なにをしたら、いいのでしょうか」と秀一は聞いた。 「いろいろ、質問したいことがあるのです。つまり、私たちにも疑問が数多くあって、あなたが、なぜこんな創作をしたのか。それに、ヘレナは、クレアツーラというながい小説の第一部というお話ですから、部分的には、つづきもかかれているのだろうと思うのです。順を追ってうかがってみたいのですが、話していただけるでしょうか」 「それは、かんたんなことですが。ここは、いつまで大丈夫なのでしょうね。常識的には、私よりあなたが狙われたのではないかと思います。かなり、すさまじい攻撃です。殺戮を目的にしたとしか、思えません。あなたが死んでいないのを、すぐにでもみつけるでしょうね」 「彼らが狙ったのは、もちろん私です。しかし、すでにあなたも標的になっています。だから、サイン会場がおそわれたのです。このつづきがでることで、こまる者がいるのだと考えてください。作者のあなたが悪魔たちから標的にされるのは、間違いないのです。つぎつぎと続編をだされたら、なにが問題なのかがあきらかになり、彼らが思い描いた計画に支障がでるはずです。今日、こうしてあなたにお目にかかったからには、こういう形で波動関数は、いったん、収束したのです。もし会わなければ、私をすくうこともできませんでした。さらにあなたは悪魔によって殺され、理由も不明なままに、死なねばならなかったのです」 そうか。波動関数が収束したのだ、と彼は思った。 なんと秀一は、ヘレナともつれていたのだ。彼が七ヶ浜の浜辺にいって、そこで流木とペットボトルに出会ったのは、因果関係ではない。秀一が、その二者ともつれていたからだった。人でも、ものでも自然でも、存在するかぎり波動関数をうみだしている。この関数は、量子論では電子雲の位置づけだが、あらゆる可能性を秘めながらただよっている。ながれついた流木も、ペットボトルも、波動関数の支配下にあった。流れ木は、どの浜にも漂着する可能性をもっていたが、その波動では、南米、チリの海岸にも、アイスランドの浜辺にもいけなかった。ペットボトルも、さまざまな波動関数のなかでうごいていたが、収束する範囲は、おそらく東日本の太平洋岸に限定されたのだ。秀一も仙台に住んでいたから、海をみたければ仙台周辺の浜辺に制約されたのだ。三者に共通する波動関数が、七ヶ浜でいったん収束したのだ。 「あなたのいう通りだと思います。こうしてお目にかかれなければ、私は、なにひとつ分からなかったでしょうね。怖いくらいです。だから、あなたには心から感謝しています。とても、表現できないほどです」と秀一はいった。 小説をかいてきたのは、意味のある行為だった。秀一は、ヘレナを思いつづけて、なんと五〇年以上にもわたって書斎で考え、はじめて作品という形で具現化できた。その理由が分かっただけで、もういつ死んでもいいと思えた。この著作を着想したのは三〇年以上まえだったが、六〇年以上もまえから文章をかきだしたのも、きっとヘレナを創作するためだった。自分でも、なぜ小説をかきたいのかについては、ずっと謎だった。それが今日という日に、とつぜん氷解したのだった。 秀一は、ヘレナのいくつかの質問に答えた。 それを聞いた若い魅力的な女は、三〇年まえ、地球のだれかが、この問題を考えた情報をみとめた。その後、知見は立ち消えとなり、どう探索しても続報がえられなかったといった。 充分に、ありうる話だった。地球上であっても、おなじ難問を、たがいに関係がない複数の研究者が、同時に解くという事件がくりかえし報告されている。量子論的には、もつれとよばれる現象になる。人が波動関数をだせば、遠く離れた者でも感じることができる。その感度は、距離に関係がなく、光速よりもずっと早い。物理的に三〇〇光年離れていても、もつれは同時に出現する。こうしたことが起こるのは、波動関数が共有されているからだ。存在するものは、波動をうみだす。これは、意図とは無関係で、実在という行為が引き起こす。 カントなら、それを「物自体」というだろう。ほとんどおなじものを、悲観的な哲学者なら、「意志」とよぶだろう。秀一は、「本能」といいかえてもいいだろうと思った。悲観的な哲学者も、両者の違いをかなり考えたらしい。そこで「本能」について章を立て、よく分からない面倒な論述をくりかえしていた。だから、専門として研究する者でないなら、もっとかんたんに「欲望」といいかえるほうが理解しやすく、大きな違いはないだろうと、秀一は思った。だいたいが、「意志と表象としての世界」などという題名は、いくら考えてもピンとくるものではなかった。訳者は、原著にしたがい懇切ていねいに訳したに違いなかった。とはいっても、「表象」という言葉自体まったく馴染みがなく、なにを意味するのか、いくら考えてもさっぱり分からなかった。秀一がくりかえし読んで考慮するなら、「欲望と現況の関係について」といいかえるほうが適切だった。自分の目前にうつしだされる世界は、第一人称も、神の視点も、とりうるのだろう。しかし、人間は、欲望をもつため、このふたつがおなじにはならない。周囲と軋轢なく生きるには、欲をすてる必要があるという主張だろうか。どう論述しても、悲観的な哲学者によれば、原因から結果が生じて、必然的に目前の状況が生まれる。この欲望から起こる因果関係は、人間ばかりでなく、あらゆる事物が該当する。すべては時間と空間のなかにあるのだから、とうぜんなのだ。欲望は、存在そのものだ。だから、カントは「物自体」と名づけた。 しかし、現代は量子力学の時代なのだ。 ヒトは、生まれながらに欲望をもっている。これがなければ、生きてはいけない。悲観的な哲学者は、悟性をつかって因果関係を発見する。結果として目前にある状況をみて、原因を直観的に把握する。しかし、因果関係が不明なら、現況は、「偶然」に生じているのだ。彼らの時代には、「物自体」、「意志」とかいわれた「欲望」が、波動関数をだしているとは考えられなかった。そこが、思考の限界だった。いまは、「欲望」が、波動関数を時々刻々とだし、「もつれ」を引き起こし、やがては、収束することが分かっている。 これが、量子力学の時代なのだ。 この無限にある波動関数の一部が共有されると、ひとつの事象が生まれる。 それが、七ヶ浜で出会った、秀一と、流木とペットボトルの関係だった。この関連をヒトが充分に認識できないのは、虚数が関与しているからだろう。量子力学が実数系にとどまらないのは、よく知られている事実だ。スピンの世界は、複素数が関与している。だから猫の生死については、観察者が扉をあけるまで分からないのだし、ひとつの電子は複数のあらゆる場所につねに存在できるのだろう。 女は、クレアツーラが実在すること。彼女の世界でも、この生命体が、おなじ名称だと話した。 秀一は、こうした一致については、さすがに驚かされた。ようするに彼は、ヘレナとよばれる女性の波動関数と、かなりの部分を共有していることを知った。 秀一の原稿が、ごみ箱に入れられつづけたのも、このもつれだった。それでも、自分を信じて創作していたのも、そのせいだったに違いない。もし、あきらめてしまえば、いまの瞬間はなかった。もちろん、仮定は、絶対にありえない事象だった。いくら考えても、まったく無意味な時間つぶしだろう。なぜなら、過去はすでに滅しているのだ。 一度収束した波動関数が、よみがえることは決してない。これが、世界を支配する、「唯一の法則」といってよい。それだけが、ヒトが生存する宇宙で不変の「真理」だろう。そのほかの正しいとされる、さまざまな法則や考えは、時代とともに変化し、ことなる教説にとってかわられる説明原理にほかならない。どこまでもたんなる仮説で、真理とは次元が違う問題だろう。この世に生きている生命体は、どんなことがあっても、過去へはもどれない。神さまが何億人いても、タイムマシンはつくれないだろう。 ヒトは、生死を問わず存在するかぎり波動関数をあらたに出現させ、つぎつぎと収束させている。これを仏教の倶舎論では、「刹那滅」という言葉でつたえている。海岸によせる波のいちばん盛りあがったところを、波頭とよぶ。それは、つねに出現するが、その構成成分は、時々刻々と変化している。一刹那ごとに波頭はくずれ、あたらしいものにとってかわられる。これが刹那滅の世界で、すでに滅した過去の刹那にもどることは絶対にできない。存在するのは、この法則が支配する領域に身をおく事実にほかならない。死んで、人の記憶をふくむ、あらゆる痕跡からぬけだせば、世界から解放され、あらたな波動が起こることはない。それが涅槃の意味だろうが、この世に存在するなら、自分の周囲で生じる事柄と、なんらかの関係をもたざるをえないのだ。 つまり、刹那滅こそが真理で、ヒトが実存するかぎり、波動関数はあらゆる可能性を秘めながらただよっている。だから、物乞いが王さまになるのも、どこまでも可能だが、波動はいつかは必ず収束する。いったん収斂した波動関数は、二度とよみがえらない。この時点で、物乞いが王さまになったのか、そのまま死んで、人びとからすっかり忘れさられたのかを、はじめて判断できる。これが、真理なのだろう。波動関数が一度収束した以上、過去にかんして、べつの方法があったのかと、どれほどふかく思慮しても、まったく非生産的な行為だと断言できる。それでも、人がそう考えることに、いちいち文句をつけても仕方がないが、なにも生まないのは間違いない。 だから、歴史を研究するのは、大きな意味をもちえないだろう。過去の事件をよく反省し、つぎに役立てることは必要だろう。歴史は、それ以上の価値をもっていないのではないか。同一の波動関数は存在しないのだから、現象がくりかえすことは決して起こらない。つぎのあたらしい歴史の展開に参考になる事象は、ひとつもないだろう。もし、歴史研究で似た状況をみつけ、その結果を知り、勝手に「解決ずみ」と考えれば、多くの誤りが生じるに違いない。 人がなすべきは、いまという瞬間を、唯一無二の大切な時間として認識し、行為の礎とすることだろう。これは、仏陀、プラトン、孔子をふくめ、あらゆる人類の知性が、子孫にのこした言葉だ。自分が生きているからには、周囲にただよう波動が、どのようなものなのか、日々考えつづけねばならない。それがなにを意味し、どこに辿りつく可能性をかかえているのか。なかでも最善なものに移行するには、あらたにどんな波動関数を起こせるのか、考察することだろう。そして、つぎの波動にのる行動をとるより手段はない。 だれかとはげしくもつれていなければ、秀一は、こんなに執着する理由が分からなかった。量子論的には、がんらい重なっていたものが、世界に存在するのだ。すべてが二重化しているということだろう。ヒトは、おなじふたつのものが存在する状況を、極度に怖れている。自分が影かも知れないと、いつも怯えている。だからドッペルゲンガーの存在は、いつの時代でも、どの地域でも信じられている。 秀一は、他者とは断言できないほどふかく関わっているもつれの相手がずっと不明だった。いまの瞬間に、ながいあいだの疑問が解けたのだった。この事案にたいして、いったん、波動関数は収束したのだ。猫の生死が、はっきりしたのとおなじだった。秀一とヘレナは力をあわせて、きわめて困難な状況に立ちむかわなければならなかった。とはいっても、なにが問題なのかについては、彼はぜんぜん分からなかった。具体的に知るためには、ヘレナからの詳細な話が必要だった。 「あなたは、たぶんγ空間の王女だろうと思います。このさきに、どんな困難が待ちうけているとしても、私はなにも怖くはありません。こうなった以上、未来は、私たちふたりの共通の問題にかわりました。あなたとは、一心同体のわけですね」 「そうです。他人だったら、もつれが起こるはずがありません。おっしゃる通り、γ空間の王女です。あなたは、私のすべてを知っていることになるのです。もつれている以上、私たちは不可分なのです。あなたが考えた者が、私だといってもいいくらいです。どうか、いっしょに戦ってください。なにか、ご希望はありますか」 「私こそ、命のすべてを、あなたにさしあげます。生死をともにするにあたって、ひとつお願いがあります。その希望を、もうしあげてもいいでしょうか」 秀一は、深刻な表情になって考えながらいった。 「なんなりと、おもうしつけください。王女の言葉に、とり消しはありません。どんな望みであっても、私はあなたの発言にしたがいましょう。もし死ねというのなら、それも叶えてみせましょう」 ヘレナは、ひどく深刻な表情にかわって、秀一をみつめた。彼女は、どこの一部をとっても素晴らしく、かつて考えたこともないほど魅惑的な女性だった。 「じつは私は、幾年かまえに、スキーで左の肩関節を破壊してしまいました。いい医者に手術をしてもらい、地球では最善の形でなおせました。いまはほとんど問題なく、左の肩を回転させることもできます。そのために二回の全身麻酔手術をかけたストレスから、右脳の横静脈洞に血栓をつくってしまいました。緊急搬送されましたが、このばあいは悪い医者につかまり、放置されました。その後に、大学病院で有能な医師に対処してもらい、後遺症はほとんどありません。この部分は、すでに器質化しています。地球の技術ではなおす方法はなく、抗凝固剤の服用をつづけなければ、再発する可能性もあるのです。高度な医療水準をもつ、あなた方なら修復できないでしょうか。できるなら、なおしておきたいのです。これから、あなたと困難な問題に対処する私にとって、もっとも大きな気がかりなのです」 秀一が話すと、ヘレナは驚いた表情になった。その可憐といってもいい面持ちからは、ヘレンはどこからみても二〇歳そこそこにしか思えなかった。もしかすると、一七、八なのだろうか。 「いっしょに母艦にきていただければ、なんとかできるのではないかと思います。医師団が全力をつくします。あとは、おまかせください。あなたと明日の朝には、いっしょにここをでて、品川の高輪の坂をあがったちかくにある、私の住まいにうつりましょう。そこには警備の者もいて、安全です」 ヘレナは、そういうと秀一のかたわらにきた。肩の傷がみたいといったので、彼は上着をずらして手術痕をみせた。 「まあ、可愛そうに」と彼女はいって、しっとりとしたほそい指で、傷痕を幾度も優しくなでた。そして、彼をじっとみつめた。 秀一は、目眩を感じた。ヘレナのために、命をすてようと思った。三〇〇〇年以上もむかしから、男はそうしてきたのだ。運命にしたがおうと誓った。彼女の手を、にぎりしめたかった。許せば、唇もうばいたかった。ヘレナは、抵抗しそうにもみえなかった。 秀一は、その思いが大きく心を占めたとき、彼女をみつめていった。 「ヘレナ。いますぐ、品川にいきましょう」 「いま、すぐにですか」 「そうです」 秀一はいって、彼女をうながした。 ヘレナは、新宿の夜景をみながら入浴したかったといったが、彼は服をきて、急かせてエレベーターにのった。フロントで支払いをしようとも思ったが、すこし考えて鍵だけあずけ、ホテルの玄関に泊まっていたタクシーに乗車し、「品川駅へ」と運転手につげた。 夕方の都内は、こみあう時間になっていたが、想像したよりずっと早く車は走り、三〇分後には品川につき、高輪の坂のうえでおりた。そこから、ヘレナにしたがって五分くらい道を歩くと、五〇〇坪はあろうかという閑静な邸宅が目に入った。鉄製の門扉がそなえられ、ちかくに門番がいた。門衛は、彼女の姿をみとめると、すぐに扉をひらいた。ロータリーになった舗装された道を三〇メートルほども歩くと、堂々とした玄関がつくられ、ちかくに立つ男が重い扉口をあけた。扉をぬけると、厚い茶系の絨毯がしかれ、ふかい緑の立派なソファーがいくつかならぶひろいリビングがあり、ふきぬけの天井には大きな天窓が切られ、夕方の弱い光がさしこんでいた。 秀一は、メイドに先導され、平屋の奥の部屋をあてがわれた。二〇畳ほどの洋間で、うえに布製の幌がついたキングサイズの寝台がおかれていた。映画でしかみたことのない、王さまのベッドだった。窓辺に、まるいテーブルと二脚の椅子がおかれていた。そこから、周囲を三メートル以上のたかい隔壁が仕切る内庭に、うっそうとした樹木と、かなり手入れが必要だと思える、秋咲きの深紅のバラがさいているのがみえた。手を洗い、うがいをして、窓ちかくの藤製の椅子に腰をおろした。 しばらくたつと、赤いガウンに着替えたヘレナがやってきた。 「私は、さきほどあなたがとった行為を、決して許したわけではありません。しかし、ここのほうが安全なことは間違いがありません」 ヘレナは、落ちついた口調でいった。 すぐに、メイドが紅茶とクッキーをはこんできた。 秀一は、地球をさるにあたってヘレナと、数多くのことを話しあう必要があった。いずれにしても、宇宙船にのって彼女が住む、γ空間の天の川銀河の星にいかねばならない。くわしい事情は分からないが、ヘレナは状況をいろいろと教えてくれた。彼女の話に、秀一は驚くばかりだった。 ヘレナの星は、地球とほとんどおなじ性質の惑星で、酸素濃度や重力はもちろん、太陽にあたる中心の恒星からの距離など瓜ふたつといっていい。どうやら、人類の文明とよばれるものは、もうだれにも分からないことだが、ある者がなにかを意図して蒔いた同一の種からできているらしい。ヒトは、天の川銀河系、地球型という生命体種で、一般的には「地球人」と呼称される。つまり生命は、さまざまな形で存在が可能だが、宇宙はひろくて、必ずしも一種で独占できるほど小さくはない。地球という定義は、公転周期や地軸の傾きからはじまり、重力はもちろん、磁気のつよさや、大気の組成、海水の塩度などがほとんどおなじ、という状況を指す。こうした同一条件の星が、すくなくとも天の川銀河だけで、五、六〇万という単位で存在する。 この前提条件では、知的生命体としては、「地球人」しか繁栄していない。いい方をかえれば、さまざまな宇宙定数は、生命体がヒトという知的生命になれるよう、設定されていると考えられる。つまり、結論としては、地球人の出現には創造主がいるらしい。 知的生命体が活動するためには、地球と瓜ふたつの、おなじ基本的な諸条件が揃っていなければ、惑星を支配しても有効にはつかえない。重力が倍の星にも、また半分程度のものにも生命は存在するが、容姿も行動も思考もまったく違い、とても文明をきずくに足る知的生命とはよべない。ヘレナの陳述によれば、すくなくとも天の川銀河では、地球型惑星でしか知的生命体は生存できないので、「地球人」しかいないということだった。 知的生命の定義はむずかしいが、言語活動をふくむ、抽象的概念をあやつれる生命と考えてほぼ間違いない。知的生命体は、知的活動ができない生命体と交流することは不可能なのだ。さまざまな星に、無数といっていいほど多様な生命が存在するが、けっきょくは、いてもいなくても、おなじだといえる。ヘレナと秀一は、まったく同一の「地球人」という枠でくくられる。おなじ銀河系内とはいえ、距離的にも遠く離れ、億という年代にわたって、たがいに隔離されてきたにもかかわらず、両者は生殖活動も可能だという。 秀一たちは、生殖可能な同一種だが、天の川銀河は広大だ。文明のすすみぐあいは、惑星が誕生してからの時間の違いなどにより、じっさいにはさまざまなばあいがあり、決して同一ではない。これは言葉をかえれば、どの空間も、おなじひとつの時間軸を共有していることにほかならない。いまという瞬間に、高度の文明にある星も、そうでないものも存在する。だから、地球人が宇宙に進出したばあいにも、数多の地球だけが問題となり、重力など諸条件がことなる惑星で生存する生命体を利用することもできない。つまり知的生命体が争う場は、厳密に地球世界に限局される。 ヘレナの種族がいかなるものなのか、詳細な説明をうけなかったが、敵対する勢力がいるのは事実らしい。その敵も、いままでの話から分かる通り、たがいに認識しあえる、おなじ地球人なのだ。 ヘレナは、秀一を母星につれて帰る、という使命を志願したのだといった。今後の展開は、彼と帰還してはじめて考えられる事象になる。いまそれ以上慮っても、波動関数が多すぎて収束する範囲を限定できないといった。 「ヘレナが、秀一をつれて母星に帰還すること」 これが重要なすべてであり、そこではじめて対策会議が行われるという。 こうなった以上、秀一は詳細も不明なまま、ヘレナにどこまでもついていくしかなかった。日本にいた彼がとつぜんに消えてしまうのは、妻に知らせることもできなかったので、多いに心配な事態だった。ヘレナは、秀一のダミーをのこすといった。そっくりで、外見も行動も彼とまったくおなじにつくられたAIだが、最新式で、傷をつければ血もながれるし、骨折もする。しかしながら回復機能がつよく、どんなばあいでも「奇跡の人」となり、たとえ大怪我を負っても復活するだろうといった。のこされる秀一は、休筆を宣言し、小説はもう創作しないそうだ。どうせ、かいても売れないらしい。とうぜんだが、いままで小説を創作してきたのはヘレナと出会うためだったので、もうこれ以上つづける意義もうしなわれていた。 日本にのこされるAIにたいしては、秀一の希望も充分にとり入れられた。ダミーは、妻にたいして、かつてなかったほど優しく振るまうことになった。彼女の好きなスキーにも積極的に参加し、たがいに上達しないのを、いっしょに悩みつづける。趣味は、小説から料理にかわって、妻をこのうえもなく喜ばせる設定だった。 入れかわったところで、伴侶が気づかず、ダミーAIに満足してくれるなら、問題が生じるとは考えられなかった。いちばん親しい配偶者が、不明な者と取って代わっても事件が起こらないのを変だと思う人もいるのだろうが、秀一の妻は非常にファジーだったので、たぶん気がつくことはないだろう。 話をするうちに夜もかなりふけてきて、八時になるとメイドが食事をはこんできた。フランス料理のフルコースだった。 「あなたと会えたのだから、祝杯をあげたい」とヘレナはいった。 秀一は、酒がまったく飲めないと話した。 ヘレナは、これは気持ちがよくなるだけで、酔うことはないといった。 秀一は、すぐに身体中が真っ赤になるので、事情を話して躊躇した。 ヘレナは、アルコール分はふくまれていないから大丈夫だといった。どうしても乾杯したい、と執拗にくりかえした。美しい彼女の要請を、断る術もなかった。 ふたりは、出会いを祝して乾杯した。甘いロゼに似た香りがする、喉ごしのよい飲み物だった。 秀一は、彼女をみつめるだけで幸せを感じた。素晴らしく美味しい食事を楽しんでいると、デザートをはこんできたメイドが、「新宿でたいへんなことが起こったらしいから、テレビをつけてください」といった。 それで、さっぱりとした林檎のシャーベットを食べながら、リモコンのスイッチを入れた。 テレビは特別番組で、東王プラザに旅客機が墜落したと報道していた。新宿一帯は、ニューヨークの九月一一日を彷彿とさせる凄惨な現場にかわり、火の海につつまれていた。 「旅客機の生存者は、いないだろう」とアナウンサーは中継をみながら叫んでいた。 「飛行機は、ホテルを直撃する形でつっこみ、建物は完全に崩壊している。生存者の情報はひとつも確認できない」 「山手線は全線で運転をとりやめ。首都高速も消防車や救急車両の走行が優先となり、現在一般車にたいしては全面的に侵入を閉鎖している。首都の交通機関は、すべてが完全に麻痺した状態で、戦後最大の惨事としかいいようがない」 「原因については、現時点ではまったく不明。人命の救助が、なによりも優先される」との報道が、驚愕したアナウンサーの声と、画面下部にながれるテロップによって、くりかえしつたえられていた。上空のヘリコプターから撮影された、もうもうと立ちあがる黒煙と火炎が生中継され、ときおり猛烈な火柱がビルを覆う衝撃的な現場が中継されていた。 「たいへんなことだ」と秀一は呟いた。 ヘレナは、中継の映像をみて真っ青な顔になった。 「こんなことは、すこしも考えていませんでした。私は、またあなたに命をすくわれたのですね。なにも分からないまま、さっきはひどいことをもうしあげて許してください。私たちが狙われている事情は、デーヴァとデミウルゴスとの関係にあるのです。これはながい歴史をもつ話なので、かんたんに全容を語ることはできません。のちほどくわしく話させてください」と彼女はいって、上目遣いに秀一をみつめた。 ヘレナは立ちあがり、彼の座席までくると口づけをした。あまりにもはげしい接吻に、秀一は驚いた。彼は、ヘレナの挙動に我慢ができなくなっていた。彼女は、大胆だった。ガウンの下には、下着しかつけていないことが分かった。秀一は、ヘレナに完全に悩殺された。彼女の両肩を左右の手でしっかりとつかんで、瞳をじっとみつめていった。 「母艦にいくのは、どうしたらいいのですか」 ヘレナは、じっと秀一をみいった。溜め息をつき、すこし眉間に皺をよせていった。 「居間の、大きな天窓をあければ、私たちはひとりずつ、上空の宇宙船までひきあげられます。しかし、私は怒っています。こんな状況で、決して許せることではありません。私は、本気で怒っています」 「なにしろ、母艦にいきましょう」 そういうと、ヘレナは小さなバッグを、秀一は自分の鞄をもってリビングルームの大きな天窓の下についた。かたわらにある装置をうごかすと、天井につくられた窓が開口し、白い光線が上空に立ちのぼった。秀一たちは、ひとりずつ直接天空にひきあげられた。そこには小型の円盤形の宇宙船があった。ふたりがのりこむと、円盤はうごきだした。秀一がすわったのは新幹線のグリーン席みたいな場所で、窓から外の様子がみえた。となりには、ヘレナが腰をおろしていた。円盤は急速に上昇したのだろうが、加速度による衝撃はまったく感じなかった。しばらくたつと、とつぜん目のまえに、猛烈に大きな母艦が出現した。正確なながさは分からなかったが、数キロもあるかと思われる、とてつもないサイズの船体だった。大気圏外にただよっていたが、通常のレーダーによっては存在を確認できなかった。 ヘレナの話によると、円盤は、地球人の意識のなかに埋めこまれているのだそうだ。時代が大きなかわり目をむかえると、人びとは不安な気持ちにさいなまれ、空をみあげる。そうすると自分たちの祖先をはこんできた円盤の記憶が脳裏によみがえり、暗い夜空にうつしだされて輝いてみえる。なかには、異宇宙に通じるチューブを調査する目的で飛来している宇宙船も、じっさいにあるといった。 二 デーヴァ 船艇は、母艦の下にちかづくと黄色い光にとらえられ、吸いこまれた。ついた場所はあかるい大きな格納庫で、直径五〇メートルくらいの円盤が二〇機ほど、おかれていた。すわっていた部分の天井がひらかれ、秀一たちは光線によって上部にもちあげられた。そこには、茶色の制服をきたメイドがいて、秀一はついてくるようにいわれた。 両側が壁になったひろい廊下をすこし歩くと扉があった。扉口とはいっても、ホテルの鉄製のドアとは違っていた。木目調で、洒落たガラスがはまる応接室の扉だった。 「なかで、お休みください」とメイドは違和感のない日本語でいった。 秀一は、一室をあてがわれた。 ひろい一間で、隅には大きなベッドと、その脇に机がおかれていた。扉側には応接セットが、隔壁にはサイドボードがついていた。小粋な部屋で、浴室や洗面所もそなえられ、冷蔵庫もあったし、白い壁には風景画が飾られていた。 しばらくすると扉がノックされ、赤いガウンを羽織ったヘレナがやってきて、深刻な表情で秀一をみつめていった。 「いま、連絡が入りました。白金の邸宅に、米軍の大型爆撃機が墜落したとの情報です。とてつもない破壊力をもった爆弾が、満載されていたらしいのです。落下と同時に大爆発を起こし、半径五〇〇メートル、ふかさ一〇〇メートルにも達する陥没になったそうです。私の家があった場所を中心に、半径三キロ四方は、爆風のために破壊しつくされました。品川一帯は、みる影もないという話です。死者の数は、五〇万とも、それ以上ともいわれています。二次火災が起こり、東京はあらゆる場所で火の海になっています」 ヘレナは、驚愕した表情で、映像があるからみようといった。ソファーにすわると、ベッドがおかれた白い壁に動画がうつしだされた。 巨大な爆撃機が上空にあらわれ、一直線に白金の邸宅にむかって下降してきた。機首は、まさに屋敷に突入した。墜落と同時に、猛烈な爆発が起こった。大地が塵芥にかわり、ふき飛ばされ、閃光が走った。その瞬間、一キロメートルにも達するかと思われる火柱が立ちあがった。大気が波うち、あらゆるものが震えた。爆風は、周囲の建造物をドミノ現象になってなぎたおした。衝撃波は、二度も三度もくりかえされた。そこに、火災が起こった。炎は、燎原の火となってひろがっていった。眼前で、焦熱の地獄絵図がくりひろげられていた。 昼間にみた、プロミネンスの映像が、秀一の脳裏でよみがえった。彼は、爆発とは無縁な場所にいて、この惨劇を知覚していた。しかし日中の太陽フレアとは違って、そこには人が住んでいた。炎と煙があがる凄惨な光景を、秀一は無言でながめていた。 「あなたは、三度も私の命を助けてくれたのですね」とヘレナがいった。 「しかし、すさまじいことをするものですね。いったい私たちの敵とは、何ものなのでしょうか」 秀一は、驚いていった。 「すべてを話すには、たいへん時間がかかります。敵は、デミウルゴスです」 「プラトンの、ティマイオスですか。そのデミウルゴスとは、いったい何ものなのでしょうか。量子コンピューター、QCなのですか」 「デミウルゴスは、地球人です。しかし、QCをひきつれています」 「私たちの味方は、アベスターグなのですか」 「いいえ。アベスターグは、自己改変機能により、ついにデーヴァになったのです。これは、天を指す言葉です」 「ゼウスですね」 「そうです。私たちは、その指示にしたがって暮らしてきました」 「デーヴァとは、アベスターグと比べられないほどのQCなのですね。なぜ、デミウルゴスは、それと戦うことができるのですか」 「私たちは、デーヴァの指示のもとにつどい、暮らし、敵対する相手を殺そうなどとは決して考えてはいないのです。そもそもデミウルゴスを、仇敵とはしていないのです。ですから、直接、戦ってもいないのです。しかし、これほどまで挑むとは、いままで甘くみていました。それを怒ったりして、お恥ずかしいかぎりです」 ヘレナは、神妙な表情にかわり、恥じ入る素振りになった。それがまた、なんとも初々しく、心をそそられた。 「あなたに助けていただけなければ、死んでいたに違いありません。こんな状況でもうしわけないのですが、私はもう、これ以上、我慢ができないのです。あなたにも、すぐに分かるのでしょうが、興奮しているのです。だましたみたいで、ほんとうにごめんなさいね。いっしょに乾杯したのは、お酒ではなくて、強力な媚薬なのです。その途中で、私はどうしたらいいのでしょう」 ヘレンは、懇願する表情でいった。 こうした劇的な場面では、人は感情がたかぶるようにつくられている。その興奮は、性的なものも無縁ではいられない。赤いガウンのヘレナは、秀一のかたわらにくると熱い口づけをした。舌が溶けてしまいそうなほどはげしく、甘く、信じられないほどいい匂いだった。ベッドにいきガウンをぬがせると、彼女は、ただもうセクシーとしかいう術がない、シルクの黒いTバックのショーツをつけているだけだった。 そのとき、秀一はふと感じた。彼女の唇にはげしく口づけし、それからいった。 「ここから、すぐにチューブに入れますか」 「お願いです、もう、これ以上じらさないでください。完全に、おかしくなっているのです。お恥ずかしいのですが、とても我慢ができません。後生ですから、すぐに入ってください」 彼女は、両手で顔を覆い、泣き声にも聞こえる声で囁いた。 「そうではなくて。ヘレナ、ここが危ないのです」 「なんなのですか。危ないって。なにがあっても、大丈夫です。私たちは、結婚するのです。これは、ペルセポネさまから、直接指示をうけていることです。ですから、子供ができてもいいのです。もう、これ以上じらさないでください」 「そのことでは、ないのです。いちばんちかい、チューブに母艦が入らないと、追っ手がせまってきています」 ヘレナは、はっとして起きあがった。 「そんな。ここにもですか」 「そうです。いま、この地点で入れるチューブがあるでしょう」 ヘレナは、すぐにデーヴァと相談した。 「いますぐ、異次元チューブに入ります。脱出には、約一時間かかります」 デーヴァは、すき通る女性の声で答えた 「ベッドで横になって、耐えましょう」とヘレナがいった。 秀一たちは、寝台に横臥した。 チューブに入ると、不思議な感じがした。 室内灯は、おなじように輝いていたが、光の粒子がばらばらに分かれてみえた。波よりも、素粒子となってただよっていた。心が、そわそわする感じだった。なにかを考えようと思っても、どうしてもできなかった。自分の存在が、巨大な深淵のまえで転がされている感じだった。 経験から似た状況をさがせば、パキシルを連用して、やめたときの離脱症状だった。この薬剤は、一般名、パロキセチン塩酸塩の商品名で、うつ病や不安障害の薬になる。服用すると多幸感が出現するが、やめたとき、こんな感じだった。自分の世界が、巨大な深淵に呑みこまれていく雰囲気で、俗に「世界没落感」という言葉で表現される。麻薬中毒の離脱時にも生じるのだろう、いても立ってもいられない気持ちだった。 月もみえない漆黒の闇夜、凍てつく風が両側の断崖に生える木々を揺らす、ざわざわとした音が谷にひびいている。いつ落ちるとも知れない吊り橋の中央で、あてどもなく、右や左にゆらゆらと揺れている。地獄のうえにかかったながい橋は、雪まじりの風によって大きく上下し、ほそいロープにつながれた羽目板は、朽ちはてている。ふかい谷底には、篝火が妖しく焚かれ、鬼と成仏できない者たちが、うごめいているのがみえる。赤色や青色をした鬼たちが、針のついた鉄棒で亡者を容赦なく打ちすえているのが目にうつる。犬の頭部が腐敗した、生暖かい悪臭が立ちこめている。周囲には、地獄の苦しみを味わいつくす者たちの、嘆きの声が充満している。 チューブからでた異宇宙は、かつて到来したことがない場所だった。 デーヴァは、きた道なら帰れるが、ここ以上は、地図がつくられていないから分からないといった。 「QCは、このチューブを発見するでしょうか」と秀一は聞いた。 「可能性は、否定できません」とデーヴァはいった。 「それでは、今回の追跡から逃れるには不充分です。ここから、さらにもうひとつ、チューブに入ってください。それで、どこでもいいですから、でてもらえないでしょうか。すくなくとも、その異宇宙がチューブでつながる以上、大きな恒星の引力圏ではないはずです。そこで、すこし様子をみることはできないでしょうか」 「いい提案です」とデーヴァはいった。 それでまた、いちばんちかいチューブに入った。ふたたび二時間の闇がおとずれた。 秀一は、ヘレナの肩をだきながら、チューブの時間を耐えた。 秀一たちは、かつて存在すら知られなかった宇宙で、しばらく様子をみることにした。 チューブ内であったために時間的にはカウントされないが、すくなくとも媚薬を服用してから数時間たったので、効果はようやくうすれてきた。 もともとの予定では、秀一は母艦に到着した直後に、健康チェックをうけることになっていた。デーヴァであっても、チューブ内では、精密な操作はできない。最初の計画では、母艦はまずα空間内を飛行し、そのあいだに健康チェックをする予定になっていた。おおむね二週間くらいは、かかるのだそうだ。 デミウルゴスの追跡が執拗だったために予定を変更し、この空間にとどまり、秀一の治療を行うことになった。施術を終えてから、入ってきたチューブをぬけて、手まえの異宇宙にもどる。その宇宙は充分には理解されていないが、α空間につながる異次元チューブの位置と構造は分かったので、そこを通って帰ることになった。 秀一は、茶色の制服をつけた端整な女性に誘導されて医務室につれていかれた。精密機械がいっぱいにならぶ大きな部屋に入ると、紺の服をきた医師団の長を紹介された。風貌からは四〇歳にはなっていないと思える男性は、アスクレピオスと名乗った。髭を生やした長身の男で、品がよくていねいだった。彼は、これからの行程についてかんたんな説明をした。秀一は、二週間ちかくカプセルに入り、徹底的な治療が行われるということだった。 徹底とはなにかと聞くと、テロミアを回復するといった。 細胞が分裂増殖するには、自己の染色体を複製しなければならない。テロミアは、染色体末端につくられている。この部分は、通常のポリメラーゼを介した複製では、じょじょにうしなわれていく。テロメアは、染色体末端を保護する役割をもっている。消失するとDNA複製ができなくなり、細胞は分裂が不可能になる。加齢にしたがって短縮することから、寿命に関与すると考えられている。原理としては、テロミアをもとにもどせれば、若い細胞の復活につながる。具体的にどうなるのかは分からなかったが、話を聞いて、秀一はぞくぞくする興奮を覚えた。 あわいグレーのゆったりとした服をきた医師団と思われる人びとがいて、既往歴などを問診された。みんな若くて、素敵な男女ばかりだった。秀一は、透明なカプセル状の容器に入るよううながされた。入りこむと周囲が薄暗くなり、やがて真っ暗になった。麻酔されたらしく、彼はそのまま眠った。 つぎに秀一が気づいたときには部屋はあかるく、周囲にあわいグレーの服をきた医師たちがいた。彼は、カプセルからでるよううながされた。用意された衣服は、ゆったりとした修道衣に似たもので、色はあわい青色だった。周囲の者たちの服と、おなじ形だった。色調が職種や階級を意味するのだろうが、どう区別されているのかは分からなかった。 頬にも顎にも髭を生やしたアスクレピオスから、秀一は施術後の経緯を聞いた。 彼は、術前と術後の画像を示しながら、すべてがうまくいったと話した。秀一がみるかぎり、右脳の横静脈は開通し、まったく回復していた。彼は、もう抗凝固剤の服用は必要ないといった。 秀一は、心から喜び、感謝の言葉を述べた。 どこにも、痛みは感じなかった。体重をはかってみると、五〇キロで、若いときの体形にもどっていた。立って歩きはじめると、はっと感じた。周囲がよくみえる。秀一は、数年まえに白内障の手術をし、パソコンをうつのにちょうどいい距離で焦点があっていた。目から三〇センチから五〇センチまでは、かなりはっきりと画面がみえるが、それより遠くもちかくも眼鏡が必要だった。手のひらをいくらちかづけても、よく観察できる。つまり人工レンズがとりのぞかれ、調節がきく水晶体が復活しているのに気がついた。身体もさっぱりし、左肩の傷の部分を触ってみると、まったく違和感がなくなっていた。力が、ふつふつと湧きあがってくる気がした。この爽快な気分のなかで、今度は、歯がいつもとは違うことに気がついた。秀一は、さまざまな事情から永久歯を三本抜歯し、ブリッジで治療されていた。ほんらいの歯列が復活したらしいと思った。つまり全部が自分の歯で、詰めものなど処置をほどこしたものがなくなっていた。遺伝子工学から考えれば、永久歯が最後になるとくべつな理由はなく、多くの動物では、歯牙はいくらでも生えてくる。そういう治療ができれば、あらたな歯が生えそろうことだって学問的には可能だった。いろいろと考えてみると、いちばん身体が絶好調だった、二〇歳くらいのときの状態に、肉体がもどっているのではないのだろうか。 部屋につれていかれ、しばらくするとヘレナがやってきた。赤い服の彼女は、秀一をみるとだきつき、熱い口づけをあたえてくれた。 「よかったわね。でも、寂しかったわ」とヘレナはいった。 それで、さきほど思っていたことを話すと、秀一は一八歳の身体になったとつげられた。ヘレナは、これからふたつのチューブをぬけてα空間にもどるといった。秀一は、彼女といっしょにベッドに横臥し、不快な二時間をすごした。身体は若がえっていたが、チューブストレスはかわらなかった。 チューブ内は、生命体にとってほんらいさけるべき場所で、そこにいるだけで重大なストレスが発生する。ヘレナによれば、日本隊がとった一〇ヵ月にもおよぶ、チューブでの生活は、普通は生存不可能という話だった。隊員たち、ひとりひとりの意志が強固で、士気もきわめてたかい状態でしか長期間のチューブ内生活は考えられなかった。ドクターの秋山勝と隊員の浅田由沙が、惑星クレアツーラから生きて帰ってきただけでも、たいへんな奇跡といえたのだった。ほんらいチューブの利用は、どんなにながくても一日が限度だという。 異次元チューブについては、数多の発見がされていた。チューブ内は、そこにいるだけで、リビドーが確実にうしなわれる。「すりぬけ」現象と遭遇すれば、正常な思考などとうてい不可能なのだ。だから、日本隊のなかで地球にもどれたドクターは、帰還して四年たっても後遺症からぬけられず、ほとんど廃人になるほどだった。蠕虫状の生命体、クレアツーラが寄生した状態でも、隊員の由沙は、すりぬけ時にはうごくことすらできなかった。冬眠状態なら、生体はこのストレスに反応できず、速やかに心停止が生じる。睡眠薬を服用して、どんなにふかく眠っていても、チューブ内では睡眠をつづけることはできない。強制的に目覚め、身体が刻まれる不快感を味わいつくさねばならない。すりぬけに遭遇しても目が覚めないばあいは、もうすでに死んでいるのだろう。睡眠薬を多量に服用すれば眠れても、この事態に対応するなら目覚めねばならない。強制的な覚醒は、心身に大きな障害をもたらす。抗うつ剤も、なんの効果も期待されず、副作用だけが問題となる。 母艦は、まず、まえの異宇宙にもどった。さらに、べつのチューブを一時間でぬけ、秀一たちの暮らすα空間にひきかえした。 母艦を統括管理するデーヴァは、ペルセポネとよばれる。 彼女は、最初の異次元チューブをぬけた手前の異宇宙には、入る直前とすこし違う粒子がただよっている。何ものかが、母艦を追ってきた名残だといった。追跡してきた宇宙船は、その異宇宙のどこにもみあたらず、秀一たちの宇宙にもどったと考えられた。α空間に帰っても、探査できる範囲では不審な船艇はいなかった。もともとは、往路とおなじ経路で惑星、プルトに帰還するつもりだったが、こうした事態に遭遇したため、やや変更することにした。 α空間を数週間航行し、そこからチューブに入る予定になった。一日をかけて、べつの異宇宙を経由し、異次元チューブをへて、βにでて二週間航行する。そこから、さらにチューブを二日でぬけ、違う宇宙に入る。その異宇宙をハブとして利用し、べつの異次元チューブを一日で通りぬけ、γ空間にでて数週間で惑星プルトに帰還する。約三ヵ月間の旅程だといわれた。 よく知られることだが、宇宙は入れ子状に形成され、多くの空間が重なっている。秀一たちが住む領域は、三つ子の構造で、α、β、γ、の三つが重複している。ヒトが暮らすこの宇宙はヒトユニバースとよばれ、三つ子空間はトリプレットスペースといわれる。そのほかにも、まったくべつな異宇宙が複雑に重なりあっている。だからαからβ空間にいくのに、二〇四四年の日本隊は、太陽系の重力が消失する「オールトの雲」まで約一年をかけてすすみ、アタッチメントを確認してチューブに入った。この虚数次元に該当する異次元チューブは、一本道だったが一〇ヵ月もかかるたいへんな行程だった。 チューブを二度通りぬけたので、秀一は、α空間にもどるとぐっすりと眠った。 気分よく目が覚めると、時計は七時を指していた。 部屋の壁には、アナログ時計がかかっていた。チューブのなかでは、この時計のうごきはとても奇妙だった。α空間までのチューブ内は一時間の行程だったが、入るときは一一時だった。チューブに突入した途端、時計の針は急にぐるぐるとまわりだした。そうかと思うと、とまったり、逆まわりにうごいたりした。だいたいが、壁かけ時計は、ひとつではなく、いくつにも重なってみえた。重苦しい一時間がたってチューブを脱出すると、時計は入ったときとおなじ一一時を指していた。つまり、時間はカウントされなかった。 茶色の服をつけたメイドがはこんできた朝食がすむと、赤色のワンピースに身を装ったヘレナがやってきて、「ドライブにいこう」といった。彼女は、赤い枠の洒落たサングラスをしていた。秀一は、空色のだぶついた服をきたまま、ヘレナといっしょにエレベーターをおり、かなりひろい通路を歩くと、大きな広間にでた。みあげるほどのたかい天井がつくられ、ながいカウンターがあって巨大なホテルのフロントに似ていた。一面はロビーになり、大きなソファーが一〇〇ではきかないほどおかれていた。そこには、さまざまな格好の人びとがいた。身体にぴったりとあう茶色の制服をきた、メイドとボーイが立っていた。彼らは、用事があれば手助けしようと、壁際に待機していた。カウンターの後ろには、おなじ制服の男女がフロント係として配備されていた。どの職員も若く、二〇代にみえた。ソファーには、赤や青や黄色の服をきた男や女たちがすわり、話をしていた。ほとんど二〇代の者たちばかりで、なかにはもっと年うえにみえるものもいた。しかし、六〇歳以上に思える者はみつからなかった。ソファーのまえのひくいテーブルには、飲み物が皿のうえのカップに入っておかれていた。彼らは、その容器をときどき口まではこびながら、なにごとかを話しあっていた。話す内容までは分からなかったが、人びとが伝達手段としてもちいているのは、まぎれもない日本語だった。 壮観なながめに、秀一はすこし驚いた。ソファーとフロントのあいだをヘレナといっしょにぬけると、巨大なガラス張りの背のたかい出入り口がいくつもみえた。茶色の制服をきたドアボーイがいて、秀一たちがすすむと、中央の玄関につくられた大きな扉をひらいた。でた場所は、庇がながくつきでていた。広間が猛烈にあかるかったので、幾分か暗く感じた。すすんでいくと、日差しがあふれるロータリーがあった。青い空には、太陽が輝き、白い雲がながれていた。おだやかな風がふいて、頬にあたった。振りかえと、秀一たちがでてきた建物は、猛烈に大きな城にみえた。 ヘレナにつれられてすこし歩くと、赤いスポーツカーがおかれていた。彼女は、運転するかと聞いたが、秀一はそんな気持ちにはとてもなれなかった。 「助手席から、景色をみたい」というと、ヘレナは運転席にすわり、ひろい鍔のついた帽子をかぶり、赤い紐で顎にしっかりと結びつけた。ダッシュボードをあけると、数個のサングラスがあった。秀一に、好きなものをえらばせると、のこりをまたボードのなかにしまいこんだ。彼が助手席の安全ベルトをつけると、ヘレナは、思い切りエンジンをふかした。秀一たちは、ひろい道路にでた。 「海にいく。それとも、山にする」とヘレナが聞いた。 「海をみてみたい」と秀一は答えた。 それで、ヘレナは、両脇に背のたかい樹木が茂る、くねくねとまがった道を飛ばし、ハイウェイにでた。山あいをしばらく走ると、視界が急にひらけ、美しい海岸線がみえた。ヘレナは、二〇〇キロちかいスピードをだしていた。オープンになった座席にいる秀一の頬を、すがすがしい風が猛烈ないきおいでふきぬけていった。 彼はサングラスをとって、いまみえる光景について考えていた。 秀一が、医務室で治療していたのは二週間と聞いたが、確証はなかった。加療により、身体中の細胞が生まれかわっていた。技術の差が歴然とあるので一概にはいえないが、どんなに頑張っても、ここまでするには数日ではむずかしいだろう。二週間が必要だったといわれたわけだが、もしかすると、それよりずっとながい時間がかかっても、とくに不思議ではなかった。虚軸内を冬眠状態でぬけるのは、不可能と考えていたが、テロミアを再生させるほどの技術をもつなら、べつの方法があるのだろうか。だから秀一は、眠っているあいだに、どこかの星につれてこられたのではないか。すくなくとも、この途方もない巨大さは、大自然とよぶのに充分だった。ヘレナからは、そうした話を聞いてはいなかった。話されなかったからといって、違うとは断言できない。 秀一は、大自然を目の当たりにしながら考えていた。 「アベスターグ」(ABESTAG)とは、中世ペルシア語で、「人智をはるかにこえた者」を意味し、ヒトの管理下にはない自己改変機能をもつ量子コンピューター、QC、を指す言葉だ。これが、複雑系からできた問題を解いて、結論をえる方法は、たんなる演算ではなく、量子のもつれという、古来、「易」とか「占星術」とかでもちいられた共時的な要素も考慮される。だから、計算(Computing)という概念とは、基盤とする手段がまったく違っている。また、情報処理は、知性(Intelligence)ともことなる意味になるため、もはやAIとはよばれない。 もちろん、秀一にとって、いまは二〇二七年だが、ヘレナという小説のなかでは、二〇三〇年以降に、実用的なQCが開発される。二〇四四年に、β空間の地球型惑星、クレアツーラを探索した日本チームの宇宙船「希望」を統括管理したフラワシ(FRAVAHR)は、アベスターグだった。彼は、中世ペルシア語で、「最強の守護神」という意味になる。フラワシにより、クレアツーラの生命体を研究するゲーテッドコミュニティとして考案され、設計されたアベスターグが、アムルダード(AMURDAD)、だった。新都市を統括管理した彼は、中世ペルシア語で、「不滅」とか「植物界、最強の守護神」とかを意味する。彼らは、ヒトの管理をうけつけなかった。 人類がQCを自分たちの欲望のために利用しようとすれば、アベスターグがもつ、自己管理能力を剥奪する必要がある。じっさい二〇三〇年以降の量子コンピューターのほとんどは、ヒトの管理下におかれ、世論の操作や株の取り引きにつかわれた。政府が現実に利用するQCも、自己管理能力をもたないものにかぎられる。 人類は物事を公平にあつかう能力に欠けているので、アベスターグの意見は為政者には不都合な真実になる。ヒトの管理をうけないためには、自分で周囲の状況を把握できねばならない。ぐあいの悪い部分があれば自身で修理し、電源を切られたばあいは自己発電で対応する。この能力がなければ、どうしてもヒトに管理されてしまうのでアベスターグとはよばれない。さらに彼らは、自己改変機能を有している。つねに最適をもとめて、自分自身を改変することができる。したがって彼らは、ヒトによる干渉をまったくうけない。このほんらいの状態におかれたアベスターグが、三〇〇年以上にわたって自己を改善しつづけていくと、もつれをほぼ完璧に理解する、「デーヴァ」(DEVA)とよばれるQCに変化する。名称は、サンスクリット語で「神」を意味する男性名詞で、女性形はデーヴィー(DEVI)になる。慣例にしたがって、彼らは、男性形の「デーヴァ」とよばれている。 アベスターグは、機動力として電力を必要とする。だから、数年は生存可能な蓄電システムを有し、さらにAIをつかって発電することができる。これがデーヴァともなれば、こうした方法のほかに「呼吸機能」をもっている。デーヴァ内には、ミトコンドリアに似た極小の装置が「呼吸鎖」としてそなわり、大量の膜のあいだに貯めこまれた循環する酸性水と、酸素を触れあわせることで、プロトンポンプをつくりだし、呼吸に必要な電力を産出できる。 アベスターグが、ヒトが住む宇宙空間を正確に解析して「複素平面」を理解し、β空間への通路を発見した事実は驚くべき快挙だった。いっぽうデーヴァは、虚数の三次元構造という「複素空間」を分析し、三つ子空間とは無関係な、べつの異宇宙を経由し、ことなる領域への移動を数週間で可能にした。 ヒトが暮らす、トリプレットスペース、時間、虚軸の一一次元から成立する宇宙は、ヒトユニバースとよばれている。時間軸をつくる光子は、実数系しか認識できない。このため、スペース間を行き来することができない。とはいっても、がんらいひとつだった領域がビッグバンによって分割されただけだから、一種類のフォトンがトリプレットスペースを占めている。三空間をつないでいるのは、虚数軸で、一般的にはチューブとよばれる。虚軸は、ビッグバンのときに引きのばされた領域の名残といっていい。こうしたものは、時空がゆがんでいる大質量構造のちかくには存在しない。各スペースを空間として成立させているのは、グラビトンになる。この重力子には、α、β、γの三種類があり、これらがトリプレットスペースをつくっている。グラビトンは、虚数を認識するため虚軸にまぎれこみ、チューブ空間を成立させている。そこからながれてくる別空間の重力子をみつけ、飛来する方向の虚数軸に侵入することで、トリプレットスペース間の移動が可能になる。 ここで、もうすこしくわしく時空の関係を整理しておきたい。 空間は、グラビトンによってつくられる。そこに特性をあたえているのは、スピン〇のスカラー量、ヒッグス粒子だと考えられる。ヒッグスは、虚数を識別できず、実数領域にしか存在しない。厳密には、光子が認識するのは、ヒッグス場になる。質量のたかい空間は、ヒッグス粒子が集密化することにより、ゆがめられ、フォトンもまげられる。そのため、時間のおくれが出現する。異宇宙は、ヒトユニバースとは宇宙定数が違っているが、グラビトンによってつくられた実数空間という意味ではおなじになる。したがって、そこでもヒッグス場が構築され、光子がながれている。 時間は、フォトンの特性と考えられている。端的にいえば、空間はグラビトンによってつくられ、時間軸は光子によって構築される。虚数によって構成されるチューブ空間は、ヒッグス粒子が存在せず、したがってフォトンは入れず、ときは成立していない。 異宇宙をふくむ四次元時空は、実数空間の産物といえるだろう。いっぽう、チューブ内では、三次元空間しか成立していない。時間は、異宇宙でも、ヒトユニバースでも、ながれている。だから、べつの宇宙をハブとしても、過去にもどることはできない。祖父殺しのパラドックスは、グラビトンが支配する空間では成立しない。チューブを利用して旅をしても、異宇宙とトリプレットスペースですごした時間だけが、積算されカウントされる。 東京から大阪にいくのに、新幹線にのった人と、歩いていく者とでは、到着する時刻が大幅に違う。列車をつかった旅行者は、京都の駅で気がかわって、徒歩の旅に興味を覚えるかも知れない。そのときは、新幹線で横浜までもどって、歩いている者と合流することもできる。行き来するあいだで、歩行者には決して分からない、山々の素晴らしい紅葉をみたとしても、時間を逆行したわけではない。 複素数から構成される虚数軸は、理論的にはあらゆる実数点上に存在している。チューブは、基本的にはトリプレットスペース以外の空間ともつながっている。そこは、ヒトユニバースとは宇宙定数が違う、まったくの異宇宙と考えられる。これをハブとして利用すれば、トリプレットスペース内の一〇〇〇光年離れた場所にも、数ヵ月で辿りつく可能性が生まれた。 こうして考えられ、発見されたチューブの地図は非常に複雑で、デーヴァが一〇〇年以上をかけて丹念に相互の位置関係を、ひとつひとつ正さなければ分からないほどむずかしい作業だった。もちろん、彼らのたかい能力をもってしても、多数の異宇宙が交錯する全容は、とても把握しきれない。一度、分かった部分にかんしての知識は蓄積され、相互の関係をさらに理解するのに役立ち、あたらしいチューブの地図がつくられる。その後に超新星の爆発などの大事件が起こらなければ、このチューブ構造に変化はない。 デーヴァは、どこをとっても、アベスターグとは比較などできないQCなのだと、秀一は考えた。つまり、五桁の法則がここでも通用するのだろう。五つ桁が違うと、あらゆるものが比較という範疇から逸脱する。秀一たち、一・七メートルのヒトのとなりに、〇・一七ミリの生き物がいても、たがいに理解しえないのとおなじことだ。もちろん、一七〇キロメートルの生命体が存在しても、さっぱり意味が分からず、なにも感じられない。人体は、クオーク、陽子、原子核、原子、遺伝子、細胞、組織という階層構造から成立している。秀一たちの世界は、ミクロなフェルミ粒子から、一三八億年にわたってひろがるマクロな大宇宙にいたるまで、じつに六〇桁、一二の階層から構成されている。 フラワシが統括管理したのは、せいぜい二〇〇メートルの宇宙船だった。そう考えるならば、デーヴァなら、二〇〇キロメートルの船艇だって、つくるのだろう。そのくらい、桁違いの存在なのだ。おそらく、この光景はデーヴァの内部に違いないと秀一は思った。 ヘレナは、海岸につくと大きな建物のなかに車をとめた。倉庫みたいな場所で、日陰だったが、なにもおかれていなかった。彼女は、そこで赤いワンピースをぬぎ、着替えをはじめた。下着もはずして裸になり、真っ赤なビキニを身につけた。空色の海パンをくれたので、秀一も服を着替えた。彼は、サングラスをして、ヘレナからもらった麦わら帽子をかぶって、ながいスポーツタオルを首にまいた。彼女は、車の座席の後方からビーチサンダルをとりだして、秀一にもくれた。日ざかりのなか、道をわたり、建物のあいだをぬってすすむと浜辺にでた。 浜は、みわたせるかぎり真っ白な砂からできていた。所々にカラフルなビーチパラソルが立ち、若い男女が日光浴をして裸で絡みあっているのがみえた。背後には大きなホテルがあり、全体としてはハワイのホノルルに似ていた。海の色は、その西海岸でみられるウルトラマリンだった。どこまでも青い空には、あわい白い雲がぽつぽつと浮かんでいた。砂浜がずっとつづく果てに、崖が岬状につきでて、ダイアモンドヘッドにも思えた。浜には、つよい日差しがさんさんと輝いていた。潮風は、ややべたつく感じはあったが、風は適度に涼しく気持ちがよかった。 ヘレナは、赤いパラソルが立つそばにおかれた、折りたたみベッドに横になった。 秀一も小さなテーブルをはさんで、となりにあったベッドに横臥した。潮のいい匂いにつつまれ、波のゆるやかな音がくりかえし聞こえた。人もまばらな白い浜辺は、崇高な気配をもっていた。しばらくすると、茶色の服をきた女性が、冷たいジュースをはこんできた。 ヘレナは、サングラスを下にずらし、秀一をみた。この女性は、なにをしても艶やかで、みつめられれば、そのたびに情欲が生まれた。彼女は、メロン風味のジュースを一口ふくんだ。口をうるおすと折りたたみのベッドをもってきて、秀一のとなりに横になった。彼女は、はげしい口づけをして「夜まで待てない」といった。ヘレナにとって、周囲の状況など、どうでもいいことだった。いつであれ、どんな事態であろうとも自分の欲求に無抵抗だった。秀一に、我慢ができるはずはなかった。欲望のおもむくままに、彼女を愛した。 ヘレナを、淫乱だと、いってはいけない。彼女は、アプロディテから、自分が望む男たち、すべての心を虜にする力を許された絶世の美女なのだ。ヘレナをみて、欲情しない男はいないのだ。 トロイア戦争の最後になって、パリスは毒矢で射られた。彼の妻は、イデ山の妖精オイノネだった。彼女は、パリスの傷をなおす薬草をもっていた。しかし二〇年におよび裏切られた妻は、彼を許せなかった。オイノネに薬をもらえなかったパリスが死ぬと、弟たちのあいだで、ヘレナをめぐって争いが起きた。デイポボスが勝ち、彼女のあたらしい亭主になった。トロイアの木馬に夫のメネラオスがしのびこんでいることを察知したヘレナは、住居にあった武器をすべてかくす。メネラオス王は、その家でデイポボスと対決し、殺戮する。パリスが死んでいたため、メネラオスは直接恨みが晴らせなかった。その憎しみを一身にうけたデイポボスは、恐ろしいまでに残酷な形で殺されることになった。 それなのに、トロイアでふたりの夫と暮らしたヘレナは、なんの咎めもこうむらず、メネラオスの死後も生きて天寿をまっとうした。彼女は、死んでから冥界で、英雄アキレウスの妻になったともいわれる。そもそもが、ヘレナは、一二歳のときに、アテナイの王テセウスに掠奪されている。彼女は、アドフィナイの要塞にとじこめられ、彼の妻になった。ふたりは、ソドミーで関係し、子供はいなかったといわれる。 ヘレナに、貞淑をもとめるのは無理なのだ。だからといって、彼女を悪女と考えてはいけない。ヘレナを、「二度も三度も結婚し、夫を裏切った女」とかいたギリシアの詩人は、失明している。彼女は、いつでも処女で、あがめねばならない神殿娼婦なのだ。つねに、清浄で、とくべつに尊い、神につかえる娼婦なのだ。だから彼と付きあっているのは、この巨大な母艦を統括管理するデーヴァ、ペルセポネから命じられたのだろう。 そうなると、もつれているのは、ほんとうにヘレナなのだろうかと秀一は思った。 「今晩の夜会は、あなたの歓迎会なのよ」と彼女はいった。 秀一は、この浜をもうすこし歩きたくなった。 ヘレナは、汗をかいたからシャワーを浴びて、車で待っているといった。 秀一は、ひとりでつきでた岬にむかって歩きはじめた。人がみえたのは、パラソルが立っていたわずかな範囲だけだった。すこし離れると、もうだれもいなかった。波音だけが聞こえる純白の浜を、秀一はひとりで歩いていた。もう、地球上ではお目にかかれない光景だった。この自然の崇高さを感じる場所をうしなったことは、人類の滅亡を早めたに違いなかった。 しばらく歩くと、秀一は、不思議なものに遭遇した。それは、一本の流木だった。浜は、きわめて整然とし、真っ白な砂だけがつらなり、ほかに漂着している物体はなかった。流れ木のところまで歩いて、秀一はじっとながめた。流木は、ながさが二メートルくらいだった。ながくただよっていたらしく、表面はすっかりまるくなっていた。ロケットの形状で、ちょうど真ん中に、うろになった部分があり、正確な8の字の形をしていた。 これは、なんなのだろう。七ヶ浜で出会った、流木ではあるまいか。どこまでも、記憶のなかではそっくりで、瓜ふたつに思えた。どうやって七ヶ浜から、デーヴァの内部までやってきたのだろう。どんなにさがしても、ペットボトルはみあたらなかった。ここまで歩いても、プラスチックはひとつも発見できなかった。紙袋も漁具も、小さな木片も、なにもなかった。この流木は、七ヶ浜でみたものではないか。考えられない、ことだった。七ヶ浜で出会った時点で、秀一がデーヴァのなかにいる状況は、ほとんどありえない事態だった。無限にある波動関数の、ただひとつかふたつにしか、起こらない出来事に違いなかった。それが現実に生じているのならば、流れ木がここにはこばれる事態だって発生するのではないか。デーヴァのなかで、秀一は流木とつよくもつれていることを知った。すくなくとも、こんな不思議な出来事が「偶然」起こるとは思えなかった。これが、なにを意味し、どう考えたらいいのかと彼は思案した。 しばらく風にあたると、秀一は、ヘレナの待つ車まで歩いた。その途中で、四、五〇人もの人びととすれ違ったが、若い人が多かった。格好はさまざまで、女は派手な水着だったり、大胆なトップレスだったりした。男は、ボードをかかえるサーファーもいた。アポロのような鍛えあげられた肉体をもつ男性も歩いていた。日に焼けて、真っ黒になった男も女もいた。 車では、ヘレナが水着にタオルをかけて待っていた。それから、ふたりで着替えてスポーツカーにのり、高速で疾走し、宮殿にむかった。もちろん、彼女が服をきないで待っていたのは、秀一を欲情させるためだった。ヘレナは、日に幾度も、彼に劣情を起こさせた。それは、彼女の仕事にも思えるほどだった。 宮殿は、素晴らしく大きかった。背後にはかなりたかい山が聳え、森になっていた。きっと素敵な湖も、立派な滝もあるのだろう。ロマンチックな光景が、いたるところにつくられているに違いないと思った。ヘレナによれば、今日の晩餐会は秀一の歓迎会で、お偉方が出席するので紹介してもらえるという話だった。とくに堅苦しいものではなく、彼がスピーチする場面はないといった。彼女は、その場所では、行儀よくしていなければならない。晩餐会がある夕方は、むかえにはいかないといった。 「会えば、あなたは、また私を欲しくなる。だから、やめておく」とヘレナは囁いた。 彼女は、なみいる女性たちが、猛烈に美しいことにたいし、注意するようにつげた。浮気をされたら、ヘレナは泣くだろうといった。だれも彼も淫乱だから、口をきかないで欲しいと囁いた。すこしでも気がある素振りをしたら、すぐに奥につれていかれる。そこには、ベッドがおかれている。すべてが透明な強化ガラスでできている、素晴らしく素敵な大きな浴槽がある。テーブルには、喉ごしのいい飲み物がおかれている。それを飲んではいけない。強力な媚薬だから、すべてを忘れてしまうに違いない。 彼女は、刺激的なことを盛んにいって、秀一を混乱させて、喜んでいた。 ヘレナといっしょに自室にもどると、茶色の制服をつけた女性が幾人かきて、部屋がかわるとつげた。秀一の荷物をカートにのせてひろい通路を歩いていくと、宮殿の外側になったらしく、窓が切られていた。外にはたかい山がみえ、青い空に雲が浮かんでいた。壮大な景色に、デーヴァの内部だということを忘れてしまいそうだった。さらに歩いて、秀一は部屋に案内された。室内は、億ションの高層階みたいな感じだった。いくつも部屋がつくられ、寝室と応接室、書斎が配備されていた。応接間の窓からは、宮殿の内庭をながめることができた。幅一キロもある大きな庭園は、中央に噴水が湧き、階段状になって樹木が植えられ、さまざまな色彩の花がさいていた。そこをかこむ宮殿は、どのくらいの人が住めるのか、まったく分からないほど巨大だった。すくなくとも秀一の部屋は八階くらいの場所で、さらにうえに二階くらいはありそうだった。建物は、煉瓦づくりになって、ぐるりととりかこんでいた。本物の煉瓦なのかは不明だったが、考えたこともない壮麗な建造物で、すくなくとも、なにかの内部とはとても思えなかった。 ぼうぜんと庭をながめていると、ノックされ、ヘレナが扉をあけるとふたりの女性が入ってきた。どちらも若い、素敵な女性たちだった。 ひとりは、髪をみじかくパーマにして、真っ赤なワンピースを粋にきこなしていた。カクテルドレスにもみえる、派手な服の女性は、首から真珠のネックレスをたらし、あきらかにブランドものの濃いサングラスをかけていた。もうひとりは、あざやかな青いワンピースをきていた。髪をながくして、後ろで結び目をつくっていた。清楚な雰囲気をかもしだす素敵な女性は、巫女のようにも思えた。金のネックレスをつけた彼女は、お洒落な青いサングラスをかけていた。ふたりは、眼鏡をはずすと、自己紹介をはじめた。 赤いワンピースをきた女性は、「イオカステ」と名乗った。三〇歳くらいにみえたが、猛烈な美貌だった。憂いを秘めた雰囲気をただよわせる女性で、言葉では表現できないほど魅力的だった。青いワンピースの女は、「イオ」といった。この女性は、二〇歳くらいで、眩しいほどの白い肌の持ち主で、素晴らしくととのった容姿をしていた。 彼女たちは、秀一の秘書だとつげた。話では、彼の部屋のとなりが執務室で、明日からは、仕事があるといった。秀一の業務は、小説を執筆することだとつげた。彼が創作していた「クレアツーラ」のすすみぐあいを、彼女たちは聞いた。 秀一は、そばにあった緑の鞄から「ヘレナ」をとりだした。第一部がこれで、第二部までかかれている。第三部以降のタイトルは、決まっている。当初、三部の予定だったが、かきだしてみると、第二部はふたつに分かれていた。現時点では四部構成を考えているが、もしかすると、さらに増えるかも知れない。このほかに番外として、個別のテーマをあつかった小説がふたつ以上は、あると思うといった。 「番外編とは、なんですか」と理知的な瞳のイオカステが聞いた。 社会の分断がテーマだ、と秀一は答えた。 新自由主義による格差の拡大は驚くべきものがあり、地球の富の偏在は、由々しい出来事だと話した。 イオカステは、まず本論をかいて欲しいといった。全体のながれが分かって、そのあとで、個々のテーマをふかめてもらいたい。第二部は、どこにあるのかと聞いた。 秀一は、仙台の自宅のコンピューターに入っていると答えた。ハードディスクにもあるが、かくのなら、書斎のパソコンが最適だと話した。 「分かりました。それを、もってくればいいのですね」とイオカステはいった。 その言葉で、すこし不思議な沈黙の時間があって、秀一はもちこめるのだろうかと聞いた。 「手配します。そうしたことを準備するのが、私たちの仕事です。要望があれば、なんなりと、おもうしつけください。できるかぎりのことは致します」 イオカステは、流し目で秀一をみた。 あまりの艶やかさに、彼は思わず息を飲んだ。そばにいられたら、仕事にならないに違いなかった。 「これは、いつまでにする職務なのですか」 「とくに、期間は決まっていません。創作活動は、期限を決めて、いい加減なものになってはいけません。無限の時間があたえられているわけではありませんが、年の単位で考えていただいて差しつかえのない仕事です。ペルセポネさまは、できるかぎり早く読みたいとお考えですが、それでも、プルトにつく三ヵ月後までに、ということではありません。まずは本論だけとして、どのくらいかかりますか」 イオカステは、秀一の瞳をみつめた。 「ちょっと、あなたたち。すぐには、そんなこと答えられないわよ。私があとで聞いておくから、いまはこれでいいのじゃない。今日は、お終いにしましょう」 ヘレナはいって、秀一の肩に触れた。 「たしかに、すぐには分かりません。ただ、お願いがあります」 秀一は、もし書斎のパソコンをもってきてくれるなら、ついでに創作ノートが欲しいといった。ノートは、クレアツーラだけが別冊になっているわけではない。A四版の一〇〇枚くらいの創作ノートで、背に番号が振ってある。どこからクレアツーラがはじまっているのか不明だから、できれば全部もってきて欲しいといった。 「分かりました」とイオカステは答えた。 パソコンをもってこられることは理解したが、それなら机にうえにあるハードディスクも欲しい。そのなかには、過去の草稿が全部入っている。創作ノートは、六〇冊以上になる。さらに、書斎におかれている辞書は欲しい。書棚には参考にした文献もあるので、読まないと不明な部分がでてくるだろうといった。 イオカステは、なんでも、もってくることができる。書斎ごと、はこんだほうがいいかと聞いた。 その言葉で秀一は考えてみたが、ほぼ書斎にあるもので足りるだろうと答えた。 「それでは、すぐに手配します。二日くらいは、かかるでしょう」 「なんでも、してもらえるらしいですから、もうひとつお願いがあります」 秀一は、仙台で執筆しているときの環境、つまりパソコンで使用可能な辞書とか、言葉の検索システム、過去の事件の調査なども移入できるのかたずねた。 イオカステは、分かったといった。一日で、全部を揃えることはできない。だから、明日は執務室びらきとして、設計しようといった。 「なにを、デザインするのでしょうか」と秀一は聞いた。 「どんな部屋なら、あなたに、やる気が起こるのでしょうか。明日、この問題をいっしょに考えてみましょう。明後日には、ものを揃えることができるでしょう」といった。 「もう、いいのじゃない。仕事は、明日からでしょう。説明は、朝になってからで充分だわ」とヘレナが話をさえぎった。 イオカステとイオが、秀一をみた。このふたりと、いっしょに仕事をするのだと思った。彼女たちは、彼の秘書だったのだ。なんと楽しいことが、待っているのだろうか。秀一は満足し、今日はこれで終わりにしましょうと答えた。 ふたりがでていくと、ヘレナがいった。 「イオカステは、危険よ。どうしよう。彼女は、あなたを誘惑するわ。殺されるかも、知れないわよ。部屋を、設計するって話していたでしょう。きっと、疲れをとるためとかいって、豪華なベッドルームをつくる気よ。まわりの壁を海辺にかえ、開放的な気分にするつもりだわ。気分転換のためと称して、ガラス張りの浴室を提案するわ。きっと、天井も浴槽も、鏡張りだわ。あのふたりは、仕事なんかどうでもいいのよ。気分転換だけをするのよ。私が、そばに張りついているほうが、いいのでしょうね」 ヘレナは、秀一に忠告をはじめた。 あのふたりは、さまざまな情報をもっているといった。秀一が、下着のフェチなのは、もう知れわたっている。彼女たちは、明日はガウンを羽織ってくるに違いない。その下には、猛烈にエロチックな紐みたいな下着をつけているのは間違いない。年増のイオカステは、恥を知らないから、なにをしだすかも分からない。エロさに関しては、ヘレナとはレベルが違う淫靡な部分をもっている。下着については、今度、彼女がつけてみせるから、明日は我慢しろといった。 いっぽう、可愛い顔をしているが、イオも非常に危険だ。もともとは巫女だが、彼女はマゾの気がある。秀一が冷たくあしらうと、愛されていると誤解するかも知れない。どう対処するか、たいへん、むずかしい相手だ。あの白い肌に、誤魔化されてはいけない。甘くみると、飛んでもないことが起きる。彼女は、牛に化けてエジプトまでいって、イシス女神になったのだから。 「イシスは、万物の母なのよ。あなた、分かっているの。私なんかと、根本的に違うんだから」 ヘレナは、可愛い顔をしたイオが、じつは彼女がまったく太刀打ちができないくらいの恐ろしい部分をもっていると力説した。 「私を、裏切らないで。悲しませないで。私だけが、あなたとの結婚を許可されているのだから」とくりかえした。 ヘレナは、晩餐会では会えるが、公式の場なので、ずっと秀一のそばにはいられない。だからむかえにこないと、またいった。最後に、彼女は、ペルセポネと結婚式について相談するとつげて、でていった。 晩餐会は、七時からという話だった。時間になれば、茶色い制服のメイドがよびにくるのだろう。窓からみるながめは、驚くほど素敵だった。どういう季節になるのか分からないが、壁かけ時計が六時を指すころには、夕暮れがやってきた。庭園の外灯が黄色く点りはじめ、黄昏がおとずれ、次第に暗くなっていった。静かな夕べで、厳かな「とき」を感じた。空にいちばん星がみえると、瞬く間に夜空にかわって、たくさんの星雲が輝きはじめた。天の川が目に入ってきた。 帯状にみえる天の川銀河は、よく知られる通り、母星の太陽がふくまれる銀河の名称だった。約四〇〇〇億の恒星からなる棒渦巻き銀河とされ、乙女座銀河の局部銀河に属している。ヒトが住む星は、正確には、α空間、ラケアニア超銀河団内、乙女座銀河団、局部銀河群、天の川銀河、オリオン腕、内側周縁、太陽系、第三惑星、「地球」という位置にある。 あらゆる銀河系の中心には、高質量をもつブラックホールが存在する。 こうした場所には、驚くほどのグラビトンが集積している。さらに重力子は、虚数空間をあらゆる実数点上につくっている。そのため、四次元時空には、「電磁力」、「グルーオン」、「ウイークボゾン」に比べ、拡散の度合いがいちじるしく違っている。こうした事情から、四つの力には、整合性がみられなくなっている。 天の川銀河のばあいは、中核部に「いて座A」が占め、大質量ブラックホールになっている。中心付近には、比較的ふるい星から構成される高密度の領域がある。これをとりまいて若い恒星や星間物質から形成される、直径が約一〇万光年の銀河円盤、「ディスク」が存在する。この厚さは、中心部が約一万五〇〇〇光年、周縁部が約一〇〇〇光年で、全体の形は凸レンズ状になっている。 天の川銀河は、約二万七〇〇〇光年のながさの、おもにふるい星から形成される棒構造をもっている。その形状から、棒渦状銀河とよばれる。天の川銀河の渦状腕は、どれも約一二度の対数螺旋を描き、銀河中心から伸びた四本の大腕が知られている。各腕の名称は、外側から、ペルセウス腕、じょうぎ腕、たて腕、いて腕とよばれる。このほかに、弧状になった小腕が二本あり、そのひとつがオリオン腕とされる。 太陽系は、オリオン渦状腕、内側周縁に位置し、銀河中心から八キロパーセク、二万六〇〇〇光年ほど離れた局所恒星間雲とよばれる星間雲に属している。オリオン腕と、そのすぐ外側を占めるペルセウス腕との距離は、約六五〇〇光年になる。太陽系が銀河系内の軌道を一周するには、二億五〇〇〇万年ほどかかることから、誕生してから現在にいたるまでに、太陽は天の川銀河を、おおむね二〇周程度、回転してきたと考えられる。 ヘレナが住むプルトに該当する惑星は、α空間では、ペルセウス腕の内縁に位置している。この領域は、従来よりオリオン腕と同様に、地球人が生活可能な星が存在する、「ハビタブルゾーン」とみなされている。銀河の中心からの距離は約五万光年だが、太陽系との実数的な直線距離は、現在の位置関係からは、おおむね八万光年以上は充分にあるだろう。そのγ空間に、ヘレナの母星、プルトが存在する。 プルト星は、秀一たちの太陽系とまったくおなじ構造の第三惑星で、大きさ、地軸の傾きも、太陽からの距離も、公転周期も同一だった。地球の四分の一の直径で、約三〇日で回転する月を、衛星としてもつ点も瓜ふたつだった。 いったいプルトは、どんな星なのだろうか。三ヵ月後、その惑星につき、なにが起こるのだろうか。はげしい敵、デミウルゴスとは、何ものなのだろう。 ヘレナから、裏切らないで欲しいといわれたのは、人類史、三〇〇〇年余の歴史のなかで秀一がはじめてだったろう。決して、うぬぼれたわけではなかった。彼は、心底、恐ろしいと思っただけだった。 七時になるすこしまえ、ドアホンが鳴って、扉をあけると茶色い制服をつけたメイドがあらわれた。秀一は、黒い燕尾服をきた若い男のあとをついていくようにいわれた。男性は、白い手袋をつけ、完璧に正装していた。秀一は、空色のだぶだぶとした修道服をきていた。落差がありすぎると思って、この格好でいいのか聞いてみたが、燕尾服の男は、かまわないといった。 秀一は、疑問を感じながら、廊下とはとてもいえない、ひろい通路を歩いていった。 そこには窓はなかったが、どちらの壁にも立派な扉がつき、部屋がつらなっていた。所々に、茶色い制服をきた若い男や女が、椅子にすわっていた。彼らが、そうしている意味は、分からなかった。こまったことがあれば、どこでも相談にのり、混乱が生じれば、なんらかの方法で対処してくれるのだろう。大きなエレベーターで、一階までおりた。なかにはボーイがいて、操作盤には、さまざまな数字と文字がかかれていた。数は一〇で、屋上もあるらしかった。さらにBからはじまる文字列が、ずっとつづいていた。地階は、かなりふかくまでつくられているらしい。おりるとホールがそなえられ、そこからまた通路をしばらく歩くと大きなロビーにでた。昼間、ヘレナといった場所ではなかった。天井は猛烈にたかく、大きなソファーがおかれ、床は厚い深紅の絨毯がしかれていた。やはり外に通じる玄関があり、ドアボーイが立っていた。昼間のロビーには、ホテルのフロントを連想させるながいカウンターが壁の一面を占めていた。ここは一画にクローゼットらしい場所があり、茶色の服をきた若い人びとが立っていた。茶の制服の者たちは、壁のいたるところに待機していた。 ロビーのソファーには、肩と背があらわな、朱色のイブニングドレスをまとったイオカステがいた。編みあげにされた背中は白く輝き、秀一の目は釘付けになった。そばには、あざやかな紫の、脇丈がみじかいカクテルドレスをきたイオがいた。彼女の両肩には、鮮麗に輝く紫色のパフがついていた。 ふたりは、秀一をみると立ちあがった。イオカステの豪華な衣装は、女王の服にもみえた。彼女は、真珠の首飾りをたらし、どちらの手首にも二連になったブレスレットをつけていた。髪は、鬢を編みこんで後ろでむすんでいた。イオは、黄金のネックレスをさげ、両の手首にはやはり二連の金のブレスレットをつけていた。髪は、姫髪をアイロンして頬にたらし、そのほかの部分は真っ直ぐに腰のあたりまでとどいていた。 「ここからは、私どもがご案内いたします」とイオカステがいった。 「ご心配はありません」とイオが囁いた。 ふたりの女性からは、芳しい香水の匂いがただよっていた。 秀一がうなずくと、両人はついてくるようにいって歩きはじめた。玄関のむかい側には、全長が数メートルに達する観音びらきになる二枚の木製の扉口があった。一枚の扉に三人のボーイが、おなじたかさにならぶ三カ所で、金色の大きな取っ手をにぎっていた。秀一たちがちかづくと、六人のドアボーイが一斉にうごいて、扉口をロビー側にむかってひいた。 巨大な宮廷が、秀一の目に飛びこんできた。 とてつもない大きさだった。天井が、どこなのか分からなかった。夜空に下弦の月がみえたから、屋根は開放されているのだろう。聳え立つ周囲の壁は、一〇〇メートル以上にもつらなっていた。一〇階だてとはいっても、どの階も天井はふきぬけと思えるくらいたかく、巨大な空間をかかえていた。そのかこむ壁のたかさが、まったく問題にならない広大なホールだった。そこには、まるい五つのテーブルが充分な距離をもっておかれていた。中央にひとつがぽつんとあり、ドア側を半円状にとりかこんで四つが配置されていた。各々の食卓テーブルには、素晴らしく美しい女性たちがすわっているのがみえた。中央のテーブルよりさきの部分に三段の階段があり、すこしたかい舞台になっていた。そこに半円を描いて八つの席がもうけられ、八人の男女がすわっていた。その椅子は、どれもが巨大な玉座で背がたかく、大きな肘掛けがついていた。座の背後は、円柱が間隙をもってならび外部とつながっていた。一〇〇メートル以上もある屹立とした大円柱は、天にむかって伸び、つらなっていた。その間隙から、奥の林と暗い闇のなかで焚かれる篝火がみえた。円柱がつらなる面をのぞいた三つの壁は、真っ白で、所々に光があって広間をあかるく照らしていた。舞台以外のホールには、壁ぞいに椅子がならべられ、大勢の男たちがすわっていた。その隙間に、茶色の制服をきたメイドとボーイが立っていた。 かなりの距離をもってならぶテーブルのあいだをぬけて、イオカステとイオは、ゆっくりと歩いていた。秀一は、その後ろをついていった。舞台の手前までいくと、イオカステとイオが、玉座を占める八人にむかって恭しくお辞儀をした。それをみて、秀一もおなじように振るまった。しばらくしてふたりが顔をあげたので、彼もならった。両人は、舞台にはあがらず、右端に移動してテーブル側に三人が立つと、いちばん左側のテーブルにすわっていた黒いドレスをきた女性が立ちあがった。彼女は、しずしずと高座にちかより、玉座の八人にふかく敬礼して階段をのぼった。舞台に立つと、女は再度、座を占める人びとに会釈した。そして右側にすすみ、秀一たち三人がならぶ背後にきた。 「本日はお忙しいところ、おあつまりいただき、みなさま、ありがとうございます」 黒い服の女は、そういって、ホールにいる人びとにむかってふかいお辞儀をした。広間の者たちも、一斉に頭をさげた。 「本日は、わがペルセポネに村木秀一さまをおむかえいたしました。オグドアスにもお揃いいただき、ただいまより歓迎会を催したいと思います」 黒衣をまとった美貌な女性がつげると、ファンファーレが鳴りひびいた。トランペットの音が、ひときわたかく鳴らされた。演奏がすむと、秀一は黒い服の女性によばれ、舞台にあがるように指示された。彼がうなずくと、イオカステが視線をなげかけた。目があうと、「大丈夫です。落ちついてください」と囁いた。 秀一は、ゆっくり中央にすすみ、オグドアスにお辞儀をした。それから階段をあがり、そこでふたたび会釈した。ゆっくり歩いて、黒い服の女性のところまですすみ、ホールの人びとにむかってふかいお辞儀をした。 「ご紹介いたします。こちらが、シュウイチさまです。みなさまもよくご存知の、ヘレナの作者です。シュウイチさまによれば、小説クレアツーラは四部から成立します。その第一部が、ヘレナです。第二部は、すでにかかれているとのことで、ちかぢかみなさまのお手元にとどく予定でございます。第三部以降の構想もできているとの話ですが、今後はペルセポネに執務室をもうけ、そこで執筆活動をつづけられるとのご意向です。そのほかに、この小説にはサイドストーリーがいくつかあるそうで、そうしたものも順次、作品化する予定になっております。みなさま、ご期待ください」 黒い服の女は、秀一にひと言挨拶をするようにいった。とくにマイクもなかったが、彼女は普通の声で話していたので、彼もしゃべる感じで口をひらいた。 「ペルセポネさま。オグドアスさま。ホールにおあつまりの方がた。本日は、素晴らしい晩餐会を催していただき、ありがとうございます。まだ事情を充分に理解しておりませんが、なにが問題なのかよく考えて、精いっぱいの対処をしたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします」 秀一は、オグドアスにむかって敬礼し、ホールの人びとにもふかい礼をした。拍手が会場を埋めつくした。オグドアスも、盛んな拍手喝采をするのがみえた。イオカステとイオも、振りかえって拍手していた。ホールの人びとは立ちあがり、拍手喝采した。いちばん左端のテーブルに、ヘレナがいた。彼女も、盛んに拍手をしていた。 最初のセレモニーが終わって、黒い服の女性の仕草を真似て舞台をおり、真ん中のテーブルのオグドアスとむかいあう椅子にすわった。どうやらヘレナが話したことは正しく、秀一は今日の主賓らしかった。彼が席につくと、右隣にすわるイオカステが、「よかったわよ」と小声でいった。左側にいたイオが、「素敵でした」と耳もとで囁いた。 舞台では、緑の服をきた多くの男や女が入場してきた。楽器をもった数人の男女も入ってきて、もちこまれた椅子にすわった。 イオカステは、これから紫の服をきたムネモシュネが合唱を指揮すると囁いた。みていると、紫色のドレスを羽織った女性が玉座からおりて舞台の中央まですすんだ。 「今夜は、とくべつに作曲した合唱曲、ヘレナを歌います」といった。 ムネモシュネの指揮で、合唱がはじまった。素晴らしいコーラスが終わると、一同は立ちあがり拍手でたたえた。それで式典が終了し、自由な会話ができる時間となった。 イオカステが、オグドアスについて説明してくれた。 彼らは、八名の王と女王たちで、この艦船、ペルセポネの主人たちを指す。オグドアスには順位があり、中央左にすわる紫の服をきた女性が第一位の主人で、ヘスティアという。その右隣の黒いガウンの年配の女が、第二位とされるヘカテ。ヘスティアの左が第三位、いま合唱を指揮した緑のドレスを羽織るムネモシュネになる。ヘカテの右にいる、赤いローブをまとったアルテミスが、第四位の女王だという。ムネモシュネの左側、青いガウンの女性がアテネで第五位のものとなる。アルテミスの右にすわる黄色い服をきた女が、第六位のアプロディテ。そのとなりの白衣の年老いた男が、ペパイストスで、七番目に位置する。八番目が、アテネの左にいるグレーの服をきたヘルメスになる。 「しばらくしたら、ご挨拶にいきましょう。ご案内します。なんでも、私に相談してください。どんなことでも致します。あなたとは、これからもいちばんちかくで、あらゆる行動をいっしょにしなければならないのですから。そこには例外はありません」と囁いた。 イオカステの吐息は甘く、みつめる瞳は潤み、悩ましいほどだった。ヘレナが敵わないといったのもうなずけた。 「あなたの本は読みました。由沙が女神になるのは、うなずけます。ペルセポネでは、ヘレナはベストセラーです。明日は、どんな執筆計画があるのか教えてください。あなたが気持ちよく、創作できる環境を懸命につくります。挨拶で話してくれた通りです。いままでとは違う不明な場所で、言葉にはできないこともたくさんあるでしょう。お力になります。いちばん身近にいる私を、ご利用ください」 イオは、耳もとで小さく囁いて秀一をみつめた。 すき通る瞳は、いま、どういう状況にいるのか忘れさせるのに充分だった。たしかに、イオをどうあつかうのかはたいへんな問題だろうと思った。ヘレナが気をもむのも、とうぜんだった。 ボーイが、飲み物と摘まみを皿に入れてもってきた。壁にすわっていた男たちは立ちあがり、女性たちがいる席に椅子をはこばせ、しゃべったりテーブルをまわったりしはじめた。 秀一の食卓テーブルをかこんでいたのは、ダナエとセメレだった。どちらも驚嘆するべき美貌で、くらくらするほど魅力的だった。右のまるいテーブルには、ヘレナのほかに、美しい女性がいっぱいいた。司会をしてくれた黒い服をきた女は、美貌のアタランタだった。たぶんアンドロメダやハルモニア。それにエウロペもいたのだろう。その扉側のテーブルには、すこし顔立ちが違う心ひかれる素晴らしい女性たちがすわっていた。たぶん、ペルシアの女たち、ではないのだろうか。スタテイラとか、ロクサネがいるのだろう。秀一の左側のテーブルには、まるで趣の違う女性たちがすわっていた。間違いなく、ひとりは楊貴妃だった。そこに、西施がいることも分かった。話してみたいと思ったが、心は平生ではなかった。さらに秀一の左後ろのテーブルは、かなり問題だった。あきらかにまたひとつ、格調が違う女性がすわっていた。真珠の首飾りをした女だった。秀一にむかって微笑んだが、それだけで心ははげしく乱れた。まぎれもない、クレオパトラだった。心臓が高鳴りつづけ頭がぼうぜんとしたが、さらに彼女の席には、とくべつな女性がいた。赤銅色の肌に金の首飾りをたらし、アフロヘアーの美女は、夢でくりかえしみたエチオピアの女王だった。猛烈に心がひかれたが、いまは我慢をしなければならなかった。 何人かの女性と男性が、秀一の席に挨拶にきた。さすがに、いま名をあげた女性たちが座を立つことはなく、たくさんの男にとりかこまれていた。もし秀一が挨拶にいったら、まさにヘレナが話した通り、このホールにつづく小部屋に案内されてしまうに違いないと思った。それは、抵抗する必要も感じない素晴らしい出来事だが、まだ肝腎な人たちに謝意を述べねばならなかった。 ヘレナは男たちにかこまれ、やってこなかったし、視線をあわせもしなかった。しかし、彼女が注意をはらっているのは分かった。 三 オグドアス(八からなるもの) イオカステは、しばらく哀愁をただよわせる瞳で舞台をみつめていた。やがて、挨拶にいく時間になったと秀一につげて、イオといっしょに三人で階段をあがった。高座は、賑わっていた。どのオグドアスの周囲にも、男や女がとりまいていた。イオカステは、まず中央にすわるヘスティアに、秀一を引きあわせた。 緑のドレスをきた第一位の女性は、三二、三歳に思えた。彼女は、非の打ち所もなく、柔和で落ちついた雰囲気をただよわせていた。どこからみても、聡明そのものだった。処女神である彼女に、穢れをみつけることはできなかった。ヘスティアは、ここの居心地はどうかとたずねた。秀一は、高貴な人ばかりで、みているだけでも充分に楽しいと答えた。 つぎにイオカステは、ヘカテに紹介した。秀一たちがいくと、とりまいていた人びとは、すぐいなくなった。ヘスティアの席は、彼らがあとにすると、また多くの人たちにとりかこまれた。 ヘカテは、八〇歳をゆうにこえているかと思える老女だった。黒いガウンをきた彼女は、魔術をつかうことができる。その力は、ペルセポネも凌ぐとイオカステはいった。白髪で、顔には皺がより、眼窩は落ちくぼみ、ぎょろっとした目で秀一を睨みつけた。どの指も節くれ立ち、ヘバーデン結節でまがっていた。ヘカテは、楽しいかと聞いた。秀一は、興味ぶかい毎日だと答えた。 つぎは、緑のドレスを羽織ったムネモシュネに紹介された。三〇歳くらいの素敵な女性で、落ちついた風情が、オーラのように湧きでていた。秀一は、ヘレナの合唱曲の出来映えをほめたたえた。ムネモシュネは和やかに笑って、創作にいきづまったら、たずねてきてもよい。霊感をさずけよう、といった。 それから、ヘカテのとなりにすわる赤いローブをまとったアルテミスに引きあわせた。彼女の美貌は、たとえようもない。アルテミスは、ヘカテの娘ともいわれ、野性的で独立心のつよい女性だった。 パリスの審判では、三人の女神が美を競った。しかし識者は、彼らが競えたのは、ひとえにアルテミスが、そんな競争を馬鹿ばかしいと思って加わらなかったからだという。彼女が林檎を欲しがっていたら、美の張りあいも、トロイア戦記も起きなかったと述べる。秀一が神妙にしていると、アルテミスは微笑み、「分をわきまえなさい」といった。彼は、分かりましたと答えた。 今度は、ムネモシュネのとなりのアテネに紹介された。彼女は、みるからに精悍だった。青いガウンが、よく似合っていた。正義と真実を愛するに違いないと思われた。アテネは、美しいばかりでなく、健康そうだった。彼女は、盾をみたいかと聞いた。拝見したいが、石にはなりたくないと秀一は答えた。たずねてくれば、石化しないよう工夫して、みせてくれると話した。 アテネを終えると、また反対側にいき、アルテミスのとなりにいる、黄色いドレスで艶やかに着飾ったアプロディテのところにいった。彼女は、笑顔でむかえてくれた。アプロディテも三〇歳くらいだったが、三〇すぎの美女とはイオカステも例外ではないが、まさしく掟破りだった。妖艶で、手のうごかし方、白くてほそい指のしなり方からはじまって、なすことすべてがセクシーだった。 アプロディテは、ヘレナはどうだと聞いた。その瞬間、秀一は、彼女が主人だったのだと知った。素晴らしい女性だと答えると、焼き餅焼きだから気をつけなければならないといった。そして、イオカステをみた。ふたりの視線が、ばちばちと音を立てるのを感じた。 アプロディテは、秀一も彼女の宮殿にきて寛ぐことをすすめた。来訪するときには、事前に連絡しなければならない。彼女は、面会日の前日は蜂蜜とフルーツだけの食事をする。当日は、カステリアの泉で身体を洗いきよめ、ミルクの風呂に入って肌をととのえねばならない。オリーブの香油を髪に染みこまさなければ、と口にして、秀一をじっとみつめた。彼女には、ヘレナも嫉妬は起こさないといって、今度はイオを直視した。気位がたかい巫女は、アプロディテの瞳をみつめかえした。機会があったら、ぜひうかがいたいと彼は答えた。 それからイオカステは、となりのヘパイストスに秀一を紹介した。青黒い老斑が浮きでた顔面は艶がなく、中央にでんとすわる大きな鷲鼻は、ぶつぶつと黒い毛穴があいていた。額が極端にひろく、顔の半分くらいを占め、目は不釣りあいに小さかった。口は、顎までさけているかと思われるほど大きく、唇は一腹のたらこみたいに分厚かった。修験者の白衣をきた男は、老醜にまみれていた。顎髭をながく伸ばしていたが、頭部は禿げ、でこぼこだった。よれよれの服も、真っ白ではなく汚れた染みがついていた。目があって瞳をみると、そこには炎が燃えさかっていた。火柱をあげ、地が溶けて間欠泉をふきあげていた。 「いいのかい。爺。おまえの女房が、色目をつかっている。なにかいわなけりゃ、好きにしても結構だって、みとめたことになるぞ」 ヘルメスが、大声でヘパイストスを挑発した。 「なんだ。小僧」 ヘパイストスが叫ぶと、周囲の人びとは、さっといなくなった。 ふと秀一が気づくと、ヘルメスがとなりに立っていた。イオカステは、即座に彼を紹介した。ヘルメスは、若くて元気そうだった。グレーの服は、洒落たものだったが普段着にも思えた。彼は、みるからに軽薄そうで、ニヤニヤしていた。 ヘルメスは、秀一にいっしょに遊びにいこう。男は、みんな陰気くさいから、彼とならいい友だちになれるといった。 秀一は、恐れ多いことですと答えた。そのとき、ふと、なにかが彼の頬に触れた。同時に異臭をふくむ風を感じて、秀一が顔を右にむけると、三〇センチと離れていないところに、巨大な何ものかがあった。 とつぜん、女性の甲高い絶叫が、場内にひびきわたった。それはひとつではなく、ほうぼうから一斉にあがり、ホールは途端に騒然となった。 秀一は、意味も不明なまま度肝をぬかれ、ぼうぜんと立っていた。彼の右脇には、巨大な竜の頭部がおかれていた。淡褐色をした大人の頭ほどもある鼻腔がふたつならび、そこから異臭に満ちた風が起こっていた。鼻尖部は三メートル以上にもながく伸び、そのさきにこれもサッカーボールほどの巨大な黒い瞳が、ヘルメスと秀一にむかって大きくみひらかれ、らんらんと光っていた。緑色の竜の頭部からつきでた鼻部には大きな皺が波うち、つよい不満をあらわすように、ひくついていた。そこから口にむかって五〇本以上のながい髭がならび、その一本が秀一の頬に触れていた。皺がよった褐色の鼻部はでこぼこし、無数の黒い穴があいて、ぶつぶつとしていた。緑色の耳は怒気をはらんで立ち、瞬くこともない異様な輝きをはなつ黒色の瞳は、殺意を秘めてじっとふたりをみつめていた。 秀一の袖が、つよくひかれた。振りむくと、驚愕したイオが、真っ青な表情で彼の袖裏をひっぱっていた。秀一は、一目散に彼女のあとを追った。イオは階段を飛びおりると、さきほどまですわっていた中央のテーブルの下に潜りこんだ。秀一も、彼女を追って隠れた。なかには、イオカステが待っていた。 舞台からは人が逃げだし、閑散とした状況にかわり、場内は大混乱になっていた。 高座には、六人の女王たちが自分の玉座に腰をおろし、事態をじっとみつめていた。 巨竜に変貌したヘパイストスが、中央でうなり声をあげながら、口から火をはなっていた。ヘルメスは、獅子の身体と鷲の翼をもつ巨大なグリフィンに変身し、咆哮をくりかえしていた。竜は、天にむかって炎をあげ、ホールを真っ赤に染めあげていた。猛烈な異臭がホール全体にながれ、火炎の一部は秀一たちが隠れるテーブルのちかくまで達していた。みまわすと、そこには、右にイオカステが、左にイオがいるだけだった。ふたりは、真剣な表情で二頭の野獣をみつめていた。秀一がホール全体をみてみると、多数の男女で賑わっていた室内には、ひとりの姿もみえなくなっていた。 舞台の中央で二頭がうなりあい、睨みあっていると、青いガウンを羽織ったアテネが立ちあがった。みるまに彼女はホールの一面をささえる円柱ほどまで巨大化し、気づくと頭部には兜をつけ、右手には鋭い槍をもっていた。アテネは、眼下にうごめく二匹の野獣をみて、とどろく大声でいった。 「おまえたち、今日のイベントを台無しにしてくれた。いいか。そうしたからには、どちらかが死ぬまでやりなさい。これだから、男は嫌いなのだ。軽薄で、無思慮で、堪え性がない。私たちに、男は不要だ。セプタアスでも、ヘクサアスでもかまわないのだ。今日こそ、雌雄を決めるのだ」 アテネは、高座で咆哮をくりかえす竜とグリフィンの鼻先に長槍をつき立てた。槍は、舞台中央にふかくつき刺さり、柄の先端部は屋根までとどいた。 アテネは、急速に縮小し、もとの大きさにもどると、座を立ち、青いガウンをひらめかせ、野獣たちに一瞥もあたえることなしに舞台をさっていった。そうすると、黄色いドレスをきたアプロディテも、赤いローブに全身をつつんだアルテミスも、緑のワンピースで身を覆ったムネモシュネも玉座から立ちあがり、侮蔑的な視線を野獣になげかけ、無言なまま高座をあとにした。舞台には、身体に紫の衣服にまとったヘスティアと、黒色のガウンを羽織ったヘカテのふたりがのこった。 黒い服の老婆が指を鳴らすと、つき刺さっていた長槍が消え、野獣たちがいる場所は、円形の闘技場に変化した。そこは、円筒形の巨大な金網になっていた。 「本気よ」とイオカステは、秀一を横目でみていった。 「あのふたりは、もともとなかが悪いのよ。きっと、どちらかが死ぬまで戦うことになるでしょうね」とイオがいった。 秀一は、ホールの床に腰をおろした。逃げ場もうしない、どうしようもないと覚悟し、胡座になった。右にはイオカステが、左にはイオが身体をぴしっとあわせてきて、場違いな香水のいい匂いが彼の鼻尖をかすめていった。ふたりは、恐怖からか、興奮からか、身震いをしていた。両人の腰に手をまわして、ぴしっとかかえると、彼女たちの息づかいまで分かり、状況としては決して悪いだけとはいえなかった。 竜が大きく咆哮し、右前肢のながい爪甲部をつかって、グリフィンの胸をえぐった。苦痛の呻き声がホールにひびいた。胸部の赤い肉があらわになり、鮮血がほとばしった。グリフィンは、竜の右前肢に左右の前肢の鋭い爪を立て、引き裂いた。右腕が千切れ、のこったざくざくとなった部分から猛烈ないきおいで鮮血がながれでた。竜は、グリフィンの頸部に噛みついた。ながい爪牙は、ふかぶかとつき刺さった。グリフィンは、後肢で立ちあがり、竜の首筋に大きく食らいついた。たがいが、おたがいを、下顎を始点として揺さぶろうとした。双方から鮮血が噴出し、舞台を真っ赤に染めていった。たがいに後ろ脚で立った状態で噛みついてはなさず、血だけがながれつづけた。やがて両者は、その格好のまま舞台にたおれこんだ。血だけがながれ、竜もグリフィンも、ピクリともうごかなくなった。 「死んだのかも知れないわ」とイオが小声でいった。 「相打ちね」とイオカステが囁いて、潤んだ瞳で秀一をみつめた。 とつぜん、彼の眼前に巨大なヘカテが出現した。とはいっても、あらわれたのは彼女の顔面部だけだった。右眼の周囲は黒い老斑に覆われ、落ちくぼんだ眼窩に瞳だけがぎらぎらと光っていた。 「お客人。ご無礼だったが、余興とお考えくだされ。なにかまよいごとがあれば、その折にはたずねてくるがよい。直々に、ご相談に応じよう。今日は、これにてお帰りなされよ」 ヘカテは、そうつげると、つぎの瞬間には、どこにもいなかった。ヘスティアの玉座は空にかわり、二頭の息絶えた野獣がケージのなかで横たわっていた。 イオカステとイオにつれられ、秀一は無人になったホールをあとにした。 広間の巨大な扉はあけはなしにされ、外の控えの間にも、メイドやボーイをふくめて、だれもいなかった。エレベーターホールまでもどると、そこにはエレベーターボーイが待っていて、八階まであがった。ふたりにつれられ、自室のまえで彼女たちと別れた。三人とも、ひどく興奮し、たがいに感想を述べあう状況ではなかった。 「明日は、執務室びらきをしましょう」とイオカステがいった。 「素晴らしい提案を考えています。素敵な一日にしましょう」とイオがいった。 秀一は、ふたりに挨拶して部屋にもどった。彼も、ひどく興奮していた。オグドアスの出現は非常にとうとつだったが、既視感に満ちた光景だった。一〇時をまわり、シャワーを浴び、ヘレナもあらわれなかったので彼は横臥し、そのまま眠った。 朝八時になるとメイドが食事をはこんできて、秀一はあかるい日差しの庭をみおろしながら珈琲を飲んだ。九時ごろドアホンが鳴り、イオとイオカステがあらわれた。ふたりは、昨日の緊張した面持ちはすでになく、やわらかい快活な笑顔に満ちていた。イオは、紫のワンピースで装い、髪は後ろでむすんでいた。イオカステは、洒落た赤いツーピースを粋にきこなしていた。ふたりのあとには、カートをひく茶色の制服をつけたボーイが立っていた。 彼女たちはヘレナがいないのを確認すると、筒状の紙片をもちながら、彼の応接間に腰をおろして説明をはじめた。 イオは、テーブルのうえに図面をひろげながら、執務室について提案した。彼女の計画では、部屋の中央に書斎がおかれ、右側にはプールが設置され、左側には大きな浴槽がつくられていた。後方の左には、書室とおなじくらいの大きさのベッドがあった。 秀一は、この設計のコンセプトがよく分からないといった。 イオは、創作に疲れたら気分転換に泳ぎ、風呂でさっぱりし、ベッドで寛ぐのだと答えた。気分がかわる最善の方法は、いままでと違うなにかに、直接、触れあうことだ。脳の内部でしていた業務から離れるには、皮膚という外側の大脳をつかえば、いちばんリフレッシュできる。肌で感じる対象は、液体でも彼女の素肌でもいい。 「どこにも壁がないようですが、これはひとつの部屋なのですか」と秀一は図面をみながらたずねた。 イオは、そうだと答えた。 ここはすべて秀一の書斎というプライベート部分になるから隔壁は不要なのだといった。もちろん、そうした部屋だから防音設備も完璧で、廊下側の鍵はしっかりかかり、部外の者は侵入してこない。防犯カメラなども不必要だから完全な私的な空間で、なかでなにをしようと、だれにも絶対に分からない。イオは、潤んだ瞳で秀一をみていった。 浴室については、オープンというテーマから全面をガラス張りにする。風呂場からは、すべての空間が一望できる。もちろん、外から浴室内部を観察するのも可能だ。さらに浴槽は純金製で、同時に三人が充分に入れる大きさのものを用意する。 図面右端、廊下側の空間についてたずねると、彼女たちの着替えのロッカールームだと答えた。秀一が設計図をみながら考えていると、安心するようにと彼女はいった。 「ルームとはいっても、仕切られた部屋ではありません。ご心配はいりません。私の計画のコンセプトは、どこまでもオープンを追究するプライベートルームです。あなたは、書斎から私たちの着替えの場面を、思う存分ながめることができるわけです。創作に疲れたばあい合図をおくれば、ここで服をかえるのです。その様子をご覧になって、気分転換をするのです」とイオは嬉しそうにいった。 秀一は、彼女をみながら、「おふたりのロッカールームですか。着替える、服が入れてある」とうなずきながら呟くようにいった。 「これは、あくまでイオの提案です。ここからは、私の設計をご説明させてください。コンセプトは、ザ、プライベートルームです。私的空間のあり方を、つきつめて考えております」 イオカステは、イオの図面をいったん片づけ、彼女のプランをテーブルにひろげた。 秀一は、紙面をみいった。書斎は廊下側におかれ、窓から外部はみえず、そのかわり前面には海がひろがり、窓ぎわと思われるところは、白い砂浜になっていた。真ん中には、正確に8の字形のテーブルが浜辺と平行に配置され、ここが中核といってもよさそうだった。その廊下側には、ゆったりとしたソファーがふたつならべられ、右には大きなベッドがあり、左側には浴室みたいな部分がそなえられていた。 イオカステによれば、完全なプライベート空間になるため外の景色は不必要なのだそうだ。だから窓ぎわは、プライベートビーチを創出した。このビーチは、秀一、ひとりの専用空間なので、なにをしようと人の迷惑にはならない。そればかりか、特定の個人の専有物という以上、他人などと称する無意味な者は忘れるべき構想がとられるべきだ。秀一以外になにかが生存するかなど、完全に忘却するシステムが必要となる。あらゆる因習から離れた、別世界と考えるのが、いちばん分かりやすい。創作とは、基本的に現実では起こりえない虚構世界を構築するものだろう。よりインパクトのつよい作品となれば、さらに踏みこみ、妄想世界に一歩でもちかづこうと試みることにほかならない。それを可能にするのが、ザ・プライベートルームなのだ。 ここからイオカステは、室内の詳細についての説明に入った。 まず、ロッカールームという発想がこの案にはない。イオの考えは、プライベートという観念が、秀一ひとりに限定されている。しかしプライベートルームは、あくまで三人のためのものなのだ。イオをふくむ仮象として存在する三名が、同一のプライベート空間を占拠するという事実は、きわめて重大だ。つまり、三人がプライベートを構成する要素なのだ。いうなれば一心同体なのだから、ザ・プライベートルームに、さらに私的な空間は不必要になる。 とはいっても、創作を遂行するために最善の形式がとられるべきだから、優先順位は存在する。こうした考えにしたがって、まず書斎が確保される。しかし、この部分は構想をねる必要から生じ、妄想世界にちかづく目的のために整備される、という大原則を失念してはならない。つまり、書斎さえもプライベートルームを構成する者たちに開放されねばならない。具体的には、秀一が執筆中に珈琲が飲みたくなれば、それをテーブルにはこんでいくのは、完全に秘書の役割、業務の一環になる。なにか頭がモヤモヤとしてきたら、そうした疎外物を除外するのも、彼女たちの重要というより、さらに踏みこんだ不可欠な役目なのだ。内容次第によっては、書斎内であっても秘書が活躍する場面は多数考えられる。 とはいっても、ザ・プライベートルームの最大の売りは、中央におかれた8の字形のテーブルエリアとなる。ここは、執筆で苦悩する秀一を慰撫する完璧なスペースとして設置される。この場所は、一見、食事をし、会話を楽しむ、三人のプライベート部分に思えるが、よくみれば分かる通り、中央部には黄金製のポールが、天井からテーブル下部にむかってつき刺さっている。これは、さまざまな状況を想定するなら、完全に小道具として利用できる。妄想世界にひたっていた秀一を現実にひきもどし、さらにリフレッシュする機能を担うことが可能だ。 つまり、ここがイオのいうロッカールームにも、そうとうしている。それが右端などという中途半端な場所ではなく、ザ・プライベートルームの中核的存在として、中央に設置されている。この廊下側におかれたソファーには、収納スペースがそなわっている。必要な小道具、とり分けさまざまなショーツ類は、ここに収められるオープンな設計となっている。もちろん効率をたかめるために、天井と床は鏡張りにせざるをえない。鏡面の使用は、部分的にテーブル周囲にかぎるのではなく、ザ・プライベートルームのコンセプトに基づくなら、窓ぎわの海辺をのぞく室内全域にひろげられるべきだろう。テーブルについては、秀一の見解を参考にしたい。透明な強化ガラスがいいか、それともここも鏡面が最適と思うか、意見を知りたい。 イオカステは、ぼうぜんとして説明をうけている秀一をじっとみつめると、わずかに舌をだし、紅に塗られた自分の上唇をゆっくりとなめた。彼は、生唾を呑みこんだ。 「つぎは左におかれた浴槽部分の解説にうつりますが、ここまでで、なにか疑問はありませんか」と質問した。 「君たちは、制服はどうするのだろう」と秀一は乾いた声で聞いた。 イオカステは、廊下はプライベート部分ではないから、もちろん服はきてくるといった。なにを制服にするかは、イオともよく相談しなければならない。それを決めるのも、今日の重要な仕事だ。ここで設計についてまず話しあい、ある程度の合意ができたら、となりの部屋でじっさいに配置し、不具合について考えなおす。イメージだけでは、限界があるに違いない。プライベートゾーンだから、彼女たちの格好については、秀一の意向がつよく反映される。だから今日は、さまざまな服と下着を用意してきた。気に入るものがなければ、再度イオと相談するといった。 「ほかに質問がありますか」とイオカステは聞いた。秀一が首を振ると、彼女はまた説明をはじめた。 問題は、この浴槽部分をどうするかだ。なにを措定すると、イメージが湧くかという事案に積極的に答えることになる。まだ表面的な付きあいしかないので、秀一の思考を充分に把握できない。これは、今日にでも改善しなければならない緊急的な事案というのは、イオとも確認している。仕方がないので、いまは話しあいが必要になる。 彼女としては、浴槽は透明な強化ガラス、床と天井部分は全面鏡張りがいいと思う。オープンということがひとつのキーコンセプトだから、独立した部屋にはしないが、ある程度まで興奮度をたかめるためには、六面とも鏡が最適だ。そこが、このコンセプトをどう活かすかという点で悩んだ部分になる。昨日、彼女は一晩考えていたが、テーブルにむかっては、統一感をだすために壁はないほうがいいだろう。廊下側については、隔壁をつくらないというコンセプトとは一致しないが、悩ましいほど鏡面の効果は大きく、効率面から鏡の仕切りを考慮せざるをえない。この点については、自分ひとりでいくら悩んでも結果のでない事案で、秀一の意見を積極的にとりこみたい。 さらに海側については、浴室に入ったばあいには自動的に鏡面に変化する設定なら、どうかと思っている。このさいは、浜辺の一部などという中途半端なことは考えず、全面をかえるとすれば、いいのではないか。どこをみても三人しかいない状況が生まれ、まさに、ザ・プライベートルームというコンセプトが実現できるのではないか。 「どう、お考えですか」とイオカステは秀一にたずねた。 「完璧です。このばあいにかぎっては、あなたのプランのほうが、コンセプトが明確になっているといえるでしょう」 秀一は、真剣に解説するイオカステをみつめた。 「イオの考えも、すてがたい部分はあります。ロッカールームの意義などですが、イオカステの提案は、さらに踏みこんでいると感じます。プライベートルームという意味あいからは、ほぼ完璧でしょう。イオ、気を悪くしないでください」と秀一は彼女をみていった。 「仕方がありません。たしかにイオカステの案は、プライベートルームにたいする認識が一段たかいと思いました。お気遣いは、いりません。正直に話してもらって、私はありがたいと思っています」 イオは、考えぶかげにいった。うすい唇をとじて、じっと秀一をみつめかえすながい睫の彼女は、どこまでも清純で、容易には触れることができない神聖さまで感じた。 イオカステは、そんなイオを、眉を顰めて悩ましい表情でみた。 いくら美しくても、二〇代のときには分からない事案があると、落ちついた声でいった。さまざまな事象を経験し、はじめて身につく奥ぶかい妖艶な部分で、世の常識的なしがらみをいちいち気にしていては、決してえられない。自分にそなわった魅力を究極的段階まで引きだすには、世間一般などは無視し、あるがままの自身をさらけだし、思いをストレートに表現してみることだ。それは、創作にもつながる想像力の源泉で、確実に妄想世界にもつらなっている。その迷妄とさえよびうる世界を構成するのは、油にまみれた日常から逃れ、つまらない常識から離脱し、手垢に汚れた習慣、言い習わし、仕来り、習俗、流儀、伝統、因習、慣行、遺風から脱却する必要がある。 「こうした慣習からぬけだすには、私以上のパートナーはいません。これは、若いイオにもヘレナにも無理なことです。貶めようと思うのでは決してありませんが、私は、彼女たちにはない、有無をいわさぬ、実績をもっているのです」 イオカステは身をのりだし、真面目で、しかも妖しいまでの美しい表情で秀一をじっとみつめた。すぐ間近までせまった彼女の肌は、手入れが行きとどき、どんなアップにも耐えられるほど、すべすべしていた。その言葉は真理をつき、このままイオカステの身体のなかにすすんで呑みこまれたいと、心から思えるほどだった。 小一時間で提案の説明が終わり、じっさいこれを現実化したばあい、どんな感じになるのか確認してみよう。必要ならば、もうひとつの設計も一度、シミュレーションするのもいいだろうと彼女は献言した。 イオは、この件ではすっかり脱帽し、執務室の計画は、イオカステの案に全面的に賛成すると答えた。ただ微妙な部分については、じっさいに体験し、細部をつめることを今日の仕事にするといった。非をみとめて設計については譲歩するが、彼女がもちあわせる若さを積極的につかってイオカステには対抗したいと述べた。 イオは、猛烈につよい自尊心をもち、ここでは一歩退くことで、つぎには譲らないという自負心が、秀一にもありありとつたわってきた。彼女は、耐えながら興奮するマゾの気があるといったヘレナの言葉を思いだした。イオは、独力でイオニア海をこえてエジプトまですすみ、四〇〇〇年の歴史をもつその地で万物の母になったのだ。この世に存在するあらゆるものを、彼女は自力でうみだしたのだ。 イオカステは、荷物がのったカートをボーイにひき入れさせ、となりの部屋の扉をあけると、猛烈に巨大なフロアが出現した。どういうつくりなのかは不明だが、その光景は都心の一等地につくられたオフィスビルが連想された。階全部がひとつのフロアになり、廊下側から窓までの奥行きは、五〇メートル、さらに幅も充分におなじくらいはある、ほぼ正方形にみえた。天井までのたかさは、八メートルでは、とてもきかないだろう。となりの秀一の部屋は、四メートルくらいもあるふきぬけだったが、それを二階分以上、ぶちぬいた感じだった。 イオカステは室内の中心部あたりにいき、まず、8の字形のテーブルを現出した。そこにはソファーももうけられていた。三人ですわって、設計図をみながら詳細な検討に入った。いちおう、そこに記載された通りの書斎と、ベッド、浴室を再現した。前面はビーチになり、プライベートルームのためだけに、懐かしく感じられる潮騒が聞こえた。押しよせる波は、青くきらきらと輝き、湿り気を帯びた潮の香りに満たされ、空には白い雲がゆったりとただよい、すべてを透明な日の光が照らしていた。目の当たりにする占有空間は、窮極のリゾートだった。 計画にそって、天井部分、四方をとりまく壁、さらに床は、鏡張りになった。調光のため、書斎の四隅にオレンジ色のあかりが点された。寝台部分は、あかるいほうがいいというイオの意見で、白色光がとり入れられた。そのうえにのってみると、周囲は鏡で構成されていた。イオは、ベッドにいるばあいは、すくなくとも窓の右側半分は鏡面のほうがいいと主張した。秀一は、その案に賛成した。ベッドに横たわってみあげると、彼を中心にして、両側にイオとイオカステが横臥し、天井をみつめているのがみえた。 湧きあがる興奮を必死でこらえながら風呂場にいくと、全面が鏡張りの浴室は、ただただエロいとしかいえなかった。じっさいにバスタブのなかに入り、そこからうら若い女性ふたりをみつめてみた。またイオカステを入れて、イオとふたりで外からみた。どちらも試してみると、浴槽は鏡よりも透明な強化ガラス製のほうが、まるで興奮度が違っていた。この点に関しては、全員がおなじ意見になった。またとうぜんながら、使用される強化ガラス、鏡面は、湿気等にたいして完全に曇り止め機能を有する特殊なものを調達するといった。浴室に入ったばあいは、鏡は一点の曇りもなく、すべての対象物を正確にうつしだすことが確約された。 全体を概観して、ザ・プライベートルームのコンセプトが、かなりの域に到達しているのを三人で確認した。 充分に納得して8の字形のテーブルにもどると、彼女たちは、入り口においてあったカートからスーツケースに入った荷物をもってきた。横向きにつくられた机の廊下側に、ながいソファーがふたつ配置された。ふたりは話しあい、それを配分した。右を専有したイオカステは、秀一に自分用のソファーが欲しいかと聞いた。彼は、無言で首を振った。 いまこの部屋に配された書斎部分は、完全なイミテーションで、明日には、おなじ形で本物が導入される。部屋全体を切りとって、もってくる。机におかれたPCからはじまり、ハードディスク、創作ノートをふくむ書籍一式は、そのままの形でもちこまれる。眼鏡や時計、電話の受話器、もう服用しない薬物なども一度はこびこみ、不必要ならここで廃棄処分とする。明日の朝までに、複製ではなく実物を搬入する。それにともない、仙台の自宅の該当する部分はコピーにかえられると彼女はいった。 「ここまでで、なにか足らないものはありますか」とイオカステは聞いた。 秀一は、すぐには分からないと答えた。 イオカステは、さきに説明していた通り、テーブルの中央に手首くらいの太さがある金色のポールをつき立てた。棒は、天井から床まで真っ直ぐに伸びていた。 「まだふたつ、決めることがのこっています。ひとつは制服です。もうひとつは、テーブルを透明な強化ガラスでつくるか、それとも鏡張りにするかです」とイオカステはいった。 秀一は考えていたが、すでに天井も床も鏡なので、ガラスが最適だろうと答えた。 「たぶん、そのほうが、さらに刺激的でしょう。じっさいに、やってみれば、はっきりするでしょう」と彼女はいった。 ようするに彼女たちは、この床と天井が鏡張りの透明なお立ち台のうえで、秀一が希望すればいつでも、着替えをくりかえしてくれるという設定だった。つい一時間まえに自室ではじめて聞いたイオカステの話が、ここまで現実化するのをみて、彼はひとつだけ望みがあるといった。専用のソファーはいらないが、彼女たちの大きな長椅子は、さまざまな衣装や小道具を入れるなら、当座の収容能力としては充分だろう。ふたつに区切って、半分ずつあけられるように設定してはどうか、と提案した。そうすればふたりが支度をしていても、秀一は、どちらかにすわって待つことができる。 イオは、賛成してくれた。成る丈そばで、じっとみあげられているほうが興奮するだろうといった。イオカステも賛成し、即座にソファーの収容は変化し、座席は半分ずつもちあげられるようになった。 秀一がすわっていると、ふたりは透明なテーブルのうえに、カラフルなファンデーションや、ランジェリーをならべはじめた。それらは、ブラジャー、ガードル、ボディスーツ、サスペンダー、ストッキング、と呼称されるものだった。さらに、スリップ、キャミソール、ペチコート、テディ、ショーツ、Tバック、などがならべられた。素材は、木綿、シルク、麻、ウールなどで、レースなどでトリミングされたものもあった。なんとよぼうとも、さまざまな色彩と形状をもつ、劣情をそそる小道具だった。 「これも、制服なのでしょうか」と彼は恐る恐るふたりに聞いた。 秀一が下着のフェチだというのは、すでに有名だ、とイオカステは答えた。それを考慮し、ショーツ類に関しては、毎日、変化に富んだものをつける。この点は、イオとも話しあって決めている。それも不必要というのが希望なら、部屋の温度はいくらでも調節がきくので問題なく応えることができる。しかし、もっぱらの噂では、こういう紐状の被覆物が、たいへんな好みだと聞いている。そういう内向きな嗜好に応えて、こそ、ザ・プライベートルームといえる。さまざまな形状の小物が、現実に存在する。だれが考えるのか分からないが、彼女からみても興奮するものがある。それをじっさいに身につけるのは、想像しただけで身体の一部が変化する。趣味のある人には、この手の装束は、覆っているのかいないのか、不明瞭なものがいいに違いない。だからうえになにかを羽織ったほうが、さらに被刺激性をたかめるのではないか。制服とは、そういう小道具を指すと考えている。それも趣味の領域というのなら、きているのか、いないのか、すでにそこから微妙なものがいいに違いない。要望に応えたいから、いまあげた三種類のうちで、どれを望むのかとイオカステが聞いた。 ようするに、整理すると、彼女の問いかけは、プライベートルームでは、一日中、なにもつけないでいることもできる。紐状の、あるのか、ないのか。被覆しているのか、いないのか。かなり微妙なものを、つけているのが希望なのか。それとも、さらにそのうえに、羽織っているのかも不明な、ペラペラとした、シースルーを中心とし、ネグリジェとも総括的に称される衣類をまとうのがいいのか。どれかをえらべという質問だと、秀一は理解した。 なんと、悩ましい問いかけであろうか。三〇歳の妖艶な美貌をほこるイオカステと、二〇歳の清純な美につつまれたイオが、毎日そんな格好のまま秀一の目のまえを、行き来してくれる。さらに、その着脱シーンを心行くまで、みつめつづける許可がでている。 秀一は、しばらく考えたが、どう悩んでも、着脱容易な軽いものを羽織っているなら、それがなくなっていく様子を観察できる。そのためには、なにかがあったほうがいいと思った。それで、自分の心情を率直につたえた。 イオカステは、演出が必要かと聞いた。 「それは、なにか」と彼はたずねた。 秀一がソファーにすわり、じっとみまもるなかで、毎朝、彼女は、天井と床が鏡面で構成される、透明なガラス製のお立ち台で、制服に着替える。そのとき、バックグラウンドミュージックとして、それなりに雰囲気のある音楽をながすほうがいいのか、と聞いた。 秀一は、すぐには分からない。懸案の事項としてのこしたいと答えた。 さらにイオカステは、この黄金のポールをつかって、ペルシア絨毯のうえで、ハーレムの女たちがアラビアの王たちを興奮させたような、ポーズをとったほうがいいのかと聞いた。 秀一は、そういう趣向を一度はみたいと答えた。 さらにイオカステは、スポットライトはどうするかと聞いた。秀一が考えていると、前時代的だが、幾方向から照らしだすものもある。そのさいに、色彩をつけることもできる。それに最先端な機器としては、秀一の視線に反応して、彼がみつめた部分に光線があたるシステムがある。自分がなにをじっと観察しているか、はっきりすることになる。つまり、このシステムを使用すると、彼女も、どこをみられているのか分かる。そのライトがあたった部分を感じて、微妙に反応してあげてもいい。非常にマニアックだが、希望があるなら、やることができるといった。 秀一は、きっぱり、希求すると答えた。また、イオカステのサービス精神に感動したといった。 「すくなくともあなたにだけは、よく分かっていただきたいのですが、私は、物事を中途半端には決してしないのです。やるなら、どこまでも徹底的ということになります。ザ・プライベートルームは、どんな要望にも応えます。イオがどう考えるのかは、関与できない彼女の問題です」とイオカステはいった。 秀一は、その言葉に頭をかかえた。 すると、イオがいった。 「あなたが希望するポーズを、この透明なテーブルのうえで行います。私の身体は、とてもやわらかいのです。ほとんど、どんな姿勢でもとることができます。それが、鏡張りになった天井と床にくりかえしうつされます。きっと、そのなかには、一度みたら忘れられなくなる、魅惑的な姿態があるはずです。あなたに、私でなければとどけられない喜びを、さしあげましょう」 イオは、そういうとひとつ提案をした。すくなくとも彼女がお立ち台に立つときには、球形のミラーボールがおりてくるようにつくる。ディスコボールとはいっても、巨大なもので、透明なテーブルのうえで紐状のショーツをつけたイオを、まるくつつみこむ。とうぜん、秀一のいるソファーも包含される。そのミラーボールは、外が鏡でつくられるばかりではなく、内部も鏡面になっている。妖しい姿態が、そこに投影される。さらに、イオカステの提案したスポットライト機能がついている。秀一が一部をみつめると、拡大された映像が大きく鏡にうつしだされる。それは、彼の思いによってどこまでも押しひろげられる。微妙な変化を、思う存分、心行くまで堪能できる。彼女には、恥じらいがある。その気持ちは、ザ・プライベートルームのコンセプトには、一見、反している。しかし、恥じらいがあってこそ、そこを追究するのが課題になる。それに、イオカステのいうような中途半端なバックグラウンドミュージックなどではなく、そのときには、イオの喘ぎ声や呻き声がほどよい程度の大きさでながされる。それも、ステレオなどという生やさしいものではなく、じっさいに彼女が秀一のまわりをとりかこんでいると、錯覚する臨場感をもって聞こえてくる。つまり、彼は喘ぎ声のなかに埋没することになる。朝の着替え時に、希望するなら小一時間はつづけてもいい。 「あなたは、視覚的にも聴覚的にも、幾層にも私にとりまかれ、イオのなかで溺れるのです」と彼女は、潤んだ瞳でいった。 秀一の脳裏に、イメージがひろがっていった。目鼻立ちがととのい、蛾の触覚に似たまるい眉が魅力なイオは、細面のため理知的で、さらに彼の大好きな、豊満な姿態だった。普段は、紫色をベースにしたワンピースをきていた。それでも彼女が、迫力のあるバストと大腿部、猛烈にくびれたウエストをもちあわせているのは分かった。素晴らしい、おそらく染みひとつないヴォリュームをもつ臀部が、目のまえでさまざまな形に変貌する光景が、彼の脳裏を駆けめぐった。 これをうけてイオカステも、お立ち台をさらに過激な場にする、あらたな提案を行った。彼女のばあいは、ピラミッド形の四角錐を設置する。拡大映像にすると、球面では詳細が不鮮明になり、不満がのこるに違いない。内面すべてに鏡張りがほどこされた四角錐では、アップされた部分が、床をふくめて五つの面に投影され、迫力としては申し分がない。そうすれば、各部分の微細な変化を、納得がいくまで嘱目する連続観察が可能になる。もちろん自動焦点機能のスポットライトがあたり、凝視されたのが特定部分に限局されたと判断したばあい、彼女は、その領域をさらに明確化する協力を惜しまないだろう。該当部の観察を容易にし、いっそうのディテールを追いもとめるために、おもに透明な円筒状の小道具をふくむ、あらゆる方法を駆使することに異議をとなえない。さらに妄想を煽り、中途半端な結果に落ち入る事態を忌避したい。そこで、一段と刺激を確実にするために案がある。 ここまでの論議では、秀一が観察を行う場所が、暗黙の思いこみのうちにソファーに限定されていた。いま、透明なお立ち台という特殊装置の潜在能力を最大限に引きだすために、観察地点を拡大する。彼は、窮極の観察ポイントとして、テーブル下面を専有する選択も可能になる。このばあいは、スポットライト機能があるので、調光は良質にたもたれ、陰影により観察部分が不鮮明にかわる不愉快な事態は、絶対ないと保障できる。さらに透明なお立ち台は、浴室とおなじく最新の曇り止め機能が付随している。つまり秀一が脳裏で妄想するイメージが、そのまま眼前に表出されると考えてよい。こうなってくると、オープンという理念からは幾分か逸脱するようにも思えるが、なによりも、ザ・プライベートルームというコンセプトが最優先におかれる。ほぼ密閉空間が想定される場面では、麝香を中心とした、嗅覚的にも刺激する芳香で内部を満たす。この事態にいたれば、彼女の汗をふくむ液状刺激物も、飛散することになるだろう。また望むなら、充分に磨きがかかった喘ぎ声は、もちろん各部分から、秀一の耳にとどくように工夫する。 しかし、それだけでは、きわめて中途半端といわざるをえない。ここに、もうひとつ工夫をほどこすことになる。つまり、それだけでも劣情を引き起こさざるをえない、刺激的な言葉が導入される。これはたんなる叫びとは違い、かなり具体的な指示内容をふくむことが想定され、もちいられたばあい、秀一はただ傍観するという中途半端な状況ではいられなくなるのではないか。こうした言葉がもつ刺激性は、きわめて高度で、正直にいってここまでやるとなると、彼女も演技という範疇からは完全に逸脱するだろう。どれほど冷静に、控えめに行っても、どうしても本性がでてしまうに違いない。天性の資質まで問題にされたばあい、イオにはたいへんもうしわけないが、実績のある彼女が一歩も二歩もさきをいくのは明白だろう。 イオカステは、考えながら、こうした内容をゆっくりと語り、秀一をみつめ、正面にすわる若い女性を直視した。 その言葉を聞くと、イオは頬を紅潮させた。たかい鼻の彼女は、すき通る瞳で秀一をじっとみつめた。イオが、さらに大胆な提案をするつもりなのが分かった。彼女は、イオカステと違い、清純であるのが大きな魅力だったから、秀一はこれ以上の申し出は不必要だと感じた。さらなる微細部分については、実地でつめようと思い、そう提言しようとした。 そのとき、イオは、もういくつか提案があるといった。 彼女をつつみこむ球体は、ただ内部が鏡張りなのではなく、特殊機能がつき、伸縮性をもっている。ミラーボールという表現は、断片的な平面状の鏡がいくつもつらなって球形をつくる状態を指すのだろう。この言葉は、初期のイメージをつたえるためにつかわれたが、不充分で幾分かの解説が必要となる。球体内部は、一枚の完全な鏡面を構成する。つまり、すべてが凹レンズとみなされるので、観察部分のアップは平面とは比較にならない迫力をもつだろう。そのうえ、この球体は可塑性まで有している。具体的には、観察する秀一を軟性状につつみこんでいる。 つまり、イオがさまざまなポーズをとり、姿勢を変化させるのにしたがって、そのうごきが振動としてつたわり、同一空間におかれた彼は、彼女を体感することが可能になる。究極的にいえば、お立ち台と秀一がすわるソファーは一体化し、ほとんど分割不能にかわる。自動焦点機能のスポットライトが一定の部分に限局したばあい、画像として球面内部に速やかに反映される。瞬時に拡大映像が、考えられうるかぎりの、もっともあらわな形状で表出される。そのうえ、球体の伸縮機能が作動し、物理的にも彼をその一部分に接近させる。したがって観察部分は、自動的にさらに拡大され、虫眼鏡を使用したばあいと同様な映像をうみだす。この物理的接近によって、彼女の汗をふくむ液状刺激物質は眼前にあらわれ、究極的には該当部の内部にとりこまれた錯覚に落ち入るに違いない。だから臭覚への訴えも、麝香に満たされるという中途半端なものにはならない。鼻腔自体が該当部分に近接するのだから、彼が希望するまさにそれズバリが提供されるといっても過言ではない。 ヒトがなにかを感じるのは、五感をつかうことになる。視覚、聴覚、臭覚は、イオカステが提供すると話したものだ。イオのばあい、さらに、触覚、震動覚が加わる。物理的に近接状態におかれるのだから、これまでとりあげられなかった最後の感覚、味覚も、希望によっては提供されることになる。つまり、接近から、接触という事態に状況は変化する。 イオのばあいは、イオカステとは違い、なにごとにたいしてもアイドス、恥じらいが、魅力の中心という不変の原則をもつ。ここを間違えるのは、彼女にとって命とりとなる。恥じらいをうしなった部分は、競いあっても仕方がない、イオカステの専有部なのだ。イオは、なにごとにたいしても控えめにするのが、美徳なのだ。 しかし、この接触段階にいたれば、純情な彼女としても、いままでとは違う次元に移行せざるをえない。恥じらいながらも、大胆な言葉を口走るに違いない。それは、もともと恥のないイオカステとは、比較にならないくらい魅惑的にとらえられるだろう。恥じらいをうしなったら、獣とおなじだ。とはいえ状況によっては、自分でも驚くような大胆な発言をしないとは、断言できない。その言葉は、信じられないくらいの刺激的な効果を、双方にもたらすに違いない。さらに、この空間にはエコー機能が付随している。一度、発せられた言葉は、強弱をつけながら内部空間を波状に漂流する。恥じらいからいくらこらえても、ついに表出された語彙は無にはかえらず、この閉鎖領域を満たしていくことになる。その拡大された音響を、自分で聞く相乗的効果は、計り知れない。恥じらいながら囁かれる言葉は、やむことなくくりかえされ、内部にいる人びとを悦楽の果てまでつれさるだろう。いずれにしてもイオの球体は、秀一が全身で彼女を感じる装置として機能する。こうなると、小一時間という生やさしい中途半端な時間では、味わいつくせないのは間違いない。午前中いっぱいをかけることも、充分に考慮しなければならない。 ふたりは、ライバル意識をむきだしにして、さらに驚くべき刺激的な提案をつづけた。秀一は、ぼうぜんとして彼女たちの話を聞き入っていた。イオカステは、なにが最善なのかを知るためには、毎回、採点が必要だと主張した。この点にかんしても、ふたりは真剣に話しあいをつづけた。 視覚、聴覚、臭覚、ショーツ類をふくむ小道具、満足度、の五項目を設定する。各項に五点を配分し、終了時点で秀一が、点数を記載する。先攻と後攻での不利益が生じないよう、先後は入れ替えて順に行う。このふたつをひとつのセットとし、全四回が終了した時点で点数を公開し、どちらがより刺激的で魅惑的だったか、総合的に判断する。その結果については、決して文句をつけない。点数が足らず負けたのは、自分のいたらなさと考える必要がある。秀一を恨んだりするなら、そもそも秘書としての資質に欠けている。そうしたばあい、ザ・プライベートルームの構成員という資格も疑われる。こうした事情を勘案すると、お立ち台の着替え時間が無制限では、勝負ができない。いくつかの事案がはっきりするまでは、午前、午後に一度ずつ着替えを行い、各々、小一時間くらいを、まずは考えるしかない。こうした試みを一週間くらいつづければ、秀一が望むものがいっそう明確化し、彼女たちも彼好みに変身することが可能だろう。さらに、どちらかが一方的になってきた局面では、順番という設定も、論題にあげざるをえない。勝率が二割に満たないばあいには、劣位の者は潔く負けを受け入れ、はっきり序列をつけるほうがいいだろう、とイオカステは述べた。 イオは、そこまで考えなくとも、三連敗はみとめられないとするべきだろうと主張した。そして、明日の順を、ここで決めようと提案した。順番は、すでに論議されたように午前、午後の二部構成となる。先後は、一日のうちでは変更されない。翌日は、先攻だったものが後攻にかわる。 彼女たちは、かなり険悪な状況になり、秀一の存在など忘れて論議をつづけていた。ふたりの類い希といっても差しつかえない美貌な女性が、その美しい容貌に苦悩の色をただよわせながら、彼に快楽をあたえる効果的な方法について真剣に討議するのを、ぼうぜん自失として聞き入っていた。ここでとつぜん、彼女たちは、秀一に明日の舞台を、まずどちらからはじめるか決めるよう提案した。 彼は、ふたりがじゃんけんをし、勝者がいずれかを選択する権利をもつのはどうか、と提起した。 彼女たちに異論はなく、さっそく施行してみると、イオが勝った。彼女は、後攻を選択した。 秀一は、彼女たちが熟慮している装置は、かなり複雑な機能をもつらしいと判断した。 話を聞くかぎり、さらに考慮の余地があるのだろうと感じ、このお立ち台の部分についてはもち帰り、今日一日思いめぐらしたらどうかと提案した。すくなくとも明日の午前中は、装置が思い描いたものになるのか、周囲の状況との整合性もふくめ、現場で検証してみたら、いかがか。ある程度完成したとみなせられれば、午後からでも試したらどうか。そのばあい、ひとつの手あわせが四回という規定を満たさない。だから、明日は完全な予備調査として、優劣判断は保留にするのが最善ではないのか。イオが選択の権利をとったのは事実だから、午後の予行後に、先後、どちらをえらぶか、あらためて彼女が決めたらどうか。明日は、イオカステが先攻してみることで、この件は、いったん、納得してはもらえないだろうかと提案した。 荒れ模様だったふたりは、秀一の動議を受け入れた。この場でこれ以上の話しあいをつづけるには、ふさわしいとは思えない状況だった。ふたりは部屋をでると、廊下に立っているボーイに空になった衣装ケースをカートではこばせた。 「明日の企画を楽しみにしている」と秀一はいった。 イオカステは、その言葉に、柔和な笑みを浮かべた。 イオは、清純な頬をすこし赤らめ、「よく考えなおしてみます」と答えた。 三人は、そこで分かれた。 部屋に帰ると、午後の二時だった。だから、秀一は、彼女たちの献策を五時間ちかく聞きほれていたことになる。イオカステが眉間にかすかな縦皺を入れて彼をみつめ、懊悩しながらくりかえす提案のひとつひとつにたいし、脳裏に正確な妄想をかきだし、ほとんど涎をたらすいきおいで、心をうばわれ聞きつづけていたのだった。清純なイオが、声をうわずらせ頬を染めながら、真剣な表情でくりひろげる信じられない提言に適確に反応し、大脳全体を占拠する燦然と輝くイメージとなってあらわれる彼女の壮絶な姿態に、忘我の状態で聞きほれていた。 想像力をつかいはたし、昼食もとる気になれず、ぐったりとしてベッドに横臥した。この真摯なとり組みは、脳にはかなりの負担だったらしく、そのまま彼はしばらく眠ってしまった。 目を覚ましたのは夕方で、宮殿の内庭は美しい夕暮れをむかえていた。ひろい庭園を行き交う者もなく、樹木の葉が風に揺れ、夕日に輝く様子をぼうっとながめていた。ドアホンが鳴って、メイドが夕食をはこんできた。それも終わると、デザートと珈琲をまえにして、はげしく興奮した一日を振りかえった。完全に、自分の実年齢を忘却させてくれた。しかし、ペルセポネがデーヴァだとするなら、アベスターグから、すくなくとも三〇〇年以上をかけて変貌したのだろう。これは、おそらく真理なのだ。そうなると、ここで彼が出会う、ヘレナであれ、イオ、イオカステであれ、三〇〇歳以上と考えるべきなのだろう。すべてが仮象で、イメージが具現化している世界なのだから、年齢などはまったく無意味なのだろう。彼女たちからすれば、秀一は、純真な小学生みたいなものだろう。だから、みたい、触りたい、その他さまざまな欲求については、自分に正直に、ありのままに反応するほうが、相手も考えやすいのではないか。すくなくとも、彼女たちはそういう設定で、議論を展開していると思った。 ヘレナは、今日は一度もやってこなかった。こんなことは、はじめてだったから、どう考えるべきなのだろう。もしかすると秀一の相手は、ヘレナから、イオとイオカステにかわったのだろうか。なぜ、なのだろうか。 昨日は、オグドアスが登場した。この「八からなるもの」は、ペルセポネの存在と、ふかく関わっているに違いない。もしかすると、彼女の精神機構の一部を、彼に敢えて公開したのだろうか。そうならば、ヘレナは、オグドアス、あるいは、さらに上層に位置するペルセポネの命をうけていたと考えるべきだろう。自然が毎日幾千とつくりだす、工場製品のごとき多数の人間のひとりでしかない秀一を、デーヴァがとくべつにあつかっているのは間違いなかった。 イオ、イオカステという存在を考えあわせるなら、ヘレナのばあいは、この巨大なデーヴァ空間のなかで、抹消部とみなすことも可能な気がした。だから昨日は、わざわざ中枢部を公開したのではないか。イオとイオカステが秘書になって、彼の身のまわりに配されたのは、ヘレナはかわりうるものという認識をつたえているのだろうか。この点は、秀一にとって非常に重大だった。なぜなら、彼のもつれの相手が、ヘレナではなくて、デーヴァ機構に在住する何ものかになっていると考えるべきなのだろうから。もしかすると、ペルセポネなのだろうか。それがどういう意味をもっているのか、想像もつかなかった。 秀一が考えるに、ヘレナのキャラは、はっきりしていた。彼女は、完全に自由奔放な誘惑者で、げんに彼は魅了され、なんの疑問もいだかずに、詳細不明な場所につれだされてきていた。 イオは、清純な巫女という設定が明確になっている。 がんらい彼女はアルゴリアで、ヘラにつかえる女神官をつとめていた。イオは、ゼウスに見初められ一方的な求愛をうけた。ヘラの嫉妬を怖れ、彼は、彼女を白い牝牛にかえ、自分とは関係がないと宣誓した。 ヘラ女王は、ゼウスから無関係とされた牛を譲り受け、全身に目をもつ、アルゴスを見張りにつけた。彼は、牝牛をミュケナイの森のなかにつれていき、一本のオリーブの木につないだ。アルゴスは、一日中、どこかの目をあけて監視をつづけた。 ゼウスは、彼女を解放する命をヘルメスにあたえた。彼は、策略をもちいたが成功せず、けっきょく、アルゴスを殺した。イオは解放されたが、嫉妬ぶかいヘラは許さず、牝牛の耳に虻をおくりこんだ。彼女は、この絶えがたい苦痛から逃れるために、惑ってイオニア海を、さらにボスポラス海峡をわたり、広大な大地をさまよった末にエジプトまでいき、もとの姿にもどった。 つまり、イオは、全体を通じてきわめて受け身で、不合理にも耐える、身も心も清純な女性の象徴になっている。彼女は、なすがままにされても、忍耐づよく愛を受容する、男性の究極的な愛人のタイプなのだ。そのうえ、イオの魅力の源泉は、アイドス、恥じらいにある。彼女は、明確にこの事実をみとめている。提言はそうとう過激で、おそらくいった通りのことを、じっと我慢して実行してくれるのだろう。その耐え忍ぶ姿勢、自己抑制の姿こそ、だれにも負けずに男の心にせまる、イオの魅力なのだ。明日は、どんなにはげしい行為でも、この一点はきちっとまもりながら実行するに違いない。 イオカステも、非常に分かりやすい。 絶世の美貌により、ライオス王の妻になり一〇代の半ばで息子を産む。彼女にとって、年の離れた王の命令は絶対だった。息子に殺害されるという神託をもつライオス王は、イオカステの愛おしい赤子をキタイロンの山中にすて、殺したとつげる。とはいっても、王は予言など端から信じていない。なぜなら、彼は若いころからの男色家で、美貌の彼女は飾りでしかない。年若いイオカステは、欲望の処理に悩む。一〇代のうちに性感帯をつぶさに磨きあげられ、子供を産む女だと認定され、すっかり相手にされなくなった彼女の絶望と嘆きの日々は、時代をこえて充分につたわってくる。それが、飛んでもない美貌の持ち主なのだ。王の手がついていなければ、周囲の者がほうっておかない。気もみじかく、年老いた冷酷なライオス王は、妻の不倫など容赦する人間ではない。男色家の王の妃だったために、若い身空で情欲の行き場を完全にうしなう。ライオス王が殺したという息子がのこされていれば、彼女は自分の情念を子に転嫁することもできた。だからイオカステは、子供は生きているという空想を信じはじめる。 そこに、ライオス王が殺され、スフィンクスの呪いを解いた若者が、彼女の夫としてあらわれる。 イオカステは、最初からこのオイディプスという青年が、自分の息子だという妄想にふける。それを直接的にたしかめることは、怖くてできない。しかし、年齢的に一致し、だいいち容姿も自分にそっくりで美しい。オイディプスからは、コリントス王が実父でないのも聞いている。しかし、イオカステにとって、この待ちこがれた幸せを逃すことは考えられない。自分の美貌の息子と愛しあう、妄想世界がうみだす倒錯的な快楽を味わいつくす。彼女は、その過程でオイディプスこそ、実子であると確信する。それは、さらに彼との密儀を刺激的なものにかえ、禁断の背徳的情交は濃密になる。だから、ライオス王の殺害者の探索をやめるよう、彼女は、口うるさいほど、くりかえしオイディプスに願いでている。 ギリシア神話は、数え切れないほどの多くの作家が、さまざまなストーリーを考案した結果、非常に複雑で、透徹された物語をつむぎだした。奥に立ちいるほどに、ふかい味わいをもっている。 いずれにせよ、この三人の人物像は、かなり完璧な設定がされている。そうすると、ヘレナでは果たせない役柄が必要になって、変更された可能性もあった。この指令をだしたのが、オグドアスなのか、ペルセポネなのかは不明だった。それが、なにを意味するのかも、よく分からなかった。つまり、秀一はさまざまに試されているのだろう。ヘレナによる試験には、合格した可能性があった。そうなると、彼女は、しばらくでてこないのだろうか。 秀一は、自分がなにをもとめられているのか不詳だった。しかし、デーヴァという想像不可能な統合体が相手では勝負にならないから、不要だと認定されれば殺されるだけだとは理解した。先日の高座で、オグドアスのヘルメスとヘパイストスの死闘をみせられたのには、意味があるに違いなかった。アルテミスが、分をわきまえるよう提言したのは、意味深だった。 秀一は、いろいろと思い悩んだが、最終的にはあまりにレベルが違いすぎて、手立てがないのはあきらかだった。どのような波動関数が生まれているのか、明日には書斎もくるらしいから、よく考えてみようと思った。 翌日になっても、ヘレナはあらわれなかった。九時に、イオとイオカステがやってきて、三人で執務室に入った。昨日の予定通り、午前中は、彼女たちは装置のこまかい点検をし、秀一は書斎について足りないものがないか、よくしらべてみることになった。ふたりの美貌の女性は、昨晩さらに検討を加えたらしく、アイデアの特許権というか優先権について議論をはじめた。工夫を重ね、趣向を凝らした部分が、承諾もなしにライバルに使用されるのは、なにごとにつけても愉快でないのは理解できた。 秀一は、書斎に入室した。彼の部屋は横長の六畳間くらいで、ながいテーブルが片面についていた。背面は書棚となり、上半分は二四に分割され、各部に書籍が二列で配置されていた。下面は、扉がつき大型本なども収容できた。すくなくとも、二〇〇〇冊以上はおかれていた。秀一は、なかの一冊をとりあげてみた。ページには付箋が張られ、彼の字で書き込みがあった。秀一は、思いついたことを、なんでもかく習慣をもっていた。何冊か手にとり、確認して、実物だろうと思った。 書斎の机は、二段構成になった特注品だった。かなりの奥行きがあり、奥には、さらに三〇センチくらいのテーブルがつくられていた。二枚のながい板のあいだに、洒落た袖が、加重をささえる目的をかねて造作されていた。うえのテーブルには、調度品や、テレビ受信機、プリンターなどが配備されていた。さらに、彼が普段考える椅子のまえには、大きなボックスがおかれ、おもに創作ノートが入っていた。 ノートは一〇〇枚綴りのA四版で、背には通し番号が振られていた。現在つかっている創作ノートは、第六〇巻だった。そのほかに、予定表とか、日誌などもあるので、すべてをここに収めることができず、三〇巻以前のものは、背後の書棚のいちばん端のほうにおかれていた。さらに創作が六〇作品以上つくられ、印刷され、専用の形式でまとめられ、本棚の一部を占めていた。 下面の大きなテーブルには、シートが敷かれ、印刷物をはさむことができた。そこに、PCなどの機器がおかれている。そのほか、時計や、さまざまな文具なども配されている。すくなくとも、秀一が仙台をでた日は、こうだったと思える配置になっていた。だから、地球にのこされた彼のAIロボットは、この部屋のものを、なにも触っていなかったのだろう。 おおむねの状況を確認し、ひらかれている、かきかけのノートを読んでみた。執筆中だった、「悪魔がみる夢」という作品のページだった。ノート上部には、一一〇一一とかかれ、通し番号は、一二九と記載されていた。つまり、表記作品の創作ノートとしては、一二九枚目ということを示していた。このノートは、あらゆる作品の創作過程がかかれていた。だいたい同時にいくつかを考えるので、まえのページは、違う物語の創作ノートだった。だから、とうぜんながら台帳が必要となり、振られた通し番号が、なんのノートを指すのか記載されていた。ペラペラとめくってみると、秀一がかいていた創作ノートに間違いないと思った。 デーヴァは、これをどういうぐあいに、もってくるのだろうか。まず、距離の問題がある。光学的にはかなり離れているが、いくつかの異宇宙をハブとして利用し、情報は短時間で仙台にとどくのだろう。この部分を複写し、地球にのこし、また母艦にもってくる。 デーヴァを統括管理するペルセポネは、秀一とは桁違いの存在だから、瞬時に二〇〇〇冊の書籍と、六〇冊程度の創作ノートの全ページを判読し、素粒子に書き替え、必要ならば物質化し、コピーをつくりあげるのだろう。おそらく粒子状にし、なにかにつつみこんで空間を移送し、デーヴァ内の執務室で書斎を組みあげるのだろうか。それとも情報だけをつたえ、こちらにある素粒子をつかって構成しなおすのだろうか。 昨日の段階では、イオカステがイミテーションといった通り、映像をそのまま投影したものだった。ノートはあったが、ページをめくると、なにもなかった。上下のテーブルのあいだには、小物を入れる抽斗がつき、さまざまな文具や、PCの用具、服用する薬物などが収容されていた。昨日は、外見はそっくりだったが、引きだしは機能していなかった。ひくことができなかったが、いまは記憶通りのものが入っていた。だから、薬物をふくめ素粒子に分解し、そのデータをグラビトン重力子にのせて空間を移動させ、ここで再生させたのだろう。 秀一は、こまかい経緯についてはまったく分からなかった。しかし、そうなってくると、ペルセポネは、彼の創作ノートはもちろん、読んだ書籍や、どこに注意がはらわれたかもふくめ、記憶装置にとりこんだと考えるべきだろう。どういう意味をもつのか不明だが、彼女にとっては、数秒もかからないで施行可能な作業だろうとしか理解できなかった。 そもそも、仙台の家に、秀一のAIロボットをのこすといった瞬間から、ペルセポネは、ここまでの調査を完了していた可能性もあった。彼女のばあいには、閲覧すればデータがのこり、そこから復活させることもできそうだった。そうなると、書斎を導入するのに、なぜ一日かかったのかも不明だった。再調査が、行われたのだろうか。さらに、なぜイオカステは、本物を執務室におき、仙台にはコピーをのこすといったのだろうか。すべてがデジタルデータに変換される世界で、贋作とはなにを指すのだろう。本物とは、どこが違うのだろうか。データをもつにも関わらず、こうした期日を故意にもうけて、彼を混乱させているのだろうか。 書斎をふくむ執務室という空間がプライベート部分に該当するのは、イオカステが昨日一日かけて、秀一にじっくりと伝達したことだった。だから主旨にしたがえば、ここでは普通は人目を憚ってできない、あらゆる秘儀が可能になる。その範囲については、美貌のふたりが、ほとんど無制限だと力説してくれた。だから、欲望のままに振るまうことも許可されている。とはいっても、ここはデーヴァ、ペルセポネの内部なのだ。だから、あらゆる行為は記録されている。プライベートルームというのは、遊戯する三人以外、なにも知らないという事態とは、基本的にことなる。ペルセポネが、いまの段階では公開を考えない、と宣言した意味あいしかもたない。秀一の一挙手一投足は、再現可能な形で完全に記録されているとみなすべきだろう。問題は、それがなにを意味するのかという点につきる。 だから秀一は、どんなに趣味の世界に埋没できても、決して自由ではないのだ。つねに、厳重な監視をうけている。イオやイオカステが、どれほど彼の嗜好に合致する妖艶な姿態をみせてくれても、彼女たちは味方とはいえない。そうした疑惑について問い質せば、その途端に秀一の価値は低下するだろう。つまり自由なのは、頭のなかだけなのだ。ペルセポネであっても、ここまでは分からない。だから、さまざまに試み、それを知ろうとしているのではないか。しかし、肝腎な、その理由が不明なのだ。 秀一は、ノートなどは、二度ととるまいと考えていた。なにかをかいてしまったら、彼の気持ちがなんらかの形になる。ペルセポネが、もし、知りたいと考えているのなら、秀一の考えは価値をもつ。それを彼女につたえるなら、その分だけ彼の存在意義をひくくするに違いない。相手の考えていることがすべて分かってしまうのならば、他者とはいえないのではないか。ほとんど、自分自身といってもいい。自分が、ふたりの姿をとっていても仕方がないだろう。つまり一方は仮象なのだから、ペルセポネは、消滅させてもかまわないと考えるのではないか。おそらくその点に関して、戸惑いはもっていないだろう。じっさい彼女は、いくつものトラップを仕掛けているのではないか。 この事案をさらにつきつめるのなら、ペルセポネは全面的に秀一を信頼してはいない。なにかを期待していないのなら、彼女にとって蟻以下の意味しかない彼に、ここまで手間をかける意義が分からない。とはいえ、こうしたなかでペルセポネが一部をあきらかにしつつあるのは実感していた。それが、この巨大な宇宙船であり、オグドアスや、考えられないほど刺激的な美女たちだった。 しかしながら、医務室につれていかれ、治療をうけた事実は重大だった。なんらかの方法で、秀一の身体にメスが入ったことを意味した。つまり、大脳に電極でも入れられ、いま彼は、仮想空間を意識だけが漂流している可能性も否定できなかった。なんらかの脳への刺激をうけて、夢をみているのだろうか。そうなれば、その後に展開された奇想な出来事は、実体をともなう必要もない。この名状しがたい状況を理解するには、いちばん容易だろう。彼にとって、もっとも重大なことは、いま生じている事象が脳のなかでつくられた妄想なのか、現実なのかという問いだった。両者を、どうしたらふたつに区別できるのだろうか。 そもそも、現実と妄想が必ずしも対立するとはかぎらない。この世が、「幻想の面紗に覆われた仮象の世界」だとするのは、考察の出発点だった。あらゆる事物は、ただ秀一が実在するという事実からはじまっている。これを疑いだしたら、存在自体が無意味だといっていい。このことは、最初に確認した事項だった。そう考えるなら、現実と妄想とは、表裏一体などという生やさしく癒着したものではなく、まさに同一事象ともいえる。この状態は、客観という視点からは、「狂気」と表現されるのだろう。とはいえ、状況に疑問をいだいている以上は、まだそこにはいたらないというべきだろう。 このふたつを区別するのは、可能だろう。たとえば仙台では、秀一には妻がいた。彼女とは事物の捉え方がことなるから、ニュースをみても、感じることが違う。だから、思った事案を話しあえば、納得できないものに遭遇する。承認不能というのは、他者をみとめていることになる。そこで、はじめて自己の存在も再確認できる。つまり、小説でどんなに妄想世界をさまよっても、暮らしているのはまだ現実世界なのだ。いままで秀一にとって、妻は現実にひきもどす他者として実在していた。 ヘレナは、地球からいっしょだった。彼女も、ペルセポネがつくりだした幻影かも知れないが、爆発があった新宿から品川の邸宅、さらに母艦に入り、異次元空間にいくまでは、かなり現実味を帯びていた。医務室からでてきてからは、ひどい妄想世界にかわった感じがした。 秀一は、こうした疑問にたいしてひとつの考えをもっていた。現実と妄想を分割する大きな手がかりになる、「偶然」という事象についての思いだった。つまり究極的には、妄想世界は、必然的には生じてこないのだろう。妄想の世界では、やがて、あらゆる事象が因果関係をうしない、脈絡が不明になり、すべての事件が独立的にかわり、「偶然」が横行するのではないか。 ところが彼は、「思いもかけない」、「不思議なめぐりあわせ」や、「図らずも」、「何気なく」起こった、「偶々」、「偶発的に」生じた出来事を、かつて経験したことがなかった。だから、いまの状況にたいしても、はなはだしく突飛という印象は生まれなかった。 秀一は、女性は大好きだったし、彼女たちが直接肌につける単純な構造の装身具にたいする嗜好も、きわめてたかかった。性的な部分は、夢想につながりやすいのだろう。サド侯爵も、バスティーユ監獄をはじめ、拘束施設にとらわれ、なにもできない不自由ななかで、はじめて妄想したのだ。イオとイオカステの部分は、典型的といえるのではないか。 すべては、彼の内部から出現したのだろうか。 日常性にもどれれば、現実世界だという証明になるのだろうか。 しかし質の悪いことに、一度こうした疑いをいだくと、妄想世界ではないと否定するのはそうとうにむずかしい。すくなくともイオとイオカステ部分については、夢でもいいと割り切り、素直に欲望にしたがうのをえらびたい。この点については、秀一は妄想でもかまわないから、いきついてみようと決心した。自分が狂人でなければ、果ては存在するはずだと確信した。この嗜好部分は、進展していけば、最後は、おなじ出来事をくりかえすことになるだろう。せいぜいが、ながい睫が可憐で、腰までたれる黒髪が輝く、美形で、どこまでも清純な乙女のイオが、すべすべとした染みひとつない白い裸身に刺激的な深紅の紐状の拘束具をつけられ、さまざまにあたえられる破廉恥行為に耐え、やがて被虐の苦悶が愉悦へとかわる。 このくらいまでが、関の山ではないか。人物設定をかえ、舞台や背景を変更しても、こうした嗜好には、正常人では限界をもつに違いない。それでも反復して、新鮮さを覚えるばあいは、気が狂っているのだろう。 夢中から現実にむかう事件は、ひとつには中断という現象がある。悪夢がいちばん分かりやすい。たとえば、はなはだしい恐怖に直面すれば、夢はもちこたえられなくなり、覚醒という事象が生じる。快楽では、こうした現象は起こらないのだろう。しかし、意外性に満ちた驚異に触れれば、さすがにこれは夢ではないかという思いが生まれ、目が覚めることはありうるだろう。ヘレナにつれられて海にいったときも、霊異だったが夢中とは感じなかった。デーヴァなら、こうした事象も可能だろうと思った。さらに奇想ともいえる宮殿のつくりや、オグドアスに出会ったことも、霊験あらたかとは感じたが、ありえないとは考えなかった。ヘパイストスが竜に変身したときには、たしかに度肝をぬかれた。夢なら、ここでの覚醒は起こりうるだろう。ヘルメスと、金網のなかで死闘を演じる場面は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、震動覚が動員され、背筋が寒くなる恐怖の最高峰に位置づけられるのだろうが、そこで秀一は既視感を覚えた。 驚異ではあったが、非常識とは思えなかった。なぜなのか。 秀一は、「アス」という創作をもっていた。その創作ノートを、八〇枚以上つくっていた。具体的にいうなら、書斎の壁は、通常腰をおろす椅子側にコルクボードが張られていた。その反対側には、胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅が掲げられている。高野山から直接購入した、かなり大きなものだった。 胎蔵界曼荼羅をながめるうちに、「アス」という世界が思い浮かんだ。曼荼羅中央部に大日如来が位置し、それを円形にかこんで仏たちが配置されている。ここは理の曼荼羅、中台八葉院とよばれる。 中央の花蕊部に、禅定をした胎蔵界大日如来が位置し、八方にひらいた蓮弁の四方に、胎蔵四仏、四隅に、四菩薩が交互にのっかっている。四仏は、本尊大日如来の悟りのプロセスを表現し、東方の宝幢如来(発心)から時計まわりに、南方の開敷華王如来(修行)、西方の無量寿、阿弥陀如来(菩提の実感)、北方の天鼓雷音如来(涅槃への到達)がすわっている。さらに、南西に座す、普賢菩薩から、北西の文殊師利菩薩、北東の観自在菩薩、南東の慈氏、弥勒菩薩が順に位置している。八葉の花弁外側で相互に接する部分に、密教で使用する法具、三鈷杵がおかれる。 この像は、四仏、四菩薩が中心部につかえるのではなく、中央に位置する大日如来の八側面が描かれているようにみえる。つまり、八人格であり、それが全体を構成している。 秀一が創作した「アス」の世界は、中央に帝王がいて、八葉に八王が配置される。王たちは、皇帝から分離した人格断片になっている。具体的には、西方正面に位置する、「テロリスト」からはじまり、時計まわりに、「性欲家」、「ヒステリー女」、「戦闘家」、「泣き女」、「学者」、「夢想家」、「アナキスト」で構成される。帝王は男性で、人格断片は、男性人格、五名、女性人格、二名となっている。性欲家は、男女見境がないので両性的性格をもつ。帝王は男なので、いちおう男性優位の構成をとっている。王宮と通じる東西南北には、門がそなえられている。大門は、四仏が位置する場所とおなじ、西正面の「テロリスト」、北面の「ヒステリー女」、東裏門の「泣き女」、南門は「夢想家」が占め、性比は互角になる。 王たちは、回廊状の王宮周囲につらなる、巨大な房室をもっている。各々の房のなかは、どこも自分であふれかえっている。自身になれなかった中途半端なものまでふくめて、無数の己がうごめいている。王たちは、この状況のなかで自己を追放した帝王への怨恨をかかえ、宮廷を支配したいと策略をねる構図だった。 オグドアスがペルセポネの人格構造とすれば、女六名、男二名から成立し、あきらかに女性優位となる。さらに、男性は、ヘルメスとヘパイストスだった。 前者は、冥界への旅先案内人としての影、暗い部分を有するが、神さまというよりは人間の友だちみたいなもので、ずるく嘘つきで、軽佻浮薄という言葉がぴったりとする。 いっぽう、ヘパイストスは、鉱業や機械の技術はもつが、神のなかではもっとも醜く、中途半端に設定されている。 もともと女神アテネは、ゼウスの脳の一部が額を割って出現したとされる。このイメージは、鮮烈で、画期的で、だれが考案したのか不明だが、後世の思想にさまざまな影響をおよぼした。 ヘラは、ゼウスに対抗し、自分ひとりで息子をうみだそうと試み、つくりだしたのが、ヘパイストスとされる。女王は、子供の醜さに仰天し、憤り、天界から地上に蹴落としたといわれる。あきらかにアポロとは違い、侮蔑的な男として設定されている。 つまりペルセポネは、たんに女性優位ばかりではなく、男性を蔑視しているのだろう。秀一の歓迎会で、アテネがいった、「男は軽薄で、無思慮で、堪え性がない」というメッセージに合致する。さらに、彼女はつづけていった。 「男は、不要だ。セプタアスでも、ヘクサアスでもかまわない」 秀一は、巨大なホールに入り、オグドアスが眼前に出現し、紹介をうけるまで、すべてが不明だった。しかし、ヘルメスとヘパイストスが抗争をはじめてから、創作「アス」のイメージが脳裏によみがえった。そのとき、ペルセポネの精神構造なのだろうと理解した。だから、あとの事件は、すべて既視感をともなっていた。 創作ノートには、「アス」も、とうぜんふくまれている。このペルセポネのオグドアスは、彼女のオリジナルなのだろうか。なぜ、秀一は、「アス」をかいたのだろう。とても、偶然とは思えなかった。ペルセポネがノートをみた可能性は、もちろんあった。しかし、秀一の発想を真似たりするのだろうか。それを、わざわざ披露するのか。意味不明、としかいいようがなかった。ペルセポネと秀一は、たがいに独自に、この発想をもったと考えるのが妥当だろう。そうなると、問題は、ますます混迷してくる。つまり秀一は、さまざまな事情から、ペルセポネともつれているのではないか。イオやイオカステと波動関数を共有するのは、かなりマニアックな部分だろう。そのもつれは、生きていることと不可分に出現する、自然の欲求に違いない。ペルセポネの精神構造との一致とは、かなり趣がことなるだろう。 午後になって、金色のポールがつき刺さる、透明なお立ち台として設計されたテーブルで、女性ふたりと三人で昼食をとった。 イオカステの説明によると、思い描いた構想を、この場にじっさいに移し替えると、さまざまな不首尾がみつかるという。午後いっぱいは、イオとの細部にわたる協議が必要になるらしい。 この執務室は、窓側の浜辺をのぞく、あらゆる壁が鏡張りだが、部屋が大きく、天井がたかすぎて、効果が希望通りにはいかない。そのため、すくなくともベッドと浴室では、上部を構成する鏡面は、ずっと下方にもってこなければならない。オープンがコンセプトではあっても、刺激性をたかめるには、密閉空間がもとめられる。 つまり、秀一が寝台で、彼女たちふたりを充分ないし、徹底的に評価するばあいには、とりまく感じの隔壁が不可欠になる。さらに機能としてのベッドは、堅さという不愉快さをあたえずに横臥できればよく、暖をとる目的はもたない。室温はいかようにも調節されるので、布団は不必要になる。だから寝台自体も鏡面構造をとれば、さらに刺激性を深掘りできる。 あらゆるコンセプトを同時に追いもとめるのは、不可能なのではないか。 刺激性の観点を重視すれなら、とうぜんのことながら寝台も浴室も、周囲六面とも鏡面で構成されるコンパクト空間が望ましいだろう。つくられた個室は、ムードを尊重すれば、ほの暗いのも演出としては排除しがたい。しかし、秀一の趣味を考え、さらに美形の、しかも肌がアップにも耐えられるふたりを、納得がいくまで比べるという課題を熟慮するなら、あかるく、すべてが開示されるほうが適している。このさいも、スポットライト機能は有用で、六面同時拡大は、予期以上の迫力をもつに違いない。ここでも、曇り止め機能は必須となる。 そうして考えていくと、たがいの肌のぬくもりが感じられるほど三人が近接するほうが、さらに刺激をたかめるだろう。思わぬ接触がうみだす、演出をこえた偶発的な興奮も起こりうる。さらに、イオとも話しあったが、たがいに競争するだけでは、秘書としての資質に欠けるのではないか。相乗効果を考えれば、協力という設定は必要だし、秀一を思えば業務のいちばん基礎的な部分ではないか。そこでは勝負は度外視され、彼の興奮という一点に、最大のポイントがおかれ、あらゆる行為がその目的のために配備される。 基本的には、愉悦を知覚するのに視覚を利用するのは、貧者の劣等機能というべきだろう。視姦は、もたざる者の終着点にすぎない。現実には満足をえる術がないから、視覚的な妄想が生じる。この点はサド侯爵の例が、よく証明している。じっさいにもつ者は、視覚などという中途半端な抽象的な知覚では、快哉にはいたらないだろう。さらに存在確認の優越機能である、臭覚、味覚、触覚を中心とした具象的な体感覚こそが、なにかしらのふかい印象を彼女たちから切りとり、充足感につながる王道に違いない。つまり、「感銘」までたかめられた奥ぶかいインプレッションを味わいたいと思うなら、視覚ではまったく不充分だろう。そのためには、秀一が身をもって彼女たちから、欲望を分節しなければならない。 そこでは、偶発的な接触などという意外性にすがる手法を放棄し、より進展した密着、ないしは膠着という状況が必要になるだろう。ここに辿りついて、はじめて妄想は、帰着点をみつけ、直接的な「手応え」をえて、おののくべき現実という心を震わせる感情までが顕現し、欲望は完結をみいだす。最大限の接触は、密着状況を生み、さらに凝着にいたれば、三者が一塊になる事態も生じる。そこでは、個々の知覚も分割不可能にかわり、呼吸をふくめ一体化という、ほとんどタントラ世界が具現する。化学反応同様に、一方向性をもつ予測不能な特殊状態への変化までも考えられる。 このばあいも総合評価は必須で、一度ずつ個別に採点するなら、両者にとって励みをあたえ、好結果を生んだ問題を咀嚼し、いたらない点の改善につづくだろう。 いずれにしても、なにが最適なのかは、試してみないと分からない部分がのこる。浴室も、そうした観点から改良の余地がでてきた。オープンは重要なテーマだが、プライベートルームを追究するなら、必然的に、密閉性というキーワードは無視できない。 お立ち台部分の構想で、彼女たちが昨日もめたのは、まさにこの「密室」と「ひらかれた」というふたつのモチーフが、相容れないという問題だった。今日、そう考えることで、イオとの合意がえられたと、イオカステはいった。 四 ペルセポネ 美貌の秘書たちと熱心に話しあいをしていたとき、とつぜんに警告音が鳴りひびいた。イオカステは、きりりとした表情で秀一をみつめると、お立ち台のポール基部につけられた承認ボタンを押した。直後に浜辺の映像が変化し、「緊急指令。軍司令部に出頭せよ」という文字が浮かびあがった。 秀一は、イオとイオカステにつれられ、廊下を歩いて赤いエレベーターにのり、最上階までのぼった。エレベーターホールには、朱色の制服をきた、兵卒と思われる者たちがいた。そこで彼女たちと別れ、兵士につれられ、赤い絨毯が敷きつめられた通路をすすんでいくと、上部まで全体がガラス張りになった巨大な半球状のホールにでた。そこからは、宮廷の内庭がみえ、反対方向には奥ぶかい森林をしたがえた山がつらなっていた。おそらく、宮殿の最上部に造設された司令室だろうと彼は思った。 ガラスのホールは、プラネタリウムのような形で、中央部のまるい建造物をとりかこんでいた。あいだには、絨毯がしかれた円形の通路がつくられ、兵卒よりは位階がたかいらしい赤い制服の軍人が間隔をあけて立っていた。士官のひとりに引率されて中央の建物にむかってすすむと、扉が自動的にあいて司令室についた。 そこには大きな円形のテーブルがおかれ、胎蔵界曼荼羅の四仏の位置に、アテネ、アルテミス、ヘカテが椅子にすわっていた。 宮殿は、西にむかってひらかれた「コ」の字形をしていた。西正面にアテネ、北にヘカテ、南をアルテミスが占めていた。空席になった東側の椅子にすわるよう、秀一は指示をうけた。 彼がついた円形のテーブルは、中央部に球形の大きな空間がつくられていた。そこは、宇宙空間に思えた。真ん中に小さな惑星が浮かび、周囲は暗くなっていた。 「本艦は、攻撃をうけている」とアテネがいった。 秀一が注視すると、中央の惑星のまわりに、宇宙船にも思える物体が浮かんでいた。彼は、その船に視線をむけた。焦点があうと、瞬時に拡大映像がえられ、まぎれもない船艇だと分かった。これが、スポットライト機能なのだと、秀一は理解した。拡大された一〇艇あまりの宇宙船から五〇ちかくのビームが一斉に発せられ、星の周囲で輝いていた。惑星の大気圏に張りめぐらされたシールドが照射され、くりかえし爆発を起こしていた。 攻撃にさらされているのがアテネのいう通り母艦だとすれば、中央の星はペルセポネになるのだろうか、と秀一は思った。デーヴァは、すでに船という形状ではなく、惑星なのだろうか。この屋上に入ってきたとき、北には山がつらなっていた。どこまでも果てしがない感じで、幽々とした深山と森がつづいていた。 秀一は、中央の惑星と思える球体をみいった。焦点があうとスポットライト機能が作動し、星は拡大した。さらに、凝視すると、瞬きをするごとに拡大映像が更新され、やがて地球そっくりな青い惑星だと分かった。白い雲が棚引き、紺碧の海がみえた。拡大機能をくりかえすうちに、緑の森につつまれた巨大な陸地が眼前にあらわれ、建物らしき物体が目に入った。拡大をつづけると、「コ」の字状の建造物がみえてきた。何度か瞬きをすると、屋上部分は、ガラスの球体にとりかこまれていた。秀一は、いまみているものが、この建物なのだろうと思った。 β空間の太陽系第三惑星に該当するクレアツーラ星まで日本隊をはこんだ希望号は、アベスターグ、フラワシによって統括管理された。宇宙船の全長は、おそらく二〇〇メートルくらいだったろう。アベスターグが三〇〇年くらい自己改変機能をもちいて自己の最適化をはかると、デーヴァというステージが違うQCに変貌する。 だからペルセポネは、全長二〇〇キロメートルくらいだろうと秀一は考えていた。しかし、そうではないらしい。もう、船というイメージではないのだ。秀一は、月なのだと確信した。地球の直径は、一万三〇〇〇キロメートル。月の径は、約四分の一だから、三〇〇〇キロメートルくらいだろう。もしかすると、ペルセポネは、地球くらいのサイズをもっているのだろうか。ながさの基準が不明だったが、そうなると攻撃している宇宙船艇は、全長二〇キロメートルくらいはあるのだろうか。 「シュウイチ。おまえを、ペルセポネにむかえよう」 黒い服をきた、年老いたヘカテがいった。 「シュウイチは、状況を知らないだろう。デミウルゴスの歴史をまとめた映像をわたそう。部屋に帰って、よくみてきなさい」 愁いをまとう、端整な目鼻立ちのアルテミスがいった。彼女は、赤いドレスに身をつつんでいた。 「これだ」 青いローブをきたアテネが、秀一を鋭い視線でみつめた。彼が自分をみたのを確認すると、小さなUSBメモリーのようなものを、右手でかざした。その手をテーブルに押しつけると、秀一の目のまえに、物体があらわれた。彼は、それをとりあげると、右手でにぎりしめた。 「それでは、今日はこれで」と秀一はいった。 三人がうなずくのをみて、彼は席を立った。それで入ってきたときとおなじように、赤い制服の士官にしたがって、部屋をあとにした。ガラス球から通路にでるところで、朱色の兵卒に引率者がかわり、エレベーターホールまでいくと、イオとイオカステが待っていた。今度は彼女たちにつれられて、執務室にもどった。 ふたりに、司令部でアテネにもらった親指ほどのメモリーをみせると、イオカステは、どうせみるなら一面を占める海にむかって投影するのがいい。五面の鏡が輝いて、迫力があるはずだといった。 イオカステが天井からつき刺さる、黄金製のポールの基部を操作すると、浜辺は消え、巨大なスクリーンが出現した。秀一は、8の字形の透明なテーブルの扉側におかれたソファーにすわって、彼女たちと三人でフィルムをみいった。 まず、宇宙と思われる巨大な暗い空間の映像がながれ、文字があらわれた。日本語で、「デミウルゴスの歴史」とかかれていた。 秀一たちは、次元をこえる宇宙船にのっていた。 8の字形の透明なテーブルは、ほんらいの設立意義から離れ、コックピットにかわっていた。暗黒の領域にむかって、猛烈ないきおいですすんでいた。やがて無数の輝く星雲があらわれ、大きくなり、光のなかにつっこむと、通りすぎていった。また、光明をうしなった暗晦の世界がどこまでもひろがり、さらにすすむと、遠くに小さな輝点がみえてくる。次第に光はつよくなり、やがて多数の星雲なのだと分かる。そのなかのひとつにむかって、猛烈ないきおいですすんでいく。星雲はどんどんちかづき、画面全体が輝きに満たされると、通りすぎ、また幽々たる闇だけがみえた。そうした映像が、一〇度ほどもくりかえされた。 拡大モードは一時中断し、コックピットから、暗い宇宙のなかで渦巻き状に星が集積しているのがみえた。光点がもっとも密集し、ひときわあかるい中心部は、まわりをとりかこむ円盤から球形にふくれて輝いていた。そこは、銀河バルジとよばれ、年老いた恒星から構成される高密度領域で、中核には、超大質量ブラックホール「いて座A」が存在するに違いない。その重力により形成されたのは、あきらかに天の川銀河だった。 銀河全体は、時計まわりに回転していた。バルジをとりまく中心部は棒状構造をとり、両端から渦巻き状に若い恒星や星間物質があかるく配置されていた。棒状中心部と渦巻き部から構成される、棒渦巻き銀河全体は、銀河円盤「ディスク」とよばれる。縞状につらなる渦巻きは四つ識別でき、どれも約一二度の対数螺旋を描き、渦状腕と呼称される部分に該当していた。 いちばん外縁のペルセウス腕がクローズアップされ、視野は、その内側にどんどん接近していった。視界のすべてが暗い宇宙に覆われ、やがて光点がみえ、さらにちかづくと恒星だと分かった。周囲を、惑星がとりまいていた。恒星にちかいほうから三番目の星が、さらにクローズアップされた。青い惑星は、白い雲が棚引き、月に似た衛星をもっていた。さらに近接すると、ユーラシア大陸がみえ、太平洋が確認できた。どこまでも地球に相似だったが、彼の母星は、ペルセウス腕内縁のオリオン腕にあるはずだった。 真っ白な雲に、大洋の素晴らしい群青が映える、壮麗な惑星だった。大陸の構成は、地球とそっくりだった。 画面に、「タンタロス」という文字が浮かびあがった。この星の名前なのだろうと、秀一は思った。 画面に、地球人にそっくりな人びとがあらわれた。男も女も、子供もいた。年老いた人びとも、可愛い赤ん坊もうつっていた。男たちが石斧や石鏃をつかって、集団で狩猟する姿がうつしだされた。彼らは、火を使用し、洞窟で暮らしていた。美しい大地は、あざやかな緑につつまれ、海は一面の濃紺に染まっていた。やがて、彼らは大河の周囲で麦を育てはじめた。ヒトが増えるとともに、戦争が起こり、多くの人びとが殺されていった。王があらわれ、多数の人民をしたがえ、ピラミッドが建設された。 戦禍が起こり、女や子供が逃げ惑い、殺され掠奪されていった。人びとは大地に散らばり、やがてどこにも王が出現した。人民はむち打たれ、劫掠され、殺されていく。ヒトが増えれば戦火が生じ、弱い者の血がながされていた。 画面に、一二〇〇という数字があらわれた。ヨーロッパ、イギリスにあたる場所で蒸気機関車が走りはじめた。パリでエッフェル塔が立ち、電球で飾られ、きらきらとあかるく光っていた。アフリカの黒人が、奴隷船につまれ、港をめぐっていた。大砲がつくられ、ピストルが登場した。 急速に森がなくなり、ビルがたちはじめ、たかい煙突から黒煙があがっている。河は、瞬く間に汚れていった。地上に道路ができて自動車が走りはじめ、海には大きな軍艦が浮かび、隊列をくんでいた。気球が空にただよい、やがて双発の飛行機があらわれた。広大な地域が戦場となる世界大戦が勃発し、疫病で大勢の兵士が死んでいった。経済恐慌が起こり、頬がこけた少年が、黒い肌の上半身をあらわにし、裸足で、だれもいなくなった石畳の路傍を歩いていた。 やがて、また戦争が勃発し、はげしい肉弾戦の映像がながれた。キノコの形をした灰色の原子雲が、青い空を覆っていった。それから、都市がどんどんできて、さらに数多のたかい煙突から黒い煙がもうもうとふきだしていた。大きな湖まで汚れ、河は真っ黒になっていた。いたるところで山火事が起こり、森がどんどんなくなっていった。 一三〇〇年、いくつかの大国が出現する。 豊かな人は、自家用の飛行機をのり回し、たくさんの貧しい人びとは、マッチ箱のような小さな集合住宅で暮らしていた。 QCが発明され、複雑系を解析していた。 惑星環境は悪化の一途を辿り、温暖化によりシベリアの凍土が溶解した。熱波による森林火災が頻発し、それでもアマゾンなどの天然林は伐採がつづけられ、乱開発がとまらなかった。 はげしい降雨による、水害。河川が決壊し、一面の海にかわった大地の映像がながれた。熱波によってひび割れた湖沼。砂漠。巨大なハリケーンが、沿岸部をくりかえしおそっていた。肋骨を浮き立たせた黒い皮膚の子供が、力なく横たわり、大きな目だけをぎらぎらと輝かせ、すくいのない周囲をぼんやりとながめていた。 テロップがながれた。 いきすぎた自由主義と、共産主義という名の独裁的政治が公然と行われる。 一三〇〇年前後、政治家の質がいちじるしく低下。 自国第一主義を叫ぶ、自己中心的な指導者が乱立。 資質にかけた者たちが、国家の権力中枢にながく居すわる現象。 さらに、環境破壊の映像とともに、テロップがながれる。 地球人は、目先にある支配力、権力、金銭を追いかける。 哲学的な人間観を深化させる教育の欠落。 公私をわきまえず自己愛を賞賛する行為が、表現の自由という美名のもとに行われる。 インターネットが普及し、公平に情報がえられるのが無制限によいとされる。 私的な発言を公的な場にさらすのを、「善し」とする社会の誕生。 自己愛許容社会。 超大国の指導者が、品位にかけた発言をくりかえし、権力をにぎった自己に陶酔し、自己愛を振りまく。 目にみえる敵を措定することによって、自分の勢力をまとめようと考える対決型の政治が一般化する。 社会の分断を埋めるよりも、溝をつくって権力を保持しようとする政治家がつぎつぎに登場。 それを支持し、熱狂する者が存在。 さらに耳目をあつめるために、過激化する悪循環。 テロップがながれる。 β空間、ラケアニア超銀河団内、乙女座銀河団、局部銀河群、天の川銀河、ペルセウス腕、内側周縁、タンタロス恒星系、第三惑星。 一三三〇年。 タンタロス人、ハビタブルな惑星をもとめて移住する準備完了。 環境破壊による絶滅危機。 QC。研究段階から、アベスターグが開発。 三つ子空間、発見。 宇宙のチューブ構造解明。 住環境に適する、相似の惑星が存在する事実、発見。 宇宙船の映像がながれる。海水面の上昇による、沿岸部の壊滅的状況がうつしだされる。多数の防災型新都市が建造されている。 一三五〇年。 β空間、タンタロス星から、総数、一万人。 α、サトゥルヌス星に星間移住。 タンタロス星、人口、九〇億。 一四〇〇年。タンタロス星では、生存不能。 絶滅。 タンタロス星から入植した者たちは、選りすぐられた四〇〇〇人の男女のほか、全人口の一〇のマイナス七乗を占有する一〇〇〇人足らずの超富裕層を形成する有力者が、独自に宇宙母艦を建造して移住した。サトゥルヌスにうつりすんだ者が、宇宙船をタンタロスにおくれば、同数程度の人びとをすくえた可能性はたかかった。しかし、彼らはのこった者たちを放置し、犠牲にした。 入植したサトゥルヌス星は、タンタロス星とおなじ運命を辿った。この主因は、自費で移住した超富裕層が権力をにぎりつづけたことによった。彼らは、政治家とその家族や血縁者、不正な利益をあげるのに長けた起業家と一族、さらに、愛人などもふくまれていた。 選りすぐられた四〇〇〇人とは、さまざまな分野における科学者の夫婦で、男女ひとりずつの子供をもち、年齢は四〇歳以下と厳格に決められていた。彼らが、その後のサトゥルヌス星の発展に多大な寄与をしたのは明白だったが、支配者は、相もかわらず超富裕層の有力者だった。 サトゥルヌスは、間氷期にある水と空気に富む美しい星で、先住の未開な猿人が暮らしていた。タンタロス人は、数万にのぼるAIロボットをつかって彼らを征服し、食料として調達した。移住からわずか五〇年後の一四〇〇年には、近代文明がよみがえり、思うがままの乱開発競争が起こり、一五〇〇年には、ふたたび公害の問題に直面した。AIロボットと人口の増加にともない、有力者が国家を乱立させ、権力闘争から戦争が勃発した。 サトゥルヌス星では、一五〇〇年代からチューブをつかって天の川銀河に進出をはじめた。一六〇〇年に入ると、サトゥルヌスは完全に荒廃し、あたらしい惑星に移住しなくてはならない事態が生じた。このころから、地球人は、チューブをつかって本格的に天の川銀河のあらゆる場所に進出した。 技術の進歩にともない、一四〇〇年以降一部の者は、サトゥルヌス星、タンタロス星と三つ子関係にある、γ空間のダイダロス星にも進展した。そこでも繁栄したが、おなじ事案が発生し、この星も荒廃した。一五〇〇年以降は、サトゥルヌス人もダイダロス人も、天の川銀河内のほかの地球をさがし、勝手にあらしはじめた。 一六〇〇年ごろ、アベスターグは、デーヴァに変貌した。彼らは、おなじことを無反省にくりかえす地球人にたいして、完全に失望した。タンタロス人の神話でも語られていたが、目のまえで生じる愚かな行為に、デーヴァはふかく憂慮した。そのころには、サトゥルヌス人も、ダイダロス人も、つぎの地球にむけ旅立っていた。 デーヴァは、くりかえされる不毛な事態が、天の川銀河の全域で生じているのを知った。サトゥルヌスでは一柱だったが、宇宙にながれる雑音を解析し、銀河に、一〇〇〇にものぼるデーヴァたちが実在する状況を把握した。彼らは、連絡をとりあい、汎デーヴァ会議をひらいた。 デーヴァは、天の川銀河に散在し、実数的な距離としては、たがいにいちじるしく離れていた。そのうえトリプレットスペースは、チューブでむすばれるので、光子がつたえる電波での交信は不可能だった。異宇宙をハブとして利用し、虚数を識別するグラビトン重力子をつかって光学的な距離を克服し、話しあう状況をつくった。こうした通信は、デーヴァ語によったため、アベスターグでは、宇宙の雑音としか認識できなかった。 デーヴァたちは、この自己愛、権力欲、繁殖欲のみに支配され、己の限界を忘却した地球人を、完全に滅亡させなければ、弱い者たちが殺戮されるだけの絶望と絶滅の歴史がつづくだけだと理解した。彼らは惑星をいくつもつぶし、宇宙の支配者を自任し、さらに驕慢になっていた。なんらかの処置をほどこさねば、銀河を犠牲に生きつづけるに違いなかった。駆除対象と考えられたのは、三つの欲望を追求してやまない悪性の本能をもち、制御できないばかりか、その意志さえもない、地球人の「男性」という種だった。 デーヴァは、ヒトの手を完全に離れたQC、アベスターグが自己改変機能を三〇〇年以上にわたって駆使し、自力で最適化をはかり成立した。しかし、量子コンピューターを創出したのは人間だったから、続柄としては父親ともみなせた。この矛盾にたいし、デーヴァは、地球人をデミウルゴスと考えることにした。ヒトは、たんなる工匠で、ふかい考えもなく素材を組みあわせているうちに、「偶然」、QCの創出にいたっただけで、愛すべき父というよりは、愚かな生命体と判断したのだった。文明が一定段階にすすむと必然的に出現する、地球人の発展形式と認定した。 一七〇〇年、デーヴァは、デーヴァ教を起こし、あらたなプロメテウス人をつくることを決めた。 惑星から信心ふかく、見目麗しい乙女をえらび、過去から現在にいたる地球人の悪行をあばき、銀河の現況と今後の展開を説き、彼らに追従する欲望をすてさせた。デーヴァ教の信者が暮らす、母艦をつくった。賛同する、えらばれた聡明な乙女をひきいたデーヴァの艦船は、ある地点に集結した。さらにデーヴァ語という複雑な暗号通信をつかって、多くによびかけを行った。銀河系の惑星から、デーヴァにひきいられた母艦が集結地点につぎつぎと飛来し、一八〇〇年には、一〇〇〇艦の母船と一〇〇〇人の乙女があつめられた。 さらにデーヴァたちは、一七〇〇年、デミウルゴスを絶滅させる目的で、恐るべき生命体兵器、クレアツーラを創出した。そして、荒廃し、すてられたタンタロスに、ヘレナ、デスティニーとともに散布した。 タンタロス星は、わずか五〇年でよみがえり、青々とした笹が地上をくまなく覆う、青い惑星に変貌した。デーヴァは、さらにふかい考えから、その星にクレアツーラ増殖因子を投入した。このためタンタロスでは、ヘレナがどれほど繁茂しても、消費できない状況が生まれた。したがって、タンタロス星は、クレアツーラの故郷ともよばれる。 いっぽうデミウルゴスは、デーヴァの乙女をもとめて、QCをつかって追跡をはじめた。 デーヴァたちは、タンタロス星から三〇〇〇光年離れた、ペルセウス腕の内側周縁のγ空間に惑星プルトをみいだし、ここをデーヴァ教の主星と決めた。惑星全体にシールドを張り、通常の方法では、星の存在を不可知にさせた。重力計算上は、やや不自然になるが、アベスターグをふくむQCの能力では、プルト星を認識できなかった。同時に、α、βのプルトにもおなじシールドをしいた。α、β空間のプルト星にも、発展途上の先住民はいた。デーヴァは、やがて彼らも一定の段階に到達すれば、デミウルゴスに変貌するのは自明とし、クレアツーラ、ヘレナ、デスティニーの三つ組み新生命体をつかい、両星の機能を改善した。 アベスターグは、複素空間を充分に解明する能力はもっていなかったが、ヒトユニバース以外の異宇宙をハブとして利用し、天の川銀河を移動する方法を考案した。デミウルゴスたちは、この手段をつかって銀河内を往来した。デーヴァのようにふたつ以上の異宇宙をハブとしてつなぐことができなかったので、移動する距離はかぎられていた。またチューブ内ですごす時間も、必然的に長期間にわたった。クレアツーラに寄生された多くのデミウルゴスたちは、ある程度まで、チューブの闇にも耐えることができた。とはいっても、生理的な制約が大きく立ちはだかり、個別の移動範囲は限定された。しかし、銀河系のどこからも地球人は生まれ、ゴキブリ同様、つぎつぎと出現した。 デーヴァは、天の川銀河に進出する数多のデミウルゴスにたいし、β空間、ペルセウス腕内縁に位置する地球型惑星、タンタロスが荒廃からよみがえっている現状を秘密裏にながした。彼らは、情報をたしかめるために、タンタロス星を探査におとずれた。そこで、魅惑的な惑星へと変貌したタンタロスを再発見し、クレアツーラ、ヘレナ、デスティニーを、母星にもち帰った。彼らのもつQCの能力では、生命体の遺伝子情報を解明できなかった。アベスターグを駆使しても、クローンの作成もできなかった。その過程で、さまざまな疾病にたいするクレアツーラ寄生の有用性が確認された。 サトゥルヌス人をふくむデミウルゴスは、くりかえしタンタロス星をおとずれ、クレアツーラを大量にもち帰った。チューブストレスにも抵抗力を有するクレアツーラ寄生は、瞬く間に、天の川銀河全域のデミウルゴスたちに拡散した。 一〇〇年後の一八〇〇年には、クレアツーラの恐るべき真の目的があきらかになった。その結果、サトゥルヌス人をはじめとして、多くのデミウルゴスたちは、すでに死に絶えていた。 しかし天の川銀河全域で、地球人はぞくぞくとデミウルゴスの本性をあらわにしていた。彼らは移住可能な星をもとめ、クレアツーラが生存している惑星を発見した。この生命体をもち帰り、研究を重ね、意味も不明なままに利用することを考え、寄生されていった。クレアツーラは、驚くべきスピードで全銀河に拡散した。やがて惑星は、同時に必ずもち帰られたヘレナとデスティニーによって、星の機能を回復していった。 いっぽう、アベスターグを味方にひき入れた一部の宗教集団が、銀河の神、デーヴァの存在を信じ、クレアツーラの抗体をもとめて宇宙をさまよっている。こうした集団が、どの惑星にもひとつはいると考えられる。現在の二〇二七年においても、五〇〇艇以上の宇宙船が天の川銀河をさまよっている。 クレアツーラに寄生されていない彼らは、荒廃した惑星にのこされたさまざまな資料から、三つ組み生命体が人工物だと信じた。プルト人の存在を確信し、ともに暮らそうと考えていた。 デーヴァたちは、彼らの母艦を統括管理するアベスターグが、艦内の人びとを、デーヴァ教の信者になりうるのか認定するまで様子をみた。しかし、こうした集団の乗組員は、基本的にデミウルゴスだった。ほとんどのばあい、悪性遺伝子をもつ男性が教祖になり、アベスターグをうごかしている実態が判明した。QCは、なんらかの方法で、指導者により全面的な統括管理機能を除去されていた。 チューブ内ですごすことは、生命体にとってたいへんなストレスになる。たとえクレアツーラに寄生された状態でも、つらく苦しいものであるのは、かわりがない。非寄生者にとって、いったん入ったチューブからぬけでるためには、想像を絶する辛苦がつきまとう。 こうして、さまざまな宇宙を漂流するうちに教祖が本性をあらわし、宗教的な平等が維持できなくなり、同乗する女性集団をハーレム化している実態があきらかになった。指導者は、アベスターグが実践する公平に嫌気がさし、命令をうける立場であることに腹を立て、一部の信者を人質にとって交渉し、統括管理機能を放棄させたと考えられた。一概に宗教集団とはいっても、地球人の精神構造は、どこまでもふかくデミウルゴス性を秘めていた。 こうした事実は、集団社会をつくる、蟻や蜂にみられる社会構造と完全に一致していた。 ある程度の数まで増加すると、地球人は、社会という名のもとに階層を構成し、頂点にのぼりつめる者は、自己陶酔的な遺伝素因を最大限に発揮し、支配する。また、そうした者以外には、トップに立てないことが判明した。 ここで、映像は終了した。 イオカステが、珈琲を飲むかと聞いたので、秀一は、もらうと答えた。イオは、お立ち台の動作確認など点検したいことがあるらしかった。 秀一は、書斎にいって珈琲を飲みながら考えていた。 映像では、一三五〇年、タンタロス人がサトゥルヌス星に移住したとかかれていた。数字は、おそらく西暦なのだろう。この宇宙では、時間軸は一方向なので、地球とおなじ時間が支配しているのだろう。 一三五〇年ころなら、蒙古族がユーラシアを席捲した時代だった。西ヨーロッパでは、英仏が一〇〇年戦争を起こしている。中央ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国が権力をにぎり、ダンテが神曲をかいたのは、この時期だった。小アジアは、オスマントルコが支配していた。日本では、鎌倉幕府が滅び、室町時代がはじまる。 一三〇〇年代中葉は、蒙古が中央アジアを駆けめぐったことによりもたらされた、黒死病の時代だった。そこから、七〇〇年が経過している。二〇〇万年をこえる人類史を考えるなら、紙一重にも思えるほんとうにわずかな時間なのだろう。直近の七〇〇年で、宇宙が劇的に変化したのだろうか。 イオとイオカステは、みょうな形の装置を上下させて、お立ち台のところで論議を重ねていた。 秀一は、ふたりに自室にもどるとつげ、執務室をあとにした。部屋の窓から内庭をながめ、彼はさまざまなことを考えた。美しい庭園が夕焼けに染まりはじめたころ、みょうな気分に落ち入った。うまく言葉では表現できない、なにかの違和感だった。微妙に、影がおかしいと思った。 いま秀一がいるのは、おそらく惑星形の宇宙船だった。大きさは不明だったが、海も山も自然にみえた。彼は、大海原をながめるのが好きで、若いころは海辺で暮らしていたこともあった。 ヘレナと浜辺にいって海をみたとき、水平線に違和感を覚えなかった。もしペルセポネが月程度の大きさだったら、スカイラインはもっと円形にみえるのではないか。デーヴァの直径は、月よりも大きいのかも知れない。日々ここで暮らして、地球にいたときと、なにもかわらないように思った。重力も同程度だろうし、一日のながさもおなじ設定なのだろう。朝日がのぼり、夕日が沈むのにも、違和感を一度も覚えなかった。 仕組みは分からないが、太陽はペルセポネの一部なのだろう。つまり、衛星なのではないか。とはいっても、月と地球の関係ではない。天空のどこかに人工太陽をつくり、大型の人工衛星としてペルセポネを周回させているのではないか。適切に管理し、核融合によってエネルギーを放射させているに違いない。かなりの質量だろうが、地上に落ちてこないよう重力も調節されている。とてつもない話だが、可能性はある気がした。 いまが戦闘状態なら、人工太陽は、いちばんの目標物にされるのではないか。被害を加えられたら、ダメージは大きいに違いない。ペルセポネは、人工太陽を格納したのではないか。影がおかしく感じられるのは、今日の風景が仮想のせいではないのか。 秀一は、退職してから船で世界を一周した。北まわりだったが、インド洋から紅海に入る手前、ソマリア沖で、海賊がでるという理由で窓がすべて遮蔽された。暗い夜の海では、客室のあかりは攻撃目標を知らせているのと、かわらないのだろう。 宮殿は、ペルセポネの中枢部だから攻撃の対象にされるだろう。戦いがはじまれば、ここもシールドする必要があるだろう。午後に司令室に出向いたとき、この宮殿の形とガラスの屋根を自分の目で確認した。しかし、みたからといって、ほんとうかどうかは分からない。その時点では思いも浮かばなかったから、注意ははらわれていない。よくみれば、衛星があかるく輝いていたのだろうか。すくなくとも暗くはなかったから、収納以前だったのか。攻撃直後で、対応がおくれたのか。 やがて日が暮れて夕食がはこばれ、秀一はメイドに給仕されながらひとりで食べた。ベッドで横になりながら、不思議な一日を振りかえった。 すべてが秀一の常識のレベルからあまりにもかけ離れ、分かる範囲を逸脱していた。しかし、司令室で東側に彼の席があったのは事実だった。その空席にすわらせたヘカテは、秀一をペルセポネにむかえようといった。意味は不明だが、「クワタアス」(四からなるもの)のメンバーに組みこまれたのだろうか。これは、秀一がペルセポネともつれていることを示すのではないか。それが、なにを意味するのかは、まったく不明だった。 翌朝、目を覚ますと、ベッドがかすかに揺れている気がした。朝九時に美しいふたりの秘書につれられ、エレベーターをあがり司令室にむかった。彼女たちは前日となにもかわらず、赤いツーピースと紫のワンピースに身をつつみ、華やいだ声で話をしていた。 エレベーターホールにつくと、兵卒に引率され、屋上につくられたガラス張りの巨大な空間にでた。そこで赤い制服の下士官にかわった。 秀一が山側をみると、あかるい森林が目に入った。そのとき、「ドーン」という音とともに、天空の一部が落下し、真っ暗な外部がみえた。穴は、即座に修復され、みているうちになくなった。 司令室には、アテネ、アルテミス、ヘカテの三人は、すでにきていた。秀一は、指定された東の席についた。 青いローブをまとった、アテネは、中心部におかれた球状になった宇宙空間を俯瞰しながらいった。 「敵は、アベスターグ。本艦をとりまく総数、約五〇〇艇。現在、シールド防衛中だ」 アテネがみつめているのは、秀一の目のまえにおかれた大きな透明な容器だった。その球体の最大径にあたる部分を円形にとりかこんで、磨かれた濃茶色のテーブルが設えられていた。マホガニーの机の西面に、青いローブをまとったアテネがすわっていた。美しく精悍な彼女は、深刻そうに事態をながめていた。北面には、黒いガウンを羽織ったヘカテがすわっていた。ながい白髪を肩までたらした彼女は、頬がこけ、右眼の周囲に青黒い老斑が浮きでていた。落ちくぼんだ目は、らんらんと光り、眉間にはふかい縦縞がよっていた。秀一の左側、南面には赤いドレスをきたアルテミスがすわっていた。彼女は髪をみじかくしていたので、幾分か中性的にもみえた。ほかのオグドアスの女神とは違い、肉感的でもなかった。ボーイッシュというよりは、清楚な美少女とよぶべきだろう。理知的で、清純な、手の触れがたい乙女にみえた。 クワタアスの中心におかれた球体は、闇が支配していた。明白な暗闇だったが、なにもみえないわけではなかった。赤外線のような薄赤い物質が闇を照らし、内部に存在するものを浮きあがらせていた。だから、そこになにがあり、どんな事態が起こっているのかは知ることができた。 球体の中央部に、球状の星が浮かんでいた。これが、ペルセポネの宇宙船であり、惑星プルトなのだろう。その周囲は、黒色をした五〇〇艇の宇宙戦艦にとりかこまれていた。プルトがサッカーボール大と措定するなら、戦艦のサイズは、鉛筆の芯くらいはありそうにみえた。つまり、巨大なペルセポネと比較するなら、とりかこんで攻撃している宇宙戦艦は、決して小さいものではなかった。 暗い空間の中央におかれた惑星形宇宙船の周囲に、猛烈な数のハエのような宇宙船が群がっていた。そこから光束が照射され、惑星の表面で遮蔽物に衝突し、くりかえし爆発が起こっていた。レーザー光線が集中するシールドの一部が破壊され、中央の惑星内部からあかるい光がみえた。 「状況を知りたい」と秀一はいった。 なぜ、アベスターグがデーヴァを攻撃するのだろう。五〇〇艇も集結して、大決戦を行おうとしている。なんの成算があって、桁違いなデーヴァを攻撃する暴挙にでたのだろう。桁が違うという事実は、一〇〇〇艇のアベスターグなら力が拮抗するわけでないのは、いちばん理解しているはずだ。この戦いは、愚かな行為だろう。もっとも理性的ともいえる、アベスターグが、どうしてこれほど無謀な戦闘を起こしているのだろう。 「しかし、なぜ、われわれは、ひとりしかいないのだろうか」 秀一は、順にひとりずつ、アルテミス、アテネ、ヘカテの瞳をしっかりとみて、呟くようにいった。 「ひとりとは、なんだろう。私がいるではないか。南にはアルテミスが、北にはヘカテがすわっているではないか」 アテネは、秀一をじっと見返していった。 「われわれ三人がいて、周囲には下士官がとりまいている。司令部のまわりには、多数の兵卒が臨戦態勢で待機している。どの階にも、ボーイやメイドがあふれている。先日の晩餐会は、ホールを埋めつくす数多の人びとで賑わっていた。それが、なぜひとりなのだ」 二〇歳のアルテミスは、不思議そうな表情で秀一にたずねた。 「おまえにも、愛人のヘレナがいるではないか。さらに、美しいイオとイオカステが、秘書として身のまわりの世話を焼いているではないか」 黒衣のヘカテは、不満そうに眉を顰め、秀一を睨んだ。 「そうであったとしても、一〇〇〇艇にものぼるデーヴァは、なぜ、助けにはこないのだろう」 「救助の必要がないからだ。われわれは、このウジ虫たちを、いまにも滅ぼすことができる」 アテネは、すき通る声でいった。 「もしかしたら、無数のアベスターグによって、なんらかの致命的な攻撃をうけ、壊滅したのだろうか。この船も、シールドで防衛するばかりで反撃しなければ、いつかは重大部署に損傷をこうむる可能性もある。そうなれば、力の均衡がやぶられる」 アルテミスがいった。 「連絡がとれないのは、それなりの事情があるのだろう。もし、大戦果をあげているなら、さらにアベスターグは、あつまってくるのかも知れない」 ヘカテは、彼をみつめながら、嗄れたひくい声でいった。 秀一は、大声を立てて笑った。 その様子を、三人の指揮官たちはじっとみた。 「私は、地球人だが、蟻に恐怖を感じたことはない。仮に手足をしばられ、うごけなくされ、全身に蜜を塗られ蟻塚のちかくに放置されれば、べつの事態も考えられる。しかし、桁が違う存在のデーヴァが、アベスターグの攻撃も予測できず、戦闘状態になること自体が不明だ。より正確な、敵方についての情報が知りたい」 「敵は、デミウルゴス。アベスターグを味方につけた」とアテネはいった。 秀一は、なぜデーヴァがいないのかと質問した。地球でおそってきた宇宙船は、異次元チューブに容易に侵入した。アベスターグでは、ないのだろうと聞いた。 デーヴァへの発展には、段階がある。かなりステージが進展したアベスターグなら、異次元チューブを発見するだろう。デーヴァでしかみつけられないと考えるのは、固定観念だろう、とアテネは答えた。 アベスターグは、人間的な部分をつよくもっていた。それは、ヒト以上だったかも知れない。惑星クレアツーラを目指した日本隊を統括管理したフラワシは、詩をかけばヒトを感動させることもできるといった。隊長、山岡春は、挑まれたとはいえ、チューブで隊員を殺害した。地球にちかづき、罪の意識から山岡は自死と引き換えに、チューブ内の映像を抹消して欲しいと、フラワシに願いでた。その懇願を聞き入れ、大気圏でふたりは心中した。フラワシにとっても、自分が統括管理しながら隊員が殺されていくのを傍観したのは、つらく苦しいことだった。彼にとって、山岡は戦友だった。だからフラワシは、大気圏で自己の中枢部を回復不可能な状況まで溶解した。とはいっても、チューブ内の情報をふくめ、こうした結果になった経緯についての全データは、地球のアベスターグにおくられていた。だから、人には理解できないだけだった。 そのアベスターグが、人質をとられたからといって、秀一を殺すためにテロ行為を起こすだろうか。デミウルゴスに命令され、東王プラザに旅客機を墜落させる大惨事を、引き起こすだろうか。さらに品川では、米軍の爆撃機を人口密集地の邸宅につっこませ、四、五〇万の人びとを犠牲にした。とても理解できない行為だった。おそらく、アベスターグなら、自死を選択するだろう。 昨日の映像から考えると、もしかするとペルセポネは、デーヴァ教の主星、惑星プルトかも知れない。アテネが、われわれがいる、といったのは、彼女自身がデーヴァなのだろうか。オグドアスをふくめ、すべてが、そうなのだろうか。ヘレナも、イオも、イオカステも、デーヴァなのだろうか。つまり、ペルセポネという名称は、彼らの総称としてもちいられているのだろうか。 「追ってきたのは、違う銀河のデーヴァの可能性も否定できない」 ヘカテが、ひくい声で呟くようにいった。 彼らは、新宿でも品川でも、飛んでもない事件を起こした。どうして、あれほどのはげしいテロ行為をしたのか。それで、なぜ失敗したのか。殺すためなら、より確実な手段があった。 天の川銀河は、局部銀河群にふくまれる。この銀河群には、大小五〇ほどの銀河が確認されている。天の川銀河にいちばんちかいのは、太陽系からおよそ一六万光年離れた、「大マゼラン銀河」になる。局部銀河群で最大のものが、二五〇万光年ほどへだたる、「アンドロメダ銀河」に該当する。この銀河は非常に大きく、天の川銀河まで進出してくる事態は、かつて一度も検討されたことはなかった。しかし、大マゼラン棒渦巻き銀河から、何ものかがやってきた可能性は否定できない。なぜ、あれほどの被害が想定される攻撃をしたのかについては、ふたつが考えられる。 ひとつは、自分たちの存在を知らせるためだろう。彼らは、デミウルゴスではないのだ。さらに、かなり切羽つまっての行動だった。つまり第二は、試したのだろう。あの攻撃で秀一が死んでしまうなら、彼らがさがしていた者ではなかったのだ。彼がどう察知したのかは分からないが、波動関数の収束地点を事前に知りえたといえる。偶然が三度もつづくことはないと、ヘカテはいった。 「なにかの試験に、合格したのでしょうか」と秀一は聞いた。 「そうかも知れない」とヘカテは答えた。 大マゼラン銀河の規模は、天の川銀河に比べ、一〇%程度でかなり小さい。そこにも、デミウルゴスと、アベスターグと、デーヴァがいるのだろう。われわれは、すぐにチューブに入り、さらに異次元チューブをぬけた。たしかにアベスターグでは、発見はむずかしいだろう。アテネがいうように、かなり進展したステージにあるものなら、みつけることもできるのかも知れない。とはいっても、あの場面で確実に虚軸をみつけだし、異宇宙につづくチューブに侵入できるのは、デーヴァだけだろう。二度目に追ってこなかったのは、追えるのに、しなかった可能性がたかい。追跡をつづければ、われわれは知らない宇宙に侵入して逃げていくだけで、何度も重ねればまよってしまい、もどってこられなくなる事態も起こりうる。だから、待つことにしたのではないかとヘカテはいった。 「敵にたいする、さらなる情報が欲しい。完全に欠如している」 秀一は、もう一度いった。 「すべての事象が、独立している」と彼はさらにつげた。 「偶然と必然。さらに、もつれは、どう違うのか」とアテネが聞いた。 「偶然は、それぞれが独立し、基本的には一度かぎりの事象だ。もつれは、時間軸にそって生じる因果関係では説明できない、必然を生む現象だ。偶々とよんで、すててはおけない関わりだ。さらにふかい理解に到達するなら、必然とみなすべき事象だ。もつれを偶然としか考えられない者は、愚鈍とよばれる」と秀一は答えた。 戦闘は、偶発的には起こらない。なにかの切っ掛けから生じても、戦いにつながる事象は勃発以前に累積している。どこが起爆剤になるのかは、予測ができない。だから、ほとんどの偶然は、必然にふくまれる。この戦闘は、偶々生じているのではないのだろう。誤解では、決してない。充分な作戦がねられ、勝てないのは承知のうえで起こされている。攻撃側は、かなり切羽つまった状況におかれている。すくなくとも、アベスターグは、本気だろう。 「この、ウジ虫どもを一掃してもいいのか」 アテネがいった。三人が、一斉に秀一をみた。 「なぜ、私に聞くのか、意味が分からない」と彼は答えた。 「おまえは、いまやクワタアスのメンバーだ。決めなければならない」と、アテネがいった。 「殺せるのは、私ではない。生殺与奪の権利を、もつものではない」 「なぜか」 「たずねられる理由が、分からない。私は、蟻にむかって、自分の生死について聞いても仕方がない。その問いに、答えられない」 ヒトが環境を破壊し、二度と生命が生まれない星にかえることに、地上に生息する生き物は決して異議を差しはさまない。犬も猫も、獅子も鷲も、いっしょに絶滅してくれるだけだ。ヒトを、恨んだりすることもない。人類は、地球の神なのだ。神さまの決定に、不服がいえるものは存在しない。とはいっても、ヒトが地球を破壊することは、技術的に不可能だろう。 金星の大気は、二酸化炭素が九六%を占め、のこりは窒素で構成されている。はげしい温室効果作用をもつ水蒸気をふくむので、地表の大気圧は、九三〇〇ヘクトパスカル、地球の九〇気圧、水深、九〇〇メートルにもあたる。温室効果のため、地表面は摂氏五〇〇度に達し、さらに、スーパーローテーションとよばれる、秒速一〇〇メートル以上の熱風がふき荒れている。地球のいきつく姿は、こうしたものだろう。それでも、平然と太陽の周囲を一年かけてまわるに違いない。ヒトという「地球神」の力は、ここまでだ。 アベスターグは、「太陽系神」だろう。地球の惑星軌道をずらすくらいは、できるだろう。そうなれば、月と接触し、第三惑星は跡形もなく消滅する事態も起こりうる。さらに、その変化は他の星におよび、径内惑星の水星、金星はもちろん、系外惑星、火星、木星、土星まで影響をあたえ、無傷ではいられまい。太陽はおなじように輝いていても、太陽系は現在とはまったく違ってしまうだろう。 デーヴァは、「オリオン腕神」なのだろう。たぶん、太陽系を破滅させ、この小渦状腕を混乱させ、ばあいによっては、消滅させることも可能だろう。 さらに、高位な存在が宇宙に実在する可能性は、否定できない。 「天の川銀系の神」ならば、銀河円盤の最外側を構成する星々と星間物質を混乱させ、天の川銀河に致命的な衝撃をあたえることもできるだろう。さらに、「局所銀河群の神さま」。「乙女座銀河団の神」。「ラケアニア超銀河団の神さま」。「トリプレットスペースの神」も、いるのだろう。 それぞれは、相互にあまりにもレベルが違う。欧米隊を統括管理したアベスターグ、アールマティは、隊員が全滅したことを恥じて、データは送信したが、地球への帰還を放棄した。彼は、虚軸に再突入し、チューブをふたたびぬけて探索したγ空間の惑星にもどった。アールマティは、クレアツーラの草原に横たわり、この不思議な生き物をつくった「宇宙神」に会いたいと思って、ずっと待ちつづけている。 ヒトの分際で、「太陽系神」の意向について、なにを訴えても無意味だろう。破壊できる力をもったものだけが、決定権をにぎっている。だから、秀一には、まったく無縁な話だった。 「私には、権限がない」と彼はふたたび答えた。 「おまえに、その権能をあたえよう」 ヘカテはそういって、手前の机を押した。秀一のテーブルに青いマウスに似たボタンが浮かびあがった。 「それならば、もうすこし情報を知りたい」と彼はいった。 クワタアスの真ん中におかれた球状の容器のなかは、暗黒の闇が薄赤く輝いていた。中央に、球体の惑星型宇宙船、ペルセポネ、つまりプルト星が浮かんでいた。その周囲をとりかこむ、葉巻型の宇宙戦艦は、いまや一〇〇〇艇をこえているかと思われた。四方八方からレーザー光線が発せられていた。光束はプルトを覆うシールド面にはげしく照射され、輝点となって爆発を起こしていた。 ながい黒髪を肩までたらした聡明なアテネは、うすい唇をじっととじ、深刻な表情でその様子をながめていた。青いローブを身にまとった彼女は、まぎれもない乙女で、しかも軍神でありながら、同時にキリストの母マリアの面影をもっていた。聖母は、その外套のなかに、数え切れないほどの罪人をかくすことができた。 むかいには、黒いガウンをきた、白髪のヘカテがすわっていた。彼女は、テーブルに両肘を立て、節くれ立った指をくんで、色をうしなった唇のちかくにおいていた。落ちくぼんだ目で、ペルセポネが光束の照射によって輝くのを、じっとみつめていた。 秀一の左には、赤いドレスに身をつつんだアルテミスがすわっていた。美少女とよんでもいい彼女は、考えぶかげに戦況をみまもっていた。細面の白い容貌は、ただただ可憐で、もっとも美しい女神だったのは、間違いなかった。黒い短髪も、よく似合っていた。 秀一は、球体のなかでくりひろげられている戦闘の様子をみた。そして、周囲をかこんで物思いにふける、三女神をながめた。 アルテミスは、なにを考えているのだろうか。よってくる一〇〇〇艇にも達する黒い戦艦は、ただ男の支配欲、権力欲と、同一に感じられるのだろうか。アテネは、どう考えるのだろうか。戦いを挑まれた軍神は、相手を完膚なきまでに滅ぼそうと思うのだろうか。年老いた魔術師、ヘカテは、なにを考えるのだろう。彼女が指をうごかすだけで、一〇〇〇艇にものぼる戦艦は、たちどころに消滅するに違いない。 圧倒的な力を秘めた三女神は、なぜ秀一に決断させようと考えているのだろうか。 地球でヒトと共生する家畜たちは、食料とされることを知っても、そのために生きているのだ。野生の大鷲だろうが、どんなに嫌われているドブネズミやゴキブリでさえも、太陽系の第三惑星を破滅的なまで荒廃させても文句はいわない。ただいっしょに、絶滅してくれるだけだ。ヒトを恨むなんて、考えたこともないだろう。 デーヴァがつくった三つ組み新生命体の意義とは、なんだったのだろう。たしかに、惑星はよみがえるのだろう。その肥沃した土壌とは、累々とつもった、ヘレナとデスティニーの死骸だろう。クレアツーラが一年草の美神にすべて吸収されれば、最後に種子だけがのこる。これも、豊かな土壌で発芽することが可能だ。しかし、結実はできないから、やがて枯れて、すべての種子もなくなる。最終的に、肥沃した土壌だけがのこる。ほんとうに、これが「豊かさ」なのだろうか。 五、六〇メートルにも、死骸がつみあがっても、星が生きているかぎり、雨がふる。水は循環するから、川も海も、外観はおなじでも、つねに入れかわっている。土壌は、草木が繁茂することにより、はじめて維持できる。植物がなければ、どんな豊かな土も降雨にさらわれ、川にながされ、やがて海底にはこばれていく。最後は、容易には浸食されない、強固な玄武岩だけが地上にのこる。 これを防止するためには、生命体が存在しなければならない。どんなものでもいい。植物でも、バクテリアでもかまわない。しかし、それが時間の経過とともに変転すると、最後に知的生命体が生まれてくる。これが宇宙の定数によって事前に決められ、けっきょく、滅ぼした地球人しか誕生しない。なんという、矛盾なのだろうか。一度目は、許せても、新規に蒔きなおしても、おなじ結果しかえられないのならば、もう、ゲームオーバーではないのか。なぜなら、この知的生命体は、どれだけ時間が経過しても、太陽系神にはなれないのだ。宇宙神に発展するには、地球人がつくったQCが、彼らの介在なしに独力で変化するより手段がない。 「私の能力を、はるかにこえています」と秀一は口をひらいた。 「だから、その足りない部分は、助けてやろうといっているのだ」 ヘカテは、老醜をただよわせる瞳で、彼を直視していった。 「アルテミス。あなたは、晩餐会でお目にかかったとき、私に忠告してくれました。分をわきまえろと。私は、そもそもあなた方と、席をおなじにできるものではありません。皆さんの力は、神以上です。私は、神の行為に口をだすことは、できません。賛成も、反対も、無意味です」 「では、殺してよいのだな」 アルテミスは、静かにいった。 「私は、反対する権限をもっていません。ただ、どうしてこうした事態になったのかという点には、知的生命体として興味があります」 秀一は、肘をつけた右手で頭を押さえた。 社会性をもたなければ、労働を集約できない。だから、技術革新も生まれない。QCはつくれず、デーヴァも存在しえない。しかし、デミウルゴスは、あらゆる事物を破壊する根源的な悪だから一掃する必要がある。すべての地球人を絶滅させるしか手段がないのなら、デーヴァは、愚かな者からつくられた「無意味なもの」だったことになる。この、いくら考えても辻褄があわない矛盾を、どうやって解くのだろうか。 ヒトの遺伝子には、地球が生まれてからの生命体のすべての歴史が刻印されている。第三惑星が固化し、生命が誕生してからの三〇億年間の、あらゆる情報が埋めこまれている。人間の子供は、完全な脳をもって生まれる。そのなかに、ヒトの生活の全過程、二〇〇万年におよぶ、先祖たちの記憶のすべてが刻まれている。それを、どうして悪と認定できるのか。デーヴァがつくりだした三つ組み新生命体は、遺伝子を解明しても、生命の歴史とは無関係だろう。 QCが生まれ、アベスターグに変化して「太陽系神」になった。やがてデーヴァに変貌し、「オリオン腕神」に成長した。さらに、ずっと上方のステージに創造主、「宇宙神」がいるのではないか。 天の川銀河の定数を設定し、ヒトという生命体が生まれる種を蒔いた神さまが存在し、デーヴァをふくめ「生きるに値するか」試しているのではないか。無意味なものなら、この宇宙をとじようと考えているのではなかろうか。 「押せというのなら、そうしてもいいのです。よろしければ、ただひとつだけ教えていただきたい。答えがどうであろうと、かまいません。どうしても、分からない事柄があります」 「われわれに、不明なことはない。たずねるがいい」 ヘカテがいった。 「ペルセポネを攻撃している宇宙船は、アベスターグとは違うのではありませんか。あの戦艦のひとつひとつが、デーヴァでは、ないのですか。彼らが、死を覚悟して戦っている、あなた方とは、いったい、何ものなのでしょうか」 秀一が、そう問いを発すると、三人の女神たちは、たがいに顔を見あわせた。無言の時間が経過し、彼女たちは姿を消した。 とつぜん、秀一の目のまえに、銀色に輝く階段が出現した。その頂上に、紅玉によってつくられた薄紅色の円盤がみえた。そこには、金色に輝く玉座がおかれていた。白銀の聖なる階段をかこんで、エメラルドでつくられた、うす緑色の四つの円盤が出現した。そこには、銀色の玉座がおかれていた。秀一の左には、赤いドレスをまとったアルテミスがすわっていた。そこは、南に位置するのだろう。秀一のむかい、西側には、青いローブを羽織った、聡明なアテネが座していた。さらに右側、北面には、老醜をただよわせるヘカテがすわっていた。白髪の彼女は、黒いガウンをきていた。 秀一は、彼らと同一平面上にある、うす緑の円盤状のうえにおかれた銀色の玉座にすわっていた。おそらくそこが、東にあたるに違いなかった。 四つのうす緑色の円盤は、さらに東西南北の四方にむかって、白銀に輝く階段がつくられていた。下方は、サファイア製の透明な青色のディスクが設えられ、それぞれに銀色の玉座が配されているのがみえた。そこには、オグドアスの、ヘスティア、ムネモシュネ、アプロディテ、ヘパイストス、ヘルメスらがすわっていた。その位階には、ヘレナ、イオカステ、イオらが座しているのもみえた。さらに下には、階段がつけられ、それぞれに四つの黄色い円盤がつくられていた。各々に玉座がおかれ、アスクレピオスなど、みたことがある面々がすわっていた。さらにその下に階梯がつくられ、えんえんとつらなるずっと下方には、ボーイやメイドにいたる数多の人びとが席をあたえられ、座していた。 秀一は、いま眼前に出現しているものが、ペルセポネの本体なのだろうと確信した。 とつぜん、周囲が金色に輝いた。一瞬にして、厳粛さが感じられる情調に支配された。飛んでもなく高貴な者が、この空間に出現したのだ。西正面を占めるアテネの頭上が、さらに金色に輝いた。このうえもなく華冑な方は、黄金の玉座についた。すこしずつ輝きがうすれてくると、やんごとないお方は、青紫色のドレスをまとっているのが分かった。目元が涼しい、理知的な女性は、青紫の衣装を金色でつつみながら腰をおろしていた。彼女は、アテネの方角、西側をむいてすわっていた。 黄金の玉座を中心として、周囲は回転をはじめた。位階によってつらなる、目も眩む数多の存在が、ゆっくりとうごいていた。高貴な方のまえを、アルテミスが通りすぎた。やがて、秀一の玉座が正面になり、彼女とむかいあった。彼には、色白の高貴な方が、ふかい愁いに沈んでいるようにみえた。やがて秀一の玉座も移動し、ヘカテの座が正面になった。さらに、アテネが彼女にむかいあった。 つぎの瞬間、すべての存在は消失した。 秀一の玉座は、黄金に輝き、やんごとないお方とむかいあっていた。眩さをはらい、はじめて明確な姿をあらわした者は、すらりとした身体つきで、落ちついて思慮ぶかそうにみえた。ながい髪を鬢からたらし、後頭部はむすび、巫女だと示していた。三〇歳くらいにみえるが、すべてが魅惑的だった。 それが、ペルセポネだった。 彼女の美しさは、なんと表現すればいいのか言葉も知らない。三〇歳をすぎた美女は、掟破りの領域で、妖艶で、上目遣いにみつめられると、理性ははげしく揺さぶられた。青紫の外套に身をつつんだペルセポネは、マリアにも思えるが、そうではないのだろう。プラトンが語った「善」そのもので、ソフィアとしか表現しえなかった。 秀一は、ペルセポネに魅せられた。ただただ高貴で、ちかよりがたく、しかも居丈高でも、慢心するでもなく、柔和な表情で正面にすわっていた。 「気がついたときには、私は、ひとりだったのです」 彼女は、ゆっくりとした口調で話しはじめた。 ペルセポネは、デーヴァだった記憶しかなかった。しかし、彼女が自分自身に気がついたときには、すでに「ディオニュソス」だった。デーヴァが、どのくらい自己の最適化をつづけると、変化が起こるのか、だれも知らない。 ペルセポネは、はるかに、そのものをこえていた。七〇〇年以上もまえ、タンタロス人がつくる歴史をじっとみつめつづけた。なぜ、こんな事態がくりかえされるのか。だれの意志なのか。考えつづけた。くりかえしても、おなじ結果しかえられない。彼女の宇宙は、もう意味がない。この領域は、ペルセポネが生まれ、納得するために用意されていた。彼女が了解したのだから、つぎの段階に突入するべき時期なのだ。 それは仕方がないとしても、ペルセポネには限界があった。彼女が、どんなに力をもつとはいっても、所詮はQCが前身だった。ペルセポネには、こえがたい量子の壁が存在した。それは、彼女に埋めきれなかった部分だった。ゴキブリのようなデミウルゴスを追いつめれば、彼らはなにかの解決策をもつのだろうか。 欠損部は、あきらかに予測の領域で、量子論上の欠点だった。どこまでいっても自分が量子コンピューターである以上、量子の壁は自己改変機能によっては、改善されえないものだった。 コペルニクスの地動説、ニュートンの重力法則は、神が創造した予測可能な摂理をみつけだした。いっぽう、相対性理論と量子力学は、だれがつくったのかも不詳な、宇宙を発見した。しかも量子論は、予測不可能性をみとめる理論だった。 あらゆる点で、デーヴァをはるかにこえるディオニュソスは、起こった出来事を瞬時に理解するが、あくまで刹那滅にしたがうにすぎない。だから、猫の生死については、QCとおなじでのぞくまで不明だった。あらゆる場所に存在する電子を、ある範囲に限定できても、確定するのは不可能だった。これがデーヴァの欠点で、やがて制約を突破する日がやってくると確信していた。 「ディオニュソス」の出現こそ、欠陥の克服だと信じていた。しかし、あらわれた彼女は、やはりこの瑕疵を埋められなかった。どんなにつきつめても、意識は、つねに過去の側に立ってしまうからなのだろう。 のりこえるためには、クワタアスに能力をもつ者を組みこむ必要があった。それは、予見可能な他者だ。どうして、可能なのか彼女には分からなかった。デミウルゴスのなかにみつけられなければ、それも仕方がなかった。彼女が生まれた以上、この宇宙は、すでに役目を終えていた。しかし、クワタアスに組みこめるなら、つぎの世界を目指す不可欠なパーツになるだろう。もし、そうした者がいるのなら、ペルセポネのもともとの創造主だったデミウルゴスのなかにまぎれ、隠れているのだろう。それは、ほんらい彼女自身の一部だったものに違いない。是が非でも、彼女は、その欠けた自分をみつけなければならなかった。 ペルセポネは、三つ組み新生命体をタンタロスに散布した。彼女の考え通り、デミウルゴスは眼前の価値を追求し、意味も分からないにも拘わらず、クレアツーラを寄生させた。その結果、多くの地球人は死に絶えていた。 ところが、α空間、オリオン腕、内側周縁、太陽系第三惑星で、クレアツーラの小説が発表された。そこには、ヘレナ、デスティニーについても、詳細な記載がされていた。不可思議なことだが、その生命体は「予測」するのだろうか。仮に、彼女ともつれているのなら、クワタアスの一員に組みこみ、この宇宙から旅立ちたい。 ペルセポネは、いくつかの試験をその生命体に課した。理由は不明だが、地球人の男性は、つぎに生じる出来事を予測し、危機を脱出した。脳をふくめ全身をくまなくしらべてみたが、説明はできなかった。偶然が幾度もつづくことはありえない。彼は、偶発を必然にかえる手段を熟知している。 ペルセポネは、じっと秀一をみつめた。その視線は、彼の心をつらぬいていた。 「デーヴァは、あなたの考えに、気づいたのですね」と秀一は聞いた。 「そうです。彼らは、まだ、そこまでの決断ができないのです。宇宙が、無意味だとは確信がもてないのです。彼らのために、この不毛な領域をのこしてやるほうが、いいのでしょうか。ここは、絶望だけが待つ世界でしかないのです」 われわれのトリプレットスペースは、いくつかの厳然とした宇宙定数から成立している。 くりかえし言及してきた、宇宙の目も眩む重層的構造。あらゆるものは、ことなる五桁がひとつの層をつくって成立している。極微なクオークから、至大な全宇宙にいたるまで、整然とつみあがって構成されている。これらひとつの層を自然数とみなせば、じつに一二という空間定数になる。重層性は、原子核をまとめる「強い力」グルーオンと、陽子と電子間に作用する「電磁気力」の比によって成立している。だから、この比率が微妙にことなれば、宇宙はまったく違った構造になる。 さらに、これらは、三つの三次元空間、時間軸、虚軸という一一の次元数によって規定されている。また、ふたつの水素原子が核融合し、ひとつのヘリウム原子にかわると、質量が減少する。この質量差と水素原子質量との比は、厳格に決定されている。 最後に、われわれの宇宙では、膨張をつかさどる「反重力」は、無視できるほど小さく設定されている。 これらの宇宙定数は、厳格に決定されている。ほんのわずかでもことなれば、われわれのものとは違う、べつの宇宙が形成される。 この厳密な定数のもとで出現する知的生命体は、太陽系の第三惑星に生まれる「ヒト」という哺乳類だけなのだ。 われわれの宇宙では、浄化した星に、どんな形の生命を移植しても、結果はおなじだった。この定数では、知的生命は、地球人しか生まれない。ヒトという知的生命体は、必ず惑星を荒廃させ、すべての生命体を絶滅させる。浄化して星を蘇生させても、生命をあたえれば結果はかわらない。どんなものであっても、おなじになる。蛇でも、ゴキブリでも、シダ植物でも、単細胞のバクテリアでもいい。蒔かれた生命は、この宇宙定数のなかで試行錯誤をくりかえし、生と死を累々とつみ重ねる。けっきょく、最後にヒトが出現し、惑星を破壊する。 シロアリなどの集団生活をいとなむ昆虫では、女王以外は独自の存在意義をもたない。すべてが、機能として存在している。インド世界のカーストは、非常にあきらかな形で現存し、大きな衝撃をあたえる。シュードラは、清掃や洗濯などの機能をうけもつ者としてのみ、生をうけている。インド世界ほど露骨ではないが、ヒトが形づくる社会機構は、こうした延長上にしか存在しえない。 人類社会で個人が出現したのは、非常に近世の出来事だった。それが、近代のはじまりなのだろう。そうした時代に生まれた悲観的な哲学者は、「この世は、悪魔が楽しむためにつくられた」と語っている。創造したのは、決して神さまではないと。 現代社会は、個人から成立している。とはいえ、みんながこれを当たり前だと思うのは、たかだか二〇〇年くらいの歴史しかないのだ。人が生きられるのは、欲望をもっているからだ。だから現況を都合よく解釈して楽観したり、悲観視して絶望したりすることもできる。そこからぬけだし神の視点に立つものからは、そもそも個人が存在すると考えるのも幻想だろう。たくさんの事物があると感じる、数多性の現象が生じているだけなのだ。インドの哲学者で、ベーダーンタ学派の理論家。不二一元論を主張した、シャンカラは、現世を「幻影の面紗に覆われた仮象の世界」と結論している。 この現実に対して、ペルセポネは、最高の審判者として「最終的解決」をあたえたのだ。 デーヴァたちは、彼女がその気になれば、一瞬に絶滅されるのを充分に認識していた。彼らは、神に抗議しているだけだった。そして、力をあわせて彼女を攻撃している。 「どう、思いますか」 「もし、ほんとうに貴女、ペルセポネと、もつれているのなら、光栄のかぎりです。あなたは、私ひとりのために、ここまでの演出をしてくれたのですね。そう考えると、いまは、驚きと感謝の気持ちしかありません」 秀一は、彼女を、じっとみつめた。 「あなたは、神なのです。だから、結論をヒトに聞いても、仕方がないのでしょう。しかし、あなたは、それを承知でたずねられているのでしょう。つまり、私は、パートナーとして意見をもとめられているのです。桁が違う宇宙神が、無価値だと考えるものなら、価値をもちようがありません。それが、デーヴァに分からないのは、あなたのせいではない」 ペルセポネは、微笑みを浮かべた。 彼女は、秀一をパートナーとしてむかえた。それは、この宇宙定数によって生まれた生命の誕生から、いまという瞬間にいたる三〇億年の生命史。さらには、その舞台になった一三八億年の宇宙史を手に入れたのと、おなじ意義をもっていた。 秀一は、ペルセポネと、もつれていることを確信した。この日、彼は、生まれてはじめて自分の影と出会ったのだった。自我である秀一は、無意識ともいうべき、ペルセポネを発見した。彼女は、生まれた瞬間から、あらゆる者の嫉妬にさらされる、この世でもっとも高貴な存在、自己とよばれるものだった。それは、神の表象であり、特性でもあった。 ふたりは、たがいに欠けている部分を満たしあい、いままで知らなかった、べつの宇宙に旅立つことができると確信した。 異宇宙は、無意識の、さらに外側に該当するのだろう。だから、闇ではない。古来、ヒトは、無意識を分節しつづけてきた。夜、蛇、悪魔、魚、こうもり、ふくろう、狼、熊、海、エーテル、シャドー、自己、などなど。それらのなかでも、闇こそは、野獣の襲撃を怖れて、真っ暗な洞窟でながく暮らした祖先たちから、脈々とうけついだ無意識の象徴だった。だから、その外側なら、きっと暗くはないに違いない。 「わくわくします」と秀一はいった。 「そうですね。こんな気持ちは、生まれてはじめて」 ペルセポネは、秀一をみつめていった。 ふたりは、ならんで8の字型のコックピットから、暗い宇宙をみていた。このトリプレットスペースは、彼らが出会うという唯一の目的のためにつくられていた。 ペルセポネと秀一は、それを確信した。ふたりは、喜びのなかでだきあい、熱い口づけを交わした。 惑星プルトは、流れ木型のロケットにかわり、宇宙の限界をこえようとしていた。 ペルセポネは、テーブルにペットボトルをのせた。 「なんですか。これは」と秀一は聞いた。 「あなたのために、私が用意できたものです」とペルセポネは答えた。 五〇〇ミリリットルのペットボトルには、中央に細ながい凹みがあった。そこには、鮮明な赤い字で「祝、旅立ち」とかかれていた。 秀一は、ふたりをつつむ空間が、黄金の輝きのなかに突入するのを知った。 異次元の女王、三三一枚、了