自分史講座 由布木 秀 一 「さあ、みなさんこちらです」 マスク姿の女性係員が、距離をとってばらばらになっていた幾人かの人びとに声をかけた。ひとりひとりの額に非接触型の温度計をあてながら、「いいですね」とうなずくと、となりの女性が手にアルコールを散布し、室内に案内した。 部屋は、通常なら机が八〇ほどもならぶ大きな講義室で、文章教室や人気がある万葉集の講義が行われる場所だった。今日はすっかり様変わりして、かなり離れておかれたテーブルは五つしかなかった。机のうえには、横にした三角柱の名札が立てられ各自の席が決められていた。椅子にすわるとコロナにかんする型通りの問診票がおかれ、自分の氏名と電話番号をそえて現在の体調や、ここ二週間の状況などを記入せよという指示がでていた。 「身体に異常を感じる方は、すぐに職員に申しでください」とかかれたポスターが教室の左右と後ろに張られ、教壇の黒板右すみにはチョークで同様の趣旨の言葉があった。 全員が着席すると、講義室の前方と後方の厚い扉がしめられたが、室内の換気のためにすこし隙間になっていた。どちらの扉口のわきにも、宮城文学館の正規職員が受講者とおなじ形の机をまえにして椅子に腰をおろした。扉と反対のがわに、戸外にむかって切られたひろい窓が四つほどあった。これもやはり換気を目的に、どの出窓もわずかにひらいたままにされていたので、間隙を通して閑散とした室内に蝉の声が聞こえてきた。 しばらくすると、両手で資料をかかえた五〇歳くらいの男性の講師が、前方の扉をあけて入ってきた。青色のブレザーをきた男は、やや小太りで背がひくく、服とコーディネートした青い枠の眼鏡をかけていた。フェイスシールドをつけた講師は、ぬいだ上着を自分の椅子におくと、受講者にむかって大きな声でいった。 「みなさん、こんにちは」 講師が元気よく挨拶すると、なにをいっているのか分からない、ぼそぼそとした返事がマスクごしにかえってきた。フェイスシールドをつけた男は、自分が仙台教育大学の文学部の教授で、個人史史を専門とする山添功一だと自己紹介した。そうして陸の孤島状態で、あまりにも隔たりすぎている受講者をみまわし、もし差しつかえなければ、教壇を中心にまるい円形の輪をつくる感じで再配列したらどうかと提案した。 「もちろん私の独自の考えで、反対意見をもつ方がいれば申しでてください。そうしてもよい、という人だけでもけっこうです。みんなからひとり離れて受講するのも趣向ですし、そういう方が自分史をかくのも意義があると思います。みなさんの自主性におまかせしますが、これではたがいが遠すぎる感じがします。なにかに集中して、お話しする雰囲気ではありません。強制ではありませんよ。強引に配置を転換させてですね、コロナにかかったなんて話になったら、私にとっても一大事のことでして」とつけくわえた。 受講者の机は、たがいに五メートル離れた前方と、なかほどにふたつずつ、後方の中央にひとつがおかれていた。八〇人を充分に収容できるひろい教室のなかで、感染対策だけを主眼に配置され、距離がありすぎるのは、だれがみても間違いなかった。「密」という状態をはるかに通りこし、完全に「疎」というシチュエーションだったからコロナの対策としては完璧だった。しかし、この配置では講師がいう通り講義を聴く雰囲気ではなかったから、提案はすんなりうけ入れられ、教壇を中心に各自の机が二メートルくらいずつ離れて大きな輪がつくられた。 「いや、たいへんよかったです。上々の出だしというべきですね。はじめに教室に入ってきたときには、どこをむいて授業をしたらいいのか途方にくれてしまいました。これで、みなさんのお顔をみて、その反応を考えながら講義ができるというものです」 山添は、大きくうなずき納得して、コロナ騒動の渦中に行われる自分史講座の概要について説明をはじめた。 今回この講座を開催するかどうかについては、宮城文学館ではたいへんな論議がつづいていた。休むのは自分が楽だからという理由では決してなく、感染予防のためのやむをえない処置だった。もちろん職員は、みんな正規の公務員で月額の給与制だったから、どうせなら閉館して家にこもっているのがいちばんよいと思った。罹患したら死ぬこともあるというコロナに感染して、さらに家人にひろめるのはだれにとっても得策ではなかった。おなじ給料をもらえるのなら、家でゴロゴロしながらワイドショーでもみているほうがずっと気楽に思えた。文学館は、コロナ感染症の流行の兆しがあったときから、すでに臨時閉館を決めこんでいた。こうした騒ぎのなかで講座をひらこうなんてだれも考えなかったから、このままコロナが二年くらいつづいてくれてもかまわないと、職員のほとんど全員が思っていた。 しかし、所長の考えは大きくことなっていた。一般職員とはあきらかに立場が違っていたので、微妙な問題にも配慮を払わねばならなかった。まじめに規則を遵守して、原則火曜の定休日以外は、定刻に門の開閉をくりかえす公的機関が余剰人員をかかえているのは仕方がない成り行きだった。 もしもなにか、とてもひと口ではいえないが、考えもしない事態が起こったときには、その余剰な人員こそが救ってくれると所長は確信していた。考えられない状況とは、具体的にはどういうばあいを指すのか、彼にも不明だった。換言するならば、よく分からないくらいの非常事態が起こりえるともいえたのだった。 あえて考えるなら、とつぜん宮城県出身の作家が芥川賞を受賞するという事態が起こったなら、こうした文学に関与する公的な文化施設は宮城県では唯一だったので、なにかしらの予期せぬアクションが生じる状況もありえると思われた。問いあわせの電話が殺到し、該当する著者の作品がどの程度おかれ、どういう配置で展示されているのか。これは、相当する作者がまったく考えられない以上、まさに予想もできないことだった。 それが、もしも宮城県ゆかりの作家が、仮にノーベル賞でもとる事態ともなれば、どういった問題が派生するのかについては、さらに見当もつかない大事件に違いなかった。朝に目が覚めてみると、文学館のまえに仙台駅までつづく約一〇キロの行列がつくられる可能性だって、人間が生きているかぎり皆無とはだれにもいえなかった。 そうした予測不能の出来事を適確に収拾するためには、よく実態を知る正規の職員が絶対に必要で、献身的とも表現できる懸命な対応をとるに違いなかった。 コロナ禍とは無縁な、平素から時間をもてあます状況のなかで、鋭意努力して自分たちで仕事をつくりながら、それなりに忙しい雰囲気をかもしだして運営努力する公的機関が、どう苦心しても暇にしかみえないのは、若い人たちの活字離れが最大の原因と考えられた。こうした社会的風潮に関しては、基本的に文学館の手のおよぶ範囲を逸脱していた。しかし、こうもながく休んでいるのにもかかわらず、市庁や県庁に苦情のひとつもいかないという事態は、所長にとっては施設の存在の意味そのものが問われる事件に発展しかねない大きな問題だった。 もちろん彼は、管内一の切れ者であり、平素から諸般の事情に精通していた。幾人かの友人に手をまわして、宮城文学館がいつ再開する予定なのかを県庁に問いあわせる電話の依頼などの用意も周到だったが、なんといってもほかの施設と比較できないほど数が制約され、お手盛りの要請だけでは限界をもっていた。 つまり、あまりにながくしまっていると、平素より利用する者がほとんどかぎられる、普段はなんとなく好意的にみすごされてきた事態が、いまは盛りのSNSなどにより悪評となって拡散する怖れがあり、ひとたび炎上すれば、文学館の必要性を問う声が雪崩のごとく起きる可能性もありえることが、所長には現実の脅威としてひしひしと感じられた。彼は、こうしたコロナ禍でこそ開館の必要を感知する「ジレンマ」に悩んでいた。 文学館自体は、正規職員で構成されていた。食堂の経営など第三者に委託する部分はあり、その人びとは困窮する可能性が高かったが、職員はとくになんの影響もうけていなかった。コロナ禍がながびくにつれて、公務員の典型ともいえる宮城文学館のスタッフであっても、このままではまずいのではないかと危機感を覚える者もでてきて、所長も重い神輿をあげざるをえない状況になっていた。 そこで「厳しいコロナ対策をして、講座をひらいてみたらどうだろうか」という案が浮上したのだった。それがテレビの地方版で放映されれば、なにかを考えているという宣伝効果は抜群で、事前に広報誌にのせれば、文学館もそれなりに努力した証しにもなるに違いなかった。しかし通年にくまれる人気の講座は、営利団体とは違い、低額のレジメ代くらいしか徴収ができない制約があった。安価な受講料が基本だったために多数の受講者が前提で、抽選という形をとらざるをえなかった。 なにぶん「政府のコロナ対策」への対策ともいえるこの試みは、「密」だけは避けたいと、だれもが思った。つよい要望もないのに不要不急の講座をひらいてクラスターでも発生したとなれば、なにを目論んで開催したのか。申し開いても、なかなか世論の理解をえるのは難しいと考えられた。 職員による討論がくりかえし行われて、非常にすくない人数を対象に設定する講座がいいという方向性が決まった。がんらいが集客をまったく目的としていなかったが、さらに、なるたけマイナーで人気がなさそうな課題をえらぼうと話しあわれた。 万葉集講座ともなれば趣味の世界で、長年にわたっておなじ講師が担当したので、名目上「多数の希望者がいれば抽選」と明記されるが、半数は常連枠をもっていた。 常連の方たちは、文学館でとくべつな催しをするさいにも、気をつかって来館してくれる大切なお客さまで、そうした人たちが嗜好によって、たがいにどういうつながりを有するか、充分な把握はできていなかった。癒着しているわけでは決してなかったが、常客の方がたには配慮が不可欠となった。今後の事態も考慮するなら、一部の者をえらんで、いらぬ反感を買うのを控える必要もあった。職員たちは大いに議論をつくして、あまり人気がなく、それなりにひろい世代にも訴えられ、少人数で行っても意義がみいだせる課題を考えた。 こうした経緯をもって、「自分史講座」が発案された。この講座では、「個別に指導して、実際に自分史をかいてみる」という名目があるため、少人数での開催となるのもやむをえないと考えられた。文学館の事業とはいっても、完全なアリバイづくりだった。いろいろな候補があがったが、講師の確保ができて県の広報誌につぎの文面が掲載された。 「このたび、宮城文学館では、仙台教育大学、文学部、山添功一教授(専門、個人史史)を招いて自分史講座を開催するはこびとなりました。本講座は、七月四日より八月一日までの土曜日、午前、九時から一一時、さらに三〇分くらいの個別指導の時間を確保して五週連続で行われる予定です。受講料金は五〇〇〇円。参加の条件は、健康な宮城県民であること。性別、年齢は不問ですが、五回連続で出席できる人にかぎられます。山添教授の意向としましては、今回ご参加された方については、五週というみじかい期間ではありますが、参加者全員が、ご自身の自分史を実際にかいていただくつもりで指導いたします。したがって宿題などもありますので、本講義に関しましては充分な興味と時間的余裕をもつ人にかぎりたいというのが希望です。またコロナ禍によって講義が継続できなくなったばあいは、講座一回分につき一〇〇〇円として、できなくなった料金は返却に応じます。今回はコロナ感染症のなかで行われるため、募集人数は五名にかぎられます。宮城文学館としましては、できるかぎりの感染予防につとめますが、参加者は予期しない事態も起こりえるのをご理解したうえで、お申しこみください。応募が多数になったときには、厳正なる抽選を行い、すみやかに結果をご連絡いたします。申しこみは往復葉書で、広報の応募様式にしたがってご記入ください。携帯電話番号と、メールアドレスを付記することが必要です」 この企画は、職員の当初の予想をはるかにこえる応募があった。締め切り日に定員の五名にたいして、二一歳から九二歳までの一三七名の申しこみがきた。想像以上に人気化しているのが分かると、締め切りをすぎてからも一〇〇余名の参加希望者の葉書がとどいた。こうした者たちには、往復葉書の返信部分に今回の応募状況を記載し、消印が締め切り後であった旨を丁寧にかいておくりかえした。もちろん常連たちが、「特別枠」での参加をもとめる二〇件にのぼる電話をうけた。今回は定期の講座とは趣旨がことなる状況を話し、定員が五名にかぎられるのを充分に説明して対処したが、けっこうしつこい通話も多々あった。 コロナ禍の渦中で困窮する者も多いと思われたが、予想をはるかにうわまわる暇をもてあます人びとがいる現状もよく分かった。かつて文学館が主催した講座のなかでもいちばんの応募があった事実は、所長をふくめたすべての職員のおどろきだった。こうした結果を今後の館の運営に生かすのは、職員会議で大きな課題になった。 しかし喫緊の問題は、応募希望者、一三七名をいかにして五名にしぼるかだった。講師の山添教授に相談すると、広範囲な年齢を対象としたいという返事がきた。ちなみに一三七名の構成は、二〇代が六名、三〇代が七名、四〇代が一四名、五〇代が二六名、六〇代が四四名、七〇代が三〇名、八〇代が九名、九〇代が一名となっていた。 山添教授は、人生のけじめにかく自分史にたいして、定年退職期に該当する六〇年代に希望がいちばん多いのは納得した。五〇代も、すでに退職期をみすえる年代にあたるため、多数も了承可能だった。七〇代ともなると、これまでの人生の整理をしてみたいという欲求が、もっとも高まる時期と考えられ、こうした数にいたるのも理解できた。さらに八〇代、九〇代には、生涯の最後にひとつくらいはなにかをのこさねばならないという激しい思いから、講義にでて自分史に挑戦することもありえると思えた。また二〇代、三〇代の希望者が、いかなる理由で興味をもつにいたったかについては、思惟させられる部分だった。若い年代の者が将来を考えるうえで、こういう機会にいままでの自分をみなおしたいニーズも、「自分史」にはあるのかも知れなかった。しかし、四〇代というのは、いったいなんなのだろうか。そもそもこの時期は「壮年」にあたり、普通は子育ての真っ最中で、自分の過去を振りかえり、これからの日々をどうすごすか考えるには、あまりにも中途半端な年代とも思えた。あくまでコロナ禍の現状があって、講座がひらかれるわけであり、通常のばあいとは物事の捕らえかたがいささかことなるのだろうが、興味ぶかい年齢構成だった。 いずれにしても、五名の定員枠にたいして一三七名の応募ともなれば、倍率は二七倍ともなり、とてつもなく狭き門といえた。これをどういうぐあいにえらんでも不満がのこるに違いなかった。そこで山添教授は、文学館の担当職員と話しあい、希望をつたえた。 まず男女比をできるかぎり半分にちかづける。とはいっても五名だから、男性三名と女性二名を選抜する。さらに年代の分布にしたがって配分しても、総数が五にしかならないので、ここは思い切って、各年代から一名を選考する。具体的には、二〇代と三〇代から女性一名。四〇代から男性一名。五〇代から男一名。六〇代から女性一名。七〇代以降から男性一名をえらんでもらうことにした。 二〇代、三〇代の若年女性が、どうして自分史に興味があるのか不明だったし、四〇代の壮年の男子がかきたい意向も分からなかった。どういうぐあいに分けたとしても、倍率が二七倍であるかぎり公正は期するのは不可能だった。文学館としても手立てがなかったので、山添教授の意向にしたがったのだった。 二 第一回の講座がひらかれた七月四日は、小雨がふる陰鬱な日だった。コロナ感染症の渦中であり、気温も肌寒く、気候もすっきりしなかった。 フェイスシールドをつけた山添功一教授は、自己紹介をはじめた。 「私は、授業を担当する、仙台教育大学で個人史の歴史を研究している山添と申します。今回、みなさんは二七倍という普通はほとんど通れない狭き門をぬけて、この講座にきていただきました。それはある意味ではとても幸運ともいえますので、五週というみじかい期間ではありますが、ぜひ継続して講義をうけて実際に自分史をかいてもらおうと考えております。そのための方法をご指導するのですが、なにぶんとも時間がかぎられます。宿題という形で、ご自宅でアルバムなどをみながら考えていただく作業も必要になります。難しい話はさておき、受講生はたった五人です。堅苦しいことまで必要ではありませんが、簡単な自己紹介をしていただこうと考えております」 山添は、はじめからみるとかなりまとまった領域に移動した五人をみまわしていった。 文学館でも、この時期に並行してほかの講座を行う予定はなかった。机も椅子も、おなじ状態をたもって五週間ほったらかしにするつもりだったので個人専用になっていた。荷物をのこして帰るのは、原則としては許可されなかったが、テーブルにおかれた名札をふくめて、アルコールで講義の前後にふくのが義務づけられていた。受講者は五人だったが、教壇のちかくと、遠くにあるふたつの出入り口のそばには、文学館の正規職員が授業の内容や進行などをみまもっていた。だから教室全体では、講師もあわせて八名の人びとがいた。 山添からみて教壇の右には、三〇歳すぎの女性がすわっていた。中肉中背で髪をみじかくした女は、眼鏡をかけていなかった。淡いブラウンのワンピースをきた女性は、眉毛がかかれ、ながいつけ睫毛で化粧していたので、大きなマスクで顔を覆うと、それなりの容貌にみえた。とはいっても、女性たちはこのアイテムの利用にたけていたので、コロナ禍では一目美人が続出し、ほんとうの素顔は分からなかった。 彼女はすわったまま、「三田桂子です」といった。 「折角ですから、自己紹介では立ちあがっていただきましょう。それに、このコロナの時代にはルールも必要ですね。教壇にむかって左がわの方が立ちあがるばあいは、机の左に立ちましょう。講義中、マスクははずさないことにしましょう。私語はつつしんでください。携帯は、電源を切っておいてください。なにかとくべつな要件があれば、そのときは挙手して私の許可をえてからお話しください。また教壇にむかって右にすわっている方は、机の右がわに立ちあがりましょう。いちばん後ろの人は、ご自分の椅子の真後ろに立つのは、いかがでしょうか。それに五人しかおりませんので、マスクで顔の形くらいしか分からないばあいもありますが、いちおう全員にみえるぐあいに一度は振りかえり、できればお名前だけではなく、簡単な自己紹介をしてください。内容は講座を希望した経緯など、なんでもけっこうです。それでは、三田さんからもう一度お願いします」 そういわれた三田は、気乗りしない感じで仕方なしに机の左がわのみんなからみえる場所に、ふたたび立ちあがっていった。 「私は、三田桂子と申します。今回応募したのは、自分さがしをこの企画でできるのかなと考えたからです。みなさん、よろしくお願いします」 「年は、いくつなの」 三田の後ろにすわる、いかにも品のなさそうな男がいった。 「権田さん。不規則発言は、今回の講座では許可していません。もしどうしても発言を希望するさいには挙手して、私の承認をえてからにしてください」 厳しい表情で山添はいった。 短パンにアロハシャツをきた四〇歳なかばの男は、最初に講師の目についた。どういう市民講座にも、これに類した者たちが紛れこむのは仕方がないと、教壇にのぼったときから山添は思っていた。しかし、こうした者が勝手に発言をしだすと、講義が進行できなくなるのもよく分かっていたので、男の態度にしっかりと釘をさした。 「三田さんどうぞ、ご着席ください。では、今度は権田さん、お願いします」 山添にうながされて権田は立ちあがったが、早々に注意をされたせいか、すでにふてくされていた。彼は、移動することもなくいった。 「権田一郎です。物見遊山かな」 そういうと、権田はそのまま腰をおろした。 「いいでしょう。それでは、つぎは真ん中の席の、海原さんどうぞ」 ちょうど山添と同年代にみえる五〇代のはじめの海原は、背広をきて、つとめ人であるのは一見して分かった。それも平ではなく、役職をもっているらしいと思えた。 「おはようございます。私は、海原光男と申します。会社員ですが、こうした講座にでて、いままでの自分の人生を振りかえる機会にしたいと考えております。みなさんよろしくお願いします」 男は、愛想よくいって着席した。 「人生を振りかえるのも、自分史の大事な点です。納得がいかれるといいですね。それでは、左奥の江東さん、お願いします」 その言葉に江東は立ちあがると、山添に指定された机の右に立ち、まず「おはようございます」と講師に深々と敬礼した。それから受講者全員をみて、「皆さまにも、よろしくお願いいたします」と、また丁寧にお辞儀した。さらに前後の扉ちかくにすわる文学館の職員にたいしても、「さまざまなご配慮、ありがとうございます」といってふかく頭をさげたので、職員たちもそのままだったが、礼をかえした。そして、講師をみながらゆっくりと話しはじめた。 「私は、江東遥子と申します。名前は名札にもかかれていますが、遥かとかいて、遥子でございます。長年にわたり一教諭として高等学校教育に従事しておりましたが、昨年、定年退職し、いまは自由の身でございます。時間ができたせいもあり、ひとつの区切りがうまれました。ここで自分が歩んできた道を振りかえり、よく整理して、いまの寿命を勘案すれば、まだまだ二〇年ほども人生がのこっているのですから、今後、どうすごすべきか検討したいと、つねづね考えておりました。私としては平均寿命まで生きたいとは思いませんが、こればかりは、個人の意思では決められないことでもございます。そうした事態を覚悟して、これからの日常をすごしていかねばならないと考えております。コロナの時代に突入した社会で、いかに暮らそうかと思案していたのでございますが、今回こうしたニーズとぴったりと一致した、自分史をかくという機会をご用意していただいた宮城文学館さまにはたいへん感謝をする者でございます。そのうえ、ご専門として研究をなさる山添教授さまが、コロナ禍の最中であるとはいえ、ほとんど個人指導ともいえるご丁寧な対応をお考えになっているという話を聞きおよび、現在の私にあたえられた天啓とも思われて応募いたしました。聞くところによれば、近年には珍しいほどのものすごい人気で、二七人にひとりという縁がなければとても受講などかなわないなか、厳正な抽選でえらんでいただいたとうかがったときには、思わず仏壇に手をあわせたほどでございます。いたらない者でございますが、先生のお話をよく聞き指導をうけながら、私も自分史をつくりたいと考えておりますので、よろしくお願い申しあげます」 江東遥子はそこまで話すと、もう一度、山添にむかって深々とお辞儀をして静かに席についた。 「小母さんの話は、ながいんだよな」とアロハをきた権田がいった。 「不規則発言は、許可していません」 山添は、彼を睨みつけながらつげた。 「いいですか、権田さん。この講座は五名の方に参加をいただいて、自分史を作成するという目的をもってひらかれているのです。もしあなたが、遊び半分で受講すると仰るのなら、おひきとりいただいてもけっこうです。会の進行をさまたげる問題については、私がそう考えたばあいは受講者を退出させてもいいという話しあいのもとで、今回の講座はひらかれています。この点をよくお考えになり、目的があなたの希望と違うのなら、退席なさるのはいっこうにかまいません。五人しか受講者がいないなかで、今後こうした会の進行をさまたげる不規則発言やセクハラ行為をしたときは、即刻退出していただき、講義への参加をあきらめてもらうという処置もとることもできます。権田さん、分かりましたか」 「私が、セクハラを行ったのですか。そんなこと、するはずがありませんよ。私は、有能なホストなのですから、女の心は充分に分かっていますよ。教授とは分野こそ違いますが、プロという点ではおなじですよ」 「もし、私の話が気に入らなかったとしても、そうしたことは、会が終了した時点まで待っていただいてから個人的にご相談ください。かぎられた時間しかございませんので、みなさんの迷惑になるのも考えてみてください。すくなくとも今日の最初の講義で、もう一度、不規則発言であなたが注意をうけたばあいには、退出とさせていただきますからご了承ください。権田さん。分かりましたか」 つよい山添の口調に権田はすこしおどろいて、完全にふてくされた表情になって「はい」といった。 「さて、江東さんのお話は、素晴らしいものでした。この話こそが、個人史がなんであるのかを充分に物語っているのです。自分史の多くは、まさに定年、退職期にかかれるのがいちばん多いと考えられます。人生は、入学から、入社、結婚、子育て、とつづいていますが、定年退職は大きな節目でございます。昔は、人生五〇年といわれた時代もありましたが、現代は八〇年ではとてもすみません。人によっては六〇歳で定年になっても、さらに三〇年、ばあいによっては四〇年も人生がつづいていくわけです。江東さんがお話しされた通り、定年後の寿命をご自分ではえらべません。ですから定年退職をして、まだ道の三分の一がのこされている時期に半生を振りかえり、自分がこうした事情にあるのをよく理解して、今後の人生を思って自分史を作成するのは、いい機会となります。江東さんが納得できる作品をおかきになれるよう、私も助言させていただきますので協力して考えてみましょう。それでは今度は、花田さんのお話をうかがいましょう」 「自己紹介じゃないのかよ」と権田が口をひらいた。 「紹介とは、名前をいってお終い、というものではありません。権田さん。もう一度、不規則発言をしたばあいは、即刻退席していただきます。担当の関谷さん、これは所長にも報告しておいてください」 山添がいうと、まえの扉にすわっていた職員が、「分かりました。権田さんには、その旨の誓約書をかいていただきます」と答えた。 権田は、むっとしてだまった。 「権田さん、分かりましたね。関谷さん、受講後にサインできるよう誓約書の用意をお願いします」 山添がそういうと、関谷はうなずいた。 「話が途切れて申しわけございません。それでは、花田さん。自己紹介と、この会に参加した理由などをお話しいただけますか」 山添の言葉に、指定された通り机のやや右がわに花田は立ちあがり、話しはじめた。 「私は、花田雄三、七七歳です。雄三は、加山雄三とおなじです。私は長年官僚をしてまいりまして、定年退職後も仕事を依頼されてつづけていました。そうはいっても頼まれたものですから、週に何回か顔をだせばすむだけの、そういう意味では民間の方よりさまざまな点でめぐまれていたといってもいいでしょう。しかしその分、教授の仰る機会があたえられないという欠点もございまして、よいも悪いもあるのが人生、といえるでしょう。どこかで区切りをつけねばならないと最初の定年時に考えまして、自分史の指導をうけてかいてみました。参考にしたのは、日本経済新聞に掲載されている私の履歴書です。六五歳に自分史をかき、伝手もあったので自費出版しました。七〇歳で、俗にいう天下りでつとめた会社も一回やめようと思いまして、これもひとつの節目となりました。このときに、六五歳の自分史を読みなおすと、いかにも不備で言葉が足らず、どうにも納得ができない部分が多々あるのに気がついたのです。ひと言でいうなら、事実に頼りすぎ、きまじめと考えてもいいかも知れません。もうすこし、私の思いなども追記するべきではないかと考察し、再度、作成しました。すこしながくなりますが、自分史のありかたを考えるうえでも、みなさんの参考になると思い、つづけさせていただきます。仕事は非常勤で、月に何回かいけば、けっこういい給与をもらっていたのですが、七五歳で、会社を完全にやめる次第にいたりました。とくにゴルフなどの趣味がなかったので、これもかなりの節目と考えて再度、自分の歴史を振りかえる必要を感じたのです。それでいままでお話してきた通り、今回かきますと三回目となります。一回目、二回目で蓄積された部分がありますから、いつどういう事件が起こったか、という類いの問題に関しましては、かなり整理されているのが現状です。私なりではありますが、自分史のなかの自分の位置についてもある程度は明確になっていますから、最後の決定版にしたいと思い応募させていただきました。いつまでも、元気というわけにもいきません。極端な話をするなら、明日死ぬこともあります。今回が最後のまとめとして、四回目は考えないという形でつくってみたいと思います。みなさんとは五週間というみじかい期間ではありますが、ごいっしょに講義を聴くことになった、ご縁もどこかにあったのでしょうから、よろしくお願いいたします」 花田はそういって全員をみまわし、山添にたいして深々とお辞儀をした。 「素晴らしい。たいへんよいお話を、ありがとうございました。この話は、自分史とはなにかという一面を確実に語ってくれています。市民講座で多くの人がおあつまりになりますと、花田さんのようにほとんど指導もいらない方が、かならず何人かはいらっしゃるわけでございます。自分史は、お話の通り一度ですむものではありません。さまざまな時点で自分を振りかえり、それこそ五〇代に作成し、六〇代でも、七〇代、八〇代でもくりかえしつくって、変遷のぐあいを知ることもできるのです。年をへるごとに、なにが正しく、どれが間違っていたかという認識も変化するのがとうぜんですし、内容もふかみを増すのでございます。ここに、自分史の鑑賞というテーマがでてくるのです。それが、この歴史を考える、大きな課題となります。ところで花田さんは、今回も自分史の出版をお考えなのでしょうか」 山添は花田が答えるために立ちあがろうとするのをみて、「こちらから質問して回答なさるときには、着席のままでけっこうです。どうぞ、お話しください」といった。 花田は、席にすわったままで答えた。 「出版はしますが、なにぶん自分のことがかいてあるだけなので、基本的には人に読んでもらうのを意図しているのではありません。近頃の葬式にいきますと、故人がのこした自分史などがわたされるばあいもございます。死んださいの、饅頭がわりという部分もないわけではありません。葬儀にさいしてわたすつもりはありませんが、出版はしたいと思っています。今回は三回目となりますので、ぜひ自叙伝という形での上梓を考えております」 「素晴らしい。自叙伝ですか。いや、もうそうなると花田さんにかぎっては、私の指導などという出番は、ほとんどないのではないかと推測されます。誤植の訂正くらいしか、お役に立てないかも知れません」 「そんなことは、ございません。先生のお話をうかがって、さらに自分史についての理解がふかまってきたと感じています。ぜひご指導をお願いいたします」 「ご謙虚なお言葉ですが、私の領分をはるかにこえている気がいたします。さて、いちおうみなさんの自己紹介が終わってですね、これから自分史がなんであるかについて講義をはじめたいと思います。花田さんほどのプロにちかい方には、退屈な話でしょうが、今回の講座は、はじめてかく人を対象にして企画しております。ですから、飽きたばあいは我慢していただくか、もう指導が不必要とお考えになれば、今後はご参加いただけなくても仕方がないです。今日の講義が終了した時点でご判断をいただき、お申しでください」 山添がいうと、「質問があります」と三田が手をあげた。彼が発言を許可すると、指示されたぐあいに机の左に立って話しはじめた。 「先生。私、すっかり不安になりました。自分史って、ちょっと自分を振りかえることだとばかし思って、この講座に応募してしまったのです。みなさんのお話を聞くと、相当にぎりぎりまで自己を追いこんで正誤をつける作業にも思えます。私にも、できるのでしょうか」 三田は、江東や花田の話におどろいたらしく、まじめな表情でたずねた。 「いや、三田さん。これもかなりご謙虚なお話で、たいへんに好感がもてます。正直に申しあげて、今回は三田さんのようにはじめて自分史をかく人を対象にしております。あなたは、完全に本講座の該当者です。三〇代の三田さんが、倍の人生を歩んでこられた人たちと経験だけを考えても、おなじというわけにはいきません。これは、どうしようもない事実です。この点を踏まえない方がいると、だいぶ問題といえます。三〇代には、その年齢に相応しい自分史も存在可能でして、いまでしかかけない部分もあるのです。何度もかいた花田さんにはご理解がえられるかも知れませんが、事実というのは年とともに変貌します。これは不思議なことをいう、真実はひとつであるに違いないと普通は思うのですが、こうした自分史をつくってみてはじめて納得ができる話なのです。事実が変化するのはおかしいじゃないか、という考えはごく平凡です。変貌するものを、通常は真実とはいわないのです。しかし、いまの年で自分史をかいて、一〇年後、二〇年後に読みかえします。すると、事実だと信じ切って三〇代のあなたが綴った文章が、とてもほんとうとは考えられないという状況がうまれてくるのです。これが自分史のふかみでございます。私の専門とする、歴史に相当いたします。結論から申しあげると、心配する必要はひとつもありません。だれでもがかけて、自分しかつくれないのが自分史なのです。ですから講座が終わったときには、三田さんも、あなたなりの作品がのこせるよういっしょに努力してみましょう」 「分かりました。それなら、おどろかないで受講してみます」 三田は、席に腰をおろした。 「どうですか。二度も、かいてこられた花田さん。いままでにかかれた自分史は、無駄だったと思いますか。ご自分の過去の事実は、揺るがないとお考えですか」 山添は、花田に聞いた。 「いえ、先生は、さすがにご専門です。事実を忠実に記載するのが、なんであるのか。一度やってみると、そのつもりで記述するのですが、製本されますと、これが私なのかと、どうしても考えることになります。かきなおそうと思うわけでもないのですが、六五歳、七〇歳のときの自分には、考えが足りない部分があったとみとめざるをえないのです。これこそ自分史の謎というか不思議とよぶか、本講座に申しこんだ重大な動機になっています。ですから今回はぜひ専門の先生のご指導をうけて、もう二度とかかなくてすむ、決定版の自叙伝をつくってみたいと思いはじめて、この講座に応募しました」 「分かりました。すこしはお役に立てるかも知れません。ここの部分は専門ですから、時間をへてからも後悔しない自分史のかきかたを、花田さんとはいっしょに考えてみましょう。そうですね。最後の決定版の自叙伝ともなると、後悔しないかきかたの技法をふくめ、とくべつな指導を、あなたには行うかも知れません。みなさん。今日は、自己紹介だけで終わりになってしまいましたが、来週は、まず自分史の歴史について学びましょう」 山添は、完全に自分のペースにひき入れるのに成功した。 受講者の五人は、起立し礼を述べて初回の講義は終了した。 権田は、「山添教授の指示にしたがい、受講します。以後、勝手な行動をとり、教授の講義の進行を妨害したとみなされたときは、すみやかに退出し、参加をとりやめることに同意します」という用紙を担当事務の関谷からみせられて、しぶしぶサインをした。 そして、もし退席を命じられたばあいの参加費について関谷主任にたずねた。主任から、実際に参加した費用までは徴収するが、のこりの分は返還するといわれてうなずいていた。 三 第二回の講座がひらかれた七月一一日は、梅雨がつづく陰鬱な日だった。コロナ禍も依然として継続し、気温も肌寒く気候もすっきりしなかった。 九時きっかりに資料をかかえた山添功一教授が講義室に入っていくと、マスクをつけた受講者の五名はすでに着席し、教授の朝のよびかけに、唱和した挨拶をかえした。 「今回は、まず私の専門分野にちかい個人史史について概観いたします。自分史の歴史は、研究を重ねてもよく了解がえられない、奇妙な経過を辿っているのが現状です。これから講義する内容は、あくまで私的な見解という範疇に属しますので、聞きながしていただいて、とくにノートをとらなくてもけっこうです。概括書は巷にあふれておりますので、詳しく知りたい方はそうした書籍をお読みになって、参考にするのもよろしいかと思います。しかしこのへんの記述は、どの著作をみても適当に省かれているのが現状でして、読むに値する本の名前を具体的にあげることができません。該当する参考書は、とくべつにはないといっていいのが実情です」 山添は、ひと言、断ってからまた話しだした。 「個人史は、あきらかに日記を基礎に形づくられています。我が国でも、平安時代からかかれています。人が社会的生活をいとなむ以上、自分の日記を、その方が生きた時代と重ねあわせようとする試みは、昔から厳然と存在します。それは日記文学にとどまらず、自伝とか自叙伝という形で文学の一分野でもあったのです。自分史とは、個人史の当世風のよび方です。ふたつは、基本的にはおなじです。ですから、この講義では、自分史とよぶほうが混乱がすくないでしょう。つまり、かつては個人史は、非常にかぎられた人がのこしたものでした。ところが近年、個人で秘かにかかえているだけではなく、特定されない社会にむけて自分を語るのが、ごく一般的になったと理解すればいいでしょう。SNSをふくめて、自己の考えを発信するひとつの形式と考えられます。それが、流行したのです。自分史なる言葉が、いつどこでつかわれはじめたのか、諸説があり定説はございません。もちろん何事でも、本家とか元祖とかが存在しております。これは世の常でございまして、根拠としては不充分だろうと思われます。個人史の基盤は、日記です。それが、いつ自分史と名称を変えて、とくべつあつかいをうけはじめたかについては、定かではありません」 そこで山添がひと呼吸おくと、「先生、質問があります」と海原が挙手した。彼が許可すると、「自叙伝と自分史は、どこが違うのですか」と聞いた。 「いい質問です。基本的には、自伝や自叙伝は、かつてはさまざまな分野で偉大な功績をあげた者が、自分のうまれ育ちからはじめて、どういうぐあいに暮らし、どういった方から影響をうけ、どんな方がたと交流があり、さらに人びとから尊敬をえるまでにいたったか、という観点でかかれてきました。日本経済新聞社の私の履歴書は、大手の新聞で紹介されています。これは、自叙伝に相当すると考えられます。その点、あくまで一般人が、それも基本的には名もなくごく普通に暮らしてきた方がたが、自分のすごしてきた一生を、生きた時代に起こったいろいろな出来事と二重映しにして、振りかえるのが、現在、自分史といわれるものであると、まずは思って差しつかえありません。ようするに人が生涯をおくるには、世間の影響をまぬがれないわけです。つきつめれば、こうした観点から系統的に日記をみなおす作業といってもおなじでしょう」 「先生、質問があります」 権田が挙手し、山添はそれも許可した。 「今回は自分史講座ということで、みんなで自分史をかいてみようというのが先生の趣旨だと先日、お聞きしました。花田さんは、自叙伝をつくるつもりだといっていましたね。先生の、いまのお話を聞いて疑問をいだきます。そうなると必然的に、われわれ一般人とは違って、花田さんは偉人だと解釈してもいいのですか」 その質問を聞くと、花田は振りかえって権田を睨みつけた。 「偉人であるのかないのかは、ご本人の感じかたです。そうした個人的な考えにたいし、他人が口をだすものではないと、まずあなたは充分に理解するのが大切です。基本的には、自分史と自叙伝はまったくおなじだと、いえるでしょう。権田さん。今回あなたが自分史をつくって、表紙に自叙伝とかいても、だれも文句はいいません。それは、ひとつの思い入れです。自分史はつくってもいいが、自叙伝をかいてはいけないという類いの話では決してありません。お分かりですか。これだけ自分史が氾濫してきますと、折角だから格調高く自叙伝に挑戦してみようというのは完全にありえる話でしょう。花田さんがそういうお気持ちで、今回、取り組みたいとの希望があれば、主催がわとしては、それなりに対応しようということになります。よろしいでしょうか」 とくに、挙手はなかったので山添はつづけた。 「一九七〇年代から八〇年代にかけて起こってきた経済バブルによって、過去の忌まわしい思い出が風化されたのは、自分史がかかれはじめる大きな要因だったと私は考えております。ようするに、戦中、戦後の飢餓を中心とした非人間的ともいえる塗炭の苦しみを味わい生きぬいた人たちにとって、正反対の飽食と消費を美徳とする風潮に、たいへんな違和感がうまれたのは事実だったでしょう。だから自分史をかく課題は、最初は戦争の日々の思い出からはじまるわけです。私たち普通の日本人が、いまやすっかり忘れてしまったが、どういう苦しみを体験し、どんな悲しい記憶がのこっているのか、言葉で綴ってみようとした試みがあったのです。私は、この戦争を中心にかかれた自分史を第一期と考えています」 「それにたいして第二期は、バブルの崩壊後にデフレ社会が到来し浮かれ切っていた自分たちの過去を反省する時期です。九〇年代のバブル崩壊後から二〇一〇年ころまでの自分史ですが、これにはふたつの傾向があります。ひとつは、いままでの消費社会に批判的な観点に立って、自分を量的な事物から質的な存在に捕らえなおそうとする風潮のなかでうまれてきたものが考えられます。こういう作品には、非常に自省的であり真摯で宗教的、さらには哲学的とさえいえる自分史があります。もうひとつは、完全に経済バブルの礼賛と懐古を主眼としたものです。破壊的で消耗的なバブルでしたが、こわれてしまったから、はじめて悲惨な過去になりました。浮かれている最中は、かなり楽しかったのは間違いなく、経済バブルへの無反省的な憧れを綴ったものが多数存在します。こうしたバブルに関してふたつの相反する態度が中心的なテーマであったのが、自分史の第二期といえるでしょう」 「つぎが二〇一〇年代以降の氾濫期です。出版不況によって出版業界による生きのこりをかけた、戦略としての自分史運動があります。この業界の変貌による、自分史の自費出版の全盛期を第三期と考えています。出版不況に関しましては、いくつかの要因があります。ネット社会が到来して紙の文化が消失したのは大きな原因だったのは間違いがないでしょう。それ以前に、重大な変化がすでに起こっています。戦後の漫画世代が、そのまま団塊を形成して高齢者層になりました。彼らが教育した子供たちは、自分の両親たちを実際にみて、政治への参加とか社会の変革などが、あくまで建て前論だったと知ったのです。じつはまったく無理で、現実には無力なのだと考えさせられて成長しました。こうした環境で育った若い世代は、周囲の風潮を自分たちで変革するのではなく、あたえられた世界のなかで満足しようという雰囲気が醸造されました。したがって彼らが、新聞はもちろん、漫画以外の本を読まなくなったのは、とうぜんの帰結と考えられます。さらにそうした社会の活字離れにたいする、文学の極端な劣化があげられます。現代では、小説は風俗や震災などのかぎられたテーマしか、かいても売れない現実が存在します。かつてノベルが文学であったころは、成人になるまえに読むべき本があったのです。いまは、教育的な意味をもつ読書が存在していません。もし本を読むなら、時間つぶしと、面白いだけが理由です。ですから営利的な小説は、この面白さだけを追求することになったのです。さらにゲームを中心に、個人が読書以外で時間をつぶせるアイテムをもったのは、ネット社会の大きな産物です。これらの要素が重なり、すべての世代で読書の習慣がすっかりなくなり、だれも本を買う行動をしなくなったと考えられます。これにたいして出版業界は、こぞって自費出版という手段で、需要と供給を同時に喚起しようと企んだのです。こうした分野に特化した出版社は多く、それにともないトラブルも頻発しています。自分史は、よく考えないと出版業者の餌食にされます。内容もかえりみずに、ただつくられるという現実も、ご承知おきください。基本的には、人がうまれて死んでいくまでには、その方が、ご自分おひとりでしか感じえなかった世界があるはずで、それをかくのはだれでも可能だといえます。しかし、かかれた日記、あるいは自分史を出版してのこすのは、著述するのとはまったく別な次元の問題と考えたほうがよろしいかと思います」 山添がそこで話を中断すると、花田が質問といって挙手し、許可された。 「先生のお話をうかがっていると、私はすでに自分史を二度かいて、どちらも出版しました。それは、あまり正しくなかったことになるのでしょうか」 「花田さん。そういう話では、決してございません。ご本人が気に入って納得してかかれた作品であり、よく理解して出版なさった自分史であれば、いっこうにかまわないと思います。私が申しておりますのは、業者の甘言にのって、これは、ぜひ公にすべきだとか、かつてない傑作だとかいわれ、つい刊行してしまう例です。営業トークは非常に作者の心理をついて巧妙に発せられますから、ひと言ではなくさまざまに話されるうちに、なんだかよく分からなくなり、かいた作品が売れるかも知れないとすすめられて、いっぺんに一〇〇〇部も刷るばあいをさします。出版しようと考える素人の方にとって、編集者という肩がきは一般人とは違うプロを感じさせます。ですから編集担当が一定のところまで作者をおだてておいて、そこで電話の相手が変わって編集長とよばれる人物がでてきて、駄目を押す形で美辞麗句をならべ立てれば、その力は甚大です。ようするに彼らは、希望する者の職業と懐ぐあいをみて値段を決めているだけなのです。一部の悪質な業者は、自費出版をした書籍を、本人に購入させる仕組みまでもっています。また自費で製作した本を、さらに自分に贈呈するという奇妙な表現までつかって、素人がどうしても落ち入る出版時の高揚感に目をつけるのです。お金をひきだす、さまざまな手法がございます。何軒かの関連書店のすみにおき、証拠と称する写真を撮影し、全国の書店で流通させる幻想を売ります。そうした名目で高額な配置料金を徴収し、売れるまでの時間、在庫を倉庫に保管するといって、年間の保管料を延々ととりつづける例も聞きおよんでいます。こういう悪徳業者が横行する現況をよく知っていただくのも、自分史を専門とする者としてはお話ししなければならない事実であり、たいへんに残念だと考えております。しかし、食い物にする業者が多数いる実態を充分に納得したうえで、出版社をえらばれるのならいっこうにかまいませんが、運悪く後悔するシチュエーションになったばあいに、かいたのが間違いだったと問題が転嫁される事態にもつながります。こうした状況は、自分史を専門とする研究者として、いたたまれない現実でございます」 「そうだったのですか。私が二回も自分史をだしたのは、まさにその手の業者につかまってしまったのです。在庫となった製本された新品が、本棚にはしまい切れずに物置に段ボールでつみ重なっているのです。先生のお話の通り、あずけておくと法外な保管料を毎年とられるのです。文句をいうと、契約書にはたしかにかかれた部分がありましておどろきます。金額自体に困りはしないのですが、支払うたびに業者に騙されているのではないかとくりかえし考え、愉快な思い出とはなりません。馬鹿ばかしいと感じて在庫をおくってもらうと、全国にちらばっていたはずなのに、三日もたたずにおくりつけてきて配布した痕跡がひとつもない新品で段ボール箱におさめてあるのです。それも相当な量ですから、廃棄するしかありません。そうはいっても、ひとつひとつが真新しい自分の本には違いがなく、なかなか踏ん切りがつかない事態になります。こうした段ボールがつまれているのをみて、なにが問題だったのか考えてしまうのです。最初に先生にお会いできていれば、三度目の挑戦もしないですんだのだと、いまはじめて気がついた次第です。ところで、もうひとつ質問があるのですが、おたずねしてもよろしいでしょうか」 深刻な表情をしている花田は、顔をあげて山添に聞いた。 「そうした業者とのトラブルについては私の専門ではありませんので、ぜひ消費者センターでご相談ください。なにしろ悪知恵の塊というべきものが世間には存在しておりまして、さまざまな方法手段をつかっての悪辣な話は、よく耳にしています。私にとっては自分史の問題が誤解されるのが、とても残念なのです。契約書のいちばんすみに、ちょこっとかいてあったりするらしいのです。もし出版をお考えになって業者にたいするばあいは、なによりもはじめに、なぜ自分がだそうと思う非常に個人的な本をわざわざ読んで、いっしょに考えてくれるのか。どうして、そんなに親切な助言をあたえるのか、という基本的な問題に立ちかえって接することが必要です。悪辣な業者は、ネットで検索すればかならず悪評がかいてありますから、参考にするといいでしょう。いずれにしても、お金をかけるのは充分に気をつけねばなりません」 「よく分かりました。この件は、もう仕方がないとあきらめているのですが、どういう理由で何度もかかねばならなかったのかという根本にかかわる問題があります。講義後に、個人的に相談にのっていただくほうがよろしいでしょうか」 「花田さんの無念の心中をお察しすると、個人史史を専門とする者といたしましてはたいへんに胸が痛み、考えさせられます。こうした現実は、自分史を記述する、みなさんが落ち入る可能性がある大事な話題になります。さらに非常に難しいのは、懸命にまじめにかくほど、かかれた作品に思い入れがつよくなるほど、業者につけこまれる隙がでてくる悪性の循環をもつことです。花田さんのお話は、おあつまりいただいたみなさんに共通の事例で参考になります。折角ですから、どうぞご質問ください」 「先生のお話は、微に入り細をうがつといいますか、目から鱗が落ちるもので、今回、出席できてたいへんによかったと思っています。参加しなければ、どうもおかしいと感じながら、まだまだつづけていた可能性もあります。さて本にしたのは、どうにもならないのですが、別の話をうかがいたいのです。先日の講義のさいにですね、先生は非常に興味ぶかいお話をなさっていました。私としては、専門の教授がもつ、領域での考えのふかさに接しておどろいたのです。具体的には、真実とはなにかという問題でして、こうして三度目に挑戦するのは、ほかでもありません。自分がかいた内容にたいして、いまひとつ納得できないからなのです。抽象的で、よく分からないかも知れません。事実が変貌するというお話をしていただきましたが、細部にわたってかきはじめるとかならずぶつかるもので、またその具体的な事例で説明をうけるほうがよろしいのでしょうか。もしかしたら先生には理解してもらえるかと思いまして、具体性に欠けた要をえない質問でたいへんに申しわけない話なのですが」 花田は、自分でもどう説明していいのか考えあぐんでいるという困った表情になりながらも真剣に聞いた。 「花田さんのお話は、非常に重要なことです。この話は、自分史を実際にかくまえの、いまの時点で説明をしておくほうがいいかも知れません。記述をはじめれば、みなさんが必然的にぶつかる問題です。それもですね、かき終えた当初は高揚感にあふれていますから、よく分からないのです。花田さんの例をとっても、家に在庫としてつまれた本をみつめながら読まれて、それでも納得できれば三度目の挑戦は起こらなかったと考えるのが普通です。ここもまた業者の狙い目でして、これほど悪徳業者が騒がれているにもかかわらず、つぎつぎと被害にあう人びとが続出する現状がたえない大きな問題なのです。私は個人史史を専門に研究していますので、こういった事情につきましてはいちおうプロを自任しております。こうした事態が生じる原因について、理解できるぐあいに話すのを次回の講義の中心にしましょう。今日はまだすこし時間がありますので、さわりの部分をお話しします。自宅に帰られてから、ゆっくりと考えてみてください。それで自分史をめぐる問題を俯瞰したとして、実際に記述してもらおうと思います。みなさんは、こういうすすめ方について疑問をおもちですか。いままでの話と関連する質問があれば、挙手してください」 山添がそういって受講者をみまわすと、今日はTシャツ姿の権田もだまって聞いていた。 「それでは、講義をつづけることにいたします。みなさんのなかにも以前から興味をもたれて、講習会にも出席した方がいるかと思いますが、そういうところで話を聞くと、普通はですね、自分史をかくのはしごく簡単だといわれます。ただ正直に記述すればいい。年代順に追って普通にかいていくのだ、という指示をうける次第になります。ここに、すでに自分史の陥穽があるわけです。正直にかくとはなにか、これは非常に難しい問題です。幾度も実際にかかれた花田さんがいわんとするのも、ここにあるのだろうと推察いたします。いったい正しいとは、なにを指すのか。それが、正直なのか。真実なのか。こういった論点は、みなさんがいまは分かっていると思っても、自分史をかき終え、それも時間がたってくると次第に不明になり、問題があると感じはじめる、あきらかに難しい事柄なのです。よく考えてみましょう。みなさんも一度くらいは日記をかいたことがあると思います。いまもつづけている方もいるでしょう。冒頭に申しあげた通り、自分史は日記の延長にあります。日誌をかいている人はいますか」 山添が受講生にたずねると、三田と江東が手をあげた。 「三田さんは、ずっとかいているのですか」 「はい。一二、三歳くらいのときから、日記をつける習慣があり、いまもつづけています」 「そうですか。それでは、江東さんはいかがですか」 「私は、子供時代から日記をつける習慣があって、もう三〇冊ものこっています。若いころはまめにいろいろかいていました。年を重ねるにつれて次第に仕事が多忙になり、かこうとは考えてもまとまった日記というものは、なかなかつくれません。四〇歳くらいからは備忘録程度の、以前からみると、ひどい手抜きといっていい記録に変わりました。今回こうした講義に参加した理由は、昔みたいなきちっとした日誌がなくなって、断片的にかかれた備忘録を参考に、この機会にまとめて、自分を振りかえってみたいと考えたのも大きな動機です」 「素晴らしい。江東さんのお話は、よく理解できます。日記は、はじめは三田さんがつけているらしい厳密な形でかかれます。どこかの時点で、ほとんどの人は仕事や子育てで忙しくて、毎日一時間なりを振り分け、記録をつづけるのは一般的には難しくなります。いずれにしても、おふたりはたいへんよい資料が手元にあるとお考えになって、自分史作成のツールとして利用できます。そこで詳しくかかれている三田さんのばあい、どうでしょうか。日記は、非常に個人的な行為で、普通は人に読ませることを考えていません。それであっても、なんでもあったままに記入しますか」 「日記は、人に読ませる内容ではありませんので、基本的には事実を記述します」 「仰る通りだと思います。しかし、あったままというのは事実といってもいいのでしょうか」 「ありのままです。事実をかいていると思います」 「それを、あなたは記述していらっしゃるわけですが、記載された出来事は真実でしょうか」 「ふたつが、どう違うのか、私には分かりかねます」 「三田さん。すこし意地悪な感じで質問をくりかえしたのを、許してください。じつはここがかなり大切な部分でして、自分史はあくまで日記の延長です。そこが、自叙伝とも幾分か違うところでもあるのです。自伝は人に読ますのが主眼ですので、自分史とはあきらかにことなります。とはいえ、個人史も出版の対象になる作品ですから、読者を想定しています。日誌とは似ているとはいっても、この点ではことなります。しかしほんらいは、さきほどからくりかえし申しあげている通り、自分史は日記の延長にあると、まず考えてはじめるのが妥当ではないかと思われます。とはいいましても、こういう差異についてはさまざまなケースが想定されますので、ひと通りではないのはお断りしておきます」 「さて、こうした事実と真実についてひとつ例え話をいたします。私が中学時代にならった国語の教師は、日本共産党の党員で、共産党が発行する文芸誌にも執筆していた方でした。当時はプロレタリア文学といいました。その謳い文句は、小説は真実をかかねばならないという言葉でした。虚構ではなく、事実を記述するのが文学だというのです。そうなりますとひっきょう、真実とはなにか、という話にいきつくのです。教師がいうには、たとえば食糧難の時代に家族で食事をするのです。悲しいことに、わずかの米に芋と雑草がまじった雑炊を食べるのです。それすらも入手が困難なころですから、お腹いっぱいには、だれも食事ができない事態が生じるのです。そうするとあたえられたわずかな食料をめぐって、父と息子が奪いあって喧嘩になる。これが、真実だと話すのです。この話に当時の私は、たいへんな違和感を覚えました。それで、その教師がかいた作品が掲載された雑誌を買ってきて、懸命に読んでもみたのです。ひとつの例をあげますと、病気にかかり一般病室にしか入れない貧しい人たちが、病院が配膳する三度の食事だけを楽しみに、一日を暮らしているのです。しかし、病院食ではまったく量が足りないのです。そうするとある日、食事に生卵がついてきたというのです。小説の記述では、卵はご馳走で、たんぱく質をとるのも容易ではなかったとかかれています。看護助手さんなのでしょうが、乱暴に配膳したので、大切な生卵が落ちて割れる事件が起こったのです。それをみた配られた当人が、寝ていたところをさっと立ちあがり、床に口をつけて黄身をすったという出来事をあつかって、小説がつくられております。これこそが、プロレタリア文学の真実というわけです。この話は、現実にあったのだろうと私は考えています。創作ではなくて、事実だったのだろうと思います。でも、よく考えてください。これが、いったいなんの真実なのでしょうか。たとえば芋粥をめぐって、父と子が争うのが事実だったとしても、戦争の悲惨さこそが真相なのでしょう。時代に翻弄され、そんな思い出をもたされた、思いだすのも悲しいのが真実です。この記憶をもちつづけて、私は真理を知っているといっても、人間的には正しくない気がします。申しあげている話を、分かっていただけるでしょうか。プロレタリア文学が真実を追究しなかった、といっているのではありません。ただ私は、その文学のもとめた真理とは非常に底が浅いもので、人がもつ本質的な真誠とは異質ではないか、と考えるのです。これは、みなさんが自分史をかくさいに注意を払わねばならないことなのです。ちょっと申しあげたのがこみ入って、よくお分かりにならないかも知れません。もうすこしかみくだいて、お話しするほうがいいでしょう。基本的には、花田さんの話は、この話題にちかいと考えてもよろしいでしょうか」 山添は、花田にむかっていった。 「たいへんに興味ぶかい話題で、まさに先生の仰る真実の延長にあるものと確信する次第です」 「それではこの話は、自分史の中核的な部分ですから、次回に充分な時間をかけてお話しすることにします。かこうとお考えになっている方は、ぜひご自分の年表をつくってみてください。西暦でいいのですが、何年にうまれて、いつ幼稚園をでて、また小学校には、いつまでいたのか。そうした区切りをつけた年表をかいていただき、その年代順に記載した年に起こった、記憶にのこる社会の出来事を併記してみてください。こうした自分史に用いる年譜は、今回の講座では、あえてこちらでは用意していません。書店に出むいて、個人史に関する書籍を、ご自分で手にとって比べてみてください。そうした著作には、自分史年表が付録でついておりますから、何冊かめくって、いちばん気に入ったものを一冊、購入してください。二冊を買っても、まったく意味のないことです。立ち読みでもかまいませんから、どちらがいいのか自分で決めて一冊を購入してください。そして、その付録を利用しましょう。何冊かあったばあいには、どれがもっともよいと思えたのか、理由を考えてみるのはたいへんに重要です」 「最後に、自分史と歴史との関係についてすこしお話しします。今日の冒頭で申しあげた通り、個人は世の中のうごきと無縁というわけにはいきません。しかし、社会は淡々と客観的にすすんでいきますが、自分史では歴史的な出来事よりも、自分のほうがより重大な意味をもっています。たとえばこの地方では大きな震災があり、たいへんな不幸が起こりました。それがあなたの記憶とむすびついて、はじめて自分史のなかに位置づけられます。世の中には、さまざまな事件が起こります。そうしたいろいろな出来事のなかで、それを覚えている、自分の存在がとても大切です。年号が令和に変わってテレビで公表があったときに、実際に布告をみて、時代の節目を感じてなにかを考えたなら、その場にいあわせたことになります。もし、海外旅行中で、とくになんとも思わなかったなら、テレビ映像は、あなたの自分史とは無縁な出来事です。社会がうごいて事件が起きても、該当する事柄にたいして明確な記憶がなければ、個人史はその事象とはほとんどなんの関係もありません。だから自分史は、個人の足跡ですし、自分の記録になるのです。では、時間もまいりましたので、今日はこれにて講義を終了とします」 山添がよびかけると、受講者は全員で唱和して挨拶をかえした。 四 第三回の講座が行われた七月一八日は、終日雨がふっていた。先週から毎日ふりつづく梅雨のなかで、コロナ禍も晴れることはなかった。九時に山添が登壇すると、受講生は立ちあがり唱和して朝の挨拶をした。彼も、それに答えて講義がはじまった。 「今日の主題は、自分史の中核ともいえる、真実とはなにかという問題でしたね。先日はプロレタリア文学の真理が、とても容認できないくらいふかみがないという話をしたと思います。みなさんも、こうした点についてなにかお考えになりましたか」 山添が受講者にたずねると、今日は淡い紺色のワンピースをきた三田が挙手した。 「どうぞ」と彼が発言を許可すると、彼女は話しはじめた。 「先生のお話を、家に帰ってから、ずっと考えておりました。それで日記についてたずねられたのを、よく思いかえしてみると、私はかならずしも事実をかいているわけではないと気がつきました。すこし自分の話をしても、いいでしょうか」 三田は、上目づかいに山添をみていった。 「それは、日記の話題でしたね。あのときは、幾分かしつこく聞いて失礼しました。自分史は個人の記録ですから、どうしても自分の話になるのはごく自然です。それで、どんなお話でしょうか」 「じつは、先生が私に、事実か、真実か、とくりかえして質されたときには、やや無礼にも思ったのです。それから花田さんから質問があり、なにをいっているのか、さっぱりみえなかったのです。ところが例として、先生がプロレタリア文学における真実の話をなさって、ようやく私にもちょっと分かりはじめました。やはり具体的な物語って、エピソードですから理解しやすいとしみじみ感じました」 「素晴らしい。それはたいへんよかったですね。私の講義を聴いていただいて、いままで不詳だった事柄が分かったなどといわれると講師冥利につきる気がいたします。自分史はひっきょう、エピソードの塊です。そこまでお分かりになったあなたの話は、きっとみなさんが個人史を考え、実際にかくさいに大いに役に立つだろうと思います。どうぞ、お話をつづけてください」 「じつは、私、二回ほど離婚をしていまして」 「ちょっと待ってください。少人数とはいえ個人面談ではありませんので、エピソードとはいっても、あまりに個人的な情報は避けたほうがよろしいのではないかと思いますが」 三田の言葉を聞くと、山添は即座に介入した。 「いまここにおあつまりの方がたは、みなさん大人ばかりですし、話に具体性がないと方向がみえないのは、さきほど申しあげたばかりです。私が話すのは勝手にやることで、先生に強要されたのではありません。自分も大人ですから、ここまでは知られてもかまわない、という基準は明確に存在しています。ご心配は、いりません」 「そうですか。たしかに個人がいくら自分で重大だと思っても、みんなにとっては、どうでもいい問題はたくさんあります。三回ほどあつまったとはいえ、基本的には見ず知らずの者たちですので、あまり開放的になられるのは、いかがでしょうか。充分に気をつけてお話しいただくのが、よろしいかとも思います。三田さんの仰る通り、自分史は個人の体験にもとづいてうまれますので、具体的に話さなければ不詳のままになる微妙な部分があります。無理をなさらずに、一部としてお話しいただけるとよろしいかと思います」 「分かりました。それでは、すこし個人的な話ですが、聞いてください。最初の結婚は、二三のときです。じつは、妹が彼氏をつれてきまして、居間でいっしょになって三人で話すうちに、けっこういい男じゃないかと思いはじめました。そう考えて、よくよくみなおすと、小妹にはもったいないほど、背が高くてセクシーだったのです。妹は、私よりふたつほど下なのですが、まったくねんねで、色気なんてどこにもなくて、男がなにを望んで女性のちかくによってくるのか、さっぱり分かっていないのです。いっしょに話をして、彼氏がすっかり可愛そうになりました。それで、ちょっと女の味を教えてやったのです。そうしたら、見事にひっかかりまして夢中になり、どうしてもいっしょに暮らしたいと、涙をながして訴えるので結婚してあげたのです。当時、東京の音大でピアノをやっていましたが、私が住むマンションにころがりこんできました。そこには、ピアノ科に通っておりましたからとうぜんですが、かなり大きなグランドピアノがおいてあって、部屋のほとんどを占めていました。素晴らしい漆黒の巨大なピアノは、私の大のお気に入りでした。もちろん部屋の防音設備は完璧といってよかったので、夜にどれほど好き勝手にひいても、だれからも文句がでないほどでした。だから室内でなにをしようが、日中にふたりがどんなに嬌声をあげようが、人に迷惑がかかるなんてことはひとつもなくて」 「ちょっと待ってください。お話の途中ですが、あなたが過去の詳細なエピソードをいまここでお話しいただいても、個別の指導ではありませんから要点だけでお願いします」 「そうですか。状況をすべてお話ししないと、よく理解していただけないと思います。そういわれるなら、全容が分からなくなって誤解されるのはとても残念ですが、一部は端折ります。ようするに先生から自分史は日記の延長だとくりかえし話をされましたので、そのころのものを先週読みかえしてみたのです。そこには私がどういう手段をつかって妹の恋人をうばうか、かなり具体的な方法が生々しく記述されているのです。一生懸命に日記をかきながら、相当にふかく思案しているのですね。どんな卑劣な手段をつかっても、ものにしようと思ったみたいで、大胆で刺激的な話を考えたたくさんの手記がのこっていました。でも、四年後には色んな事件があって、彼とは別れたのです。そのときにはもういっしょに暮らしているのがすっかりいやで、顔もみたくなくて、二度目だったので死なない程度に大量の睡眠薬を飲んで自殺未遂を図ってやったのです。いまの話とはまったく違う四年後の事件なので、この部分は省略します。そういう状況を考えると、自分史をつくる観点からこうした過去についても、いささかは触れる必要があると思いました。私は、花田さんみたいな派手な出来事をもっていません。作品をかくとしたら、結局は恋愛遍歴が中心だろうと考えたのです。とはいっても、妻子もいた姉の家庭教師が家から帰るときに、さまざまないいわけをつくって同行して、途中でぐあいが悪くなったといってホテルにつれていってもらい、そこで下着までぬいで大胆にせまってみたら、最終的には彼も私の魅力のとりこになり、密会を重ねるうちに完全な不倫関係ができあがって大揉めの騒動に発展した事件も起こりました。経緯を知った父の激怒にたいして、睡眠薬を服用して自殺未遂をしてだまらせてやったりと、考えるとそれなりに出来事はあったのです。そうした事件を話しだすと切りがないので、妹の彼氏の話題にもどります。先日、先生の話を聞いて考えなおしてみると、自分が一方的にそんなに卑劣な手段でせまったのかどうか、分からなくなってきたのです。じつは、彼にも充分にその気があって、私にあえてそうさせたのではあるまいかという疑問がでてきたのです。つまり、ようやっとここで先週の先生のお話に合致するのです。たしかにみたこともないというので、彼を部屋によびいれて鍵をしめ、スカートをおろして女の生の下着というものを、みせてやったのは事実です。それでひどく興奮しはじめたので、懸命に声をかけて、なんとかすこし落ちつかせて床に膝をつけてしゃがませました。椅子にすわって、彼の目のまえで、股をひろげてみせてやったのも事実です。でもそのあとは、いくら抵抗しても、やめさせようとどんなに懸命に懇願しても、必死になって涙をながして頼んでも、好き勝手な乱暴をはじめて制御できなくなったのです。それがふたりの関係をうんだ真実だったのかというと、誘いにのって彼も私がひとりでいる部屋についてきたのです。そもそも襲おうとする気持ちもあったのでしょう。もちろん彼は否定していましたが、だからといって、いちがいに私が勝手にせまったとばかり考えるのは、プロレタリア文学の真実とおなじだったのでしょう。その考えは、あまりにも一方的で浅かったと思いはじめました。次第にこの部分も、あやしくなりはじめたのです。つまり事実と真実は違うのですし、いまからみれば、あの記述はそういう時期の私が思いつくままにかいた夢で、あえてならべ立てた嘘だったのだろうと思った次第です」 三田がそこで話を終えると、山添はすこし考えてからいった。 「たいへんに難しいお話です。あなたの話がなんであるのか評価するのは、とても無理だとしてもですね、私が最初に論じてきた、真実や事実が変貌する例証として、お話されたのだと理解するわけです。かかれた文章には、ときと場所があります。ですから両者が違ってきますと、最初に事実と考えていたのが、あとになると変わって、真実ではなくなる事態はありえるのです。日誌のばあいは、普通は後日、読みかえして過去の自分を検討してみようと思って、かくのではありません。そのときの思いをただ綴るのが、基本的には日記です。自分史は、そうした思い出を、どこまでもとか、すべてとかではありませんが、ある程度振りかえって一回まとめてみる作業になります。日記とは違って、読みかえすのが前提と考えたほうがいいでしょう。ここが大きな問題です。だから、ありのままに素直にかけといわれてもですね、かいた瞬間はいいのですが、読みなおすのは、記載した時点での私ではない、という時間差がどうしても存在します。そこも、よく考える必要があります。市販されている本では、ほとんど省かれております。起こった事件のどこにポイントをしぼって事実として認定するのかについては、決して後悔しない個人史をかくには、じつは、たいへんに重要な問題なのです」 山添は、そこでひと息ついた。さらに、つづけた。 「名もない者が、真実を表現する行為に歴史という意味がある。高名な方が、こういっております。しかしながら、そもそも自分史という言葉自体が、おどろくほど矛盾に満ちているのです。自分という主観の世界と、歴史という客観的な領域がくみあわさっているのです。両者が凌ぎあうなかから、ひとつの事実をつかみだそうとする作業はかなりの困難をともないます。歴史は、極力主観を排して、いかに客観的に物事を捕らえるかが問題です。そこに、主観性の塊である自分を同時に並置するのですから、なにがほんとうなのかを認定するのはたいへんに難しいことになります。こうした点は、みなさんにも、ご納得いただけるかと思います。ひと口に事実と申しあげても、主観的、客観的の最低ふたつがあり、往々両者はことなっているのです。こうした相ことなる真実という認識こそ、歴史学が存在する理由にも意義にもなるのです。さらに主観的事実は、思い出という形で記憶に頼られて出現します。このメモリーというものが、どう構成されているかについては、脳科学上の最大の問題といってもいいと思われます。つまり記憶には、なにがほんとうかという基準が存在していません。メモリーは、脳のある場所に一塊になって保存されているのでは決してありません。大脳のさまざまな領域に、言葉として映像として、匂いや味として、また身体の感触としても保管されているのです。こうした感覚の記憶が、さらに別の場所にのこる、そのときの感情の想起と絡まって存在しますから、どれをむすびつけて思いだすかは、心理状態にも大きく左右されると考えられています。ですから正確な思い出は、脳科学的にはほんらいありえないのです。それで記憶は、あらたな創造、あるいは想像ともいわれているのです。フランスの作家、プルーストがかいた、失われたときをもとめて、のなかでは、主人公が紅茶といっしょに食べたマドレーヌの味から、さまざまな思い出がよみがえる話が延々とかかれています。これは、あまりにも有名ですが、そうして想起された出来事が、ほんとうかどうかは別です。こうした事実の揺らぎは、過去の再定義とも経験の再措定ともよばれますが、記憶だけの問題にとどまりません。たとえ日記や備忘録に、ある出来事が克明に記述されていても、まさに三田さんが仰った通り、そこに記載された真実がなにを目的として、どうしてそういう形で表現されたのかについては、なんらかの意図にもとづく可能性がないとはいえません。そうなってきますと事実とは、そうした記録を読みかえしたときの心理的な状態もふくめて、幾通りも存在するわけです」 「先生、私にも話したいことがあります」 茶色のTシャツをきた権田が挙手していった。 「この話題にそった話ですか」と山添が聞くと、「もちろんです」といったので、発言は許可された。 「私も、おなじことがあるのです。三田さんのお話は、かなり激しいですが」 「権田さん、ご自身の話をしてください」 「失礼しました。つまり私はホストをしているので、女をみるとすぐに可愛いねとか綺麗だねとかいうのが習性になっております。まあ、挨拶がわりというものですね。でもね、そんなに可愛くて綺麗な女が、ホストクラブにくるわけではありません。たとえなにかの間違いで、そうした者が来店しても、私は職業に徹していますから、そんな外見やちょっとしたみてくれがどうのこうので、心を迷わすことなどないのです。仕事は、やはりなんであっても厳しいのです。お金を稼ぐのは、たいへんです。私たちのケースでは、似た職業の女が癒やしにくるばあいがあります。しかし、ほんとうにお金になるのは、可愛かったり綺麗だったりすることは決してありません。だからそういう意味では、私は嘘つきといえるでしょう。ところがですね。そうした女がけっこう馴染んで絡みついてきて、思いのほか貢ぎだしたりすると、綺麗にはなりませんが可愛くなる瞬間があります。ときと場所で変貌するというのは、正しいと、私も思うのです」 「みなさん、すこし問題を整理しましょう。私たちは、自分史をつくるためにあつまって、どういうぐあいにかくといいのかについて検討しています。それで、個人史とはなにかとか、その歴史とかを考えてきたのです。あくまでここでの話は、自分史をかく目的で、思いつきや感想を話しているのではありません」 「先生、よろしいですか」 今度は花田が挙手し、山添の許可がおりた。 「みなさんのこうしたお話は、もともとは私の失敗談からはじまったことで申しわけありません。自分史を作成し、印刷して出版するとなると、ただ記述するのとは次元が違ってくるという先生の話に、非常にふかい感銘をあたえられました。私がかきなおしたいと感じるのも、まさにその点です。今回さらに完結編として自叙伝をだすなら、いまではなく五年後、あるいは死ぬ直前に読んで納得ができるのかが、もっとも重要ではないかと考えているのです。かつての二回の自分史に徹底的にかけていたのは、かきあげたときの高揚感というか、気持ちの高ぶりですね。かいた時点での満足感を、いちばんよいとばかし信じたことです。先生の透徹されたお話をうかがい、もう一度よく考えると、じつは、それが浅い真実で、ふかい真理は、あとで読んだときの充足感に焦点をしぼるべきではないかと思いはじめました。いま申しあげた話は、曲解しているのでしょうか」 「そうですね。花田さんのばあいは、そうしていいと思います。折角こんな話になっているので、普段は私もあまり話さないことを申しあげます。一九世紀後半に活躍したドイツ人、神は死んだ、という言葉で名高い、フリードリヒ・ニーチェの名前はみなさんも一度は聞いた記憶があると思います。この方はギリシア古典文献学の学者さんで、たくさんの著作をのこされています。存命中はかいた書籍は売れなくて、ニーチェの本を出版した会社はつぶれるので有名なくらいでした。だからほとんどは自費出版によっています。彼は、死ぬまえの一〇年ほどは、原因は脳梅毒だといわれますが、発狂してしまいます。晩年の狂気のニーチェは、自分の著作を読んでは感激して興奮し、この本をかいた著者は天才に違いない、と絶叫しながら自身の書籍を読みふけっていたのは有名な話です。ですからみなさんがたとえ認知症になったとしても、自分史さえうまくつくっておけば、生涯にわたって心を慰めてもらえるかも知れません。もちろん、人はさまざまです。以前にかいたものを幾度も紐解き、自分の成長を知るばあいもあるはずです。いちがいにあとで読んで気持ちがいい、後悔しないことだけに、焦点をしぼるべきだといっているわけではありません。人それぞれに、自分史をどう捕らえるかという問題です」 「はい、私もいくつか質問がございます」 今度は、江東が挙手し許可をえた。彼女は、茶系のツーピースに身をかためていた。シックで似あっていると山添は思った。 「ふたつほど質問があります。最初の疑問は、先生のお話が、つまるところ真実が曖昧であるとみとめて、すこしつきつめていえば嘘をかく指導とも思えますが、この点をいかに考えるかがひとつですね。つぎに、自分史は自分の過去をただ反省するという立場ではなく、以前の自己がどうであったかをみつめ、文章かいた時点での眼差しの誠実さを問題とすべきではないかと思います。納得がいくかどうかは、あとで読んだときに感じる記述の正誤ではなく、よくここまでかいたなと思えるのが、とても大切なのだろうと私は考えるのです。こうした点について、先生がどうお考えになっているのか、整理していただきたいのですが」 「素晴らしい。江東さんのお話こそが、いちばんごもっともなことでして、私が話したいのは、まさにあなたの仰る通りなのです。ですから自分史への取り組みは、さまざまという点を、よくおさえていただきたいのです。だからくりかえし申しあげているのは、こういう講演会なり出版会なりにいきますと、かならず、ありのままをかけばいいといわれ、簡単だと話をされます。だれもが、そうなんだとお考えになり、かきあげて、さらに人によっては出版にいたる現状があるのです。いままでみなさんのお話をうかがって、だいぶみえてまいりましたので、具体的に話すのも可能な状況だと思います。まず江東さんのご質問に答えるなら、あなたの自分史にたいする態度はもっとも正統ともいえます。謙遜なさって一教諭と仰っておりましたが、退職時期から判断しても、校長をなさり、さまざまな実務としての役職をこなし、肩がきをたくさんもっている方だろうと推察いたします。あなたのケースでは、いまの時点で真実と考える話を、かなりそのままかいても大丈夫だと思います。私は嘘を記述するのがいいとは、一度も口にはしておりません。そうお思いになる発言があったなら、ひとえに不徳によるものでお詫びいたします。正しいことを記述するのは、自分史の基本です。そしてどうせ記載するなら、充分にかいたとあとで思えるのは、とても必要です。とくに後者は、たとえ誤った記述と感じる事態があっても、よくかかれているのは、時間をこえた事実です。継続的で普遍的な、いわば真実がそこには存在するとも考えられます。これが、江東さんのお答えになっているとしてもよろしいでしょうか」 「つまり自分史は、個々人によってかきかたが違ってくる可能性があると先生は仰っているのですね。そのニーズをつかむまえに、ただ、ありのままをかけばいいといわれて、作品にして出版させる悪徳業者に騙されると、それだけなら我慢ができても、内容にもまた納得がいかなくて、すべてが無駄になると考えて、よろしいのでしょうか」 「素晴らしい。江東さんは、なにかの座長を、ながくおつとめになっていたのではないかと推察されます。素晴らしいまとめです。江東さんは、こうしたまとめ役を、なさっていたのでしょうか」 「私は、先生がお見抜きになった通り全国校長会の座長をつとめておりました。それほど多くの肩がきをもっていたのではありません。せいぜい五つか六つで、つよく望まれたものにかぎって、おひきうけをしていたのでございます。さまざまな会がございますので、依頼されたのは一〇や二〇では決してききませんが、派手なことは嫌いなたちでございます。外交的とはいわれておりますが、社交も大切にしてきただけでございます。私としてはひとり静かに山寺にでもこもって、枯れ葉のひとつもみて、和歌をつくる風雅な世界に身をおきたいとは日々思いつつも、つよい申しでをうけて人生のつとめを果たしてきた者でございます。そういう役柄で、陛下にもお目にかかった機会もございますが、世が変わって令和となり、ここで半生を嘘も偽りもなくまとめたいと考えているのでございます」 「素晴らしい。いや、もう最初に一目、おみうけしたときから、江東さんがそういった人であろうとは予期しておりました。花田さんも、そうですが。大体ですね、自分史をつくってみようとお思いになるのは、一般人とはいっても、かなり偉い方が多いのが、われわれの研究では分かっています。それも権田さんがいみじくも自叙伝をかくのは偉人なのかと、たずねられた場面もありました。こうして何人かがあつまる個別指導の講習会ともなりますと、江東さんや花田さんみたいな、ご自身の人生に誇りをもつというか、自信や信念を有する方がやってくるのを想定して、私どもは講義の進行を考える部分も多々ございます。出版社の会では、こうした方がたはあまり出席しないのも統計上、分かっておりまして、今回、二七倍という狭き門をぬけて、おふた方がいらしたのを考えあわせますと、地方都市とはいえ、仙台市には相当数の偉い人びとが暮らしていると推測できます。これは同窓会とおなじ現象です。小学校は地域に密着しているばあいが多いためすこし違いますが、高校や大学ともなれば、出席をつづけられるのは、ある程度かぎられた、それなりに成功して名をのこされた人にしぼられていく風潮とか、自然なながれと似た事象として捕らえられるのでございます。花田さんは、こうした現象についてなにかひと言あるのではありませんか」 なんとなくもぞもぞとして話がっている感じにみえた花田にむかって、山添はいった。 「先生の、ご慧眼には感服する次第です。大学の教授という方がたが、これほどよく社会を観察していたのかとおどろいております。これも、先生の個人史史というご専門のふかさによるのでしょう。私も、まえの総理大臣のご家庭とは縁がふかく、あんな小倅が、政権につくなどとは想像もしていなかったのです。女の後始末を頼みにくるばかりで、閉口していました。女性とみればすぐに手をだして、あとで脅かされてびくびく泣きついてくるのを、相手をよびだしてくりかえし手切れ金をわたし、尻拭いしてきたのです。テレビで偉そうに話すのを目にすると、なにか一筆かいてやろうかと思うのです。それも触れたいのですが、どの程度までほんとうの話を記載していいのか、これがけっこう難しいのです。こうなってくると私の自叙伝もすこしは変わってくるというか、事実が変貌するという先生のご指摘にぴったりの事例という感じで、よく考えてかいてみたいと思っているのです」 「いや、さすがのお話です。花田さんのばあいは、完璧に自叙伝としてかかれるのがいいと思います。自伝では、完全に人が読むのが前提にされていますので、いかに自分を誠実で寛容な人間にみせるか、という部分を強調して充分な配慮をしなければなりません。この点では、江東さんとは対照的な作品だろうと思われます。あなたのケースでは、自分にたいして誠実にかくならば、どう記載しても基本的にはよろしいでしょう。最初の自分史ですので、江東さんとしては、花田さんのいう問題が幾分かよくみえないと感じられるのは仕方がないことです。三田さん、権田さん、海原さんは、はじめての作品となりますので、出版さえしなければ日記とおなじですから、一度つくって、できたものを印刷して、金銭的に余裕があれば、一〇部くらい業者に刷ってもらうとさらによろしいかと思われます。悪徳業者は、一〇冊なんて話には決してのりませんから、いくつか見積もりをとっていちばん安いところで製本されるのがいいでしょう。ただ、どんなにうまくかけたと思っても、多くの人に読ませようなどとは思わず、つくるのは二部でも三部でも、多くとも一〇部が限界と考えてくだい。こうして業者をへて印刷をしますと、手にもった感触からすでに日記とは違って、そのあと折りに触れいろいろな事件を考慮することができます。そうして自分史をふかく考える契機になるのでございます。とくに権田さんのばあいには、ぜひ表紙には、自叙伝とかかれることをおすすめいたします。この選択については、まったく個人に委ねられているのが自分史の世界というものです」 山添が話すと、受講者全員が、うんうんとうなずいていた。 「今回は話の区切りもよく、時間もちょうど定刻になりましたので、講義はこれで終了といたします」 講師がいうと、受講生は立ちあがり、「ありがとうございました」と唱和して、解散した。 五 四回目の講義は七月二五日に行われ、各自が持参した自分史年表と時代の出来事を重ねあわす作業をした。そうしてつくられた表にもとづき、ひとりひとりが自分史をかくことになった。ワードか一太郎をつかって、文章のながさや内容は各自の裁量にまかされた。 五回目の講義は、八月一日に行われた。二、三日、ふっていた雨もおさまって快晴とはいかなかったが、蒸した曇りの日だった。 山添が姿を現すと、受講者は起立して挨拶をした。 「おはようございます。本日が最終回となりますが、みなさんの自分史や自叙伝は、いくらかすすんだでしょうか。今日はかいてみて、でてきた疑問などについていっしょに考え、分かりやすく記述する方法などを指導させていただくつもりです。なおこれからの話ですが、この講座では実際に自分史の作成を主眼といたしましたので、できあがり、拝読を希望するのなら、文学館あてにおくっていただければ、私が一読するのも可能です。くりかえしお話してきた通り、作品はかならずしも公にするべきものではありません。日記同様に自分を振りかえってみる道具ですから、秘かにもっているのがいちばんいいのかも知れません。どうしても読んでもらいたいという希望があれば、文学館あてにおくってください。ただ何事にも期日が必要ですので、送付するばあいにはいちおう、今月いっぱいという締め切りにいたします。もちろん強制ではありませんので、できた自分史をおおくりいただかなくともなんの問題もございません。またとどいた作品に関しましては、とくに講評は控えさせてもらいます。自分史は、基本的に他人が評価する対象ではありません。返却もいたしませんから、かならずコピーをとっておいてください。二部、おくっていただければ、文学館と山添が一部ずついただきます。私にとどいた分に関しましては、大学での講義のさいに資料としてつかうケースがあります。そのときには、とくにあらためてお断りしませんので、自分史をおくれば不特定多数の目に触れる可能性をもつのを充分に理解されたうえで発送ください。文学館でも、講義の資料として保存されます。また後日、製本されたおりには、おおくりいただければ当館でなにかの機会に展示するばあいもあります。とは申しあげても、常設してはおけないとご承知おきください。来館して自分のおくった本が館内にみあたらないと苦情を訴えられても、ご希望にはそえません。当館で保存し、つぎの講義を行うさいに、以前はこうした自分史や自叙伝ができたと閲覧する可能性があります。ところで出版まで考えていらっしゃる方は、いるのでしょうか」 山添が受講生にむかって聞くと、全員が挙手した。 「素晴らしい。もし、全員が出版したとしたら、私にとってもはじめての経験になります。別にプレッシャーをかけるつもりはありません。予定がそうだというだけで、実際にできないことは多々ございます。今日はフリーな質問にお答えしたいと思いますが、どなたかご希望がありますか」 山添がいうと、全員が挙手した。 「時間がかぎられますので、ひとりにつき一〇分くらいで、答えられるものは考えてみましょう。それではいちばんはじめに挙手された海原さんからどうぞ」 海原は、ワイシャツをきてネクタイをしめていた。 「先生。じつは、かきはじめてみると、どう表現したらいいかという問題が多々みつかってきます。私のばあいは、数多くの親切な方がたに助けられている仕事です。平たくいえば、大手ゼネコンの幹部とお考えになっていいのです。私の業務を、なんとかいたら正しいのか、もうそこで考えて筆がすすまなくなってしまうのです。ようするに仕事は、受注したかぎられた案件を、いわゆる下請けに振り分けるものなのです。もちろん私は、公私をよく弁えておりまして、なるたけ各社公平に分けてやります。そこで、どうしても公平とはなにかという話になります。みんなが欲しがる案件を、ただ欲しいという会社で割るわけにはいきません。なぜなら一生懸命に発注する私どもからみていても、涙ぐましいとまでいえるほどの努力をする企業と、そうでもない、いい加減な事業所があります。そこで考えてみますと、努力量に応じて分配することこそが、公平なのではないか、という問題がでてきます」 「要点を、もうすこし、かいつまんでお話しください」 「分かりました。ようするに下請けに振り分けるさいに、俗にいう接待をうけるのです。こうした事情にかんする私の意見などを、自分史のなかにかくのは、適切とはいえないのでしょうか」 「つまり海原さんのお話をうかがうところでは、発注をどうにでもできる立場のあなたにたいして、さかんに接待する会社とそうしない企業があって、程度を勘案して仕事を振り分ける判断が正しいという主張を、作品で陳述してもいいのかどうかという質問ですか」 「さすがに、先生は飲みこみがはやいですね。的をいております。業者さんの親切といったら、盆暮れのつけ届からはじまって、子供の入学、卒業なども恐ろしいほどによく知っています。そうした機会があるごとに、ここが肝心な点ですが、こちらがいちいち話さなくても、さまざまなものをおくってくれるのです。とても無視もできずに、好きでもないゴルフで友好をふかめるのです。私だってそれなりに忙しいのに、いっしょにやってもらわないと首になるとか業者に泣きつかれるので、仕方がないから時間をさいて、付きあうわけなのです。そうすると相手もたいへんに喜びまして、終わったあとでは酒宴をもうけてくれたりします。そのうえ、ここが重要な点ですが、公私を弁える私がひと言も口にもださないのに、気持ちを察し、最後にはお持ち帰りの女性まで用意するのです。そこまで一生懸命な様子をみると、なにもしないで受注だけ望む怠慢な会社と同列に考えるは、どうしても無理というものです。これは営業の基本です。仕事を振り分けるなんて面倒臭い業務は、役所にも簡単にはできませんから、震災から復興するといえば大手がでていかなければならないのです。どうも昨今は、ゼネコンにも厳しい時代で弱りますよ。国税で雇われる公務員がする収賄とか贈賄とかという大掛かりな事件ともなれば、すこしは問題なのでしょう。私のばあいは完全に民間でして、世間は両者の違いをよく理解していないと思うのです」 「分かりました。海原さんは、今回かかれる自分史のなかで、論陣を張って世間の一般常識と戦いたいということですか。受注業者の涙ぐましいまでのエピソードをかいて、世の中に訴えようというお話ですか」 「いや、先生が話されると、気持ちがいいほど思いを代弁してくれて、感動するほどですよ。今回、私が自分史をかくさいに、そうした方法でつかうのはどうなのでしょうか」 「基本的には、一般常識と表だって戦うのは得策ではありません。自分史になにをかくのも自由でして、すべてが個人に委ねられているのは最初の大原則です。記載するのは、だれにも制止不能な海原さんの権利です。ですから、記述は自由ですが、ここが大切なところですが、もし出版でもしようと思うならば、読者は一般常識のなかで暮らす方がた、だと考えるべきでしょう。つまり好きなことをかくのは、完全に個人に委ねられますので記載すればいいのですし、自分ひとりで読む分にはなんの問題も発生しません。ところが、読者を一般の方にまでもとめるとなると、最終的にはあなたの常識とか良識とかに照らすしか、判断の拠り所はないのです。結論は、自分史はあなた自身がだすので、私が関与するものではありません。すくなくとも、ひとつだけは確認しましょう。私はこの講座で自分史の問題をとりあげ、そのかきかたを指導してきました。しかし、みなさんがかかれる、個別の内容については関与していません。講師がなんでもかいていいといったから、論陣を張ったという表現だけは、絶対に正しくありません。この点だけは、充分なご理解をお願いします。これ以上は、申しあげることができません。よろしいですか」 山添は、そういってだまった。すると今度は、権田が挙手して質問をした。 「私にも似た問題があります。世間というのは、常識に捕らわれすぎていると思うのです。私は、海原さんのお話はよく分かります。こうした折りに発言したい気持ちというのは、先生には理解できないのでしょう。山添先生は、いつでも発言機会をもっているからです。私たちは、自由に発言する機会が非常にかぎられています。ほとんど、ないといってもいいくらいです。自分史を作成するとなると、自分の意見を発表する好機ではないのかと思うのです。もちろんかくといっても、先生が話されたプロレタリア文学の真実という話とおなじで、やはりエピソードを語って主張を間接的に表現したいと考えるのです。ホストのたいへんさというのは、やっていない者には分からないのですよ。貢いでくれる女は、それなりに可愛いですから、いやなこともいくらかは我慢しますが、もう貢げなくなった人間に冷たくするのも仕事の一部です。これだって、たいへんなのです。私だって人間ですから、冷酷なふりをするのはやりたくないですよ。それを人でなしみたいにいわれるのは、人権侵害だと思うのですよ」 「それで権田さんは、なにが仰りたいのですか」 「結論からいうと、私も滅多にない機会ですから、今回の自分史のなかで、その論陣というのを張ってみたいと思いはじめたのです」 「お話をうかがうかぎり、これは完全に海原さんと同一の質問だと考えられます。ですから、結論もおなじです。海原さんにはよくて、権田さんには悪いだなんて、いえるわけがありません。ただ、あなたのばあいも講師は絶対に無関係です。そこの点だけは、充分なご理解をお願いします」 山添がだまると、今度は三田が手をあげた。それをみた彼は、「どうぞ」といった。 「先日もお話した通り、私は自殺未遂をくりかえしました。こうした事件を、どういうぐあいにかくと劇的になるのでしょうか。自分史のなかで自殺未遂をどう位置づけるかという問題ですが、自分ではそのときにはこれしかないと確信しているのです。しかし、あとから考えると、二度目以降は、ちゃんと量を知っているのです。だから、それほど死ぬ気がなかったのでしょうか。とはいっても、狂言自殺とはまったく違うのです。自殺って、たぶんみんなが、ここまでは大丈夫だと信じる範囲で試みて、運が悪いばあいはほんとうに死ぬのだろうと思うのです。つまり、そうした事件をどう表現するかですが」 「ようするに三田さんのお話は、いまの覚めた目でみた自殺未遂をかいたらいいのか。未遂時での、激情を優先して綴ったほうが適確なのかということですか」 「その通りです」 「それはもう完全に、三田さんの気持ちの赴くままにかくべき問題と考えられます。筆をもっている、勢いで処理するしかないのでしょう。とはいっても、そもそもそうした事件を記述するかもふくめて、構成をもう一度考えてみるのをおすすめします。自分史をかくといっても、起こった出来事、全部はかけないわけですから、よく分からない部分は省くのも大切だと思います」 「私は、花田さんとは違って、そんなに多くの人生経験がありません。ここはどうしようかなんて考えて省きはじめると、どこまでもいらない気にもなってきます。だんだん、かく事件がなくなってしまうのです」 「自分史の題材は自由です。しかし、強制されてつくるのでもないのです。はっきり申しあげたいのは、自分史はかいた量で評価されるのではありません。原稿用紙、一〇枚に満たなくても立派な作品です。一〇〇〇枚かいたからといって、かならずしもよい自分史ではありません。さらに重要な点は、作品を評価するのは自分しかいないのです。いいとか悪いとかも、ご自分で判断することになります」 「先生、質問があります」 今度は、江東が挙手し、発言が許可された。 「どんなに優れた自分史をかいても、私的な評価しかえられないというと、その本質的な意義というのはどこにあるのでしょうか」 「江東さん、それは私がいままでくりかえし述べてきた話を思いだしてください。自分史は日記の延長上にあり、自分がどう暮らしてきたかを振りかえり、これからどんなふうにすごしていくのか考えるひとつの契機としてかかれます。ですから、きわめて個人的な作品であり、基本的に読者は作者自身になります。したがって評価は、自分がいいと思うか、思えないかに、かかっているのです。それが自叙伝ともなりますと、世間一般の方がたに読んでもらうのが主眼に変わってきます。だから私の履歴書は、大手の新聞社に掲載されます。著者は、どういう時代に生きて、どういった各界の著名な人たちと、いかなる関係をもっていて、どんな思い出があるのか、そうしたつまらない事実もふくめて詳しく自分を、いささか誇張してかきこむのです。そうなると、自叙伝で名をあげてかいてもらった方もおかえしとして、私の履歴書を記載するさいには、わざわざ記述してくれた者を褒めあげたり、称えたりします。人によっては、微笑ましいという感じや、また一方では、人間のある種の勘定ふかさや、醜さともとられかねない事柄が述べられるわけです。多くの人びとに読んでもらうことを、あくまで主眼におくのならば、小説というジャンルはとても優れているといえます。創作は、虚構だと宣言してかかれます。日記とは違い、小説は、読者をえられなければ、まったく無意味です。こうした事情を踏まえて、作者は工夫し、虚構という嘘のなかに真実を埋めこむことも可能なのです。もちろんそのためには、たいへんな労力が必要になります。人に読んでもらうのを主眼とするなら、そこまで考えなければなりません。だから自叙伝は、どうしても中途半端になるのです。お分かりいただけたでしょうか」 今度は、それを聞いた花田が挙手し、質問を許可された。 「先生のお話をうかがっていると、自伝にたいしてあまりいい印象をおもちではないと思います。それでいて、私には自叙伝をかくのをすすめるのは、よく分からないことです」 「花田さん。それは、まったくの誤解です。花田さんは最初から自叙伝をかくと仰っていらしたので、おかきになるのに賛成しただけです。ただくりかえし指摘する通り、自伝は人に読ますのを目的としています。自分史とは、そこが大きく違います。自叙伝を発表し出版するのは、自分がかいたと周囲の方がたに宣言するのと変わりません。しかし自分史は個人的な行為ですので、秘かにかけるのです。基本的に私は、個人史史を研究している者で、個人史のこうした秘密性や匿名性は、すて難い魅力だろうと考えます。なぜなら、だれにも公表しない作品のばあいは、読む人を自分以外には想定しておりません。自分にとっていちばん正しいと判断した事実を、自由にかけるからです。これは今日、権田さんや、海原さん、三田さんが、いみじくも自分史をかこうと考えたときに、どう表現するか悩んでいる真の理由です。自叙伝をかくのが悪いなどと、私は今回の講座で一度も口にしたことはないはずです。ただ自分史講座という範疇からは、自伝はふるくからある文学のひとつの形態です。文芸作品の一種なら、読者の反響を鑑みてつくられた作品と考えるべきものです。極端にいうなら創作活動のひとつで、日記とは違っているのもこの点です。もちろん、日記文学というジャンルも存在します。日本で有名なのは、森鴎外がかいた鴎外日記ですが、これはよくご存じの方もいるでしょうが、かかれたふるい記述のなかで、自分にとって都合の悪い部分はすべて切りすて、さらに一部は加筆して提出されたと考えられています。つまり、厳密には日記かどうかについて疑義をもつといえます。有名な方がたの日誌を、死後に公開するばあいもあります。こうした著作は、作者が希望しなかったときは、のこされた家族の受諾をえて研究のために公にされますが、それでいいのかは微妙な問題です。だれにでも、秘密にしておきたいことはあります。それは、非常に大切な部分です。記録を秘密にできるのは、人がもつ最大といってもよい権利なのです。自叙伝と自分史の違いはくりかえし話してきた通り、どちらをかくのも自由ですし、どっちがいいという話でもありません。完全に本人の裁量にまかされている事柄です。どちらが劣り、どっちが優れるという問題でもありません。花田さん、これでよろしいですか」 「分かりました」と花田は答えた。 こうして、最後の講義も終わり、受講生は起立して、山添にたいして充分な礼と、別れの言葉を述べた。 これで、宮城文学館でコロナの渦中に行われた「自分史講座」は幕をとじた。 八月のなかばから、受講生が作成した「自分史」が文学館にとどきはじめた。どれも印字された作品が二部ずつあり、宮城文学館と山添に一部ずつおくられた。一〇月に入ると製本された立派な本が送付されはじめ、受講生全員が言葉通りに出版をしたのとがあきらかになった。 どの作品も「自叙伝」とかかれ、自分史はなかった。これも文学館と山添に一部ずつおくられた。 一一月のある日、コロナは第三波を迎えていた。山添の自宅に、文学館から五冊目になる最後の「自叙伝」がおくられてきた。そこには所長によってかかれた手紙が同封されていた。この講座の評判がきわめてよかったことや、受講者全員が自叙伝を著した事実が、宮城文学館の実績として高く評価されているなどとかいてあった。そして末尾には、二度目の自分史講座を、はやい機会にぜひ開催してもらいたいという内容が、多くの美辞麗句とともに記載されていた。 五冊の自叙伝と文学館の所長の手紙をみながら、山添は考えていた。 個人史は、難しい。あんなに講義をしてかきかたを詳細に教えてあげたのに、受講者のだれひとりも「自分史」をかけなかった。彼らが自叙伝のなかでなにを記載したのか、読んではいなかった。受講者は五年もすれば、また自分史をかきたいと考えはじめるに違いないと思った。出版業者の影響力は、ひとりの文学部教授の力ではとても太刀打ちできるものではないと、しみじみと感じた。 自分史とは、結局は自己愛の産物なのだ。それは、基本的に醜くて、人前にだすのは、みっともないものなのだ。ただ歴史上、そうした醜悪な行為をどうどうと披露した者たちがいたのは事実だ。ヒトラーや、スターリンは、全面に自己愛を表現できた病的な者なのだ。最近では、超大国の指導者がどうどうと自己を歌いあげ、さまざまなメディアを通して発信している。醜悪で破廉恥で、さらにおぞましくもある自己愛に自分が気づいていないだけで、明白な病気なのだ。それでも彼らの病が世間から許されたのは、強大な権力をにぎった、みんなとは違うとくべつな者であったからなのだ。 それが現在は一般人にまではびこって、SNSなどをつかって自己表現と名前を変えて、存分の自己愛が表出される「自己愛許容社会」になっている。だから表現するツールには、かならず衝突があり、さまざまな危険が内包されているのだ。 自己愛の産物である以上、二度とかかないですむ完璧な自分史とは、決して人にみせないものであり、できない作品なのだ。日記とおなじくひとりでこっそりとつくって、必要を感じたら加筆するべき記録なのだ。なにか、感情を揺さぶられる大きな事件が起きたとき、困難な事柄や、悲しい事例や、喜ばしい話題でもかまわないが、そういう出来事があった場面で秘かに読みかえして、自分がだれよりも素晴らしい人物であるのを再確認する人生の最高のツールなのだ。人間が健康に生きていくうえで、ようやく辿りついた最高峰の知恵なのだ。 そこには、真実のすべてが記載されている。それは、とても人びとには話せない、どこから考えても世界でもっとも、誠実で、偉大で、崇高で、傑出した自分が、思う存分にかかれている。 そんな素晴らしい自分史を、どうして無神経に、人にみせることなどできるのだろうか。 自分史講座、一一八枚、了