世界一周 由布木 秀 一、ナポリの男 「ナポリをみてから死ね」 Vedi Napoli e poi muori ! この金言は、一八世紀後半、イタリアを旅行したゲーテが、ナポリの美しさに感銘をうけてのこした言葉らしい。人生で一度は経験すべき感動や絶景、を象徴すると本にはかいてあった。 船は、九月二〇日、ナポリ湾に入港した。 石木が、恒例となっている混雑のなかから下船できたのは、朝の八時二〇分だった。ナポリの空は、雲ひとつみつけることのできない快晴だった。 下船した場所からすこし先のターミナルには、すでに一五、六台の観光バスが待ちかまえていた。船からおりた乗客が、つぎつぎと今度はバスに乗り換えていくのをぼうぜんとみていた。幾度もくりかえされる光景は、既視感を覚えさせるより、ツアーという概念を脳裏にすり込ませていた。 石木は、一刻もはやく、この不詳な群集から離れたかった。東西も定かではなかったが、「卵城」にむかうと思われる方角に歩いて海ぞいの道にでた。 「サンタルチア」という言葉は、なにかの歌できいた覚えがあった。ガイドブックによれば、イタリア南部カンパニア州の都市、ナポリの地区の名称で、ナポリ湾のサンタルチア港をふくむ海岸ぞいの一帯をさすらしい。ナポリ民謡に歌われ、ひろく知られる場所で、一二世紀にノルマン人が建造したのが卵城だ、と記載されていた。 つまり、ナポリの民謡には偉く有名な曲があるらしかった。 石木は、とくに歌に興味もなく音痴だったが、メロディーを口ずさむことができた。中学か高校の音楽の教科書にのっていたに違いなかった。遠くにみえる卵城と覚しきところにむかう平坦な歩道は、国道だっただろう。行き交う車もなく静かで、狂騒の船内では決してえられない存分の孤独感を味わうことができた。外国で朝の道を歩いていると、犬をつれた人と必ず出会った。こうした人びとが、見知らぬ旅行者に危害をくわえるとは思えなかった。安心感に満ちた構図で、時間がゆったりとながれ、それなりの風情を感じた。 それにしても、この航海に参加する者たちは、どこにいくにも団体になってうごいていた。バスの車窓から、写真をとりまくっていた。無心というよりほとんど機械的で、撮影にきているとしか思えなかった。いったい、どれほどの量をとるのか見当もつかなかった。あとで整理するのもたいへんだろう。そのうえ、「車上観光」という言葉をきいておどろいた。バスにのったまま、窓から名所、旧跡をみて、終わりにするばあいがあるらしい。それで、ほんとうに心から満足するのだろうか。いずれにせよ、石木には理解不能な人びとがあつまっているのはたしかだった。その気持ちをよく理解したいとも思わなかったから、団体から離れられれば、まずは陸におりた大きな利点といえた。 すこし歩くと、ほかに建物もなかったから目指す卵城はすぐに発見できた。思っていたよりずっとちかく、バスツアーでは最後によるか、無視するのか分からなかった。人はほとんどいなくて、素晴らしく青いティレニア海が眺望できた。この城は、基本的には陸の突端部によくある手あいの砦で、海からやってくる不審者をみつけるためにつくられたのだろう。観光的な価値はとぼしいらしく、夜間はライトアップされるとガイドブックにはかかれていた。周辺は海辺で、おそらく夜は海岸ぞいのデートコースになるのだろう。とくにみるものもないので、はやばやと卵城をあとにし、さらに海岸ちかくを歩いていった。綺麗としか表現できない真っ青な海にそった道は、やがて浜につづいていた。 それにしてもこの日のナポリは、気持ちがうきうきするほど、あかるい地中海の太陽がさんさんと輝いていた。混雑した船にのっている人びとは、なぜ、さらにこみあったバスにすしづめにされるのを好んでえらぶのだろうか。旧跡をわざわざたずねなくとも、ナポリについたからには、こうした浜辺ちかくの道をゆったりと歩いて、この真っ青な海をみて一日をすごせば充分ではないか。窮屈なバスにのるの人びとは、車窓から写真がとれれば外国へきた気がするのだろうか。 石木には、「苦行者」としか思えなかった。 さらに浜を歩くと、灰色の消波ブロックが意味不明にたかくつまれていた。こうした人工物が奇妙に風景にマッチしていたので、せっかくだからと思ってよじのぼってみた。 なにもないティレニア海は、素晴らしい凪だった。みわたしても、ペットボトルのひとつもみつけられないほど綺麗だった。市が観光のために、つねに清掃しているのだろう。あかるい日差しのなかでテトラポッドの頂上に腰をおろして周囲の海をみまわし、港についたときにもらった一枚のナポリの地図をひろげて、じっくりとみてみた。ながめながら考えると、どうやらこの町は、美しい海岸線にかこまれているが、中心は丘陵地帯になるらしかった。周辺からケーブルカーがつくられ、坂道をのぼるには効率がよさそうだった。 地図をみていると、市の西がわに四路線あるケーブル(フニコラーレ)のいちばん西の「キアイア線」にのって終点でおりて、運よく東にむかえれば、「サンテルモ城」にいけそうだと思えてきた。おそらくそこからは、この美しいティレニア海が一望できるに違いなかった。 石木は、日本でも外国でも、道を歩くときにグーグルのマップなどをつかうのは邪道だと信じていた。み知らぬ土地で目的地につけるかどうかは、まさに神の思し召しにあずかるかどうかで、たとえ駄目だったとしても、そのあいだに面白いことがあれば充分な観光だろうと思っていた。今日は、可能ならばキアイア線のフニコラーレの駅にいってみようと考えた。地図によれば、海岸の反対方向にアメデオという駅舎があり、となりにケーブルの絵がかいてあった。なんとかなると踏んで、北にむかって歩いた。途中で何人かのイタリア人に、地図をさして「M」とかかれたメトロの駅への道をたずねたが、要領をえないこたえばかりだった。 イタリアは、一年ほどまえに二週間のツアーに参加し、ミラノからフィレンツェ、ヴェニスなどの北の街を旅行したことがあった。その旅はローマで終わり、ナポリにはいかなかった。それが人生ではじめてのツアー旅行だったが、一〇人という少人数で、専用の大型のバスをつかって移動するわりと優雅な旅行だった。ガイドがついていたので、買い物のときくらいしかイタリア人と接触する機会がなかった。 石木は、若いころインドをさ迷ったことがあった。その時代にめぐりあった者たちから、イタリア人は、俗に「イタ公」と蔑称されるときいていた。いい加減で、ずるくて約束をまもらない、まったくあてにならない代表選手みたいな、ひどい国民だときかされていた。そうとうにふるい情報だったが、前回の旅行で二週間イタリアをまわったときはツアーだったので、その印象をかえるほどの事件には遭遇しなかった。また、ナポレターノというナポリの人びとをさす言葉は、調子がいいだけで内実がない、粗悪品やまがい物を意味すると、なにかの本で読んでいた。 だから石木は、イタリア人は、「イタ公」だと信じていた。いくらたずねても、要領をえないこたえしか、もどってこなかった。しかし、英語も充分にできない「イタ公」だから仕方がないと考え、とくに失望もしなかった。それでも感じとしては、かなりいい線のところまできていると思った。周囲を歩きまわっていると、ついに交差点のちかくでメトロの駅を発見できた。 アメデオとかかれていたから、まさに目指した駅舎に間違いなかった。 しかし、なんとなく不思議な場所だった。階段らしいものはみあたらず、道は洞窟状になって暗い地下にむかってつづいているだけだった。怪しいと感じながら歩いていくと、見紛うはずのないプラットホームがあった。駅につけさえすれば、とうぜん駅員がいるとばかし考えていた。この時点ではもう憧れになった、ケーブルカー、フニコラーレの乗り場を教えてもらえると思っていたが、どうしても自動改札機とチケット自販機しかみつけることができなかった。 石木は、ここまでの状況を整理してみた。 もしかすると、今日は一日かかってもアメデオ駅をみつけられずに、船に帰るだろうかと考えながらさ迷っていた。ところが、幸運にも目指す駅を発見できたからには、フニコラーレにのれるのは、ほとんど確信にかわっていた。乗車さえできれば、方向を決めて間違えずに坂をくだれば、「サンテルモ城」にいけるだろうと考えていた。いずれにしても、もう一押しという状況だった。 ここは間違いなく地下鉄なので、ちかくに正確な情報をもつ職員がいるに違いないと思った。そこで、洞窟をのぼって入り口までもどると、発券所をみつけることができた。そこには、ひとりの男がすわっていた。そこで石木は、もっていた地図を差しだし、フニコラーレにのりたいというつよい願望をつたえたのだった。 このイタリア人は、英語がまったく分からなかったらしい。意味不明な言葉をつぎつぎとあびせかけ、地下鉄のチケットしかださなかった。どうしても、ケーブルの券を売ってくれなかった。 もちろん石木の英語は、決して充分ではなく、とくに自信があったわけではなかった。とはいえ、地図という強力なアイテムをもっていた。どこからみてもケーブルカーとしかみえない「キアイア線」を指で示して、「ここにいきたい」、「フニコラーレ」と叫んだ。 男は、彼の話をなにもきかずに、地下鉄のチケットをみせ、値段をつげるのだった。 石木は、いろいろな国にいったが、これほど物分かりの悪い人間にはあったことがなかった。いかに英語ができなくても、これだけ具体的なツールをもって話しているのに、どうしてメトロの券しか売ろうとせず、「フニコラーレ」という言葉に一切の配慮も示さないのだろうか。そうとうのあいだ、もめることになったが成果はなく、ついにこの男を「イタ公」と判断せざるをえなかった。 石木は、「もういい」とつげて、ごくちかくにあるはずの「フニコラーレ」のアメデオ駅をさがしたのだった。何人かにきいたが、どいつもこいつも要領をえた返答がなく、不親切とはまたすこし違った国民性に大きな疑問をいだきながら歩きつづけていた。 やがて、みょうな建物が目についた。そこは、デパートにみえた。朝の開店まえの百貨店で、両びらきになる扉がとじられている印象だった。とじられ方はかなり不思議で、太い鎖がつかわれていた。石木は、この不詳で異様な扉をじっとみつめていた。そこは車も多く走る大通りに面し、アスファルトで舗装されたひろい間口がついていた。ちかづいてのぞきこむと、鉄製の格子状のシャッターがおり、さらに太い鎖でぐるぐると巻かれていた。 「これは、なにかとくべつなものに違いない。もしかすると、フニコラーレに関係があるのだろうか」と石木は立ちどまって考えこんでいた。そこでしばらく待っていると、人がつぎつぎとやってくるのだった。人びとは、扉が閉鎖されているのをみて、なにも語らずもどっていった。その無言でくりかえされる様子をながめながら首をかしげていると、ちかくにイタリア人と思われる男がやってきた。 背がたかい男性は、みじかい顎髭を不精な感じで生やして、アタッシュケースをかかえた勤め人の風情で、身なりもきちんとしていた。雰囲気としては、石木が好きな映画俳優の、ジャン・レノにすごく似ていた。彼は、モロッコ、カサブランカ出身のフランス人で、人気がでた「レオン」という映画に主演したので知っている人も多いだろう。 「それにしても、ジャン・レノに、そっくりな奴だな」と思ってじっと顔をみていた。 男も、石木に気がついて「ストライキ」とつぶやいた。 つまり、憧れのフニコラーレは、営業を休止していたのだった。だから、あのわけの分からない発券所の職員は、いくら叫んでも、メトロの券しかださなかったのだ。ちゃんと今日はストライキで営業していないと説明されれば、石木だって納得したのに、それを英語でいえなかったのだ。そのときになってはじめて、頭がいかれているとしか考えられなかった、発券所の男の行動が理解できた。 「なるほど、ストライキだったのですか。それで、みんながここにきては、帰っていくのですね」と石木は男にむかって話しかけた。 「そうだ。ところで、おまえはどこにいきたいのか」と見下しながらきいた。 男は、石木が道が分からずにこまっている日本人だと知ったのだ。 「フニコラーレ。キアイア線の終点までいきたいです。それから、サンテルモ城をみてみたいのです」 石木は、地図をさし示しながらこたえた。 「私も、ちょうどそこにいくから、ついてこい」と男はいった。 後ろについて歩くと、ひと悶着あったメトロの入り口にでた。 「券が必要だ」と男はいった。 石木は、物分かりが悪いとしか考えなかった券売り場の職員から、一日券が四・五ユーロだというのは、あきるほどにくりかえしきかされていた。彼は、券を買ってついていき、自動改札を、それをつかって通過したのだった。 石木は、こうして男とは合意をもって、アメデオ駅のプラットホームにいた。 これが、事実だった。 石木と男は、相互の気持ちをあきらかに理解しあっていた。どうして、こんな会話が成立したのかよく分からないが、ふたりは通じていた。しかし、アメデオ駅のホームで電車が到着するあいだに、石木は、男がほとんど英語がしゃべれないことに気がついて愕然としたのだった。 外国でバスを待って、実際にあらわれたとき、「ようやっときたか」と日本語でつぶやくと、となりにいた全然知らない小母さんが、「It's nice ( よかったわね、くらいかな)」と、にこっと笑って言葉をかけてくれた経験があった。「この一瞬」に気持ちが通じあい、共感がえられる場面を石木も体験はしていた。 ホームで電車を待っていると、みも知らぬ者同士だから、互いに気をつかい、なにかをしゃべらねばならないと思えてきた。 石木は、「今日は、この駅をさがすのがひどくたいへんで、フニコラーレについて、いくらたずねても情報がえられなかったのです」と英語で話した。 しばらく、沈黙があった。午前一〇時くらいのプラットホームは、電気を節約しているのか照明が暗く、列車を待つ人もまばらだった。ぽっかりと大きな穴がつづいているホームの両がわから、闇が浸食をはじめていた。 やがて、男はぼそっといった。 「じつは、英語はよく分からない。もうすこしほんとうの話をするなら、ほとんどできないのだ」 男は、石木よりもずっとつたない弱々しい口調でいった。 「いまは、会話する気分ではないから、だまっていろ」という雰囲気では決してなかった。 ほんとうに申しわけないが、これが真実なのだという調子で語られたのだった。 フニコラーレの扉のまえで、地図をみせて分かりあった気がした。しかし、よく考えなおすと、石木は英語をつかったが、彼が何語で応対したのかは覚えていなかった。 「ストライキ」は、イタリア語でもおなじ意味をもつ語彙があるのかもしれない。石木は地図をみせ、具体的な地名を発音しながら指で地点をさしていた。発券所をみてごく自然に言葉をかけられ、「ここで券を買え」といわれた気がした。しかし、「メトロにのるなら、一日券が絶対に得だし楽だ」と、難航した入り口の職員とのやりとりで幾度もくりかえされたことを勝手に自分でやっただけかもしれなかった。会話としては、成立していなかった可能性がでてきた。考えはじめると、交わした言葉が何語だったのか、まったく分からなくなった。 石木は、だまっていると気まずいムードがただよってくるのを、ひしひしと感じた。 「今日は、晴れて気持ちがいいし、船のターミナルから歩いてここにきたのです。サンタルチアは素晴らしく、真っ青なティレニア海がみえました。まさに、ナポリをみてから死ね、とはいい諺ですね」と石木は男の目をみつめて話してみた。 この文章のなかには、ターミナル、サンタルチア、ティレニア海という固有名詞がつかわれていた。さらに最後の部分は、石木が唯一知るイタリア語、「Vedi Napoli e poi muori !」が挿入されていた。一連の言葉は、男をそうとうに勇気づけたらしかった。石木がすこしはイタリア語が分かるのかも、と考えたみたいだった。 男は、「フニコラーレのまえで、ふたりの合意は成立している」とあらためてつよく感じたらしかった。それで懸命になにかをしゃべりはじめたが、それこそ券売所の職員となにもかわらなかった。 そこで石木が、「イタリア語は、Vedi Napoli e poi muori ! 以外は、知らないのです」と英語でいうと彼はだまった。 やがて、電車が構内に入ってきた。 石木は、男についてメトロにのった。車内の座席は、いっぱいだった。吊革につかまりながら、なにかを話さなければと考えた。 男もまた、おなじことを思っているのが分かった。 「私は、日本人で、仙台という町からきた」と話した。 男は、とつぜん「新幹線を知っている」といった。その方向で、石木がなにかをつづけて話そうとした。男は、「でも、日本語で知っているのは、これだけだ」といった。 「もしかすると、この男性は日本にきたことがあるのではないか。そこで親切な人にめぐりあい、今日はこまっているらしい日本人をみて、助けてやろうと思ったのか」という幻想は、一瞬で終了となった。 「ああ。そういえば、私は、寿司を知っている」と男は口をひらいた。こうかくと、それなりの会話があったように思えるが、実際には「I know SUSHI」といっただけだった。 「そうか。食事の話がある。これなら、なんとかなるかもしれない」と石木は考えた。 「寿司は美味しい。ローフイッシュ、オクトパス、スクウィッドなんかも食べるのか」とたずねてみた。 どう通じたのかは分からないが、その言葉をきいて男はだまった。しばらくして「じつは、寿司は好きではない」とつたない英語でいった。 これで、会話の糸口はかんぜんになくなってしまった。 それでも、メトロは轟音を響かせながらすすんでいた。真っ暗な地下を走る電車は、互いに沈黙すると無闇にながい距離に感じられた。いつまでたっても、つぎの駅につかなかった。男も、おなじことを思っているに違いなかった。 石木は、どうしたらいいのかと考えながら、唯一の武器、朝、でがけに港でもらった一枚のナポリ地図をみた。地図には、地下鉄の駅、メトロの場所は、大文字の「M」と表記されていた。そのとき、「ピザ」という言葉が、やたらとかいてあるのに気がついた。 「この地図は、ピザ屋がスポンサーなのだ。だから無料だったんだ」 石木は、合点した。 「ピザですね。ナポリには、ピザ屋がたくさんあるのですね」 石木は、地図を指さしながらきいた。 この問いは、男にとって救いだったらしい。彼は、石木が「ピザが大好きで、食べたいと思っている」と考えたらしかった。 男は、とつぜん元気になった。もう、雰囲気しか分からなかったが、 「お気に入りのピザ屋が、いくつかあるんだ。食べるのなら、いい店を知っている」という感じで、イタリア語でべらべらと話しだした。 石木は、あっと気がついた。食べ物のピザは「PIZZA」だった。イタリアだから、駅舎のちかくには広場、「PIAZZA」があった。「A」が余計だと気がついたときには、すでに完全な手遅れだった。 「まったくに誤解されている」と戸惑う石木を無視し、男は、やにわにしゃがみこむと、ボールペンをとりだし、アタッシュケースを机がわりにした。地図の余白部分に、お気に入りのピザ屋の名前と、なにを注文するのがいちばんか、かきはじめた。もう、制止する雰囲気ではなくなっていた。男は、懸命になった。腿のうえにおいた鞄を机がわりにして、三軒のピザ屋と、注文すべきピザの名前を、一、二、三、と上位から順をつけて記入し、そこにいく地図もかきはじめた。 これには、かなりの時間がかかり、ふたりは共通の話題で、真っ暗な地下鉄のなかをやりすごすことができた。 この状態で、ある駅についた。 男は、がぜん自信をとりもどして、「ついてこい」といった。 石木は、この事態がどういう形で収束するのか、明確な展望がえがけなくなっていた。希望するサンテルモ城には、もういけない可能性は考えておかねばならなかった。ただ分かっているのは、このイタリアの男はかなりいい奴で、ついていってもさほどひどい目にはあわないだろうという確信だった。 成り行きにまかせることにして、石木は後ろをついて歩いていった。 おりた地下鉄の駅は、のぼる階段も店もない、ひろい地下の歩道がえんえんとつづいていた。空港などでみかける、「うごく通路」がところどころにあり、実際にいくつだったのか分からないほど、ながかった。すくなくとも、三つや四つではないのはたしかだった。よく解釈すればイタリア人の大らかさによるのか、ナポリの地下鉄はかなりいい加減につくられ、ふたつの路線が地下の上下で連結するのではなく、ながい通路でひと駅分くらい歩かねばならないのだろうと想像された。とはいっても、この考えはあくまで男を信頼するという前提で成立するだけで、四つくらいつづくとさすがに怪しさもぶりかえしてきた。 こうした心の変化は、いっしょに行動していると互いに理解しあえるものだった。 男は笑顔をつくって、「ロング」とか、「モア」とか、振りかえっては言葉をかけはじめた。気にはしてくれるわけで、やはりいい奴なのだろうと思いながら、それでも「ちょっと、ながすぎるのではないか」という不安も、石木は隠し切れなかった。 そうこうして一五分くらい歩いて、また地下鉄の駅にでた。そこで、違う路線の電車にのった。この時点では、「どうにでもなれ」という感じで、「いくところまで、いってみよう」と思った。ナポリの出航は、夜の六時だった。まだ昼まえだったから、「なんとでもなるだろう」と考えていた。 乗り換えた電車では、ピザの話も出尽くしていたので、互いに会話の糸口をさがせなかった。無口になり、「相手の意向は、いましていることだろう。おそらく、これを望んだのだ」という雰囲気だった。 石木は、だまってのりながら、この男と別れるときには最大限の感謝の言葉をつげてみようと考えていた。どんなフレーズがあったか、と必死で思いだしていた。英語しか手段がなかった。それさえも、彼が理解できるかは分からなかった。どちらにしても、かつて使用したことのないフレーズを、ここでつかおうと決心した。 Thanks a lot. これでは物足りない気がした。You are the best. You are a big help. では、砕けすぎていた。I really appreciate it. とか、I could not have done without you. は、むずかしすぎる。Words cannot express how thankful I am. は、ながすぎに違いなかった。 いくつか駅をすぎ、「ここでおりる」と男がいった。 石木は、いっしょに下車すると、改札をぬけ、階段をのぼって地上にでた。駅まえには、「PIAZZA」があった。 「ここだ」と男はつげた。 場所が正しいのかどうかは、分からなかった。 しかし、石木は、男の誠意にたいして必死で思いだしたフレーズをつかった。 「You saved my life」 石木の言葉をききとったかどうかは、まったく不明だった。やや間があった。 男は、ものすごく真剣な表情にかわった。 彼は、石木の右手をとって、じっとみつめた。両手をつかってぐっと握りしめ、 「Nice to meet you」と明確な英語でいったのだった。 このとき石木は、イタリア人が決して「イタ公」ではないと、かんぜんに理解したのだった。 おりた場所は、けっこう正しかった。 二、三の人にきくと、なかには、しっかりこたえてくれる者がいて、幸運にもサンテルモ城をみつけることができた。ヴェメロの丘の頂上にあり、素晴らしいティレニア海を眺望できた。一四世紀にアンジュー家が基礎を立て、一六世紀に頑丈な要塞につくりかえられたという話だった。自分が歩いてきた道も分かり、ナポリ湾と旧市街をながめ、かんぜんに満足できた。昼になったので、なにを食べようかと考えたが、ながれからピザしかないと思った。 城をでて坂を海にむかっておりていくとピザ屋がみえたが、運悪くしまっていた。むかいに店があったので、入ってピザを頼んだ。 「うちでは、やっていない。ピザ屋はしまっているから駄目だ」といわれた。 「なになら、注文できるのか」ときくと、「パニーニだ」とこたえた。それを頼んで、ワインを飲みながら食べた。サンドイッチ、みたいなものだった。 それから港に帰ったが、いきにドラマがあったので、帰りはどうやって船までもどったのか覚えてはいなかった。港湾がみえたし、坂をくだるだけだったから、歩いたのかもしれなかった。一日券をもっていたから、もう一度メトロにのった可能性もあった。 帰船してから辞書で、ストライキを検索してみた。イタリア語では、sciopero(ショーペロ)というらしい。ストライキという外来語は、ないとかかれていた。男は、ショーペロをつぶやいたに違いなかった。それを、石木がストライキと勝手にきき間違えたのが真相だった。どちらも、サ行ではじまる単語だった。英語のstrikeは一音節だった。一方、カタカナ読みの「ストライキ」は、ショーペロとおなじ三音節だといえた。だから、似ているといえば、そうかもしれなかった。 どちらであっても、ナポリは、素晴らしい土地で、すむ人もいい。一度は、いかねばならない名所なのは間違いがない。 「Vedi Napoli e poi muori ! 」とはよくいったものだ。 ナポリの男、二九枚、了 二、素敵なリスボン ヨーロッパ西端に位置するポルトガルの首都、リスボンの市街は、世界を支配したローマとおなじ七つの丘がひろがっていた。大西洋をわたって新大陸を発見し、征服しようとした冒険家たちが出発した場所だった。 この街は、何本かのメトロが走っているらしい。 石木は、品川区の下町にうまれた。山手線、品川駅まえから都電の七番線をつかって港区の小学校に毎日通学していたから、市電はなによりも懐かしい存在だった。なんとかして一二番線をみつけ、サン・ジョルジュ城周辺をまわり、二八番線にのってこの街の風情を感じながら、意味もなく西から東まで往復しようと考えていた。 さらに忘れてはならないのが、ナポリではのれなかったケーブルカー、エレヴァドールだった。二、三〇〇メートルくらいの急な坂道をのぼるというので、イタリアでの敵を討ってみたいと思っていた。 九月二五日、素晴らしく晴れた気持ちのいい日だった。 石木は、リスボンの港を七時四五分に下船できた。地図をもらい、国道にでるとすぐに市電が目についた。しかし、図面には、「M」という印が一キロ以内に点在していた。これは、メトロの駅だろうと思った。市電のまえに地下鉄にのりたいと考え、「M」の入り口をさがして、ひたすら歩いた。非常にちかくにあるはずなのだが、どうしても辿りつけなかった。それで通勤途中と覚しき人にきくのだが、これまた要領をえない返答だった。相手は、仕事にいこうと急いでいるせいもあり、こちらの趣味にはなかなかつきあってくれなかった。 それでも粘りづよくたずねていると、一致した見解として、「メトロはない」という回答しかえられなかった。地図が間違っているとは信じられなかったが、全員のこたえがおなじなど、起こりえなかった。世の中には、人がいいのかものずきなのか、どんなに忙しくてもつたない英語をなんとか理解し、ていねいに教えてくれる者が必ずいる。全員の意見が一致する事態は、通常ありえなかった。 石木は、そうとう不思議だと思いながら、「M」の追求を放棄した。間違いなくあるはずのカイス・ド・ソドレ駅にむかう方針に変更し、一時間後の八時四五分に到着した。真っすぐ歩けば三〇分はかからなかったから、石木は、真面目に仕事にいこうと道を急ぐ、無辜の市民のあきらかな障害物になっていた。 駅でメトロと市電の共通一日券を購入し、始発駅だったので電車に乗りこんだ。入った時点では、空席が目立っていてすわれたが、平日の出勤時間帯だったので次第にこみあってきた。走りだしてふたつくらい駅をやりすごしたとき、とつぜん胸騒ぎがした。 「このうえあたりではないか」と石木は霊感を覚えた。 不審に思いながらも、マルティン・モーニシュという駅でおりた。階段をのぼって地上にでてみると、なんと目指す一二番線が走っているのが目に入った。おどろくほどのすさまじい能力だと自分に感服しながら、希望した市電に一度も間違うことなく、すんなりと乗車できたのだった。 乗務員にチケットをみせて、いちばんよく前方がみえる座席に腰をおろした。すわってから地図をみなおすと、「M」の存在はいかにも異様だった。ある地点に集中し、あるいは離れすぎていて一貫性に欠けていた。そのときになってはじめて、これが「博物館、Museum」を意味するのではないかと思った。たしかに、「M」がメトロの駅とは国際的な取り決めなどないから、リスボンのせいではなく、ナポリの後遺症をひきずっていたのだった。 船のなかで暮らしていると、石木のように町を気ままに歩きまわる者にたいして、「いつか、必ずひどい目にあうに違いない」と考える人びとが多いことに気がついた。 人によっては、わざわざ口頭で注意までしてくれるかんぜんに「おせっかい」な小母さんまでいた。この船では、自由に街をふらつくのが非常に危険な行動だと、再三にわたって注意喚起しているのも事実だった。そのせいもあるのか、わけの分からぬ情報が、まことしやかに語られていた。 「街を歩いていると、数人の者にとりかこまれ、一万円を脅しとられた」 この情報を、どう理解したらよいのだろうか。数人の者にとりまかれる事態は、起こりうる。壁をつくって周囲からみえないぐあいにして恐喝するのは、昔からの手口だ。しかし、それだけの労力をあつめて、なぜ被害額が「一万円」ですむのか。この点は、どう考えても理解できなかった。 とりかこまれたと感じたら、どんな奇声でもかまわないから、まず大声をあげるのがいいに違いなかった。そうしたことができない状況なら、もっている金目のものは、すべてとられるだろう。それを一万円で我慢するなんて、そんなやさしい気持ちがどこからでてくるのか。この話は、なんとなくちかよってきた風体の悪い者に遭遇した旅行者が、ひとりで怖がって、「万札を一枚差しだして」受けとってもらったのが真相ではないのか。最大限に考えても、そうした男がどすのきいた声で、「お金をくれない」と願いでたのではないか。もらったほうは自主的に寄付されただけだから、恐喝というほどの事件とはよべないだろう。お願いしてみたら、旅行者がありがたくも親切にほどこしをしてくれた。その程度の出来事では、ないのか。それでなければ、「一万円」という中途半端でもあり、紙幣一枚という切れのいい数字になるのは信じられなかった。 こういう行為におよぶ者がならず者なのは間違いないが、ほどこしであれ寄付であれ、相手が恐喝と考えるかぎり歴とした犯罪だろう。なんらかのお咎めがあるのも覚悟して、行うに違いない。ここは、重要な点だった。つまりプロなら、ねらう相手は容易にお金をもらえそうな脇の甘い旅行者にかぎられる。みつけたら、かんたんには逃さない。びくびくしていれば、だれからみても分かる。女がやさしい声でなにかをいってきても、理由が不明な親切くらい怖いものはない。日本人だって、こまってもいるともみえない外国人にわざわざちかよって用はきかない。自分だけがやさしくされるなんて、どう考えてもありえない。そうした状況があるなら、お願いすればすぐにお金をくれそうな、温和な方にみえたにすぎない。そのくらい、だれにでも推測がつくはずだった。 七〇歳にちかいご夫婦だった。 かぎられた船内だから顔みしりになり、いっしょにお茶を飲んだときに話をされた。 「ヨーロッパは、なんでこんなにスリが多いのでしょうか。私には、どうしても不思議で理解できないのです。今日は、バスのガイドに質問してみたのですよ」 石木は、この問いは微妙な問題を大いにふくみ、正直なんと応じていいのか分からなかった。いちばん正確には、「あなたが、旅行になんかくるからですよ」とこたえるのが適切だろうと思った。彼は、そうもいえずにだまっていた。日本が安全だといっても、深夜の歌舞伎町で路地に入ってうろうろしていれば、それなりの事件に巻きこまれても仕方がない。警察でも一方的に加害者のせいとは考えず、被害者にも落ち度があったと認定する。もう、このへんから分かっているのかどうか、不明だった。 こうした人たちは、せっかく外国にきたのに、お金をとられるのが怖くて団体で移動しているらしい。極端な話をすれば、金銭を所持しているのはとても安全なことだ。命とひきかえに払えば、危機を脱せるのだ。ねらった相手が一銭ももっていなかったら、いろいろ覚悟をして襲ってきた者だって、自分の目利きが悪かったのが原因でもそうとうに不愉快だろう。ただで許してくれるとは、とても思えなかった。だから、旅行で街を歩くさいには多くのお金をもち歩くべきではないと思う。雰囲気が悪い場所からは、すみやかに退散するべきだ。 石木は、昔、インドをひとりで旅した若い時分に、いま考えなおすといささか危険だった場面もあったが、おおむね怖い思いをしたことはなかった。基本的に「急ぐ」のは危ない行為で、注意が散漫になるから避けるべきだ。なにかにたいして「こうだ」と勝手に判断するのは間違いで、何事にたいしてもよく時間をかけて考える必要がある。いままで外国を旅行して、ものを盗まれたり忘れたりしたのは一度もなかった。見知らぬ街を歩くのだから注意を払うのは大切で、危ない場所はなんとなく察知できる。そうした領域にあやまって踏みこむと、一帯に靄がかかり、空気がみょうによどんでいる。変だと感じたら、それ以上は決してすすまずに、すぐにひきかえして違う道をえらぶのがいいと思う。 インドでは、ただ一度、致命的な間違いをしたことがあった。 デリーからボンベイ(いまのムンバイ)にむかう、三日くらいの長距離列車に乗車中の事件だった。列車で排泄して気分もすっきりと立ちあがったときに、お尻のポケットに入れてあった財布が、ちょうど便器の円筒に落ちてしまったのだ。みている目のまえで、真四角の札入れが、おなじくらいの直径のまるい筒の壁に水平になってあたりながら落下していった。垂れ流しだったから、財布は線路上に落ちた。落とした金額は、列車を急停止させてもいいと規則の上限をはるかに上回っていた。しかし、それを教えてもらったときには一〇分以上もたっていて、だれにもどうしようもなかった。パスポートとトラベラーズチェック(当時、カードは一般的でなかった)だけは、首からさげた袋に肌身離さずつけてあったから旅はつづけられた。その金をなくさなければ、もう一ヵ月くらい楽しい旅行ができた額だったから、たいへんに残念なことだった。 いまは、これもいい思い出になっている。旅はなにが起こるのか基本的に分からないから面白いので、命がなくなったのでも怪我をしたのでもなかった。たくさんの人が遭遇する事件とは思えなかったから、貴重な人生経験だった。これに関連して、話しだしたら切りがないさまざまな困難が生じたが、みんな忘れられない思い出にかわっていた。 そもそも、乗船する者たちは、お金をもつ旅行者が地元にすむ貧しい人びとより、なにをしても「たかい金を払うのは、とうぜん」という認識がかんぜんに欠如していた。 「ぼられた」。「高額を支払った」と騒ぐが、お金があって外国まできているのだから、それくらいなんともないことだ。地球で生活する半分の人びとが、一日二ドルにも満たない額で暮らしているのが現実だった。この船が決して豪華客船でなく、客層も乗船したときに考えていたよりひくいのは事実だったが、世界一周をするなんて贅沢のきわみに違いなかった。貧しい方がたにすこしはめぐんでやろうという大らかな気持ちにならないと、旅の醍醐味を味わえない。ほんとうに大金を盗まれ、とりかえしのつかないことが起こるのだ。 勘ぐりぶかい石木は、船の旅行会社はこうした情報をながし、団体旅行に参加する人員の減少をふせいでいるのではないかとさえ感じた。 しかし、おどろくには、実際に被害者もでていたのだった。 リスボンを出港したあとでお茶を飲んでいたとき、ご夫人がとなりにすわってきた。 石木は、なんとなくぶすっとしている方と目があってしまった。かなり異様な雰囲気だったので、つい「どうか、なさったのですか」とたずねた。 ご夫人は、きっと石木をみつめて話をしはじめた。 「まったく、リスボンて、ひどいところでしたわね。スリボンていわれているなんて、あとできかされてもなんの役にも立ちません。もう、神も仏もいないのかって感じです。あたし、すっかりテンパっているんです」 このはげしい言葉から、一部始終をきく羽目になった。 彼女は、あり金のほとんどすべてが入った財布を、リスボンで実際に盗まれたらしいのだった。本人がいうのだから間違いではないのだろう。なかにはいろいろなカードも入っていて、カード情報だけは連絡しておさえることができたらしい。世界一周はまだ道なかばだったので、彼女の悔しさは充分に理解できた。しかも話によれば、団体行動をしていたうえに、財布が入ったバッグを盗まれたわけでもなかった。つまりねらいをつけた盗人は、彼女の鞄のファスナーをあけて、札入れだけをぬきとったらしい。さらに、ごていねいにも、その後にチャックをしめていた。 「どうして、気がつかないのか」 にわかに信じられないが、実際にそうだと彼女は話していた。 「ひどい目にあわれて、なんと申しあげていいのか分かりません。怪我をしないでよかったと思うしか、ないのでしょうね」と石木はいったが、彼女は憮然としていた。 この事件は、はっきりとねらい定めて起こったに違いなかった。犯人は、ある程度の時間をかけ、彼女といっしょに行動したと考えるのが普通だろう。 ぐうぜんに、こんなことはできない。相手はプロだから、どういう者に隙があるのか、みきわめたに違いない。人をみないでこんなことをしたら、必ずつかまってしまう。とれる自信が充分にあって、想定通り盗めたのだろう。お可愛そうだが、この方は注意しないと、もう一度盗まれても仕方がないのだった。 石木は、以前イタリアツアーで、あるご夫婦といっしょになった。旦那さんは、ベルギーで駐在員を何年かしていたらしく英語は堪能だった。海外旅行は、いちばんの趣味だったらしい。気ぜわしい方で、写真をとることに夢中で、石木のまえにでたり後ろにいったり、人の三倍くらい歩いて撮影していた。パスポートは首から下着のなかにぶら下げ、財布は紐をつけてズボンと一体になっていたが、隙だらけだった。石木は、奥さんに被害にあわないのかきいてみた。彼女の話では、くくりつけていた財布を二度ほど切り取られたと話していた。本人が反省しないから、どうにも手当がない。お金はどうでもいいが、カードが盗まれるのは、たいへん面倒だとなげいていた。とことんこまるまで、旦那さんは撮影の夢からさめないのだと分かった。 さて肝心な観光は、一二番線を問題なくゲットできたときに、今日は一日楽しめると決まっていた。あとは、やりたい放題だった。石木は、市電を乗り換えつづけ、一日中、リスボン市街の趣を堪能できた。こんなにのっていいのだろうかというくらい利用して、もとは何倍もとった気がした。 二八番線が走る街の情緒も、充分に味わった。しかし、ケーブルカーにはのりそこねた。発見できたが、乗車しようと思うとかなりむずかしかった。市電は、丘のうえを走っていた。だからケーブルの終点をみつけており、わざわざ坂をケーブルぞいに三〇〇メートルほどくだって出発点にいき、そこでのらねばならなかった。これをくりかえしても、みる場所はとくにないので、また電車をつかまえることになる。かなり面倒だと分かった。ケーブルカーでは違った風情もあるのだろうが、すっかり市電の人となっていたので、一日、なかですごしたのだった。 もちろん、サン・ジョルジュ城にもいった。丘のうえにたてられ、屋根壁が赤やピンクで自由にぬられた彩色豊かな街を一望できた。カテドラルのバラ窓、回廊宝物館、フィゲイラ広場、それから墓地までみたから、ほとんど完璧だった。 最後に寄港したターミナルにむかう市電のなかで、日本人のご夫婦に出会った。とはいっても顔みしりでもなく、きょろきょろしていたので船の乗客だと分かった。この方たちは、無賃乗車だった。目のまえで乗車券が買えるのに、故意とは思いたくはないが一日券もなく平然と下車していた。こういう方たちをみると、なんといっていいのか分からないが、英語が話せなくてもおなじ日本人がちかくにいるのだから、どうするべきか質問することもできるだろう。ごく普通の市電が、無料で営業するのは常識的に考えられない。 無賃乗車は犯罪で、おなじ日本人として、石木はすこし残念だった。 素敵なリスボン、一八枚、了 三、タワーブリッジ 世界一周の船は、フランスのボルドーから一路イギリスにむかった。 一〇月一日、テムズ河口、ロンドンの西にあるティルベリーに入港した。 今回の旅行は天候にめぐまれ、この日も非常によく晴れていた。石木は、七時半に下船すると無料のシャトルバスにのってティルベリー駅に八時につき、往復切符を購入した。列車は、八時半にこの駅を出発し、終点のフェンチャーチ・ストリート駅についたのは九時だった。今日もトラブルはなく、順調な観光ができそうな予感がした。 石木が駅の構内からテムズ川にむかうと、不審と思われる場所にでた。中央がひろくつくられ、両がわに掘っ立て小屋がならんで立っていた。ときおり吹く風が、馬券みたいな小さな紙を宙に舞わせているのがみえた。全体としては、場外馬券場みたいだった。町の中央になぜこんなものがあるのかと、怪しんでみなおすと正面に塔がみえた。不思議な気持ちで周囲をみると、夏目漱石で有名なロンドン塔だった。そこのチケット売り場だった。 石木は、ここは監獄だときいていたが、塔というよりかんぜんな城塞にみえた。本によれば、中央に立つホワイト・タワーは一一世紀後半にウィリアム征服王が要塞として建設し、そのあと獄舎、拷問や処刑の場としてつかわれたと記載されていた。城塞だから、城の外がわをめぐる感じで道がつけられていた。大きいとはいっても、歩きはじめればすぐに終わってしまった。かつては衛兵だったという、赤い縁取りがされた黒い服と、おなじ柄のハットをかぶったビーフ・イーターに、イギリスらしさを感じた。ここで宝石などもみた記憶があるが、あまりに自分と無関係だったのでとくべつの感慨はなかった。三〇分くらいいただけで、観光をひとつすませた感じであとにした。 城をでると、目のまえにテムズ河がながれ、立派な橋がかかっていた。勉強不足の石木は、これがなんなのかさっぱり分からなかったが、みるからに凝ったつくりで、有名な橋梁に違いないと思われた。橋には塔があり、なかでは入場券を売っていた。 日本円に換算すると一〇〇〇円以上にもなるので、たかすぎると思った。(そんな昔の話ではないが、その後に急激な物価高騰が起こった。当時は七〇〇円もだせば、ほとんどの施設に入場可能だった)。塔の頂上からは、テムズ河がよくみえるのだろうが、この値段は納得できなかった。それで状況をみて生じてきた疑惑を暇そうな券売りの職員にぶつけてみると、あきらかに売り子はこまっていた。 「たかいのではないか。イクスペンスィブ。コストリー」と石木は何回かくりかえした。 やがて売り子が「ハン」とかきいた。分からないので首をひねっていると、とつぜんに四割くらい安い券をだしてくれた。経緯は不明だったが、「まあ、いいか」と思って購入した。 塔をのぼっていくと、内部は博物館がつくられていた。そもそも楼閣は、橋の両がわに整備され、上部は廊下にかわってつながっていた。橋自体は、東京の勝鬨橋とおなじ跳ねあげ式らしく、あがる様子が通路からみられる構造になっていた。つまり、両がわの塔をつなぐ廊下には、ガラスの橋がかけられていた。 石木は、状況を理解するにしたがい、次第に興奮してくるのが分かった。この事実からすれば、一〇〇〇円ではとても味わえない面白さで、さらにかかった廊下の天井には一面に鏡がついていた。ガラス廊下に寝そべると、かつて考えたこともない摩訶不思議な世界がうまれた。状況的には、橋のうえに浮かんだ格好になり、石木が横臥する下を多くの人びとが歩く風景がみてとれる。こうした事情におどろき、すっかり興奮し、廊下に横たわりながら天井の鏡にうつる自分の姿を何枚も撮影してみた。 後日、この写真を船内の知りあいにみせると、どんな状況なのかいくら説明しても、すぐには分からないほどだった。こう面白いと、「ごねて」入場料を負けてもらったのは、申しわけなかったと素直に感じられた。おそらく係員は、「ハンディ」といったのではないか。「障害者割引」だった可能性があった。石木は、そのときになってはじめて気がついた。もう一度、もどって職員に事情を説明し、通常の入場料を支払いなおそうかと真剣に思った。しかし、石木のつたない英語でどこまで話せるのか自信がなく、スタッフも対応にこまるに違いなかった。彼女も忙しいかも知れず、もう一度清算するのも、切符を切りなおさねばならない。一存ではできずに、上司に相談する必要があるだろう。かえって迷惑で、判断もむずかしいに違いないと考え、今後はよく説明をうけるしかないと思って、やめることにした。 そもそもこの橋は、「タワーブリッジ」という立派な名称がつけられ、ビクトリア朝の優雅さにあふれているのだと、あとで本を読んで知った。現在でも、日に、二、三回は実際にひらくという。予想外に不思議な橋で、目いっぱい遊んで、下におりて半券をみせると、跳ねあげる「エンジン・ルーム」まで見学させてくれた。すっかり楽しんでしまったのだった。 今日は、これでもう充分に満足し、帰ってもいいくらいの気持ちにもなっていた。 石木は、昼食でもしようと考えて、この橋の下にあるパブレストランに入った。ちょうど開店したばかりで、客はひとりもいなかった。それでいちばん川ぞいの席にすわると、すぐちかくをテムズ川がながれ、俗に「エイト」とよばれるボート競技の練習風景がみえた。橋が開閉するにもかかわらず、陸地よりの部分には、鳥が巣をつくっていた。要するに彼は、うえからも下からも、タワーブリッジを堪能したのだった。 石木は、イギリス名物の「フィッシュ&チップス」を頼んだ。ジュースを飲んでいると、馬鹿でかいあげた魚とフライドポテトがでてきた。これは一日分としても充分な量で、とても全部は食べられなかった。フライドポテトだけでも、腹は満たされた。こんなものを毎日食べていたら、相撲とりみたいになるに違いなかった。そう思ってみなおすと、肥満体の人ばかしが目についた。 石木は、昼食もすんだので、一度、地下鉄にのってみようと考えた。ロンドンでは、メトロではなくサブウェイとよぶらしい。ちかくでみつけたタワーヒル駅から乗車して、ビクトリア駅でおりた。そこから歩いて、バッキンガム宮殿を目指した。 幾度かまよったものの、宮殿の入り口を発見して内部に入ることができた。それほどの人はいなくて、わりと閑散としていた。衛兵の交代式みたいなものもみられるらしい。そういう時間帯は、混雑するらしい。幸いなことに時間が違ったので、がらがらだった。日本語のオーディオガイドがあり、それをききながらいくつかの部屋をまわった。高価な馬車以外には、とくべつな印象をもたなかった。立派な王冠や豪華な宝石類などは、彼とはまったく無縁な代物で、「はあ、そうですか」という感じだった。 宮殿をでてくると、テムズ河にもどるのが、いくぶん問題になった。なかでくるりとまわったために、方向がすっかり分からなくなった。人のながれにそって歩くうちに、閑散としたひろい道にでた。さらに不明になり、テムズ河にいこうとだけ考えて周囲をみまわしながら歩行していると、ウエストミンスター大聖堂とウエストミンスター寺院のまえに遭遇した。ビッグベンもみたように思うが、工事中だった気もする。要は、よく分からなかったのだ。 しかし、帰国してからテレビでイギリスの映像を鳥瞰図的にみると、やはり一回いったのはたいへんな違いで、ひどく懐かしい気がするから人の感覚は面白いと思った。 ちかくに地下鉄のビクトリア駅をみつけ、電車にのってタワーヒルまでもどった。どこかでアフタヌーンティーでもしたいと思って、駅まえの小径を何度か往復したが、残念ながら該当するレストランを発見できなかった。 午後の四時ごろになったので、朝にきたフェンチャーチ・ストリート駅にもどり、構内で売店をみつけ、パンとオレンジジュースを買った。サウス・エンド・セントラル行きの列車にのり、すいた車内でくつろいで食べた。あとで本を読むと、イギリスでは車両内の飲食は禁止とかかれていた。それを知ったときには、すべてすんでいたので都合がよかった。 ティルベリー・タウンにもどったのは、午後の五時一五分くらいだった。 石木は、今日もすっかり満足し、無料のシャトルバスで船に帰った。 タワーブリッジ、一〇枚、了 四、レイキャビクのバス 船は、イギリスのエディンバラをあとにすると、アイスランドにむかった。 石木は、折からの台風で船酔いがはげしく、お粥をすするしかできない日々がつづいていた。北極圏にちかづくと海はさらに大荒れとなり、そのなかでオーロラをみつけようと努力するので、四日ほど右往左往する予定だと船内放送が入った。船酔いの彼はデッキにあがる力もなかったから、一刻もはやくアイスランドのレイキャビクに入港してもらいたいと必死で願いながら、ベッドに横たわってこみあげてくる吐き気をこらえていた。 その祈りが通じたのか、とつぜん、「オーロラは、とても状況的に望めないから今夜のうちに港に入る」というありがたい船内放送がながれた。現金なもので、それをきくとすぐに船酔いは楽になり空腹を感じた。それで船内の居酒屋に入って、しばらくみるのも嫌だったご飯を食べ、その日はゆっくりと眠ったのだった。 船酔いでずっと寝ていたので、レイキャビクについて事前の情報はなにもなかった。とはいっても、旅は成り行きだったから、あわてる事態でもなかった。どちらかというと、レイキャビクは観光できる自信をもっていた。アイスランドの規模から大きな町とは考えられなかった。主産業は観光くらいだろうから、必ずや街なかにインフォメーションがあるはずだった。そこへいけばお客だから、どんなにつたない英語でも要望をきいてもらえるに違いないと確信していた。 夜のうちに港に入ったのでゆっくり眠れ、おかげで体力は回復していた。 七時半に下船すると、例によって一枚の地図をもらった。それから判断すると、レイキャビクの街まではすくなく見積もっても四キロちかくはあり、早朝という時間からも歩くしかないと思えた。旅の基本は徒歩で、それもマップをみてよく考えてすすむだけだ。グーグルで自分がどこにいるかが分かると、人間が本来もつはずの方向感覚がやしなわれず、衰退するに違いないと信じていた。とはいっても、港の風情をみても歩く方向は一方にかぎられ、間違いようもなかった。 素晴らしい朝ですこし肌寒いとは感じられたが、ぶらぶら歩行するにはちょうどいい気候だった。団体行動の愛好者たちが、船つき場でバスがくるのを待っているのがみえた。 出発する時間がはやかったので、だれにも邪魔されずに海岸縁を歩いた。それにしても美しい光景で、寒々としているといわれれば、否定はできなかった。 石木は、こうした街にすんで、真っ青な大海原をみて暮らしたいと思った。 海岸にそって幹線が走り、脇に歩道がついているが、ところどころにベンチがあってすわって海をながめることができた。早朝にランニングや、犬と散歩をする日本人ではない人びとにあい、外国にきていると実感できた。ぶらぶらと歩いて、九時まえに街の中心部についた。案の定、大きなインフォメーションが扉をあけている最中だった。 店のなかに入れてもらい事情を話すと、ちょうどいいのがあるといって地元企業の「ゴールデン・サークル・ダイレクト」という半日のバスツアーを紹介してくれた。値段も、船会社が用意したツアーよりもずっと安かった。価格はともかく、日本人といっしょでないのは外国にきた感じになれるのでよかった。 係の女性から一二時にピックアップする場所を話されたが、よく分からないので何度もききなおして地図をかいてもらった。職員は根気よくつきあって、非常に親切に教えてくれた。予約をしてお金を払ったあと、実際にひろいあげる場所を確認してみた。係員が「かんたん」といっていたが、じつはこの区画のたんに裏だった。標識もふくめてなにもないので、そこ以外には考えられなかった。決められた時間よりも、すこしまえにこようと思った。 レストランに入って、お茶を飲んだ。カプチーノだったが、いくぶん割高な感じがした。一二時の出発なので、一一時ごろにブランチを食べるのがよかろうと思った。 街なみをみても、とくに観光する価値はなさそうだった。ただひとつ、ハットルグリムス教会という白い建物があり、これしかないと思って歩いた。ちょうど船のツアー客たちもバスでやってきて、観光スポットはここだけだったので多数の顔なじみと出会うことになった。入場料を払い教会に入って、エレベーターでついたところは、周辺にたかい建物がないのであたりを一望できた。 街は非常に小さく、石木の好みだった。彼は、マイナー指向で辺鄙な場所が好きだった。 船内の英会話スクールの教師、キャサリンは、アメリカ人で三〇歳なかばの独身女性だった。ブロンドのながい髪を、ポニーテイルにしてまとめていた。彼女は、英語教師として新潟に二年ほど赴任したと話していた。会話がよどむと、「んだべー」といって笑わせてくれる痩せた女性だった。乗船まえは、シカゴで貧しいアジア系の人びとに英語を教えていたらしい。知的で、繊細な気遣いができた。この船にはボランティアでのり、旅費はかからないが、お金もでないといっていた。彼女は、すこし常識的な道からはずれているのだろう。それでも、アイスランドの風景は寂しすぎてついていけないと話していた。 石木が「ここにすんでもいい」というと、キャサリンは「あたしには無理」とこたえた。 たしかにこの風景は、北欧神話のイメージに合致していた。見方によっては拒絶的で侘しく、孤独感がひしひしと募ってきた。風に吹かれれば、そのまま帰れない場所までながされていく風情もあり、彼女の考えも理解できた。 予定通り一一時にブランチをとって、一二時まえにピックアップに指定されたところで待っていると、小型のバスがきた。その場にいた何人かといっしょに乗りこんで、バスセンターにいった。予想以上に大きなセンターで、大型バスがたくさんならんでいた。おそらく、船のツアー客もこの観光バスを利用するのだろう。指示されたバスに入ると、だれもいなかった。ガイドに「いちばんまえに、すわってもいいか」ときくと、「どうぞ」といわれたので腰をおろした。 マイクロバスは、市内のさまざまな場所から人をあつめてくるらしく、三〇分くらい待つと車内はほとんどいっぱいになった。バスは外国人用で、座席は日本のものよりもひろく快適だった。 観光バスは、一二時半に出発した。 目のまえは一面のガラス窓で遮るものもなく、寂しく貧しそうな、それでいてというか、そのために、とても綺麗で自然にあふれたアイスランドの風景をみることができた。町はすぐになくなり、バスは大自然のなかを走っていた。天候が不安定で、ときおり雨がふりだしたり、やんだり、はげしくなったりしていた。こうした変化が、いちばんまえの席だったためによくみえた。雨がふりだすと、かんぜんに寒村のイメージになり、いっそう侘しく思われた。 バスのガイドは、ずっとしゃべりつづけ、TAXの話をずいぶんしていたが内容はほとんど理解できなかった。ただ食事して物価がたかいのはすぐに分かったから、その話題だろうと思った。みんながいっせいに笑う場面も、何度もあった。冗談をまじえて話す、ベテランのガイドだった。彼女は、最前列の石木がまったく笑わないので、英語が分からないと確信していた。 情緒のある風情をみながら一時間くらいのると、「ゲイシール」にでた。ここは、間欠泉で、熱湯が一〇メートルから二〇メートルくらいのたかさまで噴きだすさまは迫力をもっていた。このあたりで、船のツアー客と遭遇した。みなれた客が何人もいたが、彼らは午後のツアーをとったので、ハットルグリムス教会にはいけないらしかった。いってもたいした建物ではなかったが、両方みられることになったのだと分かって、かなりいい線で観光ができているらしいと感じた。それから小一時間ほどのると「グトルフォス」の滝があった。日本にはない圧倒的なスケールで、大自然を満喫できた。もうもうと飛沫があがり、靄となりただよっていた。世界中から観光客がきていて、六、七人の外国のグループがいたので、写真をとってやった。 島には、こうした風景が散在するらしく、一周まわればかなり面白いだろうと思った。途中からバスに合流する、リュックを背負った少人数のツアー客も見受けられた。オーロラはともかく、すくなくても満天の銀河は保証されているのだろう。そうした機会をもちたかったが、もうすこし英語が話せないと面白いことはかぎられるので、語学の勉強をしたいと思った。 時計をみると、午後三時半だった。これで帰るのだろうと考えていると、バスは二時間ちかく走って午後五時すぎに、「シンクヴェトリル国立公園」までつれていってくれた。ここは、地球の割れ目、といわれる場所だった。断層が露出し、一方がユーラシアプレート、他方が北アメリカプレートで、この地域で両者が分かれる「ギャウ」ともよばれていた。雨がふり寒くなりはじめていたが、もってきた傘をさし、いけそうな道を散策した。人数もすくなく、夕暮れどきの小雨で肌寒いなか、断層が切られた寂寞とした小径を、折りたたみ傘をさして歩くと、さすがに暖かい世の中からみすてられた気がしてきた。北欧神話がえがく世界は、こんな感じだ。この気分になれたのなら、アイスランドを観光したといえるだろう。個人的には、バスツアーに充分に満足した。 帰路につくと、ガイドは、石木が日本人であるのが分かっていた。 「船できたのか」ときいた。 「そうです」と石木はこたえた。 「港にいけばいいのね」といった。 「おくってくれるのですか」と石木はおどろいてたずねた。 ガイドは、「いってあげるわ」とこたえた。 なにしろ、町から港までは四キロあるから、帰りはどうしようと思っていた。たいへん親切な提案が示され、ほんとうなのかどうか、よく分からなかった。きき間違えた可能性も考えて、もう一度念を押してみると、「大丈夫よ」とガイドは明言した。 午後七時すぎ、石木ひとりのためだけに、観光バスは港に立ちよった。 ここから街にもどるらしかったが、非常にありがたかった。半日の観光だったが、充実した内容でだれもが満足し、つかれていた。乗客のなかには、寄り道などしないで一刻もはやく街にもどりたい者たちも多かっただろう。英語もままならない、こんなチャイーニーズだか、タイワンだかも不明な者のために、わざわざサービスする必要はないと考える人びともいたに違いない。 石木は、冷たい視線を感じた。 それで、おりるとき、運転手にむかって「サンキュー・ミスター・ドライバー」と大きな声をかけた。これは、うけた。乗客のだれひとり、石木が英語をしゃべるとは考えていなかった。一瞬、静かになり、それから、ものすごい喝采につつまれた。反響は、予想以上に大きかった。 石木は、みんなの拍手につつまれて下車までできたので、レイキャビクのバスに最高の一日を感じた。おりるとガイドがいた。 「ありがとう、世界でいちばん素敵なガイドさんでした」と彼はいった。 ガイドがおかしそうに笑ったので、石木は握手をした。 レイキャビクのバス、一三枚、了 五、コリントの夜 パナマ運河をぬけた船は、一〇月二九日の午後の二時、中米のパナマ共和国のとなり、ニカラグアのコリント港に着岸した。 ニカラグア共和国なんて、パナマを通ってきたから中南米の国だと分かったが、急にいわれたら、どこだかすぐにこたえられる人のほうがすくないだろう。 かつて象牙海岸とよばれた西アフリカには、いろいろな名前のあたらしい国家ができているらしい。寒い蔵王のスキー場で、赤色のコートをきてロープウエーの切符をもいでいた褐色の肌をした男が、そのあたりの出身だった。きちんと説明をうけても分からず、ネットで検索したことがあったが、もう名前は忘れてしまった。ながい丈の分厚いコートが不思議なほどよく似合っていたが、激変の人生だったに違いない ニカラグアの首都は、内陸部のマナグアで、出航は翌日の一〇月三〇日、午後七時だったから、観光をするなら明日と思っていた。 ダンスで知りあいになったマレーシア人のアンジェラが、もうツアーは嫌だとさかんにいうので、いっしょにどこかにいこうと考えていた。彼女は、六〇歳くらいのかなり太った陽気な女性で、いつもなにかを話していた。 石木の英語力では、抽象的な話はまったく理解できなかった。いっしょに受講していたダンスは日本語で、教師の説明は具体的だったから、つたえて教えることができた。とはいっても国民性によるのか、基本的に踊りはうまくて、彼はリズムにのれない。踊っても彼女のリードにかわり、いろいろと指導をうけた。 アンジェラは、ついにこの会社のツアーの実態をすっかり理解し、なんとか違う旅行がしたいとくりかえすので、それでは企画しましょうという話になっていた。 一四時にコリントにおりると、みるからに小さい漁村でたいした産業もなさそうだった。中米は、どこも悲惨な状況とは知っていたが、実際に貧しい。すべてアメリカが悪いが、搾取されてきた国は政権が安定せず、一部の超金持ちがいるだけだった。こうした国々をまわると、日本にうまれてよかったと必ず思うことになった。 アンジェラの命をうけた石木は、面白い企画を立てようと考えていた。コリントは、なにせ産業がないので観光に総力をあげようと試みていた。そうはいっても、人材も豊かではなく、ノウハウもつたなかった。船つき場のちかくに観光課の者が机をふたつならべていたので、ちかづいて個人観光がどの程度までできるのかきいてみた。 相手をしてくれた男は、三〇歳なかばで真っ黒だった。 いいお客がきたと考えたらしく、石木につき切りになった。こちらが、総勢、六、七人でバスを借り切って、明日、観光できる場所をめぐってみたいというと、責任者がいまはいないからと話すばかりで、値段の話ができなかった。 埒があかなかったので「床屋にいきたい」とつげると、紹介するとこたえたので男についていった。日盛りのなか、小径をいくつかまわると「ここだ」といわれた。立って待っていると、男は木製の扉をたたき主人をよびだした。ところが、今日は休日だとつげられたようだった。もう一軒あるというので、また小径を歩いていった。表通りにでると、床屋がみえた。みょうな感じがしてみまわすと、五〇メートルも離れていないところに観光課の机がおかれていた。はじめから、ここへくればいいのを、なにかの関係からべつの場所に石木をつれていったのだった。船内の理容室は、それこそ独占企業で、値段がたかいばかりか予約制で、しかもたいそう待たせるという話で評判がすこぶる悪かった。適当な寄港地で、床屋にいきたいと前々から考えていた。 こういう観光なれしていない土地で、基本的に「ぼられる」ことはなかった。いちおう主人に値段をきくと、「五ドルだ」といった。住民には、いくらでやるのかとたずねると、「街の者は、三ドルだ」とこたえた。これを、住民なみの値段にさげるのは無茶な話だった。楽しく旅行するには、このへんをよく理解する必要があった。六〇〇円でながくてうっとうしい髪を切ってくれるなら、やりとりを面白いと思って、いい気持ちで仕事をしてもらうほうが断然よかった。世界中のどこにいっても、このお金の話は言葉が分からなくても通じるから、たいへん不思議なものだった。 かなり年配の主人は、英語ができなかった。ところが観光課の男性は、石木をなんとかつかまえて、「いいカモにしよう」とたくらんだらしい。床屋で髪を切る最中も、ずっと同席しているのだ。この男は英語が分かり、石木より流暢にあやつれそうだった。 それで彼に、「ショートカットにしてもらいたいのだが、昔、インドで床屋に入っていったら、気がついたときには坊主だった。丸刈りは嫌だから、希望をつたえて欲しい」というと通訳した。親父は笑って、「まかしておけ」というような言葉で安心させてくれた。三〇分くらいでさっぱりしたので、一ドルチップをやった。 観光課の男性はついてきて、ずっと離れなかった。そのうち、お金を決められるべつの男がきて相談となったが、かなり面倒くさい話だった。要するに交渉相手は観光課で、個人でないので、なにがいくらと決まっているらしい。とはいっても、しょせん中米の小さな町だから、すべてが決定しているのではなく、いい加減なのだ。 値段が定価なら仕方がないのだが、石木が英語を充分に話せないことで、なにか誤魔化し、それこそ「ぼったくろう」と思っているのがすぐに分かった。 大まかな話をきいて、「もっとよく言葉ができる者をつれてくるから、もう一度、今日中に必ずあいにくる」という決意をつたえて、ようやっと別れられたのだった。 街を歩くといっても、歩きようもないほど小さい村で、おそらくクルーズ船も滅多に寄港しないのではないだろうか。石木の客船は、クルーズでもかなり小型で、「飛鳥」みたいな豪華客船とは違っていた。しかし、これだけ船酔いするのがあきらかなら、もう船旅はできないだろう。 いく場所もないので村を中心にさ迷うのだが、人がきそうもない浜辺を歩いていると、すこし洒落たレストランがあるのに気がついた。中心部からかなりはずれ、夜はそうとうに暗そうだった。あたりには、ほとんど民家もみえず、海辺に面してたてられていた。 こんな場所に旅行者がいってもいいと思えるレストランが経営しているのは、店になんらかの魅力があることを示していた。期待できるのではないか、と勝手に思った。洒落たとはいっても、周囲の貧民街と比較しての話だから、とうぜん限度は知れている。しかし、立派な円柱がところどころに立つ、スペイン風といってもいい石づくりだった。そこで夜は、ここでなにか食べてみたいと思いながら一度帰船した。 船にもどるとアンジェラがいたから、進捗のぐあいをつげると、「マレーシアの仲間が安いマイクロバスをチャーターするから、それにのろう」といった。どんな話なのか分からないので考えていると、交渉する中心的な人物をつれてくると話しだした。 ホールで待っていると、石木のイメージとはまったく違う男がでてきた。強引な調子で、「自分の決めたものが最高だから、いっしょにのるのがいい」といった。 かなりの小柄だったが、態度が大きく、ぞんざいな言葉づかいで品がなく、肩幅だけがひろかった。日本の土建屋の親父に一致する体型をもつ男は、非常につよく自分の意見をすすめた。アンジェラがいいというから、その主張も尊重し、石木のほうの話はことわることにした。それで夕方もう一度、船つき場に机をだしている観光課の男にあった。 男性は、ずっと待っていたらしく、彼をみると嬉しそうな表情になった。 「ほかの者たちと、べつのツアーにいくことにした。あなたが話したよりもずっと安く、マイクロバスを一日貸し切る話だ」といった。 すると、値段をきいてきたから、男が呈示した三分の一くらいの金額をつげてやると、だまった。 この男性の話は、観光名所を順にかいていき、ひとつひとつ、ここがいくらで、こちらはこれくらい、というつみあげ方式だった。どう考えても、一度にまわるという割引条件から隔たりがあり、交渉するなら半額と思っていた。実際に値段をつげると、男は思惑と大きく違い、なにかを話そうとした。 石木は、「もう、決めたから」といって交渉をうち切った。 それから、昼にみておいたレストランまで歩いた。夕方でまだ日があったが、周辺はひどくうらぶれていた。舗装もされていなかったが、道はひろくて大海原がみえた。 レストランに入り、海よりの席にすわると緩やかな風が頬にあたり、ちょうど太陽がしずんでいく最高のロケーションにめぐりあった。メキシカン風ともいえる石づくりの店で、暑くも寒くもない戸外におかれた椅子に腰をおろし、大海をのぞむなにもない場所で、潮の音と匂いに満たされながら、ほとんどひとりで夕食ができるのだ。 ここは太平洋の東海岸ぞいになるから、太陽が海にしずんでいくのはとうぜんだった。よく晴れた日で、遠くまではっきりみえ、のんびりとした風景がひろがっていた。 ウエイトレスがきてメニューをもってきたが、スペイン語のものしかなかった。英語の品書きを頼むと、返事もしないで彼女は姿をけした。 レストランは、海岸よりに石の壁がつくられ、ひろいテラスになっていた。波が石壁にあたる音がくりかえされ、いい雰囲気で幾組かの人が食事を楽しんでいた。子供づれもいたが、かなり金持ちにみえた。ほかの者も、田舎だから都会みたいな背広を着用した紳士ではなかったが、それなりの服装で食事していたから、石木の見立てはあやまりではなかった。 しばらくたつと、先ほどのウエイトレスがやってきて「こちらにこい」という仕草をした。ついて建物のなかに入っていくと、主人と思われる女がいた。その女性は、二階にすみ、よばれたからでてきてやったという感じで階段の途中に立っていた。 四〇歳くらいのかなり気位のたかそうな女で、英語で「なにが食べたいのか」ときいた。 石木は、「メニューをみたい」とこたえた。 女は、「英語の品書きはない」とぶっきらぼうにいった。 石木は、偉そうにしている女性をぼうぜんと見あげた。 女主人は見下ろしながら、「食べたいものをいえ」と命令口調でつげた。 痩せた黒い女は、ながい黒髪をもっていた。髪にはつやがあって、日差しの加減で光沢をはなっていた。青がベースになった、裾のながいドレスをきていた。そこには、紺色の文様がえがかれていた。やや赤茶けた階段に立つ女は、背筋をのばし、堂々としていた。黒と紺が、石がはなつ暖色の赤に映えて引きしまり、猛烈に格好がよかった だまっていると、女はつんとした感じで、背をむけ、階段をのぼって自室に帰ろうとした。 「ステーキとテキーラが欲しい」 石木は、背後から声をかけた。 振りかえると、女は面倒くさそうにウエイトレスに注文をつげた。そして、足早に階段をのぼって消えていった。 女主人は、メキシカンの映画、たとえば「用心棒」にでてくる土地のヤクザの「情婦」という感じで、それなりに決まっていた。若いころなら、けっこうすごく、いまだってかなりの美人にみえた。映画にでてくる情婦は、敵であっても味方であっても、背筋をすっとのばし、堂々としていた。女の挑発的な映像は、心をひく場面をつくっていた。それが情婦という女性の魅力を引きだす装置になっていた。とはいえ、客に主人のところまでいかせ、見あげて食事の内容をたずねさせるなんて、ずいぶん横柄だとは思った。もしかすると、ほんとうに情婦だったのかもしれない。石木は、もう一度、状況を考えていた。 すっかり暗くなってからステーキがでてきたが、美味しいものだった。船の食事は貧弱で、とても我慢できなかった。だから外にでると必然的に牛肉を食べることになったが、ここはかなり美味しかった。ちかくにいた土地の者たちが、とはいっても金持ちなのだろうが、なにかを話しかけてきた。テキーラを飲んだ石木は、けっこういい加減な英語を話しながら、ひどく盛りあがった。男のふたりづれで、ひとりは大学に通い、叔父さんの家に遊びにきたといっていた気がする。酔った勢いだったから、なにを話したのか不明だった。大学生とはいっても、相手の英語も石木なみで、互いにどの程度理解したのか、かなり疑問詞がつくところだった。すっかり酔って、清算し、いい値段だったがロケーションとしては、かんぜんに満足したので帰ることになった。もう道は真っ暗で、なにが飛びだしてくるかも分からない状況だった。 石木は、こうしたときにたくさんの金をもって歩くことはなかった。とはいっても、この日はどんなに暗くとも、襲われる心配をまったくしていなかった。こんな小さな村にクルーズ船が入港するのは、ひどくありがたい話で、滅多にない機会なのは、村人の対応で分かっていた。そんな村落にとって、せっかくやってきた船の乗客になにかをしたらたいへんで、村八分にあうだろう。彼が床屋で髪を切ったことも、もう村の人は知っているはずだった。そのとき、村人の料金をきいたうえで倍ちかくの金を払い、さらにチップもやったのだ。こんなに落ち度のない旅行客を、大切にあつかわないとは考えられなかった。 石木は、ふらふらとしながらも道を間違えずに、船がついた方角に歩くと、バザールがでていた。これも、いつもやっているのかもしれないが、今日は普段と違う日だから大挙して出店しただろう。村の規模からは最大限の歓迎という感じだったので、店に入って適当に土産を買った。 翌日、朝、七時五〇分にロビーまえに集合して、石木はマレーシア人といっしょに旅行することになった。構成は、あの土建屋の親父が家長で、さらに妻、妹とその夫、それにアンジェラと彼女の友だちだった。 チャーターしたマイクロバスは、一〇時半に首都のマナグアにでて、共和国広場やカテドラルをまわった。見晴らし台にのぼり、快晴のなかで中米の街なみをみた。独裁者たちは、最強の軍隊をみせつけ、自国人を脅すために、こうした広場が必要になるのだろう。運転手は、家長の言葉にしたがって、いろいろなサービスをしてくれた。英語なのかマレー語なのか分からないが、家族はずっと会話していた。アンジェラは気をつかっていろいろと言葉をかけてくれたが、抽象的な話は石木の語学力では不明だった。 午後になって、一時すぎに「レオン・ビエホ」という遺跡みたいな場所にいった。だいたいが、中米はみるべき建物もなく、観光地にとぼしいのは理解していた。戦争でボロボロになったし、先住民はすっかり殺され、親米と反米のクーデターが、どこでもくりかえされていた。観光する場所など、あるはずがなかった。見学といっても興味もわかないところだったが、ぐるりとまわって帰ってくると船のツアー客がやってくるのに出会った。たしかに観光地にとぼしく、ツアーもここを目指すより仕方がなかったのだ。三台ほどのバスに分乗したたくさんの人のなかに、ダンスの先生がいた。 「すごいわね。どうやって、こんなところまでくるの」と彼女はきいた。 このころは、石木がツアーという手段ではなく、さまざまな場所に勝手に出現するのは、一部の人にはよく知られていた。 先生は、細身でながい髪で、顔形はととのっていた。若いころは美人で、派手な人生を歩んだのだろう。それなりに、苦労もかさねたのだろう。いっしょに酒を飲むと、アメリカンナイズされた雰囲気とは別人にかわり、演歌一色になって、ずっとマイクを握りつづけていた。彼女は、まったく個人的に、ジルバを教えてくれた。 今回の旅で、石木はルンバを覚えた。とはいっても、レベルはとてもひくい。 マレーシア一行は、それからヴォルケーノや水鳥をみるなど、かなりの強行軍で観光した。最後にスーパーによると、家長は、「フルーツを買え」と指示をだした。土建屋は、なににたいしても指図をしないでは気がすまないのだった。圧倒的に仕切るやりかたにたいしてはかなり不満がのこり、アンジェラがそのあとにもいっしょにいこうと誘ってくれたが、すべて自分で勝手にやるといって、ていねいにおことわりした。 バスのチャーター代金は、総額二〇〇ドルだった。最後に、あまったこの国の通貨を適当な価格でドルと交換させる様子は、貧しい人の頬を札束で打っている感じにみえた。いっしょに旅をしようなんて、考える連中ではないと思ったのだ。 彼らといけば、手頃な値段で多くの観光地をめぐれるかもしれない。たくさんの写真をとることも可能だ。しかし、面白い観光はとてもできない。 いろいろな場所にいって、写真をとるのが旅行ではない。その土地の人と触れあってみるのが石木の望む観光で、これが面白いのだ。ここを理解するには、根本から自分の考え方をみなおさないと、普通はできなかった。 コリントの夜、一九枚、了 六、ハワイ島の老女 ヒロについたのは、一一月一一日で、よく晴れた日だった。 石木は、なにしろ船酔いがひどく、太平洋をわたるのはとても不可能という結論に達した。オアフ島で船をおりて、日本には飛行機で帰ることにした。ハワイ島は、終着点のひとつ手前の訪問地となった。 船上から、キラウエア山の鈍い赤色をした火口(ヴォルケーノ)がみえた。しかし、食事もとれないほどのひどい船酔いで、ガイドブックを読むことさえできなかった。だから、ヴォルケーノにいけるとは、まったく考えていなかった。例によって下船にさいし、船会社からもらったハワイ島の一枚の地図が、もっていた情報のすべてだった。 石木は、もともとハワイなどという有名な観光地など、いこうと思ったこともなかった。だから興味もわかず、なにも知らなかった。しかし、ハワイともなれば世界的な名勝だから、インフォメーションが整備されているに違いなかった。そこでしつこくたずねれば、ヴォルケーノへはいけなくても一日遊ぶくらいのことは、むずかしいはずはないとだけ考えて船をおりた。 船つき場が、ヒロの市街とどういう位置関係かもよく分からなかった。船のツアー会社から、自分で街にでるにはタクシーにのるしかないといわれていた。だからツアーに参加しない者たちは、五つのながい列をつくって自動車を待っていた。 クルーズ船には、一五〇〇名以上が乗船していた。乗客だけでも一〇〇〇名をこえていた。船会社の企画するツアーに参加しない者は約半数だった。五〇〇人が一挙に列をつくったから、みわたせるかぎりの船つき場は、一面が人だらけという状態だった。こんなに乗船していたのかと、あらためておどろく状況だった。 一〇〇日ちかくおなじ船内でともに寝起きをしたといっても、しばしばあう方と、まったく見覚えのない人がいるのは不思議な現象だった。知りあいになる方たちとは、どこかしらに似た行動をとっているに違いなかった。 ぼうぜんとならんでいると、顔なじみの広島の奥さんがやってきて同乗しないかと誘ってくれた。たしかに、この状況のなかひとりでのっても仕方がなかった。ついていくと、やはりよくみかけ、顔みしりになった母と娘の親子が立っていた。広島の方にはご亭主がいて、三組で相乗りすることにした。しばらく待つと、順番がきた。タクシーは、ヒロの市街と往復しているらしかった。おなじ車が二〇分くらいでもどってくるから、そんなに遠くではないと推測できた。タクシーの車内は、三列になっていた。広島のご主人が助手席に、奥さんと親子づれが真ん中の列に、石木はいちばん後部座席にすわった。乗りこむと、ご亭主はドライバーと値段の交渉をはじめた。やがて広島の奥さんが振りかえって、「運転手が一五ドルというのを、主人が九ドルまで値切りました。あなたの分は三ドルです」といった。 それで石木は、つげられた額を払った。 「すごいでしょう。六ドルも値切ったのです。あなたは、二ドルも得したのです」 奥さんは、目を輝かせていった。 小さな街なみがみえてくると、すぐに降車場だった。ここが終点のバスターミナルだといわれた。広島のご夫婦は、滝をみるとか話して歩いていった。親子づれも道をわたって市場の人混みのなかに姿をけした。 石木は、ひとりバスの終点にのこされることになった。 ハワイといえば、大きな観光スポットに違いないとばかし思っていた。 実際にみるヒロの街は、なんだか拍子ぬけするほどの規模だった。テントをはった露店が道路のむかいにならび、タクシーでつぎつぎにやってきた連中が右往左往しているのがみえた。一見したところ面白そうな場所でもなく、地元の人が野菜を売っているだけだった。船の連中がそこにとどまっているのは、おそらく理由があったのだろう。 広島の夫婦は、レインボー滝をみるとか話してさっていった。船会社からもらったマップには、街のちかくに小さな青い丸があった。そこには、たしかにレインボー滝と記載されていた。そうは離れてはいなくて、徒歩でいくことが可能なのだろう。とはいえ、みまわしてみても山もみあたらず、あたりは浜辺だった。地図にかかれているのだからあるのだろうが、グルファストみたいな景勝のはずがなかった。レインボーは、虹だから空にかかるもので、滝の名称としてふさわしいとはいえなかった。どこから考えても怪しかった。みる価値をもっているなら、観光として成立し、このへんに立て看板など相応のガイダンスがあってしかるべきだった。それらしい宣伝はなかったから、さがしても無駄だと確信した。 石木は、この閑散としたバスターミナルをみたとき、今日はなにもできないかもしれないという荒んだ気持ちに襲われた。みまわしても街なみもとぼしく、インフォメーションのひとつもないのだ。 ターミナルと英語でいわれると、いくつかのバスが発着してさまざまな場所にむかう起点というイメージをもっていた。しかし実際にはたんなる終点で、停留所がひとつあるきりだった。ターミナルの後方は、屋根のついた待合所になっていた。二列の安っぽい茶色に色あせた木製のベンチが五つずつならんでおかれていた。バスを待っている人は、いなかった。タクシーがきたのは右手の国道ぞいだったから、まだ左にむかって道がつづいていた。陸がわには土産物店やレストランがみえるが、規模は小さかった。海岸がわは、駐車スペースになっていた。車社会なのだろう。むかいの店舗につとめる人びとも、自宅から車でやってくるに違いなく、そうした者たちの駐車場がひろがっていた。こうした雰囲気から判断するなら、たぶん左がわの道路を一〇〇メートルも歩けば、街なみも終わってしまうのだろう。 ヒロを代表するバスターミナルがこの程度だとすれば、おのずと街がどんな感じなのかは推測できる。駅は、非常に分かりやすい指標だった。石木は、知らない街についてどう観光したらいいのか情報がえられないときには、まず駅舎にいくことにしていた。駅をみれば、その土地がかかえている問題がおおむね分かるといっても過言ではなかった。 待合所の後ろは、五〇メートルくらい先で浜につづいていた。途中に舗装された円形の広場があり、周囲にベンチがおかれていた。祭りとか演説会でつかわれるのだろうが、いまはみょうな人びとがたむろしていた。はっきり感じる雰囲気は、非常にネガティブなもので、二〇人くらいのなかには男も女もいるが、そうとうに怪しかった。 どう考えても、平日の午前中、広場にたむろする人間なんて、最大限好意的にみてもホームレスで、あとはほとんど盗人の類ではないかと想像できた。そこをぬけて浜にむかって歩き、もう一度、バス停までもどってきた。こうして目的をもって通過するだけなら問題はなさそうだが、このみょうな広場の真ん中で立ちどまったら、なにが起きるのか分からない状況だと理解した。すくなくとも、こうした人びとにかかわっていいことは絶対ないという確信はもてた。あたりをながめながら、どうするべきか真剣に考えていた。かつての経験から、いまなにかを決めることができなければ、今日の一日は浜辺をみてすごさねばならない予感だった。だからあわてて街にむかうより、ここで充分に考え、ある程度の結論をだす必要があった。いうならば、今日の勝負の分かれ目だと確信したのだった。どうせ街を歩いても、一時間かければ二周くらいできそうだった。だからむかいの露天商に、船の乗客がいつまでたっても、うろうろしているのだろう。 ベンチのまえで両腕をくんで立ちながら、み落としがないかとながめていると、切符売り場らしき小屋があるのに気がついた。ローカルな駅につくられた、新聞などをあつかう小さな売店というイメージだった。ひとりがようやっと入れるだけの建物で、左がわに一〇〇メートルにわたってひろがる駐車スペース全体のなかで、まったく調和を欠き、なはだしい不審物に思えた。よくみると、そこに女がいた。街の状況をきくことができるとすれば、この女性以外にありえないと確信した。小屋にむかってちかづいていくと、窓のうえに小さな字で「INFORMATION」とかかれているのに気がついた。 石木は、この女性と話しはじめたのだった。 ほかにだれもいなかったから、彼女は街がおかれている状況を、かなりくわしく教えてくれた。石木のつたない英語にも真摯に対応し、ついにここで時刻表をもらい、午後一時四〇分にくるヴォルケーノ行きのバスにのれば、キラウエア火口にいけるという貴重な情報を手に入れることができた。ヴォルケーノで、午後五時五〇分発の乗りあいバスをつかえば、六時五五分にバスターミナルにもどってくるのが可能で、さらに料金が片道二ドルという事実までききだすのに成功した。女性と彼の考えが一致している証拠として、時刻表に記された乗車時刻をマーカーペンで黄色くぬる作業までできたのだった。 石木は、すっかり元気がでてきて、おもむろに街の散策をはじめた。 すこし歩くと、「津波博物館」がつくられていた。さえない建物だったが、街の中央にあるからには、観光はせいぜいこの程度だろうと思って入ることにした。 「TSUNAMI」が英語として通用するとはきいていたが、実際に確認する事態になった。 思った通り、みるものにもとぼしく、もうでるしかないと考えたとき、マレーシア人のアンジェラがいるのに気がついた。彼女とは、けっこう仲がよかった。マレーシア人の仲間とツアーをやっているから、こないかと誘ってくれたが、丁重にことわった。ニカラグアでいっしょに行動してみたが、石木が「家長」と名づけた団体をひきいる土建屋の親父みたいな男と、旅の理解が大きく違い、一度参加してうんざりしたのだ。 博物館からすこし歩くと小川があり、そこが端で、あとは内陸に入っていく予想通りのしけた街だと分かった。この時点で、ここにはみるべき場所は「ない」と確信した。あとは、ヴォルケーノに期待するだけだった。ここで、食事をしておこうと考えた。一一時をすこしまわったころだったが、船内では食べられないステーキを注文し、バスが出発する午後一時四〇分まで、仕方がないと思ってビールまで飲んでゆっくりとすごした。 午後の一時ちかくにレストランをでて裏通りを歩き、ターミナルのむかいになる野菜を売る露天商が大きなテントをはって二〇軒ほどならんでいる場所につくと、日本人はまだうろうろしていた。 石木は、待合所のベンチのいちばんまえに陣どっていた。しばらくすると、顔なじみなった英会話の女性教師がやってきた。彼女は、石木をみて微笑みを浮かべ、後ろのベンチに腰をおろした。 船内では、ゲットという英語の会話スクールがひらかれていた。たしかに、haveとか giveとかつかえないとき、getという単語は非常に役に立った。 石木が船内で通っていた中級クラスの担任は、キャサリンというアメリカ女性だった。彼女は、新潟で英語の教師をつとめた経歴をもっていた。この船にのるには、応募して面接をうけ、採用通知をもらわねばならないといっていた。世界一周の費用は船会社がもつが、とくに教師としての報酬はでない。彼女は、純粋なボランティアだといっていた。窓がない船倉の四人部屋で同僚と暮らし、船会社の従業員との兼ねあいらしく旅のあいだに幾度も部屋を移動させられていた。 このクルーズには、ボランティアがたくさんのっていた。きいてみても、どんな義務を負っているのか、不明なばあいが多かった。船賃が無料になっている方たちが、たくさんいるのはたしかだった。これを社会貢献の場をあたえていると考えるなら、意義ぶかいのかもしれない。 このパナマ船籍のクルーズ船をもつ船会社は、運航にたずさわり、ニカラグアなど中南ア米の者たちから構成される五〇〇名以上の客室乗務員を雇用していた。寄港地やオーバーランドツアー(飛行機をつかって著名な景勝地をめぐってくる旅)を企画し、運営するのは、ほぼ日本人を成員とするツアー会社だった。さらに、世界一周を計画した団体が船内企画を担当する三社構造になっていた。 この企画団体は、大量のボランティアを構成員にしていた。責任をもつ正規職員がだれなのか、分かりにくくなっていた。さらにボランティア団体は、実質的には船会社やツアー会社とほとんど一体といってもいいほど癒着し、三社がどう分業しているのかは不詳にされていた。その結果、船内で生じた問題について、どこが責任をもつのかまったく不明になっていた。このボランティアたちは、催行されたツアーの引率に駆りだされることもしばしばあった。彼らはたんなるボランティアで正規職員ではなかったから、なにが起きても責務はとりようがなかった。 世界一周は、だれでも憧れる旅に違いなかった。客船にのって寝ているあいだに寄港地につき、荷物をもたずに観光ができる。三食をあてがわれて海をみながらぼうっとしていられるのだ。老人ホームよりずっと増しだから、施設に入居するかわりにくる需要もあった。なんと一七回も世界を一周している金持ちもいた。そうした方々は別格としても、世界一周のクルーズが嫌いだという方は、そうとうな偏屈な人たちだろう。多くの者にとっては生涯に一度の大旅行だから、みんながいい思い出をつくりたいと考えていた。不満があっても、多少は大目にみようとだれもが思っていた。とはいっても、ひとつの村にそうとうする一〇〇〇名が乗船していた。なかには、かなりの変人がいるのも事実だった。そうした者が事件を起こしても、責任の所在が不明なために解決されないことが多かった。 船内では、英会話スクールがひらかれていた。 「ゲット」というスクールは、船内企画を担当する団体に所属し、総勢二〇名以上のボランティアたちから構成されていた。女性が多かったが、男性も三、四名いた。教師たちは、アメリカ、イギリス、カナダ、スペインなどからきていた。彼らは、ボランティアとして英会話やスペイン語会話を教えていた。船賃はかからないが、給与はでないといっていた。彼らも、人生で一回の船旅を楽しんでいた。 総勢二〇余名のゲット教師のなかで、リーダーだけが船内企画団体の正規職員だった。二〇代なかばの日本人女性で、フユといった。ながい黒髪が綺麗な、中肉中背の理知的な女性だった。最初に石木があったのは、ゲット主催のパーティーだった。 船旅は、一〇〇日くらいだった。英会話スクールは、寄港地以外はほぼ毎日ひらかれ、五〇回くらい行われた。クルーズが開始されてすぐに、スクールの教師たちと受講者全員があつまるパーティーが開催された。とはいえ、どちらかというと教師同士も知りあって間もなかったらしく、彼らのための交流会という印象がつよかった。 石木は、円形のソファーにおなじクラスになる者、七名ほどで席をかこみ、担任のキャサリンとはじめてあった。そのとき、七〇歳くらいの男性がいっしょだった。頭部が禿げた男は、ひとりで話をはじめた。この船に三回くらいのっているらしく、事情通だと自認していた。こうした連中は、どういう会合に参加しても必ずお目にかかる。おしゃべりで可哀想なほど視野がせまく、自慢している話が馬鹿ばかしく幼稚だと、まったく理解できないのだ。石木は、すっかり嫌になった。この男と五〇回も顔をあわせる寛容さはもっていなかった。 閉会後、石木は、担当責任者のフユに面会していった。 「クラスを変更して欲しいのですが」 「なぜですか」と彼女はきいた。 石木は、あの男と五〇回もいっしょに授業をうけたくないといった。男性は、すでに問題児として認識されていた。フユは、非常にこまった表情になり、石木の話は理解できるとこたえた。とはいえ、さまざまな兼ねあいからクラスはつくられている。ひとりを移動させると、それだけではすまないので我慢できないかときいた。 「無理ですね。毎日、不愉快な思いをするだけです。とても、いっしょに授業なんてきけません。なんとかできませんか」 フユは、あからさまに嫌な顔をした。 「考えてはみますが、期待しないでください。さまざまな条件を考慮して各クラスは編成されています。あなたをべつの組に変更させるのは、たいへんむずかしいです」 あの男を、違うクラスにすることはできないのかと石木はきいた。 「ようやっと決めたクラス割りなのです」 フユは、唇をきっとしめていった。いずれにしても、いまは取りこみ中だから、なんともこたえられない。期待にそえるかは、確言ができないといった。 つれない態度にがっかりして、石木は帰室した。会話スクールの開講まで、なんの連絡ももらえなかった。初回の授業時、どうしようかなと考えながらキャサリンの教室にいってみると、男はべつのクラスに移動されていた。 石木は、フユと出会ったときに礼をのべた。彼女は、気持ちは分かると話していた。あれから考えて、男性担任のほうが勝手に振る舞えないだろうと思って変更したといった。 フユは、唯一のゲットのスタッフだった。給与がいくらだったのかは知らないが、毎日あっているうちに、可哀想になるほどこき使われていることが分かった。ボランティア教師たち二〇人の仕事を裁量すのは、彼女ひとりの職務だった。それに、毎日チャット時間をつくって自ら対応しなければならなかった。フユは、キューバで一年くらいすごし、英会話を習得したといっていた。理由は不明だが、経歴としては異色だった。こまったことは、なんでも相談にのってくれた。とてもやさしい娘さんで、石木は彼女のファンだった。 ゲット英会話教室の教師で顔みしりになったアメリカ女性が、ベンチの後方にすわっていたのだった。 石木は、ひたすらヴォルケーノ行きのバスを待った。外国では列車などの交通機関の時刻表は、まったくあてにならないことが多い。しかし、始発はおおむね正しかった。案の定、午後一時半にバスがやってきた。 運転手は、四〇代くらいの背がたかくて恰幅のいい女性で、みじかい髪に緑色の制服と帽子をつけていた。石木がまず先頭で入り、女に「このバスは、ヴォルケーノへいくのか」と念を押した。 ドライバーは、彼をじっとみつめて「そうだ」とこたえた。 石木がバスの内部をみまわしてみると、前部の座席は内壁にそって対面で片がわに四人くらいがすわれ、後方はボックスになっていた。ボックス席の先頭で、運転手の後ろに席を決めた。かなりつかいこまれたバスで、いたるところが傷だらけだった。窓は大きく、上部に紐がつき、後方から前方にむかってつづいていた。この細紐は、反対がわにもあった。なにを意味するのか分からなかったが、きっと必要なものなのだろう。一度ひっぱってみたいと思ったが、我慢した。バスは大きなショッピングモールにいけるらしく、数人の日本人ものってきた。それから、顔みしりの若いアメリカ教師や、何人かの地元も者たちが乗車して出発した。 発車してすこしたつと、停留所で男の子がのってきた。子供といっても日本人ではないからかなり大きく、運転手と話をはじめ、ややあって了解がついたらしく、自転車を車内にもちこもうとした。それをみた彼女は、やにわに立ちあがると二輪車をおしだし、バスの前方のバンパーに固定した。状況から判断すると、子供は運転手に自転車をのせてもいいのかきいたのだろう。彼女も一度は了解したのだったが、想像よりもずっと大きく、入れるのはぐあいが悪いと考え、こうした行為をとったのだと思われた。 それで乗りあいバスは発進し、道なりに大きなカーブにさしかかった。 そのとき、とつぜんバスは急停止した。女の運転手はパーキングにギアを入れると、だしぬけに立ちあがり降車した。バスの前方でガチャガチャと音がして、あいているドアから自転車を車内にはこびこんだ。どうやら固定の仕方が甘くて、道をまがったさいに道路に落ちたらしく、バンパーにつける彼女の作戦が失敗したのはあきらかだった。 自転車は、車内の前方にすわる子供がしっかりと握りしめることになった。衝撃によって一部に変形が起こったらしく、少年は、運転中の彼女にたいして大きな声で「抗議」とも思える発言をくりかえした。 石木には実際の単語はききとれず、両者の険悪な雰囲気しか分からなかった。 女の運転手は、風貌だけが堂々としていたのではなかった。子供はずっと大声で喚きつづけたが、彼女はなにひとつ気にする素振りをみせず、まったく無視していた。 察するところ、バスは自転車をはこんでやる義務がないらしかった。少年の希望は、運転手の好意によってのみ、ききとどけられた願いだったのだろう。急停止したさいの衝撃の程度から考えても、自転車は子供の主張通り変形したのだろうと思われた。会社にこの件で苦情があっても、彼女は「好意で、そうしただけ」とのべれば問題にはならない事件らしかった。つまり、運転手にはかなりの裁量権があたえられ、それなりに「偉い」に違いなかった。 この事件のあとでショッピングモールにつき、日本人の客は石木をのぞいてすべておりていった。怒っていた少年も自転車をかかえて下車したので、車内はかなり整理された。 石木は、運転手とおなじ左がわ、いちばんまえのボックス席をしめていた。英語教師のアメリカ女性は、ヴォルケーノを目指すらしく左の後部座席にいるのが分かった。石木の右がわには、ハットをかぶった老女がすわって編み物をしていた。 この停留所が街の中心部だったらしい。大きなショッピングモールがみえた。 とつぜん、ミネラルウォーターが二ダースくらい入った馬鹿でかいケースが、車内にはこびこまれてきた。停留所をみると、乳母車のうえに数個の箱を山づみした女性が立っていた。運転手は立ちあがり、この二四本入りのケースを車内に搬入する作業を手伝いはじめた。箱は、対面になったロングシートとボックス席との境目につくられた仕切り板の横まで運搬され、山づみにされていった。そこは、石木がすわっている場所のごくちかくだった。ベビーカーが車内にはこびこまれると、猛烈に大柄な女性が入ってきた。そもそも運転手はかなり大きく、一八〇センチはあると思えたが、のってきた女は、さらに一〇センチ以上はたかかった。髪を振りみだした女性の容貌は、はげしい労働の直後だったせいか、獰猛そうで人間離れしてみえた。 ひどく大柄な女は、乳母車をもっていることからもあきらかだったが、赤ん坊をつれていた。その子供の年がいくつなのかは、石木が理解できる範囲を逸脱していた。女は、だっこ紐をつかって赤ん坊を腹部にくっつけていた。 一メートルくらいはありそうにみえる乳児を紐をつかって腹にしがみつかせている女性は、大きな子供がくっていていても、まったく違和感がないほど巨大だった。女の腕まで垂れた真っ黒なながい髪は、汗まみれになって肩にまとわりついていた。子供をだいたまま荷物をはこんだので、額にも玉状の汗が浮かんでいた。女は、両肩をむきだしにした、黒いランニングシャツをきていた。腕の太さは、石木の大腿部をはるかに凌駕していた。ジーパン姿だったが、腿は確実に彼の胴まわりをこえていた。運転手と巨大な女は、仲がいいのか、運転中ずっとふたりで話しつづけ、互いに笑ったりしていた。 腹部に赤ん坊をつけた女性が、ドライバーとのあいだのロングシートにすわった。 成り行きにしたがい石木は、子供の顔とじかにむかいあい、表情を直視することになった。頭部は大きく、じっとみつめる目はしっかりとひらき、身体の部分だけでも一メートルちかくありそうで、年齢もさっぱり分からなかった。赤ん坊という小柄なイメージを、はるかにこえていた。子供が異様にながい手足をつかって、母親の腹部にしがみついているのだった。その様子は、上野動物園に幾度も通っていた彼には既視感があった。 街なかを離れるにつれ、石木にも、乗りあいバスの事情が理解されはじめた。 このバスは、決して旅行者がつかうものでなく、地元の方がた、それも、これがないと生きていけない人びとのための赤字路線で、町の補助によって賄われているに違いなかった。その証拠に、停留所でなくても人は勝手に乗り下りするし、どの乗客も運転手とずっと雑談をつづけていた。だから、石木がえらんだボックス席は、非常によい選択だった。つまり対面になったロングシートにすわる権利をもつのは地元の方がたであり、そこは地域密着型の社交場で、よそ者が勝手に入りこむなど許されない場所だったに違いなかった。最初に乗りこんだときに、だれもいないのを理由にこの一角をしめれば、運転手から注意があってとうぜんという雰囲気がただよっていた。 バスは、次第に地域の乗りあい交通機関の典型になって、さまざまな人びとが乗り下りをはじめていた。人によっては、とんでもなく大きな箱をもちこんでいた。地域住民にとっては生活に必要な物資をはこぶ掛け替えのないバスらしく、乗降するひとりひとりの者たちと運転手は知りあいだった。どう考えても、挨拶以上の話をずっとつづけていた。 ちかくだったが、内容については、石木の英語力の範囲ではとても理解不能だった。俗語も、多用されているに違いなかった。 運転手と乗客は、互いの健康について語りあい、日々の生活や家族についても祝福しあっている感じだった。もちろん、重い荷物をつみおろすのも重大な役目だった。彼女の手にあまるなら、コミュニティを形成するロングシートにすわる者たちが総がかりになって行うべき業務だった。大柄な母親は子持ちだったので、この仕事に従事する必要はないと判定されていた。 走っていたのは一本道だったが、あきらかに山道だった。とはいっても日本とは事情が違っていた。山の斜面を切りひらく労力を払うだけの価値をもたないのか、道路はうねりながら上下していた。日本なら、こうした道はお金をかける必要がなくても地元の業者が役所と癒着し、ブルドーザーをつかって形をととのえ、歩く者もいないのに両がわに立派なひろい歩道を設備し、さらにプランターまで造作するに違いなかった。この島では、道路はあきらかに山の斜面にしたがって舗装をしいただけなのが、一目で分かる形状になっていた。これは、ある意味スピードがだせないのだから、安全をもとめたともいえるだろう。しかし、女性の運転手は雑談がながかったせいで、かんぜんに予定時刻をすぎ、かなりあらい運転をはじめていた。 そうこうするうちに、大柄な女がおりることになった。 その場所には、停留所の看板がおかれ、小径がついて家がたっていた。つまり、母親専用の停車場だった。そこには、背丈二メートル以上もある巨大な父親が待っていた。蓬髪状のちぢれた髪の毛は肩までのび、顔の造作もひとひとつが飛んでもなく大きかった。男性は、猛烈に厚い胸と肩幅をもち、赤い半袖のシャツをちぎれんばかりに着用していた。彼は、見紛うこともない人間山脈だった。石木は、後楽園ホールで一度だけあった記憶をもっていた。圧倒的な巨大さは、鮮明に脳裏に焼きついていた。大柄な子持ちの女性は、アンドレの妻だったのだ。このふたりの親をもつのなら、年齢がいくつだか分からないほど子供が巨大なのは仕方がなかったのだ。石木は、かんぜんに納得した。 乳母車がまずおろされ、住民の協力により、おそらく一リットルのボトルが二四本入る巨大なミネラルウォーター、六箱がつぎつぎとわたされていった。ベビーカーは、これだけの量の箱を積載することが可能だった。アンドレは、つみ終わると運転手に挨拶し、互いに健康を祝福していた。もうここから先は、それぞれがすんでいる家のまえが停留所となり、人びとは順におりていった。 石木は、右がわのシートで編み物をする、七〇歳をゆうにすぎた女性を観察していた。彼女がかぶる黒いハットの縁には、さまざまなキャラクターの人形がならんでいた。絵がかかれたのではなく、立体的につくられていた。彼女が自分の家のまえでおりようとしたとき、石木は、「写真をとらせて欲しい」という希望をつたえたのだった。 老婆は、もちろんご自慢のハットだったから、満面の笑みで了承してくれた。それで、彼女の帽子を中心に写真をとりはじめた。石木としてはハットに興味があったので、前後左右から撮影してみたいと考えた。老女は、かぶる自分がとられたいという、互いの思惑が微妙に違っていた。 ここの違いでなにがかわるのかといえば、右がわから写真を撮影しようとすると、彼女はそれに応じてすぐに正面になり、笑顔をみせてシャッターチャンスをつくってくれるのだった。左からでも、この試みは受け入れられず、いちおう「バックからもとりたい」と話した。老女は、耳が遠いに違いなく、望みはききとどけてもらえなかった。にこやかな笑顔をたたえる写真を、四、五枚もとって、いかにつたないとはいえ、「アイ・ウォント・ユア・バック」といえば、きこえれば、こちらの意向がつたわらないとは考えられなかった。彼女は、どうしても後ろをむいてくれないのだ。 そうこうすると、バスの運転手があきらかに不快だという様子をみせはじめた。 彼女は、大きなハンドルに両手をおいて、右の三本の指をうごかし、到着時刻が大幅におくれた現状にかなり苛々しているのが分かった。さらに映したいのなら、ここでおりろとも命令されかねない雰囲気をただよわせていたので、石木はあきらめることにした。 「Thank you. Good luck」といって、彼女と別れた。 そこからは人がすんでいる場所をすぎて、かなりの勢いでバスは走りヴォルケーノに到着した。 石木は、運転手に黄色いマーカーがついた時刻表をみせた。 「この五時五〇分発の、ターミナル行きのバスにのりたいが、ここで待っていればいいのか」とたずねた。 彼女は、じっと石木をみつめて、「そうだ」とこたえた。 「間違えて、いくことはないのですか」とさらに念を押した。 それにこたえて、彼女はいった。 「ミーは、あんたを覚えたのよ。だから、大丈夫。この路線は、ミーのものなの。分かる。ここへくるのは、ミーなのよ。分かったの。ミーが、必ずみつけてあげるから。時間になったら、ここにいるのよ」 石木は、運転手により、つよい確認をえられたのだった。 停留所のちかくにはビジターセンターが建設され、模型などもつくられて火口の由来などが解説されていた。みごたえがあるもので、時間をかけて二、三ヵ所に分かれた建物をみおえ、センターの正面になるバス停までいくと船のツアー客がやってきた。三〇人程度の人たちが参加した小旅行で、引率者は英会話スクールの責任者をつとめていたフユだった。可哀想なことに、彼女は人手不足から団体旅行の引率まで押しつけられたのだった。 フユは、石木をみると声をかけてきた。 「あら、どうやってきたの」 彼女は、船内企画会社のユニホームだった黄色いシャツを着用し、赤い引率用の旗を手にもっていた。 「タクシーなの。ここまで、いくらかかるの」ときいた。 石木は、このツアーが催行されるのを知っていた。たぶん、ひとり一万円まではかからず、八〇〇〇円くらいだったと思う。 「地元の乗りあいバスを、幸運にもつかまえまして」と石木はいった。 「バスがあるの。いったい、いくらかかるの」 フユは、にこにこしながら石木をみつめて無邪気そうにきいた。どうやら彼女たち一行は、なにかのアクシデントに巻きこまれ、途中で観光バスをおろされ、そこから歩いてきたらしかった。 石木は、この質問にどうこたえたらいいのか一瞬、いいよどんだ。 フユは、興味津々という表情でみつめていた。 「二ドルでした」と石木は正直につげた。 彼女は、「えっ」といってだまった。 石木は、そこで別れた。 黄色いシャツにひきいられた一行は、ビジターセンターのなかに入っていった。 石木は、ヴォルケーノをみにいった。壮観なのだろうが、昼間だったので赤い火口は明確ではなく、物足りなさを感じた。 ホテルがあって、ケーキとお茶を飲んでゆっくりするうちに、せっかくだから今日はここに泊まってみようかと考えはじめた。夜になれば、真っ赤に焼けたヴォルケーノがみえるはずだった。出航は明日の昼だったので、ちょうどよかった。ホテルの受付できいてみると、あいているというのでチェックインについて話しあった。帰りのバスについてたずねると、明日は休業日で運行していないと係の者がいいだした。考えていると、「タクシーをつかえばいいし、予約もできる」と受付は提案した。値段をきいてみると、三〇〇ドルくらいだといわれた。泊まりの料金は、一五〇ドルだった。泊まってもよかったが、そのときにはミーが運転する二ドルのバスの印象がつよすぎた。いかなければ、彼女が心配するかもしれなかった。いろいろ考えたが、もう一歩、踏み切ることができなかった。 五時四〇分に、待っていろといわれたバス停にやってきた。 しかし五〇分になっても、ミーはあらわれなかった。六時にもこなかった。時刻表をみなおすと、このヴォルケーノバスは、一台のバスが一日五往復、運行していた。いつからミーが運転するのか不明だったが、今日も何度か行き帰りしているのだろう。時刻表によれば、ターミナルでの休みは五分しかない。くるときには事件もあり、到着がおくれたのを考えあわせれば、かんたんに二〇分の差を埋められないのだろう。どこかで頑張っているに違いなかった。そうこう考えていると、バスは六時五分なってやってきた。 ミーは、待っていた石木をみつけて、「待たしたわね」と声をかけた。そこで、英会話教室のアメリカ女性も同乗してきて帰路についた。ところどころで人をひろって、運転手と、七、八人の乗客がいた。外は、もうすっかり暗くなっていた。バスは、ライトをつけ、うねった道を走っていた。ある場所をすぎると、とつぜんミーは大声で叫んだ。 「Are you ready ? 」 なにがはじまるのかと思っていると、とつぜん室内の電気が切られて真っ暗になった。 ミーは、猛烈な勢いで運転をはじめた。 ここで、時間を挽回することを決意したのだ。上下にうねる道を疾走するミーは、のっている石木に恐怖を感じさせた。対向車線を走ってくる車もない時間帯だったのだろう。ミーのやる気に、すっかり怖じ気づいたのだった。かくしてバスはおくれをとりもどし、ほぼ予定といえる五分おくれの午後七時にターミナルにもどってきた。 石木は、ミーに別れの挨拶をして降車した。 外は、真っ暗でタクシーはどこにもいなかった。閑散としたターミナルは、いささか心細いものだった。どうするべきかと考えていた。 いっしょに今日観光した英語の教師がちかづいてきて、「ここでタクシーを待っていたら、のれるのでしょうか」と質問した。 「たぶん、こないだろうね」と石木はこたえた。 「どうやったら、車をつかまえることができるでしょうか」と彼女はかなり不安な面持ちできいた。 「いいですか。旅先でどうするべきか分からなくなったら、最初にむかうのは、あたりでいちばん大きそうなホテルです。そこで話せば、ほとんどの問題は解決してくれます。ここには、ホテルはないですよね。つぎに考えるのは、大きいレストランです。店でお茶を頼んでウエイターにつげるか、飲みたくなければ直接話しても、タクシーくらいなんとかしてくれるはずです」とこたえた。 彼女は、「助かりました」といって、ちかくのレストランにむかった。 さってしまってから、食事に誘えばよかったと思ったが、追いかけるのも億劫で、ぶらぶらと街を歩いた。目についた「創作料理」という看板がでている店に入ってみた。こみあう店内をみて、やめようと思ったが、すっかりつかれているのに気がついた。原因は間違いなくミーの運転で、帰りは右のいちばんまえの席にいたので迫力はすさまじかった。 なんでもいいと思って適当に注文したが、料理がでてくるのにかなり待たされた。さらに、美味しいとはいえなかった。創作は、あきらかに失敗作だった。勘定をするのにウエイターをよび、チップをわたし「タクシーを一台、頼んで欲しい」とつげた。 彼は、「分かった」とこたえた。 それから三〇分しても音沙汰がなかったので、ウエイターに抗議にいった。 「今日はタクシーがどこも出払っているらしい。もう、ちょっと。待ってくれ」と男はいった。 こういう場面ででてくる、「ちょっと」とは、いつになるかも分からない代表みたいな言葉だった。 「どのくらいだ」 「何分、待てばいいのだ」と石木はしつこくきいた。 うるささに耐えかねて、男は電話をはじめた。 「いま、くるから席にいてくれ」というので、待っていた。 外にタクシーがついた。ウエイターが「あれだ」というので石木がでてみると、日本人の男たちにかこまれて値段の交渉をしていた。かなりいい額を呈示されたらしく、彼をのせないであきらかに船つき場を目指していってしまった。 石木は、ここは怒らねばならないと考え、カウンターにいき、両手でバンバンと机をたたいてウエイターの嘘を大声で喚いてみた。こうしたばあい、英語は洗練されたていねいな言葉しか知らなかった。だから、話すと怒っているという感情が表現できなかった。 怒りがつたわればいいのだから、もう日本語で「ふざけるな」とか、「ばかやろう」とか喚くと、店のオーナー覚しき女性がでてきてウエイターと話をはじめた。 ひろい店内には、行き場をうしなった団体の日本人が多く、石木の行動を「おなじ国の人間として恥ずかしい」という雰囲気でみているのも分かった。べつに彼らの世話になったわけでもないから、なんとも感じなかった。 オーナーは電話をかけはじめた。 ウエイターが、「すぐになんとかする。お願いだから、いままでの椅子にすわっていて欲しい」と懇願した。 今度は嘆願だったので座席にもどると、間もなくタクシーがきた。ウエイターがでてきて、のるようにいわれた。そのとき、船で顔をみたことのある二〇代のふたりの女性が、車をつかまえられなくてこまっているのをみつけた。 「いっしょにのるか」ときいてみると、彼女たちは喜んで同乗した。 石木がタクシーの運転手に船つき場にいくよう指示して出発すると、だまっていれば可愛いのだが、「お金の話を先にしないで、乗車は危険でないか」。「いくら請求されるか、分からない」とふたりは口々に話しはじめた。 まったく事情も知らない奴らだった。 「だまっていろ。料金は払ってやるから」と石木がいうとふたりは静かになった。 彼女たちは韓国の女性で、「ただ」で乗船しているボランティアらしい。 この船は、そうとう問題をかかえており、責任あるスタッフがだれなのか故意に不明にしているところがあり、闇はふかいのだった。 女主人が自分で電話したという事実は、とくべつな、もっとも頼りになる、ほとんど店のおかかえの運転手に連絡したに違いなかった。それが、さらにトラブルを起こすなんてありえない話だった。 「変なことをしたら、あのうるさいお客は、なにをいいだすか分からない」 このタクシーは、そういう事情で配車されているのだった。 状況をいちいち説明するつもりもなかった。以前に、ふたりがやった英語のセミナーの話題をしてやった。彼女たちは、お金を払う必要もないと理解したのか、きゃっきゃっと話をしていた。 無事に船のターミナルについた。 石木がだまったまますわっていると、運転手が「五ドル」だといった。考えていた通りの値段だったので、彼は一ドルチップをやった。 充実した一日は、こうして終わった。 ハワイの老女、四四枚、了 (世界一週、一三三枚、完)