ジャパニーズ 由布木 秀 インドに旅立ったのは、昭和五三年(一九七八年)の夏だった。当時を考えだすと、いつでも自分の表情を思い浮かべる。 ヒロとはデリーで出会ったのだが、カトマンズの安宿に泊まったとき、ふとそうした話題になった。 「おれはきっと、もの凄く気負った顔をしていたんだろう」 彼は、最初にアメリカにむかったころの話をはじめた。 私は、どのような顔つきだったのだろう。そして、なぜインドを目指したのだろうか。 ヒロは、四年間世界を放浪した。カリフォルニアからはじまって、メキシコをぬけ陸路でパナマから南米へ入り、アマゾン河口からマナウス、イキトスをへてペルーに飛んだ。太平洋に沿い最南端ホーン岬へ、今度は大西洋岸のリオへいき、ふたたびロサンゼルスにもどって最初の旅行が終わった。 しばらくして、つぎの旅がはじまった。ニューヨークからロンドンに飛び北欧に入る。東欧圏からヨーロッパを西にむかい、ピレネーをへて、ジブラルタルをわたりマラケシに辿りつく。サハラを横切りナイロビにでた。 そこで、日本に帰ることを決意した。帰国の途中でインドに立ちよった。どんなにさ迷っても、放流された鮭の稚魚がうまれ故郷の川へ知らずにもどるのとおなじで、結局は母国へ帰る自分に、いつでもなにかを問いかけていた。 「最初はロスだった」 彼は、そう話した。 「南米にいきたくてね。そこには、みたこともない花が咲き、考えもしなかった動物がいる。そう、ほんとうに思ったんだ。ロスで皿洗いのバイトを昼と夜とダブルでやりながら、幾度も夢をみた。アマゾンの黒いながれや、アントファガスタの白い娼婦たちをね」 稲垣足穂のぼろぼろになった文庫本をひろげ、「奴は天才だ」といって一小節を読んで聞かせた。 インドにいけば、みたこともない花が咲いていると思った。想像もつかない動物がいると夢みた。不可触民が道に這いつくばり、ほりのふかいアーリアの女が黒い裸身をなげだし、彼女がじつはインドの王さまの娘だと空想した。神はいつでも手のとどくところにいて、ふれたことのない異質な千年を一秒と感じる時間があると信じたのだった。 これこそ夢のなかで苦しめつづけた、私のインドだった。たしかめられねばならなかった。それが生きているということだったし、ヒロにとってもおなじだったのだ。二八歳の夏だった。四ヵ月にわたる旅になると、私は知らなかった。 インドを旅行した日本人は、極端な二通りに分かれる。 「この国はひどい。二度といきたくない」と話す人と、「素晴らしい」と礼賛する人たちだ。 どちらも思いこみには違いないが、この極端さだけは間違いなくインド由来のものだったろう。インドで日本人青年たちが、俄に出家するのをたくさんみた。彼らは、いまどうしているのだろう。 私は、「インドにいきたい」という思いだけが先行し、旅行についてなにも考えなかった。あきらかに無謀だった。 新宿の旅行会社で、ボンベイ往復の航空券を安値で購入したつもりだったが、すでに私は日本でだまされていたのだった。距離的に考えれば、ハウラー(カルカッタ)往復がいちばんちかかったとは、あとから分かった。出発日を決め値段を確定したのに、約束した便がとれないとして二度ほど連絡があった。その都度、値上げを要求された。よくからずに出発日を決めていたから了承したが、いまから考えれば、あくどい商売だった。 あまりになにも知らないので友だちが心配し、インドから帰ってきた二〇歳の飲み屋の女の子を紹介してくれた。新宿のスナックで働く彼女は、たったひとつの情報を私に教えた。 「オリバー・ゲストハウス」というホテルの名前だった。 「ボンベイについたら、そこにいけばいいのよ」 髪のみじかい、やや太った水商売の女は、水割りをつくりながら、そうつげた。私は、その言葉だけは覚えておくことにした。せっかく心配してくれた人がいたのだったから。 「だれも知らないところで、ひとりで生きていけるのだろうか」 この問いかけは、私の人生のテーマなのだ。一八歳のとき、なにも知らずに北海道へわたったのも、「聴診器一本で、医者たりえるのか」という問いに、礼文島で挑戦したときもそうだった。なんの所縁もなかった上士別にいったのも延長で、私はこのテーマを生涯ひきずるのだろう。 とくに、情報は欲しくなかった。知らねばならないと、すこしも思わなかったのだった。それは、私らしかったに違いない。 旅客機がフィリピンとタイで給油して、ボンベイについたのは真夜中だった。タラップをおりたときなにを考えていたのか、いまは思いだせない。覚えているのは、税関のこうこうとした照明と疲労感に追いうちをかける形容しがたい蒸し暑さだった。汗がだらだらながれ、身体中がまたたく間にべとべとになり、下着は皮膚にはりついていった。係員が、青いリュックに白色のチョークでなにかのマークをつけた。不愉快な大気に圧倒されながら、ずるずるとひっぱり、インフォメーションの真っ黒の男に、唯一の知識をさらけだした。 係員は首を横に振った。 「そんなホテルは、聞いたことがない」 「どこか。泊まるところはあるのか」 背の低い真っ黒な男は、名前をつげた。 「四時まで待てば、おまえは寝ることができる」 「ほかは」 「ない」 真夜中の二時まえだった。まっくらな戸外にほうりだされると、とつぜんの闇のなかに真っ黒な無数の陰がうごめくのをみた。異臭が鼻をつき、胸糞が悪くなった。 闇のなかで饐えた臭いがし、真っ黒な男たちが口々に叫び声をあげながら私をとりかこんだ。ひとりの男性が、強引にリュックをひきずりおろすと歩きはじめた。その男を追って、私はすすんだ。暑さと異臭のなかで、起こっている事態に混乱した。時差ぼけと長旅の疲れで、すべてがぎらぎらとしていた。 すこし歩くと、タクシーがとまっていた。男は、そのトランクに荷物を入れ、私にむかって汚れた手のひらをひらいた。タクシーにのりこみ「発車しろ」と命じた。しかし、車はでなかった。一〇人以上の若者がタクシーをとりかこんだ。あけられた車の窓から真っ黒な手が何本も伸び、手のひらはすべて上をむいていた。勝手に荷物をほうりこんだ男の手掌に一ドル札をのせると、彼は鷲掴みにした。 「足りない」 「もっと、必要だ」 狂ったように、男たちは口々に叫んだ。 「車をだせ」 私は、もう一度いった。車はうごきだし、後ろで男たちの大きな笑い声が聞こえた。 肌にまとわりつく湿気、異臭、汗、嬌声、なにもかもが不快だった。しかし最初の関門をやりすごしたことですこし安堵し、あとは車がホテルにつれていくはずだった。 タクシーは、走りつづけた。最初は、空港からでた華やかなハイウエイだった。立体的に交差し、点された灯が闇に映えて景観も素晴らしかった。しばらくすると高速からおりて街灯がなくなっていった。車は、まっくらな闇のなかを走りつづけた。いつまでのってもホテルにはつかなかった。街灯もない車外は漆黒の闇が延々とつづき、そのなかを車はただ走っていた。どこへつれていこうとするのか、肌がさらに汗ばむのを感じた。時計は三時にちかく、走行しているのが道路なのかどうかも、私には分からなかった。人の気配はもちろん、すれ違う車もあわず、ただもくもくと走りつづけた。 運転手は大柄で太って、戦っても勝てそうもなかった。「武器」をさがしたが、折り畳みの傘はトランクだった。胸ポケットのボールペンを汗ばんだ手のひらで握りしめた。 とつぜん、急ブレーキをかけて車がとまった。私は身構え、心臓ががちがちときしんだ。あたりは漆黒の闇で、静寂が支配していた。どのくらいの時間がすぎたのだろうか。ながい静けさのあと、背にこぶをもつ白い牛が、ゆっくりと道を横切る姿を闇のなかにみた。 ホテルについて荷物をおろすと、運転手にチップをやった。彼は私を大金持ちだと思ったかも知れない。いま振りかえれば、うまくやったと考えていたのだろう。 インドで、何回か危ない羽目に落ち入った。そのときはさほど重大事に思わなかったばあいでも、あとから考えなおすとべつの感慨に浸ることがたくさんある。運転手は、もしかすると「暴発」を待っていたのだろうか。私は、袋だたきにあい、身ぐるみすべてをはがされたのだろうか。そうした人たちも、たくさんいたのではないのだろうか。 ホテルのフロントで小一時間待ち、五時をまわるころ白い服をきて従者をつれた中年のアラブ男があらわれた。頭部にイカールという真っ黒な輪留めをし、ガットゥラとよばれる白布を肩までたらしていた。寸胴な白色のワンピースをきて、サンダルを履いていた。髭を生やした男は、私を一瞥し、お茶をご馳走してくれた。 意味は分からなかったし、話す気力もなかった。朝はやくでる理由があったのだろう。彼がいた部屋に、都合よく泊まる者が待っていたのだ。お茶は、意味をもっていたのだろう。私は、なにも考えてはいなかった。彼が戸外に消えてしまったあとで、部屋に案内された。シャワーをあびると、ベッドに横たわった。くたくたに疲れていたが、容易に眠りはおとずれなかった。二時間ばかし横になると起きだし、もう一度シャワーをあびて射精した。 まぎれもない、インドの朝だった。 とくになにも食べずにホテルをでて、私は駅まで歩きはじめた。道はどろどろにぬかるみ、まるで牛の糞だと思った。女たちが、泥道で野菜を売っているのをみた。そのほかのことは、奇妙に記憶からぬけ落ちている。 どのくらい歩いただろうか。人びとの食い入る視線にたえながら、ようやく駅に辿りついたのは午前一〇時ごろだった。チャーチ・ゲートいきの切符を買い、士別駅とおなじ木製の階段をのぼりおりし、プラットホームで電車を待った。 駅は閑散としていたが、いくらかの人がいた。彼らにとって、大きな青いリュックを背負った東洋人の私は、あきらかに異国の奇妙な人間だった。人びとの反応はどの人もまったくおなじで、自分とどこが違うのか丹念に確認していた。するどい目つきと、厳しい視線を感じた。身体障害者をみつめてはいけないというのは、極めて文明的な考えだと思った。人びとは違いに敏感だった。そうした感覚がなければ、自分とおなじものを他人のなかにみいだすこともできないのだろう。 一五分くらいして電車がホームに入ってきた。四両編成だったが満員で、ドアはどこにもなかった。各車両の前後にあるどの扉も、人びとがぎっしりとしがみつき鈴なりになっていた。 ぼうぜんとみつめながら、ついた列車が発車するのをみおくっただけだった。 「暑い国にきたカフカだ」と思った。 立ちつくしていると、とつぜん背後から声をかけられた。振りかえると六〇歳くらいの背広をきた老紳士だった。男は、私がホームに到着したときから、ずっとベンチにすわっていた。腰をおろし、股のあいだに杖をついて背筋を伸ばしていた。男は、私に声をかけた。 「おまえは、列車にのれないだろう」 彼は、SHALLといったのだ。MAYBEではなかった。WILLは、人間の意志なのだろう。SHALLは、「人をこえた者」の思し召しに違いなかった。 「なぜ」とたずねると、私をみつめていった。 「イフ、ユー、シャルライド。おまえは、目的地につくまでに、荷物をすべてうしなうことになる」 そうなのだと、私は思った。しばらく、だまって立っていた。ホームで、ずっと疑問に感じたことを考えていた。むかいには、電車がこない、つかわれていないプラットホームがあった。レールは赤茶け、ながく使用されていないようだった。そこには、たくさんの人びとがひしめきあっていた。しかし、電車を待っているとは思えなかった。一様に髪がぼうぼうで、うごめいているとしかみえなかった。 「彼らは、なにをしているのか」と老紳士にたずねると、彼はまたじっと私をみつめて呟いた。 「ゼーアー、レプラス」 レプラ。どうやら彼らは、らい病患者で、こんな形で隔離されているらしかった。私は押しだまり、その様子をもう一度みた。ホームから溢れるばかりのたくさんの人たちだった。朝の太陽が力を増しはじめ、生暖かい風が吹いていた。しばらくして、もうひとつの問いを老紳士に発した。彼は、足をひらいて真ん中に杖をささえ、取っ手に両の手のひらをちょうど胸の高さにのせ、ベンチで半時以上もすわっていた。 「ワット、アーユードーイング」 問いが聞こえなかったのか、だまっていた。しばらくして、彼はとなりのホームをみながらいった。 「アイム、ナッシング。オンリーナッシング」 大きな声で、怒鳴るようにいった。それで私はあきらめ、駅を去った。 ボンベイの港には、重厚な凱旋門がある。ヴィクトリア女王がこの門を通り、インドに侵攻したのだと私は疑わなかった。 インド門のちかくに、さがし求めた宿があった。チャーチゲート駅でタクシーをおり、青いリュックを背負って炎天下を三時間歩いた。猛烈な暑さで、一〇分もすると身体中の水分が蒸発し、日陰があるたびにサトウキビのジュースを飲んだ。疲れ切って辿りついたのは、狭い二畳ほどの部屋の粗末なベッドの上だった。経営者は背が高く、太った赤ら顔のフランス人で、私を一瞥すると前金で四〇ルピー(一二〇〇円)を要求し、玄関まえの房室に案内した。ひろい空間をベニヤ板で仕切り、天井ちかくの壁はなかった。おなじ部屋が、縦にながくならんでいた。だれもいないとき、となりの室内を上の隙間からのぞいてみると、つくりは同一だった。家の奥にドラム缶があり、いまでは水浴び用だと分かるが、ついたばかりの私は知らなかった。水道の汲み置きだと信じ、風呂の水で毎日歯をみがいていた。 飲み屋の女性が、なぜこの安宿を指示したのか、どうしても分からない。こうした情報をもっていなければ、まったく違う出だしだったろう。すくなくとも、この意味不明な知識がなければ、もっといい旅のはじまりができたかも知れない。正しい情報をもっていなかったので、ホテルの値段が高いのかどうかも、見当がつかなかった。インド門ちかくを散歩していたとき、飛行機のなかでいっしょだったアメリカ人の若い夫婦に出会った。彼らは、私の泊まるホテルの名前を聞くと「いくらなんだ」とすぐにたずねた。「四〇だよ」と答えると、「コストリー」といって首をすくめた。 「いい食事がついているんだろうね」 ふたりは、私のことを心配してくれたらしかった。表情から察すと値段は安いわけでもなく、高いらしかった。 「これ以下のホテルって、どんなものなんだろう」 想像してみたがなにも分からず、「はやくボンベイをでたい」と考えただけだった。 食事は、苦労した。昔から臭いに弱くて、どのレストランも汚くてくさく、とても入ることができなかった。どうしていいのか分からない私は、狭い部屋でもってきた梅干しを食べた。「なくなったらどうしようか」と思いながら、瓶をみつめた。この思い出は、いまでも鮮明に覚えている。 あの心細さは、なんだったのだろうか。なんで、こんなところを選んだのだろうか。よりにもよってインドなんかをどうして。なぜ、イギリスにいかなかったのだろう。いくらでも国はあったはずなのに。減っていく梅干しを口にふくみながら、くりかえし後悔していた。なぜ、インドの本を一度も読まなかったのだろう。どうやって、すごそうと考えていたのだろう。どこを、観光したいと希望していたのだろう。さがせば、ガイドブックはたくさんあったのに、一冊の本も購入しなかった。 考えさせられる問題で、北大に進学したときも、北海道の案内書を読まなかった。礼文島にも医学書はいっぱいかかえていったが、土地を紹介する本はもっていなかった。士別もおなじだ。どうやら万端の準備をおこたる、いきあたりばったりなのだろう。危険な者なのだと、いまさらのように考える。 口にできたのは、生ジュースだけだった。命のジュースで、朝昼晩、これだけですごした。ボンベイの四つ角で売っていたヒンドゥーの男は、「この日本人は、異様に気に入ったらしい」と思ったろう。「こんなに好きなら、つぎには倍の値段にしてみようか」と考えていたかも知れない。 あまり腹がすいたので、五つ星のタージマハル・ホテルに入ってタンドリチキンを食べた。ムガル帝国の宮廷料理で、味はどうだったか覚えてはいない。食後、二ルピーのチップをやるとボーイは支配人をよんできた。背広をびしっと決めたマネージャーは名刺をさしだし、私のホテルをしつこいほどたずねた。なんだったのだろう。 ボンベイの五日間、市内の観光バスにのり、古代遺跡のあるエレファンタ島にわたった。どこでも乞食ばかりが目についた。赤ん坊をだいた年端もいかない少女に大きな瞳でみつめられると、金をやった。脚や腕がない者ばかりで、悲しみに溢れていた。 インドは大英帝国の支配の影を負い、傷跡はいたるところにみられる。世界第二位の敷設面積をもつインド国鉄も例外ではなく、イギリスは線路の軌道の幅を統一しないことにより、争いの種をまいたと聞いた。現在の鉄道には、広軌、狭軌のほか、中軌までが故意にバラバラに敷設されている。こうしたことにより、人夫たちは荷物のつみかえ作業で争わねばならなかった。内部に不和を起こして統治する、大英帝国の知恵だといわれる。民衆が一枚岩になることを恐れ、支配者は細心の注意を払い、利用できるすべての方法を試みたのだろう。 世界は、三度統一された。ローマ帝国による平和、戦後のアメリカによる、パックス・アメリカーナ。そして、大英帝国による秩序だった。 ボンベイでは、六〇日間の有効期限がある一等車の周遊券を購入した。これは簡単ではなく、インド国鉄の時刻表を買い、ヴィクトリア・ステーションに毎日通った。ヴィクトリア駅は、昔の東京駅を彷彿させる赤い煉瓦づくりで、天井はみあげるほど高かった。インフォメーションの痩せた四〇歳くらいの、頬がこけて浅黒い男を毎日質問ぜめにし、四日かかって思い通りの券を入手することができた。そのときまでに、私は時刻表をすみずみまで読み、ちょっとした「通」になっていた。 購入できると、彼に葉巻を一本あたえた。男はとても喜び、嬉しそうにもらうと、「こっちへこい」といった。私は、薄暗いむしむしとした暗い廊下をかなり歩かされ、「ステーションマスター」とかかれた部屋に通された。冷房がよくきき、立派な大きな机と肘かけがある椅子に、制服をきた恰幅のいい男性がすわっていた。 「シガーをあげなさい」と痩せたインフォメーションの男がいった。 私は、日本からもってきた「アルカデア」という銘柄の葉巻を一本さしだした。彼は、駅長に紹介した。 「ヒーイズ、マイグッドフレンド」 そう話だし、私が毎日会いにやってきて、時刻表についてくりかえし質問をしたこと。驚くほど詳しく、立てた予定表が完璧でついに明日ボンベイを立つ予定だが、いるとほかの仕事がまったくできない。ばあいによっては、自分の職さえ奪われかねない。そう話して、最後に葉巻をもらったといった。駅長は、満足そうに聞いていた。 そのときの私には、紹介された理由が分からなかった。インド旅行を終えたいまは、理解できる気がする。インフォメーションの痩せた男の好意だった。彼は、駆け引きのひとつも知らない私を心配したのだろう。異国からきた真面目な若い青年が無事に旅をし、いい思い出をつくって、なにごともなく帰国できるのを祈ってくれたのだ。この気持ちは、三〇年へて、ふつふつと湧きあがる思いで真実だったろう。 私は、人口一〇〇〇万といわれる巨大都市ボンベイをようやくぬけだすことができた。夢にみたエローラとアジャンタの石窟寺院。その観光基地、オウランガバードを目指していた。 当時、駅長を紹介されたのは、「葉巻を一本とられた」としか考えていなかった。ところが、ながい旅を終え、ふたたびボンベイに帰ってきたとき、彼に助けられた。駅長が覚えてくれていたので、無券乗車を許してもらえたのだった。 ボンベイへの帰路、私は二等列車にのっていた。車内で財布をトイレに落として無一文になった。一昼夜、飲まず食わずでヴィクトリア・ステーションに辿りつくのだが、こんな筋書きは、お釈迦さまでも知らなかっただろう。 インドは、多民族、他宗教、多言語で形成され、人種の坩堝といわれる。この独自の文明は、地理的な状況によってきずかれた。東西、南北、三千キロをこえる広大な国土はユーラシア大陸の一部で、ヨーロッパの地理学者は、「インド亜大陸」とよんだ。しかし、彼らが名づけた「ヨーロッパ大陸」は、この亜大陸とほぼおなじ大きさなのだ。 世界最大のユーラシア大陸の総面積は、北米の約二倍半、オーストラリアの約七倍になる。ユーラシアは、シベリア、南中国、北中国 、ロシア、インドシナなど 約一〇個の大陸がつぎつぎと衝突、融合をくりかえし、二億年まえに現在の原型がつくられた。約四五〇〇万年まえに、インド大陸が嵌入し、褶曲によりヒマラヤが形成された。 ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸の北側で南に弧をかいてつらなる世界最高峰の山脈で、東端のヤルンツァンボ(ブラマプト)川の大屈曲部から西端のインダス川峡谷まで、延長二五〇〇キロ、幅二〇〇~三〇〇キロあり、日本列島とほぼおなじ大きさになる。北に海抜、四〇〇〇~五〇〇〇キロのチベット高原がつづき、チベット側からは高原を縁取る高度差、三〇〇〇~四〇〇〇メートルの高い山並みにしかみえないが、南側からは絶壁としてそそり立っている。東西に伸びるヒマラヤ山脈は南北の気流をさまたげ、夏のモンスーン期は、とくにネパール・ヒマラヤとその東で、ベンガル湾からの湿潤な大気が山脈の南に大量の降雨をもたらし、ビルマ国境の大密林地帯をうみだす。中国から南下する勢力もここではばまれる。いっぽう北は、乾燥したチベット高原がひろがり、崑崙山脈をこえた北側は砂漠になる。冬期は寒冷なシベリア寒気団がヒマラヤのために南下できず東に吹きだし、日本列島は北西季節風による寒い冬をもたらす。この山脈は東アジアの気候に大きな影響をおよぼしている。 ヒマラヤは、インドのために神々がつくった人の侵入を許さない隔壁となり、中央アジアとほぼ完璧に切り離された。周囲の世界との交流は、西方の一部で行われた。パキスタンとアフガニスタンの境、カイバル峠を経由することで、アフガン高原とを往来できた。ハラッパー文明、あるいはインダス文明とよばれるインド最古の文明期(紀元前二〇〇〇年から一五〇〇年が最盛期)には、メソポタミアとのあいだでさかんな商業活動が行われた。紀元前一〇〇〇年まえの数世紀あいだ、中央アジアから諸部族がインドに侵入し、印欧語をもたらした。この言語は、ひろくヨーロッパ各地にもつたえられ、北部、中部インドで発達した諸言語とヨーロッパ諸国語に、基本的な共通性がみられることになった。 インド北西部は、アレクサンドロス大王が率いたギリシア人に侵略された。その後、釈迦族、スキタイ族、フン族、さらにトルコ人、モンゴル人、アフガン人も侵入し、しばしば彼らの定住地となった。インド内部から中央アジアにでる人のながれもみられ、なかでもチベットと中国にむかった仏教巡礼者、仏僧、奢侈品の交易商人たちが重要な役割をはたした。 オウランガバードいきの列車にのりこみ、自分の席をみつけると荷物を網棚にチェーンでしっかりとむすびつけた。となりにすわる年輩の紳士が、「そんな必要はない」と不愉快そうにいった。 「ここは一等車だ」 いま考えればたしかにそうで、彼がなにをいおうとしたのか、よく理解できる。しかし旅行をはじめたばかりの私には、だれもがおなじインド人にしかみえなかった。一等料金が二等の八倍もするという意味も理解してもいなかった。 ボンベイからオウランガバードにいく途中で、夜中マンナッド(MANNAD)という駅で列車を乗り換えた。青いリュックを背負って、薄暗い光に照らしだされたプラットホームにおりていくと、ホームを貨物列車が通りすぎた。 そのとき、そこにいた男が叫んだ。 「おまえが乗り換える列車はこれだ。なにをしている、すぐに飛びのれ」 振りむくと、ぼさぼさの髪の毛の若い男だった。私は、一瞬ためらった。なにか変に思った。 「どうした。はやくのらないといってしまう」 男は、また叫んだ。 「おれの列車は、一等車だ」 私は、大声で答えた。 やがて、貨物列車は通りすぎた。 「そうか。一等だったのか」 男は、いいのこすと、消えた。 なんだったのか、分からない。飛びのったら、どうなったのだろうか。帰ってこられない列車だったに違いない。その先でも、やはり私は生きていただろうが、こうして紀行文をかけたかどうか分からない。 オウランガバードは、ボンベイの東北に位置する田舎町で、バードはイスラム語(ウルドゥー)で町を意味する。かつてこの周辺が、イスラムの支配下にあったことを示していた。夕暮れどきには黒い布で身をくるんだ女たちが、ぬかるんだ道端で牛の糞をまるめ家の壁にはりつけるのをみた。ときに、その横顔は、息を飲むほどの美貌にみえた。石窟院として名高い、エローラとアジャンタへの観光はこの町が起点だった。 エローラ観光は、幻想的だった。そこで出会った感激をつたえることは、私にはできない。たくさんのスライドやフィルムをつかっても、容易ではないだろう。写真(図ー1)は、「エローラのタージマハル」とよばれ、有名なアグラの「シャー・ジャハン」のものより小さく、横幅は半分程度だが、荘厳さはずっと優れている。とはいっても、私はマイナー指向だから、いくらかは勘案するべきだろう。草原のなかにとつぜん出現する白く輝く大理石の霊廟は、人を夢幻の世界にひきずりこむ力をもつ、あきらかに聖なる場所だった。 山の頂に、古い城趾があった。石は、それだけで重く、なにかを語ろうとする。ひとつひとつの岩石が、その形状や配列で、みる者を安らぎとはまた違うべつの世界にはこんでいく。頂上にすわってみおろすと、恐竜が暮らした白亜紀の末期にデカントラップと名づけられた火山地帯から湧きでた大量の洪水玄武岩の台地からなる草原は、釈迦のうまれた二五〇〇年まえと、きっとなにも変わらないだろう。 そして、私は思う。サリーの鮮やかな原色や、プリント地の図柄の驚くほど派手で隙間なく押しこめられる理由が、じつはこうして幾星霜をへてのこる石の城のせいなのではあるまいかと。 「ゼロ」は、インドで発見されたという。ゼロを極限まで絞りこみ、つくられた時空をさらに重ね、ぬられた色にべつのものを上塗りしてきたのではないか。だからこそ曖昧な中間色を、インドは許してはくれないのではないか。城の上からみえる世界は、なにもない地平ではなく、痩せた草原がひろがっていた。 エローラ石窟群は、アジャンタとことなり、仏教だけではなくヒンドゥー教やジャイナ教をふくむ三四の窟院からなる。教科書にでてくる、古代インドの宇宙観を示す有名な彫刻もみた。平板の地球は四頭の象にささえられ、下は巨大な亀が、さらにとぐろを巻き大きなコブラにのっていた。さらなる重層性、果てもなく重ねられたもの、上部にも下部にも、限りなくつづいている。そのなかで自分があり、はじめて世界が成立している。インド世界は、一枚の盆から水がしたたり落ちるギリシア世界観の単純な構造と比較すると、息がつまるほどの周密感をあたえる。この世界に、西洋的な「虚無」はみとめられない。 「無」とは、「ない」ものの存在を意味しているのだ。 インドールからきた、四、五人の青年たちといっしょに暑い日盛りのなかを歩いた。彼らはがぶがぶと飲水し、私にもすすめた。そこで、はじめてインドの生水を飲んだ。彼らはさまざまな香料がつまった銀色の小箱をもち、とまるたびにとりだしては舐めていた。 夕方、ぶらりと入った食堂でフランス青年といっしょになった。髪はぼさぼさだったが瞳は理知的で、みじかいチョッキをきて旅慣れてみえた。 「いい上着だね」 挨拶代わりにその服をほめると、彼のお気に入りだったらしく、「ベナレスで特注したものだ」と自慢げに話しはじめた。 医学生で、一〇月の国家試験の発表までインドですごすといっていた。私たちは、レストランでミネラルウオーターを飲んでいた。 「インドの水は、飲めるのか」 私の問いかけに、彼は答えた。 「生水は、飲まないほうがいい。とはいっても、大部分は問題ない。飲水してもいいが、ときにスペシャル、にぶつかるのは覚悟しなければならない。これを飲むと、たいへんな目にあう」 私は翌日、その特別なものに出会うことになった。 旅行者のあいだでは、インドの水は飲めるというのが一般的な考えで、「せいぜい下痢だからね」と一拍おいて、「しかし」とつづいた。そのあとは、いつでも比較するネパールの話だった。 インドでは、煮沸すれば問題なく飲水できる。ネパールの水を手ですくうと、太陽光線に反射してキラキラと輝く鉱物をふくんでいた。これは、雲母で、煮沸しても濾紙でこさねば身体に悪いといわれていた。旅をつづけていると、私たちは生水をがぶがぶ飲んだ。旅慣れた証しだったが、ジャパニーズの考えるひとつだ。欧米人は、こうした無謀はしない。どの程度効果があるのかは分からないが、かならず明礬をもち、不純物を沈殿させていた。 毎年、ネパールで日本の若者がたくさん、死んでいくらしい。どの身体も、真黄色だという。急性E型肝炎は、ネパールの風土病だ。 「インドの水は飲めない」という話は、不潔な印象とあわせて語られる。こうした衛生にかんする観念は、おもに風土と生活の豊かさによって規定されるだけのものではないか。インドからネパールにいくと、保健衛生にたいする違いがよく分かる。私がみると、インド人は衛生的で、一日に何度も水浴びをし、服も替える。いっぽうネパール人は、はっきりいって不潔だろう。寒くて水浴びもできないし、冷たい水を温めるほど豊かでもない。この風土と生活の貧しさは、食事のまえに「手を洗う」という考えを放棄するのに充分な理由で、衛生にたいする観念が「ない」という印象をうける。 私は東京の下町で育ったが、子供時代には下水道は普及していなかった。バキュームカーがやってきたし、すこし雨がふれば「どぶ」が溢れて浸水が起こった。汲みとりの便所から回虫がでてきて、祖母がDDTを散布するのを、「怖ろしい」印象とともに覚えている。私たちは豊かになり、みんな忘れてしまった。 北海道の上士別に、一〇年ちかくまえ、(一九九二年四月)にやってきたとき、この北方の地まで、下水道が完備しているのに心から驚いた。「開発」がここまですすんでいるのに気がついて、快適さと同時に、漠然とした不安を覚えた。この名目のもとに人類がうしなったものは大きく、とりかえしのつかないほど環境を破壊したのだ。 私たちが心のよりどころとするキリスト教も仏教も、いまから二〇〇〇年以上もまえの考えだ。当時とは比べられないほどに、人類は快適さを手にするが、物質的な部分にとどまっている。 四大聖人とよばれる人たちがいる。覚えている方も、多いだろう。釈迦(五六三~四八三年)。孔子(五五一~四七九年)。ソクラテス(四六九~三九九年)。キリスト(紀元前五年~紀元後三〇年)。 人類の歴史で興味深く思われるのは、精神にたいする考察が二五〇〇年以上もまえに出揃い、その五〇〇後には、ほぼ完成したという点である。心象世界を置き去りに文明を形成し、現在にいたってギャップはいっそうはげしくなり、小手先では埋め切れなくなっている。地球環境でも、生態系でも、心の問題もおなじ状況だ。これが、今世紀の最大の課題だろう。 社会構造を激変させた大きな要因は、高齢化だろう。平均寿命が五〇年と八〇年の時代では、親と子供、人同士の関係は根本から変化する。社会を組み立てなおす必要があるのだろう。 目のまえに、両腕を真っすぐに伸ばし、人さし指を立てる。目玉をうごかさずに、徐々に両手をひろげていくと、指先が不明瞭になる場所がある。ここが世界の限界だと、ドイツの哲学者のヴィドゲンシュタインがいっている。みえる範囲が、人の領域なのだろう。私たちは、みえ、ふれられ、感じられる世界のなかに存在する。これは、ハイデガーの「世界内存在」の意味だ。私たちは、これ以上でも以下でもない。世界で人と共有する部分があるから、人同士が理解しあえる。いっぽう共有していない領域も存在し、たがいに相手の真意が分からない。いま「世界内」はたくさんの物資で満たされている。その結果、人同士が共有できる部分がどんどん減り、やがてやってくる二一世紀にはげしい構造改革を迫られる理由は、ここにも存在する。 アジャンタは、ボンベイから東北東に四〇〇キロはなれ、デカン高原の西端をながれる大河ワゴラーの断崖をくりぬいてつくられた、仏教の石窟寺院遺跡だった。一八一九年に、偶然、発見された。デカン高原の切り立つ崖に、大小三〇の洞窟が穿たれていた。二〇〇〇年まえにつくられた第一期窟は、インド最古の仏教壁画であり、一五〇〇年まえの第二期窟では、インド古典絵画の最盛期をいろどり、華麗な装飾世界を現出する。デカン高原の西端、アジャンタの周囲は、虎を追ってきたイギリスの士官が辿りついた場所で、奥ぶかいためほとんど略奪にもあわず、原形をとどめる遺跡として世界遺産の価値をもっている。壁面には、仏陀の伝記と、ジャータカとよばれる仏教説話がかかれている。釈迦は、涅槃に入るまえ五〇〇回以上も転生をくりかえし、前世は水牛や、象、龍だったりした。 原野を走るバスがとつぜん、行く手を遮られると、眼下に巨大な絶壁をもつU字谷が出現する。その光景に出会った瞬間、心は驚きの空白に支配され、神聖な感情に襲われる。オットーの「ヌミノーゼ」に違いない。こうした高貴な感情を、インドではながく持続させることはできない。シャツ一枚の子供たちが、すぐにバスをとりかこみ、アメジスト製だという首飾りを売りにくる。 「エクルピー」。(エクは一)という執拗な叫びがふかい谷に木霊していく。神聖と俗が、つねに混在している世界がインドで、この国の魅力なのだ。これが、素晴らしいバランス感覚なのだ。 大河ワゴラーは、大きな弧をかいてながれていく。固い岩質が絶壁側への浸食をさまだげた。巨大な壁の中腹に沿って、回廊がつくられている。水を汲むために川岸におりることさえ、ままならない過酷な地で崇高な祈りがつづけられた。壁には三〇以上の窟が掘られ、何千体とも知れぬ、いわば衆生の数にみあう壁画や彫刻がつくられている。窟内には、修行僧たちが寝起きした石のベッドがひっそりとおかれ、そこに横たわってみた。ひんやりとした硬質な感触だった。彼らが、生涯をかけて望んだものはなんだったのだろう。通りすがっただれかが、この谷に仏が隠れているのをみつけ、露わにしなければならないと感じたのだろう。これだけのことが起こったのだから、神がいたのは間違いがない。崇高な行為のなかで、神さまは姿をあらわしてくれたのだろうか。 汗を拭きながら歩いていると、いつしか私はヤンキーの娘とふたり切りになった。二〇歳くらいの小柄な女性は、ポニーテールに髪をまとめ、可愛かった。彼女は両親と三人づれで、入り口の休憩所で「リムカ」(炭酸飲料水)を飲んだときにいっしょだった。石窟寺院は容赦ないインドの太陽がまともに照りつけ、逃げ場もない猛烈な日盛りだった。午後の二時ころで、窟のなかまで熱気が充満していた。入り口の休憩所で飲んだリムカは、とっくにながれ、回廊がまがって日陰に変わった場所に、痩せた水売りがいた。水の入った真鍮の壺が、あやしく輝いていた。娘とふたりしかいない回廊で、私たちは思わず顔をみあわせた。彼女は悪戯っぽく笑い、それから白い項を一瞬かたむけて私をさそった。硬貨とひき替えに、水売りはいっぱいの柄杓をさしだし、生暖かい水を旨いと思った。半分ほど飲んで、容器を娘にわたした。彼女はそれを口にしながら、上目づかいに可愛く笑った。 それから、私に話しはじめた。 「ニューオリンズから、きたのよ。機会があったら、ぜひ日本にいきたいわ。あと二日で、ボンベイから帰るのよ。あなたは、これからどうするの」 そんな、たわいもない言葉を交わした。 こうして話していたが、石窟の壁画に夢中になるうち彼女はいなくなった。家族と合流したのだろうと思い、つぎつぎと感動をうける窟を巡りつづけていた。しばらくして、便意を感じた。はげしいもので、入り口の休憩所に懸命に走った。トイレに入ろうとすると、ちょうどそこからでてくる娘に出会った。彼女は、先ほどとおなじ悪戯っぽく笑ったが、力なかった。 「スペシャルだ」 私は、思った。 それが猛烈な下痢のはじまりだった。 インドで四回ほど生水にあたったが、そのうち二度は赤痢かチフスかと考えるほどのはげしいもので、医者で抗生物質をうってもらった。 日本人は水に弱いとされ、日本の衛生的な環境を賞賛しながら語られる。しかし、われわれだけが清潔な国民ではない。不潔で非衛生的な環境を好む民族などいるはずがない。どこの国民でも、違う水質には弱い。「水があわない」という言葉は、世界中に存在する。免疫のない細菌に接すれば、その地域ではごく通常にいるものでも、当然それなりの反応が生じる。しかし、おなじ人間が普通に暮らしているのだから、菌の力は恐れるに足らない。近年の日本文化論は、独自性を強調しすぎている。入浴を好む国民性から衛生を論じ、日本人の水にたいする象徴性へ話を展開する。しかし、元来どの文明でも水分は重要で、古代エジプトでもゾロアスター教でも、極めて神聖と考えられている。日本の特異性ばかりを論じるのは間違いで、そうした意味あいからは、日本人は特殊な民族だと思う。 ジャルゴンからアグラへは夜行だった。一等車のコンパートメントは四人部屋で、オーストリアの若い中学教諭とその婚約者(可愛かったが、ぶくぶくに太っていた)、背の高い赤ら顔のインド人だった。私はトイレにいくとき、教師に「荷物をよろしく」といった。その言葉は、同室のインド人をたいへん傷つけたらしく、帰ってくると大声でくりかえし喚いた。 「荷物は、大丈夫だったのか」 「ほんとうにいいのか」 「たしかめる必要はないのか」 申しわけなく思ったが、それどころではなく、一晩に七回トイレに通った。翌朝、げっそりとなってアグラについた。 この街は、日本でいえば京都と似た観光地だった。闇ドル買いの群から解放されて、宿を決めたのは昼すぎだった。部屋で横になると間もなくベルがひびいた。ドアをあけるまで呼び鈴はずっと鳴りつづける。「これがインドだ」と私は思った。 扉のまえで待っていたのは、大柄で腹のせりでた脂ぎった顔をした男だった。「町案内をしてやる」。彼はしつこく食いさがり、私は幾度もおなじ文句で断った。 「アイドーント、ニージュー」 この言葉を覚えるのは、もうすこしあとになってからだった。 宿はバンガロー風で各部屋のまえにテラス状に廊下があり、白いテーブルと椅子がおかれ、ながくのばされた軒がつよい日差しを遮っていた。私は、腰をおろした。すると、すぐに人がよってきた。 「コーチンからきたんだ。家族といっしょだ」 彼は、なんの承諾もなく喋りはじめた。 「コーチンには、いい木材がある。素晴らしい家具ができる」 無視して煙草を吹かすと、男はだんだん真剣になった。 「日本と商売がしたい。絶対にもうかるんだ」 「おいおい、ぼくはただの学生だぜ」 いくらいっても、こうなったらインド人はとまらない。 「兄弟に、ビジネスマンはいないか。ひとりくらい、知りあいをもっているだろう。紹介してくれ。手紙をくれ」 私が席を立つまで、彼は懸命に話しつづける。奥さんらしい婦人が子供をだきながら、窓越しにみているのが分かった。 「お父さんは、お仕事の話をしているのよ。休暇より、仕事が先よ」 言葉も分からない赤ん坊に、そんなことを囁いている感じだった。 部屋にもどると、またベルが鳴り、扉をあけるまでつづいた。戸のまえには、先ほどあきらめたと思った者が、小柄な白服の男性をつれていた。今度は、白い男が話しだす。 「君の服は、いけない。そんな格好をしていたら、一目で旅行者だと分かってしまう。この男性が、心配している。たいへん危険だ」 最初の大柄な男を指さしていった。 ずいぶんとありがたいことだ、私は呆れながら思った。 「政府の直営店で服を買ったほうがいい。この男が、ただでそこへつれていく。買いたくなければみるだけでいい」と今度はふたりで叫びはじめた。 「服」は、オウランガバードで出会ったフランス青年のチョッキを連想させた。政府直営という言葉は、不思議な安堵感をあたえた。 私がうなずくと、すぐに古い乗用車が用意された。車中でまた説得がはじまった。 「観光は、どうするつもりなのか。安く案内する。みるべきものは、たくさんあるんだ。みんな、こうしているんだ。君だけを、このまま帰すのは心苦しい」 とことんいいつくしたと彼自身が納得するまで、話は延々とつづくのだった。 「政府直営店」とかかれた大きな看板のまえで、私たちの車はとまった。私は店のなかに入り、すこし歩くと布地売り場にでた。あかるい豪奢な部屋だった。床には赤い絨毯がしかれ、高い天井にはシャンデリアが揺れていた。私の姿をみとめると、七、八人の店員たちが一斉にちかよってきて、肘かけのついた大きな椅子がはこばれた。案内した男がマネージャーといっしょにもどってきて、支配人は歩みより、慇懃な仕草で挨拶をした。店員が布をはこんできた。 「服だ」と私はいった。 彼は、その言葉に大きくうなずいて、「くつろいでください、時間はたっぷりありますから」と、床にしかれた布地について解説をはじめた。 「服だ」 もう一度、私はいった。 「みるだけで結構です。時間はたっぷりありますから」 彼は、はこばれてきた紅茶をすすめながら私の椅子のそばに立って、店員に指示をだした。足元に、大きな布がしかれはじめた。買う気はまったくなかった。彼の勧誘にたいして無愛想に拒否を示しただけだった。 「これは、いかがですか。それでは、こちらは。これなんかは、たいへん素晴らしい柄ですが。気に入りませんか。今度はどうですか」 私は、次第に戦慄を覚えた。それは最初に感じた、果てしもないインド的時間にひきこまれるという抽象的なものではなかった。着実に厚みを増す具体的な恐怖で、大きく薄いプリントの布地は、私の拒絶とおなじ数だけ床にしかれていた。踝をすぎるころ、その戦慄の正体はいっそう、明確になってきた。つまりこの恐怖をうみだしている者は、休みなく布地をはこんでくる店員でもなく、飽きもせず解説をつづけるマネージャーでもなかった。あきらかに、私自身だった。拒絶をつづける私こそが、この山をつみあげていた。 気が遠くなる時間から解放されて店をでたとき、ひとつの事業を終えたあとの安堵を感じた。無論、そのためには代償があった。私は上下のインド服をもっていた。複数のプリント地も手にし、象牙のアクセサリーも所有していた。 私は、荷物をたくさんかかえて店をでた。例の車にのりこみ、ふと外を眺めて唖然となった。なぜなら、でてきたのは、入った店とは違っていた。入り口は間違いなく「エンポリウム」(政府直営店)だったが、出口はとなりの店舗だった。 男たちは、車中でうんざりする説得をまたはじめていた。私はもう完全に疲れ切り、腹も立てていた。彼らにしても一応の収穫があったらしく、それなりに満足していた。私はホテルにもどることを主張し、それはなんとか聞き入れられた。 「明日こそ、観光だな」 男たちは、真剣な表情でいうと去っていった。 私は、体よくだまされたのだ。象牙のアクセサリーは、それなりの値段だから買ったのだが、あとでちゃんとプラスチックの偽物だと分かった。ずいぶん腹が立ったが、だれにというのではなく、不甲斐ない自分自身にたいしてだった。 時間がたったいまでは、これも一興だったと思う。インド服はたしかに気狂いじみた暑さを凌ぐにはもってこいだったし、プリント地はながい旅のあいだ充分に役に立った。地は、素晴らしく見事なムガル模様だった。なかで、いちばん気に入ったものを買ったのだった。もっているうちに、ますます好きになった。旅の途中で出会ったたくさんの人が、「ずいぶん素敵な図柄ね。どこで、買ったの。いくらくらいするものなの」と異口同様にたずねた。もちろん自慢の品物だった。もっともなことで、おなじ柄が一〇枚も買えるほどに高価だったのだ。 翌日、タージマハルをみにいった。坂道があって、リキシャがおかれていた。タージはたいへんこみ、みがかれた大理石は素晴らしかった。日の光に輝き、思ったよりずっと巨大で荘厳だった。地下への通路があり、霊廟へとつづいていた。 川をはさんでアグラ城をみた。屋上からタージがみえた。タージマハルは、河の瀬のなかに浮かんでいた。 七月二一日(金)タージなど。観光、バス利用。(不愉快)。すっかり観光が嫌になり、都会脱出をばかり考える。(同上泊二) スリナガルにむかった。ながくけわい山間をバスで移動した。ときどき乗り合いバスはとまって休憩した。どこかで休んだとき、インド人がチャイをご馳走してくれた。お金を払おうとすると、いっしょにお茶を振る舞われた男が、「彼はリッチマンだから、その必要はない」といった。 ジャパニーズ、五二枚、未了