秀源                    由布木 秀  驚くではないか。あのヒデさんが、もどってきたのだ。仲間内では、食道がんの手術をうけたという情報がながれていた。半年たっても姿をみることがなかったから、残念だが、うまくいかなかったのだろうと話しあっていた。なにしろヒデさんのゴルフ好きは、頭に「狂」がふたつくらいはつくと公認されていた。だから生きていれば、這ってでもクラブにくるに違いなかった。もしかしたら葬儀も家族ですませたのだろうと、みんなが考えていた。それが、とつぜんあらわれたのだ。幾分か、やせた感じはあり、がんで手術したのは誤報ではなかった。食事を終えるとシャツをめくって、胸壁の前方に位置を変えたふくらんだ食道をみせてくれた。手のひらでうえから押しさげて、食べた内容物を下に送る必要があるといった。すっかり気力も弱っているに違いないと考えたのは、私たちの勝手な想像だった。コースにでると、以前となにも変わらなかった。だれもが刻むところを、ひとりドライバーをぶんぶんと振りまわす。OB覚悟で二〇〇ヤードの賭にでるのだ。一ラウンドが終わって汗だくになり、昼飯にしようかと話すと、もうハーフをまわってから食べようと、みんなを説得する。体力も相当にうしなっているはずだから、いいのだろうかと仲間は思うが、本人は知らん顔だ。案の定、食事を終え、のこりのハーフをすませると、いまは日暮れが遅いといいはじめる、まえのヒデさんだった。結局、有志をつのって、さらに一ラウンドをまわるのだ。カート道で行き交うキャディーさんたちから、「今週は、もうこないのよね」と念を押されながら、「お世話になるよ」と笑顔で答える、なにも変わらないヒデさんがいた。  羽振りがいいころには、秀源は首都圏の各地にゴルフ場の会員権をもっていた。品川区御殿山に邸宅をかまえ、一七歳若い妻の泰子と三人の子供にも恵まれていた。ふたりの息子を自宅からいちばんちかい川崎のゴルフ場につれていき、いっしょにコースをまわり、実際に打たせてみることもあった。しかし、真の目的はべつだった。川崎のゴルフ場には、普段はつかわない一九番目のホールが用意されていた。そこは、打ちおろしになった二〇〇ヤードのコースだった。秀源は、ゴルフボールをいっぱい入れた大きな籠をふたつはこんでティーグラウンドに立つと、ふたりの子供をグリーンちかくに配置した。そこから、アプローチの練習と称して籠ふたつ分の球を打ち、子供たちに拾いあつめさせた。ゴルフボールは籠にもどされ、ふたたびティーグラウンドにはこばれた。このコースは一日の貸し切りで、予約は簡単にはとれなかった。秀源には不満だったが、児童福祉法にはこうした制限が必要だった。後年、次男の弘二がシングルとなったのは、彼の影響だった。秀一が熱心ではなく、腕前があがらなかったのも、やはり秀源の負の遺産だった。その後、ゴルフはブームになった。うまければ得なことも多いだろうと彼は考えたが、長男は覚めた目でこのスポーツをみていた。  秀源の助手としてはたらき汗だくになった兄弟は、ゴルフ場に併設された大きな風呂場で、泳ぎ、お湯をかけあって遊んでいた。そこに職員がきて、「おまえたち、なにをしているのか。すぐにでなさい」とつよい調子で叱咤した。その言葉にふたりが早々に身体をあらい、食堂にいき事件をつたえると、秀源は支配人をよんで事情をたずねた。子供たちが特製のミルクセーキを飲んでいると、マネージャーがあたらしい副支配人をつれてきて紹介した。 「たいへん申しわけありませんでした。よく覚えさせていただきましたので、二度と間違えることはございません」と副支配人は謝罪し、ミルクセーキをご馳走してくれた。ゴルフ場は大人の社交場だったから、子供は目立つ存在だった。見習いのキャディーと間違えられたのも、仕方がなかった。  借金の整理がつき、妻の泰子が他界し、子供が大学を卒業した晩年の秀源は、ゴルフ一筋だった。品川の御殿山にあった三〇〇坪の邸宅は人手にわたった。最盛期には都内に一〇店舗以上もっていた、時計店の維持もできなかった。すべてのゴルフ会員権は売却しなければならなかったが、彼にはツキがのこっていた。  川崎市登戸は、南部線と小田急線が合流する乗りかえ駅になった。もともと多くの梨農園があり、「二〇世紀」の有名な産地だった。登戸は、完全な首都圏といってよく、山手線の内側につくられた自宅から、直線にすれば一五キロ程度しか離れていなかった。だから自動車なら、渋滞しても一時間はかからなかった。あるとき飼っていた犬が、秀源の運転する車をゴルフ場まで追いかけた事件が起きた。飼い犬が、追跡可能な距離だった。秀源が車からおりると、喜んで飛びついてきた。雑種だったが頭のいい犬で、「帰れ」と命じると異変を感じたらしく姿がみえなくなった。一ラウンドをまわってから家に電話をすると、泰子は愛犬がもどっているといった。 「川崎国際ゴルフ場」は大都会のど真ん中にあったが、河川敷につくられたのではなかった。草分けとして、昭和二七年に開業した立派な山岳コースだった。便のいい場所だったので次第に宅地が建てられ、やがて住宅地になった。当然のことだが、ゴルフ場のまわりには、かなり背の高いネットが張られていた。しかし、打ちそこねた球の被害は、ゴルフの興隆とともにつづき苦情は絶えなかった。  市議会で存続についてくりかえし論戦がおこなわれ、廃業させ緑地として有効利用するか、市の厚生施設としてパブリックに変更するかという二択になった。清算すれば、権利金の返還があったのだろう。お金がもどれば、借金の返済にあてられたに違いなかった。ゴルフ場はパブリックとしてのこり、いまは「川崎国際緑地ゴルフ場」とよばれている。  秀源が大好きなゴルフをつづける場所は、こうして確保された。しかし、年金もかけていなかった彼は、かかる費用を自ら捻出しなければならなかった。  秀源は、青年時代に有力な将校に気に入られ、時計商として軍とともに中国大陸を転々とした。現在の時計は、一〇〇〇円もだせば買える使いすての、ありふれた商品だろう。高級品もあるが、実用とは縁がない特別に洒落たものだろう。しかし戦時中の時計は、流行の最先端で魅力的な商品だった。たくさんの軍票をもらった兵士たちは、故郷にのこした両親や愛しい人に、精いっぱいの贈り物として買いもとめ、心をこめてかいた手紙を添えて送ったのだ。無事をつたえる素敵な贈答品だったから、兵士は買うために列をつくった。  秀源は、最終的にシンガポールに辿りついた。そこで軍の依頼をうけ、物資を調達する総合商社を経営した。一〇〇〇人以上の従業員をかかえる会社は、スリーダイアモンドより大きかった。若いころ一向に酒が飲めなかった秀源は、さまざまな業者から贈答されたウイスキーを大きなクローゼットに放りこんだ。酒類はつみかさなり、やがて戸がしまらないほどに溢れてきた。仲間はそれに目をつけ、くるたびに一本、二本ともちだした。晩年、眠るために酒が必要になって、有名な銘柄が、たくさんあったことを思いだした。好きな連中なら、粗末にあつかわれているのをみれば、そのままにはできなかっただろうと思った。  敗戦を知らされ、財産を没収されるのが不可避だと分かったときには、はたらいていた従業員にミシンをくばった。どうせ、欧米の勝ちに乗じた者がひとり占めにするのだろうから、商品をふくめて、なんでも知りあいにやった。目先のきく者たちは、敗戦が濃厚だと分かると、海外の資産を日本にもちこんだ。シンガポールの生活にすっかり満足していた秀源は、そうした忠告に耳を貸さなかった。結局、財産はすべて没収され、復員兵とともに日本についたとき、国から一〇〇〇円をわたされた。  裸一貫だったが、シンガポールで手広く商売をした秀源は、人脈をもっていた。そうした手蔓で時計商をはじめた。時代のターゲットが上流階級ではなく一般庶民になることを予期していた彼は、百貨店に店をかまえねばならないと考えた。老舗の呉服店を前身とする日本橋「白木屋」は、超一流のデパートだった。手蔓をもっていた彼は、ここに店をつくろうと画策したが、原資を調達できず断念せざるを得なかった。信用が第一の商人には、価値が包装紙にあることを秀源は充分に知っていた。白木屋日本橋店の名前が入った包み紙は、事業を展開するための最大の後ろ盾になるはずだった。  どこにも、ここにも、時計があるという時代ではなかった。腕時計は、実用的な道具で、手頃な贈答品で、お洒落な高級品だった。それなりに高価で、壊れたばあいはすてるのではなく、修理してたいせつにつかう商品だった。定期的に需要を喚起するから、商売として成立した。競合も多かったが、御徒町に本店をもち、白木屋系列の京浜百貨店、品川店にも支店をだした。そこで、秀源は、一七歳年下の泰子とめぐりあうことになった。  二〇歳の彼女は、ふくよかで健康だった。茶目っ気があり、あたらしがり屋だった泰子は、友だちとつれ立って進駐軍のキャンプにも出入りをした。そこで、兵士からブロークンな英会話を教えてもらった。稚拙だったが、英語で意志をつたえられると、本人は自信をもっていた。家庭的に恵まれなかった泰子は、冒険に憧れていた。京浜急行の始点、品川店で、あたらしい時計商が店員を募集した。応募し採用された彼女は、そこで秀源と出会うことになった。大陸での成功者で、紙幣をいっぱいに詰めこんだ胴巻きをして鯨をとりにいくと話す彼は、泰子には青年実業家にうつった。酒も飲まず、紳士で、気前のいい秀源に彼女は夢中になった。たずねてくるたびに、たくさんの土産をもってくる彼は、継母の君江がみても羽振りがよい金持ちだった。  泰子の父、清三は、秋田の裕福な家にうまれた。がんらい派手好きで、洒落者だった。手先が器用だったことから大塚で時計店をいとなみ、知子と結婚した。妻とのあいだに、智恵子、泰子の二女をもうけた。知子は、次女を出産後、間もなく他界した。その後、芸妓だった君江を後妻としてむかえた。B52の東京大空襲により、大塚の家屋も類焼をまぬがれなかった。戦後は、品川の第一京浜国道沿いに家を建て、時計商をいとなんでいた。  清三が住んでいた南品川周辺は、ある大地主のもので、この一帯も焼け野原になった。すべての財産をうしなった庶民は、所有者の許可を得て仮小屋を建てて暮らしていた。地主には、土地の使用料が支払われた。  泰子と結婚した秀源は、清三の住居の裏側にバラックを建てた。そこで年子の秀美と秀一、二年後に次男の弘二をもうけた。  父と娘の関係は、微妙なものだった。  清三は、君江が智恵子と泰子を邪険にしたのをよく知っていた。彼は、後妻をむかえたことを後悔するときもあった。泰子が女児をうむと、清三は孫娘に首ったけになった。表通りに秀美を乗せた乳母車を置いて、ずっと団扇であおいで虫がくるのをよけながら、通りすぎる人をつかまえては、「おれの孫だ。美人だろう」と自慢した。彼にとって、孫娘は、思いきり愛せなかった泰子のかわりだった。  清三は、その後、肺結核に罹患し、川崎の結核療養所に入院した。君江と泰子は、子供三人をつれて見舞いにいった。京浜急行で南品川駅から終点の川崎駅までいくのは、子供たちにとっては、ながく電車に乗れるだけでも楽しい遠足だった。結核病棟に子供づれの見舞いが許されていた、よき時代だった。清三は、退院して間もなく胃がんで死んだ。  君江は、東京の下町で米屋をいとなむ夫妻の次女としてうまれた。夫婦には一二人の子供がいて、いちばんうえが姉で、彼女は二番目の娘だった。米屋をしていた父親は、事業が破綻し、いちばん下の息子がうまれたころに自殺した。  君江は、末弟の春路とは、ふたまわりも年が違っていた。やがて母親も他界し、すでに嫁いでいた姉もはやくに死んだ。こうして君江は、春路たち弟の面倒をみる役割が否応なくあたえられた。芸妓となったのも、清三と結婚したのも、このためだった。自分の思いがなにひとつ叶わなかった君江は、女中がいる恵まれた環境に育った先妻のふたりの子供たちは、愛すべき対象ではなかった。  泰子は、大嫌いな継母との暮らしからぬけだしたいとばかし考えていた二〇歳の娘だった。五つ年うえの姉の智恵子は、早々に結婚して家をでていった。その嫌いな家庭からすくいだしてくれたのが、父親ほどに年が違う秀源だった。  大空襲で焼けだされ、急造の掘っ立て小屋をつくって近隣に住んでいたのは、貧しい者ばかりだった。となりの家は創価学会の会員で、お金は全部お布施につかい、毎日納豆を食べて暮らしているという噂だった。裏のほそい通りをはさんだ小さな二階建ての家屋には、三世代の人びとがひしめきながら生活していた。父親は、大工をしていた。子供たちは不良か、その一歩手まえだった。となりには二階建ての家屋があり、家族性の病気の者たちが住んでいた。家族の者は、だれひとり立ちあがることができず、家のなかで膝行っているという巷談だった。ちかくの豆腐屋の角には、ブロック塀でかこまれた屋敷をもつ金持ちが住んでいた。そうした特別な人をのぞいては、みんな汚れた服をきて、みすぼらしい家で暮らしていた。  だれもが困っていた時代だったから、ゴミ箱をあさるのは、専門の者ばかりではなかった。あるとき、近所の子供が一〇冊ちかい帳面をもってきて「おまえの家のゴミ入れでみつけた」といって、秀一に一冊くれた。それは、父親がつかい終わってすてた小切手帳だった。  秀源の仕事は、順調だった。泰子は、子供たちに、「うちが金持ちだと、人にいってはいけない」と念を押した。シンガポールで豪勢な暮らしをしてきた秀源は、あたらしいものにもすぐ手をだした。家には、洒落たセダンがあった。秀源は、この車で鮫洲の教習所に通い講習をうけて、運転免許証を取得した。京浜第一国道の清三の店がある、まえの歩道が駐車場になった。例によって近所の悪ガキが、一〇円玉をつかって新車に傷をつけた。親にいっても支払い能力はなかったから、秀源は車にカバーをかぶせるようにした。電話をつけたのも、テレビを購入したのも、あたりでは最初だった。力道山が放映される時間には、近所の者がぞろぞろとやってきて、居間は鈴なりになった。  あるとき、ブロックでかこまれた屋敷の息子が、野球中継を窓にしがみついてみていた。 「あなたの家の、テレビはどうしたの」  気がついた泰子が聞くと、子供は答えた。 「うちの家族は、パリーグのファンで、セリーグを応援するなら、でていけといわれた」  野球は国民的なスポーツで、オールスター戦はみんなが夢中になった。秀源がセリーグのファンだったので、屋敷の息子は、居間でいっしょにテレビをみながら、「パリーグを応援するのは、パーだけだ」と叫んだ。  戦後、日本は急速に発展をはじめた。結婚して、七、八年たったころ、先見の明があった秀源は、品川御殿山に三〇〇坪の邸宅を購入した。南品川のバラックは、地方から上京した若者をあずかる寮に変わった。寡婦の君江は、若者たちに食事を提供することになった。  御殿山は、江戸時代から花見で有名な場所で、ひろい芝生がある高級住宅がいくつも建っていた。電気はもちろん、都市ガスがひかれ、浄化槽が完備していた。しかし、坂の下は貧民窟で、粗末なバラックがひしめきあっていた。七輪で火を熾し、夕食のご飯を炊くのは、年うえの子供の仕事だった。  秀源が購入した家は、坂の途中で御殿山の頂上までは到達していなかったから、道半ばだった。瀟洒な邸宅の庭には薔薇がうえられ、裏庭にはガレージがあり、車が、二、三台とまっていた。若い女性のお手伝いさんもいた。田舎から大都会にでてきた娘は元気で、子供たちが虐められた話をすると、「私に、いいなさい。やっつけてやる」と息巻いた。  秀源によって貧民窟から脱出できた泰子は、有頂天だった。 「さあ、みがくわよ」といって、彼女は米ぬかの入った大きな袋で、床をくりかえし乾拭きした。手先が器用で、根気もよかった泰子は、刺繍を趣味にした。料理教室に通い、アテネフランセでフランス語を習った。子供たちの教育に力をそそぎ、中学進学に有利だという評判が高かった港区の小学校に、越境で入学させた。余裕がある朝は、秀源が三人を学校の正門まで自家用車で送っていった。  子供たちは、品川駅からでる都電の七番線をつかい、一時間もかけて小学校に通った。帰りは品川の時計店により、おやつを食べ、百貨店の書店で好きな本をもらった。どんな書籍でも、会計の者に「つけておいて欲しい」と声をかければよかった。  西銀座デパートにも、秀源の支店があった。週末は、家族で京橋の店舗から銀座通りをぬけて新橋に歩いた。天国で天ぷら、不二家でデザートを食べるのが習わしだった。  万事が順調に推移しているようにみえた。しかし、不幸の目はうまれていた。転機は、秀源の交通事故だった。結婚して五年目、次男の弘二がうまれて間もないころ、彼は夜に車にはねられ、三三針をぬう重傷をおった。だれもが死ぬだろうと思った事故で、新聞でも報道された。泰子がよばれて病院にかけつけたとき、手術を終えた秀源と会った。彼は、声をかけても反応しない、ふかい昏睡状態だった。医師から「たすからない可能性がある」とつげられ、泰子は目のまえが真っ暗になった。  このとき、仕事でつきあいをもつ都銀の融資課長が、自分がかかえていた不良債権を、死ぬはずの「秀源」名義にかき変えたのだった。ミステリーの作家でなくても、交通事故が起こった際に、課長が彼の実印を保持していたのが偶然だったのかと考えるだろう。  秀源は、つよい生命力でこの重傷から回復したが、事故によって身に覚えのない三〇〇〇万という借金を背負うことになった。大卒の初任給が、五万円にも満たない時代、三〇〇〇万は桁外れのお金だった。  この事件を契機に、秀源の運は陰りをみせはじめた。がんらい、大陸での成功者であり、すべてに鷹揚で、委細にこだわらなかった彼は、禿鷹どもの格好の餌食になった。傷をふさごうという気持ちが、脇を甘くさせた。こうして、借金はふくらんでいった。  自宅におとずれた借金とりに驚いた泰子は、秀源に事情をたずね、バラックに住んでいたころに起こった事故が原因だと知った。彼は、一七も年の違う妻に、詳細を説明してはいなかった。泰子は、これだけの借金をかかえながら、邸宅と数台の車をもち、ゴルフにあけくれる秀源を理解できなかった。  大きな負債は、夫婦げんかの種になった。  大陸で成功した秀源は、人を信じやすく金銭にルーズだった。桁違いの借金を、夫が特別に気にしていないと泰子には思えた。  若く、世間も知らない彼女は、不安でたまらなかった。だれにも相談できず日中ずっと考えつづけ、夜、帰宅した秀源に思いをぶつけた。いくら問いつめても、騙したのは自分ではない。すぐには解決できないといって、大勢の社員を雇いつづけ、おなじ生活をくりかえす夫の神経が分からなかった。  早期に処理する手立てもなく、秀源は大陸的な感覚で成り行きにまかせていた。「大物」だったから、借金程度で首をつる気はもっていなかった。とはいえ、すぐにはどうにもならないことだった。交渉中だったが、家庭で愚痴をこぼしても仕方がないと考えていた。  幸福の絶頂にいた泰子は、いまの派手な生活が返済不可能な借金のうえにある事実を知り、はげしいショックをうけた。彼女は気力を喪失し、子供たちをちかくの小学校に転校させた。秀源が帰宅すると、解決できない話をえんえんとくりかえした。彼は、おだやかな人だった。いっぽう若い泰子は、執拗だった。堪りかねた秀源が怒りだすまで、彼女は追いつめた。彼には、安らぐ場所がなかった。  秀源が怒鳴りつけると、泰子は家出をした。三人の子供たちは、父親に謝るように叫び、スーツケースをひいて、ひとりスタスタと歩いていく母親の後ろを追いかけた。「いかないで」。「置いていかないで」と泣きながら、最後はバッグにしがみついた。その重さで泰子はスーツケースをひくことができなくなり、やむなくもどってきた。  こうした行為が、ほぼ週に一回、恒例としておこなわれた。小学校の低学年だった弘二はママが大好きで、毎回大泣きした。秀美も秀一も、泣きながら懸命に泰子をひきとめた。しかし、毎週くりかえされる儀式に、うえのふたりは、さすがに、どこかがおかしいと気がついた。泰子は、すでにノイローゼだった。  小学校から秀一が自宅に帰ってくると、「おまえの家に救急車がきていたぞ」と同級生がいった。ほんとうに死ぬ気があったのかどうか分からないが、泰子は化粧水を飲んだりする自殺未遂をくりかえした。救急車ではこばれ、精神科にも入院した。  困難な状況だったが、秀源と泰子は、長男の秀一に期待をかけていた。内向的で執着しやすい性格だった彼は、勉強にむいていた。だから有名中学の入学試験に落ちた際には家族中が落胆し、葬式となった。二日して補欠合格に変わったとき、秀源、泰子の喜びは大きかった。秀一が有名私立に合格できたのは、教育に力をそそいだふたりにとって、はじめての成果だった。中学は、高校も併設されていたので教師は五〇人以上もいた。ひどく喜んだ秀源は、苦境にもかかわらず中元と称して高級時計を全員にくばった。  その結果、秀一は教師のあいだで、大金持ちの息子と考えられることになった。入っていた運動部の顧問だった体育の若い教諭は、彼をよびだし、「ゴルフをはじめたから、お父さんのゴルフセットをゆずってくれないか」と聞いた。そんなものが、どこにもないのを知っていた秀一は、即座に「ありません」と答えた。きっぱりとした返事が、非常に不愉快だったのだろう。教諭は、幾度か多くの同級生のまえで、彼にあきらかな意地悪をした。学校では、授業料を毎月、会計窓口に生徒がもっていかねばならなかった。思春期の秀一は、期日にもっていけず、督促をうけることが恥ずかしく、つらかった。  金持ちの奥さまをやっていたつもりの泰子は、困難な状況にある秀源のよき相談相手にはなれなかった。子供たちは、「自転車操業をしているだけ」という話を聞いて一方的に母親の味方になった。秀源は、家庭内でも孤立し、安らぐこともできなかった。  子供たちは、不幸の原因はすべてが父親のせいだと信じた。こうした出来事が重なって、秀一は秀源にたいして、憎しみに似た感情をもつようになった。  清三ゆずりの結核があった泰子は、精神的な療養をかねて霞ケ浦のサナトリウムに入院した。彼女の見舞いに、秀源は三人の子供をつれていった。電車を乗りついで土浦までいき、タクシーで病院にいった。子供たちにとっても遠かったが、帰りに駅まえで名物のウナギをご馳走してもらうのは楽しみだった。当時の土浦は、都会しか知らない秀一には、とんでもない田舎町にうつった。駅舎をおりると、舗装もされていない土の道があった。秀源が、駅まえの配車センターで、病院までの料金を交渉するのを覚えていた。  後年、秀一は、娘が水戸につとめることになり、アパートまで妻の玲奈と荷物をはこんだ。帰りに、なつかしく思って霞ケ浦にいった。五〇年以上まえだったから、なにも、かにもが違っていたが、遊覧船で湖を一周した。霞ケ浦は思っていたよりもずっとひろく、どこが療養所だったのか、まったく分からなかった。  ぜひウナギを食べたいと考え、駅のインフォメーションで聞くと、いまはもうとれないといわれた。焼き肉屋を紹介され、割引券をもらった。親切な気持ちに感謝して焼き肉店にいくと、こんでいて、かなり待たされ食事をした。会計のときに、インフォメーションでもらった割引券をだすと、「この券は、期限切れです」といわれ、ふたりは大笑いした。  サナトリウムから帰ってきた泰子は、結核は完治した。しかし、問題は解決されていなかったからノーローゼはつづき、精神科に入退院をくりかえした。泰子の主治医は、若い医者だった。秀源は、苦境にもかかわらず、医師にできるかぎりの謝礼をはらい、贈り物をした。そのせいもあり、主治医はよく相談に乗り、泰子の信頼を得た。しかし、精神医療には、つきものの「転移」が生じた。泰子は、若い精神科医に恋愛感情をいだきはじめた。秀源は、なおしてくれるのだから仕方がないと思った。  若い精神科医は、困惑したのだろう。それで何回目かの入院時、彼はほんとうの精神病院を紹介した。  医師を信じていた泰子は、不思議に思いながら入院した。しかし、病院には鉄格子がついていた。送っていった秀源は驚き、ここには泰子を置けないといって、そこの医師とあらそったが、規則ということでしめだされた。もちろん主治医の精神科医にも状況をつたえたが、好ましい回答は得られなかった。秀源は、途方に暮れた。  長女の秀美は、この知らせに驚いた。秀源から事情を説明され、手立てがなくなっていると聞くと、電車で病院をたずねた。実際に秀美がみると、完全な精神病院で泰子は監禁状態に置かれていた。彼女は職員に説明をもとめたが、主治医の要請をうけたとして病院側はゆずらなかった。秀美は高校一年生だったが、「母は、気狂いではない」といって、自宅につれて帰ることを希望した。どんな説得にも応じず、泣いてゆずらなかった。病院側も、泰子の伴侶にたいしては、あくまで突っぱねることができた。しかし、興奮した女子高校生が相手では限界があった。結局、秀美は彼女をつれ帰ることができた。  この事件で泰子に追求された主治医は、本意ではなく手違いだったと弁明した。しかし彼女にも、医師が特殊な感情をいだいていないことがよく分かった。  君江は、泰子にとっては意地悪な継母だったが、秀一を特別に可愛がった。諸事情で子供をつくれなかった彼女は、自分の弟たちを息子同然に愛らしく思った。とくにいちばん下の弟の春路は、おむつを替え、子守歌で寝かせつけたから、うんだ子とおなじだった。  君江によくなついた秀一は、息子であり、いちばん可愛い末弟だった。かつて芸妓をしていたと知ったのは、彼が高校生のときだったが、そう思える粋な人だった。浅草にくわしく仲店あたりに、小学生の秀一をよくつれていった。新宿の末廣で、昼から晩まで演芸をいっしょにみた。平日興行には入れ替えがなかったから夕食は店内で弁当を買い、漫才や落語、紙切りなどを楽しみながら食事をした。 南品川のバラックは、寮としての役割がなくなると、君江がひとりで住んでいた。子供三人は、祖母の家に遊びにいくのを楽しみにしていた。君江につれられ、品川の縁日をみて、貸本屋で漫画をかりて読んだのは、兄弟三人の楽しい思い出だった。だから、子供たちは、祖母をとくに悪くは思っていなかった。それに泰子は結核で療養し、自殺未遂で精神科に入院をくりかえしたから、そのたびに御殿山の家に食事の手伝いにきてくれたのは君江だった。秀源一家は、祖母に世話になっていた。  しかし泰子は、生涯、君江を許すことがなかった。姉の智恵子は、祖母とは距離をもっていた。泰子は、いちばん多感な思春期に心をひどく傷つけられていた。彼女は、大きな葛藤をかかえ、君江によって、実母も父もうばわれたと考えていたに違いない。それほどはげしい憤りなら、清三の他界時に縁を切ってもよかった。病気になった泰子は、祖母を必要なときだけ利用したから、秀一にはふたりの関係が理解できなかった。彼女は、不幸な運命が、すべて君江のせいだと考えていたのだろう。  年の暮れに、療養中だった泰子が退院してきたことがあった。そうすると、それまで子供たちの食事をつくって面倒をみてくれた君江は、南品川に帰らねばならなかった。そこにはだれもいないから、祖母は、たったひとりで正月をむかえることになる。  そのときに、秀美が泣いて泰子に訴えた。 「おばあちゃんは、お母さんがいないあいだ食事をつくって面倒をみてくれたのよ。それなのに、なぜ正月はいっしょにすごせないの。おばあちゃんは、南品川で、どうしてひとりで暮らさなければならないの」と秀美は泣きながら抗議した。  泰子は、その言葉を聞いても「いい」とはいわなかった。それで、秀一も姉に加勢した。姉弟の訴えに根負けし、秀美がひとりでたずねていき、君江がきたいというのならつれてきてもかまわないという話になった。彼女は三〇分歩いて南品川の祖母の家にいき、いっしょにもどってきた。君江は、ひどく喜んで泣き、「ひとりで正月をすごすのは、寂しい」といった。  秀美は、秀一より一年半はやくうまれた。それに娘だったから、泰子とは多くの会話をして、さまざまな事情を知っていた。秀一は、子供のころの不審な出来事を教えてもらいたいと思って、彼女と話したことがあった。老年期に入った秀美は思いだしたくない事件が多いのか、いっしょに暗い過去にもどるのを嫌がった。  君江は、秀一が高校を卒業した年に、ひとりずまいのアパートで亡くなった。春路の家で死にたかったが、「姑」にあたったので希望は叶わなかった。亡くなったアパートは、末弟の自宅のちかくだった。君江の葬儀は、ほんらい秀源がだすべきだった。そのころは破産状態で、財政的な余裕もなかった。泰子は意固地だったから、姉の智恵子が君江の葬式をだした。その晩、秀一は伯母の家に泊めてもらった。夜になって、君江のいちばん下の弟、春路がやってきた。深夜まで、ひとりで棺のまえにすわって祈っていた。合掌した手首に数珠をかけて、「姉さん、すまなかった」と、くりかえし呟きながら慟哭していた。  なにをするのか分からない精神不安定の妻をかかえて、秀源も仕事に集中できなくなった。結局、税務署によって赤紙が張られ、破産が宣告され、清算が必要になった。御殿山の土地は、秀源が考えた通り、資産としては買値の数倍にふくれあがっていた。この物件を処分することで、すべてが清算できた。とはいっても、時計はつかいすてに変わり、店をかまえる仕事ではなくなっていた。戦中から戦後にかけて最先端の職種だった時計商は、時代遅れになっていた。  こうした破産状態のなかで、秀源は、運命に懸命にあらがい、三人の子供を育て、どういう形であれ大学を卒業させた。とはいえ、子供たちを通わせる余裕はまったくなかった。秀美が大学受験で自宅をでる朝、「頑張ってこいよ」と秀源は勇気づけなかった。 「合格しても、入学金はない」といって娘を送りだした。試験が終わったあとで、秀美は、泣きながら秀一にその話をした。しかし彼女が合格すると、秀源はなんとか入学金をつくった。仕事もなく困窮の真っただなかで、将来は東大に進学し、学者になるとばかり考えていた長男の秀一が、北海道の大学から中退して帰ってきた。万策がつき、仕送りができなかったのは事実だったが、青年時代、裸一貫で困難に立ちむかった秀源は、あまりにも不甲斐ないと思った。  そもそもが、秀美は一年浪人した。翌年、彼女は合格したが、秀一が受験して不合格だった。そのつぎの年、長男は北海道の大学にうかった。翌年から弘二が受験をはじめ、合格するのに三浪した。秀一は、次男の三浪目に勝手に中途退学をして帰省し、ふたりでうけて不合格だった。翌年、長男は大学に合格した。だから、七年間にわたって子供たちは大学受験をつづけていた。そのあいだに、複数が受験した年が二度あった。  やがて仕事がみつかり、生活だけはできるようになった。しかし、泰子は、そのころ縊死した。死に化粧した妻は綺麗だった。普段から「死にたい」とくりかえしていたので、仕方がないことだったと秀源は思った。  秀美は、越境して通っていたころの小学校の同級生、大山信人と結婚した。彼女が一浪して大学にいくと、現役で入学していた信人にめぐりあった。彼は、小学校の正門に自家用車で送られてくる深窓のお嬢さまに恋をしていた。車が好きだった信人は、ラリー部の部長だった。子供のころからの憧れだった彼女を、クラブに誘った。お金がない秀美が家庭教師のアルバイトをすると、彼は自分の自動車で送っていった。彼女が仕事を終えて家をでてくるまで、車内で車の専門誌を読んで時間をつぶしていた。あるとき、窓がこんこんと叩かれた。信人が不審な表情で窓ガラスをさげると、年配の男が、 「運転手さん。秀美さんね。今日はちょっと、娘の誕生日でいっしょにケーキを食べているから、もうすこし待っててね」といった。  秀美は、卒業して三年後に信人と結婚した。そのとき秀源は、娘に「いっしょに暮らしてもらいたい」といった。銀行員になった信人は、長男で両親は健在だったが、秀美の希望に応じた。息子の秀一が結婚するまで、秀源は娘といっしょに暮らし、うまれた子供たちを可愛がり、よく世話をした。数年後、信人がイギリスに転勤になったときも、子守としてよばれた。そこにいく飛行機は、シンガポールでトランジットした。そのとき、機内で知りあった人に、なつかしい町を案内してもらった。すべては、夢のように変わっていた。イギリスでは、信人一家の家族旅行についてフランスのルーブル美術館にもいった。  ロンドンにいるあいだに、信人はアメリカの大手銀行にヘッドハンティングされ、帰国して外国為替部門のチーフになり、昼夜逆転の生活を送った。  成功報酬でボーナスを五〇〇〇万ももらう有能な信夫に、二〇万円を貸していることは秀源の自慢だった。彼は、イギリスへの飛行機代も、信人に貸与した金銭も、週に何回か通うゴルフ費用も、すべて自分のお金ですませた。  秀源には運があって、どうにもできない資産をもっていた。南品川のバラックで、そこには借地権が設定されていた。これは、地主も容易に解決不能な権利で、建物が燃えてしまうか、秀源が死ねば、消失するものだった。しかし、現に家屋がのこっていれば、彼が自主的に家をつぶさないかぎり、所有者は自分の土地を有効に利用できなかった。南品川の資産価値はあがり、地主も片をつけたかった。  秀源は、この物件を交渉した。地主は、税制上の配慮から一〇年にわたる分割での支払いを提案した。これが、秀源の年金になった。彼は、よく按分してゴルフなどの諸費用につかったのだった。  秀源は、長男の秀一が結婚すると、息子の妻、玲奈と暮らしはじめた。子供がうまれると、懸命に子育てに参加してくれた。だから、秀一夫妻は、子をあずけてスキー旅行にもいくことができた。次男の弘二のところにも子供がうまれ、子育てに参加し、需要に応える生活に変わった。ゴルフは終生の趣味で、ずっとシングルになる夢をもちつづけた。あるとき、彼は遠くに飛んだ打球がよくみえない機会が増えたと感じた。ホームセンターで、さまざまな色の塗料を買いもとめ、ボールに塗った。練習場で実際に打って、どの色あいがみえやすいのか研究した。白内障に罹患していたのだろうが、あながち彼の考えは間違いではなかった。研究していくらもたたずに、カラーボールが市場にでてきたのだった。だれかが、彼のアイデアを盗用したのだろうか。  こうして秀源が人生でいちばん平和に暮らしていたころ、胸に痛みを感じるようになった。秀一に相談すると、研修する病院で、内視鏡をうけることを勧められた。そして、食道がんがみつかった。  秀一が夕方、内科病棟に回診にいくと、師長は玲奈から電話があったとつたえた。それで、診察をすませると医局にもどって連絡した。  電話口で玲奈が、「お父さんが痛がっているのよ。また、やってもらいたいって。あなたにつたえて欲しいって、何度もくりかえすのよ。とても、みていられないわ」といった。  食道がんの手術を勧めたことは、秀一に終生の悔いをのこした。外科医の甘言にしたがわず、一時しのぎでいいから放射線治療をして、ゴルフを好きなだけやらせ、あとは運命にまかせるべきだったと、くりかえし思った。秀源は、聡明で強運だったし、現実をみとめることができたのだから、真摯な態度で相談するべきだった。父親は立派な男だったのだから、自分でくだした判断に後悔などしなかったに違いなかった。食道がんの手術をうけた秀源は、大量の血清を投与され、ひどい輸血後肝炎になった。執刀したのは外科教室の教授で、完璧なオペだったと説明されたが、切除された組織断端は陽性で、がんはのこったままだったし、術後は縫合したはずの場所から食べ物がもれて、苦しめられた。肝炎が安定期に入り、ようやっと家にもどってきたころ転移がみつかった。いくらもしないうちに、がんは全身に播種し、入退院をくりかえし、最後はモルヒネの投与をうけながら死亡した。  死ぬ前日、秀一は病院から硬膜外のセットをもって帰宅した。骨転移のために胸部の痛みがひどかった秀源には、モルヒネの投与にも限界があった。秀一は、麻酔科を研修し、麻酔医を名乗る資格をもっていた。  人間の脊椎は、ムカデなどの節足動物とおなじ分節構造をとり、痛みを感じる神経が分布している。だから、その部分を麻痺させれば、疼痛を除去することが可能だった。 秀一は、食卓のうえに秀源を横向きに寝かせて、背中を消毒した。硬膜外に穿刺する背骨のあいだをみると、前回挿入した部分がまだ赤く腫れていた。痛む部位はおなじ場所なので、刺す椎間はある程度かぎられる。感染が問題で、チューブは一週間程度で抜去せねばならなかった。かりに一度感染症を起こせば、しばらく手技ができないばかりか、髄膜炎等の困難な病態に進展する可能性があった。おなじ場所をくりかえし穿刺するため、創部は癒着がはげしく、椎間にむかって直角に挿入する通常の道は、すでになかった。四五度傾けたルートも、ほとんどつかっていた。秀一は仕方なしに、二椎間下方の左四五度からの穿刺を試みた。まず局所麻酔薬を注射し、ほそいチューブを挿入することが可能な、内部が中空になった太い注射針のような道具をゆっくりと押しこんでいった。  脊椎のなかには、無色透明な脳脊髄液がながれている。髄液は、脳室で生成されて循環し、脳脊髄を保護し、栄養を補給する。この液体を包含する脳脊髄膜は、内側から軟膜、クモ膜、硬膜の三層をつくる。最外側は、ある程度硬い膜だといっても、針でつついて「タップ」を起こせば容易に穴があき、髄液が脊椎内に流出する。そうなれば麻酔どころではなく、生理食塩水を充分に注入し、髄圧の低下による諸症状を緩和するしかできない。  一日、待っていた秀源を考えると、タップを起こし、うまく留置できなかったとは、とてもいえない。秀一は、細心の注意をしながら、麻酔薬を注入する硬膜外側に、チューブを挿入しなければならなかった。転移で苦しむ秀源は、膝をかかえる体勢をたもつことも辛かった。手技の最中にも、我慢つよい父親の口から苦痛の溜め息が聞こえた。うまく硬膜外をさぐりあて、チューブを挿入し、細心の注意をはらいながら注射針をひきぬいた。注入部がずれないように工夫をして、秀一は手技を終えた。 「入れてくれ」  終わったことを知った秀源が、ながく待った甲斐があったという、ほっとした声でいった。麻酔薬を注入すると、父親は、「うん、楽になってきた」とつげた。 「親父、大丈夫か」  秀一は、大声で秀源の身体を揺すった。彼は、すでに意識はなかった。顔面は蒼白で、脈をとることもできず、あきらかにショックを起こしていた。体力も弱り、一日中ずっと痛みを堪えて、ようやく望みが叶うと本人が安心するため、薬剤がききすぎたのだ。秀一は、秀源を横臥させ、両手、両足を挙上して血液が心臓にもどりやすくした。 「親父。聞こえるか」と秀一がくりかえすと、しばらくして秀源は息を吹きかえした。 「これだよ。ほんとうは、こうなんだ」  痛みがまったく消失した秀源は、張りのある声で満面の笑みをうかべていった。  翌日の朝、ドラマの舞台になった食卓のソファーにすわる父親は、おだやかな表情をしていた。秀一は、うごかない秀源が死んでいると気がつくのに、やや時間がかかった。床には、缶ジュースがころがっていた。ひと眠りして、始発の電車の音に起こされた秀源は、いつもよりずっと気分がよかったのだろう。そのころは、ほとんど寝たきりで食事も手がつけられなかったのに、渇いたノドに、自分で起きてみようと思ったのだろう。冷蔵庫から缶ジュースをとりだしてソファーにすわり、そこで絶命したのだろう。 「つめたいジュースを飲みたい」という秀源の最後の望みは、叶わなかったのだ。  食卓のうえでくりかえし施行した硬膜外麻酔は、いつも事故死との直接対決だった。効果をもとめて過量投与し、血圧が急激に低下し測定不能になったことも幾度もあった。それでも、苦しむ秀源のもとめに秀一は応じた。  外科手術後、ICUで一週間にわたり気管挿管をつづけられた父親は、息子が仕事の合間をぬってそばにきたのに気がつくと、なにかをかく仕草をした。細字のフェルトペンと紙をもっていくと、秀源はふるえる字で、「コロシテクレ」とつづった。 「そんなことは、できない」と秀一はかいた。 「ネムラシテクレ」と父親はつづった。  秀源は、忍耐づよい人だった。消化器外科をまわった秀一は、食道がんの手術後に一週間、気管挿管をつづけることを当然と考えていた。治療をうける患者さんの、苦しみをわすれていた。医者は、なおってしまえば、経過はどうでもいいと考える。「治癒する」のは仮定で、そうでない人も現実にはたくさんいた。彼を教えてくれた外科の医者は尊敬できる部分をもつ真面目な先生だったが、「患者が苦しむのは当然」という考えを放棄しなかった。  秀一は、病院から紹介された葬儀屋にたのんで、簡単な葬式をだした。秀源は財産をもっていなかったが、借金も整理してくれていた。だから、困ることは、なにもなかった。  秀源の葬儀が終わったあとで、秀一ははじめて戸籍をしっかりみた。そこには、彼の知らない姓が記載されていた。父親は、吉田弘三とかかれていた。出生地の「平安道」という馴染みのない地名は、しらべると北朝鮮と中国との国境沿いにあり、日本の統治時代に南北に分けられていた。  秀源は、一九一一年(明治四四年)五月一八日にうまれた。戸籍では、一九一〇年うまれで一年ずれているが、間違いに気づいても放置される環境で育ったとしか、秀一には分からなかった。彼は、一九四一年二月、三〇歳のとき福島県で養子縁組みをし、いまの姓を得ていた。この年の一二月八日、日本は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争を起こした。  秀源は、日本軍の将校に気に入られ、中国の各地で時計店を経営した。一九四二年二月、三一歳のときにシンガポールが陥落する。軍とともにやってきた彼は、そこで王さまになったのだった。  戸籍を日本にうつしたのは、将校からの提案があったと考えるべきだろうか。日本軍とつきあい、手広く商売をするには、本籍が日本国であることが望まれたのではないか。一九四五年八月の終戦時、彼は三四歳の壮年だった。  戦後、ひき揚げ者の団体が、占領地にのこされた財産の返還をめぐって政府と交渉になったとき、秀源は役職をもとめられた。しかし父親は、「うしなったものに興味はない」といってことわった話を、秀一は子供心に聞いた。そのとき、「格好いい」と思った。  父親の家族について、秀一は聞いた記憶がない。秀源が三三針もぬう大怪我で入院したとき、新聞で事故を知った弟がたずねてきた。父親は、「話はない」と実弟にいったと、秀一は泰子から聞いた記憶をもっていた。  秀源は、恐らく子だくさんの貧農の息子としてうまれ、弟が東京にいた時期があったとしか分からない。彼に興味を示さなかった秀一が、あらためてたずねたことはなかった。楽しい思い出があったなら、なにかを話してくれたに違いない。 「裸足でサッカーをやった。蹴ると、相手のゴールちかくまで飛ばすことができた」  秀一が、秀源の子供時代の話で記憶にのこっているのは、これひとつだった。 「裸足で、そんなに蹴れるはずがない」と話題を終わりにさせたのは彼だった。  秀一は、秀源の話など、なにも聞いてやらなかった。彼が創作するのを知っていた父親は、「おまえが面白い小説を、いくらでもかけるネタがある」といった。中国大陸で、なにも分からない青年が、獅子奮迅の活躍をする物語をつたえたがった。秀一は、また例によって騙された話だろうと思って特別な興味を示さなかった。もし、その言葉にすこしでも耳を傾けていたなら、もっと生き生きと父親をかくことができただろう。  秀源は三九歳のとき、一七も年が違う泰子と結婚した。履歴には、婚姻届をだしてすぐに秀美の出生がかかれていた。  秀源は、自分の名前を気に入っていた。だから秀美にも秀一にも一字をくれた。彼は、次男の名前は易者から助言をうけたといったが、じつは実父の字をあたえていた。  秀源の父は弘三だから、三男坊だったのだろう。祖父もまた、貧しい家庭にうまれて朝鮮にいったのだろうか。北朝鮮で出生し、日本軍が植民地化したときに日本姓を名乗ったのだろうか。いずれにしても、学歴はなかったのだろう。  秀一は子供のころ、父親が自分の氏名をくりかえしノートにかいて練習しているのをみた記憶があった。こうしたことを考えあわせると、弘三には、「秀源」という名は思いつかないのではないか。そう考えられるほど、立派な名前だと彼は思った。  秀一は、自分の子供たちを育てたあとで、秀美と話しあったことがある。 「ぼくらは、どうして大学にいけたのだろうね。あんな状況で、どうやって受験をつづけられたのだろう」 「あの父だから、できたのね。母は、教育ママだったし、子供たちが自分で頑張ったのは間違いないわ。どうやって卒業したのか、もう分からないわ。でも、大学をでたから、私たちの人生がひらけたのね」と秀美はいった。  秀一は、四人の子供たちを全員大学院までいかせることができた。子供が今後どうなるのかは分からないが、一代では不可能だった。弘三と秀源と彼の、三代が協力して、はじめて成し遂げた快挙だった。  秀一は、死んでもいい年になっていた。そうしてはじめて、秀源の話を真剣に聞く義務があったと考えはじめた。人間として果たすべき責務だったと感じた。先祖たちがどんな生活をしてきたのか、命をあたえられた秀一が子孫につたえるべき「わが祖先の物語」だった。一族の由来を知るのは、先祖の労苦をいたみ、その尽力の果てに自分の生命が、いまあるという現実に感謝するべき問題だった。ましてや北朝鮮にうまれたと考えるなら、秀源の血脈はつねに命の危険にさらされていたのだろう。おなじ地方で出生した人びとの多くが、圧政とうちつづく戦禍のなかで子孫をのこせなかったのではないのか。父の言葉で語られた記録は、充分な教育をうける機会を得た彼が知るべき重要な物語だった。  秀源が嫌いで、東京にいたくなかった秀一は、勝手に北海道の大学に進んだ。万策がつきるまで仕送りをしてくれたのに、相談もなく中退して帰郷した彼は、自分が父親に勝るとも劣らない情けない男だと分かった。東京にもどって、とつぜん好感をいだいたのではないが、人間として尊敬の念をもちはじめたのは事実だった。  秀一は、結婚した玲奈が義父を大事に思い、病気にかかってからも善き話し相手になってくれたことに、ふかく感謝した。判断を過ち、父親には無益な苦しみをさせたが、親孝行の機会をあたえてもらった。そのお陰で他界した父の夢を一度もみたことがなかった。  どんな事件があっても動じなかった豪放な秀源は、あきらかに自分の素性を隠していた。  父親の事例を考えはじめると、秀一は、不幸なアジア史の一幕をみる思いがした。                                  秀源、五二枚、了