短剣 由布木 秀 光もない巨大な闇の空間を、ひとりでおりていた。東京ドームの数十倍はあるに違いない暗晦が支配する世界は、石切り場にも思えた。円筒状にひろがる皓々とした漆黒の暗闇の領域が終わる壁には、階段がついていた。みがかれた黒い花崗岩でつくられた石の段差は、ゆっくりと左に回旋しながら果てもない地下につづいていた。もの音も光も、大気のながれも途絶えた地点で立ちどまると、はりつめた静寂につつまれていた。 ぽたり。 耳をすますと、どこからか、水のしたたる音が聞こえてきた。冷え、寂寞とした晦冥のなかで次元の狭間からもれくる光があるのだろうか、足もとの階段だけはみることができた。そこには亀裂が入り、一部は欠けてもいた。手すりもない暗黒の世界を、気を許せば、どこまでもころがり落ちるに違いない最下部にむかってゆっくりと歩いていった。 階段が終わった怨念の霊気で満たされた場所は、ふかい闇に覆われていた。静寂のなかから、水のしたたる音が聞こえた。とおくに、人魂に似た蒼白いあかりが、ひとつあやしく揺らめいていた。足もとに注意しながら揺れる灯火にむかってゆっくりとすすむと、はっと気がついた。むかいの床面には、みわたすかぎり水がたたえられていた。心臓の鼓動がつくる波紋に、白いあかりがくりかえし水面であやしく揺らめくのがみえた。立ちどまって静かに頭をまわしてみなおすと、右がわに橋があるらしい。袂までくると、ほそい橋梁がかかっていた。みえるかぎりの周囲は水面らしく、どこにもここにも、あかりが映っていくつも揺らめいていた。遙かさきに灯火がおかれ、何ものかがすわっている。テーブルらしきものがみえ、そのうえのランタンのなかで青いあかりが揺らめいている。 意を決してわたっていくと、やがて橋は終わり、灯火のちかくまでいくことができた。 年老いた痩せた男が、黒い無地のクロスがしかれた小さなテーブルの後ろにすわっていた。うえには、ランタンがひとつ、蒼白く揺らめいている。顎の髭をながく伸ばした男の顔には、いたるところに青黒い染みが浮きでていた。皺だらけの頬はこけ、右の目は眼帯で覆われていた。白っぽい服をきた男は、眉間にふかい縦縞をつくっていた。 ちかづくと、圧し殺したひくい声でいった。 「勇者よ。よく、ここまできた。おまえの勇気に免じて、望みのものをあたえよう」 男は、エメラルドグリーンに輝く短剣をテーブルのうえにおき、「ぬいてみろ」といった。 ダガーナイフだった。その言葉に、あざやかな緑の柄を鞘から外すと、銀色の尖った二〇センチほどの刃先がみえ、ランタンのあかりをうけて煌めいた。 とつぜん、眩めきのなかにほうり投げられた。夥しい光が視覚をうばい、ちかくで魔獣の臭いがした。何ものかが、猛烈ないきおいで襲いかかってきた。後方に飛ぶと、大きな爪が顔のすぐそばをすりぬけていった。目のまえにいたのは、赤黒い巨大な竜だった。火竜は、火を噴きながら襲いかかってきた。太陽が力のかぎり砂塵と礫を照らすなかで、沙漠を懸命に走っていた。一枚一枚が腕ほどもある固いウロコに取りまかれた巨大な竜は、ながい爪がついた四本の前肢と後肢をもっていた。はきだす息からは猛烈な野生の獣臭がただよい、火を飲み、炎を食べていた。ながくつきでた鼻は尖り、逆三角形の耳は立ち、濁った赤い目は殺気をはらんでいた。左右の前肢と背中はつながり、大きな翼になっていた。赤い彗星を連想させるながい尾は、しなやかで鋼のように宙を舞った。その刹那、私は竜の腹部に入りこみ、短剣を思い切り刺しつらぬいた。くるしみの咆哮をあげた火竜は、真っ赤な血を噴出させた。そのとき、ひとりの女の子供が立っていた。 「どうしてなの。なぜ、虐めるの。私は、あなたを愛しているのに。なぜ、傷つけようとするの。私は、あなたといっしょにうまれ、ともに育ったのに。愛しているわ。あなたのためなら、死んでもいいと思っているのよ。だから、お願いよ。死ぬなら、私といっしょに。おいていかないで」 お下げになった髪を両肩に垂らした、愛らしい一〇歳前後の女の子は、目に涙をためて幾度も懇願した。あざやかな赤いワンピースに、黒いネッカチーフを巻いていた。 睨みつけると、子供は若い娘に変化した。ながい黒髪が眩しい、下半身に深紅の布を巻きつけた女は、ととのった容貌と、なまめかしい姿態をもっていた。半球状になった幻惑的な乳房は、呼吸につれて揺れうごいた。そばにやってくると、女は、唇をあわせようとした。そのとき、真っ赤なながい舌が首に巻きついた。私は、ためらわず頸動脈を刺した。夥しい血が噴出し、空を真っ赤に染めぬいた。そのときみたのは、全身を真っ黒にそめた悪魔だった。額の中央にするどい角が真っ直ぐにつきでていた。金色の角質をもった悪魔は、ハンサムな男の顔立ちをしていた。上肢は、こうもりに似た黒いベルベットの翼につらなり、先端部が黒光りするながい尾は毒々しい粘液にまみれ、尖った槍の穂になって終わっていた。下腹部に生える巨大な棒は、天にむかって怒張していた。私は走りよると、胸に短剣をつき刺した。悪魔は絶叫し、形がぼやけ、黒い気体に変わり、やがて風に吹かれて消えていった。 太陽が霧散し、私は、ふたたび闇のなかにいた。 「勇者よ。この剣をあたえよう。よいか。取りついている悪魔とは、おまえの一部なのだ。だから、離れないのだ。おまえの妄執である悪魔を、奈落の底にしずめたいのならば、剣をつかうしかない。この銀の刃先を、魔物の心臓の真上からつき立てるよりほかに、殺すことはできない。ためらうならば、おまえは乗っ取られる。そのとき、待っているのは、死だけなのだ」 そういうと隻眼の男は、闇のなかに消えていった。 大井真雄は、ある平日、都内の電車にのっていた。 コロナ禍の最中、最後尾の車両は、だれもが充分な間隔をあけて座席をしめていた。外の湿気から逃れて空調がきいた車内は、夏の日の午後の不快からときはなたれていた。リズミックな電車の振動のなかでまどろむ彼に、とつぜん絶叫の声が聞こえた。 真雄が目をひらくと、若い男が白髪の男性を刺していた。まさに眼前で、刃渡りが三〇センチほどもあるナイフが、老紳士の腹部をつらぬき大量の血液がながれでていた。紺の背広をきた紳士は、白いシャツをみるみる真っ赤にそめながら床に膝をつき、やがて真雄の足もとにくずれていった。うつ伏せに横たわってからも、男の腹からは血がながれつづけ、大きな血だまりをつくった。その一部は、真雄の靴を赤くそめた。 血のりがついたナイフをもっているは、二〇代なかばにみえた。黄色にそめた髪は、みじかくスポーツ刈りで、顔面は緊張し蒼白になっていた。大きな息で、金色のメタルフレームの眼鏡が揺れていた。緑の派手なシャツをきた男は、じっと真雄を見入った。目があうと、眉間に皺をよせて、さらに彼をみつめた。それから、だれもいなくなった車内をみまわし、むかいあう、ながいシートに腰をおろした。額には、大粒の汗が浮かんでいた。赤っぽいブレザーをきた男は、緑色のシャツで黄色いネクタイをしめていた。 こんなに異様な取りあわせの目立つ格好をしていたのは、はじめからみんなの注意をひくつもりだったのではないか。彼なりに、警告を発していたのだろうか。殺人を起こすまえに、だれかに気づいてもらいたかったのではないのか。しかしなぜ、いま、こんな事件を引き起こしたのだろう。 男は、血のりがついたナイフを座席にほうり投げると、網棚にのせてあった黒色のボストンバッグをおろしてシートにおいた。ファスナーをあけ、二リットル入りの大きなペットボトルをとりだした。なかには、透明な液体が入っていた。男は手にとると、シートにすわった。大きな息をして、横臥した。呼吸をやめた老紳士を無表情にみおろし、真正面に腰をおろす真雄をするどい視線でじっとみつめた。なにか、いいた気にみえた。それから右手にナイフを、左手にペットボトルをもって立ちあがり、もう一度、真雄をじっと睨みつけた。彼がうごきもせずに驚異の表情でみつめかえしているのを確認すると、顔をあげ眉間に皺をよせて、だれもいなくなった車内から先頭車両にむかって歩きだした。 男が連絡扉をぬけてまえの車両にでていくと、真雄は大きな溜め息をついた。眼前で生じていることが信じられなかった。なにをしたらいいのかも、分からなかった。目のまえに、血だまりのなかで白髪の老人が横たわっていた。なにも考えられなかったが、逃げる場所もなく、緑のシャツの男が車両をでていった以上、ここがいちばん安全だろうと思った。とおくから、列車が走行する騒音にまじって悲鳴が聞こえてきた。前方でなにかが赤くそまり、やがて焦げた臭いがしてきた。ペットボトルには、引火性の液体が入っていたのだろうか。それっをながして、火をつけたのだろうと真雄は思った。 やがて緑のシャツの男は、右手にナイフをもったまま車両にもどってきた。ボストンバッグをおいたシートに腰をかけ、息を殺してすわっている真雄をじっとみて、合口を自分の右がわにほうりすてた。かるい咳を二、三度して、赤い夏の背広のポケットから深紅のハンカチをとりだした。血のついた手をふき、それを床に横たわる男にむかって投げた。もう一枚おなじ色のハンカチをとりだし、額に浮きでた汗をぬぐった。それから正面にすわっている真雄をじっとみつめた。うごいたら、殺す。そんな感じでみつめると、もっていたハンカチを死んだ男にむかって投げすてた。胸のポケットから煙草をとりだし、火をつけると大きく吸いこみ、彼を睨みつけながら、ゆっくりと白い煙をはいた。 それが昨日の事件だった。真雄は、どうして自分が無事だったのか分からなかった。あまりのことに、息もできずに固まっていたから、殺人鬼は殺すまでもないと思ったのだろうか。その後がどうなったのか、真雄はよく覚えていなかった。気がつくと夕方で、ひとりでホームのベンチに腰をおろしていた。周囲には、だれもいなかった。怖ろしい映像ととともに、車内の原色の世界が真雄の目に焼きついていた。 昼にちかいころだった。雲ひとつない空からは、夏の日が力のかぎりに大地を照らしていた。だれもがその気力に閉口し、うんざりとしていた。ふたつの幹線が交差する四つ角は、結構な量の車がかなりのスピードで行き交っていた。 真雄は、さえぎるもののない日盛りのなかで、交差点のいちばん角のところで、ながい信号を待っていた。ひろい舗道には青い制服をきた一〇人ほどの幼稚園児たちが、三人の若い女性といっしょに立っていた。 「信号が青になったら、手をあげてわたりますよ。みんな、知っていますよね」 引率者らしい、中央にいる女性が声をかけた。「はーい」という可愛い声音が聞こえた。 ぼうぜんと先頭に立っていた真雄は、ふと咳きこんで一歩後退した。そのとき、とつぜん猛烈ないきおいで白いセダンがつっこんできた。自動車のサイドミラーが、一歩しりぞいた真雄の腹部をかすりながら、すりぬけていった。車は、彼の後ろにいた若い女性をはねた。まるでスローモーションの動画をみているみたいに、ひとり、ふたりと園児がひかれていった。六人をひくと、若い女性の引率者をはね、角の洋品店の大きな硝子扉につっこみ、硝子が割れるもの大音響とともに止まった。運転手が、ハンドルに倒れこんでいるのだろうか。猛烈な警笛音が、あたり一面に鳴りひびいていた。 ひかれた園児にかけよった者が、絶叫する声がひびきわたった。うずくまっている、はね飛ばされた女性のひくい呻き声が、真雄にも聞こえてきた。 やがて救急車がサイレンを鳴らして何台もやってきて、負傷した人びとを担架でつぎつぎとはこんでいった。警察官が、洋品店につっこんだ車から、運転していたらしい股引姿の男をつれだした。白髪の老爺は、背がひくく猫背だった。感情をうしなった感じで、大惨事となった現場をぼんやりとながめていた。やがて男は、ぼうぜんと立つ真雄の姿をみつけると、おどろいた表情に変わってじっとみつめた。老爺の瞳は、おまえのせいだといっているようだった。 あつまってきた警察署員は、現場にいた者たちから事情の聴取をはじめた。 真雄は、自分が狙われているのを知った。そうだと分かると、だれもがあやしかった。ひどい頭痛がした。車内の若い殺人鬼も、ブレーキとアクセルを踏み間違えたらしい年老いた男も、理由は不明だが真雄を狙っていたに違いなかった。あきらかで、疑いの余地がないよように思った。どの事故も、偶然いあわせたべつの者が被害にあっていた。おそらく、だれかが憑依していたのだろう。若い男のばあいは、ボストンバッグに引火性の液体まで用意していたから、何日かまえにのりうつられたのだろう。八〇歳をすぎた白髪の老爺は、とつぜんこの場で憑依されたに違いなかった。周囲でなにが起こるのか、まったく予測できず、無気味に感じた。どんな事件が生じても、不思議ではなかった。 大井真雄は、山里春奈が入院する病院をたずねた。都心の中央部につくられた五〇階建ての高層ビルは、まるで空中楼閣だった。中央のエレベーターホールには、「六人以上のご乗車は、ご遠慮ください」と立て看板がおかれていたので順番を待った。しかし、どんな規則もまもられない。人間という生き物は、どうしてこんなに身勝手なのだろう。病院だったから、だれもが一応マスクはつけていた。いちばん先頭でのったのに、続々と入ってきて七人目はつぎのエレベーターを待つべきなのに、密の状態がつくられていた。注意をする者は、ひとりもいなかった。 どいつもこいつも自分勝手で厚顔無恥だと、真雄は思った。人心の荒廃は甚だしい。マスクをつけることで、匿名化されているのだろうか。文句をいってやりたいが、昨日、今日、起こった事件を考えあわせれば、だれがなにをするつもりなのか見当もつかなかった。そう考えると、どいつもこいつも危険人物に思えたし、おとなしそうにみえる女性さえ、いつ悪魔に豹変するかも分からなかった。不愉快に思ったが、だまって最上階までのっていった。 たずねると、春奈は個室で寝ていた。事故以来、ずっと眠りつづけていた。意識障害にたいして、医者はさまざまな検査をしたが、どうしても原因は分からなかった。食事もできず、ずっと点滴をつづけていた。身体に外傷がひとつもなかったのは不幸中の幸いだったが、意識はまったくもどらなかった。 春奈の個室からは、東京の街が一望できた。夏の太陽が燃えさかっていたが、病室は冷房がよくきいて寒いくらいだった。しばらく待っていると、担当の医師がやってきた。真雄とおなじ、三二、三歳の若い医者だった。 「どうなんでしょう。なにか変化はないんでしょうか」と真雄は聞いた。 医師はだまって、春奈の頭につけられた脳波計がプリントした用紙をながめていた。 「なにか、変わったことはないんでしょうか」 「どうして、こうなるんだろう」と医師はぼそりといった。 「なんですか。どんなことでも、話してください」 「今日の昼ごろの脳波だが、一一時すぎから猛烈な棘波が出現している。普通は、小さな波がつらなっているだけだが、このとき、なにかの発作が起きたんだろう」 「どれですか」 「この短時間のあいだに、発作的にいくつかの神経細胞が同時に電気をだして、かなりの電流がながれたに違いない。尖った棘波や、もうすこし幅がある鋭波もでている。ひどい負荷が脳にかかっている」 「どんなことが、考えられるのでしょうか」 「なにが、起きているのかは、はっきりしない。しかし脳は死んだのではなく、衝動的ともいえる発作をくりかえしている。昨日の午後も、起こっていた。今日よりもずっと激しく、発作の時間もながかった。かつてみたことがないような波形だった。あのとき、そうとうな負荷が脳にかかったのは間違いない」 「昨日の午後ですか。やはり、春奈が原因なんですね」 「これだけでは、なにがあったのか分からない。すくなくとも、てんかん発作時の波形よりずっと激しいものだ」 医師は、呟いて春奈をじっとみつめた。 「なにが起こったんだろう。どうなっているんだろう」 「先生は、昨日の事件をご存知ではないのですか。あの列車で殺人事件が起こったのは、ちょうどその時刻でした。ぴったり、あっていますよね。もうひとつは、今日のお昼ですね。先生は、まだご存知でないかも知れませんが、交差点に車がつっこんできて何人も死んだんです。ほうっておいていいんでしょうか。彼女をこのままにして、ほんとうにかまわないんでしょうか」 「分からない。なぜ目覚めないのか、理由がない。脳は活動しているんだ」 医師は、じっと真雄をみつめ、「この世に、激しい執着があるのかも知れない。妄執ともいえるものが」といった。 「ひとりでは、死ねないということなんでしょうか」 「いったい、いつまでこんな状態がつづくのだろうか。意識障害の原因も特定できないのだから、呼吸状態がどう急変するかも予測は不能だろう。手立てがかぎられる以上、このまま経過をみるより方法はないんだろう。医学では理解できない、なにかが起こっているのかも知れない」 医師は呟くようにいうと、彼に挨拶もしないで去っていった。 真雄は、頭をかかえた。やはり春奈なのだ。ひとりでは、亡くなりたくはないのだろう。いっしょになら、死んでもいいと思っているのだろう。それほど愛されたのなら、それも仕方がなかった。本人は無意識なのだろうが、それによって周囲の者が巻き添えになって亡くなるのは、真雄には耐えられなかった。 春奈を殺すか、いっしょに死ぬか、決めなければならないと思った。愛する彼女と心中することに、とくにためらいはなかった。あんな事故を起こしながら、ひとり生きるのはただ辛いだけだった。しかし、春奈は意識がないのだから、真雄が死んだとしても理解ができるのだろうか。彼女は、亡くなっていることが分からないのだろう。だから、こんな事件をつづけているに違いなかった。意識がない以上、だれも罪には問えない。本人もなにをしているのか、分からないのだ。この状況を解決するためには、彼女をしっかりと殺さねばならないのだろう。 真雄は、両手で頭をかかえた。 逃れる手立てのない事故だったのだ。避けることができなかったのだ。 真雄は、二週間まえの事故を思い起こした。 ちょうど夕暮れどきで、いちばん視界が悪くなり、交通事故が起こりやすくなる時間帯だった。首都高速を、真雄は自分のセダンに、春奈を助手席にのせて走っていた。その日は、結婚式の延期を決め、もっと簡素な式に変更する相談をした帰路だった。 ふたつまえのトラックの荷台から、鉄のながいパイプがすべり落ちるのがみえた。それは、ユーチューブの動画をみているような出来事だった。鉄パイプは、まえのセダンのフロント硝子にあたり、そのまま運転手につき刺さるのが目に入った。真雄は、連続して生じているこの事態に感情移入する間もなかった。乗用車は、大きく蛇行して中央分離帯に衝突した。真雄は、たいへんだと思ってブレーキを思い切りかけたが、後方の車に追突され、激しくスピンして、あとはどうなったのか分からなかった。気がついたときには、助手席にいた春奈は、エアバッグにはさまれて気をうしなっていた。真雄は、自分のシートベルトをはずして彼女に覆いかぶさっていた。だから衝突の直前に身を挺して、春奈を庇ったに違いなかった。必死で声をかけたが、彼女はピクリともうごかなかった。顔面は蒼白で、息もはっきり分からなかった。出血はどこにもみられず、あきらかな外傷はみつけられなかった。しかし、それから彼女の意識はもどらなかった。 フロント硝子をつきやぶったパイプが、胸に刺さった運転手はもちろん、同乗していた助手席の女性も即死した。後方から追突した車も四台が玉つきになり、乗車していた男女はすべて、そのまま死亡した。傷ひとつ負わなかった彼らは、奇跡とよべるほど運がよかったとしかいえなかった。しかし、彼女の意識はもどらなかった。それからは、ずっと病院で、食事もできずに横たわっていた。 しかし、このまままではいられなかった。 彼は、いつ決断するべきかと考えていた。 真雄が気づくと、春奈は屋上の柵をこえて地面をみていた。 場所がどこなのか分からないが、三〇〇メートルもある高層ビルだった。病院なのだろうか。しかし、どうやって春奈がこんな場所まで、こられたのか分からなかった。深夜の東京には雲がでていて、すべてが薄暗かった。ビルは表通りに面し、三〇〇メートル下に道路がみえた。そこを、米粒になった自動車車がときおり走りぬけるのが目に入った。道路は桜並木で、車が走るとライトがあたり、満開の桜が光に輝いていた。上空には緩やかな風が吹き、自動車のヘッドライトにライトアップされて、開花した桜花が静かに散りはじめているのがみえた。 場所は不明だったが、状況から、春奈が死ぬ気になって飛びおりようとしているのはあきらかだった。気がついたのだ。そして、自分が引き起こした事件も、覚えていたに違いなかった。それでなかったら、こんなことが起こるはずがなかった。 春奈は、ちかくに真雄がいるのも分かっていないのだろう。なにやら、ぶつぶつと呟く声が聞こえた。真雄は、そばにちかよった。 「真雄さん。それほど望むのならば、私はあなたのちかくにいきます」 春奈は、ひくい声でいった。 真雄は、おどろいた。春奈がふかく傷ついたのは、よく理解していた。しかし、それでも許せるのだ。春奈を、だれよりも愛しているのだ。彼女なしに人生をおくるなど、考えられないのだ。 「春奈。そんな必要はない。いっしょに生きよう。ぼくらはまだ若いし、なんでもやりなおせるのだから。君がやったという証拠はないんだ。だれにも分からないんだ。それに、たとえ君の傷が全治しなくても、寄りそうことができる。身体が不自由のままなら、ぼくは、春奈の腕にも足にもなれるんだから」 真雄がいくら耳もとで囁いても、彼女は首を縦にはふらなかった。 「君は、生きてほしい。春奈なしの人生など、考えられない。死ぬほど愛しているのだ。君だけは、生きていてほしい。しかし、さまざまなことを考えて、そうした結論にいたったのなら仕方がない。これほどいっても君が望むのなら、ぼくはいっしょに死んでもいいんだ」 真雄は、彼女をみつめ、肩を抱いた。 そのとき、春奈は、彼がそばにいるのに気がついたらしかった。 「いっしょにきて」 彼女は、小さな声で真雄にいうと、まさに頭から飛びおりた。彼は、春奈を追って宙に飛んだ。 「愛している。ぜったい、君をひとりでは死なさない。どこまでも、いっしょなんだ」 追って飛びおりた真雄は、彼女の肩をつかみ、じっと目をみつめていった。 そのとき春奈は、右の太腿から、ゴムのバンドでしっかり止められていた短剣をとりだした。真雄の目のまえに翳されたダガーナイフには、翡翠が象眼され、緑に輝いていた。 「春奈、大丈夫だ。君を、ひとりでは死なせないから。未練はないんだ。望むなら、ぼくの心臓をついてもいい。いっしょに死のう」 真雄は、春奈をみつめていった。彼女の短剣にむかって、自分の胸をつきだした。頭を地にむけたまま、真雄は春奈を抱きしめた。 「しっかり、抱いて」と彼女はいった。 真雄は、力のかぎり春奈を抱きしめた。短剣が、彼の心臓をついた。そのとき、とつぜん春奈は大きくひっぱられた。彼女を抱きしめた真雄は、猛烈な力でひきあげられ、つよい反動が起きて、短剣は心臓を見事につらぬいた。 春奈の両足には、太いロープがつけられていた。そのために彼女は宙にとどまり、真雄は心臓の真上につき立てられた短剣とともに落ちていった。 「ついに、離れたか。悪魔め。なぜ、死んだことが分からない。悪霊め。二度とよみがえるな」 私は、奈落の底にむかって大声で叫んだ。 短剣、二七枚、了