レール                                    由布木 秀  なにかが、輝いていた。  きらきらと煌めきながらつづいている。音が聞こえる。なつかしい、ゆっくりと反復を重ねるひびき。そのとき闇がふかくなり、やがて薄闇がおとずれた。輝いているものは、ほそながい鏡だった。  潮の匂いがする。暗晦をさまよいながら、周囲は香りに満ちていた。  あっ。  浦波の音が聞こえる。固いものとぶつかり、くだける音響が広がっていく。影になり、ひたひたと一面を覆う物体は、海に違いなかった。幽々とした世界のなかで、無数の星と下弦の月がただよっていた。ほそながい鏡は、ずっと遠くまで途切れることなくつづいていた。となりも輝いていた。同じ間隔で、光りながらつづいている。ふたつが、どこまでもならんで輝いている。  あっ、そうか。レールなのだ。  ならんだ二本は、どこまでも平行につづいている。ふたつは一時も離れに、つねに寄りそっている。  そのとき、笑い声が聞こえてきた。 「いいわね。あなたは。信じられないわ」 「シンデレラだったのね。うらやましいわ」  ポジとネガになった白黒のフィルムがながれていく。あかるい部屋、大きな家。南の居間からつきでたガラス張りのサンルームは、日の光がさんさんと注がれ、輝きにあふれている。充分に空調がいきとどいた室内は、白い壁紙に洒落た絵がかざられ、厚い赤色の絨毯には、薄い緑色の大きなソファーがおかれている。そこで、三〇歳をすこしすぎた三人の女たちが話をしている。目鼻立ちの整った彼女たちは、細身でながい素敵な黒髪を肩まで垂らしている。三美神のようだった。シックなワンピースをきて、花柄模様のティーカップで紅茶を飲んでいる。 「私たち、いつも話していたのよ。三人娘といわれても。自分では、どうにもならないことがあるものね」 「花の三人娘か。なつかしいわね。あの嫌らしい担任。女子生徒のスカートを盗撮したのがみつかって解雇されたのよ。知ってた」 「今度、同窓会にいらっしゃいよ。あなたのことは、有名よ。知らない人なんて、ひとりもいないわ」 「宣伝したわけじゃないのよ。みんな、興味をもっていたから。あなたが、どうするかって。人の口には、戸が立てられない。噂は遠くから、というけど、みんな本当ね」  高校時代、三人はとても仲がよかった。開校以来の秀才とよばれた美貌の女たちは、学園祭でも体育祭でも、いつも話題の中心だった。しかし、すべてがいっしょではなかった。ふたりは、東京の有名な大学にすすんだ。  加奈子は、いくことができなかった。彼女の父親は、駅長だった。日本海にそってぽつぽつと点在する寂れた漁村をつなぐ単線は、ひとりの所長と三人の臨時職員でまもられていた。父親の仕事は、冬は雪もふる暗い時間から線路を保守することだった。  加奈子は、東京の大学に進学したかった。しかし、ふたつ年上の兄が地方大学に通っていたから、彼女が首都圏にいくことは不可能だった。父親は、成績のよかった加奈子に家から通える公立大学への進学をすすめた。 「お父さんも、お母さんも、私が幸せになる道をとざすことはできないわ。お金のせいで東京の大学にいけないのなら仕方がないわ。でも働くのは、私の自由でしょう。こんな田舎で青春をすごすのは、うんざりだわ。魚くさい村で、もう暮らしたくないわ。駅長だといっても、職員はお父さんひとりじゃない。将来のことを考えてくれないのなら、自分で決めるわ。もう、干渉されたくないわ」  漁業以外に産業がない村は寂れるいっぽうで、転出できない貧しいものばかりがのこっていた。加奈子の小学校は複式だった。父親の管理する駅から小一時間ほど列車にのった地方都市の中学に通い、成績がよかった彼女は、いちばん進学率がたかい高校にすすんだ。  小さな漁村は、美しい風景で満ちていた。しかし、手つかずの自然がのこるのは、貧しいことと同義だった。やり切れなくなったとき、加奈子は丘にのぼって海をながめた。そこからは、やや冷たい感じがする真っ青な日本海がみえた。西には能登の島影がただよい、春と冬には蜃気楼が目にうつった。眼下には荒ら屋が点在し、焼き玉の音とともに海にのりだす、ゴム長をはいた漁師のわびしい姿がみえた。父親が管理する鉄道のレールが、夕日に赤く輝きながら途切れずに伸びているのが目に入った。道床にならべられた枕木のうえに等間隔におかれて、ずっとつづく軌道は、父の勤勉で裏表のない生き方そのものだった。 「事故が起こったら、すべてが私の責任だ」  そういって早朝から深夜までひとりでまもる、父の血が塗られているようにみえた。加奈子は、父親といっしょに旅行した記憶もなかった。鉄道会社は、父だけを正規職員にすえて、あらゆる責任を押しつけた。ひとりでは無理だともいわずに馬鹿正直に職務をまもって、それ以外のすべてを犠牲にした父親を、くりかえし考えた。赤く光りながら、どこまでもつづく軌道は、加奈子にとって切なく、みるだけで辛いものだった。レールには、「報われない努力」とかかれていた。やわらかな潮風にうたれながら、朝日がのぼるのも、夕日がしずむのも、くりかえしみた。わびしい漁村は、いつも見納めにしたいと思った心の故郷だった。拒絶した加奈子の原風景だった。 「お父さんが実直で、素晴らしいのは分かるのよ。陰日向がないのは、誇りに思うわよ。でも私は、自分の息子や娘には希望する大学にすすませたいの。ここで暮らしていたら、子供に、お父さんと同じことをいわねばならないわ。この環境を、私は自分の力で変えたいのよ」  父は、だまっていた。毎日、同じ具材の弁当しかつくれない母は、なにも話さなかった。いつものように、「お父さんは偉いのよ」とだけいった。  加奈子は、地方の大学へはすすまず、東京にでて日本有数の電気機器メーカーに事務職員としてつとめた。そこで、ある男性に巡りあった。 「あなたは、なぜ大学にいかなかったのですか」  紳士は、料理の手を休めてナイフをおくと、加奈子をじっとみてたずねた。 「両親は、地方の大学ならいかしてくれるといったのです。どうしても東京へきたくて」  彼女は、小さな声で答えた。 「そうですか。そうなのでしょうね。あんなに英語がしゃべれるのには、心底おどろいたのです。それも、ラジオの英会話だけで習得したというお話は、自分とくらべて感動にちかいものでした。あなたほどの努力家ならば、どこの大学だって入れると思ったのです。ご家庭の事情をうかがおうと、考えたわけではないのです。あなたが大学にいかなかったから、巡りあえたのです。どこに幸運があるのか分からないと、思っただけなのです」  加奈子に好感をもった紳士は、会社でいちばん若手の部長だった。背がたかく東大出の上品な男性は、一七歳年上だった。やがてふたりは愛しあい、結婚して息子がうまれた。五年後に、娘が誕生した。そのとき、いちばん出世の夫は、日本を代表する電機メーカーの最年少の執行役員になっていた。住みなれた社宅をでて、田園調布に邸宅をたてた。  三人の女の話し声が聞こえてくる。華やかな笑い声は、なつかしい賑わいをつたえる。 「綺麗な薔薇ね。でも、手入れがたいへんなんでしょう」 「あの白い薔薇、素敵だわ」 「庭師が、手入れしてくれるのよ」 「そうよね。自分じゃ、あんな綺麗にはできないわよね。薔薇を見事に咲かすのは、なみ大抵でないって聞いているわ」 「赤いほうが、私は素敵に思うわ。情熱的な感じで、加奈子にそっくり」 「あの薔薇の名前は、イングリット・バーグマンていうのよ」 「そうか。あなたが、植えさせたのね。カサブランカ、大好きだったものね。映画をみては、くりかえし泣いていたわね。私も、街外れの古びた映画館につれていかれたわ。なつかしいわ。そうか、あなたは、ボガードと巡りあったのね」 「シンデレラではなく、イルザだったのね」 「でも、すごいわね。あの有名中学に、息子さん合格したんでしょう。東大に入学するより、むずかしいって聞いたわ」 「もう、入ったのと同じね。それとも海外の大学にでもいかせるつもりなの。マサチューセッツ工科大学とか、ハーバード大学とか。そこで学位を取って、国際的なエリートになるのね。それとも、教授かしら。お父さんのあとでは、物足りないのかしら」 「そんな、先のことは分からないわ」と加奈子は答えた。 「あなたをみていると、なにが起こるのかと思うのよ。考えられないこと、ばかしだから。私たちとは、違うとしか分からないわ」  笑い声に満たされていた。三人が話すサンルームに、あかるい光が注がれていた。室内は充分な冷房がきき、湿気もなく快適だった。 「なんて成績なの。あなた、ビリじゃない。どうして、頑張らないの。あなたはできるのに、なぜなの。こんな成績では、どこへもいけないわよ。面談で、お母さん、悲しい、恥ずかしい思いをするのよ。どうして、頑張らないの」 「お兄ちゃん。恥ずかしいわよ。みんなから、東大にいくのでしょう。いいわねって、いわれるのよ。どうして頑張らないの」 「あなたは、だまっていなさい」   でっぷりとした、好色そうな男がしゃべっている。五〇歳をこえているに違いない。  金縁の眼鏡をかけた二重顎の男は、安物のポマードの臭いをさせながら、嫌らしい目でじろじろと加奈子をみていた。 「この成績では、国立や早稲田、慶応などは飛んでもない話ですね」 「具体的には、どんな大学ならいけるのでしょうか」  教師は、加奈子がはじめて聞く名前をいくつかあげ、無試験のところしかないとつげた。そうした大学より、この高校のほうがネームバリューがあるといった。 「浪人して予備校にいけば、なんとかできないのでしょうか」 「ご本人次第ですが、ここまでひどいと、必ずとはいえません」  息子は、高校にあがるときに問題になったと教師はいった。担任団としては、もう一度中学三年生をやらせ、基礎を再履修させたかった。しかし変わりものの教師が、同級生といっしょに高校へあげたほうがいいと強硬に主張した。本人に取ってなにが最善かは、情だけでは判断ができない。校則にしたがえば留年させることになるし、公立の中学に転入させる場合もある。大学進学はともかく、出席日数は足りているので、学校がわとしては卒業だけはさせてやりたい。  加奈子がだまって深刻な表情になると、教師はつづけた。  行儀は、申し分がない。清掃当番で、みんなが知らん顔で遊んでいても、ひとりで黙々と全員の分まで掃除をする。他人を押しのけ、自分を通す気概はない。正直だが、融通がきかない。裏表がない真面目な性格だが、競争社会にはあきらかに適していない。 「実直だけですべてがすむなら、学校では道徳だけを教えていればいいわけです。しかし、妹が怖いというのは、なんなのでしょう。いちばんこまっているのは、妹さんだそうで。年は五つも違うらしいですが、なんの話だか、私にはとても理解ができません」  取りつく島がない感じで、教諭は話した。そして、嫌らしい目で加奈子をみた。  ふっくらとした白い頬に、洒落っ気のないみじかい髪。優しい表情の男の子供が、こまった顔ですわっている。 「やればできるのに、どうしてなの。将棋なんか指して、どうするの。もうすてましょう、その板と駒は。あなたがやる気をださないかぎり、どんなに家庭教師をつけても、駄目なのよ。立派な大学に入って、有名な会社で出世をしなければ、綺麗な奥さんをもらって、素晴らしい家庭をきずけないのよ。どうして、そんなことが分からないの。お父さんみたいにならなけりゃ。東大でなくても仕方がないわ。でも、なんでなの」 「お兄ちゃん。どうして勉強しないの。やる気をださないかぎり、駄目なのよ。恥ずかしいわよ。どうして分からないの」 「あなたは、だまっていなさい」    息子が通っていた学校は、中高一貫の私立だった。ひとつの学年を数人の教諭がチームをつくって、中学一年生から高校三年生までの六年間、同じ陣容でもちあっていた。だから高校三年にもなると、どの教師とも顔見知りだった。担任団には、風変わりな教諭が多かった。なかでも高校三年生のときの担任だった教師は、ひどく変わっていた。この教諭は、中学三年生でも学級担任だった。小太りで背がひくく、顔は、あばた状にぶつぶつし、各部分の造作が大きく、一見不気味だが愛想はよかった。ブラシで梳かすなど考えたこともない、ちぢれた髪はぼさぼさで、前頭部で立ちあがり塊をつくっていた。そのうえ、ひどい猫背だった。  高校二年時の担任は、ものを教えてやる先生という雰囲気を全面にかもしだしていた。この教諭は、いつもニコニコしているので、なんでも話せる気になった。しかし、純粋に笑顔というべきかどうかは疑問だった。ニヤニヤした感じで、なにを考えているのか、外見からはよく分からなかった。数学の教諭だったが、父兄の話では一〇年にひとりといわれる「天才」だという評判だった。それがなにを意味するのか、加奈子には分からなかったが、東大の助教授くらいにはいつでもなれるという噂だった。そんな能力をもつ者が、有名高校とはいえ一介の教諭で満足するのは、彼女には解しがたかった。いつでもよれよれの背広をきて、シャツの一部はめくれて外にはみでていた。ズボンのファスナーは、あいている場合があった。さらに、周囲にシミがついていたりした。天才が、特定の領域で常人とひどく乖離するのなら、ほかの部分に理解不能なものをもつに違いなかった。そういう意味からは、評判は正鵠を射ていたのだろうか。 「素晴らしいお子さんで、たいへんいいと思います。成績ですか。これは、人間のほんの一部ですから、気になさっても仕方がないでしょう」  教師は、ニコニコしながら加奈子をみた。それから大きくうなずいて、息子は素晴らしい性格をもっているといった。大学は、高望みさえしなければいい。母親の加奈子が、なによりも実直を信条として、育てたことがよく分かるといった。そして、おたふくが治って出席したときの話をした。 「翌日、となりの席の生徒が休んだんです。授業のときに聞かれて、配慮もなく、おたふくだとつげたら泣きだしまして。自分の無思慮に、あきれました」  息子は、医師の許可をえて学校に出席したのだから責任はなかった。しかし、学友に危害を加えたと気がついた子供は、号泣したのだった。その姿をみて、教師は申しわけない気持ちで胸がいっぱいになった。息子に謝りにいきたいといわれ、答えに窮した。 「あんなに綺麗な心をもっている者が、いまでもいるんですね」と教師は話した。 「小学生みたいで、申しわけなく思います。そうしたいい部分をみていただくのは、嬉しいことです。しかし、もうすこし普通になって、みなさんと同じ思いをもってくれたらと親としては考えるのです」 「どいつもこいつも、悪ガキばかしです。自分さえよければ、人のことなどどうでもいいと考えている連中ばかしですよ。だから、カンニングなんてやりたい放題です。教師としてはたいへん残念ですが、社会が悪いのですから、みてみぬ振りをするしかありません。成績がよくないのは、そんなことまでやって、点を取りたいと思わないからですよ。素晴らしいですよ。問題なのは、成績がいい連中が点を取ることだけを至上の目的として、惨めたらしくこそこそやっている現状です。善悪の基準をもっていないのです。みんなと、同じという認識しかないんです。これで東大にいくのかと思うと、情けないです。こうした小回りのきく連中が官僚になるのですから、世の中はぜったいによくはなりません。弱いものの心を知ろうとする人物などいないんです」 「しかし、親としては、みなさんと同じなら、仕方がないと思います。将棋指しになりたいなんて、本気でいうのです」 「夢があって、いいのではないでしょうか。希望を叶えるのに力を貸してあげるのも、ひとつの方法です」 「先生。親は、なかなかそこまでは思えません。実際問題として、国立は無理でも、慶応か早稲田くらいには、いかしたいのです。どうしたら、いいのでしょうか」 「大学なんて、どこをでたから偉いなどと思うのは、たいへんくだらないことですよ。いいものをもっているのですから、それをつぶしてまで有名大学にいっても、なんにもならないんじゃないですか」 「先生。そうはいってもですね、実直だけでは、暮らしていけないでしょう。高二のときの担任の先生は、そうしたものが有用ならば、学校では道徳さえ教えればいいと、おっしゃっていました。わざわざ高校へくるまでもないと」 「たしかに道徳は、もっと学校で教えるべきですね。今度の職員会議で、すこし話題にしてもいいでしょう。しかし、お母さん。実直以外に、人生でいったいなにが必要なんですか」  教諭は、真顔で彼女に聞いた。  加奈子は、息子の能力が足りないとは信じられなかった。最難関の中学校に入った学力があったのだ。世間では、東大入試よりもむずかしいといわれていた。なぜ勉強しないのか、なにを考えているのか分からなかった。いえば、さらにやる気をなくした。諭すほどに、将棋にのめりこんだ。机の引き出しには、詰め将棋の本ばかりが入っていた。いくらすてても、さがせば必ずあたらしいものがある。将棋はたしかに強いらしいが、聞くところによれば、せまい世界で天才ばかりがあつまって、大天才だけが生きのこる場所で、ごく普通の幸せをみつけられるとは思えなかった。  夫に相談すると、「仕方がない。無名の大学にいかせよう」といった。  教育方針は、間違っていないと思った。娘は、名門の中学に合格した。東大出の夫と、努力家の加奈子の血をうけついでいるのだ。一年か二年、浪人すれば、息子は東大にだって入れるに違いない。なぜ、反抗するのか分からなかった。夫は、悩みを共有してくれなかった。息子の長所をみてもらえる担任に、相談したい。変人らしいが、教育者に違いない教諭をたずねてみたいと思った。教職員名簿にも、自宅の電話番号がなかった。夏休みのある日、加奈子は担任をたずねた。彼は、下町の二軒長屋に住んでいた。表札をたしかめ、ドアホンを鳴らした。でてきたのは、疲れた中年の女性だった。息子が高校で世話になっていると話すと、女はいった。 「主人ですか。夫は、人さまに、なにかを教える資格なんか、もっていません。ふたりの子供までいるのに、家には帰ってこないのです。一〇年いっしょに暮らしましたが、何ものなのか、さっぱり分かりません」 加奈子をみて、女性は堪えてきた感情を一気にはきだした。 「だいいち相手は、普通の女ではないんです。ソープ嬢なんです。まったく、汚らわしい。なにひとつ、真面ではないんです。女は、まだ仕事をつづけて、店にでているんですよ。そんな男に、教育なんてやれるわけがありません。勉強は、できたらしいですよ。東大をでているらしいですが、聖職者ではありません」  あまりの剣幕に、加奈子はおどろいた。もってきた菓子をわたすと、とつぜんたずねた非礼をわび、早々に立ち帰った。 「あなた、どう思う。こんな教師がいていいのかしら。学校に訴えるべきかしら。PTAで話してやろうかしら」  夫は当惑し、なにが本当のことだか、分からない。奥さんの話だけでは、判断ができないといった。 「いや、あれはきっと本当。こんなふしだらなことが、あっていいのかしら。生徒の模範になんて、なりようがないわ。これなら、あの嫌らしいカメレオンのほうが、まだましよ。いったい、どうなっているのかしら。子供がふたりもいるのよ」  夫はしばらく考えて、正義感が強いのはよく知っているが、加奈子が、なぜ、それほどムキになって教師を責めるのか、分からないといった。充分に知りえない、夫婦の話だ。教師にも、言い分があるかも知れない。離婚していない理由だって、分からない。 「その数学の天才は、世の中に自分をあわせられれば、東大で助教授にもなれるのだろう。それが高校教師でいるのは、不器用で、世渡りが下手なだけかも知れない。自分を、うまく繕うことができないのかな」 「あんな教師に息子をほめられても、嬉しくないわ。道徳だけで、解決なんてできないわ。小学生のときには、あんなにいうことを聞いたのに。なんで、あの子は、ああなのかしら。私の父に、そっくりなのよ。なんで、こんなに似ているのだろう。苛々するわ。本当に頑固で、腹が立つわ。実直だけが取り柄で、世の中に取りのこされていったのよ」  加奈子が腹を立てている相手は、だれなのか。父親なのか、息子なのか、教師なのか。理想ではなく、現実として考えるしかないと、父ほどに年の離れた夫はいった。 「現実的って、どうすることなの」  入学できた大学しか、卒業もできない。こうなったのは、決して加奈子のせいではない。事実をみとめるしかないと夫はいった。 「最低、早稲田か、慶応だわ」 「いくのは、お前じゃない」 「どうして、こんなになったんだろう。もう、だれにも会わす顔がないわ」  息子は、病室で寝ていた。二度目の自殺未遂だった。一度目は加奈子の鏡台におかれていた化粧水を飲み、今度は父親の書斎でみつけた睡眠薬を大量に服用した。なんとか命は助かり、すこし元気になると以前も入院した都内の精神科にうつった。息子は、目を覚ますとひどく興奮し、医師が鎮静剤を投与した。眠る顔は、頬がこけ、黄色かった。 「励ましては、いけない」と医師は加奈子にいった。叱咤激励すれば、こうしたことをくりかえし、いつかは成功する。息子は、いつまでも子供ではない。加奈子のものではなく、別の人格で、まったくの他人なのだ。彼女の思い通りになる者は、この世の中にひとりもいない。息子は、永遠の少年なのだ。彼にとって、加奈子は大母だ。人格もみとめずに自由を束縛し、命を脅かす、怖くて恐ろしい母だといった。 「息子さんとは、距離が必要です。キュベレとアッテスの話を知りませんか。美と豊穣の女神に愛された息子は、悲惨な運命をたどるのです。母のためにみずから去勢し、常緑樹に吊りさげられることを望むのです。妹さんが怖いのは、あなたを真似るからです」  息子は退院して、すこし落ちつき、二ヵ月して首を吊った。最初に発見してもらえるように、加奈子の寝室で死んだ。息子の死は、彼女からすべてを奪った。胸は張りさけ、眠れない日々がつづいた。  加奈子は、娘の化粧が濃くなっているのに気がついた。買いあたえていないヴィトンのバッグをもつのに気づいてたずねると、友人から借りたと彼女はいった。夜の帰りもまちまちで、友だちの家に泊まることも何度もあった。不審に思って押し入れをしらべると、ヴィトンのバッグのほかに、グッチやティファニーの小物や鞄をみつけた。娘の小遣いでは、決して買えないものだった。 「これは、なんなの。なにをしているの」 「なんで、私のプライバシーを侵害するのよ。あなたに、そんな権利はないわ」 「母親にむかって、なんなのそのいいかたは。プライバシーの話ではないわ。こんな高価なもの、どうやって手に入れたの。だいいち、なぜ隠すの」 「秘密にしたわけではないわ。私のものを、自分の部屋のどこにおこうと、お母さんとは無関係よ」 「そうは、いかないわ。はっきりとした理由をいいなさい」 「働いたのよ」 「なんの仕事をしたの。なぜ、そんな大切なことをいわないの。金銭が必要なら、相談すればいいでしょう」 「お母さんはお金があっても、こうしたブランドものを買ってはくれないでしょう」 「こんな高価なものを、ちょっと働くくらいでは買えないのは、だれにでも分かるのよ」 「真面目に仕事をしたので、ご褒美をくれたのよ」 「だれが。なんの褒美なの」 「いいじゃない。自分で、したのだから。私だって、もう大人なのだから。好きなことをするのは、お母さんと関係ないわ。私の自由は、権利だわ」 「なにをしたのか、はっきりいいなさい。だれからもらったのか、ちゃんと説明して」 「お母さん。まだ分からないの。あなたは、そうやって息子を殺したのよ。どうして気がつかないの。私も、殺したいの。お父さんのことは、分かっていないの。なんにも気がつかないの」 「ひどいことをいうのね。でも、お父さんの話ってなあに」 「知らないのなら、いいわ」 「はっきり、いいなさい。あなたのことを、お父さんに隠しておけないわ」 「いえば、いいじゃない。私は、お母さんのものではないわ。あなたは、子供をふたりも、亡くしたくはないでしょう。もう、なにもいわないで」  ある日、玄関のブザーが鳴ってでると、髪のながい若い女性がいた。 「旦那さんと別れてくれない。私、妊娠したのでうみたいのよ。でも、妾の子供じゃ、かわいそうでしょう」 「そんな話、聞いたことがありません。今日、よく話しあいます。帰ってくるなら」 「いったいどういう女なの。なんなのあれは」 「女の話は、だいたいは正しい」 「バーの女性だといっていたわ。なんで、あんな汚れた女がいいの」 「お前が、安らぎをあたえてくれないからだ」  娘は、私にそっくりだ。そう。いったい、なんのために生き、なにを求めていたのだろう。私がうまれたところに、帰りたい。故郷をみたい。もう二〇年以上もどっていないが、あの海がみたい。二本がならんでつらなる、レールをたしかめたい。あの一本は、母親だったのだ。なにもいわなかった母は、父をささえていたのだ。  加奈子は、二五年振りに故郷に帰った。両親は、もう村にはいなかった。小さな単線の駅があり、むかしより、さらに家の数はへり、荒ら屋がふえていた。そこには、年老いた駅長がいた。老爺に聞けば、両親の行方は分かるに違いなかった。しかし、もうどうでもよかった。丘のうえからみる風景は、なにひとつ変わっていなかった。  加奈子は、暗くなってから、月の光に輝くレールを歩いた。潮の匂いがして、よせてかえす浦波の音が聞こえた。やがて、震動がひびいて、レールを走る列車の音響が耳に入ってきた。車両の轟音が、波音を分からなくさせ、潮の匂いを曖昧にし、月の光をけしていった。  あっ。  なにかが、きらきらと輝いていた。なつかしい、くりかえす音が聞こえる。潮の匂いに満ちた薄暗い世界で、輝くものは、ほそながい鏡だった。二枚の鏡鑑は、同じ間隔をたもちながら、ずっと遠くまでつづいていた。ちかづきも、離れもしない。ふたつが、ならんで輝いている。  あっ、そうか。レールなのだ。  笑い声が聞こえてきた。  今日は、お話を、しっかりとおうかがいいたしました。あなたを引き裂いた、お父さまへの激しい愛執と嫌悪を、よく拝聴しました。綺麗な心が、ご自身を責め苛むとしても、どこかでかぎりが必要です。私が、その悲しみを克明にノートにかき綴ったからには、もうあなたが思いだす義務もございません。ここに祠をつくり、この悲話を記しました。二度とこうしたことがくりかえされないよう祈願いたしますから、安らかに成仏くださいませ。  僧は合掌し、ふかく頭をさげると、さっていった。                                   レール、三一枚、了