黒い服の女                       由布木 秀  高橋浩輝は、黒く塗られた鉄製の門扉をぬけると立ちどまった。  桜ヶ丘教会の前庭には、大きな楓の木が三本、立っていた。赤く変色した葉を、ゆるやかな風がかすかに揺らしていた。爽やかな秋の日差しが紅葉を照らすと、落ちついた黒みがかった赤が、あざやかな燃える紅にかわった。  その情景に浩輝がぼうぜんとした表情で立ちどまると、二沢美里は振り返って、どうかしたのかとたずねた。 「みおぼえがある風景だ。以前、この教会にきたのだろうか」と彼はつぶやくように答えた。 「ここは、どこにでもある、ごく普通の教会堂よ」と、美里はいった。 「建物はともかく、前庭の景色はどの教会も似たり寄ったりよ。早くに亡くなったあなたのお母さんは、プロテスタントの信徒だったのよね」  浩輝が不審な表情になって黙ったまま楓の木をながめているのをみると、彼女はつづけていった。 「バザーとかクリスマスとかの催しで、ちかくの教会につれていかれたことがあったのじゃないの」 「よく覚えていないな」と彼は考え深げに答えた。  高橋浩輝の生家から桜ヶ丘教会までは、一時間ではとてもこられなかった。彼の家には自家用車もなかったから、行き帰りだけで二時間以上はかかる。だから美里がいう通り、違う教会だったのだろう。子供のころ母の優奈につれられて日曜教会にも幾度かいき、教会堂のなかで黒い服をきた牧師の話を聞いた覚えもあった。その牧師さんは、なにかがすこしかわっていた気がした。それに、教会の名前も聞き覚えがなかった。母の再婚相手だった高橋和人は、とくに信徒ではなかった。再婚後は、息子と娘がうまれた。それで、母も教会から足が遠のいたのだろうと彼は思った。  美里は、玄関で靴をぬぐと、持参したスリッパにかえた。あわい黄色のトートバッグから浩輝の分の上履きも取りだして、履きかえるようにいった。  高橋浩輝は、下駄箱をみて小学生時代を思いだした。  小学校に入るころ、母の優奈は六歳年うえの高橋和人と再婚した。無関係な和人が、母親とふたりだけの満ち足りていた生活に侵入してきた。そのときまで優奈は、浩輝、ひとりのものだった。しかし母の結婚によって義理の弟妹がうまれ、彼は自分が邪魔者になったと感じた。小学校では、母親が再婚し、和人がほんとうの父親ではないことで虐められた記憶があった。朝、下駄箱のまえにくると、靴を履きかえたくないと思った。教室にいくのも苦痛で、そのまま帰りたかった。しかし、両親にはいえなかった。母親に、自分が遭遇している現実を、うまくつたえることができなかった。その分だけ彼は義父を憎み、ときには母も恨んだ。  美里は、浩輝が教会に入ってからずっとグズグズしているのをみて、「やっぱり、やめておけばよかったかな」と思った。 「教会堂は、彼のなかでどんな思い出と重なっているのだろうか」  幾度もうかんでは消えていった疑問が、脳裏をかすめた。 「私にとっては、お母さんみたいな女性なのよ」 「私たちを祝福してくれるっていうのよ」 「修道女ではないわよ。そんなに堅苦しい人ではないのよ」  彼女は、乗り気でない浩輝をなかば強引につれてきたことに、自信をうしないはじめていた。  美里は、ベンチがならぶホールをぬけた。暗い廊下にでると、隠退教役者室とかかれた部屋の木製の扉があった。 「プロテスタントでは牧師さんのことを、正式にはこう呼ぶのよ。きょうえきしゃ、なんて読めないでしょう。ずいぶんごつごつした言葉よね。いまは、息子さんに牧師職をゆずったから、隠退教役者になるわけね」  美里は、浩輝に説明した。そうして、彼女は頑丈そうにみえる扉をノックした。  その音にあらわれたのは、修道女の黒いワンピースをきた、落ちついた感じの老女だった。彼女は、ふたりをみると来訪を喜び、美里と浩輝の手を交互につよく握りしめた。 「きてくれて、うれしいわ」と老女はいって、皺の寄った頬に素敵な笑みをうかべた。  美里には、ふたりをみつめる彼女の瞳が、背景をつくる物音がとだえた教会のなかで、怪しいまでにきらきらと輝いているようにみえた。 「お話は、教役者室でさせていただいても、いいかしら」と佐奈江がいった。  美里は、さらに奇妙に思った。以前、佐奈江が牧師だったので、彼女は教役者室をたずねたこともあった。どちらの部屋も知っていたが、広さも、机や応接セットの大きさもおなじだった。いまはもう隠退しているのに、なぜ、ここでは話ができないのだろう。  佐奈江は、ふたりをつれて廊下をすこし歩き、木製のドアをたたいた。返事がないのを確認して扉をひらき、彼らをなかに招じ入れた。  美里は、不審に思いながら教役者室に入った。彼女は、この部屋を夫の二沢藤樹をいっしょにたずねた記憶があった。そのときと、教役者室はなにひとつかわっていないように思った。窓ぎわに牧師が執務する質素な机がおかれ、扉とのあいだに、退色したグレーの背が低いテーブルとソファーが備えられていた。窓からは、いまふたりがやってきた教会の入り口がみえ、さかりの紅葉に彩られた楓の木が、三本、立っていた。  佐奈江は、美里と浩輝をうながして長椅子にすわらせると、インターフォンで家の者に来客をつげた。彼女は、牧師の執務椅子に腰をおろした。両肘を肘掛けにつけて、ゆっくりと椅子を左右に回転させた。 「一〇年まえまでは、ここにすわっていたのよ。いまでは、自分でも信じられないのですけれど」といって笑顔をみせた。  それから佐奈江は口をしっかりと閉じ、部屋の天井にちかいところをゆっくりとみまわした。  美里は、思わず彼女の視線を追った。くすんだ白色の壁に、灰色の肖像写真がかけられていた。そこには、やや突き出た木製の造作がつくられ、そのうえに歴代の牧師の写真がガラスの枠に入って乗せられていた。なかには、第四代として岩淵佐奈江がうつっているものもあった。  佐奈江は、感慨ぶかげに写真をながめ、それから立ちあがって、ふたりにむかいあったソファーに腰をおろした。 「よく、きてくれたわね。心から神に感謝するわ」  彼女は、微笑みをうかべながらいった。そして、美里と浩輝を交互にじっとみつめた。  二沢美里が高橋浩輝に紹介した佐奈江は、教会の第三代牧師、岩淵千三夫の妻だった。三〇年まえ、夫の千三夫が若くして他界したので第四代牧師として桜ヶ丘教会の発展につとめた。五年まえに隠退し、牧師は第五代の岩淵龍生にひきつがれていた。  岩淵佐奈江は、上品で素敵な女性だった。肩まで伸びたながくて白い髪は、ふかく落ちついた印象を浩輝にあたえた。黒いワンピースに映えて、銀色に輝いていた。  二沢美里の両親は、プロテスタント教会の信徒だった。  美里が併設された幼稚園に通っていたころは、佐奈江が園長だった。毎週、日曜教室で礼拝し、高校生になってから洗礼をうけ、ビクトリアという洗礼名をもっていた。両親を早くに亡くした彼女にとって、佐奈江は形式上の代母というより、なんでも相談できるほんとうの母親という間柄だった。  美里が最初に結婚した二沢藤樹も、この教会の信徒だった。ふたりは、ここで知りあった。結婚式も教会であげ、佐奈江の祝福をうけた。藤樹が三年まえに胃がんで他界したさいの葬儀も、桜ヶ丘教会で行った。再婚するか迷ったとき、彼女が相談したのも佐奈江だった。  美里は、プロポーズをうけて岩淵佐奈江を隠退教役者室にたずねた。そこで、高橋浩輝の話をした。スマホ販売店の同僚で、ふたつ年うえだとか、家庭的にはめぐまれなかったらしいとかを話した。 「お母さんは、どうしたのかしら」と佐奈江はたずねた。  よくは分からないと、美里は答えた。  浩輝の母親は、小学生のころに再婚した。だから、父親とは血がつながっていない。義理の兄弟もいるが、もうつきあっていないらしい。母親は、浩輝が高校生のころに乳がんで亡くなった。それからの彼は、父親ともうまくいかず、グレて高校も中退している。学歴がなくて、ずいぶん苦労したらしい。彼は、初婚だ。いまの販売店には非正規で採用されたが、今年、正規雇用に変更された。彼女と結婚するつもりになって、ずいぶん頑張ったみたいだったといった。  佐奈江は、鼻のところに両手をあてながら、しばらく考えていた。  ルビーの色に輝く、不可解で研ぎ澄まされた時間がながれていた。  美里は、ふと自分が両母趾を床から持ちあげているのに気づいた。なんなのだろうと思った。 「浩輝さんの母親の旧姓は、なんていうのかしら」  とつぜん、佐奈江が聞いた 「三宅です。祖母にあたる人とは、いまでもつきあいがあるそうです」と美里は答えた。  その言葉で、黒い服に身をつつんだ佐奈江ーはソファーから立ちあがった。 「お相手の名前は、旧姓で呼ぶなら三宅浩輝さん。あなたの、ふたつ年うえ。そうね。お母さんは、乳がんで亡くなった。高橋というお父さんは、再婚相手」 「そうなんだ」  佐奈江は、呪文のようにくりかえしつぶやくと、室内をゆっくりと歩きはじめた。こつこつという靴の音だけが、白色が基調になったやや暗い静かな部屋に響いていた。やがて、佐奈江は自分の机のまえにおかれた椅子に腰をおろした。頭をあげ、部屋の天井にちかい部分をみまわしていた。  美里は、視線を追ってみた。そこには、くすんだ白色の壁しかみあたらなかった。 「そうなんだ」  佐奈江のつぶやきが、ふたたび聞こえた  美里は、なにが彼女を動揺させているのか、さっぱり分からなかった。よく理解できない沈黙が部屋をただよっていた。  なにか、浩輝について知っているのだろうか、と美里は思った。グレた彼は、いくらかの社会的な問題を引き起こしたと話していた。そうした事件を、佐奈江は知っているのだろうか。なにか、具合の悪いことがあったのだろうか。  佐奈江は、心の整理がついたのか、ソファーの席にもどってきた。 「あなた。それで、なにを迷っているの」と美里に聞いた。 「マザー。高橋浩輝は、母親のつれ子だったのです」と二沢美里は小さい声で答えた。  ほんとうの父親は、早くに亡くなったらしい。他界した原因は、よく分からない。母親は、再婚した相手とのあいだに、弟と妹をもうけた。浩輝は、継父とはうまくいかなかった。結婚について考えだすと、美里は、彼の母親と瓜ふたつの立場にある。息子と浩輝は、うまくいくのだろうか。最初は、なんとか我慢していても、子供ができれば、どうしても自分の子のほうが可愛いのではないか。どんなことが切っ掛けになるのか、分からない。血がつながっていれば、こじれても修復ができるかもしれない。しかし赤の他人では、どうなるのだろうか。  浩輝は、美里の信仰をみとめてくれると話している。彼女を愛しているから、子供も、おなじように可愛がりたいとはいう。とはいえ、彼も自分の継父と、どうしてもうまくいかなかった。いっしょに暮らしたいとは思いながらも、つれ子については悩んでいるらしい、といった。  しばらくして佐奈江は、必ず結婚するべきだとつげた。 「高橋浩輝さん。あなたの旦那さんになる人に、ぜひ、お目にかかりたいわ。私のほうは、どうにでも都合をつけるから、時間のあるときに教会にきてもらえないかしら」といった。 「土日は駄目なのです。浩輝さんの仕事は、休日がいちばんの稼ぎ時なのです」  美里は、考えながら答えた。 「それは大丈夫よ。忘れたのかしら。私だって、いまでもそうなのよ」  佐奈江がにこやかな表情で話すと、美里は小さく笑った。 「あなたたちを、祝福させて欲しいのよ。おふたりの未来が輝いていることを、ぜひ、お話させてもらいたいのよ」と彼女は懸命につづけた。  美里は、黒いワンピースをきた佐奈江に、きらきらと光る不思議な瞳でみつられていた。そこは、幾分かしめり気を帯びているようにもみえた。  扉がノックされ、家の者がお茶をはこんできた。佐奈江はうけとると、テーブルにならべた。  静かな時間があった。  佐奈江は、美里をみつめた。それから、横にすわっている高橋浩輝の瞳をじっとみた。 「あなた方は、神さまがひきあわせてくれたのですよ」といった。 「あなたのお母さんの旧姓は、三宅さんですよね」と浩輝にむかっていった。   「そうですが」と彼は不審げに答えた。 「お母さんのお名前は、三宅優奈さんですね」 「そうですが」  浩輝は、謎めいた黒い服の女をみつめた。銀髪の老女は、頬に柔らかな笑みをたたえていた。 「これは、神さまが決めたことですから、私は話そうと思います。おふたりは、これからの人生を、ともに慈しみ、助けあって暮らしていくのです。あなた方に、秘密はひとつも必要がありません」  佐奈江は、話しはじめた。  高橋浩輝の母親、旧姓、三宅優奈は、この教会の信徒だったと彼女はいった。当時ここは、岩淵教会という名称だった。彼女の夫、岩淵千三夫は、若いときに胃がんで他界した。それからは、佐奈江がこの教会をひきついだ。自分たち夫婦には、子供がいなかった。だから、いまの牧師、岩淵龍生は養子で、血のつながりはない。義理の息子が教役者をついだときに、教会名を桜ヶ丘に変更した。  彼女は、とつとつと語った。  浩輝は、佐奈江がなにを話そうとしているのか分からなかった。どんな話なのか、まったく意味不明だと思った。彼の母は、若いときに岩淵教会に通っていたのかもしれない。もしかしたら、浩輝は子供のころ、ここにつれられて来たのかもしれない。しかし、そうした昔話を聞いても、実感はなにもわいてこないだろうと思った。彼にとって、母親はとても一口では説明できない、愛憎、逆巻く世界につながっていた。他人には、触れてもらいたくないもののひとつだった。  佐奈江は、紅茶を飲み、クッキーを食べるようにすすめた。 「まずはじめに、美里さんの息子さんのことを話させてください」と彼女はいった。  怪訝な表情をうかべる美里をみつめて、佐奈江は語りだした。  二沢美里の亡くなった夫は、藤樹という。息子は、春樹だ。しかし、父親と子供の血はつながっていない。ふたりは、桜ヶ丘教会の信徒で、ここで挙式した。三年たっても子供にめぐまれず、彼らは不妊の原因をしらべた。その結果、藤樹が無精子症だと分かった。精子がいくらかでもあれば、体外受精が可能だった。無精子症だったので、自分たちの子供は得られなかった。それで、ふたりは相談にきた。  佐奈江は、そう話して美里をみた。  二沢美里は、あきらかに動揺していた。  浩輝は、話の内容が親密すぎると感じた。さっぱり見当がつかず困惑した。 「おふたりは、第三者から精子供与をうけても、神の摂理には反しないのだろうか、と相談にいらしたのです」と佐奈江はいった。  現在の日本では、「非配偶者間人工授精に関する登録施設」から、精子を提供してもらうことができる。こうした分野で、わが国は後進国で法整備は遅れているが、供与は可能な状況だ。子供をもちたいというのは、愛しあう夫婦のごく普通の願望だろう。欧米のように同性婚がみとめられれば、こうした方法はもっと拡充するだろう。さまざまな事情をかかえる家庭があるのだから、選択肢が増えて、自分たちの子供をもてる可能性がひろがるに違いない、といった。 「それで私は、おふたりがお望みになるのなら選択のひとつだろうとお話ししました。そうだったわね」  佐奈江は、二沢美里をみていった。  美里は、両手を膝のまえに組んで、口を真一文字に閉じ、うつむいていた。佐奈江がなにを話そうとしているのか、訝しく思った。彼女は、唇が乾いてくるのを感じた。  美里は相談にいったとき、岩淵佐奈江が賛成したことに驚いた。藤樹とは、たぶん摂理に反するとつげられ、反対されるだろうと話しあっていた。体外受精がひどく大変なことは、彼女もよく聞き知っていた。年をとってから子供がいないと嘆くより、決断するなら早いほうがいいだろうと思った。佐奈江たちの夫妻が子宝にめぐまれなかったので、いろいろな思いがあったのだろうと、美里は理解した。また牧師という役職柄、さまざまな悩みを信徒と共有してきたのだろうと思った。しかし、まったく不明な第三者からの精子提供に彼女は不安を感じた。それで、そうした点もたずねてみた。  佐奈江は、「ある程度までは、望みは叶えられるようですよ。人種、思想、信条などは、考慮の対象になるらしいですよ。たとえばですが、日本人のプロテスタントの信徒から提供をうけたいと、希望することは可能だそうですよ。こまかい要望に応えられるのかは、状況次第らしいですが」と答えた。  美里は、夫と悩み、この方法で子供を得ることを決断した。提供者がプロテスタントの信徒、という希望は叶えられた。しかし医者にそういわれただけで、その発言を担保するものはなにもなかった。  岩淵佐奈江は、不審に感じているふたりに、体外受精によって子供を得ることが、ひどく大変だという話をはじめた。お金も相当必要になるが、心理的、体力的に甚だしい負担がかかる。こうまでして産んだ春樹は、美里にとってなにものにも代えがたい宝物だ。この気持ちは、人間ならだれでも理解できるだろうといった。  そう話すと、佐奈江は立ちあがった。牧師の机にいき、肘掛けの椅子にすわった。机上に肘をついて両手のひらで顔面を覆った。しばらくして机におかれた両肘を両手でつかんで、顔をあげた。 「ところで、はじめにお話した通り、高橋浩輝さんのお母さま、三宅優奈さんは、子供のころから私がよく知っていた、岩淵教会の熱心な信徒さんでしたのよ。腕までとどく、素敵な、ながい髪を垂らしていたわ。とても綺麗で、印象的な方だった」とつげた。  高橋浩輝と二沢美里がはっとした風情で、彼女をみつめた。 その様子に笑みをうかべながら、佐奈江はつづけた。  優奈は、非常にととのった容姿をもった、髪の綺麗な女性だった。彼女は、三宅輝一と結婚した。彼も、教会の信徒だった。ふたりは、ここで出会い、恋に落ち、結婚した。しかし、彼らも子供ができなかった。ふたりは、愛の証しが欲しかった。不妊の原因について、徹底的にしらべた。その結果、輝一が無精子症だと分かった。  佐奈江は、浩輝の顔をみつめながら淡々と話した。  ふたりは、岩淵教会に相談にきた。佐奈江は、当時の牧師だった千三夫といっしょに話を聞いた。夫は、彼女が美里に話したのと、まったくおなじ内容を彼らにつげた。それで、ふたりは決断して、子供をもうけた。それが、浩輝だといった。 「ですから美里さんから、高橋浩輝さんのお話をうかがったときには、信じられない思いでした。神さまが、おふたりをひきあわせたとしか、私には理解できませんでした。祭壇で、美里さんと浩輝さんが、お幸せになることだけを祈願しました。どうか、おふたりを祝福させてください」 佐奈江は、ふたりをみつめて涙をうかべながらいった。  浩輝は、混乱した。彼が虐められるようになったのは、運動会のあとからだった。応援にきた両親をみた同級生が、浩輝が父母のどちらにも似ていないといった。たぶん、彼は父親似だったのだろう。母とは、似ていなかった。父親とは、目鼻立ちがまったく違っていた。周囲に指摘されて、彼は納得した。母の優奈は、再婚後、前夫の話をしたことがなかった。女は、現実にあるのがすべてで、過去についてはどうでもいいのだろうと思った。ほんとうの父親に似ていたから、邪険にされるのだろうと考えた。しかし佐奈江のいう通りなら、母は自分を愛していたのだろうか。大切に考えていたに違いなかった。母親に手をひかれて、あの前庭の紅葉をみたことがあったのだ。  そのとき、浩輝は、母がながい髪を肩まで垂らしていたのをありありと思いだした。綺麗な黒髪だった。そして隣にすわる美里が、ながい髪を母とおなじように肩まで垂らしているのをみて、はっとした。そのとき、電光がはしった。黒い服の牧師を、なにか奇妙だと感じたのは、ながい髪をみたからだった気がした。男のくせに、肩まで長髪を垂らしているのは変だと思ったのだろう。きっと、女性の牧師だったのだ。子供のころ、牧師さんは男しかいないと信じ切っていたのだ。だから、へんてこりんな牧師だと思ったのだろう。たしかに、神さまが、美里にひきあわせてくれたのだろう。ほかには考えられない、と浩輝は思った。 「マザー。心から、安心しました」  美里は、いった。涙が、彼女の頬をつたっていた。 「私たちの未来が、輝いているのを感じました。マザーには、いつもお世話になって感謝しています。今日も、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします」と美里はいった。 「でも、私。浩輝さんなら大丈夫だと、思ってはいたのです」 「そうでしょうね。なにか、ほかにもあったの」  佐奈江は、聞いた。 「なんとなくですけれど、春樹は、浩輝さんに似ていると思ったのです。ふたりは、うまくやるに違いないって考えていたのです。今日、なにが似ているのか、よく分かりました。自分が感じていたことが、なんだったのか、すこし理解できたのです」 「よかったわね」  黒い服をきた佐奈江は、ふたりの手を握りしめた。そして、浩輝に幸せになる努力をするようにいった。 「美里さんの子供さんが、不安ですか」とたずねた。 「いえ。そうでは、ありません」と浩輝は答えた。 「美里さんから、子供の話をはじめて聞いたときは、運命をつよく感じました。なにか、境遇がそっくりでした。みえない糸に、つながれているように思いました。だから、いろんなことを考えました」と彼はいった。  浩輝は、ながいあいだ感じてきた出来事を思いだすと、目のまえが真っ暗になった。しかし実際に春樹に会って、自分の子供のように思えた。慈しむことができるし、仲良くやれそうな気がするといった。 「春樹も、美里さんに似ていません。私も、母とは顔の造作が違いました。そう思うと、性格も、似ているような気がしたのです」  浩輝は、佐奈江をじっとみつめていった。 「力をあわせて、お幸せになりなさい。あなた方は、間違いなく神さまに祝福されているのですから」と佐奈江はもう一度いった。  岩淵佐奈江は立ちあがると、インターフォンを鳴らした。ソファーにすわり、ふたりを和やかにみつめた。  しばらくすると、家人が、リンゴのケーキと紅茶をはこんできた。 「特製だから、ぜひ召し上がってね」と佐奈江はつよくすすめた。  美里と浩輝は、じっとケーキをみつめた。  佐奈江は、ふたりがどんな家庭をつくりたいのかと聞いた。そうこう話していると、浩輝が、とつぜん、くしゃみをした。  美里は、彼にティシュペーパーを差しだしながらいった。 「マザー。面白いのです。リンゴが入ったものを食べると、浩輝さんは必ずくしゃみをするのです」 「アレルギーが、あるのかしら」  佐奈江は、にこやかな表情でたずねた。 「はっきりとした病気では、ないようです。食べても大丈夫なのですが、くしゃみをするのです。これって面白いのでしょう」と美里はいった。 「それが、どうしたの」 「息子の春樹も、そうなのです。ふたりは、なんとなく似ているのです」 「面白いわね」と佐奈江はいった。 「そうですよね」と彼女は答えた。  ケーキを食べ終わると、美里と浩輝は、感謝の言葉をのべながら佐奈江の部屋をあとにした。  しばらくたって、岩淵佐奈江は、若いふたりが手をつなぎ、肩をならべて教会の黒い門扉をぬけていく姿を教役者室の窓からながめた。深紅に変化した楓の葉が、日の光をうけて輝き、きらめいてみえた。彼女は、二沢春樹にも会ったことがあった。  春樹は、美里にはまったく似ていなかった。  佐奈江は、牧師の椅子にすわって三代目教役者、夫だった岩淵千三夫の肖像写真をながめた。机のうえについた両肘を両手でかかえながら、千三夫にむかっていった。 「あなた、よくみたわね」  彼女は、小さく笑った。 「高橋浩輝は、リンゴを食べると、くしゃみをするのよ。二沢春樹も、おなじなのよ」  佐奈江は、また千三夫をみつめた。  岩淵佐奈江は、子供を産むことができなかった。彼女に、問題があったのではなかった。最初の妊娠は、子宮外妊娠だった。未熟な女医が担当で、まったく気がついてもらえなかった。手遅れになった彼女は、子宮摘出の手術をうけねばならなかった。  ふたりは、許されるのなら、だれかに代理に出産してもらっても自分たちの子供が欲しいと思った。彼らは話しあい、教役者には無用な煩悩だろうと結論した。そのとき夫は、自分の精子を精子バンクに登録したいといった。もしも、どうしても子供が得られない夫妻が、プロテスタントの信徒からの提供をつよくもとめる事態が生じたばあい、貢献できるのかもしれなかった。  夫の精子が、その後、どういう経緯を辿ったのかは、彼女たちには知らされなかった。  しかし、もう気をもむ必要はなかった。有効に活用され、人びとに希望をあたえたことは間違いないと、黒い服をきた佐奈江は思った。彼女からみると、三宅浩輝は夫にそっくりだった。きっと、二沢春樹も瓜ふたつに違いないと思った。  父と子供に代わっても、ふたりは仲良く暮らし、間違いなく幸せになるだろうと、佐奈江は確信した。                    (黒い服の女、三〇枚、了)