黄色い服の女                                         由布木 秀  鈴木一郎は、四〇歳になった今年のはじめから、盛り場をうろつきまわっていた。  今日も一〇分ほど歩いて、繁華街の中心からやや離れた、ここ二週間ずっと気にかかっている店のまえにいった。界隈では比較的あたらしい建物で、二階と三階に相当する部分に大きな黄色い看板がつくられていた。そこには、右の上部に小さな黒い文字で「クラブ」と記載されていた。横には大きな青い字で、「過去、現在、未来」という名前がかかれていた。「クラブ」は、建物の二階と三階をしめているようだった。店が入っているビルは五階建てだったが、まだコロナの影響がつづいているのか、一階と四階、五階は暗いままだった。  今日、一郎は、このクラブにいってみようと決めていた。右手で、胸ポケットに財布があるのを背広のうえから確認した。なかには、一〇万円の現金と二〇〇万円までつかえるカードが入っていた。彼は、酒が飲めなかった。いまままで寄りつく機会のなかった場所ですごすのに、いくらの金額が必要なのか分からなかった。  前日、クラブの電話番号を検索し、電話してきいてみた。  落ちついた感じの女性が、受話器にでてきていった。 「場内に入る際に、入場料として一律、一〇〇万円をいただいております。これは、お客さまが二時間、当店で飲食する金額になります。特別なお酒やお料理もご用意できますが、それはお好みですから別会計です。もちろん入場料には、サービス料などすべてがふくまれております」  料金は、カードで決済できる。お好みとはいっても、女性との会話を楽しむためだけのクラブだから、それ以上の特別なサービスはできない。話し相手をえらぶのは可能だが、ホステスは、他のお客からよばれれば席を離れることになる。特定の相手との会話を希望するなら、時間あたり三〇万円が別途に必要だ。また指名サービスは予約性なので、一見のばあいには利用できない。飲み物は、お酒のほか、ノンアルコール飲料などさまざまに用意されている。入場料で、一般的なアルコール類は提供できる。あくまで会話を円滑にするための道具だから、お酒を飲むのが目的なら当店は不適だろう。スタッフが迷惑するほど泥酔するなら、退場をお願いするばあいもある。 「当クラブは、紳士と淑女のみなさまのために楽しいひとときをご提供しております。こうした目的を、お客さまにはご理解していただいております」と女はいった。  鈴木一郎は、ごく普通の家庭にうまれた。公務員だった父親と、パートタイムではたらいていた母親のひとり息子だった。彼は、ちかくの小学校をでて、地元の中学、高校にすすんだ。現役で市内の文科系大学に入学し、留年することもなく四年で卒業した。趣味は、野球観戦だった。身体をうごかすことは嫌いではなかったが、運動部や同好会に入って頑張って上達したいと思うほどの熱意はなかった。大学時代、現代文学の読書サークルに属していたが、とくに好きな作家はいなかった。高校からいっしょだった仲間に、つよくさそわれて一年生のときに入会した。しばらくして勧誘した友人はやめていったが、一郎は四年間在籍した。熱心とはいえなかった彼が読書会をつづけた理由は、サークルにひそかに思う女性がいっしょだったからだった。しかし、彼女にはずっと恋人がいたので、告白する機会はなかった。卒業すると、市内の事務系の会社に勤務した。二六歳のとき、はじめてお見合いをした。相手は、同い年の優しい女性だった。半年ほど交際して、たがいに見染めあって結婚した。だから一郎は、恋愛結婚だと思っていた。一年後に長男がうまれ、それから二年たって長女が出生した。息子と娘は病気もせず、いじめにもあわず、元気に中学校と小学校に通っていた。妻は、ちかくのスーパーではたらいていた。  父親は、ずっと市役所に勤務していた。いまは退職して年金受給者になったが、非正規の形で役所にまだつとめていた。母は、パートをやめていた。趣味の仲間がいるらしく、ときどき女性たちだけで旅行をしていた。  一郎からみると、両親の人生はひどく平凡に思えた。  父親は、職務をつづけていくうえで、さまざまな問題に遭遇したといった。人生の節目をむかえるごとに、途方に暮れる事件がくりかえし起こった。そのとき道をひらいてくれたのは、愛読していた論語だった。困難な状況がおとずれた瞬間、慣れ親しんでいた書籍の一節が、ふかい意味をもつことにふと気がついた。その言葉によって、危機を幾度も乗りこえられたのだと話した。一郎に、論語を座右の書にするよう、くりかえしすすめた。こまったときに、必ずすくってくれる。いまはなんとも感じない言葉が、やがてなにを指しているのか分かる日がくると力説した。  一郎は、父親のすすめで論語を読まされた。小学生のころは、日曜日の朝に父といっしょに音読する時間までつくられていた。必然的に、彼はこの書籍を暗記するほどに読むことになった。孔子の生涯についても、否応なくくわしかった。そのなかで、不惑の年になった一郎の心に、ちかごろつよくひびいてくるのは、だれもが知る有名な一説だった。    子いわく、われ十有五にして学に志す。三〇にして立つ。四〇にして惑わず。五〇にして天命を知る。六〇にして耳順がう。七〇にして心の欲するところにしたがって、矩をこえず。  孔子は、紀元前五五二年にうまれ、四七九年に亡くなったことが判明していている実在した人物だった。とはいえ、言行集になる論語は、没後四〇〇年をかけて弟子たちが編集をくりかえしてきた。どこまでが孔子の言葉だったのかは、研究者たちにも分からないのだろう。ソクラテス、仏陀、キリストとあわせ、四大聖人のひとりとされるので、人物像はかなり潤色をうけているに違いなかった。  古代中国で、七四歳という長寿をまっとうしたのは事実だろう。しかしながら、身長が二一六センチ、顔が異様に大きく、上半身と下半身のバランスが極端に不自然で、背中がまがり、耳が後頭部についていたなどというのは、いかにも怪異で神話的だった。三〇〇〇人以上の弟子をかかえていたなどという話も、考えるほどに嘘っぽかった。こうした部分は、後世の人びとによって装飾されたとみなすほうが自然だった。仏陀も、手指のあいだに水掻きがついていたなど、いわゆる四八相をもつとされるから、おなじ構造なのだろうと思った。  いま一郎の心にひっかかる論語の一節は、くりかえし思いなおしても理解不能な記述だった。  一五歳で学問に取り組もうと考えはじめ、三〇歳で独立するのは可能かも知れない。しかし、なぜ四〇歳で迷いがなくなったと思えたのだろうか。五〇歳で神の意志を理解できたのかどうかは、どちらでもいい気がした。六〇歳でどんな人びとの言葉でも素直にきけたとか、七〇歳で心の思うままに振る舞っても道理から外れなかったなどは、間違いなく主観的な領域で、本人がどう考えるかによっている。しかし、どうして四〇歳で不惑などと感じることができたのだろうか。  一郎は、この一節につよい疑念をいだいていた。  一般的に四〇歳なら結婚して家庭をつくり、妻と子供と暮らしているのが普通だった。彼も、中学生の長男と小学生の長女をもっていた。孔子も例外でなく、一九歳で結婚し、二〇歳のときにひとり息子をさずかっていた。  現代で四〇歳とは、一心不乱にはたらいてきて子供たちが小学校を卒業し、一息ついて周囲をみまわす年齢だろう。自分がどの程度、出世するのかも分かり、子供が高校をでると、どんなに大変なのかも実感できる。数年たてば子供たちがつぎつぎと大学に進学し、入学金と授業料のほか、さまざまな出費が必要になる。卒業さえしてくれれば、うまく就職できる希望はあるが、なにが起こるのか分からないのが人生なのだ。つつがなくすすめば、結婚が控えている。孫がうまれれば可愛いだろうが、共働きになるはずだから育児に参加させられる。自宅のローンをはらい終えるころには、生活に疲れ切ったのこりかすの自分がいるに違いない。  とはいっても、これは、いちばんうまくいったばあいなのだ。  大学に入れなかったり、就職できなかったりすることも、充分に考えられる。そもそも思いどおりに結婚まで辿りつけるとは、かぎらないのだ。東日本大震災や原発事故、コロナのパンデミックなど、考えられない大事件がなんでも起こる時代なのだ。はげしい動乱に振りまわされ、直接的な被害をうけた者はたくさんいる。その数一〇倍の人びとが、ひどい影響をまぬがれないのだ。  孔子の研究家のなかには、時代的背景を考慮し、彼の年齢は、現代の五割増しにするべきだと主張する者もいる。紀元前六世紀の中国では、平均余命がせいぜい五五歳くらいだった。その主張にしたがうなら、不惑の四〇歳は六〇歳ということになる。この年齢までなれば、人生にも達観できるかも知れない。そうすると、孔子は七四歳まで生きたのだから、存命一一一歳というギネス並みの記録をもつのだろうか。彼は二八歳のとき、うまれた魯国で仕官していた。三〇歳で、仕事をはじめたというのも嘘ではなかった。つまり、四〇歳では家庭をもって職務にはげんでいた一郎と、あまりかわらない状況だったと考えることができた。しかし、なぜ不惑などと感じられたのだろうか。   一郎は、なにかの本でよんだ聖女の話が最近は脳裏から離れなくなっていた。著者は、忘れてしまった。聖女が具体的に、だれだったのかも失念していた。そこには、 「彼女は、仮の人生を耐えしのび、激情の世界、衝動の現実を生きなかった。徳にみちた生活をおくったが、心のなかは自分自身にたいする不満でいっぱいだった」とかかれていた。  その本では、彼女の妹君の生涯が対比されていた。  妹の人生は、ずっと波乱にみちていた。三度も結婚し、夫に浮気され、彼女自身も不倫をくりかえした。スキャンダル塗れになりながら、成功と失敗を幾度も行き来した。そして、大女優として生涯を終えた。  不惑の年になった一郎は、五〇歳で天命をわきえるのは不可能だろうと思った。聖女と大女優の話を参考とするなら、もんもんと行く末を悩んでいるようでは、ドラマチックな人生には辿りつけないだろう。そもそも孔子は、かなり激動の時代に身を置き、そのなかではげしい浮き沈みを経験しながら生きたのだ。聖人と比較しても仕方がなかったが、劇的な場所をぬけて、はじめて不惑は実感できるのではないか。  酒もたしなまない一郎は、社内や近所では、愛妻家、子煩悩として有名だった。仕事でも私生活でも、目立った失敗をすることがなかった。真面目だが、どちらかといえば融通がきかない堅物と考えられていた。  一郎は、周囲の一部の者たちが、彼を平凡ではあるが、有徳な人物だとみなしているのも知っていた。しかし、本心はまったく違っていた。一郎は、自分の心に素直に生きてみたいとずっと考えてきた。しかし、踏み出すことができなかった。  一郎が、自分の人生について考えてしまうのは、聖女でもないのにその振りをしていたからではないか。なにか切羽つまった出来事にでも遭遇しなければ、仮の生涯を生きつづけることになるのではないか。そう考えだすと、自分が悲しいくらい小ぢんまりとまとまっている気がした。その原因は、臆病さに由来しているのではないかと思った。  戸外でのマスクの着用義務は、解除されていた。駅の周辺では、ほとんど旧来にもどって、往来にはたくさんの人が行き交っていた。しかし、こうして一〇分ほど歩いたところでは、すべてがもとに復しているとはいえなかった。  花に飾られた階段をのぼっていくと、二階の踊り場にでた。お目当てのドアのまえには、黒い背広をまとった若い男が立っていた。一郎と目があうと頭をかるくさげ、扉をひらいて入室をうながした。彼は、うまれてはじめて、「クラブ」に入った。  通された部屋は、ひどく薄暗かった。足を踏み入れると、厚い絨毯がしかれているのが分かった。すこし離れたところを、光束が天井からスポットライトになって照らしていた。そこだけが異様にあかるく、その領域は周囲から切り離され、浮きあがってみえた。下には円形のカウンターが置かれ、タキシードに身をつつんだ白髪の背がたかい男が立っていた。  薄明が支配する周囲をみまわすと、ぼんやりとした空間にはいくつかの椅子が配置されていた。部屋がどこまでつづいているのか判断できなかったが、かなりひろそうだった。  受け付けのカウンターにちかづいていくと、猫背の老紳士は顔面をあげて一郎をみつめた。うまれてはじめて目にした猛烈に巨大な男性で、背丈が二メートルをこえているのは間違いなかった。白髪の男は、顔が不釣りあいに大きかった。浅黒い顔面の中央に巨大な鼻が胡座をかき、ぶつぶつとした黒い穴が吹きでているのがみえた。白い眉毛はうすく、目蓋が下垂した目は小さく、瞳は死んだ魚のように精彩がなかった。下目蓋は大きく弛み、隈になっていた。髭は綺麗に剃られ、かさかさした顔のいたるところに皺がよっていた。気づくと、耳は頭部のうしろがわについていた。  一郎と目があうと、猫背の老紳士は、かるく会釈した。 「このお店には、はじめてくる者なのですが」と彼はみあげながらいった。  その言葉に、男はかがみこんで、ふたたび一郎をみつめた。 「システムについて、ご案内いたします」と嗄れたひくい声でいった。そして、昨日、電話で知らされた内容をつげた。 「カードで、お願いします」  一郎は、男にいった。声は、幾分かうわずり、震えているようにも思った。  白髪の老紳士は、領収書がいるのかときいた。一郎がうなずくと、カードに添えて差しだした。  気がつくと、そばに若い背広姿の男が立っていた。黒い服だったので、まえからいたのかも知れなかった。引率されてすこし歩くと、エレベーターホールがあった。男がボタンを押すとエレベーターの青色の扉口があき、黒いチョッキをきたボーイが待っていた。彼がのると昇降機は下降し、扉がひらいた場所は、シックな感じのホールだった。  一郎の目のまえには、素晴らしく容姿のととのった女性が立っていた。笑みを浮かべる女の紫のドレスには、スパンコールがほどこされ、光に照らされて、きらきらと輝いていた。黒髪をまとめあげた女性は、落ちついた感じで、一郎とおなじくらいの年に思えた。電話をしてたずねたときに、応対してくれた相手だったのかも知れないと思った。  一郎は、女にうながされて厚いクッションのついた緑色のソファーに腰をおろした。長椅子がいくつか置かれた部屋は、間接照明によって、あかるすぎない程度にやわらかく調光され、落ちついた薄茶の壁紙がはられていた。気がつくと、微かな芳香が漂っていた。  いくらもたたないうちに、さきほどの女性が冷たいウーロン茶をはこんできて、背のひくいテーブルのうえに置いた。まだ六時になったばかりで時間がはやいせいなのか、待っていたのは彼ひとりだけだった。しばらくすると、素敵な女は大きなカタログをもってきた。会話の相手をえらびなさいと、ささやく声でいった。蛾の触覚のようにかかれた眉が魅力的な細面の女性は、一郎に微かな笑みを投げかけた。それは、彼を勇気づけるものだった。  あたえられたのは、大型の美術全集ほどもある写真集だった。そこには、おどろくほど美しい女性たちの写真がのっていた。どの女もあでやかに着飾り、みるだけでも魅力的で心はひどく揺さぶられた。一郎は、いままでの人生で、こうした美貌の女性たちと話したことはもちろん、実際にあった経験もなかった。どの女性も、考えられないほど素敵だった。   一郎は、溜め息をつきながらアルバムをくりかえしながめていたが、やがて一葉のフィルムに釘付けになった。そこには、黄色いワンピースをきた若い女性がうつっていた。女は、背がたかい、ふかい臙脂色の椅子にかるく腰をおろしていた。二〇代の半ばに思えた。黒髪はアップにまとめあげられ、無垢な光が白い項を謎の光沢でつつみこんでいた。背景がブルーの絨毯だったので、服につつまれた全身は金色に光っていた。  じっとながめていると、クラブの主人らしい女性は、 「この方が、お気に入りになりましたか」と彼の耳もとでささやいた。  一郎が、その言葉にうなずくとマダムはいった。 「この黄色い女性は、今日は指名がありません。あなたのお話を、ご存分にうかがえると思います」  マダムは、一郎に立ちあがるよう、うながした。黒いチョッキをきた男に先導されてすこし歩くと、大きな扉がみえた。観音びらきの扉口には、ふたりのボーイが立っていた。先導していた男が、一郎に前進をうながした。彼がすすむと、扉口がひらかれた。  入った場所は、ものすごく大きなホールだった。吹きぬけになった天井から、光がさんさんとそそがれていた。部屋の真ん中にはシャンデリアが垂れさがっていた。周囲の壁は白く、ところどころにボーイが立っていた。大きな円形のテーブルが六つほど置かれ、立派な身なりの男が、あざやかな色のドレスで着飾った華やかな女性たちに取りかこまれていた。  一郎は、ひかれた椅子に腰をおろした。まるい大きなテーブルには、真っ白な布がしかれ、中央には刺繍をほどこされたクロスのうえに、鮮麗な黄色い薔薇の花かごが置かれていた。  やがて、フィルムにうつっていた女性があらわれた。鮮烈なマスタード・イエローの服は、光に照らされ黄金に輝いていた。丈のみじかいカクテルドレスは、右脇を頂点に布地をたくしあげ、Aの形にみえた。ドレスは、胸のところで水がながれるような折り目をつくって裾につづいていた。両肩にパフをつけた眩めいている女性は、一郎のとなりに腰をおろした。  ボーイが、飲み物をたずねた。  一郎が周囲をみまわし、圧倒的な演出に萎縮しながら考えていると、 「お話しするなら、もっと落ちついた場所がいいですか」と女がきいた。 「どんな部屋なのですか」と彼は応じた。 「個室もあるのですよ。そこなら周囲を気にしないでお話をうかがうこともできます」 「あなたと、ふたり切りになれるのですか」 「欲しいものがあれば、ボーイがはこんでくれます。それにいまは、いろいろな設定ができますのよ」 「どんな、風にですか」 「あなたの好みにあわせて照明をかえたり、静かな音楽をきいたりすることもできます。もちろん、クラシックがご趣味なら、それもお望みのままです。それに」 「まだ、あるのですか」 「いまは、仮想空間がつかえますから、周囲の情景まで、あなたの趣味にあわせることもできますわ」 「それは、素敵ですね」  一郎は、賛成した。 「しばらくお待ちくださいね」と女はいって、だまったまま彼をみつめた。  一郎は、上目遣いの視線に思わずどきりとした。周囲をみまわしてみると、ひろい室内にはぽつぽつとお客が入りはじめていた。やがて、ふたりの白い制服で身をつつんだボーイがあらわれた。背後にきた男が椅子がひいたので、席を立った。いっしょに黄色い服の女が立ちあがると、その瞬間、三方向からスポットライトがあたった。鮮烈なマスタードイエローが白色光にはえて、黄金の輝きをはなった。なにかの画集でみた記憶がある、太陽のつよい光をあびて、金色の翼を煌めかせる天使に思えた。ボーイに先導された女がうしろをついていく一郎からは、黄色い編みあげのドレスを通して白い背中がみえた。スポットライトが照らす華奢な真っ白な肌は、目がつぶれそうになるほど美しかった。  ボーイによってひらかれた扉をぬけると、一六畳くらいの洋室が備えられていた。白壁になっていて左右には、額に入った絵画がかけられていた。扉と反対側は、よくみると白いロールスクリーンがひかれていた。中央に設置された真っ白な布がしかれたテーブルには、真ん中に紺色がベースになった木目調のクロスがあった。両脇に肘掛けのついた青色の椅子が、ロールスクリーンにむかってならんでいた。天井にはまるい照明が備えられ、部屋をあかるい光でみたしていた。  一郎のうしろをついてきたボーイが、広間のテーブルとおなじ花かごを紺のクロスの真ん中に置いた。背景が紺色になると、豪華な黄色の薔薇は宙に浮かびあがってみえた。彼らは、洒落た肘掛け椅子をひいて一郎たちが腰をおろすようにうながした。ふたりがすわったのを確認すると、扉のところで頭を垂れて会釈し、去っていった。  一郎の正面には、白色のロールスクリーンが垂れさがっていた。壁には窓が切られているのだろうか。実際には地階だったから、外がみえるはずはなかった。白い基調で統一されたひろく落ちついた空間は、心地よい香りにみたされていた。左の壁の一部に、白色で嵌め殺した木目調のカウンターがつくられ、うえにバーナーが置かれていた。そこから漂ってくるのだろうと彼は思った。 「なにを、お飲みになりますか」  黄色い服の女は、ささやくような声でいった。 「お酒は飲めないのです。ですから、こうした場所にきたのもはじめてなのです」  一郎は、演出に圧倒されながらいった。 「そうだったの」  女は、こたえて微笑みを浮かべた。 「よかったわ。私も、アルコールが苦手なのです。珈琲でもお紅茶でも、お好きな飲み物をいってくださいね。私も、おなじものをお付きあいさせて欲しいわ」  一郎は、熱い珈琲を依頼した。黄色い服の女は、テーブルの下についているらしいボタンを押すと注文の品をつげた。やがてボーイが、銀色のトレイに熱い珈琲をのせてはこんできた。ティーカップには、洒落た花柄の文様がついていた。うすい白色をした陶磁の受け皿とおなじ柄のセットだった。日本製とは思えず、いかにも高価そうにみえた。  黄色い服の女は、設定について一郎にたずねた。  正面の壁は、ロールスクリーンをひきあげると希望する映像にかえることができる。タヒチの浜辺がいいか。ログハウスから、対岸のレマン湖を眺望するロケーションをえらぶか。それとも、ニューヨークの五番街に面した情景がいいかとたずねた。 「名もないうらぶれた街頭のほうが、自分にはあっている気がします」  一郎は、すこし考えてからこたえた。  ロールスクリーンがひきあげられ、天井にかくれてしまうとスクリーンになっている壁が変化し、ふたりのいる場所は街角の喫茶店にかわった。そこは、ひろくはない四つ角の歩道に面していた。交差する路地は、石畳でおおわれていた。  女は、小声で時刻はどんな設定が好みなのかときいた。 「黄昏どきがいいです」と一郎はこたえた。  四つ角は、日がしずみはじめたころの情景になった。目のまえの細い路地には、両側に無彩色の石造りのビルが建っていた。高層の建物のあいだに、せまい石畳の道がつくられていた。輝きをうしない、栄光が去った人気のないダークグレーの小径には、ぽつぽつと間隔をあけていくつかの街灯がつらなっていた。そこに、ぼんやりとしたオレンジ色のわずかな明かりが点りはじめていた。 「私が望んだ風景は、まさにこんなイメージです」と一郎はいった。 「バルセロナのユダヤ人街みたいね。歴史がありそうな、素敵なところね。いろいろな人種、さまざまな人たちが、数々の思いをもって、この道を歩いたに違いないわね」  一郎は、その言葉に思わずうなずいた。  黄色い服の女は、全体の雰囲気と部屋の照明が合致していないのではないかときいた。 「たしかに、あかるすぎると思います。でも間接照明では、華やかなあなたを拝見できません」  神妙な感じで話す一郎に、女は小さく笑った。 「この部屋では、なんでもできますのよ。やってみますか」と彼女はきいた。  不思議な表情を浮かべる一郎をみながら、テーブルの下のボタンを操作した。 つぎの瞬間、部屋に備えられていた明かりが消えた。天井の左右にうがたれた小さな穴から、オレンジ色の光の束がさしていた。薄暗い空間のなかで、ぼんやりと浮かんでみえた。スクリーンに変化した壁面をつくる右左の上部から、つよい白色光からなるスポットライトが彼女にそそがれた。  黄色い服の女は、暗い部屋のなかで天使にかわって浮かんでいた。彼女には、羽がはえているようにみえた。そこには、黄色い服の女神が降臨していた。  一郎は、言葉をうしない、ぼうぜんと彼女をみていた。  黄色い服の女は、珈琲で口をしめらせ、カップを置くと彼をじっとみつめた。部屋をみたすアロマの薫りと、彼女がはなつ香水の微かな匂いが、一郎の鼻腔をかすめた。黄色い服の女を浮きださせているスポットライトが、ふかい憂いをふくんだ、ながい睫をうつしだした。うすい紅に彩られた唇は、蠱惑的だった。黄金に輝きながら、自らも黄色い光をはなつ女性は、栄光にあふれているようにみえた 「不適な服ですね。黄色がこんなにも素敵な色彩だなんて、いままで一度も気がつきませんでした」  女は、その言葉に小さく笑った。 「ご存じないですか。ある高名なイギリスの画家は、世界は黄色からできているといったのよ」 「子供のころから、英国には憧れていました。でも、外国には、いったことがありません。子供のころから、イギリスには憧れていました。そういえば、どこかの展覧会でそんな絵をみたような気がします。震えるほどの感動がつたわってきました。どこの国の方だったのかは、知りません。光を画布に取りこんだ、最初の画家だったときいています。その絵には、黄色く輝く天使が浮かんでいました」  一郎がだまると、女は思慮ぶかげにうつむいた。それから、彼をじっとみつめながら言葉をついだ。 「黄色は、真っ青な空を通して生命を育む、太陽のかがよう光の色。つよければ、目も眩む、輝きだけの白色にかわる。はげしい黄色は、決して錆びることのない完全無欠のゴールドとして具現化され、現世をおさめる皇帝を、そして来世における天国を意味します。夕刻には赤い炎にかわり、やがて水平線に一筋の希望をのこしてしずんでいくと、地獄の熾火にも変容します。暖色の黄色は、あなたが意識していない本能ともいえる無意識。追求せずにはいられず、そのさきで辿りつくはずの恍惚とした女性原理の象徴です。神秘的で予言にみち、ときには奇跡と時間を意味し、反乱と熱情を表現します。そこは、聖なる栄誉にみちています。でも、真の黄色が特別なのは、なによりも華麗な栄光を示しているからです」  黄色い服の女は、小さな笑みを頬にたたえた。  一郎は、あまりの美しさに息をのみこんだ。 「栄誉ですか」 「そうです。だれもが、生涯もとめてやまないもの。一郎さんが希求しているのは、あたえられる栄誉ばかりではなく、つかみ取る栄光です。それが、あなたのほんとうの望み。それで今日、私をえらんだ」  一郎は、聖女と大女優の話を思いだした。  あの姉妹は、栄光をえようとしたのだ。方向はまるきり違っていたが、ふたりは懸命につかみ取ろうと願ったのだ。善悪ではない。ふたりは、最後に栄誉をあたえられても、結局、栄光はつかめなかったのだ。彼女たちは、そうした生涯をつらぬいたのだ。  「あなたの目指している栄光とは、この道のむこうにあるのかも知れないわね」  女は、ささやくようにいった。  視線のさきには、人気がない石畳の歩道がつらなっていた。オレンジ色のわずかな灯火が、無彩色の道をぽつりぽつりと照らしていた。 「そんな気がします」と彼はこたえた。  両肘をテーブルにつけた一郎は、合掌した指先を鼻頭におしつけた。  黄色い服の女は、そっと右手をのばし、手のひらだ彼の左腕に触れた。彼女は、腕をしっかりとつかんだ。一郎は、細い指先を感じた。みると、そこからは黄色く輝く光があふれでていた。それが、彼の左腕を通して全身にそそがれてくるのを感じた。  「この彩色をうしなった道のむこうに、熱いマグマが眠っているのかも知れないわ。いってみなければ、だれにも分からない。あとは、あなたの勇気次第かしら」  黄金に輝く女は、一郎の目をじっとみつめてささやいた。  その言葉に彼は、大きくうなずいた。一郎は席を立つと、石畳の暗い道にむかってすすんでいった。振りむくと夥しいスポットライトをあびて空間に浮かびあげさせられた黄色い天使が、じっと彼をみつめつづけていた。  一郎は、交差点をぬけ、人通りもない路地を歩いていった。そのとき、騒々しい音響がひびいてきた。音がするほうにちかづくと、角の大きな建物のなかから歓声がきこえた。薄暗い階段がみえ、入り口にはだれも人がいなかった。一郎は、その声にむかって地階におりていった。階段が終わった地下空間は、異様な熱気につつまれていた。薄暗くひろい場所は、たかい天井から一筋の光束がなにかを照らしていた。そこには、たくさんの人びとがすしづめ状態になって、背中ばかりがみえた。みんな、ひどく興奮していた。なにが起こっているのかと、彼は汗の匂いを感じながら人混みをかき分けていった。  一郎は、あふれんばかりの輝きのなかにいた。みあげると、たかい天井は目も眩む黄色に光にみちていた。みまわすと、周囲には無数の人びとが取りまき、狂乱した喚声と怒声にあふれていた。一郎は、自分がロープがはられた内部にいることに気がついた。皓々とした光に照らされた場所は、四角いリングだった。彼は、マットの中央で男の右腕を取っていた。腹臥位になった相手の右肩に、大きく両脚をひらいて腰をしずめていた。男の右腕を自分の左腕でかかえ、おしつけた左脚を支点にして締めあげていた。 「タップしなければ、折るぞ」と一郎はいった。 「降参などない。折れ。やってしまえ」とレフリーがつげた。 「折れ」。「やれ」。  興奮の頂点に達した観客の怒号が、周囲から「ぐあんぐあん」ときこえた。 「折れるぞ」一郎は、もう一度叫んだ。「タップしろ」  男の右腕は、異様な角度になっていた。 「折れ」レフリーが叫んだ。  一郎が力をこめると、「ごちぃ」という音がして、男の右腕は、ぶらんぶらんになった。  彼は、おどろいて立ちあがった。男は、うずくまっていた。 「殺せ」という周囲の喚声が、一段とつよまった。レフリーは、試合の続行を指示した。  一郎は、リング周囲に密集し、興奮して怒号を発している人びとの人いきれを感じた。赤いコーナーにもどると、すり鉢の底になったリングから、彼を取りかこんでいる無数の観衆をながめた。あきらかに相手の男は、戦闘不能状態だった。骨まで折ったのは、いかに興奮していたとしても、やりすぎだったのではないかと一郎は思った。しかし、レフリーは、彼の勝利をみとめていなかった。不思議な気持ちで倒れた男をみると、黄色いトランクスをはいているのが分かった。それは、栄光の色だった。一郎は、自分のトランクスが赤色なのに気づいた。黄色の男が、チャンピオンだったのだろうか。  なぜ、一郎は勝利を宣言されないのだろうか。どうして、栄光をえられないのだろうか。混乱のなかで赤いコーナーにもたれていると、倒れた男が上体を起こした。館内から割れるほどの声援が起こった。つまり、彼こそが栄光のチャンピオンなのだと一郎は思った。  男は、右肩を押さえながら立ちあがった。苦痛で、顔がゆがんでいた。  一郎の勝利をたたえてくれるのだろうか。彼は、男の姿をみつめながら考えていた。  チャンピオンが立ちあがると、レフリーは試合の再開を宣言した。 「なんなのだ。これは」と一郎は思った。  リング上には、チャンピオンにたいする、大きな声援と怒声が渦まいていた。  どうやって男が戦うのかも、分からなかった。黄色のトランクスは、右腕をぶらんぶらんにさせながらも、むきだしの闘志をあらわす瞳で、彼を睨みつけた。  レフリーは、一郎にリングの中央にでてくるよう指示した。意味不明に思いながら真ん中にすすむと、男は彼の腹部に鋭いキックを入れた。観客の大声援が起こった。一郎がうずくまると、黄色のトランクスは、さらにキックをはなった。彼は、男の軸足をはらった。黄色のトランクスが倒れると、折れたはずの右腕をキックした。男は、苦痛に顔をゆがめ、叫び声をあげた。  一郎は、うごけなくなった黄色のトランクスをみて、また赤いコーナーにもどった。その様子に観客は、ぶうぶうという不満の声を館内に充満させた。 「なんなのだ。これは」と一郎はもう一度思った。  ここは、非合法の地下プロレスなのだ。ショーではなく、殺しあいをするリングなのだ。きっと、黄色いトランクスの男を殺さねばならないのだろう。とはいえ、これは夢に違いない。黄色い服の女がクラブの仮想空間につくった街角から、歩いてここに辿りついただけだ。彼女が、この道のさきになにかがあるといったので、やってきたのだ。すべてが幻想で、自分の思いが、こうして注目される試合として現出しただけなのだろう。おれは戦ってみたかったのだ。相手は、なんでもよかった。社会でも、個人でも。それを、黄色い服の女がかなえてくれただけだった。違和感を覚えても、そういう設定ならやるしかないのだ。  黄色のトランクスは、また立ちあがった。場内ははげしい喚声に、もう一度つつまれた。レフリーは、一郎に中央にでて戦うことを指示した。彼は、コーナーを離れた。  男は、ようやっと立っている状態だった。しかし一郎をみつめる瞳は、勝利の執念に燃え、らんらんと光っていた。殺さないかぎり、終わらないのだと覚悟した。仮に、この状態から男に勝ちを許せば、夢のなかでさえ一郎が栄誉をうしなうのはあきらかだった。殺されるか、栄光をつかむか、ふたつにひとつの選択を望まれているのだと彼は理解した。  男は、また蹴りをはなった。  一郎は、黄色のトランクスの脚を折ったとしても、戦いは終了しないのだと理解した。彼がぶらんぶらんになった右腕に蹴りを入れると、男は苦痛に顔をしかめた。観客の大歓声が、館内に木霊した。一郎は、男の背後にまわって頸動脈を締めあげた。ふたたび、大歓声が耳にひびいた。男は、しばらくもがいていたが、やがて完全に意識をうしなってリングに倒れ、ぴくりともうごかなくなった。それをみた館内は、どよめいた。  一郎がコーナーにもどると、レフリーが倒れている男を蹴飛ばした。ぴくりともうごかないのを確認すると、彼の右の手をつかんで、うえにあげた。館内に、大歓声が沸き起こった。  リングサイドから、水着姿の美しい女たちが、両手に大きな花束をかかえてリングにあがってきた。つよいスポットライトが、彼女たちの姿態を浮かびあがらせた。  最初に、青い水着の女性が登壇した。つぎに、赤色のビキニの女があがってきた。最後に、黄色のカクテルドレスで装った女性が、大きな花束をもってリングに入ろうとした。 「ついに、栄光をつかんだのだ」  瞬間、一郎は思った。  そのとき、中央に倒れていた男が、呻き声を発した。声をきくと、即座に女たちはリングの下にもどった。レフリーが男を蹴飛ばし、生きているのを確認した。 「なんで、殺さないのだ」と彼はいった。 「これ以上、戦っても無意味だろう」と一郎はこたえた。 「意味があるのかどうかは、相手が決めるのだ。おまえではない」 「殺したくはない」 「それなら、リングをおりろ。戦士の資格がない」  一郎は、男のそばに歩み寄った。 「降参しろ。おれは、殺したくないのだ」 「チャンピオンは、降参などしない。おまえは、殺すのか、リングをおりるのか決めろ」とレフリーはつげた。  一郎は、倒れている男を起こし、「降参しろ」といった。  黄色のトランクスは、怒りの表情で彼をみつめた。そしてつぎの瞬間、一郎の右のふくらはぎに、力いっぱい噛みついた。猛烈な痛みが、彼を襲った。頭部をくりかえし殴ったが、男は口を離さなかった。一郎は、黄色のトランクスの折れた右腕をねじまげた。男は悲鳴とともに、口を離した。さらに、彼は力いっぱい蹴飛ばした。ふくらはぎの一部は、囓りとられ、血がどくどくとながれていた。  一郎は、男をくりかえし蹴飛ばし、リングの下につき落とした。  それをみると、場内は一瞬、水を打ったように静まりかえった。  はげしい視線を感じて、一郎が振りかえると、観客の一部は彼を睨みつけていた。無気味な静けさが、館内を支配していた。一郎は、観客の一部が場内を去りはじめているのに気がついた。もう、喚声はなかった。  リング下に落とした黄色のトランクスは、ぼうぜんと立ちあがった。そして、リングの中央に立つ一郎を、食いいる目つきでみつめていた。信じられないという表情だった。  一郎は、いま生じている事態がなにを意味するのか、まったく不明だった。ただ、彼が栄光を勝ち取れなかったことは理解できた。なぜなのか、理由は分からなかった。  一郎は、ドナークラブにいた。  クラブは、平屋の大きな施設で、五〇人ほどの男たちが寝泊まりしていた。正面の玄関には守衛室がつくられ、自由な出入りは制限されていた。ほとんどが廊下をはさんだ四人部屋で、そのほかに特別室が設置されているという話だった。  一郎が暮らす部屋には、四人の男たちが住んでいた。彼のベッドは、入り口にむかって右の窓がわに置かれていた。左には、「がんびろ」がいた。扉の右がわには、「白痴」が暮らしていた。左には、「愚か者」のベッドが置かれていた。  ここで一郎は、「失墜者」とよばれていた。黄色いトランクスの男に噛まれた右のふくらはぎは化膿し、彼は下腿を切断しなければならなかった。戦士という役割がになえなくなり、自分の臓器を提供する者としてのみ生きることが許されていた。一郎は、黄色のトランクスを殺さねばならなかったと、教えられた。戦士は、リングで死ぬことが栄誉だった。本望を果たせなかった黄色のトランクスは、翌日、生きたまま猛獣の餌にならねばならなかった。神聖なリングから殺しもしないで落とすなど、決して許される行いではなかった。落ちることは、聖なる戦いの場から逃げだす行為とみなされ、もっとも軽蔑に値する行動だった。生きたままリングから落とされた者は、戦士とはよばれなかった。栄誉は、勝利によってのみ、あたえられるものではなかった。敗北のなかにも、歴然と存在していた。本望を果たす機会を剥奪された黄色のトランクスは、控え室にもどされると、頸動脈を切って自死した。栄誉とは、人間の尊厳に由来していたのだ。  一郎は、ルールを知らなかった。無知だったとしても、相手がリングで死を望んでいたのはあきらかだった。その思いにこたえてやらなかった彼は、黄色いトランクスをはくこともできなかった。ふくらはぎが化膿したときも、栄誉ある敗北をえられなかった男のふかい怨恨が原因だといわれた。自業自得の彼が、同情をうけることはなかった。  一郎は、考えていた。栄光をつかませてくれる黄色い服をきた女によって、彼は直接、おくりだされたのだ。一郎は、「過去、現在、未来」のクラブにいって大金をはらい、黄金に装われた女性と出会い、彼女にすすめられて、この小径にでた。熱いマグマが眠っている場所をもとめてリングに辿りつき、黄色いトランクスの男と戦った。このながれを、疑うことはできなかった。いまの状況がどんなに不本意であったとしても、黄色い服の女の示唆にもとづいて行動した以上、彼女の管理下にいるはずだった。あるいは、すべてが夢なのかも知れない。いずれにしても、こんなに不名誉な形で、この一連の出来事が終了するとは到底思えなかった。栄光をつかむどころか、思惑とはまったく逆の信じられない展開がつづいていた。劇的であるためには、はげしい落差が必要なのだろうと、一郎は考える度に思った。普通の底ではまったく不十分で、想像できるかぎりのどん底にまで落ちねばならないのだろう。そこから奇跡的な逆転が起こり、その分だけ大きくなった栄光が、最後には待っているはずだ。演出なのだ。それ以外には、いまの状況を整理できなかった。 「がんびろ」は、両眼がひどく離れていた。六〇歳くらいの猪首の男で、みじかい髪は、どこも真っ白だった。彼は、くりかえし窃盗で逮捕され、刑務所に幾度も留置されていた。あるとき、忍びこんだ家で老婆にみつかり、彼女を絞め殺した。それで、三〇年の懲役刑をうけていた。どんな形でもいいから社会に貢献しようと考え、この施設に入居してきた。 「白痴」は、五〇歳くらいの痩せた男で、いつもぼんやりとしていた。彼は、小児性欲者で、判明しているだけでも一〇数名の子供たちに虐待をくりかえしてきた。そのうち、四人の子供を殺害していた。社会貢献をすることによって、終身刑になっていた。 「愚か者」は、一郎とおなじ四〇歳で、背がたかく、筋骨隆々とした壮年の男だった。蒼白い顔には、髭もはえていなかった。彼は、強姦罪で留置されていた。拘留中に数名の女性を殺害したのが判明し、ドナークラブに入ることで、終身刑に減刑されていた。   このクラブは、白血球の組織型が適合したレシピエントに臓器提供をする者たちが、暮らすためにつくられていた。ドナーが提供するものは、血液からはじまり、角膜、腎臓はもとより、肝臓、肺臓、心臓、膵臓、小腸、大腸などさまざまだった。もちろん、骨髄も希望者がいればあたえねばならなかった。 「がんびろ」は、右角膜と左の腎臓を提供していた。 「白痴」は、左角膜と右がわの肺臓、さらに肝臓の一部をレシピエントにあたえていた。 「愚か者」は、左右の角膜を提供していた。  一郎は、なんの役にも立たない無用の者が、最後の貢献をする施設に収容されていた。彼の臓器も、ときとともに希望する人びとに提供されていった。ここでは、多くの人に臓器提供ができた者は、栄誉とたたえられ、特別室に入居する権利をあたえられた。臓器を提供するのは、ドナー本人の意志ではどうにもならないことだった。自分がもっているものを希望する者がいて、さらに白血球の組織型が適合しなければならなかった。  一郎は、すでに両眼の角膜を提供し、失明していた。右の腎臓もあたえていた。さらに、肝臓と膵臓の一部も提供していた。また、小腸と大腸の一部分も希望する者にあたえていた。彼にのこされたものは、左右の肺臓のどちらかだった。ドナーが死んでしまえば、栄誉はともに消える。しかし、もしそれらをあたえ、なおかつ生きているなら栄光をつかみ取ることができる。  一郎は、なにがどうなっているのか分からなかった。臓器を提供した彼の肉体と精神は、疲れ果てていた。両眼をうしない、自分ひとりでは歩くこともできなかった。食事も、看護師によって介助されていた。もうすでに、生きているのかさえ不明だった。  クラブの医師が、一郎の部屋にやってきた。彼の肺臓を、必要としているレシピエントがあらわれた。組織型が一致している。できるだけはやい時期に、移植手術をしたいといった。 「丁寧に、移植します。あなたがながく生きられ、特別室で暮らせるように。ドナークラブの栄誉のすべてが、一郎さんにあたえられるのです。おめでとうございます」  医師は、一郎の右手をつかんでいった。 「なんとか、あと一日生きていてください。明日には、手術ができるようにします」  一郎は、思った。これが、栄誉なのだろうか。息をするのもつらいが、明日まで生きれば、ほんとうに栄光がつかめるのだろうか。それは、いったいなにを意味するのだろうか。黄色い服の女は、最後にどんな姿をみせてくれるのだろうか。女神は、ここにいたる経過を、ずっと詳細にみとどけているに違いなかった。彼女の祝福を信じ、つらい日々を生きぬいてきた。しかし、女神は、どう決着をつけるのだろう。どんな大逆転が、待ちかまえているのだろうか。あと一日生きれば、予想だにしない、特別な事態が起こるに違いない。 「がんびろ」が、一郎の左の足に触れた。 「素晴らしい、栄誉が待っています。もう一日、頑張ってください」といった。 「白痴」が、そばにやってきた。一郎の右の太腿を触れながらいった。 「なんと、恵まれているのでしょうか。神さまが、あなたの身体を特別につくってくれたに違いありません。栄誉が、肉体からあふれ、金色に輝いています」 「愚か者」も、そばによってきた。一郎の左の腕に触れながら、涙していった。 「これほど、たくさんの人びとに貢献できた者は、いままでひとりもいません。そして、おどろくことには、あなたは、息をしているのです。生存するかぎり、神さまとよんでもいいほどの栄誉に輝いています。運がよければ、数多くの罪を犯してきた私にもできるかも知れません。一郎さんのように黄金の輝きのなかで、栄光とともに死ぬことが最後の望みです」  多くの賞賛をうけながら、一郎は思った。  これが、栄光なのだろうか。女神は、どこで、どんな形で出現するのだろうか。一郎は、とても今日、一日は生きられないと思った。たぶん、ドナークラブの栄誉をうけることなしに自分は死ぬのではないかと感じた。これが夢でないなら、女神は最後に出現する。  真っ暗な世界で、すべてがぼんやりとなっていった。そのなかで一郎は、黄金に輝く、あでやかな黄色い服の女を思い起こした。地下プロレスのリングで、彼に栄光をあたえるために花束をかかえてあがってきた黄色の女神を想起した。最後の呼吸をする直前に黄色い服の女が出現し、考えもつかない劇的な結末が待っているのだと確信した。  その瞬間、一郎は、子供時代から慣れ親しんできた論語の一節が脳裏に浮かんだ。そして、孔子を思いだした。  われ十有五にして学に志す。三〇にして立つ。四〇にして惑わず。五〇にして天命を知る。六〇にして耳順がう。七〇にして心の欲するところにしたがって、矩をこえず。  四〇歳の一郎は、こうしてまったく希望しない結末になっている原因について、もう一度考えはじめた。いったい不惑とは、なんだったのだろうか。  孔子は、紀元前五五二年、中国の春秋時代、魯の国にうまれた。彼が考えていた学問とは、さらに五〇〇年以上古い周王朝時代の規範や礼制を、魯国によみがえらせる復古主義だった。孔子は、一五歳にしてこれを思い立ち、二八歳で仕官した。三六歳のときに、魯国の昭公のクーデターに乗じ、衰退していた礼制を復活できる機会をえられると考えた。ところが、この企みは失敗した。昭公は、隣国の斉に逃げた。孔子も、いっしょに斉国に亡命し、そこで七年間暮らした。  一郎は、そのあいだに、なにが起こったのか知らなかった。  孔子は、四三歳のとき魯国にもどった。しかし、もう仕官はせず、弟子を育てはじめた。その後も、さまざまな事件に遭遇し、五二歳でふたたびチャンスがおとずれた。五三歳のころは、宰相として活躍した。しかし、五五歳で明確な政治的敗北を喫し、それから一三年間にわたり諸国を行脚し、六九歳で魯国に帰還した。  つまり孔子は、斉国に亡命していた四〇歳前後に、自分の限界を知ったのではないか。周王朝時代の礼節を、五〇〇年以上も経過した彼の時代に復古などできないと、確信したのではあるまいか。つまり孔子は、四〇歳のとき、栄光をえることをきっぱりと諦めたのだ。だから、不惑と断言できたのではないか。  四大聖人と名がついた人たちは、存命中に人生をしっかり諦めていた。四人とも、死ぬ直前になって、じたばたなどしなかったのだ。  一郎は、クラブの入り口に立っていた異形の大男を思いだした。  あの男は、孔子だったのではないか。すくなくとも、彼が聞き知っている形姿と瓜二つだった。死ぬまえの孔子は、自分と本質的に無関係な五〇〇年以上もまえ行われたという周王朝時代の礼制など、もうどうでもよかったのではないか。しがらみを離れ、ほんとうはあんな具合に高級クラブの入り口に立ちたかったのではあるまいか。なにかを期待してやってくる人びとを、気楽に品定めしていたかったのかも知れない。  対照的な人生をおくった、聖女と大女優の姉妹の話が脳裏をかすめた。  姉は、妹のふしだらな品行をみて、さらに道徳的になる必要を感じたのだろうか。女優のほうは、姉さんが自分となにもかわらないことを知っていた。本心ではうらやみながら、聖女を演じただけだと分かっていた。それで、さらに当てつけがましく、自分だけは心に素直なって生きてみようと頑張ったのではあるまいか。姉は、妹が好き放題の人生をおくっているのに心底から嫉妬しながら、すでにあたえられた栄誉を手放せなかった。聖女と大女優は、たがいに侮蔑しながら過激化をくりかえした。ふたりとも、最後の瞬間まで栄光をつかめると思っていたのではないか。  諦念すること。そこが、凡人と聖人のいちばん大きな違いではないのだろうか。  一郎は、ぼんやりとした頭で思った。  そうは考えてみたものの、幾度、思いなおしても、やはり最後の瞬間に黄色い服の女が劇的な形で出現するとしか思えなかった。  一郎は、あかるい光にみちあふれたリングに、華やかに登壇してきた栄光の女神を思いだした。劇的にするためには、絶望的な組み立てが必要なのだ。臓器を提供するだけの家畜となっている、この惨めな現実こそが演出であり、最大の栄光をえる前提条件なのだ。  しかし、ほんとうに黄色い服の女は、くるのだろうか。  不安が脳裏をかすめた。  自分のばあいは、もっと特別なはずだったと思いなおした。  一郎は、右手で左の前腕部をにぎりしめた。そこにはいまでも、黄金に輝く女神の、細くてしなやかな指先の感触がしっかりと張りついていた。   しかし、ほんとうに黄色い服の女は、あられるのだろうか。  最後の最終場面で女神は出現し、一郎のすべての行為を祝福してくれる。そこで、すさまじい大逆転が起こるに違いない。  それは、確信にちかいものだった。  とはいっても、ほんとうに黄色い服の女はでてきてくれるのだろうか。  一郎は、つよい期待をもっていた。  しかし、いくら考えても、死ぬ直前にならなければ、はっきり分からないと思った。                             黄色い服の女、五六枚、了