青い服の女                                     由布木 秀  早春の瀬は、雪どけの水をふくんでいた。静かな大都会のなかを、流量を増し、大きな音を立ててながれていた。ぼんやりとした青い朝霧につつまれながら、ぼくはひとりで立っていた。川原には石ころが散乱していた。まるまった石も、角の尖ったものもあった。そのなかに、黄色い斑が入った青黒い小石をみつけてひろいあげた。一片の脂肪にも似た斑紋は、どうやって石につつみこまれたのだろう。これだけを、取りだせるのだろうか。細心の注意をはらって割ってくだいても、斑だけを取りのぞくことはできそうもない。黄色い脂肪だけを、身体から取りのけられないように。  元旦には、能登半島を大地震がおそった。市街地の家屋は、軒並みにぺしゃんこにつぶされていた。コンクリート製の道路は、亀裂が入って断たれ、いたるところに段差がつけられていた。家族があつまる正月の楽しいはずの日に被災した方々は、凍てついた風景をまえに途方に暮れていた。自然災害のはげしさをしみじみと感じた。  戦争の報道もつづいていた。 去年の冬から、パレスチナの残酷な映像をくりかえしみていた。  コンクリート製の建物が、無残なほどに破壊されていた。もともとは、そのあいだにあった空き地だったのだろうか。地表は、爆弾によって地面がめくれ、穴だらけになっていた。それらの映像は、ぼくがいまの日本で暮らしている現実と、整合性がまったくなかった。まるで異次元のドラマをみている感じだった。  そこでは子供たちが泣き叫び、口や鼻から管を入れられた新生児がうごかずに横たわっていた。子供の頭には包帯が巻かれ、顔には固くなった赤い血糊がついたままだ。どこまでもつづく、瓦礫の山。立ちこめる硝煙の臭いが、画面を通してつたわっていた。この世界を元にもどすためには、どうしたらいいのだろう。莫大なお金と労力があれば、住んでいる人びとが普通に手をつないで、笑顔で行き交う平和な街を再現できるのだろうか。  ウクライナが、ロシアによって侵攻されはじめてから二年がすぎた。その間、たくさんの悲惨な映像をみてきたが、なかでも東部の戦線から列車で避難してきた女性の姿が目に焼きついていた。  戦場から必死で逃げる人びとでごったがえす車両で、西部の町についた年老いた女は一匹の犬を抱えていた。彼女の胸に抱かれた飼い犬は、白いふさふさした毛で覆われていた。何歳くらいなのだろうか。飼い主の女性の胸で、じっとしていた。表情が不安そうにみえたわけではない。画面からは、そこまで分からなかった。おそらく彼女は、飼い犬をのこして避難することなど思いもつかなかったに違いない。犬が黄色い斑なら、放心状態で立つ孤独な老女は青黒い石なのだろう。ふたりは、違和感がない一枚のフィルムになって収まっていた。  飼い犬と人間は、互いに補いあっているという。犬は、ジャッカルや狼の血をひきながら人の兄弟になった。言葉が通じないだけで、二つの生き物は感情を共有できる。飼い犬の目をみただけで、主人は自分の過ちに気がつき、愚かな激情から冷め、平静を取りもどす。犬は、たんなる友ではなく、飼い主の人格の一部で、その影だともいわれる。人間の繁栄に、欠かすことができない動物だろう。  パレスチナの映像では、どうしても犬をみつけられなかった。どこに、いってしまったのだろうか。うごいているものは、人しかいなかった。彼らの黄色い斑は、どこにいってしまったのだろう。そう思ったときに気がついた。  パレスチナ人の詩人の言葉が、脳裏に浮かんだ。  でていけなんて、いわないでくれよ。  だって、ここは、おれがうまれた故郷なんだから。  そうだ。傷ついている彼らこそが、黄色い斑なのだ。パレスチナという土地が、青黒い石だったのだ。二つはひとつで、取りのぞくことなんかだれにもできやしないのだ。  全世界で一二億の人びとが、極度の貧困状態におかれているという。日本の人口が一億二〇〇〇万だから、その一〇倍、地球上に住む七人にひとりということになる。世界人口の四割以上、三五億にものぼる人びとが一日二ドル以下で生計を立てているとネットにはかかれてあった。紛争は、パレスチナ、ウクライナばかりではなく、世界の各地で起こっていると聞く。幾度か耳にした、シリア、アフガニスタン、ミャンマーばかりではないらしい。自由な言論が封じられた地域は、世界の過半数をしめると新聞には記載されていた。  それが現実だとしたら、いまのぼくはなんなのだろう。朝はやく起きて、大都会の中心をながれる川がつくった渓谷を気ままに散策し、川原でひろった黄色い斑が入った石を手に取って不思議な気持ちになっている。いったい生活とは、なんなのだろう。ぼくの脳裏は、すべてが周囲とおなじでぼんやりとしている。緊迫感もなく、鮮明でもない。あやふやな朝霧のなかでどの出来事も脈絡をうしない、ふっと呼吸していることに気がつくだけだ。なにも覚えていない。そんな必要もないのだ。朝靄のなかで目指す場所もうしない、ゆらゆらと揺れながら漂っている。周囲はぼんやりとし、暑さも寒さも感じない。気がつくと、大きなせせらぎが絶え間なく聞こえる。それで、青い川のそばにいることが分かる薄明の世界に、ゆらゆらと揺れながら漂っている。社会と切りはなされ、苦しみからも隔絶され、心から安心できる薄闇の領域。ずっとむかしに感じていた、周囲がはっきりとしない、懐かしく温かい無の世界。すべてが満たされた、ウロボロス。あらゆるものが分化をはじめるまえの始原の世界。愛も憎しみもない。そんな感情はもとより、言葉すらみつけられない。それでも、しいて名づければ、どんな語彙があるのだろう。分からない。人は、そんな感情を、怠惰、メランコリーと呼ぶのだろうか。  東にむかって深い谷をつくり屈曲蛇行する川は、ここではほぼ南にながれている。渓谷にかかる大きな陸橋をすぎると、西がわにこの地方を支配した大名の城趾がある。川は、城に取って自然がうんだ要塞で、巨大な掘り割りにもなっている。橋の東がわは、JRの駅がおかれる街の中心につながっている。陸橋をはさんで、城と中心街がある。町が青黒い石ならば、黄色い斑は川になるのだろうか。  そう黄色の斑紋。ぼくは小石ではなくて、斑なのだろうか。それとも石で、黄色い斑紋をどこかに抱えているのだろうか。  世界が青から構成されているといったフランスの画家の言葉を、ぼくは思いだした。  たしかに目のまえをながれる川は、青白い色をしていた。ぼくの周囲は、青い朝靄に覆われていた。日盛りのなかで浜辺に立てば、みわたすかぎりすべてが真っ青に違いない。いまは、まだ芽吹きはじめたばかりだが、やがて周囲はあざやかな緑色に覆われる。緑とは、光を取りこんだ青色をさす言葉だ。つまり、神に祝福された青い色のことだ。さらに夜、ぼくをつつみこむ漆黒の闇は、黒い青色をしている。青は、ロマンチックな憧れ。優美でおだやかで、気品にあふれる、青いマントをきた霊的な器。高まった感情を冷やし、若く、意識的な、理想を追う魂の色。どちらかといえば男性的で、メランコリーは、淡い青色をしている。そして青は、肯定的で、この世の秩序を表現している。  あるイギリスの画家は、世界は黄色でできているといった。  それは、生命を育む、太陽のかがよう光の色。つよければ、目も眩む、輝きだけの白色に変わる。はげしい黄色は、完全無欠の満たされた黄金から、皇帝、天国を意味し、衰退すれば赤い炎となり、やがて地獄の熾火にも変容する。暖色の黄は、華麗で聖なる天上の栄誉。本能ともいえる無意識、さらに恍惚とした女性原理を象徴する。神秘的で予言に満ち、ときには奇跡と時間を意味し、反乱と熱情を表現している。  だから、フランス人もイギリス人も間違っているのだろう。世界は、青色と黄色から構成されているのだ。この二つが混じりあい補いあって、ありとあらゆるものが、はじめて目にみえるようになるのだろう。  ぼくは散策を終え、川原におかれたベンチに腰をおろした。朝霧が晴れてくるころ、橋は賑やかになった。人と車が行き交う陸橋にむかって歩いて道にでると、いつもの通り美術館に入った。朝の館内は静かで、うす暗く調光され、高い天井まで静謐が演出されている。ちかごろ気になる、絵のまえにおかれたベンチにすわって考えつづける。昨日もそうしていた。その前日も、おなじだった。うまれてからずっと、こうしていたように思った。  絵は、朝の港の情景だった。  まさにいま、東の海から日がのぼろうとしている。白く輝く球体にむかう、まっすぐな光の道が目のまえにあり、漂いながら揺れている。ゆらゆらと揺れうごきながら、瞬く間に青い闇を駆逐していく輝きは、天空から垂れさがるやわらかい一枚の面紗に変わって、みわたすかぎりの空間を黄色く覆いはじめる。そう、黄色。石に刻みこまれた脂肪の色。この光が斑になるのだろうか。目にみえる世界は、黄色い神聖な光線に覆われる。南がわには、港湾をつくる巨大な建造物がつらなっている。港を管理する役所や、北がわに停泊する大型客船を運航する旅行会社、ひしめきならぶ大小さまざまな貨物船をもつ商社、ここを利用する大勢の人たちのためのホテル、宿泊施設、レストランに違いない。それらの堂舎にも光のベールは覆いかぶさり、固い石づくりの壁をくりかえし波うち、曖昧であやふやな面に変えている。建物の陰になった南の港湾は、暗い青のままにすておかれ、冷たい波はふるえながら岸壁に寄せ、くだけては青い裸身をさらけだす。光芒の支配から逃れた空の一部はまだ青白く、斑な白い雲がながれている。練り絹になった黄色い光は、のこった青い天空をもつつみこもうとしている。  岸壁からつづく道に、男が立っている。年のころなら、五〇歳をいくらかすぎているのだろうか。白いものが混じったみじかい頭髪に金縁の眼鏡をかけ、無彩色のシックなシャツをきて、灰色のズボンをはいている。朝日に背をむける男の右に、ながい髪の少女がいる。孫娘なのだろうか。小学校の高学年にみえる愛らしい少女は、青いワンピースをきて、男の右手をしっかりと握っている。ふたりは朝日に背をむけ、じっとこちらをみている。彼らは、なにをみつめているのだろう。  キャンバスの大きさは、F(Figure、人物)の二〇〇号くらい。縦が二五〇センチ、横が二〇〇センチくらいはある。大きな絵の右下には四角いプレートが添えられ、題名と作者名をしるす白い紙がはさまれている。そこには、「加夜」という名前しかかかれていなかった。ネットで検索しても、作者については分からなかった。吹きぬけの壁一面をしめる大きな絵画は、それなりの画家でなければ展示を許されることはあるまいと思う。ちかごろ、この絵が心にひっかかって仕方がなかった。毎日のようにきては、フロアのベンチに腰をおろし、気がすむまでながめつづけていた。  ふたりが、なにをみているのか分からなかった。五〇歳すぎに思える痩せた男は、生活につかれて肩を落としている。しっかりと手を握りしめている少女は一〇歳くらいだろうが、愛らしくひどく魅力的だった。美少女で、心をつよくひいた。理由は分からない。どこかで会った気もするが、なぜ、これほど少女に心がひかれるのだろうか。知っているだれかにも思うが、いくら考えても分からなかった。じっとみつめると、少女の瞳と交錯することがあった。娘は、ぼくに気がついていた。となりの眼鏡をかけた男性は、伏し目がちで力なく地平をみている。男は、ぼくにはなにも感じていないに違いなかった。  この絵に気がついた三ヵ月まえ、女の子供はもっと小さかった気がした。写真があるわけではないし、ネットで検索しても作者を特定できず作品の情報も得られなかったのだから証拠はないが、娘はせいぜい五、六歳の幼女で、いまよりずっとあどけなかったように思った。そのときにも彼女とみつめあって、なにかをつたえたいらしいと感じ、つよく心がひかれたのだった。それがなんなのかは、よく分からない。ひと言では表現できないとても懐かしい思いで、忘れてはいけない大切な者だった感じがした。極言すれば、娘は実の子供というか、かつて自分の一部だったとも思った。くりかえし考えたが、どうしても思いだせなかった。  昼も夜も気になり、この絵が脳裏から片時もはなれることはなかった。ふと夜中に起きだして、あかるく輝く繁華街をみおろし、月に照らしだされた、ゆるやかな起伏がつらなる北の山々をながめながら、青い服をきた娘について考えている自分に気がついた。港のあかりが暗い海の領域を映しだすのをみると、心にひっかかることを思いだせる気がして、朝になったらもう一度美術館に足をはこんで確認しなければならないと感じた。なにを、たしかめるのだろうか。子供をじっとみつめなおし、だれであったのか考えればいいのだろうか。手をつないでいる男が、知人である可能性を思い起こしてみるのだろうか。ひたひたと波の寄せる気配に満ちた夜の港は、こうこうとしたあかりが染みだす卑俗な街中とは違い、うす暗くぼんやりとみえた。夜霧に覆われ、ゆらゆらと揺れながらすべてが曖昧になった領域には、灰色の面紗が一枚かけられている気がした。  一ヵ月くらいまえだった。ふと、女の子供がさらに魅力的にみえるのに驚いた。じっとみなおすと、とても、五、六歳の幼女ではなかった。すくなくとも、七、八歳で、いつからこうなったのか分からなかった。信じられないとても妙な話で、まえからそうだったと思うより術はなかった。週に、三、四回、しっかりみて違和感を覚えなかったが、とつぜん変化したとは考えられなかった。人間は、ゆっくりと変容するものには気がつけない。季節がうつり変わるのも、花が散ったり、寒くなったりしてはじめて分かるに違いない。気がついたのがその日で、おだやかに時間をかけて変わってきた感じだった。絵のなかの少女が成長する道理がないから、見間違いだろうとしか思えなかった。そんなことがあって、さらに注意をはらいはじめた。  それで今日、娘が一〇歳になっているのをみつけたのだった。最初は、可愛いだけの少女だった。いまは目鼻立ちがととのい、理知的な瞳をしたあきらかな美少女だった。ながい黒髪は肩までまっすぐにのび、服はおなじ青色のワンピースだったが、はじめのころとは印象がまったく違っていた。幼さはどこにもなく、あと五年もたったらはっきりとした美貌がだれにでも分かるに違いなかった。手をつないでいるのは、五〇歳くらいの痩せた男だった。はじめは、七〇歳くらいにみえた気がした。男にはあまり注意しなかったから確実ではないが、少女が成長しているのに気がついた一ヵ月まえは六〇歳くらいだった。最初のイメージでは、祖父と孫娘に違いなかった。いまでは、父親と年のはなれた娘なのかも知れない。幼女はすっかり少女に変貌し、もう手をつないではくれないかと思えるほどだった。はじめのころは、手掌を取りあっているのに違和感をまったく覚えなかった。 「どうか、なさいましたか」  ぼくが、胸に腕をくんで深刻そうな表情で絵をじっとみつめていると、背後で女性の高い声が聞こえた。ふりかえると、足利というネームプレートをつけた学芸員がにこやかに立っていた。 「あなたをおみかけするのは、はじめてですね」  ぼくの言葉に、青色の制服をきた女は、素敵な微笑みを浮かべた。 「そんなことはありません。あなたがほとんど毎日やってきては、ベンチに腰をおろしてこの絵を見入っているのをずっと存じあげております。よほど、お気にめしたのですね」 「そうでしたか」  ぼくは、小さくつぶやいた。それで、理由ははっきりしないのだが、この作品がひどく気に入り興味がひかれ、「加夜」についてさまざまな方法で調べてみたが分からない。できれば、どんな方なのか教えてもらいたいといった。  五〇歳くらいと思われる小柄な女性は、みじかい髪をしていた。学芸員らしく、上品で聡明そうにみえた。彼女は、展示を決めた館長に聞けば分かるかも知れない。在館しているから、会って直接たずねてみたらどうかといった。  応接室の窓から満開の桜が日差しをうけて輝き、やわらかい風に吹かれて、ゆらゆらと揺れるのがみえた。すすめられるままに大きな濃紺のソファーにすわり、通常の規格よりも高い白い天井をみながら、だされた熱いお茶をすすっていると、青い洒落た服を身にまとった六〇歳くらいに思える女性がやってきて、館長だといった。金色のネックレスを垂らし、髪をみじかくした趣味がよさそうな女は、胸に「沢木」とかかれたネームプレートをつけていた。ツーピースはあざやかな青色で、よく似合って清楚な落ちついた感じをあたえていた。彼女は右側におかれたソファーにすわると、定期的にやってくるぼくは館内で有名だといった。 「風貌からは、どこかの大学の教授ではないかという職員もいます。いつでもきちっとした青色がベースの三つ揃いをきていらっしゃるから、お金持ちで趣味のある方なのだろうと噂になっています」といって和やかに笑った。素晴らしい笑顔だった。  ぼくが金縁の眼鏡をひきあげて、ひきしまった横顔を聡明そうな女性だと思いながら考え深げにしていると館長は話しはじめた。 「加夜」という作者については、残念ながら資料がない。展示にあたって館長も館内のデータを調べてみたが、なにも分からなかった。美術館では、加夜の作品は「光のなかで」ひとつしか所有していないが、ほかに存在する記録はどこを探してもみあたらない。この絵画が当館の保有になったのは、四〇年以上まえのことだ。購入したのではなく、寄贈されたものだ。寄贈主は男性で匿名を希望とかかれている。この男が加夜の縁者だったのか、画商だったのかは記載がない。まえの館長はなにかを知っていたと思うが、他界したので分からない。匿名を希望したのだから、この絵の周辺事情についてはなにも記載がない。  美術館の倉庫には、三〇〇〇をこえる作品が保管されている。とうぜん全部は展示できないから、定期的に入れ替える。「光のなかで」は、年があけてから陳列した作品だが、ちょうどそのころにぼくがやってきた。  公開する基準は、明文化されたものはない。館長としては、所有する作品は可能なかぎり展覧したいと考えている。ほとんどのものが、機会を得られず収納されたままだ。保管物には、作品の謂れや作者についてなど、さまざまな事情がしるされた台帳が存在する。そこには、どういう経緯で当館の所蔵物になったかも記載されている。「光のなかで」にかんしては、いま述べた以外の情報はない。  今回、この絵を展示しようと考えた特別な理由はもっていない。展観しなければ、永遠に公開されないだろうと思ったからにすぎない。そうした絵画は多々あるが、これほど大型のものは比較的すくない。壁一面をしめる作品は、展示する機会がひどくかぎられる。すくないとはいっても、この程度の大きさをもつ未展示の絵画は一〇〇以上はあるから、大部分は蔵置されたままというのが現状だといった。 「台帳に、なにも記載がないことは分かりましたが、入庫時に写真はとらないのですか。もしあれば、みせて頂きたいのですが」とぼくは聞いた。  台帳には、題名、作者名とともに、搬入時に撮影した写真を添付している。当館に取って整理のための重要な書類になるので、秘密ではないが一般の方にみせるものではない。台帳にかかれた搬入時の状況を一般人に閲覧させたり、なにかの機会をもうけて公開したりということは、まったく考えていない。  館長はこうした事情を説明しながら、今回、加夜の作品を展示するにあたって、自分でも可能なかぎり調べてみたが、なにも分からなかったと話した。海水面の高さとならんでいる建造物との関係からは、ヴェネチアがいちばんの候補だが、現実には合致する景観の場所はない。船の形からは一九世紀以前と考えられ、想像上の情景になるのだろう。 「こういった、背景が詳細不明の絵画はかなりあるものなのですか」とぼくは聞いた。  館長は、珍しいと答えた。入庫時に、記入を忘れることはあり得るだろう。そのまま放置されるには、担当者が急病などで職場をながく離脱する事態くらいしか考えられない。人間のすることだから注意してもぬけ落ちは起こるだろうが、ここまで記載がない作品は珍しい。とはいっても、記述された文字が判読不能のばあいもあり、詳細が不明なものは皆無ではない。加夜は、故意にふせられたのだろうが、なぜそうした経緯が必要だったかについては興味をもっているといった。  展示を入れ替える考え方についてたずねると、館長は興味深い話をはじめた。 「こうした二度と展覧されないと思える作品をギャラリーにだすと、特定の人がひどく気に入って、くりかえしおとずれるばあいがあります。もちろん、ひとりいるかどうかですが。不思議とそうしたケースがあるので、館としては保管している作品はなるたけ展示してみようと考えることになるのです」 「そういう人は、気に入ると、かなりの頻度で美術館におとずれるものなのですか」 「そうですね。あなたのばあいは週に、三、四回ですが、日参する方もいます。なにかの波長がぴったり合致するのか、詳細については不明です。機会をみつけて調査してみたいとは思います。どこか、ひどく気になることがあるのでしょうか。くるたびにベンチにすわって、一時間くらいみつめて物思いにふけっていますね」  面白い話だと思った。 「ぼくみたいに、謂れを聞きに、館長さんをたずねてくることも起こるのですか」 「そういうばあいもあります。それで私たちは、こうした作品をだれだれさんの絵画と呼ぶことになるのです。今回のばあいは、青い三つ揃いさんの絵、と名前がつけられています。いまあなたが山東さんだとうかがっても、もうそんな呼び方にはならないわね」  ぼくは、かるい溜め息をついた。 「つかぬことをおたずねしますが、それはどのくらいの期間、つづくのでしょうか」 「おおむね三ヵ月くらいでしょうか。ある日、パタッとこなくなるのです。私どもといたしましては、その絵の寿命が当座は終わったと考えて入れ替えをするのです。一度ギャラリーに展示したばあいはチェックが入りますから、二度と公開されないでしょうね。すくなくとも、私が館長のあいだは、むずかしいと思いますね」  沢木館長は、おかしそうに笑った。ぼくは礼をいって部屋をでた。  気持ちのいい日だった。高い空からおだやかに吹く風は寒くもなく、ぼくは美術館をでると、街の中心にむかう橋をわたった。朝霧はすっかり晴れ、雪どけの水で流量を増した瀬がみえた。喧騒のなかで音は聞こえなかったが、周囲には芽吹きはじめた新緑をまとった木々が目に映った。  マンションに帰ると、最上階の部屋から、すき通った光に輝く春の景色がみえた。桜が、ゆるやかな風に吹かれて散りはじめていた。館長の話を思いかえしていると、とつぜんドアホンが鳴った。モニターをみると、ドアのまえに女がいた。 「なんのご用ですか」  不審に思いながら、ぼくは聞いた。 「エホバの塔の者でございます。すこし、お話を聞いて頂けないでしょうか」  悪質だと思った。この建物は、許可された者しか入ることができない。なんらかの方法で侵入し、つぎつぎに訪問しているに違いなかった。 「申しわけありませんが、宗教には関心がないのです。おひき取りください」  ぼくは、電源を切ろうとした。 「ちょっと、聞いて頂けませんか。お話は、光のなかでです」と女はいった。  ぼくは、どきりとした。ひとりなのを確認して、扉をあけた。そこに立っていたのは、三〇歳くらいの細面の女だった。 「エホバの塔」とかかれたパンフレットを右手にもった女性は、みじかい髪をして、空色のツーピースをきていた。色白の女は、ととのった顔立ちで、左の肩にベージュのながい取っ手がある黄色い布製のトートバッグをさげていた。目があうと、やわらかな笑みを浮かべた。それは、心をひかれるものだった。 「どう、なさいましたか」  扉のまえの女が、なんとなくそわそわしているのに気がついて、ぼくはたずねた。 「申しわけないことなのですが」  女は、すまなそうな表情になって口ごもり、ぼくをみつめた。 「なんでしょうか」 「恐縮ですが、洗面所をおかりできないでしょうか」  女は、消え入る声でいった。 「それならどうぞ。奥なのです」  招じ入れると、女はバッグを玄関においた。神妙な面持ちで、ぼくのあとについてリビングをぬけた。奥のダブルシンクになった洗面台までいくと、頭を垂れながら指し示された扉のなかに消えた。  ぼくは玄関にもどり、扉口をロックして居間で待った。  しばらくして、女が洗面所で手をあらう水の音が聞こえた。リビングまでもどってくると、ソファーにすわるぼくに深々と頭を垂れ、「助かりました」といった。 「よかったですね。それじゃ、食卓のほうでうかがいましょうか」というと、女は嬉しそうな表情になった。  女性は、玄関先からバッグをもってきて、ぼくがひいた椅子に腰をおろし、荷物を床においた。オレンジジュースをコップに入れて、彼女と自分のまえにだした。 「どうもすみません。押しかけたみたいで。お時間を頂いてもよろしいのですか」と女はいった。髪のみじかい女性は、魅力的な容姿をしていた。どこかで会ったことがあると思える色白の女は、細面で理知的だった。 「うかがいましょうか」というと、彼女はパンフレットを取りだし、ぼくの瞳をじっとみつめて、「あなたは、神を信じますか」と聞いた。 「いえ、そうではなくて。光のなかで、のお話です」 「なんでしょうか」  女は、怪訝そうな顔つきで聞きなおした。 「あなたは、扉口のまえで仰ったでしょう」  女は、困った表情になって考えはじめた。しばらくして、 「もしかしたら、私。扉のなかで、と申しあげたかも知れません。勝手なお願いだったのですが、大きな声ではお話しできなかったので。申しわけございません」と消え入る調子でいった。  ぼくは状況を思い起こし、そうだったのだと思った。いいだしにくい話題だったので、声がくぐもって不明瞭になったのに違いなかった。女性が、加夜の「光のなかで」の件を知っているはずがないから、勝手に思いこんだのだと納得した。それで宗教には興味をもたず、聞き間違えたのだろう。あなたが困っているのを助けられてよかったと話した。 「光のなかで、とはどんなお話なのでしょうか。差しつかえなかったら、聞かせて頂けませんか。なにかのご縁ですから」と女はいった。  それで美術館に展示された絵がひどく気になって、通っている話をした。その作品の、題名だったと話した。  女は、すこし考える素振りになって、美術鑑賞は趣味だといった。川向こうの美術館で、ぼくをみかけたことがある。今日、このフロアに住んでいる人と約束して出向いてきたのだが、神さまの話が気に入らなかったのか怒られて、途中でひきあげた。そこに入室するときに、ぼくがいちばん隅の部屋に入るのを偶然みかけた。洗面所をつかいたかったが、追いだされてしまった。幾度か目にしたぼくが紳士でとても親切そうだったのを思いだして、無礼にもドアホンを押したのだといった。 「いろんな方がいて、たいへんなのでしょうね」と話すと、女はこれが使命だと答えた。 「教会におつとめなのですか」とぼくは聞いた。  金銭を得る仕事ではないと、女はいった。「エホバの塔」は、プロテスタントの一派で、無教会主義だ。各戸をまわり聖書の教えを伝導するのが自分の役割で、さまざまな会合もあるが、基本的には個人の家にあつまっている。お金も教会もないが、神の教義をひとりでも多くの方がたにつたえる行為に微力をつくすのが信じることにつながると話した。  清楚な感じの女は、魅力的だった。神の言葉をつたえるといっても、若い女性が知らない人をたずね、こんなぐあいに男ひとりの家にあがって不愉快なことがないのかと思った。こうした訪問は、さまざまなばあいを考えて、通常はふたりで行うものではないのだろうか。そうした疑問を聞いてみると、女は答えた。 「いろんなことに出会います。ある程度の経験をつめば、玄関先でやめておいたほうがいいばあいも分かるのです。感じなければ、それも自分の責任なのです。とはいっても、最終的には神さまがまもってくれますので、怖い目にあったことはほとんどないのです」  綺麗な高い声でゆっくりと話す女性は、落ちついていた。 「紳士なのは、美術館でお目にかかって分かっていました」 「うかがっていると、あなたがお信じになる神さまについて、お話を聞いてみたくなりました」とぼくはいった。 「ほんとうですか。ぜひ、お話させてください。今日は、いきなり勝手なお願いであがりこんでしまいましたので、日を改めたほうがいいですね」  女は嬉しそうな表情でいった。 「そうですね。ぼくは、とくに仕事をしていませんから、あなたのご都合がいいときにお話を聞かせてください。どのくらいの時間が必要ですか」 「それは、さまざまです。こうした出会いも神さまの計画に入っておりますので、そのときの状況によるのです」  女は、二日後の午後三時にたずねてくるとつげた。玄関ホールで一五〇一号室のドアホンを鳴らすから、そのときは扉をあけて欲しいといった。ぼくがうなずくと、女はていねいな挨拶をくりかえして帰っていった。  玄関先に女性の残り香が漂っている気がしたが、なんの匂いだか分からなかった。神の花嫁なのだろうから、香水などはつかわないのではないか。うまれてはじめて、身も心も綺麗な女性に会った気がした。  二日後の午前中に、また美術館にいってみた。画廊の絵をみて、ぼくは驚き、血の気がひいてベンチに腰をおろした。両手で顔面を覆っていると、「大丈夫ですか」という女性の声がした。顔をあげると、四〇歳くらいの学芸員が心配そうな表情で立っていた。 「ちょっと驚きまして」 「どうなさいましたか」 「光のなかで、の話ですが」 「なんですか、それは」  青い制服をきた学芸員は、小首をかしげ不審な表情でたずねた。 「この絵の話ですが」  ぼくは、壁に展示されている絵画にむかって手をさしのべた。 「あなたのお気に入りの絵ですね。これは、光のなかで、という題なのですか」と学芸員は聞いた。 「違うのですか」 「題は、ここにはかかれていないですよね。作者名が、加夜とあるだけで」 「そうですが。先日、館長と話をしたときに、そういわれました」 「沢木館長が、ですか。それでは、なんで題名をかき添えなかったのでしょうか。この作品は、もともと無題だったと思います」 「館長は、そう呼んでいましたが」 「もしかしたら、沢木館長が勝手につけたのかも知れません。題名があれば、かならず作者といっしょに併記して展示することになります。館長に聞いてみましょうか」 「機会があれば、そうしてください。またきますから、そのとき教えて頂ければ充分です。それよりも、ひとつうかがいたいのですが、この絵の女性は、いくつくらいにみえますか」 「綺麗な方ですね。一五歳くらいでしょうか」 「私も、そのくらいにみえます」  学芸員は、ぼくをみてうなずいた。 「以前から、こうでしたか」 「まえから、というのは、どういう意味ですか」 「この方の年齢ですが、以前はもっとお若かった気がするのですが」  ぼくの言葉を聞くと、学芸員は笑った。 「絵にかかれたものは、年を取りません。違いますか」 「そうですが。この男は、いくつくらいだと思いますか」 「四〇歳くらいでしょうか。三〇代の後半かも知れません」 「ふたりは、親子なのでしょうか」 「父子だと思います。恋人同士にはみえません。あなたは、恋人だと思われるのですか」 「いいえ、二日まえにきたときには、孫娘かと考えていました」 「お孫さんほどには、はなれていないと思います」 「四〇歳の父親と、一五歳の娘だとして、手をつなぐでしょうか」 「そういうシチュエーションで、かかれたのでしょうね。おかしいですか。父と娘が手をつなぐのは、ぐあいが悪いのでしょうか」 「いえ、そういうわけではありません。あなたは、若林さんですね」  ぼくは、学芸員のネームプレートをみていった。 「はい、若林ですが」 「今日、三月三〇日にいっしょにこの絵をみて、男が四〇歳で、娘さんが一五歳。ふたりは、親子だろうと。私と話しあったことを覚えていてください」 「分かりました。覚えておきます。青い三つ揃いさんは、面白い方ですね」 「ありがとうございました。お手数をおかけしました」  縦にほそながいあかり窓を通して、先日応接室からながめた美術館の内庭がみえた。風にわずかにそよぐ桜は、散りはじめていた。 学芸員がいなくなっても、ぼくは立ちさることができなかった。 二日まえには、あきらかに一〇歳くらいだった娘は、いまは一五歳にみえた。彼女は、青いブラウスをきて、おなじ色のロングのスカートをはいていた。想像した通り、かなりの美貌になっていた。じっとみると、先日たずねてきたエホバの塔の女性に、どことなく似ている気がした。三〇歳には、あんな素敵な女に変わるのだろうか。彼女に懇願されたら、エホバの塔の信者になってもいいくらいに思えた。男なら、みんなそう思うのではないのだろうか。容姿端麗であるのが神の花嫁に相応しいのかどうか分からないが、二〇歳のころにはたいへんな美貌だったに違いない。女優にもなれそうなほど素敵なのに、なぜ世俗と縁を切ることになったのだろう。たずねてみたい。きっと、感動的な話が聞けるのではないか。神につかえているのだろうが、いまだってさまざまな誘惑があるに違いなかった。彼女は、神の国にうまれ変わりたいのだろうが、生きているのは俗世なのだろう。  男のほうは、もっと劇的に若くなっていた。そもそもが七〇歳くらいに思えたから、三〇歳も若返っている。二日まえから一〇歳も若くなり、元は影もうすく、生活につかれた感じがしたが、今日の様子では男盛りでまだまだいくらでも働けそうだった。学芸員にも分からないらしいが、今後どうなるのだろうか。ふたりは、たしかに親子なのだろう。しかし、一五歳の娘が父親と手をつないで公道を歩くだろうか。どういうモチーフなのか、見当もつかない。女性の作家が、男とは違う見地から制作したのだろうか。 「光のなかで」という題名は、かかれていなかった。学芸員がいう通り、表題があるなら作者名と併記するだろうから、館長が勝手につけた可能性も否定できなかった。 午後にエホバの塔の女性がきたら、どんな話を聞くことになるのかと思いながら、ひろい陸橋をわたった。そこから、新緑に色づきはじめた、やわらかい風にゆらゆらと揺れる木々をながめた。  午後三時ころ、インターフォンが鳴ってエホバの塔の女が約束通りあらわれた。エントランスホールの扉を解除すると、洒落たベージュの帽子をかぶった女性がみえた。いくらもたたないうちにドアホンが鳴り、ぼくは玄関をあけた。そこには、素敵な女が立っていた。  ベージュのつばのひろい帽子をかぶった女性は、濃い青色のサングラスをしていた。二日まえに会ったときとは、雰囲気ががらりと違っていた。映画スターにもみえる女は、あざやかな青いガウンに似た、裾のながい薄手のコートをはおり、ベルトをウエストのところで無造作に、ゆるくしばっていた。 「エホバの塔の方ですよね」とぼくは不審な表情で聞いた。 「ええ、先日お約束していたものです」と女は答えた。 「どうぞ、おあがりください」  どぎまぎしながら、ぼくはいった。  女が玄関をぬけると、素敵な香水の薫りが、ゆらゆらと揺れながら漂っていた。なにかの香木のような、匂いだった。  二日まえに話をしたダイニングテーブルにいき、ぼくは椅子をひいて、すわることをうながした。 「こちらにおいても、いいかしら」  女は、あいているとなりの椅子をさしていった。 「ハンガーがいりますか」 「この椅子があれば、大丈夫です」と女はいって、肩にかけていたベージュの布製の鞄を床においた。帽子をテーブルの上に載せると、となりの座席をすこしひいた。それから、ウエストにしばられた布のベルトをゆるめ、コートをぬいだ。下には、青いスウェットをきていた。ぼくは、思わず目をそらした。  彼女は、コートをとなりの椅子の背にかけると、帽子を座席の部分においた。ひいた腰掛けにすわって、両肘をテーブルにつけると交互の肘を手でつかんで、正面のぼくをじっとみつめた。 「前回お目にかかったときと、印象がだいぶ違いますね」と、ひくい声でいった。 「ああ、ごめんなさいね」と女は答えてサングラスをはずし、テーブルの上においた。さきほどとおなじ姿勢を取って、両肘を両手でつかんで、今度は素顔でじっとみつめた。  ぼくの目は、彼女に釘づけになった。声もだせないほどの、素晴らしい美貌だった。 すべすべした白い肌を輝かせる若い女は、二〇歳くらいにみえた。蛾の触覚のように、ほそく弧をかいた眉。綺麗にならんだ白い歯。アイシャドーがひかれた、ほとんど蠱惑的ともいえる瞳で、ぼくをじっとみつめていた。 女のトップスは、デコルテになった青い縦縞模様が入ったスウェットで、ゆたかな胸の膨らみと、そのあいだにある深い谷間が視界にとびこんできた。しっとりと、ややしめった感じがする清楚な首の部分と、左右に直線的にのびる可憐としかいえない鎖骨がつくるくぼみは、健康そうな全体像とは幾分か違う、いうなら隠された淫靡な雰囲気を醸しだしていた。そこには金のネックレスがさげられ、陰影にアクセントを添えていた。さらに、つよいトーンをあたえるのは、下着の一部にも思える肩にかかる青黒い紐で、きわめてあやしいエロチックな雰囲気につつまれていた。彼女のボトムスは、膝上までの青いミニスカートだった。さきほどコートをぬいだとき、最初に目にとびこんできた青黒い網タイツが脳裏いっぱいにひろがった。 「青色がお好きなのですか。よくお似合いです」とぼくはいった。 「そうです。でも青は全体を表す色ですから、それだけでは、なんだか分からなくなります」 「たしかに、そうですね。金のネックレスが映えて、とても素敵です」 「黄色は華美ですが、青色は鮮麗です。しかし、どんなものでも、モノトーンで表現できることにはかぎりがあります。いきいきとさせるには、アクセントが必要です。世界をあざやかに構成するには、複数の色彩が入り用になるに違いありません」と女はいった。  あきらかに二日まえにやってきた女性とは、外見がいちじるしく違っていた。しかし、おなじ人物に違いなかった。彼女は、エホバの塔のパンフレットをみせて、神について話しはじめた。戸惑うぼくをみて笑みを浮かべ、どうしたのかと聞いた。 「あなたは、二日まえにお目にかかったときとは、別人に思えるのですが」と話して、思いつくことをいった。会話をするうちに、美術館の絵がひどく気になって、くりかえしながめている。気がつくと、絵画にかかれた人物の年齢が変わっている。今回、彼女の年が変化してみえるのに、そっくりだと話をした。 「光のなかで、のお話ですね」と女はいった。 「じつは、それは題名ではないかも知れない、とうかがったのです」とぼくは答えて、若林という学芸員の話をした。 「そこには、女性の名前だけがかかれていたのですね」 「そうです」 「なぜ、作者名だとお考えになったのですか」  しばらくして、女は口をひらいた。 「あきらかに人名だったので。たしかにひとつしかないものが、作者名とはかぎらないですね。いままで、思いもつきませんでしたが」  ぼくは、ふと気になって女に聞いた。 「あなたのお名前をうかがってもよろしいですか」 「かわにし、です」 「そうですか。どんな漢字を、あてるのでしょうか」 「山川の川に、東西南北の西です」 「川西さんですか。名前も教えて頂けますか」 「かよ、ともうします」 「どんな字をかくのですか」  驚きながら、ぼくは聞いた。 「夜を加えるとかきます」  ぼくは、かるい目眩を感じ、女をみつめなおした。 「どうか、なさいましたか」  加夜は、心配そうに聞いた。 「すこし、気分が悪くなりまして」 「それは、いけませんわね。横になりますか」 「大丈夫です」  加夜は立ちあがり、そばまでくると、ぼくの額に華奢な手をあてた。それからしゃがみこんで、みあげる格好になっていった。 「熱はないと思いますが、ソファーにいかれたほうがいいわね」  加夜の、濃紺の網タイツに覆われた太ももがみえた。その下着が、つながっているに違いない、首にかけられた青黒い紐が目に入った。加夜のゆたかな乳房が垣間見られ、くらくらした。  ぼくは、いわれるままに応接間のソファーにすわった。  加夜は横に腰をおろすと、右の手を握って、「冷たいわ」と口をひらいた。 「暖めてあげる」と彼女はいって、ぼくの右手を太もものあいだにはさんだ。  もう、我慢ができなかった。ぼくは、彼女に口づけをし、青いスウェットとスカートをおろすと、ほそい紐で上下がつながっているレオタードの青黒い網タイツの下着があらわになった。たとえようもなくエロチックで、信じられないほど挑発的だった。加夜は幾分か抵抗したが、情欲をさらに刺激するにすぎないものだった。ぼくは快楽に身をゆだね、彼女とはげしく愛しあった。かつてない、烈火のような愛欲の波がくりかえしおそった。  目が覚めると、朝になっていた。加夜は、どこにもいなかった。夢に違いなかったが、テーブルにはエホバの塔のパンフレットがのこっていた。彼女が加夜であるのは、間違いがなかった。それが、あの絵画と、どう関係しているのか。信じられない話だが、彼女は絵からぬけでてきたのだろうか。  ぼくは、美術館に出向いた。 「加夜」のまえで、茫然と立ちつくした。そこにかかれていたのは、昨日、たずねてきた女だった。青いデコルテになった縦縞のスウェットをきて、みじかい青色のスカートをはいていた。その下には、青黒い網タイツがみえた。  茫然と立っていると、「どうしました」という女性の声が聞こえた。青い制服の学芸員だった。「若林」というネームプレートがみえ、「じつは」といって女の顔をみた。それで、どきりとなった。  間違いなく、昨日の学芸員だった。二〇歳くらいにみえた。年を聞いたわけではなかったが、昨日は四〇歳くらいだと思った。 「どうしました。また、年を取っているのですか」と若林は聞いた。 「そうです。みてください」 「なんなのでしょうか」 「なにって、昨日とは、まるで違うではないですか」  若林学芸員は、首をかしげた。 「あなたと、確認しましたよね。男は四〇歳で、女性は一五歳、ふたりは親子だと」 「たしかに、あなたはそんなことを仰っていましたよ。それで私が、男は三〇歳で、女は二〇歳、ふたりは恋人同士だって申しあげたではありませんか。これが、そうみえないのですか。あなたは、ふたりは親子で、一五歳の少女が父親と手をつなぐのは妙だといっていたではありませんか」 「いいえ。あなたといっしょに確認しましたよ。ふたりが親子だって」  ぼくは、すこし声をあらげた。 「どうしたの。若林さん、大丈夫」 「ああ、足利さん」と若林はいった。  ぼくは、その声にふりかえって茫然とした。制服のネームプレートには、足利とかかれていた。彼女は、以前、館長を紹介してくれた。そのときは、五〇歳くらいのはずだった。目のまえの女は、二〇歳にしかみえなかった。 「青い三つ揃えさんがね、絵のなかの女性が年を取っているって、聞かないのよ。そんなことはあり得ないと、話しているのだけれど」  若林は、足利にいった。 「加夜については、沢木館長からうかがえましたか」  足利学芸員は、ぼくをみていった。 「その節には、ありがとうございました。私、なんだか、おかしくなりそうなのです。混乱していまして。あなたには、三、四日まえに館長を紹介して頂きました」 「そういえば、この絵の題名は、やはりないのだそうですよ。昨日、あなたにいわれて館長に聞いてみました。光のなかでは、沢木館長が勝手につけた呼称だそうです。たしかに、そう呼んでもいい情景がかかれていますよね。でも、この絵は無題なのだそうです」 「そうですか。この加夜ですが、作者名ではなく、絵にかかれた女性の名前ではないのでしょうか」 「作者ではなく、表題だというのですか」 「そうです」  ぼくがそういうと、ふたりは黙った。 「どうしましたか」  聞いたことのある声が聞こえた。 「館長。青い三つ揃いさんが、この絵のことで、いろいろと疑問を提起しているので」 「ああ、またいらしているのですね」  沢木館長は、声をかけた。ぼくは、館長をみて、また愕然とした。 「どうしましたか」  沢木館長は、聞いた。 「すっかり、わけが分からなくなっているのです。失礼ですが、館長はおいくつですか」 「まあ、いきなりプライベートな質問をなさるのね」 「前回、お目にかかったときには、もっとお年をめしていると思ったのですが、いまは二〇歳くらいにみえます」 「二三歳です」 「館長としては、若すぎませんか。スタッフ全員が、あまりに若年です。この美術館に、お年をめした方たちはいないのでしょうか」 「面白い方ね。年を取っていないと、ぐあいが悪いみたいなお話ですね。そういえば、最初はあまり気がつきませんでしたが、この男の方は、あなたに似ていますね。シャツとズボンをはいていますが、青い三つ揃いをきたら、雰囲気は、そっくりですね」 「そうですね。気がつきませんでしたが、たしかに」と若林がいった。 「あなたが何度もみていたから、きっと、似てきたのね。不思議な話ですけれど。気がつきませんでしたが、館長のいう通りだわ」  足利も、同意した。 「沢木館長。この加夜は、題名ではないかと青い三つ揃いさんがいうのですが」 「娘さんの名前、ということですね。それも、あり得ますね」 「ふたりは親子だっていうのですが、私には恋人同士にしかみえないのです。館長は、どう思いますか」 「これは、間違いなく恋人同士ね。なぜ、親子だなんて思うのかしら」  沢木は答えた。 「これは、恋人同士です」と足利もいった。 「たしかに、そうですね。私の間違いです」とぼくはいった。 「お騒がせしました」  ぼくはいって、頭を垂れた。二〇歳の三人は、不思議そうな表情を浮かべながらホールを去っていった。  ぼくは、すべてが信じられなくなっていた。だいたい絵画から人がぬけでてくるなど、考えるだけでもおかしいに違いない。絵にかかれた女性が年を取るのも、男が若くなるのも、道理にあわないとわざわざ指摘をうけるまでもない。妙だと思うから、話してみたのだ。学芸員と館長の三人がまえからこうだという以上、自分の感覚がおかしいのだろうか。記憶も変なのだろう。しかし感じるものこそが、ぼくなのではないか。それ以外の何ものが、自分だといえるのだろうか。もし夢がこれほどリアルなら、現実となにが違うのだろうか。すべてが春霞が立ちこめる朝の川原とおなじで、鮮明さをうしない、ぼんやりとしている。なぜ、この絵画に興味をもったのかさえ分からない。ただ、黄色い光が一面に覆いかぶさる絵は、とても大切だという気がする。決して忘れてはならない、ぼくの存在と不可分のものにも思えた。川原でみつけた、黄色い斑が入った青黒い小石。ぼくが石で、この絵が斑紋なのか。そもそも、加夜が青黒い小石なのだろうか。ぼくが黄色い斑なのだろうか。その反対なのかも分からない。それにしても、職員までが若くなるのは、一向に合点がいかなかった。すべてが思いすごしだとしても、美術館の館長までが二三歳というのは、とうてい腑に落ちるものではなかった。この点にかんしては、自分で明言したのだから考えすぎとはいえなかった。  街にむかう橋をわたりながら、ぼくはおだやかな風に吹かれていた。目に映るすべてが、ゆらゆらと揺れていた。エンジン音のなかで耳をすますと、青い瀬のせせらぎが聞こえてきた。ぼくは立ちどまって、なにが黄色だか考えはじめた。そして、加夜との夢としか思えない一夜を思い起こした。シチュエーションとしてもあり得なかったし、絵のなかの女性とひと晩をすごすなど、気が狂ったとしか思われないだろう。人がいうのを聞いたら、おかしいと考えるに違いなかった。しかし、エホバの塔のパンフレットが机の上にのこっていたのは事実だった。加夜の肌のぬくもりも、はげしい反応も、身体はしっかりと覚えていた。生々しいほどの感覚だった。 「青い私は、黄色い小箱をもっているのよ。そこにはすべてがつまっていて、どんなものでも取りだすことができるのよ。なぜなら、この小箱のなかには、世界が入っているのだから」  昨晩、加夜が囁いた言葉が、ぼくの耳もとで寄せてはひく波のようにくりかえされた。  自宅にむかって歩きながら、ふと空をみあげると「山東一歩、メンタルクリニック」とかかれた看板があるのに気づいた。白い広告板には、黒い色で「さんとういっぽ」と振り仮名がついていた。この通りはくりかえし歩いている場所なので、いままで一度も気がつかなかったのはひどく奇妙だと思った。偶然以外にはあり得ないが、気になって看板がある雑居ビルをのぼっていった。ほそながいビルの暗くてせまい階段をあがると、三階はすべてクリニックだった。薄汚れた踊り場にガラスの扉がつくられ、「山東一歩、メンタルクリニック」と白いテープがはられていた。ドアをあけてなかに入ると、グレーの壁のちかくに茶色の受付があり、五人くらいの土色の顔をした患者がベンチにすわって待っていた。 「どこにいっていたのですか。仕方がありませんね。順番はもうとっくにすぎましたが、つぎにお呼びしますから、そこで待っていてください」  受付の女性は、ぼくの顔をみるなりいって座席を指し示した。わけが分からずに立っていると、白衣をきた痩せた事務員がでてきていった。 「ここにすわって、待っていてください。勝手にどこかへいかないでくださいね」  それだけをつげると、赤い枠の眼鏡をかけた四〇歳くらいにみえる女性はすぐに受付にもどった。灰色の服をきた患者が来院し、ふたりはなにかを話していた。  白い壁の部屋は静かで、ぼくは古いアルバムにはられた母親の白黒写真をながめているように感じた。いわれたままに腰をおろして、昨日、今日、起こった不思議な出来事を考えていると、さきほどの事務員がそばによってきた。 「いま、お名前をお呼びしたのが分からないのですか。あなたの氏名を、幾度もくりかえしましたよ。診察ですから立ってください。さあ、いっしょに診察室に入りましょう」  女性の事務員は、冷たい口調でぼくを急かせて立ちあがらせ、背に手をあてて部屋に誘導した。なにがなんだか分からないうちにやや強引に診察室に通されると、七〇歳くらいの頬が痩けて不健康そうな男と目があった。どこかで会った気がした。  黒縁の眼鏡をかけた医師は、グレーの椅子にすわることをうながした。 「ぐあいはいかがですか」と聞いた。 「あなたが、山東一歩さんですか。面白いですね」とぼくは思ったことを口にした。 「なにが、ですか」 「とくに用があったのではありませんが、偶然この道を通りかかって、看板に気がついたのです。先生は、私とおなじ名前なのです」 「あなたのお名前は、かわにし、さんですよ。分かりますか」と医師は抑揚のない乾いた声で聞いた。 「いえ、じつは私も山東一歩というのですよ。漢字も読みもまったくおなじです。こんな奇遇は、うまれてはじめてです」 「あなた。記憶がないのですか。大丈夫ですか。今日は、何日だか分かりますか。何曜日だか、覚えていますか」 「いえ、先生。私は、患者ではありません。ちかくに住んでいますが、この下の道を通りすがっただけの者なのです。みあげたら、私とおなじ苗字と名前がかかれていたので不審に思って、ちょっとみてみようと考えただけなのです。そうしたら事務の方に呼びとめられて、ここまでつれてこられてしまったのです。悪意は、まったくないのです。診療所も、いまは呼びこみまでするのですか。時代が変わったのですね」 「そうですか」と医師はいって、すこし考える素振りになった。 「それでは、はっきりさせましょう。私が、山東一歩です。あなたは、かわにしちひろ、さんです。私のクリニックに、かかっている患者さんですよ。川西さんは、ズボンの後ろのポケットにお財布を入れているでしょう。取りだしてください。そこにこの医院の診察券と免許証が入っていますから、いっしょにみてみましょう」 「ははは」とぼくは思わず笑って、「財布は、背広の胸ポケットです」と答えた。  医師は困った表情になり、もう一度、札入れを取りだすようにいった。ぼくは仕方なく取ろうとしたが、背広はなかった。その様子をみて、医師はズボンの尻にあるポケットだといった。右手を臀部にまわすと財布らしきものに触れ、つかんで取りだした。手にしたのは、黒くて四角いごく普通の札入れで、あけるとさまざまなカードが入っていた。どれも仮名やローマ字、あるいは漢字で、川西千翔とかかれていた。 「分かりましたか」と医師は聞いた。 「どうしたのでしょう」 「免許証も、みてご覧なさい」  運転免許には川西千翔とかかれ、七〇歳くらいの年老いた男の写真がついていた。 「この人は、だれなのでしょう」 「川西さん。それは、あなたです。今日は、川西さんに用事があってきて頂いたのです。奥さんといっしょだったのですが、あなたは病院のまえでとつぜんいなくなって、みんなで探していたのです。どこに、いったのですか。ひとりでは家に帰れないだろうと、奥さんも心配していましたよ」 「私が、川西だというのですか。待ってください。川西ですって。山川の川に、東西南北の西ですか。私が、川西だというのですか」  ぼくは、免許証の名前をじっとみて心底から驚いた。そうなら、加夜とおなじ苗字になる。彼女は、川西と名乗っていた。どういう意味なのだろう。 「どうなっているのか、さっぱり分かりません。先生がなにをお話しなさっているのか、戸惑います。私に家族はおりません。先生のお話は、だれかべつの方と勘違いなさっているのでしょう。お話しした通り、好奇心からちょっと寄ってみただけですから、とくに用はありません。私は、家に帰らせてもらいます。すぐちかくのタワマンですから、ご心配にはおよびません。大丈夫です」 「川西さん。そのタワマンて、どこですか」 「すぐそばです」  診察室には大きな窓があり、街並みが目に入った。 「ここから、みえますか」 「あの、建物です。あそこの、一五〇一号室です」 「弱りましたね。あの建物の一五〇一号室は、私の住まいですよ。あなた、ちかごろ何度もきてインターフォンを鳴らしたでしょう。防犯カメラにしっかり写っていますから、いい逃れはできませんよ。ストーカー行為になりますので、被害届を直接警察にだしてもいいのです。私が診察している患者さんですから、そうもできません。奥さんには家の手伝いをしてもらっていますから、たいへん困りましてね。今日お呼びして、こうした行為が迷惑だということをよくご説明し、あなたの了解を取って、今後はやめて頂こうと考えていました」  医師は、ぼくが三ヵ月くらいまえからしばしば建物に入ろうとしていた。この二日間くらいは、かなり頻繁にくりかえしているといった。状況がまったく飲みこめないぼくが怪訝な表情をしていると、いまでも自分が山東だと思うかとたずねた。加夜のことを考えながら黙っていると、医師は手鏡をわたし、免許証の写真とみくらべてみろといった。  ぼくは、鏡をのぞきこんで驚いた。自分とはとても思えない黄色い顔が映っていたし、免許証の写真とそっくりだった。  医者が合図すると、カーテンの陰から黒い服をきた老婆がでてきた。  老女は入ってくるなり、迷惑をかけたと医師にくりかえし謝罪した。こうなった以上、施設に入院させる必要があるが、相談にのってもらいたい。二度と迷惑がかからないよう充分に注意するが、なまじ身体が元気なので、またどこかへ徘徊するかも知れない。認知症なのだろうが、予期しない事態が急激に起きているので対処の方法が分からないといった。  医師は、老婆の話にひとつひとつうなずきながら、介護施設への入居についてはいっしょに考えると答えた。老女は、薬をもらい感謝の言葉を述べて受付で支払いをすませると、ぼくを急かして階段をおり、道でタクシーをつかまえてのった。  いくらもしないうちにつれていかれたのは、川のちかくの荒ら屋だった。未舗装の土手の道から瀬のながれにむかう三叉路になったところに、崩れかけた一軒家がたっていた。屋根が黒いトタンでふかれた、木材でできた古い住宅だった。玄関のまえに犬小屋がつくられ、その奥に物置がたっていた。犬は、雑種のようだった。かなり大きく獰猛そうで、ぼくの姿をみると、くりかえし唸り声をあげた。老婆が頭を撫でつけると、犬は静かになった。  うながされて家のなかに入ると、せまい玄関に丈が膝上まである赤い長靴と、土色のながい杖がおかれていた。それは、樹木の年輪か、それとも蛇がとぐろを巻くのか、そんな文様をしていた。引き戸をあけた部屋には、古い畳が敷かれていた。台所とつながった室内には、小さな座卓がおかれていた。襖がみえ、その奥に寝室があるのだろうと思った。汚れた殺風景な部屋には、煙草のヤニと腐ったなにかが混じりあった不快な臭気が漂っていた。  老婆は、鍵をしめると、猛烈な勢いで愚痴をいいはじめた。 「この禄でなし。死にぞこないが、いったいどうなっているのだろう。警察につきだされて、牢屋にでも入ってくれたほうが、よほど助かる。なんで、おまえさんの後始末を、私がしなけりゃならないの」  怒鳴り散らしている老女は、信じられないが妻なのだろうか、とぼくは思った。そんな記憶は、まったくなかった。いかにぼんやりしていたにせよ、こんな女性が伴侶だとは信じられなかった。もちろん自分が認知症だとは、思いもよらなかった。老女は、ぶつぶつ愚痴をくりかえしていた。ぼくは、川沿いの粗末な家が自宅だとしたら、ずいぶん悲惨な生活だと思いながら、不思議な一日について考えていた。  老女の愚痴は、しばらくつづいた。ぼくは、黒いジーンズとトレーナーをきた老婆を、じっとみつめて考えていた。七〇歳にちかいと思われる老女は、白い髪をして中央の一部はうすくなっていた。つやもなく蓬髪だったから、生活に追われているに違いなかった。顔はいたるところが染みだらけで、皺だらけで、その上ゆるんでもいた。それに、耳に黒い三日月型のイアリングをつけているのに気がついた。服とはお揃いだったが、アクセントにもなっていないし、似あっているともいえなかった。なぜ、そんなものを身につけているのか、まったく理由が分からなかった。どこからみても、ぼくが結婚する女性には思えなかった。この女といっしょにいるくらいなら、ひとりを選ぶだろうと思った。なにかわけの分からないうちに同居したと仮定しても、特別な感情は湧かなかったに違いない。この老女では、ぼくの石のなかに、色のついた斑はつくれないだろう。どうしたって、無理なことだ。 「ずいぶん、じろじろみつめて。なにを考えているの」と老女はいった。  ぼくは、この女性が何ものなのだか分からなかった。しかし、老女がなにかを知っている可能性はあるだろうと思った。 「川西加夜って分かるかい」とぼくは聞いた。 「また、加夜かい。なんなのだね。その女は」 「知っているのか」 「まったく、なんで、こんなことになったのかい。なぜ私が、あんたの面倒をみなけりゃならないのよ。あたしは、ここの領主だった大名のひとり娘だったのよ。この川も橋も、その両側にひろがる、山城もJRの駅も、みんな父の土地だった。それで山東に嫁いだのに。どうして別れて、あんたの世話をしなけりゃならないの。みんな、加夜のせいだ」 「彼女を、知っているのか」 「あの女が、山東を狂わした。加夜さえいなければ、こんな生活にはならなかった。先生とも、別れることはなかった」  老婆は、ひどく興奮していた。大声で喚きながら唾を飛ばし、鼻水を垂らした。 「先生って、山東のことか。あんたは、その妻だったのか」  ぼくは、すこし気が楽になった。どんなにぼんやりしていても、この女とは結婚しなかったのだ。 「加夜が、どこにいるのか知っているのか」 「そんなに会いたいのかい。この、もうろく爺が」 「会ってみたい。いまは、どこにいるんだ。先生とはだれだね。山東のことかい。ぼくと、どう関係しているのかい」 「なにもかも忘れて、人を不幸にするしかない男だよな。あんたって爺は」  老婆は、また興奮しはじめ、ぶつぶつとなにかをいっていた。やがて玄関におかれていた杖を手にすると、ぼくにむかって幾度もたたきつけた。その先端には茶色の紐が三本つき、振りまわすと鞭のようになった。なにかの皮革製なのだろうが、あたるとかなり痛かった。 「どうしたんだ。山東が、加夜になにをやったんだ」  ぼくは、両手で頭を庇いながら大きな声で叫んだ。 「先生が、ずっとかこっているんだ。それで、私たちは別れたんだ。あの女のどこがいいんだ。そんなに会いたいのなら、この馬鹿たれ。くそ爺が。いま、つれてきてやる」  老婆は、ひどく怒った顔つきになった。突っかけに履きかえ、玄関の引き戸を荒々しくあけ放ち、家をでていった。ちかくで扉をあける大きな音がして、やがて老婆は子供くらいの青いものを抱えてもどってきた。 「ほら、おまえの愛している加夜だよ」  老婆は、もってきた人形を、ぼくにむかってぞんざいに投げつけた。小さな子供ほどもあるお人形は、ひどく汚れていた。きている青いワンピースは、すっかり色あせ、頬も染みだらけだった。 「なんで、この人形が加夜なんだ」とぼくは聞いた。 「そんなことは知らないよ。私がいったんじゃないよ。あんたが、話していたんだから。気味が悪いったら、ありゃしない。先生も、あきれていたよ。まったく変態だね」 「それは、山東のことか。なぜ、彼がでてくるんだ」 「山東先生が、ずっと秘かにかこっていたんだ。四〇年以上にもわたって。私という女がいるのに。この街の川も、土地も、全部やったのに。あいつは、隠れて秘かにかこっていたんだ」  四〇年以上。そうだったのかも知れないと、ぼくは思った。 「絵が、のこっているんじゃないのか」とさらに聞いた。 「いっぱいあったね。あの変てこな絵は、みんなすてたよ」 「だれが、そんなことをしたんだ」 「先生に決まっているだろう。それで、四〇年以上もまえに別れたのだとばかし思っていた。それが、こんなことになるなんて。なぜ私が別れて、甲斐性なしの貧乏人。この爺の世話を焼かなきゃならないの。どうしてなの。なにもかもが、こんなに違ってしまうものなのかね」  老婆の罵倒を聞きながら、そうだったのかも知れないとぼくは思った。山東は、石から黄色い斑を取りのぞいたのだ。どんな方法をつかって、そんなことができたのだろう。あり得ない手段を用いたに違いない。ぼくに取って、もっとも大切な加夜はすてられた。そして、ここまで粗末にあつかわれたのだ。 「あなたは、加夜がこうされるのを、ずっとみてきたってわけか」 「毎日、こんなことをやって。いったいなにが望みなんだね、あんたは。こんなもの、こうしてやる」  老女は叫ぶと、とつぜん、ぼくがもっていた人形を取りあげ、弱くなっている首をねじ切るようにまわしはじめた。 「なにをするんだ」  ぼくは絶叫した。 「千切ってやる」 「やめろ」  ぼくは老婆をつきたおし、人形を奪いかえした。加夜は首の部分がのびて、ぶらぶらになっていた。 「なにをするのよ」  老女は怒って、ぼくを睨みつけた。 「もう、ほとほといやになった。全部を話して、介護施設ではなく精神病院に入れてもらうしかないわね。先生と相談してくるから、ここにいなさい」  老女はいい放つと、玄関の鍵をしっかりしめてでていった。  ぼくは、ひとりで傷ついた加夜を抱いていた。あんなに華やかで魅力的だった彼女は、いまはすっかり汚れ、身体のいたるところに茶色の染みがついていた。素敵な青い服も色あせ、しわくちゃになり、一部は破れてもいた。大切な加夜を、こんな風に惨めな存在に貶めたのは山東だった。何ものにも代えがたい彼女の記録をすて去ったのも、あいつだった。彼は、さらに傷つけようとしている。それに、いまでも加夜をかこっているのだ。もちろん、あのマンショ以外にはあり得ない。ぼくは、あそこに彼女を救出にいったのだ。くりかえすうちにマンショに入りこみ、加夜と出会ったのだ。彼女は、ぼくにはとても優しかった。いまでも黄色い小箱を、大切にもっているといった。青い服をきた優美な彼女は、この世の秩序をたもっている。なんでも欲と金で解決する山東では、加夜を自由にはできないのだ。小心者の彼は、彼女を一五〇一号室に閉じこめ、診察中もあのマンションから目がはなせないのだろう。山東は、加夜の逃亡を恐れ、手助けするぼくの監視を自分の妻に命じたのだろう。きっと、そうだ。ぼくは、過去と現在をつないでいるのだ。老婆は、見張ることにつかれ、精神病院に入れて拘束してしまうつもりだ。とはいっても、この話がうまくいくかは分からない。ぼくがいなくなれば、老婆は一五〇一号室にもどることになる。それは不可能だろうから、山東はこの家で拘束をつづけるように命じるのではないか。ぼくがいれば、老婆をいっしょにつなぎとめることができる。山東は、自分に都合よくなるように、すべてを配置しているのだ。それにぼくが病院にいけば、この事件を洗いざらいに喋るだろう。もちろん狂人としてあつかわれるのだろうが、整合性がある話をつづければ、医者だって裏づけを取ろうとするかも知れない。ぼくは、一五〇一号室の秘密についても話すだろう。美術館の、絵画についても。それがいった通りなら、妄想とはいえなくなり、山東も申しひらきが必要になる。妻も、味方ではないのだ。なにをいいだすのかも、分からない。彼が望んでいるのは加夜ひとりで、老婆も必要がないのだ。だから、ぼくをここに監禁させていたのだろう。殺すのはさまざまな事情でむずかしいのかも知れないが、もう二度と外にでられないように軟禁しているのだろう。  ぼくは、いろいろと考え、どうしても加夜を解放しなければならないと思った。時間がたてば、もっと不自由な状況になるに違いなかった。しかし一五〇一号室に押し入って、ただ加夜をつれだしても、またみつけられてしまうだろう。問題を解決するには、すべての根源である山東を殺すしか手立てはないに違いなかった。ほかに方法がみつからなかった。もはやこれ以上、山東を生かしてはおけないのではないか。償いを、させなければならない。ぼくは、加夜を抱きながら確信した。  山東を殺す。まえにもそう考えていたのを思いだした。そのときには、放火しようと思った。三階のクリニックの玄関はひとつしかないから、そこで火をはなち、事務員や患者をうごけなくさせてから診察室に押し入って包丁で山東を一突きにする。  そう考えて、ガソリンを買ってあったことを思いだした。物置には、ポリタンクがおかれているはずだった。いつのことだったか、ビルのなかの診療所をおそって院長を殺害した事件があった。ニュースで大々的に報道されていた。ああでもしなければ、包丁をみつけられ、事務員や患者たちに取りおさえられ、院長室までは侵入できなかっただろう。犯人はそう考えて、放火したに違いなかった。おなじ方法をつかって山東の身体を刃物でくりかえし刺しつらぬき、息の根をとめねばならない。みんな、あいつが悪いのだから。悪行の報いなのだ。  ガソリンが入ったポリエチレンのタンクを自転車につんでもっていき、クリニックに放火し、山東を殺害してやろう。そうすれば、加夜を解放できる。あいつが生きているかぎり、彼女は捕らわれの身に違いなかった。山東は生かしておくべきではないが、一般の患者まで巻き添えにしていいのだろうか。ただ押し入っても、衆人環視のなかで殺害するのは混乱に乗じなければ不可能だろう。放火して、診療所で待っている人たちに、注意を自分が助かることへむけさせなければ、殺すなどとてもできないだろう。どうしたって、いあわせた患者や職員がとめに入るに違いない。混乱に乗じなければ、チャンスはおとずれない。だからといって、無関係な人たちまで巻き添えにしていいものだろうか。あのときも、多数の一般人が煙をすって死んだはずだ。  ぼくは、ずっと考えていた。しかし個人的な怨恨に、まったく無関係な一般人を巻きこむことはやめようと思った。やっては、ならないのだろう。いまの思いを、山東につたえることがいちばんの問題なのだ。一太刀でも傷をつけられれば、目的を果たしたと考えるしかないだろう。山東の目のまえで、頸動脈を切って自害しよう。彼を、真っ赤な血で染めぬいてやろう。たとえ殺せなくても、山東の脳裏にぼくの深い怨恨が形になってのこるに違いない。加夜を助けることができないのは、悲しいが仕方がない。  ぼくは、そこまで考えて山東の診療所にいこうと決心した。そばにあった黄色い肩掛け鞄のなかに、タオルでくるんだ包丁を入れた。玄関は鍵をかけられていたので、窓から外にでようと思った。そのとき、番犬がいたのを思いだした。犬が、見張っているのだ。それで老婆は安心して、ぼくをのこしていったのだ。あの番犬が老女以上に手強いのは、はっきりしていた。とても殺すなんてできないだろう。もし戦えば噛み殺されてしまうだろう。それは、事故としてあつかわれるのかも知れない。ぼくがこの世からいなくなるのは、全員の希望なのだ。殺されれば、すべてがまるく収まってしまう。ぼくは、獰猛な番犬のことを考えて、とても外にはでられないと覚悟した。  そのとき、台所のほうで妙なものをみつけた。黒い、染みみたいだったが、もぞもぞとうごいていた。なにか無気味で、不快感を催すものだった。ぼくは、立ちあがるとちかくにいった。みえたのは、小さな黒い虫だった。外から台所に侵入してきたとは思えず、床から湧いているようだった。蟻とは違っていたが、ムカデほど大きくなかった。わけの分からない黒い虫は、どんどん増えていった。気がつくと、となりの部屋がある襖の下からも、おなじにみえる小さな青黒い裸虫が湧きでていた。ぼくは、気持ちが悪くなり、窓のちかくに移動した。すると、いまいた畳の中央部から、おなじ黒い虫が湧きでてきていた。それらは、みている間に増えていった。ぼくは、外にでなければ、この虫に食い殺されると思った。それで意を決し、老婆が番犬をつれていったことを願って窓からでた。犬小屋は空っぽで、どこにも犬はいなかった。  目のまえには、川がながれていた。ぼくは、川原にいた。いろいろな石がころがっていた。いくつかひろってみたが、黄色い斑が入った小石はみつからなかった。青い川が、音を立ててながれていた。上空をみると、暗い空のなかに黄色い月がでていた。ぼくは、胸が高鳴るのを感じながら歩いた。土手にあがり、みあげると、黄色い三日月が青黒い天空でゆらゆらと揺れていた。階段をのぼり、夕闇のなかで橋をわたりはじめた。冷たい風が吹きぬけ、頬にあたった。  陸橋の途中まですすんだとき、何台もの消防車や救急車が後ろから車列をつくり、サイレンを鳴らしながら追いぬいていくのが目に入った。周囲は緊迫した雰囲気につつまれ、なにか事件があったのかと、ぼくは思った。そう考えていると、真っ青な表情になった人たちが橋のむこうから小走りで通りすぎていった。騒然としたムードを感じて、ぼくは陸橋の中央で立ちどまった。  不安な気持ちでみていると、むこうからみじかい髪の男性が顔面を蒼白にして歩いてきた。ひどく興奮しているようにみえる年老いた男は、ぼくのすぐちかくまできて立ちどまった。ちょうど陸橋の中央で、ぎらぎらした目つきの痩せた男性は、血で赤く染まったタオルを首に巻き、気がぬけた様子で立っていた。周囲のものは、なにも目に入らないらしく、そばにいるぼくには、まったく気がつかないようだった。白髪が目立つ男は、血糊で真っ赤になった包丁をみつめていた。荒い大きな息づかいが聞こえ、握った右の手がぶるぶるとふるえているのがみえた。男は顔をあげて、すぐちかくで立っているぼくをじっとみつめた。右手につかんでいる血糊がついた包丁をもちあげ、睨みつけた。その様子をみて、ぼくは驚いて身がすくみ、一歩もうごくことができなかった。ここで刺殺されるのだろうと思った。つぎの瞬間、男はふりかえり、包丁を橋の下に投げすてると、茫然として黄色い三日月が浮かぶ青黒い天空をみあげた。衣服についた返り血の臭いが、ゆるやかな風にのって漂ってきた。  ぼくは、その場に立ちつくしていた。  やがて男は、欄干から身体を乗りだすと姿を消した。  橋から飛びおりたのだと理解するのに、いくらかの時間が必要だった。ぼくは、落下した欄干にちかづき下をのぞきこんだ。ここは瀬になっているので、落ちれば墜落死するに違いなかった。みおろした場所はちょうど川の中央だったので、かなりの水量があるようにみえた。思ったよりも深いのだろうか。溺死するのだろうか。それとも、助かることもあるのだろうか。ぼくは、ひとりで川面をみつめていた。男の墜落は、だれにもみえなかったのだろうか。姿は、ぼくの目だけに映ったのだろうか。橋の上からは、もうなにもみえなかった。青黒くなった川面は、ゆらゆらと揺れながら下流にむかってうごいていた。  そのとき、さきほどぼくがのぼってきた土手のところに、犬と人影がみえた。そこには水銀灯があかるく光っていたので、荒ら屋にいた老女だとすぐに分かった。犬をつれた女は膝上まである赤色の長靴をはき、ぼくを叩いた杖をついていた。そのまま土手をおり、石がころがる川原を歩き、川縁まできた。どうするのかと思ってみていると、老婆は男が落下した地点にむかって川のなかに入っていった。ぼくは、老女が長靴をはいていた意味がはじめて分かった。彼女は、はじめから川に入るつもりだったのだ。そうなると、男が橋から墜落するのをみていたのだろうか。あるいは、事前に分かっていたのだろうか。つまり、彼がなにをしたのかも知っていたのか。しかし、いくら瀬になっているとはいっても、これだけの峡谷をつくる大河なのだ。ながれの中心部は、どう考えても身の丈よりは深いだろう。膝までの長靴では、とても墜落地点まではいけないだろう。そもそもそれだけの深さなら、身投げをしても助かるのだろうか。橋から川面までは、かなりの距離があった。いったい老婆は、なにをするのだろう。彼を助けるのだろうか。死んでいるのを、確認するのだろうか。衣服を剥ぐつもりなのだろうか。それとも、彼女も自死するのだろうか。それだったら、なぜ犬をつれ、長靴をはいているのだろう。墜落した者は、いったいだれだったのだろう。ぼくは、その男と間違えられただけなのだろうか。 「妙だと感じるのは、自分の考えが至らないだけかも知れない。もう一度、じっくり検討するべきではないか」とぼくは川面をみながら思った。  橋の下は光をうしない、すべてが不明になっていた。欄干からは、ゆるやかな風にのって青黒い闇がゆらゆらと揺れているのがみえた。老女と犬は、その暗闇のなかに溶けこんでいった。瀬がながれる音だけがひびいていた。そのとき、とつぜんの静寂が一枚の面紗に変わって覆いかぶさり、あらゆるものが形をたもてなくなった。みあげると、青黒い空に黄色い三日月がゆらゆらと揺れながら漂っていた。  ぼくが、この無気味な情景にみいっていると、だれかが肩にぶつかってきた。 「すみません」という声に振りかえると、中年の男性があわてて会釈しながら走っていった。男は、驚いた表情をしていた。周囲には、たくさんの人びとが行き交っていた。多くの自転車が、人のながれを避けながら走りぬけていた。陸橋には車が行き交い、緊急自動車がサイレンを鳴らしながら走り去っていた。  ぶつかった男の後ろ姿がみえなくなると、ぼくはひどい胸騒ぎを覚えた。いそいで橋をわたると、街の中央に火の手があがっているのが目に映った。騒がしいサイレンの音が、くりかえしひびいていた。 「なにがあったのですか」  ぼくは、緊張した面持ちでむこうから走ってきた中年の男に聞いた。 「放火だ。それに、殺人らしい。気が狂った男性が、ビルの診療所にガソリンをまいて、火をつけたらしい。たいへんなことになっている」 男は、ぼくをみつめて大声で答えた。  あいつだ、と思った。 そのとき、ふと金木犀のいい匂いが鼻をかすめた。ぼくは、はっとして、加夜のことが脳裏に浮かんだ。助けださねばならない。そう考えたとき、薫りはもうどこにもなかった。  ぼくは、茫然としながら橋をわたった。さらに煙にむかってすすんでいくと、ビルのちかくで消防車が放水しているのがみえた。赤い炎が天空をこがし、黒煙があがっていた。周囲には、ものが焼きこげた臭いが充満していた。野次馬が道路を塞いでいた。混雑したなかをすすんでいくと、たくさんの警察官がいるのに気がついた。ぼくの顔をみて、周囲の人たちがなにかを話しあっているような気がした。だれかが警察官に、なにごとかを話していた。それから、ぼくのほうをむいて指さした。そうだ。鞄には包丁が入っている。ぼくは、とつぜん思いだした。逃げなくてはならない。ぼくは、怖ろしい気持ちにおそわれた。  どうしたら、いいのだろう。  ぼくは、肩にさげていた鞄を胸に抱えて足がすくんだ。きびすをかえし、人混みから逃げだそうと思った。しかし、どこにいったらいいのだろう。そう思ったとき、いまなら加夜を解放できるのではないかと気がついた。彼女を、自由にしてやらなくては。ぼくは、マンションにむかった。一五〇一号室のドアホンを鳴らすと、おりてきたエレベーターの扉がひらいて中学生くらいのすらりとした女子学生の姿がみえた。女生徒は、青いブラウスと同色のロングスカートをはいていた。  彼女は、ぼくを直視して、真剣な表情でいった。 「ここにいては、いけないわ。みんなが、あなたを探しているわ。ついてきて」  彼女は、ぼくの黄色い鞄を自分の肩にさげた。先に立って足早に道をすすんでいった。しばらく歩いて橋のちかくの公園につくと、彼女はにっこりと笑った。 「もう、大丈夫よ。私といっしょなら、だれも変だなんて思わないから。ゆっくりと歩きましょう」といって、ぼくの左手を握った。  ぼくたちは、のんびりと橋にむかってすすんでいった。ビルからは、まだ黒い煙があがっていた。緊急車両も、サイレンをながしながら行き交っていた。街はざわざわし、周りを人びとが走り去っていった。手をつないで橋をわたっていると、たくさんの自転車がぼくらを追いぬいた。橋梁のむこうから高校生や大学生らしい人たち、社会人にみえる者たちがすれ違っていった。いっしょに歩くぼくたちを、変な目でみる人はいなかった。  ぼくは、あの男が身を投げた、橋の中央で立ちどまった。欄干には、血の汚れもなく、とくに警察官もいなかった。だれも、あの男に気がついていないのだと分かった。老婆はどうなったのだろうと思いながら、ながれる川面をみつめていた。そこに、黄色い三日月が映って、ゆらゆらと揺れながら漂っていた。 「どうしたの」と娘が聞いた。 「この川で、いろんなことが起こったんだよ」 「そうでしょうね。この街には、たくさんの人が住んでいるわ。川は、ここの中心をながれているから、だれも切りはなして考えることはできないわ。みんなが、たくさんの思い出をもっているわ」 「ぼくらにも、あるのかな」 「もちろんよ。いってみましょう」と彼女は答えた。  ぼくらは、手をつないでゆっくりと橋を歩いていた。すると、むこうからやってきたふたりづれの若い女性たちが、すれ違いざまに「仲が、いいのね」と大きな声をかけて走り去っていった。ふりかえってみると、女たちは立ちどまって、ぼくらをみて笑っていた。  ぼくたちは、橋をこえると土手におりた。それから玉砂利になった川原をすすんだ。ベンチがおかれていたので、そこにすわった。みあげると青黒い空に、黄色い三日月が浮かんでいた。青い川がながれる音が、周囲の闇に溶けこんでいた。もう橋の上の喧騒はなく、瀬音だけが朝とおなじようにひびいていた。 「私たちに取っても、この川はとても大切だったわ。ここがあったから、すべてを思いつづけることができた」 「君は、山東に捕らわれていたのかい」 「そうよ。暗い部屋に閉じこめられていたわ。気がとおくなるような、ながい時間。書庫のような場所だったわ。冷たい、寂しいところに、布一枚をかぶせられてほうっておかれた。あなたが解放してくれるまで」 「なぜ山東は、君を閉じこめたのだろう」 「私が、奥さんとの障害だったからよ。それで、暗い書庫にしまいこんだのよ。私は、そこでは成長することができなかった。時間を、とめたのね。彼は、私を幼いままにしておこうと考えた。でも結局は奥さんに知れて、ふたりはうまくいかなくなった。いつまでもこのままではいられないのを、山東も知っていた。彼は、奥さんに監視されていたから。破綻するのは、仕方がなかったのよ。彼も、承知していたわ」 「君は、ぼくを信じて待っていたのだね」 「そうよ。でも、もういいわね。そろそろ帰る時間よ」 「どこに」  ぼくが聞くと、彼女は笑った。ついてくるようにいって、土手をのぼりはじめた。 ぼくたちは、そのまま美術館にむかった。もう閉館していたから、表門からは入れなかった。青い服をきた女生徒は裏口にいき、いま起きた事件について守衛と話をはじめた。詰め所からでてきた男と、橋のむこうのビルから煙がのぼるのをいっしょにながめて、話しあっていた。途中で合図して、入るようにうながした。  ぼくは、守衛の背後からそっと館内に侵入した。  閉館後の美術館は、いつにも増して静寂が支配していた。ところどころにフットライトがつき、真っ暗な闇ではないが、あらゆるものの形がたもてなくなり、曖昧でぼんやりしていた。どくどくという、心臓にながれこむ血流の音を感じた。薄明の世界は迷路のようになっていたが、くりかえしきた場所だったので迷うことはなかった。まっすぐに加夜の絵があるホールまでいき、暗いベンチに腰をおろした。そのままじっとしていたが、物音がとだえ、普段は気がつかなかった石の匂いを感じた。ぼくは、身体が分解し、周囲の不明瞭な闇に同化していく気持ちになった。川の瀬音が、聞こえたように思った。すべてがあやふやな領域で、ゆらゆらと揺れながら漂っていた。どこかに、石は落ちていないのだろうか。ひろいあげたい。たぶん、その小石には、黄色い縞になった斑紋が入っているのだろう。青黒い石と斑は分けられずに、いっしょにありつづけるに違いない。それが、ぼくだ。  曖昧なのは空間ばかりでなく、時間も不明瞭になっていった。瀬の音が、聞こえる。石をまるく削りながら、とおい山からながれてくる。もう、どこからきたのかも、どちらにいくのかも、定かではない。あるのは、ながれる音と、それを聞く、ぼくがいるだけだ。  どのくらいの時間がたったのだろうか。気がつくと、金木犀のいい匂いが漂っていた。なまめかしい、生きているもの。無機的な世界で、唯一存在する者。となりに、女がすわっていた。昨日いっしょに、素晴らしい夜をすごした、ぼくのすべて。私の黄色い斑。 「これから、どうしたらいいのだろう」  ぼくは、大きな溜め息をついた。 「ありがとう。あなたが、解放してくれたのね」と加夜は囁くように答えた。 「ぼく、なのだろうか。そうかも知れない」 「あなたが、してくれたのよ」 「そうだろうか。君を、ここに追いやったのも、ぼくだったのだろうか」 「あなたは、そんなことをしないわ。私とおなじように、捕らわれていたのよ。あなたは、灰色の施設に閉じこめられ、薬で眠らされていたのよ。でも、私を忘れなかった」 「どうして、忘却できるの。生きているかぎり、君が消え去ることはない。人生のなかで、ぼくたちを魅了するのは、それが、ぼくから流出した自分の一部だったからだよ。心に、刻印されていたのだから。でも君は、どこに監禁されていたの。どうやって、逃れてきたの」 「この美術館で、ずっと待っていたのよ。あなたは、私の一部だったから。だから、信じることができた。かならず迎えにきてくれると。これで、ようやくすべてが揃って、私たちは全体にもどることができる。この日のために、私は、大きなうす暗い地下室のなかで布一枚をかぶせられ、ずっとあなたを待ちつづけてきた」 「ここに監禁したのも、ぼくだったのだね」 「そうよ。でも、それは私をまもるためだった。だから、かならず会いにきてくれると信じていたわ」 「そうか。それでは、これでよかったのだね」  加夜はうなずき、もう帰る時間だといった。ぼくたちは、立ちあがった。暖かい、暗い世界で、ぼくは、ゆらゆらと揺れていた。川がながれる瀬の音だけが聞こえていた。  そのとき、ぼくは、自分が黄色い斑だったことを、はっきりと知った。 「あのおじいさんは、きていないようね」  館内を歩いていた沢木館長は、ホールを管轄する若林学芸員をみつけるとたずねた。 「なんだったのですかね。あの方、私を二〇歳だなんていうのです。嫌みなのですかね」 「私だって、二三歳だっていわれたのよ。白髪が交じった者にむかって、真面目な顔をして話すのだから、どう答えていいのか分からなかったわ。七〇歳といわれるよりは、ずっとよかったのでしょうけれど。制服をきているから、年が分かりにくいのは事実なのでしょうね。それにしたって、五〇歳といってくれれば、お世辞になるのにね。変な人だったわね。ずいぶん熱心に通っていたけれど、ついにこなくなったのかしら」 「最近は、みませんね。なにをしにきていたのでしょうね。一日中、この絵のまえでぶつぶつ独り言をつぶやいているのですから。気味が悪いったらありゃしません。館長は、なぜこの絵を、今回展覧したのですか」 「ずっとしまっている絵画は、所有するかぎりときどき展示する必要があるのよ。たくさんの思いがつまった絵には魂がやどるから。公開してやらないと祟りがあるって、まえの館長から幾度もいわれたのよ。美術館が火事になる原因は、ほとんどそうした怨念なのだそうよ。展観すれば、なんらかの思いが晴れるのだそうよ」 「この絵は、いったいどんな謂れがあるのですか」 「もういいわね。じつは、ある方が匿名を希望して、まえの館長に寄贈したのよ。美術館に匿名希望は、あまり前例がないでしょう」 「そうですよね。美術館が公に展覧する絵は、その周辺事情を説明する責任がありますからね。どういう背景でうまれたのか。どんな作品でも美術史の一部をなす以上、分からないままにはできませんよね。作者に才能があるのは、あきらかでしょうが」 「その方、ずいぶん迷った末に画家への道をあきらめたのね。それで、ずっとかいてきた作品をすべて燃やしたらしいのよ。この絵だけは、自分では処分できずに、知りあいだったまえの館長に相談にきたらしいのよ」 「それで、当館の保管になったのですね。その方の名前も、分かっているのですか」 「資料としてはあるわ。でも、最近亡くなったらしいのよ。この絵を展示している最中に、そんな事件が起こったのは考えてしまうわね」 「奇妙な話ですね。足利さんとも話しあったのですが、この若い母親と手をつなぐ子供ですね」  若林は、絵をさしてつづけた。 「じっとみていると、妙な気持ちになるのです。どうも、あのおじいさんと、どこか雰囲気が似ている感じがするのです。どことはいえませんが。年が違いすぎますが、あの人かも知れない。そう思ってみると、不思議な気持ちになります。足利さんも、おなじことをいっていました」 「不思議な話ね。謎が多いわけなのね」 「そうです。それに、ここだけの話ですけれど。一週間まえの診療所放火無理心中事件で亡くなった男性医師、あのおじいさんに似ているってもっぱらの噂です。たしかに事件後は、きていませんよね。館長、事情聴取をうけたとうかがっていますが」 「そうね。この話は、もうやめにしましょう」  沢木館長は、若林学芸員と別れた。  館長室にもどって、彼女は自分の肘掛け椅子に腰をおろし、若葉に覆われはじめた中庭の木々をながめた。鮮烈な緑が、世界いっぱいにひろがっていた。  事情聴取にきた刑事は、事件に遭遇した男の写真をみせた。  彼女は、年格好がよく似た男性が美術館に足繁く通っていたことは話した。しかし、男の名前は、知らないといっておいた。診療所に放火し、妻を刺殺し、無理心中を起こした医師と同名だったなんていえるわけがない。そんな意味不明の話はしたくなかった。  刑事は、この事件が謎に満ちている。無理心中なのは間違いないが、医師と奥さんのどちらが首謀者だったのかも分からない。あれだけの放火事件を起こしながら、一般人に死傷者がでなかったのは説明不可能だ。美術館に通っていた男との関係が分かれば、なにかが解明できるだろうと、さかんに話した。  手がかりがないらしく、いろいろ手を変えて質問されたが、彼女は知らないといって黙っていた。  事件が起きてから、匿名希望とかかれた台帳にあった、S・Iが、名前と苗字の順番ではなかったのだと、はじめて分かった。これ以上、この件に深入りしたいとは思わなかった。男がこなくなった以上、あの絵は寿命がつきたに違いなかった。  若くて美しい母親をもつ子供は、英雄になるという話を聞いたことがあった。長男だけにあたえられる栄誉だ。女は二〇歳くらいだろうから、計算では一六、七歳でうんだ子供に相当する。いまどき、そんな年では結婚もできない。周囲の男、だれにも眩しい魅力的な若妻は、子供に取ってもっとも誇らしい自分の一部に違いない。みんなに一目も二目もおかれる女性が、彼ひとりにかしずいてくれるのだ。日常的にくりかえされる光景は、少年を揺るぎない自信をもつ男性に育てるだろう。  あの男は、そこに帰ったのだろう。来週には、この絵を展示場からひきあげようと思った。いちおうの思いは、すんだに違いなかった。彼女は、ながく倉庫に保管されていたこの絵の夢をみたのだった。それで、展覧したのだった。二度と展示することはないと思うが、ふたりが出会えたなら、もう充分だった。 「加夜」を週末に撤去する指示をだした館長は、この絵をながめた。  背後にみえる光は、朝日ではなく、猛烈な炎なのだろうか。はげしい爆発によって、火柱が立っているのかも知れない。この絵は、もしかしたら、診療所の火災を予言していたのだろうか。そう思って、館長はみつめなおした。いや、そうではないのだ。きっと、日没なのだ。黄昏が終われば、おだやかな夜が待っているのだろう。なぜ、いままで、この光景を朝日だなんて考えたのか分からなくなった。背景がどうであろうとも、彼らには無関係なのだ。どんなことが生じても、ふたりは一心同体になって手をつなぎ、仲良く家に帰っていくに違いないと、青い制服をきた沢木館長は思った。  ぼくらの周りを、青黒い闇が支配していた。そんなことは、もうどうでもよかった。ぼくらを取りまく世界は、暖かく騒がしいほどの大音響で満たされている。浅瀬をながれる川のせせらぎは、もうどこにも聞こえない。銅鑼をうつ、うるさいほどにひびきわたっているのは、規則正しい、懐かしい青い海の音。青黒い夜の静寂に寄せる、波頭が崩れる大音響。古代からずっとつづいてきた、円環状のウロボロス。口と尻尾がひとつになって、まだ別々なものにも分かれていない。すべてのはじまりと終わりがつながって、揺らぎのない輪をつくり、青黒い宇宙を取りまいている。意識による裂け目も知らず、愛や憎しみ、喜びや悲しみからも、とおくはなれている。青白い波音だけが大きくひびく暖かい世界で、ゆらゆらと揺れながら、抱かれ、つつみこまれ、ぼくは、黄色い斑になってまどろみつづける。                                青い服の女、一〇三枚、了