悪魔がみる夢 由布木 秀 一、邸宅 峠をのぼりつめると、谷がわにむかって道幅がひろくなっていた。 三台くらいが駐車できる場所には、丈のひくい雑草が生えていた。浜田利一は、小さな展望台ともよぶべき部分の、いちばん右すみに軽自動車をとめた。浜田理加子といっしょに車をおりると、春のやわらかい日差しが浜田夫妻をつつみこんだ。うららかな仲春の日だった。すがすがしい大気はすみ切り、鳥の鳴き声があかるい空から聞こえた。駐車スペースの反対がわのすみに平らな石がおかれ、うえに、四、五〇センチのまるい石材が、粗い造作をされてつまれているのが目に入った。ふたりは、その積み石にむかって歩いた。 ちかづいてみると、彫られているのは、袖をながくたらした和服をまとう老夫婦だった。ふくよかな表情で右がわに立つ大きな耳たぶの男は、頭部に烏帽子をつけ、左にいる老女の肩に右手をおいている。丸顔で柔和な笑顔をたたえる妻は、ながい髪を腰のちかくまでたらしている。みえない左の手は、おそらく夫の左腰にまわしているのだろう。ながい袖からだした男の左手と女の右手は、身体のまえでしっかりとにぎられていた。 そのとき、背後で大きなエンジン音が聞こえた。おどろいた利一が振りかえると、真っ赤なスポーツカーが猛烈な勢いでのりこんできて、茶色の軽自動車のとなりに急停止した。ドアがあく音がひびき、緑の背広をきた若い男がでてきた。髪のみじかい男性は、黒いサングラスをかけ、マスクをつけていなかった。背の高い男は、筋肉質でがっちりし、チョッキもきていたから緑色の三つ揃えだった。角刈りにされた髪は形をととのえられ、髭はしっかり削ぎ落とされていた。三〇代後半にも、五〇歳ちかくにも、思える男性の顔は日に焼け、精悍そうにみえた。男は車をおりると、高さが大腿部まである柵のちかくまで歩き、眼下にひろがる緑の山々をながめた。太い両腕を厚い胸のまえでくみ、深刻そうに眉間に皺をよせた表情で、なにかを考えている素振りにみえた。 闖入者は、あきらかに一般人とは異なる雰囲気を醸しだしていた。背中に彫り物でもついていそうな男を垣間見て、利一は居心地の悪さをつよく感じた。理加子と目をあわせ、違和感を共有した。ふたりは、つまれた石をみながら、この道祖神の意味を考えることもできず、車にもどるのも躊躇われた。 しばらくすると、男は利一夫妻の視線を感じたのか、とつぜん振りかえった。そのうごきに、利一は道祖神に顔をむけた。鳥の甲高い鳴き声が耳に入った。男がちかくに歩いてくると、飛禽の声は、いっそう大きくひびいていた。 「障の神ですね。こうしたものに、ご興味をおもちなのですか」と男は聞いた。 利一は、眉間に皺をよせる男性の声がひくく、ドスがきいているように感じた。 「通りがかっただけの者です。とくべつな興味を、もっているわけではありません」 意外な問いかけに、利一は答えた。そして、一八〇センチはある、背が高い、異質な雰囲気を演出する男に一抹の不安を感じた。いままでの人生で、利一はこの種の毛色の男性と話した経験はなかった。 男は、ここの地区にはいたるところに、道祖神がおかれているといった。形式は、おなじ形の男女二体の石像だったり、ただのまるい石だったりする。山頂や道の分岐点にあれば、岐神。峠の神さま。手向けの神とよばれ、陰陽石であることも多い。「障」は「遮る」からでて、悪霊の侵入をふせぐ意味をもち、道を歩く旅人を守護すると考えられる。 こうした考え方は、世界中にある。有名なものは、なんといっても「ヘルメス」だろう。このギリシア神話の神は、魂の導者ともよばれ、死者の冥界への旅先案内人でもある。アテネのアクロポリスの表参道には、ヘルメス立柱があるが、勃起した男根がついている。旅立ちは、どちらかといえば男性的な行為で、さらに興奮がともなうのだろう。しかし、道は旅をする者にとっては、そのものが故郷であり、家でもある。道路は、二点をつなぐ結合への願望ではなく、それ自体が通路というひとつの蒼古たる世界でもある。ローマの軍道のように一直線ではなく、蛇のようにまがりくねり交差し、突拍子もない波形をつくりながら相互に結びついている。この通路をうごきまわるのが、ヘルメスという神になる。 男は、こう話して、利一と理加子の顔をみつめた。 サングラス越しなので、目元の表情は不明だった。しかし、マスクはなかったので、口もとの感じは分かった。利一には、とくに笑っているとも思えなかった。 男は、そこまで話すと思案気になり、もう一度、彼をみた。利一がだまっているのを確認して、おもむろに車にもどるとドアをあけ、スポーツカーにのりこんだ。エンジンを吹かす、大きな音がひびいた。男は、猛烈な勢いでバックすると車道にでて急停止し、今度は急発進して走り去っていった。 車がむかったのは、利一がいこうと考えていた方角だった。 あの男は、いったい、なんだったのだろう。なぜ、こんな話をしたのだろう。赤いスポーツカーが小さくなっていくのをみおくりながら、彼は思った。 思いもかけない形で解説をうけることになった利一は、あらためて男女二体が彫られた道祖神をみた。 この造形のモチーフは、あきらかに家内安全や無病息災だった。夫婦が年老いても、ふたりで健康に暮らせるのはひとつの望みなのだろうが、とくに幸福とも思えなかった。どう考えてもいちばん幸せなのは、元気でお金があり、年がいくつになっても若い女と暮らすことに違いなかった。今年還暦をむかえた病気の経験もない利一は、ほんとうの幸福を追求したい気持ちをつねにもっていた。 四〇年にわたって教職を奉じてきたので、それなりの退職金と年金があり、子育ても完了し、介護するべき両親もいなかった。これでようやく、社会のしがらみからぬけでることができた。だから、もっと自由になってもいい気がした。一回しかない人生で、運にもめぐまれ、それなりに我慢と努力を重ねたから、この断ちがたい関係から離脱する状況を獲得することができた。本来なら、だれもが生活し、子供たちをつつがなく育てるので手いっぱいのはずだった。それが、セーフティーネットから外された、世間のひずみがいちばんでてくる教育現場で、自分なりに公正や正義という立場をまもって、生徒間の虐めや、家庭での虐待の問題に精いっぱい対処してきた。充分に、家族にも社会にも、つくしたのだ。 そう考えると難しい、と利一は思った。 自分が病気で具合が悪ければ、こうした自由への望みは起こりえないが、理加子が疾病に罹患してもほうってはおけない。子供たちが問題なく社会人となり、円満な家庭をきずいて、はじめて考えられる願望なのだ。孫の出産にも協力し、子供にたいしてできることは、すべて終わっていた。夫婦の内実は分からないが、子供たちから別れたいという話は、とくに聞いていなかった。 理加子は、境遇にかなり満足しているらしいと感じた。彼女にとって、子供たちはいつまでもとくべつなのだ。とくに娘は、自分の身体の一部で他人ではない。女は、本能的にそうつくられ、だから子供を育てることができる。孫も可愛がるが、さすがにそこまでの感情は起きないらしい。しかし、男は違う。若い女と暮らしても、もう二度と子供をつくる気持ちにはなれないだろう。 息子が、自分の子供たちを懸命に可愛がっているのをみると、利一もそうしてきたのだと思うだけだった。こうした感情は、決してとくべつではないのだ。人間という種族のみならず、あらゆる生物が繁殖し、世代をつないでいくという自然の摂理にかなっているのだ。そのためには優秀な感情で、淘汰圧にもなっているに違いない。だから、息子も利一の年齢に到達すれば、やがておなじような思いが出現して戸惑うのだ。しかし、女は違う。女性は、子供のなかで生きつづけることができる。男はいくつになっても性欲がつづくが、女はそれを娘の身体においてくるのだ。 老夫婦が、元気で仲良く、生活に不安ももたずにすごせるのは、だれもが望む幸福に違いなかった。利一は、それに異論はなかった。自分が元気で、子供が完全に独立し、親の介護がなくなり、充分な老後資金があるのなら、かなり幸せだと判断して間違いない。 利一の周囲をみまわしても、だれもが、どれかしら欠損していた。だから道祖神は、幸せを表現している。しかし、実際にさまざまな問題がクリアされたうえで自分が元気なら、この構図は必ずしも幸福とばかりはいえないだろう。そのときは、さらに幸運な第二の人生を考えられるからだ。運のいいことに、利一には絵画という趣味があった。ほんとうの幸せを追求すると解決困難な問題が起きるから、道楽の世界に逃げこみ、没頭しようと考えていた。 「あれは、なにかしら」 理加子が、スポーツカーがむかった方角をさしていった。上空は、風があって雲がながれていた。折しも、灰色の雲間から、日の光がスポットライトになって差しこんでいた。その光線があたったところに、輝く白い家がみえた。周囲には、青々とした畑がつづく以外、みあたるものはなかった。 「とくべつな建物みたいだね。こんなところに記念館でもあるのかな」と利一は答えた。 ふたりは、なにかを発見した胸騒ぎを覚え、かなり先だと思われる輝く場所を目指してすすんでいった。ひろい車道はきちんと舗装され、両がわにはずっと歩道がつけられていた。雲が風に吹き飛ばされ、青い空がみえてきた。日があたると急に暖かくなり、窓をあけても、気流は爽やかに感じられた。道をすすむと三つ叉にでて、右にまがってすぐのところに、立派な白い壁の新築にもみえる大きな屋敷が建っていた。ついたころには空は快晴になり、つよい日差しが白色の隔壁にあたって邸宅を輝かせていた。 まわりには数軒の家がならび、三つ叉ぞいの集落なのだろうとふたりは思った。 しかし、とりまく幾軒のふるぼけた平屋の家屋とは対照的に、新築の大邸宅は三階まであって、周囲の家々をみおろす感じで立っていた。威圧的とも形容できる白い邸宅は、まわりの汚れた家との違いを、はっきりさせようと考えているのだろうか。境界を、二メートル以上の打ちっ放しになったコンクリートの壁で区割りしていた。一見して平屋のふるい家々の三倍ほどの建坪で、庭をふくめて二〇〇坪くらいはあるのだろうか。鉄製の立派な門扉がつくられ、電動式らしいシャッターが道ぞいに備えられた三階建ての瀟洒な洋館は、建てられてから幾年もたっていないと思われた。門に、「売り物件」という大きな看板が、針金でとめられていた。 「なんなのだろうね、この屋敷は」 利一は、じっと建物をみあげながらいった。 「不思議な家ね。周囲とまったくマッチしていないわね」と理加子が口をひらいた。 利一は、彼女のいう通りだと思った。あきらかに、この邸宅は周囲のふるい家屋と無関係につくられたのだろう。どちらかというと、偶然ではなく、とくべつな理由がありそうだと彼は思った。家の三階からは、周囲に高い建造物がないので、絶景を楽しむことができそうに思えた。みおろすだけでも、通常はえられない晴ればれとした感慨を楽しめるのだろう。絵を趣味にする利一は、想像した。 「いくらくらいなのかしら」と理加子がいった。 利一も、興味をいだいた。このあたりは相当に不便だから、車がなければ生活できないだろう。ふたりは、買うのは無理だとしても、どんな値段か聞いてみたいと思った。立て看板に表示された番号に電話すると、あいにくコロナで休んでいるのか、連絡はとれなかった。そこで、夫妻は周囲を探検してみることにした。 あたりは邸宅をふくむ五軒の共同体らしく、三叉路の角に一軒があり、むかいの道ぞいに三軒のふるぼけて崩れそうな家がならんでいた。どの家屋も三〇坪くらいの平屋で、まわりの庭に小さな畑がつくられていた。むかいのいちばん端になる三軒目は、さらに小さくて居宅もひどく傷んでいた。どの家にも、人が住む気配があった。住宅のまえの道路は立派に舗装され、両がわにひろい歩道がついていた。道ぞいに畑がひろがり、どちらの分かれた道も丘陵地帯で、先は森につらなっていた。 ふたりは、三つ叉に別れた場所にもどって、やってきた道路の反対方向にすすんでみた。やがて畑はなくなり牧草地帯に変わり、牛や馬がはなたれていた。五キロほどすすむと道は終わり、二階建ての大きな家があった。ごく普通のつくりで、人が住み、牧畜を生業としているのは一目瞭然だった。住居のまえに、バス停があった。一軒の家のために舗装された車道がつくられ、両がわにはひろい歩道がつき、さらにプランターの溝までコンクリートで設備されていた。 「ずいぶん無駄なことをするものだね」と立派な人道をみながら、利一はいった。 「税金が、こんな場所にひろい歩道とプランターをつくるのにつかわれているのね」と理加子は、うなずきながら答えた。 立派な人道がついた家だったが、私道とは考えられなかった。国道ではないにしても公道だろうから、もし仮に雪でもふれば、ここまで除雪が入るのだろう。今冬の大雪で交通が麻痺した場面が、利一の脳裏をかすめた。しかし、子供はどうやって育てるのだろう。小学校も中学校もちかくにはなかったから、ひと山こえるとなると車でも一時間はかかるだろう。昔の過疎地域の子供たちは、山のなかを長時間かけて、歩いて通学したとは聞いていたが、それ以上にたいへんではないのかと思った。 ふたりは、三つ叉の地点までもどり、今度は白い邸宅まえを走る道をすすんでみた。部落の周辺は、平坦で畑になっていた。ひろい歩道が両がわにつく舗装された車道がつづき、しばらくすすむと石門の左右に、小学校と中学校の名前が刻まれた木造の廃校がみえた。そのちかくにポツポツと家があったが、人が住んでいるのかは、はっきりしなかった。手が入っていると思える畑がみえ、農機具をおく小屋もみつけることができた。しかし、畑地をもつ人びとは、となり町から通ってくるのだろうか。 小さな川をこえ、やがて舗装された道路は歩道がなくなって狭くなり、廃屋があって終わっていた。先には未舗装のほそい道が山のなかにつづき、林道になるらしかった。三叉路の地点から五キロくらいの距離があり、終点に人が住んでいないので除雪は入らないのだろう。かなりひろい盆地状の地域で、昔はどうだったのか不明だが、いまは、住人はひどくかぎられるのだろう。途中には、人が住んでいるらしいふるぼけた家も、何軒かみえた。電柱があるから、水道や電気は通っているに違いない。ガスは、プロパンだろう。買い物は、山の周囲をまわって峠をこえ、となりの町までいかねばならない。車がなければ、生活するのは無理だろう。冬には交通手段が途絶えるだろうし、となり町との一本の道に山崩れにでも起これば、孤立するに違いない。ニュースで、そんな映像を幾度もみた気がした。この地域は、さまざまな問題をかかえ、引っ越せる者はとなり町にでていき、のこされた者たちが住む集落なのだろう。 道が終わったところは圏内だったので、もう一度、不動産屋に連絡してみた。今度は電話がつながって、利一は、いまいる場所を説明し、三つ叉の邸宅の見学を希望した。 担当者は、「すぐにでても一時間はかかるが、待っていてくれるなら、そっちへいく」といった。 利一が、会いたいと答えると、昼食はどうするのかと不動産屋は聞いた。 「途中で弁当を買ったので、このあたりで食べながら待っている」とつげると、午後の一時に、売り物件の邸宅のまえで落ちあう約束になった。 「あなた。不思議だって、思っているのでしょう。あの、赤いスポーツカーのこと」 電話が終わると、理加子が利一の目をのぞきこみながらいった。 「そうだな」と彼は答えた。 利一は、三叉路の片方の終点が畜産農家だったから、この道路が、どこかに通じていると思って走ってきた。ナビゲーターには、ほそい道がついていたが、実際には普通の車では走れそうには思えなかった。ましてや車高のひくいスポーツカーでは、とてもすすめないだろう。あの男自体が奇妙だったが、どちらも袋小路である以上、どうして会わないのだろう。あんな派手な車を、見落とすはずはない。理加子も、そう考えて周囲をみていたに違いない。平地だったから、ほとんど全体がみえていた。どこかのふるい建物の陰なら、見落としがある可能性も否定できない。しかし、よく磨かれた赤いスポーツカーが、おかれて然るべきと思える建造物はみあたらなかった。もちろん袋小路になった道をすすんだのだから、片方を探索するあいだに、となり町にもどったことも考えられる。それなら、どんな目的であの峠をこえてきたのだろう。ここ三日くらい、ふたりは家をさがして西多摩を走っていたが、こんな奇妙な出来事には遭遇しなかった。 車を屋敷のまえに停車して、途中のコンビニで買った握り飯を食べて、ペットボトルのお茶を飲んだ。電話をかけてから一時間ほどすると、不動産屋と思われるバンが走ってきて、利一がとめていた軽自動車のすぐ後ろに駐車した。 夫妻が車中からみていると、ライトバンから髪のながい男がでてきた。マスクをした男性は、門扉までいくと、かけられていた鍵をまわした。そして、軽自動車にのっている夫妻をみた。男は、青い背広に身をつつんでいた。中肉中背でスーツをきて、赤い枠の眼鏡をかけ、背中にとどくながい髪を首の後ろでまとめ、普通のサラリーマンにはみえなかった。 浜田夫妻がおりてこないので、男は車にちかづいてきて、拳をつくって助手席の窓を、こんこんと軽くたたいた。理加子がスライド窓をあけると、「浜田さんですよね」と聞いた。彼女がうなずくと、男は不動産屋の野上だと自己紹介し、車はここにとめても違反にはならないといった。四〇歳くらいにみえた。 車をおりた浜田夫妻が門扉のところまでいくと、男は、野上不動産、野上公夫とかかれた名刺を利一にわたした。浜田利一は、退職したから、そうしたカードはもっていないと話し、簡単な挨拶をした。彼は門扉をひらき、玄関の上下についた鍵をまわして、夫妻を家のなかに招じ入れた。 二間以上もあるひろいエントランスで、ふたりは、野上が持参したスリッパに履きかえ、居間に通じる中扉をあけた。吹きぬけの大きな空間には、豪華なソファーのセットと、片すみには立派なグランドピアノがおかれていた。ダイニングになったキッチンもひろく、水まわりも洒落ていた。 野上は、ダブルシンクの洗面所と大理石製の大きな浴槽がある風呂場、それに一二畳の和室を順に案内した。普通の規格よりひろい階段が、居間に入ってくる中扉の右脇に、真っすぐにうえの階につづいていた。 二階は吹きぬけ部分をとりまきながら、寝室と書斎と一二畳の洋室がつくられ、バルコニーがついていた。さらに階段をのぼると全面がガラスばりの一〇畳くらいの部屋があった。四方にさげられたカーテンをあけると、この一帯には高い建物がないので三六〇度の景観が楽しめ、富士山まで眺望できた。そのうえ、天井には大きな天窓がついていた。電動になった遮光シールドをあければ、夜空もみえるらしい。 庭をみおろすと雑草が茂っていたが、もともとは芝生らしいと思われた。 「このちかくには、街灯もほとんどないですから天の川がよくみえますよ。天文にご趣味をおもちなら、えがたい物件ですね」と野上はいった。 「これは、おどろくほど素晴らしい建物ですね。この邸宅は豪華すぎて、まわりの家々とは調和していませんね。どうした趣味の方が、建てたのでしょうかね」 利一は、素晴らしい光景に感動しながらいった。 「掃除がたいへんすぎるわね。これだけの屋敷を綺麗にしておくには、とてもひとりじゃ無理ね。どんな家族構成の方が、建てたのかしらね」と理加子がいった。 「ごく普通の、ご夫婦がお住まいだったのですよ。住みはじめてしばらくたって、旦那さんが病気になりましてね。奥さまは運転をしないので、ここからは病院に通えず、売りにだされました」 「ごく普通の人には、建てられないのはたしかだね。相当な資産家でないと、こうした発想もできないでしょう」と利一がいった。 「オール電化なのでしょうね」理加子が聞いた。 「そうです。建物もツーバイですし、頑丈ですよ。耐震性があり、火災にもつよいですから、保険には割引がついています。いかがですか」 「素晴らしい物件ですね。とくにあの浴槽は最高ですね。みたこともありません。身体を伸ばしても足がとどかないなんて、温泉でしか経験がないですよ。いったい、どのくらいの値段がついているのですか。うかがうだけになるでしょうが」 「予算は、いくらぐらいなのですか」と野上は逆に聞いた。 「さあ、なんと答えたらいいのでしょう」と利一がいうと、 「まあ、この家を建てるには一億以上がかかっています。ご覧の通り、ひどく凝ったつくりですからね。不便ですから、土地の値段は安いですよ」 「たしかに、一億以上は優にかかるのでしょうね」 「私たちには、とても無理だわね」 「どうですか、ざっくり、七〇〇〇万では」と野上がいった。 利一は、そのくらいはするだろうと思った。かなり割り引かれているのだろうが、退職した夫婦には、予算オーバーだといった。 「そうですね。いくらくらいなら、購入しますか」と野上は聞いた。 利一は、夫婦で暮らすにはひろすぎるといった。掃除をするのもたいへんだし、ちかくにスーパーもないから、買い物も車で峠をこえなければならない。オール電化だから停電になったら、生命の問題にもつながるだろうと答えた。 「まあ、そんな否定的な話ばかりいわないでください。せっかく、あなたがみたいと仰ったので、となり町から走ってきたのですから。そうはいうものの、ご主人。購入する家を、さがしているのですね。そのために、こんな奥ぶかい西多摩まできているのでしょう。不便なのは、ご承知でさがしているのでしょう。もうすこしオープンになって、具体的に考えましょう」 「たしかに、野上さんのいう通りだわね。こういう辺鄙な場所で退職後に生活してみるのが、私たちの夢だったのです。それでいろいろさがしていたら、このお屋敷が目にとまったというわけです」と理加子がいった。 「せっかくですから、すこしお話ししましょう。おふたりは物件をみてくれたのですし、私も久々に峠をこえてきたのですから。お茶はだせませんが、ゆっくり条件などをうかがって、この家とはかぎらずにいっしょに考えてみましょう」 野上はそういうと、夫妻をみた。彼らがうなずくと、一階の吹きぬけにおかれた、ほとんど埃もついていないソファーにすわるのをうながした。背のひくい大きなテーブルが、重厚さを感じさせる茶色の木でつくられていた。洒落た形の出窓があって、雑草だらけの芝生がみえた。 「ご覧の通り、この屋敷は中途半端なのですよ。地域にまったく適合していないのは、だれがみたって分かります。子供がいれば、小学校も中学校もないので、となり町に通わねばならないでしょう。だいいち仕事がありません。職業をもつ方が住むのは、相応しくありません」 それを聞いて理加子は、この建物が実生活とかけ離れている。内部の備品も素晴らしいが、建て主が、どういう目的で、どんな暮らしを考えたのか分からないといった。 利一は、資産家の別荘だったのだろう。豪勢なつくりで、軽井沢にあってもいい建物だろう。野上のいう七〇〇〇万が、高いとは思わない。築後、三、四年で、建設費は充分に一億以上がかかっているだろうと話した。 「いったい価値とはなんなのか。これは、難しい問題です」 野上は、この邸宅の由来を話しはじめた。 建物が中途半端なのは、趣味の領域に入っているからだ。道楽に、相場は成立しない。売買とは、需要と供給のバランスで、ニーズがなければ取り引きができない。売り主が最初に希望したのは、一億三〇〇〇万だった。つけるのは自由だが、かかった値段で売れるものではない。趣味を理解し、賛同する相手なら考えてくれるだろうが、そうした者をみつけることはできない。だから、それでは売れないとだけ野上は話した。まったく買い手があらわれないので売り主は冷静になり、一年して八〇〇〇万ではどうだといってきた。これは最初の六掛けだから、ずいぶん思い切った価格だった。しかし家具をつけたって、こんな値段では売れない。年々固定資産税はかかるし、雑草は刈らねば、近所から文句がでる。売り主は、ほかの業者にもあたったらしいが、売れると断言する不動産屋はなく、いまは一任されている。そう話して、野上は夫妻をみた。 利一は、吹きぬけの大空間をもつ部屋のソファーにすわって、高い天井をみあげた。だれが暮らすといっても、相当余裕のある資産家しか無理だろう。自分たち夫婦には、しょせん縁がないとしか思えなかった。「高い天井の家で育った子供は、天才になる」という話を利一はどこかで聞いたことがあった。この吹きぬけの下で暮らすと、老夫婦では、どう変わるのかと思った。それなりにキャリアをつんだ営業マンの野上がこうして話す以上、なにかしらの目論見があるに違いない。彼がいう通り、辺鄙な土地で家をさがしているのは事実だった。購入するかは別にして、なにかの参考にと考えたのは間違いなかった。 そう思って利一が野上をみると、彼はまた話しだした。 こうした話は、売り手が現実を充分に理解する必要がある。たとえば、浴室だけでも五〇〇万以上かかっているが、この家に備えつけられるかぎり価値はない。よく事情を考えれば、六掛けの八〇〇〇万ではとても売れないことが分かる。これが田園調布なら、意味あいがまったく違う。この建物は、本来そうした地域につくられるべきものだ。そうであれば、人をよんで、ソファーに腰をおろして話をするだけでも値段がつく。子供が学校にいけ、主人が仕事場に容易に通えるという前提がそろって、はじめて羨望が起こり、価格をつける主導権を売り主がもてる。 「浜田さんは退職なさったというお話ですが、いままでマンションに住んでいたのでしょう。都内の中古マンションなら、予想以上の値段になったに違いありません。いまあなたが六〇歳として、ご結婚したころに三〇年ローンで新築マンションを購入したと考えれば、すでに完済しているのでしょう。退職金ももらって家が売れる算段がついて、それなりに余裕があるから、こんな奥地で住宅をさがしているのでしょう。もう仕事をしなくても、蓄えも年金も充分にもっているから優雅な生活をはじめたいとお考えになった。こうした辺鄙な場所でも、暮らせるからだと思いますよ」 野上は、そういって利一をみつめた。理加子が、それにつられて夫をみた。利一がだまっていると、野上はつづけていった。 住宅は、つくられるべき場所に存在し、はじめて価値をもつ。結局、不動産は、建物ではなく土地が値段を有し、そのうえは飾りともいえる。銀座の一等地にあれば、掘っ立て小屋でも、みんなが買いたがる。西多摩の奥につくられた大邸宅が、どんなに綺麗で立派でも、現実には大金をだして住もうという者はいない。だから相当に余裕のある人でないと、ここまで建物をさがしにはこないし、不動産屋に電話して値段を聞こうとも思わない。 普通の者は、不動産の資産価値をだいいちに考える。住んでいた都会のマンションを売って通勤の必要がなくなったのだから、すこし離れた郊外の物件を考慮する。マンション生活に飽きていれば、お金がある者は一軒家で暮らそうと考える。どうせならば、やがては鉄道の路線が延長され、人口が増えて資産価値があがりそうに思えるところに引っ越したいと思う。すくなくとも、価値がある場所を考えるだろう。そうすれば、想定外の混乱が起きて、とことんお金に困れば、また売ることもできる。つまり不動産は、住むだけでなく資産としての価値がもとめられている。 「せっかくお会いできたのですから、もうすこし話しあいましょう」 野上は、車から見取り図をもってくるから、すこし席を外したいといった。浜田夫妻がうなずくのを確認すると、立ちあがった。 「まあ、すごい家だが、とても買うという話にはならないわね」と理加子がいった。 「いくらであっても、無理だね。野上さんは、今度は、なにを話そうというのだろうかね」 利一の現状は、野上がみぬいた通りだった。持ち家のマンションが、思った値段よりずっと高く売れた。三〇年以上勤務したので、退職金もまとまった額だった。理加子も、長年つとめた教諭を退職したので、かなりの金額が入った。都内でマンション暮らしをつづけてきた浜田夫妻は、郊外の一軒家で暮らしたかった。それで、東京都下を中心に物件をさがしていた。主に探索したのは多摩地区で、この三日間は西多摩の奥を走っていた。 充分なお金をもって物件をさがす、かなり気ままなドライブだった。ふたりは、中古物件でいいと考えていた。計算すると、かなりの大金を手にしているのが分かり、気持ちは自然と大きくなった。先立つものがあるから、どうにでもなると思った。最終的には、不動産屋に相談するしかないと考えていた。土地勘をもたないので、西多摩がどういう地形なのか知りたいという遊び心も手伝い、利一は理加子とドライブを楽しんでいた。だいたいの地域を決めたら、業者にあたってみるつもりだった。現在、住んでいるマンションは、七月にはでていく必要があった。 玄関があいてしまる音がして、野上が大きな紙と、手提げの鞄をもって部屋にもどってきた。図面をテーブルのうえにひろげると、彼はバッグのなかから缶珈琲をとりだして、ふたりにすすめた。 「ふるい家なら、いくらくらいで買えるのでしょうね」と利一が聞いた。 「このあたりの中古となると、もう廃屋ですよ。改修しても住むのには不適でしょう。日曜大工も、してみたいと考えるのでしょうが、やりがいのある物件はないですね。これがこの家の見取り図です」 野上が、たたまれた紙をひろげるとテーブルの半分ほどの大きさになった。彼は、また話しはじめた。 ガレージは、二台分ある。実際に、車が一台入っている。奥の大きなクローゼットに、大型の冷凍庫が備えつけられている。だから、買い物は、週に一回、となり町にいけば事足りる。屋根には、太陽光パネルがついている。蓄電器も装備されているが、停電になれば生活はできないから、ホテルにいって復旧を待つしかない。水は、水道のほかに庭の奥に井戸がある。水質は保健所の折り紙つきで、ポンプでくみあげればつかえる。停電では自力になるが、水がない状態ではない。野上はそう話して、夫妻をみた。 「あまり乗り気では、ないらしいですね」 「そうですね。いったい、自分がなにをさがしていたのか、分からなくなりました。大きさは、この四分の一でも充分ですが、田舎に住むのは、お金をすてるのとおなじ意味になると、野上さんに教えられました。考えればその通りですが、はっきりと分かっていなかったといって、いいでしょう」 「そうですが、すでに資産をおもちなら、とくに資産価値を目的として住居をえらぶ必要はありません。売り主の奥さんは、しだいに状況が分かってきているのです。三年たって、現実としてひやかし以外には、年にひとりくらいしか、買ってみたい人があらわれないのですからとうぜんです。そこで、この家にあるすべての家財をつけて、七〇〇〇万とはいいません。六〇〇〇万でいかがでしょうかね。家財だけでも、一〇〇〇万はしますよ。それで、予算はいくらかと、おうかがいしているのですが」 「高すぎて、まったく手がでません。そのグランドピアノは新品みたいですけど、中古だって売れるのですから、いい値段がつくのではないでしょうか」 「そうですね。家具の一部は、買いとってもらえば、値段がつくと思いますよ。売り手の奥さんのいい分としては、この家を設計したときには、いまある家財を想定していたのだそうです。だから家具がないと、住居というイメージが損なわれるというのです。それで、一括の不動産として売りたいらしいのです。いくらなら、だす余裕があるのですか。お住居をさがしていたのですから、予算はおもちなのでしょう」 「そうですね。夫婦ふたりで住むだけですから、大きい必要はないのです」 「いい案があるのですよ」 野上は、この話をするためにきたという感じになって、身をのりだした。 彼は、ここの売却をずっと担当してきたが、年にひとりくらいは興味をもつ者があらわれる。忘れたころに電話がかかってきて、家をみせて話をする。いくらでもいいから売れという論議にはならないので、契約までには、こぎつけられなかった。しかし、年に一件は、購入を希望する者がいるのは事実だ。建て主は、住んで半年もしないうちに脳梗塞になって入院した。だから、ほとんどが新品のままだ。新車のエルグランドものこり、中古で売っても立派な値段がつく。売り主の奥さんは、すぐに売れると思って一括にしての売却を希望したが、現実には買う人がいない。そこで、相談になる。利一の予算とあわせて検討しよう。郊外に家を買うといっても、三〇〇〇万以上はかかる。それくらいの予算は、もっているのだろう。野上としては、売れなければ手数料は入らないので、奥さんは説得するつもりだ。そのうちに家は傷むし、管理の費用も固定費もかかる。こうしたばあい、売り主は、どこかで納得する必要がある。 「エルグランドも、ついているのですか」 「みてみますか。ほとんど新車です。いっしょに、ガレージにいきましょう」 野上は、ふたりをうながした。都会で軽自動車をつかっていた夫妻は、SUVを買って全国をまわるのも、夢のひとつだった。候補の車種に、エルグランドはあがっていた。玄関脇の扉と車庫はつながっていたが、真っ暗でなにも分からなかった。 「ガレージも電動なので、いまはあげられないのです」 野上は、手提げのバッグから大きなライトをだして、車庫の内部を照らした。真っ暗のなかに、深紅のエルグランドがぼうっと浮かびあがり、ふたりにむかって輝いていた。野上は、ライトをあてて車体をくまなくみせた。キーをつかって運転席のドアをあけると、革の匂いがして車の室内ライトがついた。室内灯が照らしだしたのは、クリーム色の綺麗なシートだった。あきらかに新車だった。 「バッテリーは、あがっていないんだ」 野上は、独り言をいった。 「ここをみてください」 彼は、ライトをあてて走行距離を示すメーターの部分をみせた。 そこには、五〇〇という数がかかれていた。 数字を確認すると、野上はドアをしめて扉に鍵をかけ、もう一度車全体を照らした。どこからみてもほとんど新車で、中古市場でも、三〇〇万ではとても買えないだろうと、利一は思った。野上にうながされ、浜田夫妻は真っ暗なガレージをでて、また吹きぬけのソファーがある部屋にもどった。 「車検が切れていますからうごかせませんが、間違いなく新車です」 「なんで、中古車として売らないのでしょうか」 「私は、自分でも欲しいので交渉したのですが、いっしょにつけて売却して欲しいというのが奥さんの希望で、すぐに売れると思っていたのですね。それで、そのままになっているのです。あの新品同様の車とピアノがついて、高級品の家具一切をつけて購入しませんか。それにね、いい手があるのです。つまり、買っても売却希望をそのまま、だしておくのですよ。いま、お話した通り、年にひとりくらいは家をみにきます。そうした人が、高い値段で承知するなら、転売する方法もあると思うのです。おなじ額でも、すこし上乗せをつけてもいいでしょう。そうすれば仲介する私は、また利益がでます。だから、売り主の奥さんとは交渉しますよ。いくらならだせますか」 野上は、利一と理加子をみていった。 「ちょっと、家内と相談してみます」と彼はいった。 「どうぞ」と野上は答え、「私はここで待っていますから、三階にのぼって、周囲をみながら考えてください。王さまになった気持ちがしますよ」とつづけた。 「ピアノをみてもいいですか」と、理加子が聞いた。 「どうぞ」 それで、理加子は蓋をあけて、ほとんど新品といってもいい鍵盤をいくつかならした。 「調律が必要ね」 「そこまでは、できません。ピアノをお弾きになるのですね。指先のうごきが、語っています」 「私は、音楽の教師をしていたのよ」 「そうですか、それじゃ、このピアノがどのくらいの値段だかは、話す必要もないでしょうね」 「そうね。あなたも弾かれるのですか」 「そうですね。いまはこんな商売ですが、若いころはピアニストを志望していたのです。海外に留学したこともあります」 「それは、本格的ね。私も、そんな人生をおくりたかったわ」 理加子は、意外そうに野上をみつめ、蓋をもとにもどして、利一と階段をあがって三階までいった。 日が高くのぼり、カーテンをあけると温室になった室内は暑くなっていた。 「ピアニスト志望の不動産屋か。そういわれると、雰囲気がある気がするね。あの出で立ちは、芸術家肌なのかね。理加子も、グランドピアノ、弾いてみたいのだろうね」 「そうね、あれが自分のものになるなんて考えたこともなかったわね。あなたも、ここをアトリエにしたいのじゃないの」 「しかし、なんという素晴らしい景色なのだろう。絵心がわくね」 「あのエルグランド、買ってみたいと話していた車種よね」 「その、いちばんいい奴だよ。革で座席ができた最高級品で、定価は五〇〇万以上もする。備品がついて、もっと高いかも知れない」 「あのヤマハのピアノは、五〇〇万くらいするわよ。あんなものを、もてるなんて考えられないわ。それが、自分の家にあるなんて。いくらなら、売ってくれるのかしらね」 「六〇〇〇万といっていたね。それでは、まったく無理だね」 「正直に予算を話して、駄目ならあきらめたらどう」と理加子が提案した。 「エルグランドを中古で買っても、いいものなら四〇〇万以上、新車なら五〇〇万以上する。全部で四〇〇〇万。これは、だいぶ予算がオーバーかな」 「そうね、家に四〇〇〇万もかける気はしないわね。グランドピアノは、魅力的だけれど」 「二〇〇〇万の値引きは、無理なのだろうかね。しかし、四〇〇〇万をかけたら、老後資金が半分になるよね。三〇〇〇万以上は、払えないと話すしかないか」 「すごいお屋敷ね。庭は芝生になっているのね。芝刈り機がガレージにあったわ」 「分をこえている気がするが。年に四〇〇万で五年暮らすと、二〇〇〇万かかる。それからは年金が入るから、二〇〇万で暮らせるね。三年後には理加子の共済年金もうけとれるから、そう簡単には貯蓄をつぶすことはない。つまり、七年間で、二五〇〇万ちかくの預金をとりくずすわけだ。これは、予算オーバーかな」 「いまさら私たちだけの家に、三五〇〇万かけても仕方がないと思うけれど」 ふたりは、そういいながら、この邸宅に魅力を感じた。 夫妻が階段をおりていき、ソファーにすわると、 「話しあいは、つきましたか」と野上が聞いた。 「お待たせしましたが、六〇〇〇万は、無理です」と利一がいった。 「では、いくらくらいですか」 「予算は、三〇〇〇万です」 「はあ」と野上はいって、溜め息をついた。 「それは、交渉しようがありませんね」 「そうですね。六〇〇〇万なんて、不可能です。そんなにはだせません」と利一がいった。 「一年まえに、六〇〇〇万をだしてもいい、といった方がいたのです。売ってしまうべきでした。奥さんに談判して、家の値段を七〇〇〇万までさげる決済をもらったのですよ。あとの一〇〇〇万が、どうしても埋まらなかったのです。そのときには、もう一度奥さんと交渉したのですが、七〇〇〇万以下なら売らなくてもいいというので破談になったのです。エルグランドを売却したら三〇〇万ですから、もうすこしなんとかできませんか」 「総額で、車も入って三五〇〇万。これ以上は無理です」と利一がいった。 「つまり、自宅が三〇〇〇万ということですか。エルグランドとピアノで、すくなくとも五〇〇万はあります。だから頑張っても、自宅部分は四五〇〇万で、総計、五〇〇〇万までですね。これは結構、きびしいですよ。五〇〇〇万では、いかがですか。それなら、売り主の奥さんと交渉してみます」 野上はいって、電卓を弾いた。 「手数料は、一七〇万ですね。交渉してみないと分かりませんが、どうですか」 「立派な邸宅で、三階からの景観は素晴らしいですね。これからいくつまで生きられるのか分かりませんから、家にかけるお金は、私どもには三五〇〇万が限界です。まあ、こればかりは仕方がありません」と利一が答えた。 「それじゃ、手数料をのぞいて、四〇〇〇万ではどうですか」 野上はそういって、また電卓を弾いた。 「三五〇〇万以上は、払えないですね」と利一が答えた。 「七〇〇〇万で売れと命令されたのですから、四〇〇〇万と話したら逆上されるに決まっています。なんとか、考えていただけないでしょうかね。これでは、交渉もできません」 「わざわざ、および立てして拝見させていただき、ありがとうございました」と利一がいった。 野上はだまっていたが、しばらくたって、売り主と一応は相談するが、たぶん無理だろうと話しながら、携帯番号を聞いた。三人が玄関をでると、彼は戸締まりをし、さらに門扉もしめて、「二、三日中には、電話をかけます」といった。 それで、彼らは別れた。 軽自動車のドアをしめると、「素敵な家だったね」といって、利一は溜め息をついた。 「三階が、気に入ったのでしょう」と理加子が答えた。 「一〇万キロ以上も走った軽自動車にのっている者をつかまえて、四〇〇〇万は無理だよな」と利一はいった。 「そうよ。だいいちあんな立派な家、手入れがたいへんよ」と理加子はいった。 そもそもこの屋敷は、隠退した大金持ちの男が若い愛人をこしらえて、いっしょに住んでいたのだろう。部屋の掃除は、家政婦がやっていたに違いない。老人も若い女も、なにもしないで暮らしていたのだろう。それでなければ、ここでは暮らせない、と理加子はいった。 たかしに、そういう雰囲気はある。もしかすると、大金持ちの未亡人が、若い男といっしょに暮らしていたのかも知れないと、利一がいった。 それは無理だ、と理加子は答えた。女は、そこまで世俗をすてられない。世間から離脱するには、限界がある。この周辺には、なにもなさすぎる。女は、ある年齢がくれば、そこまで夢中にはなれない。男は、いくつになっても溺れたがるのよ。自分の生きる目的をうしなっているからね、と彼女はいった。 「そうかい」と利一は答えた。 不動産屋と会ってから、一週間がすぎた。 野上は、二、三日中に連絡するといったが、電話はかかってこなかった。話では五〇〇〇万も交渉する額らしいから、四〇〇〇万は不可能だろうと、夫妻は思った。利一が、あらためてエルグランドの値段をしらべると、定価は五〇〇万だった。理加子がすえおかれたグランドピアノの型番から価格をチェックすると、やはり五〇〇万以上だった。野上がいったのは、嘘ではなかった。新品同然の家具は、五〇〇万ではすまないだろうと、ふたりは思った。三〇〇〇万で、小さいが新築の家はあった。そうした物件は、野上のいう通り辺鄙な場所ではないから、人里離れた土地に欲しいのなら自分でつくらなければならなかった。家具も必要だから、三五〇〇万はかかるに違いなかった。 住宅の取得税はおなじ額だから、あの邸宅で四〇〇〇万なら、かなり安いとはいえるだろう。しかし思ってもみない維持費が必要だろうし、ふたりが老後をすごすには贅沢すぎた。野上がいった通り、自分たちみたいに酔狂な者はほかにもいて、案外いい値で売却できるのだろうか。ほとんど新築の屋敷だから、家の部分は半額の六〇〇〇万でも安いくらいだった。おなじ値段でなら、何年か住んでも売れるだろうとも思った。 その後も、ふたりで場所を変えて探索ドライブをつづけていたが、立派な邸宅をみたあとでは、どの住居もみおとりするのはやむをえなかった。夫妻は、あえてどうにもならないあの家の話はしなかった。野上から電話がくれば、もうすこし交渉してみようと利一が考えているのだろうと理加子は思った。 ふたりの考えは、しだいに煮詰まりつつあった。結局、うんと辺鄙なところで生活したいと考えるなら、少々高くともあの建物が適切だろう。そうした場所には、新築の物件はないから自分で建てねばならない。そうなれば七月には間にあわないから、すこし郊外の団地の建て売り物件を三〇〇〇万以上だして購入するのだろう。この、どちらかだろう。利一は兄がいたが、郊外にマンションを買って住んでいた。彼の生家は、団地のアパートだった。理加子には、やはり兄がいるが、うまれて育ったのも、おなじ集合住宅だった。だから一軒家に住みたいというのは、ふたりの夢だった。 一週間たち、夫妻はドライブをしながら、なんとなく西多摩の邸宅の方向にすすんでいた。スーパーなどがあって、かなりの人が住む町から山裾をまわって三〇分ほどかけ邸宅にむかった。峠の見晴らしのいい場所にでると、その日も晴れて、すみ切った空から太陽の光が屋敷にあたっていた。光っているのは三階のガラス窓なのだろうと、ふたりは思った。 「ガレージ、二台分あっただろう。あのとき、なにかを思わなかったかい」と利一は理加子に聞いた。 「そうよね。ガレージに車があるって聞いたとき、どきっとしたわ」 「そうだよな。あの赤いスポーツカー、どこにいったのだろうね。緑の三つ揃えの男性、奇妙な話をしていたよな。内容が、話す男とまったく一致しなかった。不思議なくみあわせだったよな。白昼夢みたいな時間だった」 その言葉に、理加子は大きくうなずいた。 それから、車で屋敷までむかった。邸宅につくと、車庫のシャッターが二台分とも、あけはなたれていた。ふたりは、車を家のまえにとめると、ガレージをのぞきこんだ。ふたつのスペースのうち、左がわはあいていた。右がわには、深紅のエルグランドがおかれていた。開放されたシャッター部分から入った光があたって、車体はぴかぴか光っていた。 ふたりがみていると、門扉があいて、ながい髪を背中にたらした野上があらわれた。 「私も、いまきたところです」と彼はおどろいた表情でいった。 野上は、鍵があれば手動でもシャッターがあげられることを売り主から聞き、試そうと思った。交渉が難航して連絡が遅れたが、手数料こみの四〇〇〇万までは、承服してもらった。その後に、なにかいい物件はみつかったかと聞いた。 利一は、この件では悩んでいるのだが、エルグランドをふくめて、もう一度建物をみたいと思った。やはり、四〇〇〇万は支払えないと話した。 「車をだしますから、よくご覧になってください」と野上がいった。 彼は、自動車のドアをあけたが、室内灯はつかなかった。バッテリーがあがっていて、エンジンはかからなかった。それでも外の光が入り、天井と窓のところが黒く、それ以外の車体は、深紅に塗られているのがみえた。合皮で加工された内部は染みひとつなく、ほとんど新車の状態だと観察して、利一は納得した。 野上は、シャッターをおろし、鍵をかけた。それから三人で、吹きぬけになった居間のソファーにすわった。 「これは、縁としかいいようがありません。なぜ、このまえライトがついたのでしょうかね。三年間、ほうっておいたのに、考えられないです」と野上がいった。 「そうですね。どうしたら、いいでしょうね」と利一が聞いた。 「浜田さん。あなたは三五〇〇万まで、私は四〇〇〇万といっています。しかし、こうなったら決めましょう、たがいに二五〇万ずつ工面しましょう。どうですか、これ以上はどうしようもないですよ。浜田さんだって、お金があったから悩んでいたのでしょう」 野上は、じっと利一をみつめていった。 「分かりました。しばらく人が住んでいなかったのですから、設備は確認してください」と利一はいった。 「分かりました。それでは、来週、事務所で契約をしましょう。売り主には、私がもう一度説得して、これしかないことを納得させます。二、三日のうちに、あらためてご連絡します。好きな場所を、ご覧になってください」と野上はいった。 それでふたりは、一階、二階、さらに三階にのぼって、四方をみまわした。 「仕方がないね」と利一はいった。 理加子は、うなずき、運命だろうと思った。エルグランドの室内灯は、なぜあのときについたのだろう。最後の力を振りしぼったのだろうか。どう考えても、エルグランドのとなりのスペースには、真っ赤なスポーツカーしかないだろうと、彼女は思った。 野上が売り主と交渉すると話して別れてから、三日たった。彼から電話があり、約束の金額まで値下げできたから、事務所で契約したいといった。浜田利一は、一週間後に「はるが丘」の不動産屋へいくと話しあった。 利一夫妻は、邸宅で野上と出会った勢いで契約する話になった。三日たつあいだに、夫妻はこの結論が早計だったのではないかと悩みはじめていた。三年間ほうっておいたエルグランドを整備して車検を通すには、いくらくらいかかるのだろう。中古車を買うより断然安いのは間違いない。しかし二〇〇坪の邸宅である以上、さまざまな維持費がかかるに違いない。ピアノの調律は知れているが、峠をこえての出張費は、どのくらい請求されるのだろうか。雑草は定期的に刈っているとはいっても、庭木の剪定、芝生の整備などをふくめ、居住のために現状をととのえると、望外な金額が必要なのではないか。新築とはいえ、三年にわたって人が住んでいなかったのだから、軽重はともかく、さまざまな場所に不具合があるかも知れない。立派な家具が備えつけられているので、自分たちのもつ家財はすてることになるだろう。引っ越しの金額は知れたものだが、想定外の費用がどのくらいかかるのか、考えても分からなかった。これらの点について、野上とどう交渉したらいいのかも不明だった。 だいいち、彼は売り主と再三にわたって値下げ交渉をしているはずだった。当初に提示された金額の半分まで値引きさせたことを勘案すれば、さらにこちらの希望をくんでくれるとは、とても思えなかった。常識的には、ほとんどありえないだろう。そもそも、大邸宅に住もうという者が、こんな細かい出費を気にするのは、おかしいのだ。つまり、あれだけの屋敷に居住する人は、そんなことを考える必要がない人びとなのだ。利一は、理加子と話しあいながら、すでに自分たちの分をこえていると痛感した。野上には、菓子折りでももっていき、正直に話して一時の思いつきを謝罪しようと考えた。手付けも払っていないのでいくらかつつんで、冷静に考慮した結果を報告するほうがいいだろうと理加子と話しあった。 野上は、怒りだすかも知れなかった。 二、新居 約束の日、浜田夫妻は、はるが丘市の駅前にある野上不動産をたずねた。空は快晴だったが、ふたりの気分は重かった。駅にはひろいロータリーがあり、一部は駐車場になっていた。そこに車をとめると、駅舎のむかいに七階建ての高いビルがみえた。二階の窓に、野上不動産とかかれてあるのをみつけた。いってみると、ビルには野上第一ビルと記載されていた。不動産屋が所有する物件なのだろう。 入り口のちかくに、エレベーターが備えられていた。二階だったので目の前の階段をのぼろうとすると、一〇歳くらいの女の子がおりてくるのにすれ違った。平日なのに、なぜ小学生がビルにいるのだろうと、利一は思った。赤いワンピースをきた少女は、黒髪を三つ編みにして左右にたらしていた。緑色の人形をかかえて、「大丈夫よ。心配しないで。みんな、私がやってあげるから。大丈夫よ。なにも心配することはないわ」とくりかえしながら、おりてくるのに出会った。 少女は、利一が立っているのにも気づかず、人形におなじ言葉をかけながらふたりのあいだをぬけて歩道にでていった。 二階のスペースは、野上不動産だった。この地域では、それなりに有名な会社なのだろうと利一は思った。扉をノックすると、女性の事務員があらわれた。彼女に案内され、奥のソファーが配置された場所までいって腰をおろすと、すぐに野上がでてきた。 利一が挨拶をすると、彼はテーブルのうえにおかれた菓子折りをみた。 「こちらで、話しましょう」といって、野上は扉のついた個室にふたりを案内した。小部屋には、ホワイトボードが壁につるされ、小さいテーブルと四脚の椅子があった。奥のほうに、利一と理加子がならんですわった。野上がまえに腰をおろすと、事務員がお茶をもってきて、帰りしなに扉をしめた。 「なにか、お話がありますか」と野上が聞いた。 利一は、持参した菓子折りを差しだし、夫婦でくりかえし考えてみたが、あれだけの邸宅に住む身分ではないと分かったこと。野上には、本来は先にわたすべき手付けも払っていない状態で、散々交渉してもらい迷惑をかけたと謝罪した。 「些少ですが」といって、白い封筒をだした。 「なにが、問題なのですか」と野上は聞いた。 利一は、さまざまな補修の費用が、住むためにはかかるに違いない。庭木も荒れているから、手入れが必要だろう。自分たちには、できないこともあるから業者に依頼しなくてはならないだろう、と理加子と話しあった内容を正直に話した。 「住居ですから、入居できる状態に復元するのは、売り主がわの役目です」と野上はいい、庭の剪定などをふくむ外構は、売り手のほうで手を入れるといった。 また利一が心配している、住宅部分に関しては、清掃し、電化設備は再点検する。さらに、あの家は、全国展開するハウスメーカーが建てたから百年保証になっている。とはいっても、施行が問題でこわれた部分を無料でなおすのは、建築後一〇年にかぎられる。一〇年後に点検があり、そのときに浄化槽とか、シロアリ対策の工事をすすめられるだろう。この費用は、家が大きいから五〇万以上かかるだろうが、建築した住宅メーカーに依頼すれば、以後も保証の期間は延長される。一五年目か二〇年目に、屋根の補修工事が必要になる。これは二〇〇万以上かかるに違いないが、もっと安くしたいのなら別のメーカーに依頼する方法もある。そうすると補償が切れるが、どちらが得かは、その時点で考えるしかないだろう。いずれにしても建築後一〇年は、食洗機や給湯器などの内部設備に異常が生じれば、有償にはなるがメーカーが対応する。この点に関しては、書類で納得できるだろう。 ざっと考えて規定から外れるのは、エルグランドの車検と、グランドピアノの調律くらいだろう。ピアノは、以前担当していた、はるが丘の業者で、二〇〇〇円くらいの出張料がかかるかも知れないが、一律の料金になる。車検も通常料金だろうし、見積もりもとれる。引っ越し費用は、こちらではもてない。どこに引っ越しても、おなじくらいかかるのではないか。いままでがマンション生活なら、修繕といわれてもピンとはこないだろう。住むというのは、どこかがこわれることで、そのたび費用がかかったらたいへんだ。新築の家を購入しても、住宅メーカーのすべてが、こうしたサービスをつけているわけではない。中古を買えば埒外となるから、実際に住むには思った以上に費用が発生するばあいが多い、といった。 一〇年保障は、夫妻が考えていなかった魅力的な話だった。 「あの屋敷は大きいですから、浜田さんがご心配になるのはとうぜんです。しかし、大丈夫です。なにも心配はいりません。こうした事情をふくめて考えるなら、ここまで値段がさがった、この物件は非常に安い、掘り出し物といえるでしょう」 野上は、夫妻を正面からみすえていった。彼は、そのほかのふたりの疑問にも明快に答え、分からない点については、誠実に対応するといった。契約金を実際に振りこむ以前なら、手付金以外の違約金も発生しないと話した。 その日も野上とともに邸宅にいき、ふたりは本気で住む気になって詳細をよくみた。家には想像以上に家具がそろい、「掘り出し物」という言葉がぴったりだと夫妻は思った。結局、利一がもっていったお金は手付金として、契約を結ぶことになった。 五月の連休が終わった快晴の日に、浜田夫妻は引っ越しをした。学校教諭だったふたりは、段ボール一〇箱程度の蔵書をもっていた。箪笥などの家具は、新婚当時に購入した思い出の品だったが、ほとんどすてることにした。もっていくのは身のまわりのものにかぎられ、ひどく簡単だった。ひろい屋敷にいくのだから、おくのに困ることはない。しかし、何度か足をはこんで新居をみたふたりは、自分たちがもっているものは、すべてがみおとりした。 「こんなに荷物がない引っ越しは、学生さん並みだ。どこかの施設にでも、入居するみたいですね」と段ボールの山をみて担当した業者はいった。 夫妻が軽自動車で先導して邸宅につくと、引っ越し屋はおどろきの声をあげた 「お客さん。大金持ちだったのですね」 男は、びっくりして、やけに愛想がよくなった。ふたり切りになると、利一は引っ越し屋の豹変に、理加子とともに笑いころげた。 それにしても、立派な邸宅だった。キッチンもひろく、食卓テーブルも洒落たもので雰囲気もよかった。食洗機はもちろん、大型の冷蔵庫も、冷凍庫も備えられていた。居間には、テーブルとソファーのほか、大画面のテレビがおかれていた。サイドボードも、簡単には買えそうもない立派なものだった。 「なにを考えて、つくったのかしら」 理加子は、自分の荷物を、どこにおいたらいいのかも分からなかった。二階は、吹きぬけになった周囲をとりかこみ、充分な余裕がある廊下がめぐらされ、離れて三つの部屋がつくられていた。一階の中扉をあけるとすぐ左、つまり北がわに通常の規格よりも幅のひろい真っすぐな階段が階上につづいている。踊り場のまえには書斎がつくられ、吹きぬけをかこむ廊下にそって、北に洋室がおかれている。さらに東がわに洗面所が、いちばん南に主寝室が配置されていた。ツインのベッドは、高級品で厚くて固かった。利一がうまれてはじめてもつことになった書斎には、大きな机と書棚が備えられていた。あいだにおかれた洋室にもテーブルと本棚がつくられ、理加子は、どうつかっていいのか分からないほど立派だった。部屋には、シングルのベッドが配備されていた。利一は夜間の鼾がひどく、夫妻の言い争いのひとつだった。部屋は、理加子がひとりで暮らすのに充分な家具がそろっていたので、ふたりは別々の寝室で寝ることにした。 二階の廊下から巨大な空間をみおろすと、南むきに居間がみえ、その先は食堂になっていた。一階には洋室と和室がひとつずつ配置されていた。大理石の浴室は東がわで、窓が切られ、軒が伸びて、庭をみられるようにつくられていた。 三階の部屋からの見晴らしは、絶景だった。利一は、周囲に高い建造物もない下界を、天界に立ってみおろすことになった。あきらかに、いままでの人生とは違っていた。職業柄、目線はいつでも子供たちとおなじ場所だった。みあげることはあっても、みおろす経験はなかった。 二階の屋根には、太陽光パネルがびっしりついていた。日があたれば電気をかなり売っているのが、スマートメーターで確認できた。どの部屋にも、エアコンはもちろん、オール電化のセントラルヒーティングのパネルが配備されていた。 平屋の家の建坪がどんなに大きくとも、敷地二〇〇坪ともなると、庭は都会の小さな公園ほどにも感じた。二メートル以上のコンクリートの隔壁が、周囲をとりかこんでいた。そばにいけば、その高さを実感できるが、壁にちかい部分には一〇本以上の木々がうえられ、圧迫感はまったくなかった。樹木は移設して三年になるが、年に二回は剪定をしないと、高くなりすぎ景観を損ねるといわれた。居間のさらに南がわにはウッドデッキがあり、その先は芝生がひろがっていた。 建物は、家のまえの道路にたいして東がわになる。この道は南から北にむかい、東西に走る車道に交錯する。合流点が三叉路で、西への道路は、はるが丘市に通じている。東にすすむ道は、五キロ先の畜産農家で終わっていた。だから邸宅のガレージは、位置的にはいちばん北がわになる。住宅は、土地の北と西に寄ってつくられていた。北がわの塀と建物のあいだは砂利がしかれ、エアコンの室外機などがおかれていた。敷地が南北にながい長方形なので、庭は東がわにもあるが、南がわのほうがひろくなっている。樹木のあいだには、ツツジがうえられ、庭園灯がいくつかつくられている。東の壁のいちばん南がわに、外と通じる高さが一メートルくらいの鉄製の扉口がつけられていた。 この扉は、家のすべてが高い塀でかこまれているために、万が一のばあいを考慮してつくられたと野上から説明をうけた。ノブの先端部は、回転すると鍵がかかるようになっていた。ひくと、あけることができたが、扉をぬけるには身をかがめなくてはならなかった。実際に扉口からでてみると、雑草が生い茂っていた。外のノブには回転させる鍵がないので、内がわからしかあけられない仕組みだった。 この扉の、すこし西がわに銅像が立てられていた。かなり大きな立像で、髪のながい女性が兜をかぶっていた。女は右手に槍を、左手に盾をもっていた。美術にくわしい利一は、この像が「パラス・アテネ」だとは分かった。しかし、建て主がどういう趣味で立てたのか見当もつかなかった。樹木に隠れて居間からはほとんどみえないが、塀の扉にちかづくと、小さな扉口からの侵入者をみおろすようにつくられていた。利一は一般的な知識しかもっていなかったが、魔除けの意味でもあるのだろうかと思った。 引っ越しが終わると、野上に教えられた車の整備工場に連絡し、エルグランドの車検と所有者の変更手続きをした。ほとんどのっていなかったので、費用は、車検代とオイルとバッテリーの交換くらいだった。ピアノの調律をする事業所も、野上に教えてもらった。一週間くらいで調律師がやってきて、二時間くらいかけて音の高さを調節した。 利一は三階をアトリエとして、万事が滞りなくすすんでいった。 日曜日、よく晴れた日だった。利一と理加子は、近所の挨拶まわりをしようと考えた。いままでも自治会に入っていたが、とくに近所づきあいという意識はなかった。おそらくこの五軒の部落にも、さまざまな規則があり、ゴミ出しなどには協力が必要なのだろう。自治会に入り、課された責務を果たさなければ、居心地が悪いのだろう。こうしたつきあいをなにも知らないで暮らしてきたので、教わるつもりで、ちょっとしたお菓子をもっていこうと話しあった。 順番としては、おなじ道路の東がわで、直接にとなりあう家から反時計まわりにたずねてみようということになった。 隣家は、南寄りに建てられていたので、邸宅をかこむ壁との距離は一メートルにも満たなかった。ふるぼけた平屋で、瓦屋根は隔壁よりも高かったが、二階がないので屋根にのぼらないかぎりは屋敷の内部はのぞけないだろう。二メートルの壁は、ちかづくとものすごい迫力をもっていた。邸宅は、あきらかに元来建つ家のまえに、高い隔壁をきずいたことになる。おなじ東京都だが、夫妻が住んでいた都会とは、ものの考え方に違いはあるのだろう。しかし、この家と近隣の住人たちとのあいだに、好ましい感情はうまれはしないだろうと思った。どちらかというと、そうした気持ちをもたなければ、これだけの隔壁は立てられないに違いなかった。 平屋の家にはとくに塀もなく、道路に面して玄関があった。真っ黒くなった表札には、山田洋二とかかれていた。ブザーを押すと、高い音は外にいる浜田夫妻にも聞こえた。しかし、だれもあらわれなかった。なんとなく人の気配を感じて、夫妻は顔をみあわせた。 鍵はかかっていなかったので、玄関の引き戸をひらいてみた。室内にむかって、「山田さん。こんにちは」と声をかけた。しばらくたつと、汚れた服をきて白髪が蓬髪になった七〇くらいにみえる老婆がでてきて、ふたりをじっとみつめた。 利一がとなりに越してきたと挨拶すると、そんなことは分かっているという顔をした。それでも、理加子が「おちかづきの気持ちです」といって、菓子折りと手拭いをだすと、大声で伴侶をよんだ。 同年くらいにみえる、股引をはき、両肩が露出した薄汚れたシャツをきた白髪の男性がでてきた。 男は、浜田利一がとなりに越してきたと話すと、なんとか壁を一部でもこわせないかと話をはじめた。南むきだったから、元来は見晴らしがいい居間だった。いまはまったく違って、壁しかみえない。だいいち日がすっかりあたらなくなり、冬は寒くて仕方がない。暖房費がかかって困っていると、苦情をいいはじめた。壁がどうしてもこわせないのなら、そういう費用の請求は、できないのか。暖房費の半分でも、支払ってはもらえないのかといった。 老婆も、せっかくつくった野菜畑が、壁のせいでなにもとれなくなった。既存のものをこわしたのだから、賠償請求ができるのではないか。すくなくとも、日照権があるはずだと文句をいいはじめた。 浜田夫妻は困惑し、自分たちがつくったものではなく、売りにでていた物件を、購入しただけだからと弁明した。 これだけの家を買える金持ちなのだから、考えて欲しいと白髪の老いた男女は、声をそろえて訴えた。 理加子が、ゴミすてについてたずねると、毎週、火曜と金曜にガレージのまえに、だすことになっているといった。彼女は、となりにちかい車庫の前方が、いつも汚れている原因が分かった。 「生ゴミ置き場の清掃は、どうしているのですか」と理加子は聞いた。 白髪の老婆は、いままでは自分がやっていたが、今度は彼女に掃除してもらいたい。だいたい、こんな立派な邸宅に住むのなら、コンクリート製のしっかりした専用の生ゴミの置き場くらい、つくるべきだといった。そうすれば、動物への対策を考えなくてもいい。ここらで暮らす烏は頭がよく、残飯があれば、嘴でつつきまくって生ゴミを散乱させる。毎度のことで、片づけがたいへんだ。それに、狸がいて漁りにくる。夜に生ゴミなどをだしておいたら、覚えて隙をみて家にも侵入してくる。狸といっても都会もんには分からないだろうが、可愛い生き物ではない。肉食性で、いよいよとなれば人だって襲うだろう。子供のころ、赤ん坊が狸に食べられた事件があった、といった。 「そういう要望は、自治会で協議して、行政に陳情するものではないのですか」と利一は口をひらいた。 「この小さな部落では、あわせて一〇票もない。選挙対策にもならないから、陳情してもうけつけられない。こういう過疎地域で、住民が困っているのだから、立派な屋敷に住む金持ちが、みんなのためにやればいいのだ」と色黒の男はいった。 利一は、このまま話しあっても埒があかないと理解した。 「今日は、挨拶にきただけですから」といって、山田家をでた。 はげしい敵意をむきだしにされ、すっかり出鼻をくじかれた浜田夫妻は、このまま隣人まわりをつづけていいものかと考えた。暗澹たる気持ちだったが、ここでやめたら、いかなかった近所は、なんと思うだろうか。すぐに話した内容をふくめて、部落では噂になるだろう。尾ひれがついて、どんな話に変わるのか想像もできなかった。いいがかりの種をまき、また非難の対象にされるに違いなかった。いつかは、やらなければならないのだから、今日すませようとふたりは話して、気がのらないまま道路をわたり、三つ叉にいちばんちかい住居にいった。 三叉路の角に立つ家屋は、いま挨拶してきた家とおなじ形にみえる平屋だった。邸宅とむかいあう道ぞいに玄関があり、表札には山田保一とかかれていた。 「兄弟なのだろうか」と利一はいった。 「きっとそうね。一族が住んでいるのかしら。仕方がないわね」 理加子は、気がのらなくても血のつながりをもつ人びとが住んでいる以上、今日中に挨拶まわりはしたほうがいいと思った。 利一がブザーを押すと、先ほどとおなじく音響は聞こえたが、人はでてこなかった。玄関はあきらかにひらいていたので、よび鈴は無意味な飾りなのだろう。ここいらの住人は家族同然で、用があれば勝手に入り、あがりこむのだろうか。 利一は、仕方がないと思い、理加子と目をあわせた。「いくぞ」とうなずいて玄関をひらくと、ぎょっとした。 下駄箱の脇に、老婆がうずくまっていた。かなりの年齢で白髪もほとんどなく、頭は禿げあがっていた。寝間着とも思える、色あせた紺色の浴衣のような木綿の一重を羽織って、玄関の段差に腰をおろし、しゃがみこんでいた。 「申しわけございません。ベルを押しても応答がなかったもので失礼しました」 利一は、老婆にむかって頭をさげた。 その声に女は、面をあげた。生気をうしなった黄色く皺くちゃな顔はどこも弛み、目蓋も下垂していた。中央の目は、あいているのかも、はっきりしなかった。老婆は、呆けた表情で利一を、そして理加子をみた。 「どうかしましたか」と彼はたずねた。 「大丈夫ですか」 理加子も、老婆の肩に触れ、声をかけた。 「ようやっと、きてくださった。わしは、ずっと待っておった。ようやっと、おむかえがやってきた」 老婆は、理加子の手をにぎって話しはじめた。 「鬼嫁であったが、わしは、これが神さまから賜ったものだと信じて、ずっとこらえてきましたのじゃ。耐えることが運命じゃと思って、今日まで生きながらえてきたのじゃ。わしは、満足に食事もあたえられず、ひもじい日々をおくっておるのじゃ。もう、すっかり疲れ果てたのじゃ」 老婆は、嗚咽をはじめた。涙をながしながら、理加子の手をにぎり、しっかりと瞳をみつめていった。 「もう、思いのこすことは、なにもないのじゃ。わしをつれていってくだされ。もうすっかり、覚悟はできておりますのじゃ。今日はうららかな日、旅立ちにはよきころですじゃ」 老婆の頬をぼろぼろとつたった涙は、暗い玄関の土間に落ちた。 理加子は、神妙な表情で利一と顔をみあわた。 「あんたら、なんなの。どちらさん」 六〇代なかばと思われる老女が、なかからでてきた。利一がむかいに引っ越してきた者だといって、名前をつげ、挨拶まわりの菓子折りをだした。彼は不審な表情で、うずくまって涙する義母にあたるらしい女性をみた。その様子に、老女はいった。 「ほら、もう終いだよ。いきなさい」 嗚咽していた老婆は、その言葉に立ちあがり、利一と理加子をみつめて、にやっと笑った。そして、奥にもどっていった。 怪訝な表情で、その様子をながめる夫妻に、老女はいった。 「やたら演技派で、すっかり堂に入っている。まるで、ほんとうに泣いているようにみえるでしょう。あんたらが、はじめてだってちゃんと分かっているから、今日は熱演したのでしょう。あれで、頭ははっきりしているのだから、泣けてくるのはこちらだよ。若いころ私を虐め切ったから、いつか復讐され、ひどい目にあうと信じている。食い中風でね。何回、食事しても、すぐに忘れちぃまうのですよ。日に、五回は食べるのに。あたしは、食事もさせない鬼嫁になっているのです。演技ばかりがうまくなって、どこかの劇団にでも、ひきとってもらいたいのですがね」 一頻り話が終わったので、浜田夫妻は、となりをまわりますのでといって、家をあとにした。 三軒ならびの真ん中にも、似たようなふるぼけた家屋が建っていた。道路に面して玄関がつくられ、池田哲也と表札にはかかれていた。ブザーを鳴らし、音がひびくのが聞こえた。しかし、人はでてこなかった。玄関の鍵はかかっていなかったので、利一は戸をひいて「こんにちは。ご挨拶にうかがいました」と声をだした。 やがてでてきたのは、六〇歳のなかばにみえる、白髪の老女だった。灰色のズボンをはき、赤っぽいTシャツをきていた。利一がむかいに引っ越してきた者だとつげると、何回か顔をみかけたといった。 老女は、仕事はなにをしているのかと彼に聞いた。 利一は、中学で教職をつとめていたが、定年退職して、いまは無職だと答えた。 老女は年をたずね、彼が六一歳だというと、おどろいた表情になった。この部落に住んでいるのは、ほとんどその年代だと話した。 利一は、山田洋二、保一の家をまわってきたが、ご兄弟なのでしょうかと聞いた。 老女は、自分が六一歳で、山田の兄が六二、弟が六〇歳だと答えた。おなじ年代なのに若づくりなのは、苦労をしていないからだろうといった。何年つとめていたのか、とたずねた。利一が四〇年弱だと答えると、四〇年間公務員をしていたのなら、退職金をずいぶんもらったに違いない。いくらだったのかと聞いた。あまりの単刀直入な問いに彼がだまると、それだけではこの邸宅は買えないだろう。もともと財産家に違いない。屋敷をいくらで買ったのかと聞いた。この問いにも利一が答えられないでいると、理加子をみて、兄妹かとたずねた。 「飛んでもありません。夫です」と、彼女は答えた。 老女は、よく似ているから、妹だと思ったといった。ずいぶん年が離れてみえるが、再婚かとたずねた。理加子が笑って否定すると、名前に聞き覚えがあるといった。それで、どんな漢字をかくのかと聞いた。理加子が、自分の名前の字をひとつひとつ教えた。 老女は、すこし考えていた。あの邸宅を建てた男は、一七歳も年の離れた若い妻をめとっていた。名前は、理加といった。理加子とそっくりな、綺麗な女性だった。なんで、こんなに名前が似ているのだろう。旦那さんがコロッと死んで、遺産が全部ころがりこんできて、ひどく喜んでいた。生命保険も相当な金額がかけられ、丸儲けだった。あまりの額に保険会社が青くなって、近隣の家に、ふたりがどういう関係だったか根掘り葉掘り聞きまわっていた。亡くなった事故は、奥さんが仕組んだといわれている。それにしても、うまくできるものだ。あんなにスムースに思いのままになったのは、週刊誌でも読んだことがない。旦那を殺そうと、朝の珈琲に少量の除草剤を混ぜていたという、もっぱらの噂だ。警官がわざわざ彼女の家に立ちよって、そう話したのだから間違いはないだろう。事故は、綿密に仕組まれていた。動機は、どこからみても一目瞭然だったが、警察がわはもうひとつ決め手がなく、いまだに捜査中だ。奥さんの実家が弁護士で政治家と関係しているため、起訴がみおくられたらしい。 ところで、公務員を四〇年つとめたのなら、年金はどのくらいになるのか、と老女は利一に聞いた。この問いにも答えられず、彼はだまっていた。 老女は、教職員は、退職してから手厚い保護をうけると聞いている。自分たちは、懸命に働いても年金などもらえない。六〇をすぎると非常勤にされ、給与もおさえられる。うまれながらの財産家であるうえに、あふれるほどの退職金をもらい、さらに飛んでもない額の年金が支給されるのだろう。いったい、いくらもらえるのだろう。とても、人さまに話せないほど高額なのだろう。共働きの彼女たち夫婦が、いちばん稼ぎのよかったころよりも多いに違いない。だから年はおなじなのに、第二の人生がはじめられるのだろう。 邸宅を建てた前田は、もともとは、彼女の夫、池田哲也と、山田の弟、洋二と、いっしょの小学校、中学校をでた部落の者だ。完全な同級生だった。 前田は、政治家と懇意になって便宜を図ってもらい、かなりあくどい商売をして財産をつくった。羽振りがよくて、札束で人の頬を打つような真似をやったから、敵も相当いたらしい。金にものをいわせて綺麗な若い女と再婚し、ここに新居も建築した。なんでも、浴槽を大理石でつくり、小判でいっぱいにして、一七歳も年下の奥さんと黄金風呂に入って喜んでいたという噂だ。庭におかれた銅像は、黄金製らしい。表面には銅メッキをしてあるが、一皮むくと純金製らしい。もちろん税務署だって馬鹿ではないから目をつけている。国税の担当官が、ときどき屋敷に忍びこむのを近隣の者たちが幾度も目撃している。捜査令状ももたずに侵入するのは、違法なのだろう。しかしマルサとしても、あの若い女に、うまうまとやられつづけるわけにはいかない。だいたい旦那が死亡するまえから、男たちとできていたらしい。その間男たちと共謀して、殺害したのは間違いないだろう。疑われているあいだに、再婚するのも憚られる。邸宅も、一度、人手にわたしたいのだろう。そうすれば、疑惑が晴れるからだ。 だから、いくらで購入したのか。あの邸宅の総工費は、三億五〇〇〇万といわれている。一億くらいで買えたのか。もうすこし上乗せしないと、さすがに無理か。女としては、ほとぼりが冷めてから、一割、二割、増してもいいから買いもどすつもりなのだろう。そもそも、この物件を売買する仲介業者が共謀者だとも噂されている。その男が、若い妻といい仲になって計画し、滞りなく遂行したのだ。利口な奴らしく、尻尾もつかませないらしい。 銅像には仕掛けがあって、うごかそうとすると目から放射能がでる。あの後ろに扉がつくられているが、あれが曲者だ。まるで外がわからは、あかないようにみえるが、ちょっとした方法でひらくことができる。それに、地下室がつくられているといわれる。入り口がどこだかは、女と間男しか知らないらしい。その部屋には、金塊が山とつまれ、核シェルターまで備わっている。豊富な地下水があるから、長年にわたる地下生活にも耐えることもできる。電気は、太陽光パネルと、かなり大がかりな蓄電システムをもつらしい。それでもなかったら、いくらなんでも三億五〇〇〇万まではかからない。 老女は、邸宅の因縁について語りつづけていた。 途中からは、聞いている浜田夫妻も阿呆らしくなってきた。この家については、実際に内部をみた者がすくなく、近隣ではさまざまな噂が飛び交っているらしいとは理解した。 老女が一息ついたとき、「もう一軒、ご挨拶にうかがいますので」と利一はいった。その言葉に、女はひどく不審げな顔になった。 老女は、いま話したことは内輪の話だから漏らすとなにをされるか分からない。あの女は、ただの鼠ではない。確実な情報をにぎっている。菓子折りをもって挨拶にきたから、親切に話してやっただけだといった。 ふたりは、頭をさげて玄関をでた。 「田舎者なんだ」と利一は口をひらいた。 「連中は仲間同士で、好き勝手な話をやりたい放題するのだろう」 「都会とは、違うのね。でも、ふかくつきあうこともないでしょうから、分かってよかったわ。挨拶まわりの甲斐が、あったわよね。ここで暮らすためには、ある程度、分かっていることは必要ですものね」と理加子は答えた。 もう一軒と思って、ふたりはとなりの家屋をたずねた。 池田義通と表札のでている家は、この部落のなかでいちばん小さかった。玄関のブザーを押してしばらくすると、「どちらさまですか」という女の声が聞こえた。利一は、理加子と目をあわせ、「むかいに引っ越してきた者ですが、ご挨拶にうかがいました」といった。 玄関がひらかれ、ごく普通のグレーのシャツとズボンをはいた、六〇歳くらいの女性がでてきた。 「ご丁寧なことで」と答える女は、いままでのなかで、対応がいちばん真面に思えた。利一がひと通りの挨拶をすると、年齢をたずねられた。六〇歳と答えると、グレーのシャツの女は、自分とおなじだといった。さらに、池田哲也は、池田義通の弟になる。義通は、山田保一と同級生だ。池田哲也と山田洋二は、同級だといった。夫の義通は、五五歳のときに高血圧から脳梗塞を患い、寝た切りの生活をおくっている。彼女は、介護で疲れ切っている。利一は、まったく羨ましいかぎりだ。池田哲也と山田保一は、うつ病で引きこもりがちだ。山田洋二と保一は、糖尿病の家系でこの部落に健康な者はひとりもいない。 「どこからみても、羨ましいわ」と彼女はしみじみ独りごちた。 以前、この邸宅に住んでいた前田耕二は、利一と同年だ。弟の哲也と洋二とも同級になる。しかし、利一は、とても同年にはみえない。 「子供さんは、いるのですか」と彼女は聞いた。 「息子と娘が、ひとりずつおります」と利一は答えた。 「お孫さんは、いらっしゃるのですか」と彼女は聞いた。 「どちらの家にも、ふたりずつおります」 「みなさん、お元気なのですか」 「おかげさまで、とくに大きな病気はないようです」 利一が答えると、「いいわね」としみじみいった。 こういうことは、質問されても、近隣の者には絶対話してはならない。みんな、不幸なのだと女はいった。 山田洋二の家は、三〇をすぎた息子が結婚もしないで、自宅にいる。いまは、パラサイトというらしい。英語にすると格好良く聞こえるが、引きこもりでたいへんなのだ。ふたりの子供をうんだ娘もいるが、虐待をうけて離婚した。子供ふたりをかかえて育てる、シングルマザーの仕事はかぎられる。人さまに、とても自慢する話にはならない。山田保一にも、三〇すぎの息子と娘がいる。長男は、いい年になるのに仕事もしていない。だから、これもパラサイトだ。長女は、うつ病だ。池田哲也には、四〇になる娘がいる。うまれついての脳性麻痺でいっしょに暮らしている。このばあいは、本人がどうこうできるものではないからパラサイトとはいわない。息子もいたが、アルコール中毒で入退院をくりかえし、いまは行方も知れない。だから自分が幸せだという話をすれば、恨みを買うだろう。 「それにしても、綺麗な若い奥さんね。羨ましいわ。お金持ちと結婚するのが、幸せになるいちばん確実な方法よね。まえの奥さまとは死別したのですか。それとも離婚したのですか」と彼女はたずねた。 「いえ、理加子とのあいだに、息子と娘がひとりずついるのです」と利一はいった。 「私は、主人とは三つ違いです」と彼女が口をひらいた。 「うそ」 女は、飛んでもないという表情になった。 「みなさんには内緒にしておきますので、私にはほんとうのことを喋ってください。そう思って、こちらも、どこへいっても話してもらえない内密な情報をおつたえしているのですから。私から聞いただなんて、決して口にださないでくださいね」 利一は若づくりだが、体裁もあって六〇歳ということにしているのだろう。それは、さまざまな理由だろうから、立ちいらない。しかし奥さんは、どこからみても四〇歳くらいだろう。それにしても理加子は、前田の後妻とよく似ている。名前もそっくりで、み間違えてしまうほどだ。最低でも、ふたりは一五歳以上、離れているに違いない。だから結婚した息子と娘をもっているのは、あまりに不自然だ。孫までいるなら、ありえない話だ。隠して、あとでいろいろな嘘が分かるのは、具合が悪いことだ。 この際だから話すが、彼女の家は生活保護をうけている。三〇すぎの娘がいるが、子供をうんで離婚し、いまは世帯を分けて暮らしている。もともと内婚状態だったから、法律上は夫だったとはいえない。家族の恥を話すわけだが、未婚の母で、慰謝料もとれずに泣き寝入りをしたのだ。しかし娘は真面目な性格なので、山田洋二の長女とは違う。だから、生活保護を支給されている。こういうと、なにもしないで国に面倒をみてもらうのは、ずいぶん勝手みたいに思うだろう。しかし支給をうけるがわには、実際には細々と制限がつけられ、望んで受給しているのではない。これは、もらったことがない者には、たぶん分からない。 利一は、前田のように前妻と別れ、若い後妻をえたのだろう。そのために、前田耕二は億単位の慰謝料を払ったらしい。しかし若い後妻に間男ができて裏切られ、結局、亡くなった。死因については、さまざまな噂がある。きっと、利一も耳にすることになるだろう。だから、いい思いばかりはできない。利一は、おなじ轍を踏まないよう、くれぐれも気をつけるべきだ。 「私は六〇歳で、理加子は五七歳なのです。妻は、ずっと教職につき、いっしょに協力し、頑張って、息子と娘のふたりを育てたのです。近所になりますので、よろしくお願いします」 利一は、そういって玄関をでた。 翌週の五月最後の日曜日は、よく晴れた日だった。一〇時をすぎるころ、息子の利雄が山梨の自宅から車でやってきた。インターフォンが鳴って出迎えた利一と理加子に、「ものすごい家だね」と、興奮しながらいった。妻の紗奈も助手席からおりてきて、「いったい、どうなっているの」とひどくおどろいた。ガレージをあけると新車同然のエルグランドがおかれているのに、ふたりはさらに驚嘆した。小学二年生の利通と、幼稚園に通う六歳の美紗も、コロナで一年以上、会っていなかった。しばらくみないうちに、どちらも、すっかり大きくなっていた。 ガレージは、歩道から奥まってつくられ、駐車ができるスペースになっていた。利雄は乗用車を、そこにおいて室内に入った。中扉をあけた四人は、吹きぬけになった広々とした空間をみあげ、さらにおどろいた。利通と美紗は、ぼうぜんとして立ちつくした。ダブルシンクの洗面所で手を洗い、うがいをすると、家族四人で内部の探検をはじめた。 産業用ロボットを開発する企業につとめる利雄は、この家こそ、家庭用AIを導入する適応をもっている。階段をあがるのは、複雑な動作になる。二階建ての家庭には、ロボットは実用的ではない。しかしこの屋敷は、一階部分に限定しても充分ひろいから需要があるだろうといった。彼は、かつてみたこともない大きな大理石の浴槽に、つよい憧れをもった。 紗奈は、ふたりの子供たちを、こんな場所で育ててみたいと頻りにくりかえした。庭があるから公園にいく必要もないし、だいいち室内で充分遊べるだろうといった。充実したキッチンまわりにも感嘆した。彼女は、子供のころからピアノを習っていたので、グランドピアノに感激した。ショパンのノクターンの一節を弾いて、素晴らしい音色に驚愕した。娘の美紗にも習わし、このグランドピアノを弾奏させてやりたいといった。 子供たちは、はじめはどうしていいのか分からなかった様子だったが、ひろい階段をのぼり、二階の廊下から居間をのぞきこみ、三階からみえる周囲の絶景に興奮した。 そうこうするうちに、娘の夫婦が車でやってきた。インターフォンから聞こえる声も、すでに興奮していた。利雄の車のとなりに自動車をおくと、目の前の二台分のガレージにおどろいた。オーバースライダーのシャッターをあげると、なかにとまっているエルグランドをみつけ、さらに驚嘆の声を発した。 夫の遠藤翔太は、邸宅の外観にまずびっくりした。二間以上ある間口におどろき、さらに中扉をあけて、吹きぬけになった居間をみてぼうぜんと立ちつくした。四歳の翔一と二歳の理美をつれた娘の理子も、部屋に入ってくると天井をみあげて絶句した。先にきていた利雄と紗奈に挨拶して、すっかり邸宅の話題でもりあがった。 遠藤翔太は、室内を理子といっしょにひと通りみまわってくると、引退したらこんな家に住みたいと、感嘆していった。彼は、利一の書斎もひどく気に入り、六〇で退職する人生設計を立てたいといった。どうやったら、こんなことが実現できるのだろうと、室内の各部をみつめながら真剣に悩みはじめた。 「開業したら、そんなわけにはいかないでしょう」と理子がいった。 「医院をはじめるのは、やめたほうがいいな。勤務医をつづけよう。かえって、そのほうが融通がきくに違いないだろう。息子は医者にしたいが、子供の教育さえうまくいけば、六〇すぎには自由気ままな人生をおくれるかも知れない。お父さんたちの生き方をみて、今日は考え方が変わってきた」とさかんに話した。 「このあたりには、発想の自由な金持ちが住んでいるのですね」と翔太はいった。 「そんなことはないね。ここはすっかりさびれて、貧しい人しかいないみたいだ」 利一が答えると、翔太は「そうですか」と不服そうにいった。 どうしてそう思うのかと、理加子が聞いた。 翔太は、いまも三階の展望室から、まえの道路を赤いスポーツカーが走っているのがみえた。都会でもなかなかみない、派手な車だった。この道の奥にも、そんな余裕のある人が暮らしているのではないか、といった。 利一と理加子は、目をみあわせてだまった。 遠藤翔太は、自分が六〇歳になったら、この家を譲ってもらいたいと真剣な表情でいった。二五年後だから、利一はまだ八五で、理加子は八二だろう。きっと、まだまだ元気で、車だって運転しているのではないか。だから、この家を翔太に譲って、老後は都会で暮らせばいいのではないか。手入れさえすれば、二五年後でも、邸宅のつくりはすてがたい魅力だ。理子と、そうした人生を設計する。きっと、まだ間にあうはずだといった。 理子は、元気で暮らすことがいちばんの前提だと口をひらいた。利一と理加子が病気もせず、健康だったから第二の人生がえられたのだろう。将来の選択肢として翔太の考えは、ありえるだろうといった。 理子は、実家にもどって出産したので、子供を育てる際には理加子に世話になった。彼女は、自分の娘にも、おなじことをしてやらなければならない。ふたり目をうむ際にも、これだけひろければ、気兼ねをしなくてすむだろうと話した。 利雄と理子は、利一と理加子がさまざまに運がいいといった。努力だけでは、こんなになんの問題もなく、老後をむかえることはできないだろう。自分たちも、ここまでの自信はもっていないといった。 利一は、ふたり兄弟の次男で両親はすでに他界していた。 理加子は、四つ年うえに兄がいるふたり兄妹だった。父親はかなり以前に死去し、母親は今年八五歳になるが、数年まえから認知症を患い施設に入居していた。面会にいっても、理加子がだれだか分からなかった。 「あなたは、はじめてみる人だ。いったい、私になんの用があるの」 母の早苗は、不思議な目つきで理加子をみてはいった。介護施設に入るまで同居していた兄の夫妻にも、対応はおなじだった。煩瑣に見舞いにいっても、本人が喜んでくれない以上、無意味だった。兄の夫婦とも、コロナにかかってもとくに処置をしないと話しあっていた。 昼食は、ウッドデッキのまえで、焼き肉パーティーになった。コロナで、しばらく全員で会う機会もなかったので、ビールを片手に大いにもりあがった。庭でのバーベキューなど、かつてだれも考えなかった設定だった。家族の大きな笑い声は、周囲にひびいた。 利通と美紗は、都会の公園ほどもあるひろい庭を走りまわった。 それぞれがすっかり興奮し、利一と理加子はその様子をみて充分に満足した。購入するまでには、いろいろな経緯があった。隣家とも、どんなつきあいになるのか不安はつきなかったが、この家を選んだことは間違いではなかった気がした。 ふたりの子供たちをのこして室内にもどり、息子夫婦、娘夫妻と六人で食卓テーブルにすわってケーキを食べ、紅茶を飲んだ。近況報告で話には花が咲いた。浜田利雄も遠藤翔太も、コロナの時代になっても、仕事は順調に推移しているといった。 とつぜん庭で遊んでいた利通と美紗が血相を変えて、居間に飛びこんできた。ふたりは、真っ青な表情で怯えていた。 「なにがあったの」と紗奈が聞いた。 ふたりは真剣な表情で、庭のすみにおかれた銅像がうごいたといった。 利一と理加子は、怖がる子供たちをつれて、利雄夫妻とともに女神像のところにいき、なにがあったのかとたずねた。 四年生の利通の話では、壁についた扉をあけようとしたら、銅像の目が光って彼をにらんだと答えた。美紗も、瞳がうごいたのをみたといった。 そもそも銅像には、目はつくられていなかった。女神は、兜を被り、左手に盾、右手に長槍をもっていた。ギリシア神話の、軍神アテネをモチーフに製作したのだろうと、利一は考えていた。たしかに、視線はやや下むきにつくられていた。どういう趣味でこの女神像をここに配置したのか、彼にはまったく意味が不明だった。子供と大人では目の高さが異なるので、光線のあたり具合が違うのだろう。しかしながら子供たちはすっかり怯え、もう庭にはいたくないといった。 利一は、隔壁につくられた扉の鍵を確認し、みんなで室内にもどった。娘夫妻は子供が小さかったので、三時すぎに帰っていった。息子の利雄は、大理石の浴槽に浸かってみたいといった。家族四人でいっしょに風呂に入り、すっかり満足したらしかった。子供たちは、銅像の事件も忘れたらしく、三〇分ちかく風呂場で遊んでいた。夕方になって、息子一家は帰っていった。 利一は、三階からの眺望に感嘆の日々をおくっていた。雲のない日は、北に富士山がくっきりとみえ、奥多摩を覆いつくす素晴らしい緑の木々が視界に入った。 理加子は、すっかりグランドピアノが気に入っていた。 この家は、いつでもピアノが弾けるように設計されていた。とはいっても、大きな吹きぬけ空間を防音することは不可能だった。そのため、各部屋に防音設備が施されていた。二階の部屋は扉をしめると、廊下からよぶくらいでは、声が聞こえなかった。だから寝室や書斎で大きな音をだしても、周囲にはひびかなかった。そのため、三階のサンルームをふくむ、どの部屋にもインターフォンが設備されていた。 理加子が朝からピアノを思い切り弾いても、だれからも文句をいわれなかった。学校だって、そうはいかなかった。もってきた楽譜をならべ、懐かしい曲を弾くと、青春時代の思い出がつぎつぎによみがえった。それらは、利一を知るまえの記憶だった。片思いだった相手のことや、身をこがす情熱的な恋に憧れていた時代の断想があふれてきた。すべてが懐かしく、あのころにもどりたいと純粋に思った。はるが丘市には、楽器店があり、そこをたずねては思い出の楽譜をそろえた。ピアノを弾いていると、年を忘れ、娘時代にもどったような気がした。 火曜と金曜の生ゴミの日には、浜田家のガレージのまえにゴミがおかれた。散らかっていてもだれも手をださないので、清掃はふたりの仕事になった。腹が立つことで、機会をみて話題にしたいとは思ったが、周囲からやっかみ半分で噂されているのは、近所を挨拶まわりしてよく理解できた。利一と理加子は曜日を決めて、ふたりで掃除を担当していた。清掃しなければ、自分の家のまえが汚れるだけだった。強引に、収集場所を変更することもできなかった。とはいっても清掃をつづければ交代になる保障もなく、ほんとうに自分たちの仕事と、認定されてしまうだろう。困っても、相談する相手もいなかった。 結局、近隣四軒は、甲乙つけがたく質が悪いのだろうと思った。なかでも、生活保護世帯だと自称した池田義通の妻、道江はいちばんあつかいが難しいのではないかと、ふたりは話しあった。 息子夫婦と娘夫妻がきて、楽しくすごした日曜日から幾日もたっていない晴れた日だった。 朝の一〇時ごろ生ゴミの収集が終わり、理加子はガレージのまえを清掃していた。そのとき四〇代後半くらいの男が、歩道にじっと立って、彼女をみつめているのに気がついた。視線に気づいた理加子は、不審げに男性をみた。 男は、一見、浮浪者に思えた。グレーの長ズボンをはき、縦のストライプがついた、よれよれの汚れた長袖のシャツをきていた。弛んだ表情は、呆けた感じで、茶色の縁のない帽子をかぶっていた。 男は、理加子にちかよってくると、「理加ちゃんじゃない。どうしたの。また、住むことになったの」と声をかけた。 「どなたさまですか」と彼女はたずねた。 「そうか。引っ越してきたって聞いたけれど、また理加ちゃんだったんだ」 理加子が不思議そうにすると、男はつづけた。 「忘れちゃったの。ぼくたち、仲良くしていたじゃない。末吉だよ。山本末吉だよ。まえは、お父さんと住んでいたよね。今度の屋敷の人は、兄妹で暮らしているって聞いたけれど、理加ちゃんだったのだね。相手は、お兄さんなの。ずいぶんと、年が離れているのだってね。兄妹でひとつ屋根の下で暮らすなんて、みんなは普通じゃないっていっていたけれど、理加ちゃんだったんだ」 「山本末吉さん、ですか。私、あなたとは初対面です。どなたかと、お間違えじゃないのですか」 理加子は、異様な人物におどろきながらいった。 「いやだな。忘れちゃったの。理科の理に、加えるってかくんだよね。ここで、前田さんと暮らしていたでしょう。前田耕二さんは、この部落の出身者だったよね。お兄さんの亮平さんが、池田さんと山田さんと揉めて、自殺したのだよね。それで、でていったのだよね。耕二さんは事業で成功して、こんな立派な屋敷をこしらえて、ここに帰ってきたのだよね。そのとき、理加ちゃん、奥さんだった」 「まえに住んでいた方の、奥さまですか」 「理加ちゃんのことだよ」 「私とは、関係ありません。一ヵ月まえに、主人と引っ越ししてきた者です。まったくの、人違いです。私は、あなたを存じあげません」 ガレージのまえで、大きな声がひびいてくるのを不審に思った利一が、玄関からでてきて、「どうしたんだ」と聞いた。 「お兄さんなんだね。こんにちは。はじめまして。山本末吉です」 「どなた、なんだい」 利一は、理加子に聞いた。 「分からないことを、いっているのよ。どうやら、まえに住んでいた奥さんと間違えたらしいのよ」 理加子は、困惑していった。 「お父さんなの」 末吉は、真顔で聞いた。 「主人です。私は、あなたを知りません。もう、声をかけないでください」 理加子は、大声でいって、門に入って鍵をしっかりとしめた。 三、隣人たち はるが丘市のスーパーマーケットにいった浜田夫妻は、三日分ほどの食料を買いこんだマイバッグをもって、エルグランドをとめた駐車場にもどった。後ろのスライドドアをあけて荷物をつみこみ、車にのろうと理加子が助手席がわにまわりこんだときだった。 「なによ。これ」 浜田理加子は、大声をあげた。 なにがあったのかとちかよった夫の浜田利一は、驚愕した瞳の理加子がさし示す傷痕をみて、思わず唾を飲みこんだ。そこには、臍くらいの高さで車体の後部から前部にむかって、ほぼ一直線の傷がつけられていた。ひどい悪戯の痕跡に、彼もぼうぜんとした。 スクラッチは、テールランプからはじまり、ヘッドライトのちかくまで、はっきりとつけられていた。犯人は、おそらく臍の下に固くとがった金属を隠しもち、かなりの力で押しつけながら車体にそって歩いたに違いなかった。 浜田利一がスーパーマーケットにもどって店員に事情を話すと、店長がでてきた。利一とともに駐車場にいき、車体に生々しくつけられた、あきらかに意図的な傷をみた。悪質であるのは異論がなかったので、店長は設置されている防犯カメラをみせた。 映像では、つばのあるグレーの帽子をかぶり、マスクをして白っぽいトレーナーと灰色のズボンをはいた痩せて小柄な人物が、エルグランドの助手席がわをゆっくりとうごいているのが確認できた。性別も不詳だが、おそらく男性だと思える人影は、スニーカーを履いていた。 店の駐車場だから公道ではないが、悪戯というにはあまりに悪質で、「犯罪」と考えられた。利一は、店長とも相談して警察をよんで現場検証をしてもらった。 警察官がやってきて、現場を確認し防犯カメラの映像をみた。おかれていた場所が公道ではない駐車場だったとしても、悪意をもった犯罪行為に間違いなく、被害届をだすことになった。 浜田夫妻は、警察署で届けを提出した。それから、車検をした整備工場にいき、見積もりをだしてもらうために傷をみせた。 「これは、ひどいですね」 グレーの帽子を被り、灰色の作業服をきた痩せた整備員は、スクラッチを一目みて小さく呻いた。 「そうでしょう。私も、かなりひどいと思うのです。この傷は、なにかとがった道具をつかわなければできないですよね。みつけたときには、おどろいて」と利一は同意をもとめた。 きっと、ドライバーだろうと、細面の整備士はいった。硬貨のような先端がまるい金属で擦ったのなら、塗装は表面だけですむ。この傷は先端部がとがったもので、かなり力を入れてつけられたのでふかくまでいっている。似た色で上塗りするだけでは、ひどく目立ってしまい、隠し切れない。板金が必要な、悪質な悪戯だ。ことによったら、扉部分は交換することになるだろうと話した。 利一は、見積もりだけは、だして欲しいといった。 「範囲がひろすぎますよね。よくみてみますが、まあ、最低、四、五〇万はかかるでしょう。しかし、このやりかたは普通じゃないですね。まるで、なにかの恨みでも晴らそうって感じですね」 整備士は、しゃがみこんで傷痕を斜めからみながらいった。 車体を覆う鋼板は決して厚くはなく、せいぜい五ミリから一〇ミリ程度なので、アイスピックを突き立てれば容易に貫通する。ドライバーをつかっても、一部で穴があく事態もありえるといった。整備士は、代車が必要かと聞いた。 利一は、軽自動車をもっているから大丈夫だと答えた。それでは、エルグランドはここにおいて、自宅までふたりをおくっていこうと整備の者はいった。彼が、住まいはひと山こえた三つ叉の部落だと話すと、そこまではとても送迎できない。軽自動車に分乗して、もう一度もってきて欲しい。それからあらためてよく点検し、正確な見積もりをだすと整備士はいった。 自宅に帰る車のなかで、「いやに、なっちゃうわね」と理加子は愚痴をこぼした。 ふたりは、すっかり憂鬱な気分に落ち入っていた。今回の件は、車両保険をかけてあったのが不幸中の幸いだった。 二日まえには、ガレージまえにおかれた生ゴミが散乱する事件が起こった。すっかり、清掃は浜田夫妻に一任された状況になっていた。ふたりは、立て看板みたいなものを、つくることも考えた。 「ここには、生ゴミはおかないでください」とかくと、いままでだしていたのに、いったいどうするのだ、という事態が起こるだろう。あたらしい置き場も決まらないで、宣言するのは得策とはいえなかった。「綺麗に清掃してください」と記載すれば、ここをゴミ置き場とみとめることになるだろう。自分たちが掃除しなければ、ガレージまえが汚れるだけに違いない。 烏につつかれたのだろうか、生ゴミは浜田家の道路がわ、全体にわたって散乱していた。それでいて、隣接する山田の家のまえはまったく綺麗だった。隣家と対応を考えたかったが、かなり悪意をいだいているのは、挨拶まわりでよく分かった。 山本末吉という浮浪者じみた男も、しょっちゅう徘徊をつづけ、なにかと理加子と話したがっていた。みるだけでも気持ちが悪く、姿をみとめると彼女は住宅にもどった。理加子がでてくるのを歩道で待っているようにみえることも、しばしばだった。ストーカー行為じみていて、不愉快で気分が悪かった。相手が、何者なのかも知っておいたほうがいいと思った。 利一と理加子は、どう考えるべきか相談した。近隣四軒は、どこも屋敷の住人に好意をもっていないのは明確だった。生活保護世帯と自称する池田直江は、あきらかに口が軽そうで、嘘もほんとうも、思いのままに話すタイプだと、挨拶まわりで会話して分かっていた。残念ながら、そこ以外に情報をえる場所が考えつかなかった。気がすすまなかったが、充分に言葉に注意して聞くしかないだろうと話しあった。 生ゴミが散乱した日の翌日、昼過ぎに浜田夫妻は、池田直江の家をたずねた。 玄関のブザーを押すと、「はい」という女の返事が聞こえ、「どうぞ」という声がした。 浜田夫妻は、「こんにちは。むかいの浜田です」といいながら扉をあけた。玄関には、黒い髪の痩せた女がすわっていた。赤い枠の眼鏡をかけ、淡い緑のシャツをきて、ジーンズをはいていた。頬がこけた貧相な感じの女は、口もとに皺がよっていた。年齢がいくつくらいなのかは、よく分からなかった。 「どうしましたか」と女がいった。 「失礼ですが、池田直江さんですよね」と利一が聞いた。 女は、そうだと返事をした。利一が以前みたときとは、がらりと雰囲気が違って戸惑ったというと、彼女は笑った。笑いにつれて、右の口唇が上方に引きあげられるのがみえた。顔面神経麻痺があるに違いなかったが、前回、話したときには、利一は、まったく気がつかなかった。 直江は、髪を染めたからだろう、といった。以前、会ったときには、白髪のままだったかも知れない。普段は染めているが、それが、どうしたのかと聞いた。 夫妻は、直江にゴミの清掃の件をたずねた。 「山田洋二さんの奥さん、輝子さんが、ボランティアでやってくれているのではないの」と彼女はいった。 この話になんと答えるべきなのか、ふたりは困惑した。 利一は、いまは浜田家が清掃しているといった。本来こうした日常的に必要な作業は、関係する者たちが分担するべきではないのか。生ゴミの場所も、家が空き家だったときはとくに問題がなかったのだろうが、いまは人が住んでいる。状況が変わったのだから、置き場として再考することは考えられないのだろうか。そもそも、そうした問題を相談する自治会などは、行われないのだろうか、と聞いた。 「いままで、まるく収まっていたのに、文句があるわけですか」と直江はいった。 利一は、みんなで相談する場はないのだろうかと聞いた。 直江は、あらたまってそうした話しあいを、いままではしてこなかった。必要ならば、山田さんと相談したらいいのではないかといった。挨拶まわりで、そうした話はしなかったのかと、利一に聞いた。 最初に挨拶したときに、清掃を依頼された。一方的だったので、その時点では、状況が分からなかったと利一は答えた。 「山田さんと、そういう話になったのなら、私が口をだす話題ではないわ」と直江はいった。 この件は、いままでやっていた山田輝子と話すべき内容だ。輝子は、口が悪いから相談しがたいのは承知している。山田の家は、南むきにあんな壁を立てられ、実際に被害にあっている。前田とは、ずいぶん交渉もくりかえしたらしいが、まったくうけつけられなかった。今度、住む者がでてきたら、壁をこわす協議をはじめると、まえまえからいっていた。ゴミ置き場もコンクリートでつくらせ、生ゴミが散乱しない根本的な解決を図ってもらうつもりだと、くりかえし話していた。越してきた浜田とは、直接的な関係ではないのかも知れないが、仲介に入った不動産屋からは、この話は聞いているのではないか。洋二の山田家は、邸宅に住んだ前田にかなりの敵意をいだいていた。隣同士で争うのは、得策ではないだろう。都会暮らしだったから、事情が分からないのだろう。こういう田舎では、すでに住んでいた者たちのなかに入ってくるのだから、多少不本意な事態も引きうけねばならない。自治会などをひらいて揉めるより、新参者であるという配慮が必要だ。こんな不満をもっているなどとは、決して洋二の家に漏らしてはならない。どんな、嫌がらせをされるか見当がつかない。こうした好意的な意見には、従ったほうがいい。 浜田夫妻は、話しただけ無駄だったと分かった。これ以上、つついてもいい話はでないと理解した。それで、「この件についてはしばらく様子をみるが、生ゴミが散乱する事態をみなさんに気をつけてもらうには、どうするべきか」と理加子がたずねた。 直江は、なにをいっているのか、という憮然とした表情に変わった。そして、かつて一度も、そんな事態になったことはないとつげた。近隣の四件は、非常に配慮してゴミ出しをしている。いままで一度もなかったのに、今回そうしたことが生じたのなら、あたらしく入ってきた者が、状況も理解せずに放置したからではないのか。こういう小さな部落では、当て推量で物事をいってはいけない。考えることまでは制限されないが、一度口にだしたら取り消せない。彼女だったからよかったが、ほかの人に話したら騒動だろう。だれがやったか、どういう形でそんな事態になったのか、はっきりとした証拠もなく口にすれば、非常に住みにくい状況がうまれるだろう。彼女は、深刻な表情でいった。 「いままで都会で暮らしていたのだから、分からないことも多いのでしょう。私に相談にきたのは、よかったわよ。ほかの人に話したらたいへんよ」と直江はいった。 頭が痛くなる話だったが、仕方なしに、理加子は山本末吉という不審な、茶色の縁なし帽を被った男についてたずねた。 「末吉さんね。あの人はすこし変わっている」と直江はいった。 近隣に住むが、実際にどこで暮らしているのかは、彼女も知らない。独り者だろうが、それがどうしたのかと逆にたずねた。 「よく事情が飲みこめないのですが、まえにいた前田さんの奥さんと、私を間違えているらしいのです。なにか、ご存知ですか」と彼女は聞いた。 直江は、理加子が以前この屋敷に住んでいた前田の妻とそっくりだといった。彼女も、最初は勘違いしたほどだ。そのうえ、先日、挨拶にきたとき、名前が理加子だと聞いて、ひどく混乱した。前田の妻の名は、理加といった。はっきりしているのは、小ずるく悪い奴は、みんな小金を蓄えて、部落をすててでていった。だから、この村にのこっている者たちは、全員が善良なのだ。末吉が、理加とどういう関係だったのかは知らないが、勘違いしたのは納得できる。理加子は、雰囲気や顔ばかりでなく名前まで似ている。部落の者たちも、みんな一様にそういっている。なかには、同一人物だと信じている者もいる。直江は、挨拶まわりで会ったときにふたりから直接、話を聞いたから、理加子を浜田の妻だと考えている。それでも、似ているのは間違いない。 末吉は、ふらふらしているから定職はないのだろう。きちっとした仕事をもつ者は、ここには住んでいない。そもそも、この村には働く場所がない。彼が、どういう具合に生活しているのかは、本人ではないのだから分からない。しかし、人に危害をくわえることは決してない。すこし頭の回転は鈍いかも知れないが、よく話してやれば納得するだろう。関わりがない問題だから、彼女がでていく話ではないといった。 「そういえば、先日、ガレージのまえに大きな外車が、二台とまっていたわね」と、直江は話題を変えた。 きっと、焼き肉のパーティーでもしたのだろう。いい匂いが漂っていた。先日の挨拶まわりの際、利一の子供はふたりだと聞いたから、息子夫婦と娘夫妻がやってきたのだろう。彼が話した通り、小さい子もふたりずついるのがみえた。それで、孫をもっているといったのが、ほんとうだったと分かった。ずいぶん楽しそうにしていたのは、羨ましいかぎりだ。あんなすごい車にのってくるのだから、立派な仕事についているのだろう。子供も綺麗な服をきていたから、裕福なのだ。理加子とも仲良くしているのは、利一が想像以上に財産家だからだろう。前田でも、あんな風に息子たちはやってこなかった。いっしょに庭でパーティーをする状況では、なかったのだろう。後妻と子供たちは、きっと疎遠だったのだ。しかし、注意はしたほうがいいと直江はいった。 あの騒ぎがあってから、三、四日たって、山田洋二のパラサイトの息子が、コロナになったという話だ。妻の輝子は、浜田の庭に多人数が出入りをくりかえし、宴会をやったのが原因で、うつされたのではないかとちかくの者に吹聴している。彼女の息子の部屋は南の壁に面し、あの日は天気もよかったから窓もあけ放しだった。大人数でビールも飲んだらしいから、ウイルスが焼き肉の匂いといっしょになって塀をこえてきたのだとさかんにいっていた。 もしかしたら、生ゴミの件は、そうした事情とも関係があるのかも知れない。滅多なことはいえないが、山田の家は、あの高い壁にたいしてかなりの恨みをもっている。つくったのは前田で、浜田は購入しただけだから逆恨みというものだろう、と直江はつづけていった。 浜田夫妻は、彼女の言明に閉口した。きっと、ほんとうにそんな噂話が語られているのだろうと思った。直江は、またなにかあったら相談にくれば話にのるといった。ふたりは、暗い思いで自宅にもどった。 こうした愉快でない話を聞いた翌日、浜田夫妻のエルグランドに傷がつけられた。度重ねる不愉快な事件に、ふたりの心は重かった。 午後の一時に家をでて、被害届をだし、整備工場にもよったので、帰宅したのは五時をすぎていた。とてもこれから、ふたりで二台の車に分乗してはるが丘にいき、工場にエルグランドをあずけ、小一時間かけて帰ってくる気力はなかった。整備工場に、明日出向くという連絡をした。暖かい時期だったので、冷凍食品の一部は溶けはじめていた。 翌日の午前中、浜田夫妻は整備工場にいこうと、ガレージからエルグランドをだした。朝のつよい光線にあたると、助手席がわにテールからフロントにむかって真っすぐ伸びた傷は、さらにふかく成長しているようにみえた。溜め息をつきながら、ふたりで軽自動車とエルグランドに分乗して整備工場にいった。 背がひくく、グレーの制帽を被った痩せた整備士は、扉の交換が必要だとつげた。せっかく綺麗な車だから修理するしかないだろうという話になった。ふたりは、どこかによる気持ちにもなれず、小一時間かけて自宅にもどった。夕方に連絡が入り、扉は二枚とも交換が必要で、時間は一週間、費用は六〇万かかる。そうすれば、元通り綺麗になると整備士はいった。車両保険をつかうから、それでやって欲しいと利一は答えた。 ふたりは、軽自動車で自宅に帰る道すがら、車が二台必要かどうか話しあった。利一は、アトリエがすっかり気に入り、ほとんど外出もしなかった。エルグランドにのって、ふたりでいっしょに買い物に出向くことはあっても、車を運転するのは現実には理加子しかいなかった。値段がつくなら、つかわない軽自動車は売却しようと相談した。エルグランドが修理をすませてもどってきたら、中古車センターにいってみようとふたりは話しあった。 利一が、はるが丘の中古車店をしらべて電話をすると、店長と名乗る者がでた。日時はいつでもかまわないが、売却を希望するなら、車検証と実印をもってくるように指示された。 不愉快な事件が幾度か起こったが、浜田利一は、三階からの眺望には満足していた。毎日、時々刻々、日の光の加減で、緑の山々は微妙に変化していた。もともと絵心をもつ彼は、サンルームをすっかりアトリエにし、食事のとき以外は階下におりることもなく、絵画に没頭した。 そこに立って周囲をみおろすと、貧しい者たちが暮らす荒ら屋は、まっとうな努力をつみ重ねてきた者と、なにも働かなかった人びとのとうぜんの帰結のようにも感じられた。設計したまえの家主の前田は、その違いを鮮明にしたいと考えたに違いなかった。もともと、部落の出身者だったらしいから、ここにもどって建設したのは、羨望を引き起こすためだったのだろう。この邸宅は、周囲の者たちとの感情的な対立を駆りたてたに違いなかった。こじれた行き場のない思いが、逆恨みになって浜田夫妻に降りかかっているのだ。たいへん迷惑な話だったが、最初にこの住宅をみたときの違和感を思いだした。道理をよく弁えている人だったら、即座に状況をみやぶったに違いなかった。容易には解決しないのだろうが、あきらかに利一のせいではなかった。もちろん理加子が原因でもないから、ほうっておくしか手立てがないのだろうとしか考えられなかった。ここで、満ち足りて絵を描けるのだから、なるたけ関わりあいを避け、自分は絵画をつづけたいと思った。 理加子は、グランドピアノに満足していた。いくら弾いても、文句はでなかった。もしかすると、ピアノの音は近所に聞こえないわけでもないのだろう。自宅で勝手に弾いているのだから、あからさまな文句もいえないのではないか。 理加子は、自分が若返っていると感じた。周囲の部落の者は、生活が困窮して老けてみえるのだろうが、おなじ年代とはとても思えなかった。自分が若くみられるのは、悪い気はしなかった。利一と似ているといわれたのは、はじめてではなかった。しかし、一〇歳以上も離れてみられたことはなかった。もしかすると、都会の者たちは、無遠慮な言葉を発しなかっただけだったのだろうか。池田直江の話は、遠慮を感じない、かなりあからさなものだった。親しくなるべき相手では決してないが、正直な感想を述べたのだろうか。山本末吉は、無気味な存在で変質者なのだろう。直江が浮浪者とよぶのだから、どこでなにをしているのか、かいもく見当がつかなかった。以前の家主、前田の妻、理加は、どうやら四〇歳くらいだったらしい。理加子は、五七歳だから、埋められないほど大きな差だと思った。しかし直江も山本末吉も、間違えるほどそっくりだというのは、どういうことなのだろうか。名前がよく似ているのは、気分のいいものではなかった。 理加子が考えても、周辺の住民とあまりに生活水準が違うのは事実だった。こうした事情は、対処の方法もなかった。彼女は、不安を感じながらも、さまざまな趣味を楽しんで暮らしたいと考えていた。 理加子は、利一よりも外向的だった。ドライブは、あきらかに彼女の趣味で、いくら運転しても疲れたと感じることはなかった。理加子は、ひとりでエルグランドをつかって西多摩を中心に走りまわっていた。また、庭の一部を畑にして、さまざまな野菜をつくっていた。 三階のアトリエには、利一が鍵をかけて閉じこもっていた。用があれば、理加子は階段をあがっていった。しかし万全な防音設備のため、彼女の足音は利一には聞こえないらしかった。理加子は、踊り場にでて部屋の鍵がかけられているのをみると、彼が創作に夢中なのだと理解した。中断させると、利一はひどく不愉快そうだった。度重ねるうちに、日中は彼の好きにさせ、緊急でなければ夕食時にでも話そうと思った。どうしても利一につたえねばならないときには、インターフォンをつかうことになった。 夫妻は、しょっちゅう山本末吉が家のまえをうろついているのがみえた。末吉は、あきらかに理加子が外にでてくるのを待っていた。彼が不審者であるのは、だれの目からみても明白だった。夫妻は相談し、ゴミ出しとガレージまえの清掃は、利一が担当することになった。 エルグランドの事件があってから、幾日かたった夜の七時にちかいころだった。浜田夫妻は夕食を終え、居間でテレビをみていた。とつぜん、玄関で鍵をまわす音がして、扉がくりかえしたたかれた。 夫妻は不審に思って、中扉をあけ、あかりをつけた。あかるくなっても、扉はたたかれていた。 「どなたさまです」と利一が声をだした。 「むかいの、ババです。どうか、後生ですから、入れてください」 老婆の嗄れた声がした。 利一は、訝しげに理加子をみて、玄関の扉をあけた。 挨拶まわりのときに会った山田保一の母親、信子だった。 老婆は、あかるくひろい玄関のまえで、風呂敷包みをひとつもってぼうぜんと突っ立っていた。 「どうしましたか」と利一が声をかけた。 頭部が禿げて、その周囲にみじかい白髪が伸びている老婆は、虚脱したように彼をみつめ、玄関に入って上がり框のところに腰をおろした。以前みかけたときとおなじ、紺色の一重をきていた。 信子は、さげていた風呂敷包みを、すぐとなりの玄関框におくと、干からび、皺がよった両手で顔を覆い、声をあげて泣きはじめた。 利一は、老婆が裸足であるのに気がついた。彼が玄関をしめると、理加子は雑巾をもってきた。彼女は、足裏をふいてやり、いかにも寒々とした老婆に、部屋のなかに入るようにうながした。 風呂敷をさげ、中扉をあけて吹きぬけの居間にすすむと、すわることも忘れ、信子は、あかるくひろい室内をぼうぜんとみあげた。 「どうぞ、おかけになってください」と理加子がいった。 老女は、へなへなと絨毯に腰をおろし、ふたりを交互にみて、また泣きはじめた。 「鬼嫁に、殺されるのじゃ。わしは、この年まで生きながらえてきて、惨めだ。ただ、苦しみを味わうためだけに、生きておるのじゃ。鬼嫁は、わしを責めさいなみ、虐め殺そうとしているのじゃ」と、挨拶まわりで出会ったときと、おなじことを話しはじめた。ぼろぼろと涙をながすと、感極まって、ぶるぶると身体を震わせていた。 すこし落ちつかせようと食卓につれていき、理加子はお茶をだした。 「ここは、天国だ。道路一本しか離れていないのに、あそこは地獄だ。この道が、三途の川になるのだ。あなた方おふたりが、神さまにみえる。ほんとうに綺麗で、すべてが神々しい」と、老婆はわけの分からない話をつづけた。 浜田夫妻は、どうしたらいいのか困惑した。学童であったなら、教育委員会に届けでるべき状況だった。 しばらくたつと、玄関のインターフォンが鳴り、山田規香が立っていた。 「夜分すみませんが、もしかしたら、うちの婆さん、こちらにきていないでしょうか」と口をひらいた。 「いらしています」と利一が答えると、彼女は恐縮しながら入ってきた。 規香は玄関で、事情を話しはじめた。老婆がとつぜんいなくなって、手分けしてさがしたが、みつけられなかった。こうした出来事ははじめてだったので、家族全員がひどくおどろいた。挨拶まわりで浜田夫妻と会ってから、一度この邸宅のなかに入ってみたいと、老婆は頻りにくりかえしていた。それで、もしかしたらと思ってたずねてきたといった。 規香は、玄関框に腰をおろして、結婚後、舅と姑にひどく虐められた話をくりかえした。山田保一と結婚して、いいことはなにもなかった。舅は五年まえに卒中で死んだが、姑は元気で被害妄想になっている。自分が規香につづけてきた行為を考えると、ただではすまされないと、ずっと思っているらしいといった。それから、夫がうつ病で家に閉じこもっている。山田の血筋は糖尿病で、外にでてうごくほうがいいのだが、いくら声をかけても生返事ばかりしている。息子と娘がいるが、どちらも定職ももたず、困窮している。一頻り、家族の話題で愚痴をこぼした。信子が裸足だったのも知っていて、玄関におかれた雑巾をみて謝罪した。 それから、すこし近所の話題になり、なにか困っていることはないかと理加子に聞いた。 生ゴミの件を話すのは、充分に承知しているのだろうから、適切ではないと思われた。彼女は、気になっている、山本末吉についてたずねてみた。 末吉は、まえにこの屋敷に住んでいた奥さんと理加子を間違えたらしいと、規香はいった。浜田理加子は、前田の後妻だった理加とそっくりだ。名前ばかりでなく、容姿も雰囲気もよく似ている。末吉が間違えたのも無理はない。彼は、とくに危害をあたえる人物ではないが、どこで生活しているのかも分からない。前田の妻から、なにか優しい言葉を一度かけられたことがあったらしい。末吉は、女性と話した経験もなかったのだろう。うまれてはじめて言葉をかけられて、完全に舞いあがり、好意があると誤解したらしい。前田の妻も、ひどく困っていた。とくべつに誤解するような言葉でもなかったらしいが、本人はすっかり、自分に気があると考えたみたいだった。末吉には、前田の妻と理加子との区別がつかないらしい。ほうっておくしかないだろうと、規香は話した。 「もしよかったら、玄関までつれてきていただけないかしら」と彼女はいった。 「聞いてみます」と理加子は答えて、信子にお嫁さんがむかえにきているとつげ、「どうしますか」とたずねた。 老婆は分かったといい、自分で歩いて玄関にむかった。 「気がすんだかい」と規香は姑をみていった。 「綺麗な家じゃった。一度は、入ってみたかったからな」と老婆は答え、浜田夫妻をみて、にやっと笑った。 それから、規香がもってきたサンダルを履いて、でていった。 老婆の失踪事件があって数日ほどして、午後にインターフォンが鳴り、警察官があらわれた。浜田夫妻は不審に思いながらも、もしかしたらエルグランドの被害について、なにかが判明したのではないかと考えた。門のところでは、近隣の者たちがみているに違いないので、玄関に入ってもらって話を聞いた。ふたりの警察官のうちひとりは、車の被害届をだした際に対応した警官だった。 「先日、エルグランドの被害にあわれたとき、近所に不審者がいると話されていましたよね」と見覚えのある署員はいった。 理加子がその言葉にうなずくと、警察官は山本末吉の写真をみせ、相手はこの男かとたずねた。 「それが、どうかしましたか」と彼女は聞いた。 通報があって山本末吉の自宅にいったが、死亡していたと署員はつげた。いまの段階では、自殺か他殺かも分からない。不審死であるのは間違いなく、捜査が必要な状況だ。近隣で職務質問をしたところ、複数の者から、理加子とトラブルがあったと聞いた。それは、どんな話なのだろうかといった。 理加子と利一は、心底、おどろいた。彼女は、知りえた事情をすべて話した。署員は、エルグランドの被害届を提出したとき、思いあたる人物がいるといったが、この男をさしていたのかと聞いた。 その言葉に、理加子は首を振って否定した。署員は、それでは具体的にだれをさしていたのかと聞いた。彼女は、返答につまった。ストーカーみたいにつきまとわれていたので、近隣の者に事情を聞いたが、だれも末吉を危険な人物とはいわなかった。被害届をだしたときには、そうした情報をえる以前だったので、勝手に思っていた。聞いた話では、山本末吉は自動車ももっていないらしい。いまは、はるが丘のスーパーマーケットで起こった被害が、彼のせいとは考えていないと答えた。 警察官は、さまざまな質問をした。理加子が知っている情報は乏しく、ほとんど答えることができなかった。エルグランドの被害については、犯人は判明していないと署員はいって、帰っていった。 浜田夫妻は、自分たちに容疑がかけられているとは考えなかった。ふたりは、身のまわりで、あまりにも突飛な話がつづいていると思った。すべては、この邸宅のまえの家主と関係する出来事だった。 警察官の訪問があった翌日、浜田夫妻は、修理工場から車のドア交換が終了した知らせをうけた。担当の係員は、自宅まではこんでくるといった。夫妻は、はるが丘までドライブし、その帰りに中古車センターで車を売却しようと話しあっていたので、自分たちが工場までとりにいくとつげた。 翌日、ふたりは軽自動車で整備工場までいった。エルグランドは、完全に傷痕がみえなくなっていた。 「すっかり、綺麗になっているわ」と理加子が嬉しそうにいった。 「扉は、二枚とも交換しました。フロントもリアも、板金加工をしました。ところで、この車は、まえにも悪戯されたのですか」 グレーの制帽を被った、痩せた整備士は聞いた。 夫妻は、はるが丘のスーパーの店長が、以前にも似たような事件があったといったのを思いだした。 「どこか、ほかにも傷がつけられていたのでしょうか」と理加子が聞いた。 整備士は、その質問には応じず、 「みにきた警察官も、ひどい傷痕だと話していました。なにかの怨恨があったのでしょうが、間違えられた者は、ショックでしょうね」といった。 「どういう意味ですか」 しばらくたって、理加子が聞いた。 「いえ、私のほうは仕事ですから、いつでも整備します。また、お気軽にどうぞ」 整備士は、そういってグレーの制帽をとった。ながい髪が肩までたれてきたので、左手でつかんで、彼女は頭をさげた。 その姿をみて、夫妻はどきりとした。 ふたりは、別々な車を運転して、かねての約束どおり中古車センターに出向いた。受付で、 「先週、依頼した者だ」というと、背が高い立派な体躯の店長がでてきた。 「一〇万キロ以上、走っています。調子は悪くないのですが、二台もっている必要もないので」と利一がいった。 緑のシャツをきて、緑色の枠の眼鏡をかけた店長は、新車同然のエルグランドをみて、なにかを考えているようにみえた。 「こんな綺麗な新車をおもちなら、もういらないでしょう。事故も起こしていないのなら、小まわりがきく軽自動車は、魅力はあります。ニーズが違いますから、欲しい者もいると思います」 軽自動車は、すでに一二年以上ものり、走行距離も一〇万キロをこえていた。値段がつかなければ廃車も考えていた。しかし半導体不足で市場が引き締まっているのか、店長は一〇万円で買いとるといった。夫妻は、気前のいい言葉に、その場で売却の手続きをした。 エルグランドにのって帰宅する車中で、ふたりは整備工が女性だと知っておどろいたと話しあった。見た目で判断したり思いこんだりするのは、危険だと思った。さらに山本末吉の死が、はるが丘でもみょうな噂となってながれているのを知った。近隣では、どんな噂話なのか不安を感じた。 こうした不愉快な事態は、すべてこの屋敷の以前の住人によって起こされていた。 浜田夫妻はよく話しあい、どう考えるべきなのか、野上に聞いてみようという話になった。事前に知っていれば、購入も再考した可能性がある事態だった。 約束した平日の午前、一〇時ころ野上不動産をたずねた。ビルに入ると、入り口のちかくにエレベーターが備えられていた。二階だったので目の前の階段をのぼろうとすると、ながい黒髪を肩までたらした少女がおりてくるのにすれ違った。 平日なのに、なぜ中学生がビルにいるのだろうと、利一は思った。 赤いワンピースをきた少女は、枠がおなじ色の眼鏡をかけていた。両手で、新生児くらいの緑色の人形をかかえていた。 「大丈夫よ。心配しないで。みんな、私がやってあげるから。大丈夫よ。なにも心配しなくてもいいわ」と独り言を呟きながら、おりてきた。夫妻が立っていることにも気づかず、人形におなじ言葉をくりかえしかけながらふたりのあいだをぬけて歩道にでていった。 浜田夫妻は、思わず顔をみあわせた。この娘には、あきらかに以前ここで出会った気がした。しかし、そのときは小学生くらいにみえた覚えがあった。ふたりは、自分たちがみている者が、時々刻々と変化するような気がした。この事態に無気味な不安を感じた。 不動産屋に入って、野上と会った。「どんな話か」と聞かれたので、利一は、まえに会話した個室で話したいと希望した。彼らは、コルクボードがはられ、小さなテーブルと四脚の椅子が備えられた部屋に移動した。しばらくすると、事務員がお茶をもってきて、おくと扉をしっかりとしめた。 利一は、近隣の事情を話した。生ゴミの話から、人が死亡する事件まで遭遇し、困惑している状況を説明した。 野上は、住民とのトラブルには立ちいれないとつげた。彼は不動産屋で、住まいが居住できるかについては責任をもつが、近隣住民との揉めごとは埒外で、住居の瑕疵には該当しないといった。 周囲の者たちと、建設した前田耕二がいざこざを起こしたのは、充分には承知していない出来事だ。あのふるぼけた家しか建っていない部落に、高い隔壁でかこった御殿みたいな建物があるのは、特殊な事情を考えさせられる。それは、前所有者の前田氏の問題で、住宅とは無関係の案件だ。前田と、山田、池田がどういう関係だったのかについて、事情は承知していない。住宅の売買に知らなければならないとも思わない、と野上はいった。 利一は、近隣からの話では、前田耕二は不審死だったと聞いた。野上からは、病気になり通院ができなくなって邸宅が売りにだされたと話された。ふたつは、あきらかに違う言明だが、正確にはどうなのかとたずねた。 野上は、前田の妻から耕二が脳卒中を起こしたと聞いている。病院に通っていたが、最近、亡くなったらしい。こうした個人情報は、不動産をあつかう者が積極的に聞きだせるものではなく、慎重にとりあつかわねばならない。一般論として、彼が業務上知っている情報を、すべてつたえるわけにはいかない。それは、長年教職をつとめた浜田夫妻にも、充分に分かることだろうと答えた。 理加子は、前田の後妻が理加という名で、自分の名前とよく似ている。彼女の娘は、理子で、孫娘は理美だ。容姿も理加とそっくりだといわれ、間違えられたりしている。これは、不動産仲介者の責任ではないだろう。しかし、気味が悪く困惑しているといった。 野上は、その話に首をかしげた。 「前田耕二さんの奥さんは、たしかに後妻です。でも、名前は優子です」 理加子は、不審な目で野上をみつめた。 「みなさん、前田さんの奥さんは、理加だといっています。漢字も、おなじです。後妻の方で、一七歳も年が違うと聞きました」 「なんだか分かりません。前田優子さんは、後妻ですが、耕二さんとは、三つ違いでした。理加子さんとは、どこも似ていないと思いますが」 野上は、さっぱり分からないという風情で答えた。浜田夫妻は顔をみあわせた。 「どういうことでしょうか」 「分かりません。もしかしたら、近所の方たちは、なにか悪意でももっているのでしょうか。こんなにはっきりとした違いを、おなじというのは解しがたいです。不思議な話ですね」 野上は、首を捻りながらいった。とはいえ、紹介した浜田が困っているのなら、できるかぎりの手助けはしたい。あの邸宅は、どこからみても周囲から完全に浮いている。だから細かい事情はともかく、住民感情がよくないのは理解できる。生ゴミは、嫌がらせなのだろう。それ以上の行為は、犯罪になるから、この程度で終わるのではないか。エルグランドがひどく傷つけられたのは、とても残念だ。これは、はるが丘で起こった事件である以上、部落の者たちとは無関係だったのではないか。あの四軒で自家用車をみたことはないから、彼らが自由にスーパーマーケットにいくのも難しいだろう。話を聞くと、さまざまな事件が相ついで起こり、ひどく不穏に思うのは理解できる。大きな屋敷なのだから、警備会社にみてもらったらどうか。はるが丘にも、全国展開する会社の支店がある。もともと、前田の家も入っていたはずだ。最初の設備は買いとりになるが、もしかすると、いまでもついているのかも知れない。 「紹介しましょうか」と野上はいった。 浜田利一は、彼の話は常識の範囲内だと思った。そこで、警備会社の紹介を依頼した。 野上は、ちかくに住んでいるのだから、困ったことにはできるかぎり対応したいといった。彼は、いつでも相談にのれるよう、理加子とラインを交換した。 利一は、前田優子の写真をみたいといった。 野上は、そうしたものはないが、くりかえし会っている。これは、不動産仲介者としての責任をもって、理加という者は知らないということができる。前田優子は、理加子とはまったく似ていない。写真はないし、わたそうとも思わないが、あきらかな事実だ。近隣の者たちがなにを話しているのか不明だが、明白な間違いだ。それ以上は、分からないといった。 二日ほどたって、野上から紹介をうけた警備会社の担当者が説明にきた。小柄な四〇歳くらいの男で、灰色の制服と制帽をつけていた。彼は、以前この邸宅は、警備システムを導入していた。契約書もあり、備品を購入した記録ものこっているといった。感知器をつけた場所も、契約図面には記載されていた。該当部には設置されたネジ跡などがのこっていたが、備品はみつからなかった。買いとりになるので、なぜ外されたのか、原因は分からなかった。 浜田夫妻は、玄関まえに感知器をつけた。屋敷のガラス窓にも、警備をかけると、窓から侵入したばあい作動するシステムを配備した。備品代には数万かかったが、契約自体はとくに割高でもなかった。 依頼した警備会社は、はるが丘市で大きく事業を展開していた。二〇名ちかくの警備担当者が定期的に地区を巡回しており、緊急ボタンが押されれば、すぐに対応するといった。しかしながら、この部落は定期巡回のコースから外れていた。緊急ボタンが押されれば、すぐにむかうが、どうしても三〇分以上はかかるといった。地域に加入している物件がかぎられる以上、仕方がない事情だった。 夫妻は、このシステムを導入した。大きな会社が警備していることを示すシールを、外部からみえる場所にいくつもはって、彼らはかなり安堵感を覚えた。 警備会社の器具が配置されて数日たったころ、理加子が庭につくった菜園があらされているのに気がついて、ふたりは驚愕した。夜間、邸宅の敷地内に何者かが侵入し、畑を滅茶苦茶にしたのは間違いなかった。あきらかに、警備システムの導入は無意味だと、警告しているように思えた。 夫妻は、警備会社に連絡し、事情を説明した。 ふたりの警備員が、契約時の約束どおり三〇分以内で屋敷に到着した。彼らは、あらされた菜園を確認し、周囲の状況を調査した。 「玄関から、感知されずに侵入するのは不可能です。動作確認をしましたが、感知器に異常はありません。塀をのりこえて侵入したとしか考えられません」 警備員は、困惑気味にいった。 「動機も、分かりません。これだけ高い塀をのりこえて侵入したら、みつけられたばあい、すぐには逃げられないでしょう。かなりの覚悟が必要ですが、畑をあらすだけではつりあいがとれません。リスクが高すぎます」 「どうしても、はっきりさせたいというご希望なら、警察に通報するのもひとつの方法でしょう。しかし被害が庭だけとなりますと、捜査もなかなか困難かも知れません」 玄関まわりには感知システムが配されていたが、高い壁をこえての侵入はまったく予想外だった。警備員は、隔壁にとりつけられた扉をしらべたが、外がわからはあけられないものだった。どういう方法で敷地内に侵入したのか、まったく不明だった。警備の担当者と話しあい、庭にも感知システムをおき、居間からモニターでも追えるようにした。庭園はひろいので、万全を期すには数台が必要だった。最低限として、扉がつくられた場所と、菜園がみえるところをカバーする二台を配置することにした。 装置は、物影がうごくのを感知するシステムで、録画もできるものだった。モニターをふくむ備品の費用は二〇万ほどかかった。侵入した形跡がある以上、このまま経過をみることはできず、仕方がないと夫妻は思った。もし隔壁をこえてきたとなると、隣家の屋根から飛びうつるのがいちばん考えやすかった。夫妻は、そう思いつつも、警備の者にその可能性を口にだすことができなかった。 浜田夫妻は、隔壁につくられた扉が、外からはあけられない事実を警備員とともに再度確認した。しかし周囲が壁でかこまれている以上、ここに感知器を配置しないわけにはいかなかった。この場所にモニターをつけるなら、打ってつけなのはアテネの銅像だった。女神が左手にもつ盾の部分に配置すれば、いちばん効果的だろうと思った。しかし守護神のように扉をみつめる、アテネ女神に傷をつけていいのだろうか。夫妻は、警備員をのこして別室で協議した。大枚を払って警備するのなら万全を期すのが最善だろうという結論になり、盾の部分に装置をつけた。こうした設備がととのうには、一週間ほどが必要だった。 すべての設置がすんで二日たって、ふたたび菜園はあらされた。夫妻は、警備の担当者をよんで説明をもとめた。 やってきたのは、五〇歳くらいの落ちついた感じの男性で、ながい髪を後ろで束ねていた。以前、来訪して話しあったときには、もっと若かったように思った。帽子をかぶっていたので、髪がどうだったのかは明確な記憶がなかった。夫妻は顔をみあわせ、担当者の違和感を共有した。 「以前は、あなたの髪はみじかかったように思いますが」と利一がいった。 担当者は、不審な表情になった。 「浜田さんのお宅には、最初に電話で連絡をうけておうかがいしたときから、ずっと私が担当しています。頭頂部が薄くなっているので、髪をみじかくしたことはありません」と担当者はやや憮然とした感じで答えた。 モニターの画面をみなおすと、グレーの帽子をかぶった細面の男の顔がくりかえし映っていた。ネット通販の若い配達員で、利一が購入した絵の具やカンバスを定期的にはこんできた。置き配にするには、さまざまな事情で適切とは思えず、みなれた者の手から直接うけとっていた。そのほかは、とくにたずねてくる人もいなかったので、人物の映像はなかった。 画面では、異常はみとめられなかった。しかし、一部で映像が途切れているのに担当者が気づいた。どういう理由なのか不明だったが、モニター画面は一時的に中断していた。これは、普通は室内からしか操作できないと、担当者はいった。 「通常は、ありえないことです。だいいち、この高さの隔壁をのりこえてくるなら、かなり高い梯子が必要になります。一度内部に侵入すれば、もう一度、おなじ壁をこえて、でていかねばなりません。そのときにも、梯子が必要になります。それで菜園だけあらしても、危険の高い仕業で、どんな利益につながるのか不明です。モニター電源が切れた問題もあわせて考慮するなら、外部の者がどう処置したのか、まったく分かりません。しかし、おふたりしか住んでいないのですから、偶然、機器に異常が生じたとしか考えられません。いまは正常に作動しますが、器具を交換してみましょうか。高価な備品を設置していただいたのですから、当社としては万全を期したいと思います」 ベテランの担当者は、かなりの教育をうけていた。だから、会社として不安の払拭に尽力すると約束したが、本音は狂言だと思っているらしいとふたりは感じた。 この家に暮らして、近所の噂話が耳に入ってきて、夫妻は神経質になっていた。第三者がいるときには、思ったことすべてを話せなくなっていた。この狭い地域で、だれが、どういう関係をもつのか分からない以上、どんな伝手で近隣の者が耳にするのか、疑心暗鬼になっていた。 「息苦しくなってくるね」 夫妻は、ふたりになったとき話しあった。もっと自由に暮らせると思って知らない土地にきたが、まったくの間違いだったと思い知らされていた。 菜園をつくっていたのは、理加子だった。彼女は、かなり神経質になっていた。利一は、相談すれば、警備についてもいっしょに考えてはくれる。しかし、すぐに三階にいき、鍵をかけて自分の世界に籠もっていた。 夫妻は、夕食のときくらいしかいっしょにいることがなくなっていた。朝は、各自が勝手な時間に、パンを焼いて朝食にしていた。昼も、利一は、レンジで温めたご飯と適当なのこり物をもって、アトリエで食べていた。夕食は、午後六時と決めていた。この時間は、利一もやってきていっしょに食事した。ふたりの会話は、夕食後くらいしかなくなっていた。 理加子は、車の運転が好きだった。日中、勝手にドライブすることも多かった。こうして夫妻は、自然と役割を分担するようになった。理加子は、スーパーに買い出しにいき、夕食をつくる。一階は、彼女が掃除する。利一は、ゴミの排出や、ガレージまえの清掃作業をする。風呂掃除、二階と三階の清掃。さらに食洗機の片づけをした。仕事が分担され、ふたりは完全な共同生活者になっていった。 相談相手もいない理加子は、野上とラインで、状況について言葉を交わしていた。 それでも利一は、三階のアトリエが心から気に入っていた。ほとんどの時間は、そこで三六〇度の景観を楽しんでいた。おそらく、こんな楽しみをもてるのは、ひろい世間でも自分ひとりしかいないのではないかと思った。どうせ周囲とは仲良くもできないし、親しくなる理由もなかった。菜園はあらされても、自分の身までの危険は感じなかった。 利一は、邸宅のまえの持ち主、前田耕二について考えていた。彼と同い年くらいの前田は、このひろい屋敷で、近隣の話では一七歳も年の離れた若妻と暮らしていたという。野上は否定していたが、ありえない嘘でもないかも知れないと思った。利一も、将来的にも生活に困る事態は想定しにくく、すべてに満ち足りていた。近所の者たちが考えている通り、いっそ若い女とここで暮らしたら、どうなのだろうか。世間がなんといおうと、関係ないのではないか。この部落の口うるさい者たちが、どんな噂をながそうと、危害まではくわえられない。どちらかというなら、加害できないから、いろいろな話をつくりあげて、腹いせをしているのだろう。だからほうっておいて、なんの問題もないのではないかと思いはじめていた。 警備担当者と話しあって、幾日かたった日の夕食時のことだった。 「野上さんが、はるが丘にも探偵がいるというのよ。どう思う」 理加子が、とつぜん口をひらいた。 「不倫の調査くらいしか、やらないのではないのか」と利一はすこし考えこんで答えた。 「腕がよくて、事件を解決するかも知れないって。野上さんの話だけれど。このままでは、ほうっておけない気がするわ」 「いくらくらい、払うことになるのだろう」 利一は、不審げに彼女をみた。 理加子は、山本末吉が死亡した事件について、ひどく不審に考えていた。近隣の噂からは、自殺だったらしいと小耳にはさんでいた。しかし、その理由がなんであったのかについては不明だった。生ゴミからはじまって、山本末吉の一件、エルグランドの傷痕、家庭菜園の破壊と、しだいに自分にちかづいてくる不安を彼女は感じていた。前田理加という、正体不明な後妻の話。複数の者たちから、理加と容姿が似ているという証言。ひとつひとつは、根拠のない噂話だったが、彼女の周辺がひとつずつ埋められている気がした。理加子が考えるほどには、利一は重大事とは思っていないのも分かった。さらに菜園の事件は、屋敷内で生じたのだから複雑だった。彼女がそんな行為をしない以上、警備担当者が臭わせた通り、可能性をもっているのが夫しかいないのは、自明の理だった。 理加子は、利一が、つぎの事件が起こるのを待っているように思った。夫が菜園をあらしたとしても、彼女を動揺させ、不安感をあたえ、脅かす理由は思いあたらなかった。容疑者がほかにいないというだけで、利一が犯人と考えるのは、あまりにも飛躍があった。意味は不明だが、彼が妻の心配にたいして、充分に共感していないのは事実だった。 理加子は、考えているすべての思いは話せなかったが、野上はこまめに対応した。彼は、人とのつきあいが仕事の一部で、営業で信頼をえる術を知っているように思えた。菜園の事件が起こって、はっきりさせたいという理加子の思いにも、共感してくれた。彼女の悩みにたいして、野上は、はるが丘には、山下という腕がいい探偵がいるというラインをおくってきた。 理加子は、多少お金がかかっても、菜園の件は明確にしたいと考えていた。利一は、すこし様子をみたらどうかといった。彼女は、高い隔壁をこえて屋敷に侵入し、家庭菜園をあらす事件は、動機が不明だけに無気味だった。なぜ利一は、理加子の思いを共有してはくれないのだろうか。事件自体は、大きな危害はないのかも知れない。しかし、この行為が引き起こすのは、夫妻を離間させるものに違いなかった。いくらなんでも、夫が彼女を不安にさせて利益があるとは考えられなかった。理加子がひとりで芝居しているわけではなかったから、外部からの侵入者がいなければ、たがいに不審に思うだけだろう。こうした出来事がつづくなら、夫を疑うことになるだろう。理由は不明だったが、犯行におよんだものが、夫妻相互に疑惑をあたえようとしているなら、さらに執拗な事件を起こす覚悟もあるのではないかと思った。現実に、理加子はすでに利一を疑いはじめていた。これ以上の事件が起これば、どう対応していいのか分からなかった。だから探偵に依頼しても、この一件を明確にしたいと思った。さまざまな相談にのってくれ、常識を弁えている野上が、頼りがいがあるという山下なら、なんらかの結論をだすのではないか。それでも不明ならば、そのとき考えるしかないだろうと思った。 利一は、理加子の考えに納得できなかった。さらに追究して犯人が不明だったばあい、どう考えたらいいのだろうか。非常に不安感を引き起こす事件だとは承知していたが、警備システムでつかまえられないものを、探偵を雇ってどんな解決があるのだろうか。この家には浜田夫妻しか住んでいないのだから、外部から犯人が入りこめないと証明すれば、夫の行為と断定するつもりなのだろうか。利一が自分でしていない以上、侵入が不可能なら、理加子が起こした事件になる。とはいっても、彼女の不安が高まっているのは、そばにいて理解できた。いくらかは、ノイローゼ気味なのだろうか。 もしかすると、利一が若い女と、ここでいっしょに暮らしたいと考えているのを、理加子は感づいたのだろうか。そもそも前田耕二は、どんな事件に遭遇したのだろう。野上のいう通り病気になって、亡くなったのだろうか。それとも近所の噂どおり、奥さんが間男と結託し、事件にいたったのだろうか。野上が前田の後妻は優子だと断言する以上、信じるに足りないのは事実だが、近隣の噂では、仲介に入った業者の男と関係ができたという筋になっていた。車の運転が好きな理加子は、よくドライブしていた。どこへいくのか分からないが、野上の話をくりかえすので、会って相談でもしているのだろう。彼女が探偵を雇っても解決したいというのを無下に却下すれば、望んでいないと考えるのだろうか。 だいいち理加子と野上は、どういう間柄になっているのだろうと利一は思った。彼は、ふたりが関係していても、とくにかまわなかった。利一がさらに自由になれるのなら、推奨したいくらいだった。しかし自分が邪魔者になっているのだとしたら、問題はかなり複雑だった。利一にかけられている死亡保険は、決して高額ではない。金持ちの野上にとっては微々たるもので、殺人の動機としては不充分だろう。どうすると自分が邪魔者になるのか、具体的なイメージが描けなかった。 利一にとっても、理加子がつくっていた菜園が、不法に侵入した何者かによってあらされたのは、意味が分からないだけに無気味に思えた。ストーカー行為だと怒っていた山本末吉が変死したのは、気持ちがいいものではなかった。彼は、修理工場の整備士が男だと考えていた。とつぜん女だと判明したときの違和感は、自分たちがなにをみているのか分からなくなっていた。女性だと思った瞬間、はるが丘のスーパーの駐車場で車に悪戯をした者の映像と重なった。あの犯人も、もしかしたら女だったのだろうか。警備担当者も、会うたびに違う者のような気がした。こうしたことがくりかえされて、理加子が神経質になるのはとうぜんだと思った。 山下探偵事務所は、はるが丘市の野上不動産からいくらも離れていないビルにあった。野上から紹介された浜田夫妻は、駅前の駐車場にエルグランドをとめると、約束した午前一〇時に事務所をおとずれた。最上階の窓に看板がでていた。建物に入ると野上第六ビルとかかれ、野上はこの地域で手びろく商売をしているらしいと夫妻は思った。 エレベーターをあがると、道路に面する一画に、「山下探偵事務所」と赤いテープがはられていた。ドアをノックすると「どうぞ」という返事がしたので室内に入ると、雑然としたワンルールで中央にテーブルとソファーがおかれていた。 理加子は、散らかったオフィスの片すみに、アップライトの素敵なピアノがあるのに気がついた。 山下は、五〇歳をややすぎて、野上とおなじくらいの年に思えた。背が高く、容姿のととのった好男子だった。髪はみじかくして、淡い緑のシャツをきていた。 夫妻は、うながされるままにソファーにすわった。 浜田理加子が不動産屋の野上公夫から紹介をうけたと話すと、山下はふたりに「探偵、山下幹男」とかかれた名刺を差しだした。 「相談料は、二万円です」と彼はまず口をひらいた。 理加子は、野上から相談するだけで一万円はかかるといわれていた。山下はとっつきにくいが、頼りになる。よく相談すれば、解決策を示してくれるかも知れないといわれていた。 夫妻がだまっていると、野上からの紹介だから、相談料は通常の半分の一万円でいい。野上社長は面倒見がよく、優秀な不動産屋だ。なにを話しても、ここには山下のほかにはだれもいない。録音も、とっていない。守秘義務は、厳守するから安心して話してもかまわないといった。 理加子は一万円を払って、事情をつたえた。生ゴミの件から、エルグランドへの悪戯。近隣の対応と、山本末吉の事件。理加という、正体不明な後妻の噂話。警備会社に加入したあとにも、菜園があらされ、担当者から外部の者は考えられないといわれた話をした。 山下は、三つ叉の部落につくられた邸宅を知っていた。現場検証をしなければ、分からない。出張料は一万円。現場をみるのは、一時間あたり一万五〇〇〇円かかる。とはいっても広範囲の捜索ではなく、野上の紹介だから、総額三万円で一通りは判断できるだろうといった。 山下は、入り口とむかいにある、栓が引きぬかれた缶珈琲がいくつもおかれた机の抽斗から道具をとりだした。その後ろにつくられた書棚から、なにかの書類をさがしだした。それらを鞄につめると、いきましょうといった。 一足先に事務所をでた夫妻が駐車場で待っていると、大きな緑色のジープにのった山下がきた。彼は、緑の縁の眼鏡をかけていた。車には、とくに探偵事務所というステッカーははっていなかった。浜田夫妻が先導し邸宅につくと、ジープをガレージまえの駐車スペースにとめた。 浜田利一が警備を解除すると、山下は玄関に鞄をおいて、まず外部をみたいといった。夫妻とともに、感知システムの状況を点検した。それから周囲の隔壁をしらべ、あらされた菜園の位置を確認した。アテネ女神の盾にとりつけられた感知器も、さまざまな角度からながめ、写真をとった。隔壁にある扉について利一から説明をうけ、自分でノブを回転してたしかめていた。 それから山下は、邸宅の内部に入った。窓のセンサーの具合や、モニターなどについて説明をうけた。菜園をあらされた日に、電源が切られていたことについても、話を聞いた。彼は、建物の二階と三階にあがり、周囲の事情を勘案した。 食卓テーブルにすわると、山下は持参した鞄からなにかの装置をとりだした。スイッチを入れると、ランプが点滅した。彼は、もってきたラジオを鳴らした。不審に思う夫妻をみて、手招きした。 「盗聴されています」と彼はいった。 山下は、ドライバーと点滅する器具をかかえて、テレビ受信機の後ろにまわり、ごそごそとなにかをやっていた。やがて、小指ほどの金属片をふたつとりだした。不審げにみまもる夫妻を尻目に、冷蔵庫や台所まわりをさがし、さらに三つの金属をさがしだした。食卓テーブルのちかくでも、居間の周囲でも四つを発見した。 「このまわりは、これで大丈夫でしょう」といった。 「いったい、なんなのでしょうか」と利一が聞いた。 「集音器です。盗聴されています。このあたりは、これでいいとして、ほかの部屋もみてみましょう」 山下は、点滅する器具をもって二階の寝室や書斎、さらに三階もしらべて、一〇の集音マイクをみつけだした。背後でみている夫婦には、よく分からなかったが、たしかにぴかぴかと光がつよくなった部分から、部品がみつかるようにみえた。 山下は、部屋の調査が終わると、テーブルのうえに、発見した一九の集音マイクをおいて、だれが設置したのかは不明だ。おそらく前田耕二が住んでいたころに、配備されたのだろうといった。 山下のしていることは、手品みたいなものだった。しかし、後ろでずっとみていた夫妻には、たしかに家具からとりだしたようにもみえた。 山下は、この家には壁をのりこえては侵入できない。隣家の屋根からつたってくるのも無理だ。入るのはいいが、脱出時に隔壁をのりこえることはできない。壁には、靴の跡がひとつもない。玄関前は、感知センサーがいいところに配備されている。あの警備会社は、レベルが高いから信頼できると説明した。 「それでは、私か妻のどちらかが起こした狂言だと思うのですか」 利一は、納得がいかない表情で聞いた。 「そんなことは、いっていません。問題は、あの扉でしょう」と山下は答えた。 「だって、あれは外部からあけられないのでしょう」 「そうともかぎりません」 山下は、点滅センサーをもって夫妻といっしょに庭にでた。庭園灯などで、いくつかの集音マイクを発見した。そしてアテネ女神の盾につけたセンサーは、有効ではないといった。この像がどんな意味をもつのか不明だが、ここに立っているのには理由があるのかも知れない。いずれにしても銅像内からは、妨害電波がでている。それが分からなかったのは、警備会社のミスではないと話した。 「ちょっと、証明してみましょう」と彼はいった。 山下は、扉から外にでると、内がわからロックするように声をかけた。彼が外がわにいくと、利一は扉口の鍵をしめた。 「いいですか」と山下の声が聞こえた。 利一がそれに答えると、ガチャガチャとノブがまわる音がして扉があいた。 浜田夫妻は、ひどくおどろいた。信じられず、利一は外にでて鍵をしめてもらって試したが、自分ではあけることはできなかった。方法を教えて欲しいと彼は頼んだが、山下は首を振った。そのかわりに、もう一度やるといって、外にでた。利一がしっかりとロックした扉を、彼はすぐにあけて入ってきた。 山下は、この扉口を使用できないようにするのがいいといった。具体的には、ノブのちかくの壁に金属をとりつけ、扉を固定することを提案した。それから、三人で部屋にもどって話しあった。 山下は、狐につままれた表情のふたりにむかって現状を報告した。 集音マイクは、だれが配備し、傍受していたのかは不明だ。あの扉から、侵入してきた者も分からない。これはあきらかに家宅侵入罪で、嫌がらせの範囲を逸脱している。とはいえ警察に通報しても、ノブに付着した指紋から犯人を割りだすことはできないだろう。だいいち、あの扉が外部から開放可能だとは、分からないだろう。だからこの状態で通報すると、浜田夫妻のどちらかの仕業と断定され、その後、さらに悪化したばあいにも相談にはのってくれないだろう。もしかすると、エルグランドに傷がつけられたのも、関係しているのかも知れない。二ヵ月まえに引っ越してきた浜田夫妻が、怨恨をもたれるには限界がある。部落の者たちは羨望しているのだろうが、それだけでは、ここまではしないだろう。この屋敷のまえで、いくら張りこみをつづけても無意味だろう。隔壁の扉を固定すれば、防御としては充分だ。それでも敷地内に侵入する事態が起これば、内部犯行としか考えられない。いずれにせよ、菜園にわざわざ痕跡をのこす理由は判然としない。マイクが仕掛けられていたのは、事実だ。夫妻が暮らしはじめてからも、盗聴はつづいていたと考えるべきだろう。理由は分からないが、扉口を塞いでしまえば、この警備システムをやぶって外部から敷地内に侵入する事態は起こりえない。 浜田夫妻は困惑し、薄気味悪い話だと思った。 山下を、どこまで信じていいのかも不明だった。彼が、集音マイクをつぎつぎととりだしたときには、手品だろうと思った。盗聴される理由もなかったから、新手の詐欺師かも知れないと考えた。しかし扉が簡単にあけられたのは、目の当たりにした事実だった。マイクが本物なら、夫妻が話しあったことが、だれかに傍受されていた可能性は否定できなかった。ふたりで話していた内容は、近隣の恨みを買うものではないだろう。しかし、すでに夫妻は、周囲の状況が不詳になっていた。浜田夫妻がそんなつもりではなくとも、被害妄想の者が聞けば、刺激的な話題がなかったとは断言できなかった。 利一は、挨拶まわりをしたときに、だれかが、隔壁の扉は外部からあけられるといっていたのを思いだした。思いついたことを、なんでも滅茶苦茶に話していると感じたが、なかにはかなり正しいものがあるのかも知れない。そう考えて言明の内容を思い起こすと、彼らは事実と違う話をひとつもしていないと思われた。 夫妻は、邸宅の以前の居住者だった前田耕二が、過去に周囲の者たちと揉めごとがあって、隣人たちに怨恨をいだいていたらしいと聞いた。耕二の死因についても、近隣の噂と野上の話は違っていると話した。 山下は、これ以上調査するのなら、前田耕二と周辺住民との過去を洗うことになるといった。 知って、どうできるものでもなかったが、理加子は、事実関係の解明を希望した。 費用は、相談から今回の出張費、前田家と周辺住民との確執の有無。また、近隣の者たちが似ているという後妻の前田優子の写真。彼らが話している理加とは、いったい何者なのか。さらに扉がひらかないように器具を設置する作業をふくめ、総額一五万円で依頼することになった。 山下は、その日のうちにホームセンターで部品を購入し、電動ドリルを持参して、扉口を壁に固定した。ノブとのあいだに針金と木材を通し、扉を開閉不可能にした。 四、悪魔がみる夢 浜田利一は、今日も三階のアトリエから世界をみおろしていた。 盛夏に入った早朝の奥多摩は、素晴らしい緑が、色合いをさらに濃くしていた。夏のつよい日差しがスポットライトになって照らすと、木々の葉はすべてが印象に変わり、色彩に震えながら一期一会の輝きに満たされていた。このみえるかぎりの世界は、彼のものだと感じられた。いま、利一が眺望する領域。どこまでも重なりつらなる緑の山々、くっきりと宙に浮かぶ富士をふくめて、目に映るあらゆる事物が彼の支配下に存在していた。利一は、三六〇度にひらかれた展望室に立って、自分の全能感を噛みしめていた。高みから四方の下界をみおろす彼は、まさに神とよぶに相応しかった。 扉があく音が、室内にひびいた。理加はちかくにやってくると、彼の首に両手をまわした。はげしい口づけをして舌を絡ますと、豊かな乳房を利一の胸につよく押しつけた。緑の黒髪が彼の頬にあたり、しっとり湿った唇が首筋をつたっていった。彼女は状況に関わりなく、利一にいつでも劣情を引き起こそうとしていた。それが、自分の役目だとでもいいたげだった。 利一は、理加に手をひかれて扉をあけ部屋に入った。大きなキングサイズのベッドのうえには、劣情をうみだす、さまざまな色合いのショーツが散乱していた。ネグリジェの下には、なにもつけていないのが分かった。彼女が挑発しているのだと、利一は理解した。彼は堪らなくなり、理加をだきあげると荒々しくベッドに横たえ、思いのままに愛しはじめた。彼女も、あたえられた刺激にたいして、はげしい反応をくりかえした。 朝の行為が終わると、利一は、理加について考えはじめた。 山本末吉の不審死が知らされ、警察官が事情を聞きに浜田家をおとずれた。それで理加子と話しあい、前田耕二について野上に聞いてみようという話になった。六月の終わりに野上不動産をふたたび訪問し、警備会社を紹介された。それから、警備の担当者が浜田家をおとずれるまでの、ほんの二、三日のあいだに、利一はこの部屋を発見した。 近隣の者たちから、屋敷に隠し部屋があるとは聞いていた。思いついたことを、つぎつぎに話す彼らの話を、すべて鵜呑みにしたわけではなかった。しかし利一は、この邸宅にはなんでもあるのだろうと思った。隠し部屋があるとすれば地下で、扉はガレージにつづいているのだろうと考えてさがしてみたが、みつけることはできなかった。 その秘密の部屋を、利一は三階のサンルームで発見した。扉をあけると、思った通り、理加がベッドで待っていた。この部屋は、ひどく風変わりだった。扉は三つあったが、ひとつは三階のアトリエにつづいていた。別のドアをあけると、二階の廊下にでた。これらが、どう構造的につながっているのか考えても、彼には謎だった。 ここには、キングサイズのダブルベッドがおかれているから、二階、北がわに位置する利一の寝室に間違いはなかった。自分の寝具も衣類もみつけられるから、おなじサイズのベッドが備えられた別の部屋ではなかった。理加子の寝室は、書棚と机がついた二階の南がわだった。夫妻は、一〇年以上もまえからダブルベッドでいっしょに寝る関係ではなかった。ふたりは、たんなる共同生活者で、すでにセックス・パートナーという間柄ではなかった。邸宅に引っ越ししてきたときから、夫妻は別々の寝室をつかっていた。たがいに干渉せず、自分の部屋で思い思いに夜をすごしていた。 二階につくられた利一の寝室だから、ひとつの扉は吹きぬけをとりかこむ廊下につながっていた。三番目の扉口をぬけると、地下室におりることができた。実際にいってみると、地下空間は、噂どおりものすごくひろい場所だった。正確には、ふかいというべきだろうと彼は思った。利一には全容が理解できないほど広大で、理加がだれにも気づかれずに暮らしていても、まったく不思議とは思えなかった。天井は、みあげるほどに高く、地下にも関わらず一部には庭園がつくられ、最深部には核シェルターまで備わっていた。とはいえ複雑すぎて、利一は、自分ひとりでは地下室におりることもできなかった。理加につれられてしか、いけなかった。もちろん、彼女がいなければ迷ってしまい、でられなくなる可能性すらあった。地下は奥ぶかく、出入り口も不明で、利一が探検したいと思う場所でもなかった。だから彼が理加と暮らしていたのは、三階のアトリエと二階のベッドルームだった。 利一は、寝室から廊下にでて、リビングにおりることができた。また逆に、廊下がわの扉をあけて入室するのも可能だった。ただ廊下から入ったばあいは、理加には会えなかった。彼女と密会するには、アトリエとして使用している三階のサンルームの扉が必要だった。理由は分からなかったが、ここには重大な意味があった。理加子は、利一の寝室に入ってきても理加とは会わなかった。もちろんふたりは、妻に隠れて逢い引きをする間柄だから、いつでも部屋の鍵はしっかりとかけられている。 その途中で、理加子が扉をたたいてよべば、利一はあけることになった。彼が妻の存在に気がついた瞬間、理加はこつぜんと消えてしまう。仕組みについては、まったく分からなかったが、おそらく地下室にいったのだろうと、利一は考えていた。理加は、理加子がいるのを知っていた。しかし、ふたりは直接は会ったことがないはずだった。 すくなくとも理加子は、理加を知らないだろう。彼女が寝室に侵入してきて逢い引きが中断されるのは、もちろん利一にとって愉快ではなかった。 「用があるなら、インターフォンをつかって欲しい。とくに急ぎでもないのなら、寝るために寝室にいるのだから、起こさないでくれ」 利一は、仏頂面で理加子につげることになった。 ふたたび理加に会うには、サンルームにのぼって秘密の扉をあけなければならなかった。そうすると彼女は、挑発的な姿態でベッドに横たわっていた。 理加は、この邸宅の事実上の持ち主だった。近隣の者たちが話した通り、ここには若い女が暮らしていたのだ。彼女は、この屋敷に精通し、どこにでもあらわれることができた。といっても、理加子がいるところには、意図的に顔をださなかった。地下室に、立派な居間や食卓をもっている彼女にとって、一階は無意味な場所だったのだろう。理加は、必要がないからいかないだけだった。彼女は、秘密の通路をつかい、大理石の浴槽には利一といっしょに入っていた。 彼は、山下が邸宅内でマイクをさがしていたとき、新手の詐欺だろうと思った。集音マイクをみつけたのは、どこから考えても手品としかいえなかった。トリックだから、観客の意表をつくものだった。利一がどこから考えても、夫妻には盗聴までされる理由はなかった。山下は、前田耕二のために仕掛けられたマイクがのこっていたと説明したが、飛躍がありすぎると感じた。しかし隔壁に付属した扉を、目の前であけたとき、利一は仰天した。理加子もいっしょに確認したので、夢をみたのではない。現実に、開閉できるに違いなかった。 つまり山下は、トリックをつかって仕事を受注するにしても、馬鹿ではないのだ。そうなると、なぜサンルームだけは集音マイクがないと、彼はいったのだろうか。探偵という役柄、どこかに秘密の臭いを感じたのだろうか。もしかすると山下は、サンルームにマイクをあらたに仕掛けたのではないか。あるいは、みつけても取り外さなかったのだろうか。いずれにせよ山下は、利一の周辺をさぐっているのだろうか。なんらかのうごかぬ証拠をつかんで、強請るつもりなのだろうか。 山下は、トリックをつかって隔壁に設けられた扉をあけたのだろう。しかし、一般人にできるとは思えなかった。警察官にも分からないだろうと、彼はいっていた。方法は教えてはくれなかったが、なにかのマジックで、特殊な道具をつかったのは間違いなかった。多数の集音マイクをとりだしてみせ、浜田夫妻が外部の何者かに監視されている錯覚をあたえようとした。山下は、野上を褒めていたから、ふたりはおなじ地元の出身で、仲間なのかも知れない。前田耕二の死去とも、関わりをもっていたのだろうか。案外、彼が以前に、この邸宅に集音マイクをつけた可能性も否定できなかった。山下が屋敷を知っていたのは、事実なのだ。なにもないところに火種をつくって、需要をうみだすのが、彼の仕事なのだろう。 山下は、菜園をあらした犯人が内部の者だと確信しているのだろう。理加子が怯えているのは一目瞭然だったから、やったのは利一だと思ったに違いない。そう話せば夫婦の騒動に発展し、それ以上の仕事はない。探偵業務は、三万円で終わってしまう。だから、扉をあけてみせたのだろう。さらに一連の言明は、利一にたいする警告でもあるのだ。今回、厳重に扉口を隔壁と結びつけたのだから、物理的にも完全に外部と遮断した。もう器具をつかっても、扉はあけられない。それでも菜園をあらされるなら、隔壁をのりこえての侵入は不可能だと宣言した以上、利一の犯行と断定するのだろう。ワンクッションをおくことで、一五万円をせしめたのだろうと彼は思った。 理加が、前田耕二の愛人だったのはあきらかだった。前田が不必要にも思える大きな屋敷を建てたのは、後妻の目を隠れて、若い女を住まわせるためだった。優子には、この仕掛けが分からなかったのだ。現に、理加子も知らないのだ。 豊満な姿態をもつ理加は、淫乱だった。前田は、情欲のはげしい彼女を満足させられなかったのではないか、と利一は思った。 前田耕二は、この部落に邸宅を建てた。まわりを高い隔壁でかこって、みおろすだけではすまないふかい怨恨をもっていたのだろう。それが具体的にどんな事件なのか、山下はある程度まで調査するに違いなかった。前田耕二の兄の死とも関係をもつのだろうが、利一には、ほとんど興味のない出来事だった。いずれにしても耕二の怨念は、それだけでは収まらず、自由にできる若くて綺麗な女を、山田と池田にみせびらかそうと思ったに違いない。理加は、その道具としてつれてこられた。彼女こそ、邸宅以上に羨望の的になったに違いなかった。理加をみて、周囲に住む男たちがどれほど嫉妬したのかは、想像に難くなかった。 前田は、思いのままに恨みを晴らせたに違いなかった。はげしい羨望を、日ごと、ひしひしと感じたのだろう。二年たっても、周囲の家の男たちは、うつ病になったり寝こんだりしているのは事実なのだ。 いっぽう淫乱な理加は、前田耕二では満足できなかったのではないか。野上や山下とくんで、彼を嫉妬に狂わせ、憤死させたのではないか。周囲の者も、なんらかの加担をした可能性もある。 山本末吉は、そうしたひとりではないのか。今回、末吉が理加子と誤解して、その経緯を喋ると、ひどく問題だったのではないか。それで、彼は消されたのかも知れない。 利一は、理加がひどく危険な女であるのは、よく分かっていた。 すべてを理解したのではないが、彼女は、理加子を精神的に追いつめようとしていた。菜園をあらしたのが理加だと、利一はすぐに分かった。もしかすると、理加子のお気に入りのエルグランドにふかい傷をつけたのも、彼女ではなかったのか。スーパーマーケットの防犯カメラに写っていたのは、ほんとうに男だったのだろうか。男性と考えたから、不審人物としかいいようのない山本末吉に目がむかった。犯人は、灰色のスニーカー靴を履き、同系統のズボンとトレーナーを羽織っていた。マスクをして、サングラスをかけていた。背丈は、ちょうど理加くらいだった。あんな攻撃的な行為は、女の犯行とは普通は思わない。男だろうと、つい思いこんでしまう。グレーの帽子は、ながい髪を隠すために被っていたのかも知れない。彼女は、思考の盲点をついたのだ。思い起こすと、修理工場の小柄な整備工も、灰色の服をきた女性だった。それに、グレーの帽子をかぶっていた。彼女は、理加だったのかも知れない。整備工は、山本末吉の話も意味深にしていた。いかにも、同一人物と考えてもいい言動だった。もしかすると理加は、いろいろな形で利一たちのまえに出現しているのではないか。ふたりが、気がつかないだけだったのではないか。彼女は、二ヵ月間以上も利一にも知られずに、サンルームとつながる部屋に隠れていたのだから、外部にでられないと考えるのは早計だった。 理加は、すべてが謎につつまれていた。ほとんど不明といってもよかった。だいいち、はじめは、前田耕二の愛人だから四〇歳だろうと考えていた。それがいつのまにか、二〇代の後半になった。いまでは、いくつなのかは、まったく分からなかった。挑発的な豊かな乳房と臀部、魅惑的な太腿、それに不自然と思えるほど括れたウエストをもつ彼女は、とても一〇代の女性ではありえなかった。その一方で、ひどく童顔で、清純な、乙女にもみえた。 山下は、集音器を探索してサンルームまでのぼってきた。三階では、なにも発見できないといった。彼は、画架にかかった理加の裸像をながめて、ひと言、シュールだと評した。 「旦那さんは、面白い絵を描くのですね。豊満な姿態をもった、少女の裸像ですか。マグリットにも、こんな構図があった気がしますが」といった。 その言葉を聞いて、利一は山下が美術にも趣味ももっているのだろうと思った。 中学校で美術教師をしていた浜田利一は、女子中学生という不思議な生き物に、くりかえし困惑した。聞き分けが悪く、考えられないほど保守的で、不穏で感情の起伏がはげしく、挑発的で男だか女だかも分からない。それでいて、瞬間的にひどく魅力的に思える仕草をみせることもあった。セックスを感じる対象でもなく、そんな気持ちになれないほどあつかいにくいにも関わらず、ときに、途轍もなくセクシーだった。ひどくおどろいたことも、一度や二度ではなかった。優秀で真面目な教諭がふしだらな事件を起こすが、決して人ごととは思えなかった。彼女たちは、あきらかに挑発していた。ほんとうのところ、なにを希望しているのかも分からない、不詳な生き物がまわりじゅうにいたのだ。 理加は、不穏で、挑発的な女子中学生にもみえることがあった。 美術部でながいあいだ顧問をしていた利一には、忘れられない女生徒がいた。中学一年のときからクラブに入ってきた娘だった。絵の才能があると感じて熱心に指導していたが、女性だと意識したことはなかった。ずっとそう思って、容姿のととのった真面目な女生徒として接していた。中学三年生になり高校への進学も決まったころ、部室で彼女が描いた絵について褒めた記憶があった。経緯は不明だったが、そのとき彼は、女生徒とふたり切りだった。娘は、とつぜん利一を愛しているといった。意外な言葉におどろいて彼がみつめなおすと、生徒は考えもしなかったほど美少女で、このうえもなくセクシーで、思わずみとれてしまうほどだった。彼女は、あきらかに利一を挑発していた。たとえ口づけしても、拒否されそうにも思えなかった。 そのとき、思わず利一は震えた。前年、おなじ地区の中学校で、中年の教諭が女生徒に不適切行為をしたという理由で解雇されていた。いま彼女は、まるで利一のすべてをうけいれる用意があるようにみえる。しかし明日にはすっかり気が変わって、告訴する可能性も、おなじくらいありえるのだ。彼は、生唾を飲みこみ、なにも聞こえなかった素振りで部屋をあとにした。その美少女の名前が、梨花だったと思いだした。いまやふたりは、完全に混じりあっていた。 そもそも理加は、野上不動産で会った少女とも同一ではないのか。一度目は、利一が理加子とともに、この屋敷の購入をみあわせようと思って野上ビルにいったときに出会った。二度目は、菜園をあらされ、前田耕二について事情を聞こうと考えて不動産屋にむかうと、ひとりで階段をおりてきた。どちらも平日の午前中で、生徒が学校以外にいる時間帯ではなかった。だいいち、ふたりが同一人物なのかも不明だった。出会ったのは、利一の思い違いではなかった。理加子もいっしょに目撃したのだから、間違いではなかった。どちらも、赤い服をきて、緑色の人形をかかえていた気がした。少女は、なにかを囁いていた。二度とも、おなじような言葉だった。ただ階段をおりてきて、利一に一瞥をあたえることもなく、夫妻のあいだを歩いていっただけだった。とても言葉では表現できない奇妙さが、印象としてのこっていた。一度目は、小学生にも思えた。二度目は、あきらかに中学生だった。利一の脳裏で、この娘は梨花と重なっていった。最初は、中学一年生のときに美術部に入ってきた、なにも感じさせない彼女だった。つぎに会ったのは、とつぜん愛を告白した中学三年生の梨花ではないのか。利一は、あきらかに彼女に、心をうばわれたのだった。一歩すすんだら身の破滅が待っている、美少女への禁断の愛に耐えたのだった。しかし、いまなら我慢する必要もないのだと彼は思った。 利一は、理加が罪を犯したとしても、もう別れることはできなかった。理加子は共同生活者だったが、彼女は大切なパートナーになっていた。すべてが分からないにせよ、利一には、妻よりも必要な女性だった。理加と理加子が、鉢あわせにならないで暮らせる以上、彼はこの状態でもかまわなかった。必ずしも、妻が目障りで邪魔だとは思わなかった。しかし探偵までつかって菜園をあらした犯人を特定しようとするなら、問題が起こるに違いなかった。やがて山下は、理加をみつけるだろう。秘密の通路を発見し、彼女を追いつめるのではないか。 しかし、理加は、またやるのだろう。 彼女は、ぞくぞくするほど危険な女なのだ。前田耕二の死も、理加が関わっていたのは間違いなかった。彼女が野上を誘惑し、前田を死に導く手助けを依頼したことは、充分にありえるだろう。理加は、そのくらいは平気でやりとげるに違いなかった。 利一には、彼女の希望がなんなのかまったく不明だった。とはいっても、彼にはすべてがどうでもよかった。なぜなら、ついに理加を発見したのだ。 利一は、満ち足りた生活をおくるうちに、あきらかに不足している部分をみつけだした。花婿は、花嫁の夢をみない。幸福な人びとは、妄想などしない。空想は、満たされない現実を補償しようと試みる。彼は、欠けていた部分を、自らの妄想によって埋めていった。 この邸宅がどんな意図と経緯で成立したものであっても、完全に俗世から切り離されていた。利一は、屋敷の住人になって、ようやく一般社会からぬけだすことに成功したのだ。世俗とは、不特定な人の目を気遣い、無意味なしがらみに捕らわれ、不必要に常識的で、自由な発想や奔放な行動を制限する機構だった。だれが決めたのかも不明な規範や秩序という仕掛けに縛られ、穏健さが望まれる世界だった。もはや若いときの公正や正義の観念はうせ、理想は消失していた。彼のまえには、一般人が容易には入りこめない未知の荒野がひろがっていた。 山下は、二週間ほどたって、ある程度の情報があつめられたといって浜田夫妻をたずねてきた。食卓の椅子に腰をおろすと、彼は話しはじめた。 まず、前田の後妻は優子という。耕二とは、三つ年下だ。山下は、最近とったというの写真をみせた。優子は、現在五七歳の女性だった。若づくりでもなく、理加子とは、どこから考えても似ているとは思えなかった。 前田耕二の死因は、大動脈瘤の破裂だったといった。死去した場所は、三階のサンルームだと考えられる。だいいち発見者は、妻の優子だった。彼女は、前日から港区の実家にいっていた。夕方に帰宅して、耕二がいなかったので不審に思って、サンルームまでのぼった。そこで、前田耕二が意識もなく倒れているのを発見した。救急車ではるが丘総合病院に緊急搬送され、不審死だったので病理解剖が行われた。剖検の診断名が、大動脈瘤破裂だった。死亡推定時刻は、前日の昼ごろだった。この病気は、予兆もなく、とつぜん生じることがあり、他者が意図的に引き起こせるものではなかった。警察も、これ以上、捜査の必要性を感じなかった。生命保険も問題なく支払われている。この出来事は、これ以上、調査する対象ではなかった。 突然死で救急搬送されたのだから、野上は、事件を知っていたと考えるべきだろう。しかし病死だったのだから、不審死とは異なる。野上がこの件を浜田夫妻につげなかったのは、縁起が悪いと判断したからだろう。病死なら、どの家にでも生じうる。死んで空き家になるばあいは、かなり多いに違いない。だから正直に話さなかったと、野上を責めても仕方がないだろう。問いつめても、彼は知らないと言い張るに違いない。事実、その可能性もありえる。屋敷を売却するにあたって、前田優子が不利な情報をつげなかったとも考えられる。野上は、前田耕二が死んだ話以上は聞いていないと答えるだろう。知らなければ、不動産を仲介できないということにはならない。こうした、あまり好ましいとはいえない情報は、おそらくこの屋敷の値段に反映されているに違いない。そうした形で、突然死の分は、売買価格に織りこまれていると考えるべきだ。すくなくとも死に事件性がない以上、売買契約をすませた物件にたいして仲介業者の瑕疵を争っても勝てるとは思えない。どうしても不服なら、野上と話しあってみるのもいいが、彼が知らなかったというのなら、弁護士に相談しても無駄だろう。 「なにか、この件について、話したいことがありますか」と山下は聞いた。 屋敷の価格が極めて安かったのは、事実だった。夫妻にとって気分のいい話ではなかったが、値段がこうした事情をふくんでいるといわれれば、不当ともいえなかった。あきらかな自殺や不審死ではない以上、仕方がないとしか思えなかった。 意外な言明だったので、よく考えてさらに疑問があれば、また相談にのって欲しいと利一は答えた。 山下は、前田家にまつわる因縁の噂話をはじめた。 「八方、手をつくしてさまざまに調査しましたが、普通の人が、充分に納得がいく話にはならないのです。明快な筋道が、どうしても理解できません。さらにしらべるといっても、どこから情報をえられるのか。いまのところ、見当もつきません」とまず話した。 前田耕二の兄は、前田亮平という。この部落はふるくから、前田、山田、池田の六軒でつづいてきたらしい。山田保一と池田義通は、現在六二歳だが、前田亮平とは同年だった。この三人は、小学校から、中学校、高等学校まで同級生だった。さらに、山田洋二と池田哲也は、現在六〇歳だ。彼らは、前田耕二と、小学校から高等学校にいたるまで同級生だった。耕二の没年は、五八歳になる。 もともとこの屋敷がある敷地に、前田亮平と前田耕二の家屋が別々に建っていた。だから、六軒の部落だった。亮平は、三二歳のとき、一家心中している。妻と幼い子供を殺害し、ここで縊死したらしい。亮平が首をつったのは、自宅の庭らしい。調査した資料から考えあわせると、ちょうど、いま銅像が立てられているあたりになるのではないか。 前田耕二は、二七、八で結婚したが、先妻とのあいだには子供はいなかった。亮平の事件時、耕二は三〇歳だった。このときに、東京に転出した。同時期、奥さんと離婚しているが、先妻の消息は分からない。耕二は、首都圏で飲食店を経営し、商才があって事業に成功して財をなした。五六歳のとき、三歳ほど年下の優子と再婚した。結婚のころに、この屋敷の建設をはじめている。五八歳のときに、ここにやってきて、半年くらいで病死した。耕二には、係累はいない。両親は、とうの昔に亡くなっている。 肝腎の亮平の死に関しては、曖昧な情報しかえられない。当時、彼が重度のノイローゼ状態だったのは、間違いない。耕二は、亮平が山田家と池田家に呪い殺されたと考えていたらしい。両家の呪いによって兄が一家心中をしたと思い、隣家をふかく恨んでいた。それで恨みを晴らすために屋敷をつくり、後妻とともにこの地に錦を飾ったのだろう。 「全貌が分かりませんので、一部は憶測をふくんでいます。総合しますと、前田亮平は、悪魔教の信者だったらしいのです。山田と池田の兄弟も、絡んでいたらしいのです。当時、この部落で、少女の失踪事件が起こっています。それが、彼らの儀式と関わりがあるという噂も耳にしました」 山下はいって、腕をくみ、しばらく考えていた。だされたお茶を飲み、緑の枠の眼鏡を外して両指で目頭を押さえた。 「山本末吉さんを、ご存知でしょう」と彼はいった。 浜田夫妻が不審げにうなずくのをみると、つづけた。 「彼は、この先の廃校のちかくにある、納屋で生活していたらしいのです。どうやら、そこで縊死したようです。彼は、五二歳です。非常に風変わりな人間で、精神的にもおかしかったのでしょう。部屋には、緑色のテディベアしかありませんでした。縫いぐるみをだいて寝る中年男は、ソドミーを夢みているといいます。どうやら、失踪したのは、彼の妹で、当時、中学生だったらしいのです。ながい髪の女の子で、赤い服がよく似合ったと聞きました。三つ編みの、お下げにしていたという話も、耳に入ってきました」 山下の言明は、本人がいう通り要をえないものだった。 山本末吉の妹の失踪と、前田、山田、池田の三家、五人の男が関わっていた、みょうな信仰と関係があるらしい。少女は、結局、行方不明のまま、捜索にも関わらず手がかりはなかった。悪魔教の儀式で生き贄にされたという風説が、まことしやかに語られていた。その件で三家に仲違いが生じ、無理心中事件を起こした前田亮平に罪がきせられた。亮平の同級生だった山田保一は、現在うつ病になっている。耕二と同い年の池田哲也も、おなじ病気を患っている。これらが、関係しているという話もある。これ以上は語る者もなく、調査ができない。 野上が、この話をどのくらい知っていたかは不明だ。おそらく、だれも語りたがらないものだから聞いていなかったのではないか。貧しい部落に、隔壁にかこまれた飛んでもない邸宅があるのは揺るがしがたい事実だろう。この状況は、だれがみても普通ではない。相当に怨念じみた事件があっても、不思議ではない。とくに野上に肩入れするわけではないが、不動産の仲介者は、売り主が話す以上のことを知りうる立場にはない。さらに調査して、売買時に売り手に詳述せねばならない義務も権利も、もっていないだろう。また耕二の妻の優子が、どの程度、過去の事件について理解していたのかも定かではない。これも、仲介業者の野上に瑕疵があるとするのは、難しいだろう。こうした事件も、おそらく不動産価格に織りこまれていたに違いない。 「分かったのは、こんなことですが、その後、変わった出来事はありましたか」と山下はたずねた。 どれも、夫妻にとっては、ピンとこない話だった。ただ、山本末吉がなんらかの関係をもつというのは、無気味だった。アテネ像がおかれているところが、前田亮平の縊死した場所というのも、不思議な雰囲気を考えれば、なんとなく了解可能だった。また山本末吉の妹が、中学生のときに失踪したという話は、さらに無気味だった。ふたりは、野上不動産のビルから階段をおりてきた三つ編みをお下げにした少女を思った。中学生にみえる娘は、赤い服をきて、赤色の枠の眼鏡をかけ、緑色の人形をかかえていた。 「大丈夫よ。心配しないで。みんな、私がやってあげるから。大丈夫よ。なにも心配することはないわ」とくりかえしながら、階段をおりてきた。それが、二度も出くわした。 緑色は、人形の色だった。いま山下がしている眼鏡の枠も、緑だった。峠で会った、赤いスポーツカーにのった意味不明な筋ものみたいな男は、三つ揃えの緑色の背広をきていた。さらに亡くなった山本末吉が、かかえて寝ていたという人形の色でもあるらしい。 いったい、こうしたものが、どういう具合に関係しているのだろうかと利一は思った。 「山本末吉さんの妹の名前は、なんというのですか」と理加子は聞いた。 「それがですね」 山下は、いいよどんだ。無気味な雰囲気が、理加子を襲っていた。 「理加、なんですか」と彼女は聞いた。 「ずいぶんしらべたのですが、山本末吉の妹の名前は分かりませんでした。どこに葬られたのかも特定できませんでした。失踪あつかいになっていました。写真も、手に入れることができませんでした。この理加という人が、何者なのかについては、まったく不明です。近隣の者たちが、どういうつもりでいっているのか、かいもく理解できません」 山下は、額に右手をそえながら答えた。 浜田利一は、サンルームから下界をみおろしなが、考えていた。 この屋敷は、あまりに周囲から際立っていた。そのために、なにかプリズムのようなものが、備わっている気がした。それによって、内部にいる者が、外部をみるときに偏光され、偏向される。逆もまたおなじで、たがいに、なにがほんとうだか分からなくさせている。利一は、まわりにいる人間たちが時々刻々変化してみえる。きっと、外部の人びとにとってもおなじなのではないか。 理加は、山本末吉の妹だったのだ。彼女は、過去の因縁からこの屋敷の住人になったのだろう。前田耕二は、理加がここに暮らしていることを知って、邸宅をたてたに違いなかった。彼女と、愛の生活に溺れるためだった。それは、近隣の者たちが、よく知っている通りなのだ。山下は、理加の存在に気づいたに違いなかった。彼は口にださなかったが、あきらかに、末吉の妹が山本理加だと知ったのだろう。 利一は、失踪とは、現実に死んでいるのかと聞いた。 山下は、不明だと答えた。すくなくとも、法律的には死亡しているといった。つまり、は理加がここで生きているのに、彼は気がついたのだろう。 前田耕二は、この部屋で突然死したことになっていた。大動脈瘤破裂は、ネットで検索すると、高血圧症や肥満症が原因だとかかれていた。部落の山田や池田の家の者は、高血圧や糖尿病に罹患していると聞いた。池田義通は、脳梗塞で寝た切りだと、妻の直江が話していた。耕二が病気で自然死だったと山下はいったが、理加がなんらかの手段を用いたのではないかと利一は思った。 近隣の噂話では、かねて関係があった野上と共謀して、前田耕二を死にいたらしめたと話していた。よく考えてみると、彼らは、理加の愛人たちと複数で語っていた。つまり、野上と山下は、そうした者に該当するのではないか。 理加は、はげしい情欲をもっていた。高血圧や糖尿病に罹患すると、ポテンツが低下するとかかれていた。前田耕二は、彼女を満足させられなかったに違いなかった。この見知らぬ地で不審な部外者がたずねてくるのなら、隣人たちが見逃すはずはなかった。彼らの目は、警備会社の最先端のセンサーよりもずっと精密なのだ。どんなに高性能な感知器でも、興味や嫉妬までもって観察はしない。彼らがおかしいといったのは、出入りをみかけたのではないか。運転できない彼女は、野上や山下の車にのりあわせていたのだろう。 となりでいっしょに下界をながめていた理加は、利一の耳もとに唇をよせた。甘い声で、「愛している」と囁いた。豊満な姿態をもつ理加は、いまや美術クラブにいた梨花と完全に合一していた。一五歳の彼女は、肌がこのうえもなく綺麗な細面の美少女だった。理知的な瞳と、聡明そうな白い額をもっていた。利一のすべての願望を備えた、ひどく魅力的な女性に変身していた。梨花は、彼が心のなかでずっと憧れていた一五歳の美少女だった。 利一は、禁断だった女生徒との情事を楽しんでいた。彼は、淫乱な梨花を思いのままにあつかっていた。彼女は、心から利一の愛撫を希望していた。その気持ちに応えられなければ、梨花が裏切る事態も想定しなければならなかった。背徳な領域にまで踏みこんだ利一の欲望は、とどまるところがなかった。これ以上は考えられないほど彼女が満足しているのに、彼は充分な手応えを感じた。 山下が隔壁の扉口を閉ざしてからは、梨花は、自己の存在をあきらかにしようという挑発的な行為を控えていた。外部からの侵入にたいし、屋敷は完全に閉鎖された状況になった。もう一度菜園をあらすなら、梨花の仕業だと山下はみぬくに違いなかった。そもそも彼は、すでに疑っているのだろう。だから一般的には開閉不能な扉を、わざわざ完璧に遮断したのだろう。梨花は、山下の挑発にのるほど愚かではなく、利一の気持ちも慮れる余裕ももっていた。 問題なのは、あきらかに理加子だった。彼女は、しばしば車を運転してでかけていた。どこにいくのかは、分からない。聞いても、気分しだいみたいな話をくりかえすだけだった。不動産屋の野上公夫と、ラインを交換しているともいった。実際に、その現場を居間でもみたから、始終連絡しあっているのはたしかだった。おそらく、山下幹男ともラインを交換し、会っているに違いなかった。もともと野上と山下は、理加と共謀して前田耕二を死に追いやったのだろう。動脈瘤の破裂が意図的には引き起こせないとしても、彼らは耕二を憤死させるくらいはできたのではないか。共謀して逆上させ、もともと高かった彼の血圧を、上限まで引きあげた。その結果、動脈瘤の破裂が起こったのではないか。なんらかの手段を用いた可能性は、否定できなかった。 利一は、死んだ現場がサンルームというのは、そもそもみょうだと思った。三階の展望室という設定は、死亡後しばらく発見できなくても不思議ではない場所だろう。後妻の優子が外出している時間に殺害し、サンルームにはこべばいいのだろう。山下の話は、あきらかにこうしたながれにそっていた。 サンルームは、このうえなく好都合な場所だろうと利一は思った。耕二は、完全に息が途絶えるまで、ここに放置されていたと主張できる。検死し、解剖までして、死亡病名が確定しているのだから、ある程度不審な部分があっても、さらに追求はできないのだろう。 前田耕二が死ねば、後妻の優子は、この邸宅にひとりでは住めないし、その理由もないだろう。そうなれば、彼らが屋敷で密会するのは容易だろう 。野上は、この不動産を処分しないでいたのだろう。最初に連絡をとって屋敷に入ったとき、非常に綺麗だった。人が住んでいても、おかしくないほどだった。 この邸宅は、もともと一億三〇〇〇万円といっていた。それが、七〇〇〇万円まで値引かれた。さらに、六〇〇〇万円、四〇〇〇万円と安くなり、最後は三七〇〇万円までさがった。なぜ、こんな投げ売りをしなければならなかったのだろう。 野上は、前田優子に疑われていたのではないか。なんとしても一度、この不動産をだれかに売らねばならなかったのではないか。屋敷の売買手数料など、どうでもいい額ではなかったのだろうか。 そう考えた利一は、この邸宅を購入するにあたって、野上が非常に親切に振る舞ったことが、とても奇妙に思えた。彼は、白を黒に変えても、浜田夫妻に売却しようとした。なぜ、これほど親切だったのか不思議だった。これが曰くつきの物件で、優子が手放したかったのは理解できた。野上も一度売却する必要があったのかも知れない。 野上公夫は、ピアノが趣味だといった。ピアニストになろうと考えて留学までしたらしい。そうなら趣味人で、もともと財産家で、仕事は父親から引き継いだのだろう。もしかすると彼は、もっと屈折した人間ではないのだろうか。浜田夫妻を邸宅に住まわせ、隣人たちとの悪戦苦闘をみて楽しんでいるのかも知れない。山下幹男も、おなじ種類の人間だったのかも知れない。結局、さまざまな手法を駆使して、騒動を煽っていただけなのだろうか。 「この世をつくったのは、決して神さまではない。悪魔が、人間たちが苦しむのをみて楽しみたいと考えて、創造したのだ」 悲観的な哲学者の言葉が、利一の脳裏に浮かんだ。 だから、どうしても入居させたかった。もしそうなら、探偵の山下がでてきて一件落着とは、ならないのではないか。そもそも野上とは、協力して仕事をする仲間なのかも知れない。すくなくとも、たがいに重宝に思っているのは間違いない。山下は、野上を決して悪くはいわなかった。 山下探偵が、この部落の因縁話を調査し、披露して、さらに利一と理加子がどんな反応をするのか、面白がってながめているのだろうか。一連の話は、立ちいるほどに不安になるようにつくられている。だから、これで終わりではないのだろう。このままでは、あまりに中途半端だ。 野上は、理加子を洗脳しているのかも知れない。情事の対象になって別れてくれるのなら、それでもかまわないと利一は思った。彼女は、もうすっかりあがっているから無理ではないのか。とはいっても彼は、理加子にたいしては情欲を覚えないが、女性に興味をうしなったわけではなかった。もしかすると彼女も、利一以外なら感じることもあるのだろうか。山下は、よくテレビにでてくる不細工で、ドブネズミみたいな探偵というイメージとは違い、好男子だった。 そう考えて、利一は、山下幹男が理加子の完全な好みだと思いあたった。 山下は、知的な好男子で、ややアウトローだった。趣味人でありながら、行動力をもち、世間に縛られていなかった。もしかすると理加子は、山下に恋心をいだいているのかも知れなかった。それは彼女の自由だったが、彼はその気持ちを利用するかも知れない。 彼らは、この家を舞台に、さらにあらたな不幸をうみだそうと考えているのではあるまいか、と利一は思った。もしかしたら理加とおなじく、妻は、野上や山下の入れ知恵をうけて、夫を亡き者にしようと画策しているのではないか。 理加子は、この不思議な話に夢中になっていた。 山下が、扉口を閉鎖してから菜園の被害はなかった。だからといって、犯人が隔壁の扉からやってきたとは思えなかった。しかし、菜園をあらして、いったいだれが利益をえることができるのだろうか。こうして動機を考えること自体が、この問題をいっそう複雑にしているのかも知れない。犯人は、たんなる愉快犯なのではないか。しかし、この事件は山本末吉の死と、どこかで結びついているのだろう。殺人まで起きたのなら、とても愉快犯ではいられない。 考えるほど、録画画面を操作できるのは夫妻にかぎられていた。理加子がしていない以上、可能性をもつ者は、利一ひとりだった。真意は不明だが、彼は、隣人たちからの孤立や屋敷がかかえる不可解さにたいして無頓着にみえた。サンルームをアトリエにして、以前のモチーフとはまったく違う、みょうな絵画を描いていた。 理由は分からなかったが、利一は、理加子を邪魔だと考えているのかも知れない。意味不明だが、そうとしか思えない態度をとられることがしばしばあった。殺意までとはいかなくても、菜園をあらした彼は、理加子を狂わそうとしているのではないか。彼女は、気が違っているのではないから、利一がおかしいのだ。 山下幹男が、ピアノを弾いていた。ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」が、暗い室内にながれていた。アップライトのピアノには、天井からのスポットライトがあたって黒く光っていた。 理加子は、野上公夫から山下がジャズピアノを演奏しているバーがあると聞いた。いってみたいと話すと、彼の出番の日につれてきてくれた。 そのとき野上は、山下の経歴についていくつか理加子に教えた。 山下幹男は、もともとピアニストだった。いまの探偵事務所で、ピアノ教室もやっていた。両者は、ひどく領域が違うように思えるが、ピアノを趣味にする家庭は、比較的裕福なため不倫も多いので商売として成り立っていたらしい。現在はコロナの影響もあり、ピアノ教室はやめていた。山下は、週に二回ほどこのピアノバーで演奏することになっている。とはいっても、彼は時間に縛られるのが嫌いで、気分がのらないと約束の日にもこないばあいがあると、野上はいった 演奏が終わると、場内は拍手につつまれた。青い三つ揃えを着用した山下は、黒いサングラスをかけていた。しばらくすると、彼は理加子のテーブルにやってきた。 「素敵だわ。山下さんは、さまざまな才能をもっているのね」 「なにをしても中途半端で、評価されるまでにはいたらないのですよ。理加子さんみたいな方ばかりだと、いいのですが」 山下は、水割りを注文した。理加子がアイスティーを飲んでいるのをみると、代行業者におくってもらったらいいのではないかといった。彼女は、またの機会にすると答えた。 「私も、ピアノを習いたいわ」 「弾くなら、やはりグランドピアノがいいですね」 山下は、理加子の家にあるピアノが最高だ。各部屋に防音設備が備わり、吹きぬけの大空間で弾くと爽快な気分になれるといった。 「それでは、週に一回くらい、家で教えていただくわけにはいかないのかしら」 「それは、かまいませんが。曜日は、たがいの気分にあわせて、不定期でもいいのなら好都合です」 山下はそういうと、黒いサングラスを外した。彼は、野上とおなじ五〇歳くらいだった。髪をみじかくしていたが、ハンサムで知的な印象をあたえた。 「月謝は、いくらくらいかしら」 「一回、五〇〇〇円でいかがですか」 「それなら、ぜひお願いしたいわ」 理加子は、微笑んでいった。 山下は、時間はいつでもかまわないのかとたずねた。 理加子は、彼の都合にあわせられると答えた。 それから、利一の話題になった。 理加子は、夕食の時間以外は、夫は三階の部屋で夢中に創作活動をしていると話した。 山下は、利一の絵をみたといった。ひどく、変わった絵画だった。その後は、どんな絵を描いているのだろうかと聞いた。 理加子は、利一が三階の部屋に鍵をかけて閉じこもっている。最近は、なにを描いているのかは知らない。しかし、定期的にカンバスや絵の具を通信販売で購入している。創作意欲が、ひどく高まっているのだろうと話した。 「その後は、変わった出来事は起こっていないのですか」と山下は聞いた。 理加子は考えて、家ではとくべつな事件がないと答え、 「扉が固定されたので、外部から侵入ができないのね」と口をひらいた。 「そうだといいのですが」と山下はいった。 理加子は、どういう意味かとたずねた。 山下は、自分がやった通り、扉をあけて外部から屋敷に侵入することはできるといった。しかし、あの鍵は特殊で、施錠した状態ではしめられない。扉口からでていくとき、ロックがかかった形にしておくのは不可能だ。そうなると、外部の人間ができることには限界があるだろう。総合的に判断するなら、利一が菜園をあらしたと考えるしか手立てがない。なぜ、そんなことをするのか、まったく分からない。理加子を怖がらせて、どんな利益があるのか見当もつかない。愉快犯とは、とてもいえないだろう。それ以上の動機が、あるのだろうか。以前、アトリエで非常に風変わりな作品を描いているのをみた。いまも、あんな絵画の創作をつづけているのだろうか。あの絵は、ふたつの別な思考が、彼のなかでひとつに結びついている気がする。しかし、あまりにも違うもの同士なので、うまく調和して結合することができないのだろう。なにか、心に問題があるのかも知れない。犯罪者の思考は、現実と非現実の境界が曖昧になっているばあいが多い。そうして、自分が誇大妄想に浸っているのに気がつかなくなる。意識がひずむと、なにが現実なのかも不明になるのだろう。利一が絵画の教諭をしていたなら、絵心をそそる女生徒でもいたのだろうか。豊満な肉体は、男のエロスが目指すひとつの終着点だろう。性的な対象とはならない中学生の女生徒と、エロチックで肉感的な姿態を、強引にくみあわせようとしている。あの絵には、不思議な魅力と、同時に怖さがあると話した。 「今度、連絡しますから、レッスンの予定を立ててください」と理加子はいった。山下がうなずくのをみて、いろいろと相談にのってくれたことに感謝して、バーをでた。 自宅への帰路、運転しながら理加子は猛烈な不安を感じた。 彼女が家に帰ると、九時ちかかった。インターフォンで、アトリエに帰宅したことを知らせたが、利一は「分かった」と答えただけだった。 理加子は入浴し、二階の寝室で横になった。得体の知れない不安を感じ、自分の部屋の鍵がかかっているのを確認した。 翌日の午後、はるが丘のスーパーで、理加子はレジにならんでいた。順番がくると、髪のながいレジ係は、彼女をじっとみた。不思議な視線を感じてみなおしてみると、係員は灰色のトレーナーを着用していた。 会計が終わると、レジ係は、「今日は、エルグランドは、大丈夫ですか」と聞いた。 理加子は、はっとして、つぎの客に対応しているポニーテールの係員をみつめなおした。もしかすると、この女にも嫌疑がかかったのではあるまいか。エルグランドの事件は、山本末吉の死をふくめて、さまざまな噂になって、はるが丘でもひろがっているのだろうか。伝手がない浜田夫妻の耳には、入ってこないだけかも知れないと思った。その瞬間、理加子はみょうな気持ちになって、そばのテーブルに買い物籠をおいて、振りかえってレジ係の後ろ姿をみた。 係員は、灰色のズボンで、同色のスニーカーを履いていた。理加子が、さらによくみると、なで肩ではなかった。彼女は、思考が混乱した。理加子は、もう一度レジにちかづいて、まじまじと係員をみつめた。レジ係は、視線を感じたのか、顔をあげた。口の周囲には髭が生えていた。喉仏がみえ、間違いなく男だった。彼女は、脳裏が真っ白になった。 理加子が帰宅して、購入してきた食材を冷蔵庫にしまっていると、インターフォンが鳴った。モニターには、ネット通販の配達員の姿が映っていた。また、利一が画具を購入したのだと分かった。理加子は玄関をあけ、もってきてくれるようにいった。 小柄な配達員は、グレーの帽子を被っていた。灰色のパーカーをきて、同系色のズボンをはいていた。カンバスと思われる大きな段ボールをもっていた。 「いつも、すまないわね」と理加子は声をかけた。 「お届けものは、またカンバスです。こんなにたくさん、なにを描かれるのでしょうね」と配達員はいった。 「主人に聞いておきますね。大きくて、申し訳ないわね」 「私のほうは、仕事ですから」と配達員はいって帽子をとった。 そのとき、肩までの黒髪があらわれた。 「毎度、ありがとうございます」と彼女は頭をさげた。ながい髪が、地面にむかってたれていた。 理加子は、ぼうぜんとなった。玄関をしっかりしめて、インターフォンで利一をよんだ。 「なんの用だ」と声がした。 「カンバスがとどいています。とりにきてください」 「分かった。いまいく」と利一はいった。 理加子は、階段をのぼっていった。踊り場でおりてくる利一とすれ違った。彼女は、三階にまであがり、鍵があけられたアトリエの扉をひらいた。 中央にイーゼルがおかれ、奇妙な裸婦像がのっていた。中学生くらいの少女が、理加子をみつめていた。しかし彼女は、おどろくほど豊かな乳房をもっていた。大きくひろげた左右の大腿は、くびれたウエストとみわけがつかないほどの太さだった。サンルームの周囲は、五〇枚はあるに違いない、おなじ構図の絵で埋めつくされていた。おり重っておかれた豊満な姿態をもつ裸婦像は、どれも少女の容貌だった。女生徒の黒髪は、三つ編みだったり、ながかったりしていた。 理加子は、目眩を感じた。 彼女は、画架におかれていた絵画をかかえて、階段をおりていった。踊り場で、段ボールに入ったカンバスをもってあがってくる利一と会った。 「あなた。いったい、なんなの。この絵は」 理加子は、大声でいった。 「シュールだろう。マグリットも、こんな絵画を描いていた気がする」 「あなた。この女性は、リカ、じゃないの」 「なにをいっている。おれは、理加には会ったこともない。アトリエで下界をみおろして、浮かんだイメージを描いたものだ」 「まったく嫌らしい。これは、宮沢梨花でしょう」 「それは、だれだ」 利一は、彼女をじっとみつめて聞いた。 理加子は、ほんとうに忘れたのかといった。彼が不審な表情になっているのをみると、大きな溜め息をついた。利一は五五歳のとき、中学三年生の女生徒にたいして不適切な行為をしたといった。 「あなた。すっかり忘れているの。信じられないわ」 「なんの話だか分からない」と彼は答えた。 利一は、絵画指導と称して梨花とふたり切りになったとき、彼女の胸をつかみ、強引に口づけしようとして大問題に発展した。それで彼は、美術部の顧問をやめねばならない事態が起こった。非難した梨花の両親の自宅まで、浜田夫妻は謝罪にいった。利一は、とつぜん目眩が起こって、そばにいた生徒にしがみついたのが、偶然にそういう形になったと空々しい弁解をした。梨花は、卒業式も終わっていた。正確には、移行期で中学校の生徒とはいえなかった。希望した有名高校にも、進学が決まっていた。将来のことを考え、梨花の両親も騒動を望まなかったので、なんとか穏便にすんだが、状況しだいでは解雇もありえた。なぜ、こんな危機的な話を失念しているのか分からないと理加子はいった。 なおも彼が不明な表情をしていると、彼女はつづけた。 利一は、宮沢梨花が一年生で美術部に入ってきたとき、「可愛い子が入部してきた」といっていた。 「ずっと、あなたは執着していたわ。くりかえし梨花の話をするので、私が、注意しないと人生を棒に振ると、いったのを忘れたの。あれだけの事件を起こして、いまだに女生徒のことを考えていたのね。なんて嫌らしいの。狂っているわ」 そういうと、理加子は自室からナイフをもってきた。 「こんな絵を描いて、勝手に嫌らしい妄想にふけって、いい年をして恥ずかしくないの。山下さんも、みょうな趣味だといっていたわ。この絵をみて、あなたが夢想に浸っているのが分かったのよ。なんて、みっともないの。恥ずかしいわ。こんな絵、一枚、すてられないのなら、切りさいてやるわ」 理加子は、手にもったナイフで絵画を切ろうとした。 「やめろ」と利一は叫んだ。 彼は、理加子の右手をつかんだ。利一は両手をつかって、彼女の手からナイフをとりあげた。理加子は、左手でつかんでいた絵画をもちあげ、階下にむかってほうりすてようとした。利一は、自由になった左の手と腕をつかって、彼女の胸を力いっぱい押した。理加子はよろめいて、バランスをうしない階段を落ちていった。 段差は、直線になって踊り場から一階までつづいていた。 理加子は、ながい階段を三回転くらいしながら落下していった。 ぼうぜんとながめていた利一は、彼女が階下でうごかなくなったのをみて真っ青になった。一階におりて、理加子に声をかけ揺すったが、意識はなかった。外傷は不明だったが、彼は、彼女の頭部が階段と幾度もぶつかる場面を目撃していた。 利一は、すぐに救急通報した。救急車がやってくるまでのながい時間、よびかけにも応じない理加子をみながら、すべてが夢のような気がした。前田耕二も、こんな具合に転落したのではないかと思った。この家は、こうして住人たちが結論に辿りつくまで、煽りつづけるのではないか。今回こんな形にはならなくても、いずれ似たような決着がつかざるをえなかったのではないか。この家が周囲から離脱し、浮かびあがっているかぎり、安定とは無縁なものなのだろう。不安定な状態を、ずっとつづけてはいられない。いつかは、持続可能な姿に、落着するのだろうと思った。 救急車がくると、救急隊員のよびかけに理加子は応じた。朦朧としていた彼女は、気がつくと猛烈な痛みを訴えだした。理加子は、担架にのせられ、はるが丘総合病院に搬送された。見知らぬ医師たちと看護師が入れ替わり立ち替わりおとずれ、さまざまな検査が行われた。 担当になった医師は、レントゲン写真をみせ、理加子の大腿骨頭が両脚とも骨折しているとつげた。頭部には異常がなく、幸いに頸椎損傷もしていないといった。元気だったのだろうが、年齢相応に骨密度が減少している。両がわの人工骨頭置換術が必要で、術後は車椅子生活になる可能性が高いといった。さらに三メートルにわたって階段を落下して、レントゲンでは骨粗鬆症による脊椎骨の圧迫骨折もみとめられる。経過をみて、追加の処置が必要になるかも知れないと話した。最終的には、車椅子生活ができればいいが、状況によっては寝た切りの可能性も排除できないといった。 理加子は、手術後転院して、リハビリをうけた。努力したが、自力歩行は困難で車椅子をつかう生活となった。二ヵ月後に退院したが、通院に不便な屋敷に住むこともできず、利一が介護するのも容易ではなかった。手をつくしてさがし、ようやく八王子に介護施設をみつけた。屋敷とは、距離的に離れすぎているので、彼は施設のちかくにアパートを借りた。 理加子は、意識障害にはならなかったが、やつれて別人に変貌していた。若やぎ年齢を感じさせなかった彼女は、すっかり老女に変わっていた。ただひとつ幸いなことは、理加子は夫が二階の踊り場から突き落とした状況を、経緯とともに忘却していた。 利一がアパート暮らしをはじめるためには、家具が必要だった。以前もっていた家財は、屋敷に入居するにあたって、すべてすててしまっていた。邸宅にある家具は、立派すぎてつかえなかった。彼は、安物を一揃い購入しなければならなかった。利一がひとりで暮らすためにも自家用車が必要だったが、エルグランドは大きすぎた。維持費も馬鹿にならないので、彼は、軽自動車が適切だろうと思った。 以前、車を売却した中古車センターにいってみた。利一が売った軽自動車が、売れずに店頭にでていた。値札は、三〇万とかかれていた。利一は、事情を話し、価格をさげるよう交渉したが、店長は手をくわえたからこれ以下にはならないと頑強に主張した。みるかぎりではいちばん安かったので、煩悶しながら彼は三〇万で購入した。エルグランドは売却も考慮したが、もしかしたら自分たちのように、この車を目当てに屋敷を買おうと考える者がいるかも知れない。車検をしたばかりだったので、しばらくは様子をみようと思った。 野上と会って屋敷の売却を依頼すると、希望価格がいくらなのか聞かれた。 利一はしばらく考えて、 「まずは、一億でしょうか。いろいろありましたから、五〇〇〇万くらいになるといいのですが、それ以下でも相談に応じます」といった。 野上は、できるかぎり希望にそえるようつとめると答えた。 利一は、神妙そうに話す不動産屋の姿をみて、この家で起こった出来事を購入希望者につたえることは、絶対にできないだろうと思った。そのとき、はじめて野上の立場もすこし分かった気になった。一概にひどいと考えるのは、自分の非を他人になすりつけようとしていただけではないのかと、彼は思った。 数日後、利一は屋敷を綺麗に清掃し、不必要と思えるものはすてた。必要な荷物だけを段ボールに入れ、軽自動車につんで扉をしめて家をみあげた。白い邸宅は、緩やかに吹く爽やかな晩秋の風のなかで、透き通った日の光をあびて燦然と輝いていた。 鉄製の門扉につけられた売却希望の札が傾いていたので、利一は溜め息をつきながら真っすぐにした。 軽自動車にのって、はるが丘にむかうと峠がみえた。 利一は、駐車スペースに車をとめた。扉をあけて外にでると、すがすがしい秋の風が吹いていた。利一は、駐車場のすみまで歩いて道祖神のちかくにすすんだ。男女二体の障の神をながめていると、背後で猛烈なエンジンの音が聞こえた。振りかえると真っ赤なスポーツカーが、峠をこえて屋敷にむかって走りすぎていくのがみえた。運転席には、緑色の背広をきた男性がのっていた。髪を後ろに縛った男は、野上にも、山下のようにも思えた。 ふたりは似たような名前だと、そのとき、はじめて気がついた。野山と上下がくみあわさっていただけだった。いったい、自分は、ここでなにと遭遇したのだろうか。彼らに困っていることを相談して、とても親切に対応してもらった気がした。しかし、ひとつも安心をあたえてはくれなかった。ふたりは、自分たちを、さらに不安に落とし入れただけだったと思った。 利一は、後ろ姿を目で追いながら、今回、起こったこと、すべてが夢だったと感じた。そのとき、理加子の菜園をあらしたのが自分だったと気づいて、はっとなった。そして平穏に妻と暮らしてきたことを、ずっと悔やんでいた自分自身に気がついた。 利一は、劇的な人生を、ながいあいだ希望していたのだと思った。 人とは違う、非凡なものを。つまり自分は、不幸を望んでいたのだと確信した。 はっきりと希望したのではなかったが、彼は、結果的に理加子を加虐していた。事故とはいえ、実際に彼女を突き落とした。前田耕二の兄、亮平の死と関与した近隣の者たちとおなじことをしたのではないか。ある意味、この部落の一員になる資格をもった。だから、ほんとうは、ここに住む権利をようやっとえたともいえたのだろう。 利一は、どんな老後に変わっても、充分な金銭的な余裕があると考えていた。しかし理加子が施設に入居するためには、多額の金銭が必要だった。アパートを借りたり、車を再購入したり、さまざまな出費が重なっていた。考えはじめると、屋敷を保有するのは、固定資産税さえ払えばすむ話ではない。雑草もある程度きちんと刈らなければ、文句がでてくるに違いない。ピアノと自動車は売れるだろうが、家屋は年々傷んでくるのだろう。最終的には、建物をとりこわす費用も考えねばならない。あれだけの屋敷なら、かなりの額になるに違いない。更地にしても固定資産税はかかり、さらに絶対売れなくなる。家をもっていることによって発生する不利益は、どこまでもつきまとう。 考えはじめると、自分の老後は不安だらけだった。このまま、いくつまで耐えていけるのだろうか。どこかで、自己破産してしまうのではないのか。利一は、なんらかの仕事をみつけて、いくらかでも稼いだほうがいいのではないかと考えはじめた。 つまり、彼はたいへんに高価な夢をみたのだと理解した。 利一は、道祖神を刻んだ石像をぼうぜんとながめながら、なおも考えていた。 この像は、無病息災を願っているのではない。夫婦は元気そうにみえるが、実は病をかかえている。それは、老いという疾病なのだ。この病気をかかえながら、ふたりで暮らすというのが幸福のモチーフなのだ。どこから、年老いたのかは分からない。いくつからとは、明確な決まりはないのだろうが、自分たちは無病息災ではなかったのだ。 それは、うしなってはじめて理解できるものに違いなかった。 悪魔がみる夢、二四六枚、了、