こぶをすべる 由布木 秀 一 こぶの達人 退職後、北山碧人が妻の佳奈子と移り住んだ街には、スキー場がふたつあった。県北の「黄金岳」(こがねだけ)の山麓には、小さなゲレンデがつくられていた。そこから山道を二〇分くらいのぼった山頂には、立派なスキー場があった。碧人と佳奈子の夫妻がシーズン券を購入してかよっていたのは、老朽化した山麓のゲレンデだった。 滑走距離四〇〇メートルのみじかい第一ペアリフトは、いちおう毎日開放された。山頂までいく八〇〇メートルのながい第二ペアは、雪がふると乗り場がかんぜんに埋まってしまい、職員が総出で掘りだしても半日くらいはかかった。その作業も週末にむけては努力するが、平日には気力もでないらしくほとんど放置されていた。そもそもこのスキー場は南斜面につくられ、三月に入って日があたり一部に土があらわれると、あっという間にシーズンが終わりになった。のこっている場所から雪を移動させ、埋めてながく業務をつづけようという意志も、とくにみられなかった。シーズン券は安いが、楽しめる期間も一月からはじまり三月なかばまで営業できれば上出来だった。 北海道の過疎地で長年医療に従事してきた碧人は、このスキー場に既視感をもっていた。道内の各町村は、自治体としてスキー授業を行うためにゲレンデがひとつは必要だった。夜になると、アルペンの少年団がナイター設備をつかって練習をする。自由な部活動にも思えるが、こうしてアリバイ的に利用していないと、すぐにスキー場の不要論が浮上してくる。近年は、どの町村も少子化に遭遇している。議会では廃止して予算を削りたいが、選挙で票をえるには一方的に押し切ることもできず、こまっている施設だった。こうした事情から、権利ではなく義務として少年団に入ってアルペンを練習する子供がでてくる。あきらかに、日本の農村がもつ宿命的な問題のひとつだった。 山麓のスキー場は、かなりふるくからあるのだろうと碧人は思った。おそらくスキーがブームになる以前に、このゲレンデはつくられたのだろう。むかしは降雪量も充分にあって、ここも賑わったに違いなかった。いまでも正月や祝祭日には、平日には開放されない大きな駐車場が満杯になるらしい。ゲレンデの下方にひろがる林は、橇遊びには楽しい障害物にかわるのだろう。地方ニュースで、人びとで賑わうスキー場の映像がながれるのをみた記憶もあった。 しかし平日は、数える程度しか利用客がいない。幼稚園のバスが何回かとまっているのをみたことがあるが、橇遊びをするらしい。一時間くらいで帰っていくが、園児には思い出にのこる楽しいレクリエーションになるだろう。だから平日の大口客は、自衛隊の演習だった。このときばかりは、ゲレンデ各所に隊員があふれることになった。彼らがはく、ながくてほそいスキー板はエッジがあるのかどうも不明だった。隊員は迷彩服をきていたが、実務では白色の雪原に溶けこむ状況も考えるのか、どれも白い板だった。自衛隊員は目にうつる誰もが筋肉質で、力ずくでスキーを操作している感じにみえた。 このゲレンデの最大の利点は、絶対に混雑しないことだった。自衛隊が演習していても、順番をならぶ事態はほとんど起こらなかった。リフトは、いつでも彼らを待っていた。 北山碧人は、混雑が大きらいだった。それが嵩じて、僻地にいって医療をするまでになった。すこしのぼれば大きなゲレンデがあるのを知りながら山道を往復で三〇分かける手間をきらい、人気がないのを「絶対善」として、平日は毎日このスキー場にかよいつめて三シーズン目のことだった。 二月になると、第二リフトにむかう左の端にこぶがつくられた。ながさは一五メートルくらいで、四本ほどみつけることができた。三シーズン目で、はじめての発見だった。とくに禁止の札もでていなかったので、すべってみると格好はよくないものの、なんといっても緩斜面でしかも距離がみじかいのでおりることができた。碧人は佳奈子と第二ペアリフトをのりながら、スクールに入ってあのこぶのすべり方を教えてもらおうという話になった。 このスキー場にも、スキースクールが併設されていた。平日はほとんど日参したが、実際に教えているのをみたのは一度くらいしかなかった。第一と第二リフトの乗り場のあいだにつくられたふるぼけた建物に看板がでていたので、スクールがあるのは目についた。クローゼットスタイルの受けつけが、戸外に面していた。碧人が往復の途中でのぞいてみると、人はけっこういるように思えた。 道北の過疎地で暮らしたので、スクールの雰囲気にも既視感があった。農村では、指導員の多くは農家の者たちだった。仕事がなくなる冬場に、ほかにやることもないのでスキーをして暮らしていた。彼らは日々肉体労働で鍛えているので、身体もがっちりとしたつくりだった。筋力もあり打ちこめる環境もそろって、上達して指導員の免許をもっている。スキースクールは、そうした指導員たちの溜まり場だった。どうせ生徒なんてこないからストーブをかこんでお茶を飲みながらすき勝手な話をくりかえし、暇をもてあます冬の一日を暮らす、いうなれば生活の知恵だった。おそらく、ここのスクールも似たような社交場だろうと碧人は確信していた。 ふたりは、教えてもらえるなら、このこぶを滑走してみたいと話しあった。 「第二リフトのまえにある不整地をすべりたいのですが。そういう希望にも対応してくれるのでしょうか」 北山碧人は、窓口の男にたずねた。 チケット売り場の担当者は、教えるのは可能だとこたえた。そして、碧人に五回券の購入をつよくすすめた。五枚綴りのチケットを買えば、六回目の授業料が「ただ」になるといった。碧人は一度教えてもらわないと、つづけて受講するか判断できないとこたえた。担当者は、レッスンをはじめれば五回くらいはあっという間だ。どうせなら、これにしたほうがいいといった。 かなりしつこい勧誘に、碧人は五枚綴りを買えば家内といっしょに利用できるのかときいてみた。担当者は、どういう意味かとききかえした。今日は家内とふたりで受講するから、五回綴りを購入したばあい、券を二枚つかえるのかときいた。窓口の男は、五回券はひとりにたいする割引で複数の者での利用はできないとこたえた。 碧人は、一回券をふたり分購入した。ゼッケンをわたされ、すぐにレッスンをはじめるといわれた。妻の佳奈子とスクールの背番号をつけると、指導員らしいふたりの男が小屋からでてきた。 ひとりは小柄で、もう片方はかなり背がたかい男性だった。どちらも肉づきがよく、がっちりとした体格だった。小柄な男が、準備体操をするといった。それで碧人と佳奈子、指導員の四人で、スクールのまえでかなり入念なストレッチをくりかえした。それが終わると第一リフトにのって、終点にいった。ゲレンデには、誰ひとりいなかった。イニシアチブをもつらしい小柄な男がコースをすこしおりたので、碧人と佳奈子はついていった。背のひくい指導員は、ゲレンデの真ん中でカービングスキーの講釈をはじめた。 自分のスキー板をぬぐと、立ったまま力をこめて板をたわませながらいった。 「うえから真っすぐに圧力をかければ、自然とターンができる。そういうぐあいにつくられているのだから、それ以外の操作は不必要だ。このスキーは、一九九〇年代に開発された。カービンとは、ほる、切る、という意味だ。彫刻刀で、雪面をまるく切りとっていくイメージといってよい。この板はトップとテールの幅がひろく、センターはほそくつくられている。斜面にたいして角づけするとスキー板がたわみ、エッジが静止時のサイドカーブより、さらに小さい円弧を描きながら雪面に食いこむ。以前の板では、なだらかな大きな円をつくるだけだった。迅速なターンを行うにはテールを横にすべらせて方向をかえる必要があり、ある程度のながさがないと高速での安定性を確保できなかった。カービングスキーでは、ターン時のスピードがアップするため、板は二〇センチくらいみじかくてもよくなった」 ゲレンデには、四人しかいなかった。だから真ん中でなにをやろうが、人の迷惑にはならなかった。二月のいちばん寒いころの晴れた日で、誰もいないゲレンデはみるからに寒々としていた。弱いながらも風がふく無人の雪面に立っていると、碧人は心の芯から凍ってくるのを感じた。なぜ、こんな話をゲレンデの中央で金をはらってきかねばならないのだろうか。どうしても講釈したいのなら、せめてスクールの小屋のなかでするべきではないのか。そもそもこんな話につきあう者はいないから、ひとりで灯油ストーブにむかって心行くまでやればいいのだ。己の欲望に他人を巻きこむのは、愚かしい。 碧人は、一回券でやめておいたのがせめてもの救いだと思った。案の定、それからカービングターンの練習になった。碧人は、自分の技量に問題があるのは知っていた。いままでに、くりかえし一級をうけて合格しなかったのはまぎれもない事実だった。自分のスキーが客観的にはかなり不充分らしいという認識はもっていた。 二回目のカービングターンの練習が終わって、碧人は背のひくい男といっしょに三回目のペアリフトにのった。そこで、今日の講習の主旨がこぶをすべることだと主張した。そうした約束でレッスンをもうしこみ、受けつけの者から要望にこたえるときいたから受講したのだと話した。 男は、あのこぶをつくったのは自分だといった。彼としては、満足できない不出来なものだ。まずは、間隔がせますぎる。こぶ同士も、もっと距離をあけるべきだった。四本つくったが、三本でやめておくべきだった。問題が多いから、あそこをすべるのはすすめない。いずれにしても、ああいう場所を滑走するには今日の練習が必要なのだといった。 碧人は、それは分からないわけではないとこたえた。自分のすべりに問題があるのは理解している。しかし今日はあのこぶをすべる講習を依頼し、窓口の者が可能だとこたえたから受講になった。カービングスキーの練習が目的ではないといった。 「しかし、製作者が不満足だと考えるこぶをすべらすわけにもいかない」 「それなら、滑走禁止の立て札でも立てたらどうなのですか」 「緩斜面だから、基礎ができていなくてもすべれるのかもしれない。いずれにしても、教えるのにも充分なこぶではないのだ」と男はいった。 リフトは降り場につき、そこから誰もいないゲレンデでカービングターンの練習をしてコースをおりた。斜面をくだると講習の終了時間までまだ一〇分くらいあった。かなり不満げにしている碧人をみて、小柄な男はもう一度やるかときいた。彼が、もういいですとことわるとレッスンは終了した。 講習をうけて、北山碧人は不愉快になっていた。 自分に技量がないのはある程度理解していたが、ニーズにまったく対応しないスキースクールのレッスンのあり方にも疑問をもった。ここに何回かよっても、受講者の気持ちにはよりそわないだろうと確信した。 道北の過疎の冬を思わす寂寥とした雰囲気につつまれたこのスキー場の光景は、どちらかというと碧人の好みで決してきらいなものではなかった。山頂に大きなゲレンデがあるのは、知識としてもっていた。以前に一度、日曜日にでかけてものすごく混雑した記憶がやきついていた。コースはいくつもあるらしかったが、休日だったのでメインコースはひどく混みあっていた。ボーダーが多く、背後から予測不能な形で出現し、かなり飛ばすので碧人の脳裏では都会のスキー場というイメージができあがっていた。頂上にむかうクワッドリフトを二〇分も待たねばならなかった印象がのこって、山道を運転する気力がなかった。 碧人は、第二ペアリフトにのりながら明日は道をのぼって山頂のスキー場にいってみようと佳奈子と話しあった。彼女は、すべれればこだわりがなかったので賛成した。 北山碧人がスキーをはじめたのは、佳奈子と結婚してからだった。結婚時に彼女がだした希望は、年に一度はスキー場につれていくことだった。碧人は、できるように努力するとこたえた。佳奈子が北海道北部の過疎地域で地域医療をしたいといった夫に文句もいわずについてきたのも、ちかくにスキー場があったからだった。 碧人は中学時代は陸上部に所属し、長距離を走っていた。オリンピックで日本が活躍してブームになった器械体操をしていた時期もあった。やせ型だったが、持久力には自信をもっていた。スキーは、子供のころ狭山につくられた人工スキー場に一度だけつれていってもらったことがあった。とくに、すきでもきらいでもなかった。運動全般については苦手意識はなく、どんな種目でもやれば人並みにはできるだろうと思っていた。 ふたりは結婚してから主に東京を中心とした首都圏に住んでいたが、スキー場にいくのはたいへんだった。自家用車で苗場方面を目指すことが多かったが、往復には猛烈な混雑に遭遇した。いこうと思えば、朝の四時には出発しなければならなかった。九時まえに目的地について九時から三時間すべり、一二時には帰路につかないと月夜野周辺で大渋滞に巻きこまれた。 スキーは、佳奈子の趣味だった。彼女は、身体をうごかすスポーツがすきだったが、球技にたいしてはげしい劣等感をもっていた。中学生のころに軟式テニスを懸命に頑張った時代があった。本人としては早朝の練習にも積極的に参加し、かなりの努力をかさねたが試合になるとミスがでて勝てなかった。テニスはダブルス競技だったので、失策の影響は彼女ひとりにとどまらなかった。ペアを組んだ仲間にはもちろん、団体戦もあったので全部員に責任を感じ、精神的にも鬱屈した。佳奈子は、他人と競いあわず、結果を気にする必要のないスポーツを希望した。スキーはかんぜんな個人種目で、ゲレンデで誰かにぶつかっていかないかぎり人に迷惑はかからなかった。成績をまったく気にしないで楽しめるゲレンデスキーは、彼女にとって最高のスポーツだった。 大学時代、佳奈子は山形蔵王スキー場のスクールに、毎年二週間ほど合宿していた。そこで知りあい、いまだに交際をつづけている友人も幾人かいた。彼女にとって蔵王は、とくべつな思い入れがある懐かしいゲレンデだった。 佳奈子は、子供を四人うんだがすべて天秤座のうまれだった。 彼女は、天体観測も趣味のひとつだった。道北の過疎地でも夜に子供たちをつれて小学校の運動場にいき、マットをひき、ならんで寝そべって空をみていた。晴れた日は周りにほとんど光もないので、満天の銀河が輝いていた。天の川は、天空のなかで周囲とはあきらかにことなる稠密な領域だった。個々の星をみわけられないほど数多の星々が集積するさまは、彼女に感動をあたえた。冬にも使いすてカイロを幾枚も下着につけ、スキーウエアをきこんで寂寞とした運動場で星座観察をすることがあった。雪もふらない新月の夜、肌がしんしんと凍ってくるなかで冴え冴えとした満天の銀河の美しさは格別だった。帰宅後、すぐに風呂に入ってもマイナス一〇度の大気で冷えきった身体が暖まるまでにはかなりの時間が必要だったが、彼女には余りある価値をもつ体験だった。 天秤座は、夏に南南東の夜空に輝く。善悪をはかる天秤は、正義の女神、アストレアが手にもっている。占星術がうまれたころは、この星座に秋分点があったとされる。太陽がここにくると、昼と夜のながさがちょうどおなじになったので天秤という名がつけられたといわれる。乙女座と蠍座のあいだにあるこの星座について、佳奈子はとくべつな思い入れをもっていたわけではなかった。 天秤座うまれは、暦からは九月二三日から一〇月二二日までの誕生日にあたる。この時期に子供をうめば、スキーにはまったく影響がでなかった。産後でも、年があければ問題なくすべれた。妊娠しているのが分かっても、四月はじめのシーズン終了まではジャンプだってできた。とくに病気にもならなかった彼女は、中学時代からスキーシーズンを一度も無駄にした経験がなかった。 碧人は、佳奈子の趣味につきあってスキーを楽しんでいた。怖がりでもなかったのでスピードにもつよく、銀世界のゲレンデを疾走することに爽快さを感じた。 碧人は北海道で生活した二〇年間、ほとんど唯一のスポーツとしてスキーをやったが、上達にはつながらなかった。知りあいの指導員から、すべり方をずっとならっていた。仕事は多忙だったが毎年教えをうけ、「一級に合格できる」といわれて年に幾度か受験をくりかえしたが、現実にはうからなかった。 「なぜ、なのでしょうね。試験で実力がだせない人がいるのは事実です。そういう人たちをどう評価し、一級に合格させるかはいつも話題になるのです」と教えてくれた指導員はくりかえしいった。 これが、どういう意味だったのか、碧人には不明だった。退職後も、指導員の発言をくりかえし思いだした。考えるほど、彼には分からない言葉だった。 碧人が校医をしていた高等学校の教頭先生は、一〇歳くらい年うえのスキーの指導員だった。背がたかいやせた紳士で、趣味の登山でつちかった屈強な身体をもっていた。車でやってきて、となりの市にある大きなゲレンデにつれていってくれた。 教頭は、「スキーは、うまくならなくても楽しめる」と碧人のすべりをみて助言した。 それで、新雪のすべり方を教えてくれた。もちろん道北のゲレンデだから、これ以上はのぞめないというほどのパウダースノーだった。指導された内容は、決してむずかしくなかった。 碧人は、どこにもトレースがみあたらない新雪に、あざやかなシュプールを描くことができた。 教頭は、転勤するまで幾度もさそってくれたがバッジテストには否定的だった。 「そんなもの、どうでもいいでしょう。楽しければ充分ではないですか。スキーは自然が相手だから、それだけすべれればもっと楽しむことができますよ」 教頭は、幾度もいった。 くりかえしバッジテストで不合格だった碧人にとって、この言葉は至言だった。だから長年にわたって教えてくれ、一級がうかるといった指導員の真意はいったいなんだったのだろうと彼はいつでも思った。 バッジテストは、主観的な爽快さではなく客観的な技量をみきわめるものだろう。それをえるのも自己満足に違いないが、技術の習得状況を判断する目安にはなるだろう。一級の試験を何度もうけて合格しなかった碧人は、スキーの上達に興味をうしなっていた。それでもゲレンデをかなりの速度で滑走することができ、個人的には爽快だった。とくに一級を目指していない以上、すべりについて人からとやかくいわれる筋あいもなかった。だから碧人は、深雪とか新雪とかちょっとした技術が必要な斜面をすべって自己満足をしていた。 佳奈子が親しんだ山形蔵王スキー場は、標高差八八一メートル。最長滑走距離九キロ。最大傾斜三八度。コースが二六本もそなえられているのだから、日本でも有数なビッグゲレンデだろう。このスキー場の醍醐味は、どこまでもひろがる宏闊なゲレンデを周囲の山々を巡りながらツアーすることだろう。ごく一部をのぞいてしっかり圧雪されているから、初心者でもゴンドラで頂上までのぼり、樹氷を間近にみながらコースをすべっておりられる。ゆるやかな林間コースが一〇キロにもわたってつづくのだから、すべりごたえも充分にある。このスキー場のゲレンデはここまで整備されている以上、つきつめるならコースには傾斜の違いしかないともいえる。ある程度、滑走できるものにとっては、幾日もすべりつづけるには物足りないだろう。 とはいってもスキーは自然のなかで楽しむスポーツで、日々雪質は変化する。いくら懸命に圧雪しても、新雪、深雪はどのスキー場でも起こりうる。そうした雪面をすべれると、圧雪部とは違った爽快な気分を味わうことができる。スキーは客観的な評価はともかく、自分が楽しければ人からとやかくいわれる筋あいのないスポーツだろう。 ここに、この競技の陥穽がひかえていた。他人と競う種目では、自分に満足し現状に甘んじるなら敗北という結果がついてまわる。勝つためにはどんな技術が必要で、どう鍛えるべきなのか段階をふまねばとても楽しんでなどいられない。懸命に努力するなら、負けて愉快になる人はいないだろう。技量が向上し現実に眼前の相手を倒して、はじめて爽快な面白いという状況が出現するのだろう。競技には、つねに客観的な評価がついてくる。 スキーは基本的に競いあうことがない個人スポーツで、ある程度すべれれば自己満足できる。ゴルフも似たような部分をもつが、スコアをつければ問題を直視せざるをえない。人がみてどんなに不格好でも、広大なゲレンデを転倒しないで疾走するのは誰にとっても爽快だろう。新雪や深雪も、本人がよいと思えば格好はともかくそれなりにすべれれば満足ができる。 それが不整地のばあい、大きく事情がことなってくる。起伏にとんだバーンを、それなりに満足して滑走するにはあきらかに技術が要求される。スポーツはどんな競技でも奥深いが、スキーも例外ではない。板のどこに重心をのせるとか、どう加重していくかという基本的技術は、圧雪バーンをすべるのと同一なのだろう。通常の斜面を「正しく」すべれるなら、その技術は深雪でも湿り雪でも、またこぶでも通用するのに違いない。 一般競技では、対戦相手が克服すべき先生の役をつとめる。スキーでは不整地が教師として圧倒的な形で立ちはだかり、容易には自己流を許してくれない。こぶ斜面は、さまざまなコースのひとつとして一般のスキーヤーがすべるために用意されている。それにも関わらず、かぎられた者しかすべれない。すべろうとするなら、技術不足があきらかになる。本人にとってすべれることだけが楽しみなのに、それをかんぜんに奪われる。こぶがむずかしいからといって、大怪我する頻度は圧雪バーンと比較して決してたかくはないだろう。なぜならこぶバーンは滑走できる者の専用エリアで、未熟な者たちの侵入を阻止する無慈悲な領域なのだ。自分が技術的に劣っていると、つくづく理解する場所。それが、こぶというバーンだった。碧人はこうした現実のなかで、こぶ斜面を格好よく滑走したいという野心をもっていた。 翌日、北山碧人は、妻の佳奈子とふたりで山頂にむかうクワッドリフトにのっていた。 二月のよく晴れた日だったが、平日のゴールデンバレーはがらがらにすいていた。ここには県北にそびえる「黄金丘」、標高一一七二メートルの北東斜面に一〇コースが整備されていた。 碧人の目に、純白の銀世界とうっそうとした林がつくりだす荘厳な情景が飛びこんできた。それは、心をそわそわさせる興奮をともなっていた。 山頂にむかって右側に、ひろびろとしたメインゲレンデが造成されていた。標高九五九メートルのリフト降り場からはじまるコースのちょうどなかほどに、ながさ一〇〇メートルほどの急斜面がつくられていた。そこが終わるとなだらかな緩斜面にかわる。リフト乗り場は標高六八七メートルだから、標高差二七二メートル、平均斜度一一度、滑走距離ほぼ一キロのゲレンデになっていた。 リフト降り場から急斜面までのコース上部は、林間をぬけてくる。標高差とたかい林にかこまれているために、クワッドリフトからこの部分はみえない。だから碧人の目に真っ先に飛びこんでくるのは、かなりの幅で圧倒的な迫力をもってひろがる、斜度二五度のメインバーンだった。日に照らされて純白に輝くバーンを、赤や黄色など原色の派手なウエアをきて、さまざまな色のヘルメットをかぶったスキーヤーたちが滑走しているのがみえた。 平日の午前だったから、人はまばらだった。ボーダーもほとんどいないメインゲレンデを全力で疾走する人たちは、かなり熟達しているようにみえた。碧人がリフトのうえからながめてもそう思うのだから、本人たちは、「おれが、このスキー場でいちばんうまい」と考えてすべっているのは理解できた。そもそも平日なのだから、彼らはシーズン券を買って日々研鑽をかさねているスキー狂たちに違いなかった。ゴールデンバレーで生じた事件なら、どんな些細なことでも熟知する事情通だと思いこんでいる人びとなのだろう。彼らは、ここのコースを自分のものだと信じてすべっているのだろう。もしかすると、「このゲレンデにかぎれば、おれが世界でいちばんうまい」とまで考えているのかもしれなった。 碧人は、メインコースの右端に点々と人工降雪機が配備されているのに気がついた。斜面も北むきだから一二月に入れば降雪機をつかって開場し、四月最初の日曜日までは雪をかきあつめてでも営業をつづけると、受けつけの者がいっていたのを思いだした。照明灯がリフトにそっていくつも立っているので、ここはナイター用のゲレンデにもなるのだろう。土曜日は終夜営業とかかれていたから、それにみあう人もくるに違いなかった。 そうなると構造から考えて、リフトの左側につらなるバーンもナイター営業をしているのだろう。碧人は、滑走する者がひとりもいないチャレンジとよばれるコースをじっとみいった。 そこは、あきらかに不整地を形づくっていた。クワッドリフトの終点でメインコースから分かれて緩斜面になり、なかほどくらいでほかのコースとはリフトと防風林によって物理的にもかんぜんに隔絶されていた。中腹の二〇〇メートルにわたってつづくのは、形状は一定でないが、あきらかなこぶ斜面だった。リフトのうえからでは凹凸がどの程度のものなのかはっきりしないが、こぶは小型から大型までさまざまにみえた。斜面全体が、どこもはなはだしく不規則だった。コースの辺縁を意味するロープがはられた崖をはさんで、リフトにいちばんちかい領域はあきらかにこまかい凹凸がつくられていた。そこが、モーグル専用コースだとは理解できた。 このチャレンジは、一定の形に整備、管理されているのではなく、上手な者が放置された斜面をすき勝手にすべった結果、不整地になったようにみえた。おそらく夜には腕自慢の者たちがやってきて、クワッドリフトをのぼってくりかえしここを滑走するのだろう。彼らは自分の技量に陶酔し、このコースに不規則なうねりをつくったに違いなかった。とはいっても未圧雪の部分に自然にできるこぶとは違い、規則性がまったくなかった。つまり、この不整地をすべる者たちにはあきらかに技量の違いがあり、未熟な者も滑走するのだろう。だからこぶは一定にならず、ふたつがひとつに融合し、間延びする部分もできるのだろう。しかし小こぶも確固と存在しているのは、熟達した者が逆境のなかでも規則的にすべろうとしたために違いない。その結果、大小のこぶが混在し、いっそう複雑な形状を呈しているのだろう。 おそらく、このチャレンジをころばずにおりるのは、そうとうむずかしいのだろう。こんなに熱心に練習しているスキーヤーたちが容易にはちかづかないことからも、あきらかだった。これほど目立つ場所につくられているなら、誰もがここでスターになりたいと思うに違いなかった。 クワッドリフトにのる者たちは、そこでは仲間がすべってくるのをながめる以外にすることはない。日参する以上、服装とすべり方をみれば固有名詞まで限定できるのだろう。癖は本人の意志とは無関係に否応なくついているから、それをながめ、さまざまなことを考えるのだろう。 「あいつは、うまくならない」 「おれのほうが、ずっとまとまっている」 「どうして、あんな癖がなおせないのだろう」 大切な社交場だから口にはださないが、みんな、人のすべりをしっかりとみているのだ。 だから、この不整地を格好よく滑走したら注目度は抜群に違いなかった。人からどう思われるかはともかく、碧人はここをおりてみたかった。すべりおりて下からみあげたら、どんなに気持ちがいいだろうか。スキーをやってきてよかったと、絶対満足するだろう。チャレンジコースが、ひどく魅力的なのは間違いなかった。人がいないのだから、すきなだけ練習もできるのではないか。 碧人は、挑戦する者をうしなった不整地をみながら考えていた。チャレンジは、あきらかに彼がくるのを手招きしていた。 ここをすべる者がいないのは、うかつに入ると怪我をするのだろう。骨折まではいたらなくても、肉離れくらいはありえる。腰を痛めるのかもしれない。そう考えて、敬遠されているのだろう。メインバーンを気持ちよさそうに全力で滑走する者たちは、原色やさらに派手な蛍光色のウエアまできて全身をおおっていた。そのうえ白や黒、あるいはもっとド派手なピンクのヘルメットをかぶり、ゴーグルもしていた。二月の寒い時期だったので、フェイスマスクをつけている者たちも多かった。一見すると二〇代や三〇代に思えるが、ヘルメットをぬぐと白髪だったり、禿げていたりする。 車で対向車がすくない一般道を走っていると、ときどき元気なバイクの一団に追いぬかれる。しばらくすすむと、先行した集団が休んでいるのをみかける。とめたバイクのかたわらで、ヘルメットを片手に談笑しているのは白髪の小父さんや小母さんたちだった。 はたらきざかりの人たちが、平日にスキーの研鑽をかさねることは通常ありえない。ここに日参しているのは、ほとんどのばあい退職者か、それに準じる者たちだろう。だからこぶ斜面に入って怪我をすると、楽しい日々をうしなうことにつながりかねない。調子にのると、とりかえしのつかない事態も考えねばならない。そうした気持ちとのせめぎあいのなかで、この不整地が存在しているのだろうと碧人は思った。 ふたりはメインコースを何本か滑走し、さらに斜度や幅や雪質が違うコースをすべった。未圧雪の場所もあって、ゲレンデは変化にとんでいた。またクワッドリフトの降り場から西側に、さらに三〇〇メートル山頂にのぼるペアリフトが設置されていた。右側には雪質がいいコースがつくられ、左側にはかなりの斜度をもったシュートとよばれる不整地がひろがっていた。ここにも、人はいなかった。人目をさけて練習するにはこちらの方がいいかもしれないと碧人は思った。 いずれにしても、ふたりはゴールデンバレーに感激した。山頂にこんなに素晴らしいスキー場がつくられていたことに気がついて、ひどく興奮した。 センターハウスで早めの昼食をすませたふたりは、なぜ二〇分、山道をのぼらなかったのかと思った。山頂のゲレンデは混雑するという固定観念をずっとかかえて、三シーズンいったいなにをしていたのだろうか。昼食も、山麓のスキー場では醤油ラーメンと中華丼を代わり番こに食べねばならなかったのに、ここでは食堂が複数で品目にも選択の自由があってふたりは感動した。食事をとりながら話しあい、天気もいいから午後もすこしすべってみようという話になった。 昼食をすませてリフトにのると、ゲレンデはさらにすいていた。 クワッドリフトからみおろしながら、 「このコースも、おりてみようか」と碧人は佳奈子にいった。 彼女は、がんらい怖がりだった。佳奈子は臆病だから上達しないと考えていたが、それが幸いして怪我をしてシーズンを棒にふった経験がなかった。このコースをおりれば全部のゲレンデをすべったことになるという碧人のつよい主張で、彼女もしぶしぶついていった。 ゆるい斜面をくだっていくと、こぶ斜面の入り口にでた。幅が二〇メートル、全長二〇〇メートルほどコースは、不規則なこぶで埋めつくされていた。終わるとゆるい斜面になり、クワッドリフトの乗り場がみえ、さらにさきには食堂、売店などが入るセンターハウスにつづいていた。晴れた日だったので、街並みまでみわたすことができた。 実際にコースの頂上に立つと、こぶは切り立ち、そびえ、どこが通路で、どうすべってよいのかかいもく分からなかった。大小さまざまな凹凸に変化した斜面が、ただ累々とつづいていた。規則性をうしなって、こぶは途切れ、あわさりながら折りかさなっていた。 佳奈子は、しばらくみていたが、いちばん右すみに横すべりでおりられる場所をみつけた。彼女は、そこをくだるといってゆっくりとおりはじめた。 碧人は、どうしようかと思った。すくなくとも、自分のこぶをすべるイメージでは太刀打ちできないのは事実だった。なにせあらゆる部分が危険ゾーンで、入っていく場所も、でるべきところも不明なのだ。さらに問題なのは、どこで立ちどまったらいいのかさえ分からなかった。しかし人もいなかったし、せっかくスキー場にきたからにはこのコースもおりてみたいと思った。 碧人は、覚悟を決めてまえにすすんだ。その途端スキーがつきささり、彼は斜面を一回転した。板ははずれず傾斜もあったので、起きあがるとこぶふたつ分くらいはこえた勘定になっていた。そこで立ちあがったが、状況はなにひとつ変化していなかった。彼は必死に横すべりをしてどうにか二回転すると、三分の一程度おりていた。 「なんとかなるかもしれない」と碧人は思った。 呼吸をととのて、もうひとつおりようとした途端またころがった。しかし、ここでも運よくスキーははずれなかったので、一回転してこぶふたつ分くらいをやりすごした。かなり傾斜もゆるくなってきたので大回りで斜面をおりることに成功した。 佳奈子は、苦労しながらも横すべりで端のやや整備された部分をくだってきた。下からみあげると立派なこぶ斜面で、ぜひこのコースを攻略したいと碧人は思った。 山道を運転しながら、北山夫妻は山頂につくられたゲレンデの全コースを踏破した感慨にふけっていた。なかでも最後にくだったこぶ斜面は圧倒的な魅力があり、なんとかあのコースをすべっておりる方法を教えてもらいたいと思った。佳奈子と相談し、明日の午前中にスクールをたずねてきいてみようという話になった。山道をくだると山麓のゲレンデがみえた。ひろい南向きの斜面には、誰ひとり滑走していなかった。 「チャレンジの、こぶをすべりたいのですが」 北山碧人は、受けつけにでてきた男性にむかっていった。 顔が真っ黒にやけた男は、五〇代のなかばにみえた。責任者らしい男性は、黒いズボンに赤いウエアを羽織っていた。背はそれほどたかくなかったが、恰幅がよく筋肉質で長年スポーツで身体を鍛えあげてきたに違いなかった。男は、するどい目つきでみつめる北山碧人をながめた。それからとなりに立つ妻の佳奈子をみて、なにかを思案した。しばらくすると、 「分かりました。それでは、こぶの専門家をご紹介しましょう。達人です。そこで、すこし待っていてください」といった。 スキー場の山頂にむかって、いちばん左端に位置するながぼそいスキースクールは二棟の建物からできていた。道路側にはスキーやブーツ、さらにウエアなどを貸しだすレンタルセンターがつくられていた。その四、五メートルはなれた山側に、スキースクールのほそながい建物が併置されていた。 屋舎のいちばん左側に位置する硝子ばりになった引き戸をあけると、中年の女性がひとりすわっていた。三〇代のなかばに思える女は、スキーウエアではなく普通の防寒具をつけていた。黒っぽいズボンをはき、靴は黒い雪ぐつだった。ながい髪の女は、赤色の毛糸の手袋をつけていた。あかるい色のセーターをきて、そのうえから薄茶色のオーバーコートを羽織って茶色のマフラーを巻いていた。 ほそながい建物のスキー場に面した側は、ずっと硝子ばりの窓がついていた。硝子窓からは、第一リフトとよばれるペアリフトが目のまえにみえた。リフト頂上から左右に分かれて、ふたつのコースがつくられていた。どちらも斜度がゆるく、捻れもほとんどない一枚バーンだった。 碧人からみると、圧雪も充分にいきとどいたつまらない緩斜面で初心者がすべるためのものとしか思えなかった。こうしたバーンを滑走したいと、彼はかつて一度も考えたことはなかった。しかし実際には子供ばかりではなく、多くの人たちが練習していた。 着ぶくれた女がながめていたのは、スキースクールのさらに左側のやや小高くなった場所だった。硝子の扉からゆるやかな傾斜がついて、三〇メートルくらいさきで頂上をつくっていた。はじめてスキーをはいた者が、歩く練習をして必死にのぼればスクールの出入り口にむかって実際にすべる体験が可能だった。母親は、ゼッケンをつけた息子の勇士をみて寒さの一部を忘れることができるのだろう。赤いスキーウエアの指導員にマンツーマンでつきそわれて、夢中になって真似ようと努力する子供がみえた。小さなスキーヤーは、幾度ころんでも果敢に立ちあがっていた。 スキースクールはバラックともよべるかんたんなつくりの建物で、しかも壁の半分は窓からできていた。仕切りがあるから外とは違うが、暖かいとはいえなかった。だだっぴろい室内の真ん中あたりに、石油ストーブが一台だけおかれていた。スキーウエアをきて雪山にのぼり、くりかえし転倒して立ちあがった子供は汗だくだろうが、なにもしないでみている者には寒いに違いなかった。 スクールのいちばん奥に受けつけがつくられ、デパートにあるショーウインドウに似た構造物で仕切られていた。陳列窓は道路側の外壁にそってつきだし、カウンターは鉤状になっていた。受けつけの部分が終わると陳列台は壁に密着して出入り口までつづき、そのなかにさまざまな形をしたトロフィーや盾がぎっしりつめこまれ、飾られていた。ショーウインドウの上部の内壁には、斜面を疾走する大型の力動的なスチール写真がはられていた。四、五枚あったがどれも憧れをそそるフィルムで、ポールを果敢に攻めているものやこぶ斜面を真っすぐ滑降するモーグルの場面だった。どの画像もたよりないスキー板のうえとは思えないほど下半身がどっしりと安定し、胸部は大きくひろげられ、カメラとむかいあっていた。 「こんな風にすべりたい」と碧人は思った。 彼が子供をみつめる母親の姿をながめていると、とつぜん肩をたたかれた。振りかえると、黒いゴム長靴をはき、淡い緑色のトレーナーの上下をきたやせた事務員の男性が、 「おふたりが、チャレンジのこぶをすべりたいと希望している方ですか」ときいた。 その言葉に碧人がうなずくと、男はゼッケンをわたし、これを身につけてスクールのまえで待っているようにいった。 ふたりは、背番号をつけて建物をでた。目のまえのみじかくなだらかな練習用のバーンをみながら、ここで練習をさせられるのだろうと思った。しばらく待つと、さきほどの事務員らしい男がスキー板をかかえてやってきた。ふたりをみて、クワッドリフトにいこうといった。 この男が、どうやらこぶの達人らしかった。スクール指導員の赤いウエアをきて黒いヘルメットをかぶり、ゴーグルもつけていた。スキー用具を装着すると、外見からはまるっきり別人にみえた。しかし、さきほどゼッケンをわたしたトレーナーの男に思えた。そうなら、七〇歳くらいだった。小柄でやせ、白髪が肩までのび、筋力などどこにもありそうには思えなかった。一見では、ふけば飛ぶ仙人みたいな風貌だった。 男は、スキー板をかついで四人のりリフトの乗り場にむかって歩きはじめた。 北山夫妻は、不可解さを覚えながらも板をかかえてついていった。乗り場のちかくにいくと男が振りかえってふたりをみたので、碧人はここで準備体操をするのかなと思った。 達人は、スキー板をはくとクワッドリフトにのるといった。 それでふたりも足に板をつけ、改札口をぬけた。 男は、夫妻のあいだにすわってリフトにのった。 碧人は、達人のながくのびた白い顎髭がみえた。外見は違っても、やはりさきほど事務員だろうと思った。なにか講釈でもはじめるのかなと考えていると、達人は、スキーとは無関係な碧人と佳奈子の年齢や住まいなどについてたずねはじめた。とはいっても、身辺調査というよりいちばん問題がなさそうな雑談で天気の話みたいなものだった。 降り場につくと、達人はこぶにいくまえに一本平場(ひらば)をおりようといった。準備体操はいいのかと碧人がきくと、今日はすべっていないのかと逆にたずねた。何本かメインバーンを滑走したと彼がこたえると、それなら充分だろうといった。 達人はついてくるようにつげ、メインコースではなく人のいないコースにすすんでいった。林間コースを走ると、やや急な斜面にでた。男は、ここで横すべりをしてみよう。手本をみせるといった。誰もいない幅一〇メートルくらいのコースを横すべりのまま端までいくと振りかえり、ストックをあげて碧人にくるよううながした。彼がつくと、なにもいわずに佳奈子にむかって合図をした。彼女が端までくると、達人はふたりにむきなおった。今度は反対むきをやるといって、また横すべりでおりていった。端につくとストックをあげたので、碧人が真似をしながらすすんだ。そのあと、佳奈子が横すべりをくりかえした。彼女が端につくと、達人は谷にすすんでくるっとふたりにむきなおるといった。 二本の板にもっと前後差をつけないと腰が充分に回転できず、横すべりの姿勢がとれない。胸では不充分で、臍が谷にむかねば身体は捻れない。この姿勢がたもてなければ腰がまわってしまうから、思うところにとまれない。のぞむ方向にも落ちていけない。もうすこし、やってみようといった。それで、さらに左右の端まで二度ずつくりかえすと斜面は終わった。 達人は、もう一度、クワッドリフトにのろうといった。ふたりがついていくと、リフトのうえで碧人に「チャレンジのこぶがすべりたいのか」ときいた。 彼は、「そうです」とこたえた。 達人は、その返事をきくと幾度かうなずいた。それから、こぶをすべるのは誰にとっても憧れだといった。クワッドリフトは高速だったが、約一キロのコースを搬送するので頂上までいくのに五分以上が必要だった。リフトがチャレンジのこぶにさしかかったとき、ひとりの男性が横すべりをしながら斜面をおりてくるのに遭遇した。達人は、すべってくる人影を指さして彼に教えたのは自分だと話しはじめた。 「あの方ね。今年米寿なんですよ。頂上でこぶみながらずっと悩んでいたので、三年まえに横すべりでおりる方法を教えたんです。うまく、やっているでしょう」 米寿だといわれた男性は、横すべりでこぶをひとつずつていねいにおりていた。そのあいだ姿勢がまったくくずれず、胸は真っすぐに谷をむいたままだった。リフトが男にちかづくと、達人は二本のストックをぶつけて音をだした。こぶのなかで立っていた男性は、拍手に気がついて右のポールをあげて挨拶した。男が喜んで嬉しそうに笑っているのが、リフトのうえからも確認できた。 「あの方ね。奥さんのぐあいがわるくてね、ずっと介護しているんです。冬のスキーだけが楽しみでね。シーズン中は早くに起きて、朝は奥さんに食事をさせて昼食を用意してからくるんです。あの方ね、去年、新車を購入したのです。あたらしい車は快適だと話していました。雪がふるまがりくねった坂道を走るには、性能がいいほうが運転しても安心なのでしょうね。昼に帰って奥さんといっしょに食事をするんだそうです。うまいですよね。あのくらいすべれれば、いいんでしょう」と碧人に同意をもとめた。 「いや、すごいです。憧れます」と彼はこたえた。 碧人は、教わればあんなぐあいに自分もおりられるのだろうと思った。しかし目のまえの米寿の男性がするようには横すべりができないことは、すでに証明されていた。さきほどの練習のとき、達人から駄目だとはいわれなかったが碧人はあきらかにおなじ姿勢をとれなかった。谷をむきつづけようと思っても、実際にはできなかった。佳奈子もおなじで、ぎこちないだけではなく腰がふらふらしているのを碧人は達人といっしょにみて現状を共有した。けっきょくは、それを習熟しなければこぶをおりることは不可能なのだろう。できない以上、文句をいっても仕方がないと思った。 達人がみれば、スキーをはいて立った瞬間から碧人がどの程度の技量だか分かるに違いなかった。もしかすると、最初にひとつ言葉を交わしたときに理解してしまうのかもしれなかった。それがわざわざ横すべりの練習を実際にしてみせ、なにが問題だかちゃんと説明したのだ。そのうえでもう二回おなじ実技をやり、指摘されたとおりにはできないことをたがいに確認したのだ。男は、ふたりの技量について充分すぎるほどの情報をえたに違いなかった。 降り場につくと、「それでは、こぶにいってみますか」と達人はきいた。 「はい」と碧人は大きな声でこたえた。 佳奈子をみると、彼女もひどく意外そうな表情をしていた。もしかすると、横すべりが充分にできることが必要だといった達人は、ふたりにこぶをすべるこつを伝授してくれるのかもしれない。やはり、なにかとくべつな技術があるのだろうか。もしかすると、横すべりは碧人がやったのでもいいのだろうか。たしかに、達人はそのすべりのこつを伝授してくれた。碧人はまったくできなかったと思ったが、あんなものでいいのだろうか。自分が感じたよりは、うまくすべれていたのだろうか。達人は、いいとはいわなかったが、駄目だとも明言しなかった。碧人の脳裏で、さきほどの練習の場面と男の発したいくつかの言葉がくりかえし交錯した。 達人のうしろを追走して、ふたりはこぶの頂上についた。 男は、碧人と佳奈子をじっとみて「ここからすべるのです。これが、こぶの入り口です」といって開始の地点をストックでさした。「身体を谷にむけた状態で、ゆっくりとおりるのです」とつげて、そのままの格好でくだっていった。そしてとまると、「ここに、つけばいいのです。これがこぶの出口になります」といって自分のいるあたりをストックでしめした。それで達人はもう一段くだり、そこでとまった。 碧人は、こぶの入り口にいった。そこから、指示された出口にむかって横すべりしようと思った。しかし腰がひけて、まえにすすむことができなかった。無理にでようとした途端、回転し、スキーの先端が山をむき、その反動で斜面をころがった。一回転すると、達人のそばにいた。そこで起きあがり、佳奈子がおりるのをみた。 彼女は、こぶの入り口に立っていた。横すべりで出口にむかっておりていった。しかし、とまろうとしてバランスをくずし、転倒し一回転した。しばらくたって彼女は立ちあがり、ふたりのちかくまでやってきた。 達人は北山夫妻をみて、また入り口をしめした。むかうべき出口をさし、「おなじ体勢でおりるのです」と言葉を発した。そしてとまり、すこしバックした。そこで回転し、また谷をむいた姿勢で横すべりをしてつぎの出口にいった。 碧人は、入り口に立った。出口をむいて横すべりを試みた。すこしおりると重心がうしろだったらしく、スキーは前方にすすんだ。「まずい」と思った瞬間、バランスがくずれ転倒した。また一回転して、みあげるとそばに達人が立っていた。彼は、なんとか起きあがった。ゴーグルをふくめ、全身が雪塗れだった。碧人は付着した雪の塊をはらって、達人のちかくにいった。 佳奈子は、入り口に立っていた。彼女は、うごいた途端にスキーが走り転倒した。傾斜がつよかったので、一回転して雪塗れになった。彼女は、達人のちかくで倒れていた。しばらくして佳奈子は立ちあがり、雪をはらった。 ふたりが体勢を立て直したことが分かると、達人はこぶの入り口をしめし出口をさした。もう一度、とるべき姿勢を指示した。後傾すると転倒する。脛はブーツの前方を、しっかり押さえつけねばならないといった。そして上体を谷にむけて、ゆっくりと出口にむかっておりていった。そこでとまると、「ここで停止すればいい。つぎの動作はする必要がない」といった。 碧人は、自分が後傾しているのだと思った。できるかぎり、まえに体重をかけておりようと決意した。そう思って谷をみると、その途端バランスがくずれ、一回転した。顔をあげると、そばに達人がいた。なんとか起きあがり、雪をはらった。達人のそばで、佳奈子がおりてくるのを待った。 彼女は、谷の入り口に立っていた。真下にいる達人をみて構えた。おりようとした途端谷足に力がかかったのか、スキーの先端が山側をむいた。佳奈子は、そのまま後方にころがり一回転し、達人のそばまできた。しばらく倒れていたが、起きあがり雪をはらった。 三回転したので斜面はかなりゆるくなっていた。達人は、こぶが終わるまでもう二回、入り口と出口をしめし、とるべき体勢をつたえた。ただ横すべりをするだけだといって、おりていった。 碧人と佳奈子は、傾斜がゆるかったので転倒することはなかった。しかし、横すべりではおりられなかった。 こぶが終わると、達人は北山夫妻にむかって「大丈夫か」ときいた。ふたりがとくに痛いところはないとこたえると、彼はうなずいた。ここからは、ゆっくりおりよう。ついてくるように、といった。 ふたりは、圧雪された緩斜面を彼の背中をみながらゆっくりとおりた。 達人は、まよわずクワッドリフトにのった。搬器のうえで彼は深山英明だと名乗り、シニアクラブに入らないかときいた。 クラブは、六〇歳以上のスキーヤーが対象で会員は一〇〇人以上いる。とくに、面倒くさい規則はない。このクラブに入ると、シーズン券をいちばん安く手に入れることができる。研修会が行われ、ほぼ無料でレッスンがうけられる。オフシーズンにも飲み会などがあって、あくまで希望次第だが会員が相互に懇親できる。クラブには指導員もたくさんいるから、仲良くなればいつでもスキーを教えてもらえる。深山が事務局長だから、希望があればつたえて欲しいといった。 その話に、碧人は入れてもらいたいとこたえた。 それをきくと真ん中にすわっていた深山は、ふたりをみてもう一本こぶ斜面にいくかとたずねた。だまっていると、こぶは挑戦しなければ絶対上達しない。しかしこぶ斜面に入るまえに、平場でも習熟するべき技術があるといった。 碧人も佳奈子も、深山の言葉に納得した。それから、メインコースをくだった。スクールまえのいちばん傾斜のゆるい斜面までいって、横すべりのレッスンになった。幾度もくりかえしたが、達人の要求にこたえることはむずかしかった。 二 シニアクラブ 北山夫妻はチャレンジのこぶに挑戦したおり、深山英明からシニアを対象としたクラブがあると紹介された。シニアクラブは、六〇歳以上の者たち約一〇〇名から構成されていた。碧人は、シーズンの途中だったが入会した。佳奈子は、女性会員が非常にすくなかったので事務長の深山により特別会員と認定された。彼女はこの処遇にひどく喜んだが、とくに会費もなかったのでシーズン終了後の懇親会への参加がみとめられるという内容だった。 夫妻は、深山からスクールの校長、山際隆夫が行う八回の講習会へのさそいをうけた。前期はすでに終了していたが、後期はこれからだった。対象は会員限定ではないが、ビデオ講習は上達への近道だという話をうけて出席することにした。 二月の中旬から、山際隆夫のレッスンがはじまった。参加者は、夫妻をふくめて二〇名ほどだった。ほとんどの者は、前期の講習もうけていた。時間は九〇分ほどで、週に二、三回の予定表がはりだされていた。レッスンは、山際が継続して担当するのが重要なポイントだった。指導者として長年スキー連盟にたずさわってきた校長は、さまざまな役職をかかえていた。とうぜんながら実務は冬期に集中していた。連盟の業務は、不順な天候やスタッフの病気や怪我などの諸要因によって役割分担に影響がでた。そうした仕事の合間をみて教えるために予定は目まぐるしくかわり、一日の午前と午後に行われることもあった。しかし料金は低額で、対象者は基本的に暇をもてあましている高齢者だったので変更されてもこまる者はいなかった。また諸事情で欠席した受講者にたいして補講も行ってくれたので、八回の講習をうけることができた。 碧人は、さまざまなレベルの者たちを二〇名あつめて九〇分で行うレッスンとはどんなものなのだろうと想像した。かつて一〇名以上をひとりで担当する講習会など、きいたこともなかった。深山からすすめられたものの、大きな期待はしていなかった。実際にいくと、山際をかこんで講習生が一〇名ずつ二列にならんでいた。前期から継続してうけている者なら違うかもしれないが、とつぜん受講することになった碧人が自分のすべりについて話す機会などなさそうだった。深山の顔を立てただけで、成果をのぞむのはむずかしいだろうと思った。 山際は、まずつぎの滑走の概要を説明する。どの部分に注意をすればいいのか、かんたんに話すとひとりでさきにおりていった。コースの下方にいくとスキー板をはずし、ビデオカメラを構えた。彼が手をあげたのを確認すると、受講生はひとりずつ滑走した。まえの受講者がなかほどまですすむと、つぎの者が山際のカメラにむかってすべりはじめた。なにせ二〇人というかなりの数なので、すべりおりても校長から個別に評価をうける時間はなかった。ながく受講している者が冗談をいったりするばあいもあるが、碧人には話の内容も不明だった。校長は、こうしたビデオを三、四本撮影するとスクールにもどった。おおむね、ここまで小一時間ほどかかった。 スクールは、バラックとよんでもいいほそながい二棟の建物からできていた。ひとつには、講習のもうしこみを受けつける事務員がいた。そこは、スキー教師たちが昼食をとったり休んだりする小部屋につながっていた。もう一棟はさまざまなスキーやブーツがならべられ、主に子供の受講生に道具を貸し出す用具部屋になっていた。レッスンが行われる平日は、とくに需要もなくあいていた。そこにそなえられた大型のテレビをつかって、撮影したビデオを全員で供覧しながら山際が解説をくわえるのだった。このとき、ドリップされたいい香りの珈琲とお菓子をだしてくれる。二〇人が雪上で順番を待ってすべるのだから、全員が凍えきっている。熱い珈琲と甘いお菓子は、最良の組みあわせだった。 大きな期待をしていなかった碧人は、山際校長の解説をきいて心底おどろくことになった。 スキーは、バブルの時代、ゴルフとともに国民的な人気スポーツだった。全国各地でスキー場がぞくぞくとつくられた。日本だけではあきたらず、海外でもさかんに造設した。アメリカの友人が、兜のマークがつけた会社がわけの分からない施設をつぎつぎにつくるといって嘆いていた。それが、北海道拓殖銀行の経営破綻という事件の引き金をひいたのだった。そのころ、このゲレンデも造設されたのだろうと碧人は思った。 山際が、隆盛期から近年の低迷期にいたるまで一貫してスキー指導を生活の糧にしているのは伊達ではないのだろう。すべりを一見すれば、受講者がどういう状況なのか、彼にはすぐに理解できるに違いなかった。校長からみれば、誰もがアラらけで長所をみつけるほうがむずかしいのかもしれない。 碧人は、いままでさまざまな講師からスキーをならってきた。人によっては、彼の欠点を一挙にあきらかにする者もいる。客観的には正しいのだろうが、思いつくままにたくさんいわれても困惑するだけだった。欠点を数多く指摘されても、教師を慧眼だとほめる気持ちにはなれなかった。教えるレベルに到達していない、といわれた気がした。解決はかんぜんに放棄され、拒絶されたと感じるのは仕方がなかった。 山際の説明は、非常に分かりやすかった。ビデオをみせながら、碧人の両手がさがっていることだけを指摘した。 「構えをしっかりつくらないと、見た目がわるいですね。どうしても形が決まりません。スキーは、はなれた場所からながめるのですから、うまそうな雰囲気を醸しださねばなりません。とおくて足まではみえませんから、まず目に入ってくるのは上半身です。ここを、まずなんとかしましょう」といった。 そして、ストックの持ち方を説明した。そのほかは、なにも話さなかった。 いわれた碧人は、どの動画でも両手がさがっている事実を自分の目で確認した。二〇名ほどの講習参加者は、彼の欠点がまずは構えだと納得した。また、上半身の重要さについて全員が認識をあらたにした。彼の動画がながれるときには、みんなが腕に注目しているのが分かった。 指摘された以上、碧人はまず構えをなおさねばならなかった。ほかはともかく、つぎのレッスンでは彼は両腕をあげることだけを考えてすべろうと思った。 山際が講習につかっていたのは、スクールまえの捻れのない緩斜面だった。中央にペアリフトが設置され、両側に全長、約三〇〇メートルのAとB、ふたつのコースがつくられていた。Aコースは、平均斜度、最大斜度ともに一一度だった。これでは、とてもスピードはだせなかった。Bコースは終わり部分の斜度が一五度で、いくらか急になっていた。とはいっても、距離は三〇メートルくらいだった。ペアリフトの搬送時間はおおむね三分で、誰もがそこからコースを滑走する仲間をみていた。平日、ゴールデンバレーですべっているのは、ほとんどがシニアクラブの会員だった。わざわざこの緩斜面をつかって練習しているのは、講習会のメンバーだった。 つまり外見からは分からないとはいっても、碧人の赤いウエアは特定されていた。黒いヘルメットも周知されていた。それに、すべり方の悪癖までもがあきららかにされていた。一目みただけで、誰もが碧人だと認識した。つまりここで練習するとは、指摘をうけてもすべりが変化しない、明白な癖を克服できないとみんなに証明しているのと同義だった。いつでも衆人に観察されているのだから、両腕をあげ、構えをつくろうと意識せざるをえなかった。 こうして碧人がすべるたびに注意していると、時間はかかったがやがて腕があがるようになった。山際は、構えができた動画をみて彼をひどくほめた。参加者全員は、碧人が当面の欠点をひとつ克服したのを確認した。これは、すごいことだった。 どんなに上手な者でも、改善すべき点を多々もっているに違いなかった。熟達していない者たちは、なおさねばならない部分が基礎的で、あやまりの度あいもいちじるしいのだろう。とはいっても、かりに五つの項目を指摘され、指導者が許せると思える程度に改善するならすべりはかなり違ってみえるだろう。もし一〇項目に成功したら、別人といってもいいだろう。だから山際の方法をとりつづければ、すべりはかなり見栄えがするものになり、悪癖は矯正されるに違いなかった。 碧人は、構えがよくなったあとは、両脇をしめるという課題をもらった。どうやら彼は、上半身にかなりの問題をかかえていたらしい。これもおおむね改善するころに、シーズンは終了になった。碧人は、この調子でなおしていったらすべりが別人にかわるのではないかと思った。具体的には前期、後期とレッスンをうけ、各ふたつずつ四点を改善したなら、いままで考えなかったことが起きるだろうと勝手に想像した。 講習会の参加者は、熱心な会員たちのなかでもさらに精進を目指す真面目な者たちだった。誰もが、スキーに真剣にむきあっていた。 右代雅彦は、いっしょに講習をうけたシニアクラブの会長だった。背丈は一八〇センチにちかく、身体はひきしまって頑丈そうにみえた。白い頭髪がうすく、前頭部から中央にかけて禿げた部分をひどく気にやんでいた。彼は、七〇歳をすぎてから一級の免許をえていた。 「もらった免状を孫にみせたら、おじいちゃんはすごいとほめられましてね」と笑顔で話していた。 右代は、綺麗なすべりだったが、右回りのときに谷足にかわる左足の後方がひらいてしまう癖をもっていた。山際からくりかえし指摘され、生じる原因について詳細な説明をうけていた。右手で禿げた頭をかかえながら、真剣に質問する姿を碧人は幾度もみかけた。緩斜面をつかっていつでも練習していたが、この癖はなおし難いものだったらしい。 碧人は、動画で右代の足が山際の指摘どおりはなれているのをくりかえしみた。注意をむけるというのはすごいことで、彼の姿をみつけると左足の映像が脳裏に浮かんだ。リフトからみると、足だけですべっているのが右代だと分かった。本人はひどく気にして、ものすごく注意していた。しかし気づくと、足はひらいていた。 大学生時代から数多くの講習をうけつづけてきた佳奈子は、腕の位置は見事に矯正されていた。適度なひろさをもって肘を真っすぐにし、肩まで前方にもちあがられた両腕でつくられる彼女の構えを、山際は素晴らしいといった。これには、そうとうお金がかかっているはずだとほめながら話した。 そのいっぽうで、佳奈子はお尻が落ちる癖を指摘されていた。動画をみると、山際のいうとおり臀部はあきらかにさがっていた。 「これは、誰もが克服しなければならない点ですよ。お尻がさがっていると、それだけで見栄えがわるいのです。構えがいいのですから、ここを改善すると別人になります。具体的には、腿を立てることが必要です。脛をブーツに密着させて、もっと前傾する気持ちを身体で表現しなければなりません。そうしないと、斜面を怖がっているようにみえてしまいます。どうどうとした雰囲気が、どうしてもつくれません。スキーは、格好のスポーツです。技術は、見栄えのあとについてくるのです。つきつめれば、格好さえよければテクニックなど関係がないのです。言葉をかえれば、いいフォームをたもつために技術が必要になるのです」と懇切な説明をくわえた。 お尻がつきでてしまうのは、佳奈子のながいあいだの悩みだった。もともと彼女は、怖がりだったのでスピードに弱く、ころばず、怪我をしないことを第一の目標にすえていた。だから、心の奥底で斜面を怖がっているという山際の言葉は正しかった。臀部が落ちる癖はくりかえし指摘されていたが、なおすことができなかった。しかし、その対処法としての「腿を立てる」という表現は、はじめてきく言葉だった。いわれたとおりにすると腰の位置がたかくなり、斜面に立っているため重心が前方に移動する。その結果、脛はブーツに密着してくる。ようするに、膝をのばすことにより前傾姿勢がうまれる。 佳奈子は、「腿を立てる」という言葉をたよりに緩斜面で練習をくりかえした。その成果は、やがて動画で確認された。受講生のすべてが、佳奈子の重心がたかくなり、お尻があがってきたのをみとめた。 こうして北山夫妻は、山際の講習会にかんぜんに嵌まった。校長の話すことは、どれも正しい気がした。ふたりはいわれた課題の克服のために全力を投入し、自分たちがうまくなっていると確信した。 事務長の深山英明は、シニアクラブの活動に生きがいを感じていた。 ここに日参して冬期をすごす会員たちが、個別にはさまざまな愁いをもっているのは事実だった。とはいえシーズン券を買って冬の期間、スキーの研鑽にあけくれられるのは、ほとんどは定年まで真面目にはたらいてきた者たちだった。子供をそだて、行く末を見定め、親の介護もある程度は見通せる状況だから、おまけ的な人生を楽しむことができるのだ。 彼は、ゴールデンバレーにおとずれるシニアと思われる者に積極的な声かけをくりかえしていた。その努力は、会員数の増加というあきらかな数字となってあらわれていた。 深山は、もともと高等学校の体育教師だった。小柄でやせていたが運動神経がよく、どんなスポーツでも才能を発揮した。こぶが達人の域に到達したことからも分かるが、これと決めた課題にたいしては夢中になり、徹底的にやりつくす性格だった。 彼は、ゴールデンバレーをシニアのパラダイスにしようという夢をいだいていた。 会員たちの多くは家庭をもつまではスキーに打ちこんできた者たちで、一級を取得し、さらに上級の準指導員や指導員の資格を有する者もかなりいた。しかし、彼らが懸命に家族のためにはたらいているあいだにこのスポーツには革命が起こった。いうまでもなく、カービングスキーの登場だった。それまでのスキーでは、ある程度のスピードでターンをしようと思うなら「ずらす」動作が必要だった。もちろん青春時代に趣味の領域をこえて踏みこんだ者たちは、定年後に再開してもこの違いを克服する充分なスキルをもっていた。そうした熟練者たちであっても、こぶ斜面を苦手としていた。むかしの検定では、こぶという課題がなかったのが大きな原因だった。さらに、当時はスキー板のながさを競う時代だった。板があまりにながいと、こまかいこぶ斜面に対応するのは、とくべつな技術が必要となった。会員たちは、冬の期間、ゴールデンバレーでスキーにあけくれることを大切に考えていた。いまさら不慣れなこぶバーンに入って怪我をし、せっかく手に入れた楽しみを放棄しなければならない事態を恐れていた。しかし高度な技術をもつ彼らが、その習熟にもかかわらず滑走不能なコースが存在することにたいして不愉快さを感じているのも事実だった。 そうした事情をよく知る深山は、こぶ斜面への対応を教えてやろうと考えていた。多くの会員が、達人の彼にそれを切望しているのもつよく感じた。個人的な依頼をうけてチャレンジのこぶ斜面に立つことがあれば、リフトから目ざとくみつけた会員たちがぞくぞくと押しかけてきた。多くの未熟な者たちが、せまいこぶバーンに密集するのは危険だった。教師だった彼は人にものを教えることは苦ではなく、生きがいといってもよかった。しかしながらゴールデンバレーを大切な場と考えていたので、会員が怪我する事態はなによりもさけたかった。 深山は、教授法をさまざまに熟考した。教える方法を考えるのは趣味の領域に属し、生きがいといってもよかった。 チャレンジのこぶが終わる場所からリフト乗り場までは、なだらかな斜面をつくっていた。クワッドリフトからとおい林側はポールが立てられ、アルペンの練習バーンになることが多かった。チャレンジコースは、あやまって初心者が立ちいらないようにクワッドと防風林により他のコースとはかんぜんに遮断されていた。いちばんリフトよりのところに、モーグルをする者たちが勝手にこぶをつくっていた。クワッドにのればもっとも注目される場所で、彼らはあつまって自己陶酔をくりかえしていた。そうした感情につつみこまれるためには、やはりひとりでは無理なようだった。 だからこぶが終わってなだらかになる場所は、基本的には上級者しかくることができなかった。さらにアルペンが練習につかうバーンだったので、日々、雪上車が入って圧雪する部分だった。 スキー場の整備を仕切っているのは、パトロールだった。 深山は、この場所にラインをつくる許可をもらった。みとめてもらうとはいっても、彼は深謀遠慮にも長けていた。さまざまな事態を考え、パトロールの隊長をシニアクラブの副会長にあてがっておくのも忘れなかった。 三月になると深山は、天気も考慮に入れ、ラインをつくる意向を右代につげた。 なにをするにも手がぬけないまめな会長は、事前に充分に説明し、賛同をえていた会員ひとりひとりにショートメールをつかってこの貴重な情報をつたえた。右代が現役のころには、もちろん携帯などなかったから連絡手段は固定電話だけだった。メールというツールまでは対応したが、電話番号をもちいてのショートメールなど考えもつかなかった。 連絡係をクラブでつとめる会長は、この有用な伝達手段を息子の嫁から教えてもらった。さらにみずから研鑽をつみ、字数制限がないものまで送信する技術を習得していた。 佳奈子は、右代に電話番号を登録していた。 「明日は、朝から深山さんがラインをつくるのだって」 彼女は、メールをみながら嬉々として碧人にいった。 ふたりは実際になにをやるのか分からなかったが、深山が無料でこぶレッスンを行うと以前からきいていたので参加することにした。 翌日、北山夫妻が九時すこしまえにゴールデンバレーにつくと、多くの会員が控え室でリフトがうごくのを待っていた。講習で知りあった者たちのほとんどが、そこにいるのに気がついた。リフトがうごきはじめると、事務長と会長がクワッドをのぼっていった。 深山は頂上につくと、降り場からすこしはなれた場所で会員がぞろぞろとあがってくるのを待った。彼は、参加する者たちがあつまってくると朝の挨拶をした。 今日は、チャレンジの下でラインをつくる。これから、そこまで移動する。充分に身体もほぐれていないから、気をつけねばならない。チャレンジは、右端の横すべりレーンをつかう。人を追いぬいたりしないなど、かなりこまかい注意をあたえた。 会員たちがこぶの下までいくと、深山は、ボーゲンですべった跡を消さないようにゆっくりとたどる指示をだした。そして、小さい弧を描きながらおりていった。以前もやっていたらしく、会員はいわれたとおりにすべった。一五名以上いたので、全員が滑走するともうコースらしきものになっていた。みんながおりてくると、彼はふたたびクワッドリフトにのった。そして、こぶの下に移動した。 ラインは、あきらかにその姿をあらわしはじめていた。深山は、もう一度、全員でこれを整形しようといった。そしてこのラインのばあい、どこが入り口にそうとうし、出口はどの部分なのかを説明した。ボーゲンで、こぶの間隔はかえずにコースの幅をひろげるように滑走する指示をだした。そして、手本をしめしながらおりていった。右代は、深山がいったのはスキーのテール部分をつかって雪をこぶ側に押しつけることだと解説した。そして、手本をしめしながらボーゲンであとを追った。会員は、つぎつぎと真似をしながらおりていった。全員がいわれたようにすべると、ラインはあきらかにととのったこぶになっていた。 深山は、もう一度、クワッドリフトにのった。 碧人がリフトのうえからみると、ラインは真っすぐな規則正しいこぶを形成していた。自分がつくるのに参加したのだと思うと、すべれる気がした。そればかりでなく、滑走したのはまぎれもない事実だった。 会員たちは、またこぶの下にあつまった。 深山は、ラインをみてまずまずのできだといった。 今日は、これをつかってこぶの練習をする。ラインをこぶ斜面だと思ってすべる。基本的に、チャレンジの斜面とまったくおなじなのだ。ここで、どこから入ってでるのか体験できる。基本的なすべりは、溝がほれている場所を滑走する。できれば直(ちよつ)下(か)って、ふくらんでいる壁の部分にぶつかる。体重がまえにあれば、スキー先端部は溝に落ちる。そこで、そのまま直下ってつぎの壁にぶつかる。つぎつぎにおなじ動作をすればいい。要点は、重心をまえにもってくることだと説明した。そして発言どおり直下って壁にぶつかると、スピードはガクッと落ちた。おなじ動作をくりかえして、ラインの終点までおりていった。 碧人は、ボーゲンを指示された二回目まではかなり深山の意向にそうことができた。しかしこぶに衝突するという三回目になると、問題はとつぜん複雑化した。話はなんとなく理解できるが、実際にそのとおりに行うのはむずかしかった。これは、碧人だけではなく、どの参加者にとってもおなじだった。緩斜面なので、ある程度は速度がないとつぎの壁まですすめない。しかしいったん早くなると、こぶにぶつかってスピードを殺すのはむずかしかった。 深山は、おりてくる者ひとりひとりにアドバイスをした。碧人も助言をうけたが、なかなか、いかすことはできなかった。その日は、このラインを幾度もくりかえした。やるたびに溝はふかくなり、うえからみるとよくこんなところをすべれるなと自分でおどろくことになった。 深山が主催するこうしたレッスンが、幾回かくりかえされた。 ある日、右代から「重大、緊急」とかかれたショートメールがとどいた。 「競技の関係で閉鎖されていた、チャレンジコースが再開されます。それにともない、明日の夜、雪上車がコースを圧雪します。明後日の朝、会員でチャレンジのこぶづくりをします。ぜひ、八時四五分に二階の待合室にきてください」 チャレンジバーンにこぶ斜面を造成する話は、右代からくりかえしきいていた。 自分でつくったこぶは、ふかくなってもすべれる。この不思議さは、体験しないと分からない。年に幾度も機会がないから、そのときには万難を排しても参加するほうがいいと彼はいった。 右代はライン講習でクワッドリフトにいっしょにのると、北山夫妻にもりだくさんの情報を提供した。せっかくこしらえても夜になるとナイターにきた者が滅茶苦茶に滑走し、翌日には普段のチャレンジにもどってしまう。だから、いっしょにつくるときしか楽しむ機会はない。ながいチャレンジバーンの急斜面で、こぶのなかにいられる快感について右代は力説した。 夫妻がみるかぎり、会長はラインが得意とは思えなかった。深山のいうとおりに直下って壁にぶつかり、スピードをコントロールして下まで滑降するのは、かなりむずかしい課題だった。ライン講習の参加者のなかで、指示どおりにすべれる者はいなかった。それができれば、こぶ斜面を問題なくおりられるらしい。だから、あえて深山の講習にでる必要がないのだろう。その右代がチャレンジの斜面で快感に浸れるというのなら、いく価値があるに違いないと夫妻は感じた。 こぶづくりをするときいたのは、三月中旬の快晴の日だった。 北山夫妻は、八時四〇分に指定された待合室にいった。 この建物は、一階が一般客にウエアやスキー用具を貸し出す施設になっていた。二階にはシーズン契約のロッカーがおかれ、テーブルと椅子が配置されていた。とくに会員専用のエリアではなく、一般客も利用していた。とはいえほとんどは会員がしめ、席もなんとなく決まっているらしかった。飲み物の自販機はないが、早朝からやってくる者たちの多くは自前のポットでお茶を飲み、持参した弁当を仲間と談笑しながら食べていた。昼食もここですませ、午後もまたすべるという生活をしていた。車でくる者たちばかりではないので、バスの時間にあわせて行動する者も多かった。バス料金は高齢者割引がつかえ、利用者はこの制度にひどく感謝していた。 待合室につくと、右代がこぶづくりの人員をチェックした。 スキー場のリフトは、九時に運転を開始する。その一〇分まえくらいからうごきだすが、まずパトロールがコースの視察にいく。チェックが終了すると客の搬送になるが、一部の会員はいちばんさきにすべろうと入り口で待っていた。整備されたバーンを最初に滑走するのは気持ちがいいから、時間に余裕がある彼らはならぶことに躊躇いはなかった。 右代は北山夫妻をみつけると、クワッドがうごきだしたら終点のちかくで待っているようにいった。リフトにのっていくと、圧雪されたチャレンジバーンで深山が赤色と緑色のふさふさした道具を斜面にさしてマーキングしているのがみえた。その様子からは、バーンの中央部にかなり幅のあるこぶをつくろうとしているのが分かった。 夫妻が降り場につくと、すこしはなれた場所に立っている右代をみつけた。そこには、二〇名ちかい会員たちがならんでいた。彼らのほとんどは、会長から直接メールとうけとった者たちだった。おおむねの人員がそろったのを確認すると、右代は一団をひきいてチャレンジコースにすすんだ。斜面の入り口で、マーキングを終えた深山がくるのを待つといった。圧雪されたバーンには、適度な間隔で赤と緑のマーカーが規則正しくならんでいた。 しばらくしてあらわれた深山が、すべり方を教授した。ボーゲンで谷足になるスキー板のテール部分で色のついたマーカーの房にふれ、ゆっくりと滑走するのだと話した。そして実演しながら、彼はおりていった。右代は、あつまっている者たちに深山のあとにつづくよう指示をだした。それで、つぎつぎと会員たちがくだっていった。深山は、下までおりると会員の滑走をみていた。おおむねがすべり終えると、クワッドリフトでふたたびのぼって斜面の入り口にいった。 北山夫妻も、クワッドにのった。みおろすと、右代は斜面の入り口にひとりで立っていた。碧人がみると、このこぶづくりを目ざとくみつけたスキーヤーが彼と話しあっているのがみえた。右代と会話した者は、マーキングされていない部分をすべっておりていった。ようするに会長は、造成中のこぶが知らない者たちによって荒らされないように見張っているらしかった。深山たちがくるのを待ちながら、まもっていたのだ。 深山は斜面の入り口につくと、もっとテールをつかってマーキングされた房をつよく押しつける指示をだした。こうするのだと、手本をしめしながらおりていった。 右代は、彼がやったことを説明し、会員たちにつづくよう指示した。 深山は、緩斜面につくと会員がおりてくる様子を観察していた。おおむねがおりきると、またクワッドでのぼり斜面の入り口にいった。 碧人は、のこった右代がつくりかけのこぶを死守しているのがみえた。二〇人が二回滑走したので、理想的なこぶ斜面ができていた。一般のスキーヤーもさすがに気がついて、こぶをすべろうと希望していた。右代は、彼らにこの斜面が未完成だといって侵入をふせいでいるようだった。 碧人は、佳奈子とともに深山が待っている斜面入り口までおりた。 達人は、全員がそろうと今日のこぶの出来映えはなかなかいいといった。 このこぶ斜面は、基本的にレーンでつくったものとおなじだ。あのときやったすべりを、思いだしてもらいたい。幅がひろいから、直下るのは溝にそうことになる。ようは、こぶにぶつかって方向をかえるのだ。そこに衝突してスピードを殺し、つぎの壁にあたればいいのだ。おなじことを、くりかえすだけだ。衝突するかぎり、スピードはでないといった。それで、模範演技を披露しながらこぶをおりていった。 会員は、それにならってつぎつぎと滑走した。 深山は、いちばん下までいくとすこしそれた場所に立ちどまり、ひとりひとりのすべりに講評をあたえた。おりてくる者に、こぶは完成したから今日は一日ここをすべろう。どんどん、クワッドであがれといった。 会員たちは、指示にしたがってつぎつぎとクワッドリフトでのぼっていった。 右代も、斜面が完成したのでこぶをおりてきた。 一般コースを個人が占拠すると、すぐに苦情がパトロールにいった。これだけ規則正しく幅も充分なこぶ斜面をみつければ、すべれるかもしれないと思って多くのスキーヤーがひきよせられてくる。クワッドにのれば、いちばん目立つ場所なのだ。どんな名目であっても、通常の営業日、一般コースにつくられた構造物を占有することはできなかった。しかし、造成中にこわされる事態はさけねばならなかった。右代が、完成したら誰でもすべっていいのだからといくら説明しても、パトロールまで文句をつげにいく者がいた。こぶ斜面は、どんな人にとっても魅力をもっているのだ。 おなじコースをつぎつぎとすべりおりるから、こぶはあっという間にふかくほれていった。しかし右代がいったとおり、自分がつくるのにかかわったこぶ斜面は碧人にも佳奈子にもすべることができた。それは、普段どうしても味わえなかった経験で、夫妻は感激した。まさに、こぶのなかにいられる快感に浸ることができた。こぶ斜面にとどまっていられるという事実だけで、陶酔感が襲ってくるのだった。ふたりは、こぶに感動し堪能した。 北山夫妻にとっては、記憶にのこる素晴らしい一日になった。 三月の末にちかづくと、積雪はいちじるしく減少した。一部に地面があらわれるとどんどん溶けだすので、パトロールは懸命に埋めもどす作業をしていた。しかし限界があり、滑走できるコースは徐々にへっていった。チャレンジは、こぶ斜面だったので最初に地面があらわれ、閉鎖になった。パトロールは、クローズしたほかのコースから雪をはこんでメインコースを積極的に修復した。それでも充分な幅をたもてなくなっていったが、リフトぞいにこぶ斜面をつくった。造成時には、会長からショートメールが入った。雪もへっているので幾日ももたないが、つくるのに参加すると駄目になるまで遊ぶことができた。講習会がひらけなくなった山際校長は、スコップで残雪をはこんでコースの維持につとめていた。やがて誰がみてもこれ以上は無理だという状態にかわり、ゴールデンバレーは閉場した。 北山夫妻にとっては、記憶にのこる素晴らしいシーズンになった。憧れのこぶも、攻略の手がかりをつかんだ。感触があるうちに、手こたえをたしかなものにしたいと思った。このままやめるには、惜しいシーズンになっていた。 ふたりは、まだ雪がのこる福島県のスキー場にでかけた。第二リフトまではべた雪だったが、頂上のリフト周辺にはかなりの残雪があった。平日は人もすくなかったので、コースの端にボーゲンでこぶをつくった。ふたりなので、造成には回数をかけるしかなかった。それでも、五、六回往復すると、こぶらしいものになった。ふたりで「これからだね」と話しあっていると、ボーダーの一団が目ざとくみつけ、背後ですべりはじめた。たいへんだと思ってあわててリフトをのぼっていくと、こぶはかんぜんに破壊されていた。とても、もう一度つくる力はなかった。たとえできても、ちょうどいい形になれば、おなじような連中にこわされる運命だと理解した。 それから、山形と福島の県境の尾根につくられたスキー場にいった。ここは標高がたかく、ロープウェイでのぼった場所にゲレンデがあった。いちばんうえまであがると、まだ粉雪だった。しかし、春は着実にやってきていた。頂上にのぼるリフトは、オオシラビソの林をぬけていった。そこをとおると、碧人は鼻水がだらだらとながれ、くしゃみがとまらなくなった。しかしコースをひとつおりれば、なにも起こらなかった。 このスキー場には、第二リフトにそって四本のこぶがつくられていた。間隔のみじかい上級者むけから、ながい初級者むけまであった。三〇個以上つらなっていたが、初級者コースは横すべりでおりることができた。ふたりは、一日中こぶに挑戦した。碧人は、中級者むけのとなりのこぶ斜面もすべってみた。すこしこぶの間隔が違うだけだったが、滑走できなかった。 宿舎は合宿場みたいな感じだったが、夫妻はゲレンデにこのうえもなく満足した。こうして、四月も終了した。 碧人は、五月のはじめにひらかれたシニアクラブの飲み会にも出席してみた。 男性ばかりが四〇人くらいあつまり、親睦をふかめるために各人が自己紹介した。そのなかには、八〇歳以上の者も多かった。なによりも団塊の世代がたくさんいた。ほとんどの者の頭部は、真っ白か、禿げているかのどちらかだった。みんなの話をきいてみると、平均年齢は七五歳とまではいかなくても七〇歳以上なのは間違いなかった。多くの者は若いときに競技や趣味でスキーに夢中になり、一級はもとよりさらに上級の資格までもっていた。壮年時代は仕事でやめざるをえなかったが、定年後に再開したという者たちが一般的だった。なにせシーズンが終わって飲み会にまででてくるのだから、誰もが元気だった。これから月山や八甲田がはじまると、大声で話していた。会場は居酒屋の一室で、ひろくなかったので叫び声と熱気でむんむんとしていた。鍋料理だったが、あつまった者たちの食欲は旺盛であっという間に汁までなくなっていった。 碧人の目のまえにすわったのは、スクールの講習会でいっしょだった間宮謙三だった。彼は七一歳だったが、ジムにかよって水泳で毎日、五キロ泳いでいるといった。 すごいですね、と碧人は感心してこたえた。 間宮は、シーズン中もジムにはかよっている。スキーを一日すべるとさすがにつかれるので、泳ぎは二キロまでと決めているといった。彼は、喧騒のなかで店員に焼酎をたのんだ。しばらくして女性店員が、酒が入った大きなジョッキをふたつもってきた。 店員が碧人とのあいだに容器をならべておいたので、ふたり分をたのんでくれたのかなと思った。しかし、間宮はふたつともかかえこんでひとりで飲みはじめた。五キロ泳ぐというのは、伊達ではなかった。 碧人は、このままスキーを終えるにはもったいない気分になっていた。佳奈子も、ながいスキー人生のなかでもっとも充実したシーズンだった。ふたりは相談して、一泊二日で月山にいくことにした。 駐車場について、リフト乗り場までスキーをかついでいくのはかなり力をつかう作業だった。ふたりは、食堂でしばらく休憩をとった。 碧人は、佳奈子といっしょにリフトにのった。 あかるい日差しのなか、木もしげっていない真っ白な山が、雲ひとつない真っ青な空とじかに接する情景は壮観だった。鮮烈な月山ブルーに心はおどった。山全体がスキー場になって、三〇本ちかい縦の溝がならんでいた。そこで、たくさんのスキーヤーがこぶに挑戦しているのがみえた。 よく晴れた平日の月山スキー場は、賑わっていた。 ふたりは、異世界ともいえる情景をながめながらリフトに揺られていた。そのとき、背後から大きな声がきこえた。 「私は、どこにいってもいい先生をみつけるのがうまいんです」 大声で話している男の声音に、きき覚えがあった。 「誰だろう。きいたことがあるよね」と碧人がいった。 「知りあいなんて、いるはずがないわ」と佳奈子がこたえた。 しかし碧人は、もしかしたらと思った。それで、降り場につくとうしろの搬送機を注視した。リフトからおりてきたのは、まぎれもない右代だった。 「やっぱり、会長さんだったのですね」と碧人はいった。 「こんにちは。奇遇ですね」と右代はこたえた。 会長は、県内のべつのスキー場にもシーズン券でかよっていた。そこでもスキー仲間をつくり、さらに事務長をやっていたのだった。今日は、そのスキークラブの月山ツアーだといった。有能な講師と会員一〇名ちかくをひきつれ、こぶ斜面にむかっていった。 北山夫妻は、すべれるこぶをえらんだ。なんといっても、ひと山すべてがこぶ斜面だった。こぶはえんえんとつづき、容易には終わらなかった。多数の熟達者たちが懸命にとりくんでいるのをみて、この領域は奥がふかいと身に染みて理解した。かなり満足し、怪我がなかったのを善しとして収穫の多かったシーズンを終えることにした。 翌シーズンは、一二月初旬から降雪がみられ、中旬にゴールデンバレーは開場した。スキー場があくと、北山碧人と佳奈子は、まずスキースクールに出向き、事務員に校長の山際隆夫との面会を希望した。 碧人は、五〇代の筋骨隆々として真っ黒に日やけした精悍な山際がでてくると、土産として持参した大量の珈琲豆をわたした。佳奈子といっしょに前半と後半八回ずつの講習をすべて受講したいと話し、必要な費用をはらった。前シーズンが終了してから、今シーズンは努力して一級を目指したいとずっと考えていた。ぜひ力を貸して欲しいと依頼した。 山際は、もちろんスクールとしては全面的に協力する。上達したら、違う世界がみえてくるはずだ。すこしずつでも、いいフォームを身につければかならず希望は成就するだろうといった。 「高齢者が上達しないというのは、間違った思いこみなのです。一生懸命やれば、年齢など無関係です。子供のばあいは、みせればおなじ動作をします。年齢がたかくなると、なにが必要なのか言葉で補足しなければなりません。教える方法が違ってくるのです。適確に矯正すれば、フォームは改善します。私は、高齢者の能力をひきだし、技術をたかめることに喜びを感じているのです」と山際は笑いながらいった。 年明けから、校長の講習会がはじまった。 参加者には、右代会長がいた。彼は、今年、後期高齢者になったとぼやいていた。 希代の体力をほこる間宮も、うまくなりたいと考えているらしかった。 去年、後期講習でいっしょだった、遠藤耕一、大塚秋郎、三木秀夫もいた。 遠藤は、年齢が八〇歳で頭髪はなかった。若いときに一級を取得し、スキー道を彼なりの方法で熱烈に追究していた。山際に、くりかえし自分のすべりについて質問していた。内容は、かなり細部にわたるものだった。彼は、スクールまえの緩斜面以外ではすべらなかった。スキーに人生をかける遠藤は、冬期のゴールデンバレーは生きがいだった。彼は、危険なことは絶対にさけ、怪我をする事態を極力ひかえていた。 碧人は、急斜面を飛ばすのがすきだった。全力で疾走することに、快感をもっていた。チャレンジのこぶ斜面も目標はモーグルだったから、すべてが荒削りだった。 遠藤耕一は、対照的だった。急なコースなどよりつかず、いつでも緩斜面をゆっくりとすべっていた。碧人は、はじめ彼の考えが理解できなかった。なにが楽しいのか、疑問を感じた。しかし講習会でいっしょになってリフトからすべりを観察すると、非常に繊細で、あらゆる部分にいきとどいているのに気がついた。彼は、かならずリードチェンジをしてエッジの角度なども微妙に調節していた。その気配りは、おどろくほどだった。 大塚秋郎は、もともとは理科を担当する中学校の教員だった。碧人より、三つくらい年うえだった。講習生のなかではもっとも背がたかく、温厚な感じで品もよかった。頭髪はみじかくしていた。彼は、一級の免状をもっていた。子供がすきで、スクールが小学校の授業を担当するときにはボランティア活動に熱心だった。リフトに同乗すると、その活動がいかに楽しいか碧人に話し、いっしょにやろうと勧誘した。彼は、O脚だった。そのためなのか、スキーがどうしても綺麗にそろわなかった。校長にくりかえし指摘され、対処法も教わっていたが容易になおせるものではなかった。 三木秀夫は、碧人よりふたつ年うえだった。中肉中背で眼鏡をかけていた。彼は、今年、一級を目指していた。 講習会には、もうひとりおなじ希望をもつ者がいた。新川則之という碧人よりひとつ若い今年から参加した男だった。かなり恰幅がよく、技術はたかかった。もともとスキーの講習にたずさわっていて、その関係から深山とは知りあいだった。山スキーがすきで、バックカントリーをやっていた。 講習会は、一五、六名が参加していた。そのなかで一級を目指していたのは、北山夫妻のほか三木秀夫と新川則之の四名だった。 碧人は、昨シーズンにならったのでなんとか構えだけはとれるようになっていた。脇をしめる指示もうけたが、去年なおせた部分だったので修正するのは容易だった。今年は、あらたにスキーをそろえるという課題をもらった。これは、かんたんにはなおせなかった。 カービングの興隆以前に一級をとった者たちは、スキー板を隙間なくそろえることができた。いっしょに受講した山岡克也は、スキーが二本だと思えないほどいつでもきっちりと密着していた。 碧人は、どうしてそうなるのか、きいてみた。 「スキーって、そういうものなんだ」 四つ年うえの山岡は、考えながらいった。かなり大柄で、ヘルメットをとると坊主頭だった。彼は、意識して考えたことはない。すべると、どうしてもそうなってしまう。はなしたらすべれないかもしれないといった。 碧人は、リフトではやることもないので密着させている者たちにきいてみた。 両脚を、くっつける。両膝をつける。なかには、ふくらはぎをしばってすべるという過激な意見もあった。 山際は、神経質になるほど考えなくてもいいといった。碧人のばあいは、スピードをだすのが趣味だから密着させては爽快な気持ちになれないのだろう。だからすべりをみた者が、足に注意がいかない程度にそろえておけばいい。現状は、とおくからでもスキーがばらばらだと分かる。密着の必要まではないから、意識すれば容易に修正できるといった。 山際は、個々の受講生に無理な注文はしなかった。各人の力量を判断し、なおせそうな部分を指摘し、頑張って修正できたらほめてやる。これをくりかえしているらしいと碧人は感じた。逆からいえば、山際が指摘する課題は各人にとってむずかしいものではなく、意識すれば修正可能な部分だった。とつぜんたかいレベルを要求しても、受講者は悩むだけで改善できない。これをくりかえせば、講習自体に不信感がうまれるのは仕方がない。 山際は、自分が指摘した問題がなんなのか動画で明確にする。どのフィルムでも、受講者がおなじ動作を行っている事実を充分に納得させる。彼からみれば正すべき問題は多数あるのだろうが、能力を考え、できそうな課題を設定する。だから極論すれば、講習をうけた者が指摘された部分をなおせないばあい、それをえらんだ山際のあやまちになるのだろう。意識した受講者が修正すれば、動画で確認できる。課題をひとつ克服したことを、彼はみとめて絶賛してやるのだ。こうして受講者は自分がまだ上達できるという感触をいだき、さらなる向上心がうまれる。この好循環にひきこめれば、思わぬ力がでてくる。長年、スキーを指導してきた山際は、課題を克服した喜びを分かちあうのが強力な武器になることを熟知していた。共感は、受講者の信頼につながっていった。 佳奈子は腿をのばすことに成功し、重心がたかくなった。もともと構えはよかったので、上半身は碧人がみてもかなり決まっていた。スピードに弱い彼女は、急斜面では後傾していた。素人でもそう思うのだから、山際がみれば緩斜面でも重心がうしろなのははっきりしていた。動画で、佳奈子は足首の傾きが欠如していることを指摘された。そして、脛でブーツの前面を押しつづける課題をもらった。 佳奈子は、カービング動作の途中でシュテムする癖があった。右回りでも左回りでも、回転するときまず谷足をひらいて踏みださないとつぎの動作ができなかった。彼女が学生時代にならったのはパラレルまではいたらず、シュテムが中心だった。シュテムターンは、三級の検定にいまでものこっていた。体重移動を明確にする重要な基本動作だが、ひらきだしを我慢しないと、雪面にスキーの跡が二本つかない。綺麗な、レールターンにはならなかった。 山際は、佳奈子の動画をみてシュテムすることにはふれたが課題にはあげなかった。これをかんぜんに克服するのは、かなりむずかしかった。まさに、会長の右代雅彦が長年にわたって悩みつづけている課題だった。 右代は、右ターンのとき谷足にかわる左足がシュテムする癖がどうしても克服できなかった。つねにでるわけではなかったが、すこし気がゆるむとひらいてしまうのだった。右代は、佳奈子の動画をみて彼女がこの癖をなおすのは容易ではないだろうと思った。 高速クワッドリフトの降り場からすこし西にくだると、さらに山頂にのぼる全長三〇〇メートルのペアリフトがつくられていた。利用者がすくないこのリフトの左側は、斜度三六度のシュートとよばれる不整地になっていた。右は、最大斜度二一度、全長五〇〇メートルの幅のせまい中級コースがつくられていた。 碧人は、雪質もよく捻れもないこのバーンを気に入っていた。スクールまえの緩斜面は、あまりにも平坦すぎてすべった気がしなかった。斜度もあり人もいない中級コースは、普段の鬱憤を晴らすには絶好だった。彼はこの斜面をつかって、どうしたらスキーを密着できるのか考えていた。練習していると、佐藤に出会った。 佐藤篤志は、碧人より八つ年うえのやせた男だった。いっしょに講習をうけていたが、熱心とはとてもいえなかった。そもそも彼は、人からものを教わることが苦手だった。それでもこぶがすべりたくて山際の講習に入ってきたが、緩斜面をつかった基礎練習にあきあきしていた。深山に希望を話してみると、横すべりに習熟する必要があるといわれた。それで、このバーンをつかって練習をしていた。 ペアリフトにいっしょにのると、佐藤は、 「あんな緩斜面で基礎練習をくりかえしても、こぶなんて永遠にすべれない」とぶつぶつ文句をいいだした。 碧人には、その気持ちが分からないわけではなかった。そもそも、彼は佐藤と似ている部分があった。 佐藤篤志は、もともと一匹狼的な人間だった。仕事は六二、三歳でやめたらしいが、その後は、改造したキャンピングカーで全国をまわっていた。パラグライダーが趣味で、ヨーロッパでもかなりの飛行経験があると話していた。それも通常とは違い、エンジンをつんだモーターパラグライダーとよばれるものらしい。とても組織のなかでつとめあげられる人間ではないから、やっていた仕事も自由な営業職だった。そんな風に生きていた者は、こぶがすべりたいと考えても地道に基礎から積みあげるなど無理だろうと碧人は思った。彼のすべりはかんぜんな自己流で、山際のアドバイスもきかないから改善するのははなだしく困難な状況といえた。案の定、後期講習の途中でこなくなった。スキー場でもみかけることがなくなったので、こぶはあきらめたのだろうと碧人は思った。 講習は、前期が終了し、やがて後期がはじまった。 北山碧人は、密着とはいかないものの左右の板がかなりならぶようになった。そのころから、ターンのときに肩が入るという指摘をうけはじめた。まず山際が問題にしたのは、右肩だった。動画で指摘されると、たしかに身体がまわっていた。しかし左肩もおなじぐあいにみえるので、一度に両側を矯正するのはむずかしいのかもしれなかった。 がんらい碧人は、緩斜面をすべることがなかった。ゆるい斜度はきらいなだけでなく、実際に滑降すると苦手なのだと分かった。ターン時に、うえから圧力をかけられた板がたわんで勝手にまがってくるのを待てないのだった。余計な動作をするためにバランスがくずれ、綺麗な弧をつくれない。じっと待てない心理が、肩が入るという形であらわれていた。 二月の末、深山が移動講習会をするといいだした。右代がやってきて、安比にいっしょにいこうとさそってくれた。 北山夫妻は、参加の意向をつたえた。参加者八名が、車二台に分乗して遠征することになった。碧人と佳奈子は、深山が運転する車にのると決められていた。 出発する日の早朝、右代会長が北山夫妻の家まで自家用車でむかえにきてくれた。 碧人は、今年、後期高齢者になったという会長にもうしわけなく思った。自分の車をだすと進言したが、彼の自動車は大きすぎて深山の車庫に入らないという理由でことわられた。家族に自動車事故をきびしく注意されていた会長は、とても慎重に運転した。 深山の自宅につくと、右代の車をカーポートにおさめた。スキーの道具を移しかえて、出発した。高速のパーキングで、新川が運転する乗用車と合流した。助手席には、いっしょに山際のレッスンをうけている遠藤耕一がいた。後部座席には、奥田和之がすわっていた。最後のひとりは、今年、深山にみいだされ、後期から講習に参加した木戸修一という碧人よりひとつ年下の男だった。 その日は、安比高原ですべった。深山が先頭になり、列をつくって滑走し、新川がしんがりをつとめた。ひろいゲレンデにでると、講習が行われた。平日だったので人もいなくて、リフトを待つこともなかった。天気もよく、雪もパウダーだった。 みじかいリフトが併設されたコースにくると、深山はラインをつくろうといった。八名でくりかえしペアリフトをあがり、ラインづくりをした。深山は、ラインの形がととのうと直下ってぶつかるという、こぶすべりの基礎を講習しはじめた。やり方を演じながら最初におりていった。のこされた者たちは、どうしても彼にしかできない妙技に羨望を感じながら、ひとりずつ真似をして滑走した。 全員がおりてくると深山は、「もっとしっかりぶつからなければ、減速できない。スピードを殺すことが、こぶをすべる基本なんだ」といった。 この年、後期高齢者になった奥田和之は、大きな声で反発した。 「こちらは、年寄りなんだ。そんなむずかしいことを話されても、できっこない」 「なにいってんだ、奥田さん。教えているほうだって、おんなじ年寄りなんだ。そんな屁理屈はとおらない」 深山は、声をあらげた。 その会話をきいていた全員は、爆笑した。 奥田和之は、小太りな男性で頭が禿げていた。いつもにこやかな好々爺で、独自にスキーを楽しんでいた。彼は、講習に参加することはなく、ゴールデンバレーのメインコースをひとりで、もくもくとすべっていた。朝きて帰るまで、ただ滑走をつづけるので日に一五本とあらかじめ決めておく必要があった。この適切量をこえると、翌日に疲労が蓄積するのだった。そのため、クワッドリフトの降り場付近の雪山にストックを刺して跡をのこし、何本目になるのかはっきりさせていた。だから会員たちは、マークされた穴をみて彼の余力を知っていた。 深山は、一〇時からすべりはじめ、五時間かけてほとんどのコースを滑走した。朝からひとりで運転していたので、午後の三時になると宿舎にいくまえにひと休みしたい。まだすべり足りない者は、四時まですきにしたらいいといって休憩所にむかった。 碧人は、団体行動が得意でなかった。ようやく自由になったと思った。さあ思い切りすべろうしたとき、もうひとりのこった新川がいった。 「朝からすべりましたから、思った以上につかれています。あまりスピードをださないようにしましょう」 碧人は、じっと新川をみた。 「もしかして、あなた。ぼくの監視役としてのこされたの」 その言葉をきくと、新川はうなずいた。 碧人は二本ほどすべったが、仕方なく速度はおさえた。 夜は食堂にあつまって懇親会になった。 毎日すべっていて、さらにもの足らずに遠征にまでくる連中だから、元気なのはとうぜんだった。一日すべりこんだ心地よい疲労のうえに多量のアルコールが入ると、かんぜんに自分の世界に没入し、誰もが勝手に話をはじめるのだった。 奥田和之は、大きな声で話しだした。 「おれは、スキーに巡り会えてよかった。もし、そうでなかったら、冬の日の一日なにもしないで暮らさなくてはならなかった。こたつに入って、つまらないテレビをぼうっとみていただけだったろう。生きている実感なんて、なにもなかっただろう。もう、死んでいたかもしれない。いく末のことを思いあぐねて、いままでやってきた過去を振りかえって、つまらない悩みを考えて滅入っていたに違いなんだ。おれは、毎日が幸せなんだ。これは、スキーというスポーツがあたえてくれたんだ」 あまりにしみじみといったので、全員がじっと聞き入った。 そして同感し、爆笑の渦が起こった。 翌日は、下倉にいった。 深山は、休日はともかく平日はほとんど人がいない、このスキー場をこよなく愛していた。コースもさまざまで、こぶ斜面や深雪もあった。 ここでも深山は、ゲレンデにでると講習を行った。最後に、いちばんうえのリフトにのぼった。そこは、四〇度をこえる深雪の壁になっていた。快晴でさえぎるものもなく、このスキー場を一望できた。 木戸修一は、後期になって山際の講習会に参加した。若いころにはスキーをしていたが、バッジ試験をうけるほど熱心ではなかった。山際からは腕をあげて構えをとることをくりかえし指導されたが、身についていないのですぐ両腕はたれさがってきた。たしかにだらしない感じで見栄えがしなくて、碧人は自分もそうだったのだと思った。 深山はこの壁をまえに、六人にはおりるようにすすめた。木戸は、無理だからいっしょに迂回路をすべろうといった。 木戸修一は、うらやましそうな目で碧人をみた。 四〇度をこえる壁は、切り立っていた。 絶対に冒険しないことを信条とする遠藤耕一は深山の言葉に考えていたが、やがて決心した。彼は、いちばんさきに飛びだすと深雪のなかで軽快にターンをしながら颯爽とくだっていった。この瞬間、遠藤は二〇歳の青春時代にもどっていた。 佳奈子は、格好いいとはいえなかったが、ころぶことなくゆっくりと滑降した。 碧人は、みんなが気持ちよくすべるのをみていた。最後にいこうと考えて振りかえると、のこっていたのは新川だった。ここでも指示がでているらしいと思って、仕方なく彼よりさきにおりた。雪はふかふかしていて、猛烈に気分がよかった。平坦なところまでいくと、誰もが興奮していた。迂回路をとおっておりてきた木戸は、うらやましそうに六人をながめていた。 下倉スキー場からの帰路も、深山が運転した。碧人はかわろうと提案したが、彼は自分でするといった。途中で休憩をとったが、かなりの長距離だった。運転をつづける深山は、すこしつかれていらいらしていた。 右代は、さまざまに気づかっていた。 碧人は、このふたりをみて、組みあわせとして非常に面白いと思った。 深山は、やん茶坊主でガキ大将だった。 いっぽう右代は、女房役に徹していた。気づかい一筋の人だった。彼は、つとめていた商社の仕事でも調整役だった。なんにでもちょっと口をだし、それがあだになってまとめ役を依頼された。六〇歳で退職したが、六五歳まではかんぜんなリタイアにはなれなかった。小学校や中学校、高等学校の同窓会の幹事も、その性格からひきうけざるをえなくなって、やめることもできずにつづけていた。町内会も、水害時に町内会長と折衝しているうちに関係がうまれた。五〇歳のときに庶務の役を懇願され、以来ずっとやめられなくなっていた。 右代は、六五歳で会社とかんぜんに縁が切れることになった。そのとき、いままでつづけてきた役職をすべてやめる決意をした。どれもこれも慰留されたが、とりわけ町内会はかわる者がいなくて難航した。ここを人生の岐路にしなくては、またこの関係をえんえんとつづけるに違いないと自分にいいきかせ、頑強に意志をつらぬいた。 すっかり自由の身にかわった右代は、若いころにやっていたスキーをはじめたのだった。当初はかるい運動のつもりで、これほど夢中になるとは微塵も考えていなかった。ゴールデンバレーにかよいはじめると、同年代の仲間がたくさんいるのに気がついた。ちょっと話すと、同好会をつくったらいいのではないかという提案があった。それで連絡係をしているうちに、会長職に押された。しばらくたってスクールを通じて深山と知りあい、もっと拡大してシニアクラブをつくろうという話になった。それで、連絡係をかねた会長職に推薦された。 スキー仲間に懸命に連絡している姿をみて、妻は「馬鹿じゃないのか」といった。けっきょくやっていることは、なにひとつかわらない。だまって町内会をつづけていたほうが時間があり、自由だったのではないかといった。彼も、そのとおりだと思った。 苦労している右代をみて、碧人は話題を提供しようとした。 「こういう高速を走っていると、ときどき大型のトレーラーが追いぬいていきますよね。それが、自動車を一〇台以上つみこんでいたりするのですよね。すぐ脇を猛スピードでぬかれると、ぎょっとなって目が覚めますよね」と言葉をかけた。 「そんな体験、ないですよ。みた経験も、ありませんね」 深山は、にべもなくいった。 「そうですね。私も、知りませんね」 右代も、そういってうなずいた。 それからいくらもたたないうちに、碧人はみょうな気配がして背後を振りかえった。すると青色にぬられた大型のトレーラーが、猛烈ないきおいで追いこし車線を走行してくるのが目に入った。深山も、ミラーで確認した。その車はどんどん迫ってきて、やがて一〇〇キロ以上で運転する彼らの車両の真横にきた。トレーラーは、自動車を満載していた。碧人が数えると、赤色の車を一二台つんでいた。トレーラーは、あっという間に追いぬいて視界から消えていった。 車内は、不思議な沈黙が支配した。 しばらくたって、右代は、碧人がなんの仕事をしていたのかときいた。彼が医者をやっていたと話すと、みょうに納得した。 出会ったパーキングで、新川が運転する車と分かれた。深山の家につくと、右代が北山夫妻を自宅までおくってくれた。非常に、慎重な運転だった。 右代は二日間、目一杯スキーにあけくれたが、翌日はもうひとつのクラブの約束で蔵王にいってすべった。 一級の検定は、平日の水曜日に行われた。三月なかばのよく晴れた日だった。 受験者は、北山夫妻と三木秀夫、新川則之の四名だった。 検定項目は、横すべり、ショートターン、ロングターン、不整地の順で、検定員三名によって行われた。 深山と右代は、応援にきてくれた。 山際は、検定員ではなかったが四人をみまもっていた。彼は、こぶ斜面が凍っているから最後のふたこぶをバンクですべればいいといった。 碧人は、おおむね通常のすべりで三種目を終えた。最後のこぶは、ガチガチに凍っていた。山際のいうとおり、出だしの部分は横すべりをするのがようやくだった。最後のふたこぶは、自分ではバンクをすべっているつもりで終えた。 午後に結果が発表された。 碧人は、横すべりが六九点で一点足りなかった。他の種目は、七〇点だった。 佳奈子は、こぶ斜面で最後まで横すべりだったので六九点だった。ロングターンも、スピードがなかったため一点減点され、総合では二点足りなかった。 三木も、こぶ斜面を横すべりだったので六九点で一点不足だった。 新川は、すべてが七〇点で合格した。 何回も検定で落ちてきた碧人は、この光景に既視感をもっていた。合格点の七〇点と不合格の六九点のあいだには、天と地の違いがあった。この一点を埋めることがどんなに至難の業なのか、よく知っていた。ひとつの課題で六九点にとどまる者が、べつの課目で七一点をとるなんてありえないのも熟知していた。山際は、惜しかったといった。深山も右代も慰めてくれたが、期待していた分だけ落胆は大きかった。 三 ミッドスキー つぎのシーズン、碧人はまったく気力が湧かなかった。 雪がふりだすと、北山夫妻は蔵王ですべった。プレシーズンだったので、連絡リフトにあたる片貝のトリプルリフトがうごいていなかった。となりのゲレンデにいくために、リフト一本分、スキーをはいたままで移動した。このとき、佳奈子は右の手首を痛めた。 北山碧人は読書が趣味だったが、雪がふりだすころから目がかすんで文字がみえ難く感じはじめた。眼科医に相談すると、白内障と診断された。進行は軽度だが、自覚症状は人によってさまざまだろう。手術をすれば、劇的によくなるはずだといわれた。 碧人は、白内障によって目がかすんでいるのだと気がつくと読書がひどくつかれるように感じた。年があけてかんぜんなスキーシーズンになるころ、手術を決意した。 佳奈子は、シーズンが終わってからやればいいといった。 たしかに緊急性はなかったが、本を読むのを日課にしていた碧人は靄がかかった状態にひどく年をとったと感じた。目がしょぼしょぼになって文字がかすれ、つかれ目がはげしくなったので早期の施術を希望した。一月のなかばに入院し、両眼に眼内レンズ入れてもらうことにした。手術は順調だったが、碧人はこのシーズンほとんどスキーができなかった。 佳奈子は、よく看病してくれた。重病ではなかったから碧人の状態が落ちつくと、ひとりでゴールデンバレーにかよっていた。リフトにのると、乗りあわせ者は誰でも「ご主人はどうしたの」ときいた。いちばん素朴な質問だった。 佳奈子は、深山からずっと個人的にレッスンをうけていた。シュテムをなおす方法をていねいに教えてもらい、熱心に聞き入り、努力していた。彼女は、かんぜんに深山の愛弟子になっていた。 シーズンが終了してから、手首の痛みがつづく佳奈子は整形外科を受診した。 診察した医師は、「TFCC」だと診断した。 通常、橈骨と尺骨はほぼおなじながさで手首の関節をつくっている。生まれつき尺骨側がながい人がいて、そこに反復動作などの刺激がくわわり三角線維軟骨板を傷つけると、持続する痛みが出現するといった。 佳奈子の母親は、すでに他界したが、晩年、右手首の疼痛に悩んでいた。ものを持ちあげることも不可能だった。彼女の姉は若いときか右手首に疼痛が出現し、子供に授乳もできなかった。 佳奈子は、医師のいうとおり遺伝的な素因だと気がついた。よくしらべてもらうと、左側の手首もおなじだと指摘された。構造の問題だから、このまま治癒することはない。手術は可能だが、かならずしも成功するとはかぎらないといわれた。彼女は、怖がりだったので外科手術を希望しなかった。うごかさないようにする以外、方法がないと説明され、プラスチックの固定具をつくってもらった。予防的な効果を期待するので、始終つけていることをすすめられた。これで保護していればスキーは問題ないといわれ、彼女はほっとした。 つぎのシーズン、碧人は元気だった。もう、バッジテストはあきらめよう。せっかくだから、元気なうちにいろいろなスキー場ですべってみようと妻をさそった。 佳奈子は両手首にプロテクターをつけていたが、スキーができればなんでもよかった。ほんとうにすきな人というのは、理由も場所もどうでもいいのだろう。彼女は、スキー場にいってスキー板をはいていれば幸せだった。 ふたりは、年明けに蔵王ですべった。天候にもめぐまれ、夜に新雪がふったゲレンデは猛烈に気持ちがよかった。碧人はリフト下の未圧雪部分を小回りで疾走し、昨シーズンはほとんど味わえなかった開放感に浸った。バッジテストにうからなくても、こぶ斜面がすべれなくとも、スキーは充分に面白いのではないかと感じた。 碧人は、あるゲレンデのいちばんうえのリフト降り場から下にむかって新雪がそのままにおかれているのに気がつき、こぶをつくろうと考えた。佳奈子に話して、ふたりでペアリフトをくりかえしのってボーゲンで懸命にコースを造設した。こぶバーンができると、リフトのうえからみていたスキーヤーがやってきて一挙にこわしていった。 碧人は立腹し、パトロールが進入禁止のマークをつけていた急勾配のジャンプ台を飛んだ。いちばんうえのところに、かなりの新雪がつもっていた。いきおいをつけてジャンプしたが、踏み切り部分がなかったので最後に頂上の雪を押しだす形になり、一回転して左の肩から落下した。猛烈な痛みで起きあがった碧人は、左肩が変形しているのに気がついた。骨折したのは、すぐに分かった。佳奈子にストックをもってもらい、リフト三本分のコースを右手で左腕をかかえながらおりた。パトロールをよんで、事故の状況を説明した。彼女の運転でスキー場のちかくの整形外科にいき、左肩の骨折を指摘された。 佳奈子は、「TFCC」でかよっていた病院に搬送した。 そこで碧人は、専門医によって状況の説明をうけた。 肩関節が、骨折によって粉砕している。関節再建のため、チタンプレートで固定する必要がある。プレートを早期に除去しないと、肩関節の運動機能を良好にたもつことができない。だから三月後に抜釘術を再度、全身麻酔で行う。この期間、肩は九〇度以上には挙上できない、といわれた。 碧人は、翌日、全身麻酔でプレートによる固定術をうけた。手術は順調だったが、九〇度までしか右手をあげられないのはかなりのストレスだった。それから三ヵ月間をあけて、ふたたび全身麻酔のもとで抜釘術をうけた。この直後から、ひどい頭痛がはじまった。 碧人は、がんらい偏頭痛をもっていた。母親も、また自分の娘もおなじ病があったので家族性に発生したのではないか考えていた。しかし術後に襲ってきた頭痛は、薬を服用しても容易になおらなかった。 一ヵ月後に、猛烈な痛みがはじまった。横になっていることもできず、気分がわるくトイレに籠もって吐きつづけた。胃は空っぽだったから、ただ苦しいだけだった。このままでは、死んでしまうのではないかと思った。 佳奈子が救急車をよび、碧人は搬送された。救急病院に入院したが頭痛はおなじようにつづき、主治医もまったくあらわれず、どういう状態なのか説明もうけられなかった。あまりに痛みがはげしく、軽減しないのでイミグランを筋注された。その途端、猛烈なだるさが身体を襲った。すべてが人ごとのように思え、意識はあるものの痛みも認識できない倦怠感だった。 碧人の息子が、病床にこない主治医をなんとかみつけて話しあった。MRIを四日つづけて撮影したが、なにも分からない。疑われているのは、小脳出血だといった。脳出血なら、イミグランの筋注は施行してはいけない「禁忌行為」だった。誠意がみとめられない対応に息子は怒って、大学病院に再搬送してもらうことになった。 医師だった碧人は、救急車両にはこばれてきた多くの患者をみた。しかし、自分がのるとは考えたこともなかった。それも、二回目になっていた。搬送されながら、乗り心地がわるいと思った。到着するまでの時間はひたすらながく、なにも思いだすことができない状態がつづいていた。筋注された薬剤の名前は、なんだったのか。「イ」からはじまる気がしたが、つぎの「ミ」という言葉がどうしてもでてこなかった。 大学病院では、ナースステーションのいちばんちかい部屋で治療をうけた。担当になった壮年の医師は、状況を説明してくれた。シャーカステンに写真を幾枚もかかげて、 「すべては、もう終わったのではないか」といった。 まだMRIでは明確にあらわれていないが、おそらく右横静脈洞の血栓症だろう。一部に出血がみとめられるが、これで治まったのではないか。ようするに、脳に血栓症が生じて、血流が行き場をうしなった。そのため一部が出血したが、運のいいことに周囲の血管がひろがり、いまはべつの経路でながれているのではないか。つまり、事態はこれ以上すすまず、日常生活に支障は起きないだろう。とはいっても、この状態でかんぜんに落ちつかせるために、血液の凝固を阻止するヘパリンを投与して様子をみよう。これだけ大きな静脈に血栓が生じたのだから、もとどおりに再開通することはないだろうといった。 碧人は、ヘパリンの投与をうけた。命には関係がない、後遺症もほとんど起こらないだろうときいて安心した。頭痛は継続したが、吐く事態は起きなかった。二週間経過して、退院となった。 碧人は血液内科を受診し、なぜ血栓が生じたのかしらべた。いくつかの項目で先天性の異常が示唆され、抗凝固薬を服用することにした。母と娘が偏頭痛をもつのも、こうした原因だったのかもしれないと思った。もしかすると、脳の横静脈のような太い血管は、いっきに閉塞したのではないと考えられた。時間をかけてつまったので、側副血行路が確保されたのだろう。偏頭痛は、それを知らせる危険信号だったのだろう。病後も頭痛は頻発していたが、後遺症はなかった。なによりも麻痺がのこらなかったのは、とても運がいいことだった。 翌年のシーズンは雪不足で、岩手の大きなスキー場にかよった。メインバーンで、スクールの教師がこぶ斜面をつくっているのに出会った。いっしょに手伝わせてもらい、すべってもいいのかきいた。教習用のこぶなので、固まるまで一晩、待って欲しい。レッスンに入れば、ここをつかって教えるといった。 碧人は、佳奈子といっしょに講習にでた。彼は、途中で膝が痛くなって休んだ。参加者のなかには、東京からきた人がかなりいた。シニアではない人たちが中心だったが、羽田から飛行機で到着し三泊四日の講習をうけていた。うまく滑走できなかった者たちが四日間受講すると、一列にならんでこぶ斜面をおりていくのをみて、碧人はひどくおどろいた。自分たちがスキー場のちかくに住んでいて、仕事もリタイアし、時間的な制約もなくすべれることに感謝した。いっぽう、このままでいいのだろうかと感じた。 ゴールデンバレーでは、深山が懇切ていねいにすべりを指導してくれた。ラインやこぶづくりにも参加したが、病みあがりのせいもあり、碧人はいまひとつモチベーションに欠けた。 つぎのシーズンは、コロナがはやりはじめた。抗凝固薬を服用する碧人は、罹患すると重症化の恐れもあったので気がのらなかった。さまざまな理由をつけて、スキーをサボっていた。 佳奈子は、手首をプロテクターで保護しながら、ひとりでゴールデンバレーにかよっていた。リフトにのるたびに「ご主人は、どうしたの。また怪我したの」ときかれた。 彼女は、深山に師事してスキーを満喫していた。 翌シーズンになって、かなり碧人は復活した。まだコロナがはやっていたが、会員たちは冬の大切なスキー場でクラスターが起こる事態をなによりも心配した。ゴールデンバレーは誰にとっても大事な社交場だったから、みんなきちっとマスクをつけていた。リフトの開始時間が大雪や強風でおくれるばあいには、多くの会員が待合室で距離をたもってすごしていた。用心ぶかい遠藤耕一が、駐車場におかれた自家用車のなかで時間を待つ姿もしばしばみられた。 この年も、碧人は、佳奈子とともに深山英明の講習会にでていた。 深山は、こぶのすべり方を教授していた。もちろん彼はカービングにも長けたが、いまは表だって人が教えない横ずれを入れた滑走法を伝授していた。洗練すれば、かつてはウエーデルンとよばれたすべりに該当した。 カービングは、ずらすという減速動作がないためスピードがですぎてしまう。事故が起きると大怪我になりやすいので、ずらし動作はみなおされはじめていた。これは、スピードをいかに殺すかという技術だった。こぶ斜面でも、深山はどこにでもとまれた。とまった場所を出口とよんでいたが、それがなんであるのか他人にはよく理解できなかった。どんなにこぶがつづいても、彼の速度が増すことはなかった。もちろんとまれるのだから、エッジを立てながらモーグルのように滑降するのも得意だった。ようするに自由自在で達人の域に到達しているのは、万人がみとめるところだった。彼は、外見は温厚な年寄りだった。夏場にトレーニングすることもないので、際だった筋力があるとも思えなかった。こぶ斜面を滑走するとはいっても、彼のばあい「いざ、すべろう」という気あいも力みも不要だった。かんぜんに脱力し、気がついたら下にいるという感じで、風がながれるように不整地をすべりおりた。 碧人は、週に二回ひらいてくれる深山の講習にでていた。しかし彼は速度をだすのがすきだったから、あまり面白いとはいえなかった。よく考えてみると、碧人はもっとダイナミックなすべりを希望していた。ようするに見栄えがする、山際が教えていた延長にあるものだった。そう考えると、深山のすべりは達人というより仙人だった。このふたつは、まったく違っていた。達人には、プロレスラーのような人もいるだろう。しかし仙人は雲にのれるのだから、重くては無理だった。ひと言でいうなら、深山のすべりはかんぜんに枯れていた。 碧人は、そう考えながら講習をうけていた。このまま漫然とならっていても、大切な時機を逸するかもしれないと思った。そう考えてすべるうちに、深山がさかんにくりかえすとおり足首をまげて脛をブーツにつよく押しあてていればこぶ斜面でとまれることを発見した。これは、ひとつの契機になった。もしとまれるのなら、そこからつぎのこぶにむけてすすめばいいのだろう。ついた場所でも停止できるのだから、くりかえせば斜面をおりられるのでないかと思った。 碧人は、深山の講習にでるのをやめ自主トレーニングをはじめた。チャレンジのこぶ斜面で、この手技について考えた。実際にやってみると、とまった場所からつぎのこぶにいくのは非常にむずかしい課題だった。無理してでると、バランスをくずして転倒した。碧人は、チャレンジで考えながらくりかえしころがっていた。 リフトにのると、みていた右代といっしょになった。 「北山さん、頑張りますね。私はついに八〇歳になりましたから、もうこぶはいかないと決心しているのです」 右代は、冬以外の季節はジムにかよっていた。ところが、孫からジム通いをつづけるなら感染の恐れがあるので面会しないといわれた。仕方がないから、スキーにしぼった。そうしたら今度は、子供たちから自動車免許の返納をくりかえし要請されている。バスでくるのはたいへんだし、スキーができなくなったら死んだほうがいいといった。 碧人は、チャレンジで練習するのは目立ちすぎると思った。しかしつづければ、なにかがつかめそうな気がした。それで、山頂にむかうペアリフトの左にある不整地で考えてみようと思った。 二月のはじめで、シュートにはほとんど人がいなかった。ここは、ゴールデンバレーの最上部につくられたすり鉢状の片斜面で、最大斜度三六度のゲレンデだった。圧雪車がのぼる場所ではなかったから、こぶが不整にできていた。 碧人はシュートの斜面に立って、どうでるかという課題を考えていた。ちょこちょこ転倒しながらリフトを二回あがって、中央でこぶ斜面をながめていたときだった。 「北山さん。苦労しているのじゃないの」という声が、背後からきこえた。 振りかえると、前沢がいた。 前沢哲志は、碧人より三つ年うえだった。学生時代、競技スキーに夢中になっていた。かなり打ちこんだが、前十字靱帯を損傷し競技からは遠ざかった。スポーツ一般がすきで、夏はカヤックをやっていた。碧人が一級に挑戦した年、ゴールデンバレーにおとずれ、深山にみつけられた。シニアクラブに入会し、たくさんの同年の者たちがスキーに頑張っているのをみて昔日のスキー三昧の日々がよみがえった。競技スキーを熱心にやっていたので、バッジテストは容易で一級まではすぐにとった。 碧人は、以前エッジの研ぎ方について興味をもち、深山に相談したことがあった。 そのとき彼は、スクールの道具置き場につれていき、前沢を紹介した。 「専門家だ」と深山はいった。 前沢は、中途半端な気持ちではエッジは研げない。道具を準備し、充分な時間をかけるつもりにならないと教える価値もないと講釈をはじめた。苦労話をくりかえし、エッジ研ぎに傾ける情熱をさまざまに話した。 碧人は、話をきいているだけで頭が痛くなった。えんえんと講釈をきかされ、あらためてエッジを研ぐ気力もなくなっていた。彼が、かなりマニアックな性格だとは理解した。 前沢は、すこし手助けしましょうかといった。 方法があるのなら教えてもらいたいと碧人はこたえ、目下の課題について話した。 「すっかり停止すると、まえにすすむ力がかんぜんになくなってしまいます。回転したあとで、とまったらどうでしょう」といった。 碧人がうなずくのをみると前沢は実演をはじめ、こぶの頂上付近でくるっとまわった。スキー先端部は方向がかわり、そこからつぎのたかいところにむかって横すべりをした。そして、また頂上付近でくるっと回転した。 「とまるのは、この部分です。こぶの頂上をこえて腹側になるところです。ここにとまれば、あとは横すべりで落ちるだけですから、飛びだす必要がありません」 「なるほど」と碧人は思った。 それで、真似ながら下におりていった。 ペアリフトの乗り場にいくと、前沢はすこし待つようにいった。 碧人がみていると、彼はスキーをぬいだ。そのときにはじめて、板のながさが左右で違っていたことに気がついた。 前沢は雪面に立てたスキー板をひきぬいで、おなじ全長のものをもってきて、はいてみろといった。 「これが、一二五センチのミッドスキーです」 「あなたのは」と碧人はきいた。 「こちらは、一〇〇センチのショートスキーです」と前沢はこたえた。 ようするに、彼はながさの違うスキーを左右にはいて、なにかを試していたのだと分かった。以前にもマニアックだと感じたが、正しかったと碧人は思った。 前沢は一二五センチのミッドスキーをわたすと、一〇〇センチのショートスキーをはいた。彼は、これですべろうといった。ペアリフトをのぼると、左側のバーンで横すべりをしてみようと提案した。 碧人は、彼の指示にしたがってコースをおりた。それから、もう一度リフトをあがってシュートにでた。 前沢は、さきほどいったとおり横すべりでこぶにむかっておりていった。頂上のところでやや踵側に体重を入れ替えてピボットターンをした。腹にでると、そこを横すべりでくだっていった。両脚が一本のようにそろって、とても綺麗な試技だった。 碧人は、横すべりで頂上までいった。とまらずに後方に体重を移動して回転し、腹の部分にでた。そこからはおりていくだけで、余計なことを考える必要がなかった。思うとおりにすべれ、回転がビシビシと決まって感激した。 通常の一七〇センチ前後のスキー板で不整地をすべると、あいだに溝がつくられる。その入り口を一〇合目、出口部分を〇合目と措定する。こぶ表側を滑走するバンクすべりでは、スキー先端部はこぶの八合目くらいにあたって方向をかえる。モーグルでは、三合目くらいをねらう。シュートを滑走する者たちのすべてが、こんな高度な技術をもっているわけではない。さまざまなレベルの者が横すべりをした結果が、目のまえにつくられた現状の溝になる。最終的にその横幅は、スキー板の全長の七割くらいに収束する。つまり平均が一七〇センチなら、おおむね一二〇センチになる。これはミッドスキーのながさと一致し、かんぜんにこぶの裏側、腹にあたる部分を横すべることが可能だった。このスキーをつかえば、こぶ同士のあいだに存在する溝は、平坦なコースとまったくおなじになる。 原理が分かってきて、碧人は狂喜した。この板なら、チャレンジを征服できると確信した。前沢に、思いつくかぎりの感謝の言葉をくりかえした。 「どこで、この板を買ったらいいのか」と碧人はきいた。 「普通の商品だから、スキー店で売っているはずだ」とこたえた。 前沢は、こぶですっかり悩んでいた大川綾子にミッドスキーを教えた話をした。彼女は狂喜し、どうしても彼がはいているスキー板が欲しいとせがんだ。あまりにもつよく迫られ、前沢は仕方なく自分の板を大川にあたえ、ネットで買いなおしたといった。 大川綾子は、シニアクラブの数少ない女性会員だった。自営の店をやっていたので時間の制約があり、始終ゴールデンバレーにくるわけではなかった。若いときに準指導員までなった彼女がおなじ悩みをもつのは、碧人はよく知っていた。しかし、その話まではきいていなかった。 碧人は、シュートで起こった狂喜すべき出来事を、佳奈子に話した。いっしょにスポーツ用品店をたずね、店頭にならんでいたミッドスキーをみつけた。佳奈子にとっても、福音になるに違いないと力説した。いまのスキー板がひどく気に入っていた彼女は乗り気ではなかったが、彼は妻の分も購入した。 翌日、碧人が佳奈子といっしょにシュートにいくと、前沢は左右違うながさの板をはいて研究中だった。彼は、おそろいのミッドスキーをみせた。そして、昨日のレッスンを佳奈子にもしてもらいたいと希望した。前沢は、その要望に快く応じた。 こうして、ゴールデンバレー、ミッドスキークラブが誕生した。 碧人は、ミッドスキーでチャレンジをくりかえしすべった。幅がスキーのながさとおなじだったから、もうすでに溝とはよべなかった。あきらかにミッドスキーにとっては、平坦なコースのひとつだった。もともとチャレンジは、あらゆる場所が危険地帯だった。みわたしても、どこをすべっていいのかさっぱり分からなかった。 ミッドスキーは、その状況を劇的にかえていた。これをはくとどこも平坦なコースだから、あらゆる場所が滑走エリアだった。この発想の違いに、碧人は興奮した。深山が入り口、出口とよんでいた場所は、なんでもないコースの一部だった。こぶはどこから出発してもよく、いきついたところで回転すればいいだけなのだ。方向をかえれば、そのまえにはまたコースがひろがっていた。 気がつくと、碧人は七〇年間生きていた。さまざまな喜怒哀楽も、経験していた。記憶にのこるおどろくべき事件も、ひとつやふたつでは決してなかった。予期もしない出来事に出会い、考え方が大きくかわったことは幾度もあった。しかしミッドスキーの衝撃は、人生で最大級だった。いままでどうしても入っていけなかった危険ゾーンが、とつぜん遊び場にかわるのだ。どんな手段を講じても危なかったエリアが、なにをやっても大丈夫な領域に変身した。こぶのなかにいられる喜びを、日々噛みしめることになった。 ミッドスキーの伝道者としてあらわれた前沢哲志は、目立ちたがり屋だった。数多いクラブ会員のなかで、自分をどう表現するのかつねに考えていた。 碧人は、前沢が二階の溜まり場で珈琲を飲んでいたのをみかけたことがあった。 ここは、多くの会員が持参した弁当を食べる場所だった。だから、なにを飲んでも本人の好みの問題だった。前沢は、そうした場所にわざわざキャンプ用のコンロをもちこんで、お湯を沸かしていた。さらにミルを持参し、ここで豆をひいてドリップし、珈琲を飲んでいた。ただの「珈琲ずき」なだけでは、決して説明できない行動だった。 前沢は、ミッドスキークラブを立ちあげることでシニアクラブに確固とした居場所をつくろうと考えていた。エッジ研ぎは、あまりにも裏方でインパクトに欠けていた。 碧人が感じた快哉という気持ちは、佳奈子にも共感できるものだった。彼女は怖がりだったので、チャレンジはまったく踏みこめない危険エリアだった。それがミッドスキーをつかうことによって、かんぜんな安全地帯に変化した。 佳奈子も、このツールに夢中になった。 ゴールデンバレーは、毎年三月にチャレンジをつかってイベントが行われていた。この期間、べつの場所にこぶ斜面を整備して欲しいという要望が以前からとどいていた。その年は雪も豊富だったので、林間コースにこぶをつくることをパトロールが許可した。もちろんこの吉報は、右代のショートメールによって会員に知らされた。深山のこぶづくりも「緊急、重大」メールとしてつたえられた。北山夫妻も参加し、四本のこぶがならぶ立派な斜面が造成された。 深山は、整然とつくられたこのこぶ斜面で滑走法を教えていた。しかしラインで教授した真っすぐこぶにあたり速度をコントロールしてまた直下るというすべりは、講習をうける者たちにとってきわめて難問だった。天才肌だった深山は、こぶ斜面にいけば身体は勝手にうごいていた。無意識に行われる運動を言語化するのは、決して容易ではなかった。いずずれにせよ、基本が横すべりの習熟だったのは間違いがなかった。 深山は、自分のすべりをあらためてどう説明するのか苦心していた。教授するのに適したととのったこぶ斜面がつくれたので、彼は会員をひきつれて講習をしていた。しかし参加者は直下ってぶつかるすべりができないので、けっきょく横すべりでおりる方法を教えることになった。この基本手技から理想的な滑走法には大きな飛躍があり、移行部をどうやって埋められるのか、彼は煩悶をつづけていた。 碧人は、ミッドスキーをつかいながら考えていた。 こぶのどこでもとまれるのなら、深山が話すとおり飛びこむこともできるのではないか。三合目くらいに先端があたって、さらにすすめばモーグルといっていいだろう。そこでとまれば、直下ってぶつかったことになる。ここでかんぜんに停止すれば、つぎの動作につながらないから、前進する力をのこせばいいのではないか。これは、深山の減速という表現に合致するに違いない。 碧人は、ミッドスキーを信頼していたのでイメージどおりのターンができることを確認した。ついに、深山が希望したこぶ斜面の滑走になると信じた。それで、彼の講習会に参加した。 深山の講習には、一〇名くらいがあつまっていた。横すべりの練習だったが、碧人は「直下って、こぶにぶつかってとまってもいいか」ときいた。 深山は、みょうな表情になって、やってみろといった。それで碧人は、直下ってこぶにあたると速度をゆるめた。そして、もうひとつくだってとまった。 深山は、そのすべりをじっとみつめた。そして、 「こぶとぶつかるときに、もうすこし身体を小さくしたほうがいい」といった。 碧人は、彼の指示にしたがって衝突時に足首をまげて減速し、もう二ターンした。それで、深山をみると「それでいい」いった。 碧人は、ついに達人から「よし」とつげられるすべりができた。彼は、世界が輝いているのを感じた。チャレンジの斜面で、深山に講習をうけてから六年間が経過していた。ついに、達人から免許皆伝を授けられたと思った。 碧人は、みんながすべり終えると乗り場からクワッドを深山とふたりでのった。高速リフトだったが、降り場までは五分くらいかかった。彼は、深山が激賞してくれるものとばかり考えていた。しかしだまってすわる達人は、憮然としている感じにみえた。 碧人は、困惑した。 「ついに、深山さんが話していたとおり、すべることができました」といった。 すると、彼は碧人をじっとみた。 「スキーはね。板のながさが、最低でも一五〇センチはないとね。それ以下では、もうスキーとはよばないんだよ」とこたえた。 碧人は、衝撃をうけた。彼はこぶ斜面に立つと、どうやって深山のいうとおりにすべれるかだけを考えてきた。どうしても話されたようにできなくて、ミッドスキーにたどりついた。深山が熱心に教授するすべりを、ひとりの会員も実行できないのをつねづね不甲斐ないと感じていた。あんなに一生懸命に教えてくれる、彼の思いにこたえたいと考えてきた。ミッドスキーというツールをつかってようやくたどりついたと思っていたが、深山は不満だったのだ。 碧人は、予期もしなかった反応にすっかり消沈した。 深山は、ふたたびこぶ斜面にいくと受講者をならべて口をひらいた。 「今度は、さっきと違うすべりをする。バンクは、こうすべるのだ」 深山は、こぶにぶつかるのではなく、表部分の壁を滑走しはじめた。いままで、彼が教えたことのないバンクラインだった。 碧人は、深山の真意がまったく分からなくなった。彼はこぶをすべりおりると講習をぬけ、センターハウスにいった。平日の午前中だったので、食堂はがらがらにすいていた。彼は、ゲレンデがみえる椅子にすわって考えていた。 ミッドスキーが、あらたな地平を切りひらいたのは間違いがなかった。このツールによって恐怖心がやわらぎ、こぶ斜面にすきなだけいられるという積年の夢が叶った。ミッドスキーに出会わなかったら、こぶをすべるという感激を生涯理解できなかっただろう。 碧人は、深山と考え方が違っても仕方がないと思った。せっかく遊ぶのだから、自分のすきな面白いことする以外に考えられなかった。 碧人は、ミッドスキーによってこぶ斜面をすべる楽しみを知った。それで、この体験をいままではいていた一六五センチの板で試せないだろうかと考えた。実際にやってみると心理的な壁がつくられ、どうしても大胆になれなかった。この板には、転倒のイメージがつきすぎているのだろう。しかしミッドスキーという有効なツールをもちいて、あらためてどう攻略するかを考えた。一二五センチと一六五センチの四〇センチのながさが埋め切れないのなら、中間の一四五センチのスキー板をつかったらどうだろう。こんな板は、売っているのだろうか。 碧人がネットでしらべてみると、メーカーもこうした需要にこたえていた。こぶは、どんなスキーヤーにとっても憧れだった。需要があるため、高速にも対応できるというふれこみでみじかいスキー板が開発されていた。碧人は、一四五センチの板を購入することにした。佳奈子がもともとはいていたスキーは一五五センチだった。ミッドスキーとは、三〇センチ違っていた。ふたつの中間値にあたる一四〇センチの板も販売されていることを発見し、購入した。 碧人が一四五センチのスキー板をはいてこぶ斜面で練習していると、前沢は目ざとくみつけて「どうしたのか」とたずねた。彼の考えをきいて、「それも、ひとつのアイデアだ」といった。 試してみると、ミッドスキーのながさは絶妙だった。いままでできなかったすべりが、このツールで可能になったために絶大な信頼がつけくわわっていることに気がついた。おどろきが大きかった分、一四五センチの板に馴染むには時間がかかった。 三月も後半に入り、ゴールデンバレーの雪も湿りはじめたころだった。 碧人は、クワッドリフトで木戸に会った。彼とは深山の講習でいっしょになることが多かったが、自主トレーニングをはじめてからなかなか話す機会がなかった。 「このあと、夏油にいくのですって」と木戸はきいた。 碧人は、こぶをすべりこむつもりだとこたえた。 木戸は、搬器に揺すられながら来シーズンは準指導員の試験をうけるといった。 学科がたいへんで厚い本を四冊、暗記しなければならない。たんなるスキーの歴史や技術理論だけでなく、救護法とか、気象の勉強もする必要がある。研修会が毎週のようにひらかれ、県内各地のスキー場にかようことになる。お金もかかるが、気力も体力も必要だろう。たいへんとはいっても、学科についてはなんとかなるだろう。ボーゲンとロングターン、ショートターンは、七〇点はとれると思う。なんといっても最大の問題は、こぶだ。ゴールデンバレーが終了したら、夏油で徹底的に練習するつもりだ。今度は、そこで会おうといった。 碧人は、耳を疑った。 木戸は、一級をとったのだ。そして、そのうえを目指しているのだ。 スキー検定で一級を取得すると、スキーにたいしてさらにふかい理解にいたる上級の準指導員、指導員など認定をえる道がひらける。こうした資格には、指導義務がうまれる。技術面にかぎるなら、テクニカルプライズ、さらに上級のクラウンプライズを目指すことができる。この上位に、デモンストレーターが存在する。また一級をとると、スキー場のパトロールになる資格もうまれる。 木戸修一は、碧人よりひとつ年下だった。一級を目指して山際の指導をうけた四シーズンまえに、彼は後期から講習会に入ってきた。とても二級のレベルはなく、いつも腕がさがって構えがつくれなかった。移動研修会で下倉スキー場にいったときは、頂上につくられた壁をおりるのは無理と深山に判断され、ひとりだけ迂回コースにつれられていった。碧人が深雪をすべってくるのを、うらやましそうにみていた光景が脳裏によみがえった。 つれ立って林間コースを滑走し、メインゲレンデの急斜面にいった。ここは、クワッドにのると最初に目に入ってくる場所だった。 木戸は、碧人の眼前で、かなりの斜度をもつメインゲレンデをカービングでおりていった。ベタベタとした春の雪で、午後だったから斜面は荒れていた。そこを、綺麗なパラレルターンでおりていた。スキーがすべった二本の跡は、途切れることなく美しい円弧を描いていた。 「うまくなっている」 碧人は、はげしい衝撃をうけた。ぼうぜんとして彼はゲレンデをおり、クワッドにひとりでのった。それでチャレンジをみていると、入り口に青色のウエアをきて黒いヘルメットをかぶった男性があらわれた。なんとなくみおぼえがある男は、碧人のリフトがこぶ斜面にいちばん接近するころコースをおりていった。チャレンジは、すでに一部では土があらわれ、がたがたにみえた。しかし男は、荒れたこぶ斜面を苦もなく見事に滑走していった。 碧人は、リフトをおりるとチャレンジにむかった。入り口からながめてみると、ところどころの溝が土色にかわり、ひどく荒れていた。しばらくこぶ斜面をみいっていると、さきほどの青いウエアの男が追いついてきた。 「格好いい、すべりでしたね」と碧人が声をかけた。 「北山さん。今年も、頑張っていたね」と男はいった。 「あなた、誰でしたっけ。みおぼえはあるけれど、その服、あたらしいのじゃない」 「そうです。お久しぶりです」 男は、そういってヘルメットをとった。ふさふさした、真っ白な髪ががみえた。 男は、三木秀夫だった。碧人よりふたつ年うえで、四シーズンまえいっしょに一級を受験したが、こぶがすべれず六九点で不合格だった。 三木は、落ちた翌年に再受験して合格した。こぶについては、県内外のさまざまなスキー場で講習をうけている。ずっと悩みつづけているが、今年はすこし問題が分かりかけているといった。 碧人は、さきほどの素晴らしい滑走を絶賛した。 三木は、もうすこし直線的なすべりを目指している。スキーが二本とは思わず、一本にのっている気持ちになって、出口部分でエッジを効かせたいといった。 「今年は、ここで、ずいぶん挑戦していたじゃない。もう一歩だと思うよ。頑張っていれば、かならずさきがみえてくるよ。こぶは、あきらめたらそこでお終いだものね」と三木はいった。 碧人は、至言だと思った。 三木は、露出した土の部分を巧みによけながら、ほとんどモーグルラインで滑走していった。 碧人は、みんなが努力し、うまくなっていることを知った。真剣に考えないと、ひとりとりのこされるというつよい危機感を覚えた。 夏油(げとう)スキー場は、岩手県南部の豪雪地帯につくられていた。全長一七四〇メートルの第一ゴンドラによって、標高一〇七〇メートルまでのぼることができた。 奥羽山脈は、東北地方を南北五〇〇キロメートルにわたって縦断している。 夏油高原は、この山脈のくびれた部分に位置している。日本海から流入する雪雲は、奥羽山脈に衝突し、湿雪をふらせる。やがて乾燥しながらあつまり、狭まった夏油高原をぬけて太平洋側にでていく。地理的な関係からは、日本海側の秋田県と山形県に降雪をもたらした雪雲が最終的にふきだまる場所にそうとうする。その結果、夏油スキー場の山頂には、毎年二〇メートル以上というとてつもない積雪が生じる。間隙なくつもり雪と夜間にふく風により、積雪面はつねにリセットされ、一二月から二月までパウダースノーが楽しめる。はやい年には、一一月の後半からスキー場がひらかれ、五月の連休までさまざまな雪質を堪能できる。 標高一〇七〇メートルの第一ゴンドラの終点からは、巨大な山の斜面を全面につかって九つのゲレンデが整備されていた。どこかには、未圧雪のコースが開放されていた。最長のA一コースは、初心者用の二一二〇メートルだった。つねに圧雪され、平均斜度一一度、最大斜度一八度のなだらかなゲレンデをつくっていた。A四コースは、全長一四〇〇メートルだった。平均斜度一三度、最大斜度二五度で、三月からは全面がこぶ斜面にかわった。累々とつづくこぶは、斜度の変化により上段、中段、下段に分かれ、あわせると二〇〇ちかくになっていた。山頂からの迂回路にもうけられたB三コースは、六〇〇メートルとみじかいが、最大斜度、三六度の未圧雪ゾーンをつくっていた。 さらに九コースをつなぐ林には、難易度を四つに分類された一〇の林間コースが整備されていた。最大難度と認定されるシューターコースは、かなりの斜度をほこっていた。ツリーランコースは、大雪がふった日は未踏のパウダーにかわり、スキー板をはずせば、腰まで埋まって身動きできなくなる状況をつくっていた。 北山夫妻は、三月以降は夏油にかよっていた。A四コースにつくられた壮観なこぶをすべっていた。ミッドスキーは、ピッチがみじかいモーグルラインでも滑走できた。麻薬的な楽しみをもち、つかいはじめると病みつきになった。 碧人は、なんとか一四五センチの板に移行したいと考えていた。しかし自由自在にすべれるミッドスキーは、面白く手ばなし難いものだった。二〇センチの違いを、どう克服するかが、彼の課題になっていた。 夏油にかよっていたある日、スキー場のちかくの道でキャンピングカーを追いぬいた。 そのとき、六年まえに山際の講習をいっしょにうけた佐藤篤志を思いだした。 佐藤は、碧人より八歳、年長だった。キャンピングカーで日本中をまわっていた。モーターパラグライダーが趣味で、各地で知りあった地元の者たちといっしょに飛行する話をしていた。一匹狼的な存在で、自由奔放な生活を楽しんでいるようにみえた。 北山夫妻がこぶ斜面をすべっていると、後方からきたスキーヤーに話しかけられた。 「北山さん。今日のお昼、ごいっしょしない」と女性の声がした。 大川綾子だった。彼女は、前沢から強奪したミッドスキーをはいていた。 「そうか。もしかして、あの車、佐藤さんだったの」 おどろいてたずねると、彼女はうなずいた。 碧人は、前年、大川が佐藤のキャンピングカーで月山にいき、駐車場で鍋料理をつくった話をきいていた。周囲にいたスキーヤーに振るまい、大好評だったらしい。 大川は、料理の趣味があった。彼女は、木戸から北山夫妻が夏油ですべっている情報をえて、今日は昼食をいっしょに食べるつもりで食材をそろえてきたといった。 そうこうしていると、佐藤がこぶ斜面をおりてきた。彼は、スイッチバックでこぶをひとつひとつこえていた。雰囲気は、以前とかわっていなかった。 昼食は、キャンピングカーのなかで大川が揚げ物をした。キノコや、イカ、エビなどにまじって、途中で採取した、ふきのとう、もあった。 翌週の夏油では、木戸修一と出会った。 木戸は、藤田功一に指導をうけていた。 昼食時に、碧人は食事しているふたりをみつけ、紹介してもらった。 藤田は、中肉中背の品のよさそうな男性だった。頭部はかなり白くなっていたが、ふさふさしていた。木戸とは、おなじ県の公務員で顔見知りだったが、職種が違ったので退職するまで、とくべつな交流はなかった。藤田は、若いころから一貫してスキーを趣味にしていた。それが嵩じて、正指導員の資格をとっていた。退職後、木戸がスキーに夢中になると、顔見知りだったふたりは、とうぜんの成り行きとして夏油で出会う状況がうまれた。そのうち質問され、疑問にこたえる関係ができた。 藤田は、碧人よりふたつ年うえだった。食事が終わると、つかれた木戸は居眠りをはじめた。北山夫妻と三人になると、藤田はスマホで動画をみせた。 「これがね。うちの茜ちゃんなんです。すっかり弱って、立っていられないのですよ」 みせたのは、彼が飼っている犬だった。一三歳になる雌の茜ちゃんは、動画のなかでぱたっと倒れた。とくになにかとぶつかったのでも、つよい風がふいたのでもなかった。高齢で、食事もすすまないのだといった。茜ちゃんの息子、小金が飼い主の手を噛む癖があって、もらってくれた人から返却され、里もどりになったと嘆いていた。 午後も、藤田は準指導員を目指す木戸を教えていた。 碧人は夕方になって分かれ、駐車場で帰り支度をしていた。 木戸があとを追ってきて、「ちょっと待っていてくれないか」といった。彼は、自分の車にいくと大きな袋をもってきた。 「ぼくは、くりかえしみたし、コピーもとってあるから、もういらないんだ。あげるから、ぜひみて欲しい」といって碧人にわたした。 袋のなかには、こぶのDVDがつめこまれていた。立派なケースの裏には、一万円という定価がかかれていた。 「こんな高価なもの、とてももらえないよ」 「いや、ぼくにはもう用がないんだ。それに、ちゃんとコピーをもっている。ぜひ、みてもらいたいんだ。深山さんの講習にでて、どうしても理解できなかったんだ。あんなに一生懸命教えてくれるのに、なにをいっているのか、ずっと分からなかったんだ。だから、他所でいろいろなレッスンをうけた。でもこれをみて、すこし理解ができたんだよ。北山さん。今シーズン、ずいぶん考えていたよね。きっと、このDVDの意味を理解してくれると思ったんだ」 木戸はそういって袋をわたし、ぜひみて欲しいとくりかえした。 碧人は、その晩、佳奈子と鑑賞した。とはいっても約一時間のDVDが六本入っていたので、一日ですべてをみることはできなかった。内容は、非常に興味ぶかいものだった。なんとなく分かりはじめた「こぶをすべる」という全体像が、動画では適確な言葉に置き換えられていた。 碧人は、みんながこぶ斜面について悩んでいるという思いをつよくした。シニアクラブの会員の多くが、「こぶをすべる」という共通の難問にたいして苦悶する同志だったと思った。 木戸は、碧人のすべりについてはなにもいわなかった。いまミッドスキーに夢中になっていることについて、とくに評価はしなかった。それは、みんなが自分の脳裏に描いたすべりを実現しようと、とりくんでいる過程に起こった出来事だった。 ミッドスキーは、最終的な結論ではないのだ。こぶ斜面は、いままですべてが危険ゾーンで、入ることすら頑強にこばんできた。そこに踏みこめる感覚を味わう素晴らしいツールなのは、間違いない。しかし、麻薬にも似ている。一四五センチの板と、いったいなにが違うのだろう。たしかに、こぶにできる溝状の幅はミッドスキーとほぼおなじ一三〇センチだった。しかし、なぜ一七〇センチの板でも問題なくすべれるのだろうか。制限された幅のなかでも、自由にながいスキー板をあつかえるのだ。ミッドスキーによって、こぶのどこをすべったらいいのか理解ができたのだ。この道具によってあらたな地平をみられたが、ここから自分のスキーをうみださねばならないのだろう。今回の体験をよく理解して、こぶ斜面への対応を考えることが課題なのだ。つまり、こぶをすべるためにはどの斜面でも応用できる技術がどうしても必要なのだ。それを習得すれば、もっと気持ちよく、楽しく、どこでもすべれるのだ。ただこぶ斜面をすべるだけなら、魔法の道具で充分だ。しかし、ほんとうに攻略するのが目的なら、もっと技術をたかめねばならない。 こぶをすべるという課題が、碧人のなかで反転した。 一級をあきらめ、こぶ斜面さえすべれればいいと思ったのは間違いではなかったか。魔法のツールをつかって幻想を実現しても、それがのぞみなら、はじめからミッドスキーだけをやればよかったことになる。ここにたどりつくまで、碧人はさんざん苦労してきた。ミッドスキーにいきついたのは、自分がどうこぶと共存できるのかを考えた結果だった。その体験を、スキー技術全体の向上にいかさなければならないのだろう。 藤田は、週に二回このスキー場にくる予定を組んでいた。 顔見知りになったので、碧人は会うとすべりを教えてもらった。 北山夫妻のシーズンのしめくくりは、月山だった。 この年は、地震のため大きな亀裂が入って大斜面は滑走禁止になった。 二日目に、キャンピングカーできた佐藤と大川に出会った。ふたりにすすめられ、リフト降り場のまえにつくられた月山の神さまを祀る山小屋のなかで昼食をご馳走になった。 佐藤は、決してうまいとはいえないもののスイッチバックを巧みにつかってつらなるこぶをおりていた。 碧人は、本気でスキーにとりくまないとなにもつかめないまま人生が終わってしまうのではないかと考えはじめていた。 もう一回、バッジテストに挑戦しようと佳奈子と話しあった。 四 こぶをすべる ゴールデンバレーのこぶ斜面に出会って六シーズン目、北山夫妻は、九月に夏油スキー場の超早割シーズン券を購入した。今年は、まず夏油ですべりこむつもりだった。本気でうまくなりたいと思っていた。 夏油スキー場は、豪雪を売り物にしていた。企業としても熱心で、東北圏内でいちばんはじめにスキー場をあけてくれた。一一月に入ると、ホームページで積雪状況をみせていた。すこしでも降雪がみとめられると、パトロールが実際にコースを下見にいき、動画をとりながら開場時期にかんする最新情報を提供していた。 一一月の最後の週に積雪がみられ、スキー場はオープンを決めた。 北山夫妻は、さっそく夏油にでかけた。そこには木戸と藤田もきていた。 四人で、いっしょにゴンドラにのった。 藤田は、木戸に準指導員の検定課目を教える予定だった。北山夫妻も、講習に参加しても構わないといった。 藤田は、準指導員の実技のひとつに、ボーゲンで四ターンをする種目がある。一ターンごとに課題が設定されている。おなじボーゲンでも、パラレルにむかって徐々にすべりをかえていく必要があると、藤田は説明した。 木戸は、なにがもとめられるのか充分に理解しているらしく、いわれたとおりにすべった。 碧人は、意味が分からないまますべりを真似してみたが、決まった感触はなかった。 午前中、ゴンドラ三本分の講習をうけた。昼食を食べると、懸命に受講した木戸はつかれて午後は一本休みたいといった。 碧人は、佳奈子と藤田と三人でゴンドラリフトにのった。ゲレンデハウスから山頂まで搬送する第一ゴンドラは、全長一七四〇メートルだった。通常では七分くらいだが、強風のばあいは減速して一〇分以上かかることがあった。 藤田功一は、昨シーズン話題にした犬の小金に手を噛みつかれたといった。外科で縫合された左手には、包帯をつけていた。 藤田は、茜ちゃんが一週間まえに亡くなったといって、ひどく気落ちしていた。 スキーの用事で、家を留守にしているときだった。庭の片すみに埋めたが、会合に出席しなければ茜ちゃんは死なないですんだのではないか。すくなくとも死にぎわにつきそえたはずだったと、後悔する風情でくりかえした。 碧人は、それだけ大切にあつかってもらえれば、彼女としても本望だっただろう。一三歳なら人間なら九〇歳以上だから、大往生だったはずだと慰めた。 しんみりした会話がつきると、藤田は妹の子供たちが遊びにきたときに撮影したという動画をみせた。彼の家は、もともとは農家だったらしく大きな敷地だった。母屋のほかにいくつもの納屋がつくられ、茜ちゃんの犬小屋も立派な住まいだった。建物のあいだのひろい庭を、子供たちが喜んで駆けまわる様子がうつされていた。さらに彼が所有するクルーザーに同乗し、塩釜から太平洋にでた映像もあった。子供たちは、普段味わうことがない体験に満喫している様子がみてとれた。時間をかけて編集したらしく、場面が切りかわるときは、スマホのなかで打ちあげ花火があがり、ファンファーレが鳴りひびいた。藤田のまめな性格が、動画にはよく表現されていた。最後は、食事の映像だった。クルーザーで沖合にでたときに釣った大きな鯛を、藤田がみずから刺身にしていた。さらに奥さんがつくったご馳走がならび、わいわい叫びながら全員で食べる姿がうつっていた。 「これは、子供さんたちは喜んだでしょうね。成長してからも、ずっと記憶にのこりますよ」と碧人がいうと、彼は大きくうなずいた。 「奥さんは、料理をつくるのがご趣味なのですか」ときいた。 「いえ、そうでもありません」と彼はこたえた。 「女性は、身内の子供がくれば、普段とは違う力がでてしまうみたいですよね。母親にとって、子供たちは他人ではないようですから。うちもそうです」 碧人がいうと、とつぜん藤田はだまった。彼は、とても真剣な表情にかわった。 しばらくすると、「私どもには、子供がいないのです」といった。 そうだったか、と碧人は思った。 それまで、藤田が若いころから一度もやめずにスキーをつづけられた理由が分からなかった。どんなに熱心な者であっても、子育ての最中はさまざまな問題がつぎつぎと起こって中断を余儀なくされる。なぜ彼には可能だったのだろうと、ずっと思っていた。 「茜ちゃんは、ほんとうの家族だったのですね」と碧人はつぶやくようにいった。 「そうだったのです」 藤田は、じっと彼をみつめて、しんみりとした口調でいった。 一本、ゴンドラをおりると、木戸が復活していたのでまた講習のつづきを行う予定だった。 北山夫妻は、邪魔にならないよう藤田たちとは分かれてすべった。 十二月の下旬、まとまった積雪があり、ゴールデンバレーが開業した。 スキー場がはじまると、北山夫妻はスキースクールに山際をたずねた。 「今年は、うまくなりたいと思っています。もう一度、一級に挑戦してみようと考えています。ぜひ、協力してください」といった。 山際は、佳奈子はどうするのかきいた。彼女も、挑戦したいというとうなずいた。 「高齢者に伸び代があるのは、ますますはっきり分かってきています。最近、またあらたな手ごたえを感じはじめているのです。ご主人は、怪我するくらい元気なのですから、まだまだ上達できます。やってみようという気持ちさえあれば、あとは心がけひとつです」といった。 一月から山際の講習会がはじまった。メンバーは、六年まえとはかなり違っていた。しかし、スクールまえの平坦なコースしかすべらない遠藤耕一は、相もかわらず熱心にスキーをならっていた。リフトからみると、ますます小技に磨きがかかっていた。 大塚秋郎は、ずっと講習にでているらしかった。以前どおり、恰幅がよく長身だった。O脚はかわらなかったが、スキーは綺麗にそろっていた。彼は、いまは山際のアシスタントをつとめていた。 スクールまえのペアリフトにのっていると、右代が練習しているのに遭遇した。彼は、かんぜんにシュテムの癖がなくなっていた。いっしょに乗りあわせたときにおどろいてその話をすると、右代は心から喜んだ。 「でもね。今年は、怪我するともうスキーができないですから、こぶにはいかないことにしたのです」 「右代さん。去年もそう話していましたよ。でも雪がなくなると、こぶにいっていたじゃないですか」 「ああ。そうでしたか」 右代は、大きく笑った。 子供たちには、今年のシーズン中に車の免許証返納はしないと宣言している。とても、バスではこられない。スキーができなくなったら、生きている理由がなくなってしまう。だから、今年はこぶにはいかないつもりなのですよ、とまたいった。 「でも、こぶ斜面で怪我したことあるのですか」と碧人はきいた。 「そういえば、私は一度もないですね。斜面では、いつも転倒する心配ばかりしていますから」といって右代は笑った。 碧人は、山際から「くの字姿勢」が足りないという指摘をうけた。 この課題は以前にも話されたが、いままで意味がさっぱり分からなかった。くりかえしきいて、はじめてなんなのか理解した。ようするにスキーは、身体の捻れをつかってターンをする。スキー板が斜面を横向きにすべっていても、態勢はずっと谷側をみつづけていないと思いどおりの回転できない。つねに身体は捻れ状態にある。これは、こぶ斜面をおりてみればはっきりする。こぶがどういうピッチであろうと、臍はつねに谷側をむいていなければ、コースからはずれてしまう。下方からみていると胸部と両腕のむきは一定で変化せず、両脚だけがうごいて一直線に滑走してくる。しかし、スキー板の先端が谷側にむき、真っすぐにすべったらスピードがですぎてしまう。どんな熟達したモーグルの選手でも、この体勢を維持しながら転倒せずにおりるのは不可能だった。可能にするには、つねに捻った状態をたもっていなければならない。これが「くの字」の正体だった。平場、急斜面、不整地を問わず、ターンをしようと思うなら、いちばんの基本だった。この理解に到達できたのは、ミッドスキーでこぶをすべったからだった。 小回りをするさいに、水泳するように両腕をうごかす癖も指摘された。いわれて動画をみると、これでもかというほどしっかりうつっていた。これも「くの字」が充分につくれないため、ターンごとに肩が内側に入ることによるが、こぶ斜面とおなじで上体をうごかさずにすべる必要があった。両腕がぐらぐらうごいていると、ひどく格好がわるかった。ストックをもつ手がつねに視界に入っているためには、股関節の部分で身体を充分に捻らねばならなかった。 ターン時に山足を押して、スキーがそろわなくなる現象についても指導をうけた。上級者はべつだろうが、碧人程度の中級者では、まずは片足に乗りこむ必要があった。パラレルターンを行うと途切れない二本線のシュプールがのこるのは、両脚に加重しているからでは決してない。谷足一本にのっていても、山足をあげていないから二本筋がつくだけだった。山回りから谷回りに切りかえるときに、両スキーに均等の体重がかかる瞬間は必要だった。そこがポジションの確認点として機能する。それ以外は、つねに右足か左足か、どちらかいっぽうの板に体重がかけられている。気持ちがあせって自分から回転しようとすると、谷回りの開始がおくれ、山回りに入った段階で左右均等に加重される。切りかえ操作の技術が不充分だと、結果的にスキーがそろわない。つまり、インエッジはいうまでもなく、アウトエッジを実感しなければならず、直接雪面を感じる足裏感覚が重要になってくる。 前期、後期八回、全一六回の講習会がひらかれた。一度の講義で、四、五回ほどの動画を撮影された。 碧人は、講習後、二〇人程度の仲間と大きな画面にうつしだされる自分の姿をくりかえしみつめることになった。映像は正直で、どちらかといえば無慈悲なほどだった。自分ではもっと格好よくすべったつもりだったが、みる都度がっかりした。その表情は、周囲の人びとにもつたわった。 山際は、碧人が落胆しているのをみると、動画をコマ送りにして問題を指摘した。そうして、どう対処したらいいのか、その場で実演してみせてくれた。碧人にも正しい姿勢を幾度もとらせ、懇切ていねいな指導をくりかえした。こうした欠点をもつばあい、なにを修正すべきなのか、仲間たち全員がみていた。 碧人は、講習の前後にスクールまえの緩斜面で練習をくりかえすのが日課になった。思いかえせば六シーズンまえ、スクールをたずねて山際にこぶをすべりたいと申し出たことがあった。そこで、達人の深山を紹介された。 そのとき碧人は、はじめてこの斜面をみて、いったい誰がすべるのだろうとか疑念をいだいた。六シーズンまえに行われた山際のレッスンにでると、シニアクラブ会長の右代とペアリフトに同乗する機会がしばしばあった。彼が「サンデッキは、フォームの矯正には最適なんです」とくりかえしいうのをきいた。「ああそうですか」とこたえたが、真意は不明で高齢者なのだなと思った。二〇代で一級を取得した遠藤が、飽きもせずこの斜面で練習をくりかえすのをみて、スピードをだすのが苦手なのだろうとしか考えなかった。彼らがサンデッキの緩斜面で熱心に滑走するのを、なにが楽しいのだろうかと思っていた。どこからみても初心者専用ゲレンデで、高齢者が怪我をしないですべるために整備されているとしか考えられなかった。はっきりいって、存在意味から不明だった。 サンデッキAとBと名づけられたコースは、中央に二七〇メートルのペアリフトがつくられていた。搬送機は、いまどきの高速リフトではなく、降車場につくのに五分程度かかった。頂上駅からみて右側のAコースは、全長が二七六メートルだった。標高差五三メートル、最大斜度、平均斜度ともに一一度とあきらかにゆるやかな捻れのない一枚バーンになっていた。いっぽう左側のBコースは、全長が三〇〇メートルだった。とうぜんだが標高差は、Aとおなじ五三メールだった。こちらは、最大斜度一五度、平均斜度一一度だった。だからBコースのほうが急斜面かというと、そうでもなかった。標高差がおなじだから、最大斜度、一五度をもつサンデッキBの上半分は、Aコースよりも傾斜はさらにゆるかった。両コースは、急斜面に変化する部分でどちらにもいけるように交錯していた。つまりBコースの上部をすべって途中でAコースの下部にぬけると、さらに緩斜面がつづくという設計だった。サンデッキでフォームの矯正を心がけている者たちは、この違いを熟知していた。 碧人は、ここで練習しながら、ほかのスキー場ではこうした斜面がないことに気がついた。マニアックな者たち以外に支持をえられないから、わざわざ平坦でみじかいコースなど増設されないのだ。事実ここで練習するのは、スノーボードの初心者と、シニアクラブの講習会にでる者にかぎられていた。土日は、子供づれの家族も多いので混雑することもあるが、平日はがらがらだった。 三〇〇メートル足らずのコースなので、すぐにすべり終えられる。いっぽうリフトは、低速で頂上まで五分以上もかかる。そのため、リフトのうえから練習する講習生のすべりをみながら、スキーという競技について考える時間が充分にあった。たとえ半日すべっても休憩時間が搬器でとれるので、つかれることもなかった。考えるほどにサンデッキは、優れた練習バーンだった。右代の言葉や遠藤の修練をみて、捻れのない一枚バーンでつくられた緩斜面こそが問題を解決できる可能性をもつコースなのだと心から理解した。この事実を知るためには、六シーズンが必要だった。 佳奈子は、後傾してしまう癖を改善する方法についてくりかえし指導をうけた。 スキー競技では、スキー板の前部に体重をかけねばならない。停止するには、前方に力をむかわせる必要があり、いくら前傾になっても過剰とはいえない。スキーの前傾姿勢には、限界がない。それは、オリンピックのジャンプ競技で選手がどんな姿勢をとっているのかをみれば一目瞭然だった。板をコントロールするためには、つねに脛に充分な圧をかけねばならない。こぶをすべれない理由をつきつめるなら、スキー板を自由自在にとめられないからだ。どんなに複雑な形状をもつこぶ斜面でも、一回ずつ停止できれば転倒せずにおりることが可能になる。うしろに体重がかかれば停止操作ができず、こぶのなかから弾き飛ばされる。 佳奈子は、腿を立て、かんぜんに谷にむかって脱力して、まえに重心があるというのが具体的にどんな状態なのか理解した。スキーの前方にのれれば、態勢をうしろに移動させるのは容易だった。さらに佳奈子は、山回りのさいにスキー板を一度ひらいてよせる動作、いわゆるシュテムする癖がどうしてもなおらなかった。長年をかけて身についてしまったパターンだったので、注意していてもちょっと気がぬけるとすぐにあらわれてくるものだった。積年の習癖を克服した右代は、悩みをふかく共有してくれた。要は、片足にのりつづけるしかないといった。 山際は、佳奈子に二本のスキー板をならべてすべるレールターンの練習を課した。彼女も平坦なサンデッキで課題克服のために修行をくりかえした。 山際の前期講習が終わり、後期に入って間もない二月の日、チャレンジに派手な一団が登場した。 ピンクのヘルメットをかぶり、袖がないあざやかなショッキングピンクのレインコートに身をつつんで先頭を颯爽とすべっているのは、間違いなく前沢だった。ミッドスキーをはいた彼は、両脚を密着して二本のスキーをそろえ、こぶ斜面をゆっくりと横すべりでくだってきた。うしろには同色のポンチョを羽織った男が、一二五センチのスキー板をつけ閉脚のままおりてきた。その後にも、おなじ格好の者がつづいていた。あとの者たちのヘルメットは黒色だったが、前沢を先頭に、都合四人の男たちが一列になってチャレンジの斜面を横すべりでおりてきた。誰もがショッキングピンクのポンチョを羽織り、ミッドスキーをきちっとそろえていた。四人の男たちは、ゴールデンバレーのチャレンジという晴れ舞台でミッドスキークラブの存在を誇示していた。 碧人は、クワッドにのりながらこの場面の一部始終をながめていた。前沢がやりたかったことは、これだったのだと知った。ミッドスキーから一四五センチにはきかえた碧人は会員の資質に欠けているとみなされたに違いなかった。前沢が、あらたなクラブ員たちをシュートで鍛えている場面は幾度か目撃した。それが納得できるレベルに到達し、今日のお披露目になったのだと理解した。 六シーズンまえ、いっしょに講習をうけた山岡克也は、降雪にめぐまれたチャレンジバーンを疾走していた。彼は、新雪が大すきだった。夜に積雪におおわれた翌朝には、どんなに寒くてもリフト運行がはじめる九時まえから順番をならんで待っていた。うごきだすと、シュプールの跡がない場所をもとめて懸命にすべって全コースにマーキングをしていた。彼は、ゴールデンバレーにはバスをのりついでかよっていた。高齢者割引が適応される補助制度を、このうえなく喜んでいた。とはいってもスキー場までくるバスの本数は、かぎられていた。新雪がのこっていると、夕方まですべって翌日はやめるか。昼に帰って明日にのぞみをかけるか、いつも悩んでいた。若いときに一級を取得した彼は、いつでも両脚がそろっていた。 どうしても板がばらばらになる碧人は、秘訣をきいたことがあった。そのとき山岡は、足がはなれたらすべれないとこたえた。いっしょにリフトにのったので、今年はずいぶん頑張っていますねと碧人が声をかけた。 山岡は、前年、後期高齢者になったといった。もしチャレンジで怪我をしたら、翌日からすべれなくなる。いままでは、つぎの日のことばかし考えていた。しかし、もういつ死ぬか分からないから、今年は考え方をかえたといった。 「よく考えてみたんだ。この年になると、いつ、なんで死ぬかなんて誰にも分からないものね。家の風呂場で転倒して骨折するばあいだって、ありうるわけだよね。もしも明日すべれなくなったら、昨日やっとけばよかったと後悔するだけだよね。今日、思い切り滑走すれば、もうあとがどうなったって仕方がないよね。ちかごろは毎日、これがお終いかもしれないとばかし思ってすべっているんだ。今日という日に悔いがのこらないようにね」と神妙な表情でいった。 山岡は、毎朝六時が勝負なのだとつづけた。五時半ころに、寝床で目が覚める。それから三〇分くらい、今日ゴールデンバレーにいくかどうかを考える。このまま横になっていても、一日はなにもしないで終わってしまう。いけば、怪我するかもしれない。それで覚悟を決めて、今日が最後だと思って起きてくる。だからきたときには、目一杯チャレンジをすべることにしているのだといった。 朝一番でリフトにならぶのは、決まった者たちだった。 西田文哉は、碧人よりふたつ年下の六九歳だった。若いときから、ずっとスキーが唯一の趣味だった。クラブでは数少ないクラウンプライズをもち、隔週一回、クラブ員に依頼されて講習会をひらいていた。 碧人は、クワッドリフトでいっしょになったとき、「よく、いちばんにすべっているね」といった。 「女房も、あきれているんだよね。自分でも、そう思うんだよ。毎朝、列にならびながら、おれってなにをしているのだろうって。寒いなかぼうっとつっ立って、心の奥から馬鹿だなあって思うんだよ。平日これだけきているんだから、もう充分なのにさ。なんでおれは、こんでる土曜も日曜もわざわざすべらなければならないのだろうって。それも、おなじようにいちばんにきて、ぼうっと列にならびながら搬送機がうごきだすのをじっと待っているんだ。強風でクワッドが運休すると、心からほっとするんだよ。いったい、この気持ちってなんなのだろうね」と西田は感慨ぶかげに話していた。 そうはいうものの、最高峰のクラウンプライズをとるまで熱心だったのは伊達ではなかった。西田は、自分が話していたとおり毎朝クワッドリフトを先頭で一〇分くらい待っていた。ゴールデンバレーの山頂には、深雪になるシュートコースがつくられていた。クワッドリフトは、よほどの強風でもないかぎり朝九時に運行が開始された。シュートにむかうリフトは、クワッドの降車場から一度くだる必要があった。リフト運行が開始されるまでは、パトロールが上部に縄をはってスキーヤーが無益に入る事態をふせいでいた。そのロープのまえで、西田は新雪がふった早朝、ひとりで待っていた。とうぜん、そういう日は猛烈に寒かった。クワッドリフトのうえから、西田がひとり寒風が吹きすさぶ雪原のなか、はられたロープのまえで寂寞と立っている姿が目に入った。リフトがうごくかどうかは、誰にも分からない一種の賭けだった。はっきりしているのは、身体が凍りつくほど冷えきっているに違いないことだけだった。西田は、寒いのが苦手だった。毎朝、使いすてカイロを手の甲に二枚、欠かさずはっていた。彼は、目論みどおり首尾よくリフトが運行されたさいには、バージンスノーを心行くまで楽しむのだった。とはいえ、ねらいはかならずしも奏功せず、待ちぼうけになる日も散見された。 山際の講習会が後期に入るころ、碧人は感触をつかみはじめていた。小回りのとき回転ととともに水泳時のように両腕がうごくのも、かなり抑制されてきた。それは、山際が撮影した動画でも証明された。 アシスタントの大塚は、搬器に乗りあわせたとき「ものすごく改善されてきている」といってくれた。 「長年のあいだについた癖をなおすのは、なまじっかの努力では達成できないよ。ぼくもうまれながらのO脚のせいにして、スキーがそろわないのは仕方がないとあきらめていたんだ。アシスタントをつとめるようになって、みんなにみれるのだからね。なんとかしたいと本気で頑張って、それでも矯正するのに二年かかった。それが一ヵ月でなおせたのだからすごいよ」と慰めてくれた。 「くの字」姿勢をとることも、かなり改善されてきていた。山際は、この部分もずいぶんよくなっているといった。しかし、どうしても片足に加重できず、スキーがきちっとそろわなかった。 碧人は、サンデッキを主戦場としてフォーム矯正につとめていた。クワッドリフトにのって急斜面のながいコースを思い切りスピードをだして滑走することは、興味の対象ではなくなっていた。もっと喫緊な課題が眼前にひかえていると感じた。 平日のサンデッキは、ほとんど人がいなかった。リフトを待つ時間もなかったので、一時間に八回くらい反復できた。碧人は、トイレにいくのも忘れて朝の九時から一二時まで滑走をくりかえしていた。五分かかる搬器のうえで、つぎの課題を考えながら夢中になってすべっていた。 山際は、講習生の誰かをとくべつあつかいすることはなかった。講習中は通常、アシスタントの大塚といっしょにリフトをのっていた。 二月末、後半の講習も終わりにちかづいたころだった。 講習中、碧人はサンデッキのリフトにならんでいた。そこに、とつぜん山際が横に入りこんできた。成り行きとして、碧人はいっしょに搬器にのることになった。 「北山さん、すごくなってきましたね」と山際は思いもかけない話をはじめた。 「このまえ、午前中ずっとサンデッキをすべっていたでしょう。たまたまスクールのなかから、外をみていたんです。そうしたら、くりかえして滑走してくる人が目に入ったんですよ。それが、いつまでたってもずっとすべっているのですね。うまいな、と思ってみていたんです。そのうち、北山さんだと気がついたんですよ。すごく上達しましたね。いつやめるのかと思ってみていました。いったい、どのくらいやっていたんですか」 「あの日ですね。天気がよかったし、まったく人もいませんでした。朝の九時から、ずっとすべっていました。夢中になっていて、気がついたら一二時だったんです。トイレにいくのも忘れていました」 「すごいです。あのくらいすべれれば、充分いいと思いますよ。北山さんは、スキーで大怪我をしたとうかがっています。どこのスキー場だったのですか」 「蔵王の中森ゲレンデです。馬鹿なことをやりまして」 「なにをしたのですか」 「禁止マークがついているジャンプ台を、わざわざ飛んだのです。ところが先端部に新雪がつもっていて、踏み切れなかったのですね。墜落して、左の肩関節が粉砕骨折になりました」 「チタンプレートを入れたんですね。それは、たいへんでしたね」 「そうですね。肩をあげることを禁止されて、けっこうつらいものでした」 「しかしですね。私も長年この仕事にたずさわっていますが、怪我をしない人はうまくならないですよ。挑戦する気持ちがなくては、上級を目指せません。みんな怪我をくりかえして、うまくなるんです。そのくらいの思い入れがなくては、上達できないんですよ。北山さんは、充分な素質をもっているということです」 「そうですか。かなり妻にも子供たちにも怒られました。自分でも、馬鹿だなとつくづく思いました。それで、いろいろ考えていたのです。今度、ぜひ機会をつくってもらって、ジャンプを教えてください。以前は、一級の試験項目のひとつでしたよね。なくなってしまったので、教わる機会がなかったんです。正しい跳び方が分からないのです。だから、ああいう事件が起こったんです」 碧人がいうと、山際は真面目な表情になった。 「分かりました。今度、機会をつくって、北山さんにはジャンプを教授しましょう」といった。 一級検定は、水曜日の午前中に行われた。二月末の快晴の日だった。検定課目は、六シーズンまえとおなじだった。横すべり、ショートターン、ロングターン、そして最終科目は不整地だった。 受験者は、平日だったので北山碧人と佳奈子のふたりだけだった。 試験には、三名の検定員がついた。 ふたりの検定のさいには、深山も右代も応援にきてくれた。 山際隆夫は、じっとみまもっていた。終了すると、こぶがつらなる不整地のチャレンジコースを、最後の四こぶバンクですべった佳奈子に山際がちかづいてきて、「最高だよ。すごくよかった。ハグしたいくらいだ」と両手をにぎっていった。 結果は、すぐに公表された。 碧人は、すべてが七〇点だった。佳奈子も、おなじで合格点だった。 碧人は六シーズンかかって、四種目の総合点を二七九点から二八〇点にあげることができた。この一点の価値を、彼は充分に認識していた。そのためにさまざまな事件がうまれ、消沈や反省、感動や出会いが起きた。佳奈子が二点あげたのは、とても立派だった。 深山は、愛弟子になった彼女の合格を我がことのように喜んでくれた。 検定が終了したから、碧人は山際にジャンプを教えてもらおうと考え、個人的にレッスンを希望した。クワッドリフトにのって、山頂にいった。ジャンプができそうな場所をえらび、幾度か実際に飛んでみた。 「体重をまえにのせて、しっかりと踏み切ることです。ジャンプ競技の選手たちがとっている前傾姿勢を思いえがいてください。でも、あまり無謀なことはやめたほうがいいですよ」と山際はいった。 碧人は、さまざまな経緯があっていまは一四五センチのスキー板をはいているが、もうすこしながい一七〇センチくらいの板にかえたいと思う。どんなスキーを購入するのがいいだろうかときいた。 山際は、いまはいている一四五センチで充分だろうとこたえた。現在つくられている板は、性能が格段によくなっている。どんな高速でも、問題なく対応できる。とはいえ碧人は目一杯スピードをだして滑走するのがすきだから、一二五センチのミッドスキーでは安定性に欠けるだろう。走行中に高速ターンをすると転倒する可能性がある。もっとスピードをだすのが希望で、どうしてもながい板が欲しいのなら一五五センチくらいのスキー板を購入したらどうかといった。 「最低でも、一六〇センチは必要ではないのですか」と碧人はきいた。 「それは、間違いです。秒をあらそう競技者はべつですよ。いまのスキー板は、むかしとは違うのです。北山さん、私の板がどれくらいだと思ってますか」と山際がたずねた。 碧人は、一七〇くらいだとばかし考えていた。思いもかけない質問にだまっていると、山際がいった。 「この板は、一五八センチです。これで、私の技術にちょうどいいのです。スキーは趣味の領域ですから、楽しくすべるのが第一です。そのためには、思いのままにコントロールできるかが問題になるのです。ながい板をはいているから、うまいのではないですよ。ミッドスキーでは、高速が楽しめないだけです。碧人さん、うまくなったからといって、師匠をこえることは許可しません」 碧人は、その言葉に笑いながらこたえた。 「それでは、いちばんながくても、一五八センチの板までとします」 一級をもらった北山夫妻は、夏油にいき、こぶを本格的に攻略する手がかりをつかもうと考えていた。こぶ斜面をすべっていると、スイッチバックでおりてくるスキーヤーの姿に出会った。碧人がみたことあるなと思っていると、案の定、キャンピングカーの佐藤篤志だった。彼は、パトロールの制服をきた男といっしょだった。 挨拶をすると、もう一本、ゴンドラにのろうということになった。 頂上にむかう搬器のなかで、紹介された田村敏久は話をはじめた。 「こんな豪雪のスキー場で一冬すごすのは、六五歳のおれでもどうしようかって考えるくらいだよ。ところが、この人、八〇なんだ。六五のおれがびびって、どうするんだよな」 どうやら佐藤は、夏油で一冬、リフト係の仕事に従事したらしい。 碧人は、二月のゴールデンバレーで大河綾子と会った。そのとき、今年も夏油にいくのかときかれたのを思いだした。碧人がそうだというと、大河は含み笑いをした。なにがあるのかときくと、いけば分かるとこたえた。このことだったのだと、彼は思った。 夏油スキー場には、センターハウスから直接山頂にむかう一七四〇メートルの第一ゴンドラリフトのほかに、第二ゴンドラが整備されていた。夏油は、ひと山全面がスキー場としてすべれるように設計されていた。山頂から左半分は、A一コースになっていた。右半分に迂回路として、なだらかな全長一四〇〇メートル、最大斜度、一五度、平均斜度、二度のA六コースがつくられていた。その中腹にむかって、一二四〇メートルの第二ゴンドラが配備され、スキー場が賑わう年末年始や祝祭日だけ運行された。碧人は、六シーズン夏油にかよったが一度ものる機会がなかった。これらのゴンドラのほかに、A四コースの終点、C一コースからC五コースまでがはじまる山腹に、九五〇メートルのクワッドリフトがつくられていた。ここはリフトになるため、乗降にさいスキー靴を着脱する必要がなかった。どんなに第一ゴンドラがこんでも、いつでもクワッドはすいていた。スキー場としては、クワッドリフトがうごけば、山の左半分をしめるCコース全体が開放されたことになるので、ほぼ毎日運行されていた。 田村は、パトロールとして雇用されていた。佐藤とは、となりの部屋だったらしい。 田村は、年間で二〇メートル以上の豪雪をほこる夏油で一冬、いっしょにすごした。凄まじいことがたくさんあったといった。そして、重労働について話しはじめた。 夏油スキー場は、ひどい降雪のときには一日で三メートル以上の積雪がある。各コースを深雪のなかでパトロールする作業は、もちろんたいへんだ。とはいっても、いちばん苦労するのは、クワッドリフトの掘りだし作業だ。乗り場と降車場はもちろんだが、九五〇メートルにわたりクワッドが通過する斜面につもった雪を、すべて掘りださねばならない。あかるくなる朝の六時から総出で行うが、全部には除雪機を入れられない。最後はスコップをつかって人力で掘りだすしかない。夜間に雪がふりだすと、横臥していても憂鬱になってくるほどだといった。 佐藤は、ここで三日はたらいて四日休みをもらい、スキーをしてこぶをきわめるつもりだった。ところが人手不足だとつげられ、五日間はたらかされた。このままでは身体がもたないと責任者に抗議にいった。 「あのとき佐藤さん、真剣だったよね。怖いくらいだった」 「あれ、おれの限界だったんだ。田村さんが、いっしょにいってくれて助かったよ」 ふたりは、きびしい夏油の冬期をともにすごして、戦友になったらしかった。その後、パトロール隊員、田村の指導でコースからはずれた森のなかを二回くらいすべった。 碧人は、翌日、リフト係をしている佐藤と出会った。田村のいうとおり、佐藤篤志をすごいと思った。 佐藤は、年齢に関係なく考えを実行したのだ。年だからとかいって猶予をもうけず、そのときやりたいことを世間体など無視して一歩踏みだしたのだ。彼は、それを可能にする勇気をもっている。 碧人は、素晴らしいと思った。 北山夫妻の夏油通いはつづいていた。三月の中頃には、A四コースにこぶができはじめた。はじめは上段につくられた一本だったが、日に日に数は増えていった。一週間もたつと、A四コース全体がこぶ斜面にかわった。 ある晴天の日、北山夫妻がセンターハウス二階のレストランで昼食をとっていると、救急車のサイレンの音がきこえてきた。騒然とした雰囲気が、食堂にもつたわってきた。なにかとくべつな事態が起こったのは、あきらかだった。夫妻は午前中に目一杯すべったので、そのまま宿泊していたホテルに帰った。六時すぎにレストランで夕食をとっていると、テレビで地方ニュースがながれはじめた。 北上のスキー場で、アメリカ人男性が行方不明になっている。一〇人ほどの団体客で、男性三人がひと組をつくってスノーボードで滑走していた。ふたりの男は、なんとか下山してパトロールまでたどりついた。ひとりが、行方不明のままになっている。彼らは、滑走禁止エリアをすべっていた。関係者によると、沢筋に転落したのではないかと考えられている。パトロールが中心になって捜索していたが、うかつにちかよるのも危険なエリアで、二次災害の恐れから本日の探索は打ち切られた。 碧人は、どこで起こしたのだろうと思った。 夏油は、滑走可能な林間をすべて開放していた。山だから、どうしても水がながれおちてくる幾本かの川がながれていた。そこの沢筋に入りこむと自力では脱出不能になると、くりかえし注意喚起がされていた。クワッドリフトが運行する周囲には、そうした領域が多かった。もちろん、「滑走禁止」、「危険」という表示が、日本語のほか、英語や中国語でも明記され、ロープがしっかりはられて侵入をふせいでいた。許可されたツリーランエリアでも、深雪では遭難事故が生じた。滑走をのぞむなら、携帯に連絡先としてパトロールの緊急連絡先を登録しておく必要があった。もちろん救出を依頼すれば、有料だった。 どこのスキー場にいっても、ちかごろはインバウンドが増えていた。経営会社や近隣の宿泊施設には、多大な恩恵があるに違いなかった。しかし一般のスキーヤーにとっては宿泊料金やレストランの食事代が高騰するだけで、嬉しいとは思わなかった。 ゴールデンバレーのような地方のスキー場でも、インバウンドは着実に増加していた。はじめてスキーやボードをする人たちも多く、接触事故も多発していた。また流れ止めの着用を知らないばあいもあった。事故を起こす外国人たちは傷害保険にも加入していないことが多く、さまざまに問題化していた。 碧人は、深雪時のツリーランをすべりたいと思って、ガイドを依頼した。実際に侵入してみると、想像以上に雪がふかかった。ガイドは、すべった形跡がない場所はすすむべきでない。禁止のロープがはられたさきには滝壺などが存在し、落下したばあい頭まで雪に埋もれてしまう。身動不能になり、携帯をとりだすこともできないと話していた。 夏油のような豪雪地帯にくるインバウンドは、滑走禁止エリアに普通に侵入していた。クワッドにのると、その下にもスキーやスノーボードのトレースがのこっていた。しかし、センターハウス内でも、禁止エリアへの侵入の危険をつねに喚起していた。 今回の死亡事故は、午前に起こった遭難だったから暗くなるまで五時間あった。救出できなかったのは、事情をよく知るパトロール隊員がちかづくことさえできなかった状況だったと意味していた。 碧人は、亡くなった方は可哀想だが、自業自得としかいえないだろうと思った。 夏油スキー場は、前述したとおり山頂からみて右側にA一コースがつくられていた。このスキー場のメインバーンで、全長、二二〇〇メートル、平均斜度、一一度、最大斜度、一八度という充分にすべりごたえがあるゲレンデだった。さらに右側の山には、林がしげっていた。ここをパトロール隊員たちは、A〇とよんでいた。もちろん、滑走禁止エリアだった。さらにA〇をくだった場所には、滝壺が散在していた。パトロールは、この部分をマイナスA一とよんでいた。 ここにも、ボーダーは入りこんでいた。自力では脱出不可能エリアだったから、パトロールに救出要請がくることが月に一度くらいの頻度であった。 夏油高原は豪雪で有名だったが、山だけにふるのではなかった。スキー場にむかう山道も、降雪量が多かった。とはいっても除雪がよく入り、四輪駆動車ならこまらなかった。いっぽう駐車所は、周囲に林がなく吹きさらしになっていた。帰路、吹雪に遭遇すると、視界がまったくきかなくなった。かんぜんなホワイトアウトになり、道路の両側に除雪の山があるだけの状況にかわった。 碧人は、北海道に住んでいたので、地吹雪のなかでも運転した経験をもっていた。もちろん、そうした日にわざわざ車にのる気は起こらなかった。ただ、どんな道でも上部に黄色い矢印がつけられ、どこが道端なのか分かった。夏油の駐車場の近辺では、そうした目安が一切なかった。両側につまれた山も真っ白なので、吹雪になると道との区別がまったくつかなかった。フォグランプとテールランプをつけるが、道路の中央かもしれないので停止することもできなかった。やがてボンネットが雪山につっこんで、はじめて道端だと分かった。徐行していたから、ふかくつきささる事態にはならなかった。道端が確認できたので、バックして道にでると、停止して治まるのを小一時間待った。だんだん暗くなってくるのは不安だったが、吹雪のなかを走るよりはずっと増しだった。やがて、小降りになると山をくだった。夏油川にダム湖がつくられている場所までいけば、あとは吹きさらしではなかったので安心できた。 ある日、北山夫妻が夏油にむかって山道を走っていると、次第に雲行きが怪しくなっていった。こぶができる時期だったので、雪ではなく雨がふりだしはじめた。夏油の駐車場につくころには、ひどい土砂降りになっていた。 ふたりは、シニアクラブの右代会長が「雨のなかのスキーは、すべりやすくてとてもいいものだ」とくりかえしていたのを思いだした。 夫妻はせっかくきたのだから、ゴンドラを一本くらいは滑走してみようと考えていた。スキー用具をかかえてセンターハウスに入ると、猛烈な雨にかわった。ゲレンデには、誰もいなかった。案の定、ゴンドラは運休していた。 センターハウスの二階につくられた食堂の窓をとおして、A一コースから途中で分岐するA三コースの全貌をみることができた。このコースは、ながさ五五〇メートルの第一ペアリフトが運行していた。A三コースは、全長、六二〇メートル、最大斜度、二五度、平均斜度、一三度になっていた。上部は一〇〇メートルにわたって急峻な崖だったので、年間をとおしてこぶ斜面がつくられていた。両側が林でかこまれていたので、強風でゴンドラがうごかなくても、第一リフトが運休することはなかった。とはいっても、搬器では雨ざらしなので、下着までずぶ濡れになるのは覚悟する必要があった。 「さすがにこれは無理だね」 夫妻は、誰もいないゲレンデをながめて話しあった。 みていると、A三コースのこぶをひとりの男がおりてくるのが目に入った。 「よっぽど、すきなんだね」 「とおくからきて、今日しかすべれないのかもしれないわね」 夫妻は、その姿をみながら話しあっていた。猛烈な雨はつづいていた。さすがに、男もこれでやめるらしく、リフト乗り場を通りすぎてセンターハウスにむかってきた。その姿には、みおぼえがあった。 「あれ、もしかして、藤田さんじゃない」 「そうだ。この雨のなか、すべっていたんだ」 夫妻はおどろいて、食堂から階段をおりてゲレンデの玄関にむかった。 藤田は、スキーをかついでハウスに入ってきた。 「すごいですね。誰もいませんよ。何本すべったんですか」と碧人がきいた。 「三本ほどです。気持ちがいいですよ。こぶもすべりやすかったです。いかないんですか」 藤田は、身体中から水滴をしたたらせながらいった。 「ゴンドラがやっていれば、すべろうと思ったのですが。この雨のなか、ペアリフトにのるのは考えてしまいます」 「そうですね。クローズになるかもしれませんね」 「もう一本、いくんですか」 「いや。今日は、充分に堪能しました。これから、風呂に入って帰ることにします」 藤田はそういって、スキーをおいた。下着のかえをもってくるといいのこして、雨がふりしきる駐車場にでていった。 碧人は、チケット売り場にいって、ゴンドラがうごく予定はないのかきいた。 チケット係は、「ご覧のとおりのひどい雨なので、今日は第一リフトも運休し、いまからクローズになります」とこたえた。 北山夫妻は、ほっとした。食堂で早めの昼食をとって帰路についた。 翌週には、準指導員の試験が終わった木戸修一が姿をみせた。 木戸は、北山夫妻が一級に合格したことを知っていて祝福してくれた。準指導員の試験には、残念ながら不合格だった。やはり、こぶができなかったと溜め息をもらした。試験の当日には、藤田が応援にきてくれた。不合格と発表されたあとで、木戸が失敗したこぶ斜面をふたりですべったといった。 「来年、どうするかは決めていない。でも、おれが受験者のなかで最年長だった。合格しなかったけどさ。自分に欠けているところが、たくさん分かったよ。知りあいも、いっぱい増えたしさ」 木戸は、納得した一冬だったといった。山際から、再挑戦するならスクールとして最大限の支援をすると話された。とはいえ検定員のチーフは、スキースクールの副校長だったから、いまは素直な気持ちにはとてもなれない。当面は、ここでこぶをすべるつもりだといった。 「しかし、こぶ斜面というのはすごいよね。どうしてこんなに、奥があるんだろうね」と木戸はしみじみいった。 三人で、またゴンドラにのってこぶを滑走していると、スイッチバックで横すべりをする佐藤に出会った。 碧人は、モーグルラインですべろうと試みて下のほうで転倒した。佐藤はちかくまでおりてくると、「なんといっても、この方法が最強だ。どこでも、おなじにすべれる。ころぶこともない。違うかい」といった。 碧人は、佐藤をみあげた。 「それは、あんたの結論だ。おれは、もっとたかみを目指しているんだ。おれたちは、違う人間なんだ。そこは、はっきりしておいてもらおう」といった。 佐藤は、その言葉に神妙にうなずいた。 夏油のこぶ斜面が完成した、三月後半の平日だった。ひとりでゴンドラにのっていると、スキー立ての場所に板をさしこみながら男が入ってきた。みると、碧人のスキー板と銘柄もサイズもまったくおなじものだった。 男も気づいて、話をはじめた。 今シーズンの開業時にきて、猛烈な吹雪に遭ったと話しだした。A六の迂回コースをすべっている途中で、周囲がまったくみえなくなった。誰もいなくて、どうしようかと考えた。このさきには、第二ゴンドラがあるはずだと思ってすすんでいった。なんとかみつけてちかよると、シャッターの下端がすこしあいていた。そこから潜りこんで二時間、吹雪がやむのを待っていた。そのあいだ、誰もこなかった。小降りにかわったので、あかるいうちに帰りたいと思って下までおりたといった。 いろいろ話していると、やがて話題はこぶになった。男は六二歳で、年金がもらえるまではたらかねばならないといった。 「そうか。平日は、こんなにすいているんだ。もう二年したら、毎日ここへくればいいんですね」 男は、搬器から累々とつづくこぶ斜面をながめながら感嘆した。 「そうすれば、こぶがうまくすべれるようになる。人生の最大の課題なんです」 その年、ゴールデンバレーの林間コースに碧人たちがつくったこぶ斜面で、ピンクのヘルメットと、同色のウエアを着たスキーヤーがおりてくるのに気がついた。こぶの下でずっとみていると、碧人のそばによってきていった。 「あなた、チャレンジでいつも頑張っているね。応援しているんだよ」 「そうだったんですか。あなたがすべっているのは、みかけませんでした」 「もう年だからね。チャレンジは、やめているんだ。でもこれじゃ、年々下手になる。駄目なパターンだ」 「おいくつなのですか」と碧人はたずねた。 「八二歳だよ。むかしは、もっとすべれたんだ。去年、こぶをやめようと思ったのが、間違いだったんだ。これは、やりつづけねばならないんだ」 男は、そういいながらヘルメットをはずした。頭部は見事に禿げあがり、ぴかぴかに輝いていた。 ゴールデンバレーには降雪機が配備されているが、実際にすべれるのは一二月の終わりからだった。一部に地肌がでてきても、パトロールは雪をかきあつめてコースを維持しようと頑張るが、四月の最初の日曜日には閉場した。だから単純に考えると、開場している期間は一月から三月までの九〇日間だから、総計で一〇〇日をすこしこえるくらいだった。あるシニアクラブのメンバーは、一シーズンに一〇〇回すべって、表彰をうけた。スタッフだって休むのだから、これも偉業だった。 碧人がリフトにのると、ストックをもっていないスキーヤーに出会ったことがあった。黒いヘルメットをかぶった、シニアクラブの胸章をつけた男性 だった。 碧人は、佳奈子とおなじように手首がわるいのかと思って理由をきいてみた。 「ちかごろは、どうしてもストックを忘れてしまうんですよ。ですから、不必要だと思って断捨離することにしたんです」とこたえた。 チャレンジのモーグルラインを懸命にすべっている山村とも、しばしばクワッドリフトに同乗した。彼女は、赤いヘルメットにゴーグルをしていた。実際に素顔をみたことはなかったから、スキー場以外ですれ違っても分からかっただろう。 「ちかごろ、姿がみえなかったね」と碧人はいった。 「そうなのよ。このあいだ、帰りにアクセルをふんでいたら、どうも痛くて整形外科にいったのよ。そうしたら、踵の骨にひびが入っていたのね。それでしばらく休んでいたのよ」 山村は、五〇歳くらいで仕事をしていた。その合間をぬってゴールデンバレーにきていた。だから、いる間中、休みもしないでチャレンジをすべっていた。 「ずいぶん一生懸命だね。あんなにやって、つかれないの」と碧人はきいた。 「くたくたになるわよ。昨日なんてさ。帰りの自動洗車機のなかで、ふっと居眠りしちゃったのよ。係員がドアをあけてきて、ぐあいがわるいのかって、大騒ぎになったわ。でもね、こぶをすべっていてエッジが決まったときは、心の底から、やったって思うのよ。だから、やめられないのよ」 山村は、声を立てて笑った。 シニアクラブ副会長。パトロール隊長の小野ともクワッドリフトでいっしょになった。 「今年も、ずいぶんチャレンジで頑張っていたね。そのお陰で一級がとれて、よかったね」 小野は、碧人に声をかけた。 小野一光は、シーズン中に四回ひらかれる研修会でクラブ員たちにスキーを指導していた。今年は、デモンストレーターが行った講習会にいっしょにでた。そこで小野は、まえに体重がのっていない、それでは不充分だとくりかえしいわれた。その指摘に戸惑ったらしく、みている間にぼろぼろのすべりになった。さらにいろいろな注意をうけはじめ、すっかり分からなくなったようだった。最後は、かんぜんにしょげかえっていた。スキーは、メンタルなスポーツなのだ。 小野は、今年は雪が多くてよかったといった。彼は、スキー場の話をはじめた。 一五年まえからはたらいている。大震災のときには、ここに通じる道路が崩落して四日間孤立した。そのあいだ施設内で寝起きしたが、停電にはひどくこまった。石油ストーブはあったが、灯油がなかった。夜は火を消して寝たが、寒くて寝入ることはできなかった。どうなるか分からず、あの寒さは忘れられないといった。 クラブ最高齢の立浪二郎とも、幾度も出会った。彼は、今年、九五歳になっていた。介護していた奥さんは、二年まえに他界した。一時はすっかり気力をうしなっていたが、今年はすこし復活したらしかった。いまは、息子たちも免許返納の説得をあきらめ、自分で運転して午後まですべっていた。 喧嘩しても仕方がないので、なにを話されても「はい、はい、はい」とこたえることにしている。すると、息子たちは、「はい」は一度でいいという。だから、「はい、はい、はい」とこたえてやるのだ。こうした親をもったと、あきらめてもらうより手立てがない。車の保険はかけてあるのだから、子供たちに迷惑はかからない。いままで頑張ってきたのだから、いまさら息子たちにしたがう気持ちはまったくない。死ぬまで、勝手にやらせてもらうといった。 チャレンジの下にいると、立浪がやわらかくなったこぶをゆっくりとおりてきた。それから大会用につくられ、つぶされずにのこっていたバンクドスラロームの斜面を果敢にもすべった。 碧人は、彼がそばまできたのでストックをぶつけて拍手した。 「面白いな」と立浪はいった。 「すごいですね。やる気、満々で」 「そうだな。でも今年は、ずいぶん頑張っていたのをみたよ。後継者にしてやろうか」 立浪は、にっこりと笑った。 四月第二週の金曜日、月山スキー場がオープンした。この時点で、月山には一三メートルの積雪がのこっていた。 一般的なスキー場は、どんなに標高がたかくとも五月のゴールデンウイークを最後には営業を終える。月山は、四月になってようやくオープンし、七月まですべることができる。月山スキー場の標高は、一三〇〇~一六〇〇メートルにすぎない。自然雪で夏スキーができるのは、世界でも月山くらいだと考えられる。 気象庁の積雪ランキングは、常設観測点をもつところだけを対象にしている。月山山頂には観測点がもうけられないためランキングからはずされるが、事実上、日本一の降雪量がある。さらに積雪量としては、世界的な規模をほこっている。 日本列島が冬型、西高東低の気圧配置になると、シベリア高気圧から日本海にむけ、北西風がふく。冷たく乾燥したシベリア寒気団は、暖かい海を通過すると海面から大量の水蒸気をすいあげ、雪雲をつぎつぎと発生させる。これが、日本における典型的な冬型の降雪メカニズムをつくっている。日本海で発生した雪雲は東へながされ、出羽山脈に衝突する。この降雪をもたらす原液と最初に正面衝突するのが、海からいちばんちかい月山になる。日本海からの雪雲が劣化するまえに、もっとも濃い状態でぶつかる最前線に位置しているともいえる。そのために、年間三〇メートルという積雪が起こる。しかし、この地理的条件だけでは、七月まで自然雪はのこれない。 月山の山頂は、日本の高山では珍しい平坦な台地型をしている。風が弱まり、雪が逃げ場をうしなって堆積しやすい地形になっている。山頂を受け皿として、風下側に巨大な吹きだまりが形成される。姥ヶ岳、牛首、大雪城などの越年雪渓は、日本の山岳でもっとも広範囲にのこる雪の倉庫となっている。 富山県の立山、室堂は、積雪深では全国一だが、積雪水量としては、月山が一三〇〇ミリで日本一と考えられている。山体の積雪賦存量としては五億トンを凌駕するともいわれ、世界でも例がないほどの雪の厚みが毎年形成される。月山の越年雪渓は、この山が一年でどれほどの降雪を飲みこんできたのかをしめす白い記録簿ともいえる。 北山夫妻が月山スキー場にいったのは、オープン翌週の月曜日だった。 前週の金曜日から開場になったが、三日間は吹雪のためクローズだった。 月曜日の朝、乗り場にいちばんちかい宿にチェックインして自動車をおき、スキーをかついで食堂と併設されたチケット売り場があるコンクリート製の建物に入った。早朝から猛烈な雨がふっていて、山麓駅についたときにはずぶ濡れの状態だった。以前はチェックインしたホテルのまえから、雪上車をつかってスキー板をはこんでくれるキャリアサービスがあった。コロナの流行時に、このサービスが打ち切られた。一キロちかい雪道の坂をのぼってくるのは、情熱なしには不可能だった。朝は大雨だったが、北山夫妻は月山を信じていた。というのは、この時期、終日雨がふることがないのをよく知っていたからだった。待っていれば,かならず雪になるに違いないと考えていた。食堂でぬれた上下のレインコートを乾かしていると、さすがに来場者は数えるほどしかいなかった。 碧人は、チケット売り場から、雷鳴がなり、猛烈な雨がふりしきる外をながめていた。そこにチェックインしたホテルからいっしょに歩いてきた、四〇代の夫妻がやってきた。彼らがチケット買っている姿が目に入った。 「いくんですか」と碧人はきいた。 「そのつもりです」と男はこたえた。 「たぶん、もう一時間くらいすると雪にかわると思います。待っていたほうが、いいのではないですか」 「そうかもしれません。でも、私どもは兵庫からきているのです。金曜日から泊まっているのですが、お昼には帰らねばならないのです。このままでは、あまりに悔しいのでいってきます。リフトは、いま、はじめてうごいているのですから」 男は、悲壮な覚悟をただよわせながらこたえた。 「そうですか。頑張ってきてください」 碧人がいうと、夫妻は外にでていった。彼ら以外に、リフト券を買う者は、ひとりもいなかった。 食堂では一〇名くらいの好き者たちが、天候が雪にかわるのを信じて待っていた。 四〇分くらいして、兵庫の夫妻がそこに入ってきた。雨具を着ていたが、大量の雨水がぼたぼたと垂れていた。レインコートをぬぐと、身体中がぐしょぐしょになっているの分かった。彼らは、大きなタオルをだしてスキーウエアにしみこんだ雨をぬぐっていた。 「どうでしたか」 碧人は、声をかけた。 「どうも、こうもありません。私どもは兵庫に住んでますから、雨のなかですべるのは慣れているつもりでした。でも、今回は川を泳いだ感じです。この山にくるのは、ゴールデンウイークがすぎてからでないと、やはり駄目ですね。一番乗りしてやろうなどと考えたのが間違いでした」 男は、疲れ切った表情でこたえた。 「目的を達したのは、間違いないですね。もう一度、いくんですか」 碧人は、きいた。 「これで帰ります。まあ人がなんと思おうと、やり終えた感じです」 「そうですか。気をつけてお帰りください」 「またくると思いますので、お目にかかるかもしれません」 男はそういうと、もう一度雨具を羽織り、おいていた荷物をかつぎ、スキーにはきかえてホテルにむかってすべっていった。 雷鳴がとどろき、雨はつづいていた。 碧人と佳奈子は、仕方がないので一一時になると、早い昼食をとった。あらたにくる者はいなかったが、食堂で待っている者たちは誰ひとり帰らなかった。 案の定、昼前に雨は雪にかわってきた。さらに風がでてきていたが、吹雪ならスキーができると思われた。兵庫のご夫婦が、雷鳴とどろく豪雨のなかを実際にすべってきたのだった。北山夫妻がいかない理由は、みつけられなかった。とはいえ、一日券はさすがに無謀だった。碧人は翌日もつかえる七枚綴りの回数券を購入し、佳奈子といっしょリフトにのった。時計をみると、一一時三〇分だった。 月山ペアリフトは、標高一二五〇メートルの下駅から一五一〇メートルの頂上駅までつないでいる。標高差二六〇メートル、全長九九四メートルで、所要時間は通常一〇分程度だった。 ペアリフトに乗車してうち、吹雪は予想以上にはげしくなっていった。いったん客をのせた以上、運転中止はありえなかった。しかし、ほとんど座席に人がいないリフトは、はげしく揺れうごいていた。北山夫妻は、防寒にも耐えるスキーウエアのうえに山用のゴアテックスの雨具を身にまとっていた。つよい吹雪のなかで、ペアリフトは通常の半分にもみたない速度で運行していた。二〇分経過しても、山頂駅にはつかなかった。夫妻は、逃げ場をうしなったリフトのうえで、フードをかぶり身を可能なかぎり小さくして風雪に耐えながら、ペアリフトがとまらないことだけを祈りつづけていた。やがて上駅が目に入った。しかし、そこから実際におりられる地点につくには、五分以上が必要だった。 なんとかその時間もやりすごし、身体中が凍てついた夫妻は、駅に降り立つことができた。しかし、ついただけで、なんの解決にもつながっていなかった。はげしい強風のなかで、立っているのがようやくの状態だった。そこは、ブリザードだった。北海道に住んでいたときには、年に幾度かこういう日があった。しかし生命の危険に遭遇する可能性がたかく、決して外出してはならないと誰もが知っていた。夫妻は、かんぜんな危険地帯に足を踏み入れていたのだった。 吹雪は、周辺の新雪をまきあげ、ホワイトアウトをつくりだしていた。 碧人は、自分のスキー板しかみることができなかった。立っているのかどうかも不明な状況で、あきらかに斜面のはずなのだが、どちらが上方なのかも分からなかった。船酔いの状態で、むかむかと吐き気がしてきていた。スキーの板がついているはずの地面は、風雪のなかで、ぐるぐるとまわっていた。自分がすすんでいるのか、とまっているのかも不明だった。 「佳奈子、きこえるか」 碧人は、大声で叫んだ。 「ここよ。なにもみえない。どうしたらいいの。すすむ方向が、分からないわ」 佳奈子の絶叫が、木霊になって響いてきた。 「左だ。左側にすすもう。木が生えているはずだ」 「左って、どっちなの」 佳奈子が絶叫していた。 「左手のほうだ」 碧人はこたえたが、実際に左にむかっているなら、左側は斜面の上部になる。そこは、物理的にいけないのではないか。かりに自分がすでに右にむいているなら、左側は谷方向になるだろうと思った。 碧人は、幾度か転倒しながらも気がつくと、ちかくに灌木が生えていた。沢コースの左端にならぶ樹林だった。幾度も、この林のなかをぬけてすべりおりたことがあった。また、ペアリフトの真下をとおりぬけ、べつの斜面にでて滑降した経験ももっていた。だから樹林に入れば目安がつき、おりられる自信があった。 「佳奈子。こっちだ」 碧人は、絶叫した。くりかえし叫ぶうちに、スキーヤーの姿がちかくにみえた。 「佳奈子か」 「そうよ。気持ちがわるいわ。酔っているみたい」 「木をみるんだ。自分の位置が分かるから」 碧人がいうと、佳奈子はついてきた。 林のなかは、風雪もすこし弱くなっていた。木がみえるために、自分が立っている感覚がよみがえってきた。 「ここなら、分かるわ」 佳奈子が、うしろから叫ぶ声がきこえた。 碧人にも、彼女がみえた。 「ゆっくりと、おりよう」 佳奈子は、分かったといった。 それで碧人が先頭になり、徐々に樹木のなかをぬけてくだっていった。よく知ったところだったので、怖くはなかった。やがて、木がなくなる場所に下駅がみえた。必死の思いで駅を目指し、食堂に入って時計をみると一二時半だった。 碧人と佳奈子は、一息つくと自分たちが猛烈に凍えていることに気がついた。食堂の石油ストーブのまえで、ふたりは無言でしばらく立っていた。一時間かかった決死行は、死の危険を感じさせた。月山の大自然を再認識させてくれた。ふたりは、くたくたに疲れ果てていた。 北山夫妻は、食堂のストーブにいちばんちかい席に腰をおろして、放心状態になっていた。そうすると、となりの座席にいる男の姿が目に入った。 三〇歳くらいだったが、平日だったので特別休暇でも取得したのだろうか。スキーウエアをぬいだ男性は、猪首で背がひくかった。とつぜん男は、もっていた黒いバッグから大量の使いすてカイロをとりだした。山とつまれたホカロンの封をつぎつぎに剥がすと、腹部と背部に二枚ずつはった。左右の腕と手の甲、大腿部の前後、ふくらはぎ、足背にはりつけた。作業が終わると、スキー靴をはきなおし、ウエアを着てさらに防寒用の雨具を重ね着した。そして、吹雪のなかにでていった。 「ホカロン中毒ね」と佳奈子はいった。 「あのくらいは、必要かもしれない。尋常でないものね」 一六枚のホカロンは、三〇分かかるリフト滞在時間中、いくらかは彼を助けてくれるだろうと碧人は思った。 そのとき、「強風のため、本日のリフト営業は、いまの時間をもちまして運転中止といたします。なにとぞ、ご了承、お願いいたします。明日は、九時から運転する予定です」という館内放送がひびきわたった。 北山夫妻は、納得した。 翌日は、雲ひとつない快晴だった。世界は、月山ブルーになって輝いていた。 雪や氷は、太陽光のうち、赤、黄、緑の波長をつよく吸収し、青い成分をもっとも通過させる性質をもつ。そのため、雪面内部で光が何度も散乱すると最終的に青色だけがのこる。 蔵王山頂の熊野岳は、一八四一メートルだった。月山山頂は標高一九八四メートルで、標高差からみるなら一四〇メートルほど月山がたかいにすぎない。しかし、蔵王山頂は稜線地形のため強風で雪が飛んでしまう。樹木は降雪に埋もれるが、幹の上部はかならず露出し、枝に着氷して樹氷(アイスモンスター)を形成する。したがって、蔵王ブルーは起こらない。 月山は、圧倒的な積雪量のため樹木はすべて埋もれ、生きのこれない。山全体が白色に埋めつくされるので、快晴の日には鮮烈な月山ブルーがうまれる。輝く白い山と、背景をつくる紺碧の空との対比に感動しない者はいなかった。 スキーヤーは、昨日より多かったがまばらだった。ペアリフトからは、あざやかな月山ブルーが目に入った。大斜面には、一本のこぶもみえなかった。それ以前に、斜面にいく道もまったくつくられていなかった。 北山夫妻は、沢コースをすべり、さらに昨日命を助けられた林のなかを滑走した。 ペアリフトにのりながら、大斜面にいってみたいと碧人は話した。 佳奈子は、道がない以上無理だとこたえた。 碧人は、昨日あのブリザードのなかをすべれたのだ。いこうと思えば、できるはずだ。かりに失敗して転がりおちても、この雪なら痛くないし、怪我もしないだろうと話した。 佳奈子は怖がりだったので、すぐにいくとはいわなかった。碧人は、くりかえし説得した。どうしても賛成しなかったので、まず彼が道をつけてみる。それで斜面にでられたら、いっしょにこぶをつくろうと提案した。彼女は、雪でおおわれた大斜面にむかうはずの場所をみながら、分かったといった。 碧人は、山頂駅でおりると沢コースをはなれた。大斜面にむかう谷にいった。この上部まで歩いてあがれば、斜面にでられるのはあきらかだった。しかし、そのためには五〇メートルくらい新雪をのぼらねばならない。一度はできても、幾度もいくのは体力的に無理だった。普段つくられている谷の腹部分をぬけて、大斜面への道をつける以外に方法はないと理解した。谷裾まですべってきて、一直線にいけばなんとかなりそうな地点まできた。イメージ的には、斜滑降で真っすぐすすみ、最後の部分でいきおいをつけて端をのりこえればたどりつけると判断した。彼は、その考えてしたがって谷の腹部をすべっていった。すこしでも不安を感じたら転落しかない場所だった。途中まですすむと、ほんとうにいけるのか心配になってきた。しかし、ほかの方法もなく、イメージをたよりにすべっていった。最後に壁状になった場所がみえた。彼は、思い切りスピードをつけて前傾し、壁をのりこえた。そこは、まぎれもない大斜面だった。いちばん端の部分に赤いロープがはられ、斜面にそってつづく谷を分けていた。彼は、まったくトレースがない大斜面を思い切り滑降した。素晴らしい快感だった。 佳奈子は、上駅のちかくで碧人の挑戦をずっとながめていた。彼が大斜面にたどりついたのを確認すると、沢コースをすべって合流した。 ペアリフトにのった北山夫妻がみると、斜面にむかうトレースが一本ついていた。佳奈子は、夫がつけた道をみつめて、しぶしぶ大斜面にいくことを了承した。彼女は、碧人のうしろから一筋のトレースを斜滑降していった。最後の壁は、勢いよくこえねば転落するという彼の説明にしたがった。思い切ったつもりだったが、恐怖心が勝り、彼女はバランスをくずした。しかし、必死でこらえて大斜面にでた。そこは、素晴らしい光景だった。 斜面は、上部にも下部にも、人がひとりもいないのだった。ふたりは、ロープがはられたいちばんちかくに、こぶをつくってみようと話しあった。佳奈子が先頭になり、ボーゲンでゆっくりとターンをくりかえした。碧人は、そのラインをまもってすべりおりた。沢コースに合流してみあげると、レーンがつくられていた。数えてみると、六六個あった。その日は、それから三度大斜面にでて、こぶバーンをつくっていった。 翌日も、快晴だった。ペアリフトからは、月山ブルーを背景にして大斜面のいちばん端にレーンがつくられているのをみることができた。その日も五回ほど斜面にでて、おなじ場所を滑走した。最後は、こぶといっていい隆起になっていた。 「今日も、北山こぶで練習させてもらいました。立派に成長して、六六個つづいています。ぜひまたきて、ご自分の目で確認するのが、いちばんいいと思います」 木戸修一から、ラインがあった。そこには、「浦辺さんも、これは素晴らしい。六六個は、多すぎるのではないかといってました」とつけくわえられていた。 浦辺さんというのは、木戸のクラブの先輩だった。夏油で紹介され、幾度かこぶの講習をうけた。彼は、正指導員でクラウンプライズをもっていた。いっしょにゴンドラにのると、碧人が医者だと知っていたので自分の病気について話しだした。 浦辺吾郎は、六一歳だった。五五のとき、息切れで病院にいき、末期の肺がんと診断された。化学療法をしたが、余命五年と宣言され、入退院をくりかえしていた。そのなかで、すこしずつずらしながら冬期のスキーシーズンを確保していた。 「おれは、六年目年なんだ。もう、いつうごけなくなるのか分からないんだ」 浦辺は、深刻そうにいった。 「五年というのは、あくまで平均ですよ。だいたいは、一年か二年かで亡くなってしまうものですよ。だから、あなたがもっと生きないと、平均が五年にならないですね。病気はなおらないでしょうが、気落ちしたらすぐ死んでしまいます。うつ病になれば、自殺する方も多いです。化学療法も放射線療法も、けっきょくは健常組織に影響をあたえます。のこされた治療法は、免疫療法しかないんです。それは、病院にいても駄目な部分ですね。あなたのばあいは、スキー場にきて、はじめて活性化されるに違いありません」 碧人の言葉は、浦辺に勇気をあたえたらしかった。会うたびに病気の話をしていたが、こぶの攻略法については、実地を交えて詳述してくれた。 夏油で分かれるときに、碧人が「来シーズンも教えてください」というと、彼は「分かった」とこたえた。 医者としては、浦辺の闘病生活を表彰したいと思った。 二週間後、北山夫妻は月山を再訪した。ペアリフトにのると、ウルトラマリンに輝く月山ブルーが目に飛びこんできた。六六個がえんえんとつづく北山こぶは、たくさんの人びとの手がくわわって立派に成長していた。大斜面で、いちばん輝いてみえた。 碧人は、累々とつづく、北山こぶをみながら思った。 まだ、七〇歳になったばかりなのだ。なんだってできる。 来年は、テクニカルにチャレンジしてみよう。技術を向上させ、さらなる資格にいどめば、みんなに力をあたえられる。スクールの山際も、さらに自信をふかめるだろう。年をとったのは仕方がない。しかし、だからどうだっていうのか。そんなもの、やりたいことをやめる、なんの理由にもならない。チャレンジのこぶをすべりたい。ゴールデンバレーのいちばん目立つところで、みんながおどろく滑走を披露してみたい。 人生と、おなじなのだ。こぶ斜面のすべり方は、いろいろある。考えているだけでは、どれもが危険だが、踏みださなければすべることはできない。怪我は怖いが、過度に心配していては、せっかくの楽しみを味わえないで終わってしまう。 「こぶをすべる」 これは、スキーヤーみんなの願いなのだ。 それは、明日にむかって生きるのと、なにひとつかわらない。 こぶをすべる、二五一枚、了