インド

 インドを旅すると人生観が変わる、とよくいわれる。なぜだろうか? 若いころインドを放浪した経験にもとづいて、5つの作品を書いた。象は二度跳ぶ(476枚、作品番号01~04)、ガンジスに抱かれて(387枚、36.37.38)の2長編。そのほかに2編の短篇小説と、旅行記になる。ひとり旅をつづけていると、インドの人びとと会話を交わすことになる。「おまえは、どのカーストなのか?」と必ず聞かれる。「日本には、カーストがない」と答えると笑われる。そこで考えることになる。カーストとは、生まれたときの境遇を指している。ヒトが生を受けるのは、社会構造のなかだから、立場をもたないはずがない。「仏教徒」と答えると、いちおうは存在を許してもらえる。日本は、平等で身分差がない。これはいったい何だろうか? 当たり前のように感じるが、じつは釈迦のふかい教えなのだ、という理解に到達する。知らないうちに、日本人は、お釈迦さまの思想を埋めこまれているのだ。ここではじめて、日本がインド文明の影響をはげしく受けていることに気がついて愕然とする。ほとんどは中国を経由した仏教思想につつまれ、知らないうちにインド化されている。空海は神話的な人物で、どこまでが真実なのか、虚構との境界がみつけにくい。彼が中国から伝えてきたのは密教だった。阿含経典を読めば明瞭だが、釈迦は、個人の解脱しか話していない。自分の親が戦いに敗れていくのを知っても世俗と割り切る、象徴的な物語までつくられている。完全に世捨て人の思想だった。釈迦の考えに沿って理論化された小乗仏教は、インドから脱出しなければならなかった。圧倒的なヒンドゥー教をまえに、世捨て人思想をすて、世俗にまで踏み込んだのが大乗仏教。さらに入りこんでヒンドゥー教に先祖返りしたのが密教、と考えると理解しやすい。平安、室町時代、権力の意向にそい、政敵の呪殺を目論んで護摩を焚いて祈祷したのは、どう考えても釈迦の考えとは真逆といえる。長い漢字がつらなる仏像名は、ベールをはぎ取っていくと、インド名がでてくるのが普通だ。日本は、マダガスカルとならんで、カーストがあったと考える人もいる。たしかに、士農工商ばかりでなく、非人、ゑた、などの差別民がいた。部落問題は、つづいている。気づかずに染みついている思考方法は、平等とは言えないようだ。圧倒的なヒンドゥー教世界を描いたのが、ガンジスに抱かれて、という作品。慈愛にあふれる仏教を否定しているのではけっしてない。象は二度跳ぶ、は、大乗経典に追加してもらいたいと考えて創作した。お釈迦さまには、叱られそうですが。

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