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チベット

 クルド人という民族は、近年、日本の社会でも話題にされます。人口は3000万から4000万ともいわれ、「国家をもたない世界最大の民族」として有名です。トルコ、シリア北東部、イラク北部、イラン北西部を中心にひろく分布しています。20世紀以降、大国の戦略に利用され、切りすてられる歴史を繰りかえしてきました。

 1975年、イラクのクルド人勢力(バルザニが率いるKDP)が、イラク政府(バアス党)に対する自治権の獲得をもとめ、アメリカとイランの支援を受けて蜂起しました。しかしながら、同年にイランとイラクの「アルジェ合意」をむすびます。クルド人勢力は、支援をうしない、崩壊しました。

 1991年、湾岸戦争でイラクが敗北すると、アメリカは「イラク国民が、立ちあがることを期待する」と発言しました。それを受けて、イラク北部のクルド人勢力が蜂起しました。しかし、アメリカは軍事的な支援をせず、イラク軍は反乱を徹底的に鎮圧しました。数十万規模のクルド人が山岳地帯にのがれ、大量の難民が発生しました。

 2019年、シリア北部のクルド人勢力(YGP/SDG)は、ISILとの戦いでアメリカの地上部隊として戦闘にくわりました。しかし同年、アメリカは、とつぜんシリア北部から撤退しました。クルド人勢力は、孤立し、壊滅的な被害を受けました。

 アメリカは、世界各地の紛争に関与し、民族を自国の都合で巻きこみ、そして切りすててきました。クルド人の歴史は、その典型例です。

 チベットも、また外部の力学によって翻弄されてきた地域です。

 チベットは、宗主国だった清が崩壊すると、1912年にダライ・ラマ政権によって、国土の半ば以上に排他的実効支配を確立しました。イギリスをはじめとする複数の国々から独立国としてあつかわれていました。1951年、中国共産党はチベット全土を武力によって制圧しました。その後、チベット政府は自治の枠組みを維持しようとつとめましたが、人民解放軍の駐留によって、チベットは中華人民共和国の支配下に組み込まれました。

 中国共産党政府によるチベット併合後、チベット人による抵抗運動は徹底的に弾圧され、多数の市民が犠牲になったことはよく知られています。その数は、インドにのがれた亡命政府が発表した120万人(人口の1/6)は多すぎるとしても、国際研究者の推計でも20~50万といわれています。作品番号04.「世界は曼荼羅のなかで」は、チベットをあつかった部分があります。

 抵抗運動は、アメリカの支援を受けていました。チベット人ゲリラはコロラド州キャンプ・ヘイルで訓練を受け、チベット上空からパラシュート降下しています。この作戦で、沖縄の嘉手納基地が前線として利用され、間接的に日本も関与しました。

 アメリカの支援は、冷戦構造のなかで中国を牽制するための戦略でした。しかし、1969年にニクソン政権が誕生すると、状況は大きく変化します。ニクソンとキッシンジャーは、ソ連との対立を緩和するために中国との関係改善を最優先課題としました。チベット支援は、中国を刺激する障害とみなされました。つまりチベットは、米中和解の取引材料にされました。1972年、ニクソンは訪中します。ネパール政府がムスタンのゲリラ部隊を武装解除したのも、米中関係改善による圧力の結果でした。

 アメリカの継続的な支援を信じ、祖国解放のためにカムの大地を踏んだ名もないチベット人ゲリラは、どんな思いで空をみあげたのでしょうか。間違いなく、彼はそこから舞い降りてきたのです。 

 私は、インドから陸路でネパールに入り、チャイニーズボーダーまでたどり着いたことがあります。ふかい渓谷にコンクリートの橋が架かり、みあげるとレッドチャイナの赤い旗がひらめいていました。たもとには、銃をかかえた二人の若い兵士が立っていました。その異様な光景は、目に焼きついています。

 当時は、かつてチベットが独立し、その後、中国共産党が実効支配する現況を知識としてもっていました。しかし、抵抗運動については、よく理解していませんでした。ましてや沖縄が一つの舞台だったことなど、まったく知りませんでした。小説を創作する過程で知った、ショッキングな事実でした。

 

 

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